律「うぉっちめん!」 (92)

元ネタは『けいおん!』とアメコミ『ウォッチメン』です。

以前、スレ立てさせて頂いたのですが、続きが書けずにスレを
落としてしまいました。申し訳ありません。
今回は、既に完成させていますので、完結まで一気に投下させて
頂きます。

クロス、未来設定、死ねた、鬱、グロ、キャラ崩壊がありますので、
平気な方のみお読み下さい。
序章+全七章の構成となっております。
また、時間の流れは原作の2007年4月入学、2010年3月卒業や、
各キャラクターの誕生日等を参考にしております。

それでは、どうぞ。


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1380082176

I hear always the admonishment of my friends.
私は我が友の忠告を常に聞く

"Bolt her in, and constrain her!"
「彼女に閂を掛け、拘束せよ!」

But who will watch the watchmen?
しかし、誰が見張りを見張るのか?

The wife arranges accordingly, and begins with them.
妻は手筈を整えて、彼らと事を始める



2022年10月11日、深夜。
唯は酔っていた。
自身の酒の強さを過信していた訳ではないのだが、それでも二十代の頃のような飲み方は、
今の身体には荷が重すぎた。
マンションのエントランスでは都合四回転びかけ、エレベーターに入っても“15”のボタンを
押すのに難儀し、そして今、鍵がなかなか鍵穴に入らない。
耳障りな金属音が続いた後、ようやく玄関のドアが開いた。

唯「ただいまぁ」

低く呟いても返事は返って来ない。
十二畳のワンルームで借主を待つ者は真っ暗闇だけだった。

唯「あぁあぁ、かぁみさぁまおねぇがいぃ、いちどだぁけぇのみらくぅるぅたいむ、くぅだぁさいぃ」

音程も抑揚も無い低い歌声を口から漏らしながら、唯は靴を乱暴に脱ぎ捨て、壁にもたれ掛かり
ながら灯りのスイッチを探る。
たっぷり時間を掛けて壁がまさぐられた後、蛍光灯の光が映し出した光景は――

唯「な、何これ……?」

――足の踏み場も無い程に荒らされた室内。
タンスや物入れの引き出しはすべて引き出されて中身と共に床に転がり、ベッドからは掛け布団も
敷きマットも引っぺがされている。クローゼットは開け放たれ、然程洒落てもいない服が
やはり床に散乱していた。

唯「ひどい…… まさか……」

室内の惨状が唯の脳内に蹴りを入れるも、鈍った頭は容易に行動を指示してくれない。
それでも何とか携帯電話を取り出し、震える指でボタンを押し始める。
その時、唯の背後で、黒い影がガタリと音を立てた。

唯「誰!?」

ドアの陰から表れたのは全身黒ずくめの人間。顔も帽子と布のようなもので覆われており、
正体がわからない。
侵入者は素早く唯に近づくと、彼女の頬をしたたかに殴りつけた。

唯「ぎゃっ!」

凄まじい力だった。
部屋の中央にいた筈の唯が、大きく吹き飛ばされ、窓ガラスを破ってバルコニーに転がり
出てしまった程だ。

唯「う…… うぅ……」

顔面の痛みと脳の揺れが、酒の酔いと相まって、唯の意識を遮断させようとしていた。
だが、侵入者はそんな事は我関せずと、彼女の胸倉を掴んで、横たわる身体を強引に立ち上がらせる。
そして、立ち上がるだけでは終わらず、そのまま唯の身体は高々と持ち上げられた。
侵入者は唯を担ぎながら、ゆっくりとバルコニーの手すりの方へ近づいていく。
意図は明白だ。

唯「やめて…… お願い……」

綺麗な街の灯りが見える。
瞬間、世界は反転し、今度は星の明かりが唯の眼に映った。
後はただ急速に星空が遠くなっていく。

鈍い音。一瞬遅れて響き渡る、有象無象の悲鳴。




Come gather 'round people
Wherever you roam
And admit that the waters
Around you have grown
And accept it that soon
You'll be drenched to the bone
If your time to you
Is worth savin'
Then you better start swimmin'
Or you'll sink like a stone
For the times they are a-changin'

いいか、みんな集まれ
周りの水が、水かさを増しているのが見えるだろう
もうすぐ身体の芯までずぶ濡れになる
もし時間を無駄にしたくないなら
今すぐ泳ぎ出す事だ
さもないと石みたいに水底に沈んでしまうぞ
時代は変わりつつあるんだ


プレゼンター『2012年度日本レコード大賞は……―― 放課後ティータイム“GO! GO! MANIAC”!』

唯『やったぁ!』

律『いよっしゃぁあああ!!』

司会『放課後ティータイムは昨年度の“Don't say lazy”に続き、二年連続の大賞受賞、
V2となりました! ボーカルを務められた平沢さん、おめでとうございます!』

唯『ありがとうございます! すごく嬉しいです! 高音とか息継ぎとかとっても難しい
曲でしたけど、皆さんに楽しんでもらえる曲になって本当に良かったです!』

観客『おめでと~~~!!』

唯『みんな、ありがと~! 大好き~!』

澪『ううっ、ぐすっ…… 良かった、本当に良かった……』ポロポロ

紬『もう、泣いちゃダメよ。澪ちゃん』

梓『ありがとうございまーす!』

観客『かわ唯~~~!!』

観客『あずにゃんペロペロ~~~!!』


Come writers and critics
Who prophesize with your pen
And keep your eyes wide
The chance won't come again
And don't speak too soon
For the wheel's still in spin
And there's no tellin' who
That it's namin'.
For the loser now
Will be later to win
For the times they are a-changin'

いいか、記者や評論家のみなさんよ
あんた達はペンで未来を予言しているけど
よく目を開けておくんだ
こんな機会はもう二度と来ない
即断してはいけない
ルーレットはまだ回り続けていて
勝負はまだついていない
今、負けている奴が
いずれ勝つ事になる
時代は変わりつつあるんだ



唯『結婚おめでとう。ムギちゃん』

澪『ムギ、本当におめでとう』

梓『おめでとうございます。ムギ先輩』

紬『みんな、ありがとう』

律『そして、引退おめでとう…… って言っていいのかな。ホント、寂しくなるよ。梓が軽音部に
  入った時から六年間、ずっと五人でやってきたからな』

澪『そうだな。それに作曲担当がいなくなっちゃうと思うと……』

唯『澪ちゃんの書いた詞とムギちゃんの作った曲が、放課後ティータイムの歌なのに……』

紬『大丈夫よ。澪ちゃんの作った曲が素敵なのは前のアルバムで証明済みなんだし、唯ちゃんだって
  最近作曲を頑張ってるじゃない。これからは唯ちゃんと澪ちゃんが放課後ティータイムの
  カラーを出していくのよ』

唯『うん……』

紬『陰ながら応援しているわ。頑張ってね』


Come senators, congressmen
Please heed the call
Don't stand in the doorway
Don't block up the hall
For he that gets hurt
Will be he who has stalled
There's a battle outside
And it is ragin'
It'll soon shake your windows
And rattle your walls
For the times they are a-changin'

いいか、国会議員の皆さんよ
よく注意しておけ
ドアの前に立つな
廊下をふさぐな
怪我をするのはグズグズしている奴からだ
今、外では闘いが激しくなっていて
いずれ議事堂の窓を震わせ、壁を揺さぶるだろう
時代は変わりつつあるんだ


唯『どうして!? どうして今度のアルバムに私の曲が一曲も入らないの!?』

澪『しょうがないだろ。それがプロデューサーの考えなんだから』

唯『でも……! 曲もボーカルも全部澪ちゃんだなんてズルいよ! 前のアルバムだって
  ほとんど澪ちゃんだったし! 放課後ティータイムは澪ちゃんだけのものじゃないんだよ!』

梓『ゆ、唯先輩、落ち着いて下さい』

律『ズルいとか、そういう問題じゃないよ。な? 少し落ち着けって』

唯『……』グスッ

澪『私達はプロのバンドなんだ。あんまりワガママばかり言うなよな』

唯『私だって、私だって放課後ティータイムなのに……』

律『わかってる。わかってるって、唯。大丈夫だよ』ギュッ

梓『そうですよ。唯先輩の歌もギターも、放課後ティータイムになくてはならない存在ですから』

澪『……私、もう帰るよ』スッ

唯『……』



Come mothers and fathers
Throughout the land
And don't criticize
What you can't understand
Your sons and your daughters
Are beyond your command
Your old road is
Rapidly agin'
Please get out of the new one
If you can't lend your hand
For the times they are a-changin'

いいか、国中のお父さんお母さんよ
自分が理解出来ない事を批判するな
あんたらの息子や娘はもう
あんたらの言う通りにはならないんだ
あんたらの来た道はどんどん古びている
もし、若い奴らに手を貸せないのなら
せめて邪魔だけはするな
時代は変わりつつあるんだ


カメラマン1『総理! 今度は秋山さんと握手でお願いします!』

カメラマン2『目線、こちらにもお願いします!』

総理大臣『いやはや、大変な人気だねえ。……ん? 何だか具合が悪そうですが、大丈夫ですか?』

澪『す、すみません。緊張で手が震えちゃって……』オドオド

リポーター『秋山さん、“クールジャパン2019”のオフィシャルアーティストに選ばれましたが、
      意気込みをひとつお願いします』

澪『ええと、日本の顔として、は、恥ずかしくないように、その、が、頑張ります……!』

リポーター『先月発売の1stソロアルバムが四週連続一位となりましたね。おめでとうございます』

澪『あ、ありがとうございます。上手く言えないんですが、ええっと、放課後ティータイムは
  日本のトップバンドだったので、今度はソロミュージシャンとしてもトップに立ち続けたい
  と思います』

総理大臣『じゃあ、私からも秋山さんに質問を…… トップに立つとはどんな気持ちですか?』

澪『えっ!?』ビクッ

リポーター『総理も日本のトップなんですから、そのお気持ちはご存知でしょう』

澪『た、確かにそうですよね…… はは……』

総理大臣『まいったな。これは一本取られました』


The line it is drawn
The curse it is cast
The slow one now
Will later be fast
As the present now
Will later be past
The order is
Rapidly fadin'
And the first one now
Will later be last
For the times they are a-changin'

スタートの合図が鳴って
誰かさんにとっての災いが飛び出した
今、遅れている奴が
いずれリードする事になる
今の順序は意味が無くなってきている
今、一番の奴が
いずれビリになるだろう
時代は変わりつつあるんだ



唯『あの、マネージャーさん…… お願いです。もうバラエティの出演は入れないでください』

マネージャー『どうして? 唯ちゃんのおバカキャラは大人気なんだよ? 数字も取れるし。
       ああ、もちろん単なるキャラ付けだからね。俺は唯ちゃんが馬鹿だとは思ってないよ』

唯『でも、テレビの前の人達はそう思ってくれません。私は、歌を歌って、ギー太を弾いて、
  私の音楽をやりたいんです!』

マネージャー『う~ん、唯ちゃんみたいな一般ウケしない音楽でマニアックな売れ方するよりもさ、
       クイズやトーク番組でおバカキャラやってた方が人気も出るし、仕事もいっぱい
       来るんだよ。ね?』

唯『……わかりました。どうしても音楽をやらせてくれないなら、私、事務所辞めます』

マネージャー『ちょ、ちょっと唯ちゃん。何もそんな……』

唯『私はコメディアンじゃない! ミュージシャンなんです!』


Come writers and critics
Who prophesize with your pen
And keep your eyes wide
The chance won't come again
And don't speak too soon
For the wheel's still in spin
And there's no tellin' who
That it's namin'.
For the loser now
Will be later to win
For the times they are a-changin'.

いいか、記者や評論家のみなさんよ
あんた達はペンで未来を予言しているけど
よく目を開けておくんだ
こんな機会はもう二度と来ない
即断してはいけない
ルーレットはまだ回り続けていて
勝負はまだついていない
今、負けている奴が
いずれ勝つ事になる
時代は変わりつつあるんだ


インタビュアー『――さて、いよいよここからは実業家としての琴吹社長にお話を伺いたいのですが』

紬『はい。お手柔らかに』

インタビュアー『ご結婚を機に放課後ティータイムを脱退。そして、芸能界そのものも引退され、
        直後に琴吹グループ代表就任と大転換を果たされました。これに関しては何か
        思うところがあったのですか?』

紬『そうですね、やはり琴吹家の一人娘として、いつかは父の事業を継がなければならない
  という意識はありました。また、ミュージシャンとして活動していく中で、エンター
  テインメントという商業分野に強く興味を惹かれ始めた面もあります』

インタビュアー『なるほど。後者に関しては、生来身体に流れる実業家の血が騒いだ、とも言えますね』

紬『ウフフッ、そうかもしれませんね。放課後ティータイムで得た自分の知名度を活かして、
  琴吹グループを成長させたいとも思いましたし』

インタビュアー『そういったお話を聞きますと、グループ企業であるコトブキ・エンターテインメントの
        社長を兼任されているのも納得がいきますね』

紬『自分がお世話になった芸能、マスメディアの世界へのご恩返し。それと、そこで生きる
  昔の私のような方々を応援したい。そんな気持ちです』

インタビュアー『2021年も残り僅かとなりましたが、来年以降の展望をお聞かせ下さい』

紬『メディア部門のより一層の充実は勿論ですが、産業部門にもこれまで通り、いえ、これまで
  以上の力を注いでまいります。既にヴェイト社やスターク・インダストリーズ等の米企業との
  業務提携を――』



Come mothers and fathers
Throughout the land
And don't criticize
What you can't understand
Your sons and your daughters
Are beyond your command
Your old road is
Rapidly agin'
Please get out of the new one
If you can't lend your hand
For the times they are a-changin'

いいか、国中のお父さんお母さんよ
自分が理解出来ない事を批判するな
あんたらの息子や娘はもう
あんたらの言う通りにはならないんだ
あんたらの来た道はどんどん古びている
もし、若い奴らに手を貸せないのなら
せめて邪魔だけはするな
時代は変わりつつあるんだ


律『よっ、おひさ』

梓『お久しぶりです。律先輩』

律『いやいやいや、梓さんや。もうお互い三十路だってのに“先輩”はよそうぜ』

梓『私にとってはいつまでも先輩は先輩ですから。それと! 私はまだ二十代です!』

律『あと三ヶ月くらいで三十だろ…… んで? その後、調子はどう?』

梓『まあまあ、です。音楽はやめられないですけど。律先輩は?』

律『私? いろんな歌手のバックバンドでドラム叩いてるよ。ま、売れっ子ってワケでもないけどねー』

梓『ドラムを叩ければ幸せ、とか?』クスクス

律『そのとーり!』

梓『それはそうと…… あ、あの、唯先輩の事なんですけど……』

律『ああ…… やっぱ梓は心配だよな。一番、唯に可愛がられてたし』

梓『憂はあまり教えてくれないんです。少し調子が悪いくらいとしか……』

律『私も直接会わなくなって、随分経つよ。でも、メールや電話では結構話してるかな。
  相談に乗る、って言っても話を聞くくらいしか出来ないけどさ』

梓『そうなんですか……』

律『こっちが泣きたくなるくらい痛々しいんだ。代われるもんなら代わってやりたいよ……』


Come gather 'round people
Wherever you roam
And admit that the waters
Around you have grown
And accept it that soon
You'll be drenched to the bone
If your time to you
Is worth savin'
Then you better start swimmin'
Or you'll sink like a stone
For the times they are a-changin'

いいか、みんな集まれ
周りの水が、水かさを増しているのが見えるだろう
もうすぐ身体の芯までずぶ濡れになる
もし時間を無駄にしたくないなら
今すぐ泳ぎ出す事だ
さもないと石みたいに水底に沈んでしまうぞ
時代は変わりつつあるんだ






第一章《転がる石》

『日誌 田井中律、記 2022年10月12日
 今朝、若い女とすれ違った。すぐにまた同じ女とすれ違った。その次も。そのまた次も。
 同じような髪形。同じようなメイク。同じような服装。聞き耳を立ててみれば、話している
 内容も皆同じだ。
 テレビが流行らせる菓子を求めて走り回り、この服を買わなければ男に相手にされないぞと
 テレビにそそのかされる。
 そして、浪費と虚飾とスキャンダルしか考えられなくなった頭を抱えて、自分自身の生き方すら
 決められなくなるのだ。
 知恵も知識も無くし、情報の奴隷と化した奴らは、もう手遅れとも知らずに天を仰いで
 「助けてくれ!」と叫ぶだろう。
 私はこう答える。「嫌だね」と。

 俳優も、歌手も、芸人も、知識人も、文化人も、スポーツマンも、視聴者も。
 皆、マスメディアに食い物にされる。
 メディアは脳みそを食い荒らし、代わりに何か恐ろしいものを植えつけていく。
 誰も彼もが元のままではいられない。
 それは私も、私達も同じだ。あの頃のままではいられなかった。
 いや、変われなかった奴も……

 昨夜、平沢唯が死んだ。犯人は闇の中へと姿を消してしまった。絶対に報いを受けさせてやる。
 絶対にだ』



平沢唯殺害の明くる午前。
彼女の部屋では中年の刑事が二人、疲れた顔で室内を見回していた。

刑事1「ガイシャの名前は平沢唯。年は30歳だ。来月の27日まで生きてりゃ31歳になれたのにな」

刑事2「職業はタレント、か」

刑事1「アイドルだろ? ちょっと前の」

刑事2「どっちも変わらんよ。んで、押し入ったホシにツラをぶん殴られた後、バルコニーから
    50m下の道路に突き落とされたと」

刑事1「ひでえ事をしやがる。相当恨まれていたようだぞ。このガイシャ」

刑事2「いや、怨恨の線は薄いな。確かに現金や通帳の類には手を付けていない。だが、歯ブラシや

    櫛のように本人の身体に触れている物が根こそぎ持ってかれてる。それにアクセサリーとか
    昔のステージ衣装なんかもな。極めつけにゃ、トイレの汚物入れや排水溝の毛髪まで漁った
    形跡がある、と鑑識が言っていた。十中八九イカレたファンのストーキングだろう」

刑事1「なるほど。ずっと自分だけのものにしたいから殺すって訳だ。アイドルの追っかけにも
    その辺の男にもよくある話だな。しかし、何もここまでこっぴどく殺らなくてもねえ」

刑事2「だからイカレてたんだろ。何にせよ、だ。上はどういう訳か『今日中に現場検証を終えて、
    遺族の好きにさせてやれ』ってうるさく言ってきている。もう切り上げようや」

刑事1「だな。おおい! 撤収だ! テープも剥がしとけ!」

二人の刑事は昼食の相談をしながら部屋を後にし、数名の捜査員も“警視庁 KEEP OUT”と
書かれた黄色いテープを剥がすと足早に立ち去ってしまった。



マンションのエントランス前には、うつむき加減でメモ帳に何やら書き込む田井中律がいた。
やがて、スリムなトレンチコートのポケットにペンとメモ帳を突っ込むと、談笑しながら出てくる
刑事達と入れ替わりにマンションの中へと足を運んだ。
奇妙な白黒模様のニット帽と大きなサングラスで顔の半分を隠した律を、刑事の一人がすれ違い様に
チラリと見遣る。
律は構わずに管理人室の小窓の方へ進み、エントランスの自動ドアが閉まると、刑事もすぐに律への
興味を失った。

律「こんにちは。お電話しました田井中です。1503号室の平沢さんの友人で、元の仕事仲間の……」

管理人「ああ、はいはい。では一緒に行きましょう。管理人立会いが原則ですから」

初老の管理人は小窓の横にあるドアから出てくると、律を伴ってエレベーターへと向かった。
二人が乗り込んだエレベーターの中は不気味な沈黙に支配されていた。
管理人はドアのガラスに映る背後の律をチラチラと観察し、律はポケットから出したキーホルダーを
見つめている。
“ん”という平仮名文字を模したピンクのキーホルダー。

警察の眼を盗んで、唯の墜落現場から拾った物だった。
それには一条の血液が付着している。言うまでもなく、持ち主だった唯の血だ。

管理人「どうぞ、こちらです」

エレベーターが開くと同時に管理人から声が掛かる。
律はキーホルダーをしまうと、無言で彼に付き従った。



部屋の中は、警察の捜査が入った以外は、事件当夜のままだった。
物色によって荒らされたまま、である。

律「じゃあ、妹さんに頼まれた分と私が貸していた物を整理して持って行かせて頂きますので」

管理人「……あの、その前にちょっといいですか?」

ノートと油性マジックを取り出すと、管理人はニヤニヤと下品に笑って言った。

管理人「あなた、放課後ティータイムってバンドの田井中律さんですよね」

律「ええ、まあ。元、ですけど……」

管理人「いや、娘があなたのファンでしてね。絶対サインをもらってくれ、ってうるさいもんで」

この野郎。こんな時にどんだけ不謹慎なんだ。唯にも同じ事を言ってサインをせがんだんじゃないのか。
言いたい事は山程あったが、律はしかめっ面でノートと油性マジックを受け取ると、サラサラと
手を動かし、管理人に返した。

管理人「へ……?」

ノートには太い文字で大きく『断る!』とだけ書かれていた。
律はもう彼には目もくれず、室内の整理を始めている。
頬を引きつらせた管理人は、乱暴に合鍵をテーブルに置くと不愉快そうに吐き捨てた。

管理人「私も暇じゃないものでね。下に戻ります。鍵は置いていきますから、さっさと終わらせて
    くださいよ」

ドアが閉められる音を背で受けると、律はニヤリと笑い、サングラスを外した。
怒って帰ってくれた方が都合がいい。
目的は遺品の整理ではなかったし、妹に頼まれたというのも嘘なのだから。
この部屋から唯を殺した犯人の手がかりを見つける。目的はただひとつ、それだけ。
唯には悪いが、唯の為なのだ。

律「あの時の電話…… 唯、お前は私に助けてほしかったんだよな?」

律は十二畳のワンルームを隅から隅まで徹底的に調べ尽くした。
犯人が隅から隅まで徹底的に荒らし尽くした跡をトレースするかのように。
しかし、めぼしい手がかりは何ひとつ見つからない。
それも当たり前だろう。警察のような捜査技術も無く、元に何があってそこから何がなくなっているかも
わからないからだ。
次に律はパソコンに目を付けた。
パスワードが設定されていないのは、唯の性格によるものか、それとも一人暮らし故なのか。
フォルダというフォルダをすべて開いてみたが、やはり事件に繋がるようなものは見当たらない。
あるのは詞が書かれたワード、お気に入りのサイトのショートカット、風景や仕事仲間を写した
平穏なデジカメの画像くらいなもの。

律「ふうむ……」

律は溜息を吐くとPCデスクから離れ、ベッドに腰掛けた。
枕元の辺りに写真立てがひとつ、倒れている。
何の気無しにそれを手に取り、中の写真に目を遣った。
そこに写っていたのは平沢唯、秋山澪、田井中律、琴吹紬、中野梓。放課後ティータイムの
五人である。
ただし、それは2009年、桜ヶ丘高校軽音楽部だった頃の放課後ティータイムだった。
とびっきりの。
満面の。
心の底からの。
どんな形容詞でも足りないくらいの笑顔を浮かべる五人。
律はふと、開きっ放しになっていたPCの画像に目を向けた。
そこにも放課後ティータイムの五人が写っている。2014年6月に紬が脱退する直前、日本中を
彼女達の人気が席巻していた頃の五人だ。
大人びたよそ行きの笑顔で写真に納まるメンバーの中、唯だけがあの頃のままの笑顔を浮かべていた。



その日、中野梓は塞ぎ込んでいた。
明け方近くに関係者からの電話で唯の死を知り、すべての予定をキャンセルし、終日ベッドに
横臥していた。
点けっ放しのテレビから流れてくる『平沢唯殺害』のニュースはどれも同じ内容だった。

犯人はまだ捕まっていない。熱狂的ファンによるストーキング殺人。個性派ミュージシャンで
あると同時に、お茶の間の人気を博したタレント。平沢唯さんを偲んで。
買い物に行く気も、料理をする気も起きず、夜九時を回ってようやくピザをデリバリーしたが、
一口食べて嚥下した途端、トイレで吐き戻してしまった。元々食欲など無かったのだ。

梓「唯先輩……」

一言呟いては涙を流す。今日一日でこれを何十回繰り返しただろうか。
到底受け入れられるものではない。信じたくない。夢であってほしい。冗談であってほしい。
だが、テレビは梓に現実を突きつけるように、日付が変わってもニュース番組のトップで唯の
死を報じた。
そして、その日のスポーツニュースをキャスターが明るい笑顔で伝え始め、疲弊した梓のまぶたを
睡魔が閉じようとした時、携帯電話が鳴った。
画面には『律先輩』の文字が表示されている。
切られてもおかしくない程の時間を掛けた後、梓は通話ボタンを押し、電話を耳に当てた。

梓「もしもし、律先輩ですか……?」

律『寝てたか? 少し話したい事があるんだけど、そっち行ってもいいだろ?』

梓「話って…… 唯先輩の事ですよね。出来れば違う日にして頂けると助かるんですけど。
  もう夜遅いですし」

律『時間は取らせないよ。すぐ近くに来てるんだ』

梓「近く? 今、どこですか?」

律『お前の部屋の前だ』

梓「なっ……!」

ベッドから飛び起き、ドアを開けると、確かに律がいた。

律「よう」

おかしかった。雰囲気というか、佇まいというか。妙なものを感じさせる。
能面のように無表情だが、目深に被ったニット帽の下から覗く眼だけはギラギラと光っていた。
出来れば胸ポケットに差しているサングラスを掛けてほしいくらいだが、それを言うのは
いくら何でも失礼だ。
気味の悪さを感じつつも、梓は今でも尊敬し、信頼しているこの先輩を丁重に迎え入れた。

律「遅くに悪いな。迷惑じゃなかったか」

梓「いえ、迷惑だなんて」

律「腹減ってるんだ。何か無い?」

梓「……デリバリーのピザならありますけど。じゃあ、温め直しますね」

律「いいよ、このままで。おっ、冷蔵庫にビールあるな。一本もらうぞ」プシッ

梓「やっぱり迷惑なんで帰ってもらえますか? 今すぐ」

律「やっと梓らしさが出てきたな」

梓「……もう」クスッ

不気味さは消えていなかったが、律のいつも通りっぷりに、梓は思わず苦笑してしまった。
沈みっ放しの今日一日を鑑みれば、彼女を迎え入れて良かったとさえも思っていた。
梓の内心を知ってか知らずか、律は話を始める様子も無く、冷えて固くなったピザをパクつき、
勝手に冷蔵庫から取り出した缶ビールをあおる。

律「ふう、生き返るよ」

梓「シュークリームでも食べます? 貰い物ですけど」

律「食べる食べる。甘いのに飢えてたんだ」

梓「フフッ、はいはい」

再度苦笑を漏らしながら、冷蔵庫のドアを開ける。
このまま唯先輩の話なんかしないで、ずっといつもの律先輩らしくしてくれていたらいいのに。
梓はそんな事まで考え始めていた。
しかし、振り返った梓の眼に入った物は、その考えを脆くも打ち砕いた。
血に染まった“ん”のキーホルダーがテーブルに置かれている。
シュークリーム入りの箱がドサリと床に落ちた。

梓「そ、それは……」ガタガタ

律「唯のだよ。知ってるだろ」


明け方の衝撃が、日中から夜にかけての悲しみと陰鬱が、五感に甦ってきた。
全身を震わせながら滂沱する梓。それに構わず、律は話を始める。

律「唯が殺された。誰かに。私はその誰かを探し出す」

梓「もう帰ってください……」

律「唯が私に言うんだ。事件の真相を暴いてくれって。だから、私は唯と約束した」

梓「帰ってよぉ!」

律は不意に立ち上がると、梓の胸倉を掴み、キーホルダーを眼前に突きつけた。

律「何で私がこれを持ってると思う!? 唯が私に電話してきたからだ! 殺される直前に!」

梓「!?」



律『もしもし、唯? どした?』

『誰!?』

『ぎゃっ!』

携帯電話そのものが何かにぶつかる激しい音に続き、ガラスが割れる音。

律『唯!? どうした! 何やってんだ!』

『う…… うぅ……』

ジャリジャリと細かい何かを踏みつける音。

『やめて…… お願い……』

律『唯、待ってろ! 今すぐ行くからな!』



律「私が駆けつけたのは警察が来るほんの少し前だった。唯のマンションの前に人だかりが出来てて、
  道路が血の海でさ。そこに唯が倒れてた。ひどい姿で」

梓「もう、やめてください……」

律「血だまりの中で、このキーホルダーを拾ったんだ。まだ使ってたんだな。あれから十何年も
  経ってんのに……」

胸倉を掴む力がフッと消え、梓は床にへたり込んだ。
キーホルダーは律の掌に乗せられており、彼女はそれを異様な眼光で睨みつけていた。

律「ただのイカレたストーカーにあんな殺し方は出来ない。きっと、唯はもっと暗くて大きな
  何かに巻き込まれたんだ」

梓は、今なら律の眼が放つ不気味さの正体がわかるような気がした。
頼られていた親友に、今際の時に助けを求められ、間に合わず無残な死骸と対面してしまった。
彼女のショック、喪失感、罪悪感、後悔は如何ばかりか。
怒りや悲しみといった感情を通り越し、精神を蝕まれていても不思議ではないだろう。

律「……帰るよ。どんな些細な事でも、何かわかったら教えてくれ。それと、お前もしばらくの
  間は身辺に気をつけろよ」

床に転がる箱を開け、袋入りシュークリームを三個程コートのポケットに突っ込み、玄関に向かう律。
その背中に、梓が呟いた。

梓「どうして、こんな事に…… あの頃はみんなで楽しくて……」

律「自分で降りたんだろ」

玄関のドアを開けた律が振り向かずに言った。

律「放課後ティータイムを終わらせたのは、他の誰でもない。私達自身なんだ」



『日誌 田井中律、記 2022年10月13日11時05分
 電車の中で隣に座ったカップルの女の方が、しきりに臭い臭いと男へ耳打ちしていた。
 確かにあの夜以来、風呂にも入らずに駆けずり回っている。
 だが、私には女の香水の匂いの方が我慢ならない。
 メスが交尾相手のオスを呼び寄せる悪臭だ。

 女の鼻の骨を折り、男の頭を手すりに叩きつけてやった。
 乗客は皆、見て見ぬ振り。関わり合いにならなけりゃ、対岸から火の粉は飛んで来ない
 と思っているウジ虫共。
 そうしているうちに世界中が火の粉に覆われるんだ。

 今日はムギに会おうと思う。
 もしかしたら何か有力な情報を知っているかもしれない。
 あいつは芸能事務所の社長をしているし、マスコミが言うには“世界一賢い女”らしいからな。
 何とも馬鹿馬鹿しいたわ言だが。

 それにしても、梓にもらったシュークリームが美味い』



コトブキ・エンターテインメント本社ビルの社長室。
そこで琴吹紬は革張りのソファに座り、律と向かい合っていた。
律はコートを無造作に脱ぎ捨て、Tシャツ姿となっていたが、ニット帽とサングラスは決して
外そうとしなかった。
白のTシャツには黒い大きな文字で、胸の部分に『THE END IS NIGH(終末は近い)』、
背面に『BeHinD yOU(後ろにいるぞ)』とそれぞれ書かれている。
妙な風貌、薄気味悪い雰囲気、それに体臭。気になるところは幾らでもあったが、それを
無遠慮に指摘する紬ではない。
高校時代のように、にこやかに自らの手で紅茶を淹れ、菓子を振舞った。

紬「唯ちゃんの事は本当に残念だわ。何故彼女が殺されなければならなかったのかしら……」

律「こっちが訊きたいよ。ムギ、お前は何か聞いてないのか? 業界内の噂話とか。とにかく、
  これはただのストーカーの仕業じゃない」

紬「さあ…… 噂話も何も、唯ちゃんはそれ程大物って訳でも無かったから。音楽業界でも
  タレント業界でも」

紬の言葉に、律は眉根を寄せ、サングラスに隠された眼を細く光らせた。

紬「それに、唯ちゃんのファン層は所謂オタクと呼ばれる人達が多かったから、警察の発表している
  『熱狂的なファンによるストーキング殺人』で概ね間違い無いかもしれないわね」

律「ふうん……」

律がゆっくりとソファから腰を上げた。

律「唯は音楽が大好きで大好きで、自分の求める音楽を追いかける為に苦悩し続けた。本当の意味
  での“ミュージシャン”だった。クズ共に金を吐き出させるしか頭に無い、一山幾らの淫売と
  一緒にするな」

紬「まあ。秋元さんに聞かせてあげようかしら」クスクス

律「それとな」

オーク材で出来た豪奢なデスクへ歩みを進めると、律はそこに腰掛けた。

律「少なくとも唯は放課後ティータイムの栄光を売り物にする事は無かった。どこかの誰か
  みたいに、親父から継いだ企業の宣伝に自分を使ったり、表紙に自分の写真をデカデカと
  印刷した経営指南書を出版したりはしなかった。売女に身を堕としたりはしなかったんだよ」

紬「……耳が痛いわね」

どちらの顔からも笑みは消えていた。いや、律はこの会談の最初から一度も笑顔などは浮かべて
いなかったが。
しばしの沈黙の後、律はデスクから離れ、コートを羽織った。
ついでに皿の上のクッキーやチョコレートを掴み取り、ポケットへ放り込む。

律「“世界一賢い女”のとこに何か情報が舞い込んだら、連絡をくれよ」

紬「私がそんなに心の広い女だと思う?」

律「思うよ。ああ、告別式は行くんだろ?」

紬「勿論。……りっちゃん、少し見ない間に変わっちゃったね」

律「お前もな。また太ったか?」

律が去った社長室で、秘書が電話を鳴らすまで、紬は窓の外をただジッと見つめていた。




『日誌 田井中律、記 2022年10月13日15時30分
 やはり私達は昔のままではいられなかった。

 梓はアルバイトで生計を立てながら、金にならないインディーズバンドを組んで、ライブハウスを
 中心に活動している。
 解散の後は放課後ティータイムのすべてに背を向け、ソロデビューの話も蹴り、アングラ志向に
 凝り固まっちまった。“持つ者”である自分を殺したがっていたようにも見えた。
 その割にゃショットガンをくわえて引き金を引こうとはせず、メソメソ泣くだけだったが。

 引退後のムギは鼻持ちならない高慢な女に変わってしまった。自分以外の全人類を密かに
 見下している、といった印象だ。
 梓とは逆に、放課後ティータイムのすべてを利用したあいつは、今や日本中から注目される
 実業家になった。いや、企業そのものは世界中から注目されている。
 頭脳明晰で、聡明な、剛腕を振るう、しぶとい女。スーパーコンピュータ並みの頭脳とヒグマの
 身体を持ったマーガレット・サッチャー、とムギを評していた週刊誌があったが実際そんなとこだろう。
 ムギなら第九次世界大戦後も生き残っているに違いない。

 これから残る一人を訪ねようと思う。
 私と梓を従えて、三人になった後期放課後ティータイムを更なる高みに押し上げた功労者。
 日本を代表する超一流ミュージシャン。日本人で唯一のビルボードランキング常連。最近じゃ、
 アムネスティだの熱帯雨林だのといったチャリティ活動にも精を出しているそうだ。反吐が出る。
 誰よりも唯に惹かれ魅せられながら、誰よりも唯を憎んでいた、あいつ。2014年12月31日に
 記者会見で唯の脱退を発表して以来、遂に一度も唯と連絡を取り合う事は無かった、あいつ。

 私の一番の親友だった、あいつ』



黄昏の日本武道館。
『Japan For Africa 2022』と銘打たれたチャリティコンサート会場。
控え室のひとつでは、何度も掌に“人”を書いて飲み込む秋山澪の姿があった。

澪「はぁ…… やっぱり私には無理だよ。桑田さんに桜井さんに坂本さんに…… あんな凄い
  メンバーと共演なんて」

溜息を吐いたり、頭を抱えたり、控え室内を歩き回ったり。それらを一通り繰り返した後は、
また“人”を飲む動作に戻る。
18時の開演まで、あと30分。覚悟は決めていたつもりだが、動揺は止められない。
本日七杯目のコーヒーを飲むべく、ドリップ式コーヒーメーカーに向かった時、背後から
声が掛けられた。

律「あがり症は相変わらずか」

澪が振り向くと、そこには見慣れぬ服装のよく見知った顔があった。
細身のトレンチコート、白い紙に黒いインクを垂らしたような奇妙な模様のニット帽、
大きなサングラス。
両手をポケットに突っ込んだ律が、ドアに寄り掛かり、何かをモグモグと咀嚼していた。

澪「律……! どうやってここに?」

律「んぐ…… 顔パスでここまで案内してもらえたよ。“放課後ティータイムの田井中律”も
  まだまだ捨てたもんじゃないな」

澪「……何の用だよ」

警戒と猜疑の眼差しを向ける澪。それはかつての親友を見る眼ではなかった。
律はポケットからクッキーを取り出し、口の中へ放り込む。

律「ご挨拶だな。子供の頃からバンドの解散まで何年の付き合い――」

澪「何の用だ、って聞いてるんだ」

言葉を遮られた律は、丁寧に咀嚼したクッキーを飲み込み、指を舐めながら、苦笑を浮かべる。

律「おとといの夜、唯が殺された」

澪「知ってるよ。それが何だ。私には関係無いだろ」

律「関係無くは無いぞ。犯人がどんな奴にしろ、他のメンバーが標的にされる可能性も――」

澪「下らない。もう帰ってくれ。もうすぐ開演なんだ」

律「……安心感か? 喪失感か?」

澪「は?」


律「目の上のタンコブがくたばってくれた安心感か? 憧れの存在を失った喪失感か?
  両方ってのも有りだぜ」

澪の顔が紅潮し、奥歯がギリギリと噛み鳴らされた。拳は強く握り締められ、今にも律に
殴りかからんばかりである。
しかし、その手は律には飛ばず、内線電話に延ばされた。

澪「警備ですか? 不審者が私の控え室にいるんです。大至急、来てください」

律「ハハッ、不審者か。否定しづらいな。……唯の告別式は必ず来いよ。じゃないと、せっかく
  被った慈善家の仮面が剥がされちまうぜ? なあ、ミス・ボノ」

澪「うるさい! 帰れって言ってるだろ!!」

罵声の先に律はもうおらず、控え室のドアがあるだけ。
澪の眼は涙に潤み、興奮で息が上がっている。律に言われた言葉が胸に深く突き刺さっていた。

澪「ああああああああああ!!」

絶叫と共にテーブルを引っくり返し、コーヒーメーカーを床に叩きつけ、椅子を壁に投げつける。
その激しい物音を聞いた警備員達は慌てて駆けつけた。不審者がいるとの連絡があった状況で、
平沢唯殺人事件が起きたばかりという事もあり、警備員は生きた心地がしなかった。
見ると、嵐が過ぎていったと形容したくなる控え室の中で、澪が肩で息をしている。
マスカラは涙で溶け、黒い涙となって頬を濡らしていた。
開演まであと15分しかないというのに。



『日誌 田井中律、記 2022年10月13日23時58分
 火曜日の夜、東京で平沢唯が死んだ。
 泣く者もいる。憤慨する者もいる。冷静に受け止める者もいる。面白がる者もいる。無関心な
 者もいる。
 だが、追求しようとする者は私だけだ。私以外には誰もいない。
 私は間違っているのだろうか。
 この地球上で死んでいく人間は無数にいる。戦争、犯罪、貧困、病気。世界は死の原因に
 事欠かない。
 たった一人の女の死に何か意味があるのか?
 あるとも。

 平沢唯が殺されたからだ。

 唯を殺したクソ野郎は今夜ものうのうと夕食にドリンクを付けている。
 探し出して、罰せねばならない。真実を暴き、報いを受けさせなければならない。
 その為ならば、例え世界が滅びる事になろうとも、絶対に妥協しない。絶対に』





どんな気持ちだい?
なあ、どんな気持ちなんだい?
たった一人
帰る家も無い
誰にも相手にされず
転がる石のように
――ボブ・ディラン

第二章《死の証明》

そぼ降る小雨は一向に止む気配が無かった。
広い斎場は多数の列席者で溢れ、ムッとする人いきれが10月の肌寒さを忘れさせる程だ。
平沢唯の告別式。
そこには本当に大勢の人間が集まった。
澪、紬、梓の放課後ティータイム元メンバー、唯の所属事務所関係者、生前親しかった多くの芸能人。
業界人ばかりではない。高校時代の担任である山中さわ子、幼馴染の真鍋和を始めとした
学生時代のクラスメイト等、一人の人間としての唯と繋がりを持っていた人々も多い。
また、会場の外には数百人のファンがおり、時折涙声で唯の名を絶叫している。
皆が唯の死を悲しみ、嘆き、悼んでいた。

紬「もうすぐ出棺ね。これで本当にお別れなんて……」

澪「それにしても律の奴、人に『必ず来い』なんて言っておいて、自分は来てないじゃないか。
  まったく」

梓「澪先輩のとこにも来たんですか? 律先輩」

澪「うん。おかしなカッコでおかしな事を言って帰っていったよ。ああ、思い出すだけで、
  もう……!」

紬「私のところにもね。唯ちゃんはストーカーに殺されたわけじゃない、って」

梓「そうですか…… あ、あの、お二人は見ましたか? 律先輩の、あの眼……」

澪「眼? いや、見てないな。サングラス掛けてたし」

紬「私も見てないわ。りっちゃんの眼がどうかしたの?」

梓「いえ、別に……」

紬「じゃあ、そろそろ行きましょう。出棺の時間よ。澪ちゃんもね。色々、思うところは
  あるかもしれないけど……」

澪「棺は持たせてもらうよ。あんな奴でも友達だったからな」

梓(あんな奴? だった? よくもそんな……)



出棺前に行われる筈だった最後の対面は、遺体の頭部の損傷が激しい為、省略された。
棺は親戚の男性四名に、澪、紬、梓、和の四名を加えた、計八名で運ばれた。
その後ろには位牌を持った唯の父と、遺影を持った妹の平沢憂が続く。
憂の憔悴ぶりは、それだけでも周囲の涙を誘う程に痛々しいものだった。
充血とくまが目立つ眼と真っ青な顔色。視線は虚ろで定まらず、口は僅かに開いている。
“幽鬼のような”という表現も決して大袈裟ではない。
両親の言葉にも、親友である梓の言葉にも、幼馴染である和の言葉にも、一切反応しない。
ただ、時折、消え入りそうなか細い声で「お姉ちゃん」と呟くだけ。

そして。
秋山澪、琴吹紬、中野梓。
棺を支える彼女ら三人の脳裏には、唯と共に過ごした日々の思い出が去来していた。



紬が振り返っていたのは、放課後ティータイムのメジャーデビュー記念パーティ。
あれは2011年4月11日。

唯『せーの……』

全員『ハッピー・メジャー・デビュー!!』

唯『いぇーい! あはははははは!』

社長『いやあ、五人共、本当におめでとう。本日発売のシングル『Cagayake! GIRLS』を
   以て放課後ティータイムのデビューとなる訳だが、君達は日本一のバンドになると
   私は確信しているよ。これからが楽しみだ』

唯澪律紬梓『ありがとうございます!』

社長『いやいや、今日は堅苦しい事は抜きにして大いに盛り上がってくれたまえ。それじゃ、
   私は次の予定があるからこの辺で……』

唯『じゃあねー、社長ー』

澪『こら、唯! お前、社長に向かって……!』

マネージャー『まあまあ、澪ちゃん。唯ちゃんのキャラクターは社長も理解してるから』


さわ子『それにしても、あなた達がプロになっちゃうなんてねー。高校時代を思い返すと、
    感慨深いものがあるわ』

律『ププッ。さわちゃん、オバサンくせー』

さわ子『あん?』ギン

律『何でもありません……』

和『でも、山中先生が言う事もわかるような気がするわ。自分の知っている人が、まさか
  テレビの向こう側の人間になるなんて――』

純『ああ、梓が手の届かない存在になっていく~。私の事、忘れないで――』

梓『何言ってんの――』

憂『はい、お姉ちゃん。お料理取ってきたよ――』

唯『わーい! ありがとう――』

澪『シングル売れるといいな――』

律『心配すん――』

さわ子『そういえば――』

律『――』

梓『――』

『――』

『――』

紬『……』

唯『あれぇ~? ムギちゃん、ど~したのぉ? 元気無いよぉ~』

紬『あ、唯ちゃん。ううん、何でも―― ってお酒臭い! ダメよ、お酒なんか飲んじゃ! 
  私達、まだ誕生日が来るまでは未成年なんだから!』

唯『だってぇ~、ジュースみたいで美味しいんだも~ん』

紬『いけません。これは没収』

唯『ちぇ~』ブーブー

紬『唯ちゃんの誕生日が来たら、一緒に飲みましょう。11月だよね?』

唯『うん! 約束だよ! ……ところで、どうしたの? せっかくのパーティなのに元気無いね?』

紬『……何だかね、物語が終わっちゃうみたいで寂しいの』

唯『終わっちゃう?』

紬『うん…… 私、高校生の時に軽音部に入部して、みんなのおかげで色々な事をいっぱい
  体験出来た。憧れてた事も、夢だった事も、いっぱい』

唯『いろんな事があった三年間だったもんね~』

紬『叶えたかった事は全部と言っていい程叶えて…… そして、最高の親友と組んでいた
  バンドでプロデビュー…… それで私の物語は終わり』

唯『終わりだなんて! 今日が私達のデビューの日なのに!』

紬『嫌な言い方になったらごめんね。例えば、放課後ティータイムの成功によって手に入る
  富や名誉、名声。そんなの私にとっては虚しいだけ。私の家は…… ね?』

唯『……』

紬『どんなに成功を重ねても、この先、高校生の頃や今日以上の喜びはもう無いんだ、って
  思うとすごく寂しいの』

唯『……そんな事無いよ!』

紬『……?』


唯『例えば、例えばだよ? 放課後ティータイムが全然売れなかったら、全然人気が出なかったら、
  そんなの嫌だけど…… でも、もしそうなった時に、みんなで力を合わせて頑張っていったり、
  励まし合ったり、そんな事で手に入る幸せや喜びもあると思う!』

唯『嬉しさも苦しさも五人みんなで分け合うのが幸せなんだよ! お金が儲かるとか、有名に
  なれるとか、そんなの関係無い!』

唯『これから何が起こるかわかんないけど…… これから何が起こるか、私はすごく楽しみ。
  だって、私達は五人なんだもん! ワクワクは五種類! 嬉しさは五倍! 苦しさは
  五分の一!』

紬『唯ちゃん……』

唯『あ…… ご、ごめんね。なんか私ばかり喋っちゃって。だんだん自分が何言ってるか、
  わかんなくなってきちゃったし』

紬『Life goes on...』

唯『え? らい…… 何?』

紬『Life goes on。“人生は続く”って意味よ』

唯『そう、それそれ! らいふ・ごーず・おん! まだまだ続くんだよ! 人生も、放課後
  ティータイムも、まだまだ続く!』

紬『そうね。放課後ティータイムはまだまだ続く。もっともっと頑張って、バンドを成長
  させなくちゃ…… 気づかせてくれて、ありがとう。唯ちゃん』

唯『いやいや~、どういたしまして~』

紬『本当にすごいなぁ、唯ちゃんは……』



澪が振り返っていたのは、紬のバンド脱退直後。
あれは2014年7月頃。

唯『それでね、サビはこんな感じになるの。今、弾いてみるね』ジャジャジャジャジャジャジャジャーン

律『んー、いいんじゃない? ノリやすいし』

梓『そうですね。自然と身体が横に揺れちゃうリズムです』

澪『……ちょっと待てよ、唯。そのサビのメロディ、ただのドレミファソラシドじゃないのか?』

唯『ん? そーだよ?』

澪『そうだよ、って…… 真面目にやれよ! 私達はプロなんだぞ! そんな手抜きして
  どうするんだ!』

唯『て、手抜きじゃないよぅ! このメロディの方が楽しいし、入って来やすいし、一生懸命
  考えたんだよ!』

律『澪、それは言い過ぎだろ! 唯だって真面目に――』

澪『律は黙ってろ! 大体、この前作った曲だって、一曲の中で無駄に何回も転調してて
  ワケわかんなかったじゃないか! やる気あるのか!』

唯『あれは……! 回想とか夢から覚めた現実とかを表現したくて……』

澪『作詞作曲編曲を二人の共作にしよう、って言い出したのはお前なんだぞ! こんなんじゃ
  まともな曲なんか出来っこない! どうしてもっとちゃんとした曲が作れないんだ!』

唯『ちゃんとした曲……』

澪『やりたい事をやるのはいいよ! でもな、私達はプロなんだ! 売れる曲を作るのが
  前提なんだ! その上で自分のやりたい事をやれ!』

梓『……』

律『もう、よせよ…… 澪……』

唯『ご、ごめんなさい……』

澪『……いや、私も少し言い過ぎた。……ごめん』

律『あ、んじゃさ、とりあえずこっちの出来てる曲のアレンジに入ろうぜ』

澪『ああ……』


唯『う、うん。じゃあ、これ聴いてみて。Aメロの静かな寂しい感じを強調するのにね、ドラムの
  シンバルを逆回転にしてみたの』

澪『……』

律『へ、へえ……』

梓『……』

唯『でねでね、間奏なんだけど、ムギちゃんの残してくれたピアノソロを使おうと思ってね。
  リズムが全然違うんだけど、倍速再生させたら、ホラ! 曲調と合ってて、すごくいい感じ!』

澪『唯……』

唯『なぁに?』

澪『共作は今日限りで終わりだ。お前は自分の作りたい曲を好きなように作れ。私もそうする』

唯『え……? で、でも……』

澪『それと、明日からスタジオを使う時間は別々にしてくれ。収録の時だけ四人でやるから』

唯『そんな……』

律『……』

梓『……』

澪『私、先に帰るから。それじゃ』バタン



梓が振り返っていたのは、記者会見で唯の脱退を発表した夜。
あれは2014年12月31日。

唯『ごめんね~、あずにゃん。晩ご飯つき合わせちゃって~。私、もう放課後ティータイムの
  メンバーじゃないのにさぁ~』フラフラ

梓『何、寂しい事言ってるんですか。怒りますよ? それより飲み過ぎですよ、唯先輩』

唯『だってぇ~。私、白ワイン好きなんだも~ん。飲みやすいし~』フラフラ

梓『まったく、もう…… ほら、掴まって下さい』

唯『……今日の記者会見、澪ちゃんは結局一言も喋ってくれなかったねぇ』

梓『……』

唯『どうしてこうなっちゃったのかなぁ。私は放課後ティータイムの為に一生懸命やってたのに。
  うお、おっとっとぉ』

梓『……』

唯『あずにゃん。澪ちゃんとりっちゃんの事、よろしくねぇ。私はこれからもずっとずっと
  三人を応援してるからねぇ。ひっく』

梓『……こうなるのを止められなかった私も悪いんです。唯先輩、ごめんなさ――』

唯『あー!!』

梓『ビックリしたぁ! 急にどうしたんですか!?』

唯『見て見て、あずにゃん! あれ!』

梓『ああ、男の子二人が路上ライブやってますね。あれがどうかしましたか?』

唯『私もやるー!』

梓『え、ちょ、ちょっと唯先輩……』

唯『やあやあ、青年達ぃ! ちょっとギター貸してよぉ~!』

梓『唯先輩! 素人さんに絡まないで! 帽子とサングラス取らないでぇ!』オロオロ

青年1『うわぁ! 平沢唯だ! 本物だ!』

青年2『こ、こんなギターで良ければどうぞ!』

唯『ありがと~! よぉ~し』


梓『ダメですって、唯先輩! ダメですってばぁ!』アセアセ

青年1『え!? じゃ、じゃあ、こっちのちっちゃいのは本物の中野梓!?』

梓『誰がちっちゃいのですか!』クワーッ

唯『平沢唯の年忘れカウントダウン路上ライブ、はっじまっるよぉ~!』

通行人1『ちょ、あれ、平沢唯じゃね?』

通行人2『うお、すげえ! マジだ!』

通行人3『なんかの番組か!?』

梓『ああああ大変な事にいいいいいい』グルグルグルグル

唯『キミを見てるといつもハートDOKI☆DOKI♪
  揺れる思いはマシュマロみたいにふわ☆ふわ♪』

青年1『あ、あの、中野さん』

梓『なんですかっ!?』ギッ

青年1『どうぞ! このギター使ってください!』

梓『……』

唯『いつもがんばる君の横顔♪
  ずっと見てても気づかないよね♪』

青年1『平沢さんと一緒に! 中野さんも!』

梓『……こうなりゃヤケです! やってやるです!』

唯『夢の中なら♪』

梓『夢の中なら♪』

唯梓『二人の距離♪』

唯『縮められるのにな♪』

通行人達『何? このすっげえ人混み』

通行人達『平沢唯と中野梓が路上ライブやってんだって』

通行人達『マジか!? 俺、唯ちゃん好きなんだよ! え、でも、今日の記者会見で放課後
     ティータイムを脱退するって言ってなかったっけ』

唯梓『あぁ カミサマお願い♪
   二人だけのDream Timeください☆♪
   お気に入りのうさちゃん抱いて今夜もオヤスミ♪』

唯『ふわふわ時間♪』

梓&観客『ふわふわ時間♪』

唯『ふわふわ時間♪』

梓&観客『ふわふわ時間♪』

唯『ふわふわ時間♪』

梓&観客『ふわふわ時間♪』

唯『あはははははは! 何だか“ゆいあず”を思い出すねぇ~!』

梓『二度と…… もう二度と、こんな瞬間は無いんですよね…… ううっ、ぐすっ……』ポロポロ

唯『……もういっかぁ~い!』

観客『うおおおおおお!!』

唯『あぁ カミサマお願い♪
  二人だけのDream Timeください――』




紬は神妙な面持ちで、澪は見様によっては憮然とした表情で、梓は顔を歪めて涙を流しつつ、
唯の眠る棺を運ぶ。
やがて、棺は霊柩車に乗せられた。
長い長いクラクションが鳴らされ、それは火葬場へ同行出来ない参列者やファンへの最後の
別れの挨拶となる。
そのクラクションを斎場から少し離れた場所で聞いていた人影が、二つ。
ひとつは、澪曰く「おかしなカッコ」をした田井中律。
そして、律はもうひとつの人影をジッと凝視していた。
視線の先には、喪服としてのダークスーツを身にまとう、ウェーブ掛かった茶髪の女性。
年の頃は三十前後か。
女性は、走り出す霊柩車へ一礼すると、踵を返して歩き始めた。
律は静かに後を追う。



斎場の外にいた女性は、電車を乗り継ぎ、ある建物に辿り着いていた。
一見してアパートやマンションとは違う、テナント事務所が集まったビル。
その中の一室のドアの前で、女性はハンドバックの中をゴソゴソと探っている。
おそらくは鍵を探しているのだろう。
次の瞬間、彼女のすぐ真後ろでゾッとするような低い声が響いた。

律「鈴木純」

女性は飛び上がらん程に驚き、振り返った。

純「田井中、さん……?」

律「何だよ、随分と他人行儀だな。まあ、いいや。中に入れて茶くらい出してくれるんだろ?
  人を尾行するのって疲れるし、喉が渇くんだ」

純「え…… あ…… は、はい……」

気味の悪さと訳のわからない迫力に押され、純は入室を承諾してしまった。
中は然程広くない。業務用デスク。その上に置かれたパソコン。本棚。来客用ソファ。あとは
別室やトイレ、給湯室へのドア。
律は無遠慮にズカズカと中へ入ると、これまた無遠慮にドシリとソファへ腰を下ろした。

律「売れっ子音楽ライターの割りに、えらく貧乏臭い仕事場だな」

純「いっぱい仕事を入れなきゃ食べていけないだけで、儲かってる訳じゃありませんから……」

律「そんな事無いだろ。あんだけ澪の提灯記事書いといて。事務所からいくらもらってたんだ?」

純「し、知りませんよ。何ですか、それ……」

テーブルの上にコーヒーが置かれた。明らかに適当に淹れた、いかにもなインスタントコーヒー。
不味そうにすする律の、テーブルを挟んだ向かい側に、純も腰を下ろした。

純「一体、何の用ですか。コソコソ尾行なんてしてまで……」

律「そりゃ告別式には参列出来ないよな。澪を持ち上げる為に、徹底して唯を貶めてたんだから。
  憂ちゃんと唯の縁故でライターの職にありついたクセによ」

質問には答えず、耳の痛い話題を振る律。純の表情は不機嫌に曇っていく。

純「だから、何の用件で――」

律「でも、おかしいよな。遺族にも事務所にもファンにも嫌われてて、参列なんてしたくても
  出来ないのはわかってるのに、わざわざ喪服まで着込んで会場の近くまで行くなんてさ」

純「……」ピクッ

律「なあ、何故だ? 何でそんな真似をした?」

純「そ、それは…… 学生時代も、社会人になってからも、お世話になった人ですし……」

律「唯を裏切った澪の提灯持ちが、そんな殊勝なタマかよ」

純「……」

律「お前、唯と何かあったんじゃないのか? 唯の殺しについて、何か知ってるんじゃないのか?」

純「……」

否とも応ともなく、完全に黙り込んでしまった。
だんまりを決め込めば、律が諦めて帰るとでも思ったのか。

律はしばらくの間、視線を落として黙秘する純を睨みつけていたが、そのうちフウと一息吐いて、
再びコーヒーをすすった。

律「なあ、記事ってどうやって書いてんだ? 原稿用紙にサラサラッと? それとも、パソコンで
  カタカタッと?」

不意に、声の調子も話題も変わった。
純は、ほんの僅かに生まれた安心感と油断に、視線を上げて答えを返した。

純「え……? そりゃあ、今時はみんなパソコンですけど……」

律「ふうん。じゃあ、最悪でも左右一本ずつ人差し指が使えりゃ大丈夫か」

純「はい?」

コーヒーに伸ばされた純の右手。
それを素早く掴んだ律は、少しの間も置かず、小指を関節が曲がる方向とは逆に折り曲げた。
バキッと不快な音が部屋に響く。

純「ぎゃああああああああ!!」

律「右の小指を折らせてもらった。唯について何か知らないか?」

純「あ…… ああ……」

震えてうずくまる純。
能面のように無表情な律。
律は純の左腕を無理矢理捩じ上げると、先程と同じく小指を逆関節に折り曲げた。
またも不快な鈍い音が鳴る。

純「いやぁあああああああ!!」

律「左の小指も折った。唯について何か知ってたら教えてくれ」

純「ひっ、ひぃいい…… ああぁ……」

律「今度は右の薬指だ」

純「言います! 言いますから! もう、やめてぇ!」

激痛に身を捩じらせ、涙と鼻水とよだれで顔を汚しながら、純は懸命に言葉を吐き出した。
律は純の横にしゃがみ込むと、彼女の髪を掴み、無理矢理顔を上げさせる。

律「さあ、言え」

純「ううっ…… こ、殺される少し前に、唯さんがこの仕事場に来たんです。本を出したいから、
  きょ、協力してほしいって……」

律「本? どんな本だよ」

純「じ、自伝です。自伝を出版したい、と言ってました」

律「そうか。右の薬指を折られたいんだな」

純「いやぁあああ! どうして!? 正直に言ったじゃないですか!」

律「嘘を言ったからだ。唯のパソコンにはそれらしきデータは無かったし、原稿用紙もメモの
  類すらも見つからなかった。第一、自分を叩いてたライターに協力を頼む奴なんて、
  どこの世界にいるんだよ」

純「嘘じゃありません! 本当です! 本当なんです! 唯さんがここに来て、自伝の出版を
  手伝ってくれって言ったんです! それしか知りません! だからもう、痛い事はしないで!」

律「……自伝の話は、その後どうなったんだ」

純「ゆ、唯さんがここに来たのは殺される四日前で、そ、それから何の連絡も無いまま、
  その……」

律「10月11日を迎えたって訳か…… 他には? 本当にそれ以外、何も知らないのか?」

純「ですから、本当にそれしか知らな……―― あ……」

律「何だよ」

純「い、いえ、そんなに重要な事じゃ……」

律「言え。重要か、そうじゃないかは私が判断する」


純「は、はい…… ええと、自伝を出す理由を教えてくれなかったんです。私が理由を聞いたら、
  急に泣き出して…… あとは、何を言っても泣いてばかりで…… 何かに怯えるように……
  ただ、『ごめんなさい』『許して』っていう言葉だけは聞き取れました」

律「……」

髪の毛を掴む力が消え、純の身体が解放された。
立ち上がった律は、うずくまる純を無言で見下ろしていたが、やがて出口のドアへ向かった。

律「また来るからな。他に何か思い出したり、わかったりした事があったら、ここに電話しろ」

十一桁の数字を殴り書きしたメモ帳のページが破られ、ヒラリと床に落とされた。

律「ああ、それと……」

背中を向けたまま、グルリと首だけを捻る律。

律「今日の事は誰にも言わない方がいいぞ。もし警察に通報なんてしたら、今度折れるのは首だ。
  お前の親や兄貴のな」

純「い、言いません…… 誰にも言いません……!」

律は、純の絞り出すような声を背で聞きながら、事務所を出た。
はて、先程降りた最寄駅までは、どんな道順だったか。
記憶を反芻する為、街の風景を眺めつつ、足早に歩き始めた。



『日誌 田井中律、記 2022年10月15日
 この国は情報に溢れている。最早、第二の通貨と言ってもいい。
 金で情報を買い、情報で生活を、人生を買う。
 人を生かすも殺すも、盗賊に仕立て上げるも聖者に祭り上げるも、情報次第だ。
 そして、タレントやアイドル、ミュージシャンは売れるべくして売れていく。
 最初から、“こいつを流行らせる”とどこかの誰かが決め、無理矢理なマーケティングで
 いかにも流行っているように見せかける。そのうち、頭の足りない連中がそれに飛びつき、
 クソみたいな大流行の出来上がり。
 芸能界も音楽界も概ねこんなものだ。
 人柄も良く実力もある奴が浮かび上がれずに腐っていくなんて、飽きる程見てきた。
 澪の成功と唯の落ち目も、その一部に過ぎない。
 所詮、この世は情報を握れる者、情報を操れる者に左右されるのだ。
 
 鈴木が言っていた話は本当なのだろうか。理解出来ないし、信じられない。それを裏付ける
 証拠も無い。
 そもそもハナから信用出来る奴じゃない。
 しかし、何本かある調査の線に加える程度の価値はあるかもしれない。
 何せ、ほぼ進展していない状況に、ようやく入ってきた情報だ。
 少し整理してみよう。
 線は今のところ三本だ
 
 1.唯の仕事関連
 2.妹の憂ちゃん
 3.鈴木に協力を頼んでいた自伝出版
 
 まずは2から調べる。憂ちゃんは気の毒と思うが、こっちも必死だ。
 1はムギに協力させよう。もし断られたら、あいつの部屋に忍び込んで、色々と勝手に
 やらせてもらう。
 3は…… 3はどうしたものかな。どうも妙に気になる話だ。他と平行して進めてみるか。
 どうにも気になるんだ。
 
 唯は今頃どうしているだろうか。もう火葬が始まった頃だとは思うが。
 こんなに早く今生の別れが訪れるなんてな。
 もっと私に出来る事がいっぱいあったような気がする。
 あの時、もっと早く駆けつけていれば。
 あの時、真剣に話を聞いてやれば。
 あの時、直接会いに行ってやれば。
 あの時、一緒に仕事をしていれば。
 あの時、私もバンドを脱退していれば。
 あの時、唯の作曲を擁護してやれば。
 
 あの時、プロになんてならなければ。
 
 あの時、ずっと大切な友達だ、って伝えられていれば』



僧侶の読経が響き渡る中、火葬炉の前に置かれた小机には位牌と遺影が飾られ、そのすぐ近くに
唯が眠る棺が置かれていた。
本当に最後の別れ。
この後、唯は肉体を失い、灰塵となり、写真や映像や人々の思い出にしか存在しなくなるのだ。


純「は、はい…… ええと、自伝を出す理由を教えてくれなかったんです。私が理由を聞いたら、
  急に泣き出して…… あとは、何を言っても泣いてばかりで…… 何かに怯えるように……
  ただ、『ごめんなさい』『許して』っていう言葉だけは聞き取れました」

律「……」

髪の毛を掴む力が消え、純の身体が解放された。
立ち上がった律は、うずくまる純を無言で見下ろしていたが、やがて出口のドアへ向かった。

律「また来るからな。他に何か思い出したり、わかったりした事があったら、ここに電話しろ」

十一桁の数字を殴り書きしたメモ帳のページが破られ、ヒラリと床に落とされた。

律「ああ、それと……」

背中を向けたまま、グルリと首だけを捻る律。

律「今日の事は誰にも言わない方がいいぞ。もし警察に通報なんてしたら、今度折れるのは首だ。
  お前の親や兄貴のな」

純「い、言いません…… 誰にも言いません……!」

律は、純の絞り出すような声を背で聞きながら、事務所を出た。
はて、先程降りた最寄駅までは、どんな道順だったか。
記憶を反芻する為、街の風景を眺めつつ、足早に歩き始めた。



『日誌 田井中律、記 2022年10月15日
 この国は情報に溢れている。最早、第二の通貨と言ってもいい。
 金で情報を買い、情報で生活を、人生を買う。
 人を生かすも殺すも、盗賊に仕立て上げるも聖者に祭り上げるも、情報次第だ。
 そして、タレントやアイドル、ミュージシャンは売れるべくして売れていく。
 最初から、“こいつを流行らせる”とどこかの誰かが決め、無理矢理なマーケティングで
 いかにも流行っているように見せかける。そのうち、頭の足りない連中がそれに飛びつき、
 クソみたいな大流行の出来上がり。
 芸能界も音楽界も概ねこんなものだ。
 人柄も良く実力もある奴が浮かび上がれずに腐っていくなんて、飽きる程見てきた。
 澪の成功と唯の落ち目も、その一部に過ぎない。
 所詮、この世は情報を握れる者、情報を操れる者に左右されるのだ。
 
 鈴木が言っていた話は本当なのだろうか。理解出来ないし、信じられない。それを裏付ける
 証拠も無い。
 そもそもハナから信用出来る奴じゃない。
 しかし、何本かある調査の線に加える程度の価値はあるかもしれない。
 何せ、ほぼ進展していない状況に、ようやく入ってきた情報だ。
 少し整理してみよう。
 線は今のところ三本だ
 
 1.唯の仕事関連
 2.妹の憂ちゃん
 3.鈴木に協力を頼んでいた自伝出版
 
 まずは2から調べる。憂ちゃんは気の毒と思うが、こっちも必死だ。
 1はムギに協力させよう。もし断られたら、あいつの部屋に忍び込んで、色々と勝手に
 やらせてもらう。
 3は…… 3はどうしたものかな。どうも妙に気になる話だ。他と平行して進めてみるか。
 どうにも気になるんだ。
 
 唯は今頃どうしているだろうか。もう火葬が始まった頃だとは思うが。
 こんなに早く今生の別れが訪れるなんてな。
 もっと私に出来る事がいっぱいあったような気がする。
 あの時、もっと早く駆けつけていれば。
 あの時、真剣に話を聞いてやれば。
 あの時、直接会いに行ってやれば。
 あの時、一緒に仕事をしていれば。
 あの時、私もバンドを脱退していれば。
 あの時、唯の作曲を擁護してやれば。
 
 あの時、プロになんてならなければ。
 
 あの時、ずっと大切な友達だ、って伝えられていれば』



僧侶の読経が響き渡る中、火葬炉の前に置かれた小机には位牌と遺影が飾られ、そのすぐ近くに
唯が眠る棺が置かれていた。
本当に最後の別れ。
この後、唯は肉体を失い、灰塵となり、写真や映像や人々の思い出にしか存在しなくなるのだ。

>>24はミスです
重複してしまいました

ここにいるのは、唯の両親、憂、近しい親戚達、和、澪、紬、梓。
全員が焼香をし、小机が取り払われ、炉の扉が開けられる。
台車に乗せられた棺が、炉の内部へと運ばれつつある。
憂は虚ろな眼でその光景を眺めていた。脳裏に去来する、唯との最後の対話と共に。



あれは2022年10月6日。

憂『お姉ちゃん、またお酒を飲んでたんだね』

唯『だってぇ…… お酒飲んだ方が、よく眠れるんだもん…… ああっ、持ってかないで……!』

憂『睡眠薬はお酒と一緒に飲んだら危険なんだよ。死んじゃう事もあるんだから。それに気分が
  落ち込む病気はね、お酒を飲んだらひどくなっちゃう可能性が高いの。お願い、わかって』

唯『あぁあ…… 冷蔵庫の中が寂しくなっちゃった……』

憂『その代わり、今夜は私が晩ご飯を作るよ。ハンバーグカレー、お姉ちゃん好きでしょ?』

唯『うん……』

憂『じゃあ、テレビでも見ながら、少し待っててね』

唯『うん……』ピッ

『はい、準備が出来たようです。それでは歌って頂きましょう。秋山澪さんで――』ブツッ

唯『やっぱりラジオにしよう……』ザー

『えー、北海道札幌市のラジオネーム、アタックヤングさんからのリクエストですね。
 「僕は落ち込んだ時や元気が出ない時には放課後ティータイムの“ふわふわ時間”を聴きます。
 平沢唯さんの歌声を聴くといつも力が湧いてきます。僕が物心付く前くらいに流行った曲ですが、
 大好きです」という事でね――』

唯『……』

唯『ううっ……』ポロポロ

唯『うぇえええええん!』ポロポロ

憂『どうしたの、お姉ちゃん。悲しくなっちゃったの? 私がここにいるよ』ギュッ

唯『ういぃ、ういいいい! うぇえええええん!』ギューッ

憂『大丈夫。大丈夫だよ』

唯『ぐすっ、ラジオのね、男の子がね、ぐすっ、私の歌を聴いて、元気を出してるって。
  じゃあ、ううっ、私は、どうしたらいいの……? ひぐっ、平沢唯は、誰の歌を聴いて、
  元気を出せばいいの? うぇえええええん!』ボロボロ

憂『お姉ちゃん……』ギュッ



こんなジョークがある。
ある男が精神科医を訪ねて、こう訴えた。

「私の半生は悲惨の一言だ。もう人生に何の希望も持てないんだ。世間だってひどいものだ。
 先の見えない不安定な社会を、たった一人で生き抜く辛さがわかりますか?」

医者はこう答えた。

「簡単な事ですよ。今夜、あの有名なピエロのパリアッチのショーがありますから、行って
 きなさい。笑えば気分もよくなりますよ」

突然、男は泣き崩れた。
そして言った。

「でも先生…… 私がパリアッチなんです」

上出来のジョーク。客席は大爆笑の渦。
締めはドラムロール。
そしてカーテン。




火葬炉前は騒然としていた。
職員が台車を押して棺を炉内に運ぼうとしていた際、突如として憂が職員を突き飛ばし、
棺にすがりついたのだ。
母は床へ泣き崩れ、父は職員と共に憂を棺から引き剥がそうとし、親戚達はただオロオロと
慌てふためくばかり。
澪ら三人も、その光景には胸が締めつけられる思いだった。

憂「離して! お姉ちゃんは寝てるだけなの! お姉ちゃん、早く起きてよ! みんな、
  困ってるよ!」

父親、火葬場職員二名、そして梓も加わり、必死の力で憂を押さえつける。
それ程までに、今の憂は半狂乱となっていた。

梓「憂……! ダメだよ……!」ポロポロ

暴れる憂を押さえる腕に力を入れれば入れるだけ、梓の眼からは涙がこぼれ落ちた。
父は職員に目顔で促し、それを受けた職員は急いで棺の乗った台車を炉内に運び込む。

憂「やめて! 焼かないで! お姉ちゃんが死んじゃう! お姉ちゃん!」

そして、火葬炉の厚く重たい扉がゆっくりと閉められた。

憂「いやぁああああああ!! お姉ちゃああああああん!!」





誰がお前の別の顔を知っていただろう
誰が死の証明なんて出来るというのか
お前に別れを告げるなんて辛すぎる
現実だとわかっているのに
――レッド・ホット・チリ・ペッパーズ

第三章《人生は短い》

ビジネスマン達が気忙しく歩く、月曜の朝。
律はポケットに両手を突っ込んだまま、公園のベンチに浅く腰掛けていた。
サングラスの奥の眼は開かれていたが、二秒前から意識は閉ざされている。
沈黙の井戸から律を引き上げたのは、ポケットの中の携帯電話が発した振動だった。
すぐに通話ボタンを押し、耳へ当てる。

律「誰だ」

純『あの、鈴木です。鈴木純です』

律「何だよ」

純『今日、これから会えませんか?』

律「何か新しい情報でも入ったのか?」

純『い、いえ、そういう訳じゃないんですけど…… 話したい事が……』

律「……まさか、隠していた事でもあったんじゃないだろうな」

純『ち、違います! そうじゃなくて、ちょっと思い当たる事があったんですけど、それを
  考えていたら、すごく怖くなってきて…… お願いです。会って話を聞いてください』

律「わかった。ただ、人と会う約束があるから、午後1時頃にお前の仕事場へ行くよ」

純『はい、お願いします……』

電話は切られた。
物言わぬ電話を両手で持ち、額に当てたまま動かない律。
そんな彼女に、一人の中年女が話し掛けた。

女「少しいいですか? 神様はいつもあなた達を見ていらっしゃいます。審判の日が訪れ、
  世界が終わる時、悔い改めて祈りを捧げる者を、神様は――」

律「世界の終わりなら今日だ。前兆が現れた。東スポを読んだか? 大久保で頭が二つある
  猫が生まれたそうだ。今日に間違い無い」

中年女の言葉を遮り、律はニタリと笑った。
回れ右をして速やかに立ち去る中年女の背中は、サイズの合っていないブラジャーのせいで
ボンレスハムの様相を呈している。
やがて、律はベンチから腰を上げると、コートの襟を立て、朝の光が照らすタイル貼りの
舗道を歩き出した。



『日誌 田井中律、記 2022年10月17日8時22分
 神様は死んだ。悪魔は去った。今じゃ、どれも俳優が代わりを演じているんだ。
 世界はとっくに終わっているというのに、終わるぞ終わるぞと煽り立てる馬鹿共。
 滑稽を通り越して哀れに思える。
 
 今日、ようやく憂ちゃんに会って話を聞ける。ようやくだ。
 唯が死んだ悲しみには同情するが、泣くばかりで行動を起こさない彼女には、少し腹が
 立ってきている。
 どこの誰ともわからない野郎に姉を殺された。しかも、その野郎は捕まっていない。
 何故、地の果てまで追いつめて、復讐を遂げようとしないんだ。
 泣いている暇があるのなら、せめてもっと早い時点で私に協力するべきだったんだ。
 まあ、いい。役を演じていたいだけなら、そうしていればいい。
 私はそんなの御免だ。
 誰も見ていない舞台で、誰かに押し付けられた役を演じるなんて、到底我慢出来ない。
 
 午前10時に憂ちゃんと待ち合わせ。
 その後は午後1時に鈴木の仕事場へ。
 やっと兆しが見えてきたのかもしれない。
 この先の見えないハイウェイのような調査に』



自身の住むマンションの程近くにあるハンバーガーショップ。
そこに憂はいた。
駅前や繁華街の中という立地でもなく、時間も月曜の午前。店内には空席が目立つ。
店の奥の奥。外からも店員からも目が届きにくい対面式の席に、憂はひっそりと座っている。
外出もしたくなければ、人と会いたくもない。そんな心境の憂がここにいるのは、律の常軌を
逸したしつこさ故と、他にひとつ。
他にひとつだけ、たったひとつだけ望むものがあった。

律「お待たせ」


オレンジジュースのSサイズコップに差し込まれたストローの先端から眼を上げると、席の
脇に律が立っていた。
律は音も無く、憂の向かい側の席へ滑り込む。

憂「……何も頼まないんですか」

律「腹は減ってないんだ」

憂「顔色、悪いですね。大丈夫ですか?」

律「寝てないからな。てゆーか、顔色が悪いのはお互い様だろ。それよりも早速、本題に
  入りたいんだけど」

憂「ちょっと待ってください。その前に私からお願いがあるんです」

律「……何?」イラッ

ニット帽とサングラスで顔の半分が隠れていても、不機嫌な様子は充分わかる。
しかし、それでも憂は自身の意志を貫きたかった。

憂「……お姉ちゃんの最期を知りたいんです。律さんはその場にいたんですよね。教えてください。
  これが今日、律さんとお話する条件です」

律「……」

律は黙ったまま。憂も律が何かを語るまでは、もう口を開かないと心に決めている。
そして、憂にとって胃が搾り上げられるような沈黙が続いた後、律は重苦しく口を開いた。

律「11日の夜、私は何も知らず、自分の部屋で呑気に過ごしてた。そうしたら、電話が鳴ったんだ。
  唯からの電話が――



電話に出たら、唯の悲鳴が聞こえてきたんだ。驚きと恐怖が混ざったような。

律『もしもし、唯? どした?』

『誰!?』

『ぎゃっ!』

それから、携帯電話がどこかにぶつかったのか、すごい音がして、その後にガラスが割れる音が響いた。

律『唯!? どうした! 何やってんだ!』

『う…… うぅ……』

唯のうめき声と何かを踏みつけるような足音がして、唯が誰かに襲われてるんだ、って思ったよ。
唯が私に助けを求めてるんだ、って。

『やめて…… お願い……』

律『唯、待ってろ! 今すぐ行くからな!』

私はすぐに部屋を出て、車を走らせた。
電話は繋げたまんまにしてたけど、後で確かめたら、すぐに切れてた。
滅茶苦茶にスピードを出して、信号も無視して、それでも十分以上はかかったのかな。
唯のマンションの前に着いた時には、人だかりが出来てた。
急いで車を止めて、野次馬をかき分けて、その中心に行こうとしたよ。

律『クソッ、どけ! どいてくれ! 唯!』

やっとの思いで、人だかりが終わったかと思ったら、離れたところに唯が倒れてたんだ。

律『唯…… そんな…… 唯ぃいいいいいい!!』

ひどかったよ。血の海って、ああいうのを言うんだな。一面、血の海なんだ。
手も足もおかしな感じに曲がってて。
それと、脳みそだ。頭が割れて、脳みそが周りに飛び散ってた。

律『唯! 唯ぃ! 嘘だと言ってくれよ! なあ!』

気づいたら、私は道路に散らばった脳みそを必死にかき集めてた。
それを頭に戻そうとするんだけど、どうしても脳みそがどんどん出て来るんだ。
片方の目玉も飛び出してて、もう片方の眼も飛び出しそうなくらい見開かれてて。
すごく冷たかった。唯の奴、冷たくなってた。
私の手に付いた血や脳みそも冷たかった。
冷たさが、唯は死んだって事を教えてくれたみたいだった。
それから、私はその冷たさに耐えられなくなって、両手で顔を覆ったんだ。

冷たさにも、喪失感にも、悲しみにも、罪悪感にも、驚きにも、後悔にも、怖さにも、
何にも耐えられなくなった。
両方の掌の下で「唯……」ってうめいて、眼を閉じたのは田井中律だったけど……



  ――その眼を開いた時には、もう“私”になっていた」

憂「ううっ…… お姉ちゃん…… ぐうぅ、お姉ちゃん……」グスッグスッ

話の半ばまでも達しないうちに、憂は顔を伏せて嗚咽を漏らしていた。
向かい側の律は表情ひとつ変えていない。
この奇異な光景に、店員も数少ない周囲の客も、不審な視線を送っている。

律「警察が言うストーカー殺人なんて嘘っぱちさ。唯を殺した存在はもっと他の理由を持った
  何かだ。そうじゃなきゃ、あんな殺し方は出来やしない」

憂「ううっ…… ひぐっ……」グスッグスッ

律「憂ちゃんが聞きたい事はすべて話した。さあ、次は私の番だ」

しかし、憂はいまだに泣きじゃくり、顔を上げようとしない。
このままでは埒が明かない。指を折ってでも話をさせたいところだが、流石にそれははばかられた。
相手は死んだ唯の妹なのだ。
そこから三十分程、律は無言で待ち続けた。獲物を待ち続ける蛇の執念に近い。
ようやく落ち着きを取り戻したのか、しゃくり上げる回数が少なくなり、顔が徐々に上がり始める。

憂「ぐすっ…… ご、ごめんなさい。少し、落ち着いてきましたから……」

律「そうか。ありがたいね」

憂「それで、律さんは何が聞きたいんですか……」

律「全部だよ。唯についての何もかもだ」

憂「全部って言われても…… 何から話していいのか……」

律「じゃあ、まずは健康状態や精神状態からだ。あいつ、電話やメールじゃ、詳しく言いたがら
  なかったんだ」

憂は息をひとつ吸い、吐くと、頭の中で整理するように、ゆっくりと話し出した。

憂「お姉ちゃんは、アルコール依存症だったんです……」

律「アル中……?」

憂「はい。お姉ちゃん、元々お酒が大好きなのは律さんも知ってますよね。だけど、音楽の
  お仕事が減って、タレント活動がメインになった辺りから、飲む量も回数もすごい勢いで
  増えて……」

憂「無理矢理お医者さんまで連れて行って、お酒をやめるようにも言ってたんですけど、
  隠れて飲んだり、外出先で飲んだりで……」

再び憂の瞳が潤み始めた。

憂「お姉ちゃん、どんどん様子がおかしく…… 全然眠れなくなって、お部屋で塞ぎ込んで……
  落ち込んでいたら急に泣き出したり…… 助けてあげたいのに、どうしたらいいのかも……
  ぐすっ……」

律「どうして教えてくれなかったんだ。私や梓に」

憂「みんなには絶対言わないでくれって、お姉ちゃんが…… 言ったら死んでやるって……
  私、怖くて……」

律「……唯はずっと悩んでいた。放課後ティータイムの主導権を澪に奪われて以来な。
  バンドの脱退、ソロ活動の商業的失敗、バラエティ中心のタレント活動、事務所移籍、
  二度目のソロ活動失敗、仕事そのものの激減。これで悩まない奴がいたら、そいつは
  どうかしてる。唯が酒に逃げたのも、心を病んだのも、当たり前かもな」

憂「ごめんなさい…… 私がちゃんとお姉ちゃんを支えてあげられれば……」

律「そんな事を言うなら、私だってそうだよ。無理矢理にでも押しかけて行って、あいつの
  力になれば良かったんだ。でも、それをしなかった……」

憂「……」

律「他に何か、唯の行動や態度におかしなとこは無かったか? 例えば、誰かに脅されていた
  様子とか、危険な事に巻き込まれていそうな雰囲気とか」


憂「そんな…… わ、わかりません。一緒に住んでいる訳じゃないですから。昔と違って、
  あまり話をしてくれなくなりましたし。けれど、私から見る分には、そういう感じは
  ありませんでした」

律「ふうむ……」

憂「あとは、週に一度か二度、どこかへ出かけていたくらいです。行き先は絶対に教えて
  くれませんでしたけど……」

律「怪しいな」

憂「でも、そんな時は外泊せずに、ちゃんと部屋に帰って来てました。少なくとも私が知ってる
  限りでは。それに、ひどく酔って帰って来るんですけど、いつもと違って少し楽しそうでした」

律「そうか……」

空振り。ワンストライク。
審判の声が聞こえてくるようだった。
唯に一番近しい人間からの聞き込みで、この結果。
ハイウェイの照明が暗くなり、またも道の先が見えなくなりつつある。
どうしたら良いのか。
他の手掛かりも、手掛かりというには心もとないものだ。
律の頭蓋の中では、思考の渦が激しさを増していたが、顔貌は相変わらずの無表情である。
黙りこくってしまった律に対し、憂はおずおずと言葉を掛ける。

憂「あ、あの、律さん…… もし、お姉ちゃんを殺した人がストーカーじゃないとしたら、
  どんな人だと思いますか……?」

律「ん? ……まだ、わからない。残された手掛かりも、唯が置かれていた状況も、はっきり
  しない事が多いから」

憂「そうなんですか……」

律「ただ、さ…… 唯は誰かに恨みを買うような奴じゃない。だから、犯人は完全に自分の都合で、
  唯に生きててもらっちゃ困る野郎だと思う。何となくだけど」

憂「そんな人がいるんでしょうか……」

律「いるんじゃないか? 芸能界はおっかないところだからな」

憂「……」

またも沈黙の時。
常に思案を巡らせ続けている律はそれでもいいかもしれないが、憂はそろそろこの場が苦痛に
なりつつある。
帰宅したい旨を伝えるタイミングを図っているうちに、憂の視線は律が被っている白地に
黒模様のニット帽に注がれた。

憂「その帽子……」

律「帽子がどうかしたか? 部屋にあったもんを適当に被っただけだよ」

憂「ロールシャッハ・テストのカードみたいですね」

律「何だって?」

憂「ロールシャッハ・テストですよ。私、お姉ちゃんが心の調子を悪くしてから、精神医学や
  心理学の本を買って勉強してて…… その中に載っていた性格検査のひとつで、インクの染み
  みたいな模様を見せて、それが何に見えるかによって人格を分析するテストなんです」

律「ふうん……」

憂「例えば、こんな感じで――」

冷えて硬くなってしまったポテトの脇にあるトマトケチャップ。憂はそれを取ると、紙ナプキンの上に数滴、無造作に垂らした。
そして、その紙ナプキンを二つに折り曲げ、また開く。
すると、そこには赤い、左右対称の、奇妙な模様が展開されていた。

憂「――これ、何に見えますか?」

紙ナプキンが開かれた瞬間から、律には鮮明に見えていた。
頭が割れて脳がはみ出し、血と脳漿に塗れた唯の顔が。
唯がジッとこちらを見ている。眼を離す事が出来ない。

律「……キレイなチョウチョ」




律と憂の会談と、ほぼ同時刻。
コトブキ・エンターテインメント本社ビルの社長室では、真鍋和が革張りのソファに腰掛け、
紬と向かい合っていた。
テーブルの上にはコーヒー、イチゴのショートケーキ、モンブラン、それに署名捺印済みの
書類が数枚置かれている。

紬「うん、これで契約事項は全部ね。和ちゃん、これからコトブキの顧問弁護士として、
  どうかよろしくお願いします」

和「こちらこそ、よろしく。でも、今回の申し出は本当に嬉しかったわ。こう言っては何だけど、
  今は夫の選挙活動の準備で色々と入り用な時期だったから」

紬「今回の衆院選は大変そうだものね」

和「ええ。それに婿養子で私の両親とも同居してるから、普段から気を遣わせてばかりだし、
  こんな時こそ応援してあげなきゃ」

紬「もし、私に協力できる事があったら、何でも言ってね」

和「ムギにはお世話になってばかりね。本当にありがとう」

紬「ううん、お礼を言わなきゃいけないのは私の方よ。唯ちゃんの事ではそれこそお世話に
  なりっ放しだったから。路上ライブで書類送検された時も、前の事務所を移籍する時も、
  今の事務所で契約違反をしそうになった時も。何度もお骨折りしてもらって申し訳無いわ」

和「フフッ、いいのよ。幼稚園からの腐れ縁だから」

紬「本当は私も唯ちゃんの為に何かしてあげたかったんだけど。経営の忙しさで手が離せなく
  なっていて……」

和「大丈夫、きっと唯もわかっていた筈よ。誰よりも何よりも放課後ティータイムの事を、
  他のメンバー達の事を考えていたのは、あなただって。現役の頃も、引退してからも、
  ずっと……」

紬「もっと私に出来た事があったんじゃないかって、いつも考えてしまうの…… だって、
  こんなに早く、唯ちゃんとお別れするなんて思わないじゃない……」

和「……自分を責めるのは簡単よ。でも、それじゃ唯が浮かばれないわ。あの子の分も、
  私達は精一杯生きていかなきゃ。人生は続くんだから」

紬「そうね…… 人生はまだまだ続く……」

和「そういう事。じゃあ、私はそろそろ……」

書類を封筒に収め、それをバッグに入れると、和は立ち上がって一礼した。
紬も立ち上がると、内線電話に手を伸ばす。

紬「菫、私よ。真鍋先生をお送りするわ。あなたも来てちょうだい」

社長室長の斎藤菫を伴い、紬と和は揃って社長室を出た。
廊下では三人が通り過ぎる度に社員達が深々と最敬礼し、エレベーターでは乗っていた社員達が
一斉に降りて三人に箱を譲る。
そんな大手企業ではありがちな光景を繰り返しつつ、紬らはビルの正面玄関から外へ出てきた。

菫「真鍋先生、只今お送りの車が参りますので、少々お待ちくださいませ」

和「えっ? い、いいわよ。電車で帰るから」

紬「まあまあ、和ちゃんは忙しいんだから、是非送らせて。ね?」

和「そう? じゃあ、お言葉に甘えて……」

正面玄関前で談笑する紬と和。
そこから十数m先に、一人の男が歩いていた。
チェック柄のシャツがパンツインされたケミカルウォッシュ・ジーンズ。脂光りしただらしの
無いヘアスタイル。無精髭。
オフィス街には全く似つかわしくない風貌の男。
彼は視線の先に紬を捉えると、急に歩く速度を速めた。
両者の距離が縮まるにつれ、急ぎ足から早足、早足から小走り、小走りから遂には疾走と
言っても良い程のスピードへと加速されていく。
そのうち男は懐から刃渡りの長い包丁を取り出し、紬めがけて殺到した。
周囲のざわめきと悲鳴、大きな足音。
異変に最も早く気がついたのは和だった。
眼を向けると、不潔そうな男が紬に包丁を突き立てようと迫ってくるのが見えた。

和「ムギ! 危ない!」


男と紬が交差しようとする刹那の寸前、和は咄嗟に紬に抱きつき、道路へ押し倒した。
身を起こした紬がまず眼を遣ったのは、左腋下から背中に掛けて大きな切創を負い血を流す和。
そして、包丁を握る息の荒い男。

紬「和ちゃん!」

男「ムギ、お前も俺の物になるんだよ。唯みたいに……! ほらァ!」ダッ

紬「!?」

男は改めて紬に向かって突進する。
紬は包丁から身をかわすと、地面に突き立つ鉄製の車止めポールを素早く引き抜き、男の顔面に
狙いをつけた。

紬「ええい!」ブゥン

男「ぶっ!」

フルスイングされた鉄製ポールは男の鼻っ柱を的確に打ち抜いた。
男は大きく吹き飛ばされ、玄関前の石段に背中を叩きつけられたところで、数名の男性
社員に取り押さえられた。
内出血で変色し、腫れ上がる顔面。噴水の如く吹き出す鼻血。それでも男は紬を舐めるように
見つめる事をやめようとしない。
紬は鉄製ポールを放り投げ、和のもとに駆け寄ると、彼女の身体を抱きかかえた。

紬「和ちゃん! しっかりして! 和ちゃん!」

和「だ、大丈夫よ…… かすっただけ……」

菫「お姉ちゃ―― 社長! 大丈夫ですか!?」オロオロ

紬「私の事より和ちゃんが! 早く救急車を呼んで! 早く!」

眉根を寄せて倒れる和。
顔面蒼白で立ち尽くす菫。
錯乱気味に声を上げる紬。
更には通行人やビル内から出て来る社員が騒然とする中、組み伏せられている男は紬を見つめ
続けている。

男「クソッ、もう少しだったのに…… もう少しでムギも永遠に俺の物だったのに! ムギ!
  愛してるよ! チクショウ! 離せェ!」

そのわめき声を耳にした紬は立ち上がると、ゆっくりと男へ近づいた。
拳は固く握られ、歯はギリギリと食いしばられている。

紬「あなたが、唯ちゃんを殺したのね……?」

男「ヘヘヘ、そうだよ? 唯は永遠に俺の物になったんだ。髪の毛も経血も食べてやった。
  次はお前、その次は澪、その次は、ヒヒヒ……! みんな、俺の物に―― ぶへェ!」

男の言葉が終わらないうちに、紬の憎しみによって握り締められた拳が彼を殴りつけた。

紬「このケダモノ! 唯ちゃんを返して! 返してよぉ!!」ドガッ バキッ

菫「ああ、お姉ちゃん…… お姉ちゃん……」ガタガタ

警備員「社長! おやめ下さい!」

常務「いけません! それ以上は過剰防衛になります! あとは警察に任せましょう!」

紬「唯ちゃんを返してぇ!!」



再び、律と憂が向かい合うハンバーガーショップ。
ポケットの中の携帯電話が震え、律に着信を知らせる。
律は、ウンザリ気味の憂に配慮する事も無く、携帯電話を耳に当てた。

律「誰だよ。え? ムギの? はあ…… 何だって? 嘘だ! そんな訳があるか!」

おそらく一分にも満たない短い通話だっただろう。
会話とは言えない不可解な反応の後、律は通話の終わった携帯電話をポケットにしまった。

憂「あ、あの…… どうかしたんですか?」

単純な驚き。それと正体不明の不安感。憂は何事か尋ねずにいられなかった。
無言のまま爪を噛んでいた律であったが、やがて渋々といった調子でボソリと呟いた。

律「……犯人が捕まった。唯を殺した犯人が」


憂「ええっ!? 本当ですか!?」

律「ああ。ムギの秘書って奴からの電話だ。ついさっき、唯を殺した野郎がムギを襲ったらしい。
  でも、逆にムギにブチのめされて逮捕されたって……」

憂「逮捕、された……」

律「そんな馬鹿な……」

憂「……!」

律の一言が憂の顔色を変えさせた。これまでに無い怒りの色を強く表している。
それもそうだろう。せっかく憎い犯人が捕まったのだ。本来であれば喜ぶべきところなのに、
そんな筈が無い、とでも言いたげな態度なのだから。
尋常ではない執念で犯人探しをしていた張本人であるにも関わらず、である。
憂はもう、一秒でもこの場にいたくなかった。こんな狂人と向かい合っていたくなかった。

憂「すみません。私、そろそろ失礼します」ガタン

律「おい、待て」

席を立って出入口に向かおうとする憂。
そうはさせじと彼女の手を掴む律。
しかし、自分を引き留める手にも、その手の持ち主である律にも、憂は一瞥もくれようとしない。
すべては既に終わっていたのだ。

憂「お姉ちゃんは帰って来ないけれど…… せめて、司法が犯人を極刑にしてくれる事を願います。
  だから、律さんも、もう……」

律「唯は自伝を書こうとしていた。鈴木純に協力を頼んでいたんだ。その事について何か
  見たり聞いたりしてないか? それが真犯人に繋がる糸口かもしれないんだよ」

度し難い。救いようの無い。
フウとひとつ吐かれた憂の溜息がそう物語っていた。

憂「いい加減にしてください……!」

律の手を強引に振りほどき、憂は荒い足取りでハンバーガーショップを後にした。
一人残された律はただ視線を落とす。
紙ナプキンとトマトケチャップのロールシャッハ・カードに。
血まみれの唯の顔に。



唯『もしもし。りっちゃん、寝てた?』

律『うんにゃ、起きてたよ。どした?』

唯『あのね、純ちゃんのコラムを読んだんだけど……』

律『唯~、あいつの記事はもう読むなって言ったじゃんか。いちいち腹立ててたらキリが
  無いんだからさ』

唯『でもでもっ! ひどいんだよ! “平沢唯在籍時の前期放課後ティータイムの人気は、
  失礼ながらアイドルのそれに他ならない”なんて書いてるんだよ! もう何年も前の事
  なのに……』

律『いや、もうその放課後ティータイムも解散しちゃったようなもんだろ? 澪の奴がソロ
  アルバムなんて出して、バンドとしての新譜やライブの話も無くなったし。私や梓は
  どうすりゃいいんだよ。ったく』

唯『でも……』

律『あ、そういえばさ。この前出た唯のアルバム、良かったよ。ケルト音楽とかアンデス音楽
  とかはあんまり詳しくないけど、唯の歌やギターとピッタリ合ってた。あれ、すごいな。
  今の事務所に移って正解だったんだよ』

唯『全然、売れてないんだよね…… テレビやラジオでも掛けてもらえないし…… どうして
  なんだろう……』

律『そ、それは、ほら、あれだよ。売れてりゃ良い音楽とは限んないだろ? わかる人には
  わかるってヤツだよ』

唯『澪ちゃんのソロアルバムはあんなに大人気なのに……』

律『澪は澪、唯は唯だぞ。私はちゃんと唯の音楽の良さをわかってるからさ。それに比べて
  私なんか、ソロやりたくったってそんな実力も無いし、新しいバンド組みたくったって
  声掛けてくれる奴もいないし――』


唯『純ちゃんも、私が抜けた後の放課後ティータイムや澪ちゃんの事はすごく褒めてるのに……
  どうして私だけ……』

律『お、お~い。唯~?』

唯『やっぱり私はただのタレント、ううん、コメディアンなのかな…… 放課後ティータイムが
  人気だったのも澪ちゃんとムギちゃんのおかげで、私はいてもいなくても良かったのかな……』

律『なあ、唯……』

ガチャッ ツーツーツー

律『唯? もしもし? ……何だよ、もう』



午後1時まで、あと9分11秒。
律は、鈴木純の仕事場の前に来ていた。
先日、一度訪ねたきりではあったが、唯との思い出を回想していても自動的にたどり着ける程に
足が道順を憶えていた。
約束の時間には少し早いが、律は遠慮もノックも無く、仕事場のドアを開いた。

律「よう。来たぞ、鈴木。一体、何の――」

思わず言葉を飲み込んだ。
ドアノブを握る手に力がこもる。
しかし、その力とは裏腹に、出来る限り物音を立てずに部屋から身体を引っ込め、静かに
ドアを閉めた。
すぐに手持ちのティッシュペーパーで、ドアノブを素早く、かつ入念に拭く。
ノブを拭き終わったティッシュペーパーをポケットに捻じ込むと、律は足早にその場から離れた。
大丈夫。監視カメラは設置されていなかったし、この様子を見ている者もいなかった。大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせるも、驚きと、焦りと、苛立ちと、腹立たしさが、足取りと心臓の鼓動を
どんどん速めていく。
律は心中であらん限りの悪態を吐きながら、最寄駅への道を急ぎ足で引き返した。



『日誌 田井中律、記 2022年10月17日13時31分
 くそっ。くそくそくそくそっ。何てこった。どうなってるんだ。
 ツーストライクだ。冗談じゃないぞ。
 鈴木が死んでいた。首を吊っていた。ちくしょう。ブラ下がっていやがった。
 一体、どういう事だ。奴の方から私を呼び出したってのに。話したい事があると言ってたのに。
 ブルった様子で私に助けを求めてるようだった。
 何故そんな奴が自殺するんだ。午後には私が行くと言ってたのに。
 話が噛み合わないぞ。くそったれ。
 誰にも見られていないだろうな。おそらく、たぶん、誰にも見られていない筈だ。
 監視カメラだって無かった。本当か?
 くそっ、頭が混乱している。落ち着け。意識を集中しなければ』



律の携帯電話が本日三度目の着信を知らせたのは、彼女が朝の時点で座っていた公園のベンチに
腰を落ち着けた、まさにその瞬間だった。
律は発作的に携帯電話を地面へ叩きつけたい衝動に駆られるも、すぐに我に返り、画面表示を
確認した。
そこにあったのは“中野梓”。
通話状態にした携帯電話から聞こえてきたのは、ひどく慌てた梓の声だった。

梓『律先輩! 聞きましたか!? 唯先輩を殺した犯人が逮捕されたって!』

律「ああ、聞いたよ。ムギの秘書から連絡があった」

梓『そうでしたか。でも、本当に良かったです。こんなに早く犯人が捕まって。これで律先輩も
  犯人探しなんてしなくてもよくなりましたし……』

律「……違う。ムギを襲った奴は犯人じゃない。真犯人が別にいるんだ。絶対に」

梓『何を言ってるんですか。もう事件は解決しているんですよ。気持ちはわかりますけど、
  もう――』

律「なあ、梓」

梓『何ですか?』

律「鈴木純が死んだ」

梓『……は?』

律「鈴木純が自殺したんだ。自分の仕事場で首を吊って」


梓『ど、どういう事ですか!? そんな……! 純が……! 嘘です!』

律「勝手を言うようで申し訳無いが、落ち着いてくれ。話を円滑に進めたいんだ」

梓『だって! そんな! 純が、純が死んだなんて!』

律「私が出した結論から先に言うぞ。鈴木は自殺したんじゃない。殺されたんだ」

梓『どうして律先輩にわかるんですか!』

律『もう一度言う。落ち着いてくれ。今から説明するから』

梓『ううっ…… ぐすっ……』

律「私は唯の死を調べていく中で、鈴木の存在に当たったんだ。告別式の日の行動に怪しさを
  感じてな。それで奴から唯に関しての情報を聞き出した。梓、お前さ、唯が自伝を出版
  しようとしていたって聞いた事があったか?」

梓『い、いえ……』

律『唯の自伝出版。それが鈴木から聞き出した情報のひとつだ。他には、唯はその理由を
  言おうとせず、泣きながら誰かに謝っていたって事も。ここまではいいか?』

梓『え……? あ、はい……』

律「鈴木は今朝、私に電話してきたんだ。話したい事があるってな。唯の死そのものについてか、
  自伝についてか、今となってはわからないが。それと、何かにビビってるようだった」

梓『……』

律「話が噛み合わないんだよ、梓。道理に合わないんだ。朝、私に会いたいと言ってきた奴が、
  昼には私が行くってのに、その前に自殺しちまうなんて」

梓『……』

律「鈴木は、自覚してるしてないは別にして、何か重要な事を知ってしまったか、もしくは
  関わってしまっていた。そのせいで消された」

梓『……』

律「話を整理するぞ。唯は自伝を出版しようとしていたが、その内容が世に出ると都合の
  悪い奴がいた。だから、そいつは唯を殺した。そして、それに協力しようとしていた
  鈴木も自殺に見せかけて殺した。更に、唯殺しの犯人をでっち上げて、今回の事件を
  終わらせようとしている。こんなとこだ」

梓『……待ってください。その推理が当たっているとしたら、今度は自伝の事を調べている
  律先輩が狙われるかもしれないじゃないですか』

律「だろうな。まあ、望むところだ。手っ取り早く事件の真相を暴いて、唯の仇を討てるしな」

梓『……』

律「鈴木が殺されちまったから、自伝に繋がる線は完全に断たれた。だけど、ムギを襲った
  野郎がまだ残っている。そいつを徹底的に調べ上げて、真犯人にたどり着いてみせる」

梓『その人はもう警察に捕まっているんですよ?』

律「だから何だ。そんなの関係無い。やると言ったらやる」

梓『……』

律「……」

梓『……』

律「……梓。2014年の大晦日の事、憶えてるか?」

梓『え……?』

律「唯の脱退を発表する記者会見の後、お前と唯の二人が路上ライブやってさ、とんでもない
  大騒ぎになっただろ。交通もマヒしちゃって」

梓『あ、ああ…… ええ……』

律「あの時、二人とも警察にしょっ引かれたけど、取り調べでは唯が必死になってお前を
  かばったんだよな。お咎め無しで帰してもらえるように。全部、一人で罪を被ってさ」

梓『はい……』


律「唯は道路交通法違反で書類送検。まあ、起訴猶予処分にはなったけどさ。あの当時の
  メディアの唯叩きはマジでひどかった。でも、その後のお前の行動は嬉しかったよ」

梓『いえ…… そんな……』

律「いろんなメディアや自分のブログで、唯を擁護してくれた。事務所が止めるのも聞かないで。
  結局、お前も謹慎になっちまって…… ハハッ、あの時の澪の怒りようったら無かったな」

梓『すみません……』

律「……唯にお前がいて良かった。お前はあいつにとって最高の後輩、いや、友人だったと思うよ」

梓『……』

律「唯の仇討ちは私に任せとけ。お前は…… お前だけは、唯の事を忘れずにいてやってくれ。
  これからも、ずっと……」

梓『……』

律「じゃあ、な」

梓『……律先輩』

律「ん?」

梓『真犯人探し、私にも手伝わせてください』

律「何?」

梓『か、勘違いしないで下さい。私は律先輩の言ってる事をすべて信じた訳じゃありません。
  ただ、唯先輩と純の死の真相を知りたいだけです。ムギ先輩を襲った人が逮捕された事で
  この事件が終わってしまうのなら、律先輩と一緒にいれば何かわかるかもしれない、
  そう思っただけです』

律「うん……」

梓『それに、律先輩も心配なんです。このままじゃ、律先輩――』

律「ん……?」

梓『……とにかく! すぐにそちらに合流します。今、どこにいるんですか?』

律「今か? お前の部屋の前だ」

梓『はいぃ!?』ダッダッダッダッダッ バタン

律「すまん。ジョークだ」

梓『はっ倒しますよ! ホントにもう!』

律「今、ブクロだ。西口公園。わかりやすいように入口の方に行くよ」

梓『じゃあ、すぐに行きますから。待っててください』

律「梓……」

梓『はい?』

律「お前は…… いい友人だ。すまん…… 苦労をかけるな」

梓『何言ってるんですか。律先輩らしくないですよ』

律「そうか…… じゃあ、後でな」

電話は切られた。
物言わぬ電話を両手で持ち、額に当てたまま動かない律。
そんな彼女に話し掛ける者は誰もいない。
やがて、律はベンチから腰を上げると、コートの襟を立て、午後の日差しが照らすタイル貼りの
舗道を歩き出した。





人生は短い
くだらないケンカをしている暇なんて無いよ
馬鹿馬鹿しいとしか思えないね
だから、もう一度だけ君に尋ねたいんだ
――ザ・ビートルズ

第四章《この世で一番悲しい音》

監督「よし! オッケー!」

男性の声がスタジオ内にこだますると、澪は疲れ切った表情で、大きく息を吐いた。
監督、ヘアメイク担当のスタッフやマネージャーが、照明に照らされた彼女の元に歩み
寄って来る。

監督「いやあ、澪ちゃん、良かったよ! 澪ちゃんの存在で、映像に締まりっていうかさ、
   緊迫感が出せたよ。無理言ってすまなかったね」

澪「いえ、そんな…… むしろ、カメオ出演とはいえ、私なんかが監督の映画に出演して
  ご迷惑掛けたりしないかなって……」

監督「なぁに言ってんの! ホント、謙虚だねえ。澪ちゃんは」

澪「そ、そんな事…… じゃあ、私はこれで失礼します。ありがとうございました」ペコリ

監督「いやいやいや、こちらこそありがとう! お疲れさん!」パチパチパチパチ

有名俳優「よっ!」パチパチパチパチ

スタッフ「お疲れ様でしたァ!」パチパチパチパチ

監督の率先した拍手につられ、他の共演者やスタッフも大きな拍手を響かせる。
歓声と拍手の渦の中、冷汗三斗の澪はマネージャーと共にスタジオを後にした。



駐車場までの道すがら、連れ立って歩く年下の男性マネージャーは、仕事柄なのか元々の
性格なのか、やや疎ましいくらい積極的に澪へ話し掛けていた。

マネージャー「“主人公に仕事を依頼しに来る女性要人”って割には、出演は三分くらいの
       ものでしたね。もっと目立つ役だったら良かったのに」

澪「私にはその三分が二時間くらいに思えたよ。はあ、疲れた……」ゲッソリ

マネージャー「でも、こう言っては失礼ですけど、秋山さん、意外と演技上手いですね。
       前にお芝居の仕事をされた事があるんですか?」

澪「いや、全然。高校の学園祭でロミオを演っただけ」

マネージャー「それであの演技力ですか。やっぱこういうのは才能なんですねえ。僕なんか
       学校の演劇と言えば、木の役くらいで…… アハハハハ」

澪「……」

急にむっつりと口を閉ざす澪。
事務所の社員達の間では、彼女の扱いづらさは最早伝説になっていると言っても過言では
無かった。
高い実力に反比例するかのようなメンタルの弱さ。
そこから来る浮き沈みの激しい性格。
礼儀正しさや謙虚さの裏に隠された嫉妬深さ。
病理の域に達する、異常なまでの音楽へのこだわり。
そして、いくつかのNGワード。
特に『平沢唯』の話題は絶対的禁忌と皆が認識していた。
この年若いマネージャーは、何か地雷を踏んでしまったのだろうかと内心恐れを抱きながら、
無言の澪の一歩後ろで小さくなっていた。

澪「今日は、一人で帰るから……」

車まで数mのところで、リモコンキーのボタンを押しながら澪が呟いた。

マネージャー「え? いや、それはちょっと…… ここ最近、物騒ですし」

澪「別に気を遣わないでハッキリ言ってくれていいよ。『唯が殺されて、ムギが襲われたから』
  ってさ。でも、犯人はおととい、逮捕されただろ?」

マネージャー「とは言っても……」

澪「いいから。一人になりたいんだ」

彼の返事を待たず、澪はさっさと運転席に乗り込んでしまった。

マネージャー「あ、ちょ、ちょっと、秋山さん!」オロオロ

慌てるマネージャーを尻目に、クラクションがひとつ鳴らされ、澪の乗る黒のジャガーXJは
颯爽と駐車場を飛び出した。




数十分の後。
とあるマンションの地下駐車場に車が停められ、中から仏頂面の澪が出て来た。
澪の自宅。それは都内一等地の高級マンションであり、彼女の他にも大物タレントやスポーツ
選手、実業家が居を構えるセレブリティ・パレスだった。
しかし、華やかな高層宮殿とは対照的に、地下駐車場は暗く、冷たく、どこか物寂しい。
その無機質な雰囲気に包まれ、幾度と無く溜息を吐きつつ歩く澪。
そして、後方より近づく、ひとつの影。

?「秋山澪さん」

澪「誰!?」ビクン

恐怖の入り混じった驚きが、澪を振り向かせた。
少し離れた車の陰に、さえない風体の男が一人立っている。

?「ああ、こりゃ失礼。驚かせてすみません。私、フリーのルポライターをやってる
  もんでして」

澪「ここは住人以外、入れない筈でしょう! 何をしてるんですか!」

ルポライター「そうそう、そうなんですよ。いやあ、入るのに苦労した苦労した。まったく
       因果な商売ですよ。ハハッ」

澪「すぐに出て行ってください。警察を呼びますよ」

ルポライター「ふむ。では、パトカーが来るまでの数分でいいんで、ちょっと取材させて
       頂きたいんですがね」

澪「話す事なんて何もありません! 早く出て行って!」

ルポライター「まま、そう言わずに。実は先週の平沢唯さん殺害に関して聞きたいんですよ」

のれんに腕押し。糠に釘。柳に風。
澪の警告も罵声も、ルポライターはのらりくらりと受け流す。

澪「知りません!」

ルポライター「おととい17日に犯人が逮捕されたのはご存じでしょう? しかしねえ、どうにも
       妙な点があってですねえ。怪しい臭いがプンプンなんですわ」

澪「……」クルリ ツカツカツカ

澪はルポライターを無視し、エレベーターの方向へと歩き出した。
だが、こういった自称ジャーナリストの手合いが、そんな事にめげる筈も無い。
彼女の後を追いかけ、自分勝手に話を進める。

ルポライター「まず、犯人の素性が全然報道されないんですよ。名前と、部屋が漫画やアニメ
       DVDだらけのキモいオタク野郎って発表くらいで、他の情報がさっぱりでね。
       報道規制でも敷かれてんのかってなもんです」

澪「……」ツカツカツカ

ルポライター「この隠し方からいくと、もしかして在日某国人か某新興宗教関係者かとも
       思ったんですが、それもどうやら違うみたいでして。犯人像ってヤツですか?
       それが全然わからんちん。もう、お手上げ」

澪「……」ツカツカツカ

ルポライター「……秋山さんと平沢さん、かなり不仲でしたよね。これは業界じゃ何故か
       アンタッチャブルですが」

澪「……!」ピタッ

ルポライター「秋山さん、もしかしたら何かご存じなんじゃないんですか? 他の連中にゃ
       わからない、あなた達の間の何かを」

澪「……!」プルプル

ルポライター「まあ、誰にでも殺したいくらい憎い人間ってのはいますからねえ。『金がすべて』
       なんて言葉があるけど、金さえありゃあ大抵の事は片が付いちゃう世の中ですし。
       ああ、『可愛さ余って憎さ百倍』なんて言葉も――」

澪「うるさい! お前に私と唯の何がわかるんだ!!」クルリ

ルポライター「そうそう、それそれ。そういうのを是非聞かせて頂きたいんですよ」ニヤニヤ

澪「うるさぁあああい!! もう放っておいてくれ! 一人にしてくれ!」ダッ


駐車場に響き渡る金切り声。
反響が消える間も無く、澪はルポライターに背中を向け、エレベーターへ走り出した。
ルポライターは頭を掻き掻き、その背中を見送る。

ルポライター「あちゃー、手綱の操り方を間違っちまったかな。どうも勘が鈍っていけねえや」ヘラヘラ

小憎らしいニヤケ面に僅かな陰が差す。

ルポライター「妙ちくりんなとこばっかの事件だわ、仕事のイロハを仕込んでやった後輩が
       自殺するわ、そりゃ勘も鈍るか……」カーッ ペッ



自身の部屋に、息を切らせて駆け込んだ澪。
バッグを投げ捨て、着替えもせず、ベッドに倒れ込む。
せっかく平静を保てていたのに。せっかく平安を取り戻したのに。
何故、皆はあいつの影を私に見るのか。
何故、あいつは死んでまで私を自由にさせてくれないのか。
頭蓋の中では、唯の笑顔、唯の泣き顔、唯の陰鬱な顔がグルグルと渦を巻いている。
やがて、それは己の半生の記憶と混じり合い、赤茶けた不毛の大地に広大な記憶の宮殿を
形成していった。
止まる事を知らないかのように、癌細胞が広がるが如く、宮殿は大きさを増していく。
その宮殿の廊下を、澪は一人歩く。
廊下の左右には、無限とも思える数の扉があり、それぞれ年月日が刻印されたプレートが
取り付けられていた。
澪は数ある扉のひとつに近づき、ノブにそっと手を掛けた。



2007年8月。私は合宿に来ている。唯と律とムギの三人も。
唯は無邪気にギターをかき鳴らしている。たくさんの噴出花火をバックに。
とても綺麗だ。花火がじゃない。唯が。とても綺麗だ。
私はまるで魂を吸い取られたかのように、身動きひとつ取れなかった。
眼を奪われ、言葉を出せず、胸が高鳴っている。
魅せられていた。
そうだ。この時、確かに私は唯に魅せられていたんだ。



2014年12月31日。一流ホテルのパーティホール。その控え室。
10分後に、唯の放課後ティータイム脱退記者会見が始まる。
ここにいるのは私、唯、律、梓の四人。
誰も言葉を交わそうとはしない。視線を上げようとはしない。
重苦しい粘性の空気が、私達を覆い包み、呼吸さえも容易ではない。
やがてADが会場入りを促し、私達は立ち上がり、部屋を出ようとする。
最初に律が控え室を出て、その後に梓が続いた。
私の前には唯がいる。
その唯が、部屋を出る直前、私の方へ振り向いた。オドオドとした気弱そうな笑顔で。

唯『あの、澪ちゃん…… 私ね、澪ちゃんに出会えて良かったよ。高校生の時、軽音部に
  入って、それから、今までずっと――』

澪『どいてよ』ドンッ

唯『あうっ……!』ドテッ

私は唯を突き飛ばし、唯は床に尻餅を突いた。
そんなに強く力を込めたつもりは無かったのだが、彼女の卑屈な笑顔や綺麗事ばかりの言葉に
苛立ってしまったのかもしれない。
唯は床にへたり込んだまま、潤んだ目で私を見上げている。

唯『澪ちゃん……! どうして!? どうして私の事が嫌いになったの!? どうして私達は
  こうなっちゃったの!? 私には…… 私にはわからないよ!』

澪『……』

私は何も答えず、無言で控え室を出る。背中で唯の泣き声を聞きながら。

唯『うぇえええええん! お願いだよぉ! 教えてよ、澪ちゃん! うわぁあああああん!』

この時、私は唯に答えてやるべきだったのだろうか。
喉元まで出かかって、飲み込んだ言葉。

澪(それは、私が秋山澪で、お前が平沢唯だからだよ……)




2011年5月初め。いつものレコーディングスタジオ。いつもの五人。いつものティータイム。
私達は、7月22日発売予定の1stアルバム“放課後ティータイム”のミーティングをしている。
プロになってからも、こうしてムギの用意してくれたお茶とお菓子を囲む事になるとは思わなかった。

唯『絶対、“ふわふわ時間”は入れるべきだよ! それも一曲目!』

律『いや、でもさ、シングルの“Cagayake! GIRLS”や他のアルバムナンバーとちょっと
  感じが違くないか? 違和感出ちゃうような気がするんだけどな』

澪『うん…… それに、か、歌詞がな…… 今、見ると……』

唯『でもでもっ! 放課後ティータイムを結成したのは今じゃなくて高校生の時でしょ?
  あの頃から聴いてくれてる人達の為にも、新しいファンに私達の原点を知って貰うためにも、
  やっぱりこの曲は外せないよ』

律『うーん…… 梓はどう思う?』

梓『えっ!? わ、私は、ええと、やっぱりアルバム全体のイメージを考えると、その曲は
  無い方が……』アセアセ

唯『そんなぁ~、あずにゃんまでぇ~』ギュッ

梓『唯先輩! 抱きつかないでください!』

和気藹々とした雰囲気だったけど、この時の唯はいつになく強情だった。
自分を変えた放課後ティータイムというバンドへの思い入れは、高校時代のものも含まれて
いたんだと思う。
ここで、ニコニコ笑っているだけで沈黙を守っていたムギが口を開いた。

紬『私は…… 唯ちゃんに賛成かな』

唯『さっすがムギちゃん! 大好き!』

律『おいおい、ムギ』

紬『こう考えたらいいと思うの。この1stアルバムは私達の新たなスタート。一曲目というよりも、
  序章、ううん、エピソード・ゼロという位置付けにしたらどうかな、って。勿論、なるべく
  違和感が無いようにアレンジをしてね』

唯『そうそう! それそれ! 私、それが言いたかったんだよ!』

梓『なるほど…… ナンバリングを“0”にするのは洒落てますね』

律『そっかぁ。まあ、アリっちゃアリかな』

紬『澪ちゃんはどう? 作曲は私だけど、作詞したのは澪ちゃん。生みの親としての意見は?』

澪『で、でもさ、その歌詞がさ……』

紬『澪ちゃんの作った歌を、唯ちゃんはこんなにも大事にしてくれてるのよ』

正直、嬉しかった。曲そのものもそうだし、自分の書いた歌詞に唯がこれだけの愛着を持って
くれている。
放課後ティータイムや“ふわふわ時間”を通して、私と唯の繋がりを感じられる。あの頃と
変わらない繋がりを。

澪『……うん、わかった。じゃあ、アルバム構成は唯が好きにやってみてよ』

唯『やったぁ! ありがとう、澪ちゃん! 愛してる!』ダキッ

澪『お、おいおい』ドキドキ

唯『じゃあねぇ~、No.0が“ふわふわ時間”で、No.1が“Cagayake! GIRLS”、No.2が
  “Sunday Siesta”でしょ。それから――』

オモチャを与えられた子供みたいにはしゃぐ唯。
見ているだけで私も幸せな気分になれる。そして、これが放課後ティータイムなんだ。

唯『――最後のNo.11が今月の20日に出す2ndシングルの“Don’t say lazy”で決まり!
  あ、“ふわふわ時間”は澪ちゃんのボーカルね!』

澪『それだけは勘弁してくれ!』




2015年2月。いつものレコーディングスタジオ。私と律と梓の三人。お茶もお喋りも無い。
私達は、次作の5thアルバムのミーティングをしている。
笑う理由も見当たらないので、三人共、特に笑顔は無い。
仕事の話をするのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
私はノートに眼を落としつつ、必要な事を話す。

澪『次のアルバムの発売予定日は5月20日、先行シングルが4月19日。アレが抜けたから
  いくつか録り直しが必要だけど、まあ、曲目とか基本的なところは変更無しだから』

梓『……』

律『……作詞、作曲、ボーカル、全部お前ってのも変更無しか?』

澪『ああ。何だよ、曲作りやボーカルやりたいのか?』

律『そうは言わないけどさ。一応、バンドだろ? 私ら』

澪『ここまで来て、アレがいた頃まで話を蒸し返すのか? 何ならキチンと理由を説明するぞ』

律『いや、もういいよ……』

澪『理由その1。お前らに作曲能力が無い』

律『はいはい、そうだな』

澪『理由その2。梓、お前は歌が絶望的に下手過ぎて、ボーカルを担当させられない』

梓『……!』ピクッ

澪『理由その3。ドラム叩きながら歌うって、何の冗談だよ。C-C-Bみたいなのは御免だぞ』

律『お前、それC-C-Bに失礼だろ。それにドン・ヘンリー、ディスってんのか』

澪『いいか。私にリーダーシップを委ねて本当のトップバンドになるか、アイドル人気の
  ガールズバンドのままでいたいか、どちらか選べ。話はそれからだ』

律『それに関しちゃ、もういいって言ってんだろ』

梓『……』

澪『よし。じゃあ、再収録のスケジュールとしては――』

律『ただ、さ』

澪『何だよ!』イラッ

律『先行シングルの発売日が4月19日って、唯のソロデビューシングルと被ってんじゃん。
  これはどういう事だ』

澪『知らないよ、そんなの。事務所とプロデューサーとレコード会社に文句言えよ』

律『お前、そこまでして唯を叩き潰したいのか? 元の仲間だし、脱退はしたけど同じ事務所
  なんだぞ』

澪『知らないって言ってるだろ!』ガタン

律『じゃあ発売時期をずらすくらいはしろよ! それくらいの気も遣えないのか!』バァン

梓『あ、あの……』オロオロ

澪『何でこっちがそんな事しなきゃいけないんだよ! いちいちアレの都合に合わせてられるか!』

律『唯をアレ呼ばわりするな! いい加減にしろ!』ガシッ

澪『私の勝手だろ! 何だよ、この手は! 離せよ!』

梓『二人共、もうやめてください…… ぐすっ……』ポロポロ

激昂する私と律。怯えて涙を流す梓。
思えば、この頃からだった。こんな光景がお決まりになったのは。
この頃から、三人になった放課後ティータイムの終焉まで。




2012年3月中旬。レコーディングスタジオの廊下。
私の少し離れた前方には唯の背中がある。スタジオに入った時から探していた背中。
今日はシングル“GO! GO! MANIAC”収録の日だ。
私は小走りで唯に追いつく。

澪『唯! ちょっといいか!』

唯『およ。澪ちゃん、おっはよ~』

澪『あ、ごめん、おはよう。あのさ、収録の前に話したい事があって…… その、二人だけで……』

唯『なぁに? もしかして、愛の告白?』

澪『そ、そんなワケ無いだろ!』ドキッ

唯『えへへ~、残念! んじゃあ、なになに?』

澪『……今回の曲、“GO! GO! MANIAC”だけどさ』

唯『うんうん』

澪『何て言うか、これまでのシングルの売れ行きとか、プロデューサーの期待とか、その、
  私、舞い上がっちゃってっていうか、張り切り過ぎたっていうか……』

唯『楽しい歌詞だよね。歌うのが楽しみだなぁ』

澪『で、でも、あの、詰め込み過ぎみたいな…… ムギの曲も考えずに…… もしかしたら
  唯、すごく歌いづらいんじゃないかって……』

唯『あー、確かに最初聴いた時、私には歌えないかもって思っちゃったかな』

澪『や、やっぱり…… そうだよな……』ズーン

唯『でもね』

澪『ん……?』

唯『放課後ティータイムの私なら歌えると思う』

澪『ど、どういう事?』

唯『あのね、お風呂場とかカラオケとか、素の私だったら、たぶん歌えないと思うんだ。
  すごくキーが高いし、息継ぎ出来ないくらい早口になるし』

澪『うん……』

唯『でも、澪ちゃんとムギちゃんが作った曲、それを放課後ティータイムのボーカルをしてる
  私が歌うって思うと、出ないキーも出るような気がするし、早口の歌詞でも口が回るような
  気がするんだ』

澪『そんなものなのか……?』

唯『うん! たぶん、放課後ティータイムっていうバンドとメンバーのみんなが、私の背中を
  押して、助けてくれるんだよ!』

澪『そ、そっか……』

唯『そうだよ! さあさあ、澪ちゃんの悩みが解決したところで、いざ収録にしゅっぱぁ~つ!』グイグイ ダダダッ

澪『わわっ! こら、唯! 押すなって!』

唯はそう言ったが、私は不安だった。
そんな精神論で解決出来れば、世界中のシンガーがセラピーから解放されるだろう。
しかも、唯が収録直前に言い放った提案は、その不安を更に増大させた。
録り直し無しの一発収録。それもオケではなく五人の演奏で。
律やムギはノリノリだったが、私は申し訳無さと緊張で、誇張じゃなく嘔気を催していた。

律『ワンツッスリッフォッ!』カンカンカンカン

前奏が始まった。
失敗しないように。私も、唯も。


唯『やばい 止まれない 止まらない♪
  昼に夜に朝に singing so loud♪
  好きなことしているだけだよ girls go maniac♪
  あんなメロディ こんなリリック♪
  探していきたいんだ もっともっと♪
  みんな一緒にね♪
  chance chance 願いを jump jump 掲げて♪
  fun fun 想いを shout shout 伝えよう♪
  ミスったらリハって事にしてもっかい!♪』

すごい。完璧だ。
顔色ひとつ変えず口を回している。どこで息継ぎをしているか、私にもわからないくらい。
楽しそうに、活き活きと、この難曲を歌いこなしている。
唯は私への慰めや自己暗示なんかじゃなく、本気で放課後ティータイムの自分なら歌えると
言っていたんだ。

唯『誰ももってるハートって言う名の小宇宙♪
  ギュッと詰まっているよ喜怒哀楽や愛♪
  シュンてなったり ワクワクしたりbusy♪
  カオス満載な日々歌にしちゃおう ぶちまけ合っちゃおう♪
  授業中も無意識に 研究する musicianship♪
  エアでOK雰囲気大事 不意に刻むリズム♪
  通じ合っちゃう ビート マインド 自由にエンジョイ♪
  楽しんだもんが勝ち!♪』

高音も出しきっている。唯がここまで高い声を出せるなんて。
もしかして、ムギは最初から確信していたのだろうか。唯がここまで完璧に歌えると。
私はムギに信頼されているだろうか。今の唯みたいに。
私は唯みたいに歌えるだろうか。こんな完璧に。
これが才能なのか。これが才能の差なのか。私と唯の。
唯は音楽の神に愛されている。神の賜物だ。センスもテクニックもカリスマも。
私は唯に魅せられるだけ? 私は唯を羨むだけ?
私は……

唯『ごめん 譲れない 譲らない♪
  縦・横・斜め swinging around♪
  好きな音 出してるだけだよ girls go maniac♪
  あんなグルーヴ こんなリバーヴ♪
  試していきたいんだ ずっとずっと♪
  息合わせてね♪
  chance chance 明日を break break 夢見て♪
  faith faith 強気で shake shake 盛り上がろう♪
  浴びたら忘れらんないっしょ 喝采!♪』



2016年8月14日。私と律と梓はステージの上にいる。放課後ティータイム6thアルバムツアー、
札幌ドーム2DAYSの二日目だ。
開演から二時間近くが経ち、コンサートは佳境を迎え、盛り上がりは最高潮に達している。
私達三人の声、一挙手一投足すべてに観客が反応し、歓声を上げる。

澪『じゃあ、最後の曲です』チラリ

私は左側にいる梓の方を見遣り、次に後ろに展開されているオーケストラに眼を向ける。
アイコンタクトの後、梓のアコースティックギターがスローに掻き鳴らされた。
やがて、ギターにストリングスの音色が重ねられる。いいぞ、完璧だ。
そして、律のドラムが…… お、おい、ちょっと待て。早いって。入るのが早いよ、律。
私が律の方を向いて大きく首を振っているのに、彼女は気づかない。

澪『ストップ、ストップ! ちょっと止めろ!』

律も梓もオーケストラも怪訝な表情で演奏を止める。
客席はざわめき半分、歓声半分。

澪『律、入るのが早い!』

律『はあ!? それくらいフォローしてくれてもいいだろ!』

澪『お前がそれだと後からおかしくなってくるんだよ! 何年ドラムやってんだ!』

律『うるせえ! 死ね!』

澪『なっ……! お前が死ね!』

観客『フゥウウウウウ!』パチパチパチパチ

観客『イェエエエエエエエエ!』パチパチパチパチ


突然ステージ上で始まった私と律のケンカに、何故か観客は大盛り上がりだ。
最近では番組や雑誌インタビューで公然と言い争う姿を幾度と無く見せ続けてきた。
そのせいでファンも名物姉妹ケンカという感覚に陥っているのだろう。
少なくとも二人は本気で罵り合っているのだが。

澪『……』チラリ

私は再度、梓に視線を送る。
梓がアコースティックギターを、オーケストラがストリングスを弾き始め、先程の流れが
再現される。
しかし、またもやおかしい。今度は律のドラムが一切聴こえて来ない。

澪『!?』クルッ

後ろへ振り替えると、ドラムチェアから降りた律がドラムセットの前で座り込んで煙草を
ふかしている。
かと思うと、舞台袖のローディに身振り手振りで何か指示している。小走りのローディが
律に手渡したのは缶ビールだ。
その律の姿が舞台上部の大型スクリーンに映し出されると、観客はこの日最高の盛り上がりを
見せた。

澪(こんのォ……!)ビキビキ

結局、この日のステージはこれ以上ドラムが叩かれる事は無く、私はずっと律の方を睨みつけたまま歌うのだった。



2013年4月23日。私達五人は武道館のステージにいる。3rdアルバム『放課後ティータイムⅢ』
ツアーの初日。
コンサートの時は、私達も、観客も、一曲目からトップギアだ。
唯はいつも踊るようにギブソン・レスポールを掻き鳴らしながら歌い、間奏や曲間ではステージを
縦横無尽に走り回り、ギターソロはジミ・ヘンドリクスが憑依したかの如くアレンジを利かせる。
彼女のスタミナはどうなっているんだろう。もしかしたらドラムの律より運動量が多いかも
しれないのに、コンサートは毎回、終始このテンション。
私は独り密かに、観客以上と言ってもいい程、唯のアクションに釘付けとなる。
この日も唯は、飛んで跳ねて、歌って弾いて。
クライマックスは“Don’t say lazy”“GO! GO! MANIAC”“NO, Thank You!”と、黄金
パターンのセットリスト。
その中でも“NO, Thank You!”の間奏中に構成された五分近い唯のギターソロは、まさに
彼女の独壇場だった。
ステージの両サイドに建てられた階段を駆け上り、ポップな櫓の上で二階席の観客にも
アピールし、定番ムーブのウィンドミル奏法に誰もが熱狂する。
そして、そろそろ間奏も終わりに近づき、櫓から唯が降りてきた時、それは起こった。
ややフラつき気味の唯は私へと寄り添うと、突然キスをしたのだ。

澪『んんー!』ビクッ

梓(ちょ……!)

紬(うはwww)

律(おいおい。唯の奴、ハジケ過ぎだろ)

観客『うおおおああああくぁwせdrftgyふじこlp!!』

実際のところ、完全なキスとはなっていなかった。
客席や他のメンバーには確認出来なかったと思うが、唯のキスは私の唇のすぐ真横にされた
のだった。
それは唯流のパフォーマンスに過ぎない。
でも、そんなの関係無い。
唯は悪魔だ。私の心を乱す悪魔だ。
その笑顔で私を魅了し、その才能で私を羨望させ、この上、その自由奔放さで私の心まで
乱そうとするのか。
しかも、それはただのパフォーマンスに過ぎない。
観客を喜ばせる為。自分のステージアクションの為。つまりは音楽の為。
私はどんなに足掻いても唯に伍せない。
唯は天賦の才を神に与えられ、そのベクトルをすべて音楽へ向けている。
唯が持つのは本物の翼。自由に軽やかに大空を羽ばたける。
私には蝋で出来た借り物の翼しかない。たとえどんなに頑張っても、真っ逆さまに墜落して、
地を這うだけ。
そうだ。2013年4月23日。この日、私は気づいたのだ。
こんなに大好きなのに、こんなに憧れているのに、こんなに近くにいるのに。
唯は私に絶望しか与えてくれない。

澪『唯は悪魔だ…… 私の心を乱す、悪魔なんだ……』




2018年9月。黒のアウディの助手席に、私はいる。
私は作曲ノートに眼を落としながら、私と一部の人間しか知らないソロプロジェクトに
関して思いを巡らせていた。
先日、7枚目のアルバムを発表したばかりの放課後ティータイムは、もう限界に達していた。
音楽的にも、人間関係的にも。
特に、私と律の対立、そして梓の精神状態の悪化は致命的なものだった。
そこで、私とプロデューサーの提案、社長の判断を経て、ごく秘密裡に私のソロプロジェクトが
進められたのだ。
しかし、肝心のソロデビューアルバム制作がなかなか始められなかった。
やりたい事は漠然と浮かんではいるのだけど…… 何か取っ掛かりがあれば……
際限無く懊悩する私に、運転席でハンドルを握るプロデューサーが話しかけた。

プロデューサー『どう? ソロアルバムの構想はまとまった?』

澪『え、ええ…… いくつか作曲もしてるし、色々と頭の中では考えてるんですけど……』

私はまた俯く。ダメだ。何故、こんなに心を強く持てないのだろう。

プロデューサー『……そういえば、事務所を移籍した唯ちゃんだけどね』

澪『……!』ピクッ

プロデューサー『今、南米の方に旅に出てるそうだ。その前はアイルランドに滞在していたとか。
        ほとんど自腹だっていうから大変だね』

澪『唯が!? どうしてですか!?』

プロデューサー『移籍後初のアルバム制作の為だよ。どうやら民族音楽をフィーチャーした
        作品に仕上げるらしい。ある情報筋から聞いた話さ。まあ、何と言うか、
        やっぱり彼女は変わってるね』

澪『……』

プロデューサー『以前のソロ活動は大失敗だったし、バラエティ番組に出てる唯ちゃんの方が
        僕は好きだったんだけどねえ。彼女、お笑いの才能があるよ』

澪『……』

プロデューサー『澪ちゃん?』

心の中で何かが爆発した。
それはいくつもの誘爆を発生させ、大きく燃え上がるひとつの炎を形成させた。
私はすぐに携帯電話を取り出す。通話相手はマネージャーだ。

澪『もしもし、澪だけど。すぐにニューオリンズ行きのチケットを手配して。え? 何でも
  いいから、すぐに手配してよ! わかったわね!』

プロデューサー『……』ニヤニヤ

澪『ニューオリンズでオーディションをします。ベース、ドラム、キーボード、サックス、
  コーラス。バックバンドを全員、気鋭のジャズミュージシャンで固めたいんです』

プロデューサー『へえ。ベースは澪ちゃんじゃないのかい?』

澪『今回はギターでいきます。とにかく圧倒的なジャズのサウンドをフィーチャーしたアルバムに
  したいんです』

プロデューサー『最近、澪ちゃんはロック志向かと思ったけど…… 何にせよ、面白いアルバムが
        出来そうだ。プロデュースのしがいがあるね』

既にプロデューサーの声は聞こえていなかった。
私はこれ以上、唯に負ける訳にはいかないんだ。
思えば、いつも唯が作る音楽には敗北感を与えられてきた。
放課後ティータイムで共作していた時期も。唯がソロデビューした時も。
もう、秋山澪が平沢唯に負ける事は許されない。
あんな、あんな、人の心をズタズタにする怪物になんか。

澪『唯には負けない…… 唯には……』ブツブツ




2008年。私は唯を見ている。



2009年。私は唯を見ている。



2010年。私は唯を見ている。



2021年11月。スウィートルームのベッドの上。
私の眼には、窓越しの星明りと街灯りが映っている。
ここはグラスタワー。東京の新名所となった138階建ての超高層ビルだ。
ムギの会社が、アメリカのヴェイト社とかいう企業との共同出資で建設したらしい。

プロデューサー『炭酸水でいいのかい?』

澪『うん……』

飲み物を持って冷蔵庫から戻ってきた彼も、窓際のキングサイズベッドで外を眺める私も、
一糸まとわぬ姿だった。

プロデューサー『今は128階のスウィートが精一杯だけど、なぁに、すぐにこの上のペント
        ハウスが手に入るよ。僕と澪ならね』

リチャード・ギアが安原義人の吹替で言いそうなセリフだけど、振り向いた私のそばにいるのは
典型的な日本人中年男性。可笑しさと同時に、どこか薄ら寒ささえ覚える。

澪『別に…… 私はそんなもの、いらないよ』

炭酸水の瓶を受け取った私は、再び窓の外へ眼を遣った。会話もそこで途切れる。
数分の沈黙の後、それに耐え切れなくなったのか、彼がグラスの水割りを飲み干して言った。

プロデューサー『……なあ、そろそろニューアルバムの制作に入ってもいいんじゃないか?
        君の意思を尊重して何も言わずにいたが、1stからもう二年以上経ってる。
        ボノの真似事も結構だけど――』

澪『ねえ、唯は今度、どんな曲を作るのかな。何か聞いてる?』

プロデューサー『またそれか! いい加減にしろ! いつまで彼女にこだわってるんだ!?
        あんなのフェードアウトした過去ネタだ! 雛壇芸人程の価値も無い!』

澪『本気で言ってるの……? だとしたら、あなたの音楽センスの底が見えたわよ』

私は嫌悪と軽蔑をたっぷり込めて、彼を睨みつけた。
放課後ティータイムから今まで、この人とやってきた事に意味なんてあったのだろうか。
この程度の男だったなんて。
放課後ティータイム時代の唯の作曲や、ソロになってからの唯のアルバムを聴いてきた筈なのに。
平沢唯の仕事に戦慄し、恐怖し続ける私を見てきた筈なのに。

プロデューサー『君は病気だよ。何の実体も無い平沢唯の影に怯えて、強迫観念に取り憑かれて
        いる。アレのどこが天才だ? 奇をてらったマスターベーションまがいの
        音楽しか作れないキワモノ歌手じゃないか』

澪『……』

私は無言でベッドから降り、服を身に着ける。
彼には一瞥もくれず、ハンドバッグを手に取り、ドアの方へ向かった。
話すだけ時間の無駄だ。
それに、彼は私を怒らせた。唯を悪く言っていいのは私だけだ、と何度も言ってきたのに。

プロデューサー『どこへ行く! 戻って来い! 自分を何様だと思ってるんだ、このイカレ女め!
        誰のおかげで今まで……!』

絶対に振り返らない。あんな男を見たら眼が腐る。耳も腐りそうだから出来れば声も聞きたく
ないし、口も腐りそうだから出来れば話したくもない。
でも、これだけは言っておかなくちゃ。

澪『もう、あなた程度じゃ私の役に立てない。あなたじゃ唯に勝てないのよ。これからは
  セルフプロデュースで活動させてもらうわ』

私はスウィートルームを後にした。




2011年。私は唯を見ている。



2012年。私は唯を見ている。



2013年。私は唯を見ている。



2022年10月11日。私は泣いている。

澪『うわぁああああああああん! 唯! 唯ぃいいいいい!』

疲れを背負って帰宅し、ベッドに潜り込んだのは明け方近い深夜。
眠りに落ちるか落ちないかの私を、一本の電話が叩き起こした。唯の死を告げる電話が。
最初はイタズラ電話かと思った。でも、そうじゃない。唯が死んだ。何者かに殺されたのだ。
何故? とは頭に浮かばなかった。誰が? とも頭に浮かばなかった。
ただ、唯がもうこの世にいない、という事実だけが私の心に刻みつけられた。

澪『唯ぃいいい! 嫌だよ! 嫌だよぉ! うわぁあああああ!』

唯はもういないんだ。
そう考えると涙が止めど無く湧いてきた。
涙を止めようと閉じたまぶたの裏に、唯の姿が浮かぶ。
笑顔で歌う唯。泣き顔で私にすがりつく唯。陰鬱な顔で写真週刊誌に載る唯。
ずっと唯だけを見てきた。
でも、私がこれから生きていくのは、平沢唯のいない世界。
唯のいない世界で、私はミュージシャンとして生きていくんだ。
もう、唯はいないんだ。
唯はいない……

涙が尽きたのは朝の五時。
太陽が地平から顔を覗かせている。今日初めて昇る、新しい太陽。
私の世界を明るく照らしてくれた、あの輝かしい太陽は、もう昇らない。
私の身も心も焼き尽くす、あの憎むべき灼熱の太陽は、もう昇らない。
ベッドから身体を起こした私は、壁のコルクボードにたった一枚だけ貼ってある写真を剥がし、
アロマキャンドル用のライターで火を点けた。
燃えていく。笑顔の私と唯が、燃えていく。

澪『唯…… 死んでくれて、ありがとう……』





遠くへ、遠くへ船出したい
去り行く白鳥のように
でも、人は大地に縛られて
この世で一番悲しい音を奏でる
一番悲しい音を
――サイモン&ガーファンクル

すみません、ちょっと休憩します。
全七章なので、あと三章になります。

第五章《メフィストフェレス》

『日誌 田井中律、記 2022年10月20日
 午前10時。梓からの電話で目が覚めた。気づかないうちに眠っていたようだ。
 疲れでひどく身体が重い。気分も悪い。脳みそと内臓の代わりに、身体中にコールタールが
 充満しているようだ。
 何度も電話しているのに、と梓が怒っていた。悪い事をしてしまった。せっかく私の調査を
 手伝ってくれているのに。
 三十分後に私のマンションの前で待ち合わせ。車を出すと言っていた。

 角砂糖をかじりながら、窓から外を眺める。
 老若男女が呑気な馬鹿面を晒して歩いている。
 この街は、この世界は、私達は一匹の巨大な獣だ。
 その生態を理解するには、ケツの穴からひり出した糞をほぐし、臭いを嗅ぎ、寄生虫を
 調べるしかない。
 この世の糞とも言うべきクズ野郎共を調べれば、自ずと真相に近づける訳だ』



梓「律せんぱーい」プップー

クラクションと共に聞こえた梓の声。
マンション前に立つ律がそれの聞こえた方へ眼を向けると、梓が赤いニューミニの窓から
手を振っている。

梓「お待たせしちゃってすみません。さ、乗ってください」

律「あまり待ってない。それよりも、電話に出られなくて悪かったな」バタン

梓「いいんですよ。気にしてませんから」

律が助手席に乗り込み、シートベルトを締めた事を確認すると、梓はゆっくりとアクセル
ペダルを踏み込んだ。

梓「そういえば、律先輩。車はどうしたんですか? あのパジェロ」

律「売った」

梓「どうしてですか?」

律「調査にゃ何かと金がかかるからな」

梓「はあ……」

二人の会話は長く続かない。それが世間話ともなれば尚更だった。
大抵は梓の方から積極的に話し掛けるのだが、律は言葉少なに返し、それ以上話題を膨らませ
ようともしない。
元の律の性格から考えると信じられない程の変わりようだ。
そうして、勢い二人の間を沈黙が支配せざるを得なかった。

梓「……」

律「……」

梓「……二人で調査を始めて今日で四日目ですけど、なかなか進展が無いですね」

律「……え?」

梓「調査の進展が無いですね、って言ったんです。ちゃんと聞いてください」

律「すまん。ボーっとしてた」

梓「まったく、もう……」

律「ああ、そういえば、ムギを襲った犯人の身元がわかったぞ」

梓「えっ!?」

素っ頓狂な声を上げて、律に顔を向ける梓。

律「ちゃんと前見て運転しろよ。危ないぞ」

梓「だ、だって、そんな! いきなり! どうやって調べたんですか!?」

律「まあ、落ち着けって」

梓「これが落ち着いていられますか!」クワーッ

律「ちゃんと説明するから落ち着けってば。どうせお前が反対するだろうから、少し一人で
  調べに行ったんだよ。昨日の夜な」


梓「ですから、どうやって!?」

律「えーと……――

   1.まず事件の担当刑事を尾行します

   2.人通りの無い場所まで来たら、袋を頭に被せ、物陰に引っ張り込みます

   3.相手の心が折れるまでボコボコにしたら、指を折りながら尋問します

   4.必要な事をすべて聞き出したら、再度ボコボコにします
     ※この時、相手の顔を踵で踏みつけたり、頭をサッカーボールのように蹴ったりすると
      効果的です

  ――ってな感じだな。意外と簡単に教えてくれたぞ」

梓「なっ、な、なんて事を…… あ、相手は、警察ですよ……?」

律「だから何だ。真犯人を探し出す為には、絶対妥協しないぞ」

梓「あああ、これで私達は犯罪者の仲間入りです…… お父さん、お母さん、ごめんなさい……」

律「ほらな、絶対そういう事を言い出すと思ったから、お前には協力を頼まなかったんだ。
  でも、心配すんなって。実行犯は私一人だからさ」

梓「そんな問題じゃないですよぅ……」

真っ青な顔で肩を落とす梓。どこ吹く風の律。
調査の手伝いを買って出た事を、梓は全力で後悔していたが、さりとて泣いてばかりもいられない。
梓にしてみても、唯や純の死の真相を解明したい気持ちは律に負けていないのだから。

梓「……それで、ムギ先輩を襲った犯人はどんな人なんですか?」

律「ヤクザ」

梓「はい?」

律「だからヤクザだよ。山内組の二次団体、五藤組の準構成員。まあ、厳密にいうとヤクザ
  じゃなくて、組事務所に出入りしてるチンピラってとこか」

梓「え? で、でも、テレビではちょっと気持ち悪いオタク系の人だって言ってましたよ。
  部屋の中も映してましたし」

律「そうだな。でも、実際は違う。どうとでも使えるチンピラをオタク野郎に偽装していた。
  真犯人、警察、マスコミがグルになって、真相を隠し、捏造で皆の眼を欺いているんだ」

梓「何故、そんな事をする必要が……」

律「それを今から調べに行くんだよ」

梓「あ、なんかイヤな予感がします」

律「あのチンピラ野郎が入ってる留置所に乗り込むぞ。直接、話を聞き出してやる」

梓「ほらー! やっぱりー!」

律「何が」

梓「まださっきの話は一億歩譲って良しとしますよ! 他に誰もいない状況だったんでしょうし、
  顔も見られてないんでしょうし! でも今度はダメです! 絶対無理です!」

律「無理とかそういう問題じゃなくてだな――」

梓「そういう問題なんです! 刑事や警官が何百人といる警察署の奥の奥ですよ! 絶対に
  不可能です!」

律「じゃあ、いいよ。また一人で行ってくるから」チッ

梓「ダメー! 絶対ダメです!」

律「それならどうしろってんだよ! あれもダメ、これもダメって、そんなんじゃ真相に
  近づけないだろ! 大体、私は協力してくれなんて一言も――」

そこまで言った律は思わず言葉を飲み込んだ。
運転席の梓が泣いていたのだ。
ハンドルを握る手には強く力が込められ、肩は小刻みに震え、両の眼からは涙がこぼれ落ちている。

梓「危ない事は、ぐすっ、やめてください…… 律先輩まで、ううっ、ひぐっ、いなくなっちゃう
  なんて、嫌です……!」ポロポロ


律はもう何も言えなかった。
慕っていた先輩。仲の良かった親友。この短期間に、梓は近しい人間を二人も亡くしている。
普通ならば、それだけでも立ち直れない心の傷となってもおかしくは無いのだ。
だが、梓は気丈にも律の調査を手伝おうとしている。

律「梓……」

『律先輩まで失いかねない、失いたくない』という、梓の恐怖心。
そんな事にも気づいてやれない己の壊れた心に、律は軽い絶望すら覚えていた。

律「とりあえず、車を脇に停めろよ。危ないからさ。な……?」

梓「はい……」グスッ グスッ

二人の乗るミニクーパーはハザードランプを点滅させながら、路肩に停められた。
その横を何台もの車が次々と通り過ぎていく。

律「……悪かったよ。お前の気持ちも考えずに」

梓「いえ……」グスッ

律「他の方法を考えよう。二人で考えりゃ、何か良い方法も思いつくさ。二人なら……」

梓「はい……」

その時、梓のバッグの中で何やら電子音が鳴り響いた。携帯電話の着信音だ。
梓はバッグを探り、携帯電話を取り出したが、躊躇いがちにそれを律へと差し出した。

梓「あの…… すみません……」グスッ

嗚咽も残り、鼻も詰まっている。とても電話に出られる状態ではないという事だろう。
すぐに察した律は携帯電話を受け取ると、通話ボタンを押し、耳に当てた。

律「はい、もしもし。中野梓が出られないので、代わりに出た者ですが……―― あ? 何だ、
  またアンタか」

不審そうな眼で律の反応を見ている梓。
律は通話口を手で押さえ、梓に向かって『ムギの秘書だ』と小声で伝えた。

律「それで、何だ? ムギからの伝言でもあるのか?」

携帯電話から話し声が漏れ出ているが、梓に内容が聞こえる程の音量ではない。
ただ、律の表情が見る見るうちに険しいものへと変貌していった。
更に、握り潰してしまうのではないかと思うくらい、携帯電話を固く固く握り締めている。

律「……」ピッ

結局、ろくな返事もしないまま、無言のうちに律は電話を切った。

梓「あ、あの、どうしたんですか? ムギ先輩から何か悪い知らせですか?」

律「……スリーストライク、バッターアウト」ボソッ

梓「え……?」

能面のような無表情。恐ろしく低い、抑揚の無い声。
不可解な言葉を呟いた律は、続けて言った。

律「犯人のチンピラが自殺した。留置所の中で。タオルで首を吊って」

梓「そ、そんな……」

律「バッジ欲しさのチンピラがせっかく一仕事終えたってのに、自殺するワケが無いだろ。
  しかも、監視の眼が光ってる留置所でどうやって首を吊るってんだよ。くそっ、また
  消されちまった……」

梓「……」

梓はガックリと肩を落とし、ハンドルに突っ伏してしまった。
唯一残された手がかりを失った挫折感だけではない。
律の推理は正しかった。
紬襲撃犯(自称唯殺害犯)が不自然な死を遂げた事によって、今回の一連の事件に関わった
人間は必ず抹消されるという事実が証明された。
そして、自分が追っているのは、そんな恐ろしい事実をいとも簡単に実行してのける巨大な
力を有した存在なのだ。
嫌でも信じるより他は無い。
無力感を伴った圧倒的恐怖が、梓の心を支配しようとしていた。


梓「もう…… ダメかも……」

律「まだだ。まだ他に方法はある」

梓「どんな方法ですか……」

律「死んだチンピラはチンピラに過ぎない。五藤組の中でそれなりの力を持った野郎がムギの
  暗殺を命じたんだろう。そいつはたぶん、真犯人に暗殺を依頼された野郎でもあるんだ」

梓「それで……?」

律「五藤組の事務所に行く」

梓「そう言うと思ってました…… でも、暴力団の事務所に乗り込むなんて、殺される為に
  行くようなものじゃないですか。それに、真犯人は暴力団を操れる上に、警察内部にも
  協力者を持っています。一般市民の私達が敵う相手じゃありません。もう、ダメです……
  諦めましょう……」

律「殺される、か……」

溜息を吐いた律は、ロールシャッハ模様のニット帽を被り直し、トレンチコートの胸ポケットに
差したサングラスをかける。
梓の方は向かず、黒いレンズ越しにフロントガラスの向こうを見据えながら、静かに話し出した。

律「いいか、梓。何も行動しないってのは、私にとって死んだも同然なんだよ。ここで妥協して、
  唯の事を諦めてしまったら、その瞬間に私はただ生きているってだけの、血と糞が詰まった
  皮袋になり下がるんだ」

梓「……」

律「私はもう死ぬ事は怖くない。でも、梓、お前は別だ。お前が自分の人生を大切にしたいと
  思うのなら、やっぱり私達はここで別れた方がいい。私一人でやる方がいいんだ。たとえ
  そうしたところで誰もお前を責めやしないよ」

梓「……」

思いの外、優しい口調の律。
ハンドルに突っ伏したままの梓。
沈黙の中、エンジン音だけが響いている。
車が再び発進する気配も、ドアが開く気配も、感じられない。



コトブキ・エンターテインメント本社ビルの社長室。
紬は年代物のアンティークデスクの上に置かれた書類に眼を通しながら、受話器を片手に
何やら指示を出している様子であった。

紬「ロッキード・マーティン、ボーイング、BAEシステムズ、EADSの株を買い。それと
  大成建設、鹿島建設、清水建設、大林組、竹中工務店も買いよ。あとは、旅行関連の
  企業はすべて売りで。いいわね」

欧米の軍需企業と日本五大ゼネコンの名が発せられた時、紬の表情は近しい者が見た事も
無いような険しく厳しいものとなっていた。
やがて、紬は固い表情で受話器を置くと、額に手を当てて大きく息を吐いた。
眉根はきつく寄せられ、眼は閉じられている。
五分経っても眼は開けられない。十分経っても同様だ。そのまま眠ってしまったのだろうか。
それ程の長い時間が経過した後、不意に内線電話のコールが鳴り響いた。
社長室長の斎藤菫からだ。
紬はすぐに眼を開け、ワンコールで受話器を取った。

紬「何?」

菫『エイドリアン・ヴェイト様より国際電話が入っております。この度の契約履行について
  お話したいそうですが、お繋ぎしてもよろしいですか?』

紬「……体調不良の為、静養していると伝えてちょうだい。それと、こうメッセージを。
  『今回の契約に関して、迅速かつ誠意ある対応に感謝致します。今後も琴吹グループは
  ヴェイト社の善きビジネスパートナーでありたいと、心より願っております』と」

菫『承知致しました』

返答の後、少し経っても電話が切られる気配は無かった。
不思議に思った紬は、再び受話器の向こう側の菫へ声を掛けた。

紬「どうしたの?」

菫『お姉ちゃん…… 大丈夫……?』


二十代後半という年齢に不釣り合いな、あまりにも子供染みた口調。
それが意味するところを感じ取れない紬ではない。

紬「……ここ最近、色々とあり過ぎたせいでちょっと疲れてるかもね。でも、大丈夫よ。
  ちゃんと休養を取るから。これから予定通り別荘に向かうわ」

通じ合えたという安心感があったのか。菫は次の瞬間には、コトブキ・エンターテインメント
社長室長に、琴吹紬代表取締役社長秘書に立ち戻っていた。

菫『……はい。ではお車をご用意します』

紬「ありがとう」

受話器が静かに置かれ、その代わりに携帯電話が内ポケットから取り出された。
連絡先を選択し、耳に当てる紬。
もう片方の空いた手は、社長室に相応しい大きな窓ガラスに添えられる。
その手はまるで照準器のように、紬の眼と、遥か彼方に屹立する138階建ての東京新名所
グラスタワーの間を結んでいた。



車通りの多い四車線の国道。
赤いミニクーパーがやや制限速度を超えるスピードで疾走している。
車内は、運転席に一人、そして助手席に一人。
梓に代わってハンドルを握る律は視線を前に向けたまま、隣へと声を掛けた。

律「いいのか? 梓」

梓の視線が律に向けられる。その眼は強い光を以って律の横顔を離さない。

梓「二人で、ですよね? 私達、二人で……」

律は相変わらず前を見据え、しかし、それでも梓の方へ手を伸ばし、彼女の手を強く握り締めた。
そして、手と同様に力を込めた声で答える。

律「ああ、二人だ」

梓「……それなら、大丈夫です」ギュッ

壊れそうな笑顔を滲ませた梓もまた、律の手を強く握り返す。
オートマ車はその構造故にしばらくの間、握り合う二人の手を離させなかった。

梓「そ、そう言えば私、少し考えたんです…… 唯先輩の事件も含めてですけど、放課後
  ティータイムに関係する報道って、やっぱり昔から不自然なところが多いかなって」

梓は少し頬を染めつつ、なるべく自然を装いながら律の手を離そうとしていた。

律「例えば?」

梓「良い事はいっぱいテレビで取り上げられたけど、その、スキャンダル的なものは一切
  報道されなかった気がするんです。放課後ティータイムとしても、メンバー個人個人
  としても、解散してからも」

律「スキャンダル? 男関係とかか? まあ、そうかもな。ていうか梓、男いた事あったんだ」

梓「失礼な! 私だって普通の女ですし、この年齢まで男性との交際が無い方がおかしいでしょう」

律「いや、それこそ聞いた事が無いからさ。お前の男関係」

梓「……長続きしないんです、いつも。最初はいいんですけど、少し経つと必ずギクシャク
  しちゃって。あの、その…… ほら、あっちの方が問題で……」

律「あっちの方? 何だよ、あっちの方って」

梓「ですから、その…… アレです…… 男女の、ほら……」

律「ああ、セックスか」

梓「少しはオブラートに包んでください!」

律「んな事でいちいち恥ずかしがるなよ。三十路のババアのくせして」

梓「ババアじゃないもん!!」

律「“もん”って…… 痛さ炸裂だな、お前……」

梓「それはいいとして! おかしいと思いませんか? いくら当時人気があったからって、
  異性関係に限らずマイナス面が全然取りざたされないなんて」


律「ふうむ…… でも、今回の事件は別としてもさ、その前の報道に関しては、お前の気のせい
  だと思うぞ。第一、あの大晦日の路上ライブは大々的に報道されたし、叩かれまくった
  じゃないか」

梓「あ、そっか……」

律「それに、男関係ではそう簡単にボロが出るような行動も取ってないだろ? そばにいた
  私も知らなかったくらいだから、誰にも言ってなかったんだろうし」

梓「確かに…… 唯先輩に相談したくらいですね」

律「私もそうだよ。何故か唯には話しやすかったんだよな」

梓「唯先輩の人柄だったんでしょうね……」

律「さてと、お喋りはここまでだ」

車はスピードを落とし、路肩へ駐車された。
二人の視線の先にあるのは、然程大きくもないが小奇麗な七階建ての雑居ビル。
ネイルサロンや鍼灸治療院がテナントとして出店している他、その中のひとつの看板には
“五藤経済研究所”と書かれている。

律「行くぞ」

梓「は、はい……」

車を降りた二人は、エレベーターを経て、五階へとやって来た。
ワンフロアに二つあるテナントのうちのひとつ、五藤経済研究所の前に立つ律と梓。
律は変わらず無表情だが、梓は真っ青な顔で膝を笑わせている。
梓に確認する事も無く、ノックも声掛けも一切抜きで、律は勢いよく事務所のドアを開けた。

ヤクザ「誰だ!」

室内には入口へ背を向ける形でソファに座るスーツ姿の男が一人。彼は驚愕と恐怖の入り
混じった表情で振り向いた。
手を突っ込んだ上着の内側からは、黒い金属質の何かが見え隠れしている。
律は遠慮無しに室内へ歩みを進めると、座っている男へ声を掛けた。

律「聞きたい事がある。琴吹紬を襲ったチンピラに関してだ。この事務所に出入りしてたろ。
  奴本人か、暗殺の依頼主について知らないか」

何の駆け引きも無い、ストレートど真ん中の質問。
男は上着の内側から手を抜き、ボタンを閉めると、律を眼光鋭く睨みつけた。

ヤクザ「ああ? 何言ってんだ、テメエこの野郎。今すぐ消えねえとブチ殺すぞ、コラ」

凄味の効いた脅し文句に、梓は律の背中に隠れてしまったが、当の律は表情ひとつ変えていない。

律「手品を見せてやろうか?」

ヤクザ「ああ?」

テーブルにはタバコと共に百円ライターが置かれている。
律はライターを手に取ると、テーブルの上に立て、片手をかざした。

律「このライターが一瞬で消える」

ヤクザ「テメエ、いい加減に――」

怒り心頭で立ち上がろうとする男。しかし、律は彼の頭を引っ掴むと、顔面をライターの
立てられたテーブルへ荒々しく叩きつけた。

ヤクザ「ぎゃああああああああ!!」

部屋中に、いや、フロア中に男の絶叫が轟いた。

律「じゃじゃーん。見事に消えた」

梓「ひいっ……!」

確かにライターがテーブルの上から一瞬にして消えていた。そして、男の左眼からは血が
止めどなく流れている。
ライターは男の眼球に突き刺さり、眼窩深くへ押し込まれていたのだ。

ヤクザ「ああああああああ! 眼が! 俺の眼がァ!!」

男は左眼を押さえて床の上をのたうち回っている。相棒の梓でさえも顔面蒼白で床にへたり込んだ。
律が無慈悲に男の胸倉を掴む。


律「これで私の聞きたい事を喋りたくなった筈だ。それとも――」

律は男の上着の内側から、無造作に拳銃を抜き取った。
銃口が男の額に押しつけられ、撃鉄が起こされる。

律「――拳銃の手品が見たいか?」

ヤクザ「わかった! 教える! 教えるよ!」

律「言え」

銃口を向けたまま、律は男から手を離し、僅かに距離を開けた。
梓は再び律の背中に隠れ、彼女のトレンチコートの端をギュッと握る。
ノロノロと体を起こした男は激痛に身を捩じらせながら話し始めた。

ヤクザ「琴吹紬の殺しを依頼してきたのは企業舎弟のシャイニングプロダクションだ!
    適当なのを見繕って、キモいオタクに仕上げて、琴吹を襲ってくれって!」

律「シャイニング? あの評判の悪い芸能事務所か。で、どんな奴だよ。依頼してきたのは」

ヤクザ「し、知らねえ! やり取りは全部メールだし、報酬も振込だ! 何にもわからねえんだ!」

律「知らない、か。襲ったチンピラが消されたのは知ってるか?」

ヤクザ「あ、ああ…… けど、あいつだけじゃねえ。ウチの組のもんが次々と消されてる。
    オヤジは女の家のガス爆発で死んだ……! アニキも地下鉄のホームから落ちて
    死んだ! 他にも…… 次は、次は俺かもしれねえんだ!」

律「ああ、そうだろうな。だが、人はいずれ死ぬ。私の友達も、私も、お前も。そして、
  あの世なんてものは、天国や地獄なんてものは無い。死ねば意識は永遠に閉ざされ、
  完全な無になるだけだ。そう考えれば、少しは楽になるだろ」

ヤクザ「ちっ、ちくしょう……! そんなワケあるかよ……」

右眼からは涙を流し、左眼からは血を流し、男はガックリとうな垂れた。
レンコン状の弾倉から弾丸がパラパラと抜かれ、銃は男の足元へ放り投げられたが、彼は拾おうともしない。
意気消沈する男を尻目に、律はいまだ震える梓を促し、事務所を後にした。

律「邪魔したな。殺される前に病院に行っとけよ」



車中では妙に気まずい沈黙の時が流れていた。
五藤組事務所のある雑居ビルから走り去って数分が経っていたが、梓が一向に口を開こうとしない。
梓と行動を共にするようになってからは何かと気を遣うせいか、どうにも律はやりづらい。
何かフォローを、と横目で梓を観察しながら渋々切り出した。

律「……やり過ぎって思うかもしれないけどさ。あれが一番手っ取り早かったんだよ」

梓「……え? あ、ああ、ごめんなさい。それはもう大丈夫です。少し考え事をしてただけ
  なんです」

律「何を考えてたんだ?」

梓「ムギ先輩に協力を頼めないかな、って」

律「ムギに?」

梓「ええ。理由はいくつかあるんですけど…… まず、シャイニングプロダクションについて、
  同じ芸能事務所の経営者であるムギ先輩なら色々と詳しいかと思うんです」

律「なるほどな」

梓「それと、警察が当てにならない上に、相手は暴力団と繋がりを持つどころか、暴力団を
  簡単に使い捨てに出来る程の大きな力を持っています。それなら……」

躊躇うように言葉を切る梓の後を律が引き受ける。

律「負けないくらい大きな力を持っている琴吹グループの庇護があれば、そいつらと戦うのも
  楽になる、か? あまり好きな考え方じゃないな。私は」

梓「でも……!」

律「まあ、待てよ。反対だとは言ってないだろ? いずれにしても、ムギの暗殺未遂と唯や
  鈴木の殺しを繋げる線はこの一本しか残ってないんだ。それを繋ぎ止めておけるのなら、
  ムギに協力してもらうのもアリだろ」

梓「じゃあ……?」


律「ああ、行き先はコトブキ・エンターテインメントだ」

カーナビに素早く目的地が打ち込まれ、車のスピードが幾分か速まる。
今後の戦略は明確なものとなった。
おそらく最大の戦力になるであろう紬を仲間に加え、ようやく姿を現し始めた黒幕に挑み
かかるのだ。
しかし、梓はいまだに俯き加減で思考を巡らせている様子だった。

律「まだ何かあるのか?」

梓「あ、いえ…… ただ、何と無くというか、漠然としてて…… 何か重要な事を見落として
  いるような気がするんです。何かを……」

律「考え過ぎ、とは言わないけどな。私が思いつけない事でも梓なら、って場合もあるし」

梓「律先輩みたいな行動力と腕っぷしは、私にはありませんからね。サポートに徹しますよ」

その言葉を受け、わざとらしいしかめ面を前方に向けたまま、眼だけで梓を睨みつける律。

律「遠回しにバカって言ってるだろ。私の事」ジロッ

梓「いーえ。まさか」クスクス

律「フフッ」

二人の口から笑い声が漏れる。お互い、今日初めて浮かべる笑顔。
時計の針は正午をとうに過ぎていた。
車は尚も走り続ける。



コトブキ・エンターテインメント本社ビル。
ガラス張りの正面玄関の向こうは、広々とした欧州モチーフのエントランスホール。中央には
総合案内があり、二人の受付嬢が笑みを絶やさず座っている。
そして、その前にも女性が二人。どちらも割合に背が低く、然程若くもない。
一人は、オーバーオール・ジーンズにクリーム色のパーカーを羽織った、ロングストレートの
黒髪。
もう一人は、スリムなトレンチコートと気味の悪い模様のニット帽を身にまとい、ひどく
不潔感を漂わせている。

受付嬢「ですから、先程から申し上げております通り、琴吹社長はアポイントメントの無い
    お客様とはお会いになりません」

律「こっちもさっきから言ってるだろ。緊急を要する用件なんだよ。それに私達はムギの
  友達だ。昔からの。だから四の五の言わずに、さっさとムギに取りつげよ」

受付嬢「私もお二人の事は存じ上げております。有名な方ですから。しかし、それでも例外には
    当たりません」

苛立つ律はカウンターの向こうへ手を伸ばすと、応対していた受付嬢の胸倉を掴んだ。

律「おい」

受付嬢「ひっ……! け、警察を呼びますよ……!」

梓「ちょ、ちょっと、律先輩! 乱暴はダメです!」

片割れの受付嬢が電話の受話器に手を伸ばし、梓は慌てて律にしがみつく。
周囲の人間も足を止め、眼を遣り、エントランスホールが騒然となりつつある、その時。
早足でこちらへ近づくスーツ姿の女性が、律と梓に声を掛けた。

菫「田井中律さん。中野梓さん」

外見はどう見ても金髪の白人女性なのだが、彼女の口から発せられた言葉は流暢な日本語だった。
スリットの入ったタイトスカートから伸びる肉感的な両脚が、無意味に律の苛立ちを助長させる。

律「誰だよ、あんた」

菫「コトブキ・エンターテインメント社長室長の斎藤菫です。お電話では幾度か」

律「ああ、あんたが……」

受付嬢の胸元から手を離すと、律は菫の方へと向き直った。

菫「社長は只今、休暇をお取りになり、別荘で静養中でございます。よろしければ私がお話を
  承り、後日社長にお伝え致しますが」

律「ああ?」


何故、この手合いは自分を苛立たせる事に長けているのか。そんな身勝手な疑問を頭蓋の中に
浮かべつつ、律は眼光をギラつかせて菫に歩み寄った。
梓はどういう訳か、律を止めもせずに無言で俯いている。

律「ひとつ、今すぐムギの居場所を教えれば死なない程度に殴ってやる。ふたつ、教えない
  のなら死ぬまで殴る。みっつ、嘘を教えたら戻ってきて殺すつもりで殴る。さあ、どれか
  選べ」

菫「申し訳ございませんが、直ちにお引き取りをお願い致します」

必要以上に顔を近づけて凄む律。
不動の笑顔で受けて立つ菫。
数名の屈強な警備員が律と梓を包囲しつつあり、受付嬢がいつの間にか警察と通話を始めている
という状況に至り、突如として梓が行動を起こした。

梓「行きましょう。律先輩……」グッ

両手で律の腕を掴んでいる。彼女には似つかわしくない強い力と、若干の震え。

律「あ? 何言ってんだ、梓。こいつら――」

梓「いいから行きましょう!」グイッ

激しい剣幕で律を引っ張り、遂には二人共、正面玄関よりご退散という形になってしまった。
無論、律の本意ではない。
玄関前の石段を降りながら、梓から顔を背けてまくし立てる。

律「クソッ! ここでスゴスゴ引き下がってどうすんだよ! もう他に方法が無いってのに!」

梓「私達は馬鹿です……」ボソッ

律「ああ、そうだよ! 馬鹿だよ! 所詮、私達は歌って踊るだけのこの世のクズだよ!
  だからこうやって妥協せずに戦い続けてるんだろ!」

梓「私達は馬鹿です、私達は馬鹿です……」ブツブツ

律「お前なァ!」

また後ろ向きのマイナス思考か。もうウンザリだ。糞でも喰らえ。
これまでに無い梓への怒りを込めて、律は彼女の方へ顔を向けた。
だが、そこにあったのは冷静かつ真剣な眼差しでこちらを見つめる梓だった。

梓「私達は馬鹿です。こんな簡単な事、もっと早くに気づくべきだったんです。律先輩が
  私を訪ねてきた、あの夜に……」

律「ど、どういう事だよ」

梓「唯先輩は犯人に殺される直前、律先輩に電話をしたんですよね? どうして律先輩に
  電話をしたか、わかりますか?」

律「どうして、って…… 私が友達だからだろ……? 助けを求めて……」

梓「違います。それは不自然です」

梓は一刀両断に切り捨てた。そして、少しも視線を外す事無く、律を見つめる。
むしろ律の方が動揺を隠せていない。

梓「どうして不審者に部屋を荒らされて身の危険を感じているという状況で、何の迷いも無く
  真っ先に律先輩に連絡するんですか? 普通はすぐ警察に通報しますよね? もしくは
  契約している警備会社でもいい筈です。親友とはいえ、どうして一般市民の律先輩に?」

律「それは……」

梓「一階には管理人が常駐していますから、部屋を飛び出して助けを求めても良かった。
  芸能人という立場上、事を大きくしたくないのならば事務所のマネージャーに連絡しても
  良かった。なのに何故、律先輩に?」

律「……」

梓「おそらく、おそらくですけど…… 唯先輩は助けを求める為じゃなくて、犯人が誰かを
  教える為に律先輩に電話したんです」

律「犯人が……」

律の唇から、かすれたように低く小さな声が漏れ出て、途切れた。
かろうじて能面の無表情を保ってはいるが、顔面は蒼白となっている。
もう既に、梓が何を言わんとしているかはわかっていた。
だが、梓の口を塞ぐ事も出来なければ、自分が答えを引き受ける事も出来ない。
只々冷たい絶望が身体中に染み渡り、身動きが取れない。


梓「唯先輩は知っていたんじゃないでしょうか。自分の身に危険が迫っているのも、危険を
  及ぼそうとしている人物が誰なのかも。そして、自分が殺されるであろう事も。だから、
  律先輩に電話をする、という行為が、そのまますぐに犯人の正体に繋がるように…… 
  つまり、その…… “同じ”放課後ティータイムのメンバーである律先輩に――」

そこまで言うと、梓は口をつぐんでしまった。
律の眼。氷のような、青白い炎のような、人間の負をすべて凝縮させたかのような、あの眼。
梓が幸いに思ったのは、それが自分ではなく、アスファルトの舗道に向けられていた事だ。
一時の沈黙を挟み、やがて再び梓が律に声を掛ける。

梓「……私の事を最初に調べてください」

その言葉に、律がハッと顔を上げる。

梓「律先輩に疑われるなんて絶対に嫌です……」

泣きそうな顔に無理矢理笑顔を浮かべようとする梓。
いたたまれぬ律はすぐに梓から視線を外すと、彼女の肩に手を置きながら言った。

律「馬鹿だな」

そして、外した視線を、今度はコトブキ・エンターテインメント本社ビルへ向ける。

律「また来よう。もう少し、暗くなってから」



深夜。
時計の針は12時をとうに回り、日付は10月21日へと変わっていた。
すべての照明が落とされ、暗闇となったこの一室。コトブキ・エンターテインメント本社ビルの
社長室。琴吹紬が腰を据え、命令を下す本陣だ。
その社長室のドアが小さな音を立て、ゆっくりと開いた。
続いて、二つの人影がソロリソロリと部屋の中へと歩みを進める。

律「ここが社長室だ。前に来た事がある」

用心深く周囲を見回す律の後ろで、疲れ切った梓が溜息交じりに両膝へ手を突いていた。

梓「はぁ…… ここへたどり着くまでに、何回も心臓が止まりそうになりましたよ……
  絶対、寿命が縮みました……」

律「良かったじゃないか。長生きしてもろくな事が無いからな」

梓のボヤキを軽く受け流すと、律は懐中電灯のスイッチを入れた。
しかし、接触不良なのか、電池切れなのか、光を発する気配が無い。
律が二度、三度と手で軽く懐中電灯を叩くと、不意に壁が丸く照らされた。
懐中電灯をあまり上に向けないよう注意深く照らしながら、二人は紬のデスクへ近づく。
デスクの上は几帳面に整頓されており、乗っている物といえば、パソコン、電話、予定表
くらいだ。
律が予定表を手に取り、懐中電灯を向ける。

律「昨日、今日の予定は……」

日付が変わる前、10月20日のスペースには短く『思い出の地へ』とだけ書かれている。
それ以外はすべて業務関係の予定ばかり。

律「別荘…… 思い出の地……」

口元に手を遣り思考を巡らせる律の横では、梓がデスクの引き出しに収められた書類に入念な
様子で眼を通していた。
書類は業務提携先の海外企業関連のものがほとんどだ。ヴェイト社、スターク・インダストリーズ、
ウェイン・エンタープライズ、ウェイランド湯谷、オムニ社、サイバーダイン・システムズ。
どれも超一流と呼ばれる巨大企業ばかり。しかし、内容自体は特に眼を惹くものではない。

梓「あとは、パソコンか……」

デスクトップタイプのパソコンを起動させると、やはりというべきか、当然というべきか、
画面には『パスワードを入力してください』というメッセージが表示された。

梓「ムギ先輩なら、やっぱりこれしかないよね……」

梓は独り言を呟きながら、手早くキーボードを叩く。

HOUKAGOTEATIME

しかし、不快な電子音と共に『パスワードが違います』とのメッセージに切り替わる。
梓は頬を膨らませ、顔をしかめた。

梓「じゃあ、これ……! 今度こそ……」


暗闇と静寂の中を、再び叩打音が控えめに響き渡る。

AFTERSCHOOLTEATIME

短いメロディが鳴り、画面には『ようこそTSUMUGIさん』という文字が映し出される。

梓「やった……!」

次々と表示されるフォルダとファイル。
梓は喜びと達成感に彩られた微笑を浮かべる。
しかし、それも束の間、梓の顔は見る見るうちに驚愕に歪んでいった。

梓「り、律先輩……! 律先輩!」

息も絶え絶えという表現がピッタリの梓の声に、律は思考を一時中断し、急いで彼女の方へと
顔を向けた。

律「どうした。何か見つけたのか?」

梓「ええ、とんでもないものを……」

律は梓に倣ってパソコンのディスプレイを覗き込む。
梓がマウスを操ると、まず画面には唯の姿が現れた。道を歩く唯、スタジオでギターを弾く唯、
他者と話す唯、控えめな照明の店内で酒を飲む唯、そして自宅でくつろぐ唯。誰がどう見ても
盗撮以外の何物でも無い。
更には、数々のテキストデータだ。株式会社シャイニングプロダクション、指定暴力団五藤組、
警視庁刑事部捜査第一課、数々のマスコミ各社。それらの組織に関して詳細に記録されている。
梓は両肘をデスクに突き、頭を抱えてしまった。両眼は固くつむられている。

梓「黒幕は、ムギ先輩です……」

律はマウスを引き継ぐと、素早くファイル群を調べる。しかし、調べれば調べる程に予想も
していなかった事実ばかりが浮かび上がってきた。

律「シャイニングプロダクションは、実際はムギの経営だったのか。社長に一見無関係の
  人間を据えて、指示や命令はすべてムギが飛ばしてたんだな。この様子だと」

梓「こんな…… こんな事が……」

律「旭日新聞、詠売新聞、産協新聞、経日新聞…… 何だよ、大手がこぞってムギにご機嫌
  伺いしてるぜ。テレビ局も、ムジテレビにテレビ旭日…… どこも似たようなもんだ」

梓「あ、ここ! シャイニングから五藤組への送金の記録もありますよ。あと、これは……」

律「盗聴記録だ」

数あるフォルダの中に音声データばかりが収められたものがあった。
その中の『会話記録』を開く。データのタイトルはどれも名前と日時。
律は『JUN SUZUKI 2022.10.7 18:05』にカーソルを合わせ、ダブルクリックした。



純『――自伝、ですか……』

唯『うん、そうなの。だからね、純ちゃんにも協力してほしいの。音楽界の歴史とか、当時の
  資料とか、そういうのをね』

純『はあ…… 私は構いませんけど……』

唯『ありがとう! 良かった…… ごめんね。お仕事が忙しいのに迷惑掛けちゃって』

純『いえ、それはいいんですけど…… でも、どうしてこのタイミングで自伝なんか?』

唯『……』

純『それに、事務所関連の出版社さんには頼まないんですか? ていうか、唯さん個人で
  そんな大事な仕事を進めちゃったら、事務所に怒られるんじゃ……』

唯『……』

純『唯さん?』

唯『……』

純『あ、あの……』

唯『うっ…… ううっ、うぇえええええん!』ポロポロ

純『ゆ、唯さん……!?』


唯『うぇええええええええん! ごめんなさい、ごめんなさい……!』ポロポロ

純『謝られても…… 困ったなぁ……』

唯『ごめんなさい、みんな…… 許して……』ポロポロ



今は亡き二人の声が、反射的に梓の瞳から涙をこぼれ落ちさせた。

梓「唯先輩…… 純…… ううっ、ぐすっ……」ポロポロ

唯の泣き声と梓の泣き声がまるでユニゾンのようだ。
律は梓の背中をポンポンと優しく叩く一方で、今度は『通話記録』のフォルダを開いた。
適当にカーソルを『JUN SUZUKI 2022.10.8 12:33』に合わせる。



純『――もしもし。原稿の方、届きましたか?』

編集者『あ、どーもー、鈴木さん。さっきメールを確認しました。ちゃんと届いてますよ。
    大丈夫でーす。ん……?』

純『どうかしましたか?』

編集者『鈴木さん、おもいっきり盗聴されてません?』

純『ええっ!?』

編集者『いやね、一定のリズムで通話がブツブツ切れるんですよ。あと、ザーッっていう
    独特の雑音も。たぶん、鈴木さんの方は何ともなってないんでしょうけど。典型的な
    盗聴器による通話障害なんですよね』

純『で、でも…… 何で、盗聴なんて……』

編集者『何かヤバい事件にでも首突っ込んでんじゃないんですか?w』

純『私はただの音楽ライターですよ!? そんなのとは無縁です!』

編集者『冗談ですよw まあ、もしアレでしたら専門の業者を紹介しますけど――』



盗聴のフォルダが閉じられ、律は溜息を吐く。

律「鈴木が言ってたのは、この事だったのか……」

そして、傍らの梓を静かに見守る。
むせび泣く梓が落ち着くまでにはある程度の時間を要したが、それでも律が考えていたより
ずっと短い時間だった。
立ち上がった梓は袖で涙をグイと拭うと、強い語調で律に言った。

梓「データはすべてプリントアウトしましょう。音声記録は携帯電話にコピーします」

律「ああ、そうしてくれ。長いドライブになりそうだからな。読み物と音楽が必要だ」

律の言葉にピクリと反応する梓。
ああ、やはり。ならば、そして。

梓「……やはり、行くんですね?」

律「ムギに会わなければならない。すべてを明らかにするんだ」

梓「信じられない…… 信じたくない…… どうして……?」

律「秘書の言っていた“別荘”。それとこの予定表に書いてある“思い出の地”。おそらく、
  ムギが今いるのは――」

梓「高校二年の夏合宿で使った別荘……」

もはや、そこは愛しい思い出の地ではない。もはや、そこは恋しい記憶の地ではない。
いまや、そこは恐るべき敵の待ち受ける場所となってしまった。
身を震わせて、襲い来る感傷と戦う梓。
それを尻目に律は、音声データのコピー状況を確認しながら、プリントアウトされたデータを
せわしく掻き集める。
ここに至り、律にとって解明すべき謎は“黒幕である紬は何故、唯を殺したのか”という
最終局面に到達していた。
また、それと同時に果たすべき目的である“復讐”の時も間近に迫っている。
だが、しかし、その二つを為す事は本当に可能なのだろうか。


律「さあ、行くぞ。どれだけ時間が掛かるかわからないが、急がないと」

梓「はい……」

室内が侵入前と同じ状態になるよう整頓を済ませると、律と梓は懐中電灯のスイッチを切り、
静かにゆっくりと社長室を後にした。



『日誌 田井中律、記 2022年10月21日
 これが最後になるだろうか?
 午前2時過ぎにコトブキ・エンターテインメントを出た。
 私はムギがすべての黒幕と確信している。
 これから奴のいる別荘に向かうつもりだ。

 ムギか……
 思いつく限りで最悪の敵だ。
 こうなった以上、勝てると信じて行くしかないが……
 私達はこのまま、思い出の地で人知れず果てるのかもしれない。
 五人の青春が詰まった思い出の地で。
 ムギの持つ権力は私達の想像を絶している。
 その気になれば、蟻を踏みつぶすより簡単に私達を社会から消し去れるだろう。
 生きて帰れる見込みは少ない。

 今からこの日誌をビンに詰めて海へ流そうと思う。
 あの電子の海なら必ず誰かが拾い上げ、私に代わって白日の下に晒してくれる。
 もうマスコミは信用出来ない。テレビ局も、新聞社も、雑誌社も。
 これを読む者は、私の生死にかかわらず真実を知る事になるだろう。
 詳細は不明だが、陰謀の黒幕はムギだ。
 なるべくわかりやすく書いたつもりだ。
 この中に事件の謎が明らかになっている。

 私自身に悔いは無い。
 妥協を許さず、唯の死の謎を追い続けたのだから……
 喜んで影に足を踏み入れるとしよう。

 田井中律
 2022年10月21日2時31分』





君がメフィストフェレスじゃないにせよ
魂胆は奴と同じだ
僕が君の教えに耳を傾ければ
君の企みは達成される
僕は君の手の上で踊らされるんだ
――ザ・ポリス

第六章《死の女王》

2022年10月21日午前11時36分。
東京の新名所である高層ビル“グラスタワー”は、平日であるにもかかわらず多くの人で
賑わいを見せていた。
天に向かってそびえ立つ138階建ての塔は、全面のガラスが太陽の光を輝かせ、まるで現代
美術を象徴するかのような美しさをまとっている。
そして、その一階。多くのテナント・ショップが軒を連ね、若者や家族連れが通路を行き交う中、
メモを片手に重い足取りで歩く平沢憂の姿があった。

憂「ええっと、エレベーターはどっちかなぁ……」

年齢的にも、性格的にも、現在の心境的にも、流行の場所へ赴く事には向いていない。
そう自覚している。
しかし、絶えず自分の身を案じる人物が厚意で誘ってくれて、今後の援助さえも申し出て
くれているのだ。真面目で律儀な性格の憂でなくとも、自宅に引きこもっている訳には
いかないだろう。
たとえ、胸の悪くなるような人の多さでも。たとえ、頭上の案内表示が更にややこしさを
増すような複雑な建物の造りでも。

憂「もう、わかんないや…… お姉ちゃんや純ちゃんがいてくれたらなぁ…… 梓ちゃんとは
  全然連絡が取れないし…… ぐすっ……」ポロッ

遂には立ち尽くし、涙をこぼし始めた憂。そんな彼女に後方から歩み寄る者がいた。

?「どうしたの? 迷っちゃった?」

憂が振り向くと、長身かつ精悍な顔つきの男が白い歯を見せて笑っていた。

憂「あ、はい…… エレベーターで110階の“カフェ・ムジョルニア”っていうところに
  行きたいんです……」

?「ああ、簡単簡単。ここをずっとずぅーっとまっすぐ行ってさ、右に折れりゃエレベーター
  乗り場があるから。あとは110階に着いたら目の前だよ」

憂「ありがとうございます! 助かりました! あの、本当にありがとうございます……!」

?「いやいや、そんな大した事してないから。じゃあ、気をつけてね」

ペコペコと何度も頭を下げる憂であったが、男は既に背中を向けてその場を離れつつあった。
見れば、連れと思わしき中年男性と談笑しながら、フロアの奥へと歩いていく。
憂にはそのどちらにも微かに見覚えがあった。

憂「あれ……? 今の人って、もしかして“LUV”の小椎尾学さんじゃ…… それに、一緒に
  いた人は、確か澪さんのプロデューサーさん……? 芸能人さんや業界人さんが普通に
  歩いてるなんて、やっぱりグラスタワーってすごいところなんだなぁ……」



110階のエレベーターが、チンとベルを鳴らして開かれた。
憂は教えられた通りの道筋をたどり、ようやく目的の場所へと到達していた。
だが、今度は店の絢爛豪華な造りと雰囲気に圧倒されている。
いつまでも店の前でグズグズしている憂を見かね、案内係のギャルソンが声を掛けた。

ギャルソン「カフェ・ムジョルニアへようこそ。お客様、本日のご予約はございますか?」

憂「え? あ、は、はい……! 平沢憂なんですけど…… 12時に……」

ギャルソン「少々お待ちくださいませ。……ああ、はい。確認致しました。こちらへどうぞ」

店内は北欧風の上品な雰囲気であり、客もまたそれに見合う上品さで喫食や会話を楽しんでいる。
憂はオドオドとギャルソンの後ろを歩いていたが、そのうち席に座ろうとしていた客の一人に
ぶつかってしまった。

憂「あっ! す、すみません!」ペコペコ

老齢と思しき男性客は言葉を発さず、憂をジロリと一瞥すると、そのまま何事も無かったかの
ように席に着いた。
テーブルには、彼と同年代の男性客が他に二人座っていた。



男1「――失敬。待たせたかな」

男2「いや、私達も今来たところだ」

男1「しかし、こんな店に役員を三人も呼び出すとは、会長は何をお考えなのかな。我々も
   暇ではないというのに」


男2「……」

男3「……」

男1「どうしたのかね」

男3「……まさかとは思うんだが、我々のやっている事が会長に知れてしまったのでは?」

男1「おい、場所を考えろ。軽々しく口に出来る話題じゃないぞ」

男3「し、しかし……」

男2「実は、私も一番初めにそれが思い浮かんだ。連絡を受けた時にね」

男1「やれやれ…… いいか。仮に、あの事を問い詰めるのが目的だとしたら、わざわざこんな
   場所を選ぶと思うか? 普通は会長室に呼びつけるだろう。それにだ……」

男3「そ、それに?」

男1「我々は先代の下、琴吹グループをここまでの大企業にした功労者だぞ。いくら会長といえど、

   簡単に我々をどうにか出来る訳が無い。アイドル上がりの小娘にこれ以上好き勝手されて
   たまるものか」

男3「そ、そうだな。その通りだ」

男2「だといいのだが……」

男1「とにかく、この話はこれで終わりだ。あまり聞かれたくない連中も来ているしな」

男3「えっ?」

男1「君の三つ後ろのテーブルに警察関係者が二人いる。以前、便宜を図ってやった刑事だ――」



刑事2「――なあ、本当に来るのか?」

刑事1「大丈夫だって。今まで何度も使ってるチクリ屋なんだ。信頼度は俺が保証するよ」

刑事2「お前の保証なんか当てになるか。今はどれだけ用心しても足りないんだ。おとといの
    襲撃の件もあるしな」

刑事1「ああ、ありゃひどかったな。あいつ、脳挫傷でまだ意識不明だぜ。おまけに両手の
    指を全部折られて……」

刑事2「一体、どこのどいつだ。警察を舐めくさりやがって……!」

刑事1「それにしても、このお上品な雰囲気は何とかならんかな。俺達、浮きまくってるぞ」

刑事2「下らん事を気にするな。浮いてんのは俺達だけじゃない。見てみろよ、あっちの席」

刑事1「ん? ああ、あれ、いつものうっとうしいブン屋じゃないか」

刑事2「何を嗅ぎ回ってんだかな……――」



ルポライター「――んで、鈴木の奴が盗聴されてたってのは確かなんだろうな」

編集者「確かっていうか、電話の感じが盗聴されてるっぽかったんで…… あ、あの、やっぱ
    鈴木さんが死んじゃったのと何か関係あるんですかね?」

ルポライター「大ありどころか、鈴木は殺されたと睨んでるぜ、俺は。第一、俺から見りゃ
       鈴木に自殺する理由なんてねえんだ。遺書も取ってつけたような事しか書いて
       なかったしな」

編集者「こ、殺された……? 俺、鈴木さんに、ヤバい事件に首突っ込んでんじゃないか、
    って冗談言っちゃいましたけど、まさかマジで……」

ルポライター「当たらずしも遠からず、ってトコだな。ここ最近、くせえ事ばかりだからよ」

編集者「と言うと?」

ルポライター「10月7日の事だ。鈴木と電話で話したんだが、そん時にあいつが言ってたんだ。
       『そういえば今日、平沢唯さんに自伝出版の協力を頼まれちゃったんです~』
       なんてな」

編集者「盗聴される前日ですね」


ルポライター「それからすぐに平沢唯は殺され、その犯人が今度は琴吹紬を狙ったが、
       あえなく逮捕。と思いきや、犯人は素性を隠されたまま、留置所で自殺。
       鈴木も犯人逮捕と前後して自殺と来たもんだ」

編集者「うわあ……」

ルポライター「断言するぜ。こりゃ絶対に何か裏がある」

編集者「俺、怖くなってきましたよ…… もう帰ろうかな……」

ルポライター「まあ、待てよ。せっかく人がこんなお高い店でおごってやってんだ。もう少し
       話聞かせろや」

編集者「そんな…… ん? そういえば、どうしてこんな小洒落たカフェにしたんですか?
    ウチの編集部が入ってるビルの喫茶店でいいじゃないですか。近いんだし」

ルポライター「ああ、もうひとつの仕事のついでだよ。今日、ここに来るって情報があってな」

編集者「仕事? 来る?」

ルポライター「おうよ。……お、噂をすれば何とやらだ。おいでなすった」

編集者「へ?」

ルポライター「今、入ってきた二人連れ。衆院議員の真鍋と、その奥方だよ」

編集者「ああ、なるほど」

ルポライター「反米親中派の若き旗手だ。いい取材が出来そうだぜ。ええ? おい――」



眼を光らせるルポライターからやや離れた、窓に近い眺めの良い席。背中を丸くして紅茶を
啜る憂に、大人の女性を感じさせる低音の声が掛けられた。

和「あら、憂じゃない」

憂「あ、和ちゃん……」

振り返った憂のそばには、微笑を湛えた和がいた。隣に立つ彼女の夫が軽く会釈をする。
憂は慌てて立ち上がった。

憂「こ、こんにちは」

和「こんなところで会うなんて奇遇ね。どうしたの?」

憂「紬さんと待ち合わせなの。これからの事について相談に乗るから、って。和ちゃんは?」

和「ムギがね、このグラスタワーのパーティホールで、主人の政治資金集めのパーティを
  開いてくれるから、その下見に来たの。さっきまで他の先生方も一緒だったんだけど、
  他のお店に行かれてね」

憂「旦那さん、国会議員さんだもんね。やっぱり大変なんだ……」

和「でも、ムギには本当に色々と助けてもらっているのよ。唯の言っていた通り、友達思いの
  優しいところは変わらないのね」

憂「うん…… 紬さん、私の事もすごく心配してくれて……」

和「あ、そうだわ。もし迷惑じゃなかったら、私達も一緒にここで待たせてもらっていいかしら。
  憂の事も含めて、改めてお礼が言いたいから」

憂「う、うん。私は全然大丈夫……」

上品で高級感漂うカフェ。同席の夫妻は国会議員と弁護士。
我が身を鑑み、何がしかをチラリとでも考えぬ訳ではなかったが、無下に断るのもはばかられる。
そして、ギャルソンに事情を説明して席を用意してもらった辺りで、不意に他の客達から
ざわめきが上がりだした。

和「何かしら……」

憂「どうしたんだろうね?」




時は僅かに進み――

2022年10月21日午後12時05分。
とある別荘地。海沿いの大きなリゾートハウスの前。
律と梓の乗る赤のミニクーパーが静かに停車した。
フロントガラスの向こうでひっそりと佇むリゾートハウスを、サングラス越しに睨みつける律。
その隣では、梓が緊張の面持ちを隠しきれずにいた。
最早、懐かしさや感傷が入り込む隙など微塵もありはしない。

律「道に迷ったせいで思ったより時間が掛かったな。さあ、行くか」

梓「……」

掛けられた声には答えず、梓はまるでクリスチャンのように、俯き加減に両手を合わせて、
眼を閉じている。
その様子を見た律は不快そうに眉をひそめた。

律「『あぁ、カミサマお願い』ってか。よせよ、そんな――」

梓「助けはいらないから、せめて邪魔だけはしないでください……」

律の声を遮り、梓が顔を上げた。

梓「そう神様にお願いしていたんです」

恐怖と緊張に強張る顔が律の方へ向けられる。
まさにその通りだった。糞垂れな神様の助けの下に調査は進展し、ご覧の有様だ。

律「だな……」

虚しい薄笑いを浮かべる律が車のドアを開け、梓がそれに続いて外へ出る。
律から投げ渡されたリモコンキーが、梓の掌に着地した、その時。
英国車特有のエンジン音が後方から響き渡った。
振り返った二人の方へ、一台の黒いジャガーXJが近づきつつある。
間も無く、ミニクーパーから少し離れた場所にジャガーが停車した。
二人が驚きに顔を見合わせる暇もあればこそ、漆黒のロングヘアを風になびかせながら、
やはりこの地に因縁のある人物が車中から降りてきた。

梓「澪先輩!」

澪「律、梓……? お前達もムギに呼ばれたのか?」

澪は眼を丸くしている。その表情は“予想だにしていなかった”という心中を雄弁に語っていた。

梓「いえ、それが――」タタッ

律「行くな梓! 澪、お前もそれ以上、こっちに近づくな……!」

歩み寄ろうとした梓を制止した律は、警戒と猜疑の眼差しを澪へ向ける。それはかつての
親友を見る眼ではなかった。氷のような、青白い炎のような、人間の負をすべて凝縮させたか
のような眼だ。

澪「なっ……! 何だよ! その言い方は!」

律「ムギに呼ばれた? 奴と大事なご相談か? 唯や鈴木を殺した時みたいに」

澪「はあ!? 何、ワケわかんない事を言ってるんだ! 本当に頭がおかしくなったのか!?」

澪の表情が、驚きから怒りへとシフトしていく。
それと同時に、梓の中で僅かに芽生えた喜びも、警戒心に駆逐されていった。
しかし、それでも尚、梓は澪を信じたかった。“敵”が増えてほしくなかった。

梓「黒幕は、ムギ先輩です……! 唯先輩や純が殺されたのも、ムギ先輩が襲われたのも、
  その犯人が死んだのも、全部ムギ先輩の差し金だったんです!」

澪「梓、お前までそんな事…… どうしちゃったんだよ……」

律はここまでの澪の表情、口調、動作を細微に観察していた。
狂気の精神のみが、燃え盛る憎悪と氷の如き冷静さの同居を可能とするのだ。
そして、その観察、分析の結果がひとつの行動を実行させた。

律「ムギのパソコンに入っていたものだ。読んでみろ」

澪の足元にクリップで留められた書類の束が投げつけられた。
不愉快極まるという顔でそれを拾い上げる澪。
しかし、一枚二枚と書類を読み進めるにつれ、その顔は徐々に驚愕へと歪んでいった。


澪「そ、そんな…… ムギが…… どうして……」

もう充分だった。
澪の反応を見届けると、律はリゾートハウスへ向きを変え、歩みを進める。

律「行くぞ、梓」

梓「は、はい!」

二人が屋敷へと向かう背後で、澪が書類の束に見入っている。
表情は既に驚愕から失意に変わっており、少しの悲しみを含んだ視線が一枚の盗撮画像に
落とされていた。
そこには唯の姿があった。こちらに背を向けるように座っている憂にしがみつき、泣き喚く
唯の姿が。

澪「唯……」

まるでうめくように一言呟くと、澪は書類を丸め、律と梓の後を追った。



リゾートハウスの中は沈黙と静寂が支配していた。
どこを見渡しても、どこを覗き込んでも、人っ子一人見当たらない。ムギ本人の姿も、雇われて
いるであろう使用人の姿も。
三人は頭蓋の片隅に残る記憶を頼りに、リゾートハウスの内部を探索する。

律「ん……?」

ふと、律の耳が聴きつけたのは、カチャカチャと食器の鳴る音。
その音を頼りに三人は廊下を進み、やがて広い食堂へとたどり着いた。
途端に三人の総毛は逆立ち、心拍数が急上昇を始める。
いた。
紬だ。
そこには紬の姿があった。
大きな長方形のダイニングテーブルの上座に座り、ベーグルを口に運び、コーヒーをすすっている。
大企業の代表が食べるにしてはひどく庶民的な食事内容だが、それ以上に奇異を感じさせたのは
紬が身にまとっていた服だった。
緑の布地に赤の帯。高校二年の学園祭ライブ。そのステージ衣装だった防寒仕様のミニ浴衣だ。
紬は三人の来訪に気づくと、食べる手を休め、にこやかに笑った。

紬「いらっしゃい、澪ちゃん」

紬の視線が、澪から律と梓へ移る。その際、彼女の口角が僅かに歪んだ。意識したものか、
そうでないのか。

紬「やっぱり来たわね、りっちゃん、梓ちゃん。澪ちゃんを呼んでおいて良かったわ」

手がコーヒーカップに伸び、再びコーヒーが啜られる。

紬「そうだわ。三人共、一緒に昼食はどう? クリームチーズ・ベーグルと甘さ控えめの
  レモン入りカフェラテ。美味しいわよ」

中年と呼んでも差し支えない三十路過ぎの女性。それが高校時代に使用した、可愛らしい
ステージ衣装を着ている。
本来ならば嘲笑を浴びせられるレベルの滑稽さではあるのだが、何故か梓には正体不明の
恐怖しか感じられない。

梓「ムギ先輩…… ど、どうしたんですか、その恰好……」

紬「懐かしいでしょ? まだまだ着られるかと思ったんだけど、やっぱりお直しが必要だったわ。
  特にウェスト周り――」

律「ムギ……!」

紬の言葉が終わるのを待たず、律が一歩を踏み出す。
そして、次の一歩は紬へ突進する為の、踏み込みの一歩となった。
対する紬はテーブル・ナプキンで口元を拭うと、優雅に椅子から腰を上げる。

律「ムギぃいいいいいいいいいい!!」ダダダダダッ

雄叫びと共に紬に突進し、殴り掛かる律。
だが、唸りを上げる拳は、宙空でいとも容易く紬の掌に掴み取られた。
それだけではない。律の拳がメキメキと音を立てて、紬の掌に握り潰されようとしている。

律「くっ……!」

紬「りっちゃん、忘れちゃったの? 私、力持ちなんだよ?」クスクス

そう言って微笑むと、紬は律の胸倉を掴み、高々と彼女の身体を持ち上げた。


律「クソッ、離せっ!」

紬「うん、わかった」

次の瞬間、紬は梓ら二人の方へ、律を投げつけた。
放物線を描いて数mの距離を飛ばされる律。最早、人間業ではない。

律「うぐうっ!」ドサッ

二人の足元に頭部から着地した律は、くぐもった悲鳴を上げた。

澪「律!」

梓「律先輩!」

梓は慌てて律を抱き上げた。かろうじて意識はあるようだが、眼は虚ろで口はだらしなく
開かれている。明らかな脳震盪だ。
澪もまたしゃがみ込んで律を気遣う。そこにはもう、以前の確執は感じられなかった。むしろ、
敵意は紬に向けられた。彼女の醸し出す異質な恐怖に当てられ、肩を震わせてはいたが。

澪「ムギ、お前には失望したぞ……!」

梓「もう私達はすべてを知ってます。証拠だって揃ってるんです」

梓は澪の手から書類の束をひったくると、紬へと突きつけた。

梓「どうして、こんな事をしたんですか!? 何がムギ先輩を変えてしまったんですか!?」

紬「……私は何も変わっていないわ。変わっていってしまったのは、あなた達みんなの方よ。
  それもずっと前に予想出来ていた事だけど」

そう言いながら、溜息交じりに椅子に腰を下ろし、脚を組む。
チラリと眼を遣ったコーヒーは既に冷えていた。

紬「誰かが…… いいえ、他でもない私が放課後ティータイムを守らなければいけない。
  そう思ったの。デビューして、すぐに」

梓「守る……?」

紬「そうよ。たとえバンドが成功したとしても、いずれマスコミの餌食にされる。彼らは
  自分以外のすべてを食い物にし、大衆を惑わせ、巨万の富を得る。そんな化物の手から、
  放課後ティータイムを守らなければならない。だから、私は決心したわ。バンドを脱退し、
  琴吹グループの会長となる事を。そして、放課後ティータイムを守る為に、その権力を以て
  世界を見張る監視者になろうと」

澪「結果、成功した私達の影の部分を嗅ぎつけ、スキャンダラスに書き立てようとする
  マスコミはいなくなった……」

澪に眼を向け、無言で頷く紬。

梓「待って下さい! あの時は……? 2014年の大晦日、唯先輩と私の路上ライブの時は
  どうなんですか!? 唯先輩はひどいバッシングを受けたじゃないですか!」

紬「あの時はまだ私の力が足りなかった。マスコミ、司法、政財界。すべてを抑える為には、
  もう少しだけ時間が必要だったの。だけど、程無くマスコミは掌握出来た。更に警察と
  暴力団。最後には、財界と一部の政界も。それからは完璧に放課後ティータイムを守れる
  ようになったわ」

梓「……!」ピクッ

紬の言葉が引き金になったかのように、梓の感情に火がついた。
梓は律を床に寝かせると、握る拳を震わせながら立ち上がった。眼は涙で潤んでいる。

梓「何が放課後ティータイムを守るですか! ムギ先輩はいなくなって、唯先輩はボロボロに
  なって、私達三人も……」

紬「……プロデビューしてすぐに気づいたわ。唯ちゃんと澪ちゃん、二人の性格、二人の才能、
  二人の音楽性。お互いが同じバンド内では相容れない存在になる。少なくとも、唯ちゃんに
  その気が無くてもね」

澪「……」

紬「だから、あえて元の形を保たせようとは思わなかった。私の使命は放課後ティータイムを
  守る事であって、メンバーの五人を守る事じゃない。私のバンドでの役割は初期に在籍
  していた元メンバー程度でかまわない……」

澪「役割……?」


紬「放課後ティータイムとは袂を分かち、不遇に耐えながらも自らの音楽を追い求める、
  孤高の天才ミュージシャン。それが唯ちゃんの役割……」

梓「なっ……!」

紬「三人になった放課後ティータイムは、日本音楽界のあらゆる記録を塗り替え、名実共に
  史上最高のトップバンドとなった。伝説のバンドとなったのよ。私の筋書き通り……」

梓「唯先輩の人生は……? 私達五人の関係は……?」ワナワナ

紬「大いなる目的の為には、変化や犠牲は付き物よ。一人の例外も無く皆を幸せにしたいなんて、
  子供のわがままか、理想主義者の戯言に過ぎないわ」

遂に梓の瞳から涙がこぼれ落ちた。

梓「そんな…… そんなの、絶対間違ってます…… 喜びも苦しさも五人で分かち合うのが、
  放課後ティータイムだったはずです……! 放課後ティータイムは、私達五人で放課後
  ティータイムじゃなかったんですか!?」ポロポロ

紬「間違ってるのは梓ちゃんの認識よ。放課後ティータイムは誰の物でもない。私達五人の
  物でも、事務所の物でも、レコード会社の物でも、マスコミの物でも。ファンの物ですら
  ないわ」

梓「じゃあ、放課後ティータイムって一体、何なんですか……」

その問いを受け、紬は眉尻を下げて力無く微笑んだ。まるで“困った子ね”とでも言いたげに。

紬「放課後ティータイムは、私にとって……――」

その時、突如として律が立ち上がった。
ダメージが抜け切れておらず、足元が幾分怪しかったが、殺意に燃える眼光を取り戻している。

律「いつまで下らない話を続けてるんだ。私が知りたいのはそんな事じゃない。何故、お前が
  唯を殺したか、だ……!」ダッ

律は拳を振り上げて再度、突進を敢行した。
悲しげに首を左右に振りつつ、紬が迎え撃つ。

紬「心正しき者の歩む道は、心悪しき者の利己と暴虐によって、行く手を阻まれる――」

律の大振りのパンチが虚しく空を切る。
紬は素早く律の側方へ回り込むと、彼女のロールシャッハ・ニットに手を掛けた。ニット帽は
一気に引き下げられ、持ち主の顔面を覆い隠す。
更には、完全に視界を失った律の腕を取り、関節を逆に極めながら、テーブルの上へ投げ飛ばす。
皿やコーヒーカップは激しい音を立てて割れ、律はテーブルの向こう側まで転がっていった。

紬「愛と善意をもって暗黒の谷で弱き者を導く、その者に祝福を――」

ニット帽を直して視界を取り戻した律が、勢いよく立ち上がった。手には鋭く尖る皿の破片が
握られている。

紬「彼こそ兄弟を守り、迷い子たちを救う者なり。私の兄弟を毒し、滅ぼそうとする者に、
  私は怒りに満ちた懲罰をもって大いなる復讐をなす――」

紬の胸に破片を突き立てようとした律であったが、胸へ到達するはるか前に、破片を持つ
手は捕らえられてしまった。
凄まじい力で手首を握られ、破片が床に落ちる。
それと同時に、紬のもう一方の手が律の喉を掴んだ。

紬「私が彼らに復讐をなす時、私が主である事を知るだろう」

紬が喉輪を極めたまま、大外刈りの要領で強引に律の脚を払った。律の身体が一瞬、宙に浮かぶ。
喉を掴んだ手は離さずに、紬は充分過ぎる落差から、律の後頭部を床へ叩きつけた。

律「がっ! かはっ……!」

悶絶する律。それを見下ろす紬。
紬の呼吸や着衣には、少しの乱れも無い。

紬「エゼキエル書25章17節。りっちゃんの質問に対する答えよ……」

その声は律には届いていないのだろう。
律は身体をヒクつかせ、呼吸困難と闘っている。
紬は梓と澪の方へと振り返った。

紬「ついて来て。お話の続きをしましょう」


そう言うと、紬は食堂の出入口へゆっくり歩き出した。
梓も澪も身体を震わせて、即座に後ずさる。
海を割ったモーゼよろしく、紬は二人の間を悠然と通り過ぎた。
廊下の方へと足を運ぶ紬の背中を見送ると、梓と澪は律へと駆け寄った。

澪「律っ……!」

梓「律先輩、しっかり!」

律「うう…… だ、大丈夫だ……」

喉に強い衝撃を受けたせいか、律の声はかすれ気味だった。
二人の肩を借りてフラフラと身体を起こすも、語調は強気なままだ。
大きくずれたサングラスをかけ直し、律が言った。

律「早く、ムギの後を追うんだ……!」



リゾートハウスの廊下を歩く四人。
紬を先頭に、少し離れて律の両脇を支える梓と澪。
季節外れなせいか、窓の外からは鳥の鳴き声やそよ風の音以外は、何も聞こえてこない。四人も息遣い
以外は、その口から発していない。
その静寂を破ったのは、紬の背中を見つめ続けていた梓だった。
到底納得など出来る筈も無い紬の思考。それに対する苛立ちが、梓の口を開かせた。

梓「随分と余裕なんですね。私達に背中を向けて、前を歩くなんて」

紬「そう?」クスクス

梓「私はともかく、律先輩が銃を隠し持っていたら、とは考えないんですか?」

律(梓! 馬鹿!)

自身の発した言葉が致命的な失言では、と梓は考えなかったのか。
突如、足を止め、クルリと三人の方へ向き直る紬。
梓らは心臓が止まりそうな驚きと共に立ち止まった。
しかし、紬は食堂で顔を合わせたときと同じく、ニコニコと笑っているだけ。

紬「仕事柄、危機管理意識は高いの。普段からね」

紬がグイと浴衣の胸元をはだけた。
そこから覗いたものは、襦袢でもTシャツでもなく、鈍く光る鎖帷子のようなアンダーウェア。

紬「ヴィブラニウム合金の鋼線を編み込んだ防弾ジャケットよ。たとえ至近距離から50口径の
  対物ライフルで撃たれても無傷で済むわ」ニコッ

梓「……」ゾクッ

邪気の無い得意げな笑顔が梓に向けられる。
その徹底した用意周到さ。
また、常日頃からそこまでの防衛手段を必要としなければならない現在の彼女。
再び梓の口をつぐませたのは、そんな自分の理解が及ばない存在への畏怖だった。



目的の場所には程無く到着した。
それは、リゾートハウスの大きさとは対照的な、然程広くもない一室。
ワークデスクがあり、その上には数台のPCがディスプレイと共に鎮座している。
それだけなら個人トレーダーのデスクの上も似たようなものだが、異様だったのはデスクの背後、
壁一面に何十台と設置されたモニターだった。
ここは一体、何の為の部屋なのだろうか。

紬「さあ、入って」

デスクの方へと歩みを進めながら、紬が背で三人に入室を促す。
律は何の躊躇も無く、ズカズカという擬音が似合いそうな大股で部屋に入っていった。その後に、
警戒と恐怖でいっぱいの梓と澪が続く。
そして、三人がデスクの前に揃ったところで、紬が口を開いた。

紬「ジョン・F・ケネディの演説原稿の内容を知ってる?」

梓「……?」

紬「『今、この地に集う我々は、好むと好まざるとかかわらず、世界の自由を守る城壁の
  見張り(watchmen)となる宿命なのです』よ」

話の流れが読めず、困惑する梓と澪。
律は敵意を込めた眼つきで、デスクの向こうにいる紬をサングラス越しに睨みつけている。

少しの沈黙を挟み、再び紬が話し出した。

紬「……最初は、琴吹グループ内の使途不明金の発覚だったの。すぐに内部調査を命じた結果、
  業務上横領に手を染めていた三人の古参役員を洗い出したわ」カタカタ

紬は片手でキーボードを叩き、ディスプレイを少しの間見つめた後、すぐに三人へ視線を戻した。

紬「三人の役員を更に調査していく中で、彼らがある違法カジノの常連客だったという事実も
  判明した。五藤組が中心になって、東京グラスタワー最上階のペントハウスで開いていた、
  違法カジノよ」

澪「グラスタワーのペントハウス……?」ピクッ

紬「そこに、唯ちゃんがいた……」

梓「えっ!?」

澪「唯が!? どうして!?」

律「……」

何の脈絡も無く飛び出した唯の名に、梓と澪は色を失った。
しかし、律だけは何の反応も見せず、紬を睨み続けている。

紬「私も驚いたわ。だから、唯ちゃんへの個人的な調査を手配したの」

紬「当時の唯ちゃんには交際していた男がいたわ。名前は小椎尾学。聞いた事あるでしょ?
  自分を大物ミュージシャンと勘違いした、下品で、頭の悪い、どうしようもない男……」

紬「バーでお酒を飲んでいるところに声を掛けられ、交際が始まったようね。あの頃の唯ちゃんは
  心を病んで、お酒に溺れていたから、彼の口の上手さに騙されてしまったんでしょう……」

紬「すぐに唯ちゃんは小椎尾に連れられて、頻繁に違法カジノへ通うようになってしまった。
  彼と五藤組の関係が深かった為にね」

梓「それを知って、ムギ先輩は何も行動を起こさなかったんですか……?」

紬「勿論、行動は起こしたわ。唯ちゃんと彼の関係が一切報道されないようにマスコミへ
  手を回し、唯ちゃんを彼やカジノそのものから遠ざけるように五藤組に働きかけた」

澪「え……? いや、そうじゃないだろ……?」

紬「デリケートな問題なの、澪ちゃん。そのカジノの常連客は唯ちゃんや小椎尾、琴吹の役員
  だけじゃない。あなたのプロデューサーさんや和ちゃんの旦那様もいたのよ」

澪「何だって!?」

梓「和先輩の旦那さん……!? あの、国会議員の……?」

紬「当時政権与党の議員や経団連の幹部が複数、東証一部上場企業数社の取締役達、大御所と
  呼ばれる大物俳優やベテラン歌手…… 政財界や芸能界のバランスを崩しかねない黒い霧が、
  あのカジノにはかかっていたわ」

澪「そんな……」

梓「一体、何がどうなって……」

予想など出来る筈も無い、飛び抜け過ぎた話の流れ。
驚きを通り越して、思考の麻痺を伴う混乱に陥っても不思議ではない。

紬「そして、この問題に取り組もうとしていた矢先に、もうひとつの問題が持ち上がったの。
  それが――」

律「唯の自伝か」

ここまで無言を通していた律が不意に口を開いた。
話を横合いからひったくられたせいか、紬の表情が不機嫌そうに曇る。

紬「……その通りよ。唯ちゃんはカジノの件以来、尾行や盗聴を駆使して、あらゆる面で
  私の監視下に置いていたわ。そんな彼女が一本の電話を掛けた」カタカタッ

短いキーボード操作の後、PCのスピーカーから律と梓には聞き覚えのある会話が再生された。



『――自伝、ですか……』

『うん、そうなの。だからね、純ちゃんにも協力してほしいの。音楽界の歴史とか、当時の
 資料とか、そういうのをね』


『はあ…… 私は構いませんけど……』

『ありがとう! 良かった…… ごめんね。お仕事が忙しいのに――』



紬の手がキーボードから離れ、今度はデスクの上に置いてあった書類の束を持ち上げた。
数枚、数十枚という厚さの束ではない。まるで一冊の“本”くらいはある厚さだ。
その書類の束を手に、紬は三人へゆっくりと近づく。

紬「急いで内容を調べさせたけど、嫌な予感って当たるものなのね……」

梓「……?」

少しの沈黙と共に、梓の方へ眼を遣る紬。
どういうわけか、その視線と表情には憐みの色が含まれているようだった。

紬「……梓ちゃん。ちゃんとお医者様に診てもらった?」

梓「はい? な、何の話ですか?」

紬「大変よね。濡れないのと痛いのとで、好きな男性と愛し合えないって。性的不能が恋愛に
  及ぼす影響は小さくないものね」

梓「な!? な、な、な……! ど、どうして……!?」カアアアア

頬を染めながら慌てふためく梓には返答せず、紬の視線が今度は澪に向けられた。

紬「澪ちゃん、危なかったわね。プロデューサーとお付き合いしていたせいで、あなたまで
  とてつもない不祥事に巻き込まれるところだった。でも、あなたがトップに立てたのは
  あの人のおかげというのも、また事実なのよ?」

澪「ど、どうして私と彼の関係を!?」ビクッ

先程と同様に、紬の眼が今度は律へと向けられる。

紬「りっちゃん――」

律「ヒモ、DV、ギャンブル、借金。私が付き合う男は、みんなクズ野郎って言いたいんだろ?」

紬「あらあら」クスクス

梓「ま、まさか……」ハッ

電流が走るが如く、梓の脳裏をよぎったもの。
それは、つい先日、車中で律と交わした会話。
故人を偲んで交わした会話。亡き人を想いながら交わした会話。



『確かに…… 唯先輩に相談したくらいですね』

『私もそうだよ。何故か唯には話しやすかったんだよな』

『唯先輩の人柄だったんでしょうね……』



追い打つかのように、否、死者に鞭を打つかのように紬が続ける。

紬「放課後ティータイムメンバーの男性遍歴やスキャンダラスな事実。メンバー同士の不和、
  特に澪ちゃんの横暴な振る舞いや唯ちゃんに対する酷い仕打ち。他にも、さっきの違法
  カジノに関わった重要人物の詳細。一般人が決して知り得ない、芸能事務所やテレビ局の
  暗部……」

紬は束を眼の高さまで掲げると、静かに手の力を抜いた。
一枚一枚にビッシリと文章が印刷された、何百枚ものA4コピー用紙が床に散乱する。
紬の足元にも。梓の足元にも。澪の足元にも。律の足元にも。
“ブチ撒けた”という表現がピッタリだ。
そして、その間、紬の眼は三人を捉え続けていた。

紬「自伝の名を借りた暴露本よ。これは」

梓「う、嘘です…… そんなの…… 唯先輩が、そんな事をする訳が、ありません……」フラフラ

澪「唯……」プルプル

律「……」


梓は二、三歩後ろへよろけると、その場にペタリと座り込んでしまった。
澪は頭を垂れて足元の原稿を凝視し、拳を握り締め、身を震わせている。
律だけが、不動のまま、表情ひとつ変えずに佇んでいる。
紬は、三者三様の反応を示す梓達に、嘲笑うでもなく、慰めるでもなく、少しの感慨を込めて
話し掛ける。

紬「身も心もコメディアンに成り下がった唯ちゃんが、人生の逆転を狙った乾坤一擲の
  ブラックジョークだったんでしょうね。恐ろしく出来が悪くて、笑えないジョーク
  だけれど……」

監視者(watchmen)として。復讐者(avengers)として。
冷徹の仮面を被った彼女に、憎悪の影は微塵も見えなかった。

紬「このままでは放課後ティータイムを穢され、壊されてしまう。私は唯ちゃんの排除を決めたわ」

律「唯殺しを告白するんだな?」

紬を突き刺さんばかりに指差す律。
証拠は手にしている。自白もさせた。あとは――

紬「いいえ。“告白”という表現には、悔恨の意味が含まれるわ。私はただ……」

律「ただ?」

紬「……ただ、残念だっただけ」

律とは眼を合わせず、数台あるディスプレイのうちの一台をジッと見遣る紬。
そこに写っていたのは平沢唯、秋山澪、田井中律、琴吹紬、中野梓。放課後ティータイムの
五人である。
ただし、それは2009年、桜ヶ丘高校軽音楽部だった頃の放課後ティータイムだった。
とびっきりの。
満面の。
心の底からの。
どんな形容詞でも足りないくらいの笑顔を浮かべる五人。
やがて紬は液晶の中の五人から眼を離すと、変わり果てた三人の方へと眼を向けた。

紬「……唯ちゃんは死んだ。でもね、事はそんな単純な問題ではなくなっていたの。それは、
  まるで幾重にも複雑に絡まった大きな結び目。あらゆる人間、あらゆる組織が、あらゆる
  方向から絡み合っている。結び目を解く為には、正攻法とはかけ離れた飛躍が必要だった。
  ゴルディアスの結び目を断ち切る剣のようにね」

律「剣? どういう事だ。何が言いたい」

紬「私が振るう剣は、イーストアジア・エアラインが運航する、とある航空旅客機の起こす事故」

梓「事故……?」

紬「旅客機を操縦していた外国人機長は持病の精神疾患が原因で錯乱状態となり、他の操縦士を
  殺害した挙句、本来の飛行ルートを外れ、あの東京名所グラスタワーに突っ込んでしまうの」

澪「え……? ええっ!?」

紬「その事故は日本最悪の航空事故となり、旅客機側とグラスタワー側、そして地上にいた人達と、
  合わせて三千人以上の犠牲者を出す事になるのだけれど、私の関心はそんなところには無いわ」

律「……」

紬「私の関心はね、そのグラスタワーに何故か偶然……―― フフッ、偶然に偶然が重なって、
  今回の一連の事件や不祥事に関係したすべての人間が居合わせてしまう、という事」

梓「まさか、そんな…… う、嘘ですよね……? 大勢の罪も無い人達を殺すなんて……!
  嘘だと言ってください!」

紬「本気よ。放課後ティータイムを守る為ですもの」

律「そんな事、させてたまるかよ」

途方も無い話とはいえ、紬がやると言うのなら本当にやるのだろう。
だが幸いにも、彼女が事に及ぶ前に察知出来たのだ。
律は紬に詰め寄った。

律「言え。いつ実行に移すつもりだ? 虐殺の予定日時は!? さあ、言え!」

激しい詰問の言葉を聞くや、紬の鼻孔から小さく溜息が漏れた。

紬「いつ? 予定? ……あのね、りっちゃん。私は漫画やアニメの悪役じゃないの。誰かに
  妨害される危険がほんの僅かでもあったら、こんな重大な事をペラペラ話すと思う?」


律「何……?」

紬「35分前に実行したわ」



時は僅かに遡り――

2022年10月21日午前12時00分。
グラスタワー110階、カフェ・ムジョルニア。
不意に店内でざわめきが上がりだした。ランチタイムの賑わいとは明らかに別種なものだ。

和「何かしら……」

憂「どうしたんだろうね?」

やがて、ざわめきはすぐに悲鳴へと変化していった。
皆、眼を見開き、口を歪め、喚き、叫ぶ。中にはよろめきながら店の出入口へ急ぐ者もいた。
そればかりか、真向かいに座っていた真鍋夫妻までもが、他の者達と同じく恐怖と驚愕の
表情を顔面に貼り付けている。
そして、憂を除いた店内の全員が、一様に窓の外を凝視していた。
和も、その夫も、琴吹グループ役員も、刑事も、ルポライターも、編集者も、誰も、彼も。
憂はようやく後ろへ振り向き、ガラスの向こうへ眼を遣った。

憂「え……?」

透き通るような青空も、ジオラマのような街並みも、そこには無かった。
ただ眼に映るのは、こちらから僅かに数mの距離まで迫ったジャンボジェット機だけ。

そして、憂はすぐに何もわからなくなった。





キャビアにシガレット
礼儀作法は洗練されていて
例えようもなく素晴らしい
彼女は死の女王
火薬にゼラチン爆弾
それとレーザービーム
いつでも君の心を吹き飛ばせるのさ
――クィーン

第七章《青空の下から暗闇へ》

And I heard as it were the noise of thunder.
One of the four beasts saying come and see.
And I saw, and behold a white horse.

四匹の生き物のひとつが雷のような声で
来たれ、と言うのを聞いた
そして、私は見た
見よ、それは白き馬であった


「おい、大丈夫か? 起きれるか?」

「どうしたの!? 何が起きたの!?」

「地震か!? 爆発したのか!?」

「足が! 足があ!」

「なんかあっちこっちで爆発してるみたいだ……!」

「早く逃げよう! ここもやばいぞ!」

「でも、下手に動くよりレスキュー隊とかが来るのを待った方がいいんじゃない……?」

「おい、やばいぞ…… 向こうから煙が来てる! ここも燃えるぞ!」

「きゃああああああああ!」

「逃げろ! 早く!」


There's a man going around taking names
And he decides who to free and who to blame
Every body won't be treated quite the same
There will be a golden ladder reaching down
When the man comes around

主が降臨される 全ての人の名前を挙げながら
誰を解放し 誰を罰するかを決められるのだ
誰もが全く等しく扱われるわけではない
黄金のハシゴが天から地上へ
主が降臨される時には


「ダメだ! こっちは燃えてる! 通れないぞ!」

「非常口はどこだよ! こっちのドアはどこに行くんだ!?」

「おい、やめろ! 閉まってるドアをやたらに開けるな!」

「逃げなきゃ死んじまうだろうが! 早く逃げ―― ぎゃあああああああ!!」

「うわあああああ! 火が! 火が!」

「そいつはもう助からないよ! 逃げろ! 来た方に戻るぞ!」

「わああああ! こっちも燃えてる! やばい!」

「ちょっ、服に火が付いた! 助けて! 消してくれえ!」

「離せよ! 燃え移るだろ!」

「熱いよおおおおお! 助けてええええええええ!!」


The hairs on your arm will stand up at the terror in each
Sip and each sup will you partake of that last offered cup
Or disappear into the potter's ground
When the man comes around

恐ろしさでお前は総毛が逆立つ
最後の晩餐の時に差し出された杯を
お前は共にあずかるのか?
それとも陶器士の庭に身を投げるのか?
主が降臨される時に



「良かった! エレベーターが来た!」

「エレベーターが開くぞ! これで―― うわああああああああああ!!」

「ちょっと押さないで! やめて! きゃあああああ!!」

「押すな! 押すなって! エレベーターが無いんだよ! エレベーターが―― わあああああ!!」

「押さないでください! 開いたのにエレベーターが無いんです! 押さないで!」

「早く行けよ! 後ろが燃えてんだぞ!」

「さっさとしろっつってんだろコラ! 俺が乗れねえだろが!」

「押さないで! 押さ―― うわああああああああああ!!」

「後ろがつっかえてんだよ! どんどん乗れよ!」

「落ちる! 落ちる! わああああああああああ!!」


Hear the trumpets hear the pipers
One hundred million angels singing
Multitudes are marching to a big kettledrum

トランペットの音を聴け 角笛の音を聴け
億万の天使が歌っている
大群衆が太鼓に合わせて行進だ


「天井が崩れたぞ! こっちはもうダメだ!」

「おい、そこのアンタ! 起きるんだ! 早く逃げなきゃ!」

「きゃああああああああ!! そ、そっ、その人、下半身が無い!」

「うわあああああ!」

「天井がどんどん崩れてくるぞ! 逃げろ!」

「こっちも崩れた! 道が塞がれた!」

「もういやあああ!! 人がグチャグチャになってる! グチャグチャの人が降ってくる!」

「見るな! 下を向いてろ!」

「もうダメだ! 逃げられない!」

「お、おい、ここの天井もやばくないか……?」

「うわあああ! 崩れる!」

「ぎゃあああああああああああ!!」


Voices calling and voices crying
Some are born and some are dying
Its alpha and omegas kingdom come

呼ばわる声に 泣き叫ぶ声
生まれ来る者に 死に行く者
それこそが神の御国の到来なのだ


「おかあさん…… いたいよ……」

「誰か助けてください! 娘が死にそうなんです! 誰か助けて!」

「るっせえ! 離せコラ!」

「こんなとこに寝てんじゃねえ! 邪魔だ!」

「お願い! 私も怪我で動けないんです! 誰か娘を連れて行って!」

「早く逃げろ! 火がこっちに回って来たぞ!」

「邪魔だ! バカ野郎!」


「おかあさん…… おかあ―― ぐえっ!」

「やめて! 踏まないで! 娘を踏まないでえ! いやあああああ!」

「おい、床がやばいぞ! なんか崩れてきてるって!」

「いいから早く行けよ! もう火がすぐ後ろに来てるんだよ!」

「踏まないで…… 踏まないで……」


And the whirlwind is in the thorn trees
The virgins are all trimming their wicks
The whirlwind is in the thorn trees
It's hard for thee to kick against the pricks
When the man comes around

激しい風が茨を吹き抜ける 
乙女達は灯心の手入れをしている
激しい風が茨を吹き抜ける 
棘に逆らって伸びようとするのは難儀な話だ
主が降臨される時には


「はい! こちら現場です! 私は今、グラスタワーの前に来ております!」

「何!? 飛行機!? ミサイル!?」

「テロだ! テロ!」

「付近の方々の目撃情報によりますと、15分程前に旅客機らしき飛行物体がグラスタワーに
 突っ込んだ模様です!」

「うお、すっげー! 落ちてる奴いるぞ! 落ちまくり!」

「やっべえ! 人がパラパラ降ってるって! マジぱねえ!」

「皆さん! 指示に従ってください! すぐに避難してください! ちょっと、そこ!
 早く逃げて!」

「ご覧下さい! グラスタワーが! グラスタワーが崩れていきます!」

「やばい! やばいやばい! やばいって! 逃げろ!」

「これ以上は無理です! きゃあ! カメラさんも逃げて! 危ない!」

「うわあああああああああ!!」


And I heard a voice in the midst of the four beasts.
And I looked, and behold, a pale horse.
And it's name it said on him was Death.
And Hell followed with him...

四匹の生き物のひとつの声を聴いた時
私は見た
見よ、青白き馬であった
馬に乗りし者の名は“死”
後に地獄を従えて……



2022年10月21日午前12時35分。
琴吹紬の執務室は沈黙と緊張感に包まれていた。
紬の口から告げられた、日本史上に残るであろう大規模虐殺の決行。
梓と澪はどうしてもそれを現実とは受け止められなかった。
澪はともかくとして、唯の死から今この瞬間まで我が眼と耳を疑う体験ばかりだった梓でさえ、
紬の殺戮宣言が絵空事としか思えないのだ。

梓「とても信じられません。いくらムギ先輩でも……」

律「いや、本当の事を言っている。眼と声の調子でわかる。本当にやったんだ」

梓「そんな……」

そこへ、デスクの上の電話が穏やかな呼び出し音を奏で出した。
室内の緊張感にはまったく似つかわしくないメロディだ。
紬は三人から離れ、ゆっくりと受話器を取る。


紬「私よ。 ……そう。ええ、わかったわ。ありがとう、斎藤」

言葉少なに通話が終わり、受話器が置かれると、今度はリモコンらしきものが紬の手に握られた。
それをデスクの背後、壁一面に並べられた数十台のモニターへ向ける。
すると、すべてのモニターが光を発し、それぞれに地獄絵図を映し出した。

天を衝くが如くグラスタワーがそびえ立っていた筈の場所は、巨大な瓦礫の山に変わっている。
懸命に瓦礫を掻き分ける人。血に塗れて倒れる人。誰かを探して叫び続ける人。
旅客機がビルに突っ込み、爆発する瞬間。ビルがまるで砂の城のように崩れ落ちていく瞬間。
火災から逃れようと窓の外にへばりつく女性。力尽きて数百メートル下へと落ちていく男性。
ビルの方々で起きた爆発によって降る炎の雨。付近の建物を巻き込む倒壊の衝撃。
絶望のあまり立ち尽くす老人。真っ黒な顔で泣きじゃくる子供。

梓「ひどい……」

澪「何て事を……」

律「……」

梓は両手で顔を覆い、澪は画面から眼を離せずにいる。しかし、どちらも両眼からは大粒の涙を
こぼしていた。
律はすぐに映像から視線を外し、音も無く奥歯を噛み締めながら、サングラスの奥から
紬を睨みつけている。
そして、この凄惨極まる場面を見ず、涙を流していないのは律だけであった。
つまり、紬もモニターに眼を向け、泣いていたのだ。

紬「やったわ……」

両の拳を握り、唇は僅かに笑みが形作られている。
他の二人とは明らかに別種の、歓喜の涙だ。

紬「これで私の使命を脅かすものはすべて排除された。放課後ティータイムという伝説は永遠に
  守られたのよ。そして、次は神話という更なる高みに昇るの。私の手によって」

紬の言葉に力がこもり始め、朗々たる調子となっていく。まるで酔いしれるように。

紬「まずは書籍化。それから映像化も。あらゆる層の人間を虜にして、あらゆる媒体へのメディア
  ミックスを果たしてみせる……!」

その言葉に、梓が敢然と顔を上げた。

梓「“次”ですって!? こんな、こんな大量虐殺に手を染めておいて、逃げられるとでも思って
  いるんですか!?」

澪「そうだ! 私達が告発するぞ! お前は殺人犯だと!」

紬「……梓ちゃん、澪ちゃん」

狂気。
二人に向けられた紬の眼光を表す言葉があるとしたら、それはやはり“狂気”に他ならない。
ただし、同じく狂気に取り憑かれた律とは、多分に異なる雰囲気を醸し出している。
律の眼を冷たい青白さとするならば、紬のそれは煮えたぎる赤黒さ。
毛穴でも感じられそうな獰猛な悪意をほとばしらせながら、紬が二人の方へと近づいていく。

紬「真相のすべてを公表するという事は、同時にあなた達のスキャンダルやプライベートの恥部を
  世間に晒す事になるけど、それでもいいの?」

澪「うっ……」

梓「……」

紬は梓の横に回ると、彼女の肩に手を掛け、耳元で囁いた。

紬「一般人だって、自身の性的な問題を周囲に知られるのは、恥ずかしくって堪らないのにね。
  じゃあ、マスコミの手によって、そんな秘密を日本の全国民にばらまかれちゃう梓ちゃんは
  どうなっちゃうのかしら」

梓「なっ……!」

紬「この先ずっと、男性からも女性からも淫猥と憐憫の視線を浴び続け、恋愛や結婚とは縁の無い
  人生を送る事になる、というところね」

梓「……」ワナワナ

絶句した梓を捨て置き、今度は澪の方へ顔を向ける紬。


紬「澪ちゃんとプロデューサーさんは、何度もグラスタワーのスウィートにお泊りしていたわよね。
  彼と五藤組の関係が表沙汰になれば、警察はあなたにも疑いの眼を向けるかも」

澪「わ、私は法に触れる事なんて、何ひとつしてないぞ! 違法カジノなんて聞いた事も無かった!」

紬「世間はそう見てくれないわよ? 交際相手の男性は暴力団と深い繋がりがあった。その男性と
  違法カジノが開かれていた場所に出入りしていた。これだけで澪ちゃんには終生、ダーティな
  イメージがつきまとうわ。ご両親もお気の毒に……」

澪「そんな……」

メンタルの弱い澪を突き崩すには充分過ぎる言葉だ。
顔を歪めてうつむいてしまった澪は、先程見せた気概を最早失ってしまっていた。
だが、紬は容赦せず、二人の精神に絡めた言葉の鎖を更に締め上げる。

紬「それと…… グラスタワーの黒い霧を晴らした事によって起こる、政財界や芸能界の大混乱。
  あなた達の告発によって、何人の大物が社会的な打撃を受け、何人の大物があなた達に恨みを
  抱くかしら。平和な暮らしなんて望むべくも無いわね」

梓「……」

澪「……」

二人は言葉無く、顔面を蒼白にして立ち尽くしている。
口を開けば、声ではなく、胃の内容物が飛び出してきそうだ。
重苦しく息苦しい空気がこの場を支配している。
不意に、紬は声の調子を変えて、こう切り出した。

紬「ねえ、考えてもみて……」

両眼からは赤黒く煮えたぎる狂気も消えている。

紬「可愛くて、面白くて、元気いっぱいで、歌もギターも上手で、音楽の才能に溢れていた、
  唯ちゃん」

緩やかな足取りで、律と澪の背後を歩く。

紬「亡くなった今でも、ファンの心の中にはそんな彼女が住んでいるの。悪質なコメディアン
  なんかじゃない。ファンの皆も、私達も大好きだった頃の唯ちゃんが」

そして、二人の眼前に立つ。
その顔には、リゾートハウスに踏み込んだ三人を迎えた時のような、にこやかな笑みが
浮かんでいた。

紬「あなた達が口を閉ざしてさえいれば、すべては穢れの無いままなの。唯ちゃんは天使のまま。
  放課後ティータイムは伝説のまま。そして、あなた達はあなた達のまま」

澪「唯……」

何かに打たれたようにハッと顔を上げる澪であったが、それも束の間、再びうつむいて
口を閉ざす。

梓「……」

梓は蒼白な顔のまま無言を通しており、律も相変わらず何も話そうとしない。
音の無い部屋。その中で、四人の放課後ティータイムは微動だにしていなかった。
動くものと言えば、物言わぬ無数のモニターに映し出された、この世の地獄。
それから、永遠に続くかと思われた長い長い時間を経て、ようやく梓が絞り出すように
声を漏らした。

梓「……わかりました。秘密を守ると、約束します」

梓の言葉に勇気づけられたように、澪が顔を上げて後に続いた。

澪「……肯定も共感もしたくない。賞賛なんか出来る訳が無い。それどころか、非難されなければ
  いけないんだ」

そこまで言うと、伏し目がちとなり、やや声のトーンが落ちていった。
大切な親友。音楽の神に愛されたミュージシャン。私の心を乱す悪魔。放課後ティータイムを
売った裏切りのコメディアン。誰よりも愛し、誰よりも憎んだ、あの人。
ああ、今、唯に会いたい。会って話をしたい。

澪「でも、唯の事だけは、理解出来る……」

律「笑わせるな」

突如、律が長い沈黙を破り、吐き捨てるように言った。
そのまま踵を返すと、部屋のドアへ向かって歩き出す。
澪は慌てて後を追い、律の前に立ち塞がった。


澪「ど、どこに行くんだよ」

律「世間に真相を明かす。唯の死の、すべての真相を」

澪「ムギの話を聞いてなかったのか? もう、そんな単純な問題じゃなくなってるんだよ」

律「自分の所業を闇に葬れる大義名分が出来て、ホッとしたか?」

澪「ムギも言ってたろ! 唯を、皆が好きだった唯のままで逝かせてやるには、これしか方法が
  無いんだ!」

律「フン…… 今更、人間性に目覚めたのか? 都合のいいこった。最初から唯と、いや、
  唯に映った自分自身と向き合っていれば、こんな事にはならなかったのにな」

澪「……!」

律の言葉が澪の胸に突き刺さり、それと同時に涙がポロポロとこぼれ落ちた。
自分でも薄々は気づいていた。いや、はっきりと自覚していたのに顔を背け続けてきた。
すべては手遅れだ。手遅れになるべく、時を過ごしてきたのだ。

澪「ダメなんだよ、律。唯はもうダメなんだ…… 私とムギが、唯を……」

そこへ、梓が割って入った。
止めなければならない。このままでは、ここにいる四人が共倒れになるだけだ。

梓「落ち着いてください、律先輩。ここは冷静にならないと。真実を公表すれば、ムギ先輩以外の
  有力者達が一斉に私達を抹殺しようとしてくるんですよ」

律「……私は唯と約束したんだ。血塗れの唯と。必ず真相を暴くって」

もう律は、梓を見てはいない。澪も。紬すらも見てはいない。
見えているのは、見る事が出来るのは、唯の顔らしき真っ赤なロールシャッハ・カードだけ。

律「だから絶対に妥協しない。たとえ、偉物共に殺されようとも。たとえ、放課後ティータイムが
  壊れようとも。たとえ――」

強く握り締められた律の拳が僅かに震えていた。

律「――唯が、穢れようとも」

紬「行かせる訳にはいかないのよ。りっちゃん」チャッ

声の方へ澪と梓が顔を向けると、そこには口径の小さい旧式の回転式拳銃を構えた紬の姿があった。
銃口はこちらへ、厳密に言うと律の方へ向いている。

澪「お、おい、ムギ、銃なんて……」

梓「ムギ先輩、やめてください……!」

律「そうか……」

一言呟き、律が振り向いた。

紬「私の力は、どんな人間も変えられる、どんな人間も操れる、と思っていたわ」

紬の手でゆっくりと拳銃の撃鉄が起こされると、梓と澪は反射的に律から飛び退いた。

紬「でも、唯ちゃんと、りっちゃんは……」

律「ムギの創り上げた放課後ティータイムを守らなきゃな。それには、メンバーの死体が
  もうひとつ必要なんだろ?」

左手がニット帽を掴み、頭から乱暴に取り去った。
バサリと顔へ落ちる皮脂で汚れた前髪。
続いて右手がサングラスを外す。
そこに狂気に光る眼は無かった。あるのはただ溢れそうな程に涙を湛えた弱々しい瞳。

律「どうした? 何をためらってる……」

紬「……」

律「さあ、やれよ……!」

震える声。隙あらば漏れ出ようとする嗚咽。
一筋の涙が律の頬を伝い、流れ、落ちた。

紬「……」


澪「ダメだ、ムギ……」

梓「お願い、やめて……」

律「殺せェ!!」

絶叫と同時に銃声が部屋いっぱいに響き渡った。
銃口からは細く硝煙が昇り、律が床へ崩れ落ちる。

梓「いやああああああああああ!!」

梓が悲鳴を上げながら駆け寄り、すぐさま抱き起したが、既に律は事切れていた。
いまだ涙が浮かぶ両眼は薄く開けられたまま虚空を見上げ、胸からは絶え間無く血が
溢れ続けている。
梓は物言わぬ律を強く抱き締めた。

梓「ああ…… 律先輩…… 律せんぱぁい……」ギュッ

澪「律、ごめん…… ごめんね……」

澪もしゃがみ込み、律の手を握っている。
梓はしばらく顔を律の髪へ押しつけて泣きじゃくっていたが、急に弾かれたように顔を上げ、
憤怒の表情を紬の方へ向けた。
そして、遺体を床に寝かせると、まるで食堂での律が乗り移ったかの如く、紬に突進した。

梓「このォ!」バシッ

少しの手加減も無く、平手で紬の頬を打ち据える。

梓「この! この!」バシッ バシッ

一発では終わらせない。梓の両の掌が続けざまに何度も紬の顔へと襲いかかる。
しかし、どういう訳か、紬は何の抵抗もしようとしない。ただ、打たれるに任せるだけだ。
やがて、紬の両頬が赤く腫れ上がり、口の端に血が滲み出した頃、梓は彼女の胸倉を掴み上げた。

梓「放課後ティータイムを守ったですって!? アンタは放課後ティータイムを歪めただけよ!!」

罵倒の言葉を浴びても、紬は無表情のまま何の言葉も発しない。
上体を強く揺さぶられても、紬は抵抗の様子を見せない。

梓「何とか言ったらどうなの!?」

激怒する梓の勢いは、紬の背中をモニター群へと強く叩きつけた。
それでも紬は顔を歪めようともしない。
そのうち、胸倉を掴む力も、上体を揺さぶろうとする力も、徐々にその強さを無くしていった。
怒りに勝る悲しみが、こみ上げる涙が、梓の動作を封じ込めていくようだ。
終いには、梓は紬から手を離し、弱々しくその場へ座り込んでしまった。

梓「何とか…… 言いなさいよ……」

紬「……最後には私が正しかったと証明されるわ」

見下ろす事無く、梓にも他の誰にも言うでもなく、小さな声で紬が呟く。

澪「最後……」

抜け殻のような面持ちの澪は、律の冷たくなりつつある手を握ったまま、律の赤みを失いつつある
顔を見つめたまま、やはり誰に言うでもなく、小さな声で呟いた。

澪「私達の“最期”はどんな形でやってくるんだろうな…… こんな事をしてしまった、
  私達の最期は……」

答える者は誰もいない。
ただ、梓が身体を震わせ、嗚咽を漏らすだけ。

梓「神様、お願いです。どうか、時間をもう一度、あの頃に戻してください…… 楽しかった、
  あの頃に……!」

唯の死。すったもんだの入部。悪魔のような紬。部室でのティータイム。屈した自分達。
夏休みの合宿。律の死。学園祭ライブ。
思い出と感情の爆発が、梓に天井を仰がせ、喉も破れんばかりの叫びを上げさせた。

梓「誰か時計を戻して!!」




時は流れ――

2023年10月29日午後2時9分。
群馬県某所にあるローカルコンビニエンスストア“ニューフロンティア”。
二人の若者が買い物を終え、自動ドアから出てくるところだ。

店員「ありがとうございましたー」

若者1「んぐんぐ、アメリカンドッグうめー。雑誌、何買ったの?」

若者2「アワーズ」

若者1「なあなあ、さっきのコンビニの店員さ、あずにゃんに似てなかったか? 名札も
    “中野”だったし、もしかして本人じゃね? 」

若者2「あずにゃん……? ああ、放課後ティータイムの中野梓か。えー、似てたかぁ?

    髪短かったし、メガネだったし、結構デブだったろ。大体、なんで中野梓がこんな
    とこでコンビニの店員やってんだよ」

若者1「いやー、似てたと思うんだけどな。この俺が見間違うワケ無いし」

若者2「つか、お前まだ放課後ティータイムとか言ってんの? 何年前の話だよ。あんなの
    もうオワコンだって。やっぱ今、時代は渋谷凛だよ。しぶりんテラカワユスw」

若者1「いやいや、まだ終わらんよ。放課後ティータイムは神話だからな」

若者2「放課後ティータイムは神話www 名言キタコレwww」

若者1「今季からアニメも始まったんだぞ。『けいおん!』ってタイトルで、五人の高校時代の話でさ。
    見ろよ、このTシャツ。先行発売だぜ」

若者2「月9ドラマとかじゃなくてアニメwww しかも深夜www 放課後ティータイムさん
    マジ神話www んで、その自慢のTシャツにケチャップ垂れてんですけどwwwww」

若者1「ぬおおおおお!! “ん”のとこがあああああ!!」

若者2「wwwwwwwwww」

若者1「あ~あ……」

若者2「帰ったらすぐ水に浸けときゃ取れるってw あ、そうだ。放課後ティータイムって言えばさ」

若者1「なんだよ」

若者2「田井中律っていたろ。ドラムの。死んじゃったんだっけ」

若者1「ああ、あれからもう、一年経つんだ…… 嫌な年だったな。唯ちゃんが変態ストーカーに

    殺されたかと思ったら、それから何日もしないうちに10.21のグラスタワーでりっちゃんも
    亡くなっちゃうんだもん」

若者2「そうそう、その田井中。そいつのさ」

若者1「あれからすぐに澪ちゃんは活動拠点をアメリカに移しちゃうし、あずにゃんに至っちゃ

    インディーズの活動もやめちゃって完全に姿消しちゃったし。ムギちゃんはよく見るけど、
    何だか雰囲気変わっちゃったしなー。はぁ……」

若者2「聞けってw その田井中が書いたブログっつって、VIPの糞スレにリンク先貼られてたから、
    飛んでみたんだけどさ。なんか気味悪いんだよね。書いてる内容もおかしいし」

若者1「マジで? どれ、見してみ」

若者2「ちょっと待てって。今、スマホ出すから。……ほら、これ」

若者1「えーと、なになに…… 『日誌 田井中律、記 2022年10月12日――』」




律『昨夜、東京で平沢唯が死んだ』





青空の下から暗闇へ
与えられるものには代償が付きまとう
行けば二度とは戻れない
青空より暗闇を選ぶのならば
――ニール・ヤング





ThE eND

以上となります。

初めての方は、気分の悪いSSを読ませてしまい申し訳ありません。
続きを気にしてくださっていた方は、お待たせしてしまい申し訳ありません。

では、またいつか。

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2015年11月03日 (火) 04:16:21   ID: hyRlzItb

飛行機がタワーにぶつかって大混乱のシーンはウォッチメンの方に元ネタあったっけ?

ゼロからあの描写を完成させたんなら、すごい
数年ほど前の作品みたいだけど、作者が日々を楽しんでいることを
祈ってるよ

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