トップアイドルの天海春香さん (39)
私は春香ちゃんに憧れた。
元々、特にアイドルが好きだったわけじゃない。
けど人並みにテレビを見ていれば、それなりにアイドルの顔は見ることになる。
CMで、歌番組で、バラエティ番組で。
ドラマや映画、SNS。
雑誌で特集が組まれたり、グラビア写真が載ってたり。
普通に生きていればアイドルをこれっぽっちも目にしないなんてことは無理。
だから私も普通に、あちこちでアイドルの顔を見かけて。
それで普通に、可愛いな、綺麗だな、なんて思いながら、
時々クラスでアイドルの話題が出ると、当たり障りのない感想を言いながら、
自分とは全く無関係の、有名人たちだなって。
そんなふうに毎日思ってた。
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でもそんな毎日の中で、いつもどおりテレビを見てたとき。
流行りの歌番組に一人のアイドルが出演してた。
あ、また765プロだ。
表示されたテロップを見て、私は心の中でそう呟いた。
少し前からテレビで多く見かけるようになって、名前を聞くようになったアイドル事務所。
そう言えば最近、日曜日に765プロの番組が始まったって聞いたこともある。
そして今画面に映っている子も、765プロのアイドル。
天海春香。
ああ……確か少し前にバラエティ番組で見た気もする。
でも歌ってるところは見たことが無いな。
そんなことをぼんやりと考えながら、司会者と話すその子を眺めていた。
そうこうするうちにその子の出番が来た。
席を立ってステージに向かう時、コケた。
……大丈夫かな。色んな意味で。
緊張してるのかな。
生放送なのに、ステージまで失敗しちゃったらちょっと見てられないよ。
別にファンじゃなくたって、相手が芸能人じゃなくたって、誰かが本番で失敗するところなんて見たくない。
そういうのを見ると、なんだかこっちまで恥ずかしくなるから。
私はそんな、他人事ながらも少しハラハラしたような気持ちで、その子のステージを見守った。
けど……そんな心配も何もかもが、次の瞬間にはどこかへ行った。
惹きつけられた。
曲が流れた瞬間のその子の笑顔に。
歌が始まった瞬間の声に。
動きの全てに。
目が、耳が……五感の全てが、その子に向く感覚。
いつの間にか私は笑顔になってた。
体がリズムに合わせて自然と動いてた。
けどそんなことにも気付かずに、私はテレビ画面に夢中になってた。
すごくすごく楽しくて。
あんなに楽しい気持ちになったのは、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。
あら、楽しそうね。
笑いながら母に言い当てられた私は、そのことを恥ずかしく思うこともなく一瞬だけ母に目を向けて、
見て! すごいの! すごく可愛い! 765プロ、春香ちゃん! すごく可愛い!
確かそんなふうなことを叫んで、また画面に夢中になった。
そして多分もうその時には思ってた。
私も、こんなふうになりたい。
春香ちゃんみたいになりたい、って。
それから私がアイドルの養成所に通うようになるまで、あまり時間はかからなかった。
両親からそこまで強く反対されなかったのは幸運だったかも知れない。
養成所のために部活もやめて、私はできるだけたくさんレッスンに通うようにした。
通い始めてすぐの頃は楽しかった。
初めてのことだらけで新鮮だったのもあるし、
何より「アイドルっぽいこと」をしているのが、私をドキドキさせてくれた。
それなりに大変ではあったけど、元々運動部だったから体力には自信があったし、
同じ養成所の子たちの中では多く練習していた方だと思う。
そして私は多分、才能があった。
歌もダンスもどんどん上達していった。
私より先に養成所に入った子たちにもすぐに追いついて、追い抜いた。
先生たちにも「才能がある」なんて褒められて。
だから私は「この調子なら思ったよりも早く春香ちゃんみたいになれるかも」なんて、
多分、調子に乗りながら、それでも毎日一生懸命レッスンに励んだ。
そんな日がしばらく続いて、私はデビューすることになった。
私が想像していたよりもずっと早かったこともあって、
ますます、「この調子なら」なんて思うようになった。
けどもちろん、そんなに簡単じゃなかった。
デビューしたはずなのに、私の生活はほとんど何も変わらなかった。
もちろん仕事はいくつかあった。
でもそのどれもが小さいものばかり。
CDも売れはした。
でも想像よりずっと少なかった。
「たとえ小さくたって、お仕事がもらえるだけでも嬉しい」
「たくさん売れなくたって、CDを買ってくれる人がいるだけでも嬉しい」
「多くなくたって、お客さんが来てくれるだけでも嬉しい」
そんなふうに思えるのも、長くは続かない。
その状況が繰り返し繰り返し続けば続くほど、嬉しさは薄れていった。
代わりに少しずつ増え始めた焦りや失望を、
「始めはみんなこんなものだよね」なんて言い聞かせながら誤魔化した。
でもそれも、いつまでも続くはずは無い。
そんな私を支えてくれたのが……毎日観る春香ちゃんの映像だった。
支えてくれた。
……そう言っていいのか、分からない。
始めは確かにそうだったと思う。
少し辛いことがあっても、春香ちゃんを観れば元気になれた。
「こんなことでへこたれない」
「もっと頑張って春香ちゃんみたいになるんだ」って、頑張れた。
けど……いつからだっただろう。
自分と春香ちゃんを比べ始めたのは。
『私と春香ちゃんの違いは何だろう』
『何が私に足りないんだろう』
『どうして春香ちゃんはこんなに人気なんだろう』
何度も観た。
録画した春香ちゃんの出演番組。
買ったライブの映像。
何度も観て、何度も観て、でもわからなかった。
私に何が足りないのか、わからなかった。
それで私は足りないものを探すために、春香ちゃんの歌とダンスを真似してみた。
春香ちゃんのソロ曲で、私の大好きな曲。
何度も観て何度も聴いたその曲。
同じ曲で比べたらきっとわかるはず。
私の歌なんて、ダンスなんて、春香ちゃんと比べたら全然駄目なはず。
そう思ってやってみた。
そしたら……。
出来た。
完璧に歌えて、完璧に踊れた。
何が違うのかわからなかった。
私とこの子の何が違うのか、全然わからなかった。
いや、それどころか……私の方が上手いんじゃないかとさえ思えた。
歌も。ダンスも。
この子より私の方が上。
そう思ってしまった。
私はそれを確かめたくて、録画した私の歌とダンスを友達に見せた。
それを見て友達は歓声と称賛の声をあげた。
「すごい」
「上手い」
そして……
「天海春香より上手いんじゃない?」
そう言った。
……やっぱりそうなんだ。
私の歌とダンスはあの子よりも上手いんだ。
それが証明されたんだ。
それに気付いてから、私のあの子を見る目は変わった。
どうしてあの子が。
歌もダンスも、そんなに上手いわけじゃないのに。
あんな普通の子がどうして。
私の方が上手なのに。
なのにあの子はトップアイドルで私はアイドル候補生に毛が生えた程度。
この差は何?
それからまた、何度もあの子の映像を観た。
でもそれはもう、私との違いを見つけるためじゃなくなっていた。
私と何も違わないことを確かめるため。
私の方が優れていることを確かめるため。
そのために何度も映像を観た。
そんなことをしてどうするつもりなのか。
きっと安心したかった。
自分を慰めたかった。
『私が売れていないのは、私のせいじゃない』
『全部運が悪いんだ』
『あんな普通の子が売れてるのがその証拠』
『歌もダンスも私の方が上なのに』
『なのにあの子の方が売れているのは、ただ運が良かったから』
そんなふうに、自分を慰めたかった。
トップアイドルの天海春香。
私は天海春香に憧れていた。
でもその感情は少しずつ、はっきりと変わった。
羨望は嫉妬に、憧憬は……憎悪に近くなった。
どうしてあんな普通の子があんなに売れているの?
歌もダンスも、もちろん下手なわけじゃない。
どちらかと言うと上手い方だとは思う。
でもあの子より歌が上手いアイドルはたくさん居る。
ダンスが上手いアイドルだってたくさん居る。
なのにそのほとんどは天海春香より売れてない。
私だってそうだ。
歌もダンスも上手いのに、どうして私は売れないの?
あんな普通の子が売れてるのに。
どうして私は売れないの?
もしかしたら天海春香は裏で何か……。
半ば本気でそんなことまで考えそうにもなった。
ただ、そんなことを考えそうになる自分が嫌になる程度には、まだ私の良識は残っていた。
でもいっそそんな良識も無くしてしまえた方が、寧ろ楽だったかも知れない。
それなら自己嫌悪に陥ることなんて無くなるのだから。
その頃には私はもう、天海春香の映像を観なくなった。
観たら嫌な気持ちになるから。
僻んで、妬んで、自己嫌悪に陥るのが嫌だから。
録画データを消してしまおうか。
ディスクを捨ててしまおうか。
そう思ったのももちろん一度や二度のことじゃない。
けどそこまで思い切ることも、なんとなくできなかった。
時々、私の家にアイドル好きの友達たちが遊びに来た。
それは私にとって辛い時間だった。
だってその子たちはみんな765プロのファンだったから。
だから遊びに来るたびに天海春香の映像を観たがった。
断る理由を上手く思い付けない私は、どうしても一緒に観ざるを得なかった。
やっぱり春香ちゃんすごいよね。
可愛いよね。
すごいよね。
口々に天海春香への称賛を叫ぶ友達たち。
私はそれを聞くたびに内臓をじわりと握られるような不快感を覚えた。
すごい? どこが? 別に普通じゃん。
私の方が歌は上手いよ。ダンスも上手いよ。
そんな言葉がお腹の中で暴れる気持ち悪さを堪えて、
笑いながらみんなの称賛を復唱するしかなかった。
そんな毎日がどれだけ続いただろう。
「その日」は突然やってきた。
いつも通りレッスンのために事務所に行くと、事務員さんが話しかけてきた。
近々開かれるいくつかのオーディションの中にお勧めできそうなものがあった、って。
特定のオーディションを勧められるのはずいぶん久しぶりのことだった。
きっと大きなチャンスが回ってきたに違いない。
そう思って、私はこれもまたずいぶん久しぶりに、期待を持って続きを促した。
そして事務員さんから手渡された紙を受け取った私の目に真っ先に飛び込んできた文字が、心臓を跳ねさせた。
天海春香。
ミュージックビデオ。
ダンサー募集。
天海春香さんのこと、好きだったよね?
そう言って優しく笑う事務員さんに、私は気の抜けたような返事をすることしかできなかった。
事務員さんの目にはきっと、嬉しさのあまり言葉を失っているように見えただろう。
けどそれはまったくの的外れというわけでもなかった。
チャンスだ、と思った。
天海春香のすぐ近くで踊ることができる。
そうなればきっと、誰かが気付いてくれる。
天海春香よりも私の方が実力があるんだって。
「トップアイドル天海春香」のミュージックビデオ撮影だ。
現場にはきっと、芸能界にそれなりに影響力のある人の一人や二人は居るはず。
その人たちに私の実力を見せるチャンスだ。
そう思った。
ぜひやらせてください。
私はその場ですぐに返事をして、レッスンに向かった。
その日からのレッスンはいつも以上に気合が入った。
せっかく舞い込んできたチャンスだ。
まずはそれを生かす場に立たなくてはならない。
そのために、絶対にオーディションに合格しなければ。
オーディションに行くと、たくさんの希望者が集まっていた。
それはそうだ。
なんせ「あの天海春香」のダンサーになれるチャンスなのだから。
集まっていたのは、やはり彼女のファンが大半のようだった。
聞こえてくる会話からそのことはすぐに分かった。
ファンの気分でオーディションを受けるつもりなの?
浮ついてる。
それ以外にも、「天海春香と共演した新人は売れるらしいよ」なんて噂を囁き合ってる子達も居た。
「オーディションに受かったら仲良くならなきゃ」なんて言い合ってた。
トップアイドルとのコネを作るためにオーディションを受けるつもり?
なんて不純。
私は違う。
天海春香との共演を能天気に喜んだりはしない。
コネを作って売れようなんて思わない。
実力を証明するんだ。
天海春香よりもすごいアイドルが居るんだって、見せつけてやるんだ。
私は他の誰よりも気合を入れてオーディションに臨んだ。
そして、合格した。
当然だ。
気持ちだって、実力だって、私は他の誰にも負けてなかった。
私以外にも何人か合格者は居るけど、その子達にだってもちろん負けてない。
とにかく、こうして私はバックダンサーとして天海春香のミュージックビデオに出演することが決まった。
それからは、合格者が集まってのレッスンが何度かあった。
やっぱりレッスンのレベルは高かったけど、私は十分付いていけた。
けど他の子達も当然合格しただけあってレベルは高く、遅れる子も弱音を吐く子も居なかった。
少なくともオーディションの時のような浮ついた雰囲気はない。
毎回のレッスンの時間、ピリッとした緊張感がずっと続いていた。
私はそれを居心地が悪いとは思わなかったし、特に良いとも思わなかった。
トップアイドルのバックダンサーを務めるとなるとこのくらいの緊張感は当然なんだろう、
そんなふうに思っていた。
ただ、その雰囲気も最後までは続かなかった。
何日目かのレッスンの日に、天海春香が来たんだ。
今日は天海さんが見学に来てくださいました。
そう言ったレッスンの先生の隣に立っていたのは、紛れもなく天海春香だった。
何度も画面越しに見た、「トップアイドル」。
「本当はもっと早く挨拶に来なきゃいけなかったんですけど、なかなか予定が合わなくって……」
彼女がそんなふうに挨拶をしている時にはまだ、寧ろ今までで一番の緊張感が私たちの間には流れていたと思う。
けれどそのあと、レッスンを再開させようとした先生に彼女は、
「あの、私今日はあんまり長くは居られなくて。
だから、みんなのこともっとよく知るために、一緒にお喋りできたらなって思うんですけど……」
申し訳なさそうに、そう言った。
その様子に先生を含めたみんなが意表を突かれたような顔をした。
そうして結局、その日は天海春香が居られる時間は「お喋り」をすることになった。
レッスンルームの外の椅子にみんなで座って。
彼女が持ってきた手作りのお菓子を食べながら。
みんなの表情に、トップアイドルを相手にするぎこちなさがあったのは初めだけ。
徐々に、いつの間にか、みんな打ち解けていった。
まるで学校の仲良しの先輩を相手にするみたいに。
にこやかに、にぎやかに、他愛もないことを話し始めた。
私はその様子を一歩引いた位置から、多分怪訝な表情で眺めていた。
その輪の中に入る気にはなれなかった。
だって、「普通」だったから。
録画した番組を見ていた時と同じだ。
天海春香は、トップアイドルだとは思えないくらいにあまりにも「普通」だった。
オーラなんて何にもない。
ただの普通の女子高生だ。
それが魅力だという人も居る。
親しみやすさが人気の理由だなんて言う人も居る。
けどやっぱり、彼女の「普通さ」は私を不快にした。
どうしてこの人が。
こんなに普通なのに。
どうしてあんなに売れてるんだ。
私と何が違うんだ。
普通じゃないか。
全然普通じゃないか。
なのにどうして……。
そんな私の視線に気付いたか、それとも偶然か、不意に彼女はこちらを振り返った。
そして何か言おうとしたけれど、その直前。
「春香、もう時間だけど」
廊下の角から出てきた男の人が、彼女の言葉を遮った。
彼女は時計を見て、慌てた様子で周りの子達に別れの挨拶をかけて、それから足早に去っていった。
その日から、レッスンの雰囲気が変わった。
もちろんみんなそれまで通り真剣に取り組んではいたけれど、空気がどこか穏やかになった。
それまでには誰かが失敗して曲が止まるとピリッとした空気になることも多かった。
ため息が聞こえることもあった。
けど今は、みんな笑って、「ドンマイ」なんて声をかけたりして。
ミスをした子も、「ごめんね」なんて申し訳なさそうに笑ったりして。
なんて単純なんだろう。
「トップアイドル天海春香」が、自分たちが思っていたよりも優しくて親しみやすかったから。
テレビで見られる、世間が持つイメージそのままの天海春香だったから。
ただそれだけの理由でここまで気持ちが変わるなんて。
その雰囲気自体には、私は特に思う所はなかった。
生温いだとか、もっと真剣にやるべきだとか、そんなことを言うつもりはない。
ただ、不快だった。
天海春香の「普通さ」を、みんなが肯定的に見ているということ。
あんな普通の子が売れているという現実に、誰一人疑問を持っていないということ。
まるでそんなことを気にする私だけが異常者であるかのような。
それが私を不快にした。
それから時々、天海春香はレッスンを見に来た。
そのたびに私は不快な気持ちになった。
それを態度に出さないために余計に体力を使っているように思えて、気が滅入った。
ただやはり彼女は忙しいようで、レッスンへの参加時間も回数もあまり多くなかったことはありがたかった。
私は天海春香が来るたびに、早く帰ってくれることを願いながらレッスンを続けていた。
けど、一度だけ何かおかしな日があった。
その日は彼女が比較的長くレッスンに参加できた日で、一度だけ全員でダンスを合わせてみた。
私はもう、そのダンスは完璧に覚えていた。
自然と体が動く程度には。
だから、「踊りながら天海春香を観察してやろう」なんて、そんなことを考えた。
そんなことをしても不快になるだけだと知ってるくせに、
私はまた彼女が「普通」で「たいしたことない」のを確認しようとしていた。
けど、その日は何かおかしかった。
曲が終わった後……私は、何も覚えていなかった。
覚えていることもある。
私は完璧に踊れていた。
私以外のみんなも。
天海春香も含めて、一切のミスなく最後までやり通した。
それは覚えている。
けど、私が確かめてやるつもりだったことは何も覚えていなかった。
天海春香はどうだった?
やっぱり普通だった……気がする。
たいしたことなかった……多分。
なんとか思い出そうとしても、ただぼんやりと、「気がする」「多分」のイメージだけを残して、
モヤがかかったような天海春香の姿しか思い出せない。
ただ、他の子達の顔はどういうわけかはっきりと思い出せる。
みんな笑顔。
今まで見たことのないような笑顔で踊っていた。
それなのに肝心の天海春香のことだけは、どうしても思い出せなかった。
結局、彼女を含めた全員で踊ったのはその日だけ。
けど他のみんな曰く、完璧にできていたらしい。
それは私が覚えていた通りで少し安心した。
それから数日後に、撮影の日を迎えた。
私たちは少し早めに現場について、各々段取りを確認したり、ダンスの確認をしたりしていた。
私も段取りを確認しながら、ちらちらと周りの様子をうかがっていた。
やっぱり、居る。
あの人確か、有名な音楽プロデューサー。
あっちの人たちの会話からは、有名なレコード会社の名前がいくつも聞こえてきた。
その他にも、多分何人か。
私が実力を見せたいと思ってた、芸能界に影響力のありそうな人たちがここには居る。
それもあってか、失敗できないという緊張感がスタッフさん達から伝わってくる。
さすがは「トップアイドル」の現場だ。
と、現場に明るい声が聞こえたのはその時だった。
「おはようございまーす! 765プロの天海春香です! 今日はよろしくお願いします!」
やっぱり、というのが感想だった。
その明るい声で、一気に現場の空気が変わった。
さっきまで眉根を寄せていたスタッフさん達の表情が崩れる。
そんなスタッフさん達一人ひとりに、彼女は笑顔で丁寧に挨拶をして回っていった。
もちろん、私たちのところにも。
「みんな、今日はよろしくね! 一緒にがんばろうね!」
気合を入れるような明るい笑顔で、ぐっと拳を握ってみせる。
それを見てみんなもぱっと顔を輝かせて、「はい!」なんて元気に返事をする。
もう驚きもしない。
「こういう人」なんだっていうのはもう知ってたから。
それに……やっぱりこういうのが売れる秘訣なんだろうな。
こうやって現場の人たちからの印象を良くするのが売れる秘訣……。
ああ、まただ。
また自己嫌悪。
余計なことを考えるのはやめよう。
もうすぐ本番なんだ。集中しないと。
私は今日、実力を見せないといけないんだから。
そうしてミュージックビデオの撮影が始まった。
カットごとに、まずはダンサーだけのシーンから。
私が映るカットもいくつか。
短いけどダンスも。
レッスンと違い、人がたくさん居てカメラもあるけど、大丈夫。
レッスン通りにやれてる。
本番を意識してそのくらいの緊張感を持ってやってきたから大丈夫。
もちろん多少は緊張してるけど、でも問題ない。
私が映るところ、映らないところ、いくつかのカットを取り終わって、
いよいよ全員でのダンスのカットを撮る段階まで来た。
レッスンで一度だけ合わせたあのダンスだ。
結局、あの時の天海春香の姿は思い出せないまま。
でももうそんなことはどうでもいい。
今日も彼女の様子を撮影も含めて見ていたけれど、やっぱり私の印象は変わらなかったから。
今日はもう、これ以上天海春香を観察しようだなんて思わない。
そんなことより、私だ。
私の実力を、ここに居る全員に見せる。
そのことだけを考えよう。
立ち位置に付く。
天海春香の斜め後ろ。
いよいよ始まる。
大丈夫、集中してる。
私の全部を出し切るんだ。
手にしたチャンスを絶対に無駄にしない!
そして曲が流れ始めた……その時。
その時のことを、私は絶対に忘れない。
私は自分自身に全神経を集中していたはずだった。
自分を見せる、ただそれだけを考えているはずだった。
目はまっすぐに前を見据えていたはずだった。
なのに、その瞬間。
まったくの無意識に私の目は斜めに動いて……。
その先にあったもの。
私の目に映ったもの。
本当に……本当に楽しそうな、笑顔だった。
それはレッスンのとき、あれだけ思い出そうとしても思い出せなかったこと。
見ていたはずなのに思い出せなかった、彼女の顔。
これだったんだ。
そこからのこと、全部覚えてる。
彼女が振り返って、私に向かってにっこりと笑った。
周りのみんなにも笑いかけた。
みんなもつられるように笑顔を返した。
そしてそれは……私もだった。
跳ねるような歌。
スキップするようなダンス。
まるで小さな女の子が、大好きな友達と一緒に遊んでいるみたいな。
楽しそうに……いや、違う。
「楽しそうに」歌って踊るアイドルはたくさん居る。
私にだってできる。
でも違う。
この人は……楽しいんだ。
楽しく歌って、楽しく踊ってる。
大好きなんだ。
何が?
わからない。
けど、わかる。
とにかく大好きな気持ちが、楽しい気持ちが、はっきりとわかる。
ああ、そうか。
だからだ。
だからみんな、こんなに笑ってるんだ。
みんな、楽しいんだ。
ああ……そうか。
だから、こんなに……。
……その時のこと、全部、覚えてる。
終わった今でも。
この気持ち。
私は、さっきの……。
「お疲れ様!」
声だけでも笑顔がわかる、そんな声が後ろから聞こえた。
私が振り返る前に、ぴょこんと顔を覗き込むように、彼女が前に回り込んできた。
お疲れ様です。
なんとかそう返すと、彼女はにっこり笑って、
「えへへっ、実はちょっと心配してたんだ。〇〇ちゃん、レッスンの時あんまり元気なさそうだったから。
でもよかった、今日は楽しんでくれたみたいで!」
……え?
全くの想定の外の言葉に、私が返せたのは、一言にも満たない一文字だけ。
そんな私に、彼女は少し慌てた様子を見せた。
「あ、あれっ? もしかして、私の勘違いだったかな?
じ、実はあんまり、楽しめてなかったー、とか……?」
それに対し、今度は私が少し慌ててしまう。
そう、私が驚いたのは、そんなことじゃなくて、彼女が私の名前を知っていたこと。
レッスン中の私の様子を見ていたことだった。
それを告げると、彼女は安心したように息を吐いて、また笑った。
「もちろん、覚えてるよ! だって一緒にお仕事してくれる子達だもん!
特に〇〇ちゃん、すっごく一生懸命だったから。それに、私も負けてられないなって頑張れたんだ!
もし〇〇ちゃんが居なかったら、今日の私、結構失敗しちゃってたかも、なんて……」
そう言って、バツが悪そうに頭をかく。
そして私が何か言う前に、
「それにね、その……。プロフィールに、私のファンだ、って書いてくれてたから。
だから嬉しくて覚えちゃった、っていうのもあるかも」
顔を赤らめて、照れくさそうに笑った。
……普通だ。
自分のファンが居ることに嬉しそうに笑う。
トップアイドルだとは思えない、まるで新人アイドルみたいな、「普通」の反応。
でももうその普通さは、私を不快にはしなかった。
だって今になって、今更になって、やっと気付いたから。
これは、本当はあり得ないことなんだって。
日本中に、あるいは世界にも、何人いるかも分からないファンを抱えて。
連日のようにテレビに出て。
考えられないほどCDやグッズが売れて。
そんな毎日を過ごしているのに、「普通」で居られるはずがない。
なのにこの人は、「普通」なんだ。
普通の女の子みたいに失敗して。
普通の女の子みたいに笑って。
きっと泣いて、怒って。
ただ一人のファンが居ることに、こんなふうに照れたりして。
そして私は……そんな、この人の、ファンだった。
そうだ……。
確かに私のプロフィールには、そう書いてある。
今の事務所に入る時に書いたプロフィールだ。
「好きな芸能人」みたいな項目があって、そこに私は彼女の名前を書いたんだ。
それも、確か「!」マークとか、キラキラマーク、ハートマークなんかも加えていた気がする。
そう……私は、憧れていた。
今目の前に居るこの人に憧れていた。
そう。
私は、この人みたいになりたかった。
この人みたいに……。
ああ、そう、そうだ、そうじゃないか。
思い出した。
すっかり忘れていたけど、今やっと、思い出した。
私は、私は、この人みたいになりたかったんだ。
歌が上手くなりたかったんじゃない。
ダンスが上手くなりたかったんじゃない。
私が憧れたのは、私が憧れたアイドルは……。
見てるだけで楽しくなる、そんなアイドルだった……!
全部思い出した。
そうだ、そうだよ。
楽しかったんだ。
レッスンで一緒に踊った時も、さっき一緒に踊った時も。
初めて春香ちゃんの歌を聴いて、ダンスを観た時も!
それがいつの間にか、もっと上手く歌わなきゃって。
上手く踊らなきゃ、って。
そんなことばっかり考えて。
確かにそれも大事。
でも一番大事なことを忘れてた。
春香ちゃんより歌が上手いアイドルは居た。
春香ちゃんよりダンスが上手いアイドルも居た。
でも私をあんなに楽しい気持ちにさせてくれたのは、春香ちゃんの歌とダンスだけだったじゃないか……!
私はそんな……春香ちゃんみたいな!
みんなを楽しませるアイドルになりたかったんだ……!
……そこから先のことは、実はよく覚えてない。
覚えてるのは、その場で泣き出してしまったこと。
そんな私を慌てて慰めてくれた人が居たこと。
その人が手作りのクッキーとメッセージカードを渡してくれたこと。
クッキーは食べてしまうのがもったいなくてしばらく取っておいた。
でも、傷むから早く食べなさいと母に言われて、一つ一つ味わって食べた。
食べながら、美味しくて嬉しくてまた泣いてしまった。
メッセージカードは机の引き出しの中に大事にしまってある。
今でもレッスンや仕事で疲れた時なんかに読み返す。
あの仕事以降、私は急に仕事が増えた。
オーディションに合格することも多くなった。
私を選んでもらえた理由、教えてもらえたものは全部共通してた。
『楽しそうな笑顔』
天海春香と共演した新人は仕事が増える……なんて噂は、もしかしたら本当だったのかも知れない。
きっとみんな、思い出したり、気付いたりできたんだ。
あの時の、私みたいに。
あれからまた、私の持っているライブ映像は増えた。
今も増えてるし、きっとこれからも増える。
友達が遊びに来ると、やっぱり観賞会が始まる。
やっぱり春香ちゃんすごいよね。
可愛いよね。
すごいよね。
似たような言葉で毎回のように繰り返される称賛の言葉。
もう何度目か分からないけど、でも少しも嫌じゃない。
そうでしょ!
ほら、ここもすごいよ!
次もすごいんだよ!
なぜだか誇らしげに、そんなことを言ったりして。
でも仕方ない。
大好きな人を褒められて、嬉しくならないはずがないもの。
トップアイドルの天海春香さん。
私は春香さんに憧れている。
これで終わりです。
天海春香さん誕生日おめでとうございます!
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