モバP「凡人と第六感」 (217)
黒川千秋さんのSSです。
勝手設定&ご都合主義あり。まだまだ未熟者ですので、いろいろとご容赦を。
書き溜めは少しありますが、見切り発車なのでペースは遅めです。
週一から二を予定していますが、七月中はちょっと忙しいのでそのペースから外れるかもしれません。
都合上、千秋さんのPに対する呼び方が「プロデューサー」から「Pさん」になっています。その点もご容赦ください。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1374387796
私はつまらない人間だと、よく言われる。まあ、残念なことに、それは極めて的を射た表現だ。なにぶん私は、目立った特徴も、特技も、能力も持ち合わせていない。
幼少期は、そうでもなかった気がする。何でも手を出して、何でも出来た。英会話にも行ったし、そろばん教室にも行った。書道を教わったこともあるし、劇団なんかに所属したこともある。運動も出来たし、成績も悪くなかった。
ただ、これといったものはなかったと思う。よく言えば万能といえたが、悪く言うと器用貧乏とも言える子供だった。特技は何か、と聞かれても、思い当たるものは何もなかったのだ。
結局、そのまま成長した結果、何でも人並みぐらいには出来るけれども、突出したものは何もない大人になっていた。
強いて言うなら、多少のコミュニケーション能力はあった。それでも、人より少し会話のネタがある程度だ。色々なことに手を出していた恩恵だろう。
昔の中国の偉い人は、”十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人”とか言っていたそうだが、まるっきり私のことだと、聞いたときに感じた。そんな数千年前に自分のことを予言されているなんて、人間の本質は昔から変わっていないらしい。
予言されているなんて、人間の本質は昔から変わっていないらしい。
――凡人とはなんだろうか。
だから、そんなよくありがちなそんな問いかけに対して、私はいつもこう答えることにしている。
――私の様な人間じゃないか?
これも良くある答えだ。しかし、真理でもあると、半ば確信していた。
そんなつまらない人間が変わるとすれば、きっと劇的な出会い……。それも運命と呼べるようなものが必要だろう。
「――あなた、つまらない人ね。でも、悪くはないわ」
だからきっと、これがその『運命』とやらなのかも知れない――。
数日前までは、まだ肌寒さが残っていたというのに、連休が過ぎれば急に暑くなるというのはどういう了見だろうか。文句を言えるものなら、天気に言いたいものだ。
冷え込み対策に持って来た、くたびれたトレンチコートはただのお荷物となっている。お陰で私の左腕は、コート掛けに変わってしまっていた。
『全く、どうにもならないね』
三十路を間近に迎えて、早くも体の自由が利かなくなってきている気がする。社会人になっても、運動だけはそこそこに出来るつもりだったが、早熟型とあって衰えが早いのかもしれない。
無趣味なことだし、ジョギングか、ジムかどこかにでも通ったほうがよさそうだ。不摂生はしていないが、どうしても運動不足は否めない。
『その内、腹も出てくるかも知れないな』
そんな自嘲を零しつつ、私は勤め先の会社へと向かう。会社とは、小さな芸能プロダクションだ。もう、勤続七年ほどになる。
まあ、芸能プロダクションとはいっても、プロデューサーやマネージャーといったアイドルを支える仕事ではなく、営業や広報といった、さらに裏方だ。アイドルやタレントと直接関わり合うことは、まずなかった。
無論、姿を見ることはよくあるし、書類で顔は良く知っている。ただ、話す理由もないので、せいぜい挨拶をする程度だった。
『おはようございます』
小さな雑居ビルの三階にある事務所にたどり着き、挨拶をする。すると、既に来ていたらしい社長と、ちょうど鉢合わせた。
「お、Pくん。おはよう」
『おはようございます、社長。今日はお早いのですね』
「ああ、ちょっと今日は商談というか、交渉の大きなものがあってね」
『交渉ですか』
そんなものはあったかな、と頭の中のスケジュール帳をめくってみるが、思い当たるものはない。もっとも、営業広報に関係のない交渉の可能性もあるので、一概には言えなさそうだ。
「ああ。Pくんは、”シンデレラガールズ・プロジェクト”について知っているかな?」
ふと社長がそんなことを聞いてくる。私は頭の中のページをもう一度めくる。そうして、数秒の後にピンと来た。
『ええ、はい。確か、とある企業経営者がいくつかのプロダクションを買収して、大きなプロダクションを作る、という計画ですね』
ここのところ、業界でたまに話題に上る、新設プロダクションの計画名だ。既にいくつかのプロダクションが買収され、社屋の建設もほとんど進んでいるとかなんとか、そんな話を聞いている。
ただ、この浮き沈みの激しい業界で、どこまで通用するかは怪しいとは思っていた。それに、その経営者の名前は、少なくともこの業界では聞き覚えのない物だった。
「聞くところによると投資と先物取引で稼ぎ上げた資金を元に、小さな企業を数年で株式上場企業に育て上げたほどの辣腕らしいね」
『はぁ……。それで、そのシンデレラガールズが、どうかなさったのですか?』
いまいち話が飲み込めず、私は社長に聞き返す。社長はというと、少し困った表情で苦笑すると、
「実は、至るところでアイドルとスタッフの引き抜きをやってるらしくてね。今日の交渉とやらも、その一環らしい」
と言う。私は何を言っているのか分からなかったが、数秒後それを理解し、少し驚いた。普通引き抜きなんてものは、引き抜きます、と宣言してするものではないと思っていたからだ。
「引き抜きと言っても、ヘッドハンティングみたいに奪っていく、というよりも、補償金で契約を買い取るやり方らしいがね。あまり馴染みがないから、良くは分からないが」
『……なんだか、えらく外国の会社みたいなやり方ですね』
よほど、人を見る目があるのだろう、と私は思った。実力重視の契約主義。日本では少し異質なやり方なのだろうが、成功しているところを見ると、それが辣腕と呼ばれるゆえんなのかもしれない。
「まあ、こんな小さな事務所から引き抜く人材はいないだろうさ。すまないがPくん、お客さんがお越しになったら応対してくれるか」
『ああ、はい。分かりました』
「よろしく頼むよ」
社長は事務所の奥の給湯室に入っていく。しばらくして、湯気を上げるコーヒーカップを片手に出てくると、そのまま社長室の中へと入って行った。
私もそれに倣い、給湯室で熱いコーヒーを入れる。時刻はまだ八時を過ぎたばかりで、他の社員は来ていない。この事務所のプロデューサーもまだ来ていなかった。
『引き抜き、ねぇ……』
その話自体に興味はなかったが、一体どんな人物で、一体どんな人物を引き抜いているのか、というのは気になった。無論、自分のような平凡な人間ではなく、どこか突出した才能を持ち合わせた人物を探しているのだろうが。
こぽこぽと音を立てて入っていくコーヒーミルから離れ、私は一旦自分の席に戻ると、有線放送の電源を入れる。適当にチャンネルを回して、音量を調節した。
『こんなものかな』
私は小さく呟くと、一息をつく。
この有線放送は、何年も前に社長が設営したものだ。ただ、今では使う人もほとんど居らず、なんとなく私がその管理をしていた。社長も、”せっかく契約したのだから、どうせなら流してもいい”と言ってくれた。
無趣味な私ではあるが、音楽を聞くことは嫌いではなかった。かといって、どこかに音楽鑑賞へ行ったり、ライブを見に行ったりと言うことはない。
ただ、嫌いではない、と言うだけの話。端的に言えば、どこにでもいる一般人の”音楽好き”である、と私は思っていた。
そうして私は音量調整に満足すると、給湯室へ出来上がったコーヒーを取りに行き、自分の席へと着いた。
『……ん?』
そして、コーヒーを飲もうとした時、プロダクションのドアを叩く音がした。私はすぐに立ち上がると、急いで扉の方へと向かう。
『はい、どちら様でしょうか』
そう言って声を掛け、扉を開けると、目の前にいたのは恰幅のいい壮年男性だった。まだ四十にも行っていないのではないだろうか。恰幅が良いとは言ったが、その肉体はたるんでいるというわけではなく、活気にあふれている。
その壮年男性は、少し笑みを浮かべると、
「あー、こちら中小プロダクションさんで、お間違えありませんかな?」
と、名刺をこちらへと出しながら尋ねてくる。慌ててそれを受け取ると、名刺には”シンデレラガールズ・プロダクション 代表取締役及び経営責任者”との文字が見えた。
『これは失礼をいたしました、シンデレラガールズの方でしたか。お話は伺っております、社長室の方へご案内をさせていただきますね』
どうやら社長の言っていた辣腕経営者と言うのは、この人のことらしい。年齢で言えば当然ながら私の方が若いのだが、経営者と言う点で見れば、彼は異常なほど若い社長であるように思える。
「うむ、済まんね」
シンデレラガールズの社長はそういって、少し笑う。その表情だけ見ると、どこにでもいる普通の男性だ。噂で聞く様な辣腕ぶりはあまり感じない。
『社長、シンデレラガールズの社長様がお見えになりました』
「ああ、Pくんか。入ってもらってくれ」
社長室の中から社長が返事を返してくる。私は、失礼します、と一言声を掛けてから扉を開け、シンデレラガールズの社長を中へと案内した。
中ではうちの社長が書類を用意していたようで、小さな商談机のソファに座っていた。
「ああ、Pくん。社長さんに何か出して差し上げてはくれないかな」
『ああ、はい。かしこまりました』
私は二人の社長に軽く会釈をすると、社長室から出る。そうして、給湯室へ向かい、茶請けと緑茶を用意し、再び社長室へと戻る。
『失礼します』
私は再び声を掛け、扉を開ける。
「それで、こちらのアイドルは――」
「ええ、はい。人数は少ないですが――」
二人が商談をする声が聞こえる。私はその邪魔をしないように、可能な限り視界に入らないように慎重に茶請けと緑茶を置くと、さっさと社長室から退散する。
そもそも商談の最中に余人が入ること自体、あまりほめられたことではないが、まあ、そこは命じられたことなので仕方のないことだ。
そうして私は、とっとと自分のデスクへと戻る。なんだかんだで、私は広報としても、営業としても有能ではない。なので、仕事をこなすにはさっさと取り掛からないといけないのだ。
『あ、冷めてる』
ようやく口をつけることが出来たコーヒーは、ちょうどいいぐらいに温くなっていた。とはいえ、個人的には熱いコーヒーが好みではある。
ただ、いまさら淹れなおすのもどうかと思ったので、私はそれに口をつけ、少し啜る。
『冷めても、まあ、行けるかな……』
そんな感想を零しつつ、私は仕事に取り掛かった。
本日の更新はこれで終了です。次回の更新は未定ですが、できれば一週間以内にはしたいと思っています。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
「いや、長々とお時間を取らせました」
「些少なことですよ、シンデレラプロさん。こちらこそこんな小さな会社に出向いていただき、申し訳ない所ですな」
「なにを仰いますか。この業界で生き残っていることは、誇っていいと思いますぞ」
それからおよそ二時間経って、会話を交わしながらようやく、社長たちが姿を現す。
すでに社員全員には、社長が商談で社長室に居ることを伝えていた――正確には聞かれたから答えただけに過ぎないので、それに驚く社員はおらず、起立をして挨拶をしている。
特に、うちの一番手プロデューサーはいつも通りというか、営業スマイルを張り付け、シンデレラガールズの社長に愛想を振りまいている。
人のやり口にとやかく言えるほど大層な立場ではないし、資格もないが、私はあのプロデューサーが嫌いだ。運が良ければ引き抜いてもらえると思っているのかもしれない。
(まあ、でも有能だし、うちの一番の稼ぎ頭だからなぁ)
内心そう苦笑しつつ、私は再び視線を落とし、仕事に戻る。当然のことだが、人の好き嫌いを仕事に出しているようでは社会人として半人前だ。少なくとも私はそう思っていた。
それに、あのプロデューサーの性格に難があると言えども、有能であることには違いないのだ。少なくとも、私より仕事が出来るのだから間違いはない。
「それでは、また後日、視察に参りますので」
「ええ、お待ちしております」
そんな会話が聞こえた。どうやら誰か引き抜かれるらしい。引き抜かれると言っても、正式な移籍手順を踏んでの、契約破棄と再契約である。ある意味きっちりとしたやり方だろう。
ばたん、という音がして、扉が閉まる。社長さんはおかえりになったらしい。
「社長、誰か引き抜かれることになったんですか?」
早速、一番手のプロデューサーが社長にそう尋ねていた。なんだかんだで、二番手と三番手のプロデューサーも気になるらしく、事務作業をしながら耳をそばだてている。
「ん? ああ、アイドルが二人ほど、向こうさんの目に留まったようだな。まあ、まだ確定ってわけじゃないが」
「へえ、誰です?」
「ちょっと前に、別のプロダクションから入った子二人だな。色白の子と黒髪の子で、両方ともちょっとゴシック調の」
「なんだ……。二番手と三番手の担当に決まったばかりの子たちですね。喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかは分かりませんが」
少しつまらなさそうに、一番手のプロデューサーは言った。彼の言った通り、二番手三番手のプロデューサーは、嬉しさ半分、複雑さ半分と言ったところだろうか。
(気持ちは、分からないではないけれどもね)
生憎自分はプロデューサーではないので、正確な気持ちは分からない。ただ、自分の担当していた子が評価された嬉しさと、その子が離れていくかもしれない不安さがないまぜになっているように思えた。
「で、肝心のスタッフは、どうなんです?」
図々しくも、続けて一番手のプロデューサーは社長に尋ねる。これでは、先方へ引き抜かれたいと宣言しているようなものだ。
こういう図太い所が、私は嫌いだったりする。空気が読めないと言うか、何というか。ともかく、もうちょっと慎みを持った方が良いように、私は思っている。
「君ねぇ、もう少し聞き方という物があるんじゃないか?」
「へへ、すみません」
「まあ、君のいい所でもあるから仕方ないとは思うがね」
実際、この図々しさで、仕事をもぎ取ってくるのだから、悪いことばかりではないのだろう。積極的と言い換えれば、聞こえは良くなる。
「君たちについて社長さんは、なかなか質は揃っているとは思うとは言っておられたが、とりたてて興味は持たれなかったようだぞ。残念だったな」
「なんだ、つまらないですね」
彼はそういって、興味を失ったように自分のデスクへと戻る。こういう鼻につく態度は、感心できないと思いつつも、
(まあ、自分が何か言ったところで変わることもないだろうし)
と、私は半ば諦めている。現代人は他人に無関心という話を聞くが、私はそれが顕著に出ているのではないだろうか。
まあ、結局のところ私には一切関係のない話だし、有線放送から流れる、ゆったりとした洋楽を聞きつつ、仕事を進める。次の営業のための宣材整理だ。
正直、かなり大変である。元々私は広報担当なのだが、営業の女性社員が今、産休で長期の休暇を取っている。
だから、今は私が営業も担当しているというわけだった。
「Pくん。今、手すきかい?」
しばらく作業を進めていると、社長が封筒を持ってこちらへとやってくる。私は顔を上げると、少し目を瞬かせて社長を見る。
『はい、どうかなさったのでしょうか』
「済まないが、シンデレラガールズの社長さんがうちの資料を忘れて帰ってらしてね。申し訳ないが、受け渡しに行ってくれないかな」
社長はすまなそうに私を見る。それを断る理由はなかったので、私は二つ返事で応諾する。
「済まないね。これ交通費。領収書持って帰ってきてね。あとは、おつりでコーヒーでも買って飲んでくれたまえ。それと、ついでに昼休憩も取ってくれて構わないからね」
『わかりました、いつごろまでに戻ればよろしいでしょうか』
「まあ、夕方までに戻ってきてくれればいい。そこまで急いでやる仕事もないことだしね」
社長は苦笑する。このところ、仕事が少なくなっていると嘆いていたのを、私は知っている。
そしてきっとその原因は、私が営業を兼任しているからなのだろうな、と私は思っていた。
『わかりました、それではすぐに出ます』
「ああ、宜しく頼むよ」
私はすぐに鞄を持つと、その中へ封筒を仕舞いこみ、立ち上がる。
『では、行ってまいります、社長』
挨拶を返し、私は事務所を出る。凡人の私が、会社のためにできるのは、生真面目に働くことだ。逆に言えば、それさえできなければ、私はどうしようもない人間になってしまうだろう。
雑居ビルから出て、やや急ぎ足で大通りに向かう。そうして、ずらりと並ぶタクシーの一つに向かうと、運転手が扉を開けてくれた。
『シンデレラガールズ・プロダクションまで、お願いします』
タクシーへと乗り込み、運転手にそうお願いすると、運転手は笑って承諾をしてくれた。聞くところによると、最近はシンデレラガールズに訪れる人が多いのだという。
あれだけの規模のプロダクションだし、同業者の視察や売り込みなんかも多くあるのだろう。本格的な始動まであと一ヶ月ほどという話だし、今が一番忙しい時期なのかもしれない。
それから十分ほど大通りを移動すると、大きな社屋が見えてきた。少しびっくりしたのは、私の住む賃貸マンションからかなり近いことだった。これならタクシーを使わず、徒歩で来た方が良かったかもしれない。
道を調べてくれば良かったと、少し後悔したが、仕方がないので今は良しとした。帰りは徒歩で戻ればいい話だ。
四階建ての新社屋は、驚くほど綺麗で、洗練されている。アイドルのための寮やトレーニング施設なども併設されているとも聞く。
『凄いな……』
思わず、そんな言葉が零れ出る。シンデレラという名前に違わない、素晴らしいプロダクションだ。そう思った。
私はタクシーの運転手に運賃を支払い、領収書を受け取ると、車外へと出る。照り付ける陽光は、少し初夏の兆しを感じた。
そうして、少し息をつくと私は、シンデレラガールズの社屋へと足を踏み入れる。そういえば、アポイントメントも無しにやってきてしまったのだが、大丈夫なのだろうか。いや、大丈夫なわけがない。
『……向こうを出る前に、電話を掛けるべきだったな』
と、今更悔いてもどうにもなるまい。少し頭を振ると、私は意を決し、回転扉をくぐった。
今回の更新はこれで以上です。
明日から少しの間PCに触ることが出来ないので、次回更新は八月の一週目になるかと思います。
ご容赦いただけると幸いです。
「……あっ、ようこそ、シンデレラガールズ・プロダクションへ!」
そんな声が私を出迎える。見渡すが、受付カウンターにはまだ人が居ない。と、替わりに、何故か小さなデスクがエントランスホールのど真ん中に鎮座している。
そして、その前で男性が一人座り、書類と格闘していた。一瞬唖然としたが、どうやら彼が私を出迎えてくれたらしい。
「いやぁ、こんな対応の仕方で申し訳ないです。まだ受付も事務員も出勤日でないもので、仕事をしつつこうやって私がお出迎えさせてもらっているのですが」
いまだに少し混乱している私をよそに、私よりも少し若そうなその男性はこちらにやってくると、”あ、私こういう者です”と私に名刺を差し出してくる。
どうやらこのプロダクションの若手プロデューサーの一人らしい。私も一応名刺を差し出し、とりあえず交換を済ませる。彼には無用の名刺かもしれないが、これも礼儀だ。
そして、アポを取っていないことを詫びつつ、本題を切りだす。
『不躾な事と存じてはいますが、社長様はいらっしゃいますでしょうか。先ほど訪問を受けた際、お渡すするべき書類の受け渡しを失念しておりまして』
一応、こちらのミスであるとしておいた。これも処世術である。何せ、相手は新興とはいえ大企業だ。こうするのが当然。そう思っていたが……。
「ああー……。うちの社長、ちょっと慌ただしいので忘れて帰ったんですね、すみません。お気遣いいただき、ありがとうございます」
若手プロデューサーはそういうと、少し苦笑し、何と逆に詫びてきたではないか。私は慌てて、
『いえ、そんなことは……』
と言ったが、内心驚きっぱなしである。いろいろな意味で、このプロダクションは型破りだ。
辣腕経営者の企業なのだから、規約が厳しい物とばかり思っていたが、今朝の引き抜きの件といい、エントランスで仕事をしながら出迎えてくるプロデューサーといい、むしろ普通の会社よりいろいろ緩い気がする。
何より驚いたのが、このプロダクションでは社長と社員の関係がかなり近しいように感じたことだ。普通は、自分の社長をあんなふうには言わないだろう。
うちのプロダクションのように、社員数が十人にも満たなければ話は別だが……。
「あ、話が逸れましたね。それで、書類というのはどちらに?」
『ああ、えっと、こちらです』
私は急いで書類を取り出した。全部で二十ページほどの薄い束が、クリアファイルの中に収められている。それを若いプロデューサーへと手渡す。
「はい、確かに受け取りました。わざわざ足を運んでいただき、本当にありがとうございます」
『いえ……。当然のことをしたまでですから』
私は愛想笑いをし、ぱちり、と鞄を閉じた。
『では、私はこれで失礼をします。社長様に、どうぞよろしくお伝え頂けると』
「わかりました、お気をつけてお帰り下さい」
若いプロデューサーの爽やかな様な笑顔に見送られながら、私は再び回転扉をくぐり、プロダクションを後にする。出てきしなに、プロデューサーが再び書類の山に埋没していくのが見えた。
稼働前、と言っていたがそれでもあれほど多くの書類があることを見ると、やることは多いのだろう。
ちら、とみた社内の案内板にはいくつも部署が区分けされていたし、もしかすると専属の事務員がいるのかもしれない。
私は回転扉を抜けると、なんとなく振り返る。と、先ほどのプロデューサーの所に、何人か同じようなスーツを着た男性がやってきて、書類を置いて行っている。仕事が増えたらしい。
遠目に見えた若いプロデューサーの顔が、まるでこの世の終わりを目の当たりにしたように見えたのは、気のせいではないだろう……。
『……ふぅ、なんだか気疲れしたなぁ』
私は少し息をつくと、帰りはタクシーを使うことなく、よたよたと歩きはじめる。足に力がないのは、シンデレラガールズの社屋に気圧されたのと、空腹だからだ。単純な物である。
とりあえずは何か昼食を取ることにした。社長に許されている事なので、気兼ねすることはない。夕方までには戻ればいいのだ。
そうして、私は事務所の方向へと向かいつつ、いくつか道を外れる。この道は、私の帰宅路でもある。ここから十数分歩けば、私の家である。
とはいえ、自宅に帰るわけではない。しばらく歩くと、小さな店が見えてきた。少し洒落た構えの、小さなバーだ。
その店の前には、”今日はクラシック曜日です”などと書かれた看板が置いてあった。
『今日はクラシック曜日か』
気疲れしたばかりだから、ちょうどいい。私はそう思いながら、店の扉に手を掛ける。からん、からんと小気味のいい鈴の音が木霊する。
「いらっしゃい、珍しいね、今日は昼かい」
マスターのそんな声が、聞こえた。
『ええ、近くに来たものですから、ちょうどいいと思いまして』
私はそういうと、少し見回し、すんすんと鼻を鳴らす。ああ、落ち着く匂いだ。どこか懐かしさを感じるこの店内は、私にとっては貴重な癒しの空間である。
『いつも通り、サラダセットとブレンドコーヒーでお願いします』
「はいよ」
マスターが厨房に引っ込むのを見ると、私はいつも自分が座っている、入り口そばのテーブルへ座る。昼間はカフェ兼レストランのこの店は、この時間帯は人がいない店だった。
静かに過ごしたい私にとっては好都合なので、休日はこの店で書類の整理をしたりもしている、いわゆる行きつけの店、というものである。
そして夜は、未来ある若人や、隠れた腕利き奏者の生演奏が楽しめる小洒落たバーとして、ちょっとした人気がある。いわゆる、隠れた名店、というやつだった。
『……今日は、早めに来てみるかな』
独語し、私は店の奥にある、小さなステージを見た。まだ何も置かれていないそこは、夜になるとアマチュア奏者やセミプロ奏者の披露の場となる。
マスターいわく、ここで演奏した人で後々、プロになった人もいるらしい。それが例え誇張だったとしても、少なくとも私がこの店で聴いた奏者で、下手な奏者はいなかった。
無能な私などよりもずっとずっと、マスターは人を見る目があるのだと、思った。
「サラダセットとブレンドコーヒーだ、お客さん」
『ありがとうございます』
マスターが私の注文した昼食を持ってきてくれる。トーストが一枚、サラダが一つ、ブレンドコーヒーが一杯。自分でも質素な食事だと思う。
ただ、味は保障できる。特に、コーヒーの味は良い。……本業がバーなのに、コーヒーがおいしいのは少しあれだとは思うが。
『マスター、今日お越しになる奏者さんはどんな方なので?』
トーストを一口ほお張り、それを咀嚼して飲み下すと、私はマスターに訊いた。マスターはグラスを拭きながら、蓄えられた髭を揺らし、笑う。
「今日は若い子ら数人だね。あとは、一人変わり種の子がいるよ」
『変わり種、ですか?』
「ああ、楽しみにしてな。今日、来るんだろ?」
『ええ、まあ』
「お客さんはクラシック曜日の日によく来るからね。クラシックに縁があるんじゃないかい、ははは」
マスターはそう言って笑う。
このバーは、その日その日によって演奏される音楽のジャンルが変わる店だった。奏者の手配の関係から、ジャンルの移り変わりは不規則にも関わらず、私はクラシックの日によく当たるらしい。
ここ数か月を思い出してみれば、確かに二、三日に一回は、クラシックの記憶があった。これが運命というのなら、安っぽい運命だとは思うが、それでも何かの縁なのだろう。
私はもう一口トーストをほお張ると、一口コーヒーをすする。もう夏も近しいが、やはりコーヒーはホットに限る。そう思った。
今回の更新はこれで終了です。
とりあえず忙しい時期は通り過ぎましたので、これからは前書きの通り週1-2のペースを維持したいと思います。
読んで下さりありがとうございました。
『はっ、はっ、はっ……っ』
私は急いでいた。理由は明確にして単純である。時間が押しているからだ。
予定では、今日は二時間ほどの残業で済むはずが、仕事が少し立て込んだせいもあって残業が四時間に延びてしまった。
確か、あのバーの夜のライブは八時から、一時間ほどが定例だ。だから、もう終わっている時間ではある。
最初は、行くのを諦めようかと思ったのだが、昼にマスターへ行く、と言ってしまった手前どうにも行かざるを得ないような、そんな気になっていた。
それに、”変わり種”というのがどのような人なのか、見てみたいと言う思いもあったのだ。もっとも、今やそれは徒労に終わる可能性が大部分を占めているわけではあったが。
『……運動、しとくべきっ、だったかな』
ただの小走りでも、体に乳酸がたまってきているのがわかる。本格的にジムへ通うことを検討するべきかもしれない。そんなことを考えているうちに、あのバーの看板が見えてくる。
私は少し息を整えると、邪魔をしないようにゆっくりと扉を開ける。その向こう側には、夜の時には閉められている防音扉があるはずだったが――それは既に、開いていた。
『……遅かったか』
音楽にそこまで入れ込んでいるわけではないが、こうやって急いでやってきたのに聴くことが出来ない、というのは私でなくても落胆する事だろう。
「おっ、遅かったね。丁度今終わったところなんだ。残念だったね」
私に気付いたのか、マスターがこちらを見てそんなことを話しかけてくる。すでに店内にいた客は、各々の椅子を携え、あるいは方向を戻し、自分の席で酒や軽食を嗜み始めていた。
ライブが終わった後、マスターが掛けただろう、ゆったりとした悲壮感漂うクラシックが、なんとなく私の心を表しているように感じる。
『はは、少し残業が長引きまして……。楽しみにしていたのですが、残念です』
私は苦笑しつつ、愛想笑いを浮かべて、ちょうど空いていたカウンター席に着いた。あまり酒は嗜まないが、今日は少しだけ飲もう。そう思い、ブランデーを注文する。
「そりゃあ、悲しいね。ま、残念賞代わりに、ピクルスをおまけしといてあげるよ」
そんなマスターの気遣いが、少し身に染みる。私はマスターに礼を言いつつ、書類を広げる。ここは限りなく私の癒しの空間ではあったが、同時に仕事を進める場でもあった。
無能な私では、こうやって時間外の労働をしなければ、既定の仕事が終わらない。最近では社畜なんて言葉がはやっているが、残念ながら私の場合はそうではない。
世の中のサービス残業とは違い、十分にできるだろう量をこなせなかったのだから、当然の帰結だ。
私はぺらり、ぺらりと書類をめくると、マスターがブランデーとピクルスを運んでくる。ことり、とピクルスの乗った小皿が目の前に置かれる。
『ところでマスター、”変わり種”というのは、どちらの方だったので?』
私は、気になっていたことを聞いた。マスターはカウンターの向こう側に戻ると、ちょうどステージの傍にいる集団を見た。
「ああ、そこにいるよ」
マスターのその言葉に促されるように、私もその集団を見る。どうやら、マスターの言っていた若いと言うのは、もう本当に若いと言う意味だったらしく、自分と同じか、それより若い子たちだった。
私はふと違和感を抱いた。中にはユニットを組んでいるためか、楽しく談笑をしている子たちもいたが、その中で一人だけ、手に何も持っていない女性が居るのだ。
その姿は、遠目から見ても麗しいと思えた。すらり、と伸びた黒髪は、私の乏しい語彙では少し表現できないほど、何というか、”高級な黒色”をしている。
それに反して、その肌は絹のように白く、ステージの小さなライトを照りかえりて、白く輝いている。
しばらく見とれていたが、ようやく思い返したように私はマスターへと、答えあわせをするように聞き返す。
『あの、黒髪の女性ですか』
「おっ、良くわかったね。もおやおや、しかして、タイプの子だったかな?」
『はは、御冗談を……。楽器を持ってらっしゃらなかったので、少し気になっただけですよ』
見とれていたのは事実だが、そういうわけではない。どちらかと言えば、素晴らしい芸術品を見たときの様な、そんな感じだ。
私はそう苦笑しつつ、ブランデーを少し口に含む。芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、少し体の温度が上がった気がした。最近は酒をあまり飲んでいなかったので、少し弱くなったかもしれない。
「わっはは、そりゃ悪かった。まあ、今日は残念だったけれども、明日もクラシック曜日の予定だ。あの子ももう一回出る予定だよ。また明日も来てくれればいいさ」
マスターは少し意地悪そうに口角を吊り上げると、他の客に呼ばれていたのか、カウンターの向こう側で動きはじめる。かなり忙しそうだ。
それもそのはずで、店内はかなり混雑していた。と言っても、バーの趣旨が趣旨なので、席がぎっちり敷き詰められているわけではなく、店の広さに対していささか席数は少ない。
そういう意味では空いていると言えたが、席数から見ればほとんど満員に近しいだろう。
だから、そうなったのは、ある意味必然だったのかもしれない。
「隣、空いているかしら?」
そう、声を掛けられた。私は特に気を払うこともなく、書類の枚数を確認しながら、
『ええ、どうぞ』
と言った。そうして、枚数とページ数があっていることを確認して、ようやく声の主が何者なのか、を確認するため、顔を上げる。
そして、私は一瞬、呆気に取られることになる。
「ありがとう。それじゃあ、失礼するわね」
そこにいたのは、あの女性。毅然とした表情と、余裕さえ感じられる落ち着いた雰囲気。傍で見ると、その美術品の様な美しさに、どうしても目を奪われる。
一切の混じりけのない、しなやかで純粋な黒い長髪と、触れれば崩れてしまいそうなほど繊細に見えながら、みずみずしい活力を放つ白い肌。
それは独特の味わいと深みを映し出す、年代物のピアノさながらのコントラストを生み出していた。
「……どうかしたかしら?」
『……え、あ、ああ。いえ、これまたお美しい方が、お隣に座られたのだ、と思いまして』
私はとっさに、そんなお世辞を並べる。いや、生憎お世辞と言うわけではなく、実際の所本心ではあったが、あくまで平静を装ってのことだ。
おかげさまで、彼女もそれをお世辞と受け取ったのか、少し微笑むと、
「ふふっ、私を口説いているのかしら?」
などと、冗談っぽく返す。その微笑でさえ、様になるのだ。そこだけ切り取ってみれば、絵画のモデルになっていてもおかしくはない。
『残念ながら、私にはそんな度胸も才覚もありませんから』
私は、少しの冗談と、少しの自虐を込めて返す。彼女は、少し目を細め、そのしなやかな髪を揺らして、くすり、と笑う。
「あなた、つまらない人ね。でも、悪くはないわ」
彼女は、あって間もない私のことを、つまらないと見抜いた。彼女は間違いなく聡明だろう、と私は一人自虐する。
ただ、悪くはない、という意味は少し分からなかった。
「私、黒川千秋というの。あなた、お名前は?」
彼女は、そう自己紹介をした。袖すり合うも他生の縁、とも言うのだ。何かの縁だろう。
『これは、私が口説かれているのですかね?』
「あら、先ほどの意趣返しのつもりかしら?」
『いえいえ、滅相も。私は、Pと申します。以後、お見知りおきを、黒川さん』
私は癖から、胸ポケットより名刺を取り出すと、彼女に差し出した。
「ご丁寧に、わざわざありがとう。それと、千秋でいいわ。あなたの方が年上であることよ」
やはり、クールビューティと表現するに相応しい女性だろう。それに、言葉づかいや振る舞いから、良家の子女の様なものがにじみ出ている。
ただ、深窓の令嬢というよりも、高嶺の花、という表現が似合うかもしれない。私はそう思った。
「おぅや、お客さん、さっきはあんなこと言っておきながら、しっかり口説いているじゃないかい?」
そうしているうちに、注文をさばき終えたマスターが戻ってくる。そして、黒川さん――いや、千秋さんと話している私を見て、少し目を丸くしていた。
『偶然、千秋さんがお隣に座られたのですよ。たまたまです』
そう説明するも、マスターは隠さなくてもいいんだ、と言ったような雰囲気で笑っている。
「お客さん、千秋ちゃんのこと、楽しみにしていたんだよ」
「あら、そうなのかしら?」
告げ口をするように、マスターが千秋さんへと喋りかける。彼女は、それを聞いても表情を変えることなく、余裕を浮かべたまま私に視線を投げかけてくる。
『ええ、変わり種の子がいる、と聞きましたので。残念ながら、今日は残業があったので拝聴はできませんでしたが』
私はウィスキーを少し呷ると、ことり、とグラスをカウンターにおいて言う。
少しほろ酔い状態だが、まだ慇懃な敬語は抜けないで済んでいる。私自身、自分が酔ったと感じる判断基準は、敬語が無くなる、と言う事に基づいている。
それまでに、酒は止める、というのが私の中の決まりごとだった。
「そう、それは残念だったわ。でも、明日も私はステージに立つの。是非聞いてほしいわね、Pさん?」
『ええ、それはもちろん。ここまで来て、千秋さんとお知り合いになれたのですから。是非お聴きしたいものです』
私はそう言った。どことなく、彼女の表情が嬉しそうに見えたのは、気のせいだろう。
今回の更新は以上です。ペースを上げていきたいですね。
読んでくださり、誠に有難うございます。
『はっ、はっ、はっ……っ』
私は急いでいた。というか、完全にデジャヴュである。昨日もまるっきり、こんな感じだった。そうである、案の定残業が長引いたわけだ。
ただ、少し違うのは、昨日よりも大よそ二十分の猶予があることか。先ほどプロダクションを出た時は九時三十分だったから、このペースで行けば四十分には着けるはず。
私の乏しい頭で試算した結果がそれだ。ただ、問題は――。
『ああ、もう……っ! 千秋さんのっ、番っ! 終わってるかも、知れないね……っ!』
擦り切れた革靴が、がつり、がつりと悲鳴を上げる。大通りから一本逸れ、二本逸れ、そうして、私の帰宅路へと入り込む。
一番最寄りのジムはどこにあるのだろう。そんな現実逃避をしつつ、私は血反吐を吐くかもしれないと錯覚するほど、足を動かす。
そうして、見えたあのバーの扉は、やはりぴったりと閉まっている。肝心なのは、その向こう側だ。あの防音扉が閉まっているのが最悪で、その次は千秋さんの番が終わっていることだ。
『頼むぞぉ……』
私は呼吸を整えると、祈るような手つきでドアの取っ手に手を掛ける。その向こう側には――。
『……一応、間に合ったみたいか』
私は、とりあえず安堵する。目の前にあったのは、少し錆びた、鈍色の防音扉。その向こうから音は聞こえないが、まあ、防音扉だから当然だろう。
そうして、今度はその防音扉に手を掛ける。もう夜も遅いのだ、騒音の訴えが出てはいけない。本来なら、演奏中の入退場は控えたいところだったが――。
『……許してくださいよ、近隣住民の皆さん』
謝罪の言葉を呟き、防音扉に手を掛ける。ぐぐっ、と力を込めると、がきん、と硬いロックが外れる音。店の扉を閉めつつ、私は店内へと滑り込んだ。
その瞬間だった。
『――ッ』
体が、固まった。今日は、クラシック曜日のはずだったが、私の耳に聞こえてきたのは、流麗なバイオリンの音でも、芳醇なピアノの音でもなかった。
聞こえてきたのは、声。長く、高く伸びる、透明な声。他に楽器の音色は聞こえない。クリアなその声、ただ一つだ。
なのに、指一本さえ、動かすことが憚られた。それほどの声量と、音質。圧倒される、声の奔流。今まで感じたことのない声圧だ。
ただ、ほんの一瞬。ところどころに私は違和感を抱く。それが何かを、私は知らず、そして知ることもなく、気が付けば私は壁にもたれ掛かって座り込んでいた。
「びっくりしたかい、お客さん?」
そんな声が、頭上より降りかかる。私は見上げると、そこにいたのはマスターだった。
私は少しだけ力なく笑う。
『……ええ、圧倒される、というのはこういう事なのでしょうね』
足に力を込めて、私は立ち上がる。体中のエネルギーを持っていかれたような気がする。そのぐらい、千秋さんの声は私の体に、畏敬の念を抱かせたのだ。
『すみません、いつものを頂けますか』
「あいよ。サラダセットとブレンドコーヒーだね」
マスターはカウンターへと戻っていく。そのあとを追うように、私もカウンターへと座り、鞄を置いた。今日は、仕事はないのでゆっくりと夕食を楽しめそうだ。
「あら、Pさん。約束通り、来てくれたのね」
今度は、そんな声が背後から聞こえる。振り返ると、そこにはいましがたステージから降りてきたばかり、と言ったような千秋さんの姿。
額からは汗を滴らせ、その黒髪はしっとりと濡れている。浮かんだ汗は、その白い肌と相まってさながら真珠のようだ。
こう言っていると、私が奇妙な性癖を持っているように思えてくる。もっとも、そんな性癖の一つや二つあれば、私もここまで平凡な人間たり得なかっただろうが……。
『ええ、凄まじい歌声でした。千秋さんは声楽を習ってらしたので?』
「そうよ。私、クラシックが好きなの。それで、いつかはクラシックの歌手になって見せよう、と思っていたの」
そういって微笑む彼女は、どこかつまらなさそうではあった。その理由は定かではない。気分を害することは言っていないはずだが、彼女の眼は私をじっと見据えている。
『……どうか、しましたか?』
「いえ、それだけなのかしら、と思っただけよ」
彼女の言い方はどこか、不満げである。これ以上ないぐらいに褒めたつもりだったが、まだ賞賛が足りないと言うのだろうか。
私は、次の褒め言葉を考える為、頭の中の辞書を引っ掻き回す。が、ちょうどいい文面が出て来る前に――ふと、浮かんだ言葉が口をついて出てしまう。
『……そうですね、感動はしなかったです。とても凄まじい声ではありましたが』
「っ、どういう、ことかしら」
少し、彼女の目つきが厳しくなった気がした。
今更、しまった、と思ったところで口から出た言葉が撤回できるわけでもない。そして、それを申し出たところで、彼女は言葉の真意を確かめるため、私に詰問をしてくるだろう。
やらかした、というのが本音だった。こういう失言をしないために普段注意していたのだが、今日は少し気が緩んでいたらしい。
『あー、と、その。素人の勝手な感想ですので、気になさらない方が宜しいですよ?』
「いい、Pさん? 聴衆のほとんどは素人なの。素人の意見や感想は、私にとってはこれ以上ないくらい必要な物。だから、ぜひとも教えてほしいの」
なんてことだ。完全に退路は遮断されている。袋の鼠というやつだ。口は災いの元と言うが、まさしくその通りだ。
二十歳過ぎればただの人、の格言しかり、昔の人はどうも私のことを言い当てるのが得意らしい。というよりも、格言が当てはまるような平凡な人間という証左なのだろう。
『えーっと、ですね。その、何と言ったらいいかわからないのですが』
「おっ、どうかしたのかい」
そうやって言いよどんでいるうちに、マスターがサラダセットとブレンドコーヒーを持って戻ってくる。
私は助かった、という思いでしかなかった。とりあえずこの場をとりなしてもらおう。そう思っていたのだが……。
「聞いてくれるかしら、マスター。Pさんが、私の歌では感動してくれなかったそうよ?」
「ほう? そいつはどういうことだい、お客さん。千秋ちゃんをステージに立たせた身としちゃ、俺も気になるねぇ」
怪訝半分、興味半分と言った様子でマスターは聞いてくる。何と言う事だ、完全に包囲されている。
もっとも、それはそのはずで、マスターは間違いなく千秋さんの歌声を聞いて、ここのステージに立たせる価値があると判断し、そして立たせたのだ。
その結果、ただの素人でしかない私が感動しなかった、とのたまったら、それは気にもなるだろう。
(いや、正確には全く感動しなかったわけではないんだけど……。説明が、ええい、もうどうにでもなれ)
私は半ば自暴自棄になりながら、内心でそう叫び、そしていつも通り頭の中で整理をし始める。
確かに、彼女の声は凄まじい物だった。だが、感動はしなかった。この矛盾点をどうにかして説明しなければならない。
そうして、十秒ほど考え込んだ後、私はゆっくり口を開く。
『その、何というか……。変な例えで申し訳ないんですが』
じっと見据えてくる千秋さんの目が、どうにも怖く感じる。マスターはマスターで、興味津々、と言った様子で私を見据えてくる。
何とも居心地が悪いが、私は意を決して言葉を吐きだす。
『ものすごく透き通る声だったんですが、その、いかにも人為的な声というか』
「……どういう事かしら」
少し威圧的だった千秋さんの目が、途端に疑惑の視線へと姿を変える。ああ、怒っているな、と思った。当然だ、自分でも何を言っているのかちょっと分からなくなってきている。
私は、やはり頭の中で整理をしつつ、目まぐるしく言葉を探した。
そして次の瞬間、ティンと来た。そう表現するしかない。もし私の頭の上に電球があるなら、ぴかり、と光っている事だろう。
『……そうですね、”ガラスの声”、という表現が一番しっくりきそうです』
なんというか、胸のつかえが取れた気分である。そうだ、彼女の声はまさに”ガラスの声”なのだ。
とはいえ、それを上手く説明することはできない。彼女の声を表現する言葉を見つけたと言っても、それは私の中での話であり、そこで帰結してしまっている。
さて、どうやって彼女に説明し、そして説得するか。そう私が考え始めた時だった。
「……なるほど、分かったわ」
千秋さんは、キッと鋭い視線を私に投げかけると、ゆっくりと立ち上がる。
そして、
「マスター、二日間お世話になったわ。ありがとう」
と言って鞄を持ち、かつり、かつりとヒールの音を鳴らして店の出口へと向かっていく。
「おう、またおいでよ、千秋ちゃん」
「ええ、そうさせてもらうわ。それと……」
千秋さんは、出口の前でくるり、と振り返る。ふわり、とその長い黒髪が弧を描く。
そして、彼女は射抜くような目で、私を見据える。……なんだか、蛇に睨まれた蛙の気分だ。
「また、お会いしましょう、Pさん?」
『え、あ、その』
「……ふふ、それでは、ごきげんよう」
彼女はくすりと笑う。怒っていないのだろうか、と私は思ったが、むしろ上機嫌にさえ見える。一体どういう事だろうか。
そんな風に考えた次の瞬間には、ちりん、という小さな鈴の音を鳴らし、彼女は扉を開けて去って行った。
『……行ってしまったな』
私はそう独語した。何とも、悪いことをしてしまったかもしれないと思いつつ、私はため息をつく。そのため息を拾ったマスターが、
「まあ、気落ちしなさんな、お客さん。ところで、さっきの”ガラスの声”ってのは、どういう意味だい?」
と尋ねてくる。
『いえ、その説明が難しいのですよ。私の中では、こうだ、というイメージはあるのですが』
私がそう説明すると、マスターは苦笑し、
「ふぅむ、お客さんはどうも、独特の感性を持っているんだろうなぁ。俺にはさっぱりだよ」
と言う。
『そんな、私はそんな大層な物なんて持ち合わせていませんよ』
私は苦笑をした。そうだ、私はたぐいまれなほどの凡人である。そんな凡人の、第六感ともいえるそんな表現なのだ。他の人間には理解できるわけがない。
それは、以下にも高尚なお話、というわけではなく、ありていに言えば、たとえ話の下手な人のたとえ、の様なものだろうと思う。
ただ、それにもかかわらず、千秋さんは察したように帰って行った。それが少し、分からない。あんな下手な説明で理解できたわけもなく、ただ、彼女はそれで満足したのだ。
いったいどういう事なのだろう。疑問は解決する余地を見せることなく、なす術を失った私はコーヒーカップを手に取り、口へと運ぶ。
『……う、冷めてるな』
そんな呟きが、バーの中で一つ、宙へと消えたのだった。
今回の更新は以上です。少し間が開いてしまいました。
冷房の設定温度の下げ過ぎは良くないですね。
皆さんはクーラー病にかからないように、お気を付け下さい。
それから数日後のこと。
私はいつも通り、甲斐のない営業周りに出掛けていた。相変わらず仕事は取れない、宣伝もできないと、まるででくの坊だ。
今日も悲しいことだが、大して成果は得られなかった。一件だけ仕事は取れたが、大きな仕事ではない。
本音を言わせてもらえれば、話したことはおろか、会ったことさえ数えるほどしかないアイドルを売り込め、というのも少々無茶な話である。
ただ、そんなことで文句を言えるほど私は偉くはないし、担当である一番手のプロデューサーの労働っぷりを見れば、たとえ彼の仕事であると言えども、投げ返すのはいささか憚られた。
(最後の休暇が、年度末の長期休暇だっていうんだから、ビックリだよ、ホント)
性格には難があると言っても、その働きっぷりは少し瞠目に値する。やはり才能ある人間は、どこか欠点があるものなのだろう。
それに比べて、とりたてて欠点がない私は、やはり無能なのだ、なんて内心自嘲を零し、僅かに肩を竦めた。
『……気分が落ち込むことなんて考えないで、さっさと会社に戻ろう』
私はやや速足で事務所への道を進む。一つ、二つと角を曲がり、事務所のある道へと差し掛かったところだった。
『……あれは?』
曲がったところで、事務所の前にちょうど止まったタクシーから、一人の男性が降りて来る。
若々しいながら、どこか威風の様なものを纏い、自信にあふれ、活力を漲らせ、恰幅の良さを感じる。まさにそう表現して差し支えはない姿。
見覚えのあるその姿は、数日前に事務所へ訪れた、シンデレラガールズ・プロダクションの社長のそれであった。
(シンデレラガールズ、の社長さんか。うちへ用かな)
降りた位置といい、うちの事務所を見上げる姿といい、どう見てもそうとしか思えない。なので、声を掛けようかと思ったが、ふと思い立つ。私と彼とでは彼我の地位が違うのだ。
案内をするのが私の立場では当然の選択だろうが、私の方から声を掛けるのもいささか憚られる気がした。なので、そそくさと事務所のある雑居ビルへと入ろうとしたのだが。
「……おや、君は確か、Pくん、だったかね?」
なんとまあ、当然と言えば当然なのだが、声を掛けられてしまった。そこまでは残念ながら当然と言わざるを得ないのだが、私を驚かせたのは声を掛けられたことではなかった。
『は、はあ、確かに私はPですが……。どうして私の名前を?』
私の記憶では、彼に名刺を渡した覚えはないし、自己紹介をした覚えもない。シンデレラガールズの若いプロデューサーには渡したが、それが社長の元まで上がることはあり得ない。無論、面識も皆無である。
私がそう尋ねると、シンデレラガールズの社長は少し笑い、
「以前、私を案内してくれた時に、そちらの社長さんが君の名前を呼んでいただろう? それに、スタッフの移籍に関して、君の書類も拝見させていただいたのでね」
彼はなんでもないように言った。
一度聞いただけの名前と、一度見ただけの顔と、書類の名前と顔を一致させる。それがどれだけすごい事かは、私でもわかる。
やはり、この目の前の男性にも、とんでもないほどの才能があるのだ、と私は思った。
「ああ、それよりも、だ。今日そちらの社長さんは在社かな」
と、シンデレラガールズの社長は、話を思い出したように切り出す。
『え、ええ、はい。この時間であれば、まだ居るかと。……不躾ですが、何かご用でしょうか? 私でお聞き出来る事であれば、お話を預からせていただきますが』
いささか営業職に慣れてきたのか、私は私らしくもなく、そんなことを彼に聞く。すると彼は少し苦笑し、
「うーむ、君に聞いてもらってもいいのだが、やはりこういうのは君の社長さんを通さねば、ね」
そんな意味深な言葉を返してくる。その意味が分からず、私は少し頭に疑問符を浮かべるが気を取り直すと、言葉を選び、案内を始める。
『とりあえずは、お疲れのことでしょうし、立ち話をさせるのも申し訳がないのでお入りください。お荷物の方、お預かりいたしましょうか?』
「ああ、いや、結構だ。心遣いだけ受け取っておくよ」
彼はそう言い、ずんずんと歩きはじめる。まるで私が案内されているようだ、と苦笑を一つ零すも、食い下がることはせず、階段を上る。
かん、かんと鉄の階段を踏む音が二つ、木霊する。そうして、私は自分の事務所へと足を踏み入れた。
『ただ今戻りました。それと、お客様です。社長は今どちらに?』
私は扉のすぐそばのデスクで仕事をしていた、二番手のプロデューサーに尋ねる。中肉中背のパッとした印象のない彼ではあったが、仕事の手を止めることはなく、
「ああ、今社長室にいらっしゃいますよ、Pさん」
と、返してくる。こういうあたりは、この事務所のプロデューサーに一貫している事だった。ワーカホリックと言えば聞こえは悪いが、純粋に仕事熱心なのだ。
もっとも、そうならざるを得ないほどの、このプロダクションの自転車操業事情、というものもあるのだが……。
『ああ、すみません。では、ご案内させていただきます』
「うむ、済まんね」
そんな会話を一つ、二つとかわし、私はシンデレラガールズの社長を、うちの社長室へと案内する。こん、こんと二度ノックを鳴らし、私は中にいるだろう社長へと言葉を投げかけた。
『社長、Pです。シンデレラガールズの社長様がお見えになりました』
「シンデレラガールズの……? まあ、とりあえず、入ってもらってくれ、Pくん」
『はい、失礼します』
私はそう一声かけてから、社長室の扉を開ける。
『シンデレラガールズの社長様をご案内いたしました、社長』
「いやはや、すみませんな、アポイントもなしに。火急の要件なので、アポイントを取る余裕もありませんで」
「いえいえ、構いません。とにかくお座りくだされ、シンデレラプロさん。Pくん、お茶でも出してあげてくれるか」
『はい、かしこまりました』
私は社長に言われた通り、お茶を出すために社長室より退出する。そして、給湯室へ向かい、茶葉を茶瓶に入れると、ポットからお湯を注ぎ、少し待った。
そうして、二分か三分ほど経ってから、それを二度、茶碗へ移した。それから、茶請けのお菓子を添えてお盆に乗せ、社長室へと向かう。もう慣れた作業だ。
『失礼します』
私は、いつもの通り二度ノックをすると、滑り込むように社長室へと入った。何か二人が話し込んでいる気がする。少し聞こえた話だと、件のアイドルの名前が出ていた。
やはり、移籍の話なのだろう。私が居ては邪魔になる。そう思って、素早くお茶を置くと、退出するため出来る限りゆっくり、なおかつ急いで出口へ向かう。
小脇に抱えたお盆に残る、僅かな温かみを感じながら、社長室のドアへと手を掛けた。その時だった。
「ああ、Pくん、だったか。ちょっと残ってくれるかね」
そんな私を、呼び止める声が上がる。思わず、少し身を震わせると、私はゆっくりと振り返る。
完全に目が合った。嫌な合い方だ、漫画や小説の世界なら、確実にこの後嫌な展開が待っている。そう思いながら、私は目が合った相手――シンデレラガールズの社長へ向けて、言葉を紡ぐ。
『……は、どうか、なさったのですか?』
「ああ、うん。まあ、ね。というより、今日の本題と言っても過言ではないのだが」
彼は少し苦笑すると、おもむろに書類を二枚、鞄から取り出す。そして、それを社長の前にすっと差し出した。
「これは、何ですかな?」
私の社長が、やや訝しげにそう尋ねている。アイドルの移籍話に、うちの社員は関係ないのでは――。そんな表情だ。
対し、シンデレラガールズの社長は、ほんの少し微笑むと、ゆっくりと口を開いた。まるで、走馬灯を見ているかのような錯覚。
そして、同時に私は、頭を鈍器で殴られたような、そんな衝撃を受ける。
「なに、こちらも移籍の申し出ですよ、社長さん。そちらのPくんを、うちへ迎えたい、と思いまして」
からん。私の落としたお盆が、床に当たって立てる音が響く。
私はきっと、どこか遠くの世界の映像を見ているのだ――。
そう、思った。
今回の更新は以上です。
少々短いのはまだ体調がすぐれないからですね、すみません。
また数日のうちに投下の方をさせていただきたく思います。
乙乙
ひょっとして世界観繋がってる?
面白いよ、無理はしないでね
「それでは、ひとまず私は帰らせていただこうかな、と。次の予定もあることです。それと、いきなりやってきてこのような突然のお話、申し訳ありませんな」
「いえいえ、本人の意思を尊重していただき、感謝いたしますよ。正直、我がプロダクション程度のレベルでは、買収されても文句は言えませんからな」
時間にして、僅か三十分ほどのことだった。三時過ぎに事務所へ戻ってきて、今の時刻はまだ三時半である。
だが、私にとっては時間が止まったような錯覚を受けるほどの、そんな恐ろしいぐらい長い時間だった。
「それも可能でしょうな。ですが、私は金に物を言わせて、というやり口は嫌いでしてね。何より、持てる力の一滴までも絞り出してやるには、意思が必要不可欠ですからな」
私の隣で、そんな会話が交わされる。社長とシンデレラガールズの社長の物ではあったが、やはり、これもどこか遠くの出来事のようである。
そもそも、なぜ私がスカウトされたのか。それがいまいち理解できない。わざわざこんな小さな事務所で、存在するかもわからない水晶の原石を探す必要性はない。
それ以前に私よりも非凡な人はいる。平凡、無能、でくの坊という言葉がこれほど似合う人間は、世界中を探してもそう居ないのではないだろうか。
私を雇わざるを得ないほど、広報や営業が不足しているわけでもあるまいし、やはり、理由は分からなかった。
「とりあえず、Pくん。良い返事を期待しているが、君の意思を尊重したい。ゆっくり考えてくれ」
そんな、”ど”がつくほどネガティヴな考えをしているなど、きっと目の前の男性は分からないだろうな、などと私は考えていた。
『え、あ、はい。分かりました……。いつまでに、お返事をすればよろしいので?』
「そうだね……」
考え込むようにシンデレラガールズの社長は顎を触る。そうして、少し笑う。
「君はどうも、考え込んで決めるタイプと見たからね。一週間、猶予を取ろう。大丈夫だね?」
彼はそういって、私の肩を叩き、ちら、と時計を見ると、
「では、そろそろ失礼させていただきますよ、社長さん。ああ、見送りは結構なのでね、手数を掛けましたな」
ずんずん、一人で社長室の出口へと歩いていく。行動だけ見ていれば唯我独尊、傍若無人とでもいえそうだ。だが、その裏には、しっかりと綿密に織り込まれた配慮が見え隠れしていた。
効率的な行動を好みつつも、人を見る才能と、人を使う才能に長けているのだろう。私はそう感じた。
そうして、社長ともども、呆気に取られているうちに、シンデレラガールズの社長は帰って行った。社長室の外で、二番手プロデューサーが挨拶している声が聞こえる。
社長室に残されたのは、私と社長と、ちょっと冷めた、ほとんど手つかずのお茶であった。私はゆっくりと息を吐くと、
『……どうしろって言うんですかね』
と、独りごちた。それは誰に対する問いかけでもなかったのではあるが、隣に居た社長が答えを返してくれるのは、ある種必然と言えた。
「君の、好きなようにしていいんだよ、Pくん。私は君の意思の全てを尊重しようと思う」
『しかし、それでは……』
この事務所が立ち行かなくなってしまう。そう言おうとした。だが、その言葉を出すことはできない。私が、そんなことを言うことはできない。
なにせ、役立たずもいい所なのだ。この事務所が今上手く行っていないのも、私が営業と広報をしているからだ。
無能な私が、広報と営業と言う、他者とのパイプラインのほとんどを担っているからこそ、この様なのだと。
実際、産休で居ない女性社員が営業をしていた時は、ここまで苦しくはなかった気がする。
ただ、一瞬つぐんだ口を開くための言葉が見つからず、押し黙る私だったが、社長は何かを察したように少し笑う。そして、思わず耳を疑う様な事を、社長は言った。
「……君の才能を上手く引き出してやれなかった私が、無能だったと言う話だよ。君に責任はない」
いったい何を言っているのだろうか。私はそう言葉を上げそうになり、しかし立場と言う物を思い出してぐっと踏みとどまった。そして、ゆっくりと言葉を選ぶ。
『お言葉ですが社長。私はどうしようもなく平凡で、無能です。社会人として、このようなことを言うのは、間違っていると重々承知ですが、この事務所がここまで苦しいのは私に責任があると……』
「おい、図に乗るなよ、Pくん」
私の言葉は、そんな社長の一喝で遮られる。静かな言葉だったが、どこか人生の先達として、酸いも甘いもかみ分けてきた人間の老練さがにじみ出ていた。
「君の言い方だと、この事務所は君無しでは成り立たないように聞こえるね。まるでPくんがちゃんとした成果を出せれば、この事務所は立ち直る、と」
『い、いえ。決してそういうわけでは……』
私は急ぎ誤解を解こうと言葉をつづる。だが、社長は少し意地の悪そうな笑みを浮かべると、
「わかっとるさ。ただ、君は卑下が過ぎる。もう少し自信を持ちたまえ。君に才能があると判断し、君を採用した私の無能を詰ることになるからね。それとだ」
そういって、私の肩をぽん、と叩く。どこか温かみさえ感じるその行為に続き、私には少し理解できない言葉を社長は言った。
「君は、平凡と無能の違いを理解したほうがいい。君は君の言うとおり、きっと平凡なのだろうけどね、無能じゃない。それは忘れてはいけないよ」
私はわけがわからないまま、その言葉をとりあえず頭に刻む。昔、劇団に所属した時の名残だ。意味は分からなくとも、とにかくセリフを覚える必要があったが故の産物である。
なんにでも手を出した、中途半端がゆえの副産物が、こんなところで生きるとは思わなかったが……。
「まあ、ゆっくり考えるといい。会社のことは考えず、君がどうしたいか、それをしっかり考えたまえ。さ、行きなさい」
社長はそういって、ひらひらと手を振り、私に退出を促した。その促しに従い、私は社長室を後にする。
結局、何が何やら分からぬままだ。社長の言葉も、シンデレラガールズの社長がなぜ私を引き抜きに来たのかも、全部である。
一つため息をつき、給湯室でコーヒーを入れると、私はそのカップを片手に自分のデスクへ向かう。
(……まあ、考えるのは後。今は先に仕事をしないと)
そう、内心で呟き、私はデスクへと着く。かたかた、と二番手のプロデューサーが叩くキーボードの音が響く。
それを聞きながら、私はコーヒーをすする。熱いその黒い液体は、私の口を駆け巡り、一気に胃袋へと落ちていく。
書類を取出し、そうしてようやく今日、取ってこれた仕事があることを思い出す。
私は再び立ち上がると、二番手プロデューサーの方へ歩いていく。
『プロデューサーさん。ちょっとよろしいでしょうか?』
そして、私は声を掛けた。今日は、一番手と三番手はそれぞれの担当アイドルにつきっきりで、トレーニングやらレッスンやら、仕事やらで飛び回っている。
この仕事は一番手プロデューサーの物ではあったが、私から直接言うよりも、彼経由の方がきっと、伝わりやすいだろう。そう思っての考えである。
……まあ、私が一番手プロデューサーを少し苦手に思っているのも、手伝っているわけだが。
「はい、どうしました、Pさん?」
『本日の営業なのですが……』
そう切り出すと、二番手プロデューサーは少し苦笑し、
「いや、いつもすみません。もう少し我々がしっかりしていれば、Pさんに専門外の仕事をさせずに済むのですが」
申し訳なさそうに、彼は頭を下げる。それに対し、どこか罪悪感を抱いた私は、
『いえいえ、そんな。こちらこそいつもお役に立てず、申し訳ございません。ただ、今日は一件だけ、仕事を取ってこれたので、一番手プロデューサーさんにお渡し頂けると……』
そういって、頭を上げるように促した。
私としては、与えられた仕事をこなせてないのはこちらなのだから、謝られるとすごく困る。そう思いながら、私は鞄から封筒を取り出した。
すると、二番手プロデューサーは少し驚いたような表情を浮かべた。
「へ、お仕事、取ってこれたんですか? 凄いですね、Pさん」
彼はそういって、少しばかり嬉しそうに封筒を受け取るのだ。私は少し不思議に思い、尋ねる。
『……凄い、とはどういうことですか?』
「ああ、いえ、営業で新規の顧客を獲得する、というのはなかなか難しいことなのですよ。かくいう私も、新規営業で顧客を獲得したのは数えるほどしかないですからね」
彼は羨ましそうに笑い、お世辞を並べ立ててくれる。
「営業の彼女も、十件ほどしか成功していない、と言っていましたし、Pさん実は営業の才能があるんじゃないですか? はは」
『そんな、私なんてどうしようもない無能ですから……』
「またまた、そんな謙遜は不要ですよ。彼女が産休に入るにあたって、我々は得意先の営業が割り当てられて、Pさんには新規営業が割り当てられたわけですけど、社長に認められたってことでしょう?」
『は、はあ』
私は思わず相槌を打ったが、そんな話は聞いた覚えがない気がする。
となると、三人のプロデューサーたちがこのところ忙しいのは、産休に入った彼女の仕事を一部、引き継いだからなのだろう。
「ですから、もっと自信を持っていいですよ……って、なんだかまるで、担当アイドルを励ましているようですね。いやはや、お恥ずかしい」
彼はそう言って笑った。そういえば、こうやって同僚と話したのは久しぶりかもしれない。
この人は、こんな風に笑うのだ。私はそう思った。
『それでは、プロデューサーさん。お仕事の件、宜しくお願いしますね』
なんとなく、気恥ずかしくなったせいもあってか、私はそう言うと、自分のデスクへと戻る。
あのまま少し談笑していたい、とは思ったが、彼にも仕事があるだろうし、何より私には広報の仕事も残っている。
ただ、仮にだ。もし、もしもあのプロデューサーの言うとおり、私に営業の才能があるとするのならば――。
(やってやろうじゃあ、ないか)
少し気合を入れると、パソコンの電源を立ち上げる。また、営業で使う宣材を整理し、制作する作業に没頭するためだ。
これから一週間、あのバーに行かないでおこう。そして、期日の直前に、あのバーで、シンデレラガールズの社長への返答を考えよう。
もしかすると、今まで気づかなかったような才能が、私には眠っているのかもしれない。だとすれば、それに関してしっかり考えるべきだ。
何より、ずっと世話になった社長が、私の意思を尊重してくれる。ならば、精いっぱい応えたい。去るにしても、残るにしても、だ。
私はそう決意し、静かに立ち上がるパソコンの画面を、じっと見つめ、少しだけ笑った。
今回の更新は以上です。
遅筆をどうにかしたいものですね。
>>83
前作と世界観、登場人物の一部は共有していますが、読んでいなくても問題のないストーリー立てにする予定です。
世の中とは、残酷な物である。理由は単純で、努力が報われるとは限らないからだ。
『……駄目みたいだな、やっぱり』
私にしては珍しい、気合の入ったあの決意から六日。意気軒昂にして業火のように立ち上った私のやる気は、一日ごとに確実にそぎ落とされていた。
つまり、端的に言えば、あれから一切の成果が上がらず、私は途方に暮れたのである。
おまけに、私が取ってきた仕事はそれほど大きくなかったため、事務所の経営の足しになることはおろか、経費諸々含めるとプラスマイナスゼロに近しい有様である。
(……結局、才能の欠片もなかった、というわけだな、私には)
小さくため息をつくと、私は事務所の鍵を閉め、帰路につく。時刻は六時を過ぎたところで、そろそろ夕食時だった。
今日は残業もないと言うのに、気分は重いままである。どうせなら、残業をせざるを得ないほど、たくさんの仕事があってほしいと思う。
『……もう、いいかな』
諸々の諦めが混じった、そんな呟きを一つ零すと、私は決意表明の通り、この一週間近く行っていなかったあのバーへと、足を踏み出した。
結局、明日がシンデレラガールズの社長への返答期限なわけではあるが、結論が出ているわけもなかった。
そもそも、引き抜きに応じる応じない以前に、自分はこの仕事を辞めた方が良いのかもしれない、とさえ思えてきている。
いっそ、辞めてしまおうか、だなんて考えが浮かぶも、転職の当てはないし、このご時世でわざわざ自分から無職になりに行く愚は犯したくはない。
そんな保身的な考えが、私の無能さを良く表している、と思った。
『今日は……、すごいな。またクラシック曜日か』
しばらく歩き、あのバーの看板が見えた。看板には黄色いチョークで書かれた”クラシック曜日”の文字が、店外の明かりに照らされている。
本当に、私はクラシックに縁があるらしい。とはいえ、好きなクラシックジャンルがあるわけではないし、作曲家の名前も有名どころしか知らないわけだが。
私はバーの扉に手を掛ける。そして、ドアノブを回し、扉を開けると、その向こう側へと足を踏み入れようとした。だが。
『……あれ?』
古い味のある木製扉の向こう側に、鈍色の壁が姿を現す。がっちりとロックされたその防音扉は、この向こうで誰かが演奏をしている事を示していた。
(こんな時間から……? 少し早すぎやしないか)
そう思った。そもそも、この時間は昼間営業のカフェからバーへと営業移行をしている時間帯であり、ほとんど客は来ない。だいたい七時くらいより集まり始めるのだ。
もっとも、営業移行しているだけで店が閉まっているわけではないし、出入りは自由なのだが……。
『すみませんね、近隣住民の皆さん』
十日ほど前と同じ謝罪を呟きながら、私は防音扉の取っ手へと手を掛ける。なんとなく、私はまた、既視感を抱いていた。
ああ、あの日もこうやって扉を開けると、圧倒されるような、澄み切った声の奔流が――。
『ッ!? これ、は……ッ!』
臓腑を貫く様な、伸びるハイトーン。清々しく、澄み切ったように聞こえながらも、氷のように冷たく、冷え切った声。
ついさきほどまで抱いていた既視感は消え失せ、代わりに芽生えたのは危機感だ。
これ以上、いけない。
私は、声に関しては門外漢もいい所だ。だが、この声は”不味い”。そう直感で感じていた。あの時彼女に感じていた”ガラス”の声などではない。これは”氷”の声だ。もはや彼女の声でさえない。
私は急ぎ扉を閉めると、急ぎ足でステージへと駆け寄った。
『千秋さん! ストップだ! 今すぐ歌うのをやめてください!』
「……P、さん?」
驚いたようにこちらを見た千秋さんは、少しふらついたらしく、こちらへとしだれかかってくる。
私は半ば抱き留める形で彼女の体を受け止めると、そのまま片手で椅子の所まで支えて歩き、座らせる。
(酷い汗だ)
嫌な汗のかき方だ。先ほど抱き留めた時にも、体の熱の持ち方が少しおかしかったし、何より声に少し掠れを感じる。
それにしても、マスターはどうしたのだろうか。こんな状態になるまで、マスターが放っておくわけがない。
「いやぁ、千秋ちゃん、店番させて済まなかったね。品物の発注遅れで買いに行く羽目になるたぁ……って、お客さんと、千秋ちゃん? いったい何があった?」
そう思っていると、からん、という音とともに、大きな台車を押しながらマスター入ってきた。そして、千秋さんの様子を見るや、台車をその場に放り出して、急ぎこっちへとやってくる。
『マスター、すみませんが汗を拭くものと、それと水を!』
「お、おう、ちょっと待ってろ!」
少し慌てた様子でマスターはカウンターへと向かい、二十秒ほど経って、タオルを二、三枚と、ペットボトルに入ったミネラルウォーターを抱え戻ってくる。
「ほらよ、これで汗を拭きな。それと水だ」
『ありがとうございます、マスター。とりあえず千秋さん、水を飲んでください』
「……ありがとう、Pさん、マスター」
彼女は少し朦朧とした様子でペットボトルの水を飲み始める。その間、私は彼女の肩にタオルを掛け、額を拭いていた。
そうしてようやく落ち着いてくると、どうも店内が酷く蒸し暑く感じる。クールビズの世の中、ワイシャツ姿の私でさえ、額に汗が浮かんできた。
マスターもそれに気づいたらしく、カウンターの方へと戻ると、何やらリモコンを操作していた。それと同時に、天井に三か所設置されている空調機が音を立てて動きはじめる。
「千秋ちゃん、どうやら軽い熱中症みたいだな。ちょっとコンビニ行って、塩飴でも買ってくるよ」
マスターはそう言い残して、台車をカウンターの方へと搬入してから再び外へと出て行った。
残された私は、こくり、こくりとペットボトルの水を舐めるように飲む千秋さんを介抱しつつ、尋ねる。
『もしかして、空調を切ったのは千秋さんですか?』
千秋さんは、力ない様子で少し頷くと、いつもの凛とした佇まいはどこへやら、まるで小動物のように水を飲んでいた。
私は、まだ少し浮いてくる汗を拭きとりつつ、少し時間を置いては、また尋ねた。
『なぜ、そんなことを?』
すると、彼女はペットボトルを口から離し、ゆっくりと答える。
「……昼過ぎに店にやってきたとき、マスターに店番を頼まれたの。でも、なかなか帰ってこないから、歌の練習をしようと思って」
それで防音扉が閉まっていたのか。道理でこの時間から珍しく閉まっている、と私は納得する。
が、結局空調を切ったこととどういう関係があるのか分からず、その件について聞くと、
「……空調は、乾燥するでしょう? 短時間ならともかく、長時間練習するときは喉に悪いのよ」
と、彼女はばつが悪そうに言った。確かに一理あるが、それで体調が悪くなっては元も子もないだろう。
彼女もそれは分かっているようで、少し練習に熱が入りすぎたわ、と自嘲するような言葉を呟き、またペットボトルの水をこくり、こくりと飲み始める。
『いくら喉を大切にする必要があると言ったって、これはやりすぎです。オーバーワークにもほどがありますよ』
私は諌めるように彼女へと言う。
ようやく店内の空調が効いてきたのか、蒸し暑さはなくなり、快適な温度になりつつある。千秋さんの体の妙な熱も、見たところマシになってきたようで、汗もほとんどない。
あとはマスターが買ってくるだろう塩飴を、十分置きぐらいの感覚で一個ずつ舐めて休憩していれば、軽い熱中症だろうし、すぐ体調は良くなるはずだった。
「……さっきの私の歌声、どうだったかしら、Pさん」
しばらく私は彼女の汗を拭いたり、濡れタオルを額に置いたりと、彼女の介抱を続けていたが、唐突に彼女がそう尋ねてきた。
私は持ってきた濡れタオルを彼女の額に置くと、
『今はそんな状況じゃないでしょう……?』
と、少し呆れながら言った。向上心が凄まじいことこの上ない、というのは欠点にもなり得るのだな、と思いつつだ。
しかし、彼女は食い下がる。
「お願い、聞かせてほしいの。どうだったかしら、”ガラス”の声ではなかった?」
少し期待を込める様な目だった。まるで頑張った子供が、成果を褒めてもらいたがっているように、思わず見える。
『……確かに”ガラス”の声ではありませんでしたよ』
根負けした私は、少しため息をつくと、少し目を細めつつそう言う。ところが、彼女はやはり、
「それで終わりなの?」
という目で見てくる。ようやく私は、その目が”褒めてほしがっている”のではなく、”忌憚のない意見を欲しがっている”のだと気づいた。
『あの声は、”氷”の声というのが、相応しいでしょうか』
「……どういう意味かしら?」
彼女は怒る様子も見せず、即座にそう訊き返してくる。私は、当然ながら”ガラス”の声の一件と同じく、それを上手く表現する方法を知らない。
ただ、少なくとも――。
『……まだ、”ガラス”の声の方が、マシに思えました。あの時と同じく、確かに透き通っているのですが、何というか……』
私は少し言いよどむ。
元々私は弁が立つ方ではない。コミュニケーション能力がある、というのはいわゆる世渡り上手、といった意味に近しく、いろんなことに手を出していたが故の引き出しの多さ、がその拠り所になっていた。
だから、率直に言葉を投げるのは苦手である。吐き出したものは撤回できないからだ。失言を、弁で取り返す自信が私にはない。
故に、きつい一言を明言するのは常に避けてきていたわけではあるが……。
『……温かみが、無くなったと言いますか。酷く冷たくて、感嘆よりも恐怖を与える様な声と言いますか』
やはり、しっくりくる表現が見つからない。結局、これも私の直感的な表現であるわけで、第六感でしかないのだ。
「……そう」
彼女は落胆したように、それだけ言うと、少し俯いた。ああ、こうなるから嫌なのだ。弁が立たないから、相手を傷つけずに意見を言うことが出来ない。
どうしても、相手が傷つかないギリギリのラインが分からない。私は思わず、
『……すみません』
と謝った。彼女が望んだこととはいえ、私は千秋さんを傷つけたことだろう。彼女ほどの実力の持ち主に対し、素人が何を言ったところで彼女の足しにはならない。
以前彼女が言っていた通り、聴衆の多くはきっと、声の素人である。ただ、素人であるが故に、様々な感性と、様々な観点を有している。
そんな中、一素人の私の意見を反映させたところで、私と似た感性と観点を持つ人にしか通じない、と私は思っていた。
「……どうして、謝るのかしら?」
千秋さんは少し顔を上げると、じっと私を見てくる。私は、思わず目をそらしてしまう。
やや上気した白い絹の肌に、良く映える黒のしなやかな髪。そして、吸い込まれるような錯覚を覚えるような、少し茶がかった瞳。
それに、なんとなく気恥ずかしさを感じてしまったのだ。
思えば、一回り近く年下の女性とこんなところで二人きり、というのはいかにも危うい気さえしてくる。
「私は、少し嬉しく感じているくらいよ、Pさん?」
私が少しばかり目を背けていると、彼女はそんなことを言う。少し耳を疑い、眉をひそめると、彼女の方へと再び向き直る。
『嬉しい、ですか?』
「ええ、率直に意見を言ってくれる人は、貴重だもの。私の周りの人たちは、私を褒めるか、お世辞を言うかしかしてくれなかったから」
どこか寂しそうに彼女は微笑む。その微笑に、思わずどきりとさせられる。いやはや、美人の微笑みとは、なかなか目に毒だ……。
「Pさん、もう一つ聞いてもいいかしら?」
そうして彼女は、どことなく確認ような、そんな口調で私に言葉を投げかけてきた。嫌な感じはしない。ただ、なんとなく冗談やお世辞で済ますべきではない。そんな気がした。
『……ええ、構いませんとも』
私は意を決して、そう答える。
「率直に答えてほしいの、お世辞抜きに。……私は、非凡に見えるかしら」
彼女は、私にそう尋ねた。一瞬、私は言葉の意味を理解しかねた。非凡かどうかと問われれば、間違いなく非凡だろう。あれほどの才能を有するのだ。
だが、私はどこか違和感を抱いていた。なんだろうか、この感覚は。何か、私は忘れている気がする。
そうやって押し黙っていると、千秋さんはまた、じっと私を見据えてくる。その吸い込まれそうな瞳に、私も思わず見つめ返してしまう。
と、私は気付いた。彼女の体が、小刻みに震えている。寒いわけではないだろう。だとすれば――。
(怖がっている、のか)
もしそうなら、何を怖がっているのか。私は目まぐるしく考えた。だが、分からない。刹那、ふと私の脳裏に言葉がよぎる。
――平凡と無能の違いを理解したほうがいい。
社長の言葉だ。理由は分からないが、いま無性に、その言葉が重要で、全てを語っている。そう思えてきた。
『……答える前に、一つ聞いてもよろしいですか、千秋さん。質問に質問を返すのは、失礼とは思いますが』
「……ええ、構わないわ」
彼女の震えは止まらない。それがきっと、何かを怖がっている、あるいは不安に思っているのは明白である。その理由を聞きたい。
『何が、怖いのです?』
「……貴方が怖いわけではないの、Pさん」
私の見透かしたような言葉に彼女は、おずおずと口を開く。いつもの凛とした、大人っぽい彼女の姿はどこにもない。そこにいるのは、年相応の一人の女性の姿だ。
「”ガラス”の声、という表現を聞いて、驚いたわ。私自身、私の声が”ガラスみたいだ”と思っていたのよ」
偶然か、はたまた何かのいたずらか。彼女の声に対して、私と彼女自身の表現が同じだったのだ。彼女は続ける。
「私を理解してくれる人が現れた。その私の予感が、外れることが怖いのよ」
縋るような目である。そして気付いた。私は考える間もなく答えていた。
『……千秋さんは、ごくごく普通の、平凡な女性ですよ。そういう意味では、平凡だと、私は思います。才能は間違いなくありますが』
そう言っていた。同時に、私は我に返ったように、今自分が言った言葉と、社長から言われた言葉を反芻する。
平凡と無能は違う。もしそうであるなら、”平凡だが有能”ということが成り立つのではないか――。
気が付けば、私は社長の言葉の真理らしきものへと、たどり着いていた。このことが正しいのかは分からないが、少なくとも、私はそれが正しいと感じる。
「――やっと、出会えたわ。私の理解者に」
彼女は満面の笑みを浮かべ、とても、とても嬉しそうに彼女は言う。まるで、長年探し求めていた宝物を見つけたような、そんな表情。
私の目の前にいる女性は、確かに彼女は豊かな才能を有している。しかし、同時に、どこにでもいる、普通の女性なのだ。
それが、証明しているような気がしていた。
「幼いころから私は、天才と呼ばれてきたわ。良家の子女として生を受けてから、ずっとよ」
彼女は、ぽつりと漏らすように、自身の過去を言葉にして、吐きだし始めた。
「両親は厳しかった。黒川家の娘として、恥にならないように、様々なことを教え込まれた。楽器もだし、勉強もだし、そして声楽もその一つよ」
声楽は、好きな物だったから良いけれどもね、と彼女は付け加えるように言う。私は、言葉をさしはさむ余地を見いだせなかった。
さまざまなことを教え込まれてきた千秋さんの過去が、いろいろなことに手を出してきた自分と、ほんの少しだけ重なるような気がしていたからだ。
もっとも、そんなことを面と向かって言うのは、彼女の過去に対する冒涜になるのだが……。
「教え込まれたものは、全部必死にやって、そして上手くなった。でも、周りの人は、私を天才だ、天才だと囃し立てるだけだったわ」
彼女の悲しそうな表情が、少し胸を締め付けた。その気持ちは、少しだけ理解できる気がする。
私も、幼少期はいろいろなことに手を出していたが、いつしか全部やめていた。それは、やはり一定の努力をすると、あるところで実力の向上が止まり、挫折をしたからだ。
そこには確かに、目に見えない”才能の壁”が存在する。それを努力で超えることは不可能ではない。だが、乗り越えれば乗り越えるほど、次に現れる壁はだんだん高くなっていく。
彼女は、その実力を手に入れるために、どれほどの努力をしてきたのだろうか。どれほどの”才能の壁”を乗り越えてきたのだろうか。それほどの努力をしたことのない私では、想像もできない。
その努力を、”天才”の一言で片づけられるのは少し悲しい、と私は思った。
「Pさんが初めてなのよ、私のことを平凡、と呼んでくれたのは。……嬉しかったわ」
彼女は、にこりと微笑んだ。その微笑みが、酷く眩しく感じる。
『やっぱり千秋さんは、どこにでもいる普通の女性ですよ。声楽がお上手で、かなりの美人という点を差し引けば、ですが』
私は、その眩しさを誤魔化すように、お世辞の皮をかぶせた本心を言う。彼女は嬉しそうに笑うと、
「あら、口説いているのかしら?」
と、冗談っぽく笑った。
『……一つ、聞いてもよろしいですか』
私はそう尋ねた。彼女は、なにかしら、という表情で私を見返してくる。
そんなきょとんとした表情の彼女へ、意趣返しのように私は、質問をする。
『私は、凡人でしょうか?』
彼女が私にした質問とは、ほとんど真逆の質問だ。それを、私は彼女へ投げかけた。意図は、ほとんどない。強いて言うなら、何というか、未練を断ち切るためだろう。
やれ神童、やれ才子と持て囃された、幼いころの記憶と決別するために。
私の知らないところにあっただろう、”昔は神童だった”。そんなちっぽけなプライドを捨てるために。
「ええ、Pさんはとても平凡な方だと思うわ」
千秋さんは、そんな私の思いを知ってか知らずか、何のためらいもなく私のことをそう評価した。
「同時に、とても有能な方だとも思うの。何といえばいいかわからないけれども……」
でも私の第六感がそう告げているの。意外とばかにならないのよ、女の勘は。
彼女が言ったその瞬間、胸のつかえがすーっと取れた気がした。なんだか、辞める辞めないとか、才能があるないとか、そんな悩みがちっぽけに感じてきた。
不思議な物だ、と私は内心独語した。
『ありがとうございます、千秋さん。なんとなく、悩んでいたことに決着がつきそうです』
私は、少しだけ笑ってそう言った。
才能などない。昨日までそう思っていた私ではあったが、何のことはない。凡人である私が単純に努力をせず、諦めていただけだ。
努力は才能、と呼ぶ人がいるだろうが、それはきっと努力をしなかった人の言い訳に過ぎないのだろうと思う。凡人である以上、努力をすれば上達はする。
当然、努力をしても実らない人もいるだろうが、それは凡人だからではなく、その分野に関して才能がなかっただけのことだ。何もせずとも上達する、天才と同じく稀有な存在だろう。
であるならば、私は凡人である以上、努力をすれば報われる。報われなければ、報われるまで努力をするまでだ。その為に、私はしっかりと答えなければならない。
一週間も時間をくれた、シンデレラガールズの社長に対しても、私の意思を尊重してくれると言った社長に対しても、失礼にならないように。
「ふふっ」
そんな決意をしていると、千秋さんが少しだけ笑う。
『どうかしましたか?』
「いえ、今のPさんはとてもいい表情をしていらっしゃるわ。とても輝いて見えるの」
そして彼女は、手に持っていたペットボトルから水を飲むと、
「……こうやって、またお話を聞いてくれるかしら。もしいいのなら、嬉しいのだけれども」
と、少しばかり恥ずかしそうに彼女は言う。その様子が、いつもの凛とした佇まいと違って見えたせいか、思わず少し笑ってしまう。
「な、何よ、Pさん?」
『いえ、いつもは毅然としてらっしゃるものですから。なんだか、どこにでもいる、女の子に見えたもので』
「し、失礼ね。私だって、年頃の女の子よ。可愛いものだって好きだし……、ああ、もうっ」
彼女は少し顔を赤らめると、ぷいとそっぽを向いてしまう。少しからかいすぎたかな、と思っていると、店のドアが開く音がした。
「済まないな、まったく、直近のコンビニで塩飴が売ってないとは思わなかったぜ。最近流行りなんだがなぁ」
そんなことを呟きながら現れたマスターは、私と千秋さんを見比べると、
「おんや、邪魔だったかな?」
と、少しにやにやしながらこちらを見てくる。少しばかりその視線が気恥ずかしく感じたが、反論を返す間もなく、
「まあ、良いさ。とりあえず千秋ちゃん。これ舐めておきな。しばらくすれば体調は治るよ」
と、塩飴をこちらに放り投げ、とっととカウンターへと引っ込んでしまった。どうやら夜間営業の準備の為、搬入した荷物を
『マスターにも、困ったものです』
私は苦笑を一つ零し、私はゆっくりと立ち上がる。
「どうかしたのかしら?」
『いえ、少し電話をする用事がありまして。すぐ、戻りますよ』
私はポケットから、一昔前の折り畳み式の携帯電話を取り出すと、ドアを押し開け、入り口から外へと出る。
そして、電話帳から一つの名前を取り出すと、私は電話を掛けはじめた。
一つ、二つとコール音が鳴る。
そして、しばらくの後、ぷつっという音とともに、良く耳に馴染んだ男性の声が聞こえた。
私は、少し息を吐くと、覚悟を決め、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
『もしもし、Pです。夜分遅くにすみません、社長。――どうするか、決めましたよ』
そう、告げた。
今回の更新は以上です。
少し長くなったぶん、日にちが開いてしまいました。
想定ではあと2-5回程度の更新になるかと思います。
>>99
画像の添付、ありがとうございます。
乙ー
黒川さんの魅力が丁寧に書かれててとてもいい
続きも期待して待つ
ところで>>122で下から3行目、文章飛んでないかい?
>>122
>どうやら夜間営業の準備の為、搬入した荷物を
どうやら夜間営業の準備の為、搬入した荷物をカウンターの棚へと並べ始めたらしい。
言うだけ言って反論もさせないとは、なかなかの横暴である。私はそう思い、
『マスターにも、困ったものです』
私は苦笑を一つ零し、私はゆっくりと立ち上がる。
以上が落丁部の訂正全文となります。
>>127
コピー&ペーストの段階で不備があったようです。
ご指摘、感謝いたします。
『今まで、本当にお世話になりました、社長』
翌朝、私は社長と二人、事務所の社長室で向かい合って座っていた。話の内容は当然、私の進退に関してだ。
とはいっても、私の決意は決まっているし、すでに社長もそれに同意をしてくれたため、ほとんど話自体は終わっていると言ってもよかった。
「それにしても……。君がうちに来てから、七年ほど経つかね」
社長は、少し遠い物を見るように、そう呟く。
『はい。忘れもしません。あの時は、大学の卒業を間近に控えながら、内定がなかなか出ずに焦っていた時期でしたから』
懐かしい思い出だった。あのころから、内面はそれほど変わってはいないと思う。ただ、今の自分は、確かにあのころとは違う。そう思っていた。
「Pくんほどの才能を持つ人間を、上手く活かせなかったのが、唯一の心残りだったかな」
社長は、寂しそうに苦笑する。私は少し笑うと、
「私は平凡そのものです。まだ才能があるかどうかも分からないですよ」
と言った。しかし、社長は首を少し振ると、
「君には才能があるよ、Pくん。私が保証するさ。勘でしかないがね」
と社長は少し苦笑した。
『……意外と、馬鹿にはならないのかもしれませんね、第六感と言うのは』
それは、千秋さんの一件あっての言葉であった。ここまで奇妙に第六感だとか、勘だとかが発揮されている界隈はない。
結果としては、千秋さんの第六感と言うのも、私が彼女に抱いた第六感と言うのも、不思議なほど当てはまるところがあるのだから。
「所詮は凡人の第六感だがね。それでも、ないよりマシさ」
社長は柔らかく微笑んだ。そして、顔の前で手を組むと、
「まあ、ともかく、七年間ご苦労だった。向こうでする仕事はもう決まっているのかね?」
と、尋ねてくる。
『いえ。ですが、おそらく営業か広報なのではないでしょうか。私が経験したことのある職種はそれぐらいですし』
「ふぅむ……。まあ、これも私の勘なので、聞き流してくれても結構なのだが」
社長は前置きを一つすると、至極真面目そうな表情で、
「存外君は、人の面倒を見るのが向いているかも知れない、と最近になって思いはじめてきたんだがね。もしかすると、そういう仕事に就くかもしれないな」
などと言うではないか。私は少し笑うと、
『はは、流石にそれはないでしょう。あの社長が少しぶっ飛んだ方というのは差し引いても、いきなり未経験の仕事に就けるような事はしないでしょうし』
私らしくもなく、そう言った。
「ぶっ飛んだ、ね。Pくんも言うようになったじゃないか」
『そうでしょうか』
「そうとも。どうやら、いい方に君は変われたようだね」
社長は優しげな表情で言った。そして、ゆっくりとソファから立ち上がると、窓の方へ向かう。
「私が無能だったところは、君に才能があることは見抜けても、君が何に長けているかを見抜けなかったことだった」
窓の方を見ながら、社長は言葉を紡ぐ。私は、自然と背筋が伸びるのを感じた。
「シンデレラガールズさんに移っても、達者でな、Pくん」
『……はい。本当にありがとうございました、社長』
私は起立すると、深々と社長の方へと頭を下げる。何を差し置いても、七年も世話になった事務所だ。思い入れは強い。
『ところで、社長。一つ懸念と言うか、私がさしはさむことではないと思うのですが』
社長に頭を上げるように促され、私は頭を上げると、そう切り出した。結果として私はこの事務所を辞め、引き抜きに応じることになったわけだが、それに関しての懸念だった。
「ほう、何かな、Pくん?」
『はい、辞める私が言うのはおかしな話ですが、私が居なくなった後の広報と営業の業務はいかがなさるおつもりで、と思いまして』
それが私の懸念だった。私含めて五人の社員しかいないこの事務所は、うち三人がプロデューサーであり、もう一人は現在産休を取っている。
この状況下で私が抜ければ、重度の人手不足に陥る、というのは明白だろう。最悪、プロデューサーたちが兼務するとしても、彼らが過労死しかねない。
そもそも、彼らの手に余るほどの莫大な仕事量だったが故に、私と営業職の女性社員が居たようなものなのだ。彼らにこれ以上仕事を課すのは、かなり厳しいだろう。
だが、私のこの懸念は既に解決している問題の様だった。
「ああ、その件に関してだがね。すでに移籍した二人のアイドルの対価として、来月の頭、つまりは明後日から年度末まで、シンデレラガールズさんの社員が出向してくださるそうだ」
『出向、ですか。派遣社員という事ですか?』
「平日はうちに来て、土曜に向こうへ報告を行う、という形態らしいがね。何というか、基本的にはサッカーのローン移籍とかいう物と思ってくれればいい、と言ってらっしゃったが」
生憎、私はサッカーを良く知らなからいまいちぴんと来なかったがね、と社長は苦笑する。
『確か、提携先に将来有望な若手を期限付きで移籍させて、実戦経験を積ませるとか何とか。そんな意味の言葉だったと、記憶しておりますが』
私は、頭の中の引き出しをひっくり返して、サッカーに関しての知識を思い出しつつ、そう社長に説明する。これも営業の時に、たまたまサッカー好きの取引先があったが故の副産物だ。
と言う事は、出向社員はまだ若手の社員で、実務経験を積ませる目的があるのだろう。シンデレラガールズ側としても、有望な若手社員に経験を積ませることが出来る。
上手く利用されているとも言えるのだろうが、こちらも彼らのノウハウや、築き上げたパイプラインを、彼らが居なくなっても使えるのは大きな利点である。どちらにとっても利点ばかりである。
強いて欠点をあげつらうなら、当の出向社員にとっては、本社がいよいよ稼働するという段にも関わらず、肝心のその本社で働けない事だろう。かなり酷な条件とも言える。
ただ、それさえも厭わない向上心の高い人間が来るのかもしれない。どうせなら全員がWin-Winの関係になり得る、後者であってほしいものだ、と思った。
「ほう、そういう意味だったのかね。なるほど、シンデレラプロさんも考えるなぁ」
社長は感心したように少し笑うと、
「それと、彼らの給料は、あちらさんが負担してくれるらしい。その点も心配しなくてもいいぞ、Pくん」
と、少し目を細めて言う。目元には少ししわが寄っていたが、まだまだこの会社を潰させはしない、という気概の様なものを漂わせていた。
「Pくん。我が社に関しての心配はいらない。君は君のすべきことを、そしてしたいことをしなさい。君には、それだけの才能があるのだから」
と言った。こんな恩知らずの私に対して、こんな優しい言葉を掛けてもらえるとは思っていなかった。最悪、罵倒されて追い出されてもおかしくはない。
『……ありがとうございます、社長』
私は再び深く頭を下げた。その私の肩へ、社長は優しく手を置く。
「さ、行きなさい。向こうの社長さんに、返事をしに行くんだろう?」
『……はい』
私は頭を上げる。そして、少しだけ笑った。温かく見送ってくれているのだ。せめて笑顔でなければ、申し訳ない。
そして私は、また深々とお辞儀をし、社長室を後にする。時間はまだ早朝であるから、社員は誰も居ない。
私は、静かに事務所の扉を開ける。まだ荷物の整理と仕事の引継ぎがあるとはいえ、この事務所で私がすべき仕事はもうなかった。
かん、かんと階段を下りる音が響く。思えば、この事務所に拾われてから七年もたつのだ、と急に感慨深くなる。
あの時の若造は、今も若造ではあるが、少しだけ一歩を踏み出した気がする。
『……今まで、お世話になりました』
小さな雑居ビルの出口から外へと出ると、私はビルの方へ向き直り、静かに頭を下げた。この事務所へ、社長へ、同僚へ、感謝を込めてだ。
自らの会社に愛着を持つのは、日本人に顕著にみられる特徴であり、それは良くも悪くも社員と会社を結び付けていると聞く。
ただ、確かに悪い面も存在するだろうが、私はその美徳と言う物を大事にしたいと思っていた。たとえ新天地での仕事を始めたとしても、ここで得た知識や経験は必ず活かせるはずだ。
(……行こう)
いつまでもこんなところでうだうだしては居られない。シンデレラガールズの社長からは数日前に連絡があり、今日の九時に本社へと返事をしに来てほしい、との言伝を預かっている。
時刻は今、朝の八時を回ったところだ。ここから歩けば、ゆっくり歩いても余裕を持って到着できる。
私は空を見上げると、ゆっくりと歩きはじめた。
本日の更新は以上です。
日が空いたわりに書き進められませんでしたが、今月中にはもう一度投下したいと思っています。
思っているだけでできないかもしれませんので、その点はご了承ください。
読んで下さり、ありがとうございました。
この建物の前に来るのは、二度目のことだ。前回は、ただのお遣いだった。だが、今回は違う。
今回は、私自身の進退を決める為であり、なおかつ私の意思でこの場にいる。ありていに言えば、私はここに来たいと思ったからここに来た。それが、今までの私との違いだ。
(……それを差し引いても)
私は体を震わせる。やや緊張しているらしく、上手く体が動かない。決して高層ビルとは言えない、四階建ての新社屋は、それにもかかわらず圧倒的な威風を漂わせている。
ただ単にお遣いできたわけではない。それが皮肉にもすくみ上らせている原因だった。ここで私が働くのだと考えると、余計にその威風が私を襲う。
こんな調子で、本当に働けるのだろうか。先行きを怪しく感じざるを得ない。
(ああ、もう。一体何をやってるんだ、私は)
気が付けば、かれこれ五分ほど社屋前で立っているだけだった。場所が場所なら警察へ通報されかねない行動ではある。
「……もしかして、中小プロのPさん、ですか?」
そんな折、声を掛けられたのは驚きだった。びくり、と体を震わせ振り返ると、そこにいたのは以前、エントランスホールに机を引っ張り出して事務作業をしていた、若いプロデューサーだった。
「このようなお時間に、どうかなさったのです?」
『ああ、あの、いえ。御社の社長様と約定があったのですが、時間が時間ですし、どうしようか、と思っていた物で』
そんな誤魔化すようなことを言う。なんとなく、社屋に気圧されて入れずにいた、というのは情けない、と思ったが故の方便だ。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼は爽やかそうに笑うと、
「そうでしたか。中でお待ちいただいても結構でしたのに」
『いえ、お構いなく……』
「そうはいきません。お客様なのですからね」
彼は溌剌そうなその笑顔を私に向け、ニカッと笑う。私よりもかなり若い、まだ社会人になりたてのその体には、どこかあの社長と同じような非凡さを漂わせている。
(類は友を呼ぶ、というやつかな)
彼らはきっと、私と違って非凡であり、なおかつ有能なのだろう、と思った。いまさらそれに落胆したり、消沈したりするつもりはない。
私は平凡である。だが、平凡でありながら有能と言うのは体現できるはずだ。そして、それが出来るのであれば、大きな強みになる。
非凡な人にはわからない、平凡な人の気持ちを理解し、それを非凡な彼らに伝えることが出来れば――。
「……どうか、なさいましたか?」
一人でそうやって考えていると、黙り込んでしまっていたのか、やや心配そうに彼が話しかけてくる。私は思い出したように手を振ると、
『ああ、いえ。なんでもありません。では、すみませんが中で待たせていただきます』
と、申し訳ないと思いながら答えた。それを受けて若いプロデューサーは少し微笑み、では案内させていただきますね、と私を先導し始める。
やはり、一人で入るのが心細かっただけの話のようだ。彼に導かれるように歩くと、すんなりと拍子抜けするほど簡単に、私はシンデレラガールズの社屋に迎え入れられる。
だが、迎えられたのは、社屋だけではなかった。
エントランスホールにあったデスクは既に片づけられており、あとは受付に人が配置されればいつでも稼働状態となりそうだ。稼働となれば、結構な人数が行きかうはずのエントランスホールはがらんどうとしている。
そんな中、待ち合い用のベンチに座り、彼は居た。
「うむ、ようやく来てくれたかね。首を長くして待っていたよ、Pくん?」
目を疑った。そこにいたのは、紛れもなくこの社屋の主であり、絶対的な権力をもつ存在。その彼が、私を待っていた。恐れ多いことだと、私は思わず腰を折りそうになる。
だが、それを社長が制止した。
「今の君は、お客さんだ。だからおもねる必要はない」
そして、私を先導してくれたプロデューサーに目配せをする。すると、彼はにこりと笑い、そして私へ頭を下げ、そして階段の方へと行ってしまう。
人払いをさせた。と言う事は、今からきっと返事を聞かれることになるのだろう。
「……さて、本題だ。今一度、聞くよ」
社長は不敵に、にやりと笑う。そして、確認するように彼は問うた。
「改めて率直に言おう。私は君が欲しい。うちに来ないかね、Pくん?」
予想通りだったが、ただびっくりするほどストレートな言葉だった。失礼なことではあるが、ぶっ飛んだ印象をこの社長には抱いていた。
しかし、実際こうやって口説かれると、男色の趣味があるのか、と勘違いするほど奇策の欠片も存在しない、正面突破の正攻法である。
その言葉に凡人である私でさえ、いや凡人であるからこそ、心を揺さぶられる。人心を掌握する英傑、というのはこういう人物のことを言うのだ、と私は思った。
そして、その問いかけに対し、私は全ての記憶と、全ての思い出を今再び、走馬灯のように思い起こす。七年前、あの事務所に採用されたあの日から培われたものだ。
決して華々しい思い出ではない。平凡ですらなかったかもしれない。それでも、今この場において思い起こすと、全てがこれ以上ないぐらい愛おしい思い出だ。
『……お答えする前に一つ、お聞きしても良いですか』
私は、質問に質問を返す。これが失礼だと言う事は、社会人として重々承知だ。それでも聞いておかなければならない事だった。
(そういえば、以前もこんな会話があったな)
言葉を吐いて、寸刻経って私はそう思い返す。そうだ、あれは千秋さんとの問答だったと思う。思えば、彼女との出会いが私を変えたのではないだろうか。ぼんやりと、そんなことをふと考えた。
「ふむ、何かね?」
そんな社長の言葉が、私をエントランスホールへと呼び戻した。私は、少し頭を振って意識を正し、少し息を吸ってからおずおずと尋ねる。
『社長は、私の何を評価してスカウトをしてくださったのですか?』
それが不思議だった。あの事務所で、私はとりたてて業績が良かったわけではない。むしろ悪かったと思っている。
それに、優れたスキルを有しているわけでもなく、あまつさえ裏方の花であるプロデューサーやディレクターでさえない。どう見ても、余り冴えない人材であることは否めないだろう。
それでもなお、私を引き抜きたいと思った、その真意を聞きたかった。今ならそれが聞ける。だから問うた。
「実の所、私はあまり君を評価していなかったりするんだ、Pくん」
しかし、返ってきた言葉はそんな、残酷な言葉だった。私はそれを、当然であると思う。それでも、どこか落胆している自分に気づいた。
「気を悪くするな、というのは無理な話だろうね」
そんな私の心を察したのか、社長は言葉を続ける。
「正直に言うと、私は君がとてつもないほど平凡な人材と思っている。だがね、感じたんだよ」
彼は手を大きく広げると、真っ直ぐなまなざしで私をじっと見てくる。思わず私は尋ね返した。
『感じた、とはなんです?』
「感じた、は感じた、だ。大よそ説明できない事なのだが、強いて言うなら第六感と言うやつかね。この平凡な人材は、有能で、私の会社に必要だ。そんな気がしたんだよ」
だから私は、君を引き抜きに掛かったんだ。彼はそう言った。
「私はこれまで、この勘に何度も助けられてきた。中には裏切られることもあったが、それを後悔したことはない。私は、私を信じているからね」
彼はそういうと、少しだけ苦笑する。
「ただ、君が必要だと私の勘がそう告げた。それが理由だ。本来ならばしっかり論理的な説明をすべきなのだが、今回ばかりはどうしてもできなかった。済まないな、Pくん」
『いえ、そんな……』
ここの所、驚きっぱなしだ。運命が捻じ曲げられたのか、と思うほど、私の周りに第六感が渦巻いている。それがいい事なのか、悪いことなのかは今の私にはわからない。
わからないが、少なくとも、私の平凡な人生が変わりつつある、と言う事は分かる。
「さあ、聞こう。答えてくれ、Pくん」
社長は、もう一度私に尋ねる。私は、全てを決心した。
そして、しっかりと社長を見据え、口を開く。
『――お受けいたします、社長。私はこれ以上なく平凡ではありますが、しかしながら有能であることを証明して見せます』
私を評価してくれた、かつての社長の為に。その言葉は、胸の内へとしまって置く。これは、私とあの社長の中で大切に抱いていればいいことだ。
「――そうか、受けてくれるか!」
そんな大声が、突如エントランスホールに響く。私は一瞬身を震わせた。社長はずかずかと私の方に歩み寄ると、がっしりとしたその手で私の肩を掴む。
「いやぁ、本当の話をすると、君は来てくれないかもしれない、と私は思っていた。あの事務所に愛着を抱いていたようだからね」
『愛着を抱いているのは、今もです。ですが、あの事務所の社長は、私の意思を尊重してくださいました。そして、私は変わらなければならない、と思ったのです』
私はそう答える。この数週間の間に、私の周りの環境はガラッと変わった。全ての始まりは、あの日、あのバーで出会った一人の女性だろう。
彼女が居なければ、私が社長の言葉の意味を知ることはなかったかもしれない。私がこうやって、意識を変えることはなかったかもしれない。
無能な凡人が、有能な凡人に出会い、そしてお互いがお互いに何かを感じた。それが、私の運命を変えたのだ、と私は思った。
「まあ、ともかくだ。契約書にサインをしてもらうのは後にするとして、君には早速だが仕事をしてもらいたいのだがね」
社長は短兵急にそう切り出すと、私の肩を揺らす。
『な、何ですか?』
「うむ、今の所、このプロダクションはいろいろな場所からアイドルを集めているわけなのだがね。かなりの人数を集めたとはいえ、まだまだ足りないのだよ」
社長は、私が状況を整理する間を与えないかのように、矢継ぎ早で言葉を紡ぐ。
「で、だ。とりあえず君にはプロデューサーを担当してもらうのだが、所属アイドルは今の所、全員プロデューサーたちに割り振ってしまっていてね。なので、君好みの子をスカウトしてきてほしい」
大丈夫かね、と確認するように彼は聞いてくる。
『ち、ちょっと待ってください。状況が良く飲み込めないのですが……』
「うむ、そうだろう。まあ、簡単に言えば、君は今日からプロデューサーだから、アイドルを探してきてくれ、という事だ」
歌が上手い子でも、ダンスが上手い子でなくてもいい。君がぴんときた子を連れてきてくれたまえ。社長はそう言った。
寸刻置いて、私は状況を理解した。つまり、私は今日からプロデューサーで、アイドルを探さないといけないらしい。
……復唱しただけではないか、これは。そんな冷静な突っ込みが出てくるまで、三秒半を要した。どうやらまだだいぶ混乱しているらしい。
『……てっきり、私は営業か広報に回されるものとばかり』
私は思わずつぶやいた。そもそもプロデュースの経験もないのに、なぜこの社長は私をプロデューサーに抜擢したのか。
流石に未経験の仕事に就けたりはしないだろう、という前言を撤回しなければならない。ついでに、正攻法という言葉もだ。
この社長は、私が思った以上にぶっ飛んでいるらしい。
「思うに、君は営業や広報だと、裏方過ぎて埋没してしまうタイプと見たんだよ。まあ、未経験かもしれないが、同じような仕事だ。頑張ってくれたまえ」
豪放なのか無茶苦茶なのか、分からない笑い声を上げると、社長は思い出したように時計を見る。
「おっと、これではいけない。そろそろ他の事務所を回る時間だった。それじゃあ、Pくん。よろしく頼んだよ」
社長は、やや呆然とするままの私を放置するように、そのまま社屋を出ていく。
『……たまげたなぁ』
あの自由気ままで豪放磊落な性格は、一体どうやって培ったのだろうか。
失礼なことであると自覚しつつも、そう思わずにはいられなかった。
今回の更新は以上です。
八月中の更新という公約を果たせなかったのが少し残念ですね。
次回の更新は来週後半には行いたいと思います。
読んでくださり、ありがとうございました。
(まあ、そうなるよな……)
現実は非情である。これは私が平凡であろうと、非凡であろうと、有能であろうと、無能であろうと変わらない。
理由は単純である。
「と、も、か、く! あんまり妙な真似はしないでくださいよ? 最近は不審者も多いって話なんですからね」
『は、はい。ご迷惑をおかけして、すみません……』
今私の目の前で説教する男性は、紺色の制服に、桜の代紋が設えられた帽子を被っている。端的に言えば、おまわりさんである。
事の発端は、社長に言われた通り私がスカウトに勤しんでいたことである。無論、私自身としては、怪しい動きをしていたつもりはまるでないし、そのような意思はない。
ただ、往々にして本人の意思とは別に、周りから見てどうなのか、というのが世間体と言うものであり、そういう意味では私は怪しい人であったのだろう。
こうやって職務質問を受け、注意されたのがその最たる証拠であった。
『参ったなぁ……。職務質問なんて、初めてだよ』
肩をいからせて去っていくおまわりさんを尻目に、私は少し疲れたように息を吐いてそう呟く。
スカウトなんてことをやったことがないにもかかわらず、暗中模索する羽目になっているのは、ちょっと物申したいところではある。
そもそも、私好みの女の子を探してこい、だなんて、いろいろ危ない発言もいい所だ。流石の私でも、警察官にそうやって説明するわけにもいかない。
アイドル事務所の人間で、スカウト活動に勤しんでいた、と説明するので精いっぱいだった。
(今日は、もうやめておこう……)
ヘタにもう一度通報されて、さっきのおまわりさんがまたやってきたら、最悪任意同行を求められる可能性だってあるんじゃないだろうか。
迷惑防止条例違反で前科がついてしまうこと請負だ。
まあ、こんなことで前科は付かないだろうし、そこまで警察は暇ではないと信じているが……。
(帰ろうか)
私はそう思い、今日のスカウト活動は終了することにした。成果は、芳しくはない。そもそも、声を掛ける事の出来た女の子が数人しかいない、という始末だった。
それに関しては、私の好みも関連しているのだろう。どうやら私は、凡人にもかかわらず生意気にも、好みの女性に関してかなり要求が高いらしい……。
私は少し落胆すると、腕時計をちら、と見る。時間は五時を少し過ぎたところだった。
(夕食を摂るか)
心の中で呟くと、私はいつも通り、あのバーへと足を運ぶことを決めた。この時間帯であれば、ちょうど営業の転換時間である。
マスターには悪いが、いつも通りのサラダセットとブレンドコーヒーを頼むことにしよう。そう思って、私は足を向ける。
幸いにして、徒歩数分の距離だった、というのも大きな理由だった。周りの外食店の多くに、店外灯がぽつ、ぽつと付きはじめている時間帯だった。
私はそこから少し歩き、あのバーへとやってくる。看板を見ると、今日は“ジャズ曜日”と書いてあった。
『珍しい、クラシックじゃないな、今日は』
そう呟いたが、このところ私が来る日に限ってクラシック曜日が続いていただけで、普段はこんな感じだ。
今日のジャズはどんな人たちが来るのだろうか、と少しわくわくしながら私はバーの扉へと手を掛け、扉を開ける、のだが。
ごっつん。
同時に、私の額へと衝撃が走った。一瞬目の前がちかちかと明滅する。一体何事だと思ったが、何のことはなかった。あの防音扉が閉まっていただけだ。
『なんだ……』
私は呟き、すこし頭を振って気を確かにする。まだちょっとぐわんぐわんしているが、大丈夫だろう。
そして改めて、防音扉のレバーを引き、開ける。がちゃん、という重い金属音と共に、ぎぎぃ、と軋む音を上げて扉は開く。
こうやって防音扉を開けるのは、何度目だろうか。そう思った瞬間、その思いが既視感へと変わり、同時に私の体は何かに包まれる。
『……え?』
この声を私は知っている。そして同時に、この声を私は”知らない”。言葉は矛盾しているようで、矛盾していない。
防音扉を閉める事も出来ず、私は、ただ聞き入っていた。
バーのステージに立つのは、良く見知った女性だ。しなやかな、とても優雅に揺れる黒髪を僅かに輝かせ、真珠のように白く、細やかな肌を煌かせ、彼女は歌っていた。
それは、今までと違ってクラシック――オペラや独唱曲とは違った、今どきのポップでキュートな歌。最近頭角を現してきたアイドルの曲だったかと思う。
彼女――黒川千秋がその曲を歌っているのは、いささか驚きを禁じ得なかったが、そんなことは些末なことだった。
彼女の声は、今までのそれとは違っていた。なんというか、彼女の持つ威圧感や畏怖と言う物を、まるで感じないのだ。
『……そうか』
私の中で、彼女の声に対する評価の、その疑問がすべてするすると解けていく。そして、それは良くも悪くも、彼女は凡人であることの証左であることも。
「――あ、あら、Pさん?」
しばらく聞き入って呆然としていた私だったが、歌い終わった彼女は気が付いたように、そんな言葉を私に掛ける。その表情は少し恥じらいを帯びていたが、それすら私の眼には入らない。
『……千秋さん、今のは』
「れ、練習の途中の息抜きよ、息抜きっ。に、似合わないのは分かっているわっ。でも、私だって……」
『アゲイン』
「……え?」
いじける様な彼女の言葉を途中で遮って、私は言った。そして、半開きだった防音扉を閉め、真っ直ぐ千秋さんの目を見据え、言う。
『アゲイン。もう一度だ、もう一度歌ってください。頼む、千秋さん。私に聞かせるのじゃなくて、歌いたいように』
少し鬼気迫るものを感じたのだろうか。きょとんとした表情で、え、ええ、と答える千秋さんは、それでも少し恥ずかしそうに私を見る。
私は多少申し訳ないと思いながらも、目を閉じ、耳をそばだてる。目を閉じたのは集中するためでもあったが、恥ずかしそうにしている千秋さんに少し配慮したからだ。
もっとも、こんなことで配慮とは言わないのかもしれないが……。
しばらくすると、すぅ、という深呼吸の音が私の耳に響く。それが、二度、三度と繰り返された。そして。
「――」
私には、にわかに信じられなかった。今このバーの中に響いている歌声は、かつて私が彼女に与えた”ガラス”の声とは一線を画している。
凛と響くハイトーン、その中にさざ波のように引いては押し寄せてくるクリアな声。それでありながら、声の中に冷たさや威圧感と言う物は見受けられず、むしろナチュラルな温かみさえ感じる。
がちがちに凝り固まった心をほぐすような、自然と心にしみわたるような、そんな声。人の手によって作られた”ガラス”とは違う、自然の手によって創られた”水晶”の様な声。
それは良くも悪くも、彼女がただの人であり、同時に限りない努力家であることを示していた。
(……千秋さんは、どれほどのトレーニングを積んだのだろうか)
私が感じた”ガラス”の声は、決して悪い物ではなかった。今になってそう思う。あの声を手に入れるために、この世界では何千、何万の人々が苦心している。
彼女がトレーニングにトレーニングを重ねて手に入れた、鍛錬の証であるその声は、澄み渡った水晶と、方向性は違えど同じ尊さ、同じ美しさを身ごもった努力の結晶だ。
ただ、歌には相応しくはなかった。遠くまで良く通り、聞く者を圧倒し、畏敬を抱かせる声は、ミュージカルや演劇にこそ相応しい物であって、歌の為の声ではない。
私がはじめ抱いた違和感の正体はこれだ。彼女の声は、女優や俳優が発する声のそれであり、歌手の物ではない――。
ささやかながら劇団に所属した事のある私には、それが引っかかったのだ。
『……ああ』
私はゆっくりと目を開けた。そして、私は目に刻み付ける。
そこにいたのは、ただ一人の少女だ。苦しみ、励み、そして成し遂げた、どこにでもいる一人の少女なのだ。
身振り手振りをつけながら、楽しそうに歌う彼女の姿。そして、彼女から紡ぎだされる声の奔流。
そこには、”ガラス”も、”氷”もない。
正真正銘の”クリスタルボイス”だ。
「――、――ッ、――!」
彼女は歌う。伴奏はなくとも、曲が終わりに近づいているのはわかる。独唱でありながら、いや独唱だからこそか。彼女の歌声は聞く人の心を掴み、そして震わせる。
これが感動か。私は今、人生で初めてそれを痛感している。
寒さとは無縁のはずの、少し汗ばんだ肌が、鳥肌を立てる。体中の毛と言う毛がすべて逆立つ。全身全霊で、彼女の歌声を聞いている。
気が付けば、私の目から涙が零れていた。泣くなど、数年ぶりかもしれない。何より、歌を聞いて泣くなんて、初めての経験だった。感極まる、というのはこういう事なのか。そう考えた。
そして――。
「――ッ!」
歌が、終わった。千秋さんが、見たこともないほど息を弾ませている。その表情は、喜びと、達成感と、そして何より楽しんだ、という感情がにじみ出ている。
「な、何かしら?」
少し怪訝な顔をしている千秋さんの一歩手前で、私は立ち止った。
本当に、たった今、思いついた。用意してきたわけでもなく、そんな考えがあったわけでもない。にもかかわらず、”気がする”とか、”かもしれない”とか、曖昧な自信ではない。
彼女の全てが活かせる。彼女の全てを、認めさせることが出来る。何の根拠もないにも関わらず、自明の理であるかのような、圧倒的な確信を私は抱いている。
これが本当の”第六感”だ。
『千秋さん』
私は彼女の名を呼び、そして言った。
『――アイドルに、なりませんか』
今回の更新は以上です。
次回は短いので、更新は早ければ明日明後日にでも行う予定です。
読んで下さり、ありがとうございました。
「ほう、なかなか素晴らしい子を連れてきたね、Pくん?」
翌日、私はシンデレラガールズプロダクションの社屋、四階に位置する社長室へとやってきていた。
隣には、少し困惑と緊張の色を隠せない、千秋さんの姿がある。どうやら、思った以上にプロダクションの規模が大きいことに驚いているらしい。
『お言葉ですが、なかなかどころではありません。間違いなくトップアイドルまで登りつめます、彼女は』
自信満々に、私はそう返す。
結局、私は昨日一日――正確には一夜なのだが――かけて、彼女を説得し続けた。それこそ、閉店の時間が近づき、千秋さんが折れるまでだ。
ぶっちゃけると、昨日はジャズ曜日だったが、演奏されたはずのジャズを一曲も覚えていない。マスターもあきれ顔だった。
私個人としては正直、無理やり連れてきた感が否めないが、善は急げ、である。これが善と言えるかは少し疑問かもしれないが、少なくとも私は確信している。
「ほう、大きく出たね、Pくん。トップアイドルは、本当に一握りの、それこそ両手で数えるほどの人間しか掴み取れない物だ」
『大言壮語を吐いたつもりはございませんよ、社長』
「ち、ちょっと、Pさん」
心配そうに私を見る千秋さんだったが私は、大丈夫ですよ千秋さん、と声を出さず、口だけでそれを伝える。
『私としては、社長の許諾とご支援を頂ければ、彼女を間違いなくトップアイドルへと連れて行くことが出来ると確信しております』
「ふむ、大層な自信だが、その根拠は何かね? 君のことだから、しっかりとしたものがあるとは思うが」
『ありません。私の勘です』
きっぱりと、私は言った。そして、それが全てであり、事実である。
不意を突かれた、と言った様子の社長を尻目に、少しおろおろとしている千秋さんが、なんとなく可愛いと、少しずれたことを考えていたのは誰にも言えない事だ。
無論、私を気遣って、あるいは心配してのことだとは思うが、私は何一つ嘘をついていないし、間違ってはいない。これは自信を持って言える。
私は彼女の才覚だけではない。その人間性にも、そしてその姿勢にも惹かれた。強いて言うならそれが根拠だ。それ以上の説明はできない。
もしこの言い分が通らず、彼女が受け入れられなかったなら、彼女を受け入れてくれる事務所を探すつもりさえあった。
(もしそうなると、移籍の正式な契約書にサインする前に辞表を提出することになるのかな)
私は、そんな間の抜けたような事を考えている。以前の私ではありえない事だろう。
前の社長に言われた、いい方向に変わった、というのがちょっと信用できなくなりそうだ、と私は内心苦笑した。
だが、そんな心配は無用の長物だったらしい。
「勘だって? わっははは、Pくん、君は変わったなぁ。最初に会った時は、特に何の特徴もない普通の青年と思っていたが。いやいや、良い変わり方だ、ふっふふ」
社長は、豪快にそう笑い、何故か前の社長と同じように私を評価した。自分ではあまりそう思えないが、社長は満足したらしい。
やっぱりぶっ飛んだ社長だと改めて思う。普通だと、少なくとも注意はされそうなものだが、この社長の良さであり、才覚を支える柱の一本であるのは間違いないことだろう。
もっとも、初めて目の当たりにする千秋さんはこの状況を見て目を丸くしていたのだが……。
「良いだろう、Pくんに任せよう」
その社長の一言が、この面会の要旨をすべて終了させた。社長は座っていたデスクから紙を二枚取り出すと、
「とりあえず、黒川くんだったかな」
と言葉を続け、千秋さんの前までやってくる。
「え、ええ。何かしら」
やや困惑した様子の千秋さんは、おっかなびっくりと言った様子のまま、その紙を受け取った。
「まあ、そう怖がらなくてもいい。その契約書にサインをして、Pくんに渡しておいてくれたまえ。二枚目は、寮の申請書だ。必要ならそちらもサインをして、同じようにPくんに渡すように」
社長は少し手をひらひらとさせると、少し笑って事務的な説明を行う。
少なくとも悪い人ではない、と確信が持てたのか、千秋さんは少し笑い、社長へと礼をした。
「わかったわ、ありがとう、社長さん」
その所作一つとってみても、優雅さと言う物がにじみ出ている。そういえば、千秋さんは良家の子女だったな、と私は思いながら、千秋さんと社長の方を見ていた。
と、その様子を見ていた社長は、少しにやりとすると、
「しかし、Pくん。好みの子を連れてこい、と言ったわけだが、彼女のような子が君の好みだったわけだね? ふっふふ」
などと笑う。私は思わず少し身を震わせると、ほんの少しばかり社長を見据え、
『ちょっと社長、それはここで言う話では……』
少しばかりの気恥ずかしさと、ちょっとした憤りを込めて、私はそう苦言を呈す。というより、本人の目の前で言う話ではないだろう。勘弁してほしい物だ……。
「……っ!」
千秋さんは最初、何を言われたのか理解できなかったようだが、数秒おいて言葉の意味を理解し、ボッと顔を赤くして少し俯いてしまった。
『社長……、流石に冗談が過ぎます』
「わっはは、これは悪かったね。しかし、いい子じゃないか。君の担当のアイドルになるんだ、しっかり支えてやりなさい」
『それはもちろんです。私が彼女の担当である限り、私の出来ることは全てやって見せます』
少しだけ笑った。未来は明るい、と自信を持って言える。彼女が、トップになれないわけがない。贔屓目であることを差し引いても、確実だろう。
その時、隣にいるのは私ではないかもしれないが――その時が来るまで、私は彼女を支え続けよう。そう、思った。
「良い覚悟だ、頑張ってくれたまえ、Pくん」
そうして社長は私の肩を叩く。
と、社長室をノックする音が響く。社長が入室を促すと、緑色の服を着た女性がやってくる。どうやら、事務員さんらしい。
太めの長い三つ編みを一本垂らしたその女性は、ぱっと見ればアイドルと言われても疑わないだろうほど、端正な顔立ちをしている。
(まあ、千秋さんの方がお美しいとは思うけど)
そんな親馬鹿ならぬ、プロデューサー馬鹿的な思考をしていたのはここだけの話だ。
「失礼します、社長。零細プロダクション、という所から移籍の話が来たのですが……」
と、何やらまた移籍の話らしい。やはり、プロダクションの規模と人員が釣り合っていないと言うのもあるのだろう。ただ、少し神妙な顔をしていた社長だったが、少し顔を綻ばせる。
「奇遇なこともあるものだな……」
『どうかなさったので?』
「いや、何。私が欲しかった人材がもう一人、手に入りそうだと思ってね。まあ、それは良い」
社長は少し咳払いをする。そして、私と千秋さんの方を見た。
「君たちには期待している。特に黒川くん。Pくんが言うには、君はトップアイドルになれるそうだからね」
「……ええ、期待していてください、社長さん。私も、やるからにはトップを目指すわ」
「良い気概だ。さあ、行きなさい。また明日、社屋内の説明と、きっちりとした入社式を君たちに行うからね」
そういって、彼は行きたまえ、という素振りを見せた。
『はい、それでは失礼をします、社長』
私は深く一礼をすると、そのまま踵を返し、千秋さんを連れて社長室から退出する。ばたん、という扉が閉じる音が廊下に響いた。
『……まあ、何とかなって良かったよ』
私は呟きとも、声掛けともいえる調子で言った。これでもう、引き返すことはできない。
無論、引き返すつもりも、そうなる予定もなかったが、それでも少しばかりの罪悪感――千秋さんを巻き込んだかもしれない、という想いは簡単には拭えない。
「Pさん」
そんな様子をみた千秋さんが、私の方へと向き直り、そして少し微笑みを浮かべながら、言った。
「私、頑張るわ、アイドル」
『……え?』
「私、Pさんを信じているもの。きっとあなたなら、トップアイドルに連れて行ってくれる。あなたとなら、トップになれる。なぜだか、そう思うの」
我、天啓を得たり――。
古い表現だが、まさしくそう表現するにふさわしい、明るい、澄み切った表情を私に向ける。
その瞬間の彼女は、思わず直視できないほど輝いていた。それは、彼女の持つ白い肌の比喩ではない。彼女が持つ、生来の純粋さが、私には眩しく、そして魅力的に映ったのだった。
『そ、そういって貰えると、スカウトした身としては非常に嬉しいですね』
私は誤魔化すようにそういうと、少し視線を逸らす。少し動悸が激しくなるのは、男性であれば致し方のないことだ。こればかりは批判してほしくはないものである……
「そ、それとよ、Pさん」
その表情から一転、少し口ごもらせながら、千秋さんはやや上目づかいで私に声を掛ける。くい、と私のスーツの裾を引っ張りながら、だ。
その表情や仕草がまた、私の鼓動を早める。普段は凛とした表情で、大人びた彼女の見せる、年頃の少女としての一面は、世の男性を魅了するのに十二分ではないだろうか。
千秋さんはご自身が可愛いということをもっと理解すべきだ、なんてことが言えたらどれだけよかっただろう。
無論、そんな赤面すること請け合いのセリフを、度胸も勇気もない私が言えるはずもなく、
『ど、どうかなさいました、千秋さん?』
というありふれた答えしか返せない私だった。そんな私に、彼女はとどめを刺すような言葉を投げかける。
「し、社長さんの言っていた好みの女性、というのは、本当のことなのかしら」
責めるわけではないのだが、もうちょっと聞き方というか、オブラートに包んでくれれば誤魔化しようがあった。ところが、ランディ・ジョンソンも真っ青の、百マイルのド直球である。
『あー、えっと、ですね。私としては、その』
そんな、政治家が時間稼ぎに使う様な言葉を並べ立てている私が、どこか情けないと思った。こういう時は、あの社長の豪快なところがうらやましいと思う。
あの社長ならきっと、さっぱり認めるのだろうなぁ、とまごついて答える事も出来ないでいると、彼女はどこか不満そうに、
「やっぱり、社長さんの冗談だったのかしら……?」
などと言うではないか。それが、私の理性のタガを外した。
『そんな、とんでもないですよ、千秋さん。千秋さんほど、かわいらしくて、魅力的な女性が好みでない人なんて、居るもんですか』
……我ながら、短絡的というか、何というか。誤解をされたくない、という想いが先走ったせいで、何か言ってはいけないことまで言いすぎた気もする。
「あの、えと、Pさん?」
かぁぁ、と顔を赤くしている千秋さんは、少し俯くと、
「その、私は愛想もないし、あまり話もできる方ではないのよ?」
と言って、自分を卑下する。いや、この場合はきっと照れ隠しなのだろうが、それでも私は、そんな千秋さんは見たくはないと思った。
『千秋さんは大人びていて、しっかりしていて、自分に芯があって。でも、年頃の女の子で、普通の女の子で、必死に頑張っている女の子で、なのにいつでも凛とした姿を見せる、そんな強い千秋さんが私は好きです』
言ってしまえ。そう思い、畳み掛けるように私は言葉を紡いだ。
『でも不安も、辛さも、弱音も全部隠しながらがんばる弱さも、千秋さんは持っています。そんなときは、私を頼ってください。全部を含めて、私はあなたが魅力的に思うんですから』
このまま、言い切ろう。そう思って息を吸うが、肝心なところで理性が戻ってきてしまい、
『ですから、その。まあ、私から見れば、何と言いますか。もったいない、と言ったらおかしいですね、あの』
と、何とも締まらない。千秋さんに負けず劣らず赤面しつつ、内心情けなく思っていると、くすり、と千秋さんが笑った。
「意気地がないのね、Pさん?」
『……いやぁ、返す言葉もない』
「まあ、そんなところも素敵よ、Pさん」
彼女はそういって、少し微笑み、すっと手を差し出してくる。
「Pさん、エスコートをお願いできる?」
『エスコート、ですか』
「ええ。……トップアイドルまで、ね?」
少し赤みが残ったままの彼女は、それでもその表情に私への信頼を滲ませ、微笑んでいる。何とも、私には過分な方だと、思う。
それでも、私は彼女を選び、彼女は私を選んでくれた。その思いに、私は報いる義務がある。
そして同時に、その権利も。
私はゆっくりと彼女の手へと、自分の手を重ねる。
「ふふっ、目が泳いでいるわよ?」
『仕方がないじゃないですか、千秋さんはお美しいのですから』
「っ、もう、Pさんったら」
そんな軽口を交わし、私は少し跪いて千秋さんを見上げる。
『必ず、必ずトップアイドルへエスコートして見せます、千秋さん』
絹の様な純白の肌と、黒檀の様な漆黒な髪。そのコントラストが織りなす、彼女の表情はどこか神秘的で、どこか魅力的で。私は思わず凝視してしまう。
そんな、彼女に魅了されてしまった私に、千秋さんはじっと視線を返し、言う。
「期待も、信頼もしているわよ、”プロデューサー”。私の隣に、ずっといてちょうだい、お願いよ」
彼女はそう微笑んだ。その微笑みは、私の人生で一番、輝いて見えた。
今回の更新は以上です。
短くなると言いましたがあれは嘘でした。こんなときもあります。
次回が最終更新になるかと思います。今週中の投下を目標とさせていただきます。
読んで下さり、ありがとうございました。
「どうかしら、Pさん? 変じゃないかしら」
いつもとは違う礼服姿の私に、彼女はいつもと変わらない微笑を添えて尋ねる。
『とんでもない、見とれるほどですよ、千秋さん。――ネックレスも、よく似合ってます』
彼女の問いかけに対し、私は一切の嘘も偽りもなく、そう答える。
薄いブルーのドレスに、白い手袋をつけたその姿は、彼女自身の優雅さとその容姿も相まって、まさしく令嬢と呼ぶにふさわしい姿となっている。
そして、その首元には、一条のネックレスが光っている。大粒の黒真珠を、大胆にも一粒丸ごとネックレスにしたものだ。
「ふふ、ありがとう、Pさん。こんな素晴らしい物を頂けるなんて、思ってもみなかったわ」
彼女は微笑むと、本当に嬉しそうに言った。千秋さんが首に付けているその黒真珠のネックレスは、昨日私が彼女に贈ったものだ。
今日、彼女は年末の大晦日フェスに、シークレットゲストとして参加するのだ。これでようやく、一流アイドルに名を連ねることになる。
無論、さらにその先の頂点――トップアイドルへの道は、目の前に見えている分だけ険しい道だ。それでも、ここまで来たのだ。彼女ならやってくれると信じている。
ネックレスは、ここまで来たことのお祝いと、トップアイドルになる、その前祝いというわけである。
「……あれから、二年半ね」
『……そう、ですね』
私が、今のプロダクションへと引き抜かれ、あれよあれよと千秋さんの担当プロデューサーになってからもう二年半だ。
私以外のプロデューサーたち六人が、その持てる手腕を存分に発揮したおかげで、シンデレラガールズ・プロダクションはその規模を爆発的に大きくしてきた。あれほど大きな社屋だと思っていたのが、今は手狭に感じるほどだ。
その結果、今やこの業界最大手と言っても過言ではなく、所属アイドルはその過半数以上が一流アイドルと言っても差し支えないほどに成長した。
その間、私がしたことと言えば、千秋さんにつきっきりで彼女のプロデュースをしていただけだ。聞いた話だと、社長が私に千秋さん以外のアイドルを付けたがらなかったらしい。
最初それを聞いて、私は少しばかり落胆したのだが、どうも事情が違うらしい、と知ったのはつい最近のことだ。
「やっぱり、私の目は間違っていなかったわ。きっと、Pさん以外がプロデューサーだったら、私はここまで来れていないと思うの」
『そんな、買いかぶりすぎですよ、千秋さん』
私は少し苦笑した。
どうやら、社長はかつて私が言った、”出来ることをすべてやる”という発言に対し、最大限の支援をするという公約を果たすため、千秋さんに全力を傾注出来るよう、他のアイドルを担当に付けなかったらしい。
そのおかげもあって、私は彼女をここまで連れてくることが出来た……、と言いたいところだが、実際は彼女がここまで自分で歩いてきただけだと、私は思っている。
私のしたことと言えば、彼女が歩く道を少し整備しただけに過ぎない。彼女の実力を、私は引き出したわけでもなければ、育てたわけでもないからだ。
それでも――。
『こんな私に、ついてきてくださって、本当にありがとうございました、千秋さん』
私はあえて、そういった。きっと、私以外のプロデューサーでは、彼女をここまで連れてくることはできても、彼女とここまで心を通わせることはできなかった。
それは、私が唯一自負を持っていることだ。
凡人である彼女を私は選び、また彼女も凡人である私を選んでくれた。私は彼女の為にすべての力を注ぎ、彼女もすべての力を私に返してくれた。
そうして、私たちはこの場所にいる。それは、偽りのない事実だ。
「Pさんこそ、こんな私をここまで連れてきてくれて、ありがとう。私、あなたを信じて良かったと、本気で思っているの」
彼女がそういってくれる。それだけで私は、全てが報われる。平凡な私が、彼女の隣に居られる幸せを、噛み締めることが出来る。
「おっ、見つけたよ、Pくん。元気にしておったかね?」
舞台袖に続く通路で二人、感傷に浸っていた私たちにそんな声がかけられる。ふと、そちらを向くと――。
『社長……? いや、本当にご無沙汰しております。おかげさまで、健康そのものですよ』
そこにいたのは、前のプロダクションの社長と、二年半前と比べると、ふっくらとした一番手プロデューサーの姿だった。こうして会うのは、最後の引継ぎの為に事務所へ行って以来だ。
あれから事務所へ行くことこそなかったが、物理的な位置関係も、心理的な位置関係も近いとあって、かつての所属事務所の噂話はよく届いた。
こちらの出向社員がいかんなく実力を発揮したこともあって、経営はだいぶ健全化され、そのノウハウを吸収した後任の社員もよく頑張っているという。
その甲斐もあってか、この大晦日フェスに招待されるまでになった。素直に、元社員としてそれは嬉しく思う事だった。
「はは、そうだったか。いや、なんだ。今日の大晦日フェスに、うちのアイドルも出るのでね。こうやって挨拶もかねて、会いに来たわけだよ、Pくん」
そういうと社長は、鷹揚そうな笑みを浮かべると私の背を叩き、笑った。あの時と何ら変わっていない。私はそれに少し嬉しくなり、思わず笑みが零れる。
『ああ、千秋さん。こちら、私が以前所属していた事務所の社長と、元同僚の一番手プロデューサーさんだ』
「初めまして、黒川千秋よ。以後お見知りおきくださると、嬉しいわ」
「一番手プロデューサーです。いやぁ、しっかし、Pさんが今をときめく黒川千秋さんのプロデューサーになってるなんて、思いませんでしたよ」
一番手プロデューサーは、そんなお調子者らしい、へらへらとした笑みを浮かべながら、千秋さんを見て、そして私に笑いかける。
「こら、Pくんにも黒川さんにも失礼だ。慎みなさい」
「へへ、いや、すみません。どうにも嬉しくなっちまったもんで。Pさんがプロデューサーってのは、意外っちゃ意外でしたけど、でも元同僚が活躍してるってのは聞くだけでテンションあがっちゃいますよ」
一番手プロデューサーは頭を掻くと、少しばかりはにかんだように笑う。
お調子者なところは変わっていないが、不思議と彼に抱いていた、嫌悪感や苦手意識と言う物を感じなかった。
私は、それがかつての鬱屈した自分が、彼に密かに抱いていた嫉妬や羨望であった、と気づく。
(……なるほど、私は思ったよりも俗物だったというわけだ)
そう、内心で呟いた。今でも私は凡人だが、彼の才能に嫉妬することも、羨むことはもはやない。むしろ、この凡庸さを誇りたいぐらいだ。
「まあ、的確にPくんの才覚を見抜いた、シンデレラの社長さんが凄かったってことだよ。私は彼の才能を、完全に見抜くことはできなかったからね」
社長は、少し残念そうに、そして少し寂しそうに言った。
「まあ、挨拶はこれまでにして、今日は正々堂々と戦わせてもらうよ。うちはまだまだ弱小だが、ようやくここまで来れた。君の移籍がきっかけ、というのは少し皮肉な話だがね」
『ええ、もちろんです。もし対戦することがあれば、うちの千秋さんが存分にお相手いたしますよ。無論、負けるつもりはございませんから』
自信満々に、そういってのける。相手も侮っているわけではない。慢心しているわけでもない。千秋さんなら、出来る。絶対的な信頼とでもいうのだろうか。
かつて私が”ガラスの声”と評したその声で、千秋さんは舞台やドラマの役を勝ち取り、そして”クリスタルボイス”と評した声で、こうやってアイドルとしての歌曲を歌い上げてきた。
その努力が報われないわけがない。
「はは、やはり君は変わったよ。まあ、そのうちまた遊びに来てくれたまえ。歓迎するからね、Pくん」
社長はそう言い残して、一番手プロデューサーを引き連れ、去っていく。
私は、その後ろ姿をずっと見つめ、見送っていた。
「……寂しいのね、Pさん」
『……え?』
「じっとしてて、今拭いてあげるわ」
千秋さんは、ドレスのポケットからハンカチを取り出すと、私の目じりをそっと拭いた。気が付かなかったが、私は涙を流していたらしい。
『そう、かもしれないですね。あの社長がいたからこそ、今私はここに居ます。でも、あの社長に私は何も返せてない気がして……』
「大丈夫よ、Pさん」
私の言葉を遮るように、千秋さんはそんな言葉を私に掛ける。
「気づかなかったかしら。あなたの元社長さん、Pさんのことをまるで、我が子のように見てらっしゃったわよ?」
『社長が……?』
「ええ。そんなところは、鈍いのね、Pさん」
くすり、と千秋さんは笑った。なんだか、私よりも私のことを把握しているような気がして、思わず気恥ずかしさを感じる。
『そ、そろそろ時間ですよ、千秋さん』
相変らず意気地のない私は、誤魔化すように彼女を促す。実際、彼女の出番はもうすぐだから的外れと言うわけではない。
ただ、少しばかり不満げな表情になった千秋さんは、その場から動かず、私を見据える。
『あの……。千秋さん?』
「……エスコート、してくださるかしら、”プロデューサー”?」
少し意地悪そうな微笑を添えて、彼女が言った。そして、私の方へと手を差し出してくる。純白の手袋に包まれた白い肌は、見ていると思わず引き込まれそうになる。
その思いを堪え、私はあの時と同じように跪き、
『もちろん、私で良ければ、どこまでも』
私はそう、言った。
「ふふ、本当かしら? じゃあ、ね、その、Pさん」
彼女は、私の手に自分の手を重ね、何かを言おうとした。
「……いえ、なんでもないわ」
しかし、彼女は言葉を飲み込む。千秋さんは、そうして、”行きましょうか、Pさん”、と私にエスコートをするように促した。
だが、彼女が自制したその言葉の先を、彼女を理解しているが故に、私は感じ取ってしまう。
『……いつか』
ゆっくりと私は立ち上がり、彼女の目を見る。彼女の茶色がかった瞳が、微かに揺れる。
『千秋さんがトップアイドルになった時は、お約束します。その時はきっと』
恥も、外聞も、ない。言うべきだ、と思った。それは、私がそうしたいと思ったから。そして、彼女の気持ちを、感じ取ってしまったから。
『私は、指輪を、用意しておきますから』
気持ちを、精一杯の言葉に乗せて、紡ぐ。これが、この業界の道義に反している、というのは知っている。そして、追放されてもおかしくないほどのことであるのも。
私は平凡な人間だ。幾らでも替えが効く人間だ。才能を有するこの世界で、切り捨てられようと、排斥されようと、文句も抗議も言えない立場ではある。
それでも、後悔なんて微塵もない。理由は単純で、平凡な物だ。
「――! ええ、待ってるわ、Pさん!」
彼女の、これほどにまで嬉しそうな笑顔が見れた。それだけで私の、この人生の全てを彼女に捧げるだけの価値がある。平凡な私に、捧げられるほどの物はそれしかないのだから。
「ふふ、今からお金を貯め始めても、遅いかもしれないわよ?」
千秋さんは、私の手を握ったまま、そういって笑う。
その言葉の意味を、私が理解できないでいると、少し不満顔になる彼女は、ほんの少し顔を赤らめて、
「鈍いのね、Pさん。わかってちょうだい。ほら、その……。”そういう指輪”は、お給料の三か月分、というじゃない?」
と、私を見上げながら、千秋さんは少しはにかむ。
「三か月分も貯まるまで、私は待たないから。ね、Pさん?」
……その表情は反則だよ、千秋さん。
これほど、嬉しい心の叫び、という物はない。私は、その叫びを抑えて、彼女の手を引いた。彼女を、エスコートするために。
私が出来るのは、連れて行くことだけ。それしか、できない。
だから、あえて言葉に出す。
『行きましょう、千秋さん。トップアイドルに』
私のその言葉に、千秋さんは笑顔で応えてくれる。
「ええ、行きましょう、Pさん。トップアイドルに」
歓声が聞こえる。本当のトップアイドルへの道は、ここからなのかもしれない。
ただ、私は確信している。今度の確信は、”第六感”などではない。
なぜなら、この二年半、ずっと彼女と一緒に居たのだから。だからきっと彼女は、トップアイドルになる。
一歩、一歩。確実に舞台袖へと近づいていく。そして、舞台袖の扉が見えた。そこで、私は手を離すために力を緩める。
「Pさん」
私が手を離そうとした時、彼女が私の名を呼んだ。
「……まだ、離さないで」
千秋さんは、少し小さな声で呟くように言う。
そして、気が付けば、彼女は――私の胸に、顔を埋めていた。
『千秋、さん?』
「……大丈夫よ、心配しないで。勇気は、貰ったわ」
千秋さんは、顔を上げる。そして、少し笑った。
「私って欲張りなの。地位も、名声も全て、手に入れたいじゃない?」
千秋さんはきっと、望むものをすべて手に入れる。そんな確信を、今、私は持った。私の人生で最後の”第六感”だ。そんな、第六感。
そして彼女は、舞台袖の扉に手を掛けながら――笑顔で告げる。
「もちろん、あなたもすぐに手に入れて見せる。だから――大好きよ、Pさん」
そんな千秋さんの愛と決意の言葉が、私と彼女の未来を保証してくれる。ささやかな幸せの、ささやかな将来を。
これが、私と千秋さん――二人の凡人と、多くの第六感のお話。
今回の更新でこの作品は終了です。
予定よりもやや冗長になりましたが、無事終了できて良かったと思います。
長い間お付き合いいただき、誠に有難うございました。
また登校することもあるかと思いますので、その時はまた宜しくお願い致します。
このスレはHTML化の依頼を出しておきます。お世話になりました。
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