モバP「佐久間まゆの祝歌」 (46)

アイドルマスターシンデレラガールズ、佐久間まゆのSSです。

地の文、オリジナル設定、R-15などの要素を含みますので、苦手な方はお手数ですがブラウザバックの方をお願いします。


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どうやら、頭を打ったらしい。
いやいや、もちろんこれは比喩だ。
例え話の一つ。
つまりは、佐久間まゆという少女に初めて出会った時。

ガツン、とやられてしまった。

俺は自分で言うのもアレなものだが、中々の現実主義者だと自負していた。
一目惚れなんて、ありえないと思っていた。

あんなのは夢見がちな奴らの幻想だと、頭から決めてかかっていた。

何の事はない。

ただ自分が頑迷なだけだったのだと、思い知らされてしまっただけの話。
それまでの全てを打ち砕かれてしまったのだ。
それだけの魅力が、彼女にはあったのだ。

──────────────────────────────────────

まゆと連絡がつかない。
それだけで一大事だった。
いつもは電話をかければワンコール以内、メッセージを送ろうものなら遅くとも一分以内に反応が返ってくると言うのに。
こちらから連絡せずとも、5分おきには何かしらの短いメッセージが飛んで来る。
それに短く返信しながら仕事をするのが決まりごとのようになっていたのだが、もうかれこれ半日ほどなしのつぶて

だ。

「……どうしたんだ、まゆ」

いつまで経っても既読の付かない携帯をしまい込み、小さく呟く。
忸怩たる思いをひとまずしまい込み、やりかけの仕事へ目を向けるが、駄目だった。
全く集中できない。
書類を片付けるつもりが、いつの間にか「連絡」や「まゆ」と言う文字を目で追っているだけなのに気づいた辺りで手を

止め、深いため息をつく。

「どうしました?」

ことり、と音を立てて傍らに湯気を立てるカップが置かれる。

「ああ、ちひろさん……」

「先程からどうも仕事が手に付かない様子だったので、どうぞ」

ありがとうございます、と一言断ってカップに口をつける。
甘いカフェオレだった。

「……ふぅ」

「お疲れですか? それとも、何か心配ごとでも?」

そのまま隣の椅子へ腰を下ろしながら、ちひろさんが続けて問いかけてくる。
言ってもいいものか、と一瞬迷ってから、改めて口を開く。
一人で悶々とし続けるよりはよほど健全だろう。

「その、昨日の夜からまゆと連絡が付かなくて」

「ええ!?」

大げさに椅子を鳴らして、ちひろさんが慌てて立ち上がりこちらへ向き直った。
……そこまで驚くことだったのか。

「え、まゆちゃんですよね? 連絡が付かないって……どうしよう、警察に」

「いやいやちょっと待ってくださいよ」

「でも、あのまゆちゃんと連絡が付かないって」

ちひろさんの中で、まゆはどういう扱いなのかは後で問い詰める必要がありそうだ。

「帰省中ですからね、久しぶりに親御さんや仲のいい友達と会っててつい連絡がおろそかになってるんでしょう」

我ながら無理のありそうな話だと思いつつ、ありえなくもない可能性を示唆する。
ちひろさんではないが、何しろあのまゆだ。
そんな、俺の事を忘れるほど何かに熱中するなんて──。

「自惚れですかね」

「はい?」

「いえ、何も」

それよりも、と言い置いてちひろさんが続ける。

「夏休みを使って、帰省ですか?」

「ええ、ホントなら俺も一緒に行くはずだったんですが」

どうしても日程が一日合わず、まゆには先に帰ってもらうことになったのだ。
色々と突然になるだろうからまず先に説明しておきますね、というのはまゆの弁。
最後の連絡は「おうちに着きました」の一言きりだった。

「はぁ……」

「心配ですか?」

「当たり前でしょう」

心配でないわけが無い、現にさっきからみっともなくも貧乏ゆすりが止まらないのだから。
幸いにして喫煙者ではないが、もしそうだったのなら今頃山盛りの灰皿が出来上がっていることだろう。

「ちひろさん」

「早退はダメですよ」

「……はい」

内心の焦りを押さえ込みながらデスクへと向き直る。
どうにも集中できないが仕方ない、これだってまゆの為の大事な仕事なのだから。
そう思ってキーボードに手を伸ばし──そこで、手が止まった。
ポケットにしまった携帯が、震えている。
慌てて取り出し、画面に目をやって、心臓が跳ね上がった。

「──ッ!」

「Pさん?」

立ち上がって、携帯の画面をちひろさんへ突き出す。

『たすけ』

まゆからのメッセージだった。

「……ちひろさん」

「空港までの移動時間を考えると飛行機より新幹線の方が早いです」

「わかりました」

「そのまま向かってください、切符は取っておきますから」

鞄を掴み取って、そのまま事務所を飛びだす。
道すがらに返信をしてみたものの、既読が付く様子すらない。
舌打ちをしながらまゆの家までの道程を確かめていると、ちひろさんからの着信があった。

「はい」

『切符は取れましたので、そのまま駅へ向かってください』

「ありがとうございます」

『あと、ちょっと手が空いてる子に頼んで色々調べて貰っているので』

重ねて礼を言った後、通話を切る。

「無事でいてくれよ……」

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「何がプロデューサーだっ! うちの娘をたぶらかしおって!」

「いえ、ですからその──」

「そんな事をさせるために東京へやったんじゃない! とにかく、娘は渡さんからな!」

「いえ、少しお話をですね……」

「うるさい! 聞きたくも無いわ!」

インターフォン越しに一方的に怒鳴りつけられ、対話とも言えない何かは早々と終わった。
収穫と言えばまゆが家にいると言う事が分かったくらいか。
それでもまあ、居場所と安全が保障されたというだけでだいぶ感情的には楽になる。

「……まあ、とにかくちひろさんに相談かな」

携帯を取り出し、通話ボタンを押す。

「もしもし?」

「……ずいぶん早いですね、まさかワンコールで出てもらえるとは」

「まあ、待ってましたので」

「ありがとうございます」

「で? どうだったんですかまゆちゃんの方は」

思わず口ごもる。
まさか女衒のような扱いをされて門前払いを受けた、なんてちょっと言いにくい。
それにあながち間違いでもない所が更に良くない、違いと言えば聞こえが悪いが『商品』に手をつけたくらいか。

「……親御さん、特にお父さんがだいぶご立腹のようでして」

「まあ、そうでしょうね……」

大きなため息が聞こえたのは間違いなく気のせいではないだろう。

「で、まゆちゃんとはお話できました?」

「そっちもダメでした、会わせても貰えませんでしたから」

二度目のため息。
分かっちゃいたけど気が滅入るな。

「……とりあえず、こっちでもなんとか連絡はしてみますので」

「わかりました、それじゃ一回そっちへ戻ります」

「いえ、もうそのままそっちにいて貰えますか?」

「え、でも」

「どうせ明日からそっちに行かれる予定だったんですよね? なら帰って来るのはお金の無駄です」

「……ありがとうございます」

「お礼はいいですから、できれば休暇中に問題を解決してくださいね」

「なんとかしてみますよ」

「じゃあ、おみやげお願いしますね」

冗談めかした台詞を残して、通話は切られた。
何はともあれ、ひとまずまゆの無事を確かめるという目標は果たしたのだから、次は宿だ。

歩き出した辺りで携帯が震え、取り出して画面を見つめる。

『新幹線代は経費で落ちませんからね』

──見なかったことにしよう。
そう決意しても、若干肩が落ちるのは止められなかった。

──────────────────────────────────────

「で、ここ二日の成果はどうだったんですか」

「全然ダメです」

「はぁ……」

「まず玄関が突破できませんよ、インターフォン押しても俺だとわかると切られるんですから」

「ご実家の電話のほうには」

「どうやらこっちの携帯番号が着信拒否でもしてあるみたいですね」

頑なすぎる。
自分のやった事を棚に上げて言うのもあれだが、きょうび子供でもまだ話せるぞ。

あと、どうやらお母さんの方は家にいないらしい。
なにやらちょっと特殊なお仕事らしく、忙しい時は連絡も中々つかないのだとか。

「こちらからだとお話はできたんですが、どうも冷静さを欠いているというか……」

「まあ、興奮されてるってことでしょうね……」

「少しほとぼりを冷ましたほうがいいかも知れませんね」

「まあ、幸いというか何と言うか、休暇はまだ残ってるので」

「進展があったらまた連絡してください、こっちでも何とかしてみますので」

よろしくお願いします、と言い置いて携帯をしまい込む。
ベンチ代わりに腰掛けていた階段から腰を上げ、ぐっと全身を伸ばす。
そのせいか、目の端をちらりと掠めた栗色に反応するのが少し遅れた。

「まゆ!?」

我ながらなんて短絡な、と思う事もなく、駆け出すことを選ぶ。
見知らぬ街で、しかもそこそこの距離が離れていながら追いつけたのは運が良かったと言ってもいいだろう。
駆け寄った勢いのまま、目の前の女性に手を伸ばして──。
視界が、反転した。

「ぐは!」

「あら」

何が起きたか分からないまま、地面に尻をくっつけて座っている。
じくじくと痛むという事は、叩きつけられたのか?
阿呆みたいに座り込んでいたが、手を取って捻り上げられた衝撃でようやく我を取り戻した。

「い、痛たたたた」

「何か御用ですか?」

後ろから聞こえてくる声はやはりというか何と言うか、まゆに良く似ていた。
が、まゆの声ではない。
首だけを後ろに回して、俺の腕を掴んだままでいる声の主を確かめようとするが中々上手くいかない。
抵抗していると思われたのか、捻りあげられたままの腕へ更に力がこもった。

「す、すみません! 怪しいものでは……あるかも知れませんが、決して何かしようとしたわけでは!」

「後ろから走って追いかけてきて、いきなり捕まえようとした人の台詞とは思えませんねぇ」

「あ、いた、痛い! すみません、ごめんなさい!」

情けない声を上げながらも必死に害意のない事をアピールするが、どうにも信じてもらえそうにない。
このままでは警察に突き出されてもおかしくない。
それはどうしても困るので、確証はないままに本来の用件を切り出す事にした。

「さ、佐久間まゆという子を、ご存知ではないですか……あいたたたた!?」

「……どうしてまゆちゃんの事を?」

「お、私は彼女のプロデューサーです」

「……信用はできかねますねぇ」

「そ、その辺に鞄が落ちてるはずです。 その中に身分を証明する物が……」

やっとそれだけ伝えると、少しだけ手の力が緩んだ。
そのまま後ろ手に引かれ、やがて鞄が差し出される。

「ご自分で開けて、取り出してください」

「ちょ、ちょっと待ってくださいね」

片腕だけの不自由な体勢だが、なんとか目当ての社員証を取り出し、鞄ごと差し戻す。

「……あら、ほんとう」

その言葉と共に手を離され、腕をさすりながら振り向いた先には。

「じゃあ、あなたがまゆちゃんの言ってた『Pさん』なのね」

まゆに良く似た、女性が立っていた。

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「大変失礼しました……」

「いいんですよ、こちらこそ乱暴な事をしてしまってごめんなさい」

「いえ、よく考えれば……というより、考えるまでもなく非常識なのは私ですので」

あの騒動の後、ちひろさんにも連絡を取ってどうにか誤解──完全に自業自得なのだが──は解けたらしい。
ゆるくウェーブのかかった栗色の髪に、どこと無く眠たそうに下がった目尻。
まゆの母親だと名乗った女性は、なるほど良く似ている。
正面から向き合うとはっきりと別人だと分かるが、後ろ姿やまとう雰囲気のような物は完全に血縁のそれだった。

「うふ、あなたの事はまゆちゃんから良く聞いてますよ」

「きょ、恐縮です」

なにやら探偵業を営んでいるらしく、先程俺を引き倒し腕を捻り上げたのも職業柄かじった護身術のようなものだと

か。
それにしてはやけに堂に入った物だったが……まあ、気にするのはやめておこう。

「……そうですか、まゆちゃんのお仕事ぶりの報告にこちらへ」

「ええ、やはり遠方という事もあって中々頻繁にご挨拶するというのも難しいもので」

「それで、あの人が何か勘違いをして怒っていると」

「……はい、いえその、お父様のおっしゃる事もその、完全に筋違いと言う物でもなくてですね」

「あら、お義父様なんて」

「え?」

何か違和感があった気もするが、これも追及するのはやめておこう。

「うふ、まゆちゃんとはいい仲なんでしょう?」

「も、申し訳ありません。 ご両親の信頼を裏切るような形になってしまって……」

「いえいえ、私はそうなる事も折り込み済みでまゆちゃんを送り出しましたよ」

「は?」

「『運命の人を見つけたの』と言って飛び出していきましたから、遅かれ早かれこうなると思っていました」

「そ、そうですか……」

それに、と言いながら紅茶のカップを口元へ運び、下ろす。
こういう細かい仕草まで良く似ているのは、やはり遺伝なのかそれとも教育の賜物なのだろうか。

「言い方は悪くなりますが、意中の男性をモノにできないような育て方はしてないつもりですので」

まゆがたまに見せる底冷えのするような微笑みを何倍にも強めたような表情を向けられ、思わず手が震えた。
やはり血は争えないのか。

「まあ、私は二人が好き合う事についてはとやかく言うつもりはありませんから」

「あ、ありがとうございます」

「ただ、あの人は……まゆちゃんを溺愛してますからねぇ」

そう口にした時、ほんの僅かだが瞳に激情の色が宿ったのを見なかった事にして、話を続ける。

「とりあえず、まだまゆにはアイドルとしての未来がありますので今すぐどうこうと言うわけでは」

「そうですねえ、まゆちゃんも一時期そのことについては随分と悩んでいたみたいですし」

「そうですね……最初は私のためだと言って憚らなかったのですが、最近は徐々にアイドルとしての活動自体を楽し

んでくれているようなので」

「私としては、あなたがまゆちゃんの事を裏切らなければ──」

「それだけは、ありえません」

失礼かもしれないが、断ち切るように強い否定をぶつけてしまった。
まゆを裏切るなんて、そんな事。
考えたことも無かった。
まずかったか、と顔色を窺うも、まゆのお母さんはますます笑みを深める。

「まあ、あの人に関しては私の方からも少しお話しておきますね」

「ありがとうございます」

「ご報告を頂けるという事でしたら、資料の方はお預かりしても?」

「はい、こちらになります」

鞄から持って来ていた資料を取り出し、簡単な説明を交えて渡していく。
LIVEの映像や、フォトモデルの写真など、主にこれまでの活動内容とこれからの予定がメインだった。

「わかりました、これを見せればあの人もそんなに悪い顔はしないと思いますよ」

「ありがとうございます、詳細な説明はまた改めて」

「それで、また別のお話があるのですけど」

再びあの背筋が冷える表情を向けられ、なんとなく嫌な予感を押し殺しつつ立ち上がりかけた腰を下ろした。
下ろさざるを得なかった、の方が正しいだろう。

──────────────────────────────────────

「これじゃまるっきりコソ泥だよ……全く」

月明かりも雲で隠れ、薄暗く更けた夜。
植え込みを乗り越えつつ、声を抑えてぼやく。
なにしろ今はまゆの家へ乗り込む最中だ。
こんな経験など当然あるはずもなく、既にスーツはあちこち引っ掛け、割とみっとも無い状態になっている。
足音を殺し──と言っても少し静かに歩く程度なのだが──あらかじめ教えてもらっていた、まゆの部屋がある窓の

下までどうにかたどり着き大きく息を吐く。

「明かりは……ついてるな」

あの後、まゆのお母さんが言っていた「お話」と言うのはとんでもない物だった。

(いくら説得すると言っても、あの人は中々頑固ですから少し時間がかかると思うんですよ)

(なので、ちょっと大変だとは思いますが)

「まゆをさらうなんて……中々見た目によらずエキセントリックな人だな、あの人も」

説得している時間が勿体ない上に、その間引き離され続けるまゆが可哀想だと言うところまでは理解できたのだが、

もう少し穏便な手段はなかったのだろうか。
こんな、一歩間違えば犯罪者扱いされてもおかしくないような……。
後ろ暗さしかないが、ここまで来たらもうやるしかない。
こんな無茶苦茶な真似をしてでもまゆに会いたかったのかと言われれば、そうだとしか言いようもないのだし。

意を決して、まゆの部屋にあるベランダへと繋がるパイプに手を伸ばした。
強めに体重をかけてみても、軋む程度で壊れるほどではなさそうなのを確認し、地面から足を離す。
足を突っ張り、パイプを引っ張るようにして一歩一歩登っていく。

どうにかベランダまで辿りついた辺りで、びきりと嫌な音が響く。
慌てて手を離すと、その衝撃で完全にパイプが外れてしまったようだ。
どうにか目標の一つを達成した事に胸を撫で下ろし、明かりが薄く漏れる窓へと向き直る。

「まゆ……」

掠れたような声しか出なかった事に自分でも驚く。
自分が思っている以上に動揺していたようで、やけに心臓の音がうるさく聞こえた。

呼びかけるのは諦め、小さく窓を叩いた。

部屋の中で何かが倒れるような音がして、明かりが激しく明滅する。

ゆっくりと人影がこちらに向かってきて、窓とカーテン越しにシルエットが映る。

小さな音を立てて、錠が上げられた。

「P、さん……?」

「まゆ」

まゆ。
何日か振りに見る姿は、激しいと言うのも足りない程の強い感情となって俺の胸を叩いた。
泣いていたのだろうか、目の周りが少し赤い。
驚愕に開かれ、衝撃に彩られていたその目が、徐々に強い感情を宿し始める。

ゆっくりと、雲が晴れていく。
今まで翳っていた月光が照らしたその姿は、とても。

ああ。

綺麗だ。

「Pさん!」

飛び込むように抱きついて来たまゆをしっかりと受け止め、抱きしめ返す。

「まゆ」

顔を上げたまゆの表情は、花がこぼれるような笑顔だった。

「迎えにきたよ」

「はい」

月の明かりが、また翳り始めた。
まるで、自分より美しい物をこれ以上照らしてはいられないとでも言うかのように。

幕が落ちるように、光が消えていく。

その闇の中で、二つの影が。

そっと、一つになった。

──────────────────────────────────────

どれくらい、そうしていただろう。
何も言わずに抱き合っていた俺達は、家の中から聞こえる物音でハッと我に返った。

「なんだ今の音は……まゆ!どうした!」

「まずいな、流石に気づかれちゃったか」

「Pさん……」

「逃げるぞ」

不安げに俺の服を掴むまゆの頭をそっと撫でた後、下を見ないように一人でベランダから身を翻す。
着地と同時に中々の衝撃が足に響くが、立って歩けないほどではなかった。

上を見上げると、やはり不安げにこちらを見下ろすまゆの姿があった。
同時に、まゆの後ろで部屋の明かりが揺れる。

「まゆ! 一体何が……」

「まゆ!」

強く呼びかけると、まゆは一瞬だけ部屋を振り返り。

跳んだ。

手を広げてこちらへ向かってくるまゆを、できるだけ優しく、しっかりと受け止める。
かなり足腰にきたが、ここまで来て情けない姿は見せられない。
腕の中に感じるまゆの温もりと柔らかさを確かめるように抱きなおした後、再びベランダの方を見上げる。

「まゆっ!、だいじょ──」

お父さんと目が合った。
何が起こったのかわからないと言ったように見開かれた目が、一瞬で怒りに燃える。

「貴様……!」

「お嬢さんを、僕に下さい!」

言うが早いか、振り向かずに駆け出す。
さんざん好き放題言われたのだ、こっちも言い逃げくらい許されるはずだろう。

「奪ってから言う台詞かぁ──!」

怒声に背中を押されるように、足を速める。
行きに越えて来た生垣を飛び越え──る事は流石にできなかった──突き破り、転げるように飛び出した。

そのまま止めてあったレンタカーに乗り込み、震える手でエンジンをかける。
バックミラー越しに見やると、人影が飛び出してくるのが分かった。

そのまま強くアクセルを踏み込むと、あっという間にそれは見えなくなる。

「うふふ」

「……はは」

流れて行く景色が緩やかになり始めた辺りで、俺達はどちらからともなく顔を見合わせ、笑いあった。

「これから、どうするんですかぁ?」

「うん、疲れた。 とりあえず泊まるところでも探そう」

「はい♪」

──結局まともなホテルに空きはなく、山間のお城のようなホテルを利用する事になったのは、まあ別のお話。

──────────────────────────────────────

「……さん」

「ん、うぅ……」

「朝ですよぉ、起きてください?」

心地よいまどろみから引き上げられた。
眩しさも手伝ってか、僅かに眩む視界の中でこちらに手を伸ばす影が見えた。

「……おはよう、まゆ」

「おはようございます」

同じベッドの中から身体だけを起こし、抱き寄せるように俺の頬に手を添えるまゆ。
腰までずり落ちた毛布や、柔らかい曲線の下にわだかまるシーツの皺すら妙に艶かしく見えて、そっと視線を逸らす


そんな僅かな抵抗も許さないと言わんばかりに、目を閉じたまゆの顔がすっと近づく。

軽い口付け。

それだけで身体の芯に火が入り、お返しに強くまゆの身体を引き寄せた。

「んっ……」

深く合わせる。

は、と微かな吐息が漏れ、それすらも飲み込むように貪り合った。
こちらの動きに合わせて、ぴく、と震える身体も、熱い程に熱を帯び始める体温も、全てが愛おしい。

ひとしきりお互いの唾液を交換した所で、そっと唇が離れた。

まるで名残惜しさを繋ぐように、透明な橋が架かる。

「……Pさんの味」

ぺろ、と唇の端を舐めるまゆ。
その紅が、やけに目を引いた。
目だけではなく、理性すらも奪われたと気づいた時には、もう遅い。

じりじりと燃えていた火が、炎に変わる。

「きゃ」

乱暴にまゆの身体をたぐり寄せ、体勢を入れかえてのしかかる。

「もう」

たしなめるような口調だが、まゆの眼には赫々とした光が宿っていた。
或いは、俺自身の情欲が映っていたのか。

確かめようとそっと手を伸ばすと、その手を握り、指を絡めて微笑む。

空いた手で、まゆの身体へ指を這わせた。
形を確かめるように滑らせると、こちらの思い通りに反応が返ってくる。
手の平で撫で、指で押し込むように、執拗にまゆという形をなぞる。

びく、びく、とまゆの身体が震えるのに構わず、ありったけの愛情をこめた愛撫を続ける。
こらえ切れず小さく開いた口から覗く紅に、炎はいっそう強く燃え上がる。

まゆの方も俺が見ていることに気づいたのか、ちろり、と誘うようにそれを蠢かせた。

再び、先程よりも更に深く、重ねた。

確かめる為ではなく、純粋に欲求を満たす為に。
誘われたのだから、応えない訳にはいかない。

気遣う余裕などない。
ただただ、蹂躙した。
絡めた指が何度も解けかけ、その度にしっかりと繋ぎ直す。

「ん……っ!」

やがて引き攣るような吐息と共に絡めた指が強く握られ、すぐに力が抜ける。
唇を離すと、浅い息を吐く。

「あさから、こんな……だめですよぉ?」

本心とはまるでかけ離れた言葉を吐きながら艶然と微笑むまゆの身体へ手を伸ばし──そこで、手が止まった。

枕元の、無粋な闖入者。
震えながら喧しい音を立てるそれを手に取り、投げ捨てようとした所でまたも手が止まる。

「……もしもし」

「おはようございます」

「ちひろさん……」

はぁ、と大きなため息を吐いて、通話をスピーカーモードに切り替える。
不満げに頬を膨らませるまゆの頭を軽く撫で、意識を切り替えた。
燻る事もなく、炎が消える。

「ひょっとしてお邪魔でした?」

「声でニヤニヤしてるのがわかりますよ、分かってて聞くのは悪趣味です」

ごめんなさい、と悪びれもせずに言う。
何か言ってやろうかとも思ったが、その代わりにまたため息を吐く事にしておいた。

「まゆちゃんもいますね?」

「はい、おはようございます」

「おはようございます」

やや場違いとも言えるやり取りで、完全に熱は冷めてしまったのか。
若干の不満を顔に覗かせながら、まゆも挨拶を返す。

「お二人とも、特に問題はなさそうですか?」

探るような言い方に少し疑問を覚えたが、特に気にする事もなくそのまま言葉を返す。

「そうですね、まあちょっとごたごたはありましたけど……」

「お母さんが、なんとかしてくれると思いますよぉ」

昨夜の顛末については、一応ちひろさんにも説明はしておいたはずだ。
まあ、しっかりと「馬鹿じゃないんですか」とのありがたいお言葉を頂いたのだが。

「そうですか、まあこちらとしてもまゆちゃんのお母様からお話は伺ってますので」

「お父さんが、ちょっとはしゃいじゃっただけですから」

言外に、大事になる心配は無いだろうと含ませて──それでも細々とした面倒事はあるのだろう──ちひろさんが小

さいため息をついた。

「お二人はこれからどうされるおつもりですか?」

「そうですね、特に問題がなければこのまま休暇を予定通りに消化しようとは思ってますが」

「はい」

「分かりました、でも一応人目は気にしてくださいね?」

おみやげも忘れないで下さい、と真剣な声色で念押しされ、通話は切れた。

「……起きるか」

「そうですねぇ」

朝の始まりからいきなりケチがついたが、そんな事も言っていられない。
今日の日付は9月の6日。
明日のために、色々と準備が必要なのだから。
むしろ今日の夜が本番だと言っても良い。

──────────────────────────────────────

「そういえばまゆはそのまま出てきたんだったな」

「そうですねぇ、うふふ」

突然笑い出したまゆを横目で見やり、どうしたと訊ねる。

「いえ、昨日のPさん……かっこよかったなぁ、って」

昨夜のやりとりを思い出して、一気に頬が熱くなる。
あの時はとにかく必死と言うか、いっぱいいっぱいだったからな。
何か変な事でもやらかしたのだろうか。

「昨夜のPさんはすごくかっこよくて……まるで、童話に出てくる王子様みたいでした」

「王子様って……まゆがお姫様なのは分かるが、俺なんか精々村人が関の山だよ」

「身分違いの恋……そういうのも、いいですねぇ……!」

うふふ、と身をくねらせるまゆを見ながら、とにかくこの話題には触れないでおこうと決めた。
純粋に喜んでくれているようで嬉しいのだが、やった事と言えば普通に犯罪だからな。
美談にされても恥ずかしい。

「とりあえず……まずは服かな? 着替え、ないだろ?」

「そうですねぇ……今着てるのも、部屋着ですから」

いつまでもこんな服を着てPさんの前にはいられません、と気合を入れるまゆ。
……十分にオシャレなように見えるんだが、そういうものなのか。
俺にセンスが無いからなのか、まゆがそういう所に気を使う子だからなのかは分からないが。

多分前者だろう。

「恥ずかしながらこの辺の地理には疎くてな、できればまゆに案内してもらいたいんだが」

「だったら……こっちですねぇ」

こっちに住んでた時に良く覗いてたお店があるんですよぉ、と言いながら自然に指を絡め、俺を腕ごと引く。
しばらく会ってなかったせいか、いつもよりスキンシップが激しい。
脳裏にちひろさんの『人目は気にしてくださいね』という言葉がちらりと過ぎるが、まあいいだろう。
変装はしているし、まさかこんな所でアイドルが男の手を引いて仲睦まじく歩いてるなんて思うまい。

「ほーらっ、行きましょPさん!」

「分かった分かった、あんまり引っ張るな」

言いながら、こちらへ強く引き寄せる。
まゆは少し眼を丸くした後、嬉しそうに微笑み身体を預けてきた。

「うふ、こうしてると普通の恋人同士みたいですねぇ」

「違うのか?」

「だって、まゆとPさんは『運命の』恋人同士ですから」

こっちの顔が赤くなるようなことを平気で言うな、全く。

「行こうか」

「はい♪」

──────────────────────────────────────

まゆの行き着けだと言う店だけあって中々に雰囲気の良い店内で、俺は無用の緊張を強いられていた。
何しろプロデューサーとは言え、服のセンスにはあまり自信のある方ではない。
精々がTPOにそぐわない物を選ばないで済む、という程度だった。

そんな男が、まゆのような子を連れて歩けばそれは当然目立つわけで。

服を選ぶまゆ、その後ろから見守る俺、さらにその後ろから遠巻きに見つめる野次馬、と言う図式が成り立っていた



今はまだ気づかれずに済んでいるが、少しでも事情に明るい人間が見れば『アイドル・佐久間まゆが男とデートして

いる』という事がすぐに分かってしまうだろう。
俺は今更ながらちひろさんの忠告を噛み締めていた。
あれは目立つ事をするな、と言う意味ではなく、どうあがいてもまゆは目立ってしまうのだからそれなりの対策をし

た方が良いと言うこの上なくありがたいアドバイスだったのだと。

「Pさん、この服はどうですかぁ?」

気づいているのかいないのか、満面の笑みを浮かべてこちらを振り返るまゆ。
野次馬の何人かがさっと目を逸らしたのは、あまりにも魅力的なその表情を直視できなかったのか。
結構な割合で女性がその中に含まれていたのは……まあ、趣味は人それぞれってことで。

「可愛いとは思うけど……ちょっと、派手じゃないか?」

「そうですかぁ?」

そう言いながらまゆが身体に当てるのは、普段まゆが着ているようなフリルやリボンが用いられたものではあるのだ

が、明らかに布としての面積が少しばかり足りていないものばかりだった。

衣装としては文句なしなのだが、着て歩くとなると少しばかり衆目を集めすぎるというか……。

「その、あまり肌が見えるような服はな……」

「……まゆのカラダ、見たくありませんかぁ?」

悲しそうな顔を作ってみせるが、これは多分、俺が何を言うかもわかってやってるな。
欲しい言葉をねだるのははしたないが、そちらへ誘導するのならむしろ愛嬌の範囲に収まるものでしかなかった。

「俺は勿論見たいけど、まゆは他の男にも見せて歩きたいのか? はしたない子だなあ」

とはいえ、年下の少女に手の平で転がされるのも面白くはない。
こっちにだってプライドはある。

「意地悪ですね、Pさんは」

「冗談だよ、俺だってまゆのそんな姿は他人に見せたくないしな」

拗ねたふうな表情を見せるまゆを軽く引き寄せ、声量を落として耳元で囁く。

無理をして伊達男のような真似をした甲斐もあってか、まゆの顔が耳まで赤く染まる。
今回は、俺の勝ちみたいだな。

「──ひどい人、です」

「心外だな」

結局、まゆの目にかなう商品はなかったらしく、店員の声と、客の視線を背中に受けながら店を出る事になった。

──────────────────────────────────────

「似合ってますかぁ?」

そう言って目の前でくるりと回ってみせるまゆの姿は、やはりと言うか何と言うか、人目を引くだけの可愛らしさ、美しさがあった。

折角だからと、普段あまり着ないような系統の服を着てみて欲しいと頼んだのだが。

「うん、いつものまゆも勿論素敵だけど、こういうカジュアルな感じもアリだな」

すっきりとしたクロップドパンツに、シンプルなラウンドネックのTシャツ。
いつもの服装と比べれば格段に落ち着いた雰囲気があるが、意外とこれが良く似合っている。

「うふ、なんだか凛ちゃんみたいです」

「ああ、渋谷さんかあ」

言われてみれば、彼女はこういうデザインの物を好んで身に付けていたような気もする。

「今度、二人で取替えっこなんていうのも面白いかも知れませんねぇ」

「そうだなぁ、仕事とはまた別に頼んでみても良いかも」

言いながら、そっとまゆの手を取る。
まだ日は高く、最近和らいできたとはいえ日差しも強い。

「どこか、涼めるところは無いかな」

でしたら、とそのまま手を引かれて連れて来られたのは通りに面した典型的なカフェだった。
奥まった席が良かったのだが、店員の目がまゆを一瞥すると外から視線の通りやすい席へと案内される。
大方、見栄えを良くして客の入りでも狙ったのだろう。
中々に聡いというか、目端の利く店員らしい。

運ばれてきたアイスコーヒーに口を付け、小さく息を吐いた。

「旨いな」

そのまま暫く取り留めの無い会話を楽しむ。
まゆのお勧めだというケーキを頼んで食べさせあったり、これからの予定を話したりしていると、ふっと二人のテー

ブルに影が落ちた。

訝しげに影の正体を追った顔が引き攣る。

「お邪魔だったかしら」

「お母さん!」

「ど、どうも」

知り合いだと見て取ったか、店員が持ってきた椅子に目礼を返して腰を下ろす。
そのまま短く注文を伝え、まゆのお母さんはこちらへと向き直る。

「上手くいったみたいで一安心です」

「……お母さんの差し金だったの」

表情を固くするまゆと、ニコニコと微笑むだけのお母さん。
やはりこうして二人並んでみると、よく似ている。

「けしかけて、お膳立てをしたのは確かに私ね」

「もう……」

何ともいえない居心地の悪さを誤魔化すように、コーヒーに口を付けた。
……苦い。

「まゆちゃんには悪いと思ったんだけど、プロデューサーさんも随分と追い詰められていたみたいだし」

私とまゆちゃんを見間違えるくらいですから、その言葉でまゆの視線が一気にこちらを向く。

「……Pさぁん?」

「い、いや、ごめん」

恨みがましい視線をこちらに向け続けるまゆを謝り倒してどうにか説得し──その間お母さんはニコニコと笑ってい

るだけだった──改めて口を開く。

「この度は、色々とご迷惑をおかけしました」

「Pさんが頭を下げる事なんてありませんっ」

「そうですよ、大体はあの人が悪いんですから」

どうやら佐久間家での父親の立場は、当分悪いものになりそうだった。
合掌。

「まあ、とはいえまゆちゃんもおうちには帰って来づらいでしょう?」

そう思って探してたのよ、と小さめのバッグを差し出され、しぶしぶと言った調子で受け取るまゆ。
どうも家族の前では普段より子供っぽい面が出るんだな、と当たり前の事を思いながら空のカップを眺める。

「Pさん、まゆちゃんのこと、よろしくお願いしますね?」

そう言い残して、止める間もなく伝票を握って立ち上がり会計を済ませて店を出て行く。
その後ろ姿をじっと見つめるまゆの肩をぽん、と叩いた。

「俺達も、出ようか?」

「……Pさん」

こちらに顔を向けないまま、まゆの手が弱々しく俺の手を掴む。

「Pさんが昨日来てくれたのは、お母さんに言われたから、ですか?」

「違うよ」

きゅっ、とまゆの手に力がこもる。

きゅっ、とまゆの手に力がこもる。

「確かに、あんな方法で迎えに行けたのはお母さんのお陰かもしれない」

それは紛れも無い事実だ。
自分ひとりならあんな無茶苦茶な方法を思いつきもしなかっただろう。
おおかた、もう少し穏便な手段でも取ったに違いない。

それでも。

「ああするって決めたのは、俺だから」

どんな手を使ってでも、まゆを取り戻したかったと言うのもまた事実。
多少乱暴でもより確実で、迅速な方法だったからあの案に乗ったのだ。

ようやくこちらを向いたまゆの目は、今にも泣き出しそうに潤んでいた。
目尻に浮かんだ粒を指先で拭い、そのまま手を握る。

「まゆが望むなら、俺は何度でもああやって迎えに行くから」

格好良くして欲しいと言うなら、できるだけ努力しよう。
気取った台詞が欲しいなら、望むだけ繕おう。

ただ、今は。

「信じて欲しい」

自分の、ありのままの言葉で。

「どこにいたって、誰といたって、俺はずっとまゆの事を想っているから」

何よりも愛しい人に。

「信じて、待っていてくれないか」

愛していると、告げるのだ。

「──はい」

まゆの手がこちらに伸び、そのまま宙で止まる。

それを訝しげに思い、視線を追うと。

……店中の視線が、俺達二人に突き刺さっていた。

「出ようか」

「はい」

逃げるように店を後にしたのは、言うまでもない事だった。

──────────────────────────────────────

昨夜とは違い、しっかりとしたホテルに宿を取った後、早々と部屋に引っ込んだ。
夕食をどこで取るか相談しようとしたのだが、どうにも眠い。
まゆもうつらうつらと船を漕いでいる。
昨日の疲れが残ったままであちこち動き回ったせいか、身体が休息を欲しているらしい。

「……眠い」

「ふぁい……」

俺の方はまだ多少の余裕があるものの、まゆにいたっては既に若干舌が回っていない。
どうやらここ最近は寝不足だったのか、相当眠たそうにしていた。

「寝るか?」

「まだ……おきてますよぉ」

受け答えすら怪しくなってきた。
多少強引にでも寝かしつけた方が良いだろう。

「まゆ」

「ふぁい……?」

「おいで」

ベッドに腰掛け、隣をぽんぽんと叩く。
吸い寄せられるようにこちらへ歩んできたまゆと一緒に、ベッドへ倒れこんだ。
腕を枕にしてやると、胸元に身体をこすり付けるようにして甘えてくる。
優しく頭を撫でていると、やがて規則的な寝息が聞こえ出した。

「ふぁぁ……」

俺も、ちょっとだけ寝たほうが良いかもしれない。
まあまだ幸い日は沈んでいないのだし、少しくらいなら……。

──────────────────────────────────────

「……はっ!」

飛び起きた。
すっかり熟睡してしまったらしい。
慌てて壁の時計へ目をやると、どうにか日付が変わる前に起きられたらしい。

「……すぅ」

隣を見ると、まゆのほうはまだ夢の中らしい。
ほっと胸を撫で下ろす。

枕にしたままの腕を抜いて起こしてしまうのも忍びないので、そのまま寝顔でも眺めることにした。
顔にかかった髪を、優しくかきあげる。
寝汗で僅かに湿った髪を指先で弄び、整えるように手櫛を入れる。

「……ん」

ゆっくりと、まゆの目が開く。

「おはよう」

「おはよう、ございます」

ふにゃり、といつもよりかなり崩れた笑顔を浮かべるまゆ。
寝起きで意識が定まっていないのか、むずかるように頭を胸元へこすり付けられる。
起き上がろうとしたところで、携帯が鳴った。

「……ふあ」

12時に設定したアラームが、やや大きめにその役割を果たそうと主張する。
身体を伸ばしてそれを止めると、まゆの方へ向き直った。

「まゆ」

「はぁい……まゆですよぉ」

まだ覚醒しきっていないその姿に苦笑しながら、用意していた言葉を贈る。

「誕生日、おめでとう」

「……たんじょうび」

「今日は、まゆの誕生日だろう?」

9月7日。

かけがえのない存在が生まれた、この世界で一番尊い日だった。

「……っ」

「やっと目が覚めた?」

答えの代わりに、強く身体が押し付けられる。
寝起きの姿を見られたのがそんなに恥ずかしいのか、顔を上げてくれる気配はない。
左手を取ると、一瞬だけ抵抗するように腕を引かれたものの、すぐに力が抜かれる。

しばらくその感触を楽しみ、今度は用意していた贈り物をその手に填めた。

弾かれたようにまゆの顔が上がり、自分の左手を眺める。

「これ……」

「誕生日プレゼント……だけってわけじゃないけどまあ、一応」

外から差し込むかすかな光に照らされて輝く指輪は、まゆの左手薬指を飾っていた。

「聞いて欲しいことがあるんだ」

「……はい」

左手を胸元へかき抱き、涙を浮かべながらもこちらを見返すまゆに、一つ一つ言葉を選びながら話し始める。

──あらためて、誕生日おめでとう、まゆ。

そして、生まれてきてくれてありがとう。

まゆと出会えた事が、俺の人生にとって一番の幸運だ。

そんなまゆと一緒にいられることが、俺にとって一番の幸福なんだ。

だから、できればまゆとも、その幸せを分かち合っていきたい。

いつも隣で、同じものを見て。

同じ事に喜んで、同じ事で悲しんで。

ずっと二人でいられたら嬉しい。

だから──。

「これからも、ずっと一緒にいて欲しい」

「はい……はい!」

良かった。
どうやら、一世一代の告白は無事に受け入れられたらしい。

胸の中にあるまゆの温かさを確かめながら、大きく息をつく。

「Pさん」

「ん?」

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

こちらを見上げたまゆの目には、涙が光っていた。

「Pさんからのプレゼント、多すぎて受け取れなくなっちゃいそうです」

「そんなにたくさん贈ったかな?」

小さく首が振られる。

「さっき、Pさんは言ってくれましたよね? まゆと出会えた事が一番の幸運だったって」

「ああ、もちろん」

「まゆも、そうなんですよ?」

一生に一度の、一番特別なプレゼントは、もう貰ってありますから。
そう囁くように言ったまゆの手が、ゆっくりと伸ばされる。

「運命って、信じますか?」

「ああ、今は信じてるよ」

まゆの手が、形を確かめるように俺の顔を、身体を、ゆっくりとなぞる。

「ほんとは、Pさんがいてくれるだけでいいんです」

それだけで、まゆは他に何もいらないんですから──。

そう言って微笑むまゆは、今までのどんな表情よりも。









「これからもずっとずぅっと、まゆを見つめていて下さいね?」






拙文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

自分なりに全力でまゆの誕生日を祝おうと思って書かせて貰ったのですが、やはり地の文は大変でした。

読みにくい、文章がおかしいなどのご指摘がありましたら申し訳ありません。
もしも楽しんでいただけたなら幸いです。

ここで言うのも何ですが、前回落としてしまった奈緒のSSに関しては本当にごめんなさい。
また近々書き直して上げるつもりでいますのでどうかお待ちを……。
重ね重ねごめんなさい。

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