少年「魚が揺れるは灰の町」 (20)

雨が降っている。

鈍色の魚が、とぷりと波紋を立てて、コンクリートの町の中を、縦横無尽に泳いでいる。

彼らは何処から来て、何処へ行くのか。

町の人達は誰も知らない。そもそも、彼らに触る事が出来ないので、確かめようが無い。

あれは一体何なのか。

誰もそんな事は考えない。泳いでいく魚達には目もくれず、大人達は足早に歩いていく。

此処は冷たい無関心の町。


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少年(この町は息苦しい)

「なんだ、今回のテストは」

少年(無表情で、感情を感じさせない声で、父さんは言う)

少年「いや、今回は難しくて、平均点が低かったんだ。一応平均点よりは上の点数だし、クラスでも一番……」

「言い訳をするな。前よりも悪い点を取ったのは事実だろう」

少年(じろりと何処か虚ろな目をこちらに向ける。彼に必要なのは、成績が下がっていないという「事実」だけ)

少年(僕が深夜まで勉強していたとか、苦手な分野を頑張ったとか、そんなものは必要ない)

少年「でも、最後のこの問題を解けたのは僕だけなん……」

「……」

少年(無言の圧力。彼は僕の事なんて見ていない)

少年「……ごめんなさい」

少年(この町は息苦しい。その息苦しさから少しでも逃れるために)

「部屋に戻って勉強をしろ」

少年「……はい」

少年(僕は今日も、心のナイフで自分を殺す)

少年(雨が降っている)

少年(近くの工場から吐き出されるガスは、今日も僕の肺を痛めつける)

少年「あ……猫」

少年(小さな黒猫だ。濡れきってひどく震えている)

少年(傍らには、母親と思われる猫。力尽きてしまったのだろうか)

少年「大丈夫かい? とにかく、温めないと」

少年(僕は急いで、無駄に大きな屋敷へ戻る)

少年(こんなに広くなくとも、十分生きていけるだろう。金持ちの価値観はよく分からない)

「少年」

少年「!」

「……何ですか、それは」

少年「あ、親が死んじゃったみたいで、温めてあげようと……」

「捨ててきなさい」

少年「温めたらすぐに外に戻すよ! それくらいならいいでしょ?」

「捨てろ、と言ったのです」

少年「……」

「お父上が言わねば分かりませんか」

少年「……はい」

少年(こんなに広いのに、子猫一匹が入る隙間もないのか)

少年(ああ、息苦しい)

少年(家から離れた公園。遊具はタイヤと土管のみで、めったに人が来ない)

少年(僕は段ボールにタオルを敷き詰め、そこに子猫を入れた)

少年(そうして、土管の中にそっと置く。気休めにしかならないが、雨風は凌げるだろう)

少年(とはいえ、身体はひどく濡れている。僕は少しでも暖めようと、そっと子猫を抱きしめる)

少年「ごめんね、毎日世話しにくるからね」

少年(自由も夢も希望も無い。錆びついた灰色の世界)

少年(こんな世界で、どうして僕は生きているのだろう?)

少年(今日も嫌な雨だ。灰色の分厚い雲は、まるで憂いを降らしているように感じる)

少年(バス停に立っているだけで、こんなにも憂鬱だ)

少年(思えば、この町が晴れている所なんてめったに見ない。いつも雨か曇りだ)

少年「……」

少年(窮屈な町だ。まるで虫かごに閉じ込められているように思える)

少年(水たまりに映る世界は、こんなにも歪んで不安定だ)

少年(いっその事、こんな町……消えちゃえばいいのに)

少年「あっ」

少年(足元を、鈍色の魚達が泳いでいく)

少年(大人たちは、何も教えてくれない。と言うよりも、本人達も知らないんだろう)

少年(魚達は、硬いコンクリートの中を自由に泳いでいる)

少年(ああ、僕もそんな風に生きたい)

少年「!」

少年(今のは……白い魚?)

少年(あんなのは見た事無いな)

少年「あ……」

少年(もう見えなくなった。今のは何だったんだろうか?)

少年(……バスが来た。乗ろう)

少年(いつからだろう。嫌いなものが頭を埋め尽くしていくようになり、好きなものが思い出せなくなった)

少年(僕の趣味は何だったっけ、好きな食べ物は何だったっけ)

少年(毎日毎日自分を殺して、残ったものは一体何だ?)

少年(勉強、勉強、勉強。僕の個性はとっくに腐り、父さんの鎖にがんじがらめだ)

少年(まるで水中で毎日を過ごしているようだ。息苦しさだけが、君は生きていると僕に教えてくれる)

少年(だが、はたして僕は生きていると言えるのだろうか?)

少年(意思を持たず、意見を持たず、意気を持たず)

少年(自分の存在意義すら持っていないのではないだろうか)

少年(例えるならば傀儡だ。僕はとっくに死んでいる)

少年(そうしてこの町を呪って、自分を殺して)

少年(僕は今日も、重い足取りで家へと帰る)

少年「いっそ、誰かが車で轢いてくれたらいいのに」

少年(そんな思いすら、雨の街路にとぷりと沈んでいく)

少年(……今日は僕の誕生日か)

少年(思えば、誕生日なんて祝ってもらった事が無い)

少年(「誕生日おめでとう」なんて……言ってもらった記憶が無い)

少年(もしも母さんが生きていたら、祝ってくれていたのだろうか)

「少年」

少年「! はい」

「……お父上からです」

少年「プ、プレゼント!? 僕に?」

「そのように聞いております。では」

少年(な、なんだろう……)

少年「あ……」

少年(鉛筆と、消しゴム、ノート……)

少年「……」

少年(父さんは、僕を愛しているのだろうか)

少年「……あ、父さん」

「お前は最近たるんでいる。これで勉強をしろ」

少年「……僕、今日は誕生日なんだ」

「くだらないことを言ってないで、さっさと部屋に戻れ」

少年「……」

少年(……あ、今日も猫にごはんをあげなきゃ……)

少年「今日も段ボールとタオルを変えにきたよ」

少年「あ……!!」

少年(……冷たい)

少年(死んじゃったんだ)

少年(どうしてこの子が死ぬのに、僕はのうのうと生きているんだ)

少年「ごめんね」

少年(僕が家に入れてあげれたら)

少年「……ごめんね」

少年(僕に力があれば)

少年「……ごめん……ね……」

少年(……僕が、大人だったなら)

少年「……こんな世界、もう嫌だよ……」

少年(僕は泣いた)

少年(町の片隅で、一人泣いた)

少年(膝をついて、惨めに泣いた)


この哀れな少年に、救いの手を。


少年(――町の何処かで、魚が鳴いた)

とぷり。

少年「!」

少年(突如現れた白い魚が、硬い「水面」を飛び上がった)

少年「! な、なんだ……え、ええっ」

少年(白い魚の後を追うように、町の至る所から、奔流のように魚達が集まってくる)

少年(何度も水面を飛び跳ねながら、魚達は巨大な一つの流れとなる)

少年(何処へ向かっていくのかは分からない)

少年(でも、僕は自然と走り出していた)

少年(大人というものは、彼らの常識では理解出来ないものを見ると、随分と脆いらしい)

少年(彼らは魚の流れに対し、本能的に何かまずいと思ったらしい。多くの大人が外に飛び出してくる)

少年(しかし、だからと言って何か出来る訳ではない。ただおろおろと立ち尽くすだけだ)

少年(走って行くうちに、町の広場へ辿り着いた)

少年「!」

少年(突如、魚達が一斉に宙に飛び出した。無数の魚が一つになっていく)

少年(魚の一匹一匹が、鱗に、爪に、牙に、眼になってゆき……)

少年「あ、あれは……」

「……」

少年(――魚達は、一匹の龍へと姿を変えた。手には白い玉を持っている)

少年(龍は空へと飛びあがり――)

少年(巨大な咆哮を上げた)

少年「――あ……」

少年(その咆哮が空へと響き渡り、分厚い雲が晴れた)

少年(龍はくるりと旋回すると、勢いよく地面に潜った)

少年(龍が潜ったその場所が、どくんと胎動する)

少年「こ、これっ……わあ!」

少年(その瞬間、無数の透明な魚が、水面から勢いよく飛び出した)

少年(魚達の透明な奔流は、大人達を次々と飲み込んでいく)

少年(途中から魚達の動きは枝分かれし、一人一人の体に宿っていく)

少年「あれは……一体……」

少年(最後の魚がついに消えると、大人達は皆倒れていた)

少年(気が付けば、町は夕焼け色に染まっている)

少年(こんなに鮮やかな夕方は初めてだ)

少年「!」

少年(とぷりと音を立てて、白い魚が水面から顔を出した)

少年「……君は、いったい」

あの魚達は、大人達が無くしてしまった心だ。

少年「心?」

いつからか、この町には良くない気が集まるようになった。沢山の工場が出来てからになるかな。

大人達は、次第に無表情になっていった。君の父親なんかは、妻を亡くしてから、特にひどくなっていったな。

私は彼らが落としていった心を拾い集めた。

人間には干渉しないと決めていたんだが、君の声があまりにも辛かったのでね。

少年「……神様?」

まあ、似たようなものかな。

少年「……僕は、どうすれば」

どうもしなくていいよ。心を取り戻したんだ。後はどうするか、彼ら次第さ。

少年(そういうと、魚はとぷりと消えていった)

少年(僕は一人、魚が沈んだ場所を眺めていた)

少年「……行ってきます」

「ああ、行ってらっしゃい。気を付けてな」

少年「! ……うん!」

少年(あの出来事は、誰も覚えてないみたいだ)

少年(父さんは優しくなった。町の大人達は、少し柔らかい顔つきになった気がする)

少年(世界は、こんなにも暖かいのか)

少年(明日が楽しみになるなんて、考えた事も無かったな)

少年「……ありがとう、魚さん」

――どういたしまして。

少年(今日も町の何処かで、とぷりと小さな音がした)

終わりです。ありがとうございました。

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