1989.05
あたしは今、とっても幸せだった。
一緒に話せる友達が出来た。
苦楽を共有する仲間が出来た。
母親の虐待に怯えることもない。
遅刻だってしない。
当たり前のことでも、それらは全て悟がくれたものだ。
私だけじゃ、どれも手に入れることは叶わなかった。
だから、彼は私にとってヒーローだった。
一生懸命で、真面目で、だけどたまに無鉄砲で。
私のずっと前を歩き続けて、私の手をずっと引き続けてくれた。
自分の事を顧みず、いつだって誰かの為に戦っていた。
周りと決して差はない筈の、小学生の小さな身体で、しかしその全てを背負って。
私を、絶望の底から救い上げてくれたんだ。
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あたしは一年と少し前、母親とその彼氏から虐待を受けていた。
毎週、水曜日に体を痛めつけられて、土曜日には顔を殴られた。
傷の絶えない私の顔や体は、マフラーや服でなんとか隠すことでようやく登校が許された。
時には、月曜日に遅刻や欠席をしてでも傷を隠した。
でもそれは、今思えば、隠蔽するにはとても拙い形になっていたと思う。小学生の私に思いつく限りでは、隠すにも限界があったから。
きっと、悟はそれに気付いた。
だから悟は、私の為に戦う事を選んでくれた。
そこに悟へのメリットはなくても、それでも走り出してくれたのは、彼が見返りなんて求めない純粋な正義の味方だったからだって、あたしは思う。
それをずっと側で見ていたあたしにとって、悟。
貴方は掛け替えのない存在だった。
失いたくなかった。
だから。
お願いだから。
どうか神様、時間をあの頃へ巻き戻して。
今のあたしの幸せが、無くなっちゃうくらい前に戻ったっていい。
彼は本当に、正しいことの為に頑張ったの。
もう充分戦った。
私ももう充分幸せになった。
だから。
私の時間と引き換えに、悟の時間を返してよ。
お願い。
そう思ってしまうようになったのは何時頃からだっただろうか。この儚い願いは、心の空へ投げ出され、雲に乗って飛んで行く。
心の空はとても曇っていた。もしかしたら、私は、その雲を払いのけ、綺麗な星空を見たいのかもしれない。
この願いが届いなら、空はきっと晴れるに違いないって。
そしてそこには、私だけじゃなくもう一人、居なくちゃいけない人がいて、大きなクリスマスツリーの下で、満遍なく空に広がる沢山の光に照らされて、それで、それで―――。
ピピピ――。
ピピピ――。
ピッ……。
「……」
いつの間に寝ていたんだろう。
時計の針は、あたしの登校時間を示していた。
眠気で開ききらない目を擦りながら、ゆっくりと立ち上がる。
「……あ」
その答えはすぐ近くにあった。
視線を軽く落とすと、一冊の漫画が開いたまま床に置きっ放しになっている。
『ワンダーガイ』
ヒーローものの、少年漫画。
悲哀を背負いながら、戦えるのが自分一人であったとしても、戦い続ける正義の味方。
彼は、みんなの想いがあるから頑張れると、一人ではないんだとそう言った。
昨日は途中まで読んで、そのまま寝てしまったのか。
およそ、女子の私物にしては似つかわしくないだろうと思う。
でも、これはあたしにとって、本当に大切なものだった。
だって――
「悟っ……」
私の、大切な、大切な人の、想いと、勇気がここには詰まっているのだから。
悟が目を覚まさなくなったあの事件の日以来、あたしは、毎日の様に、悟の眠る病院へと通っている。
私ももう中学生、あれから実に一年以上の時間が経過していた。
そんなあたしを見てか、ケンヤ君や悟のお母さんはあたしを心配しているようだった。
自分でもみっともないことくらい、わかってる。
きっと悟も、折角自分が救い出したあたしが、いつまでも同じ場所に踏み止まっているのを知ったら、喜ばない。
でも、あたしには未だに新たな一歩を踏み出せずにいた。
悟を置いて行くのが怖かった。悟を失うのが怖かった。あたしの中で、悟はそれだけ大きな存在だった。
普通の女の子としての自由。
それを悟はあたしに与えてくれた。
でも、あたしは普通の女子中学生としての生活を歩んでいるとは、決して言えない。
その事への後ろめたさもあって、あたしは自分が本当に価値ある存在なのかと、自身に問い質してしまう。
無意味な事だとわかっていても、悟が信じてくれたあたしの事を、あたしはまた見失いかけている。
そしていつしか――
〔あたしじゃなくて、悟に助かって欲しい〕
そう思うように、なってしまっていた。
こんなの、悟に聞かれたら、馬鹿って言われるに違いない。
でも、それを聞いてくれる悟は、もうずっと眠ったままだ。
だからあたしは、『もしあの時に戻れたなら、悟を拒絶したい』そう思うにまで至っていた。
あたしが例え虐待され続けて、もしそれで死んでしまって、そんな未来があったとしても、悟には生きていて欲しい。
そう思えるだけのものを、あたしは充分に悟から貰った。
だからもう満足、だなんていうのは、今の環境が作られた事に胡座をかいて語ってるだけの、自己中心的な願いなのかもしれない。
それでも。
あたしは、思わずにはいられないのだ。
――あの時あたしがああしていれば、救えたかもしれない――
「……思い上がりだべ」
朝の歯磨きを終えて、唾を吐き出すと、鏡に映る自分に、悪態をついた。
本当に、あたしは、駄目だね。
「あ……。目、ちょっと腫れてる」
よくよく見ると、あたしの目蓋は赤く腫れていた。
「……一限目は遅刻して行くべか」
もうずっとしていなかった遅刻だけど、今日はなんだか本当にあの頃のあたしへ戻ってしまっているような気がして、みんなと会うのが少し、躊躇われた。
ざぁーー、ばしゃばしゃ、キュッ……。
水で顔を軽く洗うと、暗闇の中にあの日々の光景が浮かび上がった。
「……悟」
軽く顔を拭いて、自室に戻る。
壁にもたれかかり、床に置かれている漫画を手に取って、一枚一枚、ページをめくって行く。
所々に水が乾いた跡があるのは、もうこの本を何度も読み直している証だった。
「……ふふ、読んで見ると意外と面白いべ」
時々挟まるユーモアに、軽く笑みが溢れる。
何度も読むのは、単に悟のことを知りたかっただけではなく、この漫画が色眼鏡なしに面白いことに所以した。
「何事も踏み込んでみること。それを教えてくれたのも、悟だべ」
悟は何もなかったあたしに、いろんな物を与えてくれた。
感性なんて、よくよく考えてみれば育って行く上での見聞きから作られるものなのだから、少年漫画だって少女が好める可能性は幾らでもある。
「……本当に感謝してる。今があるのは悟のおかげ。幸せだよ」
あたしのヒーロー。
それと同時に、みんなのヒーローでもあった悟。
みんなの一人ぼっちを無くそうとして奮闘した、勇気がある少年。
あたし達を背負って戦う姿はこの漫画のヒーローそのものだ。
だから、失ってはいけないんだ。
「だから、みんなにはまだ悟が必要なの」
だから、目を覚まして欲しいんだ。
「だから、お願い神様」
――どうか――
――――ドクンッ――――
――――
―――
――
「ん……ふぁ……」
欠伸をする口を軽く手で覆うと、ハッとなってすぐさま時計を覗き込んだ。
「やば、学校っ!」
しかし、殆ど時間は経っていない。
(……あれ?)
とにかく学校へ向かおうと、鞄を手に取ろうとする。
そして次の瞬間あたしは、驚愕することになる。
「……嘘」
目の前には、ランドセルが置かれていたのだから。
(え?)
(は?)
頭の中に、何度も、何度も、疑問符が浮かび上がる。
訳がわからない。
それに、ここは、この家は……。
「お母さんの、家、だ……」
#1 悟だけがいない街
END
なんでケンヤと結婚したんだっけ
この時のあたしはまだ、知る由もなかった。
あたしの、ただ一つの願いが、この先全ての歯車を変えて行くという事を。
#2 始まりの地
>>23
加代が結婚したのはヒロミだよー
この時のあたしはまだ、知る由もなかった。
あたしの、ただ一つの願いが、この先全ての歯車を変えて行くという事を。
#2 【始 ま り の 地 1988.02】
忘れるはずがない。
全てはここから始まった。
そして、同時に激しい嫌悪感に苛まれる事になった。
「うぇ、ぷ……」
急いでトイレへと駆け込んだ。
また、ここへ帰ってきてしまった。
あの、日常に。
あの、最低な家に。
「……でも」
でも、もしかしたら。
もしかしたら……!!
とんでもない、絶望。
でもそれは、あたしにとってとんでもない希望でもあった。
もしこれが現実なら――。
あたしは急いで身支度を整える。体のそこかしこにあった痣を隠すために、冷やしたり、目新しい傷はマフラーで隠したり、極力その痕跡を残さないように。
そして、前よりもっとしっかりと、誰にも気付かれないように。
今のあたしにはその知恵があった。
次に日付けを確認した。
時刻は朝の8時。日付は……2月15日の、月曜日だ。
そういえばあの日のあたしも遅刻していったっけ。
月曜日は、あたしが必ず遅刻か欠席をする日だ。
だから今日こうして遅刻することに違和感はない。
だからこそ、効率的に時間を使って、出来うる限りを尽くして痕跡を隠してみせた。
そして。
「……いってきます」
あたしにとって、二度目の一歩を、踏み出した。
(あ、雪……)
辺り一面は雪で真っ白に塗り潰されていた。
そっか、二月だもんね。
あたしは、手袋をしていない手をそっとポケットに突っ込んだ。同時に、手袋も買ってもらえなかったんだなって、思い出した。
ざむ、ざむ、ざむ……。
雪を踏む音が、一面の銀世界へ舞い、そして風とともに灰色の空へ吸い込まれるように消えていった。
あたしの足跡も、遠くの方は既に降り積もる雪で消えている。
まるで、あたしがここに居たという事実を、掻き消していくかのように。
まるで、あたしがこれから消えていくのだということを、案に示しているかのように。
(ちょっと……自意識過剰過剰だべか)
ばすっ。
「痛っ……」
なんだか虚しい気持ちになって、軽く雪を蹴飛ばした。少しだけ、懐かしい痣の痛みが太ももへと走る。我ながらちょっと情けない。
(……この痛みも随分、久しいべ)
もうずっと感じていなかった痛み。
お母さんの虐待の痕跡。
でも今の痛みは、そんなに不愉快ではなかった。
だって、あたしの居た世界では、この痛みから救ってくれた人がいたから。
その人のことを思うと、この痛みも受け入れられるような気がした。
色んなことへ思いを馳せながら歩いていると、いつのまにか校舎についていた。
『昭和63年 アイスホッケー部全国優勝』
ああ、ここだ。
あたしが一年とちょっと前まで通っていた、小学校だ。今の私があることの、始まりの地だ。
そして……
――だだだだだっ――
「……!」
「母さん、待ってて……母さん!」
彼の居る場所へ。藤沼悟の居るあの時間へ。
.
(悟!!)
「悟!!」
声に出ていた。
あたしのバカ。
悟は一瞬足を止めると、こちらへ軽く手を振りまた走り出した。
あの日もそうだ。悟はここであたしとすれ違った。
この日、悟と、悟のお母さんに何があったのだろうか。改めて見れば、必死そうな顔だった。
再開は午後かな、ちょっとお昼ご飯
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