モバP「五光年先の星空」 (251)

アナスタシアさんのSSです。
勝手設定+ご都合主義+視点変更(予定)あり。P視点のストーリー展開になります。
最低でも週始め、月-火曜には更新をする予定です。書き上げが早ければ週半ばにも行います。
以上の点にご容赦がいただけましたら、今回もお付き合いいただけると幸いです。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1381766103

 僕は天才と言う言葉が嫌いだ。えてしてそう他人を評価する人は、まずその評価相手のことをこれっぽっちも理解していない。

 なぜそう言い切れるか。それは、僕がそう言われて育ってきたからだ。彼らは無責任に僕のことを天才と呼ぶ。両親も、僕のことをそう呼んだ。

 もっとも、実際に僕は他の人よりも優れているとは思う。高校に入学するときには、もうすでに高校で学ぶ大半のことを習得していたし、大学に入っても特に苦労したことはない。

 そのせいか、天才という評価にいけ好かない奴、なんて評価までおまけでやってきた。そんなつもりはなかったんだけれども、人にはそう見えたらしい。

 当然、そうなると友人はおろか、思い出なんて物さえほとんどない。数少ない思い出は、大学三回生の時の、ロシア留学ぐらいだろう。

 国柄の違いか、あちらの人は僕のことを、天才という色眼鏡を通さず、しっかりと見てくれた。特に、向こうで出会った教授は、僕に親しい友人がいないことを慮ってか、良く気を掛けてくれた。

 彼は変わり者の教授で、向こうでは変人と専らだった。ありとあらゆることに精通し、日本のこともよく知っていたが、子供の様に好奇心旺盛で、講義のカリキュラムが予定通りに進むことはない。そんな教授だ。

 僕は幸いにも気に入られていたようで、毎晩のように教授の家へ招かれては、ウォッカ片手に気象観測や実験などを手伝わされた。

 日本へ帰国するときには、十年に一度の逸材と言われ、助手にならないか、と誘われたが、僕自身は研究者になるつもりは無かったので、丁重にお断りした。そんなロシア留学だった。

 日本ではそんな経験はほとんどなく、ただひたすら試験の勉強をして良い成績を取り続けただけだ。結果、大学を首席で卒業し、表彰までされた。

 だが、どうやらそれだけでは、社会では生きていけないようだ。それを知ったのは、人より遅れて始めた就職活動のことだった。

 ――君からは、気持ちを感じないね。

 あるとき、僕が企業の人事担当者から言われた言葉だ。正直に言うと、いまだにその言葉の意味は理解できない。

 気持ちが何の役に立つ、と僕は思う。必要なのは、どれだけ仕事をこなし、どれだけ成果を上げ、どれだけ業績を伸ばせるかだろう。

 結局、僕はその企業の面接で落とされたわけだが、他にも企業からの内定は腐るほどあったことだし、気にすることはなかった。

 そして、僕は国内でも有数の大企業に入社した。順風満帆な人生だ。いわゆる勝ち組、と表現されるだろう道へ、僕は足を踏み入れた。

 しかし、僕の道はそこまでだった。

 最初の頃、僕は精力的に働いていた。新しい環境、新しい仕事に、意欲的に取り組んだ。業績も、新人にしては異常なペースで積み上げて行った。

 だが、ある日突然、働く意欲がスーッと、無くなっていくのを肌で感じた。なぜここで働いているのか、その理由が分からなくなったからだ。

 結局、一年と経たないうちにその企業を、僕は辞めてしまった。上司からは慰留の説得を受けたが、なぜ自分が必要とされているのか、と言う事さえ僕にはわからなかった。

 その次に転職した企業も、その次も。時には一か月も持たず、僕は辞めることになった。そして、次第に僕の働く期間は短くなっていった。

 大学を卒業して三年弱で、すでに十を超える職を転々としていた。そんな自分を見ていると、何のために生きているのか、と思う。そして、僕にはその理由が分からない。

 人間五十年、と遥か昔の人は人生を表現した。その五十年の半ばを過ぎようとしながら、皮肉なことに僕は、自分で手に入れたはずの才覚を持て余している。

「君、ちょっといいかね?」

 春雨によって、葉桜が見え始めた桜並木のその下。多くの人が、新生活に心躍らせるこの季節に、陰鬱としてベンチに座っていた僕に、そんな言葉が掛けられる。

「……ふむ、酷く濁った眼をしているね。しかし、君はとんでもない宝玉のようだ」

 見ると、恰幅の良い、活気あふれる中年の男性だ。いったい何の用だろうか。思いながら、僕は胡乱な眼差しを彼へと向ける。

 ――彼が、次の転職先の社長になることを、この時の僕はまだ知らない。

本日の更新は以上です。導入部分のみになるので次回の更新は週半ばに行いと思います。
それでは、これからしばらくの間お世話になります。

 少し騙された気分だった、と言ったら語弊があるだろう。これを詐術としてしまうなら、間違いなく騙された僕が悪い。

 あの日は前の職場に辞表を提出した帰りで、鬱々とした気分だった。しかし、そのことを差し引いても、ろくすっぽ話も聞かず、その場で契約書にサインをするのはあまりにも軽率だった。

 なので、そんな社会人としてあるまじき行為をした僕に全責任があるのは自明の理である。悪質なキャッチセールスだったら、今頃数百万の請求書が僕のもとにやってきているに違いない。

 そんなことを思いながら、僕はいまだ新品同様にきれいな色スーツを着て、雑踏を歩く。

 結局、あの日声を掛けられた中年男性が何者なのか、今でもよくわかっていない。聞いたことと言えば、新設予定の芸能事務所の社長である事と、その事務所の名前だ。

 シンデレラガールズ・プロダクション、という名前の事務所だそうだが、生憎芸能に疎い僕には聞き覚えのない名前だった。

(まあ、新設されるんだから知らなくて当然なんだけど)

 その日の僕は、これ以上ないぐらいくらい楽観的であり、同時に悲観的でもあった。

 すなわち、新しい仕事がどの程度、自分をこの職に留めておいてくれるのかという、聞く人が聞けば、傲慢と受け取られること間違いない考えである。

 もっとも、僕にとってはかなり致命的な問題であるのも、間違いないことである。これまで職を転々としているが、能力不足や体調不良が理由ないことがその証左であり、同時にこれ以上なく厄介なことでもあった。

「今度は、三か月持つといいけれど」

 そんな呟きを零し、僕は駅前のタクシー乗り場へとやってくる。数人、すでに列をなして待っている人の後ろにつくと、ポケットからスマートフォンを取出し、予定を確認する。

 ――この日の十四時に、うちの社屋にまで来てくれ。

 あの男性はそう言っていたが、どうやら定刻通りに到着できそうだ。流石に今日から勤務日ではないとは思うが、初日から遅刻をするほど、常識を知らないわけではない。

 と、やがて自分の順番がやってきたのか、僕の目の前でタクシーの扉が開く。

『ええと、シンデレラガールズ・プロダクションまで。住所は――』

 タクシーの運転手へそう伝えると、扉が閉まり、タクシーが動きはじめる。

 僕は、ビジネスバッグのポケットへスマートフォンを仕舞い込むと、少しの間目を閉じる。駅からおよそ十五分の距離だ。大通りを進んで、少し支道へと逸れた場所にあるらしい。

 しばらくすると、いくつか道を曲がる感覚を感じ、僕は目を開けた。時間も丁度いい具合で、間もなく到着するだろう。

「到着ですよ、お客さん」

 そんなタクシーの運転手の声と同時に、僕はポケットの財布を取出し、支払いを済ませる。領収書を受け取ると、タクシーから降りる。

 そして、目の前にある建物をゆっくりと見上げた。四階建ての、ガラス張りが良く映える、小奇麗な社屋だ。

 事前に調べたところによると、社屋自体は完成していて、あとは調度品の運び込みと、併設される寮の完成を待つだけらしい。

『大きい……、のかな?』

 社屋を見て、僕はそう零した。疑問符がついてしまうのは、この社屋よりずっと大きい社屋を持つ会社で働いていたことがあるからだ。

 比べるものではない、とは思うものの、どうしても比べてしまうのは人間の性だろうか。

(まあそんなことは置いといて、とっとと入ろう)

 あっさりと僕は回転扉を潜り、中へと入る。特に気負いなどもなかったのだが――。

『……は?』

 僕は絶句する。

 このサイズの社屋だと、入ったところにはエントランスホールと待ち合い場所、そして受付が存在するはずである。

 だが、僕の目の前に広がっているのは――大量の書類が積み上げられた、一つのデスクだけだった。

 しばらく呆然としていた僕だったが、我に返ると、恐る恐るそのデスクへと近づく。すると、その向こうからがりがり、とペンを走らせる音が聞こえてくる。

『失礼します、どなたかいらっしゃいますか?』

 僕はデスクの向こうへと声を掛けると、次の瞬間、

「あっ、はいはい! います、いますよぉ」

 という声と共に、書類が崩れ、その向こうから若々しい男の姿が一つ、現れる。……ものすごく、悲惨な顔をしながらだ。

「ああ、せっかく積み上げた書類が……っ」

『大丈夫ですか』

「あっ、はい、大丈夫ですよ! それで、どのようなご用件で?」

 自分と同じかやや幼いように見えるその青年は、首から社員証を提げていた。

「あっ、申し遅れました、私、こういう者です」

 そういうと、彼はポケットから名刺を取出し、僕へと渡してくる。社交辞令的に自分も名刺を取り出すと、とりあえず交換をし、名刺ファイルへと滑り込ませる。

 ちらり、としか見ていないが、どうもプロデューサーの様である。誰かの管理をするには、いささか若すぎるようにもみえるが、新興企業だからなのかもしれない。

 ともかく、僕は事情を説明する。十四時に約束があったこと、社長にスカウトされて働くことになったこと。しかし、それを聞くと彼は、

「妙ですね、社長は今朝方スカウトの旅に出られて、帰るのはかなり先の予定ですけれども」

 と、やや小首を傾げる。

『いらっしゃらない?』

「ええ。西のほうへいってから北の方へ、アイドルとスタッフを捜してくると言い残して、カバン一つだけで行かれました。まあ、いつものことなんですが」

 プロデューサーは、少し苦笑をしながら、そう言った。

 やはり、騙されたのだろうか。あの契約書は、なにか危うい契約の契約書だったのではないだろうか。そう思った矢先だった。

「あなたが、Pさんですか?」

 唐突に聞こえた、女性の声。そちらを向くと、緑色を基調にした、フォーマルともカジュアルともいえない、独特の服を着た女性が居た。

 太く長い三つ編み髪を、横から胸のほうへたらした彼女は、ともすればこの事務所に所属するアイドルであると言われれば信じてしまうほど、綺麗な人だ。

「ちひろさん? まだ出社の日ではないはずでは」

「ええ、プロデューサーさん。ですが、社長から言伝を預かっていまして、今日は特別出勤なんですよ」

 ちひろ、と呼ばれたその女性は、プロデューサーに向けて少し微笑みかけると、今度は僕のほうへ向けて微笑んでくる。

「初めまして、ようこそシンデレラガールズ・プロダクションへ、Pさん。私、プロデュース部門の専属事務員である、千川ちひろ、といいます」

『……初めまして、Pといいます』

 千川さんは笑って、自己紹介をしてくる。僕は、それに対し簡素で形式的に自己紹介を返した。それから彼女は、少しばかり苦笑すると、

「話に聞いていた通りの方ですね」

 と、僕を見ながら評論した。少しばかり僕は眉をひそめる。あの社長はこの女性に、僕のことをなんと伝えたのだろうか。他人の顔色を伺うことをしたことはないが、少しばかり気に障る。

「ああ、気を悪くしないでください、Pさん。悪くは言ってないですから。……あぁ、でももしかしたら悪いのかな? うぅん……」

 どうも顔に出ていたのか、千川さんはまるでなだめるつもりがないような言葉を、なだめるように言った。むしろ、煽っている気さえする。

 少しばかり、こんな人が事務員でいいのか、と危惧するも、僕の問題ではないし、気にすることは無いと、問題に対して無視することにした。

「と、ともかく、社長からお聞き及びしたところ、今日から出勤とのことらしいので、社長が不在の間は、私が研修を受け持たせていただきます」

『……は?』

「どうか、なさいましたか?」

『今日から、ですか』

「はい、そう聞いていますよ、Pさん」

 ありえない、という感想がまず最初だった。ブラック企業や重労働企業に勤めたこともあったが、まだ履歴書も手渡していないし、内定式も済ましていないのに出勤という企業は無かった。

 何より、まだ何の仕事をするか聞いてもいない。これまでは何の仕事をするか、というのをきちんと聞いて、それに対する予習を済ませておくのが通例だった。

 どうやら、この企業はこれまでの企業とは、一線を隔する企業のようだ。無茶苦茶な勤務形態をにおわせ、エントランスホールで受付をしながら仕事をし、あまつさえ約束の日時に居ない社長。

 ……どうあがいても、良い方に一線を隔している、とは思えないが。

「……もしかして、聞いてらっしゃいませんでしたか?」

『ええ、十四時にくるように、とだけ』

「あの社長、またですか。本当、豪放というか、適当というか……」

「諦めましょう、ちひろさん……。あのぶっ飛び具合は、社長のいいところでもあるんですから」

「それはそうですけれど……」

 呆れたような様子の千川さんは、仕方がない、と言った様子で再びこちらを向くと、

「えっと、とりあえずPさん。本日がこのあとご予定はございませんか?」

 という質問を投げかけてきた。

『ええ、大丈夫ですが。……何か、業務があるのですか?』

「いえ、業務ではないですね。ただ、今後業務をこなしていくために、Pさんにはまず芸能事務所の事に関して、勉強をして欲しい、という社長のご意向です」

 この業界は少し特殊ですから、と少し苦笑を浮かべ、千川さんは言う。どうも、書類の整理から基本的な業務の一部始終まで教えてくれるようだ。

 なるほど、正真正銘の研修期間らしい。いまどき珍しいぐらい、しっかりとした基礎からの研修を行うようだ。

『わかりました、僕が契約書をよく読まなかったと言うのもありますし、予定通り研修の方をお願いします』

 どちらにせよ、予習してどうにかなるものではない、そういった先人の知恵と特異な人脈にに依存しがちな業界というのはたやすく予測は出来た。

(……まあ、まだ少しは保ちそうかな)

 この企業の限界は、まだ見えない。それでも僕は、やがて来るだろう終わりの時を思いながら、内心そう呟いた。

本日の更新は以上です。次回の更新は予定通り週頭の月-火曜に行います。
それでは、読んで下さりありがとうございました。

「おっ、良く来てくれたね、Pくんッ! 歓迎するよ!」

 研修が始まってから大よそ二週間ちょっと。この月もあとは下旬を残すのみになり、本格始動を間もなくに控えた、あくる日のことだった。

 シンデレラガールズ・プロダクションのプロデュース部に突如、大音声が響いた。その時、資料室で書類の整理をしていた僕は、その大声に一瞬体を震わせ、辺りを見回してしまう。

 そうして目が合ったのは――。

「いやあ、すまないねPくん。君をほっぽりだす形になってしまい、申し訳ないと思っているよ」

『……は、はぁ』

 何もない場所を、まるで水をかき分けるように、ずんずん歩いてくる壮年の男性――このプロダクションの主であり、僕をスカウトした社長その人だった。

「ところで、新人研修は終わったかね、Pくん?」

 大体二週間ほどで終わるプログラムだとは思うが、と豪放な笑顔を浮かべる社長に、僕は特に感情も、感想も出すことはなく、

『だいたい三日ほどで終わりましたよ』

 淡々と告げる。その理由は簡単で――大した研修ではなかったからだ。

 確かに、これまでの企業の研修に比べると幾分目新しさや煩雑さ、器用さを要求される研修の内容であったが、僕にとってはそれほど難しい物ではなかった。

 過剰な期待をしていたわけではなかったが、やはりと言うか、お世辞にもやりがいのある仕事、という物では無さそうだった。

 まだ飽きると言う事はないだろうが、こんな単調な事務作業なんて前の職場でも、学生時代にも浴びるほどやってきた。量は多いが難度はない。いわゆる面倒なだけの仕事だ。

 未だパソコンと言う物にはあまり慣れず、ここの四人のプロデューサーには一歩及ばないが、タイピング速度は一般人のそれを既に上回っている。……事務員の千川さんには、勝てる気はしないが。

「ほっほう、成程。やっぱり君は私が見込んだ通りの男だったわけだ。ふっふふ、はははっ」

 そんな様子の僕を見て、何故か奇妙な笑い声を上げる社長。満足げな様子だ。僕はその理由が分からず、彼に尋ねる。

『何がおかしいのですか、社長?』

 なんとなく気分の悪さを感じて、ややぶっきらぼうになってしまった。口に出した後でまずい、と思ったがその懸念は杞憂だったようで、

「いやいや、私の目も勘も、やはり当てになると思ってね。君ならこれぐらいは出来ると思っていたが、思い過ごしではなくてよかったよ。二週間は長いと思ったが、まさか三日とは!」

 そう言いながら社長は僕の背をバンバンと叩く。豪快と言えるその平手打ちは、ともすれば吹き飛ばされてしまいそうなほど強力で、一瞬息が詰まってしまう。

 そうして、ゆっくりと息をすると、気が付けば自分の目の前に社長の顔がある。一瞬びっくりし後ずさる僕だったが、社長はお構いなしにずい、と僕へと近づいてきた。

『……な、何です?』

「ふむぅ……。いや、少し考え事、そうだね……。ふむ、ふむ……」

 社長は、僕の目をじっと覗きこみながら、何やら考え込むようなそぶりを見せながら、時折自分で納得を何度も繰り返した。そして、少し静かになったと思った次の瞬間だ。

「……うむっ! 決めたぞPくん!」

 いきなり社長は声を上げ、僕の肩をがっしりとつかむ。そしてにっこりと僕に笑いかけると、突如僕が整理しているさなかの資料をひっくり返し始める。

『ちょっと、社長、一体何を……』

「これとこれ、あとはこれだな……。それと、この資料とこの資料、そっちの資料もだね。ああ、Pくん、そのクリアファイルをこっちへ寄越してくれるかい」

 突如始めた奇行のように見えたそれだが、恐ろしいほどに社長の声は冷静で、それでいて理知的だった。何より、資料を探る手つきが酷く手慣れている。

 僕は、その気迫に気圧され、手元にあったクリアファイルを社長へと手渡した。彼はそれをひったくるように掴むと、中から書類を手早く取り出し、そしてリストアップするようにクリップへとはさんでいく。

「うむ、いいね。これで出来上がりだ。Pくん、すまないがこの資料をコピーしてきてくれないか? 原本はそのあと、元の場所へ戻しておいてくれ」

『はぁ……。コピーしたものは、どうするのです?』

「ああ、それは君が持っておきたまえ。それと、しっかりと熟読するようにね」

 社長はそういって、僕の肩を再び、ばしばしと叩いた。また僕は一瞬息が詰まり、少しばかり咳をする。そうして、その咳が収まるころには、社長は意気揚々と去っていくところだった。

『……むちゃくちゃじゃないかな、あの人』

 別に糾弾するわけではないし、パワハラというわけでもないが、あの社長はどこか型破りというか、あまりスタンダートな方法は用いないように思える。

 それが、僕にとってはかなり危ういものに思える。定石というものはつまらない、などと言われることもあるが、それはその定石というものがもっとも安定して成果を上げることができるからだ。

 社長の型破りさは、まるで博打で生計を立てている人のような、不安定さを内包しているように思えてならない。

 安定して成果を出せないものに大きな価値は無い。偶然と奇跡で生きていけないのは自明の理だ。

『せっかく才能があるのに、もったいないな』

 小さく呟くも、僕が言ったところで何か変わるわけではないし、意味はないと思う。

 人に何か指図が出来るほど、僕は偉くはないし、驕っているつもりも無い。分はわきまえているつもりだった。

(それはそうと、この資料はなんだろうか)

 僕は、社長がかき集め、そして束ねた資料を一枚一枚めくり、そして眼を通していく。

 どうやら、とある小さなプロダクションの資料らしい。ぱっと見たところ、アイドルやタレントの人数はそこそこいるが、圧倒的に人員が足りていないように感じた。

 実際、この規模にしては実績のあるプロダクションのようで、社員の質を鑑みてもかなりのポテンシャルを秘めているように思える。

 社長はこのプロダクションを買収でもするつもりなのだろうか。そう思うも、

『……ともかく、コピーをしよう』

 僕はひとまず、眼前の急務を果たすため、資料室を後にした。

 ……僕の手に持つこの資料が、まさか明日からの生活を一変させるものと知らず。

本日の更新は以上です。少し短いですがご容赦をください。
次回の更新は、可能であれば週半ば木-金曜日を予定としています。
それではここまで読んで下さりありがとうございました。

『……全くもって、理解しがたいけれど』

 僕は知らず知らずのうちにそう呟いていた。それには大きな理由がある。

 ――社長がスカウトの旅から帰ってきた翌日、僕は社長室へと呼び出されていた。

 特に何かした覚えはないし、業務内容の理解はともかく、そもそもまだ研修期間が終わっていないので心当たりも無かった僕は、楽観と言えばおかしいだろうが、何の懸念も持たずに社長室を訪れた。

 そこで言われた言葉は、僕の耳を疑う――ついでに言うなら、社長の正気を疑うものでもあった。

「うむ。実は、君を採用して早々だが、とあるプロダクションに出向してもらおうと思ってね。本年度末まで、君にはそのプロダクションで身を粉にして働いてもらう」

 社長は、いつもの自由そうな雰囲気はどこへやら、至極真面目で真剣そうな表情を見せながら言う。とにかく、現状が把握できなかった。

 というよりも、そんな話聞いていないし、当然そんな予定があったわけでもない。これには流石の僕でも、理解が追いつかなかった。

『失礼ながら……。僕はまだ新入社員です。幾らなんでも、新人を出向社員に用いるのは少し常識はずれと思いますが』

 しばらく理解が追いつかなかった僕ではあったが、やがてゆっくりと、確認するように僕は抗弁する。無論、理由はそれだけではない。

 基本的に出向社員は、よほどのこと――事故や病気などがない限り、契約を解消して仕事を辞めることが出来ないのだ。当然といえば当然である。つまり、あっさり辞めることが出来ないのだ。

 酷く利己的な理由ではあるが、僕にとっては致命的な問題で、仕事への意欲を失ったまま働き続けるのは、僕にとってもこの企業にとっても、そして出向先の企業にとっても、何のメリットにもならない。

 だから、社長の翻意を促すために説得を試みたが――。

「もちろん、承知しているよPくん。だがね、私は君こそがこの任に相応しいと思ってね」

 どうやら、社長の意思は相当に堅いらしく、彼の中では僕が出向することは規定事項になっているようだった。

「それと、出向先のプロダクションから一名、スタッフを引き抜くことにした。今回の出向は欠員を補充する期間を設けるためのものだ。君を売ったつもりは無いが、そういう結果になったことは申し訳なく思う」

『……それは、まあ、大いに結構なことです。社員は企業の財産であり、交渉のカードになりうるものですから』

 本心からそういうことは出来ないが、僕を一時的に手放すことで、大きな駒を手に入れることが出来るのであれば、社長のやり方は批判できるものではない。

 特に、このシンデレラガールズは規模と資本金が大きいといえども、新興プロダクションだ。コネクションが重視されがちな芸能界にとってはかなり不利なのだから、人材の確保は急務である。

 きっと、引き抜かれた人はさぞかし天才的な手腕を持っているのだろう。得てしてそういった人は、在野や小さな企業に多く埋もれている。そう思って尋ねたところ――。

「いやあ、彼は類まれなほどの凡人でね。自分でもどうして彼を引き抜いたのか説明できんが、こう、ビビッと……、いや違うな、ティン、ときた、というべきかな。ともかく、こう感じるものがあったわけだ」

 ……なんとまあ、信じられないほど非論理的な答えが返ってきたので、この日二度目の閉口を、僕はしてしまった。

 そんな人を獲得するために、僕というカードは切られたのか。人によっては傲慢に聞こえるかもしれないが、僕としてはそんな人よりよほど仕事が出来る自信はあった。

 プライドが高いつもりは無いが、より劣る人材を獲得するために、より勝る人材を一時的とは言え手放す社長の考えが、僕には理解できず、

「まあ、それを差し引いても向こうのプロダクションは、君にとって利益になる。行ってくれるかね?」

 そんな社長の言葉に、何もかも考えることに疲れた僕は、気が付けば半ば操り人形のように同意していた。

「そうか! 非常に助かるぞ、Pくん!」

 社長のその言葉は、半分投げやりになっている僕にとってなんら心を高揚させることは無かったが、残念なことに、次の社長の言葉で僕の心はますます重く沈み込むことになる。

「ではすまないが、来月の頭……、要は明後日だね。早速向こうに出向してくれたまえ。あと、週終わりの午後勤務はこちらでの勤務になる。向こうでの勤務状況や方針のすり合わせのために、こちらに戻ってきてくれたまえ」

 僕は、そんな急展開のお陰で、めでたく三度目の閉口をすることになったのだった――。

『……全く、気が重いなあ』

 そんな出来事が数日前にあったばかりなのに、気が軽いわけもなく、僕は小さな雑居ビルの前で、そのビルを見上げていた。

 中小プロダクションという名前の芸能プロダクションで、社員数は僅か五名。社長を合わせて六名にもかかわらず、三十名近くのアイドルやタレントを抱える企業のようだ。

 挙句の果てに、どうやら営業担当の女性社員は産休を取っているらしく、結果広報を担当していた社員が急遽営業も兼務している、というありえないほどの自転車操業振りである。

(……びっくりなのは、その広報営業を担当している社員を引き抜いた社長だよ)

 正直なところ、もはや業務に支障をきたすどころのレベルじゃない人員不足である。いつ休みを取るのか疑問に思うレベルだ。

 傍から見れば、この中小プロダクションの人員を引き抜きに引き抜いて、吸収合併するための根回し工作のようにさえ見えてくる。ただ、社長は吸収合併をするつもりはないようだ。

 もっとも、シンデレラガールズ自体がいくつかのプロダクションを合併して出来たプロダクションであるから、これ以上は不要なのかもしれない。

 ともかく、今日から本年度末まではこの会社で働くことになるのだ。どんな仕事が割り当てられるかは分からないが、芸能プロダクションにおける実務は、初めての経験になる。

 それに関しての心配はない。研修が簡単な業務で、本物の業務がもっと難しいだろうことを差し引いても、ある程度こなせるだろう。

 強いて言うなら、年度末まで自分の意欲が持つかどうか、だ。極力無責任なことはしたくはない。持ってもらうことを祈るしかなかった。

(今はやるしかないな)

 内心で呟くと、僕は雑居ビルの鉄階段を登っていく。革靴がたてる、かん、かんという足音が雑居ビル内に響く。

 そして、階段を上り終えると、少しさび付いた扉が見えた。扉には”中小プロダクション”の文字だ。

 僕は少しばかり息を吐くと、ごんごん、と扉を叩く。インターホンさえないなんて、ややどうかしているようにも思えたが、それだけ資金繰りが厳しいのだろう。

 ノックして少し経つと、ばたばたという音が聞こえ、ドアノブが回る。そして、ぎぎい、という軋んだ鉄の音が聞こえ、中から現れたのは人のよさそうな、初老の男性だった。

「はいはい、おや、どちら様ですかな?」

『失礼します、シンデレラガールズ・プロダクションより、本日付で出向辞令を受け参りましたPと言います。御社の社長様はいらっしゃいますか?』

 その男性に向かって、僕は一礼をすると、別に用意をしているわけでもない口上をすらすらと並べ、自分が何者かを説明した。

 すると、その男性はにっこりと笑い、

「おや、これはまた、お若い方が着てくれたのですな。私がこのプロダクションの社長です、良くぞ来てくださいました」

 と、僕の手を取った。なんとなくだが、アットホームな職場ではあるのだな、と僕は思った。こういう少人数の企業ではそうなりがちなものだと、経営学の講義で聞いた覚えがある。

 もっとも、僕にとってはあまり関係のないことだ。ただのビジネスライクな関係のカードとして切られた存在なのだから、このプロダクションの雑用として働くしかないだろう。

『歓迎していただくことはありがたいのですが、ともかく仕事のほうに取り掛かりたいと思います。ご指示をいただければ、その通りにさせていただきますが』

 結局のところ、成果を残せなければシンデレラガールズとしても、僕としても、このプロダクションにしても意味のない出向になる。一刻も早く仕事に取り掛かりたいところだったが――。

「まあ、そんなに急くことはないでしょう。とりあえず、うちの社員を紹介しましょうかな。一年足らずとはいえ、うちの社員となってもらうのですから」

 思ったよりも、僕は歓迎されているのかもしれない。もっとも、だから何なのだという話ではあるのだが……。

『はぁ……。では、挨拶だけさせていただきます。それから、業務へと就かせていただきます。書類整理なり、資料作成なり、宣材製作なり、何でもお申し付けください』

 僕は少し困惑をしつつ、淡白な言葉でそう答える。出向社員である以上、人間というよりも道具として働いたほうが喜ばれる――。

 そのはずだと僕は判断して、社長に一礼をすると、迎え入れられた先にいた、仕事をしている三人の社員へ挨拶をして回り始めた。

 そんな僕を、社長は微かに苦笑し、少しため息をついて見ていたことを知るのは、だいぶ先の話だった。

今回の更新は以上です。またもや短い更新になったことお詫び申し上げます。
次回の更新は予定通り、来週の月-火曜日となります。台風にはお気を付け下さい。
それでは、読んでいただきありがとうございました。

「Pくん、こっちの資料は出来てる?」

『ええ、こちらに。次のグラビア撮影とその後の営業回り用の資料も纏めてあります』

「助かった、恩に着るよ! では社長、行ってきます! ……ああ、もしもし、今事務所を出た、すぐ迎えに行くから――」

 怒号のような、絶叫のような声を三番手プロデューサーがあげる。スーツの上着へ片方だけ袖を通し、もう片方の手には携帯電話を持って、そのまま事務所から出ていく。

 この事務所に出向してきてはや一週間。初夏の兆しがそろそろ見え始める季節となってきたが、よもやこれほどの業務量とは思いもよらなかった。

 業務自体は難しくないものの、いささかどころかとんでもなく業務の量が多い。良くこの業務量をこの人数の社員で回していた物だ、と感嘆の声さえ出そうになる。

 プロダクション全体としてみると、アイドルの仕事が多いわけではない。ただ、それに付随する事務的な書類が山積しており、それが雪だるま式に膨れ上がっていた。

 つまり、こなしてもこなしても増えていく上に、一銭にもならないような事務作業があまりにも多すぎるのだ。おまけに事務作業のマニュアル化がなされていない。

(まずは、書類の事務形態をマニュアル化しないといけないみたいだね)

 明らかに人手が足りていない。その状況で、洗練されていない事務形態なのだから仕事が一向に減らない。僕でさえ、人生で初めて残業をする羽目になったほど、仕事量は多い。

 無論引き抜かれた前任者がこの量をこなせるわけもなく、彼はともかく緊急度の高い仕事から、時間外労働をしてなんとかやりくりしていたのだという。

 それではこの企業の業績が上がらないわけだ。金になる作業に労力を割けない状況なのだから当然である。

(……本当、よくやるよ)

 僕は次なる資料の整理を始めながら、ちらりとデスクの向こう側のブースにいる、若い男を見やる。

 このプロダクションの稼ぎ頭であり、一番手プロデューサーと呼ばれる彼は、各地のアイドル養成所から応募されてきた候補生やスカウト、オーディション結果などのリストを、血眼になってめくっていた。

 およそ一千枚に上るだろうリストを、一枚一枚確認しては分別していく。挨拶したときは、なかなか鼻持ちならないいけ好かない男だと思ったが、仕事は出来るようだ。

「Pくん! 営業資料は上がるかい!?」

『少し待ってください、あと十分で上げます』

「すまない!」

 事務所の扉が勢いよく開くと同時に、今度は二番手プロデューサーが営業から戻ってくる。戻ってくるやいなや、僕に対して営業用の資料を要求する。

 僕はタイピングのペースを上げると、五分ほどタイプに没頭する。そして、資料を打ち上げると、印刷を開始し、その間に別の資料をホチキス止めする。

『上がりました、二番手さん』

「早いな、ありがとう!」

 中肉中背の彼は、青白い顔のままずり落ちそうになる眼鏡を直すと、冷めかかったコーヒーを一気にあおり、僕の元から資料をひったくって事務所から出て行く。

(……やっぱり、人手が足りない)

 どかっと椅子に座りながら、僕は息をつく。今でこそ僕は事務に専念しているが、今プロデューサーたちが受け持っている営業の仕事も、いずれはやらなければならない。

 そう考えると、僅かに背筋が凍りそうになる。仕事自体は難しくないが、数の暴力で押しつぶされる、というのは如何ともしがたいものだ。

 せめてもう一人事務員がいれば、と思うものの、経理担当さえいないこの状況下では、人員補充が出来るほどの予算編成が出来るわけがない。

 それにしたって、ただ事務作業が多すぎるだけが、業績の上がらない理由としては不適当だ。他にも理由があるはずである。

『手を広げすぎているのかもしれないね』

 書類を見ながら、僕は小さく呟く。この事務所のプロデューサーは三人だ。にもかかわらず、五十人以上のアイドルとタレントを擁している。一人頭二十人近い担当だ。

 これでは、一人に対する密度が薄くなりすぎる。せめて十人ほどに収めないと、業績が上がらないだけではない。業務超過でプロデューサーが倒れることだって考えられる。

 そうなれば、只でさえ人が足りないこのプロダクションは終わりだ。

『……まあ、難しいか』

 たかだか平社員がどうにかできる問題ではない。そもそも、出向社員の僕がこの企業の経営方針に口出しすることなど、もってのほかだろう。

 僕は二分ほど休息を取ると、次の仕事に取り掛かる。緊急度合いの高い仕事が終わっても、平常業務の書類や広報告知などは吐いて捨てるほどある。

 のうのうと休んでいる暇はないのだが――。

「ああ、Pくん。そろそろ休憩に入ってくれたまえ。あまりこんをつめてやるのは良くないからね」

 社長室から姿を現した社長が、そう告げる。いざ打ちはじめるぞ、とドキュメントを開いたばかりの僕は、なんとなく出鼻をくじかれた気がして、

『まだまだ仕事は残ってますから。僕だけが休息をとるわけには行きません』

 と、抗弁した。実際、プロデューサーたちが休憩を取っているところはめったに見ない。それなのに、出向社員の僕が休憩するわけには行かない。ところが、

「そういうわけには行かないんだよ、Pくん。そちらの社長さんとの契約でね、勤務時間と休憩時間はきちんと守って欲しい、と要請されているのでね」

 すこし困ったような表情の社長は、そうして笑うと、半ば無理やりにタイムカードのスタンプを押し、

「少しお茶にしよう、一番手君も飲むね?」

 と言って、一人いそいそと給湯室へと入っていく。

(暢気な社長だ)

 ご自身の会社が危ないんですよ、だなんて面と向かって言えればどれだけいいだろうか。だが、僕は分を弁えているつもりだ。そんなことを言っていい立場ではないのは承知していた。

 ともかく、社長じきじきの命令であるし、いたし方がないというのはおかしいだろうが休憩を取ろう。僕は立ち上げたばかりの白紙ドキュメントを閉じた。

「Pも休憩か」

 少し首を回すと、こき、こきと骨が鳴った。と同時に、背後から声を掛けられる。振り返ると、黄土色をした顔の一番手プロデューサーが、力なく笑っていた。

『大丈夫ですか、一番手さん』

「ああ、Pのお陰で何とか、ね。本来は俺がやる必要のある事務作業まで引き受けてもらってる。助かるよ」

 彼はどかっとソファにもたれかかると、天を仰ぎ、まるで列車が蒸気を吐き出すように、大きく息を吐き出した。

『お疲れ、ですね』

 僕は何気なく彼に言うと、一番手プロデューサーは天を仰いだまま苦笑し、眼を閉じながら言った。

「そりゃあ、二十人近くタレントを担当してるからな、ぎりぎりだぜ、ほんと。あー、疲れた……」

 いかにも喋ることさえ辛い、といった様子だ

『社長に直訴してはどうですか』

「んあ、何をだ?」

 僕は不思議に思いながら聞くと、彼も顔だけをこちらに向け、不思議そうな表情を浮かべた。

『担当アイドルの数を減らしてもらえば、負担も軽減できます。今のままではリスクだけが大きすぎて、メリットが少ないように思えますが』

 すると一番手プロデューサーは少しぽかんとした表情を浮かべ、そしてしばらくした後に少し吹き出して笑った。

「馬鹿言っちゃいけないぜ。好きでやってることなんだから、増やすことはあっても減らすことはないよ」

『しかし……』

「いけるさ、なんてったって俺だからな。この程度で潰れるわけない」

 彼は少し黄ばんだ歯を見せながら笑う。それが、僕にとってはどう見ても強がりにしか見えなかった。どう見ても自分の力を把握していない。そんな気がして、内心僕は失笑する。

(計画性がないというか、分を弁えていないというか)

 そんなことを考えているうちに、給湯室から社長がマグカップを三つ持って戻ってくる。つん、とココアの芳醇な匂いが、事務所の中に広がった。

「いやあ、彼のようには上手く淹れられないね。粉を入れて湯を注ぐだけなのに、どうしてこうも違うんだろうね」

 社長は苦笑すると、テーブルの上にマグカップを置く。甘いココアの匂いが鼻腔をくすぐる。インスタントのそれではあったが、最近のインスタント飲料もなかなかに馬鹿に出来ないようだ。

「ああ、あの人はこんな安物でも、不思議とおいしく淹れてましたね」

「こら、安物なんていうんじゃないよ」

「へへ、すみません」

 一番手プロデューサーは、死人のような顔でそんな軽口を叩く。僕は、その軽口を聞き流しながら、ふと気になったことを聞いた。

『あの人、とはどなたです?』

 すると社長は、少しばかり微笑むと、

「ああ、シンデレラさんに行った君の前任者だよ」

 やや嬉しそうに、そして懐かしそうに言う。

『前任者、ですか。うちの社長には、類まれなる凡人である、とお聞きしましたが』

 僕がそういうと、社長は愉快そうに笑い出す。

「はっはは、類まれなる凡人、か。うん、確かに彼は凡人だったね。そりゃあもう、とびきりの凡人だよ」

「いやぁ社長、あの人無しじゃ、今頃僕らはぶっ倒れてましたよ。こう、なんていうんですかね。縁の下の力持ちって言うか。必要なものを必要なときに間に合わせてくれました」

「うん、仕事が出来るわけじゃなかったが、不思議と彼には色々と助けられていたと思うよ」

『……仕事が、出来たわけではないんですよね?』

 懐かしそうに、そして嬉しそうに話す社長と一番手プロデューサーを見て、僕は怪訝な表情で二人を見る。

「ああ、あの人は仕事が速いほうじゃなかったよ。それこそ、今のPのほうが仕事はずっと早いんじゃないかなぁ」

「そういえば、彼が向こうに行ってから、有線放送を流していないね。たまには流してみようか」

 社長はゆっくりと立ち上がると、棚においてあったリモコンをいじる。そうして、少しすれば、事務所のスピーカーからゆったりとした洋楽が流れ始めた。

「ああ、一番手君。ココアを飲み終わったら、少し営業に出てきてくれないか。今日はそのまま帰ってくれていいからね」

「あ、ういっす。どちらに行けば?」

「ラジオ局と宣材撮影のスタジオにね。まあ、挨拶程度でいいから、そのあとは家に帰ってしっかり休みなさい。酷い顔だ」

「へへ、社長はよく見てらっしゃりますなぁ」

 へらり、と一番手プロデューサーは笑い、そしてココアをぐいと流し込むと、書類をカバンに突っ込み、

「そいじゃ、ぱぱっと行って来ます」

 と言い残して、事務所から出て行った。

「ふう。……全く、困った子だ」

 社長は少し微笑みを浮かべながら、やれやれといった様子でそう呟く。どことなく嬉しそうな、そんな雰囲気を感じたが、その理由は僕にはわからなかった。

「ところでPくん。仕事には慣れたかね?」

 ココアを一口飲むと、社長は僕にそう言葉を掛けた。

『ええ、まあ。これほど量が多いとは思いませんでしたが』

「そうか、それは良かったよ。何か気になることはあったかね?」

 社長がそう尋ねてくると、経営に口出しをすべきではない、という思いから一度、問題はないと口を開きかける。しかし、思いとどまれば、少し逡巡しながらも、

『……一先ずは、事務作業のマニュアル化が必要不可欠かと思います。決済に関して二度手間を要するものや同じ書類を二度使用する必要があったりしますので』

「ふむぅ……」

 社長はあごに手をやると、少し考えるそぶりを見せる。やがて少し笑いながら、

「そちらの社長より、P君が改善の余地があると思ったことに関しては、君の責任下において改善させてやってほしいと聞いているからね。それに関しては、君に全て委任しよう」

 そう社長は言う。今更ながら、うちの社長がかなりの根回しをしていることを知った。新人の出向社員にそこまでの権限を与えていいものか、と思ったほどである。

 社長の見る目が良いのか、それともただ単にばくち打ちなのか、それは定かではなかった。

『それと、可能であるならば人を増やすべきです。今のままでは、各社員の作業効率が落ちすぎて、むしろ人件費の無駄です』

「どういうことかね?」

『経営学、まあ机上の知識ではありますが――』

 僕はいくつかの例示を上げつつ、社長に説明をしていく。ともかく、今でこそ僕だけで仕事をやりくりしているが、この会社には営業と広報、事務のほかに経理と、最低でもあと四人必要だ。

 産休の社員が戻ってくるとしても、三人分の人件費が一気に増えるのは負担ではあるが、代わりにプロデューサーたちがプロデュースに専念できる環境を整えることが出来る。

 そうすれば、売り上げを作る存在であるアイドルやタレントのパフォーマンスも上がる。結果として収益は出るはずだ。いわばこの人件費は先行投資である。

 損して得を取れ、というわけではないだろうが、今期の赤字が来期以降の黒字に繋がる。人材は成長するのだ。才能を発揮できれば――たやすい。

「なるほど……。うむ、分かった。それについては適切な人材を確保してみよう」

 少しばかり渋るかと思ったが、思ったよりもあっさりと、社長は承認した。何か理由があってこの人数でやっているのかと思ったが、取り立ててこだわりがあったわけではなさそうだ。

「社長さんに、なかなか扱いづらい子だと聞いていたが、いやはや、このプロダクションにはもったいないほど君は優秀だね」

『……お褒めの言葉、ありがとうございます』

 僕は少しだけ頭を下げると、ゆっくりと顔を上げ、再び社長の目を見据えながら提言をする。

『もう一つ、僭越ながら申し上げますと』

「なんだね?」

『プロデューサー方の担当アイドルないしタレントに関して、担当する数を減らしたほうがよろしいかと。新しい人を雇い入れてその人に分担するなり、解雇するなり、手段はあると思いますが』

 極めて建設的な提案であると思う。プロデューサーの人数が増えるか、解雇をするならば、それだけ一人あたりの負担は減る。シフトを組めば、今のような働きづめの生活とはおさらばだ。

 そうすれば、プロデューサーもアイドルも、相対的にパフォーマンスが向上する。増益は間違いなく、設備資金や人件費に当てることも出来る。結果、経営は上向く。

 ぜひとも、今すぐするべきである。そう思っての提言だった。

「ふむ……」

 だが、社長はやや苦い顔をしながら、じっと考え込むようにしていた。そしてどことなくだが、何か得心いった、といった雰囲気でもあった。

『……なにか?』

「いや……。そう、だね。ううむ、なんと言ったらいいのか」

 少しばかり口を濁す社長は、少し逡巡したそぶりを見せ、やがてゆっくりと口を開く。

「……いや、やはりなんでもない。済まないね、気にすることはないよ。さ、そろそろ休憩は終わりだ、私も仕事に戻るかね」

 そういって社長は苦笑しながら立ち上がる。

『……カップは片付けておきます、社長』

「おお、すまないね。では、よろしく頼んだよ。少し出てくるから、もし外出することがあれば戸締りはしっかり頼んだよ」

 社長はそういい残すと社長室へと戻り、数分後には鞄を一つ持ってそのまま事務所から出て行った。

『……一体なんだったんだ』

 僕は小さく呟いた。何か社長の気に障るようなことを言ってしまったのかもしれない。そう思って僕は自分の言葉を思い返すも、残念ながら思い当たった節などまるでない。

 結局、その日はなんとなく集中できないまま業務を再開し、めでたく人生二度目の残業をすることになったのだった。

今回の更新は以上です。本当は昨日に更新する予定だったのですが、諸事情によりずれ込み申し訳ございません。
ひとまずは書き溜めが今回で消化されましたので、以後の更新は月-火曜日の定期更新になるかと思います。
それでは読んでいただきありがとうございました。

 それから、一週間ほど。

 週末の定期報告の為、シンデレラガールズ社屋へと戻ってきていた僕だったが、何やら話があるとのことで、応接室へと呼び出されていた。

 期限付き出向の件で何か問題でもあったのだろうか。僕はそう思っていたのだが、千川さんに聞いたところどうも違うらしい。

「なんだかアイドルのプロデュースに関して、緊急会議が開かれているそうですよ。それから、Pさんにもそのアイドルに関して意見を聞きたいようです」

 とは千川さんの言だ。僕の意見なんて参考になるものか、と思っていたが、社長命令に逆らうわけにもいかず、応接室のソファに座って静かに社長が来るのを待っていた。

 なんでも、今日は珍しくこのプロダクションのプロデューサー全員が集まっているらしい。かれこれ二時間ほど、会議室に籠りっぱなしだった。

『思った以上に……、ここは凄いんだな』

 ぽつりと、僕は呟いた。

 すでに本格始動して一か月ほど経とうとしている中、このプロダクションの影響力は日に日に増していっている。

 僕と入れ替わりに加入した一人に加え、さらに一人のプロデューサーを迎え、人材の質はますます高まっていた。

 特に、最後に加入したプロデューサーは、社長と知己の様なものであるらしく、すでにあらゆる方面にかなりの辣腕を振るっているという。

 この業界に入って長いとは言えないそうだが、万能度合いではこのプロダクション随一だろう。悔しい所だが、今のところ僕が勝っている点は事務処理の速さぐらいだ。

「Pさんも、プロデューサーとして期待されているようなのですから、頑張ってくださいね」

 そう千川さんに言われたが、実際問題僕がこのプロダクションに居られるのはそう長くない、と思っている。生憎、自分より優れた人間と張り合う、と言った熱血根性はまるでない。

 ついでに申しあげれば、誰かをプロデュースするなど御免こうむるお話だ。自分の面倒さえ満足に見れない人間が、他人の面倒なんてとてもじゃないが無理だと言うのは自明の理だった。

 こういう所が、学生時代に”お高く留まっている”と言われる原因だったのかもしれない。そう自分で思ったところで、性分を変えることが出来るわけもなく、僕は書類を鞄から取り出すと、

(……待ち時間に、少しでも業務を進めておくか)

 と、ペンを取り出しながら処理をしていく。僕がマニュアル化を進めた甲斐もあり、中小プロダクションの書類事情は改善の兆しを見せていた。

 正直なところ、最初の書類の量では週末の定期報告さえ難しい状況だった。我ながら、なかなかいい仕事をした、という充足感はある。

(こういう所が、モチベーションに繋がらないのが僕の欠点か)

 自分の周りに、身を削って働いている人間がいるせいか、分析や観察が出来るようになったと言うのは、あの中小プロダクションで得た数少ない物かもしれない。

 これが次の職で活かせればいいが――。そう思いながら、書類を読み進めているときだった。

「……ァ」

 かちゃり、という音とともに、そんな声が耳を通った。それに釣られるように僕は書類から顔を上げる。

 そして僕は、一瞬、息が止まった。比喩でもなんでもなく、本当に時間が止まったように思えた。

 純白。そう表現するに相応しい、何か。その何かは、形容できない。妖精とも、天使とも……ともかく、乏しくはないはずの僕の語彙でさえ、表現のしようがない、一人の少女。

 肩まで伸びた、シルバーのショートヘアは、純白の肌を一切邪魔しない、まさに透き通った氷の様な印象を伺わせる。例えるなら、誰にもまだ踏まれていない、早朝の新雪。

 そして何より、その白さと透明さは、明らかに日本人のそれではない。一目見るだけで、異国の人間であることは明白だった。

(外国人……? イロモノのアイドルも扱うつもりか、ここは)

 よくもまああの社長も、こんな博打をばんばんと打つものだ。その蛮勇ともいえる勇気は、一周回って評価に値するだろう。

 ともかく、目の前のこの少女がアイドル候補生だろうとそうでなかろうと、この部屋は先約がある。一先ず退散してもらうことにしよう。そう思い、

『Cute girl, here is reserved already. Do you have the wrong room? (お嬢さん、ここは既に予定がありますよ。お部屋を間違えていませんか?)』

 と、ぱっと思いついた英語で声を掛ける。外国人であれば何らかの反応があるだろう、と思ってのことだ。

 が、芳しい反応はない。僅かに首を傾げると彼女は、

「アー、すみません。ここ、Гостиная(ゴスティーナャ)……えっと、応接室、であっていますか……?」

 と、たどたどしい日本語で尋ねてくる。なんだ、日本語が喋れるのか。そう思った後に、僕は聞き覚えのある言語が紛れているのを聞いて、聞き返す。

『ああ、これは失礼。……お言葉からしてロシア人の方、でよろしいでしょうか?』

 かつてロシアに短期留学をしていた経験がこんなところで生きるとは思わなかったが、そう尋ねる。すると彼女は無表情気味だった顔を少し綻ばせる。

「Да(ダー).そう、です。ああ、いえ。半分当たり、です」

『半分……? なるほど、ハーフの方か』

 そうは言ったものの、まるでアジア人の特徴はなく、純粋なロシア人だと言われれば百人が百人そうだと納得するだろう。実際、僕だって納得すると思う。

 まあ、成長について良く聞く話では、スラヴ人の女性は早熟に対し、アジア人は晩成という説もある。そういう所で日本人の遺伝子が出てくるのかもしれない。

『ところで、日本語で話しても大丈夫ですか? 少しであれば、ロシア語も喋れますが』

 念のため、彼女に確認を取る。存外、母国語で喋れると言うのは、新たな環境に置かれた人間にとっては心強いことこの上ないことである。

 実際僕も、ロシア留学の時にはいくらか日本が恋しくなったが、件の教授は十数か国語をマスターしていると言う猛者だったので、その節でもお世話になった。

 しかしながら、珍しく他人を慮った僕の意思は結実することはなかった。

「アー、大丈夫です。頭の中は、ほとんどяпонский(イポンスキー)、アー、日本人ですから」

 ただ、言葉を考えるときはまだロシア語なので、と言う事らしい。取り越し苦労と言うわけだ。

(まあ、手間がかからないことはいいことだ)

 僕はそう思いながら、その段になってようやく、本題を思い出して彼女を見る。

『あー、さっき応接室を探していると言っていましたが、確かに応接室はここです。ですが、おそらく僕が先約とは思うのですが』

「そう、なのですか? アー、チヒロさんに応接室へ行ってください、と言われたのですが」

『千川さんが?』

「ダー」

 ますます謎である。とりわけ、千川さんは僕がここに居ることを知っているはずだ。あの敏腕事務員のことである、ブッキングなどあり得るわけがない。

 となると、社長辺りがまた何かよからぬことを企んでいるのじゃないか。そんな嫌な予感が、僕の中を駆け巡っていく。

(こういう予感とか勘は、僕は信じないのだけれど)

 非科学的、というつもりはないが、得てしてそういう物は当たった時の印象が強すぎて、外れた時のことは覚えていないと言うのが通例である。

 であるならば、この予感とやらも外れる目算が高い。そう思っていた矢先のことだ。

「おや? もう来ていたのだね、アーニャくん」

 がちゃり、と応接室のドアを開けて、のんびりそうな表情の社長が入ってくる。僕は広げていた書類を手早く片付けると、立ち上がり挨拶をする。

「ああ、気にするなPくん。座りたまえ、アーニャくんもこちらに」

 社長は僅かに笑うと、少し首を鳴らしながらどかり、とソファに座った。その隣へ、少し遠慮をしながらも、アーニャと呼ばれた少女は、ちょこんと座った。

「さて、良く来てくれたPくん。向こうの様子はどうだね?」

『ひとまずは事務作業の簡略化と回転率を上げることを提唱し、ご理解はいただけました。人員の増員にも快く了承していただけました、社長のご通達のおかげですね』

「それは良かった。君はやはり、溢れんばかりの才能があるようだ」

 ははは、と豪快に笑う社長は、言ってしまえばそこらにいる中年オヤジと大差変わらない笑顔を僕へ向けると、

「その調子で頼むよ。君がいる間に無駄な物を削ぎ落とし、整合性を取ればあのプロダクションも息を吹き返すだろう」

 と言って満足そうに眼を閉じる。そして、少し手を合わせると、指の腹を擦り合わせ、

「さて、定期報告もこれにて終了だ」

『はい、では――』

「これからが本題だ。君に意見を求めたい」

 その社長の言葉で、先ほど背中を駆け抜けて行った嫌な予感が、実を結んだ気がした。

(実は存外、というよりかなり、僕は不運なんじゃないだろか)

 内心の呟きを表に出すことはなく、僕は少しひきつった笑みをしながら、何でしょうと答えを返す。対する社長は、とてつもなくにこやかに、隣に座る少女を見ながら言う。

「彼女、アーニャくんを見て、君はどう思うかね?」

 一瞬面食らった質問ではあったが、客観的な意見を求めているのだろうか、と僕は思う。純粋なプロデューサーではない人間の視点も欲しいと言う事なのだろう。

『……子細を存じないので何とも言えませんが、少なくともしっかりとした人が面倒を見れば、一級の素材を有しているかと思います』

「やはり君もそう思うかね、Pくん?」

 はい、と僕が答えると、社長はぱん、と手を叩き、笑う。

「では、君に任せよう」

『はい、それでしたら……。……は?』

 あまりに自然な流れだったので、そのまま流しそうになった。が、よくよく考えてみると、どう考えても不自然以外の何物でもない。というよりも――。

『……あの、失礼を承知で申し上げさせていただきますと』

「うん、なんだね?」

『一体何を企んでらっしゃるのですか? 僕でなくても、というよりも僕でさえも社長の采配はぶっ飛んでいらっしゃると、自信を持って申し上げることが出来るのですが』

 いい加減にしてほしい、とは僕の文句でしかないのかもしれないが、馴れない業界に足を踏み入れた責任が僕にあるとしても、余りにも無茶が過ぎる。

 新人社員にいきなり出向させたり、その出向先でかなりの裁量を任せたり、挙句の果てにプロデューサーとしての勉強などしていないにもかかわらずアイドルを任せようとする。

 この程度のことで僕がパンクするとは思えないが、余りにも矢継ぎ早に物事が進みすぎている。まだ一か月少々しか経っていないのだ。

「企んでいると言えば、企んでいると答えるしかあるまい。ただ、内容を教えることはできないがね」

 社長は、まるで悪戯を思いついた子供のような、意地の悪い顔をしている。行動力と活気にあふれている分、さらに質が悪い。

「まあ、どうしても無理というのであれば、それはそれで仕方がない。他の人間に任せるとするよ」

『……なぜ、僕なのか。それだけはお聞かせ願えませんか。僕が適任である、という根拠ぐらいは、許されると思うのですが』

「ふむぅ、そうだね」

 社長は少しだけ考え込む素振りを見せ、そして僅かに笑う。

「いくつか理由はあるが、一番大きいのは、君がロシア留学の経験がある、と言う事だね。彼女は、まあ見てもらえればわかるが、ロシア人の父君と日本人の母君を持つハーフでね」

 日本語が話せるし、理解できるとはいえ、母国語が少しでも話せる人間の方が良い。そんな、もっともな理由を社長は教えてくれた。

 無論、そのことは先ほど彼女自身から聞いたことでもあるし、僕自身の実体験でもあるので納得せざるを得ない。せざるを得ないのだが――。

(なんだか、釈然としないな)

 何やら騙されているような、そんな気さえしてくる。初めて社長と会った時、口車に乗せられ、契約書にサインした時を思い出す。

「まあ、いきなりは無理か。ふむぅ、しかし、見込みが外れたな。どうした物か」

 僕が考え込んでいると、ぼそり、と呟くように社長が言う。まるで、僕にわざと聞かせた。そんな感じだ。普段なら気にも留めない挑発のような呟き。

 ところが、この時の僕は考えることが山積していたせいもあって、その呟きに不覚にも、少しイラついた。

(まるで僕の能力をもっと高く見積もっていたような口ぶりだ。……僕ではできない、とでも言いたいのかな、この人は)

 僕は、誰よりも僕の能力を高く買っている。誰にも評価されるようないわれはない。そんな、高慢にも似たプライド故に……、愚かであると思いつつ、僕は餌に食いついてしまった。

『良いでしょう、やって見せます』

 気が付けばそう言っていた。その瞬間、社長がしてやったり、という顔をした、気がした。……思い返すだけでも、少し腹立たしいのだが。

「そうか、引き受けてくれるか! いやぁ、Pくんならそう言ってくれると信じていたよ!」

 社長は、持っていたファイルから手早く何枚か紙を取り出すと、最近はやりの、芯を使わないホチキスとやらでパチン、と止める。

 そしてそれを僕の懐へと押し付ける。まるで予期していたかのような動きだ。

 じゃあ、これ彼女の資料だから、しっかり読んでおくように。諸々の手続きは任せたまえ。方針は基本的に君に任せよう、ではね。

 そんな、さんざん言いたい放題言って、社長は去っていった。残されたのは、呆然とするしかなかった僕と、何もわかっていなさそうな少女が一人。

 社長に渡された資料をじっと見る。名前はロシア語で書かれており、”Анастасия”と書かれていた。

『アナスタシア、か』

 小声で、確認をするように言うと、それが聞こえたのか、アナスタシアさんが返事をする。

「ダー、お呼びになりましたか、えっと……」

『ああ、自己紹介がまだでしたね。Pと言います、アナスタシアさん』

「P……? アー、プロ、デューサーで、よろしいのですか」

『……うーん、まあ、そうなるのでしょうかね』

 半ば無理やりとはいえ、こうして担当アイドル、もとい候補生がついてしまった以上、プロデューサーという立場になってしまった、というのは間違いない。

 いきなりのことで驚いている反面、また新しい仕事が増える事への期待を感じているのも事実だ。

(もう少しは、持つのかな)

 心中でそう思う。まあ、そこそこのアイドルくらいには、すぐなれるだろう。楽観八割、慢心二割と言ったところか。

「ヤー、では、プロデューサー。よろしく、です」

『……こちらこそ、宜しくお願いします、アナスタシアさん』

 ともかく、やるだけはやってみよう。やらずに文句を言うのは、愚か者のすることだ。僕は、ほんの少しだけ愛想笑いを浮かべると、アナスタシアさんを連れて、応接室を後にした。

今回の更新は以上です。ギリギリの更新となり、申し訳ございません。
次回の更新は、来週の月-火曜日の定期更新までに一回、可能であれば行う所存です。
それでは、読んでいただきありがとうございました。

以下追伸
作中でPが多少ロシア語の心得を持ち合わせているのは、勝手設定の一つとなっております。
更新中ほどの英文は、翻訳機に掛けただけですのでおかしいかもしれません。
以上の点をお許しいただければ幸いです。

『……というわけなのですが』

「いやぁ……。なんだろうね」

 週末の休日を挟んだ、週頭の出勤日。僕はアナスタシアさんを連れ、中小プロダクションへと出勤した。そこで、朝一番に出勤をしていた社長と鉢合わせたわけなのだが……。

「君の前任者も言っていたが、そちらの社長さんはぶっ飛んでらっしゃるようだ」

 僕は、朝早くからアナスタシアさんのことについて根掘り葉掘り聞かれていた。その理由は至極単純な物で、諸々の手続きは任せろと言っていた社長が、一切の連絡をしていなかったことにある。

 僕としては、当然のことだが社長のほうから連絡が行っているものだと思い込んでいたのだが、まったくの音沙汰なしだったらしい。

 強いて言うなら、外のポストに一通の封筒が入っていて、一時的な契約権委譲を通達する旨が書かれているだけだった。

『……まさか、僕も連絡が来ていないとは思いもよりませんでした』

「まあ、私としては異論ないよ。Pくんが体を壊さないのであれば、それでいい」

『無論です。僕はそうたやすく倒れるほどやわではありませんから』

 そういうと、半分僕の陰に隠れていたアナスタシアさんを前に押し出す。

『一応、ご挨拶を、アナスタシアさん』

「……ダー。Здравствуйте(ズドラーストヴィチェ)、アー、こんにちは、社長さん。お世話になる、アナスタシアです。アーニャ、と呼んでください。あの、よろしくお願いします」

 そういうと、ぺこりとアナスタシアさんは頭を下げる。中身は日本人寄りだ、と自分で言っていたが、なるほど一応の礼儀だとか、挨拶は理解できるらしい。


「おお、アナスタシアさん、いや違うね、アーニャさんか。いい名前だ、そのお名前からすると、ロシアの方かな?」

「ダー、半分、そうです。ママが日本人で、パパがロシア人です」

「なるほど、日露ハーフだね。日本語もなかなか上手いし、まだ若いのにしっかりしているね。それじゃあ、しばらくの間よろしくお願いするよ、アーニャさん」

 そういうと、にっこりと社長は笑い、少ししみのある、しわの多い右手を差し出す。それを見ると、アナスタシアさんは、ぱあ、と顔を輝かせ、

「……っ! ダー、こちらこそ、よろしくですっ」

 クールで物静かな見た目に反して、嬉しそうな表情で言う。初対面というのは、幾ら人と会うことに慣れた人間であっても緊張するものなのだが、彼女も例外ではないのだろう。

 それがまだ年端も行かない少女であればなおさらである。しかも、入社間もない新人で、プロデューサー経験のない人間が担当なのだから、不安もひとしおだ。

 もっとも、僕としてはそう思われるのは致し方ないと思いながらも、少し納得行かないものがある。プライドが高いつもりはないが……。

 ともかく、いきなりこんな立場になったことに関しては、僕に責任はないはずだし、傲慢ではあると思うが知識さえあれば僕はそつなくこなせると自負していた。

『ひとまず、アイドル候補生を預かってしまった身です。プロデューサー方はいつごろ出勤なさいますか、社長? 色々と教授していただくことがありそうですので』

 僕は、感動的な社長とアナスタシアさんの握手に水を差しながら、社長に尋ねる。とにもかくにも、先人の知恵というものが重視される業界だ。

 誰かをプロデュースするには、実際に誰かをプロデュースした人に教えを請うことが一番だろう。この点においては、一日の長がある先輩プロデューサーに聞くのが一番だ。

 餅は餅屋に聞け、である。そのつもりでたずねたのだが……。

「うむ? 確か今日は一番手くんが出張で、二番手君三番手君ともに、中部へバラエティの遠征だから、明後日までは来ないよ」

 彼らの担当アイドルもこの二日間はオフでね、という社長の言葉のお陰で、残念ながらこの数日の予定は、早くも頓挫しそうである。

「私が教えられることであれば教えるが。何を聞くつもりだったのだい?」

 僕は、即座に断ろうと思った。プロデューサーならともかく、社長に聞くことは何もないと思ったからだ。もちろんのこと、馬鹿正直にそう言うわけにも行かなかったので、

『いえ、社長のお手を煩わせるわけには行きません。うちの社長からも、粗相はないように、と言付けを承っておりますし』

 と、もっともらしい理由を述べて断ろうとしたのだが、

「はは、遠慮はせずともいいよ。泣かず飛ばずだったが一応、こう見えても昔はプロデューサーだった頃もあってね」

 と謙遜と受け取ったらしくそのまま強引とも言えるままデスクへと座らされ、プロデューサー研修のようなものが始まった。

「そうそう、アーニャさん。住むところのあてはあるかね? シンデレラさんには大きな寮があると聞いていたが」

 研修を始めて間もなく、そういえば、と思い出した様子の社長は、いささか手持ち無沙汰げにソファへ座っていたアナスタシアさんにそう尋ねる。

「ニェト、ないです。アー、社長さんは、お金は出すから君が決めなさい、と言っていました」

「ふむ……?」

 寮があるのになぜ、という疑問を浮かべていた様子の社長ではあったが、何か思いついた――漫画的に言えば、ぴこん、と頭の上に電球が付いた表情で僕のほうを見る。

「そうだね、簡単な研修が終われば、Pくんが一緒についていって、決めてあげなさい」

『……僕が、ですか?』

「そうだとも。君ならいいところを見繕ってくれると、私は思うぞ。ついでに保証人にもなってあげなさい」

 などと、軽い調子……というわけではないが、まるで子供にお遣いへ向かわせるかのような口調で社長は言った。

『失礼ですが……。赤の他人である僕が、保証人になるのは流石に問題かと思いますが』

「心配無用だ。外国人の身元保証人は赤の他人でもいいからね。保証人の信用に問題がなく、書類さえ揃っていれば入管もとやかくは言わない」

 どちらにせよ、未成年だから親御さんの許可とサインは必要不可欠だがね、と社長は笑う。

 それであれば別に社長でもいいのではないか、と思ったが、形式上は在籍中とは言え、いずれはシンデレラガールズへと戻るアナスタシアさんの保証人には不相応なのかもしれない。

 そういう意味では、僕も不相応であることは否めない。まあ、そうなったらそうなったで、寮にでも移ってもらうしかないだろう。

「そういうわけだ、アナスタシアさん。あとでこのプロダクションの案内をしてあげよう。それまでは少し待っていてくれるかな」

「ダー、分かりました。спасибо(スパスィーバ)、社長」

 少し微笑むと、アナスタシアさんはそのままソファに座ったまま、じっとこちらの様子を見ていた。

(面白いわけでもあるまいに。……不思議な子だ)

 不思議というには少し御幣があるだろうか。表情の振れ幅が小さいわけではないが、クールな見た目とポーカーフェイス気味な表情のせいで少し、何を考えているのかわからないところがある。

(……まあ、僕も似たようなものか)

 自画自賛というわけではないが、僕はそれなりに冷静沈着であるように思う。もちろん絶対にうろたえないというわけではないが、あまり感情というものは外に出さない。

 会社の歯車となり、仕事をするにあたっては、感情は不要である。出したところでいいことはない。もちろん例外もあるだろうが……。

「よし、じゃあささっと終わらせてしまおう。君ならハイペースに進めても問題はなさそうだね」

 社長はそういうと、適当なタレントの資料を取り出し、それを例にしてプロデューサーというものがどのようなことをするのか、ということを一から教え始める。

(……へえ)

 驚いたことだが、どうやらこの社長は本当にプロデューサーとしての経験があったらしい。無論、プロダクションを立ち上げるわけだからまるでない、というのはあり得ない。

 それにしたって、意外と有能なのだ、と彼の教えを聞いて、そう思った。しかし、幾つかは僕の理念、考えとかけ離れたものもあると感じた。

「であるから、プロデューサーというものは、タレント、あるいはアイドルにとっていかなる時も味方であってやらねばならない。そのためには自分の身を犠牲にしてでも、ね」

『……どうでしょうか』

 僕はそう呟く。この教えも、そうだ。アイドル然り、タレント然り、そしてプロデューサー然り。その全ては会社に帰属するものであり、会社の財産だ。

 もちろん損失は避けなければならないが、一部の損失のためにより多くの財産を消費することはいかがなものか、と僕は思う。

 僕のような新人ならともかく、優秀でたくさんのアイドルを担当するプロデューサーが、その身を犠牲にしてたった一人のアイドルを救うことは、会社にとって大きな損益ではないのか。

 その疑問を僕は、社長へとぶつけた。

 すると社長は、じっと僕の眼を見ながら、やがて少しだけ笑い、

「はは……。まあ、なんだろうね。こういっては、君の気を害するかもしれないが――」

 そこで一息つくと、どこか哀れむような表情を見せながら言う。

「君は、”気持ち”というのかな。情熱とか、意思とか、その類。それを全然持ってないんだね。まるで……、そう、ロボットだ」

 その言葉に、僕はどこか肺腑を衝かれたような息苦しさを覚える。かつて、就活の時に言われた言葉と、遜色ない言葉。それは、微かな怒りと、やるせなさを呼び起こす。

 理由などは分からないが――少なくとも、良い物ではないのは確かだ。

『……気持ちが』

 詰まった何かを取り除こうと、嗚咽を繰り返すような喉の動きを繰り返し、僕はようやく言葉を紡ぎ始める。

『気持ちが、なんの役に立つというのです?』

「役に立つよ、間違いなく」

 そんな、ようやくひねり出した僕の問いかけを、一蹴するように社長は断言する。表情に、いつもの優しさの欠片はどこにもない。

 断固とした、酸いも甘いもかみ分けた、先人の顔。その眼は、射抜くように冷ややかで、それでいて僕に同情している。まるで、我を通そうとする子供を見る様な目だ。

「……研修はここまでにしよう。最低限のことは、理解できたね?」

『……一応は、飲み込めたと思います』

 僕は、未だ上手く言葉が出ない中、ようやくそんな言葉を吐き出した。それを耳にすると社長は、

「非情かも知れないが、君にはこれ以上教えられることはない。教えても、無意味だろうからね」

 苦笑と共に息を吐き出すと、ゆっくりと社長は立ち上がり、いつもの笑顔で、

「ココアでも、飲むかね? 淹れてあげよう」

 と言い、給湯室の方へと向かい始める。

『……いえ、結構です。アナスタシアさんの、住むところの、件もありますし』

 社長と同じように、ゆっくりと立ち上がると、鞄を引っつかみ、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。一刻も早く、この場から離れたい。僕の思いはそれでいっぱいだった。

『……アナスタシアさん、行きますよ』

「アー、待って、ください、プロデューサー!」

 そんなアナスタシアさんの声が聞こえたが、僕は顧みる事はない。ともかく、事務所から離れたかった。僕はやや乱雑に扉を押し開けると、逃げるように外へと出て行った。

 恥をかかされたわけでもない。論破をされたわけでもない。ましてや、怒られたわけでもない。

 僕に非はない。僕の考えは間違っていない――。

 そんな自信を持っているはずなのに、僕の心の中には暗い、冷たいしこりの様なものが、ずっと蠢いていた。

本日の更新は以上になります。週半ばに更新できなかったことが痛恨の極みです。
私事ではありますが、来週の中ごろより数日家を離れますので、今週は最低でももう一度更新する予定です。
来週頭の定期更新の次は再来週頭になりますので、ご容赦いただけると幸いです。
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました。

「どうか、したのですか、プロデューサー?」

 一時間ほど経って、適当な賃貸不動産屋から出てきたとき、アナスタシアさんが言った。

『……何がですか、アナスタシアさん?』

「アー、その」

 少し口ごもると、アナスタシアさんはやや遠慮がちに口を開く。

「……プロデューサー、さっきから元気、ないです。……社長に、怒られたですか?」

 そんな風に、少し心配げに僕を見てくる。こんな幼い子に心配されるとは、僕も落ちぶれたものである。もっとも今の僕は、自分でもそう言われても仕方ないほど落ち込んでいる。

『怒られては、いませんよ。ただ、少し考え方違うだけの話です』

 僕は、さっきまでの社長との問答を思い返しながら、苦々しい思いを吐き出すように言う。

 実際のところ、あの社長が中小プロダクションという、小さなプロダクションの社長でしかない以上、必ずしも彼の考え方は正しいといえない。

 それでもなお、僕が彼の言葉に衝撃を受けたのは、その意見があまりにも自分とは別次元の考え方だったから……だけではない。

 かつて面接官に言われた言葉と、社長の言葉が重なり合う。今さらになって、その言葉に込められた意味を感じ始めていた。

(……企業が求めるのは、才能を持つ人間じゃないのか?)

 僕は、自問を繰り返す。企業は利益を求めるものだ。であるならば、利益を出せる才能を欲しているはずだ。

 もちろんそれは職種にもよるし、企業の性質にもよる。ただ結局のところ、資本主義市場である以上、利益を上げられない企業は消えて行く運命だ。

 篤志家でもない限り、無能に支払う賃金はない。より才能を持つ人間が選ばれ、才無き者はその才に見合った職場にまで、水準を下げる必要がある。

 にもかかわらず、この企業は純粋に才能を欲していないように思える。そしてそういう企業が、社会には存在している。つまり、才能は企業にとっての絶対条件ではないのだ。

 僕は自問する。もし才能が絶対ではないのであれば、何のために才能を磨いたのか。

『……ああ』

 そもそも、”そこ”からじゃないのか。

 ――僕は、”何のため”に才能を磨いていたのか?

 何かになりたかったわけではない。誰かの役に立ちたいと思ったこともない。いや、それ以前の問題で、何がしたいのか、何が出来るのかも、僕は分かっていなかったのではないか。

 ただ、才能を磨いただけ。その用い方は、学ばなかったのではないか――。

「……プロデューサー?」

『ああ、いや。なんでもありませんよ、アナスタシアさん』

 少し考え込んでしまったが、ともかく今はアナスタシアさんの住居を探す必要がある。ほっぽりだして思考の海に沈みこむのは、責務を果たしているとは言わないだろう。

 僕は少しだけ愛想笑いをする。笑う、という行為にはあまり慣れない。強張った笑みしか、僕は返すことは出来ない。

「アー、変わらない、ですね」

 ふと、アナスタシアさんがそう呟いた。一体何のことだろう、と僕は思い、

『……何がですか?』

 そう問いかける。すると、アナスタシアさんは、ほんの少し微笑む。僕の愛想笑いなどとは違う、これが微笑みというべき笑み。

「ニェト、ふふ、何でも、ないです。プロデューサー」

 彼女は僅かに言葉を濁し、僕を見上げる。

「行きましょう、プロデューサーっ」

 そうしてアナスタシアさんは、機嫌がよさそうに少しスキップをして歩く。歩幅の小さなその歩みは、ゆっくり歩いている僕でさえ追いつけるほどで。

(……やっぱり、小さいのだな)

 僕は、少し先行するアナスタシアさんを見ながら、内心で呟いた。大人びた子ではあるが、見た目はまだ幼さが残っている。

 仮のプロデューサーとして、彼女を庇護することも僕の仕事だ。それを、僕は社長から命じられた、と思っている。

 そして、その責務はなんとなく、形容しがたい何かが僕に強要している。そんな気がしていた。

 少なくとも、僕が彼女の面倒を見ている間は、しっかり配慮をせねばならない。

『アナスタシアさん、そんなに急がなくても――』

 そう言って、彼女を追おうとした刹那、何か頭の中をフラッシュバックが覆う。断片的な情報。

 暗い夜、新品の望遠鏡、満天の星。

 僕はそれを、知っている――?

(なんだ……?)

 それが何か、僕は分からない。分からないが。

(何か、大切なものの気がする)

 思い出そうとするも、僕は何も思い出せない。僕は、彼女を。

(……ああ、駄目だ。やっぱり、さっきのが尾を引いているのかな)

 僕ともあろうものが、情けない。シャキッとしなければ、笑われてしまう。

 小さく息をつくと、ゆっくりとアナスタシアさんを追いかける。じりじりと、頭痛のようにひり付く既視感を抱きながら。

本日の更新は以上です。短いですが、次回も短くなるかと思います。
次回更新は月-火曜日の定期更新ですが、もしくはもう一度今週中に更新をするかもしれません。
それではここまで読んでいただきありがとうございました。

 ――早く、早く!

 そんな声が響く。少し高い、少年の声だ。

(ここは、どこだ?)

 僕は、見覚えのない場所にいた。少し小高い丘の上、透き通るような空に散らばった、宝石のような星。

 まるでプラネタリウムの中にいるような、そんな錯覚さえ思わせるほどの、見事な満天の星空だ。

 そこに、小さな影と、大きな影が一つずつ。飛び回るように動く小さな影と、ゆっくりと動く大きな影は、やがて小高い丘の上にやってくる。

 僕はそれを、少し遠くから見ていた。

(夢、か)

 それにしては、やけに現実味な夢だ。まるで、映画を見ているような、そんな気分になる。

 ――急がなくてもいい。星は逃げないよ。

 今度は、そんな低い声が聞こえる。僕はその声に聞き覚えがあった。

(……親父?)

 確かにそれは、僕の親父の声だ。では、この少年は僕なのだろうか。

(いや、こんな覚えはない)

 生憎、僕はこんな場所に連れて行ってもらった記憶はない。幼少のころならまだしも、少年は小学生ほどの声だ。であれば、僕が忘れているわけがない。

 それに……親父は、こんなところに僕を連れて行ってくれるような人間ではない。遊びどころか、外食さえ数えるほどしか行った覚えはないのだ。

(……やっぱり、ただの夢か)

 小さくため息をつく。実際はついていないのだろうが、あまりにも明晰すぎる夢のお陰だろう。

 そしてゆっくりと眼を閉じる。意識がやがて、ゆっくりと沈んでいく。夢の中なのに、眠りに落ちる様な感覚。

 ――アー、どれが星座です?

 刹那、声が聞こえた。今度は甲高い声だ。消えそうになる意識が覚醒し、僕は眼を開く。そして、小さな影と大きな影を見る。

 小さな影は、少年ではなく少女になっていた。そして大きな影は――。

(僕……?)

 そこに居たのは、紛れもなく、僕だった。僕が僕の顔を誤認していない限り、そこに居るのは間違いなく僕だ。

 ――アー、звезда(ズヴェズダ)、星がいっぱいです。大三角形、どれですか?

 ――慌てなくていい。まずはピントを合わせよう。

 ――ダー、ここを、回すのですね?

 ――そうだよ。それと、大三角形は星座じゃない。

 ――そうなの、ですか? 勉強になります。

 一体、何が起こっているのかわからない。その少女は、間違いなくアナスタシアさんで、その男は間違いなく僕だ。

 その二人が、親しげに――少なくとも、僕とアナスタシアさんの関係であれば、ありえないほど、仲の良い会話を繰り広げている。

(一体、何、が……)

 何が起こっているのかは分からない。分からないが少なくとも……これは、夢なのは間違いない。

(あ、もう、無理、だ)

 一度は戻ってきた意識が、再び沈み始める。

 睡魔に襲われるように、僕は深い深い海へ沈むように、闇の世界へと身を任せた――。

『……う』

 僕はゆっくりと目を開ける。少し黄ばんだ白い景色に、小さな蛍光灯が一つ、ジジジ、と何かをあぶっているような音を立てて明滅している。

 耳に入ってくる、微かに流れる洋楽と、鼻腔をくすぐる甘い香りが、なんとなく妙な調和をかもし出していた。

 僕はゆっくりと身を起こすと、少し眼を瞬かせ、周りを見る。一瞬記憶が思い出せなかったが、どうやらここは中小プロダクションのソファだ。

 やがて、ゆっくりと昨日の記憶を思い出していく。あの後、アナスタシアさんの住居のあてを幾つかつけたところで、いきなり彼女がそこへと住めるわけがない。

 なのでとりあえず、この数日間は近所のビジネスホテルに泊まってもらうしかないだろう、という判断から、ひとまず経費で数日分の部屋を取り、僕は事務所に戻ってきた。

 逃げるように事務所から出てきた手前、少し気まずい思いがあったのだが、幸いというべきなのか、それとも社長が気を利かせてくれたのか、社長は不在だった。

 少し姑息なことではあると知りつつも、僕はそれに安堵し、そして僕は僕の責務をこなすため書類の決裁をやり始めた。

(……寝すぎたみたいだな)

 溜まりに溜まっていたのか、業務は深夜に及んだ。その為仮眠を取ったのだが、すでに時計は朝の九時を指している。たっぷりと、五時間余りも寝てしまったらしい。

 ここの所、睡眠が足りていなかったのかもしれない。ともあれ、仕事をせねばなるまい。そう思ってゆっくりと立ち上がったのだが……。

「アー、доброе утро(ドーブロェ・ウトゥラ)、プロデューサー。ココア、飲みますか?」

 スタンバイ状態で待機させておいたPCを立ち上げると、その声で顔を上げる。そこには、給湯室からちょこんと顔を出している、アナスタシアさんの姿があった。

『ああ、おはよう、アナスタシアさん。こんな早くからどうかしましたか』

「ちょっと早く、起きました。でも、することもないです。なので、プロデューサーに会いに来ました」

 そういうと、彼女は少し微笑んだ。そういう趣味はないとはいえ、一瞬ドキッとさせられるのは、人間としての本能か。

『あ、ああ。そうですか……。それは、嬉しいですね』

 僕は、その笑顔に対し、どう応えるべきか悩む。何というか、純粋な屈託のない感情を向けられるのは、久しぶりだったので、上手い対応ができない。

(それに……)

 僕は、先ほどまで夢の中で見ていた情景を思い出す。明晰夢はすぐに忘れてしまう物らしいが、どうやらこの夢は起きた後も記憶が持続するらしい。

 そのせいもあってか、妙にアナスタシアさんに対して違和感、というか、形容しがたい微妙な感情を抱いてしまう。

 もしかすると、どこかでアナスタシアさんと会っているのかもしれない。そう思うが、残念ながら記憶はない。

 もっとも、あの夢の前半部が存在しえない物であることを考えると、アナスタシアさんの夢も僕の中で作られた夢なのだろう。どうしてそんな夢を見たのかは知らないが……。

「どうかしましたか、プロデューサー?」

『……ああ、いや』

 じっとしたまま微動だにしない僕を心配したのか、給湯室から僕の方へととことことやってくると、いつの間にか彼女は僕の顔を覗き込んでいる。

 その彼女に愛想笑いを返すと、

『なんでもありませんよ。ちょっと今日のことを考えていたもので』

 そう誤魔化して答えた。とはいえ、実際に今日は予定が詰まってはいる。方便として借りた、というのが正しいだろう。

「ヤー、今日は何かあるのですか」

『ああ、はい。とりあえず、アナスタシアさんのプロデュース方針を固める為、とりあえずはレッスンを受けてもらおうと思いまして』

 そう言いながら、僕は書類を一枚プリントアウトする。それは、これからレッスンを受け持ってもらうトレーナーのいる、レッスンスタジオの詳細を示した書類だ。

 中小の社長と、シンデレラの社長が推薦したトレーナーが偶然にも合致したのだ。この近辺ではかなり優秀なトレーナーが在籍しているらしい。

 すでにシンデレラガールズが買収契約を結んでいるようだが、シンデレラガールズの併設スタジオが完成していないため、大半のアイドルはまだここでレッスンを受けているそうだ。

「ここに、行くのですか?」

『ええ、アナスタシアさんの準備が出来れば、すぐにでも向かうつもりです』

「アー、分かりました」

 アナスタシアさんはそういうと、少し笑い、

「その前に、プロデューサー」

『どうかしましたか?』

「ココア、いりますか?」

 そう言って再び、訪ねてくる。僕は、少しだけ苦笑をすると、いただきます、と言った。

本日の更新は以上です。告知の通り、週半ばに自宅より離れる要件がありますので、次回の更新は来週頭になります。
代わりに、普段の倍は更新する予定ですので、ご了承いただけると幸いです。
それでは、ここまで読んで下さりありがとうございました。

 その週の終わり、定期報告の為シンデレラガールズへと舞い戻っていた僕は、案の定というか、社長室へと呼び出されていた。

 僕が何かをした覚えはないのだが、どうも社長は呼びだすことが癖なのか、それとも何か目的があるのか、個人での面談を行うことが多いようだ。

(それを差し引いても)

 僕は会議からまだ戻らない、主が不在の部屋の中で待ちぼうけを喰らいながら、黙々と思考を積み重ねていく。

 別に文句を言うわけではないが、余りにも僕は呼び出しの回数が多い気がする。実際、定期報告は千川さんに提出するだけで良いときもあった。

 強いて社長に直接渡す必要はないのだ。であるなら、僕に何を求めているのか、社長から聞き出す必要がある。

 そう思っていると、ガチャリと社長室の扉が開き、

「やあやあ、すまないねPくん。少し会議が長引いてね。ま、それはどうでもよろしいので座ってくれたまえ」

 と、部屋の主が戻ってくる。その促しを受け、僕は傍にあったソファに座ると、

『では、本日の呼び出しの件について、お話を伺いたいのですが』

 と、早速本題を切りだす。

「そうだな、まあ、どこから話したものかと思うが」

 社長は少し思案をすると、考えをまとめ始める。そして、それがまとまったところで、

「アーニャくんの様子はどうだね?」

 と、世間話を始めた。僕は内心、早く本題を話してほしいと思いつつも、

『先日よりレッスンを始めましたが、素人目に見ても動き、歌唱力、見た目と一級品ではないかと思います』

 と答える。実際、僕のプロデューサーとしての経験が皆無に近しいことを差っ引いても、彼女の才能はなかなか抜きんでているように思える。

 特に、そのクールなヴィジュアルとは対照的な、人懐っこい性格のギャップは、多くの人間の庇護心を駆り立てるのではないだろうか。

「ふむ……。それで?」

『それで、とは?』

 僕は社長の問いかけに対し、問いを投げ返す。世間話であるなら、これで終わりのはずだと、僕は思っていたのだが――。

「彼女は、どこまで行ける? 君は、どこまで彼女を導いてあげられるのかね?」

 その問いかけで、この話が決して世間話ではない、と言う事を僕は知る。

 その不意打ちともいえる問いかけに、僕の頭は一瞬混乱をしたが、すぐにそれを鎮静させると問いかけを咀嚼し、しっかりと噛み締め、そして答えを構築する。

『……間違いなく、彼女はトップアイドルに出来るでしょう。経験が豊富な人間であれば、その期間はもっと短縮できます。僕であれば、早ければ二年、長くても五年でしょうか』

 僕としては、それが満点の答えだ。乏しい経験ながら、知識だけはしっかりと頭に放り込んでいる。網羅されたそれを取り出し、整理し、そして並べた結果の回答。

 間違いのない答え。そのはずだった。

「……出来る、か」

 やや不機嫌そうな表情の社長は、やがてため息をつき、

「君が言うのなら、間違いなく君自身はそう思っているのだろう。ならば、せいぜいがんばってくれたまえ」

 どこか諦めたような、投げ出すような言い方だった。そして、もう下がってもいいといわんばかりに立ち上がり、社長デスクへと座って書類を読み始める。

(……腑に落ちない)

 まるで期待外れ、といったような様子だ。僕は完璧な答えを返したはず……。幾らなんでも、納得がいかない。

『お言葉ですが社長』

 僕は意を決し、声を上げる。

「なんだね、Pくん?」

『僕の考えに間違いがあるのであれば、容赦なく言っていただきたいのですが。それが無理ならご指示をください。そうすれば――』

「誰よりも能力を使える、といいたいのかね?」

 社長は、僕のほうをじっと見ながら、冷たい声で言う。今まで聞いたことのないような声に、思わず怯みそうになる。

『ええ、僕にはその自信があります』

 だが、怯むことはしない。こんなところで怯むほど、僕は弱くない。何をすべきか、指示をされれば、僕ほど才能を扱える人間はいないはずなのだ。

「……残念だが、君に指示をすることはない。正確には、意味がない、といったところだろう」

 社長は、やれやれといったような表情でため息をついた。

「今の君は、言っては悪いが何の役にも立たん。まあ、一度任せたのだ、とりあえずアーニャくんに関しては、君の契約が切れるまでは任せよう」

 その言葉に、僕は一瞬目の前が真っ暗になる。事実上の、戦力外通告をされた。僕にはそうとしか思えなかった。

「期待はしていないが、頑張ってくれたまえ」

 よく考えて、この先行動するように。社長はそういうと露骨に、出て行け、とばかりに手を振った。

『……失礼します』

 僕は震える声のままそれだけ言うと、社長室を後にする。

(ありえない、僕が不必要のわけが……?)

 社長に言われた言葉が、ぐるぐると頭の中を廻る。

 これまで、慰留されたことはあっても、不要といわれたことはなかった。そして、少なくとも僕はまだ、不要と言われるほどのミスをしていない。

 社長の意図が、そして社長の行動が理解できない。何より、今の僕に何か不満があるならば、それを改善させるのが上司の義務ではないか。

 それをしないにもかかわらず、僕を不要だと断じる。それは、どう考えても受け入れがたい。少なくとも、僕は受け入れるつもりはなかった。

(……くそ)

 屈辱だった。そして、少なからず僕の矜持が傷つけられている。もっとも、それに耐えられないわけではない。

 しかし、それに耐えてまでここで働く意味があるのか――。そう思っていたときだった。

「おっ? Pじゃないか。どうしたんだ、そんなに頭に血を上らせて」

 そんな声が掛けられる。ふと見ると、書類をめくりながら歩く、一人の男性。

『……どうも、プロデューサー』

 僕は少し頭を下げる。最後にシンデレラガールズへ入ってきたプロデューサーだ。しかし、すでに社内業務の中枢を担っている上に、すでに担当アイドルはデビューの見通しが立っていると言う。

 僕と、何が違うのだろうか。なんとなく、そう思った。

「カッカしてるのは、社長に呼び出しを喰らったからか」

『……ええ』

「……あー、話ぐらいだったら聞くぜ」

 そういうと、プロデューサーは自販機でコーヒーを二本、買う。その片方を僕へと放り投げると、自分は書類を小脇に挟み、プルタブを開ける。

 そして、半分ほどをぐいっと飲むと、

「で、何を言われたんだ?」

 彼はそう、言った。僕は、何も喋らず、じっと缶のプルタブを見つめていた。

 それから数分、静寂がその場を支配する。

「まあ、言いたくないなら、言わなくていい。……ああ、これは独り言なんだが」

 残ったコーヒーを飲み干して、空き缶を傍のゴミ箱に放り込む。そして、彼は言葉を続けた。

「もうちょっと、自分を出したほうがいいな。何のためにお前がここに来たのかは知らないが、もっと利己的になっていいと俺は思う。少なくとも――」

 そこまで言うと、遠くから彼を呼ぶ声がする。顔を上げると、セミロングヘアの女性だ。見覚えがある。彼の担当アイドルだったように思う。

「俺は、とんでもなく利己的この上ない理由で、プロデューサーってものをやってる。業界のタブーに触れながら、な」

 何か理由を見つけてみろ。彼は、少しだけ笑った。そして、

「ああ、今いくぞ、茄子!」

 彼は担当アイドルの名を、とても嬉しそうに呼びながら、彼女のほうへと小走りで向かった。

 その様子を、僕はぼーっと見ているだけだ。遠くで、彼の腕に抱きつくその女性の姿が見える。プロダクションの商品に、何をさせているのか。僕はそう思った。

 ――業界のタブーに触れながら、な。

 彼の言葉が反芻される。ありえない。真っ先に浮かんだのはその言葉だった。

(素人の僕でも分かる禁忌じゃないのか)

 担当アイドルに手を出している。もしそうなら、大問題だ。そして、それを社長は許容しているのか。いや、知らないのかもしれない。

 どちらにせよ、由々しき事態だ。社長に即、注進すべき事案である。そう思って、立ち上がろうとする。

 ――次のお仕事は、どこですか?

 ――そうだな、就職フェスタのトークショーなんてのが来てるが、どうする?

 ――あっ、いいですね♪ 私の幸運を、皆さんにおすそ分けですねっ♪

 ――頼もしいな。じゃあ、受けることにしようか。

 ――はいっ!

 なぜ、そんなに生き生きとしているんだ。あなた達のしていることは、プロダクションを裏切る行為なんだぞ。

 喉元まででかかったその言葉は、ついに言葉になることはなく。震える手で握ったコーヒーの缶を空き缶入れへ叩きつける。

 そして、僕は鬱屈した気持ちのまま、シンデレラガールズ・プロダクションを後にした。心の奥から湧き出す、苛立ちと焦慮を溜め込みながら。

本日の更新は以上です。今回の更新は二回に分ける予定ですので、次回の更新は明日の夜半になります。
その後の更新予定は未定ですが、週半ばには一回の更新を予定しています。
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました。

 何を以って、成功とするのか。何を以って失敗とするのか。その境目はあいまいである。

 だが逆に言えば、明らかに何も生まなかった失敗である、というのは往々にして分かってしまうものだ。

 そして、今の状態がまさにそれだった。

『……くそ』

 僕は、目の前の書類をくしゃり、と丸めると、ゴミ箱へと突っ込んだ。同じような紙の玉が、ゴミ箱の中にはいくつもある。

(何で、進歩しない。僕の方策は間違ってはいないはずだ)

 自分の髪の毛をぐっと掴むと、頭を抱え込みながら机に突っ伏す。ここ一ヶ月、アナスタシアさんの様子を見て、色んなところへ営業に回っていた。

 その結果が、全ての場所から芳しい返事が得られない、というなんとも救いのない物だった。

(何が駄目なんだ。何が間違っている?)

 自問自答を繰り返しても、何も答えは浮かばない。僕の経験が足りないのが、絶対理由なのか。だとすればどうしようもない。

 だが、そうでないなら、僕であれば彼女を、そこらのアイドルごとき、目ではないアイドルに出来る。なのに出来ない。

『分からない、何が駄目なんだ……?』

 仕事で行き詰るなんて、初めての経験だった。

「プロデューサー、大丈夫、ですか?」

『……アナスタシアさんか。おはよう』

 気が付くと、いつの間にかアナスタシアさんが事務所へやってきていた。今は事務所傍の、オートロックつきのマンションを借りて、そこで生活をしているようだ。

 だから、いつも朝早くから事務所に来て、僕の指示を聞きに来ていた。今日も、きっとそうなのだろう。

「今日も、レッスンですか?」

 彼女が聞いた。いつもどおりの質問だ。それが、今日は――気に障った。

『……ええ、すみませんね、レッスンだけで』

 ほんの少し語調が荒くなる。仕事はないのか。そう問われた気がした。彼女がそんなことを言うような子ではない、というのは、この四ヶ月ほどで知っている。

 それでも、苛立った僕の心に、何気ない言葉が突き刺さる。ネガティブに、ずしりとのしかかる。

 それでも、自分では抑えているつもりだった。だが……、その違和感を彼女は感じ取っていた。アナスタシアさんは、少し心配そうに口を開く。

「プロデュ――」

 だが、もっとも反応したのは、アナスタシアさんではなかった。

「――アーニャさん、レッスンに行って来なさい。……Pくんは今すぐ、社長室へきなさい」

 いつの間にか、社長室から出てきていた社長が、僕を見ている。その眼差しは、睨みつける、と言うに遜色のない、酷く鋭い物だ。

 そこに、温厚さの欠片は一つもない。

『っ、……はい』

「プロデューサー……」

『……すまない、アナスタシアさん。今日は付いて行ってあげられない。行けるね?』

「ダー。大丈夫です、プロデューサー。では、行ってきます、です」

 そういって、アナスタシアさんはぺこり、とお辞儀をすると、軽い足取りで事務所を出て行った。それを見送ると、僕は対照的な、重い足取りで社長室へと向かう。

『失礼します』

 既に開いていたため、ノックをせずに社長室へと踏み入れる。奥のほうでは、窓の外を見ながら、社長が立っていた。

「Pくん、何を苛立っているんだい。今回は私がいたのと、君が自制をしていたから良かったけれども、あのままだと君はアーニャさんに当り散らしていたと、私は思うんだがね」

 社長は、窓を見たまま、僕を見ることなく言う。僕は、それでもしっかりと社長のほうを見て、しっかりと口を開く。

『申し開きようもありません。しかし、いまだに仕事も取ってこれないのでは、彼女をトップに仕立て上げるどころか、アイドルにだってできません』

「半年足らずでデビューなんてのは、かなり難しい。凄腕のプロデューサーだって、半年は育成をするものだよ。うちのプロデューサーたちもそうだ。君は、急ぎ過ぎていると思うんだ」

『それでも、僕ならできると――』

「Pくん」

 社長は、ゆっくりと振り向いた。その眼は、シンデレラガールズの、諦める様な、興味を失ったような眼とそっくりだった。

 違うのは、その色のどこかに――まだ、諦めきれない、未練のような、憐みのようなものがある。それが、僕には何を示すのか分からなかった。

「君が、踊るのかい?」

『……は?』

「歌うのは、誰だい? ファンと話すのは? 写真を撮られるのは? 取材を受けるのは?」

 社長は、つらつらと言葉を並べる。その顔は、とてもつらそうに見えた。

「初めて君がここに来てくれた時、君はただ、仕事のことだけを考えていたね。あの時は、まだ君はプロデューサーではなかったが……。まあ、この業界は人とのつながりが物を言う業界でね」

 そんなことは分かっている。何よりも人脈と先人の知恵が必要とされる業界というのは、この数か月で分かっていた。

「だが、人脈という意味じゃないんだ。君は、そう思っているのかもしれないが」

 一瞬、ドキリとさせられた。まさか図星を突かれるとは。そう思っていると、社長は、少しだけ息を吐いた。

「――”思いやり”。それが最も大切だと私は思っている。優しいだけじゃない、真剣さ、真摯さを含めて、”思いやり”だ。良く知り、慮り、叱り、一喜一憂し、護り、そして導く」

 こつり、こつりと、革靴が床を叩く音が響く。その音と同期し、社長の体は窓の前を、行ったり来たりしている。

 何かを発言しようにも、染みわたるような、有無を言わせぬような、その革靴の音が口を閉ざさせる。

「君に聞こう。君は、アーニャさんのことに関して、どれくらい知っている? 私については? うちのプロデューサーたちは?」

 革靴の音は止まらない。まるでメトロノームのように、一定間隔でそれは、僕の胸を締め付ける。

「彼女の好きな物は何かな? 休みの日は何をしている? ああ、彼女じゃなくてもいい。私でも、うちのプロデューサーたちについてでもいい。何か知っているかい?」

 詰問をするような言葉で、社長は僕に尋ねた。僕は、それに答えない。答えることは、できない。なぜなら――。

「……何も知らないよね。それは、君が知ろうとしてこなかったからだよ」

 その通りだった。僕は”業界”のことを知ろうとしても――。

『……”相手”のことを知ろうとは、してこなかった』

 僕は、小さく呟いた。相手だって人間だ、と社長は続ける。そして、それは致命的なんだ、とも。

「君のその、効率と成果のみを求める仕事姿勢は、顔の見えない事務仕事をするならばきっと、向いているんだろう。そして君が、ただの事務員ならば、何も言わなかっただろう」

 足音が止まった。そして、社長の体がゆっくりと、こちらを向く。

「君は”プロデューサー”だ。君が望むにせよ、望まなかったにせよ、そうなってしまった。にもかかわらず、君は”一人”でプロデュースをしようとしている。だから、私は言わねばならない」

 社長の口がゆっくりと動く。何一つ、音はない。

「――しばらく、来なくていい、Pくん。君が”プロデューサー”を理解できるまで、ね」

 そして、声さえも。

今回の更新は以上となります。思ったよりも短くなりましたが、次回の更新は週半ばを予定しております。
それまでお待ちいただけると、幸いです。
それでは、ここまで読んでいただき誠に有難うございました。

 どこか遠い、だがそれほど遠くはない。

 そんな昔話を、僕は見ている。

 満天の星空、時折落ちる流れ星。それらがすべて、まるで掌中に収まっているかのようだ。

 ――見つかったかね?

 ――いえ。しかし望遠鏡も無しでは、不可能では?

 ――そんなことはないぞ、君の国の、昔の飛行機乗りは、昼間でも星が見えたそうじゃないか。じゃあ、夜ならなおさら見えるはずだ。

 懐かしい声、懐かしい記憶。今ではあまり思い出すこともない、大切な思い出。色あせた写真のように、心のアルバムに仕舞われたまま、再び見ることはない思い出。

 青年は、困ったように笑い、そして言う。

 ――誇張と言うやつでしょう。幾らなんでも、昼間に星が見えるわけがありませんから。

 その青年の声に、懐かしい声は少しすねた様な言葉を返す。

 ――なんだ、君は夢がないな。こういう物は、どれだけ些末な事でも、信じる事から始まるんだ。

 まるで無垢な少年のような声は、やおら空を見上げているようで。はしゃぎまわるようなそぶりさえ見せている。

 ――信じることで、物事が成れば今頃、僕は大金持ちですよ。

 呆れた様な苦笑を添えて、青年は言う。しかし――。

 ――ああっ、ほら、みたまえ! あれだ!

 青年は、空を見上げる。満天の星空、いくつかの流れ星が見えた。その中に、僅かに見える、流れ星とは少し違う星。尾を引いたそれは、似て非なる物。

 ――本当に、彗星が見えるんですね。

 ――言っただろう? 私の計算はやはり正しかったのだな、はは! ほら、みたまえ!

 はしゃぐその声は、時折むせながらも、空を指さす。

 ――ええ、見ていますよ、教授。

 そう、青年は笑った――。

『……夢か』

 僕は、静かに目を覚ます。だが、今日の夢は悪い夢じゃなかった。

 少なくとも、僕の人生の中で一番楽しかった時の夢。同時に、もはや虚しさしかない、思い出でもある。

(……教授)

 目を少し閉じると、心の中で呟く。かつてのロシア留学のときに、世話になった恩師の姿は、今でもなお瞼に焼き付いている。

『……もう、こんな時間か』

 外を見ると、既に日が落ちている。夏の長い昼が暗闇になっているのだ。生活リズムの崩壊ぶりは、推して知るべし、と言ったところだった。

 社長から来なくていい、と言われてから幾日経っただろうか。結論から言えば、分からないと言う以外になかった。

 あの宣告以降の記憶は、途切れ途切れだ。正直なところ、どうやって自宅のアパートに戻ってきたのかも覚えていない。おまけにここ数日は、生物としての活動は呼吸しかしていない気がする。

 まあ、酔っぱらいの帰巣本能に近しい物だろう、と僕は思案を片づける。とにもかくにも、僕としては次の仕事を探し始める、ということを考えねばならなかった。

 なにせ、ほとんど不要だと言われたに等しい。それも、雇い主のシンデレラガールズからも、出向先の中小プロからも、である。

 この期に及んでみっともなく出社する、などと言う事はとてもではないができない。それは僕の矜持云々という話ではなく、常識の話だ。いわゆる空気が読めない、という事だろう。

 さしずめ、目下の課題は――。

『……辞表、か』

 僕は呟く。実際的なところとして、郵送で送りつける、というのが一番手っ取り早いのだが、まあ、私物の回収然り、引継ぎ然り、辞表を受理される前にするべき仕事というのは山積している。

 となれば、やはり直接持っていくのが一番だろう。僕はようやく、電源の切れたスマートフォンを取り出すと、充電器に差し込み、時間を確認する。夜の二十時を回ったところだ。

 この時間帯であれば、社長はまだプロダクションにいるだろう。辞表を提出した後は、中小プロの社長にも話を通しに行かなければならない。

(……気が重い)

 そう感じるのも、初めてだった。仮にも責任ある立場だったのだ。その責務を放り出して辞めることに、内心悄然としているのかもしれない。僕はそう思った。

 そうして僕は身を起こすと、薄暗い星明りしかない部屋の中で、死人のような手つきで辞表を書き上げる。ほとんど文字は見えない。

 そういえば、あれから風呂も入っていない。まあ、生来垢やフケの類があまり出にくい僕なので、あまり気にはしていない。顎に生えた無精ひげが少し気になるぐらいだった。

(腹が減ったかな。まあ、それもあとでいい)

 そんな投げやりともいえる呟きを零し、僕はゆらり、と立ち上がる。しわの入ったカッターシャツを着ると、緩くネクタイを締め、財布を掴んだ。

 アパートのドアを開けると、心地のいい風が吹いている。それでも、少しすれば汗ばむほどの暑さだ。よくもまあ、熱中症にならなかったものだと思う。

 のろのろと歩きながら、僕は空を見上げる。小憎らしいほど、清々しい夜空だ。月がだいぶ欠けているせいもあって、星明りはなかなか明るい。

 それでも、都市のネオンに勝てるはずもなく、ごく一部の星以外はその輝きを失っていた。

(……まるで、僕みたいだ)

 僕はそう自嘲した。今の自分は、あそこで煌いている一等星ではない。煩雑なネオンにかき消されるような、些末な星だ。

 そうしたところで何か変わるわけでもなく、僕は静かに息をつくと、歩を進めた。徒歩で三十分ほどだ。頭を冷やすにはちょうどいいだろう。

(いつから、こんな意気地のない人間に成り下がったんだろうか)

 また、内心で自嘲を零した。そんな自分を省みて、また自己嫌悪に陥る。なにが駄目だったのか、というのは、未だによく分からない。

 ただ、自分には重大な何かが欠落している。そしてそれは、ほんの些細なことである、ということはなんとなく、理解できていた。

『……はは』

 力のない、笑い声が出る。どうやら、意気地がない上に、未練もたっぷりあるらしい。結局のところ、僕は自分を過信しすぎていた。”天才”と呼ばれた僕が、だ。

 皮肉なものだ、と嘆息する。”天才”と呼ばれることを嫌いながらも、自分の才能に酔っていた僕は、その実”天才”には程遠い存在だったのだ。

 そんなことを考えているうちに、気づけばシンデレラガールズの社屋までもう少し、というところだった。空を見上げても、ネオンにかき消された夜空は何も見えない。

 人通りの少ない通り道に、バーの陽気なジャズが微かに流れている。まるで僕とは正反対の曲調に、もはや苛立つことさえできず、歩を進める。

 そこから一つ、二つと道を曲がり、大通りに出ると、目の前にシンデレラガールズの社屋が見えた。まだ煌々と電気がついているところを見ると、仕事は山積しているのだろう。

 僕は、少し重い足取りで回転扉をくぐる。

(そういえば、初めてここにきたときは、エントランスホールにデスクが置いてあったね)

 どこか懐かしく感じる。あの頃は自信に満ちていたが、もうそんなところは見る影もない。財布から社員証を取り出し、受付を済ませると、僕は階段を上る。

 この社員証も、返さなければならないな。そう考えていると、

「あれ、Pさんじゃないですか。どうかなさったんです、というより、酷い格好ですね……?」

 声を掛けられる。女性の声だ。そちらに顔を向けると、そこに居たのは千川さんだった。驚いた表情の彼女に、僕は力なく笑い、尋ねる。

『……ああ、千川さん。夜遅くに、すみません。社長は居られますか』

「いえ、社長は出張に出られていますよ。優秀なプロデューサーがいるお陰で、アイドルが足りなくなっていますから」

 千川さんは、そういって笑った。その優秀なプロデューサーの中に、自分は含まれて居ない。そんな自虐を考えつつ、少し笑う。

『そうですか。大切なお話があったのですが、また来ます』

「……大切な、ですか? お伺いだけでも出来ますけれど……」

『いえ、これは直接言うべきことですから』

 僕は丁寧に断った。こればかりは、他人に委ねるのはあまりにも無責任すぎる。そう思ったからだ。

「そう、ですか? それならいいのですが……」

『それで、社長はいつお帰りに?』

「え? その、えっと」

 千川さんは少し困惑したように言葉を濁す。そして、少し逡巡したあと、

「すみません、伺っていないんです」

 と言った。

『……そうですか。では僕が社長に会いたがっていた、とだけお伝えください』

 千川さんには、僕が辞表を提出しに来たのを気づかれたのかもしれない。まあ、僕の様子からそれを察することが出来る人ではある。

 それでも、気づかれたところで変わるわけではないし、変わることもない。だから、僕は気にしなかった。また、来ればいい。

『では、また来ます。夜分に失礼しました』

 少し、よそよそしくなってしまったかもしれない。僕は踵を返すと、振り返ることもなく階段を降りる。そして、回転扉を抜けると、プロダクションを出た。

 そして、またネオンが僕を包む。そこから逃げるように、僕は大通りを進む。

(……腹、減ったな)

 ようやく、空腹が僕を襲ってくる。こんな状況でも腹は減るんだから、現金なものだ。僕は、傍のコンビニに入ると、惣菜パンを一つと紙パックのコーヒーを買って、外へと出る。

 そして、自宅への帰り道を歩き始める。また、数日後にプロダクションに行こう。それであえなかったら、次はアポイントメントを取ればいい。

 そう思いながらふと、帰り道の脇に公園が見えた。かなり広めの都市公園だ。

『……こんなところに公園なんて、あったんだね』

 呟いた。そういえば、この近辺の道のことは知っていても、店や施設のことなんて全く知らない。結局、それも仕事しか見ていなかった、ということなのだろう。

 僕は、なんとなくその公園へと足を踏み入れる。少し、散歩をして帰ってもいいだろう。そう思ったが、どうも腹が抗議の声を上げている。

 少し開けたところにぽつん、と配置されたベンチに僕は座ると、がさがさと袋を漁り、惣菜パンを取り出す。

 包装紙をはがして口に突っ込む。何のパンかは知らないが、甘いクリームのようなものが入っていた。それを咀嚼し、ゆっくりと飲み下す。

 今度はパックにストローを差し込み、一口飲んだ。ひんやり冷えたコーヒーが、胃に流れこむ。少し、生き返る気分だった。

(……足りなかったかな)

 最後に惣菜パンを胃に詰め込んだが、どうやらこの程度で僕の胃袋は満足しなかったらしい。仕方がないので、帰り道にまた、どこか寄ろう。そう思っていたときだった。

「――アー、プロデューサー、ですか?」

 そんな声が聞こえた。

今回の更新は以上となります。更新が遅れまして申し訳ありません。
次回の更新は月-火曜の定期更新となります。
また、プロット構成上あと5-6回以内には終わるかな、と思っております。
それでは、ここまで読んで下さりありがとうございました。

 どこか遠い、でもそんなに遠くない、昔のお話。

 小さいころは、あまり体が強くなくて。パパも、ママもお仕事がとっても忙しいから、私はおじいさんの家に預けられました。

 パパとママと離れるのはチョット悲しかったけれど、優しくて、面白くて、ちょっと変なおじいさんでした。

 そんなおじいさんは、えらい人でした。だから、私は色んなことを教えてもらいました。小さい頃のパパのこと、ロシアの歴史のこと、世界の色んな出来事のこと。

 中には分からないことも多かったけれど、でもおじいさんの話はとても楽しくて。中でも宇宙の話は、私の心を掴みました。

 ――いつか、わたしもおほしさまみたいに、キラキラかがやくの。

 そういうと、おじいさんは陽気な笑い声で私の頭を撫でてくれました。

 ――そうか、じゃあ、アーニャは一杯勉強をして、コスモナーフトになるのかい?

 ――こすも、なーふと?

 ――ああ、宇宙のお仕事をする、とってもすごい人たちのことだよ。

 ――すごいです、アーニャも、こすもなーふとになります!

 そういうと、おじいさんは笑います。少し咳が混じった、笑い声です。

 とても懐かしい思い出、です。とても、懐かしい――。

「……て、……きて」

『……ン』

「……きてください、アーニャさん」

『……アー?』

 ぱちり。私はゆっくりと目を覚ましました。そして、またゆっくりと、辺りを見回します。すると、私のすぐ傍に人影があります。

「こんなところで寝ていると、風邪を引きますよ、アーニャさん」

『アー、社長さん、すみません。少し、寝てしまいました』

 私は少し目を擦りながら、そう答えました。

「はは、今日のレッスンは疲れましたか、アーニャさん?」

『ダー、ちょっとだけ、です』

 私は少し笑います。それに釣られるように、社長さんも笑ってくれます。

 社長さんは、とても優しいです。もう一人の社長さんは、すこし怖いです。でも、二人とも私を大事にしてくれていると分かります。

 もう一人の社長さんなんて、私がロシアンハーフと知ると、傍の百貨店で電子辞書を買ってきて、調べながら会話をしてくれました。

(日本語が話せると知った社長さん、とても驚いていましたね)

 そのときのことを思い出し、少しだけくすくすと笑います。目をぱちくりとさせて、少し唖然としていた社長さんの顔は、今でもよく覚えています。

 それから、社長さんに北海道のママとパパから離れるのは少し寂しかったけれど、まさか”夢”のほうからやってきてくれるなんて。

 私は、とても幸運だと思います。

『社長さん、お聞きしたいことがあります。いいですか?』

「おお、なんですか、アーニャさん?」

『アー、プロデューサーは、いつ帰ってきてくれますか?』

「……あー、そうだね」

 私は数日前から休暇に入ったあの人のことを尋ねます。私には何も言わず、急にお休みに入ったので、どうなっているのか知りません。

 他のプロデューサーに聞いても知らないと言われましたし、社長さんは詳しくは教えてくれませんでした。

 だから、この数日間は社長さんにいろいろと手ほどきを受けています。社長さんは優しいですが……、このときだけは、とても厳しいです。

 それでも、私のプロデューサーは、あの人だけです。だから、社長さんに聞きます。

「……こんなことを言って心配させるのはどうかとは思うのだけれどもね」

 社長さんは、そう言って、苦笑します。

「私は、彼を傷つけてしまったのかもしれない」

『……そうなの、ですか?』

「ええ。彼を見ていると、昔の私を思い出しましてね。私のようにはなって欲しくないと、少し出すぎたことをしたかもしれません。何とか、立ち直って欲しいのですが」

 ちょっとだけ悲しそうに、社長さんは言いました。と、その言葉と同時に事務所のドアが開きます。私は少しだけ期待して、そちらを向きます。

「ただいま戻りました、社長。あや、アーニャちゃんも来てたか」

『ダー、ズドラースト・ヴィチェ、一番手プロデューサー』

 ですが、姿を現したのは一番手プロデューサーでした。少し落胆して、でも挨拶は欠かしません。

「おお、一番手くん。どうだね、成果のほうは?」

「まずまず、といったところですかね。手ごたえはありましたよ」

「そうか、それは良かった。最近は二番手くんも三番手くんも、だいぶ元気になってきたね」

「ええ。まあ、全部Pのお陰なんですけどね。あいつが事務の体裁を整えて、溜まってた書類全部こなして、ジリ貧書類地獄から抜け出せたのが本当、デカいですよ」

 そういうと、一番手プロデューサーは溌剌そうに笑います。初めてお会いしたときは、顔色もよくなかったし、とても疲れているように思いました。

 いつかは倒れてしまうかもしれない、と思っていたのですが、もうそんな心配、必要なさそうですね。

「ああ、それと近いうちに新しい人員が入ってくる。広報と経理が一人ずつ、経理には事務も兼任してもらう予定だよ。営業の子が戻ってくるまでは、まだ君たちに営業を任せることになるが」

「そりゃあ、頼もしいですね、社長。ですが、二人も一気に増えて大丈夫なんです?」

「はは、正直ちょっと厳しいが……。でも業績はぐっと伸びているし、かなり無駄を省いたお陰で経費が削減できたからね。必要投資、と割り切ることにするよ」

 本当は、私が全部するつもりだったんだけどね、と社長さんは苦笑いします。

「ところで、Pのやつはいつまで休暇なんです?」

「どうかしたのかね?」

「いやあ、俺の担当の子ら、仕事増えてきたお陰で書類の桁が跳ね上がりましてね。依存するわけには行きませんが、あいつの事務処理速度には舌を巻きますから」

「そうか……」

 社長さんはそれきり、押し黙ってしまいます。なにか変なことでも言ったのか、と一番手プロデューサーが怪訝な顔をしますが、まあいいや、といった楽天的な表情になり、

「あ、そろそろレッスンの時間なので、うちの子らを迎えに行って、送り届けてきます。帰りは夜になるので、二番手か三番手に戸締り任せておきますから」

「……ああ、すまないね、一番手くん。気をつけて行ってくるんだよ」

「了解ですよ、社長。それでは」

『До свидания(ダ・スヴィダニァ)、一番手プロデューサー』

「おう、だーすびだーにあ、アーニャちゃん」

 一番手プロデューサーはウインクを一つ残して、また事務所から出て行きました。なんだか、とても楽しそうです。まるで全ての物事が、自分の喜びである、と言わんばかりに。

『……あの人も』

「うん?」

『あんなふうに、笑ってくれるのでしょうか』

 思わず、口にしました。

 私は知っています。あの人はとても一途なのだと。あの人はとても頭がいいのだと。そして、今とても苦しんでいるのだと。

「……アーニャさんは、Pくんを信じているんですね」

『ダー。私がここに居るのは、あの人のおかげですから』

「ふうん……?」

 社長は少し怪訝な顔をします。その顔が、さっきの一番手プロデューサーの顔にそっくりで。どこか似た者同士なのかもしれない、と思いました。

「まあ、良いでしょう。それよりも、アーニャさんはこの後何もなかったですよね?」

『ダー、あとは家に帰るだけ、です』

「それなら、早めに帰った方が良いでしょう。聞いたところによると、今日はここ数年で一番星が綺麗に見れるようですよ」

 社長さんのその言葉に、私は思わず体を跳ねさせます。

『правда(プラーヴダ)! 本当、ですか?』

「ええ、確かアーニャさんは確か天体観測が趣味でしたね。とはいえ、あまり夜更かしはいけませんよ?」

『ダー! ありがとうございます、社長さん!』

 私はぺこり、とお辞儀をすると、事務所を飛び出ました。後ろから社長さんの声が聞こえましたが、もうその時にはほとんど聞こえなかったです。

(久々に、大きな望遠鏡を持っていきましょう)

 北海道から出てきたときに持ってきた、大きな望遠鏡。おじいさんから貰った大切な望遠鏡です。こちらに来てから使ってませんでしたが、使ってみよう。そう思いました。

 それから、ちょっと走って、息が切れて、それでちょっと歩いて。辺りが少し暗くなってきて、ネオンが明るくなってきて。そうしたら私はまた走ります。

 毎晩、毎晩、天気が良ければベランダから空を見ていました。でも、街は明るくて、望遠鏡も無しじゃ星は良く見えません。

「おや、お帰りなさい」

『привет(プリヴィェート)、ただいまです、管理人さん!』

 マンションの入り口、鍵つきのゲートを超えると、人の良さそうな管理人さんが座っています。挨拶を済ませると、自分の部屋へと階段を上って行きます。

『ええと、地図は、どこでしょうか……』

 自分の部屋に入ると、私はまだほとんど何も入っていない本棚から、このあたりのガイドマップを引っ張り出します。

 できればじっくりと星を見れる場所が良い。そう思ってしばらく探していると、どうやらこの近くに大きな都市公園があることが分かりました。

 ただ、近くと言っても、望遠鏡を持っては少し遠い距離でした。

『……ううん。どうしましょうか』

 おじいさんに貰った望遠鏡。小さいころの私には大きすぎて、いつもおじいさんが担いでくれました。

 今も、少し大きくなったけれども、ちょっと重い。それぐらい大きくて、でも大切な望遠鏡でした。

『……もし』

 言葉が零れます。今、あの人は何をしているのでしょうか。

 ――電話番号を知っていたら。私はどうしたでしょうか。電話を掛けたでしょうか。そして、プロデューサーは来てくれたでしょうか。

 思えば、私はあの人のことをほとんど知りません。お名前と、本当はとても優しい人だということぐらいです。電話番号も、メールアドレスも知りません。

 もし来てくれたなら、それは何故なのでしょうか。私がアイドルだから?

『……それはちょっと、одиноко(アヂノーカ)、寂しい、です』

 私は、そう思いながらも、望遠鏡を担ぎました。少し重いですが、持てなくはありません。私は部屋から出ると、また階段を降ります。そして、入り口で管理人さんに挨拶をします。

(重い、です)

 もう、この時点で肩に、望遠鏡を入れたカバンの持ち手が、食い込んできます。

 私は、休みながら、さっき見た地図を思い出し、公園の方へと歩いていきます。途中、何度も道行く人たちに、好奇の眼で見られましたが……。

 それから、三十分ほど歩いて、ようやく公園へつきました。かなり広い都市公園です。噴水や遊具の影が見えますが、もうこの時間では誰も居ません。

『んっ……、くう。ァ、あぁ。疲れ、ました』

 望遠鏡が壊れないように、静かに、ゆっくりと望遠鏡の入ったカバンを置きます。そして、空を見上げました。

『……Звезды(ズヴィズディァ)。красивые(クラシヴィェ)』

 とっさに、日本語が出てきませんでした。それぐらい、綺麗な星空。都市部にもかかわらず、ネオンにかき消されながらも、澄んだ空を彩る、綺麗な星々。

 まさに、奇跡ともいえる星空です。これが偶然でも、偶然だとしても。私は神様に感謝をします。

 そうして、私が望遠鏡を組み立てようとした時でした。公園の向こう側、ちょっと離れた場所にあるベンチに人影が見えました。

 ただの人影だったら、気にも留めなかったでしょう。でも、その人影がどこか、あの人に似ていて。だから私は、恐る恐る、そちらへと歩いていきます。

 その人影の顔が、傍の電燈に照らされ、しっかりと見えるようになるまで近づきました。でも、確信は持てませんでした。

 どこか、危うげな雰囲気を漂わせ。どこか、やつれた姿で。どこか、諦めているような、そんな姿。

(……本当に、あの人?)

 そう思わずは、居られませんでした。そして、ゆっくりと口を開きました。

『――アー、プロデューサー、ですか?』

 その人影は、ゆっくりと、顔を上げました。そして、私は確信します。

 虚ろな目、痩せた頬、伸びきった髭。まるで別人。ですが紛れもなく、あの人――かつて私に夢を与えてくれた、Pさんその人でした。

今回の更新は以上です。諸事情で忙しかったこと、思ったよりも長くなったことで更新が遅れまして申し訳ありません。
次回の更新は来週の週頭を予定しております。12月中には完結させる予定ですので、宜しくお願い致します。
それでは、ここまで読んで下さりありがとうございました。

『……アナスタシア、さん?』

 晴天の霹靂だった。いや、今の状況だと、星天の霹靂、といったところだろうか。

 僕の目の前に、アナスタシアさんが居た。なぜ、ここにいるのか。どうして、こんな時間に居るのか。そんな色んなことを口に出そうとしたが、言葉が出ることはない。

「アー、やはり、プロデューサーです。どうしたの、ですか?」

 それを訊きたいのはこちらのほうだ。だが、もはや僕の中に、そんな気力も、理由も残されていない。僕はもう、彼女のプロデューサーではないからだ。

 正確には、まだ辞めてはいないが……。ただ、少なくとも、僕の中ではそれは規定事項で、そして覆しようのない既成事実でもあった。

『ああ、いえ。何でもないですよ。少し、社長に話がありまして、ね』

「話、ですか?」

『ええ』

 僕は、小さく笑った。諦めを伴っているが、皮肉にも愛想笑いではなく、正しく笑った気がした。すると、アナスタシアさんは怯えたような、悲愴に駆られたような表情になる。

「……プロデューサー、どこかに、行くのです?」

 正直なところ、僕は驚いた。千川さんにばれるならともかく、アナスタシアさんにまで感づかれるとは、到底思わなかったからだ。

 僕は思ったよりも、考えていることが表情に出やすいのだろうか。それとも、アナスタシアさんの洞察力が、僕の予測の上を行ったのだろうか。

 ただ、極論で言えば、既にそれらは何の価値も持たなかった。今更なにがあったところで、決めたことを粛々と進めるだけだ。

 僕には、もう僕に自信を持つことは出来ない。なにが出来るかも、なにがしたいのかも分からない。そして、僕は僕が何者であるかも分かっていない。

 どこから来てどこへ行くのか。役に立たない才能を磨き、何の価値も持たない人生を生きる。おそらく、そういう星の下に生まれてしまったのだろう。

 であるならば、それは単に不運であっただけのことだ。これですべてが完結し、これ以上は何もない。つまらなくはないが、実りもない人生だっただろう。

「……辞めるの、ですか?」

 僕が答えないでいると、アナスタシアさんはさらに踏み込んだ質問をしてくる。こんなに積極的な子だっただろうか。いや、僕が知らなかっただけだ。知ろうともしなかった。

 僕は、小さく笑い、そして言った。

『はは、そうかもしれませんね』

「Не хочу(ニ・ハチュー)、嫌です、プロデューサー」

 その答えに、アナスタシアさんは間髪入れず拒絶の言葉を返す。それが少し驚きであったとともに、なんとなくもどかしさを感じる。

『なぜ、です? アイドルになるのであれば、僕よりも優秀な人は多くいますよ』

「ニェト、もし、プロデューサーと会うことがなければ、アー、それでよかったのかもしれません。でも、プロデューサーと会いました。だから、プロデューサーが良いです」

 僕の国語力が正常であるなら、随分と僕は好かれているのだろう。ただ、そこまで好かれる理由はなかった。彼女とは、常に仕事相手として、一線を引いていた。

 いや、一線どころではないだろう。僕は彼女を、事務所の財産、ただの商品と見ていた。むしろ嫌われて然るべき存在だ。

 今になってそれが分かるが、時すでに遅し、だ。覆水盆に返らずとはよく言ったものである。

『大丈夫ですよ、アナスタシアさん。僕の次の人はきっと、僕よりも優秀で、僕よりも優しいでしょう』

「違います、私は、プロデューサーが良いんです」

『ご冗談を、僕はアナスタシアさんに酷いことをしました。アナスタシアさんに慕ってもらう道理は――』

「プロデューサーは、私に夢をくれました。だから、プロデューサーが良いんです」

 アナスタシアさんは、しっかりと、そしてはっきりと言う。僕はそれが何を示すのか分からなかった。彼女は、何か思い違いをしているに過ぎない。そう、思った。

『夢……? 何かの、勘違いでしょう』

 僕は、力なくそういった。実際、僕はアナスタシアさんに夢なんて与えられないし、与えたこともない。

 僕は、何事にもかけて理由を持たなかった。何をするにも、目標を持たなかった。生ける屍と言われても差しさわりの無い人間だ。

 そんな人間が、アナスタシアさんに何かを与えられるなど、有り得るわけがない。そもそも、彼女とは接点がまるでないのだ。

 ――いつか、日本に、遊びに行きます!

 刹那、僕の脳裏に、声が反芻する。たどたどしい日本語、子供らしいまだ呂律の整わない発音。

(なにか、僕は忘れている……?)

 目を閉じる。何か、僕の中に眠っている記憶がある。そんな気がしていた。記憶喪失などではない。それは、僕が一番よく知っている。

 僕が心のアルバムに仕舞いこんでしまった、大切な思い出。それを一つ一つ、取り出していく。

「プロデューサー……」

 アナスタシアさんが、悲しそうな顔で僕を見つめてくる。そんな目で見ないでくれ。僕は、僕は。

「プロデューサーにとっては、取るに足らない思い出なのかもしれません。プロデューサーにとっては、ちょっとした慰めだったのかもしれません」

 違う。僕は何も知らない。知らないはずだ。なのに、理由も分からず、僕はこの目の前の少女に、懐かしさを感じている。

「でも、私にとっては……。叶わなかった夢の続きを、空に散らばった星のように、希望に満ちた夢を目指すきっかけをくれました」

 じりじりと、記憶の濁流が流れてくる。五年前の夏。ロシアの、満天の星空。笑う教授の姿が、何故か甦ってくる。

 本に積もった埃の匂い、星の配列が書きこまれた星図。鮮明に、網膜の裏に浮かぶ。

「”もし、日本にいったら、そのときはきっと――”」

 小さな少女の声が重なる。その少女を膝に抱く、教授の姿。親しげに、そして嬉しそうに眼を細めるその姿。

 教授が、その頭を優しく撫ぜる。嬉しそうに、笑う少女の姿。記憶の海に沈んだ、五年前の思い出。小さな思い出の、その一つ。

 今、思い出した。教授には、恩師には、孫娘が居た。多忙な両親に代わり、親代わりとして教授が可愛がっている少女。その子の名前は――。

『――アーニャ』

 知らず、僕は呟いた。

今回の更新は以上です。短くなりましたが、ご容赦いただけると幸いです。
次回の更新ですが、未定になりますが週半ばに二回行う予定です。早ければ明後日にでも投稿をする予定です。
また、以後の投稿ペースを少々上げていきたいと思っております。
以上、ご了承ください。
それでは、ここまで読んで下さりありがとうございました。

 泣いている少女が居る。僕は、その少女に訊いた。なぜ、泣いているのか、と。

 少女は言った。小さい頃からの夢が、叶わないことを知ったから、と。

「こすもなーふとになるには、体ががんじょうで、あたまが良くて、ちゃんとしたロシアの人じゃないとだめなの」

 少女は、悲しげにそういった。どうしようもない問題だ。前二つはどうにかなるとしても、最後の一つはどうにもならない。

 聞けば少女の母親は日本人らしく、日本に対するわだかまりだとか、旧共産の思想だとか、そういったしがらみのせいで、彼女はコスモナーフトにはなれないのだと言う。

『星が好きなのかい?』

「……うん。お星さまにはなれないけれど、お星さまのそばに行ってみたかったの」

 難しい問題だろう。天文学者であれば、星と関わることは出来る。だが、星の傍にはいけない。星を眺める事しかできない。幻想と憧れしか、抱けない。

 たとえそれが一光年にさえ満たない距離であっても幾万の光年先にある星に近づくにはきっと、宇宙飛行士以外の答えはない。だが、その道は断たれてしまった。

『……星にはなれないけれど、星のようにはなれるかもしれない』

 僕は、少し思案しながら言った。所詮は気休めにしかならない慰めだ。それでも、純朴な少女の心を癒す、手助けになればいい。



「どういうこと?」

『星みたいに、ううん、何といえばいいんだろうか。こう、キラキラした人にはなれる。そんな人は、誰かを幸せにしたり、誰かに夢を与えたりできるんだよ』

 抽象的にも程があると思う。ただ、僕は少し必死になっていた。純朴な少女の夢をへし折った連中に、少し怒りを抱いていたのかもしれない。

「それは、どんな人たちなの?」

『明確には言い難いね……。そうだね、ロシアにそういった人たちがいるのかは知らないけれど、日本にはアイドルという人たちが居てね』

 少し僕は笑う。そして、少女の眼を見ながら、身振り手振りを加えて説明する。たどたどしいロシア語を使いながら、だ。

『歌ったり、踊ったり、まああとは綺麗だったり可愛かったりするのが大半かな。僕はあまり詳しくないから、良くは知らないけれど』

「アイドル……。アイドル」

『ああ、アイドルだ。他にも、女優もそうだろうし、スポーツ選手がそうだろうし、君がそうだったように、コスモナーフトもそういった人なんだと思う』

 僕は思いつく限りのものを列挙したが、少女はアイドル、アイドルと繰り返すように呟いていた。そして、少し不安そうに顔を上げる。


「アイドルは、キラキラしてますか?」

 それに僕は答える。

『分からない、かな。星を綺麗と思う人がいるように、アイドルがキラキラしていると思う人もいる。でも、そういった人たちを喜ばせるのが、きっとアイドルなんじゃないかな』

 僕はそういった。本当に、何気なかった。行ってしまえば、この少女を慰めるための方便に過ぎなかった。にもかかわらず――。

「――わたし、アイドルになりたい」

 彼女は、言う。無垢で、純粋な笑顔を添えて。

本日の更新は以上です。短いですが、次回は長くなりますのでご容赦ください。
更新は明日の予定です。
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました。

「覚えて、いるのですか?」

『……いま、思い出したよ。僕が馬鹿じゃなくなってるのならね』

 どくん、どくんと、傷口から鼓動にあわせ血が流れ出すように、僕の思い出が蘇ってくる。それは、懐かしさと共に、ある種の痛みを伴って、だ。

 もはや届かない、黄金の日々。不思議と満ち足りていたあの日々。今ならそれが分かる。鬱屈した今の自分では考えられないほど、楽しんでいたのだ。

 そして何の興味もなかったはずの教授の研究は、間違いなく僕にとって楽しいものだった。そしてきっと、僕はその研究が好きだった。実験が、天測が、好きだった。

 そして何より、教授と共に研究することが、好きだった。だから、教授は助手になるように誘ってくれたのだろう。

(……本当に、自分が嫌になる)

 気づかなかった。気づけなかった自分が悪いのだ。全ては自業自得で、教授の厚意も、慧眼も、全て無碍にしてしまった。

 あのままロシアに残っていればきっと、今みたいな鬱屈した生活は送っていない。そして、今更それを取り返そうとしても、もう遅い。あまりにも、僕は愚かだった――。

『……五年ぶりかな、アーニャ。日本語はかなり、上達したんだね』

 僕は彼女をアーニャと呼び、力なく笑う。彼女の母が付けてくれた愛称。そう、彼女から聞いた覚えがある。そして、初めて会った時にその”特別な愛称”に気付かなかった。

「ダー、日本にきてからもう、五年になります。まだ、とっさにはロシア語が出ますけど。でもこうやって、日本語で話せます。あの時、ロシア語でPさんが話してくれたように」

 アーニャは笑ってくれた。五年前と同じ、純粋で眩しい笑顔。僕にはその笑顔は眩しすぎた。故に、思わず目を逸らしてしまう。

 夜空に瞬く一等星のように煌めく彼女は、不思議そうに首を傾げ、そして少しだけ悲しそうな表情になる。彼女に抱いていた印象ががらりと変わっていく。

 無表情でクールな子だと、思った。それは、昔の彼女を知っている僕からすれば、見当違いもいい所の推察で。また少し、自分が嫌になる。

「……Pさんは」

 アーニャが、ポツリと言葉を零す。僕は、彼女の顔を見た。

「どうして、そうなってしまったのですか」

 僕はそれに、苦笑を返す。

『僕が馬鹿だった、からかな。今だからわかる。僕は教授との研究が楽しかった。きっと、あのまま続けていたら、僕の生涯の目標になっていたのかもしれない』

「今からでも、遅くないです。Pさんが夢を追いかけるなら、Pさんはプロデューサーを辞めても、良いと思います。……アー、辞めてほしくは、ないですが」

『いや、もう遅すぎるよ』

「……それは」

 アーニャは、恐る恐る口にする。遠慮するように、そして僕を気遣うように。

「おじいさんが、もうこの世にいないから、ですか?」

『……ああ』

 僕は答える。僕の思い出が、思い出である理由。帰国後、大学の学部長から聞いた話だ。日本に戻ってきてから、三か月たった頃に訪れた訃報は、僕を打ちのめすのに十分だった。

 思えば、あの時から顕著になった。唯々諾々と、与えられた課題や、与えられたことしかこなさなくなったのは。目的も目標もなく、ただ課せられた義務を遂行し続ける日々。

『僕は、教授との研究が、実験が、夢になる前に……、その全てを失ってしまった。熱意も、目標も、そして師さえも』

「それなら、今からでも――」

『違うんだ、アーニャ。僕はあの研究がしたいわけじゃない。教授とあの研究がしたかったんだ』

 得てして、気づいた時にはすべて遅いのが人間という物らしいが、それにしたって僕は鈍感が過ぎた。元々頭でっかちだったことを差し引いても、余りにも酷いと思う。

 きっと、多かれ少なかれ、天才と呼ばれ続けてきたことも影響しているのだろう。天才で、優等生であることを強要された、と言えば語弊があるだろうが……。

『だから、僕にはもう、研究者としての道はあり得ない。寿命を迎えた星が消えてしまうのと同じだ』

 僕の中の、研究者という夢は、消えてしまった。それに再び光が燈ることはないのだろう。

「……そんなの」

『ん?』

「そんなの、分からない、です。Pさんの夢は、もしかするとまだ、残っているかも知れないです。遅くないかも、知れないです」

『はは、そうだったらいいんだけれど』

 残念ながら、そうではないと言うのは不思議と分かる物だったりする。僕の夢は、夢と気づく前に、夢が膨らむ前に、消えてしまった。

 もはや残骸すら残っていない。だから、今の僕は、何をしていいか分からない。何が出来るかも、わかっていないのだ。

『……もし、今から研究を始めても、きっと僕はこれまでとおんなじで……。途中でやめてしまうと、思うよ』

 目標がないからね、と自嘲を零す。そして、彼女の頭を少し触った。

『アーニャは、僕のようになってはいけないよ。……それじゃあ、ね』

 僕は、立ち上がった。惣菜パンの包み紙をビニル袋に詰め込み、それをポケットへ押し込む。

 少し、救われた気がした。アーニャのことを思い出せた。そして、辛くても仕舞い込まれていた思い出を、もう一度見る事が出来た。

 アーニャに言葉も掛けてあげられた。教授の、一番の弟子と言える少女だ。聡明で、優しくて、可憐な少女。その彼女に、些細でも何か目標を上げる事が出来た。

 きっと、僕の人生はこの為だけにあったのだ。これが僕のすべき、最後の義務。そう思って、足を動かす。

 願わくは、呼び止めないでくれ。このまま、僕は星屑のように消えてなくならせてくれ。これ以上僕を……惨めにさせないでくれ。そう思った。

「――待ってくださいっ!」

 その僕を、呼び止める声が響く。なぜ、という想いと共に――どこか安心している自分がいる。

「Pさんは、その、アー、обязанности(オブャズノスチ)、責任を取るべきです。私を、アイドルにさせたのですから」

『……そうして、上げたいのはやまやまだけれど』

 僕は振り返る。そして、少し息を吐いた。夜の、少し湿った空気が、不快なほど頬を撫ぜる。

『僕に、何が出来るかなんてわからない。何のためにするのかもわからない。だから――』

「……私の」

 僕の言葉を遮るように、アーニャが言葉を紡ぐ。

「私のため、じゃ駄目、ですか……?」

『……アーニャのため?』

「……本当は、少し。少しだけです。心細かったです。本当に、アイドルになれるのか、怖かったです」

 ぽつり、ぽつりと彼女は語り始める。僕は、それをじっと聞いていた。その場から立ち去ることもできたんだろうけれども、僕にはできなかった。

「社長さんに、声を掛けてもらったのは……偶然です。パパとママから離れて暮らすのは、ちょっとだけ辛かったです。でも、アイドルになりたかったですから」

 彼女は一歩、僕の方へ歩みを進める。彼女が、僕を見あげてくる。僕はそれをしっかりと受け止めるように、見下ろす。

「それで、こっちに来た時、本当にびっくりしました。だって、私に夢をくれた人が、居たんですから。本当にчудо(チューダ)、奇跡と思いました」

 そうすると彼女は、少し嬉しそうに微笑んだ。この笑顔は、あれからずっと変わっていないのだろう。そして、この人懐っこい性格も。

 少しクールに見えたのは、まだこちらに馴染んでいないからかもしれない。むしろ、都会の人間の方が、彼女よりずっとクール……、正確には冷淡だ。

 そして、それは僕も例外ではないのだろう。

「あの、Pさん。だから、駄目でしょうか」

『……何が、だい』

「私を、助けてほしい、です。お願いします。私を、トップアイドルにしてほしいです」

『……さっきも言ったけど、僕にはそんな力は』

「できます、Pさんならできます。私は、Pさんが良いんです」

『どうしてそこまで、僕に入れ込むんだ? 僕は、アーニャにそこまで慕われるほどのことはしていない。傷つく言い方かもしれないが、子供のお守り以上のことはしなかった』

「それは、その……。何と言ったら、良いんでしょうか。アー……」

 彼女は、少し口ごもる。生憎、僕はなぜ彼女が口ごもるのか、その理由が分からなかった。できれば聞かせてほしい物だが、ただむやみに聞き出すことでもない、と思った。

『いや、言いたくないなら言わなくてもいいよ。どちらにせよ――』

「……リュヴォーフィ」

『……うん?』

 彼女が、何かを呟いた気がした。僕が少し、訝しんでいると、その白い肌を少しだけ赤く染まらせた彼女が、恥ずかしそうに言った。

「Pさんが、私の、Первая Любовь(ピェールヴァャ・リュヴォーフィ)、です」

 一瞬、呆気にとられた。というより、そのほかに相応の反応を示すことができない。当然と言えば、当然だった。

 僕のロシア語がさび付いていないのであれば、彼女のロシア語の意味は――。

『……冗談、だよな?』

 僕がそう尋ねると、彼女は小さくふるふると首を振る。それと同時に、僕に湧き上がったのは、驚き以外の何物でもない。

 まさか――彼女の”初恋”の人が、僕だなんて。

 いや、だってそんなことがありうるだなんて、僕は思ったこともなければ感じたこともない。ついでに申しあげれば、僕はそういう趣味はない。

 たとえロシアが、そういった趣味の発祥、と言えばおかしいだろうが、ともかく本場であることに違いないことを差し引いても、断じてロリコンでないことは証明できる。

 ともかく、僕の中では今、混乱の嵐が巻き起こっている。ここ数日で一番の混乱かも知れない。というか、そういうことを言われて混乱しない人間はいないのではないだろうか。

 そもそも――。

「……Pさん」

『えっ、あっ、はい。……じゃなかった、ええと、どこまで話したかな』

 僕は彼女の呼びかけで、我に返る。そして、どこまで話したか、というのを再びフローチャートで手繰り寄せると……少しだけ、体温が上がった気がした。

「Pさんは……、私のことを、どう思っていますか?」

 そして、彼女が投げかけてくるのは、こちらが戦慄するほどの、ど真ん中ストレートだった。きっと、ロシア語でならもっと理知的な言葉で尋ねてくれただろうが……。

『どう思っている、か』

 僕は、彼女のことをどう思っているのだろうか。少し、目を閉じて、思案の海に沈み始める。

 少なくとも、嫌いではない。嫌いであるはずがない。では、なぜか? 信愛する恩師の孫娘だからか。……それだけではないだろう。自分で、そう指摘する。

 それなら、僕は彼女に対し、何某かの感情を抱いているのか? ……それも、少し違う気がする。というよりは、分からないと言うのが正確なところだろう。

『……分からない、な』

「誤魔化さないで、欲しいです。私は――」

『僕も答えてあげたい。だけど、答えるには僕はアーニャどころか、自分のことさえ知らない。だから、答えることはできない』

 それが、今返せる最善の答えだ。保留、と言えば意気地がないと取られかねないだろうが、適当に返す気はさらさらない。それが、今の僕にだってできる数少ないことだ。

「……それなら」

 アーニャは食い下がるように、口を開いた。何かに縋るように、僕を見る。

「Pさんが、分かるまで……。私のプロデューサーでいてください。今は、私の為。いつかは、Pさんの為に」

 もう一歩、彼女が近づく。白く透き通った肌が、星明りを照り返して、輝いているように見える。

「今、Pさんを手放してしまえば、PさんはPさんでなくなってしまう……。そんな気が、するのです。だから、私は、離しません」

 その細い手が、僕のしわくちゃになったワイシャツの裾を掴む。微かに震える手は、見ているこちらが痛くなりそうなほど、華奢で、今にも押しつぶされそうだった。

『……僕は』

 小さく、口を開く。一回りも小さな少女に、こんなことを言う僕は、人間として矮小なのだろう。そして、情けない存在だろう。

『アーニャが思っているほど、頭は良くない。優しくもない。どうしようもないほど馬鹿なんだ。アーニャが本当にアイドルになりたいなら、僕よりもずっと相応しい人がいるよ』

 この期に及んで、僕の口から出てくるのはこんな言葉だ。

 心のどこかで、アーニャの手助けをしてあげたい。そう思いはじめている自分がいる。でも、僕では無理なのだ。こんな愚かで、無能に彼女は――。

「……”どんな些細な事でも、信じる事から始まる”んです、Pさん」

 刹那、僕の心臓を、なにかがギュッと掴んだ。そんな感覚に包まれる。

「おじいさんが、よく言っていました。Pさんは、もう信じる事さえ、やめています。それじゃ、駄目です。私を、アーニャを信じてほしいです。そして、Pさん自身を」

 その、アーニャの言葉が、妙に心にしみ込んできた。僕の中で何かが変わったわけではない。ただ、思った。

『……僕は、僕をもう信用することはできない』

 そう言った。アーニャの顔が、少しだけ悲しそうに歪む。そんな顔をしないでほしい。安心、してほしい。

『だから――僕は、アーニャを信じよう。アーニャが信じてくれるなら』

 少しだけ、微笑んだ。これが、僕の意思だ。今日から僕はアーニャの為に、アーニャをトップアイドルにするためだけに生きよう。そんなドラマのようなクサい考え。

 それでも、些細な目標、些細な夢。それを掲げて、僕は彼女を信じることにした。やがて、その言葉の意味を理解したアーニャの顔が、ぱあ、と輝く。

「Так рада(タク・ラダ)! 本当、ですか、嬉しいです!」

 そのまま、彼女は感極まったかのか――僕へと抱き着いてくる。

『す、ストップ! それはまずい、アーニャ!』

「アー! なにが、ですか?」

 どうも、彼女は自分の今の行いが良く理解できていないらしい。きょとんとした表情で、それでも喜びを隠さず、彼女は僕を離さない。

 ああ、こんなことなら、きっちり風呂入っておけばよかった、なんてあまりそぐわないようなことを思う。この暑い日だ、散々な匂いがしている事だろう。

 まあ、彼女の様な可愛い女性に抱き着かれるのはなかなか悪くない。女性経験がないことを差し引いても、やはり人間の本能と言うやつだろうか。

 そんな、さっきまでは死人同然だった僕の中に、余裕と生気という物が生まれていた。僕は小さく息をついて、彼女の頭に手を置く。

『大丈夫、もうどこかに行ったりしないよ。……だから、離してくれるかな、アーニャ?』

「え? ……、アー」

 そこでようやく、アーニャは僕に抱き着いていることを自覚したらしい。少し頬を染めて、ワイシャツを掴んでいた手を離し、少しだけ上目づかいで僕を見上げる。

「その、アー、忘れてくださいっ」

『はは、それは無理な相談かな。役得、という物だよ』

「もうっ、知りませんっ」

 アーニャは、そういってそっぽを向いた。せめて、教授の代わりにこの少女を見守ろう。そう思って、空を見上げる。

『……綺麗な星空だ』

 満天の星空が、今は少し輝いて見える。と、次の瞬間。僕の視界の端を、白い閃光がよぎる。

『流れ星か。……五年ぶり、かな』

 そう呟くと、気づいたようにアーニャが声を上げる。

「そうです、Pさんっ」

『どうした?』

「アー、今日はズヴェズダ、星が綺麗に見れる日です、一緒に見ましょうっ!」

『見るって……。どうやって』

「これです」

 彼女はそういって、少し離れたところに置きっぱなしになっていたカバンを持ってくる。少し重そうだったそれの取っ手を、僕は手伝うように掴む。

 そして、カバンの中から、彼女の言う、”それ”を取り出す。

『これは……。教授の望遠鏡か』

「ダー、十歳の誕生日に、おじいさんから貰いました」

 それは何度も見た覚えのある大きな望遠鏡だ。個人が携行できる望遠鏡としてはたぶん、最大クラスの物だろう。これ以上になると、車に積んだりする必要がある。

 そんなものを、彼女一人で運ぶのは、なかなか骨だったと思う。

『アーニャ、次からは僕に言いなさい。こんな夜に、しかも一人で天測なんてする物じゃない』

「アー、でも、私Pさんの連絡先を知りません」

『……あー、そうだったね』

 今更、そんなことを思い出す。彼女と連絡を取り合う事なんてない、と思っていたからだ。

 今思えば、何という薄情なことだったろうか。

『後で、教えてあげよう。これから、アーニャとは長い付き合いになるからね』

 まあ、その為にはいろいろと筋を通すべき事が数多くある。それに関しては僕の問題で、ついでに言えば僕にはそれを解決する義務がある。

 もっとも、確実に解決できるとは言い難いが……。それでも、そんなことを言って心配させたくはない。

「спасиб(スパシーバ)! 本当ですか、嬉しいですっ」

 そういって彼女は踊り出さんばかりの様子で喜んでくれた。僕にとってアーニャが何者であるかは分からないが、彼女にとって僕は、少なくとも信頼の対象であるようだ。

 それは、僕にとってこの上ない、喜ぶべきことなのだろう。

 アーニャが望遠鏡を組み立て終えると、ピント調節の為に接眼部を覗き込む。僕はそれを待つように、隣に座った。

「こうしていると……、五年前を、思い出します。Pさん」

『……ああ、そうだね』

 ふと、アーニャの一言で思いを馳せる。いつのことだったか、夢で見た情景だ。確かに、あの夢は現実であった出来事だった。

 あの夢のアーニャは今のアーニャで、僕も今の僕だったけれど。確かにこうして、二人で天測をした過去を、投影している。

「あの時と同じ、星空です。五光年先も、きっと変わらない星空……」

『はは、光年は時間じゃないぞ、アーニャ』

「ダー、知ってます」

 彼女は笑う。その笑顔が、僕には眩しくも――身近な物に思えた。

 守らねばならない。こんな僕を信じてくれる彼女を。僕が僕であるために、いつか僕が僕を信じれるその時まで。

 彼女を守ろう。そして、彼女の願いを叶えて見せよう。そう、思った。

今回の更新は以上になります。
次回の更新は月-火曜日の定期更新になります。
それではここまで読んでいただきありがとうございました。

今回の更新ですが、諸事情により投稿できませんでしたことお詫び申し上げます。
本日投稿の予定ではありますが、多忙につき木曜日までお待ちいただけると幸いです。
あと1-2回の更新で完結の予定です、お待たせして申し訳ございません。

「何の用だね、Pくん?」

 翌朝、僕は誰よりも早くシンデレラガールズの社屋に居た。理由は単純明快で、社長に意思表明を行うためである。

 空調さえ動いていない早朝から社屋の前に突っ立っていたわけだが、まあ、何というか。そこで社長と鉢合わせることになるとは予想外だった。

 というよりも、社長がこんな早くから出社をしているとは知らなかった。重役出勤という言葉は、彼の中にはないらしい。

『朝早くから申し訳ありません。ですが、要件があったものですから』

「ふぅん……。まあ、良い。聞こうじゃないか」

 社長はじろり、と僕を見ると、少し鼻を鳴らし、そして言う。やはり、信頼はされていないのだろう。まあ、当然だ。今までの僕を鑑みると、そうなって当たり前である。

『社長には耳障りな表明でしょうが……。僕はプロデューサーを、続けることにしました』

「ほう……?」

 人間、覚悟をすれば、よほどのこと――法規を犯すとか、命に関わるとか、その類の物でない限りなんでもできる。僕は、そう思っている。

 だから、何がしかの条件を出されても、多くの所までは呑めるだろうし、この社長のことだ。ぶっ飛んだ条件を出すことはあっても、理不尽なことはしない。

 それぐらいは、僕でも理解できていた。

「少し、顔つきが変わったな。それに、目が澄んでいる。まあ、詳しくは聞くまい」

『……許していただけるのですか?』

「許すも何も、君は契約上中小プロダクションの人間で、今は契約期間の真っただ中だ。何か言う必要があるなら、向こうの社長さんに言うのが筋だろう」

 なんとまあ、あっさりとしたものだった。拍子抜けした、というのが素直な感想である。罵詈雑言を投げかけられ、土下座するまでシミュレートしていたのだが……。

「拍子抜けした、といった様子だね?」

『え、あ、いや。そういうわけでは……』

「わはは、まあいい。さ、君のいる場所はここではないはずだ。行きたまえ」

 社長はそういうと、革靴をカツリ、カツリと鳴らし、社屋の方へと向かっていく。しばらく僕は見送っていると、何かを思い出したように彼は振り返り、

「ああ、そうだ。また何かあれば、すぐに言いに来るといい。今の君なら、協力は惜しまんよ。ではな」

 と言い放っては、上機嫌そうに社屋へと入って行った。僕は、呆然として見ていたのだが、ふと時計を見ると間もなく七時を回ろうとしている。

(そろそろ中小プロの方へも行かなければ)

 僕は軽く手櫛で髪を整えると、タクシーを呼び止め、中小プロへと向かう。朝早く行くからなんだ、という話ではあるが、それで僅かでも僕の覚悟が伝わるなら犠牲ですらない。

 ここから大よそタクシーで十分、十五分といったところか。その間、僕はスマートフォンを取り出すと、メーラーを起動させる。

 そして、一つのアドレスを呼び出した。あて先は、”アーニャ”と表示されている。昨日、天測をしたときに交換しておいたのだ。

 いくらなんでも、夜に一人で、それも女の子が天測、というのは危険すぎる。なので、今度からついていくことにしたのだ。

 その条件を提示したところ、アーニャは”毎朝、挨拶のお電話かメールをください”という条件を出してきた。

 無論、断る理由もないので、今その約束を果たしている、というわけである。

(『おはよう、アーニャ。また、事務所で会おう』……。こんなもので、いいのかな)

 あまり他人にメールを送った経験――正確には、友人に送った経験がないので、どんな文面で送ればいいのか、少し迷った。

 だが、今更取り繕ったところで、僕が僕でなくなるわけではないし、僕は僕だ。結局、そんなシンプルな文面で送信する。

 しばらくすると、小気味のいい振動がして、僕は再びスマートフォンの画面を立ち上げる。メーラーの通知が、”「Re:」”という文字を浮かび上がらせている。

『……”ズドラースト・ヴィチェ! はい、お待ちしています”か。……はは』

 僕はそのまま、少し笑い、スマートフォンを仕舞った。返事をしてもよかったが、どちらにせよ事務所はもう目前だ。

 それなら、会って直接話をしよう。そっちの方が効率的だし――何より、僕がそうしたい。

「ついたよ、お客さん」

『ありがとうございます』

 僕は運転手に礼を言った。こうやって、運転手に礼を言うようになったのも、僕の変化の一つかもしれない。以前は、こういうことをしなかった。

 結局、僕に以前の生活は分不相応だった、という事だろう。凡才が天才の真似事をしていた、というわけである。

 心なしか、それに気づいていたから、天才と呼ばれるのを嫌っていたのかもしれない、と思った。

『よし……。行こう』

 僕は、そう呟いてタクシーを降りる。と、降りてすぐに気付いた。中小プロの前に、人影がある。というよりかは、やってくると言った方が正しいだろう。

「……Pくん。どうしたんだい、こんな朝早くに」

 なんと、中小プロの社長である。これはまた、同じシチュエーションで二つのプロダクションの社長と鉢合わせるものだ、と内心苦笑した。

『おはようございます、社長。お話がありまして、こうやって参った次第です』

「そうか……。まあ、仕方がない。ともかく、入ってくれ」

『はい』

 社長は、カツリカツリ、と革靴の音を鳴らして、中小プロの事務所へと入っていく。僕も、それに続く形でしばらくぶりに足を踏み入れる。

(……変わってない、な)

 もっとも、それほど長い間いなかったわけではないので変わるも何もない。強いて言うなら、積み上げられている書類が増えている事だろう。

 まあ、僕なりにくみ上げた事務のひな型があったはずなので、以前のような溜まり方ではない。ならば、純粋に仕事が増えているのだろう、と僕は思った。

「ああ、先に社長室へ入っていてくれるかな。ココア、でいいかね?」

『いえ、お手を煩わせるわけにはいきません。それにお時間を取らせるわけにもいきませんから』

「そう、か」

 社長は少しさびしそうに笑う。その対応に、少し違和感を覚えたが、まあともかくは謝罪と決意表明をしなければならない。

 何せ、十日近くも僕は仕事をしていないのだ。仮に許してもらえなくても、僕は契約の続く限り、便所掃除でもなんでもするつもりだった。

「……大体用件は分かっているよ」

 社長は、社長室に行くことなく、ソファにゆっくり腰かけると、そう言いながら僕に着席を促した。一礼してから、僕も同じように着席する。

『そうでしたか、アーニャからお聴きになったので?』

「ん……? いや、そういうわけではないんだけど。それより、Pくん」

『はい、何でしょう』

「今、アーニャくんのことを何と呼んだかい?」

『は……? いえ、アーニャはアーニャですが……。それが?』

「んん……?」

 何やら、社長が混乱し始めていた。いや、そういうのは失礼だが、ともかく現状を理解できていないらしい。

「一応聞くが……。要件は、何かな」

『は、いえ。この度の一連の騒動に関する謝罪と、僕の意思表明に、と思いまして』

「意思表明……?」

 ますます意味が分からない、といった様子だ。まさかという、いかにも信じ切れていないと言うか、訝しんでいる様子と言った方が良いかもしれない。

『はい。未だに僕は、”プロデューサー”という物が理解できているとは言い難いのですが、それでもなお、非才の身ながら続けさせていただきたい、と思いまして』

 僕がそういうと、社長は少し目を瞬かせ、呆気にとられたような表情で僕を見ている。

「あの、Pくん。もしかしなくても、辞表を提出しに来たわけ……、ではない、よね?」

『は……? いえ、いえ。と、とんでもないっ! まさか、そんな』

 むしろ、解雇されてもおかしくない。それだけのことをやってしまった。だから、土下座をするつもりだったのだが――。

「……なんだ、良かった。ああ、ほんとに心臓が止まったかと思ったよ。いよいよ、Pくんに見限られた、と思っちゃってね」

『え……?』

「少しきつく言いすぎた、と思っていてね。以前の君を見ていると、昔の私を思い出してね。私のようになってほしくはない、と思って思わず柄でもないことをしてしまった」

『昔の社長、ですか』

 ああ、と社長は少し遠い物を見るように微笑んだ。

「昔、私もプロデューサーをやっていたんだがね。それはもう、独りよがりのみっともないプロデューサーでね。担当アイドルの何も理解せずに、自分の思った通りに作ろう、と考えていたんだよ」

 社長はそういうと、少しだけ目を閉じ、微かに息を吐いた。

「結局、私は私の力を過信しすぎてそうなってしまった。アイドルの良さを殺してしまった。そこでようやく、私は私が思うほど優れているわけではない、と悟ったんだよ」

 僕はその苦笑が、やけに共感できた。今まさに、その状況だからだ。僕は天才ではなかった。そのことを、まざまざと思い知らされた。

「だが、Pくんは私とは違ったようだね。やはり、というか、天才と言っていい才能を持っているのだろう、君は」

『っ! いえ、僕はそんな。アーニャが居なければ、今頃は本当に辞めてしまっていたと……』

 僕は天才などではない。僕がここに居られるのは、全てアーニャのおかげなのだ。彼女が居なければ。そう考えると、鳥肌が立ちそうになる。

「いや、間違いなく君は天才だよ。少なくとも、私と違って、溢れんばかりの才能――星空の様な、満ち溢れた才能を持っている」

『そんな――』

「だって君は、アイドルと心を通わせることが出来た。……違うかい?」

 確かに、アーニャとは心を通わせるまではいかなくても、ある程度の信頼関係を築けたとは思う。だが、それは僕の力ではない。そう思った。

 だが、社長は言葉を続ける。

「私はね、最後まであの子のことを理解してあげられなかった。そして、理解してもらうことが出来なかった。全て一方的な、私の押しつけだったからね」

 あの子とは、きっと社長がかつて担当していたアイドルのことなのだろう。あるいは、まだアイドルとして芽が出る前の子だったのかもしれない。

「あの子がプロダクションを辞め、そして私は解雇された。そこで初めて、私は間違っていたことに気付いた。それも、ほんの少しだけね」

 今だって、何が正解かは理解できていないのかもしれないが、と社長は笑う。

「君は間違いなく、天才だと私は思うよ。努力と思いやりに裏付けられた天才、というのはいかにも、今の君に似合う。君はアーニャくんを思い、アーニャくんもまた同じだ」

 だから君は、気付けた。社長はそう、言った。

 もしそうだとするなら僕は、幸せ者だ。彼女に思われていることは、本当に嬉しく思う。……少しばかり、彼女の思いの方向性は許されない物かもしれないが。

(……初恋、か)

 あの夜、彼女は確かにそういった。それはアイドルとして致命的なことではあるが、それが嬉しいと、今の僕ははっきりと言える。

「まあ、私の言葉に信憑性はないのかもしれないが、ね。……ともかく、君が帰ってきてくれて本当に良かった。君は――」

 そう言いかけたところで、外が俄かに騒がしくなる。誰かが一気に階段を駆け上ってくる音が聞こえる。そして、扉が開け放たれる。

「――ズドラースト・ヴィチェ、プロデューサー!」

 その声は、いま僕が心に思い描いていた人のそれで。いかにも、現金な奴だとは思いつつ、僕の目は、僕の胸に飛び込んでくる少女へと注がれていた。

『ああ、Здравствуйте(ズドラースト・ヴィチェ)、アーニャ』

 僕はごく自然に彼女を受け止め、そしてその頭に手を置き、優しく撫ぜる。慈しみと、信頼と、もう一つ。彼女に対する、愛情を込めて。

「おお? アーニャくんじゃないか。今日は、えらく元気なのですね」

「ダー! だって、プロデューサーが、Pさんが帰ってきてくれたのですから!」

「……Pさん? ほほう……」

 社長は、少し意味ありげな目で僕を見ると、少しだけ笑い、そして立ち上がる。やがて、僕の座っている方のソファを通り過ぎる途中で、僕の肩に手を置き、ぼそり、と言った。

「まあ、節度と愛を持って担当してくれ、Pくん。……私は何も見ていないし、これから何を見ても、何も見ないからね、はは」

 ……ちょっとばかり、緩すぎではないだろうか。そう思ったところで、僕はそれに異を唱えることはない。なぜなら――。

『……アーニャ、皆の前では極力止めておこう。からかわれるのも、癪だからね』

「アー、では皆の前でなければいいのですか?」

『……時と、場合と、程度によるかな』

「スパスィーバ! 大好きです、Pさん!」

 確かに、僕の中にも、これから彼女と過ごしていきたい、という思いがあるのだから。

 と、次の瞬間、また階段を上がってくる音と、扉の開く音だ。

「おはようございます、社長……、おっ、Pじゃないか、戻ってきていたのか、って、アーニャちゃん、何やってんの!?」

「おはようございま……へ? どういう状況だ、これ」

「わからん、社長、何か知ってらっしゃいますか?」

「んーふふ、まあ、多少は。内緒だけど、ね。あ、そうそう。丁度今日、前言っていた新人が三人やってくるから。そろそろ来るころなんだけどね」

 僕の中の、事務所がにぎやかになっていく。初めは僕一人しかいなかった。そこに、アーニャが加わり、社長が加わり、三人のプロデューサーたちが加わった。

 こういうのも、悪くない――いや、良い。未だに、僕の出来ることは分からない。ただ、僕のしたいことは、おぼろげだが見えてきた気がする。

「ああ、Pくん。今日から来る三人の新人は、君に任せることにしよう。仕事を、教えてあげてくれ」

『ええっ、それはちょっと、いきなりすぎではないでしょうか……? それに、僕が今日来なかったら、どうしていたんですか……?』

「それはその時だよ。それに今は、君がいる。それでいいじゃないか。……お、きたかな?」

 外で、三つの足音が聞こえる。少し硬い、真新しい革靴の音だ。やがて、ドアがノックされ、ゆっくりとドアノブが回る。

「ほら、挨拶の準備だよ、Pくん。今君は、中小プロの一員だ。温かく迎えてあげてくれ。中途採用と、転職組だからね。緊張してる」

 社長に耳打ちされると、僕はソファから立ち上がる。一緒に、アーニャも立ち上がり、僕のシャツの裾をぎゅっと握る。

『……大丈夫だよ、アーニャ。僕がついてるから』

「ヤー、大丈夫です。Pさんが居ますから」

 彼女はそう言って笑う。同時に、ドアが開き、三人の人影が入ってきた。僕と同じか、少し年下の男女三人だ。

 彼らがこちらを向き、そして並んだ。ふと、社長に肩をつつかれる。

「自信を持ちたまえ。私が保証するよ、君は天才だと。……さ、声を掛けてあげなさい」

 なるほど、ここは僕の役目らしい。教育係の最初の仕事、といったところだろうか。

 僕は小さく息を吸いこむと、少しだけ目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開け、口を開く。

『――ようこそ、中小プロダクションへ。貴方たちを歓迎します』

 三人は、嬉しそうに笑った。そして、僕も笑った。

今回の更新は以上です。予定よりも遅れたことをお詫び申し上げます。
次回の更新は、二日以内での更新を確約させていただきます。また、次回でこの作品は完結となる予定です。
それでは、ここまで読んで下さりありがとうございました。

前作って茄子さんと黒川さんのやつ以外ある?

 空を見ていた。綺麗な夜空だ。ここの所忙しくて、こんな時間は取れなかった。ようやく、というよりも、無理やり開けた、纏まった休みだ。

「大丈夫、ですか?」

『ああ、大丈夫。まあ、少しばかり体の自由は、効かなくなってきた……かな? はは』

 僕はそんな軽口を叩く。そんな僕に優しく、寄り添うように彼女は声を掛ける。

「大事な体ですから、そんなことは言わないでください。あなたにとっても、他のアイドルたちにとっても、私にとっても、です」

 彼女は僕の手を取って、そう言ってくれた。色白の、透き通った手が、僕のごつくなってしまった手とは酷く対照的だ。

 どうやら、僕も一人前の中年になりつつあるらしい。三十を間近に控え、焦りが出て来るとは思ったが、微塵もそんなものはなくむしろ余裕さえあると思う。

『そっちこそ、気を付けてくれよ? 事務所にとっても、君にとっても、僕にとっても大事な体だ』

「あら、先ほどのお返しですか?」

『はは、そうかもしれない』

 僕はそういうと、少し息を吐いて、ゆっくりとその場に座り込む。目の前にあるのは――懐かしい、望遠鏡。

『天測、するか』

「はい」

 彼女は、慣れた手つきで望遠鏡を操作する。その後ろ姿は、華奢は華奢でもかつてのような、抱きしめれば壊れてしまいそうなものではない。

 しなやかさとしたたかさが同居した、それでいながらガラス細工のような繊細さを感じ取れる。例えるなら、飴細工から水晶細工へと変貌を遂げた、と言えるだろうか。

『あれからもう、五年か』

「はい、初めて会った時から数えると、十年ですね」

『……随分日本語も、上手くなった』

「おかげさまで。ずっと、一緒に居てくれましたから」

 彼女は、レンズの調整をしながら、そう言った。光陰矢のごとし、とはよく言ったもので、まさしく光の速さで時間は流れて行った。

『さあ、準備できましたよ、Pさん』

「ああ。じゃあ、見るとするか、アーニャ」

 彼女は、僕の名前を呼んだ。それに応じるように、僕も彼女の名前を呼ぶ。

 こうして、天体を観るのは一年以上ぶりかもしれない。ここ数年は、彼女の躍進はとんでもない物で、歴代アイドルの中でも三指に入るほどの、人気を誇っている。

 僕が担当した初めてのアイドルが、これほどの活躍をするとは思っていなかった。そのことを社長に言うと、"良くも悪くも、君は天才だからね"と返されたことがある。

 未だに、僕は天才ではない、天才の振りをしているだけだ、と思ってはいるが、社長に言わせればそれは天才の条件の一つなのだと言う。

 ともかく、まだまだ向上の余地はある、と互いに思い続けていたこともあって、今日を迎える事が出来たのは幸運だろう。

 今日は記念すべき日。――彼女の誕生日だ。そして、彼女は成人を迎える。

「綺麗ですよ、Pさん。やはり、北海道の空は良く澄んでいます」

 かつての少女は、その面影だけを残して。

「どうぞ、Pさんの番ですよ」

 星を見る余裕を与えないほど、綺麗な女性へと変化を遂げていた。

『綺麗だ』

「はい、とても綺麗です」

 アーニャがだよ、なんて、今どきドラマでも言わないセリフを吐くことはない。そんなことは、五年も前からわかりきっていることだ。

 僕は、望遠鏡のレンズを覗き込んだ。刹那現れるのは、闇夜のキャンバスに星々を散らした、壮大な砂絵のような星空。

『五年前を、覚えているかい、アーニャ』

「もちろんです。忘れもしませんよ」

 彼女は笑う。どうしようもなく魅力的で、無邪気で、一途な女性の笑顔。

『今思えば、僕は無知で、愚かだったね』

「そうかも、しれません。でも、今やシンデレラガールズで一番、アイドルを担当している敏腕プロデューサーです。もう無知でも、愚かでもありません」

『はは、言ってくれるね』

 五年前、中小プロに送られたあの日から、僕の人生はいろんな表情に変わった。本当に、濃密な一年だったと思う。それまで自分が学んできたことが、全て霞んで見えた。

 一年経って、シンデレラガールズに戻った後も変わらず、今でも中小プロとは関係がある。当時教育を担当した三人と、三人のプロデューサーとは、今では飲みに行く間柄だ。

 時には悩みも相談も聞くし、それに対する助言も与える。まあ、ライバルにこんなことをするのは社会人として間違っているかも知れないが、後悔とか反省はない。

 そんな中小プロも、今ではシンデレラガールズに追従するレベルの、大きなプロダクションに成長していた。今や二大プロダクションと言っても過言ではないだろう。

 形式上は商売敵ではあるが、社長に言わせれば”ライバルが居なければ張り合いがない”のだとか。敵に塩を送るどころか、米や剣まで送ったらしい。何とも社長らしい話だ。

 そして僕は、今では二十人以上のアイドルを担当するプロデューサーだった。激務ではあるが、充実はしている。仕事量も尋常ではないが、今ではこの仕事は天職に思える。

 アーニャをトップアイドルに導くことが、かつての目標だった。ただ、ずっと彼女一人の担当というわけにはいかなかった。新しい担当の子が、やがて出来た。

 最初は、アーニャのついで、だと思っていた。だが、いつしかトップアイドルに導くべき存在になっていた。それがまた一人、また一人と増えて行った。

 今は、アイドルを目指す少女たちを、トップに導く。かつて僕が、アーニャにしたことを、彼女たちにもしてあげること。それが今の僕の生き甲斐であり、目標となっている。

 そして、もうアーニャをトップアイドルに導く、という目標は達せられていた。ここまで引き延ばしてきたのは、決めていたことがあるから。それももう――良いだろう。

『アーニャ、話がある』

「……はい」

 僕は望遠鏡から目を離した。そして、アーニャの方へとゆっくり向く。迷いも何もない。ようやく、聞くことが出来る。

『僕の中で決めていたことがあるんだ。聞かせてくれ、アーニャ。……今、好きな人はいるかい?』

「はい、います」

『それじゃあ、もう一つ、聞かせてくれ。……アーニャの”初恋”は。まだ続いているかい』

 ゆっくりとそう尋ねると、彼女は小さく頷いた。どくん、と心臓が跳ね上がる。困ったものだ、冷静なところには自信があったのだけれど。

『……ずっと、決めていた。アーニャが成人した時に、まだ僕のことを好きでいてくれたなら、言おうと』

 声が震える。どうしても、掌に汗が浮いてくる。今すぐにでも、逃げ出したい状況だ。だが、僕は逃げ出さない。そんなことはしない。

『五年、いや十年かな。永く待たせた、アーニャ』

「良いんです、Pさん。ずっと一緒に居られましたから」

『これからも、だ。アーニャ――』

 ゆっくりと口を開いた。

『僕と、結婚をしてください』

「はい、喜んで」

 一切の逡巡の無い、まるで台本を読んでいるかのような、合言葉の様なやり取りだ。でも、それは確かにここにある。

 いつからだろう。彼女への感情が、庇護心から男女のそれに変わって行ったのは。いや、それはもう些末なことなのかもしれない。

 今ここに彼女がいて、僕がいる。そして、僕は彼女が好きだ。それでいい。

「……やっと」

 アーニャが、声を震わせた。銀色の、少し長くなった髪の毛がふるふると揺れる。目に、涙がたまっていく。

「やっと、言ってくれました、Pさん……っ」

『ああ……。本当に待たせた。済まない、アーニャ』

 彼女は、僕にしがみつき、胸に顔を埋めながら首を振る。そして、一筋涙を流したまま、笑った。

「大好きです、Pさん」

『ああ、僕もだ、アーニャ。大好きで、愛している。本当に、本当に……』

 僕は、アーニャを抱きしめながら、空を見上げた。祝福をしてくれんばかりの、満天の星空だ。野暮な物は何もない。全てが、ずっと変わらない。

『あの時と同じ、星空だ。アーニャと分かり合えたあの時と。五光年先も、きっと変わらない星空だ』

「……あはは、Pさん。光年は時間の単位ではありませんよ」

『ああ、知ってるとも』

 僕は笑った。これから先も、ずっとずっと変わらない。僕とアーニャは変わらない。何も、恐れることも、悔やむこともない。そんな野暮な物は必要ない。




「ずっと一緒です、Pさん。ずっと大好きでした、Pさん。これからも……、ずっと大好きです、Pさんっ」





 ――これが、五光年先もずっとずっと変わらない、星空の少女と僕のお話。

今回の更新で、この作品は完結となります。長々とお付き合い下さり、誠にありがとうございました。
少し書きたかった人物像とずれたこともありましたが、無事終了出来て一安心しております。
終盤に掛けては、就職活動の関係もあり予定通りの投稿が出来なかったこと、お詫び申し上げます。
また投稿することがあるかと思いますが、その時は再びお付き合いいただけると幸いです。
それでは、このスレはHTML化の依頼を出しておきます。本当にありがとうございました。

>>232
モバP「七人目の正直」の季節ものとして、
モバP「七夕祭りの願い」
という物を投稿しております。

また、台本形式で
モバP「亜季とハーツでアイアンなオタク話」
モバP「亜季とワールドでタンクスなオタク話」
の二作品を投稿いたしましたが、趣味全開なのとあまり出来が宜しくないので、過度な期待はご寛恕いただけると幸いです。

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