【シャニマス】アルストロメリアと幸せな日常 (60)

これはシャニマスssです
多少人を選ぶ内容かと思います

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 ぴぴぴぴっ、ぴぴぴぴっ

「っ!!」

 目覚ましのアラームと同時、俺は跳ね起きた。
 なんだか、長い夢を見ていたような気がする。
 硬く握り締めた手を開けば、インフルエンザに罹った時のような汗をかいていた。
 相当な力がこもっていたのだろう、指の跡が赤くクッキリと残っている。

「…………はぁ」

 朝からこんなんでは気が滅入る。
 カーテンを開けて部屋に朝日を取り込み、気持ちをリフレッシュ。
 窓の外では木々が揺れ、四月の朝を表していた。
 少し窓を開けて思いの外低い気温に驚き、一瞬でカーテンごと閉める。

 コンコン

 それと同時、部屋の扉がノックされた。
 今日も、起こしに来てくれたようだ。

「はーい」

「あ、起きてますか? 兄さん」

 ガチャ

 開かれた扉の先には、既にメイクをバッチリ終えた愛しい妹。
 長い栗色の髪を片方に結んだ、おっとりとした長女。

「……おはよう、千雪」

「おはようございます、兄さん。今日はお寝坊さんじゃないんですね」

「何時迄も千雪に頼ってばっかりって訳にはいかないからな」

 ふふ、と微笑む千雪。
 もう少し俺が寝ぼけていれば、天使と見間違えていたかもしれない。

「朝ご飯、もう準備出来てますから」

「そうか、いつもありがとな」

 開けられた扉から、良い香りが漂っていた。
 焼き魚と味噌汁だろうか。
 朝ご飯は一日の元気の源。
 しっかり食べて、英気を養おう。

「そうですよ、兄さん。前は食べてなかったって聞いて驚きましたから」

「今では食べないとお昼まで身体が保たなくなっちゃったからな」

 健康になった、とも言い換えられるだろう。
 千雪のお陰で、とてもではないが健康的とは言えなかった俺の生活は一変した。
 一日三食を徹底し、早寝早起きを心掛ける。
 当初はきついと感じていたが、今ではそれが当たり前になっていた。

「甘奈ちゃんと甜花ちゃんも待ってますよ?」

「じゃあ、急がないとな」

 千雪が一階に降りて行った後、ぱっぱと着替えて顔を洗い歯を磨く。
 妹達の前で見苦しい姿を見せる訳にはいかない。
 鏡の前で身嗜みを整え、ポーズを決めてみたりする。
 一人でやっていても恥ずかしかった。

 階段を降りて、リビングへ向かい。
 扉を開けて、三人の妹に挨拶する。

「おはよう千雪、甜花、甘奈」

「あ……おはようござい……ましゅ!」

「おっはよーお兄ちゃんっ!」

「ふふ、改めて……おはようございます、兄さん」

 それが、俺たちの日常だった。






「今日の朝ご飯はね、甜花ちゃんが作ったんだよ!」

「にへへ……甜花、頑張った……」

 食卓に並べられた料理は、盛り付けはそこまで上手とは言い難かったが。
 けれど味噌汁はきちんと出汁が取られ、白米も柔らかくしっかりと作られたものだった。
 味の方は勿論、とても美味しい。
 前までは料理なんてするイメージはなかったが、いつの間にこんな上達したのだろう。

「凄いじゃないか甜花、勉強したのか?」

「……それは、その……千雪お姉ちゃんに……」

「ふふ、それでも頑張ったのは甜花ちゃんよ? 私、今日は全然お手伝いさせて貰えませんでしたから」

「……甜花が、一人で……お兄ちゃんに、褒めて欲しかったから……」

「そっか。ありがとな、甜花」

 軽く撫でると、心地良さそうに甜花は目を細めた。
 次女である甜花は普段はグータラしているが、やる時はやる子だ。
 実際目の前の料理は、ほんの数日程度で作れるレベルの味ではない。
 盛り付けがもう少し整っていたら、作り慣れている千雪の料理と勘違いしていたかもしれないレベルだ。

「いーなー。甘奈も撫でて貰いたいっ!」

「それじゃ……お夕飯は、なーちゃんが作って?」

「うんっ! お兄ちゃん、めーっちゃ期待しててね!」

「甘奈が作ってくれるのか。それは楽しみだな」

 元気いっぱい笑顔いっぱいな甘奈は、三女であるにも関わらずとてもしっかりとしていた。
 次女である甜花と双子である為、あまり三女というイメージはないが。
 活発そうな見た目と相違無く、彼女はうちの妹達の中でも一番の元気の塊だ。
 見ているだけで、此方もパワーが貰えそうだ。

「モテモテですね、兄さん」

「モテモテって……」

 それを言うなら、お前たち三人の方だろう。
 三人それぞれが違った方向に超美人、街を歩いていれば声を掛けられる事だって少なくない筈だ。
 クラスメイトどころか他クラス、なんなら先輩や後輩に告白された経験もあるだろう。
 それこそモデルやアイドルのスカウトだって…………


「……あれ、そう言えば……」

「お兄ちゃん……お代わり、いる……?」

「えっ? あぁいや、大丈夫だ。もうお腹いっぱいだよ」

 朝から美味しすぎてつい随分と食べ過ぎてしまった。
 お昼ご飯が食べられるか心配なくらいだ。

「それじゃあお兄ちゃん、甘奈達と遊ぼっ?」

 そう言って、甘奈は背後から腕を回して来た。
 肩に掛かる長い髪から、ふんわりと甘い香りが漂う。
 耳元に掛かる息が擽ったい。
 それだけで、酔ったかの様に意識が遠のきそうだった。
 
「そういう訳にもいかないだろう。俺はこれから……」

「……これから、どうかしたんですか? 兄さん」

「これから…………」

 ……これから、何だったのだろう。
 何をするつもりだったのだろう。
 本来だったら、何をしていただろう。
 何をしようとして、俺は甘奈の誘いを断ったのだろう。

「妹の誘いを断るなんて、お兄ちゃんダメだよ~?」

 そうだ、そんな事はあってはならない。
 俺が妹達の言葉に逆らってはならない。
 俺は妹達を最優先に動かなければならない。
 今までも、そしてこれからも……

 なのに、何故俺は……

「……俺、昨日何してたっけ?」

「昨日ですか? 私達四人でショッピングに行ったじゃないですか」

「ひっどーい、忘れちゃったの? お兄ちゃん」

 そうだったか?
 いや、そうだ。
 千雪と甘奈が言うのだから間違いない。
 そうだ、俺達は四人でショッピングに行ったんだ。

「お兄ちゃん……荷物持ち、頑張ってた……」

「それで疲れちゃったから、今日は一日お家でゆっくりするって話だったでしょ?」

「…………昨日って、何曜日だっけ?」

「昨日ですか? 昨日は3月31日の日曜日でしたけど……」

 日曜日か。
 なら、家族サービスって事で荷物持ちなりなんなり付き合っただろう。
 休日に家族で出かける、当たり前の事だ。
 荷物を持つのも長い買い物に付き合うのも、男として当たり前の事だ。

「……じゃあ……今日は、月曜日だよな?」

 昨日が日曜日なら、今日は月曜日の筈だ。
 記憶が正しければ、今日は平日な筈だ。
 4月の1日、年度明け。
 甘奈と甜花が学校がお休みなのは、分かる。

「…………そうですけど……兄さん、どうかしたんですか?」

 けれど。

「いや……月曜日なら、俺は仕事に……」

 仕事に行かなければならない筈だ。
 月曜日なのだから、平日なのだから。
 なのに、俺は忘れていた。
 仕事に行かなければならないと言う事も、俺がどんな仕事をしていたかと言う事も。




「……お兄ちゃん大丈夫? さっきから少しおかしいよ?」

「お兄ちゃん……もう一回、寝る?」

「いや……俺は……」

「兄さんはきっと疲れてるんです。そうだ、私達四人で一緒に寝るなんてどうですか?」

「あ、それ賛成! 久しぶりに皆んなで寝よっ?」

「にへへ……甜花、お昼寝の準備してくる……!」

 待ってくれ。
 俺がおかしいのか?
 俺が間違っているのか?
 おれが、おかしくなってしまったのか……?

「昨日毛布を柔軟剤で洗っといて正解だったね!」

「枕……お兄ちゃんの、腕が良い……」

「あっ、じゃあ甘奈は反対側の腕ね!」

「ふふ、甘奈ちゃんも甜花ちゃんも兄さんの事が大好きなのね」

 幸せそうに笑う三人と正反対に、俺の頭と心はぐちゃぐちゃになっていた。
 おかしいだろ、そんな訳ないだろ。
 俺は普段、仕事に行っていただろ。
 なんで三人は、そんな事なかったかの様に振る舞っているんだ。

 そもそも、『此処は何処だ?』

 朝起こしてくれた女性が千雪だと言う事は直ぐに分かった。
 朝食を作ってくれた少女が甜花だと言う事も直ぐに分かった。
 笑顔で迎えてくれた少女が甘奈だと言う事も直ぐに分かった。
 三人の事を、俺は良く知っている筈だから。

 だが、こんな家には見覚えが無い。
 長年過ごして来たかの様に自然に過ごせたが、記憶のどこにもこんな場所の光景は無い。
 寝室も、洗面所も、廊下も、階段も、リビングも。
 俺の部屋の窓の外に広がる光景も、人生で一度として見た事がなかった。

「お、お兄ちゃん……どうしたの? 食べ過ぎて、お腹痛い……?」

「……俺は、こんな場所を知らない……」

「甜花ちゃんの手料理、めっちゃ美味しかったもん! 食べ過ぎちゃっても仕方ないよ」

「違う……俺は、そもそも……」

 そんな筈はない。
 ずっと過ごして来ていたのなら、風景を覚えていない筈がない。
 あり得ない。
 ずっと過ごして来ていたのなら、一緒に過ごした彼女達との思い出が無い筈がない。

 なのに、無かった。
 甘奈達と暮らしてきたなんて記憶は、どこにも無かった。

「お兄ちゃん、今日なんかおかしいよ」

 俺が、おかしいのか?

「お兄ちゃん……大丈夫……?」

 おかしいのは、この家の方じゃないのか?

「兄さん……今日はもう、休みませんか?」

 おかしいのは……

「……お前たちの方が、おかしいんじゃないのか……?」

 そう、呟いた。


 気持ち悪い程の沈黙が、部屋を包んだ。
 心配そうに俺を見つめる6つの目が、俺の心を揺らし続けた。
 理由の分からない不安、焦り、緊張、動悸が襲い掛かってくる。
 視界が揺れて、足が震える。

「……お兄ちゃん。今日はもう、お休み、しよ?」

「うんうん、それが良いよお兄ちゃん」

「兄さん。さ、お休みしましょう?」

 俺の発言なんて無かったかの様に、彼女達は幸せを続ける。
 俺の発言に意味なんて無いかの様に、彼女達は自分達の幸せに戻る。
 けれど、俺一人は置き去りにして。
 取り残された俺は、もう息すらも苦しかった。

 俺一人だけが、別の世界に放り込まれてしまったかの様な錯覚。
 当たり前が当たり前でない感覚。
 真偽のはっきりしない記憶が大量に流れ込んで、脳の処理が追い付かない。
 そんな居心地の悪さと言葉にしようのない不安の塊が、自分の存在さえあやふやに感じさせて。

「違うっ! 俺はっ!!」

 気付けば、俺は叫んで走り出していた。

「お兄ちゃんっ?!」

 堪らず、俺はリビングを飛び出した。

 何十メートルにも感じる廊下を駆け抜けて、玄関へ向かう。
 今思えば、こんな廊下も玄関も見た事が無かった。
 だから、逃げ出したかった、確かめたかった。
 この家の外には、どんな景色が広がっているのか。

 妹達は、誰も追い掛けてこなかった。

「はぁっ……はぁっっ……っ!」

 ほんの数秒の事だっただろう。
 けれど玄関に辿り着くまでに、既に俺の足は悲鳴を上げて息は上がりきり、掌は汗で埋め尽くされていた。
 一瞬、振り返る。
 けれど廊下には、誰も居なかった。

「外に……兎に角、外に……っ!」

 こんなおかしな世界に俺一人、ずっと居ては気が狂ってしまう。
 1秒でも早く!
 1メートルでも遠く!
 こんな世界から、逃げ出さないと……!

 ガチャ

 意外にも玄関の扉は、あっけなく、あっさりと、軽い力で開ける事が出来た。
 暗い廊下と扉の先の明るい光のせいで、一瞬目が眩む。
 けれど、俺は外に出る事が出来た。
 ゆっくりと、視界を取り戻す。


 これで、俺は……




「ふふ、兄さん。そんなに慌ててどうしたんですか?」

「…………え……」

 目を疑った。
 俺は、リビングに居た。
 目の前には先程まで俺が着いていた食卓。
 笑顔で俺を迎える三人の妹。

「なんだ、これ……」

 なんだ? 何が起きた?
 目の前で起こっている現実が余りにも非現実的過ぎる。
 そんな筈は無い。
 だって俺は、玄関の扉を開けたのだから。

「もー、お兄ちゃんってばおてんばなんだから」

「にへへ……お兄ちゃんも、お昼寝に全力……」

 当然の様に笑顔な妹達が、とても気味が悪い。
 何故三人は、そんなに幸せそうなんだ?
 俺はこんなにも焦って、不安なのに。
 三人が大切に思ってくれているであろう俺が、家から出ようとしたのに。

 そう思って手元を見れば、物凄い力で俺はリビングのドアノブを握っていた。

「うわぁぁぁあっ!!」

 弾かれる様に俺はドアノブから手を離し、再び玄関へと向かった。

 今のは俺の気が動転していただけだ。
 こんなおかしい事が起きる筈が無い。
 焦りで煩いくらいに響く鼓動を抑え付け、もう一度俺は玄関へと向かう。
 手元を確認すれば、俺はきちんと玄関のドアノブを握っている。

「頼む……っ!!」

 扉を開ける。

 きっと、大丈夫だ。
 今度はもう、気も動転していない。
 あって良い筈が無い。
 扉の向こう側からの光で、視界が真っ白になる。


 これで俺は、外に出られ……


「お帰り、お兄ちゃんっ!」

「お、お帰りなさい……お、お兄ちゃん……っ!」

「ふふ。お帰りなさい、兄さん」

 俺は、リビングのドアノブを握っていた。

 三人の妹が、同時に俺へと微笑み掛ける。
 心底幸せそうに、この幸せに微塵の邪魔も挟み込ませないというかの様に。

「……はは、ただいま」

 俺は、もう考える事をやめた。

 俺も三人と一緒に、幸せになろう。








 ぴぴぴぴっ、ぴぴぴぴっ

 目覚ましのアラームと同時、俺は目を開けた。
 なんだか、長い夢を見ていたような気がする。
 硬く握り締めた手を開けば、インフルエンザに罹った時のような汗をかいていた。
 相当な力がこもっていたのだろう、指の跡が赤くクッキリと残っている。

「…………はぁ」

 朝からこんなんでは気が滅入る。
 カーテンを開けて部屋に朝日を取り込み、気持ちをリフレッシュ。
 窓の外では木々が揺れ、四月の朝を表していた。
 少し窓を開けて思いの外低い気温に驚き、一瞬でカーテンごと閉める。

 コンコン

 それと同時、部屋の扉がノックされた。
 今日も、起こしに来てくれたようだ。

「はーい」

「あ、起きてますか? 兄さん」

 ガチャ

「……おはよう、千雪」

「おはようございます、兄さん。今日はお寝坊さんじゃないんですね」

「何時迄も千雪に頼ってばっかりって訳にはいかないからな」

 ふふ、と微笑む千雪。
 もう少し俺が寝ぼけていれば、天使と見間違えていたかもしれない。

「朝ご飯、もう準備出来てますから」

「そうか、いつもありがとな」

 開けられた扉から、良い香りが漂っていた。
 焼き魚と味噌汁だろうか。
 朝ご飯は一日の元気の源。
 しっかり食べて、英気を養おう。

「そうですよ、兄さん。前は食べてなかったって聞いて驚きましたから」

「今では食べないとお昼まで身体が保たなくなっちゃったからな」

「甘奈ちゃんと甜花ちゃんも待ってますよ?」

「じゃあ、急がないとな」

 千雪が一階に降りて行った後、ぱっぱと着替えて顔を洗い歯を磨く。
 妹達の前で見苦しい姿を見せる訳にはいかない。

「ん……?」

 階段を降りる前にふと自分の部屋を覗けば、机の上に書類が出ていた。
 昨夜書類と格闘して、そのまま片付けずに眠ってしまったのだろう。
 全く、きちんと片付けないと千雪にお説教されてしまう。
 怒った千雪も可愛いし、それも悪くないかもしれない、なんて考えながら一応机の端に整える。

「……あれ、メモ……?」

 トントンと書類の端を整えていると、書類の合間から一枚のメモ用紙が落ちてきた。
 そこには俺の文字で、一文だけ。


 
『永遠に出られなくなってしまったらしい……』
 
 ……なんだ、これ。
 一体どんな意図があって、俺はこんなメモを残したのだろう。
 永遠に出られなくなってしまった?
 ……電話か? 営業先の人を怒らせてしまったのだっただろうか?
 
「お兄ちゃーん! 早く来ないと冷めちゃうよーっ!」
 
 一階の方から、甘奈が俺を急かす声が聞こえてきた。
 
「あっ、すまん! すぐに……」
 
 ドサッ!
 
「うわっ!」
 
 慌てて書類を片付けようとした勢いで、誤って全てぶちまけてしまった。
 机一面が書類で埋まる。
 しまったなぁ、案件ごとに並べていただろうにこれじゃ分からなくなってしまった。
 ところで今更だが、これは何の書類だったのだろう。
 
 俺の仕事のものである事は分かるが、それが何の仕事だったかが思い出せない。
 ずっと働いてきたのにそんな事あるか? とは思うが思い出せないものは思い出せないのだ。
 夢の出来事を起きてから思い出そうとしてもハッキリとしない様な、そんな感覚。
 見たところ芸能系の仕事の様だが……
 
「…………ん?」
 
 床に落ちた勢いで広がってしまったクリアファイルの中から、これまたメモ用紙が飛び出ている。
 それを俺は、何故かこっそりポッケへと仕舞い込んだ。
 
 コンコン
 
「兄さん? おっきな音が聞こえましたけど……大丈夫ですか?」
 
「ん、あぁすまん千雪。片そうと思ったら落としちゃってな」
 
「もう……小まめに片付けて下さいっていつも言ってるじゃないですか」
 
 そう言いながら、千雪は散らばった書類を集め始めた。
 結構色んな所まで広がっていたのか、机の下からも出てくる。
 
「はいどうぞ、兄さん。お部屋のお片付けなら後で私もお手伝いしますから」
 
「ありがとな、千雪」
 
 そうだな、今日は久しぶりに部屋の模様替えなんかも良いかもしれない。
 いつも忙しくて掃除すらきちんと出来ていなかったし、千雪達に家の事を任せっぱなしと言うのも申し訳ない。
 
「そう言えば……」
 
 メモに書いてあった事を、俺は千雪に相談しようとした。
 永遠に出られなくなってしまったってどう言う事だと思う?
 自分で書いた覚えが無いんだが、もしかして甜花がゲームの攻略で書いたメモがこっちに紛れ込んじゃったのか?
 そんな感じで、気軽に、何てことなく……
 
「……朝ご飯、今日は誰が作ってくれたんだ?」
 
「ふふ。それは後でのお楽しみです」
 
「そっか、楽しみだ」
 
 ……何となく、聞いては不味い気がした。


「今日の朝ご飯はね、甜花ちゃんが作ったんだよ!」
 
「にへへ……甜花、頑張った……」
 
 食卓に並べられた料理は、盛り付けはそこまで上手とは言い難かったが。
 けれど味噌汁はきちんと出汁が取られ、白米も柔らかくしっかりと作られたものだった。
 味の方は勿論、とても美味しい。
 前までは料理なんてするイメージはなかったが、いつの間にこんな上達したのだろう。
 
「凄いじゃないか甜花、勉強したのか?」
 
「……それは、その……千雪お姉ちゃんに……」
 
「ふふ、それでも頑張ったのは甜花ちゃんよ? 私、今日は全然お手伝いさせて貰えませんでしたから」
 
「……甜花が、一人で……お兄ちゃんに、褒めて欲しかったから……」
 
「そっか。ありがとな、甜花」
 
 軽く撫でると、心地良さそうに甜花は目を細めた。
 次女である甜花は普段はグータラしているが、やる時はやる子だ。
 実際目の前の料理は、ほんの数日程度で作れるレベルの味ではない。
 盛り付けがもう少し整っていたら、作り慣れている千雪の料理と勘違いしていたかもしれないレベルだ。
 
「いーなー。甘奈も撫でて貰いたいっ!」
 
「それじゃ……お夕飯は、なーちゃんが作って?」
 
「うんっ! お兄ちゃん、めーっちゃ期待しててね!」
 
「それは楽しみ……ん?」

 ……あれ?
 昨夜の夕飯も、甘奈が作ってくれたんじゃなかったか?
 昨日、夕飯は甘奈が作るって言ってた様な気がするんだが。
 確か、朝食は甜花が一人で作ったから夕飯は甘奈が作……

 ……甜花が?
 甜花が朝食を作った?
 何を考えているんだ俺は、甜花が朝食を一人で作ってくれたのは今日が初めてだろう。
 さっきの会話からして、それは間違い無いだろう。

 ……いや、間違い無い。
 俺はこの食卓を、昨日も見て……

「ん? どうしたの、お兄ちゃん?」

「……あぁいや、何でもないんだ。夜が楽しみだ、ってな」

「うんっ! お兄ちゃんに喜んで貰える様に、甘奈頑張るから!」

「ふふ。それじゃあ、私は夜もキッチンに入れて貰えなさそうね」

 自然に、いつも通りに、日常会話が続く。
 俺が先ほどまで浮かべていた疑問なんて、もう思い出せなくなっていた。
 甜花が作ってくれた朝食は、あっという間に食べ終わってしまった。
 とても美味しかった、とても幸せだった。

 それこそ、この幸せがいつまでも続いてくれたら、と。
 そう、願ってしまうくらいには。





「お兄ちゃん……甜花とゲーム、しよ?」

 食器を片付け終えて、リビングのソファで小休止。
 今日は月曜日だから、何も予定は無かった筈だ。
 ……なら、何故目覚まし時計をセットしていた?
 困った事に、それは思い出せなかった。

「あ、甘奈もやる!」

「悪い、今日はちょっと部屋の掃除をしようと思っててな。それからで良いか?」

 今日は起きてからずっとモヤモヤする。
 何かを忘れている気がする。
 忘れてはいけない事を忘れている気がする。
 忘れる筈の無い事を、忘れている気がする。

 甜花には悪いが、少し部屋でゆっくりさせて貰おう。
 元より掃除をしようと思っていたし丁度良い。

「あ、私も手伝います」

「助かるよ、千雪」

「それじゃあ、私は大きなゴミ袋を持って行きますから」

「年末じゃないんだし大掃除をするつもりはないぞ?」

 そこまでするつもりはない。
 捨て忘れたレシートとかを捨ててカーペットを掃除するくらいのつもりだったのだが。

「兄さんはお片付けが上手じゃありませんから。机の書類、必要無いんじゃないですか?」

「ん……」

 そう言えばそうだった。
 あんな書類に心当たりは無いし、要らないなら捨てて机をさっぱりさせてしまおう。
 ずっと乗せたままではまた今朝みたいにばら撒いてしまうし。
 机の上のものも少ない方が広々と作業に使えるだろう。

 先に部屋に一人で戻り、書類を眺めた。
 ……事務所……ライブ……?
 見た事もない内容ばかりで目眩がする。
 こんな訳も分からない書類の山、気味が悪いしさっさと捨ててしまおう。

「ん……」

 そう言えば、先程ポッケに仕舞い込んだメモ帳には何が書いてあったのだろう。
 仕事のメモだったろうか、美容院の予約の時間だっただろうか。
 あれ、『永遠に出られなくなってしまった』というメモだってそうだが……
 何故俺は、スマホのメモアプリではなくわざわざメモ帳の1ページに記したのだろう。

 ポッケから、メモを取り出す。



『この幸せがいつまでも続いてくれたら』

 ぞくっとした。
 訳の分からない目眩がした。
 これはついさっき、俺が甜花が作ってくれた朝食を食べた時と一言一句違わないおれの感想だ。
 ついさっきなんだ、初めてなんだ。

 勿論彼女達と過ごしていれば、そう感じる事もあるだろう。
 俺と言う同じ人物が抱く感想なのだ、一字一句違わぬ事もあるだろう。
 だが、理由はないが確信があった。
 俺は以前も甜花の手料理を食べて、同じ感想を抱いた、と。

 吐き気がする。
 部屋の床がぐにゃりと歪んだ様な感覚に陥った。
 呼吸が荒れてまともに酸素を取り込まなくなる。
 もう一つの考えに、思い当たってしまったから。

 もう一つのメモ。
 その内容に、心当たりがあってしまった。

「っ!」

 勢い良く、俺は自分の部屋を飛び出した。
 ドタドタと音を立てて階段を降り、そのままの勢いで玄関へと向かう。
 違ってくれ、気のせいであってくれ、記憶違いであってくれ。
 そう望みを込めて、俺は玄関を開く。

 その先が外なら、それで良い。
 全部俺の思い違いだ。
 けれど、何となく分かっていた。
 あのメモの通り、きっと俺は外へは……


「……あれ、お兄ちゃん? どうしたの、そんなに慌てて」

「……そんなに早く、甜花とゲームしたかった……?」


 ……俺は、リビングに居た。

「…………ぁ……」

 思い出してしまった。
 全てに、気付いてしまった。
 今日が初めてじゃなかった。
 今日を迎えたのは。

 2019年の4/1を迎えたのは、今日が初めてじゃなかった。

「……なんでも、ない……」

 叫びそうだったのを必死に堪える。
 発狂しそうな心を全力で抑えつける。

 大崎甘奈だ。
 大崎甜花だ。
 間違い無い、彼女達の名前が苗字まではっきりと分かる。
 ついさっきまで当たり前の様に家族として接していた事実が、今では気味が悪過ぎて吐きそうになる。

 あり得ないだろう。
 おかしいだろう。

 だって俺は、彼女達の『プロデューサー』なんだぞ。

 状況の把握が間に合わない。
 矛盾だらけの情報の本流に頭が追い付かない。
 脳の処理が限界を超えて言葉すら上手く組み立てられない。
 意味が、訳が分からない。

 とにかく、部屋に戻ろう。
 一旦落ち着こう。
 考える事が出来ないのなら、考える事が出来る様になる努力をしよう。
 これはきっと、俺一人で考えるべき事で……

 覚束ない足取りで自分の部屋へ戻る。
 先程まで過ごしていた筈の俺の部屋は、見慣れない、見た事も無い光景だった。
 こんな場所で過ごしていた記憶は無い。
 こんな場所で毎朝目を覚ましていた記憶が無い。

 そして……

「ふふ、兄さんったら……そんなに焦って、何処に行ってたんですか?」

 俺の部屋で一人微笑む千雪は、見た事もないくらい笑顔だった。



「ふふ、兄さんったら……そんなに焦って、何処に行ってたんですか?」

「……掃除機、取りにな。千雪が持って来てくれてたか」

 俺が全て思い出した事を、千雪に知られてはいけない。
 それを俺はイヤと言う程、身に染みて理解していた。

「……ふふ、そうですか。それじゃ兄さん。お掃除、始めましょう?」

「そうだな。今日一日でさっぱりさせちゃおう」

 掃除機をコンセントに繋いでいる千雪を見ながら、俺は考えた。
 書類に挟みっぱなしだった『永遠に出られなくなってしまった』というメモも、千雪に見られない方が良いだろう。
 アレを見られてしまえば、千雪にバレてしまう。
 バレてしまえばどうなるか、どんな対応を千雪がしてくるかを、俺は身をもって知っていたから。

 書類の山の、その一番下。
 そこに、メモがある。
 今千雪はコンセントにプラグを刺す為壁側を向いている。
 バレずに回収するなら、今だ。

「……ねぇ、兄さん」

「ん、どうした?」

「お昼ご飯は私が作っても良いですか? お夕飯は甘奈ちゃんが作るって言ってましたから」

「ああ、勿論だ」

「何かリクエストはありますか?」

「千雪が作ってくれたものなら、何でも嬉しいよ」

 他愛の無い会話をしながら、俺は書類の一番上を見る。
 先程まではさっぱり分からなかったが、今では全てが理解出来た。
 イルミネーションスターズの握手会、放課後クライマックスガールズのドラマの撮影。
 L'Anticaの芋掘り体験、ストレイライトの水着の撮影。

 そして、アルストロメリアのライブ。

 俺は、彼女達の、283プロダクションのプロデューサーだ。
 忘れてはいけない事はそれだった。
 忘れる筈が無い、現に思い出せた。
 何故忘れていたのか考えるのは後だ。

 今はそれより、メモの回収を……

「ふふ、兄さん。何を探しているんですか?」

 千雪の声の音量が大きくなっている事から分かる。
 既に彼女は、此方を向いていた。
 当たり前だ、プラグをコンセントに刺すのに大した時間はかからない。
 プロデューサーである事を思い出して感傷に浸る暇なんて無かった。

 そしてこれは、確信でもあった。

 千雪は、俺を疑っている。
 俺が全てを思い出してしまった事に、気付きかけている。
 それでも大丈夫だ。
 決定的な証拠さえなければ、ボロさえ出さなければ。

 千雪だって、この『幸せ』を自ら手放そうとはしないだろう。

「……捨てちゃいけないものとかもあるだろ。皆んなで撮った写真とか、机に出しっぱなしで混ざっちゃってたかもしれないし」

「そうですね……もうっ、いつもちゃんと整頓しておけばそんな事にはならないのに……」

 ジト目でお説教をしてくる千雪。
 こんな状況でなければ、そんな彼女も可愛らしいと思えただろう。

「それに、兄さんは要らない物をとって置き過ぎなんです」

「そう言うなって。思い出の品とか捨て辛いだろ?」

「そう言ってまた部屋を物で溢れ返らせるんですから……」


 メモの回収は一旦諦めよう。
 彼女が部屋に居る状況でそれを行うのは余りにもリスクが高い。
 今は掃除に専念して、千雪が外へと出て行ったタイミングで回収するべきだ。
 そうと決まれば、ゴミ袋を早くいっぱいにしよう。

 幸い、捨てる物なら沢山ある。
 自分の散らかし癖があって助かった。

「まずは要らないレシートとか捨てるか」

「なんでとっといてるんですか……」

 財布の中はコンビニのレシートで満タンだ。
 仕事の癖でつい全部残してしまっている。
 ありがたい事に鞄の中にも沢山のチラシや広告がある。
 配る苦労を知っている為、街頭で配ってると受け取ってあげたくなってしまうのだ。

「千雪はカーペットに掃除機を頼めるか?」

「はい、任せて下さい」

 ここは俺の本当の部屋では無い。
 ベッドの下を女性に探られても痛くも痒くもなかった。
 いや元々ベッドの下にエロ本を隠したりなんてしていないが。
 ……していないが。



 ベッドにコロコロを掛けたり。
 適当な服を捨てたり。
 旅行のパンフレットを捨てたり。
 てきぱきと、掃除を進めて行く。

「それで、今度は四人で遊園地か水族館なんて行きたいなって思ってるんです。あ、兄さんが良ければですけど……」

「んー、水族館はどうせなら千雪と二人きりで行きたいな」

「……もう、兄さんったら……」

 他愛の無い会話を進めながら、俺は焦っていた。
 ゴミが、集まり切らないのだ。
 千雪の用意した50Lのゴミ袋は、当然ながらとても大きかった。
 俺一人が出したゴミでは、流石に埋まりそうは無い。

 そして、そうなった場合。
 千雪からされるであろう提案を、俺はきっと……

「あら、兄さん」

 千雪が、俺の机の上を見る。
 ニタリ、と。
 そんな風に、普段の彼女とは思えないくらい下品に。
 気持ち悪い笑顔を、浮かべた様な気がした。

「机の上の書類、捨てないんですか?」

 言われると思っていた。
 何処かのタイミングで、彼女がそれを言うと思っていた。

「……………………」

「…………兄さん? どうかしましたか?」

 ……捨てられる訳がないだろう。
 勿論、その一番下にあるメモに気付かれる訳にはいかないから、と言うのもある。
 今書類を持ち上げてしまえばそれが千雪に見つかってしまう。
 一緒に纏めて持ち上げてしまえば、きっと俺はそれを回収出来なくなるだろう。

 けれど、そんな話じゃない。
 ……これは、俺の大好きな283プロの皆んなの仕事なんだぞ。
 彼女達の頑張りの結晶なんだぞ。
 ライブも、撮影も、握手会も、皆んなで頑張って掴んだものだ。

 それを、その企画書だからって捨てられる筈が無いだろう。
 もしかしたら夢から覚める様に、全て無かった事になるかもしれないとしても。
 それをプロデューサーである俺が……捨てられる筈が……
 けれど、もしこれでまた俺が四月一日を繰り返す羽目になれば……




「…………そう、だな……」

 捨てるしか、無かった。
 今は千雪の言う通りにするしか無かった。
 俺がこの『幸せ』から抜け出せない事には、彼女達の企画は全て意味が無くなる。
 捨てるしかないんだ……捨てるしか……

「……ああ、要らないもんな」

 背に腹は変えられない。
 兎に角今は、この状況を切り抜けよう。
 企画書ならまた俺が徹夜して書けば良い。
 重要な書類ならアシスタントのはづきさんが予備なり写しなりを持っているだろう。

 後は、どうやってメモを回収するか、だ。
 書類の山の下の方は残すか。
 上から7割程度を捨てれば、ゴミ袋はほぼ一杯になるだろう。
 そうしたら次のゴミ袋を取りに行って貰って、その隙に回収をする。

「……よいしょ、っと。ん、もう結構いっぱいになっちゃったな」

 俺の声は平静を保てていただろうか。
 悲しさと悔しさに揺れていなかっただろうか。
 俺の手は震えていなかっただろうか。
 正直、自信は無い。

「まぁ、もういっぱいになってしまったの……私、もう一袋持って来ますね?」

「あぁ、頼んだ千雪」

 ゴミ袋の口を縛った千雪が、部屋を出て行った。
 これで良い、仕方なかった。
 それより今は、メモの回収だ。
 考えるのも後悔するのも、その後だ。



「え……」

 書類の山を退ける。
 けれど。

「…………無い……っ!」

 そこに、メモは無かった。

 俺の勘違いか?
 一番下じゃなかったか?
 他の書類の合間を探すが、それらしい物は一つも見つからなかった。
 だとした、先程ゴミ袋に捨てた書類の間に挟まっていただろうか。

 まぁ、それなら良い。
 捨ててしまったのであれば見つかる事も無いだろう。
 メモがどうなると困るかと言えば、千雪達に見つかるのが一番不味いのだ。
 最悪、俺が回収する必要は無い。

 大丈夫だ、捨てたのであれば。
 無いのであれば、心配する必要は


「何を探しているんですか? 兄さん」


 息が、止まるかと思った。

 部屋の入り口では、笑顔の千雪がゴミ袋を片手に立っていた。
 次のゴミ袋なんて、既に用意してあったのだろう。
 俺を一人にさせて油断させる為に一旦部屋から出たのだろう。
 それに俺は、まんまと嵌められてしまった。

「……いや、別に……」

 正直、もう言い訳は効かないと分かっていた。
 見られていたのだから。
 書類の山を退けて、ある筈の物が無く慌てふためいている俺を。
 彼女はずっと、見ていたのだから。

「……そう、なら良いんです。何か大切な物を捨ててしまって焦ってるのかな、って心配してただけですから」

「……大丈夫だよ、千雪。そんな大切な物なら机の上に出しっ放しになんてしないから」

「ふふ、でも兄さんそう言う事結構ありますよね?」

「耳が痛いな」

 ふふ、と笑う千雪。
 釣られて俺も笑いそうになる。
 良かった、バレていない。
 普段からズボラな自分で良かった。


「大切なメモを出しっ放しにしておいた、とか」


 今度こそ、完全に俺は呼吸出来なくなっていた。

 微笑む千雪の手には、メモが一枚。
 それは今俺が必死になって探そうと、隠そうとしていたものだった。

 扉の隙間から見える部屋の外には、甘奈も居た。
 甜花も居た。
 三人とも、幸せそうな笑顔で。
 俺はもう逃げられないと悟った。

「…………兄さん。このメモを見て、どう思いましたか?」

「……訳が分からないな。永遠に? 出れない? なんの事だ?」

「…………ふふ……誤魔化さなくっても良いんですよ? 兄さん」

 ダメだ、もう完全にバレている。
 微笑んではいるが、千雪の目は獲物を追い詰める肉食獣のソレだ。
 絶対に誤魔化さない。
 正直、泣きそうだった。

「今朝偶然見つけて良かったです。こんなメモを残せるなんて……」

 あの時か。
 散らばった書類を集めてくれた時点で、彼女に既に取られていたのか。

「……良いんですってば、兄さん。私は怒ってなんていませんから」

 それはきっと、本心なのだろう。
 千雪は別段怒ってなどいない。
 ただ、出来の悪い生徒を叱る様な。
 しつけとして靴を揃えるよう言う様な、そのレベルなのだろう。

「……このメモだけは、きっと私でもどうしようも無いんです……こんな、私たちの幸せを邪魔するものなんて……ある筈ないのに……」

 底冷えする様な、刺す様なトーンで。
 千雪は、メモを睨んだ。

「……でも大丈夫、兄さんはどうせ全部忘れますから」

「待っ」

 そう言って、千雪が手に持ったメモを破いた。
 たった、それだけだった。

「それと兄さん、他にもメモはありませんか?」

「ん、あぁ。確か……」

 ポッケに入れていた筈だ。
 今朝入れたのを覚えている。
 何故入れたのかは思い出せない。
 確か、見つかっちゃ不味いと思ったんだったかな……

 まぁ、思い出せないと言う事は大した事ではないのだろう。

「これ、何故か机に乗っててな」

「要らないものなら、捨ててしまいましょう」

 千雪に渡すと、破いてゴミ袋に捨ててくれた。
 さて、掃除の続きをしよう。

「ところで兄さん、そろそろお昼ですけどお腹は空きませんか?」

「ん、確かに。千雪が作ってくれるんだったか?」

「はい。楽しみにしてて下さいね?」

「あぁ、楽しみだ」

 他愛の無い会話を千雪と続けて。
 千雪が作ってくれる昼食が楽しみで。
 二人で、二人きりで過ごすこの時間が。

 とても、幸せだった。




 ぴぴぴぴっ、ぴぴぴぴっ

 目覚ましのアラームと同時、俺は目を開けた。
 なんだか、長い夢を見ていたような気がする。

「…………はぁ」

 朝からこんなんでは気が滅入る。
 カーテンを開けて部屋に朝日を取り込み、気持ちをリフレッシュ。
 窓の外では木々が揺れ、四月の朝を表していた。
 少し窓を開けて思いの外低い気温に驚き、一瞬でカーテンごと閉める。

 コンコン

 それと同時、部屋の扉がノックされた。
 今日も、起こしに来てくれたようだ。

「はーい」

「あ、起きてますか? 兄さん」

 ガチャ

「……おはよう、千雪」

「おはようございます、兄さん。今日はお寝坊さんじゃないんですね」

「何時迄も千雪に頼ってばっかりって訳にはいかないからな」

 ふふ、と微笑む千雪。
 もう少し俺が寝ぼけていれば、天使と見間違えていたかもしれない。

「朝ご飯、もう準備出来てますから」

「そうか、いつもありがとな」

 開けられた扉から、良い香りが漂っていた。
 焼き魚と味噌汁だろうか。
 朝ご飯は一日の元気の源。
 しっかり食べて、英気を養おう。

 千雪が一階に降りて行った後、ぱっぱと着替えて顔を洗い歯を磨く。
 妹達の前で見苦しい姿を見せる訳にはいかない。

「ん……?」

 階段を降りる前にふと自分の部屋を覗けば、机の上に書類が出ていた。
 昨夜書類と格闘して、そのまま片付けずに眠ってしまったのだろう。
 全く、きちんと片付けないと千雪にお説教されてしまう。
 怒った千雪も可愛いし、それも悪くないかもしれない、なんて考えながら一応机の端に整える。

「……あれ、メモ……?」

 トントンと書類の端を整えていると、書類の山の一番下から、一枚のメモ用紙が落ちてきた。
 そこには俺の文字で、二文。

『思い出せ、見つかるな』

 ……なんだ、これ。
 一体どんな意図があって、俺はこんなメモを残したのだろう。

「お兄ちゃーん! 早く来ないと冷めちゃうよーっ!」

 一階の方から甘奈が俺を急かす声が聞こえてくるが、今はこのメモの方が重要な気がした。
 思い出せと書いてある事は、何か忘れてる事があるのだろう。
 見つかるなの方の意味は分からないが、それもきっと忘れているのだろう。
 このメモを書いた俺は、果たして俺に何を伝えようと…………




 こんな世界から、逃げ出さないと……!

 だって俺は、彼女達の『プロデューサー』なんだぞ。

『……でも大丈夫、兄さんはどうせ全部忘れますから』


「っ! っあぁぁぁあっっっ!!」

 ドサッ!

 脳に流れ込んで来た情報の濁流に耐えきれず、俺は書類の山をぶちまけてしまった。
 机一面が書類で埋まる。

 思い出した、そうだ。そうだ!
 全て思い出してしまったぞ。
 俺は知っている、この四月一日を嫌というほど知っている!
 この後千雪が心配して俺の部屋を訪れる事も、俺は覚えている!
 
 コンコン

「兄さん? おっきな音が聞こえましたけど……大丈夫ですか?」

 千雪が入ってくるより早く、俺はメモをポッケへとしまい込んだ。
 このメモは、見つかってはいけない。
 見つかればどうなるかを、俺は身をもって経験している。
 このメモだけは、絶対に見つかってはならない。

「……ん、あぁすまん千雪。片そうと思ったら落としちゃってな」

「もう……小まめに片付けて下さいっていつも言ってるじゃないですか」

 そう言いながら、千雪は散らばった書類を集め始めた。
 結構色んな所まで広がっていたのか、机の下からも出てくる。

「はいどうぞ、兄さん。お部屋のお片付けなら後で私もお手伝いしますから」

「……ありがとな、千雪」

 千雪は、笑顔だった。
 きっと俺が思い出した事など知らないのだろう。
 それで良い、気付かないでくれ。
 まだ俺は思い出したてで、理解したてで、何の作戦も練れていないのだから。

 ……いや、違う。
 これは、確信でもあった。
 千雪は書類の山の一番下を調べなかった。
 彼女からしたら真っ先に消し去りたいメモの存在を確認しなかった、つまり。

 千雪自身も、以前の四月一日を覚えていないのだ。

「……朝ご飯、今日は誰が作ってくれたんだ?」
 
「ふふ。それは後でのお楽しみです」
 
「そっか、楽しみだ」
 
 ならば、このメモだけが頼りだ。
 一枚でも残せれば、最悪次の俺に繋がる。
 勿論本心としては今の俺が逃げ出したいが、それが上手くいっているのなら最初から抜け出せている。
 今回の俺は、兎に角情報を集めよう。



「お兄ちゃん……甜花とゲーム、しよ?」
 
 食器を片付け終えて、リビングのソファで考える。
 他の283プロの皆は、どうなっているのだろう。
 連絡は通じるだろうか、そもそもこの狂った幸せの世界に存在するよだろうか。
 後で連絡を取ってみる価値はあるだろう。

「あ、甘奈もやる!」
 
「悪い、今日は本を買いに行こうと思ってるんだけどさ。帰って来てからで良いか?」

 少し、彼女達も試してみる。
 この発言に対し、甘奈と甜花の二人は……

「えー、そんなのネットショッピングで良いじゃーん!」

「甜花、ポイント貯まってるから……お兄ちゃんにプレゼント、したい……!」

「……そっか、ならそれが良い。ありがとな甜花」

「にへへ……お兄ちゃん、喜んでくれた……!」

 甜花の頭を撫でながら、やはりと納得と落胆をする。
 案の定だが、二人は俺が外出するのを阻止しようとした。
 まぁ、それはそうだろう。
 きっと外になんて出られないのだから。

 一応玄関の外に出ようとしてみる。
 やはりリビングに戻っていた。
 ……まぁ、今思えばリビングで良かったよ。
 これで繋がっているのがバスルームだったら、ロボットたぬきアニメよろしく引っ叩かれていただろう。

 部屋へ戻って、スマホを探す。
 無かったらどうしようと心配だったが、枕元に置いてあった。
 電波はばっちり、充電もある。
 連絡先に関しても、きちんと覚えている限りそのままだ。

 ……さて、誰に連絡してみよう。
 通話が繋がるかのチェックも兼ねて、取り敢えずはづきさんからだろうか。

 ボタンを押す手が震える。
 コール音が嵩む度に不安が積もる。

 頼む、頼む、頼む、繋がってくれ!



『もしもし~? あ、プロデューサーさん』

「っ! おはようございますはづきさん!」

 喜びのあまり叫んでしまった。
 良かった! これで突破口が見えてきた!

「はづきすいません! 信じられないと思うんですがっ」

『プロデューサーさーん? もしかして、今日のレッスンをお休みしたい、とかじゃないですよね~?』

「……あれ? 今日って誰かレッスン入ってましたか?」

 俺がスケジュールを忘れる筈は無いと思っていたのだが。
 ……いや、忘れてる事は沢山あったか。
 それはこの世界のせいだと言い訳したいが、今はどうでも良い。
 そんな事よりも、今の俺の状況を伝えないと。

『プロデューサーさん、ダンスのキレがまだまだですからね~。今日はみっちりレッスンしますよ~』

「……………………は?」

 俺の? ダンスのキレ?
 いやいや、俺はプロデューサーなのだからそれはどうだって良いだろう。

『それとボイストレーニングも入ってますよ~?』

「……誰のですか?」

『プロデューサーさんのです』

「俺の」

『プロデューサーさんの』

「俺のボイストレーニング」

『プロデューサーさんのボイストレーニングです』

「……一旦掛け直します」

 ピッ

 ……………………?
 何が起きているのかサッパリ分からない。
 俺はいつのまにアイドルデビューしていたのだろう。
 忘れてただけだろうか、いやそんな事あるか。

 落ち着いて、次は樹里に掛けてみた。

『おう! 迸る稲妻の閃光! 正義の戦士、ジャスティスイエローだ!』

 切った。
 無かった事にして、恋鐘に掛けてみる。

『か~! 摩美々、ここが年貢の納め時たい! ってあれ、プロデューサー?』

「おう恋鐘、今大丈夫か?」

『今摩美々を追い詰めとるけん! よ~やく長崎の名探偵、月岡恋鐘の勝利ばい!!」

 切った。
 無かった事にして、真乃に掛けてみる。

「もしもし、真乃か?」

『ほわっ、プロデューサーさん……! 今、事務所に隕石が」

「……はは……ははは……」

 ピッ
 通話を切って、俺はスマホを放り投げた。



 もう、変な笑いしか出てこなかった。
 いや、変なのはこの世界の方か。
 終わってたんだ、狂ってたんだ。
 この世界は、もう俺の知っている世界じゃなかった。

 ジャスティスイエロー?
 何をやってるんだ樹里は。
 長崎の名探偵?
 アイドルだろうお前は。

 事務所に隕石?
 もう滅びれば良いさ、こんな世界。
 どうせ、また今日が来るのだから。
 幾ら終わりを迎えても、この終わった世界は繰り返すのだから。

「……もう、無理だ……」

 全てを放り投げようとした。
 諦めようとした。
 アルストロメリアの三人と、幸せに暮らし続ける。
 それで良いじゃないか、それで幸せじゃないか。

「……あっ」

 最後に一つだけ、希望があった。
 まだ連絡を取っていないユニット。
 その中の一人。
 彼女ならきっと、この狂った世界でも通常にツッコミを入れてくれているだろう。

 ワンコール、ツーコール。
 そして直ぐに、繋がった。

『もしもしあんた?! ねぇ何この事務所、探偵事務所だったりジャスティスなんたらだったりみんなおかしくなっちゃってるわよ!』

「……良かった…………良かった…………っっっ!!」

 ストレイライトの黛冬優子は、そう正常に、悲鳴を上げてくれた。



『……ふーん、なるほどね。それであんたは家から出られなくなっちゃった、と』

「あぁ」

『で、ようやくまともな反応が返ってきて咽び泣いてた、と』

「おう、信じられないかもしれないが困った事に本当なんだ」

『信じられるワケ無いでしょバッカじゃないの?! ……って言いたいとこだけど、まぁあんたが嘘を吐いてる様でも無さそうね』

「あぁ、冬優子に嘘は吐かない。絶対だ、命を賭けても良い」

『……あんたがそんなに必死なの、初めてだったし……泣いてるのも……』

 俺以外にも嘘みたいな出来事が乱発しているからだろう。
 冬優子はあっさりと、俺の嘘みたいな今日を信じてくれた。

『あっちょっと待ってあさひが窓から出ようとしてる! ちょっとあさひ! それでハトに乗れるのは真乃だけだから! 馬鹿な事してないでそこで正座してなさい愛依は抑えてて!!』

 何をしているのか、何となく想像がついた。

『……あ、窓からは出られないの?』

「……窓、か」

 そう言えば確かめていなかった。
 玄関が無理なら窓も無理な気はするが、試してみる価値はあるだろう。

『それとメモね。それはあんたの唯一の武器なんだから大切に使いなさい。三人に見つからない様にするのは大前提ね』

「そのつもりだ。今回のメモで全部思い出せる事は分かったから今後はこの文面で行く」

 飲み込みが早くて助かる。
 そう言ったループモノのアニメを結構見ていたのだろうか。

『それと……問題は三人ね。誰か一人、味方につけられたりはしないの?』

「…………」

『あんたがきちんと『こうしたい』って向き合えば、一人くらいは信じてくれる馬鹿がいるんじゃない?』

「……体験談か?」

『切るわよ』

「悪かった」

 でも、そうか。
 千雪は無理にしても、甘奈か甜花なら協力してくれるかもしれない。
 俺はこの世界から外に出たい事。
 プロデューサーとして、アイドルであるお前たちを幸せにしたい事。

 それをきちんと真正面から伝えるのも、大切かもしれない。

 ダメだったらどの道今日に戻るだけだ。
 失敗を持ち越さずに次に挑めるのは、俺だけのアドバンテージなのだから。

『あんたを泣かせるなんて、そんな世界は絶対に幸せじゃないわ。必ず抜け出しなさい』

「……ありがとう、冬優子』

『……あんたが戻って来てくれないと、ふゆ心細いじゃない』

「……俺も、冬優子の声を聞けて良かったよ」

『ちゃんと戻って来るのよ』

「……あぁ」

『おい馬鹿っだから窓からジャンプするな芹沢あさひぃぃぃぃっ!』

 ピッ

 ……さて、それじゃあ。
 冬優子の言っていた通り、ぶつかってみるか。

「ふふ、兄さん。今、誰と喋っていたんですか?」

 ……それは、次の俺に持ち越しになりそうだ。







 思い出した際の行動も、もう慣れたものである。

 もう何度、今日を繰り返しただろう。
 千雪が部屋を訪れる前にメモを隠し、いつも通りの四月一日を始める。
 けれど俺には、希望があった。
 何度も挑戦出来るアドバンテージと、冬優子と言う味方が出来た。

 チャンスならある。
 千雪は無理だろうが、甘奈か甜花なら味方になって貰える。
 きっと、真正面からぶつかれば分かってくれる。
 そう信じて、俺は何度目かの初めて甜花が一人で作った朝食を食べた。



 
「お兄ちゃん……甜花とゲーム、しよ?」
 
 食器を片付け終えて、リビングのソファで考える。
 どちらから先に、話を聞いて貰うべきだろう。
 甘奈と、甜花。
 ……考え方を変えよう。

 どちらを味方につけた方が、情報を手に入れられそうか。
 
「あ、甘奈もやる!」
 
「それじゃ俺も……と言いたいところだが、ちょっと甘奈に聞きたい事があってな」

 ここで馬鹿正直に『この幸せのループから抜け出したい!』と言ったらどうなるんだろう。
 そのうち確かめてみるのも面白いかもしれない。

「ん、なになに? お兄ちゃん」

「そろそろ春服を買おうと思ってるんだが、今持ってる服に合うのが分からないんだよ。一回俺の手持ち見てコーディネートして貰えるか?」

「オッケー! それじゃ甜花ちゃん、ちょっと待っててね?」

「甜花……一人で、待ってる……!」

 甘奈を連れて、部屋へと向かう。
 残念ながら部屋に鍵は無いが、まぁあっても千雪なら開けてくるだろうから問題ない。
 問題だらけな気もするが気のせいだろう。
 今の千雪は、何というか、少しおかしいのだ。

 ……それを言うならこの世界全てがそうか。

「……はは」

「……? あ、それでお兄ちゃん、クローゼット開けて良い?」

「いや、開ける必要は無い」

「え、それじゃお兄ちゃんの服見れないけど……」

 まさか信じてたのか。
 多少は疑われているものだと思っていたが、そうでもないらしい。

「……甘奈」

 ……正直、言うのが怖い。
 え、何言ってるの? と心底幸せそうな笑顔で否定されるのが怖い。

 ……それでも俺は、向き合わなければならなかった。
 このループを抜けて、元の世界に戻って。
 俺を待ってくれている283プロのアイドルの為に。
 そこでみんなと、本当に幸せになる為に。

「……何を言っているんだ。俺は甘奈の兄じゃないだろう?」

 そう、言葉をぶつけた。

 それを聞き流して無かった事にしてくるか。
 『お兄ちゃんは甘奈のお兄ちゃんだよ?』と言い聞かせて俺の記憶を薄れさせてくるか。
 どう来るかによって様々な対応を考えていた。
 どの道、俺に出来る事なんて無いにしても。



「…………は? 何言ってるの、お兄ちゃん」

 けれど、それに対して甘奈の反応はとても冷たいものだった。
 馬鹿にした様な、馬鹿を見る様な。
 下らないゴシップ三文記事を見下す様な。
 そんな、冷たい視線だった。

「……いくら甘奈の大好きなお兄ちゃんだからってさ、限度があるよ」

「いやだから! 兄じゃないだろう!」

「もう甘奈を馬鹿にするのはどうでも良いけどさ。甜花ちゃんと千雪お姉ちゃんにだけは絶対そんな悪ふざけしないで」

「……何、言ってるんだ甘奈……」

 ……まさか。
 甘奈は、『本気で俺達が兄妹だと思っている』のか?
 まずい、まずい、まずい!
 前提が崩れ始めた。

 俺の予想では三人が妹と言う体で、ずっと演技しているものだと思っていた。
 この狂った世界は彼女達が作ったものだと思っていた。
 けれど、どうやらそうでは無いらしい。
 少なくとも甘奈が嘘を吐いている様には見えない。

「……悪かった、甘奈」

「……正直、ちょっと見損なったかも」

 結構きつかった。
 どうせ無かった事になるとは言え、それでも甘奈に失望されるのは苦しかった。
 だから、もう、取り繕うのも説得するのも諦める。
 俺がただ、俺の事を話すだけだ。

「…………それじゃあ甘奈。俺が見た夢だと思って、少し話を聞いてくれ」

「……何?」

「とある、アイドル事務所の話だーー」

 台本なんて要らない。
 脚本なんて要らない。
 効果音も、照明も、何も要らない。
 俺の記憶を、夢を添えて、ただ話す。



 283プロの日常を。
 俺と、社長と、はづきさんと。
 オーディションで入って来たアイドルと。
 スカウトで入って来たアイドルと。

 そのみんなが、みんなで努力して。
 力を合わせて作り上げた、辿り着いた場所の話。

 まだまだこの先の道も長いけれど、それでも彼女達なら辿り着けると。
 そんな彼女達を、全力で支えてあげたいと願い続けてひたすら走り続けて来た俺の。
 これからもその事務所で、みんなと共に夢を叶え続けたい、と。
 そんな、俺の夢の話を。

 途中途中、甘奈は相槌を入れてくれた。
 楽しそうに聞いてくれた。
 何となくだけれど、夢見てくれたと思う。
 大崎甘奈と言う人間が、アイドルになる夢を。

「……随分鮮明に覚えてるんだね、お兄ちゃん」

「当たり前だ、忘れられる筈が……いや、何度も忘れて来たさ」

 それでも思い出した。
 真っ先に思い出すのは、あの事務所の事だ。
 俺にとって、あそこが全てなのだから。
 俺にとって、あの事務所で彼女達と過ごす時間が全てなのだから。

「……所詮夢の話だ。笑ってくれても構わない」

 それでも。

 もう一度。

「……俺は、あの場所に戻りたいんだ」

 真正面から、全てをぶつけた。
 思えばプロデューサーである時の俺たちとなんら変わらなかった。
 ただひたすらに、真正面から思いをぶつけ合って。
 何となく、温かく感じる。

「……笑わないよ、お兄ちゃん。だってお兄ちゃん、すっごく真剣だったし」

「……ありがと」

「それとね?」

 何となく、寂しそうに。

「……夢の話をするお兄ちゃん、楽しそうだったよ。今までずーっと甘奈達と一緒に過ごしてきて、そんな楽しそうな顔見た事無かったから」

 ……そうか。

 もしかしたら甘奈にはあるのだろう、今までの記憶が。
 兄としての俺と、姉としての千雪と共に過ごして来た十七年分の記憶が、きっと。
 それでも彼女は、信じてくれた。
 それはきっと、きちんと向き合えたからで。

 その積み重ねがきっと、幸せに繋がるんだと思う。

「……さっきは変な事言ってごめんな」

 だとしたら、『俺は兄じゃない』なんて発言はとても残酷な物だっただろう。
 申し訳なさと苦しさで胸が締め付けられる。


「ううん。だから…… 出ようよ、この家。そんなお兄ちゃんに、悲しい顔はして欲しくないから」

「っ?!」

 甘奈は、笑顔だった。
 何かが吹っ切れた様な、そんな笑顔で。

「……甘奈はさ、何となくしか分からないんだよね。ただ『お兄ちゃんを家から出しちゃダメ』って事しか」

「……そう、だったんだな」

「ずっと一緒に生活して来た筈なのに、なんだか今日は色々ハッキリしないんだよ。ただ兎に角、『お兄ちゃんを外に出しちゃダメ』って事だけはハッキリ覚えてる」

 俺と同じだ。
 思い出す前の俺も、そんな感じだった。

「……出よう、お兄ちゃん。甘奈も全力で協力するから。お兄ちゃんの夢を叶えよう?」

 そう、甘奈が言ってくれた。
 こんなに心強い、嬉しい事は無い。
 一方的に誰かに支えて貰える感覚は久しぶりだ。
 それも甘奈となれば安心感しかなかった。

「玄関からは出られないの?」

「ダメだった。何度やってもリビングに戻る」

 それすら甘奈は知らなかったのか。

「窓とかは?」

「後で試す……が、何となく無理な気がするんだよな」

「他の人に連絡は?」

「試したが……まぁ、直接的な解決には繋がりそうもなかった」

 事務所に隕石が落ちそうだったらしい、なんて言っても信じて貰えないだろう。
 何と言うか、それを普通に受け入れていた自分が恐ろしい。

「うーん……千雪お姉ちゃんなら何か分かるかな?」

「やめろっ!!!!」

「うぁぅっ?!」

 恐怖心から、つい叫んでしまった。
 千雪だけはダメだ。
 彼女がそれを知れば絶対に妨害してくる。
 それを俺はよく知っているから。

「……驚かせて悪い。千雪にはまだ内緒にしておいてくれ、家を出る時になったら必ず話すから」

「真正面から向き合えば、きっと分かってくれると思うな~。だってほら、甘奈達ってちゃんと分かり合えたでしょ?」

「……まぁ、少し考えさせてくれ」

「オッケー、甘奈は窓とか試してみるねっ?」

 そう言って、甘奈は部屋を飛び出していった。

 これはきっと、大きな一歩だ。
 この狂った世界から逃げ出す為の一歩に違いない。
 今まで俺はずっと三人とも敵だと思っていたが、そうでも無いらしい。
 それが分かって、尚且つ一人味方に出来たのはとても大きな成果だった。

 それを報告する為にも、冬優子に連絡を入れる。

『もしもしあんた?! ねぇ何この事務所、探偵事務所だったりジャスティスなんたらだったりみんなおかしくなっちゃってるわよ!』

「冬優子の言った通り、甘奈が協力してくれる事になったんだ! アドバイスしてくれてありがとな!」

『……………………は?』



『……ふーん、なるほどね。それであんたはふゆに連絡を掛けてきた、と』

「あぁ、信じられないかもしれないが困った事に本当なんだ」
 
『……信じられるワケ無いでしょバッカじゃないの?!』

「……えっ?」

 あれ、『って言いたいとこだけど、まぁあんたが嘘を吐いてる様でも無さそうね』じゃないのか?
 何故だ?
 昨日……って今日だから……前回は信じてくれたのに。
 前回より言葉が足りて無かったか?

「……冬優子に嘘は吐かない。絶対だ、命を賭けても良い」

『はいはい、下らないとこで命賭けてんじゃ無いわよこのお馬鹿さん』

 ……不味い、このままでは俺が頭おかしい奴だと思われてしまう。
 しまった、泣くのを忘れていたのか。
 必死さも無かったかもしれない。
 何とかして俺の話を信じて貰わないと……

「……もうすぐあさひが窓から飛び出そうとするから窓の前に立ってろよ」

『は? 何言って……ちょっあさひあんた何やっうおぁぉぉふゆまで落とす気かおい芹沢あさひぃぃぃぃぃっ!!』

 ドトドドドッ、っと走り声が聞こえた。
 あ、あさひが謝ってる声がする。
 愛依の笑い声も聞こえた。
 なんだか懐かしくて、涙が出そうになった。

『はぁ……悪かったわね、戻ったわ……って何泣いてんのよ気持ち悪い』

「っ、なんて言うか、日常が懐かしくてな」

『それと……疑った事に対しても悪かったわね。あんたが同じ日を繰り返してるのは本当だったみたい、ごめんなさい』

「いやまぁ確かに、信じてくれって方が難しいのは分かってるさ」

 通話越しにいきなり『ループしてる』だの『家から出れない』だの言われたら先ずは病院を勧めるだろう。
 少なくとも俺なら通話を切る自信がある。

『でも……前回のふゆは信じたんでしょ?』

「……え、自分と張り合ってるのか?」

『……うっさい! で、ふゆの言った通りちゃんと向き合ったら上手く行ったのね。ふゆのお手柄じゃない!』

「あぁ、だからありがとうって伝えようと思って連絡したんだ」

『良い心がけじゃない。それじゃまた相談する事ね、どーせふゆは忘れるんでしょうけど。でもこれだけは覚えておきなさい』

 ふふっ、と。
 とても優しく笑って。

『最初は疑うかもしれないけど、ふゆは絶対にあんたの事を信じおい窓から手を離しなさい芹沢あさひぃぃぃぃっっっ!!』

 ピッ、ツー、ツー、ツー

 ……た、頼りになるなぁ冬優子は。





「おーい、甘奈ー?」

 しばらくしてから一階に降りて、甘奈を探す。
 リビングでは、甜花が一人でゲームをしていた。
 しまった、甜花に待っててくれってお願いしてたんだったな。
 正直凄く眠いのだが、約束してしまったからにはきちんと果たさなければ。

「お兄ちゃん……っ! そろそろ、甜花とゲーム……」

「ふぁぁ……そうだったな、悪い悪い」

「一人で待ってた甜花……偉い……! ちゃんと撫でて労うべき……!」

 わしゃわしゃと撫でると、目を細めて心地良さそうに笑う甜花。
 直後にゲームでミスをしてちょっと頬を膨らませた。

「ところで甜花、甘奈知らないか? 甘奈も一緒にやるって言ってたからさ」

「……なーちゃん? えっと……」

 首を傾けて、思い出すポーズの甜花。

「……あ。さっき千雪お姉ちゃんと一緒に、階段登ってく音がしたような……してないような……」

「っ!!」

 甜花が言い切るより早く、俺の足は動いていた。

 千雪と二人で、と言う状況に心臓が跳ねる。
 大丈夫だ、姉妹なのだから当たり前の事だろう。
 心配する様な事じゃない、大丈夫だ。
 少なくとも甘奈が俺を裏切る事だけは、絶対に無い。

 何処だ、千雪の部屋かっ?!

「おーい! 甘奈ーっ!!」

 階段を登る。
 一段一段がとても高く、とても長く感じる。
 こんなにも二階は遠かっただろうか。
 こんなにも身体は重かっただろうか。

「あま……なー……!」

 やけに眠い。
 やけに重い。
 それでも、探す。
 思考だけはまだ割とはっきりしていた。

「~~っ!!! ~~っっ!!!!」

 声ならぬ声が二階中に響いた。
 とても甲高い音だった。

「甘奈ー……っ! おー……いっ!」

 音源は、千雪の部屋だった。
 嫌な予感がする。
 背中に嫌な汗を垂れ流しながら、鉛の様に重い身体を動かす。
 ゆっくりと近付き、俺はドアをノックした。

 こん、こん

「おーい……甘奈ー……? 千雪ー……?」

『あら、もう来てしまったの……どうぞ、兄さん』

 開けない方が良い。
 見ない方が良い。
 知らない方が良い。
 生命としての本能の様な物がけたたましく警鐘を鳴らす。




 ガチャ

 ゆっくりと、警戒しながらドアを開ける。
 いや、違う。
 単純に、恐怖と緊張で俺の身体がゆっくりとしか動けないだけだ。
 異様な眠さと怠さは、今更になって朝食に何か混ぜられていたのでは無いかと思い始めた。

「…………千雪?」

 無様なくらい、俺の喉から出た声は震えていた。
 きちんと名前を呼べていたかも分からない。
 頭がクラクラして、床が揺れている様な錯覚に陥る。
 頬を流れる水分が汗か涙なのかの判断すらつかない。

 部屋の内側からは、複雑な香りがした。

 普段の千雪の香り。
 名前も知らない香水かアロマの香り。
 この家のものであろう材質自体の香り。
 そして、噎せ返る様な。

 不思議な、赤の臭い。

「ーーんーっ゛…………ん゛ーー……ん゛ん゛ーー」

「あら。まだ元気なのね、甘奈ちゃん」

「っ?! 甘奈! そこに居るのか?!」

 早く部屋の中へと入りたい。
 甘奈が居るのであれば、俺も行くべきだ。
 なのに、身体が動かない。
 酔ったような怠さと力の入らなさと、部屋の中で起きている現実に対する恐怖。

「……っ! うぉぉぉぉっ!!」

 俺が怖がっててどうする。
 俺がこんな場所で立ち止まってどうする。

 全体重をドアに掛け、文字通り倒れ込む様に千雪の部屋へと入る。
 そして、分かってしまった。
 この生臭い、赤い臭いの正体を。
 俺は、見てしまった。

 甘奈は、居た。
 部屋の真ん中に、下着姿で縛られて。
 口にはタオルが巻かれ、殆ど喋れなくなっていて。
 焦点の定まらない虚な瞳は何処を見ているのか、それとも何も見えていないのか。

 そして、そして……


「見てあげて下さい兄さん。甘奈ちゃん、赤い下着もとっても似合うと思うの」

「っっっっ! 千雪ぃぁぁぁぁぁあっっっ!!」

 腹部には、黒い取手の様なもの『だけ』が……

「…………ゔ……ん゛ん゛っ…………っ!!」

 正直な話、俺は甘く見ていた。
 千雪にバレた所で、説教されたりメモを破られるなりして終わると思っていた。
 想像出来る訳がないだろう。
 彼女が、ここまで本気だなんて……

 …………なんでだよ……
 なんで甘奈が、こんな目に遭わなきゃいけないんだよ……
 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!
 よりにもよってなんで千雪が! 甘奈を!!!

「……甘奈ちゃん、私達の幸せを壊そうとしたんです」

 倒れた俺と甘奈の視線が、床から高さ数センチの位置でぶつかった。
 見間違えかもしれない。
 俺の都合の良い勘違いかもしれない。
 けれど痛みと恐怖に押し潰されそうになりながらも、甘奈のその瞳は俺の知っているもので。

 ーーごめんね、お兄ちゃん。

 身体がゆっくりとしか動かない。
 長時間座っていて足が痺れた時の様な、スローで這い蹲る様な動きしか出来なかった。
 目の前で甘奈が苦しんでいるのに、俺は彼女に駆け寄る事すら出来なかった。
 駆け寄った処で俺に何が出来るのかと問われれば答えられないが、そんな事を冷静に考える余裕も無い。

「……甘奈……ごめん…………」

「ねえ、兄さん。私は四人で幸せでいたいだけなの。甘奈ちゃんと、甜花ちゃんと、私と、それから兄さん。きっと兄さんもそれを望んでくれてるって信じてるわ」

「…………こんな事をして、何言ってるんだ千雪」

「まぁ……もしかして、兄さんが甘奈ちゃんにお願いしたんですか?」

 そんな千雪は、笑っていた。
 嘲る様な、試す様な。
 目の前で大切な妹が、仲間が、倒れているのに。
 真っ赤に染まったカーペットの上で、吐きそうになる程生臭い部屋の中で。

 それでも千雪は、笑顔だった。

「だったら、そんな事はしないで欲しいの……これからの事、ですから」

 ……今後俺が、甘奈や甜花を説得して味方に付ける様な事があれば。
 また、こんな結末になっちゃいますよ? と。
 例え自分の記憶がリセットされても、自分の思考回路的に同じ選択をする、と。
 そう、千雪は言っているのだろう。


「なんて……ふふ、大丈夫です兄さん。私、甘奈ちゃんから聞きましたから」

 ずぶり

 千雪が、甘奈の腹部にある黒い取手を抜き取った。
 分かってはいた事である。
 黒の先には、銀色の刃が赤と黒の粘度の高い液体で覆われて。

「゛っっっっ!! っん゛ん゛ん゛ん゛っっっっ!!」

 バタンッ、ドンッっと甘奈の身体が跳ねる。
 ビクンビクンと足が痙攣している。
 ボロボロと二つの瞳から、身体中の水分全てが抜けてしまうんじゃないかと言う勢いで涙が流れる。
 なのに俺は、庇う事すら出来なくて……

「……やめろ……俺が悪かった、千雪……もうやめてくれ……!!!!」

 涙が溢れる。
 俺のせいで。
 俺が甘奈を巻き込んでしまったせいで。
 ……全部、俺のせいで……

「うふふ、やめませんっ」

 イタズラっ子の様に。
 千雪は、もう一度手に持った刃を甘奈に振り下ろした。

「この幸せを捨てたいだなんて」

 ズブッ

「戻りたいだなんて」

 ズブッ

「そんな哀しい事、考えないで下さい」

 ズブッ

「……分かってくれましたか?」

 ズブッ、ズブッ、ズブッ、ズブッ

 出来の悪い兄に説教する様に。
 困った様に、眉を窄めて。
 それでも笑顔で。
 何度も、何度も。

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

「ーーーー……ぁ……」

 甘奈の身体は、ついに跳ねる事すら無くなった。


「……今朝の兄さん、まるで悪戯を思い付いた子供みたいに楽しそうな顔をしていました。だからちょっとだけ、私も朝ご飯に悪戯したんです」

「あ……甘奈…………なぁ、甘奈……おい……!」

「兄さん、きっと覚えてるんですよね? 思い出したんですよね? 何か理由があると思うの」

「なぁ甘奈! 返事してくれよ! なぁっ!!」

「だったら、そんな物は捨てちゃいましょう?」

「おい!! おいっ!! なぁ甘奈頼むよ!! 冗談だって言ってくれよ!!!!」

「……誰かと連絡を取っている様な気もするんです。やめませんか? 兄さん。きっと私、またこうしちゃいますから」

 戻るしかない。
 やり直すしかない。
 望まなかった四月一日を、俺が、俺の意思でやり直すしかない。
 甘奈を助ける為には。

 今は、幸せになるしかなかった。

「……ねぇ、兄さん。分かってくれましたよね?」

 千雪が、もう一度大きく腕を振り上げる。

「っうぉぉぉぉぉぉっっっっ!!!」

 幸せになる方法はしっている。
 全てを投げ出して忘れる事だ。
 俺はなんとかポッケからメモを取り出して。
 それを、勢いよく破いた。



 最後に、目の前に転がり落ちて来た甘奈と目があった。
 






「っぅぉぉぉぉぁぁぁぁっっっ!!」

 最悪の気分だった。
 汗と吐き気とに襲われた目覚めよりも最悪だった。
 書いた覚えの無いメモを見て全てを思い出した俺は、空っぽの胃袋で何度も嗚咽を漏らす。
 『自分で書かなくてもこのメモは現れる』と言う重大な情報も、冷静さを欠いた今の俺にはきちんと認識出来なかった。

「あぁぁぁぁぁっっっっっっっ!!!」

 叫ぶ。
 俺はひたすら叫んだ。
 ほんの少し前の、昨日の、今日の出来事を思い出して。
 まだ瞼に鮮明に焼き付いている、甘奈の顔を。

 甘奈が死んだ。
 大切な妹が、大切なアイドルが。
 千雪に殺された。
 大切な妹の、大切なアイドルの手で。

 感情がぐちゃぐちゃになる。
 涙と胃液で床を汚す。
 何度も何度も頭を机に打ち付ける。
 これで全てを忘れられたらどれ程良かったか。

 コンコン

 扉がノックされた。
 そこに居るのが誰かなんて、考える必要も無い。
 
「起きてますか? 兄さん。なんだか叫び声が……」
 
 ガチャ
 
 開かれた扉の先には、既にメイクをバッチリ終えた愛しい妹。
 長い栗色の髪を片方に結んだ、おっとりとした長女。
 大切な……大切な、俺のアイドル。
 俺にとって、かけがえの無い……




『……分かってくれましたか?』

 ……違う。
 彼女じゃない、今目の前にいる千雪じゃないのに。
 頭では理解していても、それでもあの時の悪魔の様な千雪の姿が重なって。
 ゆったりとした足取りで部屋に入ってくるそんな彼女を、俺は。


「うぉぉぉぉぉぉぉおっっっっ!!」


 全力で、ぶん殴った。

「っ! っはぁっ、っ……痛……っ!」

 壁に打ち付けられて悲鳴を上げる千雪を無視してドアを閉め、腕を引っ張り上げてベッドに押し倒す。
 そしてもう一度、全力で腕を振った。
 お洒落な服も綺麗な長い髪も一瞬にして乱れる。
 呼吸すらままならない千雪の服を、引き千切る様に毟り取った。

「ぁっ……はぁっ……兄、さ……やめて…………下さ……」

 脳が衝撃で揺すられたのだろう。
 焦点の怪しい瞳で、それでも俺の方を見る。
 今から自分がされる事を理解してしまったのだろう。
 ……だから、なんだ。

「やめ……て…………兄さ……っ」

『うふふ、やめませんっ』

 お前はもう喋るな。
 声を聞きたくも無い。
 俺がそう泣きながら懇願した時、お前はやめたか?
 包丁を振り下ろす腕を止めてくれたか?

「い……や…………」

 真っ白な肌は、ところどころ赤くなっている。
 知った事か、刺し傷が無いだけマシだと思え。
 綺麗で瑞々しかった唇の端からは血が垂れていた。
 だからどうした、その程度の出血で死ぬか。

「……ぁ…………兄、さ…………っ」

 涙をボロボロと流しながら、何とか意識を保とうとする。
 そんな力なく抵抗する千雪を抑え付け、無理やり唇を貪り。
 覆う物の無くなった生まれたままの姿の千雪に、俺が覆い被さった。
 彼女が口を開く度に、俺は腕を振る。

 なんの感慨も無い。
 なんの悦びも無い。
 ただ俺は、怒りと復讐だけで動き続けた。
 千雪は既に、ピクリとも動かなくなっていて。

 そして。

 俺は、大切な人の全てを奪った。






「っ!」

 どれくらいの時間が経ったのだろう。
 気が付けば俺は、ベッドの蓋で泣き崩れていた。
 怒りに狂って精神がおかしくなっていたのか、起きてから今までの記憶があやふやで。
 荒い息を整えながら、のっそりと立ち上がる。

「……………ぁ…………」

 そして、全てを思い出した。
 ベッドに力なく横たわる、白と赤の千雪を見て。
 シーツの赤は、かなりの広範囲に広がっている。
 今更になって、俺は自分がしでかした事に対して恐怖を覚えた。

「……ち……、ゆき……なぁおい、千雪……返事してくれよ……」

 ぴくり、と。
 千雪の指先が動いた。

「っ! 良かった、千雪!!」

「……ふふ……ふ、ふふふ…………ふふふふふふっっっ……」

 千雪は、静かに笑っていた。
 良かった、生きてる!

「本当にすまなかった千雪! 俺は」

「ぁ……にい、さ…………っぁ……ぁぁぁあ…………ぁうぁぁっっ……っ!」

 俺の姿を見て、それから。
 千雪は、身体を痙攣させた。
 焦点の合わない目からはボロボロと涙を流し、元より細かった呼吸が覚束無くなる。
 それでも、少しでも俺から遠ざかろうとする思いだけは伝わってきた。

「…………千雪……」

「いや…………どう……して……信、じて………ぁ……っ!」

 次に千雪が出る行動に、予測がついてしまった。
 信じていた、大切な人だと思っていた俺に裏切られて。
 殴られて、殺されかけて、犯されて、踏み躙られて。
 そんな彼女が意識を取り戻したじてんで、縛り付けておくべきだった。

「……やめろ……悪かった千雪……だから……やめ……」

 人を呪わば穴二つ。
 もっと分かりやすく言えば、人にされて嫌な事はやめましょう、だ。
 分かっていた事じゃないか、俺は。
 彼女は『やめろ』と言ってやめる人間ではないと言うことを、嫌ほど。

「……さよ……なら…………兄さん……」

 そうして、彼女は。
 口を閉じると同時、自らの命に幕を下ろした。

「千雪ぃぃぃいいいぃぃぃぃぃっっっ!!!」

 叫んだ所で、戻って来ない。
 そんな事は分かっていても、止める事は出来なかった。

 俺が殺した。
 俺が殺した様なものじゃないか。
 それも、ただ命を奪っただけじゃない。
 彼女の大切なものを全て奪った上で、だ。


「俺が………俺が、千雪を……」

「…………お兄、ちゃん…………?」

 視線を上げる。
 扉の外には、甘奈が立っていた。

「……あまな……甘奈……! 良かった……甘奈だ……!」

 生きてる……死んでいない!
 良かった……本当に良かった。
 止めどなく涙が溢れる。
 生きてるんだ……甘奈が、生きて……

「……何、してるの……千雪お姉ちゃんに……」

「…………え……」

「……千雪お姉ちゃんに! 何してるのって聞いてるの!!!!」

 ……どうしてだよ……
 甘奈、お前は千雪に殺されたんだぞ。
 そんな千雪が死んだんだ、どうしてそんな……
 哀しそうな、怒りに狂った様な顔をするんだよ……

「っ! 違う話だ甘奈っ!」

「来ないでよ人殺しっ!」

「待ってくれ! 頼む話をっ」

 手を伸ばす。
 一階には甜花が居る。
 今甘奈が冷静さを欠いたまま甜花と話せば、彼女も混乱してしまう。
 兎に角一度話をっ

「きゃっ……っ!」

「あっ……」

 甘奈は、止まってくれた。
 俺が伸ばした手のせいで階段を踏み外して、その一番下まで落ちたところで。
 何度も何度も鈍い音を響かせて、頭を打ち付けて。
 そうしてようやく、甘奈は止まった。

 足だけじゃない。
 それ以外の全ても、止まった。
 大きく開かれた瞳は、真っ直ぐに俺の方へと向けられていた。
 前回と同じ様に、一切光の無い瞳で。

 唖然として。
 ショックで。
 俺が直接殺してしまったというショックで。 
 もう完全に、俺は動けなくなっていて。

「おっきな音したけど……どうしたの、なーちゃん……」

 ガチャ

 リビングの扉が開いた音がした。
 それから、尻餅。
 次いで悲鳴が響く。
 泣き声が、続く。

 ……なんでこうなるんだよ。
 どうしてこうなるんだよ。
 そんなつもりは無かったのに。
 俺がこんな事を望む筈がないのに。





 ……もう、いいか。

 こんな事になるくらいなら、最初から幸せを受け入れるべきだった。
 こんな結末を迎えるくらいなら、幸せの方がマシだった。
 余計な事をするんじゃなかった。
 考えるんじゃなかった、思い出すんじゃなかった。

 泣き叫ぶ甜花を無視して、俺は部屋に戻る。
 メモの内容は既に決まっていた。
 机の引き出しを開けると、何故か白紙のメモが一枚入っていた。
 これに書いて、終わりにしよう。

『忘れろ、捨てろ』

 これで、良いんだ。
 これで俺たちは、幸せになるんだ。
 これで俺たちは、幸せに戻るんだ。
 これで俺たちは、幸せに生き続けるんだ。

 ベッドに倒れる千雪を見て、涙が溢れる。
 階段の下に倒れる甘奈を思い出して、後悔が溢れる。
 あぁ、本当に。
 余計な事なんて、するもんじゃなかった。

 最後に一つ心残りがあるとすれば、俺を信じてくれている人がまだ一人いると言う事くらいか。
 でも良いんだ。
 どうせ俺には何も出来ないのだから。
 しない方が良い結末が迎えられるのだから。

『思い出せ、見つかるな』

 そう書いた時の俺は、まだ希望があった気がする。
 こう書いていると言う事は、まだ抜け出そうと努力していたと言う事で。
 本当に、無駄な時間を過ごした。
 とても長い、無限に続く今日のうちの、ほんの数日だった。

「……戻れるんだ、俺は」

 千雪が生きてる。
 甘奈も生きてる。
 甜花だって辛い思いをしなくて良い。
 そんな、幸せな世界に。

 勢いよく、俺はメモを破り裂いた。
 それだけで、俺は幸せになれるんだ。


 ……あぁ。


 凄く、幸せだーー



 ぴぴぴぴっ、ぴぴぴぴっ
 
 目覚ましのアラームと同時、俺は目を開けた。
 なんだか、長い夢を見ていたような気がする。
 硬く握り締めた手を開けば、インフルエンザに罹った時のような汗をかいていた。
 相当な力がこもっていたのだろう、指の跡が赤くクッキリと残っている。
 
「…………はぁ」
 
 朝からこんなんでは気が滅入る。
 カーテンを開けて部屋に朝日を取り込み、気持ちをリフレッシュ。
 窓の外では木々が揺れ、四月の朝を表していた。
 少し窓を開けて思いの外低い気温に驚き、一瞬でカーテンごと閉める。
 
 コンコン
 
 それと同時、部屋の扉がノックされた。
 今日も、起こしに来てくれたようだ。
 
「はーい」
 
「あ、起きてますか? 兄さん」
 
 ガチャ
 
「……おはよう、千雪」
 
「おはようございます、兄さん。今日はお寝坊さんじゃないんですね」
 
「何時迄も千雪に頼ってばっかりって訳にはいかないからな」
 
 ふふ、と微笑む千雪。
 もう少し俺が寝ぼけていれば、天使と見間違えていたかもしれない。
 
「朝ご飯、もう準備出来てますから」
 
「そうか、いつもありがとな」
 
 開けられた扉から、良い香りが漂っていた。
 焼き魚と味噌汁だろうか。
 朝ご飯は一日の元気の源。
 しっかり食べて、英気を養おう。
 
「そうですよ、兄さん。前は食べてなかったって聞いて驚きましたから」
 
「今では食べないとお昼まで身体が保たなくなっちゃったからな」
 
「甘奈ちゃんと甜花ちゃんも待ってますよ?」
 
「じゃあ、急がないとな」
 
 千雪が一階に降りて行った後、ぱっぱと着替えて顔を洗い歯を磨く。
 妹達の前で見苦しい姿を見せる訳にはいかない。
 
「ん……?」
 
 階段を降りる前にふと自分の部屋を覗けば、机の上に書類が出ていた。
 昨夜書類と格闘して、そのまま片付けずに眠ってしまったのだろう。
 全く、きちんと片付けないと千雪にお説教されてしまう。
 怒った千雪も可愛いし、それも悪くないかもしれない、なんて考えながら一応机の端に整える。
 
「……あれ、メモ……?」
 
 トントンと書類の端を整えていると、書類の合間から一枚のメモ用紙が落ちてきた。
 そこには俺の文字で、一文だけ。



『忘れろ、捨てろ』

 ……なんだ、これ。
 一体どんな意図があって、俺はこんなメモを残したのだろう。
 まぁ、忘れろって書いてあるし忘れているのだから考える必要も無いか。
 メモを破って、ゴミ箱へ投げた。
 
「お兄ちゃーん! 早く来ないと冷めちゃうよーっ!」
 
 一階の方から、甘奈が俺を急かす声が聞こえてきた。
 
「あっ、すまん! すぐに行く!」

 階段を降りて、リビングへ向かい。
 扉を開けて、三人の妹に挨拶する。
 
「おはよう千雪、甜花、甘奈」
 
「あ……おはようござい……ましゅ!」
 
「おっはよーお兄ちゃんっ!」
 
「ふふ、改めて……おはようございます、兄さん」
 
 それが、俺たちの日常だった。




「今日の朝ご飯はね、甜花ちゃんが作ったんだよ!」
 
「にへへ……甜花、頑張った……」
 
 食卓に並べられた料理は、盛り付けはそこまで上手とは言い難かったが。
 けれど味噌汁はきちんと出汁が取られ、白米も柔らかくしっかりと作られたものだった。
 味の方は勿論、とても美味しい。
 前までは料理なんてするイメージはなかったが、いつの間にこんな上達したのだろう。
 
「凄いじゃないか甜花、勉強したのか?」
 
「……それは、その……千雪お姉ちゃんに……」
 
「ふふ、それでも頑張ったのは甜花ちゃんよ? 私、今日は全然お手伝いさせて貰えませんでしたから」
 
「……甜花が、一人で……お兄ちゃんに、褒めて欲しかったから……」
 
「そっか。ありがとな、甜花」
 
 軽く撫でると、心地良さそうに甜花は目を細めた。
 次女である甜花は普段はグータラしているが、やる時はやる子だ。
 実際目の前の料理は、ほんの数日程度で作れるレベルの味ではない。
 盛り付けがもう少し整っていたら、作り慣れている千雪の料理と勘違いしていたかもしれないレベルだ。
 
「いーなー。甘奈も撫でて貰いたいっ!」
 
「それじゃ……お夕飯は、なーちゃんが作って?」
 
「うんっ! お兄ちゃん、めーっちゃ期待しててね!」
 
「甘奈が作ってくれるのか。それは楽しみだな」
 
 元気いっぱい笑顔いっぱいな甘奈は、三女であるにも関わらずとてもしっかりとしていた。
 次女である甜花と双子である為、あまり三女というイメージはないが。
 活発そうな見た目と相違無く、彼女はうちの妹達の中でも一番の元気の塊だ。
 見ているだけで、此方もパワーが貰えそうだ。
 
「モテモテですね、兄さん」
 
「モテモテって……」
 
 それを言うなら、お前たち三人の方だろう。
 三人それぞれが違った方向に超美人、街を歩いていれば声を掛けられる事だって少なくない筈だ。
 クラスメイトどころか他クラス、なんなら先輩や後輩に告白された経験もあるだろう。
 それこそモデルやアイドルのスカウトだってされた経験があるだろう。

「それにしても美味しかった。ありがとな、甜花」

「……千雪お姉ちゃんの教え方、上手だったから……」

「じゃあ師匠の千雪だったら、どんな料理になるんだろうな」

「あら? そんな風に言われちゃったら、私も頑張っちゃおうかなっ」

 そう言って、千雪がキッチンへと向かって行く。
 そしてあっという間に、料理を作り上げて運んで来た。

「お待たせしました~。千雪特製、野菜炒めの完成ですっ」

「おお、美味しそう!」

 お腹がいっぱいだった筈なのに、もうお腹が空いてきた。

「ふふっ、た~んと召し上がれっ」

「……美味い! それに優しい味がする!」

「……流石、千雪お姉ちゃん……ううん、師匠……!」

「ありがとう甜花ちゃん。ハイ、ターッチ!」

 ぱちん、とハイタッチを交わす甜花と千雪。
 そんな光景を眺めながら食べる朝食は、間違い無く幸せだった。





「……甜花、疲れちゃった……」

「それじゃ、そろそろ寝るか」

 今日一日、甜花と甘奈と遊んで丸々潰してしまった。
 まぁそんな日があっても良いのかもしれない。
 こくりこくりとオールを漕ぐ甜花を見つめてから、千雪と目を合わせて微笑む。
 なんだか一瞬、夫婦みたいだなと思ってしまった。

「……まだ、お兄ちゃんと遊びたい……」

「なら明日も遊んでもらおっ? 良いよね、お兄ちゃん?」

「あぁ、勿論だ」

 可愛い妹の頼みだ、断れる訳がない。

「それじゃ、お休みお兄ちゃんっ」

「お、おやすみ……なしゃい!」

「それじゃあ、私も今日はお休みしますね。お休みなさい、兄さん」

「おやすみ、千雪」

 さて、俺もそろそろ寝とこうかな。
 明日も仕事があるし……
 
 ……ん、仕事?
 今、何か引っかかった様な……
 ……まぁ、いいや。
 今がとても幸せなんだし、悩む事も無いだろう。

 あぁ、そうだな。

 この幸せがいつまでも続いてくれたらーー

 




 幸せだった。

 俺は、とても幸せだった。

 長女の千雪と。
 次女の甜花と。
 三女の甘奈と。
 三人の妹と暮らして、これ以上ない程幸せだった。

 朝、千雪に起こされて。
 甜花の作った朝食を食べて。
 甘奈が明日の朝食を作る約束をしてくれて。
 幸せな日常だった。

 今までずっと幸せだったのだから、きっとこれからも幸せなのだろう。
 この幸せは、きっといつまでも続いてくれるのだろう。
 それは、とても幸せな事だ。
 壊れない幸せが、最も幸せな事だ。

 ……その、筈だった。

「……流石、千雪お姉ちゃん……ううん、師匠……!」
 
「ありがとう甜花ちゃん。ハイ、ターッチ!」
 
 ぱちん、とハイタッチを交わす甜花と千雪。
 そんな光景を眺めながら食べる朝食は、間違い無く幸せな筈なんだ。
 なのに、この気持ちはなんだろう。
 言葉にしがたい、奇妙な感情だ。

 虚無感なのだろうか。
 喪失感なのだろうか。
 足りないとは違う。
 けれど明確に、俺は何かを求めていた。

 ……俺は、どんな風に幸せになりたかったのだろう。

 今は確かに幸せだ。
 きっと普通なら求めたって手に入らない幸せだろう。
 だが、俺が求めた幸せは『この幸せ』だっただろうか。
 ずっと今までと同じ幸せな日常を過ごして来た俺が、『この幸せ』を望むだろうか。

 ケチをつけるところなんて無い。
 足りないモノなんて無い。
 きっと、これ以上の幸せなんてない。
 それでも、心の何処かで俺は感じていた。

 俺の望んだ幸せはーー





「…… 『忘れろ、捨てろ』、か……」

 部屋に一人で戻り、俺はゴミ箱から破れたメモを拾い上げた。

『忘れろ、捨てろ』

 果たして昨夜の俺は、何を思ってこんなメモを書いたのだろう。
 何か怖い経験でもしたのだろうか。
 忘れた方が自分の為になると思って書いたのだろうか。
 忘れろと書いてあるのだから忘れた方が良い、思い出す必要の無い事なのだろう。

 それでも、捨てる必要は無いだろうに。
 自分の性格上、メモを捨てる時は破いて捨てる。
 それを分かって書いたと言う事は……どう言う事だ?
 考えてもさっぱり分からない。

 ……そう言えば、昨日は何をしてたんだっけ。
 どうにも記憶があやふやだが、多分昨日も妹達と幸せに過ごしていただろう。
 スマホに何か写真でも残ってないか。
 そう思って、俺はスマホを手繰り寄せた。

 画像フォルダには、見覚えのない画像が沢山入っていた。
 時折妹達の写真もあるが、殆どは知らない女の子達ばかりだった。
 ……なんだこれ。
 気付かないうちに盗撮でもしてたのだろうか。

 その中で一枚、何処かで見覚えのある場所の写真を見つけた。
 とある建物、その窓ガラス。
 『283』と書かれた(貼られた?)、そんな写真。
 俺はその風景を、何度も見た覚えがある。

 夢だっただろうか。
 どうにも思い出せないこの感覚は、まるで夢を思い出そうとするかの様だった。
 掌で掬い上げても指の隙間から零れ落ちてゆく水の様に、記憶がばらついてゆく。
 モヤがかかって、鮮明さがどんどん失われてゆく。

 それでも、俺には分かった。
 これはきっと忘れてはいけない事だ。
 誰か知っている人はいないだろうか。
 何となく、きっとトーク欄の一番上にあるって事は親しい間柄なんだろうと判断してその人に通話を掛けた。

 ワンコール、ツーコール。

 そして直ぐに、繋がった。
 
『もしもしあんた?! ねぇ何この事務所、探偵事務所だったりジャスティスなんたらだったりみんなおかしくなっちゃってるわよ!』
 
 声を聞いて、直ぐに分かった。
 もう一度トーク欄の上に表示された名前を確認するまでもない。
 忘れる筈がない、忘れて良い筈がない。
 忘れちゃダメなんだ……捨てちゃダメなんだ……

「……冬優子……そうだ……冬優子だ……っ!」

『えっちょっ、何泣いてんのよ気持ち悪い』

 ストレイライトの黛冬優子。
 彼女の声を聞いたのは、何年ぶりだっただろう。




 
『……ふーん、なるほどね。それであんたは家から出られなくなっちゃった、と』
 
「……あぁ。相変わらず理解が早くて助かるよ」
 
『相変わらずって……ま、あんたはふゆとこの会話を何回もしてるんでしょうけど……』
 
「……やっぱり、信じてくれるんだな」
 
『……信じるわよ。あんたがそんなに必死なの、初めてだったし……泣いてるのも……』

 冬優子に状況を説明しつつ、俺もこの数年間の今日を振り返る。
 沢山の事があった。
 その殆ど全てが、同じだった。
 違う事をしていたのは、途中のほんの数日だけだった。

『あっちょっと待ってあさひが窓から出ようとしてる! ちょっとあさひ! それでハトに乗れるのは真乃だけだから! 馬鹿な事してないで外走り回ってなさい!』

 いや、正確には他にも何日かはあった。
 それも、この長い今日の中ではほんの一瞬だが。
 ぐちゃぐちゃになった思考から垂れ流される妄言に、それでも冬優子は最後まで聞いてくれた。
 思い出したく無かった事を記憶に叩き込まれたせいで発狂しかけたが、それでも落ち着けたのは冬優子のお陰だ。

『っふぅ……あさひ達には外に出てって貰ったわよ。それで?』

「…………どうすれば良いんだろうな、俺……」

 そして、ここからは弱音だ。

「……出られないんだよ、どうやっても」

 沢山の方法を試していた。
 その全てが失敗に終わっていた。
 むしろ状況が悪くなる事だってあった。
 だからこそ、過去の俺は諦めたのだろう。

 冬優子に相談したのもこれが初めてではない。
 けれど、それで状況が好転した事はなかった。
 だから、久しぶりに彼女の声を聞いて喜びはすれど諦めは変わらなかった。
 だって、どうせ無理なのだから。

『……何諦めてんのよ、あんたらしくないわね。どーせやり直せるんだから何回挑んだって良いじゃない』

「……どうせ、やり直せる……?」

 ああ、そうだ。
 かつての俺も同じ事を考えていた。

 ……だからって。
 だからって、何度も挑める訳じゃないんだよ……!


 
「……やり直せるからって……無かった事になるからって! 目の前で大切なアイドルが殺されて耐えられる訳がないだろ!」

『そうならない様に動けば良いじゃない! 何度も試したあんたなら出来るでしょう?!』

「耐えられる訳が無いんだ! 受け入れられる訳が無いんだよ! だって! 俺のせいで……甘奈は……っ!」

『落ち着いてよ、あんたが焦ったらどうにもならないじゃない!』

「また失敗したらどうすんだよ! また俺が大切なアイドルを手に掛ける事になんてなったら……俺は……っ!」

『落ち着きなさい!!』

「うるさい! 今日が今日しか来ない奴に何が分かるんだよ!!!」

 そこから先は、唯ひたすらに俺の弱さを吐き出しただけだった。

「どうせ俺がふざけた妄想でもしてると思ってるんだろ!」

「変な夢見てバカな事言ってると思ってるんだろ!」

「殺したんだぞ! 俺が! 甘奈を!」

「千雪だって手に掛けた様なもんだ!」

「何度も繰り返したんだ! 何十も! 何百も!」

「無理なんだよ! 俺一人がどうしたところで! 冬優子が何を言ってくれたところで!」

「もうどうにもならないんだよ!!」

「分かってんだよ! このまま幸せに生きてくのが一番楽だって! 幸せだって!!」

「何をしたところで無駄なんだよ! だから……」

 だから。

 もう疲れたから。
 何をしたって無駄だから。

 涙が止めどなく流れる。
 嗚咽が止まらない。
 それでも俺は。
 思い浮かべた、かつての、遠過ぎて最早夢だったんじゃないかという様な光景を思い出して。
 



 何をしたところで、俺は、もう……


「…………助けてくれ、冬優子……」


 ……それでも俺は。

 やっぱり、戻りたい。
 283プロに戻りたい。
 帰りたい。
 あの幸せだった日々に、戻りたいんだよ……

『……言いたい事はそれで全部? 満足した?』

「…………ごめん、冬優子……お前にあたっても仕方ないのに……」

『……良いわよ別に。吐き出せる相手、ふゆ以外いなかったんでしょ?』

「……ごめん……本当に、悪かった……」

 何やってるんだ、俺は。
 助けを求めた相手に当たり散らして。

『……何があっても、ふゆはあんたの事を信じるわ。それと、何があってもあんたの味方だから』

「……ありがとう」

 また、涙が溢れた。
 この数年で、俺の心は随分弱くなっていた。

『……ねぇ、あんた。色々試したって言ってたけど、まだ試してない事あるわよね?』

「……無理だ」

『実際それで甘奈は協力してくれたんでしょ?』

「それは相手が甘奈だからだ」

 冬優子が言っている事は分かる。
 俺だって分かっていた。
 それでも、出来る筈がない。
 あの千雪が、俺の説得を受け入れてくれる筈が……

『試しても無いのに決めつけるんじゃないわよ」

「……聞いてくれる筈がない」

『やる前から諦めるなんて、今度こそ怒るわよ』

 それに、と。
 冬優子は続けた。

『あんたがアイドルを信じてあげなくてどうすんのよ……っ、もう一度同じ事言ったら引っ叩くから』

 ……それを、冬優子に言わせてしまった。
 かつての彼女を思い出して、また涙が溢れる。

「……悪かった。そう、だよな……」

 プロデューサーである俺がアイドルを信じなくてどうするんだ。
 どうやらこの期間で俺はそんな事も忘れていたらしい。

『思い出した?』

「……あぁ」

『あさひ戻って来たみたいだから切るわよ。それじゃ最後に、あんたがする事は?』

 かつて、甘奈に協力を仰いだ時の様に。
 俺の本心をぶつけて。
 きちんと、真正面からぶつかって。
 千雪を信じて……

「俺の幸せは……」




『私達と幸せな日常を送る事、ですよね? 兄さん』
 

 今度こそ。

 本当に、心が折れた。

『ふふっ、もう……兄さん、本当にどうしようもない人なんですから』

「……ち……ゆき……?」

 なんで……
 どうして、千雪の声が通話越しに聞こえるんだ。

『ダメだ、って……私、覚えてないですけど言ったと思うんです』

「なん……で……」

『それなのに、冬優子ちゃんと連絡するなんて……兄さん、少しおいたが過ぎると思いませんか?』

 それから。
 甲高い、悲鳴の様な声が聞こえてきた。

『冬優子ちゃんも……私達と、私達の兄さんの幸せを邪魔しちゃダメよ?』

『っぁ゛ぁぁぁっっ!!』

「やめろ……やめてくれ……」

 見えなくても分かってしまった。
 今千雪が冬優子に対してしている事が。
 知っているから。
 トラウマとして、俺の心に深く刻み込まれているから。

 俺は、また何も出来なかった。
 通話の先では、冬優子が苦しい目に遭っているのに。
 なのに俺は、助ける事が出来ない。
 庇う事すら出来なかった。

「……やめろ……俺が悪かった、千雪……もうやめてくれ……!!!!」
 
 涙が溢れる。
 どうしてこうなるんだよ……
 上手く行きそうだと、思っちゃったじゃないか。
 俺が冬優子を巻き込んでしまったせいで。

 ……結局全部、希望を持ってしまった俺のせいで……




「……もう、やめてくれ……分かったから……もう、諦めたから……」
 
『うふふ、やめませんっ』
 
 イタズラっ子の様に。
 千雪は、そう笑った。

『っ! ゛ん゛ぁ゛ぁぁぁぁぁっっっ!!』
 
『この幸せを捨てたいだなんて』
 
 鈍い音が響く。
 
『戻りたいだなんて』
 
 鈍い音が響く。
 
『そんな哀しい事、考えないで下さい』
 
 鈍い音が響く。
 
『……分かってくれましたか?』
 
 何度も、何度も。
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 その度に響く冬優子の悲痛な叫び声は、少しずつ小さくなっていった。

『……ねぇ、兄さん。分かってくれましたよね?』

「……あぁ」

 ……もう、良いんだ。
 希望なんて持っちゃダメだって、冬優子も分かっただろ。
 無理なんだよ。
 信じたところで、意味なんて無いんだよ……

『ふふっ、良かった』

『なに……が、よ……なに、分かってんのよ……』

「っ、冬優子っ?!」

 途切れそうな、消え入りそうな声で。
 それでも冬優子は、言葉を続けた。

『……しん、じ……なさいよ……』

「冬優子! もう良いんだ! 頼むから今は」

『まぁ、まだ喋れるなんて……冬優子ちゃん、とっても強いのね』

 再度、鈍い音が聞こえた。
 なのに、冬優子の言葉は止まらなかった。

『……あきらめるんじゃ、ないわよ……ぜったい……っ!』

 ……ああ、そうだ。
 俺は……

『おやすみなさい、冬優子ちゃん』

 鈍い音と同時、通話が切れた。

 立ち竦んでいた。
 もう俺は、動けないでいた。
 心が感情を処理し切れていなかった。
 冬優子を失ってしまった喪失感で、俺は何も出来なかった。

 ……それでも、決まっていた。

 次の俺が、やるべき事を。





 ぴぴぴぴっ、ぴぴぴぴっ
 
 目覚ましのアラームと同時、俺は目を開けた。
 なんだか、長い夢を見ていたような気がする。
 
「…………はぁ」
 
 朝からこんなんでは気が滅入る。
 カーテンを開けて部屋に朝日を取り込み、気持ちをリフレッシュ。
 窓の外では木々が揺れ、四月の朝を表していた。
 少し窓を開けて思いの外低い気温に驚き、一瞬でカーテンごと閉める。
 
 コンコン
 
 それと同時、部屋の扉がノックされた。
 今日も、起こしに来てくれたようだ。
 
「はーい」
 
「あ、起きてますか? 兄さん」
 
 ガチャ
 
「……おはよう、千雪」
 
「おはようございます、兄さん。今日はお寝坊さんじゃないんですね」
 
「何時迄も千雪に頼ってばっかりって訳にはいかないからな」
 
 ふふ、と微笑む千雪。
 もう少し俺が寝ぼけていれば、天使と見間違えていたかもしれない。
 
「朝ご飯、もう準備出来てますから」
 
「そうか、いつもありがとな」
 
 開けられた扉から、良い香りが漂っていた。
 焼き魚と味噌汁だろうか。
 朝ご飯は一日の元気の源。
 しっかり食べて、英気を養おう。
 
 千雪が一階に降りて行った後、ぱっぱと着替えて顔を洗い歯を磨く。
 妹達の前で見苦しい姿を見せる訳にはいかない。
 
「ん……?」
 
 階段を降りる前にふと自分の部屋を覗けば、机の上に書類が出ていた。
 昨夜書類と格闘して、そのまま片付けずに眠ってしまったのだろう。
 全く、きちんと片付けないと千雪にお説教されてしまう。
 怒った千雪も可愛いし、それも悪くないかもしれない、なんて考えながら一応机の端に整える。
 
「……あれ、メモ……?」
 
 トントンと書類の端を整えていると、書類の山の一番下から、一枚のメモ用紙が落ちてきた。
 そこには俺の文字で、一文。
 
『諦めるな』

 それだけだった。
 それで、全てだった。

「お兄ちゃーん! 早く来ないと冷めちゃうよーっ!」 
 
 一階の方から、甘奈が俺を急かす声が聞こえてきた。


「……あぁ、すぐ行くよ」

 階段を降りて、リビングへ向かい。
 扉を開けて、三人の妹に挨拶する。
 
「おはよう千雪、甜花、甘奈」
 
「あ……おはようござい……ましゅ!」
 
「おっはよーお兄ちゃんっ!」
 
「ふふ、改めて……おはようございます、兄さん」
 
 それが、俺たちの日常だった。
 そんな幸せな日常を、終わらせられると信じて。

 


 
「今日の朝ご飯はね、甜花ちゃんが作ったんだよ!」
 
「にへへ……甜花、頑張った……」
 
 この朝食を食べるのも、もう数百回目だ。
 
「凄いじゃないか甜花、勉強したのか?」
 
「……それは、その……千雪お姉ちゃんに……」
 
「ふふ、それでも頑張ったのは甜花ちゃんよ? 私、今日は全然お手伝いさせて貰えませんでしたから」
 
「……甜花が、一人で……お兄ちゃんに、褒めて欲しかったから……」
 
「そっか。ありがとな、甜花」
 
 こうして甜花を撫でるのも、数百回目だ。
 
「いーなー。甘奈も撫でて貰いたいっ!」
 
「それじゃ……お夕飯は、なーちゃんが作って?」
 
「うんっ! お兄ちゃん、めーっちゃ期待しててね!」
 
「甘奈が作ってくれるのか。それは楽しみだな」

 きっと。
 今日、それは訪れないだろうが。
 
「モテモテですね、兄さん」
 
「モテモテって……」
 
「お兄ちゃん……お代わり、いる……?」
 
「えっ? あぁいや、大丈夫だ。もうお腹いっぱいだよ」
 
「それじゃあお兄ちゃん、甘奈達と遊ぼっ?」
 
 そう言って、甘奈は背後から腕を回して来た。
 肩に掛かる長い髪から、ふんわりと甘い香りが漂う。
 耳元に掛かる息が擽ったい。
 それだけで、酔ったかの様に意識が遠のきそうだった。

「……甜花も、一緒にゲームしたい……」

「あらあら……兄さんったら人気者ですね」

「はは、そうだな」

 ……でも、ごめん。

 きっと大丈夫だ。
 俺は千雪を信じてる。
 彼女達を信じてる。
 俺を信じてくれると、そう信じてる。



「……俺、もう行くよ。帰らないといけない場所があるんだ」

 もう終わりにするんだ。

「え、お兄ちゃんどっか行っちゃうの? やだよ……」

「そんな……甜花のお料理、本当は美味しくなかったから……?」

「違うよ、甜花。甜花の料理はすごく美味しかった、本当だ」

 でも、そういう事じゃないんだ。
 俺がみんなの事を嫌いになったとか、そういう話じゃないんだ。

「……こら、二人とも? 兄さんを困らせちゃダメでしょ?」

 そう、二人の妹を諫める千雪。
 それから、優しい眼差しで俺を見つめてきた。

 優しさで縛り付ける様な、そんな感覚を覚えた。

「兄さん……どうしても、行ってしまうんですか?」

 ここで首を横に振れば、今の会話は全て無かった事にしてくれるのだろう。
 ここで首を縦に振れば、また誰かが犠牲になってしまうかもしれない。

「甘奈ちゃんも甜花ちゃんも、こんなに悲しんでいるのに? それに、私だって……」

 甜花と甘奈と、それから千雪と。
 六つの視線を浴びて、心が折れそうになる。
 でも、それだけだ。
 ここで諦める訳にはいかない。

 信じるんだ、皆んなを。

「……少し、話を聞いて欲しい。俺の、夢の話だ」

 それから俺は、とあるアイドル事務所の話をした。

 283プロの日常を。
 俺と、社長と、はづきさんと。
 オーディションで入って来たアイドルと。
 スカウトで入って来たアイドルと。
 
 そのみんなが、みんなで努力して。
 力を合わせて作り上げた、辿り着いた場所の話。
 
 まだまだこの先の道も長いけれど、それでも彼女達なら辿り着けると。
 そんな彼女達を、全力で支えてあげたいと願い続けてひたすら走り続けて来た俺の。
 これからもその事務所で、みんなと共に夢を叶え続けたい、と。
 そんな、俺の夢の話を。
 
 三人は、黙って聞き続けてくれた。
 何となくだけれど、夢見てくれたと思う。
 自分達がアイドルになる夢を。
 三人でユニットを組んで、輝いてゆく世界を。

「……兄さんにとって、とっても大切な夢なんですね」
 
「当たり前だ。俺にとって……」
 
 そんな大切な夢を、何度も忘れて来た。
 諦めた事だってあった。

「……所詮夢の話だ。笑ってくれても構わない」
 
 それでも。
 もう一度。



 真っ先に思い出すのは、あの事務所の事だ。
 俺にとって、あそこが全てなのだから。
 俺にとって、あの事務所で彼女達と過ごす時間が全てなのだから。
 俺にとって、幸せは……
 
「……俺は、あの場所で。みんなと幸せになりたいんだ」

 283プロで、みんなと過ごす時間の事だから。

「だから、俺は行かなくちゃいけない。行きたいんだ」

 また、プロデューサーとしてみんなと過ごす為に。
 こうして真正面からぶつかるのは、その第一歩だ。

 甘奈も、甜花も、千雪も。
 誰も、口を開いてはくれなかった。
 部屋に嫌な沈黙が流れる。
 それでも俺は、撤回したりなんてしない。

 諦めない。
 きっと、分かってくれる。

 最初に口を開けたのは、千雪だった。

「……そこまで言うなら……分かりました」

 困った様に、それでも微笑んで。
 千雪は、頷いてくれた。
 
「甘奈ちゃんも甜花ちゃんも、お兄ちゃんを困らせちゃダメよ?」

「うん……甜花、分かった……」

「……うん、大事な事だもんね。甘奈も全力で協力するから。お兄ちゃんの夢を叶えよう?」

 三人とも、そう言ってくれた。

 不安に震えていた心が喜びに溢れ、瞳から零れ落ちた。
 長かった。
 本当に長かった。
 やっと、帰れるんだ。

 ありがとう甘奈。
 ありがとう甜花。
 ありがとう千雪。
 ありがとう、冬優子。

 本当に諦めなくて良かった。
 皆んなを信じて良かった。
 ずっと足掻き続けて良かった。
 帰れる……良かった……良かった……

「ふふ、兄さん。泣かないで下さい」

「甘奈達はいつでもお兄ちゃんの味方だからね!」

「甜花も……応援、しましゅ!」

「ありがとう……ありがとう、本当に……」

 突然、視界が白に染まり始めた。
 夢から覚める様な、そんな感覚だった。

「……どうやら、もう時間が無いみたいね。それじゃあ、いつまでもお待ちしておりますから」

「「「行ってらっしゃい、お兄ちゃん」」」

 そうして、俺は。

 俺達の世界は、光に埋まっていった。










 眩しい夕陽に、俺は意識を引き戻された。

 なんだか、凄く長い夢を見ていた気がする。
 時計を見ればそんなに時間は経っていなかったが、ずっと眠り続けていた様な感覚だ。
 目を細めながら辺りを見回すと、283プロのソファの様だ。
 そうだ、確か俺は仮眠を取っていて……

「あら? ごめんなさい、起こしちゃいましたか?」

「あ、いや……うたたねだったから、直ぐに目が覚めたみたいだ」

 そう声を掛けて来たのは、千雪だった。

 優しい笑顔で。
 温かい、声と瞳で。

「大丈夫? プロデューサーさん、最近働き過ぎじゃない……?」

「プロデューサーさん……無理しちゃ……ダメだよ……」

 大崎甘奈と大崎甜花も、此方を覗き込んでいる。

 そんな三人を眺めて、なんだかとてと温かい気持ちになった。

「……どうかしたの? プロデューサーさん」

「いや、何でもない。心配してくれてありがとうな。確かに、ちょっと疲れがたまってたみたいだ」

「良かったら、コーヒーでも淹れてきましょうか?」

「……あぁ、お願いしてもいいか?」

「ふふ……少し待っていて下さいね。すぐに戻ってきますから」

 そう言って、千雪は給湯室へと向かっていった。
 そんな後ろ姿を眺めて。
 横に腰掛けた甘奈と甜花を眺めて。
 アルストロメリアはまるで家族みたいだな、と思った。

「……アルストロメリアはあったかいな、家族みたいだ」

「えーっ、どうしたの急に?」

「ふふ、家族ですって。なんだか嬉しいですね」

「うん……甜花も、一緒……!」

「……えへへ、そうだね。なんとなくあったかい気持ちになるね」

 ……あぁ、温かい。
 アルストロメリアは、俺の宝物だ。
 きっと、三人にとってもそうだろう。
 それはとても、幸せな事だった。












「さて、そろそろ帰るか」

「そうですね……お疲れ様です」

 コーヒーを飲んで一仕事終えているうちに、窓の外は橙から黒に変わっていた。
 最近こんな事ばかりだなぁ。
 あっという間に外は夜になってしまう。
 甘奈と甜花は、既に帰っている様だった。

「千雪は待っててくれたのか?」

「はいっ。折角ですから、一緒に帰りたいと思ったので」

「……ありがとな」

 四月になっても、まだ冬の寒さは残っているだろう。
 窓の外に吹く風を見て、それだけで身体が震えた。
 手袋とマフラー、持ってくれば良かったかもしれない。
 温かい季節になるまで、あとどのくらいだろう。

「それじゃ、帰ろうか」

 ……それでも。
 千雪と一緒に並んで帰れるなら、心は温まるだろう。

「はい、帰りましょう。兄さん」

 そう微笑んで、俺の隣に立つ。

 これが、俺の幸せだ。
 この場所が、この283プロが、俺の幸せの全てだ。

 この幸せがずっと続いて欲しいと、俺は思った。



 俺は扉を開ける




以上です
お付き合い、ありがとうございました

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