荒木比奈「Are what you love?」 (18)


オタク is LOVE!のフルを聴きました

荒木比奈さんと担当Pがメインです

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1594842071


雨が降ると、膝が痛む。昔手術した場所は、数年経っても時々痛みを持ってくる。忘れたいのに、この痛みは消えてくれなかった。二、三度膝を曲げ伸ばしする。

「痛てて……」

やっぱり痛い。けど、この痛みが、僕の寝ぼけた目をちゃんと開いてくれた。スマホを観る。アラームが鳴る数分前。少しもったいない気がする。ま、いいや。二度寝してそのままぐっすりになっちゃうよりはマシだ

冷蔵庫から牛乳を、棚の上からコーンフレークを手に取る。チョコ味がそろそろ無くなりそうだから、プレーンのヤツと混ぜてかさまし。我ながら貧乏くさいなぁ

「いただきます」

と、スプーンを口に運ぼうとした瞬間にスマホが鳴った。ビクってなった。切り忘れたアラームだ。タイミング悪すぎる

切って、机の上に置いて。もう一回『いただきます』と言って、コーンフレークを食べようとす、うわ、またスマホが鳴った。仕事のメールかも、とスプーンを置く

『プロデューサーさん、お疲れ様です。荒木比奈です』

なんだ、比奈からのラインか。どうしたんだろう……あっ、写真も一緒だ。一切比奈の身体が映ってない写真だ。彼女、自撮りとかあんまりしないんだよなぁ。アイドルなのに。せっかく可愛いのに。もったいない。

写真内の情報を拾っていく。その途中に、また文字が飛んできた

『朝一で並んで買っちゃいましたよ~!』

それは、あるアイドルのCD。三人ユニットの女の子達が歌った曲を刻んだ円盤。『オタク is LOVE!』――彼女はそれの購入報告をしてきたのだ。あの早朝開店のショップのビニール袋も写真の端に映っている。こんな時間からなんて、バイタリティがすごいなぁ。サンプルは数日前に渡したのに、やっぱ自分でも買っちゃうんだね

『お疲れ様。僕も出社前に買うよ』

まあ、僕もそうだけど。プロデューサーとして前もって担当アイドルのCDはもらうけど、それはそれとして自分でも買っておきたい。販売数に貢献とか、そういうのもあるけど。それ以外の感情の方が大きい。言語化出来ない、衝動めいたなにかに突き動かされる。

きっとこれが、好きってことなんだろう

返信するとすぐに既読が付く。程なくまた彼女からメッセージが来た

『おお! じゃあ事務所で聴き比べましょ!』

同じCDなのに比べるも何もないでしょ、とおかしくなった。提案する比奈も、それに二つ返事で了承する僕も、かなり舞い上がっているね

やりとりを一度終え、ふやけたコーンフレークをスプーンで掬う。ほとんど噛めなくて、そのまま飲み込んだ。


出社、雑務、資料作成、からの昼休憩。コンビニ弁当を平らげた後、発売されたばかりの曲を聴く。セリフが多かったり、コールが入っていたり、明るく突っ走るような歌詞だったり。楽しげで、背中を押されるような曲だろう

「好き、ねぇ……」

歌を聴きながら、ボソリと呟く。歌は彼女らが好きなもの――俗に言う、オタク趣味なものを讃えることで、何かを好きな人たちを応援している。良い歌だろう、ライブとかで披露すれば大盛り上がりは間違いなしだ

でも、僕は素直に受け取れられなかった。歌詞中の『好き』というワードが、心のよくわからないところに引っかかっていた。

これはきっと、僕の個人的な理由で。良い曲だと思っているのに、どこかで『僕には眩しすぎる』と否定している。アンビバレンツだ。

この感想は、初めて仮歌を聴いたときからずっと思っていた。レコーディング中も、ジャケット撮影の時も、心の一カ所に淀んで溜まっていた。どうしよう、こんな気持ちで曲は聴きたくないのに

「おっつかれさまで~~ス! 荒木比奈、レッスンから戻ってきました!!」

と、曲がちょうど終わって、次のカラオケVerに行くというところで比奈がやってきた。いつものジャージの前が閉まってない。レッスン後のシャワーで濡れた髪が乾ききって無く、しなってなってる。表情は大黒天様くらいに笑っている

僕が担当してきた間で、一番と言って良いくらいに浮かれてる。地に足が付いていない。スキップもしちゃってる。本当に凄い嬉しいんだ

「これ! ほら! 特典付きの! ラインでも言ったとおりに!」

「僕はもう聴いてる」

比奈がカバンを漁って、CDを取り出す。もう封が切られていた。再生機器もないのに、どうしてだ。歌詞カードを見たかったのかな。浮かれちゃってるなぁ。まあ、僕も一緒のコトしてるんだけど。仕事用のPCでコッソリ聴いてたし。そのままスマホに落としたし。

浮かれている彼女へ、僕はイヤホンを外してスマホ画面を見せる。彼女はおお、と目を見開いた

「もう一回流しません? 最初から、頭から、もう一回! もう一回っス!」

「オーケー、行くよ」

二人ともテンションがおかしくなっていた。変なノリで、お願いと了解をやりとりする。

自分の歌う曲が発売され、いろんな人の手に渡る嬉しさを比奈が感じて。自分の担当アイドルの活躍という、プロデューサー冥利に尽きる成果を僕は実感していた。僕たちは、これで浮かれないなんて無理だった

曲を流す。十数分前にも聴いた曲を、もう一度。とんでもないヘビーローテーションだけど、何回聴いても良いものは良い。けど、何回聴いても、振り払えない雑念みたいなのは一緒に付いてくる

「あ~ここのハモり、合わせるの大変だったんスよ~!」

コールに合わせて腕を振ったり、足でリズムを取ったり。鼻歌も無自覚だろう。比奈は楽しそうに曲を聴く。横目でそれを見る。もう何度も聴いて、歌ったのに。僕よりずっとこの曲に触れているのに、比奈はまだまだ好きを煮詰めて行ってる。

「……」

僕は、本当にこの曲を楽しめているのだろうか。隣で比奈がしているように、心の底からこの曲に『好き』だと言えるだろうか。

僕は自分の問いに、首を横に振る。僕は本心からこの曲を『好き』だと言うことは出来ない。良い曲だと思う。何回も聴きたいと思う。だけど、『好き』だとは言えないのだ。


プレイリストも佳境になった頃、比奈の身体が揺れなくなった。彼女は時計を眺めながら口を開く

「……そろそろお昼休憩、終わっちゃいまスよね?」

「まだ大丈夫だけど……」

「いんや、ちょっとここらでオイトマさせていただくっスよ。これから衣装合わせがありまスし、早めに移動しといたほうがいいっスからね」

「そっか、お疲れ様。こっちの仕事が片付いたら、見に行くよ」

「……無理しないでくださいっスよ、CD発売までバタついてましたし、お仕事まだいっぱいあるんじゃないっスか? 衣装合わせならもう、アタシ一人でも十分できるっスよ! ここにいるのはアイドルとして進化した荒木比奈っス!」

「それは頼もしいな。じゃ、お言葉に甘えて溜まった分の雑務を片付けるよ。後でデータを送ってもらうよ」

「わかりましたっス! その……目の下、クマできてまスんで、ホント、お体だけは大切に……アタシが言えたことじゃないっスけどね!」

そのまま比奈は去って行った。担当アイドルに気を遣わせちゃったなぁ。比奈に何か悩んでることを察っされたかもしれない。申し訳ないなぁ、プロデューサーとして気合いを入れなおさないと

「……」

外はまだ雨が降っていた。椅子から立ち上がる。やっぱり膝は痛んだ


これまでは忙しくて自分の心のモヤをちゃんと見つけることが出来ていなかった。けど、少し落ち着いた今は、それの形がよく分かるようになった。担当アイドルの記念すべき歌を聴いたときに生まれた、この曲への後ろめたい感情の正体。

僕は、この曲が賛美している『好き』を受け止められていない。

その原因は、僕の膝にある。今日みたいな雨の日に痛む、過去に手術したことのある左膝。

僕はサッカーが好きだ。観るよりやる、観客よりもプレイヤーとしてサッカーに触れるのが好きだった。『大きくなったらプロのサッカー選手になります』って夢を、ずっと10年以上持ち続けたまま生きてきた。学校生活の全部をサッカーにかけた。

けど、その夢は夢のままに終わった。僕は左の膝を壊した。部活帰り、歩いている所をバイクにはねられた。信号無視だった。過失は8:2。僕はまったくサッカーとは関係ないところで夢を絶たれた。

リハビリのおかげで普通に歩いたり、軽く走ったりは出来るように回復したけど、フィットネスとフィジカルが要求されるサッカーはもう出来なくなっていた。

怪我をしてからもサッカー部にはい続けて、マネージャーみたいな仕事をやっていた。少しでもサッカーに触れていたかった。この時のマネージャーみたいなことをした経験は、今のアイドルプロデュース業にも活きているけど

ただ、自分がいないピッチを眺めるのが、この上なくしんどかった。『オタク is LOVE!』を聴いた今、このしんどい気持ちと同じような感情をまた生んでしまった。

これが、心に引っかかっている感情の正体だ


『オタク is LOVE!』の『好き』は真っ直ぐだ。でも真っ直ぐすぎて、僕には受け止められない。

例えば、荒木比奈は漫画が好きで。漫画を読んで、漫画を描くことでその『好き』という感情を満たす

神谷奈緒さんはアニメが好きで。主題歌を聴いたり、フィギュアを集めたりする事で『好き』を広げる

安部菜々さんはアイドルが好き。自分が望む姿のアイドルになることで『好き』を表現する

それから、プロデューサーである僕。僕はサッカーが好きだ。でも、その『好き』を行動に移すことは出来ない。好きなサッカーをする事は不可能。

サッカーが好きで、好きで、溜まらないくらいに恋い焦がれているから。余計に出来ない自分が嫌になる。『好き』を実行している『オタク is LOVE!』を、心の全部で受け止められていない。

極めて個人的で、どうしようもないことだ。それで悩んで、担当アイドルに心配をかけさせた。駄目なプロデューサーだ、僕は

「……」

心の整理――感情の形の理解は済んだ。弁当ガラをゴミ箱に入れて、スマホを胸ポケットにしまう。大丈夫、何度もちゃんと忘れてきた感情だ。心の中で片をつけて、諦めたら、また忘れられる。仕方ないって言葉を使えば、ちゃんと解決できる

「未練がましいな、僕は」

たった十年持ち続けていた夢が叶わなくなっただけだろう。これから先の人生の方が長い。早めにけじめをつけて、きっぱり断ってしまわないと

「……もう一回聴こ」

しまったばかりのスマホを取りだし、音楽を再生した。そりゃあ、嫌な感情も来るけど、それ以上に繰り返し聴きたくなる。嫌な感情を得る事は避けたいけど、越えるくらいに『聴きたい』ってのがあって。僕はそれに抗えなかった


PC画面とにらめっこ。コーヒーの入っていたカップには、乾いた茶色の線が付いている。雨はずっと降っている。夜空は星一つ無い代わりに、雲でいっぱいになっている

ああ、結局残業してしまった。やっぱり一日で片付けようとしたのは無茶かなぁ。けど、明日からは比奈に出来るだけ付き添いたいし。CDの宣伝で出るラジオやバラエティもまだ控えているのだ。眠気覚ましのガムをボトルから一粒取り出す

『……無理しないでくださいっスよ』

数時間前の彼女の言葉が浮かんだ。心配している視線を思い出す。

「……帰ろうか」

と、そのとき。胸の中でスマホが通知音を鳴らした。エンドレスで流している歌が遮られた。何だろう、仕事のメールだろうか。ガムをボトルに戻して、スマホの画面を覗く

『お疲れ様です。荒木比奈です』

なんだ、比奈からのラインか。どうしたんだろう、もう直帰するって連絡をくれたのに。『どうしたの、何か不備があった?』と文字を打つ前に、彼女から続けてメッセージが届く

『まだ事務所にいますか?』

文章を読む。忘れ物をしてしまったのだろうか、それとも明日のスケジュールの確認だろうか、と僕は推測した

『いるよ、何かあったの?』

既読はすぐについて、返信もすぐに来た

『ちょっと待っててください。5分くらい』

スタンプも絵文字も一切ない。これは普段の彼女じゃ考えられない。おかしい、重要な何かが――事を窮するようなことが発生した可能性がある

僕はすぐに返事をして、事務所で待った。5分とかからず、比奈はやって来た


部屋の扉が開く。雨で濡れた髪とジャージ。リュックを大事に抱え、はぁはぁと息を荒げる担当アイドルの姿。


「比奈、どうしたの」

僕はタオルを手に取って、彼女に駆け寄る。手に折りたたみ傘を握っているのが見えた。ぽたぽた、と傘から落ちた雫が水溜まりを作っていた

僕は比奈へ、事務所で泊まる時に置いてるシャツを貸した。ちょっと大きめだけど、濡れたヤツをそのまま来ているよりマシだろう。比奈をソファに座らせて、ホットコーヒーを差し出す

「……ありがとうございまス」

「……そんなびしょ濡れになってまで、一体何があったの」

子どもを諭す親みたいに比奈へ問う。実際、もう遅い時間だ。天候も悪い。体調に気を遣うべきアイドルとして、一人の女の子として、今の比奈の行動には看過出来ないものがある

「ぃゃ、そのぉ……っスね……」

比奈は口をモゴモゴさせる。コーヒーを啜って、ホット息を吐いてから、言葉を続ける

「プロデューサーが、心配で……」

目をそらし、彼女は言った。僕は『は?』と、本当に驚いた人が出す時の声を漏らしてしまった

僕を横目に、比奈はゆっくりと、言葉を選びながら喋る。途中途中にホットコーヒーの啜る音を混ぜながら

「あの、お昼に……一緒に歌を聴いてるとき、ちょっと様子が変だったんスよ。疲れているのかな、って思ってそのときはスルーしちゃったんスけど……お仕事が終わって、帰ってベッドの上で寝転んで、ゆっくり考えたんス」

比奈は。僕が何かで悩んでいることを、やっぱり見抜いていた

「疲れているだけじゃないんだ、って思ったんス。何か悩んでて、それに押しつぶされそうで。でも、アタシに見せないように精一杯踏ん張っているって。そう思ったんス。……勘違いなら、いいんスけど」

「……勘違いじゃないよ。ごめん、さっき怒る風に言って」

「いや、いやいや! 冷静になってないのはアタシの方っスから。本当にいるかどうかもわからないのに事務所に向かって、いなかった時の事考えてなかったし……それに、アタシのことを心配して怒ってくれてるの、わかりまスし」

僕は比奈の言葉に頷く。本当に申し訳ない。こんな悪天候の、こんな夜中に歩かせた原因は僕自身じゃないか。

「……ふう」

短く息を吐いて、僕もソファに座る。彼女が悩んでくれて、心配してくれるなら。僕はそれに応えよう。面白味はなくて、オチもない。ずっと平坦な暗い話だけど。僕が『好き』なものの話をしよう


―――
――



「……そうだったんスか、そんな……」

全部を語り終えた。比奈のコーヒーは半分くらい減ってる。この過去を人に話すのは、この事務所に務めてからは初めてだった。ちぐはぐで、上手く言葉にできないところもあったけれど……伝えたいことは、ちゃんと伝わってくれたかな

「……その、プロデューサーさん」

比奈が、まだ乾いていないリュックサックを漁る。中からB5サイズの薄い本を取りだした。濡れないようにするためか、ジップロックで密封してある

「思い切って……アタシが描いた本、持ってきちゃいました」

曰く、いてもたってもいられなくなって、家を出たらしい。そのときに、自分が描いた本の中で一番バカバカしいのをリュックに詰めていて。笑ってくれれば、悩みも吹っ飛ぶかなって。自分以外の、商業作家さんが描いたギャグ漫画の単行本も持ってきたけど、最初にこれを読んでほしい。笑って欲しい。

彼女はそう言った

「ペンネームと原稿は袴で持って行くと決めてたんスけどね……この際、他言無用でプロデューサーさんにだけお教えしまス」

「……ありがとう」

僕は手に取って、薄い本をめくる。ジャンルは一次創作。主人公は、魔法使いの女の子。魔法が当たり前に使われる世界で、『美味しいパンを作る魔法』しか使えない女の子が頑張るコメディストーリー。いじめっ子がいたらカチカチのパンをぶつけて懲らしめ、木炭デッサンをしている画家に食パンを差し出しては『消しゴムがあるから良いよ』と断られる。

主人公は魔法オタク。いろんな魔法を調べて、知識として蓄えている。だけど自分は先天的にパン魔法以外使えない、だけど『それが自分だから』と他の魔法を習得するよりも、よりパン魔法を磨くことを頑張る。オチはパンの作りすぎと食べ過ぎで太ってしまって、痩せるパンを作ると決意。友達が『パンを律儀に食べる必要ないんじゃない?』と突っ込む

「いやぁ~そのときコンビニの惣菜パンにハマってて……こんな主人公みたいになりたいなぁって思いながら描いて、でも魔法の解説役まで押しつけちゃったのアレなんすよね、役割がちゃんと振れてなくて、友達にしておけばって……あの、締め切りヤバくて最後の方とか線が荒れてるんスけど、その、ギャグとかどう、どうスかね……? ちゃんと笑えて……うわぁやっぱり恥ずかしくなってきたっス……」

隣の比奈は早口だ。恥ずかしがっている、けど読むのを止めてとは言ってこない。信頼されているんだなぁって、嬉しくなった。そのまま読み進めた。

ページをめくると、最後のページ。あとがきがある。『締め切り三時間前。印刷所の人ごめんなさい。胃病にはパン〇ロン!』と走り書きの文字

「そ、そのあとがきは脱稿のテンションでおかしくなっちゃってぇ! 誤字ってまスし……『胃痛』って本当は描きたかったんスよ!」

奥付を見てから、もう一度最初のページへ。不思議な漫画だ。よりギャグがキれてる漫画も、より線が綺麗な漫画も、より面白い漫画もいっぱい読んだことがあるのに。

この漫画を、今の僕は世界で一番の漫画だと思う。荒木比奈が、世界で一番の漫画だと感じる

一コマずつ丁寧に読み込んでいく。美味しそうなパンと、楽しげなキャラクターがいっぱい描かれた画面。パンだけで強引に解決しようとする話運び。主人公が自分に真っ直ぐでいるストーリー

「……っ」

悲しい場面なんか一切無い。ずっと明るくて、楽しい漫画だ。それなのに、僕は。

「……っあ、ああ……」

涙を、堪えきれなくなった。主人公は魔法オタクだ。魔法が好きだ。でも、パンを作る以外の魔法を使えない。なのに、全然悲観していなくて。明るく前向きな姿に憧れる。僕もこうなりたいと願う

怪我はまだ痛む。けど、それでも。全力で走って、全力でぶつかって、全力で蹴るだけがサッカーじゃない。この主人公を観て、ようやく気がつけた。

こんな簡単なことに数年も気がつけなかったなんて。情けない。

「――比奈」

僕が泣いた所為で、比奈はおろおろしている。成人男性が急に近くで泣き出したら、そりゃ怖いよね。ごめん、と涙で滲んだ声をかけた

「……あろがとう」

そのあとに、ありがとうと。噛んでしまって『あろがとう』になっちゃったけど。僕も比奈も、しばらく見つめ合った後、ぶっと息を漏らして笑った


◆◇◆

好きな食べ物とか、好きな色とか。コーヒーにお砂糖をいくつ入れるかとか。アタシはそういうのを知っているだけ。

プロデューサーさんが過去にどんな事を経験して、どんな考えを持っているのか。アタシはそういう部分を一切知らない。

出会ってからのことなら大体分かる。彼が何を嫌がるのとか、今回みたいに何かを隠しているのかとか、そういうのは察知出来る。ずっと近くでやって来たんだ。アイドルて、意外と担当するプロデューサーのこと観察してるんスよ?

でも……出会う前のこと。彼が語ってくれない箇所については、全く知らなくて。ここで初めて、彼の昔に振れることが出来た。この人は過去を、寂しさを隠すよう明るく振る舞って語った。その姿は、今まで観た中で一番痛々しかった。

アタシはこの人に救われた。連載を追って、漫画を読んで、自分で漫画を描く。好きなことばっかりで充実していたけど、『空っぽ』がすぐ隣にあった生活。そこから引き上げて、空っぽを埋めてくれたのはこの人だ

だから今度は、アタシが空っぽを埋めたい。この人が何かで悩んでいるなら――例え勘違いだったとしても、私がその何かをどうにかしたい。

そう思って、漫画を見せた。ギャグ漫画を読んで、笑って心がふっと軽くなってくれたら。そんな、自分が過去にした経験を元にした行動を彼にも当てはめて。単純な考えだけど、彼にギャグ漫画を読んでもらおうと思って、実行した。

今と比べると拙くて、画力も低いときの漫画。それを読んでもらった。彼がペーシをめくっている間、恥ずかしさと『本当に楽しんでもらえるか』って不安になっちゃった

「あろがとう」

でも不安は杞憂に終わった。彼は涙を流して、スッキリした顔で言葉を噛んだ。それがなんだかおかしくなって、笑っちゃった

この人の力になれてよかった。少しくらいは恩返しが出来た。自分の『好き』を表現したもので、この人の心を軽く出来た。嬉しくて、嬉しくて、たまらない

「僕、この漫画が大好きだ」

ふっと、彼は口を開く。まだ声は潤んでいるけど、噛んだりつっかえたりして無いセリフ。彼が、アタシの漫画を褒めてくれた。さっきまで得たやつを高く越える嬉しさ。もう、恩返しするつもりだったのに、またこっちがもらってしまった

「ありがとうございまス」

照れちゃうし、恥ずかしいけど。『好き』だって感想はありがたい。本当にありがとうございまス、プロデューサーさん。


◆◇◆

出来ないなら、出来ないなりに。『好き』は表現できる。『好き』に決まった形はないから、出来るところだけでもやれる。

僕はそう思う。

「いくよ~!」

ある日の昼休み。僕は弁当もそこそこに外へ出て、結城さんのサッカー練習に付き合っていた。左足を踏み込む。ちょっと痛いけど、これくらいならまだ何とか。雨が降ったときの方がよほどキツい。踏み込んだままの左足を軸に、右のインサイドでボールの真ん中を蹴る。ボールは真っ直ぐ転がって、結城さんの元へ転がる

「おっ、ナイスパス。」

結城さんはボールを右足でダイレクトにミートして、壁に向かって蹴りつける

「ナイッシュー!」

「めちゃくちゃ蹴りやすかったぜ~! もう一回やってくれよ~!」

「は~い!」

結城さんが壁からリバウンドしたボールを蹴る。コロコロ転がって、ちょうど僕の右足へ。ナイスパスだ

「お疲れさまっス、プロデューサーさん」

「ああ比奈、お疲れ」

比奈がスポーツドリンクを持ってやって来てくれた。僕は横目に見ながら、もう一度結城さんへパスを出す

「……無理しないでくださいよ?」

「大丈夫大丈夫」

結城さんは一度トラップしてから、今度は左で蹴った。利き足じゃないし、ちょっと苦手なのかな

「もう一回! ごめん!」

「はーい」

それから昼休みが終わる10分前まで、僕は結城さんの練習に付き合った。比奈は木陰でそれを眺めていた。

久しぶりにボールを蹴った。自分の足が痛くなりすぎない程度の、軽いキックだけど、取っても楽しかった。自分がまだサッカーを好きでいるってのが分かった


結城さんはそのままレッスンへ向かった。ずっとやって、それからすぐにレッスンなんて。すごいなぁ、若い子は

「はい、ちょっとぬるくなっちゃったっスけど」

「ありがとう」

比奈からペットボトルを受け取る。ごくっ、ごくっと、喉を大きく鳴らして飲んでいく。スポーツドリンクをスポーツした後に飲んだのはいつ以来だろう。就職してからは、二日酔いとかで頭が痛いときに飲んだくらいだ

「……なんか、スポーツ部活漫画の一コマっぽいっスね」

「そうかなぁ」

「そうっスよ! こういうの、密かに憧れてたんスよねぇ~」

比奈は午後オフ。僕の所はクーラーがよく効いてるから、そこで落書きして過ごすらしい。スケッチブックとコピックまで持ってきたんだと

「久しぶりのサッカー、どうでした?」

「めちゃくちゃ楽しかったよ」

「ふふ、やっぱり。外から見てて生き生きしてましたもん」

仕事部屋までの廊下。ちょっと長めだけど、雑談しながらならすぐだ。


午後の仕事を始める。汗をかいたままだけどいいや、今日はもう外回りないし。クーラーのおかげで、火照った体もすぐに冷めるだろう

キーボードを叩く音と、線をなぞる音。会話はないけど、心地良い無音……だったけど、比奈が口を開いた

「前見せたパンのやつ、あるじゃないっスか」

「……ああ、うん」

「アレ……に限らず、なんでスけど。やっぱ好きで漫画を描いても、好きに技術とか経験が追いつかない時ってあるんスよね」

こういう風にしたい。こう描きたい。こう構図を工夫したい。セリフをもっと印象的に。自分が一番好きな形としてアウトプットしたい。でも、それを実現できるだけの技量がなくて、結局妥協してしまう。

比奈は軽い口調でそう語る

「ちょっとそれで悩んじゃうときもあるんスけど……さっきのプロデューサーさんを観て、考え事は吹っ飛んじゃいましたね。無理にしなくても、今の自分に出来る精一杯で『好き』を叫ぶことが大切なんだなって思って」

……驚いた。僕と同じ事を比奈が思っているなんて。どれだけ望んでも、不可能なことはこの世にたくさんある。ペンギンが空を飛べないように、鐘がたくさんの音階を奏でられないように。どうしても無理なことは点在している

だから、今できる精一杯――僕なら、軽くパスをするだけ。無い物ねだりよりも、今可能なことをやる。それで、『好き』だって叫ぶ。ペンギンは海の中を飛ぶように泳げる。鐘は狂うことなく一つの音階を出し続けられる。

出来ないことがあれば、出来ることもあるはずだから

「ちょっと、自信付いちゃったっス。へへ」

「……じゃ、また違う漫画も読ませてほしいな」

「それは恥ずいんで……『じゃ』って言われても……」

そのまま、また無言タイム。けど、そうだ。アレを流そう。作業BGMにしてはちょっと激し目だけど、僕と比奈にとって、この曲は馴染みが深いから

低音のイントロからすぐに、比奈の声がする。コールを心の中で言う。

前より歌詞がすっと入ってくる。『大好きだ』って歌詞を、今度は真っ直ぐ受け止められた。

本当に良い歌だ。僕はこの曲が、大好きだ

外は雲一つ無い快晴だ。久しぶりに動かしたせいか、左膝は痛む。けど、この歌を聴いていると、この痛みも不思議と悪くない

【終わり】


ここまでです、ありがとうございました

オタク is LOVE!を聴いてくださるならもう思い残すことはありません。どうぞ……
https://www.youtube.com/watch?v=igUC0GWLKcM

タイトルの英文はちゃんと正しいのか心配です

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