文香「ビタミンC」 (37)

地の文多め
百合要素あり

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「うーん、疑似発色かもね~」


 顎に人差し指を当てながら、志希さんは比色管を覗き込みました。
 猫のようにくりくりとしたその瞳が、桃色に染まった水の向こうからありすちゃんを捉えます。


「うわっ!……って、ぎじ……?なんですかそれ?」


 比色管を取り落としそうになりながらも、なんとかありすちゃんは持ちこたえました。
 志希さんが貸してくれたゴム手袋のおかげかもしれません。

 というのも、事の始まりは15分ほど前に遡ります。




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 レッスン前に早く到着しすぎてしまいましたので、事務所のソファーで読書でもしようかと思っていた時でした。

 ありすちゃんが相談があるとのことで、夏休みの自由研究を何にするかで一緒に悩んでいたところ、外から誰かがはしゃいでいるような元気いっぱいな声が聞こえてきました。
 声が聞こえたのは事務所の裏のちょっとした庭のような場所からでした。

 コンクリートで塗り固められていない雑草だらけの地面ではありますが、駐車場との境目で適度な広さもあるここは小学生アイドル達にとっては丁度良い遊び場にもなっていましたので、いつものことのように考えていたのですが、その直後に


「なんじゃこりゃー!?」


 プロデューサーの悲鳴が聞こえてきました。

 さすがに気になってしまいましたのでありすちゃんと外へ出てみると、そこには連日の晴天にも関わらず大きな水溜りができていました。
 薫ちゃんと小春ちゃんの話によると水溜りはだんだんと大きくなっているようで、どうやら地面から水が湧き出ているようでした。

 初めてのことのようで少し混乱気味なプロデューサーさんなどお構いなしと言わんばかりに水溜りは大きくなっていきます。


「水道管の破裂か?こういう時はちひろさん……じゃなくてどこに電話するんだっけ?」

「もう、しっかりしてください!」


 様子を見に来たちひろさんにもプロデューサーさんが心配されている、そんな時でした。


「面白そうだしー、ちょっと実験してみよっか♪」


 ごちゃごちゃとガラス器具を詰め込んだ深めのバットと共に志希さんが現れたのでした。



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「んーつまりねー、この桃色はニセモノかもってこと!」

「ニセモノー?」


 ありすちゃんの隣で一緒に見入っていた薫ちゃんも志希さんの顔を見上げます。


「ちょっと待っててね~」


 そう言い残すと志希さんは、庭の端にある散水栓へふらふらと歩いて行きました。いつの間にやら用意した短めのゴムホースと比色管を手にしたその後ろ姿に、不思議そうに、それでいて興味津々といった子供たちの眼差しが注がれます。

 地面に湧き上がるように広がった水溜りでヒョウ君と戯れていた小春ちゃんも、業者さんに工事の依頼の電話をするプロデューサーさんも、ありすちゃんに付き添って一緒にこの不思議な桃色を観察していた私も、今この瞬間は全員が、猫のように自由でそれでいて自信と幸福に満ちたその足取りの行く末に惹きつけられていたのでした。

 このような機会はなかなかないので、私も実はとても興味深かったりするのです。
 大学では普段全く触れることのない分野のお話で、かつ、志希さんと偶に交換する書物でお目にかかってもなかなか実演とまではいかないので、ありすちゃんとほぼ同じくらいの目線でこの不思議な色彩のステージを眺めているのですが、そのことは本人には秘密です。

 ありすちゃんとは普段から仲良くさせてもらっています。
 私よりもずっと歳下でまだまだ小さなその姿からは予想もつかぬ程に、その内側には私などとは比べられぬ程の勇気と向上心に満ちています。実際にお仕事の中で助けられる場面も多々ありまして、私はそんなありすちゃんに尊敬の念を抱いているのです。

 それでもありすちゃんは私のことを慕ってくれています。
おすすめの書物を紹介し合ったり、ありすちゃんの学校の宿題をお手伝いしたりする時に見せるそのきらきらとした瞳は、私には少しばかり眩しく映るのですが、同時に嬉しくも思います。
 とても博識だとか、知的で大人っぽいなどとお褒め頂く際にも変わらぬ眼差しに、恥ずかしさで体がむず痒くなることもありますが、あまりお話も得意でない私に対して御世辞の混ざらぬ純粋な言葉と期待とを向けてくれることが最近では誇らしく、少しでも期待に添えるような立派な大人の女性にならねばと思えてくるのです。

 しかし今回の実験も、この桃色で水道水か否かと判別しているというところまでは理解できましたが、そこから先はさっぱりわかりません。
 専門分野外と言えばそれまでですが、何をする気なのでしょうかとありすちゃんから問いかけられても、わかりませんとしか答えられないであろうことが、少しもどかしいという気持ちがあります。

 今度そういった本も読んでみるのもいいかもしれません。

 そんなことを考えていると、すぐに志希さんが戻ってきました。
 ゴムホースは散水栓に置いてきたようです。


「まずこっちが今採ってきた水道水ね」


 志希さんは小さな袋の封を切り、比色管の中へとふりかけました。ありすちゃんの手元の桃色の源となった粉末です。
水はみるみる内に珊瑚色へと変化していきます。


「でもさっきのだって同じように色が付きましたよ?色は少し薄いですけど」

「薄いとダメなの?」


 一番最初に桃色に染まった方の比色管と見比べて二人が頭を悩ませます。

 志希さんが今度は茶褐色の瓶の蓋を開け、細長い匙で中身をすくい取りました。白い粉末のようです。

 当初混ぜ入れていた小さな袋詰の粉末とは別物なのでしょうか?


「んー?文香ちゃんも気になっちゃう?この真っ白い粉♪舐めてみるー?」

「いえ……結構です」

「気になる真実を解き明かす魔法の薬だよ~♪そこいら中でよく見るやつだからヘーキヘーキ!」


 そういう問題ではないかと思うのですが……


「あ、でも~最初のは本当に舐めちゃダメだからね?」


 ありすちゃんから受け取った比色管の栓を開けつつ、数秒前のおどけた口調よりもやや低い声色でそう言うと、両方に白い粉末を入れました。


「あー!こっちの方だけ色消えちゃったー!」

「あれ?なんでですか?」

「んふふ~面白いでしょ!」


 水道水の方は元通り透明に、湧水の方は先程のようにうっすら呈色したままでした。


「最後に入れた粉はカルキを見つけるためのやつなんだけど、カルキ以外でもたまーにこうやって色が付いちゃうんだよね~そんで、消えた方が本物だよん♪」

「何を入れたんですか?」

「ありすちゃんもきっとよく知ってるやつだよ~舐めてみる?」

「け、結構です!」

「にゃはは~残念」

「でも、水の中に溶けていった砂糖や塩は見えないだけで消えずにそこにあるってこの前習いましたよ?」

「お、ありすちゃんは物知りだね~将来は学者さんかな?」

「橘です!あと音楽のお仕事がいいです!」

「そういやそうだったね~」

「じゃなくて、何が起こったのかもう少し詳しく説明してくれませんか?実は自由研究テーマで悩んでいまして」

「えー小学生の自由研究なんだからそこまで詳しくなくていいでしょーこの謎の真っ白い粉によってカルキさんはその姿をくらませたのでした~めでたしめでたし」

「真面目にやってください!」

「別にいいケド~まーだありすちゃんには難しいかもよ?」

「大丈夫です!それと橘です!」


 それから、ありすちゃんと薫ちゃんの頭から疑問符と煙が立ち上るまでに1分と持ちませんでした。



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「と、とにかく、これは水道管の破裂じゃなくて、本当に水が湧き出ているということですか?」

「んーそうとも言えないんだよねー」


 志希さんはそう言いながら封を切った袋をビニール袋にまとめていきます。


「色が消えたら水道水ってわかるけど、色が消えないからって水道水じゃないとは限らないんだよ」

「うぅ……わかんない……」


 薫ちゃんは今にも頭がパンクしそうといった様子です。ありすちゃんも頑張って考えているようですが、かなり苦戦しているようです。


「文香さんなら、どういうことなのか分かりますか?」

「地中から湧き出るまでの間にカルキが抜け……色を呈する別の物質が混ざり込んだかもしれない……と、いったところでしょうか……」

「お、せいかーい!さっすが文香ちゃん!ご褒美にコレをあげよう~」

「いえ……結構です……」


 危うく志希さんが左手首でぐるぐると振り回していたビニール袋を押し付けられるところでした。


「じゃあ、どうやったらしっかり区別がつくんですか?」


「そうだねー塩素酸でも測ろうか!まぁウチにそんな機材無いけど~」

「えぇ……どうするんですか?」

「プロデューサーに頼んでみたら?ありすちゃんが可愛くおねだりしたら買ってくれるかもよ?」


なんだか良くない方向に話が進んでいるような気がしてきました。志希さんがニヤリと笑い、ありすちゃんに耳打ちをします。


「える……ます……?何かのおまじないですか?」

「まぁそんなとこ~じゃあさっそくおねだりしてみよっか!」


 そう言うと二人は電話を終えたプロデューサーの元へと近づいていきました。


「あの、プロデューサーさん……この前のご褒美の約束なんですけど」

「ん?おう、何か一つ買ってやるんだったな。何が欲しいか決まったのか?」

「はい!えーっと……えるしーますます?をください!」

「にゃはは~ほらキミ~ありすちゃんが頑張っておねだりしてるんだから買ってあげなよ♪」


 なんと……これはいけません。


「あ……」

「?」

「あほかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!」



 その日、事務所中にプロデューサーさんの悲鳴混じりの怒号が響き渡ったのでした。






「なるほど、それであの叫び声だったのね」

「はい……さすがに無理難題が過ぎたかと……」


 先程の出来事を思い出しつつ、奏さんに説明していました。


 レッスン後やお仕事の合間等、日課とまではいかずともこうして二人でお話をする機会が増えました。

 事務所の中でも彼女に一目置くという人は多く、ありすちゃんが目標にしている一人でもあります。
 私にとってもそれは同じ事で、奏さんは私にはない輝きを持っている方だと思います。
 
 きらびやかで年齢以上に大人びた独特の雰囲気を纏っていて、最近またOLさんと間違われたそうです。
 頭の回転も早いようで、時偶見せる婉曲的で詩的な言葉にも感心させられます。
 また、志希さんや周子さん達すらを纏め上げるリーダーシップも私とは大きく異なる点でしょう。

 それでも奏さんはご自身のことを年相応の女子高生だと表現しています。

 OLさんに間違われることを少し気にしていたり、普段着は寒色が多くても持っている小物は桃色だったりするのもその一部なのでしょうか。
 それとも、まだまだ私の知らない一面があるのでしょうか?

 こうしてお話することは、まだ見ぬ書物を1ページずつめくっているかのように思え、奏さんとお話する時の定位置となったこの場所も、私の中で以前とは違うものとなっていきました。

 このような暑い日には本来ならば冷房を効かせるのでしょうが、あえてそうせずにいるのは、きっとその方が綺麗だから。


「でも、自由研究か……なんだか懐かしいわね」


 奏さんがふと外を眺めました。














どこまでも高く、入道雲


大空に咲くスポットライト


開け放たれたアルミの額縁、時を彩る一枚絵










真っ白な木製のラウンドテーブル


静かに揺れる風鈴の音色


都会の景色を塗り替えて、戦ぐ、記憶の青田風










アイスコーヒー


グラスの雫


露草色のコースター


そしてなにより……












「……か、文香?」

「あ、はい」

「どうしたのそんなにぼーっとして?」


 どうやらまた物思いに耽ってしまったようです。

 実はこうしたことが今回初めてではなかったりします。
 奏さんとの時間を大切に思えば思うほど、いつの間にか意識がそれてしまうことがあるのです。
 
 それは、体調の悪い時に講義の途中で船を漕いでしまうのとは全く事情が異なります。

 あえて言うのなら、物語を読む時に似ています。
 読み進める内にとても引き込まれてしまうような一文や描写があると、ついその光景を思い描いてしまい、気がつくと次の文を読み進めることを忘れてることが稀にあります。

 このように周囲のことを忘れ、まるで見惚れてしまうかのようになってしまうことは以前から無かったわけではないのですが、お話をしてくださる相手が目の前にいてもそうなるのは少々問題があると言えるかもしれません。

 以前もこうして奏さんに意識を呼び戻された際、少し驚いた拍子にグラスを倒してしまったのでした。
 その時はレッスンで疲れているのかもしれないということにしたのですが、咄嗟とは言えどそのようなことを言うと、相手に失礼かと思い自身の中で反省しました。

 奏さんのお話に興味が無いかのような発言は避けたかったのです。

 さらに言えば、今はまだレッスン前です。
 なので、今回はありのままを伝えました。





「その……こうして奏さんとお話している時間が……とても愛おしいものだと、感慨にふけっておりました」


 些細な変化でした。

 もしかすると気のせいかもしれません。

 それでもやはり、初めて見る瞳でした。


「……あまり軽率にそういうこと言わないほうがいいんじゃないかしら」

「え……?」

「っ……」


 奏さんはやや俯いて、その後すぐに立ち上がりました。


「ごめんなさい、少し席を外すわ」



 アスファルトを引きずったかのような風

 焦げ付く日差し

 秒針の足音

 そして

 ドアが閉まる









その後、奏さんは戻ってきませんでした。






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 どこからか聞こえるドアの音、笑い声、椅子を引く音、上履きの足音、そしてこれは、本が置かれる音。


「あのー、貸し出しお願いしまーす」


 そうだ、私は図書委員、滅多に人が来ないとはいえ、お仕事はしっかりしませんと。

 女生徒とカウンター越しに向かい合う。
 同じクラスの人でしょうか?

 顔を上げてみても、ぼんやりとした黒塗りの顔。後ろで待っている別の人も同じくその顔は真っ暗で見えません。
 貸出カードに日付の判子を押して……あれ?


「すみません……今は平成何年でしょうか?」

「え、●●年だけど」

「ありがとうございます……すみません、今日は何月何に」

「○月△△日……いや、そこに時計あるでしょ……」

「はい、すみません…」



 そうか、ここは、かつての日々。

 顔が見えないのも、きっと私が見ようとしてこなかったから。

 当時と同じく、期日を言って本を手渡すと、生徒は去っていく


「……鷺沢さんって、何考えてるのか分かんないんだよね~」

「あ、うん、なんかちょっとね……」


 中学校か、高校か、或いはその両方か、このような声が聞こえてくることがあっても、気にしないでおこうとファンタジーの世界を捲る、そんな日々。

 人付き合いが苦手なのは今に始まったことではないはずで、自分には自分の世界があって、私にはそれで十分なはずだった。


 でも


 アイドルになって

 世界が広がって

 そして

 大切な人と出会って












「上の空じゃ困るのよ」

「!」


 はっとして、正面を見る。

 黒塗りではなく、はっきりと見える

 青みがかった黒髪

 白い肌

 整った鼻筋

 艶やかな唇

 そして

 同じ高さで私を見据える黄金色の瞳


「……少し席を外すわ」


 その姿が、その存在が、伸ばした手をすり抜けて消えていく



 床が崩れる

 本が散る

 記憶が混ざる

 意識が遠のく

 そして


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「文香さん、今日はどうしたの?ずっと虚ろで集中できていない感じだったけど……」

「いえ……キュウリでは布団を録画できないと思います……」

「文香さん!?」


 美波さんが慌てふためいたような表情でこちらを見ていますが何事でしょうか?


「本当に大丈夫?少し休んだほうがいいんじゃ……?」

「あわわわわ文香さんが大変なことに……とりあえずベンチに座ってください!」


 ありすちゃんが私の手と背中に手を添え、座らせようとしてくれています。
 半開きのスチール扉の冷たさとは似ても似つかぬ火照ったやさしい手が触れる。足元に転がった見覚えのあるタオル、確かこれは、私の物。

私はやっと、ここがレッスン後の更衣室であることに気が付きました。

 お二人が随分と騒がしいですが、これは珍しい光景です。
 背中を擦る、手を握る、覗き込むように瞳を向ける。


「ええええええっと……そうです、お薬!どなたかからお薬もらってきます!」

「ありすちゃんも落ち着いて!」



 なるほど、深刻そうにしているのは、お薬が欲しかったのですね。
 ならばこうしてはいられません。


「ちょっと文香さん!?急に立ち上がってどうしたの?」

「いえ……大丈夫です、心配はいりませんよ……」


 お二人にこれ以上心配はかけられません。まずは外へ出なくては。

 背中の方で呼び止められた気がしましたが、大丈夫ですよ。

 お薬には心当たりがあるのです。




 階段の手すりに導かれるように、見慣れた先に向かう足

 ぎこちないこの身を引きずるように、いつもより重たいドアを押す手

 乾かぬ汗を責め立てるように、冷気が全身を阻む

 閉め切った窓の外など知らぬ顔をしたエアコンの冷たい風のせいか、この場所がまるで違う景色に見えました。
 普段からあまり人が多い場所ではありませんでしたが、今はより一層孤独を感じさせます。
 グラスは片付けられていましたが、二つ残った露草色は、あの時のまま。

 志希さん御用達の薬品庫はこの先です。
 それでもやはり足を止めずにはいられなくて、数時間前まで二人で向かい合っていたその白い天板を、そっと指で撫でました。



――文香さんなら、どういうことなのか分かりますか?



 ごめんなさい、ありすちゃん。私程度が知っていることなどほんの僅かなものなのです。
 大切な人の機嫌を損ねた原因すら分かりません。
 せっかく慕ってくださっているのに不甲斐ないですね。



――あまり軽率にそういうこと言わないほうがいいんじゃないかしら



 やはり私は、奏さんのようにはなれなさそうです。
 咄嗟の一言に自信があるなどとは言えませんが、もう少し気の利いたことが言えたなら、もう少し落ち着いて向かい合えたなら、貴女はここで待っていてくれたのでしょうか?



――鷺沢さんって、何考えてるのか分かんないんだよね



 私はただ……

 そう、きっと私は


「確かめないと……いけません……」






「ん~?どーしたの文香ちゃん?」


 気がつくとそこには、志希さんがこちらを覗き込むように見つめていました。


「もしかしてーさっきの魔法のオクスリが欲しくなっちゃった?そんなわけないか♪」

「あ……はい……それをいただきたく……」

「ワーオ、こりゃたいへんだね!」


 人差し指を顎に当てて一瞬何かを考えたような素振りを見せた志希さんは、ニヤリと笑うと


「そういうことなら仕方ないよね~うんうん♪そこで待ってて!」


 そう言って奥の方へと姿を消しました。私が向かっていた薬品庫の方へです。

 程なくして、小さなキャップ付きの入れ物と共に戻ってきました。


「今は鍵持ってないからDPDは出せないけど、文香ちゃんが欲しいのはきっとこっちだと思うの」


 そう言って入れ物を私に差し出しました。


「落としても大丈夫なように樹脂製の容器に詰め替えといたし、本当に舐めても大丈夫だからね~」

「ありがとう……ございます……」

「いいのいいの~迷える子羊のためだから!」


 にこやかに笑って志希さんは今度はドアの方へと駆けていきました。


「文香ちゃん、どうしても確かめたいことがあるんだよね?」

「……はい」

「そっか……うん、そういうの大事だもんね」


 ドアノブを見つめ、ゆっくりと回しました。


「うん、きっとそれが解決してくれるよ、ギフテッドの志希ちゃんに不可能はないのだ~」

「本当……なんですか?」

「ホントホント~志希ちゃんウソつかなーい!」


 志希さんがドアから首だけをこちらに見せつつ最後に


「だから、“この場所で”確かめてね、そのオクスリは涼しい場所の方が効果あるから!じゃあね~」


 ドアを開けっ放しにして何処かへ行ってしまいました。







 キャップを開けて中を覗いてみました。

 サラサラと真っ白で、容器越しにひんやりと冷たさも伝わってきます。
 後でありすちゃんにも分けてあげましょう。

 ……そうです、ありすちゃんが欲しがっていました。

 しかし確かめるならここがいいと志希さんから言われています。


「確かめる……とは?」


 志希さんと言えば香水をよく調合している印象が強いですが、匂いを嗅げば良いのでしょうか?
 昔習った通りに、手で扇いでみますが……何も感じません。



――本当に舐めても大丈夫だからね



 そうです、きっとそれが正解なのでしょう。
 薬さじはありませんが、指があります。

 人差し指で触れる、ほんのり冷たい、なんだか少し美味しそうな気もしてきます。

 そして私はその指を舐……








「文香!やめて!」






ガシャン!!






 容器が転がる音がする
 
 背中が冷たいのは、私が床に仰向けになっているから

 それでも胸のあたりは温かいのは……


 何かが、顔の真上に覆いかぶさるように少し起き上がりました。

 ぼんやりと、正面を見ます。

 黒塗りでもなく、しかしあの時とも違う

 振り乱された短めの髪

 火照って赤みが差した肌

 そんな時でも整った鼻筋

 息が乱れて揺れる唇

 そして

 涙を浮かべて私を見下ろす黄金色の瞳



「いったい何を考えているの!」


 奏さんが声を荒げました。


「あなたがいなくなってしまったら……」

「私を……心配して来てくださったのですか?」

「当たり前じゃない!」


 このような奏さんを、初めて見ました。

 声も

 その目も
 
 私を押さえる両の手も

 熱を帯びて、震えている


「私に愛想が尽きたせいで、もう戻らないものとばかり……」

「ちょっと、どういうこと?私は別にそんな」

「今日のことを確かめたかったのです……何が奏さんを不機嫌にしてしまったのかと」

「そ、それは……」


 一瞬、その目が俯いて



「だってあなた、本当にときたましらふと思えない台詞を吐くじゃない」

「……?何か傷つけることを言ってしまったのでしょうか」

「そうじゃなくて、その……」


 耳元の赤みが増していく

 夕暮れ時にはまだ早い


「つまり……私のことを嫌いになってしまったわけではない……ということでしょうか?」

「嫌いになんてならないわよ!!」


 手首を押さえる手にさらに力が込められました。
 
 少し痛いです。


「よかった……それなら、また明日からもここへ来てくれますか?」

「えぇ、別に構わないけれど……ちょっと待って、もしかして」

「はい……それを確かめたくて……」

「はぁ……そんな……」


 急に奏さんの力がしなしなと抜けていきました。

 お互い誤解があったのでしょうか。





「でも、だからって何でこんな……どんな薬かも分からないのに!何かあったら!」

「それは……確かめたいことを解決してくれる薬だと、志希さんが」

「え?」


 きょとんとしたお顔も初めて見ました。
 綺麗な瞳が強調されるようで、とても良いと思いましたが、そうしていられたのも、ほんの一瞬でした。


「今、何て……」

「ですから、志希さんが……」

「志希がそう言ったの?」

「はい……ついでに、舐めても大丈夫だとも」

「……」


 急に背中の冷たさを思い出しました。
 よく冷房の効いた部屋の床に仰向けになっているからという理由だけではない気がします。


「……ごめんなさい、少し席を外すわ」


 この台詞を再び聞くことになるとは思いませんでした。

 ですが、今度はきっと大丈夫。
 
 志希さんは私よりもずっと強い人でしょうから。



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「志希さん、やっぱりわかりません!もう一度教えてください!」

「え~めんどくさーい、ありすちゃんにはご自慢のタブレットがあるじゃーん」

「その上でわからないんです!あと橘です!!」


 ほぼ日課となりつつあるありすちゃんからの質問攻めを、のらりくらりと志希さんがかわしていました。
 そしてそれを眺めるのもまた、私達の日課と言えるのかもしれません。

 こうしていられる時間がやはり何よりも大切で、愛おしいものだと改めてそう思います。
 直接そう言われるのは苦手らしいことも、最近新たに分かったことで、その発見ができたことが私には嬉しかったりします。


「還元剤って何ですか?酸の反対ってアルカリじゃなかったんですか?」

「そんなことどーでもいいじゃーん!ピンクになって、粉入れて消えたらカルキが入ってたとわかった、それで十分でしょー?」

「いいんですかそんなテキトーで!?」

「いいのいいの~♪知りたいことが知れた、結果が得られた、それだけで大満足!酸塩基とか知らなくても立派な自由研究だよ~ブレンステッド君!」

「ありすです!……じゃなかった、橘です!!」

「や~い、間違えてやんの~」

「周子さんは黙っててくださいっ!」


 ついに耐えかねて奏さんも笑いだしてしまいました。


「ふふっ、あの子達ったら本当に愉快ね」

「えぇ、そうですね……本当に……」






詳しい仕組みは分からない



この目に見えるわけでもない



それでも知りたいことが知れたのならば、今はただ、それでいい



これからゆっくり知っていけば良いのだから















そう、思えるのです。





以上です
読んでくださった方はありがとうございました


過去作です

新田美波「美しい少女役?」新田美波「美しい少女役?」 - SSまとめ速報
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