有栖川夏葉「選手宣誓」 (20)


二限の講義の終わりを告げるチャイムが、響く。

それを受けて教壇の上の先生が「では今週はここまでにします」と言えば、特に号令などはなく、私たち生徒は席を立ち、思い思いの方へと散って行く。

高校生の時分とは何もかもが異なる大学での生活であるが、半年ほど過ぎた今となってはもう、慣れた。

キャンパス内の勝手もそれとなくわかってきて、迷うこともあまりない。

教室を出てエレベーターホールでの順番待ちに混ざって、さてどうしたものかと腕を組む。

今日は三限に何も講義を入れていない曜日であるので、このまま帰宅することが可能である。

だが、一人暮らし――厳密には一人と一匹であるのだけれど――である私は当然、帰宅したところで家に昼食はない。

つまりは大学周辺、もしくは学食で食事を摂る方が楽と言えば楽なのだが、混雑するという欠点があった。

「あーりーすがわ、さんっ!」

そんなふうにして昼食で頭がいっぱいになっていたところ、不意に背後からの、半分抱きつかれる形での衝撃が私を襲った。


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「びっくりしたじゃない。もう」

振り返れば、そこには大学に入ってからの友人がいて、「へへーっ」と無邪気に歯を見せていた。

彼女との出会いは、入学時のオリエンテーションに始まり、そこからも履修している講義がいくつか重なっていることもあって、これまで謎の縁で親しくしてもらっている。

「夏っちゃん、家帰ってもごはんないっしょ? ごはん行こうぜー」

ぐいっと私の手を引いて、彼女は人でぎゅうぎゅうのエレベーターに乗り込む。

出会った時から彼女はこんな調子であったな、と少し口角が上がってしまった。

初めて会った際、自己紹介後の開口一番が「ふーん。有栖川夏葉……じゃあ夏っちゃんね!」だったと言えば、距離の詰め方が凄まじいことは理解してもらえるだろう。

「なーに笑ってんの?」

「いえ、今日も変わらないわね。アナタは」

「でしょー?」

「それで、どこか行きたいお店でもあるの?」

「んーん。今日はウチ、三限ある日なんだよねぇ」

「だったら、席を探さないとね」

「そーそ。学食は戦争なのだー」

彼女はずっと陽気なまま、けたけたと笑いながらキャンパス内を闊歩する。

これで同じ学年だというのだから、彼女の順応の速さには驚かされるばかりだった。



「はい。とうちゃーく。今日も人だらけだねー」

「仕方ないわよ。……あっ、あったわよ!」

「どこ?」

「ほら、そこの四人掛けの席が」

私が席を指で示すと、すぐさま彼女は「ホントだ!」と言って、駆けて行く。

そして瞬く間に席を取り、キープのために鞄をどさりと置いて戻ってきた。

「貴重品、入ってないわよね」

「うん。教科書とか、なんかそんなんくらい!」

「ならいいのだけど」

手に携帯電話と財布のみになって帰ってきた彼女は、学食に並ぶ店舗を見比べて「今日は……うーん、ラーメンの気分かなぁ」などと言っている。

「私はカレーにしようかしら」

「トーシツ、だっけ。それはいいの」

「糖質は大丈夫よ。このあとジムに行こうと思っていて。場合によるけれど、トレーニング前は糖質、摂った方がいいのよ」

「夏っちゃんは詳しいなぁ」

ふぅん、と鼻を鳴らして彼女は「んじゃ、またお昼買ったらさっきの席でねー」と歩いていく。

私もそれを見送って、カレーライスを販売している店舗の列に並んだ。




無事に昼食を購入できた私は、カレーライスとお水を乗せたトレーを手に席へと戻る。

友人は私より一足先に昼食を購入し終えていたようで、既に席で私を待っていた。

「先に食べていてよかったのに」

「だって、一緒にいただきますした方が楽しいじゃん」

「それは……そうね。ありがとう」

「へへー、美人の感謝で今日もメシがうまいぜ」

照れ隠しなのかなんなのか。

彼女は冗談まじりに手を合わせる。

そうして二人揃っての「いただきます」を経て、カレーを口に運んだ。

学食のカレーは大鍋での大量生産である故か、いわゆる家カレーのような趣で、決してとびきりおいしいということはないけれど、ふとしたときに食べたくなる。そんな優しさがあった。

「夏っちゃんって、大学ない日どうしてんの?」

「休日、ということ?」

「うん」

「ええ、と。そうね……起きて、カトレアにごはんをあげて、散歩に行って、必要なら家事をして、お昼を食べたらジムやショッピングに……という感じかしら」

「夏っちゃんちの犬、カトレアちゃん? でっかいから散歩大変そうだなー」

「確かに、それなりの運動量はいるわね」

「だよねぇ。にしても、優雅な休日だ」

「そうかしら。あまり変わり映えしないわよ? というか、私からしたらアナタの方が刺激的な毎日を送っていると思うのだけど」

「そういうもん?」

「ええ。サークルだとか、アルバイトだとか。あと、徹夜でカラオケなんてのも私、経験がないもの」

「あはは! ダメ大学生の見本市みたいな奴でごめんねぇ」

「あら、本当にすごいと思ってるのよ? だって、私にはできないことだもの」

「夏っちゃんは無邪気だなー。でも犬飼ってるとそうだよね」

「そうなの。でも、今の生活だって望んだことだし、不満があるわけではないのよね」

「まぁ、いろんな人がいる、ってことか」

「そうね」

「つくづく、ウチらが友達になれたの、奇跡みたいなもんだよね」

「ええ。その節は本当に……」

言いかけた私を彼女が「あー。もうそれは言いっこなしなし!」と遮る。

実は、彼女には初めて会った際に助けてもらった恩があった。

親元を離れ、上京してきて間もない頃に、東京の地で携帯電話の充電が切れてしまう。

その恐ろしさを、身を持って体験してしまっていたさなか、手を差し伸べてくれたのが彼女であったのだった。


「っつーか、あれ以来、ウチ基本的に役に立ってないかんね。逆に夏っちゃんにノートコピーさせてもらったりしてるし」

「いいのよ。損得で友達ってなるものではないでしょう?」

「夏っちゃんは大学一年生にして人間ができてんなー」

「おだてても何も出ないわよ」

「あはは。でもさ、たまーに、思うんだよね」

「何を?」

「ウチと夏っちゃんに共通の趣味とか、あったらなぁ、って」

「それは……そうね。……私、何か始めてみようかしら」

「え、夏っちゃんが?」

「だってアナタにジム通いを勧めるの、あまり現実的ではなさそうだもの」

「それは間違いないわ」

またしても彼女は、心底面白そうにあははーと笑う。

そのあとで「あー、じゃあアイドルとか、キョーミない?」と言った。

「アイドル? それは歌って踊る、あの?」

「そー、あの。んで、実は日曜のライブのチケットが余ってて、連番……あ、一緒に行く人のことを連番っていうんだけど、それ探してて。ウチ的には夏っちゃんなら嬉しいなぁ、と」

「ぜひ行きたいわ! お願いしてもいいかしら」

「うおー、マジで? 助かるなぁー。でも断りにくい誘い方しちゃったかな」

「いえ、そんなことないわよ。私、本当に楽しみだもの」

「夏っちゃんのそのノリの良さ大好き! でもでも結構すごい子だから期待していいよ!」

「アナタの推し、ってやつなのよね」

「良く知ってんね。そう。ウチの推し」

言って、彼女は自身の携帯電話を操作して、画面いっぱいに女の子を映す。

話の流れからすると、この子が友人の推し。

というものなのだろう。

すらりと長い手足に、整った顔立ち。

アイドル衣装の上からでも適切に維持された肉体が伺えた。


「テレビで見たこと、あるかもしんないんだけど」

「ええ。有名な子よね」

「うん。でもまだデビューして三年とかなんだよね」

「それは……すごいわね」


生まれ持った才能だけで頂点に立てるような世界では、到底ない場所で、この子は短い期間で頂点にほど近い場所まで来ている。

それだけで、尊敬の念を抱かずにはいられなかった。


「あ。で、話戻すんだけど、当日は夏っちゃんの最寄りまで迎えに行くからね」

「それなら私が車出すわよ?」

「夏っちゃん車で行く気なの? あのポルシェで?」

「ダメかしら」

「ダメ……ではないけど、会場周辺に停めるんなら、早めに行った方がいいし、混むから帰りに車出すのにも時間かかるよ?」

「慣れてないと、やめておいた方がよさそうね……」

「うん。だから迎えに行くよ。まぁ、詳しくはまたあとで連絡するわー」


彼女は「んじゃねー」と言って、トレーを手に席を立ち食器の返却口へと歩いていく。

それを見送ったあとで私も自身のトレーを返し、食堂を出た。




大学を後にした私は、その足で会員となっているジムに来ていた。

ロッカールームでトレーニングウェアへと着替え、シューズを履いてつま先を鳴らす。

そうして持参したタオルとプロテイン、それからスポーツドリンクを手にトレーニングルームへと向かった。


簡単にアップを済ませ、マシンの空きを確認する。

平日のそれも昼であるので、快適に利用ができそうだった。

今日は脚の日であるから、メニューは下半身、脚を中心に行う。

使用するマシンに目星をつけて、トレーニングに没頭した。


かしゃん、かしゃん、と重りが小気味の良い音を立てて上下する。

何度目かのそれを経て、脚から力を抜く。

全身から噴き出した汗はウェアを上下の区別なく、べったりと濡らし、体が水分を求めていた。

息が整うのを待って、マシンから立ち上がる。使い終わったマシンの汗を拭うのも忘れない。

それから、あらかじめ作っておいたプロテインドリンクに手を伸ばす。

念のために再度じゃかじゃかと振ってから、蓋を開けて一気に飲み干した。


全力でトレーニングを行ったあとのこの、プロテインが喉を駆け抜けていく瞬間は何とも言い難いものがある。

達成感に酔いしれながら、タオルで汗を拭って、トレーニングルームを出る。次いでロッカーから着替えを出して、シャワー室へと入った。


蛇口をいっぱいに捻ると、シャワーが勢いよく水を吐き出してくれる。

私はそれに何度か指先で触れて、温度を確かめる。しばらくして程よい温度となったことを認め、思い切り頭から浴びた。

体にまとわりついていた汗が一気に流れ落ちて、爽快な心地が身を包む。

運動後のプロテインに、シャワー。

それだけのことだが、この全身を包むちょっとの疲労感と達成感が、私は好きだった。


一連の流れを終え一息ついたところでシャワー室を出て、着替えを身に着けながらふと物思いに耽る。

もう半ば趣味と化しているトレーニングは、どこがゴールなのだろうか。

私は、これまでに何度か「そんなに鍛えて何するの」というようなことを言われたことがあった。

その度に「さぁ、何するのかしら」と濁した上で「具体的な目標がないことは、鍛えない理由にはならないわ」と付け加えるのが常だった。


けれども、私も薄々とそれは感じていて、この繰り返しはどの地点に到達することを目指しているのかはトレーニングを始めてしばらく経つ今となっても、よくわからない。


それでも、と私は思う。

やめる理由にはならないし、今現在の私ができることを、できないことにしてしまうのは、きっと私は私を許せないだろう。


何より私は負けるのが嫌いなのだから、昨日の自分自身というライバルが存在する以上は、この勝負は降りられそうにない。

具体的な目標なんてものは追々見つけよう。

それに、こういうものは巡り合わせだ。

そのうちに、ふらっと見つかるかもしれない。

なんて、自分を鼓舞しつつ、荷物をまとめジムを出た。





来る約束の日曜日。

友人に誘われたアイドルのライブに行くべく私は少し早めの起床を果たし、万全の準備を整え、自宅で約束の時間を待つ。

はずだった。

はずだったのだけれど、それは理想の話であり、持ち前の寝汚さを遺憾なく発揮した私は、携帯電話のアラーム機能に三度のスヌーズを命じ、なおも眠ろうとしたところを愛犬であるカトレアによって叩き起こされたのだった。


要するに、寝坊をし、大絶賛準備に追われている真っただ中だ。

カトレアにごはんをあげて、自身の頭髪を整え、着替え、メイクを施し、散歩へと出る。

散歩の時間を短縮してはカトレアに申し訳がないので、時間は自身の朝食を削ることによって補う。


それらが丁度終わったところで、インターホンが鳴った。

音のもとへと駆け足で向かい、応答すると、そこにはライブグッズを身に纏って気合の入った友人の姿があった。


「今、行くわね」


短くそう告げて、手早く荷物をまとめて家を出る。


「おはよー、って時間でもないか。準備はばっちし?」

「ええ。スニーカー……でいいのよね」

「うん。人の多いところに行くからねー。ヒールとかだと踏んづけても踏んづけられても危ないっしょ」

「そうね。あとはタオルもちゃんと持ってきたわ!」

「いいねいいね。ばっちしじゃん。タオルは汗拭く以外にも、あるといいからさー」

「?」

「使う曲があるんだよね。タオル曲、みたいに呼ぶんだけど、曲の途中でタオルをぐるぐる回して」

「それは楽しそうね」

「うん。めちゃくちゃ楽しいよ! あるかどうかはセトリ次第でわかんないんだけど」

「ふふ。あったらいいわね」

「ねー。そんで、ペンライト! ……は、持ってないのと思ったからあげる! ウチのお古だけど」

「えっ、そんなタダでもらえないわよ」

「いーの。いーの! 同じの、もう一本未開封のがあるから! それに」

「それに?」

「沼に落ちたあとはいろいろ協力してもらう予定だし」


彼女はなどと言って「グッズとかさー、けっこー凶悪なんだよねー。複数種類ブラインドのくせに購入制限あるやつとか……」と呪文のように唱えている。

私はそんな彼女を軽く指でつついて「そういうの、なんていうか知っているかしら」と言ってやる。


「なに?」

「捕らぬ狸の皮算用、よ」

「いやいやいや、ぜーーーーったい落ちるし!」

「ふふ、そうだといいわね」

「落ちるったら落ちるの!」




友人に導かれるままに最寄り駅の改札を抜け、これまた友人に続いて電車に乗る。

道中はこの曲が来たらこうする、だとか、お決まりのコール安堵レスポンスはこう、だとかのレクチャーを受けつつの移動であるので、あっという間に目的の駅へと到着した。

乗ってきた電車にも、改札を出ても、そこかしこに友人と似たようなシャツやタオルを身につけている人がいて、まずそれに面食らってしまった。


「これ、全部あの子のファンなのね」

「そう! すごいでしょー」

「ええ。でもまだライブまで時間、かなりあるわよ?」

「物販もあるからねぇ。それに、ライブの日って家にいても落ち着かないんだよね」

「家でじっとしてられないから早く来てしまうのね」

「うん。他の人がどうかはあんましわかんないんだけど、ウチは結構それあるかなぁ」

「それで、物販? というのはいいの? 欲しいものが何かあるのなら私に気を遣わずに行きたいって言っていいのよ?」

「実はもう始発で行って参りまして……」

「強いオタク、っていうやつね」

「また変な言葉覚えたねぇ。そう強いオタクなんです」

「ふふ。私だってちゃんと勉強してきたもの。ライブのあとはお肉を食べて優勝するのでしょう?」

「夏っちゃんどこのサイト読んで勉強したの?」

「……打ち上げのことだと書いてあったのだけれど、もしかして違うの?」

「いや、まぁいっか。夏っちゃんがライブ後も付き合ってくれるなら焼肉でも行こっか」

「ええ! もちろんよ! あ、でも一度家に帰ってもいいかしら」

「カトレアちゃんにごはん、だよね。いーよいーよ」

「ありがとう。それと、アナタお昼はもう食べたの?」

「んーん。まだ、夏っちゃんは?」

「私もまだだから、丁度いいわね」

「そだね。どっか入ってお昼食べて、そんでライブまで時間潰してよっか」


友人はくるりと会場とは反対方向に歩き出して「こっち。パスタおいしくて良いカフェあるんだー」と言う。


「大学の外だと、本当に頼りになるのよね」

「ひとこと余計だぞー」

「ふふ! 冗談よ」


こいつー、と小突いてくる友人とじゃれつつ「夜ごはんは私に任せて頂戴ね。私も、良いお店知ってるの」と胸を張った。


「だめ。夏っちゃんの言う“良いお店”はホントに良いお店なんだもん」

「どうして? 良いお店だったら何故いけないのかしら」

「高いじゃん」

「あら、そんなの気にしなくていいわよ。今日のお礼にご馳走させて頂戴」

「それが一番だめなんだってば。夏っちゃん、言ってたでしょ? 友達なんて損得でなるもんじゃない、って」

「それとこれとは話が別でしょう」

「一緒なの。ウチと夏っちゃんが、ではなくて、ウチが夏っちゃんと友達でいるためには大事なことなんだよ?」


友人は真剣な目で私を見て、言う。

彼女には以前にも似たようなことを諭されていた。

その際に「夏っちゃんには、この四年間で割り勘を教えます」と彼女が宣言して以来、特別な理由がない限りはこうしてご馳走させてもらえていない。


「アナタと友達でいられなくなるのは、困るわ」

「そう言ってもらえて嬉しいなー。ウチも夏っちゃんと友達でいたいからね」

「まったく、ずるい言い方するわよね。アナタ」

「でしょう? 情に厚い夏っちゃんにはこれがいちばん効くんじゃないかなぁ、って」

「お見通し、ってことね?」

「そういうこと!」

「でも、連れてきてもらったお礼くらいはしたい、っていう私の気持ちだって汲んで欲しいのだけれど」

「んー。なら、こうしよう! お店はウチが選ぶ!」

「いいわ。それで手を打ちましょう」

「よし決まり。……あ、お昼はオゴってくれなくていいかんね?」

「どうして?」

「夏っちゃんには、割り勘を教えないといけませんので」


そして、いつかと同じように彼女は歯を見せて笑うのだった。




それから、私たちはカフェでの昼食を済ませ、しばしの穏やかな時間を過ごしたあと、再び会場周辺へと戻ってきていた。

予定されている開演時間まであと、少し。

開場していることもあり、初めに到着した頃よりも人もまばらだ。

私は「こっちだよー」と友人に導かれるままに従い、入場列へと並ぶ。


スーツ姿の係の人がチケットを手際よくパリッと千切り、別の係の人がこれまた手際よく手荷物をチェックする。

それらを抜けて、会場の中へと入ると、フロア全体にぎっしりと敷き詰められたパイプ椅子とそこにいる大勢の人にまず圧倒された。

視線を上げればスタンドも、視界いっぱいに人で埋まりつつある。

途方もない人数、これがすべてあのアイドルの少女のファンだというのだから、驚きだ。


「すごいでしょ」


思っていたことを横にいる友人に言い当てられて、どきりとする。

私は「ええ」とだけ返して、席へと向かう友人を追いかけた。


「お手洗いは大丈夫?」

「ええ、問題ないわ。もうすぐよね」

「うん。もう、すぐ」


私たちの席はステージ中央間近で、友人にも若干の緊張が見られるのはそれ故か、と得心する。

推し、という概念には単なる好意だけではなく、崇拝や敬愛のような念など様々な感情が複合的に含まれていると聞く。

であれば、この近さだ。緊張するのもやむなし、というものだろう。


彼女の邪魔にならぬよう、間違っても気分を盛り下げることのない様に努めなければ。

そう気を引き締めて、用意してもらったペンライトを握る。首には自宅から持ち込んだタオルをかけて、準備は完了だ。


開演を今か今か、と待っていると会場全体の照明が一段落ちて、逆に眼前のステージはスポットライトが照り始めた。

開演前の注意事項を聞き流し、隣の友人の喉がごくりと動くの目で追う。

そして、私か、彼女か。

それすらも判別がつかない「始まる」という短い声を聞いた次の瞬間だった。

がらりと会場の空気が変わった。


大きなスピーカーからの軽快な音楽が会場を満たし、肌がびりりと震えるほどの歓声がステージへ向かって押し寄せる。

しかし、ステージ上には聞かされていたアイドルの子の姿はなかった。


これは、どういうことなのだろうか。

軽く視線のみで友人のほうを見れば、一心不乱にペンライトを掲げ、周囲と同じように統率された声援をステージへと届けている。

なるほど、と私もそれに倣って声を出す。

その刹那、風船が破裂するような音と共にステージが瞬いて、一人の少女が地面の中から弾き出された。

少女は跳び上がる衝撃をものともしない空中姿勢で、満足そうに口角を上げる。

その様がステージに設けられた大スクリーンに映され、この一瞬で会場全体へ笑顔を振りまいた。

そこからさらに、平常の歩行さえ難儀しそうなピンヒールでの軽やかな着地を披露し、当然のようにステップを踏み、腕を振る。


「最後まで駆け抜けるから、ついてきてね」


少女が一言、そう客席を指せば、それだけでもう会場のボルテージは最高潮に達した。

少女の歌唱は歓声も音楽も乗り越えて、一番に私の耳と心臓を真っすぐに貫いてくる。


隣の友人はどんな表情をしているのだろうか、ふとそう思っても、ステージから目が離せない。

私は釘付けになる、という現象を身をもって体感するのだった。


少女が手を叩く仕草を見せれば会場には一糸乱れぬ動きでの手拍子が起こり、拳を振り上げて煽ればそれに合わせたびしりと揃った声が届く。

何千、何万の人間を一瞬のうちに意のままに動かしてみせるその様は、魔法のようだった。


歌唱が終わり、音楽が鳴り止んでも、私はしばらく身動きができぬまま放心する。

やがて意識が戻ってきて、自身が壊れてしまいそうなくらいにペンライトを握り込んでいたことに気が付いた。


「私もね。最初、そうなった」


声の方を見やれば、目を潤ませた友人がこちらを向いて笑っている。

ああ、これは確かに、すごい。

それ以外に出力できそうな言葉が見当たらず、そのままを伝えようと「すごいわね」と呟いた。




少女のライブは初めの宣言どおり、矢のように速く、そして真っすぐに飛んで行った。

一挙手一投足に至るまでの全てが練り上げられた、素人の私にもわかる凄まじいもので、以前に何気なく言った“テレビでよく見る”ということ、それこそが実力の証左であることを思い知る。

どれだけ激しいステップを踏んで汗を迸らせようとも崩れない笑顔は、光を受ける角度で輝きが変わる宝石のようで、作られた笑顔であることは理解しつつも、自然だった。


「じゃあこれが、最後の曲。みんな、まだまだいけるよね」


少女は挑戦的に会場に言い放ち、歓声を寄越せと煽る。それに私たち曲席のファンは負けじと、びりびりと空気を震わせて応える。


「そうこなくちゃ」


にっ、と笑んで少女がマイクを掲げる。

本日何度目かの、そして本日最後となる魔法を見た。




「夏っちゃーん。帰っておいでー」


ゆさゆさと肩を叩かれる振動で、私は我に返る。

気付けば、会場では退場に際してのアナウンスが流れていた。


「……すごかったわ」


噛み締めるように言って、ライブの記憶を反芻する。

私が見た景色はもしかしたら夢だったのではないか、そう疑わずにはいられない。

それくらいのものを見た。

改めてそう思う。


最後の曲を終えた少女が「またね」の一言のみでステージから姿を消したこともまた、現実味の希薄さに拍車をかけていた。

しかし、いつまでも夢見心地ではいられない。

すぅ、と息を吸ってタオルとペンライトを鞄へと戻し荷物をまとめる。


そこで、はたと考える。

少女は、あのアイドルはまだデビューして数年と以前に友人から聞いた。

だが、あれだけのパフォーマンスが天賦のものだけで成り立つのだろうか。

否だろう。


どれだけの努力を積み重ねたら、あの領域に至るのか。

想像もつかなかった。

ふるり、と体が震えるのを感じて、ああそうかと気が付く。

仄かに胸に何か熱いものが灯った気がした。


「で、どうよ。夏っちゃん。落ちたでしょ?」

「ええ」


友人の言葉を受け、予感が確信へと変わる。

今日のこの光景を、ステージの上から、見てみたい。

具体的なイメージが固まり、決心がつく。

腹は決まった。

あとは掲げるだけ。

友人を見据え、彼女ならば宣誓する相手に不足はない、そう思った。


「私、なるわ!」

「お。ホント!?」

「ええ! トップアイドルに!」

「……え?」

「だから、なるのよ!」

「その、つまり?」

「トップアイドルに、なると決めたの」

「…………本気?」

「もちろんよ。冗談を言っている顔に見えるかしら」

「………………そっかぁ」

「ふふ! 見てなさい? アナタの推し、にだってすぐになって見せるわよ!」

「……これは、また、斜め上の落ち方してくれたねぇ」


まじかー、とこぼしつつも「期待しとく」と拳を出す彼女に、私も拳を出して応じる。

こつん、と拳と拳がぶつかるのと同時に「任せて頂戴。私、期待に応えるのは得意なのよ」と言った。




おわり

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