P「始原のiDOL」 (226)

 このSSは、以前投下した『偶像戦線【iM@s×伝奇物語】』を序章部分に据え置き、長篇化したものです。
 『序』の部分は『偶像戦線【iM@s×伝奇物語】』に加筆修正したものとなります。(話の大枠は変わりません)

 また、765のアイドルが中心ですが、
・アイドルマスターDearlyStars
・シンデレラガールズ
・アイドルマスターrelations
 等の周辺作品のキャラクターが脇役や敵役などのゲストキャラとして出てきますので、ご注意ください。

 765以外のキャラクターに関しては、タイトル代わりに画像を貼り付けることにしております。


 『序』には柊志乃さんがほんの少しだけ出ます。

http://yamiyo.info/images/SS/Title00.png

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1362315348

 序


 その少女は事務所に足を踏み入れた途端、何かに驚いたような表情を浮かべた。
 しかし、彼女を案内していた男性がそれに気づくよりも早く、その顔は人なつっこい笑みに戻っている。

 男に促され、彼女は事務所内で待ち受けていた少女たちに挨拶した。

「自分、我那覇響! 今日からこの765プロにお世話になることになったから、よろしくね!」

 興味津々な様子で見守っていた皆が、わっと沸き立つ。

 そうして、765プロは十二人目のアイドル候補生を迎えたのだった。

 新人歓迎パーティの途中で、社長は『後は皆で』と言い残して立ち去る。
 その後、八時を回ったところで、年若い双子をプロデューサーが送っていくこととなった。

 新しい仲間を迎えての宴は、まだまだ続いているものの、大人たちが複数いる間に比べれば弛緩した空気が流れ始めた、そんな頃。

 パーティの主役であり、新たに765プロのアイドル候補生となった我那覇響が、ふと口を開いた。

「なあ」

 後ろでくくった長い髪を揺らし、彼女は誰にともなく語りかける。

「なんで、この事務所は化け物だらけなんだ?」

 しん、と部屋が静まりかえった。
 それまで笑いさんざめいていた少女たち全員がぴたりと会話をやめ、その姿勢のまま、視線だけを響に向けている。

「なあ」

 焦れたように響が呟く。

「すごいわね」

 傲然と胸を張り、髪をかきあげながら口を開いたのは、すでにデビュー済みのアイドルの一人、水瀬伊織。

 だが、どうしたことだろう。
 常は栗色の瞳が、赤茶けた暗く不吉な色に彩られているのは。

「初日で言い切るなんて。美希でさえ三日は様子見していたってのに」
「んー、響はユタの血が入ってるから。ミキとは鼻の利きが違うよ」
「へえ、そうなの。シャーマンの血筋……ね」

 離れたソファで寝転がっていた金髪の少女が上半身だけを起こしながら言うのに、伊織は口角を持ち上げる。

 起き上がった途端体にかかった金の髪を鬱陶しげに振るのは星井美希。
 その瞳もまた黄金に輝きだしている。

 しかし、星井美希と我那覇響は今日が初顔合わせではなかったか。
 まるで昔なじみのように彼女のことを語れるのはなぜだろう。

「それで?」

 美希と伊織の会話が途切れるのを待って、響は再び促す。
 待たされるのが嫌いなのか、その声音に、剣呑な色が乗っていた。

「響の言うとおり、この事務所は人じゃない者ばっかりだよ。
普通の人間って言えるのは、プロデューサーと社長と、亜美真美だけだね」

 ボーイッシュな少女が明るい口調で説明する。
 彼女の名は菊地真。アイドルとしては『みんなの王子様』で売りだしている人物。

 彼女は肩をすくめて、言葉を続ける。

「誰がどんな出自かなんてのは、まあ、いずれわかるんじゃないかなあ」
「なんでそんな連中が群れてるんだ?」
「さて、それが不思議なところです」
「本当にねえ……」

 響の疑問に銀髪の女性は愉快そうに漏らし、事務服姿の女性は大きくため息を吐く。

 四条貴音に音無小鳥。
 片方は響と同じくアイドル候補生で、もう一方は、この事務所の事務員だ。

「あの人は昔からおかしなものを引き寄せがちだったんだけど……。
まさか、あの人が見いだしたプロデューサーさんが余計引き寄せやすい体質だとはね」

「んぅ? それって……」
「偶然ってことね、信じられないかもしれないけれど」

 小鳥の言葉に疑わしげに首をひねる響に、醒めた調子の声をかけるのは、如月千早。
 超然とした表情がよく似合う少女は、この事務所では最も売れているアイドルだ。

「本当? 美希」
「うん、本当だよ。ミキもびっくりしたんだけどね。誰かがなにかを狙って集めたんじゃないみたい。プロデューサーたちも、裏とかないみたい」
「そりゃ、嘘ついてる匂いはしなかったからなあ……」

 響の態度から、とげとげしいものが薄れていく。

 彼女は改めてそこにいる皆の顔を見回した。

「ふうん。そうかあ、面白いな。面白い。ところで、誰がボスなんだ?」

 ぴん、と空気が張り詰める。
 幾人かが目配せを交わそうとして、なにかを怖れるように慌てて目を伏せる。

 その中でにこにこ顔を崩さないリボンの少女が尋ねかけた。

「響ちゃんは誰だと思う?」
「うーん。三人までは絞ったんだけどなー」
「へえ?」

 春香が変わらぬ笑顔で促すのに、響は、視線を飛ばす。

「伊織か」

 まずは煌々と赤い光をその目に灯す少女へ。
「あずさか」

 次に、おっとりとした様子の女性、三浦あずさに。

「貴音だな」

 そして、最後に銀髪の貴音へと。

「すごいね、響ちゃん」
「でも、惜しいですー」

 感心したように漏らすのは、儚げな雰囲気を持った萩原雪歩。
 それに対して、胸の前に両拳を揃え、残念そうに漏らすのは高槻やよい。

「ありゃ、違った?」
「残念だけど」

 ずいと進み出て口を開いたのは、スーツの女性。
 マネージャー兼アシスタントプロデューサーという肩書きを持つ秋月律子だ。

「私たちは話し合いで物事を決めているの。だから、誰かがトップってわけではないのよ」
「ええ? そんなぬるいことで大丈夫なの?」

 響の仰天した声に、律子は怜悧な美貌をほころばせる。

「765プロは、芸能界をそのテリトリーとしている。この業界にまつわるヒト、モノ、カネは膨大なものよ。一人が強権を振るうより、765全体が協調して縄張りの安全を守る方が有利に働くの」
「ふうん……」

 どこか納得できない風でありながら、響はひとまず頷いていた。
 新参が口を出して許される限界がどこかくらいは、彼女も理解しているのだ。

「まあ、そんな話はやめて、パーティを続けませんか? その世界の話は……またいずれということで」

 あずさがそう言ったことで、空気ががらりと変わった。
 異様な色に輝いていた瞳はそれぞれ普段の黒や茶色に戻り、少女たちは外見相応の可愛らしい雰囲気を身に纏う。

 そうして、笑い声と歓声が響く宴は、随分と遅くまで続いたのだった。

 その数日後、事務所へ向かう途中、響はとある路地に目をやった。

 通りを行きすぎる人は誰も気にする者などないような細い道。

 彼女はしばらくその入り口を眺めるようにしていたが、ふらりとそこに入っていく。

 どうやら、ビルとビルの合間に、ぽっかりと開けた空間があるようだった。
 地上げをそこだけが免れたとかそういった場所だろう。

 あるいは、いつの間にか権利関係がこじれきって、誰も手が出せなくなったのかもしれない。

 東京にはたまにそんな場所がある。

 進むに連れ、怒号のようなものが聞こえて来た。
 道からはまるで聞こえなかったそれらの声に導かれるように進んだ先に、彼女がいた。

 ビルの合間から降る陽光に照らされて凛と立つその姿。

「あれ、人払いしておいたんだけど……って、なんだ、響か」

 そこが薄汚れた路地裏であろうと、まるで舞台の上であるかのように錯覚させるその人物が、響を振り返って驚いたような顔になる。

 彼女が表情を変えるだけで、それまでの張り詰めていた空気が一瞬にして変化するのはさすがと言えた。

 菊地真。

 響は改めてその名を口内で呟いた後、のんびりと尋ねかけた。

「んー、真。なにしてるんだ?」

 真の他に、そこにいるのは七人ほどの男性。
 格好はまちまちだが、いずれも荒んだ空気を漂わせている。

 ビルの壁を背にした真を緩やかに囲むような形だ。

「ちょっとしたトラブルだよ」
「ちょっとしたトラブル、ね」

「お前ら、ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ!」

 真と響が世間話のように気軽に話しているところに、男たちの一人が騒がしい声をたてる。

 どうやら、彼も、その他の男たちも、いきなりの響の出現に気を取られていたようだ。
 おかげで、それまで真にあびせかけていた罵声や怒号を途切れさせていたのだった。

 その声に不愉快そうな視線を向ける響。

 だが、男たちは睨みつけてくる響の態度を嘲り笑うだけだった。
 少女一人が加勢に現れたくらい、どうとでもなると思っているのだろう。

 とはいえ、さすがに騒がれては厄介と思ったのか、男の内の一人が、じりじりと響に近づいている。
 逃亡を防ぐためであろうか。

「自分がやろうか?」

 近づいてくる男をじろじろ見ながらそう言うのに、真が笑って手を振る。

「いや、必要無いよ」
「そうだぜお嬢ちゃん。こっちのオトコオンナを片付けた後でお相手してやるよ」
「オトコオンナって……。何度も言ってるけど、ボクは平和主義者なんだ。争わずに済ませたいんだけどな」

 そう言って真が男たち——やくざ者に向き直った途端。

「うるっせえんだよ!」

 男の一人が叫びと共に拳を振るった。

「問答無用かあ……」
「ぐっ」

 真に殴りかかった男が苦鳴をあげる。

 彼女がなにかをしたというわけではない。
 真はただその拳が襲い来るところからその体を移動させたにすぎない。

 空振りとなった拳を壁に叩きつけて自爆したのはあくまで男の方だ。

 だが、背後にビルを背負った相手を殴りつける時に気をつけぬ者がいるだろうか。
 避けられやすい頭部などを狙う愚を犯す者がいるだろうか。

 まして、男たちは暴力のプロフェッショナルだ。
 どこをどれだけ殴れば、人が音をあげるかをよく知っている。

 故に、この場所で彼は真の腹——大きく、動かしにくい場所——を狙い、突き上げるように拳を振るった。

 だが、その先に真の肉体はなかった。
 いつの間にか一歩横に移動していた真は、拳を痛めた男を同情するような視線で見つめていたのだった。

「なにやってやがる! ちゃんと囲め!」

 リーダーと思われる男の指示が飛んだ。

 拳を痛めた男はさらに怒りか興奮に顔を紅潮させて。
 他の面々はどこか楽しんでいるかのような下卑たにやにや笑いで。

 彼らは真との距離を詰め、彼女を中心とした半円をきっちりと形作る。

 リーダーと響を見張る男以外の五人に囲まれた真は、特に焦った様子もなく、自然体で立ったままだ。

「暴力は嫌いなんだってば……」
「すかしてんじゃねえぞ!」

 右端の男が、真の肩へ手を伸ばす。

 その体をがっちりと掴んで、出来ることならば引きずり倒すつもりであった。
 倒してしまえば、あとは皆で蹴りつければいいだけだ。

 だが、その指は真の体はおろか、衣服にもかすることはない。

 あるはずの抵抗がなかったためか、その男は前につんのめるようになった。
 バランスを崩した拍子に前に出た足を、真の足がひっかける。

 男は見事にすっ転んだ。
 しかも、隣の男を巻きこんで。

「へぇ……」

 響は真の動きをはっきりと目にして、そんな感嘆の声を漏らした。

 けして、目に留まらぬほど速いわけではない。

 ただ、彼女の体を掴もうとした男の動きより、わずかに速かっただけ。
 そして、男を転ばせたのも、タイミングを掴んだだけに過ぎない。

 もちろん、やくざたちは真の動きを観察したり、理解しようとしたりはしない。

 ただ、仲間が倒され、真を痛めつけるという目的をまるで果たせていないことだけが、意識にある。

「ね、もうやめようよ」

 真は転んだ男たちが起き上がるのを痛ましげに眺めながら、そんなことを言う。

 侮られているという屈辱が、男たちの頭にさらに血を上らせた。

「おるうぁあああ!」

 意味をなさない恫喝の声をあげながら、リーダーが囲みに割り入る。
 そして、その勢いのまま、真に殴りかかった。

 残った男たちがそれに応じて一斉に拳を繰り出し、蹴りを放った。
 稚拙ながら連携をとって、それぞれの拳や足が狙う場所も、それが真に届くタイミングもずらしつつ。

 逃れる場所は無いはずだった。

 どちらに避けようと、誰かの拳は当たる。
 誰かが体をとらえれば、そのまま抱きついてでも動きを止めてしまえばいい。

「よっ」

 軽い声と共に、真の姿が消える。
 男たちは、そのこと自体にも気づく暇はなかった。

 とん、と軽い音が背後でしたかと思うと、軽く押される力を背中に、あるいは腰に感じる男たち。

 彼らには理解できなかった。
 その力によって自分の体のバランスが決定的に崩されたことも、それをしたのが自分たちを飛び越えて背後に回った真であることも。

 ただ、彼らはお互いが放った攻撃でお互いを打ち据えていた。

 痛みと驚きに身を退こうとする彼らの肩や尻を、またそっと押す手がある。

 腕と脚が絡み合い、シャツが肘に引っ張られ、首のチェーンに他の男の腕時計が巻きこまれた。

 見事に六人の男が絡み合い、慌ててもがけばもがくほど、彼らは自らの手足でがんじがらめになっていった。

「はいっ、と」

 そして、真の最後の一押しで、全員が一方に倒れる。
 良い音が次々して、壁が六つの頭を出迎えた。

 そのままずるずると力なく地面に崩れ落ちる男たち……が組み合わさった奇妙なオブジェのようなもの。

 真はしゃがみこみ、一人一人、意識はないが脈はあるのを確認して、ほっと息を吐いた。

「やるなあ。でも、真なら、もっと簡単に片付けられたんじゃないか?」
「やめてくれよ。本当にボクは暴力が嫌いなんだってば」

 響がからかうように言うのに、真は妙に情けない顔で応じる。

「ぐる……ぅ……ぐ……」

 響の横に立つ男の喉から、そんな籠もった音が漏れたのは、そんな時だった。

「ん?」

 真が目をやると、なにか苦しそうに上半身を折り、口元を押さえている。
 その押さえた手の間から、うなり声のようなものと一緒にだらだらと唾液が垂れ落ちていた。

「あれ? 響、もうその人やっちゃったの?」

 真の問いかけに、男のそばから飛び跳ねて離れながら、響が首をひねる。

「いや? 自分はなにもしてないんだけどな。おかしいな」

 びくん、と男の体が震える。
 その途端、男の背中がシャツを突き破りながら、大きなこぶのように盛り上がった。

「ありゃ?」

 次いで、腕にも脚にもこぶのようなものがぼこぼこと浮き上がり、それらがつながっていく。
 ついには以前の数倍の太さとなっていく男の手足。

 さらにはがくんがくんと関節が外れたかのような動きで、男の手足が、胴が伸びていく。

 この時点で衣服は全てちぎれ飛んでいるが、真と響が男の裸を見るような事態にはなっていない。
 なぜなら、彼の膚は針のように突き立った剛毛で覆われていたからだ。

 そして、男の体の脈動が終わった時、そこにいたのは二メートルを優に超える猿のような『なにか』だった。

 ゴリラのようにも見える。
 だが、ゴリラは顔の半分以上もあるような巨大な牙を持っていないし、なによりも、こんなにも下卑た光を目に宿してはいないだろう。

「ありゃりゃ、そっちは響のお仲間だったか」

 真が頭をかきかき言うのに、響が口を尖らせる。

「こんな『雑じり』と一緒にしないでよ。ひどいなあ」
「ごめんごめん。ボク、獣の民の知り合いは響と美希だけだからさ。よくわからないんだよ」
「ふん。まあ、いいけど」

 真と響が余裕を持って話しているのと同様、巨猿も特に急いで動くこともない。
 それは、にやにや笑いとしか見えない表情で二人をねめつけていた。

 おそらくは両者共自分の持つ力に自信があるからこその行動であろう。
 だが、一方は人間の二倍以上ある体躯であるのに対し、一方は年若い少女たちである。

 その外見からすれば、響たちの落ち着きようは異様と言えた。

「こいつは自分に任せてくれるか?」
「んー。了解」

 響が舌なめずりでもしそうな口調で言うのに、真はひらひらと手を振って数歩下がる。

 ビルの壁にもたれかかって観戦する形となった真に見せつけるように、響はにやりと笑った。


 とんっ。


 それほど膝も曲げず、彼女は軽く飛び上がった。
 その跳躍が、まさか、巨猿の頭を越えるほどの高さに到達するとは。

「あ、飛びすぎた」

 響自身が言うように、それは少々高すぎた。
 巨猿のどこを攻撃するつもりだったとしても、滞空時間が長すぎる。

 当然、相手は響の体を捕まえようと手を伸ばす。
 毛むくじゃらの棍棒のような腕が、空中の小柄な少女に向かって振り上げられた。

「ぐっ」

 体をひねってよけても、巨猿の拳は、響の体をかすめた。
 直接に衝撃を受けずとも、ひっかけられた形で、彼女の体は先ほどよりさらに高い空中に放り出される。

「くっ」

 くるくると回りながら吹っ飛ばされる響の体。
 それがビルの壁に衝突したのを見て、真が声を上げた。

「響!」

 がっと伸びる手が、ビルの壁に走る配管の一本を掴んだ。
 そのまま弾かれて地に落ちそうな体を、片手で支える響。

「だ、大丈夫。油断しただけ!」
「本当かなあ……」

 明るい声を返してくる響に、真は懐疑の目を向ける。

 それはそうだろう。
 彼女はガスか何かの配管に手をかけて、ようやく壁にひっかかっているに過ぎないのだから。

 もちろん、その機を逃す巨猿ではない。
 響が無事に伝い降りる前にと、そいつは、拳を振るった。

「あんまり……」

 響のもう一方の手が配管にかかる。
 両手を支点に、体を跳ね上げる響。

 まるで体操選手さながらに、彼女の体は持ち上がり、きれいに伸びた。

「なめるなよっ!」

 鉄棒の要領で、響は巨大な拳を避ける。
 そのまま手を離し、勢いに乗って、彼女は巨猿の体の真ん前に落ちていく。

 彼女の背後で、ビルの壁にびしびしとひびが走り、何本もの配管がはがれ落ちていった。

「ぐわふ」

 響の動きを目で追った巨猿が奇妙な声をあげる。
 あるいはそれは、彼女を嘲笑う声だったのかもしれない。

 向こうからやってきてくれた響の体を、巨猿は抱き留めようとする。

 それは、一見成功したかに見えた。

 響の体は、巨猿の、これも毛だらけの巨大な掌二つに覆われて、まるで見えなくなってしまっていたから。

 けれど、抱き留めているほうの巨猿がよろめくのはなぜだろう。
 その毛で覆われた顔が、ぼうと表情を失うのはなぜだろう。

「よいしょっと」

 軽い手つきで、響が巨猿の手を払い、二本のドラム缶のような腕がだらりとたれる。
 彼女は両腕が開くのにあわせて、音を立てて着地した。

 よく見れば、響の手に、なにかうごめくものが握られている。

 赤黒い液体を吐き出しながら脈動するそれに、真は目をむいた。

「それ、心臓?」
「うん」

 こともなげに言った響が、その手を握る。
 ぐしゃりとつぶれた心臓を、響は汚いものでも振り払うかのような手つきで地面に放り投げた。

「あれ、こいつ倒れないね」

 血に汚れた腕をハンカチでぬぐって、響は巨猿を見上げる。
 響の手刀によって心臓を抜き去られたそれは、動きを止めたまま突っ立っていた。

「ほっといてもいいのかなあ」

 巨猿は上を向き、口をぽかりと開けてだらだらと血泡混じりのよだれを垂れ流している状態だ。

 響が手刀の一撃で心臓を抜き取った胸は、分厚い筋肉が反射的に盛り上がって傷が埋まってしまっている。
 だが、そこからも赤黒い血が流れ落ちていた。

「まあ、いいか」

 彼女自身のような真性の獣の民ならばともかく、こんな血の薄れた相手なら、放っておけばその骸は人間のものに変じるだろう。
 そう判断して響は背を向けた。

 血に汚れたハンカチを惜しそうに見つめた後でそこに放り投げ、真の方に向かおうとする。

 だが、その時、真は見た。

「危ない!」

 自らの声を置き去りにするほどの勢いで真は走る。

 彼女が響を抱き留めたところで、それが襲いかかってきた。

「がっ!」
「ま、真!」

 真に覆い被さられるような形になった響が悲鳴のようにその名を呼ぶ。

 彼女の目からは、自分を守るように抱いている真のさらに向こうに、毛むくじゃらの巨大な猿がのしかかるようにしているのが見えた。

「なんで……!」

 動くはずがない。
 動けるはずがない。

 この手で心臓を握りつぶしたはずの相手が、真の背を滅多打ちになどできるはずがない。

 だが、実際には巨猿は顔自体をどこかあらぬ方に向けたまま、真の背にその手のかぎ爪を打ち付けているのだった。

 その鋭く汚らしい爪が真の背を打つ度、鮮血が飛び、響にまで衝撃が届く。

「だい……じょうぶ、さ。ちょっと……待ってて」

 言い置いて、真はその腕に力を込める。
 そのまま放り投げられる響。

 地面の上を滑るようにして勢いを殺しながら、彼女は叫んだ。

「真!」

 その呼びかけににっこりと笑って、真は巨猿に向き直る。
 相手の攻撃は勢いだけはすさまじいものの単調なもので、響を抱えていない真はそれを軽やかによけていた。

 ただし、舞うように動く度に、背中からはおびただしい血が流れて地面を汚している。

「さすがに、これだけやられたら、お返ししないとね」

 真は太い腕の来襲をすいすいと避けながら、巨猿に接近する。
 獣臭がつんと鼻をつくほど近づいたところで、彼女はおもむろに足を止めた。

「はっ! せいっ!」

 正拳突きの二連撃。

 ただそれだけにしか見えない打撃が、巨猿の動きを止めた。

 その腰のあたり……打撃を受けた下腹のちょうど反対側が、音を立てて裂ける。
 そこから飛び出すのは、血と臓物と汚物の入り交じった液体。

 笛のような音がする。

 それは巨猿の喉から漏れる空気の音であった。

 それで全ての活力をはき出してしまったかのように、巨猿は、どろどろの臓物の上へと倒れ込む。

 血だまりの中でひくひくとうごめきながら縮んでいく、その体。

 裸の人間へと変じていくその様子をにらみつけながら、響が呟く。

「なんで、こいつ……」
「最近、人以外に向けた薬が流行ってるらしくてね。人間の麻薬でも痛みを感じさせないのがあるだろ? あれよりさらにひどいらしいよ」
「死んだことも忘れるくらい、か」
「そ。困ったものだよね。ボクたち765プロはそれをなんとか根絶したいもんだから、トラブルになってるわけ。ま、それだけでもないけど……」

 小さく肩をすくめ、それで痛みが走ったか、思い出したように真は顔をしかめる。

「しかし、困ったな。結構やられちゃった」
「ごめん。自分がもっと気をつけてれば」
「いいよいいよ。ボクも気を抜いてたし」

 素直に頭を下げる響に、真はぱたぱたと手を振って見せる。
 そこで、彼女はなにか思いついたかのように響を見つめた。

「それより、響。一つ頼みがあるんだけど」
「うん。なんだ? 事務所までひとっ走りして、新しい服を取ってこようか?」

 いや、それはいいよ、と真は言った。

「それより、ボクを殺してくれない?」
「……は?」
「たとえば、心臓を一突きとかで。さっきみたいに」

 声も出ない響をよそに、真は説明を続ける。

「それでボクの力もわかると思うから。どう?」
「いいんだな?」

 どうやら本気らしいと判断した響が、獰猛な顔つきで確認する。
 それに対して、真はさわやかな笑顔で応じるのだった。

「うん。出来れば、こう、さくっと。あ、心臓抜いちゃうのはやめてね」
「う、うん」

 言われるままに近づき、手刀を作って真の胸に当てる響。

 彼女が力を込める仕草をすると、その手刀が消えた。

 再び視認できるようになった時、すでに響はその手を振って、真の血を払っている。

 巨猿の時のように腕自体を血に汚すこともなく、彼女は相手の心臓を突き破ったようであった。

 ごふ、と真が咳き込む。
 その唇の端からつうと一筋、血が滴った。

「じゅう……いや、ご、五分……待っててくれたら……いい……から……」

 膝から地面に崩れ落ちながら、彼女が言う。
 そのまま、真はぱたりと地面に倒れ伏してしまった。

 響はそれを不安そうな目つきで眺める。

 真に初めて会ってから、数日。

 信頼するにはまだ時間が足りない。
 だが、いきなり命を奪ってなにも感じぬほど薄い間柄でもない。

 まして、響は、表向きは無関係ながら実際には幼なじみと言っていい美希から、事前に765プロメンバーの為人を聞いている。

 このまま死なれては少々居心地が悪かった。

 だから、なにが起こるか、彼女は見逃さぬようにしていたのだ。

 真は地面に倒れている。

 上半身の衣服はぼろぼろに破られていて、ブラジャーもはずれかけているように見える。
 なにより、上も下も真自身が流した血ですっかり汚れていた。

 だが、それが徐々に消えていく。

「……え?」

 すっかり血が染みこんでいたショートパンツも、絞れるほどぐっしょりと濡れていたはずのシャツも、だんだんと血が抜けていく。
 それどころか、繊維がより合わさって、破れていたはずのものが直って行くではないか。

 まるで時間を巻き戻すかのようなその様子に、さすがの響も目を見張った。

 元の姿を取り戻していこうとするシャツの下で、真の背中に刻まれた爪痕にも肉が盛り上がり、血が吸収されていく。
 最終的にそれは元通りの張りのある膚を取り戻そうとしている。

 真が指定した五分が経過する頃には、彼女は響がこの路地に入ってきた時と同じ、普段通りの姿に戻っていた。

 そうして、まるで眠りから目覚めるようにむくりと起き上がった真は、自分の体をぼうっと見下ろして、小さく呟いた。

「ちぇっ。また死ねなかったか」

 さっと立ち上がり、服についた汚れをぱんぱんとはたき落とす。
 そうすると、もはや先ほどまでの戦いを思わせるものは、外見上、どこにもない。

「……不死なんだ」

「いや、違うよ? ボクはただ蘇るだけ。身につけていたものまで戻るのは便利だけどね。でも、小鳥さんみたいに『死なない』のとはちょっと違うかな」
「あの人は、不死?」
「うん。不老不死。もう五〇〇年くらい生きてるんじゃなかったかな。あれ、八〇〇年だっけ? まあ、そんなとこ」

 小首を傾げてそんなことを言う真に、響はひゅっと小さな息を吐く。

 それが、ただ驚きを示すものであったか、あるいはさらに別の感情を含んだものであるかは、響本人にもよくわからなかった。

 我那覇響の『縄張り』は765に所属することで、劇的に広がった。
 それまでは美希の忠告に従って、東京での活動範囲を一定の地域に限っていたのだ。

 だが、765の一員となれば、東京全域で本来の姿を現して差し支えないのだという。

 もちろん、それなりの準備と後始末が必要となるので、実際にはそうそう安易に行うことはできないのだが。

 響自身の感覚から言っても、真の姿をさらすべきタイミングは慎重に選びたいところであった。

 故に、彼女は人の目が届かない遥かな高み——ビル群の屋上を跳び伝いながら、夜の街を走っていた。

 本性をさらけ出し、人の身ではけっして出せない速度で風と共に走る。

 空を見上げる者がいたとして、あるいは高層ビルの窓から外を眺める者がいたとして、彼女の姿は空を駆ける流星のようにしか見えなかったろう。

 そんな銀光が、とあるビルの上で止まった。

 一瞬、なにか巨大な獣の姿が闇の中に浮かび上がるが、幻のようにすぐに消え失せ、その後には小柄な少女だけが残される。
 素っ裸の状態で。

「よいしょっと」

 背負っていた袋から衣服を取り出し、裸身にまとい始める響。

 それから、彼女は屋上の端まで行って、眼下を見下ろした。
 そこには、もう営業の終わった駅と、駅前広場がある。

「ここも封か」

 封と言い、人払いと言い、結界と言う。
 呼び方は人それぞれだが、要は人が寄りつかないように響たちのような人ならざる者が施す術だ。

 効力はそれを作り出す術者次第で様々。
 なんとなく近づきたくなくなるという程度のものから、認識をゆがめ、場所そのものを人の意識から奪い去ってしまう強力なものまで。

 いま、響が感じているのは、その中間くらいだろうか。

 健康な者が頑としてでも駅にたどり着くと決め、体調の不調を感じながらも歩みを進めたなら、もしかしたら、そこにたどり着けるかも知れない。

 だが、この深夜に誰がそんなことをするだろうか。
 むしろ、この時間帯に施すには厳重すぎるくらいの術であった。

「誰だろうな……っと」

 響は一息に屋上の端を飛び越えた。

 もちろん、そこで生じるのは急激な落下である。

 重力に導かれて、彼女はぐんぐんと落下し、そして、地面に激突するかと思われたその時、くるりと体を一回転させて、軽やかに着地した。

 三十階のビル分の高さがもたらした落下速度をどう殺したのか、音すら立てず、彼女はそこに立つ。

「あれ、雪歩か」
「え、響ちゃん?」

 広場を囲むような形でぽつぽつと立つ街灯の明かりの下、なにやらうごめいている一群の中に知った顔を見出し、響は声をかけた。

 雪歩のほうも振り向いて響を見る。
 ただし、彼女はなぜかその両目をつぶっている。もしかしたら、闇の中では光ではなく、音をあてにするタイプなのかもしれない。

「なにしてるんだ?」

 のんびりとした調子で話しかけ、響は雪歩の立つ場所に近づこうとする。
 その途端、周囲の影たちが、地をこするような、しかし、俊敏な動作で雪歩を囲むように移動した。

 まるで、雪歩を響から守ろうとするかのように。

「大丈夫だよ。響ちゃんは765の仲間でお友達だから」

 雪歩がようやく目を開いて話しかけたのは、膝を折って尻を落としている人間のようにも見える。

 だが、腕は人より遥かに太く長く、肩から背にかけては、こぶのような筋肉が盛り上がる。
 灰色がかった膚のとこどころ、肘や腹などは角質化していて、まるで鱗のようにも見えた。

 何よりも目を惹くのは、その顔だ。
 口は鼻と一体化して大きく突き出し、まるで犬のよう。

 耳たぶはなく、毛の一本もない頭にふたのようなものがついた小さな穴がある。
 それがおそらくは耳なのだろう。

 そして、その目があるはずの場所には、なにもない。
 口と鼻の上にはのっぺりとした膚があるばかり。

「食屍鬼か……。珍しいなあ」
「うん。地上にはあんまりいないもんね」

 響と雪歩が親しげに話しているのに納得したのか。
 食屍鬼と呼ばれた生き物たち——二十体ほどがそこにいた——は三々五々、それまでしていた作業へと戻っていく。

 なにかを引きずっているような音や、ぴちゃぴちゃがりがりいう音が響いてくる。
 後者は食屍鬼たちが、その名前にふさわしい行為をしているために生じるものだ。

「ずいぶん殺したみたいだな。十……いや、二十人くらいか?」

 周囲に漂う血臭に顔をしかめる響。
 こんなに派手にやらかすとはいったい何事だろうか。

「それくらいかな。なんだか外国の人たちらしいけど……。あ、私たちは後始末にきただけなんだ」
「そうなんだ」
「うん。うちはこの子たちがいるから、何かと呼ばれるの。うちとしても助かるし……」

 二人がそんな会話を交わしている間も、周囲の咀嚼音は続いている。
 たしかにこの様子なら、死体は跡形もなく消えてしまうことだろう。

「雪歩の家は魔術師の家系かなんかなのか?」
「ううん。でも、そうだね、普通、この子たちは魔術師に地底から呼び出されるんだけど……。
実を言うと私たち自身も、その地底の出身で、地底では支配者の立場なんだ」
「へえ」

「知ってるかどうかわからないけど、地底で生まれた種ってのは少なくて……。
大半が地上から迷い込んだり潜っていったりした結果、新しい存在に生まれ変わったっていうのが多いんだ。
それで、私たちは、だいぶ後になって地底に入り込んで支配者層に収まった経緯があって。
あ、もちろん、これは数万年とかの昔の話なんだけど」

「ほうほう」

 これまで響が関わってきた地底世界といえば、時折迷い出てくる食屍鬼やなにかを追い返すくらいが関の山。
 詳しいことなど知ろうとも思わなかっただけに、雪歩の話に、彼女は素直に感心していた。

「それで、一二〇年くらい前、地底で大きな戦いがあったらしくて。その中の一派が地底を捨てて、地上に出てきたんだって。
それがこの子たちと私のご先祖様」

 仕事を終えたのか、一体の食屍鬼が雪歩の傍に近寄ってくる。
 雪歩は響から視線を外すこともなく手を伸ばし、その食屍鬼の毛のない頭をなでてやった。

 嬉しそうに雪歩の手に自分の膚をこすりつける食屍鬼の様子に、響はなんとも言えない感覚を覚える。

「地底も大変なんだなあ」
「私の世代はもうあんまり関係ないけどね」
「ああ、そっか」

 二人はそこで朗らかに笑い合う。

「邪魔しちゃったな。じゃあ、自分はそろそろ行くよ」
「うん。響ちゃんもなにかあったら、私に言ってね。魔物の死骸も処分するから」

 きびすを返し立ち去ろうとする響に、雪歩がそんな言葉をかける。
 振り返った響はにかっと八重歯をむき出しにした。

「うん、そのときはたのむよ。ところで、今日は、誰が?」

 彼女は軽い調子で尋ねる。
 雪歩も、すぐにそれに応じた。

「四条さんだよ」
「ふうん。貴音がね。……じゃ!」

 ひらひらと手を振って、再び響は背を向ける。
 にこにこと手を振り返す雪歩が見えないところで、響の両眼が妖しい光を帯び始めていた。

 765プロの入るビルの屋上。

 響は手すりに手を置いて、中天にかかる月を見上げていた。

 片手を伸ばし、つま先立ちになって、空にかかる月に指を伸ばす。

 届くわけがない。

 だが、なにかを掴みそうな気がして、彼女はそれを繰り返す。

 そんなことをしていた響がくるりと振り向き、背を手すりに寄りかからせた。

「あ、ようやく来てくれた」

 嬉しそうに笑うその視線の先。
 階下から上ってくる階段の出口に揺れる銀の髪があった。

「ああも毎日、殺気を向けられれば、それはもう」

 貴音は、神秘的と表現されることも多い美しい顔に微笑みを乗せてそう答える。
 しずしずと歩み寄る彼女を、響はじっと見つめていた。

「伊織とあずさは手応えなしだったぞ」
「伊織は文字通りの姫君ですからね。それに、あずさは……流れる水のような人物。共に腕試しなど興味はないのでしょう」

 響まであと十歩、というところで、貴音は歩みを止める。

「で、貴音はあるのか?」
「いえ、わたくしも単純な腕試しなどは興味ありません」

 貴音の笑みが深くなる。
 それと共に、彼女の纏う雰囲気が明らかに変わった。

「なれど、響は納得していない様子。765の結束を乱す傷となりかねないものを放置するわけにもいかないでしょう」

 銀の髪がまるで意志をもっているかのようにうねくる。
 その表面が硬質の、まるで金属であるかのような光沢を帯び始めていた。

「納得してないわけじゃないんだけどなあ」
「では、なにを?」

 髪の輝きが増すと共に、瞳にも同じ色が宿る。
 人には有らざる銀の光が、瞳を覆い尽くしていく。

「みんなの実力が知りたいだけ。好奇心」
「それは、より性質が悪いというもの。やはり、わたくしが諭さねばなりませんね」

 にぃ、と響の口角が持ち上がる。
 どこかへ走り出しそうな前傾姿勢になりながら、彼女は貴音を挑発するように呟いた。

「へえ。自分を『教育』するつもり?」
「まあ、そう言ってもよいでしょう」
「へへっ。それは腕が鳴るなあ」

「以前に律子嬢が申し上げたとおり、765プロは、芸能界全体をその版図としております。
それを狙う者たちは多く、悪さをしでかす内部の不届き者も多い」
「だから?」
「それらの潜在的な敵に、765が弱まったなどと思われてはならないのですよ」

 ざわり、と響のくくった髪が揺れた。
 その途端、ばねがはじけるように駆け出す響。

 十歩を一瞬で埋め、その手が貴音へと走る。

「だから、自分が序列をつけようとするのを邪魔するわけだっ!」
「その通り」

 すい、と貴音の体が遠ざかる。
 まるで足を使わない、浮き上がるかのようなその動き。

 空振りとなった響の手刀が、銀の軌跡を描き出した。

 それは、白銀の毛皮をまとったその腕のため。
 長く鋭い爪を備えたそれを、響は見せびらかすかのように振った。

「ほう、腕だけの獣化ですか」
「別にどこだってできるよ、こんなの」
「なかなか制御が難しいと聞きましたが」
「血が薄い半端者はね。自分たちには造作もないことだよ」

 軽い会話を二人は交わす。

 だが、その一方で、その目はお互いの動きを確実に捉えている。

 響が地を蹴ろうとするかのように膝を曲げれば、貴音の肩がそれを迎撃する腕の動きを予想させる。

 二人の脳内では、すでに何回となく彼女たちは打ち合っている。

 意識が向けば、体もわずかに動く。

 その動作の前段階となる動きを読み取って、響は違う動きを取ろうとする。
 貴音はその動きに合わせて、新たなきっかけを生み出し、迎える準備をする。
 響はそれに牽制を混ぜ、貴音は、それをつぶすだけの動きを見せて……。

 そんなやりとりを彼女たちは繰り返していた。

 端で見れば、ただ軽口をたたき合っているだけに見えても、実際の戦いはすでに始まっているのだ。

「なあ、貴音、自分の名前を知ってるか?」
「我那覇響、ですよね?」

「違うよ。そんなヒトのための名前じゃない。本当の名前さ。自分は、『風のゆくえを教える者』」

 貴音がそれになにか応じる前に、響の姿はその視界から消えている。

「誰よりも、風よりも、自分は早い!」

 一瞬にして後ろに回った響が突き出した手刀が、貴音の背を貫く。

 背後から心臓を貫かれ、月を見上げて目を見開くしかない、貴音。

 美しいその体が響の腕に串刺しにされ持ち上げられているその光景は、ある種幻想的な雰囲気すら漂わせていた。



 見ている者は月だけしかいなかったとしても。

 手応えは、あった。
 だが、それは肉のものではない。

「なっ」

 驚きの声を上げる響の目の前で、貴音の体がはらはらとほどけていった。

 薔薇の花びらが、かぐわしい香りをまき散らしながら、舞い落ちる。

 それは、先ほどまでたしかに貴音の体であったはずのものだ。

 だが、いまはただ、響の腕をすり抜けて、幾百幾千の花びらが落ちていく。

「くっ」

 腕を引き、あたりに視線を飛ばしたところで、彼女の体は地面に打ち付けられていた。

 それが、頭上から襲い来たった貴音によるものだと気づいた時は後の祭り。

 貴音の体からは考えられないとんでもない力で押さえつけられて、響はうめき声をあげた。

「一ついいことをお教えしましょう」

 そう呟く貴音の背に、なにかが浮かんでいる。
 空間に張り付いているとも見えるそれは、あえて表現するなら、血色の闇だ。

 厚さをまるでもたず、空間が断裂したようにも見えるそれが、貴音の持つ『翼』であると、誰がわかるだろう。

「……なに?」

 響がそう応じる頃には、貴音の『翼』は消えていた。

 しかし、彼女は響の足に膝を乗せ、その腕をひねりあげて、動きを封じ続けている。

「我々はあえて序列はつけてはいません。つけてはいませんが……」

 体を折り曲げ、響の耳元にその口を近づける貴音。
 暖かな吐息が、響のうなじをくすぐった。

「仮に序列を設けるなら、わたくしはようやく五指に入るかというところなのですよ、響」
「ははっ」

 その言葉の意味を理解した時、響は疲れたような笑い声をあげていた。

「自分の鼻までごまかせるのが二人もいるんだ。そりゃ……参った」

 貴音の締め付けに抗する力が抜け、べったりとコンクリートの地面にほおをつける響。
 その顔には、なにか吹っ切れたような表情が宿っていた。

「はーい、カット!」

 かけ声から一拍挟んで、セット内の貴音と響のもとに撮影スタッフが駆け寄っていく。

 カメラ周りでは律子が監督と語り合い、すでに出番が終わった真たちが口々に感想を言い合う。

「お疲れ様でしたー」
「はい、おつかれですー」
「ワイヤー外しますねー。動かないでくださいねー」
「すいません、衣装、こっちでー」

 様々な声が飛び交う中、監督がこう声をかける。

「じゃ、今日は打ち入りなんで、出演者の方々は移動してくださーい。スタッフも適当なところで撤収ねー!」

 そんな明るい声に、スタッフ、出演者一同が沸き立った。

「えー、本来は撮影前に行うべきでしたが、みなさんのスケジュールの都合もあり、このように第一話撮影後となってしまいましたが、
これもよい機会と思い、皆で実際の撮影に関することも含めまして、お話しいただければと……」

 番組プロデューサーの挨拶が一通り終わって、室内では、賑やかに乾杯の音が響く。

 ゴールデンタイムの連続ドラマの打ち入りにしては、狭いところと言えるかもしれない。

 だが、そのレストランのパーティルームはビル内の専用エレベーターから入ることができる。
 そのため、アイドルやタレントなど、むやみと顔を見られたくない面々の集合場所として重宝されていた。

 今回は、料理や飲み物も事前に持ち込まれ、部外者に気を遣わずすごせるように配慮されている。

 その中で、765プロメンバーは、撮影スタッフたちと話に花を咲かせていた。
 ただし、竜宮小町の四人——あずさ、伊織、亜美、真美——は仕事のために参加していない。

 本来竜宮小町の担当である律子がそれに同道せず、もう一人のプロデューサーがついていっているのは、
ドラマでの出番が多い律子をこちらに回しておいた方が後々のためにもいいだろうという判断の結果だ。

「いやー、響ちゃんも貴音ちゃんもすごいね。ワイヤーアクションなんて慣れてないだろうに」
「へへーっ」
「身体能力には少々自信がありますので」

 放映局のディレクターが褒めるのに、響が照れたように笑い、貴音は悠然と受け止める。
 ディレクターはそのまま反対側の律子に水を向けた。

「でも、アイドルなのにすごいよね。スタント使わずに」
「ははっ、たしかに。でも……」

 元トップアイドルで現在は765プロのプロデューサーを勤める律子は、その言葉に眼鏡をきらめかせて応じる。

 彼女もそうだが、今回のドラマでは、現実の彼女たちと微妙に重なりつつ、細かいところでは異なるキャラクター付けがなされている。

 そのわずかな現実感とその乖離が非現実感を増すのだとはスタッフの弁であった。

「現実味のあるドラマじゃないから出せるんですよ」
「っていうと?」
「ほら、不思議な力の部分ってCG処理じゃないですか」
「ああ」

 なるほど、とうなずくディレクター。

「殴ってもCGで発光させるもんね」
「ええ。派手でありそうにないからこそ、まだ見る人も、ね。それに……って、あら」

 卓上に置いておいたスマートフォンの画面が明滅している。
 律子はそれをさっと手に取ると画面に映し出された相手の名前を見て、ディレクターに頭を下げた。

「すいません、うちの三浦から電話みたいです」
「あ、あずさちゃん? あずさちゃんにもよろしく言っておいてよー」
「はい、ありがとうございます」

 律子は頭を下げて席を立つ。
 部屋の隅へ行ってから電話を取るつもりのようであった。

 その間も、宴席では皆の会話が続いている。

 少し離れたところでは、監督にお酌をしながら話しかける春香の姿がある。

「そう言えば、志乃さんはこられないんですか?」 

 柊志乃は、音無小鳥役を演じた女性アイドルである。
 当初は当人にとオファーされていたのだが、小鳥が頑として出演を拒んだため、彼女が抜擢されたのだった。

 なお、小鳥より遥かに出演シーンが少ないプロデューサーは、765のプロデューサー当人が演じている。

「柊さんは、いま海外だね。ええと、フランスのワイナリーの取材だったかな」
「へー。……全部飲み干しそうだよなあ」

 監督を挟んで春香の反対側に座っている真が、けらけらと笑い声をたてる。

「もう、真。まあ、でもあの人は、うわばみですからねぇ」

 春香の言葉に監督も笑う。
 柊志乃は、業界でも有名な酒豪なのだ。

 時にはライブの真っ最中でさえ酒を呷り、それをファンも楽しみにしているという人物である。

 今日参加していれば、消費される酒量は大幅に変わっていたことだろう。

 一方、部屋の隅で話をしていた律子は、電話を切って席に戻ろうとする。
 その途中、貴音の後ろに回ったところで、律子は彼女に耳打ちした。

「貴音」
「はい」

 静かに応じる貴音。
 彼女は両手を掲げるとぱんぱんと音を鳴らして打ち合わせる。

「皆さん、しばし耳目をお貸し下さいませ」

 なんだなんだと全員の注目が集まったところで、貴音が口笛を吹くように唇をとがらせる。

 そこから、音は出ていないように思えた。
 だが、人の耳が音ととらえられない何かが、聞く者の脳へと侵入する

 そして、かっと貴音の目が光る。

 見つめる者の大半の首が、がっくりと折れた。

 その目はうつろに開き、中には口の端からよだれを垂らしている者もいる。
 いずれも、意識はないように見えた。

 その中で、765メンバーだけが正気を保ち、飲み食いを続けていた。

「それで、あずささんたち、なにか掴んだんですか? 律子さん」

 箸を置き、律子に尋ねかけるのは春香。
 食事を続けている者も、律子のほうへ意識を向けているようだった。

「これまでの調べで脚本家以外がシロっていうのはみんな知ってるわよね?」

 異口同音に肯定の言葉が返ってくる。
 律子は一つうなずいて肩をすくめた。

「結論から言うと、その脚本家が、見事にクロだったみたい」
「クロって言っても……なにをするつもりだったのかしら? こんなドラマをつくって」

 千早が小首を傾げるのに、律子は苦笑いで応じる。

「765を脅すつもりだったようよ。俺はここまで知ってるんだぞ。だからこっちにも利益を回せとね」

「へえ。それで、現実をなぞるようなシナリオなわけだ」
「自分は、あんな暴れん坊じゃないぞ!」
「いや、結構……ねえ?」
「ひどっ!」

 真とそれに抗弁する響の会話に、皆の笑いがはじけた。

 そんな明るい雰囲気の中でも、スタッフたちは皆、惚けたように動かない。

「えっと、そこはあんまり主眼じゃなくて、どっちかというと、私たちの正体とか……」
「みんなの『力』とかだよね?」

 なだめるように言う雪歩と美希。

「そうね。自分の知る限りの情報をちりばめたみたい。ドラマ自体は交渉材料ね。
本来は、ホンを受け取った時点でうちがなにかアクションを起こすと思ってたんでしょうね」

「ところが、765プロは大乗り気。そこで、その人物の目論見からは外れてしまった……こういうことですかね」
「そう。それでまたなにかしようとしてたようだけど……。もう意味はないわね」

 春香に答えて結論づけるように律子が言うのに、全体に苦笑じみた雰囲気が生じた。

「あずささんと伊織ちゃんじゃあ、今後、企みようがありませんね」
「どちらが手を下したにせよ、いまや傀儡でしょうからね」

 さらりと恐ろしいことを漏らす雪歩と千早。
 だが、それを否定するような者はいなかった。かえって同意するようにうなずく者が多い。

「さらに背後になにかあるか、これから探るようだけど。……ま、ひとまずは安心していいわ」
「では、宴を再開いたしますか?」
「うーん。それは……どうしようかしら」

 貴音が確認するように問うのに、律子は皆の顔を見回す。

「ここの局の人って、酔っ払うと同じ事ずっと繰り返すんだよなあ」
「それに、帰り際に他に誘うのがちょっとしつこかったり……」
「あー、あるね。えっちぃんだよね」

 アイドルたちが口々に愚痴を漏らすのに、律子は貴音に目配せする。
 貴音は艶然とほほえんで応じた。

「では、自分たちはここで楽しく宴会をしていた、と心に刻み込みましょう。わたくしたちは適当なところで帰ったことにでもしておきましょう」

「お願いね」

 そうして、貴音が再び口笛の形に口をすぼめたところで、皆が立ち上がり、わいわいと動き始めた。

「それじゃ、ボクたちは退散しようか」
「お店の人は来ないんだよね? いつも通り」
「アイドルがいるからね。呼ばない限り人は来ないわ。あ、そうだ、やよい。手の着いてない料理は持って帰っていいわよ」
「わーい。ありがとうございますー」

 そして、アイドルたちは姿を消していく。

 窓を開いてそのまま——ビルの一五階だというのに——落下する乱暴な者。
 風のように走り去って誰にも姿を見られぬ者。

 卓の間をちょこまかと動き回り、料理や酒に布をさしかけてはどこかへ消してしまうという不思議なことをやらかしていたやよいが、
ほくほく顔で自分も布をかぶり、布ごと消え去ってしまうと、後に残るのは律子と貴音、雪歩だけ。

 貴音が残りの二人を両腕に抱え、部屋の隅に落ちた影に近寄ると、彼女たちの姿は、文字通り闇に溶け込んでいく。

 残されるのは、目の焦点を外したドラマスタッフたち。

 夢見心地でなにかをぶつぶつ呟いている彼らが意識を取り戻すのは、まだ何時間か先のことであった。




 序——終

序は終わりです。
第一話を、23時から投下します。

第一話には神崎蘭子が登場します。
http://yamiyo.info/images/SS/Title01.png

第一話


 神崎蘭子は夢見がちな少女である。

 十四歳という年齢には珍しくもないが、幻想と伝承を友とし、闇と耽美の世界に親しんだ。

 実に幸運なことに、彼女はまれに見る美少女であり、抜けるように白い膚の持ち主であった。
 おかげでその手の少女たちが好む——通常アジア人種には似合いようのない——ゴシック趣味の服や持ち物もよく似合った。

 そんな彼女が芸能界の門を叩き、アイドルとなったのは偶然のなせる業であった。
 だが、それは当人にとっては喜ばしいことであった。

 様々な衣装を身にまとい、多くの人々と交歓する、そのことを彼女は楽しんでいた。

 今日も楽しげに、彼女はドラマ撮影の現場に向かう。

「煩わしい太陽ね!」

 独特の言葉で蘭子は挨拶する。
 これもまた、彼女の夢見がちな特性の一部だ。

「あ、蘭子、おはよー」
「おはよう、蘭子。今日も元気だなー」

 楽屋に入った彼女を、芸能界の先輩でもあるアイドル二人が出迎えてくれた。

「おお、麗しき金の姫と、偉大なる獣使いよ! ご機嫌麗しゅう」
「相変わらず蘭子の言葉遣いは難しいの」

 金髪をふりたてながらきゃらきゃらと笑って言うのは星井美希。
 けしてばかにしている風ではなく、純粋に楽しそうだ。

「そうか? 結構わかるけどな。うちなーぐちみたいなもんだろ?」

 にかっと笑って蘭子に八重歯を見せるのは、我那覇響。
 役の関係か、普段はポニーテールにまとめている髪をほどいているため、美しい黒髪がずいぶんと下まで流れていた。

「これも我が宿命」

 思わず目を細めながら、蘭子はそう応じる。
 そんなはずはないのに、二人の周囲はきらきらと輝いていて、彼女の目をくらませた。

 これが高ランクアイドルのオーラ……と、心の中で彼女は呟く。

 気さくに話しかけてくれているが、この二人は芸能界でもかなりの売れっ子なのだ。
 まだまだ売り出し中の蘭子とは格が違う。

 それでも友達として扱ってくれる二人を、蘭子は慕い、尊敬していた。


 三人はスタッフの手を借りつつメイクをし、衣装を着込んで、スタジオに移動する。

 彼女たちの周囲ではスタッフたちが忙しそうに撮影の準備を進めていた。
 ただし、役者陣は蘭子たちの他はモブ役の人間がいるだけだ。

 メインどころの俳優は日を改めて撮る予定らしい。

「そういえば、今回のドラマは、三人とも死ぬんだよねー」
「無惨なる永遠の暗闇が全てを覆う……」
「最初が美希で、次が蘭子。自分は最後の方だから、拘束時間長そうだな……」

 台本をぱらぱらとめくりながら、三人は今回の撮影についての話を始める。

「でも、その分、出番多いよ?」
「逃げ惑ってるところばっかりだもん。自分としては立ち向かうほうがいいなあ」
「血塗られた惨劇なれば」

 怨念のこもった日本刀が引き起こす殺人劇。
 それを基本路線としたホラードラマの被害者役。

 それが今回の三人の仕事であった。

「それにしても、呪いの刀って、今時どうなんだろ……」

「真のまがまがしき呪物が運び込まれたと聞く」
「え? ほんと?」

 驚いて顔をあげる美希に、蘭子はこっくりとうなずいてみせる。
 美希は響と顔を見あわせ、何事か目配せを交わし合った。

「詳しく教えてくれる? 蘭子」

 真剣な調子で響が問いかける。
 蘭子はその迫力にたじたじになりながら、話し出した。

「我が知識の泉をしても絶対なる真実はつかめぬ。ただ、我が友の信頼すべき言によれば、古の都から……」
「しっ! 静かに!」

 美希がぱっと手を伸ばし、言葉を遮る。
 急なことに硬直する蘭子。

 だが、彼女の耳にもやがて、美希が気づいたのであろう物音が聞こえてきた。

 もちろん、スタジオにいる他の人間たちにも。

「……悲鳴?」

 思わず漏らした自分の言葉の意味に気づき、蘭子の顔が青ざめる。

 それはスタジオの外から聞こえてくるようだった。
 片側だけ開け放たれている扉から、男のものとも女のものともつかない甲高い悲鳴が響いてくる。

「……他のスタジオか?」
「いや、今日は他はそんな……」

 ざわざわとスタッフたちが話し始める。
 誰もとっさには動けないようであった。

 そうこうしている間に声は途切れた。
 だが、それに覆い被さるように、別の声が助けを求め始める。

 しかもそれは複数あるように思えた。

「お、俺、見てきます!」

 若いアシスタントディレクターがそう言ってただ一人駆けだしたのは、周囲からの無言の圧力が故か。
 あるいは、無謀な正義感と責任感からか。

「まずい……かな?」
「たちの悪いドッキリじゃなければね」

 美希と響が小声でそんな言葉を交わし合う。
 その横で、蘭子は事態をうまく把握できずにおろおろしていた。

 実際には大半の人間が蘭子の側で、何か不穏なことが起きているという風には意識を切り替えられずにいた。

 再びの悲鳴。
 しかも、今度はさっきよりもずっと近い場所からのものだ。

 何かがぶつかる音と、床に倒れこむような音、それに破壊音が同時にやってくる。

「こっちに来てる」
「人の多いところに来てるのかも?」

 響の指摘に、美希が落ち着いて返す。

 今日はこの撮影所では三つの班が活動しているが、その中でも、一番人数が多いのがこのスタジオの撮影班だ。

「な、なにが……」

 思わず普段の言葉遣いを忘れて蘭子が呟くのに、二人が目をやる。

「わかんない。けど、覚悟しておいた方がいいかも。なにがあるにしても」
「そうそう。覚悟の差って大きいからなー。気を張ってるだけで怪我とか少なくなるし」

「は、はい」

 二人の落ち着きようを不思議に思いながらも、自分へ忠告してくれる彼女たちに素直にうなずいておく蘭子。


 そんな時だった。

「きゃーっ!」

 新たな悲鳴が、ごく近くであがった。
 明らかに室内だ。

 その声をあげた女性に視線を向けるより前に、蘭子は見た。

 見てしまった。

 その人影は、なんだか光が当たっていないかのように見えた。
 それは、その男の体のほとんどが、赤茶けた液体でどっぷりと濡れていたため。

 片手に掲げるのは、ぎらぎらと輝く刀。
 もう片方にぶら下げるのは、なにかの塊。

 それが先ほど出て行ったADの頭部であると認識することを、蘭子の脳は拒絶している。

 あまりに非現実的な光景に、人々は硬直したままだ。

 それはそうだろう。

 血刀をひっさげた人物が生首を下げてスタジオの入り口に仁王立ちなどという状況、ドラマの中でもないのにあり得るはずがない。

 ないはずなのだが、それは紛れもなく現実であった。

 あるいは、先ほど悲鳴をあげ、いまはへなへなと床に座り込んでしまったスタイリストの女性が、一番よく現状を認識していたのかもしれない。

 だが、彼女は凍り付くスタジオの中で一人動きを見せていたために、男の注意を惹いてしまった。

 ひゅっと何かが飛ぶ。スタイリストは本能的にそれを受け取っていた。
 抱え込むようにしたそれから、どろりと赤黒い血が流れ落ちる。

 自らの腕の中にADの首を抱き留めている女の口がOの字に開く。
 それは、きっと新たな絶叫の前準備だったろう。

 だが、彼女がその口から声を発することはできなかった。

 自らがほうった首を追うように踏み込んだ男が、さっと刀を振る。

 それだけで、驚愕の表情を保ったまま、女の首が飛んだ。

 どす、とすん、と二つ音がした。

 一つは首を抱えたままの体が倒れる音。
 もう一つは女の首が床に落ちた音である。そのどちらからも大量の血潮がほとばしり、床を汚していく。

 一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図が成立した。

 人々は大声をあげてあわてふためき逃げ惑い、男はそれを追いかけて、次々と切り伏せていく。

 背を裂かれ、転げ回る青年がいる。
 足を切られ、這いずって逃げようとするところを心臓を一突きされて絶命する女がいる。
 抵抗しようとして腕を落とされ、顔をめちゃくちゃに切り裂かれてショック状態に陥る男がいる。

 血がはね、苦鳴が響き、首が飛ぶ。

 三人は、入り口からは離れたところにいる。
 そのためにいまは被害を受けてはいない。だが、いずれ自分もああなるに違いない。

 奇妙にふわふわとした意識で、蘭子はそんなことを考える。

 むせかえるような血臭、見知った人々のうめき声と泣き声、さっきまで助けを求めていた人間が動きを止める様子——全てが遠い。

 ただ、おだやかな絶望だけが、じわじわと彼女の心を浸食している。

「あー、よりによって殺陣の先生だよ、響」
「あの人、剣道六段だよね?」
「趣味で剣術もやってるって言ってたの。あと居合いも」
「へぇ……」

 場違いなほど落ち着いた声が、すぐ傍でする。
 先輩アイドルたちののんきなやりとりに、蘭子はあっけにとられていた。

「しかたないか」
「しかたないね」

 二人は蘭子のほうを見やりながら、うなずき合う。

 なにがしかたないのか。
 そして、二人の安心させるような笑みの意味はなにか。

 蘭子が疑問に思い、それを形にするより早く、二人は刀を振るい続ける男に向き直った。

 その両者の背を見つめる彼女は自らの目を疑った。

 すでに現実とは思えない情景の中にあって、これ以上の驚きなどあるわけがないと、どこかで思っていたのだろうか。

 だが、それは起こった。

 美希の髪が、染め上げた金ではなく、蜂蜜のようにとろける色合いに変じる。
 響の髪からは色素が抜け落ち、銀の針を束ねているかのような風情へと変わる。

 二人がそろってそれぞれの髪をかき上げ、背に広げた瞬間。

 彼女たちの姿は消え失せる。

 金と銀。
 二つの輝きはそのままに、そこに存在するのは、もはや人ではない。

 獅子を理想化したら、あるいはこうなるであろうか。
 狼が神と化したなら、あるいはこのような姿であろうか。

 黄金の巨獅子と、白銀の大狼。

 しなやかな体と、そこに込められた力を感じさせる美々しき二匹の神獣。

 それが、そろって吠えた。

 轟々と耳を圧するその声に、慌てて耳をふさぐ蘭子。

 そうしてすら、二人の挑戦の叫びは彼女の頭をぐらぐらと揺らし、体そのものを震わせた。

 なによりも空気を、そして、スタジオ全体をそれは揺り動かしていた。

 蘭子自身はうかがい知れぬことであるが、その時点で生きていた人間は、その全てが吠え声で失神している。
 神獣たちの背後にあった彼女を除いて。

 それに耐えたのは、唯一、刀を振るっていた男だけ。

 いや、それは正しくないだろう。
 実際にその男を動かしているのは、手に持つ刀そのものであろうから。

 男が、獣たちに向きなおる。
 振り上げていた刀は、いつの間にか、ぶらりと無造作に下ろされていた。

 現代の剣道において、下段に構える優位性は特にない。
 下からの切り上げはルール上有効打になりえず、有効と認められる技を用いるには、一度竹刀を上に持ち上げる動作が必要となるからだ。

 余計な一動作を必要とする以上、不利になるばかりだ。

 だが、実戦においては違う。
 その構えは、下から相手の手首を狙うことも、腹や胸といった重要な部位への刺突にもつなげやすい。

 特に、相手の動作の前兆——『起こり』を察知できる者からすれば、いわゆる後の先を取って、それらの攻撃につなげるのがたやすくなる。

 地摺りの剣。

 それが、男が美希と響の変化……否、真の姿たる獣に対してとった構えであった。

 四足の獣がそのまま駆けてくるなら、その顔面に。
 その跳躍力を生かしてとびかかってくるなら首元から腹を狙う。

 そうして切り上げたのを返す刀でもう一方の獣へと。

 男の——そして、刀自身が描く理想の顛末は、そういったものであったろう。

 もちろん、響たちにそれにつきあう義理はない。

 彼女たちは、即座に行動に移った。

 白銀の狼が男に向けて突進する。
 それを追うように、黄金の獅子が跳ぶ。

 男は——もし人の意識が残っているとするならば——半ば意識して、半ば無意識といった様子で、予定通りに刀を切り上げた。

 相手の動きを見つつ、その先を予見しての行動である。

 あるいは、響と美希の動きがそのままであったなら、男の目論見は成功していたかも知れない。

 恐ろしげな牙をむき出しにした狼の口を切り裂いて、まだ空中にある獅子の首を突くことができたかもしれない。

 だが、宙を飛ぶ獅子——美希は予期せぬ行動に出た。

 男に向けて跳ね跳んでいたはずの獅子の体が空中でひねられ、その真下を駆ける狼の背へと向かう。

 獅子の分厚い前足が狼の背に乗る。
 そのまま体重をかけられ、結果として急制動を受ける響。

 狼の頭は本来あるべきはずの場所にまで到達せず、刀の切っ先は、その鼻先を通過しようとする。

 そこで、狼の首がぐっと突き出された。

 刀を振る男の望んだタイミングより一拍遅く。
 響たちの狙い通りに。

 大きなあごが、鈍く光る鋼を呑み込む。


 キン——。


 白銀の狼が刀をかみ砕く涼やかな音が、全ての音を圧して響いた。

 ぽすん、と蘭子の体が床に落ちる。
 完全に腰が抜けてしまっていた。

 意識のほうも、だいぶ飛んでしまっている。

 いつのまにか獅子と狼の姿が消え、いつも通りの美希と響が彼女の前で裸身をさらしている光景を目にしても、なにも言葉が出てこない。

 その向こうで砕けた刀を手にした男が倒れ伏しているのも、ぼんやりとしか認識できていない。

 そんな蘭子に構うこともなく、二人はスタジオのセットの中から汚れていない適当な布を引っ張り出して素肌にひっかけると、どこかへ電話をかける。

 響と美希の両方が携帯を手にしていたものの、つながったのは響のほうであった。

「結構被害が出てて……。うん。頼めるか? え? うん、わかった。ありがとな、雪歩」

 電話を切って、響は美希に会話の内容を伝える。

「後始末は雪歩のとこがやってくれるって。ただ、時間がかかるから、とりあえず近くにいたやよいに連絡して、こっちに来てもらう手はずだってさ」
「ミキたち、幻術系は苦手だから助かるね」

 それから、二人はしゃがみこみ、床に崩れ落ちている蘭子の目線まで顔を下げた。

「蘭子」
「ひゃ、ひゃいっ!」

 美希に呼ばれ、彼女は裏返った声を放つ。
 それで少しは力が戻ったか、彼女は背筋を伸ばした。それにあわせ、美希と響の顔があがる。

 蘭子は二人の顔に交互に視線をやった後、はっと気づいたような表情になった。

「あ、あ、あ、ありがとうございます!」

 ばっと頭を下げる蘭子。

 心配げにしていた響と美希は思わず顔を見あわせ、そして、穏やかな、しかし、どこか寂しそうな笑みを浮かべた。

「私、響さんたちが、ええっと……その、し、知らなくて!」

 蘭子は胸につかえている言葉たちをなんとかしてはき出そうとわたわたしている。
 その様子にほほえみながら、美希たちは首を振った。

「あー。えっとね、蘭子」
「悪いけど忘れてもらわないといけないんだ」
「え?」

 きょとんとした顔で絶句する蘭子。

「蘭子が他の人に話すとは思わないんだけど、覚えてるだけで危ないんだよね。ミキたちじゃなくて、蘭子が」
「だから、忘れてもらう。大丈夫、やよいは化かすのうまいから」
「そうそう、百年狸だからね」

 ぱくぱくと蘭子は口を開け閉めする。
 なにか言いたいのに、うまく言葉にできない。

「まあ、やよいが来るまで」

 ふっと蘭子の視界が翳った。
 響の掌が目を覆うように彼女の顔にさしかけられたのだと気づくのは、少し遅れた。

「ひとまず眠っててね」

 その言葉を最後に、両耳が柔らかな手でふさがれる。
 おそらくは美希の両手だろう。

 そこまで考えて……。
 蘭子の意識は、そのまま闇に飲まれた。

 神崎蘭子は、素直な少女である。

 想念の世界を楽しむのも、アイドルとしての自分を楽しむのも、実に素直に受け入れている。

 彼女は自らを見出した人物——所属プロダクションのプロデューサー——と過ごした時間を大切にしている。
 そのためにも、アイドルとしての研鑽を怠らない。

 今日は、自らの撮影が終わった後でも同じスタジオ内に残り、別のアイドルたちの撮影風景を見学することになっていた。

 用意された椅子に座り、彼女はじっと天海春香、三浦あずさの撮影されている様子を観察する。

 今回の撮影は何ヶ月かの連作となる雑誌の表紙のシリーズのためのものだった。
 季節の移ろいを反映して、何度か衣装も変更していく。

 撮影でのポーズの取り方、衣装チェンジの後でもテンションを保ち続ける様、二人での位置取りや、距離感によるストーリーのほのめかし方。
 様々なことを彼女は感じ取り、手元のメモに記していく。

「どう? 参考になるかしら」

 いつの間にか、彼女の横にスーツの女性が立っている。
 蘭子は顔を上げ、あこがれまじりの笑顔を浮かべた。

「あ……。碧の女王よ!」
「相変わらず大仰ね。そんなたいそうなものじゃないわよ、私」

 そう言って照れくさそうに眼鏡を押し上げるのは、秋月律子。

 半年ほど前まではトップアイドル中のトップアイドルとしてアイドル業界に君臨していた人物である。

 いまは、765プロで、三浦あずさ、水瀬伊織、双海亜美、双海真美の四人組ユニット『竜宮小町』をプロデュースしている。

「頂点を極めし者に、正当なる賛歌を」
「だから、トップアイドルなんてもう昔のことで……」

 律子は困ったようにそう言うが、彼女は実際、引退しているわけではない。

 形式的には個人の芸能活動を休止ということにはなっている。
 だが、竜宮小町のコンサートに特別メンバーとして参加したり、765プロの他のメンバーが出る番組に限っては出演することもあるのだ。

 そして、実際にそれを望んでいるファンが数多くいる。

 プロデューサーという激務とアイドルの両立を果たす彼女を、蘭子は素直に敬っていた。
 自らがそうした道を望むことがあるかどうかは別として、だ。

 ついでに言うと、蘭子は律子と身長が同じで、一方的に親近感を抱いていたりした。

 ウエストも同じ数値なのに、バストとヒップが負けているのは残念なところであったが。

「あ……」

 蘭子と話していたはずの律子の視線が、撮影の中心に移っている。
 小さく漏らした声に、蘭子が小首を傾げた。

「ごめんなさい、ちょっと……」

 律子が言い切る前に、スタジオに声が響く。

「すいませーん。春香ちゃんが足つっちゃいましたー」

 しゃがみこむ春香と、その横で合図するように手を振るあずさ。
 律子が視線をよこすのに蘭子がうなずくと、彼女はつかつかと春香たちのほうへ向かっていった。

 二言三言話しかけて春香の様子をうかがい、すぐにスタッフと協議を始める律子。
 蘭子は痛がる春香の姿を見て、口元に手をやる。

「すいません。では、三浦単独のほうを先にしていただいて……。ええ、春香は私が連れていきますから」

 あえて周囲に通る声で結論を述べ、春香に肩を貸す律子。

「ほら、春香。ゆっくりでいいから」
「すいません。律子さん」

 律子につかまって、ひょこひょこと進んでくる春香。
 彼女は蘭子の横を通り過ぎる際に、小さく頭を下げた。

「蘭子ちゃん、騒がせてごめんね?」

 蘭子は、ぶんぶんと頭を横に振る。
 そして、彼女はできる限りの思いやりを込めて、こう言った。

「我が軫憂と共に魂の休息を!」

 その言葉に苦笑しながら、春香は運ばれていったのだった。

 しばらくあずさの撮影を眺めていた蘭子であるが、その間も彼女はずっとそわそわしていた。
 自分になにができるというわけでもないが、春香の様子が心配でならなかったのだ。

 結局、彼女は立ち上がり、スタジオを静かに抜け出る。

 そのまま楽屋のほうへ向かう蘭子。
 彼女は765プロの楽屋がどこかは知らなかったが、案内が張ってあるため、問題はない。

 そうして、楽屋の扉を開けて声をかけようとしたところで、律子と春香の声が聞こえてくる。
 なんだか話し込んでいる様子に、彼女は声をかけるのをためらった。

 少しだけ開いた扉の隙間から、そっと中を覗いてみる。

「まったく、ちゃんと飲んでおきなさいよね」
「ごめんなさい。今日は保つと思ってたんですけど……」

 化粧鏡の前に座る春香と、その前に立つ律子が話している。
 その状況は特におかしくない。

 だが、春香の足がなにかおかしい。

 足がつったからというのではなく……。

「もう完全に戻っちゃってるわね……」

 そう言って律子がなでる膝——と思われる部分——が鱗に覆われているように見えるのはどうしてだろう。

「まだ癒着しきってはないんですけど……」

 そう言って持ち上げる足先が半ばくっつき合って、ひれのように見えるのはなんとしたことだろう。

「つらくはないんだっけ? 呼吸とか」
「はい。それは大丈夫です」

 スカートから出ている足を全体で見れば、まるで巨大な魚の尾のようだ。

 そのことを完全に理解したとき、蘭子は息を呑み、その場でかたまってしまった。

「そう。ならいいけど……。それで、どうしようかしら。あずささんに任せる?」
「うーん」
「大丈夫よ、あの人なら、デジタルカメラでも夢を見させられるから」
「いえ、そこはわかってるんですけど、でも……」

 春香が困ったような悲しいような複雑な顔つきで首を振る。
 腰から下の非現実的な有様と、その表情の現実感の乖離に、蘭子の頭がくらくらした。

「まあ、アイドルとしては納得しがたい、か……」
「はい」

 何度も何度も見返して、蘭子は心の内で呟く。

 人魚だ……と。

「小鳥さんを連れてくるか、血を採ってくるかしかないわよね。いま、事務所に誰がいたっけ……」

 律子は春香から離れ、ぎゅっと眉根を寄せる。
 春香は申し訳なさそうに首をすくめつつ、彼女に声をかけた。

「でも、律子さん。その前に」
「まあ、そうね。その前に」

 二人がそろって言うのに、こてんと首を倒していると、まっすぐこちらを見つめられ、心臓が飛び上がる蘭子。

「出てらっしゃい、そこで覗いてる子ネズミさん」

 こうまで言われては、出て行くしかない。
 蘭子はゆっくりと扉を開き、楽屋の中に入った。

「蘭子ちゃん?」
「あちゃー……」

 驚いたように春香が言い、律子が額に手をやる。
 どうやら、自分がいることは気づかれていても、誰だかは、わかっていなかったようだ。

「見ちゃった、かあ」

 春香が、がっくりと肩を落として言うのに、蘭子は扉を閉めてから、おずおずと尋ねた。

「清浄なる蒼の国の住人たるか……?」
「え? ああ、うん。海から来たの。……あんまり驚いてないね」

「驚天動地の出来事に、我が魂も震えたる!」
「ああ、驚いてはいるのね……」

 驚き以上に、蘭子の目はきらきらと輝いている。

 人の中に紛れ、世に歌を送り届ける人魚!

 これほど、心躍ることがあるだろうか。

「ともあれ、参ったわね。変なことをほうぼうにふれ回る子じゃないのはわかってるけど……」
「余人に漏らすこと、決してあるまじ!」
「いえ、そうじゃなくてね。うーん……」

 律子と春香は顔を見あわせて共に唸る。

 蘭子は相変わらず目をきらめかせて、春香の尾を見つめていた。
 その表面は大きな鱗が七色に輝いていて、実に美しい。

「律子さーん。三十分休憩だそうですよー」

 蘭子の背後で扉が再び開き、明るい声で入ってくるのは三浦あずさ。
 長い髪を振りながら、彼女は蘭子にほほえみかける。

「あら、蘭子ちゃん。いないと思ったらこんなところにいたのね」

 あずさはちらと春香の有様を見て律子に話しかける。

「それで、どうします? 私が音無さんから血をもらってきましょうか」
「三十分あるなら、それがいいかもしれませんね。頼めますか?」
「はい、もちろん」

「……熱き血潮?」

 思わず言葉を挟んだ蘭子に視線が集中する。
 三人は軽く目配せを交わし合い、結局あずさが口を開いた。

「春香ちゃんは海の民だから、人間型の足になるには、音無さんの血をたまに飲まないといけないの。ね? そうよね?」
「あ、はい。小鳥さんは、私の同族の肉を食べて、それでも人の姿を失ってないとっても珍しい人だから……。いや、そんな事情はともかくですね」
「うふふ、わかってるわよー」

 ふっとあずさが息を吐いた。
 強い息が、蘭子の顔に吹きかかる。

 その途端、彼女は立ちくらみを感じた。

「……あ……れ?」

 体から力が抜ける。
 立っていられずに、ふらりと彼女の体は倒れかかる。

 それを抱き留める、柔らかな感触。
 だが、それすらも、もはや遠い。

「これは、夢よ。蘭子ちゃん。蜃が吐く夢。さあ、目を閉じましょう」

 耳から入る言葉だけが、彼女の意識を占める。

 手足の感覚はすでに無く、自らがそこにいるという事実も、また遥か彼方のことのようだ。
 そうして、蘭子の意識は闇に飲まれた。

 神崎蘭子は想像力豊かな少女である。

 世界にあまた存在する伝説の存在が実在することを信じて、そういったものを追求するネット上のコミュニティに参加したりしている。

 世の中には過激な人々もいて、吸血鬼を目指して血を吸い合ったり、殺人や集団自殺に至るようなグループもあったりするものだ。

 しかし、慎重な蘭子はそこまでのコミュニティには接触していなかった。

 彼女が覗くのは、いにしえの伝承や説話を蒐集、研究するというようなサイトが主であった。

 ただ、そういったサイトでも、現実での交流を行うことがある。
 いわゆるオフ会である。

「むう……。大いなる確率の歪みによって導かれているのか……」

 行きつけのサイトでのオフ会の呼びかけを見ながら、蘭子はそんなことを呟く。

 開催予定はその週末であったが、たまたま時間が空いているのだ。

 現在、蘭子のスケジュールは、ドラマ撮影の予定が『スタジオ内で発生した事故』によってしばらく延期され、空いてしまっている。

 しかし、その後は再びスケジュールが埋まっていて、おそらくオフ会に参加するようなことは難しい。

 学生である以上、学校生活もあるので、そうそう時間はとれないのだ。

「我が下僕の了解はあるが……」

 プロデューサーにはすでに連絡して、許可をとってある。

 アイドルであることを吹聴しないこと、できればアイドルであることも悟られないよう努力することが条件だ。

 そのあたりは変装すればなんとかなるだろう。

 まだまだ街を歩いているだけでファンに囲まれるようなアイドルではないことが、今回は幸いしている。

「危機が迫れば、我が内なる獣が警告を発するであろう」

 なにかありそうならすぐ帰ってくることにしよう、と決めて、彼女はオフ会への参加を決意したのだった。

 そして、当日。

 会場はとあるビルに入っているパーティルームを貸し切っていた。

 三十人を超える人数が参加していたためもある。
 だが、参加者たちの風体を考えれば、貸し切りの場所を取るほうが無難だったであろう。

 ほとんどが黒、赤、白を基調としたゴシック・ファッション。

 髪を染めている者もいれば、ウィッグをつけている者もいるだろうが、いずれも奇抜と捉えられるような髪型、髪色ばかり。
 アクセサリーも攻撃的なものが多く、普通の場所にはなじめるとは思えない。

 しかし、蘭子にとっては、それが実にしっくりと来た。

 なにしろ、彼女自身そういったファッションを好んでいるからだ。
 そして、灰色に近い彼女の髪もここでは目立たない。

「ふふ……」

 会場を見回し、思わず笑みがこぼれる。
 まだ会場に入ったばかりで誰とも話をしていないが、同好の士の中にあるだけでなんとなく嬉しいのだった。

「ちょっと、あんた」

 とりあえず飲み物を確保し、どこかの輪に入ろうとあたりをうかがっていると、背後から声がかかった。

「如何した?」

 いつもよりさらに気取って振り返る。
 現場に行くときよりも着飾っているため、自然とそんな仕草になってしまった。

 相手は、蘭子より少し背が低めの少女だ。
 深紅のレザードレスを着こなせるスタイルにほれぼれする。

 ただし、ミラー加工されたサングラスと、頬に施されたインスタントタトゥーのせいで顔がわからない。

「ちょっと。わからないの、蘭子」
「我が真名を知るとは、貴様も瞳を持つ……」
「私よ、私」

 サングラスを外し、下ろしていた髪を持ち上げる少女。
 その顔に、思わず蘭子は大声をあげていた。

「聖なる兎騎士!」

 その声は、周囲にも聞こえていただろうが、特に反応はない。
 ネット上でのハンドルネームとして、もっと派手なものを使っている人間は、この会場にはたくさんいたから。

「あんたね……! ああ、まあいいわ」

 だが、呼ばれたほう——水瀬伊織は、かなり驚いた様子だった。
 くってかかろうとして、周囲がざわついていないことに気づき、肩の力を抜く。

 髪を戻し、サングラスをかけなおす。
 ゆがんだ蘭子の姿がそのレンズに映し出されて、なんだかおかしかった。

「それより、なんであんた、こんなところに……。いえ、それも愚問か」

 それにしても、竜宮小町のリーダーである少女がこのような集まりに参加しているとは!

 蘭子とは違い、伊織は顔を見られればすぐに騒ぎが起こるだろう。
 そのあたり、大丈夫なのだろうか。

 そんな懸念を抱きながらも、彼女も趣味を同じくするのだと思うと、蘭子はうきうきするのだった。

「一つだけ聞くけど、今日来たのは偶然?」
「無聊を慰めるため、自らの欲することを成したまで」
「ああ、そう」

 蘭子の答えに、伊織がなにか考え込む。
 蘭子はわくわくしながら、次の言葉を待っていた。

 だが、それを遮るように声がかかる。

「ひ……水瀬さん」

 蘭子の姿を認めて、慌てて言い直した女性の姿にもなんとなく見覚えがある。

 着ているのは、体を覆いつつ、そのラインをあらわにするエナメルのスーツ。
 そして、伊織とおそろいの——対となる位置にある——インスタントタトゥー。

 そのスタイルの良さからして、彼女もまた芸能界に関わる人間のはずだ、と蘭子は思っていた。

「いいわよ。どうせ、ことが始まる前には帰せないだろうから」
「それもそうね……。こんにちは、神崎さん」

 伊織がぱたぱたと手を振ったのを受けて、彼女はサングラスをわずかに下ろして、蘭子にだけ素顔をさらす。

 ある程度予想はしていたというのに、蘭子は息を呑んだ。

 まさか、『歌姫』如月千早まで来ているとは。

 一拍おいて、彼女は満面の笑顔で挨拶を返した。

「瞳持つ者同士の蘭契を望まん!」
「親交を暖めるのはいいのだけれど、あまりそういうことには向いてないと思うわよ」

 千早が苦笑しながら言うのに、蘭子が不思議そうな顔をする。
 千早は、声を潜めて続けた。

「告知はされていなかったけれど、どうやら、色んなところで参加者を集めていたみたいね。神崎さんはどのページを見たのかしら?」

 蘭子がサイトの名前を告げると、伊織が首を振った。

「私たちが見たのとは違うサイトね」
「ええ、姫様の見込み通り、手広くやっているのでしょう」

「……姫?」
「私のことよ。千早はうちの分家筋なの」

 おお、と小さな声が蘭子の喉から漏れる。
 古く尊ばれる家系というのは、この手の少女には実に魅力的に見えるものなのだ。

 詳細を尋ねようとしたところで、会場に、きーんとハウリング音が響いた。

 それを発するのは、会場のステージにおかれたマイクだ。
 目をやれば、その前に一人の青年が立っていた。

「お集まりの皆さん。ご歓談の最中、申し訳ありません。サイト管理者の小竜から一言申し上げます」

 どうも、主催者の挨拶らしい。
 会場のざわつき方が一段下がる。

「小竜、ね」
「普通にドラキュラではいけなかったのかしら?」
「そこを少しひねるから、その手の人間が釣れるんでしょ」
「う……」

 伊織の指摘に、蘭子は声もない。

 ドラキュラのモデル、ヴラド・ツェペシの父がドラクル、すなわち竜公と呼ばれていたこと。
 その息子であるヴラドが竜の息子という意味でドラクラと署名したりしていたこと。

 これらのことは、吸血鬼ものに興味のある人間なら、常識と言っていい。

 だが、世間からすればそんなことを知っているほうが珍しい。
 『小竜』と言っただけでドラキュラを示すとわかることそのものに、この手の趣味人はある種の意味を見出している。

「本日はよくおいでくださいました。運営一同、実に喜んでおります」

 会場のほとんどはその挨拶に注意を向けていたが、蘭子の傍の二人だけは、小声で別のことを話している。

「私は今回は蘭子を守るのに専念するわよ。いいわね?」
「露払いは任せて」

 その雰囲気にただならぬものを感じつつ、蘭子はなにも言えない。
 どうやら、単純に超自然趣味の仲間というわけでもなさそうだった。

「本当に、たくさんのご参加ありがとうございます。とっても嬉しいんですよ。だって、お腹いっぱいになりますから」

 挨拶は続いている。
 だが、なにか奇妙なことを彼は言っていないか。

 そして、なんの前触れもなく、青年は声を低くして呟いた。

「いただきます」
 と。

 唐突に暗闇が訪れる。

 照明が落ちたというだけではない。
 本来なら漏れ入るはずの光全てがなくなり、すぐ傍にいる相手の顔すら見分けがつかない。

 全き暗闇に、人々は一瞬黙り込み、そして、悲鳴が爆発した。

「こ、これはいかなる……」

 棒立ちになった蘭子が呟く。
 真っ暗になったのには驚いたが、泣きわめくほどのこととは思えない。

 停電かなにかであれば明かりが戻るまで様子を見る方がいいと思うのに。

 そのはずなのに、周囲ではテーブルが倒れる音や、人々が走り回る音、布かなにかが破れる音が響いている。

 いったいなにが起こっているのか。
 蘭子は暗闇そのものよりも、騒ぎの得体の知れ無さにこそおびえた。

 そんな中で、彼女の手に滑り込むものがある。

「離れないで。ほら、握って」

 その言葉に、あたたかなそれが伊織の手だと悟る。
 ほっと息を吐く蘭子を、伊織は引っ張った。

「ついてきなさい」
「は、はい」

 導かれるまま、彼女は歩き出す。
 頼りになるのは伊織の手だけなので、おっかなびっくりであったが、なにかにぶつかったり、ふんづけたりすることもなく、彼女は進んでいく。

 周囲の物音はさらに激しくなり、何か金属のぶつかり合うような音まで聞こえてくる。
 何が起きているのかさっぱりだったが、少なくとも伊織がそこにいることだけはわかる。

 蘭子にとってはそれが文字通りの道しるべであった。

「大丈夫よ、私は見えてるから」
「え?」
「私には、見えているの」

 伊織が足を止め、振り返ったようであった。

 蘭子の視界に、ぼうと赤い光が点る。
 二つの輝くルビーのようなものが、宙に浮いていた。

 それが伊織の瞳だと気づくまでに、少し時間がかかった。


 人にはあらざる光を宿し、闇を見通す瞳。

「……闇の眷属……」

「あら、素敵な呼び方。吸血鬼なんてのよりは、よっぽどいいかもね。でも、まあ、鬼は鬼だと示しておくべきなのかもしれないけれど」

 蘭子にはどう答えていいのかわからなかった。

 神秘の世界に焦がれる人間にとって、ある意味で非常に象徴的な存在が目の前にいる。

 そのことに、どう反応していいか、判断がつかない。

 それよりも、なにか嫌な匂いが周囲から漂ってきていた。

「まったく、千早ったら被害を抑えようっていう気がないんだから……」

 あきれたような調子で伊織が呟く言葉の意味も、蘭子にはわからない。
 ただ、どうやら、この闇の中、千早がなにかをしているらしいことは察せられた。

「もういいかしらね」

 伊織がそう言った途端、ぱっと明かりがついた。
 いや、伊織がつけたのだ。

 彼女は暗闇の中、照明のスイッチのある場所まで進んできていたらしい。

 急に明るくなったために、蘭子はすっかり目がくらんでしまう。

 ぎゅっと一度目をつぶってから、ゆっくりと開け直す。

「ひっ!」

 思わず悲鳴をあげたのは、人が折り重なるようにして倒れていたからだ。
 一部はなにがあったのか、体のそこかしこから血を流してさえいる。

 彼らが意識を失っているのか、それとももっと恐ろしい事態に陥っているのかは、蘭子には判別しがたい。

 床に伏している人影は、いずれも蘭子たちから距離があったからだ。

 いや、伊織と蘭子の二人を中心に円を描くように空白地帯が広がり、その向こうにあると言うべきか。

 無意識に周囲を見回そうとした蘭子が、真横を向いたあたりで凍り付く。


 あまりの恐怖に息をすることすら忘れた蘭子の見たものとは、一人の男性の喉笛に食らいついた千早の姿であった。

 自分よりも体の大きな男の体を抱え上げ、暴れようとするのをおさえつけて首にかじりついている。

 その瞳は伊織と対になるように瑠璃色に輝き、黝い髪が意志を持っているかのようにうねくっていた。


 ぞぶん。


 そんな音と共に千早のあごが閉じる。
 男の首は、その一噛みで半分ほどが消失していた。

 首の肉を無惨に噛みちぎられたというのに、血が噴き出したりはしない。
 何よりもそんな状況なら既に事切れていてもおかしくないのに、男はまだ意識を保持している。

 千早が男の体を振り捨てるように離すと、よろめきながらも、なんと距離を取って、千早に向かっていこうとするではないか。

「あれも吸血鬼よ」

 あれというのはもちろん千早のことではないだろう。
 男もまた人ならざる者なのだと、伊織は言っているのだ。

 数歩の距離だというのに、男のタックルはとてつもない速度に達し、蘭子がその動きを見失うほどのものとなっていた。

 だが、その衝撃が千早にまで達することはなかった。
 彼は、まさに千早に襲いかからんと床を蹴った姿勢のまま、空中で静止する。

 いったいなにが、あるいは誰が男を押さえているのかと、蘭子は混乱する。

 そして、彼女は気づいた。

 その男の背中に突き出ている槍のようなものに。
 そして、それが千早の髪につながっていることに。

 千早の黝い髪がより集まり、その男を刺し貫いているのだった。

 彼女が首を一振りするだけで、男の体が飛んだ。

 そのまま床に落ち、ばたばたと手足を動かすが、立ち上がっては来られないようであった。

 一本の髪の毛が、彼の体を床につなぎ止めているとまでは、蘭子にはわからない。

 見れば、まるで死にかけた虫のようにうごめいている男の周囲には、幾人かの男性が転がっている。

 彼らもまた千早の髪で縫い止められているのだと理解しているのは、千早と伊織の二人きりだ。

「どう?」

 千早が吹き飛ばした男に一瞬だけ目をやって、伊織が尋ねる。
 千早はぷっと何かを床にはき出した後で、顔をしかめた。

「第五世代……と言ったところかしら。ずいぶん血が薄いわ」
「ふうん。まあ、現代人ってことね」

 千早が床に吐き捨てた灰色のなにかがぴくぴくとうごめく。
 それが先ほど男からかじり取った肉片だと気づいて、蘭子は血がすうと引いていくのを感じた。

 これ以上ショックなことが続くと、貧血で倒れてしまうかも、とどこかで本能が警告する。

「なぜ、こんなことをする?」

 しゃがれた声が、聞こえてくる。
 それは、動くことを封じられ、床に這いつくばらざるを得ない男の一人が発するものだ。

 明かりが消える前、ステージで挨拶をした『小竜』であると、蘭子が気づいたかどうか。

 彼は、先ほど喉を噛みちぎられた仲間が戦っている間に千早の髪を抜こうと何度も試みるも、どうやってもできぬと悟り、抵抗より交渉を選んだのだ。

「同じ吸血鬼が、なぜ、俺たちの邪魔をするんだ」

 彼は、赤黒く光る目と、その口に生える牙をみせつけるようにしながら問いかける。
 同族であることを強調したいのであろう。

 だが、伊織は彼のアピールにも小さく肩をすくめるだけだった。

 見比べてみれば、彼女の瞳の光は、男たちのものより遥かに強く、純粋な赤を宿している。

「勝手に狩り場をつくられては困るのよ。しかも東京のど真ん中で」
「狩り場をどこに作ったっていいじゃねえか!」
「お子様ねえ……。規則くらい守りなさいよ。管理者を通さない狩り場は許されないって知らないわけ?
 ましてネットで募集するなんて……もうね」

 興奮して怒鳴る男に向けて、伊織はあきれたようにため息を吐く。
 千早は会話に加わるつもりもないのか、じっと黙って男たちを見つめていた。

「だからって……。仲間をここまで……」

 そう言ったのは、小竜とは別の男だ。
 伊織は、その言葉にやれやれと頭を振り、どう返すか考えるように顎に指をあてた。

「懦弱きわまれりね。前にした相手の力量すらはかれないとは。いえ、憐れというべきかしら」

 そこに割り込んだのは、冷め切った……とてつもなく冷たい声だ。

「あなたたちと私たちは、まるで違う。私たちには人間だったことなどないのだから」

 淡々と事実を告げるように千早は言う。

「……まさか!」
「純血の吸血鬼!?」
「そんなはずは!」

 千早の冷徹さに対して、男たちの反応は実に騒がしく、なかば信じられないという色が濃かった。

「あなたたちが前にしているのは……」
「もういいわ、千早」

 男たちをさげすむようにしながら続ける千早を、伊織が強い口調で遮った。
 はっとしたように口をつぐむ千早。

「こんな奴ら相手にしても時間の無駄よ」

 伊織の瞳がらんらんと輝き始める。

 その光が強くなればなるほど、男たちは目を離せなくなるようであった。

 顔を伏せていた者も無理矢理させられているかのように、伊織へと顔を向ける。

「俺たちは……!」

 小竜が何事かを言おうとする。
 だが、その前に、伊織の口から、短い言葉が吐き出された。


「滅びよ」


 たった一言。

 彼女がそう口にしただけで、彼女のことを見つめていた男たち——吸血鬼たちの体が、崩れた。

 肉や骨といったものでできていたのではなく、砂かなにかで作られた像であったかのように、粉塵がばらまかれる。


 土は土に、灰は灰に、塵は塵に。


 そんな一節が蘭子の脳裏に浮かぶ。

 伊織が一言言うだけで、吸血鬼たちは全て塵と化してしまったのだ。

「さて、騒がせたわね」

 その場にたった二人残った吸血鬼が、蘭子の前に立つ。

 彼女たちが滅ぼした吸血鬼の痕跡といえば、カーペットの上に積もった埃だけ。

 そして、他の参加者たちは意識を失って全て倒れ伏している。

 いま、その場で意識を保っているのは、紅玉の瞳を持つ伊織と、瑠璃の瞳を持つ千早、そして、蘭子だけだ。

「わ、わた、わたし……」

 あまりのことに、舌が回らない。
 蘭子は胸の中にあふれるものをなんとか形にしようとして、しかし、まともに言葉を紡ぐことができなかった。

「いろいろと質問するのはなしにして、神崎さん。それに、あなたはもう覚えていられないから」

 先ほどの男たちに対するのとはまるで違う柔らかな声でそんなことを言う千早。

「……え?」

 その態度にも、そして、その内容にも驚いて声を出す蘭子。
 しかし、どう理解していいのかわからず、混乱したままだ。

 そんな彼女に、千早は優しく語りかける。

「後でしっかり、こういう集まりには安易に顔を出さないように注意してあげないと。それじゃ、こっちを見てくれる?」

 蘭子は、千早の言葉に抵抗できない。
 導かれるように彼女の視線は千早の瞳に向かい、そして、彼女の視界は、瑠璃色に染まった。

「おやすみなさい」

 瑠璃色の闇が、彼女を飲み込んだ。

 神崎蘭子は好奇心旺盛な少女である。

 また、年齢相応に人見知りなところもあるが、基本的には人懐っこく、その独特の言葉遣いも相まって、芸能界の大人たちからかわいがられている。

 本当の意味で彼女の言いたいことを理解してくれる大人は彼女のプロデューサーをはじめとしたごく少数。
 実際には、大半はおもしろがっているだけだと彼女自身承知している。

 だが、『瞳』を持たぬ者に『力ある者』の詞花が理解できずともしかたのないことだ。

 彼女を邪険にしないだけましだと考えて、彼女は様々なところに顔を出し、どんな仕事にも注力することにしていた。

 そのおかげで、彼女は、たくさんの出来事を経験する。

 たとえばそれは大道具倉庫。

 見知ったスタッフの額から角が生えはじめ、あごの可動範囲を超えて開いたとてつもなく大きな口に丸呑みにされかかるところを引きずり出される。


「あー、蘭子かあ……」

 彼女を颯爽と救いだし、蛇と猿と鬼を合体させたようなのたくる獣を大道具で囲んで動けなくした麗人は、頭をかいて呟く。

「ごめんね」

 菊地真の端正な顔に見とれながら、蘭子の全感覚が闇に飲まれる。



 たとえばそれはオカルト特集の肝試し企画で行った廃病院。

 独りでに動き出した人形から逃げ回っていた彼女は、スタッフともはぐれ、あるはずのない地下に入り込んでしまう。

 そこで出会ったのは、銀の髪を持つ佳人。

「ふむ、神崎蘭子、あなたでしたか」

 四条貴音は彼女の姿を見つけ、ぺこりと頭を下げた。
 その立ち姿のなんという美しさ、その礼のなんという凛々しさか。

「申し訳ありませんが、記憶をいじらせていただきましょう」

 思考の追い付かない蘭子の意識が闇に飲まれた。

 たとえばそれはとあるテレビ局のトイレ。

 緊急の欲求に従って、普段は利用しない古ぼけたそこに入った蘭子は、個室の外で誰かがなにかの取引をしている様子を聞きつけてしまう。

 最近改装したトイレが近くにあるため、ここを利用する者はいないと踏んでの会話であったろう。
 それは明らかに違法生を感じさせるものであった。
 蘭子としては息を潜め、自己の存在を隠すことしかできない。

 そこで生じる強烈な破壊音。

 何事かと震える蘭子の個室のドアをばりばりと音を立てて破ったのは、目のない灰色の獣であった。

「蘭子ちゃん。不運だったね……」

 その人型に近いようにも見える獣に命を下していた少女がおびえる蘭子に悲しそうに呟く。

「また今度、アイドル同士としてね」

 萩原雪歩が勇気づけるようにそう言った途端、蘭子の視界は闇に飲まれた。



 たとえばそれはテレビ局のエレベーターの中。

 階の間で急に止まったエレベーターの中で、同乗者が豹変し、牙をむいて襲ってくるのに、彼女はどこに逃げるわけにもいかず、死を覚悟する。

 だが、点検口から飛び降りてきたいくつもの影が、それを救った。

「蘭子ちゃん! いろいろ巻き込まれて大変だね」

 いたちのような、狐のような獣たちを使役して怪物と化した女性を排除した少女がにこにこと笑いかけた。

「えいっ!」

 陽気な調子で高槻やよいが掌を突き出した途端、蘭子の認識の全てが闇に飲まれる。

 たとえばそれは録音スタジオ。

 倉庫から見つかったという不思議なテープを聴いた全員が昏倒する中、平然と入ってきた女性に、半死半生の蘭子は抱き上げられる。

 その腕の温かさに、霞んで見える顔の優しさに、蘭子は言いしれぬ安心感を覚える。

「またあなた……。あなたって、うちのプロデューサーと同じで、こういうことを引き寄せやすいのかもしれないわねぇ」

 困ったようにそう言って秋月律子が眼鏡を外した途端、蘭子の精神は闇に飲まれた。

 夜、少女は夢を見る。

 神のごとき狼と精霊のごとき獅子と共に草原を疾駆し、竜の背に乗って、人魚と共に海原をどこまでも走り抜けた。

 大いなる力を持つ不死の女王とワルツを踊り、夜の眷属の宴に招かれ、甘美なる生き血をワインと共に味わった。

 狐狸と戯れ、地底世界で目の見えない生き物たちと鬼ごっこをした。

 少女は夢の世界では不可思議なる者たちの友であり、同胞であり、仲間であった。



 彼女の名は神崎蘭子。



 自らの身が、すでに幻想と伝承の世界にどっぷりと浸かっていることなど知るよしもない一般人。

 彼女の一日は楽しい夢と共に終わる。



 大いなる闇に飲まれよ。




 第一話——終

本日の投下は以上です。
第二話の投下は、10日以内にはなんとか。
第二話から本格的に物語が始まる予定です。

「お、俺から聞かなくてもいいだろ。売人なんていっぱいいるんだ」
「うん。でも、他の人を探すのも面倒だし。だから、とっととさ」

 男にはそう言っているものの、真は別の売人にもあたることにしている。
 情報の確認という意味はもちろん、売人たちにアレスを扱うのは危ないと知らしめるのも目的だ。

 最終的には元締めを締め上げる予定だが、それ以前に、売人が忌避するようになればめっけものだ。

「む……ぐ……」

 男の目が泳ぐ。
 何かを見ていると言うよりは、自分の内側に答えを求めているかのようであった。
 
 だが、逃げ場所はない。

 心の内にも、現実のこの場所でも。

「……ちくしょうっ!」

 結局、男はそうわめいて、服のポケットに手を突っ込んだ。

「ん?」

 武器でも出すつもりだろうか、と身構えた真が首をひねる。
 彼が握っていたのはナイフでも銃でもなく、錠剤の詰まったパッケージの束だった。

 凝った血のように赤黒い錠剤……アレスだ。

「ああ、いま持ってるのも出してくれるの? そりゃ、ありがた……」

 そう言いかけた真の笑みが凍り付く。
 男は、その束をそのまま自らの口元に持って行ったのだ。

「まさか、そんなにいっぺんに……!」

 真が止めようとする間もなく、男は薄いビニールを噛み破り、口中へ錠剤を落としていく。

 パッケージに分ける前の、大袋の状態だったものもあったようだ。
 あるいは、パッケージのまま、飲み込んでしまったものもあるかもしれない。

 いずれにしても、一度に一錠から二錠使えばいいアレスを、男は百錠近く飲み込んでいた。

 しかも、舌下で溶かすべきものを、かみ砕き、強引に飲み込んでいる。

「あちゃー……」

 真はあきれたように頭をかくが、もうどうしようもない。
 いまから無理矢理にはき出させようとしても、すでに致死量を超えた毒素が彼の血中に吸収されてしまっているだろう。

「ぐ……げ……」

 苦しげにうめきながら、男が膝を突く。
 うつむいた顔は大量の水でも吸収したかのようにぱんぱんにふくれあがり、血管が浮き上がっている。

 どうと音を立てて、男は倒れる。
 その体が、陸に揚げられた魚のようにびくびくと跳ね回った。

 真はいっそこのまま立ち去りたい気持ちにとらわれつつ、義務感から、その醜悪な様を見つめている。

「あれ?」

 断末魔の苦しみようにしては、少々、男の反応が長い。

 強烈なショック症状を経て、心臓が止まっていてもおかしくないはずだ。
 だが、男の体はいつまでもびくつき、しかも、なにやらふくれあがった体が服をびりびりと破り始めている。

「あ、これ……」

 見る間に、巨大に……いや、伸び始める男の体。
 二メートル、三メートル……五メートルを超えたあたりで、真は大きくため息をついた。

「『血』が出ちゃったか」

 アレスは人間にも、人ならざる者にも強烈な酩酊感と多幸感をもたらす強烈なドラッグ。
 だが、それ以上に邪悪な側面を持つ。

 普通の人間として生きている者の中に眠るいにしえの血脈……人ならざる力を引き出すことがあるのだ。

 これは元から人ではなく生まれてきた者にも共通で、より凶悪で強烈な力を引きずり出すことができる。

 男は元々は、蛇の血を引く者だったのだろう。
 だが、いまや彼は体のあちこちからごてごてと棘のようなものを生やした、大蛇と百足がごちゃ混ぜになったような毒々しい姿と成り果てていた。

 太さは人の胴の数倍、長さは十メートルにもなろうか。

「志乃さんが見たら怒るだろうなー、これ」

 酒好きのアイドルとして知られる女性の名前を、真は呟く。
 彼女こそ、とある山の神として神聖視されてきた古き白蛇の化身にして、関東地域の『蛇』のとりまとめ役なのだ。

 蛇たちの美的感覚は真には理解しがたいところもあるが、少なくとも、棘を体から生やすのは不作法と取られるだろう。

 だが、男が変化した大蛇はそんな真の呟きなど気にした風もなく、その顔に生えた棘をふるいながら彼女に襲いかかる。

 数メートルの高さから急降下した攻撃は、真がいたはずの場所にぶちあたり、コンクリート片を派手にぶちまける。

「これ、直すの誰だと思ってるんだよ……」

 一瞬で跳びすさり、屋上のフェンス間際に立った真が大穴の空いた屋上を見て顔をしかめた。

 その途端、太い樹木のようなものが襲いかかってきて、慌てて身をひねって避ける。

 彼女のすぐ傍を、空気を割って過ぎ去っていったものは、大蛇の尾だ。
 こぶとかぎ爪のようなものが生えたそれが、がりがりと屋上の表面を削っていく。

「さすがに、これに手加減するわけにもいかない、か」

 相手の一撃の力強さに、真の表情が変わる。

 変化した体になれていないのか、あるいは暴れ回るにはこの屋上は狭すぎるのか、大蛇の攻撃は、たたみかけるようなものではない。
 真の身体能力なら、避け続けることもそう難しくはなさそうであった。

 とはいえ、屋上からはみ出るほどの長い体はやっかいだ。
 いかに『死なず』と言われる真でも、体の大きさは変えられない。

 頭を攻撃している間に尾にはね飛ばされるというようなことを避けるためには、なにか手立てが必要であった。

「前はいろいろあったんだけど……っ」

 巨大な顎を開き追いかけてくる蛇を避けて走り回りながら、真は考える。

 以前、こうした長い体を持つ者を相手にしたときは、周囲にあった物で押しつぶすような格好にして動きを止めることが出来た。
 だが、屋上にはすでにその尾で破られているフェンスがあるくらいで、使えそうなものはない。

 そこに降ってくる、軽やかな声。

「ここはミキの出番かなっ?」
「美希!?」

 見上げる真の視線の先には、階段室に立つ給水塔の上に腰掛け、黄金の髪を揺らす少女の姿。
 普段の染め上げた金髪ではない、蜂蜜色にうねる髪をかき上げて、彼女は飛んだ。

 空中でくるりと一回転。

 それを終えたときには、すでにそこに華やかな少女の姿はない。

 蜂蜜色の毛皮に覆われた獅子が、大蛇めがけて飛びかかろうとしている。

 美希の変化した獅子は、大蛇には及ばずとも、それなりの大きさを持つ。
 少なくともその頭のある位置が人の背を超えているのだから、体の全長で言えばかなりのものだ。

 それに飛び乗られれば、大蛇とてその部分の動きは確実に封じられてしまう。

「美希! 尻尾のほう任せたよ!」

 ぐおんと一吠え。
 それを了承の合図として、真は走る。

 大蛇が自分の体にかかった重みに驚いたように首をひねり、そちらを見ようとする。
 その隙に真は大蛇が首をもたげているところにたどり着いていた。

「せいっ」

 走り寄った勢いを乗せた蹴りをくらわすと、大蛇の口が大きく開く。
 あるいはそれは苦悶の表情だったのか。

 怒りのためか、さらに速度を増してやってくる蛇の口を、真は待ち受ける。

「これで、おとなしくっ……なれっ!」

 真の拳が、蛇の鼻先をしたたかに撃った。

「うーん。昏倒くらいで済ませたかったんだけどなあ……」

 大蛇の亡骸を見ながら、真は呟く。

「しかたないよ。暴れ続けるんだもん」

 応じるのは再びヒトの姿に戻った美希。
 真のパーカーを借りて羽織っているものの、そのみずみずしい肢体は隠しきれていない。

 同性とはいえ目のやり場に困るので、真としては美希を見ずに蛇ばかりを見ている。

「アレスのせい、かな」

 真の打撃に大蛇がふらついたところで、美希が尻尾に噛みついた。
 それに狂乱した蛇は真と美希のどちらに対しようか戸惑い、その躊躇の中で再び真の打撃を受け、昏倒……するはずであった。

 十分な打撃を与えたというのに、大蛇が意識を途切れさせずに暴れ回ったのは、薬の効果であろう。
 そして、こてんとまるで電池が切れたかのように倒れ伏したのも、また、彼の血中のドラッグが効力を失ったからであったろう。

「だろうねー」

 そう言ってから美希は顔をしかめる。

「それにしても、アレス絡みは、でこちゃんたちが動きにくいのが面倒だよね」
「伊織たちは攻撃するとき本能的に相手の血を吸うからね……。美希たちは大丈夫?」
「うん。ミキたちも喉笛にはかみつくし、少しは血も口にするけど、夜の民とは影響が段違いだよ」

 ふむふむとうなずいて、真は思い出したように尋ねる。

「貴音もきついんだっけ?」

「うーん、むしろ月の民のほうが害が多いんだって」
「そうなの?」

「うん。律子……さんがそう言ってたの。どういう理屈なのかはミキにはよくわからなかったけどね。貴音は直に血を吸うわけじゃないし」

 そこで真は肩をすくめる。

「律子の知識と理論についていけるのは、小鳥さんと……あとは雪歩が得意な部分だけだろうね。ボクらにはわかんないよ」
「そうだね。そこらへんは任せて、ミキたちは地道に掃除していくしかないの」
「っと、掃除といえば……こいつ、戻らないなあ」

 真は、ごんと大蛇の膚を叩く。
 鱗で覆われているはずが、ゴムのような質感が戻ってきた。

 だが、いずれにせよ、生きている感触ではない。

「これが本性だったのかな?」
「そうかもね」

 言って真は携帯電話を取り出す。

「誰がいま動けるかなあ」
「片っ端からかけてみればいいと思うな」
「それもそうだ」

 美希の提案通り、真は後始末を請け負うメンバーに順番にかけてみる。
 その中で最初につながったのは、貴音であった。

「あ、貴音? いま、美希とアレスの件で……うん、うん。そう。ええとね、今回は、大蛇が一匹。それがビルの屋上なんだよね……」

 そうやって話を詰めていく真が、

「うん。わかった。人払いは改めてかけておくよ」

 と言ったところで、美希が寒そうに身を縮めながら口を挟む。

「服も持ってきて欲しいって言っておいてほしいな」

 そう情けない顔で言った後、くしゅん、と美希はかわいらしいくしゃみをするのだった。

「おーい、律子」
「はい。なんですか、プロデューサー」

 秋月律子は経理の計算をしていたPCから視線を逸らし、自分に声をかけてきた男性へと顔を向けた。

 彼こそは、かつて律子をトップアイドルにまで育て上げ、いまも多くのアイドルのプロデュースを精力的に行っている人物だ。

 律子が、あずさ、伊織、亜美、真美で構成される竜宮小町という一ユニットを担当しているのに対して、彼は残りの八人のアイドル全員を担当する。

 そして、彼の担当するアイドルは全員がBランク以上。
 それだけでも彼の実力がわかろうというものだ。

「お客さんだ」
「私にですか? 誰だろ」

 予定はなかったはずだけど……と立ち上がり、事務所の入り口のほうを見やる。
 そこに所在なげに立っている二人の少女を認めて、律子は首を傾げた。

「あれ? あれって、『ミスト』の二人ですよね?」

 『ミスト』は白坂小梅、望月聖の二人で構成されるデュオユニット。

 最近売り出し中で、どちらも儚げで不思議な雰囲気を持つ美少女である。
 世間ではそれなりの話題になりつつあった。

「ああ、なんでも、お前に相談があるんだそうだ」
「……いいですけど、連絡してくださいよ」
「あはは、悪い悪い」

 あきれる彼女に彼は軽い調子で応じる。
 そんな彼の横をじと目で通り過ぎ、ともかく会議室へと二人を案内していく律子。

 三人の背中を見送りながら、彼はなんとも言えぬ満足に浸っている。

 秋月律子は、彼と二人三脚でトップアイドルとなった。

 プロデューサーになってからはアイドル活動の方はほとんど引退状態だ。
 だが、それでも、時折出演する歌番組やドラマでは熱狂をもって迎えられる。

 さらにはアイドルからプロデューサーになったという経歴から、様々なアイドルたちからあこがれられ、慕われ、頼りにされていた。

 今回のように事務所の垣根を越えて相談を持ち込まれることもしばしばだ。
 本来は業界の仁義にもとるかもしれないが、秋月さんならとどの事務所も認めているのがさすがである。

 彼は、そのことをとても誇らしく、そして、個人的にも嬉しく感じているのだ。

 もちろん、彼は律子に持ち込まれる相談の半分以上が『人ならざる者』についてのものであることなど知るよしもない。

 765プロの敏腕プロデューサーにとって、あくまでも、現実は目に見える範囲に限られていたのだった。

「それにしても珍しいわね。人間と妖精のデュオなんて」

 会議室に場所を移し、二人に座るよう促した律子は、そんな風に話を切り出した。

「わ、わか、るんですか」

 前髪を垂らし、片目を隠す小梅が驚いたように露出している方の目をむいた。

「そりゃあね」

 言って、ぱちんとウィンクする律子。

「それに、一応、私も弱いとはいえ、魔眼の使い手なのよ。白坂さんは、隠してる方の目、魔眼でしょ?」

 邪眼といい、魔眼、あるいは邪視という。

 元来の意味では、見るだけで不運や呪いをもたらすものを言う。
 しかし、いまではそういった意味はほとんど失われ、なにかの『力』があるものを総じて魔眼と言っていた。

 小梅の右目は髪で隠されていたが、律子はそこに力が宿っていることを、すぐに見破っていた。
 小梅自身はヒトではあるが、ヒトの間にも、まれにこういった力を持つ者が出てくる。

「そ、そ、そうです。あ、あの……。秋月さんは、その……」
「ああ、うん。人間ではないわよ。そちらの望月さんと同じようにね」

 おずおずと尋ねる小梅に、律子は軽い調子で告げる。

「あ、は……はい」

 聖は律子が呼んだ途端、びくりと体を震わせた。
 そのはかなげな雰囲気がさらに小動物のような動作で強調される。

「どうしたの……聖ちゃん」
「ううん……。ここの人たち……みんな、とっても力が強いから……」

 遠慮というよりもおびえているようにも見える聖に、小梅が心配げに声をかける。
 その様子に律子は苦笑しながらぱたぱたと手を振った。

「まあまあ。そう構えずに気楽に相談してちょうだい」
「はい。あの……」
「私が、言おう、か?」

 それでも緊張しきっている様子の聖をみかねて、小梅が声をかける。

「うん……。ごめん……。ううん、ありがとう」

 淡く笑む聖にこちらも笑みを返し、小梅は律子のほうに顔を向ける。
 その顔は実に真剣なものであった。

「あ、あ、あの、私、たち、あんまり、おしゃべり、上手じゃ……なくて」
「ええ。大丈夫よ。ゆっくり話して?」

 つっかえつっかえ話し出す小梅を安心させるように、律子は暖かく微笑んだ。

「脅されてるってことでいいのかしら?」
「は、はい」

 小梅の話は、そう長くかからなかった。
 簡潔にまとめれば、聖がその正体を知られ、脅されているという内容であった。

 よくある、というわけでもないが、ある程度は想定できるトラブルである。
 ヒトの世界に異物が入り込む以上、そういった事態は当然に起こるのだ。

「正体を知られて脅されるかあ。ないことじゃないわね。消えるところでも見られたかしら?」
「いえ……。その、私、戸籍とか……用意していなくて……。プロダクションに入るときに、その……」
「もしかして、書類ごまかしちゃった? それはミスったわねぇ」
「すいません……」

 腕を組んでうーんと唸る律子に、聖は縮こまる。

「ああ、ごめん。責めてるつもりはないのよ。そうね、じゃあ、まずそれをなんとかしましょうか」

 律子の視線が会議室の扉へと向く。
 その仕草に小梅と聖が不思議そうな表情を浮かべた。

「相手が脅してきてるその隙をまず無くしちゃいましょう。相手との交渉や近づかないようにするのはその後になるわね」

 会議室の扉がこんこんと音を立てたのは、彼女がそう言ったちょうどその時であった。

「どうぞー」
「お邪魔しまーす」

 お茶とお茶請けをのせた盆を持って入ってきたのは萩原雪歩。
 律子は湯気の立つお茶を自分たちの前に置いていく彼女に声をかけた。

「雪歩」
「はい?」
「戸籍、一つ」

 まるで出前でも取るように気軽に言うと、雪歩も当然のように微笑み返す。

「いいですよ。どんな感じがいいですか?」
「ん、この望月さんのなの」
「あ、そうなんですか」

 視線が聖に移り、聖がぺこりと頭を下げる。
 雪歩は律子の横に座り、メモ帳を取り出した。

「えーと、望月さん。戸籍にしたいデータを教えてくれるかな?」

 雪歩が問いかけるのに、聖は訥々と答える。

「はい。あ、あの、事務所のプロフィールでは、長野出身の十三歳ってことに……なって、ます」
「誕生日は?」
「えっと、十二月二十五日……。その、私が初めて、プロデューサーさんに会った日を誕生日ってことに……してます」
「へえ、いいね。私、二十四日生まれなんだよ」

 そこでにっこりと笑う雪歩に、聖はようやく肩から力を抜いた。

「そ、そうなんですか。誕生日がクリスマスと、その、一緒になってごめんな……とか言われちゃったりするんですが……」
「あるある。でも、だからこそ、親しい人が誕生日忘れずに祝ってくれると嬉しいよね」
「……はい。たとえ自分で決めたものでも……」

 律子は二人の様子を見守っていたが、大丈夫そうだと判断して、自分のスマホを取り出す。

「さて、書類のほうは雪歩に任せておけばいいとして……。実働は、月番の春香たちに連絡を取ろうかしらね」
「あ、あの」
「ん?」

 春香に向けてメールを作成している律子の視線が声をかけてきた小梅に向かう。
 その指先だけが、まるで別の生き物のように文字を打ち込み続けていた。

「お、お礼は、ど、どうしたら……?」
「あー……。書類のほうは、少し覚悟して。言ってしまうと偽造だから。
でも、他はいいわよ。芸能界の『裏』のもめ事はうちが解決するのが習わしだから」

「で、でも……」

 不安げに視線を揺らす小梅に、律子は片手をぱたぱたと揺らす。

「まあ、ことが済んで、気が向いたらうちと仲良くしてくれればいいわ。あ、脅しで言う『仲良く』じゃないわよ?」
「え、えっと……。おとも、だち?」
「そうそう。それでいいの」

 そこで律子は声をひそめ、なにか警告するかのような調子で続けた。

「まじめな話、望月さんや私たちみたいな存在がいるってことを、世間に知らせないよう努力してくれるだけでありがたいの。特に白坂さんはヒトだしね」
「う、うん。わかり……ました」

 律子の言葉に重みを感じ取ったか、小梅は覚悟を決めたような様子でうなずく。
 律子は柔らかく微笑んだ。

「じゃあ、実働班に連絡しておいたから。すまないけど、書類の件が終わったら、いまから言うところに向かってもらえるかしら?」

 そうして、小梅と聖は自らの問題解決を765プロに委ねることになったのだった。

本日の投下は以上です。
第二話後編は土曜日を予定しています。

日曜に入ってしまいましたが、第二話後半を投下します。

「いらっしゃいませー」

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 ベリーショートの店員ににこやかに出迎えられ、びくっと身構える小梅。
 彼女は店員の顔を見て、しばし小首を傾げていたが、聖に促され、来る道々練習してきた台詞を告げる。

「あ、あの、ここに、天海さんたちがいるって、律子さんに……」
「承っております。では、こちらにどうぞ」

 案内されたのは、店の奥のボックス席。
 そこでは、快活に笑う少女と、物静かに外を眺める少女の二人がいた。
 どうやら、店内に他の客はいないらしい。

「やっほー。はじめまして、小梅ちゃん、聖ちゃん。そう呼んでいいかな?」
「あ、はい」
「ど、どうぞ」

 そう言って座るよう促すのは天海春香。
 その横で、視線を二人に移し、親しげな表情を浮かべるのは如月千早だ。

「私は、番組で共演したことがあるわね。お久しぶり、白坂さん、望月さん」
「お久しぶりです、千早さん」
「こ、こんにちは」
「あ、私も春香って呼んでね」

 そんな風に挨拶が終わり、聖たちが注文を終えたところで、春香たちが切り出す。

「で、律子さんからメールで事情は聞いたんだけど」
「脅迫相手からの接触は、どういう感じなのかしら?」

 そう春香と千早の二人が尋ねるのに、

「これまでは……メールだけで……」
「お、一昨日来た、め、メールで、明日、直接……」

 これも聖と小梅の二人がかりで応じる。

「呼び出されたんだ?」
「はい……。で、でも、場所は、こっちが、し、指定して、いいって」

 小梅がそう言うのに、春香は眉を顰める。
 一方で千早は実に冷たい表情を浮かべていた。

「へえ……? 脅す相手が指定する場所に来るとか、迂闊なのか余裕があるのか……」
「なにも出来ないとなめてかかっているのでしょう。きっと」
「そうかもね。まあ、普通は脅されたりしたら、思考が停止するしね。たとえ、人間じゃなくても」

「ヒトの世界に確とした居場所を持たない私たちのほうが、よほど動揺するものよ」
「たしかに」

 脅迫という卑劣な行為をとる相手に向けた冷たい怒りを込めて吐き捨てる千早。
 その様子に困ったような嬉しいような微妙な表情を浮かべながら、春香は小梅たちに向き直る。

「じゃあ、相手には、ここに来るよう言ってくれる?」
「こ、こ……?」
「この喫茶店、ですか?」

「うん。知り合いのやってるところなんだ、ここ。ねー、彩音ちゃん?」

 不審げに繰り返す聖たちにそう言って、春香はちょうど二人の注文のグレープフルーツジュースを持ってきた店員に話しかける。

「ええ、まあ、そりゃそうデスけど、あんたの店じゃないんですよ」
「わかってるってー」

 春香の軽い返事にふんと鼻を鳴らすウェイトレス。

 小梅は彼女の顔に先ほどもなにかひっかかっていたようであったが、改めて間近でじっと見つめて、それが確信に変わった様子であった。

「……も、もしかして、サイネリア、さん?」
「ああ、はい。そうデスよ? 『サイネリア』のサイネリアです」

 876プロダクションが誇るアイドルユニット『サイネリア』。

http://yamiyo.info/images/SS/s02_02.png

 それは桜井夢子、日高愛、鈴木彩音、水谷絵理、秋月涼で構成されるクインテットユニットである。

 かの日高舞すら下した日高愛をはじめ、水谷絵理、秋月涼とAランクアイドルを三人も擁するだけでも大したものである。
 さらには、残る二人、桜井夢子と鈴木彩音ことサイネリアも並々ならぬ実力を持つ。

 ユニットと同名のサイネリアの名も持つ彩音がリーダーを務めるそのユニットは、ファーストシングルからミリオンヒットを連発する超人気集団なのだ。

 春香たちにとってはかわいい後輩であり、同時にアイドル業界で覇を競うライバルでもある。

「わ、わ、わ」
「はい?」

 音を立てて立ち上がり、自分に向けてなにか言おうとしている小梅に、サイネリアは小首を傾げる。
 小梅は顔を真っ赤にして興奮しながら、言葉を放った。

「『WORLD OF PAIN』、だ、だい、すき、で!」
「あ、あー……」

 サイネリアの表情が急に優しくなる。
 彼女は小梅の肩に手を置いて、ゆっくりと話しかけた。

「ありがとうございます。でも、いまは、仕事中なので……。後で、ね?」
「わ、わかりました!」

 こくこくとうなずいて小梅は席に戻る。
 しかし、彼女の視線は仕事に戻っていくサイネリアから離れなかった。

「ふふっ」
「どうしたの?」

 気分よさげに笑う聖に、千早が小声で尋ねる。
 聖は隣でそわそわしっぱなしの小梅を見つめながら、こう答えた。

「あ、い、いえ……。その、小梅ちゃんがこんなにはしゃぐのって……珍しいから……」
「あこがれの人、なのかしらね?」
「そうだと思います。私には……千早さんが……そうであるように」
「あら」

 突然のことに、千早が言葉を失う。
 聖はちらちらと千早の顔とテーブルとの間で視線を往復させながら続けた。

「歌を……歌いたくて、ただ、歌いたくて……。私、ヒトの世界に……来たんです。だから、千早さんの歌に対する姿勢に、とても……」
「そう……。ありがとう。この騒動が収まったら、ゆっくりお話でもしましょうか?」
「ぜ……是非」

 提案する千早と、応じる聖のどちらもが、ほのかに頬を染めている。

 きらきらと眼を輝かせながらサイネリアを見つめる小梅と、お互いをちらちら見あっている千早と聖。

 ボックス席は少々奇妙な、しかし暖かな空気に染まっていた。

「あー、きみたち、きみたち」

 一人取り残された春香が、そんな空気を切り裂いていく。

「盛り上がってるところ悪いんだけど、まずは解決に向けてですね」
「あ、ごめんなさい」
「あう……」

 落ち込む二人に苦笑しながら、春香はメモをテーブルの上に滑らせる。

「ええと、じゃあ、これ、ここの住所。これを送ってくれるかな?」
「はい……。わかりました」

 聖がスマートホンに入力している間に、なぜか小梅は眼をきらきらさせて千早たちに尋ねかける。

「こ、ここで、待ち、伏せ?」
「いきなり襲ったりはしないわ。まずは相手の要求を聞いて、交渉できるようならする。無理なら、まあ、それなりの……」
「というか、要求だけは聞いておくって感じだよね。実際にはこっちからはなにもあげないんだけど、時間稼ぎは出来るでしょ?」

「じ、時間稼ぎ……?」

 いまひとつわかっていない様子の小梅に千早が説明する。

「相手の正体を探る時間は必要よ。その後、関わってこないようにするためにもね」
「な、なるほど……」

 一方、スマホをいじっていた聖はようやくのように顔を上げる。

「送信……しました」

 ありがと、と笑う春香。
 その横で、千早は思案げに顎に指を当てる。

「段取りとしては……二人にマイクをつけてもらって……。私たちのうち、一人はキッチン、一人は店内で待機ってところかしらね」
「でも、さすがに私たちの顔は知られてるよね。芸能界にそれなりに詳しい相手だろうし」

「そこは、まあ、なんとかするわ」
「あ、優君?」
「ええ」

 春香にうなずいてから、千早は聖たちにほほえみかける。

「二人にも紹介しておくわね」
「はい?」

 千早の言葉を理解しきれない二人が不思議そうに見つめる前で、がくりと千早の首が倒れた。
 慌てて立ち上がろうとする聖を、春香が身振りだけでおさえる。

 見つめる聖と小梅には、ふっと千早の体が揺れたように見えた。

 だが、それは正しくない。
 正しくは、千早の体が『変わった』ために、それに応じて服が揺れただけだ。

「……か、体つき……が?」

 それに気づいた小梅が呟く。
 千早は元々細身であったが、より丸みがなくなったように見える。

 全体の印象から柔らかさが失われた、と言えばよりしっくり来るであろうか。

「優君は男の子だからねー。そりゃ、変わるよ」

 春香が横で笑っている。

 その言葉に眼を白黒させていると、上がった顔にぽかんと口を開ける二人。

 そこにあったのは、たしかに千早の面影は残っているものの、明らかに別人と思える少年の顔だった。

「はじめまして、如月優です」

 長い髪を一度うっとうしげに振ると、『彼』はそう笑いかける。
 その表情の作り方も千早とわずかに違う。

「ち、ち、ちがうひと……」
「二人が一つの体を……? いえ……」
「ま、事情は詮索しないであげて。ね?」

 思わず考えたことをそのまま口にしている二人に、春香が頼み込むように言う。
 すると、二人はあっと気づいたように口をつぐんで、こくこくとうなずいた。

「そんな気にしなくていいのに。春香さんも」

 千早が変じた人物——千早の『弟』である優はおかしそうに笑って、手を振ってみせる。

「事情はいま、姉さんの中で聞いてたよ。要は明日、僕が店内で見張ってるってわけだね」
「うん、お願い」
「任されました。何事もなければ一番いいんだけど」

 春香が言うのに、優は明るく応じる。
 しかし、春香のほうはその答えに渋面を作った。

「そううまくいけばいいんだけどねー」

 彼女は心配げに肩をすくめながら、そう呟くのだった。

 だが、春香の懸念をよそに、翌日の交渉は、剣呑な事態にはならなかった。

「引き抜き……かあ」

 言いたいことだけを言って脅迫者が去っていった後に残った春香が困ったように呟く。

 彼女は実際の対面の折にはキッチンに隠れていた。
 だが、いまは店のほうに出てきて、おびえているのか黙りこくっている小梅たちの横に座っている。

 聖の秘密とひきかえに相手が要求したのは——金銭的にはそれなりにいい条件での——別事務所への移籍だった。
 ただし、どこの事務所であるかは、やってきた男性は漏らさなかった。

 告げたのは、要求の他に、一週間という返答期限だけだ。

「い、移籍は……いや、です」
「わ、私も……」

 しばらくして、聖と小梅が共に拒絶の意を表す。

 それはそうだろう、と春香は思った。

「脅してくるような事務所に所属したくはないよね」

 心に浮かんだことをそのまま言うと、二人とも真剣な顔でうなずき返す。

 いかにユニットごと移籍することを要求されても、相手は聖の正体を知り、それを材料に脅しをかけてきた人間だ。
 普通の神経なら、移籍を望みはしまい。

「そ、それに……」
「プロデューサーに……まだ、教えて欲しいこともたくさん……」

 二人が熱っぽく言うのに、春香はあたたかな笑みを浮かべる。

「そっか。いまの事務所、気に入ってるんだね」

 少し恥ずかしがりながら、それでも同意を示す二人の様子にますます笑みを深くする春香。
 しかし、彼女は顔を引き締め、小さく息を吐いた。

「ただ、断ると、嫌がらせをしてきそうだから、その対策だね。単純にお金目的の輩ならともかく、芸能事務所となると……」
「ど、どうしたら……」
「相手の正体を探ることかな。いま、優君が尾行してるから、まずはそこから」

 脅迫行為をしてくるような相手なら尾行も警戒しているかもしれない。
 だが、優と千早なら心配はないだろう、と春香は思っていた。

 そうして、一時間ほどが経つ。
 その間に気を回したのかサイネリアがおごりだとパフェを小梅と聖のところにだけ持ってきて春香が拗ねたりもしていたのだが、それはともかく。

 携帯電話にかかってきた番号に春香はぱっと顔を輝かせ、通話ボタンを押す。

『春香?』

 響いてきたのは、千早の声。

「あ、千早ちゃん? 優君じゃないんだね。どうかな?」
『ええ、途中で優と代わって後をつけたのだけど、あの男、探偵事務所に入っていったわ。彼自体は雇われってことかも」
「あー、そうなのかー。うーん」

 直接、移籍を求めている芸能事務所の所在と名称がわかればよかったのだが、そうはうまくいかないようだ。

『しばらく様子をみているのだけど、すぐに出てくる様子はないわね』

 電話の向こうの千早も、もう少し手がかりを得たいようであった。

『念のため、もう少し様子を見て、それから周りの様子を探って戻ることにするわ』
「ん、お願いね」

 春香は電話を切ると、期待に目を輝かせている二人に向けて、すまなさそうに首を振る。

「ごめんね。すぐには進まないみたい。二、三日はかかると思う」
「そ、そう、ですか……」

 残念そうにうつむく二人。
 春香はそんな彼女たちに努めて明るく声をかけた。

「大丈夫。絶対、一週間の期限までには解決するから! 約束するよ!」

 任せておいて。
 そんな気持ちを込めて春香は胸を張り、小梅と聖はその自信たっぷりの態度にほっと息を吐くのであった。

「……そんなにさっさと解決できるって安請け合いされてもねー」
「す、すいません」

 765プロに戻った春香は、夜も更け、人の減った事務所の中で、律子に頭を下げる。
 律子は事務所のパソコンとは違う私物のノートパソコンに向けて何事か指を走らせていた。

「まあ、春香の気持ちもわかるから、いいんだけどね……。っと、出た出た」

 ディスプレイに表示された情報が、律子の眼鏡に反射して、彼女の表情を隠す。

「うーん。水谷さんにも協力を仰いでみたけど、ネット上から探れるのはここまでか……」
「どうかしら?」

 ソファに座って所在なげに楽譜を眺めていた千早が寄ってくる。
 彼女は、優と共有するためか、普段よりさらに中性的な服装をしていた。

「千早が探ってくれた探偵事務所だけど、そこへの入金を見る限り、勢木興業っていう会社が怪しいわね。他の取引は、除外できたから」

 ふんふんと興味深げに聞く春香。
 その食いつきように苦笑しながら、律子はさらにキーを押す。

「だけど、この勢木興業、どうも実態がないのよね」
「ダミー会社というやつかしら?」
「そうね、ペーパーカンパニーだと思うわ。一応洗ってみたけど、当座預金も、ここ一年の取引しかないのよ」
「じゃあ、最近は動いているんじゃないんですか?」

 千早に答える律子の言葉に、春香が疑問を呈する。

 ぴっと指を立てて、律子は講義でもするかのような口調で話し始めた。

「残念。そう思わせるためのごまかしに過ぎないわ。実際には実態のない会社同士でお金を出し入れしているだけ。
設立年が古くても、信用はできないのよ。
休眠してた会社を買い取って、こういうごまかしをやって、老舗だと思わせるなんて、本当によくある手なんだから」

 詐欺にも使われるし、マネーロンダリングに利用されたりもするのよ、と、律子は説明する。

「はー……」
「その会社を迂回させている本命まではたぐれない?」

 感心しきりの春香に対して、千早は実務本位だ。
 その両者が、律子の次の言葉でがっくりと肩を落とした。

「無理」

 沈黙が落ちる中で、律子の唇の端がくいと持ち上がる。

「なんて言うと思った?」
「もう、意地悪しないでくださいよー!」
「律子、悪趣味よ」

 ほっと安心したように噛みつく春香はともかく、頬を膨らませる千早という図はなかなかに珍しい。

 そんな反応を引き出せたことに満足して、律子は話を進めた。

「実際、取引からたどるのは難しいと思うわ。本来の会社名義での入金は避けたんでしょうね」
「ずいぶんな用心ね」
「脅迫なんて後ろ暗いことをするんですもの。ともあれ、このペーパーカンパニーの所在地には、現実にもビルがあって」

 一拍おいて、律子はにやっと笑う。

「そこには芸能事務所が入っています。はい、どう思うかしら?」
「律子さんってば、すごい!」
「ええ。ありがとう、律子。水谷さんにもお礼を言っておいて」

 賞賛の声を受け、律子はますます笑みを深くして、

「向かってもらえるかしら?」

 と問いかけた。

「了解です!」
「もちろんよ」

 その問いに対する答えは実に明確なものであった。

「さて……と」
「気配はないわね」

 765プロでのやりとりから、約二時間後。

 もはや日も変わろうという頃に、春香と千早はとあるドアの前に立っていた。

 律子からもたらされた情報によれば脅迫の黒幕と考えられる芸能事務所に、もう灯りはない。
 いや、ビル自体がもう消灯している。

 三十分ほど前にビルから最後の人間が出て行くのを確認し、さらに待った二人であった。

「千早ちゃん、やる?」
「私がやるとねじ切ってしまうわよ。春香に任せるわ」

 ドアノブを指さすのに、千早が首を振る。

 春香はうなずいて鍵穴に掌を近づけた。
 一瞬、暗闇の中で何かがきらめいたようだった。

 だが、次の瞬間には、かちり、と鍵が開く音がして、きらめきもどこかへ消えてしまう。

「はい、開いた」
「春香はすぐに泥棒にもなれるわね」
「そんなことしないよー!」
「わかってるわ」

 そんな風にじゃれあいながら、二人はさっさと事務所の中に入り、鍵を閉める。

 灯りをつける必要はない。
 彼女たちは闇を見通すのだから。

 しかし、ぼうと青白く瞳を輝かせながら、春香は首をひねった。

「これ、なんかおかしくない?」
「……私たちの前に、侵入者がいたとか?」

 瑠璃色に輝く瞳で様子を確認しながら、千早も不思議そうに呟く。

 彼女たちにそう思わせるほど、部屋の中は荒れていた。

 机の上にあるはずのパソコンや電話などは無く、書類らしき紙片やボールペンが転がっているばかり。

 びっしりとバインダーが並んでいたと思わしき棚には中身のないバインダーが数個残され、そこから数枚の紙片がだらしなく垂れ下がっている。

「うーん。むしろ逃げたっていうか、放棄したっていうか……」

 置かれた物に触れないようにしながら歩き回る春香がそんな感想を抱く。
 たしかに、夜逃げ後の事務所ならこんな感じであろうかと思わせる惨状であった。

「……ともかく、残されたものを見てみましょう。なにかわかるかもしれないわ」

 懐から薄いゴム手袋を取り出し、手にはめる千早。
 春香にはそんなものは必要ないと知っている彼女はその手を示すことで準備は出来たと言いたいようであった。

「うん」

 そうして二人がわずかに残されていた書類たちを集めてなにか手がかりはないかと探ろうとしていた時。

 春香の視界を、きらきらときらめく何かが横切った。

「なにっ!?」

 まるで、春の風に乗る蜘蛛の糸のようなそれに気を取られた瞬間、骨まで響く痛みが体中を走り抜けた。

「動かないことだな」

 一方の千早も暗闇から声をかけられている。

「君の周りを、火種が囲んでいる」
「くっ」

 ざわめき始めていた黝い髪が、どこからか飛んでくる女性の声で止む。
 その内容が真実であることを悟り、一切の動きを止めた千早の視界の中で、春香が身をかがめかけた奇妙な格好でかたまっている。

「うん。天海くんは正しい。動かないほうがいいだろう」

 千早に警告を発したのとは異なるもう一つの声が、まるで言い聞かせるように響く。

「私の糸に切り裂かれたいなら別だがね」

 闇の中から届く女性の柔らかな声が、千早と春香、二人の動きを禁じていた。


 第二話——終


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本日の投下は以上です。
第二話から話が動き始めたせいもあって、引きばっかりですね。
次回も十日以内になんとか。

なお、一応、876は765以外ってことで、タイトル画像というより挿絵感覚で入れてみました。
この世界のネリアさんはウィッグつけてアイドルやっているのでしょう。

本日は、第三話を投下いたします。
第三話にはシンデレラガールズより『東郷あい』『木場真奈美』の二人が登場します。
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左:東郷あい 右:木場真奈美

第三話


「それではなにかございましたら、なんなりとお声がけくださいませ」

 そろって美しいお辞儀をして、二人のメイドが扉をしめる。
 その様子に、雪歩はふええと奇妙な声を上げていた。
 扉の木材の分厚さにも、メイドたちの折り目正しさにも、感心するばかりだ。

「どうしたのよ」

 雪歩と同じ卓を囲み、オレンジジュースを飲んでいた伊織が不思議そうに尋ねる。
 彼女はこの家の人間であり、雪歩たちを招いた人物でもあるから、客人の様子には気を配っているのだ。

「いや、その、ここって、みんな夜の民なんだよ……ね?」
「そうね。使用人も全員ね」

 ああ、そういうこと、とでも言いたげに伊織はうなずく。
 彼女にとっては当然のことであるが、外から来た者は、それを奇異に感じてもおかしくない。

 とはいえ、雪歩の家も、地底出身者——とその子孫——で占められているはずなのだが。

「伊織の……ええと、なんて言うんだっけ。仔? それもいるの?」

 雪歩と共に招かれた真がリンゴを一切れつまんだ後、そう問いかける。
 伊織はそれに小さく首を振った。

「いいえ。いまいるのはパパの仔が主ね。祖父や曾祖父の仔もいるけど」

 それから、彼女は何気ない様子で付け加える。

「それと、私は仔は作らないわ。そういう決まりなの」

「へえ?」
「その代わり、私は子供を産める。まあ、実際には、子供が産めるから、血を分け与えて作る仔を持つ必要がないとされているわけね」

 その言葉に、雪歩がなにか思い出そうとするかのように首を傾げた。

「夜の民って、二種類いるんだよね、たしか。血を吸われて……っていうのと、お父さんもお母さんも夜の民っていうのと……」
「ええ、そうよ。私や千早は後者ね。まあ、千早はちょっと特殊だけど」
「そうなんだ?……あ、ごめん。立ち入ったこと聞きたいわけじゃ……」

 雪歩のためらいに、伊織は首を振る。

「いえ、別にいいわ。この程度、知ってるやつは知ってるもの」

 765内でも、小鳥や律子は当然のように知っていた。
 そう、伊織や千早との関わりが出来る以前から、彼女たちは知識を持っていたのだ。

 そして、そのことを、伊織も特には不思議に思わない。
 秘密といっても程度があるものなのだから。

 伊織はジュースをもう一度口に含み、喉を湿らせると、二人に講義でもするかのように手を広げて話し始める。

「知ってると思うけど、吸血鬼っていうのは、血を吸った相手に自らの血を分け与えることで増えていくの。
血を吸うのは食事だけど、自分の血を与えるのは繁殖行為ってわけね。その手の吸血鬼には、子供を産む能力は宿らない。
でも、世の中に、四つだけ、真祖の家系っていうのがあるのよ」

 昔は七つあったから、七真祖とか言うけどね、と伊織は自嘲気味に呟く。
 この手の衰退はどの種族にもつきものなのだ。

 いまや、地球は人間の勢力が強すぎて、他の種族は隠れ生きていくしかないのだから。

「その家系には吸血鬼と交わって吸血鬼の子を宿す能力を持つ女が生まれるの。端的に言うと、私やママのことだけど」
「その人が生むと、生まれたときから吸血鬼……なんだね?」
「ええ。父親のほうが人間でも、ね。どういう仕組みかは知らないけど」

 真が確認するように言うのに、伊織は小さく肩をすくめる。

「でも、それなら、普通に、その、子供を作る形で増えてくんじゃ……? 血を分けるほうが簡単なのかな?」
「それもないとは言わないわ。簡単というよりは、そういう衝動があるのよね。
ただ、他にも事情があってね。吸血鬼を生み出せる能力を持つ女を真祖の女王というのだけど……」

 雪歩の疑問に、もっともだという風にうなずいて、伊織は説明を続ける。

「これは、普通一世代に一人しか生まれないの。つまり、私が生まれた以上、ママはこれから先は男しか産めないってわけ。
まあ、産むつもりがあるかどうかは別として」

「ははあ。一家系、一時代に一人か……。それじゃ増えるにしても限度があるね」

 異能の民に、この手の制約や呪いは珍しくない。
 むしろ、一年中どんな時でも繁殖できる人間のほうが、彼らからすれば驚異なのだ。
 だから、真もすんなりと夜の民の仕組みを受け入れていた。

「ええ、だから、純血の吸血鬼はそこまで多くなくて、さらに言えば『力』も強いから、指導者層を成しているわ」
「ふむふむ」
「でもね、これにも例外があるの。本当に数少ない例外だけど……。
私の曾祖母にあたる人が、祖母を産んでから数十年後に、女の子を産んだの」

 一拍おいて二人の意識を引きつけておいて、伊織はその事実を告げる。

「それが、千早」
「へえっ!」
「そうなんだ……。えっと、じゃあ……」
「ええ、血統的には、千早は私の大叔母にあたるわ」

 思っても見なかった話に、しきりに感心する二人。

「ま、そんなわけで、吸血鬼にもいろいろいるのよ」

 軽い調子で伊織が言うのが、血縁関係についてはそれ以上触れるなと言うサインだとわかったのだろう。
 当然脳裏に思い浮かぶはずの優の存在などには触れず、真と雪歩は話題を変えた。

「でも、大変だよね、夜の民は。世間でもこれだけ有名だと……」
「欺瞞で流してる情報もたくさん混じってるけどね」

 日に弱く、流水を渡れず、十字架や大蒜にも弱いとされている吸血鬼。
 それ以外にも、様々な性質が世の中では言われている。

 だが、その全てが真実というわけではない。

「あ、やっぱ、そういうごまかしのための噂も流してるんだ」
「いまはもう積極的にはやらないけど、欧州で言えば魔女狩りの時代とかは必死だったみたいね」

 そこで伊織は一つ肩をすくめた。

「とはいえ、なんの準備もなく日に当たればダメージを受けるのは間違いないし……。弱い存在よ」
「でも、伊織ちゃんたちは昼間も平気そうだよね?」
「対処しているもの」

 不思議そうに尋ねかける雪歩に、伊織はなんでもないように言う。
 どんな風に日の光の害を避けているかまでは話すつもりはなかった。

「それでも、太陽の光が忌まわしいものには違いない。こういう夜の時間はほっとするわね」

 伊織は二人にほほえみかける。
 夜の時間も、それを共に過ごそうと招待に応じてくれる——異種の——友の存在も、彼女にとっては実に心地よいものであった。

「うちの子たちは、日の光にあたっても問題ないけど、太陽自体は怖がるかな……。あれは、慣れの問題かなあ」
「私たちの場合、怖いというよりは、邪魔な感じかしら。ああ……。こう言えばわかる? まぶしすぎるの」

 雪歩が言っているのは食屍鬼たちのことだろう。
 彼らは地上でも問題なく生きていけるはずだが、習性として、闇を好み、地下の湿り気を好む。

 吸血鬼が必要性から日の光を避けるのとでは、やはり、少々違う。

「銀もそう。私たちには強すぎる。あとは……火ね」
「炎かあ。まあ、あれはボクも嫌だけど」
「でも、あんたは戻るでしょ」

 おそらくは、復元——再生ではない——能力なら、吸血鬼など足下にも及ばないものを持っている真に言われて、伊織はおかしそうに笑う。

「そりゃそうだけど、火傷は痛いよ」
「そうね。私たちも、焼かれるのはつらいわ。日の光にしろ、銀にしろ、私たちの体を焼くことには変わりない。
どれだけ斬られ、つぶされても再生する肉体も、焼かれるとうまく……なんていうのかしら。くっつかないのよ」

「はあ……」

 とんでもない再生能力、あるいは復元能力を持つ二人と違って、雪歩にとっては聞いても実感がわかない話だ。
 一般の人間と比べればずいぶん頑丈ではあるものの、基本的には切られても焼かれても怪我をするのには変わりない雪歩である。

「まあ、普通の火でも面倒は面倒なんだけど、たいては動きとその他の力で避けられるから気にならないわ。ただ……」
「やっかいなのは、ファイアスターター……発火能力者だよね」
「見るだけで、その場所を燃やせるんだっけ。怖いよね。でも、伊織ちゃんや真ちゃんなら、身体能力で、避けるっていうか……
相手が意識を集中する前に動けるんじゃないのかな?」

 発火能力に限らず、能力の発動にはなんらかのきっかけが必要なことが多い。
 最も多いのはその存在の五感に依るもので、その中でも、視線によるものが多数を占める。

 この場合、要は相手の目に留まらなければいいわけで、吸血鬼や真なら、そんなものを恐れる必要はないだろうと雪歩などは思う。
 だが、それだけでは済まないのだ。

「普通の発火能力者ならね」
「中にはとんでもないのがいるんだよ」
「え?」

 二人が疲れたように言うのに、雪歩が驚いたように目を見開く。

「発火能力を込めた火種……ごく小さな『点』をどこでも固定できて、それに触れれば爆発する……なんて使い方が出来るのが」

「そこら中に見えない爆弾をばらまけると思っていいわ。爆発力も大したものよ」
「そ、そんな人がいるんだ?」
「人っていうか、そういう一族、ね」
「え……」

 伊織の言葉に、雪歩が絶句する。
 そんな力を持った存在が、血を伝えているというのか。

 しかし、聞く限りは戦闘に限らず実に使い勝手のいい能力のようだが、その割にはあまり有名でないのはなぜだろう。

「人間の切り札だからよ」

 雪歩の顔色からその疑問を読み取ったのだろう。
 伊織はふんと鼻を鳴らして、忌々しいとでも言いたげに吐き捨てた。

「え? え?」
「東郷さんって知ってるだろ?」

 伊織の言葉よりも、その態度に動揺する雪歩に、真が助け船を出す。

「ああ、うん。春香ちゃんの剣のお師匠さんだよね」
「そう。まあ、あの人が使えるのは示現流だけじゃないんだけどね……。ともかく、あの人の相棒が、それなんだよ」
「え?」

 真は明らかに不機嫌そうな伊織をちらと見ながら、その言葉をそっと舌に乗せた。

「木場真奈美……。夜の民の天敵、『人類の牙』」

 その場にいたはずなのに、気づかせない。
 闇を見通せたはずの千早や春香の目にも見つけさせない。

 二人の女性は、そんな奇跡を見せつけながら、千早たちの視界に入ってきた。

「『人類の牙』と『人類の剣』……」

 木場真奈美と東郷あいを、春香はそう評し、

「人類最凶コンビ……」

 千早は苦虫をかみつぶしたような表情でそう呼んだ。

「おやおや、ひどいあだなだな。誰が考えたんだい?」
「真よ」
「菊地くんか。テルアビブではしてやられたね」

 真奈美のからかうような問いかけに千早が表情を変えずに応じ、あいがおかしそうに笑う。
 あいはそのままひょいと右手を動かした。

 身をかがめようとする途中の格好でかたまっていた春香の体が、棒立ちの姿勢になる。

 その人形のような動きを見れば、春香自身の意志ではなく、外から強制されたと判断するのは簡単だ。
 彼女の驚きに満ちた表情を見るまでもない。

 そのパフォーマンスの意味を、千早も春香も意識しつつ、しかし、それで恐れ入るわけにもいかない。

「……もう、ラングレーからは仕事を受けてないんじゃなかったんですか?」
「君たちを敵視するのは、なにもCIAだけではないよ?」

 ひとまず話の糸口を作ろうとした千早の問いかけに、真奈美はそう応じてから、なんでもないことのように付け加える。

「そもそも、今回は、どこの組織も関係ない。……私たちの意志で動いている」



 ぞくり。


 その言葉を聞いた途端、春香と千早の背を冷たいものが駆け抜けた。
 組織の利害に基づいた仕事ならば、まだ交渉の余地はあるが……。

「そう。これは仕事じゃない。私事だ。だからこそ……際限は、ないよ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいよ! なにをそんなに……」

 あいも真奈美の言葉を裏付けるように言うのに、春香が慌てて言葉を重ねる。
 相手の冷たく、重い言葉に乗せられないように、なるべく明るく、軽い調子で。

「これからちゃんと説明するよ、天海くん」

 うぐ、と春香は喉を鳴らす。
 彼女には、かつて剣を学んだこの相手が『春香くん』ではなく『天海くん』と呼ぶのは、とてつもなく機嫌が悪い証拠だとよくわかっているのだ。

「実を言うとね、いま、私たちは、君たちの業界の後輩なんだ」
「業界……芸能界ですか?」
「そう……。アイドルというやつさ」

 真奈美が苦笑するような調子で言う。

「765の面々にはとても及ばないが、あいと二人でユニットというやつを組んでいるんだよ」
「あ、知ってます? 876には愛ちゃんっていうアイドルと、まなみさんっていうマネージャーが……」
「それでね、天海くん」

 再びその名で呼ばれるのに口をつぐむ春香。

「我々の事務所……ふふ、おかしなことに、私も真奈美も別々のタイミングで同じ人物にスカウトされたのだよ……。
ともあれ、そこには年下のかわいい先輩がいてね」

「君たちも知っているだろう。Mistという」

 その名を聞いた途端、千早と春香は、真奈美たちがなにを目的としているかを理解した。
 彼女たちは、765との接触で小梅たちがなんらかの害を受けたと考えているのだ。

「お二人は誤解していますよ。私たちは望月さんたちに助けを求められて……」
「君たちと接触したところまでは、わかっている」

 千早の言うのを無視して、真奈美が怒りをかみ殺しているかのような口調で言葉を押し出す。

 彼女の瞳が一瞬赤く輝くと、千早の立つすぐ後ろの机に置かれていたペン立てが、小さな破裂音と共に燃え上がった。
 ばちばちと音を立て、プラスチックの溶ける嫌なにおいが部屋に満ちていく。

「真奈美!」
「すまん、暴発した」

 あいの悲鳴のような呼びかけに苦笑いで応じる真奈美。
 一方、ぶすぶすとくすぶり、溶けていくペン立てをちらりと見やり、千早は改めて体の動きを制御する。
 慌てて動けば、ペン立てを襲ったのよりさらに強い爆発が自分の身にふりかかりかねない。

「まったく……。しかしね、私も同じ気分なんだよ。私たちが怒りで我を忘れないうちに、話してくれると助かる。
小梅くんたちを、どこに連れ去ったのかをね」

「連れ去った? 行方がわからないんですか!?」

 慌てたような春香の叫びに、あいと真奈美が顔を見あわせる。
 その表情が『白々しいことを』と無言で語っていた。

「本当に知らないんですよぅ。あの喫茶店で別れてからは……」
「無駄よ、春香」

 自分たちの立場を説明しようとする春香を冷たく遮る千早。

「彼女たちは私たち……765が望月さんたちをさらったと思い込んでいる。どれだけ否定しても、隠し事をしていると思われるだけよ」

 千早の推測はどうやら当たっていたらしい。
 あいと真奈美は二人で何事か相談し始める。

「あくまでしらを切るようだな」
「しかたあるまい。最初の計画通り、天海くんの身柄を預かって、765との交渉材料にしよう」
「一人だけでは不安だが……」
「如月くんも連れてでは、かえって危ないよ」

 勝手なことを言い合っている二人を尻目に、千早は覚悟を決める。
 真奈美がしかけた火種でかなりの火傷を負いはするだろうが、死ぬわけではないだろう。

 春香を解放させ、二人で逃げることに徹すると方針を決め、体に力を込めようとした、まさにそのとき。

「な……なにをやっているん……です?」

 細いが、しかし、切迫感に満ちた声が、四人の耳を打つ。
 見れば、事務所の隅に、淡い光が生じていた。

 そのほのかな光の中心にいるのは、ふわふわと、まるで重力など感じさせずに浮かぶ、望月聖その人だ。

「聖!?」
「望月さん!」
「聖くん、どこから!」
「聖ちゃん!」

 一斉に名を呼ばれた聖は眼を白黒させ、困惑したように顔をゆがめた。

「な、なんで……千早さんたちと東郷さんたちが……。ああ……違う。それどころじゃないんです。小梅ちゃんが!」

 聖の必死な声に、四人は思わず顔を見あわせるしかなかったのだった。

本日は、第四話前半を投下いたします。

第四話には、コミックス『アイドルマスターrelations』より朝比奈りんが登場します。
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……が、後半からなので、今回はタイトル代わりということでw

第四話


 白坂小梅の意識は覚醒と眠りの合間をたゆたっていた。

 彼女の認識できる範囲に音はない、光はない。
 あるのは、ゆったりと揺れる感覚だけ。

 ちょうど人の体が浮かぶほどの比重の液体に包まれていると、たゆたう彼女自身には知覚できない。

 重力を感じさせないその揺れは、彼女に対して、眠れ、眠れと語りかけてくるようであった。

 彼女が浮かんでいる容器を外側から見ると、妙に有機的なフォルムを持つ大型のタンクであることがわかる。
 それには、温度調節と空気の循環を担う装置の他に、多くのケーブルやパイプがつながれていた。

 なにも知らぬ者が見れば、巨大な繭と、それを支える糸の群れとも見て取ったかも知れない。

 その『糸』の数々は各種の計測装置と、ごうんごうんと大きな音を立てる巨大な装置につながっている。

 それらの装置の周囲ではマスクをつけた人々が忙しく動き回り、機械の調整と監視を行っているようであった。
 だが、意識を回復しない小梅にはそれらは知りようのない出来事である。

 彼女は眠る。
 自らの体が何者に利用されているかも知らぬまま。

 彼女は眠る。
 どこか遠くから響く爆発音と衝撃が彼女を納めたタンクとそれが設置された部屋を揺らしたことにも気づかずに。

 白坂小梅は眠りに落とされている。

 眠らされている小梅はともかく、そのとき巻き起こった爆発は、施設内にいた人々の耳目を集めずにはいなかった。
 就寝していた者は目を覚まして何事か把握できぬまま周囲を見回し、起きていた者は慌てて窓に駆け寄る。

 そうして、外を覗いた者が見たのは、駐車場で轟々と燃えさかる炎であった。

 十台ほどの車が止まっていたはずが、そのほとんどが火に包まれているか、あるいは、無惨に破壊され、ばらばらになっている。
 車両のうち何台かが爆発し、それが他の車にも燃え移っているとしか思えぬ光景であった。

 だが、いったい、なぜそんなことが。
 そう誰もが疑問に思ったとき。

 炎の列の端にあった……おそらくは他の車から延焼したと思われる一台の車が、轟音と共に火柱を吹き上げた。

 ルーフが車体から外れて十メートルも吹き上がり、火柱が消えると同時に、離れたところに落下を始める。
 エンジンからは盛大に炎が噴き出し、飛び散った破片が周囲の生け垣に飛び込んで、これもまたばちばちと飛び火しはじめている。

 最初の爆発音で飛び起きた者たちも、この爆発の終わりには駐車場の惨状に気づき始め、施設内はにわかに騒がしくなり始めていた。

 この光景を冷静に眺めているのは、駐車場から少し離れた物置の陰に隠れている二人だ。

「いやあ、すごいですね、これは」
「あまりこういうことはしたくないのだがな。私は爆弾魔ではないんだ」

 リボンの少女があきれたように呟き、鋭い印象の女性が、それにため息をつく。

 天海春香と木場真奈美。
 施設に侵入し、駐車場の車両を爆発炎上させている当事者である。

「でも、陽動ですから、派手にしないと」
「まあ、それは……。しかたないか」

 二人は、千早とあいが突入するのを助けるため、外で騒ぎを起こすことになっている。
 出来る限り、施設内の人間を外におびき出したいところであった。

「それに爆弾魔なら、最初の車を爆破した後、消火に来た人を吹き飛ばすんじゃないですか?」
「……まあね」

 あえていやらしいテロの手口を口にすることで、真奈美を擁護しているらしい春香に、彼女は複雑な表情でうなずいた。

「ともあれ、犠牲は最小限にとどめたいところだ。小梅の安全のためなら、ためらいはしないが……」
「私だってそうですよ。だから、あの二人に突入してもらったんです」
「ほう?」
「千早ちゃんは目を見るだけで魅了出来るし、あいさんは人を縛り上げられるでしょう? だからですよ」

 ふむ、と真奈美はうなずく。
 彼女自身も同じようなことを考えていただけに、春香の言い分はよく理解できた。

「さて、人が出てきたようだな……」

 狙い通り、建物内から人々が走り出てきている。
 消火器を手にしている者もあれば、ただ慌てて出てきたという者もいるようだ。

 いずれにせよ、中にいる人間は減っていることになる。

「じゃあ、今度はあっちに」
「そうしよう」

 二人は、あちこちにある監視装置を避けて、風のように走り去る。

 しばらく後、彼女たちが隠れていた物置が、車と同じように爆発し、人々はさらに右往左往することとなるのであった。

 一方、建物の内部に侵入した千早たちは、春香が予想したよりは手こずっていた。
 侵入だけならばそれほど難しいこともなかったのだが、問題は中にいた人間だ。

「やはり、これもアレス中毒ですね……」

 あいの見えない糸によって縛り上げられた男の目をのぞき込んでいた千早が呟いて顔をあげる。
 瑠璃色に光っていた瞳が、急速に光を失い、普段の色に戻っていく。

 実際には、瑠璃のほうが本来の瞳の色で、黒に近い色は、人の間に溶け込むため偽装しているに過ぎないのだが。

「困ったね」

 ひょいと指を動かして嘆息するのはあい。
 彼女の小さな動きだけで、男の体は宙に浮かび、どさりと薄暗い部屋の隅に放り投げられた。
 そこには既に男女一人ずつが転がっている。

 あいと千早はとりあえずの拠点とした部屋の中で顔を見あわせた。

「困りました」
「君の魅了の術はアレスのせいで効かず、私が痛みで喋らせようにも、これも薬が効きすぎていて、気絶してしまう」

 重度のアレス中毒患者はその薬の作用で精神状態がまともではなくなり、常に催眠をかけられているような状況となる。
 千早をはじめとする吸血鬼の魅了は、そんな状態ではうまく作用しないのだ。

 一方あいのほうは、見えないほど細い糸で縛り上げ、神経を刺激して、肉体的な苦痛を与えるという、ある意味で原始的なものだ。

 しかし、アレスはその苦痛を緩和してしまう。
 責め続けても、精神が十分な痛みを感じる前に、体のほうが耐えられずに機能を停止してしまい意味を成さない。

 外の二人が騒ぎを起こしたのに乗じて、そこらを駆け回っている者を捕まえてみても、これではなにもならなかった。

 さらに、三人捕まえてみて皆アレス中毒であったことから考えると、末端の構成員は程度の差こそあれ、中毒になっている、
あるいは、させられているだろうことは想像に難くない。

「宗教とドラッグ……。人を操り人形にするには最適で最悪のカクテルだな」
「まあ、誘拐なんてする時点でろくでもない組織だとは思いましたが……」

 やれやれと言いたげに千早は首を振った。

「中の人間から情報を得るのは、あきらめるしかないだろうな」

 あいは腕を組み頬に指をあてながら、何事か考え込むようにしていたが、そこで一つうなずく。

「うん。あまり気は進まないが、強行突破しかないだろう」
「力尽くはしかたないですが、白坂さんの居場所が……」
「そこだな……」

 そこで再び考え込んだ後、ぽつぽつと思いついたことを話し始めるあい。

「末端の信者はともかく……幹部まではドラッグに犯されていないだろう。だから……」
「指導者かその周辺を探し出して、話を聞く、ですか」
「うん。そのためには……」

 あっとなにか気づいたような顔になって、千早はあいに提案する。

「警戒がより強くなる方に進んでいくというのは? この騒ぎの中でも、外に駆け出さないような人がいるところに」
「……ふむ。それはいいね。賛成だ」

 そういうことになった。

 外での爆発と炎上は、二人が一時の拠点としていた部屋にも炎の照り返しが漏れ入ってくるほどであった。

「……あの人は、この建物ごと燃やすつもりではないでしょうね?」
「さすがに心得てるさ。それに、春香くんがいれば大丈夫だろう」

 部屋を出る前に千早が苦々しげに呟くと、あいが安心させるように声をかける。

「ああ……。あなたは、春香の水操りをよくご存じでしたね」
「ああ。剣を教える条件だったからね。彼女の能力の全てを知るのは」

 さらりと言っているが、とてつもない交換条件だ。

 同じ765の千早でさえ、春香の能力の全貌を知っているかと問われれば返答にためらわざるを得ない。
 それほど、自らの能力を明かすことは禁忌に近い。

 なにしろ、へたをすれば生死がかかる事柄なのだから。

 765のように信頼できる仲間同士ですら、全てを明かすことはしない。
 むしろ、されたらされたで困ることだろう。

 だが、相手が人ならざる者と知っていて剣を教えるとなれば、人としての立場から、そうした交換条件をつきつけざるをえない。
 そのことも理解できる。

 むしろ、あいは春香があっさりとそれを呑んだことでしくじったと考えているのかも知れないな、と千早は思ったりする。

 本来なら、彼女は人ならざる者に深く関わることを許されない立場のはずなのだから。

「さ、行こうじゃないか」

 千早の勘ぐりなどまるで気にした風もなく、怜悧な美貌をひらめかせながら彼女が言う。
 千早は黝い長髪を一つ振って、彼女の後を追った。

 千早がやりすぎを懸念するほどの大爆発の連続に、建物内は大混乱に陥っていた。

 中には敵対組織なのか、別の宗教団体の襲撃ではないかなどという声すら響いていたりする。

 警察や消防の名を出していないのは、春香たちが電話線を断ち切り、携帯の妨害電波を出しているためか。
 あるいは、元から頼るつもりはないのか。

 既に緊急時のために訓練されている要員は外に出て、事態の把握や消火に携わっているのだろう。
 いま、中を走り回っている集団は、ろくに統制もとれていないように見えた。

 時折五、六人の集団が行き過ぎては別の集団と合流して議論を交わしては、また別のほうへ向かっていく。
 かと思えば、たった一人であわあわと逃げ惑っている者もいる。

 二人が人目を避けつつ先を進んでいくと、どこかの部屋に逃げ込んでは、また廊下に出てきて、逃げる場所を探すという慌ただしいことを
している男を見つける。

 妙なタイミングで行き会って声を出されるよりは、とあいは先手を打った。

 なにかに足をとられたかのようにどうと床に倒れる男。
 彼は痛みに叫ぼうとしたが、喉は見えない指にしめつけられているかのようで、声が出てこない。

 身動きを取ろうとして、体中にとてつもない痛みが走った瞬間、彼の意識は断たれた。

「こいつも、そうかな?」

 男が気絶したのを確認して、あいが言うのに、つかつかと歩み寄って身をかがめ、男の腕に指をあてる千早。
 力を込めた風にも見えないのに、彼女の爪が当たった男の膚が数センチ切り裂かれ、彼女の指を血で汚す。

 立ち上がり、ぺろりと自分の指をなめる千早。
 口に血を含んだ途端、顔をゆがめ、ぺっとつばと一緒に吐き出した。

「アレスですね、間違いない」

「そういえば、アレスの混じった血はまずいのかい?」

 つば混じりの血が床に落ちるのを見つめながら、あいはなんとも言えない表情を浮かべている。

 明確な恐怖や嫌悪でないだけ、気を遣ってくれているようだ。
 千早はそう判断した。故に、軽く肩をすくめて、彼女の疑問に応じる。

「私たちには、ドラッグは基本的には毒ですよ。まずいというなら、風邪薬でもそうですしね」
「まあ、血液を摂取する立場からすると当たり前か」

 だが、と千早は思う。

 一般の薬物と、アレスでは違うこともある。
 アレスは他に比べて、夜の民への毒性が格段に強いのだ。

 人ならざる者にも通用する薬物であることや、その血に眠る怪異の因子を引き出す効果があることなどからして、
その製造に人間以外の者の関与があることはほぼ間違いない。

 そして、765の中でも伊織と千早は、アレス流行の裏に、夜の民への攻撃という隠された意図があるのではないかと疑っていた。

 いまは小梅の救出が最優先だ。
 だが、これほどアレス中毒患者がはびこっているこの集団そのものも、調べられるものなら調べておこうと考える千早であった。

 彼女たちは、一人逃げる男を捕らえてみた後は、集団をやりすごしながら進んでいった。

 集団が飛び出てきた方向をなるべく避けるような方向へ進んでいったのは、いまどき混乱しつつ走っていく集団というのは
明らかに末端の信者たちと判断したためだ。

「おっと、そろそろかな?」
「そうですね」

 案の定監視装置が増えていくのに、重要な区域へと進んでいるという確信を深める二人だったが、唐突にそう言いあって足を止める。

 見える範囲に、人影はない。
 だが、これ以上進めば、もはや監視をごまかせないことを、天井のカメラが物語っていた。

 いまのところ、カメラのレンズはこちらを向いていないが、それも時間の問題だ。
 さらには、角を曲がったあたりには別のカメラも設置されている。

 その通路の入り口には、これまでは少しは存在していた死角が、ない。
 つまり、守るべき場所なのだ。

「では」
「行きましょうか」

 二人は、もはや身を隠すことを考えず、音を立てて走り出した。

 走りながら、千早は腕を振る。
 鞭のようにしなった腕から放たれたものが、見事にカメラにあたり、小さな火花が散った。
 ばちばちと連続して火花を立てている様子からして、もはや映像を送る用は成すまい。

 しばらく遅れて、もう一つのカメラの支柱が、ずるり、とずれた。そのまま落下して大きな音を立てる。

 非常ベルの音が周囲に響く。

 外での爆発後、うるさく鳴っていた非常ベルは一度切られ、以後鳴っていない。
 それが再度鳴るということは、セットし直したか、あるいは、別の危険を示すものか。

 後者であろう、と二人は推測し、さらに駆ける速度を上げる。
 読み通りなら、この先に、まさに求める存在があるはずであった。

「侵入者!」
「何者だ!」

 思っていたとおり、角を曲がったあたりで、人の声が爆発した。
 まだ遠いが、通路の向こうから幾人もの男たちが現れ始めていた。

 しかも、明らかに武器らしきものを構えて。

「あまり殺すなよ? 私は君に刃を向けたくない」
「努力はします」

 並んで走るあいにそう釘を刺され、冷たく返す千早の唇の端がぐうと持ち上がる。
 その奥から、人ではあり得ない巨大な牙がせり出してきていた。

 以上で、本日の投下は終了です。
 後半はもう少し書き込みたいので、27日の土曜日に投下ということにさせてください。

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