【モバマス】桃華「外道の華」 (29)

お久しぶりです。はじめまして。

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 ──ひどい雨は情けというものを持っていない。

 しずくのひとつごと、体温が抜け落ちてゆくような感覚だった。やたらにかちかちと耳の奥がうるせえなと思ったら、おれの口が震えて上下の歯をしきりに打ち付けている。

 どこまで逃げればいいだろう。

 あるいは、どこまで行っても、もはやおれに良き場所など残っていないのかもしれない。

 それでもほんのわずか可能性があるならばと、おれは両脚を動かした。

 僥倖を頼むしかなかった。それが神がもたらすものでも、悪魔が差し出すものであったとしても。

 灰に埋もれたような色の空で、走る稲光は避雷針に寄せられる。

 おれが向いていた方角に古びた尖塔があった。たしかあれは、もうずいぶん前に打ち捨てられた教会だったか。

 閃光ののち、轟音。思わず目を伏せる。

 壊れてしまうのではないかと思ったが、廃墟は依然としてそびえてあった。おれは疲弊に崩壊しそうな体を引きずって、その中へ転がり込むことにした。

 美しかったのだろう木製扉の意匠は風雨にこそぎ取られ、見るに耐えなかった。内部へ入ると、馬の駆け足みたくうるさい雨音に混ざって、なにか小さな生き物が息をひそめる気配がした。

 おそらく、おれのような不信心の来訪者はこれまでにもあったのだろう。内部は靴跡のかたちに残る泥土や、そこかしこになされた落書きがいかにも汚かった。

 さいわいにして雨漏りはないらしい。それだけでも救われた気分になる。祭壇にパンとぶどう酒でも供えてあればなおよかったが、欲をかきすぎるといけない。

 比較的きれいな会衆席のひとつに身体を預ける。

 いまは寝よう。どうか雨の上がった頃に起こしてくれ、我らがあるじさまよ。

 たわむれに祈るように目を閉じると、耳ばかりが澄んでくる。

 明け方までに、この雨は止むだろうか。

 おれの人生は、あやまちの多いものだった。そうなることを望んだわけではないが、おれの選択こそがおれの人生を決定している以上、そこにおれが不満をつけるのはお門違いだということはわかっている。

 すべてはおれが悪く、おれの責任なのだ。

 思えばはじまりのあやまちは、十四つの頃合いに好奇心から煙草に手を出したことだったろう。おれはわかりやすく不良品の札を貼られ、胡麻にたかる蝿みたいなやつらとばかりつるむようになり、葉っぱを愛好して、腕には墨まで入れた。ひとつどこかでつまずくと、転がり落ちるのは自然で、なにより楽だったのだ。

 そんな無頼漢のおれが世間様に胸を張れる仕事になどそうそうつけるわけもなく、享楽を貪るまま、おれはくだらない生計の立て方をするようになった。

 楽な方へ、楽な方へと流れてきたおれだったが、あいにくとこれより先、偽りの楽土への水路はせき止められている。傍に逸れ、汚水に揉まれ──たどり着く地はなんの掃き溜めだろう。

 雨音の間隙、ローズウッド材の軋む音に覚醒した。体の気だるさと意識の混迷ぐあいから、睡眠は量も質も到底足りていないことがわかる。

 それでも、こんな人を寄せない空間にだれぞが来たかもしれないというならば、起きないわけにはいかなかった。

 扉の開閉音と、床板の圧される音。したのは入り口の方だ。

 荒天の暮れには人工灯が欲しくなる。薄闇に目をすがめたが、その姿の輪郭をつかむのには時間がかかった。それも、かかりすぎた。

「……どなたか、いらっしゃるんですの?」

 おれよりも早く、向こうがこちらの存在をつかんだのだ。

 美しい愛嬌を多分に含んだ声だった。まだ幼いのだろう、澄んだ高音には濁りというものが感じられない。

 おれはなにも応えられなかった。

 遅れに遅れて馴染む目が、そのシルエットの具体性を彫ってゆく。背が低く、髪は肩口より長い。女性というよりは、少女だった。かなり明るめの髪色をしていて、衣服にはひらついた装飾が見える。

 少女はおれの方へ歩いてくる。

「待て。止まれ」

 そう言ったが、少女の歩みにはいくらかのもたつきも生まれなかった。

 おれのふところには刃渡り四インチのナイフがあった。おれは柄を握ると、いつもハーブを嗅いだときのようにすうっと頭が冴えて、凪いだ心地になる。

 少女の手がおれにしとやかに触れた。切り落としてやろうと思ったのだ。しかし、

「──まあ!」

 おれが銀の刃を振るう前に少女が声を上げた。それがとびきり調子外れで、思わず手は止まる。

「アナタ、怪我をしていますの?」

 彼女の手と、その高価そうな縫製のシルクの袖が、赤く濡れている。血にまみれたおれの肩から伝ったのだろう。

 彼女はたいそう慌てた様相になって、まずはおれに質感の良いハンカチを差し出した。

「こ、これを使ってくださいな。ええと、あとは、あとは……」

 それからまもなく入口の方へ駆け出して、途中に一度だけ振り返り、おれに向けて叫んだ。

「少しだけ待っていてくださいませ!」

 ──あとから考えれば、自分のことだけを想うならば、おれはその場であの子を止めておくべきだった。止めて、口を塞ぐべきだったのだが、そのときのおれは少女の振る舞いにすっかり腑抜けてしまって、また傷の痛みには耐えかねるものもあって、走ってゆく背中をただ見送ってしまったのだ。

 少女はすぐに戻ってきた。ビニール袋を胸に抱えていて、見るとコンビニエンス・ストアのロゴマークが印字されている。

 少女はおれの元へ寄ってきて、袋の中身をひっくり返した。包帯、止血帯、消毒液、絆創膏──まっさらな治療道具がとりどり出てくる。

 しかし、その使い方には馴染んでいないようだった。少女はあからさまに困った顔でパッケージの裏面に目を走らせている。

「いい」とおれは言った。「……帰れ。そして、二度と来るな」

「で、ですけど」

「帰れとおれは言っている」

 おれの声は今日の空色よりも淀んでいる。淀ませたまま繰り返し言うと、少女のつま先はしっかり押し返された。

 少女は、扉が閉まりきるその瞬間まで、おれの方を気にして振り返り振り返り、出て行った。慮る翠色の眼光。明るいと思った髪の色はまさしく、陽光の照りを借りたようだった。

 少女はおれの元に、「よろしければ」とビニール袋を置いて行った。がさがさと中をいらうと、商品の隙間にレシートを見つける。

 コンビニは利便な代わりに品物がやや高い。これだけ色々と買い込めば、値段はバカになっていなかった。沢田という店員はひどく困惑したことだろう。

 おれは包帯を手に取った。この体を見て小指ほどの大きさの傷バンなども買ってきたあたり、彼女は相当慌てていたか、相当抜けているかどちらかだ。

 不思議な少女だった。親切に対し、ひどい不義理をした。傷口の上できつく結び目を作ると、鋭い痛みと鈍い痛みが交互に叫ぶ。

 雨音は依然として教会の中に降り積もっている。空間に溜まった雨の響きが、いたずらにおれの痛みを増長させた。

 体が重い。服が濡れているせいだろうか。そういえば、少女もおれと同じく濡れ鼠だった。

 風邪など患わなければ良いが──もちろんおれが。そう思った。

 明け方過ぎに目を覚ました。

 嵐はどうやら去ったらしく、おれは窓を越して陽の光を見た。うすら緑色の遠い山から、硝子の破片を散らしたようなきらめきが届いている。

 思い出したかのように腹が悲鳴を上げた。ほとんど同時に、思い出したかのように身体中の傷が痛んだ。再び椅子にもたれてかかると、視界の端には女神がいた。

 昨日には気づけなかった、壁面に巨きなステンドグラスがあった。汚い内装にあって、それだけはなんの汚れも得ず、七色に美しいままだった。不心得者どもも、手を出さなかったらしい。そのことに納得できるくらい朝に映えた女神は綺麗だった。

 おれは彼女から隠れるようにして包帯を替え、それから二階の牧師室を荒らして、おそらくはかつて牧師が着ていたのだろう平服を見つけた。古ぼけたカビのにおいがあったが、鉄臭く朱いしずくが染みたおれの服よりはましに違いなかった。

 財布の中は侘しさだけが溢れていた。ろくなものも買えないが、ろくでもないものぐらいは買うことができる。儚い思いごとズボンのポケットにねじ込んで、階段を降りた。

 一階に降りてみて、おれは息をすることも忘れるくらい驚くことになる。

 ──硝子の女神に祈りを捧げる姿があった。その光景の清らかさがおれの呼吸を止めてみせた。まるで予期もしていなかったために、無防備だったおれの精神はやみくもに動揺させられてしまった。

 呆けたおれを少女の翠色が見た。

「おはようございます」と少女は言った。「ご機嫌はいかがでしょう?」

「おまえ……二度と来るなと言ったろう」

「だって、心配だったんです」

 少女は、今回は褐色の紙袋を抱えていた。そっとおれの方へ差し出してくる。怪訝な視線だけでその内容を問うと、少女は「パンですわ」と応えた。

「焼きたてのものが売っていましたので。あの、どうぞ」

 正直なところ混乱していた。いったいこの子は、なんなのだろう。あらぬ疑いを心中で持て余したりもしたが、結局はおれは紙袋を受け取った。開封してすぐ目に付いたブリオッシュを少女に放る。

「……まずはおまえが食ってくれ」

 そう言うと、少女は小首を傾げて指でパンをちぎり、小さな口へ丁寧に運んだ。

 その様子を見届けてから、おれは彼女と同じくブリオッシュにかぶりついた。まだたおやかな温熱を包んだそれが空きっ腹に無性に旨くて、おれは飲むように食べてしまった。

 結構な分量が瞬く間に失くなった。ひと心地をつけたおれを見て少女が笑う。

「よっぽどお腹が空いていたんですね。お口に合いましたか」

「うん、……ご馳走になった」

 やや迷ったが、率直に応じることにした。少なからずおれの空虚な心にも、施しを受けた事実に感じるものが生まれていたのかもしれない。

 不躾もいとわず、おれは少女をまじまじ観察する。この娘はなんの意図を隠しておれに近づいているのだろう。ロリータ趣味な新手の美人局だろうか。おれの思考回路は恒常的に下衆な仕組みをしていた。

 少女はおれの視線に気づき、居心地の悪そうに自身の金髪を手ぐしで梳いた。

「おまえはいったい」とおれは言った。「どうしてこんなことをしている?」

「困っている人を助けるのは、自然なことではありませんか?」

 少女はさも当然といったふうに応えた。

「なにか企みがあるんじゃないのか」

「企みなんて。ありませんわ」

「あとで金を求められても、ない袖は振れんぞ」

「そ、そんなこといたしませんっ」

 長い間を意地の汚い人間に囲まれて生きていると、ひとが腹の底に潜めてある悪意や害意にやたら敏感になる。それは汚水をすすってでも生きてゆくための進化のたまものだ。

 そんな哀しくも鋭敏な網のような意識を、ちょっと拗ねたように口を尖らせる少女がごく単純にすり抜けてみせた。

 少女はおれに「モモ」と名乗った。おそらくは偽名か、それに準ずるものなのだろう。

 食事の残渣を手早くまとめると、昨夜の嵐のことや今日の好天のことなど二、三の言葉を交わした。それから、モモはほとんどすぐさま立ち上がって服の埃を払った。

 おれにはモモの心中、その機微がまったく理解できなかったが、彼女はその日以降もたびたび、廃教会にやってきた。毎度なにかしらの手土産を持って、誤解を恐れず言うなら、おれに会うために。

 人目を避けた場所で体を休めたいおれにとって、モモの存在はひたすらにありがたいものに違いなかった。幼い少女に命を繋がれている大の大人という、その事実に思うところがひとつもなかったと言えば嘘になるが、そうかといってひととしての誇りを胸に背筋を伸ばせるほど、おれはしなやかな人間ではなかった。

 モモは齢としてはまだ幼さがあったが、馬鹿ではなく、年齢に比して聡明だった。おれは情けなく阿呆な割に長々と生きて、世の道理にだけはそこそこ通じていた。要するに、おれとモモはうまい具合にデコとボコが噛み合い、相対の結果として安らぎを得られた。向こうがどう思っていたのかは定かでないが、おれにとっては、そうだった。

 珠のように整ったモモの容姿も相まって、おれは彼女を尋常ならざる高貴ななにものかではないかと思ったこともある。傷を負った男が美しい少女に救いの手を差し伸べられ、錆の浮いた教会にひっそりと息づいている──その異常な状況が、とてつもなくメルヘンな考えを構築した。

 ぞっとするほど平穏に過ぎる、甘やかな日々だった。

 壊したのは、あくまで外道であったおれ自身だ。

 モモと出会い、二度目の日曜日を迎えた日の昼だった。彼女が持ってきてくれた惣菜を腹に詰め、お定まりの謝辞を告げると、モモが言った。

「いくぶんお元気になられましたわね」

「……そうだな。おかげさま、か?」

「ふふっ、どういたしまして」

 彼女の笑い方はいつも上品で、風が揺れたような音を口で鳴らす。

「今日は暖かいですわね。空も穏やかで……来る途中、野ばらが咲いていましたわ」

「こんなところにも、ばらが咲いているのか」

「ばらと言っても、野ばらですわよ?」

「ばらはばらだろう」

「ええと……まあ、バラ科はバラ科なのですけど」

 モモはビジューをあしらったポーチから携帯端末を取り出し、さらさらと画面を操作すると、おれの方へ向ける。

「これが野ばらですわ」

「……これはばらには見えんな」

「でしょう」

 真っ白い簡素な五弁花は、おれの思う大げさな形の真紅からはほど遠かった。

 落葉性のつる性低木は、全国的に広い分布を持ち、ばらの接ぎ木の台木として利用されることがある。その名にふさわしく棘を持つため雑草としては嫌われる。刈り取っても根元から萌芽し、根絶は難しい──そこまでウェブページを読んだところで、スクリーンが暗転する。電子音が鳴った。

「あっ。すみません」

 モモの端末が通話の着信を報せたようだった。見るつもりはなかったが、発信者の名が目に入る。どうやら連絡先はきっちりと姓名で登録する性分らしい。

 モモは会話が漏れないようにと席を外した。しばらくして戻って来ると、不満げに言った。

「早く帰って来るように、というお電話でしたわ」

「そうか。じゃあ、今日はもう帰るんだな」

「ええ、……過保護なんですの」

 過保護を受けているらしい。まだ昼の日は高かった。

 おれは入り口の扉にもたれて彼女を見送って、木立の小道を歩いて行く可憐な足取りが見えなくなるまで、そうしていた。

 教会は──女神は、朝と夜とで顔を変える。日中は優しくあたたかいが、電気が通っていないせいで、宵が深くなるたび冷たさは鋭く研がれてゆく。月の白光を濾すステンドグラスは妖しさを持って輝いて、初夏までの尚早を教えている。

 傷跡をそうっと抑えた。沁みる痛みは涙のように、ずっと体に染み込んでいる。

 いつまでもこうしているわけにはいかない。

 おれは口の中で、モモ、と呟いた。応急処置の道具を、日々の食事を持ってきてくれている彼女。その代償をおれに求めたことはない。裕福な名士のもとに育まれた少女なのだとは、予想していた。

 携帯端末に表示された名前を思い出して、それに伴い胸中に立ち現れて来るのは、おれらしい考えばかりだった。どうしようもなくみっともなく、哀しく、自分で正視に耐えなくなるほどのおろかしさ。

 いいだけモモの世話になっておいて、最後にはそのモモを利用して、彼女の家を揺すってやろうなどと。思いついてしまったことに、震える。なんというおれの、──悪辣なことか。

 もしもその罪を犯したならば、神はおれを赦さない。モモからも許されはしない。そして、おれだってきっと、おれを許しはしないだろう。

 両手を開いて見つめると、指の先が小刻みに震えている。その理由を寒さだけに求めるのは、間違っているように思えてならなかった。

 良い朝だった。緑に磨かれたような澄んだ空気は遥か遠くまで見通せて、目が良くなったような心地さえ覚える。

 鳥のさえずりが聞こえる。枝葉の間から降るように、健やかな匂いとともにおれの周りを満たしている。

 道のはずれに咲く白い野ばらを見つけた。茂みに割って入り、優しくと心がけて一本を手折って摘んだ。

 不思議な気分だった。きっといまならば、おれはなにを食べても感に入るだろうし、なにに触れても、その存在を繊細に扱えるに違いない。

 鮮やかだった。眩しいくらいに、なにもかもが。

 おれはふところに手を忍ばせて、冷たいナイフの柄を握る。途端、体の芯からつま先に至るまでが急激に冷めてゆく。暗示のようだと思った。それでよかった。

 別れの挨拶も、感謝の言葉さえなく、書き置きのひとつを残して姿を消すとはなんという不義理だ。自分でそう思うが、はじめから不義理で始まった関係を終わらせるには、それくらいがちょうどいいのだとも思いたかった。

 おれはあくまで外道だった。あのままモモに甘えていれば──おれは自分のおろかな選択肢にゆらぐかもしれない。そうなる前に、幕は引かなくてはならなかった。

 林道の終わりに車が停まっている。ボンネットに特徴的な傷が入った黒のセダン、ナンバーはおれが知っているものから変わっているから、また別のものに取り替えたらしい。

 運転席から見知った目の顔が出てきた。始末の手のなんという手際の良さだ。

「迎えのお早いことだな」

 おれが皮肉を込めてそう言うと、その男は嫌味ったらしい笑みを顔に貼り付ける。

 不愉快な笑い方だった。世間ずれを起こすと、顔は次第に濁りを帯びてゆく。なぜこんなに不愉快なのかと、その答えは単純だった。

 おれが彼女に見せていた顔も、どうせこんなふうだったと思い知らされてしまうからだ。

「まあ、そう構えるなよ。社長はおまえを許すと言ってるんだぜ」

「なんだと?」

「お手柄らしいじゃないか。それで手打ちにしようとな。あの女の子」

 男の口もとの弧が、角度を上げた。

「結構な身の上なんだってな。おまえ、よくこんなチャンスを作ったよ。若いのを向かわせたんだが、すれ違わなかったか?」

 突きつけられた事実におれの言葉は失せた。やはりおれの思考は、まさしくこいつらと同じだったのだ。

 違ったのはただ一点だけ、おれはあの子の美しさを知っていて、こいつらは知らない。だから最後の選択だけが異なった。

 痛みを抑えて来た道を駆け戻った。

 あるいは、彼女は今日は来ないかもしれない。しかし来るかもしれない。来てくれる日だったなら、もう教会には着いていてもおかしくない時間だった。

 過保護を受けていると言っていた。護衛はいるのかもしれない。しかし、いないのかもしれない。いなかったなら、その先の想像は難くなかった。

 無数の可能性があっても、おれは知っている。世界というのはおれの都合のいいようには廻っていない。

 走りながら思う。なぜおれは、いまさらこんな──。

 ──ひとのこころをあたえたのですか。

 扉は隙間を開けていた。わずかに声が漏れてくる。美しい愛嬌をはらむあの声に澱が混ざってゆくことは、あまりにも恐怖だった。

 倒れこむようにして中へ入ると、すぐに状況を察する。

 モモと、知った顔の若い男がふたり。悪漢どもが望まぬ彼女を連れ去ろうとしていることは明らかだった。

 モモの顔は、見なかった。

 おれは速やかに抜いたナイフで男の片割れの首を裂いた。悲鳴が聞こえた。すると、やはりもう片方の男はふところから拳銃を抜いた。ためらいがなかった。オートマチックで飛んで来た銃弾はおれのどてっぱらに突き刺さる。悲鳴が聞こえた。その方角からは頑なに目を背け続けた。

 おれは今度は、相手の腹部に深々と刃を突き立てて捻った。もう、悲鳴は聞こえなかった。

 こと切れたふたつのなきがらの間に立ち、おれはステンドグラスを仰いだ。

「……おれは、やはり外道だったなあ」

 こんな方法でしか、小さな少女ひとり、救ってやることもできないのだ。あるべき愛の形を教えてもらっても、それを実践することなど、もはやできなくなっていた。

 血と罪でまみれたおれに、彼女と交わる資格はもうない。あるいは、そんな資格ははじめからなかったのかもしれない。だったとすれば、おれは身の丈に合わない過分な境遇を与えられていたことに感謝せねばならないだろう。

 振り返ると、視界の端でびくりと肩を震わせる小さな姿があった。腰を抜かしたように座り込んでいる。

 朱い床の上に、なにか白いものが見えた。

 野ばらだった。ついさっきにおれが摘んだ一輪の野ばら。立ち回りの中にいつのまにか落花して、床の上で散っていた。

 血を吸い、端から徐々に朱く染まって、染まりきったあとはくたりとしおれた。すべての花びらがそうなるのをただ見届ける。

 それからおれはその隣を抜け、青空の下に出た。

 すでに痛みはなく、日差しを満身に受けても、ただ底抜けに寒かった。

 もっと早くに、世界にある鮮やかさに気づけていたなら──もっと早くに、彼女と出会えていたら。

 もしくは、そもそも出会っていなければ。

 考えても詮無いことだった。

 なにもかもが遅かった。


 それでも、最期には彼女と出会えてよかったと、おれは深く思えたのだ──。




 群生する野ばらの茂みに伏した男性のカットを最後に、テレビ画面は暗転し、中央に白く「fin.」の文字が浮かぶ。

 櫻井桃華はふっと息を吐いた。無事に見届けられたこと、見届けられるものに仕上がっていたことへの安堵だった。

 バイオレンス要素から十二歳未満にPG指定がなされた二時間ドラマは、親しい学友たちと観ることはできなかった。

 いかがでしたか──ソファに並んで一緒に鑑賞していた同僚のほうを向くと、向井拓海と藤本里奈は揃って大粒の涙をなみなみと流している。ぎょっとした。

「どっ、どうしたんですのっ?」

「どうしたもこうしたもよぅ……」

「か、悲しすぎてヤババ~……桃華ちゃーん」

 里奈はしなだれかかるように桃華に抱きついた。

 自分より大きい体躯をどうにか受け止めながら、桃華は苦く笑う。

 まったくこのふたりは、外見に勘違いされがちだけれど、本当に心根から優しい。

「ありがとうございますわ」

 桃華は確かめるように、一音一音をゆっくりと言った。

「……ありがとうございます。彼のために、涙を流していただいて」

 桃華は目を伏せる。窓を越した空から降る光の粒子は少しの暑気を帯びて、夏の近さを感じさせた。

 都会の街並みでも、ふとしたところにそれはある。棘を持つ純朴な形の白い花は根絶することが難しく、いたるところで萌芽する。


 きっと野ばらを見るたび、思い出すのだ。





おしまい。

これは、モバマスss……? です。たぶん。(自問自答)
ありがとうございました。

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