武内P「眠る私に口づけをしたのは」 (21)
瞳を閉じた暗闇の中で、薔薇の甘い香りが咲いた。
鼻孔を満たす柔らかな味わいに、一度目覚めかけた意識が再び沈殿しようとする。
そう、今私は眠りに落ちている。
仮眠を取るために瞳を閉じ、どれぐらい時間が経ったのか。
携帯のアラームは聞こえないが、もうそろそろだろう。
今少しこのまどろみに囚われたいのですが、それももうじき終わり――
そのことは分かっているのに、意識が再び途絶えようとした時のことでした。
頬に、柔らかくみずみずしい感触がしたのです。
それが何であるのか、一瞬考えることができませんでした。
そしてそれがあるモノ――口づけではないかという疑問が浮かんだ途端、意識が急速に覚醒し、急な目覚めに体が驚いて痙攣する。
何とか瞳をこじ開けて目に映ったものは、今にも閉じようとしているドアの向こう側でわずかに見えた長い黒髪と、白く細い指先。
ガチャリと閉まるドアの音をどこか遠くの出来事のように聞きながら、呆然と自分の頬をなでる。
夢などでは決してない、鮮明な感触。
私は、頬に口づけをされた。
では誰に?
今の時刻は19時。
この時間帯にここを訪れることができるスケジュールの人たちの中で、ドアの隙間から見えたわずかな特徴に一致する人はいないかと考える。
一人だけいました。
そして出てきた答えがあまりに有り得ず、愕然として口から漏れてしまう。
「島村……さん?」
正解だと言わんばかりに、携帯のアラームが部屋に鳴り響いたのでした。
島村卯月
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※ ※ ※
「あ、プロデューサーさん!」
私が来たことに気がつくと島村さんはスタッフの方に挨拶をして、撮影で疲れているだろうに笑顔で駆け寄ってくれました。
「お疲れ様です、島村さん」
「ありがとうございますプロデューサーさん! 今回は初めての方が多かったので緊張したんですけど、笑顔でがんばれました!」
「ええ、それは何よりです」
笑顔で私に話しかけてくれる島村さんはいつも通りで、変わった様子は見受けられません。
もし私の頬に口づけをしたのが島村さんなら、こうはいかないでしょう。
私の思い過ごしだったか。
そう安堵した時に、鼻をくすぐる匂いがしました。
薔薇の香りです。
「プロデューサーさん?」
「……あ、はい!」
「どうかしましたか?」
匂いが薔薇であることに気がつき、不自然に硬直してしまったのでしょう。
島村さんが心配げに私を覗きこんでいます。
「いえ……薔薇の香りがするなと思いまして」
「あ、気づきましたか!?」
匂いについて口にすると、島村さんは嬉しそうに両手を前で合わせました。
「友達に勧められたシャンプーで、薔薇の香りがするんです。良い匂いがして気分が落ち着いて、とても気に入っているんです。プロデューサーさんはどう思いますか?」
この香りについてどう思うか。
真っ先に思い浮かんだことは――
「ええ、私もこの香りはたいへん良いと思います」
――口づけされる前に漂った匂いと、まったく同じだということでした。
※ ※ ※
「送っていただいてありがとうございます」
「私が遅くまで仕事を入れてしまったんです。このぐらいはさせてください」
「このぐらいだなんて……とっても助かりますし、何より嬉しいです!」
「嬉しい……ですか?」
時刻は21時を過ぎた頃。
島村さんを一人で帰らせるのは申し訳なく、ちょうど手が空いていたので送ることとなりました。
……手が空いていた、というのは語弊がありました。
本当はアレから手が仕事につかない、というのが正しい表現です。
こうして送るのは、島村さんが眠る私に口づけしたなど、思い違いにすぎないという確信を得るためでもあります。
ですが車内に漂う薔薇の香りが、あれは夢ではなかったと語りかけてくるのです。
そのせいで――
「え……あ、その。最近プロデューサーさんとお喋りする時間が無かったから」
「そ……それは、申し訳ありませんでした」
――このような島村さんの何気ない言葉に、過敏に反応する始末。
島村さんは誰が相手でも明るく話す、社交性のある方です。
今の発言も深い意味は無いに決まっているというのに。
「あの……プロデューサーさん、どうかされましたか?」
あまりの様子のおかしさに、ついに島村さんに心配されてしまいました。
しかしこれはいい機会です。
ここではっきりと、そのようなことは無かったと確かめましょう。
今は運転中ですが、先ほどから道路が渋滞して動きが無いので、多少話に集中しても大丈夫です。
「――島村さん。お聞きしたいことがあるのですが」
「はい、なんでしょう」
「19時頃ですが……私の部屋に来ませんでしたか?」
「あっ――」
劇的な反応でした。
愛らしく、そして心配げに私を見上げていた顔が硬直する。
かと思えば次の瞬間には朱に染まり、視線を逸らし困ったようにうつむくのです。
その反応は、私の思い違いをさらに加速させるに十分な威力を持つものでした。
まさか本当に、いやそんなはずは――
恥ずかしさに頬を染める島村さんの顔を、これ以上二人っきりの状態で見続けると良くない感情が芽生えそうな予感がして、とっさに私も目を逸らしました。
「あっ……」
目を逸らす最中、あるモノが視界に写ります。
島村さんが恥ずかしさからか、両手を合わせてどうしたものかと思案しているその姿が。
その両手が――その指先が――節くれだった硬い男のそれとは根本から違うと思わせる、柔らかな指先が――
あの時、ドアが閉まる直前に垣間見えた白く細い指先に、良く似ているのです。
「ごめんなさい、プロデューサーさん……」
衝撃から視界がグニャリと歪むなか、畳みかけるように島村さんが謝罪の言葉を口にします。
何を、謝るのでしょうか。
島村さんが、何をしたというのでしょうか。
島村さんが私などに、あのようなことを、するはずがないというのに。
島村さんは年頃の女の子です。
アイドルといえど、恋に落ちることはあるでしょう。
意中の相手の無防備な姿を見て、魔がさしてしまうこともあるでしょう。
しかしその相手は学校で人気を集めるバスケ部やサッカー部のエースだったり、あるいは同年代の男性アイドルのはずです。
一回り以上歳の離れた、特に面白みの無い私などであるはずがないのです。
それなのに――
「その……気持ちよさそうに寝ているプロデューサーさんを見ていたら……い、イタズラしたくなっちゃって」
「い、イタズラ!?」
イタズラで、私などの頬にキスをする。
あの、島村さんが?
視界の歪みがいっそう強まり、飛行機で離陸するときの気圧変化のように耳に甲高い音が鳴り響き、私の頭蓋を苦しめる。
そんなこと、有り得ない。
有り得ない、ありえない、ありえないありえないありえないありえないありえないありえな――
「指でつついちゃってごめんなさい!」
「――――――え?」
島村さんの一言で、耳触りな幻聴がパタリと止まりました。
様々な色を混ぜ合わせた絵の具たちが、黒一色になる直前のようであった視界が一瞬で正常に戻る。
イタズラの内容は……私の頬を、指で突いたこと?
目を真ん丸と見開き、まじまじと島村さんの指を改めて見る。
私が見慣れている三十男のそれとは違う、十七歳の瑞々しい少女の指先。
見るからに柔らかそうで、きっと弾力もあるのでしょう。
そう――寝ぼけた私が、唇だと勘違いするほどに。
「プ、プロデューサーさん!? 突然どうしたんですか!?」
「だ……大丈夫です。なんでも……なんでもありません」
恥ずかしさで耳まで真っ赤になったことが鏡を見るまでもなくわかり、ハンドルに顔をうずめる。
私は、何を考えていたのか。
十七歳の人気アイドルが、キスをしたと考えていた。
誰に?
……こんなありもしない妄想をいい歳になるのにしてしまう、私なんかに。
「~~~~~っっっ」
「プロデューサーさん? プロデューサーさんしっかりっ」!?
私の恥辱による悶えは、前の車が進み後ろからクラクションが鳴るまで続くのでした――
※ ※ ※
「送っていただいてありがとうございました!」
「いえ……私こそ妙な姿を見せてしまいまして」
あれから無事に島村さんを家の前まで送り届けることができました。
ただ私はまったく無事ではありません。
道中、島村さんが様子がおかしいことを気遣ってくれるのですが、その優しさがかえって心苦しいものなのです。
違うんです。
私は貴女が優しさを向けるような存在じゃないんです。
貴方があんなことをするはずがないのに、したと思い込む下衆な存在なんです――というように。
「そんな、妙な姿だなんて! ……え、えっとですね。こういうこと、年上の男性に言うなんて失礼だと思うんですけど……」
「……どうぞ、続けてください」
失礼も何も、私のような勘違い男には何を言っても問題などありません。
とはいえ、島村さんにとって年上の男性に失礼なことを言うのはハードルが高いのでしょう。
真っ赤な顔で目線を左右に戸惑うように揺らし、膝の上でスカートをぎゅっと掴んでいます。
しかしついに意を決し、私に視線を定めました。
どのようなことを言われても甘んじて受け入れようと、腹をくくり――
「と……とっても、可愛かったです!!」
「……え?」
予想外の言葉は私の覚悟をスルリとすり抜け、私に間の抜けた声を漏らさせました。
今のはどのような意味か。
確かめようにもなんと聞けばいいものか。
「え、ええとですねっ。だから、プロデューサーさんの顔が真っ赤で……か、顔を覆っていてよく見えなかったんですけど、恥ずかしそうにしているのがわかって、その――」
迷っている中で気づけたのは、どうやら島村さんも私と同じぐらい混乱されていることです。
ワタワタと手を動かしながら、身振り手振り説明をされているのですが、頭がまるで追いつきません。
可愛い?
私が?
島村さんから見て?
「だ……だからその――――プロデューサーさんも、あんな顔をして、それを私に見せてくれたのが――す、すみません失礼します!!」
緊張から顔が次第に赤くなり、ついには湯気が出るのではと心配になった時のことです。
島村さんは慌てて席を立ち、転がるように車を出ます。
心配になって私も立ち上がろうとしましたが、島村さんがピタリと動きを止めたのにつられて止まります。
ゆっくりとぎこちなく彼女は振り返ると、誰かに見られていないか左右をゆっくりと確認すると――
「きょ、今日も一日ありがとうございました、プロデューサーさん♪」
「ッ!?」
右手を唇にそえ片目を閉じると、今度は右手を私に投げかけました。
――投げ、キッスです。
自分は見惚れいるのか、愕然としているのか。
自分でもわからないまま、車のドアを閉めて足早に玄関へと去って行く島村さんの姿を呆然と見送ります。
「…………これは、偶然なのでしょうか」
アイドルとして投げキッスの練習をすることはあるでしょう。
そして先ほどの島村さんのテンションはいつもより高く、つい練習していたことを私にしてしまったかもしれません。
ですが――島村さんが寝ている私の頬にキスをしたのではないかと考えた日に、投げキッスを私にしてみせたのは意味があるのではないか。
そもそも指でつつかれて、キスをされたと勘違いするなんてことがあるのか。
指先で私の頬をつついたのではなく――本当は本当に、寝ている私にキスをしたのでは?
そんなはずはない、自惚れるな気持ち悪いと必死になって自分に言い聞かせるのですが、島村さんのあの天使のような投げキッスが脳裏に刻みこまれ、ありえない妄想が離れようとしてくれません。
「ああ――――」
島村さんが眠る私に口づけしたなど、思い違いにすぎないという確信を得るために車で送りました。
ですが結果は、かえってありえない妄想が強まる始末。
もはや頭の中は島村さんのことでいっぱいで、どうしたものかと途方にくれます。
明日からどんな顔で島村さんと顔を合わせればいいのか。
ため息をつきながら私は会社に戻るのでした。
~おしまい~
※注意
ここから先はオマケで、武内P視点ではなくしまむー視点です
今回の話の真相を知りたくない人は見ないことをオススメします
※ ※ ※
「はぁ……」
ママにただいまと挨拶して、部屋に戻ります。
家の中は暖房が効いていて暖かいけれど、それよりも私の頬の方がずっと熱を持っている。
「プロデューサーさん……」
顔が真っ赤になった、あの人のことを考える。
部屋の鏡を見ると、私の顔も真っ赤なまま。
プロデューサーさんとおそろいだ。
そう考えるとますます顔が熱くなる。
プロデューサーさんも今の私と同じぐらい恥ずかしかったのだろうか。
だとすれば――今の私と同じぐらい、恥ずかしいと感じている相手のことを考えているのだろうか。
もし、そうだとすれば――
「むずがゆい……」
体に力が入らなくなって、ベットに仰向けに倒れこむ。
目をつむって思い出すのは、大きな体を恥ずかしそうに畳み込んで、真っ赤に染まった顔を少しでも私に見せまいとするプロデューサーさんの姿。
「プロデューサーさん……可愛かったなぁ」
あんなに恥ずかしがっちゃうだなんて。
「私にキスされたと思い込んでいたこと、あんなふうに恥ずかしがるだなんて……」
あんな姿を見せちゃうだなんて、困った人だ。
私だから良いものを、他の女性にあんな艶姿を見せたらどうなってたことか。
私だって我慢できなくて、運転席にうずくまるプロデューサーさんに、今度こそ本当にキスしそうになるぐらいだった。
でも、これで良かった。
仮眠をとるプロデューサーさんにキスしたいという衝動に耐えて、正解だった。
唇では加減が難しい。
眠りに落ちているプロデューサーさんがかろうじて目覚める程度の強さに調整するには、唾液で湿らせた指が適当だった。
事はうまく運び、プロデューサーさんは立ち去る直前の私のわずかな姿しかとらえることができなかった。
重要だったのは、確信を抱かせないこと。
寝ている間に頬に何をされたのか。
何かをした人物は誰なのか。
この二点。
最初プロデューサーさんは頬にキスをされたと思っていましたが、誰であるかは確信に至りませんでした。
今は私であることはわかっていますが、何をされたのかわからない状態です。
今も私のことで頭がいっぱいのはずです。
「ああ――――」
プロデューサーさんは今、私のことで頭がいっぱい。
そう考えるだけで、ベットの柔らかさが増したような気がして、幸せに身を沈めます。
プロデューサーさんが私のことで頭を悩ませているのに、という考えもないわけではありません。
けどそれ以上に幸せなんです。
「ごめんなさい、ごめんなさいプロデューサーさん……」
貴方が悩む姿、恥ずかしがる姿が大好きなんです。
その理由が私であれば、嬉しさが躍るように上がるんです。
だからせめて、自分のことは二の次の貴方を幸せにしてみせます。
貴方の理想のアイドルを演じて、貴方の夢を叶えます。
そして、貴方の人生を幸せにしてみせます。
私の、一生をかけてでも。
「んっ……」
ああ、プロデューサーさんのことを、少しばかり想いすぎました。
今夜はこんなにも――
「へそ下辺りが、むずがゆい……っ」
~今度こそおしまい~
最後まで読んでいただきありがとうございました。
前作で次は小ネタ集を予定していると書きましたが、変更して小ネタ集にする予定だった一部を投稿しました。
色々と事情が重なって、次の投稿がいつになるかわかりません。
もし皆さんが忘れた頃に私が投稿を再開したら、なんか覚えのあるノリだなと生暖かい目で見守ってください。
これまで応援しただきありがとうございました。
来年もよいお年を。
これまでのおきてがみ(黒歴史)デース!
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