【たぬき】高垣楓「迷子のクロと歌わないカナリヤのビート」 (328)

 モバマスより小日向美穂(たぬき)の事務所と高垣楓さんのSSです。
 独自解釈、ファンタジー要素、一部アイドルの人外設定などありますためご注意ください。

 シリーズの一作ですが、時系列的に最初のお話なので、これから読むorこれだけ読むのでもお楽しみいただけます。


 前作です↓
【たぬき】鷺沢文香「ばくばくふみか」
【たぬき】鷺沢文香「ばくばくふみか」 - SSまとめ速報
(https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1556725990/)

 最初のです↓
小日向美穂「こひなたぬき」
小日向美穂「こひなたぬき」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1508431385/)


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1560440032



 歌を忘れたカナリヤは 後ろの山に棄てましょか

 いえいえ それはかわいそう

 歌を忘れたカナリヤは 背戸の小薮に埋めましょか

 いえいえ それはなりませぬ

 歌を忘れたカナリヤは 柳の鞭でぶちましょか

 いえいえ それはかわいそう

 歌を忘れたカナリヤは 象牙の舟に銀のかい

 月夜の海に浮かべれば


 忘れた歌を思い出す


   ◆◆◆◆


 高垣楓さんには、一つ奇妙な癖があった。

 いきなり泣くのだ。それも左目「だけ」で。

 声はあげずに脈絡も無い。すんともしゃくり上げず、ただ涙がすぅっと流れるだけ。
 きっと自覚すら無かったんだと思う。
 本人は少し遅れて「あら私ったら泣いてるわ」って顔で、肩の埃でも払うように頬を拭うだけだから。


 どうして泣くのだろうと、その時はいつも考えていた。


 軽い昔話になる。
 これはある人と出会って、アイドルのプロデューサーになることを決めた、ちょっとした阿呆の顛末だ。



【 春 : 陽だまりを避ける影 】


 芸能プロダクション「346プロ」は、新年度からますます回転率を上げていた。
 歌手、モデル、俳優……数多くのタレントやアーティストを輩出するこの事務所は、業界最大手との呼び声が高い。
 その実績は輝かしく、346の芸能人といえば知らぬ者はおらず、業界にこの者ありと言わしめる敏腕プロデューサーも数多い。

 まさに芸能界に君臨する、美しき城というわけだった。

 俺はさしずめ、そんなお城の片隅で働く、名もなき使用人の一人といったところか。


 雑務また雑務の毎日だった。
 山ほどの書類を抱えて走り回り、雪崩れ込む事務仕事をやっつけて、次から次へ企画をアシストする。

「おーい何モタモタやってんだ! 早くしろー!!」
「はい、ただいまぁ!」

 この会社はでかいだけあって自前で映像スタジオまで持っている。
 まさかADの真似事まですることになるとは思わなかった。
 人手不足では決してないのだが、「事務員」「アシスタント」って肩書きはこの業界ではほとんど何でも屋みたいな意味合いらしく、
 伝統的に多種多様な仕事をやらされるものらしい。どういう伝統だ。


 スタジオ隅のベンチで一息つく頃には、外はすっかり夕方になっていた。

「じゃんっ♪」

 と、目の前にエナドリが差し出された。

「ああ。お疲れ様です、千川さん」
「あんまり根を詰めたらいけませんよ? これ、どうぞ」
「いいんですか? それじゃありがたくいただ」
「お給料から引いておきますね♪」
「アッハイ」

 千川ちひろさんは、俺のアシスタント仲間だ。

 なんでも17の頃からあちこちのテレビ局や芸能事務所でバイトを重ねて、大学卒業とともに念願の業界入りを果たしたとか。
 だからだろう、俺よりよほど仕事に慣れている。
 有能で気配り上手なだけでなく、どことなくちゃっかりしたお茶目さも併せ持ち、スタッフの間では結構人気が高かったりする。
 噂によると狙っている男性社員も少なくないとか――まあ、そこらへんは詳しくないのだが。

 彼女とは同期入社ということもあり、何かと話すことがあった。
 こうしてドリンクを渡したり渡されたりすることも一度や二度ではなく、このやり取りは一部で「ログボ」などと囁かれている。 



「――ところでPさん、聞きましたか? あの話」


 千川さんの言う「あの」が「どの」なのかは、社員なら誰でもわかる。

「……聞いてますよ。やめときゃいいと思うんですけどねぇ」
「え、意外。嫌なんですか?」
「嫌っていうか……まあ、大丈夫なのかなぁっていうか」
「心配ないと思いますよ。なんていったって天下の346プロですし、まさか無策じゃないでしょ」
「だといいですね。大手が参戦して爆死なんて話、腐るほどあるんだから」
「うーん……なんか含みがありますねぇ?」

 千川さんが横から顔を覗き込んでくる。
 別に、隠してるわけではなかった。
 言う機会が無かっただけだ。

 かといって大声で言うようなことでもなく、聞こえるか聞こえないかのボリュームでぼそりと、
 

「俺、アイドル嫌いなんですよ」


 今年度から、346プロは新たに「アイドル部門」を立ち上げるという。



  ◆◆◆◆


 そう、アイドルは嫌いだ。

 アイドルをやるような子たちが、じゃない。そういうビジネスモデルそのものが嫌いなのだ。

 程度の差こそあれ、芸能事業なんてのはみんな水ものだ。
 いくら努力を重ねようが、時勢の流行り廃りであっさり潮目を変えてしまう。
 歌手だろうと俳優だろうとそれは変わらないが、アイドル事業は特に顕著だろう。

 しかもその性質上、アイドルの中心層はティーンの女の子となる。
 まだ物事の善し悪しもわからない少女たちをその気にさせ、生き馬の目を抜く業界に飛び込ませる――
 なんてやり方が、俺はどうにも好きになれない。


 だったら芸能事務所の事務員になんてなるなよという話ではある。矛盾だ。ごもっともだ。
 だから俺はそういう話を口にしたことがなく、この間の千川さんが初めてだった。

 ……入社当初は、アイドル部門なんて影も形も無かったから。
 
 とはいえ社の方針に異を唱えるのも筋が違う話ではある。
 使用人はお銭のために働くまで。ただ……できればそちらは、見たくはない。



  ◆◆◆◆


 下っ端が何をどう思おうが、企画はトントン拍子で進行していく。
 とうとうオフィスビルに専用のフロアができ、人事異動もどんどん進む。


「――でも、どれくらいの規模でやるつもりなんだろう。想像つかないなぁ」
「そりゃ相当リキ入ってんだろうよ。ほらあの、アメリカ帰りの専務。あのヒトの肝煎りって話だぜ?」

 金曜夜。
 会社近くの居酒屋で、ああでもないこうでもないと雑談を交わす同僚二人。
 彼らとはたまにこうして酒を酌み交わす仲だ。近ごろは忙しくて頻繁には会えないのだが。

「んでお前はどうなんだよ、ヨネ。自分とこの部署持ちたいって言ってたじゃねーか」
「あ~……企画が通ればいいんだけどさ。オレまだペーペーだからどうだろうなぁ」
「……ヨネさん、プロデューサーになりたいんですか?」

 二人組の背の低い方が「うん」と快活に頷いた。
 一見すると中学生のような(失礼)小柄さだが、彼も立派な社会人。
 先輩である俳優部門のプロデューサーに付き、あれこれ経験を重ねている彼は、新規部門にも積極的な若手のホープだ。


「やっぱりアイドルって花形だろ? この業界に入った以上はさ、憧れだよなぁ」

 俺は「そうか」と頷くばかりだった。

 もう一人はどうなのだろう。 
 こちらは金髪グラサン、ピアスにヒョウ柄のシャツといういかにも「そっち」な見た目だが、彼なりのやり方で自分の仕事を進めている。
 ちなみに直属の上司とは折り合いが悪いようで、ハゲとかなんとか陰口を聞くのはこちらの役目だった。

「俺はそういうのダリィけどなぁ……。まあでも、担当すんならチチのでけェ女がいいわ」
「うっわ身も蓋も無いな! それ単にタクさんの好みじゃないか!」
「バッカわぁかってねーなぁヨネ、ファンってのはそういうとこから付くモンなの。ほれ、チチを笑う者はチチに泣くって言うだろ?」
「聞いたことないぞそんなことわざ!?」

 ぎゃいぎゃい飛ばし合うのもいつもの光景だ。
 ただ一つ「いつも」らしくないのは、俺の口数が少ないということ。
 話題が話題だから当然なのだが、そうなると――



「Pさんは?」

 当然、こっちにお鉢が回ってくる。

「そうそうお前どーすんだ? 結構いろいろ変わってくんだろ? 仕事増やされる前に適当なトコに落ち着いといた方がいんじゃね」

 どうもこうも。
 あらかじめ用意しておいた答えを、台本でも読み上げるように返す。


「……俺は、事務やれてりゃそれでいいですよ」


   〇


「――んだからよぉ、やっぱ俺的ベストバウトは花山対スペックなんだよォ! そこんとこわかってんのかァ!?」
「ああ、わかったわかったから! タクさん酔うと刃牙の話ばっかすんだよな……!」
「いやそこは最トーの独歩ちゃん対渋川先生でしょ」
「バッおまッ最トーつったら花山対カツミンだろォ!?」
「タクさんそれ花山が好きなだけじゃないっすか!」
「もういいってPさん! それ以上やると終わんないから!」

 そうこうしているうちに駅まで着いてしまった。
 どこをどう歩いたかもわからない。馴染みの居酒屋というだけあって飲み過ぎてしまった。

「じゃ、俺たちこっちだから。お疲れPさん! 気を付けて!」
「そっちも……タクさんを頼みます」
「あ~~~でもなぁ……千春対アイアンマイケルも捨てがてぇんだよなァ~~……」

 一番ベロンベロンのタクさんが、頭一つも小柄なヨネさんに支えられながらよろよろ歩く。
 二人がホームの向こうに消えるのを見送って、俺は正反対の路線に行こうとして、足を止めた。


「22時……」

 終電まで時間はある。
 一番の盛りを過ぎたものの、街はまだ騒がしかった。春先の涼しい夜風に、酒気を帯びた熱が混ざって頬を撫でる。

 まだ、もう少しここに残ろうか。

 今夜に限って飲み足りない気分だった。
 この浮かれた夜の衣に包まれていれば、余計なことを考えないで済むような気がして。

 思い立った時、気付けば足は駅から離れていた。
 浮き上がるような頭で考える。どこかいい店があったかな。どこへ行こう。どこへ行けるだろう――


 ――どこへ行ったんだろう。


「……っ」

 頭を振って暗い感情を追い払った。
 歩こう。歩いているうちに少しはましになるはずだ。

 やがて橋に差し掛かる。きらきらした夜景が川面に映り、遠くには高いタワーが霞んで見えた。

 何も考えず歩道を進み、ふと視線を上げた時、妙なものを見た。


(……女の人?)


 ちょうど自分の何メートルか前を、背の高い女性が歩いていた。

 彼女も飲んでいたのだろうか。それとも帰りだろうか。
 それだけなら別になんてことのない光景なのだが、場所が場所で、つい釘付けになってしまう。


 彼女は、橋の欄干の上を歩いている。


 バランスを取るでもなく、自分のペースで、ゆらり、くらり。
 高いヒールでふらつく様子も見せず、舞うように足を進める。
 
 危ないですよと言おうとした。
 けどその歩みがとても自由な感じがして、邪魔をするのが憚られた。
 アッシュグリーンのグラデーションボブが動きに応じてふわふわ揺れている。

 彼女の纏う空気は独特だった。

 酒精に浮かされた花びらのように、見え隠れする耳がほんのり赤い。
 見ている前で片足立ちになり、ヒール一本を軸にその場でくるりと回った。


 その一瞬、月明かりに照らされる細面がこちらを向いた。




 両眼の色が違った。


 見間違いではないと思う。
 右は日差しを孕む花葉の碧、左は夕闇に迫る月影の紺。
 互い違いの瞳の色が、いっぱいに夜を写し取って輝いている。

 そして俺は、光る雫を見た。

 あんなに楽しそうなのに、酒に酔ってご機嫌っぽいのに、彼女の頬を一筋の涙が伝っている。
 しかも青い左の眼からだけ流れていて、それは回る動作で目尻を離れ、雫となって川へと落ちた。

 どうして――


 ぽかんと開いたままの口から、「あ!」と自分でもびっくりするような大声が迸る。
 女性の体が、今度こそ欄干の外に出たのだ。

「危ない!!」

 どんなに優れたバランス感覚だろうが、足を踏み外してしまえばおしまいだ。
 考える前に駆け出した。大きく傾ぐ体に手を伸ばす。とうとう宙に躍り出る。間に合わない……!!


「――あら?」
「え?」


 逆さまになった女性と、目が合った。
 高さがおかしい。というか落ちていない。

 ………………え何、飛んでる?

 何度まばたきをしても同じだった。彼女は完全に橋から離れ、上下逆転の姿勢でぷかぷか浮いていて。
 思い出したように左眼を拭い、なにやら遠慮がちにこちらを指差した。


「あの、足元……」


 残されたのは、無茶な姿勢で欄干に足をかけたアホの酔っ払い一人である。
 止まっていた時が動き出したように、すっかりバランスを崩してしまう。


「あ。グワーッ!!!」


 こうして俺は、きらきら光る神田川に落ちた。


   〇


「ぶえっくしょい!!」
「どなたか存じませんが、ごめんなさい」

 春先の夜は普通に寒い。
 岸辺に沿う桟橋の上で、濡れ鼠になった俺を女性が申し訳なさそうに拭いてくれる。

 どうにか助かりはしたものの、どうやって助かったかはよくわからない。
 自力で泳ぎ着いた感じは無いし、何か細い手に引き上げられたような……というか。


 飛んでた?
 飛んでたよな。


 間近に見るその女性は、息が詰まるほど美しかった。
 色違いの瞳もやはり見間違いではなく、もしやこれ自体が深酒のもたらす夢ではないかと思う。


 聞きたいことは山ほどある気がしたが、かける言葉が出てこない。
 見つめ合うことしばし、妙な沈黙が二人の間に降りた。

「「あの」」

「あ、すいません、お先にどうぞ」
「ああいや、大したことじゃないんで、そちらから先にどうぞ」
「いえ、私も……それほどのあれではありませんから、もしあれでしたらそちらから」
「別にそんな、あれってほどでもないんであれですけど、あれ? ああだから、まずは……」

「助けてくださって、ありがとうございます」
「いえいえ、大したこともできず」

 ぺこー。

 ……なんだこれ。いや、とりあえず礼でいいんだよな?

「……お礼を言うなら、こちらこそ。私を助けてようとしてくださったんですよね」
「いや、差し出がましい真似をしてしまったみたいで。まさかお飛びになるとは思わず」

 お飛びになるって日本語初めて使ったぞ。
 なんか順調に混乱してきてる気がする。


「ですから、お詫びというのではありませんが……」

 細く形のいい指が、お猪口をつまむ形を取る。

「この後、一杯奢らせていただけませんか?」

 綻ぶように笑む彼女の、左眼の下にある泣きぼくろが、不思議なほど印象に残った。


   〇


 入ったのは、路地裏にある小さな居酒屋。
 大将が一人でカウンターに立っているような、古式ゆかしいもつ焼きの店だった。
 チョイスの渋さに内心驚かされたが、出てきた串物はどれも絶品でまた驚いた。

 それらに輪をかけて驚きなのは、彼女がグラスを空けるペースだ。

 どうも行きつけの店のようでボトルキープがあったのだが、一升あったはずの中身が気付けば半分減っている。
 目に見えてガバガバ飲むわけでもないのに、気が付けばぺろりと枡ごと干してしまう感じだ。
 なんだか化かされているような気がした。


 胃の腑に酒を落とすと、なんだかんだで体が温まってくる。
 ずぶ濡れの男に店主は嫌な顔ひとつせず、何があったか聞こうともせず職人の仕事を進めていた。

「へいお待ち」
「ああ、これこれ♪ これが食べたかったんですよ」
「串……ですよね。何の肉ですかこれ? ……鶏?」
「ご存知ありませんか? ズンドコベロンチョです」

 ご存知ないです。なんだそれ。
 口にしてみればびっくりするほどうまかった。肉か魚かもわからない。むしろ豆腐かもしれないが、芋と言われても信じる気がする。


 妙ちくりんな時間だった。

 特に会話が弾むでもなかった。お互い何者かもわからない同士だし、彼女にしたって饒舌な方ではないらしい。
 ただ「あ、これおいしい」「そうでしょう」的なやり取りを散発的に交わして、お互いのペースはまったく不揃い。
 それでも、不思議と居心地は悪くない。

 酒を注ぎ合いながら、彼女がふと、口を開いた。

「何か、おありだったんですか?」
「え?」
「こう、私がくるっと回った時、ちょっぴり目が合ったでしょう。その時少し気になって」

 彼女もこちらを認識していたのだ。
 実感するなり急に気恥ずかしくなった。


「とても、悲しそうなお顔をしていたもので……」


 そんな顔をしていただろうか。
 頬をぐにぐにする。今はまた火照っていて、酒のせいだと思うことにした。


「それを言うなら、あなただって」
「はい?」
「泣いていたでしょう。……何かあったんですか?」

 あら――と、彼女は左頬に手を当てた。
 今はもう涙の痕も消えていた。
 そもそもあれは悲しみの涙だったのだろうか、それすらもわからないのだが。

「たまにあるんです、ああいうこと。今日みたいな良い夜とか。癖といいますか、体質のようなもので……」
「体質……ですか」
「ええ。それか、何か特別なことが起こりそうな時とか……」


 指先で泣きぼくろを一撫でし、彼女は小首をかしげてみせる。


「もしかしたら、これがそうなのかもしれませんね」


 これが、後にアイドルとなるその人との、最初の出会いだった。


  ◆◆◆◆


「それ高垣さんじゃありませんか?」
「…………たかがき?」
「知らないんですか!? モデル部門の高垣楓ですよ! 雑誌の表紙とかバシバシ飾ってるあの!」

 知ってる。だからこそ実感が無かった。

 確かに、そういえば見覚えのあるようなないような顔だった。
 なんだかんだ酔っていたせいで、あの夜はそこまで考えが至らなかったのだ。
 次の日になり、千川さんに言われてやっと実感する始末だ。


「にしても、凄いですね。あの高垣楓さんとご一緒するなんて」
「え、そんなにですか?」
「ええ。噂ですけど彼女、飲む時は決まって一人なんですって」

 あちこちの部署を渡り歩いているおかげか、千川さんは社内の事情通としても知られる。
 高垣楓のパーソナリティは、しかしそんな千川さんをもってしても謎に包まれているようだ。

「お酒が好きっていうのは有名なんですけど。それにほら、あのルックスでしょ? 美人揃いのモデル部門でも頭ひとつ抜けてる感じ」
「ええ、まあ……間近で見たのでわかります」
「まあだから、お近づきになりたい人たくさんいるんですって。男女両方。けど、食事に誘おうにも気が付けば消えてるとかで」

 掴みどころが無い人なんです。――千川さんは、そう締め括った。
 彼女が杯を傾けているところを見た人は、誰もいないというのだ。

 俺以外には。


「Pさんもよくわからない人ですね……。一体どういう魔法を使ったんですか?」
「いや、魔法っていうか。単に成り行きなんですけど」
「そういうことにしときます。あ、このこと他の誰にも話さない方がいいですよ。騒ぎになるかもだし」

 そんなにか。
 改めて言われると、あの夜のことが丸ごと幻だったように思えてくるから不思議だ。
 しかし高垣楓という人は実在していて、今も見本の雑誌やポスターの中で微笑んでいる。

 千川さんはふと思い立って、深刻な顔でこちらに口を寄せた。

「…………一応言っておきますけど商材に手を出すのは」
「出しませんよ! 俺のこと何だと思ってんですか!?」
「ならいいんですが。いえ、なんかPさんってクソ鈍感天然中途半端モテ野郎の気配がどことな~くするものですから……今はまだ兆し程度ですが……」
「しれっとなんてこと言うんだこの黄緑……」

 実際、手を出すもクソも無い。あの夜が例外中の例外だっただけで、また会えるかすらわからないのだし。
 ……あの人飛んでましたよ、ともまさか公言できない。
 モデル部門で既に第一線にいる彼女ならば、仕事で一緒になることもまずないだろう。

 色んな意味で高嶺の花だ。二度とはない珍事に違いない。


   〇


「あら、またお会いしましたね」
「…………」

 というわけでもないらしい。
 とっぷり夜も更けてからの帰宅途中、噂の人とまた偶然出会った。

 今夜の高垣さんは電線の上にいた。

 体重なんて無いように、パンプスのつま先を電線に乗せて、夜の雀みたいな顔で往来を見下ろしていた。
 ……普通に人通りのある場所なんだが。誰も気付かないのか?


「……すみません、どこから突っ込んでいいかわからないんですが」
「おでんの気分なんです」
「はい?」
「まだ少し肌寒いですから。ここはひとつ、おでんを食べて温まりたいなぁって」
「は、はぁ……?」

「今夜はおでんにしよう。いざ、おでんにせん……おでんせん♪」

 ダジャレだった。しかも前置きが長い。
 高垣さんはふわりと電線から飛び降り、足音もなく目の前に着地した。

「ご一緒にいかがですか? おいしいお店を知ってるんです」


 ……これは、気に入られたのだろうか。


   〇


 それから、何度か酒を酌み交わすことがあった。
 例によって会話は弾まない。一人と一人で飲みながら、思い出した時に話の接ぎ穂を拾うだけ。
 大きく笑うことも、泣いたり怒ったりすることもない。
 お互いのパーソナルスペースの、その端と端を触れ合わせながら、静かに酒気の泉にたゆたうような。

 その時間が、えもいわれず心地よかった。


 彼女は自ら名乗ることはなかった。
 だから、俺も敢えて聞いたり、こちらが名乗ることはしなかった。

 けれど多分、あっちは俺がどこの会社の人間かも察していただろう。
 もちろん俺は彼女が何者かもう知っていて、高垣さんもまた、そのことに気付いていたはずだ。

 だからまあ、知らないのは建前だ。
 ここでは何者でもない。
 お互い、見えない仮面を被ったような関係。


 だからかもしれないが、たまにはとりとめもない愚痴みたいなものを零す時もある。


「うちの会社の話なんですけど」
「はい」
「新しい事業を始めるみたいなんですよ」
「まあ、そうなんですか」
「そうなんです。まあ、それが……思うところが」
「お嫌なんですか?」
「是非もないことです。ただ、個人的に少し、嫌なことを思い出して」
「それは、ご自分の失敗とかですか?」
「違います。誰が悪いとか、そういうことでもありません。ただ……」

 また、言葉を失う。

「……ただ……」


 オチを考えて言い出したことじゃない。思考がそのまま漏れたみたいな感じだ。
 小さく首を振り、「この話は終わりです」と動作で示した。
 すると高垣さんは深く追求せず、「そうですか」とだけ返して酒を注ぎ足す。


 顔を上げてぎょっとした。
 高垣さんの左眼から、また透明な涙が滑り落ちている。


 俺の表情から察したのだろう。彼女はなんでもないように涙を拭った。
 その視線が、こちらから外れない。
 
 高垣さんは自分の涙も差し置いて、俺の眉間のあたりを注視しているようだった。



「ほら」

 花綻ぶ笑みの意味は何だろうか。
 気遣いか、慈しみか。酒に鈍った頭では、敢えて問うこともできなかった。


「また、悲しそうな顔をしています」


 条件反射的に自分の頬に触れる。
 そういえば、長いこと笑っていない気がした。


  【 春 ― 終 】

一旦切ります。
以降は随時更新の形になると思います。

諸々の登場人物に関しては「そういう世界線」ということでご容赦ください。


  【 夏 : 人形たちの夢 】


「マぁジかよヨネお前ェ!? やったじゃねぇかこのこのこの!!」
「あははは……あだだだっ痛い痛い痛い!」
「タクさんそれ決まってるから! ヘッドロック入ってますから!」

 いつもの居酒屋は、いきおいヨネさんの祝いの席となっていた。
 このほど小規模な人事異動が起こり、なんと彼が一つの部署を担当することになったのだ。

 もちろんアイドル部門。今もっとも勢いのあるところだ。

「改めて、おめでとうございます。俺も応援してますよ」
「ああ、ありがとう! よっし、やるぞぉ!」
「しっかしヨネがアイドルのプロデューサーねぇ。で? 誰担当すんのかとか決まってンのか?」
「それはまだ。だけどこう、清楚で大人のお姉さんとかだったらいいよなぁ~……うへうへ」
「いやお前も自分の女の好みじゃねーかそれ」
「完全に浮かれてますねヨネさん」

 浮かれるのも当然だ。これは大躍進と言うべきだろう。
 かねてから本人も望んでいたことなので、我が事のように嬉しかった。


 春が終わり、夏が来て、アイドル部門の滑り出しは順風満帆だ。
 既にいくつかの部署に分かれて、第一弾、第二弾とアイドルたちを送り出している。

 ヨネさんが一足先に忙しくなる関係上、俺たちが集まれる機会はがくっと減った。
 伝え聞く話によると、彼は元気いっぱいのジュニアアイドルを束ねたり束ねられなかったりしながら、二人三脚(多人多脚?)で頑張っているようだ。


 あるいはまた、別の日に。

『あー、今日も無理っぽいわ。なんか俺もスカウトくらいしてこいって言われてよぉ』
「そうですか……」
『わりわり、今度昼飯奢るからよ。ったくあのクソハゲ言うだけ言ってなんも手伝いやがらねぇ……』

 上司への愚痴をぶちぶち零しながら、電話を切るタクさん。 
 あちらもあちらで、別の部署で仕事が増えてきているようだ。



 何の不満も無い。
 一抹の寂しさこそあっても、同僚の活躍は素直に喜ばしかった。

 あとは、しがない事務員が一人、会社の潮流に置いていかれるだけの話だ。


「……今日は早めに帰るか」


 アイドル部門へのヘルプが、ここのところ増えてきている。
 千川さんはもともとアイドルが好きだったみたいで、毎日生き生きとしていた。

 346プロは変わっていく。荘厳な城に、アイドルという新たな華を添えて。

 俺は、望んでその日陰にいる。


  ◆◆◆◆


「やあ、お疲れ様。調子はどうだね?」

 ある日、機材を倉庫に運んでいたところ、聞き慣れた声に呼び止められた。
 振り向けば、眼鏡をかけた初老の男性がこちらに手を挙げている。

「今西部長……」

 部長とは言うが、実際のところ何の「部長」なのかは正直よくわからない。
 半分ご隠居のような存在でありながら、時折こうしてみんなの様子を見に来るのだ。
 社内でも最古参に入り、本来なら相応の要職に就くべきポジションらしいが、あくまでも現場の感触を重視する人柄には慕う社員も数多かった。

 いうなれば、346プロのご意見番のような御仁である。


   〇


「君の仕事も増えてきただろう。大変なのではないかと思ってね」
「いえ、そんな。忙しいのは望むところですよ」
「しかし無理は禁物だよ。事務員とは言ってもその実、便利屋みたいなところがあるからねぇ」

 他社もそうなんだよ、と彼は笑う。アシスタントが何でもやるのは業界的気質というやつかもしれない。
 だが大変なのはどこも同じだ。

「アイドル部門の話、聞きました。順調みたいですね」
「そうだねぇ。特に第一から第三は、予想以上の成果を挙げているよ。みんなよくやってくれてる」

 良いことだ。
 休憩室のベンチに並んで座り、部長は缶コーヒーのプルタブを引いた。

「君も、そろそろどこかに腰を落ち着けてはどうだろう?」
「……すみません。仰りたいことがよく……」
「アイドル部門は新たなプロデューサーを求めている。君さえ良ければ……」


「ありがとうございます。ですが、遠慮させて下さい」

 即答する。
 部長は冷えた缶コーヒーを手に、ほんのわずかに表情を曇らせた。

「……お父上の件は残念だった。しかし、決して彼の力不足だったんじゃない。むしろ最善を尽くしたと言ってもいい」
「結果は、結果です」
「今は時代が変わっている。君がもしあのことを気に病んでいるのなら……」
「……せっかくのお誘いですが、向いていないと思います。コーヒー、ご馳走様でした」

 奢ってもらったコーヒーは、結局開けることもなくポケットにねじ込んだ。
 頭を下げ、機材のダンボールと共に去る俺を、部長は何も言わずに見送っていた。


   〇


『あんたが選んだアイドルだろうが!』


 確かそんなことを言った。
 高校生の頃だから、もう十年近く前のことになるだろうか。

『最後まで責任持つってくらいのことが、どうして言えないんだ!!』

 親父は俺の訴えを黙って受け止めていた。
 感情のやり場が無い息子を諫めるでもなく、ただ淡々と、こう返した。


 彼女たちはいくらでもやり直せる。
 もう取り返しがつかない以上、忘れるのは早ければ早いほどいいんだ、と。

 潰えた夢と心中するのは、大人だけでいい――。


 その主張に、俺は意地でも納得しなかった。

 だったら全部無駄だったって言うのか。
 彼女たちの努力も、ファンの人たちも、歌も舞台も、笑ったことも泣いたこともみんな「忘れなくてはならないこと」なのか。
 それさえも丸ごと否定する権利が、あんたにあるのか。

 返す言葉の無機質な響きが、今も耳にこびりついている。


「その方がいいんだ」


 今にして思えば、彼の言うことにも相応の理があった。
 けれどそれは大人の理屈だ。
 何も言わず呑み込むには、当時の俺は子供すぎたのだと思う。

 その日以来、親父とはほとんど口を利いていない。


   〇


 十年前。当時の世は、まさにアイドル戦国時代だった。

 某レジェンドアイドルがたった三年で焦土と化した後のショービジネス市場において、
 荒野になお芽吹く雑草のように運営を続ける不屈のアイドルプロダクションは幾つもあったらしい。
 
 今のように勢力図があらかた出来上がる前のことだ。
 業界には、所属アイドルが二人とか三人とか、あるいは一人しかいないような弱小事務所も少なくなかった。
 ここらへんの詳細に関しては岩〇書店刊行の「〇波講座現代アイドル史」に詳しい。

 親父はその弱小事務所の一つに所属する、ただ一人のプロデューサーだった。


 結論から言えば、彼のプロデュースは失敗した。



 スキャンダルがあったわけではない。担当アイドルたちとの関係も良好だった。
 彼らは一丸となり努力して、努力して、努力して、努力して、それでもなお、届かなかった。

 ただただ、単純に「負けた」のだ。

 時勢の要因もあるにはあるだろう。
 小さな事務所がお互い喰い合う世紀末状態だったものだから、昔は今よりもっと過酷で、みんなギラギラしていた。

 ライバル事務所はどこも手段を選ばず、表だっては言えないようなことをしてまでのし上がろうとしたらしい。
 ただまっすぐ進むだけでは、目指す場所はどうしても遠すぎたのだ。

 だが言い訳にはならない。

 ライバル事務所のやり口が悪だとも思わない。弱肉強食こそ芸能界の基本原理だ。
 今日の業界は、そのようにして倒れた幾多の者たちの屍の上に成り立っていると言っていい。
 親父のプロダクションも、そうした並び立つ墓標の一つとなっただけの話だ。

 プロジェクト解散からほどなくして会社が倒産し、一家は東京から父方の地元へ帰った。


 にもかかわらず、こうして独り東京に戻ってきた。
 理由は色々ある。まず一刻も早く実家を出たかったし、地元ではろくな仕事が無かったのもそれだ。

 父を知る今西部長と出会ったのは完全に偶然だった。
 彼は紛れもない恩人だ。うちで働かないかね――という誘いは渡りに船だった。
 けれど本当に芸能事務所に入るべきだったのかどうかは、今でも悩むことがある。

 アイドルに夢を見ることはやめた。

 大人の事情で水泡に帰す夢なら、そんなものは最初から見ない方がいい。
 
 けれど、何か引っかかるものがあって、こうして346プロにいる。
 ずいぶん昔に置き忘れたものが、見つかるとでも思っているみたいに。



  ◆◆◆◆


 高垣さんとの交流はそれからも続いていた。

 彼女は相変わらずのマイペースだ。モデルの仕事は続けており、街を歩けば広告にその顔を見ることも少なくない。
 けれど本人は、忙しそうな素振りなど欠片も見せない。
 トップモデルであることを鼻にかける様子もない。
 そればかりか、自分の立場さえ気にもかけていないのかもしれない。

 身バレしたら騒ぎになるだろう。同僚やモデル部門のスタッフが見れば何と言うか。
 気を揉む凡人の内心も知らぬげに、彼女は今日も、アルコールの浮遊感に身をゆだねるのだった。

 天衣無縫とは、彼女のためにある言葉なのかもしれない。


 というか実際に浮遊している。今も。

「…………前から気になってたんですが、それ、どうやってるんです?」
「え~? なんでしょうか~?」
「人間、訓練したら浮いたりできるのかなって」

 ほんのり紅潮した顔がこちらを向いて、どきりとした。
 馴染みの大将の居酒屋で、串を焼く煙に燻されながら、高垣さんは「ぷわっ」と酒臭い言葉を落とした。

「私、地に足が着いてませんから」
「文字通りとは誰も思わんでしょ……」
「浮世離れ、落ち着かない、浮き足立つ……まあ、そんなところです♪」

 何の説明にもなっていない。
 何度聞いてもはぐらかされるばかりなので、さして期待してもいなかったが。



 ――ドォン……。


 と外から、腹に響く重低音。
 おや、という顔をする高垣さん。霞ガラスの窓が小さく揺れる。

 そういえば、心当たりがあった。

「花火でしょうね」
「花火?」
「確か今夜、花火大会だったから。どっか近くでやってるんでしょう」

 聞くなり高垣さんの表情がぱっと華やいだ。


「見てみませんか?」


 見に行くもなにも、場所が悪いのではないか。
 そう言いかけた俺にも構わず、高垣さんは大将にお勘定を頼んでさっさと出ていってしまった。

 いつも割り勘だ。慌てて財布を探りながら外に出ると、花火の音は予想よりずっと近かった。


 ――ドォン……!


「見えませんねぇ」
「光ってはいるんですけどね……」

 そもそもここは路地裏だ。向こうの空の花火など見えようはずもない。
 ただ光がわずかに差し込み、薄汚れたビルの壁を染めるのだけはわかった。

 スマホの検索によると、行って行けない距離ではないらしい。
 とはいえ現場は人でごった返しているだろうし、今から急いで間に合うかどうか……。


 隣を見ると、高垣さんは赤ら顔で「にまぁ」と笑っていた。

 その全身から童女のような悪戯っ気が湧き出ているのを感じる。


「行きましょうか」

 まさか。

 何事か突っ込む前に逃げ場を失った。
 高垣さんの左手が、こちらの右手をがっしり掴んでいたのだ。


「――それっ♪」
「ちょおおおおおおおおいっ!!?」


 狭い路地裏を突き抜け、ビルとビルの細い隙間から、大空へ。


   〇


 本当に飛んでいた。
 もはや街は遥か眼下だった。二人が飛び出した路地がどこだったかなんて、とっくにわからない高さだ。

「ちょっ、待! 降ろしてください! お、落ちる……っ!?」
「あ――来ましたよっ」

 半分パニックな俺をよそに、高垣さんは楽しそうだった。

 彼女が指差す一点から、今まさに打ち上げられた鮮やかな火球が、


 ――ドォン!!


 遮るものなど何もない、圧倒的な音と光の歓迎だった。
 たちまち俺は魂を抜かれた。打ち上げ花火を「見下ろす」のなんて、生まれて初めての体験だった。


「――――――――――か?」

 高垣さんが何か言っている。
 見えますか、とかだろうか。

 そうですねと返そうとしたところで、耳を疑った。


「もうちょっと近付いてみましょうか?」
「は?」

 びゅんっ!!

 否も応もない。高垣さんはいきなり速度を上げて、ぶつかるつもりとしか思えない軌道で打ち上げ地点を目指す。
 引っ張られて宙を滑りながら、こっちはもう幽体離脱しないだけで精一杯だった。
 
「耳、塞いでいてくださいね!」

 ひゅるるる――――と、またもう一つ打ち上げられて、





 ド ォ ン ッ ッ ! ! !


 もう音なんて言えるレベルじゃない。揺れる空気の、分厚く重い壁だ。
 木の葉か何かになったつもりの思考を、空に咲いた眩い光が塗り潰す。

 四方八方に飛び散る、熱く大きな花色の火。
 高垣さんは速度を上げて、その真ん中を一直線に突っ切った。


「ふふ、うふふっ。あははははっ」


 対空砲撃を切り抜ける戦闘機のような軌道。
 昼より明るい花火の只中で、高垣さんは笑っていた。

 大声を上げて。子供のように無邪気に。

 左眼からこぼれた雫が一滴、俺の頬に触れて弾けた。


   〇


「…………………………………………」
「ああ、楽しかった!」

 気が付けば、どことも知れない雑居ビルの屋上。
 錆の浮いた室外機のほかには給水塔しか無いそこに仰臥して、俺は命あることの素晴らしさを噛み締めている。

「…………死ぬ、かと、思った」
「本当、すごかったですねぇ。びっくり……あ、はなびっくり♪」
「ダジャレにもなっていない…………」
「公園にも人がたくさんいて。あ、見つからなかったかしら」
「もう、ああいうのは…………」
「次、どこかで花火大会やってません? 検索してみようかしら」
「あのですねぇ! 俺がどんな気持ちだったと!」

 さすがに突っ込まざるをえなくなり、がばっと上体を起こして。
 彼女の横顔を見るなり、そんな気にもなれなくなった。
 


 高垣さんはずっと顔を上げていた。花火が終わったあの夜空に、まだ火の残光を見ているように。

 その表情があまりにも楽しそうだったから。
 輝く顔はいっそ幼くすらあった。雑誌や広告に載る、あの凄絶で研ぎ澄まされた美貌とはまるで違う。

 それにしても意外だ。
 彼女はどちらかというと、こんなはっちゃけたことをするタイプではないように思えたのに。

 人は見かけによらない……というか、最初のイメージ通りとはいかない、ってことなのかな。
 どちらが本当の彼女なのかはわからない。
 けれどそんな顔を見せられて、改めて腹を立てるほど無粋にもなれない。

 言いかけた言葉を飲み込んで、しばらくその横顔を見ていた。


 ビルの屋上は街の喧騒も遠い。花火の音も消えた今、辺りは嘘のように静かだ。

 高垣さんが、ふと横目に俺を見た。
 彼女はこちらに左側を向けている。必然、泣きぼくろを備えた青い瞳とかち合う。



「寂しいんですか?」

「……え?」

「そういう顔。今もです。なんだか、帰り道を忘れちゃった迷子みたい」

「寂しいなんて……俺は、一言も」

「わかりますよ。だって私も」



 ――私も?

 言葉はしかし、続かなかった。
 高垣さんはちくりと虫に刺されたような顔をして、改めて俺に向き直る。


「私いま何か言いました?」
「え、覚えてないんですか」
「あら……あぁ」

 どこか気だるげな嘆息が喉から漏れて、高垣さんは軽く頭を押さえる。

「なんだか、少し飲み過ぎてしまったみたい……」
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫です。いけませんね、浮かれてしまって」


 立ち上がり、深呼吸を繰り返す彼女は、すっかりいつも通りだった。

「もう遅いです。今日はこのくらいにしておきましょう」
「珍しいですね、いつもは粘る方なのに」

 そしてもう帰ろうと言うのは大体こっちの役割だった。
 高垣さんはまだへたり込む俺の前にしゃがみ込み、指でつんつん脇腹をつついてくる。

「ぐえっ、ちょ、やめ」
「だって、私が帰ろうと言わないと、あなたもここから降りられませんよ」

 …………それもそうだ。


  ◆◆◆◆


 彼女との奇天烈な日々は、正直に言って、楽しかった。


 既にこの状況に心地よさを感じ始めていた。
 こうしていれば余計なことを考えず、ただ目の前の新鮮な驚きだけを受け入れていられた。

 もしかしたら、このまま忘れられるのかもしれない。

 不可思議な出来事と関係が麻酔となって、記憶の澱から目を逸らせるかもしれない。

 それでいいじゃないか。何をためらうことがある。
 仕事を乗り越え、重い夜をアルコールと共に飲み下す。
 みんなやっていることだ。それが当たり前の大人というやつだ。


 思い浮かぶのは、みじめに丸まった男の背中。
 逃げ込んだ我が家での夜を、親父は一体、どんな気持ちで過ごしていただろう。


 ――寂しいんですか?


 青い眼の投げた疑問が、胸に刺さって取れないままで。


  ◆◆◆◆


「この間はごめんなさい。私ったら、羽目を外しすぎたみたいで……」

 次に会う時、高垣さんは見ていて気の毒になるくらいしょんぼりしていた。
 かなり珍しいものを見た気がする。

「いえ、いいんですよ別に。まあ、あんなこともあるかなとは」

 だいぶ苦しい。あんなことそうそうあってたまるかという話だ。
 とはいっても、彼女がこうだと調子が狂うのはこっちだ。
 気にしていないのは本当なんだし。むしろ楽しかったくらいで。

 なんとかフォローできまいか……そうだ。

「それじゃあ、また新しい店を教えてくださいよ」
「新しいお店……」
「そうそう。また別のおいしいところを紹介してもらうことで、チャラ。どうです?」

 実際あの串焼き屋はものすごい掘り出し物だったので、高垣さんならもっと色んなところを知っているのではないかとの期待もある。


 高垣さんは少し考えて、ぽんっと手を打った。

「あります」
「本当ですか」
「いわゆるお店というか、居酒屋やバーという感じではないんですが――」

 曰く、今の時期にはちょうどいいかも。
 一年中やっているけれど、夏は特に。

 ただ、少し複雑なところにあるから、わかりにくいかも。
 皆さんきっと気に入られると思いますが――


 ……一見さんお断りなところなんだろうか?

 なんて名前のお店なんですかと問うと、彼女はまるで、秘密基地の場所を教えるみたいに答えた。


「夜市、と呼ばれています」

一旦切ります。
夏もうちょっと続きます。


  ◆◆◆◆


 このところ悪い夢を見る。


 ショーウィンドウに並ぶ、着飾った人形たちの夢だ。

 分厚く冷たいガラスの向こうで、彼女たちは精いっぱいの輝きを見せた。

 だけどそれも徐々に翳り、スポットライトは消え失せ、衣服は色褪せていく。

 暗い暗いウインドウの向こうに手を伸ばそうにも、ガラスに阻まれて叶わない。

 やがて人形は埃を被り、誰の手にも触れられないまま、倉庫の隅へと押しやられるのだ。


 一体、誰がそれを見つけてやれるというのだろう。
 答えなど得られず、日陰は日陰のまま暗闇に沈み続ける。


  ◆◆◆◆


 話によると「夜市」というのは、いわゆるフリーマーケットのようなものだという。
 みんな個人で出店を出し、多くは趣味、または本業の延長になるものを売っているのだとか。
 とすると、ささやかな規模なのだろう。酒が出るのも野外のビールフェスみたいな感じなんだろうか。


 ……という認識が甘かったことをほどなく思い知らされることとなる。

 電車を降りて歩くことしばし、地下鉄のホームから見たこともない脇道に逸れ、錆の塊めいた螺旋階段を降りて降りて降りた果てに小さなドアがある。
 地下鉄さえ頭の遥か上を走るこの謎空間で、高垣さんはあっさりドアを開けた。

「……なんだ、これ」


 一気に視界が開けたかと思えば、空があった。


 石敷きの長い参道が果てしなく伸びて、巨大な鳥居で等間隔に区切られている。
 道の左右に並ぶのは、縁日を想起させる色とりどりの出店。

 小さなものは移動販売車から、大きなものではサーカスに使われる大型テントまで。
 道脇の広場では移動遊園地が展開されていて、観覧車やメリーゴーラウンドが煌びやかに回っていた。

 暮れなずむ紫色の空は雲ひとつ無くて、中天に満月が冴え、ぽつぽつと星が生まれていた。


「これが、夜市です」

 ここは異境か?
 これは現実か?

 夜市はかなり賑やかだった。参道は人でごった返し、月夜の下でカラフルな提灯が揺れる。
 万華鏡に放り込まれたような気がして目がくらんだ。

 高垣さんは一歩先んじて、いたずらっぽく忠告した。

「離れないでくださいね。慣れてないうちに迷子になると、二度と出られないかもしれませんから」

 ここがどんな場所であれ、その忠告にはかなりの説得力があるように思えた。
 俺は慌てて彼女の背を追い、人の流れに飛び込む。


   〇


 ふと鼻先をくすぐる良い香り。食べ物ではない。これは、花の香だろう。

 見れば参道の脇が花畑になっている。
 一瞬面食らったが、実際には、そう思ってしまうほど多種多様の花が並べられているのだった。


「こんばんはっ」


 中心にショートヘアの女の子が座っている。
 目が合うなり「にぱっ」と笑う彼女に、高垣さんが親しげな会釈を返す。

「こんばんは、お花屋さん。いい夜ですねぇ」
「あ、カナリヤさんも来てたんだ! ほんと、明るくて素敵な夜ですねっ」

 花屋さん……は、この少女のことだろう。

 だけど、カナリヤ?


 高垣さんのことだろうか。
 いまいち腑に落ちない俺に、高垣さんが耳打ちする。

「ここではみんな、屋号やあだ名で呼び合う決まりなんです」
「あだ名……ですか?」
「表社会での立場やお仕事に縛られず、みんな平等に楽しむ……。夜市を統括する総代の計らいなんですよ」

「そっちのお兄さんは見ない顔だね。ひょっとして初めてさんなのかな?」

「え、ああ、うん。正直何が何やらわかってないんだけど……」
「そっかぁ。それじゃ、私があだ名を付けてもいいかなっ?」

 人懐っこいにこにこ顔で、花屋さん。
 隣を見ると、高垣さん的にもOKのようだ。
 それならばとお願いしたところ、花屋さんは顎に手を当てて思案を巡らせた。


「う~~~~ん。そうだなぁ……男の人のあだ名って、どんなのがいいかなぁ……」
「あ、そんなに凝ったのじゃなくても大丈夫だけど……」
「鞄を持ってるから……かばんさん……」
「どこかで聞いた気がする」
「カナリヤさんのお友達だから、スズメさん?」
「鳥縛り?」
「げろしゃぶか、フーミン……」
「嫌だ嫌だ嫌だそれは絶対嫌だ」

 あっ。

 と思い立った花屋さん、両手をぱちんと合わせる。

「それじゃあ、クロさんなんてどうかなっ」
「クロ?」
「ほら、着てるスーツが黒いから♪」

 想像以上にストレートな由来だった。
 高垣さんと花屋さん二人して、新たに付いたあだ名を口の中で転がしてみる。

「クロさん、クロさん……うんっ。いいと思うなっ!」
「そうですね。仔犬さんみたいで、かわいらしいわ♪」
「仔犬ってガラじゃありませんけどね……」

 ともあれ、確かにわかりやすい。
 夜市では俺は「クロさん」。郷に入りては郷に従い、そう名乗るとしようか。


「さっそく……お花をひとつどうかな、クロさんっ♪」

 ぱ、と両手をいっぱいに広げる花屋さん。
 俺は花には詳しくないが、ちょっと見ないような変わり種がたくさんある。

 海外産とかだろうか? 店主はどう見ても学生だし、趣味の延長でやっているとしてもかなりの幅の広さだ。

「っと、これは……?」

 小さな鉢に植えられた、真っ赤なチューリップみたいな花がある。
 手乗りサイズだ。何故か気になり、促されるまま手に取ってみる。

「それはね、うえきちゃんっていうんだっ」
「うえきちゃん……。チューリップとは違うのかな」
「育てばすごく立派になるんだよっ。二メートルくらい♪」
「そんなに!?」

 しかもよくよく見れば、なんか顔みたいなものがあった。

 育つにつれてはっきりしてくるというが……人面花?
 うさんくさすぎないか?

「うーん……でもそんなに大きくなるなら、置き場所がなぁ」
「30円だよっ」

 やっす。買うわ。


   〇


 次に通りかかったのは、所狭しと古書の敷き詰められた四角いテントだった。
 そんな「本の要塞」とでも言うべき空間の中心で、黒髪の女性が黙々と読書している。

「こんばんは、古本屋さん」
「……あ……カナリヤさん。こんばんは……お久しぶりです」

 なるほど古本屋か。
 彼女自身相当な本好きのようで、言葉を交わしながらもページをめくる手が止まらない。

「今日は叔父様は留守なんですか?」
「稀少本を求めて、ストックホルムの古本市へ……。半月は帰ってこないものと思われます」

 ちら、と顔を上げた時、彼女の目元を覆う厚い前髪が払われる。
 綺麗な青色の瞳だった。

 高垣さんの、深い泉の底のような色とはまた違う、夏空を写し取ったかのような鮮やかな青。
 身だしなみにはとんと関心がなさそうだが、かなりの美人だ。それこそモデル部門のスカウトが見たら黙っていないだろう。


 その青い瞳がこちらを向いて、ようやく俺の存在に気付いたようだった。

「……そちらの方は……?」
「クロさんといいます。このところ、よくお酒をご一緒してもらってるんですよ」
「そうでしたか……。初めまして……本来は叔父の古書店ですが、不在ですので、私が代理に立っています」
「ああ、これはどうもご丁寧に」

 お互いに、ぺこー。

 なるほど古本はフリーマーケットの定番。
 しかしこの規模となると、本業として表に店を持っていてもおかしくない。

 と、見ている前で古本屋さんはなにやらそわそわしだした。

「……クロさんは……このところ、夢はご覧になられますか?」
「え? ああ……ええと。いや、最近はとんとご無沙汰かな」

 嘘だ。
 近頃、よく悪い夢を見る。
 昔のことを思い出すことが多いからだろう。忘れるよう努めていても、寝ている間の無意識はどうしようもない。


 古本屋さんはなにやら難しい顔をして、俺の健康状態を案じているようだった。
 まさか勘付かれた? いや……まさかな。

「そう、ですか。……いえ……あまり、良質な睡眠を取られていないようですから……気になってしまい……」

 ぎくっとした。
 曖昧に笑って返す。目の下に隈でもあっただろうか。

「……その。もしよろしければ、これを……お近づきのしるしとお考えください」

 と、ハードカバーの本を渡してくれる。
 財布を出そうとしたが、代金はいらないとのことだった。
 ここは厚意に甘えることとし、表紙をめくって呆気に取られた。

 何も記されていない。

 上等な本らしく紙質がかなり良いものの、これほど分厚いのに肝心の中身がゼロとは。
 これじゃ豪華な自由帳だ。


「……夢日記に、お使いください」
「夢日記?」
「何か夢をご覧になり……もしそれが忘れたいものであれば……この本に、書き記してください」
「そうすると、どうなるんだ……?」

 古本屋さんは口元を押さえ、綺麗な目をすっと細めた。

「……悪いようには……いたしませんので……」

 えっ怖っ。
 け、けどまあ、貰っておこう。
 古本屋さんが俺の方を見て「こくん」と小さく喉を鳴らしたのには、気付かなかったことにした。


   〇


「カナリヤさんっ」


 と、声がかかる。

 次に出会ったのは、ゆるゆるでふわっとした感じの女の子。
 色とりどりの出店の中で、彼女の店は一段と質素だった。

 小さなグリーンのレジャーシートに、花飾りを施した籠バッグ。細部まで行き届いた手作りのディスプレイ。

 並んでいるのは、小さなフレームに綴じられた写真の数々だ。

「あら、写真屋さん。今夜はお店を出していたのですね」
「ええ、なんだか良いことが起こるような気がして……」

 トイカメラを使ったようで、写真自体はチープなものだが、その一枚一枚に不思議な魅力があった。
 路地裏、空、電柱、菜の花畑、小さな黒猫、ピースサインの子供たち……それぞれが本物のような空気感を秘めている。

 まるで彼女が出会った瞬間を、そのまま切り取って持ってきたかのような。

 その中心で、彼女の笑顔は陽だまりのようだ。
 見たところ女子高生くらいだろうか。ずっと年下のはずだが、えもいわれぬ安心感と包容力をもたらしてくれる。


「予感、当たってました。久しぶりにカナリヤさんと会えましたから」
「あら、嬉しいわ。ありがとう♪」

 こっちも自己紹介はしておくべきだろう。

「どうも、ええと……クロです」
「今日初めてこちらに来られたんですよ」
「わぁ、そうなんですか!」

 ぱぁっと写真屋さんの表情が華やぐ。人懐っこい仔猫みたいだなと思う。
 彼女は何か思いついたようで、首から提げていたレザーケース入りのトイカメラを掲げる。


「それじゃあ記念に一枚どうですか? カナリヤさんとクロさん、二人並んで♪」


 記念……か。確かに悪くはないかもしれない。
 というか選択の余地が無かった。
 おっとりしているように見えてこうと決めればグイグイいくタイプらしく、写真屋さんはいそいそと二人を並べさせ、
 さっそくカメラを構えてしまう。高垣さんも乗り気なようだ。

「それじゃ撮りますよ。笑ってくださーいっ」

 笑うといったって。
 戸惑って、つい隣の高垣さんを見てしまう。彼女は小首を傾げ、鷹揚に「どうぞ」というようなジェスチャーを見せた。

 ……頑張ってみるか。


「――ぱしゃりっ」

 いざ撮られてみれば、まあなんともぎこちない面構えになってしまった。
 そういう形に表情筋を使ったのは物凄く久々な気がする。
 一方で高垣さんは流石に撮られ慣れしていて、笑顔もポーズも、横から見惚れるくらい決まっていた。


 ……これ、俺の存在が邪魔じゃないか?
 高垣楓のプライベートポートレートとか、出すところに出せば結構な値が付くぞ。

「うん、すてきなツーショットですっ」

 マジでか。

「現像できたらお渡ししますね。楽しみにしていてください♪」

 それはすなわち、「また会いましょう」という約束でもある。
 なんとなく、そうか、と思った。彼女が写真を好きな理由に。

 景色を切り取るだけでなく、こうして交流して、形に残して、それを渡して。

 そうした人と人、人と物との繋がり自体が、この子はきっと好きなのだろう。


   〇


 他にも色々な店があった。

 テントとは思えない本格的な洋菓子店。年代物を取りそろえたレコード店。色とりどりの古着屋。
 屋台食堂、おもちゃ屋、レトロゲーム屋、情報屋(?)、着ぐるみ屋(??)――などなど。

 宝石箱をひっくり返したような色どりの中を泳ぎ渡り、高垣さんは参道の果てを指差す。

 そこは境内のような広場で、多くの人が集まり、それぞれの時間を楽しんでいる。
 中心には馬鹿でかい桜の木があってまた驚かされた。


「満開……ですね。もう夏なのに……?」
「あの桜が、夜市の中心です。――少し挨拶をしたい人がいるんです」


 桜の下には卓と椅子が並んでいた。
 小さくは一人席、大きいものだと六人掛けのテーブルが配置され、人々が桜吹雪の中でお茶を飲んでいる。


 その最も奥まった席に、一人の女性が座っていた。


 蓄音機から流れるオールディーズに耳を傾け、下世話なパルプ雑誌を学術的目付きでめくる女性。
 片手のワイングラスでは鳩の血色の液体がゆらゆら揺れる。

 大胆にはだけた胸元で、宝石のペンダントが上品に光っていた。

 楓さんは彼女の前に立って居住まいを正す。
 ふわっと風の揺れる気配を感じて、女性は眼だけでこちらを見上げた。


「ご無沙汰しております、総代」



 女性――「総代」は顔を上げ、ゆったりと微笑んだ。


「言ったでしょう楓ちゃん? 私とあなたの間で、あだ名は無しだって」
「そうでしたね。ごめんなさい――志乃さん」


 志乃、と呼ばれたその女性は、続いて俺に視線を移す。

 数千年の時を超えた琥珀のような色の瞳は、俺の頭の中までも見通している気がした。
 まだ何も話していないのに、彼女はこう言った。


「はじめまして。あなたが、楓ちゃんの新しいお友達ね?」


   〇


 そこからがもう凄かった。
 二人差し向いに座り、ものすごいペースで酒を飲み交わす。

 ビールにワインに日本酒に焼酎……どこからこんなに出るのかというほどの酒量を、
 二人はまるで当然といった顔で飲み干してのける。

 こっちはついていくだけで精一杯だ。
 高垣さんは俺と飲む時にはセーブしていたらしいという恐るべき事実が明らかになった。

「――で――だから――」
「そうですね――は――から――」
「――――なの――――するのは――」

 途切れ途切れの会話を追うこともできない。机に突っ伏しても重力を感じなかった。
 辛うじて空けた最後のグラスを片手に、重い眠気にも似た酩酊感に身をゆだねる。

 不意に目の前に、淹れたて熱々のコーヒーが置かれた。
 それでいくらか意識が引き戻され、苦労して上体を起こすと、マスターが気遣わしげに俺を見下ろしていた。


 そう、その人は「マスター」と呼ばれていた。

 多分喫茶店のそれをイメージしているのだろう。
 彼女は桜舞う真夏のオープンカフェを一手に引き受け、思い思いの時間を楽しむ人々にドリンクや軽食を提供しているのだった。

 もっとも、高垣さんと柊さんは酒しか飲まないのだが。
 もしかしてマスターは無限の酒樽でも持っているんじゃないだろうか。


「大丈夫?」
「ああ……すみません。コーヒー、いただきます……」
「二人とも普通のペースじゃないから、ついていこうとしたら駄目よ。それを飲んで一息ついて」


 ブラックのまま一口含むと、さっきよりは視界がクリアになる。

 改めてマスターと目を合わせた時、考える前に言葉が口をついて出た。


「……どこかで、お会いしました?」



 対するマスターは首を捻るばかり。

「……そうかしら?」
「いや、すみませんなんでもないです。あーいかんいかん酔ってるな……」

 別のテーブルからお呼びがかかる。マスターはそちらに返事して、

「あまり無理をしないでね」

 一言そう言い含め、接客に戻っていった。


 気付けば高垣さんと柊さんがこっちを見ていた。

「な、なんですか」
「『どこかで会ったか』……なんて、ずいぶん古典的な手を使うのね?」
「移り気な人ですね。そんなだと、これからクロうしますよ……ふふっ」

 さっそく人のあだ名をダジャレに使われた。
 なにやら急にばつが悪くなって、むっつりとコーヒーを啜る。
 マシになったとはいえまだまだ酔っている。そんな男一人をよそに、二人はまた新たなグラスを手に取った。

「……話はわかったわ。ここは私の庭だもの。ここで起きることに、何の心配もいらないわよ」
「ありがとうございます。やっぱり、志乃さんと話していると安心します」

 俺がくたばっている間に大事な話をしていたのだろうか。
 どのみち知る由もないのだが。



「代わり、といってはなんだけれど」

 グラスの中にワインを転がし、柊さんはひとつ提案する。


「久しぶりに、楓ちゃんの歌が聴きたいわ」
 


 
 歌?


 提案を受け、高垣さんは困ったような顔をした。

「歌は……もう長いこと、歌っていませんから」
「忘れたわけではないでしょう?」

 この人は、歌を歌っていたのだろうか。
 そんな話は聞かない。少なくともモデルは沈黙を是とするものだ。

 着飾られ、ポーズと表情を作り、写真に納まる。
 モデルとは切り取られた存在だ。束の間の一枚絵を残し、そこで完結する。
 まるでマネキンのように。そこに音は要らない。

「……俺も、興味があります」

 これも酔いのせいか、思いつくままに言ってしまっていた。
 高垣さんは目を伏せ、しばし何かを考えているようだった。



「夜市の歌姫が空席で、寂しいのよ。クロさんもこう言っていることだし……どうかしら?」

 思いのほか長い時間をかけ、高垣さんはグラスのワインを飲み干して。

 志乃さんの頼みでしたら――と、重い腰を上げた。


 歩み出て一礼。柊さんの小さな拍手。


 ふたたび顔を上げた時、高垣さんの顔付きは変わっていた。


 ほのかに赤く緩んだものから、打って変わって静謐な表情に。
 漂う酒気や周囲の喧騒を余さず吸い込むように、胸元を小さく膨らませて。





 最初の一声で、酔いが醒めた。







 彼女の歌には「色」があった。



 たとえば、夜気を震わす声の波紋。応じて生まれるささやかな風。揺れる花弁と、たゆたう光の提灯たち。

 声に振り返る他の客、耳に染みて広がる笑顔、小さく唱和される童謡のワンフレーズ。

 形を持たず、目にも見えず、だが確かに存在する。


 彼女を中心に波及し、何もかもを塗り替える清(さや)かな音の色が。




 誰もがそこにいて、声を聞いていた。

 グラスを傾ける柊さんも、カップを磨くマスターも、ハーブティーを楽しむ花屋さんも、文庫本をめくる古本屋さんも、
 野良猫と遊ぶ写真屋さんも、大人も子供も、一時それぞれの手を止めて、すべての意識を一ヶ所に注ぐ。

 桜の巨木の根元に立つ歌姫は、今やこの明るい夜の中心だ。

 
 世界が彩られる音に灼(や)かれて、俺はただ、呆然としていた。


 歌い終えて頭を下げる高垣さんに気付きもしなかった。
 今度こそ破裂する万雷の拍手で我に返り、コーヒーがぬるくなっていることにようやく気付く。



 顔を上げ、はにかんだような顔をする彼女は、すっかりいつも通りの高垣さんだった。



   〇


「カナリヤというあだ名は、彼女が歌うのをやめたことから付いたの」

 人々に取り囲まれる高垣さんを見ながら、柊さんは小さく言った。

「口を噤んで、一羽きりで自由に飛ぶ鳥。彼女がそれでいいならと、何も言わなかったけれど……」

 また琥珀色の眼がこちらを向く。
 何もかも見透かされるようでいて、奇妙に安心する不思議な瞳だった。

「実のところ少し驚いているの。あの子がここに人を連れてくるなんてこと、無かったから」

 俺はといえば、頭の芯が余韻でまだ痺れていた。
 カップに残ったコーヒーを一気飲みして、かねてから気になっていたことを勢いのままに問う。



「あの人は何者なんですか? 空は飛ぶわ、こんな場所は知ってるわ、これじゃまるで……」

「楓ちゃんは人間よ。私が保障するわ」



 柊さんは即答した。
 と、弱りきった高垣さんの声がかかる。
 見ると感激した他の客に殺到され、押し合いへし合い握手したりハグされたりの彼女がこちらに助けを求めている。

 たくさんの人と接するのは苦手らしい。柊さんはそれさえも楽しんでいるように、俺を促した。


「行ってあげて。けどあまり深入りしてはいけないわよ」


 言葉の意味はよくわからなかった。
 気にはなるが、高垣さんを放っておくのも憚られたので、彼女のもとに向かうことにした。
 黒山の人だかりをかき分けて手を伸ばすと、藁をも掴むように握り返してくる。

 ぐいっと引いて救出するや、高垣さんは俺ごと桜のてっぺんに飛び上がってしまう。


「――ああ、びっくりした」

 やんややんやと囃し立てる酔客たち。
 桜の雲の下には、参道で会ったお店の子たちがちらほらいて、こちらを見上げていた。
 写真屋さんが小さく手を振るのが見えた。

「凄かったです」

 我ながらもうちょっと褒める語彙が無いものかと思うが。

「ありがとうございます。歌うのは久しぶりでしたが――」

 もみくちゃにされ、乱れ気味の髪を手櫛で直す高垣さん。
 歌うことよりも人に囲まれることに緊張したと見えて、息を整える姿はいつもの彼女らしからぬものだ。

「たまには、いいのかもしれません」



 彼女は自分の歌を、たまにやる余興程度のものだと思っている。

 とんでもない。

 この人なら、と俺は思う。


 もしかしたらこの人なら、永遠でいられるのではないか。


 脳裏に蘇るのは、連なる人形たちの悪い夢。



  ◆◆◆◆


「わかってるわ。最悪の場合、私が引き受けるとしましょう」

「ごめんなさい。私だけでは、きっと制御できませんから……」

「見ていればわかるわよ。楓ちゃんのそんな顔を見るのは久しぶりだもの」

「……あの人は、きっと迷っているんだと思います」

「怖いのね?」

「…………」

「いいの。長い付き合いだもの。あなたのことは、わかるつもりよ」

「……お願いします。もし……もし私が、駄目になってしまったら」


「ええ。夜市総代の名において、あなたと彼を遠ざけることを誓うわ。……永遠にね」



  【 夏 ― 終 】

一旦切ります。
所用につき、また何日か更新が滞ることになると思います。すみません。


  【 秋 : 私に気付いて 】


 風が涼気を運び、夜はより深くなる。
 夏の残り香が過ぎ去る頃、木々は日を追うごとに色付いていった。


 秋が来た。


 346プロアイドル部門は、加速度的にその規模を拡大化させていた。

 所属アイドルのCDデビュー、テレビ出演、ライブステージ。
 老舗の持てる人脈やノウハウをフルに活用し、舞台は順調に整っている。

 多くのファンたちの目線は今、346プロに向いてきている。
 この流れを絶やしてはいけない。
 今が頑張りどころだ。所属アイドルは各担当プロデューサーと一丸となり、お城への階段を駆け上がっていった。


 ちなみに俺は、そうした流れにめちゃくちゃ反逆している。


   〇


 空けたスタドリも八本目だ。
 とにかく脳みそが動くうちにやるしかない。

 頭に叩き込んだアイディアやプランや方便をとにかく盛り込んで、止まれば死ぬ勢いでキーボードを叩いている。


「おはようござー……って何してるんですか?」
「おはようございます千川さんお気になさらず」
「気にするなと言われましても……うわ凄い顔!」
「俺そんな酷い顔してます?」
「マスプラ楽曲フルコンするまで帰れま10って顔してますよ」

 そんなに。

 ただまあ、キリのいいところではある。
 千川さんにもドン引きされてしまったことだし、ここらで仕上げといこう。

 後ろからモニタを覗き込まれながら、キメのエンター。保存し、印刷し、用意していた封筒に入れる。

「それ、何作ってるんです?」

 現行の仕事の関係書類ではない。
 まして、誰かに言われたものでもない。
 

「企画書です」



   〇


「――本気ですか、それ?」
「本気です。目下の俺の最終目標です」

 最終って――千川さんが口の動きだけで復唱し、困ったような顔をした。

「……それはまた、思い切りましたねぇ」
「事務も並行して処理します。千川さんに手間かけさせることはありませんよ」

 多少バタつくことは予想されるが、それも最初のうち。
 うまいこと走り出してしまえば、あとは海千山千の346プロがどうとでもしてくれるだろう。

 要は、「彼女」のポテンシャルを会社に気付かせればいいのだ。

 千川さんはそれでもいまいちピンと来ていないようだった。
 企画書をもう一度読み返し、ずっと気になっていたであろうことを問う。


「……これは、アイドルじゃいけなかったんですか?」


「駄目ですよ」
「どうして?」
「第一にまだ余裕が無い。今のところ順調とはいえ、できて日の浅い部門ですし、どこも手が空いてません」
「確かにそうですが……。では、第二には?」
「活動内容が煩雑すぎる。多様性も善し悪しです。イメージとは違う仕事をやることもあります」
「そこがアイドルの良い点ですよ。活躍の場を選ばないことで、色んな可能性を……」

「それじゃいけないんです!」

 思わず声を荒げてしまい、千川さんの肩が小さく跳ねた。
 ……しまった。
 すぐ我に返る。驚かせてしまってどうするんだ。


「すみません。ただ、なんというか……その。アイドルは、リスクが大きくて」
「リスクなんて、どこで活動しても同じじゃないですか」
「違います! アイドルは、違うんです。あれは……明日には、何が起こるかわからない。そんな世界でしょう」

 リスクこそ大敵だ。地ならしの済んでいない道を避けるのもひとつの選択だろう。
 考えうる限り最も大きな失敗を、一度この目で見てきたんだ。
 
 熟慮に熟慮を重ねた結果だった。

 なのに千川さんは、複雑そうな表情を変えることがない。

「……そんなPさん、初めて見ましたよ」

「え……」
「私には、あなたが何かを恐れているみたいに見えます」

 予想だにしない切り込み方に、一瞬硬直する。
 だけどこれが最適解に違いない。
 どう思われようと、ここまで来たらやるしかないんだ。



 千川さんはそれ以上、何も言おうとしなかった。
 あとは実物を見てわかってもらうしかない。書類をまとめ、会釈して事務所を後にする。

「最後に、もう一つ聞いていいですか?」

 ドアを開けた時、後ろから千川さんの声がかかった。

「……何です?」
「その企画が本当に走り出したら、Pさんはどうするんですか?」

 愚問だ。それこそ考えるまでもない。

「どうもしません。最初のきっかけを作って、ベテランにパスするだけです」

 イメージ的に。諸々の手続き的に。
 ここから先、一切のノイズがあるべきではない。身の程をわきまえなければならない。

 なんとなればこの346の城において、俺はただの使用人でしかないのだから。


「高垣さんの今後の活動に、俺が介入するべきじゃないんですよ」

 ――「するべきじゃない」だと?
 ――「するのが怖い」の間違いじゃないのか、臆病者め。

 脳裏をよぎる自分の声に耳を塞ぐ。もう前しか見ていない。


「……そこに、あなたがいないんじゃありませんか」


 彼女の呟きはドアに阻まれ、俺の耳には届かなかった。


  ◆◆◆◆


 モデル部門の高垣楓を、一時アーティスト部門で活動させる。


 企画の要はそこにあった。

 目星はついている。数々の歌手を大成させたベテランの音楽プロデューサーが我が社に在籍している。
 そのうち一人とは面識もあった。確か彼は今、育てきった担当アーティストにセルフプロデュースを任せ、一時に比べて手が空いているはずだ。
 アイドル部門に負けないよう、そちら方面の盛り上がりも欲しいに違いない。
 高垣さんは絶好の才能。まさに金の卵だ。

 モデルから電撃転向、音楽シーンに彗星のように現れた歌姫。
 話題性は十分だろう。高垣さんのネームバリューは既に社内外で無視できないほど大きい。
 いかにも異色な転身だが、勝算は十二分にある。
 潮目を見ればモデル部門に戻ればいい。退路は十分に確保しているし、そうなった場合でもモデル活動に箔が付くだろう。


 まだみんな知らないだけだ。彼女の歌声がどんなものなのか。


 あなたは、ただのモデルに甘んじていていい人ではない。
 その歌を広く世間に知らしめるべきだ。
 一過性の、一山いくらの芸能人なんか目じゃない。間違いなくショービズの歴史に深い爪痕を残せる。

 一声歌えば、きっと誰も、あなたのことを忘れない。

 まさに、美しい城の歌姫に。いかに時代が変わろうとも、永く記憶に残り続ける「解けない魔法」に。
 いつか見た悪い夢も払拭する、褪せない色を、もしかしたら――。

 半分は願望に近かった。

 けれど、そういう存在になれると思ったから。


 次に会った時、俺は高垣さんに全てを話した。
 あとは彼女の了解だけだったし、決して悪い話ではない。モデル時代の何倍、いや何十倍ものギャラが入るに違いない。

 きっと受けてくれるはずだ。これまでになく熱を持った俺の説明を、高垣さんは静かに聞いていた。




 すべて聞き届け、にっこり笑って答える。


「まっぴらごめんです♪」



  ◆◆◆◆


「……お~~いPよぉ。なぁに辛気くせぇツラしてんだお前よぉ」
「いや、ていうかペースおかしくないか? なんかあった……?」

「…………なんでもないっす」

 飲んだくれている。
 せっかく都合の合ったタクさんとヨネさんを前にしても、気分はいっかな持ち直さなかった。
 さすがに放っておけず、タクさんが冗談めかして水を向けてくる。

「ひょっとしてアレか? 振られたか?」
「ぶッッ」
「ちょっ、タクさん!?」

 彼としても軽い気持ちで言ったに違いないが、思いのほかそれが刺さった。
 いや振られたとかではないんだが。
 いやいや言いようによってはそうでもあるかもだが。
 そこらへんのアレコレが逆流して、むせた酒が鼻にまで入った。


 言い訳無用の有様に、言った方がむしろ恐る恐る、

「…………え~とあの、図星スか? マジのやつ?」
「タクさん、今のはマズかったって……! オレも一緒に謝るからほら……!」
「いや……いいんです大丈夫です。想像してる通りじゃないけど、まあ、似たようなモンです」

 二人揃って「あらら~……」って顔をされた。

「……まあ元気出せや。女なんて星の数だぜ」
「い、いやオレもさ、よく子供っぽく見られてさ! 振られる気持ちもわかるっていうか、わは、わはは!」

 気遣いがやたら染みる。
 だからではないが、ついつい疑念が口をついて出てしまった。

「……何が、いけなかったんだろう」
「ん~~~まあ大体カネじゃねぇの、オンナってなそのへんシビアだからよ。それかアレだな、ナニの具合が」
「タクさん!」
「ひががががが痛(ひた)い痛い痛いなにひやがんだヨネてめへぇぇえ」


 金? 金は問題ない。これほど良い儲け話も無い。
 実力への不安など言うも愚か。あんなに綺麗な歌声は今まで聞いたこともないんだ。
 一体、何が嫌だったのか――――


 ――カナリヤというあだ名は、彼女が歌うのをやめたことから付いたの。

 
 総代の……柊志乃さんの言葉が、脳裏に蘇る。
 あの夜は酔っていたせいで深く考えもしなかった。

 高垣さんは、歌うのが嫌いなんだろうか?
 だとしたら何故?
 あんなに……聞き惚れるような、素晴らしい声を持っているというのに。
 他の客だって魅了された。彼女を知る人は、みんな彼女の歌を心待ちにしていた感じでさえある。



「聞いてみないと……」
「ん? お? 何を?」
「なあPさんさ、あんま引きずるもんじゃないって。な? ほらオレたちも付き合うからさ」
「おーそうだそうだこの後吉原行こうぜ吉原、俺様が奢ってや……おい聞いてんのか? ……あ、寝てる」

「…………」

 聞いてみないと。
 それだけを思いながら、沼のような眠りに落ちて、この夜は終わった。


  ◆◆◆◆


 高垣さんとはあれ以来会っていない。

 もともと頻繁に会う約束を交わすような間柄ではなかった。日常的に連絡を取り合うわけでもない。
 それにあんなことがあった後だから、なんとなく顔を見せるのは憚られた。

 そこで俺は、別の場所に目を向けた。

 夜市だ。

 本人でなくとも、高垣さんのことをよく知る人たちなら。
 たとえばそう、柊さんだったら詳しいかもしれない。
 そうして、高垣さんが歌わない理由、あるいは過去、彼女が何を思うかなどを知ることができれば。

 断られたんだからさっさと引き下がるなんて考えは、どうしたことか、その時はさっぱり無かった。


 かくして俺は仕事終わりに夜の街に繰り出し、例の「夜市」を探してみるのだが…………。


「…………見つかんねぇ!!」

 というか、いつどこでどれくらい行われているのか。
 そんなことさえも知らないままだったのだ。

 それに行き先だって謎にもほどがある。
 あの地下鉄の謎空間、記憶にある限りの道筋をトレースしてもさっぱりだったし。

 いよいよ往生した。
 そもそもからして、こっちは凡人。
 高垣さんに手を引かれなければ、不思議のフの字にもまるっきり縁がないんだと思い知らされて、


「あら?」


 聞き覚えのある声に、振り返る。
 街灯に照らされた道の向こう、買い物袋を提げた女性が立っている。

 その姿に見覚えがあった。想起されるのは、酔っ払いの頭にもくっきり残った、かぐわしいコーヒーの香り。

 彼女は――


「……マスター?」
「ええと……クロさん、で良かったのよね?」

一旦切ります。
ちょっと引っ越し等色々あって更新滞っておりました。すみません。
ぼちぼち再開していきたいです。


 マスターが言うには、夜市の開催には「サイン」があるのだという。


 それは十分な観察力と、ある種の慣れが無ければ見抜けない。

 たとえば、意味ありげにこちらを見て鳴く黒猫。
 風の流れと真逆に飛ぶ一枚の枯れ葉。
 海でもないのに聞こえる波音。
 同じ方向を見ている電線のスズメ。

 そうした少しずつ生じた綻びのような常識の「ずれ」を追えば、果てに入口があると。


「見方がわかれば、そんなに難しくはないの。私でも追えるくらいだから」

 赤く色づいた並木道がライトアップされている。
 どこかから金木犀の香りがする中で、マスターは迷わず歩を進めた。

 彼女もちょうど夜市に行くところで、買い物袋は向こうで作る軽食の材料だという。
 歩みはやがて路地へ入り、狭い路地を右へ、左へ……。
 進んでいく中、マスターが肩越しにこちらを振り返った。

「それにしても、今日は一人なのね。カナリヤさんは一緒じゃないの?」
「ああ、いえ、なんというか」

 ありのまま説明するのも気恥ずかしくなり、

「……色々ありまして、はい」

 誤魔化せたつもりだが、マスターは何をどう解釈したのかくすくすと笑った。

「二人とも、隅に置けないのね」
「ぬぁ!? ち、違いますからね!? そういうのじゃなくて……!」

 何を言っても柳に風だった。
 すっかり自分の中で何か結論を出してしまったらしく、マスターはどこか上機嫌そうに歩を進める。


「けど、良かった」
「何がですか?」
「カナリヤさん、あまり人付き合いが得意な方ではないから。あなたみたいなお相手ができて嬉しいと思うの。大事にしてあげてね?」

 だからそういうのでは。
 なおも反論しようとしたところ、マスターが夜市へ通ずる扉を開く。
 今回のそれは、路地の奥の奥にぽつんと鎮座する稲荷明神だった。


 小さな祠の軋む木戸を開けば、その向こうには提灯が並ぶあの参道。

 二度目だが、また唖然とした。多分何度訪れても慣れない気がする。
 街中で突如出現した異空間に踏み入り、マスターはこちらに手を差し伸べる。


「総代に用があるんでしょう? こっちが近道よ、ついてきて」

 頷いて手を取り、色鮮やかな夜の中へ。
 彼女の手は暖かく、ほっそりしていて、けれど少し荒れていた。
 傷付いて分厚くなった表皮と、ところどころにできたタコ。働き者の手だ、と俺は思う。


   ○


 あの巨大な桜は、十月を過ぎても満開だった。
 永遠に咲き誇ったままなのかもしれない。

 柊志乃さんはその根元近くのカフェテーブルで、一人優雅にワインを嗜んでいる。


「あら……。今日は、一人で来られたの?」

 柊さんは意外そうな顔をする。
 続いて視線がマスターに移って、それで合点がいったようだった。

「私が案内しました。あなたに用があるようだったから……」
「そうだったの。優しいのね」
「放っておけなかっただけですよ」

 眉をハの字にして、どこか困ったように笑むマスター。
 小さく俺に「頑張ってね」と言い残し、自分の仕事に戻っていく。
 その背中に一礼して、俺は柊さんと正対した。


「聞きたいことがあるんです」


 ここ数週間で起こったことを、全部話した。
 俺の決意。進めていた企画。その理由と思惑。

 もちろん、けんもほろろに断られたことも。

 彼女はどうして歌を嫌うのか。あれほどの才能を持ちながら、自ら望んで持ち腐れているのは何故か。
「歌わないカナリヤ」と旧知らしき柊さんならば、あるいは知っているのかもしれない。

 柊さんは最後まで黙って話を聞いていた。

 やがてグラスのワインを軽く回し、上品に口に含んで、語り始める。


「彼女の歌には、魔力があるのよ」

 最初はもののたとえだと思った。
 けれど、ただそれだけとは断言しきれない得体の知れない説得力もあった。

「楓ちゃんの声は、耳にする者すべてを引きつける……人も、鳥獣も、虫魚も草木も、みんな。
 だからこそ誰も放っておかないの。誰もが何度も聞きたがり、あるいは独占したがり……あるいは、利用したがる」

 最後の方は、明らかに俺を見ながら言っていた。

「り、利用だなんて、俺はそんな……!」
「本当にそう言い切れる? 俗物的な私利私欲のためではないとしても、あなたの行動は本当に『楓ちゃんのため』にしたことなの?」


 即答は……できなかった。

 ただ、彼女の才能を惜しく思ったから。
 存分に発揮できる場所を用意して「あげたかった」。
 そうすることで俺自身が彼女にどうこうとか、何か美味い汁を吸おうだなんて思ったことはない。だが。

 そこに、自分自身のエゴが絡まないだなんて、心の底から言えるだろうか。


「私が言いたいのはね、クロさん。人には人の、相応の居場所があるということなの」


 いつの間にかワイングラスは空になっていた。
 柊さんは俺から視線を外さぬまま続ける。



「彼女は人の身ながら人の手に余る。神業、あるいは魔性のそれよ。だから歌さえ自ら封じたの」


「すべてを受け入れるこの夜市でさえ、あの子の居場所にはなりえなかった。あなた一人の手に負えないのは当然のことよ」


「だから、クロさん。楓ちゃんのことは放っておいて。どうか、好きにやらせてあげて欲しいの」


 幼子を諭すような、ひどく淡々とした口調。
 落ち着き払った彼女の姿に、似ても似つかぬ男の顔がダブる。

 同じような語り口で、同じようなことを言ったあいつの顔が。

「それは……ただの、諦めでしょう」

 十年前の古傷から、血の滲むような呪詛が漏れる。 

「諦めは悪いことではないわ。少なくとも、しがらみを振り払って、前へ進むひとつの契機にはなる」
「そんなのは詭弁だ!」

 がたんっ!

 蹴倒した椅子が地面に転がる。倒れる音が存外に大きく響いたが、気付きもしない。
 周囲の客も、こちらを見守るマスターも、冷たい目をした眼前の柊さんさえも、俺には気にする余裕が無い。

「居場所なんてどうにでもなるでしょう!? 能力さえあればそんなものいくらでもついてくる! わからないんですか!?」



 一気にまくし立て、肩で大きく息をする。
 柊さんはそれでも微動だにしなかった。
 琥珀色の瞳が下からこちらを見据え、心の裏側までも見透かして告げる。

「いいえ。居るべき場所は、その人自身の心で見つけるものよ」
「……それがもし、見つからなければ?」


 グラスを弄ぶ柊さんの表情には、遠く離れた友を想うような、穏やかな諦念が宿っている。


「どこかここではない遠くに、飛んでいってしまうのではないかしら。空に帰る天女みたいに」


 俺はもう何も言わずに踵を返した。
 話を続けようにも、無意味な気がした。彼女と俺とでは議論が平行線どころか、そもそもの論点から違う。

 去り際の背中に、柊さんの声がかかる。


「またいらっしゃい。ここは、あなたのような子のためにある場所だから」


  ◆◆◆◆


「人が悪いんですね、総代」

「そうかしら? 私はいつも通り飲んでるだけよ」

「本当に関わらせないつもりなら、カナリヤさんの歌を聴かせなかったはずでしょう?」

「…………」

「私も、諦めは悪いことではないと思います。それで別の生き方を見つけられるのなら……」

「……季節と同じよ。移ろいを受け入れて、その時々に咲く花を楽しめばいい。みんな難しく考えすぎだわ」

「ふふっ。神代桜と共にあるあなたが言いますか?」

「いやだわ、あまりいじめないで。志乃ちゃん泣いちゃう」


「楓ちゃんに言われたの。もし自分が抑えきれなくなったら、彼を頼むって」

「それでも、もしかしたら、と思っているんでしょう」

「……半々といったところね。何のことはないわ。結局、私も諦めきれていないのかも……」


  ◆◆◆◆


 やっぱりもう一度説得しよう。
 そう決意してからがまた大変だった。

 高垣さんは相変わらずモデル部門にいて、今何をしているのかを確かめるのは難しくなかった。

 ……だからといって、捕まえられるかどうかは別の話だ。

 そもそも高垣さんのプライベートを知っている人がまずいない。
 仕事が終わればふらっと消えて、のらりくらりと他者を躱す。

 スケジュールも微妙に合わず、掴めそうで掴めない尻尾の先を必死で追い続ける気分だ。


「ああもう! あの人野良猫かなんかか!?」
「苦戦してますねー」

 コーヒーカップを両手で持ちながら、千川さんはすっかり静観の構えだ。

「というかまだ諦めてなかったんだ。意外とガッツありますね」
「……そんなんじゃないです。ただなんというか、もう一回話くらいはしておかないとですね」
「そですか。Pさんが必死になってるとこ見るの初めてだから、なんか新鮮というか、割と笑えますね」

 こ、この女……。

 このところアイドル部門へのアシストに回ることが多い千川さんは、毎日の仕事をだいぶエンジョイしているっぽかった。
 デスクにアイドルグッズすげえ増えてるし。もはや半分ただのファンだろ。


「――これは極秘ちひろ情報なんですけどね」

 と、千川さんがデスクのうちわを手にする。

「高垣さんの居場所、知ってるかもしれない人がいるんですよ」
「! だ、誰ですか?」
「んーでもなー。個人情報ですからねー。それに私もちょっとお話した程度の人ですしー」
「教えてください。このままじゃ埒が明かん」

 ふふんと含み笑いを漏らし、うちわをはためかす千川さん。
 既に軌道に乗ったいくつかのアイドル部署では、所属するアイドルのグッズも結構な数出ている。

 彼女の顔は、そのうちわに描かれていた。多分ライブで配布されたグッズの余りだろう。


「第一芸能課の、川島瑞樹さんです」

一旦切ります。
更新遅くなってしまいすみません。秋はもうちょっと続きます。

 
  ◆◆◆◆


「楓ちゃん? ああ、何度か一緒に飲んだことがあるわね」


 川島さんとは、高垣さんを捕まえるより遥かに楽に接触できた。

「一度雑誌の撮影で一緒になったことがあってね。ほら私大阪から来たじゃない?
 あの子和歌山が地元だから、近いねーって意気投合したのよ」

 めちゃくちゃ気さくな人だった。おっそろしく話しやすい。
 菓子折りのひとつでも手渡すつもりだったのだが、「やっだぁそんなの気にしないでいいのよぉ!」ときたもんである。

 というか高垣さん、和歌山だったのか。全然意識したことがなかった。



「だけど、実家の話はしないわねぇ」

 地元トークはちょいちょいやるものの、彼女は話の核心には触れようとしないそうだ。
 川島さんは実家のことや関西あるあるを喋るのだが、高垣さんは「家」に話題が移ろうとするとスイッと話題を変えるのだという。


「なんだったかしら。確かすごく古いお屋敷だって聞いたけど……そこまでが限界ね。すらっと話が逸れて、おしまい」

 和歌山は土地の大部分が山間で占められ、古くから「木の国」と呼ばれているという。
 そこの旧家となれば、それこそ山岳の一つや二つは持っていたっておかしくなさそうだ。

 確かに高垣さんから故郷の話を聞いたことは一度も無い。
 けれど敢えて聞き出すものではないし、なんとなくそういうものだと思っていたのが正直なところだ。


 さて肝心の居場所なのだが、川島さんさえ掴み切れていないようだった。

 相談の結果、高垣さんのいそうな場所をいくつかリストアップしてもらった。
 確実ではないが十分だ。あとはタイミングの問題だろう。


 それからまた少し話し込んだ。
 持ち前の話しやすさもあってか、初対面なのにまったく緊張することがない。

「――あ、君って年下なの? あらやだ。職場の人が年下ってこと結構増えてきたわねー」

 川島さんの経歴は異色だった。
 アイドルになる前は大阪の準キー局で女子アナをしていたというのだから驚きだ。
 人気だってあったらしい。安定も安定、ド安定の仕事じゃないか。


「前の職場に不満があったわけじゃないのよ。人前で話すのは好きだし、人間関係も良かった。大阪だって好きだしね」
「でしたら、どうして?」
「うーん……なんて言えばいいのかしら」

 川島さんは少し考え込んで、

「見てみたくなったのよ」
「見て……?」


「新しい景色っていうのかな。こう……自分が立てる、自分だけの居場所から」


「自分だけの、居場所……」
「そ。人は誰だって自分が主人公だし、挑戦に年は関係ない。でしょ?」

 川島さんは、茶目っ気たっぷりにウインクをしてみせた。

「あとはうちのプロデューサー君が熱くてねぇ。彼が大阪出張の時に出会ったんだけど、是非とも新しい挑戦をしてみませんか! って。
 それで私、こらもう応えなあかん! ってね。あっ関西弁出ちゃった」

 それでも、やはり気になる。
 聞けば聞くほど疑問は膨らむ。気付けば俺は無遠慮に尋ねていた。

「あの……失礼かと存じますが、不安はありませんでしたか?」
「ん?」
「既に生活基盤はできていたわけでしょう。それもかなり安定した仕事だ。一度それを全部捨てて、東京で一からやり直すことは……。
 芸能……特にアイドル業は水物です。縁起でもないことを言うようですが、『もしも』を考えたことは……?」

 ビンタの一発や二発は喰らうつもりでいた。
 いくらなんでも絶賛売り出し中のアイドル相手に、口が裂けても言っていいことではない。
 川島さんはしかし、怒る風でも、まして悩む風でもなく、あっけらかんと答える。


「そうね。今は永遠に続くものじゃない。お肌と同じね。いつかは陰るし、シミやソバカスだってできちゃう」

「だったら……」

「でも、だからって何もしない理由にはならないでしょう?」

 川島さんの声は柔らかだった。
 俺ごときがするような心配などは、既にその思いがけず小柄な体に、すべて呑み込んでいるようだった。


「それも全部含めて挑戦だもの。言ったでしょ? 人生っていうのは、みんな自分が主人公!
 できる努力をし尽くして、それで思いっきり自分の足で立てたら、あとはもう何が起こっても笑い飛ばしてやるだけよ」



 強い人だ。
 346のアイドル部門に……第一芸能課に、この人がいるなら。
 俺の中で、何かひとつ大きなものが解れたような気がした。

 話を終え、深々と一礼する。

 ……俺は俺のすべきことをせねば。
 間違っても主人公とは思わないが、使用人なりに必要な務めを。

「今日はありがとうございました。その……アイドル活動、頑張ってください。陳腐なことしか言えませんが、応援してます」
「ありがと♪ いやーそれにしても若いわねー青春ねー。君もいろいろ大変だと思うけど、ファイトっ!」


 …………なにか勘違いされているような気もするが。


  ◆◆◆◆


 結局、最終的には足で稼いだ。
 川島さんと作ったリストを参考に、心当たりのある居酒屋、無い居酒屋、銭湯に健康ランド、近郊の温泉地。
 片っ端から当たってそれでも外し、迷子みたいに途方に暮れた時。

 しとしとと、秋雨の振る心細い夜だった。
 高垣さんは存外に近いところで見つかった。

 数か月前の春、酔っ払いの俺が通りがかった、神田川にかかる大きな橋。

 その欄干の上に。

 最初との違いは、彼女が背中ではなくこちらを向けていたということ。

 相も変わらず細いヒールで、通りがかる人々に何故か気付かれもせずに。
 ビニール傘に街灯の光を照り返し、最初から俺のことを見ていた。


「……高垣さん」
「こんばんは、Pさん。お久しぶりですねぇ」


   〇


 そこそこ遅い夜だった。

 川面に吸い込まれゆく雨粒を見ながら、桟橋に隣り合って座る。
 冬ももう近く、雨は触れたら震えそうなほどに冷たい。これが雪に変わる日もそう遠くはあるまい。


「ええと」
「はい」
「あれから、色々考えたんですけど」

 傘を打つ雨音を聞きながら、ぽつぽつと順を追って話した。
 うまいセールストークなどできるはずもないので、これまで俺が考えたこと、話したこと。
 あなたの足跡を辿りながら何を思い、どういうつもりであなたを探していたのか。

「――確かに新しい挑戦です。今までとは勝手が違う。けど、高垣さんならできると信じます」
「……」
「ご自分の歌が嫌いだということ、柊さんから聞きました。それでも言います。あなたの歌を必要としてる人は、必ずいます」

 その歌が、誰かの救いになるのかもしれないなら。
 やはりそのままにしていていい才能ではない。

 俺の右手側に座り、高垣さんはしばし黙っていた。


 ややあって虚空を見上げ、不意に切り出す。

「――どこか、『ここではない』という思いがいつもあるんです」

「……はい?」
「体が、まだ……何かを、追いかけたがっているような」

 青い左目は揺らぐ川面を写し取る。まるで仙人みたいな静謐な表情に、泣きぼくろが不思議と目に焼き付いた。

「時々、見つけることもあります。ここならいいのかもという場所を。だけど長続きしなくて。
 どこか空虚で、なんだか寂しい……私以外のみんなが逆さまになって、違う場所を見ているような」

 瞳が、こちらを向いた。

「あなたが示すその場所は、私を閉じ込める鳥籠ですか?」
「……違います! 俺はただ、あなたに相応の活躍の場を用意したくて……!」
「嘘。私がいないと困るって顔。このままじゃいけないんですか? 私はあなたのただのお友達にはなれませんか?」


 義理は、無い。
 職務とは関係無い。
 益も期待しちゃいない。
 このままではよくないと説くに足る合理的理屈がひとつも無い。

 だとすれば、俺がここまでこの人に執着する「理由」とは、何か。


「私が欲しいんですか?」



「……なんですって?」

「ほらまた、悲しそうな顔。本当のところを聞かせてください。あなたは、自分が寂しいだけじゃないんですか?」

 傘が傾く。高垣さんが体ひとつ分、こちらに近付く。
 高垣さんは笑っていた。 
 その美貌から目が離せない。

「歌やアイドルなんて建前。本当は、ずっと傍にいてくれる誰かが欲しいだけ」

 幼子に言い聞かせるような声色が染み込む。
 その声に耳を傾けていると、雨音さえも遠くなって。

「自分が見つけて、自分から決して離れない。夢でも幻でもない、あなただけのお人形が。……違いますか?」


 人形の夢を見る。
 埃を被った、かわいそうな彼女たちの夢を。
 あの人たちはもういない。消えてしまった。

 十年前から変わることなく、ショーウインドウの前に立ち尽くす少年は何を思っていたか。


「素直に言ってください。そういうことでしたら、お答えするのは簡単なことです」

 高垣さんの指摘に、何故だか反論できなかった。
 自覚が無かった。俺は、「そう」なのか? ここまでがむしゃらだったのも、必死にこの人を追いかけたのも。

 傘と傘がぶつかり、水滴を散らして二人の後ろに倒れる。頬を濡らす雨の冷たさも感じない。

 初めてこの人と出会った時も、そういえば濡れていた。俺は川に落ちて。彼女は涙を流して。
 あの時からだったろうか。
 一緒に酒を飲んで、それから度々会って。くだらない話を何度もして、花火を見て、夜市に行って、

 彼女の歌を聞いて。


 あの頃からずっと「悲しそうな顔」をしていたと高垣さんは言う。
 だとしたら、俺が本当に望んでいたことを、この人は俺よりもよく知っていたのだろうか。

「ほら、言って? 傍にいてって。そうしたら……私も誓ってあげますから」


 もう、声と共に甘い吐息が届く距離だった。

 鼻と鼻がやわらかく触れ合う。前髪が絡み合い、二人の距離はほとんどゼロになる。
 唇が唇に近付いて、そのまま――






「……………………あんた高垣さんじゃないな?」






 雨と夜のせいで、今の今まで気付きすらしなかった。
 至近距離で見つめ合う、ネオンと雨の乱反射を写し取ったその、綺麗な瞳。


 両方とも、青い色だった。


 今にも唇が重なる距離。
 真っ赤な舌先をちろりと出して、「その女」はぞっとするほど妖艶に微笑んだ。


「いいえ。間違いなく高垣ですよ――私も、ね」


 瞬間、天地がひっくり返る。
 重力が逆巻くような異様な感覚の中、全身が桟橋から離れていた。

 感じるのは、しかと繋がれた細く白い手。その冷たさ。

 女に引き上げられ、俺は空へと落ちた。


一旦切ります。


  ◆◆◆◆


 気を失っていたようだ。
 水の中を漂っているような浮遊感がある。
 けれど呼吸はできて、冷たくも暖かくもない風が全身を洗う感覚。

 目を覚ます。


 俺は、逆さまになって空に浮いていた。


 頭の上に広大な山林。足の下に遥かな空。
 空には雲ひとつ無く、太陽も月も星も無く、墨絵のようなモノクロームの世界だった。

 昼も夜も無い。明らかにさっきまでいた神田川の桟橋ではない。

 そればかりか、現実かどうかすら定かではない。
 これは夢か? それとも「夜市」みたいなよくわからない異空間なのか?



「『楓』は」


 混乱する俺の耳に、涼やかな声が滑り込む。
 あの、青い眼をした女が、いつの間にか目の前にいた。

 逆さまに浮遊しながら、目線の高さは同じ。
 まるで透明の床を歩むように、一歩一歩確かな足取りで近付いてくる。

「『楓』は、可哀想な子です。とても不器用で……臆病で」

「……何者なんだ、あんた」

 小首をかしげる女。
 色を失ったこの世界で、彼女の青い双眸だけが炯々と輝いていた。


「言ったでしょう。私も『高垣楓』ですよ」
「違う。俺はあんたなんか知らない」
「本当に? これまで一度も会ったことがないと、確信を持って言えますか?」

 だって――女は細い指で自らの唇を割り開き、ぬらつく舌を出してみせる。

「キスまで気付かなかったくせに」
「なっ」

 咄嗟に手の甲で口を隠した。触れてはない、はずだ。ギリギリで。
 今更になって頬が熱くなるのを感じる。そんな様を見て、女はころころ笑った。
 普段の高垣さんとは違う、悪戯っぽさと稚気を含んだ、年端もいかない少女のような貌だった。

「私はあなたを知っています。春からずっとこの目で見ていましたから」
「しかし……」
「花火。一緒に見ましたよね?」

 脳裏に夏のある日の出来事が浮かぶ。
 空を飛ぶ高垣さん。引き上げられる俺。乱舞する花火の光。


 ――寂しいんですか?
 ――……え?
 ――そういう顔。今もです。なんだか、帰り道を忘れちゃった迷子みたい。
 ――寂しいなんて……俺は、一言も。

 ――わかりますよ。だって私も――


 屋上での、会話。


「私も。私たちも、寂しかった」



 あの時、青い眼がこちらを見ていた。

「そんな時、あなたに出会いました。私が流す涙の理由を聞いてくれました」

 涙が流れるのは、いつも青い眼からだった。


「夜空が綺麗な時や、楽しい時や、嬉しい時。自然と涙がこぼれます。
 それが永遠ではないと知っているから。楓は、誰ともそれを分かち合えないと知っているから。
 ……私が教えた歌を、あの子は封じてしまったから」

 今、両目の青がまっすぐ俺を射ている。
 無邪気に見開かれた双眸は、獲物を前にする猛禽のそれに似ていた。


「ねえ。だから、一緒にいませんか?」



 風が逆巻く。
 遥か頭上の木々が一斉にざわめき、黒い紅葉を雲霞のように吹き散らした。


「……!!」
「歌を聴かせてあげましょう。優しく抱いてあげましょう。望むことをなんでもしてあげましょう。
 だから代わりに、あなたの全てを、私たちにください」

 無邪気な笑み。
 上昇して渦を巻く木の葉の竜巻が、二人の周囲を完全に閉ざす。

 一歩、女が踏み込んで、鼻先に立った。

「ここには光も闇もありません。誰にも置いていかれたりしません。
 いなくなってしまった人たちのことを思い悩む必要もありません。
 だって私たちがずっと傍にいるんですもの」


「待ってくれ。だったら、外のことはどうなる!?」
「なぜ気にするんです? 目を背けていたんでしょう? 諦めたような顔をして、ほんとは何一つ諦められないのに」
「それは、自分の身の程を知っていたから……!」
「本当は怖かったんですよね。あなたにも古い傷があるんですよね? 触れることすら痛いから、ごまかすことしかできなかったんですよね」
「違う!! 俺は、俺はあいつみたいになりたくなかっただけだ!!」

「ほら」

 笑顔。

 モノクロームの薄闇の中、ぼうっと浮かび上がる青色の燐光。

「あなたも、可哀想な人だから。見たくないものを見続けてしまうから。
 ……だから私が、代わりにその目を塞いであげるんですよ」

 手が伸びる。ぞっとするほど冷たい掌が俺の頬を撫で、目を塞ぐと、闇。
 深い闇。
 安堵する闇。

 笑い声だけが思考を埋める。鼻歌が聞こえる。すべてを忘れ去った時、そこにあるのは安息だろうか。


 違う。

 嫌だ。やめろ。やめてくれ。
 こんなものは安らぎじゃない。ここにいてはいけない。


 だってまだ、泣いているじゃないか。



『……やめてください、姉さん』



 どこかから、震える声がして。
 次の瞬間、重力が戻る感覚があった。


   ◆◆◆◆


 細い雨が降っていた。
 背中が凍えそうなほどに冷たい。
 どうやら、雨に濡れた地面に横たわっているようだった。

 頭にだけ、温かくてやわらかい感覚。

 なんだろうと思って見上げると、高垣さんが俺を見下ろしていた。


 目覚めてみれば、ここは元の桟橋。傘を差した高垣さんの膝枕。


「……Pさん」

 彼女の手が頬を撫でる。暖かかった。
 逆光で表情がほとんど見えなくとも、その手の感触で確信した。

 彼女は、俺が知ってる高垣楓さんだ。

 川面に反射したネオンが彼女の顔を照らす。
 
 瞳の色は、両方とも碧色だった。



「何が……起こって……」

「彼女に会ったんですね。……ごめんなさい。私の責任です。抑えることが、できませんでした」

 そんな顔をしないで欲しかった。高垣さんらしくない。
 そう思うのと同時に、この人が「彼女」と呼ばわる何者かの正体が気になって。

「あの女は……何者なんですか?」

 問いを受けて、高垣さんは複雑な顔をした。
 自分のことを聞かれたような。
 とても遠い世界の何者かについて聞かれたような。

 
 ややあって、ゆっくりと語りだす。


「私の、双子の姉です」




  ◆◆◆◆


 ご存知でしょうか?

 私の故郷……和歌山は、修験道の聖地だということを。


 そこは神が住まい、精霊の宿る異界。
 千年以上前から、身分を問わずあらゆる人々の信仰を集める、日本最大の霊場です。


 その霊脈の要所に構えられた神社を、熊野三山。

 三重、奈良、和歌山をまたぐ長い長い参詣道を、熊野古道といいます。


 かつてこの道を切り開いたのは、厳しい苦行の道を修めた山伏たちでした。
 それが時代を経るにつれて整えられ、市井の人々、あるいはやんごとなき身分の方々も詣でるようになったそうです。

 山伏たちは熊野を重要拠点とし、彼ら独自の文化と勢力を築き上げていきました。
 彼らの主な役目は、熊野三山の統括や、山を訪れる参詣者の先導……。

 そうした役職を持つ人々を、熊野別当と呼びます。

 彼らは熊野一帯で絶大な権力を誇りました。霊的、あるいは宗教的に絶対的な立ち位置にあり、時の帝とも通じていたといいます。
 そして熊野の神仏を奉じ、祈り、祀り、力を得ました。

 時の動乱や権力争いによって組織は形骸化し、今や史書の中のみの存在となりましたが……。


 ええ。

 高垣は、その別当の傍流に連なる家です。


 熊野古道には参詣者が数多く訪れますから、彼らを導く役目は必要です。
 高垣は代々その任を担い、熊野の地に親しみ、栄えてきました。

 ……もっとも、それも室町時代の中期ごろまでの話です。

 高垣は、徐々に没落していきました。
 詳しい原因は伝わっていません。参詣者の減少、時勢の激動、別当そのものの終焉……そんなところでしょうか。

 当時の当主は考えました。

 いかに家を残すか。
 紀伊の地に打ち立てた当家の権威を、どのようにして保つか。
 傍流とはいえ熊野別当、その血を絶やさぬ為にはどうすべきか……。



 結論はこうです。

 神を造ろう、と。



 神仏習合にて「権現」と呼び称されるようになった熊野の祭神ですが、紀伊山地はそれ以前から神秘の場所。
 人々の宗教体系からは外れた「まつろわぬ神々」もまた存在します。

 高垣は人の身でありながらその輪に加わり、異界の加護を受けようというのです。


 ――「素材」に選ばれたのは、当時7つになる前だった、双子の姉妹でした。


 双子とは、普通の肉親よりも繋がりの深い関係です。
 同じ血を分けるだけでなく、二つの身体(うつわ)に一つの魂を分けた、文字通りの一心同体。
 当主……つまり姉妹の親は、神域に娘二人を連れていき……

 姉の方を、贄に捧げました。


 ……「熊野」の語源は「隈野」、すなわち「地の果て」を意味します。

 伊勢が表とすれば熊野は裏、死者の国。古来より霊魂が集まる場所とされてきました。
 遺体を山岳の麓に葬った時、魂は山を登り、頂に到達して神となる――そうした山岳信仰が由来となっています。
 いわば、再生の地だったのです。

 双子の片割れは「そちら側」に渡り、もう片割れはこの世に残る……

 そうして、二人はひとつとなります。

 生きながら、魂の半分は神域に在る。いわばそれは、半神半人の存在と言えましょう。


 ――以後、高垣は盛り返しました。
 人が集まり、幸運に恵まれ、信仰もお金も嫌というほどもたらされ、現代に至ります。

 それもこれも、新たに打ち立てた「半神」のもたらす恵みによって。


 ……ですが、それが魔道でなくてなんだというのでしょう。

 古くから熊野にある家々は、今や「高垣」の存在を固く秘します。
 ある家は言います。高垣は、神を宿した家だと。
 またある家は言います。高垣は、鬼の棲まう家だと。


 私から言わせれば、そのどちらでもありません。

 結局のところ、ご先祖は信仰そのものではなく、家のため……ただ我欲のためにそのようなことを行いました。
 そんなことをするのは、どこまでいっても「人」です。

 人以外の、何者でもありませんよ。


  ◆◆◆◆


「それからというもの、高垣の家には双子が生まれるようになります」


 俺の頬に両手を添え、寝物語のように紡がれる言葉の数々は、まるで実話とは思えないものだった。
 だが彼女が話しているのは、遠い昔話ではない。彼女自身と地続きの「今」の話だ。

「五十年に一度、あるいは百年に一度……。不定期ですが、決まって『娘』が。
 その度に、同じ場所へ参り、片方を贄とします。姉妹が七つになる前に」


 ――楓ちゃんは人間よ。私が保障するわ。

 ――彼女は人の身ながら人の手に余る。神業、あるいは魔性のそれよ。

 柊さんの言葉が脳裏に蘇る。
 荒唐無稽と誰が切り捨てられるだろうか。この目で見たことが、すべて嘘偽りない真実だ。


「七つで消えた彼女の名は、樒(しきみ)といいます。
 歌が上手で、明るくて、いつも私を引っ張ってくれる……自慢の姉でした」



 そして、真実であればあるほど。

 穏やかに語る彼女の姿が、たとえようもなく孤独に思えた。


「『高垣楓』とは、ですから、器の名前なんです。
 容れるモノが無ければ空っぽな、ただのお人形」


 雨は降り止まない。川面と雨滴に散らされたネオンが、彼女の顔をまだらに照らす。


「人は私を通して、色んなものを見ます。信仰、理想、羨望、嫉妬……あるいは、遠い過去の後悔」

 ぎくりとした。

 高嶺の花とは、往々にして見る者の様々な認識を投影するものだ。
 強固に積み上げられたイメージの鎧が、その人の実情を覆い隠す。
 本人が望むと望まざるとに関わらず。能力や容姿といった外面的要素に、他人が張り付けていった値札の数々。

 トップモデル。夜市の歌姫。憧れの美女。神に近い何か。

 他人を前にした時、彼女は常に「何者か」であることを強いられる。

 俺自身、彼女にそれを求めてはいなかっただろうか。
 歌や実力といった付加価値に魅入られながら、その奥にある「高垣楓」をどれほど知っていたというのだろう。

 高垣さんは己がそう在ることを受け入れていた。

 諦めのためか。生い立ちのせいか。


 身の内に神を宿して、多分ずっと遠い場所から、人の輪を見つめるだけで。



「……こんな話をしたのは、志乃さん以外にはあなたが初めてです。
 姉は……樒は、あなたに何か、私たちと似たものを感じたんだと思います」


 頬に触れていた手が離れる。
 高垣さんはそっと俺から離れ、傘を差してくれた。慌てて膝立ちになり彼女と向き直る。

「だから、これ以上一緒にいることはできません。……あなたまで、連れていかれてしまいますから」

 高垣さんは最初から、俺が見ているような領域の人ではなかった。

 彼女の笑顔はひどくぎこちない。全て打ち明けるだけでも相当の勇気を要しただろうことがわかる。
 一介のサラリーマンにこれ以上何ができるというのだろう。
 俺の手には余る――柊さんが言う、まさにその通りの事態じゃないか。

 だけど、何か考える前に動き出していた。

 足を一歩前に、手を伸ばして。
 理屈とか損得ではない、もっと根本的な感情のうねりに押されて、目の前の人を行かすまいと。

 その一歩から先が、嘘みたいに遠いことを知る。


 高垣さんが浮き上がる。雨を浴びながら重力から解き放たれ、もう二度と届かないところまで。
 泣きぼくろを備えた左眼がちかりと輝き、神性の青を帯びる。


「高垣さん!!」
「さようなら」


 冷たい風をひとつ起こし、高垣楓は目の前から消えた。
 碧色の右目から、一筋の涙を流しながら。


  ◆◆◆◆


「ん?」

 気が付けば、橋のたもとにいた。
 とっぷり夜も更けた時間帯だ。雨も降ってるし、寒いし。


 ……ていうか、なんでこんなところにいるんだっけ?


 何か用があった覚えは無い。帰り路とも正反対だ。
 ……参ったな、何も思い出せないぞ。微妙に頭がクラクラする。今日って誰かと酒飲んだりしたっけ?


「って、なんだこりゃ」

 さっきから普通に差している傘だが、どう見ても俺のものではなかった。
 コンビニで適当に買ったビニ傘よりもよほど上等で、しかも多分、女物だった。
 どういうことだろう。酒に酔った挙げ句の傘泥棒なんて笑えないぞ。

 周囲をきょろきょろ見渡してみても、元の持ち主らしき人はどこにもいなかった。
 途方に暮れた。かといって、そこら辺にほっぽって帰ってしまえばそれこそ傘泥棒の所業だ。

 少し迷い、今日のところはひとまず持ち帰ることにした。
 覚えていないだけで職場の誰かから借りたのかもしれない。心当たりのある人に尋ねてみて、どうしても見つからなかったら交番に届ければいい。

「…………帰るかぁ」


 
 誰かと会っていた気がする。

 誰なのかはわからない。


 地を這う冷たい風に身震いした。風は足元から背中のあたりを這いあがり、ずっと上空に吹き抜けて消えた。
 その頃にはもう思い出せない何かより、明日の仕事のことに思いを馳せていた。



  ◆◆◆◆


 かえちゃん、泣いたらあかんよ。
 うちはええ。カミサマのひとつになるんや。なんにも怖いことなんかないよ。

 ……でも……しいちゃんがおらんの、うち、いやや。

 なん言うとるの。うち、ずっとかえちゃんのそばにおるよ。
 かえちゃんの中に入って、ずうっと守っちゃる。

 ……でも……でも……。しいちゃんがおらんと……うち……なんにもできんもの。

 ほな約束しよか。
 うちがな、かえちゃんのそばにいてくれる人、見つけちゃる。
 かえちゃんのこともうちのことも全部知って、ほんでもそばにいてくれる人を、なっとか見つけちゃる。

 ……ほんまにおるんかなぁ。

 おるよぉ。きっとおる。せやさかい、それまでの辛抱や。
 かえちゃんもあんじょうしっかりするんよ。ええね?

 ……うん。

 それまで、もう一つ歌を教えちゃる。そいを歌って、きばるんよ。


   〇
 

 ええ。覚えていますよ、姉さん。

 ですが、この身にまつわる因業を、一体誰に背負わせられるでしょう。

 これは重荷です。表の世界を生きる人々には、決して押し付けてはならないモノなんです。

 私はいいんです。あなたさえ一緒なら、それで満足なんですよ。樒姉さん。


「歌を……忘れた……カナリヤは……後ろの山に……棄てましょか……」

『いえいえ……それは……かわいそう……』

「歌を……忘れた……カナリヤは……背戸の小薮に……埋めましょか」

『いえいえ……それは……なりませぬ……』


 ――――泣いたらあかんよ、かえちゃん。うちが代わりに泣いちゃるけ――――


  【 秋 ― 終 】


※樒(シキミ):

 関東以西の山中に自生する、マツブサ科シキミ属の常緑小高木。
 古来より神仏事に用いられ、特有の芳香があり、花は墓前や仏壇の供花となる。

 花、葉、茎にいたるまで樹木全体に毒を持ち、特に果実は致死性の猛毒を秘める劇物。
 そのことから「悪しき実」と呼ばれ、転訛して今の名が付いたと言われる。


 静岡県、鹿児島県、和歌山県南部などに主な産地を持つ。

 花言葉は「甘い誘惑」「援助」「猛毒」。

一旦切ります。
更新クッソ遅れて申し訳ありません。そろそろ終わりに向かいます。


  【 冬 : 君と出会う 】


 転げ落ちるように冬になった。

 このところは気温の低下と日没の早まりがはなはだしい。
 急激に深まりゆく冬の気配に押されて、会社は徐々に慌ただしくなっていく。

 特にアイドル部門は、年越しニューイヤーライブの準備に大忙しだった。

 舞台芸能はどこもそうだが、裏方にとっては準備期間こそ本番。
 アイドル部門で働く人々は今日この時が戦場とばかりに社内外を駆け回り、「アイドルの舞台」を一つ一つ構築していく。
 部門に所属するアイドルたちも毎日がレッスンの連続で、レッスンルームが空いている時間が無い。

 一年の集大成。春から駆け抜けた新規アイドル部門の、ひとつの結実。

 そのような意味を込め、川島瑞樹率いる第一芸能課を筆頭として、みんながラストスパートをかけていた。
 厳しい寒さをものともせず。同じ方角を見て、一直線に。


 俺は――


   〇


「聞きました、Pさん?」

 会社の事情通こと千川さんが、隣のデスクから耳打ちしてくる。

「はい?」
「高垣さん。今年いっぱいで辞めるそうじゃないですか」

 ……?

 いまいちピンと来ていない俺に、千川さんは何故か信じられないという顔をした。

「高垣さんですよ! 今モデル部門がてんやわんやなんですよ?」

 高垣さん。高垣楓さん。
 知らないかと言われれば、そりゃ知ってるが。

「ああ……確かモデル部門の花形でしたっけ。辞めちゃうんですか? どうして?」
「どうして、って……」


 こっちとしても意外ではあったのだが、千川さんには俺のその反応こそが予想外だったようだ。
 人目を憚るように周囲を見渡し、誰も聞いていないことを確かめて、ずいっと顔を寄せてくる。

「だからそれを聞いてるんじゃないですか……! Pさん何か知らないんですか? 急すぎるでしょ!?」

 そんなことを言われても。
 モデル部門の人の進退をただのアシスタントが知るわけもない。
 あちらにヘルプに出たことは何度かあるけど、トップモデルなんて名簿と写真の中の人でしかないのだ。

「……Pさん、何かあったんですか?」
「何もありませんけど……千川さんこそ、どうしたんですか? 疲れてません?」
「いえ、――いえ。なんでもありません。取り乱してすみませんでした」

 俺の目に嘘が無いことをようやく納得してくれたらしい。
 千川さんは何か言いたげな雰囲気を強引に飲み下して、無理やり気味に会話を打ち切った。
 わけがわからない。
 ひょっとして何か行き違いがあるのではと思ったが、俺自身に『心当たりがまったく無い』ため、どう確認を取ればいいのかもわからなかった。

 ……高垣楓さん。

 名前だけ知っているその人に、俺は会ったことがない。
 なのに何故か、名前の響きだけが頭の中に強く残った。


  ◆◆◆◆


 そういえば、今年ってどんなことしてたっけ。
 振り返れるほど上等な経歴ではなかったように思うが。
 事務処理にアシスタント、その他諸々お城の雑用。それくらいのものじゃなかっただろうか。

 そうだ、アイドル部門ができて、それには極力関わらないようにしていた。
 幸いそっち方面からの仕事は来ていないと思うが、そういえば同僚が二人、プロデューサーに転向して……。

 あとは……なんだったっけ。


   〇


「はぁ~ダレた……地獄のスケジュールだぜマジで……」
「年越しまでは踏ん張りどころだからなぁ……」

 このところは気軽に飲み会も開けなくなった。
 事務所の廊下でコーヒー片手に、タクさんヨネさんと近況報告がてらの世間話をしている。

 夏ごろから自分の部署を持つようになった二人は、もちろんニューイヤーライブの戦場ど真ん中にいた。
 スタドリを空ける本数もうなぎ上りだという。これもプロデューサーの宿命というやつか。

「頑張ってください。俺も応援してますよ」
「まぁ、ここまで来たからにはやるけどよ。アイツらもそれなりにサマになってきたみてぇだし」
「そういえば、Pさんは? 何かやってたんじゃないのか?」


 高垣楓。


「……え? いや、俺はいつも通りですけど」

 一瞬、頭の中にまた「その名前」が浮かんだが、何も言わなかった。
 どうしてこれほど引っかかるのかもわからなかったから。
 ヨネさんは不思議そうに首を捻る。

「あれ? そっちはそっちで、何かしてるって聞いてたような……」
「聞き間違いじゃないですか? それか人違いとか」
「何お前ヒマなの? じゃあ俺んとこ手伝ってくんね? レッスン場押さえんのも一苦労でよ」
「いやいやこっちも普通に仕事ありますからね!?」


 彼らの仕事ぶりは素直に尊敬している。
 入社当初から知っていたから、一部署を任されるまでになった躍進は本当に嬉しい……めちゃくちゃ忙しそうなのはともかくとして。
 あやかりたい気持ちはあるが、今の自分で満足している気持ちもまたある。

 346プロの使用人。それでいい。何の不満も無い。けれど……

「けど……」
「ん? 何か言った、Pさん?」
「……何かが。何か……足りない、ような」


 ――体がまだ、何かを追いかけたがっているような。


 考えて言ったことではなかった。
 自分の中の何かが突発的に膨れ上がって、言葉が口をついて出た。

 タクさんがサングラス越しの目をきょとんとさせる。

「何かって何だよ?」
「いや……それが、よくわからないんですけど」
「ずいぶんフワッとしてんな……疲れてんじゃねぇのか? 休み取るか?」

 いかん無用な心配をさせてしまった。
 深い意味なんて考えもしていない……はずだ。けれど、それが妙に重く腹の底に居座る。



「『何かが足りない』……って時は、たぶん、自分が動かなくちゃいけない時なんじゃないかな」


 ヨネさんが、缶コーヒーを片手にぽそっと呟いた。

「ヨネさん?」
「ああいや、なんとなく思ったんだ。Pさん、自分でもよくわかってないんだろ?
 そういうことあるよなって。理屈じゃないんだよな。俺も何度かそういう話をしたことあってさ」

 彼の部署はジュニアアイドルがメインとなっている。
 だからだろうか、ヨネさんは理屈や損得じゃない「感覚的」な話を整理するのに慣れているようだ。
 子供は正直だし、多感だ。けれどその感性を言語化できるほど精神が成熟していない。そこに道筋を示すのも、プロデューサーの役目だ。

「結局、何が足りてないのかは自分にしかわからないんだよな。だから、動くしかないんだ。
 思い付くことを試してみて、なんでもいいから一歩前に進めば、足元が見えてきて……
 自分に足りないものが、輪郭だけでもわかるんじゃないかと思う」

 続く言葉に耳を傾ける。
 彼は、「プロデューサー」の顔をしていた。


「それで多分、同じような思いを持ってるのは一人じゃない。
 だから自分だけでもそれに気付けば……似たような誰かの穴を、埋めてあげられるんじゃないかって」


 ヨネさんは言い終えた後、照れたように「なんてな」と付け加える。
 思いがけず真面目っぽい空気になり、沈黙が降りた。

 ふと、タクさんがポケットからスマホを取り出して、何かの再生ボタンを押す。

『同じような誰かの穴を、埋めてあげられるんじゃないか……みたいな』

「って!! なんで録音してるんだよ!?」
「いや、なんかイイこと言ってんなぁと思って……」

 消してくれ、いーや消さない、今度の飲み会でネタにする、とかなんとかわちゃわちゃやり始める二人の横で、俺は考え込んでいた。
 いつしかコーヒーは空になっていた。
 空き缶を指で弾いたように、ヨネさんの言葉は思いのほか自分の中で響いている。

 似たような誰か。

 それは、誰だろう。本当にいるのだろうか?

 どうすれば、足りない「何か」に気付けるのか?
 嫌いなアイドル。人形の夢。いつも通りの仕事。近付く年の瀬。
 ヒントが、どこにも見つからない。


  ◆◆◆◆


 芸能事務所において、世間一般で言う「楽しいイベント」は「超忙しい時期」と同義だ。
 師走とはよく言ったもので、偉い人から下っ端までそこらじゅうを走り回る勢いで働いて働いて働いて。
 クリスマスにもまたイベントがあり、最初から予定もクソもない社畜には余暇を気にすることもなく、事務所に泊まり込んで。
 てっぺん回った頃に千川さんが買ってきたファミチキでせめてものクリスマス気分を味わったりして。

 そして、アイドル部門の年越しニューイヤーライブが近付く。

 もう総動員だ。当然俺も駆り出され、アシスタントとして会場をあちこち走り回ることとなる。
 本番は近い。イコール今年ももう終わるってことで。


 ――高垣さん。今年いっぱいで辞めるそうじゃないですか。


 目まぐるしい業務の中で、千川さんの言葉が脳裏に蘇る。


  ◆◆◆◆


 その日は、朝からちらほらと雪が降っていた。


 年の瀬。346プロアイドル部門の本年の総決算、年越しニューイヤーライブの当日だ。


 最終的な段取りを何度も確かめ、ゲネを終えて意気軒高のアイドル達。
 大きなドーム型ホールを貸し切り、戦場のような事前準備を終えた後、スタッフ達も完全に覚悟が決まっている。

 そのある意味最前線、物販ブースに俺はいた。
 吐き出す息が雲のように白い。スタッフジャンパ―を羽織っていても身を差すような寒さだが、「寒い」などと口に出す暇さえ無かった。
 開場前から既に長蛇の列。ずらっと並べた長机にグッズを山積みにしてお客さんを捌く捌く。
 時間があっという間に過ぎて、気が付けば休憩所のベンチでくたばっていた。

「…………凄いな」

 交代要員に後を任せ、独りごちる。

 凄い客数だった。あれほどの人々がみんな、346プロのアイドル達を見に来ているのだ。
 俺はずっと、アイドル部門をできる限り見ないようにしていた。
 だから364のアイドルブランドの成長をはっきり目の当たりにするのは初めてで、情けない話だが今さらながら度肝を抜かれた。


 と、見慣れた同僚が戦場帰りみたいな顔でやって来た。

「ウス」
「タクさん。どうも」
「わりーな手伝わせちまって。お前こういうの苦手なんだろ?」

 すぐ隣に座り、タクさんは胸ポケットから慣れた手つきで煙草とライターを取り出す。

「仕事ですから。……あと、喫煙所外ですよ」
「げっ、ここダメなのかよ! ったく最近じゃどこもかしこも分煙分煙ってなぁ……」

 346プロも近年分煙化が進み、社屋の各所に喫煙ルームが作られていた。
 そういえば今西部長も結構なスモーカーだったなと思い至る。彼も似たような愚痴をこぼしているのだろうか。

「舞台の方は整いましたか?」
「んまぁ、やるこたやったな。こっから先はアイツらの出番だ」

 一見するといつも通りの調子だが、彼の横顔には充実感が見て取れる。
 残るはアイドル達の本番のみ。細工は流々、仕上げを御覧じろ……という感じだ。


「どうですか、プロデューサーの仕事は」
「んぁ? あンだよ藪から棒に」
「タクさん、最初はやる気なさそうだったじゃないですか。見違える勢いですよ、今。自覚ありません?」
「あ~~~~、まァな……」


 火を付けていない煙草を一本咥え、唇でプラプラさせながら、タクさんは言葉を探す。

「アレだよ。猫拾うみてぇなモンだ」
「猫?」
「最初はそんな気無かったのに、どんどんでっかくなりやがる。何すっかわかんねーから目も話せねぇし、ああだこうだ世話してくっと色々覚えてきて……」

 タクさんは「はっ」と笑った。自らの担当アイドルのことを思い出したか、それともなんだかんだで励んでいる己への自嘲か。
 いずれにせよ、彼は楽しそうだった。

「……で、気が付きゃこっちが引っ張られてんだ。いつの間にかここまで来ちまってた」
「いい子じゃないですか」
「バッカお前、いい奴なもんかよ。たまにグーが出るんだぞあのバカ」

 グーは辛いな。二人して笑う。ちょっと徹夜テンションみたいなものが入ってる。
 これを越えれば、晴れて年明けだ。そして無事越えられるかどうかについて、タクさんはまったく心配していない。

「……好きなんですね、猫」
「あぁ?」
「信頼し合ってる。いい関係だと思いますよ、俺は」
「はっ、なぁにが。……けどま、お前がそう思うんなら、そうかもな――――」


 と。
 タクさんが急に正気に戻り、ババッと周囲を見渡す。
 休憩所に俺達以外いないことをしつこく確かめ、声をひそめて言う。

「…………おい、今俺が言ったこと誰にも話すなよ」
「は? なんでまた」
「いいから! アイツらに聞かれたら何言われるかわかったもんじゃねぇ!」

 よくわからんが大変らしい。
 今の話は内緒にしておくと約束すると、タクさんは身の縮むような溜め息を吐いた。

「俺もヤキが回ったぜ、まったく……。こんなんガラじゃねぇって思ってたんだけどな」
「いいことでしょう。人は変わるってことですよ」
「そういうモンかねぇ……」

 人は変わる。
 それはそうだ。
 本心からそう思っているのに、口から出る言葉が自分でも驚くほど空疎に感じられた。
 だったらお前はどうなんだとどこかの誰かが言っている気がする。
 いいや、俺は変わりようがない。何を得てもいないし、失ってもいない……はずだ。



「あ、そうだ。いっこ大事なこと言い忘れてた」

 と、タクさんが唐突に切り出す。
 大事なこと?
 たまたま同じ休憩所に来たんじゃなかったのか。意外に思う俺に、タクさんはもっと意外なことを言った。


「第一の川島サンが、お前のこと探してたぞ」


  ◆◆◆◆


「ごめんなさいね、忙しい時に呼んじゃって」
「いえ、そんな。むしろそちらの方が、本番前で大変なのでは……」
「そっちは大丈夫よ、仕上がってるから。ちょっとだけ時間貰ったの」

 アイドル部門、第一芸能課の川島瑞樹さん。
 今回のライブでもメインMCを務める、まさにプロジェクトの牽引役だ。
 そちらに意識を向けずにいた俺でも名前は聞いたことがあるし、今や会社のエントランスホールには彼女のポスターがでかでかと飾られている。

 けど、どうしてそれほどの人が、俺を名指しに?


 ――初対面だろ?


「楓ちゃんの話、聞いた?」

 まただ。また高垣楓さん。

 あの人のことは知らない。会ったこともないんだ。
 ところが同じく初対面の筈の川島さんまでも、俺に高垣さんの話を振ってくる。

 ……何故か、頭が痛む。

「ええ、まあ……。あの、」
「あーいや、いいのよ皆まで言わないで。お互い大人だもの。私も細かいことは聞かないわ」

 こっちが聞きたいのだが。
 既に衣装に着替え、開幕を待つばかりの川島さんは、それでもわずかな時間に俺を呼んだ。
 そこに大した意味が無いと思うほど馬鹿ではない。だが心当たりがない。

 川島さんは残り時間を急かすスタッフに一言謝って、こう言い添えた。


「……ただね。もうちょっとだけ待って欲しいって、言ってあるの」
「待つ……? 高垣さんにですか?」
「ええ。本当は辞め次第、東京を出るつもりだったみたいだけど……今年いっぱいまでは待って欲しいって」


 何か。

 頭の奥で、妙に疼くものがある。

「このニューイヤーライブを見て欲しい。私達の集大成を見てからでも遅くない、って。だってこのままじゃ寂しすぎるでしょ? 私だってあの子の友達だったもの」

 俺は彼女を知っている。いや、テレビや写真で嫌というほど見たのだが、本人を前にして、改めて感じるものがある。
 この人と会話をしたことがある。
 それも、俺の方から接触を図る形で。

 ……何故? いつ、何のために?


「……だから、楓ちゃんはこの会場のどこかにいると思うの」


 このことを、川島さんは他の誰にも教えていないようだ。
 そういう口ぶりだった。とっておきの秘密を、こっそり伝えるような。

 だけど……それを木っ端のアシスタントに話して、一体どうするつもりなんだ?

 俺にできることなんて無い。今だってそんなこと初めて聞いたんだ。

 あの時も、あなたに頼らなければ、あの人を見つけることすらできなかった……

 あの時って、いつだ?


「――すいませーん! そろそろスタンバイお願いしまーす!」
「あっ、はーい今行きまーす!」

 スタッフに応じる川島さん。いよいよ本番は近い。
 そういうことだから、とウィンクして背を向ける彼女に、なんと言っていいかわからない。

 がんばってください?
 ありがとうございます?

 いや、違う。違う――――


「高垣さんは!」


 思いがけず大きな声が出た。川島さんだけでなく、その向こうのスタッフも驚くほどに。

「高垣さんは……何か、言っていましたか!? 自分のことや、なんでもいい、何か気になることは……!」


 どうしてそんなことが気になるのだろう。
 川島さんは立ち止まり、またほんの少しだけスタッフに合図して、天井を仰ぎ……

「…………これは、言わないつもりだったけど」

 何かを、決意した。

「楓ちゃんね。君のこと、よく話してたのよ」

「……俺のことを?」
「こんな人がいて、こんな場所で飲んで、こんなことをした。こんなことを話して、こういうことをした……って」

 振り向く彼女の笑顔は、優しかった。
 その時、確信があった。川島さんは俺のことを、俺が思うより前から知っていたのだ。
 こちらから接触する前に。
 高垣さんの話から……いわば「友達の友達」みたいな距離感で。

 だから最初に会った時、あんなに親しげだったんだ。

 ……頭の中で、何か大きな前提が崩れ去ろうとしているのを感じる。


「楽しそうだったわ。だから、あの子にとってあなたがどんな存在であれ、きっとすごく救われた時間だったと思うの」

 会場全体が動き出している。走り回るスタッフの気配、入場する観客の気配、腹の底に響く会場BGM。
 集結するアイドル達の気配。自分が行かなければ始まるまいに、川島さんは俺一人に何か、大切なメッセージを残そうとしている。


「『私と似ているのかも』……なんて、いつか言ってたわ。私から言うのも変かもしれないけど、あの子と一緒にいてくれて、ありがとう」
 

 そうだ。

 いつも夜だった。


 暗い夜の中にぽっと灯る光があった。見てしまったが最後、目を逸らすことはできなかった。
 春のまだ肌寒い夜、夏の乱舞する光の夜、秋の冷たい雨の夜。あれは――――




「!!」

 急に、耐えがたいほどの頭痛に襲われる。
 視界が大きく揺らいだ。記憶に蘇った「ある筈の無い夜」、経験した覚えのないそれらの中に、鮮やかな光の残影を見出した時……


「――ちょっと! 大丈夫!?」


 気が遠くなり、闇に閉ざされた。

一旦切ります。
またも間が開いてしまってすみません。
今月中には完結させるつもりで進行します(なんとか)(多分)(おそらく)


  ◆◆◆◆


 いつも、人形の夢を見る。
 だけど今回のはいつもと違った。

 あるのはたった一つの人形だった。

 頑丈な鍵付きのショーケースに仕舞われ、埃ひとつも被らないまま、人形はそこにある。
 誰もが彼女を通り過ぎる。その美しさに束の間目を奪われ、口々に褒めたたえながら、通り過ぎていく。
 鍵など誰も持っていない。もしかしたら、そんなもの最初から無いのかもしれない。

 人形はショーケースの中に在り続ける。

 誰にも触れられないまま。ただひたすらに「美しいもの」として。


   〇


 目が覚めると、医務室だった。
 改めて検査してみても、体には何ら異常なし。働きすぎで目が回ったのだろうと医療スタッフに言われた。

「……すみません、こんな時に……」
「いえ、いいんですよ。体を大事になさってください」

 一礼して医務室を去ろうとしたところ、スタッフがメモ用紙を一枚渡してくれた。
 川島さんの書き置きのようだった。

 そうか、あの人にも心配をかけてしまった。後日お詫びしなくては……。
 いや、今はそれよりも。

 目覚めた瞬間から気付いている。
 会場の果てから果てまで行き渡り、外にまで響いて、今も足元をはっきり揺らす巨大な震動がある。


 音楽と、人の歓声だ。


 廊下に出たらそれは更に強くなった。壁に貼られた会場案内図を参考に、イベントホールへの経路を探す。

 ――ちょっと待て、行く気か?
 頭の隅で声がする。今まさに行われているものが何なのか、知ればこそ理性の一部分が叫ぶ。
 ――わざわざ見る気か? 何の為に?
 言い訳じみた思考と裏腹に、体は早足で廊下を進む。震動は近くなり、高らかに歌う女性の声や、合わせて轟くコールまでもはっきりと聞き分けられる。

 分厚い防音扉に手をかけて、ほんの数秒、考える。


 ――アイドルなんて嫌いなんじゃなかったのか?


 嫌いさ。その在り方が、夢に対する現実の残酷さが大嫌いだ。
 だけど、彼女達はここにいる。

 今。

 川島さんや、タクさんやヨネさんや、千川さんやみんなが作り上げたものの最前線に、今立っている。
 たとえこれが一夜の夢だとしても、その夢に懸けて進み続けてきた者達の存在は嘘じゃない筈だ。


 その一端に。輝きに、ほんの一瞬だけでも触れてみたいと思うことは、罪なのか?



 折りたたんでポケットに仕舞った、川島さんの書き置き。

 その文面が脳裏に蘇る。


『あんまり無理はしないでね。――先にステージで待ってるわ!』


 迷う理由は無い。

 体重をかけ、重い扉を、一気に開ける――






 たちまち、音の洪水に晒された。






 目の前には、きらびやかな光の海があった。

 観客たちが掲げるペンライト。闇を貫くレーザーライト。リズムに合わせたストロボフラッシュ。

 そして、浮き上がるように照らされた遠くのステージ。大きなモニター。そこに映る笑顔。

 全てが混然一体となって、会場そのものを熱狂の渦としている。


 夢でも見ているのではないかと思った。
 扉一枚壁一枚で、まるで別世界だった。
 俺が踏み込んだのはいわゆる天井席の隅っこ。ステージは遠いが、だからこそドーム状の会場が一望できる場所だ。
 客席中を染め上げるライトの波が、ざわめき、打ち寄せ、大きな流れとなるのが手に取るようにわかる。


 かわいらしい歌ならピンクに、颯爽とした歌なら青く、のんびりした牧歌的な歌ならば黄色や緑に――



『オラァ!! まだまだ終わりじゃねーんだろうなぁ!?』

 ――ワアアアアアァァァァ……!!!


 一発、殴りつけるようなギターが炸裂し、会場はいきおい燃えるような一面の赤へ。

 あ、そうくるか! なるほど、あの布陣ならここでキメキメのロックナンバーもいけるんだな。
 会場の空気が一気に変わった。面白い構成だ。あの子は確か、タクさんのところのアイドルだったろうか?

 雄々しいサウンドが嵐のように去っていき、彼女が背中を見せた時、間髪入れず次のイントロが乱入をかける。
 舞台に立つのは、なんとジュニアアイドル。それも一人だ。ポップで明るい曲調が流れ、オレンジの花畑が咲き誇る。



「おお……」


 ――面白いな。テンションを維持したまま、雰囲気がガラッと変わった。この次はどうなるんだ?
 ――やられた! 別のジュニアアイドルが合流したんだ。ユニット曲だ! これが本命だったんだな!
 ――会場全体が燃え尽きたみたいになったら、次はバラードだ。休憩時間? とんでもない。あの人が歌に込めるエネルギーを見てみろよ。
 ――おっと、その次はクール系か! また流れを変えてきたな。となると後はスタイリッシュ路線で……。
 ――えっ、何、ここでそういうノリ!? コミックバンドじゃないんだから!
 ――いや、そうだ、バンドなんかじゃない。アイドルだ。アーティストでもない。どんなノリもお手の物じゃないか。
 ――次はどうなる? ソロか、ユニットか? それとも全体曲? 川島さんの出番はまだか? もう終わっちゃったのかな――




 俺なら。

 俺なら、どうする?




 もし自分がセトリを組む側に回ったら、こういう曲の次はどう繋げるだろう?

 そうだな、ここで一つ可愛い路線の曲も欲しいな。聞く人の心が蕩けるような、胸を疼かせる恋の歌なんかを聴かせてみたい。

 デュオ曲も楽しそうだ。ミステリアスなもの、ロックやメタルな色が強いもの、ダンスミュージック的なのもアリじゃないか?

 で、いいタイミングでユニット曲を挟む。ストレートなクールさもいいし、踊りだしたくなるような情熱的な曲もきっとハマる。

 ユニットといえば人数でも変わるな。ひとつのコンセプトでピシッとまとめたのもあれば、あえて自由にやらせるようなやつも。

 個々人の個性がぶつかり合って、そこから生まれる新しい色もあるはずだ。

 あと、そうだ、和風! 和風曲が無いじゃないか。あれ、要所に配置すればピシッと決まるんだ。なんとしても適任が欲しいよな。


 で、クライマックスは全体曲で盛り上げて。メドレーか、バラードか。最後の最後は思いっきり明るいのがいいな。


 それから――始まりと終わりに、何か。




 幕開けを希望と期待で照らし、清々しさやほんの少しの寂しさと共に幕を閉じる……そうした、一連の物語を彩るような。

 これは一人でいい。
 いわば語り部だ。舞台に咲いた大きな夢を導き、締めるような存在。

 大きなジグソーパズルの、中心となるピース。たった一つで、だからこそ不可欠な、そんな誰かの歌が――



 歌が、聴きたい。






「なんで忘れてたんだ」



 呟きは歓声に溶けた。

 刻一刻と進む新年に向かい、会場は一塊の熱狂となって突き進む。
 だけど俺は、まったく別のことを考えている。


 今この瞬間だけ、俺は舞台を忘れた。乱れ舞う光も、響き渡る歌も。モニタに大写しの川島さんの笑顔も。
 会場中をぐるっと見渡した。川島さんは言ったんだ。あの人がこの会場にいる筈だって。だけど見つけられるか?
 観客の顔なんてペンライトその他の光に塗り潰されて見えやしない。そんな中で、広いドーム会場にいる一人の顔を見分けられるのか。

 関係ない。川島さんはいるって言ったんだ。だったら絶対どこかにいる。
 視線を巡らす。黒く蠢く人の山に色を探す。一人一人の顔なんて豆粒ほどにも識別できない。けど、そうせずにはいられなくて。


 俺は、それを奇跡とは思わなかった。


 当たり前だ。奇天烈な事態になんてもう何度も遭遇してる。空を飛ぶ女、謎の夜市、永遠の桜、神のような何かの話。
 そうしたものを経験しておきながら、今ここにある一時の偶然に今さら驚嘆してはいられない。

 観客席を照らす一瞬のストロボ。その照明の先に、背が高い女性が一人いた。
 俺と同じく、天井席の隅っこ。ドームを見下ろす場所に、遠慮がちにぽつんと立ちすくむその姿が。

 目が合った。

 相も変わらず見惚れるほど綺麗な、紺と碧のオッドアイ。「一人」の中に「二人」存在する魅惑の瞳。
 アッシュグレイの髪がライトワークを受けて妖艶に輝く。

 瞬間、彼女はそっと目を伏せ、何事かを呟いて陰に紛れる。



 ――ごめんなさい。


 そんなことを言われた気がした。
 冗談じゃない。
 外へ通ずる扉を体当たりの勢いで開く。
 出てみればそこは当たり前の廊下だった。別世界のように静かだ。
 考える前に走り出す。一般開放されていない非常口を除けば、出口は限られている。


 ――会ってどうする?

 また頭の中のつまらない奴が文句を言う。

 どうもこうもあるか。
 今、やっと答えが見つかりそうなんだ。細かい理屈なんてどうでもいい。ただ、今あの人を見逃したら、俺はきっと一生後悔することになる。

 走り出す背に、MCの川島さんの声が響く。


『ありがとーっ! みんなの笑顔、大好きよーっ!!』


 笑顔。まだ見ていない笑顔。声に背中を押される。
 歓声が足元を揺らす。全速力で、走る。走る、走る、走る――

 
「きゃっ!?」

 曲がり角で人とぶつかった。

 すみません、と言った後で気付く。
 千川さんがびっくりしてこっちを見ている。

「……って、Pさん!? 倒れたって聞いたけど、体の方は……」

 大丈夫なことは見れば明らかだ。
 そんな意外と健康な男がライブ中に全力疾走して何をするつもりか。千川さんは信じられないという顔をした。

「ど、どこへ行くんですか? ライブまだ終わってませんよ!?」

「――違う……」

 息が整わない。
 ぜいぜい言いながら、絞り出す。


「違います。まだ俺には、始まってもいないんだ……!!」



 夜は遅い。会場を出ても、ライブの音響は全身を揺らす。
 冬の夜中は、嘘だろってくらいに寒かった。


 真っ暗な大晦日、白い雪が降り続けている。

 時刻は午後11時半。会場ではカウントダウンに向け、ボルテージが上がり続けている頃だろう。


 まだだ。まだもう少し。
 俺の手には、秋の暮れに忘れ去られた女物の傘があった。
 雪が降っていたから。予報によれば、夜に近付くにつれて強くなるとのことだったから。
 いつも使うビニ傘でもよかったけど、今日に限り、これを持っていった方がいいような気がしていた。

 奇跡ではない。

 高垣さんの残した傘を差して、激しさを増した雪の中を駆け抜ける。


 時計の針が、12時を差す前に。


  ◆◆◆◆


 大晦日の夜は驚くほどに騒がしかった。
 右も左もお祭りムード。街頭モニタを見てカウントダウンを待つ人々でごった返す。

 あの人はどこへ行った? 終電はまだある。ならとりあえず最寄りの駅か?
 
 いや、そんな簡単に捕まる人じゃない。
 そういえば律儀に電車に乗るとこなんて見たことないぞ。

 じゃあどこだ。どこへ行けば?

 大通りに出た瞬間、うんざりするほどの人ごみに呑み込まれる。右も左もわからなくなる。
 諦めるな。
 ここで足を止めればそれこそ全部終わりだ。
 考えろ、考えろ、考えろ――




 ちぃんっっ――――




 不意に、風鈴のような音がした。

 グラスの縁を、指で弾く音だった。

 その音が波紋のように周囲に染みわたり、気が付けば、周囲の人影がぱったり消え失せていた。



「ごきげんよう、クロさん」


 歩道沿いのオープンテラスに、いつの間にかその人はいた。
 いつものようにワイングラスを片手に持ち、首元から赤い宝石のネックレスを提げて、優雅に足を組む女性。
 彼女のことも、俺は思い出している。


「……柊さん」

 あんなに人で溢れる大通りは、今や俺とこの人の二人だけ。

 背後にはいつの間にか、例の巨大な桜が聳え立っている。

 激しさを増した降雪に、春の花弁が混ざる。

一旦切ります。ぼちぼちクライマックスです。

あとすいません、今さら修正ですが

>>210
『同じような誰かの穴を、埋めてあげられるんじゃないか……みたいな』

『似たような誰かの穴を、埋めてあげられるんじゃないかって』

でした。録音しているという設定だったのに文面が違いましたね、すみません。


「驚いたわ。自力で思い出すなんて想像もしてなかったから」
「知ってたんですか?」
「ええ、私は楓ちゃんに関することは全部知ってるもの」

 高垣さんは何らかの力で、俺から記憶を奪ったようだ。彼女と、彼女にまつわる出来事のすべてを。
 柊さんはそれも承知の上だったのだろう。
 だとしたら、今ここに来た理由はひとつ――


「ごめんなさい。あなたとあの子と会わせるわけにはいかないの」



 やはり。理由だけ聞いておきたい。

「……何故?」
「住む世界が違うのよ。あなたはもう、樒ちゃんのことも知ってるんでしょう?」

 覚えている。高垣楓の双子の姉、今なお彼女に宿る青い目の女。
 神に近いものだとすれば、間違いなく凡人の手には負えない。
 高垣さんを深く知る柊さんが見ればこそ、俺と彼女がいかに遠いかを理解しているのだろう。


「悪いことは言わないから、引き返しなさい。楓ちゃんの心配は要らないわ。あの子はまた、自由になって――」
「なって、どうするんですか」
「……」
「あのまま、独りぼっちでいるんですか?」


 住む世界が違う。確かにその通りだろう。
 高垣楓は、きっと余人の誰にも到達しえないずっと高みにいる。

 穢されず侵されず、而して触れられず、理解されることもなく。

 高く高くまで飛んでいって、ある時ふっと消えてしまうのだ。
 俺達凡人はその去り際にすら気付かず、誰もいない夜空を見ては「どこへ行った?」と首を傾げるだけ。

 かの人はそうして誰も届かない場所に在り、たった一人で涙を呑む。

 その理由さえ知られぬままに。

 ……だけど、一度でも知ってしまえば。


「寂しかったと、確かに言ったんだ。あれはお姉さんの言ったことだけど、高垣さんの本音でもあった筈です。なら……!」
「身の程を知りなさい」

 表面上は穏やかなまま、柊さんの纏う空気がガラリと一変した。
 その底冷えするような圧は、彼女が確かにあの「夜市」の総代であると実感させられる威厳に満ちていた。


「野良犬に餌をあげるのとはわけが違うの。これ以上深入りすれば、あなたは間違いなく戻れなくなる。楓ちゃんの為を思うなら、あの子が悲しむようなことはやめなさい」

 喉元に刃を突きつけられているにも等しい。
 ここは既に「大晦日の大通り」ではない。柊さんが端から端まで掌握する一種の異界だ。
 次の瞬間に何が起こるかなど、ただの人間には想像もできない。まして彼女の忠言を跳ねのけてしまえば……

 だが。

「あなたは、ひとつ勘違いをしてます」
「……?」
「高垣さんの為、じゃない。俺の為だ。俺がそうしたいから、追いかけるんだ」

 能力、ビジネス、適材適所、リスクがどうとか、相応しいとか相応しくないとか。
 そういう建前は、もういい。要らない。自分を安全圏に置きたいがためのしゃらくさい言い訳でしかない。

 変わりたくないと思っているうちは、何も変えることができないから。

「俺は絶対に高垣さんに会いに行きます。誰に嫌がられても。……そうして、ちゃんと伝えたいことがある」


 柊さんは、しばらく黙っていた。
 ほんの数秒ほどだろう。けれど主観的には気の遠くなるような沈黙を経て、彼女はグラスのワインを飲み干した。

「決意は、固いのね?」

 沈黙を肯定とする。
 柊さんはグラスを置き、穏やかに微笑した。
 その顎がわずかに頷いたように見えた。

 認めてくれたのだろうか?

 一瞬思ったのは、しかし甘い考えだと知る。


「なら、これが最後のお邪魔虫」


 もう一度、ちんっっ――とグラスが弾かれた。



 途端に生ぬるい風が吹いた。冬には似つかわしくない、花の香りを含んだ風が。
 風は一気に強くなり、数秒もしないうちに目も開けていられないほどとなって渦を巻く。

 反射的に我が身を庇い、一瞬閉じた目を開いて、その瞬きで世界が変わったことを知る。


 花弁が舞っている。


 薄いピンク色の、指に乗る大きさの、仄かな香気を纏わせる、本来春にしか存在しない筈の――桜。

 まるでそれは壁のように俺の前後左右を埋め尽くし、1メートル先も見通せない雲霞となって道を閉ざす。


 積乱雲にでも飛び込んでしまったかのような気分だ。
 花弁は夜になお色鮮やかで、よく見れば今も降り注ぐ粉雪が混ざっている。ピンクと白。文字通りの花吹雪だった。



『正しい道を見つけてごらんなさい』


 どこからか、柊さんの声。


『脱出する方法は二つ。楓ちゃんへ通ずる道を見つけるか、それともあなたが心の底から諦めるか』


『どちらかでなければ、永遠にそこから出ることはできない』


『……安心して。その中で、時間は無いようなもの。すべてはあなた次第よ、クロさん――――』


 最低限の条件だけを通達し、柊さんの声が遠ざかる。
 俺の意思を尊重した上での、これが最後の譲歩なのだろう。

 忽然と現れ、常人にはまるでわからない「法則」を示し、指先一つで超常へ叩き込む。
 越えるかどうかは神のみぞ知る。人の器量でどこまでいけるか。
 柊さんも「そういう」存在なのだろう。今更疑うまでもない。提示されるのは徹頭徹尾あっちの都合だ。

 嫌というわけではない。慣れたし。
 運命みたいなもんと思えば諦めもつく。

 だが、こっちにはこっちの都合があるのだ。
 神様も妖怪も伝説も知るか。
 

 

 ――あんたが選んだアイドルだろうが!

 ――最後まで責任持つってくらいのことが、どうして言えないんだ!!


 ずいぶん前、実の親父にそんなことを叫んだ奴がいた。
 十年近く経っても、もっともらしく分別をわきまえた振りをしていても、ずっと忘れることができずにいた。
 凡人からは凡人の答えしか出ない。
 だけどそれこそが、結局のところは、偽らざる本音だから。

「上等だよ」


 もう二度と、「寂しい」と言わせたくはない。


一旦切ります。すみません、リアルでバタバタしていて更新が遅れました。
次で冬終わります。
アニバーサリーまでに完結できるかな……(白目)


  ◆◆◆◆


 どれほど歩いただろう。

 景色はずっと桜吹雪。壁やら障害物の類もありはしない。

 手には高垣さんの傘。一応差してはいるものの、降り積もる花弁と雪が重くて、定期的に傾けなければ持っていられないほどだ。

 こうなると方向感覚と時間間隔すら薄れて、自分がどこを向いているのかもわからない。
 もし桜が消えれば、そこは無限に広がる平坦な砂漠なのかもしれない――そんな錯覚すら抱くほどだった。

「はぁ、はぁ……ふぅ……くそっ」
 
 いったん足を止めて深呼吸する。春と冬の混ざり合った奇妙な空気が鼻に抜ける。

 正しい道を見つけるか、心から諦めない限り、ここから出られることは永遠に無い。柊さんはそう言った。
 ことによると、永遠にこの桜吹雪を彷徨い続けるかも。なかなかぞっとしない想像だった。

「……よ、し……っ」



 頬を張り、軽くストレッチをする。
 長く止まっていると余計な考えばかりが浮かぶ。
 弱い気持ちを振り払うためにも、歩き続けるしかなかった。止まらないでいるうちは、少しでも近付いていると思おう。

 さて、どこへ行こう。ヒントも目印も無い異空間の中、桜と雪のカーテンを手でかき分けるようにして歩く。

 と――

 目の前に、人影がちらついた。

「!! 高垣さ――」

 もつれるように駆け寄って、別人だと知る。

 差した傘の上に、雪と桜が降り積もっている。
 高垣さんより少し低いが、女性にしては高めの身長。すらりと細い体。
 ウェーブのかかった長い髪に、どこか憂いを湛えた静かな瞳――


「……マスター?」


 夜市の「マスター」は、俺を見て微笑した。


「こんばんは、クロさん」
「どうして……ここに」
「あなたの様子を見て欲しいって、総代に頼まれたの。どこかで途方に暮れてないかってね」

 その時、情けないことに、俺は心から安堵した。

 ずっと張りつめていた緊張の糸が切れてしまった。

 まだ見捨てられていなかったと、戻ろうと思えば戻れると。
 それは甘い毒のような安心だった。

 たった一瞬でも「疲れ」を自覚してしまった時、驚くほど足が重くなる。
 これほど疲弊していたのかと、我ながら戦慄するほどに。
 身の縮むようなため息が出て、それきり、前にも後ろにも進めない。


 頭ではわかっている。
 つまるところ彼女は、柊さんの仕向けた最初で最後の罠であり――

 一方で、間違いなく助け舟そのものでもあった。


「もう、いいのよ。無理をしなくても」


 傘を持っていない方の手が差し伸べられる。
 桜の地獄に差し込んだ、ただ一筋の蜘蛛の糸だ。

「あなたはよくやったわ。誰もクロさんを責めたりなんかしない。だから……これ以上、自分を削ることはやめて」


 手を取れば、帰れる。いつもの日常に。
 何らおかしなことも起こらない、見たくないものは見ずに済む、自分だけの静かで平坦な人生に――


「……ごめんなさい。俺、その手は取れません」


 絞り出した声は、自分でもわかるくらいに震えていた。
 足だってそうだ。今すぐ座り込んでしまいたい。彼女の手はきっと暖かいだろう。二人分の傘はどれほど広いだろう。
 けど、今マスターの手を取ることだけは、駄目だ。


「……いいのね?」
「はい。自分で決めたことですから」

 誰に許されなくとも、何に背こうとも。自分自身の弱い心にだって例外じゃない。
 出しかけた手を引っ込め、一歩後ずさる時、マスターはほんのわずかに笑みを深めていた。

 心から嬉しそうな――何か、とても眩しいものを見るような、そんな目だった。


「アイドルのことは、まだ嫌い?」
「え」


 この人にその話をしただろうか?
 覚えがない。なぜ知っているのか問いたいところだが、あの夜市の関係者ならば知っててもおかしくないのかもしれない。


「いえ。……というより……」

 返事は、驚くほどスルッと出た。
 脳裏に思い浮かぶのは、今もきっと盛り上がっているであろう年越しライブの様子だ。

 あのステージを思い出すと心が躍る。
 ……とても懐かしい色の光だった。


「最初から、嫌いなんかじゃなかったんです」


「なら、どうして?」
「面白い話じゃありませんよ」
「そんなことないわ。聞かせて」

 自戒。
 あるいは、遠い日の回顧。

「……俺は、アイドルが好きでした。みんなキラキラしていて、見ているだけで楽しくて。けど……楽しいだけじゃないんだって、知ってしまって」

 憧れだった。
 プロデューサーの父親は、誇りでさえあった。
 あの頃は、いつか訪れる現実の流れになど気付きすらしなくて。

「……寂しかったんです。なんか……十年前から、取り残されちゃったみたいで」
「あなたは、ずっとそう思ってたの?」
「いや……ちょっと、違う。違うんだ。俺だけじゃない。俺よりも、もっとずっと辛い思いをした人達が……」


 父親の進退やアイドル業界の裏事情や、勝つか負けるかなんてこと、本当はどうだって良かった。

 きらきら輝くあの人たちは、一体どこへ行ってしまったんだろう。
 泣いてはいないか。寒くないだろうか。寂しい思いをしてはいないだろうか。
 どこかに、安らげる場所を見つけられただろうか。

 それが、それだけがずっと気がかりで――


「――クロさんは、優しいのね」
「そんなことありません。情けなくて、未練がましいだけですよ」
「優しいわ。だって今、『そうさせたくない』人がいるんでしょう。その為に走ってるんでしょう?」

 彼女の声は、まるでずっと昔からの友への語りのように、穏やかだった。
 それは俺の心の一番奥にある、小さく冷たくて硬い最後のしこりを、たった一言で氷塊させた。

 ずっと迷子だった。

 何がしたいのか、どうすればいいのかわからなくて、あの日の残光に勝手に怯えて。

 だけど……それも無駄ではなかったと、目の前の人に肯定してもらえたような気がした。


「……ありがとうございます。気が楽になりました」
「行くのね?」
「はい」

 抱えていたのは、十年越しの余計なお世話。百も承知だ。だけど忘れられないものは仕方ないだろう。
 時間がかかりすぎた。いい加減腹はくくった。
 忘れられなければ、ずっと背負って歩くだけだ。

「……総代には私から言っておくわね。あなたが無事に出られることを祈ってるわ」
「あ……ちょっと待ってください!」

 別れる前に思い立ち、マスターを呼び止める。
 最後に、お願いしたいことがあった。

「どこへ行けばいいか、教えてくれませんか?」

「……誰かに答えを聞くのは反則よ? それに、私も正解を知ってるわけじゃないわ」

「それでいい。どこでもいいから、俺はあなたに決めて欲しいんです」


 何故そんなことを言ったのか。
 行き先に迷ってヤケクソにでもなったか。
 自分でもわからない。

 だけど、この人が示す方角へなら、脇目も振らず走り抜けられる自信があったから。
 根拠など一つもなくとも、確信に近い思いがあったから。

 
 マスターは少し考えた。
 やがて傘を閉じ、風に舞う花吹雪に総身を晒す。

「――今からこの傘を倒すわ。倒れた方角が、あなたの向かう先」

 そうきたか。
 立てられた傘は、運命を決めるにはいかにも頼りなく思える。

「私自身は選ばない。あなたにも決められない。いわば運みたいなもので決めるの。……それでもいい?」

 すぐさま頷き返す。
 それじゃあ――と、軽い合図と共に、傘がマスターの手を離れる。

 細い傘は風に煽られ、ゆらり、ふらり、と頼りなく揺れて……
 ちょっとびっくりするほどの間を置き、倒れた。

 俺から見て、右斜め後ろの方角。



「ありがとうございます!」

 礼を告げ、一散に走る。
 さっきよりもずっと足が軽い。傘が示す方向へ、一ミリもぶれずに走り抜けられる自信がある。

 考えてみれば簡単なことだった。
 360度平坦な桜吹雪の道は、どこを選んでも正解なんてわからない。
 どうせ正解がわからないのなら、こっちがやることは一つ。
 ただ、迷わなければいい。


 短いがとても安心する時間だった。迷いを振り切るに充分すぎる。

 マスターは遠ざかる俺の背を見送り、互いの姿が見えなくなる直前――





「がんばってね、P君」




 弾かれたように振り返る。

 そう呼んでくれる声の響きを、知っている。

 呼ばれたのは一回だけだ。
 だって、直接会ったのもたったの一回なんだから。


 どうして今まで気付かなかったんだ。

 忘れていない筈じゃないか。親父に連れられて見せてくれた、あのはにかんだ顔を。
 今にして思えばどうして会わせてくれたのか。
 小さな事務所だったから、プロデューサーの息子に顔くらい見せようって計らいだっただろうか。

 ちゃんと覚えてるんだ。
 サインだって貰ったんだ。
 今でも実家の額縁に飾ってある筈じゃないか。
 だけどあの時の俺は、同年代のアイドルの子があまりにも眩しくて、ろくに話さえもできなかった。


 俺だって、この人のファンだったじゃないか。


「……瞳子ちゃん?」


 服部瞳子。


 名前だけがずっと心の奥底に焼き付いて離れないでいた。
 その幻影に囚われて、今の姿に気付かないなんて馬鹿な話があるか?


「振り向かないで。待たせてる人がいるでしょう?」

「瞳子ちゃん……! お、おれ、今まで……っ」

「いいの。私、嬉しいのよ。また元気なあなたに会うことができて」


 霞む視界の向こうに、彼女の笑顔がぼやけていく。
 見えなくなってしまうのは、桜のせいか、それとも自分のせいだろうか。

 熱く滲む景色の中、瞳子ちゃんは、俺が行くべき方角をまっすぐに指差した。


「私は大丈夫よ、P君。あなたの場所を見つけたら……その時にまた、お話しましょう」


 ああ、話そう。きっと長い話になる。
 その時はコーヒーを淹れて欲しい。あれはすごくおいしかったから。

 ……けど、それは今じゃない。


 踵を返す。もう振り返らない。
 代わり映えのしない吹雪の中に、はっきりと一筋の道が見えた気がした。

 それがどこに繋がるとしても、果てにはきっと、目指すものがあると信じた。

 走る。

 走る……

 走る………………


  ◆◆◆◆


 身を切るような北風と、雪と、光に浮かされた明るい闇の中にいた。

 走って走って、気が付けば飛び出ていた。
 もう桜の花弁はどこにも無い、何もかも元通りな、大晦日の夜中だった。

 出られたんだ。

 ていうかどこだここ。

 路上……でもない。公園っていうのでもないし。妙に開けた場所で、風ばかり強くて、遠くには夜景がちらつく。
 
 ――ワァァァァァァ……!!

「うおっ!?」

 足元が揺れて仰天した。地震かと思ったが違う。
 それは大勢の歓声で、しかも真下から聞こえた。
 地面はどうやら鉄か何かみたいで、油断すれば滑ってしまいそうだし、微妙に歪曲していた。



 ……これ、ドームの屋根か? 年越しライブ会場の?

 灯台下暗しというか、なんというか……上だけど。
 見つからないわけだ。柊さんが介入しなければ、俺は街中を探してどんどん遠ざかっていたかもしれない。

 十メートルくらい先の小さな人影に、俺はとっくに気付いていた。


 ほら。
 こんなところに、一人ぼっちで座って。


 地上では、人々を魅了するカリスマを発揮して。空とか飛んで、いつも泰然としていて。
 そうかと思えば妙ちくりんなジョークで笑って、酒をぐいぐい飲んで、好き勝手にこっちを振り回して。
 怖いものなんて何もありませんって顔をして……それでも。

 一人でいる時は、ずっとそうしていたのか?

 細い体を小さく折り畳み、ぎゅっと両膝を抱えて。
 すぐ背後に迫る孤独から身を隠すように。
 誰にも見つからず、気付かれもせず、人々の歓声を遠く聴きながら。


 歩み寄って、傘を差し出した。
 もともと相手の傘だ。
 綺麗な髪に雪を積もらせていた彼女は、夢から覚めたような顔をして、こてんと顔を上げる。


 目が合う。

 何か言われる前に、こちらが口を開く。

 きっとこれから何度も繰り返す言葉の、それが最初の一声だった。





「アイドルになりませんか?」





 二色の目が、丸く大きく見開かれた。

「…………だけど、私は……あなたを、連れ去ってしまいます」

「違う。あなたがじゃない。俺が、あなたを連れて行くんだ」

 雪は降り続ける。重く足元を揺らす音や歓声も今や遠い。

「約束する。そこは、すごく楽しい場所になる。そうしてみせる。あなたと俺だけじゃない、これが最初の一歩です。
 毎日がお祭りみたいで、退屈してる暇も、寂しいだなんて考える暇もないんだ」

 闇の中でもなお映える瞳が、それぞれの色にいっぱいの夜を写し取っている。
 諦めと、最後の一線での拒絶を宿して。
 
「……いいんでしょうか。私も、姉さんも、そんなことをしてもらえるような……」
「逃げないでください!」

 高垣楓の方が、びくんと大きく跳ねた。



「俺ももう逃げません。あなたが何者だろうと構わない。お姉さんも同じだ!
 全部あなたの一部です! 何が起こっても、みんなまとめて連れて行ってやる!」

 堰を切ったら止まらない。心の奥底で溶けたものが濁流になり、声となって迸り出る。
 ……だから。
 
「だから、行くな」

 月の無い夜で良かった。灯りが遠い屋根の上で良かった。
 お前が言うなと、言われそうだったから。


「どこにも行くな……! こんなところで、泣くなよ!!」





 ――かえちゃん。
 ――見つかったねぇ。



 どこかから、優しい声がした。目の前の人と同じ声だった。
 残響が風に溶けて消える頃、高垣さんは立ち上がっていた。

 なんて顔をしてるんだ、と思った。

 だけどこれもまた、高垣楓という人の本当の姿なのかもしれない。



「――っ」

 息を呑み、呼吸を整える。
 それを待つ。高垣さんは喉元を軽く押さえ、ためらうように小さくかぶりを振る。

「――~~~~……っ」

 ただ、待つ。一つの傘の下で、高垣さんは唇を引き結び、真面目な顔を作ろうとする。
 だけど、無理だった。
 とうとうくしゃくしゃになる。いつもの涼しげな美貌はどこへやら、まるでそれは幼い女の子のようだった。
 やっと見つけてもらった迷子みたいに、けれど視線だけは決して外さずに。

 青と碧の両目から、大粒の涙をぽろぽろ零しながら。



「はい」




 ――ワアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!


 うわびっくりした!!
 真下から、今度こそ爆発のような歓声が巻き起こる。それは屋根を突き破って二人を打ち据え、高く高く雪の空にまで轟いていく。
 一瞬、二人してぽかんとした。高垣さんに至っては涙を拭うことも忘れていた。

 …………あ。

 腕時計を見てやっと気付く。

 年が、明けたんだ。たった今。


 屋根の上のなにやら間抜けな沈黙をよそに、下は下でこれでもかと盛り上がっていた。
 見つめ合うことしばし。新年なら、何はなくとも言わなきゃならない気がして、

「……あけまして、おめでとうございます?」

 それがなんかツボに入ったのか、高垣さんは「ぷふっ」と口元を押さえて。


「――おめでとうございます」


 涙を流したまま、綻ぶように笑った。


 12時を回った時計の針は、当たり前だが、進み続けている。


  【 冬 ― 終 】

一旦切ります。
次回エピローグです。


  【 いつも : ここにいる 】


「――――もしもし、母さん?」


「ああ、いや、大したことじゃないんだ。うん。うん、元気。仕事? 仕事は……まあ」

「あのさ。親父、そっちにいる?」

「うん、じゃあちょっと換わってくれるかな。少しでいいから――」


「…………久しぶり」

「別に、今更どうこう言うつもりじゃない。けど……けど、一応さ。報告っていうか」


「俺、アイドルのプロデューサーになるから」


「それだけ。……ああ。わかってる」

「いや、いいんだ。伝えときたかっただけだから」


「ああ。――じゃあ、また」


  ◆◆◆◆


 大体いつも企画書に手こずる。
 今日も今日とて、深夜の会社。必死こいてPCと向き合う俺のデスクに、すっと影が差した。

「じゃんっ♪」

 見上げると、コンビニ袋を持った千川さんが。

「……千川さん。……スタドリでしたら間に合って」
「何言ってんですか、夜食ですよ夜食。何か食べとかないと倒れちゃいますよ」

 中には最寄りのコンビニで買ったらしきおにぎりやサンドイッチが入っていた。ありがたい。
 給湯室でインスタントの味噌汁を作って一休みしていたところ、千川さんがぽつりと切り出した。

「それにしても、びっくりしちゃいました」
「え?」
「まさかほんとにプロデューサーを目指すなんて。Pさんあんなこと言ってたのに」
「それはまあ、色々ありまして」
「あ、さてはこの間のライブでついにアイドルの良さに気付きましたね? ていうかあの後どこ行ってたんです?」

 話していいのか悪いのか。
 鮭おにぎりをアツアツの味噌汁で流し込み、適当にはぐらかして作業に戻る。
 千川さんは何が楽しいのか、隣のデスクから頬杖を突いて俺の仕事を見守っている。


「ねえ」
「はい?」
「Pさんは、どんなアイドル事務所を作りたいんです?」

 どんな、か。
 ビジョンというか、コンセプト、もっと言えばビジネスプランの話でもある。
 無策で突っ込んでどうにかなる世界でもない。もちろん幾つか考えているが、何より――

「――誰かの、居場所に」

 考えてのことではない。
 言葉が口をついて出て、止まらなかった。


「ファンもアイドルも……いつも、いつでも、自然な笑顔でいられる。そんな……誰かの居場所になれるような、そういう事務所を、作ります」



 抽象的に過ぎるだろうか。展望としてはどうにもふわっとしている。
 だけど思い付いてしまったのだから仕方が無い。
 
 千川さんは少し驚いたように目を丸くして、

「……ふふっ」

 やおら、自分のパソコンを立ち上げた。

「資料、送ってください。私も手伝います」
「は? いや、悪いですよそんな」
「いいから。そのペースだと明日に間に合わないでしょ」

 そう、決戦は明日だ。
 本当ならもっと余裕を持ちたかったところだが、アイドル部門の統括――今西部長が直近で空いているのが、その日しか無かったのだ。
 ありがたい。ここは甘えさせてもらおう。

「すみません、それじゃお願いします」
「はーい。うふふ、後で何奢ってもらっちゃおっかな~♪」

 ……やっぱり裏あったわ。



  ◆◆◆◆


「ふんふん。なるほど……ね」

 正直、採用面接の時よりも緊張する。
 今西部長のオフィスに通されて、俺は彼が出来立てホヤホヤの企画書に目を通していくのを固唾を飲んで見守っている。

「――最初は驚いたよ。あんなに渋っていた君が、まさか自分から部署の立ち上げを希望するとはねぇ」

 しみじみと、部長。穏やかな目尻には何かを懐かしむような気配があった。

「勝手なことを言って申し訳ありません」
「いや、構わないよ。意気を示すのに早いも遅いもないからね。優秀な人材であれば、うちはいつでも大歓迎だ」

 もちろん、彼の発言には含意がある。
 優秀な人材であれば――裏を返せば、そうでなければ要らん、ということ。ごく当たり前の話だ。

 部長は眼鏡の奥の温和な瞳を、一瞬ぎらりと閃かせた。

「さて……当アイドル部門は、ありがたいことにどこも多忙だ。君がそこに食い込めるか、我々の時間を消費させるに足る人材なのかだが――」

 息を呑む。

 ここからが本番だ。


 そこから鬼のようなダメ出しが始まった。企画内容の現実性、将来性、短期長期の展望と具体的なスケジュールの詰め方。
 こちらとしても頭を絞ったつもりだが、相手は海千山千の古強者。隙だらけも甚だしいと言わんばかりの突っ込みはぶっちゃけこれまでの出来事の中でも一番キツかった。
 しかしこっちも気圧されてはいられない。冷静で的確な指摘に一つ一つ答え、一歩も退かぬ構えで喰らい付く。

「しかし、君はこれをどう――」


「いいと思います」


 書類をまとめ、部長の隣に座る大柄な男が口を挟んだ。
 部長の直属の部下だという彼は、俺やヨネさんやタクさんからは先輩にあたる人だ。

「……笑顔というところが、特に」

 そう言う本人は巌のような表情筋をピクリとも動かさないのだが、だからこそ滲み出る説得力みたいなものがあった。
 今西部長は言葉を切り、困ったように笑う。

「うーむ……私もそれで締めようと思っていたのだが、どうも先を越されてしまったようだ」
「……申し訳ございません」
「構わんよ。後はどう細かいところを詰めるかというだけの話だったからね」


「え……と。それでは……?」
「コンセプトは良い。君の発想に欠けているのは、我が社の設備や人材、コネクションをどう効率的に使うかという視点だよ。プロデューサーを名乗る以上、そこを外してはいけない」
「ご存知の通り、弊社は業界の各所に太いパイプを持ちます。独力にこだわらず、使えるものをフルに活用してこそ、かと……」

 要するに――と、部長はペンを軽く振った。熟練の魔法使いのような手つきで。

「明日にでも走り出せるかどうか、という話だ」
「……!」

 張り詰めていた空気が、部長の笑顔でゆるっと弛緩した。
 その一言で、足先から脳天にまで煮え滾るような達成感が満ち満ちた。

「ごく個人的な感想としては、君がその気になってくれてとても嬉しく思う。アイドル部門へようこそ」
「わからないことがあれば、ご質問ください。お力になれるかと思います」
「ありがとうございます!!」

 椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、深々とお辞儀をする。
 やった。
 いや、これからだ。まだ何も成し遂げてはいない。だが、ひとまずは、壁を越えた。最初の壁を。

 まずはより具体性を詰めた企画書の作り直し。部長には認めて貰えたが、正式の社の会議を通るかどうかはまた壁だ。
 いや、やってみせよう。まだ始まってもいないのだから。


「どういう心境の変化があったのかは、敢えて聞かないよ。ただもう一つ……君の最初の一手を聞いておきたい」
「最初の一手、ですか?」
「今になって飛び込んでこようと言うんだ。何か秘策があるんじゃないかね?」

 秘策というほどのものでは。
 けれど、最初のアクションはもちろん考えている。


「モデル部門の高垣楓を、うちに引き抜きます」


 部長のペンが落ちた。
 隣の先輩もぽかんとしている。
 これまで聞いたどんな展望よりも信じられないという顔で、部長は一言、ぽつりと。


「……本気かね?」



  ◆◆◆◆


 ここでアイドル高垣楓の初仕事を紹介しておこう。

 346プロオリジナル推理ドラマ、「元婦警探偵サナエの事件簿 ~からくり地獄温泉の罠~」。
 役柄は、舞台となる旅館の新人従業員。

 被害者役である。なんかの巻き添えで開始20分くらいで死ぬ。

 それはもう楽しそうに死んでいた。
 何度リテイクを喰らったか知れない。放映当初はモデル界で名の知れた「あの高垣楓」がこうなるものかと、社内外で物議を醸したようである。
 モデル部門にも話は通しておいたが、「働きすぎてついに正気を失ったか」と囁かれてもまったく文句の言えない所業であった。
 クランクアップ後にロケ地の温泉に浸かり、日本酒を傾けながら彼女は言ったものだ。

 ――たまには、死ぬのもいいものですねぇ。


   〇


 それから、色んなことがあった。
 本当に、数え切れないくらいの色んなことが。



「今日付けでこの部署の専属アシスタントとなりました、千川ちひろです。よろしくお願いします♪」
「はい、こちらこそよろし…………は?」

 うちの部署が記されたナンバープレートを掲げ、見慣れた事務員がにんまり笑っていたり。


「おッッッッッ前マジ早く言えそういうことはマジでお前!!!」
「高垣!? 高垣楓ってあの!? Pさんマジで引き抜いちゃったのか!!?」
「痛い痛い痛い折れる折れる折れる!!」

 馴染みの居酒屋で、同僚たちに祝福だかリンチだかわからないやつを受けたり。


「それでそれで、結局どうなったの? 君と楓ちゃんはどういうアレなの?」
「な~によもう隅に置けないわねぇあの子も! ほらほらお姉さん達に白状しちゃいなさい黙秘権は認めないわよ!」
「いやだからそういうのじゃありませんて近い近い近い近い」

 何かの折の飲み会で、川島さんら先輩アイドルに厄介な絡み酒を喰らったり。


「君のお父上から電話があったよ」
「それは……仕事についてでしょうか?」
「いいや、ただの近況報告さ。色々と懐かしい話をした。……元気そうで何よりだ」

 激務の合間に、部長と缶コーヒーの乾杯をしたり。


「時にはこのように街に出て、スカウトを行うこともあります」
「なるほど……」
「これにはお伝えできるノウハウはありません。ただ、直感だけが頼りとなります。貴方の目で、輝きの原石を見つけ出してください」
「わかりました。当たって砕けろの精神ですね。……あと」
「はい……?」
「……後ろでこっちガン見してるの、警察の巡回じゃありません?」
「!?」

 スカウトの心得を実地で教わっていたところ、ポリスのお世話になりかけたり。


「なるほど。君が新しく設立された部署のプロデューサーか」
「よ、よろしくお願い致します。私は――」
「いや、いい。有能であれば名前は嫌でも覚える。今後とも励みたまえ」
「はい! ……え? な、何ですかこれ?」

 会社の偉い人から、なんか飴貰ったり。


 始まりは、デスクの他にはダンボールばかりの、資材倉庫再利用の地下オフィス。
 デビュー当初の高垣さんの仕事は主にバラエティ、旅番組、街頭で着ぐるみを着て風船を配ったりも。
 
 彼女は、自ら進んで「高垣楓」を崩していった。

 美しく、近寄りがたい高嶺の花。そんなイメージを放り捨て、ただ一人の、等身大のアイドルであろうとした。
 俺はそれを全力でサポートした。とにかく何でも仕事を持ち込んだ。クイズ番組で駄洒落を飛ばした時はさすがに血の気が引いたが。


 そういう風にして、季節は巡る。



  〇


 または、忙しさもほんの少し落ち着いた、いつかのある夜のことだったり。


 高垣さんはその夜、上機嫌だった。
 ローカルCMの仕事を一件終え、その流れで久しぶりに飲んでいた。

「夜桜」
「はい?」
「綺麗ですねぇ。八分咲きといったところでしょうか」

 見上げる先には、街路樹の桜。柊さんが従える「あれ」ほどではないが、かなり立派だ。
 冬は終わり、もうすっかり春になっている。
 風は花葉の香りを含んで、酒に火照った顔を涼しく撫で去っていく。

 最初に会った時みたいだなぁ、ということをなんとなく思った。

「昨日、モデル時代からお世話になってる美容師さんと会ったんです」
「そうなんですか?」
「そうなんです。――前より、よく笑うようになったと言われました」


 確かに、高垣さんはこのところよく笑う。時にはふっと穏やかに、時には子供みたいにけらけらと。
 そうした予測不可能な天真爛漫さがウケて、今では若年層のファンも相当数ついている。

 彼女自身が元から持っていた魅力の一部だ。アイドルの仕事は、単にそれを引き出しただけに過ぎない。

 子供っぽくも、神秘的に。「高垣楓」は、そのどちらの面も併せ持つ。どちらか一方だけではいけないのだ。
 そうでしょう――と、俺は彼女の左側の青に内心で語りかける。

「楽しいから、ですね。楽しいんです。私、いま――楽しいなぁ」

 夜空に向かって歌うように告げて、高垣さんはふと足を止める。

「今まで……ずっと、何かを、追いかけていた気がします」
「はい?」
「それが今、何だったのか、わかってきたような」


 彼女は自分で自分の顔に触れた。
 目を閉じて、顔の左側。泣きぼくろを備えた左眼のあたりを撫で、形のいい柳眉、まぶた、長い睫毛にそっと触れて。

 そこに宿る大切なものと、言葉を介さず語り合う気配。

 しばしの間を置き、目を開く。

 まっすぐに俺を見据える瞳は、どちらの色も、どこまでも穏やかだった。


「今なら、歌えそうです」



  ◆◆◆◆


 高垣楓のステージは、街角のごく小さなものだった。

 CDショップのささやかなイベントスペース。ミニライブといった感じで、50人も座れれば上等な方だろう。
 実はずっと待っていた。彼女に歌の仕事はいくつか来ていたのだが、これまでは全て断ってきていた。

 本人が「歌いたい」と言うまで。

 曲を用意して会場を手配し、トレーナーさんを付けてスケジュールを組み、セッティングは当の高垣さんが呆気にとられるくらいのスピードで進む。
 当たり前だ。一分一秒が惜しい。
 他の誰よりも、俺自身がどれほど聴きたかったと思ってるのか。


 会場の入りは、まあまずまずといったところ。
 新人アイドルのデビューと聞いて来た人、たまたま通りかかった人、モデルの高垣楓を知っていた人。
 ほとんどの人は半信半疑。どんなもんかと思っているだろう。暇つぶしくらいのつもりで来ている人もいるだろう。

 彼らは幸運だ。
 これから、最初の証人になるだろう。のちのち自慢できるぞ。あの高垣楓の生歌を最初に聴いたってな。



 舞台が始まる。

 まばらな拍手。

 ステージ衣装を着込んだ高垣さんが、おもちゃみたいな舞台に立って。
 お客さんの一人一人の顔を見て、一礼。

 空気が変わる。彼女は微笑んでいる。

 マイクを握って、息を吸い込み――――



 歌う。




  ◆◆◆◆

 ―― 夜市 桜舞う境内


「ああ……聞こえているわ、楓ちゃん、樒ちゃん」


「…………本当に、いい歌」


「ふふ……ワインでも贈ろうかしら。あの子がデビューした、この年に生まれたものを……」 




  ◆◆◆◆

 ―― 夜市 参道


「あ……♪」


「カナリヤさん、そっちに行ったんですね」


「うん。暖かな、いい風……。素敵な写真が撮れそう♪」


  ◆◆◆◆

 ―― 鹿児島 とある離島


「……ふむー?」


「今、因果のよじれが、どこかにー……」


「……ああ。なつかしき風を感じましてー」



  ◆◆◆◆

 ―― ゆめのなか


「んー…………」


「おうた……ゆらゆら……ぽわぽわ……」


「ふわー……」



  ◆◆◆◆

 ―― ???


「あら? この気配……」


「わぁ……♪ 幸せの流れが、下に注いでますね~」


「う~ん……ちょっと遊びに行っちゃおうかしら。ふふっ♪」



  ◆◆◆◆


 裏方まで届く歓声は、小さなハコにはまるで見合わないものだった。
 人はとっくに席を溢れ、フロアを埋め尽くすほどに集まっている。客も、店員も、その音に釘付けだった。
 
 渦中の歌姫は挨拶もそこそこに、逃げるように舞台を後にした。

 引き止める声もあっただろう。彼女が何者なのか知らない客も多かっただろう。
 この出来事は、後に「高垣楓の歌い逃げ」として伝説化することとなる。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ」

 帰ってきて息を切らす彼女は、決して嫌だからそうしたのではない。

 どうしようもなかったのだ。身の内に膨れ上がる熱を。
 自分の意思で、自分の歌を歌い上げたその昂揚を。

 歓声はまだ鳴りやまない。顔を上げる高垣さんの額には、玉の汗が浮かんでいた。



「Pさ――」

 ふらっ――

「……! 高垣さん!」

 咄嗟に、よろけた体を受け止める。
 彼女の体は熱かった。

 汗ばむ肌に、熱を帯びた息。けれど辛そうではない、むしろ力強い息吹を感じさせる。

 高垣さんの全身に、まだステージの残響が染み渡っている。
 今の彼女は、神でも仏でもない。
 走り出したばかりの、ただの新人アイドルだ。

「高垣さん。……楓さん」
「……歌、が」
「はい」
「楽しかったんです。みんな、笑っていて。私も……姉さんも」
「はい」
「私……ここに、いたいと思えました。ねえ……『プロデューサー』」

 俺の腕の中で、楓さんが顔を上げる。汗で額に張り付いた汗が生々しい。
 互い違いの色の瞳が、どちらも眩しいほどに輝いていて。


 そして彼女は、優しく笑った。


「私を見つけてくれて、ありがとう」


 そんなの。
 それを言うなら、あべこべだ。
 順序が違う。そのすれ違いがなんとなく「らしい」なと思って、笑ってしまった。
 俺から言わせてもらえば、だってそれは。

「……君が、俺を見つけてくれたんじゃないか」

 あの「人形の夢」は、もう見ない。
 何よりも救い出されるべきだったのは、自分だったのだと思う。

 一年前の春に、あの橋の上で君と出会ってから。


  ◆◆◆◆


 この事務所は、そういう風にして始まった。
 最初は殺風景だったオフィスルームも、徐々に物が増えてきて。
 俺と楓さん、ちひろさんの三人だったのが、新しいアイドルもどんどん加わってきて。


 どこからか、失せ物探しが得意な少女がやって来て。

 やたらツキのいいお茶目なお姉さんが舞い込んで。

 努力家のカリスマハーフ悪魔が加わって。

 自称ネコチャンアイドル(人間)が殴り込んできて。

 すったもんだの末に、ふわふわねむねむな女の子を保護して。

 全裸で震えている女の子を保護したと思ったら本物のサンタで。

 いつか夜市で出会った「写真屋さん」と再会して。

 キュートな笑顔が素敵な頑張り屋さんを迎え入れて。

 犬の散歩をしていたクールな花屋の娘さんをスカウトして。

 明るく元気でパッション溢れる女の子を見出して。


 それから――――

  
   〇


 言っちゃなんだがお上りさん丸出しだった。
 新宿駅の東口広場でデカいリュックを背負い、人ごみに惑う女の子を見つけた。

 最初は親切心からだった。外回りで見かけてしまい、なんか放っておくのも憚られて。
 あの、お困りですか――などとお決まりの声をかけようとして。

「ぽこっ!? ななな、なんでしょうかっ!?」


 あ。


 この子だ、と思った。

 前置きはいらない。名刺を出して、その子に差し出す。
 目をまんまるに見開くその子から、陽だまりのような匂いを嗅いだ気がした。

 だからではないが、確信に近い思いで、言う。





「君、アイドルになってみないか?」



 いつも、いつでも、誰かのそばにいるように。



 ~はじまり~


〇おまけ ~ 現在:エピローグ


 部署は大きくなった。

 それなりに自信もついた。

 これ以上は無い。と思う。
 頃合いだ。この機を逃してなんとするか。
 決戦の時は近い。おれはやるぜおれはやるぜ。よし今だ、行け今こそ、男を見せろさあさあさあ。


「それで、電柱の陰に20分ですか」
「心の準備をしてるんですよ!」
「そうですか。あら、向こうからおいしそうなもつ焼きの香りが……」
「ああ待って待って行かないで一人にしないで」

 楓さんを必死に引き止める。今行かれたらマジでどうしていいかわからない。

「そんなこと言って、これで何度目ですか?」
「う……いや……それは、言わないでくださいよ」

 あの日から、一度も顔を合わせたことがない。
 理由はただ一つ。「合わせる顔」を整えたかったからだ。

 要するにただのカッコつけだ。そんなのわかってる。が、無手で飛び込んだらそれこそどうなるかわからない。

 伝えたいことなんか、山ほどあるんだ。


「ずっと、スカウトしたかったんでしょう?」
「……はい」
「それなら迷う必要はないじゃないですか。今がその時、ですよ」
「…………はい」
「私の時みたいに、ぐわーっと行っちゃえばいいんです。とーこさんに、とっこーですよ」

 そうか! ……ん? 特攻?

「特攻ってそれ玉砕するやつじゃ」
「あ、赤のれんが私を呼んでます。ちょっと行ってきますね♪」
「ちょおおおおおいおいおいおいそんな殺生な!! マジで一人で行けってんですか!?」

 軽やかに背を向けて、楓さんはウインクした。青い方の目が、いたずらっぽく輝いた。

「向こうで待っていますね。あの時みたいに」

 言うが早いか、霞みたいに消えてしまう。


 ……………………。



「ふぅぅ~~~~っ…………」

 何度目かもわからない深呼吸。

 彼女の店は、一応わかっている。教えてもらったから。
 けど入るのはこれが初めてだ。
 俺が店を訪れる時は、彼女に名刺を渡す時だと。そう決意していたから。
 今更何を怖がる。熊本で空を飛んだり、京都でみょうちくりんな結界に閉じ込められたりしたんだ。

 そういうスチャラカなプロデューサー業を越えての今だろう。

 もう、いつかの迷子ではないだろう。


「…………よしっ」

 腹をくくる。大股で歩を進める。

 俺は名刺を一枚取り出し、その喫茶店のドアを、勢いよく開けた。




これにて完結です。
字数&期間ともにクソ長いところをお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
かなり独自色が強く、これまでのものとも違ったノリのお話でしたが、少しでもお楽しみいただけましたら幸いです。

各登場人物につきましては、この世界線でのひとつの創作とユルくお考えください。

ありがとうございました。

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