モバP「二兎追い人の栞」 (165)

モバマス、鷺沢文香さんのSSです。 公式設定等無視の勝手設定、P視点に偏重していますので鷺沢さんのSSというと語弊があるかもしれません。
以前多忙のため投げ出してしまったものですが、未完というのはあまりにも気が済まなかったため再構成して投稿させていただきます。
もし以前のものをご存知の方がおられましたら、内容が変わっている部分があります。目を瞑っていただけると幸いです。

それではよろしくお願いします。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1460289965

 ――僕は、ある“夢”を見た。とても荒唐無稽で、どだいあり得ない”夢”。そう、自分の好きなことだけを成して生きていく、幸せな人生を。

 それがどれだけ困難な道のりで、どれだけ大変な選択で、どれだけ限られた人間しか成しえないことだと、理解できないはずもない。その上で僕は”夢”を見たのだ。

 だから僕は選んだ。好きなことだけを成していくだけの人生を。おかげで大学にも行かなかった。専門学校にも行かなかった。高校さえ、行かなかった。

 世間的に見れば、中卒なんていうどうしようもない最終学歴。馬鹿みたいだと、自分でも思う。でも僕は、この人生を悔いてなどいない。

 何故?

 そんなの簡単だ。馬鹿みたいに、ただ好きなことを追っていられる。それが幸せでないはずがないのだから。

 僕は自分の好きなことをただやり続けるだけの人間。”好きなこと”をやり続ける意欲と、”好きなこと”をやり続ける根性があっただけの人間。そして”好きなこと”の数が多かった人間。

 だから僕は、全ての時間をよりたくさんの”好きなこと”に注ぎ込もうと思った。二兎どころじゃあない。三兎、四兎、五兎……。捕まえられる限りたくさんの兎を捕まえようとしている、大馬鹿者。

 何故?

 そんなの簡単だ。だって、一つの好きなことを追って、それが成し得なかったら? 嫌だ、そんなのは。ほかにもやりたいことがあったのに。僕という人生に、何一つ価値がなかった。そんなのは、とても嫌だ。

 だからたくさんの”兎”を追う。どれか一つでも成し得るために。欲を言えば、全てを成し得るために。気概だけとはいえ、そのつもりでいる。

 『二兎を追う者は、一兎をも得ず』とはよく言った物で。旧い人たちはきっと、一人の人間が一生でいくつもの事を成し得るわけではない、と戒めたかったのだろう。

 だから、誰も彼もが出来るわけことではないからこそ、分を弁えて行動するという格言を残した。

 でも二兎を追って、そして捕まえられた人は世の中にいる。

 例えば、オリンピックのメダルを取りながら、大学の教授になっている人がいる。天才的な実業家で、同時に研究者としても一流の人もいる。

 一年で何億って金を稼ぐスポーツ選手でありながら、一年で何億って金を稼ぐファッションブランドを立ち上げている人もいる。歴史を見れば国を救った軍人でありながら、国を救った政治家だった人もいるだろう。

 僕がそういった、ごくごく選ばれた人になれるとは思わない。社会的に見れば、ただの放蕩者だと思う。

 それでも、僕は”夢”を見る。

 ――何故?

 そんなの簡単だ。”好き”だから。理由がなんてそれだけしかない。それだけしかいらない。”夢”という名の強欲な願いのために、僕は多分、いろいろ捨てたのだ。僕にはそのつもりがなくとも、他の人にはそう見えるぐらいには。

 だから、少なくとも僕は普通の人間じゃあない。もちろん悪い意味で、だ。普通の人なら”一兎”だけを追う。だって”二兎”を追っても格言の通りになるだけだから。それが普通のことだから。

 なのに僕は”二兎”を選んだ。そうだ、本当の馬鹿正直みたいに”一兎”を追えばよかったのに、ひねくれたただの馬鹿となって僕は”二兎”……いや、見える限りの”兎”を追っている。

 ああそうとも、知っているよ。人生は有限だ。だから”一兎”を追うべきだ。普通の人と比べて、”一兎”あたりの追える時間は少ないのだから。

 でもこれでいい。この人生が、幸せでないはずがない。好きなことをずっとしていられる人生が、幸せなものでないはずがない。

 そうさ。少なくとも人生が終わるその時に。

『もっと好きなことが出来たかもしれない』

 なんて、思わないですむだろうから。

「……それでも。少しぐらい、ほんの少しくらいは、体を気遣っても」

 うん、それは正しい。正論だと思う。ぐうの音も出ないくらいに。何一つ言い返すことができないぐらいに。

 だから僕は言い返さない。言い返すことなんてできないし、する必要もない。喋っている暇も休んでいる暇も、きっとない。こんな人生を選んだ僕に、それが赦されるはずがない。

 言っただろう? 人生は有限なんだ。だったらなおの事、時間を無駄にはできない。その結果、例え短い命になるとしても、それでいい。今日を生きるために、全力を尽くした証拠だから。

 今日という日を、ただひたすらに限界まで生き抜く。そんな戦国時代のサムライみたいな考え方、今の世の中じゃあ流行らないけれどね。

 ……はは、僕の言っていること、わからないよね。

 じゃあ人生を読書に例えてみよう。これならきっと、分かってもらえると思う。

 きっと君は、一冊の本を一章ずつ。あるいはひと段落ずつ。ちょっとずつ読み進めては、栞を挟んでいく。そして一生をかけてその本を読みつくす。そんな人生だと思う。

 今日はここまで読んだから、また明日。明日はここまで読もう。きっと、それが普通の人の人生なんだって思うよ。

 人生という名の本を、ゆっくりゆっくり読み進めていく。慌てず、騒がず、じっくりと一文字を吟味し、堪能して。その先にある見たこともない文字を咀嚼して、自分のものにして。

 それで……”栞”を挟む。そう、”栞”。誰も彼もが持ち合わせている人生の休憩時間。

 けれど、僕は違う。僕は本の先へと行きたい。本の全てを早く、読み切りたい。『次の本』を読みたくてたまらないから。じっくりなんて、読んでいられないから。読みたい本がたくさんあるんだ、僕には。

 だから僕は、ただひたすらに読み進める。この身が果てるその瞬間まで、ただただ、ひたすらに。何かの拍子に、本が読めなくなってしまうかもしれないから。

 僕の本に”栞”は要らない。休憩なんて、している暇はない。

 僕は――”二兎追い人”だから。

□ ―― □ ―― □

 ……寒さで、目が覚めた。はあ、と吐いた呼気が酷く白い。ただ、おかげで寝覚めは悪くない。いや、一般的に言えば悪いのかもしれないけれども、眠気はすでに吹き飛んでしまっている。僕にとっては、それは寝覚めがいい事に他ならない。

 横になったまま、ふと触った腕は、まるで氷のように冷たくて。布団に潜り込んでいたはずの足や体も、冷え冷えとしている。そもそも、部屋の中の温度自体が異様だった。外気温と大して変わらないのではないだろうか。

 まあ、そんなことはいつものことだ。このアパートに来てから七度目の冬。都心からちょっと外れたワンルーム。お家賃、二万九千円。風呂、空調などついているはずもなく、トイレも共用の値段相応。

 なんとも、僕にお似合いの物件じゃないか。そんなことを思いながら、ゆっくりと時計を見る。時計は午前六時を指そうとしていた。

 床に入ったのが三時過ぎだから、二時間半ほど寝たことになる。何となく、いつも通りの睡眠時間。もはや慣れてしまった。ふと窓の外を見ると、まだ暗い。

『……蛍雪の功ってわけではないんだろうけれど』

 僕はなんとも薄っぺらい煎餅布団から起き上がると、ごわごわのファージャケットを着こんで、小さな電気スタンドの電源を入れた。空調なんてないから、部屋の中でも厚着しないと本当に凍死しそうになる。

 ちかり、ちかりと二度ほど明滅を繰り返して、折り畳み式のちゃぶ台の上が明るくなると、ほぼ同時に置いていたスマートフォンの画面がちかり、と点滅した。メールが届いていたらしい。見ると、世話になっている出版社からのメールだった。

 メールを確認すると、どうやら原稿データを直接持ってきてほしいらしい。それで、今日が原稿の受け渡し日であり、稿料の受領日だったということに気付く。

 傍にあった眼鏡に手を伸ばし、詳しい内容を確認する。予定時刻は十一時。このアパートから徒歩十五分の位置にある駅から、電車で十分か十五分くらいの都心にある出版社だから、九時過ぎに出れば十分間に合うだろう。

(九時、か。三時間ほど、どうするかな)

 今、請け負っている『仕事』はほかになかった。ひとえに『仕事』といっても、いろいろとある。フリーライターの真似事、システムエンジニアの真似事、Webデザイナーの真似事。どれもこれも、僕の『趣味』が転じたものだ。

 だから稼ぎは良くないし、仕事もあまり来ない。事務所を構えているわけでもなければどこかに雇われていたこともない。中卒の僕を正社員で雇ってくれるトコなんてそうそうないから。せいぜいが下請け派遣かアルバイトだ。

 そんなわけで、名が売れているわけではないし、これといった代名詞となるモノもない。何か大きなプロジェクトに携わったわけでもない。当然の帰結だろう。

 だけど、これでいいと思う。ただ好きなことをやっていられるからそれでいい。舐めた考えと周りの人に嗤われていたし、今もきっとそうなのだろうけれど。

 でもこれが、自分の選んだ道だった。だから貧困に不満はない。むしろ僕には分相応だろう。満足さえしているぐらいだ。

 何かを書くことも、何かを弄ることも、何かを作ることも、どれも好きなことだ。例え対価が安くとも、断ったことなんてない。『趣味』にお金をくれるのだから、断るはずもない。

スレタイ見てもすぐには信じられなかったわ。
再開ありがとうございます!

 それに……僕には本があった。流石に、こっちは仕事には出来なかったけれども。それでも中卒の僕には心強い知識の源泉。僕の心の支えとも言っていい。お蔭で、中卒の分際で知識はある……と思う。

 その上、何度か見てくれについて言及されたこともあるが、どうやら僕は”知的”に見えるらしい。学歴からすればお笑い種なお話だ。もし本当にそう見えるなら、本とくたびれた眼鏡のおかげだろう。

 その本も、手持ちのものではもう読めるものがほとんどなくなってしまっている。ふと後ろを振り返ってみれば、うずたかく積み上げられた本の山。

 本棚に入れられることもなく、乱雑に積み上げられているように見えて、僕の中ではきちんと整理されている本たちは、決して広くはないアパートの一室の、それでも壁一面を埋め尽くさんと積まれていて。

 もう全部読み切ってしまったそれらの中から、僕はふと一冊の本を選んだ。もちろん、題名を見てのことではない。ただ何となく選んだだけ。それだけだ。

 手元に持ってきてから、電気スタンドでその本の表紙を照らしてみる。書かれていたタイトルは、王道ファンタジーの金字塔的作品で、もう半世紀以上も前の作品になる。

 だが僕にとっては思い出深い、大好きな作品だった。中学の入学祝いに、親父が買ってくれたハードカバー版は今も実家にあるはずだから、ここにあるのは上京してから買った文庫本。

 中学を卒業して、高校にも行かないで部屋に引きこもって。そして親戚の反対を押し切って、社会に出て、このアパートを借りて。そして、本の山が出来始めた初期のころに、中古屋で買った覚えがある。

 良くも悪くも……僕と共に歩んできた作品だと、そう言えるのかもしれない。

『久しぶりに読んでみるかな……。うん、そうしよう』

 思い立てば、それをちゃぶ台の上へと置いた。ちょうど、三部作の一作目、その一巻だったから、というのもある。これが別の巻だったら、別の本を選んでいたかもしれない。

 やがて、かれこれ五年ほど酷使している、型落ちもいいところのノートパソコンを開いて、起動ボタンを押した。四色窓のアイコンが表示され、かりかり、とハードディスクが回転する音が聞こえる。

 その間、特にすることもないから、コーヒーでも沸かそうかと思って、キッチンへと向かう。電気ケトルに水を入れてスイッチを入れれば、傍の缶から安物のインスタントコーヒーの粉をカップへと放り込んだ。

 もう、こんな生活が七年。部屋に引きこもって、ひたすら読書とプログラミングばかりやっていた二年を含めれば、最後に学校という場所へ行ってから九年。

 脱引きこもりをしてから最初の頃は辛かったけれども、今ではもう慣れてしまった。年々、人間としての感覚を失って行った気もするけど。人間の慣れとは、凄いものなのだ。

 ……そんな感傷にも近いことを考えていた僕は、電気ケトルの上げるブザー音で意識を取り戻した。すぐにカップの中へとお湯を注げば、砂糖も、ミルクも入れることなく口元へと運んで。ずず、とすする。

 口腔に広がる、安っぽい苦味と焼けるような熱さが、すでにはっきりとしていた目を余計に覚ましてくれる。それから、ぐっと飲み込んだコーヒーが食堂を流れ落ちて、そして胃へと入り込む。

 刹那的に体が熱を発し始め、まるで発電でも始めたかのように体の随所へと熱が送られる。あれほど冷たかった腕も、足も、しばらく暖房に当たったかのように暖かく感じる。

 こうしてみると、僕はどうにも変温動物か何からしい。もちろん生物学的にはおかしなことだしあり得ないのだけれど、そう自分を疑いたくなるぐらいにはなんだか体温の上下が激しい気がする。

 何か飲んだり、食べたりするだけですぐに体が暖かくなるし、放っておくと酷く冷たくなる。今朝起きた時、機械みたいに冷たかった腕がその証左になるだろうか。

(まるで、命を燃料にして動くロボットみたいだ)

 そんな風に苦笑を一つ零してコーヒーを飲み干せば、ちゃぶ台の前へと戻って。手短に着替えを済ませた。時間的には明らかに早いが、本を読みながら少し散歩をしようと思っていた。

 この時間なら人通りは少ないし、歩き読みができるだろう。褒められた行為ではないが、体を動かしながら本を読めるのだし、ましてや誰かに迷惑がかかるわけでもない。

 ……その辺りの常識が、僕には少し欠如しているのかもしれない。

『まあ、高校にも行かず、定職にも就かず。うだつの上がらないフーテン暮らしだから当然かな』

 自嘲でもなく、苦笑でもなく、客観的事実を自分で呟いて、そして再び、ファージャケットを身に纏う。これでほとんど、寒さは感じない。もともと寒さはあまり感じないから、僕が鈍感なだけなのだろうけど。

 それから、リュックサックの中にノートパソコンと予備のデータを容れたUSBメモリを突っ込んで、本を手に取る。ぱらぱら、とめくっただけでも、どのような内容か、すぐに頭の中に浮かんできた。

 もともと、想像力はあるほうだと思う。本を読むだけで、大体の情景が想像できた。でも、この作品はそうではなかった。想像できる範囲を超える、壮大な世界観だったのだ。

 そして、この物語は決して単純ではない。単純な勧善懲悪、単純なハッピーエンドではない。”ここではないどこかで起こった歴史”だ。歴史は続いていく。

 だからこそ、好きになったのだと思う。……そう思っていると、はらり、と本の隙間から何かが落ちた。

 拾ってみれば、何のことはない。ただの紙片だ。そういえば、何度も読んだ作品ではあったが、上京してから読んだ覚えは無かった。中古屋で買ったはいいものの、後に回したのだろう。

 だからきっと、この紙片は、前の持ち主が挟んでいた栞。ふ、と少し鼻で笑えば、くしゃりと紙片を丸めて、ゴミ箱へと投げる。それは、こつんとフチに当たったが、中に入ることはなくて。部屋の隅にころりと転がった。

『あー、惜しい。はずれか。まあ帰ってからでいいね』

 そう呟くと、僕は部屋を出る。鍵を掛ければ、もう見事な冬の気配が漂っていた。寒さは苦手ではないといったが、都会の冬はどうにも、慣れない。七度目の冬でも、都心からは少し離れていても。

 体ではなく、どこか心が凍らされるような、そんな冬。

 よそ者はいつまでたっても、よそ者なのかもしれない。もっとも、この都会は大半がよそ者ばかりのはずなのだけれど。何かの皮肉だろうか?

(……まあ、でも。僕にはあまり関係はない。これでいいさ)

 僕は少し凍った心の中で、そう呟いた。これで満足だった。記事を書いて、プログラムを組んで、Webページを作って、本を読む。四つもやりたいことをやっている。

 だからこそ、一日が九十六時間あればいいのに。そんな、実も理も無い、空想話を思い浮かべながら僕は歩き始めた。

□ ―― □ ―― □


 指がかじかんでいた。それでも、読書の手は止まらない。ちょうどいい場面だったからだ。主人公を追いかける追手がとうとう旅の仲間を捕捉し、小高い丘の上の遺跡で対峙する。

 この後主人公は追手に刺され、エルフの隠れ里にたどり着くまで生死の境を行き来することになる。そんな内容を知っていながら、何度読んでも手に汗握る情景は頭を支配する。

 そんな場面で本を読むことをやめるなんて、僕には出来るはずもなくて。結局、時間ぎりぎりまで近場の公園――といっても徒歩で十分ほどかかるが――で読みふけることにした。おかげで体は冷え切っている。

 僕の体温がなんかおかしいことになっているのは、こういうことをしばしばしているせいなのかもしれない。この公園に来るのもこの冬で軽く十回は来てると思う。

 仕事がないときは朝から夕方までいることもあるから、そろそろ噂になっていてもおかしくはなさそうだ。そんなことを思いながら、僕はページをめくる手を眺めやり、眼鏡のずれを直した。

(この主人公も、刺された後は酷く冷たい手になるんだったね。……僕にも『王の葉』があるといいんだけど)

 なんて、感情移入というほどでもないけど、そんなことをふと考える。僕が中学の時に映画化までされた作品だったが、その辺りの描写は酷く緊迫感のあるものだった覚えがあった。

 僕が原作を読み始めたばかりのことだったから、どれほど映画館へと行っただろうか。親父にも、お袋にも、呆れられるぐらい見に行ったし、数限りがないくらいビデオのレンタルもした。

 今思えば、この小説と出会うことがなければ、今の自分はなかったのかもしれない。

(小説、か)

 僕は少しだけ、思いを馳せた。脳裏に浮かぶイメージ映像。はるか遠くに見える一匹の”兎”。薄れゆく意識の中、それに手を伸ばしかけたところで――ふと、視界の端に何かが動いたように見える。

 最初は気にも留めなかったが、しばらくぴこぴこと動いていたものだから、思わず本から顔を上げる。本当に……本当に珍しいことだった。時間でもないのに、一度読み始めた物を中断するなんて。

『ん……?』

 それだけの価値はきっと、あったのかもしれない。もちろん、なかったのかもしれないし、価値で測るようなものでもなかったのだろうけれど。そこに居たのは、一つの人影。

 いや、人影なのだろうか。酷く角ばっていて、到底人には見えない。とうとうここまで視力が落ちたか、なんて思って眼鏡をはずし、息を吐きかけてから安物の不織布で拭う。

 それでも、そこに居たのは何か角ばった存在だった。

(やばいなあ、ボケてるなあ、僕)

 と思って、自分の体調がやられたのかと危惧するも、その懸念は杞憂に終わる。何のことはない、本の山を抱えた人影だっただけの話だ。

(……いや、本の山を抱えて公園を歩くって、なんだよ)

 そもそもふらつくほどの本を抱えている人なんて、国会図書館でも滅多に見ないだろう。その人影はあっちへよろよろ、こっちへよろよろと、なんとも危なっかしい足取りでちょうど、僕の視界の左から右へと進んでいく。

 見ると、どうやら女性のようだった。あまりよく見えなかったけれども、本に隠れきれそうなほど、その体が華奢で細かったこと。その本に隠れきれないほとんど、艶やかで黒々とした綺麗な長髪が揺れていたこと。

 そして何より、その本をかかえる腕、長袖のカーディガンからちらりと見えるその手が、まるでガラス細工のように透き通っていて。それでいて、白鷺のように純白に見えたこと。

 判断を下すには十分すぎる情報量だった。……それにしたって、あまりにも抱えすぎなんじゃあないだろうか。あの量じゃ、僕だって辟易する。

 もっとも僕だってとりわけ膂力に優れているわけでもないのだけれど。だから女性にとってはもっとつらいだろう、ということは容易く理解できた。

 とはいえ――まあ、僕には関係ないことだ。そう思って、本に目を落とそうとした。時間でいえば、あと三十分ほどは読書に励める。

 そう思った時だった。

「……あっ」

 短い声。それはまさしく、『あっという間』の出来事だった。声が聞こえて、それで目線を落としかけた顔が、自分ではない何かの手によって捻じ曲げられるが如く、そちらへと向く。

 すべてがゆっくりと見えた。分厚い本が七、八冊はあるだろう、積み上げられた本の一番上から、丁寧に一冊ずつ。綺麗な放物線を描いて宙へと舞う本。表紙に挟まれた白いページがパラパラとめくれて、地面へと落ちていく。

 無造作に落ち、乱雑に散らばる様子が酷く緩慢で。どこか記憶のページがめくられていくような錯覚にさえ陥る。

 そして――その本の山、向こうから現れた女性の姿は、僕の目をくぎ付けにするに十分すぎた。

 あわてた様子で手を伸ばし、ふわり、と少しだけ浮き上がる前髪に隠れた、ラピスブルーの瞳。そして僅かに揺れるロングスカートとストール。

 その肌が白鷺とするならば、その目は青鷺と表現するに相応しくて。僅かに開かれた瞳と、同じように開かれる口。声にならない声を上げながら、本へと視線が落ちていく。

 そこから零れ出る僅かな言葉は、小さな音と白い吐息をとなって、宙へと舞い、そして溶けるように消えていく。

 ほとんど、瞬きをするほどの時間でしかないその一瞬が、この世の終わりを迎えたのかと思うほどにあまりにもゆっくり過ぎた物だから。幽鬼に魂を抜かれたかのように、僕は放心状態に陥っていた。

 そうして、悠久にも等しい一瞬が過ぎ、彼女がしゃがもうとするその時。僕は我に返ったかのように立ち上がって。まるで見えざる手によって彼女の元に駆け寄っては、

『だ、大丈夫ですかっ』

 と声を掛けていた。それから、手に持っていたはずの本を、置き捨てるようにしてベンチに放り出したことに気付いて、

(何をやっているんだ、僕は)

 そんな自己嫌悪に陥っている。もちろん、駆け寄ったことをなかったことにして取りに戻るわけにも、そんな感情を表に出すわけにも行かない――彼女に何の責もないのなら尚更だ――ものだから、少しずれた眼鏡を直しながら拾い集め始める。

「……す、みません」

 その女性――とても清楚で、大人しい、ともすれば内向的すぎるのでは、という印象を抱かせる彼女は、今にも消え入りそうな声でそう言った。……おそらくそういったはずだ、僕の聞き違いでなければ。

 あまり自信が持てないのは、それほど小さな声だったからで。僕も今は本を拾うのに気を割いていたせいもあって確信を持てず、返答に窮した結果。

「ああ、えっと、いえ、大丈夫です。些末なことですから」

 なんていう、気の抜けた返事しかできなかった。……まあ、彼女がとんでもない別嬪さんというのもあった。今まで見たことがないぐらいに。

 本当に、本が似合うと思った。埃と古書の匂いが充満する、歴史ある図書館のカウンターで。そっと座っていれば、もうファンタジーの世界だ。そう思えるほど、綺麗な人だった。

 彼女はしばらく僕の方を見ていた――それが僕の自意識過剰でなければのお話だが、やがて落ちた本を拾い始めて。そうしてふと思う。やはりこれは女性一人で運ぶ量ではない。

(こんな朝早くから、いったいどういう理由で――)

 と思ったとき、ちょうど自分が拾っている本と同じタイトルが見えた。……どういう偶然だろうか。

『あの、これ』

 思わず、彼女に聞いていた。同じタイトルだが、装丁がまるで違う。ずいぶん年季が入っているし、印刷もかなり豪勢に見える。まあ僕の持っている物が文庫本だからというのもあるのだろう。

「……やはり、ご存じなのですか?」

 すると、彼女がこちらを見ながらそう言った。より正確に言うなら、見ているように思う、と言ったように思う、だけれど。”やはり”というのは、そこそこ有名なタイトルだからだろう。

 さっき、一瞬垣間見えたラピスブルーの瞳は、彼女の前髪で隠されて今は見えなかった。

『今読んでる本がまるっきり、同じ物なもので。……それにしても、凄い、古そうですね、この本』

「……はい。……不要だとのことで、買い取りに。何度も読んだのですが……もう売っていない版だと、聞いて。売り物ですが……折角ですし、読んでみようと思って」

 彼女はそう、答えてくれた。蚊の鳴くような声には相違なかったけれども、どこか先ほどよりも声が大きかった気が、しないでもない。僕は思わず少し笑って、

『よほど、この作品が好きなんですね。ひとりで運ぶのは大変だったでしょうに』

 と返す。すると、彼女はこくり、と頷いた。

(僕よりも、きっと本が好きなのだろうな)

 僕も大概、本と生きてきた人間だけれども、ほかにも好きなものを見つけている。でもきっと彼女は、本一筋なのだろう。何となくそう思った。

 彼女の目の前にはきっと、”一兎”だけしか現れることがなかったのだろう。そして自ら望んで、ただ”一兎”を追い続ける者となったのだ。

 そんな彼女が、どこか眩しく感じて。胸の中に疼くのは、羨望か、妬心か。……いったい何に対して? これ以上ないくらい、現状に満足しているはずだろう。

 そんな訳の分からない感情が沸き上がってくるからこそ、妙にこの場を離れたくて。そうして、そそくさと立ち上がれば。

『……これで、全部ですね。あまり、無理されないで』

 なんて、気の利かないことを言いつつ、彼女に本を渡す。再び彼女の手に戻った本は、やはりその華奢な腕に余るほどの圧力をかけているだろうけれど。

(『運びますよ』ぐらい、気の利いたことを言えばよかったかな……)

 そんな、僅かな後悔を振り払うようにして、僕は自分の座っていたベンチへと戻る。置き捨てられる様にあった自分の本を手に取れば、ぽんぽんと表紙を手ではたいて。

 少し、早い時間だけれど、出版社へと向かおう。そう思って、ふう、と息を吐き、踵を返した瞬間だった。

「……あの」

 じゃり、と靴底が地面を擦る音に紛れて、背後から聞こえた声。僅かに首を捻じ曲げ、声の聞こえた方を見る。

 彼女が、傍のベンチに本をおいて、こちらを見ていた。そして、ゆっくりと。しかししっかりと。深々としたお辞儀を僕へと向けて。

「……ご心配をおかけして、すみません。それと……助けてくれて……ありがとう、ございます、Pさん」

 そんな風に、お礼をされる価値なんて、僕にはないはずだ。ただ、居合わせただけなのだから。

 だが、そんなことよりも――その儚げな、華奢な、可憐な姿が目に焼き付いて離れず。うんとも、すんともいえず。

 ただ、僕もぺこり、お辞儀を返すことしかできなくて。そして、僕は足早に歩き始める。なんて、失礼な奴だろうか。心の中で自分を殴りたいほどの衝動に駆られながら、

(馬鹿らしい)

 と悪態をつく。良くわからない、もどかしい感情がうねりと共に胸の中で渦巻いている。奇妙な違和感と共にとぐろを巻いているこの感情はなんだろうか。それを確かめるかのように、僕は一瞬振り返る。

 遠くの方で、重そうにしながらも再び本を抱えて、よろよろと歩き始めている彼女の姿が見えた。やはり、どこか危なっかしい足取りで。だからかもしれない。どうしようもないほどの後悔と、呵責の念が押し寄せる。

 やっぱり、運んであげた方が良かった。そう思っても、もう遅いのだろう。やはり、僕は礼を言われるようなことはしていない。

 思えば、一途な人に思えた。とても綺麗で、可憐で、ひっそりと咲く虞美人草のような彼女は、きっとこの先も一つの物を追い続けるのだろう。僕とは大違いだ。

『……はっ』

 自嘲するかのように、僕は鼻で笑って頭を振って、彼女の姿を頭から追い出そうとする。だが、何度そうやっても、僕の頭のスクリーンには彼女の姿が映ったままで。

 僕はゆっくりと手元の本を開いた。どこまで、読んだものだったっけな。そう思っても、なかなかその場面を見つけ出すことが出来ない。

 ああ、そうか。”栞”を使っていないから当然のことだ。だから僕は、目を閉じてどこまで読んだか、思い出そうとする。

 ――刹那的に浮かんだ、彼女の残像はまだ、消えない。

本日の更新は以上です。次回の更新は一週以内に行う予定です。
スケジュールの調整はある程度出来ているので、完走までお付き合いいただければ幸いです。
ありがとうございました。

>>8
恥ずかしながら戻って参りました。
まだ覚えていて下さったのですね。ありがとうございます。
前回のようなことにならないよう、精一杯努力させていただきます。

このシリーズ好きで1作目からずっと読んでたから再開してくれたのはとても嬉しいです
次回の更新を楽しみに待ってます

>>18
文さん、Pはんの名前知っとるんけ

就活中で、このPに年齢が近いから読んでて胸がざわつく。期待

いやったあああああ
待ってたよおおおおお

待ってた
いやーほんと嬉しいわ
のんびりでもいいから最後までいってほしい

おお、おかえりなさい!
たまに過去作を読み返す位大好きなシリーズだけに、再開を待ち侘びてました
時間掛かっても良いので、完走までどうか頑張って下さいませ

久々だな待ってたぜ
今作はもちろん次作も今から楽しみ

待ってた

待ってたかいがあるってもんだぜ!ちょっと過去作読み直してくるわ!

また楽しみが増えてしまった

□ ―― □ ―― □


「今回の経済コラム、読ませてもらったよ。良くできてる、まあ誤字とか、表現の一部はこっちで変えさせてもらったけどね。確認してくれるか」

『ああ、はい。わかりました』

「よろしく頼むよ。これの中に入ってるからね。あと、今回と前回の分、まとめて稿料だ。明細とあと、年末調整用の書類も入ってる」

 午前十一時過ぎ。僕は出版社の応接室に居た。目の前にいるのは四十代そこらか、まだ行っていないぐらいの若い編集長。

 上京してから二年ほどたって、いろんなルートを伝って出会った人だ。当時はただのライターだったが、食うに困って書いた記事を妙に気に入られてそれからの付き合いになる。

 そんな編集長は実家が本屋らしく、高校卒業後に業界へと飛び込んだのだという。今では一年ほど前に新設された『Webニュース部門』の統括役に抜擢されていた。

 継いだ本屋は趣味半分で今も続けているそうで、なんだか僕と少し似ているようにも見える。そこから統括役になる辺りは僕と大きく違うけれども。彼もまた、”一兎”を追った者なのだろう、と思ったものだ。

 そんな人が、初めて会ったとき以来結構な頻度で僕に記事の執筆依頼を投げてくれる。なんでも、

「君くらいの文章を書ける人間が在野にいるんだ、使わん訳がない」

 と、妙に手放しで褒めてくれるのだ。まあ、悪い人ではないだろうし、きっと本心からそう言ってくれているのだろうけれど。それでも、僕自身はその評価に首を傾げざるを得ない。

 もちろん、まるきり無能ではないと自分でも信じている。そうでないとこんな仕事を引き受けたりなんてしない。

 だが、それでも『趣味』の延長線上に近しいのだ。プロ根性なんて、あるはずもない。

(ここまで褒められるほどのものじゃないと思うんだけどね……)

 内心そう思ったところで、ニコニコ顔の編集長に言うわけにもいかず、僕は受け取ったタブレットから自分の書いたコラムを読み始める。

 書いていることは他愛もないことだ。僕の知っていること、本を読んで知ったことを、つらつらと書き連ねただけ。円安だとか、原油価格だとか。専門家からすれば、何をいまさらな内容で。

 もちろんただの”レポート”になるとまずいから、引用可能な論文に掲載されている統計データや、官公庁が発行している公文書を引用しつつ、自分なりの私見も入れて説明している。それが、読者からは好評らしい。

 思えば経済だけじゃなくて、政治のことも、スポーツのことも、サブカルチャーのことも。いろいろな記事を書いていた。もうこの出版社だけでも四十本以上は書いているのではないか。

 ただまあ、詳しい専門的な話なんて僕にできるはずもない。だから、普通の人が調べるには少しばかり面倒な内容を、時にはユーモアを交えながら評論しつつ解説しているだけ。

 言ってしまえば居酒屋談義に近しい。それでも、編集長は手放しで称賛してくれる。もちろん評価されることが嬉しくないわけではないのだが……。

『……はい、これで問題ありません。すみません、いつもお手数をおかけして』

「なに、こういうのが編集者の醍醐味だからね。全く校正の必要がないなんて、それこそつまらん。俺の存在意義を奪わんでくれよ、はっはは」

 タブレットを返しつつ僕が言えば、編集長は酷く上機嫌な様子でそう返す。それに、僕は苦笑というか、愛想笑いというか、なんとも微妙な笑みで返しながら、稿料と書類の入った封筒の中身も確認せず、リュックに突っ込んだ。

 どうやら、この笑顔はあまり評判が良くないらしい。良く”諦めている笑み”と言われた。僕はそんなつもりはないのだけれど、酷く覇気の無い顔に見えるようだ。

 ぶっちゃけ、そんなもの生まれつきなのだろうから、僕の知ったことではない。そう言えればいいのだけれど、まあ、波風立てるわけにもいかないのでまた、この笑顔でごまかすしかないというわけで。

 そんなわけで、結局嫌われる笑顔で誤魔化すしかないのだからどうしようもない。仲の良い知人というのはほとんどいなかったりする。なんとも僕らしいことだろうか。

「ああ、そういやPくん。今、別件で仕事はやっていたっけか? ちょっと変わり種なんだが、一つ相談があってね」

 そうして、渡すものも渡したし、受け取る物も受け取った。暇そうに見えてきっと、尋常ではないぐらい忙しい編集長をいつまでも僕が拘束するわけにはいかない。

 そう思って帰り支度を整えていた僕を、呼び止めるように編集長が言った。僕はリュックのジッパーを閉める手を止めて、顔を上げる。

『ええと、特には。……変わり種っていうのは?』

 僕が訝しむような表情をしていると、編集長は少し笑って、

「はは、そうびくつかんでもいい。マグロ漁船に乗せようってんじゃないさ。実は俺の古い友達が最近妙なことを始めてね」

 そう言うのだ。どことなく、彼もまた訝しんでいる様子ではあったが。

『妙なこと、ですか』

 僕はそう返す。編集長の様子を見る限り、どうも詳しくまでは知らないらしい。なんだか嫌な臭いがプンプンする。とはいえ、世話になっているわけだし、無下にするわけにも行かない。

(時間の無駄じゃなければ、受けてもいいか……。しばらくは、本を読む時間が取れると思ったけれども)

 何となくそんな気分になりながら、少しずれた眼鏡を直して。そうして編集長の顔を見る。すっと、目が合った。「聞くかね?」と聞かれた気がするから、目で『はい』と返す。

 すると編集長は、ポケットに入っていたスマートフォンを取り出すと、何やら幾分か操作を初めて。そして、一通のメールを見せてくれた。

 少しだけ目を細めて、それを読む。書いていることは、至極短かった。理解もたやすい。

『――”おい、物が書けて、プログラムも出来て……あとそうだな、ホームページが作れる人間を知らないか? うんと扱いづらいじゃじゃ馬だったらなお、面白いんだが”。……なんですか、これ』

 ただ、それが何を意味しているかまでは分からなかった。じゃじゃ馬? 面白い? 何が何やら。

「まあ、正直俺も良くわからん。いつも突然連絡が来て、やれこういうものはないのかだの、それこういう奴はいないのかだの、ごり押し千万でね」

 今回も数日前にいきなりこのメールが来て、もうてんやわんやさ。そう、編集長は困ったように、しかし嬉しそうに言った。まるで、頼られることがとても嬉しいことのように、だ。

 正直、気乗りはしなかった。なんだか、自ら台風のただ中に突っこんでいくようなものだと感じている。それでも――なぜか、引き受けたほうがいいような気が、していたのだ。

『それで僕、ですか』

「難しいか、やっぱり? Pくん、プログラミングも出来るし、Webデザインも出来るし、文章も書けるだろ。前にネット通販のページ作ってくれたじゃないか。なんだかお誂え向きじゃないか、と思ってなんだけれども」

『あれはページビルダーを使いましたら、誰でも出来ることですよ。ひな形だけ作ってあとはお任せした形ですし。それに生憎僕はじゃじゃ馬じゃないですから』

 そんな風に言ったが、編集長はにやり、と笑って、

「いいや、じゃじゃ馬だね。さんざん俺の誘いを断って、フリーのままでいるじゃないか。扱いづらいったら、ありゃあしないぜ」

 どこかいたずらっぽく、そしてからかうようにして言って、そして笑う。なんとも酷い物言いだ。だが、まあ実際の所。扱いづらいには違いがないのだろうし、言っていることは事実だ。

 何度か、編集長は僕のことをスカウトしてくれていた。専属ライターにならないか、と。だけれど、僕はそれを何度も断っている。

 理由は至極自分勝手で。好きなことが出来なくなると、そう思ったから。会社に勤めるというのは、そういうものだと思っていたから。

(なにせ、好きなことしかやらない我がまま野郎だからなあ……)

 人から見れば、そういう僕は人間だ。そして自分でもそう思う。それでいいと思っているのだから、なおの事救いがない。そんな扱いづらい人間を、どうしていつも使ってくれるのかは、良くわからないけれど。

 だからこそ、こういう無茶苦茶な話に縁があるのかもしれない。僕は、ゆっくりと息を吐きだして。

『とりあえず、お話だけでも伺ってみようかと。連絡先、いただけますか』

「おう、そうか。ちょっと待っててくれ。ああ、向こうから連絡するように言っておくぜ。こっちから頼んでるんだしな」

『えぇ……? いえ、それはちょっと』

「なに、構いやしない。たまにはあいつを困らせてやりたいんだよ。いつもこっちが困ってばかりだからね。ま、それがいいところでもあるんだがな」

『……ううん、そうですか。では、お言葉に甘えます』

 何か、私怨を晴らすダシに使われた気がしないでもない。一本か二本、取られたかな。そんな風に思っているうちに、編集長は適当なメモ用紙に連絡先を記載して僕へと寄越した。

「んじゃ、あとでメール送っておくぜ。忙しい奴だから、もしかしたらちょっと連絡がつくのに時間がかかるかもしれないけれど。それでも、数日中には連絡が入るだろうよ」

『はい、ありがとうございます』

 僕はぺこり、と頭を下げた。少し眼鏡がずり落ちそうになる。それを右手の中指で押さえつつ、顔を上げて。そして、今度こそお暇しようと立ち上がる。

「ん、そういや年明けてからまだ飲みに行ってないな。今度どうだい、奢るぜ。まあPくんは酒、弱かっただろうからウーロン茶になるだろうが」

『ああ、はは……。時間さえあれば、考えておきます』

「おう、つれないねえ。ま、いいや。んじゃ、また今度な。そうそう、本の読み過ぎには注意しろよ」

 彼はそんなあっけらかんとした様子で笑う。誘いを断られたというのに、心配までしてくれるなんて。どうしてそうも鷹揚に笑うことが出来るのだろうか。……まあ、断った僕が言うことではないのだけれど。

 そうして、僕は改めてお礼と、別れの挨拶を済ませれば、応接室の扉を開けて、出入り口の方へと歩き始めた。それとほとんど同時に、応接室へと誰かが飛び込んだようで、背後では慌ただしく人の動く気配がする。

 きっと、何か問題があったか、緊急の要件が舞い込んだのだろう。よく考えなくとも、Webニュース部門の責任者なのだから、結構偉いし忙しい。それこそ、僕とは天と地の差だ。

 ああして話していると、それを忘れそうになる。僕と同じで、好きなことをしている。けれど、僕とは違う。何が違うのか、何が同じなのか。決定的なそれが僕は分からなかった。

 きっと分からないからこその今の僕があるのだろう。それぐらいは分かった。そして、分からなくても良いと思った。僕は僕だ。例えそれが言い訳に過ぎないとしても。

 こうしてたくさんの”兎”を追いかけていられる。それで満足してしまっている部分があると、少なからず知っている。だから分からないし、分かろうともしないのだ。

 ちん、とエレベータの到着する音がする。哲学的思考に陥ろうとしていた僕は、そこで考えることをやめた。

お言葉の数々、ありがとうございます。
もう少し投下の予定でしたが、急な呼び出しがあったのでひとまずは以上で更新といたします。
後ほど、再度投稿するかもしれません。ありがとうございました。

□ ―― □ ―― □


『……? あれ、知らない番号からだ』

 出版社の帰り道、相も変わらず歩き読みなどという褒められない行為をしながら歩を進めている最中、ポケットでスマートフォンが震えた。

 取り出してみてみると、何やら見覚えのない番号。電話帳に登録している番号なんて片手で足りる僕の交友の狭さを考えれば、僕の番号を知っている知り合いである可能性は限りなく低い。

 ついでに言えば、僕の番号なんて利用価値もほとんどないだろうから、業者の類からかかってくることも、年に一度あるかないか。そんなレベルだ。

 おかげでここ二年ほどは、基本料金以外の料金を支払った覚えがない。仕事で使うこともあるから、と買ったものではあるが、これならば折り畳み式の旧式携帯――いわゆるガラケーで良かったのでは、と思うほどだ。

 とまあ、そんな調子だから表示された番号に対して訝しむのは無理からぬことではないか、なんていう自己弁護を頭の中で投げかけつつ、ぱたんと本を閉じて着信を取る。

『はい、もしもし』

「んむ? 意外とすぐに出るのだな。……ああ、失礼。これはPくんの携帯で合っているかな?」

『え? ああ、はい。そうですが。……失礼ですが、どちら様で?』

 スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、壮年か、中年かといったぐらいの年齢だろう男性の声。だみ声というわけでも、ドスの利いた声というわけでもなく、なんとも普通の声というにふさわしいだろう。

 だが何かその声の節々に存在する、自信や自負といった堂々としたものを感じ取っては、そんな人知り合いに居たか? なんて考えていて。そもそも、自分より年上の知り合いなんて、地元の親族かあの編集長ぐらいなものだ。

 だからなおの事だった。そうしているうちに、再びスピーカーの向こうから声が聞こえてきて、

「ん? あいつから話が通っていないかね。”仕事のできる人を探している”と。先ほどメールで電話番号と名前が届いたからね、こうして連絡をしてみたというわけなのだが」

『ああ……』

 そういえば、編集長がそんなことを言っていたな、とその時になって思い出す。いや、忘れていたわけではないのだけれど、さっきの今だから思いつくはずもなかったのだ。

 だってまさか、その話をしてから一時間……いや、三十分もしないうちに連絡が来るだなんて、予想ができるはずもないだろう?

 ただまあ、連絡が来てしまったものはどうしようもない。少々心の準備が出来ていなかったが、腹を決めて話を聞くことにしては、

『いえ、お話は伺っています。なんでも、ライター兼エンジニアを探しているとか?』

 僕はそう答えた。じゃじゃ馬云々はとりあえず伏せておくことにして。そうでないと、もしかしたら編集長の立場が悪くなるかもしれない、とちょっと思ったから。

 ところが、スマートフォンの奥から剛毅な笑い声が聞こえたかと思えば、

「わはは、そこまで知っていて平然としてられるのであれば、君はじゃじゃ馬なのだろうね? そして聡明だ。私にじゃじゃ馬云々の話を伏せておいた方がいいと判断できる程度には」

 なんて、すっかり見透かしていたようなことを言われてしまい、対面しているわけでもないのに顔が少し熱くなった気がする。……電話越しで、本当に良かった。

 その火照りを冷ますがてら、ゆっくりと歩きながら電話することにした僕は、本題を切り出した。そもそも、どういう用件であのような依頼を出したのか、と。

 返ってきた言葉は、予想の斜め上だった。

「うむ、実は宣伝文句等も込みで、うちのホームページを作ってくれる人がいないものか探していてな。時間も報酬も融通を利かせることが出来るが、全部ひとりでやってほしいのだよ」

 しばらく、開いた口が塞がらなかった。言われていることがどれだけ荒唐無稽なものか、相手は分からないのだろうか?

 そのうえ、相手方は情報の追加と言わんばかりに言葉を接いで、

「ああ、うちの会社は芸能プロダクションだ。ついでに言えばアイドル専門にしようと思っている。本格的な始業予定は来年度からだが、稼働自体はもうすぐでね」

 と付け加える。

 そもそも、時間も報酬も融通が利くなら、適当な広告代理店とデザイナー会社に発注を掛ければいい話だ。併せて百万そこそこ。

 芸能プロダクションという特殊性と継続的なメンテナンス費用とサーバー代を合わせたって、上乗せ四十万から五十万と言ったところだろう。

 なのに、それらの仕事を全部ひとりの人間が――まあ、継続的なメンテナンスとかは除いたとしても、到底できるはずもない。エンジニアと一括りにしても、その中にはいくつかのジャンルがあるのだから。

 そんな専門的な分野に幾つも長じている人なんて、一月いくらぐらいの給料をもらっていることだろうか? 例えば、物語が書けて、絵が描けて、音楽が作れて、なんていう人が仮にいれば?

 きっと、その人ひとりでエンターテイメントという物が回ってしまう。そう考えると数十万では足りない。何より、一線級の能力を幾つも持ち合わせている超人が、ゴロゴロ転がっているはずもない。

 そういう意味でも、僕は所詮趣味レベルの人間だ。平凡な能力を時間で補っているに過ぎない。だからこの仕事は僕には出来ないだろう――そう思って、断ろうとした時だった。

「まあ、百聞は一見に如かず、だ。電話で話していても分からないことばかりだろう。どうかね? 明日、朝十時。社に来て欲しいのだが。実際の所、今ちょっと時間がなくてな」

 そんな風な言葉の後にスピーカーの向こうから、留守番は頼むぞ、だの、手を尽くして掛け合ってくれ、だの、指示というかなんというか、慌ただしい声が聞こえる。おかげで断りの言葉を言い損なってしまった。

 そして、最後と言わんばかりに投げかけられた言葉。――どうだ、来てくれるか? それに、僕は答えてしまうのだ。

『……わかりました、とりあえず話だけ。明日の十時ですね』

 なんとも押しに弱いものだと、自分でも呆れかえるばかり。いや、こればっかりはどうしようもないだろう。僕が押しに弱いのではなく、向こうの押しが強かっただけだ。責めないでほしいものだ……なんて、誰に対する釈明かも分からないことを内心呟いて。

 となると、さっきの慌ただしい対応も何か演技のようにも思えてくる。キャッチセールスか何かで、事務所に連れ込まれて、壺を買わされる……みたいな。

 そんなぞっとしない想像をなんとか頭の隅に追いやって、何やら住所らしき言葉の羅列を聞き取って。そして二言三言、言葉を交わして。ようやく僕はスマートフォンの通話終了ボタンをタップすることに成功する。

 無論、ここで話が終わりというわけではなくて、次の約束を取り付けられてしまったのだけれども。そこですっかり忘れていたことに気付く。……そういえば、さっきの人は誰なのだろう?

『……迂闊すぎるでしょ、流石に』

 僕は僅かに天を仰いで嘆息した。なんとも、相手のペースに終始巻き込まれっぱなしだった気がする。良くない流れだ。これが詐欺か何かなら僕はもうアウトなのかもしれない。覚悟しないといけないのだろうか。そんな腹は括りたくないけれども。

 そうして、いつの間にか結構な距離を歩いていたことに気付く。かれこれ、三十分ほどだろうか。ここから、僕の家の最寄り駅まで徒歩で十分もかからない。

 良くも悪くも、時間を忘れさせてくれる相手だった。まあ、電車に乗ったまま電話をするなんてさすがの僕でも憚られるから、ちょうどよかったのかもしれない。今日はこのまま、歩いて帰ろう。そう思った矢先のことだった。

『……あれ?』

 あまり見かけない、書店がそこにあった。まあ、見かけないのは当然ではある。この辺りに来たことはほとんどないのだから。だけれども、それでもあまり見かけない店構えだ。

 いわゆるチェーン書店というわけではなく、かといって個人経営の店というわけでもない。いや個人経営に違いはないのだろうけれど、なんというか……店の軒先に本が見えないのだ。

 個人経営だとしても、軒先に雑誌くらいは並べておくだろう。けれどそれがない。じゃあなんで気付いたかっていうと、軒先のビニールテントにうっすらと、何とか古書堂とあったからだ。

 書かれていた鷺沢古書堂という文字は所々欠けているように見える。相当年季が入っているので、店自体もかなり古いのかもしれない。

 その時点で、普通の本屋じゃないんだろうな、というのに気付いた僕は、何となく。そう、本当に何となくだけれど。

『お邪魔……します?』

 からから、と引き戸を開けていた。その引き戸は年季の割にすんなりと開いて。まるで僕を招き入れるような、そんな雰囲気さえ漂わせていた。

 だが、僕の心を打ったのは、また別の物だった。

『……いい匂いだ』

 入った途端、どことなく大図書館を思わせる様な、心地よい匂いが鼻腔をくすぐる。年季の入った、本の匂いだ。

 刷りたての本というのもなかなかいい匂いがすると思う。印刷で使われる、独特のインキの匂いだ。けれど、古書の匂いはそれとはまた違った良さがある。……匂いフェチとか、そういうのではないとは思うけれども。

 ただ、好きだった。僕が本を好きなのと同じように、この古書の匂いが堪らなく好きだった。僕の脳髄を痺れさせるぐらい。

 その理由は、なぜかは思い出せなかったけれども。どこか遠くの世界、あるいは茫漠とした大海、その先にある何かのように僕の記憶をくすぐっていて。

 心地よさと、むず痒さを感じつつ店内に入った僕は、一番近い棚から順番に見ていく。

 幾らか薄暗い店内、蛍光灯というか電球は各列に一つか二つ、こぶし大の物があるだけ。まあ、紙焼け対策なのだろう。明るすぎると本……特に古書には良くない。古書堂というだけあって、その辺りはある程度ちゃんとしているらしい。

 まあちょっと不用心すぎるところはあるけれども。棚の配置的に、一番入口に近いところなんて万引きされかねない。防犯カメラでも設置しているのだろうか。

 そんなことを考えつつ僕は背表紙を撫ぜるようにして、一つの棚をじっくりと、じっくりと眺めていく。僕の知っているような日本の古書から、どこの国のなんの本なのかもわからない古書まで。ありとあらゆるものが並んでいて。

 なんというか、酷く落ち着く空間だということだけは分かる。ここは、僕にとって最も居心地のいい空間なのだと。初めて来た場所なのに、十年来の自室のような安心感。

 そんなわけだから、財布の紐も少しは緩くなる。ふと見つけた古書の一冊、僕の持っていない本をめくってみれば、栞のように値札がはさまれていた。穿たれていたのは十分手の届く数字で。

(また、積まれる本が増えるなあ)

 なんて、自分に少し呆れつつ僕は棚を一つ曲がり、また一つ曲がり。店の奥、キャッシャーがあるだろう場所へと歩いていく。

 ただでさえ、今読んでいる本が三部作で、しかも一部ごとに上下巻のある超大作なのだ。ついでに言えば、前日譚なんかも読み始めれば、向こう一週間ほどは楽に消えるだろう。

 部屋の一面を埋め尽くさんばかりの本の割に、積んでいる本は少ない。ほぼ全て読みつくしているとはいえ、気が向けばもう一度読みたい本というのは山ほどある。それを全て消化できるのはいったいいつごろになることやら……。

 そんなことを考えていたものだから、ぼうっとし過ぎていたのだ。そう、思った。本棚を曲がった先、カウンターに座る、店員だろう人影があった。

 刹那、僕は目を瞬かせて、自分に対して呆れたように、

(……とうとう、幻覚見るようになったか)

 と内心で呟いた。

 僕は天井を仰いで、ふう、と息を吐く。一呼吸、二呼吸。そうして、再び前を見る。キャッシャーの置かれたカウンター。一つの人影。変わらない。

 黒絹のような長い髪。僅かに見える陶磁器のような白い肌。肩に掛けられた紫紺色のストールが、少し揺れて。前髪に隠れた目は、手元の本をじっと眺めている。

 まるで、一つの芸術作品のような佇まい。決して動くはずもない彫像を見ているような気分になって。だからこそ、僕は思った。いまだに朝の残像を引きずっているのかもしれない、と。

 まったく、馬鹿げている。僕は半ば自棄になったかのように、ゆっくりと歩みを進めて。カウンターの前に立てば、どうにもならない残像を振り払うかのように、言葉を吐く。

『あの、すみません。これ、頂きたいのですが』

 単なる残像だ、動くはずもない。そう思った。

 ……ゆっくりと、その顔が動いた。残像なんかじゃあ、なかった。じゃあなんだ? 奇妙なほどにまで頭が回らず、ただ、目の前の人物を見ていることしかできない。

 僅かに揺れる前髪の隙間から、ブルートパーズのような瞳が見えた。それが、僕の掛けている眼鏡越しに、僕の目を覗き込んでいる。

 “深淵を覗き込むとき、深淵もまた、貴方を覗き込んでいるのだ”。そんな言葉が脳裏をよぎる。その宝石のような、綺麗な目に覗き込まれて、そして吸い込まれそうになる。

 持ちうる限りのあらゆる理性と意思を総動員することで、僕はようやく明瞭な意識を取り戻した。ただ、もしかすると……それが良くなかったのかもしれない。

『……あ』

 おかげで、僕は目の前にいる女性が――今朝、ここからそう離れていない公園で出会ったあの女性であると、確信してしまったのだから。

□ ―― □ ―― □


 まるで金魚のように、僕がぱくぱくと口を動かして二の句を告げないでいると、彼女はしばらくじっと僕を眺めて。そして今まで読んでいた本の間に栞を挟み、ゆっくりと閉じる。

 ぱたん、という音が微かに聞こえ、そしてその陶磁器のような白い手をゆっくりと、僕の方へと伸ばす。

 明瞭な意識を取り戻したばかりの僕だったが、蛇ににらまれた蛙のように何もできず、ただその手を眺めていて。

 やがて、彼女の手が自らの意識へと飛び込んでくるような幻覚に襲われては、思わず目を閉じた。

「……一三四七円、です」

 ……気づけば、僅かなピッという音と共に、そんな言葉が聞こえてくる。囁くような、それでいながら耳朶を震わせる声。

 どうやら、伸びてきた手は僕の持っていた本を受け取るためのものだったらしい。……冷静に考えれば誰だってわかること。調子が狂うどころの話ではない。

『あっ、えっと。ち、ちょっと待ってくれますか』

 そんなもんだから、財布を取り出すことなんか当然忘れている。急いで背負っていたリュックから財布を取り出せば、千円札を二枚取り出して渡して。

「……はい、それでは、二千円から」

 彼女は朝と変わらず、とても小さな声でそう言って、少したどたどしい動きでキャッシャーを操作する。ぽち、ぽちとボタンをいくつか押して。そして最後に押したボタンの後、ガシャンと引き出しの開く音がした。

 そこから、たどたどしくもたおやかな動きで釣銭をつまんでいくその姿が、どうにもならないほどに眩しく見えて。僕は目を閉じて、天を仰ぐ。

 どうにも、朝から様子がおかしい。だが、原因も分からず、思い辺りもなく、自分で自分を訝しむことしかできずにいた。なんとももどかしい限りだった。

 そのうえ、朝のことを覚えていなさそうな彼女の素振りに、微かに落胆している自分を発見しては、自分で自分を殴りつけたくなる程度に僕は自己嫌悪に陥っている。

(恩着せがましい奴だな、僕は。ああ、もう)

 どうもやはり、僕はおかしいらしい。こんな事、上京してきてから今まで一度もなかったのに。まさか体調不良なのかと思ったものの、ここ数年は風邪さえひいた覚えがない。

 だからどうしたというものだろうけれど。それでもやっぱり、単なる体調不良のそれは違うのだと、僕の中の何かが訴えかけている。そういえば今朝であった時から、妙な違和感があるけれどもそのせいだろうか。

 もちろんそれが何かは分からなかったし、分かろうとも思っていなかったわけで。どうしようもこうしようもない。おかげで阿呆面を晒しながら棒立ちしていることしかできず。

やがて、彼女の陶磁器のような白い肌の手が僕の方へと伸びてきて、僕に何かを差し出していた。その手に握られていたのは、レシートと釣銭。なんのことはない。店員としてのお仕事だ。

「……お返し、六五三円になります」

『あ、ええ。どうも』

「カバーは……お付けになりますか……?」

『ええ、と。お構いなく、じゃなかった。そのままで、はい、大丈夫です』

 なんとも締まらないやり取り。いや、店員とただの客なのだからこれぐらいで普通なのかもしれないけれど。ただ、何となく得体のしれない緊張が僕の体を支配していて。

(……何、緊張してんだか、本当に。馬鹿みたいだ)

 そんな自分に対する侮蔑と嫌悪に苛まれつつ、僕は釣銭を受け取る。……何となく、彼女の手に触れないように受け取ろうと努力しつつ、そんな風に妙な努力をしている自分を俯瞰して、また自己嫌悪。

 なんだか負のスパイラル、無間の蟻地獄に陥っている気さえしてしまった僕は、この店に入ったときの気分の良さはどこへやら。尋常ではない居心地の悪さゆえにそそくさと店を出ようとする。

 穴があったら入りたいどころの話じゃあない。穴が無ければ掘ってでも入りたい、ぐらいの勢いで。恥と自嘲とで頭が沸騰しそうになっている。もちろん、そんなことは僕の背後で本を読みに戻っている相手には関係のないこと。

(さっさと家に帰って、今日は早く寝よう)

 いつもの自分ではありえないような発想がぽんと出ていることにさえ気づかず、そうして僕は買ったばかりの古書を小脇に抱えて古書棚の間を歩む。

 その時だった。

「……あの」

 その棚の先、一つ曲がれば出口というところで何かが、聞こえた気がした。あり得ない。僕はそう考えつつも、歩みを止めて……ゆっくりと振り返ってしまった。

 古書棚の間、そう遠くないはずのカウンターで、儚げに立っている少女の姿が見えた。その体が、ゆっくりと倒れるように折り曲がる。深々としたお辞儀。それだけをとっても、見とれるほどに綺麗で。

 それから、小さな声が聞こえた。本当に小さな、それでも確かな何かを感じる声。聞き違いでもなく、空耳でも何でもなく、はっきりとそれは聞こえた。

「今朝は、ありがとう、ございました」

 刹那的に、僕の心がざわめく。覚えていてくれた、という喜びと、覚えていてくれることを期待していた、浅ましさに。それでも、僕の心はどうにもならないほどの喜びが勝っていた。

 この距離だ。今朝聞いた、蚊の鳴くような声からすれば相当に声を張っているのではないだろうか。そこまでして、お礼の言葉を掛けてくれた。どうしようもない違和感が何かは、いまだに分からないけれど。

 それだけで、何かが救われた気がする。そして、何かのタガが外れてしまった気も。僕は、踏み込んではならない場所に踏み込んでしまったのではないか。そんな恐怖にも近しいものがどこかにあって。

 それでも、それでも――僕は、同じようにゆっくりとお辞儀をして。そして、決して空耳でも、聞き違いでもないように、はっきりと告げるのだ。

『いえ、本が好きだったら当然のことです。それとその……ここはいいお店です、きっと、また来ます』

 僕はそれだけを告げて、相手の返事を聞くことも、顔を見ることもなく踵を返して。そそくさと古書棚を曲がっては、入口へと早足で向かう。

 からら、と開いた引き戸。一気に閉めそうになる手を抑えて、心の底から努めてゆっくりと閉じる。

 気が付けば、僕は走り出していた。右手に持った本を決して離さないように、それでいながら全身全霊で駆けて。前髪の隙間から見えた、あの青い瞳が頭から離れない。

 初めて会ったときから微かに抱いている違和感、その正体なんてどうでもよく感じていた。吹き出る汗も、ひゅうひゅうと切るような寒さの風も構うことなく。僕はただ走った。

 その後のことは、よく覚えていない。

今回の更新は以上です。思ったよりも筆が乗っていたので早めの更新となりました。
次回も一週以内に行えればと思います。
ありがとうございました。

諦めてたSSが復活とは...
一作目からのファンだが本当に嬉しいわ...完走応援してる

□ ―― □ ―― □


『……ううん』

 翌日、朝十時、約五分前。僕は一つの社屋の前にいた。名前を『シンデレラガールズ・プロダクション』という。いわゆる、芸能プロダクション。

 ありていに言えば、昨日僕に電話をかけてきた男性がいるらしい場所である。とはいえ、外見は四階建てほどの小奇麗なビルだ。まだ建設中のようで、時折内装業者が出入りをしている。

 だから何だ、と言われればそこまでだが、そこまで巨大な規模に見えないのに、社屋が放つ威圧感というか、存在感は酷く大きい。いや何か奇抜なところがあるか、と問われればない、と答えるのだろうけれど。

 ただ、どこか典型的な大企業のそれに近しい風格のようなものがあるせいか、僕は入り口付近でまごついていた。当然といえば当然だが、あの出版社以外にこうして会社を訪れたことなど皆無である。

 強いて言うならば単発で請け負った仕事の報告に向かうときなどはあるが、せいぜいビルの貸しオフィスがいいところだ。下に見るわけではないけれど、どうしても見劣りはする。

 そういうわけで今から三十分も前に到着していたにも関わらず、入口の方を見たり、ビルを見上げたりしているというのは、なんとも情けの無い話ではあるけれど。ただ、まあ、いたずらに過ぎていく時間に焦慮を抱くことしかできなくて。

 ポケットからスマートフォンを取り出せば、もう十時一分前。編集長から

「あんまり気張るんじゃないぞ、楽に行け、楽に。それと気を使わせて悪い、迷惑をかけたらしいな」

 なんてメールが届いていたが、そんな内容なんてすっかり忘れている。そもそも後ろ半分の意味は読んだ時も良くわからなかったし今も分かっていない。

 僕が迷惑をかけることはあったとしても、迷惑を掛けられたことなどないはずだ。まあ今こうしてこの場所に来ていることを迷惑、とするのであれば話は別なのだろうけど。

(ええい、ままよっ)

 意を決し入口へと吶喊するさまは、今日の僕の姿で一番勇ましかったことだろう。何せ、入口をくぐった後の僕は、塩を掛けられたナメクジ宜しく、威圧されっぱなしでしなびていただろうから。

 ……回転扉を押しのけて、ゆっくりと中に入ったとき。僕の目の前に現れたのは一つのデスクだった。書類や冊子が積み上げられた、事務デスク。

 ソファや待合所のテレビはおろか、受付用のカウンターさえ配置されていないエントランスホールにぽつん、と置かれたそれは、明らかに異様でありながら違和感はなくて。

 そこにいるだろう誰かは、今はいないらしく。少し湯気の出ているマグカップを見れば、先ほどまではここにいたのだろう。

「やあ、来てくれたようだね、Pくん? 時間ぴったりとは、関心関心」

『ぅおあっ』

 そんな風に、エントランスホールをじっくりと観察していた僕は、背後からいきなり声を掛けられ、一瞬飛び上がる。飛び上がった拍子にずれた眼鏡を指で直しながら、振り返る。

 ――そこにいたのは、なんというか、”英傑”だった。

 一目見て尋常ではない生気と覇気のようなものを溢れさせている、一人の中年男性。いや、きっと時代が時代であれば、”英傑”や”英雄”と呼ぶにふさわしいだろう。

 少なくとも、僕にはそう見えた。今風に言えば、敏腕実業家といったところだろうか? まあ何にせよ、僕とは正反対といっても過言ではない人物だろうことに異論はない。

(まるで、おとぎ話の主人公みたいだ)

 そんなことを考えながら、ようやく落ち着いてきたところで、

『ええと、昨日お電話をくださった……?』

 と話を切り出す。すると目の前の男性は、満面かつ不敵な笑みを浮かべて、

「うむ、いかにもその通りだ。この”シンデレラガールズ・プロダクション”の最高責任者で、取締役社長を務めている。よろしく頼むよ」

 胸ポケットのケースから一枚の名刺を取り出す。卸したての真っ白な台紙に、艶々とした黒いエンボス加工で社名の入ったきれいな名刺で。

 落ち着きかかっていた僕の心は、それだけで再びてんやわんやとし始める。慌ててリュックサックのポケットから名刺を取り出しては差し出すも、その時点でいろいろとマナー違反なのだが、それを気にしている余裕などなくて。

 僕の名刺はただでさえ、二年ほど前に作ってそれっきりの、質素すぎるほどに質素で、少し日に焼けてしまっているものだ。金を貰ってだって欲しくない名刺だろう。

 にもかかわらず、社長はそれをまるで宝物でもしまうかのように名刺入れへと仕舞いこんだ。思わず、こちらが唖然とするほどに、だ。

 だが、仕舞いこんだ後は一転、けろっとした表情で僕に一歩近づけば、

「で、だ。Pくんにしてほしい仕事なのだがね」

 なんとも素晴らしい切り替えの早さである。わざとやっているのではないか、と思うほどではあったが、いい加減これに振り回されっぱなしではこちらもいろいろと大変すぎる。

『え、ええと。その前に、まず内容をお聞かせいただかないと、安請け合いは出来かねますから』

 努めて冷静に、かつ当然といえば当然の要求を社長に投げかける。それを聞いた社長は、さも当然の権利だ、と言わんばかりの顔で。

「うむ、もちろんだ。まずは実際に見てもらったほうが早いだろう。契約内容については応相談だ。仕事内容の後に決めるとしようか」

 と言って踵を返せば、まだ動いていないエスカレーターをのそのそと上っていく。

 一瞬、ぽかんとしたままそれを眺めていた僕だったが、

「何をしている、Pくん? ついてきたまえ。サーバールームへと案内しよう」

 という社長の言葉で我に返ったかのように、びくりと体を震わせば、上っていく社長の後を追ってエスカレーターへと足を踏み入れる。

「なかなかの設備だろう。私は設備投資と運用には自信があってね。まあ、一番得意なものは全く別のものだが」

 一つ、二つとエスカレーターを上っていく途中で、社長はそんなことを話してくれた。確かに、一つ一つの設備がきちんと洗練されている。

 ちら、と見た案内板では、芸能プロダクションとしても、会社としても、必要であろうものは何もかもがそろっているようにも見えて。一体何者なのだろうか、という疑問が沸き立つ。

 すると、それを察したかのように社長は、

「前の私は傾きかかった会社を立て直すことが仕事でね。中には上場にまでもっていったこともある、いわゆる再建請負人という奴だ。もっともこうして自分の会社を持つのは初めてだがね」

 と言った。まだ四十代そこそこといった年齢だろうに、とんでもない経歴である。何か自分とは格というか、人間としてのスペックが違うのだな、という感想しか出て来なくて。

『……なんというか、凄いですね』

 そんな、今どき小学生の読書感想文でも書かないような感想が漏れ出てしまう。

「適材適所を心がけていたら勝手に立て直っただけのお話だ。私がしたことは、歪んでいた歯車を直して抜けていたネジを締めただけだよ。簡単なことだろう? ……ああ、ここだ、サーバールームは」

 一方の社長は驕るでもなく、へりくだるわけでもなく。客観的事実を述べるようにそう言っては僕に同意を求めて。ある意味、それは自信の表れなのかもしれない。

 そして、エスカレーターを上った先にあった一つの部屋を指示した。部屋名のネームプレートなどはなく、ただ”Staff Only”というプレートがあるだけの、質素な扉。

 社長がその扉についていたソケットにカードキーを通せば、短い電子音の後に開錠の音が続く。そのまま扉を開けて、社長は僕を招き入れた。

(どうやら、お金がかかっている場所らしい。ハイテクもハイテクだなあ)

 まあ、機密情報が入る予定の場所だから当然といえば当然なのだろうけれど。僕はまるで他人事のように思って、それから部屋の中を見た。

 ……そこには、サーバーのタワーもなく、かといって数多のコンピュータがあるわけでもない。

 ついさっき、エントランスホールで見かけたように、部屋の中にポツンとデスクが置かれ、そこにいくつかの書類とコンピュータが置かれていただけだった。

『……あの、これは?』

「わはは、すまんが機材の搬入に遅れが出ていてな。昨日のうちにサーバー等々が入っているはずだったのだが、この様だ。サーバールームの癖にサーバーがないなど、お笑い話だろう?」

 社長は細かいことを気にしていないかのようにそう笑い飛ばして、それから部屋の中央に置かれたコンピュータを指示して、

「しょうがないから、昨日君に電話を掛けた後にハイエンドのコンピュータを組んでもらった。このままサーバー管理用にしようと思っているが、取り急ぎこれで作業をしてほしいのだがね」

 まあ、それよりも契約条件だ、と社長は言って、コンピュータの隣に置かれていた書類を手に取り、僕へと渡してくる。どうやら契約書らしく、すでに社長のサインは入っていた。

 僕はそれをしげしげと眺めて、それからしばらく思考が停止する。……何やら、やけに報酬金が多い気がする。気のせいか? ……いや、気のせいじゃあない。

 そこに書かれていた数字は、僕のようなフリーの人間を雇うにしてはあまりにも大きすぎる額で。やっぱりというかなんというか、相場の三倍くらいはあるのではないだろうか。

 少なくとも、僕の見間違いでなければケタが七つほどある気がして。

『あの……これ、報酬金ですけど、額が大きい気が』

 書面上は黙っておいてもいいことなのだろうけれど、なんだかどうしても確認しておかないと気が済まなくて。僕はそう尋ねる。当然印字ミスなのだろうと、そのつもりで。

 だが、社長から返ってきたのはあまりにも意外過ぎる言葉だった。

「ああ、印字ミスではない。君に対して支払う報酬としては、正当なものと考えている。もっとも、報酬に釣られるような人間ではないとは聞いているのだがね」

 それでも、初対面の君に見せられる誠意としては、一番わかりやすい物ではないかな。社長はそう続けて、それで? という顔で僕を見てくる。つまり……引き受けるかどうか、ということ。

 僕は半ば急かされるように――もちろん、社長から急かされたわけでも何でもないにもかかわらず、契約書を一気にさらって読む。業務内容、従業時間、期間、厚生福祉、報酬、備考欄。

 どこを見ても、明らかに怪しげなところは何もない。いや、報酬に関しては明らかに異彩を放っているけれども、それでも書面上はなにも問題はなくて。

 だからこそ、ここまで良すぎる話を僕は疑ってしまう。たとえあの編集長からの紹介だったとしても、だ。

 気が付けば僕は。

『……ここまで僕を、評価してくださるのは何故なんですか』

 そう尋ねてしまっていた。もしかしなくとも、きっと気分を害させるのだろう。相手を信用していないと、言っているようなものなのだから。

 だが、社長はそれに対しても。そんな無礼な質問に対しても。不敵な笑みと共に、鷹揚に笑って。

「なに、君に支払う報酬と同じ額で人材派遣会社に募集を掛けたところで、たかが知れている。採用経費というのもなかなか馬鹿にならなくてね。その報酬と同じ程度じゃあ、良い人材は滅多に見つからん」

 そんな風に言った。この中途半端な時期に中途採用で見つけられる人間で、そうそうまともな人間は居ないらしい。まともなレベルの人材が手に入る場所で求人をしようとすると、一月辺りン十万は余裕で飛ぶのだとか。

 社長はそれから、続けるように言った。

「それなら信頼できる筋から、君のような面白い奴の紹介を受けたほうが、よほど見込みがある。そう思わんかな、Pくん?」

 まるで僕を試す様に。そして僕を挑発するように。まっすぐ僕の眼を見て。その視線は威圧的なものではあったけれど。その奥にある何かが、僕の胸をちりり、と微かに焦がした。

 なんだか、ここ数日は妙に胸が騒ぐ。あの女性といい、目の前の社長といい。僕の変わらない生き方に異を唱えるようで。

 思わず――そう、僕の中の何かが言わせたかのように。

『……わかりました、やります』

 そう言ってしまっていた。

 ……まったく、覆水盆に返らず、だ。僕が、僕自身の言った言葉に気付いた時。それは刹那的に満面の笑みへと表情が変わった社長が、僕の手を取った瞬間と同じで。

「よっしゃ、取った」

 なんて、魚を釣り上げた釣り人のように、喜びの声を爆発させていて。全く、人をなんだと思っているんだ、なんていうちょっとした憤りを感じる始末。

 とはいえ――心の中では、新しい『仕事』に対してちょっとした期待感があるのも事実で。ついさっきまではほとんど乗り気でなかったにもかかわらず、早速レイアウトを考え始めている自分が居て。

「では、よろしく頼むよ、Pくん? 期待しているからね」

 そんなことまで言われてしまえば、まあ、

『……ええ、精一杯務めさせていただきます。分からない部分、必要な部分はその都度お伺いさせていただきます』

 そんなやる気に満ち溢れた、と受け取られても仕方がない言葉を返してしまう――。

本日の更新は以上です。次回更新も一週以内に行えればと思います。
ありがとうございました。

おつ

うわー思い出した、数字で続くシリーズの人か!エタったと思ってたから復活してくれて嬉しいよ

過去作リンク欲しいな
めちゃ久しぶりだし

タイトルは
・七人目の正直
・七夕祭りの願い
・Happy New Year, Happy Birthday
・凡人と第六感
・五光年先の星空
・四面楚歌と遊び人
・表裏比興の三枚目
だったかな?

□ ―― □ ―― □


 ――僕が、シンデレラガールズのサイトを作り始めてからもう二週間ほど経つだろうか。作業は順調も順調、異様なペースといっても過言ではない。

 というのも僕の手元には仕様書とか、設計書とか、そういうものは一切ない。あるのは、この会社の資料と初期所属となるらしいアイドルのプロフィールだけだ。

「私からの注文はただ一つだ。”シンデレラガールズに相応しいサイトを創ってくれ”。指示は特にない、君に任せよう。いいか、”作る”のではないぞ。”創って”ほしい。プロデュース&クリエイトだ」

 ……どういうものを作れば良いのか、と伺ったときの回答がこれだったのだから、僕は参ってしまった。僕の好きに創っていい、と社長は仰せになったのだ

 そんな馬鹿な話があるかといったところだろうけれど、結論から言えば僕に課せられた職分は、実は”作る”ではなく、”創る”――今はまるで影形の無い物を生み出す行為だったらしい。

 正直、僕のような作業者にとっては死活問題だ。この時点で依頼を引き受けるべきではなかったと後悔したといっても過言ではない。

 ではなぜ、順調なのか?

 これに関しては誠に僥倖なことだったんだけれど、僕は意外と”創る”仕事に向いていたらしい。自分の好きに創っていいと言われたその日のうちに、簡易的な設計図を書き上げて。

 それを明確な文書に書きだす暇もないと思っていたから、仕様書を頭の中で組み上げて。必要なものが何かというのを割り出せば、あとはそれを社長に用意してもらった。

 ビルダーのシステム上、設計した通りに作れないことが判明するというトラブルに見舞われて、新しいアセットを購入するべきか悩んだけれど。

(ソースの方を書き換えてしまおう)

 なんて、ビルドシステムのソースを書き換えて、自前のシステムを組み込むというあまり褒められたやり方で事なきを得た。

 絵素材やらをすべてかき集めてくれば、あとはただひたすら組み続けるだけ。かれこれ、もう一日ずっとコンピュータの前に張り付いている。ついでに言えば、この二週間で家には四回ほどしか帰っていない。

 というのも、

「必要であれば、シャワールームを使ってくれてもいい。仮眠室もな」

 なんて申し出があったせいで、もう家に帰る必要がほとんどなくなってしまったのだ。帰ったのも、洗濯と息抜きのための読書をするためで。もはや、住み込みといっても過言ではなかった。

 社長には大方一月かかると伝えていた工期も、気づけばあと数日中で完了するかもしれない、という次第である。確認作業を含めても一週間以内……いや数日中には終わるだろう。

 もっとも肝心のサイトの構成を気に入ってもらえるかは別問題ではあるけれども。ちなみに社長はといえば、

「ではスカウトにでも行ってくるから、しばらくは帰らない。まあ、一月後くらいには帰ってくるから、心配の必要はないぞ」

 なんて言って、どこかへ行ってしまった。それ以来、このプロダクションにいるのは、若いプロデューサーらしい人と、事務員が一人だけだ。

「いつものことですから、気になさらないでくださいね、Pさん」

 ここの制服なのか、それとも自前の服なのか。良く映える緑の制服を着た事務員の女性は、満面の笑みでそう言っていた気がする。

『ん……ぐぅ……っ、あぁ、もうこんな時間か』

 ぐにゃり、と少しばかり視界が歪んだのを契機に、僕は壁に掛けられた時計を見る。気づけば、もう夕方の四時だった。最後に休憩を取ったのが朝の九時だから、七時間もぶっ通しで作業していたらしい。

 なんだか、社会的に見れば酷い労働環境にも見える。もっとも自分で招いているのだから責める相手などいないし、そんなつもりはないけれども。

 ともかく、少し休憩しよう……と思って、傍に置いていた本を手に取ったところで、その本はすでに読み終わっていたことに気付く。

 王道ファンタジーの金字塔ともいえるその作品。すでに最終局面へと内容は移っていて、王が不在の都で世界の存亡を懸けた戦いが始まろうというところ。

 そこに颯爽と王たる資格を持つ旅の仲間が帰還する――。本で読んでも、映画で見ても、鳥肌が立つそのシーンはやはり王道ファンタジーの素地となっただけあって素晴らしいと思う。

(……家に帰って、読むかな)

 そう思い立てば、作業状況を保存して、コンピュータの電源を落とす。それから社長より預かったカードキーを忘れずに持てば、自前のリュックサックを背負って。

 サーバールームから出た後、オートで掛かる鍵の音を聞きながら、まだ動いていないエスカレーターを一歩、また一歩と下っていく。

 何やら視界が少しぼやけて、地面が揺れている気がする。一昨日くらいから、こんな調子だ。まあ、大したことではない。根を詰めて作業をすると、いつもこうなるのだ。

 もちろん幾らかしんどいとは思うし、意識が飛びそうになるときもあるけれど。これまでやって来れたのだから気にするほどのこともない、と思ってそのまま下っていくと、

「……大丈夫ですか、Pさん? ちょっと、顔色が酷いですよ」

 エントランスホールのデスクで、一人仕事をしていた青年……つまり、今のところこのプロダクションに在籍する唯一のプロデューサーが、僕の方を見てそういった。

 幾分か僕より年下というのもあって、普段は丁寧に話しかけてくれる彼だったが、今日に限ってはどうも、ぎょっとした表情と幾分か強い口調でそう言ってくる。

 ちなみに、なんでそんなところで仕事をしているのかと聞いたことがあるけれど、基本的にいつも社長がいないものだから、工事とか配送とかの折衝をしなければいけなかったらしい。

 そのうえ諸々の書類仕事を全部やっているのだから大したものだと思う。よっぽど僕より働き者だよ、本当。

『え? ああ、はは、大丈夫です。酷い顔はいつものことですよ』

 そんな、少し冗談っぽい言葉で返すと、困ったような、訝しむような、怒ったような表情のまま、

「いや、ちょっと冗談ではないですよ。なんだか、血の気が引いているっていうか、土気色っていうか。これ、千川さんを呼んだ方がいいですよ、本当に。いや、病院とかに行った方が」

 と、どこか狼狽するような何かが含まれていて。そこまで言われると、なんだか本当にそんな気がしてくるというのが、人間の不思議だね。

『……そう、ですか? まあ、今から家に帰りますので、ちょっとゆっくりしますよ』

 僕は僅かに口の端を歪めて、そう言った。なんだか、僅かに口の端が痙攣している気がする。心なしか気分も悪いような、気のせいのような。病は気からとはよくいった物だ。

「ええ、是非そうしてください。いつもPさん、僕が来るよりも早く来てて、僕が帰るよりも遅く残ってるんですから。絶対いつか倒れます、というか仮眠されたほうが」

 半分泊まり込みみたいな状況だった、なんて相手の様子を見れば口が裂けても言えない。何とか、愛想笑いで追及をかわしつつ、彼の言葉を尻目に僕は帰路へと就く。

 帰路は、徒歩だ。電車には乗らなくなった。運動不足の解消……なんて言う建前は一応、あるけれど。もちろん、そうではない。それは僕自身が、良く知っている。

 歩き始めて、三十分。僅かに揺れる世界の中、僕はあの古書堂へと足を運ぶ。からら、という音を立てて開く引き戸。僅かに香る古書の匂い。

 いつもどおり、いらっしゃいませの言葉もないけれど、勝手知ったる我が家の如く棚の間を通り抜けながら本を眺めていく。

(……ここは、本当に落ち着く)

 シンデレラガールズでの仕事が始まって、四回家に帰っているけれども。その全てで僕はこの古書堂に足を運んでいた。あの女性がいる、ということも理由の一つだろう。それを認められないほど、僕は天邪鬼じゃあない。

 でもそれと同じくらい、僕はこの匂いが恋しかった。とても好きだった。あまりにも懐かしすぎた。忘れた物を思い出させてくれそうだった。

 そう、僕はこの匂いを知っている。セピア色の記憶の向こうにある、何かを。もう一歩で、手が届く。そう、もう一歩――。

 ……刹那、がくんと体が揺れる。一気に崩れた体勢を立て直そうとして、失敗して。僕は古書堂の床に膝をついていた。どうやら、一瞬本当に意識を持っていかれていたらしい。

「……あの、大丈夫、ですか?」

 ぱた、ぱた、ぱたと、奥のカウンターの方から人が歩いてくる気配があって、床に膝をついている僕に声を掛けてくる。

『ああ、すみません。少し、体勢を崩してしまって』

 僕はいつもと変わらない、”諦めた笑み”と他人に形容される笑みを浮かべて、そう答えた。黒真珠のように黒い前髪の隙間から、ブルートパーズのような瞳で僕を覗き込むように見下ろしているのは、あの女性。

 文香さん、という名前であることを知ったのはついこの間のことだ。今では初めて会ったあの日の、僕の狼狽ぶりはどこへやら。もう彼女と普通に話せる程度にはなっていて。

 もちろん、名前を呼ぶほど親しいわけではない。呼ぶときはただ、店員さんとしか呼ばない。文香さんも僕の名前を知らないから、お客さんとしか呼ばない。

 以前、どこかで僕の名前を呼ばれた気はする。でもそれは気のせいだろう。だって、僕は名前を名乗っていないんだから。会ったこともない人の名前を知っているなんてあり得ない。

 つまり僕たちは、時折本の話をする客と店員。それだけの間柄だった。

 僕の好きな本。彼女の好きな本。読んだ本の感想。おすすめの本。そんな、とりとめのない話をするだけの間柄。

 でもそれでよかった。正直に言えば――惚れている、と思う。その一挙手一投足の全てに、僕は目を奪われていたのだから。今でもそうだった。

 とはいえ、それを表に出しはしない。決して僕と彼女とではつり合いは取れないから。目に見えて分かっている。捕まえられない兎を捕まえようとすることほど、無駄なことはないだろう。

 だから、こうして本の話ができる知人、出来れば友人として付き合っていければいい――。それさえ過ぎた願いではあると思うけれども。

 今はそうなりつつある……はずだ。少なくとも嫌われてはいないと思いたい。

『仕事帰りなものですから、ちょっとだけ疲れていたようです。すみません、店員さんの読書の邪魔をして』

「……いえ。ご無事なら、それで……」

 ぺこり、と文香さんはきれいなお辞儀をすると、ぱた、ぱた、ぱたと、再びカウンターの方へと戻っていった。

『……文香さんが様子を見に来るぐらい、大きな音、立てちゃったのかな』

 僕は額に手を置くと、僅かに息を吐いて。それからゆっくりと立ち上がる。まだ世界は少し揺れているが、これぐらいはいつもの事だ。仮眠を取れば、すぐに治る。

 取り急ぎ、幾らか年季の入った文庫本を買って帰ろう。そう思って本棚を一つ、また一つと見ていく。

 その矢先だった。

(あ、れ……?)

 ぐらり、と世界がまた揺れた。天と地が逆転するような感覚。目の前が明滅し、重力が上へと向き、地面が天井に、天井が地面になっていた。

 気づけば僕は本棚に身を預けて、必死に倒れないように踏ん張っていた。幸いにして、倒れることはなかったけれども、一歩間違えれば強く体を打っていたかもしれない。

『……参ったな、本格的にちょっと、きてるのかも』

 いくら頭が命じても、体が言うことを聞いてくれないこの感覚は初めてだった。ただ似た経験はある。あの時は貧血だったか、低血圧だったか。そんな診断を下されたと思う。

 だから心配はいらないと僕は判断していた。対処法は良く知っている。深く深く息を吸って、そして息を止めて。意識して頭に血を上らせようとする。

 少しすれば世界の揺れも収まってきて、そうなればもう、大丈夫だ。本棚に手を付いたまま、ふぅぅと長く、長く息を吐いて。それからゆっくりと目を開いた。

『っ!?』

 その瞬間、目の前に飛び込んできたのは……ブルートパーズのように青い瞳。さっき、僕を見下ろしていたその瞳が、今度は僕を見上げていた。

「その……やっぱり、お疲れ……なのかと思いまして。差し出がましいようですけれども……これを」

 僕の目の前に立って、湯気の上がるマグカップを両手で持っていた文香さんは、おずおずといった様子でそれを僕に差し出した。中からは、微かに甘酸っぱい匂いがしている。

 それがホットレモンティーだということに気付くのに、それほど長い時間が掛かることはなくて。僕は口の端を歪めて、僅かに笑みのようなものを浮かべては。

『……あ、ええと。その。すみません、わざわざ。こんなものまでご用意いただいて』

「いえ……」

 文香さんからマグカップを受け取り、僕は好意に甘えることにした。ずず、と僅かにすすったレモンティーの甘酸っぱさとさわやかさが、爆発するように口腔へと広がっていく。

 次いで、火傷しそうなほど熱いそれが舌の上を転がり、喉を通って食道を駆け下りていく。一瞬で冷えた僕の体が熱を発し始める感覚があった。飲み干してしまうのに、それほどの時間は必要ではなかった。

『すみません、店員さん。ごちそうになりました。とても美味しかったです』

 世界の揺れは、完全に収まっていた。思えば昨日の夜からほぼ一日、お茶ぐらいしか飲んでいなかった気がする。きっとそのせいだろう。

 そう思って、僕は文香さんにマグカップを返す。

「いえ……このくらい、助けていただいたことに比べれば」

 文香さんは僕からマグカップを受け取ると、そう言った。そしてそのまま、僕の前でじっと佇んでいる。カウンターの方へと帰らずに、だ。

「……。……その」

 そうして、十秒ほどたった頃だろうか。僕が少し訝しみ始めたとき、文香さんが小さな声で何かを言おうとした。そしてゆっくりと言葉が紡がれる。

「どうして、それほど……頑張ってらっしゃるのですか」

 単なる質問だったのだろう。それも漠然とし過ぎた質問。だが僕にはそれが酷く胸に突き刺さる詰問に聞こえて。

 そして僕はなぜか言葉を返せずにいた。

『……”好きだから”、ですかね』

 僕はそう答えた。漠然な質問に対する、漠然とした答え。もちろん相手の質問の意図に沿っていない可能性はある。それでも僕は、その質問に対してこう答えるしかなかった。

 そしてこれ以上に適切な言葉はないだろう。そう思っていた。

 だが、それに対する質問――あるいは、反論ともいえる言葉は、一瞬で僕の思考回路の全てを焼き切った。

「……体を犠牲にしてまですることが……本当に、”好き”なのですか……?」

 ――例えるならば、百点満点を確信して提出した答案が赤点だったとか。完璧と思ってコンパイルしたソースがエラーを吐き出しまくったとか。それに近しい感覚が僕を襲っていた。

 きっと、文香さんに悪意などない。それどころか心配してくれているのだろう。それ自体には、小躍りしたくなるほどの喜びを感じている自分がいる。それは事実だった。

 だがその言葉ともたらした結果は鋭い剣、あるいは棘となって僕の精神を串刺しにしていた。否定……いや否定でないにしても、疑問を持たれた。だがそれだったらまだよかった。救いがあった。

 本当に救いがなかったのは――その疑問に対して、僕が即座に否定出来なかったことだった。

 頭は否定している。それは違うと訴えかけている。でも心がその訴えを棄却していた。理由なんてわからない。だけど僕はそれを否定できなかった。それが事実だった。

 ――もしも。そう、もしもだ。仮定の話だ。

 仮に僕が、”好き”でこんな人生を送っているのでないならば。なぜこんな人生を送っているのだろうか?

 今まで考えたこともない仮定がどうしても頭を離れない。ループバグのように答えを出せないまま、どのくらいの時間が経っただろうか。

 悠久のような一瞬、時間にして一分もなかったのだろうけれど。僕は振り絞るような思いで告げる。諦めたようなって嫌われている笑みを精一杯、浮かべて。

『……ええ、”好き”ですよ。僕は今、とても幸せなんです』

 明確だが、あまりにも遅すぎた否定の言葉。今の僕に、それがしっくりくるはずもなく。それでも、僕は考えを変えなかった。

 僕は好きでやってる。身を犠牲にして、命を削って、それでもいいから、と好きなことをやる道を選んだ。そのはずだ。

 だってそうじゃなければ――本当にどうしようもない人生じゃないか。

 そんな僕の思いが届いたのか、それとも食い下がるために引いただけなのか。それ以上文香さんが言及ことはなかった。

「……それでも。少しぐらい、ほんの少しくらいは、体を気遣っても」

 それから次いで告げられた言葉は、純粋な心配の言葉で。だからこそ僕は薄笑いを浮かべたまま言うのだ。

『僕に、”栞”は要りませんから』

 傍から聞けば意味不明な言葉だろう。いい歳していわゆる”厨二病”なんだと思われてもおかしくはない。けれど、僕にとってはそれが最適解。模範解答。

 告げた言葉の真意が文香さんに届いたのか、届かなかったのか。おそらくは後者なのだろうけれど。そうして僕はぺこり、とお辞儀をした。

『レモンティーありがとうございました、店員さん。今日はちょっと、早めに帰って休むことにします。すみません、また』

 僕は逃げるようにして古書堂を後にする。振り返ることはなかった。きっと文香さんは訳も分からず混乱していることだろう。

 それを申し訳なく思う気持ちは確かにあった。けれども、それ以上になぜか不安定になっている自分がいた。

 今日はもう、寝よう。たまには長く寝ることも大事だ。頭をリセットしよう。そう思った。

 ――二時間半後、いつも通りの睡眠時間。僕は薄っぺらい煎餅布団の中で、幾ばくかの動悸と息切れ、冷や汗と共に目を醒ます。

 心のわだかまりはまだ無くなっていない。

本日の更新は以上です。次回も同じく一週間以内を目途にしています。
ご要望がありましたので過去作品のリンクを一応付記しておきます。
それではありがとうございました。

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おつ


このシリーズ知らなかったんだが、いい文章だなと思った
ちょっと過去作読んでくる

一つ前の作品でこの話のPが登場してたとは思わなかった

>>83
運転手だったっけ?

どの話にもでてきてるのに一階エントランスで仕事してるPがいまだにどんなキャラかわからないんだよな
七人の中で一番年下みたいだけど

数字の順番に加入しているようだから次回作で出るんじゃね

ことわざと担当アイドルが楽しみ

□ ―― □ ―― □


『――大方、組み終えた感じですね。ええ、あとは仕上げと、チェックといったところで。大丈夫です、特に問題はありません。その気になればいつでも稼働できる状態です』

 あれから三日経った。仕事の進捗状況は万全どころか、予定以上だ。このペースでいけば、明日には大方終わるだろう。そのことを報告するために社長に電話をしたところ、酷く驚かれた。

「順調なのはありがたいが、根を詰める必要はないのだよ、Pくん? ある程度余裕は取ってあるし、私としてはむしろ君の体調が心配なのだが」

 そんな風に社長が心配をする。僕は少し笑うと、

『大丈夫です、快調ですよ』

 そう返事をした。僕は電話を肩口に挟んだまま、目の前のキーボードを小気味よく叩く。

 Webページはスクリプトも組み上げたし、あとはいくつかのサンプルを埋め込むぐらいだ。大変な作業とはいえ、量自体はそれほど多くない。

 ――明日で仕事が終わる。そう思うと、少しだけ胸がざわめいた。とても楽しい仕事だった。何かを”創る”というのは、これほどにも楽しいものだったのかと思う。

(……いや)

 思うと同時に、僕はそれを否定した。楽しいということを否定したのではない。僕はこの感覚を知っている。”創る”という行為を知っていたはずだ。

 数日前、文香さんに掛けられた言葉が脳裏をよぎる。

「どうして、それほど……頑張ってらっしゃるのですか」

 楽しいから、好きだから。それが答えだと思っている。けれどその答えは何か違うような気がしていた。

 もっとも何が違うのかと聞かれれば、答えることはできないのだけれど。

 ……そんなとりとめのないことを思いながら、僕はいくらの会話を交わして社長との電話を切る。なんでも、社長も明日帰ってくるらしい。地盤を固めるためのアイドル探しとプロデューサーを探していたのだとか。

「幾らか目星は付けたが、なかなか欲しいと思える人材はいないものだな、Pくん?」

 同意のようなものを求められたけれど、そんなことを聞かれても僕にはさっぱりだ。

『は、は……。そうですね、社長が求めるもの全てを持ち合わせる人なんて、滅多にいないでしょうし』

 僕はそう答えるしかなかった。編集長からこの”変わり種”の仕事を聞いた日が、ずいぶん昔のことに思える。思えばあの日見たメールの文面はなかなか、いやかなりぶっ飛んでいた。

 プログラマと、デザイナーと、ライターと。それらを一人でこなせる人間。普通に考えれば滅多に居るはずのない条件。にもかかわらず、社長は見つけ出した。

 あの人の性格上、妥協して僕を選んだわけじゃないのだろう。僕がその条件を満たしていたかと言われれば疑問が残るけれど、ね。

 そういう意味では、社長には感謝している。破格の待遇だったし、報酬がもらえればしばらくはゆっくりできるだろう。がさっと本を買って、読みふけるのもいいのかもしれない。

 ゆっくりとパソコンの電源を落とす。今日の仕事はこれで終わりだ。時刻は夕方の四時ごろ。少し早い切り上げだが、泊まり込みだったし問題はないと思う。

(……そういえば)

 僕は一冊の本をリュックの中から取り出した。それは三週間ほど前、ある意味文香さんと出会うきっかけとなった作品。その最終巻。

 ここしばらくは読めていなかったけれども、もうすぐ仕事が終わるからリュックに放り込んでおいたのだ。ちょくちょくと続巻を読んで、残ったのがこの最終巻。映画化された作品だったけれど、すでに映画のラストシーンは通り過ぎている。

 最後の巻は、最初の旅の仲間……四人の小さな人が自らの故郷を救う。そんなお話だ。故郷は悪人によって変わり果てた姿になっていて、旅に出たことを後悔する部分だってあった。

 それでも彼らは自らの故郷のために立ち上がり、やがて悪人を倒す。それでも訪れるのは単なるハッピーエンドではなくて、いずれ来る別れまでの余生に過ぎない――。

 すべてが丸く収まる、というわけではない、本当の歴史を、誰かの人生を読んでいる気分にさせてくれる。この作品のそんなところが好きだった。

 終わったと思ったお話に、もう一度楽しませてくれる部分を用意してくれている。そうとも、本当の歴史のように。誰かの人生のように。それはとても素晴らしいことだ。

 早く先を読みたい。でも、終わってほしくはない。

 本を読んでいるとき、誰しもきっと思うこと。そんな矛盾を、ほんの一瞬でも満たしてくれているようで。引き伸ばしじゃない。蛇足でもない。そんな”もう一度”と”お話の先”がこの作品にはあった。

 ……僕はぺらぺらと本をめくった。その瞬間、本の隙間からはらりと何かが落ちた。いつか見た既視感。三週間前、最初の巻を手に取った時と同じ。

 拾い上げてみると、やはり単なる紙片だった。誰かの栞。でも、僕のじゃあない。この本をかつて読んだ人の、一区切りの証。

 くしゃりと、僕は紙片を丸めた。僕に休憩も、一区切りもいらない。……かすかに、頭痛がひどくなった気がする。気のせいだ、と傍にあった大きいゴミ箱へと放り投げた。

 あの日と違い、それは見事にゴミ箱の中へと入りこむ。僕はサーバールームを後にした。

 社屋を出た僕は迷っていた。単純な話、古書堂に寄るか寄らないか、だ。

 数日前に訳の分からないことを言った手前、何となく気まずい。自業自得なんだけれど、あの空間が僕はどうにも好きだったし、それに新しい本も欲しかった。

 あとは、何となく体調が悪い気がしている。ここ数日ずっとだ。否、かれこれ数週間というべきだろうか?

 もちろん不眠不休で仕事に取り組んでいるからだったが、これまでとは何か違う気がする。それが何かは分からなかったけれども。

(……開いてたら、行ってみよう。開いてなかったら帰って薬でも飲むかな)

 そう思いながら、僕は本を片手に道を歩く。とはいえ何となく息苦しいのは、古書堂に近づいているからに違いない。小心者だなあ、と僕は自嘲する。

 そして三十分ほど歩いただろうか。もはや慣れた道のりを僕は歩み、そして古書堂の前へとやってくる。

 人気はない。もっとも、それはいつもの事だった。僕以外のお客さんを見たことは数えるほどしかないし、みんな年配の方だった。

 それに文香さんはいつも奥のカウンターで本を読んでいることが多いから、あまり人の気配を感じないのだ。

 でも今日は、明かりがついていなかった。戸を引いても動かない。どうやらお休みらしい。

(お休みか。仕方ないね)

 残念と安堵がないまぜになったような感情を胸中に抱きつつ、僕は古書堂を後にし、帰路を歩き始めた。それなら今日は、この最終巻を読み切ってしまおう。そう思っていた矢先。

(……ん?)

 ほんの数分歩いたところで、遠くの方に人影が見えた。足取りはおぼつかず、よたよたとしている。そう、酷く角ばっていて、到底人には見えない。そんな人影。

 僕はその人影を見た覚えがあった。ここからそう遠くない、あの公園で、あの日見た姿。一抱えもあるほどの本の山を抱えた、人の影。そして本の影から見える、長い黒髪。

 思わず声をあげそうになった。運がいいのだろうか、それとも悪いのだろうか。こんなところで、文香さんと鉢合わせするとは。奇妙な気まずさと、抑えきれない喜びがまぜこぜになっていて。

『大丈夫ですか』

 気が付けば、近くまで駆け寄って、そう声を掛けていた。文香さんは、うずたかく積まれたままの本越しに、僕の声に気付くと小さな声で、

「……はい、大丈夫です」

 と言葉を返してくれた。どうやら、数日前の事で気味悪がられている、とかはなさそうだ。文香さんは結構なポーカーフェイスだから、内心では思っているのかもしれないけれど。

 まあ今はそんなことはどうでもよかった。意を決して、僕は文香さんが抱えていた本の山、その上半分を僕が勝手に受け取っては、ゆっくりと抱え込む。

 微かに手元がおぼつかず、腕が震えた。……筋力が落ちたのかもしれない。このくらいで、音を上げるほどに軟ではなかったと思うんだけど。

「あっ……」

『その、持ちますよ、いつもお世話になっていますから。……ご迷惑でしたか?』

 そう尋ねると文香さんは少しだけ困ったような、申し訳なさそうな素振りで僕を見つつ。そしてそれから少し笑って。

「それでは……お言葉に甘えます。……ありがとうございます、実は少しだけ……重かったんです」

 そう言ってくれた。その言葉と笑顔だけで、何もかもが報われた気がするというのは大げさだろうか? でも、その笑顔は僕にとって、それぐらいの価値があった。

 古書堂まではそれほど時間がかからなかった。十分もないだろう。僕と文香さんは並んで歩きながら、本の話をした。

 文香さんが今読んでいる本の話、僕が読んだ本の話。流行の作家の話題やなんとかって賞を受賞した作家の話。

 決して大きな声ではなかったけれども、しっかりとした調子で、そして何より知識に裏付けられた言葉の数々がとても印象的で。

(……ああ、本当に好きなんだね、本の事が)

 僕はそう思う。心の底から熱意のある”好き”。話を聞いているだけでもそれが伝わってくる。

 好きな本の話をしている彼女の姿は綺麗で、眩しくて。ともすれば崇拝の対象になるのではと思えるほどに、輝いて見えて。

 古書堂が見えてくると、文香さんが鍵を開けてくれた。僕は、カウンターに本を置く。妙に息が切れていた。少しだけ眩暈もする。

「……今日は、ありがとうございました、Pさん」

『はは、このくらい、なんてことはないです。あんな大量の本をいつも運んでいるんですか?』

 僕は強がってそう返した。まあ、なんてことはない。いつものことだと、そう思って。

「……はい、時々。叔父が買い付けている本なので」

 文香さんはそう言った。そういえば初めて会った時も買いとりがどうの、といっていた気がする。聞けば、このお店は文香さんの叔父が継いだらしいのだが、本業の方が忙しすぎて手が回っていないらしい。

 それで、お店番と本の受け取りをお願いされているのだとか。基本は通販で売っているそうなので、大学生――これは今知ったばかりなのだが――の文香さんでも務まるようだ。なるほど、と思いつつ何かが引っかかった。

 妙な既視感というか、何かが重なりそうで、重ならない。そんなもどかしさを感じていると、

「……少し待っていてください。何か暖かいものを……入れてきますので」

 そう言って、文香さんはお店の奥へと消えていく。ありがたい申し出だった。この程度で疲れるはずもないのだけれど。

 僕は辺りを見回した。幾重にも積み重ねられた時間が作り上げた、独特の雰囲気と匂い。やっぱり、ここは心が落ち着く。

 そして僕は思い至った。ずっと忘れていた、大切な思い出のことを。

(……あの部屋に、似ているんだ)

 ――そう思った瞬間だった。

 天井が見えた。薄明りを生み出している小さな電球が揺れている。

 いや、揺れているのは地面か。地震? だったら不味い、早く隠れないと。いや、本棚が倒れないようにした方がいいのか。

 文香さんは大丈夫だろうか? 彼女を呼ぶ。そうしたつもりなのに、声が出なかった。

 ぐにゃり、視界が歪んだ。地面が揺れているわけではないのか。状況が、掴めない。

 文香さんがいた。僕を呼んでいる。Pさん、Pさんと、僕の名前を呼んでいる。ブルートパーズのようなきれいな瞳が焦りの色を宿して僕の眼を覗き込んでいる。

(……やっぱり、文香さん。僕の名前)

 初めて会ったときも呼ばれた気がしていた。それは気のせいだと思っていた。でも彼女は僕の名前を呼んでいる。

 どこかで会ったことがある? いや、ないだろう。忘れるはずがない。じゃあ、どうやって?

 ――そんな疑問を浮かべても、答えはない。そして否応なく僕の意識はゆっくりと消えていく。

 深く、深く――。

□ ―― □ ―― □


 四方の壁全てを埋め尽くさんばかりに本が積まれた部屋。埃と、少し黄ばんだ紙の匂い。かりり、かりりと物を書く音が聞こえる。

 僕の大好きだった空間。本が好きだった僕にとって、天国のような空間。そしてその部屋には率直に、愚直に、素直に。兎――言い換えれば、”夢”を追っている人がいた。

 近所に住んでいた作家志望のお兄さん。もともと人付き合いが苦手で、中学のクラスになじめず公園で一人本を読んでいた時に声を掛けてくれたその人。

 仲良くなるのにそれほどの時間はかからなかった。僕の家から歩いて、三十歩ほどの安アパートが彼の居城だった。

 彼は全てを捨て去る覚悟でその夢を追っていた。だから僕は不思議に思って聞いた。

『ねえ、お兄さんはどうしてそんなにがんばるの?』

 彼は答えてくれた。濃い隈を刻み付け、土気色の頬がこけた顔で、嬉しそうに、楽しそうに。

「うーん、やっぱり好きだからかな。俺の全部捧げてもいいって、思ってるぐらいには」

 だから僕も憧れた。好きなことを為して生きていく人生を。そして好きなことを成して生きていく人生を。

『じゃあ、僕も本を書いてみたい。読むだけじゃなくて、書いてみたいよ』

 僕はそう言った。僕も彼みたいになりたかった。もともと本を読むのは好きだった。だから僕も本を書いてみたいって、そう思った。

「じゃあ俺と一緒だな。どっちが先に本を出せるか、勝負しようか。負けたほうが勝ったほうのファン一号だぜ」

 彼はそう言って笑った。僕たちは指切りをして、約束をした。

 ――その二年後、彼は本を書き上げることなく、世を去った。若くして死病に冒され、余命幾ばくもなかったのに二年持ったことをその時に知った。

 彼の部屋から本が消えた。彼との思い出を証明する空間はこの世から消え、約束は決して果たされることはないことを知った。そして僕は――”夢”を拒絶した。

 高校に行くことはやめた。もともと人付き合いが苦手だったのもある。そして部屋にこもってひたすら”好きなこと”を探した。見つけたのは”プログラミング”と”デザイン”だった。

 両親は同情的だった。兄のように慕っていた人を失い、心を病んだのだと思われた。その上、一人息子が無事に生きているならそれでいい、とまで言われた。

 だから僕はその言葉に甘えてしまった。代わりに――僕は死ぬ気で勉強した。彼のように、本当に死ぬわけじゃない。そう思えば容易いことだった。

 そして僕は望んで”二兎追い人”になった。その代わり――本当に追いたかった”兎”は、拒絶したが故に……見えないほどに彼方へと行ってしまった。

 二年後、僕は上京した。独学にしては、プログラミングもデザインも習熟したと思っていたから。地元ではそもそも求人がほとんどなかったから。

 両親からの反対はなかった。むしろ応援をしてくれた。

「あなたのしたいことをしなさい」

 その言葉が何故か、少しだけ心に突き刺さった。

 東京に着くと、いくつかの会社に応募をした。サンプルとして幾つか組んだプログラムも、作ったページも、ある程度は評価された。

 けれど中卒の僕を使ってくれる会社はなかなかいなかった。当時は不況というのもあったかもしれない。

 日雇いのバイトで半日を潰し、もう半日でさらにプログラミングとデザインに磨きをかけた。気が付けば、睡眠時間は四時間を切っていた。

 それから一年経つと、睡眠時間は三時間を割り込んでいた。体の不調も目立ったけれども、バイトとスキルを磨くことはやめなかった。半年も経てば、体はそれに順応していた。

 やがてある人と出会った。その人は出版社に所属するライターだった。そして僕は仕事がなく、食うに困っていた。水と塩さえ買う金がなかったのだ。だから恥も外聞もなく訊いた。

『何かいいお仕事ってないですかね』

 彼は笑って言った。

「実はフリーで記事を書いてくれる人を探していてなあ。お題はなんでもいいんだが、君、心得はあるかい?」

 自信はなかった。それでも僕は書いた。そう、全身全霊、ありとあらゆる知識を動員して僕は記事を書いた。久しぶりの感覚だが、思ったよりも指は動いてくれた。

 二日後、メールに添付して送ったその記事は、送ったその日に公開されていた。評価はすこぶるよかった。

「うちでライター、やってみないか。君だったらできるぜ、俺が保証するよ」

 公開された次の日、彼からの申し出を僕は断った。脊髄反射のようにして、なぜか拒絶してしまった。

 ……そうだ、僕はプログラミングとデザインが好きでやっているんだ。”今更”、”物を書く”なんて。

 だが、彼は食い下がってきた。何度でも、僕に記事の依頼を出してくれた。

 彼から依頼を受けるたび、僕は記事を書いた。酷く楽しんでいると気づくまでに、それほどの時間はかからなかった。

 やがて彼とはプライベートで飯を食うくらいに仲良くなった。きっかけは本だった。いつも本を読んでいる公園で、偶然出会ったのだ。

 ……あの時と同じだ。あの時もこうして本を読んでいる僕に、声を掛けてくれた人がいた。

「Pくんじゃないか。いつもこんなところで本を読んでいるのか?」

『ええ』

「はは、相当な本好きだな、君は。いい記事が書けるのも頷ける。俺もそうだったからわかるぜ」

 彼はそう言った。素直に受け止めることはできなかった。それでも僕は依頼の度に記事を書いた。置き忘れた何かを探し出す様に。

 ……気づけば追いかける”兎”は増えていた。”プログラミング”、”デザイン”、”ライター”。新しく増えた”兎”は、酷く魅力的に見えた。

 そしてその向こう側、遠く彼方に微か、もう一匹。”兎”が見えた気がした。でも僕はそれを見ないようにした。

 かつて『本当に追いたかった』その”兎”を追うには、あまりにも辛すぎるから。一度忘れた物を思い出すことほど、辛いものはないから。

 僕は望んでこの道を選んだはずだ。今更何を願うというんだ? 分不相応なものを追うなんて、馬鹿のすることだ。そう言い聞かせる。

 それでも僕は無意識に手を伸ばす。追いたかった”夢”、追えなかった”夢”。破れた”夢”。僕の始まりが詰まったそれへと、手を伸ばしてしまった。忘れた思い出と約束を求めるかのように。

 そして僕の手に何かが触れる――。

本日の更新は以上です。
次回更新は早ければ二~三日、遅くても一週以内の予定です。
ありがとうございました。

おっつん

□ ―― □ ―― □


『……ぁ』

 ゆっくりと目を開けた。ぼやけた視界を白一色が覆う。ここはどこだ、と考える間もなく、聞き覚えのある声が耳朶を打つ。

「お、目が覚めたか、Pくん?」

『編集、長……?』

 差し出された眼鏡を左手で受け取り、掛ける。クリアになった視界で見たのは、やはり編集長だった。天井も、壁も、ベッドも。全て純白の部屋で僕は寝ていたらしい。

 ここはどこか、ということを考える前に彼が言葉を繋ぐ。

「過労だとよ。無理をし過ぎたな、Pくん。それとも、まさかあいつが無理やりさせたわけじゃないだろうな?」

 もしそうならあいつを本気でぶん殴ってやる、だなんて編集長は冗談っぽく言う。いまだに状況が呑み込めない僕を見て、さらに編集長は言った。

「文香から連絡を受けたんだ、君が店で倒れたってね。で、俺も病院に駆け付けたってわけだ。話を聞いた時はいろんな意味で白目剥きそうになったぜ」

 それを聞いて、僕はようやく意識が途切れる前の記憶を思い出し、状況を理解する。文香さんが暖かいものを入れに行ったあと、僕は倒れたらしい。

 しかし、編集長がなぜここにいるのか、ということの説明にはなっていない。そもそも”文香から連絡を受けた”と編集長は言っていた。

(二人はどういう関係なのだろう……?)

 そう思ったところで、僕は右手の違和感に気が付いた。誰かが手を握っている。見るとそこには――。

『……!?』

 文香さんが椅子に座って、僕の手を握ったまま寝息を立てていた。

『……あの、編集長。これは一体』

「つい三十分ほど前までは起きていたんだがな。君のことが心配で、救急車の中でもずっと手を握っていたそうだぜ」

『……は?』

「いやあ、文香のあれほど狼狽した姿は初めてかもしれないな。それぐらい、目の前で君が倒れて錯乱したんだろう」

『そう……ですか。尋常じゃないご迷惑をおかけしたんですね、僕は』

 そんな自分に自己嫌悪してしまう。頭を掻き毟りたいほどの衝動に駆られるも、握られたままの手ではそんなことも出来るわけがなくて。

「まあ、そうかもしれないな。間違いなく君が悪い。これに懲りたら、少しは身を慮りなさいな」

『……そう、ですね』

 僕はほとんど無意識に、そしてあいまいに答える。そのお説教の内容はごもっともだったが、きっと僕には保証しかねるのではないだろうか。

 むしろ僕の体なんて言う些末な事より、僕は気になっていたことを聞いた。

『あの、編集長と文香さんはどういう関係で?』

「ん? ああ、知らなかったか? あの古書堂、俺の店なんだよ。君に以前、通販システム作ってもらったろ? もともと親父から継いだ趣味のような店だったが、部門責任者になってからはまともに店を開けることが出来なくてな」

『……そうだったんですか。それで』

「ああ、文香は姪だよ。兄貴の一人娘さ。ちょうどこっちの大学に入ったっていうから、店番を頼むようになったんだよ」

 編集長はそう言った。

(文香さんの言っていた叔父って、編集長の事だったのか……)

 今になって思い起こせば、編集長の苗字と古書堂のビニールテントにあった古書堂の名前が同じ――鷺沢だった気がする。特徴的な苗字なのだから、気づいてもおかしくはない。やっぱり僕は間抜けなのだと思った。

 そしてそれ以上に、世の中は狭い、ということを痛感する。

『まさかとは思いますが、僕のことを話されたりとか……』

 幾らか思い当たる節があって、僕はそう聞いた。つまるところ、僕の名前を文香さんが知っていた件についてである。すると編集長は何を今更なことを、といった表情で、

「うん? ああ、話したよ。君、近場の公園でよく本を読んでいたろ。文香がたまに公園へ行くといつも見かけるらしくてね。その話を聞いたら、もうPくんしかいないってなってな」

 そう言った。

『文香さんが、ですか。じゃあ……』

「君が本を拾ってくれたことも、運んでくれたことも聞いているよ。やはり君は良い奴だと思ったもんさ」

 僕は嬉しいような、むず痒いようなそんな気分になって、ごまかす様にそんな、と零して俯く。そういえば数週間前、編集長からもらったメールに迷惑をかけた、というのがあったことを思い出す。

 あれはきっと、僕が差し出がましいことをしたと文香さんから聞いたに違いない。僕は手を握ったまま寝ている文香さんの方を見る。安らかに眠っているその姿は、女神のようにさえ見えて。

 何となく正視するに堪えず、僕はつい、と目を逸らした。当然その瞬間は編集長に見られていたわけで。

「若いねえ、Pくん?」

『……からかわないでください、編集長』

「はは、すまんすまん。ま、異常とかはないそうだし、数日安静にしていたら退院できるとよ」

 そういうと、編集長はゆっくりと立ち上がる。どうやら、仕事から抜け出してきたようだ。申し訳なさから、僕は謝ろうとしたが、

「おっと、謝るのはなしだ、Pくん。俺は好きで世話焼きやってんだからな。君はもうちょっと素直になって、人に甘えたほうがいいぜ」

 機先を制すような彼の言葉に、一瞬ぽかんとしてしまう。呆気に取られたままの僕を尻目に、んじゃしっかり看病されるこった、という言葉を残して編集長は病室から去っていった。

 残されたのは僕と文香さんだけで。いまだすやすやと眠っている文香さんを起こすわけにもいかず、かといって振りほどくことも出来ず。ただ僕はそのままじっとしていた。

「……ん」

 数分後、か細くも柔らかい声と共に文香さんが目を醒ましたのは僥倖でもあり、そして残念でもあったのはここだけの話にしておくことにしようか。

「……目を、覚まされたんですね、Pさん」

『え、ええ。本当、すみません、ご迷惑をおかけしたようで……』

「いえ……。以前、しっかりとお止めできませんでしたから。でも、良かったです。大事が、なくて……」

 開口一番、文香さんは驚く様子なくそう言った。代わりにどうしようもないほどの慈愛と心配が多分に含まれていて。やはり僕は申し訳なさで胸がいっぱいになってしまう。

 にもかかわらず不謹慎にも僕は、そうした心配をしてくれる人がいるということに、どうしようもないほど、胸が締め付けられるほどに嬉しくて。だから、

『……ありがとうございます、文香さんのおかげです』

 そう答えた。すると文香さんは顔をあげて、少しだけ笑った。嬉しそうに、待ち望んでいたように。

「……名前」

『……え?』

「その……ずっと、”店員さん”って呼ばれていましたから……」

 やっと呼んでもらえた。まるでそう言いたそうに、文香さんは言ったのだ。

 ……文香さんは時々、僕のことを”Pさん”と呼んでいた。叔父――編集長より僕の話を聞いていたのであれば、それも理解できる。

 というか、今まで名乗ってもいないのに名前を呼ばれていたこと。それに気づいていないことがあまりにも間抜けで。阿呆だ、と自分で嗤いたくなる。

 それから文香さんと少しだけ話をした。かれこれ半日、僕は完全に意識を失っていたらしくて。その間ずっと、付きっ切りで傍にいてくれていたらしい。

 どうしてそこまでしてくれたのか? そう尋ねると、

「……お一人で暮らしていると、お伺いしていましたから。それに……叔父よりご家族と離れて暮らしている、とも」

 だから放っておくなんて、出来なくて。そう彼女は言った。幾らか目が泳いでいたような気もするが、当たり障りのない言葉を選んでくれていたのかもしれない。

 なんともったいない言葉だろうか。僕は詫びようとする。そして、これ以上ご迷惑をおかけできないという意思も示そうと。

 けれど、それを見越したように文香さんは強弁した。いつものおっとりとした様子とはそれほど変わらなかったけれど、はっきりとした意志を込めて。

「嫌、です」

『……え?』

「退院されるまでは……看病しますから。Pさんは、もう少しゆっくりと……過ごされてもいいんです。人生は、長いのですから」

 その言葉が、微かに僕の心に突き刺さった。彼女の言う通りだ。けれど、僕には――。

「どうして、そんなに生き急いでられるのかは分かりません……。でも、私にはPさんが……」

 そこで文香さんは言葉を切る。言っていいものか、逡巡しているようにも見えて。だが、ゆっくりと口を開いて。

「本当にやりたいことをしていない……ように、見えます。その……失礼かもしれませんが」

 ずきり、と胸が痛む。心が揺さぶられる。刹那的にフラッシュバックする記憶と、思い出が僕の頬を叩くように渦巻いて。ゆっくりと目を閉じた。

『僕は』

 ゆっくりと言葉を吐こうとしたところで、ガラリと病室の扉が開く。看護師だった。どうやら検査の時間らしい。

「……また、明日来ます。安静に……していてくださいね」

 文香さんは僕にそういうと、ゆっくりと立ち上がった。黒髪がさらりと靡き、その奥に見える青い瞳が僅かに揺れていた。

 そしてぺこりと看護師にお辞儀をすると、病室を後にする。僕はただ、その後姿を見ていることしかできなくて。

 そうして始まった検査は、ものの十分で終わった。血圧を測り、体温を測り、採血を済ませて。そして看護師さんはさっさと病室を出て行った。

 なんとタイミングの悪いことなのだろうか。そう思ったところで今更の事である。

 文香さんに向けて吐き出そうとした言葉が、否応もなく僕の頭をぐるぐるとめぐる。ほとんど形になっていなかったそれは、時間が経つごとに明確な答えを出していってしまう。

 ――“本当にやりたいこと”って、何だろうか。僕は考えた。”プログラミング”? “デザイン”? “ライター業”?

 ……きっと、どれをとってもある程度、理由も説明できるし事実に近しいと思えるだろう。実際、そうだったよ。この七年間、それを信じていた。

 でも、違う。前者二つは”代替品”として好きになった、いや、好きになる努力をした物に過ぎないんだ。”好き”だし、”趣味”だけれど、”本当にやりたかったこと”じゃあ、決してない。

 そして後者は”やむに已まれず”で始めたこと。どれだけ楽しくても、これも”本当にやりたかったこと”じゃあない。

 どうしてそうなったのか。今なら簡単にわかる。

 僕はただ怖かった。本当に好きで、本当にやりたいことが――成し遂げられないことが僕は怖かった。お兄さんのように、志半ばで倒れるのが嫌だった。

 だから予防線を張った。二兎を追うことは難しい。だから、成し遂げられなくても仕方がない。期待しなければ、落胆することもないから。でも、好きなことをやりたい。

 だから好きなことを”作った”。偽りのやりたいことを。

 そうとも、やりたいことを幾つも、挑戦したんだ。人生の全てを捧げて、これだけやった。常人がやれることの倍を。だから、満足できただろう?

 ――たとえ、志半ばで倒れたとしても。

 否、むしろ……早く倒れたかったのかもしれない。”成し遂げられない”恐怖から、解放されたいがために。

 まったく、馬鹿げた話だ。今になってそう思った。

(お兄さんのせいにするにはあまりに失礼か。……結局、僕がただの卑怯者で、臆病者だったってことだ)

 力なく僕は笑う。この笑みは、諦めた笑みと言われた。なんのことはない、本当にやりたいことを諦めていたのだから当然なのだ。

 何かを成しうる人であれば、今からでも夢を追うのだろう。けれど……僕はきっと、そうじゃない。僕一人では、もはや何もできない。そう楽観して考えられるほど、とてもではないけれど前向きにはなれない。

 横になって目を閉じる。ぐるぐるとした思考を続けていたせいか、頭が疲れていた。そのせいか途端に眠気が襲ってくる。

 ……そういえば、社長に連絡をしないといけないんじゃないだろうか。この様子じゃ、しばらく出社できそうもない。

 まあ、後にしよう。どうせ、二時間少しで目を醒ますのだ――。

本日の更新は以上です。次回更新は数日以内に行います。
一応、書き上げましたのであと二回か三回の更新になると思います。
ありがとうございました。

おっつおっつ
もうあと23回か…

意外に早いね
プロデュースというより出会いの物語なのか

□ ―― □ ―― □


「無理はするなと言ったつもりだったんだがね。まだ若いのに、そこまで生き急ぐ必要もあるまいに」

『……はは、すみません、社長』

 翌日、目を醒ました僕の前に社長がいた。目を剥きそうになった。いや、そこに社長がいたというのも理由だが、問題は時間だった。

 時刻は朝の九時。……僕は十二時間以上、寝ていたらしい。今までの生活からあまりに乖離した睡眠時間だった。本当に自分の眼を疑ったのだ。

 社長には編集長から連絡が行っていたようで。だからプロダクションへと足を運ぶ前に、見舞いへと来てくれたのだ。 

 そうして話を聞くと、ひとまず僕の仕事はここで打ち切りになるらしい。今日から後任のエンジニアが来るのだとか。なんでも昨日連絡した後すぐに手を回したとのことで、つまりはお払い箱ということだ。

 といってもほとんど完了しているから、開発から運用への引継ぎに近しい形ではある。残りの部分の微細な調整は正直、メンテナンスレベルのお話に過ぎない。

 そういう意味では今回の後任エンジニアが、今後メンテナンスを引き受けてくれる人だというのは非常に都合のいい事だった。

「とりあえずPくんの創ったものを見せてもらったよ。素晴らしい出来だった、我がプロダクションに相応しい出来だと思うぞ。在野には人がいるものだと、痛感させられたよ」

 手放しでの称賛に、僕は何となく居心地の悪さを感じる。それほどの評価をされるようなことなんて、何一つしていないと思っていたから。

 そうだ、所詮は”趣味”の延長線上。ただやりたい、ただ好き。それだけの事。その上、体調管理もままならずこうして倒れている始末では大きな顔なんてできるはずもなくて。

 むしろ叱責されるべきなんだろうと思う。だが社長はとんでもないことだと一笑に付し、おまけに何一つ契約を違えることなく報酬は支払おう、とまで言ってくれた。

『そんな、僕なんて。その……もったいないですよ。高校にも行っていないですし』

「ほう? ということは中卒かね」

『……はい、そうなりますね』

 このご時世で中卒なんて、正直なところ一顧だに値しない経歴だろう。僕の無価値さが良くわかるはずだ――そう思ったにもかかわらず。

「わっははは、学歴も大事だが一番は才能だよ。いい大学を出ていたとしても、まるで役に立たん人間はごまんといる。私はそれを良く知っているさ、仮にも経営者だからな。それに契約はすでに成されている。意地でも受け取ってもらうぞ」

 社長はそう言ってただ、笑った。

『……それでも』

「まったく、君も強情だね。高卒のスポーツマンは学歴で劣るから大卒のスポーツマンに劣るのかね? ……私は断じるね、劣らないと。要は才能なのだ」

 だからこれは正当な評価だ。社長は満足げに笑えば、傍の湯飲みに入っていたお茶をすする。

『……そう、ですね。仰る通りです。僕には、何らかの才能があったのかもしれません』

 社長の言い分は理解できる。けれどそれは理想論だと思う。誰もかれも、完璧に能力を評価できるはずもない。だから一番わかりやすい指針としての学歴がある。

 このレベルの高校を卒業しているなら、この程度はできるだろう。この大学を出ているなら、ここまで成長してくれるはずだ。学歴はそういう判断に役立つものだって、僕は知っている。

 それを知っていてなお、僕は高校に行くことをしなかったのだから、少なくともわかりやすく評価される努力をしなかった。そう言えるだろうね。

 まあ今更言っても仕方のない話だ。僕は納得せずとも理解はして、社長の評価を素直に受け取った。どっちにしても、この社長に口で勝てる気はしない。

 何せ、僕から見たら”英雄”だ。自分の道を邁進する求道者だ。そんな人に僕が勝てる道理もない。

「ところでだ、Pくん」

『……は、何でしょうか』

 社長はずい、と身を乗り出しながら僕を呼ぶ。思わず後ずさりそうになるけれど、点滴を受けてベッドに寝っ転がっている僕が下がれるはずもなくて。

 ちょっとだけの嫌な予感と、微かな期待と、幾らかの訝しみを混ぜた気持ちのまま僕は答えた。何となく、かしこまった口調になってしまう。

 ……そうだ。僕は僅かだけど期待をしていた。もう一度、仕事をさせてくれるかもしれないって。そう思っている自分に気付いて、少しだけ愕然とするけれど。

 でもそれでいいのかもしれない。どうすればいいのか分からず、教えてほしいくらいなのだ。だから社長がもし、また仕事をくれるというのであれば――。

 そう思っていた僕の思惑は、社長の言葉によって一蹴される。

「君、何かしたいことはないのかね?」

『……は?』

「なに、”夢”だよ、”夢”。君の”夢”は何かと思ってね。あるのだろう?」

 ……残酷なことだよ、本当に。今まさにそのことで悩んでいる人間に、自ら答えを出させようというのだから。

『”夢”……ですか』

「そうだ。失礼を承知でいうが、君は何かに追い立てられるように生きているように見えた。そこまでして――自らの身さえ犠牲にして生きている人間の”夢”とは何か。私は実に興味がある」

『……はは、手厳しいですね、社長』

「当然だ、我が身を滅ぼして成し遂げた事績を”夢”と呼ばない。それは”業”と呼ぶものだよ、君」

 そう言って社長は言葉を区切った。僕は少しだけ押し黙り、じっと社長の方を見る。答えたくはない、というわけではない。むしろ聞いてほしいとさえ思っている。

 でも、理解はきっと得られないだろう。

 まさか、”夢”を追うのが怖いから、その代わりの何かで満足しようとしていた、だなんて。そしてその上で、さっさと潰れてしまおうとしていた、だなんて。

 後ろ向きにもほどがあるよ、まったく。はは、まさしく”業”じゃあないか。自分でも呆れかえるんだから、他人から見てみれば幻滅、軽蔑の嵐だろう。

『そうですね……。ずっと昔、僕が中学の頃の話です――』

 僕は、ゆっくりと口を開く。これは答えなどではない。ただの懺悔だ。僕の愚かさ、そして自分勝手さを詫びる告解。誰に詫びるのかとか、詫びたところで変わるのかとか、そういうことは正直分からない。

 だからきっとこの懺悔も、僕が楽になりたいからに違いない。はは、まったく、どこまで行っても……卑怯で臆病者だ、僕は。

 そう思って、僕はぽつり、ぽつりと言葉を吐きだしていく。

 人付き合いが苦手だった僕の好きな物が本だったこと。そんな僕に話しかけてくれた人がいたこと。その人に影響されて、本を書きたいと思ったこと。その人が志半ばで帰らぬ人になったこと。

 自分もそうはなりたくない。だから”本を書く”という夢――本当に追いたい”一兎”を諦めて、”プログラミング”と”デザイン”という代わりの”二兎”を追うことにしたこと。

 そして、人生を本に例えた与太話。

 一気に読み終えることを望むが故に”栞”――本来人間がとるべき休憩を取らず、たとえ命を削ったとしても限界まで読み進める道を選んだこと。

 もっともそれは、僕が”本を書く”という本当の夢を成し遂げることが出来ず、志半ばで倒れることに恐怖したが故の言い訳。むしろ早く倒れたかった本心を隠す詭弁に過ぎなかったことも包み隠さず、僕は社長に独白した。

 社長はじっと、僕の言葉を聞いていた。独白の最中、言葉一つ挟むことはなくて。そして僕が全てを吐き出した時、ようやくゆっくりと口を開いた。

 ……なぜか、その表情は酷く明るかった。

「あるじゃあないか、君にも”夢”が。なるほど君の人間性、その根底はその純粋さにあるというわけだ」

 純粋? 僕が? そんな耳を疑うような言葉が社長から放たれる。僕は純粋なんてものではない。あり得ない。我欲に塗れた自分勝手な人間だ。そう思っていても言葉には出てこない。

 一方の社長はゆっくりと足元の鞄を引き上げ、中から一枚の紙を取り出す。何らかの書類らしい。だがそれが何かまでは分からなかった。

「Pくん、君のその恐怖はね。誰だって持っているものだよ。多くの人は、大なり小なりその恐怖が気のせいだと自分に言い聞かせているのだ。私も斯くいう一人でね」

 もし何も成し遂げられず死にそうになったら、化けて出るくらいには未練を持つだろう。社長は言ったがとてもじゃあないけれど、そんな陰湿なことを考えるようには見えない。

 でもきっと、そうなのだろう。その若さの割に、酸いも甘いも噛み分けてきた目の前の人がそういうのだから。

 それからしげしげと手元の紙を眺めつつ、また言葉を続ける。

「君はただ純粋だった。ひたすらに真っすぐだった。故にほかの人間が誤魔化し、やり過ごす恐怖と向き合ってしまった。だがそれは君の無能を示すことではない、むしろ得難い資質だ」

 社長はおもむろに見ていた紙を僕の方へと差し出した。受け取って文面を読む。それはほんの数週間前に見た物とそっくりな書類。

『雇用、契約書。まさか、いや……そんな』

「君のその真っすぐさを見習い、率直に言おう。君の才能を私に貸してほしい。この事務所は発展途上。人材も揃っていない。だが業界一の組織へ変えることは難しくないと、そう信じている」

 冗談というわけでも、たちの悪いドッキリというわけでもなさそうだった。その未来を語る表情も、言葉に含まれた意思も、何もかもが本物だった。本気でこの人は成し遂げるつもりなのだと。

『本気……なのですか』

「ああ、本気だ。今やこの事業は私の”夢”だ。もちろん強制はしないしできもしない。だから提示できる条件は全て契約書に書いた。……ああ、いや、もう一つあったな」

 社長はごほん、と咳ばらいをすれば、なんとも神妙な表情で僕を見る。僕も思わず居住まいを正して。そして社長の言葉を待つ。

 ゆっくりと、社長は言った。威風という言葉とかけ離れた何か慈父のような、庇護者の目だった。

「もし君が望むのであれば、全力でサポートしよう。君が君の”夢”――何事にも代えがたい”一兎”を追うことを。何ができるかもわからんし、できることなどないかもしれん。サポートしたところで届かないかもしれん。だが……約束する」

 それは断固とした決意の言葉だった。明確な意思の籠ったそれは、契約書や誓書など必要としない無条件の証明と同義で。

 ……僕は、どうすればいいのだろうか。本当に、本当に。こんなどうしようもない僕に、これほど過分な言葉を貰ってもいいのだろうか。

 僕は……どうすればこの人に応えられるのだろうか?

「……いや、少し急き過ぎたかな。まあ、今すぐ答えが聞きたいわけではない、Pくん。これは君の人生を変える選択になるかもしれない。今更生き方を変えることなどできないのかもしれない。だから私は待とうと思う」

 僕が思考の海に沈み込もうとしたちょうどそのとき、社長は立ち上がった。ぱちんと鞄を閉じると、湯呑みに残っていたお茶を飲み干して。そして、

「だがまずは養生したまえ。この世の何もかも一切合切、重大なもの事を決める時に必要なものは、健康な体に宿る健全な思考力なのだからね」

 そう言い残して病室の扉を開ける。僕は遠くを見るようにその背中を眺めていたのだけれど、次の瞬間社長の身がぴたりと止まって。

「おう? どうやら待たせたらしいな。では私は失礼するよ」

 そんな言葉が聞こえた。それは僕に対してのものではないように思えて、僅かに小首を傾げる。やがて社長の姿が扉の向こうへと消えた――と思えば、まるで示し合せたかのように。

「ちゃんと療養しているようで何よりだな」

『……編集長?』

「よう、Pくん。ちょっくら外回りのついでに寄らせてもらったよ」

 開け放たれたままの扉から言葉と共に現れたのは、編集長だった。先ほどの社長が放った言葉は、外で待っていた編集長に向けてのものだったらしい。

 小脇に抱えている果物のかごをテーブルの上において、今しがた社長が座っていた丸椅子に腰を掛ける。

 そしてゆっくりと息を吐くと、じっと僕の方を見ながらにやりと、少しだけ口の端をつり上げる。

『……どうかしましたか?』

「いやなに、どうするかちょっと気になってな」

 編集長の言葉に、僕はまた少し小首を傾げる。

『どうする、と言いますと』

「そりゃあ決まっているだろう。あいつから勧誘、受けたんだろ?」

 その言葉で、編集長が何について話しているかをようやく理解する。同時になぜ、編集長が気になるのだろうと思った。

 社長に僕を紹介したから? そう考えて、すぐに違うと思い当たる。

 そうだ、僕はずっと編集長から勧誘を受けていた。そしてそれを断り続けていた。そんな僕に、社長が勧誘している。それがきっと、面白くないのだ。

 もちろん社長に対してではなく僕に対して、だ。”俺の誘いは断り続けたのに、あいつの誘いは乗るんだな”。そう言われている気がした。

 当然だ、筋を通していないのは僕なんだ。そう思われても仕方がない。僕はそう確信して、微かに笑った。

『……まさか。僕には不釣り合いですよ、何もかも。僕は今の人生に満足していますから』

 僕は少し俯いて、嘘をつく。いや、前半部分は本心だ。あの社長の語る”夢”と、僕の才能が釣り合うはずもない。けれど後半部分は……自己暗示にも等しい嘘と業の塊。

 ほんの二か月前の僕に、”今の人生に満足しているか?”と問いかけたならば、寸刻の間も置かずに満足していると返しただろうけれど。でも、今はそうじゃない。

 僕は理解してしまった。僕が歩んでいた、そして歩んでいる道の始発点を。望んで二兎を追ったはずなのに、本当に追いたかった”兎”は追っていなかったことを。

 それでも今の僕があるのは、目の前の編集長が幾度となく仕事をくれたからだった。にもかかわらず僕はこの人の誘いを幾度となく断っている。

 それだけでも恩知らずと罵られてもおかしくはないのに、この上別の人の誘いに乗るなんて……度し難い背信行為。本当に生きる意味なんて見いだせない畜生そのものだ。

 だから社長の言葉に応えることはできない。かといって、今更編集長の誘いに乗ることもできない。

 だって、それは僕の追いたかった”兎”じゃあないんだから。今の僕では、きっとまともに追うことなんて……できない。

 前にも進めず、後ろにも戻れない。これは……詰んでいる。控えめに見積もって、そうなのだと僕は理解する。こんなことなら、知らなければよかった。知りたくなかった。

 そうして、もはや何もかも諦めようとした時だった。

「……君にとっての”夢”ってのは、どういう物なんだい?」

 まるで心を見透かされたかのような言葉に、僕は思わず顔を上げる。編集長は笑っていた。けれどその目は、今にも僕に掴みかからんばかりの闘気のようなものが見えて。

「なあ、Pくん。”夢”を追うってね、すごく疲れるし、何度も心が折れそうになる。正直追わなきゃよかったって思うこともある。金だけ稼いで安穏な生活を送る人生を選ばなかった自分を殴りたくなったことだってある。――それでも、それでもだ」

 編集長の言葉は、説得でもなく、叱責でもなく、激励でもなかった。いやあるいは、説得であり、叱責であり、激励でもあった。

 彼の言葉には重みがあった。夢を追わなかった僕にはない、とてつもない何かが。

「”夢”を追ったことを、”間違った”と思ったことは一度だってないんだよ。なんでか分かるかい、Pくん」

 その問いかけに答えることはできなかった。そもそも分かるはずもない。分からないからこんなところで燻っているんだよ。

 ――“夢”ってなんだろうか。本当に、僕の”夢”は”夢”なんだろうか。

 僕はじっと押し黙り、哲学のようなことを考える。考えて、考えて。それでも答えは出なくて。

『……わかりません、僕には。僕のこれが夢なのかも、ただの思い違いなのかも』

 思わず、言葉が漏れる。それを聞いた編集長は僅かに息をついて、そしてにやりと笑った。

「相変わらず、難しく考えすぎるんだな、Pくんは。君も知っているはずだぜ」

『……え?』

「心底好きなんだよ。俺の全部を捧げても安いって思えるほどに。もし一度投げ捨てたとしても、次の日にはほっぽり出したのは間違いだったって取り戻しに行く。そういうもんなんだ、”夢”ってのは」

 ――その言葉は、僕にとってはあまりにも衝撃で。一瞬、全ての思考力を失って、ただじっと編集長を見ていることしかできなくて。

 だってそれは。その考えは。

「”お兄さん”と同じ考え……だろ?」

『ッ! どうしてそれを』

「悪いな、あいつに君がしゃべってるのが聞こえてしまってね」

 まるで悪びれる様子もなく、編集長は肩を竦める。それから心底呆れたような、やるせないような溜息をつく。

「話を聞いてて、俺はびっくりしたね。君くらい頭の回転が速い人間が、こんなことで悩んでるなんて、ってな。……ああ、いや。”こんなこと”で片づけるのは君に失礼か」

『……』

「Pくん、本を書きたいと思ったんだろう? 本が好きなんだろう? そしてそれは今でも、何だろう? ――だったらそれは”夢”だ、間違いなく。誰も彼も、君が”夢”を追うことを止められはしない」

 編集長はよいしょ、と言いながら立ち上がった。そして話は終わりだ、と言わんばかりに病室の入り口へと向かう。

『編集長っ!』

「ん? なんだい、Pくん」

 編集長へ追いすがるように、僕は言葉を吐く。こんなことを言う資格も、権利もないのかもしれない。そもそも不躾どころか、無礼なことなのかもしれない。それでも。

『……いいのでしょうか、僕は。そんなことが許されても。夢を追うなんて、僕みたいな人間が。あなたの期待を裏切り続けた僕が』

「馬鹿野郎、許す、許さないもないさ。俺が決めることじゃあない。君だけが決めていいことだ。……もしかして、俺の誘いを断り続けたことを申し訳ないって思ってるのか? そんなら、筋違いだぜ」

 編集長は振り返りもせず、しかし諭すような声で。確固たる意志を示す様に。その表情は見えないけれど、きっとしたり顔で笑っているに違いないって確信できるほどに。

「君が誘いに乗ろうが乗るまいが、『あの時誘いに乗っていればよかった』って思うだけの人間に俺はなるつもりさ。だから謝罪なんていらないし、むしろ後悔させてやるからな。覚悟しとけよ?」

 ……ああ、一緒だ。一心不乱に夢を追う、僕が憧れたあの人と。

 社長といい、この人といい。どうして僕の周りに、これほど眩しい人たちが集まっているのだろうか。そんな人に、そういうことを言われてしまっては。

 僕は俯いた。申し訳なさと、眩しさと、羨ましさに。

 でも俯いた僕の顔は、編集長の言葉ですぐに上がることになる。

「じゃ、またな。……文香、俺まで待たせて悪い。おっさん二人分の話は長かったろう。俺は行くよ」

 僕が顔をあげるのと、編集長の姿が消えるのがほとんど同時。そして寸刻をおいて――彼女の姿が現れる。

 陶磁器のように透き通る白い肌、黒真珠にも勝るほど艶のある黒髪。そして青鷺のような瞳。

『文香さん』

「おはよう……ございます、Pさん」

『あ、お、おはようございます』

 彼女の挨拶を受けて、僕は思い出したように挨拶を返して。そして彼女が僕のことをじっと見る。

「Pさんが言っていた言葉の意味が……ようやく、分かりました」

『……え?』

「栞は……要らないとおっしゃっていました、Pさん」

『あぁ……』

 どうやら、社長に話したことは全て文香さんにも聞かれていたらしい。ついでに言えばきっと、編集長との話も。

 おそらく、編集長と一緒に来たのだろう。それで、社長との話を聞いてまず、編集長だけが乗り込んできたというわけだ。なんともお恥ずかしい話だろうか。

 穴があれば入って隠れたいくらいの想いで僕は自嘲する。そんな僕の自嘲を見たのか、文香さんは言った。

「……私は」

 幾分か躊躇をした様子で、文香さんはそこで言葉を区切る。言ってはならない言葉を言おうとしているように、僕には見えて。

 どうかしたのですか。その言葉を言おうとした瞬間に、文香さんは二の句を継いだ。

「読んでみたいです、Pさんの書いた物語を。……私がこんなことを言うのはおかしなことだと。そう、思うのですが」

『……え?』

「私も……本で救われた人間です。ですから、少しだけ……Pさんのことが分かります」

 どこか儚げな微笑を浮かべ、彼女は言う。僕と同じように、人付き合いが苦手だったこと。本が友達といっても過言ではなく、おかげで今でも本の虫であること。

 そんな彼女が、ある日公園で見かけた本の虫――僕を見て、自分と同じタイプの人間なのだと思ったこと。その人が実は叔父の知人であること。そして。

「私は……本を読むだけで、満足でした。Pさんのように、夢を持ったことなんて……ありませんでした。だから……」

 彼女は言った。僕にとって、あまりにも驚きの言葉を。

「私は……Pさんが、羨ましかったです。きっと、妬ましくも……あったのかもしれません。どうしてあれほど……身を犠牲にして生きられるのだろう、と」

 その言葉を聞いて、僕は呆気にとられ言葉を出すことも出来ず。ぽかんとしたまま彼女を眺めている他なかった。

 僕が羨み、憧れていた相手が。僕を羨み、妬んでいた? そんな馬鹿な。

 そうは思ってもあまりに大きな衝撃で言葉を失ったままの僕に、文香さんはまた言葉を継ぐ。

「……Pさんは確かに、本当にやりたいことをやってなかったと思います。でも……それでも」 

 文香さんは一呼吸をおいて。そして、少し笑って。

「あなたの頑張りは……紛れもなく、本気だったのだと思います、Pさん。きっと、大丈夫です。”人の夢”は”儚い”ものではありますが……それでも、叶う物なのですから」

 ――その言葉が、トドメだった。

『……文香さんにそう言われては、どうにも。……僕のような人間が夢を追うなんて。限りなく遠くにある兎を追うなんて、おこがましいことだと思っていました』

 社長の言葉だけでも、きっと選んだだろう。編集長の後押しだけでも、決断できただろう。

 けれど、ここで心が決まることはなかった。悩みに悩んで、かなりの時間を使って。それでようやく、踏ん切りがつくはずだった。

『僕は、夢を追ってもいいんですね。……いや、許しを得るとか得ないとか、そういうのじゃあないんだ、きっと。初めからずっと、夢は彼方にあった。僕が見て見ぬふりをしていただけで』

「……はい、いつだって、夢はあります。投げ捨てても……放り出しても……。無くなったりはしないものですから」

『……はは、そう、ですよね。目が覚めました。夢を追おうと思います。目が覚めてから夢を見るなんて、おかしな話でしょうけれど』

「……ふふ、そうですね」

 文香さんは笑った。僕も笑う。心なしか、”諦めたような笑み”ではない、本当の笑顔が出せた気がした。そんな僕を見て、文香さんは呟くように。

「……そんなPさんだから、きっと――好きになったんです」

『――えっ』

 一瞬耳を疑った。好き? 何がだろうか。文脈から推察できるものは数限りがあって。そして僕の頭はおろかにも、ある一つの解答を出そうとしている。

 あり得ない、と思っていた。けれど、ほかに候補は見当たらない。

 文香さんが、好き。何? 物じゃあない。人? ……僕?

『……えっと、その?』

「……っ、すみません、そろそろ……大学の講義がありますので」

 僕が真意を問いただそうとしたとき、文香さんは顔を赤くして立ち上がった。そして声を掛けようとする間もなく、そそくさと病室を出ていく。

 その機敏さはほとんど止める時間なんてないほどで。いつものおっとりした様子はどこへやら、まるで一流のスポーツマンだ。

 ……僕はどこか、現実逃避をするようにそんなことを思った。

 少なくとも、今しがた文香さんがいたところに、もう文香さんはおらず。僕はこの病室に一人となった。

(でも、ちょうどいいのかもしれない。あのまま本当のことを聞いてしまえば、どうにかなってしまいそうだった)

 僕は内心で思う。あまりのことで所作には出なかったけれど、時間差で今、僕の心臓は異常なほど早く鼓動をしている。BPMでいえば180は記録しているのではないだろうか。

 それに自分でもわかるほどに、顔が火照っている。さっきの文香さんも、こんな感じだったのだろうか。

 ……そんな状態でも、クリアな思考は僕の行き先を模索している。物語を創るという夢までの道のり。

 遠くに見えた、ずっと思い描いていた夢までの道のりは未だに遠い。けれどももう――恐れはしない。

本日の更新は以上です。
次回更新は投降予定分の校正完了次第を予定しています。
ありがとうございました。

P.S.デレステ、少しイベントを走ってみましたがボーダーが鬼ですね。


今回だけは本当にキツかった


今回は奇しくも三と二のアイドルが出てるな


連休ぶつけてきたらこうもなるよね
過去のイベントより7000~8000程度も跳ね上がるとは思わなんだ

□ ―― □ ―― □


「思ったよりも早い訪問だったな、Pくん。まあ私にとっては願ったりかなったりではあるが」

『ええ、あまり待たせてはいけないと思いましたから』

「殊勝な心掛けだ」

 社長の豪放な笑い声が聞こえる。僕は恐縮しながら、眼鏡を掛けなおした。

 ……あれから二日。退院した僕は、その足でシンデレラガールズの社屋へと向かった。用件はただ一つしかなかった。社長に対する返事だ。

 応接室らしい豪華な部屋で、社長と僕が向き合って座っている。正直なところ、足も手も震えていた。理由は単純だった。

 目の前の社長が僕を見据えてくる。その視線が何というか、威圧的とも圧倒的ともとれるものだから、というのが理由の一つ。

 もう一つは、今更ながら夢を追うことに対する恐怖が蘇ってきていることだった。それは、僕の決心を揺らがせるのに十二分過ぎると思っている。

 だから、退院後に時間を置かずこの場にやってきたというわけだった。なんとも救いがたい小心、臆病の化身だろうか。自分の矮小さにほとほと呆れさせられる。

 本当、度し難いと思う。路傍の石以下だよ。こんな自分を知られてしまったのだから、すでに見切りを付けられていてもおかしくはない。

 なのに。

「では聞かせてくれ。君の”夢”は何だね?」

 この人は、聞いてくれる。彼にとって何の利益もないだろう、僕の”夢”のことを。僕が追いかけると決めた、一匹の兎のことを。

『――僕の夢は、本を書くことです。この手で物語を創り上げることです。知った人が、”自分もこんな話を書いてみたい”と思えるような物を生み出すことです』

「なるほど。ではそのために何をする覚悟があるかね?」

 まるで、話に聞いていた就活面接だ。人生で初めての面接。今まで体験したことのないこと。自分のことを質問され、それに答える。なんとも不思議なやり取り。

『なんでも、です。僕に捧げられる物全てを。為せること全てを。僕の数限りのある人生を捧げます』

「いい覚悟だ。……私は君に、あらゆるサポートをすると約束した。もちろんそれは、君が役目を果たしてくれることを前提としている」

 ええ、知っています。あなたは経営者であって、篤志家じゃあない。あなた自身の”夢”のために、僕を使うつもりでいる。

『はい。ですが、僕はあなたを信用します。消耗品のように”使いつぶされる”のはご免ですが、あなたなら僕を”長く使ってくれる”と』

「大口をたたくじゃあないか? なるほど、初めて会った時からじゃじゃ馬と思っていたが、これは思った以上かもしれん。良いことだ、得てして名馬とは悍馬を兼ねるからな」

 社長はぱん、と膝を叩いた。それが僕には、この面接ともいえない面接が終わったことを示しているように見えて。僅かに息を吐いた。

「さて、Pくん。君にはやってもらいたい仕事が二つある」

 社長は唐突に切り出した。もはや採用とか不採用とか、そういうのさえない。いや、むしろ僕が決めることなのだろう。

 なにせ、社長の判が入った雇用契約書は、今僕の手元にあるのだから。この場で僕が返事した内容が、全てを物語っている。

 それにしても、仕事が二つとは。いきなり重労働になるのかもしれない。どのような仕事をすればよいのだろうか――。

「一つは我が社のチーフエンジニアだ。といっても実作業があるのは始めのうちだけでね。人が増えて来たら君の仕事は統括になる。必要なシステムを君が判断し、部下に作業をさせてくれたまえ」

 そう思っていた矢先に提示された仕事内容に、いきなり白目を剥きそうになる。あまりにも大任過ぎやしないか。長く見積もってもたかだか七年のエンジニア歴だ。

「まあ、何を言いたいかはよくわかる。だがぐっと堪えてくれ。メインの仕事はこれではないのだ」

『……は? エンジニアではないのですか』

 思わず聞き返す。当然だ。僕を採用するとするならば、エンジニア以外ないだろう。営業などもってのほかだし、事務はできるかもしれないが何もわざわざ僕を選ぶ必要はない。

(僕ならではの何かを見出して、ということではないのか……?)

 微かにそんな不安がよぎった。だからといって、夢を追うことを諦めることにはつながりはしないが――。

 そう思っていたとき。

「君にはプロデューサーをやってもらおうと思っている」

 社長はそう言った。ほんの一瞬、頭の中が真っ白になった。もちろん言葉の意味は分かる。

『プロデューサー、といいますと。アイドルを育てて売り出す……?』

 思い浮かんだ言葉をそのままそっくり口に出して、僕は問うた。百点満点の解答ではないが、おおよそ合致した職業内容だとは思っている。

 その予想通り、社長は僕の問いを肯定し、そして反問するように僕へと訊く。

「そう、そのプロデューサーだ。君に投げた仕事で思ったが、君は創造にも向いている――いや、君の夢を鑑みれば、むしろこちらが本領じゃあないか。だから是非ともやってほしいのだ。アイドルに対する興味と知識はあるかね?」

『お言葉ですが、それほどは。その、記事を二度ほどは書いた覚えがあります。経済メインの題材で、音楽業界と芸能界の持つ経済効果についてですけど』

 まさか本当に、僕をプロデューサーにする気で居るのだろうか? いや、流石にそれはないだろう。その思いは間違いなくあった。

 だがこの社長のことだ。そんな無茶をしかねない、という信頼に近しい思いもある。会って僅かな時間しか経っていないが、そう確信できるだけの行いを見てきたから。

「それで十分だ。我が社にはプロデューサーがまだ一人しかいなくてね。しかも未熟な青二才だ。……もっとも、”夢”を追う熱意だけは一人前だがね」

 彼の言う未熟な青二才とは、あのエントランスにいたプロデューサーだろうか。僕より幾らか年下に見えたけれども、それでも僕よりも仕事が出来そうな印象があった。

 思えば彼と社長の関係性は、よく知らない。巨大とまでは行かなくとも自前の社屋を持ち、数多の会社を立て直して来た男が率いる企業。

 なのに社員が今のところ、彼と社長と事務員の千川さんしか見たことがない。今後増えるとしても、現状の数が少なすぎるように思える。

 僕とエンジニアが増えたところで人では足りないのではないか。そう思いつつ、社長の方を見る。そしてちょうど目があった。

 彼は笑っていた。なんとも楽しそうに、嬉しそうに。ここが腕の見せ所だ、そういわんばかりの表情で言うのだ。

「心配する必要はない、私がいる。必要な人員は血反吐を吐いても工面してみせよう。約束は違えんよ。君が”夢”を追えるだけの時間を確保して見せるさ」

 ……何の確証も、保証もないそんな言葉が。酷く頼もしく、酷く嬉しく、そして無償の信用に足るだけの言葉に思えて。

 僕は頷いた。もっとも、自分の心配をしていたわけではない。僕だけならまだしも、社長やあのプロデューサーが異常な激務をこなす羽目になるのか、と心配になっただけのことだ。

 ……その心配が皮肉なことに、かつての自分に向けられていたものと同質であると気づくのはずっとずっと後の事だったけれど。

「ところでPくん。君に担当してもらうアイドルについてなのだがね。実は一人、心当たりがあるのだよ」

 やがて社長は、唐突に話を切り出した。はじめ、何のことを言っているかさっぱり理解できなかった。アイドルについては、僕は無知もいいところだったから。

「しかしその子は、とてもではないが私では説得できそうもなくてね」

『……? はあ』

 だからそう切り出されたところで、僕がどう返答するべきなのかいまいちわからず、そんな気の抜けたような言葉しか返せなくて。

 どうやらスカウトとか、そういう感じのお話なのだろうが……。尚更僕には無縁の事ではないだろうか?

「そこでぜひ、君に説得してもらいたいと思うのだが、どうかね?」

『……僕が、ですか? いやいや、流石にないでしょう、それは。社長で説得できない方が、僕でできるはずもないと思うんですが』

 僕の返す答えはこうである。当たり前だ。誰だってそう思うだろうさ。まして、もともと人付き合いの苦手な僕なのだから。

 だが社長はなおも食い下がる。まるでジョーカーを切る博徒さながらの真剣な眼差しに、僕は一瞬たじろいで。そして畳みかけるような社長の攻勢が僕を襲う。

「なにを言うかね。きっと君だけが説得できるものだと、私は信ずるよ。君なればこそ、彼女と言葉を交わし、心を通わせることができると」

『そんな大げさな……』

「大げさなものか。君を見込んでの頼みだ。どのような結果になっても構わない。万に一つ説得が失敗したところで君を責めることはない。どうかね、リスクはない。一度やってみては、くれんだろうか」

 何とも口が上手いお方だ。よくそこまで人をおだてる言葉が出てくるものだと感嘆の念を抱いてしまう。

 多分に、僕は自分を卑下している部分があると思う。でもそれを差し引いたって、大した才能はないとも思っている。

 そんな僕を、少しでもやる気にさせるのだから。きっと僕は褒められて伸びるタイプなのだろう。そんな馬鹿げたことを思いつつ、褒めることが出来るのも才能なのだろうと考えて。

 であれば、僕が応えないわけにはいかない。なんでもやるって、言ってしまったしね。無論そのアイドル候補の方を僕が説得できるなんて思ってはいない。けれど社長の言った通り、僕にとってのリスクはない。

『……そこまで仰るのであれば、やってみましょう。ただ、成果は期待しないでください』

 そう答えた。まあ、渋々といった感じだ。でも社長はそうは受け取ってはくれなかった。

「いよっし、これであの子も獲ったも同然だな。君ならそう言ってくれると思っていたよ。感謝するぞ、Pくん」

 軽くガッツポーズをする社長の姿は、不思議と似合っていた。

 小声で、流石にこれはあいつも怒るかもしれないとか、その辺りはPくんに何とかしてもらうとか。そういうのが聞こえた気がするけれど。

(……なあんだか、嫌な予感がするなあ)

 僕はそう思って、眼鏡のずれを直す。

 ……その予測が外れていないことを、この数秒後に僕は知る。

□ ―― □ ―― □


(……さすがに気が滅入るね)

 僕の偽りのない気持ちがそれだった。現在地は鷺沢古書堂。正確に言えば、その軒先数mの位置。

 社長より賜った指令の、スカウト対象がおわす場所だ。ぶっちゃけた話、誰をスカウトしなければならないかは、言うまでもなかった。

「いやあ、君の見舞いに病院で会ったとき、ピンと来たね。彼女は逸材だ。あいつの姪御だっていうし、君の友人らしいし、逃す手はない」

 いかにも社長らしい言葉が脳裏に蘇った。今なら社長の「君だけが説得できる」の意味も理解できそうな気がする。

 とはいえ、だ。

(……結局、あの件はどうするべきなのだろうか)

 思い出すだけで心臓が爆ぜるような鼓動を返す。思わずしゃっくりが出そうになるくらいの勢いだ。

 きっと――好きになったんです。

 正直なところ、僕の聞き違いだと思っている。そうでもなければ、なんだか嬉しさでおかしくなってしまいそうで。

 ただそもそもの問題として、僕と文香さんとでは釣り合いが取れないと思っていた。夢云々の問題じゃなくて、なんというか人間の魅力的な部分でだ。

 「美女と野獣」ほどではないと思いたいけれど。まあ、「美女と三枚目」くらいの差はあるんじゃあないか。

(……とりあえず、スカウトの話から始めよう。その後に、こう、遠回しで聞けば何とか)

 僕はなんとも後ろ向きな意を決し、引き戸を開けた。からら、という音が響く。

 相変わらず、包み込まれるような古書の匂いが僕の鼻腔をくすぐる。こんな場所で寝られたら、さぞ熟睡できることだろう。

 そういえばこのところ、二時間半睡眠がだんだん長くなっていっている。昨日なんか、五時間ほども寝てしまった。いや、喜ぶべきことなのだろう。

 今までが異常だったのだ。こうして客観的に見れば、二時間半しか寝ない生活を数年過ごして、今まで倒れていないのが奇跡だった。まるでロボットから真人間に戻っていくような気さえする。

『……文香さん、いらっしゃいますか?』

 そう声を掛けながら、僕は店の奥へと入っていった。いつも文香さんがいるカウンター。そこに目をやるとやはりいつもと変わらぬ姿で。

「……いらっしゃいませ、Pさん。」

 本から目線をあげて、その青い瞳をこちらに向けながら文香さんは言った。なんというか、名指しで出迎えられたのは初めてだったので、少し嬉しくなる。

「もう……お体の方は?」

『あ、はい。お陰様で。最近は寝過ぎと思うくらい寝てしまうほどで』

「よい……ことだと思います」

 そんな世間話を二、三言交わして。僕は少しだけ背筋を伸ばした。それで何かを察したのか、それまで読んでいた本に栞を挟み、ぱたんと閉じる文香さん。

 そして目を合わせる、僕と文香さん。僕は言った。

『文香さん、一つお話があります』

「……はい、何でしょうか」

 心なしか、緊張してきた。文香さんも緊張しているように見える。幾らか、顔が赤くなっている気もする。

 何から話せばいいのだろうか。そうだ、ひとまずスカウトの話からしなければ。……そのあと、文香さんの真意を聞こう。

『その……アイドルに興味はありますか』

「アイドル……ですか? ……アイドル雑誌は、流石に取り扱ってはいませんが」

 少し、文香さんの表情が怪訝なものになる。それを受けて、僕も少しだけ小首を傾げる。本の話ではなかったのだけれど、伝わらなかったのかもしれない。

『ああ、いえ。本の事じゃなくて、実はとあるプロダクションに就職することになりまして。それで、そこの社長から文香さんをスカウトしてくるように、と』

「……そう、でしたか」

 すると途端に文香さんの表情が落胆の色で染まる。次いで、どこか怒りというか、憤りを多分に含んだ声で。

「お話というのは……その、アイドルのスカウトの事だったのですね」

 僕は一瞬訳が分からなくなって、少しだけ狼狽えてしまう。……何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。

 それとも、文香さんはアイドルが嫌いだったのかもしれない。ぐるぐるといろいろな思考が頭を支配する。――そんな混乱の極みにあった僕だけれど、たった一言。

「……お返事が、頂けるものと思っていたのに」

 そんな文香さんのつぶやきで、何もかも合点がいく。

(馬鹿、あーもう、この馬鹿野郎め!)

 何のことはない、聞き違いなどではなかったのだ。可能なら自分を本気で殴りたい。いや、殴ろうと思えばいくらでも殴れるのだろうけれど、ここでするべきことはそうじゃない!

『――文香さんっ!』

 僕は腹の底から声を出した。一瞬、文香さんがびくりと体を震わせる。驚かせてしまったのかもしれない。けれど、もう止めることはしない。

 腹を決めた。ああ、そうとも。もう一度”二兎追い人”になってやる。今更増えたところで、これまでと変わらない。今までも、二兎追い人だったのだ。

 ただ内実は違う。偽りの兎を二匹追うのではない。真なる兎を二匹追う、本当の”二兎追い人”。

『ずっと、自意識過剰と思ってました。僕の聞き違いだって。そんなのあり得ないって。でも……もう、言い訳はしません』

 すう、と息を吸い込んで。鳴り響く心臓は、今や早鐘どころの話ではない。機関銃のように、重々しい連打音を生み出している。

 そうだ、言え。ここでやめるな、追うと決めたのだろう――!

『――僕も、文香さんのことが好きです。でも、今の僕じゃ、応えられない。文香さんに相応しい男じゃないから。だから、だから……っ』

 唇が乾燥している。口の中もカラカラだ。唾液が出てこない。舌が歯にこびり付きそうになる。でも、言わなきゃ。僕は言わなきゃならないんだ。

『待ってください、文香さん。僕が、僕が夢を追って……文香さんに相応しい男になるまで。三年……いや、二年で成し遂げて見せます。必ず文香さんに釣り合ってみせます。だから――』

「……」

『待っていてはくれないでしょうか……っ』

 僕は頭を下げる。――だってそうだ、事実上これは文香さんの好意を断っているに等しいのだから。

 でも今更、変えることはできない。僕はやりたいように生きてきた。それが染みついてしまっている。だから、夢を追う。物語を創り上げるという夢を。

 もちろん文香さんも追う。文香さんに相応しい男になれるように。でもその一歩が、夢を追うことから始まると僕は思っているから。

 ……それから、少しの時間が流れる。僕は頭を下げたまま文香さんの言葉を待った。けれど文香さんは何も返してはくれない。

 やはり許してはくれないのだろう。そう思い始めた時だった。

「……人は、驚き、嬉しいときに、言葉を失うものなのですね、Pさん」

『……え?』

「……頭をあげてください、Pさん」

 僕は文香さんの言葉に従うように、ゆっくりと頭をあげる。そして彼女の顔を見た。

 文香さんは笑っていた。何もかも包み込むような優しい笑みで。僕にはもったいないほどの、満面の笑みで。

 ――ああ、社長がぴんと来るのも分かる。だって、こんなにも美しい。アイドル、偶像という称号がこれほど似合う人なんて、数限りがある。

 僕が、放心したように文香さんを見つめていると、文香さんは立ち上がった。そしてカウンター越しに僕の手を取って。

「……でも、待ちません。待てません。……どうか、一緒に居させてください、Pさん。アイドルでも、なんでもなります、あなたの傍に居られるなら」

 今にも泣きそうな表情で、彼女は笑う。

「……Pさんの人生が”本”だというのであれば。私が、”栞”になります。きっと、Pさんは……また無理をされるでしょうから。それなのに……待つなんて、見ているだけなんて、出来ません」

 それで、もう駄目だった。放心していた僕の心が、一気に僕の中へと戻ってくる感覚があって。目頭が急に熱くなって、つつ、と涙が零れる。

 止めることなんてできるはずもなく、どうしようもないほど流れる涙を拭くこともせず。僕は、呟くように聞いた。

『……僕で、僕なんかでいいんですか』

「Pさんが……いいんです」

『……そう、ですよね。はは、どうしよう。涙が止まらないですよ』

「……いいんですよ。悲しい涙では……ないのでしょう?」

『もちろん……っ』

 文香さんが握る方とは反対の手で、眼鏡の隙間から涙をぬぐう。今でもまだ、目頭は熱いけれど。この涙は悲しいものではないけれど。それでも、もう止めなくては。

『文香さん』

「はい」

『不束者ですが、よろしくお願いいたします』

「……どのような、意味として受け取れば、良いでしょうか」

 文香さんが尋ねる。僕は確たる意思と共に、答えた。

『僕が夢に追いつくまでは、あなたのプロデューサーとして。そして僕が夢に追いついた後から、その先の未来全て――あなたの恋人として』

 刹那、彼女の青い目から涙が零れる。しかし彼女は笑って。そしてとても嬉しそうに。

「はい……っ」

 頷く文香さんの涙を僕は拭った。それからつないだままの手を見て、少しだけ恥ずかしくなって、でも嬉しくて、思わずはにかむ。

 ――万里にも思える夢、その第一歩。僕の目の前には追い求めている兎が居る。けれど、捕まえることはまだしない。

 本当に、心の底から望んで再び、”二兎追い人”になったのだ。万里を踏破し、ずっと追いかけていた”兎”を捕まえるその時まで。

 さあ。

『行こう、文香さん』

「はいっ」

 傍に追い求める兎を携え、はるか遠くの兎を追う。遠くも近い”二兎追い人”の旅路が、今始まるのだ。

今回の更新は以上です。
残りはエピローグ部分のみですので、次回更新は明日明後日くらいに行えればと思います。
ありがとうございました。

おつー

良いね良いね
一人前な彼の担当アイドルも気になるところ

しかし全編通してみるとスキャンダラスな事務所だな
千秋さんは微妙なとこだが他はほぼ入社前からカップルやん

□ ―― □ ―― □


『素晴らしかったです、文香さん』

「……本当、でしょうか。もしそうなら……良かったのですが」

『僕が保証しますよ、まあエンジニアを兼任するプロデューサーですからね。どの程度当てになるかっていうのはちょっと、わかりませんけれど』

 巨大なライブハウス、その舞台裏から続く楽屋前の通路に僕と文香さんはいた。

 上気し少し顔を赤らめている文香さんへ、携えていたスポーツドリンクを渡す。文香さんはそれを受け取ると、ゆっくりと飲み始めた。

 消耗しきった文香さんの様子をうかがいつつ、遠くから聞こえるどよめきや歓声に耳を傾ける。そうとも、この音が何よりの証左になるはずだ。

 僕がどう感じたか、なんて些少なこと。ステージから文香さんが消えてもなお続く歓声は、今回のライブがどうだったかを物語っていた。

 文香さんの単独ライブは、大喝采のもとに幕を閉じたのだ。

『今回のライブで名実ともに、文香さんも一流アイドルの仲間入りですか』

「……そう、なのでしょうか。実感は、ありません。私がアイドル……というのも、はじめは何か、冗談のようなものだと、思っていましたから」

『僕は初めて見たときからずっと、そこらのアイドルより綺麗だと思っていましたけれどね』

「……もう、Pさん」

 文香さんは照れたように少し俯いて、一歩僕に近づく。そして僕にもたれかかるようにして頭をこつん、としなだれかからせて。

 こんなところ、人に見られてはどうなるか分かった物ではない。けれどそれを拒絶することもたしなめることもせず、むしろ抱き寄せるようにして彼女の背中に手を回す。

『思ったよりも、大変な道のりでしたね』

「……はい。でも、Pさんが……居てくれましたから」

『僕の功績なんてたかが知れていますよ。ほかのプロデューサー方が手伝ってくださらなければ、今頃どうなっていたか』

「ふふ……そう、ですね。私も……ほかのアイドルのみなさんが、支えてくださったおかげで。こんな分不相応な場所に、立っていられます。でも……」

 文香さんはゆっくりと顔を上げると、僕の目を見た。その青い瞳は吸い込まれそうになるほど綺麗で。かすかに前髪で隠れたそれには、人をひきつけてやまない輝きがあって。

 思わず見とれていると、少しだけ文香さんは笑い、そして言った。

「……Pさんの傍に、居られるから。それだけで、私は……頑張れました。はじめは、アイドルなんて、無理と思っていましたけれども。でも……Pさんが、私の物語を……創ってくれました」

 そんな言葉を、まっすぐに僕へと伝えてくる。胸の鼓動は跳ね上がり、目頭が熱くなって。こぼれそうになる涙をぐっとこらえるようにして。

『……僕は、果報者です。万里の道も苦じゃなかった』

 この一年半、ずっと文香さんと共に歩んできた。エンジニアとしても、プロデューサーとしても、一人の男としても。あらゆる場面で彼女が隣にいてくれ、支えてくれた。

 シンデレラガールズは急成長を遂げ、今や押しも押されもせぬ大プロダクションとなりつつある。在籍するアイドルのほぼ全員が開花し、あらゆるところで引っ張りだこなのだからそれも当然である。

 もっとも、僕以外の六人の手腕によるところが大きい。僕と言えば、彼らのプロデュースが楽になるようなシステムを設計し、時には要望を受けて改修をしたくらいだ。

 何せプロデューサーとしてはドのつく素人だったし、担当も文香さんただ一人。ほかに一人だけしか担当しないプロデューサーはいたけれど、彼は営業や広報でもコンスタントに活躍をしていたから。

 だから僕に出来ることは、技術面での彼らのサポートだけだった。それも最初の半年間だけで、あとは設計と改修計画を組んで、僕より年上で技量もあるだろうエンジニアに任せて、出来上がった物を軽く修正するだけ。

 社長はそれでいいと言ってくれたし、部下のエンジニアたちの信任があったからずっとやってこられた。

 一度その理由を訊いたことがある。僕より二回りも年上のエンジニアは、笑って答えてくれた。

「社長から伺ってますよ。なんでも企業ページや基幹システムを全部組まれたそうじゃありませんか。しかもソースが見やすいしデザインもされている。エンジニアとしてはそれだけでついていく気になるってもんです」

 ……僕は、本当に果報者だ。心からそう思う。

『僕は感謝しています。社長に、同僚に、部下に。そして何より、文香さんに。ずっと僕を助けてくれた。アイドルになってまで』

「……私が望んだこと、ですから。それに今は……アイドルが楽しいと、そう思います。Pさんのおかげで、知らない自分を、知ることができました」

『……そう言ってもらえると、救われる気がします。ありがとうございます』

 僕は少しだけ笑って、礼を言う。この一年半で笑い方も、少しまともになったと思う。今では”諦めた笑み”なんていわれることはない。

 むしろあるのは、達成感。

『文香さん』

「はい」

『家に帰ったら、読んでほしいものがあるんです』

「……はい」

 僕の言葉に、文香さんはすべてを察したかのように頷いた。そして、

「……完成、したのですね」

 まるで我が事のように、笑顔を浮かべて喜んでくれた。なんだか、それを見ると僕も余計に嬉しくなってしまう。

『一年半もかかってしまいました。遅筆……ではないはずなんですけど』

「ふふ……二年、の予定でしたから。思いの他、早かったのだと……思います」

『はは、そうでした』

 僕と文香さんはお互いに見合うと、どちらともなく、くすりと笑う。

「それで……どのような作品、なのでしょうか」

『ああ、はい。実はもう編集長には目を通してもらっていて、出版前のゲラ刷りになっているんですが』

 何となく気恥ずかしさに襲われた僕は、二度、三度と頭を掻いて。それから告白するように。

『恋愛小説です』

「……それは、少し意外、ですね。てっきり……ファンタジー小説か何かかと」

『その予定だったんですけれども、ちょっと事情がありまして』

 文香さんの予想は間違ってはいない。当初は僕も、王道ファンタジーを書こうとしていた。けれどどうしても書けなかった。その理由を考えてみて、僕はある一つの結論に達した。

 僕と文香さんが出会う契機になったあのファンタジー小説。あれ以上のものは決して、今の自分には書けない。書く必要もない。だって――僕にとって、あれは王道ファンタジーの完成形なのだから。

 だからファンタジーは書かなかった。きっと、いずれ挑戦することもあるだろう。けれど今じゃあない。

 そんな時に、ふと考えたのが恋愛小説だった。理由は、とても単純だった。

「……どのような内容、なのでしょうか?」

『はは、それは秘密です。でも、題名は決めてあります』

「……題名、ですか」

『はい』

 微かに笑って、僕はその題名を口にする。

『……”二兎追い人の栞”、にしようかと』

 その瞬間、文香さんは気づいたように目を見開いて。それから少しだけ顔を赤くし、おずおずと探るように。

「……それは、もしかして。その」

 なんだか失礼だけれど、その様子が少しおかしくて、そして愛おしくて。

『はは、大丈夫。フィクションです、主人公は僕ほどどうしようもない奴じゃないし、ヒロインは文香さんほど魅力的に書けませんでしたから。でも……事実は小説よりも奇なり。この物語を残さずにはいられなかった』

 笑って言う僕に、そういうことじゃないです、と少し怒ったような表情でいう彼女がまた愛らしくて。

 だから。

『――ようやく、終わります。”二兎追い人”の旅路が。やっと捕まえることができました』

「……はい。ようやく、捕まえてもらえるのですね」

『待たせました、文香さん』

「はい……待ちました、Pさん」

『文香さん』

「はい」

『僕と付き合っていただけないでしょうか』

「――喜んで」

 文香さんが涙を流す。僕も同じように涙を流した。

 じっとその青い瞳を見つめて。文香さんも僕をじっと見て。




「ずっと、好きでした。そして……これからも、ずっと好きです、Pさん」

 僕たちは短い、短い口づけを交わす――。




 ――これは二兎追い人と、そんな男にに寄り添ってくれた栞の物語。

今回の更新でこの作品は完結となります。
元は去年の初夏に仕事の多忙で投げ出してしまった作品でしたが、何とか仕上げることが出来てほっとしています。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

次回作品については現状未定です。出来れば書きたいと思ってはいます。
それでは依頼を出しておきます。お世話になりました。

社長:四十台手前ぐらい 人心を掌握する英傑

七人目の正直:三十代までは三年ほどで27歳ぐらい 社長にさえ楯突く気概のある正直者
 
凡人と第六感:大学の卒業後勤続七年で29歳ぐらい 非凡なる凡人

五光年先の星空:大学を卒業して三年弱なので25歳ぐらい とんでもない宝玉 星空の様な満ち溢れた才能の持ち主

四面楚歌と遊び人:大学を卒業して二年経っていないで23歳ぐらい 劉邦
 
表裏比興の三枚目:今年で27歳  懐刀 張良

二兎追い人の栞:中学を卒業最後に学校という場所へ行ってから九年で24歳ぐらい 名馬・悍馬

一人目?:二兎追いPより幾らか年下 夢を追う熱意だけは一人前の青二才

それぞれがそれぞれに秀でた人達だけど社長曰く七人揃って完璧たり得るみたいだしラストの話が楽しみだ

待ってた甲斐があった面白かったよ乙
最後は人当たりの良い一人前な最初のプロデューサーか

というか"一"で完結……だよね?七人の侍方式でいくと
"零"は流石に無いか

おっつんおっつん

おつおつ
1人目ということはひょっとしてデレプロ設立前からの話が見られる…?
とにかく次作のあることを期待して待ってます
いつか読めれば嬉しい。

本当良い文章だなぁ
一人目の話待ってます

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2016年05月29日 (日) 01:44:09   ID: U32QnOZU

すっきり終わってくれてよかった
また次の話、楽しみにしてます

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