有栖川夏葉「一張羅」 (9)


汗を迸らせ、歯を食いしばり、飛来する拳を最小限の動きで回避した男は勇猛に眼前の相手へと迫る。

目視してからでは間に合わないほどの速さの左腕が相手の下顎を射抜いて、続く右腕がこめかみを打ち下ろす。

十数ラウンドにも渡った死闘は唐突に、終わりを告げた。

高層階から雑巾でも落としたかのような、生気を感じさせない崩れ方で男の対戦相手はリングに沈む。

鳴り響くゴングの音でようやく実感を得た男が勝鬨と共に腕を振り上げる。
直後、男の両の手を包んでいたグローブが役目を終えたことを誘ったかのように裂け、リングへぼとりと落ちた。

そのリング上のグローブにカメラは寄っていき、静かな、それでいてお腹の底へと響くようなロックンロールの調べがフェードインする。

徐々に音楽が大きくなって、画面が暗転しタイトルが黒無地の背景に浮かんだあとで、エンドロールが始まった。


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 すん。

そのような音を隣で聞いた。
テレビから目を離し、音の方向へと首をひねってみる。
いたのは、当たり前ではあるがアイドルである私、有栖川夏葉のプロデュースを担当している男で、彼は目を潤ませていた。

「お父さんの夢、叶ったんだなぁ」

またしても鼻水をすすり、プロデューサーは「良い映画だった」と震える声で呟く。

彼の声を受け「そうね」と返したのだが、その段になって私は自身の声が同様に震えていることを自覚した。

どうやら彼の涙につられたらしい。

彼が休日出勤をしていることを聞きつけた私は、レッスン終わりにそのままの足で事務所へやってきた。
それが二時間と少し前の話だ。
その際に、どう見ても仕事をしているようには見えなかった彼に対して「時間は有意義に使った方がいいわよ」と声をかけたのが始まりだ。

なんでも、今日は大切な商談があるらしく、張り切り過ぎて先方との約束まで数時間ほども余裕があると彼は言う。
であるならば、と私は彼の退屈しのぎに付き合って、映画を見ることにしたのだった。
そうして見た映画が期待の数倍当たりであったがために、二人揃って泣き顔を晒している今に至る。

「道半ばで亡くなった父親の夢を継いでリングへ、そしてベルトを賭けた最終決戦で……」
「ああ。そのお父さんの使っていたグローブと共にリングに上がる……」
「ええ。熱かったわね」
「ほんとに……」

思い出し泣き、とでも言うのか私もプロデューサーも語っている内に次第に瞳が潤んできて、彼は「あー。だめだ。また泣けてきた」と天を仰ぐ。



「それにしても、どうして主人公は勝てたのかしら」

「……っていうと?」

「だって、体格的にも技術的にも、全てにおいてチャンピオンが勝っていたように思えたし、試合が始まる前まではこれでもかというくらいそう印象付ける描写がされていたでしょう?」

「そう、だなぁ。確かに無謀な試合に臨む主人公、みたいに見えた」

「やっぱり、そうよね」

「でもさ、ほら。自宅を出る前のあのシーン」

「父親のグローブが目に留まって、少し迷った後に手に取るところ?」

「そうそう。思うに、あれが勝因だったんじゃないかな」

プロデューサーの言わんとしていることの意味がわからず、私はきょとんとしてしまう。
そんな私の気持ちを察したのか彼は「わかりやすく言うなら……」と続けた。

「夏葉は一張羅、ってわかるか」

「ええ。その人が持っている衣服の中で一番良いものであったり、それしか持っていない衣服のことよね」

「ああ。今回の場合の意味は、前者だな。釈迦に説法かもしれないけど、人って身に着けているもので結構気分が変わるものだろ? だからさ、きっと普段はできないこともできるような、ちょっとした奇跡を起こすくらいの力はあると思うんだ」

「そう、ね。アナタの言うとおりだわ」

いつかの、出演した番組でトータルコーディネートをさせてもらった高校生の女の子の顔が思い浮かぶ。
普段は出せない勇気も、衣服の力を借りることで少しだけ背中を押してもらうことができることを私は体験として知っている。

「……ってなところで!」

やや大きめの声で以て、プロデューサーは突然話を打ち切る。
その後で、にかりと歯を見せた。「俺の一張羅様に相談なのですが」




ついてきてくれるだけでいい。

なんていう、プロデューサーの言葉に従って、彼の駆る自動車に揺られること数十分。私はとあるビルの前に立っていた。

そこは私もよく知る洋服ブランドの日本法人で、どう考えてもプロデューサーがここに用があるとは思えないのだが、そんな私の心配をよそに彼はずんずんと敷地内を進んでいく。

よくわからないけれど、ついていくしかなさそうだ。

受付には、アイドルの私から見ても美人の女性が微笑みを湛えていて、プロデューサーは迷いなくそこへと進む。
それから、自身の所属と名前、アポイントのある人物名を伝えたところ、待たされることなく入館証を二つ手渡された。

「商談っていうのは……」


エレベーターに乗り、扉が閉まったのを確認して私は口を開く。


「ああ。ここだよ」

「……アナタ、こんな有名なブランドとも人脈があるのね」

「ん? ないよ」

「…………え?」

なんでも、これは奇跡なのだと彼は言う。
彼にはやってみたい仕事があり、そのパートナーとしてこのブランドにダメ元で連絡を取ったのだが、どういうわけか話を聞いてもらえることになったらしい。


軽快な音が響き、エレベーターが目的の階へ到着したことを告げる。

重々しく開いた扉の向こうには、スーツ姿の女性が一人立っていた。

スーツというのは衣服の中でも特別良し悪しがわかりやすい。
そして、目の前の彼女が着ているそれは一目でオーダーメイドとわかる、体のラインに沿って作られたものだった。

プロデューサーもそのくらいは察しているのであろうが、欠片も物怖じをせずに彼は一歩を踏み出してすらすらと快く面談を受け入れてくれたことに対しての謝辞を口にしていた。




通された応接室も、これまたソファやら机やらの意匠が凝っており、こだわりを感じさせる内装となっていた。

これは流石の彼も緊張するのではないか、と思い視線だけ隣に移す。
けれども彼は依然としてはきはきと言葉を続けていて、名刺の交換を先方と済ませたのちに「早速で恐縮ではございますが」と机上へ資料を広げるのだった。

「はい。つきましては、弊社の有栖川と御社製品のコラボレーション企画を……」

話の行方を見守っていたところ、思わぬ発言がプロデューサーから飛び出すものだから、慌てて隣を見る。
しかし彼は顔色一つ変えずに言葉を紡ぎ、最後に「何卒ご検討のほど、よろしくお願い申し上げます」と締めくくった。

煌びやかな応接室に沈黙が横たわる。

数時間にも感じられる一秒が何度か過ぎて、先方の女性が「実は」と口を開いた。

「事前に有栖川様についてはお調べさせていただいていて。先日のトータルコーディネートの番組も拝見しました」

どきり、と心臓が跳ねる。

「恐れ入ります。手前味噌ではございますが、衣服に対する想い、意識であれば、弊社の有栖川以上の芸能人はそうはいないものと自信を持って申し上げることができます」

女性の口角が一瞬、上がった気がした。

「はい。存じ上げております。さらに後出しとなってしまって大変申し訳ございませんが、先ほど交換させていただいた名刺は実は私のものではなく」

言って、彼女は恭しく別の名刺を取り出して、プロデューサーへと手渡す。
記されている文字列を必死に追えば、肩書を示す位置には『デザイナー』の五文字が踊っていた。




「ゴングがいるな」

運転席を倒し、背中を預け脱力しきったプロデューサーが愉快そうに言う。

「試合、勝ったのよね?」
「ああ。俺たちの勝ちだ」

ぐっと親指を立てて満足げに彼は笑っている。

私としては面談が終わり、しばらく経っても未だ夢見心地だった。誰もが知るようなブランドと、私が、アイドルがコラボ企画だなんて。

「前代未聞だろうなぁ」

私の胸の内を見透かしたように彼は呟く。

私たちが面談をした女性は、実は営業担当者さんなどではなく、デザイナーさんで、そのデザイナーさん本人から「会社からナツハアリスガワで作品を描く許可はもらっているので、後は私が描きたいかどうかだったんです」などと言われようとは夢にも思わなかった。

さらにその決め手が、堂々と一切へりくだることなく私をプロデューサーが推したことだと言うのだから、何が決定打になるかなどわからないものだ。


「やっぱり、夏葉に来てもらってよかった」
「……どうして? 私は何もしていないと思うのだけれど」
「わかんないかなぁ。さっきしてた話とも繋がるんだけど」
「あ。……アレ、ね?」
「そう。アレ、だ」

目を見合わせる。
どちらが先だったか、ぷっと噴き出したのを皮切りに車内は笑い声で満ちた。

「ちょっと、格好つけたようなことを言うから、笑ってくれ」
「……続けて頂戴」
「俺はきっと、夏葉の前だからこそ、誰よりもウチの夏葉に自信があるんだぞー、ってとこを見せたかったと思うんだ」
「…………」
「笑ってくれ、って言ったのに」
「ふふ、ちゃんと格好良かったもの。笑えないわ」

そうかなぁ、と人差し指で頬をかいているプロデューサーから視線を外し、窓の外を見やる。

「でも、これでアナタもわかったんじゃないかしら」
「何が」
「舞台袖にアナタがいる、って」

すぅ、と息を吸い込む。

「こういうことなのよ」

おわり

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