モバP「表裏比興の三枚目」 (296)

モバマス、新田美波さんのSSです。
勝手設定+ご都合主義+視点変更有(予定)。P視点メインのストーリー展開になります。

前作などと同じ世界観を共有していますが、未読の方でも問題ないように極力進めていきます。
金曜-土曜の夜半にかけて主に更新の予定です。毎週の更新を目指しますが現状不安定な予定の為1-2週間ごとの更新とさせていただきます。
以上の点ご了承いただけましたら、今回もお付き合いいただければと思います。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1404493560

 たとえば、手段を選ばず、がむしゃらに生きることが卑怯で、駄目なことだとするならば、この世界はどうなってしまうだろうか。

 おそらく、弱者が生き残ることの出来ない、荒廃した世界へとなってしまう。そして、強者の中でまた、弱者と強者が生まれ、また弱者が駆逐されるだろう。

 まあ、この理論が成立するのは、がむしゃらに生きることが卑怯だとするならば、だ。だから、色んな意味で破綻している理論である。

 それに、たとえそうなったとしても、どこかで誰かが新しい線引きを考え付き、”これは卑怯ではないのだ”と言うのだと思う。

 つまり、何が言いたいのかと言うと、私はただ、がむしゃらに生きてきた人間だ、と言うことだ。

「この、卑怯者!」

 たびたび、私はそう呼ばれる。他にも、守銭奴だとか、人非人だとか、まあ罵詈雑言の嵐だ。なんとも、手厳しい扱いだと思わないか。

 私はただ、がむしゃらに生きているだけ。そうしないと、私は生き残れないような弱者だから、故にそうする。

 法という規範に抵触しない範疇で、私は手段を選ばない。常に、白と黒の境界線上を、時には伏せ、時には飛び越え、時には潜りながら、人が卑怯と呼ぶ行為でやり過ごしてきた。

 弱者として、この世界に数ある、強者たちと同じ場所にい続けるためには、必要不可欠な行為だ。なんら、恥に思うことはない。

 彼らは敵と戦う勇気がある。この世界に存在する自らの敵と、真っ向から戦うだけの実力がある。だから、強者なのだ。

 私は弱者だ。勇気がないから慎重になる。勇気がないから、頭を使って、強者と同じ成果を上げ続ける。

 私は弱者だ。真っ向から戦う実力がないから、搦め手から物事を解決する。策を弄し、敵と戦う。

 何とも、人間らしいことではないだろうか。強者は、多くはいないのだ。

 しかし、人はそれを卑怯と呼ぶ。残酷なことに、それが世の中の真理。弱者に、強者と同じように戦えという。

 それが出来ないから、弱者が弱者たる所以なのだと、どうにも分かってはもらえない。それはひとえに、彼らが何らかの力を持つ強者だからだ。最たるものが、数の暴力だろう。

 私には、何もない。あるのは、ひん曲がった根性と些少な悪知恵ぐらいだ。それで小細工をして、私はただがむしゃらに生きていく。

 決して、それを私は後悔しない。焦慮も、逡巡も、葛藤も、私はしない。この人生に、私は満足している。これ以上は、望めないからだ。

 ――私、がんばりますねっ。

 その言葉さえ、私の心には届かない。君と言う存在は、私にとっては過ぎたる存在である。君はきっと、強者になれるだろう。

 だから、君に寄りかかろうと思う。私のような弱者が生き残る術の一つだ。ただ、今は私のほうが強い。君はこの世界のことを、まだ多くは知らない。

 君が私より強くなれるように。私が寄りかかれるほどの人間となれるように、私は私の悪知恵を利用しよう。

 私にはそうすることしか出来ない。それ以上は、望めない。私は弱者で、人に言わせれば卑怯者だから。

 まあ、心配はいらない。私の全力を挙げて、がむしゃらに育ててみせよう。君は、今は若木だが、大樹になれる素養を持った若木だ。

 ……私? 私はそうだな。

 表裏比興――”表も裏も存在する、卑怯な奴”。さしずめ、路地裏の隅で、パンくずをかじる、ドブネズミといったところじゃないかな――?

プロローグのみになりますが、本日の更新は以上です。
次回更新は、来週のこの時間辺りを目指したいと思います。
前作完結後時間は空きましたが、またしばらくの間これからお世話になりたいと思います。
それでは、どうかよろしくお願いします。

七人目とか五光年の人か!?

□ ―― □ ―― □


 年も明けて、もうすぐ二月にさしかかろうといったところだった。寒さは、今が本番といったところか。もっとも、雪国出身の私からしてみれば、都会の冬はそれほど苦にならない。

 とはいえ、防寒具なしではいくらか厳しいと思うほど、今年の都会の冬は馬鹿に出来なかった。しっかりとコートを着込み、手袋とマフラーを着けて、私は歩く。

 中心部の煌びやかな新繁華街からいくらか離れた、バブル期の残滓である少し寂れた旧繁華街を進み、薄暗い雑居ビル群へと、入り込んでいく。

 その雑居ビル群の中でも、一際大きい、集合雑居ビルが私の職場だった。二階部分のくすんだ看板には、”比興プロダクション”と穿たれている。

 コンクリートの階段を上り、鍵を取り出して扉を開ける。埃っぽい空気が、室内から外へと逃げ出すのを、私は肌で感じながらマフラーと手袋を取り外す。

 室内気温は一桁まで落ち込んでいるが、あまり光熱費は無駄に出来ないので、コートは脱がず遠赤外線ヒーターのスイッチをひねった。ぽかぽかとした熱と、赤い光が放たれ始める。

 時刻は、午前八時を回ったところだった。定刻出勤にはいささか早いだろうが、まあ、どちらでも構わない。どちらにせよ、私以外に社員はいないのだ。

 正確に言えば、重役や社長は形式上居る。しかし、このプロダクションのことは私に全権委任されていた。だから、単純に経費節減のため、人を雇っていないだけの話だ。

 無駄遣いは、良くない。今のところ、私一人で回せるのだ。他に人は不要だった。

『……メールは、三件か』

 呟きながらパソコンを起動すると、メーリングソフトにメールが到着していた。私はソフトをダブルクリックして、コーヒーミルを起動させに給湯室へ向かう。

 デスクに戻ってきたときには、メーリングソフトが起動しており、新着メールの部分がチカチカと点滅している。一通ずつ開いていく。二通は大して意味のない、ダイレクトメールだ。

 しかし最後の一通は、それまでとは少し、異質なものだった。

『シン、デレラガールズ……?』

 聞いたことのない差出人だった。右側へソートしていくと、どうやら新規事務所を立ち上げた旨の挨拶メールである。

 私はなんとなく気になって、その名前をインターネットで調べる。すると、すぐに幾つかの検索結果がヒットした。なんでも、幾つかの事務所を併合して出来たらしい事務所らしい。

 “シンデレラ・ガールズ・プロジェクト”と銘打たれた煽り文句には、新たな価値観のアイドル事務所と、かつて無いスタイルの事業展開を行う、ということが書かれている。

 その時点で、なにか胡散臭いベンチャー企業の煽り文句を見ている気分になり、それ以上詳細な情報を調べる気は起きなかった。

 この手の文句は、詐欺師や古狸が使う物だ。そうたやすく、新しいものなど出ては来ない。とりわけ、旧態依然の傾向が強い芸能という分野においては、そう言う新芽は古株に潰される。

(口だけでは、何とでも言えるものだ)

 そう呟き、メーリングソフトを落とすと、次はスケジュール管理のソフトを立ち上げる。そして、所属しているアイドルとタレントの一覧が表示された。

 全員が、成人している。中には三十手前の人もいる。これにはしっかりとした理由がある。

 社長には、年増好きかと嗤われたが、これは私の基本方針に則った結果だった。即ち、それは私の手を煩わせず、ある程度手放しでも操縦できる、というものである。

 常識を理解していて問題を起こさないこと、芸能人になるにはいささか時期を逸していること、それ故こちらに従順で最後のチャンスを掴むためにもがいていること。

 それらを総合的に考え、手間が掛からない人材を一人、また一人と選別していった結果だった。お陰で、私のするべき事はマネージャー紛いのスケジュール管理ぐらいのものである。

 一般的にプロデューサーと言うものは、同時に大人数の管理はしないらしいが、私は同時に十数人を管理していた。それも、この方針の賜物だろう。

 それと、もう一つ、アイドルやタレントとしては高齢ともいえる人を選んだのには、理由がある。つまり、彼らにはもう、後が無い。

 だから、夢を追いかけるために、私の言うことをしっかりと聞いて、実践しようと努力してくれる。それだけに、能力を最低限発揮出来るのだ。

 人の弱みに付け込むように、私は彼らの、最後の綱を手放したくはない、というその必死な気持ちを、利用している。人としては最低の行為だろう。

 後悔や謝罪の念はない。あるのは僅かな罪悪感のみだ。それは、彼らの知名度が上がればおのずと無くなる。

 そして、そうすればこのプロダクションの利益にもなる。Win-Winの状況に持っていければ。そう思っていた。

「おはようございます、プロデューサー。お早いですね」

『ああ、おはようございます。今日のスケジュールは既に張り出している通りです』

「分かりました」

 しばらく仕事をしていると、事務所の扉を開けて人影が入ってくる。この事務所に所属するタレントの一人だった。もう二十代も半ばの男性だが、なかなか演技力があると評価している。

 だが、仕事は少ない。それも当然で、地力はあっても知名度が無ければ仕事は来ない。売込みするにも、実績が無ければ結局は無駄に終わる。

 知名度や実績がない人を売り込もうと思うと、それを差し引いても圧倒的なほどの才能が必要だ。酷な話だが、そこまでの才能は彼にない。

 このまま上積みを続けていけば、いつかは大舞台の脇役には立てる。そのぐらいだろうと見込んでいる。そういう人間を、どれだけ大きく見せるかが、営業だ。

 だから、私は営業が苦手ではあった。誇張も、虚構も、好きではない。汚い手段を使ってでも、実像を作り上げることに心を砕いてきたからだ。

 出来れば、永劫裏方の日の当たらないところで、仕事が出来ればと思ったころは一再ではない。そして、それが不可能である事もまた、知っていた。

「いつも、ありがとうございます、Pさん」

『気にすることはありません。これが私の仕事ですから。こちらこそ、力が及ばずで。仕事ももう少し用意できるとは思うのですが』

「いえ、十分です。暮らし向きは豊かとはいえませんが、最後に夢を追いかけることが出来るんです。それで、私は満足ですよ」

 男性はそういって、少し寂しそうな笑みを浮かべた。言葉の選び方が、少し引っかかった。もしかすると、辞めるのが近いのかもしれない。

 歳を重ねたタレントやアイドルたちの、唯一の欠点がそこだった。どこか、自分に諦めを抱いている。当然、若い頃に芽が出なかったから今、この立場に甘んじているのは確かだ。

 だが、若い頃に大成しなかったからと言って、壮年に達してから大成しない、とは言えない。諦めなかったからこそ、芽が出た大物は芸能界だけで無く、他の業界にも数多くいる。

 諦めることは容易いが、私はそれをよしとは思わない。私は、ただがむしゃらに生きるために、諦めることはしたくないのだ。

 しかし、それを他者に強制することはできない。だからこそ、

『そうですか。ですが、せめてベストは尽くしてください。そうでなければ、あなたに声を掛けた私が、愚か者になってしまう』

 そういう言葉しか、掛けることが出来なかった。

「はは……。ありがとうございます、Pさん」

 辞めるつもりなら、止めることはしない。そんな権利は私にはないし、当然義務も無い。ただ、続けて欲しいとは思う。

 それは、彼のためでもあるのだが、他の誰でもない、私のためでもあった。言い方は酷いと自覚しつつあえてこう表現する。使い慣れた道具を失うのは、仕事をする人間としては嫌なのだ、と。

 そうして、彼はリュックを背負うと、ゆっくりと事務所から出て行った。時計を見て、もうすぐ正規の出勤時間であることを確認し、タイムカードのパンチを押す。

 私一人のものしかないタイムカードホルダーへと戻し、デスクへと戻る。すべき仕事は山積していた。しかし、もう二、三人ほどはタレントの面倒が見れるだろう。

 一人頭の収益や成果が上がらないのであれば、数で補うしかなかった。今のところその考えは正しいと言える。

 事務所の経営は順調とはいえなくとも、苦労はしていない。無論、もう一人誰かを雇えば、たちまち青色吐息となりかねない

『このまま行けば、あと五年ほどで、何とかなるのか』

 小さく呟いた独り言は、九時を知らせるアラームと、コーヒーミルのブザーのけたたましい音にかき消され、霧消した。

 終着点は遠くとも、見えている。千里の道も一歩から。遠いことを嘆いても、終着点はやっては来ない。歩くしか、私には残されていないのだ。

 そう思った。

本日の更新は以上です。
本来でしたら明日更新の予定でしたが、夜半にかけて所用があるため一日繰り上げての更新となりました。
次回の更新は来週金曜の夜半にかけてを予定しております。
量は少なくとも、更新をしていく予定ですので、これからもよろしくお願いいたします。
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました。

□ ―― □ ―― □

『……ええと』

 私は、手に持った小さなチラシを見て、唸りました。地図どおりにきたのですが、何だが気味の悪い場所と言うか。少し薄暗い場所で。

 そのチラシに書かれた文句に比べると、幾分、というよりかなり想像とは違う雰囲気です。

『本当に、こんなところにあるのでしょうか』

 小さな呟きは、誰にも聞こえることはありません。パパには内緒で着てしまったけれど、こんなことなら付いてきて貰うんだったのかなぁ。

 そう思っても、今更なことですし、それにこんな場所ですから、きっと無理やりつれて帰られることでしょう。

 何事も、社会経験と思ってはいましたが、こんな社会経験は嫌だなぁ、なんて。思ったところで何になるわけでもありません。

 少し不安になってきましたし、出来れば早く行き着きたいと思うのは、仕方のないことでしょう。

 なにせ、少し日は傾いたとは言え、路地に落ちかかる光は心なしか、少し頼りないのですから。

『……あっ。あの人たちに聞いてみよう』

 人影がほとんどいない街並みと言うのは、少し不気味だったので、ちらりと見えた人達に飛びつくように、声を掛けてしまいます。

 ――それが間違いだったのは、すぐに分かることでした。

『あ、あの。すみません、道を尋ねたいんですけれども……』

「ぁン? なんだ、って……。おほっ、こりゃあすげえ上玉じゃねえか」

「なになに、お嬢ちゃん。俺たちと遊びたいワケ? いいよ、いいよ。どこへ行くー?」

 彼らは、鬱陶しそうな表情を最初見せましたが、私を見ると途端に態度を変え、猫なで声を発して私に近づいてきます。

 ひい、ふう、みい、よお。その四人の男性は、まるで獲物を狩るライオンのように、私を取り囲みました。私は、少し震える声で、抗議の声を上げます。

『いえ、その、道を……』

「そんなのどうでもいいじゃねえか。いいぜぇ、すぐにぶっ飛べるような場所につれてってやるよ、うっへへ」

 少し気味の悪い笑いを見せながら、男の人たちは私をねめつける様に見ます。そして、肩に手を置かれると、無理やり傍に引き寄せられました。

 その手が私の肩を撫ぜたとき、思わず鳥肌が立ちます。人に触られ、気持ち悪い、と思ったのは、私の人生ではじめてのことでした。

『あの……その、や、やめてください……ッ』

 そうやって拒絶の言葉を出しますが、男の人たちはお構いなしです。

「まあ、まあ。ねえちゃん、こんなところに来てそりゃあねえだろうがよぉ? うっへへ、なあ、悪いようにはしねえんだ」

『そんな……。私、そんなつもりで来た訳じゃ』

「大体皆そういうもんよぉ。騙されたと思って、なぁ?」

 幾ら世間知らずな私でも、騙されるわけがありません。ですが、こうなったのは私の不明のせいです。今更それを後悔しても、もう遅いのですが……。

(誰か、助けて……ッ! パパ……ッ!)

 心の中で、助けを呼んだ瞬間でした。

「――君たち、ここで何をしている?」

 ……聞こえた声は、まさしく私にとって、光明以外の何物でもないように、思えたのです。

………………

…………


 数日後、私は営業に出ていた。と言っても、一般的な営業というよりかは売り込みをメインにした物、と言った方が良いだろうか。

 どちらかと言えば、一対一の話し合いではなく、競売に近い形で同業他社――この場合、まるで名前も聞かないような、小粒のプロダクションたちによるトライアウトのような形だ。

 そんなところでしか仕事が手に入らない現状は、まあ憂うべき事だ。正確に言えば宣伝能力がないため仕事が来ないと言うのが大きいのだが。

 ともかくいくつかの仕事を引っ提げて私は事務所への帰途についた。六人ほどに、仕事は回せるだろう。だが、どれもやはり小粒だった。

(何か、大きなきっかけがあればいいのだが)

 プロダクションの名前が売れれば、当然仕事が舞い込んでくる。しかし、生憎このプロダクションの名前は、いろんな意味でそこそこ、有名だった。悪名と言うよりも、噂程度のものではあるが。

 それに関して私がとやかく言う事ではないし、部分的には私に原因があると言っても過言ではない。ダーティとまでは言わなくても、根回しや策を弄すことが多かった。

(”卑怯者”が会社の経営をしているから、やむを得ないな)

 まだまだ小粒とはいえ、ありとあらゆるものを利用して、ここまで大きく出来た。そのために、さまざまなものを利用した副産物だ。たとえば社長の――。

『……ん?』

 思索の海に沈みながら歩いていた私であったが、少し喧騒が聞こえたことで意識が海面へと浮上してくる。この辺りではあまり聞かないタイプの喧騒だ。

 そもそも、寂れた旧繁華街である。喧騒とはもはや無縁の場所だった。私は少し、気になって足を向ける。どうやら、かつて飲食街があった場所の近くだ。

「あの……、その、や、やめてください……ッ」

「まあ、まあ。ねえちゃん、こんなところに来てそりゃあねえだろうがよぉ? うっへへ、なあ、悪いようにはしねえんだ」

「そんな……。私、そんなつもりで来た訳じゃ」

「大体皆そういうもんよぉ。騙されたと思って、なぁ?」

 私は、後悔した。面倒な場所に出くわしたというわけだ。まるで絵に描いたようなチンピラ四人に、一人の女性が囲まれている。

 チンピラどもは、好色そうな顔で、まるで獲物を見つけたジャッカルのような、下種な目をしていた。当然のことだろう。狩場に獲物が迷い込んできたのだ。

 私はこういう連中を酷く軽蔑するが、まあ、私も大局的に見れば同じ穴の狢である。ただ、関わりあいたいだとか、一緒にいい目にあいたいとか、そういう気分は全く無い。

 しかし、連中がここまで色めき立つ、と言うのは相当な美人なのだろう。そう思って、すっと目を細める。しっかりと目が、捉えた。

 瞬間、私の頭はシャットダウンされた機械のように、完全に停止した。

(……これは)

 思わず、声を上げそうになる。薄い茶色、それも染めたものではない完全な天然色のロングヘアが、その身に纏う白のコートに映え、絶妙なコントラストを演出していた。

 身長は、女性にしては少し高めだろう。170には達しないだろうが、スレンダーなモデル体系で、丁度良いバランスである。立ち振る舞いも、落ち着いていて上品なものだ。

 コートを着ているせいで、スタイルは分からないが、手や顔の肉付きから痩せすぎず、豊満すぎずといったところだろう。

 しかし、何よりその雰囲気に目を奪われた。彼女の持つ、一つ一つをとってみると、まあそこらに、それなりにいそうな要素でしかない。

 しかし、それらが全て合わさるとどこか、男の本能をくすぐるもの、扇情的で嗜虐的なものをくすぐられる。男性の持つ支配欲や征服欲、そしてその延長線上にある性欲を刺激するのである。

 二十台の前半にさしかかろうというぐらいの年齢だろうか。どこかにまだ幼さを含んだその表情は、今にも泣き出しそうになっている。

 それもまた、絵になりそうなほど美しいものに見えた。古今、女の涙と言うものは男を惑わす劇毒であると同時に、もっとも美しい宝石でもある。

 それだけで、彼女の持つ雰囲気がどれほど妖艶で、魅力的なものに映るか分かることだろう。

(……私も、連中と同じ下種な人間と言うわけか)

 他人の悲壮な表情を見て、思うようなことではない。常識では、だ。そして数秒、思案を巡らせた。さて、どうするべきか、と。

(決まりだな)

 結局、結論はすぐに出た。

『……君たち、ここで何をしている?』

 私は、そう言った。たちまち、チンピラの視線がこちらに突き刺さる。

 ああ、こういうことに首を突っ込むことは嫌いだ。本当にそう思う。あいにく、私は腕っ節も強くないし、そういう類の武術に習熟しているわけではない。

 当たり前だ、卑怯者の私にその手の勇気も無ければ、物理的に解決するなんて力はない。そもそも、手を汚すことは厭わないが、血に塗れることは遠慮したい。

 そのまま、私は右のポケットに手を突っ込んだまま、前に進み出る。格好だけは、付いて見えることを期待していたが、まあ、無駄だろう。

「あぁん? 何だぁ、おっさん。余計なことに首突っ込んでんじゃねえよ、タァコ」

「なあ、このおっさん、なかなかいい服着てやがるぜ。金持ってんじゃねえか?」

 案の定、無駄だったらしい。テンプレート通りの屑みたいな会話で、むしろ安心するくらいのものだ。こういう会話は、いつ聞いても不快だった。だが、さらにもう一歩私は前に出る。

『女性が嫌がっているように、私には見えるのでね。彼女を解放したほうが、お互い穏便に過ごせると思うのだが』

「調子乗ってんじゃねぇぞ、おっさんッ!」

 チンピラの一人が、私の胸倉を掴む。中肉中背でしかない私の体は、少し浮き上る。

 情けないことではあるが、私はこんな些細な暴力でも体が震える。卑怯者なのだから仕方ない。正面から戦うのは不得手なのだ。

「面の不細工が頭の悪さに出てんのか、いい年したおっさんがヒーロー気取りか、あァ? すっこんでろよ」

 チンピラはせせら笑った。そろそろ、か。そう思い、右手に力を込めた瞬間だった。

 ビリリリリリリリッ!

 つんざくような、アラームの音が路地に轟き、けたたましい音が反響として壁をたたき、その場にいる全員を包囲してくる。

「な、なんだ……ッ!?」

 その大きな音に、チンピラたちは狼狽した。その音が何かを彼らは理解し、そしてその音が何者から発せられているのかを知る。

 即ち、音の主は、先刻の女性であり、その手に握る防犯ブザーが根源であることを。

「くそっ、めんどくせえことしやがるアマだッ」

「ポリがきやがる、くそがッ」

 そんな、まさしく小物らしい考えで、彼らは遁走の体勢に入った。瞬間、顔面に衝撃が走る。眼前に星がちらついた。どうやら、行きがけの駄賃といわんばかりに一発、もらったらしい。

「覚えてろォ!」

 そんな捨て台詞もまた、小物らしさを醸し出している。もっとも、今の私はそんなことを考えている余裕などなく、鼻づらを抑える事しかできない。

 幸い、鼻血も出ていないし骨もおれていないが……。まったく、これ以上醜男になったらどうしてくれる。

「だっ、大丈夫ですかっ!?」

 体勢を崩し、地面に倒れこみそうになっていたが、なんとか踏ん張ることが出来た。ただ、スラックスは少し汚れてしまったようだ。

 崩れたジャケットとスラックスを調えながら、私は立ち上がる。

 そして、出来る限り温和に、温厚に――少なくともそう努力したつもりの声で、彼女に声を掛ける。

『ぐ、う。……いえ、大丈夫です。お陰で助かりました、お嬢さん』

「……あ、あの、その。こちらこそ、助けてもらって、ありがとうございましたっ」

『いえ、私が助けられた側ですよ。何も出来なくて、恥ずかしい限りです。おまけに、一発もらうなんて、二重に恥です』

 私は、そっけなくそう言った。ポケットの中の手が掴んでいたもの――奇しくも、彼女の持っているものと同じ型の、防犯ブザーから手を離しながら、だ。

(まさか、うら若い女性と同じ対処法しか出来ないとはな。しかも殴られると来た。男として情けないことこの上ないが……)

 この近辺には、常に巡回の警官がいる。そのことを知っていて、私はこのような手段をとったのだ。確証はなかったからリスクはあったが、これぐらいはまだ些末な物だ。

 もっとも、彼女が必死だったことを差し引いても、同じ方法で撃退されるとは思わなかった。内心自嘲の言葉を吐きながら、少しだけ目を閉じ、そして数秒の後、ゆっくりと開く。

 ともかく、どちらでもいい。今は目の前の女性をケアし、”取り込む”ことだった。

(なぜこんな、上物がこんな掃き溜めにいるのかは分からないが……)

 私がこの女性を助けに、まあ、結果としては失敗に終わったその行為を試みたのは、何も正義感からきたわけではない。九割がたは打算によるものである。

 とんでもない美人と、数分前の自分が考えたように、この女性は感嘆の声が出るほどの麗しい容姿と、あでやかな雰囲気を纏っている。

 それに、彼女は何か、人を惹きつける何かがある。私でさえ、惹かれた。

 これまでの人生で、さまざまな策を弄してきた私であったが、こんな陳腐な策――つまり、恩を売ることによって、目の前のこの女性をアイドルに仕立て上げよう。そう思ったのだ。

 なんとも稚拙なものではあるが、この状況下ではある程度、方策が絞られる。リスクとリターンを考えれば悪い手ではないはずだ。

 まあ、残りの一割は、ああいう厚顔無恥な連中に不快感を抱いたからである。私は卑怯者ではあるが、自分に恥じることはない。ああいう連中と同じには思われたくはない物だ。

(難しいことだろうがな……。まあ、ともかくは)

 目下の要件は、彼女をアイドルとして手に入れることだ。これで恩を感じてくれれば。私が助けに入って殴られた、という負い目もあるだろう。あまり気が強そうな印象は受けない。

 弱みに付け込んでいるようだが、少なくとも邪険に扱い、そして捨てるという真似だけはするつもりはなかった。

 器量は素晴らしいのだ。上手くいけば、トップとは言わなくても一流アイドルの末席には名を連ねられる。

 ――そうすればきっと、私の”目的”は達せられる。

(さて、これからどう攻めて行くか)

 可能性を見出したのは私である。捨てるなんてことをすれば、私が屑である、と認めることになる。それは、あの厚顔無恥な連中と同類だ。それは勘弁願いたかった。

『ところで、なぜこのような場所に? お言葉ですが、ここはあなたの様な綺麗な人が繰るような、華美な場所ではないのですが』

 私がそうたずねると、彼女は少し頬を染めて俯いた。最初、その理由が一切分からなかったのだが、やがて恥ずかしがって照れているということが分かった。

 少し信じられないことだが、私の吐いた綺麗と言う社交辞令――もっとも、本心であり事実でもあるとは思うのだが――に照れているらしい。

(えらく純情な子ではないか。男には慣れていると思ったが)

 纏う雰囲気からそう思っていたのだが、どうも見当違いらしい。やがて、彼女は顔を上げると、

「ええと、あの、チラシを見て、そのオーディションを受けようと思って……」

『オーディション? なんのです』

「その、笑わないでほしいのですが……アイドルの」

『……は?』

 私の心の中に、まさか、という思いがわきあがってくる。いや、いや。そんな上手く話が進むはずもなし。

 そう思いながらも、

『……チラシを見せてもらっても?』

 と、彼女に尋ねる。

「あ、はい。どうぞ」

 私はその女性からチラシを受け取る。そして、一目見てそれが、見覚えのあるチラシであることを認めた。

 即ち、ほんの一、二週間前に小さな情報誌の付録広告に出した、我がプロダクションの広告である。

 何と言う偶然だろうか。決して出来のいいチラシとはいえない、それに釣られた人間が居たと言うのは、なんとも複雑な心境になる。

『……ああ、このプロダクションですか。ええ、場所は知っています』

「ええっ、本当ですかっ!?」

(なんとも、な。東大の首席卒が地方の町工場に就職するようなものじゃないか)

 内心、呆れる。アイドルになりたいのであれば、こんな辺鄙な場所に来なくてもいいだろうに。彼女のことだ、見る人が見れば即採用されるだろう。

 進んでこんな場所に来るような、少し箱入りの気がある。一歩間違えれば、不幸なことになりかねない。実際に不幸なことになりかかってもいた。

 まあ、彼女にとって幸いだったのは、少なくとも私のプロダクションであれば、邪険に扱われることはない。その点だけは保障できる。

『ええ、知りすぎるほどに知っていますよ。案内しましょう』

「あ、ありがとうございますっ」

 彼女はそう言って、笑った。一瞬、その表情が酷く扇情的なものに見えて、すぐに目を逸らす。どうも彼女は、天性の魔性を持つようだ。

(まあ、どちらにせよ……勧誘の手間が省けたな)

 都合が良い。そう思いながら、私は彼女を事務所へと連れて行くために、案内を始める。

 もし彼女が本当にそれを望むのであれば、私は彼女を育てるだろう。私が、将来楽をするためだ。

 貸しを作り、その利息で暮らす……。そこまでとはいかないが、弱者である故にそういうやり方で生き抜くしかない。

(そのためには、彼女をしっかりと一人前にしなければ)

 奇妙な責任感の様なものを覚えながら、私は彼女を先導し始める。

 ……防犯ブザーの音に気づいた警官二人がやってきて、少し事情を聞かれたのは、まあ、別の話だ。


今回の更新は以上です。
目下の急務である就活が完了したので、週一での投稿が可能になりました。
ですので、次回の更新は来週のこの時間までには行いたいと思います。
それでは、ここまで読んで下さりありがとうございました。

□ ―― □ ―― □


 幾日後。

 若干、私は慄然としていた。何についてかは言うまでもなく、先日スカウト、ないしオーディションに受けにきた彼女のことである。

「新田美波です、よろしくお願いしますね、プロデューサーさんっ!」

 そう自己紹介をしてくれた彼女――新田美波を、即刻アイドル候補としての採用を決めた私は、彼女の年齢を聞いて言葉を失った。

 何と、若干19歳の未成年。その事実は、しばらく私の志向を奪い去るに十分なものであった。少なくとも20代前半ではないか、と思っていたのである。

 当てが外れた、という考えは拭えなかった。これまで通りの方針では上手くいかない。私の描いた絵図が崩壊した瞬間であった。

(……ばかばかしい、ない物ねだりに過ぎん)

 私はそう自分を叱咤した。私の方針にはずれるとはいえ、これほどの逸材を手放す道理などどこにも存在しえない。

 しばらくは、私が見ていてやらねばならない。才覚があっても、自力でのし上がるには彼女の力量不足は明白である。私のプロダクションのような小さなところでは、特にだ。

(ともあれ、誰かをプロデュースするのは、ほとんど初めてだな。しかし、なかなか難しいことになったものだ――)

「はいっ、そこでクイックターンッ! 遅れていますよ、新田さんッ!」

「はっ、はっ……。はいっ!」

 威勢のいい声が聞こえ、私は茫漠な思索の海から引き起こされる。契約を結んで、初めてのダンスレッスンだった。

 厳しくも、しっかりとアイドル候補生を見てくれる、と評判のトレーナーである。その分レッスン料はなかなかなものだったが、先行投資と考えると端した金と思えた。

 ともかく、未成年である上に、初めてあったときのような危なっかしいところがある。火の粉と泥を被る日が続くだろう。

 彼女がうまく立ち回れるように、そしてアイドルとしての心得が叩き込まれるまではプロデューサーとして力を入れる必要がある。

(逸材だからな、新田さんは)

 私はレッスンを見ながら、そう思った。

 ヴィジュアル面には一切の懸念はない。男性どころか女性さえ振り向いてしまうほどの、何と言うか、雰囲気を持っている。安っぽい言葉で言えばオーラと言うものだろう。

 何より、その男性の本能を刺激する表情や容姿は、これまで見てきたタレントやアイドルには見ないものだった。あまり女性に興味のない私でさえ、刺激される。一般人が刺激されないはずが無い。

 歌唱能力については、まだなんともいえない。これまで、歌を歌うと言う経験が無かったのだ。これからやってみなければわからない。

 ただ、その容姿と同じく、声にも不思議と妖艶な響きがある。普通に喋っているはずなのに、どこか艶っぽいのだ。

 一度、事務所で話をしているときに同じ場にいた男性タレントの一人が、いそいそと席を外したのは、きっとそういうことなのだろう。

 そして、意外なことだが、ダンスの能力にも長けている。どうやらラクロスを趣味にしているようで、スポーツの経験は豊富なようだ。

 私自身、ラクロスがどのようなスポーツか詳しくは知らないのだが、なんとなく彼女には似合う気がした。

 仮にもスポーツであるから、心肺能力に懸念を抱く必要はなさそうだ。腹式呼吸も出来るから、声帯の使い方を覚えれば歌も苦ではなくなる。

「はい、今日のレッスンはここまで! お疲れ様でした」

「はぁ、はぁ……。はいっ、ありがとうございましたっ」

 あれだけの運動のあとに、元気よく声が出ることは凄いことだと思う。激務に耐えうるだけの体力はあるが、この手の運動に関する体力がまるで無い私からすれば、尊敬の念さえ覚える。

 彼女はトレーナーにしっかりとお礼をすると、私を認めてこちらへとやってくる。首筋から滴る汗や、上気した頬は、少しばかり私の心拍数を上げるだけの力を持っていた。

「プロデューサーさん、どうでしたか……?」

『まだ、なんともいえないですね。ですが、このまま行けば新田さんはいいところまでいけます。一流アイドルに名を連ねることも、夢ではないでしょう』

「本当ですかっ?」

『ええ』

 私は、笑顔一つ浮かべることなく、そう言った。

「嬉しいです、プロデューサーさんっ! 私、がんばりますねっ」

 そうやって笑う笑顔は、私にとってはいささか、眩しすぎるものだ。無愛想で淡白な人間に向けて、利のあることではないというのに。

(このあたり、この子は天然と言うか、無用心というか。しかし……)

 実際、この子が持つポテンシャルと言うのは、私が見た以上に大きいものだった。

 あまり人を見る目を持たない――と言うより、何でも短期利益で換算してしまう私は、将来性がある人間よりも、伸びしろが無くともある程度完成された人間の方を好む。

 もちろん、将来性のある人間を加えいれようという試みを考えたのは一再ではないのだが、そういう人間は大概大きなプロダクションが先に手に入れてしまっている物だ。

 在野には幾らでもいる、と言うのは分かっているのだが、それを発掘する手間に加え、大成しなかったときのリスクを考えると、どうしても踏み切ることが出来ない。

 そう考えると、やはり私に人を見る目はないのだろう、と思わざるを得なかった。根本的に、長期スパンのマネジメントに向かないと言うわけだ。

(しかし、私は運が良い)

 目の前で嬉しそうに笑い、そしてトレーナーと話す新田さんを見ながら、内心そう思った。発掘する手間も無く、私でさえ大成すると確信できるほどの人材が転がり込んできた。

 この僥倖は、なんとしても物にしなければならない。

 この僥倖は、なんとしても物にしなければならない。

『ああ、新田さん』

「はい、なんでしょうか、プロデューサーさん?」

 思い出したように、私は彼女を呼ぶ。

『あとで契約書や誓書など、諸々お渡ししますので、親御さんに読んでもらって、認印をもらってきてください』

「あっ、はいっ。分かりました」

 彼女はにこり、と笑って言う。未成年である以上、契約には親御さんの承諾が必要である。ただ、一抹の懸念があったが、まあ、それは置いておく事にした。

 懸念と言うのは、つまり親御さんに拒否されることである。立地が立地だし、小さなプロダクションだ。新田さんが箱入り娘だとすると、親御さんの意見が強く出る可能性がある。

 その辺りは、最悪自ら出向いて説得に当たらなければならない、と思っていた。幸い、経営状況はクリーンそのものである。弁護士でも持ち出されない限り、封殺できる自信はあった。

 そして、そんなことをされる理由もない。今のところは、だが。

『それでは、帰りましょう。新田さん、着替えたら駐車場に降りてきてください。事務所に戻って、書類を渡しますので』

「はいっ」

 私はそう言うと、トレーナーに礼を言ってレッスンスタジオを離れた。階段を降り、駐車場に止めていた車のドアに、キーを差し込む。黒塗りのキャデラックだ。

 もちろん、私の私物ではなく社用車である。社長が会社に払い下げた物であり、どうあがいても芸能プロダクションのそれではないのだが、文句など言えるわけがなかった。

(過ぎたものだが……。まあ、えり好みはできまい)

 取り回しの利かない外車などより、セダンなどが良かったと思うのは無理からぬことか。新田さんも、こんな厳つい車に乗ることは好まないだろう。それは理解している。

 しかし、一応体裁という物もある。取り繕うにはいささか仰々しい車ではあるが、軽自動車やワンボックスカーでない事は素直にありがたがるべき事だった。

 それほど機会がないとはいえ、示しの付かない車での送迎や営業という物は、あまり芳しい成果を上げることがない。

 日本的と言われればそれまでだが、やはりどこか”ステータス”という概念が、この世の中には広く浸透している。それが悪い事とは言わないが……。

(……私には、あまり理解できない事だな。金にも、成果にもならないのに)

 そんなことを考えていると、着替えた新田さんが小走りでやってくる。やはり、上気している頬は、やや正視しづらい。どうしても理性をくすぐるのだ。

(……全く、どうかしているが。しかし、これだけの魅力がある。一流になるのは、不可能ではない)

 そのまま、私は新田さんに声だけ掛けて後部座席に乗せる。やがて、キーをまわすと、どるん、と重々しい六気筒エンジンの音が響いた。

今回の更新は以上となります。あまり量がない事、お許しください。
次回の更新は来週のこの時間を予定しています。
また、可能であれば投稿ペースを加速させたいと思っております。
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました。

………………

…………


『はぁ、流石に疲れたなぁ……』

 どさり、という音と共に、柔らかい感触が体を包みました。ふかふかのベッドに身を投じた私は、ゆっくりと天井を眺めます。

『アイドルに、なったんだよね』

 小さく、そう呟くと、なんだか少し実感がわいてきました。もっとも、まだ候補生に過ぎませんし、これから努力を続けないといけないのですが……。

(……本当に、アイドルになれるなんて)

 心中でそう、呟きます。それと同時に、浮かんでくるのはプロデューサーとなった男性の顔。

 あばた顔で、ちょっとまるっとしている、愛嬌のある輪郭。温かみのある人相で、ともすればひょうきんなコメディアンのような顔。

 なのに、あまり笑わず、いつも淡々としています。個人的には、もう少し笑って欲しいと思うのですが……。あまり、しかめっ面ばかりしていると、ちょっと恐いですし。

 でも、冷淡で腕っ節も強くなさそうなのに、私を助けに入ってくれたその姿は、何と言うか、とても頼りがいがあって。少なくとも、信頼が置ける人ではないでしょうか。

 あんな場所に、偶然彼がいてくれた、と言うのは限りない僥倖でした。もしいなければ、今頃どうなっていたか。考えるだけで、ちょっと背筋が凍ります。

 ……まあ、こんなことを言うと、また”自分が助けられた”といいそうですが。でも、彼が助けに入ってくれたからこそ、防犯ブザーを出す余裕が出来た、と言うのは紛れも無い事実。

(これも、何かの縁なのかな)

 そう呟くと、少し前の出来事を思い出します。

 社会勉強の一環として、アイドルになりたい、と思ったのは些細なきっかけでした。それこそ、子供のころからアイドルになりたい、と思っている人にとっては、冒涜と言われてもおかしくないもの。

「よろしくお願いしますっ」

 一週間ほど前、街を歩いているときに女の子のグループと出会いました。彼女たちは皆可愛くて、とても一生懸命で、なんだか応援したくなるような、そんな子たち。

 まだ、私より何歳も年下だろうに、一生懸命な姿はなんだか愛らしくて。とてもみずみずしい生気が、体から溢れているように見えて。それに対して――。

(……私って、何がしたいんだろう)

 ふと、そんなことを思いました。なんとなく、と言うよりパパに勧められたから大学へは進学をしましたが、成績は良くても、やりたいことは見つかりませんでした。

 だから、たくさん資格を取って、自分には何が出来るのか、と言うのを探しているうちに、資格を取ること自体が趣味になってしまって。でも、結局やりたいことは見つからなくて。

 そんな矢先の、彼女たちの邂逅でした。

「あっ、そこ行くおにーさん! これ、この街の情報誌です、うけとってくださいっ!」

「おっ、こりゃあ、可愛い嬢ちゃんからのプレゼントかい? ありがとう、嬢ちゃんたち。がんばりな」

「はいっ、ありがとうございますっ」

 そんな会話が聞こえる。とても、楽しそうで、彼女たちの姿が輝いているように見えました。とても楽しそうで、まさに生きている。そう思わせるほどの何かがあるようで。

 だから、受け取ったお兄さん――そう呼ぶには、いささかお歳を召しているように思えますが――その人も、嫌な顔一つせず、それどころか応援の言葉を掛けます。

 間違いなく、彼女たちを知っているわけではない。この冷たい、よそよそしい社会で、気さくに声を掛けたくなってしまうほどの何かが、彼女にはありました。

『あっ、あのっ』

「はいっ、なんでしょうっ」

 気づけば、私は彼女たちの中で、一番元気よく情報誌を配っていた少女に声を掛けていました。

「わぁ、きれいなおねーさんだっ。どうしたんですかぁ?」

 一瞬、綺麗といわれてびっくりしてしまいました。こんな可愛い子に、綺麗と言われるほど、綺麗ではないと思っていたものですから。

 もちろん、お世辞の可能性は否定できないし、私にいわせればきっと、そっちのほうが大きいんですけれど、でも、なんとなく嬉しくなって。ちょっとだけ上ずった声で、

『み、皆さんは何をしているんですか?』

 そう聞きました。するとその子は、

「むふふー、なんだと思います?」

 かわいらしい顔を、余計にかわいらしくして――たぶん、本人は意地悪く笑っているつもりなのでしょうけれど――逆に質問を投げかけてきます。

『ええと……。その、アイドル、ですよね?』

 なんとなく、そう思った言葉を投げかけます。フリフリの衣装を着て、かわいい声で情報誌を配っている姿は、その姿に対して一般的なアイドルの行いとはかけ離れているでしょう。

 アイドルはもっと、煌びやかなステージで、可愛い歌を歌って、とてもアクティブなダンスを踊るものとばかり思っていましたから。

「ぴんぽーん、正解ですよ、おねーさんっ! 正解の賞品として、これを差し上げますっ」

 ただ、私のそういった思いとは裏腹に、彼女はにっこりと笑って、そして楽しそうにいいます。それと同時に差し出したのは、彼女がさっきから配っている情報誌。

『……これ、さっきから配っているものですよね?』

「あ、ばれちゃいました? てへっ」

 普通の人がやっても、もしかしたら苛立たせるだけに過ぎないそんな動きさえ、彼女は様になっています。同じように、あちらこちらで情報誌を配っているほかのアイドルたちも、きっとそうなのでしょう。

「わたし、アイドルになりたいんです。ずっと、ずっと小さな頃からの夢で。おっきなステージで、かわいい歌を歌いたいんです。……今は、まだ下積みですけれどっ」

 そういう彼女の姿は、まさしく夢見る人のそれで。今の私にはない物でした。

(アイドルって、凄い……)

 この世界にはたくさん仕事はあるけれど、ここまで人を輝かせることの出来る仕事はあるだろうか。いや、きっとあるのだろうけれど、でも今の私にはそれ以上のものが見つからなくて。

 それで、そう思っている時に、

「もしかして、おねーさん、アイドルに興味あるんですかっ?」

 そう、言われて一瞬、ドキッとしました。

(そう、なのかな。私……)

 明確な答えを返せなくて、少し言いよどんでいると、彼女はまた、にっこりと笑います。

「悩んでるなら、試しに挑んでみたらどうですかっ? きっとおねーさんなら、すぐに採用です! 社会経験の一環です、いけますよっ!」

 そんな、どこで覚えたかわからない、怪しい勧誘のような台詞を私に投げかけます。少し苦笑を零しつつ、

『ありがとう。少し、考えて見ます。がんばってね、テレビでいつか見れる日を、楽しみにしてるから』

「はいっ、一年経たないうちに、テレビに出て見せますよっ」

 そんな、剛毅な台詞を言うと、彼女はぺこりとお辞儀をする。そしてまた、かわいい笑顔を残して、別の人へ情報誌を配りに行った。

『こんな仕事も、アイドルの仕事なんだ……』

 私は手に持った情報誌を鞄に入れ、色々なことを考えながら、家への道を歩きます。

 社会経験の一環で、アイドルを目指すなんて、さっきの彼女たちのような、夢を追う人たちに失礼でしょう。

 それでも、湧き上がった興味の火は、とろとろと燃え続け、消えることはありません。

 その日、ずっと彼女のことが頭から離れず、お風呂から上がって髪を乾かしているときになんとなく、もらった情報誌をめくります。

 書いていることは、それほど多くありません。B級グルメの店の紹介や、隠れたデートスポット、新装開店されたアミューズメントスポットなどが載った、良くある小冊子です。

 その、後のほうのページまでめくると、ふと目に入ってきた広告がありました。華々しいほかの広告と違って、地味であまり映えない広告。

 手書きとパワーポイントで作られたその広告は、アイドルとタレントの養成、そしてデビューを目的とした小さな芸能プロダクションの物でした。

『……小さなプロダクションなら、私でも受かるかな』

 ちょっと失礼な考えですが、そう思った私は翌日、履歴書を買い、証明写真を撮って履歴書を作り始めました。そして次の大学の休講日に、プロダクションへ訪れることにしたのです。

 ――それが、今のプロダクションなのですから、なんとなく、縁を感じるのは無理からぬことではないでしょうか。

『……これからは、学業と両立させないと。パパにもそう言われたし』

 先ほど帰宅したとき、偶然戻ってきていたパパに契約書等を渡して、アイドル候補生になったことも伝えました。

 パパは驚いていたけれど、”美波の決めたことだ”と、学業をおろそかにしないことを条件に許してくれたのです。

 契約書を読んだとき、少し怪訝な顔をしていた理由は分かりませんが、ともかく保護者の欄に名前を書いてくれたので一安心です。

 これで、プロデューサーも喜んでくれるでしょう。……これは、私の希望的観測にすぎませんが。

『本当に、喜んでくれるといいなぁ』

 一度くらい、あのプロデューサーの笑顔を見てみたいものです。いつも、真一文字に口を結んで無表情な、しかし愛嬌と温かみのある顔。笑うときっと、優しい表情になります。

 歌舞伎の二枚目のような、いわゆるイケメンではないけれど。ひょうきんで、人を喜ばせる三枚目。彼に抱いた最初の印象です。

 まだ出会って数日しか経ってはいないですけれど、もっと打ち解けられれば嬉しいな。そう思いながら、私は明日の講義の準備を始めました。




□ ―― □ ―― □


 ますます寒さは厳しくなる。こういうときは夏の猛暑日を羨むが、夏は夏で、真冬の寒波を恋しく思うのだろう。ままならない物だ。

 そう思いながら、私は溜まりに溜まった書類を処理している最中であった。

 運のよいことに、あれからまた何件か仕事を引っつかんでくることに成功した私は、根回しもそこそこにそれを振り分け、必要な指導を施した。

 指導、と言っても演技指導とか、そういう専門的なことではない。どちらかといえば世渡りに近い。

 幸い、その手の小細工を弄することは得意である。彼らにしても、クライアントに覚えられると言うことは好ましいはずだ。

 そして、それに伴う残りの根回しをいくらか施した上で、彼らを信じ、後は託したわけである。

 根回しにしても、悪辣なものではなく、偶然を装ってクライアントと出会って話をしたり、クライアントと懇意にしている人や組織に対するアプローチなどである。

 資金さえあればもっと大々的な工作や悪辣な手法も取れるのだろうが、幸か不幸か懐事情は外の寒空のようになかなか厳しい。

 もっとも、お陰で陰湿な根回しをせずに済んでいる、とも言えた。手を汚さないに越したことはない。ただでさえ――。

『……ん?』

 それから、しばらくして、ようやく一山目の書類を切り崩し終えたときに、ノックの音が響く。こん、こんと、二度。それから、少し経ってもう二回。どうやら聞き違いではないようだ。

 今日は特にアポイントメントの予定はなかったはずだ。社長がここに来ることはありえないし、タレントやアイドルたちならば挨拶をして入ってくる。

『少々、お待ちください。すぐに開けますので』

 私はそう言って立ち上がり、ドアへと向かう。くすんだ擦りガラスの向こう側には、人影が見える。確かに、誰かいるらしい。

 そうして、私はドアを開ける。ゆっくりと引いて明けると、そこに居たのは恰幅のいい、中年男性だ。とはいっても、肥満と言うわけではない。図体が大きいというわけでもない。

 ただ、なんとなく大きく見える、と言うだけの話だ。

「失礼、ここは比興プロダクションで、確かにあっているかね?」

『はあ……。確かに、そうです。失礼ですが、どちら様で?』

「ああ、すまんね。私はこういうものだ」

 そういいながら、男性はポケットから名刺入れを取り出すと、私に差し出す。それを丁寧に受け取ると、書かれている文字を見た。

『シンデレラガールズ・プロダクション……?』

 どこかで聞いた名前だ。しばらく記憶の書類棚をひっくり返して探していたが、ようやく思い出した。一週間かそこらか前に、メールが届いていた。そこに書いてあった名前だ。

 もっとも、そこではシンデレラガールズ・プロジェクトとしか書いていなかったが、プロダクションとなるときっとそういう名前になる。そんな名前だろう。

 そして、このプロジェクトに抱いた感情は決していいものではなかった。だから必然的に、

『……それで、何の用でしょう』

 警戒する口調になってしまう。まあ、普通なら気づかれないような微妙な変化なのだが、この目の前の男性――シンデレラガールズの社長はそれをしっかりと察知し、

「まあ、そう警戒しないでくれたまえ。アポイントもなしに訪れたのは悪いと思っているが、スケジュールを固定することが今、難しくてね」

 と、謝罪される。

(……なかなか、面倒な人が来たな)

 とは、私の第一印象である。手強い、といったほうがいいかもしれない。何を狙っているかわからない以上、警戒するに越したことはない。

『こちらこそ、ご不快にされたのでしたら、申し訳ありません。なにぶん、こういう立地ですので、諍いごとには過敏でして』

 そういいながら、今度は自分の名刺を差し出す。比興プロダクションの名前と私の名前、そして連絡先だけが書かれた単純なものだ。

「ああ、確かにちょっと治安は悪そうだな。わざわざこんなところに居を構えることもあるまいに」

 社長はそういって苦笑し、名刺を受け取った。もちろん、私とてこんなところを好き好んでいるわけではない。出来ることなら六本木の一等地に構えたいのは当然だ。

 が、そんな余裕もないし、それ以前に今のところ立地と費用の効率が一番いいのはここだった。旧繁華街とはいえ、ちゃんと表の大通りに出れば交通量も人気も多い。

 交通の便はいいのだ。大通りから事務所までの十分弱は、相応のリスクとしてみるべきなのだろう。リスクマネジメントは専門外なので、どの程度のものなのかは分からないが。

「まあ、雑談はここまでにしてだ。今日は商談があって来たのだがね。社長さんはおられるかな?」

『すみません、社長は不在でして。一応経営責任者は私ですから、何かございましたら検討はさせていただきますが』

 とりあえずは、立ち話もなんだから、社長に中に入ってもらうことにした。そして、ソファに座ってもらい、しょぼい煎茶のパックを急須に放り込んで、ポットからお湯を注ぐ。

 そして、それを差し出すと、自分も向かいのソファに座る。商談と言うものがどういうものかは分からないが、業務提携か何かだろうか。

 とはいえ、業務提携する利点があちらにあるとは思えないが。やがて、社長が煎茶を一口すすると、思い出したように本題へと戻る。

「ところでだ。経営責任者は君で、社長は別なのかね?」

『ええ、そうですが』

「んん……。少し変わっている形態だね。普通は、社長か代表取締役がCEOを兼任するのだが。あー、君は」

『ただのプロデューサーです。一人しか社員はいないもので』

「ふうん……?」

 社長は何か考え込むような素振りをしばらく見せていたが、やがて面倒になったのか、それとも何かを察したのか、”まあ、いい”と一言おいて、

「ええと、Pくんだったね。一応経営責任者なのだから、君に話を通しておこうと思う。君が判断するなり、社長に通すなりは君に任せるが」

『はい、なんでしょう』

「このプロダクションに所属するアイドルの情報が欲しい。それで、もし私の目に留まった子がいるのなら、可能であれば契約を買い取る、と言う形で移籍させて欲しいのだが」

 彼はそういった。初め、何を言われたか分からなかったのだが、すぐにフルスピードで頭を回す。そして出てきた結論が、

『引き抜き、でしょうか』

 だった。それに対し、シンデレラガールズの社長は、全くの忌憚も、躊躇もなく、

「そうだ」

 と答える。

(ねじが二、三本、すっぽ抜けているんじゃないのか、この人は)

 そう思ったが、声には出さない。ただ、面と向かって引き抜きに来た、などというのはある種の宣戦布告である。

 私は少し頭の中で言葉を整理したあと、

『生憎ですが、こんな小さなプロダクションです。お目に適うようなアイドルがいるとは思えないのですが』

 社長に対して言った。実際、こんな場所に原石が転がっている、というのは夢のような話だ。よっぽど街中に繰り出して、スカウトに勤しんだほうがいい。

 だが、社長から飛び出したのは、否定的な言葉だった。

「これはしたり、だな。ここにいるアイドルやタレントは、君の目に適ったから、ここにいるのだろう? だったら、私の目に留まるかも知れないとは、思わんかね?」

 その言葉は確かに、そうだった。一理あるだろう。私の目がとりわけ良いとは思えないが、だからと言って社長の目に適わないとは限らない。

 だが、その先の言葉は少し、承服しかねるものだった。

「それに、プロデューサーたる君がそんなことを言ってはいけない。君は自分のアイドルを信頼していないのかね。それでは」

『失礼ですが』

 私は社長の言葉を遮って声を出す。

『当プロダクションの経営方針に口を出すのは、止めていただきたい。私がどう考えようと、シンデレラガールズさんには関係がないのでは?』

「……ふむ。まあ、そうだな。これは失礼をしたね、Pくん。許してもらえるとありがたい」

『いえ、こちらこそ声を荒げ、申し訳ありません。それで、本題に戻りますが』

 頭を少しクールダウンさせるため、強引に話題を戻す。傍にあったファイルを取り出し、ぱらぱらとめくる。

『個人情報保護のため、書類のお持ち帰りは許容できませんが、口外しないことをお約束していただけるならばこの場でお見せすることは出来ます』

「いいだろう、約束をしよう。誓書でも何でも持ってきたまえ」

『そこまでは求めません。ですが、念のためボイスレコーダーに以後の会話を録音させていただきます』

「構わんよ。一応、録音を開始したら、宣誓も入れておこう」

『ご協力感謝いたします』

 私は胸ポケットからボイスレコーダーを取り出し、録音スイッチを押した。それを見た社長は、この場で得た情報を口外しないことを宣誓し、そして書類をぱらぱらとめくり始める。

 この事務所には前々から、タレントとアイドルを含め、二十人もアイドルはいない。しかもほとんどがセルフプロデュースに近しい。

 新田さんが増えたため、私の負担が増えたことぐらいが、主な変化だった。

「……この子と、この子」

『はい?』

「この二人に、時間のあいたときでいいから、私に連絡するように言っておいてくれ。直接あって、面談をしたい」

 しばらくしてから、シンデレラガールズの社長は、突然言った。指差されたのは二人のアイドルだ。25歳と26歳の、アイドルとしては遅すぎる年齢の二人である。

 私が言うのも残酷な話だが、正直これ以上の活躍は難しいと思っていた。

 片方は昔、地方でアイドルデビューをしたことがあるらしく、それを見込んで採用したが、切り株守と言うのだろうか、少し昔を引き摺り過ぎで、なかなか前に進もうとしない。

 もう片方はキャラを立てるため、若作りをして電波系で通そうとしているのだが、年齢も相まって少々見ていて厳しいものがある。そういうキャラ付けが悪いとは言わないが……。

 無論、二人とも何とかしてやりたいし、売るというのは気分として、承服しがたい。ただ、事実として私ではこれ以上どうにもならないところにきていた。

『何か、目に留まりましたか?』

「わっはは、勘だよ、勘。この子たちは売れる、と思っただけの話だ。存外馬鹿にならんものだぞ、勘と言うやつは」

 豪放に笑う社長は、屈託のない笑顔を私に向ける。あまりに屈託がなさすぎて、”君ではこの二人は扱えない”と言われているような、そんな幻聴が聞こえそうなほどだ。

 それが、私自身自覚しているからこそ妬心や、無力感からくるものとは分かっているので、あまり疑心暗鬼に陥るのはよろしくないし、そうですか、と適当に相槌を打つに留めておく。

「一応聞いておくが、この二人がいなくなることでこの事務所が苦境に立たされる、ということはないな?」

『ええ。私の気持ちの問題を除けば、特に問題は無いでしょう』

「わっはは、気持ちの問題、か。君もなかなか、人間味があるじゃあないか。では、移籍が成立した場合の話をしておこう。成立するとは限らんが、一人頭このぐらいでどうだね」

 そういいながらシンデレラガールズの社長は、手元のメモに数字を書き添えていく。

 やがて、表れた数字は、私を驚愕させるものだった。考えていたものより一桁、数字が大きかったからだ。

 それほどの価値があると、この人は見ているのだろうか。もしそうなら、この人の見る目はまさに慧眼と呼べるものだろう。あるいは、私の目が汚泥のように濁っているだけかもしれない。

『……私としては、依存はありませんが』

「そうか。それならいい。」

 それほどの価値を見出しているならば、もう少し吹っかけてみるか。そう思ったが、これ以上無い条件である。取り下げられるリスクと、今後の成長の見込みを天秤に掛ければ、応じるのが吉だろう。

 満足そうに笑った社長を尻目に、私の頭はあわただしく計算を始める。ここで手に入れた資本金をどう生かすべきか、ということである。

 やがて、答えはすぐに出た。つまり、期待の新人である新田さんに半分を使ってみよう、と言うことだ。見込みが正しければ、倍どころか数十倍の金を引っ張ってくることだろう。

 残り半分は……あまり口に出せることではない。出来れば、誰にも話したくはないことである。

『それで、万一採用となった場合の契約履行について、事前契約書の発行ですが――』

「おはようございます、プロデューサーさん」

 その先のことを話そうとしたときだった。二度、ノックの音が聞こえ、いつもどおりの明るい声で新田さんが入ってきた。

「あれ、お客さん、ですか? おはようございます」

『おはようございます、新田さん。済みませんが、今、少しお話中ですから、こちらに来ないように。分かりましたね?』

「あっ、はい。分かりました。じゃあ、もうレッスンに行っちゃいますね。失礼しますっ」

 あわただしくしながらも、育ちのよさが分かる綺麗なお辞儀をした新田さんは、事務所から出るときにまた、ぺこりとお辞儀をしてレッスンへと向かった。

 その後姿を見送ると、私は内心で少し歯噛みをし、戦々恐々としながら、盗み見るように目の前の社長を見た。

(……やっぱりか)

 不幸にも、予想通りの光景がそこにあった。シンデレラガールズの社長の意識は、今しがた事務所の出口の向こうへ消えていった、新田さんの背を追いかけていることだろう。

 それは、その気持ちは、よく分かった。私自身が、つまり私程度の目でさえ彼女に才能を感じている。

 石炭の中に隠れた、ダイヤの原石を探し当てられる目の前の男が、目を取られないわけがない。

 数秒そのまま意識が飛んでいっていた社長であったが、しかしすぐにこちらを向いて、半ば詰問するような――少なくとも私にそう感じるほどの威圧感を漂わせ、口を開く。

「今の子は?」

 その短い問いかけに、取り繕う言葉を考える事もできず、ほとんど即答と言ってもいい速度で、

『先日、採用したばかりの子です。まだ、書類をそちらに挟んでいなかったので、おそらく存じないと思いますが』

 と言っていた。もっとも、余裕があったとしてもあまり変わらない言葉を返していたとは思うが、ここまで率直に答えることになるとは思わなかった。

 社長は、私の答えを聞くと、すぐに内ポケットから小さな冊子を取り出す。そして、そこに数字を書き込み、めくってテーブルへと置く。目を疑った。小切手だ。

「あの子が欲しい、ティンと来た。これだけ出すから、すぐに移籍させて欲しい」

 そこに書かれた数字に、私は目がくらんだ。先ほどの二人に付けられた額よりも数倍大きなもので、到底19歳の女性に付けられる金額ではなかった。

 その小切手に、手が伸びそうになった。動いた腕の、手の、指の動きのすべてが自分で理解でき、そして、きっと、社長も感じただろう。

 だからこそ、不可解なことだった。私は、私が理解できなかった。

『……お断り、します』

 そう言っていた。動いた手は、動く前の位置に戻っていた。

(19歳の小娘だ、売り払ったほうが絶対に良い)

 ここで、この小切手を受け取ることが一番良い。さっきの二人を、売り渡そうとした私だ。これぐらい、造作のないことのはずなのに。

 ――私、がんばりますねっ。

 数日前の、彼女の笑顔が、フラッシュバックする。同時に、別の声が頭の中で響く。

 ――まあ、せいぜい頑張れよ? くははは、さて、一体いつになるやらなぁ。

 ドスの聞いた声。酷く、胸が痛い。冷徹に、淡白にと務めている私の心に、少し炎が宿る。

『彼女は、トップアイドルになれると確信しています。だから、手放せない』

 その炎を消し止めるかのように、腹から言葉を吐き出した。頭の中で響く声も、消える。

 静かに、社長は私を見返してくる。鋼鉄の槍のような視線が私を鋭く突き刺してくる。負けじと、私も見返した。

 やがて、社長が視線を落とし、一つ息を付いたように見えた。諦めたわけでは、なさそうだった。纏っている覇気のような、生気のようなものが未だに収まっていない。

「とりあえず、今日は帰るとしよう、Pくん。先ほどの二人に関しては、必ず伝えておいてくれたまえ」

 社長はそういい残すと、ゆっくり立ち上がった。私も同じように立ち上がる。そして、案内するように事務所の出入り口へと先導した。

「それではね、Pくん。今日は押しかけて悪かったね。では、失礼するよ」

 侘びの言葉と共に、社長が僅かに口角をつり上げる。その目の中には、情熱の炎と呼べるような、そんなものがありありと見て取れた。

(やはり、諦めている様子はなさそうだな)

 長い戦いになるかもしれない。そうおもったが、こちらとしては手放すつもりもない。ある程度の根回しの準備も必要だろう。

 まだ、正式稼動もしていないプロダクションだ。パイプはこちらのほうが多いはず。

(力ずくで来るなら、迎撃してみせる)

 そう思いながら、事務所から出て行く社長の後ろ姿を見送った。

今回の更新は以上です。少し量が多くなってしまいました。
次回の更新は来週のこの時間を予定しています。
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました。

ご報告が遅れて申し訳ありません。
今出先で明け方に帰宅する予定ですので、明日の日中に更新はさせていただきます。

………………

…………


『……申し上げさせていただいてもよろしいですか、社長?』

「うむ、なんだね?」

 私は、シンデレラガールズの社長と、机を挟んで向かい合っていた。不適な笑みを浮かべる社長に比べ、私はきっと不満げな顔で真一文字に口を結んでいることだろう。

 昔から、面が悪いと馬鹿にされていた。ピエロだとか、ひょっとこだとか。もちろん悪口だから、厳密にはそこまで酷くないと思いたかったが、ともかくとして私はそういう軽侮の対象だった。

 ついたあだ名は三枚目。そう言われるのがなんとなく癪で、表情を殺す事で些細な抵抗をしていたせいか、無表情に真一文字に口を結んだ顔、と言うのが私の基本になってしまった。

 その上、頭も固いといわれることもある。

 ――不細工な芸人面しているのに、笑いの才能はからっきしか、あぁ? なあ、笑えることしてみろよ、三枚目。

 そんな声が、頭で木霊する。振り払うように、私は社長へやんわりと、詰問する。

『幾らなんでも、アポイントメントなしの訪問を、二日連続と言うのはどうかと思うのですが』

「それぐらい私は本気と言うわけだよ、Pくん。三顧の礼とはよく言うじゃあないか?」

『お言葉を返すようですが、その故事ですと、私をスカウトすることになりますよ、社長。少し使いどころをお間違えでは?』

 訂正をするように、私は淡々と言う。社長はひとしきり、わはは、と笑うと、

「それもいいな。君ごと、新田さんだったか。彼女を手に入れるのも悪くない」

 その言葉に、一瞬胸が跳ね上がる。当然、冗談でしかないだろうが、私も俗物で、卑怯者だ。そういう言葉には反応はする。

 現に、彼のような人間の下で働ける者は幸せだろう。部下に優しい人間はいくらでもいるし、部下を使うだけの人間も数多くいる。

 しかし、彼のように、中身までしっかりと見定めようとする人間は多くない。弱さも強さも、酸いも甘いも、全て知って、その上で使ってくれる人間は。

(まったく、心の揺れることを言ってくれる人だ)

 だが、その選択は無意味だろう。彼のことだ、弱者には目もくれない。弱さだけの人間は、彼に拾ってもらうことはできないだろう。

 そして、私も彼についていく事は、できない。この事務所、ここの社長から離れることは。

『お生憎ですが、お断りしましょう。その言い方ですと、まるで私が菓子箱についてくるベルマークみたいに思えますので』

「わはは、的確な表現だな。しかし、ベルマークか。何ともレトロを感じさせる例えじゃあないか。まだ30歳にはなってないのだろう?」

『今年で、27。ゆとり世代という奴です、社長。それに、ベルマークは今でも使われています』

「や、そうだったかな? 懐かしいことを言ってくれると思っていたが、今も続いている物だったか、わっはは」

 そんな社長の軽口を流しながら私は、ほんの少し、ほんの少しだけ鼻で笑い、

『それに決して私を手放さないでしょうから』

 そういった。

「ここの社長のことかね? 君が辞めるも続けるも、君しだいではないか。奴隷と言うわけではあるまい」

『そうですね』

 短く、そう答える。それ以外に、答える言葉はない。答える必要も、ない。

 少し、怪訝な表情をした社長ではあったが、まあいい、という一言を置いて、それから再び彼は話し始める。

 社長の説得――主に新田さんの移籍に関するものをしばらく受けていたが、私の意志は頑として変わることはなく、昼前に社長は帰っていった。

 その内また来るのだろうな、と思いつつ自分のパソコンを立ち上げる。メーリングソフトの受信箱には何もない。

 それから、幾つか確認をし、各タレントやアイドルに連絡を行った。新田さんが事務所に来るようになってから、少し方針を変え、こちらから連絡と指示を出し、各自で自由にやってもらうことにしたのだ。

 本人たちも、わざわざ事務所に来る手間が省けていい、と言っていた。まあ、アルバイトやパートをしながらと言う人も多い。事務所に来る時間は、貴重なのだろう。

(今期の収益は……まあ、こんなものか。それぞれの収益がこれで。……ふむ、この子はもう、潮時か?)

 事務所の支出の管理表を開きながら、頭の中でめまぐるしく計算をさせる。カレンダーを見ながら、出費予定を書き加え、各員のスケジュールを組む。

 タレントたちの中には、モチベーションが下がってきている人もいるだろう。上手く底上げできるよう、好みの仕事を割り振れるか、調整をする。

 仕事のないタレントには、オーディションなどをリストアップし、目標を持たせることで維持を図る。

 どれほどの効果があるかは、分からない。人の心の機微は、難しいから。もっとも、私は冷血ではない。そのつもりではあるが、周りから見ればどうかは、少し分からない。

(……だからこそ、こんな姑息な稼ぎ方しか出来ないのかもしれないが)

 僅かに自嘲する。自嘲したところで何も変わらないから、その一瞬だけだ。

「ただいま戻りました、プロデューサーさん」

『ああ、お帰りなさい、新田さん』

 一時を少し過ぎた頃、新田さんがレッスンより戻ってきた。今日はレッスンの後に、今後の方針を決めるための相談をすることになっていた。

 私は手早く会計ソフトの雑多なところを始末して、電源をスタンバイ状態へと落とす。そして、ゆっくりと立ち上がりながら、

『コーヒーを入れようと思うのですが、新田さんも要りますか?』

 と尋ねる。

「あ、プロデューサーさん。私がやりますよっ」

 と新田さんは言うものの、仮にもアイドルだし、レッスンが終わったばかりの人間を働かせるのは釈然としない。彼女は私の奴隷ではないのだ。

 なので、彼女がショルダーバックをテーブルに置いたときには既に、私の姿は給湯室へと消えていて、朝から起動させているコーヒーミルで豆を砕き始める。

 その音に気づいた新田さんが、慌てて給湯室までやってくるも、二人が入るスペースはないので、

『私がやりますから、新田さんは休憩をしていてください。砂糖とミルクは必要ですか?』

「うー……。す、すみません。では、一つずつ頂きます……」

『はい、分かりました。では少し待っていてください』

 淡白ともいえるかもしれないが、彼女はアイドル候補であり、私はプロデューサーである。明確な線引きのためには、これくらいの距離感がちょうどいいはずだ。

 もっとも、彼女のように半ば付きっ切りで担当するということは今までなかった。だからこれが正しい、とは言い切れないところがある。

 それ以前に、芸能プロダクションの運営方法自体が正しいとはいえないかもしれない。その辺りに関しては、もう割り切ってやっていくしかなかった。

 やがて、湯気が上がる熱々のコーヒーを二つ持って、彼女の座っているソファの前のテーブルへと置く。そして、棚の中からコーヒーフレッシュとスティックシュガーを取り出した。

「ありがとうございますっ、プロデューサーさん」

『いえ、大したことではないですよ。それでは、新田さん。休憩がてら、これからの方針を決めていこうかと思います。よろしいですか?』

「あっ、はい。大丈夫です。それで、方針と言うのは……?」

 彼女が少しばかり緊張した面持ちで、こちらをじっと見てくる。その真っ直ぐな視線から目を逸らしながら、私は幾つかのプリントアウトした用紙を彼女の前に突き出す。

『トレーナーさんからのご報告と、私が見たところ、やはりヴィジュアル方面で攻めるというのが私の判断です』

 そして、彼女に向かってそう言葉を投げかけた。

『客観的に見て、新田さん。あなたの容姿は素晴らしい。現状でも一級品と呼んで差し支えはないでしょう。それに……』

 少し間を空け、息を吸い込む。やがて、ゆっくりと手元の資料をめくりながら、再び言葉を投げかけ始めた。

『新田さんは一度、大学のミスコンで入賞されています。実績があるのですから、そちらの方面であれば仕事も舞い込んでくることでしょう』

 いかがですか、と少しだけ目を細めて、彼女を見た。ややまごついている様子で、あの、と小さく言った新田さんは、

「その、ヴィジュアル面ということは……?」

『ええ、アイドルと言うよりも、どちらかといえばグラビアタレントという方向性になります。幸い、グラビア方面のパイプラインは少なからずあるので――』

「あっ、あのっ!」

『どうか、しましたか?』

 私がそう言うと、彼女は少しだけ萎縮したように肩を震わせる。しかしすぐに意を決したように息を吸い込むと、

「私、ステージの上に立ってみたいんです、アイドルに、なってみたいんですっ。だから、その、グラビアだけと言うのは……」

 そういい終え、新田さんは申し訳なさそうな表情で、少し俯いた。

 私は、細めた目のまましばらく俯く彼女の表情を伺う。やはり、どこか気弱なところがある。いや、正確には謙虚、おしとやかといったほうが正しいだろうか。

 箱入りに育てられた故の性格だろうが、その性格は決して、競争の激しいアイドルという世界には向くものではない。対人関係なども、複雑にして煩雑なものになる。

 それを管理するほどの能力も、護ってやる後ろ盾としての権力も、このプロダクションにはない。だからこそ、グラビアタレント方面に目を向けた訳だ。

 グラビアタレントであれば、アイドルほど競争も激しくない。それに、アイドルと違ってスキャンダルやパパラッチに対する手段も多い。

 手段が多ければ多いほど、その組み合わせで千差万別の対抗策が取れる。……と言うよりも、私はそういうことに心を砕いてきた。

(力が足りないから、頭で補う。質がないから数を用意する。なるほど、まるで智将にようじゃないか)

 自分でそう皮肉を込めて自賛するが、やることは姑息そのものである。手を出せない状況を作る。弱みを握ってもいいし、手を出したときのデメリットを大きくしてもいい。

 あるいは、それらがないのであればこちらから仕掛けて、そういうものを作ってもいい。もっとも、私はこの仕事でそういうことをしたことはない。

 ……”この仕事”では。

『新田さんの意思は、尊重しましょう。しかし、アイドルの世界はとても厳しいものです。いわば、やるかやられるかの話になってきます』

 少しして、私はそう言葉に変えて行く。彼女が望むのであれば、それはそれで良い事だ。ぜひともその方向でもって行こうと思う。

 しかしその意志と考えとは別の話で、出来るか出来ないかの問題もある。この話は、どちらかと言えば出来ないに分類される。正確には、出来なくはない、だろう。

『今、新田さんにはアイドルの世界で殴り合うだけの力量がありません。もちろん、私にも、このプロダクションにもね』

「だめ、ですか……?」

『今は、ですよ新田さん。グラビアで力を付けて、それからアイドルになっても遅くはないでしょう。まあ、しかし、どうするかは、新田さんが決めてください』

 私はその決定を尊重します。そう告げた。告げておきながら、新田さんはきっと、私の提案に従うだろう。そう確信に近いものを抱いていた。

 結局、私がこれまで手がけてきたタレントたちが、まだ生き残っていられるのは私の方針が正しかったことを示している。もちろんその場その場の判断は、彼らに任せている。

 しかし、大局的な判断は私が下したほうが確実なのだ。その上で、夢を追いかけるほうが、リスクは少なく、それに対して大きな成果をあげられる。

 そのために、私が上手く制御できるタレントやアイドルを集めていた。これまでの彼らとは少し毛色が違うが、新田さんも近しい存在だ。我が弱いからこそ、私が上手く操れる。

 弱者の知恵、と言うやつだと私は思っている。

(……私は天才でも、何か力を持っているわけでもないからな)

 内心で、そう呟いた。私が豪腕でも、敏腕でも、辣腕でもないことも大きい。おまけにプロダクションの規模も資金も小さすぎるから、できることがあまりに限られているのだ。

 無論、その状況下でも力を発揮して会社を大きくできるのが、真の天才と言うものだろうが。

 やがて、しばらく考えていた新田さんだったが、何かを決めたように顔を上げた。

「……グラビア、やります。まずは、一歩一歩、上っていかなければならないのは、分かりますから」

『……そうですか。分かってくれて、ありがとうございます。今は本意ではないでしょうが、意に沿えるようには努力していきますので』

 計算どおりだと思った。方針さえ決めてしまえば、後は何とでもなる。これから少しの間は、忙しくなりそうだ。

 幾つかの、錆びかかっているパイプラインをもう一度整備し、その周りに油を挿し、もう一度水を通さなければならない。

 そのためには、相応の労力が掛かるだろう。だが――。

『……そちらのほうが、私の本領発揮と言うわけだ』

 小さく呟き、不思議そうな顔をしてこちらを見ている新田さんに、私はゆっくりと顔を向ける。

『今日は、お疲れ様です。近いうちに、仕事を引っ張ってきますので、安心していてください。それまで、アイドルになるためのレッスンも、欠かさぬように』

 まるで父親にでもなった気分だが、私と新田さんは一回りも年は離れていない。どちらかといえば、兄だろうか。

(……馬鹿馬鹿しい)

 少し自嘲を零すと、ゆっくりと立ち上がる。それに合わせて、新田さんも立ち上がった。今日はもう何もないから、帰るのだろう。

 その後姿を見送りながら、私はポケットのスマートフォンを取り出し、連絡リストを開く。早々にパイプラインの補強をしなければならない。二、三度、コール音が鳴る。

『……――ああ、もしもし。ご無沙汰しております、比興プロダクションのPですが』

 私一人になった事務所に、私の声だけが響く。

今回の更新は以上です。少し遅れまして申し訳ありません。
次回は来週の金-土曜の夜半を予定していますが、火曜日あたりに一回更新が出来れば、と思っています。
それでは、ここまで読んで下さりありがとうございました。

□ ―― □ ―― □


「――はーい、そこで、そうっ! いいね、良い表情だよー、ささ、少し笑って、笑って!」

 無機質な、シャッター音が響く。それと同時に、まばゆいフラッシュが二度、三度と焚かれる。

(……これが撮影、か。実際に仕事現場に来たことはなかったな)

 カメラマンが元気よく声を出している、その数m後方で、私は静かに腕を組んで立っていた。カメラが向いている先には――。

「あ、あの……。ちょっと、このポーズは過激すぎませんか……?」

 それなりに露出の多い、薄いスカイブルーのワンピースを纏った、新田さんの姿があった。ただ、グラビアという観点から見ると、むしろ少ない部類に入るのではないだろうか。

(予想通りか。なかなか、どうして……)

 私は少しばかり目を細め、そして再び彼女のほうへと目を向ける。

 今回の撮影は、私の意向で水着からこのワンピースに変更した。いきなり水着と言うのは、彼女としても避けたいことだろうというのもあったが、一番は彼女のスタイルを鑑みてのことである。

 彼女は確かに、良いスタイルをしているが、しかし彼女より豊満なスタイル、端的にいえば、ナイスバディな人は幾らでもいる。

 ゆくゆくはそういう水着の仕事もいいだろうが、今は彼女のモデル体系といったほうがいい、スレンダーな見た目にあった仕事のほうがいいと思ったのだ。

 それに、彼女の本質的な強みはそのスタイルではなく、にじみ出る官能的な雰囲気である。それは水着でも通用するものだが、過激すぎない露出のほうが映えるはずだった。

『……これで、十分だ。今は』

 小さく呟いた。

 それにしても、やはり一級品というところか。カメラマンは慣れているようだが、新人の助手とも思われる青年は、フラッシュライトを持ったまま固まっているときさえある。

 やはり、男の本能に直接揺さぶる何かを持っている。それを、可能な限り引き出すことが出来れば、一流へなれる。

 そこまで行くことができれば――。

「いやぁ、プロデューサーさん、凄い子ですねぇ。こう、なんでしょう、フェロモンが凄い出てる感じが、もうヤバいですね」

『そうですか。それは良かったです』

 カメラマンからの賞賛を受けても、私の心はあまり動かなかった。当然だ。そうであると思っていることを言われても、事実の再確認でしかない。

 無論、嬉しくないといわれれば嘘にはなるのだが……。ただ、冷淡な格好は決して動かしはしない。私は弱者なのだから、何事も不言でなければいけない。

 言葉に出すと、読まれる。あるいは、何かの判断材料にされる。はたまた、付け入る隙になる。私はそれらに対抗するだけの能力を持ち合わせていない。

 小細工でどうにかできないものには、勝てない。だから私は言葉を多くはしない。どちらにせよ、考えている事全てを、言葉に出すことなどできはしないのだ。

 やがて、数十枚の写真を撮り終えたカメラマンは、満足そうにカメラから手を離して、

「いやぁ、逸材ですなぁ。また機会があれば、よろしくお願いしますよ、プロデューサーさん。本当、カメラマン冥利に尽きますなぁ」

 ほくほくとした表情で、そう言った。彼としても眼福だった、と言うことだろう。数多の女性の写真を撮ってきているだろう人間に、そう思われているというのは良いことだ。

『こちらこそ、またよろしくお願いします。写真のほうは上がり次第、いつもどおりに事務所へ送ってもらえれば』

「ええ、そりゃあもう、今日はもう予約もありませんからね。おい、フィルムを現像室へ持っていってくれ!」

 助手へとそう命じて、カメラマンは僅かに笑った。親密とはいえないが、それなりに長い付き合いだ。しかし、その笑みの意味は、良くは分からなかった。

『お疲れ様です、新田さん。初めての撮影はどうでしたか』

「……あ、あの。と、とっても恥ずかしかったです」

 彼女は、緊張と責任と羞恥で上気した頬のまま、少し俯いて言う。まだ、もうしばらくは経験を積ませることが必要かもしれない。

 今日の写真は宣材に使うほか、出版社やオーディションに送りつけるためのものだった。一応、小さい地方雑誌の半ページではあるが掲載が決まっているものもある。

 諸費差し引けば一本数万にさえ達しない仕事ではあるが、彼女にとってはきちんとしたデビューの仕事だ。手は抜けないし、抜くつもりもない。

 確実に積み上げれば、やがて届く。幸い彼女はまだ若い。そして私もまだ若い。五年。それだけの時間があれば、彼女は一流になれるだろう。

 そして私も――。

「あ、あの。プロデューサーさん」

『ん? はい、どうしましたか、新田さん?』

「その、私の仕事ぶりは、どうでしたか? 駄目なところは、なかったですか?」

 恐々とした、やや控えめな様子で私に尋ねる。不安や緊張と言うものが、思ったよりも大きいのかもしれない。

『悪くはありませんでした。もう少し、緊張を抑えて自信を持つことです。普段、大学などではここまで気は弱くないのでしょう?』

「そう、ですけれど……。でも、やっぱり、初めてのことですし、こういうお仕事ですから……」

 その、いろんな噂話とかもありますし。彼女はそう続けて言う。

(……まあ、新田さんの不安も当然か)

 特に、昔からアイドルを目指していたというわけでもない。彼女は”社会経験を積むため”と言っていたから、もしかするとそこまでアイドルになる意欲はないのかもしれない。

 そして一般人であった以上、芸能界の闇と呼ばれる噂話やゴシップは、漠然としたイメージでしかないのだろう。実のところ、そこまで荒唐無稽な物はないとは聞く。

 だが、実情を知らない以上、それに恐怖を抱くのは人間の性だ。致し方がない。

 それに、スターとなった芸能人は、余人が知ることになるが、落ちぶれた芸能人や夢破れた候補生はその後、どうなるか知ったものではない。よしんば生き残れても、おそらく一般人以下の稼ぎと生活になる。

 だからこその不安もあるだろう。

 彼女は賢く、聡明だ。そして、思わぬしたたかさも持ち合わせている。しかし、それを発揮できなければないのと同じだった。

 経験を積めば。そして、私がサポートすれば。

『大丈夫ですよ。新田さんには私がいます。一人前になれるまで、私は精一杯あなたを護って差し上げます』

 それが、プロデューサーとしての責任だ。それで彼女が大きくなれるならそれでいい。私が泥を被れば、彼女は綺麗なままでいられる。

 そうすれば、その言葉通り偶像となれる。偶像は、金を生み出す。生み出した金は私の手によって、また大きな金として戻ってくる。

「っ! はいっ、ありがとうございますっ!」

 私がそう思ってかけた言葉に、彼女は満面の笑みを返してくれる。なんとも、純粋なものだ。正直者は馬鹿を見る、と言うが、彼女もそういう人間の一人だろう。

 ならば、私だけが彼女に馬鹿を見させればいい。そうすれば、私が馬鹿を見ない限り、彼女も見ることはない。

 そんな、私らしくもない事を考える。少し情に流されつつあるのかもしれない。まあ、それはそれでいいのだ。

 肝心なところで情に流されさえしなければ、それでいい。張りっぱなしの弓の弦は、いつか切れるものだ。

『……はじめての仕事で疲れたでしょう。今日は、どこかで昼食をとりますか』

 好きなところに連れて行きましょう、と言って私はポケットにある車の鍵を探る。外産車特有の、ごつごつとした大きい鍵の感触が右手に伝わる。

「本当ですかっ? ありがとうございます、プロデューサーさんっ」

 ……なんとも、本当に純粋なものだ。悪い虫が寄り付かないようにしなければ。そう思って、苦笑をこぼす。

(一番の悪い虫は、私か)

 達観するほど人生を生きているわけではないから、これは単なる客観的事実の確認に過ぎない。よほど、ホストやヒモの方がマシだろう。

 生憎、私はそんな連中に比べて一段二段どころか、十段二十段ほど面の偏差値で劣る。これで性格が良いのなら話は別だが、そちらも壊滅的だ。

 結局、彼女にとって私が役に立つ、あるいは彼女を満足させられる要素など、片手で事足りるほどの数しかない。それが無性に、虚しく思えた。

「あのっ」

『どうか、しましたか?』

 彼女が、少し心配そうにこちらを見ている。何か気に障ることでもしたのだろうかと思索するが、思い当たる節はない。

 少しして、彼女は私の方を向いて、ニコリと笑う。その表情に少しどきりとさせられるが、平静を装って彼女を見返し、言葉を待つ。

「その、”新田さん”っていうの……、できればやめてほしいなぁって、思うのですけれども……。なんだか、よそよそしく感じちゃいます」

 私に掛けられたのは、そんな言葉だった。

(モチベーションの問題か……? なるほど、距離感を開けすぎたのかも知れない)

 思春期を超えているとはいえ、まだ十代の彼女にとって、このあたりのモチベーションを保つことは重要だ。そのために必要な事であれば、厭いはしない。

 ただ、この問題については、いわゆる業界の問題に抵触する部分だ。プロデューサーとアイドルが必要以上に親密になることは、許されることではない。故に、

『分かりました、では今度から美波さん、と呼びましょう』

 それが私に出来る譲歩だった。譲歩と呼ぶにも、少し仰々しい物だろうか。呼び方を変えるだけで、私の中での扱いが変わることはない。

 そんな、表情一つ変える事のない私に、少ししょんぼりとした様子の新田……美波さんは、それでも笑って、

「……はいっ、これからも、宜しくお願いしますっ、プロデューサーさんっ」

 と、とびきりの笑顔でそういうのだ。

(どういう了見だろうか)

 とは、彼女の心が読めない私の感想であり、残念なことにそれは今の私では、どうあがいても分からない物だった。

今回の更新は以上です。
次回の更新は金曜の夜半になるかと思います。
それではここまで読んで下さり、ありがとうございました。

更新に関するお知らせになります。
少し所用で更新が遅れております。ちなみにコミケではないのです。行きたかったのですが……。
今晩か最悪でも明日二は更新を行いますので、もうしばらくお待ちいただければ幸いです。

………………

…………


『はぁ……』

 一人になった部屋に、ため息が広がります。また、今日もダメでした。

『プロデューサーさん、全然笑ってくれないんですから』

 彼と私の間にはいくらかの距離があるように感じます。それは、確かにプロデューサーとアイドルですから、あって当然の物です。

 それでも、余りにも広すぎる。そう感じていました。例えるなら、同じ目的地へ共に向かっているはずなのに、何mも離れて歩いている。そんな感覚。

 いえ、離れているだけならばまだいいでしょう。時折姿さえ消えてしまっているような、導き手のいない荒野を歩いている、そんな漠然とした不安ともいえない何かさえ感じていました。

 ですから、極力私も距離を詰める努力はしているのですが……。上手くは、いっていないのが現状です。

(笑ったらきっと、優しい顔になると思うのですが)

 もう、出会ってから二週間ほど経ちます。その間、プロデューサーさんの笑った顔を見たことはありません。

 ひょうきんで、皆の中心となれるムードメーカーが、さっぱり表情を失えば、彼のような表情になるのでしょう。

 何事も涼しい顔をしてこなす、確かに頼りがいのある姿ではあります。しかし、冷静とか淡白とかではありません。何せ、表情が”無い”のですから。

 ただ――。

『……そう言えばやっと、名前で呼んでもらえたんでした』

 美波。パパがつけてくれた、私の名前。大好きな名前です。私だけの名前を呼んでくれることが、とても嬉しくて。同級生も、教授も、皆さんが呼んでくれる名前。

 ただ一人、今までプロデューサーさんだけが呼んではくれていなかったのですが……。

『……やっと呼んでもらえたのですから、まだまだ、仲良くなるチャンスはありますねっ』

 一人、部屋の中でそう呟きます。そうです、一緒に働くパートナーなのですから、仲が良いに越したことはありません。

 躍起になっているわけではありません。ただ、一度くらい笑いかけてほしい。私をアイドルにしてくれた人であり、そして。

『……護ってくれた人ですから』

 今でも忘れません。初めて出会ったあの日を。一人、プロダクションの場所を探してあ歩いていた、あの路地裏の暗さを。

 そして、私を庇って、前にでてくれたその後ろ姿を。

 きっと、プロデューサーさんのことですから、何か打算があったのかもしれません。それでも、護ってくれたのに違いはないのです。

 夢見る乙女という歳ではありません。だから、白馬の王子様なんて、少女マンガのような、ロマンチックなことは思いませんけれども。

『……そうだ』

 私は何かを思いついたようにふと、顔を上げます。仲良くなるためには、やっぱりもっとアクションを起こさなければなりません。

 それなら、思い立ったが吉日です。私は、机の上に置いた鞄からお財布を取出し、玄関へと向かいます。

「ただいま、美波。おや、どこかへ行くのかい?」

『あっ、パパッ! うん、ちょっとお買い物に行ってきます』

 そこで、ちょうど仕事から帰ってきたばかりのパパと出会いました。少し日本人離れした、薄い茶髪のブロンドヘアが、風に揺れて僅かになびいています。

「そうか、じゃあ気を付けて、な。ところで――」

 パパは少し言葉を区切ると、目を細めながら私に問いかけます。

「アイドル活動は、どうだね。楽しいか」

『はいっ、初めてのお仕事もうまく出来たし、とても楽しいよ。プロデューサーさんも、少し無愛想な方ですけど、誠実な人だし』

「ほう。何という方だね」

『えっと、Pさん、だったかな。いつもプロデューサーさんって呼んでるから、曖昧だけれど』

「Pさん、ね。良かったじゃないか、なかなか有能そうな人で。そうか……」

 パパは、何やら少し考え込むようなそぶりを見せていましたが、やがて息を吐き出すと、

「悔いの残らないようにしなさい、美波。それと、何かあればパパに言いなさい。知り合いに芸能業界の人がいてね。相談に乗ってもらえるだろう」

『はいっ、ありがとう、パパっ。じゃあ、行ってきますねっ』

「ああ、いってらっしゃい」

 そういって、パパは私を見送ってくれます。

 それにしても、パパがあんなふうに私のしていることを聞いてくれることは、あまりありませんから、少し驚きました。

 いつも私のやりたいことをやらせてくれるのですが、やはり芸能業界というのはパパにとっては心配の種になるのでしょう。

 そんなことを考えながら、私は近所のスーパーマーケットへと歩きはじめます。プロデューサーさんの喜ぶ顔が見られるかも、と思うと少しだけ、楽しみです。

………………

…………


 あの撮影から数日経った。

 反響は、大きいとは言えない。しかし、確実にレスポンスは存在した。

 今朝の話だ。私がいつもの時間に出社した時のことである。

 コーヒーミルが豆を挽く音が遠く聞こえる。そして、いつも通りのルーティーンワークであるメーリングソフトを立ち上げる。

 そこに表示されていた数字は、今まで見たことがない二けた数字だったのだ。

 もっとも、半数が迷惑……というには失礼だろうが、ファンメールから悪戯メールの方へ片足を出したような内容のメールだった。

 しかし、もう半分は確かに、あの新田さん……美波さんの写真を見て興味を持ってくれた出版社や、芸能関係の仕事のメールだった。

(悪くはない、いや、むしろ上々か)

 内心、そう呟いた。私にとっても、美波さんにとっても、良い兆候である。

 そんな折、珍しく事務所の電話が鳴る。取ってみると、聞き覚えのある声だった。

「あー、比興プロダクションですかな?」

『はい、そうです。……何用でしょうか、シンデレラガールズさん?』

「わっはは、電話越しでもわかるかね? だとすると、君に名前と顔を売ると言う私の第一目標は達せられているわけだ、重畳、重畳」

 受話器の向こうから聞こえる、豪放な笑い声に若干うんざりしつつ、

『それで、用件は何でしょうか』

 と返す。返すが、内容はわかりきっている。どうせ移籍の話だ。

「ああ、今から時間は大丈夫かね?」

『ええ、何か?』

 そう答えた瞬間、事務所の扉がノックされる。そして、私が振り向き、社長に対して”来客がありましたので、少々お待ちください”と告げる前に扉が開く。

「やあ、アポイントメントは取ったぞ、Pくん?」

 そうして、そんなしたり顔と言葉で入ってくる、シンデレラガールズの社長の姿がそこにはあったのだ。

『……無礼を承知で申し上げますが、常識知らずと叱られることはございませんか、社長?』

「わっはは、分かるかね? なるほど君は常識人らしい。だが、確かにアポイントメントは問ったのだ、君が以前言った要件は満たしていると思うのだがね」

『あんなものはアポイントメントとは言いません。私が不在であればどうするおつもりでしたのです』

「その時は素直に帰って、半日後にまた来るつもりだったよ」

『……はぁ。そこまで行きますと、もう感嘆の言葉しか出ません』

 私は少し疲れを感じつつも、息を吐いて社長を招き入れる。来てしまったものはしょうがないし、実際私も時間は有り余っている。断る理由もなかった。

「それでだ、新田さんの話なんだがね」

『お断り申し上げると、お伝えしたはずですが』

「なに、今日が三度目なのでね。三顧の礼の故事に従えばきっと、来てくれると思ったのだが」

『これも失礼は承知で申し上げますが、少々楽観が過ぎるのでは』

「なに、冗談だ。容易く折れてもらってはこちらも引き抜き甲斐がない」

 そんな、冗談とも本気とも取れない事を言うと、社長は手に持っていた雑誌を持ち出した。見覚えがある、というよりも本日発売の、美波さんのグラビアが載った雑誌だ。

 関東圏でしか発売されていない地方雑誌ではあるが、知名度がないわけではない。そんなレベルの中小雑誌である。もっとも、何を以て地方と呼ぶかは人によって異なるだろうが。

「グラビア、拝見させてもらった。素晴らしいじゃあないか、Pくん。おそらくではない、間違いなく彼女の良さを引き出せていると私は思う」

 社長はそう言って、少しだけ笑う。いつもの豪放な笑いではない。

「これは君が指示、もしくは意図したものかね?」

『ええ、そうですが。彼女にはそれが一番相応だと思いまして。無論、後々水着のグラビアなども予定していますが』

「なるほど、頭が回る。それに人を見る目もあるな」

『ご冗談を。私に見る目があれば、このプロダクションがここまで小さいことはないでしょう』

 私は微かに自嘲した。目の前にいる人物がどれほどの人を見る目を持っているかは知らないが、少なくとも私に対する評価はいささか、的外れであると言わざるを得ない。

「君は、堅実すぎるのだよ、Pくん。君自身自覚しているだろうがね」

 社長は、手に持っていた雑誌を傍において、僅かに身を乗り出し、私の方をじっと見てくる。視線が、鋭い。何故か目を逸らすことが出来なくなる。

「君は博打を打たないが、僅かではあるが必ず利益を出す。どんな状況下でも元手の1.1倍を、君は必ず稼ぎあげる。そう言う人間だ。しかし、それゆえに決して大きくなることができない」

 僅かに、体が震えそうになる。なんだ、これは。この威圧感は一体なんなのだ。これが器の大きさなのか。声さえ出すことが難しい。

 ああ、やはり私は弱者で、この人は強者なのだ。そう、痛感した。したところで、何かが変わるわけでもないのだが、ただ、視線だけは外さなかった。

 社長は小さく息をついてから、再び話し始める。

「このプロダクションの力が100あるとして、それを1.1倍したところで利益は10しか生まれない。その10は、日々のランニングコストで消えてしまう。だから、このプロダクションは大きくなれない」

 射抜くような視線が、僅かに緩やかになった。途端に、詰まりそうだった呼吸が楽になる。深く、息を吐いて、私は言葉をようやく紡ぐことが出来た。

『それで……何を仰りたいのですか、社長は。強者であることをひけらかし、私が弱者であることを自覚させたいと?』

「君は疑心もなかなか過ぎるね。自分が弱者であると自覚していることは良いことだが、とらわれ過ぎではないか。生き抜くことに必死すぎる」

『当たり前でしょう。私は自殺願望を持っているわけではありません。日々生き抜くことさえ危ういのに、それさえ捨てろと?』

「なかなか饒舌になってきたじゃあないか、Pくん。聞かせてくれたまえよ、君の心中を」

 その言葉を聞いて、はっとして私は口をつぐむ。そうだ、この人と話すとき私は常に饒舌だった。いつもの不言の精神を忘れている。

 なぜだ?

 自問するも答えはない。ただ、この人の前ではなぜか喋ってしまう。心を覗かれている気がするからか。そんな気がするだけで、実際覗くことなどできない。

 それでも、その感覚を拭うことはできなかった。

『……少し、喋りすぎてしまいました、忘れてください』

「君ならそう言うと思っていた。ひねくれもで頭が固い故に、先が読みやすいことこの上ないが、まあ、それが君のいい所かもしれんな」

 社長は僅かに口角を吊り上げる。そうして、彼は言った。

「しかし、君の特性を活かせる方法はある、Pくん」

『活かす……?』

「さっき、君はわずかながらでも利益を上げると、私は例えた。元での1.1倍を稼ぎあげると。そして、このプロダクションでは圧倒的に、稼ぎあげる事の出来る利益が少ないことも」

 ああ、もちろん知っているとも。それでも、なんとかここまでやってくることが出来た。ひとえに、私の、弱者の智慧である。それだけは、自負できる。

 そして、それ以外何も、持ち合わせていないことも知っている。どうしようもなく、私は無力で、卑小なのだ。

 僅かに、臍を噛む。表情には出さない。心の根底で感じていたのは、底のない恐怖だった。

 この人の目で射抜かれると、これまで殺してきた素の自分――存在するかもわからない、そんな物が甦ってきそうで。

 そして、そんなものが甦ると、これまっでの自分の全てを、自分で否定してしまいそうで。そんな、不定形の恐怖に苛まれるのだ。

 にもかかわらず、私の心中を知ってか知らずか、目の前のこの中年男性は私に言葉を投げかけ続ける。

「100では、10しか利益を生み出せないのだ、Pくん」

 彼は一呼吸おいて、そしてまた少し笑った。やはり、豪放な笑みではない。

「ならば、この理論に従えば、1000の元手があれば、君は100の利益を生み出せる。違うかね」

 言われた意味が分からなかった。その元手がないから、この現状だと言うことを彼は理解しているのだろうか。

 ただでさえこんな”やくざ”な仕事だ。実績もない芸能事務所に、銀行は出資なんてしてくれない。信用調査なんかされた暁には、めでたく申請不受理の書類が突き返される。

 かといって、個人で出資してくれる人なんていない。……いや、一人だけいるにはいる。だが――。

「なにを言っているのか、という表情だね。まあ、無理もない。君はなかなか頭が固そうだからな。……以前の、移籍の話を覚えているかね」

 社長は、僅かに目を細める。

 以前の移籍の話、というのに、初めはピンと来るものがなかった。以前も何も、現在進行形で美波さんの移籍の説得を受けているからだ。

 だが、ふと脳裏をよぎった記憶がある。取るに足らない、冗談の記憶だ。

 “それもいいな。君ごと、新田さんだったか。彼女を手に入れるのも悪くない”。

 まさか、という思いが心中を満たす。そして、少しだけ社長の方を見た。

「純然な気持ちで、今度は冗談でない事を先に言っておこう。誰かのおまけでもなんでもなく、どちらが主でどちらが従でもなく。――私のプロダクションに、来ないか、Pくん」

 心臓が跳ねた。馬鹿らしい話に聞こえるかもしれない。それでも、何か直感のようなもの、私には無縁だったはずのそんな感覚で、理解をする。

(彼は本気だ。美波さんを手に入れるためでも、数合わせでも、気まぐれでもなく、私を勧誘している)

 その事実は、俗人である私にとっては、衝撃的だった。

 私は、私自身が無能であるとは言わないし、思ってもいない。

 しかし、新興とは言え仮にも規模だけで言えば一流企業である、シンデレラガールズという芸能プロダクションから、誘いが来るほどの能力などあるとは思っていなかった。

 それだけではない。私はこの社長の、何か輝きに似た理想、内面、人格。それらに魅せられかかっている。それを、自覚しつつある。

 まるで戦国時代の武将が、永遠の忠誠を誓うべき主君と出会ったような、そんな感覚。表も裏もある、卑怯者たる私には、到底似合わないものだ。

(私など、手を変え、品を変え、陣営を変え、主を変え、節操なく鼠のように生きるのが似合いだと言うのに)

 思わず内心で自虐してしまうほどの、衝撃だった。

『……なぜ、私なのです』

 私は、そう尋ねた。理由を知りたい。そう思った。

「君は、自分の性質を良く理解している。しかし、それをうまく使えていない様に思える。環境や君の境遇も関係しているだろう。だから、こうして誘っている。君がもっと力を発揮できる環境を、整えてやれると思うのでね」

 社長は、真面目にそう返してくれた。やがて、少しの間をおいて、彼は再び口を開く。

「今一度聞くぞ。どうかね、Pくん。うちに来る気はないか」

 行くべきだ。客観的にも、主観的にも。そして短期的にも、長期的にも。彼のもとに行けば、全てが上手くいく。そう思った。

 人生で初めての感覚だった。心が躍った。明るい未来を想像した。一流アイドルとなった、美波さんの隣に立つ自分が想像できた。

 なぜ美波さんの隣に立つ姿だったのか、それは分からない。どちらにしても、その時の私が、そのことについて何か疑問をさしはさむ思考力などなかっただろう。

 私らしくもなく、冷静ではなかった。全くもって、常の私ではなかった。だから、忘れていた。

「あぁ、困るなぁ、社長サンよぉ? うちの人間引っこ抜こうたぁ」

 背後で、声が聞こえた。気が付かなかった。それだけ、舞い上がっていたのだろう。馬鹿な事だ。

 私は、このプロダクションを離れる――いや、この人から逃げることはできない。そのことを思いだした。

 耳障りなだみ声が、フラッシュバックする。そしてその持ち主が、すぐそばにいる。

 なぜ、今、この時にこの人が来るのか。運の悪さ、間の悪さ。そんなことを考える事もなかった。

 一気に、心が冷えていくのを、私は感じた。いつもの、無表情の私に戻っていく。舞い上がった、高揚した心が冷徹な深海に沈んでいく。

 場の空気からも、熱が消えた。たった一人の男が消し去った。シンデレラガールズの社長が、私から視線を外し、その男を見ていた。

 オールバックの黒髪。黒スーツに派手なシャツ。右目の上に大きな傷を作った、人相の悪いその男。

 ――我が、比興プロダクションの、社長を。

今回の更新は以上です。かなり遅れまして申し訳ありません。
次回は定期更新となります。ですが22日は大きな所用があるため土日にずれ込むかもしれません。
それではここまで読んで下さりありがとうございました。

更新に関するお知らせです。
今回の更新は少し厳しいとの判断を致しましたので、週明けに更新させていただきます。
その後の定期更新は予定通り行う所存です。
更新が滞ってしまう事、平にご容赦ください。

大変ご報告が遅れまして申し訳ございません。
台風とその後の大雨とで自宅のPCが使用できませんでした。
明日更新を致します。お待たせした方がおられましたら謹んでお詫び申し上げます。
必ず完結まで持っていくので、今しばらくお付き合いいただければ、と思います。

□ ―― □ ―― □




 ひゅう、とビル風が吹きました。やはり一年で一番寒い時期と言う事もあって、厳しい風です。乾燥していますし、お肌にも悪そう。

(ちゃんと、ご飯食べてらっしゃるのでしょうか)

 そう思って、私は手に持つ小さな包みをしっかりと持ち直しました。ピンクの布袋に包まれた中に入っているのは、小さなお弁当箱。

 昨日、私がスーパーマーケットに買いに行ったものは、このお弁当箱の中に詰め込むためのものでした。

 あまり料理は得意ではないですが、これも何かの経験になりますし、それにいつも頑張ってくれているプロデューサーさんに何か恩返しをしたい、と思ってのことです。

 それで、仲良くなれたらうれしいですし、何より。

(あまり、ご飯を食べてらっしゃらないようですから)

 そう思いながら、私は事務所への道を歩みます。

 そもそも、思い返してみると、私と一緒に何度か外食に行った時以外、プロデューサーさんがご飯を食べているところを見たことがありません。

 もちろん、私がいない時に食べてらっしゃるのでしょうが……。それでも、少し心配になります。

 コンビニのお弁当とかを食べているならまだいいですが、栄養ゼリーだとか、固形のインスタントブレッドだとか、そう言う物で済ませているなら由々しき事態です。

(おいしい……と言えば、おいしいのかもしれないんですけれど)

 何度か食べたことがありますが、おやつとしてなら大丈夫に思えても、到底主食とは思えないのです。

 あんなもの、と言っては作っている会社に失礼でしょうけれども。でも、社会人だからこそしっかりとご飯を食べないといけない、と思うのです。

 パパも、家に帰ってきてしっかりご飯を食べないといけない、と言っていましたし。

 それにプロデューサーさんは激務です。あまり頑丈な体ではないみたいですし、しっかりと栄養を取ってもらわないと。

(……って、なんだかお友達みたいになっちゃってますね)

 そんな、自分で苦笑を零します。

 恩人で、プロデューサーで、パパ以外に初めて仲良くなった男の人。

 ……なんだか、恥ずかしい気がするのは、気のせいでしょうか。

(ううん、そんなこと考えてないで、早くいかないと)

 今日もまた、お仕事のお話があるそうです。また、写真撮影とは思いますけれど、でも、これもアイドルになるためです。

 きっかけは、もしかしなくても不純な物でした。まっとうにアイドルを目指す人にしてみれば怒られてもしょうがない物です。

 でも、今は本気でアイドルになりたいと思っています。それは、いつしか街角でであったあの少女たちのおかげです。

 やりたいことが漫然としてなかったあの時の私に、興味を抱かせてくれたあの少女たち。いつか、同じステージに立てればいいな、と思います。

 まだ、アイドルがどういう物か、はっきりとは見えません。でも、私には心強い先導者がいます。

 彼について行けば、きっと――。

『……あれ?』

 事務所の前にやってきて、目に入ってきたもの。それに私は気付きます。

 プロデューサーが普段乗っていらっしゃる、プロダクションの社用車。それとそっくり――いえ、色違いと言って差し支えのない車。

 純白のキャデラックではなく、黒塗りにスモークの張られた窓ガラスに、何かおどろおどろしい物を感じました。

(だれか、来ているのでしょうか)

 そう思いながら、私は階段をゆっくり、ゆっくりと上がります。そうして、事務所の扉の前まで来ました。

 事務所の中からは、話し声が聞こえました。二人……いえ、三人でしょうか。

 いつも通り、元気よく、挨拶をしようとドアノブを握った瞬間。何か、何か嫌な予感がしました。この扉を開けてしまうと、何かが終わってしまう様な、そんな気が。

 だから、開ける事が出来ませんでした。ただ、ドアノブを握って、そして聞こえてくる声に耳を傾ける事しか。

………………

…………


『……おはようございます、社長』

 私は努めて、いつも通り冷静な声を出しながら目の前の悪人面に対して挨拶をする。それに対して社長――シンデレラガールズの社長は、少し目を細めながらそれでも、朗々と、

「おや、これは初めまして、ですな。あなたが比興プロダクションの社長さんですかな? ご挨拶が遅れまして、すみませんな」

 と右手を出して僅かに頭を下げる。だが、私の社長はと言えば、そんな握手の求めに目もくれず、

「Pよぉ。今月分の納金がまだだったからなァ。取りに来たぜ」

 と、奥にある金庫の方へと向かう。そして、ダイヤル式のそのカギをちき、ちきと回す。そして数秒もしないうちに、ガコンと扉が開く音がした。

「けっ、相変らずシケた金しか入ってやがらねえなぁ、おいぃ? こいつは貰っていくぜェ」

 そういうと、私の社長は金庫に入っていた束の内、いくつかを懐へと押し込め、金庫の扉を足で蹴って閉める。

 私は何かを言うわけでもなく、ただ目を閉じて、じっとしていた。

 だが――。

「おい、君、一体何のつもりだね。社長とは言え、会社の金を勝手に持っていく事なんてあっていいわけがあるまい」

 なんとまあ、目を開けて前を見ると、シンデレラガールズの社長が、私の社長に食って掛かっているではないか。

 しかも若干、怒気をはらんでいる。こう、何というか、体から何か熱でも発しているのではないか、と思うほどのものだ。

 それに対してうちの社長は面倒臭そうに頬を掻き、耳の穴に小指を突っ込んでほじっている。やがて、小指を引っこ抜くと、その先に着いていた耳垢をふっと吹いて、

「なにも知らねえおっさんが、首を突っ込んでんじゃねえよ。これはこいつと俺の問題だァ。トーシロは黙ってろ」

「目の前で不法が働かれていると言うのに見逃せとは、仮にも社長としてそれは出来ん相談だな。だいたい――」

『シンデレラガールズさん、これは契約によるものですから、問題はありません。ですので、お言葉ですがこれ以上の介入はお止めいただきたい』

「しかしな、Pくん」

『社長』

 私は静かに社長を見据えた。しばらくそう睨み合っていた私とシンデレラガールズの社長だったが、諦めたように息をつき、

「まあ、君がそういうのなら、もう止めはしない」

 少し疲れた様な表情でそう言った。

「用事は終わりだァ、P。”本来の役目”果たせねえてめえに、金を供出す役目以上の価値はねえからなあ」

 社長は、荒々しく扉を開ける。どうやら帰ってくれるらしい。ありがたいことだ。そう思った矢先だった。

 俄かに、私の心臓が跳ねる。

「あ、あの……」

「あァん?」

 扉の向こう側にいた人の姿。少しおびえた、その顔。手にピンクの小包を持った、その女性の姿を。

「なんだァ、女ァ。こんなところに何しに来たぁ?」

『美波さんッ! その方はこのプロダクションの社長です、休憩室に下がっていなさい!』

 とっさに、声が出ていた。自分でも、出したことがないほど、大きな声だ。その声にびっくりしたのか、美波さんは大きく体を震わせ、

「すっ、すみませんプロデューサーさんっ!」

 と慌てて休憩室の方へと走り去っていく。私は静かに、再びソファへと腰を落とした。

『……今日は、お二人ともお帰り下さい』

「おう、言われなくともそうするさ。それよりも……」

 扉から離れ、こちらへと戻ってくる社長の姿を、私は見上げる。一体、何用だろうか。すでに話は終わったはずだ。

 私の前へと立った社長は、少し歪な笑みを浮かべる。

「さっきの女ァ、良い女だな」

『……ッ!』

「くはは、冗談だ、何も言ってねえよ。ははは」

 私が、思わず睨みつけると同時に社長はそう言って、また嗤う。

 馬鹿にされている自覚はあった。しかし、それに抵抗することはできない。私は弱者だから。

 そんな自分が、今無性に情けなく感じる。感じたところで、強者にはなれない。

「また来るぜぇ、P」

 そう言いながら、社長は去って行った。残されたのは私とシンデレラガールズの社長だけだ。

 そのシンデレラガールズの社長も、僅かに私の方を見ると、

「なにが君と社長との間にあるのかは知らんが、少し冷静になって物事を見てみる事だよ、Pくん。過ぎたるは及ばざるがごとしと言うが、冷静すぎるほど冷静な君らしくない」

 少しため息をつき、私の肩を軽く叩く。少しだけ、叩かれた部分が温かく感じたが――それもすぐに冷えていく。

『そうさせていただきます、社長。とりあえず、本日はお帰り頂けますか。移籍の話も、なかったことに』

 私はそう伝えた。

 つい十数分前まで、現実的に存在した移籍の話は、これで消滅する事だろう。少なくとも、私に関することはもうないはずだ。

(美波さんには関係ない事だから、彼女の移籍話は続くのだろうな)

 それがなんとなく惨め……正確にはもっと違う感情なのだが、その感情が何か分からず、あまつさえ仕方ないと受け入れている自分がいた。

 卑怯者らしい、似合いの終わり方だ。そう思った。

 もちろん、私の目的が潰えたわけではない。潰えたわけではないが――。

「うむ、Pくんも少し頭を冷やしなさい。新田さんに大声を上げていただろう? 彼女、怖がっていたじゃあないか」

『……お恥ずかしい所をお見せして、大変申し訳ない思いです』

「申し訳なく思うのは私にではなく、新田さんにだろう、Pくん。ま、君は聡明だからその辺り分かっている事だろうが」

 社長は軽く咳払いをすると、やがて立ち上がり、ドアの方へと向かう。

 と、何か思い出したように彼は振り返り、

「ああ、Pくん」

 と私を呼んだ。

『はい、何でしょうか社長』

「君、アイドルは好きかね?」

『……どういう、意味でしょうか』

「なに、簡単な話だよ」

 少しだけ、厳しい顔をしながら社長は私を見る。少し怒っている……は少し語弊があるが、あまり友好的に分類される表情ではない。

「何か仕事をするには、やはり何がしかの理由がある。まあ、当然なのだがね。生きるためというのもそうだろうし、金を稼ぐのも理由だ。それらは決して欠かすことのできない理由だろう」

 少しだけ息をつくと、社長は続けた。

「だがね、この業界の素人の私でさえわかるが、やはりこの仕事はこの仕事に対する熱意が不可欠に思える。ありていに言えば、アイドルが好きでないと、続かんよ」

 故に、君は好きかと訊いた。社長はそう言った。私は考える。いや、考えるまでもない。

『……好きとは到底言えないでしょう』

 どの口が言える、という想いもある。私はこの仕事を、社長から押し付けられた。しかも、とても口には出せない、不純な目的で、だ。

(……きっと、軽蔑される事だろう)

 されない方がおかしい、と私は思う。現に、私はあの社長を軽蔑している。芸能プロダクションというのは、こういう使い方をする物ではない、と。

 それに関しても、私が言えることではない。その”本来の役目”と同じか、それ以上に卑怯な使い道――私の”目的”を果たすために、使用している。

「では、君は何の為にこのプロダクションを動かしているのだね」

 社長は、私に尋ねる。詰問というわけではない。ただ、純粋に訊いているだけなのだ。

 それでもなお、この人の問いかけは、心の中身を覗いてくる。どれだけ表情を殺そうとも――きっとこの人には、覗かれてしまうのだろう。

 それが、この人と話すと口数が多くなってしまう理由なのかもしれない。

『社長は仰いましたね。仕事をするのには理由があるのだと』

「うむ、確かに言った」

『その理由の中でも、最も単純な理由です』

「金を稼ぐため、か。何のために、かね?」

 じっと、彼の瞳が私を覗き込んでくる。私はため息をついて、半ば諦めながら言った。

『……借金を、返すためです。私は、あの社長に借金があるのですよ。結構な額の』

 僅かに、目を閉じる。ああ、軽蔑されるだろう、と思った。

 罵倒される事には慣れている。舐められることにも慣れている。そして、軽蔑される事にも。

 それらの全てが、私の行いに起因する事なのだとすれば、それは受け入れるべき事だ。もちろん、これまで受け入れてきたし、後悔など一片もない。

 だから、これも致し方のない事だ。私は、私が背負う借金の為に、若いアイドルやタレントの身を切り売りしている。

 金の為に、人の身を売っている。まるで奴隷商人ではないだろうか。

 もちろん、彼らが潰れない様、そして彼らが活躍できるよう最善を尽くしている。だが、それらは全て、自分に返ってくることを前提としての思いやり。

 結局、彼らを通して自分のことしか考えていない。アイドルが好きで、この仕事をしているわけではない。

 それは間違いなく、この目の前の人物が思い描く理想とは遠くかけ離れていた。

「なるほど、さっき君の社長が持って行ったのは、その支払いの一部、利息か何かという訳か」

 シンデレラガールズの社長の声が聞こえた。感情は、読み取れない。よほど私よりもポーカーフェイスが上手いのではないだろうか。

 そう思って、しかし顔は見ていないから、ポーカーフェイスという表現は誤りだろう、と埒もないことで自嘲をする。

「まあ、その点はあまりとやかくは言うまい。私が口を出すのも、筋が通らない事だろうしな」

 社長が動く気配を感じた。ゆっくりと目を開く。社長の背中が見えた。顔は、見えない。

 その背中から、何か読み取れはしないか、と思ったが、何も読み取ることはできない。もっとも、こんな精神状況でどれほどのことが出来るか、というのは怪しい。

 そしてたぶん、平時でも大したことは読み取れないのだろう。きっとこの人はそう言う人だ。

「今日は世話になったね、Pくん。ではな」

 がちゃり、と扉が開く。そのまま、かつり、かつりと革靴の音を響かせ、社長は事務所の外へと出て行った。僅かに、遠ざかる音が聞こえる。

 ばたん、という扉の閉まる音が、事務所に響いた。残された私は、一人、ゆっくりとまたソファへと座り込むだけだった。

今回の更新は以上となります。前回更新より大変遅れまして申し訳ございません。
今後はこのようなことがない事を願いつつ、投稿を続けさせていただきます。
遅れた分を取り返したいと思いますので、しばらくは投稿速度を速め、次回更新は水曜日を予定しております。
それではここまで読んで下さりありがとうございました。

………………

…………


『……怒られ、ちゃったなあ』

 休憩室のソファで、静かに呟きました。そして思い返します。

『……少し、怖かったなあ』

 プロデューサーさんの怒った顔なんて、初めて見ました。同時に、私に対してはっきりと感情を見せてくれたことに、嬉しくもあり、そして少し寂しくもあります。

 なにせ、初めて見せてくれたはっきりとした感情が、怒りというものですから、私でなくても少し寂しくなるのではないでしょうか。

 怒られたことに対して、何か心当たりがあるわけではありませんが……。

(なんだか、少し引っかかるんですよね……)

 確かにプロデューサーさんは怒っていたと言っても過言ではないでしょう。いえ、怒ると言うよりもただ、烈しかっただけかもしれません。

 何か焦っていて、どこか悲壮感のある声が、混ざっていたように思えます。

 もっとも、真意はプロデューサーさんの中にしかないものですから、きっと、永遠に闇の中なのでしょうけれども。

 それにしたって、プロデューサーさんと、あと以前お見かけした男の方と、一緒に話していらっしゃったのがこのプロダクションの社長さんというのは、少し驚きました。

 どちらかと言えば、初めてプロデューサーさんと出会った時に捉った、男の方々と同じ匂いのする人です。

 プロデューサーさんに怒られたことよりも何よりも、あの人の方が――。

『怖かった、ですね』

 少し、体を震わせます。一瞬だけ見たお顔は、なんだか、その。いわゆる任侠映画とかマフィア映画に出てきそうな人で。

 そう思うと、少しだけ、ほんの少しだけ、プロデューサーさんの事も。

(……っ! ううん、そんなことはないはず。プロデューサーさんは、悪い人じゃない)

 まるで、言い聞かせるように、心の中でつぶやきます。

 もちろん、プロデューサーさんが、底抜けのお人よしだとは思っていません。もしかすると、いえ、むしろ抜け目のないとても理知的で、合理的な方のはずです。

 それでも、いえ、だからこそ、怖い人じゃない。冷たくても、厳しくても、怖くても、きっと私のことは考えてくれていなくても――。

 僅かばかり息をついて、ゆっくりと立ち上がります。手元にあるピンクの布包みは……自分で食べる事になりそうです。

 そう思っていたら、休憩室の扉がゆっくりと開く音がしました。そちらを見てみると、リュックサックを背負った、このプロダクションに所属する男性タレントさんでした。

『おはようございます』

「ああ、おはよう、新田ちゃん。どう、初めての仕事は終わったんだろう?」

『あ、はい。おかげさまで、えと』

「はは、気なんて遣わなくていいよ、ここってそういう、先輩がどうのこうのってないからさ」

 男性タレントさんはそう言うと、私の向かいのソファに座り、おもむろにポケットから煙草を取り出そうとして……気づいたように仕舞い直します。

 それを見て、もしかして私に気遣ったのかなと思い、

『あ、あの、遠慮されてるんでしたら、その、大丈夫ですよ、煙草』

 というと、

「え、煙草吸うんだ?」

 と意外そうに言われました。慌てて、

『い、いえ。煙草は嫌いですけれど、煙さえこちらに来なければ大丈夫ですから』

 と付け加えます。

「あはは、大丈夫だって、本気でそう思ってるわけじゃないからさ。新田ちゃんは真面目だね」

 と言われて、初めてからかわれたことに気づきます。

「ごめんごめん、そう怒らないでって」

 私が何か言う前に、私の顔を見て察したのか、タレントさんはそう謝り、少しだけおかしそうにしながら、

「しかし、Pさんもなかなかすごい子連れてきたよねえ。あの人、人を見る目ないのに、こんな可愛くて気立てのいい子、良く見つけたもんだよ」

 と笑って言いました。いきなり可愛いと言われて、ちょっと突然のことで、一瞬頭が真っ白になっている私を尻目にタレントさんは続けます。

「僕みたいなうだつの上がらない、劇団くずれの三流を捕まえてさ、『一流は無理でも、私なら二流までなら持っていけます』だなんて言ってさ。それで、本当に二流ぐらいまではしてもらって」

 少し、嬉しそうな表情を見せつつ、やがて私の方を見ます。どこか、気遣う様な表情です。

「新田ちゃん、あの人はね、見る目もないし、気立てもよくないし、愛想も悪いし、おまけにちょっと顔も悪いけどさ。悪い人じゃないんだ。ちょっと、表も裏もありすぎるだけでね」

『表も裏も、ですか』

「……外の黒塗りのキャディ、見たかな、新田ちゃんも」

 それがあの人の、裏を作ってる。そう言われて、このプロダクションの社長に、何か理由があって頭が上がらないのだ、と知ります。

「僕らでは何もできない、というのは少し歯がゆいけれどね。それに、新田ちゃん、少し思いつめたような顔してたから」

『……ちょっとだけ、ほんのちょっとだけですよ? 考え事してただけ、です』

「それならいいんだ。君は優しそうだし、きっと頭もいいから、いろいろ思う所はあるんだろうけれどね」

 少し言葉を区切ると、タレントさんは続けました。

「新田ちゃんも、Pさんのお友達とまでは言わなくても、せめて味方でいてあげてほしい。あの人鈍感だから、自分が孤独と思ってるけど、そんなことはないんだって、教えてあげてほしい」

『私が……ですか?』

「うん、Pさん相当君に入れ込んでるとおもうよ。僕だけじゃなくて、所属タレント全員に新田ちゃんの前で煙草を吸うなって通達出てるぐらいだからね」

 そう言われて、さっきのタレントさんの素振りを思い出します。つまり、私がいるところで煙草を吸うなと、Pさんが言っていたから吸うのを控えたという事。

 例えその心遣いが純粋な気持ちから来るものでなくても……嬉しい物でした。

「はは、なんて、僕らしくない事を言ったかな……」

 そういうと、タレントさんはゆっくりと立ち上がりました。


「それじゃあ、新田ちゃん。これからもがんばってね。僕は、もうこの世界から身を引くけれども、君ならできるよ」

『……え?』

 今、一瞬聞こえたことに耳を疑います。身を引く。つまりそれは、引退を意味する言葉。

『あのっ』

 そう声を出そうとした瞬間でした。再び、休憩室の扉が開く音がしました。入ってきたのは……プロデューサーさん。

「……ああ、やはりここにいましたか」

「はい、今までお世話になりました、Pさん」

「こちらこそ、何の役にも立てず申し訳ない。あなたぐらいの実力なら、もう少し大きな仕事もできたはずですが」

「いえ、どちらにせよ、遠からず家業は継ごうと思っていましたし、本当に最後に夢を追わせていただきました」

「……そうですか」

 二人の会話が、耳に入ってきます。それに、言葉をさしはさむことはできませんでした。

 すでに、決まっているのです。タレントさんが決めたことに、異を唱える権利もなく、唱えて責任を負うこともできないのですから。

「せめて、大舞台には立たせてあげたかったですね、あなたを」

「はは、いつものPさんらしくないですね」

「こういうときぐらい……いえ、これから少し正直になってみようと思いまして。だから、正直な気持ちです」

 少し、タレントさんの肩が震えます。やがて、僅かに天を仰いだタレントさんは言いました。

「ありがとうございました、Pさん」

「こちらこそ、今までありがとう、お疲れ様でした」

 プロデューサーさんが、静かに頭を下げます。タレントさんも、頭を下げました。床に、一滴、水が落ちたように見えました。

 ……そうして、タレントさんは休憩室から出て行きました。きっと、もう二度と会えることはないと、分かりました。

 彼の言っていたことを、少し思い出します。思い出して、Pさんの方を見ました。まだ、タレントさんが出て行った方に頭を下げています。

 やっぱり、悪い人のはずがない。そう思いました。間違っているかも知れません。まだまだ、社会経験の少ない子供の私ですから。

 でも……私は信じたいと思います。だって、本当に悪い人なら。

(あんなふうに、悔しそうに拳を握りしめないはずですから)

 そっと、プロデューサーさんの手を見ます。腿の横まで、真っ直ぐ伸ばされた腕の先。固く握りしめられた拳は、僅かに白くなっていました。

 こんな風に、悔しがる人が悪い人なはずがないと、私の勘が告げていました。

「……すみません、美波さん。続けて、あまり楽しくない所をお見せして」

『い、いえっ』

「それに先ほども、思わず怒鳴ってしまいました。申し訳ありません」

 やがて顔を上げたプロデューサーさんは、私にそう謝罪をします。あわてて、取り消そうとしますが、ふと、一つ思いついたことがありました。

『……その、許してもいいですけれども、一つお願いがあるんですが』

「何でしょう……?」

『その、一緒にご飯、食べませんか?』

「ご飯、ですか」

 少し意外そうな表情で、こちらを見ているプロデューサーさんは、やはり気づいていたようで、

「しかし、美波さんはお弁当を持ってきてるのでは」

 と返しました。

『えっと、これは……』

 少し、鼓動が早くなります。思えば、パパ以外の男の人にお弁当はおろか、プレゼントをする経験だって初めてです。

 それを思うと、さっきまでそんなことはなかったのに、一瞬で緊張してしまって。きっと、顔も真っ赤になっているんだと思いながらも、

『その……プロデューサーさんに、た、食べてもらおうと思って』

 と声を絞り出しました。

 プロデューサーさんは、固まっています。何を言われたのか、理解しかねているようでした。

『その、いつもご飯を食べているところを見ないですから、しっかりご飯を食べてほしいと思って、それで、えと、つ、作ってきました……はい』

 途中で、何度か突っかかりながらも、そう言って、布袋の中身を出します。ピンクの、ネコの形をしたお弁当箱。二段重ねになっていて、上がプロデューサーさんの分、下が私の分。

 しばらく、休憩室に静寂が訪れます。

(ああ、余計な事だったかも……)

 そう思い始めたときでした。

「……は、はは。はははは」

 プロデューサーさんが、笑っていました。少し力はありませんでしたが、それでも、何というか、とても自然な笑顔で。

(ああ、やっぱり)

 とても、優しそうな笑顔。こんな顔のプロデューサーさんは、初めて見ました。……とても温かい笑顔で、人々の中心になれる、ムードメーカーと言っていい笑み。

 思わず、呆気にとられていた私でしたが、プロデューサーさんの声で我に返ります。

「美波さん、少しぐらい人を疑った方がいいですよ。特に、あんなことのすぐ後なのですから。純粋すぎるのも、考え物です」

 あんな事とはきっと、さっき怒られたことなのでしょう。そのぐらいで、私のプロデューサーさんへの信頼は揺らぎません。

 あっ……さっき、少し揺らいでいたのは、秘密です。

「そうですね、一緒に食べましょうか、美波さん。確かに、最近あまり食事を摂っていない気がします」

『ほ、本当ですか?』

「ええ、本当ですとも。どうせなら、少しお話でもしながら食べましょうか」

 プロデューサーさんは私の向かいのソファに座ります。さっきまで、タレントさんが座っていたところ。

『それじゃあ、あの。さっきのあの、タレントさんのお話聞きたいです』

「彼の話ですか? 良いですよ。彼とは、そうですね、一年と半年くらい前ですか――」

 そんな、お昼休み、休憩室のこと。

 会話と、少し塩辛いお弁当と、ちょっとの笑顔がありました。

今回の更新は以上です。
次回の更新は金曜-土曜の夜半を予定しております。
予定では、多くても後十回ほどの更新で完結する予定です。
それではここまで読んで下さり、ありがとうございました。

□ ―― □ ―― □



 冬にしては、それなりに暖かい日だった。春の訪れも近いと言うのだろうか。それでも、いまだにコートとマフラーは手放せない。

 気が付けば、三月が目前に迫っていた。

 あれから三週間ほど、美波さんは仕事をこなしていた。シンデレラガールズに売った二人の移籍金を使って、根回しをした。お蔭で、それなりに大きな仕事を手に入れる事も出来た。

 根回しと言っても、収賄贈賄と言った犯罪行為ではない。無論、伝手を作ったり口添えをしてもらうための付き合いや接待を、それに含めれば含まれてしまうが……。

 とはいえ、根回し、工作、全部上手くいって、現状は満足はしていた。それが人間としてどうか、という話は別として。

 美波さんの仕事ぶりは、一層磨きがかかり、こんな弱小プロダクションにはもったいないほどの評価を得ている。

 それに伴って、移籍の話もいくつか舞い込んでくる。シンデレラガールズ以外の中堅どころや、やや落ち目の大規模プロダクションまで、青田買いに動き始めたと言うわけである。

 だが――当然、全て断ってある。理由は単純だ。

(……これは、本当に一流になれるかもしれない)

 到底、私のような凡俗に、彼女を手放す事などできなくなっていたのである。金のなる木……という意識はあったが、純粋にそれだけではない。

 自分の目に自信はない。ないからこそ、姑息で卑怯と言われようとも、灰色の手段を使って彼女に仕事を持ってきた。

 だが、そんなことをせずとも、遠からずこの程度の状況には持って行けたのではないか。今ではそう思っている。

 彼女の秘めたる実力、それに少し、惹かれている。この私がだ。馬鹿げていると思う。

(……釣り合うことはできない。だが、彼女が私から離れるまで、掴んでいたいと思うのは、やはり私が俗人だからか)

 内心苦笑しつつも、業界人が良く利用すると噂の情報交換所から、便所の落書きと揶揄されるような、信憑性の欠片もない匿名掲示板まで、目を通す。

 この業界は、情報が命だ。というより、現代社会において情報は何にも代えがたい。その上、情報の網がより細かで、より複雑に絡み合っている。それがこの業界だった。

 そして、その情報網に今や、程度は小さくても美波さんの名前が乗り始めている。一度この情報網に乗れば、あとは勝手に、業界全体に名前が知れ渡る。

 もちろん、永劫に知れ渡るわけではない。雷が一瞬光るように、花火が一瞬輝くように、次がなければすぐに名前は消えてしまう。

 消える前に、また名前を流せば、誰かの眼に留まる。眼に留まれば、美波さんの名前が流れ出る情報源が増える。

 それが繰り返されることで――やがて、彼女の名前が絶え間なく、情報網に残り続ける。

 そこまで持っていく事が、私の仕事だった。

『美波さん、大丈夫ですか?』

「はっ、はっ……。ぜはっ、は、はい、大丈夫ですっ」

 彼女は今日もレッスンだ。ダンスのレッスンらしいが、何やらヨガをやったり、ウェイトトレーニングをやったり、はたまたなんとかブートキャンプなんていう、何年前に流行ったのか分からない産物を繰り返してやっている。

「彼女の才能は、私ではもう伸ばせません。ですから、今は体力をつけてもらおうと思って」

 トレーナーは苦笑する。腕のいいトレーナーを探し出したはずだが、そんな人でももう、いっぱいいっぱいになる。

 嬉しい悲鳴、というのはこういうことを言うのだろう。

「それにしても、Pさん」

『はい、どうかしましたか?』

「初めてお会いした時に比べ、少し穏やかになられましたか?」

 美波さんがサーキットトレーニングを始めたとき、トレーナーが私にそう言った。

『穏やか、ですか』

「あ、ご気分を害されたなら謝りますが。ただ、何でしょう、新田さんを見る目が、少し違うな、と」

 彼女は少し、苦笑しながら言う。自分ではそんなつもりはないのだが、他人に指摘されて振り返ってみる。

 ……やはり、心当たりはない。

『そうでしょうか、あまりそうとは思えませんが』

「まあ、私の気のせいならいいのですよ。それでも、初めてお会いした時はまるで、物を見るように新田さんをご覧になっていましたから」

 そう言われて、僅かに内心、ドキリとした。顔には出さず、”これは手厳しい”と少し冗談をかましたつもりだったが、上手く行ったかはてんで不明である。

 確かに、私は彼女のことを、私の借金を返すための道具として見ていた。今も、五割……いや、四割がたそれは正しい。

 だが残りの半分強は、それ以外の意志が働き始めている。馬鹿馬鹿しいと自分を蔑みながらも、消すことはできないでいた。

 もはや、彼女は強者になりつつある。はじめは、それを利用する気しかなかった。

 だが、少しずつ、少しずつ、彼女に対する熱意と、羨望と、そして応援の気持ち――彼女をアイドルにしてやりたい。そんな、育てると言う気持ちが私にも生まれていた。

 愚かな、事だ。いまさら、正道には戻れないと言うのに。

「はい、今日のレッスンはこれで終了です。よく頑張りましたね、新田さん」

「はっ、はっ……。はいっ、ありがとうございますっ」

 息を切らしながらも、笑顔が途切れない。なぜそんなに笑えるのだ、という素直な疑問と、それでいいという肯定の気持ちがないまぜになっている私をよそに、彼女はトレーナーにお辞儀をする。

「ありがとうございましたっ」

 元気のいい声だ。普段見せる、おしとやかさが少し引っ込み、あふれ出る様な生気を放っている。そのまま、私の方に少し笑顔を見せると、

「着替えてきますねっ、プロデューサーさん」

 と言って、レッスン室から出て行った。屋内で暖房もかかっているのに、コートを羽織ったままの私を見て、急いでいると勘違いしたのかもしれない。

「Pさん、新田さんのことですが」

『はい、何でしょう』

 彼女が出て行ってすぐ、トレーナーが話しかけてくる。彼女もまた、僅かに頬を上気させていた。指導にも熱が入っている証拠だ。いい人を見つけたと、本当に思う。

「私では、これ以上彼女を伸ばすことが出来ません。ですので、別のトレーナーに紹介したいと思うのですが」

『別のトレーナーですか』

「はい、腕は確かです。何せ、私の姉ですから」

 トレーナーはニコリと笑う。厳しい人ではあるが、生徒に対する熱意も本物であることが証明された瞬間と言えるだろう。

 ……彼女と話しながら、冷静に事を考えている私の熱意など、彼女に比べたらマッチの火ほどもないのは、まさに"火を見るより明らか"である。

『それはありがたいです。しかし、お支払できる謝礼は、あなたにお支払している物よりそう多くは出せないのです』

 本当は、彼女であればいくらでもつぎ込んでやりたいところだった。しかし、私の性であり、そして習性なのだろう。どうしても、こういう細かい金の勘定に、まずはけちをつけてしまう。

 取り消そうと思っても、すでに吐いてしまった言葉だ。口は災いの角とはよく言ったものだ。こういうたびに、やはり沈黙は金だと痛感する。

「いえ、私の実力が足りなくて、このような提案をせざるを得なくなっているのですから。私に支払っていただいているものより多く頂くわけにはいきません」

 姉に私の尻拭いをさせるわけですから、と恥ずかしそうに彼女は笑う。私も、同じように笑いを返そうとするが、長年培ってきた、真一文字に結ばれた私の口は、僅かに端を歪めただけだった。

「……な、何かご不満な点が?」

『は? ……いえ、ありがたい申し出です、と思っていたところです』

 そのトレーナーの言葉は、私の試みが失敗に終わったことを示唆している。むしろ怖がらせたのかもしれない。……やはり、笑うと言うのは苦手だ。

 自分が不細工である事を理解しているから、というのもあるが、やはりこれからも女性と接するときは、細心の注意を払わなければならない。そう思った。

『それでは、ぜひお願いしたいと思います。正式にお返事をするのは、数日お待ちいただけますか』

「はい、大丈夫です、ご連絡をお待ちしています」

 トレーナーはそう言って、少しだけ笑った。今度は笑わず、私はお礼だけを返す。やはりこちらの方がしっくりくる。

「お、お待たせしました、プロデューサーさんっ」

『ああ、美波さん。そんなに急がなくてもいいのに。私は逃げませんよ』

「はっ、はっ、ふふ、プロデューサーさんをお待たせするわけにはいきませんから」

 更衣室から戻ってきた美波さんが、少し笑う。自然と、僅かに口角を上げ、声を掛ける。そして、改めてトレーナーにお礼を申し上げようと思って、そちらを見る。

「……Pさんも、笑えるんですね」

『……はい?』

「ああ、いえ、なんでもありません」

 こほん、と咳払いをして、私たちを見送るトレーナーを尻目に、ポケットに手を突っ込み、ごつごつとした車のキーを探す。

 瞬間、同じ設えをした鍵を持つ、私の社長が一瞬脳裏によぎる。

「どうしたんですか、プロデューサーさん?」

『……ああ、いや。なんでもありませんよ、美波さん』

 言葉を濁し、キーを取り出した。アメリカ産らしい、武骨なキーだ。

(……これでいい)

 これ以上、望めないほどの場所に私はいる。借金さえ、返せば――。

 たやすいことではないことを知りつつ、私は心の中で呟いた。

今回の更新は以上です。
次回の更新は月曜日の夜半を予定しています。
それではここまで読んで下さりありがとうございました。

帰宅が一日ずれましたので、本日の夜更新致します。
遅延、ご寛恕いただけると幸いです。

………………

…………




『美波さん』

「はい」

 私は美波さんに声を掛ける。故あって、目は開けていない。

 美波さんの声は、目の前というわけではなく、少し遠くから聞こえる。

 正直、勘弁していただきたい、というのが本音だった。こういう経験はないし、知識も皆無だ。だから、私では応対できない。

 目を閉じているが故、周りがどうなっているかもよくわからない。

『まだですか』

「今、終わらせましたよ、プロデューサーさん。はいっ、お待たせしました」

 私はくるりと振り返る。美波さんに背を向ける形だ。

 と言っても、まだ目を開けていないから彼女を見て背を向けたわけではない。”目を開けたら見えるだろう光景”から目を背けた、と言った方が良いかもしれない。

『確かに、私はプロデューサーです、美波さん』

 私は後ろにいるだろう、美波さんに声を掛けた。目はまだ開けない。開けられない、が正しいか。

『ですが、流石にこれはどうかと思います』

「でも、お願いできるような人が、プロデューサーさんしかいなかったので……。申し訳ないとは、思いますけれども」

 なんでも、最初は弟さんに頼もうとしていたらしいが、補講に引っかかったとかで急遽来られなくなり、お父様は何か用事があるとのことで不可能らしい。

 故に私に白羽の矢が立ったと言うわけだ。無論、プロデューサーとして、担当アイドルの願いに応えなければならない、というまるで、正道のプロデューサーのような使命感に駆られたわけだが。

 それでも――。

『女物の服屋の前に、私を放置すると言うのはいささか、無体とは思いませんか、美波さん』

「別に、入ってもらってもよかったんですよ、プロデューサーさん?」

『入れるものですか、こういう場所は男子禁制というのが常識でしょう』

「そういうわけでもないですよ、ほら、あの人なんて彼氏と一緒にいらっしゃってます」

 つまり、次のオーディション――本格的に、アイドルとして動きはじめるためのものに出る、その大切な大一番のための服を買いに来たと言うわけである。

 私は人を見る目もないが、ついでにその手の服類を見る目もない。

 服屋に到着してそのことを聞かされ、私は珍しく、というよりここ数年覚えがないほど狼狽えてしまった。

 そもそも、アイドルとプロデューサーというのはこういう関係ではないはずなのだが……。

 しかし、美波さんは頑として聞かず、

「プロデューサーさんに見て欲しいんですっ」

 と我を通した結果、店の入り口で待つ私の所に服を持ってきては、私が薄目を開けて品定めをする、という奇妙な状況を生み出していた。

 ……ああ、思い出すだけでも顔が熱くなる思いだ。ここ最近の私は、ポーカーフェイスこそ崩さないものの、幾分か感情が表に出てしまう。

 それが良い事かと言われれば、私としては当然悪いことなのではあるが、しかし、まあ、美波さんが願うと言うのなら、仕方がないと言う次第だった。

(まったく、私らしくもないし、どうしようもないな、本当に)

 これが、アイドルになるうえで必要不可欠だとは、私は思わない。だが、必要不可欠ではないものは得てして、より良い物に昇華させるための鍵だったりもする。

 その上で、そう言った不可欠ではない物を切り捨ててきた私ではあるが、なんだろうか。

 彼女――美波さんにはこういったことが必要なのではないか、と思っているのである。しかもなぜか、彼女はこういったことを好む。

 正確には、私と共にいると言う事らしいが、その目的は読めない。いまさら、私のご機嫌をとる意味はない。それに、とったところで方針は変わるまい。

(このあたりの、人の機微が読めないと言うのは、本当に難儀なことだ)

 数字や論証を読んで、先を見ることは得意でも、形で現れない、目に見えないものを読むことが苦手なのは昔からそうだった気がする。

 良くある「作者の心情を読みなさい」と言った、国語の問題はえてして見当はずれだったことが良くある。それが、私のこの性格と関係があるのかは、また別の話だろうが。

「それで、プロデューサーさん。早速着てみたいんですけど、良いですか?」

『それは構いませんが……。どこで着替えるおつもりで?』

 まだ、私の目は開いていない。傍から見れば盲人のように見えるかもしれないが、残念なことに私はそうではない。

 故に目を開き、美波さんの方を見た。少し服屋からは離れている。もうそこまで目を気にする必要は――。

『……』

 言葉が、消えた。思考も止まる。時間が、ゆるやかに流れている。そんな気がした。

「……ど、どうですか?」

 実は店員さんに言って、試着室で着替えてたんです。そう言う美波さんが、僅かに頬を赤らめる。それさえ、煽情的な色を加えるスパイスになっていた。

 青い、胸元に花柄の模様がついた、薄い青のワンピースに、ハーフサイズの白いコートだ。襟元にはファーが付いていて、温かそうではあるが、ここではそんなことはどうでもよかった。

 その、全ての構成要素――本来、ファッションの為だけではないものまですべて、彼女、新田美波という存在を際立させる、装飾具と化している。

 初めて出会った時に感じた、男の本能をくすぐる蠱惑的な表情に加え、にじみ出る、エロスという類の物とは違った、気持ちを高揚させる雰囲気。

 性欲に似ていながら、少し違うその興奮は、賛美であり、崇拝であり、尊敬であり。満足であり、感動であり、発奮であり。それらすべてを兼ね備えていながら、それらのどれでもない。

 そんな、詩的な言葉を尽くしても言い表せない、本能をくすぐる存在を生み出していた。

「ぷ、プロデューサーさん?」

『……素晴らしい』

「え?」

『ここまで、ベストマッチするなんて、思わなかった。本当に、これは凄い』

 いつもの言葉づかいも忘れ、私は少し目頭が熱くなるほどにまで感動をしていた。全身の鳥肌がいまだに収まらない。

『私は目に自信がない。ないのに、これは……。美波さん、君は、君は……』

 ネジが一本、いや、二、三本飛んで行ってしまったのかもしれない。それぐらい、今の私からは冷静さが飛んでしまっていた。

 もしかすると、あの服屋に冷静という言葉を忘れてしまったのかもしれない。ならば急いで取りに戻らなければ。

 そんな冗談が出そうなほど、私はちょっとおかしくなっている。

「あの、その、プロデューサーさん。そ、その」

 美波さんは少しもじもじとしていたが、やがて顔を赤らめたまま、満面の笑みで、

「う、嬉しいです、褒めてもらって。ありがとうございますっ」

 と言う。

 と言う。

(こちらが礼を言いたいぐらいだ。本当に、本当に、ああ、なんだ、くそ。頭が回らん)

 感動とは、脳を揺さぶられる行為だと言うが、今まさに私はそのせいで前後不覚に陥っている。こんな様、シンデレラガールズの社長にも、私の社長にも見せられない。

 そんなことが起これば、身の破滅だ。幸い、そう言った不測の事態は怒らずに済みそうだ。

 まあ、見つかったら見つかったで、氷点下以下まで心が冷えるだろう。それに伴って頭も冷えるだろうから、なんとかなりそうな気はしないでもない。

(やはり私らしくもないか。だが、まあ、私のためだ)

 そう言い聞かせるように言うと、私は少し咳払いをして、

『……それで、その格好でレッスンへ向かうつもりで?』

 そう尋ねた。

「……あっ」

 そんな美波さんの、うっかりした顔が返ってくる。気合を入れた一張羅、と言うと少しおかしいが、オーディション用に使う服だ。

 大人しめの色とはいえ、今着て歩いてしまうと、人の目を集めてしまう。仮にも、アイドルの卵であるから、少しでも人目を引く行為は避けたいと言うのがある。

 さらに言えば、彼女が視線を集めることによって、必然的に私にも目線が集まるわけで。そう言ったのは勘弁被りたいのである。

(ビースト&ビューティ、とまではいかないが)

 不釣り合いな組み合わせであることは否めない。彼女のような美人の隣に、私のようなあばたのあるコメディアン崩れの面を持つ醜男は、本来いるべきものではない。

 私は、私を低く見積もるきらいがあるとしても、それはおそらく、間違いのない事なのだろう。

「……ど、どうしましょう」

『早めに、レッスン場へ行って、早々に着替えると言うのが一番良いでしょうか。……食事は、また今度ですね』

 私は、仕方ないと言うふうにそう言った。この後二時間ほど空きがあるので、美波さんから食事のお誘いがあったのだが、どうやら同伴には与れないようだ。

 ……思えば、自然と食事に誘われたわけだが、プロデューサーとアイドル、という事を考えると宜しくない事でもある。

 ただ、それをいささか残念に思っている自分がいる事に、少しの戸惑いと驚きを感じているのが現状だった。

(これが、シンデレラガールズの社長が言っていた、信頼と言うやつなのか)

 俄かに考える。アイドルとプロデューサーに、信頼関係は必要だ。だが、そこに感情は必要ない。そう思っていた。

 契約に基づく義務の履行と、履行された義務に対する対価及び支援。互いに義務を果たすことで得られる利益を、大きくしていく。私はそれを信頼と呼んでいた。

 だが、最近はそれが少し違う物なのかもしれない、と思い始めている。一瞬の気の迷いなのかもしれないが……。

「……むう、残念です。プロデューサーさんとおしゃべりしながら、ご飯を食べるのはとても楽しいのに」

『私と喋るのが楽しい、ですか。美波さんもお世辞を言えるようになりましたか』

「お、お世辞なんかじゃないですよっ」

 少し顔を赤くさせて、美波さんは抗議する。私は軽くあしらうように笑い、

『さ、早くレッスン場へ行きなさい、美波さん。お望みであれば、また今度機会は設けますので』

 と、なだめるように言う。少しばかり頬を膨らませていた美波さんだったが、少しして諦めたように息を吐き、

「約束です、約束っ。絶対ですよっ?」

『ええ。お約束いたしますよ、必ず』

 そうして、約束をする。お安い御用だ。このくらいで喜んでくれるのなら、などと、私らしからぬ献身思考を垂れ流す。

 少し、正直になっているのかと自嘲をしてみるが、他人の機微さえわからないのだ。自分の微細な変化を捉えられるほど、豊かな感性は持ち合わせていなかった。

「それでは、先に行ってきますので。今日もレッスンには来てくれるんでしょうか」

『予定ではそのつもりです。他のアイドルやタレントたちに出す指示も、ほとんど出し終えていますし』

 あの男性タレントがいなくなっても、やはりやることは変わっていない。経営自体は、好転している。美波さんの力は大きいが、彼女だけで事務所を持たせるのはまだ、厳しい。

 だが、遠からずすべてが上手くいくはずだ。

「それじゃあ、先にレッスン場へ行きますねっ」

『はい、道中お気をつけて、美波さん』

 少しはにかんだ表情でレッスンへ向かう美波さんの後ろ姿を、しばらく見送る。本当に、私には似合わないほど純粋で、利発で、いい子だ。

 いずれは彼女も、もっといいプロダクションへ行くことになる。それは確実と言ってもいい。だが、それまでの間は、私が――。

「――あなたが、Pさんですか?」

 突然、声を掛けられた。振り返ると、一人の男性が私の傍にいる。

『ええ、そうですが。……失礼ながら、どちら様で?』

 面識はないはずだ。業界人なら、一度見た顔は覚えている。薄い茶色のブロンドヘア。年齢は私よりも二回りほど上か。

 上品そうな、シックなスーツを身に纏い、いかにも上流階級と言ったような壮年の男性。

 シンデレラガールズの社長が活動的な実業家とするなら、彼の場合は多くの部下を巧みに操る投資家と言った雰囲気だ。

「これは失礼をしました。私はこういう者でして」

 そう言いながら、男性は私に名刺を渡す。それを受け取って、紙面を見た。一瞬、時が止まった気がした。

 彼の顔を見る。しっかりとした表情の奥に、どこか厳しい――敵視にも近しい物が垣間見える。

 それが、この名刺に書かれた名前が本当であると言っていた。

「初めてお目にかかります。――新田美波の、父です」

 止まった時が動きはじめる。だが、私は動くことが出来なかった。

 彼は、手元の鞄から、紙を取り出す。そして、ゆっくりと口を開いた――。

今回の更新は以上です。遅れまして申し訳ありません。
次回更新は金曜日の予定です。
それでは、ここまで読んで下さりありがとうございました。

□ ―― □ ―― □



『プロデューサーさん、遅いなぁ……』

 レッスンが終わる時間となっても、レッスン場にプロデューサーさんの姿はありませんでした。

 とはいえ、音沙汰なしと言うわけではなく、トレーナーさんから、

「少し、Pさんは遅れるそうですので、レッスンを始めましょうか」

 と言われていたので、少しの落胆はありましたけれども、そこまで気にすることはありませんでした。

 でも。

『……今まで、レッスンに来なかったことなんて、ないのに』

 ずっと付きっきりでレッスンと言うのも、いくらかおかしな話ですけれども、それでもいつもと違うと言うのは私にとっては大きなことでした。

 もちろん、だからと言ってレッスンの手を抜いたつもりはありません。しっかりと今日の分のトレーニングをこなして、発声練習も行いました。

 むしろ、熱が入りすぎたかもしれません。今も、更衣室で着替えながら考え事をしていますが、ウェアは汗で重くなっています。

「いくつか、オーディションの方を見繕っていましてね」

 そうプロデューサーさんに言われたことを思い出しました。とうとうです。とうとう、グラビアアイドルではなく、本当のアイドルとして一歩を踏み出します。

 グラビアアイドルの経験も、悪い物ではなかったように思えます。この世界の空気を知れたこと、カメラの前に立って恥ずかしがらずに慣れる経験を積めたこと。

 そして何より、誰かに見てもらう事を意識できたこと。これが大きいように思えます。

 アイドルは、誰かに夢を与えるお仕事です。実際のアイドルの裏側があるとしても、少なくともファンの皆さんに、笑顔と夢を届けなければなりません。

 その意識を持つことができたことだけでも、とても得難い経験でした。

『……いつまで、私のプロデューサーでいてくれるんでしょうか』

 ふと、思いました。私に見切りをつけて、と言う事もあり得ます。それに、もし他のアイドルが増えたら、今の私みたいに付きっ切りになるために、一人で動くことも多くなるでしょう。

 独占欲が強い……とは思いませんけれど、でも、プロデューサーさんと離れることは嫌です。できれば、私だけのプロデューサーさんでいてほしい、と思うのは。

『……贅沢な事、なんでしょうね』

 これが独占欲なのでしょうか。思えば、パパに対しても昔からこんな調子でしたから、プロデューサーさんの事をパパと重ねているところがあるのかもしれません。

 やがて、更衣室から出ると、トレーナーさんが話しかけてきます。

「Pさんが下でお待ちだそうですよ。車の中で待っていると」

『そう、ですか』

 何か、いつものプロデューサーさんとは違う気がしました。彼のことですから、例え遅れていたとしても迎えに来てくれる。そう思っていたからです。

 もちろん、ただの私の願望でしかない、と言う可能性も大きいのですけれども。

 私はトレーナーさんにお礼を言うと、階段を下りて行きます。どるん、という重いエンジン音。プロデューサーさんのいつも運転している、白い外国車。

 格好いい車ですね、と言うと、私には似合わない代物です、という仏頂面が返ってきたことを思いだします。

 あのころのプロデューサーさんは、全然笑ってもくれませんでしたし、考えていることもあまりわかりませんでした。

 ですが、少し前から、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけですけれども、笑ってくれるようになりましたし、彼が何を考えているのかも少しぐらいは分かるようになりました。

 それがなんだか嬉しくて、心が通えるようになった気がして。

 だから――。

「終わりましたか。では、帰りましょう、"新田さん"。最寄りの駅までお送りします」

 そこにいた、プロデューサーさんは、初めて会ったころのような――いえ、それ以上に冷淡で、それで、無表情で。私の事も、”新田さん”と呼んでいて。

 これまでの一か月弱が、まるで消えてしまったような。そんな風に思えてしまったのです。

今回の更新は以上です。短いですが、どうか平にご容赦を。
次回更新は、少し予定が見えないため、来週の金曜日までに行いたいと思います。
早ければ3-4日の内に更新いたします。
それではここまで読んで下さり、ありがとうございました。

………………

…………



 少し、胸が痛んだ。だが、それだけだ。私の心は既に決まっている。

 するべき事を、すればいい。それですべて円満解決だ。

 私にとっても十分で、彼女にとっては十分以上。むしろ、こちらの方が彼女にとっては良いことだろう。

 運転の最中、車内に会話はない。当然だ。今の彼女は少し傷ついている。その辺りの機微は、私でもわかるようになっている。

 と言うよりも、傷ついて当然の事をした、という自覚はあった。このあたり、私も変わったのかもしれない。

(結局、私は弱者と言うわけだ。まあ、分かりきっていたこと、何も変わらんし、変わる余地もない)

 心の中でつぶやき、この一か月の出来事を思い浮かべる。浮かんでは消えて、浮かんでは消えてを繰り返す。まるで、走馬灯のようだ。

 車の窓から流れる景色のように、つらつらと流れていく。まあ、こういう人生が私にはお似合いである。

 私の人生は急な下り坂で大半が占められていることになるが、まあ、幸運な人がいる一方で、不幸な人間もいると言う事なのだろう。

 それで世の中の幸福バランスが取れているなどと、嘯くつもりは毛頭ないのではあるが、一方で正しい部分もあると思っている。

 特に私の場合、不幸の始まりに関しては、私に原因がないとしても、その後の下り坂に関しては自業自得でしかない。

『つきました、新田さん。それでは、お疲れ様です』

 最低限の言葉を交わして、彼女を駅前に降ろした。彼女は終止言葉を発することなく、どこかさびしそうに、悲しそうに車を降りていく。

『プロデューサー失格、か。……いや、もうそういう話ではないか』

 彼女がいなくなった車内で、ギアを変えながら一人呟いた。そして、そのまま自分の事務所へと向かう。

 事務所に着くまで、半ば帰巣本能に任せて運転していたので、ほとんど記憶はなかった。もしかすると事故を起こしていたかもしれないと思うと、少し背に冷や汗が流れる。

 そうして、社用車のキャデラックを駐車場に止めた。階段を上る。事務所の扉を開ける。鍵は、締まっていない。

「おかえり、Pくん。では、話を聞かせてもらおうかね」

『ええ』

 短く答え、私はソファにゆっくりと座る。先ほどから、しばらくこの調子だ。即ち、あの後、美波さんのお父様と話し、そして掛かってきた一本の電話と、もう一本、私が賭けた電話。

 それで、今この場が作られていた。故に、美波さんのレッスンにはいけなかった。いや――行かなかった。

 私は目の前のテーブルに置かれた、紙切れに目を落とした。

『社長、交渉事が不得意なのですね』

「なぜだね?」

『交渉事は、強気に吹っ掛けるのが当然のことです。特に、今回は私から申し出たのですから、以前と同じ額ならともかく、それ以上をお出しになるなんて』

 そういうと、社長は少し笑った。

「これでも吹っ掛けているよ。私はこれだけの価値があると思っている。びた一文上にも下にも、まけられんな」

『はは、やはり変わったお方です』

 私は力なく笑った。その姿を見て、少し驚いた様子の社長は、

「……やはり、何があったかは訊いてはいけない、のかね?」

 と言う。私が嗤ったのに驚いたのだろうか。まあ、無理もない。彼の前で笑顔を見せた数など、片手で事足りる。もしかすると、ないかもしれない。

『お話した通りです。美波さんのお父様から、移籍の申し出があった。未成年ですので、親御さんの御意向には従わなければなりません。それだけのお話です』

「……まあ、君が良いのであれば、私にとってはありがたい話なんだがね」

 しかし君は、それでも親御さんを説得すると言うタイプだと思うのだがね。社長はそう言って、首を振った。

『彼女には、こちらから話を通しておきます。それと、物は相談なのですが』

「なにかね?」

『このプロダクションに所属するタレントと、アイドル全員。引き取っていただけますか』

 そう言った。すると、社長は何やら信じられないものでも見るように、私をじっと見ている。

「プロダクションを、潰すつもりかね?」

『ええ』

 短く、そして芯の通った言葉で返す。ただし、冷たい氷のような芯。そうして、しばらく呆気にとられていた社長だったが、

「……変わったね、Pくん。良くも、悪くも。あれほど怜悧だった君からそうして、人間臭い言葉が出てくることも、それほど熱心ではなかった君の、熱心な言葉が取りつぶしの言葉であることも」

『柄ではない、と?』

「そういうわけではないさ。だが……惜しいな、実に惜しい」

 社長は目の前に置いてある紙切れ――彼の名前とシンデレラガールズの社名が書かれた小切手を破り捨て、新たに小切手を取出し、数字を書き加える。

 そこに書かれた数字は、先ほどよりも大きな物だった。

『やはり社長、あなたは交渉が苦手のようですね』

「投資、と言ってくれたまえ。君の所の質と能力を持つアイドルがごっそりと、二束三文で手に入る。交渉上手とは思わんかね?」

『物は言いよう、ですね。私はてっきり、引き取りの手間賃を払うつもりでいたのですが』

「君こそ、見る目がないのだね。彼女ら、彼らは君が思っているよりもずっと、能力も活躍の場もある。環境と運がなかった、それだけの話だ」

『知っております。私が見込んだ方々ですから。たとえそれが打算だったとしても』

 静かに息を吐いた。同時に、社長が立ち上がる音がする。交渉は終わった、と考えているらしい。

 実際、交渉は終わった。だから、もう全てが終わりだ。

「あらかじめ断っておくが、シンデレラガールズはアイドル専門だ。タレントは専門外でね、彼らに手早く実績を作ったら、移籍させるか、彼らが望めばうちのスタッフに回ってもらうことになる」

『結構です。彼らを空に放り出すことが、我慢のならない事でしたから。私は救いようのない卑怯者ですが、それでも少しは善人ぶりたいときもあるのですよ』

「わっはは、初めてあった時から君の唯一変わらんところは、裏を見せてくれんところだな。いや、表と言うべきか」

『表も裏もある、卑怯者です、私は。しかし社長。あなたには、どちらも良く見せていたつもりですが』

「形式上の表と裏は、な。裏の裏、本当の表は見せてはくれていないだろう。彼女を手放す理由も、なぜプロダクションを立ち上げ、そして取り潰すのかも」

 私は目を開いた。そして顔を上げる。私を見下ろしている、社長がいた。形は、見下ろしている。だが、どこまでもその目線は、同じ高さから見ているように見えた。

 だから、何も答えない。ただ、一言だけ。

『皆を、どうか宜しくお願い致します』

 そして頭を下げた。この人なら任せるに足る人だろう、きっと。私が、一度は惹かれ、戦国時代の忠臣よろしく、その下に付くことを願った人だ。

 裏も表もあり、節操なく、その身を護るために、ただ保身の為に鞍を変える様な、表裏比興とも言われるような男が。

 お笑い話だ。

 それに、つい先日思ったばかりではないか。美波さんの隣に、こんなあばた面の男は釣り合わない。ちょうどいい。そう、何事も、全て上手く、丸く収まる。

 彼女は強者として、燦然たる光を浴び、弱者たる私は闇の底へと沈む。それが、この社会の掟。

 悔しくはない。辛くもない。憎くもないし、妬ましくもない。訪れた現状と、自分の身を顧みた結果、落ち着くところに落ち着いた。

 すべてに私は――満足している。

「本当かね?」

 全てを見透かしたような、社長の声に胸が、痛む。ああ、こんな人間の屑に、そんな気持ちがまだあるとは、事ここに至ってようやく思い知るとは。

 きっと、その言葉は、私の”宜しくお願いします”に対する問いかけなのだろうが。いや、本当は何なのだろうか。だが、それでも、私は――。

『ええ』

 そう言って、少しだけ、少しだけだ。また笑う。

「そうか」

 とても残念そうな声だった。そして、ばたん、という鈍い鉄扉の音が響く。

 私は静かに電話を取り出す。二度、コールが鳴った。ぶつっ、と言う音と、そしてだみ声。

 静かに、私は口を開く。

『はい、すべて、滞りなく。はい、後程、お伺いいたします。――社長』

本日の更新は以上です。大変遅れまして申し訳ございません。
次回更新は今週の金曜日を予定しております。
完結までは週一ペースの投稿を予定しております。
今しばらく、お付き合いいただければ、と思います。
それでは、ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

□ ―― □ ―― □



とても綺麗な夕焼けでした。冬の澄んだ空気、西の空に沈んでいく夕陽は、なんとなく寂しさを感じさせる私の心を映し出しているようで。

 だからこそ、とても美しいのだと。少し感傷的で、ロマンチックな事を考えてしまいます。

 どるん、と震える様なこの音を聞くのも、きっと今日で最後。やがて速度を落とした、プロデューサーさんの運転する、白い外国車は大きな建物の前で止まりました。

「つきました、新田さん。降りましょう」

 プロデューサーさんに促され、車を降りると、ビルの鏡面ガラスに反射して、少し夕日が眩しく、僅かに目を細めます。

 車のハザードをつけたまま鍵を締めたプロデューサーさんが、私の隣に来ます。

『今まで、短かったですけれども、ありがとうございました、プロデューサーさん』

 私は、そう告げました。

「こちらこそ」

 プロデューサーさんは、とてもそっけなく、そう言います。最後までこうなら、せめて理由の一つぐらい、聞かせてほしかった。

 でも、きっとプロデューサーさんは話してくれません。いつだって、表の顔だけしか、私には見せてくれませんでした。

 何を考えているのか。私をどう思っているのか。それさえ、本当のことはわかりません。知ることも、聞くこともできず、教えてもらうこともできなかったのですから。

「明日から……、いえ、今日からあなたは、シンデレラガールズプロダクションのアイドルです」

 もう、すでにそのことは知らされていました。プロデューサーさんが、私と所属タレントの全員を移籍させて、大金を手に入れたこと。

 そして、プロダクションのオフィスさえ売り払ってしまったこと。

 なぜそうしたのかも、当然聞かされていません。私を売った、どう思ってもらっても構わない。ただ、そのことだけを事務的に、私に告げただけです。

「これからも、辛い道でしょうが、幸いにしてシンデレラガールズは素晴らしい場所です。研鑚を積み、邁進してください」

 プロデューサーさんはそう言って、少し息を付きました。

「……頑張ってください、はるか遠くから、微力ながら、応援をしています」

 一瞬、はっとしました。その言葉だけはどこか、あの優しく、人の良さそうな笑みを浮かべたプロデューサーの言葉に思えたから。

 ですが、その顔はやはりかつての無表情なプロデューサーさんのそれで。やはり、そんなことはないのだ、と思ってしまいます。

 やがて、ほんの少しの間だけ静寂が場を支配しました。

『プロデューサーさ――』

 意を決して、声を上げたその瞬間でした。

「もう来ていたのかね、Pくん。中に入って待っていてくれれば良かったのに」

『そういう訳には参りません。私はもはや、プロデューサーでさえないのですから。部外者の立ち入りは、禁止されているのは当然です』

 間が良いのか、悪いのか。きっと悪いのでしょうけれども、シンデレラガールズの社長さんが、とても活動的な様子でずんずんとこちらへ近づいてきます。

「ようこそ、新田さん、我がシンデレラガールズプロダクションへ。我々は君を歓迎する」

『……ありがとう、ございます、社長さん』

 素直に喜べないのは、やはりプロデューサーさんのせい……いえ、おかげなのでしょう。私にとってのプロデューサーさんは、プロデューサーさんでした。

 また新しいプロデューサーさんがどういう人なのかは、わかりません。ですが、今の私にとって、プロデューサーさん以上の存在は想像できません。

 だからこそ、こんな形で移籍はしたくなかった。それが本心でした。

「それで、早速彼女を案内したいのだがね、いいかな、Pくん?」

「私に異議を差し挟む権利はありません」

 そう言って、僅かに頭を下げたプロデューサーさん。それが最後の挨拶だと、直感的に気付いた私は。

『あのっ!』

 思わず声を上げました。しかし、何を言うつもりでもありません。ただ、この時間を引き延ばしたくて。

「どうかしたのかね、新田さん」

『えっと……、その』

 何も言えず、まごついている私は、ただプロデューサーさんの顔を見ては、目を落とすことを繰り返して。

 だからこそ、気が付いてしまうのです。プロデューサーさんの車の隣、全く同じ形の、黒い車が止まっていることに。

「よォ、こりゃあなかなか立派な建物じゃあねえかァ、エェ? 芸能プロダクションっつうのは儲かるんもんなんだなァ、おいィ?」

 耳に障るだみ声。それが聞こえた瞬間、プロデューサーさんが、危険を察知した野生動物のように振り返ります。

「なぜ、ここに」

「大したこたあねえよ、てめえが惚れた連中がどういうやつらなのか、じっくり見物しに来ただけだァ」

 そうして、プロデューサーさんの社長さんが、プロデューサーさんを押しのけ、私の隣へきます。なんだか、蛇ににらまれた蛙のように私は、動くことが出来ません。

「ほォ……。改めてみると、やっぱりいい女だァ。惚れるわけだな、エェ? くはは」

「一体何を、それは約束が」

「破りはしねえよ、馬鹿が。俺が今まで、結んだ契約を破ったことがあるか、あァ? 見に来ただけだっつってんだろうがよ」

 その言葉で、はっとしたように、プロデューサーさんは何も言わなくなりました。説得された、とは少し違いますけれども、でもどこか納得したように見えます。

 そうして、その人は、品定めをするように見ていた目を、やがてシンデレラガールズの社長さんへと向けました。

「先に戻って、準備してろォ、P」

「……分かりました、社長」

 プロデューサーさんは、今度は何も言い返すことなく、僅かに頭を下げてそう言いました。

 まるで、このひどい社長さんを信用しているような……。そんな気さえします。そこに、良い感情は、ほとんど介在していない様に見えますけれども。

「……では、失礼いたします、シンデレラガールズさん。それと――美波さん」

『えっ』

 声が出ます。それは、だって、そうです。今プロデューサーさんが、また私の事を。

 しかし、プロデューサーさんに何か声を掛ける暇もなく。プロデューサーさんは、踵を返して、そしてポケットから車の鍵を取出し、乗り込んでしまいました。

 どるん、という重い音が響きます。そして、白い外国車が動きはじめました。僅かに聞こえた、クラクションの音。

 それが、正真正銘、最後の別れの言葉だと、私には思えてなりませんでした。

「……それで、比興さんとお呼びすれば宜しいですかな?」

 プロデューサーさんが去ってしまった後、おもむろにシンデレラガールズの社長さんはそう言いました。

 それに対して、もう一方の社長さんは、首を二、三度鳴らして、ニタリ、と笑い。

「なんでもいい、そう言ったのには興味がねえンだ、俺はよ」

 いびつな笑いを浮かべたまま、一枚の紙を取り出すのです――。

今回の更新は以上です。やや短いですが、ご容赦ください。
次回の更新は未定ですが、比較的早く更新する予定です。
週半ばまでの更新を目指します。
それでは、ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

………………

…………


 酷く、見事な夕焼けだった。冬の空気が澄んだ西の空へ、太陽が沈んでいく。

 だが、その綺麗さとは相反するように、私の心はどんよりと曇っている。無論それをおくびにも出すようなことはしない。

 やがて、扉が荒々しく開く音がして、一人の男――私の社長が入ってきては、開口一番、私に言葉を吐く。

「くはは、おもしれえ面ァ、してやがるな、P? えぇ、どうだ、気分はよぉ」

 どれだけ隠そうとも、この人には見抜かれている。たぶん、いや間違いなく私より、私の事を知っている。そして、私もまたこの人のことを、良く知っている。

 私はこの人が大嫌いで、この人も私の事を嫌いだろうが、しかし誰よりもお互いを理解している事だろう。

 その耳障りなだみ声に、何も言うことなく私は、静かにソファへと腰を下ろす。ちょうど、西日の差しこむ形で、僅かに目を細めた。

 そして、小さなアタッシュケースを前に押し出す。

『……ご指示通り、用意してまいりました、社長。ご確認を』

「おう、確認してやらあ」

 社長は私の対面にある、黒の革張りソファに座り、足を組んだまま、そのアタッシュケースを開ける。

 中に入っていたのは、日本銀行券の束、それもかなりの数。

 ここで、仮に目の前の男が小物だとするなら、きっと金額に目がくらみ、あるいは下卑た笑いを浮かべて数を数える事だろう。だが、この男はそうではない。

 私は、そのことを知っている。この男は、金を金とは見ていない。欲望の対象ではなく、目的を果たすための道具としてしか見ていない。

 故に彼は、何の感情も無さそうに、そして札束と言う媒体自体に、何の興味もない様子で、ただ事務的に数を数えている。

 世が世なら、あるいは真っ当な志を持っていたならば、何がしかの財務役か、あるいは銀行員に持ってこいの人材だろう。

「くはは、良く用意できたもんだ。てめえがあそこでかき集めてた連中と、あのしみったれた会社が、こうも金になるたあなァ」

 勘定を終えた社長は、アタッシュケースを閉じ、おい、と短く声を出す。すると、隣の部屋に控えていただろう、厳つい顔の別の男がそれをもって、部屋を出て行った。

『これで、契約の履行は致しました。お約束は守っていただけますね?』

「分かってるって、何度言やあいい? ああ、それと、こいつはまあ、焼くなり煮るなり、好きにしやがれェ」

 社長は、傍に置いてあった書類用のフォルダから、一枚の用紙を取り出す。少し黄ばんだ紙だ。それをくしゃり、と丸めて私へと投げてよこす。

 手を伸ばし、それを受け取って、くしゃくしゃになった紙を開く。ゆっくりと、丁寧にしわを伸ばし、中を見た。

 書かれていた、借用書の文字。見たことのない、どこかの誰かの名前。

 そして、連帯保証人の欄に書かれた、私の父の名前。

 私とこの男との関係が始まった、そのきっかけの一枚。

 それを私は、静かに破り捨てた。

『確かに、お受取致しました、社長』

 そして、静かにそう伝える。もっとも、伝えるまでもなく、いびつに口角を吊り上げながら、煙草を吸いはじめていた。

 ようやく、一つの区切りがついた。長い、全ての始まり。そして――。

「これでようやく、てめえ自身の借金に取り掛かれるってえ訳だァ、エェ?」

 新たな、責務の始まり。今度は、私の父が残したものを返すのではなく、私がこの男から借りた金を、返さなければならない。

「馬鹿な野郎だなァ、エェ? 何も言わず、あの女を差し出せば、堅気のまま金を返し続けられたのにヨォ」

 そう言いながら、社長は声を出して笑う。そうして、咥えていた煙草の先を指でつまみ、火を消した。

「まァ当然だな。てめえが契約を破ったンだ、諦めるこったよ。そもそも、てめえが妙な事オヤジに言わなけりゃあ、こんな面倒な事にはならなかったんだよ、分かるか、あァ?」

 イラついた言葉とは反するように、その表情は満足そうで。ようやく思い通りの結果が得られたとうのがありありと見て取れる。

『あのプロダクションではちゃんと、ご指示通り、女性タレントやアイドルも集めていました。不幸にも、そちらの意向に沿える女性がいなかっただけです』

「確かになァ、だから迂闊だったのはこっちってェ訳だァ。てめえが年増ばかり集めていたってのは、あとから分かったことだからな」

 忌々しい、と言うよりかは素直に感嘆している様子だった。意外ではない。この人は存外、人を認めるところがある。

 また社長は、煙草を取り出し、火をつけた。

 私が、あのプロダクションを立ち上げた理由。それは、私が背負った数多の借金を返すため。とても単純な理由だ。

 しかし、それだけではない。そんな理由が、霞んで見えるほど――少なくとも、私にはそう見えるほど、下衆で、人間の底辺と思える理由がもう一つあった。

 それは――。

「だがまァ、てめえが欲をかいたか知らねえが、若い女がやってきた。てめえの当てが外れて、女探しっていう、本分果たしちまったわけだ、エェ?」

 女探し。言葉尻から漂う、下衆の匂い。

 即ち、目の前にいる男。その上役に当たる、ヤクザの元締め、いわゆる組長。その、愛人探しなんていう、クズみたいな理由。

 そしてそれを提案したのは紛れもない、この私だった。

今回の更新は以上です。短くなりましたが、手早い更新が出来て良かったです。
次回の更新も未定ですが、数日のうちに行いたいと思います。
それではここまで読んで下さり、ありがとうございました。

………………

…………


 五年前、大学を卒業し、就職先も決まっていた私のもとに現れた男は、一枚の紙を突き付けながら、言った。

「てめえの親父が遺した借金、返してもらおうか」

 子供の頃に死別した父親が、誰かの保証人になっていたと言うことを、その時初めて知った。母も高校在籍中に病で倒れ、帰らぬ人となっていた矢先のことだった。

 もし、今の私がそう言われても、事務的に、そして冷静に、相続放棄を選択しただろう。

 だが、目の前の相手は奸智に長けていて、そして私は青二才だった。弁護士に相談するという暇も与えられず、そしてそんなことも知ることなく、借金を継がされた。

 父と、そして母から継いだありとあらゆるものを売っても、借金を返すには至らなかった。

 その男は言った。

「俺の下について、ちょっとした仕事をしろォ。五年もあれば返せらァ」

 そして提示された仕事は、どれも私には承服しがたいほどの、非道で――そして、法を逸したものだった。

 私は、一年の時間を要求した。それは、認められた。思えば、私がどうあがくか、目の前の男は見物したかったのだろう。

 一年間、文字通り命を懸け、働きながら独学で、ありとあらゆることを調べ、ありとあらゆる勉強、とりわけ法律に関する勉強をした。

 まさしく、身を削っていた。貰った給料の半分以上は、返済に使われた。内定をもらった会社での勤めを終えた後、派遣の仕事に向かい、三十分だけ仮眠をとって出勤する事もあった。

 そうして過ごした生活の中で得た情報の中に、私の目の前に現れた、あの男の上役が、無類の女好きである、という物があった。

 命を懸けていた。だから、何も恐れることはなかった。思えば無謀だった。たぶん、一生分の賭けを、ここでしたのだ。

 直接、その上役の元へ乗り込み、話をして、そして契約を取り付けた。あなたの愛人を探す。だから、借金の返済は待ってくれと。

 ……ただ、汚れ仕事をしたくないと言う一心の為に、悪魔の取引をしたのだ。

「面白いガキだ、良いだろう、あいつに話つけといてやる」

 そうして私は会社を辞め、無謀にもプロダクションを立ち上げた。ヤクザの愛人を探す、と言う名目のプロダクションを。

 もちろん、そんなことはごめんだった。だから、アイドルとしては少し年齢の高い人に主体を置いて、候補を探した。上役は、若い女が好みだったから。

 無論その年齢の人の方が、都合が良かった、と言うのも大きい。彼女らは焦っている。そこに付けこんで、私は金を稼ぎ始めた。男性タレントも雇い始めたのは、軌道が乗ってからだった。

 プロダクションを立ち上げるための金は、借りた。あの日、あの時、私の目の前に現れたあの男から。父の借金には及ばないが、それでも……人一人が背負うに、重すぎる借金だ。

 それでも、汚れ仕事をするよりも、ずっとずっと、ましだった。少なくとも、違法な仕事に手を染めずに済んだのだから。

 それから二年ほどは、暗中模索の日々だった。アイドルのことなんてまるで何も知らない。芸能界と極道の世界が、少し近い関係にあるという、そんな話で思いついた延命策だった。

 実際には、そこまで密接な関係はなかったのだが、しかし私は、そんな噂レベルでしかない話での、密接さを表す存在に成り果てて行った。

 そして、皮肉なことに――汚れ仕事をしたくないと望んで始めたこの仕事で、違法すれすれの場所を渡り歩く。そんな人間になってしまっていた。

 それでもまだ、私は堅気であると信じていた。ヤクザ仕事には、手を染めていなかったから。

 この手は泥に塗れたが、まだ血にも、欲にも、金にも塗れていない。それが私の矜持だった。

「あなたのプロダクションと、密接な関係にある比興産業は、あまりいい噂を聞きません。ありていに言えば、ヤクザであると私は考えています。そんなところに、娘は預けられない」

 あの日、美波さんのお父様にそう言われた時も、なんとかして説得をするつもりだった。収支報告から資金状況など、ヤクザのフロント企業ではない事を証明する為には、全てを開示するつもりだった。

 だが、その後の電話で、全てが終わった。

「オヤジが、てめえの所の女ァ、気に入ったんだとよ。あの入ってきたばかりの、若い奴だ」

 あのプロダクションは、もはやフロント企業と同義だ。そう、気付かされた。私がどう思っていようと、ヤクザから金を借りて建てた、ヤクザの女を探すための会社なのだと。

 そして、美波さんがとても危険な立場に、置かれてしまったと言う事も。

『……それはできません。彼女はちょうど、高く売れる算段が付いたばかりですから』

 そう、答えていた。私の利己的な心がそう言わせたのか、あるいは……。

 いや、そんなものはきっと、私にはない。もう、私はこの手を汚してしまっている。だからこそ、綺麗な物は綺麗な物であってほしい。

 ただそれだけ。それだけだ。

 社長には、惚れた女を護るためか、とか、情が移ったか、とかそういうことを言われては、嗤われた。鏡を見てこい、てめえとあの女が釣り合うか、と。

『言われなくとも、知っています。他意はない。私はただ、あの子を金に変え、自らの借金の清算に使う。それだけです』

 百も承知で、そして私にはそんな権利も、立場も、何もない。もう、彼女に触れる権利も、声を掛ける権利も、笑顔を向けられる権利も、ない。

 そして、契約を履行しなかった私に、即時借金の清算をする旨が通達された。

 美波さんを売り、アイドルとタレントを売り、会社を売って得た金で、少なくとも精算対象である、父の借金は完済できる。そう言う計算高い所も、きっとあった。

 だから、もう、この茶番を終わらせるときが来たのだと、思った。

 始まりは、父の借金だった。転落のきっかけは、私のせいではないのだろう。

 だが、その後の人生を決め、選んだのは私だ。誰にも、強制などされていない。

 後悔も、逡巡も、葛藤もしない。私は満足している。

 ……たとえ、それが強がりと言われようとも、私は卑怯者だから。裏も表もひっくるめて、そう言うのだ。

少々短いですが、今回の更新は以上です。
次回の更新は明日を目指しますが、遅れた場合は申し訳ございません。
なお、残りの更新回数は数回を予定しております。
それでは、ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

本日投下の予定でしたが、明日に延期させていただきます。申し訳ありません。

□ ―― □ ―― □



「まァ、安心しろィ。てめえがどれだけ後ろ髪引かれようと、もうあそこには戻れねェよ」

『……どういう意味です?』

 私は聞き返す。意地悪く、社長が嗤っているのが見えた。

「単純な話だァ。てめえがどういう人生を送ってきて、どんだけの借金があってェ、どういう理由であの会社を立ててェ、それで取り潰したのかァ。一切合財ぶちまけてきたのよ」

 一瞬、頭が真っ白になった。つまり、どれほど底辺な人間なのか、あの二人に知られた。そう言う事だった。

 つまりこの男は、私の未練を一切合財断ち切るため――ただ私の、堅気としての道を閉ざすために、あの二人を巻き込んだのか。

 腹の底で、怒りの炎が燃え上がった。僅かに手が震える。冷静さの欠片もなく、私の頭に血が上っていく。

 だが、それも……すぐ収まった。すーっと、頭がクリアになっていく。勤めずとも、いつも通りの声と、表情が作れた。

『……結構なことです、これで思い残すこともなくなった』

 静かに目を伏せた。これで表の私は、もう死んだ。結構なことだ、これからは、もはや卑怯者でさえない。ただの愚か者だ。

 いつか、この両腕が後ろに回されることになるのかもしれない。この男が、私にそう言う仕事をさせるだろう。

 どちらにせよ、もはや堅気として借金を返す力などない。私の人生は、こういう物だ。裏も表もある卑怯者には、相応しい終わり方ではないだろうか。

「まァ、悪いようにはしねェよ。前から思っていたがなあ、てめえの頭は使える。近頃、俺らみたいなのにも脳みそが必要でなァ」

 下卑た笑いを浮かべるその表情は、これ以上ないほど満足そうで。だからこそ、私ももう、受け入れることにした。

 分不相応な夢を抱いてしまった、愚か者。ただ、表も裏もある卑怯者でいれば、甲はならなかったのかもしれない。裏を捨て、表のみで生きて行こうとしたから、こうなった。

「まァ、とりあえずはオヤジに挨拶に行かねェとなァ。てめえがだまくらかしたオヤジによォ」

 ……どうやら、まずは先に、”ケジメ”をつけさせられるかもしれない。いわゆる、指を落とすというやつだろうか。

 まあ、これも噂で聞いた話でしかない。噂で聞いた話は、存外あてにならないものだ。芸能界と極道の関係もそうだった。

「くっはは、安心しろゥ。てめえが契約を反故したことは、オヤジは怒ってねェよ。てめえが守るとは、微塵も思ってなかったようだからなァ」

 もし怒ってるンだったら、今頃てめえはもうこの場にいねェ。煙草を吸いながらげらげらと笑う。

 言われてみると、そうだと思う。足抜けをしようとしただけで始末されかねない業界だ。思い至らなかったのは、やはり私が愚かだったからなのだと、つくづく思い知らされる。

『いいでしょう、今から向かわれますか』

「あァ」

 そう、社長が答えた時だった。先ほど、アタッシュケースを運んで行った男が戻ってきて、社長につげる。

「アニキ、客がきとりますが」

「……あァ?」

 いぶかしそうな顔を、社長はする。そうして、少し思案した後、

「通せェ」

 と言った。はい、と男は出ていく。

『お客人ですか。私は……席を外した方が良いですね』

「あァ、そうしろ。まァ、誰が来ようとすぐに終わるだろうよォ」

 社長は煙草の火を消して、灰皿へと投げ入れる。私はゆっくりと席を立った。

『では、隣の部屋でお待ちしています』

 そう告げた瞬間だった。

「その必要はない。君は、ここにいたまえ、Pくん」

 耳を疑った。あり得るはずのない声。振り返った。部屋のドア、開いている。

 まるで、一枚の絵画の様に、その開いた入口の所へ立っている男性が一人、いた。忘れるはずもない。

『なぜ、ここに』

「少し、君の社長に要件があってね」

 座ってよいかね? と社長は尋ねる。私にではなく、私の社長に、だ。そして、返事を聞くまでもなく、ゆっくりと座る。

「何の用だァ? さっき話したときでェ、全部終わったと思ったンだがなァ?」

 社長は不機嫌そうに――いや、むしろどこか満足そうにそう言った。そして、僅かに目配せをする。戻ってきていた男が、私の社長の後ろに立った。

「なに、単純な話だ」

 社長はそうして、手に持っていた鞄をどさり、と机の上に置いた。何やら重そうで、サイズもかなりの物だった。

「数を数えてくれたまえ。十分な数、あるとおもうが」

「ほゥ」

 私の社長はそう言って、鞄を開く。私は、目を疑った。中に入っていたのは、私が先ほど社長に渡したのと同じか……それ以上の額の、日本銀行券の束。

 そのまま、手早く数を数えていたようだったが――やがてぱたりと手を止め、ふん、と鼻で息を吐き出し、どかっとソファに腰を落とす。

「ちら、としか見えなかったがね。彼の背負っている借金を帳消しにするには、十分すぎるだろう。それに、彼の契約を買い取る補償金も上乗せしている」

 まるでどうと言うことはない、とばかりに、彼は言う。私は、呆然としている事しかできなかった。

 まるで目の前で起こっていることが、遠い異国で撮影されている映画の様に、ただ、他人事としか思えなかったのだ。

 いったい、意味が分からない。何のための金だ。まさか、私の借金を? いや、有り得るわけがない。私にそんな価値が――。

「てめえ、奴にこれだけの価値があると、本気で思ってンのかァ?」

「ええ、もちろん。でなければ、こんな大金を出す訳がない」

 私の考えを遮るように、豪放、と言うよりかは、柔和と言った方が近いだろうか。何とも落ち着いて、泰然自若とした様子で言う。

 その様子を見てなぜか、社長も、酷く嬉しそうな笑みを浮かべたように見えた。収まるべきところに収まった。そう考えているかのように、

「ハッ、だろうなァ」

 社長は笑ってそう言った。やがて、目の前に置かれたバッグを閉じる。また、目配せをすると、傍にいた男がやってきて、鞄を持って出て行った。

 彼は、ゆっくりとソファから立ち上がり、窓の方へと向かった。

 ポケットから煙草を取出し、咥えて火をつけた。かち、かちとジッポライターの音が響く。少し、煙を吐き出した。

「こいつァもう、用済みだァ」

 向こうの社長は、言った。そして、傍の社長用の机にあった、書類用のファイルから紙を取出す。私は、それに見覚えがあった。

 私の、借用書。私が彼から借りた金、その証明書。

 それを、社長は静かに丸めて、灰皿に置く。かちっ、とジッポライターの音が鳴って、社長用の机に、僅かに火が躍った。

「連れていけェ。もう、用はねえだろ」

 向こうの社長は短く、こちらを振り返ることもなく、言った。

「ええ、そうさせていただこう。一応聞くが……今後、彼らに手を出すことはないね?」

 こちらの社長が、ゆっくりとソファから立ち上がり、そう訊く。向こうの社長が、鼻で笑って、煙草をつまむ。

「あるかよ、そんなモン。一銭の金にさえなりゃあしねェ」

「それを聞いて安心した。では、失礼する。Pくん、行くぞ」

 何も、理解できなかった。ただおそらく、私が今、人生の岐路と呼ばれる場所にいるだろう事だけは、分かった。

 そして私は、何も言う事が出来なかった。呆けたように、ただじっと、そしてぼうっと立っているだけだ。

 現状を把握する事も、理由を尋ねる事も、何もかも放棄して、ただ身を任せている。どうも、私の頭の容量を、今日一日だけでオーバーしてしまったらしい。

 上手く頭が回らず、ただ、

「行こう、Pくん」

 再び私は、社長に促され、そして気が付けば外へと出ていた。酷く寒い。しかし、どこか春の到来を感じさせる日差しだ。

『……なぜ』

 ようやく、私は尋ねた。聞かねばならない。何のために、そして何が目的で。

 仮に、私の借金を肩代わりしたとして、そんな義理も、責任も、この目の前の社長にはないはずだ。

「なに、単純な話でね。君の借金を肩代わりしてくれる、という人がいたんだよ。無論私ではないがね」

『馬鹿な』

 絶句する。そんな数奇な人がいるわけがない。目の前の社長がそうでなければ、私にはそんな宛てもないし、心当たりもない。

 やがて、迎えの車らしき、黒いクラウンがやってくる。社長が軽く手を上げた。それに社長は、素早く乗り込んだ。そして、後部座席にスペースを空けながら、

「早く乗りたまえ。わっはは、置いていってしまうぞ」

 そんな風に、豪放な笑い声を上げて、手招きをする。半ば、放心状態のまま、私は車へ乗りこんだ。

 それからしばらく、車内は無言だった。日本車らしい、静かなエンジンの音が僅かに聞こえる。

 私は、何も言わなかった。そして社長も、何も言わなかった。まるで、私が何かを話すのを、じっと待っているかのようだった。

『社長』

「なにかね?」

 私は声を掛ける。それに、社長も短く答える。

『誰が、私の借金を』

 今、一番聞きたい答えだ。誰にも心当たりはないし、そしてそんな人はいないはずだった。

「着けば分かるさ」

 社長は少しだけ笑うと、運転手に急ぐように伝える。

「社長は相変わらず、人使いが荒いもんです」

「なにを言うかね。そう言うのは、社長室でふんぞり返っているような人間に言う物だ」

「はは、違いありません」

 その運転手は笑う。私より、少し年下だろうか。眼鏡をかけ、いかにも知的な雰囲気が出ている。お抱えの運転手なのだろう、と思った。

「相変らず、君は何でもしてくれるな。サイトの方は出来たのかね?」

「ええ、まあ。後は仕上げみたいなものです」

「やっぱり君は、なんでもしてくれる。二兎を追う者は何とやらというが、君を見ていると忘れそうになる」

「はは、恐縮です。ですが、忘れてもらっては困ります、社長」

「うむ、そうだな」

 社長と、運転手が交わす会話を聞きながら、私は一人、口を閉ざして、窓の外を見ていた。やがて、その景色が変わり、シンデレラガールズの社屋が見えてくる。

 ゆっくりと車が止まり、そして運転手が一言、”つきましたよ、社長”。

「うむ、では降りるとするか、Pくん。ああ、車はさっきの場所に止めておいてくれたまえ」

「はい、仰せの通りに」

 そうして、運転手は軽くこちらを見て、会釈をする。鈍い私は、そこに込められた意図を感じ取ることはできなかった。だが、少なくとも悪意ではない。それぐらいは分かった。

 私はゆっくりと、クラウンと扉を開ける。そして、空を見上げる。

 既に、夕焼けはビルの隙間からその残滓をのぞかせるだけとなっていた。街灯のいくつかは既に点灯しており、空には一番星が、見えた。

 そして、ゆっくりと、社屋の方を見た。誰かが、走ってくる。そして、私の胸へと、飛び込んでくる。

 それを、私は。

「Pさぁんっ!」

『……美波、さん』

 ふわり、と受け止めた。華奢な体だ。それに、震えている。いや、泣いているのだろうか。

 彼女――新田美波は、私の腕の中で泣いていた。恐怖しているわけではない。安心して、緊張の糸が途切れたかのように、だ。

「彼女だよ」

『……はい?』

 社長が、私を見て言った。彼女、とは何のことか。はじめ何のことか分からなかった。

「君の借金を肩代わりしたのは、その子だ」

 しかし、その言葉が、私の頭脳を硬直させた。意味が分からない。そんなお金が、彼女にあるわけがない。

 まさか、彼女のお父様に言ったのか。いや、そんな金があったとして、いくら娘の願いとは言え、私の為に金を出すはずがない。

 そんな、疑問が私の中に渦巻いていく。その疑問を解いたのは、やはり社長だった。

「彼女が言ったんだよ、Pくん。私が、借金を肩代わりします、とね。何とも無謀なことだよ、本当に。大人しい子だと思っていたが、いやはや、なかなか勇気と行動力があっていい事だ」

 まあ結局そんなお金を持ち合わせていないだろうから、私が現金を貸してあげることになったのだが。そう言って社長は豪放に笑った。

『そんな、美波さん。なぜ、そんなことを。それに、社長も。返ってくるかわからない大金を、こんな得体のしれない卑怯者に』

「……だって」

 美波さんは、涙を流し、私の服を掴んだまま、訴えるように言った。

「Pさんは、私を助けてくれました。それで、私を、支えてくれました。なのに、なのに、Pさんには、私、何もお返しする事が出来なくて」

 あのままPさんが、行ってしまうぐらいなら。Pさんを取り戻せるなら、私、なんだってします。美波さんはそう言って、私の胸でまた、泣き声を上げる。

 何という、お人よし。何という、純真。何という、慈愛。何という、愚直。

 打算に満ちた私の行動すべてが、そんな風に思われているだなんて。

 私の中で、何かが変わった。そんな気がした。スイッチが入った、と言うわけではない。今までなかったものが、何か填まったような。

 私に足りなかったものが、戻ってきた。そんな気がして。

『もし……。もし私が悪人で。それで美波さんを利用している人間だったらどうするのです』

 それでもなお、私は駄々をこねるように、ただ自分の変化を否定している。そんな資格はないのだ、と。

 その言葉を言って、同時にそれは自分のことではないか、と嫌悪する。そうだ、模試などではない。

 私は悪人で、美波さんを利用していただけの人間だ。

 そんな人間の為に、なんだって――。

「Pさんは違うっ! 本当はいい人で、そうじゃないと、私なんかを、そんなこと……っ」

 遮るように、美波さんは声を上げる。酷く、胸が痛い。彼女が泣いているから。彼女が信じているから。だから、余計に、きりきりと。

 誰だ、この善良な少女を泣かせているのは。ああ、もう、笑ってくれ、笑っている君が、一番きれいなんだ。

 そう思うと、なんだか、自分を否定する事さえできなくなる。ぴしり、と私の中で、完全に何かが壊れた音がした。

 壊れた……? いや、違う。殻を破った。それが相応だった。

「Pくんはきっと、これまで金の為に生きてきたのだろう。金を稼ぐため、金を手に入れるため、ひたすらずっと。君の本心がどう思おうと、目的を果たすために」

 社長が、私と美波さんの隣にやってきて言った。軽く、私の方に手を置く。とても、優しい手つきだ。

「目的は達せられた。君はもう、卑怯でなくてもいい。裏も表もあった君だが、もう、表はいらない。裏も、いらない」

 そして今度は、美波さんの肩に手を置く。僅かに、美波さんの体が震え、そして顔を上げた。

「君の本心を聞きたい。裏の裏、本当の表を」

 泣いて真っ赤になった眼と、私の目が合う。潤んだ瞳が、僅かに揺れていた。その透き通るような肌と相まって、やはり、彼女は、とても――。

『……泣き止んで下さい、美波さん。あなたに泣き顔は似合わない』

 その、綺麗な顔に濡らす涙を、親指で拭う。こういうのは、もうちょっと面のいい男がすべきことだとは思う。私では似合わない。

 中肉中背で、あばたのある、無愛想な男よりも、ずっとずっと似合う相手がいるはずだ。それは、百人に聞けば、百人がそう答える。

 ……それでも。

 しっかりと、その潤んだ瞳を見据えて言った。昔、ドラマなどで見た覚えがある。定番のシチュエーション。違うのと言えば、彼女はヒロインで、私は三枚目だと言う所。

 少し、胸が高鳴った。全く、二流脚本家の物語だ。こんな番組はきっと、売れない。そう、自分の中で嗤って誤魔化す。

 それでも、胸の高鳴りは収まらない。私らしくもなく、私の心臓は早鐘を打つ。

 今から行う事、それはつまり、盛大なプロポーズ、限りなくそれに近しい行為。私の思いの丈を、全て伝える行為。

 ああ、似合わない、不相応だとも。そう思う。いつもの癖だ、私は私を否定する。だが、それでも。思ってなおも、私は言うのだ。

 私の、裏の裏。自分で、自分にずっと隠し続けていた思い。

『あなたを、プロデュース、させていただけませんか。トップアイドルになる、その時まで』

 僅かに震える声で、そう告げる。打算も、何もない。私の本心。

 受けてくれないかもしれない。当然だ、だって、彼女にはひどい仕打ちをした。嫌われているだろう。

 それどころか、罵倒されても文句は言えない。何をいまさら、最低。ごもっともだ。私だってそう思う。

 それでも、私は望むのだ。それが、私が一瞬でも思い描いた、理想だから。スーパースターとなった彼女の隣に、影のように寄り添う私の姿。

 紛れもない、私の純粋な思い。叶わなくともいい、ただ、届け。そう思った――。

 彼女は泣きながら笑った。とても、美しい。思わず目を奪われた。この場で、抱きしめたい。そう思えるほど、その雰囲気ははかなげで、それでもとても強くて。

「私が、断ると思いますか……っ、Pさん」

 それで、私の言葉に、頷く。

 受けてくれるとは、思っていなかった。胸が、とても熱い。だが、心地の良い熱さ。幸せと言っても過言ではない、その感覚。

「泣かないで、ください、Pさん。Pさんには、笑顔が似合います」

 そう言われて、初めて私は、泣いていたことを知る。彼女も、まだ涙の跡を残したまま、ハンカチで私の頬を押さえる。

『いいのですか、美波さん』

「はい」

 美波さんは短く、しかし、確実にそう答えた。とても嬉しそうで、そして幸せそうだった。

「社長さん、私のプロデューサーの、Pさんです。……いいです、よね?」

 彼女は、少し離れたところで私たちを見ていた社長の方へと振り返り、そう告げた。僅かに、社長は笑う。

「願ってもない事だよ、新田君。Pくん、敢えて聞くことはない」

 社長は、ゆっくりとこちらへと歩いてきて、そしてゆっくりと手を差し出した。私の目の前に、しっかりとした意思を纏った手を。

 私も、何も言わなかった。ただ、私も手を差出し――その手をがちり、と掴んだだけだ。ぐっと、力がこもる。社長の手も、返すように力がこもった。

「シンデレラガールズへ、ようこそ、Pくん。我々は君を、歓迎する。中を案内しよう、入りたまえ」

 ゆっくりと、社長が社屋の中へと消えていく。美波さんは、私に寄り添うように、しっかりと腕を掴んだまま、共に歩く。

「もう、どこかに行ったりは、しないですよね、Pさん?」

『ええ、誓いましょう。私はずっと、美波さんの傍にいます』

 もう、寄りかかるつもりはない。たとえ、見上げる様な巨木になっても、私は美波さんを支えてみせる。

 いつの間にか、”Pさん”と呼ばれている事にも気づかず、私は言うのだ。

『いずれ、あなたに相応しいプロデューサーに、なってみせます、美波さん』

 美波さんはそれを聞いて、少し首を振って、笑う。

「今のままでいてください、Pさん。私は、今のPさんが大好きですから」

 その言葉に、僅か心臓が跳ねる。柄にもなく、顔が赤くなるのを感じた。いいとも、ではもっと、厳密に言ってやろうじゃないか。

『では、訂正します』

 一呼吸置いた。一人の人間として、彼女の隣に立ち続けるための宣言。そんな価値など、自分にはない。そんなことは、もう思いはしない。

『あなたに相応しい男に、なってみせます』

 美波さんは、少し驚いた様子で、それでとても嬉しそうに、ちょっぴり顔も赤らめて。

 どこか恥ずかしそうに、はにかみ、目を潤ませながら、笑う。ぎゅっと、私の腕を強く、掴んだ。

「――はい。ずっと、待っています、Pさん」

 おうい、何をしている。外はまだ寒い、風邪を引くぞ。そんな社長の声が聞こえる。

 私と美波さんは、少し顔を見合わせ、そして笑う。空を見上げた。一番星、ビル街の狭い夜空に、僅か見える。

『はい、今行きます。――社長』

 小さく、私は頷いた。ここで、これから私は、生きていく。

 裏も表もない、ただのプロデューサーとして。

今回の更新は以上です。
次回更新でおそらく最終更新となる予定です。近日中に行います。
二分割する予定でしたが、切りどころがちょっと分からなくなり、少し遅れてしまいましたことお詫びいたします。
それでは、ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

□ ―― □ ―― □




「Pさーん」

 私を呼ぶ声がする。聞きなれた声だ。艶やかで、品があって、優しい声。

「Pさーん?」

 足音が近づいてくる。ぱたぱた、というかわいらしい、スリッパの音も聞こえた。

「あっ、Pさんっ、いましたっ。いるなら、返事してくださいよ、もう」

『ああ、すみません、美波さん』

 ふくれっ面で抗議をする美人――新田美波は、私のデスクまで来て、そう言った。

「もう、お仕事に没頭していたら、全然返事してくれないんですから」

 そのまま、彼女はぷりぷりという擬音が付くように、かわいらしく怒る。私は少し苦笑をしながら、申し訳ない、と小さく告げる。

 ただ、それには一つ語弊がある。

『ご安心を、忘れてなどいませんから』

 私は確かに仕事に没頭すると寝食を忘れるが、この方、彼女の声を聞き洩らしたことも、予定を忘れたことはない。

 その上で、彼女の声を少しでも聞いていたいから、などと言うと、まるで小学生のような考えか。

 私は、目の前のパソコンの電源を落しながら、ゆっくりと立ち上がった。

『少し、涼しくなってきましたね』

 私は、共に歩きはじめた美波さんにそう、声を掛けた。

「はい、そろそろ衣替えの季節ですね」

 彼女は穏やかに、そして少しはにかみながらそう言う。

 ――もう、このプロダクションに来て、もうすぐ三年になる。私の年齢も、とうとう三十代になってしまった。

 プロダクションの規模は日増しに大きくなり、今では七人の有能なプロデューサーと100人を超える実力派アイドルを擁する、屈指のプロダクションと呼ばれている。

 おそらくは今一番勢いのある会社の一つで、シンデレラガールズ派なんて言う、ファン層まで居るぐらいだ。

 もっとも、その七人の中に私が入っている、というのはいくらかおかしな話ではあるが、ともかくとして、今でも私はこのプロダクションに居させてもらっている。

 ひとえに、それは美波さんのおかげであり、社長のおかげであり、同僚のプロデューサーたちのおかげだった。私は良い人たちに恵まれたのだ。

 そして……現在の私は、なぜかプロデュース部門の統括者を任されていた。このプロダクションの骨子である。全く、ぶっ飛んだ思考の持ち主である、社長は。

 もっとも、直接アイドルをプロデュースするのではなく、マネージャーやプロデューサー候補生、同僚プロデューサーの動向を管理し、円滑に業務を進めるための役職だった。

 だから、誰よりも多くのアイドルを管理しているといえたが、逆に言えば直接プロデュースしているアイドルの数は、同僚の中でも一番少ない。

 いや――より正確に言えば、私がプロデュースしたアイドルは、後にも、先にも、たった一人しかいない。

「Pさん、ぼーっとして、どうしたんですか? 遅れちゃいますよ?」

『ああ、すみません、美波さん』

 少しだけ私は笑い、僅かに左腕を上げる。その腕に、彼女はいつも通りと言わんばかりに抱き着き、少し恥ずかしそうに笑って私を見上げた。

 私は、ポケットに右手を突っ込んだ。感触が、二つ。そのうち、ごつごつした方を掴む。それは、少し大きくて、年季の入った車の鍵。

 それを取り出して、プロダクションの中のエスカレーターを下る。エントランスホールの裏にある通用口から駐車場に出ると、白い外国車が見えてきた。

 私の車、少し年季の入った、白のキャデラック。そしてかつて……比興プロダクションと呼ばれた、小さなプロダクションの社用車だったキャデラック。

「あの頃を思い出しますね、Pさん」

『そう、ですね。美波さんにはご迷惑をおかけしました』

「あっ、いえ、そう言うわけじゃなくて、えっと。……もうっ、意地悪は駄目ですよ、Pさんっ」

『はは、これは失礼』

 ゆっくりと鍵を差し込み、ドアを開ける。それなりにくたびれた車だ。だが、買い換える気はまだなかった。

 この車は、かつて社長、いや――私の、社長だった男に、借金のカタとして一度返した物だった。

 そして、私がこのプロダクションに来て一年後、私の手に戻ってきた。このプロダクションの駐車場に停めてあり、そして私宛に、鍵と書類の一切が届いたからだ。

 書類の中に紛れたメモ用紙、”呉れてやる”の文字は確かに、かつて私の社長だった男の物で。その後行方を捜したが、結局見つかることはなかった。

 風のうわさで、逮捕されたという話も聞いたが、結局のところはもはや何も、分からなかった。住む世界が違う、とはこういう事なのかもしれない。

 あの男の考えていたことは結局、何一つわかりはしなかったが……ただ、もしかすると私は嫌われてはいなかったのではないか。その思いが今はある。

(……本当の意味で、裏も表もあったのは、私ではなくあの男の方だったのかもしれないな)

 恩人というわけではないし、私を大切に使ってくれたわけでもない。むしろ私はあの男を恨んでいる。それでも――私に大きな影響を与えた存在ではあるのだ。

 もしかすると、かつての私が表裏比興であれたのは、あの男のせいなのかもしれない。

 だから良い意味でも、悪い意味でも、決して、彼のことを忘れることはないのだろう。

『それでは、向かいましょう』

「はい」

 車に乗り込んで、エンジンを回す。どるん、と重い六気筒エンジンの音が響く。かつて後ろに乗り込んでいた美波さんは、今は隣の助手席に座っていた。

 ゆっくりと流れ始める景色を尻目に、ぽつり、と零すように私は言った。

『長い、道のりでした』

 彼女も、小さく零すように、微笑んで。

「ありがとう、ございます、Pさん」

 そう言った。そして、私にこうも言うのだ。

「私、Pさんと出会えてよかったです」

 それは、私にとって一番うれしい言葉だった。私を求めてくれる人がいる。私を認めてくれる人がいる。それだけで、私は幸せなのだ。

 やがて、車内に静寂が訪れる。決して、気まずい物ではない。むしろ心地の良い静寂で、出来るならこのままずっと、ここに居たい。そう思えるもので。

 だからこそ、目的地に到着することが、酷く惜しい物に思えた。

『つきましたよ、美波さん』

「はい」

 見える、大きな会場。彼女の、最初で最後の単独ライブ。

 今日、新田美波はアイドル人生を終える――。

『これで、名実ともトップアイドル、ですね。美波さん』

「夢に見た、舞台です。本当に、本当に……」

 彼女は、言葉を詰まらせながら、笑った。

『美波さん』

「はい、なんですか、Pさん」

 彼女の名を呼ぶ。彼女も私の名を呼び返す。

『このライブが終わったら、お渡ししたいものがあります』

 そう告げる。

 彼女は少し驚いた様子で、私を見ていた。やがて、ほんの少しだけ笑う。

「……いやです」

『え?』

 少し、心臓が跳ねる。拒絶されたと、一瞬思った。それが間違いであることを、すぐに私は知る。

「今、欲しいです、Pさん」

『今、ですか』

「……Pさんは、もしかしたらそうは思っていないかもしれませんけれど」

 美波さんは、少しだけ恥ずかしそうに、はにかんだ。

「私、ちょっぴりわがままで、独占欲があるんです。だから、今」

 欲しいんです。彼女はそう言った。

 私は笑う。そして、左手をポケットに入れた。車の鍵が入っていたポケット。もう一つの、小さな箱。

『あまり、担当プロデューサーを舐めないでほしいですね。私は知っています。思ったよりも、美波さんは強くて、美しくて、可愛くて。そして思った以上にわがままで、意地っ張りで、小悪魔的で』

 だからこそ。私は言葉をつづけた。

『あなたに、惚れたんです、不相応にも、あなたと共に居たいと、思っている』

 その箱を、彼女の前へと差し出す。ゆっくりと、彼女はそれを開けた。短く、単純な言葉を、私は紡ぐ。

『新田美波さん。あなたに、結婚を申し込みます』

 告げる。答えは、短く、単純で、そして直ぐだった。まるで、今更それ以上の言葉は要らない。そう言うように。

「――喜んで、お受けします、Pさん」

 目に涙を浮かべ、頬を上気させながら、彼女は、そう言った。そして、その箱の中身――小さな、ダイヤの付いた指輪を、薬指へ。

「ようやく、パパに報告が出来ます。Pさんと結婚しますって」

『……酷く、恨まれそうですね、お父様には』

「そんなこと、ないです。パパは、Pさんのことを信用しています。いつ結婚するんだ、なんて言っていましたから」

『意外ですね。かつて、私の下から美波さんを引き離そうとした方だったのですが』

「あの時は、パパもPさんのこと、ほとんど知りませんでしたから」

 私たちは、笑った。

 何も変わらない会話。何も変わらない空気。何も変わらない関係。

 結局、私と美波さんは、これまでと変わらない。いや――。

「それよりも」

『はい?』

 美波さんは、少し怒ったように私を見る。何か、怒らせるような事をしただろうか。

「美波」

『え?』

「美波、って呼んでください。私は、Pさんの妻になるんですから」

 そんな風に、彼女は恥ずかしそうに、そして嬉しそうに。どこか噛み締めるように言う。私は、少しだけ、ほんの少しだけ緊張して。

『……み、美波』

 そう呼んだ。

「……っ、はいっ、美波はここです、Pさんっ」

 何とも彼女は幸せそうに、笑う。そう、変わったのは、それだけだ。

「それじゃあ、美波、行きます」

『ええ。成功を祈っています。――美波』

 彼女は、美波は、はにかんで車を降りる。そうして、変わらない笑顔で言う。

「Pさん。次は、私をどこへ連れて行ってくれるんですか?」

 私も、いつもと変わらない、しかし、笑顔で答える。

『どこへでも。美波が望む場所に。私は、常に傍にいます』

 彼女の表情が輝いた。そうして、ぐるっと、キャデラックの前を通って、運転席の方へとやってくる。

 彼女が、ドアを開けた。私の手を取る。目があった。刹那の事だった。ほんの数秒、いや数瞬。彼女と私の唇が、合わさる。

 気が付けば、はにかんだ表情の彼女がそこに居て。

 これ以上ないくらい、魅力的な笑みで。






「ずっと、一緒ですよ。Pさんが嫌だと言っても、離しませんからねっ? ……大好きです、Pさん」

 ええ、望むところです。私は、いつでも彼女の傍にいる。そしてあなたを助ける。私を、助けてくれたように。その笑顔に、私は誓うのだ。





 ――これが、表裏比興……いや、裏も表もなくなった、卑怯でもなんでもないただの三枚目。そして、私から表も裏も、なくしてしまった彼女の物語。

今回の更新で本作品は完結となります。
予定より1.5倍も分量が多くなり、非常に長くなったこと。
また定刻通りの投下に幾度か失敗した事、お詫びいたします。
それと共に、ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

また投稿の予定は立てておりますが、いつごろになるかは確約できません。
ですが、是非ともまた投稿をしたいと思っております、その際はまた、宜しくお願い致します。
それでは、今まで大変お世話になりました。このスレはHTML化の依頼を出しておきます。

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