・麻子さんお誕生日記念ということで
・若干みほまこ気味です
・良ければこの辺の過去作もよろしくお願いします
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家の門の前に立って待っていると、やってきた沙織に開口一番驚かれた。
「うそっ!? なんでもう起きてるの、麻子!?」
「うるさい……」
私はしっしっと手を振る。自分でも機嫌が良くないのは自覚していた。
「だって今日始業式だよ? 夏休みはいつもの二倍増しで夜更かしになるから絶対起きられないって自分で言ってたじゃん」
「夢見が悪かったんだ。そのせいで目が覚めてしまった」
「夢……?」
「ああ、妙な夢で……」
「はいはいそこまで」
「あ、おばさん。おはようございまーす」
ぱんぱんっ、と手を叩いて玄関から出てきたエプロン姿の母さんに、沙織が礼儀正しく頭を下げる。
「立ち話してるとせっかく早く起きられたのにまた遅刻よ、早く行ってらっしゃい。沙織ちゃんもいつもお迎えありがとうね」
「いえいえー、まあ習慣みたいなものですから」
「さっさと行くぞ」
あたふたと頭を掻きながら母さんに愛想笑いしている沙織を置いて歩き出す。
「あっ、んもー! ちょっと麻子ぉ!」
「あっ麻子」
頬を膨らませて追いかけてくる沙織の後ろから、母さんが微笑む。
「車に気をつけてね」
「……うん」
◇◇◇
「んで? 夢ってどんな夢だったの?」
「詳しくは覚えてないが……」
並んで歩きながら、私は眉を寄せた。
あ、眼の下にクマできてる、などと細かいことを指摘してくるのを無視して、記憶を手繰り寄せる。
はっきりいって記憶力はいい方だ。私が授業中ノートを取らないというので文句をつけてきた歴史の教師に、眼をつぶったまま丸ごと教科書10ページ分暗誦してみせて黙らせたこともあるぐらいだ。しかし夢となるとさすがに別で、茫洋とした大づかみな内容しか浮かんでこない。これは別に
「確か……そうだ。戦車に乗ってた」
「戦車ぁ? 戦車って……あの戦車? 軍隊が乗ってるブルドーザーみたいなやつ?」
沙織が目を丸くしてすっとんきょうな声を出す。
「まあキャタピラという点では同じだが……後な」
信号の向こうに現れた大洗女子学園というプレートの掲げられた門柱と、コンクリートの校舎を眺めやる。
「学校が……船の上にあった」
「はぁ?」
今度こそ沙織はわけがわからないという顔で首を傾げた。
◇◇◇
「まあ確かに変な夢だとは思うけどさー」
昇降口でとんとんと爪先を床に打ち付けて上履きを履きつつ振り返る、という器用な体勢で沙織は言う。
もちろんここは船の上などではない、普通の学校なので波に合わせて揺れたりもしないから、変なポーズだろうと転ぶ心配は無かった。
「なんかちょっと面白いんじゃない? 悪い夢って感じじゃない気がするけどなー」
「……」
「ま、いいか。んじゃね麻子。前の始業式の時みたいに教頭先生のお話中に寝たりしないでよ。こっちがハラハラするんだから」
「余計なお世話だ」
「はいはいそれじゃね。あっそうだ」
「?」
「お誕生日おめでと、麻子!」
「……ああ。ありがとう」
それだけ言うと、沙織は隣の教室へと向かう他の女子の群れに合流する。愛想の良くない私と違ってコミュニケーション能力に長けた沙織は、早くもさんざめく少女たちの笑いの中心にいた。
「確かに……それだけなら悪い夢とはいえないんだがな」
だから私の呟きは、ぽつんとその場に取り残されたままになったのだった。
◇◇◇
「お誕生日おめでとう、麻子!」
「ハッピーバースデー!」
学校から帰宅すると、いきなりクラッカーが鳴り響く威勢のいい音が二連射で私を出迎えた。
「……もう高校生なんだからわざわざこんなのやんなくていいって言ってるのに」
仏頂面を作って髪や肩にかかった紙テープや色紙を取り除くが、クラッカーを鳴らした主たちは気にした様子もなかった。
「冗談じゃない。娘の誕生日だぞ、ここで張り切らなくてどうするんだ」
「父さん……仕事は?」
始業式の日だからまだ日は傾いてすらいない時間だ。既にポロシャツとスラックスに着替えた父さんを見て首を傾げる私に、
「家族の一大事だからって言って管理職特権で早退してきたらしいわよ」
と母さんが耳打ちする。緩い会社だな。そんなんで大丈夫なんだろうか。呆れかえる私の頭を、父さんの大きな手が撫でる。
「あの小さかった麻子もとうとう17才か! 大きくなっ…た、か?」
「もう、父さんのバカ! いい加減にしてよ!」
さすがに頬が熱くなるのを覚えて、あんまり大きさは変わってなかったかな、などと失礼な事を言ってる手を引っぱたく。
「い、痛い! 母さん、娘が俺に暴力的なんだけど!」
「あなたたち何やってるの。お皿並べるの手伝ってちょうだい」
さっさと紙テープを掃除した母さんがあきれ顔でケーキを運んできた。
私の大好きな、母さんの手作り苺ショートケーキだ。生クリームと苺の甘い香りがリビングに立ち込めた。
◇◇◇
「沙織さんが来られなくて残念ね」
「違うクラスだしな。あいつにはあいつで付き合いがある」
沙織はクラスの友達とカラオケに行くと言っていた。長い付き合いではあるが、なんだかんだで習慣化した登校時以外ではもうあまり一緒にいることもない。こうやって徐々に疎遠になっていくものかなという気もする。
「それにしてもなぁ……あーあ……あの父さんにべったりだった娘がこんなに冷たくなってしまうなんて俺は悲しい」
「はいはいそうよね、残念ね」
父さんが拗ねるのは割といつものことなので慣れている。私はもくもくとケーキを口に運び、母さんは気のない様子で相槌を打つ。
「あーあ、小さい時はパパと離れるのいやだーっ!って幼稚園に行きたがらないぐらいだったのになぁ」
「パパだけじゃなくてママとも、ですよ」
「……」
嘆く父さんに母さんが冷静に突っ込む。これもいつもの光景だ。
なのに、何だか違和感があった。
「……そんなことあったっけ?」
「ああそうだよ。おまえがあんまりだだこねるから父さんも母さんもおかげで遅刻だったんだぞ」
「でもそのおかげで助かったのよね、私たち」
「まあそうかもなあ」
「……!」
フォークの手が止まる。
不意に、唐突に、何の脈絡もなく。幼い頃の記憶が蘇ってきた。
──はなれたくない! いやだ!
あのころ共働きだった父さんと母さんはマイカー通勤で、先に父方の祖母に幼稚園に送ってもらうはずだった私がいきなりむずがりだしたので途方にくれていた。
──だめ! ぜったいいかない! パパとママもいっしょにいて!
父さんが宥めても母さんが呆れてもおばあちゃんが叱っても、私は頑として引かなかった。まるで運命に抗うかのように。
おかげで二人は遅刻……というだけの話だったら私が怒られるだけで終わっただろうが、その直後にちょうど通勤路に当たる交差点でトラックの暴走単独事故があり、もし時間通りに出ていたら事故に巻き込まれていたかもしれない……という偶然が重なったおかげでなんだかんだでうやむやになった、ような気がする。
幼い頃のこととはいえ、記憶力の良いはずの私にしてはずいぶんあいまいな、まるで夢の中のような記憶だった。
大好物のはずのケーキが急に口の中でぱさついて、味がわからなくなった。
何かがおかしい。
私は何かを間違えている……?
「どうしたの、麻子?」
「え? あ、ああ、なんでもない」
母さんに顔を覗き込まれて、私は慌てて首を振り、背中に這い寄ってきていた妙な悪寒をも振り払う。
「それならいいけど。はい、じゃあこれ、父さんと母さんからのプレゼント」
ラッピングされた包みを開くと、中に入っていたのは白いアクセサリだった。
「髪留め?」
「カチューシャよ。あなたも大分髪長くなったし、似合うと思って」
「……」
付けてみると、それは誂えたように私の額にぴったりはまった。まるで長年連れ添った身体の一部かのように。
そのことさえ、却って私の不安感を増幅させるのには十分で……
可愛いじゃないかとはしゃぐ父さんや、すぐ調子に乗ってと呆れる母さんの笑い声さえ、なんだか水の中にいるように遠くくぐもって聞こえるのだった。
◇◇◇
「え? まだ悪い夢が続いてるの?」
「そうだ」
私は寝不足の目をしょぼしょぼさせながら通学路を歩く。
あれからも海の上の学園と戦車の夢は続き、記憶は薄れるどころか日ごとに鮮明さを増していた。
「寝るのが怖い……夢を見たくない……」
「だからさー、そんなに戦車だっけ? 嫌がらなくても」
「おまえは全然分かってない!」
まなじりを吊り上げて睨みつけると、沙織はびくっとして、
「ご、ごめん……」
と肩を落とした。
「いや、その……悪かった。大声を上げて」
私は気まずげにもごもごと言い、目を逸らす。
その夢の最悪な部分は告げていないのだから、沙織に分かるはずがなかった。
その夢の中には、父さんと母さんがいない。
いない、という事実だけではない。
引っ張り出された喪服の樟脳の匂い。
何日もうずくまった部屋の、ほつれた畳が頬に当たる感触。
しわがれ弱ったおばあちゃんの……おばあの声。
五感と繋がった記憶がふつふつと、着々と。私の中で確固たるものとして形成されていくのが、何よりも。恐ろしくて仕方がなかった。
──あの奇妙奇天烈な世界は、本当に夢なのか?
もしかして、こっちの方が夢ということはないのか?
邯鄲の夢の故事ではないが、所詮現と夢を分けているのは、究極的には、私の主観だけだ。
私の主観が入れ替われば、夢と現も入れ替わるのではないか?
思わず伸ばした指の先に力を入れる。
ぎゅうううっ……
「痛ったぁぁぁ!? 何すんのよいきなり!?」
「あ、すまん」
「すまんじゃないわよぉ!」
気が付いたら無意識に沙織の頬を思い切りつねってしまっていた。どうやら少なくとも沙織の主観においては、ここは夢の中ではないらしい。
「あーもう……それにしてもさあ、麻子だったら夢ぐらいなんとかできるんじゃないの?」
涙目で頬をさする沙織が、そんな提案をしてきた。
「なんとかする……だと?」
「だって、夢を見てるのは麻子自身でしょ。だったら夢だって気づけば嫌な夢だって抜け出せるんじゃないの?」
「……なるほど。おまえもたまにはいいことを言うな」
「たまにはって何よー」
ぷんぷんと擬音が付きそうな勢いでむくれるのを聞き流しながら、私は思案を練っていた。
◇◇◇
要は夢の内容を自分でコントロールしてしまえば、妙な記憶に悩まされることも無くなるはずだ、という理屈だ。いわゆる明晰夢という状態に持ち込めばいい。
明晰夢を見るための手法というのは確定的なものはないが、ターゲットとなる夢の内容をイメージするのが大事らしい。私の場合すでに夢の内容が明瞭に定まっているわけだから、ある意味第一段階はクリアだ。あとはその世界の動きに自分が関わらないように、できるかぎり存在を消していけばいいのだろう。
まずは夢の中にいる自分をイメージし、戦車やらなんやらの活動から離れる。あの変な世界の中の自分の存在価値を無くしてしまおう。
できるはずだ。早起きを除けば、自分の意志力には割と自信がある。
できるはずだ。
私は暗示のように自分に言い聞かせながら眠りについた。
◇◇◇
結論から言えば、その試みは拍子抜けするほど上手く行った。
あの奇妙な世界は、夢にしても印象が強すぎる。すぐに夢の中にいることを自覚できた私は、注意深く周囲との関りを避けた。行きつ戻りつする時間軸の中で、戦車の部活……授業? に誘われてもそのたびに固辞し、拒否し、孤立を保った。
何夜かこの試みを繰り返すうち、結果は徐々に表れた。
夢を鮮烈なものにしていた戦車での激しくも華やかな戦いは徐々に色を失い、当初は次々に試合を勝ち進むはずだったイメージは消え、最終的には早々に全国大会一回戦で敗退という展開に固定された。船の上の大洗女子学園はそれでも善戦したようだが、最後の最後で主力の戦車が操縦を誤って仕留められ、包囲されて全滅したという。
──西住流も大したことなかったね
──最初の練習の時から負けてたしね
そんな非難というには力の抜けた声が聞こえてきたころ、学園の廃校と解体が発表された。
私はただの一生徒として、それを聞いた。世界が色を失うのと歩を合わせるように、父と母を失った実感も記憶も色あせ、薄れ始めていた。
◇◇◇
「なんかさー、元気ないね。まだ悪い夢が続いてるわけ?」
「いや、そんなことはない。よく眠れている」
「そう? その割には元気ないけど」
沙織は鈍感そうに見えて、変なところで察しがいいから困る。
いつもの通学路を歩きつつ、覗き込もうとする視線から私は顔を逸らす。
「とにかく、問題などない」
そうだ。問題など何もないはずだ。
全て上手く行っている。一時私の現実を侵食しかけていた妙な夢は、力を失い縮小しようとしつつある。
このまま私の中から消し去ってしまえばいい。それで解決だ。なのに。
──麻子さんなら大丈夫
──ふふっ。麻子さんらしい
あのふわりと柔らかいくせに、ときとして凛々しい声だけが、どうしても耳から離れてくれないのだ。
「なあ沙織」
「何?」
「……自分の幸福のために友達を犠牲にする人間をどう思う?」
普通だったら、何言ってんの? と笑うところだろう。だが私の様子がよっぽど深刻だったのか、沙織はぽかんと開けかけた口を引き締め、じっと私を見た。
「……それって、麻子の事?」
「どうだろうな」
「じゃあまあ、麻子かもしれない誰かさんのことだとして」
沙織は考えるように、視線を宙に彷徨わせた。
「私は部外者だし事情も知らないから、何が正しいとか間違ってるとかはわかんないけど……その誰かさんが後悔しないと思うような方法を選ぶしかないんじゃない?」
おまえは部外者じゃない。おまえだってあの世界の一員なんだ。などと抗議することに意味は無かった。
沙織の言う通り、これは私自身の夢の中の話。
私が自分で決断するしかないのだ。
◇◇◇
再び夢の中、海の上の学園の解体が決まった夜。
私は気づいたら、戦車の置かれるガレージに居た。
最後の夜だというのに……いや、最後の夜で引っ越し準備に忙しいからこそか。そこは人っ子一人おらず、静まり返っていた。
いや、一人だけいた。
「……西住さん」
彼女は、わずかに肩を落としてガレージの前に立ち尽くしていた。
声をかけると、遅刻寸前の朝に一度だけ会っただけの間柄である私を認めて、首を傾げる。
「ええと……沙織さんの友達の……」
「冷泉だ」
それだけ言って、その隣に並ぶ。見るともなしに、ガレージの中でうなだれている戦車を眺めた。
「西住さんは……これからどうするんだ?」
今後の身の振り方の話題。この学園の生徒全員にとって今喫緊にして最大の問題のはずだった。私を除いては、だが。
私にとってはこの世界の進級も転校も、もはや関心事からは外れている。ただ気まずい沈黙を回避するための場つなぎだった。
「黒森峰に……前の学校に戻ることになってるの」
「そうか……」
「前よりもっと居場所、ないと思うけど……ほかに行く当てもないし」
夏だというのに肩を震わせる様子は、まるで籠に連れ戻される小鳥のようで、さすがに見ていられなかった。
「……ごめんね」
西住さんがぽつりと言った。
「学園を救えなかった。私の力が足りなかったせいで」
「そうじゃない」
何も言わないでおこうと思ったのに、これ以上関わるなと理性は告げているのに、気が付いたら私は勢い込んで言い返していた。
「西住さんが悪いんじゃない。ただ、必要なパーツが足りなかっただけだ」
「……」
こげ茶色の瞳が、ぽかんとしたように私を見つめた。
それから、ふふっ、と、あの柔らかい笑みを浮かべる。
「なんか……冷泉さんって不思議。もっと前から会ってたことがあるような気がするな」
「……それより聞きたいことがある」
「何?」
私は半分、話を逸らすために早口で問い掛けた。
「西住さんは前の学校で、川に落ちたチームメイトを助けたって聞いた。後で無謀だとか無意味だとかスタンドプレーだとか、二次被害の危険だとかリーダーとしての責任だとか、いろいろ言われて自分が辛い立場に置かれるって予想できてたはずなのに。最終的にはこんなことになるかもしれないって、知ってたはずなのに。何で助けたの?……助けられたの?」
えっえっ、私そんなに頭良くないからそこまで考えられなかったよ…!とひとしきりあわあわしたあげく、西住さんは首を捻って、言葉を探していた。
「理由……うーん……そんなのなかったかも」
「理由、無いのか」
「仲間で…友達だからかな?」
「友達だったのか?」
「う、うーん、向こうはそう思っててくれたかはわかんないけどっ……」
またしどろもどろになる西住さんを見つめながら、私は理解していた。
この世界は、彼女のためにある世界なのだ。両親がいる私にとっての現実が、私のためだけにある世界なのと同じに。
そして二つは両立できない。私が脱け出したせいで、この世界はセピア色に沈んで崩れかけようとしている。
「西住さん……もし私が逃げ出さずに戻ってきたら、西住さんと同じように仲間のために自分を投げ出せたなら……また友達だと思ってくれるか?」
仮定に仮定を重ねた、どうしようもないすがるような問いが飛び出してしまっていた。こんなことを今の彼女に訊いたところで、何の意味もないのに。
でも彼女はそんな私を非難する様子もなく……
「ありがとう、麻子さん」
知るはずのない私の名前を呼んで、にっこりと微笑んだのだった。
「麻子さんがどんな選択をしても、どこに居ても」
私たちはずっと友達だよ──
◇◇◇
「……麻子。麻子っ」
「……え?」
「どうしたの?食事中に寝ちゃうなんて」
突然幻影から覚めたように、私は自宅の食卓に居た。
目の前には父さんと母さんがいる。
いつものように。
「最近様子がおかしいぞ。体調でも悪いのか?」
「……」
父さんには、沙織と同じような事を聞かれた。
でももう、問題ないとはとても言えなかった。
問題はある。明らかにある。でも……でも……
「どうすればいいか、わからないんだっ……」
私はテーブルに両こぶしを叩きつけた。
「こんなのどうすればいいっていうの? しなきゃいけないことはもうわかってる。私は逃げてるんだってことも……でも逃げるのを止めたら、父さんと母さんは……!」
繰り返し叩きつけようとしたこぶしが、暖かいものに受け止められた。
二人の、父さんと母さんの手が、私の手を包み込んでいたのだ。
私は目を見開き、思いもまとまらないまま、支離滅裂に言葉を並べ立てていた。
「……私、助けたい友達がいるんだ。私を誰よりも信頼してくれて、自分の運命も未来も、何もかも預けてくれた友達の力になりたいんだ。でも、それをしたら……」
父さんと母さんを見捨てることになる。運命に反抗してまで私が取り戻したはずの幸せは、泡沫の夢のように消えてしまう。
今私は、まさしく境界線の上に立っていた。
ここから一歩踏み出せば、もう一方の世界は跡形もなく崩れて消えうせるのだろう。
選ぶ事なんて、到底できそうにもなかった。
ぽろぽろと涙をこぼす私を、母さんの暖かな腕が包み込む。父さんの大きな手が、頭を撫でる。
『行ってあげなさい、麻子。あなたの友達のために』
『父さんたちのことは心配するな。少しの間でも、おまえと一緒に居られて嬉しかったよ、麻子』
二人の声は優しかった。私は子供のようにすすり泣きながら、その声を、匂いを、温もりを、五感に刻み付ける。
自分の信じる道を進め。後悔することのないように。
自分の心の命じるままに行け。友と仲間のために。
二人はそう云った。ただの私の幻想や妄想じゃない、娘にかける、父と母としての言葉だった。
いつの間にか私の背丈は本当に子どもの高さになって、両親を見上げていた。
「うん。私、行くね」
もう迷わない。
この暖かな空間を去るのは身を切られるように辛いし、これからずっと、苦しい記憶を抱えて生きていくことになることもわかっている。
でも、もう子供みたいに運命にだだをこねたりはしない。かといってすべてを運命のなすがままに任せたりもしない。
私は戦う。彼女と共に、あの妙ちきりんで理不尽な世界で、最後の結末を見届けるまで。そう決めたのだ。
「行ってきます」
だから笑って手を振った。
『『行ってらっしゃい、麻子』』
笑って見送る両親の姿が、やがてセピア色の光に包まれて見えなくなっていった。
◇◇◇
生きるのはときとして辛く、朝目覚めるのはそれにも増しての苦行だ。
だが、行く。行かねば。
あの緑の野へ。
彼女が待つ場所へ。
ひとときの夢から覚めて、彼女の世界を構成するパーツの中の一つに為るのだ。
無数のパーツの中の、たった一つに。かけがえのない、たった一つに。
「あぶない!」
その声を合図にするように、私は目を開け、書を捨てて起き上がる。
ふわりと力強い腕に抱き上げられたかのように私の身体は宙に舞い、次の瞬間には固い金属の装甲の上に着地していた。
目の前で、あのこげ茶色の瞳が驚いたように私を見つめていた。
ついでに横のハッチが開いて、あの沙織が……戦車と工事機械の違いも大して理解していなかったはずの沙織が、さも当然のような所作で姿を覗かせたが、それはとりあえず置いておいて。
私は無表情に、こげ茶の瞳を見つめ返す。
(来たぞ、西住さん。さあ、どこへだって行ってやる)
もう涙は流さない。流れるはずがない。さっきまで見ていた気がする夢の記憶は、もはや綺麗さっぱり消え去っていたからだ。
あのかすかな温もりの気配と、額の前髪を留めるカチューシャの感触だけが、境界線上の忘却──アムネジアが拭い損ねた、最後の残滓だった。
【終わり】
・だいぶ遅刻しましたが終わりです
・読んでくれた方ありがとうございました
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