黛冬優子の逃避行 (29)
これはシャニマスssです
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「……良い景色ね」
窓の外を流れる景色は、腹が立つくらい綺麗だった。
キラキラと水面を光らせ波打つ海、空を羽ばたくカモメ。
その更に上には太陽が、これからの季節へ向け気合を入れるかのように眩しさを増し続けている。
反対の窓にはひたすらに緑の海が広がっている。
山の斜面にある民家は間隔が広く、いかにここが田舎か物語っていた。
「……あぁ、綺麗だな」
電車に揺られ、大して面白くもない返事をする。
反対の席に座る冬優子は、ずっと窓の外を眺めたままだった。
動くことも此方を向く事もなく、ただ延々と電車に揺られている。
東京を出たのはいつ頃だったろう、少なくとも午前中だった筈だ。
機内モードにしたスマホを見れば、既に時刻は14を回っていた。
今機内モードを解除すれば、たちまち画面は大量の通知で埋め尽くされる事だろう。
解除した瞬間に着信が来るかもしれない。
ネットやSNSを覗く気力も無い。
見てしまえば、きっと心が折れてしまうから。
俺たち以外、この車両に乗客は居ない。
小さな箱の中、更に狭いクロスシート。
此処は今、俺たちだけの世界だ。
ほんの少し前までもっと広いステージを独り占めしていたアイドルの面影は、最早無い。
しゅぅぅぅぅ……
アナウンスも無く、名前も知らない駅に電車は止まる。
別の車両から、乗客が降りる音と声。
彼、彼女らはこの地に暮らしているのだろうか。
そんな知りもしない、普段だったら考えもしない事に意識を向けているうちに、気付けば電車は再び次の駅へと向かいだしていた。
「…………何処かでお昼にする?」
「……そうだな。お互い、朝から何も食べて無いもんな」
「そうね……不健康だわ。アイドル失格よね」
「…………」
「……ごめんなさい……」
責めたつもりでは無かったのだが、冬優子は泣きそうに目を伏せて謝った。
ごめんなさいなんて今更言われても、どうにもならないと言うのに。
……責めたつもりでは無かった、か。
きっと心の何処かで、俺は全てを冬優子のせいにしようとしていたのかもしれない。
最低な男だ。
最低な大人だ。
もっと他に、かけてやるべき言葉があっただろう。
もっと上手く、対応する事だって出来ただろう。
それも全て、後の祭りではあるが。
「……外、綺麗ね……」
再び冬優子は、目を逸らす。
俺からも、そして現実からも。
「……冬優子の方がもっと綺麗だよ」
「……ふふ、何それ。こんな時に冗談としてじゃなくて、もっと普段から言いなさいよ」
ようやく、冬優子は少しだけ笑ってくれた。
良かった、お互い沈んでいるのでは居心地は悪くなる一方だ。
「悪いな……俺も少し、ふざけてないとやってられなそうなんだ」
重くのしかかる現実から少しでも意識を、目を逸らしていないと、今にも押し潰されてそうだった。
現在進行形で逃げ続けているというのに、現在からも逃げようとしていた。
そうでもしないと、躁にでもならないと。
この憂鬱な現状から、また逃げたくなってしまいそうで。
ーー俺たちが逃避行を始めてからまだ半日、既に限界は近付いていた。
変わり映えしない、いつも通りの日常だった。
俺は283プロダクションでプロデューサーとして、事務所で作業をして、営業に行って、業務が終われば一服をする。
事務所のアイドルやアシスタントと軽く談笑し、いつも通りに過ごす。
その筈だった、そんな日常が続く筈だった。
「……ふゆちゃん、遅いですね」
アシスタントのはづきさんが、パソコンを叩く手を止めて此方へと言葉を向けた。
「ですね……レッスンの時間はそろそろな筈なんですけど……」
嫌な予感はあった。
かつて冬優子は一度、事務所に来なくなった。
それに関しては割愛するが、兎に角彼女は暫く顔を出さなくなったのだ。
けれどその件は解決し、それ以降彼女が無断で遅刻や欠勤する事は一度たりともなかった。
一分でも遅れそうなら直ぐに連絡を寄越す程、アイドルという仕事に対して真摯だった。
「あさひと愛依には、先に始めてて貰うか」
同じユニット、ストレイライトのメンバーである二人に指示を出し、俺は冬優子に連絡を入れた。
……繋がらない、電車内だろうか?
だとしてもラインくらい寄越してくれれば良いものを。
それから五分経ち、レッスンの時間になっても冬優子は事務所に来なかった。
「……何事も無いと良いんですけどね~……」
「俺、ちょっと探して来ます」
流石に不安になって俺が椅子を立つのと。
「……おはようございます」
冬優子が事務所の扉を開けたのは、ほぼ同時だった。
「あ、おはようございます~。ふゆちゃん、電車の遅延ですか?」
「えっ、あ……はい。ごめんなさい、間に合うと思って連絡せずに来ちゃいました」
……何か、あったんだろうか。
どうにも冬優子の歯切れが悪い。
「大丈夫か? 冬優子。体調が悪いなら今日はレッスンを休みに……」
「あの……少しプロデューサーさんに相談したい事があるんです」
ばくん、と。
心臓が跳ねた。
背中に嫌な汗をかく。
ヤケに部屋の中が暑く感じた。
六月にしては今年は暑い方だが、それにしたってこんなに汗をかく事は無い。
「じゃ、じゃあ応接室に……」
「あ、でしたら私が席を外しますよ~。丁度飲み物を買いに行きたかったところですから」
「すいません、気を遣わせちゃって」
「いえいえ、気にしないで下さい~」
バタン、と事務所の扉が閉まる。
今ここに居るのは、俺と冬優子だけだ。
冬優子が猫を被る必要も無い。
だと言うのに、なかなか冬優子は口を開かなかった。
いつもだったら遠慮なしに、なんなら開口一番に罵倒してくる冬優子が、だ。
「……冬優子?」
「ねぇ、あんた……」
ほぼ同時、言葉が重なる。
そして再び、居心地の悪い沈黙が訪れた。
時計の針の音がやけにうるさい。
エアコンの音も、心なし普段より大きい気がする。
「…………ふゆ達が『W.I.N.G』に優勝した日の事……覚えてる?」
ようやく、冬優子は口を開く。
「……当たり前だ、忘れる訳が無い」
覚えていない訳がない。
全アイドルが憧れる夢の祭典『W.I.N.G』で、冬優子は優勝を飾ったのだから。
そこに至るまで、沢山の苦労があった。
喧嘩だってしたし、心が折れそうになる事だってあった。
だからこそ、優勝が決まった時は本当に嬉しかった。
舞台袖で冬優子と泣きそうになりながらハイタッチしたのも覚えている。
その後、冬優子と一線を踏み越えた事も覚えている。
あの日起きた奇跡の様な出来事は、二ヶ月経った今でも全て鮮明に思い出せる。
「あんた、本っ当に嬉しそうだったものね」
「冬優子だって泣きそうに……いや、何でもない」
売り言葉に買い言葉で人の大切な思い出を冷やかすものではない。
『W.I.N.G』に優勝してから、冬優子のアイドル人生はより一層華やか……賑やかで、忙しいものとなった。
知名度は上がり、仕事は増え、苦労もするがそれ以上に沢山のものを獲得して。
あの日からずっと、俺たちはトップアイドルへの道のど真ん中を真っ直ぐに走り続けている。
「なら…………その後の事も、覚えてるわよね?」
その後の事。
それは、アイドルとプロデューサーが決して踏み越えてはならない一線を二人で踏み越えた事。
当然、覚えていた。
お互い『忘れて、無かったことにする』と約束したあの夜の事は、忘れられる筈が無い。
「……あぁ、覚えてる」
「良かった……忘れてる、なんて言われてたら引っ叩いてたわ」
「お前な……」
冬優子から言い出したあの約束は何だったんだと言いたくなる。
「女心は複雑なのよ。覚えておきなさい」
「肝に命じておくよ。それで?」
正直、聞きたくなかった。
嫌な予感しかしない状況に、耳を塞ぎたくなった。
「…………あの日からーーないの」
冬優子が目を逸らし、俯く。
余りにも小さ過ぎる声に。
けれどなんとなく、聞き取れなくても理解してしまった。
理解したくない事だという事も、分かってしまった。
その先は、言わないでほしい。
もう一度言い直さないで欲しい。
目を逸らしたい、耳を塞ぎたい。
逃げ出したくなる様な状況で。
けれど、冬優子は。
大きく息を吸って、今度は聞き取れてしまう声量でーー
「……来てないの、生理」
目の前が、真っ暗になった様な気がした。
「……プロデューサーさん? おねむですか~?」
「……いえ、大丈夫です」
大丈夫な訳がなかった。
冬優子がレッスンに行くのを見送った後、どの様にして仕事をしていたか思い出せない。
クラクラする脳と不安定に揺れる視界でも、案外書類は作れるものらしい。
吐き気は引かない、呼吸は苦しい、痛いほど激しい動悸も治らない。
後悔と焦りと不安で押し潰されそうな午後は、いつのまにか日が暮れ夜となっていた。
ガチャ
「……お疲れ様です、プロデューサーさん♡」
「……ん、お疲れ様、冬優子。えっと……大丈夫なのか?」
その……妊娠、しているんだろう?
ダンスのレッスンなんてハードな運動は身体に支障が無いのだろうか。
「ふゆちゃん、そんなに体調が悪かったんですか?」
「大丈夫ですっ、午前中はちょっと気分が優れなかっただけですから。心配かけてごめんなさい」
しまった、今ははづきさんも居るんだった。
余計な詮索はされない様、発言には気を付けなければ。
「プロデューサーさん、よかったらふゆと一緒に帰りませんか?」
「……あぁ、悪いけど少し待っててくれ」
大して進んでいなかった文章を保存し、パソコンを切る。
「うぉっ」
思った以上に精神がやられていたのか、椅子から立ち上がろうとして尻餅を着く。
足に力が入らない。
それどころかずっと足が震えていた事に今更気付いた。
「……大丈夫ですか?」
「あぁすまん、大丈夫だ」
なんとか背凭れを支えに立ち上がり、荷物を纏める。
「お疲れ様です、はづきさん」
事務所の外は、既に真っ暗だった。
「……お邪魔します」
「散らかってるけど、まぁ適当にくつろいでくれ」
冬優子を部屋へと招いたのは、これで二回目だ。
あの時も冬優子らしからぬ緊張した様子だったが、今回はその度合いとベクトルが全く違う。
一応お茶を出してテーブルに着く。
それから再び、なかなか会話は無かった。
「…………」
目を伏せたまま、ずっと。
冬優子は暫く、何も言わないままで。
「…………」
埒があかない。
正直聞きたくないが、此方から尋ねるしかなかった。
「……その……来てないってのは、四月以降ずっとなのか?」
「……そう。五月の時はピルとかでズレてると思ってたの。でも流石に遅過ぎるから……検査薬買って……」
「…………結果は、どうだったんだ……?」
「それは…………」
それは大丈夫だったと信じたい。
ただズレていただけだ。
ホルモンのバランスが崩れていただけだ。
そう、言って欲しかった。
「…………陽性だったわ……」
息が止まるかと思った。
絞り出す様に零した呼吸は震えていた。
吐きそうだった。
脳を不安と焦りの信号が飛び交い、まともな思考が出来なくなりそうだった。
陽性だった。
それはつまり、冬優子は妊娠していると言う事で。
俺が、冬優子を妊娠させてしまったと言う事で。
今をときめくアイドルの未来を、担当プロデューサーである俺が閉ざしてしまったと言う事に他ならない。
「…………そう、か……」
ようやく動いた口から出たのは、乾からびて呻き声に近かった。
「……………………ごめんなさい……」
「……どうして冬優子が謝る。俺の責任だ」
「だって……ふゆが、初めてだから、一度きりだから、って……」
あの夜そう言われた俺は、避妊具を着けなかったのだ。
一度きりで、初めての思い出ならば、と。
一度きりなら大丈夫だろう、と。
冬優子が大丈夫だと言っているのだから大丈夫だろう、と。
迂闊だったと言わざるを得ない。
判断が甘過ぎた。
冬優子に言われるがままに、何も着けずにするべきではなかった。
男性側である、大人である俺がきちんとそこは説得するべきだった。
「…………本当に、ごめんなさい……」
泣きそうに、両手を握り締める冬優子。
こんなに弱気な冬優子は、見た事が無かった。
あの夜、『あんたの家に行きたい』と言ってきた時だって、もう少し強気だった。
不安に満ちたその瞬間だって、もう少し覚悟を決めていた。
冬優子を責めるつもりはない。
けれど、後悔は募る。
あの時、きちんと避妊具を着けていれば。
そもそもの話、冬優子の願いを断って、冬優子を悲しませる事になってでも行為に至るべきではなかったのだ。
冬優子はアイドルだから。
俺はプロデューサーだから。
立場を持ち出せば、断る事は可能だったのだから。
冬優子の事を考えているのであれば、本来断るべきだったのだから。
「……大丈夫だ、なんとかする」
「……それって……!」
ようやく、冬優子の目に光が灯った。
不安で不安で、仕方なかったのだろう。
誰にも相談出来ず、不安に押し潰されそうになっていたのだろう。
俺に迷惑を掛けてしまう事を、怒られてしまうんじゃないかと怖かったのだろう。
でも、大丈夫だ。
俺に任せて欲しい。
四月の夜から今に至るまで、二ヶ月と少し。
なら、まだ間に合う。
「病院に行こう。早ければ日帰りの手術で済むし、漏れる事も無い」
他の誰かに知られる事は無い。
これからもアイドル活動を続けられる。
俺もプロデューサーでいられる。
お互いの人生を、こんなところで終わらせない。
「今後の事は心配しなくて良い。体調に関しても、悪ければ長めに活動を休止したって良い。スケジュールやその辺りの調整は俺がする」
だから、大丈夫だ。
何も問題は残さない。
「兎に角、俺も付き添うから一度病院に…………冬優子?」
気付けば、冬優子は泣きそうになっていた。
何かを言おうとしたのか、中途半端に開いた口もそのままに。
不安が払拭されて、事態が好転して安堵しているのだろうか。
それならもっと早くに相談してくれても良かったのだが、流石に決意が固まらなかったのだろう。
「…………や……」
「……え?」
震える声で、ようやく口を動かす冬優子。
けれど余りにも小さ過ぎて、上手く聞き取れなかった。
「…………イヤよ……イヤ……」
「イヤ、って……何が……」
涙をぽろぽろと零しながらも。
声を、掠れて震えて、不安に満ち溢れさせながらも。
「……堕すなんて、イヤ…………」
それからは、感情の奔流を塞きとめる事なく、決壊したダムの様に溢れさせた。
「イヤに決まってるでしょ! 堕せる訳無いわよ! ふゆの子供なのよ? あんたとの子供なのよ?! それなのに……殺せって言うの?!」
「まだ産まれてない!」
「関係ないわよ! これから産まれてくる筈だった命を殺す決意なんて、出来る訳無いじゃない!!」
「無かった事にするだけだ!」
「分っかんないの? ふゆ、幸せだったの! あんたと……貴方と結ばれて幸せだったのよ! それを無かった事になんてイヤ!!」
「でも堕さないと、冬優子はアイドルに戻れなくなるんだぞ?!」
「……もう知らないわよ、アイドルなんてっ! 戻れるなら戻りたかったわよ! でも! その為にふゆと貴方の子供を殺すなんて……そんな事……ふゆには、出来ないわよ……!!」
それから。
冬優子はただ、泣き続けた。
言葉にならない声を漏らし続ける。
肩を震わせて、息を荒げて。
「……だから、相談出来なかったの…………プロデューサーのあんたなら、絶対堕せって言うって分かってたから……」
当たり前だ。
プロデューサーでなくとも、そう言っていた筈だ。
今後の人生の事もある。
世間体と言うものだって、健康に関する事だって。
何より冬優子は、まだ十九歳なのだから。
「……責任を取って欲しかった訳じゃないの、ふゆがワガママ言った結果だから……でももしかしたら、もしかしたら、って……」
責任、か。
俺は、どう答えるべきだったのだろう。
冬優子がもし望んでいたのなら、責任を取って結婚し、子供を産ませるべきだったのだろうか。
けれど、それは絶対お互いのためにならない。
その選択肢は、お互いを不幸にするものだ。
「…………貴方なら、ふゆを救ってくれるかもって……信じたかったわ……」
……言える筈が無いだろ。
結婚しよう、子供も産もう、だなんて。
そんな覚悟が俺にある筈が無いだろ。
今後の人生、間違いなく全部狂うんだぞ。
今は堕して、何も無かった事にして、今まで通りに生きていくのが一番だろ。
「…………産むわ」
「堕せ、絶対に後悔する」
「イヤ。ふゆ、産むって決めたの」
「……冬優子の事を思って言ってるんだ」
「どうせ自分の事しか心配してないんでしょ」
「そんな訳無いだろ! 俺と冬優子の子供だなんて……嬉しいに決まってる! でも…………今じゃないだろ……」
嘘だ。
多分今、俺は俺の事しか心配していない。
俺が今後も今まで通り過ごす為に、冬優子の事を考えているに過ぎない。
けれど絶対、それは冬優子の為でもある。
それは間違いなかった。
「…………ほんと……?」
「あぁ、本当だ。だから信じてくれ」
覇気の無い目で、俺へと縋る。
そんな健気な女の子の人生を、今壊す訳にはいかないから。
「いつか必ず、もう一度……だから、今は……諦めてくれ」
納得してくれ。
頼むから、信じてくれ。
今この問題さえ解決出来れば、それで良いから。
将来、きちんと責任だって取るから。
「…………だったら、お願いがあるの」
「……俺が出来る事なら」
俺がそれをする事で、冬優子が納得してくれるならなんだってやる。
しないという選択肢なんて存在しない。
「……ふゆと、逃げて」
「…………逃げる?」
「少しの間だけで良いの。ふゆと、貴方と……この子と、三人で。遠くに、一緒に逃げて欲しいの」
それは、俗に言う逃避行というやつだろうか。
「堕す前に、少しだけ……三人で、思い出を作りたいから……」
ここから暫くの間、冬優子のスケジュールは埋まっていた。
けれどその全てを終えてから旅行をして、それから堕すなんて悠長な事は言っていられない。
後になればなる程、冬優子の体の負担が大きくなる。
やるなら、出来る限り早くでなければならない。
「……明日。それからふゆが、ちゃんと決意するまで。それまで……あんたも、付き合って」
「……あぁ、分かった」
可能な限り、今夜の間に調整出来るところはしておこう。
無理なものは仕方ない。
間違いなく問題にはなるが、冬優子が堕さなかった場合の方がリスクが大きい。
完全な破滅を迎えるくらいなら、多少の損害は甘んじて受け入れよう。
「……ありがと。それと……ごめんなさい」
「気にするな。全部俺の責任だ」
そして、俺たちは。
未来の為に、今から逃げた。
「で、どっちの方に向かうんだ?」
「決めてないわ。あんたが行きたい方で良いわよ」
早朝、東京駅のホームで二人、大きなバッグを抱えて早速文字通り路頭に迷っていた。
この時間はまだ人が少なく、ピーク時の人口密度を知っている身からすれば寂しさすら感じる程だ。
人が疎らなホームと、都内とは思えない間隔の運行案内を映す電光掲示板。
まるで別の世界に迷い込んでしまったかの様な感覚すら覚える。
「……海と山、冬優子はどっちが好きだ?」
「うぅん……海ね。今は海の気分だわ」
「んじゃ、東海道線で熱海の方にでも向かうか」
タイミングよく到着した電車に乗り込み、一番端の席に座る。
車内もまた殆ど人が乗っておらず、話し声も全くしない。
電車の揺れる音がやけに大きく聞こえて、なんとなく沈黙が辛くなった。
ぶーん、ぶーん。
「電話、着てるわよ」
「……どうせ仕事だろ」
表示されていたのは『はづきさん』の文字。
そう言えば、遅れる訳にはいかない仕事の日にはモーニングコールを頼んでたっけ。
はづきさんだって眠いだろうに、ありがたい事だ。
まぁどの道、今は起きてはいるが仕事には向かえないのだが。
今になって、不安と後悔が積もり始めた。
いや、後悔自体は昨夜から全く衰えていない。
不安で当然一睡も出来なかった。
それでも、集合した時に冬優子が『やっぱりやめときましょ?』と提案するのを期待していたのだが、別にそんな事にはなってくれなかった。
……今後、俺と冬優子はどうなるのだろう。
勿論出来る限りの事はするが、それにだって限度がある。
一度失った信頼は取り戻せないし、そもそも俺がクビになる可能性だってある。
もちろん冬優子が堕さなかった場合俺が仕事を続けられる可能性は0になるから、どの道この件に関して俺に選択肢は残されていなかったのだが。
それでも行き場のない不安と後悔は増し続けて、吐き気を増幅させる。
「……ごめんなさい」
「……だったら……」
だったら、逃避行なんて言い出さないで欲しかった。
今からでも戻ろうと言って欲しかった。
きちんと予定を立ててオフの日に旅行に行くなら、ここまで苦しまずに済んだ。
勿論『冬優子のせいだからな』なんて言える訳もないけれど。
冬優子には気分良くこの旅を終えて貰わなければ困る。
少しでも不満に思われて『やっぱり堕さない』なんて言われたら一巻の終わりだ。
……機嫌を伺って心を擦り減らす、か。
入社した当時を思い出すな。
「……外、良い眺めよ」
早朝の街は、ひたすらに静かだ。
あと一時間もすれば息をつく暇もない混雑に埋まる電車も、立ち止まる事を許されず流れに従い歩くだけの道も、今は殆ど誰もいない。
車の騒音も人の話し声も無い街は、本当に別世界だ。
少しだけ、気分が軽くなった気がした。
「……お昼は、美味しいものを食べたいわね」
「あぁ、折角だしご当地グルメ色々食べるか」
まだ、この時は。
割と、精神的にも余裕があった。
車内に人が増えて来た。
反対側の電車と擦れ違う頻度が増えて来た。
ドアが開く度に、沢山の人と暑い空気が流れ込んでくる。
冷房の温度もかなり下がり、かなり肌寒く感じる。
「…………」
「……スマホ、切っといたら?」
「そうだな……そうするか」
既に通知欄には、かなりの数の不在着信が溜まっていた。
当たり前だ、今日は仕事だったのだから。
冬優子だって撮影があったのだから。
それをぶん投げて今、動く事も出来ず電車に揺られ続けていて。
スマホが震える度に、何度も心を締め付けられた。
後悔は積み重なり、頭と心を押し潰す。
どうしよう、どうすれば被害は最小限に抑えられるだろう。
今ならまだ間に合う、すぐ戻ればまだなんとか……
正直既に、精神はギリギリだった。
不安は雪だるま式に増える。
電車が揺れる度に吐きそうになる。
今すぐにでも戻りたい、けれどこのまま旅を続けなければならない。
何も出来ずに足を震わせ、焦りと後悔でぐちゃぐちゃになった心をなんとか抑え続ける。
「……そろそろ、海が見えてくるんじゃないかしら」
「そうかもな……」
景色なんて眺める余裕は無い。
何を見たって、『早く帰らなければ』としか思えない。
遠ければ遠いほど、日常から離れた風景になる程、はやく日常に帰りたくなる。
隣の冬優子が能天気に景色を眺めているのが、ヤケに癪に触る。
「……お腹、空いてる?」
「いや……大丈夫だ」
食欲なんてある筈がないだろう。
冬優子はあるのだろうか。
食欲が、精神的な余裕が。
だったら羨ましい限りだ、図太くないとアイドルなんてやっていられないか。
……やめよう、頭を回せば毒しか出てこなさそうだ。
考える事はやめよう、どうせ不安にしかならない。
考えたところで、どうにもならない。
今俺に出来るのは、冬優子の機嫌を損ねない事だけだ。
「……冬優子はお腹空いたか?」
「別に、そういう訳じゃないわ」
太陽は昇り続ける。
街は朝になる。
人は皆んな、日常と社会の中に入って行く。
本来であれば、俺だってそこに……
……逃げると言うのは、思いの外難しい事だった。
電車は終点、熱海に着いた。
けれど、不安だった。
こんなに近いと、まだ戻れてしまう。
もっと遠くに逃げなければ、まだ後悔出来てしまう。
勿論ここまで、風景を楽しむ余裕なんて一切無かった。
今から反対側の電車に乗れば、ほんの二時間足らずで東京駅まで戻れてしまうのだ。
それでは、ダメだ。
きちんと戻れなくなれれば、もっと考えずに済むのだから。
まだ間に合う範囲で心を擦り減らすよりは、意味のない後悔を言い訳にしたい。
「……人も多いし、もう少し遠くに行かないか?」
「良いわよ、あんたが行きたい場所で」
東京、という言葉をぐっと飲み込んだ。
きっとそれを言えば、確かに戻らせてくれるのだろう。
今だけは、日常に帰れるのだろう。
けれどそれは、数ヶ月後に全てが終わる事を意味する。
東海道本線に乗る。
ここから浜松まで、乗り換え無しで進めるらしい。
「……人、かなり少ないな」
「そりゃここから先は田舎だもの」
再び、俺たちは揺られ始めた。
元から少ない乗客が一人降り、また一人降り。
いつのまにか、この車両に乗っているのは俺たちだけになっていた。
けれど会話なんて、一切無い。
……話してないと、不安になるな。
「……冬優子は、どんな景色が見たい?」
「そうね……海とか山とか、湖とか虹とか……後は、来週発売される円盤とか」
「急に世俗にまみれたな」
前者は、この旅行中に見れそうだ。
虹が出るかは運次第だし、円盤に関しては待ってくれとしか言えないが。
「でも……あんたと、この子と。三人で見る風景なら、なんでも良いわ」
この子、と。
そう呟く冬優子の視線は、自らの腹部へ向けられていて。
俺は再び、現実に引き戻された。
俺の不注意のせいで、こんな事になってしまった。
俺が冬優子の申し出を断らなかったせいで、こんな事態になってしまった。
お互いに、重過ぎる責任感と罪悪感を抱えて生きなければならなくなってしまった。
本当に、後悔しかない。
「……もう、お昼も過ぎてるのね」
「このまま乗ってると夕方も過ぎるぞ」
「そうね……それじゃ、適当な場所で降りて一泊するわよ」
何度もドアが開いて、閉じて。
駅と駅との間隔が広くなり、人の気配も一切なくなり。
太陽はどんどん傾いて。
既に周りには、何もなくなっていた。
「……ここら辺ならホテルがありそうだな。そろそろ降りるか」
「……綺麗な夕焼けね」
「だな……空が綺麗だ」
俺たち以外に誰も居ない駅で、大きく息を吸い込み空を仰ぐ。
ムカつくくらい高く、澄んだ空がどこまでも広がっている。
「……ホテル、いけそう?」
「あぁ、一部屋空室があるな」
「なら決まりね」
「アイドルとプロデューサーが」
「それ今更過ぎるわよ」
何も言い返せなくなった。
仕方なく一部屋取ろうとスマホの機内モードを解除して、吐きそうになりながら、足を震わせながらも予約をする。
駅から少し歩いたホテルへと向かう。
チェックインして、部屋へ入って。
スマホはもう、見ない。
沈み込む用にソファに座り、本日何度目かの溜息をついた。
「……疲れてる?」
「そこそこ。長時間の移動ってのは座ってるだけなのに結構くるな」
それから。
シャワーを浴びた俺たちは、言葉もなしにお互いを求め合った。
どうせ今更、踏みとどまる理由なんて無い。
避妊具を着ける必要もない。
こうして熱中して、頭を空にしてる間だけは。
何も、考えなくて済むから。
「……さ、行くわよ」
「おう」
朝になって、再び俺たちは電車に乗った。
起きてから、おそらく初めての会話だったと思う。
それまで会話が無かった事に驚いたが、実際俺も何を言おうかと考えれば言葉は思い付かなかった。
昨日と同じく、ひたすら遠くに逃げる。
朝起きた時のコンディションは、それは最低な物だった。
いつもの癖でスマホを確認してしまい、そこで現状を思い出してトイレで一度吐いた。
これから何度この朝を繰り返すのか分からず、行き場のない不安と不満でもう一度吐いた。
朝食なんて当然喉を通らない。
ウィダーで無理やり栄養を流し込み、なんとか身体を動かして。
果てのない、終わりのない逃避行二日目は最悪の気分で始まった。
「…………外、綺麗ね」
「だな……」
何が、何もないがある、だ。
本当に何もないじゃないか。
何が、自然は心を豊かにする、だ。
今俺はこんなにも最低な気分だって言うのに。
帰りたい、日常に。
なんで、こんな事になってしまったんだ。
本当にどうして、あの時俺は……いや、冬優子だ。
冬優子があの夜にあんな事を言わなければ、こんな事態にはなってなかったじゃないか。
あんなワガママを言われていなければ、こんなに俺が追い詰められる事は無かったのに。
意味のない後悔で、なんとか自分を保つ。
最低な事を考えてしまっているって事くらい、分かっている。
それでも、誰かのせいにしないとやってられなかった。
この終わりの見えない逃避行で、全てを終わらせてしまいたくなってしまう。
それから……
三回、俺は最低な気分で朝を迎えた。
いや、旅に出た日を数えれば四回か。
全ての朝で絶望し、吐いて、何も食べずに、何も言わずに電車に乗る。
今がどの辺りなのか正直よく分かっていない。
少なくとも東京からはかなり離れただろうが。
全ての夜で冬優子と身体を重ねたが、それだって現実逃避の一環としてだ。
その効果も既に薄くなり、途中で心が押し潰されてそのまま首を絞めたくなった。
「……ヒゲ、伸びてるわよ」
「そうかもな……そのうち、剃っておかないと」
あいも変わらず、飽きもせず、冬優子は窓の外を眺め続けている。
よくもまぁ退屈せずに見ていられるものだ。
よくもまぁ、風景を楽しむ余裕があるものだ。
俺の気を知りもせず。
「……お昼、食べる?」
「いや、いい。今日は何処まで行くんだ?」
「そうね……」
どうせ『何処までもよ』と言うんだろう。
昨日までと同じ様に、先の事なんて一切考えない発言をするのだろう、と。
そう、思っていた。
「……海が見たいわ。夕焼けの海」
「……それじゃ、海の方に向かうか」
移動している間にも、時間は進む。
電車が海の近くの駅に着いた頃には、既に時刻は十六時を回っていた。
ここから少し歩いているうちに、海に着く頃には夕陽が見える頃合いだろう。
久し振りに、こうして自分の足で歩いている気がしてしまう。
電車で何処に向かうかも分からない決められたレールで運ばれるよりは、よっぽど良い。
「……潮の匂いがするわ」
「だな、もうかなり近いんじゃないか?」
風が少し肌寒い。
海が近い。
陽は駆け足に沈み、空をどんどん橙に染める。
大きすぎる雲の色を、少しずつ夕方に侵食する。
「…………着いたぞ」
「……うん、綺麗」
目の前に広がるのは、夕焼け色の海と空。
他に何もない、ただ単純に広い、けれど地上ではない世界が広がっている。
今でない時に見ていたら、きっと俺も綺麗だと思えただろう。
風は強い、お互いに何か喋っていただろうが、その半分以上は聞き取れなかった。
だからきっと、大した内容じゃなかったんだろう。
「……とっても綺麗ね」
冬優子の声は、なんだかやけに澄んで聞こえた。
迷いも不安も孕んでいない声だった。
やりきった、と言わんばかりの表情で、満足げに海の向こうに沈む太陽を浴びる。
「……ねぇ、あんたはどう思う?」
「……そうだな……すっごく綺麗だ、見れて良かった」
心にもない事だってサラッと言える。
俺はもしかしたら、こう言う時の為に社会で生きてきたのかもしれないとすら思えてしまう。
「……うん、満足したわ」
「……そっか」
「あんたと、この子と、三人で。この景色を見れて良かった」
「…………あぁ、俺もだ」
……終わりが、見えた。
ようやくこの絶望の渦から抜け出せそうだった。
一筋の光は、降ろされた蜘蛛の糸は、もう目の前だ。
「…………付き合ってくれてありがと」
「良いって、気にするな」
積もり積もった不安が、安堵に変わる。
正直膝から崩れ落ちそうだった。
ようやく、終わるのだ。
ゴールのない持久走で、俺はようやくリタイアする事を許された。
これで日常に戻れるなら、それで良い。
ここから後は、東京に帰るまで下手な発言をしなければ全てが丸く収まる。
いや、多少どころか甚大な被害と支障はあるが、それでも。
全てが終わるよりは、よっぽど良い。
「……ねぇ、貴方」
「……どうした改まって」
「…………ふゆと一緒にいられて、幸せだった?」
「あぁ、勿論だ」
だから俺は、笑顔で爽やかに嘘を吐ける。
今なら心を殺せる。
感情を殺せる。
心にもない嘘を迷わずに言える。
「なら……良かったわ。ふゆも、幸せだったから」
「……ごめんな、冬優子。またいつか、三人で来よう」
……どっと、疲れが押し寄せて来た。
ここから駅に戻るのも東京に戻るのも、かなり体力を振り絞らないと厳しそうだ。
ウイニングランにしては長い道のりだが、それでも来た時よりはよっぽどマシだと自分に言い聞かせる。
「……先に駅に戻ってて。ふゆ、もう少しだけこの景色を眺めてから行くわ」
「分かった、暗くなる前に駅に戻れよ」
付き合ってやりたいところだったが、此処では電波が来ない。
帰りの電車を調べる為に、俺は先に駅に戻る。
「……ねぇ、貴方!」
「どうしたー、冬優子!」
「…………ほんとうに、今までありがと!」
まるで青春みたいだな。
そんな風に笑いながら、俺は駅を目指す。
足取りは軽い、気分も悪くはない。
電車もまだこの時間なら残っているし、新幹線だって使える。
戻れるんだ、あの日常に。
終わるんだ、この地獄が。
「……はぁぁぁ……」
大きなため息も、悪い気はしない。
空は暗い。
風は強い。
けれど、悪くない。
だから、また俺は気付けなかった。
目の前を電車が数本通り過ぎる。
夜は深まる。
電車以外に物音は一切しない。
時計の短い針が、数字を二つ刻む。
けれど。
それから、冬優子が駅へと戻って来る事はなかった。
朝、眩しさと冷たい風で目を覚ます。
「……ん?」
どうやら俺は相当疲れていたのか、駅のホームで眠ってしまっていたようだった。
「冬優子……あれ?」
冬優子の姿はなかった。
そりゃそうだ、同棲している訳でもあるまいし。
ここ数日共に朝を迎えていたから、感覚が狂ってしまっていた。
そうだ、俺たちは逃避行をしていたんだ。
けれど、その旅も終わった。
ようやく俺たちは現実に戻れ……
「…………冬優子?」
……では何故、冬優子は居ないんだ?
昨夜冬優子と海辺で一旦別れてから、俺は駅で冬優子を待ってそのまま寝落ちしたのまでは分かる。
で、肝心の冬優子はどこへ行った?
先に帰ってしまったなんて事は無いだろう。
嫌な予感がする。
結局今日も、朝は吐き気から始まった。
ラインを確認する。
何か冬優子から連絡は来ていないだろうか。
冬優子からの新着のメッセージは一件。
それは、余りにも短過ぎる文章だった。
『ウソつき』
「冬優子……っ!」
駅を抜けて、再び俺は海へと向かう。
全力で走る、息が切れるのも汗をかくのも転ぶのも御構い無しに走る。
海へ向かう。
昨日、冬優子と二人で眺めた海へと……
ざざーん、ざざーん。
砂浜へ着いた。
誰も居ない、人の姿は一切ない砂浜だった。
居なければおかしい冬優子の姿は、そこにはなかった。
「おーい! 冬優子ーっ!」
叫ぶ、何度も、冬優子の名前を。
あいつはどこに行った?
隠れてるだけか?
どこか近くで寝ているのか?!
「冬優……っ?」
見つけてしまった。
見つけなければ、まだ希望はあったかもしれないのに。
波打ち際、砂と泥の混在する境界線の近くに。
冬優子の靴が、片方だけ置いてあった。
「っっ!」
駆け寄っても、何かある訳じゃないのに。
もう既に手遅れなんだと、頭では分かっているのに。
それでも俺は、立ち止まれなかった。
置かれた靴を通り過ぎて、濡れるのも御構い無しに、靴も履いたままに、俺は海へと飛び込む。
そんな事をしたって、もう見つかる訳もないのに。
「冬優子! おい! 冬優子ーー!」
何度も叫んだ。
海水が口に入り噎せながらも、冬優子の名前を叫んだ。
返事はない。
ただひたすらに、波の音だけが俺を嘲笑う。
「なんで……なんでだよ! おい! 戻れたじゃないか! やり直せたんだぞ! なのに……なんで……!」
体力が物凄い勢いで波に持っていかれ、もう立っているのもきつくなった。
なんとか砂浜まで這い上がったが、もう動く気力も立ち上がる元気も希望も無い。
「…………どうしてこんな……」
……あぁ、もう、いいや。
帰る気すら起きない。
どうでも良い。
今更何をしたって、全部無駄なんだ。
隣に置かれた冬優子の靴の方を見る。
きっと、きちんと揃えて置いたんだろうな。
あいつはあれでいて、育ちが良いから。
「……ん?」
靴の隣に、薄っすらと文字が見えた。
砂に描かれたその文字は、ギリギリとだが読み取れる。
波に消されてなかったのは奇跡と言えるくらい、ギリギリの位置に。
ーー幸せだったわ
「…………」
直ぐに戻って来なかったら読めなかったであろう、その文字を見て。
戻って来なかったらそもそも知らずに終わっていたであろう冬優子からのメッセージを読んで。
「……もう、いいか」
俺は再び、仰向けに倒れた。
身体が少しずつ、海水に浸される。
もう良いんだ。
全部、俺が悪かった。
高過ぎる空は、腹が立つくらい綺麗だ。
きっと冬優子だったら、『綺麗ね』って指差し、此方へと笑ってたんだろう。
……あぁ、そうだな。
今度はちゃんと三人で、この風景を見に来よう
以上です
お付き合い、ありがとうございました
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