花丸「今日も練習疲れたなあ…。」 (53)

月曜の夜、学生鞄を投げ出し座布団に座る。

足の先から、付け根から、力が溶け出して行くようでしばらく立ち上がれなかった。

時刻は7時半。これから夕飯を食べて、お風呂に入って。
宿題を終わらせて、布団に入って。

なかなかに充実した1日だ。

今日はダイヤと鞠莉の仕事が早めに終わったらしく、久々に全体で通し練習を行った。

9人で踊るのが楽しくて、少々熱が入りすぎてしまったのだ。

いつも止めに入る梨子でさえやめようと言わなかったのだから、やはり楽しかったのだろう。

帰りにルビィと善子とコンビニに寄ってアイスを食べた。
既に日中ですら肌寒くなってきていたが、火照った身体には丁度良かった。

日の入りが早くなった分、練習は早めに終わる。
最近は毎日のように2人と出掛けていた。

花丸「う、動けないずら…。」

誰かに腰をがっしり掴まれているように、自分の身体は動かなかった。

仕方ない。

夕飯に呼ばれるまで、鞄から取り出した本を読んで過ごしたが、
いつの間にか眠ってしまっていた。

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―――

火曜日、学校でルビィと善子と昼ご飯を食べた。

珍しくルビィは買い食いをしていて、あれが美味しいこれが美味しいとはしゃいでいる。

花丸「あんまり言うとダイヤさん拗ねちゃうずらよ?」

普段のルビィの弁当にはダイヤが作った夕飯の残りが混ざっていることが多かった。

ルビィ「お姉ちゃんのご飯も美味しいけど、今忙しそうだから…。」

善子「でも文化祭はこの前終わったじゃない。」

ルビィ「来月までに会計の仕事終わらせないといけないんだって。
鞠莉さんがてんてこ舞いで、それを手伝ってるって。」

花丸「理事長は大変だもんね…。」

善子「最近3年は忙しいわね。練習は楽でいいけど。」

ルビィ「そ、それが…。」

言い淀んだルビィが視線を逸らす。


どうやら今日から新メニューが追加されるらしかった。

文化祭でのステージを終え、しばらくライブの予定はない。
9人揃った時以外の練習は基礎トレーニングに重きを置くという方針だった。

善子「き、基礎トレーニング…。堕天使には向いてないわね!今日は天界に戻るわ!」

花丸「曜さんに言いつけるよ?」

善子「ごめんなさい。」

ルビィ「お姉ちゃんたちは仕事終わってからやるんだって。トレーニングなら暗くてもできるからって。」

花丸「そっかあ。さすがずらね…。」

3年生の仕事量と練習量には頭が下がる。

果南に引っ張られてか、最近はダイヤも体力を上げてきている。

ユニット練習のたびにへばっている自分と比べて、少し憂鬱な気分になる。

ルビィ「でもでも!確かに体力はAqoursの課題です!ルビィもいっつもへとへとで…。だから頑張るびぃ!」

にこにこ笑うルビィの笑顔に癒された。

花丸「うん!マルも頑張るびぃするずら!」


―――

花丸「ず、ずらぁ……。」

善子「うっ、地獄の、門が開いてしまったのね……。」

ルビィ「つ、疲れたぁ…。」

練習後。3人とも部室でぐたりと突っ伏していた。

ランニング、ストレッチ、体幹トレーニング、バランス感覚を養う練習すべてが少しずつ増えていた。

さすがに増えすぎである。
正直明日もこなせるとは思えなかった。

善子「はあ…、とにかく帰りましょ。さすがに2年もへとへとだったし、明日は少し減るでしょ。」

ルビィ「う、うん、そうだね。善子ちゃんは今日は曜さんと?」

善子「ヨハネよ。曜さん、今日は千歌さんとリリーとお出掛けだって。」

ルビィ「じゃあ一緒に帰ろ!ルビィまたアイス食べたいなあ…。」

善子「あんた最近食べすぎじゃない?ずら丸じゃないんだし、冬眠でもするの?」

失礼な物言いに頬を机につけたまま見上げると、2人はゆっくりと荷物を詰め、帰る準備に取り掛かっていた。

自分はというと、いまだ胸の中で何かがとぐろを巻いて動いているようだった。

花丸「ふ、2人とも元気ずらね…。」

善子「まったくずら丸は。ほら、荷物詰めてあげるから早く準備しなさいよ。」

花丸「善子ちゃんありがとうずら…。」

ルビィ「ゆっくりでいいよぉ。アイスは逃げないもん。」

花丸「あはは…、うん、もう大丈夫。」

1、2度深呼吸をして胸を落ち着ける。うん、大丈夫。

楽しそうに笑うルビィと、仕方ないといった調子で鞄を2つ持つ善子に笑いかけた。


花丸「はあ…、やっぱり疲れたずら…。」

自室で鞄をおろし、布団に突っ伏す。
また眠ってしまいそうだ。

花丸「でも楽しかったなあ…。」

ふふ、と笑みがこぼれてしまう。

皆と悲鳴を上げた練習も、冷たい冷たいと騒ぎながらアイスを食べたことも。

喉元過ぎればなんとやら。いざ動けるようになってみると、なんだか素晴らしい日を過ごしたような気分だった。

半年と少しだけ前までの、本ばかり読んでいた自分からは考えられない生活だ。

それも、ルビィや皆が自分の手を引いてくれたから手に入ったものだった。
つくづくいい友達に恵まれて幸せだ。

幼馴染の善子も加入して、優しい先輩たちと同じユニットで。

疲れでぼんやりした頭と、柔らかな幸福感でふわふわと浮いた心地になる。

眠ってしまう前に、明日の準備をしなければ。

ずっと鞄に入ったままだった小説を取り出して、部屋の隅に積む。

明日は古典と、数学と、あ、英単語のテストがあったのだったか。

ごそごそとものぐさな姿勢で準備を済ませた。


―――

水曜日、早朝に起きて学校へ向かった。
平日のうち何日かは朝練を行うことになっていた。

花丸「うーっ、さむっ…!」

ひとりごち、身体を伸ばす。
気温が低い中、怪我をしないようにと朝練はランニングとストレッチだけだ。

それだけでも十分疲れると思うのだが。

梨子「あ、花丸ちゃんおはよう!」

後ろから頬をつかんで伸ばされる。

最近梨子はよく頬を触ってくる。
何でも柔らかくて気持ちがいいらしい。

曜の頬も気持ちがよさそうだと言うと、左右を千歌と分け合っていて触れる頻度が少ないのだとか。
2年生の関係性は相変わらず謎である。

梨子「ね、花丸ちゃん、この前教えてもらった本、すっごく面白かったよ!」

花丸「ほ、ほんとずらか!趣味にあってよかったぁ。」

梨子「もうあのセリフとか主人公の気持ちが滲み出てて…。曲作りの参考に、とか忘れて楽しんじゃった。」

花丸「うん、マルもあそこのシーン好きなんだ!ふふ、本好き仲間ができてうれしいずら!」

梨子「これからも教えてほしいなあ。あ、あの本続編とかないの?」

花丸「続編は今マルが持ってるんだ。あ、今出すから――」

梨子「え!読んでる途中だったらいいよいいよ。花丸ちゃんが読み終わってから貸してほしいな。」

花丸「恥ずかしながら、最近読む時間なくて。遅くなっちゃうから先に梨子さんに貸そうと……あ。」

取り出そうとして、気づく。
昨晩部屋に置いたっきりだ。

花丸「えへへ、ごめん。今日は持ってないみたい。」

梨子「いいよいいよ!なんだか急かしちゃってごめんね。」

そう笑うと梨子は手を振って離れていった。

本の貸し借り、感想の共有。
これも以前はできなかったことだった。

それにしても、梨子は読むのが早い。自分は1冊読むのに1週間はかかっているのに、2,3日あれば返してくる。

いったいいつ読んでいるのだろうと首を捻った。


その日の午後も練習に疲れきって、部室で突っ伏していた。
ひんやりした木目を感じながら、今日は梨子に貸す予定の本を読んでしまおうと考えていた。

もともと自分は読書家なのだ。その気になれば一晩で読み切れるだろう。

花丸「ふぅ…。」

ようやく回復したところで、席を立つ。
と同時に、ルビィが話しかけてきた。

ルビィ「ねえねえ花丸ちゃん!これ知ってる?」

ルビィが雑誌の切り抜きを見せてくる。

花丸「アイドルクリアファイル…?」

ルビィ「そう!あのね、お菓子を買うとこの子の映ったクリアファイルが貰えるんだよ!」

善子「ルビィが欲しいって聞かないのよ。何でもコンビニを何軒も回るとか…。」

花丸「何軒も?」

ルビィ「うん、この子今人気だから…、学校の近場はもう売り切れてるかも…。」

ルビィ「ね、花丸ちゃん一緒に行こうよ!その後ケーキごちそうします!」

花丸「ケーキ…!」

食べたい。しかし。

善子「え、また食べるの…?まあいいけど。じゃあね、私今日は曜さんと帰るから。」

ルビィ「えー…。」

花丸「……。」

花丸「うん、マルは行きたいずら!ルビィちゃん、ケーキ約束だよ?」

ルビィ「ほんとに!?うん!もちろん!」

嬉しそうに笑うルビィに安心する。今日も楽しい放課後になりそうだ。
どうして、一瞬考えてしまったのだろう。

なぜだか、できるだけ早く出発したかった。




その晩、本は読まずに鞄に入れた。


―――

木曜日、練習前に梨子に本を貸した。

梨子「花丸ちゃんありがとう!でもほんとによかったの?」

花丸「うん、マルは大丈夫だから!」

梨子「そう、かな。ならいいけど。あ、そういえばあの本だけどね!」

梨子と本の話をする時間が好きだった。

ピアノを弾いているからか感受性にも表現にも優れる梨子の感想は、
思いもよらぬ気づきを与えてくれたり、逆に忘れていた感動を甦らせてくれたりする。

でも今日は、何かがおかしかった。
身体の、いや、へその辺りをぐむぐむと押されているような気分だった。

体調不良か、何か不安か、疲れているのか、いや、焦り――?

変な顔をしていることに気付いたのだろうか。
梨子が心配そうに顔を覗き込んできた。

梨子「あ、ごめんね。私ったらしゃべりすぎちゃって。」

花丸「ううん!梨子さんの話、綺麗で好きずら。」

梨子「ほんと?何かちょっと恥ずかしいな。でも私も花丸ちゃんの話、好きだなあ。」

花丸「そ、そうかな…。」

ストレートに言われ、照れてしまう。自分の本の話を褒められた経験はほとんどなかった。

梨子「ふふ、顔赤いよ?ほら、練習行こっか。」

練習。疲れきってしまう未来を想像して、溜息をついた。

千歌が元気に屋上のドアを開く。

青々とした快晴のはずの空は、なんだか灰っぽく見えた。


練習後、案の定また机に突っ伏した自分を、善子とルビィが待っていた。

曜はいつも通り千歌と出掛けるらしい。

梨子は行かないのかと聞くと、今日は断ったという答えが返ってきた。
予定があって仕方なかったのだろう。

善子「毎日基礎トレはきついわね…。」

ルビィ「たしかに…。でもスクールアイドルに体力は必須だよ!もっと頑張らないと!」

善子「あんたはいっつも元気よね。」

ルビィ「えへへ、ルビィ、スクールアイドルのためなら踏ん張るびぃ!しちゃいます!」

ルビィが元気に腕を振る。
そうなのだ。さすが黒澤家というべきか、ルビィはとても強い人だ。

入部当初も急な階段を走りきっていた。
普段はおどおどしているが、スクールアイドルのためならいくらでも頑張れる、そんな人だった。

相変わらず机に突っ伏す自分と比べて、また憂鬱な気分になる。


ルビィと善子を見ながら、ふと最近は誘ってもらってばかりだと気が付いた。

あまりに受け身すぎると嫌がられるだろうか。
こちらからも誘ってみるべきではないだろうか。

例えば自分が今行きたいところは…。

最近できた雑貨屋さん――寄るには遠いから却下。

コンビニ――最近行き過ぎている気がする。

誰かの家で映画でも見るか――拘束時間が長すぎる。

いくつかの候補が浮かんでは消える。
案を出しては却下する理由を探している、そんな気がした。

自分が重たい口を開く前に、善子が提案した。

善子「ね、ねえ私の家にホラー映画あるんだけど、一緒に見てみない?べ、別に怖いわけじゃないのよ!?」

落ち着かなさげにお団子を触っている。

ルビィ「ホラー映画かあ…。ルビィ大丈夫かなあ…?でも楽しそう!花丸ちゃんは?」

花丸「……。」

花丸「…うん、確かに楽しそうずら!怖がってる善子ちゃんも見られるし?」

善子「だからヨハネよ!怖く何てないんだから!」

ほんとはホラーは少し苦手だが、ここは黙っておく。

ルビィ「じゃあ決定だね!善子ちゃんのおうち久しぶりだなあ。」

善子「ククク、堕天使の居城に瞠目しなさいっ!」

花丸「もう何回も見てるずら。」

あははと笑いながら下校した。



花丸「ふぅ…。」

長時間画面を見続けて、まだ頭がぐらぐらする。

結局3人とも怖がって、騒ぎすぎた様子を振り返り、くすりと笑う。

今日も楽しい放課後だった。
友達と映画。なんと素敵な響きだろうか。

ふわふわする気持ちの中に、一瞬だけもやが混じる。

花丸「マル、何で映画って言わなかったんだろう…。」

映画を見るという案は思いついたはずだ。
なぜ、却下したのだったか。

思いめぐらせて、はっとする。自分は、何ということを。

拘束時間。友達と過ごす時間にそんな言葉をあてはめた自分に嫌気がさした。

寒い夜空に黒い気持ちが絡みつく。

こんな時は本を読もう。
自分はそうやって、いつもいろいろな想いを、日々の出来事を、消化してきたはずだった。

だというのに本を開くと、たったの数分で気だるげな眠気が襲って来るのだった。

同じ行を何度も何度も読み直して、ようやく意味を把握する。
それも真っ白な薄い夢の膜に混ざって、次第に色を失っていく。

読めないことを認めたくなくて、何度も何度もページをめくって、戻して。まためくって――。

結局、ほとんど進まないまま本を閉じた。

自分の一部に拒絶されたような気分だった。



その晩、梨子に貸しているシリーズの3巻を鞄に入れた。
梨子も昨日は予定があったはずだから、読み終わってはいないだろうが、念のため。


―――

金曜日、梨子に本を貸した。

読み終わったと聞いて、またへその辺りが痛くなった。

梨子は読んだ。自分は読めなかった。どうしてだろうか。


放課後は自分から2人を誘って、遠くの雑貨屋へ出掛けた。
大切な友達に対して失礼なことを考えた罪滅ぼしのつもりだった。

ルビィと善子は喜んでついてきてくれた。

帰りは遅くなって、へとへとになったけれど。

たぶん楽しかったのだと、自分に言い聞かせた。



その日は本を開きながら寝てしまった。


―――

土曜日、今日は終日練習の予定だった。

朝起きたとき、身体の節々がやけにだるかった。

行きたくない。そんな思いがふつふつとわいてきた。

無理やり身体を起こし、顔を洗う。

よし大丈夫、ちゃんと動ける。

練習の最後に念入りにストレッチを行っているためか、筋肉痛はあまりなかった。
朝は少し寝ぼけていただけだろう。

開きっぱなしの本を閉じ、家を出た。
持っていく気にはならなかった。





ルビィ「花丸ちゃんおはよっ!今日もがんばろ!」

学校に着くとルビィが笑顔で出迎えてくれた。
さすが、朝から全開である。

花丸「う、うん、がんばろうね。」

ルビィ「…?」

ダイヤ「花丸さん、おはようございます。」

果南「マル元気だったー?」

どうやら今日は3年生も参加できるらしい。
この分だと午後は全体で通し練習だろう。

果南「今日の午前はユニットごとに基礎トレ、午後は通し練習だよ。マルと練習も久しぶりだね。」

果南が優しく笑った。


ダイヤ「そ、そこまで!ですわ…。」

額から汗を流しながらダイヤが宣言する。

果南「ふぅ…、やっぱきついねこれ。」

そんなことを言いながら果南は顔色を変えていなかった。

花丸「はあ…。」

自分はというと、ぼんやりと壁にもたれて座っていた。やはり動けるには時間が必要だ。

果南とダイヤが驚いて駆け寄ってきた。

果南「ま、マル、大丈夫?」

ダイヤ「ど、どこか体調でも悪いのでは…。」

花丸「だ、大丈夫ずら。ただマルに体力がないだけで…。」

言いながら情けなくなってくる。

そもそも自分の顔色を見て中断しようとした果南を制止して今に至るのだ。
これでノックアウトはみっともない。

見上げると、果南とダイヤは何やら難しい顔をしていた。

果南「ね、マル。最近ちゃんと休めてる?ダメだよ、疲れたときは休まないと、もたないよ。」

ダイヤ「そうですわ。皆が心配してしまいますわよ。」

花丸「ち、ちゃんと休んでるずら!」

睡眠時間は足りているのに。

あくまで休養不足だと思っている2人の視線が、やけに痛かった。

そんなに自分の体力は頼りないだろうか。特殊な事情がないとおかしいくらい、そんなに。
2人の言葉に悪意が混ざって聞こえてしまう。

違う。2人は本当に心配してくれているのだ。
ちらとでも負の感情を抱いた自分を恥じる。

花丸「大丈夫。マル、頑張るよ。それに皆も…。」

2人ごしに奥を見れば、鞠莉と一緒にポーズを取る善子と、曜と千歌と元気に話すルビィの姿があった。

ずいっと、緑色の服が視界を覆う。

果南「ほらマル、お昼食べよ?あ、しんどいときはちゃんと言うんだよ?」

花丸「うん…。」

力なく頷いた自分に、2人はまた困ったように顔を見合わせるのだった。


午後の練習は楽しかった。

久々にトレーニングやパートごとの練習でなく、通しで踊ることができた。

9人揃っての練習は達成感もひとしおだ。
他のメンバーも笑顔で練習できていた。

それでも2周目、3周目と練習が進むと、体力の底が見えてくる。

結局一日が終わるころには、壁にもたれて息をついているのだった。

ダイヤ「やっぱり一日練習は疲れますわね…。」

自分ほどではないように見えるが、ダイヤもだいぶ参っているようだ。

鞠莉「まあまあ!明日はholidayだからね!」

千歌「そうだよー!皆ちゃんと疲れとってね!風邪引かないように!」

千歌のリーダーらしい呼びかけで練習が終わる。

ルビィ「お疲れさま、花丸ちゃん!」

ルビィもにこにこしながら近寄ってくる。

花丸「ルビィちゃんもお疲れさま。マルもうへとへとずら…。」

善子「ずら丸少し顔色悪いわよ。」

ルビィ「えっ、ほんとだ。じゃあやっぱりお泊りは無理かなあ。」

善子「そうね。やめときましょ。」

ルビィと善子が顔を見合わせる。
ちくりと胸が痛む。

まただ。

また、この顔。

そんなに自分の様子はおかしいのだろうか。
そんなに自分は、皆と違うのだろうか。

花丸「お泊りってなに?」

少し声に棘が入り込む。幸い2人は気づいていないようだった。

ルビィ「あ、うん、うちでお泊りしないかって話してたところなんだ…。明日休みだし。」

そこまで言って、ルビィは慌てて顔の前で手を振った。

ルビィ「でも、無理しないでいいからね。」

困ったように俯く顔に、言いようのない不安を感じた。


花丸「マルは、大丈夫ずら。お泊りしよ?」

善子「でも、あんた休んだ方がよさそうよ。それに、このヨハネもすこーしだけ疲れが…。」

ルビィ「そうだよ。今日はおうちで…」

やめて。そんな目で見ないで。
そんな見放すようなこと、見捨てるようなこと言わないで。

友達だというのなら、一緒に連れて行って。

1人で家に帰る自分が、今2人を困った顔にさせている自分の立場がたまらなく不安定なものに思えた。


行きたくなかった。家に帰って本を読みたかった。

行きたかった。2人と幸せな休日を過ごしたかった。

行かなければならなかった。せっかく友達が誘ってくれたのだ。
行かないという選択肢が、ひどく道から外れたもののように思われた。

それでも、2人はもう自分を家に帰す気でいるようだった。

望み通りの結果なのに、焦りにも似た感情が首をもたげる。

やめて。一緒じゃなくてもいいなんて言わないで。


花丸「気を遣わなくてもいいずらよ。それとも――」

自分でない何かが口を動かしているようだった。
疲れなのか怒りなのかわからない、ただ黒い感情が胸で渦巻いていた。

花丸「それとも、マルはお邪魔?」

違う。2人はちゃんと誘ってくれていたではないか。
口にした瞬間に後悔したが、もう手遅れだった。


しんと、一瞬3人の間に静寂が落ちる。

2人の顔は面白いくらい固まっていた。

善子「ち、ちがう。違うわよずら丸。」

もともと白い肌をさらに蒼白にして、善子が震える声で呟いた。

善子「私、そんなこと思ってない。ね、ずら丸。私たちの仲じゃない。そんなこと――」

ルビィ「そうだよ!ルビィ、花丸ちゃんと一緒にいると楽しいよ!」

必死なしぐさ。

ルビィ「でも、花丸ちゃん疲れてるならって…。」

花丸「やっぱり、マルいない方がいいんだ。」

違う。2人は文字通り心配してくれているんだ。優しい友達だから。
頭の中ではとうの昔に真っ赤な警報が鳴り続けているのに、口は止まってくれなかった。

花丸「マルがだめだめだから、疲れて、本も読めない、練習もできないマルだから――」

善子「ち、ちょっと!ずら…花丸!どうしちゃったのよ!」

ただごとでないと気が付いたのだろう。他の学年の仲間も心配そうな顔で寄ってきた。
そろそろ、止まらなければ。

ルビィ「そ、そうだよ花丸ちゃん。どうして、そんなことないのに…。」

止まらなかった。

疲れたと言いながら平気で立っているような2人には。

疲れたと言いながら放課後にはしゃげる2人には。

本当に疲れて、友達を疎んでしまうような、本すら読めないような自分の気持ちは。


花丸「2人にはわからないよっ!!」


自分でも驚くくらい、大きな声が出た。

無我夢中で立ち上がり、壁に立てかけてあった鞄をひっつかむ。

誰のものかもわからない制止の声を無視して、階段を駆け下りた。


その日、どうやって家に帰りついたのかもわからない。

ひゅうひゅうと細い呼吸を必死に保ち、畳に倒れこんだ。

吐きそうだ。

身体の奥からせりあがってくる何かを抑え込みながら、体を丸めた。

言ってしまった。

あんなの、理屈も何もあったものじゃない。

ただの八つ当たり。最悪の言葉。

嫌われた。あんなことを言う自分を、許してくれるはずがない。

汗だくで、涙を流し口を押えて手と足を縮こまらせる自分が、ひどく惨めで、孤独に思えた。


―――

花丸の去った屋上は、阿鼻叫喚もいいところだった。

ルビィはへたり込んで泣きはじめ、善子は固まったまま動かなかった。

3年生は必死に2人をフォローしているし、千歌と曜は驚きつつも詳しく事情を聞いている。

自分はというと、花丸がなぜ急に叫んだのか、思い当たることはないかと記憶をあさっていた。

千歌「梨子ちゃん、何か、わかることある…?」

曜「最近花丸ちゃんと本の貸し借りとかで仲良かったし、何かあるかなって…。」

暗い顔で2人が尋ねてくる。

果南「今日、疲れてるみたいで様子がおかしかったんだ。ダイヤとも心配してて…。」

鞠莉「マル、前は今日くらいの量でも大丈夫だったわよね…?」

ダイヤ「ですが、あの様子では…。」

3年生も話し合いに参加する。1年生の2人はぐずぐずと溢れる涙を拭っている。

心当たり。特に思い当たることはなかった。

いつも通り本を借りて――いや、そういえば。

梨子「そういえば花丸ちゃん、ちょっと変な顔してたかも…。」

果南「変な顔?」

梨子「うん、なんか、どこか痛そうな…。」

千歌「うーん、やっぱり体調不良かなあ…。」

曜「花丸ちゃんのあんな声初めて聞いたもんね。よっぽどつらかったのかな。」

ルビィ「ルビィたち、なんか悪いことしちゃったのかな…。」

善子「うぅ、ずら丸…。」

体調不良、そうだろうか。

それだけで、あんなに取り乱すものだろうか。

ついと、花丸の貸してくれた本の背表紙を撫でる。

――ぴくりと、自分の頭の中の何かが動いた気がした。ひょっとしたら。

花丸は、ちょっと前の――

梨子「ね、もう1回教えてほしいの。詳しく、最近の花丸ちゃんの様子。」

目を真っ赤にした2人の手を握った。


―――

土曜日、死んだように夕飯を食べ、家族に心配されながら床に就いた。

ルビィと善子から落ち着いたらちゃんと話したいと連絡が来た。

なぜか梨子から、明日はゆっくり休んでねと伝えられた。

明日は日曜日。
もう、外にも出たくない。

すっかり黒く染まってしまった心を抱いて、目を閉じた。


―――

日曜日、昼前に目が覚めた。

たっぷり寝たはずなのに、怠さはとれていなかった。

一日おいて、余計に昨日の自分がわからなかった。
布団を頭から被る。

ぐぅと鳴ったお腹をさすり、あっさり布団から出る。

ふらふらと昼食をとり、部屋に戻る。

ぼうっと部屋を見渡すと、隅に何冊も積まれた本があった。

手に取ってみると、収まりのいい重さだった。
ほんのり紙の茶色い匂いが漂っている。


ぺらりとページをめくる。

今の気分には不釣り合いな、淡いときめきにも似た何かが胸に訪れる。

ぺらりとページをめくる。

視線は吸い付くように第一行へ。

ぺらり。ぺらり。

欠けていたピースがはまったかのようだった。

登場人物の台詞が、心情が、場の情景が、欠片だらけの頭の中に染み込んでいく。

ルビィの顔、善子の顔、果南の顔、ダイヤの顔、鞠莉の、千歌の、曜の、梨子の…
さまざまな光景が目の前の文字列を媒介に結びつき、整理されていく。


最近の自分は、びゅんびゅんと高速道路に乗って走っていたようだった。

景色は引き延ばされ、光は長く尾を引き、それでいて止まることも、周囲をゆっくり見ることもできていなかった。

ぺらりと、ページをめくる音だけが聞こえる。

慣れ親しんだ速度で、慣れ親しんだ景色で、慣れ親しんだ音と感触とともに時間が過ぎる。

自分の大事な一部が帰ってきたような、そんな気分だった。

花丸「やっぱり、マルは本を読んでないとだめみたい。1人で本を読んでいるのが、お似合いずら…。」

胸の奥で暗い炎が燃えていた。

善子の震えた声と、ルビィの必死な仕草がじゅくじゅくと傷を抉っていく。

開放感と充足感、他方で閉塞感、罪悪感。

雑多な想いを自分の中に感じながら、夕飯の時間まで本を読み続けた。


ほう、と息をつく頃には、本をまるまる2冊、読み終えていた。

頭の中をくるくるきらきらと、本の情景や顔も分からない登場人物が踊って消えた。

しかし本から手を離すと、途端に苦しい思いが甦ってくる。

もう6時だ。

半日後には自分は家を出て、ルビィと善子の待つ学校へと向かうのだろう。
どんな顔をして迎えられるのだろうか。

ふと視線を下げると、携帯のランプが瞬いている。

梨子『また明日。待ってるよ。』

それだけの、短い文章だった。

夜、寝る前にまた本を読んだ。


―――

月曜日、登校中は本の先が気になって上の空だった。

学校につくと心配そうにルビィと善子が話しかけてきてくれた。

一言謝ると、逆にすごい勢いで謝られた。

勘違いさせるようなこと言ってごめんと。やっぱり自分と一緒にいたいのだと。

八つ当たりしたのはこちらなのにと、心底申し訳なかった。

また謝ると、笑って許してくれた。

ルビィ「ううん、全然いいんだよ。ね、すぐにじゃなくていいから、花丸ちゃんのこと教えてね。」

善子「そうよ。リトルデーモンはヨハネに何でも話さなきゃいけないの。」

やっぱり2人は心優しい。

そう思いながら、どこか現実感がなかった。

仲直りできてうれしいと思う自分がいる反面、今日は仲直りの印としてどこかに出掛けなければいけないのだろうかと考える自分がいる。

最低だ、こんなの。

その日は、授業中も、昼休みも、またその後の授業中も、本の続きが気になって仕方なかった。


練習前、まだぼうっとしている自分に、善子が話しかけてきた。

善子「ずら丸、その…、やっぱり具合悪いの?…あ!ほんとに変な意味はないからね!ほんとよ!」

花丸「へ、ごめん善子ちゃん、聞いてなかったずら。」

善子「よ、ヨハネよ。あのね、気を悪くしないでほしいんだけど、体調悪いなら部活休んだらどうかって。」

善子はびくびくしているようだった。土曜のように自分が怒らないか心配なのだろう。

なぜだかまったくそんな気にはならなかった。

日曜に休んだからか、疲れは感じない。
むしろ妙にふわふわして気分がいいくらいだ。

問題なく、練習には出られるだろう。

花丸「うん、マル少ししんどいから、今日は帰るね。」

あれ。

自分の口から出た言葉に、一瞬どうしていいかわからなくなる。

善子「や、やっぱりそうなの?私が先輩たちには言っておくから、早く帰って休みなさいよ。」

どこか安堵した顔で善子が頭を撫でてくる。

花丸「う、うん、ありがとう。」

鞄を持って、心配するルビィに笑いかけ、学校を出た。


てくてくと、校門を出て歩く。

数人の生徒の中に交じり、下を向いて歩く。

時刻は4時ごろだろか。こんな明るい時間に下校するのは久しぶりのことだった。

まだ日が沈んでいないというただそれだけのことに、何故だか心が浮き立つようだった。

帰ったら続きを読もう。

この時間なら夕飯前には読み終わるかもしれない。

ちらと振り返り、Aqoursの様子が気になった。

皆は、今頃ランニングだろうか。

まだ着替えをしているころだろうか。

自分のことを心配しているだろうか。

それとも千歌に連絡くらいしろと、怒っているだろうか。

梨子は――

途端に昨日のメールが頭に浮かぶ。

『また明日、待ってるよ。』

ずきずきとした痛みがひどくなった。

自分は何をしているのだろうか。

体調が悪いなどと嘘をついて、そうすれば善子が、ルビィが、皆が心配することくらいわかるのに。

元気に本の続きなど考えて、夕方に下校して。
こんなの、たださぼっているだけだ。

練習をさぼった。

この事実は自分の中でどんどん大きくなってくるようだった。

皆の信頼をひどく裏切った気がした。その裏で、土曜の自分を見て体調不良を疑う人はいないだろうと冷静に分析する自分もいた。

誰に見られているわけでもないのに、自然と早足になっていた。


寝る時まで、罪悪感は消えてくれなかった。

帰って本を読むときも、今日は休みだったと家族に嘘をつくときも、宿題をするときも、お風呂に入るときも。

本は読み終わったし、宿題はきれいさっぱり片付いた。

ゆったりとした夜を過ごしたはずなのに、何だか置いて行かれたような、自分が何処かから落ちてしまったかのような気分だった。

寝よう。明日はちゃんと練習に行こう。
朝練もあるんだったか。じゃあ朝から、ちゃんと家を出よう。

そう決意して、目を閉じた。


―――

翌朝、心底学校に行きたくなかった。

それでも義務感だけで身体を動かし、鞄を背負う。

行ってきますと家の敷居を跨いではじめて、重たい気持ちが少し和らいだ。

家を出られた。

さぼらなかった。

それだけで自分がものすごく偉い人になったような、そんな気持ちだった。




朝練に出た自分を皆は驚いて迎え入れてくれた。

午後からでよかったのに、と口々に言われ、少し得意げな気持ちになる。

同時に、昨日のことを思い出して申し訳なかった。

梨子の笑顔を横目で見て、胸が騒いだ。


午後の練習が終わる。

最近は休んでいたからか、前よりへばらなくなっていた。

皆と同じタイミングで部室を出る。

ルビィと善子が話しかけてくる。

ルビィ「花丸ちゃん、ルビィ、花丸ちゃんとゆっくりお話したいなって…。」

花丸「お話?」

善子「その、この前のこと。ちゃんと話さなきゃって。」

花丸「あ、うん、そうだね…。」

話すと言っても何を話したらいいかわからなかった。

自分の感情は、すべて話してはいけないもののように感じていた。

当たり障りのないことだけ、そう、例えば疲れていたとか、そういうことだけなら話してもいいだろうか。

ルビィ「あの、だからね、この後ちょっとだけ――」

いいよ、と答えようとしていたと思う。

断ったらルビィを悲しませてしまうと思っていた。

だから、横から腕をつかまれたときは心底驚いた。

梨子「ごめんねルビィちゃん。花丸ちゃん、今日は私と約束があるの。」

花丸「梨子、さん…?」

ルビィ「ふぇ、そうだったの?ごめんね花丸ちゃん!」

花丸「え、あ、うん…。」

善子「リリーとずら丸が?珍しいわね。」

梨子「たまにはそういうこともあるよ。じゃあね、ルビィちゃん、よっちゃん。ごめんね。」

ひらひらと手を振って、千歌のいいなーという声も無視して、梨子は自分を連れて外へ向かった。


梨子はしばらく無言で歩き続けた。

腕は痛くないように優しく握ってくれていた。

花丸「あの、梨子さん…。」

梨子「ふぅ…。ごめんね花丸ちゃん。びっくりしたよね。」

花丸「ちょっとだけ…。でも、どうして?」

メールのことで怒っていたりするのだろうか。

梨子「うーん、私が花丸ちゃんと行きたいところがあるから。だめかな?」

花丸「う、ううん、別に。大丈夫ずら。」

ちょうど困っていたし。

それでも少しだけ気落ちする。

梨子と本の話をするのは好きだが、出掛けるとなると自分とはつり合わない気がした。

それに、自分は本を――。

花丸「どこに行くずらか?」

梨子「私の家。」

花丸「梨子さんの?」

どこかのお店などではないのか。

梨子「うん、あ、親とかいるけど気にしないで。ゆっくりしてくれたらいいから。」

花丸「は、はあ…。」

訳が分からないままついていく。


―――

梨子の家は綺麗に整頓されていて、何だか逆に身の置き場がなかった。

梨子は自分に、押し入れは絶対に開けないでと念を押し、それ以外なら寛いでほしいと笑顔を向けてきた。

ちょこんとベッドにもたれかかる。

今日は何をするんだろうか。映画でも見るのだろうか。

梨子と2人で映画を見るのは、とても不思議なことのようだった。

梨子「ね、今日は花丸ちゃん、何したい?」

唐突に聞かれた。

本が読みたい。

そんなことは言えなくて困る自分に、梨子は一冊の本を差し出した。

梨子「はいこれ。借りてた3巻。ありがとう。」

花丸「う、うん、ありがとう…。」

梨子「もう2巻までは読んだんだっけ?ここで続き読んじゃう?」

花丸「え?」


言っている意味がよくわからなかった。

ここで、本を読む?

花丸「で、でも梨子さんは?」

梨子「私はピアノでも弾いていようかなって。最近弾けてなくて、弾きたかったし。あ、音あると読めない?」

花丸「ううん、マル、本読んでるときはうるさくても聞こえないから…。」

梨子「そう、よかった。さすが花丸ちゃんだね。」

そう言うと梨子は、ゆっくりと鍵盤に手を置いた。

最初は遠慮がちに、低い音がポーンと鳴る。

自分は馬鹿みたいに口を開けてそれを見ていた。

それでも、本を読みたいのは本当だった。

躊躇いながらも表紙をめくった自分に、梨子が微笑んでくるのが見えた。

気にしてはいなさそうだし、それなら。

ぺらりぺらりとページをめくる。

意識の奥から、優しい旋律が入り込んできた。

数々の音符に飾られ、文字がしっとりと流れ込んでくる。

ああ、気持ちがいいなあ――。


花丸ちゃん、と肩を叩かれ我に返る。

花丸「え、もうこんな時間!」

時計を見上げて驚く。

すっかりのめりこんでしまっていた。

ここ最近で、一番集中して本を読めたかもしれない。

梨子「ふふ、すごい集中力だったね。」

花丸「ご、ごめんなさい!せっかく呼んでもらったのに…。」

申し訳なくて目線を落とすと、梨子が頭をぽんぽんと叩いてきた。

梨子「ううん、実は今日ね、花丸ちゃんに本を読んでほしくて呼んだの。だから大丈夫。」

花丸「でも、梨子さんつまらなかったんじゃ…。」

梨子「そんなことないよ。私だって思う存分ピアノ弾けたし。」

自分の罪悪感がすうっと消えていくのを感じた。

今の時間は、本を読んでよかった時間。

許された時間。

そう思った瞬間に、すごくきらきらした、素敵な時間を過ごしていたような気になった。

だから、梨子の提案にとび上がるほどうれしくなった。

梨子「ね、花丸ちゃん。明日も来てもらっていいかな…。もちろん、迷惑じゃなければ。」

花丸「い、いいの?うん、マル明日も来たいずら!」


―――

それから数日、自分は毎日梨子の家に通っていた。

楽しいけれど重たかった放課後が、羽をつけてふわりふわりと浮いていく。

練習も好調だった。

満足に本を読めている、ただそれだけのことで身体が軽かった。

毎朝本の世界の夢を見ながら目を覚ます。

昼休みにはルビィと善子と楽しく話す。

精一杯練習し、その後梨子と本を読む。

少し前まで感じていた疲れや怠さが、嘘のようだった。

そう話すと、梨子は嬉しそうに笑った。

梨子「それはね、きっとバランスが取れたんだって、そう思うよ。」

花丸「バランス?」

梨子「うん、バランス。」

梨子はそれだけしか言わなかった。よくわからなかったので、気になっていたことを聞いてみた。

花丸「梨子さん、どうして先週、あんなに本が読めてたずらか?千歌さんと曜さんとお出掛けしてたんじゃ…。」

梨子「え、ううん。本を読んでたのはね、千歌ちゃんと曜ちゃんのお誘いを断ってたからだよ。」

花丸「え?何か予定があって断ったんじゃ…。」

梨子「ううん。予定はなかったけど、ゆっくりしたかったから。毎日一緒にお出掛けすると、疲れちゃうしね。」

何気なく梨子が言った言葉に、衝撃を受ける。

ゆっくりしたかったから?疲れちゃう?

花丸「ち、千歌さんたちには何て言って断ったの…?」

梨子「え、うーん、今日はやめとく、って言ったかなあ。」

花丸「え?」

それだけ、たったのそれだけで、千歌たちは納得したのだろうか。

梨子はそんなものだよ、と言って笑っていたが、自分は他人事ながらハラハラしてしまう。

梨子「だから花丸ちゃんも、私の誘いも断っていいんだよ?」

花丸「マルは梨子さんのおうち来るの好きずら!」

だって、ここなら気持ちよく本が読めるんだ。

梨子が読んでいいって言うから、気持ちよく。

この時間がないと、やっていけない気がした。

梨子「それならいいけど。」

また明日、そう言って梨子は手を振った。


―――

次の日も梨子の家で本を読んだ。

いつもと違い、途中でインターホンが鳴る。

梨子が出て、少しすると2人分の足音が聞こえた。誰か来たのだろうか。

果南「やっほー。マル元気?」

花丸「果南さん?」

制服姿の果南が現れた。

梨子「生徒会と理事長のお手伝い、お疲れさま。」

果南「ありがと梨子。2人も練習お疲れさま。」

花丸「果南さんはどうしてここに?」

果南「うーん…」

言葉を探す果南に少し怖くなった。

もしかすると、今日は本を読んではいけない日ではないだろうか。
3人でどこかに出掛ける日で、そういう日ではないのでは。

果南「私は、梨子に漫画借りに来た、かな。」

花丸「漫画?」

果南「そうそう。ここらへんあんまり本屋ないから、梨子しか持ってないやつも結構あってね。」

果南「後は、鞠莉から逃げてきた。」

梨子「え、今日も?」

果南と梨子があははと笑う。

果南「だって、鞠莉最近やたら元気なんだ。仕事仕事で普段はへばってるくせに、あそこ行こう、ここ行こうって。
そんな一気にやったら疲れちゃうよ。」

まただ。

また"疲れちゃう"。

花丸「疲れる、ずらか?果南さんなら体力ありそうだけど…。」

果南「ああ、そういう疲れるじゃないんだよ。気疲れっていうのかな。やっぱり私は、自分の時間も欲しいからね。」

花丸「自分の、時間…。」

果南はそこまで言うと、梨子から漫画を受け取って座って読み始めた。

梨子もいつも通りピアノを弾く。

果南が目を細めて音を聞いている姿が、妙に綺麗に見えた。

どうやら本を読んでもよさそうだ。

目を落として文字を追う。

しかし頭では、さきほどの果南の言葉について、ぐるぐると考えていた。




花丸「あの…。」

もうそろそろ解散かというとき、思い切って2人に声をかけた。

果南「ん、どうしたのマル。」

花丸「自分の時間って、何ずらか…?」

何だか変な質問をしているようだった。言葉の意味を聞いているわけじゃない。そうではなくて、もっと深い部分の。

果南と梨子は顔を見合わせて、何だか嬉しそうにしている。

そんなに面白い質問だったかと顔が熱をもつ。

梨子「ね、花丸ちゃん。もう少しだけ、お話しよっか。」


―――

梨子「私ね、ピアノが好きなの。」

静かに鍵盤の蓋を撫でながら、梨子が呟いた。

梨子「それを思い出させてくれたのは、千歌ちゃん、それにAqoursの皆。本当に、感謝してる。」

梨子の笑顔に首を捻る。まったく話が見えなかった。

梨子「それでね、やっぱりピアノが好きなんだって思ったんだけど、私、ピアノを弾く暇なんかなくて…。」

梨子「コンクール前は練習を休ませてもらってたけど、今はそういうわけにはいかないでしょ?」

花丸「た、確かに。」

梨子「でも、遅くなってからは弾けないし、練習が終わったら終わったで千歌ちゃんと曜ちゃんとお出掛けばっかり。」

花丸「……。」

何となく、当時の梨子の状況がつかめてきた。
つまるところ、つい1週間前までの自分と同じなのだ。

梨子「2人の誘いも断りづらくて…。ピアノは我慢するしかないのかなって思ってたんだ。そしたらね」

果南「私に会ったんだよね。」

花丸「果南さんに?」

梨子「そうなの。夜にね、何だかもやもやして散歩に出たんだ。そしたら果南さんがウェットスーツで歩いてて。」

花丸「ふふ、いつも通りずら。」

果南「えぇ?そんなに着てるかなあ…。」

梨子「着てます着てます。」

梨子「それでね、昼から海に出てたんだって。でも果南さんがダイヤさんと鞠莉さんに遊びに行こうって誘われてたのをたまたま聞いてたから、不思議で。」

果南「ま、断ってダイビングしてただけなんだけどね。」

花丸「おうちのお手伝いずらか?」

果南「ううん、違うよ。ただ私が潜りたかっただけ。」

果南「皆と潜るのも楽しいんだけどね、たまに1人で潜りたくなるんだ。静かで、誰も周りにいなくて。気持ちいいよ。」

それは本当に気持ちがよさそうだと思った。


花丸「海の中に本が持ち込めたらいいのに…。」

果南「あははっ!梨子とおんなじこと言ってる!ピアノじゃないだけまだマルの方が賢いね。」

梨子「どうせ私はおバカですぅ。」

果南「ごめんごめん。それでね、よくよく聞いたらピアノが弾きたいって話だから、言ってみたんだ。」

梨子「『だったら私みたいに誘いを断ったらいいじゃん』って。」

花丸「え…。」

それはひどく短絡的な考えのように思えた。

確かに誘いを断ったら時間はできるだろう。

しかし、現実を考えた場合、どうしても難しいように思えた。

果南「どうして?ただ一言で済むんだよ。」

花丸「それは、果南さんが、」

強いから。

愛されているから。

梨子「私は花丸ちゃんの気持ち、わかるな。友達の誘いを断るのって、何だか怖いよ。」

怖い。それは正確に自分の気持ちを言い表していた。

困らせるのが怖い。

嫌われるのが怖い。

ノリが悪いと思われるのが怖い。

次に誘ってもらえないのが怖い。


果南「ま、私の場合小さい時から一緒の友達だからね。勝手が違うのかも。」

果南「でもね、これだけはわかる。ゼロじゃダメなんだよ。友達との距離は。」

花丸「ゼロじゃ…ダメ?」

果南「そう。やっぱり、友達とは他人なんだよ。その人が何考えてるのかはわからないし、趣味だって違う。」

果南「生き方だって違うし、お金の使い方だって違う。私は、そんなことを嫌って程に感じてきたんだ。」

遠いところを見るような果南の目に、はっとする。

果南と誰よりも近いところにいる鞠莉。

しかし彼女は、周りの誰も到達しえない何処かにいる。

少し前までの3年生。

あんなに仲がいいのに、3人が3人とも自分の気持ちを抱え込んで、すれ違っていた時期。

果南「距離は、ちゃんとあるんだよ。どれだけハグしたって、どれだけ一緒にいたって。」

果南「だからこそ、歩み寄れる。だからこそ、相手のことを思いやれる。バックステップ 0 to 1、なんてね。そんな話を梨子としたんだ。」

果南は照れたように頬を掻いた。

梨子「私、それ聞いてびっくりしちゃって。近くにいる千歌ちゃんと曜ちゃんはいつも一緒に見えるし、私もそうじゃなきゃダメなのかなって。」

梨子「ずっと一緒にいることが友達なのかなって、そう思ってたんだ。」

東京でもあんまり友達がいなかったし。と、梨子は冗談っぽく笑った。

梨子の言葉はすんなりと心に入ってきた。

どれも、ずっと前から自分が考えてきたことのように、頭に馴染んだ。

花丸「ま、マルも、そう思ってたずら。だって…。」

だって、読書をする自分の周りで話す人たちは、いつも同じ人と一緒にいたんだ。

「グループ」なんてものをつくって、たくさんのものを共有して。

いつもいつも、誰かと顔を突き合わせて一緒に笑ってたんだ。

自分はそういう世界に入ってしまったのだと思っていた。

そんなきらきらした、まぶしい世界へと、ルビィや千歌が連れだしてくれたのだと、ずっと思っていた。


果南「きっとその人たちも、自分の世界を持っていたはず。」

花丸「自分の世界…。」

梨子「そう、自分の世界。私にとってそれは楽譜の中で、果南さんにとっては海の中で。」

花丸「マルにとっては…。」

本の中。ミステリーか、ファンタジーか、昔の時代か、それとも未来か。

色とりどりの、鮮やかな、それでいて白黒の世界。

梨子「だから、思い切って千歌ちゃんに言ってみたの。今日はピアノが弾きたいんだって。」

梨子「そしたら『そっか!じゃあまた今度ね!』って。ふふ、あっけなさ過ぎて笑っちゃった。」

果南「友達ってたぶん、そういうものなんだよ。やりたいことをすればいい。会いたいときに会えばいい。」

梨子「そう。そうやって一人でピアノを弾いてるとね。会いたくなるんだ。やっぱり会いたいな。遊びたいなって。
そう思った時に会いに行くんだよ。」

花丸「会いたいって思った時に…。」

最近の自分はどうだろうか。

誘われるままに遊びに出て。

疲れ切って帰宅して。

何となく練習後の時間を疎んじながら、それでも遊んで。

どんどん疲れていく身体と心と、本を読めない自分に腹が立った。

何だか未熟で不完全な生活を送っているような、そんな劣等感があった。

だから、梨子の家に通っている最近は、少しずつピースが埋まっていくようで楽しかった。


花丸「そっか、だからバランス…。」

梨子「そう、バランス。」

花丸「マル、おうちで本を読んでもいいのかな。」

果南「もちろん。読まないと死んじゃうんでしょ?」

梨子「果南さんが濡れてないと死んじゃうようにね。」

果南「こら。」

花丸「ふふっ、ふふふ、ほんとにそうかもしれないずら!」

果南「そう。鞠莉たちと騒ぐ私も、海の中で泳ぐ私も、どっちも私。」

梨子「千歌ちゃんたちと遊ぶ私も、ピアノを弾く私も、どっちも私。」

花丸「うん、そっか、どっちも、マルなんだ…。」

どっちが劣っているだとか、どっちが優先されるべきだとか、そんなことなくて。

やりたいときにやりたいことを。

やりたいことを言い合える相手。それがきっと友達だから。


梨子「私の話はこれでおしまい。」

果南「だいぶ遅くなっちゃったけど、マルはどうする?」

梨子「このままお泊りもいいかなって思うんだけど…。明日休みだもんね。」

花丸「お泊り…。」

すっきりと晴れ渡った心に、その言葉は魅力的だった。
しかし同時に、つい最近その言葉を聞いた気がした。

赤いツインテールと黒いお団子が脳裏で揺れる。

3人で過ごした練習後の時間。

随分遠い昔のような気がするなと思った瞬間、胸いっぱいに想いが湧いた。

言ってもいいのかな。誘ってくれているのに失礼じゃないのかな。

でも、2人はきっと許してくれる。

だって、友達だから。

花丸「マル、今日はあの2人に会いたいずら。だから、今はルビィちゃんのおうちに行きたいな。それで次の日は、早めに帰って本を読みたい!」

やりたいときに、やりたいことを。

急に呼んだらびっくりするだろうか。迷惑だろうか。
断られたら仕方ない。それでも、会いたかったんだ。

梨子と果南の顔色を窺う。



かなりこ「「たいへんよくできました。」」

2人は笑顔でそう言って、柔らかく抱きしめてくれるのだった。


――――
――


2人は自分を馬鹿だと言った。
同時に、気づけなかった自分たちを馬鹿だと言った。

言ってくれればよかったのにと。

自分たちも普段やりたいようにやっているのにと。

1歩引いて話したルビィと善子は、驚くほど自分勝手で、そして他人想いだった。

好きに誘うから、好きに断って。そして気が向いたら、好きに誘って。

それが2人の言葉だった。

それから数日。


―――

ルビィ「花丸ちゃん!善子ちゃん!今日お出掛けしようよぉ!」

ルビィの元気な声が部室に響く。

善子「また?どこ行くつもりなのよ。」

ルビィ「えっとね、うーん、コンビニ?」

善子「えぇ…。」

ダイヤ「ルビィ、最近お金を使いすぎですわ。」

ルビィ「大丈夫だよぉ、たぶん。」

ダイヤ「たぶんですって!?」

ルビィ「ピギィ!お姉ちゃんが怒った!…ね、花丸ちゃん、どうする?」

花丸「うーん、マル、今日は本読みたいかなあ。」

ルビィ「フラれちゃった…。」

がーんとのけぞるルビィに笑う。

本当に元気だ。

善子「じゃあ私もパス。放送あるし。曜さん帰りましょ。」

曜「うん!ヨーシコー!」

善子「だからそれやめてよ!」

ルビィ「うゅ…。」

花丸「ふふ、ルビィちゃんごめんずら。また今度行こう?」

ルビィ「…うん!ルビィも今日は家で雑誌読もうっと。」

また明日。

口々に言って、メンバーが解散する。

自分もぼんやり歩き出す。

今日はどんな本を読もうかな。

冒険譚がいいだろうか。とびきり明るくて、輝く世界を旅できる本。

そうして自分の世界で冒険した後、大切な友達とも冒険するんだ。

明日は、ルビィと善子と一緒に出掛けよう。

明後日は、梨子の家に行ってもいいか聞いてみよう。

次の日は、家でゆっくり本を読もう。

ルビィ「花丸ちゃん!また明日ー!どんな本読んだか教えてねー!」

ルビィが笑顔で手を振っている。

花丸「うん!また明日、ルビィちゃん。」

答えて、くるりと踵を返す。

断ったって大丈夫。一番大事な友達だから。

背中を向けても怖くない。

笑顔で一歩、踏み出した。

――――
――

おわりです。ほとんど花丸視点でした。
お目汚し失礼しました。

過去作です。お暇があれば。
構想があったのは今作までなので、また何か思いついたら書きます。


ダイヤ「あ、この写真…。」
ダイヤ「あ、この写真…。」 - SSまとめ速報
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