木場真奈美「月が綺麗だな」 (26)
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文香「……ええ、本当に」
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鷺沢文香(19)
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東郷あい(23)
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木場真奈美(25)
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あい「仕事が長引いた上、ゲリラ豪雨の影響で電車が止まって、三人して事務所に泊まりとなってしまったわけだが……」
真奈美「こんな月を見られるなら、そう悪くあるまい」
あい「ああ。文香君が、屋上にテーブルと椅子を持って行こうと言ったときはなにかと思ったが」
文香「……せっかくですし、少し変わったことをしたほうが気が晴れるかな、と」
真奈美「素晴らしいことだよ。状況を嫌々受け入れるのではなく、楽しもうとするというのはね」
あい「渋滞に苛々しながらタクシーに乗っているより、こちらのほうがずっと楽しいしね」
文香「……はい。ふふっ」
真奈美「しかし、我々だけワインを傾けているのは、少々申し訳ないな」
あい「志乃さんが分けてくれた絶品ものだしね」
文香「未成年ですから……。来年を楽しみにしています」
あい「そうだね。ところで、君のさっきの台詞だが」
真奈美「ん?」
あい「昨今はああいう物言いをすると、誤解されかねないようじゃないか」
真奈美「んぅ……? ああ、なるほど、漱石のせいでか」
あい「そうそう、漱石先生のおかげで」
文香「……」
真奈美「しかし、あれは都市伝説とも聞くが……」
あい「あれ、そうなのかい?」
真奈美「さて、私も聞いた話にすぎないからね。実際、どうなんだろうか。文香なら知っているかな?」
文香「……そうですね、多少は……」
あい「すまないが、浅学な我々に教えてくれないかな?」
真奈美「面倒じゃなければ、だがね」
文香「いえ、大丈夫です。……ただ」
真奈美「ただ?」
文香「……なんというか、すっきりするとは限らないので……」
あい「ほう。しかし、聞かないのはもっと気になるからな」
真奈美「うむ」
文香「では……。私の知る限りをお話しますね……」
あい「ああ」
真奈美「頼むよ」
文香「まず、世間に知られているのは……夏目漱石が“I love you”は『月が綺麗ですね』とでも訳せばいいと主張した……という逸話ですね」
あい「うんうん」
文香「……これは、英語教師であった漱石が『我、君を愛す』と直訳した生徒に対して言ったとされているものです」
あい「ほう。それは知らなかったな」
文香「ところが……この話に、明確な出典はありません」
真奈美「ふむ。授業の間のこととなるとな……」
文香「後の帝国大学講師の時代ならば講義録がまとめられた可能性はありますが、師範学校や高等学校となると、公的な記録はありませんから……」
あい「そうなると……。漱石が『こんなことがあった』と書いてでもいないと難しいわけだ」
真奈美「あるいは、生徒が漱石先生がこんなことを言った、と書いているか、だな」
文香「はい。ですが、漱石当人や生徒が、そうしたことを書き残した文書は見つかっていません」
真奈美「そうなると……」
あい「後の創作、なのかな?」
文香「……とは言い切れない部分も、あります。ええと……」ゴソゴソ
あい「おや、タブレット端末だね?」
文香「参考になる資料が、この中に……」
真奈美「ほう。文香は電子書籍もいける派か」
文香「……読むのなら、やっぱり紙の頁をめくるのがいいんですけれど、大学での資料とかを考えると電子化されているほうがなにかと……」
真奈美「なるほど。合理的だ」
文香「ああ、ありました。中勘助という人が書いた『銀の匙』という作品に、次のような一節があります。少し長くなりますが、読み上げますね」
あい「拝聴するよ」
文香「はい……んっ。
ある晩かなりふけてから私は後の山から月のあがるのを見ながら花壇のなかに立っていた。
幾千の虫たちは小さな鈴をふり、潮風は畑をこえて海の香と浪の音をはこぶ。
離れの円窓にはまだ火影がさして、そのまえの蓮瓶にはすぎた夕だちの涼しさを玉にしてる幾枚の棄とほの白くつぼんだ花がみえる。
私はあらゆる思いのうちでもっとも深い名のない思いに沈んでひと夜ひと夜に不具になってゆく月を我を忘れて眺めていた。
……そんなにしてるうちにふと気がついたらいつのまにかおなじ花壇のなかに姉様が立っていた。
月も花もなくなってしまった。
絵のように影をうつした池の面にさっと水鳥がおりるときにすべての影はいちどに消えてさりげなく浮かんだ白い姿ばかりになるように」
真奈美「なかなかに美しい情景だね」
あい「うん。目に浮かぶようだ」
文香「『姉様』というのは、『私』が十七の歳に過ごした別荘の持ち主……『私』の友人の姉であり、人妻です。さて、ここからが本題になります」
あい「ほう」
文香「私はあたふたとして
『月が……』
といいかけたがあいにくそのとき姉様は気をきかせてむこうへ行きかけてたのではっとして耳まで赤くなった。
そんな些細なこと、ちょっとした言葉のまちがいやばつのわるさなどのためにひどく恥かしい思いをするたちであった。
姉様はそのまましずかに足をはこび花のまわりを小さくまわってもとのところへもどりながら
『ほんとうにようございますこと』
と巧みにつくろってくれたのを私は心から嬉しくもありがたくも思った」
真奈美「青年の慕情と、それを察してかわしてくれる大人の女性の姿かな?」
あい「問題は、そこで……おそらくは淡い恋心を告げようとした時に彼が発する言葉だね」
文香「はい。全ては言っていませんが、月が……と言いかけています」
真奈美「それが、『月が綺麗ですね』という文言を下敷きにしているのではないかということかな?」
文香「はい。そう考える根拠もあります。実はこの中勘助という人物は第一高等学校、帝国大学英文学科と続けて漱石の講義を受けているんです」
あい「なるほど。漱石の生徒だったのか」
文香「ええ。商業作家になって以後も、二人の交流はあります。当人は幽けきつながりだと言っていますが……」
真奈美「文学の上でも師弟であったと」
文香「そうであったと思われます。漱石の周囲には多くの門下がいましたから、目立つ存在ではなかったようですが……」
あい「なんにせよ、漱石先生の逸話は、この中氏からの流れである可能性があるわけだね」
文香「そういうことも考えられる、という程度でしかありませんけれど」
真奈美「まるきりの創作と考えるよりは、まだありそうな話だと思うがね」
文香「……たとえば、これは別の話になりますが……」
真奈美「うん」
文香「二葉亭四迷は、ツルゲーネフの『片恋』、原題は『アーシャ』において、“Ваша”すなわち、英語で言うところの“Yours”を『死んでも可い』と訳しました」
あい「おや、それも、“I love you”ではなかったんだね」
真奈美「私はあなたのものよ、というところか」
文香「はい。いずれにしても女性の愛の言葉には変わりませんけれど」
あい「なるほどね」
文香「それと同じように、漱石という文学者が英語表現を日本語の情緒に落とし込んだという話は納得できるものだと思います」
真奈美「ふうむ」
文香「それこそ、出処が明らかではなくとも、伝説になるくらいに」
あい「月が綺麗であると思う気持ちを共有したい。あるいは、君と共にあると月がより綺麗だと示す……。たしかに日本的な情緒かもしれないね」
真奈美「これだけ有名になっているということは、人々がそれを納得できるものとして受け入れた……ということだしな」
文香「はい、ですから……」
あい「たとえ出典が無くとも、ありそうな話ではあり、そして、日本人の心の現し方には沿っている……といったところかな?」
文香「……はい」
真奈美「なるほどな。なかなかに面白い考察だ。漱石が言ったかどうかはわからぬまでも、人々がそう信じたというのがね」
文香「実話かどうかという意味では、すっきりしませんが、しかし……」
あい「いや、いいんじゃないかな。我々は学者でもなんでもないからね」
文香「……はい。ところで……」
真奈美「なんだい?」
文香「皆さんなら……どう現しますか? 愛しい人にそのときの思いを告げるとしたら」
真奈美「そうだな……」
あい「私なら、これだな」ポン
文香「……サックス、ですか?」
あい「ああ、一曲進呈する」
真奈美「なるほどな、あいらしい」
あい「ありがとう。それで、君たちはどうだい?」
文香「わ、私もですか?」
あい「もちろん。訊いておいて……なんてことはしないだろう?」
文香「う……。そうですね。……こう告げます。みをつくし恋ふるしるしにここまでも めぐり逢ひけるえには深しな」
真奈美「源氏物語か」
文香「それほど大事な人なら……何度でも会えると思いますから……」
あい「文香君は根っこのほうが情熱家なんだな」
文香「……そ、そうでしょうか……。あ、えっと、真奈美さんは……?」
真奈美「私か? そうだな、ふむ……」
あい「もったいぶらないでくれよ」
真奈美「そういうつもりではないのだがね。うん、こう言うかな」
真奈美「三千世界の鴉は殺しつくしてきたよ、と」
文香「……さすが」
あい「やあやあ、これは一本取られた。これは一曲馳走せずにはいられないな」
真奈美「よく言う。わざわざ持ってきているんだから、最初からそのつもりだろう?」
あい「まあね」
文香「なにを……演奏されるんですか?」
あい「Fly me to the Moon」
http://www.youtube.com/watch?v=A08oIP7iXGo
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文香「月が、綺麗ですね」
真奈美「ああ、本当に」
おしまい
真奈美さん、誕生日おめでとう。
真奈美さんとひたすら朝寝がしてみたい。
久しぶりの投下すぎてずっとsage入れてた……。フィルタかかるところなくてよかった。
東郷さんがサックス趣味っていうの活かされてるSS初めて見た
こういうオサレな人間になりたいわ…
>>23
自薦になりますが、拙作
比奈「比翼の鳥」あい「連理の枝」
では、あいさんのサックス演奏が今作より深くストーリーに関わっていますので、もし興味がありましたらどうぞ。
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