青年「藤の迷宮秘密箱」 (46)
青年「それじゃ、僕ちょっと用事があるから」
友「ん? おお分かった。気を付けてな」
青年「うん。ありがとう」
【えにしや】
青年(僕はこの前、町の片隅で偶然この骨董品屋を見つけた)
青年(ずっと心が惹かれていたんだ)
青年(今までは入る勇気が無かったけれど、今日は違う)
青年(特に何か買う訳でも無いくせに、僕はどきどきしながらガラスの扉を開けた)
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1610631294
青年「……」カチャ
店主「いらっしゃいませ」ニコ
青年「お邪魔します」ペコリ
青年(店主……なのだろうか。若い女の人だ)
青年(さらっとした綺麗な黒髪に、丸い眼鏡をかけている)
青年(柔らかい笑顔は、何だか清潔な印象を与える)
青年「おぉ……!」
青年(店内は、多種多様な骨董品で溢れ返っている)
青年(でも、ごちゃごちゃとした嫌な感覚は無いな)
青年(まるで魚群の一部になったかのような、妙な落ち着きを感じる)
青年(高そうな壺に食器、何かの置物に……甲冑⁉ さすがにレプリカだよな)
青年(どれもこれも新鮮だ。見ているだけでも楽しい)
店主「外は寒かったでしょう、良かったらサービスですので、どうぞ」
青年「あ、ありがとうございます」
青年(熱いほうじ茶か。これはありがたい)ズズ
青年「……うまっ⁉」
店主「ありがとうございます」ニコ
青年(驚いた。こんなに良い味のほうじ茶は初めてだ!)
青年(香り高い茶葉の香気が、身体を内側から浄化していくみたいだ……うまい!)
店主「昔お茶の勉強をした事がありまして。自家焙煎で淹れているんですよ」
青年「だからこんなに美味しいんですね。何だか健康になったような気がします」
店主「何かお気に召した商品は見つかりましたか?」
青年「いやあ、どれも魅力的で……見てるだけで圧倒されますね」
店主「これらの商品は、全てが特殊な縁(えにし)を持った、一点限りのものです」
青年「特殊な、縁……」
青年(おや、あの箱は)チラ
店主「ああ、それは「秘密箱」ですね」
青年「秘密箱……小物入れのような道具ですか?」
店主「ええ。面白いのが……ほら」スッ
青年(! 箱の面の一部が動いた!)
店主「このように、面の一部、さらには面全体などが細かく可動するようになっています」
店主「これらを正しい手順で動かす事によって、中に仕舞っている物を取り出せます」
店主「昔は泥棒対策に宝石などを入れていた……所謂からくり箱ですね」
青年「へえ……」
青年(和風の細工物は、何だか親しみと温かみを感じる)
青年(藤の模様が刻み込まれている。何だろう……僕はこれを探しに来たような気がする)
青年「中には何が入っているんですか?」
店主「私も分かりません。誰も開けた事が無いのですよ」
青年「何だか……よく分からないんですが、魅力を感じますね。でもさすがになぁ」
店主「千五百円で構いませんよ」ニコ
青年「えっ……えっ⁉ 十分の一の値段じゃないですか!」
青年(こ、怖い! 何か裏があるだろう絶対!)
店主「先ほども申し上げた通り、店内の商品は特殊な縁を宿しています」
店主「ですので、私は正しい方の元にお渡し出来れば、それで十分なのですよ」
店主「この店も、貯金を使って趣味でやっていますから」
青年「ええ……」
青年(特殊な縁って何だ……?)
青年(あまりにも怪しいが、嘘はついていないようだ)
店主「正直、無料で差し上げたいのですが、それは色々と問題がありますので……」
青年「でしょうね……僕もタダで渡されたら逆に嫌ですし」
店主「特別割引きという事で、いかがですか?」
青年「参ったなあ」
青年(いわくつきの商品じゃないだろうな、買った人間は死ぬとか)
青年(でも……やっぱり妙に心惹かれるな。うん)
青年「買います!」
店主「良かった。大切にしてあげて下さいね」ニコ
青年「はい」
青年(か、買ってしまった……まさか実際に買い物をするとは)
青年(でもまぁ、これも経験だよな)
かち かちかち かち
青年「うーん」
青年(さすがに複雑だ。簡単に開けられそうにない)
青年(でも何だろう。全く飽きる事が無い)
青年「中に何が入っているんだろう」
青年(動かすと何かがぶつかる音がする。あまり重い物じゃなさそうだ)
青年(でも、こうして動かしているだけでも案外楽しいな)
青年(もし開いたら、何を入れてみようか)
かちかちかち かち かち
……かちゃっ。
青年「えっ、おおおお!! 開いた!?」
青年(マジか! 開いてしまったぞ、中には何が)
青年「……箱? あ、これは」
青年(細いお香が入っている。一体どれだけ前の物なんだろう)
青年(しかし、良い香りだ。花の甘い香りが箱そのものにも染みついている)
青年「どれどれ、一つ試してみよう」
青年(ご親切にも、お香を刺す小さな台座が入っている。さっそく僕はお香に火を灯す)
……ボッ
ゆら……
青年「うわ、すごいな……本当にお香か?」
青年(お香と呼ぶにはあまりにも瑞々しい香りだ。花を絞った雫のような)
青年(心地良い……眠くなってきた)
青年「……」
青年「はっ⁉」ガバ
青年(こ、ここは……?)
青年(藤棚がずうっと続いている……夢なのか? これは)
青年(しかし、こんな美しい景色は初めてだ)
青年(花の空に圧倒される……まるで巨大な藤の滝を見上げているようだ)
青年(道の左右は藤棚で囲まれており、散った藤の絨毯がまっすぐ続いている)
青年(奥には、何があるのだろう)
青年「……行ってみよう」
青年(甘い香りに包まれながら、僕はその道を歩き出した)
青年(藤の道を歩いていると、何だか懐かしい記憶が蘇る)
青年(桜に囲まれた一本道を歩くのが好きだった)
青年(昔から美しいものが好きだった。芸術にも興味があった)
青年(だけど、結局何もせずに今まで生きてしまった)
青年(純粋だった昔の僕が今の僕を見たら、何て言うんだろう)
青年(……)
青年(一人になると、よくこんな事を考えてしまう)
青年(焦燥感や劣等感は、何もしていなくても溢れてくる)
青年(どうして憂いは消えないのだろう。世界はこんなにも綺麗なのに)
青年「……お」
青年(奥が見えてきた。あれは……)
青年(奥には開けた小さな空間があった。藤の広場と呼ぶべきか)
青年(中央には、曲がりくねった大きな藤の木が鎮座している)
青年(藤の木の前には、木製の古いベンチが一つ)
青年(藤を眺めることが出来るように設置されているのかな)
青年「うわ、すごいな……樹齢何年なんだろう」
青年(僕はそっと木肌に触れてみる)
どくん
青年「……うわっ⁉」バッ
青年(い、生きてる⁉)
青年(いや、木なんだからそりゃ生きてるだろうけど!)
青年(あ……温かい!!)
青年(何で木がこんなにも温かいんだ⁉)
「初めまして。良ければお話しませんか?」
青年「! えっ、ああっ⁉」ビク
青年(驚きすぎて脳が追い付かない!)
青年(いつの間にか、ベンチに女性が腰かけている!)
青年(一瞬で現れた⁉ いや、ずっと前から居たような気もする⁉)
女「驚くのも無理はありません。少し落ち着きましょう」
青年(この着物の女性は一体……)
青年(少し時間が経過した。僕はほんの少し落ち着いたようだ)
青年(美しい女性だ。これほどまでに整った顔は見た事が無い)
青年(なのに、よく分からない)
青年(顔を見れば見るほど、周囲の藤の花に「紛れて」しまって……見えないんだ)
青年(だまし絵でも見ているような気分だ。分かるのに分からない)
青年(奇妙な感覚だ)
女「さて……私は“藤”です。今貴方が居るのは、私の世界です」
青年「……貴女は一体何者なんですか?」
女「付喪神のようなものと思って下さい。大した存在ではありませんから」ニコ
女「随分とお疲れの様子です。どうぞこちらへ」
青年「あ、はい」
女「貴方は、自分の生き方について悩んでいるようですね」
青年「――!」
青年(唐突に核心を突かれて、思わず息が止まる)
青年(確かにその通りだ。僕は生き方についてずっと悩んでいた)
青年(だが、それを言い当てるなんて……)
青年(僕の顔は、そんなに疲れていたのだろうか)
青年「確かに、その通りです。どうして分かったのですか?」
女「私は人の「色」を見通す力があります。貴方は憂色をしていますから」
青年「憂色……」
青年(憂いに色があるのなら、それはどんな色合いをしているんだろう)
女「何か抱えているものがあれば、私がお聞きしますよ」
青年「僕は……」
青年「……分からないんです。上手な生き方が」
青年「何かに対して、必死に努力をしているし、真面目に取り組んでいる」
青年「なのに、上手くいかないんです」
青年「上手くいかないのは、努力の質か量のせい。そう思って必死にやって」
青年「どれだけあがいても、人に誇れるような結果が出ないんです」
青年(そうだ。僕はずっと、自分に対して自信を持つことが出来なかった)
青年(どうにも要領が悪い。周りの皆が全員上手くやっていけているように見えるんだ)
青年(このままで良いのか分からない。ずっと漠然としたもやもやが胸で渦巻いている)
青年「何がとは、はっきり分からないんですけど……苦しいんです」
青年「このままで良いのか、自分の行く末が、全く想像出来ないんです」
青年(僕は、初対面の女性に何を相談しているんだろう)
青年(けれど、この女性には、人にそうさせる穏やかな何かがあった)
女「……随分と辛かったのですね」
女「きっと貴方は、誰にも言えずに今まで苦しみ続けてきたのでしょう」
女「けれど、貴方は「大丈夫」ですよ。きっと上手くいきます」
女「どうか悲しい顔をしないで。心優しい貴方なら、いつかきっと報われます」
女「ただ生きていて下さい。それだけで良いんです」
女「貴方の苦しみが、少しでも和らぎますように」
――ふわっ
青年「……あ」
青年(憑き物が、ふっと消える感覚があった)
青年(しつこく残る冬の寒気が、暖かい春風で一気に吹き飛ばされてしまったように)
青年(よくよく聞けば無責任な励ましだ。けれど)
青年(この人の喉から通ってきた「大丈夫」は、本当にそうなんだろうという、妙な説得力があった)
青年(言葉は不思議だ)
青年(初対面の女性のたった一言二言で、僕の心はすうっと救われたんだ)
青年「……ありがとう、ございます」
青年(僕は“藤”の彼女を、先生と呼ぶ事にした)
青年(これが、先生との出会いだった)
青年(どうやら、寝る前に秘密箱のお香を焚くと、藤の世界に行けるらしい)
青年(あの香りは非常に強いリラックス効果があるようだ。目覚めの軽さが違う)
青年(だが、僕はあまりあちらへ行かないようにしていた)
青年(お香には限りがある。きっとすぐに使い切ってしまう)
青年(だから、出来るだけ使わないようにはしている)
青年(先生との関係は、最初から終わりが定められている)
青年(僕たちは、限られた時間の中に居る)
青年(でも、それは誰だってそうだよな)
青年(人との関係なんて、いつ何がきっかけで消えてしまうか分からないんだから)
女「お元気そうですね。またお話出来て嬉しいです」
青年「先生もお元気そうで。相変わらずここは穏やかですね」
青年(藤の世界には、僕たち以外の音が一切存在しない)
青年(車のエンジン音も、どうでもいい誰かの話し声も、カラスの鳴き声も)
青年(ただ、たまに優しい風が花を揺らすだけだ)
青年(この世界はあまりにも居心地が良い)
青年(それはきっと、先生の放つ空気によるものなんだろうな)
女「最近、何か良いことはありましたか?」
青年「! 全然です。毎日が退屈ですよ……せめてサークルにでも入ればよかったな」
女「なるほど。では、休みの日はどうやって過ごしているのですか?」
青年「いやあ、特には……散歩はよくしますが」
女「それは良い趣味だと思いますよ。散歩は好きですか?」
青年「はい。日常の色んな景色を見るのが楽しくて」
女「なら、絵を描いてみてはいかがでしょう? きっと向いていると思いますよ」
青年「絵、絵かあ。全くの初心者ですけれど」
青年(誰かに「向いている」なんて言われるのは久しぶりだ。何だか照れくさい)
女「皆、最初は初心者ですよ」
青年「ううん……やってみようかな」
女「良い作品が出来たら、何を描いたのか教えて下さいね」
青年「はい。あまり期待しないで下さいよ」
女「さて、どうでしょう? ふふ」
青年「参ったなあ」
青年(「参った」が僕の口癖だ。いつも参ってしまっている)
青年(けれど、今は口角が自然と上がってしまう)
青年(先生と居ると、何気ない会話でも本当に楽しいんだ)
♪~
友「……? 誰か歌ってる?」
青年「そうだね。あ、あそこじゃない?」
友「お、ギター弾いてる」
青年(軽音楽部の人かな)
「おぉ、やってるな」
「あれって確か自作の曲らしいよ。噂で聞いた」
「すごいよねー。私だったら恥ずかしくて出来ないけど」
友「熱心だなあ。歌上手いのって羨ましいわ」
青年「そうだね」
青年(通り過ぎる人に笑われながらも、彼は歌い続ける)
青年(それがあまりにも眩しい。僕には出来やしない事だ)
青年(きっと彼は、心の底から音楽を愛しているのだろう)
青年(あれほどまでに夢中になれる物を、僕は持ち合わせていない)
青年(人に笑われても平気でいれるくらいの、自分の背骨となる物が欲しい)
青年(でもまあ、いつか手に入るよな。人生は長いんだから)
女「猪鹿蝶。私の勝ちです」
青年「あ~! 駄目だー! 勝てない!」ガリガリ
女「まだまだ駆け引きが甘いですね」
青年(かれこれ五回目の敗北だ。花札って難しいんだな)
女「そろそろ休憩しましょうか」
青年「そうさせて貰います……頭が痛い」
青年(この花札は、先生の力で作られたものだ)
青年(先生が手をかざす。並べられていた花札が、ぱっと藤の花に戻る)
女「最初に比べると、随分上達しましたよ」
青年「本当ですか? いつか先生を抜いてやりますからね」
女「ええ、楽しみにしていますよ」
青年(口ではこう言っているが、この人には一生勝てないだろうな)
女「花札以外にも何か作れたら良いのですけれど」
青年「いえ、お気遣い無く。僕は十分楽しいですよ」
女「お世辞でも、そう言って頂けると嬉しいものです」
青年「本心ですって! そうだ、もう一勝負お願いします!」
女「はい。受けて立ちましょう」
青年(勢いに任せて言ってしまった。せめて一勝はしてやるぞ……!)
青年「ふぅ、随分と日が沈むのも早くなってきた」
青年(夕飯の買い出し帰りに、この坂道から見える夕日が好きだ)
青年(静かに燃える空は、何だか一日が終わったんだなと感じさせる)
青年(今日の夕飯は炊き込みご飯だ。炊き立て熱々を食べるんだ)
青年(味噌汁よりは豚汁がいいな)
青年「ん」
少年「はっ、はっ」
青年「……」
スッ
青年(トレーニングだろうか。坂道を駆け上っていく少年と、僕はすれ違う)
青年(……何だか、とても情けない、やるせない気持ちになった)
青年(まるで、未来に向かって懸命に進む彼と)
青年(漠然とのんびり下っていく、何も無い自分との交差点のようで)
青年(僕は何をしているんだろう?)
青年(先生から無料の安心を貰って、それだけで満足しているんだ)
青年(「きっと上手くいく」……そう思っているだけで、特に具体的な努力をしていない)
青年(ただ呆けて生きているだけじゃないか)
青年(きっとこのままでは、僕は何も変われない)
青年(結局、何かを得るには、何かをしないと何も生まれないんだ)グッ
青年「ああ、駄目だ――このままじゃ駄目だ!」
青年(そうだ)
青年(僕は変わらなければ)
青年(空、みかん、歯ブラシ、靴、看板)
青年(手当たり次第に、描き殴るように作品を作り続けた)
青年(それと同時に、身体を鍛え始めた。器具を使わない自重トレーニングだ)
青年(先生との時間は限られているんだ。それは、僕の人生も同じだ)
青年(時間なんて、使わなければ無限に感じるけど、本当は一瞬の間しか無い)
青年(全てが限られた世界の中で、生きていくしかないんだ)
青年(ほんの少しでも成長したい。前に進みたい)
青年(何にも無いような人間だけど)
青年(せめて、先生に誇れる自分でありたい)
青年(僕を救ってくれたあの人に答える為に)
青年(人として、もっと強くなりたいんだ)
女「以前と比べて、何だか力強くなったような気がします」
青年「そうですか? 少し太ったかな」
女「いいえ……必死に努力をされているんですね」
青年「うっ……お見通しですか。参ったなあ」
女「恥ずかしがらないでも良いのですよ? 立派だと思います」
青年「いやあ、まだまだですよ」
女「私も見習わなくてはいけませんね」
青年「! いやいやそんな恐れ多い! 勘弁して下さい!」
女「そこまで必死にならなくてもよろしいのに……」
青年「いやほんとに。そんな人間じゃないですから」
青年(内心ドキドキしている。僕はそんな立派な人間じゃない)
青年「あ! そうだ、この前面白い事がありまして! 超絶腹がよじれる愉快な話が!!」
女「ええ」クス
青年「肉屋のコロッケって、やたらと旨いよね」
友「分かる。揚げたてって言われるとつい買っちゃうよな」
青年「あ、向こうで腕時計売ってるよ。欲しいって言ってなかったっけ」
友「お、そうなんだよ……は⁉ やっす!」
友「行こうぜ。アホくさ」
青年「ああ、偽物だったのか」
友「多分な。あの時計があんなに安い訳が無い……ったく」
青年「残念だったね。本物だったらラッキーだったのに」
友「ほらよく言うじゃん? うまい話には裏があるってさ。傍から見てりゃ分かるけど」
友「案外自分の内側に入られたら、なかなか自分じゃ気付けねえんだよな」
青年「……!!」
友「? どうした? 顔色悪いぞ」
青年「いや、何でも……」
女「体調が優れないようですね。大丈夫ですか?」
青年「ええ、まあ」
青年(……お香も、残り一本になってしまった)
青年(この気持ちを、どう表現すれば良いのか分からない)
青年(寂しい、焦り、切ない、侘しい)
青年(とにかく、別れが怖いんだ)
青年(けれど、それとは別に……)
青年(その感情は心のどこかに、確かにある。だけど認めるわけにはいかないんだ)
女「……」
女「少し、話をしましょうか」
青年「!」
青年(この藤の世界は、正直よく分からない)
青年(先生の事もだ。付喪神のようなもの、とは言われたけれど)
青年(それ以外の情報は、僕は何も知らない)
青年(きっと、無意識の内に聞くのを避けていたんだ)
青年(それは……きっと、恐れていたからだ)
青年(「自分の尊敬する人物像」を勝手に作って、それが壊れるのが嫌だったんだ)
青年(違和感はあったのに、僕は彼女を都合良く利用していた)
青年(何で尊敬する人すら、自己保身の踏み台にしてしまうんだろう)
青年(自己嫌悪で胸が気持ち悪くなる)
青年(……とにかく、今は話を聞こう)
女「あの秘密箱は、百年以上前に作られました」
青年「ええ」
女「付喪神は「九十九神」とも呼ばれます」
女「九十九とは、長い時間や様々な種類を象徴します」
青年(何だろう……声のトーンが変わった?)
女「道具は百年経つと化ける、と言う言葉を聞いた事はありますか?」
青年「はい、確か悪さをするように……」ハッ
女「はい。ですが、大事に扱われた道具は人々を救う神になるとも言われています」
青年「ああ。じゃあ――」
女「そして、私は買われた数日後に捨てられました」
青年「……!!」
女「正確には物置の肥やしにされていました。使わずに、ずっとずっと」
女「買った事すら、もう忘れられていたんでしょうね」
女「そうして……最後に貴方の元へたどり着きました」
女「この「私」が形成されたのは、つい最近の事です」
女「花が何故甘い香りを放つか知っていますか? 都合の良い虫を呼び寄せる為です」
女「私は大した存在ではありません。人をこの世界に引きずり込む力はありません」
女「なので、渾身の力を使ってあのお香を作りました。虫が無意識にこちらへ来るように」
青年「……そんな」
女「分かりますか? 貴方は私にとって、都合の良い「虫」なのですよ」
女「人間への復讐をする為だけに、貴方が望む言葉をわざとかけ続けていました」
青年「……う……うあぁ……!」ボロ
女「ですが、貴方はあまりにも下らない。大した努力もせずに、頑張っている顔をする」
女「まさか、殺すに値しない人間が居るとは」
女「貴方に費やした時間、全てが無意味なものでした」
女「なので、これで終わりに……しましょう」
青年「――!」ハッ
女「さようなら、塵虫」
ブワッ!
青年(! 藤の花吹雪で……前が……!)
「二度と、来ないで下さいね」
青年「!」ハッ
青年「はっ……はっ……」
青年(今のは……夢じゃない……いつもの世界だった……つまり)
青年(先生にとって僕は、ただの塵虫にすぎなかった)
青年「ああ、ああ」
青年(あまりのショックに震えが止まらない)
青年(上手く、呼吸が、出来ない)
青年(僕は一体、何のために)
青年(僕は)
青年(僕は……!!)ギリ
青年「こんなもの……!!」ガシ
青年「こんな……」ハッ
『良かった。大切にしてあげて下さいね』
青年「……」
青年「……それは、駄目、だよなあ……」スッ
青年(心臓が内側で暴れ狂っている)
青年(後頭部の内側に、鈍い釘が刺さっているような感覚がある)
青年(もう何も考えられない。何も考えたくない)
青年(もう、良いんだ。全部忘れて眠ってしまおう)
青年(全部、全部が無駄だったんだからさ)
青年「……あはは、はは……」
友「大丈夫かよ、最近連絡取れなかったけど」
青年「ああごめんね。体調壊しててさ」
友「それでも、お前は急に連絡絶つタイプじゃないだろ……」
青年「……」
友「まぁ、人に言い辛い事の一つや二つくらい、誰だってあるよなあ」
青年「ごめんね」
友「……ラーメン食べに行こうぜ。奢るよ」
青年「え、いいの?」
友「おう」ニッ
青年(……どうすれば良いんだろう)
青年(何もする気が起きないな)
青年(あ、ご飯炊かないと)
青年(……いいや、今は)
青年(最近、絵も筋トレもしてないな)
青年(このまま、崩れたままなのかな。僕は)
青年(親しい人であればあるほど、言葉のナイフはより鋭くなっていく)
青年(心の傷は、いつまでも新鮮なままだ)
青年(しんどいな)
青年(……)
青年(随分と眠っていたようだ)
青年(目が冴えてしまったので、僕はベランダへ向かう)
青年「……寒い」
青年(月が出ている。僕は何もせず、ただ月を見る)
青年(満月の光は落ち着くんだ)
青年(……先生は、今どうしているのかな)
青年(あの時、彼女は……)
青年(……)
【えにしや】
ガチャ
店主「あら、お久しぶりです」
青年「どうも。お聞きしたい事があります」
店主「……あちらの席で話しましょうか」
青年「貴女は、どこまで知ってたんですか?」
店主「あの秘密箱が、人に恨みを持っている事……ですか?」
青年「っ……そこまで分かってるなら、何で!」
店主「縁で決まっているからです」
青年「は!?」
店主「あの秘密箱を救えるのは、貴方しか居ません。だからこそ、貴方に渡しました」
青年「……救うって、僕はもう」
青年(全てを見透かされている。この人と会うと毎回そう思わされる)
青年(この人は、きっと全てが分かっているんだろう)
青年(僕が、どうすべきかも)
店主「何があったのかは知りませんが、答えはもうお持ちのはずですよ?」
青年「……何で分かるんですか」
店主「――縁です」ニコ
青年「そう言うと思いましたよ……」ハァ
青年(行こう。先生の所へ)
青年(でも、それは今じゃ無いよな)
青年(結局僕は中途半端だった。だからあんな顔をさせてしまった)
青年(会う前に、きちんと自分のやるべき事を済ませよう)
青年(久しぶりに手に取った筆は、以前よりもしっくりくる)
青年(絵のコツを掴む為に、手当たり次第描いてたけど)
青年(描きたいものは初めから決まっていた)
青年(ずっと前から、描きたかったんだ)
青年「さて、何日かかるかな」スッ
青年「……完成だ」
青年(絵を描く事のみに、全てを向けていた)
青年(ここ数日、ろくに食事をしたかすら覚えていない)
青年(悪くない出来だ。我ながら凄い作品になった)
青年(顔が見えなかったのは、最初は彼女が心の壁を作っていたからかもしれない)
青年(けれど、途中からは、僕自身が彼女を見ようとしていなかったんだ)
青年(でも、ようやく完全に見る事が出来た)
青年(いつだって忘れられない。目を閉じればあの景色が浮かぶ)
青年(……猛烈に腹が減った。カップラーメンでも作るか)
青年「初めてだな。こんなに嬉しいのは」
青年「よし」
青年(秘密箱から、最後のお香を取り出し、ライターを握る)
青年(これが最後だ。何がどうなっても……)
青年(僕は行くべきなんだろうか)
青年「でも……」
青年(……行くべきだ。行かなければ、きっと一生後悔する)
……ボッ
青年「はっ……え?」
青年(おかしい……いつもの一本道が、三つに分かれている!)
青年(中央には、小さな藤の木がある。こんな道は見た事が無いぞ)
青年(まさか、これは)
青年「とにかく……真っ直ぐに行ってみよう」
ざっ ざっ
青年「……!」
青年(また十字路になっている!)
青年(やはり……いや)
青年(まだ決めるには早い。もう一度真っ直ぐだ)
ざっ ざっ
青年「……やっぱり」
青年(いつもなら、そろそろ藤の広場に出るはず)
青年(けれど、景色が変わらない……つまり)
青年「場所自体がもう別物なんだ……!」
青年(まずい、まずいぞ。まるで迷宮だ)
青年(どうすればたどり着ける? そもそも繋がっているのか?)
青年「……駄目だ、また十字路……」
青年(だが、藤の枝の生え具合が違う……?)ザッ
青年「あ……今度は、最初の藤の木だ」
青年(間違い無い。戻ってきてしまった)
青年(でも、少し分かったぞ)
青年(おそらく、これは秘密箱と同じなんだ。ただ真っ直ぐじゃ駄目だ)
青年(正しい手順のルートじゃないと、たどり着けないようになっているんだ)
青年「……やっぱり」
青年(そうなんですね。先生)
青年(好き勝手言って消えましたけど、僕にも言いたい事が沢山あるんです)
青年(だから)
青年「待ってて下さい。今行きますから」
青年(どれくらい時間が経ったんだろう)
青年(似たような景色が続く。脳が麻痺してくる)
青年(そもそも、僕の考えが正しい保証なんて無い)
青年(不安はいくらでも膨らんでくる)
青年(それでも、僕は正しいルートをしらみつぶしに探し続ける)
青年(何度も何度も間違えては、その度に挑み続ける)
青年(脚はもう上手く動いてくれない)
青年(脇腹の辺りがズキズキ痛む)
青年(よく分からないけど、涙が出てくるんだ)
青年(いつでもこんなの終わりに出来る。さっさと戻って楽になれる)
青年(でも)
青年「負けて、たまるか……負けてたまるか……!」ギリ
青年(それは、諦める理由には不十分すぎる)
青年「……抜けた、のか……?」
青年(ようやく、よく知っている一本道が現れる)
青年(もう藤の広場にたどり着ける)
青年(随分と消耗してしまった。疲労困憊の無様な姿だ)
青年(でも、ようやく……会える)
青年(もう少しで……)フラッ
――ヒュオオオォォ!!
青年「!?」
青年(何だこの藤の花嵐はっ……)
「来ないで」
青年「!」
青年「……はぁ」
青年(参ったな。もう一踏ん張りか)
青年(前も見えないほどの凄まじい風だ)
青年(でも先生。知ってますか)
青年(僕、これでも結構怒ってるんですよ)スッ
ゴゴゴ……ゴゴッ……!
青年「うっ……!! やばっ……!」
青年(身体が持っていかれる……やばい!)
青年(脇を締めろ。もっと重心を落とせ、身を屈めるんだ)
青年(一歩ずつ、一歩ずつだ)
「来ないで!」
青年「……!」カチン
青年「好き勝手言ってくれますね、ほんとに」
青年「あんたのおかげで僕は救われて」
青年「尊敬してたら、突然傷つけられて」
青年「おかげさまで、随分と苦しんだよ。全部全部あんたのせいだ」
青年「僕の全てを否定されて、ぶちのめされてさ」
「……」
青年「でも……忘れられないんだよ。あんたとの思い出が」
青年「あんたの言葉が、全部嘘だったなんて思えないんだ」
青年「騙すなら、最後まで騙してくれよ」
青年「何で最初に殺さなかったんだよ、何で優しい言葉をかけてくれたんだよ……!」
青年「ずっとあんたと居たけどさ、あんたの顔なんてほとんど見えなかった!」
青年「あんたが何を考えてたか、僕に分からないけど!」
青年「何であの時、泣いてたんだよ!!」
「――!」
パシッ
青年「ようやく会えましたね。先生」
女「……どうして……」
青年「人を恨んでいたのは本当かもしれないけれど」
青年「本当は信じたかったんじゃないですか?」
女「違う、私は……人を……」
青年「なら、今回だって僕が来た瞬間殺せば良いでしょう」
青年「わざわざあんな面倒な道にしなくたって」
青年「本当は見つけて欲しかったんじゃないですか?」
女「……」
青年「座りましょうか。実は立っているのもやっとなんです」
女「私は」
青年「はい」
女「人を恨んでいました……それは本当です」
女「でも、貴方がやって来て……ああこの人は、綺麗な目をしているなと感じました」
青年「はは、照れますね」
女「最初はただの興味本位でした。今はまだいい、と」
女「貴方と話しているうちに、自分が分からなくなってしまって……」
女「人への恨みで生まれた自分との、ずれがどんどん広がってしまって」
青年「ええ」
女「苦しくて、今更何を善人ぶっているんだ、って思って……」
青年「はい……ゆっくりで良いですよ」
女「……本当に自分が嫌になって、どうする事も出来なくて」
女「別れが……辛くなってしまったんです。どうしようもなく」
女「人を恨む為に生まれたのに……こんな中途半端な存在になってしまって」
女「だから……私は……もう、謝る事すらおこがましいです」
青年(彼女は大粒の涙を流す。今の僕にはそれが見える)
青年(初めて会った時と、立場が逆になってしまったな)
青年(彼女が悩んでいるのに、不謹慎かもしれないけれど)
青年(彼女が全てをさらけ出してくれた事が、今はとても嬉しい)
青年「先生。初めて出会った時の事を覚えていますか」
女「……はい」
青年「僕は本当に不安だったんです。将来の事、自分の事」
青年「具体的に何が、とは分かりませんが……形の無い不安に押しつぶされそうでした」
青年「先生は生きてさえ居ればいいって、僕に言ってくれましたね」
女「……そう、ですね」
青年「僕がただ存在する事を肯定してくれて、どれだけ僕は救われたか」
青年「僕の心が安らぐよう、祈ってくれる人が居るなんて思いませんでした」
青年「だから、先生も自分を悪者にしないで下さい。そもそも、誰も殺してないでしょう」
青年「僕は、先生が生きてさえ居てくれたら、それで幸福なんですよ」ボロ
青年「だから、だから……!」
女「……ごめんなさい!! 私はっ……私は!」バッ
青年「ええ……もう十分ですよ」ギュッ
青年(僕の腕の中で震える彼女は、まるで幼い子供のようで)
青年(思えば、先生に触れるのは初めてだ。随分と小さく感じる)
青年(先生だって僕と同じだよな。心の傷は皆苦しいよな)
青年(僕らはしばらくの間、そのままベンチに座っていた)
青年「先生。ようやく僕は自信のある絵を描けましたよ」
女「良かったです。どんな絵ですか?」ニコ
青年「この世界です」スッ
女「!」
青年(この美しい世界を、僕は絵に写したかった)
青年(藤の広場では、大きな一本の藤の木。手前にはベンチがあって)
青年(先生が、藤の木に触れている)
青年「先生が勧めてくれた瞬間から、僕はずっとこの世界を描きたかったんです」
青年「ようやく、先生を描く事が出来るようになりました」
青年「この世界が、僕にとって一番綺麗な場所なんです」
女「何だか……照れますね。でも嬉しいです」
青年(穏やかな会話だ。ずっとここに居たいな)
青年(けれど、それは叶わない)
青年(僕には現実の生活がある。友人も居る。戻らないといけない)
青年(そして、戻ってしまえば、もう――)
女「青年くん」
青年「! はい」
青年(な、名前を呼ばれた! そう言えば、今まで呼ばれた事無かったな)
女「お願いがあります。どうか」
女「あの秘密箱を、燃やして欲しいのです」
青年「ど、どうして」
女「もう、私には何の力も残っていません。あのお香も作れません」
青年「それでも、僕は使い続け……」
女「あの箱自体、もう負の力が染みついています」
女「貴方に誇れる私で居る為に、一度綺麗さっぱり生まれ変わらないといけません」
女「私も貴方を見習って、挑戦してみようと思います」
女「私は、青年くんの絵に乗り移るつもりです」
青年「! そんな事が……」
女「出来ません」
青年「えっ」
女「付喪神は、その道具から離れる事は出来ません」
女「道具には、人の思いと物の思いが込められているからです」
女「ですが……青年くんが私を思って描いた絵なら」
女「ほんの僅かな存在になって、別の場所へ行ってしまったとしても」
女「その思念を辿って、いつか乗り移る事が出来るかもしれません」
青年「……けれど、可能性は低いんですよね?」
女「ええ。広大な森の中から、葉を一枚だけ探し当てるようなものです」
女「ですが、それでもやらなければいけません」
青年(先生の目には、強い力が込められている)
青年(あの目を、どこかで見たような気がする)
青年(……ああそうか、本気で絵を描き出した頃の僕の目だ)
青年(もしくは、あの夕暮れ坂を上っていた、少年の目だ)
青年(不思議だな。ずっと僕は助けられていたのに)
青年(気が付けば、お互いに力を与えあっている)
青年「……分かりました。あの秘密箱は、灰にしてしまいます」
女「はい。よろしくお願いします」
青年「……」
青年(言葉に出さなくても、お互いが分かっている)
青年(もうそろそろ、戻らないといけない)
青年「……先生」
青年(何て言えば良いんだろう。相応しい言葉が浮かばない)
青年「……“藤”さん」
女「はい」
青年「待ってますから。ずっとずっと」
女「……ええ。きっとたどり着きます」
青年(風が揺れていた)
青年(藤の花弁が舞い踊る中)
青年(透明な涙を流しながらも)
青年(彼女は、確かに笑っていたんだ)
青年「本日は晴天なり、か……」
青年(焚き火可能な場所って、案外見つからないもんだな)
青年(直火は禁止らしいので、わざわざ焚き火台を購入した)
青年(随分と早い時間に来たから、周りには誰も居ない)
青年「さて、始めよう」
青年(くるくる絞った新聞紙を、井の字形に積み上げていく)
青年(中央には着火剤を入れ、新聞紙を囲うように薪を立てかけていく)
青年(後は、着火剤に火をつければ)
バチ……バチ……
青年「よしよし。何とか上手くいった」
青年(後は……)
青年「……」スッ
青年(思えば、とんでもない事ばかりだな)
青年(付喪神の世界に行くなんて。人が聞いたらびっくりするだろう)
青年(箱には、まだ花の香りが残っている)
青年(きっと先生は、まだそこに居る)
青年「……さっさと帰ってきて下さいね」
青年(そう冗談めかして、僕は秘密箱を手放す)
青年(強い炎だ。あっという間に秘密箱は炎に覆われる)
青年(どうか、灰になるまで焼き切ってくれ)
青年(苦しみも悲しみも、全部真っ白にしてくれ)
青年(それが、彼女の願いだ)
青年(彼女の苦しみが、少しでも安らぎますように)ギュッ
【えにしや】
青年「どうも」
店主「あら、いらっしゃいませ」
青年「すみません。色々あって、あの秘密箱……焼いてしまいました」
青年(うっ、言い方ってものがあった。ただ色々あってで焼くな!)
店主「ええ。ありがとうございます」ニコ
青年「ええ……怒らないんですか?」
店主「勿論です。どうやら無事に救って頂いたようで」
青年「何で分か……いや、やっぱいいです」
店主「――縁です」
青年「だからいいですって! 縁言いたいだけでしょ!」
店主「ふふ……私には、縁を見る力があります」
青年「あ、はい……急に言いますね」
青年(今なら普通に適応出来る自分が怖い。多分それも見透かした上で話してるんだろうな)
店主「縁を持った道具は、同じ縁を持った方に使われるのが一番です」
店主「縁とは繋がりです。縁を持った方は、自然とこちらへやって来ます」
店主「なので、最初からあの秘密箱は、貴方が持つ事になると決まっていました」
店主「……秘密箱を救って頂いて、本当にありがとうございました」ペコリ
店主「きっと、貴方にしか出来ない事でしたから」
青年「いやいやそんな。大げさですよ」
青年「……僕の方こそ。藤……あの秘密箱のおかげで救われました」
店主「きっと、秘密箱も喜んでいるはずですよ」
青年「だと嬉しいですね」ニコ
店主「……そうだ、お礼にまた新しいお茶を淹れさせて下さい!」パン
青年「本当ですか? それは楽しみだ」
友「最近、何か良い感じじゃん」
青年「え? そうかな」
友「うん……何があったのかは知らねえけど、ふっきれた感じがする」
友「良かったな、青年」
青年「……ありがとう。さ、上がって上がって」
友「おじゃまします」スッ
友「! へえ、すごいなあの飾ってる絵! まさか自分で描いたのか!?」
青年「ああ、そうなんだよ」
友「すげえな! いつの間に描けるようになったんだよ」
友「何だろう……何か、懐かしいような、何て言えば良いんだろう」
友「とにかく、めっちゃ良いよ。感動してる」
青年「そんなに褒めても、お茶しか出てこないよ?」
友「いやいやマジで。藤の花も綺麗だけど……この女性の表情が特に良いな」
友「これ、モデルは誰だ? ハッ……!」
青年「違う違う。そんなんじゃないよ」
友「まあ良いか。さて、鍋の準備を始めようぜ。野菜切るわ」
青年「あ、じゃあお願いしようかな」
友「おう」
青年(あれから一年と少し経った)
青年(僕は相変わらず、絵を描き続けている)
青年「暖かくなってきたなあ。またランニング始めようかな」
青年(厳しい冬の寒さは、もうほとんど消えてしまった)
青年(ああ、また春が来て、季節が移ろってゆくんだなあ)
青年(今年も、色んな事があって、色んな事が去って行くんだろうな)
青年(良い天気だし、洗濯物でも干そうか)
フオッ……
青年(心地良い風だ。まるであの世界のような)
青年「――えっ!?」ガタ
青年(僕は思わず、あの絵の元に駆け寄る)
青年(間違い無い、間違い無い……これは……!!)
青年(この時を、どれほど待っていたんだろう)
青年「はは、はは……思ったよりも早かったですね」
青年「お帰りなさい――‘藤’さん」
青年(藤を描いたあの絵からは、確かに花の香りがしていた)
終わりです。ありがとうございました。
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません