鞠莉「果南が…」千歌「戻ってこない…?」 (210)
サンシャインSS
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微ホラー
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鞠莉「かなーん! 電車出ちゃうよー!」
曜「果南ちゃん! 駆け足ヨーソロー!」
果南「あ、うん、今行くよ!」
ぶんぶんと腕を振る鞠莉と曜に、果南が微笑んだ。
ざわざわとした雑踏の中を、数多くのスーツケースの間を縫うようにして歩いてくる。
今日は東京でスクールアイドルのイベントがあった。
地方の学校が集まって、曲を出し合い勝ち負けを競うのだ。
スクールアイドルがすっかり世間に定着した今となっては、ラブライブ以外にも小さな大会はいくつもあった。
梨子「はあ……疲れたなあ……」
善子「リリーが疲れたのは大会のせいじゃないでしょ。終わった後どこ行ってたのよ」
梨子「え!? えっと、それは……」
花丸「あ、マルお土産少し足りないかも! ちょっと降りて……」
ルビィ「ええ!? 今からは間に合わないよぉ、花丸ちゃん!」
向かい合わせでわいわいと騒ぐメンバーを横目に見て、ふふっと笑みがこぼれる。
少し気だるい身体を引きずりながら、また来たいねなんて言い合う今が、何だかかけがえのない時間のように感じた。
ダイヤ「どうしたんですの、千歌さん?」
自分の笑い声を聞いたダイヤが尋ねてくる。
千歌「え、ううん、何だか和やかだなって思ったんだ。そりゃ、まだまだ考えなきゃいけないことは多いけどさ」
ダイヤ「ええ、そうですわね……。でも、確かに進歩が見られたことを素直に喜ぶべきだと思いますわ」
そうなのだ。今回の大会は――優勝とまではいかなかったが――そこそこに好成績だった。
目指す場所には程遠い。しかし着実に前に進めている、そんな実感があった。
千歌「そうだよね、浦の星に帰るまでくらいは騒いでてもいいよね!」
ダイヤ「ええ、となればこの東京限定エリーチカグッズを――…果南さん?」
千歌「え?」
ダイヤが急に言葉を切る。
遅れて電車に乗り込んで来た果南は、少し顔色が悪いようだった。
鞠莉「どうしたの果南? 体調悪い?」
果南「あ、ううん、何でもないよ、何でも……」
ダイヤ「気分が優れないようでしたら、窓際に座ってくださいな。ほら、場所を空けますから」
果南「ありがとダイヤ。実はちょっと、風が気持ち悪くて」
果南がぴしゃりと窓を閉め、ひさしを下ろす。
勢いよく下ろしすぎたのか、カンッという大きな硬い音が響いた。
話していたメンバーが一斉に振り向き、一瞬静寂が訪れる。
鞠莉「……か、果南?」
果南「……」
果南「あ、ご、ごめん…」
千歌「果南ちゃん、大丈夫?」
果南「うん、ごめんね。しばらく窓閉めてたら大丈夫だと思うから」
千歌「……そっか! 何かあったらちゃんと言ってね?」
目を離すとすぐに無理をする果南には、強めに釘を刺しておく。
それを皮切りに、席に声が戻る。
列車は東京を出て、静岡へ向かってゆっくり進む。
東京を出たときには既に薄暗かった空は、最近めっきり早くなった日の入りを迎え、静かな夜がやって来る。
だんだんと人も降りていき、近くには自分たちだけ。
囁きよりも少し大きいくらいの話し声に囲まれて、果南はいつの間にか眠っていたようだった。
ダイヤ「きっと疲れていたのでしょう」
鞠莉「ふふっ、果南のcuteな寝顔、撮っちゃおーっと」
千歌「果南ちゃんに怒られちゃうよー」
鞠莉「いいのよ怒らせとけば」
曜「でも、疲れて寝ちゃう果南ちゃんなんて初めて見たなー……」
千歌「確かに! 私も見たことないかも」
Aqoursで一番の体力自慢である果南。
そんな彼女が無防備に寝ている姿が珍しいのか、通路を挟んだ席からもカシャカシャとカメラの音が聞こえてくる。
しかしそうして小声で騒いだ後は、全員がぐっすりと眠りに落ちてしまうのであった。
―――
「……歌! 千歌!」
千歌「んぅ……?」
誰かに肩を優しく揺すられて、ぼんやりと目を覚ます。
首を曲げて寝ていたからか、動かすと軽い痛みが走った。
果南「千歌、そろそろ降りるよ。」
千歌「あ、うん……。」
見回すと、ごそごそと皆が下車の支度を始めているところだった。
千歌「もう体調は大丈夫なの?」
果南「体調……うん、大丈夫。だいぶ寝ちゃったからね」
千歌「そっか、よかった!」
曜「夜もしっかり寝なきゃダメだからね、果南ちゃん!」
果南「はいはい、わかってますよーだ」
果南は口を尖らせると、数秒後にぷっと吹き出した。
よかった。体調には問題なさそうだ。
電車が駅に着き、ぞろぞろと荷物をもって降りる。
皆欠伸を噛み殺しながら、小さく肩や腰を動かしている。
花丸「もうすっかり夜ずら……」
善子「夜! ということは堕天使の時間ね! ふふふ……ここは堕天使ヨハネが支配した――」
梨子「ええ、まだそんな元気あるの……?」
ダイヤ「皆降りられたでしょうか。」
鞠莉「OK! 全員降りたみたいよ!」
確認を終えた鞠莉がにこにこと合図をする。
改札に向かう途中、ふと果南が立ち止まった。
果南「あ、私ちょっとお手洗いに行ってくるね。先帰ってていいから」
千歌「え……?」
突然の果南の言葉に、少し引っ掛かりを覚える。
鞠莉「もう、それくらいで置いてくわけないでしょ!それとも付いていこうか?なーんt…」
果南「ダメっ!」
しんと、その場が静まり返る。
月明かりに照らされた果南の横顔は、また血の気を失っているように見えた。
鞠莉「も、もう、そんなに怒らなくたっていいのに! ほら、荷物と一緒に待っててあげるから、Hurry Hurry !」
果南「……うん、ごめんね鞠莉」
果南は鞠莉に謝ると、たたっと走って姿を消した。
ルビィ「果南さん、どうしたんだろう……」
曜「電車に乗る前から、少し様子が変だよね」
梨子「体調が悪いだけ、なのかな……」
メンバーが口々に果南を心配する。
ダイヤ「鞠莉さん、果南さんも悪気があったわけでは……」
鞠莉「もう、そんなに心配しなくてもわかってるわよ」
千歌「帰ったら、また聞いてみようよ。今日は疲れてるかもしれないし」
ダイヤ「それしかありませんわね……」
自分の提案に、ダイヤが賛成する。
自分としても果南が心配だった。
思わぬことが負担になっているのではないだろうか。
だからこそ、帰って来たらまた話を聞こう、そう思った。
自分は、Aqoursのリーダーなのだから。
果南は、それきり戻ってこなかった。
――――――
―――
――――
それから、数時間。
最初に『果南』を見つけたのは鞠莉だった。
乗り換えの最終時刻はとっくに過ぎていた。
鞠莉は普段の明るさからは考えられない、震えた声で、電話を掛けてきた。
辛うじて、駅からかなり離れた路上に倒れていたと、聞き取った。
慌てて鞠莉の告げた場所に駆け付けると、鞠莉は静かに涙をこぼし、膝に果南の頭をのせていた。
自分の上着をしっかりと着せ、手をぎゅっと握りしめている。
曜「っ……! 果南ちゃんっ!」
たまらず駆け寄った曜に続いて、後を追う。
千歌「果南ちゃん、どうしたの!? 果南ちゃ――」
目を覚まそうと顔を触り、びくっと手を引っ込める。
……果南の顔はぞっとするほど、冷たかった。
千歌「え……あれ……なんで、なんでこんなに……」
なんでこんなに冷たいのだろう。
急にまとまらなくなった頭で必死に考える。
人はどんな時に冷たくなるんだったか。
ああ、今日は寒いから。夜だし、身体も冷えるから。
――違う。ただ冷えたとか、そんなレベルの冷たさじゃないことは心の奥で分かっていた。
千歌「な、んで……、果南ちゃん! なんでっ!」
梨子「千歌ちゃんっ!」
果南の頬を叩こうとして、追い付いてきた梨子に止められる。
ダイヤ「ま、鞠莉さん、果南、さんは……?」
ダイヤの問いかけに、誰もが息を止める。
気になるような、でも聞きたくないような。
花丸「っ!」
そろりと近づいた花丸が果南の口元にティッシュをあてがう。
微かに、本当に微かにではあるが、規則的に風を受けて動くのが見えた。
善子「あ、い、生きて……っ! じゃ、じゃあ救急車を!」
鞠莉「……呼んだわ」
善子「あ、そう、そう、よね……」
ルビィ「あ、あの、ううん、やっぱり何でも……」
ルビィが何かを言いかけてやめる。
何を言いたいかは皆が分かっていた。
――警察を呼ぶべきだ。
さっきまで一緒にいた人が、こんなに駅から離れたところで倒れている。
普通じゃないという思いが、ぞわぞわと意識に広がってくる。
鞠莉「……っ」
曜「鞠莉さん、震えてる……」
ダイヤ「鞠莉さん、この上着を。……警察へは、わたくしが」
自分の巻いていたマフラーと上着を鞠莉に着せ、ダイヤがふらふらと少し離れた。
ダイヤが電話口で何か話しているが、内容は入ってこなかった。
自分たちは、ただただ誰からともなく手や肩を寄せ合い、土気色の顔で横たわる果南を見つめているしかなかった。
―――――
―――
―――
遠くの方からサイレンの音が聞こえてきたのは、それからどれくらい後だっただろうか。
自分の膝の上の『果南】は、相変わらず色を失った顔で、浅い呼吸を繰り返している。
鞠莉「果南、どうしちゃったのよ……」
髪を撫で呟く。
無理していたのだろうか。最近疲れがたまっていたのだろうか。
だとすれば、方々に連れまわした自分の責任でもあるのだろうか。
鞠莉「ごめんね果南。気づいてあげられなくて。もうすぐ救急車、来るからね。」
ぴくりとも反応しない果南に、また気落ちする。
果南は目を覚ますのだろうか。
どこにも目立った外傷はない。
何が原因で倒れたのか、皆目見当もつかなかった。
もし、何か重い病気だったら――。
嫌な想像が頭を巡り、鼻の奥がツンと熱を持つ。
そうしている間にも聞こえてくるサイレンの音はだんだんと大きくなり、ついに目の前で白い車両が止まった。
ビニル製のジャンパーを着た隊員が降りてくる。
彼は少し辺りを見渡し、へたり込む自分の方を見ると、まっすぐこちらに向かってきた。
鞠莉「ほら果南、来たよ。もう大丈夫、Don't worry だからね……」
大柄の隊員はとても頼もしく見えた。
きっとこの人たちなら、果南を救ってくれる。
そして助かったら、謝ろう。無理をさせてごめん、つらい時は言ってほしいと。
先ほどとは別の涙を流しながら、果南の身を起こそうと、身体を動かした――。
隊員「ああ、君だね。よかった、"目を覚ました"んだね……」
鞠莉「え……?」
意味が、わからなかった。
慌てて果南の様子を確認するも、目を覚ましている気配はない。
隊員「すっかり体が冷えてしまっているよ。もっと上着を……」
ぐいと自分のわきの下に隊員の肩が入る。
隊員「大丈夫かい、歩けるかい?」
鞠莉「え、あの……」
ここに至ってもなお、状況をつかめずにいた。
なぜ自分が支えられ、立たされているのか。
鞠莉「あの、か、果南を……、果南をっ!」
隊員に立たされた自分の膝からは、果南の頭はずり落ちてしまっていた。
硬い地面にゴツンという音が響き、胸がきゅっと縮んだ。
梨子「か、果南さん!」
数拍、全員が呆然と立ち尽くした後、梨子が慌てて果南の頭にタオルを敷く。
隊員「かなん……? 具合が悪いのは君じゃないのかい?」
鞠莉「は……?」
どこをどう見たらそんな結論に至るのか。
鞠莉「ち、違うわ! 私じゃない! ほら、ここに……!」
ほとんど身体を振り回す勢いで、果南を指し示す。
隊員「……赤い髪の彼女かい? 元気そうだが。」
梨子「えっ……」
違う、違う、そんなはずない。
わからないはず、ない。
早くしないと、果南の状態が一刻を争うものだったら――
焦りが募り、語気が荒くなる。
鞠莉「違うわ! 果南よ! ここに倒れてる、青い髪の――!」
隊員「ここ? どこだい……?」
鞠莉「――…」
呆気にとられて、言葉が出なくなる。
何だろう、この状況は。
からかっている? 救急隊員が?
そんなはずはない。
そうでなければ、そうでなければ、そんな非現実的な。
隊員「あー、誰も具合は悪くない、そういうことかな?」
隊員は鞠莉を解放し、眉間に手を当てている。
なんで。
隊員「見たところ、全員問題なく動けているし……」
やめて。
隊員「あのね、おじさんたちも遊びじゃないんだ」
隊員「あまりこういうのは――」
やめてよ。
隊員「それに君たち、未成年だろう? こんな時間に出歩いちゃいかんよ。条例を知らないのかい?」
聞きたくない。
隊員「とりあえず、異常はないね?君たち"8人"とも。」
鞠莉「ぇ……」
衝撃に、絶望に、視界が黒く染まった。
―――――
―――
コンコンと病室をノックすると、はい、と小さな返事があった。
ダイヤ「鞠莉さん、入りますわよ」
金属製の取っ手を動かし、引き戸を開ける。
鞠莉は、相も変わらず窓の外をぼうっと眺めていた。
ダイヤ「鞠莉さん、今日が最終日ですわ。それが終わったら……」
鞠莉「退院、ね」
いつの間にか向き直っていた鞠莉が言葉を継ぐ。
鞠莉「果南は?」
ダイヤ「変わりありませんわ。目を覚まさず、しかし呼吸が乱れることもなく……」
鞠莉「そう……」
鞠莉は悲しいような、安心したような、複雑な表情を見せた。
あの日、果南が倒れた日。
鞠莉は救急隊員と話している途中に意識を失ってしまった。
慌てて救急車で病院に搬送されることとなり、結局数日の検査入院を強いられている。
"8人"だと、そう言った救急隊員は、鞠莉を救急車に乗せると謝ってきた。
刺激するようなことを言って済まない、彼女はこちらで預かるから、できれば明日お見舞いに来てあげてほしい。
君たち"7人"には、彼女がどの病院に搬送されたか、きちんと連絡をするからと。
訂正してほしいのはそこじゃないと、声を張り上げたかったが、あまりに異常な状況に、全員が頷くしかなかった。
遅れて来てくれた警察も、似たような反応を示した。
車を降りてきた刑事らしき人は、煮え切らないこちらの態度にいたずらかと気色ばんだ。
1人意識を失って搬送されたと言うと調べておくと言って引き返していった。
補導されなかったのは幸運だったと言ってもいい。
しかしやはり、果南のことは"見えていない"ようだった。
鞠莉「ダイヤのご家族も、果南のことは?」
ダイヤ「見えていないどころか、『今は留学中だ』と……」
鞠莉「果南のご家族も?」
ダイヤ「……ええ」
鞠莉「どうして……」
果南が留学する理由などない。そんなこと、家族が一番わかっているはずなのに。
どこにと聞いても、分からないと返ってくるのがさらに不自然だった。
意識を失った『果南』を目の前に横たわらせても、見えていないかのような態度を取った。
曜と善子が『果南』を担いで病院に行ったが、受付も、医者も看護師も、誰もが2人のことしか見えていなかった。
クラスの友人も、口をそろえて留学中、だ。
いよいよ、異常な事態に巻き込まれていると認めなければならなくなってきた。
つまり、「非現実的としか思えない何か」が起こっているのではないか……。
大真面目にこんな話をする自分たちのことを考えると、気がどうにかなりそうだった。
鞠莉「とにかく、退院したら私もダイヤの家に泊まる」
ダイヤ「……そうですわね。人手は多いに越したことはありませんわ。ですが、皆が出入りするとなると……」
鞠莉「そうね……じゃあこうしましょう。うちのホテルの部屋を1室貸切るわ。鍵はこっそりAqoursの分をつくっておくから」
ダイヤ「無茶では……ありませんのね?」
鞠莉「そんなことないわよ。それより、今は果南のお世話はどうしてるの? 必要なものは揃えておくわ」
ダイヤ「今は、水と栄養剤を、少しずつ口に含ませて……。千歌さんたちが、よく手伝ってくれていますわ」
鞠莉「そう……。汚れは?」
ダイヤ「それは毎日、わたくしとルビィで拭いて……」
鞠莉「……ありがとう」
ダイヤ「いえ、当然のことですわ」
ダイヤ「……」
鞠莉「ダイヤ?」
黙り込んだ自分の顔を、鞠莉がさらに覗き込んでくる。
ダイヤ「……足りている、でしょうか。」
鞠莉「え……?」
ダイヤ「今していることに、いったいどれほどの効果があるのでしょうか……」
ダイヤ「水、もっ、栄養剤も…っ、これだけしか、たったのこれだけしかっ、摂れてっ、いなくてっ……」
ダイヤ「どうしたら、どうしたらっ、いいの…っ、でしょうか…っ、か、かな、果南さんがっ、果南さんがっ!」
ルビィの前では決して見せない弱音が漏れてしまう。
果南の様子は、微塵も変わっていない。
自分たちが必死になってやっていることに、終わりは見えなかった。
あの日からルビィは笑わなくなった。
たった数日のうちに、少しずつ皆の精神が蝕まれている、そんな感覚があった。
鞠莉「……ごめん、ごめんねダイヤ。たくさんのこと、押し付けて……」
鞠莉がそっと手を握ってくれる。
鞠莉「退院したら、場所を移そう? ダイヤもちゃんと寝ないと。……すごい隈」
ダイヤ「え、ええ…っ、すみませっ、鞠莉さん……」
強張ってしまった身体から力を抜き、鞠莉の身体にもたれかかる。
その日は、そのまま鞠莉に背中を撫でられながら、少し眠ってしまっていた。
―――――
―――
果南が倒れてから1週間と少し。
自分たちAqoursは、鞠莉が貸し切ったホテルの一室にいた。
善子「じゃあ、これからはこの部屋に交代で泊まるのね」
これまでの話し合いの結果を要約してみる。
鞠莉「Yes。鍵はここにあるから、皆なくさないようにね」
鞠莉が自分を除いた7人分の鍵を配った。
曜「ありがとう鞠莉さん。できるだけたくさん来るからね」
鞠莉「……助かるわ」
梨子「ルビィちゃんとダイヤさんも、今まで本当にありがとう……」
ちらりと目をやると、ダイヤは明らかにやつれてしまっていた。
当然だ。親友がこんなことになって、先週までは鞠莉も入院していて。
1人で多くを抱えすぎていた。ルビィが心配するのもよくわかる。
鞠莉も心配だった。
退院してから一週間、ずっと『果南』と同じ部屋に泊まって、部屋の設備の準備と、『果南』の世話とを行っていた。
倒れたことを理由に理事長の仕事はしばらく父親に預けたのだ、そう言っていたが、代わりにもっと多くの事を背負い込んでいた。
今日だって皆で説得して、やっと協力しようという話になったのだ。
善子「……?」
左腕が引っ張られたような気がして、首だけで振り向いた。
善子「ずら丸、どうしたの?」
見ると、自分の袖をくいくいと、花丸が掴んでいた。
青い顔で目を伏せ、ふるふると小刻みに震えている。
善子「ずらま……花丸? どうしたの、何かあったの?」
次第に声が大きくなっていくのを自覚する。
花丸の青い顔が、嫌でもあの日の果南の様子と重なって見えた。
花丸「ょしこちゃん……」
花丸「マル、怖い…怖いよ……」
善子「………花丸…」
花丸の短い、ほんの3文字の言葉は、ここにいる全員の心を代弁していた。
怖い。
理屈が分からないことが怖い。
なぜ果南は意識を失ったのか。
なぜ『果南』は自分たち以外の誰にも見えないのか。
警察に、病院に、学校に――誰かが仕組んだにしては規模が大きすぎる。
数秒間、重苦しい空気がホテルの一室を満たす。
千歌「花丸ちゃん」
いつの間にか寄ってきていた千歌が、花丸を優しく抱きしめた。
千歌「私も、怖いよ。何が起きているか、おバカな私じゃ何もわからないし……。すっごく怖い」
千歌「でもね、だからこそ、私たちは一緒にいるんだと思う。一緒にいれば大丈夫。だってAqoursだもん」
千歌「私も、怖い。皆も怖い。皆でいたって絶対怖い。でも……でも、一緒にいなきゃ」
千歌「一緒にいれば、きっとまた笑いあえる。もちろん、果南ちゃんもだよ」
花丸「……千歌さん」
普段と比べれば陰ってしまっているけれど、やはりぽかぽかしたお日様みたいな笑顔が、そこにあった。
千歌の言葉はストンと心に落ちるようで、ああ、私たちは彼女に惹かれてここにいるのだと、そう改めて感じた。
きっと、皆もそう感じたのだろう。
誰もが身を寄せて、ほぅっと、長く長く震える息を吐いた。
千歌「だからさ! 皆、これからも――」
べきりと、嫌な音が響いた。
鞠莉「えっ……?」
皆が一斉に音のした方を振り返る。
ダイヤ「果南…さん……?」
ルビィ「い、今の音……何かが、折れた、ような……」
曜「か、果南ちゃんの様子は!?」
慌てて駆け寄った曜と鞠莉が果南の様子を確かめる。
鞠莉「ひっ……!」
善子「ま、マリー……?」
曜「ぁ…しが……」
曜も目を見開いて固まっている。
曜「果南ちゃんの、足が……」
嫌な音を立てたのは、『果南』の足だった。
『果南』の足は――素人でもわかるくらいに――折れていた。
鞠莉「な、なんで!? 私、触ってない! 果南には誰も触ってない!」
半狂乱で鞠莉が泣き叫ぶ。
ダイヤ「と、とにかく早く手当てをしませんと……!」
梨子「包帯…鞠莉さん、包帯は……!?」
花丸「あ、こ、ここに! ここにあるずら!」
善子「私は、保冷剤を……っ!」
花丸と2人で『果南』の腫れあがった足の手当てをする。
ダイヤ「え…っと…、『骨折 手当 やり方』……」
ダイヤと千歌は他に必要なものがないか急いで調べている。
千歌の言葉に少し緩みかけていた空気が、再びピンと張り詰めていく。
皆が、目を潤ませ走り回っていた。
鞠莉「もう、嫌…、嫌よ、果南、かなんっ! 早く起きてよぉ……っ!」
なけなしの手当てを終えた後、祈るように、縋るように叫んだ鞠莉の声が、いつまでも頭から離れなかった。
――――――
――――
花丸「『大正6年、お社改修。木材は職人がつくった――』…違う、『明治23年、新年の神事。楽師と装束を揃え儀を執り行い――』これも違うずら。」
黄ばんだ紙に書かれた黒い続け字を追う。1文字1文字、何の文字か確認しながら読む作業には、思った以上の時間を要した。
花丸「こっちはないみたいずら……儀式の記録ばっかり」
声を掛けると、すぐ近くで梨子と千歌も顔を上げた。
梨子「私の方には、少しだけ病の記録が……」
千歌「こっちも1つだけ記録があったよ。でも、果南ちゃんの症状とは……」
うーんと3人で首をひねる。
果南が倒れた。
『果南』のことを誰も認識してくれない。
何もしていないのに『果南』の足が折れた。
こんなの、普通の事態じゃない。改めて結論付けた自分たちは、過去に「霊的な」事件の記録がないか調べていた。
提案したのは、自分だった。
祖父に聞けば資料のありかがわかったので、千歌と梨子に手伝ってもらいながら記録を漁る。
曜と善子は公営の図書館の方をあたってくれている。
まともに資料を読めない自分たちは、「病」だとか「祟り」だとかの言葉を追って資料を探していた。
しかし、思った以上に昔の人たちは迷信深くはなかったらしい。
祟りについて書かれた記録はほとんどないばかりか、あっても原因が解明されているものばかりだった。
病の記録はいくつか見つかるも、どれも身体に斑点が出るとか、痕が残るものばかり。
意識がないことを除けば何一つ異常がみつからない『果南』とは別の症例であることは明らかだった。
花丸「今日も、収穫なしずらね……」
誰ともなくため息をついてしまう。
先の見えない状況に参ってしまっているのは、自分だけではない。
ふと外を見ると、もうすっかり日も沈んでしまっていた。
ひゅうと吹いてきた隙間風に、3人で身を震わせる。
果南が倒れたのもこんな寒い夜だったと思い、鳥肌が立った。
千歌「花丸ちゃん、大丈夫?」
梨子「ちょっと疲れちゃった?」
花丸「あ、ううん、大丈夫。ちょっと怖くなっちゃっただけ」
何か「霊的な」ものの仕業ではないか。
こんな話が出て以来、自分はすっかり怖がりになってしまっていた。
夜の家はやたらと暗い。寺ということもあってか、それこそ「何か」が蠢いているのではないか――そう思えた。
幼いころから慣れ親しんだ家ではあったが、少しでも可能性を考えてしまうと体が固まってしまう。
おかげであまり眠れず、メンバーに心配をかけてしまっている。
千歌「花丸ちゃん、やっぱりしばらく一緒に……。今日家族の人いないんでしょ?」
花丸「ううん、悪いよ。2人はもう暗いし、帰らないと。今日は善子ちゃんが迎えに来るから大丈夫ずら」
図書館を出た後、曜はそのまま『果南』がいるホテルへ行って鞠莉と合流。善子はいったん自分を迎えに来て、その後一緒にホテルへ向かう予定だった。
梨子「それならいいけど……。無理はしないでね、花丸ちゃん」
花丸「うん」
頷いて、ちらちら後ろを振り返りながら帰る2人を見送った。
―――
果南に、自分の周りにいったい何が起きているのだろうか。
『果南』は確かに自分たちに見えている。
触ることも、動かすことも、重さを感じることもできる。
呼吸を確かめることも、服を脱がせることも、水を飲ませることもできる。
身体の機能は何も失われていない。
しかし、他の人には見えない。
いや、見えないどころか、まるで果南の「存在そのもの」が消えてしまったかのように、いないことを不自然に思わなくなっている。
果南を思って怖くなると同時に、自分も誰かのことを忘れてしまっているのではないかと、恐ろしい気持ちになった。
花丸「そろそろ、善子ちゃんが来るころかな……」
携帯の画面を確認すると、家に向かうと連絡があったところだった。
善子は自分のことを心配してくれている。
怖いと口にする自分を励まし、できるだけ一緒にいようとしてくれる。
今日も迎えに行くと言いだしたのは善子だった。
いいと言ったのに、家に忘れ物をしたなんて、下手な嘘をついて。
ルビィが無理をしがちな姉の傍らを離れられない今、善子の存在は自分の心の支えだった。
ちらりともう一度携帯の画面を確認する。
今は歩いているころだろうか。
電話を掛けても大丈夫だろうか。
静寂をも怖がる自分に嫌気を覚えながら、善子に電話を掛ける。
善子は2回目のコールで電話に出た。
善子「ずら丸! ずら丸!? 何かあったの!?」
花丸「え、え……?」
善子「返事しなさいずら丸!」
花丸「よ、善子ちゃん……?」
善子「あ、ずら丸……。どうしたの、何かあったんじゃないの」
花丸「え、っと、ううん、何も……。今どのへんかなって……」
予想外の反応に驚いて、途切れ途切れに説明する。
善子「はぁー……。びっくりさせるんじゃないわよこの食べ過ぎお寺っ子」
善子は大きくため息をついた。
心配させただろうか。
申し訳ない気持ちもあったが、それ以上に心配してくれていることに嬉しくなった。
花丸「って、食べ過ぎお寺っ子って何ずらか」
善子「ちょっと言ってみただけよ、もう。あ、そうそう後どれくらいかって話だけどね――」
急にザザ…ッとノイズのようなものが入り込んだ。
花丸「善子ちゃん? 善子ちゃーん……?」
電波が悪くなってしまったのだろうか。
寺に来るためには木々が高くそびえる道を通ってこなければならない。通信環境がいいとは言えないだろう。
最近善子に聞いた話を思い返す。
仕方なく携帯をしまう。
――コンコン
突然、玄関のドアがノックされた。
いやに早い。善子がもう着いたのだろうか。
花丸「善子ちゃん……?」
何となく嫌な予感を抱きながら、そろそろと玄関に近づく。
『花丸、花丸!私よ、善子よ。開けて!』
玄関の外から善子の声がする。
なんだ。善子がもう着いたのか。
知った声を聞いて気を緩める。
最近はどうも神経が昂ってしまっている。
落ち着いて、落ち着いて。
先ほどの電話も、家に近づいたから善子が切ったのかもしれない。
花丸「はーい、今開けるよ。でも善子ちゃん、インターホン使ってくれてもよかったのに――」
ちょっとだけ浮いた気持ちで、ドアを開ける。
『――――アケタ』
花丸「――ぇ。」
そして、『ソレ』を視た。
花丸「ぁ……な、な、に……?」
玄関を開けた先に立っていたのは、黒い塊だった。
ぼんやりとヒト型に形を作っているが、輪郭ははっきりせず、煙のようなものが全身から上がっている。
顔らしき部位は斜めに真っ二つに裂け、その奥には深い深い闇が続いていた。
角度も大きさもバラバラな真っ赤な目がこちらをじぃっと見つめている。
『ソレ』が一歩、玄関を跨いでくる。
ぐにゃりと不自然な角度に身体を折り、戸をくぐる。
ずりずりと、『ソレ』が足を動くたびに黒い靄が舞い、息苦しさが増していく。
花丸「ひ……っ…ぁ…っ…」
怖い。
怖い怖い怖い怖いこわいこわいこわい――。
あまりの恐怖に声が出ない。身体が動かない。
『ソレ』がこちらに手を伸ばす。
靄を纏った細長い腕のようなものが、『ソレ』の全身から無数にこちらへゆっくりと伸びてくる。
『ケタ……ケタケ…タケタケタケタ…ハナマ…ルアケタアケタアケタ……』
何重にも声をガンガンと響かせながら、塊ごとこちらの身体に覆いかぶさってくる。
「腕」が身体に触れる。
突如として、10対はあろうかという数の「目」が現れた。
まつ毛も瞼もない、白目と黒目だけの血走った目が、すぅっと細くこちらを見据えている。
『アアアアアァアアウゥゥゥウウウクヤイイイイイシイイイイイアアアアッッッッッ!!!』
花丸「…ぁ…ぁぁぁ……っ」
ガチガチと歯の根の合わない口で、今度こそ、叫び声をあげた。そう思った。
しかし自分の喉は締め付けられたかのように声が出ず、知らぬ間に靄に全身を絡み取られていた。
花丸「…ぁあ……かな……ん……さ……」
自分は果南のところに行くのだと、なぜか理解できた。
果南はこうやって苦しんだのだ。全身を絞められ、焼け付きそうな痛みと共に、1人で、孤独に意識を失ったのだと、そう理解できた。
ふと視界の端に、動くものを捉えた。
その正体に気付いた瞬間、さっと血の気が引いた。
ダメ、来ないで、巻き込まれちゃう。
花丸「ょ…しこ…ち…ゃ……きち…ゃ……メ……」
黒い服を着た善子が涙を流して手を伸ばす、その光景を最後に意識を手放した。
―――――
―――
善子「ずら丸……聞こえてるの、ずら丸!?」
不自然なノイズの後、花丸との通話が途切れた。
電波障害?
少し考えて、首を振って否定する。
花丸は家の中だろうし、自分も通信が途切れそうな場所にいるわけではない。
善子「ずら丸…何かに巻き込まれてないでしょうね……」
堕天使の衣装のスカートをぎゅっと握りしめる。
こんなことなら、家に戻らずにすぐに向かえばよかった。
最近元気のない花丸を励まそうと衣装を探していたのが裏目に出ている。
善子「待ってなさいよ、花丸……!」
嫌な予感を必死で振り払いながら、駆けだした。
敷地内に入った瞬間、何か「よくない」ものがいるのだと、直感した。
夜だというだけでは説明がつかない、寒い、凍えるような、それでいて重苦しい空気がずんとのしかかってきた。
善子「な、にこれっ…はあっ…はあっ……っ!」
ドクンドクンと大きく跳ねる心臓と、荒くなった息を気にしながら走る。
善子「ずら丸! ずら丸っ!」
どこかに、倒れていないだろうか。
『果南』のように、冷たく、無反応に――。
ぶるると身が震えた。
善子「大丈夫、大丈夫、ずら丸は、大丈夫だから……っ!」
もうすぐ、玄関だ。
きっと、間違えて電話切っちゃったずら、なんて笑いながら、迎えてくれるんだ。
そう言い聞かせて、足を動かした。
善子「…ぇ…?」
最初に見えたのは、真っ黒い煙に包まれた花丸の家だった。
玄関を中心に煙は上へと横へと広がり、家の大半を覆い隠すように漂っていた。
一歩近づくたびに呼吸は浅くなり、心は重く沈んでいく。
善子「ずら…丸……?」
見えた。
もやの中、力なく天に伸びる手。
花丸は、『アレ』の中に…。
善子「ずら丸っ!!」
お守り代わりのロザリオを握りしめ、『ソレ』につっこむ。
善子「ずら丸、花丸ぅぅぅっ!」
苦しい、怖い。
涙が止まらない。
止まってしまいそうな足を必死に前に出して、花丸を目指す。
触れないくせに重たい靄を掻き分けながら、必死に前へ。
善子「あと、ちょっと…、あと……っ!」
数歩。
手を伸ばす。
花丸「―――――ちゃ―――メ…」
目の前で花丸がつぅっと涙を流して、ガクリと力を失った。
善子「…ぁ…は、な、まる……花丸ぅっ!!」
違う。
まだ終わってない。
そんな顔を見に、ここまで走ってきたんじゃない。
善子「起きなさい! 私が来たわよ! 堕天使!! ヨハネがっ!!」
善子「待たせるなんて、許さない、許さないんだから!」
善子「何、泣いてんのよっ! わたっ…私はぁっ! あんたの笑顔を見たくて――……っ!」
ズズズ…と、自分の頭上で「何か」が蠢く。
無数の腕が、花丸を絡めて放さない。
善子「は、はな、離れなさい! 花丸から…離れなさいっ! わた…っ私は……堕天使ヨハネよっ!」
ロザリオを握った拳を強く前に出す。
善子「花丸は…こいつは…っ! 私が地獄に堕とすんだからぁ…、だから、だから……っ」
善子『どきなさいっ!!』
――きぃん…
『アアアアアッァァァァァアアマアブウウウウシイイイイッッッ!!!』
善子「え……」
靄が、よろめいたように見えた。
花丸に絡ませていた腕を引っ込め、扉の外に数歩下がる。
善子「効いて、る……?」
自分の右手に握ったロザリオを見下ろす。
『ア……イイイィィッィイアアアア…ッッ』
靄はすぐにまた敷居を跨ごうと足を伸ばす。
善子「さ、させないわっ!」
ぴしゃりと玄関扉を閉める。
視界から、花丸の姿が消える。
これで、花丸は守られる。
くるりと振り返り、靄と対峙する。
ロザリオをもう一度、前に……。
後ろの花丸を、守るんだ――。
善子「…ぁ……」
ニイッっと、大きな、大きな口が裂けるのを、見た。
がくがくと足から力が抜け、胸が恐怖に圧し潰される。
善子「ゃ…ゃだ……やめ、て……」
花丸を守る。死なせない。死にたくない。守らなきゃ。死にたくない。死なせない。死にたくない、死にたくない死にたくない。
善子「ゃめ…はなれっ……!」
力なく振り回した右手に靄が絡みつく。
善子「そんなっ…、だ、誰か、誰かっ! 助け――」
叫ぼうとした喉が締められる。
声が出ない。
死にたくない。
とめどなく涙が溢れてくる。
ドン、と玄関扉に身体が押し付けられる。
薄くなる意識で扉が開いてしまわないように押さえながら、ロザリオを握る手を動かそうとする。
動かない。
音もなく、無数の腕が身体を貫く。
善子「ぃ…たぃ…いたぁ……っ…」
激痛に叫びたくなる。
息ができない。
全身から何かが引きはがされるような、耐えがたい痛みにさらに意識が遠ざかる。
善子「ぁ…はな……ま…る…ご、めん……ごめん、ね――。」
最後に見たのは、嬉しそうに大きく裂けた口の奥の、深い深い闇だった。
――――
――
―――――
―――
花丸「ん…く……」
起き上がろうとして、痛みに呻く。
手を通して硬い感触が伝わってくる。
寒い夜に、小さな灯りだけ付けた玄関に1人。
自分は、どうしてこんなところで倒れていたのだろうか…。
花丸「っ、ひっ……!」
痛みをもつ自分の腕を見て、小さく悲鳴を上げる。
うっすらと、浅黒く何かが絡みついたかのような痕が残っていた。
その瞬間、思い出した。
花丸「ぁ…そうだ、マル、マル……っ!『アレ』に…っ」
思い出して、再び恐怖で身が竦んだ。
ガタガタと震える身体を掻き抱く。
急にゴトンという音がして、びくりと震える。
どうやら携帯を落としたみたいだ。
花丸「通知…70件……」
鞠莉と曜から数十件ずつ、他のメンバーからも……。
一瞬驚いた後、ぼんやりと今日は『果南』のいるホテルに向かうはずだったことを思い出す。
徐々に思考が鮮明になっていく。
花丸「あ…そう、だ、善子ちゃん、善子ちゃんっ!!」
意識を失う直前に見た光景。
こちらに必死で手を伸ばしていたのは、善子ではなかったか。
それなら、近くに…。
きょろきょろと家の中を見回してみても、善子の姿は見当たらない。
同時に、自分が助かっていることの不自然さに気付き、ぞっとした。
花丸「善子ちゃん、善子ちゃんっ!! どこ、どこにいるのっ!?」
トイレや、自室や、居間を覗いてみる。
家のどこにも、善子はいない。
残るは。
花丸「外……?」
玄関の扉に手を掛ける。
開けた先に『アレ』が立っている姿を想像し、手を引っ込めた。
花丸「っ…はあっ、はあっ…! うぷっ……」
吐き気を何とか呑み込んで、再び取っ手に手をやる。
花丸「あ、開かない……」
扉が重い。
震える手には力が入らなかった。
もう一度開けようと試みる。
花丸「…っ……」
やはり重い。
まるで――
まるで"誰かがもたれているかのように"……。
花丸「ぃ…ゃ…だよ、善子ちゃん……」
開けてはいけない。
開けたくない。
頭の中で警報が鳴る。
それでも。
ゆっくりと扉を開ける。
まず目に入ったのは、いつもより低い位置にある、見慣れた黒髪だった。
そして。
花丸「ぃゃ…や…いやああああああああああっ!!」
開いた扉に押されて、ぐらりと善子の身体が傾いて、倒れた。
―――――
―――
曜「花丸ちゃん…スープ、できたよ……」
花丸「……」
鞠莉「……」
曜「置いて、おくからね……」
連絡が取れないことを心配して鞠莉と一緒に駆け付けたとき、花丸は善子の身体に縋ってただ泣き叫んでいた。
嫌がる花丸と『善子』を無理やり小原家の車に乗せて、ホテルまで戻って来たのはつい1時間前のことだ。
メンバーには既に連絡してある。
そろそろ皆も到着するだろう。
花丸「マルの、マルのせいずら……。マルが、怖いなんて言わなければっ! マルがっ!」
鞠莉「マルっ!」
ぎゅっと、鞠莉が花丸の身体を抱く。
曜「……そんなことない。花丸ちゃんのせいじゃ、ない」
涙の跡以外に何の異常もない『善子』に目をやるのはつらくて、花丸の手を握る。
こんな時気の利いた台詞でも言えればいいのだろうが、何も思いつかなかった。
鞠莉「ね、マル……。何があったの? 少しずつでいい、少しずつでいいから……」
花丸「ひっ…ぁ…っ!」
何があったか聞かれると花丸は目を見開いて身体を震わせた。
鞠莉「ごめん……」
こちらを見て鞠莉が小さく首を振ってくる。
事情を聴くには、もう少し時間がかかるかもしれない。
果南に続いて、善子まで。
大切な仲間が倒れていくつらさに、ふとした瞬間に泣きそうになる。
考えなければならないことも多い。
『善子』もまた、他の人には見えていなかった。
『果南』と同じだ。
それに花丸についた「何か」の痕……。
これも、他の人には見えていないようだった。
梨子「よっちゃん……っ! よっちゃん!!」
ガチャガチャと鍵を開けた後、梨子が勢いよく部屋に駆け込んで来た。
ベッドに横たわる『善子』を見た瞬間、膝から崩れ落ちる。
ルビィ「そんな……っ、よ、善子ちゃんっ!」
千歌「善子ちゃん……」
花丸「ぁ…み、みんな……」
ルビィ「花丸ちゃんっ!」
ルビィが花丸に駆け寄っていく。
ルビィ「花丸ちゃんっ、け、怪我は…その腕っ……!」
花丸「ルビィちゃん…マル…マルのせいで……っ!」
ダイヤ「いったい、何があったんですの?」
後ろ手に鍵を閉めたダイヤがこっそり尋ねてくる。
自分は力なく首を振って返すしかなかった。
とにもかくにも花丸から話を聞かなければわからない。
曜「花丸ちゃん」
意を決して花丸の手を握り直す。
びくっと花丸の身体が反応した。
曜「少しでいい、少しでいいんだ。何があっても、私たちは花丸ちゃんに怒ったりしない」
曜「知りたいんだ。花丸ちゃんと、善子ちゃんに……何があったのか。助けたいんだ」
花丸の目を見て、ゆっくりと。
花丸「曜、さん……」
曜「ね、花丸ちゃんも、一緒にもう少しだけ、頑張ってみよ? 善子ちゃんを、助けるために」
花丸「助け…る……? 善子ちゃん、助かるのかな……」
花丸は虚ろな目でこちらを見つめ返してくる。
曜「……っ!」
曜「助かるよ! 絶対に助かる! だって、だって息もあるし、怪我はしてないしっ! おかしいもん、助からなきゃ、おかしいもんっ!」
叫んでいて、目頭が熱くなる。
自分に言い聞かせているだけだということは、わかっていた。
花丸「マルっ、マルっ……! あの時、マルは……っ!」
曜「うん、うん……っ」
花丸「あの時、善子ちゃんにっ…電話、したんだ――」
花丸が、ゆっくりと語りだした。
――――――
――――
善子「ぅ…ん……?」
目が覚めた。
自分は花丸の家の前で1人、地面に倒れていた。
善子「あれ、私……」
確か、花丸を迎えに行って、ホテルに行こうとして、それで――。
善子「ぁ……花丸、花丸はっ!?」
玄関の扉を開けようと手を伸ばす。
善子「あ、あれ…何で、何で……!」
扉に"触れない"。
空をつかむような感覚で、指が扉をすりぬけてしまう。
自分の手が扉に埋まっているのを、信じられない気持ちでぼうっと眺めた。
善子「『アレ』もいないし……」
自分は、助かったのだろうか。
覚えている最後の光景が頭をよぎり、寒気がした。
そんなはずはない。
自分は助からなかった。
あのタイミングで誰かが来るなんてこと、ありえない。
善子「だったら、何で私は……」
「それはね」
突然聞こえた声に、びくりとする。
果南「それはね、私が説明するよ」
善子「果南…さん……!?」
果南「やっほ、善子。来ちゃったんだね。」
振り返った自分の前には、果南が立っていた。
善子「か、かなっ、果南さんっ!」
たまらず、果南に駆け寄って抱き着く。
善子「生きてたのね! 私、私信じてたわ…っ、きっと、きっと――」
果南「「生きて」はいないかもしれないよ」
自分を抱き留めながら、事も無げに言い放った果南の言葉が理解できない。
善子「生きていない…って……でも! こうして話して、触れて……!」
果南「でも、扉には触れなかった。そうでしょ?」
善子「っ!」
先ほどの、自分の手が扉に埋まった様子を思い出す。
果南「安心して。花丸は無事だよ。身体に痕が残ってたみたいだけど、鞠莉たちがちゃんとホテルに送り届けてる。」
善子「そ、そうなの……。よか、よかったぁ……。」
花丸"は"無事。だったら、それなら、自分は――。
善子「私は、私はどうなったの? 『アレ』にやられて……」
果南「善子は……たぶん、喰われた」
善子「喰われた……?」
不気味な大きな口を思い出して、また身震いする。
果南が優しく抱きしめてくれる。
果南「ごめんね、怖かったよね。痛かったよね……。思い出させてごめん。でもね、大事なことだから」
果南「とにかく、今はホテルに向かおう。そこに『私』と『善子』がいるから。詳しいことは、道中で話すよ」
善子「『私』たちがいる…? でも、私は今ここに……」
果南「それも、ちゃんと話すよ」
どこか悲しそうな顔で、果南は呟いた。
―――
どこから話そうかな。
ああ、あの日から話した方がいいかな。
バスが来るまで結構時間があるからね。
明るい声を心掛けながら、善子に語り掛ける。
聞きたいことがたくさんあるだろうに、善子は黙って聞いてくれていた。
果南「あの日、私は東京で――『アレ』を視たんだ」
―――――
――
―――
あの日、大会が終わった後、私たちは気持ちのいい疲労感を抱えて、沼津に帰るところだったよね。
鞠莉「かなーん、電車でちゃうよー!」
曜「果南ちゃん、駆け足ヨーソロー!」
果南「あ、うん、今行くよ!」
駆け足ヨーソローってなんだ、船じゃないのか、なんて思いながら返事して、私も電車に乗ろうとしたんだ。
そうしたら……。
果南「なに、あれ……」
そこに『ソレ』がいた。
駅のホームに停まる電車の、窓の向こう側に。
『ソレ』はなんだか霧みたいな、靄みたいな、黒い塊でね。
何もないはずの空中から、血走った目でこっちをじいっと見つめていた。
そして『ソレ』は、私と目が合うと、ニイィっと笑って――。
果南「っ……」
怖かったよ。
『アレ』に関わってはいけない。
目を合わせてはいけなかった。
後悔したけど、私はもう電車に乗り込んでしまっていて。
だから、せめて皆が気づかないように、窓を閉めて、ひさしで覆ったんだ。
果南「実はちょっと、風が気持ち悪くて」
そう嘘をついて。
電車が出発しても、身体は小さく震えたままだった。
果南「大丈夫、大丈夫……電車には、ついてこられないから……」
そう、自分に言い聞かせて、ずっと目をつぶって過ごしていた。
目をつぶっていたからか、疲れていたからか、少し眠ってしまって。
浅い眠りから目が覚めると、不思議なことに、全部夢だったんじゃないかって思ったんだ。
だって、ありえないよ。
空中に何かが浮かんで、こっちをじっと見てるなんて。
怖い夢を見ただけだ。そう思った。
千歌「もう体調は大丈夫なの?」
果南「体調……うん、大丈夫。だいぶ寝ちゃったからね。」
千歌「そっか、よかった!」
曜「夜もしっかり寝なきゃダメだからね、果南ちゃん!」
果南「はいはい、わかってますよーだ」
こんなやり取りができるくらいには、気分もよくなってたんだ。
でもね。
電車を降りたら、『ソレ』がいた。
果南「ぁ…ぇ……な、なん、で……」
鞠莉「果南? ほらほら! 早く降りないと」
果南「あ、ま、鞠莉……」
鞠莉はにこにこして、私の背中を叩いてきたんだ。
その時の鞠莉ったら、ほんとに楽しそうでさ。
私、思ったんだ。
私はここにいちゃいけない。
鞠莉に、Aqoursの皆に、大事な仲間に『アレ』を近づけちゃいけない。
だから、
果南「あ、私ちょっとお手洗いに行ってくるね。先帰ってていいから」
とにかく、その場を離れようとした。
ついて来ようとする鞠莉を怒鳴りつけても、ね。
『ソレ』は私についてきた。
駅を出ても、どこか知らない方向に走り出しても。
明るい繁華街を通っても、暗い道に入っても。
私が走っても、だんだん追いついてきて。
黒い、霧みたいな腕が絡みついてきて……。
痛くて……寒くて……寂しくて……。
―――――
――
果南「それで、喰われたってわけ」
善子「……」
一息にそう言うと、果南はしばらく口をつぐんだ。
小さく、本当に小さく果南の手が震えているのを見た。
ぎゅっと握ると、果南は少し驚いた顔をして、握り返してくれた。
果南「ありがとう、善子」
善子「ううん、『アレ』は……本当に、怖いもの」
果南「ふふっ、さすがの堕天使もびびっちゃった?」
善子「なあっ! 今そういうこと言う空気じゃないでしょ!」
いたずらっぽく笑う果南の顔にまた泣きたくなった。
ここ数日、動かない『果南』を見ているのはとてもつらくて。
冷たい頬に触れるたび、からかわれた記憶や、一緒に笑った記憶が甦ってきて。
そして今、ずっと見たかった笑顔を見ることができた。
それでも、きっと自分たちは、もう……。
善子「ねえ、教えて。私たちはいったい……」
問いかけると、果南は真剣な顔になってまた話し始めた。
果南「私も、自分で考えただけだから、合ってるかはわからないけど……」
果南「私たちは、たぶん生きても、死んでもいないんだと思う」
善子「死んでない……?」
果南「そう。魂だけ、そんな感じかな。私たちの身体は生きているけれど、私たちの魂はこうして外に出てしまっている。魂は、他の人には見えない」
善子「魂、だけ……」
果南「うん。だから、今からホテルに行ったら、倒れている『私』と『善子』を自分で見ることになる」
善子「うぇ…、なんだか嫌な気分ね」
果南「たしかにね。私も慣れないなあ」
果南「それに……」
到着したバスに乗り込みながら、果南は言葉を続ける。
果南「私たちは魂だけど、空を飛んだり、早く移動したり、そういうことはできないみたい」
果南「物にも触れるし動かせる。でも、扉にだけは触れない」
善子「そっか、だからあの時……」
果南「そう。善子は花丸の家の扉には触れなかった」
バスの隅に2人で立つ。
人が近くに来たにしては不自然に、周りの乗客は視線を動かさなかった。
一瞬顔をしかめ、果南が続ける。
果南「私たちが触れたものは、一時的に「存在しなく」なる。まるで、最初からそこになかったかのように」
果南は他の乗客の鞄を持ち上げる。
乗客はまるで反応しない。
大事なものがたくさん入っているだろう鞄を取られたのに、視線一つ鞄の方に動かさなかった。
果南「そして私たちが手を放すと、それはまた「現れる」。それでも、周りの人はそれを不審には思わない」
果南が少し離れた場所に鞄を置く。
乗客は何気ない動作で鞄を拾うと、また席に戻った。
少し恥ずかしそうにしている。
まるで"今落としてしまった"かのように。
善子「なんだか、変な感じね。私たちは別の世界にいるってこと?」
果南「どうだろう……。私も、いろいろ試してみただけだから。誰かに教えてもらったわけでもないし」
果南「五感もあるし、痛みも感じる。完全に幽霊ってわけでもないのかな……。でもね、」
果南「魂はね、夜眠れないんだ」
果南はさらっと付け加えた。
善子「それじゃあ、果南さんはずっと、1人で…? 毎晩、毎晩……。そんなの……っ!」
果南「……善子は優しいね」
ぽんぽんと、頭を叩かれ、また泣きそうになる。
魂になると、涙腺まで緩むのだろうか。
善子「じゃ、じゃあ……。果南さんの、足が、その……」
果南「……」
口ごもった自分を果南は何とも言えない表情で見つめていた。
しばらく静寂が続いた後、果南は口を開いた。
果南「そう、だね。それも言わないと。大事なことだから」
果南「私たちが……魂が負った傷は、『私』たちに……つまり身体に、跳ね返る」
善子「っ!」
だったら、果南はどこかで、足が折れるほどの大怪我を……。
善子「な、何があったの……?」
果南「……自分で、やったんだ」
善子「え……?」
果南「怪我したら、どうなるか、確かめようと思って」
果南「自分で、自転車の前に飛び出してみたんだ」
今までと違い、果南は目を合わせようとしない。
自分で怪我をした?
いや、実験の一つだと考えればわからなくはない。
それでも、いきなり大怪我をするというのは……。
善子「な、んで……何でそんなことしたのよ! 他にもっと、やり方が……!」
果南「……」
善子「果南さ――っ」
肩をつかみ顔を覗き込んで、息をのんだ。
普段の果南からは考えられないような、昏い、昏い目。
そうか、果南は、本当に――。
善子「……ばか」
果南「……うん、本当にそうだね」
果南「でもね、毎晩、鞠莉が泣くんだ。『私』の横で、鞠莉が泣くんだよ」
善子「……」
どれだけの、苦しみだったのだろうか。
何もできずに。ただ皆が泣くのを眺めて。
夜も眠れずに、冴えた頭でいろいろ考えて、それでも何もできずに。
きっと果南は、自転車の前に飛び出して、あわよくば――。
それからホテルに着くまで、自分たちはどちらも、一言も発しなかった。
ホテルの前につき、誰かが自動ドアを通るのを待ちながら、果南は小さく呟いた。
果南「ねえ善子。私、最低なんだ」
果南「こんなに、つらいのに。苦しいのに。痛かったのに、またつらい思いをするのに」
果南「善子が喰われて―――話せてよかったって、そう、思ってる」
消え入りそうなその声に、何も言えなかった。
――――
――
――――――
――――
千歌「……」
ダイヤ「……」
鞠莉「……」
曜「……」
梨子「……」
ルビィ「……」
花丸の話が終わると、たっぷり数分、誰も何も言わなかった。
自分たちの最悪の予想が当たってしまったかのような、そんな気分だった。
千歌「ほんとうに」
千歌が呟く。
千歌「ほんとうに、そんなことが……」
花丸「…っ……」
誰もが、思っていることだった。
花丸が怖い夢を見ただけではないか。
「霊的な」ものの仕業かもしれないと話しておきながら、いざ実際に証拠が出てくると、全員がそれを認めたくなかった。
もし、花丸の言うような化け物が、自分たちの前に現れたら。
妹に――ルビィに牙をむいたら。
想像して、ぞくりとした。
梨子「花丸ちゃん……ありがとう、話してくれて、ありがとう……」
梨子を皮切りに、皆が順番に花丸を抱きしめる。
すっかり怯えて、震えてしまっている花丸は、申し訳なさそうに首を振った。
花丸「ごめんなさい、マルのせいで、善子ちゃんが……」
ダイヤ「いいえ、花丸さんのせいではありません」
ルビィ「うん、それに……花丸ちゃんが無事で、ほんとに、よかった」
そう言ったルビィの言葉に、花丸はまた涙を流した。
ダイヤ「しかし…花丸さんの話を聞くに、無事だったことは奇跡的なことのように思えますわ」
曜「ちょっとダイヤさん!」
花丸「ううん、マルも、そう思ってたから……」
花丸「もしかしたら、善子ちゃんが守ってくれたんじゃないかって」
花丸が神妙な顔で善子を見つめている。
今聞いた話は少し不自然だった。
花丸が絶体絶命のピンチに陥った。
善子が現れた。
その時点では、玄関の扉は開き、化け物は中にいたはずだった。
しかし花丸が目を覚ました時、扉は閉まり、『善子』が外に倒れていた。
それも、扉を押さえつけるようにもたれかかって。
梨子「よっちゃんが、その…『ソレ』に対抗した……?」
梨子が信じられないとばかりに目を丸くする。
千歌「どうやって……、もしかして、堕天使の力……とか」
千歌の言葉に全員が考え込む。
常日頃から善子が口にしていた堕天使という言葉。
非現実的だと切って捨てるには、非現実的なことが起こりすぎていた。
曜「ねえ、善子ちゃんの持ってるこれ、何、かな……」
曜が『善子』の手を指さして、不意に口を開いた。
見れば、何やら銀色の鎖のようなものが、『善子』の指の間からこぼれている。
ダイヤ「これは……ロザリオ、ですわね」
先に十字架が付けられている。
善子はこれを随分きつく握っていたのだろう。
手の平に赤い痕が残ってしまっている。
ひょっとしたら…。
同じことを思ったのか、花丸がふらふらと善子の身体に近づく。
花丸「善子ちゃんは、大馬鹿ずら……。こんな格好で、十字架なんてジャラジャラつけてきて、マルが元気出すとでも思ったずらか?」
花丸はそっと善子の手の甲を撫で、ロザリオを見た。
花丸「善子ちゃん、よしこちゃん、これでっ、守って…っ、くれたの……?」
花丸「よしこちゃん、会いたい、会いたいよ……っ! 会って、お礼をっ…! マル、マル……っ…!」
ルビィ「花丸ちゃん……」
ダイヤ「……ひとまず、全員がこれを身に着けること。もちろん、果南さんの分も、買いましょう」
少しでも、少しでも手がかりがあるなら、何でもする。
そっと、花丸の手を握った。
――――
善子「花丸が、泣いてるわ。私のために、ずぅっと……」
果南「……うん」
果南が手を握ってくれる。
なんとか千歌たちに合わせて部屋に入り込めた自分たちは、沈痛な面持ちで話し合う皆をぼうっと見下ろしていた。
果南「善子は、マルを守ったんだね」
善子「私にも、わからないの。ただ夢中で、ロザリオを突き出して……」
果南「……」
どうしてロザリオが、効いたのだろうか。
2人で考え込んでも答えは出そうにない。
果南「とりあえず、明日ダイヤたちについて買い物に行こう。私たちも一応ロザリオを持っておかなきゃ」
善子「窃盗の間違いでしょ?」
果南「うるさいなぁ、もう」
少しずつ、進んでいかなければ。
花丸の家や図書館にも行って、資料を読むのを手伝って。
夜を明かして、そしてまた……。
善子「ね、果南さん」
果南「……ん?」
善子「夜を恐れる必要なんてないわ。だってこの堕天使ヨハネがついてるんだもの! 漆黒の闇は私の一部なの!」
果南「……ふふっ、そうなの? じゃあ、大丈夫かな。一緒にいれば、大丈夫」
柔らかい見慣れた目で、果南が笑った。
――――
――
――――――
―――
それから数日、目立った事件は起こらなかった。
自分は姉と一緒に怪異や物の怪の本を読み漁っていたが、情報が少なすぎてどれを参考にしたらいいかわからなかった。
今のところ共通点は夜に襲われたということのみ。
果南は夜中に、善子は7時ごろに襲われたことを考えると、時間にもばらつきがあると考えてもいいかもしれない。
善子が持っていたものと似たようなロザリオを手に巻き付け、効果があるかもしれないと花丸が持ってきたお札をポケットに忍ばせる。
自分が何だか別世界の住人になってしまったようだった。
ダイヤ「ふぅ、ルビィ。今日はこのくらいにしましょうか」
ルビィ「うん、お姉ちゃん」
ダイヤ「そろそろ日が落ちますわ。早く帰らねば」
ルビィ「……うん」
横目で姉の顔を盗み見る。
最近姉は笑わなくなった。いつも焦っているような、つらそうな顔をしている。
果南という親友が襲われたのだから、無理もない。
自分も善子のことを考えると胸がきゅっと縮むような、つらい気持ちになった。
果南だって姉の友達として小さいころから交流があった。
そして何よりもAqoursのメンバーとして、友達として大切だった。
2人は、いったいどれほどの恐怖を味わったのだろうか。
花丸の話を聞いて、一層怖ろしくなった。
ダイヤ「ルビィ、いいですか。絶対に不用意に扉を開けてはいけません」
ルビィ「うん、わかってる」
時々、姉はこうしてルビィに言い聞かせる。
知り合いの声を真似されるかもしれない。
その事実は自分たちに重くのしかかっていた。
ホテルでも、人が訪れるたびに丁寧に本人確認作業を行うようになった。
自分たちの間にはいつも張り詰めた空気が漂っていて、皆の神経を尖らせている。
――――
家に着いて、夕飯を食べる。
最近すっかり元気をなくしてしまった自分たちに、両親は心配顔だ。
美味しいはずなのに味のあまりしない料理を口にし、少し残す。
食べ終わった後は、姉と交代で湯に入り、その後は自室で過ごす。
何気ない一日の合間合間に、どうしても暗い気持ちにならずにはいられなかった。
ダイヤ「ルビィ、少しいい?」
コンコンというノックに本人確認をし戸を開けると、姉が何かを持って立っていた。
ルビィ「あ、それ……!」
ダイヤ「ええ、μ'sのDVDですわ……」
姉は少しバツが悪そうにもじもじしている。
ダイヤ「その…もちろん、こんなものを見ている場合ではないことはわかっています。でも、何か元気が出ればと思って……」
ルビィ「うん……!見よう、見ようよお姉ちゃん。少しでも、元気を分けてもらおうよ。」
いつものようには、楽しめないかもしれない。
それでも、擦り切れた心に、何かが必要なのだと、姉もそう思っているのだと感じた。
ノートパソコンを付け、再生ボタンを押す。
軽快なイントロとともに、2人の好きな曲が。
ダイヤ「……」
ルビィ「……」
いつもははしゃぎながら見ているDVDを、神妙な顔をして2人で見ていることがおかしかった。
それでも、明るい声を出す気分にはなれなかった。
画面の中で、9人が踊っている。
きらきらと、楽しそうに。幸せそうに。
果南と善子は、目を覚ますのだろうか。
自分たちも、もう一度9人で踊れる日が来るのだろうか。
口に出すわけにはいかない不安を、姉の手を握ることで紛らわした。
ここ数日、数週間の激しい記憶が、流れてくるメロディに乗って染み出していくようだった。
悲しみ、悔しさ、怒り。そういった感情が、少しずつ棘を丸めていった。
1曲目が終わる。
短い静寂が部屋に訪れる。
ダイヤ「やはり、素晴らしいパフォーマンスでしたわね」
ルビィ「うん……」
ダイヤ「わたくしたちも、励まねば、なりませんわね」
ルビィ「そう、だね」
口に出しつつ、お互いに心では別のことを考えていた。
DVDを見て元気が出ているのかと言われれば、よくわからなかった。
ただ、2人を助けたい、もう誰もあんな目に遭ってほしくない。そんな想いだけは、強くなった。
ダイヤ「わたくしは、エリーチカが好きですわ」
ルビィ「……うん」
ダイヤ「それでも、わたくしが、ともに舞台に立ちたい、そんな相手は……」
ルビィ「…お姉ちゃん」
姉は必死にもがいている。
諦めかけそうになる気持ちに何度も活を入れながら。
もしかしたら自分も、どこかで諦めているところがあるのかもしれない。
言い聞かせるように、言葉を継ぐ。
ルビィ「私も……。私も、小泉花陽ちゃんが好き」
ルビィ「でもね、私が、小さい時から一緒に踊って、一緒に歌ってきたのは……」
ダイヤ「ルビィ……」
きっと、果南と善子と一緒に踊りたいと言うべきだったのだろう。
その気持ちも、嘘じゃない。
それでも、今は姉の傷つく姿を見たくなかった。
何より、姉に笑っていてほしかった。
今も部屋に飾ってある、段ボール製のはりぼての衣装でもいいから、姉と踊っていたかった。
ダイヤ「…ルビィ……」
一度、ぎゅっと抱きしめられて。
ダイヤ「ルビィ……。わたくしの、ルビィ……。どうか、どうか無事で……」
ルビィ「お姉ちゃん……」
しばらくそうしていた後、姉は顔を洗いにと場を離れた。
姉が幾分かすっきりした顔で戻ってきた後は、2人とも一言も言葉を交わさず、ただただDVDをぼんやり眺めていた。
――コンコンと、ノックの音がしたのはそれから30分後くらいのことだった。
自分たちの様子を心配していた母が来たのだろうと思い、返事をする。
『ルビィ、開けて』
『――ダイヤですわ』
扉の向こうからは、姉の声がした。
ルビィ「ぇ……?」
一瞬、意味が分からなかった。ダイヤは中だ。
一緒にDVDを見ているではないか。
声質が似ている母が悪ふざけでもしているのかと取っ手に手を伸ばし……
寸前で引っ込める。
嫌というほど聞いた話。
――『アレ』は他人の声を真似できる。
思い出し、ぞくりとする。
今、取っ手を捻っていたら……。
ルビィ「はっ…はっ…はっ……!」
呼吸が無意識のうちに浅くなる。
"いる"。この扉の向こう側に、果南と花丸を襲った「何か」が。
『開けなさい、ルビィ! そこにいるのは偽物ですわ!』
突然ノックの音が激しくなる。
動機が激しくなる。
何か行動を起こさないといけない気分に苛まれる。
「偽物」…? 誰が…?
中にいる姉が?
そんなはずはない。ずっと一緒に――
ずっと?
顔を洗いに行った時も?
戻ってきた後様子は変ではなかったか?
少しでも言葉を交わしたか?
本人確認は――……していない。
ダイヤ「耳を貸してはダメ! ルビィ! 扉から離れなさいっ!」
がんがんと耳鳴りがする背後で、誰かの声がする。
偽物……どっちが…?
後ろに立っているのは、『誰』…?
『ルビィ! 逃げなさい! 開けなさい! ルビィっ!』
ルビィ「ぇ…あ…うぅ……」
ぐちゃぐちゃになった頭でそろそろと手を伸ばしかける。
ダイヤ「ルビィィっ!!」
悲痛な叫び声と共に、後ろから羽交い絞めにされた。
ルビィ「嫌あああああっ!」
背後からの突然の衝撃にパニックになる。
ルビィ「放して! 助けてっ! お姉ちゃん、お姉ちゃんっ!」
ダイヤ「ルビィ、姉はここです、中です! ダイヤは中にいますわっ!」
勢いあまって床に倒れる。
壁に強くぶつかり、姉を押し倒すような体勢になる。
ダイヤ「くっ…! ルビィ、落ち着きなさい! ルビィっ!」
ダイヤ「『アレ』は…姿まで化けられるかはわかっていません! わたくしを見なさい! ルビィっ!」
ルビィ「お、おねえちゃん、おねえちゃんっ!」
ダイヤ「あ、姉は私ですわっ! 大丈夫、大丈夫だから…っ!」
ルビィ「ぁ…っ、はっ、…お、お姉、ちゃん……」
ダイヤ「そうです、姉のダイヤです。わたくしの顔をしっかりご覧なさい」
ルビィ「ごめっ、ごめんなさいっ! ル…っ、ルビィ…っ!」
ダイヤ「大丈夫。大丈夫ですわ。あんなの誰だって、パニックになってしまいます。ルビィは悪く――」
突然、姉が言葉を切る。
目をいっぱいに見開いて、倒れたままルビィの肩越しに「何か」を見上げている。
ダイヤ「ルビィっ!」
ドン、という衝撃とともに、部屋の奥に突き飛ばされた。
ルビィ「…っ…! い、ったぁ…っ」
収納棚にぶつかり、痛みにあえぐ。
ルビィ「お姉ちゃ…な、なにを……っ、ひっ…あ……っ」
『――――アイタ』
扉が、開いていた。
もみ合った時にぶつかってしまったのだろうか。
うっすらと開いた隙間から黒い、黒い闇が入り込んでいた。
ルビィ「お姉ちゃんっ!!」
ダイヤ「来てはいけませんっ!!」
震える声で、姉が制する。
細く入り込んだ闇は瞬く間に部屋の入口の戸を覆い、肺にまで入り込んでしまったように息苦しくなる。
ルビィ「ぁ…ぉ、ぉね…お姉、ちゃん……っ!」
『アハハハハハハハアケタアイタイアタアケタケタケタケタケタッッッ!!』
身体の芯を凍らせるような声とともに、『ソレ』が形を取り始める。
全身から夥しい数の目がこちらを見据えている。
身体の上部、斜めに大きく裂けた亀裂からは歯も何も見えず、ただただ、がらんどうの闇が続いているだけだった。
ダイヤ「ぁ…る、ルビィ……にげ、なさい、逃げ…っ……」
姉は床に倒れた姿勢のまま、うまく起き上がれないでいる。
ルビィ「ぃや…やだ……っ、お姉ちゃんっ! 嫌だよぉ……っ!」
ダイヤ「いいからっ! 逃げなさいっ! 逃げ――っ、か、はっ……!」
ルビィ「ひっ、い、嫌…っ……お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
『ソレ』が腕を伸ばし、姉を締め上げる。
姉は口をぱくぱくさせ、苦し気な空気を漏らしている。
自分のせいだ。
自分が、惑わされたから。
ちょっと考えたらわかったのに。
ルビィ「は…っ、放してっ! お姉ちゃんを、放してぇ!」
姉に近づこうとするが、数十もの視線に射られて足が止まる。
ルビィ「ゃ…ゃめて……やめ……っ!」
ダイヤ「あ…ぅ……る…び……ぃ…っ」
ルビィ「そ、そうだ、ロザリオ! これ、握れば……!」
ずっと手に持っていたロザリオとお札を構えて、再び接近を試みる。
しかし、突き出した右手をすぐに靄が取り囲み、簡単に押し返されてしまう。
ルビィ「な、んで…っ、なんで……っ!?」
まるで効いていない。
ルビィ「効かない! 効かないよぉっ!」
半ば狂ったように叫びながら、辺りのものを手当たり次第に投げつける。
どれも黒い靄を何の抵抗もなく通り抜け、虚しく地面に落ちるだけだった。
何か、何かないか。
姉を助ける、何かが。
一心不乱にあたりをひっくり返す。
そうしている間にも、姉の目からは涙がこぼれ、息遣いはどんどんと浅く。
さっきまで抵抗を続けていた腕はもう力なく垂れさがっている。
ルビィ「やだ……やだやだやだっ! 誰か、助けて! お姉ちゃんと、まだ一緒にっ! 誰か……っ!」
ガツンと音を立てて、まだ再生を続けていたノートパソコンに躓く。
倒れた先には、以前姉と身に着けて踊っていた、段ボール製の羽があった。
ルビィ「うぅ…助け…助けてよぉ……。」
羽に手を伸ばし、抱え込む。
ルビィ「花陽ちゃん……力を、力を貸して――っ」
トクンと、何かが高鳴った気がした。
ルビィ「お、お姉ちゃんを、放して…っ、もう、やめて……っ」
もう一度、ふらふらと姉のいる方へ。
ダイヤ「……る……ぃ………げ……」
嫌だ。嫌だ嫌だ。
さっき、姉の笑顔を願ったばかりなのに。
さっき、一緒に踊る未来を望んだばかりなのに。
ルビィ「また…っ、一緒に踊るんだもんっ! お姉ちゃんと一緒に! Aqoursの皆と一緒にぃっ!」
一歩一歩、姉に近づいていく。
ルビィ「だから…やめてっ……」
靄に圧し潰されながら、それでも這いずりながら。
ルビィ「やめて…、放して…っ……」
精一杯、声を張り上げて。
『やめてええええええええええ!!!』
―――きいいいいぃぃぃぃぃぃぃん――……
高い、高い金属が割れるような、澄んだ音がした。
『アアアアアアイアアタタアアアアアヤアアアアクルウウクヤアアシイイイイイイ!!!』
『ソレ』は絶叫すると、ガタガタと暴れまわった。
一斉に輪郭がぼやけた腕が引っ込み、姉がくたりと地面に身体を投げ出す。
ルビィ「あ……、は、放した…お姉ちゃんをっ…放したぁ……!」
『ソレ』は依然として部屋の中をぐるぐると激しく揺らしている。
グラグラと棚が揺れ、這いつくばる自分の頭に物が飛んでくる。
ルビィ「こ、こっちに! 出てってっ!!」
必死で駆け寄り、窓を開ける。
『ソレ』は窓枠が外れそうなほどの衝撃と共に、夜の闇に飛び出していった。
部屋には、崩れた棚と、身体を丸めて倒れる姉と、段ボール製の羽をもってへたり込む自分だけが残されていた。
ルビィ「はあっ、はあっ、はあっ……っ!」
震える手で窓を閉め、扉も閉め。
ルビィ「お姉ちゃん、お姉ちゃんっ!」
倒れている姉に駆け寄った。
息は――ある。
首や腕に色濃く痕が残ってしまっているが、どうやら息はあるようだった。
ルビィ「お姉ちゃん! 目を覚ましてっ! お姉ちゃんっ!」
一瞬、果南と善子の顔がちらついた。
首を振って、大丈夫だと言い聞かせる。
ダイヤ「……ぅ……」
微かに、姉が呻いた。
ルビィ「頑張ってっ! お姉ちゃん!」
ダイヤ「ぅ…、けほ、こほっ…!」
咳き込んだ姉が目をうっすら開ける。
ルビィ「お姉ちゃん、お姉ちゃん…っ! よかった、よかったよぉ…っ」
ダイヤ「る、ルビィ…、あなた……っ」
ルビィ「お姉ちゃん……μ'sがね、μ'sが、力を貸してくれたんだよ」
ダイヤ「ああ、ルビィ……。無事で、無事で、本当に……」
ルビィ「お姉ちゃんも、ほんとに、よかった……。ごめん、ごめんね……」
静かな部屋で、パソコンから鳴る電子音だけが響いていた。
――――――
――――
ダイヤとルビィが襲われた。
そう聞いたときは肝をつぶした。
思わず、どっちが、と聞き返してしまい、そしてどっちも助かったという報せに倒れこみそうなほど安心した。
鞠莉「ね、果南、2人とも助かったって。また何か、わかるかもしれない。そうしたら、果南も――」
果南「……」
意識のない果南に話しかける。
最近はすっかり癖になってしまっていた。
いつか果南が返事をくれるのではないかと、心のどこかで期待してしまっている。
鞠莉「ダメね、私……。皆が来るまでに、しっかりしないと」
こちらも癖になってしまっている独り言をこぼし、身だしなみを整える。
度重なるストレスで髪が荒れている。
鞠莉「ちゃんとしないと……。2人を助けて、また9人でAqours、するんだから」
ダイヤ「そうですわ。鞠莉さんがそんなでは、いけませんわよ?」
鞠莉「……!」
鍵がガチャリと開いて、ダイヤとルビィが入ってきた。
鞠莉「ダイヤ! それにルビィも! ああ、よかったわ! ほんとに!」
ルビィ「ま、鞠莉さん…苦しい……」
鞠莉「Oh,sorry ! そうね。2人ともゆっくり休んでちょうだい」
ダイヤ「ええ……さすがに、心労が大きいですわね」
鞠莉「大丈夫? 話せそう?」
ダイヤ「もちろんですわ。しっかりお話します」
ルビィ「ルビィも……大丈夫」
力強い言葉が返ってくる。
鞠莉「あら、ルビィもすっかり頼もしくなったわね」
ルビィ「うん、μ'sが助けてくれるんだ」
鞠莉「μ'sが……?」
ダイヤ「ええ、そのことも後でお話ししますわ」
真剣な顔のダイヤに、頷いた。
――――
千歌「み、μ'sが……?」
姉妹の話を聞いて、千歌が期待のこもった目で繰り返した。
ルビィ「う、うん……この羽に、お願いしたんだ」
曜「えっと、その段ボールの羽が、μ's……?」
ルビィ「うん! 昔お姉ちゃんと一緒に作って踊ったことがあって……」
梨子「そんなことしてたんだね、ダイヤさん……」
ダイヤ「い、今はその話は関係ありませんわ! とにかく、『アレ』を撃退できた要因をもう一度考えるべきです!」
恥ずかしそうにダイヤがそっぽを向く。
首の痛々しい痕が露になり、胸が痛む。
かなり強く絞められたのか、花丸の痣よりもくっきりと色濃くついてしまっている。
鞠莉「ダイヤ、痛くないの……?」
ダイヤ「ええ、ほとんど痛みはありませんわ」
鞠莉「そう……」
ダイヤ「とにかく、話を戻しますわよ」
ダイヤがそう言って皆に向き直る。
――撃退した。
この事実は思った以上に自分たちに勇気をもたらしてくれていた。
皆の口数も少し増えている。
花丸「で、でも、おかしいずら。もしμ'sが力をくれたなら、善子ちゃんはマルのこと、助けられなかったはずで……」
花丸がルビィを後ろから抱きしめながら異論を口にする。
報せに肝をつぶしたのは自分だけはなかった。
千歌「あ、たしかに……」
梨子「それに……。『ソレ』が来たとき、まだμ'sのDVDがついてたんだよね……。もしμ'sが苦手なら入ってこられないんじゃないかなあ」
ルビィ「うん、たしかに、まだついてた……」
ダイヤ「やはりその点が不可解ですわね。これは、一つの可能性ですが……」
皆がダイヤに注目する。
ダイヤ「『何を持っているかは関係ない。強い想いが闇を退ける』……というのは、どうでしょうか」
ルビィ「強い、想い……?」
ダイヤ「ええ、善子さんは、花丸さんを助けたいという強い想いを、ルビィは、その、わたくしを……」
鞠莉「ちょっと、言ってて恥ずかしがらないでよ」
ダイヤ「う、うるさいですわね!」
ダイヤ「とにかく、μ'sの存在は、おそらくルビィに勇気のようなものを与えた……。その意味では、μ'sが力を貸してくれたというのもあながち間違いではないかもしれませんが」
花丸「そっか……、精神力とか、そういうのってことだよね……」
花丸「たまにお寺に来る祈祷師の人も、やっぱり精神力とか、向き不向きがものを言うんだってよく言ってたずら……」
曜「精神力、かあ……」
鞠莉「とにかく、夜はあまり1人で行動しない方がいいみたいね」
ダイヤ「ええ……。扉は必要ない時は開けない、というのも、もう一度徹底する必要があります」
ルビィ「うゅ……」
バツが悪そうに俯いたルビィの頭をダイヤが撫でる。
皆、幾分か明るい顔で、その日は解散になった。
――――――
――――
ダイヤ「不満そうですわね」
皆が帰った後、残った自分は、鞠莉と一緒に『2人』の身体を拭いていた。
ルビィは花丸に付き添われて帰っていった。
鞠莉「そりゃあね」
鞠莉が疲れた目で肩をすくめる。
鞠莉「想いが闇を退ける……、もちろん、信じたい、信じたいけれど……」
ダイヤ「…そう、ですわよね……」
実質、「何もわからない」と言ったも同じだった。
「気を強く持て」とも。
ダイヤ「それに、この2人については、やはり何も……」
鞠莉「……ボウセンイッポウってやつ?」
ダイヤ「そう、認めざるを得ませんわね」
せめて、2人を助ける目途さえつけば。
何度も何度も、そう思う。
鞠莉「……ダイヤ」
ダイヤ「何ですの?」
鞠莉「ダイヤは、いなくなっちゃわないでよね」
ダイヤ「……鞠莉、さん」
ハッとして振り返ってみれば、消えてしまいそうな顔をした鞠莉がいて。
この寂しがりな友人を、とても怖がらせてしまったのだと気が付いた。
ダイヤ「まだまだ、為すべきことを為せていませんわ。消えたりなど」
鞠莉「うん……。約束よ。絶対」
弱々しく、鞠莉が微笑んだ。
――――
――
――――――
――――
集団行動を心掛けるようになって、数日が経過した。
日中は皆で一緒に学校に行き、放課後は部活動と称して『果南』と『善子』の待つホテルへ。
なけなしの栄養剤と水を飲ませて、皆で特に話すこともなく、ただ一室で過ごして。
本を読んだり調べ物をしたり、やることはあるけれど、だんだんと気が滅入っていくのは止められなかった。
自分とルビィが助かったという事実も、時間が経てば経つほど皆を鼓舞する材料としての効力を失ってきている。
自分たちがそんなに核心に近づいたわけではないことが露呈してきていた。
ダイヤ「はぁ……」
鞠莉「Oh…、ため息はよくないよ、ダイヤ?」
隣で買い物袋を提げる鞠莉が窘めてくる。
自分たち姉妹が襲われて以来、鞠莉は何かと自分の傍にいたがった。
日中の買い物も、一緒に行こうと誘われてもう3日目だ。
普段は小原家の車で来ているけれど、今日は少し遠目で降りて散歩気分。
前と比べて顔が青ざめてしまった鞠莉と、やはり体調がよくない自分の身体を気遣ってのことだった。
しかし買い物を終えたあたりから、腕や首に鋭い痛みが走っていた。
過度な緊張状態に身体が強張ってしまっているのだろうか。
それに先日、ルビィが熱を出した。
花丸がつきっきりで看病をしてくれているが、彼女の体力も底を尽きかけている。
千歌たちは相変わらず調べ物を続けてくれているが、こちらも根を詰めすぎている。
誰もが心身ともに限界なのは明らかだった。
鞠莉「最近、思うの」
唐突に、鞠莉が呟いた。
鞠莉「何で果南だったのかなって……」
ダイヤ「え……?」
鞠莉「あの日…果南、電車に乗る前から様子が変だった。覚えてる……?」
ダイヤ「え、ええ。そうでした」
顔が青くて、何を言っても上の空で……。
そして、電車に乗った後、"窓を閉めてひさしを下ろした"。
まるで、何かを隠してしまうように――。
ダイヤ「ま、鞠莉さん、ひょっとして……!」
鞠莉「やっぱり、そう思う? ……果南、東京で、視ちゃったんじゃないかって」
鞠莉「そこから、ついてきちゃったんじゃないかって、そう思うの」
ダイヤ「だとしても……」
鞠莉「うん、わかってる。果南のせいじゃない」
鞠莉「でもね、相手を知ることって、大事だと思わない?私は、私は果南にそれを……」
ダイヤ「鞠莉さん……」
似つかわしくない小さな声に、胸が締め付けられる。
ダイヤ「諦めては……いけませんわ。相手を知り、対策を立てれば……」
鞠莉「うん、そう、そうね……」
力なくそう言って、鞠莉が考え込む。
自分も、改めて起こっていることについて考え直してみる。
イベントからの帰り道、まず果南が襲われた。
次に花丸と善子、ルビィと自分。
そして、襲われたときに聞いた声。
ダイヤ「『悔しい』……」
鞠莉「え……?」
ダイヤ「悔しいと、言っていたように感じましたの」
鞠莉「それは……『アレ』が?」
ダイヤ「ええ」
ずっと、その理由を考えていた。
何重にも響く声でちゃんとは聞き取れなかったけれど。
それに、善子と、ルビィの力。
何が、『アレ』を退けたのだろう。
ダイヤ「いったい、何が……?」
分からない。
鞠莉「とにかく、材料が少なすぎるわ。だって、私たちの共通点って、Aqoursってことしか……」
ダイヤ「ええ……。スクールアイドルに、何か関係でも――」
言いかけて、言葉を止める。
その瞬間、頭の中で何かが繋がった気がした。
何か簡単なことを、見落としていた……?
大会。果南。善子。Aqours。μ's。そして――
ダイヤ「スクールアイドル…っ! スクールアイドルですわ、鞠莉さんっ!」
鞠莉「え、ちょっ、ダイヤ!? どこ行くの!?」
ダイヤ「本屋ですわ! 確かめたいことがありますの!」
鞠莉「単独行動はダメよ! 私も行く! それに、もうあんまり時間が……っ!」
ダイヤ「すぐ終わりますわ! だから!」
鞠莉の手を引いて、駆けだした。
自分の予想が、正しければ。
きっとヒントは、あの本に……。
―――――
―――
手を引かれて本屋まで来たが、自分には何が何だかわかっていなかった。
ダイヤはきょろきょろと辺りを見回して、さらに奥まで入り込んでいく。
ダイヤ「たしか…たしか、この辺に……!」
雑誌コーナーにたどり着き、はあはあと肩で息をしながら必死で棚に目を走らせる。
鞠莉「ねえダイヤ、そろそろ帰ろう? また時間ある時でいいから、ね?」
時間が微塵もないわけではなかったが、必死な顔のダイヤを見ると、何だか彼女が遠くへ行ってしまうような、そんな気がした。
ダイヤ「もう少し、もう少しだけ……!」
鞠莉「ねえ、何を探してるの? 私にも手伝えることがあれば……」
ダイヤ「え、ええ…、雑誌を…。スクールアイドルの……」
鞠莉「バックナンバーを探せればいいのね? わかった、店員さんに――、ってダイヤ、すごい汗……」
ふとよく見れば、ダイヤはこの気温にもかかわらず滝のような汗をかいていた。
本屋まで走ったとはいえ不自然な量だ。
鞠莉「ね、ねえ、ちょっと暑いならマフラー取って……」
ダイヤ「……大丈夫ですわ。早く聞いてきてくださいな」
鞠莉「いいから!」
渋るダイヤからマフラーを剥ぎ取る。
鞠莉「…っ! そ、それ……!」
ダイヤの首にできていた黒い痣が、脈打っていた。
黒い、禍々しい光をぼんやりと放ちながら、まるで何か別の生き物のように、ドクドクと伸縮を繰り返している。
鞠莉「だ、ダイヤ……っ!」
ダイヤ「……」
鞠莉「いつからなの!? いつから、そんな……っ!」
ダイヤ「…今日、買い物を終えたときから、ですわ。」
まだそんなに時間は経っていない。
鞠莉「だったらこんなことしてる場合じゃないじゃない! 早くホテルに戻って、それで……っ!」
ダイヤ「それで、どうするんですの?」
鞠莉「それは…っ、それで……っ!」
ダイヤ「わたくし、思いますの……。これは、『アレ』が近づいている、そんな予兆ではないのかと」
ダイヤ「現に、花丸さんはわたくしよりもずっと前に痣を付けられていたのに、一回もこのようなことには……」
鞠莉「近づいて、って……、だったらっ!」
ダイヤ「だったら、わたくしは、できることを最期までやりますわ。…鞠莉さんを、巻き込んでしまうことになって申し訳ありませんが……」
ダイヤ「それに……、それに鞠莉さん、あなたはわたくしのことを想ってくれる……。そうでしょう?」
だから大丈夫。
そう言って微笑むダイヤに、投げかけた台詞をぐっと呑み込む。
鞠莉「…っ……! 店員さんっ、呼んでくるっ!」
くるりと踵を返して、店内を駆ける。
ずるい、ダイヤは本当にずるい。
あんなことを言われて、自分が何も言い返せないのもわかっていて。
それでもきっとAqoursのために、何か大事なことをするんだろう。
鞠莉「ちゃんと後で話、聞くんだから!」
――――
親切にも箱で出してもらったバックナンバーを抱えて、ダイヤのところまで戻る。
そう、この角を曲がったら……
鞠莉「ダイヤ?」
すぐには、姿が見えなかった。
見下ろすと、かたかた震えながら蹲るダイヤの姿があった。
ちらちらと心配そうに他の客が見下ろしている。
鞠莉「ダイヤっ!」
大慌てでタオルを取り出し、ダイヤの冷たい汗を拭く。
ダイヤ「ま、鞠莉さん……。雑誌、を……」
鞠莉「ほら、ここに箱があるから、この中に……」
ダイヤは首や太ももを押さえながら、青い顔で箱を漁る。
ひとまず連れが現れたことに安心したのか、他の客は去っていった。
ダイヤ「あの月の…この号の……」
鞠莉「ダイヤ、早く早く!」
もうすぐ日が暮れてしまう。
日が暮れたら、夜が来る。
夜が来たら――
ダイヤ「あ、ありましたわっ!」
苦しそうな、しかし安心したようなダイヤの声がした。
早く、早く早く。
レジに並びながら、トントンとつま先を床に打つ。
幸い見つかるのが早かった。
何のトラブルもなければ日没までには車に戻れそうだ。
念のため、少し近いところまで来てもらおう。
運転手に連絡しながら、必死に自分を落ち着かせる。
鞠莉「大丈夫。私はダイヤのこと、想ってる。守れる、守ってみせる」
言い聞かせるように呟きながら、お金を払う。
ひっつかむようにお釣りを受け取ると、ダイヤの手を取って走り出した。
ダイヤ「はあっ…、はあっ……!」
鞠莉「頑張って、頑張ってダイヤ、大丈夫。もう間に合うから……」
ダイヤ「え、ええ。まだ、日没には、時間があるはずですわ……。車まで行ければ……」
鞠莉「そうよ、その車にも近いところに来てもらっているから、だから――」
鞠莉「…なん、で…っ」
自動ドアの向こう側に、『ソレ』がいた。
――――――
――――
ダイヤ『スクールアイドル…っ! スクールアイドルですわ、鞠莉さんっ!』
ダイヤが突然鞠莉の手を取って走り出した。
善子「ちょっと、ダイヤさん、変なところに行っちゃうわよ」
果南「どこ行くんだろうダイヤ。もう買い物は終わったのに……」
今日は食材を買い込んだら終わりのはずだ。
それなのに、ダイヤはどんどんと車から離れた方向に走って行ってしまう。
鞠莉も状況が呑み込めていなさそうだ。
果南「とにかく、後を追おう、襲われたりしたら……」
善子「…っ……え、ええ」
善子と一緒に後を追う。
最近はずっと2人で調べ物をしていた。
千歌たちについて図書館に行き、勝手に本を漁ったり。
花丸について国木田家に侵入して、資料を読ませてもらったり。
最初は抵抗を感じていたらしい善子も、今では我が物顔で国木田家を闊歩していた。
他にも、ひたすらメンバーに話しかけたり、メッセージを残そうとしてみたり。
できることは何でも試していた。
今日は、気晴らしにでもと、買い物組についていったのだ。
善子「本屋……?」
ダイヤは本屋に入っていった。
果南「何か、気づいたみたいだったけど……それに、ダイヤの首とか腕から……」
善子「私も……見えたわ」
黒い、うっすらとした煙のようなものが漂っていた。
ダイヤのマフラーの隙間から、袖の間から、コートの裾から。
果南「嫌な予感がする……」
ダイヤに続いて、店に入る。
――――
鞠莉が会計を終えて走り出すころには、辺りは少し薄暗くなりはじめていた。
まだ日没までには時間がある。
…なのに。
善子「寒い……。とっても、寒いわ」
果南「……おかしいな、さっきまでそんなことなかったのに急に……」
嫌に、寒気がする。
心の芯から冷えるような震えが襲ってくる。
果南「善子……ひょっとしたら……」
善子「あ、『アレ』が来るって…、そういうこと…っ!? で、でも、今はまだ日は暮れてなくて……!」
落ち着かなくあたりを見回した善子の目が驚愕に見開かれる。
視線を辿って、ぞくりとした。
果南「あ、あれは…っ、あの、黒い靄は……っ」
片時も、忘れたことはなかった。
自分が感じた痛み、恐怖、見知らぬ土地で死ぬかもしれないことへの悲しみ――。
そして、喰われる瞬間の、あの絶望。
善子「ま、マリーがっ! ダイヤさんがっ!」
靄は本屋の入口を覆うように迫ってきている。
じきに入口を覆ってしまうだろう。
始末の悪いことにここは営業中の店。しかも入口は自動ドアだ。
客が来ればドアは開いてしまう。
靄が全貌を表す。
無数の腕に、赤い血走った目。大きく裂けた昏い口。
果南「…あ、れ……?」
善子「なんだか……、なんか、輪郭がはっきりしてない……?」
自分の記憶では、『アレ』は全身が靄に包まれ、浮いているか、それともそこにもともと「ない」かのような……。
しかし今目の前にいる『ソレ』からは、幾分かはっきりした輪郭で、固体として「そこにある」かのような印象を受けた。
果南「ひょっとして……。」
―――善子『なんだか、変な感じね。私たちは別の世界にいるってこと?』
いつの日か、善子とバスの中で交わした会話を思い出す。
別の世界……自分たちのいる「こちら側」の世界。
果南「『アレ』は、「こちら側」の存在だった……?」
考えてみれば当然だった。
自分たちの過ごしていた世界に、あんな非現実的なモノは蔓延っていない。
善子「それって、今、私たちと『アレ』は同じ世界にいるってこと?」
善子「だったら……、私たちでも、気をそらせるかもしれない……?」
仮説を聞いた善子が訝しむ。
善子「理解が追い付かないし、それにっ! この状態で、また喰われたら……、どうなるの、かしら」
果南「……」
善子「……ごめん」
今の状態で、もう一度、喰われたら。
どうなるのだろう。
もう二度と、目覚めないのではないか。
そんな予感に、また寒気が増した。
果南「今は…、今はダイヤと鞠莉を逃がすことに集中しないと……」
この場に居合わせたのは、奇跡としか言いようがなかった。
何としても守らなければならない。
きっと、何か手がかりをつかんだであろう2人は。何があっても。
果南「とにかく、自動ドアが開いたときが勝負だよ」
果南「私たちのこと、見えているかはわからないけど、開いた瞬間に外に出て、それで『アレ』の気を引いて……」
善子「そ、その後は?」
果南「……私がつっこむから、善子は離れたところに」
善子に危ない真似はさせられない。
善子「でも、果南さんが……っ」
果南「大丈夫だよ。これでも鍛えてるからね。善子は……遠くから石でも投げてくれれば」
善子「石って……。効くのかしら? 私たち、何の痕跡も残せないんじゃ……」
バスで乗客の鞄を持った時のことを思い出す。
今の状態の自分たちが何かを持つ、それはつまり――
果南「私たちが持った時点で、たぶんそれは「こちら側」のものになる。他の物に当たる前にそれで攻撃すれば、きっと……」
ぱっと浮かんだ考えをそのまま話す。
検証している余裕はない。
善子「……わかったわ。でも、無理はダメよ。それに私だって、ちゃんと……」
果南「……うん、頼りにしてる」
ずっと、ずっと自分を支えてくれた善子に、改めて感謝する。
善子がいなければ、きっと自分は――
善子「お客さんが出るわよっ!」
善子の鋭い声で現実に引き戻される。
会計を終えた1人の客が、立ち竦む鞠莉とダイヤを追い越して店を出て行く。
入口の『ソレ』にはまるで気づく様子もなく、のんびり歩いていく。
入口まで、あと10歩…
7歩…
4歩…
1歩…
自動ドアが、開いた。
『―――アイタ』
果南「こっちぃっ!! こっちだよっ!!」
がむしゃらに『ソレ』に突っ込む。
はっきり見えるようになった『ソレ』を躱し、ドアの向こう側へ。
果南「こっちだ! 入口から離れてっ!!」
精一杯、声を張り上げる。
『ソレ』の全身の目が、じぃっとこちらを"見た"。
果南「…っ…ぅ……」
一瞬、恐怖に身動きが取れなくなる。
でも。
果南「見えてる……っ! 私たちのこと、見えてるっ!」
善子「果南さんっ! もっとひきつけないと!」
果南「わかってるっ!」
あらかじめ持っていた本で、殴りかかる。
ブニッとした気持ちの悪い感触とともに、確かな抵抗が手に返ってくる。
果南「あ、当たったっ! 善子、石っ!」
善子「え、ええ……っ!」
善子が小さな石を投擲し始める。
石は『ソレ』の身体に弾かれ、また地面に落ちる。
『ソレ』は苛立たしげに少し身体を動かした。
果南「う、動いたっ! こっち、こっちにっ!」
何とか入口から放そうと、少しずつ距離を取る。
善子「そ、そんなに石はたくさん落ちてないわ! すぐ弾切れに……っ」
善子の声が聞こえてくる。
田舎とは言え舗装された道。
ゴロゴロ落ちているというわけにはいかないか。
ならば仕方ないと、もう一度本を構えた時だった。
ヒュッと、こともなげに、まるで虫を払うかのように、『ソレ』が腕を振った。
果南「…っ…か、ふっ……!」
横腹に感じた強い衝撃とともに、身体が投げ出される。
地面に2度、3度ぶつかり、天と地もわからないほど視界が揺れた。
果南「ぁ……ぐ…っ…」
善子「果南さあああんっ!!」
果南「ょ…しこ…石、を……」
善子「喋っちゃダメっ! あ、ああ、どうしたら…『果南さん』にどれだけダメージがいったか……」
善子はおろおろと、横たわる自分の状態を気にしている。
果南「だい、大丈夫、だから……っ、善子、石を、あとちょっとだからっ!」
善子「わ、わか、わかったっ、あと、ちょっと!」
震える足で、善子が立ち上がる。
自分も這いながら本屋から離れる。
ズズ…と、少しずつ『ソレ』は近づいてきてくれていた。
善子「こ、こっちに来なさいっ! ほら、こっちに!」
残り少ない石を、善子が投げている。
いくつかは外れ、いくつかは『ソレ』に当たり、跳ね返る。
『ソレ』が距離を詰めてくる。
果南に腕を振った以外に、やり返してこないのが不気味だった。
善子「そう、こっち、こっちよ! あとちょっと、あとちょっと!」
半泣きになりながら善子が石を投げ続ける。
善子「あ、も、もう石が……っ!」
辺りを見回して、善子が石を探す。
果南「ぁ………っ…善子…っ! 逃げて、逃げっ…!」
緩慢な動作で振り上げられた『ソレ』の腕が、目にもとまらぬ速さで、伸ばした善子の腕を打った。
善子「ああああああああぁぁぁぁっ!!!」
善子が悲鳴を上げて地面を転がる。
果南「善子っ! 善子ぉっ!」
痛みをこらえて、なんとか善子まで近づく。
善子「あっ…かな、果南さんっ…腕が…腕があ……っ!」
果南「大丈夫っ! 大丈夫だからっ……!」
善子「ひっ…あ…っ…痛い、痛いよぉ…っ!」
呻く善子を引きずって、逃げようとする。
『アレ』はいまどこに…。
振り返って確認すると、『ソレ』はゆっくりと、ゆっくりと後ろを向き始めていた。
果南「ダメっ!」
そっちには、ダイヤと鞠莉が…。
善子「お、おわ、なきゃ! 追わなきゃ…!」
果南「善子……っ!」
幸か不幸か、魂が負うのは痛みだけだ。それさえこらえてしまえば、走ることもできた。
お互い支え合いながら、『ソレ』を追う。
と同時に、本屋の入口から『ソレ』の脇をすり抜けるように飛び出した影が見えた。
よたよたとよろめくダイヤを、鞠莉が必死に引っ張っている。
果南「走ってっ……! 鞠莉…ダイヤ…! 逃げてっ……!」
がむしゃらに本を投げつける。
しかし『ソレ』は意に介す様子もなく、ただ漫然と2人を追った。
さっき自分を打ち付けた腕が、前を走る2人に伸ばされる。
果南「耐えて…お願い、耐えて……っ」
ダイヤは走りにくそうに見えた。
痣が痛むのかもしれない。
鞠莉が必死に腕を引くも、どんどんとスピードが落ちていく。
善子「車が見えたわ! あと少しよ!」
果南「頑張れダイヤ……っ!」
鞠莉が小原家の車に大きく手を振って走っていく。
ダイヤもふらつきながらも手を引かれ、ずるずると前に進む。
しかし――
果南「だ、ダイヤっ!!」
ふらついたダイヤの足が、黒い腕に絡み取られた。
善子「果南さんっ! 行って! もう大丈夫だから、走って!」
善子に背中を押され、『ソレ』の横を追い抜く。
果南「ダイヤっ! ダイヤぁぁっ!」
ダイヤをつかむ腕に、思い切り蹴りを入れる。
足への鈍い衝撃に蹲りそうになった。
果南「っ……!」
再び、軽く腕に振り払われた。
ザザッと地面を転がされ、また立ち上がる。
腕は既に、ダイヤの膝辺りまで伸びてきている。
しかし、2人が車の目前にいることも事実だった。
あと少し。あと数十センチだけ。
果南「く…っ! こいつ…っ!」
どんどんとダイヤの姿が呑み込まれていく。
助けようとする鞠莉に対して、ダイヤは鞠莉を車に押し込めようとしている。
違う、2人とも、2人とも助けるんだ。
だから、もう一度。
そう思って、また向き直り、
――ダイヤと"目が合った"。
果南「え……?」
時が止まった気がした。
ずっと横から見ていた緑色の目を、久しぶりに正面から見据える。
ダイヤは驚いたように目を見開き、それから――
果南「わ、…かった、いく、行くよ……」
何も言わなくても。目が合っただけで。
ダイヤが何を考えているか、何を自分に望むのか、わかってしまった。
わかっていた。ダイヤがそういう人だって。
こんな場面で、迷わず選べる人だって。
果南「ダイヤ、ごめんね。……また、後で」
そう呟いて、一歩踏み出した。
ダイヤを追い越し、もがく鞠莉の横を抜け。
扉の開いた車の中に、さっと身を滑り込ませた。
――――
――
――――――
――――
本屋の入口を塞いでいた『ソレ』は、どういうわけか別の方向に少しずつ動き始めた。
話には聞いていたが、初めて見るその異様な姿に、足が竦んでしまう。
ダイヤ「ま、鞠莉さん…っ! 今の、うちに……っ」
ダイヤが荒い息で背中をつついてくる。
鞠莉「…っ、そ、そう、そうね。ここを曲がれば、車があるわ。扉があれば、『アレ』は入ってこない……」
ダイヤ「まり、さんだけ…先に…走ってください……っ! わたくしは、後で……」
鞠莉「馬鹿ダイヤ! そんなのお断りよ!」
寝ぼけたことをいうダイヤの言葉に、身体がカッと熱くなった。
この身勝手な親友を、守らなきゃ。
鞠莉「走るよダイヤっ!」
ダイヤ「ま、鞠莉さん……?」
戸惑うダイヤの目をまっすぐ見据える。
鞠莉「私は、諦めない! ダイヤのことも、果南のことも善子のことも、Aqoursのことも!」
ダイヤ「……鞠莉さん」
ダイヤ「わかりました。……では、一緒に」
ダイヤの手を引いて走る。
自動ドアの向こうに微かに漂う靄を手で払う。
手は何の抵抗もなくすり抜けるのに、ねっとりとした嫌な感触が残った。
ダイヤ「…はあっ…はあっ……!」
ダイヤの足取りが覚束ない。
鞠莉「ダイヤ、あと少し、頑張ってっ!」
ダイヤ「はあ…っ、すみま、せ……っ」
鞠莉「いいからっ! そんなのいいからっ!」
全身の痣が痛むのだろう。
たった数メートルしか走っていないのに、ダイヤの顔が苦痛に歪む。
何とか『アレ』の横は通り抜けたが、『アレ』は徐々にこちらを向き始めている。
ほとんどダイヤを抱えるようにして、先を目指す。
車が見えてきた。
鞠莉「車よっ! ダイヤ、車!」
腕を限界まで伸ばしてドアに手をかける。
鞠莉「っ、着いた…っ! 早く、中に……っ!」
先にダイヤを乗せようと、腕に力を込めた。
鞠莉「…ダイヤ……?」
びくともしない。
ダイヤ「…っ! 鞠莉さん……っ!」
一瞬、ダイヤが怯えた顔を見せた。
鞠莉「っ…足が……!」
ダイヤの足に、黒い霧が絡みついていた。
鞠莉「放して、放しなさいっ!」
ダイヤ「鞠莉さん、車に……!」
鞠莉「諦めないって言ったでしょ!」
もう一度手にぐっと力を込める。
鞠莉「私が、ダイヤを、助けるの……っ!」
鞠莉「だって、だって……っ!」
だって、ダイヤが言ったのだ。
「想う」気持ちが大事なんだと。
それなら、目の前のダイヤを助けるためなら、自分だって。
鞠莉「っ……!」
ダイヤがどんどんと引っ張られていく。
苦しそうな顔で、下半身を靄に包まれて。
ダイヤ「鞠莉、さん…っ、ま、り、さん……、手を、放してください。わたくしからの、お願いですわ……」
鞠莉「嫌って言ってるでしょ!」
ダイヤ「この、ままでは…っ……2人ともっ!」
鞠莉「助かるの! 2人とも!」
鞠莉「あとっ! 乗り込むだけなんだからっ!」
あと、少し。
自分がこの手を離さなければ。少し後ろに引っ張ることができれば。
ダイヤ「鞠莉さ…っ……!」
何か言いかけたダイヤが、息を呑んだ。
どこか別の方向をじっと見つめている。
鞠莉「何してるのっ! 早く!」
ダイヤ「……」
ダイヤ「でし、ったら……! 鞠莉、さん……。わたくしが、合図を出したら、一気に引っ張ってくださいませんか……?」
鞠莉「合図? 合図があったら引っ張ったらいいのね!? 任せて!」
ダイヤ「ええ、身体ごと、思い切りお願いします」
ダイヤがにこりと微笑んだ。
ダイヤ「それでは…、1、2の……」
合図を待つ。
ダイヤはまっすぐ、少し泣きそうな顔でこちらを見ていた。
鞠莉「……ダイヤ?」
嫌な予感がした。
もう一度手を握り直そうと、ダイヤの手首をしっかりつかむ。
ダイヤ「3ッ!」
思い切り手を引こうとする。
くるりと。
手首を捻り返される。
鞠莉「ダイ……っ!」
トン、と。
軽く肩を押されて。
思いきりダイヤを引っ張ろうとした自分は、身体ごと車の中に倒れこんだ。
鞠莉「ちょっ、何して……っ!」
慌てて外に出ようとした自分の目の前で、バタンと扉が閉められた。
鞠莉「……っ、ダイヤぁっ!」
ガラス越しに、ダイヤがぐんと闇に引き込まれていくのが見えた。
鞠莉「ダメっ! ダイヤ! ……ダイヤっ!」
ダイヤの身体は黒い腕と靄に覆われてもうほとんど見えていない。
今から、外に出ても、助かるかどうかわからない。
でも。
鞠莉「いなくならないって言ったじゃない! 絶対、約束だって……っ!」
鞠莉「私が、助ける。『アレ』も追っ払って、絶対、絶対っ!」
ぐっと足に力を込めて、身を起こす。
ドアの取っ手に手を伸ばして、外に――
『ダメだよ、鞠莉。開けちゃダメ』
懐かしい、声を聞いた。
鞠莉「ぇ……」
思わず、手を止めた。
鞠莉「か…なん…? 果南!?」
返事はない。
姿も見えない。
感触もない。
それでも、そこに「いる」のだと、確かにそう思った。
鞠莉「だって、ダイヤがっ! ダメだって、そんなのっ!」
『開けちゃ、ダメだよ』
また、声がした。
ぐるぐると感情が混ざっていく。
鞠莉「どうしてっ! どうして……っ!」
聞きたかった。
聞きたくなかった。
ずっと、ずっと聞きたかったはずの声なのに。
鞠莉「どうして、今なのよ…っ…! どうして、そんなこと言うのよ…っ……!」
どうしたらいいかわからなくて、窓ガラスに手をついてへたり込んだ。
鞠莉「ダイヤぁ…っ、果南…っ…!」
運転手「……お嬢様」
鞠莉「……っ!」
小原家の運転手が、静かに次の命令を聞いてくる。
事情があるからと、何も尋ねないよう言い含めてあった。
頼めば、開けてくれる。
開けて、ダイヤを引っ張り込んで、発車して…。
鞠莉「……」
鞠莉「このまま、何も。私がいいって言うまで――」
鞠莉「窓も扉も、…っ…開けないで」
絞り出すように、そう言った。
ぎゅっと目を瞑り、膝を抱え込む。
鞠莉「ごめん…ごめんなさい……っ」
拳を握りしめて、ただただ涙を零していた。
――――――
――――
果南「…鞠莉……。ごめんね……」
鞠莉は、しばらくずっとすすり泣いていた。
もう自分の声は聞こえていないようだった。
窓ガラスの外を見ると、しばらく前に『アレ』は姿を消していた。
ぐったりと横たわるダイヤの姿が見える。
不思議なことに、黒い痣はすっかり消えていた。
鞠莉「ダイヤ……」
ぼうっと顔を上げた鞠莉が、外を確認する。
ガチャリと車の戸を開け、外に出る。
鞠莉「……冷たい」
鞠莉はそっと『ダイヤ』の頬に手を当てて、一言だけぽそりと呟いた。
周囲にはダイヤのペンやら財布やらが散乱している。
抵抗したときに飛び出たのだろう。
購入した雑誌も道の端の方でパタパタとページを揺らしていた。
鞠莉はその後もくもくと、丁寧にダイヤの荷物を回収した。
鞠莉「ダイヤ…。これに、ヒントがあるのよね。何かに、気づいたのよね……っ」
硬い地面に膝をつき、ぎゅっと、雑誌を抱きしめる。
そして『ダイヤ』を背負い、そっと車に乗せて、去っていった。
果南「善子……いる?」
鞠莉と一緒に車を降りた自分は、辺りを見回していた。
善子「……こっちよ」
善子は道の隅に座っていた。
脇にはダイヤが横たわっている。
善子「なんだか変な気分ね。さっき『ダイヤさん』が運ばれていったのに……」
果南「…そうだね」
善子「……」
果南「……」
穏やかな顔で目を閉じているダイヤを見る。
2回も『アレ』に襲われて、それでも誰かのために動いていた。
果南「ダイヤは、すごいね……」
善子「……うん」
果南「ホテルに戻ろう。鞠莉が心配だよ」
善子「ええ。ルビィも、きっと……」
果南「よ、っと……」
ダイヤを背負い、善子と2人で歩きだす。
――――――
――――
ダイヤ「ん……」
規則的な揺れに、目が覚めた。
ダイヤ「…わたくし、は……?」
ぼんやりとした頭で、辺りを見回す。
まず見えたのは青い髪。
ダイヤ「か、なんさん……?」
そして隣を歩く黒いお団子頭。
ダイヤ「善子さん……?」
果南「あ、起きたんだね……」
やけに近いところで声がして、自分が背負われていることに気が付いた。
ダイヤ「お、下ろしてください! こんなことされなくても歩けますわっ! ほら、果南さ――」
恥ずかしさから声を上げて、気が付いた。
果南と、善子。
善子「もう、ダイヤさんってば……」
果南「ふふっ、随分久しぶりなのに、第一声がそれかぁ……。ちょっと傷つくな、なんて」
ダイヤ「あ…、ぁ……」
ダイヤ「わた、くし…、わたくしっ! ずっと、ずっとっ!」
胸を満たした、暖かくて切ない気持ちが流れ出す。
――見間違いじゃなかった。
2人は少し困ったように、それでもふわりと微笑んで。
果南「うん」
善子「ずっと見てたわ」
「「…お疲れさま」」
――――
ダイヤ「魂だけ?」
果南「うん、たぶんね」
善子「「こちら側」の世界に来ちゃった……そういうことよ」
2人から大まかな説明を受ける。
信じられないことばかりだが、2人が目の前にいることが何よりの証拠だった。
ダイヤ「鞠莉さんは……」
果南「助かったよ。今、『ダイヤ』を連れてホテルに向かってる」
ダイヤ「そうですか…、よかった……」
善子「よくないわよ、まったく。勝手なんだから」
果南「マルを守って喰われた善子は人のこと言えないよ」
善子「それを言うなら果南さんもでしょ! ほんとに怖かったんだから!」
なんだか緊張感があるようなないような。
ダイヤ「……ふふっ、変わりませんわね」
久しぶりに笑った気がした。
ホテルの前につく。
車で向かった鞠莉は、バスで追った自分たちより早くついているはずだ。
ダイヤ「しかし不便ですのね、この状態は」
扉を触ることができないことが、こんなにも面倒だとは思わなかった。
ダイヤ「興味深くもありますわね。こんな…、幽霊? どう言ったらいいのでしょうか……」
ダイヤ「あ、人が来ましたわよ」
後方から人がやってくる。
運のいいことに、曜とルビィだった。
2人とも暗い顔で、涙を浮かべて小走りで入口を通る。
ダイヤ「ぁ……」
2人の顔を見て、一気に気持ちが沈んでいく。
「運がいい」?
果南と善子と再会して少し浮ついていた自分が恥ずかしかった。
残してきてしまったのだった。
彼女たち仲間を、鞠莉を、妹を。
その怖さを、つらさを、自分はよくわかっていたはずだった。
果南「ダイヤ、ここからは、少しきついかもよ」
善子「私たちも、ね」
2人が暗い顔を見合わせている。
身体へのダメージのことはすでに説明を受けていた。
ダイヤ「もし…もし、『お二人』が重傷なようでしたら……」
2人の顔を見る。
ダイヤ「魂のあなたがたも、ここで安静にしていただきますわ」
9人で向かう未来のために。
1人の犠牲も、考えたくなかった。
その直後、部屋に入り、今日の事件で何一つ無事では済まなかったのだと、痛感した。
――――
――
――――――
――――
曜「ダイヤさんっ!」
ルビィと2人で部屋に飛び入る。
まず目に入ったのは、ベッドに横たわる『ダイヤ』だった。
ルビィ「……嘘。…嘘っ、嘘っ! お姉ちゃんっ、お姉ちゃんっ!!」
ルビィがどさりと荷物を落とし、『ダイヤ』に駆け寄った。
部屋の状況は悲惨だった。
ぼろぼろの服を着てあちこち擦りむいた鞠莉は、俯いて一言も発さずに『ダイヤ』に寄り添っていた。
千歌「よ、曜ちゃん……! 果南ちゃんがっ、どうしよう、どうしよう……っ!」
千歌は荒い息で救急セットから包帯を出して、必死に『果南』の手当てをしていた。
『果南』の口の端には血の跡があり、脱がせた横腹には目をそむけたくなるような打撲の痕があった。
花丸と梨子も瞼を震わせながら、『善子』の、遠目で見てもわかるくらいにはっきりと折れてしまった腕に、添え木をあてている。
最初、自分とルビィは『果南』と『善子』の容体が急変したとの報せを受けた。
動揺して泣いていた千歌は、何とか『果南』が急に血を吹いたこと、『善子』の腕が突然折れたことを伝えてきた。
慌ててルビィとホテルに向かう途中に、ダイヤが倒れたと、梨子から電話がかかってきた。
ふらりと倒れそうになるルビィを支えながら、なんとかホテルにたどり着いたのだった。
曜「ダイヤ、さん……」
ずっと自分たちを支えてくれた、2人の3年生。
その1人が倒れたという事実に、どうしようもない絶望が襲ってくる。
曜「た、たしか、今日は鞠莉さんと……っ!」
2人で買い物の予定だったはずだ。
曜「ま、鞠莉さん…っ、何が……っ!」
鞠莉は真っ白な顔をさらに青ざめさせて、震えていた。
曜「ご、ごめん、私、また……」
鞠莉「いいの、曜。私が、最後の3年生なの。しっかりしなくちゃ……」
鞠莉「関係、なかったの。襲われるのに、時間は関係ない。日没前でも、襲われる」
曜「……っ!」
目の前が、また一段、暗くなった。
日没前でも襲われる?
今の自分たちが、「日中は襲われない」という前提の中、何とか精神を保てていることはわかっていた。
それが、四六時中警戒しなければならないとなると。
曜「そんなっ……!」
鞠莉「ダイヤが、何かに気付いたみたいで……。本屋に行って……。そしたら、ダイヤの痣が痛んで……」
ぽつりぽつりと鞠莉が説明を始める。
花丸がバッと、自分の痣を押さえた。
鞠莉「ダイヤは、『アレ』が近づいている証拠だって……」
花丸「マル、全然知らなかった……」
鞠莉「…それで、襲われて……。ダイヤが私に逃げろって言って……」
鞠莉「それで…っ」
ルビィ「…っ……!」
ルビィ「それで…っ、どうしたんですか……っ!」
ルビィ「どうして…っ! お姉ちゃんを放って――っ」
花丸「ダメっ!」
曜「ルビィちゃんっ!」
鞠莉に詰め寄ろうとしたルビィを、2人がかりで止める。
鞠莉が、そんなことをしたはずがないのだ。
そんな簡単に諦めたはず、ない。
何か、事情が……。
鞠莉「果南の声を、聞いたわ」
千歌「え……?」
誰もが手を止めていた。
痛いほどの静寂が耳を打つ。
曜「果南ちゃんの声って……! そんなはず……」
ないと、本当に言い切れるだろうか。
鞠莉が適当なことを言うはずがない。ましてや、果南のことで。
鞠莉「嘘じゃない。私だって、どうしてかわからない。でも…果南が、あの時果南が車の中に……「いた」の」
梨子「で、でも……果南さんは私たちがずっと見てました。千歌ちゃんも、花丸ちゃんも一緒に……」
鞠莉「身体を見たわけじゃないの。あくまで声を聞いた、それだけ」
鞠莉「それに…っ、考えてみれば、『アレ』は不自然に、私たちから離れたわっ! 絶対間に合わなかったのに、本屋の入口で私たちを追い詰めたのに……」
曜「それは……、鞠莉さんが、追い払ったんじゃ……。その、「想い」で……」
ダイヤの言っていた仮説を思い起こしながら鞠莉に問いかける。
鞠莉は悲しそうに首を振った。
鞠莉「私は、何もできなかった。ダイヤの手を引くこと以外、何も。嘘じゃないっ……ほんとに…っ、ダイヤのこと、想ってた……っ!」
ルビィ「ごめんなさい……、鞠莉さん、ほんとは、分かってる…っ、ごめんなさい……」
ルビィが鞠莉の腰にしがみつく。
ふと、千歌が何かに気付いたように口を開いた。
千歌「そ、そういえば、果南ちゃんと善子ちゃんが、その、「怪我」したの……ちょうどそのころだったような……」
花丸「たぶんそうずら! 日が落ちる直前だったから……」
曜「それって……」
全員が顔を見合わせる。
鞠莉「あの場に、果南がいた。果南だけじゃない。たぶん善子も」
梨子「2人が、鞠莉さんとダイヤさんから『ソレ』を遠ざけた……?」
花丸「きっと、その途中で怪我を……」
鞠莉「…私たちを、助けるために……っ」
鞠莉が果南の身体から目を逸らす。
千歌「じゃ、じゃあ、果南ちゃんたちは、幽霊みたいにずっと私たちの傍にいる……?」
曜「だから、私たちには見えない……?」
梨子「でもおかしいよ。果南さんたちの声が聞こえるなら、きっともう話しかけてくれてるはず。でも……」
誰もそんな声は聞いていない。
鞠莉以外は。
ルビィ「『アレ』が近くにいる時だけ、聞こえるとか……」
鞠莉「……」
曜「ど、どうしてそう思うの?」
ルビィ「『アレ』に襲われたとき…ルビィ、思ったんだ。ああ、この先は別世界なんだって。きっと『アレ』は普段は「向こう」にいて……」
ルビィ「あの口の奥には……冷たい「向こう」が待ってるんだって」
花丸「なんとなく、わかるずら……。マルも、きっと、「向こう」に果南さんがいるんだ、って……」
曜「『ソレ』を通して、声が聞こえた……?」
『ソレ』がいるときだけ、その「別世界」とやらと繋がると言いたいのだろうか。
だから、「別世界」にいる果南が「こちら」に声を残せると。痕跡を残せると。
きっとそれは、『ソレ』と関わった人にしかわからない感覚なのだろう。
鞠莉も異論を唱えない。
千歌「じゃあ、じゃあさ、その、「別世界」に2人――ううん、3人がいるとして、どうしたら……っ」
連れ戻せるか。
「「「……」」」
千歌の言葉で、部屋に沈黙が落ちる。
誰もが、必死で考えていた。
それは、自分たちがはじめて前向きに行動することを考えた瞬間だった。
連れ戻す。
ただ守るんじゃなくて、連れ戻す。
カチコチと時計の音だけが部屋に響く。
花丸「痣……」
唐突に花丸が口を開いた。
ルビィ「え?」
花丸「痣は、『アレ』が来る予兆だって、ダイヤさん……」
鞠莉「え、ええ。そう言ってたわ」
花丸「じゃあ、今マルは、『アレ』と繋がってる……」
鞠莉「あ、s、sorry……。怖がらせようとしたわけじゃあ……」
しまったという顔で鞠莉が手を振る。
花丸「ううん、大丈夫ずら。そうじゃなくて、『アレ』と繋がってるってことは、その向こうの……」
ルビィ「お姉ちゃんたちとも!?」
ハッと息を呑んだ。
曜「そういえば、痣について考えたこと、なかったかも……」
千歌「う、うん。てっきり、絞められてできた痕かなって思ってた」
花丸「マルもそう思ってたずら。でも鞠莉さんの話を聞いて……」
鞠莉「本屋でダイヤの痣がドクドクしていたって話ね」
花丸「うん。それで、むしろこの痣は……、『アレ』の一部なんじゃないかなって」
ルビィ「『アレ』の一部?」
不穏な言葉に、皆がぎょっとしている。
花丸「だって、善子ちゃんたちにはついてないし、ダイヤさんの痣も消えちゃったし……。ただ絞められた痕なら全員についていてもおかしくないずら」
鞠莉「確かにそうね……。なら、マルとダイヤで共通点は……」
それには、全員がすぐに思い当たった。
曜「2人とも、襲われた途中で助けられた……?」
花丸「『アレ』は、ほんとはマルに痣なんか、残すつもりじゃなかったんじゃ、ないかな……」
梨子「じゃあダイヤさんの痣が消えたのは……」
鞠莉「今度は、誰にも邪魔されなかった……」
ルビィ「お姉ちゃんの、その、魂――でいいのかな。魂ごと、「向こう」に行っちゃった……?」
『ソレ』からしてみれば、自分の一部も一緒に回収した。
千歌「う、うー…っ、わかんなくなってきた……。『ソレ』は私たちを「別世界」に引っ張っていっちゃうんだよね?」
曜「そう。……でも、私たちが『ソレ』に対抗すると、『ソレ』の一部がこっちに残る……」
綱引きのようなものだろうか。
『ソレ』は自分たちを「向こう」に引きずり込む。
自分たちはそれに抵抗して、上手く弱点を突けると『ソレ』を逆に「こちら」へ引っ張ってこられる。
千歌「じゃあ、じゃあ、もっと対抗できたら……、もっと奥まで、引っ張ってこれたら!」
梨子「ひょっとしたら、その向こうから、あの3人も……」
「「「連れ戻せるかも、しれない…」」」
無茶苦茶だった。
論理も何もあったものじゃない。
ダイヤが起きていたら、きっと鼻で笑うのだろう。
それでも、その馬鹿みたいな妄想を、涙を流して語り合った。
もう後がなかった。
誰が襲われても、倒れても。
自分たちの中の何かが切れてしまうような気がしていた。
ルビィ「でも、結局どうやって……」
ルビィの言葉にまた皆が黙り込む。
「相手を想う気持ち」では撃退もできないことが、鞠莉の話から判明したばかりだった。
千歌「そういえば鞠莉さん、ダイヤさんが何かに気付いたみたいだって」
鞠莉「詳しくは、聞いてないの」
鞠莉「ただ、スクールアイドル、とだけ……。そして昔の雑誌を探していたわ」
梨子「昔の雑誌……?」
鞠莉「ええ…ちょっと待って、これよ。この、雑誌」
ルビィ「あ、それ……。お姉ちゃんとよく読んだやつだ……」
ルビィが小さな声を上げた。
鞠莉が取り出した雑誌は、買ったばかりにしては表紙もくしゃくしゃで、ぱらぱらめくっただけで破れているところが見つかった。
曜「走ってた途中で破れたのかな……」
鞠莉「鞄からも飛び出していたし、そうかもしれな――…っ!」
同意しかけた鞠莉が目を見開く。
唐突にガサゴソとダイヤの服のポケットに手を突っ込んだ。
ルビィ「ま、鞠莉さん……?」
鞠莉「これ……」
鞠莉が広げて見せたのは、雑誌の切れ端だった。
それも記事を破ったものではなく、ただページ数の部分だけをちぎり取ったものだった。
ルビィ「25ページ……?」
梨子「裏にも何か書いてあるよ」
鞠莉「「衣装」……?」
鞠莉「これ、ダイヤの字よ…。ダイヤ、いつの間に……」
呆気にとられた顔で、鞠莉が紙片を見つめている。
千歌「それ、ダイヤさんからのメッセージなんじゃ……っ!」
千歌の言葉に皆で慌てて小さく跡が付いた25ページを開く。
曜「え、っと…前のページの、化粧品の宣伝の続き、みたいだね」
なんてことはない。
人気のスクールアイドルが使っている化粧水を紹介する、という至ってありふれた記事だった。
何か意味があるのだろうか。
ルビィ「……」
花丸「ルビィちゃん……?」
ルビィ「25…25……にこ……矢澤、にこさん!」
突然ルビィが叫ぶ。
千歌「μ'sの……!」
ルビィ「鞠莉さん、その雑誌っ! その号、確か……っ!」
さっと目次に目を走らせたルビィは、あるところでハッと息をのんだ。
梨子「『音の木坂学院アイドル研究部部長、独占インタビュー』……?」
ルビィ「きっと、こっちに何か……!」
ルビィの白い指が、ページを開いた。
『μ'sの影のリーダー?アイドル研究部部長、矢澤にこのアイドル美学』
そんな、少し仰々しいタイトルで始まった記事は、シンプルなものだった。
記者の質問に対して矢澤にこが答えていくスタイルで、
内容もアイドルになった理由から、普段のメンバーの素顔、一日のタイムスケジュールなど、変わったものはない。
その意識の高さ、意志の強さに感心しながら読んでいた。
ただ…
『矢澤 ――アイドルは、皆を笑顔にするものだと思っています。そのために、私はここでこの衣装を着ているんです』
終わりの一文が妙に印象的で、心に響いた。
「「「……」」」
何度目かという静寂が訪れる。
ダイヤがこの記事に込めたメッセージは何なのか。
口を開いたのは千歌だった。
千歌「これだよ……。これだよっ! ダイヤさんは間違ってなかった! 「想う力」だった! 誰かの笑顔を願う気持ちが、『アレ』を……っ!」
鞠莉「ま、待って! でも、それなら私だって…っ!」
助けられたはず。鞠莉がそう叫んだ。でも。
曜「ううん! 効いてた! 鞠莉さんの想いは、効いてたんだよ……!」
曜「だから、果南ちゃんの声が聞こえた! 「向こう」側から引っ張ってこれた!」
鞠莉の手を握って叫ぶ。
『ソレ』がいたからだけじゃない。
きっと鞠莉の力があったからこそ、『ソレ』との綱引きで、少しだけ引っ張ってこれた。
「向こう側」から少しだけ。
鞠莉「そう、なのかしら…っ……。私、ちゃんと、できてたのかな…っ……!」
千歌「1つじゃ、ないんだよ。必要な物って、きっと1つじゃないんだよ」
花丸「1つじゃない……?」
『ソレ』に対抗するために必要な、もう1つのもの。それは――
鞠莉「「衣装」…っ。そう、そうなのね、ダイヤ……」
紙片に書かれた「衣装」の文字。
梨子「そうだ、そうだよ! 花丸ちゃんを守ったのは、堕天使の衣装を着たよっちゃんだった! ロザリオじゃなかった、衣装が……!」
ルビィ「ルビィの時は、ひょっとして、あの段ボールで作った羽が……?」
曜「うん、きっとそうだよ。何で作ったかは大事じゃないんだ。どんな気持ちでそれを持つのか……。それが重要なんだ」
鞠莉「衣装さえ、衣装さえあれば……」
曜「勝てる……! きっと勝てる!」
千歌「で、でも! 善子ちゃんは最後……!」
花丸「……」
善子は、衣装があって、花丸を助けようとした。
それでも、最後には倒れてしまった。
花丸「たぶん……善子ちゃんは最後は1人で立ち向かった…んじゃないかな。マルが起きたとき、扉は閉まってた。きっと、善子ちゃんは扉を閉めて、その後1人で……」
花丸が悲しそうに目を伏せる。
千歌「笑顔を願う気持ちが弱くなっちゃったってこと、かな……」
曜「じゃあ、必要なことは、笑顔を願う相手と一緒にいること、そして……」
梨子「……衣装!」
ルビィ「――それじゃあ、ルビィたちの衣装は、今どこに……?」
千歌「……私の家。曜ちゃんと、梨子ちゃんと、ずっと前に新曲の打ち合わせをして、そのままなんだ」
ずっとずっと前の話。まだ、東京に行く前の話。
それでも。
鞠莉「新、曲……。ふ、ふふっ、それは、何としてでもやらなきゃ、ね?」
ルビィ「うんっ…! その衣装を着て、9人で踊って……」
花丸「うん、絶対、絶対したい、ずら……っ!」
9人で走り出す確かな未来を想像する。
自分たちが、これから何をして、何をしたくて。
ずっと考えもできなかったことを、考える。
全員の声に力が込もっていくのを確かに感じた。
鞠莉の情報と、ダイヤのメッセージ。
掴んでくれた。伝えてくれた。
千歌「ありがとう……っ、帰ってきてくれて、ありがとう鞠莉さん……っ!」
千歌が、鞠莉の胸に顔をうずめた。
鞠莉「千歌っち…、皆……」
鞠莉「ダイヤ、果南……、ありがとう。私――私、伝えたよ。ちゃんと、伝えたから……っ」
鞠莉「だから私……、私ね…っ……、帰ってこれて、よかったよ……」
口をぎゅっと結んだまま、目から大粒の涙を流しながら、ふるふると声を震わせて、鞠莉は久しぶりの笑顔を見せた。
――――
千歌「……全員は、ここを離れられないよ。だから、私が行くね」
鞠莉「……いいの千歌っち? いつでも襲われる可能性があるってわかった以上……」
千歌「えへへ、私の家だもん。私が行くよ」
困ったように千歌がはにかむ。
千歌「鞠莉さんも、ルビィちゃんと花丸ちゃんも、すり傷だらけだし……。それに、皆にばっかり、つらいこと……」
鞠莉「……そんなことない。3人がいなくちゃ、耐えられなかったわ」
千歌につられて、自分も目を伏せる。
自分たち2年生は誰も襲われていない。
その事実に、安堵と、ほんの少しの"申し訳なさ"を感じてしまっていた。
それを異常だと判断できる余裕は、もうなかった。
曜「私も行く」
千歌に続いて、名乗りを上げる。
曜「私が、千歌ちゃんの笑顔を想い続ける。私が千歌ちゃんを……守るよ」
千歌「曜ちゃん……うん、ありがとう」
梨子「私も」
梨子「私も行くよ。千歌ちゃんが心配だし、曜ちゃんは無茶しかねないし。私が、2人のこと、想ってる」
優しく梨子が笑う。
千歌「梨子ちゃん……」
曜「うん、……梨子ちゃん、ありがとう」
千歌「3人で、行こう。それで、3人で、帰って来よう」
千歌の瞳が力強い輝きを放つ。
それだけで、何でもできる。そんな勇気が湧いてきた。
曜「うん。3人で」
梨子「3人で」
千歌「それで、また9人で歌を歌おう。衣装を着て、踊ろう。スクールアイドルを、やろう」
6人が、目を合わせて頷いた。
―――――
―――
千歌「はあっ…はあ……、もう少し!」
千歌の家が見えてくる。
いつ襲われるかわからないという緊張が、自分たちを小走りにさせていた。
浦の星に転校してきてからすっかり通り慣れたこの道も、なんだか不気味に思えてくる。
何故だか――今日、襲われる。そんな確信があった。
梨子「いい……? もう一回確認。千歌ちゃんの部屋に着くまでは私と曜ちゃんで千歌ちゃんを守って、衣装を手に入れたら千歌ちゃんが自分で着る」
曜「了解であります!」
簡単な作戦を確認した自分に、曜が敬礼を返してくる。
自分は善子の堕天使の衣装を着て、曜はルビィの羽を持ってきていた。
千歌の衣装だけ用意できていない。
反対する自分たちを押し切って、この布陣で行こうと言い張ったのは千歌だった。
梨子「千歌ちゃんの部屋は……」
ベランダ越しに会話していたころを思い出す。
大丈夫。まず階段を上って……。
ぐるぐると頭の中でシミュレートする。
まだ見たことのない『アレ』。
皆が一様に怯える『アレ』。
目の当たりにしたとき、自分がどうなるのか想像もつかなかった。
梨子「守る…、千歌ちゃんと、曜ちゃんを……」
前を走る2人をじっと見据える。
帰るんだ。3人で。
キッと見据えた高見家の前に、『ソレ』はいた。
曜「千歌ちゃん……っ、なんか、門に黒いのが!」
千歌「あ、あれが……」
梨子「…っ……」
周りに溶け込んでしまいそうな、それでいて重苦しい、黒い靄。
ぎらぎらとした不揃いな目と、不気味に裂けた口――その奥の闇を覗いて、ルビィの言っていた意味が分かった気がした。
冷たい、闇の底。
その向こうには、「別の世界」が……。
梨子「今なら、わかるよ。あの中に――」
千歌「3人がいるっ!」
曜「千歌ちゃん、梨子ちゃん、つっこめる!?」
梨子「…っ、だい、じょうぶ……っ!」
恐怖に負けそうな足をぱしっと叩き、走り続ける。
まず曜が戸を開ける。
『アアアアアァァァアアアアアアッッッ!!』
梨子「っ!」
耳の奥から凍り付きそうな声を発し、『ソレ』が曜に襲い掛かった。
千歌「曜ちゃんっ!!」
梨子「千歌ちゃんっ! 今のうちに、中に……!」
千歌「……っ、うんっ!」
曜の横を通り抜け、千歌が中に。
梨子「よっちゃん…、力を貸して……っ!」
ぎゅっと善子の衣装の裾を握りしめ、『ソレ』の中へ。
『曜ちゃんから離れてっ!!』
―――きぃん
硬い音がした。
再び恐ろしい叫び声をあげて、『ソレ』が曜から一歩離れる。
梨子「き、効いた……っ! 効いてるっ!」
曜「よ、よしっ、千歌ちゃんを追わなきゃ!」
『アアアアアアイイイイタアイイイイイクヤシイイイッッッ!!』
『ソレ』はすぐに体勢を立て直し、今度はこっちに無数の腕を伸ばしてくる。
『梨子ちゃんに触らないでっ!!』
―――きぃん
曜の強い声とともに、また硬い音が。
一歩、『ソレ』が後ずさる。
曜「梨子ちゃん、早く中に!」
梨子「曜ちゃんもっ!」
―――きぃん
―――きぃん
お互いがお互いを守りながら、少しずつ家へ入る。
梨子「おかしい…おかしい…っ、ルビィちゃんの話と違う……」
『ソレ』を退けつつ、少しずつ焦る気持ちが生まれてきた。
ルビィの話では、一度高い澄んだ音が鳴り、『ソレ』は致命傷を負ったかの如く暴れまわったという。
しかし、目の前の『ソレ』は何度退けても、不気味にニイッと裂け目を歪ませながら迫って来ていた。
梨子「曜ちゃんっ! 何かがおかしいっ!」
曜「えっ!? どういうこと!?」
梨子「少ししか、効いてない!」
曜「……」
一瞬考えた後、曜は後退のスピードを上げた。
曜「早めに千歌ちゃんと合流しよう! 少し時間が稼げればいいから!3人で力を合わせて、それで……!」
梨子「う、うん、わかった!」
現状曜以上の案がないのは確かだった。
―――きぃん
―――きぃん
その間にも『ソレ』の腕はのびてきていて、そのたびに何とか押し返す。
―――きぃん
曜「階段だよ! 足元気を付けて!」
―――きぃん
梨子「左に曲がるよ!」
―――きぃん
曜「この隣が千歌ちゃんの部屋だ……!」
―――ぴしり
梨子「え……?」
これまでと違う音に、一瞬呆然とする。
何かに、亀裂が入ったような。
『―――アアァァアアア』
にわかに『ソレ』の笑みが深くなり、腕が何回も振り下ろされた。
―――ぴしり
曜「な、なにこの音……っ!」
―――ぴしり
梨子「もしかして、もう、限界なのかも……っ!」
どんどんと、不快な音は大きくなっていって。
梨子「早くっ、中に入らないと――っ」
―――パリィンッ……
梨子「っ…ぁ……」
小さな余韻を残して、何かが砕ける音がした。
曜「梨子ちゃんっ……!」
ぐいっと曜に部屋に押し込められる。
千歌「梨子ちゃんっ!」
無事に衣装を着た千歌と場所を入れ替わる。
千歌「曜ちゃん!」
曜の方へ駆け出しながら、千歌が叫ぶ。
『来ないでっ!』
―――きぃん
千歌の周囲で、また硬い音がした。
曜「千歌ちゃんっ! 助かったよ!」
2人並んで、『ソレ』と向かい合う。
―――きぃん
―――ぴしり
―――きぃん
―――ぴしり
梨子「こ、このままじゃ……っ!」
やはり、上手く押し返せていない。
このままでは、いずれ千歌も……。
曜「梨子ちゃんっ! やっぱりだめだ! 足りないんだ!」
梨子「足りない!?」
曜「痣だよ! 花丸ちゃんと、ダイヤさんの痣! ――濃さが違った!」
曜の言葉に一瞬黙り込む。
確かに、花丸に比べてダイヤにはくっきりと痕が残っていた気がする。
曜「ダイヤさんの方に、『アレ』の一部はたくさん残った! ってことは、きっとその時の『アレ』へのダメージも……っ!」
梨子「最初から、ルビィちゃんの方が高かった?」
例えるなら、善子は軽傷、ルビィは重傷を負わせた。
つまり――つまり、ルビィは、善子がつけなかった弱点をついた…。
―――きぃん
―――ぴしり
じりじりと2人が後退してくる。
千歌「だんだん、押されて……っ!」
千歌「梨子ちゃんっ! なんとか、私と曜ちゃんが部屋から押し出すから、その後は…っ!」
梨子「ダメっ! 3人で帰るのっ!」
考えろ、考えろ。
何が足りないのか。
善子の時と、ルビィの時。
何が違ったのか。
ルビィは姉と一緒にいた。善子は途中から1人だった。
本当にそれだけ?
もっと、もっと根本的な違いがあるのではないか。
『アレ』を退けて、世界を繋げるなんて儀式じみたことを可能にする、根本的な何かが――
梨子「儀、式……?」
―――花丸『明治23年、新年の神事。楽師と装束を揃え儀を執り行い――』
不意に、本に埋もれて寺の資料を読み上げる花丸の声が頭に響いた。
梨子「楽師と、装束……。装束は、ある。楽師――楽師っ! 音楽っ!」
―――梨子『μ'sのDVDはまだついてたんだよね……』
―――ルビィ『うん、たしかに、まだついてた……』
ルビィと交わした会話を思い出す。
梨子「ルビィちゃんの時は音楽がついてた! 衣装と、笑顔と、最後は音楽っ!」
スクールアイドルの力を伝える、もう1つのもの。
―――千歌『それで、また9人で歌を歌おう。衣装を着て、踊ろう。スクールアイドルを、やろう』
あるはずだ。この部屋に、千歌のいつも使っているプレーヤーがあるはず…。
ぐるりと辺りを見回すも、すぐには見つけられない。
梨子「千歌ちゃんっ! 音楽プレイヤーは!?」
―――きぃん
千歌「え、な、なんで急にそんなこと……っ!」
―――ぴしり
梨子「いいからっ!」
千歌「携帯プレーヤーなら! 机の上にっ!」
梨子「そ、それじゃあ……っ!」
部屋いっぱいに流せなければ意味がない。
―――ぴしり
―――ぴしり
曜「梨子ちゃんっ! そろそろ本当に…っ!」
音楽、音楽、とにかく、音が出るものなら何でも…。
梨子「そ、そうだっ!」
あった。音が出るもの。すぐ近くに。
梨子「曜ちゃんっ! 千歌ちゃんっ! あと少しだけっ! 少しだけ耐えて! できれば、窓の近くに!」
千歌「えっ、梨子ちゃん、何を――っ」
戸惑う千歌の声を背に、窓を開け放つ。
梨子「大丈夫……大丈夫っ!」
すぅと大きく息を吸って――
窓から、飛び降りた。
――――
千歌「曜ちゃんっ! 梨子ちゃんがっ! 窓から!」
曜「え、な、なんでっ!?」
千歌の言葉に本気で頭が混乱した。
―――ぴしり
目の前の音に意識を無理やり引き戻す。
不穏な音は、どんどんと大きくなっていた。
隣で『アレ』の腕を防いでいる千歌からも、ついに壊れた音が聞こえ始めていた。
―――ぴしり
千歌「曜ちゃんっ! 変な音がするよぉっ!」
曜「大丈夫、大丈夫っ!」
曜「千歌ちゃん! 衣装貸して!」
千歌が抱える衣装の山を受け取る。
メンバー全員分ともなると、さすがに重かった。
曜「千歌ちゃんっ、先に奥に!」
千歌「う、うん……っ!」
2人で部屋の奥に行って窓を背にする。
もう逃げ場はない。
それこそ、梨子のように飛び降りなければ。
梨子は、いったい何をしに飛び降りたのだろう。
一抹の不安を首を振って紛らわす。
大丈夫。梨子は助けに来てくれる。
『アアアアァァァアアッッッ!!』
―――ぴしり
曜「梨子ちゃん、早く早く……っ!」
―――ぴしり
千歌「梨子ちゃん……っ!」
―――ぱりぃぃん……
自分の胸元から、力ない音が聞こえてきた。
千歌「よ、曜ちゃんっ!」
曜「千歌ちゃん、ダメっ! 後ろに――」
梨子「跳んでええええええええっ!!」
後ろで、梨子が絶叫した。
いつの間にか隣の家の自分の部屋の窓を全開にし、ベランダから身を乗り出している。
千歌「曜ちゃんっ! 梨子ちゃんがっ!」
曜「うんっ、で、でも、跳ぶ隙が……」
追い詰めたと思ったのだろうか、『ソレ』の腕を振る感覚はどんどん短く、後ずさる距離もどんどん短くなっていた。
曜「最後だから……っ、これで、最後だから!」
隣にいる千歌の手を握る。
曜「誰よりも、願ってる! 千歌ちゃんの笑顔を、誰よりもっ!」
曜「だから、だから千歌ちゃん、一緒に……っ!」
千歌「うん、曜ちゃん、一緒に……!」
手を握り返してくれる。
2人ですぅっと息を吸い込んで。
『『どいてっ!!!』』
―――きぃぃぃん
硬い、大きな音が鳴った。
1歩、2歩、『ソレ』が後ずさる。
梨子「い、今のうちっ!」
梨子「こっちにっ!」
梨子の声のする方に、がむしゃらに。
「「うわああああああっ!!」」
窓枠に足を掛け、跳んだ。
――――
曜と一緒にごろごろと床を転がる。
あちこちに膝やら肘やらを打ち付けて、しばらく立ち上がれなかった。
千歌「ぅ……!」
梨子「千歌ちゃんっ! 大丈夫!?」
顔を上げると、梨子が緊迫した表情でこちらを見ていた。
千歌「だ、大丈夫…、『アレ』は……」
曜「は、入ってくる!」
梨子「大丈夫。ここで、もう一度っ!」
曜「でも、足りないものって……!」
梨子「音楽だったの! 足りないもの! 音楽だったの!」
千歌「お、音楽……っ!」
梨子は足を怪我したのか、かばいながらピアノの椅子に腰かけた。
窓からは『アレ』がすでに部屋に侵入し、腕を伸ばしてきている。
一刻の猶予もない。
千歌「何の曲!?」
梨子「…はじまりの曲を! 私たちの! この3人の! はじまりの曲っ! 思い描いた、夢――スクールアイドルの世界のトビラっ!」
曜「千歌ちゃん!」
千歌「曜ちゃん!」
「「梨子ちゃん!」」
しっかりと、曜と手を握り合って、梨子の動作に心を傾けて。
梨子が、ポンと鍵盤を叩いた。
―――きいいいぃぃぃぃぃいいんんん…
高い、澄んだ音が部屋中に響く。
その音は、梨子の旋律に合わせて、さらに高く、さらに澄んで。
自分と曜は、声を合わせて歌っていた。
3人の笑顔を想って。
9人で進む未来を願って。
『アアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!』
苦し気に、『ソレ』は叫び声をあげる。
ぐるぐると行き場がないように部屋中を黒い靄が荒れ狂い――
突如、一気に自分の方に押し寄せてきた。
曜「千歌ちゃああんっ!!」
真横で、目を見開いた曜が悲痛な叫び声をあげる。
――視界が、黒く染まる。
ぐるぐると、黒い靄の奔流が自分の周りで渦巻いている。
曜の叫び声も、梨子のピアノも、周りの音は何も聞こえない。
不思議と痛みはなかった。
頭にがんがんと『ソレ』の声が響いていた。
『クヤシイ…クヤシイヨ……ツライ…ネタマシイ……』
それは、今までの荒々しい声とは対照的な、染み出るような薄い声で。
千歌「ねえ…、何が、悔しいの…? 何が、妬ましいの…?」
『クヤシイ…ニクイ……ヤメタイ……カチタイ……』
自分たちと変わらないような、苦悩の声で。
千歌「ねえ…、何が、つらかったの……?」
『………』
『……―――助けて』
呟くような、つい、ため息と一緒に出てしまったような。そんな声だった。
千歌「―――……」
千歌「そっか、そうだったんだ。あなたたちは、きっと――」
――――
――
曜「――歌ちゃんっ! 千歌ちゃんっ!」
曜の叫び声で、我に返った。
千歌「曜、ちゃん」
曜「千歌ちゃん! よ、よかった!」
千歌「『アレ』は……?」
見ると、黒い霧が梨子の部屋の窓からベランダの向こうへと飛び去るところだった。
身体を起こし、たたっと走って窓を超える。
梨子「千歌ちゃん!?」
千歌「明日――っ! 浦の星のっ! 屋上で! …待ってる、待ってるから――っ!!」
後ろから、思い切り叫ぶ。
そこで全部、終わりにしよう。
『ソレ』は――聞こえているのかいないのか――くるりと空中で1回転したのち、姿を消した。
曜「千歌ちゃん、いったい……」
梨子「どういう……?」
ぽかんとする2人に、笑いかける。
『アレ』は、倒すものじゃなかったんだ。消さなきゃいけないものじゃ、なかったんだ。
『アレ』は、きっと――。
千歌「帰ろう。衣装を持って。皆のもとに。そして、浦の星に」
――――――
――――
――
翌日。
一晩中かかった話し合いを終えて。
自分たちAqoursは6人で、浦の星の屋上にいた。
花丸「マルは、いまだに信じられないずら。『アレ』の前でライブをするなんて……」
鞠莉「全くよ。昨日から千歌っちたちには驚かされっぱなしね」
全員が衣装を着て、準備体操をする。
梨子「本当に上手く行くのかな……」
千歌「大丈夫だよ。きっと、上手くいく」
ルビィ「お姉ちゃんたち、来れるかな……」
曜「あの3人だもん。ちゃんと来るよ」
きっと、あれは自分だけが聞いた声。
『アレ』の、奥の奥、底の方に眠る、本心が漏れた声。
ルビィ「…き、来たよ……!」
梨子「ほ、ほんとに来た……!」
夕方。
茜色に染まる空に、黒い靄が浮かんでいた。
千歌「来て、くれたんだね」
笑いかけると、『ソレ』は戸惑ったようにぐるぐると周りを回る。
千歌「みんな」
自分の呼びかけに、全員の視線が向く。
千歌「私たちは、まだ、はじまったばかりかもしれない」
千歌「スクールアイドルとしては、見習いなのかもしれない」
千歌「でも、みんなで、笑っていたいって……、笑顔を大事にしたいって。そこだけは、忘れないようにしたい」
千歌「だからね」
千歌「皆の、浦の星の、世界中の人の笑顔を願って、歌おう」
千歌「怪我人ばかりだけど。満足には、踊れないかもしれないけど。精一杯、輝こう!」
見つめ返してくれる6人に向かって。
来ているはずの3人に向かって。
千歌「だからいくよ――っ!」
「「「「Aqours!!」」」」
9人分、声が聞こえた。
9人分の、指が見えた。
「「「っ…!」」」
誰もが、目を見開いて、潤ませて、心の限り。
「「「「サーンシャイーーンっ!!」」」」
曲が始まる。
9人の、声が重なる。
「いる」。果南も、善子も、ダイヤも。
いつもの場所で、いつもの振り付けを踊っている。
声を弾ませ、汗を流して。
一緒に歌っている。踊っている。
きらきらと橙色の光が反射するとともに、ひらりと揺れる袖が、風になびく髪が、弾ける笑顔が、蜃気楼みたいにゆらゆらと現れては消えた。
千歌「―――ずっと、不思議だったんだ」
どうして、自分たち――スクールアイドルばかり襲うのか。
どうして、東京で大会のあったあの日に現れたのか。
それなのにどうして、スクールアイドルが弱点なのか。
千歌「簡単な、ことだったんだよね」
千歌「あなたたちは、私たちなんだ」
千歌「必死に、上を見てもがいて、他のグループを羨ましいって妬んで、憎んで……」
千歌「勝たなきゃって思って、笑顔を忘れて……」
――助けて、助けて……って、必死にもがいて。
千歌「ほんとは、戻ってきたいんだよね」
千歌「「こっちの世界」に。明るい、あったかい世界に」
私たちは、まだまだ未熟だけど。
千歌「一緒に踊ることくらいは、できるよ」
今、私たちは9人で踊っている。
「向こう」にいるはずの3人も、こっちで一緒に輝いている。
あなたたちも、戻ってこれる。
千歌「一緒に、笑いあえる。一緒に、輝ける」
千歌「何もかも忘れて、一緒に歌って踊ったら、きっと、世界が変わるよ」
曜「黒い、霧が……」
梨子「1粒1粒、ばらけていく……」
花丸「あ、マルの痣も……」
鞠莉「いろんな色に、きらきら光って……」
ルビィ「すっごく、綺麗――……」
しゃらりしゃらりと、黒い粒がばらばらな色に煌めいて、夕日に溶けていく。
怖ろしいと思っていた声は、どんどんと明るく、楽し気な笑い声に。
怖ろしいと思っていた目と口は、どんどんと細く、優しい笑顔に。
そうだよ。一緒に笑おうよ。
一緒に歌おうよ。
千歌「ねえ! 今楽しい? 私はね、すっごく楽しいっ!」
梨子は足を引きずっている。
曜は腕を振りにくそうにしている。
他の皆も、打ち身や擦り傷だらけでぎこちない。
まったく、見せられたものじゃない。
だけど。
千歌「でも、笑顔は輝いてる! 心は輝いてる! ねえ、あなたはどう…?」
千歌「あなたのこころは、輝いていますか?」
一瞬。
ほんの一瞬、七色の霧は動きを止めて。
目を覆わんばかりの光を放った。
「「「わぁ…っ!」」」
皆が口々に感嘆の声を上げる。
きらきらと、雪のように降り注ぐそれは、数秒後には、すぅっと消えた。
―――――――
―――――
―――
―――――――
―――――
―――
Aqoursが小さな町医者の入院患者用ベッドを埋めてしまったという話は、瞬く間に広がった。
世間的にはどうやら「事故」だと認識されているらしく、ファンからの手紙や家族、友人の見舞いが絶えない。
方々で暴れたり叫んだりしたことを覚えている人がいないというのは、ありがたい話だった。
千歌「でもよかったよぉー……。果南ちゃんとか、一時期ほんとどうなるかと……」
果南「ま、今はこの通りピンピンしてるからね!」
梨子「むぅ…、なんか納得いかない……」
曜「まあまあ、梨子ちゃんもねんざですんでよかったよ……」
果南と善子が「あちら側」にいたときに負った傷は、起きたときには大部分が消えていた。
むしろ実際に2階から飛び降りた梨子の方が重傷である。
ルビィ「ルビィも、ようやく擦り傷とか治ってきて……」
花丸「痕も残らなくてよかったずらー……」
心底安心したように、花丸がりんごを頬張っている。
って。
千歌「ちょ、ちょっと花丸ちゃん! それルビィちゃんにあげたやつ!」
善子「ほーら、だから食べ過ぎお寺っ子なのよ!」
花丸「勝手にいなくなっちゃう善子ちゃんには関係ないずら」
善子「ちょ、あ、アンタねえ……っ! ルビィもにこにこしてないで何か言ってやりなさいよ!」
ダイヤ「まったく、一段落ついたと思ったらすぐに騒がしくなりますのね、あなたたちって」
果南「あれー? 鞠莉と抱き合ってわんわん泣いてたのは誰だっけな?」
ダイヤ「ふんっ!」
果南「むぐっ!」
鞠莉「果南はほーんと、お仕置きが必要よね。ね、ダイヤ」
ダイヤ「まったくですわ。何の相談もなしに、お手洗いに行くから先に帰れなどと」
曜「それで誰が帰るかって話だよね、うんうん」
果南「総攻撃!?」
皆が笑っている。
力を抜いて。
緊張し通しだったこの数週間を取り返すように。
ダイヤ「……それで、退院した後、どうするんですの?」
ダイヤ「以前エントリーした大会が、またありますが……」
大会。
自分たちの目標でありながら、今はその言葉に苦いものを感じてしまう。
千歌「もちろん、出るよ。せっかくだもんね」
千歌「でも、やることは変わらない。あの日の屋上と、何も変わらない」
ふふっと、8人が笑顔を見せてくれる。
千歌「笑顔で、踊ろう。楽しいを皆に。笑顔を皆に。そして皆で、輝こう!」
まだまだ、道のりは長いけれど。どこに続く道かも、わからないけれど。
目を細めて、キラキラ輝く太陽に、手を伸ばした――。
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終わりです。お目汚し失礼しました。
投稿場所を一本化したくてこちらにも書きました。
以下過去作です。
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