青葉「けしの花びら、さえずるひばり。」 (557)
前置き
・艦娘=適合する人間設定
・基本一人称ですが、地の文が入るかも
・他にも独自設定ありかも
・重い描写あり
・更新はまったり目
お読み頂ける際は、上記の点にご注意願います。
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夜の執務室を開けると、よく音楽が流れてるんです。
それはその日の任務も終わって、いつも司令官が 一人になる時間。秘書艦を務めることが多い青葉は、夜に用ができて執務室を訪ねることも多くて。
そのメロディと歌詞を、何となく覚えてしまったんです。
日々の中で、時折その曲を思い出しては、彼の顔が浮かぶんですよ。
どんな時も穏やかで、何が起きても焦ったりはしない。その冷静さに救われる事もあるけど、たまに、彼が怖くなるんです。
昔仲間が死…いや、沈んでしまった時も、彼はあくまで皆を慰める為に動き、同時に慌てるそぶりも見せなかった。
優しい鉄面皮だって、思ってしまう時があって。
司令官が笑うたび、執務室でよく掛かってる曲の一節が、頭を過るんです。
『笑いながら死ぬ事なんて、僕には出来ないから』って。
初めてそこに出くわした時、彼はタイトルを教えてくれました。
天国旅行。
彼にとっての天国とは、何なのでしょうか。
いつも取材として色んな事を探ってる青葉も、これについてはずっと訊けないままでした。
でも、記者魂と言う奴なのでしょう、青葉はその件に関して、結局深入りしてしまったのです。
結果として、確かにネタが出来ました。
ただしそれは、誰にも見せられない記事で。
これは、その記録です。
私とあの人だけの、秘密の。
「おっはよーございまーす!」
「ああ、おはよう青葉。」
こんなやり取りで、青葉と司令官の一日は始まります。
司令官はキツネ顔と言いますか、目の細い方で。いつも穏やかなアルカイックスマイルを浮かべています。
温厚にして、仏の顔も三度までと言った事もなく。怒っている時を見た事がありません。
作戦時も冷静沈着、人に注意をする時も、諭すように的確に。
皆に好かれてはいますが…感情が見えなすぎて人間味に欠けると言う評価も、一部の艦娘からはありました。
元々ジャーナリスト志望だった青葉にとって、そんな彼は興味の的でした。
だって、気になるじゃないですか。提督としての顔を外した時は、どんな人なんだろうって。
もしかしたら、それは個人としての興味でもあったのかもしれません。
だから青葉は着任した時から、色んな質問を投げかけては情報を集めていました。
好きなものや趣味や、たまに恋愛遍歴なんかも訊いちゃったりして。
「今彼女さんとかいないんですか?」
「いないなぁ。結構前に振られちゃったんだよ。」
「ほうほう、どんな理由で?」
「何考えてるか分からないって。普通にしてただけなんだけどね。」
もしかして、プライベートも仕事と同じなんでしょうか?少し、元カノさんの気持ちもわかる気もします。
こうやって普通ならちょっと考えたり焦ったりしそうな質問をしても、彼は相変わらずでしたから。
そんな事を繰り返していくうちに、秘書艦を頼まれる事も増えてきました。
一番仕事以外でも話してる分、頼みやすいからと言った理由で。
秘書艦をやると言う事は、接する時間も増えるという事。そんな中で、青葉は徐々に、彼の素の顔にも触れていくのでした。
“書類の印刷忘れちゃったなぁ、戻らなきゃ。”
ある夜の事でした。
1日の終わり、仕事の抜けに気付いて執務室に向かったんです。
それで扉の前に立つと、どこかで聴いた歌が聴こえて来ました。
“あれ、この曲確かお父さんが聴いてた…。”
その歌声は小さい頃、父が車の中で掛けていた音楽だった事を思い出して。
不思議に思いながら、執務室の扉を開けたんです。
“司令官…?”
司令官のそんな顔を見たのは、数少ない事でした。
無表情なんです。いつもの微笑も無く、まるで魂が抜けたようで。
でもいつもと違うように見えたのは、それだけじゃありませんでした。
“目が遠くに行ってる…疲れてるのかな。”
ノックをしても返事も無かったし、ぼーっとしていて、青葉にも気付かないまま。
思わず声を掛けて、やっと彼はこちらに気付いてくれました。
「…ああ、失礼した。忘れ物かい?」
気付いた瞬間には、やっぱりいつもの顔。
いざ変化するのを見ると、貼り付けた笑みに見えてしまって…その時、少し彼が怖くなりました。
「随分古い曲ですね、お好きなんですか?司令官の世代じゃないと思ってましたけど…。」
「ああ、思い出があってね。青葉もよく知ってるな。」
「お父さんが聴いてたんですよ。何て曲でしたっけ?」
「天国旅行。」
「あー!確かそんなタイトルだった!
…ところで司令官、この曲の思い出って何でしょう?気になりますねえ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
そうやっていつものノリで尋ねたのですが、せいぜい思い出話ぐらいしか返ってこないだろうと思っていました。
「……青葉、天国ってあると思うか?」
ところが返ってきたのは思い出ではなく、素っ頓狂な質問でした。
「天国ですか…私達艦娘って、各々適合する艦の記憶を、ある程度共有してるわけじゃないですか。
それって幽霊が憑いてるようなものだから、きっとあると思います。」
この時は艦娘研修で習うような解釈しか、青葉には答えられませんでした。
でもそれを聞いた司令官は……。
「なるほどな…僕は見た事があるよ、天国。」
その瞬間、カッと目を開けて笑う司令官を、初めて見たんです。
ゾッとするような、普段は細い目の奥を。
「あはは…そ、それはどんなところだったんでしょうか?アレですか、お花畑が広がってるような…。」
「違うね。もっと素敵な所だ。」
本音を言うと、遅い中二病でも罹ってんのか!なんて思いましたねぇ。
仮にも三十路手前の方が、まさかそんな事を言い出すなんて。
「これを聴いてると、そこを思い出すんだよ。また行きたいなぁ…。」
相変わらず、目線は遠くを見たままです。こちらには目もくれない。
この時初めて司令官の腹の底を見た気がしたのですが、却って彼の事が、余計に分からなくなった気がしました。
分かった事なんて、彼はその天国にとても焦がれている事ぐらい。
少年のような純粋な目で語って、だけどとても不気味で。そこに気を取られている内に、流れていた曲の事なんてどこかに行ってしまいました。
彼の語る天国は、その曲がよく表している事にも気付かないで。
また幾日か過ぎた頃でした。
たまにその日の戦況を収めた写真が司令官の元に送られてくるのですが、私はこれが苦手で。
戦況や殺傷効果のサンプルとは言え、要は死体写真です。自分の戦闘が終わった後も改めて見るのは、少々堪えるものがあります。
司令官はいつもの如く渡されたUSBを開いて、それを淡々と確認していました。
少しずつ分かった事なのですが、司令官の口が真一文字になる瞬間は、二つあって。
一つは真剣に作戦や資料に向き合う時と、もう一つは物思いに耽る時。
モニターに映る敵の写真は、それはひどい有様で。最期まで抵抗したが故に、どれも深い苦悶の顔を浮かべていました。
写真を見る司令官の口は、真一文字でした。
でも本当に何となくですが、後者のような気がしたんです。
それはこの前、天国の話をした時のような。
「さ!司令官!そろそろ次のお仕事に戻りましょー!」
「ああ、すまない。ぼーっとしてしまったね。」
物思いに耽る時の彼の顔は、あまり好きにはなれませんでした。
何か、底知れないものがあるような気がして。
司令官は音楽がお好きなようで、ポータブル用のスピーカーを机に置いていました。
でもいつも掛けているわけではなく、流すのは、必ず一人になってから。
だから普段どういうものを聴いているのかは、夜も執務室を訪ねる青葉ぐらいしか知りません。
何というか…暗いものや、静かなものが多いんです。洋邦問わず様々なものが流れているのですが、一貫しているのはそれでした。
私はそこに出くわすと、特に歌詞に耳を澄ませるようになりました。
普段のアルカイックスマイルの裏は、その趣味の中にあるのかもって思って。
司令官はいくつかプレイリストを作っていて、その日の気分で変えていました。
でも一曲だけ必ず入っているのは、やっぱりあの曲で。
“泣きたくなるほどノスタルジックになりたい…かぁ。
司令官、泣く事なんてあるのかな?”
彼の方を見ても、やっぱり相変わらずの笑顔。
この時ふと、青葉は彼の人間らしい部分を見てみたいと思いました。
「司令官、この曲だけは毎晩聴いてますよね?もう段々覚えちゃいましたよ。」
「名曲だよ。何度聴いても落ち着くね。」
「…やっぱり、何か思い出でもあるんじゃないですかぁ?」
「思い出か…あるよ。」
「お!教えてくださいよー!」
「メモ帳を仕舞ってからにして。
そうだな……僕は、一度死に掛けた事がある。」
「………え?」
思わずペンを落としてしまったのは、その時の事でした。
「昔怪我をしてね。臨死体験って言うんだろうか…夢を見たんだよ。
その時のことを、これを聴いてると思い出すんだ。」
「臨死体験って…そんなに危なかったんですか!?」
「意識不明でICU送りだったね。確か目を覚ました時は…ああ、怪我から5日ぐらい経ってたなぁ。」
「良かったですねえ…治って…。」
思いの外深刻なエピソードに、気が動転してしまいました。
だから深くは追求せず、そのまま寮に戻ったんです。
そのまま椅子に座って…青葉は、ある事を思い出しました。
“なるほどな…僕は見た事があるよ、天国。”
“これを聴いてると、そこを思い出すんだよ。また行きたいなぁ…。”
激しい悪寒が背筋を駆け抜けて行ったのは、その時の事でした。
同時に、ゾッとするような彼の目も思い出して。
“司令官……何があったんだろ?
よーし、こんな時こそ記者魂!吐き出させて楽にさせてやるんだから!”
この時青葉は、彼が何か深刻なものを抱えている気がしました。
だから、取材と称して吐き出させれば、彼ももう少し、人に素を見せられるんじゃないかって思ったんです。
これは、記録の1ページ目。
そして20歳前後の青葉の人生の中で、人と言うものを一番深く探った記録の、始まりなのでした。
今回はここまで。
ある日の事でした。
姉妹艦でもある、同僚の衣笠からある噂を聞いたんです。
「青葉ー、聞いた?○○鎮守府の提督が行方不明だって。」
「え!何それ!」
「私用で出かけたっきり戻らないんだって。脱走扱いでそのままクビじゃないかって噂だよ。」
「あらー、大変だねぇ。駆逐にでも手え出しちゃったのかなぁ。ねえねえ、それっていつ?」
「三日前くらい。まああそこ、ブラ鎮だって噂もあったもんね…上に消されてたりして。」
「まさかー。」
三日前…確か司令官も、その日出張でいなかったよね。
翌日には帰って来ましたけど、思い出しても変な様子はありませんでした。
いつも通り、あの笑みで仕事に戻って。
いつも通り、取り留めのない話をして。
ただ少し気になるのは…何だかその日の音楽は、気だるいものが多かった気がする。そのぐらいでした。
その日の夜、何となく執務室に行ってみました。
最近は大した用事が無くても、少し顔を出すようにしていて。
表向きは尻尾を掴んでみたいって考えでしたけど…実際のところ、やっぱり気になっていたんだと思います。
遠い目をしている時の司令官は、まるでどこにもいないみたいで。いつもの表情も相まって、少し心配だったんです。
扉を開けると、また音楽が流れていました。
色んな音楽を聴いてるけど、やっぱりどれも明るくはないなぁ。
「司令官、お疲れ様です!」
「ん?ああ、青葉か。」
「音楽タイムですね。今日は洋楽ですか?」
「シガーロスって言うんだよ。疲れた日に聴くなぁ。」
「おや?いつも笑顔な司令官でも、疲れる事があるんですねぇ。」
「おいおい、僕も人間だよ?さっき仕事終わったら、何だか腑抜けちゃってさ。こないだの出張の気疲れかなぁ。」
彼のぼやきを聞いたのは、その時が初めてで…何となく嬉しくなったんですよ。
何だか、少し心を開いてもらったような気がして。
「で、その時ガサがですねぇ。」
「あはは、あいつらしいね。」
この日は、いつもより長く雑談をしていました。
取材そっちのけで、最近あった面白い話や、他にもこぼれ話をたくさんして。司令官はいつもの顔でずっと聞いてくれていました。
…でも逆に、青葉の事を聞いてきたりはしませんでしたけど。
ちょっと、寂しいななんて。贅沢でしょうかね。
その後眠る前に、青葉はスマホの音楽アプリを立ち上げていました。
それでネットで、1曲だけ購入してみたんです。今日もやっぱり流れていたあの曲を。
ひとりでじっくり聴けば、この曲が好きな司令官の事を、もっと理解できるんじゃないかって。
子供の頃、父が車で掛けていた時は、何だか怖い曲だって印象しかありませんでしたけど。
この歳で改めてちゃんと聴くと、寂しい曲だなって。そう思いました。
それと同時に、妙な既視感を覚えたんです。子供の時の記憶でもなくて…何て言うんだろ、ずっとそばにある光景みたいな。
“重体だったって言ってたけど…何があったのかな?”
8分間という、一曲としては長い時間。その間青葉は、司令官の過去についてずっと考えていました。
音楽の事はよくわからないけど…曲の最後のギターとピアノの音は、何だかとても穏やかで。人が死ぬ時って、こんな気持ちなのかなって感じて。
彼の事を、もっと知りたいって思いました。
それで何度もリピートしてるうちに、寝落ちしてしまって…そのまま、夢を見ました。
曇り空の海と、原っぱと砂浜と。それ以外何も無い世界。
誰もいないし、周りは自然しかないのに、全部が無機質に思えました。
寂しい世界の筈なのに、それすら感じない。とても落ち着いた気持ちで、でも空っぽで。
『私』は、ただ呆然とそこに佇んでいたんです。
“司令官…?”
遠くの方に、彼がいました。
『私』が声を掛けても振り向く気配も無くて…嫌な予感がして、走ってそこに向かうんです。
それで彼の肩に手を伸ばした、その瞬間でした。
司令官が、消えてしまったのは。
足元には彼の軍帽だけが落ちていて、私はそれを拾い上げて…気付いたら、ボロボロに泣いていたんです。
相変わらず、悲しいも嬉しいも、どこかに行ってしまっていたのに。
「んぁ…夢かぁ。」
そこで目が覚めました。
でも、夢って不思議ですねぇ…起きた時、あくびとは別で涙が伝ってたんですから。
その日青葉はお休みで、特に予定も無かったんです。
携帯は、昨日充電もせず寝落ちたせいで電池切れ。まぁ今日は急ぎの用事なんて…ってコンセントに差して、しばらく放っておいたんです。
それで再起動のバイブが鳴った後、直後に別のバイブが鳴りました。
“あれ、通知だ…誰だろ?”
『おはよう。今日は予定はあるかい?』
開いてみると、それは司令官からのメッセージでした。
普段彼が艦娘に送るものなんて、業務連絡の一斉送信メールぐらい。
でも今青葉の携帯に来ているのは、この前強引に聞き出したラインの方でした。
げ、来てから2時間も経ってる、早く返さなきゃ!司令官、今手ェ離せるかなあ…。
『ありませんけど、何かありましたか?』
『今日の任務は午前で終わるし、お昼でもどうかと思って。
最近秘書艦頑張ってもらってるからね、僕のおごりで。』
『ありがとうございます!もちろん行きますよ!』
『了解。終わったら連絡するよ。』
よかった…今は余裕あったみたい。
タダ飯のチャンスを、逃さない手はありません。起き上がって、すぐに身支度を始めました。
休日に出掛ける時は、まず窓を開けてみます。
それでその日の天気と気温を見て、それから服を決めるんです。
今日は…ああ、曇りだし、結構冷えてるなぁ。
何かあったかくて可愛いのあったかな…メイクと髪は…って、デートじゃないんだから!あんまり気合入れすぎると、ガサにからかわれちゃうなぁ。
あ、でもかなり時間あるなぁ…つ、爪ぐらいは塗っても…。
そんなこんなで結局準備に追われて、終わったのは司令官から連絡が来る少し前でした。
うーん、気合入れすぎちゃったかも…ま、まあ、上司とご飯食べるんだし、このぐらいはするよね。
「あれ青葉ー、どうしたのそんな気合入れて。」
「ガサ!?い、いやぁ、ちょっと出掛けるからさ…。」
「へー…だ・れ・と・かなー?衣笠さんに教えて欲しいなー。」
厄介なのに見付かった!あ~…責められると弱いんですよ、青葉は…!うりうりって感じの笑顔で、もうおもちゃにする気満々です。
う~…ま、まあ、別にやましいことなんてないし、言っちゃえ言っちゃえ。
「う、うん、司令官にお昼行かないかって言われてさぁ。日頃のお礼だって。」
「えー、いいなー。でも最近よく秘書艦してるもんね。
ま、あの人青葉ぐらいにしか心開いてないし。」
「そうかなぁ?皆に優しい人じゃない?」
「優しいけど、なんか壁あるんだよね。
ふふふ、でもいいじゃん。記者が取材対象の秘めたる心を解き明かし、やがて恋に発展して…なーんてね!」
「ガサ!違うってばぁ!」
もう、そんなんじゃないし…あ、いけない!そろそろ行かなきゃ!
駐車場に来てくれって言われていたので、青葉は指定された車を探していました。
えーと…あ、あれだ!もう乗ってる、待たせちゃったかな。
「すいません!遅れちゃいましたぁ!」
「ああ、大丈夫だよ。外寒いから乗ってただけだし、気にしないで。」
司令官はいつもの制服と違って、ラフな感じの私服です。
意外にカジュアルで、でもやっぱり大人だなぁって思いましたね。
司令官に連れて行かれたのは、海岸近くのパスタ屋さんでした。
普段青葉も含めた艦娘達は、バスで反対側の街の方に向かう事が多くて。こっちはあまり来た事がありません。
この辺も結構お店があるんですね。おー、ガラス張りのオープンテラスだ、おしゃれですねぇ。
でも今日は生憎の曇り空、外には寂しい感じの海が広がっていました。
「メニュー見てるだけでも美味しそうですねぇ、ここにはよく来られるんですか?」
「普段は一人でね。コーヒー飲みに来る事の方が多いけど。ここでぼーっとしてるのが好きでさ。」
「おや、元カノさんとは来なかったんですか?」
「ああ、別れたのなんて僕が少佐に上がる前だしね。だから人と来たのは、青葉が初めてかな。」
それを聞いて、少しだけ嬉しくなりました。
でもそうか…司令官って今27とかだから、元カノさんもそのぐらいだよね。
…いつ別れたんだろ。青葉ぐらいの時だったのかな。あ、頼んだのが来た。
「わぁ…ほんと美味しそうですねぇ!司令官、いただきます!」
お腹も空いていましたし、そんな思考も目の前のパスタに追いやられていました。
…いや、自分で追いやったのかもしれませんが。
パスタも食べ終わった頃、司令官は出されたコーヒーを飲みながら、ぼんやりと海を眺めていました。
いつものアルカイックスマイル。 でもそれを見る目は、執務室で音楽を聴いてる時のあの目に見えてしまって…何だか、ちょっぴり切ない気持ちになりました。
…きっと私が、そう見てしまっているだけなんでしょうけども。
「司令官!ご馳走様でした!」
「どういたしまして。あ、そうだ。少し食休みに歩かないか?」
お店を出た後、司令官に誘われるままに海岸を歩いていました。
海風は少し肌寒いけど、湿度があるからか、そこまで芯に来る感じではありません。
「歩き慣れてますねえ。いつもここに来るんですか?」
「そうだね。あの店に行った後は、こうしてよく散歩してるんだ。
いつもあの大岩に乗って…ああ、結構高さあるから気を付けてね。」
「とと、ちょっと青葉には高いですねえ。」
「ほら、掴まって。」
そうやって伸ばされた手を掴むと、とても冷たく感じました。
よく手が冷たい人は心が暖かいって言うじゃないですか?
ご飯に連れてってくれたり、今もこうして引っ張ってくれて…司令官は、やっぱり優しい人だって思いました。
でもこの時、青葉はこうも思ったんです。
“司令官の、本当の心の奥はどうなんだろう?”って。
岩に乗って、そしたら強い風が吹いて。
やっと目を開けた時、青葉の中を既視感が駆け抜けて行きました。
“あれ?ここって…”
そこは、丁度海岸の曲がり角で。
左には枯れ草だらけの原っぱが広がって、右には曇り空と静かな海。
その寂しい景色は、今朝夢の中で見た場所にそっくりでした。
「静かな場所ですねぇ…。」
「散歩の終わりは、いつもここに座って時間を潰すんだ。特にこんな天気の日はいい。
そうすると落ち着くんだよ…天国みたいだろ?」
天国。
その言葉が聞こえた時、何故かチクリと胸が痛みました。
…こんな寂しい場所が天国って、どう言う事なんだろう?
「青葉、今日は付き合ってくれてありがとね。いい気分転換になったよ。」
「いえいえ、ご馳走様にもなっちゃいましたし…こちらこそ、ありがとうございます!」
いつものテンションで返事をして、帰りの車も同じように話をして。その実、青葉の胸中は複雑でした。
触れれば触れるほど、彼の事がわからなくなってしまう気がして…記者失格ですねぇ。
でも今日話した事や、今までの事も総合して…少し、気になる事が出来ました。
司令官と別れて部屋に戻ると、青葉は真っ先にパソコンを立ち上げました。
ここのネット回線は当然軍のもので、各々のパスを入れるとある物が見れるんです。
それはweb資料館と言いますか、過去にあった戦闘の記録の類です。
例えば作戦と戦闘内容や、死者数や生存者数のデータベース。
それを仮に漏れても大丈夫な分だけまとめて、各々自分の戦闘の参考に出来るように作られているんです。
死に掛けるような事なんて、この職務に就いていると真っ先に浮かぶのは、やっぱり戦闘です。
司令官は27歳…深海棲艦との戦いが始まったのは、4年前。
キャリア組の彼ですが、その頃であれば最前線にいたっておかしくはない。
記者魂だって自分に言い聞かせて、その頃の記録を探りました。
だけど本当は…見るのが怖かったです。嫌な予感がしてしまって。
『-月-日。深海棲艦による、各海域に於いての初回襲撃に於ける戦闘記録。』
これは、一番軍の方達が亡くなった時の戦闘記録です。一つ一つを見ても、死者数の方が圧倒的に多い。
スクロールをする手は震えていて…それでも青葉は、その手を止める事が出来ませんでした。
そんな中で、とある記録が目に留まって。
『○○県沿岸、__鎮守府第一部隊。死者数・38名。生存者数・1名。』
他にも沢山の方が亡くなられていますし、生存者の方も沢山います。
これがそうだなんて確証は、どこにもなくて。
けれど……ああ、嫌な予感は、きっと当たってしまうのだと。その資料を見た時思いました。
彼の好きな曲が描く世界。今朝見た夢や、今日行った海岸。
それと、彼が焦がれた目で語った、天国と言う言葉。
それらが頭の中を次々と駆け巡って…何故か青葉の手は、涙で濡れていました。
司令官…あなたは、どこにいるんですか?
何でそんなに、いつも笑顔なんですか?
あなたは、何をその中に隠しているんですか?
もっと真実に近付きたい。
青葉がそれを暴いてしまえば、彼は笑顔なんて貼り付ける必要はなくなるって、楽になれるんじゃないかって…その時はただ、彼の事を思っては悲しくなっていました。
本当は苦しんでいて、いつか自殺でもしてしまうんじゃないかって。
でも…真実と言うのはいつも、大体は残酷で悪い方にドラマティックなのだと。
青葉は、この件でそれを学ぶ事になるのでした。
今回はここまでで。
それから何日か過ぎた日の事です。
その日の戦闘で、仲間が一人死にました。
司令官は撤退の指示を出していたのですが、撤退中、敵の別働隊が奇襲を仕掛けたようで。
その際に、仲間を庇って亡くなってしまったそうです。
この戦争の情勢は、確かに今は優勢でした。少なくとも、普通の生活を送れる程度には勝ち進んではいて。
それでも戦争である以上死ぬ可能性は、全てを避けては通れない事。頭では分かっているのですが…やっぱり、悲しいものは悲しいんです。
それは皆も同じで…司令官はそんな中、いつもの笑みも無く、一人一人に慰めの声を掛けていました。
あくまで慌てる様子も、悲しむ気配もなく。淡々と真剣な顔で。
亡くなった子は元々身寄りがなくて、遺体の引き取り手がいませんでした。
それでも鎮守府でお葬式はして…さすがに全員とは行きませんでしたが、司令官と姉妹艦の子達が火葬に付き添いました。
青葉は、よく皆の写真を撮っていて。
遺影に使われたのも、一緒に荼毘に付された思い出の写真も、全部青葉が撮ったものでした。
仲間を亡くしたのは、初めての経験で…そして年端も行かない子の死に直面する事も、やはり同じで。
全てが終わったその夜、青葉は執務室を訪ねました。
情けない話ですが、その夜はひとりになる事が怖かったんです。何となくですが…ガサじゃなくて、彼のそばに行きたくなって。
今は徹夜明けの上に事後処理で忙しい筈で、申し訳ないとは思いつつも、青葉はノックする手を止める事が出来ませんでした。
「青葉か…お疲れ様。」
扉を開けると、彼はいつもの笑顔で出迎えてくれました。
その子が亡くなった報せ以来、見ていなかった顔。それを見た時、少しだけ安心している自分に気付いて。
「お疲れ様です…あの子、随分ちっちゃくなっちゃいましたねぇ…。」
「君の撮った写真は、あの子の手に握らせておいたよ。たまには思い出せるようにね。」
「…ありがとう、ございます……。」
改めてその話を聞くと、涙が止まりませんでした。
だめだなぁ、最近泣き虫だ…でも司令官は、相変わらずの笑顔でこう言ってくれました。
「……青葉、おいで。」
もう、だめでしたね。
青葉は彼の胸に縋り付いて…遂に、嗚咽を堪えられなくなっちゃいました。
彼は相変わらず、怒りも悲しみも見えなくて。それは人によっては、冷たいものに見えるのかもしれない。
でもこの時の青葉にとっては、それが何よりの救いでした。
「何も言わなくていいよ…あの子なら、きっと穏やかな場所に行けたはずだ。」
この時彼は、何度か口にしていた天国と言う言葉を使いませんでした。
穏やかな場所。司令官…そこはあなたの焦がれている場所とは、違うんですか?
あの子を失った悲しみと、この前彼に抱いた不安がぐちゃぐちゃになって。
余計に涙を堪える事が出来なくなりました。
それでも抱き締めてくれる腕は、優しくて。
青葉は、いつしか泣き疲れて眠ってしまっていたのです。
目を覚ますと、そこはソファの上でした。
司令官が上着をかけてくれていたみたいで、寒くはありません。机の方を見ると…彼は、座ったまま寝ているようでした。
寝顔は当然、無表情です。いつもの貼り付けた笑みとも、物思いに耽る時の物とも違う無表情。
まるで、死に顔みたいで。
司令官はTシャツだけで、彼が腕を出している所は初めて見た気がします。
それで上着をかけてあげようと近付いてみると、腕時計が見えました。
それは彼がよく付けている、ベルトが四角い文字盤と同じ幅のものです。
少し体勢を直してあげようと、手首を掴んで…青葉は、見てしまいました。
ベルトの端から少しだけ覗く、彼の手首に引かれた傷を。
「ん…ああ、掛けてくれたのか。ありがとう。」
「あ……いえいえ!こちらこそすみません…寝ちゃってたみたいで…。」
起き上がった時、彼が浮かべたのはいつもの笑顔でした。
でも…見ちゃったんです。目を覚ます瞬間の、彼のぞっとするような冷たい目を。
暗いとも、病んでいるのとも違うんです…それはただただ、空虚な目で。
「さて、今日からまた通常任務か…あの子の仇、ちゃんと取らないとな。」
「はい!あ、司令官、ごめんなさい。ちょっとシャワーだけ浴びてきてもいいですか?」
「いいよ、行っておいで。」
それで逃げるようにシャワー室に向かって、青葉は一心不乱に頭からシャワーを浴びていました。
人肌程度のお湯が、次々排水溝に吸い込まれて…さっき見ちゃったもののせいでしょうか、一瞬だけ、それが血に見えてしまって。
…青葉はきっと、彼の事を好きになりかけているのだと思います。
だからこそ、もっと彼を知りたいと思ってしまう。
なのにそうやって近付く程、謎ばかり増えて行く。ますます、わからなくなる。
それでも彼の事を考えると、胸は暖かくて…どうしたらいいのか分からなくて、青葉はまた泣いちゃいました。
シャワーの温度と涙の温度は、あんまり差がないように思えました。
涙が流れてる感覚だって、今は目元にしか感じない。
だけど…まるで、身も心にも涙を浴びているような。そんな感覚に陥っていました。
今回はここまで。
しばらくは、変わらない日々が続きました。
らしくないですねぇ…あの日以来、青葉は彼の過去に触れようとはしなくなっていました。話をしに行っても、本当に他愛の無い事しか言えなくなって。
時計から見えた手首の傷跡は、かなり深いもので。
本当の事を知りたいとは思うけど…いざ司令官を目の前にしてしまうと、何も言えませんでした。
彼が死に掛けた理由は推測通り、過去の戦闘なのか。
それとも、意図して命を落とそうとしたからなのか。
考える程、いつもの彼に接する程…余計にわからなくなって。
でも、彼と過ごす時間は、青葉にとってはとても穏やかなもので。
日々の任務や秘書艦を終えたら、その板挟みで部屋で悶々としてしまうようになっていました。
イヤフォンを付けて、机に突っ伏して。携帯から流れて来るのはやっぱりあの曲で。
『汚れた心と、この世にさよなら。』
そのフレーズが流れる度、彼がいつもの笑みのまま、どこかに消えて行ってしまうような景色が浮かぶのでした。
「……葉ー?青葉ー?……無視すんなってーの!!」
「いったぁ!?ガサ~、なにすんのさぁ!」
そうやってぼーっとしていたら、イヤフォンをぴっと抜かれました。
どうも隣室のガサが来ていたようです。
「あんたがノックしても返事しないからでしょうがー。あれ、体調悪いの?顔色悪いけど。」
「へ?そうかなぁ、元気だよ?」
「…ははーん、提督と何かあったなー?」
「な、何でそうなるの!」
姉妹艦としては妹にあたるけど、人としてのガサは、実際は青葉の一つ年上で。
青葉が何か悩んでいたりすると、時折こうしてからかってきたりするのでした。
隠し事の出来ない親友と言うか、お姉ちゃんと言うか…そんな間柄なんです。
「青葉は突っ込まれると弱いもんねー。わかりやすいよ?
…話してみたら、楽になるかもしれないじゃん?ほらほら、衣笠さんにおっまかせー♪」
「う……司令官にも関わる事なんだけどさ…誰にも言わない?」
「大丈夫だって。ほら、ちゃんと聞いてあげるから。ね?」
「う~…ガサ~…!」
「よしよし、あんた本当は泣き虫だもんね。」
ぽんぽんと頭を撫でられたら、いつもガサの前では我慢が出来なくなっちゃいます。
結局、青葉は最近あった事や考えた事を、全部ガサにぶちまけたのでした。
「……なるほどねー。」
「うん…司令官、何があったのかな…。」
側から見たら、きっと馬鹿馬鹿しい話なんです。
でもガサはからかったりせず、最後まで話を聞いてくれました。
「提督変わってるねー。確かにそりゃ心配にもなるよね…でも、まだその戦闘に関わってた確証はないんでしょ?
手首の事だってリスカじゃなくて、その死に掛けた時の怪我かもしれないじゃん?機械で事故ったとかさ。」
「うん…でも、時々消えちゃうんじゃないかってさ。」
「ふふ…悩んじゃってー。あんた本当に提督が大好きなんだね!」
「え!?ち、ち、ち、違うよぉ!青葉はただ、秘書艦として心配で…。」
「かわいいなぁ。いい?そうやって四六時中意識してる段階で、もう手遅れなんだよ?受け入れちゃえば楽になる。
…それにさ、あれだけ素を見せない人が、青葉には見せてくれてるんだもん。悪いようには思われてないって。
もし青葉の思う通りだったとしてもさ…それはあんたにだけ出してるSOSかもしれないでしょ?」
「そう、かなぁ…。」
「しっかりしなよ、ジャーナリスト!
真実を追い求めるのがあんた、暴かれる事で救われるものもあるかもしれないじゃない!
衣笠さんは、青葉の恋を応援しますってね!」
「うん…そうだよね!ガサ、ありがとう!」
「ふふーん、衣笠さん最高でしょ?青葉は元気が取り柄なんだから!」
この時ようやく、青葉はこの感情が恋なのだと受け入れる事が出来たのでした。
理由なんて、別にいらないか…青葉はただ、あの人が好きになったから、知りたくなった。それだけなんだよね。
そうだよね…真実に近付くのが記者魂!心の闇も扉も、青葉にお任せ!
よーし、待ってろあの鉄仮面!絶対本当の笑顔、引っ張り出してやるんだから!
『prrrrr....』
「はい、もしもし。」
深夜、あるベッドルームに電話が鳴り響いた。
それを受けたのは、貼り付けたような笑みを携えたとある男だ。
その電話の向こうからは、老人の声が響いていた。
『私だ。すまないな、連絡が遅れてしまって。』
「これはこれは、元帥殿。あの件でしょうか?」
『ああ。死体の始末だが、そちらも上手く行ったようだ。これであの件は、粗方ケリが着いたはずだ。』
「そうですか。後任は決まりそうですか?」
『××鎮守府の大尉が少佐と司令官に繰り上がる。それで補填だ。
彼は何も知らないし、代理時の作戦で戦果を挙げたからね。周囲からすれば、抜擢にしか見えないはずだ。
…すまないな。海軍の為とは言え、よりによって君のような若者にあんな役目を…。』
「いえ、立候補したのは僕ですから。お気になさらず。」
『身内の不始末は、身内でケリを着ける。それを決めたのは私だ。
有事の際は、責任は全て私が取ろう。君に迷惑は掛けない。
…初めて人を殺した感覚は、どうだった?』
「虫を殺すようなものでしたよ。銃を撃つ時、殺虫剤を使う気分でしたね。」
『ふふ…恐ろしい男だよ、君は。君がもう少し老けていたのなら、私のポストを譲っていたのだがな……では、失礼する。良い夜を。』
「はい、おやすみなさい。」
電話を置き、彼はベッドに腰掛けると一丁の銃を取り出した。
残弾数を確認すると、二発だけ弾が減っている。
それを確認するといつもの笑みを浮かべたまま、彼はこう呟いた。
「あーあ……期待外れだったなぁ…。」
そう落胆の言葉を吐きながらも、男は尚も笑みを崩さずにいた。
ようやくその笑みが消えたのは、彼が眠りに就いた時の事だった。
今回はここまで。
「司令官。言いづらかったら申し訳ないんですが……その…元カノさんって、例えばどんな見た目の方だったんでしょうか?」
翌日、青葉は早速、聞けずにいた事の一つを司令官に尋ねました。
以前からそうでしたが、特に嫌な顔も切なげな顔もしないあたり、やはり吹っ切れているのは間違いありません。
じゃあなぜこんな事を聞くのかと言えば…正直、司令官の好みを探ってみたいと言う下心もありました。
それと、彼の過去へ繋がるヒントも。
かなり前だと言っていた通り、司令官はしばらくその頃の事を思い出している様子でした。
「そうだね…まず、物静かで…。」
う。
「儚げな感じの…。」
?。
「黒髪の…。」
?…。
「どちらかと言えば、可愛いより美人って感じの人だったかな。」
?~~~!!!
hit→hit→hit→critical hit!って具合に心にコンボを喰らいました。残念ながら青葉、かすりもしません!
で、でも負けないんだ!司令官みたいな人には、やっぱりグイグイした子じゃないと!青葉とか!青葉とか!!!!
それに…振られてるんだもんね。
でももし、例えば心が壊れるようなひどい振られ方されてて、それがあの手首の原因だったら…。
そう考えた時、メラメラとしたものが青葉の中に芽生えました。
いや、待て待て、そんなの考えちゃダメ…まず取材段階は、ありのままを見極めなくちゃ。
そうだ、他にも思い出話とか聞いちゃえ!
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「司令官。言いづらかったら申し訳ないんですが……その…元カノさんって、例えばどんな見た目の方だったんでしょうか?」
翌日、青葉は早速、聞けずにいた事の一つを司令官に尋ねました。
以前からそうでしたが、特に嫌な顔も切なげな顔もしないあたり、やはり吹っ切れているのは間違いありません。
じゃあなぜこんな事を聞くのかと言えば…正直、司令官の好みを探ってみたいと言う下心もありました。
それと、彼の過去へ繋がるヒントも。
かなり前だと言っていた通り、司令官はしばらくその頃の事を思い出している様子でした。
「そうだね…まず、物静かで…。」
う。
「儚げな感じの…。」
う"。
「黒髪の…。」
う"…。
「どちらかと言えば、可愛いより美人って感じの人だったかな。」
う"~~~!!!
hit→hit→hit→critical hit!って具合に心にコンボを喰らいました。残念ながら青葉、かすりもしません!
で、でも負けないんだ!司令官みたいな人には、やっぱりグイグイした子じゃないと!青葉とか!青葉とか!!!!
それに…振られてるんだもんね。
でももし、例えば心が壊れるようなひどい振られ方されてて、それがあの手首の原因だったら…。
そう考えた時、メラメラとしたものが青葉の中に芽生えました。
いや、待て待て、そんなの考えちゃダメ…まず取材段階は、ありのままを見極めなくちゃ。
そうだ、他にも思い出話とか聞いちゃえ!
「び、美人さんだったんですねぇ…どんなお付き合いをされていたのでしょうか?」
「本当に普通の恋愛だよ。
彼女は二つ年下の、軍の事務員でね。僕が最初にいた鎮守府で出会ったんだ。」
「その、馴れ初めとかは?」
「僕の代の新歓だね。情けない話なんだけど、その時上官に潰されてね。目が覚めたら、その人に膝枕で介抱されてたんだ。
それで後日お礼をしようと声を掛けて…きっかけはそこからだったかな。」
はぁ!?膝枕ぁ!?
ふ、ふふふ…青葉、今なら心のカットイン決めちゃいそうです……ちぇー、いいなぁ…。
でも…飲み会で潰れてたり、やっぱり昔は今より人間味はあったんでしょうね。
司令官、今はお酒も殆ど飲まないし…休日もあのお店でコーヒー飲んだり、一人で出掛けている事ばかりみたいで。寂しくないのかな?って思っちゃいます。
そうだ、今度司令官とお休みが被る事があったら、誘ってみよ!街の方はきっと、青葉の方が詳しいはずだし!
その3日後。
青葉達は演習の為、遠くの鎮守府へと向かっていました。
演習と言っても、艤装を付けて海上を移動なんて事は無く。燃料節約の点で、普段の移動は陸路です。
大体は艤装を整備さんのトラックが運んで、艦娘達はバスで移動するのが常でした。
それで青葉は、司令官の隣の席に座っていたんです。
「のどかですねぇ。」
「青葉、ここは僕が住んでいた街でもあるんだ。今日の演習先は、最初にいた鎮守府でもあってね。」
「え、そうなんですか?」
その頃住んでた街って言う事は…じゃあ、元カノさんとの思い出の街でもあるんだ…。
海岸の方を見ると、ポツポツとカップルの姿も見えて…司令官も、その人とああして過ごしてたのかなぁなんて。ちょっと切なくなっちゃいました。
司令官はと言えば、相変わらずいつものアルカイックスマイル。特に何かに浸っている様子もありません。
事務員かぁ…もしかして、まだ働いてたりして。
そんな事を考えながら、青葉はバスに揺られていました。
大体の鎮守府には集会所があって。演習の休憩や待機の時、艦娘達はそこに集められます。
それは数少ない他の鎮守府との交流の場でもあって、そこで友達が出来たりする事もあったりして。
そうして青葉がいつものように待機していると、ある艦娘さんが目に付きました。
“わあ、きれいな人だなぁ…。”
その人は和風な制服を着ていて、大和撫子と言った風。青葉とは大違いで。
確かあの制服は…ああ、戦艦だっけ。
そんな風に眺めていたら、その人と目が合ってしまって。
彼女は一度青葉の方を見て微笑むと、こちらへと近付いてきました。
「初めまして…こちらに所属の戦艦・扶桑と申します。
__鎮守府の方ですよね?今日はよろしくお願い致します。」
「あ…はい!恐縮です!重巡・青葉と申します!本日はよろしくお願い致します!」
間近で見ると、いい匂いがして…見惚れてしまった青葉は、少し返事が遅れてしまいました。
それですぐに、司令官の言っていた事が頭を過ぎったんです。
“物静かで儚げな黒髪美人…ま、まさかねえ…。いや、違うでしょ。事務員だって言ってたし。”
でもそんな予想も、あっさりと裏切られてしまうのでした。
「__さんは、お元気でしょうか?」
そう呼ばれたのは、司令官の本名で。
ああ…やっぱりそうなんだって。その瞬間は、それ以外何も浮かびませんでしたね。
「……あ。え、ええ!相変わらずいつも笑顔ですよ!
うちの司令官とはお知り合いでしょうか?」
「ふふ…私は元々、ここの事務員だったんです。
その頃彼にはよくお世話になっていたので…元気そうなら何よりです。」
「お!昔からあんな感じだったんでしょうか?司令官は少し変わったお方なのですが…。」
「うふふ、それなら相変わらずみたいね。よく音楽聴きながら、海を眺めたりとかしていないかしら?」
「よくやってますねー。うちの鎮守府では、近くのカフェに行って……。」
この時青葉は、心底自分の事を白々しいなと思いました。
あれだけヤキモチ妬いてたのに、いざ本人を前にすると、勝てないなぁなんて思っちゃって…。
それで世間話をしている内に、集合時間になったので、一度扶桑さんと別れたんです。
また後でよろしくお願いします!なんて言って、手なんか振っちゃったりして。
だから、その後彼女が囁いた言葉なんて、青葉には聞こえてなかった。
「青葉ちゃん…彼はもう誰にも………壊れてさえ、いなければ。」
この時彼女が呟いた言葉と同じ事を、後に青葉は思う事となるのでした。
それはもう少し、先の事でしたけど。
演習そのものは、いつものように進みました。
指示席は全体が見渡せる位置にあって、当然司令官からは全てが見える。
味方は勿論、対戦相手一人一人の顔だってそうで。
相手方の旗艦は扶桑さんで…でも司令官は、声色一つ変えず、青葉達に的確な指示を出していました。
その日の演習も終わって、この日は近くの民宿に泊まったんです。
宿の目の前に砂浜が広がっていたのですが、演習明けの艦娘は花より団子。この日の面子で集まって、まったりとお酒を飲んでいました。
「あれ?そう言えば提督どこ行ったの?」
「さっき出てったきりですねぇ。あ!じゃあ青葉、探してきまーす!」
裏口から砂浜に出ると、やはりいました。
岩に座って、ぼんやりと海を見ているようです。
「司令官、ここにいたんですね!」
「青葉か。少し夜風に当たりたくなってね。」
青葉はしれっと隣に座って、司令官の顔を見てみました。
月明かりに照らされるのは、やはりいつもの微笑で……でも、青葉が声をかける前はどうだったんだろ?って。
そう思うと、胸がぎゅっとなりました。
でも、確かめなきゃいけない。
思い切って、彼に話を切り出しました。
「司令官の言ってた元カノさんって…あちらの扶桑さんの事ですよね?見た目でそうかなって…。」
「ああ、そうだよ。元気そうで良かった。」
「ふふー、お顔を見て、切なくなったりしちゃいましたかぁ?」
「んー…ある意味、そうかもね。」
そう笑う司令官は、どこか寂しそうで。
それを目にすると、今度は痛いなって思うぐらい胸がぎゅっとして…でも悟らせたくなくて、青葉は必死にいつもの顔を作っていました。
「僕の中では、彼女の事は完全に吹っ切っていてね。未練は無い。
それでもいざ顔を見たら、何か感慨ぐらいあるかと思ったんだけど…自分でもびっくりするぐらい、何も感じなかったよ。
やっぱりそう言うものなんだなって思ったね。」
「……そう、ですか。」
悲しいような、嬉しいような。そんな気持ちになりました。
司令官が寂しく感じたのは、何も感じない自分に対してで…裏を返せば、何か感じて当たり前だって思うぐらい、二人にはドラマがあったのかもしれません。
それに…過去に執着も無いけど、今誰かが彼の中にいるわけでも無いんだなって、分かってしまって。
「……今、好きな人はいないんですか?」
「ふふ、ご想像にお任せするとだけ言っておくよ。」
心なしか、いつもより柔らかく笑ったような気がして。
でもそれは、何だか妹分をあやすような、そんな感じの笑みで。
…ああ、隣にいるのに、何でこんなに離れてるんだろ。
心地いい海風と月明かりに照らされたような、ロマンチックなシチュエーションです。
それでも青葉は…それ以上は、彼の方へ近寄る事は出来ませんでした。
今回はここまで。
数日前の事だ。
この日各鎮守府の司令官は、秘密裏にとある料亭に集まっていた。
それは、一人のある司令官を除いての密談。
そして彼らが交わしている議論は、その省かれた男についてのものだった。
「あのブタ野郎!やりやがったな!」
「ああ、これがバレたら世論からの攻撃は免れない…うちの子達にも迷惑が掛かる。」
「クソが…!立場を傘に好き勝手しやがって…艦娘を何だと思ってるんだ!!ブッ殺してやる!!」
皆一様に苛立ち、激しい怒りを隠せずにいた。
その殺伐とした空気の中、一人の老人が手を挙げた。
「静粛に。」
その老人の正体は、彼らの元締めである元帥だ。
ロマンスグレーの髪と皺が目立つが、彼の目は、ここにいる者達の中で一際鋭いものを放っていた。
「欲望に身を任せた末、駆逐艦の少女を強姦のち殺害…そして遺体を焼却炉で処分。
これは査察官の聞き込みと、調査の際押収された骨片から見ても間違いない。奴はバレていないと思っているがな。
ただでさえ女子供を戦場に送っているのだ…これが明るみに出てしまえば、更なる世論からの攻撃は免れないだろう。
しかし平和を何とか保てているとはいえ、今は戦中だ。今の優勢に、綻びを生じさせる訳にはいかん。
だが…同時にこれは海軍としても、人間としても許せる筈が無い。」
ギラリとした視線が前を捉えた瞬間、一同は無言でその言葉に頷いた。
元帥は一人一人の顔を確かめると、再び語り始めた。
「憲兵を使えば必然的に軍全体に伝わり、隠し切る事は難しいだろう。
そこでだが…私は身内の不始末は、身内で着けるべきだと思う。
奴を粛清するのは、私がやろう。
君達は口裏を合わせるだけでいい、協力してくれないか。」
皆一様に無言だが、気持ちは同じだった。
直後一同は頷き、決意の果ての緊張感が部屋に走っていた。
だがそこに、一人の若い声が響いた。
「元帥殿、殺害は僕に任せていただけないでしょうか?」
「__君…だが、君のような若者に手を汚させる訳には…。」
「僕だからこそですよ。
元帥、お言葉ですがあなたはお年を召されている…もし激しい抵抗があった際、何よりあなたの身に危険が及びます。」
「確かに、老いには勝てん節もある…しかし…。」
「あなたの代わりはいませんが…この中では若輩な僕の代わりなど、いくらでもいます。
今ここであなたに命を落とされては、それこそ戦況が傾きかねない。
僕は皆様と比べても、まだまだ経験が浅い。そして、これから士官となる若者は沢山います。
危険であるからこそ、ここは任せていただけないでしょうか?」
視線が交わる。
元帥は射抜くような目を青年に向け、その内側を探っていた。
青年はいつもの微笑を携えているが、その薄目の奥にあったものを確かめ、元帥は溜息を一つついた。
「……わかった。そこまで言うのならば、殺害は君に任せよう。
我々一同は、__君を全力で支援する。
……だが、__君。」
直後、青年の体が弾き飛ばされた。
元帥の拳が、彼の頬を射抜いたのだ。
「命を粗末にするのはいただけんな…今回は折れるが、君の代わりもいないのだ。
今は分からんかもしれんが、年寄りの小言、忘れてくれるなよ?やるならば、必ず生き残れ。」
帰りの車中、青年は自らの運転で高速を駆ける。
車内には彼一人。鳴り響く声は、カーステレオからの音楽のみ。
もう何度聴いたか分からない曲に耳を澄ませながら。
青年は、不気味に微笑んでいた。
青葉は雑学を調べるのも好きで、よく気になった事柄をネットや本で調べて回っています。
一日を終えた時、そうして部屋で過ごすのが主な休息で。
この時は、何となくある植物について調べていたんです。
“スギナ…難防除雑草であり、その栄養茎をスギナ、胞子茎をツクシと呼ぶ。根が深い事から、地獄草とも呼ばれる。
つくしんぼうって、地獄草なんて言われてるんだ…。”
春によく見る、立ち尽くすようなあのツクシ。
その資料を目にした時、不意にあの歌と、彼の事が頭を過ぎりました。
地獄に立ち尽くす…司令官の心は、そこにいるのかな?って。
「司令官!おっはよーございまーす!!」
「ああ、おはよう。おや、今日はどうしたんだい?」
「ふふー、たまにはイメチェンでもと思いまして!」
「よく似合うと思うよ。」
「恐縮です!」
この日秘書艦だった青葉は、髪を下ろして執務室に行きました。
せっかくだし、ちょっとギャップでも付けてやろうかなー、なんて思ったので。
…まあ、扶桑さんの事を意識してないと言えば、嘘になりますけど。
しかし司令官はと言えば、それからは相変わらず。髪下ろしただけだし、そんなもんかなぁ。
無意識に異性に反応してしまうのは、男女問わず悲しい性だとは思うのですが…スタイルの良い方に対しても、彼は日頃そう言う素振りを見せませんでした。ま、まさかこの人、生物として必要ラインの性欲すら無いんじゃ…。
でもあの人と付き合ってたって事は、勿論そう言う事もしてたよね…となると、青葉の色気が足りないだけかぁ。
窓を見れば、今日の天気は大荒れです。
敵は暴風雨の日は活動が止まる習性があるのですが、こちらもこうなると動けません。
今日の出撃は中止になり、やる事と言えばひたすら事務作業。外からの訓練の声も今日は聞こえず、雨音とキーボードの音だけが響いていました。
「ひゃっ!…びっくりしたぁ、割れるかと思いましたよ。」
うちの鎮守府は建物が古くて、こんな日は時折窓がガタつきます。
業者を入れての工事も進めてはいるのですが…運営しながらではなかなか追い付かなくて、今でも雨漏りの報告がちらほらと。それは執務室も例外では無くて。
「おや、雨漏りですねぇ。」
「仕方ないな、バケツを置こう。」
ただの雨漏りだろうと思って、司令官がバケツを置きに行ったんです。
それで下にセットした瞬間…
『ばしゃっ!』
かなりの量の水が、彼の頭から降り注ぎました。
「司令官!大丈夫ですか!?」
「溜まってたのか…大丈夫だよ、濡れただけさ。青葉、着替えるから少し背を向けていてくれないか?」
「は、はい!」
青葉は異性の着替えは気あまりにしないのですが、こう言われたらさすがに目を伏せます。
うん、でも意中の人の上裸…ちょ、ちょっとぐらいなら……。
青葉とタンスの位置は、今は丁度背中合わせ。ばれないだろうと思って、こっそりとチラ見しちゃいました。
“え…?司令、官……。”
そこで目に入ったもの一つ一つは、写真の様に脳裏に焼き付いたのです。
でもそれは、見惚れてしまったとかじゃなくて…ショッキングな記憶として。
背中の火傷の痣に、脇腹や肩に走った、恐らく破片が掠ったであろう傷跡。
引き締める方に鍛えられた体と相まって、それは随分と痛々しく見えました。
この時青葉は、確信を得たのです。
この戦争が始まった時、やはり彼は最前線にいたのだと。
「…こらこら、見ちゃダメだって言っただろ?あまり良いものじゃないんだから。」
「あ…ご、ごめんなさい…。」
そういつもの微笑で注意をする彼ですが…身体と見比べてしまうと、首から上はいつもより貼り付けたように見えてしまって。
「司令官…その怪我は、いつのものですか?」
「古傷だよ。あれは最初の襲撃だったね…僕はまだ新人で、最前線に派兵されたんだ。その時のものさ。」
具体的に何があったのか、彼がそれ以上を語る事はありません。
青葉の見た記録では、どの部隊も多くの人が亡くなっていて…彼が仲間の死に立ち会って来た事だけは、間違いありません。
それでも怒りも悲しみも、封じ込めたように彼からは感じ取れなくて。
その時何を考えたのでしょう、自分でも分かりませんが…。
気づいたら青葉は、背中から彼に抱き付いていました。
「……まだ拭ききれてない、君も濡れてしまうよ?」
司令官の体温は、とても低いものでした。
濡れた肌は一層冷やされていて…それはこの前亡くなった仲間の遺体の冷たさに、よく似ていて。
「司令官…青葉は、ずっとそばにいますから。」
「ありがとう。…大丈夫だ、僕はいなくならない。」
“うそつき。”
そう言いかけたのを、青葉は飲み込んでいました。
彼の垂れた左手にはいつもの腕時計と、隠された傷跡。
これだって、きっとその事が関わっているんだ。
時計からはみ出た手首の傷は、閉じた目尻のように見えました。
この時青葉には、それが彼の、閉ざされた心の目に見えたのかもしれません。
こじ開けてしまいたい。
それで彼が泣く事が出来るなら、何もかも暴いてしまいたい。
例えそれが、パンドラの箱だったとしても。
バケツに滴る雨漏りの音は、外とは真逆のリズムを刻んでいて。
この時青葉の中に、同じリズムで滴ったものがありました。
それはきっと…色の付いた滴だったのだと思います。
ほんの少し水を濁らせる、真っ黒な滴が。
今回はここまで。
あの日からも、司令官と青葉の間は何も変わりませんでした。
まるであの日だけ切り取ったみたいに、お互いそれ以上は触れないまま。
でも青葉は、改めて決めました。
吐き出せないのなら、吐き出したくなるぐらい近くに寄るんだって。記者は追っかけるものですから。
だからその為の手段を、色々と模索していたんです。
例えばですねぇ…まずはプライベートから攻めてみよう!とか。
「さーて、今回は…っと。」
その時々の作戦や状況によって変動はありますが、艦娘達のお休みは週に2日ほど。
配られる出撃スケジュールを見て各々予定を決めるのですが、青葉には、自分のお休み以上に気になる箇所が。
“司令官のお休みは…あ!ここ被ってる!”
その日の指揮官には、補佐を務める少尉さんの名前が。少尉さんが代理を務める日は、司令官はお休みなんです。
こうなれば善は急げ、青葉は早速司令官に連絡を取ってみました。
『お疲れ様です!司令官、_日はご予定はありますか?』
『お疲れ様。その日は予定は無いけど、何かあったかな?』
よしっ…!
で、でも青葉から誘うなんて初めて…ドキドキするなぁ……ええぃ!女は度胸!後は野となれ山となれ!
『よろしければなんですけど、一緒に街の方にお出かけしませんか?』
あー、言っちゃった…。
既読が付いてからの時間は、それはそれは長く感じられました。あ!返って来た!
『いいよ。たまには街にも出ないとね。』
それを見たら無意識に拳を握っていて、誰もいないのに照れちゃいました。
ふふ…でも嬉しいなぁ、誘いに乗ってくれるなんて。何を着てどこへ行こうかなんて、そんな事ばかり考えていました。
こ、これってデートだよね…いやぁ、艦娘になる前以来だ。よし!気合い入れちゃお。
それであれよあれよと言う間に、その日がやってきました。
こっそりと行きたかったので、待ち合わせは敢えていつも使うバス停で。
あまり人に見られても、司令官の迷惑になっちゃう気はしたので。
…それに、鎮守府以外で待ち合わせって、良いじゃないですか。デートっぽくて。
あ!来た来た!
「おはよう、待たせたね。」
「おはようございます!いえいえ、青葉もさっき着いた所でしたので!」
本当は、待ち合わせの30分前にはいたんですけどね。
あれこれ悩んで服やメイクを選んで。でも今日は、髪だけはいつも通りに束ねました。
だって、青葉は青葉ですから。
扶桑さんを意識してもしょうがないですし…これから青葉を上乗せして行けば良いって思ったんです。
どんな時でも変わらないのは、お気に入りのかわいいカメラバッグだけ。カメラのSDカードは、新しいのにしてきましたけど。
…これはですねぇ、司令官との思い出専用のSDにするつもりなので。
いつも街に出る時に乗るバスも、今日の車窓からの景色は何だか新鮮に見えて。いつもより色付いて見えました。
きっと、隣にいる人のせいでしょうね。
司令官はと言えば、いつもの微笑。
相変わらず感情は見えにくいけれど…でも今日は、いつもより機嫌は良さそうで。気のせいでなきゃ良いなぁなんて。
街まではバスと電車を乗り継いで、3、40分程です。駅前に降りると、この土地にしてはガヤガヤした景色が広がります。
ここは栄えてる辺りなので、この時間は特に人が多くて。
でも駅から少し行くと、古い町並みや洒落た通りなんかが広がっていて、ここは青葉にとっても良い撮影スポットなんです。
あ!猫だ!
「かわいいですねぇ。ほらほら、あ~…もふもふしてる…。」
「随分人に慣れているね。お、こっちに来た。」
「司令官!いただきです!」
ふふふ、さっそく貴重なショットを収めましたよ!
猫と戯れる司令官…これはうちじゃ青葉以外知らないでしょう。
よく撮影に来てる場所ですけど、一緒に来る人でこうも景色って変わるんだなぁ。
…あの寂しい海の時も、何か変える事は出来たのかな?
うん!これからそうして行けば良いんだ!
青葉が色を付けて行けば、彼の世界もきっと変わる!
「司令官!一緒に撮りましょう!」
猫が丁度青葉達の間に入って、今度は携帯で写真を撮りました。
猫もいるからツーショットならぬスリーショットですが…うん、よく撮れてる。
こうやって少しずつでも近付いて、彼の何かを埋めて行こう。
それからは、いつも青葉がよく回るルートを歩きました。
服屋さんを見たり、青葉一押しのご飯屋さんに連れて行ってみたり。
どの瞬間もいつもとは違って見えて、カメラの中には画像が次々増えて…いつもは女の子ばかりで賑やかな休日ですが、こんな穏やかな休日は久しぶりだった気がします。
楽しい時間はあっという間で、少し日が傾いて来ました。
それでコーヒーを買って、街中にある公園で一休みをした時の事です。
「ふむ…懐かしいね、この感じ。」
「どうしたんですか?」
「ああ、昔の事を思い出してね。」
一瞬扶桑さんの事が過りましたけど、話の続きを待ってみたら、実際は違っていて。
彼が語ってくれたのは、それとは別のエピソードでした。
「学生時代に、仲間とこんな感じの場所でよく待ち合わせしてたんだ。
飲みに行く時もだし…その帰りも、こういう所に寄っては延々語ったりしてね。」
「青春ですねぇ。ふふ、お酒の失敗とかやっぱりあったんですか?」
「恥ずかしながら、何度もあったよ。
大体誰かが潰れたり、バカな事を始めたら皆でそれに乗っかったりね。」
「司令官も、羽目を外す事があったんですねぇ。脱いじゃったりとか?」
「ふふ、黙秘権を行使させてもらうよ。」
「あはは、記者にそれは通用しませんよーだ。」
そっかぁ…。
改めて司令官の口からそう言う話を聞くと、やっぱり今の彼からは想像も付かなくて。
自分がきゅっと手を握り締めていた事に、青葉は気付いていませんでした。
「いつも大体6人でつるんでいてね、色々な事をやったよ。
車借りてキャンプにも行ったし、冬は年甲斐もなく雪合戦をしたなぁ。」
「今はその方達とは遊んだりしないんですか?」
「……ああ。皆死んだか軍を辞めたかしたからね。」
「…………え?あ…ごめんなさい!」
「気にしないでいいよ、初めて話す事さ。
卒業してからは、それぞれ違う所に配属されてね。最初の戦闘で3人死んで、残り2人はその後軍を辞めたんだ。今はどこにいるのかも分からない。
最後に集まったのは、あの件の前だったよ。
気付いたら軍に残ったのは『俺』一人…それからいつの間にか少佐にまで上がってたけど、今でもあまり実感は無いね。」
司令官…今、『俺』って…。
彼が初めて青葉の前でその一人称を使った瞬間は、夕日が逆光になって、横顔を全て隠していました。
だから、いつもの微笑だったのかすら分からなくて…。
「……まあ、『僕』の思い出話はこんなのさ。湿っぽい話をしてしまったね。」
“あ…。”
司令官がこっちを向いてそう言った時には、もういつもの微笑と一人称に戻っていました。
外れかけたと思った仮面が元に戻る瞬間を、見てしまったんです。
その瞬間、とても遠くに行ってしまったような気がして…青葉は…。
「司令官…。」
思わず彼の手に、自分の手を重ねていました。
「…司令官、寂しくないんですか?」
「“今は”ね。鎮守府の皆もいてくれるし。勿論青葉も。」
今は、かぁ…今までの話を聞く限り、扶桑さんと別れたのもその件の後で。
死に掛けて、仲間も恋人も失って…どんな気持ちだったんだろう。
知れば知る程、見えない人。
でも青葉は、そうある程に知りたくなるんですよ。例えあなたが、深いものを抱えていても。
だから青葉は、あなたから逃げて行ったりしません。
でも何でかなぁ…こんな事を思いはしても、口には出せなくて。
そんな時です。目の前に袋が差し出されたのは。
「これ、もらって欲しいんだ。開けてみてくれ。」
「へ?は、はい…ありがとうございます…。」
中に入っていたのは、青い髪留めでした。
かわいい…嬉しいなぁ…。
「ありがとうございます!良いんですか、もらっちゃって…?」
「さっき自分の服買った時、ついでにこっそりとね。いつも髪を結んでる青葉には、似合うと思ったんだ。
日頃のお礼と思って受け取ってくれ。」
「はい…大切にします。あ!そうだ司令官!早速なんですが…。」
それでその場で髪をほどいて、もらった髪留めに付け替えたんです。
やっぱり、この人に最初に見て欲しかったから。
「ど、どうでしょうか…?」
「うん、よく似合うよ。あげた甲斐があるなぁ。」
「ありがとうございます…司令官!一緒に撮りましょうよ!」
それで撮った写真は、我ながら本当に嬉しそうで。
ちょっと恥ずかしくなるぐらい、満面の笑みを浮かべていました。
帰りの電車から見る夕暮れは、きらきらしていて。
普段住んでいる街が、こんなに綺麗な場所だったんだって改めて分かって。
そんな今日を彼と過ごせて、本当に幸せでした。
でも日本語って、不思議ですよねぇ…例えば『しあわせ』って『幸せ』とも書きますけど、『仕合わせ』とも書けます。
こう書くと、人と人との巡り合わせって意味に変わって…司令官と青葉もそうだったらいいなぁなんて。
それと…もう一つこの言葉には、違う漢字を当てられるんですよ。
『死合わせ』とも、書けるって。
今回はここまで。
「待て!!どう言うつもりだ!?」
「どうって…こう言う事ですよ?」
「へ…?あ……あぎゃああぁああっ!!!??」
某日深夜、とある倉庫。
味気ない機械音の直後、ある男の悲鳴が響いた。
太腿を銃弾で貫かれ、のたうち回る中年。
それと対照的に青年は微笑んだまま、つかつかとその中年へと近付いていく。
「あはは、オーバーですね。大佐、よく最前線にいたとご自慢になられていたじゃないですか。」
「ななな何が欲しいんだ!?金か!?女か!?」
「どうでもいいんですよ、そんなものは。
そうですねぇ、強いて言うなら…一応お目当ては、あなたの命ですかね。」
「……!!元帥か!!
ジジイの犬め!!き、き、貴様のやろうとしてる事はただの殺人だぞ!?おべっか使いやがって!」
「はぁ……勘違いしないでいただきたいのですが、僕は出世も興味は無いんですよ。
ましてやあなたが何をしたのかも聞いていますが、正義感でも無い。
まあ、あなたは別に死んでもいい人間だと思ったから、こうしているんですけれどね。」
一歩、二歩と青年が近付き、その足音は中年に、否応無しに自身の死へのカウントダウンを意識させる。
全身は恐怖に震え、拳銃も上手く持てない。
脂汗で全身が濡れ、終いには恐怖の末失禁し、いよいよ中年は濡れ鼠と化している。
それでも尚、青年は笑みを崩さない。
それどころか、歩を進めるごとに深まるようにさえ中年の目には映っていた。
「みっともないですね…少しは抵抗出来ませんか?ほら、せっかく拳銃持ってるんですし…。」
「ひっ…た、助け…。」
「はぁ……それ、あなたは一体何人に言わせたんでしょうね?もういいです。」
青年は再度銃を構え、引き金に指を掛ける。
その際中年が見た、青年の目の奥にあるものは…。
それが、中年が最期に見た光景だった。
「おやすみなさい。」
その微笑みと、がしゃん、と言う地味な音の後。
ビチャビチャと音を立て、壁に赤いシミが広がった。
「あーあ…こんな奴じゃダメだったかぁ。」
たった今自身が生み出した死体を一瞥し、青年はそうぼやいていた。
困ったような笑みを浮かべ、やがて死体処理担当の者がそれを何処かへ運び去っても。
青年は、尚も微笑を崩さずにいた。
『司令官!今日も一日お疲れ様でした!』
あれから青葉は、彼にこまめに連絡を入れるようになりました。
長々とやり取りする訳ではありませんが…お仕事の後や顔を出せない日でも、気持ちだけでも近くにいるって思ってもらえるように。
あの日まで、髪留めは結構ローテーションをしてたんです。
でも今はいつ会っても大丈夫なように、プレゼントしてもらったものを毎日着けています。
…そうでなくとも、毎日着けますけどね。大切な人からもらったものですから。
“でも司令官、あの人の事は確かに引きずってないよね…青葉の気にしすぎかなぁ。”
司令官の過去もですけど…色々分かる中で、最近特に気掛かりになっていたのは、やはり扶桑さんの事。
記者としては褒められたものでは無いのですが、勘という奴でしょうか。
振られたのは彼ですが、思い返すと扶桑さんの方が未練があるように感じていたんです。
何か、振らざるを得ないような理由があったような気がして。
だって彼女は、開戦前の彼と付き合っていたのですから。
彼の学生時代の話を聞く限り…もしかしたら、変化に耐え切れなくなってしまったのかもしれません。
司令官の手首の原因は、多分この戦争そのもので。
扶桑さんはむしろ、あの事に傷付いている側なのかも。
だとしたら…見放してしまう気持ちは、少しだけ分かる気がします。
……青葉は彼がどんなものを抱えていても、絶対に離れたりしませんけど。
あ…ううん、ダメダメ!こんな事考えちゃ。
女だからなのか、青葉だからなのかもう分かりませんけど。
彼と距離が近付いた手応えを得るたび、ふと湧いてくるものがあるんです。
独占欲とか嫉妬とか、そういう類が。
この前なんて、駆逐の子が司令官にじゃれてるだけで、ちょっとむっとしちゃって…。
昔元カレに浮気された時だって、泣いて怒って仕返しして、後ははいバイバイ!綺麗さっぱり!って感じだったのに。
いつからこんな嫌な女になっちゃったんでしょう。
…大体、まだ付き合ってすらないし。
『今日もありがとう、明日もよろしくね。』
返信はこれだけで、それでも充分嬉しいんですけど。もっと話したいなぁ…って、日増しに思っちゃいます。
出来れば連絡じゃなくて、毎日直接話したい。
週4~5で直で話してるんだから、満足しなよって話なんですけど。
ご飯連れてってもらったり、髪留めもらったり…もらってばっかりだなぁ…。
もっとこう、司令官の為にできる事、ないかなぁ…。
色々と彼について考え事をする時間は、悶々としつつも、何処か楽しみな時間にもなっていました。
こんな時間ですら、なんだかんだで幸せだなぁなんて。
机に置いたデジタルのフォトフレームには、ランダムでこの前の写真が流れていて。
それは青葉にとっては、宝箱を開けるみたいで。
“でも青葉『だけ』しか、この瞬間は知らないんだよね…。
司令官…青葉はいつでも、あなたを見てますよ。”
そうやって悦に入りながら、ずっとそれを眺めていました。
ちらりと写真に写った、彼の腕時計の陰にあるものすら愛おしく思いながら。
今回はここまで。
一人称を『私』じゃなくて『青葉』と呼ぶのは、艦娘でいる間は、周りに覚えてもらいやすいようにって思ったからです。
本名じゃどこのどいつだってなっちゃうし、私でも分かりにくいかなって。
そんな『青葉』が、ただの『私』だった頃の話をしましょう。
2年ぐらい前ですかねぇ、付き合ってた人がいたんですよ。
人当たりの良い人だったのですけど…あれはその相手と何度か一線を超えて、しばらく経った頃でしょうか。
連絡が、徐々に取れなくなって行ったんです。
取れても素っ気ないし、躱されてる気がして…まだその時は好きだったので、我慢してたんです。
でも、段々浮気じゃないかって思い始めて…ある日尾行をしたんですよ。
結果はと言えば、クロでした。
当時の『私』は新聞部で、先輩から尾行のコツを教わったりしてました。
まさかそれが、本当に役立つなんて思わなくて。
最初は家に逃げ帰って、押さえた証拠を見返しては泣いてました。
信じられなくて…妹か何かだなんて思い込もうとしたけど、場所が場所だけに、そんな訳もなく。
それでも必死に隠して、会いに行きました。
それで相手が丁度トイレに行った時、置きっ放しの携帯に通知が来たんです。
『お前ほんとゲスだな!__ちゃんかわいそうだわー、なんなら俺にちょうだいw』
それは相手の友達から来たもので、思いっきり『私』の名前が出ていました。
文面を見て、その前にどう言う会話をしてたのかすぐに理解して。
あいつは、初体験の相手だったんですよ。
でもそんな奴に奪われたのも、見抜けなかった自分も情けなくて、悔しくて…段々許せなくなってきて。
それで友達に相談したら、意外な答えが返ってきました。
「その子、中学の同級生だよ。」って。
最初は取られたんじゃないかって思って、確かめようと思ってその子の高校で待ち伏せしてたんです。
そしたらその子も、二股の事は知らなかったらしくて…意気投合した私達は、あいつに会いに行きました。
私とその子で、ワンツーパンチを決めましたねぇ。綺麗に吹っ飛びましたよ。
その子とは今でも仲が良くて、地元に帰ると必ず遊びます。
殴った瞬間『私』もその子も、元カレの事はどうでも良くなっちゃって。
…まあ、そんなありがちな話です。
え?何でこんな話をしてるのかって?
そうですねぇ…司令官の事を好きになったのは、その件以来の恋だったんですよ。
その男自体はどうでもよくなったんですけど、今思うと、無意識にトラウマになったのかもしれません。
司令官への感情を自覚してから、独占欲の類が当時より強くなった気がして。
でも…もう一つ心当たりがあるなら、そうですねぇ…彼の抱えていたものに、あてられてしまったのかもしれませんね。
それが『私』の場合は、独占欲って形で出たのかもしれません。
人から人へ伝染するものって、例えばウィルスだけだと思いますか?
物理的には、確かにそうなのでしょう。
目に見えないものも、中にはあるんでしょうけどね。
さて…話は鎮守府に戻ります。
ここからは、再び『青葉』としてお送り致しましょう。
夜、青葉はいつものように執務室へ向かっていました。
でも内心は穏やかじゃありません。
秘書艦を終えて、部屋から連絡を入れたんですが…返ってこないんですよ。
これだけだとオーバーに見えそうですが、彼の場合は心配になる要因があって。
司令官はお仕事が終わっても、すぐには帰りません。
大体は、音楽を聴いて少し休んでから部屋に戻るんです。
青葉と雑談をしたり、連絡をくれるのはそう言う時間です。
ただ、今日は残務も無くて、なのにいつもは付く既読も無いまま。体調でも崩してないかって、心配になったんですよ。
ノックをしても、やっぱりいつもの返事は無し。
それでもうっすらと音楽は聴こえていて…いよいよ嫌な予感がして、急いでドアを開けました。
“司令官!?”
ソファに横になってるのを見た時、思わず駆け寄りました。
まさか病気じゃないかって思いましたが…どうやら、それは杞憂だったようです。
“ほ…よかったぁ、寝てるだけかぁ…。”
彼は少しお疲れだったようで、ソファで仮眠を取っていました。
どれどれ、寝顔を拝見…よかった、今日は前と違うみたい。
ふふ…でもこれってチャンスじゃないかなぁ。こんな顔、なかなか見れないよ。
例えば意中の人の寝姿を見たとして。
このまま眺めてたり、こっそり添い寝やキスをしちゃおっかなんて、こういう場面に遭遇すると思うものなのでしょう。
この時、確かにそう言う気持ちも抱きましたが…。
青葉が真っ先にした事は、部屋の鍵を閉める事でした。
“……これで、誰も入れないよね。”
この時間に執務室を訪ねるのなんて、青葉しかいません。
それでも、鍵を閉めたかったんです。
だってそうしちゃえば、本当に二人きりじゃないですか?
誰も邪魔しない、彼の前には青葉しかいない世界。独り占め出来る機会なんて、こんな時ぐらいしかない。
ソファの端は、丁度青葉が座れるぐらいに空いていて。そこにこっそりと座ってみます。
ほんの少し手を動かすだけで、髪に触れそうな距離。
いつか手を掴んでもらった時よりも、この前街へ出た時よりも、今はもっともっと近くて。
起こさないようにそっと持ち上げて…自分の膝に、彼の頭を乗せてみました。
カメラは勿論持ってないし、携帯も出す必要はありません。
今、網膜と脳に刻まれているもの。それ以上に素敵に写す事なんて、きっと無理でしょうから。
眠る顔は、いつかの死体のような無表情じゃなく、人らしい穏やかなもので。
すうすうと寝息を立てる振動が、太腿越しに伝わって。それは青葉にとって心地いいものでした。
今はどんな夢を見ているんでしょう?
優しく髪を撫でて、そうすると心なしか表情が柔らかくなった気がして。
「司令官…青葉は、いつでもそばにいますからね…。」
深く眠る彼に、聞こえる訳もないのに。
こんな事を囁いていました。
そうしてる内に、少しだけ彼が寝返りを打ちました。
青葉のお腹側に顔が向いて…服の裾を、少しだけ掴んで。
可愛い所もあるなぁ、なんて。
……この時間と出来事だけは、青葉だけのものです。
頭の中だけの、誰にも見せない秘密の記事ですから。
あ、時計、今は外してるんだ…目を逸らしちゃダメだよね…。
恐る恐る視線を左手に合わせると、ズタズタの手首が晒されていました。
初めて全容を見たけど…痛いなぁって。こっちの心まで痛くなりそうで。
手首に手を伸ばして、優しく傷を撫でて…一瞬だけ、彼の頬にキスをしました。
スピーカーから流れていたのは、あの曲で。
今は丁度曲の終わりで…天国の夢を、見ているんでしょうか?
天国旅行…そう、旅行、なんですよね…。
旅行だから、帰ってくる場所がある前提の事だから。死出の旅とは、帰るあての無い放浪とは違うはずで。
この曲を知ってから何度も聴いた、断末魔の悲鳴みたいなギターソロが鳴り響いて。
そこから、嘘みたいに穏やかなアウトロに繋がって。
やっぱり、人が死ぬ時の気持ちを想像してしまって。
青葉は覆い被さるように、彼の頭を胸に抱いていました。
司令官…青葉の胸の中が、あなたにとっての天国じゃダメでしょうか?
ずっと触れたかった、抱きしめたかったはずの人は、いざ触れてもどこまでも遠くて。
泣いちゃダメだってわかってるけど、考える程に泣けてしまって。
だからその時は、当たり前の事が何処かに行っていたんです。
こんな事をされたら、大抵の人は起きてしまうって。
「…青葉か?」
「……はい…。」
その声色は、いつもと変わらなくて。
青葉が体をどけると、彼はすぐに起き上がって、こちらを見つめていました。
きっと今、青葉はひどい顔をしているでしょう。
みっともない泣き顔で、可愛げも何も無い姿で。
ましてや部下が、自分が寝ている間にこんな事をしていたなんて、幻滅されるかもしれない。
でも司令官は…
「……大丈夫だ、泣かないでいい。」
優しく、青葉の事を抱きしめてくれました。
「青葉…一体どうしたんだい?」
「司令官……。」
触れるべきか、触れないべきか。
この時はまだ、迷いがありました。
でも…もう、後になんて引けない。
だから青葉は、遂にあの事を訊くと決めたんです。
「……青葉、見ちゃいました。
司令官…その手首の傷は、どうしてなんですか?」
この時青葉は、また一つ真実への裂け目に手を伸ばしたのです。
裂け目から落ちる、真っ黒な滴。
ポタポタとこぼれる程度だったそれが、線を描いて漏れていたのはいつからだったのでしょう。
それが青葉の中も、次第に黒く侵食して行く事に目を背けたまま。
今回はここまで。
「……ああ、時計を外したままだったね。見せてしまったのか、すまない。」
まるで大した事でも無いように、彼はあの微笑でそう言い放ちました。
そんなズタズタの手首を、他人事みたいに…この時少しだけ、怒りすら覚えました。
どうしてそんなに、自分を大事に出来ないんだって。
「いえ…本当は少し前から知ってました。ベルトの裾から見えていて…。
司令官、教えてください…青葉はあなたの事を、もっと知りたいんです!」
「君が思う程、大した話じゃないよ。知ったら肩透かしを食らうかもしれない。」
「……それでも、いいんです。青葉にだけは、本当の事を教えてください…。」
「…そうだな、何から話そうか。あれは…」
困ったような、でも相変わらずの貼り付けたような笑み。
それを崩さないまま、彼はゆっくりと口を開きました。
「最初の戦闘だったね…僕の乗った護衛艦は、近海での戦闘に向かっていたんだ。
その船には、あそこに赴任した頃からいた部隊が乗っていてね。
同期の仲間に、お世話になった上官や先輩。いつもの顔ぶれが揃っていたよ。
あの日までこの国の軍はね、災害救助や警備が主だった。
上官すら戦闘なんて初めての事で…それも、相手は未知の怪物だ。死の緊張感と、人々を守ると言う意志が船内には混在していた。
そして、いざ敵と対面さ。
まず、甲板にいた一人が頭を撃ち抜かれた。
いや…正確には、頭が飛び散ったのかな。クラッカーみたいな音がして、直後にはもう倒れていたよ。
一人、また一人と撃たれて死んで、それでも士気は下がらなかった。
だけどその時だ、敵の魚雷が飛んできたのは。」
「……船は、吹っ飛んだんですか?」
「……ああ、火薬庫を貫いてね。背中の火傷は、その時のものさ。
壁が厚いし、遮蔽物もあったからね。幸い遠くにいた僕は、飛ばされるだけで済んだ。
…だけどその近くにいた仲間は、バラバラになって海上に浮いてたよ。
僕は船首側まで吹っ飛ばされて、そして船尾から船が沈んだ。
船は上を向く形で、船首だけが顔を出してる状態でね。僕はそこに捕まって、何とか無理矢理立っていた。
海に投げ出された仲間が、噛み付かれて死ぬ断末魔。
爆発で飛び散った死体が、海面に浮く様。
それが沈みかけの船首からは、よく見聞き出来たよ。
その日は快晴だったなぁ…青空と青い海に、血の赤と火の赤が広がっていた。
まるで昼と夕暮れの境目みたいだって…船首からのその光景は、よく覚えている。」
「それで…どうやって生きて帰って来たんですか?」
「そうだね…吹っ飛ばされた場所で、とっさに仲間の死体から機関銃を掴んでね。
僕はそいつを担いだまま、傾いた船首に立っていた。
死にたくないとか、勝ちたいとか、そんな事はもう考えていなかったと思う。
大声を上げて、とにかく機関銃をぶっ放した…敵にも浮かんだ仲間の死体にも、次々弾が当たって…。
そこから先は、覚えていない。」
「…じゃあ、目を覚ましたのは…。」
「前話した通り、病院のICUさ。
だけどその前に、違うものを見たよ…。
何もない草原に、真っ赤な花が咲いていて…鳥が鳴いて、潮風と風の音だけで。『俺』はそこに立っていた。」
「……っ!?」
「上を見れば、雲一つない空さ。
悲しくもない、ましてや喜びもない。
ただ穏やかな安らぎだけがそこにあって…感情なんて何処かに消えていて…“ああ、ここが天国か”って、その時思ったよ。
…目が覚めたら、__が抱き付いてきた。
船は沈んだ。仲間が死ぬ様も見た。それは全部覚えてる。
どういうわけか『俺』は生きていて…本来なら恋人との再会を喜ぶか、怒りと悲しみに震えるかしたんだろう。
だけど…不思議なものだね、何も感じなかった。
愛していたはずの__に抱き締められた時でさえ、あの場所以上の安らぎは感じなかったね。」
言葉が、出ませんでした。
ここまで脳の処理が追い付かない感覚と言うのは、初めてだったかもしれません。
…でも、折れちゃダメ。確かめなきゃいけない事は、まだたくさんあるんだ。
「………それから、どうして手首を切ったんですか…?」
「死にたかったわけじゃないよ。『俺』もどうして切ったのか、よく分かってないんだ。
そうだね…強いて言うなら……また見れるかなって、思ったからさ。
結局『それ』じゃ、見れなかったけどね。」
その時彼が見せた笑顔は、青葉は一生忘れられないと思います。
あの曲のタイトルを教えてくれた時でさえ、まだ隠していたものがそこにはありました。
欲望に歪むでも、悪意を孕むでも無い。
子供のように無邪気で、どこまでも透き通っていて。
だけど、ゾッとするような。
初めて見た、彼の心からの笑顔を。
ああ…そっか……少しだけ、分かりました。
彼はもう自分じゃ…
____心が死にたがっていることさえ、理解出来ないんだ。
「…そんな所さ。大した話じゃなかったろう?『僕』の話は。」
貼り付けた笑み。
戻った一人称。
他人事みたいに笑う。
笑う嗤うワらう笑う笑うわらうワラうわラう。
どうすればいいんだろう?
何をしてあげれば、取り戻せんるんだろう?
頭がぐちゃぐちゃになって、青ばハもうドうシタら良いカわからナくなッて。
「少し、長話をし過ぎてしまったね…青葉、今日はもう休んだ方がっ…!?」
いつの間にか、ソファに彼を押し倒していました。
頭がボーッとします。それで押さえ付けた肩から手を離して、今度はそれを横に動かして。
気付いたら、ギリギリと彼の首を締めていました。
その瞬間の事でした。
靄が晴れたように、頭の中がクリアになって…自分がどうしたいのか、何をするべきなのか理解出来たのは。
苦痛に歪む顔を見て、手を離して。
彼の胸が酸素を求めて激しく動くのを見て、次にやるべき事。
青葉は彼の手首を取って…今度は、その傷にキスをしました。
「あお、ば……?」
今は鍵を閉めています。
ここにはもう、彼と青葉しか存在しない。
首を締めたのは、生存本能を分からせる為。
傷跡を舐めるのは、慈しみの感情。
それで…これは、愛情を示す為の行為。
唇を重ねて、舌を無理矢理絡めて。
切れる青葉の息と、それでも上がってくれない彼の心拍数がそこにはあって。
ずっと念願だった彼との最初の口付けは、デートの終わりなんてロマンチックなものじゃなく。
『私』から踏み込んだ、甘美で、でもひどく暴力的なものでした。
子供の頃、10針縫う怪我をしました。
その時は周りは大騒ぎで…でも青葉は痛いなんて思わなくて、冷静なぐらいで。
痛くなってきたのは、治療が終わってようやくの事でした。
後で知ったんですけど、痛覚が限界を超えると、麻痺する事ってあるそうじゃないですか?
それは心でも、同じなのかもしれませんね。
壊れたあなたを見て、きっとあの人は耐えられなくなったのでしょう。
色んな人が、死んで、去って。あなたの元を過ぎて行ったのでしょう。
でも壊れてしまっていても、あなたの本質は優しい人です。
分からないのなら、与えてしまえばいいんだ。
苦痛も喜びも幸せも、感情の全部を呼び覚ます為に。
青葉は、今もあなたから逃げなかったじゃないですか?
記者はね、しつこいんですよ。とことん離れませんから。
青葉だけは、そばにいます。
青葉だけが、あなたに与えてあげられる。
青葉なら、あなたの心を取り戻せる。
…だから、どこにも行かないでください。
青葉があなたの天国になりますから…天国になんて…行かせませんから…。
『私』を、ひとりにしないでください…。
気が動転したままの彼を胸に抱いて、青葉は微笑んでいました。
胸に顔を沈めさせて、青葉以外何も感じられないようにして。
だから、この時一筋だけ、頬を伝うものがあった事。
それは、青葉だけしか知らなかったのでした。
今回はここまで。
「うおおおおおおお!!!!」
叫び声と共に、男の持つ機関銃の音が鳴り響く。
それは海面に浮く死体を貫き、それを見つめる異形達の肌を掠めた。
だがその者達にとって、それは何ら意味を持たない。
異形達は、ただ呆然とその男を見つめるばかりだった。
「…ホットコウカ、今回ハコレデ終ワリ。」
「良イイノデスカ?殺サナクテ。」
「ハァ…ワカッテナイナァ…イイ?アタシ達ハ『人間』ト戦争シニ来タンダ。アレハモウ、殺ス意味モナイヨ。
ソウダネ……デモ、代ワリニヨク見テオクトイイ。」
「アレヲデスカ?」
「…アタシ達モ所詮『心』ト『命』、両方ガ無イト生キテルトハ言エナイ。ドッチカガ死ネバ終ワリサ。
ダカラ、ヨク覚エテオクンダ。アタシ達モコノ先、アアナルカモシレナイッテ事。
殺サナイ事ガ、アアナッタ奴ニハ一番ノ攻撃ナノサ。」
“人間ハ手強イ…コノ先コソ、コッチモタクサン死ヌンダロウナ。
タダ、願ウナラ……。”
「…仲間タチニハ、アアハナッテ欲シクナイネ。」
異形の一人が振り返った先には、沈み行く船首と、波に飲まれる男がいた。
敵も去り、独り漂う男は目を開けたまま、何処かをじっと見つめている。
彼の瞳は開いているが、意識は既に途切れていた。
その瞳孔には。
透き通る青空だけが、虚しく反射していた。
あの日から、司令官と青葉の間に少し変化が起きました。
それは青葉が一方的にそうし始めたのですが。
彼が仕事を終えた後は、必ず__さん、彼の下の名を呼ぶようになった事。
「__さん、今日もお仕事終わりましたねぇ。
「そうだね、『青葉』。食堂にでも行こうか。」
仕事以外では青葉も本名で呼ぶように言ったのですが…彼の方は、今も呼んではくれないままです。
仕方ないとは思いつつも…やっぱり、ちょっと寂しいかな。
あの日あれだけの事をしでかしたのに、彼は怒りもしませんでした。
しばらく呆然としていて、でもすぐにあの微笑に戻って。逆に青葉の頭を撫でて、慰められた始末で。
「今はそんな気は起こさないから、心配しないでいい」なんて、よく言いますよ。
だから青葉は決めました。少しでも壊れたものを取り戻してみせるって。
その為にこそ、もっと彼を深く知って、色んなものに触れないといけない。
全てを知る事が出来たなら、きっと壊れた所も治せるでしょうから。
…あなたは生きてるんだって、絶対分からせてやるんだ。
それで部屋に戻ってやる事と言えば、ちょっとした泊まりの準備でした。
明日から演習の関係で、3日程ここを離れます。
日程自体は2泊3日なのですが、でも演習は1日だけ。その中日はオフになっています。
オフ日は演習先での観光が義務付けられていて、それは上からの命令です。
要は慣れない街の日常に触れて、普段自分達が何を守っているのか感じろと言うお達しでして。
まぁ、たまにこういう事があるのですが…今回は観光じゃなく、取材と行かせてもらいます。
何と言っても、行先はあの街の鎮守府なんですから。
今回の引率は、司令官じゃなくて少尉さん。
彼の不在と言う環境で、あの街です。調べるにはまさにうってつけ。
愛用の一眼は置いていって、機動性重視の薄型で行きます。それでスマホはレコーダー代わりにして。
『あの人』を捕まえられたら、一番早いんだけどなぁ。
翌日、移動のバスがあの街に差し掛かると、まず車窓からの景色をひたすら収めました。
勿論オフ日に自分の足でも回りますが…彼がどんなものを見て来たのか、記録したいと思ったので。
今回の演習は、相手方は着任から浅い子達で構成されています。
そんな編成なのであの人はいなくて、どうしようかと途方に暮れていた時の事です。
「……あなた、__鎮守府の方かしら?」
振り返ると、青葉と変わらないぐらいの女の子。
少しキツそうな声色ですが、何処か見覚えもあるような…あれ?この制服って…。
「初めまして!そうです、__鎮守府の青葉と申します!」
「私は扶桑型二番艦、山城よ。 ねぇ…__提督は今日いるかしら?」
「いえ、今日はうちの少尉さんが引率ですが…。」
「そう…じゃああいつに伝言をお願い。“あんた、次会ったら殴る”って言っておいて。」
え?この子何言って…。
咄嗟にその子の肩を掴んで、足を止めさせてしまいました。
この子、見る限りあの人の…でも、何でそんなに…。
「…何よ。」
「い、いえ、うちの司令官と何かあったのかなって…。」
「…あなた、もしかして姉様の事を知ってるのかしら?あいつとの関係も。」
「はい…知ってますねぇ…。」
「…艦娘の姉妹艦って、大体の子はエルダー制みたいなものじゃない?でも私達は、実の姉妹なの。
だから全部知ってるわ……あの男…姉様を散々泣かせておいて、許せるわけ無いでしょう…!
今日はあなた達の敗北を、あいつへの土産にしてあげるわ。覚悟しておいてね。」
その捨て台詞と共に、つかつかと山城さんは去ってしまいました。
すごい剣幕だったなぁ…妹さんがあそこまで怒るって、本当に何があったんだろ。
でも…青葉もちょっと怒っちゃうな。好きな人をあんな風に言われたら。よし!今日の演習、絶対勝ってやる!
その後、演習には勝ちました。
ただし、内容はA勝利。山城さんは最後まで粘って、とうとう完全勝利とは行きませんでした。
あの人には会えずじまいで、おまけに山城さんの態度で余計謎が深まった気がします…はぁ、今回は仕方ないか…明日はちゃんと散策して、違う視点からネタを仕入れよ。
布団に潜ってスマホを開くと、メッセージは友達からだけ。
結果は少尉さんが連絡してるだろうし、わざわざ青葉の所に来ないよね…あの人からくれたの、あの時だけだなぁ。
「かまえよー…ちぇー。」
理不尽なぼやきを吐きつつ、今夜は諦めるとします。
結局何も送らないまま、慣れない浴衣と布団で眠りに就きました。
次の日、青葉は朝から街を散策していました。
路線バスを乗り継いでみたり、観光スポットを回ってみたり。
予めネットで下調べをしていたのですが、デートスポットなんかはありふれたものが多くて、特に目ぼしいものはありません。
あの浜辺もそうですけど、司令官は秘密の場所を見付けるのが上手いタイプかと思って、何かそれっぽい所は無いかと海岸線をふらふらしていました。
車や人の通りはまぁ、よくある片田舎って感じです。途切れず、でも多すぎずで。
そんな時、青葉の少し先でとある車が停まりました。窓も開いてるし、何だろ?あ…。
「青葉ちゃん、お久しぶりね…。」
その車の運転席にいたのは、扶桑さんでした。
今回はここまで。
前作をお読みいただいていた方もいらっしゃるようで、その節は誠にありがとうございました。
肩の力を抜いたものを書きたいと思っていたのですが、今回も重い話になりそうです…。
予想外の事態でした。
青葉は言わずもがなですが、扶桑さんも私服で。どうやら彼女もオフなようです。
ま、まさか鎮守府の外で会うなんて…うう、私服姿がまた美人…負けそう…。
「ふふ、後姿でそうじゃないかって思って。あなたも来てたのね、散策かしら?」
「え、ええ…扶桑さんはお休みでしょうか?」
「ええ、でもちょっと暇を持て余してね。良ければ一緒にお茶でもどうかしら?」
「…はい!」
これは千載一遇のチャンスだ!
緊張感はありましたが、この時青葉にNOの二文字は浮かびませんでした。
車は海岸線を走って、とあるカフェへ。
人もまばらで、今日は暇なようです。お好きな席へどうぞと言われ、扶桑さんの促すままとある席に座りました。
そこは窓から国道と海の見える、見晴らしのいい場所で…ここ、昔も来たのかなぁ。
「昨日は山城が失礼をしたみたいね…ごめんなさい。」
「いえいえ!気にしてませんから!」
「ありがとう。慕ってくれるのは嬉しいのだけど、あの子は私の事になると、ちょっと周りが見えなくなる時があるから…。」
山城さんかぁ、そう言えば昨日のやり取りで…。
青葉が二人の事を知ってるのも、きっと聞いてるよね。
窓の外を眺める彼女の横顔は、やっぱりきれいで。
でも物憂げな瞳の奥には、何かあるように思えました。
…何を、思い出してるんだろう。
「…青葉ちゃん。」
「はい。」
「あなたは、__さんの今の彼女なのかしら?」
「んっふっ!?」
な、な、な!いきなり何を!?
突拍子の無い一言に、コーヒーを吹き出しそうになっちゃいました。
「…い、いえいえ!まだお付き合いはしてませんよ!」
「ふふふ、『まだ』してないのね。かわいいわね、青葉ちゃん。」
「あ。」
しまったー…ああ、そんな小動物見るような目で…。
でも、意外とユーモアのある方なんですねぇ、人をからかってみたりして。大人の余裕かなぁ…。
「もう聞いていると思うけど…私とあの人は付き合っていたの。」
「ええ…聞いてます。」
「…私から別れた事も?」
「はい。」
「じゃあ…彼に何が起きたのかも、聞いてるわね?」
「それも聞きました…すぐには言葉が出ませんでしたよ。」
「…そう。」
それからしばらく、扶桑さんは何かを考えているようでした。
き、気まずい…!冷静に考えて、意中の人の元カノさんとその話題…如何に地雷を踏まずに本質を射抜くか、記者としての資質が試されている気がします。
そんな風に内心慌てていると、扶桑さんはスマホを取り出しました。
開いて何かを探し始めて…少しすると、彼女は小さく微笑んだのです。
「これ、誰かわかるかしら?」
「え……この方、司令官ですか!?」
そこに写っていたのは、青葉が今一番この目で見たいと願っているものでした。
幸せそうに、心からの笑みを見せる顔。
どこかでの記念撮影でしょうか、二人とも本当にいい笑顔で…青葉の記憶の中では、未だに見た事が無い顔でした。
「ふふ、いい写真でしょう?」
「初めて見ましたよ、あの人のそんな顔…。」
「昔はよく見せてくれていたの…あの日まではね。」
「……そう、ですか。」
胸に鉛を突っ込まれたような感覚と言うのでしょうか。
あの日まではと言う言葉が聞こえた途端、羨望さえもどこかへ消えてしまいました。
やっぱり、あの時から彼は……。
「退院した後、やっぱりどこか空っぽでね…お医者さんは精神的なショックだろうって言ってたわ。
学生時代の友達が亡くなられたのを伝えても、上の空だったの。
…手首の事、知っているかしら?」
「……見ちゃいました。ズタズタで、時計でも隠しきれてなくて…。」
「最初ね、私が見付けたの。血の海で、フラフラしてたけど……貼り付けたような笑みを浮かべてたわ。
また入院したけど、やっぱり精神的なショックだって周りは思ってた…でも、それは違ったわ。」
「何か言ってたんですか?」
「“今ならそれで片付けられると思った”って…笑いながら言ったわ。」
「……!!」
「彼はね…あの件で、心だけが死んでしまったと思うの。
そうね…“寂しいや悲しいと感じられない事が、寂しくて悲しい”って…笑って……。」
__さん…そっか、あの公園の時隠れてた顔は…。
間近にいた人からの話は、とても重いものでした。
感情の欠落…嘆くべき事を嘆けない事……司令官のいる場所は、青葉にはどう頑張っても想像しきれなくて…。
「……彼を振ったのは、どうしてですか?」
「これをあなたに伝えるべきかは分からないけれど…嫌いになったからじゃないわ。今でも未練はあるもの。
ただ、私は引っ張られやすいから…ある時カッターを持って、こう思ったの。
“殺してあげる事が、一番彼の為になるんじゃないか”って…。
そう思って我に返って、別れるって決めたわ。
そばにいたら…本当に……やってしまいそうだったもの…。
ふふ…ひどい女でしょう?私は結局、彼を見捨てたのよ…。」
微笑みながらも、扶桑さんは涙声を堪え切れないようでした。
なんで見捨てたんだなんて、責める事は出来ません。
青葉は写真を撮る人間ですから…見れば分かるんですよ。ふたりがどれだけ想い合っていたのかなんて。
だから変化に耐え切れなくなるのは、おかしい事ではないって。
別れを切り出された時の彼の様子は、容易に想像出来ました。
あの困ったような笑みで、そうかとだけ言って……それですら、上手く悲しいと感じられなかったのでしょう。きっと、扶桑さんへの罪悪感さえも。
だけど…上手く感じられないだけで、感情が無いはずじゃないと思うんです。
でなきゃあんな寂しそうになんてしない。
例え壊れていても、あんなに優しい人なんですから。まだ可能性はある。
「…扶桑さん、大丈夫です。これ以上はあなたがつらいでしょう?」
「青葉ちゃん…。」
「司令官は、それでも優しい人のままですよ…青葉はこう見えて、結構泣き虫なんです。そんな時、いつも受け入れてくれる人です。
こんな事を言うのは変ですが…あなたの無念は、青葉が晴らしますから。
『私』が、必ず彼を幸せにします!!」
「青葉ちゃん……ありがとう…。」
…彼の奥底に引っ張られていたのは、この前の青葉も同じでした。
首を絞めた時の感覚は、今でも残っていて。
でも…負けられなくなっちゃったなぁ。
__さん、『私』はあなたの死神になんて、なってあげませんから。
そうですねぇ…なりたいのはあなたにとっての……この言い方は、大分恥ずかしいけど…。
『天使』かなぁ、なんて。
青葉達の鎮守府・執務室。
この時提督は、一人食い入るようにPCのモニターを見つめていた。
映し出されているのは、定期的に届く戦場の写真だ。
敵の死体は激しい戦いの末、死ぬまで戦い抜いた苦悶の表情を浮かべている。
殺傷効果、煙の量等の戦地で兵器がもたらす影響。
それらを取り纏め、司令官視点での改良案を開発部門へと提出する。それも彼の仕事の一つだ。
その全てを見終えた後、ようやく彼はいつもの微笑へと戻る。
だが、その目の奥は…
“きっと彼女達には、あの場所が……。”
この時彼は、歯が見えるほどの吊り上がった笑みを浮かべていた。
それは、青葉でさえ見た事の無いものだった。
今回はここまで。
泊りがけの演習も終わって、バスはいつもの鎮守府に着きました。
みんな、次々と降りていきます。このまま寮に帰って、後はゆっくりするのでしょう。
青葉には、真っ先に向かう場所がありますが。
廊下を抜けて、大きな扉の前。この時間は、彼以外は誰もいないはず。
青葉がいない間は、当然他の子が秘書艦を務めていて…その子と廊下ですれ違った時、安心している自分がいました。
だってこの扉を開けて、他の子がいたら…きっと、取られちゃったような気持ちになっていたでしょうから。
「失礼しまーす。」
「お帰り、青葉。わざわざ来てくれたのか。」
出迎えてくれる笑顔を見た時、飛び付きたくなるのを必死に抑えていました。
本当は思いっきり抱き締めて、そばにいるって言ってあげたい。でも我慢です。
扶桑さんと話して、前より深く知った事はあるけれど…今は、いつものふたりとして会いたかったから。
それが今の日常で、それを感じてもらいたいからこそ。
「少尉から報告は受けたよ。頑張っていたそうじゃないか。」
「まぁ、何とか勝てたって感じでしたけどね…あ!そうだ!司令官、これお土産です!」
「これは懐かしいな、あそこの名物か…青葉、ありがとう。遅いけど、少しコーヒーでも飲もう。」
「あ!それぐらい青葉が淹れますよぉ!」
「ダメダメ、今この時間の君は客人だ。まぁ座っててくれよ。」
そう制されて、青葉はしょうがなくソファに座り込みました。
やっぱりいつものあの微笑ですが、コーヒーメーカーを弄る横顔は、何だか機嫌が良さそうで。
“青葉が帰って来たからかなぁ”なんて勘違いみたいな事を思って、一人で嬉しくなっていました。
今は出されたコーヒーを飲みながら、ふたりでお土産をつまんでいます。
あ…これすっごい美味しい!名物なだけあるなぁ。
「……いやぁ、落ち着くね。」
「お菓子も美味しいですねぇ。司令官、コーヒー淹れるの上手いですね。」
「まぁ久々のこの味もだけど…いつもの時間に戻った気がしてね。
青葉が帰って来たら、あっという間にそうなったよ。」
「……きょーしゅくです。」
あー……あはは、いざ言われると、頭真っ白になっちゃうなぁ…。
そっか…そう思ってくれてたんだ…。
ソファの対面に座る彼を見て、隣に行きたいなぁなんて思って。
でもこうして、前から見つめてもいたいような。
それは何にせよ、青葉にはとても幸せな時間でした。
そんな時です、彼から声が掛かったのは。
「そうだなぁ…たまには、青葉の話が聞きたいな。」
「青葉の…ですか?」
「ああ、どうして艦娘になったのかとかね。
適正検査の時も、僕が面談した訳じゃなかっただろ?」
言われてみれば、確かに彼とそんな話はした事がありませんでした。興味を持ってくれてるんだって、嬉しくなりましたねぇ。
青葉にとっては、これはちょっとだけ重い話ではありますけど…。
「司令官…少しだけ、嫌なお話になるかもしれません。
青葉の叔父さんは、ローカル誌の記者だったんですよ。
最初の戦闘の前、民間船が何隻か襲われたじゃないですか?
その船の中に、叔父さんも取材で乗ってて…そこで亡くなってしまいました。
遺体の手に、SDカードが握られてたんです。
ビニールに包んで、しっかり握り込まれていて…死期を悟って、咄嗟に包んだんでしょうね。
不幸中の幸いですが、叔父さんの遺体はすぐに回収されて…間近で深海棲艦を捉えた写真として出回ったのが、SDに残されていたものなんです。
叔父さんはよく言ってました、“それが街の行事であれ事件であれ、事の本質を伝えるのが俺達の仕事だ”って…。
だから…仇を討ちたかったですし、知りたかったんです。
前線に立つ事で今起こってる事を見極めて、そして自分の手で、この悲劇を終わらせたいって。
それでいつか、この戦争に関する記事か本を書きたいって思ってます。」
「そうだったのか…僕も、君が果たせるように頑張らないとな。」
“終わらせたい悲劇は、増えちゃいましたけどね”とは、言えませんでした。
叔父さんの事だけじゃなく、死んでしまった仲間や、司令官自身の事。
青葉にとって、終わらせたい事は増えていました。
“寂しいや悲しいと感じられない事が、寂しくて悲しい。”
彼が手首を切った時、そう笑っていたと扶桑さんは言ってました。
喜怒哀楽の全部…嬉しいや楽しいも、本当は彼の中には無いんでしょうか?
青葉に向けてくれる顔も、もしかして…。
一瞬気が暗くなりかけて、すぐにそれを追い出しました。
ダメダメ。青葉が暗くなっちゃ、照らしてなんてあげられないんだから。
そうだ、質問を変えさせてみよう。
「訊かれるって言うのも新鮮ですねえ、他に何か質問とか無いですか?」
「そうだな…じゃあ次は…変な話で申し訳ないのだけど、恋の思い出とかは?」
嫌な汗が背中を伝ったのは、その時の事でした。
徐々に壊れてく不安。
見てしまった瞬間や、携帯の画面の下卑た会話。
真っ暗な所に突き落とされる気持ち。
あの子と一緒に向かった時の怒り。
トラウマになんて、なってないと思っていました。
それまで思い出しても、せいぜいダメな黒歴史ぐらいにしか思わなかった事。
ガサには、笑い話として話したような事。
なのに、何故でしょうか。
あの時の嫌な感覚が、頭の奥を突き抜けてしまうのは。
ああ…今『私』は、この人を好きだからなんだ。
形はあの時と全然別で、彼はあいつと違って優しい人で。
だけど壊れていて、いつか青葉の前から消えてしまいそうな人。
『私』は、またひとりにされてしまうかもしれない。
今度は心変わりじゃなく、絶対的な『死』という終わりでもって。
その間は、実際は5秒にも満たない時間だったでしょう。
ですがこの時青葉には、こんな思考を回せる程に長く感じられました。
やろうと思えば上手くけむに巻いて、適当に誤魔化せる話で。
でも青葉は…はぐらかすと言う選択肢を、取る事が出来なくて。
「……そうですねぇ…高校生の時、彼氏がいたんですけど…二股されて、別れちゃいました。」
こんな事を伝えて、どうしたいんだろう。
ひとりにしないでなんて、言える間柄じゃないのに。
俯いたまま、彼の顔を見る事が出来ません。
今の顔を見られたくなかったですし…訊かれるのって辛いんだなって、改めて分かりました。
今まで手を差し伸べようとすると同時に、傷に塩を塗ってもいたんだなぁって。
色々な感情が頭を巡っては、どんな顔をすればいいのか分からなくて。
「そうか…すまない、辛い事ばかり訊いてしまったね。」
謝らないで欲しい。
裏を返せば、ひとりが怖くなるぐらいまた人を好きになれたのは、あなたのおかげなんですから。
そうですねぇ…でも、ちょっとだけ、寂しくなっちゃったかな。
「……青葉?」
対面から隣へ移動して、そのまま横になりました。
この前と逆で、青葉が膝枕をしてもらう形で。
「じゃあ謝るよりも、撫でてくださいよ。青葉も司令官の辛い事、沢山訊いてきましたから。」
「……分かったよ。」
一際優しい声の後に、髪に手が触れました。
触れるのは彼の左手。ズタズタの手首がある場所。
眠くなりそうなくらい優しい手付きで、夢みたいで…でも青葉は満たして欲しいと同時に、満たしてあげたいんですよ。
撫でてくれる手を掴んで、時計を外しました。
改めて間近で見るそれはグロテスクで…そして愛おしい、彼の一部でもあって。一度手を胸に抱えて、その傷に唇を寄せました。
触れた感触は、でこぼことしていて。
きっとあの人でさえ、知らない事。青葉だけが知っている事。
これは、わたしだけのもの。
他の誰にも渡したくない、青葉だけのもの。
手を離したら、また髪を撫でてくれて。どんどん眠くなって来ました。
「いいんですよ?襲ってくれても」なんて、寝ぼけたフリして言えちゃいそう。
でも今は…これだけでも充分です。
この時間をひとりじめ出来ているだけで、青葉は満足でしたから。
結局そのまま眠気に負けて、目を閉じて。すうすうと寝入ってしまったのでした。
彼への欲望に際限なんて無い事にも、目を閉じたままで。
今回はここまで。
歌が聴こえる。
どうやら青葉は、しばらく彼の膝で眠っていたようです。
血流なのか、衣擦れなのか。さわさわとした音が波のように頭の奥をくすぐって、意識はまだほわほわとしたままでした。
今も頭を撫でてくれる感触は、余計に意識を微睡みに沈めて。夢と現とが混濁した世界に、溶けていくみたいで。
そんな中で流れている音楽は、段々と映像のように、青葉をその中に引きずり込むのでした。
“海の果ての果てに君を連れて…”
これ、あの曲と同じ声だ…同じ人なのかな?
そのメロディに身を任せていると、あの日の浜辺が脳裏に蘇ります。
何だかせつなくなって…彼の上着の裾を、きゅっと掴みました。もう狸寝入りも、やめにしなくちゃ。
「ん…__さん、今何時ですか…?」
「起きたのか、まだ1時間も経ってないよ。」
そっかぁ…随分長く寝てた気がしたけど…。もう少しこのままでいたいけど、彼も帰らなくちゃだしね。
……『私』の匂い、これで付いたかな?着替える時にでも、思い出してくれたらいいなぁ。
「…お邪魔しました。じゃあ、部屋戻りますね。」
「君も長旅だったしね、今日はしっかり休んでくれ。」
後は『私』が彼の名前を呼んで、おやすみなさいって言えば。それで今日はお別れ。
きっとその時も青葉って呼んで、本当の名前を呼んではくれないのでしょう。
ここで聞き耳を立てる人なんて、誰もいないのに。
「__さん、おやすみなさい。」
いっそ朝が来るまで隣にいたいけど、それはできないから。こうやって、今日もお別れをするんです。
…この後返ってくる言葉は、変わらないと思うけど。
「おやすみ、__。」
涙がこぼれそうな瞬間って、あるんですね。
初めてそう呼んでもらえた時、じわじわと込み上げてくるものがあって。
でもそれを出さないように、精一杯の笑顔を向けてました。
ふたりだけの秘密が、また増えた。
それがただ幸せで、せつなくて。
部屋に帰って横になったら、何だか泣けてきていました。
その日から数日後、青葉は原付を飛ばしてあの浜辺にいました。
その日はお休みでしたけど、予定の合う人が誰もいなくて。
大岩に座ってイヤフォンを嵌めて、ある音楽を掛けていました。
ゆうべ暇を持て余して、映画でも借りようかとレンタル屋さんに行ったんです。
執務室のプレーヤーに出てたタイトルを覚えていて…何となくCDコーナーに行って、あの日掛かっていた曲が入ってるアルバムを借りました。
それは、『聖なる海とサンシャイン』と言う曲。
それを聴きながら、今はぼーっと空と海を眺めています。
今日はあの日と同じように、曇り空。
あの日と違うのは、たまに雲間から夕焼けが差していたのと、隣に誰もいない事で。
一人っきりでこの景色を眺めていると、ここの寂しさが改めて浮き彫りになります。
天国みたいな場所だって、あの時言ってたっけ。
その時よりは深く彼を知った今、その言葉の意味が少し分かったような、分かりたくないような。そんな気持ちになりました。
目の前で仲間が残酷な死に方をして、自分も死にかけて。
何も感じなくなる方が、もしかしたら幸せなのかもしれない。
その後も昔の仲間も失って、恋人とも別れて…それでも彼は、悲しむ事さえ出来なかった。
それはより、天国への憧憬を強めさせたのかもしれません。
ああ、でもきっと憧憬なんかじゃなくて…それはそこに隠した、死への願望なんだ。
相変わらず、寂しい光景が青葉の前には広がっていました。
悲しくも綺麗でもない、ただただ寂しい海辺。
彼の心が、今もいる場所。
今日何度目かの、歌の終わりの時です。ふと立ち上がって、後ろを振り向きました。
一瞬の事ですが、その時確かに見えたんです。
夕日を背に、微笑む彼が立っていたのは。
血を吐きながら、青葉の方を見て微笑んで。
「…青葉か?」
だけど当の本人の声が聞こえたのは、更に反対側からでした。
制服を着ていた幻と違って、私服姿の彼は、いつもの微笑でそこに立っていて。
「びっくりしたぁ!お疲れ様です!お仕事はもう終わったんですか?」
「ああ、それで一息入れようかってね。」
彼の顔を見た瞬間、嬉しさが込み上げて来きました。
こんな寂しい場所でも、ふたりでいればすぐに色が付く。それはとても幸せで…。
でも…じゃあさっき『私』が見たのは、誰?
「…隣、座ってもいいですか?」
「いいよ、おいで。」
しれっと体を寄せて、青葉は隣に座りました。
落ち着くなぁ…こうしてる間は、ゆっくり時間が流れれば良いのに。
寂しげだった波音も、今は優しい音に聞こえて。
世界の変わる瞬間を、じっくりと噛み締めていました。
「~~…♪」
「それ、聖なる海とサンシャインですよね。」
「そうだよ、よく知ってるね。」
ふと聴こえた鼻歌に、思わず声をかけて。
蘇るのはさっきの幻と、聞いていた歌の最後。
『潮騒の銃声が夕日に響いて』
そのフレーズと血を吐く彼の影が、脳裏を掠めて。
「…昨日借りて、さっきまで聴いてたんですよ。何ていうか、悲しい歌ですよね。」
「そうだね…確かに悲しい歌だ。」
「……扶桑さんの事、聴いてて思い出したりするんですか?」
「…ああ。別れ話をされた時、こんな海を見ていた。彼女はずっと泣いていたね。」
「そう、ですか…。」
未練は無い。
それはいつか彼が言った事ですが…今思うのは、未練すら上手く感じられないんじゃないかって事で。
もしかしたら、彼も心のどこかに引っかかりがあるのかもしれない。
でも二人が後戻り出来ない事は、どちらの話も聞いていた青葉にはよく理解出来ます。
そう、戻れないんだ…だから青葉が、そばにいてあげなきゃいけない。
青葉で塗りつぶせば、少しでも未来が動くのかな?
扶桑さん…ごめんなさい。
あなたの分も幸せにするって言ったのに、今も青葉は、あなたに嫉妬しています。
だってこんなにも、染め替えてしまいたいのですから。
胸元の広いTシャツに、上着を羽織った彼の姿。
青葉はそこに抱きついて…。
彼の肩に、噛み付いたのでした。
「__…?」
呼んでくれる本当の名前は、脳に甘く広がって。
口の中の鉄の味は、とても甘美なものに思えて。
残った傷を見れば、ぞくりとしたものが背筋を駆け抜けて行きました。
ああ……これで『私』は、いつでも彼に残ってるんだ。
「__さん、痛みますか?」
「……ああ。」
そっか……ふふ、痛いんだぁ。
込み上げて来るものは、熟れた甘い匂いみたいで。
青葉は抱きついたまま、今度は彼の匂いを楽しんでいました。
だって……痛いって、生きてるって事じゃないですか?
心だって、痛みも喜びもあって…彼はきっと、そこに蓋をしてるだけなんです。
そのまま彼の顔を掴んで、キスをしました。
重ねた唇からは、血の味がした事でしょう。
それが、あなたの命の味なんです。
アナタハイキテマス、アオバガソバニイマスカラ。
拒絶もせず、彼は優しく青葉を受け入れてくれました。
唇を離しても、胸に青葉を甘えさせてくれて…少しだけ、心音が早くなった気がして。
この鼓動は、きっと青葉のせいで。それが堪らなく嬉しくなりました。
それが『私』の、気のせいだとしても。
「なぁ、__。」
「どうしました?」
優しく背中を撫でながら、彼は青葉に声を掛けました。
また本名を呼ばれて、それがもっと嬉しくて…。
「…例えば『僕は人を殺した』って言ったら、君はどうする?」
鉛弾のような冷たさが心臓を駆け抜けたのは、その時の事でした。
今回はここまで。
激しい悪寒が背筋を抜けてく。
目をそらせない。
ただただ、じっと青葉を見つめてくる目は吸い込まれそうで。
にたりと笑う顔は、一瞬誰かすらわからなくなりそうで。
怖いって、明確に感情の正体が理解できて。
「冗談だよ。」
そう耳元でささやく声は、今までで一番優しい声で。
その瞬間。ふっ、と、青葉の体は力を失ったのでした。
「……ほんと、ですよね?」
「ああ。」
なだめるように、また髪に手が触れて。
でも青葉の意識は、下げられた方の手に向かっていました。
震えてる…?
「…僕は先に帰るよ。今日は冷えそうだ、青葉も早めに帰るようにね。」
「あ……はい…。」
そのまま彼は、駐車場へ向けて歩いて行ってしまいました。
そして姿が見えなくなった瞬間、青葉はその場にへたり込んでしまったのです。
辺りは夕凪の無音で、心臓の音が嫌に生々しくて。
それは何だか、世界にひとりぼっちにされたような。そんな感覚を青葉に与えていたのでした。
__さん…俺に深入りするなって、脅してるんですか?
恐怖感と言う壁を彼に張ってしまった後悔と、突き放されたような感覚とで、頭の中はグチャグチャで。
さっきまでのドロドロとした感情でさえ、どこかに行ってしまって。
青葉はただ、呆然と夕日を眺めていたのでした。
ああ、目に沁みるなぁ…。
同日・鎮守府駐車場。
一足先に鎮守府へと戻った彼は、車をいつもの区画へと停めた。
日も相当に沈み、外灯と殺虫灯のみが辺りを照らしている。
殺虫灯がバチンと音を立て、白い蛾がポトリと彼の先へと落ちた。
そこより少し先に視線を送ると、人の脚。
その影をなぞるように目を動かすと、そこに立ち尽くす者が一人。
青葉の姉妹艦である、衣笠だ。
「……青葉に、会ってたんですか?」
「ああ、たまたま出先でね。どうかしたかい?」
「あの子について、話があるの。
提督…青葉の元カレの事、聞いてます?」
「…聞いたよ。詳しくではないけどね。」
「そう…。提督、青葉の事、大事にしてあげて?
あの子、その相手に『初めて』を許したら浮気されて…好きな人が離れるのが、トラウマになってるから。」
「なるほどね………そういうことか。」
「………っ!?」
それを彼が聞いた瞬間の変化は、衣笠に衝撃を与えた。
衣笠にとっては初めて見る、彼の無表情な貌。
そこにある凍てついた視線は、彼女の背筋を冷たくなぞる。
そこに衣笠は、一瞬誰かも分からなくなるほどの違和感を感じていた。
「提督……あなたも、そんな顔するんですね。」
「さて…何の事かな?おやすみ、衣笠。」
衣笠の横を通り過ぎる頃には、彼はいつもの微笑に戻っていた。
衣笠はそれを一瞥すると、軽く手を振り彼を見送る。
彼女の足元には、先程電流に撃たれた蛾が一匹。
白い羽根を震わせていたそれも、やがて震える事さえ止めた。
「焼けちゃうぐらい、光に縋る…かぁ。」
その蛾の影に何を重ねているのか。
それは、衣笠だけが知っていた。
部屋に戻った彼は、ベッドへと倒れ込んだ。
時計も外し、上着も脱ぎ。何となく照明へと手を伸ばしている。
彼の視界に映るのは、ぼやけて見える強い照明と、相反して生々しく映る自身の左手。
ズタズタの手首は明かりに晒され、その傷の深さをより浮き彫りにする。
手は、微かに震えていた。
「うっ…………!?」
そんな中、突如強烈な嘔吐感が彼を襲い、彼はトイレへと駆け込んだ。
吐けるものを全て吐き、口をゆすいでようやく平静を取り戻す。
彼が正面を向くと、目を鋭くした男が一人、洗面台の鏡の中に立っていた。
肌蹴たTシャツから覗く肩には、噛み跡が一つ。
その痛みと共に、蘇るもの。
甘い声。
体温と匂い。
向けられた心。
それらが否応無しに、彼の奥底に貼り付くものを、少しだけ引き剥がす。
洗面台の横、コンクリートの壁。そこから鈍い音がしたのは、直後の事だ。
拳から垂れる血が、足元の白いマットを赤く汚す。
掌を伝う温度が、命の赤が、生命の存在を耳をこじ開けるように囁く。
ここでは誰も見たことの無い、彼の苦痛に歪む顔。
今それは、たった一枚の鏡の中でのみ、白日のもとに晒されていた。
「……ふふ…。」
だがそれも、長くは続かなかった。
それはすぐに、侮蔑の笑みへと変わったが故に。
「………てめえは死んだんだろ?今更出てくんじゃねえよ。」
男は一人笑いながら、鏡の奥へと声を掛ける
その目には、一筋の涙が伝っていた。
彼の感情さえ無視した、身勝手に溢れる涙が。
今回はここまで。
「司令官!おっはよーございまーす!!」
「おはよう。」
昨日の事が嘘みたいに、次の日、青葉達はいつも通りでした。
人や国を守るお仕事ですから、そこは青葉も理解しているつもりです。
でも早速、いつもと違う事が青葉の目には飛び込んで来ました。
「司令官、その手どうしたんですか!?」
「ん?ああ、昨日ハサミでやっちゃってね。」
司令官は、手にひどい怪我を負っていました。
右手は包帯で巻かれていて、肌は指ぐらいしか見えていません。
…右利きの人が、何でハサミで利き手を怪我するんでしょう?
包帯の膨らみが分からない程、青葉は鈍くありません。ガーゼの位置は拳で…何かを殴らなければ、まずそんな所に怪我なんてしない。
ガーゼがあるって事は、擦り傷で。きっと固いものを殴ったのでしょう。
あの後、何があったんでしょうか?彼が何かを殴るなんて…。
……青葉、怒らせちゃったのかな…。
「ああそうだ。青葉、明後日から2日ほど僕はいないからね。
戦術講習で、××鎮守府に出張に行くんだ。」
「××鎮守府…ですか。」
それは、扶桑さんのいるあの鎮守府の名前でした。
司令官一人で、あそこに行く…それが頭を過ぎった瞬間、暗い気持ちになって。
でも青葉は…。
「了解しました!お気を付けて行って来てくださいね!」
何とか明るい笑顔を作って、その場は答えたのでした。
ほんとは、一人じゃ行って欲しくないなぁ…だってあの人は今も…。
そう、今でも………。
その夜、青葉はまた執務室を訪ねていました。
夜にここに来ると、昼と違う顔を見せ合うようになったのは、いつからだったっけ。
いつも通り、いろんな音楽が流れていて…その間だけは、艦娘と司令官じゃなく、ただの人同士でいられる。
扉を閉めた時、またこっそり鍵を掛けちゃいました。
誰にも、邪魔なんかさせたくなかったから。
「……__か。」
あの声で響く、『私』の本当の名前。
その瞬間に、込み上げて来るもの。
腐った果実みたいな匂いの感情が、頭の奥を支配して。
「いい夜ですねぇ。今夜は何をお聴きでしょうか?」
答えなんて、待つ気も無いけれど。
言葉が帰って来る前に、背中から腕を回して。
首を挟むように、青葉は彼に絡み付いたのでした。
右手の中に、ある物を握ったままで。
「…ソロモンの狼って、実艦の青葉が呼ばれてたのは知ってますよね?」
「それはそうさ。」
実艦の青葉は、何度大破しても戦線に戻る不死身ぶりからそう呼ばれていました。
その適合者である『私』もまた、狼なのかもしれませんね…意味は大分、違ってしまうけれど。
狼って、愛情深い生き物なんですよ。
裏を返せば、執着の強さとも言えますけど。
こうして腕を絡ませて体を寄せれば、『私』の匂いは否応無しに刻まれるでしょう。
白い制服に、鼻腔に。或いは、記憶の底に。
匂いの記憶って、鮮明なものですから。
胸元に触れた手には、彼の心音が伝わって。
それが早まったのは、今度は気のせいじゃない。
今の心音もそうですし…朝にあの手を見た時、思ったんですよ。
少しずつ、彼に感情が戻って来てるんじゃないかって。
それは嬉しい兆候でしたけど、出張の話を聞いた途端、不安に変わってしまったのです。
だって…もし彼の閉じた感情が、未だにあの人を想っていたとしたら?
感情を取り戻す事で、その想いまで取り戻したとしたら?
それ以上の恐怖なんて、今の『私』にはありませんでしたから。
今は終業後です。
彼も一休みの時で、気を抜くために制服の前は開けられてる…だから、手の中の『これ』を付ける事だって出来る。
「…何を着けた?」
「それ、あげますよ。青葉のおさがりになっちゃいますけど。」
それはあまり着けてなかった、手持ちのとあるペンダントです。
彼なら似合うと思って、男性向きのチェーンに付け替えたんですよ。
着任した時シャレのつもりで買った、葉をモチーフにしたペンダント。
“『私』と言う『青葉』は、いつでもあなたのそばにいる”って。
“いつでも、あなたを見ています”って。
そんなつもりで持ってきたんです。
「これは……ありがとう。大事にするよ。」
「お守りです。寂しくなったら、いつでもそれで青葉の事を思い出してください。」
「…ああ。」
いつもの微笑でしたが、それでも嬉しそうに見えて。青葉もそれに釣られて笑って。
そんな瞬間は、やっぱりとても幸せで…また深く、彼に抱き着いたのでした。
そんな時でした。
彼の手が、青葉の髪を撫でたのは。
「この前は、言いづらい事を訊いてしまったね…だけど、もし吐き出したくなったら、いつでも言ってくれ。
『俺』でよければ、幾らでも聞くよ。」
じわりとした感覚が、目元に広がりました。
優しい言葉をもらったのもですが…また一つ、心を開いてもらった気がして。
肩に顔を埋めて、それを押し殺していました。
もう、誰にも渡したくないよ…あの人のいる場所になんて、行かせたくない…。
そんな我儘な感情を、押し殺すのに精一杯で。
青葉は、それ以外の事が見えていなかったのでした。
彼の心の奥が、血溜まりの中にある事さえも。
今回はここまで。
愛車を駆り、青年はかつて暮らした街へと走っていた。
自らの運転では、やはり景色は違う。
過去の記憶をなぞるかのように車は国道を通り、彼の脳裏では、次々とその時々の記録が流れて行く。
左折しようと横を見れば、がらんどうな助手席が目に入る。
この景色とその位置にもまた、彼の思い出は残っていた。
長い黒髪。
不意にその影が蘇り、青年は思わず苦笑する。
制服はバッグに詰め、今の彼は私服姿だ。
左折の振動でちゃり、と胸元から金属音がした時、彼の瞳はその幻を消し去った。
運転中の彼には、当然助手席の小さなゴミが見える事は無い。
故に、そこに落ちていた一本の薄紫の髪にも、気付かずにいた。
『彼女』は、常にそばにいるのだ。
例え目の届かない場所でも、彼の現在の、様々な場所に。
車を目的の鎮守府に停め、彼は駐車場へと降り立った。
日頃艦娘達を引率する際は、他に気を向けずに済む。
だが今は、一人だ。植樹の生え方や、空の色合い。それらの一つ一つでさえ、否が応にも彼の中の思い出を蘇らせて行く。
コツコツと靴を鳴らし、それらを踏み付けて行くように彼は駐車場を越えた。
案内された更衣室もまた、懐かしさはある。
だが、白い服に袖を通した瞬間、それもすぐに消え去った。
唯一外されなかったのは、制服の下にあるペンダントのみ。
司令官としての、そして人としての彼の現在の、そばにあるもの。
ボタンを閉める前、彼は一度だけそれを握り締めていた。
「…さて、行ってくるよ。」
ポツリとこぼした言葉は、どこの誰に向けたものなのか。
それは、彼だけが知っている。
懐かしい廊下を通り、集会室へと彼は歩いていた。
その後ろ姿を、遠くから睨み付ける視線が一つ。
それはミディアムの黒髪を揺らす、とある少女のものだ。
「あいつ…!」
すぐさま追いかけようと、少女は動こうとした。
だが、彼女の肩に掛かる白い手が、それを制する。
少女が振り返ると、そこには彼女の姉が立っていた。
「……やめてちょうだい。」
「姉様…でも…!」
「…いいのよ。彼を振ったのは、あくまで私だもの。」
「…わかりました。」
妹を制し、彼女は遠ざかる背中を見つめていた。
その目はひどく切なげに、妹の目には映っていた。
その日の講習を終え、彼は一人、用意された宿でくつろいでいた。
安宿ではあるが、窓からは慣れ親しんだ海がよく見える。
月夜と海、さわさわとした潮騒の声。
写真を一枚撮り、彼はある少女の元へそれを送った。
カメラには上手く収まらなかったが、何となく、今自身が見ている世界を共有したくなったのだ。
数分後、携帯が震えた。
だがそれは先程彼が連絡した相手ではなく、違う女性からのもの。
何年振りかのその名前に、画面をスライドする手は少し震えていた。
『明日、会えるかしら?』
『あの浜に行くつもりだよ。』
彼はそれだけを返し、以降返信は無かった。
続いて携帯を震わせたのは、とある少女からのものだ。
『綺麗ですねぇ。』と、可愛らしいスタンプと共に返ってきた言葉を目に収めると、彼は微笑を深める。
『ああ、今日の月は本当に綺麗だ。そっちも見えてるかな?』
空だけは、何処へだって繋がっている。例え、遠く離れていたとしても。
出来るなら今夜は…と打ちかけた所で、彼は首を横に振っていた。
机に置かれた、葉をモチーフとしたペンダント。
それは全くの偶然だが、今も彼の背の方を向いて置かれている。
じっと、それを見つめ続けるかのように。
翌日の昼には、講習は全て終わった。
参加者は各々の交通手段で帰る。
電車の者、飛行機の者。そして車で戻る者。
ここまでの道は、高速を使って3時間。
自分の車で来ていた彼は、気が向いた頃に帰れば良いと言った状況だった。
それはこの街での自由時間が、まだある事を意味する。
彼はすぐに帰ろうとはせず、とある駐車場へと車を停めていた。
そこは、ある海浜公園の駐車場。
少し歩けば砂浜が広がり、シーズンオフの今、ここに彼以外の人影は無かった。
青空と海。それ以外は、この砂浜には何も無い。
一人ポツリと佇み、彼は潮騒の声に耳をすませている。
かつて『二人』で何度も見た、穏やかな海がそこにはあった。
今、彼の胸に去来するものは、一体何なのであろうか。
「……変わらないわね、ここは。」
そこに響くのは、儚げな細い声。
長い黒髪とスカートを揺らし、とある女が彼に声を掛けていた。
艦娘としての制服よりも、彼にとってはずっと見慣れていた私服姿。
戦艦・扶桑としてではない、かつての恋人の姿として、彼女は立っていたのだ。
「……久しぶりだね。」
「ええ…何年経ったのかしら。」
「少し、座ろうか。」
言葉少なに、二人は近くの石段へと腰掛ける。
肩と肩の隙間は30cm程、手を伸ばせば届く距離。
だが、彼らが触れ合う事は無い。手をつなぐ事でさえも。
「知ってはいたが、目の当たりにするまで本当だと思わなかったよ。
…どうして艦娘になんてなった?」
「…憎たらしかったの…あなたを壊した、戦争そのものが。」
「…それでも『俺』は、帰ってこないけどね。」
「わかってるわ…でも__……何でそんなに寂しそうなのかしら?」
「…何の事だよ。」
「可愛い子ね、青葉ちゃん…この前、じっくりお話させてもらったわ。
ねぇ__……少しずつ、感情を取り戻して来てるのではないかしら?」
「………あぁ、そうだよ。」
青年の肯定に、女は寂しげに微笑んだ。
彼は青葉との交流の中で、失った物を徐々に取り戻しつつあった。
痛みや悲しみ、恐怖に怒り。
そして、愛と喜び。
少しずつではあるが、それらに揺れる感覚を、近頃彼は味わっていた。
それは間違いなく、青葉と言う少女が与えてくれたもの。
だが、過去への感情もまた、改めて噴き出していたのだ。
「……あの子のおかげかしら?」
「きっとね…例えは悪いけど、犬みたいな子だよ。常に『俺』の深い所にいてくれる。
…こんなんになっちまった、『俺』のそばにでもね。」
「それでも、あなたを見捨てた女に会いに来たのね…。」
「あの頃の『俺』は、死んだようなものだったからな…だから今こそ、ケリを着ける為にね。」
「……ずっと、後悔してたわ。
私がしっかりさえしていれば、あなたを殺しそうなんて思わなかったもの。ねぇ…。」
しなだれかかる重さ、懐かしい香り。
それらはかつてこの海で、幸せに夕日を眺めていた頃と同じものだった。
だが、今は違った。
過ぎた年月は心を焼き、今二人にあるものは、思い出の灰でしかない。
それでも彼女にとって、伝えたい言葉は。
「……やり直す事は、出来ないのかしら?」
どこまでも悲しい、わがままな想いだった。
「……ああ、出来ない。
君の好きな『俺』はもう、あの時死んだんだ。
息を吹き返してたとしても、それは新しい『俺』さ。」
「……あの子、本当に良い子よ。幸せにしてあげて。」
「…………わかったよ。」
嘘つきだなと、彼は内心で自嘲の笑みを浮かべていた。
青葉と心を通わせる前に、彼はもう、後戻り出来ない場所まで来てしまっている。
その事は、かつての恋人にさえ話せない事。
「…『僕』は、そろそろ行くとするよ。」
「そう…気を付けてね。」
背を返し、彼はその場を後にする。
振り返らずに歩く彼と、座ったままの彼女。
次第に遠くなる足音。それもエンジン音と共に止むのだろう。
だが彼女は、その音が途切れる前に走り出していた。
「待って!」
肩を掴まれ、強引に振り向かさせられた彼に触れたのは。
かつて愛した女の、唇の感触だった。
「__、愛して『いた』わ。」
「__……『俺』もだよ。さよなら。」
「ええ…さようなら。」
車は走り去り、見えなくなるまで彼女は手を振っていた。
その足で浜へと戻り、彼女は石段へとまた腰掛ける。
ひとりきりの、石段の上。
さっきまでは、ふたりきりだった思い出の場所。
上を見れば、透き通るような青空だ。
だが彼女の瞳には、天気は狐の嫁入りに見えていた。
瞳をぽつぽつと水滴が濡らし、それは人肌の、ぬるい雨粒だ。
次第に視界が滲んで行くが、それでも尚、空は変わらない。
青き日々の最期を、彼女の中に刻むように。
「ああ…空はあんなに青いのに。」
ポツリとこぼした言葉と、ポツリとこぼれた雫。
彼女の瞳には、土砂降りの雨が降っていた。
次の虹を呼ぶ為の、寂しい通り雨が。
この日が来るのを、待っていました。
今日は彼が帰って来る日です。
もう夜だけど、絶対出迎えてやるんだ!って今は待ち伏せしている所。
早く会いたいなぁ…でもこんな時間も何だか楽しくて、暗い駐車場も怖くはありません。
おや、光ですねぇ…あ!帰って来た!
「司令官!おかえりなさい!」
「青葉…待っててくれたのか。ありがとう。」
私服姿の彼は、あのペンダントを付けてくれてて。
もう顔を見ただけで嬉しくなって…思わず抱きついちゃいました。
だって今なら、誰も見てないもん。だから我慢なんて出来ない。
「あはは、そんなにくっつくなよ。犬じゃないんだから。」
「狼ですよーだ。えへへ…。」
嬉しくて嬉しくて、思わず腕に頬ずりしちゃいました。
ふふーん、久々に匂いでも味わってやろうかなー、どれどれ……。
…………え?
「司令官……扶桑さん、いましたか?」
「…ああ、いたよ。」
アノヒトノ、ニオイガスル。
形容し難い何かが青葉の中を駆け抜けて行ったのは。
その匂いを、感じた時でした。
今回はここまで。
こわい。こわい。こわい。
血の気が引いて、でも込み上げてくる感覚もあって。
頭がぐるぐる回って、汗が冷たい。
くらくらする。
しんぞうがばくばくして、じめんがちかい。
あれ?なんでじめんがちかいんだろ?
「青葉!?」
しれいかんのあししかみえない。おっきなこえがする。
なんでそんなにあわててるんですか?だいじょうぶ、たてますよ。
あ。からだがういた。
「待ってろ、すぐ連れてく!」
そのままかれは、あおばをどこかへつれていってくれました。
あたまがぼんやりして、ねむくなって…。
そこからは、意識が途切れていました。
あの浜に、青葉と司令官は立っていました。
彼は青葉の少し先にいて、いつもの微笑もありません。
ただ淡々と、曇り空の下を歩いていました。
『たぁん…。』
嫌な残響の銃声が響いたのは、その時のこと。
その場で彼は倒れて、青葉はそこに駆け寄るんです。
抱き上げるんですけど、血が止まらない。
気付いたら青葉の両手も真っ赤で…ふと自分の手を見たら、拳銃が握られていたんです。
血は暖かくて、全身に彼を浴びているようで。
でも拳銃は、とっても冷たい。
青葉が目を覚ましたのは、心までその温度に飲み込まれた時でした。
“あれ…?”
司令官の匂いだ。
真っ先に感じたのは、その香りです。
そこは医務室でもドックでもないし、ましてや自室でもない。知らないベッドの上で。
手があったかくて…それはどうやら、人に握られていたからのようでした。
「え…司令官!?」
「良かった…目を覚ましたのか。」
その手の主は、彼でした。
優しい笑みを向けてくれてて…青葉はそれで、ようやく現実に帰ってこれたのです。
でもここ、どこだろ…?
「あの、青葉は一体…。」
「急にうずくまって、意識も朦朧としてたんだよ。それで近くの俺の部屋に運んだんだ。
医務も呼んで診てもらったが…ストレスから来る急性のものだったようだね。」
「………ストレスですか。」
原因は、思いっきり心当たりがあります。
扶桑さんの匂いがした瞬間、『あの時』の感覚が蘇りましたから。
ドン底に突き落とされる感覚…でも違うのは、司令官は青葉のものでも何でも無いってこと。
だからこんな感情も、こんな風にトラウマぶり返すのも、本当は筋が違うんですよ。
迷惑掛けちゃったな…彼女ヅラして、ばかみたい。
ほんと、ばかだよ……やり直す可能性だってあって、『私』にそれを止める権利なんて…。
「青葉…泣いているのか?」
「あ…いえいえ!だいじょーぶです!眩しいだけなので!」
そうだ、起きたんだし帰らなきゃ。
ここ、司令官の家だもん。これ以上はいられないし…。
「…ここなら誰も見てないよ、我慢しなくていい。」
ぎゅっと青葉を抱き締めて、彼はそんな言葉をくれました。
ダメですよ、そんな事言っちゃ…余計涙止まんなくなっちゃう。
言えないよ、こんな気持ち…でも…。
「……扶桑さんと、ヨリを戻したんですか?」
この時、心底自分を子供だって思いました。
そんな光景を想像すると、やっぱり怖くなって…今でも、少し手が震えてるのがわかる。
無意識に彼の裾を強く掴んでいて、それは青葉自身の執着を教えてくれていました。
そうだよ。これは執着で、ワガママなんだ…知りたいって思う事さえも。
「逆さ。彼女とは、ちゃんとケリを着けたんだ。
あの時の俺は、今より欠けていたからね。」
でも返ってきたのは、青葉の不安と真逆な言葉でした。
ケリって一体…。
「……彼女は俺を振ったのを後悔していたが、それでもやり直す事は出来ない。
あまりにも、時間が経ち過ぎていたんだ…俺が俺を取り戻し出すには。」
「司令官…やっぱり、感情が欠けてしまっていたんですね。」
「そうだろうね…昔は寂しいや悲しいと言った類も、上手く感じられなくなっていた。
ただあの場所に俺は焦がれていて…その理由さえ、理解出来なかったのにな。
だけどこの頃、少しずつ蘇ってきたんだ…君との交流の中でね。
思う所は沢山あったが、まず彼女とちゃんとケジメを着けなきゃと思った。講習の話は、その時に来たんだ。」
「それで…扶桑さんは何て?」
「……宿にいる時、彼女から連絡があった。それで次の日会いに行ったよ。
彼女もまた、後悔したままだった。
ただ俺とは逆で…やり直せないかって、そう言われた。
だが、今となっては不可能な話だ。
俺はその間、余りに変わりすぎたからね。戻る事は出来ない…その旨は、ちゃんと伝えたよ。」
「…そう、ですか…。」
それを聞いて安心した自分がいて。
ふと我に返って、自己嫌悪を抱きました。
何を安心なんて…だって感情が戻り出したって事は、きっと…。
「……司令官、じゃあ拳の傷は…。」
「…あの件やその後に纏わる気持ちを思い出し始めた、副産物だろうね。
耐え切れなくなって、吐いたり暴れたりしたものさ。
なぁ青葉。俺が見た場所へ行く条件って、分かるか?」
「いえ…。」
「手首を切った時は、気絶しても何も見えなかった…今思えば、簡単な事なんだよ。
あそこは戦場で、死に瀕した者にだけ見える…生と死の、狭間の場所だ。
もしかしたら俺は、そこに自分の心を置いて来たと思い込んでたのかもな。ずっと、俺の中に眠っていたのに。
…まぁ、俺の事はどうでもいい。
今日は無理せず、休ませた方が良いって医務も言ってたよ。ベッドはそのまま使ってくれ。」
そう微笑んで、彼は青葉の髪から手を離しました。
短い間見せた、張り詰めた目なんて無かったかのように。
「司令官は、今夜どうするんですか?」
「俺はリビングで寝るよ。ソファもあるしね。それじゃあ…!?」
「…嫌です。」
背を向けようとする彼の手を、無意識に掴んでいました。
怖くて、寂しくて……それは青葉にとってもでしたが、彼を一人にする事が怖くもあったから。
このまま、遠くに行ってしまわないかって。だったらいっそ…。
「病人ほっとかないで下さいよ…隣で寝て下さい。」
「…簡単に、異性にそんな事言うものじゃない。『僕』が狼でないと言いきれるかい?」
「……あなたの一人称が『僕』の時は、仮面被る時です。青葉、さんざん見ちゃってますから。
それに……『私』も狼ですから。食べられちゃうのはあなたかもしれませんし?」
自分が満更でもないと思ってもらえている事ぐらい、気付いてるんですよ。
だからこれは、卑怯な事。
こうやってどさくさ紛れに気持ちを伝えて、後戻り出来なくさせて…逃げ場を無くす行為。
それと同時に、これは青葉にとっても大切な事で。
本当は、今でも怖いんですよ。
こんな事したって、またいなくなるんじゃないかって。男の人自体を信じられなくなってる自分もいて。
だけど、それじゃこの先何も変わらない。
『私』との交流の中で、感情を取り戻し始めた彼。
もっと深く踏み込んだなら、より多く取り戻せるでしょうか?
自分の為にも、あなたの為にも。
今少しだけ、私達は殻を破らなきゃいけない。
「…私達は成人同士です。不倫でもない限り、男女の仲は自己責任ですよ?
司令官…いえ、__さん。私はあなたが好きです。あなただから、こんな事を言うんですよ。」
「………そうか。」
「びっくりしちゃいましたか?
_さん、あなたはどうなんでしょう?」
「俺は……。」
さっきとは別で、心臓がばくばくしています。
小悪魔気取ったって、内心は必死ですから。
とても長くて、永遠にも感じられる時間です。
背中に汗が伝うのを、青葉の肌は感じ取っていました。
「なぁ、__。」
その時聞こえたのは、青葉の本当の名前。
微笑も無く、ひどく真剣な。そして苦悩に満ちた顔で。
あぁ…あれだけの事、『私』はしてきたもんね。
きっと振られてしまうんだと、目元にじわりとした感覚を感じた時の事。
「俺はあの日以来、感情を失っていた。今でも完全にとは言えない。
今でも軍にいるのは、もう一度死線に巡り合う為でしかなかった……いや、正確にはそれ以外は感じられなかったんだ。
ここにいれば、いつかあの場所が見えるんじゃないかってね。
この歳で少佐に上がったのも、感情が無かったからだろうな。
感情が無いから、戦術での最適解を出す事が出来た…味方の反発を産まず、敵もなるべく殺せる道を。
だが、失ったものは多かった。
俺は仲間の死も嘆けなければ、彼女と別れてもやはり空虚だった…ひどい事ばかりしてきたよ。
司令官になった今でも、艦娘や他の職員との距離は感じていてね。そんな中に現れたのが、君だ。」
「……はい。」
「随分と、俺を引っ張り出してくれたもんだよ…ちゃんと人として話を出来たのは、君ぐらいなものさ。
おかげで、今はこの戦争を終わらせたいと、はっきり思えるようになった。
俺には言えない事も沢山ある。これから先、君にはつらい思いをさせるかもしれない。
__。それでも、近くにいてくれるか?」
「……はい!いつでもそばにいますから!」
「ありがとう…俺も、君の事が好きだ。」
そうやって抱き締められた時、全てが昇華された気がしました。
彼の苦しみも、青葉の苦しみも、何もかもが。
抱き合っている間は、融け合えているみたいで。それはとても、幸せな事。
目に見える全てが、優しい場所と思い込めるぐらいには。
例えばそこが、実際は海の底だったとしても。
いくらでも、どこまでも深入りできてしまう気がして。
青葉と司令官が。
いえ…『私』と『彼』が一線を超えたのは、その夜の事でした。
それは全てに目を伏せるような。
虫の声も聞こえない、丸い月の夜だったのです。
手を伸ばしても届かない、光の遠い夜の事。
今回はここまで。
“……真っ暗…まだ3時かぁ。”
一度目を覚ましたのは、真夜中の事でした。
上は裸ですけど、寒くない。だって、彼の腕にくるまれているんですから。
ふふ…叶っちゃったんだぁ…。
幸せを噛み締めて、胸元に頬を寄せて。
これは夢じゃないんだって思えました。
静かに眠る彼の顔は穏やかで。でもいつかみたいな、死んだような寝顔じゃない。
それが愛おしくて、嬉しくて。青葉は少しの間、彼の心臓の音に耳をすませていました。
“でもトイレ行きたいなぁ…起こさないように…っと。”
ベッドを出て、そろそろとトイレに向かいました。そこで初めて、ちゃんと家の中を歩いたんです。
最初にトイレと間違えてお風呂場を開けちゃって、目に入ったのは脱衣所。
端の方に透明なビニール袋があって…その中には、血の付いたマットが入っていました。
これ、きっと拳の怪我のだ…手に取ってみると、かなりの血が出ていたのがわかりました。
さっきまでの幸せとは別で、胸がぎゅっとなります。どんな気持ちだったんだろ…。
用を足して寝室に戻ると、多少目が覚めたのでしょう、部屋の様子がさっきよりはっきり見えました。
間接照明にも目が慣れて、どんなレイアウトかよく見える。
棚には沢山のCDが並べられていますが、それ以外は特にめぼしい物もありません。
むしろ無機質さすら感じるぐらい、他に生活感や趣味の要素が見当たらない。
本棚も、殆どは戦術や軍事関係のもの…思い出のアルバムも無いし、何か写真が飾られてる様子も無くて。
PCには外付けHDが繋がれていますが、これも音楽用なのでしょう。
……デジカメや古い携帯の写真とかも、PCに無いのかもなぁ。
CDラックは整頓されていて、ちゃんとアーティスト順に並べられていました。
悪いとは思いましたが…ふと気になって、ある区画を探したんです。
彼が一番好きな曲を作った人達の、あの頭文字を。
“綺麗…。”
何となく手に取ったのは、黒地に綺麗な指輪が印刷されたもので。
しばらくそのジャケットを、ぼーっと見つめていました。
「ん…起きてたのか。」
「あ…え、ええ!少しトイレお借りしました…。」
そこに掛かった声は、大好きな人の声で。
でもCDラックを勝手に見ちゃってたから、ちょっと慌てちゃいました。
「おや、あのバンドか。それは良いアルバムだ、良かったら貸すよ。そうだなぁ…だったら他にも…。」
そうして青葉の隣に来て。
彼は何気無く、片手で青葉の肩を抱きながらCDを探していました。
…恋人同士って、こう言う感じだよね。
こんな何気ない事でも、怖いぐらい幸せで。このまま朝なんて来なくていいのに。
「袋に入れたから、帰りに持ってくと良い。忘れないようにね。」
「ありがとうございます。」
「ああ、それと…仕事以外では、敬語はもう使わなくていいよ。
その、何だ…す、少なくとも、今までの関係じゃないんだし。」
「ふふ…うん!そうするね!」
「よくできました。」
少し恥ずかしそうに言う姿は、初めて見る顔で。
かわいいなぁって、にまにまとそんな顔を見つめたものでした。
夜明けまでまだあるなぁ…ガサには連絡が行ってるみたいで、下手に早く帰ったら怒られちゃいそうです。
それにしても、よっぽどぐっすり寝ていたのでしょう、目も冴えてしまっていて…それは彼も、同じなようでした。
「眠くねえなぁ…。」
「横になろっか?ゴロゴロしてるだけでもマシだろうし。」
「そうだね、変にテレビ見たりするよりは。」
照れ笑いも、少し崩れた言葉遣いも。やっと心を開けたようで、青葉には全部が嬉しくて。
それで思わず抱き着いて、腕を絡めたら…あるものが青葉の手に触れました。
火傷ででこぼことした背中に触ると、眠る前まで無かった、細くて硬い感触があって。
それは多分、最中に青葉が爪を立てたせいで出来た傷。
痛かったかなぁ…無意識とは言え、悪い事しちゃったな。
「背中、ごめんね…痛くない?」
「ん?ああ、大した事じゃないさ。」
そう笑顔で言い放つ彼を見て、少し胸が痛みます。
彼の過去の恋愛も過ぎりましたけど…それ以上に、あの戦闘で痛みに慣れてしまったんだろうって。
…最近少しだけ、確信を得た事があるんです。
彼が感情を取り戻し始めたきっかけや、その後に欠けたピースをはめて行ったトリガー。
それはきっと、『私』が彼の体に痛みや傷を与える事。
痛みを以って、痛みを呼び覚ます事。
確かに、恋人同士になった事もあるでしょう。
だけど、体を重ねる前より柔らかくなった表情を見ると…背中の爪痕が、また呼び覚ましたのかもしれないって思ってしまう。
医務官さんの指示で、青葉は今日はお休みになったそうです。
それでも昼には、部屋に戻らなきゃいけない。
つまり、また夜になれば、彼はひとりきりで夜を明かす。誰にも見られず、何かを隠す必要もない。
そこまで考えた時、さっきの血まみれのマットが頭を過って…今度は、自分の胸に彼を抱きしめたんです。
「ねぇ…本当に痛くないの?」
「背中の事か?大丈夫だよ。」
「……違うよ。私は記者だもん、あなたの事は沢山見てきたんだ。
__…昔の事、思い出したりしてない?」
「……思い出してないと言えば、嘘になるかな。」
「…今は何も訊かないよ。でも辛くなったら、私のこと思い出して。いつでも見てるから。
それで…話したくなったら、いつでも話してね。」
「……ありがとう。」
胸元にわずかに冷たいものが触れたのは、きっと気のせいじゃない。
痛くないように、なるべくゆっくりと抱く力を強くして…体に食い込むその感触で、彼がここにいる事を確かめていました。
抱きしめているようで、きっと縋り付いているのは『私』の方だけど。
艦娘である以上、命の危険なんていつでもあるはずで。
なのに相変わらず、仲間や自分の誰よりも、司令官である彼が一番消えてしまいそうな気がするのは、変わりませんでした。
『私』は、あなたがいないと生きて行ける気がしない。
でも…あなたは、『私』がいなくても生きて行ける?
何度も自分からキスをして。その後何をするでもなく、ベッドで色んな話をして。
その間ずっと、青葉はつないだ手を離す事が出来ませんでした。
やがて朝が来て、いつの間にかまた眠ってしまっていて。
青葉が目を覚ました時には、彼はもうお仕事に行った後でした。
“……この部屋、結構広いんだ。”
テーブルの上には、鍵と一枚のメモ書きが。
メモの内容はお風呂の使い方と、鍵の隠し場所の指定でした。
“…さすがに合鍵もらう事も無いかな。あの人も軍人だもんね。”
シャワーを浴びてベッドを整えたら、すぐに彼の家を出ました。
ずっといると、寂しくなっちゃいそうでしたから。
ここの司令官用の住居は、駐車場のそばにある平屋で。どの設備からも少し離れた位置にありました。
だから、上手くやれば人には見付からない。
からかわれたりする事は無いと思いつつ、こっそりと戻った訳なのですが…部屋の鍵を開けると、何やらドアの隙間に紙が一枚。
『おめでとうございます。』
あはは……これ、ガサの字じゃん…。
さすがに今冷やかされるのは恥ずかしいなって思って、今日は大人しくする事にしました。
1日ぶりに自分のベッドに入ると、何だか妙に頭が冷静になって…ふと、今までの青葉の人生を思い返していました。
無意識にトラウマになってた、最低な過去の恋愛も。一夜明けると何だか遠くの様で。
それ以外の事も、映画の様に客観的に蘇って来て…例えば、艦娘になるきっかけの事。
叔父さんの事については、一つだけ彼に隠し事をしていたんです。
それは心配をかけまいとしたが故ですけど。
叔父さんの遺体は、確かに早く見付かりましたが…厳密には、頭と右腕までだけが繋がった状態で見付かったんですよ。
それ以外は吹っ飛んでしまっていて、それでもSDだけは手放していなかった。
青葉が敵に憎しみを抱いたのは、それが最初の事。
叔父さんは青葉にとって、ジャーナリストとしての目標で…仇討ちに艦娘になる事を決めたのは、そう時間は掛かりませんでした。
仇を討つ事も、本を書いて世に伝えたいと言う目標も、そこに偽りはありません。
でも、ある時から青葉の中には、一つだけ疑問が芽生えました。
じゃあ、守りたいものや助けたいものは、青葉にはあるのかな?って。
仲間が亡くなった時や、彼と深く関わっていく中で、その疑問は次第に大きくなっていました。
今は…幸せになりたいし、したいかな。
この戦争に勝って、叶えたい事もあるし…ずっと、隣にいて欲しい人が出来ましたから。
戦争が終わっても彼が生きていられるように、青葉が彼の心を連れ戻すんだって。
“今夜はせめて、彼が寂しくないようにいっぱい連絡をしよう。”
そう決めて体を起こすと、貸してもらったCDをPCに取り込みました。
それで一番気になっていた、黒地のアルバムから聴き始めて…。
言い知れぬ不安に駆られたのは、その時の事でした。
その日の夜。
一日を終え、彼は自室のベッドに横たわっていた。
部屋には音楽が流れており、間接照明の中、彼はじっと天井を見つめている。
ベッドから感じるのは、彼女の残り香。
記憶の中のぬくもりを思い出しながら、しかし彼の手には、それとは相反するものが握られていた。
マガジンの抜かれた、冷え切った拳銃が一つ。
スピーカーから流れるのは、彼女に貸したものと同じアルバム。
それは戦死した兵士の魂が、現代へとタイムスリップすると言うストーリーの作品だった。
彼女の前ではこの頃見せていない、あの貼り付けたような微笑み。
それを浮かべつつ、彼は右手の銃を持ち上げ。
そして、かち、と言う虚しい音だけが彼の片耳に響いた。
「ふふ……ははははははは!!!」
まるで楽しんでいるかのような、激しい笑い声が部屋に響く。
実際に、彼はコントを見ているような気分だったのだろう。
自身の存在と言う、ブラックコメディ。
今彼にとって最も滑稽なものは、それ以上に存在し得ないのだから。
“あの子の前で殺された……ね。”
流れる音楽の歌詞と、ある想像が彼の中でリンクする。
そして彼が彼自身に突き付ける銃口は、自身の心の弱さだった。
「俺は、蘇ったりはできないな……。」
彼女からもらった、葉のペンダント。
それを握り締める手は、ひどく震えている。
直後、携帯のバイブレーションが響き、それは彼女からのものだった。
何とも他愛の無い、恋人らしい内容だ。目を通せば、先程までの感覚はひと時でも安らぐ。
それは偽薬のような、か細い安息。
だがその実、幸福以外に、心の奥底にあるものを隠したままだった。
形は違えど、互いが共通して隠すもの。
それは、不安と言う名の感情だった。
今回はここまで。
『魔の海を越えて……最後に見たのは…』
イヤフォンを耳に差したまま、呆然と天井を見つめていました。
一通り黒いジャケのアルバムを聴いて…今は、ある曲をリピートしてしまっていて。
それはアルバムのストーリーの冒頭。主人公が敵に撃たれて、戦地から現代へと魂が飛ぶ場面を歌った曲。
これはあくまで、過去としてのその瞬間の歌で。
だけどこの時浮かんだのは……彼の…。
……ううん、もうやめなきゃ、こんなこと考えるのは。今は幸せなんだもん。
それでも寂しい夜を過ごしてないか、心配になって連絡を取りました。
そのまま何となくwebブラウザを開いて…検索したのは、このアルバムのこと。
“ラストのサビの部分には_________の冒頭部分が重ねられている。”
何枚か貸してもらったCDをざっと見た時、そのタイトルを見た覚えがありました。
確かに違うメロディが鳴ってる…それがどうしても気になって、今度はそっちの曲を再生したんです。
日は暮れていて、彼もきっと帰っている頃で。それを一通り聴いて…。
青葉は、部屋を飛び出していました。
息を切らして彼の家に辿り着くと、インターホンに手を伸ばしました。
だけどその手を、途中で止めてしまったんです。
きっと堂々と尋ねたら、彼は全てを隠してしまう。
今青葉が知らなきゃいけないのは、そうじゃない顔。
“…覗くしかない。
何もなければそれで良し、もし何かあったなら…。”
今は記者として、恋人としての見せ所だ。
記者だからこそ出来る、ともすれば傷を広げかねないような、すれすれの手助け。
でもそんな事、他に誰が出来るの?
やるしかない…青葉、取材しちゃいます……!
壁を這うように、こっそりと裏へ回ります。
寝室の位置は把握してる、それはこのサッシの向こう。
カーテンの隙間からは間接照明が漏れてる…音楽も聴こえる。いるのは間違いない。
バレる事は、微塵も怖くない。そんな余裕自体無くて。
でも心臓の音はばくばくしていて…その正体は、不安でした。
ちゃんと耳をすませば、かち、かち、と、無機質な音が聞こえて来ます。
音を立てないよう、片手スコープを窓の隙間へ。
いました……あれは…!?
青葉、見ちゃいました…。
そこにいたのは。
ベッドの上で何度となく、空の拳銃をこめかみに撃ち続ける彼の姿。
間接照明に口元だけが照らされていて…その頬は、釣り上がっていて。
頬には、涙が伝っていました。
『こん…こん…』
自分でもびっくりするぐらい、弱々しいノックをしていました。
それでもあの部屋にはよく響いたのでしょう、彼はすぐに気付いて…。
サッシを開けた彼の顔は、見た事もない、悲しげな顔を浮かべていました。
「見たのか……。」
「うん…ねえ、入れてもらってもいい?」
「……上がってくれ。」
隣同士でベッドに座っても、言葉はありません。
何を言えばいいんだろう、何をしてあげればいいんだろう。
考えるほどわからなくて……ただ、ぎゅっと彼を抱きしめる事しか、青葉には出来ませんでした。
「……何があったの?」
「…………。」
「黙ってちゃ、わかんないよ…おねがい……私には、話してよ……。」
「……何で俺だけ、のうのうと生きてんだろうなって思ったんだ。」
「………また、思い出したの?」
「ああ……あの戦闘で死んだ仲間たちや、あの子の事への気持ちが一気にね……今更だ、本当に今更だよ。
今になって、悲しくてたまらなくなって……気付いたら、空砲を撃っていた。」
様々な痛みや悲しみが、混ざり合って吹き溜まりになって…決壊したダムのように、一気に溢れたのでしょう。
それがどれだけの心の痛みになったのか、青葉には全てを想像する事は出来ませんでした。
それはきっと、地獄のような責め苦で。
不意に甦るのは、彼の語っていた天国の事。
感情なんて捨ててしまった方が、心だけでも殺してしまった方が。何かに苦しみ続けるより、ずっと楽な事で。
彼が心を閉ざしていたのは、防衛本能だったのかもしれない。
死にたいと言う気持ちすら、天国への憧憬にすり替えて。
そうすれば、死に場所を探す事さえ辛くないはずだから。
その蓋を開けてしまったのは、『私』だったのでしょう。
それでも…『私』は……。
「__……大丈夫だよ。」
強く抱きしめて、安心させるように。
「私は、何があってもそばにいるから。」
たったひとりの理解者である事を擦り込むように、甘い言葉を囁いて。
「やっと泣けてよかった…ありがとう、話してくれて…。」
ヴェールを纏った聖母を気取るみたいに、欲望を包み隠して。
「生きてるんだよ、あなたは。」
腕を取って、唇を寄せて。
また、彼に噛み跡を付けたのでした。
「………っ!?」
「痛かった?ごめんね……。」
こぼれた血は、あたたかい。
それはまるで、とろけるように甘美で。
唇を伝う血も気にせず、私はキスをして。
付いた傷を眺めて…ぞくりとしたものが、背筋を通り抜けて行きました。
ああ、また『私』の跡が増えたんだ。
これでまた、感情が一つ戻るんだ。
喜びや幸せが戻るまで、何度でも、何度でも傷を付けてあげる。
全部、『私』が呼び戻した跡で。
他の誰にも、こんな事は出来やしない。
「……それでも今は、私がいるよ。
私を“シルクスカーフに帽子が似合う女”になんて、しないでよ…。」
「聴いたのか?」
「うん……あれ、悲しいよ。あなたの事みたいだって思った…。」
「そりゃ予想外だったな…ごめんな。」
「だめ。収まるまで許さない。」
「ありがとう…お前がいなかったら、今頃どうなってただろうな。」
胸元に飛び込んで、顔を埋めて。
そうやって甘えてみせる青葉を、彼は優しく抱きしめてくれました。
だから今、彼に青葉の顔なんて見えていない。
この時本当は、甘えるよりも、抱きしめてあげたかったんです。
でも、どうしても隠さなきゃいけない自分の変化があった。
釣り上がる頬の感覚。
きっとこの時の青葉は…それはそれは、ひどい笑顔をしていたでしょうから。
彼には見せられないような、欲望まみれの女の顔で。
この時一番強かった感情。それは…
“私がいないと、この人は生きて行けない。
これでもう、えいえんにわたしだけのもの。”
そんな、どこまでも下卑た感情だったのですから。
今回はここまで。
筆者の中では、青葉はかなり影を隠してそうなイメージがあります。
膝枕をしてあげる内に、彼は疲れ果てて眠ってしまいました。
今は子供みたいに穏やかに目を閉じていて、その顔が青葉を満たして行く。
少なくともこの鎮守府では、青葉以外誰も知らない顔なのですから。
腕には真新しい噛み跡。まだかさぶたも真っ赤なその傷を見て、ふと彼の血の味が蘇りました。
アヘンって、元はけしの乳液だったよね……さながら青葉にとってはその味が。いえ、彼の存在自体が麻薬のようで。
傷に舌を這わせれば、乾いた鉄の味。頭の奥が痺れるような感覚が、そこにはありました。
ほんとうのこのひとはわたしだけのもの。
でも、もう帰らなくちゃ。
起こさないように頭を下ろして、毛布を掛けたら最後にキスをして。それでこっそりと、部屋に戻りました。
本当は朝までそばにいてあげたいけど、恋人であると同時に青葉は艦娘で、彼は司令官で。
それは二人とも、よく分かっている事でしたから。
「“司令官”、おはよーございます!!」
「ああ、おはよう。“青葉”。」
次の日、今まで通りの挨拶で1日が始まりました。
今日の青葉は秘書艦を外れていて、でも作戦の関係上出撃はありません。
戦闘が無い時の艦娘がやる事と言えば、専ら訓練です。
今日は海上移動の訓練をしたかったので、一人訓練用の沖に立っていました。
この時はたまたま、青葉以外誰もここを使っていなくて。静かな沖が目の前に広がっていました。
“~~…♪”
何故なんでしょうね。
天国旅行と言う曲を知った日から、艤装を付けて一人沖に立つと、頭の中で流れてきます。
あの曲から感じる、寂しい景色。
それを何故か、ずっと昔から知っているかのように思える。
彼が見た天国が、艤装と通じている間は既視感のあるものに感じられるんです。
『天国とは名ばかりのそれ』が、生々しい物に思えるぐらいには。
彼の事を知り始めてから、作戦や訓練の時は頭の中でスイッチが入るようになりました。
特に具体的な過去を知ってからは、グツグツと煮えたぎるのに、冷え切った様な。そんな感覚を持つようになったのです。
洋上を駆けて、障害物を避けて。そして置かれた的を撃つ。もっと速く、もっと正確に。
ぜえぜえと息が上がっても、足が震え始めても。
日が暮れるまで、青葉は訓練を止める事はしませんでした。
「演習ですか…。」
「…ああ。さっき話が来た。」
その夜彼から告げられたのは、演習の知らせでした。
相手はあの鎮守府で、今度はここが会場だって。そう言われたんです。
「その…向こうの編成は?」
「……彼女の妹がいる。たっての希望だそうだ。」
「…青葉を、旗艦にしてもらえませんか?」
「君をか?」
「はい。前の演習の時は、倒せませんでしたから。」
「…分かった。君を旗艦に編成を組もう。」
山城さんの事が出た瞬間、使命感に駆られたんです。
あの子は彼を憎んでる…それこそ顔を見た瞬間、殴ろうとしてるぐらいには。
それを思い出したら、守らなきゃって思って。
コノヒトヲキズツケヨウトスルヤツハ、ダレデアロウトユルサナイ。
キズヲツケテイイノハ、ワタシダケ。
「……ねぇ、“時間だよ。”」
終業時刻を過ぎた瞬間、『私』は彼にとって『青葉』ではなくなる。
だけど『青葉』である時も、いつでも彼のそばにいる。
最も近い部下としても、最も近い恋人としても。
いつだって、あなたのそばにいるんだから。
いつでもいつでも、見てるんだよ。あなたの敵でさえも。
大丈夫、あの子の好きにはさせないから。
私が、守ってあげるから。
翌日夜。鎮守府内・射撃場。
かつて拳銃やライフルの訓練用に作られた小さな建物も、今はあまり使われていない。
だが、今でも時折ここで訓練を行う者が、一人だけいた。
彼が構える拳銃には、サイレンサーが付けられている。
味気ない発砲音の後、的には穴。白い的に空いた銃創は、否応無しに彼の中である光景を思い出させている。
自分と同じ制服を纏った、へたり込む死体の記憶。
彼が手を下した男は、我欲に溺れ、殺されるだけの罪を犯した。
元々その男は、下卑た人格で有名な者。
深海棲艦との初回戦闘を生き延びた一人ではあるが、男の部隊も死者を多数出し、生き延びた者も男以外は後に除隊していた。
当時男の部下の中には、彼の学生時代の友人もいた。
その友人もまた、戦闘の際帰らぬ人となっている。
真相は分からない。だが、男のみ軽傷で済んだ事実は、疑いを与えるには充分過ぎた。
しかし、手を下した当時の彼には、友人の件への疑念も、男の犯した罪も関係無かった。
そこに正義や復讐心も無ければ、義憤に駆られた感情も無い。
彼もまた、我欲の為に男の命を奪ったのだ。
粛清の話を受けた折、彼が元帥の意思に背いてでも、自らその役目を負った理由。
それは、全力の抵抗を受けた先に死線を手に入れ、もう一度天国への切符を手に入れたいが為の行動だったのだから。
全力で戦い、殺される事。
あの場所へ行く為の条件。
それが当時の彼にとっては、全てだった。
だが、今の彼は感情を取り戻しつつある。
その中の一つ。
それは、罪悪感と言う感覚だ。
気の抜けた断末魔と血の匂いが蘇り、同時に湧き上がる様々なもの。
今になって感じる男への怒りや、説明し難い達成感。
そして、一抹の不安。
穴の空いた的は、穴の空いた脳天を蘇らせる。
的の白と、血を流す銃創。
それらが混ざり合うと、それは白い制服を汚す血を想像させた。
“胸に三発の弾”
感情を取り戻しつつある今、苦痛の末の死への願望は、決壊したダムのように彼を濁流に飲み込んでいる。
だが、それでも死ねない理由、死への恐怖を抱く理由が彼にはあった。
何よりも愛おしい恋人であり、最も信頼する部下である彼女の存在。
それがたった一つの死ねない理由で、生きる意味。
射撃場の外へ出ると、三日月が浮かんでいた。
手を伸ばしたところで、それは届くはずもない。
月光はただただ、彼の指をすり抜けていた。
「追いかけても追いかけても~♪
…指の間をすり抜けるバラ色の日々…ね。」
人生とは奇妙だな、と、彼は考えていた。
日頃はあまり吸わないタバコを取り出し、火を点ける。
喉を通るメンソールの冷たさは、夜風の冷たさを一際強く彼の脳に刻み込んでいた。
こんな日は、ぬくもりに触れたい。
その夜恋人にこっそり抜け出してもらい、情事に耽るでもなく、彼はただ彼女を抱きしめ眠った。
これは依存なのだと、彼はどこか冷めた目を自身に向けていて。
彼女はその傾向を感じ、眠る彼を見ては微笑んでいた。
心の奥底にまで沈めるように、深く胸へと彼を抱きしめて。
明後日には、演習が待っている。
久々となりました。今回はここまで。
4年前、快晴の日。とある海は血に染まっていた。
残骸と原型を留めていない肉片が浮く中、唯一まともな状態の死体が一つ。
いや、死体ではない。その男は、『生きてだけはいる』のだ。
しかし開けられたままの目に意識はなく、表情も虚脱したもの。
辺りは波音のみ。うめき声すら聞こえぬ中、不意に男の頬が動く。
「………ははははははははははははっ!!!!!!!」
狂気めいた笑い声が、波音を塗りつぶす。
だがその声の主の目に、未だに意識は戻らぬまま。
自身がケタケタと笑い転げている事でさえ、彼が気付く事は無い。
数十分後、救助部隊が現場に駆け付けた時には、辺りは再び静寂に包まれていた。
彼もまた、いつの間にか死んだように目を閉じている。
故に、誰もが彼を、ただの生存者としか思う事は無かった。
演習は通常、ゴム弾を用いて行われます。
撃沈やダメージの判定は、本人のスペックと被弾数で決まる。
そして撃沈扱いになった子は、演習場から待機スペースに戻るのがルールです。
始まって、もう何分でしょうか。
散々打ち合った末、この演習場にはもう、青葉と山城さんしかいませんでした。
射撃戦ですから、実際は何かを語り合うなんて無理な距離です。交わせるのは、せいぜい視線だけ。
ダメージはお互いギリギリ…だけど山城さんの目は、まだ死んではいませんでした。
それは青葉も、同じ事でしたけど。
『青葉、君から見て右を重点に狙おう。
彼女は利き手側に発射数が傾く癖があるな、疲労困憊の今なら余計そうだ。逆に左に気を付けろ。』
「了解しました!青葉にお任せです!」
相手は戦艦ですけど、ここに至るまでにみんなが少しずつ削ってくれた…無下には出来ません。
魚雷を3発…でも山城さんからも攻撃が来る。それでも着弾の速さなら、青葉の方が…!
結果はスローカメラ判定で、辛くも青葉達の勝利となりました。
はぁ…本当に手強かった。演習ですけど、山城さんからは前回以上に鬼気迫るものを感じてしまって。
やはりここでの演習は、それだけ彼女の中で負けたくないと思う気持ちに繋がったのでしょう。
「青葉、お疲れ様。彼女がここまで手強い相手になるとはね…でも、さすがは君だよ。」
「きょーしゅくです!司令官の指示のおかげですよ。癖までは見抜けませんでしたから。」
褒めてもらって、素直に嬉しくなりました。
これで山城さんも懲りて、一安心……
……とは、行かないんですよねぇ。
今の演習は、艦娘として仲間や司令官のメンツを守っただけなんです。
山城さんが彼を恨む理由は、あくまで私怨ですから。
例えばこの後誰もいない廊下で鉢合わせて、ビンタを一発……なんて事だって有り得る。それじゃ彼を守ったなんて言えない。
今日の二度目の戦闘は、この後。自由時間にこそあるんです。
別に裏に呼び出してボコボコにするとか、そんな事はしませんよ。
ただ少し…『自分と向き合ってもらう』だけ。
今日の第二次戦闘は、『彼の女である私』としての戦いですから。
シャワーと着替えを済ませたぐらいで、時間はいい頃合いになる。
あの人の性格なら…ほら、いました。突堤で一人黄昏てる。絶好のチャンスだ。
「山城さん、お疲れ様でした!」
「…何よ。今日の勝者様のお出まし?」
「いえいえ…青葉達が勝てたのは、運が良かっただけですよ。」
「そうね…私、いつもシメの運は弱いのよ。はあ、不幸だわ…あなた、なかなかやるわね。」
ペンは剣よりも強し、なんて言いますよね?
でも今のご時世、例えばネットの書き込み一つでも、人の心は潰されてしまう事だってある。
あくまでペンはものの喩え…文字そのものが剣より強い訳じゃない。
突き詰めればそれは……言葉は剣よりも強し、だと思うんですよ。
「山城さん…。」
「….何かしら?」
叔父さんの受け売りですけど…記者と言うのは、何も突っ込む事だけが仕事ではありません。
推測だけで記事を書くのはご法度ですが、裏を取る過程に於いては、推測も必要になる。
狙いはある程度定めないと、いつまでも裏付けには手が届きませんから。
そう…それこそ初めてこの子に会った時から、気付いてた事がある。
「………好きだったんじゃないですか?彼の事。」
時には一歩引いて、対象の本質を見抜く事。
それも記者の務めのひとつなんです。
それが、対象の地雷となる時もあるけれど。
リアル事情により、久々となってしまいました。
お尋ねいただいた前作は、北上「離さない」となります。
「………はぁ?な、なにを言ってるのかしら?」
「いえ…そうなのかなーって。無理にゴキブリの如く嫌ってるようにお見受けしたものでして。」
「ごくごく自然な事よ。元々気に食わなかったし、姉様を傷付けられたなら当たり前でしょう?」
へー……じゃあ、何でそんなにへらへらしてるんでしょうねえ?
ふふ…あの男もそうでしたけど、人って狼狽えると薄笑いになりますよね。
追求される程、痛い所を突かれる程、焦った笑いがボロボロこぼれてくる。
“__。人と本ってのは似てるんだよ。”
叔父さんの言ってた事、本当ですねぇ。
でも彼はこうも言ってました。
“だけど取材の肝はな、その行間や伏線に隠したものを読み解く事だ。”…って。
「くす……山城さん。艦娘以外にやりたい事って、ありますかぁ?」
「な、何よ…。」
「青葉には、あるんですよ。元々ジャーナリスト志望なんですけど…最終的には、小説やエッセイを書きたいんですよね。
プロットを貯めてる小説があるんですけど、あなたに聞いてみて欲しいなって。」
「い、嫌よ…何であんたの妄想なんて…。」
「まぁ聞いてみてくださいよ…内容は、架空戦記にして恋愛小説、と言った具合ですかねえ。
それはね、ある姉妹のお話で…お姉さんの恋人を好きになってしまった妹の話なんですよ。
それは初めから叶わぬ恋でした…ですが彼は軍人で、そしてある日突然戦争が起きてしまって…。
そして彼は、戦地で心を壊して帰って来てしまう。
……そんな導入なんですけどねぇ。」
「……!?嫌…やめて……。」
「まぁまぁ、きっと面白いですから。是非とも……。」
彼女の瞳孔が怯えを孕んだのを、私は見逃しませんでした。
でもこれは小説のプロット。あくまで妄想で、与太話なんですよ。
だから何も、『彼女の事なんて書かれてはいない』ただの小説。
それを私が一方的に聞かせるだけ。
でも……刺さる人には刺さるかもしれませんねぇ…!
「じゃあ、聞いてください……。」
そして私は、ポツポツとそのプロットを語り出したのでした。
一目惚れなんてあるんだって、初めて知った。
その人は普通なら知り合わないような、7歳も年上の人。
高校生になったばかりの私には、とっても大人のように見えて。
街でたまたま出会った?
ううん、そんなのじゃないわ。ある人に紹介されたの。
「新しい彼氏かぁ…どんな奴なんだろ?」
親は仕事で海外にいて、私は大好きなお姉ちゃんと二人暮らし。いつも優しくて、何より綺麗な人で。
でもちょっと影があって、それで彼氏が出来てもいつも振られてたわ。
そんなある日、新しい彼氏が出来たから連れてくるって言われた。
だから今度はしっかり見定めてやろうと思って、私は玄関で待っていた。
それで玄関を開けて……
その瞬間。私は、姉の恋人を好きになってしまった。
「と……まぁ、こんな所から始まるんですけどねぇ。」
「……黙ってよ…聞きたくない…。」
おやおや、随分効いてるみたいですねぇ。まだ導入なのに、そんなにガタガタ震えちゃって……。
でも……面白くなるのはこれからですよ。
「__、紹介するわ。同じ軍の方で、__さんって言うの。」
「あ…は、初めまして!妹の__です!」
「初めまして。お姉さんとお付き合いさせていただいている__です。」
お姉ちゃんは、今年短大を出て軍の事務員として働き始めた。どうもそこで知り合ったみたい。
軍人さんって初めて会ったけど…リラックスしててもどこかキリってしてるって言うか、独特のオーラがあって。
日頃同級生や先生としか男の人と接しない私には、そんな人と出会ったのは経験の無い事だった。
その日は3人でお茶をしただけだけど、緊張してまともに話せなかったわ。
その……まともに見ると、真っ赤になっちゃいそうだったし…。
「二人ともよく似てるなぁ。」
「ふふ、そうかしら?この子は昔はやんちゃでね、よく田んぼに落ちたりして…。」
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん!恥ずかしいからやめてよー…。」
「あはは、元気なのは何よりだよ。あ、そうだ。これからは__ちゃんでいいかな?」
“あ……。”
「え、ええ!それで大丈夫です!妹さんって言われるの、何かこそばゆいですし…。」
初めて名前を呼ばれた時、心臓が跳ね上がった。
真っ赤になってそうな気がしたけど、それを一生懸命隠して……精一杯の笑顔で、私はそう答えたの。
でも…すぐにそんな夢は覚めた。
3人で談笑をしてても、やっぱり『ふたり』の間の空気は違っていて。
“そっか…お姉ちゃんの、彼氏なんだもんね…。”
それこそTVを観ていて、顔がタイプなだけの芸能人にときめくような。
そんな一時的なものだって、その時は思ってた。
だけどその日の夜、部屋で何となくゴロゴロしてて…ずっと頭を過るのは、やっぱりあの人の事で。
「__、お風呂湧いてるわよ。」
「う、うん!今行くわ!」
そう部屋に入って来たお姉ちゃんの顔は、何だか晴れやかだった。
今は幸せそうで。、それは今まであまり恋愛が上手く行ってなかったお姉ちゃんには、珍しい顔で。
ずきり。と、胸が痛むのを感じた。
その後もお姉ちゃんは、時折彼を家に連れて来た。
彼は私とも色々な話をしたし、一緒にゲームをしたり、3人で食事を作ったりした。
その度に、自分の気持ちが嘘じゃない事を突き付けられた。
血は争えないのかしら…彼の人柄にも触れる度、どんどん惹かれて行く私がいて。
そして、どんどん絆が深くなる『ふたり』を、目の前で眺めていた。
ある週末の事だ。
お姉ちゃんに買い物を頼まれて、彼も付いて来てくれる事になった。
思えばふたりきりなんて、初めての事。
行きの車の中は密室で…それは本当に、夢みたいだと思った。
薄くてもまだぎこちない化粧をして、服もちゃんと手持ちの中から吟味して。
そこにちょっとした下心はあったけど、思春期だからで誤魔化せると思ってた。
週末のホームセンターは、家族連れの中にカップルも混じっていて。
この中にいたら、私達もそう見えるのかな?なんて、ちょっと嬉しくなったものだ。
「あれ?__じゃん!なになにー?デート?」
そんな時、買い物に来てた友達に会った。
いざ知った顔にそんな事を言われると、照れてしまう。
「あ……ううん、お姉ちゃんの彼氏さん。買い物頼まれたのよ。」
でも、そうじゃないんだ。
自分の口から否定の言葉を吐けば、それは現実として跳ね返ってくる。
友達と別れた後、買い物を終えてまっすぐ家に帰った。
あの店の側には、公園があるの。そこはこの辺りじゃちょっとしたデートスポットで…彼は帰りの車で、そこであったお姉ちゃんとの面白い話を聞かせてくれた。
私といる時よりも、ずっと幸せそうな顔で。
レストに置かれた片手に、その気になれば自分の手を重ねる事だって出来た。
だけどそんな事は出来ないわ。お姉ちゃんとの話をする彼の笑顔を、曇らせたりなんて出来なかった。
私は彼とお姉ちゃんの、優しい微笑みが好きだったから。
家に帰ると、お姉ちゃんが料理を仕上げて待ってくれていた。
それを3人で囲んで食べるのは、とても楽しい時間で。
でも私は、ただの彼女の妹で。
どこか『ふたりとひとり』な、そんな距離感もあって。
“大好きな人達が幸せでいる、それが自分の幸せなんだ。”
幸せな時間を眺めながら、そう思った。
……いや、思い込もうとした。
「…………馬鹿ね、その子。」
おやおや?先程の拒絶も何処へやら、今度は俯いてしまいましたねぇ。
何か思い当たる節でもあるんでしょーか?
まぁ、姉妹が片割れの恋人に惚れてしまう。そんな事はよくある話です。
知り合いの話だろうがまとめサイトだろうが小説だろうが、こんな話は掃いて捨てる程ある。
くす……もしかしたら、山城さんも何か思い当たる節があるのかもしれませんねぇ?
「………このお話は、これからが本番ですよ。」
そして私は、この妄想の続きを彼女に語り出すのでした。
きっとこの時、随分といやらしい笑みを浮かべていたでしょう。
それでも込み上げてくる悪意に、蓋なんてしないままで。
今回はここまで。
何も変わらない日々が続いた。それはもう、あまりにも平穏すぎるぐらいに。
だけど彼がお姉ちゃんを訪ねて家に来るたび、私は夜、一人でこっそりと枕を濡らしていた。
ふたりとひとりの、どうしようもないぐらい幸せな時間。
身勝手な気持ちでふたりの幸せを壊せば、ひとりの私の幸せも壊れてしまう。
その葛藤の中で、やがて私の中の醜い想いは、いつしか諦観に変わっていった。
叶わない事は、忘れてしまうのがいいんだ。
それで趣味を増やしてみようとしたり、仲が良い方だった男子との交流を増やしてみたりした。
向こうにも何となくそんな意図が伝わってたのか、結局付き合うまでには至らなかったけれど。
諦める事が幸せで、その為の努力をしていたような。そんな毎日だった気がする。
段々受け入れられるようになって、少しずつだけど、前に進めたようなフリをしていた。
そんな毎日の中、よく晴れたある日の事。
未知の化け物が世界中に現れた。
メディアから伝わる事態に恐怖を覚えたけど、何より彼は軍人だった。
軍の事務員であるお姉ちゃんは、出撃する瞬間を見守っているはずで……様々な不安が、胃の中に鉄を突っ込まれたような感覚を与えた。
事が起きていたのは、本州から随分離れた沖の方。
それでも避難指示が出て、私の地区は近くの小学校へ逃げ込んでいた。
窓から見える空は、嘘みたいに快晴だ。爆発音だって無い。
でも何処かで彼は戦っていて…実感を上手く持てないまま、ただ無事を祈る事しか出来なかった。
日が沈んで、夜が来て、また昨日と同じような朝が来た。
一睡も出来ないまま、化け物の撤退の速報と共に避難が解除された。
外に出てみたところで、戦火の跡なんて無い。何も変わらない街だ。
でもこの時、私は感じていたの。
“この世界の何かが、きっと壊れてしまったのだ”と。
しばらくして、やっとお姉ちゃんと連絡を取る事が出来た。
お姉ちゃんの無事も涙が出るぐらい嬉しかったけど、彼の無事については不安なまま。
電話越しに、私は意を決して無事を尋ねた。それで帰って来た言葉は…。
「……ええ、『救出』されたわ…。」
その一言で、全てを察した。
病院に駆け付けはしたけれど、面会許可が下りたのは、親族以外はお姉ちゃんだけ。
『恋人の妹』に過ぎない私は、ICUの扉の前で待つ事しか出来なかった。
何分経ったろう?時間にして15分もないのに、避難した日よりもずっと長く思えた。
ようやく開いた扉からお姉ちゃんが出て来た時、私は思わず駆け寄ってしまっていた。
「……命は、助かったわ。」
「………よかった…。」
「でも、部隊の方は彼以外助からなかったみたい……起きた時、なんて言えばいいか…。」
「…………そう…。」
告げられた言葉のせいで、素直に喜ぶ事は出来なくなった。
意識を取り戻した時には、彼を待っているのは厳しい現実。支えて行かなきゃ…『私達』で。
何日かして、彼はようやく意識を取り戻した。
だけど一般病棟に移れたのは、そこから更に5日後。あの日から顔を見れるまで、約10日を要した。
許可が下りてるお姉ちゃんは、毎日僅かな時間でもお見舞する事が出来たけれど…私はその間、何も出来なかった。
やっと面会謝絶が解けた日は、学校も再開した後。放課後、急いで病院へ向かった。
ノックをして、ドアを開ける。
ノブを握る手は、歓喜で震えていた。顔を見た瞬間、抱き付いてしまいそうなぐらいだ。
まるで死んだように窓の外を見る、その姿を見るまでは。
その日までお姉ちゃんは、私の前では無理に微笑んでいるように見えた。
恋人が怪我をしたんだもの、毎日気が気でないはず。
でもそれは怪我だけじゃなかった事を、私はそこでようやく知った。
姿を見ただけで、もう分かってしまったの。
彼はもう、前の彼ではなくなってしまった事が。
「………その男の人は、具体的にはどうなってしまったのかしら?」
「……それは、これからですよ。」
話が進むたび、どんどん大人しくなっていく山城さんの姿。
俯いている横顔は、垂れた前髪で上手く見えません。
でも…ふふ、よく見えますねぇ……あなたの心が…!
「そしてですね、そこからは……。」
「ありがとう」と言う彼の顔には、貼り付けたような笑み。
歓喜で震えていたはずの手は、今は焦燥と、現実への拒絶感で震えていた。
この人は、誰……?
最初は、気のせいだと思い込もうとした。
だけど言葉を交わすたび、上の空な心が見える。
ねぇ、何処へ行ったの?
だって、これじゃまるで……死人みたいじゃない。
面会時間は、まだ長くは取れなかった。
受け入れきれない、頭の処理が追い付かない…家に帰ってベッドに倒れ込んだ私は、逃げるようにすぐに意識を手放した。
その眠りの中、夢を見た。
それはつい最近まで日常だったはずの、楽しい休日で。ただの思い出の追体験で。
でも夜目を覚ました時、私の周りにあったのは、真っ暗な部屋だった。
水を飲もうと廊下へ出た。
お姉ちゃんの部屋は、私の隣。そこはスライドドアになっている。
お姉ちゃんには珍しく、ドアに少し隙間が空いていて。
そこから漏れるのは部屋の明かりと……お姉ちゃんのすすり泣く声だった。
水の味は生々しくて、頬をつねってみても、やっぱり痛くて。
こっちの方が、夢なら良かったのに。
そんな事は、無かったけど。
退院してしばらくは、彼には休暇が与えられた。まだ静養と通院の必要自体はあったからだ。
お姉ちゃんは、よく行った公園に彼を連れて行っていた。
私は行かなかったのかって?そうね…ふたりきりにさせてあげたかったし、何より、現実に向き合うのが怖くなってしまっていたの。
それから3日もしないで、彼は自殺未遂を起こして再入院した。
ちょうど平日の、あの公園が人も疎らになる時間。
お姉ちゃんがトイレに行ってる僅かな隙に、隠していたナイフで手首を切ったようだ。
それは却って憂鬱になるぐらいの、あの日と同じ快晴の事。
入院期間は、決して長くはなかった。
だけど彼がこの家の敷居をまたぐ事は、二度と無かった。
お姉ちゃんが彼と別れたのは、彼が再び退院した日から1週間後のこと。
彼はと言えば、その後職務復帰の許可が下りると同時に、異動の辞令も下ったのだと言う。
それは、軍なりの気遣いだったのかもしれない。
だけど別れを告げる事も出来ないまま、彼はこの街から消えてしまったのだ。
あの怪物と戦う為のある兵器の存在が公になったのは、それから暫く後の事。
それは人間、それも適合する女の子しか強化出来ない存在だった。
実感も持てないまま、毎日絶望的と報道されていた世界情勢は、そこから徐々にポジティブなものに変わって行った。
お姉ちゃんは変わらず軍の事務として働いていて、でもその間、やっぱり元気が無かった。
いえ……元気が無いと言うより、何かをずっと思い詰めていると言った方が正確だったかしら。
一緒にTVを観ていて戦争の話が出ると、時折あの優しいお姉ちゃんとは思えない目をする事が続いて……。
しばらく離れて暮らす事になると告げられたのは、それから半年後の事だった。
適合試験を受け、その兵器への適正が出たからと。
そしてお姉ちゃんは、戦争へ行ってしまった。
全てが憎かった。
私達の日常を壊した戦争も、怪物共も……そして彼の事も。
どうして彼がああならなくてはならなかったのか?
どうしてふたりが別れなくてはならなかったのか?
どうして、お姉ちゃんが自ら戦争に行かなきゃならなかったのか?
そしてこれは、一番強くて…だけど浅ましい衝動。
ねぇ、__さん…どうしてお姉ちゃんを泣かせたの?
どうして…私の前から消えてしまったの?
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
どうして。
次第に募るのは、敵よりも、彼への理不尽な憎しみだった。
憎まなきゃ、自分を保ってなんかいられなかった。
おねえちゃんをまもらなきゃ。
そうだ、いつかなぐりにいかなきゃ。
おねえちゃんをなかせたんだ、あいつをなぐりにいかなきゃ。
あいつもせんそうもばけものも、かたっぱしからなぐりにいかなきゃ。
あいつにしかえしをすれば、いたくすれば、ずっとわたしのことをおぼえていてくれる。
わたしのことを、みてくれる。
その後進路を決める時、私は二つの道を決めた。
まず第二志望は軍の事務……そして第一志望は、その兵器の適合者として働く事。
危険な仕事だけど、その頃にはその兵器は、世間の女の子のちょっとした憧れにもなっていた。
それに…お姉ちゃんを支えたいと言う大義名分も、私にはあったもの。誰も止める人なんていなかった。
結果として、私の進路希望は叶った。
何と言う悪戯でしょうね、私はその日から神様が大嫌いになった。
だって、例え肉親でも同じにはなりにくいって言われてたのに…お姉ちゃんと同じ型の兵器に、適正が出たのだから。
私がお姉ちゃんを『姉様』と呼ぶようになったのは、その日からの事だった。
「…まあ、こんな流れです。まだここまでしか書けてないんですけどね。」
「…………ふふ、売れないわね、その小説…。
だってその女の子、あまりにもバカで…惨めで……誰も共感なんて出来ないわ…。」
最後まで話し終えて、隣から聞こえてきたのは涙声でした。
それは私にとっても、意外な結末。
当初はビンタの一発ぐらいは覚悟してましたし…裏を返せばそれだけ悪い面も抉って、傷付けるつもりで、彼女の背景をひたすら想像して作ったお話でしたから。
……これだけ悪意を持って接したのに、何で怒らないんだろう。
そう思った瞬間、ずきりと胸が痛んだのです。
「……ねぇ、その後の展開予想しても良いかしら?」
「…どんな話でしょうか?」
「……彼はその後何年かして、主人公と同い年の女の子と結ばれる。
その子と出会った事で、彼は再生への道を踏み出して。
主人公は最初その子の事も気に食わなくて、険悪になるの。
でもその子も少し嫉妬深い所もあって…辛い事があった彼を守る為にこそ、心を鬼にして主人公にひどい事を言う……なーんて、安っぽいかしら?」
またずきりと胸が痛んだのは、その時の事でした。
反撃を食らったからとか、そんなのじゃなくて…ただ、上手く説明出来ない痛みで…そんな私を知ってか知らずか、山城さんは言葉を続けます。
「……でも、そのひどい言葉のお陰で、主人公は自分の小ささに気付くの。
うん、まぁそれだけなんだけど……使えないかしら?これ。」
「あ……え、ええ!参考にさせていただきます!ありがとうございます!」
「ふふ…あ、そろそろ集合ね。もう行かなくちゃ。」
そうして彼女が立ち上がった時、ようやく俯いていた顔が見えました。
「……青葉ちゃん、ありがとう。またね!」
夕暮れに照らされたその泣き笑いは、あまりにもきれいで、可愛くて…写真に収めたかったぐらいで。
それは私にとっては、ビンタなんか目じゃないぐらい痛くて。
必死に笑顔を作って手を振る事しか、私には出来ませんでした。
その夜部屋に帰って、ドアを閉めた瞬間、その場にへたり込んでしまいました。
山城さん、きれいだったなぁ……あれ?何で床が濡れてるのかなぁ?
はは……何で、泣いてんだろ…。
…ありがとうって、何なのさ。
私はあの子が邪魔で、気に食わなくて……ただ傷付けたくて、あんな話をしただけなんだ。
何だよう…ありがとうってさ……私、ばかみたいじゃん……。
本当に醜くて歪んでるのは、私の方なのに。
ずっとずっと、涙が止まりませんでした。
ただ、あんな事を平気で出来た自分が大嫌いで、ばからしくて…なのにあの子は、あんな言葉をくれて。
それでも彼の事を思い出せば、胸は暖かくて。
さびしくて、あいたくなって。
でもこんなんじゃ、いまはあいになんていけない。
髪をほどいて、祈るようにそれを握り締めて。
縋るみたいに、彼からもらった髪留めを胸に寄せて。
突き付けられた自分の醜さは、ひたすらに痛くて。
それでも相変わらず、彼の為なら同じ事を出来てしまいそうな自分も見えて。
怖くなって、苦しくなって。私はただ、そうやって明日を待つ事しか出来ませんでした。
どどめ色のずきずきとした胸の痛みに、ずっと囚われたままで。
今回はここまで。
泣き疲れたのか、いつの間にか寝落ちしちゃいました。
時間は……21時かぁ。あーあ、ひどい顔。
携帯を開くと、彼からの連絡が。彼の知らない裏であんな事したのに、やっぱりこんな些細な事でも嬉しくて。
せめてちゃんと、彼が幸せでいられるようにしなきゃなぁなんて思いました。図々しい話でしょうけど。
『こん…こん…』
ん?誰だろ?こんな時間に…あ、でもこの時間こそ一人しかいないか。
「青葉ー、入るよー。」
「もう入ってんじゃんかぁ。」
「どうしたのよー、目え真っ赤だよ?」
「ん?ああ、ちょっとこすっちゃってさ。」
「なになにー?提督とケンカでもしたー?」
「ちがうよー。むしろ仲良くやってますよーだ。」
休み前や次の作戦が夜からな時は、よくガサが遊びに来て。二人で映画やアニメを見たりするのが深夜の過ごし方でした。
でも最近はあんまりしてなかったなぁ…いつぶりだろ。
ガサの手には、何やらブルーレイ。
んん?でもこれ録画用のだ、なんだろ。
「何それ?ホラーはヤだよ。」
「いやいや、今日はドラマ。結構前に録画してたの忘れててさ。青葉も途中で止まってたでしょ?」
「ん…?あー!あの時期作戦重なっててすっかり忘れてた!」
「そ。だから青葉と一緒に消化しよっかなーって。ふふーん、衣笠さん最高でしょ?」
「でも忘れてたんじゃんかー。去年のでしょ?」
「あ、あははー…まあまあ、ゆっくり観ようよ!」
それは少し前に放送してたドラマで。
高層マンションで起こる主婦たちの泥沼劇を軸にしたサスペンスでした。
あー…久々に続き観たけどハラハラするなぁ。
それでエンディングまで観て、青葉はある事に気付いたのです。
「…あれ、このエンディングって…。」
「ああ、このバンド?前に復活したじゃん。どしたの?」
「そう言えば…実は__が大ファンでさ。」
「お!それ提督の本名じゃん!しれっと呼び捨てしちゃって〜、憎いなこのー。」
「…へ?あー!今のナシ!司令官が大ファンなの!」
「記事の訂正は認めませーん。
ふふ…でも良かったよ。皆提督の事も結構心配してて、青葉様々だってさ。」
「何それー、気になるなぁ。」
「だってあの人いい人だけど、正直人間味は無かったじゃん?
青葉との事、皆結構気付いててさ。提督にも遂に人間らしさが…!って、半泣きで喜んでる子もいたんだよ?」
「そう?でもああ見えてさー…」
「お、ノロケー?」
笑い話をしつつ、そんな話を聞いた私の胸中は複雑でした。
だって幾ら男性の士官さんや職員さんも多いとは言え、結局ここは女所帯で。普通は多少のやっかみぐらい起きるものじゃないですか?
それが寧ろ喜ばれるって事は…裏を返せば、上司としては尊敬できても、人間や異性としては近寄り難いって皆思ってたって事で。
どれだけの痛みをあの笑顔で閉ざしていたのか、改めて思い知ったんです。
……今度は、笑顔で会いに行かなくちゃ。
そうだなぁ…いつか戦いが終わったらチケット取って、二人でライブ行きたいなぁ。
実は子供の頃以来に聴き直して、大好きになった曲があるんです。それを生で聴きたいなって。
そんな事を考えつつ、次の話を観ていました。
ドラマのエンディングテーマの歌詞が、上手く頭に入らないフリをしながら。
「じゃ、おやすみー。最終回まで録ってあるからね。」
「うん、また今度ー。」
青葉の部屋を離れ、彼女は隣の自室へと戻る。
か細い鼻歌が紡ぐのは、先程観ていたドラマのエンディングテーマだ。
部屋の照明も入れず、彼女はそのままデスクのライトのスイッチへと触れる。
薄明かりが灯る部屋は、当然机以外はあまり強く照らされていない。
「〜〜♪」
彼女が青葉の部屋を訪ねる事はあれど、青葉が彼女の部屋を訪ねた事は、実は今まで一度も無い。
青葉の方から誘いを掛ける時でさえ、自然と青葉が自室へと招く程だった。
灯台下暗し。
青葉は彼女の人柄については深く知るが、そこに付随する諸々については実は疎い部分もある。例えば些細な趣味の事。
机と壁には、木枠にアクリル板が貼られた箱が幾つか飾られている。
そこに入っているのは、色とりどりの羽根。
蝶の標本収集が、彼女のささやかな趣味であった。
それは買い集めた物や、『自身で採集、作成したもの』も含まれている。
“上にいくほど傾いたら、結局落ちちゃうもんね。”
机の真正面には、二つの額が飾られている。
一つには、いつか青葉と二人で撮った写真が。
その隣、もう一つの額には。
“………だからその時が来たら、受け止めてあげなきゃ。”
いつかの駐車場で殺虫灯に撃ち落とされた、羽根を焼かれた蛾の標本が飾られていた。
短いですが、今回はここまで。
ある朝の事。
いつものように食堂へ向かう時、掲示板に見慣れないポスターが貼られていました。
『情報求む。心当たりの方は下記連絡先へ。』
内容はと言えば、少し前から行方不明になっている、遠くの鎮守府の司令官について。
相当に黒い噂のある方でしたが、なるほど、これはこれは…初めて顔を見ましたけど、ここまでキナ臭い方も珍しいですねぇ。
事が事なのか、憲兵隊も必死に捜査をしてるようです。
気になりますねぇ、近くだったら首突っ込んでたかもなぁ。
いや、でもこれは深入りしたら本当にやばいやつ。さすがに命は惜しいです。
「青葉ー、何見てるの?」
「ん?これだよガサ。」
「あーこの件かぁ、まだ見つかってないんだっけ?いよいよ死んでる気もするけど。」
「見るからに恨み買ってそうだもんねぇ…。」
「他の提督達も嫌ってたみたいだよ。私が前いたとこの提督も、相当言ってたもん。
まーまー、こんなの見てないで早く行こ?お腹空いちゃった。」
「あ!待ってよー。」
その日は近海での任務で、いつものように戦闘を終えました。
平和になるにつれ数が減ったとは言え、今でもたまにはぐれた深海棲艦が流れ着く時もあるんです。
何も大きい任務だけじゃなく、そう言う敵を討伐するのもまた私達の仕事。
敵は全部倒したね、一応目視でも他にいないか見ないと……よし、いな…う。
「うえ~…流れて来てる…。」
スコープで遠くを見てる間に、倒した敵の死体が足元まで。
艦娘のクセに何言ってんだって話ですけど…戦闘中はまだいいんですが、たまに冷静になった途端、死体が気持ち悪くなる時があるんです。
結構艦娘あるあるらしいんですけどね。
戦闘中なんて、離れてますからねぇ…案外そこまでグロくは見えないもので。
だけどいざここまで来られると、色々と生々しいんですよ……正直、たまに叔父さんの事も思い出してしまいますし。
確か今日の日替り定食は…げ、ハンバーグじゃんかぁ…楽しみにしてたのに……。
「ガサ…今日外食しない…?」
「えー、ハンバーグの日なのに?」
「久々にもらっちゃったんだよぅ…うどんぐらいしか食べる気しない。」
「あんた変なとこ繊細だよね。大丈夫大丈夫、いざ目の前にしたら忘れるって!食堂の美味しいし!」
「……ガサ、タフだねえ…。」
「じゃあわかった、今度克服用に映画持ってくるから!おやつはサラミかハムで!」
「やめてよー、前の超グロかったじゃん!」
ガサは青葉と違って耐性が強くて、戦闘でもらう事もないし、何ならしょっちゅう部屋にホラー映画持ってくるんですよ。
前持ってきたのとか、丸太が車の運転席に突っ込んで、頭がパーンって…うぇ、思い出しちゃった。
「……って事があってさー。」
「あはは…あいつ確かにそう言う所あるもんな。」
夜、今日は彼の部屋へ遊びに来ていました。
駆逐寮こそ門限がありますけど、軽巡や重巡みたいな18歳以上が多い種類になると、門限はあって無しな所があって。
敷地内であれば、皆結構自由に行き来したりしてます。
で、彼の借家も敷地内にある訳で。付き合い始めたとは言え、なかなかお互いこう言う仕事だと休みも合わなくて。
専ら部屋デートが主になってしまうのは仕方のない所です。
ふふー…それでもこの時間は幸せなんですよ。
なんて事ない時間をふたりで過ごす、それは平穏な時間でしたし…少し前の彼だったら、考えられない事でしたから。
そんな時でした、テレビのニュースがある特集を流してきたのは。
「少年犯罪史…この前もあったもんね。」
それは最近あった事件の影響か、過去の少年犯罪を振り返ったもので。
身勝手な凶行や、常軌を逸した物もありましたが…中には「仕方なかったのか?」と考えさせられるものもありました。
「この事件あったね…犯人の子、私の1コ上だったしよく覚えてるよ。」
10年ぐらい前でした。
当時11歳の女の子が、虐待を繰り返していた母親を殺した事件。
確かテンプレ通りなロクでもない母親で…生後間もない異父妹を衰弱死させて、それで母親を殺したって世間じゃ言われてた。
見つかった時、腐乱した妹の死体をあやしてたって….。
あれ?そう言えば殺された母親って…。
「母親、バラバラにされてたんだよな…因果応報と言ってしまえばそれまでだけど。
この子、今はどうしてるのやら…例え戦争でなくとも、この世は戦場なのかもな。」
彼がその言葉を口に出す事は、私にとっては一層重いものに聞こえました。
形は違えど、彼もまたそれを見てきた人。その言葉には実感が伺えます。
でもね、少なくとも今あなたは…。
「うわっぷ!?何すんだよ?」
「ふふー…まあまあ、せっかくふたりなんだし、しんみりしないの。」
じゃれつくように抱きしめてはみたけれど、本当はちょっと寂しくなったからです。
この時間だけは、そんな事は忘れて欲しいから。
いつでも見てるよ、どんな時だって。
ひとりぼっちになんて、私がさせない。
「ふふ…ねぇ…。」
耳元で甘く囁けば、それが合図。
行為の度に爪痕を付ける事が、私にとっての染め替える儀式でした。
自分から追い掛けて、見るのが私ですから。
私の目には、ずっとあなたが映っている。
そう、だからこの時は気付いていなかったんです。
自分が彼以外の誰かから見つめられている可能性は、ゼロじゃなかった事に。
今回はここまで。
とある女性が人生での中で書いた、数冊の日記より抜粋。
4歳、7月
「ぱぱとままとゆうえんちにいきました。めりーごーらんどがとってもたのしかった。」
5歳、9月
「ぱぱがいなくなった。りこんってなんだろう。」
8歳、月
「ママがきょうもわたしをなぐった。いたい。」
10歳、11月
「おなかがすいた。かおがいたい。ママのおなかが大きくなった。パパがいないのに何で。」
11歳、12月
ページの大半がこぼれた液体で赤茶けており、具体的な内容は読む事ができない。
「首」「苦しい」「ほうちょう」「妹」「かわいい。」といった単語と、「ママがママにもどった。」という記述。
そして何か所かに書かれた「天国」という単語は確認できた。
13歳、5月
「今日もカウンセリングだ、いつここから出られるんだろう?
あの女は死んで当然だったんだ、ママはあの日やっと帰ってきてくれた。私はおかしくなんかない。」
13歳、9月
「夢にあの女が出てきた。何度でも殺したい。ママに会いたい。」
14歳となった10月
「廊下で蝶が1匹死んでいた。手に取ってみると、とてもきれいな羽根をしていた。
標本の作り方を調べて、見よう見まねで乾燥を始めてみた。美しいものやかわいいものは、やっぱり手元に残しておきたいから。たとえそれが死骸でも。」
14歳、4月
「やっとここから出られた。演技の勉強をした甲斐があったよ。
パパが迎えに来てくれた。久しぶりだね、ずっと会いたかったよ。何で目を合わせてくれないんだろう?」
14歳、6月
「家裁に行って、改名の許可が下りた。もうパパの苗字に戻ってるし、あの頃の私はいなくなった。
ネットを調べると、当時の事や古い名前がゴロゴロ出てくる。同級生かその親が個人情報を売ったのだろう。
顔立ちはあの頃から成長して相当変わったけど、それでも不安だった。
明日からは、少し離れた中学に転入する。長い間病気をしていたという体でだ。」
15歳となった10月
「いつも私が料理をしている頃にパパは帰ってくる。大体包丁を握っている時だ。
パパは料理中の私を見ると、決まって一呼吸置いてからただいまと言う。パパはパパだもん、だから何もしないのに。
パパは休みの日は、私に料理をさせてくれない。私が刃物を使うのを嫌がる。パパは料理上手いし、こっちも負担が減るからいいんだけどさ。」
15歳、2月
「今日は高校受験だ。受かるといいなあ。」
15歳、4月
「早速友達が出来た。放課後が最近の楽しみで、今は毎日が楽しい。」
15歳、6月
「好きな人ができた。告白したらOKをもらえたんだ。嬉しいなあ。」
16歳、10月
「フラれちゃった。怖いからって言われた。悲しい。」
16歳、12月
「元カレが死んでしまった。数日前の大雪の日から行方不明で、雪が止んだ後、裏山の崖下で見付かった。
死因は崖から雪の上に落ちた際気絶、そのまま凍死してしまったと言う事らしい。お通夜に行ったけれど、確かに遺体は奇麗なものだった。
不思議と悲しいって感情は無くて、妙に胸がぽっかりとしたような、そんな死だった。」
16歳、9月
「近所のおじいさんがイノシシを捕まえたので、解体を手伝ってきた。手際がいいねと褒めてもらえた。
おすそ分けしてもらったお肉で、パパがお鍋を作ってくれた。」
16歳、9月
「未知の化物が世界中で暴れ始めた。どうなってしまうのだろう。」
17歳、11月
「またやってしまった。」
18歳、11月
「進路の一つとして、艦娘の適性検査を受ける事にした。ニュースで流れたバケモノの写真の中に、あの女にそっくりな奴がいたからだ。
まだ生きてたんだ、今度こそ殺さなきゃ。何度でも何度でも何度でも。
頭なんか海に捨てなきゃよかった。まだ見つかってないから、きっとバケモノと一緒になったんだ。
ママに会いたい。」
18歳、3月
「この家を出る日がやってきた。私は今日から艦娘だ。
新幹線に乗る時、パパは心なしかほっとしたような顔をしていた。理由は考えたくない。」
19歳となった10月
「慌ただしい毎日だ、仕事にもずいぶん慣れた。銃器って味気ないよね。」
19歳、3月
「異動の辞令が出た。早くに改二にもなれたし、ここの提督には随分お世話になったね。
新しいとこの提督、どんな人なのかな。まあとりあえず今は、この荷物と格闘するとしよう。」
19歳、3月
「引っ越しも終わって、新しい鎮守府での生活。
ここの提督はまだ若くて、少佐に上がって半年ぐらいらしい。
彼は私と同じ匂いがした、でも演技は下手だ。もっと上手く隠さないと。」
19歳、4月
「この時期は新人が入ってくる。早速私の隣の部屋にも、新人が来るんだとか。
何でも姉妹艦としては姉に当たる子なんだって。1つ下のお姉ちゃん、変な響きだ。」
19歳、4月
「天使に会った。
そして私は私を知った。」
19歳、6月
「花はありのままの命を愛でるものだと、初めて知った。ドライフラワーもまた、良さがあるけどね。」
20歳となった10月
「あの子の元カレの話を聞いた。頭とぶら下がってるモノを、両方引きちぎってやりたいと思った。
アレって簡単に切れるモノなのかな?やった事ないけど。」
20歳、9月
「提督に感じる同じ匂いが濃くなった。彼もとうとうこちら側に来てしまったのだろう。
後戻り出来ない世界へようこそ。」
21歳となった10月
「ここ数ヶ月、あの子は提督の話ばかりする。あの子自身はまだ気付いてないけど、きっと好きになっているんだろう。
後押ししてあげなくちゃ。それに提督は、計画には丁度いい人材だ。
振る舞いだけでもまともな奴なら、その間どんな相手と付き合ったって構わない。私は女だから、そう言う立場にいられる。
大事なのは、あの子がその相手に…」
コーヒーをこぼしてしまったらしく、ここから先は上手く読む事が出来ない。
10月、1週間後
「あの子から提督について相談を受けた。
なるほど、そういう事ね。」
21歳、11月
「果物は旬になってから摘むもの。まだ待てば、きっと美味しくなる。
久々にイカロスの話を読んだ。受け止めてくれる存在があれば、死なずに済んだのだろうか。
提督から同じ匂いが薄まった。いい傾向だろう。」
一日の任務も終えて、部屋に着いてばったり。
今日は久々に開発の手伝いに行かされてたけど、慣れない事は疲れますねぇ。
それでテレビでも観ようと、何となくリモコンを手に取ったんです。
ん?あ、そうだ!__からDVD借りてたんだ!
それはあのバンドのライブ映像でオススメない?って聞いて、じゃあこれをと貸してくれたもの。
ディスクを入れて、いざ再生!となった所で、ノックの音が。
「ん?ガサー?」
「あれ?青葉何観てるの?」
「司令官から借りたんだー、せっかくだし一緒に観る?」
「じゃあお言葉に甘えて。」
それで始まった映像に、青葉は息を呑んでいました。
映像越しでも伝わってくる気迫…しばらく言葉も出せず、ただ飲み込まれるままに途中まで観ていました。
“このイントロ…”
それで映像も中盤に入った頃でした。あの曲が流れて来たのは。
生の、その瞬間の気持ちで放たれた音だからでしょうか。今まで聴いてきたあの曲以上に、青葉はその世界に飲み込まれていました。
ふと横を見ると、ガサも引き込まれてしまったのか、彼女らしくもない放心した顔をしていて。
それは浅くはない付き合いの中でも、初めて見る顔です。
最後のピアノが鳴り響いて…次の曲が始まっても、余韻のせいかどこかぼんやりしてしまって。そんな時です、ガサから声が掛かったのは。
「ごめん青葉、ちょっと休憩。部屋に飲み物置いてきちゃった。」
「あ……う、うん!」
一旦DVDを止めてしばらく待っていると、ガサが戻ってきました。
何だろう、何かいつもと雰囲気が違う…ガサは元いた場所に座ると、ペットボトルの麦茶をぐっと飲み込んで。
「ねえ、青葉……。」
そしてふう、と一息つくと、こう言いました。
「……天国って、見た事ある?」
いつかの彼と同じ、ゾッとするような透き通った目の笑顔と共に。
今回はここまで。
「ガサ…?」
思わずは呼んでしまったあだ名は、「どうしたの?」ではなく、「誰なの?」と言う意味で発したもので。
そう思ってしまうぐらい、その時の彼女は別人に見えました。
細い指が、頬に触れて。
私を見つめてくる目は、まるで蛇のようで。
睨まれたカエルのように、体が固まって。
「ふふ…冗談だよ!じょーだん!あ、明日早いんだった、今日は戻るね!」
「う、うん!またね…。」
そうしてそそくさと、彼女は部屋に戻ってしまいました。
まるでさっきの表情なんて無かったみたいに、いつも通りの笑顔で。
何だろう、すごい怖かったなあ……気のせいかな。
『ぱたん…。』
自室の扉を閉めると、彼女はふう、と深く息を吐く。
その後に続くのは、堰を切ったように溢れ出す、浅い息切れだった。
二人の部屋の間は走るような距離ではなく、疲労ではない。
ましてや秋の今、暑さに悶えるような季節でもない。
彼女が息を切らしていた理由は…。
“あっぶなー…あんなかわいい顔されたら、理性飛んじゃうとこだったよ…。
ふふ、でも天国かあ……あの曲みたいに、怖いとこじゃないんだ。アレはもっと…。”
不意に彼女の脳裏を過るのは、とある記憶。
赤いバスタブと、人のぬくもり。そして心地よい静寂。
それらを思い出すと、彼女の全身をぞくりとした衝動が駆け抜けていく。
“あーあ、奴らで満足しよって思ってたのに、久々にムラムラしてきちゃったなあ…だめだめ、もう大人にならなきゃ。”
指に残る、肌と髪の感触。近付いた時に感じた香り。
先ほど感じたものを思い出すと。
“あの子の味、するかな…?”
立てた人差し指に舌を這わせ、彼女は恍惚とした笑みを浮かべていた。
「重巡洋艦・衣笠。連絡事項ありにつき、執務室まで来るように。」
次の日、秘書艦の仕事をしていると、彼がこんな放送を流しました。どうしたんだろ?
「どうしました?」
「大本営から連絡があってね。あいつ前の鎮守府の時から……僕も気付いてればよかったんだけどね…。」
「あー…。」
「重巡洋艦衣笠、入ります。提督、どうしました?」
「ああ、実はね…。」
「有給?」
「ああ。前の所の頃から貯め込んでたろう?いい加減使わせろってお達しがね。」
「そう言えば使った事ないかなあ…艦娘になってからは、特に冠婚葬祭も無かったし。」
「今の作戦スケジュールも来週には終わるし、そこで3、4日ぐらい休んでもらっていいかな?旅行でも行って、少し羽根を伸ばしてくるといい。」
「そうだね…うん、ありがとうございます!」
普通ならテンションが上がりそうな場面のはずですが、ガサは何やら微妙な顔。
ガサは意外とインドアな所があって、休みは部屋で映画を観るか、後は街に出るかばかりです。
いざ連休を出されても、過ごし方が分からない感じでしょうか?
おや?電話だ。
「もしもし…はい!司令官ですか?すぐお繋ぎしますので!」
「誰だ?」
「げ、元帥からです…。」
「はい、お電話代わりました。どうされましたか?
え?あ、はい…はい…そうですね、仰る通りです……分かりました、僕も取りますので…はい、失礼致します。」
「な、何か緊急事態ですか…?」
「…青葉、再来週少尉の世話を頼めるか?」
「出張ですか?」
「そういえば僕も貯め込んでたよ……少尉に経験積ませるためにも、たまには運営から抜けろってさ。」
「へ?」
「むー…。」
「はは…まあ、そんなヘソ曲げずに…。」
夜、今日は彼の家へ。
でも今夜はちょっと不機嫌です。だって彼がいない間、私は少尉さんのサポートですから。
元帥からの指示は有給の使用以外にも、休暇中は鎮守府を離れる事も含まれていました。
「内容は哨戒程度の軽いもので構わないから、少尉さんが責任持って頭を張れる日を何日か作れ。」って。
仕方ないとは分かってはいるものの…その間離れ離れだもんなあ…むう。
「俺も通ってきた道さ。埋め合わせはするから、彼のサポートは頼むよ。」
「いいけどさー。でもどうするの?家にもいられないし。」
「それなんだよな…実家は飛行機でないとだし。」
「あ!ならいいとこあるよ!私の地元に温泉あってさ、ここからならそんなんでもないし。」
「そうだなあ、ちょっと調べてみるか。」
「ふふー、ここは地元民に任せてよ!まずね…。」
むくれてはみたものの、やっぱり最近の彼はちょっと心配でした。
せめてもの気休めになればいいなあって、それで地元にある温泉を紹介したんです。
ま、まあ、いつか挨拶に来てもらう為の下準備とか…決してそんなやましい事は考えてませんけど…。
そういえば、ガサはどうするんだろ?連絡してみよっか。
『ガサー、有給どうするか決めた?』
『決めたよー。__の博物館行こうと思っててさ。』
『お!地元の隣の県だ!いいなー、あそこ美味しいのがあってさ。』
『なにそれ、教えてよ。』
そうやって二人と他愛もない旅の計画の話をして、それは何とも言えず日常で。
でも冷静になると、その間どちらもいないのはちょっと寂しいかなー、なんて思ったものでした。
そんな事を考えていると、目の前に紙が一枚差し出されて。それはシフト表でした。
「__、ここ俺の休みの最終日と、お前の休みかぶってるだろ?この日の朝帰ってくるから、デートに行こう。」
「ほんと!?」
「ふふ、要は終業時刻超えてから敷地に入ればいいんだよ。この街にいる分に問題ないさ。」
「…ありがと。」
ふてくされるみたいに抱いてたクッションを離して、今度は彼の肩へ。
ふふふ…くー、楽しみだなあ。サポート頑張ろ!
「でも、温泉街で浮気とかしちゃ駄目だよ?」
「しないっての。仮にしたらどうなる?」
「……社会的にコロス。」
「絶対しないね。断言するよ。」
「じゃあ、行ってくるよ。」
「うん!行ってらっしゃい!」
当日の早朝、いつもより早く起きて見送りへ。
温泉自体はちょっと離れたところにあるので、今回は自分の車で行くようです。
「誰も見てない所ではタメ口をききあう上官と部下……衣笠、見ちゃいました!」
「ガサ!?それ青葉のだよぉ!!」
「はいはい、朝から濃厚な事で。ごちそうさま。」
「ガサもこれから?」
「うん。急行乗り継いで、のんびり行こっかなって。」
「気を付けてね。あ、おみやげよろしくー!」
二人とも行っちゃったなあ…さて、今日も頑張らなきゃね!
その日の夜は、二人とも沢山出先の写真を送ってくれました。
あ、ガサの言ってた博物館ってあそこかあ…あの子、蝶好きだもんね。
その日はそんな風に過ごして、彼が帰ってくるのを楽しみにしていました。
それで翌日……予想だにしない事が起きたのです。
その日のお仕事を終えて、青葉は休憩室でお茶をしてたんです。
そこは大きなテレビが置いてあって、いつもニュースチャンネルが流れていました。
「本日、__県の山中にて、男性のバラバラ死体が発見されました。」
“げ…地元じゃん…。”
何とも不穏なニュースが、よりにもよって地元から。
こういう形で勝手知ったる土地の名前が出るのは、気分が悪いものではあります。
その時でした、青葉の携帯が震えたのは。
「もしもし?久しぶりじゃん、どうしたの?」
電話を掛けてきたのは、地元の友達です。
『あの件』で青葉と二股を掛けられていたあの子。久しぶりだなあ…お正月の遊びの話かな?
『ねえ、ニュース見た…?』
「ん?ちょうど今やってるよ。怖いねえ、バラバラって…。」
『……__が、昨日から行方不明なんだって…多分そうじゃないかって…。』
「………え?」
そこで出てきたのは、まさに私達に二股を掛けていたあの男の名前でした。
「…男性は死後1日ほど、頭部と四肢、陰部が切断されており、陰部のみ現在も捜索中との事です。」
ニュースから流れている遺体の状況は、とても凄惨なもので。
仮にも一度関係を持った人がそんな風になっているのなんて、想像がつかなくて。
「だ、大丈夫だって!殺しても死なないよあんな奴!」
そうやって月並みな言葉を友達にかけた、その直後。
「今入った続報です!先ほどお伝えしたバラバラ死体の身元が判明しました!
遺体は県内に住む男子大学生、__さんのものであると警察から発表がありました!」
そのニュースが流れた瞬間、私は感じたのです。
こみあげてくる嫌悪感の中…それでも自分の顔が、確かに笑っているのだという感覚を。
今回はここまで。
思う所ありしばし投下を控えさせていただいておりましたが、ひとまず継続とさせていただきます。
数年前の日付、元帥の日記より抜粋。
『鹵獲した人型深海棲艦の、生体解剖の結果が出た。結果は予測通りだ。
艤装は込められた艦の魂が適合者、つまり操縦者と言う依代を得て初めてその力を発揮できる。
艤装を操る者がいなければ、ただの魂を持つ鉄塊でしかない。
敵の正体は、ある意味それに近い。
怨念が敵と言う生命としての形を得るには、やはり依代となるものがあったのだ。
生体部の鑑定の結果、様々な生物のDNAが検出された。
その中にはヒトのDNA、並びに特に骨格からヒトの骨と合致するものが含まれていた。
怨念が海中に沈んだ様々なものを混ぜ合わせ、生物としての実体を伴っているようだ。
頭蓋骨を薄く覆う形で、膜のように別の骨が生成されており、敵の顔が各種別で同じな点はここから来ているのであろう。
もしかしたら、この骨が無い敵もいるのかもしれない。出現初期のものには、顔が違うものもいた覚えがある。
ある研究員が膜を剥がした頭蓋骨に複顔を試みた所、驚異的な結果が出た。
やはり鹵獲時と違う顔に仕上がったと言う。
複顔されたものを各国で行方不明者リストに照合した所、身元が判明した。
20年前に犯罪に巻き込まれ、行方不明となっていた欧米の女性のものであると。』
とある日、二人の提督の会話。
「おい、あの注意来たか?」
「ああ、うちにも来たよ。弱った姫級の話だろ?
南の中佐からも聞いてて、あの人ははぐれメタルだ!なんて言ってたがな。」
「ワンパンで倒せるんじゃねえかってぐらいズタボロらしいな。
戦果稼ぎか、他所じゃ討伐作戦も立て始めてるってよ。」
「腐っても姫級だし、優先順位は上じゃないんだけどな。うちは追わない事にしたよ。
最初に接触した艦娘、軽いPTSDになったそうじゃないか。
確かに弱ってはいたが、それ以上にどんな敵よりも恐怖を感じたって。」
「…誰かの名前を連呼しながら、攻撃するでも無く追い掛けて来たんだっけか?日本人の名前だったらしいな。」
「あと、一個他と違う点もあるんだよ。」
「何だっけ?」
「……他の同種と、顔が違うんだとさ。」
『事件、大丈夫だった?』
あの後、青葉は彼にこう連絡を入れていました。
彼がいる温泉は、現場からはかなり離れてますけど…ああいう事が起こると、県外ナンバーは真っ先に怪しまれますから。
今は部屋にいて、PCを開いています。
深夜ニュースを待つよりも、ネットの方がこの時間は情報が早いですからね。
発見場所は…ああ、あそこのモールの近くか。
県境を越えてすぐにショッピングモールがあって、地元側の山中で見つかったようです。
峠から少し森に入ると洞窟があって、そこが殺害と解体の現場だと出ていました。大量の血痕と、剥がされた衣服があったと。
創傷の具合から、先に生きたまま陰部を切断され、その後殺害との検死結果が報道されていました。
「怨恨の可能性が高いと見て捜査を進める方針。」と記事は締められて。
……まあ、『そういう本性』でしたからねぇ。
よく覚えてますよ、問い詰めた時に「一発ヤッたらどうでもよくなった。」なんてほざかれた時の顔は。
あの後知り合った女の子から、怨みぐらいは買っててもおかしくはない。
ほんとはあのとき、わたしがきりおとしてやりたかったけど。
不思議と、ふっと肩の荷が下りた気がしました。
今はあの人がいてくれるし、人の死にこんな開放感なんて感じちゃいけないけど…やっぱり、悪い意味でも心は正直で。
きっともう、振り回されないで済むんじゃないかって思ったものでした。
実際新聞部時代のスキルを使えば、社会的制裁ぐらいは出来たんですけどね。
そんな気にすらなれない程、嫌な記憶の一つでしたから。
…そうだ、ガサの行ってた博物館も県境だ。騒ぎ、大丈夫だったのかな?
『事件大丈夫だった?』
『特に何もなかったよ。騒ぎにはなってたけどね。
でも怖いね、ご飯食べ行ったとこでおばさん達が噂してたんだけど、こっちの県の人が見付けちゃったみたい。
腰抜かしちゃって大変だったみたいよ。』
『ありゃ、それは災難な…でも気を付けてね、まだ捕まってないんだし。』
『うん、そうする。』
ガサは無事そうだね…後は彼からの連絡が来れば。
あ、来た!
『参ったよ、がっつり検問引っかかった。県外だし仕方ないけど。』
『大丈夫だったの!?』
『身分証見せたら解放してもらえたよ。念の為って事で、車の中は見られたけどね。』
『気を付けてね、今回は拳銃無いんだっけ?』
『プライベートだから銃器の携帯は禁止。一応休暇でも、警棒の所持は義務になってるけど。
でもお陰で滝に行きそびれちゃったな、名所だったんだけど。』
『じゃあその内、ふたりでリベンジしよ!』
『それもそうだな、今度は君と行こうか。』
『言ったね?約束だよ!』
よし、言質取った。
ふふ、早く帰ってこないかなー…そうだ、楽しい事を考えなきゃ。
そんな事を考えて……でもつくづく、ジャーナリスト志望の癖に自分はバカなのだと、数分後には知るのでした。
「失礼するぜ。青葉、いるかー?」
「少尉さん?どうかしましたか?」
「電話が入ってんだよ…君の地元の刑事さんからなんだけどな。」
「もしもし、お電話代わりました。」
『__さんでお間違いないでしょうか?私、××県警の_と申します。
昨日発生した殺人事件について、お訊きしたい事がありまして。』
「はい……。」
『今回捜査にご協力をお願いしたく、ご連絡させていただきました。
被害者の_さんですが、過去にあなたと交際されていたのはお間違いないでしょうか?』
「ええ、間違いありません。今日ニュースで知りました。」
『かしこまりした。つかぬ事をお訊きしますが、被害者と破局された原因は何でしょうか?』
「それは…その、彼の二股ですね。」
『そうですか…この言い方は良くないのですが、被害者は女性関係が少々乱れていたようですね。怨恨の線でも捜査しておりまして。
何か他に女性関係でご存知の事はありませんか?』
「いえ、その頃二股されてた子以外については何も…もう何年も彼の近況は知りませんし。」
『かしこまりました、ご協力感謝致します。
また捜査上で何かありましたらご連絡させて頂く事もあるかと思いますが、その際ご協力をお願い出来ますか?』
「ええ、私に分かる範囲であれば……。」
『ありがとうございます。
海軍の総務課にもご協力をお願いしておりますので、お電話が難しい時はそちらを通じてご連絡があるかと思います。では、失礼させていただきます。』
「はい、失礼いたします…。」
これだけの事があれば、捜査線上に青葉が出て来るのなんて、ちょっと考えればわかる事だったんです。
もしかしたらこれから先、何度もあの話を蒸し返されるかもだし…何より警察からの電話は、あの男が殺された事への現実味を増させたのでした。
「青葉、ちょっと顔色が悪いな。今日はもう部屋で休みな。
事情は先に聞いてるから、先輩には俺から連絡する。」
「…はい、よろしくお願いします。」
少尉さんに促されるまま部屋へ戻ると、すぐにベッドに倒れ込みました。
でもそれも、5分と持たなかった。
気持ち悪い。
そう思った時にはもうトイレに駆け込んでいて、げえげえと吐いていたのでした。
吐瀉物のグロテスクな見た目とすえた匂いは、さっきまで人の死を喜んでいた私の腹の底を、実体として見せ付けているかのようで。
それを流してみたところで、気分の悪さは変わらない。
開放感と、そこへの嫌悪感。
それが複雑に絡み合って、手はぷるぷると震えていました。
『ヴィーーー……』
そんな時でした、携帯のバイブ音が聞こえたのは。
この長さ、電話だ…誰だろ。え?
『もしもし?』
「………“ジュン”。どうしたの?」
『少尉から連絡が来てね…さっきは被害者が誰か、隠してたんだろう?』
「……うん。あのね、最初のニュース見た時…私、すっきりした気分にもなってたんだ。人が死んだのに…。
ざまあみろって…叔父さんやあの子の時は、あんなに泣いたクセに…。」
『…無理するな。複雑な気分になるのはわかる。
でも何かあったら、いつでも寄っ掛かっていいんだよ。今は俺がいるだろ?』
「………!!」
たったそれだけの言葉でも、どれだけ救われたでしょうか。
そうだよね…今は、彼がそばにいてくれるんだ。
ずっと振り回されてても、それを無下にする事になる。
「うん…ありがと!」
この時ようやく、青葉は明るい声を発する事が出来たのでした。
本当は今すぐ会いたいけど、それは出来ない。
これは言うまでも無いけど…それでも、今伝えたいから。
「ジュン。」
『どうした?』
「………大好き。」
『〜〜〜〜!?こら!不意打ちは卑怯だろ…。』
「ふふー、デート楽しみにしてるね!気を付けて帰って来てよ!」
『はいはい、今日はちゃんと休めよ。』
「うん!おやすみー。」
『おやすみ。』
電話越しでもうろたえてるのが分かって、それはとっても可愛くて。
彼が確実に心を取り戻しているのが、よく分かった瞬間なのでした。
この戦争、勝たなきゃね。
敵討ちやそれまでの夢以外に、この時もう一つ夢が増えたんです。
それは……ふふ、まだ内緒ですよ。
前日の事。
とある公園の湖に、女が一人立っていた。
観光スポットの一部であるが、平日の今、ここにいるのは彼女だけ。
自販機で鯉の餌を買うと、彼女は湖のほとりまで近付いた。
人影に反応してか、鯉達が重なるように女の足元へと集っている。
ここでは見慣れた光景であり、仮に誰かがそれを見たとて、気にも留めない光景であったろう。
「たーんとおあがりよー…♪」
ぱちゃぱちゃと音を立て餌が撒かれる中、『とぷん』と一際大きな音が、一度だけ鳴る。
その音の場所に輪を掛けて鯉達が群がるが、全て食べ尽くしたのか、やがてその音も止んだ。
『その餌』を入れていたビニールを軽く洗い、女は立ち去っていく。
後には元通りの、静かな湖があるばかりだった。
今回はここまで。
あれはいつかの休み明けの事だったかな。
青葉とふたりで、それぞれの帰省の写真を見せ合いっこしたの。
青葉の写真はスマホでもとっても上手で、皆いい笑顔をしてた。
あの子の両親に兄弟、それにペットの犬に至るまで。それはそれは、素敵な写真だった。
「ガサは何撮ったの?」
「んー、友達の写真ばっかりだよ。あ、でもパパと撮ったのがあるね。ほら、これ!」
お母さんは?とは、あの子は聞いてこなかった。
小さい頃に離婚して、それから3回引越しもしてる。それまでは前に話してたから。
肝心な所は、黙ったままだけど。
「どれどれ…へー、お父さんすごいそっくりだねぇ。」
「でしょ?髪の色も顔立ちもパパ譲りなの。」
私を男にして老けさせたらパパになる。それぐらい、私は極度のパパ似だった。
ママに似た所なんて、それこそ些細な体質ぐらいじゃないかな。
だからあの女は、殴りたくなるぐらい私の事が嫌いになったんだ。
「次のニュースです。
××県の男子大学生殺害事件について、新たに凶器は近隣の住居から盗難されたものと判明しました。
また、被害者の拘束に使われた縄も、同じく近隣から盗まれたものと判明しています。
証拠品が多数残されておりますが、現状指紋などの犯人に繋がる有力な手掛かりは無く…。」
食堂のテレビでは、朝からあの件のニュースが流れていました。
個人的な感情自体は吹っ切れたけど…ジャーナリスト志望の悲しい性でしょうか、この手の事件自体は色々と分析してしまいます。
司法解剖の結果、死因そのものは首からの失血死。
喉に殴られた痕があり、声を潰された後に拘束され、拷問を受けた…あの辺りの住人自体はお年寄りが多くて、鉈やノコギリなんかがそのまま車庫に置いてあったりします。
気付かれずに盗むのは、その気になればとても簡単で。
艦娘をやるって事は、殺すのが仕事です。
特に人型の敵と戦う時は、必然的に人体が破壊されるのに近い光景を見る。
攻撃が近くの敵の喉を掠めた結果、凄まじい勢いで血が噴き出した事があります。
あの時は返り血で視界が塞がりかけて、かなり焦ったっけ。とてもじゃないけど、拭いただけじゃ落としきれなかった。
ニュースでは洞窟以外に血痕やルミノール反応は無く、足跡も消されてると…返り血を浴びないよう、後ろから手を回してトドメを刺した?
そうだとしたら、何か引っかかる…それらを見て思ったのは、犯人はまるで『人をどう殺したら何が起こるか』を、しっかり理解してるような印象で。
その後出演されたコメンテーターの方も、青葉と同じ疑問を抱いたようでした。
「解体の仕方や犯行の速さも含め、まるで経験があるような手口だ。」と。
SNSを覗いてみると、同級生はやっぱりあの話で持ちきり。
そっちは地元ならではの、ニュースではやらないような情報が流れていたのです。
県境の一帯はアウトレットモールがあるからか、有名なナンパスポットだったそうですね。
それで殺害現場の洞窟は、所謂アオカンスポットだったようです。
攫われた形跡がないって事は、犯人は女の子?
いやいや、でも手馴れてて殺す動機もあるって…うーん、逆にわかんないなぁ。美人局的に誘き寄せた、複数犯かもしれないし。
それにいくら喉を殴ったって、素人が手早く捕縛術を仕掛けるなんて…。
青葉みたいな、ニュースやネットしかソースのない素人にさえこれだけ分析されるなんて、すぐ捕まりそうな気もしますけど。
もしかしてそれ自体、撹乱目的だったりして…まあ、こんな事考えてもしょうがないかぁ。
そんな事よりも、考えなきゃいけないのは今日の仕事と明日の事。
明日の朝には彼も帰ってくるし、今日も頑張らなきゃね。
…そう言えば、ガサも明日帰ってくるんだっけ。博物館以外、どこに行ってるんだろ?
休暇の2日目、朝の9時。
事件の発覚は、当日の早朝だった。
女が朝食を摂りに入った現地の食堂は、報道されるよりも前にその話が入っていた。
「さっき県境で死体が出たんだってねぇ。」
「4丁目の田中さんが見付けちゃったみたいよ。あの人腰抜かして運ばれたらしいわ。」
「怖いわねぇ。」
パートの主婦達の会話もよそに、彼女は興味無さげに朝食を食べていた。
その内心は、誰も知る事は無かったが。
同日、14時。
女はとある家に辿り着くと、キーケースを取り出した。
鍵を開けると飾り気の無い玄関があり、何足か置かれた靴は全て男性のもの。
彼女は前日はスーパー銭湯で風呂と仮眠を取り、この日急行を乗り継いでやってきた。
宿やバスと言った、予約として本名の記載が必要な手段を避けるためだ。
家に入ると冷蔵庫を開け、彼女は何やら品定めをしている様子。
スマートフォンのメモ帳に書き込みをし、女は再びその家を後にした。
「おや、__ちゃんじゃないか。帰ってきたのかね。」
「佐藤のおじいちゃん!そうなの、休暇をもらったから。」
「それはそれは、ゆっくりしておいきよ。お父さんもきっと喜ぶよ。」
「うん!これからスーパーにお買い物行くの!久々に何か作ってあげようってね。」
そうして迷わずスーパーへ向かい、彼女は難無く買い物を済ませた。
何故ならこの町は、現在の実家がある町なのだから。
食材を冷蔵庫に入れ、かつての自室にあるクローゼットからジャージを取り出すと、それに袖を通す。
箒を手に庭に出てみると、落ち葉がかなり積もっていた。
それを掃いて山を作り、彼女は一度台所に戻る。おやつにしようと買っておいたサツマイモを、アルミホイルで包むためだ。
彼女はサツマイモをビニールに入れ、再び庭へと出た。
だがその手には、もう一つビニールが握られている。
落ち葉を燃やし始めるも、少し火力が足りないのだろうか?
彼女はもう一つのビニールからあるものを取出し、それも火にくべた。燃やしたものは黒の古着であり、ようやく充分な火力となったようだ。
焼き芋の仕上がりを楽しみにしているのか、女は微笑みながらその炎を見つめていた。
火の始末も終え、焼き芋を食べ終えた女は、風呂の掃除を始める。
浴槽と床を擦り終え、シャワーで洗剤を洗い流す。この時だけ何故か、女は湯沸し器の設定を下げていた。
設定された温度は、36℃。人肌と同じもの。
その温度が手に触れた時、女は何かを思い出している様子だった。
風呂掃除を終え、女は今度は調理器具を取り出した。
試しに野菜を一かけ切ってみると、包丁の切れ味が気になる。砥石を出し、まずは包丁の手入れを始める事にしたようだ。
しゃこしゃこと無機質な音が台所に響き、仕上がった所で洗われた包丁がまな板に置かれた。
しっかりと研がれた包丁は、先程よりも幾分綺麗になっていた。
照明が反射し、刀身が鈍い輝きを放っている。
そのまま彼女が下拵えを終える頃、一台の車が車庫へと入った。
だが車の主は家の灯りが点いている事に気付くと、その場に5分程立ち尽くし、ようやく家の鍵を開ける。
その顔には、複雑な感情が浮かんでいた。
「あ!パパおかえりー!」
「あ、ああ。どうしたんだ急に?」
「有給溜めちゃったみたいでさ、それで休めって言われて帰って来たの。サプライズって奴!」
彼は女の父親だ。
久々に帰って来た一人娘が、料理をして待ってくれていた。
そんな愛する娘の甲斐甲斐しい姿に、確かに喜びの感情もある。
だが彼は娘を愛していたと同時に、ひどく恐れてもいた。
「今日はキャベツあったし、豚が安かったの。カツにするから待ってて!」
そう屈託無く笑う娘が取り出したのは、豚のロース肉。
まな板に置かれたそれに、昨日自分が使った時よりギラつく包丁が入る。
ちぎれる音も無く、肉は一口大に切られていく。それは淡々とした日常の光景だった。
しかし最後の一欠片の肉が、娘の手で切られる時。
彼の目は、まな板に置かれた自身の首の幻を見た。
「…………っ!?」
「どうしたの?」
「い、いや、そう言えば会社に忘れ物をしたなって…明日ついでに取ってくればいいものだから、大丈夫だよ。」
カツも揚がり、仕上げられた料理が並ぶと夕食が始まる。
久々の娘の手料理は美味しく、ビールの味に1日の終わりを噛み締める。
何年か会う事も出来なかった時期もあり、娘が遠くで働く今も、彼にとってはこの時間は何より大切なものだった。
彼は何度も心の中で、「自分は幸せだ」と呟く。
何度も何度も、己に擦り込むように。
その日眠る前、携帯でニュースサイトを開くと、とある事件の見出しが複数躍っている。
『××県にてバラバラ死体発見。』
『__峠バラバラ殺人、遺体の身元は県内の男子大学生と確認。』
今夜は少し冷える。肩に震えを感じた彼は、早々に目を閉じた。
その夜、彼は夢を見た。
夢には娘が出ていたが、まだ小4~5程の年齢の時の姿だった。しかし彼の記憶の中に、その頃の娘の姿は殆ど無い。
唯一ある当時の記憶は、白い部屋でアクリル板越しに見た姿のみ。
夢の中の娘は、大事そうに籠を抱えていた。
ちらりと見えた中身は、溢れんばかりの黄色の花々。
娘がこちらに気付くと、笑みを浮かべて近付いてくる。
「パパ、見てよ!」
満面の笑みで、幼い姿の娘はそう籠を掲げた。
どんな花だろうと籠の中を覗くと…。
そこには黄色い花に囲まれた、元妻の生首があった。
「ひっ……!?」
狼狽し、一瞬娘から目を逸らす。その一瞬の間。
再びそちらを見ると、今度は今の姿となった娘が彼を見て笑っていた。
「ねえ、パパ。
私を裏切ったら、こうなるよ?」
「………。」
「あ、やっと起きた!ご飯冷めちゃうよ?」
目を覚ますと、娘が屈託の無い笑みで彼を見下ろしていた。
朝食の香りと朝の光が、乱れていた呼吸に平静を与える。
先程まで見ていた悪夢とは、真逆の光景がそこには広がっていた。
「ああ、ありがとう…少ししたら行くよ。」
「うん!待ってるね!」
あの子は『もう大丈夫』だ。今だってこうして良き娘でいてくれる。
何も怯えることなどないのだ。
そう己に言い聞かせるも、直後に胸の痛みを感じる。
“………あの時俺が、親権争いに負けなければ…。”
独立した今も、娘は自分を大切にしてくれる。
彼は変わらず良き父であろうとし、葛藤しながらも娘を大切に思っている。
だが、親子の間にあった数年の空白。
その間に壊れてしまったものと、生まれてしまったもの。
それはもう、二度と取り返す事は出来ないのであった。
今回はここまで。
「叔父さん!聞きたい事あるの!」
「お、何かなぁ?」
「こういう文章のコツなんだけど…。」
「ああ、それならよ…。」
叔父さんは二つ隣の市に住んでいて、青葉が記者になりたいと思ったきっかけの人でした。
月に何度か話をしに行って、スカイプでもよく色々な事を訊いて。たくさんの事を彼から学んだものです。
叔父さんは元は東京で事件記者をしていたのですが、この頃には地元に帰ってローカル誌の記者になっていました。
彼の左腕には、大きな傷跡。
ある殺人事件の取材をしていた時、偶然警察よりも早く犯人を掴んでしまったらしくて。
そのせいで逆に狙われて、殺されかけた時のものだと言っていました。
青葉のノートには、彼から教わった事を箇条書きに纏めた項目があります。
PCやスマホのメモにも同じものを記録しているぐらい、いつでも見られるようにしていて。
そこに自分で感じた事も書き足して行くうちに、それはいつしか結構な量になっていました。
4年前を最後に、彼の言葉は増えなくなってしまいましたけど。
「叔父さん!!」
亡くなったと報せが来たのは、避難から帰宅してすぐの事でした。
遺体の回収先は、警察署でした。
兄であるお父さんが身元確認に呼ばれて、そこに青葉も同行したんです。
「その子は?」
「私の娘です。タカシの姪にあたります。」
「……お嬢さんも確認にご協力いただけると言う事でよろしいでしょうか?」
「…はい。叔父さんに会わせて下さい!」
霊安室に連れて行かれると、納体袋が置かれていました。
それは妙にペタンとしていて…この中に人が入ってるとすら思えなかった。
でも職員さんが袋を開けた時、確かに叔父さんがいました。
あったのは頭と、そこに繋がった右腕だけ。
目を覆いたくなる光景で……なのに叔父さんは、笑って死んでいたんです。
「…軍での検死結果ですが、ご遺体の右手にSDカードが握られていたようですね。
データを確認した所、あの未確認生物が写っていたそうです。軍経由で各報道機関に送られたと報告がありました。
ここまで鮮明に写ったものは、どの国の軍でも撮れなかったそうですよ。」
「……叔父さん。」
“どうせ死ぬならこいつらの脅威を世界中に伝えてやる!”
きっとそんな事を考えて、彼は最期にカメラを構えたのでしょう。
何かの役に立つ報道をしたいと、叔父さんはいつも言っていましたから。
ふふ…ほんと最後まで記者バカだよ…でもさぁ、死んじゃったら記事書けないよ。せっかく叔父さんが見た事なのに…。
小さい頃に撫でてくれた手は冷たくて。
いくつになっても見上げるばかりだった身長も、随分ちっちゃくなっちゃって。
左手、なくなっちゃってるなぁ…これじゃ一眼持てないじゃん。
叔父さん…ねえ、叔父さんってば……。
呼びかけたところで、返事なんてありませんでした。
それでも私は、返答がないインタビューをずっと心の中で繰り広げていたんです。
その後形見分けの時、彼のサブ機の一眼をもらいました。
それは予備として買ったばかりの、まだどこにも取材に行った事が無かったカメラ。
でも3枚だけ、その中にデータがあったんです。叔父さんがカメラを買う時、勉強にと私もついて行ってましたから。
それは家に寄った時に試し撮りした、彼の奥さんの写真と、私の写真と。
それと、私が撮らせてもらった叔父さんの写真。
叔父さんの遺影には、その写真が使われたんです。
この先自分の撮った写真が誰かの遺影に使われるなんて、もう無いだろうって思ってました。
その時は。
『prrrrr……』
とある民宿の一室に、着信音が響く。
浴衣姿の男が電話を持つと、画面には職場からの通知が出ていた。
「もしもし。少尉、何かあったか?」
『先輩、バラバラ殺人のニュース見ましたか?』
「見たも何も、今僕のいる県だよ。検問に引っかかって、警棒の説明に手間取ったんだ。」
『さっき警察から、総務経由でその件で電話があったんですよ。
何でも被害者、青葉の元カレらしくて…刑事さんと電話した後顔色が悪かったんで、部屋に帰らせました。』
「そうか、報告ありがとう。捜査協力の話は総務でついてるのか?」
『ええ、概要がまとまり次第、先輩の方にも総務からメールが来る手筈になってます。
でもキツいっすね…こういうケース自体初めてですけど、青葉の精神衛生に悪いですよ。』
「ケアなら任せてくれ。後であの子に連絡するよ。」
『お願いします。』
電話を切ると、彼はタバコに火を灯す。
久しいメンソールの香りは、秋の夜も手伝ってか妙に彼の胸に冷たいものをもたらしていた。
「ふー…………ふふ、はははは……。」
煙を吐き出す吐息は、次第に笑い声へと変わる。
彼もまた、ヒトなのだ。善意もあれば、その逆もまた然り。
この時彼の胸に去来していたのは、明確かつ真っ黒な感情だった。
「…因果応報だ。」
顔も名も知らぬ者ではあるが、彼にとっては、過去に大切な者を傷付けた事実は変わらない。
彼は『感情』を失っていたのだ。その中には悪意や憎悪の類も含まれていた。
取り戻したそれは時折、彼自身の過去にも牙を剥く。
表には決して出さないが、作戦中、中破や大破をした者が出ると、強烈な憎悪が敵に向く瞬間も増えた。
いつかの光景が、その度に彼の中でフラッシュバックするのだ。
『ちゃり…』
だが、それを止める存在が今の彼にはいる。
入浴中以外は絶えず身に着けている、葉のペンダント。
離れている時も、その存在が彼の感情を抑えていた。
“……あいつ、きっと悩んでるだろうな。”
タバコを吸い終え、携帯を手に取る。
電話越しに聞こえてくるのは、やはりどこか元気の無い声だった。
悪意に自己嫌悪を抱く程、本来は優しい性格の彼女だ。
彼の読み通り、随分と憔悴しているのが声のトーンで理解出来た。
『ジュン…。』
「どうした?」
『……大好き。』
しかし短い会話ではあったが、最後の方はようやくいつもの元気な声を聞かせてくれた。
彼にとっては不意打ちなおまけも付けてだ。
通話を終え、彼には珍しく、続け様に二本目のタバコに火を点ける。
しかし今胸にあるのは、先程とは別の感情だった。
“………まさかこんな奴でも、そう言ってもらえるなんてな。”
あの子に少しでも多くの幸せを。
今の彼が一番に願うのは、その事だった。
その為にこそ、今の戦いに勝つ。
そのきっかけは個人的なものだが、それは彼自身の過去に打ち勝つ為にも、仲間や人々の為にもなる。
「僕は弱さの真ん中じゃ、命は散らせない…ってな。」
そう好きな歌の一節を口ずさみ、彼は布団を被った。
この短い期間に、様々な事が起きた。
それらに苦しむ時もあるが、『あの子と生きたい』、その願いが彼を生かしているのは紛れも無い事実だった。
携帯を手に取り、ある画像を開く。
そこにはいつか二人で撮った写真があった。
彼が愛して止まぬ、満面の笑みを浮かべた彼女の姿が。
「おやすみ……“マリ”。」
二人きりの時しか呼ばない、彼女の本当の名前。
優しい声でその名を呟き、彼は眠りへと落ちて行った。
『どうしてお母さんの頭を海に捨てたの?』
『あの女が大嫌いだから。』
『では、どうしてお母さんをバラバラにしたの?』
『ママが好きだから。』
『同じ人でしょう?』
『違うよ。』
『何が?』
『ママはいつも、私を抱きしめてくれたから。
でもあの女は、いつも私を殴るから。』
『どういう事なのかしら?』
『頭が無かったら、ママは私を抱きしめてくれるから。
だからママとあの女を切り離したの。』
今回はここまで。
加減はどう?あはは、でも喋れないかあ、喉潰して猿轡だもんね。
一生懸命あんたの事探したのよ?あの子のSNSの友達とかフォロワー辿って。あんたがクロだって確信得るには、相当頭使ったけど。
あんた女癖悪い癖に、逆ナンなんて引っかかるんだね。
ま、『イカせてあげる』のは間違いないしね。のこのこ引っかかってくれてありがとう。
ふふふ…ねえ、私って何のお仕事してると思う?艦娘だよ。
艦娘ってさぁ、何も銃の扱いとか戦闘ばっかりやってる訳じゃないの…例えば体術の基礎に、捕縛術なんかも習ったりする。
あんたをそうするのに使ったのは、それなんだよね。
お、何か思い出したね。艦娘って聞いたからかな?真っ青な顔してるけど。
くす…あんたの元カノも今そうだもんね。『初めて』奪ってポイしたあの子も。
このクズ。
私ね、あの子が大好きなんだぁ。
私って男も女も両方行けるんだけど…それに気付いたの、あの子がきっかけ。
でも違いはあるよ?女の子は愛でたくて、男の子は……ふふ。
…でもあんたはね、それ以前の問題なの。許さない。
あの子強がってるけど、あんたのせいで凄くトラウマになってるんだもん。
ほら、女の下着姿だよ?私が着替えるまでにせいぜいおっ勃てなよ。
ふー…さて、何で私は黒い上下に着替えたんでしょうか!
正解はね……今からあんたで遊ぶから。
刃物って、結構簡単に錆びちゃうよね…これ見てよ。
このちっちゃい鉈ね、近くの家から借りたんだけど…これだけ錆びてても、切れないわけじゃないの。でも『ちょっと切りにくい』んだよね。
さてさて、息子さんを拝見しますよっと…あはは、大したモノじゃないね。
ん?何するかわかっちゃった?
そうそう、こんな悪いモノはバイバイしなきゃねー…っと!!
へー、柔らかいからかな?結構切れないもんだね。
ん~……いいね!これじっくりやるには最高だよ!ほらもういっちょ!!
あは、ちょっと切れたね、三分の一ぐらいかな?でもあの子はもっと痛かったと思うよー?女の子の初めてって、そんなもんじゃないもん。
今は一回ずつやったけど……今度は前後させてみよっか?ゆっくり…ゆーっくり……ねえ、ダメだよ男の子が泣いちゃ!我慢するの!
おー、半分くらいまで入ったね!もうちょっと頑張って!ほら!ほら!!
あっ……もう切れちゃったかぁ。力入れすぎちゃったかな?
まあいいや、まだ切るとこあるし。
え?当たり前じゃん。男の子は切るとこもう一個あるでしょ~。さ、もう少し頑張ろっか?
………さて、終わったね。大好きな女の子になった感想はどうでしょう?
うんうん、泣くほど嬉しいんだね!じゃあそろそろ解放してあげるよ。
人生から。
え?逃すわけないじゃん、捕まっちゃうもん。
これだけベラベラ喋ったのは、冥土の土産ってやつだよ?
任せてよー、しっかり楽にしてあげる!私達って殺しのプロみたいなものだよ?艦娘ってしょっちゅう人みたいなの殺してるし……
それに私、人も3人殺っちゃってるしね。
そうだね、一人は崖から落として…もう一人はちょっと家に仕掛けして……でも大丈夫!あんたは一番好きなので殺ってあげるから!
ふふ…銃器も悪くないけど、やっぱり刃物が一番いいね。
そう、首から吹き出る血は良いんだよ…あったかくて、抱きしめてもらってるみたいで……まあ、あんたの血なんて浴びたくもないけど。
気に入らない奴殺すの、あの女以来だもん。
これも借りて来たんだけど……いいでしょこの鎌、ほとんど新品なの。
よく切れるよー?スパッと行っちゃえば、あっという間に天国だよ。
嬉し泣き?うんうん、大好きな女の子にもなれて、天国にも行けるんだもんねー。
安心してよ…あんたの死体、お似合いな感じにしといてあげるから。
……っと、あんまり長話してると誰か来ちゃうかぁ。
じゃあ、『逝かせて』あげるね。
待ちに待った今日が来ました。
起きたら携帯に連絡が来てて、それは到着予定の報せ。
その時間に合わせて準備して、今か今かと車が来るのを待っています。
あ!来た!
「おかえり!」
「ただいま。待たせたね。」
助手席に乗り込めば、ずっと会いたかった人の横顔。
疲れも取れたのか顔色も良くなっていて、胸を撫で下ろしたものでした。
「温泉どうだった?」
「良いところだったよ、教えてくれてありがとう。
でもいざ休んでみると、案外疲れてたってわかるな。お陰様で体調が段違いだよ。」
「ふふ、自覚無いだろうけどいつも頑張ってるもん。」
熱さを表に出す事は無いけれど、彼の指揮や作戦は、常に艦娘の負荷と勝率のバランスを考え抜いたものでした。
如何に無駄な犠牲や疲弊を出さずに敵を倒すか、そこが前提にあるのは皆感じていて。
例え人としては近寄り難くても、それが彼が支持を集めていた理由。
感情に問題を抱えていた頃からそれは変わらなくて、そこには彼の本質的な優しさがある。
でも、いつも無自覚にそこまで考えてると、やっぱり疲れちゃうよね。
良いガス抜きになってくれたなら、温泉を教えた甲斐もあるってものです。
今日のデートは、そんなに遠くには行きません。
ふたりでいられる事が、何より大切ですから。それが青葉からのお願いでした。
…それに最後に、行きたい場所もありますし。
艦娘になって1年半ぐらいになりますが、実はこの街で行った事がない所もあって。
今日はまずはそこに行ってみる事にしました。
ふふー、そこはですね…動物園です!
「お…おお…おー!」
……やばいです。これぞ天国です。
何なのこのかわいさのかたまり。召されそうです。
アルパカ…フクロウ…はは、とどめにオオカミの子供…あ、だめ、パンフ見ただけで鼻血出そう…。
「おーい、帰ってこーい。朝潮型の探照灯が動く顔だぞー。」
「………はっ!?」
誰が呼んだか通称防犯ブザー。
いけないいけない、思わず顔が緩んじゃいました…で、でも…これは……。
「お、あっちにふれあいコーナーがあるって。行ってみるか?」
「行く!!」
いやぁ~、やっぱりかわいい動物目の前にしちゃうとだめなんですよねぇ。
それでふれあいコーナーにいたのはうさぎ。
青葉は膝に乗せて撫でていたのですが、隣を見てみると…。
「お?おお?」
「あはは、よじ登られてるじゃん!」
丁度彼のお腹に張り付くように、うさぎがぴょこんと。
懐かれたんでしょうねぇ、うさぎを撫でる彼の顔は、随分と穏やかで。
少し前ならそんな顔も見れなかったんだよねって、感慨深くなりました。
ふれあいコーナーを出て、次に行ってみたのはハシビロコウのコーナー。
動きませんねぇ…うーん、何かこの目付き、既視感あるんだよなぁ。
あ!あの子だ!
「この眼光誰かに似てるんだよな…誰だろ?」
「……ハシビロコウに何か落ち度でも?」
「んっふ!?やめろっての!あいつの顔まともに見れないだろ!?」
「ふふ…司令、ハシビロを怒らせたわね!」
「本人に言うなよ?」
「言わないよーだ。」
ふふ、不知火ちゃんには悪いけど、面白い瞬間見ちゃいましたね。
この人の吹き出しそうな顔なんて初めて見ましたよ。
よく晴れた、なんて事は無い日ですけど。青葉はこんな日が一番好きなんですよ。
うーん、落ち着くなぁ。日常って感じ。
その後も色々な所を見て、他愛も無い話をしたものです。
それで最後、一番楽しみにしていたオオカミのコーナーに向かったのでした。
「………かわいすぎる。」
語彙力が轟沈しました。
もふもふ…ああ、天使がいる…。
「ふふ、顔が溶けてるぞ?」
「あんなかわいいの見たらだめだよー。私、イヌ科が一番好きだもん。」
「お、顔かじってるな。何だあれ?」
「あれはね、オオカミの愛情表現ってやつだよ。ああやって顔全体甘噛みするの。」
「へー、なるほどな。」
「あー。」
「口開けてどうした?」
「かじられる?」
「はは、俺たちじゃホラーになるよ。」
こんなバカなやり取りが、本当に幸せです。
一眼の中身は着々と増えて、そこには動物たちだけじゃなく、彼の写真もたくさん。
どれも大切な思い出になるけど、それでもやっぱりこの瞬間には勝てないや。
ふふ…オオカミ、実物見るとやっぱり愛情深い生き物だなぁ。
今日はそこまで人もいないね…じゃあ、これぐらいならいいかな。
「えいっ。」
「……ふふ。」
こっそりとじゃなく、敢えて彼にバレるように手を繋いで。
優しく微笑んで、手を握り返してくれました。
今回はここまで。
その後は隣の公園に移動して、少し一休み。
原っぱの真ん中に大きな木があって、そこでぼんやりとしていました。
んー、いい天気。お昼も食べたし、ちょっと眠いなぁ。
「ふぁ…。」
「膝使うか?」
「いいの?じゃ、お言葉に甘えて!」
彼の膝枕で横になると、木漏れ日と青空が。
優しく髪を撫でてくれて、それは何とも眠気を誘うものでした。
「は~…。」
思わずだらしない声が出ちゃうぐらい、癒される瞬間。
うーん、これはこれは……むにゃ……
「…………はっ!?今何時!?」
「15時。よーく寝てたぞー。」
「…ごめんね、重かったでしょ?」
「いやいや、良いもの見れたし。ほら。」
「あ!そ、それは!」
してやったりな顔で見せられたのは、なんと私の寝顔写真。
げ!?よだれ垂らしてるし!
「う~…誰にも見せちゃダメだよ?」
「見せないよ。むしろ他の奴に見せてたまるかっての。」
「……ばーか。」
素でそんな事言うんだから、もう。
その後車に乗り込んで、移動しようとした時の事でした。
前は無かったあるものが、フックに引っ掛けられてるのを見つけたんです。
「“JUNICHIRO GOTO”…ジュンのドッグタグじゃん、どうしたのこれ?」
「前掃除してたら見付けたんだよ。階級が違うだろ?あの時付けてたやつさ。
交通安全のお守りにって思ってな。」
手に取ってみると、落としてはあるけど血錆の跡が。
…この時を越えて、この人の今があるんだね。
「日が落ちるのが早くなったな。」
「ほんとだ。もう冬になるね。」
「夕暮れが見頃な時期だよ。」
そして車はある場所へ。
ここはこの時間にこそ、どうしてもふたりで来たかったんです。
カフェの近くにある、あの大岩の上。
寂しい場所だけど、ここは大切な場所ですから。
「………すごいねぇ。ここ、こんなに見えるんだ。」
岩に登ると、今まで見た事もないぐらいの夕焼けが目の前に広がっていました。
真っ赤だなぁ…しばらく一眼を取り出すのも忘れるぐらい、その光景に見惚れていたものでした。
「今年一番だな。今日はついてるよ。」
「そうなの?」
「ああ、いつも以上の夕暮れだ。」
「ふふ…ラッキーだね!」
「全くだ、生きててよかったよ。」
隣同士で座って、私は彼に寄りかかって。
この光景をそんな風に見れて、その言葉を聞けた。
少し前までは、叶わないと思っていた事が現実になった瞬間でした。
天国と例えるなら、あの曇り空の寂しい日じゃなくて、きっと今日みたいな日を言うのでしょう。
夢みたいだなぁ…でもこれ、現実なんだ。
「あーかーいーゆうひをーあーびてー…♪」
子供の頃以来に聴き返して、大好きになった歌があります。
それは、楽園と言う曲。
「まさに今日の歌だな。」
「ふふ、ほんとにね。
ねぇ、ジュン。色々あったけどさ…」
色々な事がありました。これからもたくさん、辛い事もあるでしょう。
愛と勇気と絶望を、この両手いっぱいに。よく言ったものです。
それでも。
「……ふたりなら、どこだって楽園だよ。」
消えない過去も、未来を疑いたくなる瞬間も。
これから何度でも訪れるでしょう。
でもあの歌の通り、それだけじゃ悲しすぎるよ。
私はいつも、あなたのそばにいるから。
「ふふ……あっはっはっはっ!!!こりゃ一本取られたな!
確かにそうだ!だけどな!!」
そう言って立ち上がると、彼は手を大きく伸ばしてこう言いました。
「君が思うほど弱い男じゃないぜってなぁ!
この戦争勝つぞ!俺がお前ら全員沈ませねえからな!」
こんな事を叫んで、彼は初めてその顔を見せてくれたんです。
いつか扶桑さんに見せてもらった写真と同じ、私がずっと見たかったあの笑顔を。
それはどんなにいいカメラよりも、私の記憶の中に強く焼き付いたのでした。
「……なぁ。」
「なぁに?」
「気の早い話だけど…もしこの戦争が終わって、お互いその後が落ち着いたらさ。
その時は、一緒に暮らさないか?」
「………うん!約束だよ!!」
ちょっと、涙目になっちゃいましたね。
でもこの時は、それよりも嬉しさの方が勝って。
きっと私も、いい笑顔を見せられたんだなって感じたものでした。
いつかこんな日が、日常になりますように。
そんな事を願いながら。
「青葉ー!」
「ガサ!おかえりー!」
「ただいまー!久しぶりに青葉分補充するぞー!」
「あはは、何それー。」
部屋に戻ると、ガサも帰ってきてたみたいで。
物音に気付いたのか、私の部屋に入ってきました。
じゃれつかれるのも久々だなぁ、うん、いつも通りの日常が帰ってきた気がします。
「あれ?シャンプーの匂いするね。
そう言えば提督とデートって言ってたね!ははーん、さてはさっきまでおたのし…」
「言わないでよばかぁ!!」
もう、たまーに下ネタひどいんだから。
……ま、まあ、その通りだけどさ…うう、言われると何か恥ずかしい…。
それでガサが部屋に戻った後、何となくあのドッグタグの事を思い出したんです。
うーん、何か引っかかるんだよね…ジュンの名前が載ってるだけなんだけど…。
その時はまあいいかって思って、そのままいつも通りに過ごしてたんです。
でもこの時、引っかかりの正体を思い出すべきでした。
JUNICHIRO GOTO…イニシャルにするとJ.G。
かつて彼の命の危機の側にあったドッグタグ。そのイニシャルは…
『ジャガー』とも、略せるって事に。
今回はここまで。
イエモンの東京ドームには行けませんでした…行けませんでした…行けませんでした…
艦娘になって8ヶ月目ぐらいの、ある出撃の後だったかな。
帰投の途中で濃霧に巻かれて、私は艦隊からはぐれちゃったんだ。
そんな死亡フラグみたいな状況になったら、案の定敵とかち合っちゃって。 不幸中の幸いか、ザコしかいなかった。
でも急にそんな事が起きたら、気が動転しちゃったの。
だから抑えられなかったんだよね。
それで交戦して、一通り殺っちゃった後。
濃霧じゃあんまりGPS効かないし、晴れるまでひと息つこうと思ってた時の事。
「衣笠!………ひっ!?」
……あちゃー、見られちゃったかぁ。
その後しばらくしたら、陰じゃ衣笠とすら呼ばれなくなってた。
誰が呼んだか、『死体蹴りのマユ』。
艦名じゃなく本名を陰口に引っ張ってきたのは、皆同じ艦娘だって思いたくなかったからなのかもね。
異動の話が来たのは、それから2ヶ月後。
当時の提督は、その話をしてきた時「守ってやれなくてすまない。」と頭を下げて来た。謝る事なんて何も無いのに。
後で知ったけど、その後他の『衣笠』の適合者があそこに着任したらしいね。
……穴埋めは必要だよ、うん。
異動先の鎮守府には、翌月の引っ越し前に挨拶に行った。
どんな人だろ?…へぇ、この人私と同じ匂いがするね。
気 に 入 っ ち ゃ っ た 。
いつか『加えてもいい』かもしれないね。
その後の4月だね。
私がコレクションじゃなく、そこにいたいと思ったあの子に会ったのは。
ふふ…でもね、私はよくばりなんだ。だから考えたの。
どっちも何かしらの形で手に入れる、一番の方法を。
それがうまく行けば、私はやっと……
闘いの中にはあれど、それ以外は平穏な日々。
あのデートからしばらくは、そんな毎日でした。
そんなある日、他の鎮守府の手伝いにガサと行った帰り道。
青葉達はいつものように、海上を移動していたんです。
「ガサ、この前あった注意って読んだ?」
「弱った姫級の話?確か出没地域、ここからは遠かったよね。」
「記録としてはね。でも出没地域はバラバラだけど…日本そのものからは離れてないみたいだよ。
最初海外の方で戦闘があって、その時取り逃がした個体みたい。気を付けよ。」
「ふーん…まあ、大丈夫でしょ!撃沈手前の状態って聞いたし。」
今思えば、こんな会話をしていた事自体フラグだったのかもしれません。
それから少しした後、レーダーに反応があったんです。
「ガサ!待って!噂をすればお出ましだよ…この反応、姫クラスだよ。」
「マジで!?まずいね…ルート避けよっか。」
「うん、北に切れば上手く…嘘!?凄いスピードでこっちに来てる!!早く行こ!!」
一気に緊張感が押し寄せて来ました。
弱ってるとは言え、こっちは重巡二人…もし敵が少しでも攻撃可能なら、タダじゃ済みません。
でもまるで犬が追いかけるかのように、敵のルートは最短でこっちに近付いて。
こうなれば一か八か、敵が限界まで弱ってるのを祈って砲のロックを外しました。
どうか間違いであってほしい。
そう思いながらモノクル型のスコープを付けて、近づいて来る影を確認しました。
あれは…防空棲姫!?艤装は無いし、ぼろぼろだ…噂の個体で間違いない。
でも……あんな顔だったっけ?
いや、とにかく先手必勝…追いつかれる前にカタを付ける!
1.2.3!ちっ!かすっただけ!それでもえぐったはず…
…嘘!?太ももえぐったのにまだ来る!?
とうとう現れた防空棲姫は、肉眼で見ると凄惨な様を呈していました。
全身は傷だらけ、さっきえぐった脚からは骨が見えていて…何より目に付いたのは、破れた布から覗く、首に走った真一文字の縫い跡。
そして目が合った瞬間、青葉は得体の知れない感覚に呑まれて。
一瞬、動く事が出来なくなってしまいました。
……なんで、あいつは泣いてるの?
両手を広げて近づいて来るその姿は、余りにも切実な何かを感じさせました。
ここで死ぬんだ、そう思った時。
私ではなく、ガサの方へと向かったのです。
「ガサ!!逃げて!!!」
だめ!間に合わない!!
それでも必死に手を伸ばした、その直後の事。
「アイ…チャン……ママヲ、ユルシテ…。」
防空棲姫は、攻撃をするでもなく。
何かに縋り付くかのように、ガサを抱きしめたのでした。
「…………やっと、見つけたよ。」
その直後。ズドンと言う音と共に、内臓が音を立てて飛び散ったのです。
それは、ゼロ距離からガサが放った砲撃によるものでした。
「ア、イ………チャン……。」
「ふふ……あははははははははははははははははははははっ!!!!!
………その名前で……その名前で私を呼ぶなぁあああああああああっっ!!!!!!!!」
この時私は二つ、今まで知らなかったガサの顔を見ました。
返り血に塗れて、ケタケタと笑う顔と。
その直後に見せた、鬼のような形相と。
どちらも恐ろしい顔で。
だけど、とても悲しい顔にも見えたのです。
今回はここまで。
「詰みだな、さっぱり掴めねえ。」
「ですね…はぁ、警察への協力依頼は許可下りないんでしょうか。」
「下りてりゃもっと進展してるよ。ったく…俺らは所詮憲兵、あくまで軍内専門の警察だぜ?
十中八九殺しだろうが、掴むには俺らじゃ整ってなさすぎる。
科学捜査にしろ聞き込みにしろ、設備も権限も足りやしねえ。」
「……圧力でしょうかね、やはり。」
「まぁ今は一応戦中だし、そうだろうな。
被害者も調べりゃなかなかの埃が出てきた、歩く不祥事って呼んで差支えねえ。上が絡んでるのは間違いねえだろ。
掴んだ埃が事実なら、被害者に同情は出来ねえ…だが、かと言って消すのも同じ穴の狢だ。
腐っても俺らも一応法の守護者だ、何とかとっちめてやりてえ。被害者も消した奴らも、両方な。」
「ええ、犯人と証拠さえ掴めれば。」
「……ああ、その時は立場逆転だ。暴れられりゃ、然るべき措置を取れるぐらいにはな。」
穴の開いた脇腹から、防空棲姫のはらわたが海へとこぼれ落ちて。
ガサは軽蔑の目を向けたまま、ただその様を見つめていました。
「ふー……ウケるね、姫級になってたなんて。
顔は良くても、腹の底はそこにこぼれてるのと一緒。
バケモノのボス、あんたにはお似合いだよ。このクソ女。」
「…アイ……チャン……。」
「……何回言えばわかるの?」
ぐしゃりと、海戦では聞き慣れない音。
ガサは機銃で敵を殴って、それが鈍い音の正体でした。
この時、止めなきゃと言う思考すら働きませんでした。
恐怖で体が動かないと言う感覚に、磔にされたようで……でもその対象は、敵ではなくガサに対してで。
何度となく響く鈍い音だけが、私の耳に触れていたのでした。
「……ガッ!?」
「へえ…一丁前に苦しいんだ?バケモノになった癖に?
あの時あんたもこうしてくれたよね……苦しかったなぁ、死んじゃうかと思ったよ。
でもね、立場逆転とは行かないよ…あの日の再現、してあげる。」
敵の喉に手を掛け、ガサの手が深く食い込んで行きます。
艤装装着時の艦娘の力は、普段の数倍。みちみちと指が食い込んで…その手が喉ごと肉を抉り取ったのは、ほんの数秒にも満たない時間でした。
パクパクと口を動かし、防空棲姫は何かを呟いていました。
その動きは…「ごめんなさい。」って見えたんです。
その直後、傷から噴水のように血が吹き出ました。
それはガサに向かって降り注いで…彼女の顔は血に染まって。
「あったかいなぁ……ママ。」
そう呟く血塗れの顔に、一筋の肌色。
それは、ガサの目元から走っているように見えました。
彼女は一度微笑んで、機銃を敵に向けて。
防空棲姫の首が宙を舞ったのは、その銃声の後でした。
「あははははははは!!!同じだよ!あの日と一緒!!
……同じだ…同じだよ……ママ…。」
ガサはその場にしゃがみこんで、ずっとそう呟いていました。
海面を見れば、ぷかぷかと防空棲姫の頭が浮かんでいて…その顔も、何だか悲しげに見えて。
“ジュン、ごめんね……ひとつだけ嘘つくよ。”
戦況撮影として写真を一枚取ると。
私はその頭へ向けて、引き金を引いたのです。
脳や目が宙を舞って、バラバラになって。
やがてその肉片も、波に飲まれて何処かへと消えました。
「こちら青葉。帰投中、注意のあった防空棲姫と遭遇。交戦し撃破しました。
遺体は回収不能と判断。写真を収めましたので、帰投次第再度報告致します。
…………ガサ。」
「あお、ば……。」
「いっしょに帰ろ。大丈夫だから…そばにいるよ。」
この時私は、泣きじゃくるガサを抱きしめる事しか出来ませんでした。
あの子が動けるようになるまで、私達はただ、じっと海の上にいたのです。
それは不釣り合いなぐらい、どこまでも澄んだ青空の日の事でした。
ガサを入渠させて、そのまま私の部屋へと連れて帰りました。
帰投の後は普通に振舞ってたけど…いざ二人きりになると、やはりガサから言葉は出ません。
それでも今、この子をひとりにしちゃいけない。
そう思って、今夜はそばにいる事にしたんです。
「…………青葉。」
「…なあに?」
「あいつの言ってたアイって、私の昔の名前なんだ。
『11歳女児母親バラバラ殺人』……青葉なら、よく知ってると思うな。」
「……………え?」
調べた事がある事件の名前が、耳に触れました。
ネットには名前も流れてて、確かにその名前は…。
「私ね……ママを殺したの。」
頭の整理が追いつかない内に、ガサは続けてそう笑いました。
あの夜と同じ、ゾッとするような透き通った目で。
今回はここまで。
「そうだね…今日でちょうど10年かぁ。これも因果ってやつかな。
防空棲姫……いや、ママを殺したのは2回目なんだ。最初はあの女が人間だった時だね。」
「どう言う事、なの…?」
「聞いた事あるでしょ?死体が沈んだ艦娘は深海棲艦になるって噂…上は隠してるけど、私は全部気付いてる。
艦娘に限らず、人型の奴らは海に沈んだ死体を基にしてるんだって。
私が艦娘になった理由はね、たまたまテレビであの女を見たからなの。
忘れもしないよ……だって、ママの頭を海に捨てたの私だもん。それがバケモノになって映ってたんだから…。」
堰を切ったように饒舌に語られた言葉も、今の私には理解が追いつきません。
11歳女児母親バラバラ殺人。
異臭に気付いた近隣住民の通報で発覚。
加害者は11歳になったばかりの被害者の娘。
娘は日常的に虐待を受けていた。
警官の突入時、娘は異父妹の腐乱死体を抱いていた。
浴室にはバラバラにされた母親の遺体が転がっていた。
殺害方法は包丁、直接的な死因は首からの失血死。
頭部は現在もなお見つかっていない。
箇条書きに頭を流れる、過去に調べた情報。
その当事者が、目の前の親友。
ガサとあの敵の間に何かがあるのは、昼の件で覚悟していました。
それでも現実になると、理解が追い付かない。
ガサはそんな私の様子を気にかける事なく、楽しそうに話を続けました。
「そうだね、あの時は……。」
もう理由もよく覚えてないけど、私が5歳の時、ママはパパと離婚したの。
それでママに引き取られて…後でパパから聞いたのは、その時かなりの親権争いがあったんだって。
ああいうのってさ、大体は母親が有利なんだ。決め手を上手く揃えられなくて、パパは負けちゃったみたい。
ママは美人さんだったよ?私は全然似なかったけどね。
うん……似なかったから、かな。それでも最初は優しかったママが、段々私を殴るようになったのは。
いつもそうだったよ。
大っきくなる度パパに似てくる私を、パパの名前を呼んで殴るの。
何であの人に似たのって、殴って、殴って、殴って……何年も続いた。
離婚する前はね、いつも私を抱っこしてくれたの。
でもその頃になると、私に触るのは拳かビンタばっかりだった。
今でこそ身長そこそこあるけど…捕まった時ね、9歳で成長止まってたんだ。
頭も良くなくてさ、でも裁判の後に施設に入れられたら、途端にどっちも成長したの。
そりゃそうだよ。ご飯もろくにもらえなかったし、毎日ビクビク過ごしてた。
ママが帰ってくる度、またいじめられるんだって…その頃のストレスじゃないかな。
見た目だけなら、子供がいるようには見えない美人さんだったね。
だからだろうね……一応仕事はしてたらしいけど、何日も帰ってこない日もあって。
それである時ね、ママのお腹が大きくなったの。
父親はわかんない。一体何人と関係あったのか、把握しきれないんじゃないかな。
お腹の中にいる時は、随分大事そうにしてたよ?それでも私を殴るのは変わらなかったけど。
お腹撫でて、歌なんて歌って……私には罵声しか浴びせなかったくせに。
何ヶ月かして、妹が生まれた。
でも…「また失敗した。」って言って、結局育児放棄。
あの女は結局、自分に似た子が欲しかったんだよ。
そのくせ何だかんだでパパには未練たらたら。今思えば、そう言う未練で頭おかしくなってのかもしれないね。
ま、同情なんてしないけど。
そんなにしないうちに、また家に帰って来なくなった。
でも妹は可愛いかったの。だから出来ないなりに妹の世話を一生懸命したけど……母親がいないと、段々衰弱してさ…。
妹、結局死んじゃった。あはは。
後であの女が帰ってきたの、何日経ってからか覚えてないなぁ。
確かもう妹が腐り始めてた時かな。久々にあいつの顔を見て…それで気付いたんだ。
『ママ』はもういなくて、目の前の『この女』は同じ顔の別人だって。
あいつも限界だったんじゃないかな?帰っきて早々、思いっきり私の首を絞めてくれたよ…何であんたはまだ生きてるの!って思ったのかもね。
丁度台所のシンクにぶつけられた感じでさぁ、苦しくて苦しくて……咄嗟に近くにあった包丁掴んで…あいつの喉を掻っ切ったんだ。
しゅー!って、血が噴き出したね。
出たての血って、あったかいんだよね…そのまま私の方に倒れてきて、丁度抱きしめられてるみたいになって。
その時、やっとママが帰ってきてくれたの。
あったかくて抱きしめてくれる、優しかったママが。
だって、人のぬくもりって血の温度じゃん?体中にママを浴びてるみたいで……ふふ。
その時もだったね、口パクで「ごめんなさい。」って言っててさ。
なーんにも、感じなかったけどね。
しばらく包丁持ったままぼーっとしてて、何となく部屋見回したら当然血まみれ。
死体しか無い部屋って、ほんとに静かなんだ。
…でもね、それがすごく心地いいの。
私にとって、それ以上の夢心地は無かったよ。
ママは帰ってきてくれた。
溶けちゃってるけど、妹はずっと可愛いまま。この子までこの先あの女にいじめられる事も無い。
もう誰も私を傷付けないし、それ以上何も変わりようが無い永遠ってやつ。
…ああ、これが天国なんだって。そう思ったんだ。
大人の死体って子供には重くてさ…まずママの腕を切ろうって思った。自分の肩にかける為にね。
丁度クローゼットにさ、新品のノコギリと手斧があったの。
…いつか私を殺して埋める為に買ったんじゃないかな。
その時ね…やっぱり顔が見えるでしょ?段々ムカついてきちゃってさ。
だから先に頭を切って、夜中に近くの海に捨てたの。二度と見ないで済むようにね。
その時は海沿いの街に住んでたから、歩けばすぐだったもん。堤防のちょっと水の汚い辺りに、思いっ切り投げてやった。
丁度ゴミ浮いてる辺りに落ちて、そのまま沈んでくのを見て……ほんとにせいせいした。
それからは青葉も知ってると思うけど、あっさり逮捕されて、医少にぶち込まれたよ。
児童自立支援の方じゃ扱いかねるって、特別措置でね。
毎日毎日カウンセリング、お前はサイコだ、頭がおかしいんだって言われ続けてるようなもんだった。
中3になる頃に出てこれて、後は今に至る…って感じかなぁ。
はは………まさか何年かして、あんな親子の再会だなんて思わなかったよ。
でもその後も、しばらく尾を引いてたかな。
高校入っても、昔の流行り物や思い出話とか話せなくてさ…病気だったから知らないって誤魔化して。
大好きな人と付き合えたりもしたけど……カミングアウトしたら、やっぱり怖がられて振られちゃったりさ。
まぁ自業自得なんだけど、ずっとずっと憎かったよ。あの人の子にさえ生まれなければって。
でも、ほんとは寂しかった。
…だから私はね、ママをもう一度殺す為に艦娘になったの。
世の中や人を守るなんて大義名分も無く、ただ自分の人生をやり直す為にね。
「…………そんな話。ふふ、衣笠さんサイテーでしょ?」
何を言ってあげればいいのか、分かるはずもありません。
想像なんて届かないぐらい、あまりにも壮絶な半生でした。
「ガサ……大丈夫。」
だから今この子にしてあげられる事なんて、抱きしめてあげる事だけでした。
それ以上の事なんて、何も思いつきませんでしたから。
言葉をひり出せないなんて、記者失格だなぁ。
「青葉……ねぇ、ずっと友達でいてくれる?」
「うん!ずっと友達だよ!戦争が終わっても、お互いおばあちゃんになってもね!」
「………!!ありがとう…青葉…。」
胸元にぎゅっと彼女を抱いて、私はただ髪を撫でて。
それ以上の事は、きっと要らないとさえ思いました。
それは大きな間違いだったんですけどね。
自分が誰かにした事は、自分が誰かにされる事もある。
例えば…いつか私が下卑た笑みを隠す為に、ジュンの胸元に抱きついたように。
ガサもまた、この時何かを隠していたのかもしれませんね。
後々、私は一つ後悔をするのでした。
それは、恐らく一生続くであろうものになるぐらいの。
今回はここまで。
数年前、ある新聞記事より抜粋。
『連続殺人犯卍男、遂に逮捕
3月より発生していた連続殺人事件・通称卍男事件の容疑者として、8日午前、都内に住む____容疑者(31)を逮捕したと警視庁から発表があった。
他誌の担当記者・A氏の取材過程に於いて容疑者が浮上。
しかしA氏の動向に気付いた同容疑者は、捜査協力の為警視庁に向かっていたA氏を襲撃。
居合わせた通行人の悲鳴により容疑者は逃走、その後の捜査により台東区内にて逮捕された。
A氏は腕を切られ、全治1ヶ月の重症。命に別状は無いとの事。
容疑者は3月より5名を相次いで殺害。
被害者には全て卍状の傷が付けられており、卍男連続殺人事件と題され捜査が続けられていた。
今後事件の全容の解明を急ぐと共に、動機について容疑者を厳しく追及して行くと警視庁は明かした。』
“………綺麗な夕日ね。”
“ああ、ここの夕日はいつ来ても心が洗われる。”
“ふふ、子供の頃から見てるけど、いくつになってもここが一番よ。”
“全くだ、正直地元より綺麗だと思うよ。
こうして君と出会えたし、ここに着任出来たのは幸せだ。”
“そうね…うん!私、あなたに出会えて本当に幸せ。”
“照れるなあ。また来ような…
____サクラ。”
「……………。」
また、なのね…。
今でも時々、あの頃の事を夢に見る。
あの日から少しでも進めた気がしたけれど、眠ると本音が出るものなのかしら?
『あの子』の連絡先は、敢えて聞かなかったもの。今頃どうしているのか、知る由も無い。
きっと、『あの子』と幸せにやっているのでしょうね。
妹からは、幾分顔色は良くなっていたって聞いたわ。
妹は彼を恨む事はやめてくれたけど、何かを吹っ切ったようにも見えて。
少しだけ、それを羨ましく思った。
軋む体を起こして、でも何となく、何もする気になれなくて。
窓の外は雨。せっかくの休日も、今日はぼんやりと過ごしてしまいそう。
イヤフォンを付けたらまたベッドに体を横たえて、私は再生ボタンを押す。
彼は…ジュンは様々な音楽を教えてくれた。
その影響かしら、自分でも色々なものを聴くようになって。
『楽しかったあの日は…背中のシュレッダーに…』
今の私は、彼の一番好きなバンドのボーカルさんが、解散後にソロになってからの作品を好んで聴くようになっていた。
その人は解散後は精神的に危うい時期もあったらしくて、バンドの時に比べると暗い曲が多いの。
でも、その暗さが今の私には心地よかったから。
……あのままだったら、どうなっていたのかしら?
きっと私は彼を殺して、今頃刑務所にでもいるのでしょうね。
ジュンが飲まれてしまった闇は、それだけ深い物だった。
それでも『あの子』は、明るく笑って。彼の為に笑って。
かわいい『あの子』は、その暗闇を照らしてあげたのでしょう。
だから彼は、あんなにも取り戻す事が出来た。
私の事など、少しも引きずらないぐらいに。
かなうなら、あのこみたいになりたかった。
でもわたしは、あのこにはなれなかった。
私は過去への復讐として、『艦娘の扶桑』になった。
だけどその根にあるのは…『女であるサクラ』としての復讐心。
どうあっても、私は私のまま。
扶桑にもなりきれない、サクラのままよ。
どれだけ終わりを見ても、受け入れきれない私のまま。
幸せな記憶をシュレッダーにかけたって、きっと繋ぎ合わせてしまうような。
ねえ、ジュン。もし私が……
あの日以来、ガサは今まで以上によく笑うようになりました。
10年苦しみ抜いた事から、ようやく放たれたのかもしれませんね。
映画好きなのは変わりませんけど、青葉の部屋に持ってくるものはコメディやストーリー物に変わって。
ゴア描写だらけのホラーばかり観ていた時は、何処かでそこに過去を重ねていたのでしょう。
あの事は、私達だけの秘密です。
ジュンには悪いけれど、墓場まで持って行くって決めましたから。
「青葉、次の作戦について話がある。」
「あ、はい。どうしましたか?」
「今度うちでこのマップの所を叩く事になったんだけど、偵察隊の情報によると、ここは戦艦棲姫が出るらしい。
よって編成は高レベル組で揃える。青葉もそこに参加して欲しいんだ。」
「勿論です!青葉にお任せですよ!」
確かに危険な相手ですが、姫級とあれば出ない理由はありません。
倒せば倒しただけ、終戦が近付きますからね!
目の前のジュンの事、自分や仲間の事。
そこに、ガサの事も加わりました。
ガサの因縁には一応のケリがついたのかもしれません。
でも本当にあの子が自分の人生を歩む為には、やっぱりこの戦争そのものを終わらせる事が不可欠で。
ガサの今の本名である『マユ』は、事件の後に自分で付けた名前だそうです。
「いつか繭から孵って羽ばたけますようにと言う願いを込めた」って、そう言ってました。
だったら尚の事、私も頑張らないと。
そこはもう、無二の親友ですからね!
「ふむ、しかし気になるな…。」
「どうしたんですか?」
「戦艦棲姫は青葉も何度か戦った事があるだろう?艤装に覚えはないか?」
「ありますねぇ…自律型で気持ち悪いんですよねぇ。」
「そうなんだよ、あの艤装は曲者だ。
しかし今度狙う戦艦棲姫の艤装は、他と少し違うらしい。」
「違いですか?」
「通常は両腕が生身だが…偵察の結果、艤装の右腕も機械化されているようだ。
そこに何か兵器が仕込まれている可能性もある、出来るだけ早くそこを潰して欲しい。」
「機械化済みですか…また厄介そうですねぇ。」
次の作戦は、何やら特殊な敵がいるようです。
一体その腕に何があるのか、この時心してかからねばと思ったものでした。
その腕の秘密は、実際の戦闘で明らかになりました。
いえ…正確には機械でない腕にこそ、秘密があったのです。
今回はここまで。
「………随分、オ気ニ入リノヨウデスネ。」
「エエ、トテモイイワ。コノ子ガ一番ヨ。」
とある海域にて、戦艦棲姫はそう自慢気に艤装に視線を送った。
それは彼女の首から繋がるチューブによって制御されているが、尚も艤装は息を荒げ、涎を垂らしている。
「ぐる…ギッ……ギがあアアアアアっッ!!!」
「………!!」
咆哮を上げ、艤装は戦艦棲姫へと襲い掛かる。
だが、彼女が手を翳し何かを放つと共に、堰を切ったように艤装はその首を垂れた。
しかし尚も、艤装は荒い呼吸を吐き続けている。
「……ヤハリ、危険デハナイノデスカ?ソレダケ“残ッテシマッテイル”モノナド…。」
「フフ……ヨク言ウデショウ?“手ノ掛カル子ホド可愛イ”ッテ…コノ子ハソノ分、トッテモ強イノヨ。」
そう頭部に体を寄せ、彼女は愛おし気にその頬を舐めた。
荒い呼吸を続ける艤装は、指一つさえ動かさず。
しかし、か細くとある声を漏らしていた。
「………ハな、セ……離、せ……。」
ある日の事です。
次の作戦でのシミュレーションもあり、少し久しぶりに出向く方での演習がありました。
それで相手は…スケジュールが空いていたのは、扶桑さん達のいるあの鎮守府でした。
久しぶりに二人と会うけど…特に山城さんとは、やっぱり気まずいかな。
でも、『あの人』に報告しなきゃいけない事もあるしね。
……ジュン、今は『あの人』の事をどう思ってるんだろ。
ううん、だめだめ!今はそんな事気にしちゃ。
そんな事を考えつつ集会所で待機していると、赤いスカートが目に入りました。
「久しぶりね、青葉ちゃん。今日はよろしく。」
「山城さん…。」
久々に見た彼女は、何だかすっきりした顔をしていて。
それが逆に、青葉の胸にズキリとしたものを与えたのでした。
「……その、あの時はすみませんでした。あんな事言って…。」
「ふふ、あの時も言ったでしょ?ありがとうって。アレで大分吹っ切れたわ。
…まあ、ちょーっとキツかったけどね。」
「うう…。」
「なんてね。じゃあ後でジュースおごってよ。それでチャラ。
それからはもうあんたも気にしない事。」
「はい…ありがとうございます。」
「そこはありがとうでしょ?同い年じゃない。あ!連絡先教えてよ!」
「…うん!ありがとう山城ちゃん!」
それからしばらくは、山城ちゃんと色々な話をしていたものです。
前みたいなギスギスした空気も無く、タメ口をきき合って。
この時ようやく、私達は友達になれた気がしました。
「……で、ジュンさんとはどうなのかしら?」
「仲良くやれてるよ!一時期は本当危なっかしかったけどねぇ。」
「ふふ、それはあんたが頑張ったからよ。
さっき廊下で挨拶したけど、雰囲気前より戻ってたしね。」
「………うん。」
それを聞いて、素直に嬉しいなって思いました。
山城ちゃんが彼を殴らなかった事も、当時を知る彼女から見ても良い状態に見えるようになった事も。
…少しずつでも、前に進めてるんだ。
「ふふ…随分仲良くなっちゃって。嬉しいわ。」
その時、その声と共に覚えのある匂いを嗅ぎました。
それは今回一番会いたくて…ある意味、一番会いたくなかった人。
「……お久しぶりです。」
「ええ、久しぶりね。青葉ちゃん。」
そこにいたのは、扶桑さんでした。
演習後は宿の門限さえ守れば、ある程度自由行動が出来ます。
交流を深める意味でも、他鎮守府の艦娘同士で食事に行く事は、珍しい事でも無くて。
そして青葉は今、この街の個室居酒屋に来ていました。
それは、扶桑さんに誘われる形で。
「「乾杯。」」
ふぅ、演習明けの一杯は沁みますねぇ…。
でもまさか、この人とこうしてお酒を飲むとは思いませんでしたよ。
「その後はどうかしら?言わずもがなだと思うけど。」
「…ええ、お陰様で。彼とは…ジュンとは良いお付き合いをさせて頂いています。
その節は本当にありがとうございました。」
「そう…ふふ、本当に良かったわ。
昼に実際に顔を見たけど、良い顔になってたもの。」
「はい、約束でしたからね。」
あの日扶桑さんに宣言したし、実際ジュンは大分立ち直ってくれましたけど。
それでもこの人にその後を伝えるのは、傷付けてしまわないかって怖かった部分もあったんです。
それだけこの人は、ジュンの事を想っていた。
自分が同じ立場なら何を感じるだろう?って、ふとよぎる時はやっぱりありましたからね。
…前より強くこんな考えを抱くようになったのは、山城ちゃんの件がきっかけでしたけど。
「……私の事、気にしてるのかしら?」
「……!!はい、そうじゃないと言えば嘘になりますかね…。」
「あなたの気にする事じゃないわ。私は昔の女だもの。
私はね、彼の幸せをあなたに託したの。だから上手く行ってる事が一番嬉しいのよ。
…これからも、ジュンの事をよろしくね。」
「……はい!」
そう微笑んでくれた時は、心底良かったと思いましたよ。
ずっと心に引っかかっていた事が溶けたみたいで。
それからは寮に戻るまで、扶桑さんと今までしなかったような話をしていました。
個人個人のお酒の趣味から始まって、好きなファッションや音楽に、ジュンの面白いエピソードまで。
へー、なるほど、そう言うのに弱いかぁ…今度ケンカしたら使ってやろ!
そんなしょうもない事を考えてみたりして、さっきまでのシリアスな空気は頭の隅へ追いやられていたのです。
それはいつもの仲間達とは趣の違う、楽しいお酒でした。
歳の離れた先輩とサシで飲むなんて、まだ飲めるようになったばかりの青葉には無かった事でしたから。
でも本当、身も心も美人だなぁ…何年かしたら、この人みたいになりたいね。
そんな気持ちを抱いて、その日はお開きになりました。
「じゃあまたね。おやすみなさい。」
「ええ、おやすみなさい。」
宿までの慣れない帰り道で、酔った頭でこれからの事を考えてみました。
私もまだ若いしなぁ…そもそもこんなの考えるの、気が早いかなぁ…。
……うん!でもやっぱり私は、ジュンの苗字になりたいな。
そう願い事を抱きつつ、てくてくと歩いていたのでした。
青葉と別れた後。
扶桑は寮ではなく、とある場所へと向かっていた。
そこは同じ街にある、彼女と山城の実家だ。
親族は海外におり、管理の関係上週に一、二度はどちらかがここへ泊まりに来ていた。
この日青葉と出掛ける前、彼女はいつものように外泊許可を申請していた。
だがそれは、ただ実家に訪れる為だけではなく。
妹に今夜の自分を、見せたくないが故の事。
この家には、彼との思い出も多くある。
今自室で彼女が横たわるベッドも、また同じだ。
任務続きで疲れていた彼を気遣い、共に昼寝をした事もあれば。
いつか妹が修学旅行に行っていた間、ここで体を重ねた日もあった。
過ぎた幸福が、慣れたマットレスに横たわると津波のように押し寄せてくる。
それを嫌い、彼女は普段ここに泊まる時、和室に布団を出して眠っていた。
“青葉ちゃん、前より可愛くなってたわね…。”
脳裏をよぎるのは、先程まで一緒にいた、彼の現在の恋人。
きっと彼の為に頑張っているのだと、その姿を見た時扶桑は感じていた。
少し古いマットレスは、当時より彼女の体に合わせ深く沈む。
それはまるで、別の物に沈むような感覚を彼女に与え。
「………腐った気持ちに沈むのなんて、私だけで充分なのよ。」
そう呟いた後。
彼女は独り、泣いた。
今回はここまで。
ある冬の日。
男は陽も上り切らぬ内に車を走らせ、とある街へと向かっていた。
神奈川県に入り、横浜方面へとハンドルを切る。
道中で横須賀と書かれた看板が目に入った時、その懐かしい名前に彼は一抹の切なさを感じていた。
しかし今日は、そこに目的は無い。
横浜を抜け、高速から降りた先は藤沢市。
そして鎌倉へ入ると、車はとある駐車場へと停まる。
助手席に置かれた花束と線香、そして途中で買った缶コーヒーを手に、彼は車を降りた。
そこは地元の小さな寺。
彼の学生時代の友人が、現在眠る場所だ。
「久しぶりだな。
…って言っても、聞こえちゃいねえか。」
4年前のあの日以来、彼は初めてここに訪れていた。
そして今日が、初めて変わり果てた友人を目にする瞬間でもある。
彼は青葉によって感情を取り戻して以来、暇を見つけては亡き友人達の墓参りをしていた。
今日が二人目の墓参りになる。
花と線香を手向け、手を合わせる。
続けて缶コーヒーと火の付いたタバコを供えると、彼もまた、自分のタバコに火を点した。
二つの紫煙が立ち上るが、吐き捨てられた煙は一つのみ。
生きる者の溜息と、吸われる事のない煙と。
その差が空へと舞い上がっては、風にまかれて消えて行く。
「……あの後色々あってな、サクラとは別れたよ。
昔は研修先の少佐にムカついて、いつかぶっ殺す!なんて俺らも息巻いてたんだけどなぁ…気付いたら俺も少佐だ。
二階級特進したお前らよりも、上になっちまった。
あのバケモノも、随分倒したよ…ケリが着くのは時間の問題さ。
今は新しい彼女も出来たし、こっちは何とか上手くやってるよ。
その子のおかげで、やっとこうしてお前の所に来れるようになった。
なぁ……そっちは、最近どうだ?」
どれだけ近況を伝え、訊ねてみた所で返事はない。
ただ風の音と、物言わぬ墓石がそこにあるだけだった。
やがて全てを伝え終えると、男は墓石に敬礼をし、その場を去って行く。
墓の床石には、少しだけ濡れた後が残っていた。
しかしその日は、どこまでも澄んだ快晴の空。
雨が降っていたのは、誰かの瞼と胸の奥だけの事だった。
遂に作戦決行の日が来ました。
いざ出撃すると、敵は相応の強さで。
しかしこちらも高レベル隊、そう簡単にはやられません。
雑魚を倒しながら、やがて青葉達は目的の部隊へと接敵して行きました。
その部隊には偵察通り、戦艦棲姫の姿が。
やはり艤装の右手は、機械化されていました。しかし取り立てて特殊な様子は無い。
相手の旗艦は、どうやらあいつのようです。
あいつを叩き潰しさえすれば、今回の敵は壊滅する。
そう決め込み、私達は戦闘を開始したのです。
「……やった!?」
やがてこちらの返り血の量も増えた頃、私の砲撃が戦艦棲姫の腹を貫きました。
急所を抉り取り、間違いなく致命傷。
その瞬間、その場の全員が勝利を確信したのでした。
「………フフ…アナタ、“コノ子”ト匂イガ似テルワネ……。」
戦艦棲姫が、この一言を放つまでは。
「……青葉!気を抜くな!!そいつは暴走するぞ!!」
「……っ!?はい!!」
気を抜きかけた時、先輩の一声で我に返りました。
そうだ、戦艦棲姫の艤装は自律型…宿主が死んだ時、無差別に暴走するケースもある。
戦艦棲姫が死んで倒れた瞬間、一度解けた緊張が一気に戻って来ました。
沈黙か、暴走か……どっち!?
「ギ……ギガアアアアアアアアアアアア!!!!!」
暴走!全弾発射!?それとも肉弾!?
まずい!発射だ!!
「総員防御姿勢だ!!障壁全開!!来るぞ!!」
四方八方に弾が乱射され、断末魔が響き渡りました。
味方は無事…でも弱っていた敵の一部は、爆風でバラバラに吹き飛んで行くのが見えて…すぐに煙が視界を覆いました。
見えない…どうなった!?
「………マ………リ……。」
え?
その時聞こえて来たのは。
艤装のくぐもった声で囁かれた、私の本名。
やがて煙が晴れて、目の前には巨大な艤装の姿。
生身の方の腕は、私へと伸びていて…その時初めて、二の腕の内側が見えました。
そこには、卍状の傷が一つ。
“卍男、遂に逮捕。当誌記者の取材過程にて犯人判明。”
“ご遺体の右手にSDカードが。”
“私は気付いてる。人型の奴らは海に沈んだ死体を基にしてるんだって。 ”
いたいはあたまからみぎうでにかけてしかみつかっていない。
このぎそうのなまみはひだりうで。
あのひとのひだりうでにはまんじじょうのきずが。
その時、私の中で次々と記憶が蘇り。
情報が、そして激情が駆け抜けて行きました。
この不自然に屈強な腕は、無理矢理肥大化させられたものでは?
そうだ…深海棲艦が雌型だけだなんて、私はいつどこで、誰に習った?
日頃の座学でも、研修でも習った事は無い。
日々戦う内に、勝手に私の中で生まれた常識だ。
一体何コンマ、何秒の間のことなのか。もう分かりませんでした。
ただ、この直後。そんな永遠の一瞬も、破壊されてしまうのです。
「マ……リ………コロシ、テ、クレ……。」
この言葉が、私に全ての確信を与えた事によって。
うそ、だよね……どうして、ここにいるの……?
叔父さん。
今回はここまで。
「………ほんとに…叔父さんなの?」
目の前の現実は、拒絶反応を起こす心すら容赦無くこじ開けて来ました。
折しも、ガサの母親の件からそう経っていない時期。
故に私の中で、その事実は確固たるものとして突き刺さったのです。
照準を合わせていた手が、ガタガタと震えているのが解りました。
仲間はまだ爆煙に巻かれていたり、他の敵に集中している状態。
艤装は…いや、叔父さんはその爆煙の中で、私に近付いてきていた。
「殺してくれ」と、私に助けを求めるように。
「……!?マ、り……にゲ、ろ……。
……ギガああ!?アアっ!?が!」
「叔父さん!?」
直後、頭を抱えて彼は苦しみ出しました。
それは何かを押さえ付けようとするかのような悶絶で…。
その時。
『ごっ……!!』
私の視界は拳で覆われ。
殴り飛ばされた衝撃と共に、意識が暗転したのでした。
…………風の音。ここは…海?
体が無い…意識だけだ。
でも、目が見えてる…私、死んじゃったのかな。
“19290925”
“泣きたくなるほど…ノスタルジックに……”
……今のは?
その日付が脳裏を過ぎった時、同時にあるメロディが頭を駆け抜けて行きました。
それは、天国旅行のあのメロディで。
“19421011”
その数字が瞬いた時、無いはずの頭に激痛が走って。
私のいる場所は、ストロボと連写を繰り返すかのように場面が入れ替わりました。
“サボ島沖海戦”
“ワレアオバ”
“古鷹、吹雪、叢雲轟沈”
“19430303”
“36名死亡”
“相次ぐ修理”
“ソロモンの狼”
“我曳航能力ナシ”
“熊野沈没”
場面が何度も入れ替わる。
実際に見たものじゃないのに、どれが何の事なのか、手に取るように分かる。
その明滅に晒される中、次第にある声が津波の様に押し寄せて聴こえて。
“ごめんなさい”
ごめんなさい。
ごめんなさい“ごめんなさい”ごめんなさい“ごめんなさい”ごめんなさい“ごめんなさい”ごめんなさい“ごめんなさい”ごめんなさい“ごめんなさい”ごめんなさい“ごめんなさい”ごめんなさい“ごめんなさい”ごめんなさい“ごめんなさい”ごめんなさい“ごめんなさい”ごめんなさい“ごめんなさい”ごめんなさい“ごめんなさい”ごめんなさい“ごめんなさい”ごめんなさい“ごめんなさい”ごめんなさい“ごめんなさい”ごめんなさい“ごめんなさい”
ごめんなさい。
流れ込んでくるこえが、かん情が、次だいに私のものに変わって。
わたしはだれなのか、わからなくなって。
ただいたくてかなしくてかなしくてかなしくてかなしくてかなしくてかなしくて。
あやまりたくて。
“19450319”
その時。急に青空が見えました。
星?昼間なのに、流れ星がたくさん…
“潮は満ちてく 膝から肩へ”
それが『わたし』の身体を貫いて。
痛いのに、暖かい布団にいるような気持ちで。
“苦しさを超え 喜びになる”
「アア、ヤット…眠レル……。」
歌が聴こえる。あの歌が鳴り止まない。
その中で聴こえて来た声は、『わたし』と同じような、違うような。
ただ一つ分かったのは、あの子は疲れ果てていた。
全てに、疲れ果てていた。
ぶちん。
まっくら。
まっくら。
まっくら。
きっとわたしはほんとうにしんだ。
あれ?
あおぞら?
れっしゃのまど?
あれ?おりてる?
ここはどこ?
からだがある。
あかいはな。
かぜのおと。
とりのこえ。
うみだ。
なにもない。
なにもかんじない。
もういたくない。
わたしはいない。
からだがあるのにない。
ばらばら。
とけた。
だらだら。
しあわせ。
しあわせ。
しあわせ。
“お前は、ここに来ちゃダメだ。”
ジュン?
待ってよ、置いてかないでよ!ねぇ…ねえってば!
ずっと一緒だよ!
『どんっ…』
ジュンに突き飛ばされて。
今度は、深い穴に落ちて行くように、何かに引き寄せられて。
落ちて行く中で見えていたのは、何も無い青空。
あの場所で私が私でいたのは私だけ。
感じたのは、孤独。
その時また、あの歌が聴こえました。
けしの花びら、さえずるひばり。
僕は孤独なつくしんぼう。
「…………。」
体、痛いなぁ…。
ああ、今のはほんとに一瞬の事だったんだ……皆、さっきと戦況変わってないや。
「フシュー…フシュー……。」
目の前の叔父さんは、頭を押さえて、涎を垂らしていて。
それはもう、彼が怪物にされてしまった末の姿なのだと。
ただの現実として、理解出来てしまって。
「フギ…ギッ……ギアあアああああアアあっっ!!!」
その時叔父さんが、機械の右腕を自分で引きちぎりました。
ちぎられた場所は肉まで達していて……そこから流れていたのは、真っ赤な血。
「ア……ウ……チクしョウ…イテぇナァ……。」
「…叔父さん!!」
「へへ……頭、ネえカらよ…俺は魂ダけシカ…モウ、残っテネエンだろ…。
今ナラ痛みで…ナントカ、頭の方、ヲ、押さエラレ、る……。
マリ……ヤルなら、今シカネエ、ぞ…。」
「叔父さん…一緒に帰ろ?何とか元に戻る方法探して…。」
「バカ言ってンジャねえ…!俺はモう死んだ身だ。
全部、覚えテンだ…俺が殺しタ、罪もネエ人達の事も、全部…。
ジャーナリストが、バケモンにナって…悪党トシて取材サレるなんざ…お笑いモん、だ…。
マリ…嫁は元気か?」
「……うん!おばさん、笑ってくれるようになったよ!」
「ナラ、良かッたヨ…アのカメラ、今はオ前の所か?」
「うん…今はね、私が使わせてもらってるよ。大事な写真、いっぱい撮れたんだ!」
「ヘヘ…人の笑顔、大事にしろよ。
平和な日々ガ…何よリの、すくープだ…ギッ!?
ハヤクしろ!!時間ガねえゾ!!」
「…………!!
…わかったよ。」
照準を合わせる手が、ガタガタと震えます。
走馬灯って、自分が死ぬ時じゃなくても見えるんですね。
この時私の脳裏で、叔父さんとの思い出が何度も巡っていました。
小さい頃遊んでもらった事や、初めて書いた新聞もどきを褒めてくれた事。
教えてもらったジャーナリストの基本、技術。
そして何より、心意気。
その全部を噛み締めた時、ふ、と震えが消えました。
「………叔父さん。教えてもらった事、今でも私の中で生きてるよ。
これからも、ずっとずっと私の中で生きてるから!!」
「………へへ。そりゃ嬉しいね。記者冥利に尽きるってもんだ!
お前のジャーナリズム、あの世で見守ってるぜ!」
その時。
艤装ではなく、ちゃんと何度も聞いた叔父さんの声が聞こえたんです。
頭はああなっちゃってたけど、きっと笑ってくれていた。
だから、最後に伝えようと決めたのは。
「……叔父さん、大好きだったよ。
さよなら!!」
「………ありがとよ。」
こうしてその砲撃と共に、艤装は沈黙したのです。
海面に浮かぶ血は真っ赤で。
それは怪物にされても尚、最期まで人であろうとした、彼の魂の色でした。
「叔父さん……。」
おかしいですねぇ…悲しくて、涙が止まらないのに。
何でか今、頭と胸が妙にすっとしてるんですよ。
ああ…少しだけど、敵の増援が来てるなぁ…。
皆が戦ってる敵は、どいつもこいつも、ニヤニヤヘラヘラと笑ってる。
さっき『あの世界』が見えた時、いくつかわかった事があるんですよ…。
艤装を付けてる時、ふとあの歌が流れるのは。
艤装越しに私に残った『重巡・青葉』の記憶が、私の記憶のあの歌に、何かを思い出したからで。
それと、もう一つ。
あの場所はやっぱり、天国じゃなくて…
地獄なんだ。
死んでしまった仲間も、そしてジュンも。
あの場所を、知ってしまったんだ。
目の前では戦闘が続いています。
ケタケタと汚い笑い声を上げて、奴らが味方と戦っている。
叔父さんが死んだのは、誰のせい?
あの子が死んだのは、誰のせい?
この戦争は、誰のせい?
お前達が好きに使ってるその体は、本当は誰のもの?
ジュンを……私の愛する人を地獄に突き落としたのは、誰?
あはは、そっかぁ。
答えなんて、最初から分かりきってるじゃん…誰でも分かる、普通の事だよ。
だから『私』は、ここにいるんだ。
そう、簡単な事…。
オ マ エ タ チ サ エ イ ナ ケ レ バ 。
『びいいいいいいぃん……』
ああ、背中のタービンが、唸ってる…。
『青葉』……分かってくれるんだね……。
わたしのこのいかりを。
「ふふ……あはっ…あはは……。」
ちからがみなぎる。
もう、ほかのことはかんがえられない。
みんなみんなころしてやる。
「……………うああああああああああああああああああっ!!!!!!!!」
私がこの戦闘で意識を保っていたのは、その時までの事でした。
自分の叫び声を聞いた、その瞬間まで。
後の事は、何も覚えていませんでした。
今回はここまで。
「ごめん…別れよう。これ以上は一緒にいられない。」
大好きな人だった。
だから隠し事は、したくなかった。
「私は人殺しなんだ」って。
彼の様子がおかしくなったのは、それからだった。
私のふとした仕草にぎょっとするようになって、その度ごめんって辛そうに言うの。
まだ片手で数える程度だったセックスどころか、キスですら段々なくなって…最後の1週間は、触ってもくれなくなった。
うん…何の事件かだけは、伝えたもんね。
私が具体的に何やったかなんて、ちょっとネット調べれば出てくるよ。
………怖くなるのは、おかしくなんてない。
その時はただ受け入れて、別れただけ。
でもね…後からじわじわと効いて来るんだ。
言わなきゃよかったとか、どうして受け入れてくれなかったの?とかさ。毎晩毎晩考えて、その度泣いて。
でもいつも、最後にはこう思うんだ。
「当たり前だよ、だって私は人殺しだから。」って。
もう一人殺しちゃったから、私は一生人殺しなんだ…。
気付いたら秋も終わって、冬になってた。
出所してから暮らし始めたのは、パパの地元の雪国でさ。
横須賀生まれで、その後も県内や京都にいた私にとっては別世界だった。
地元の人は気にしないような、色々な事が目に付くぐらいね。
例えば…吹雪の日は、音も声もあんまり通らないとか。
ほんとに静かなんだ、まるで『あの日』みたいに。
彼は丘の方にある住宅地に住んでた。
そこはね、元は小さい山を開発した場所で…途中の坂のゾーンには、家が無かったの。
坂は大分曲がりくねってて、その分距離があって。
人が住んでる内に、だんだん山を突っ切る感じで裏道が出来ててね。
高校生ぐらいの時ってさ、結構雪とか気にしないじゃない?だから雪の日は地元の人も通らない裏道も、彼はいつも通りに通ってた。
毎週水曜日は、彼の部活は長いの。
雪国だから、特にそれも変わる事は無くてね。
そんな水曜日。
私は吹雪の中、じっと彼が来るのを待っていた。
ちなみにそこ…麓の方は畑しか無いんだよね。
「……!!…マユ……。」
「………。」
「風邪引くぞ。早く帰れよ……。
…………え?」
叫び声、あんまり聞こえなかったなぁ。
でも最後に名前を呼んでもらえたの、嬉しかった。
だって…私が彼の最初で最後の女で、最後に名前呼んだのも私で。
それってもう、永遠って奴でしょ?
それで彼の命も、私のものになったんだから。
そう…私は一生人殺しだもん。
一人殺したら、その後100人殺そうが人殺しなのは変わんない。
ひとごろしのそばにはだれもいてくれないなら、ひとごろしはひとりぼっちなら。
そばにおいちゃえばいいんだ。ころしてでも。
「………っ!!…はぁっ、はぁっ…。」
その時ね、私…何もしてないのに……ふふ。
まるで初めて彼とした時みたいに、好きな人とひとつになったみたいで。
その1年ぐらい後かな。
違う人を好きになっちゃったのは。
その人は教育実習生で…近くのアパートに住んでるのをたまたま見かけたの。
その人ね、運動部の練習にも参加してたんだ。
それで休みの日、忘れ物したからって嘘ついて学校行って…こっそり鍵を盗んで。
また別の忘れ物した!!って、学校に戻ったの。
寒い日だったなぁ、『手袋外せなかった』よ。
その日の晩、アパートに消防車がいっぱい来てた。
近所に避難指示も出てたかな?
そのアパートのお風呂場、内開きでね。
良い角度のとこに、『蓋開けた洗剤を2種類置いた』んだよね。
結局自殺って事になったよ。
でもね、提督はちょっと違うんだ。
恋愛感情って言うよりさ…仲間が欲しいなって。
わたしのきもちをわかってくれる、ひとごろしのなかまが。
あの人は私とタイプ違うけど、きっと分かり合えるんじゃないかな。ずっとずっと仲間でいてほしいんだ。
まぁ……別の興味もあるしね。
青葉だけだよ…殺さなくてもずっと一緒にいてくれるって思えたのは。
私、あの子にもそう思って欲しいの。
ガサなしじゃ生きてけないってぐらい、そう思って欲しい。
あの子は元カレや叔父さんの事で、裏切られたり大切な人がいなくなったりするのに、トラウマがある。
それでちょっと…人に依存したいしされたいって願望があるな、って思ったんだ。
だから考えたの……ふふ。あの子が一生私から離れられなくなる方法を。
それはね……ほんと、提督様様だよ。
「…………。」
目を覚ますと、ベッドの中にいました。
手があったかいなぁ……ぼやけた頭でそのぬくもりの方に視線を動かすと…。
「………ジュン。」
そこには、私の愛する人がいました。
彼は何も言わず、ただ微笑んでいて。
私は少し軋む体を起こして、彼に手を伸ばして。
でもそれより先に、彼の方から私を抱きしめてくれたんです。
「…………良かった。本当に、良かった……!」
耳元で聞こえる声は、少し震えていて。
体中に伝わるぬくもりに、私も思わず涙が出て。
この瞬間の私達には、きっとそれ以上の言葉はいらなかった。
ただただ、私達はそうして生還の喜びを噛み締めていたのでした。
「…………あれからどれぐらい経ったの?」
「2日だ。その間ずっと、お前は眠ったままだったよ。」
私、そんなに…。
ぼーっとしていた目も覚めて来た頃、ようやく部屋の様子が理解出来ました。
ここは医務室で…それと、ジュンの目元に深い隈がある事に。
「ちゃんと寝てる?」
「ん?ああ、あの後少し忙しかったからな…大丈夫、毎日家に帰ってるよ。」
「……ほんとに?」
「はは…い、いや、仕事の後はずっとここに……。」
「ばか!ジュンまで倒れちゃったらダメじゃんかぁ…。
……でも、ありがとう。」
「ふふ、どういたしまして。」
「うん…!」
またぎゅっと抱き付いて、おかげで彼の服は涙でびちょびちょでしょう。
でも無理した罰だもん。もう汚れるまで抱き付いてやるんだから!
そんな私を、彼はそのままにして。
落ち着くまで、ずっと髪を撫でてくれていたのでした。
「………あの後、私結局どうやって帰って来たの?」
「…覚えてないのか?」
「うん……ある時から、記憶無いんだ。」
「………途中敵の増援はありつつ、重巡・青葉の活躍もあり敵は殲滅。
破竹の勢いで敵へと突入し、猛攻の末次々敵艦を沈めて行った…と言った所かな。」
「………本当は?」
「他の子達に担がれて戻って来た時は、血塗れだったよ。
ただ怪我自体は深くなくて、殆どが返り血だ。
………それと、戦艦棲姫の艤装の左腕を回収した。」
「………っ!!」
「検査の結果、上腕部に卍状の傷あり……いつか言っていた、君の叔父さんの特徴と合致する。
……お前が記憶を飛ばす程激昂した原因は、それだろう?」
「…………ジュン。」
私が口を開こうとした時、ジュンはおもむろに上着と軍帽を脱ぎました。
今の彼は、スラックスとインナーのTシャツだけ。
「………今からする話は、どこぞの軍人がプライベートでした噂話だ。」
その時私は、彼の意図を察したのでした。
「海軍にはこんな噂がある。
『沈んだ艦娘は深海棲艦になる。』…或いは、『沈んだ死体が深海棲艦になる。』ってな。
相手はヒトではなく、未知の怪物だ。
故に人類は生物学的観点からも、敵を学ぶ必要があった。
そこである軍と科学班が、鹵獲した敵を生体解剖した。
あらかじめ艤装を無効化し、それでも警備に数人の艦娘を配置した、大掛かりなプロジェクトだ。
ところがだ。
通常兵器が効かないとされる敵に、すんなりとメスが通った。
敵に通常兵器が効かない理由は、防御障壁を張れる事にある。
しかしその個体は、鹵獲過程で散々艦娘の攻撃を受け、艤装も無効化されていた。
障壁を張るのが不可能な程弱体化させてしまえば、ただの人並の怪物でしかないと、まずはそこで分かった。
…そこまで弱らせる事が出来るのは、結局艦娘だけだがな。
艦娘にしろ深海棲艦にしろ、科学とオカルトの複合物と呼んで差し支えない。
そこで軍では、オカルトの面でも分析すべく、高名な霊能力者も呼んでいた。
その人の能力は、写真に霊体を収める事。
本格的な解剖に移る際、被験体を注射で殺す必要がある。
その魂が離れる瞬間を収めてもらう為だ。
結果として死ぬ瞬間を収めた写真には、二つの物が写った。
一つは深海棲艦の元であろう、真っ黒に吹き出す怨念と思わしきもの。
もう一つは……ほぼ消えかけていたが、『ごく普通の霊体』だったそうだ。
研究チームに一気に緊張が走った。
次に科学班が本格的な解剖に入る。
骨格、内臓共に、表向きの構造はほぼヒトと合致した。
違いは二つ。
頭蓋骨が薄い膜状骨との二重になっていて、それが各種別で角や同じ顔を有している理由。
後は、生殖機能が飾りだって事ぐらいだ。
次に…本格的なDNA鑑定に入った。
結果は多様な海洋生物と……それとヒトのものも含まれていた。
『特に骨格からは多く』ヒトのものが出たらしい。
それを行方不明者リストに照合すると、何人か合致したって噂になっているよ。
……PT子鬼と俺達が呼んでる個体を、知っているだろう?」
「う、うん……。」
「ある国の軍が、倒した子鬼を何体か回収し、解剖とDNA鑑定をした。
丁度開戦から2年経った時期か……その国でも初襲撃の時、民間船が何隻か犠牲になっていた。
その中には遠足に出ていた小学生達が乗る船もあったらしい。
発見出来なかった遺体には、特に子供達のものが多くてね。
DNA鑑定の結果は………言わずもがなって噂だよ。」
「…………っ!?」
「……まぁ、あくまで噂話だ。だが仮にそれが真実だとするなら、こうも言える……。
殺す事が、肉体の本来の持ち主を開放する事でもあると。」
そう言うと、彼は私の手を掴んで。
暖めるように、優しく包んでくれたのでした。
それはせめてもの気遣いだったのでしょう。
……ジュンはきっと、私が何を思っているのか分かってくれるでしょうから。
「たまたまそうだっただけかもしれないけど…あの艤装は間違いなく叔父さんだったよ。
私達にしか分からない事話して、最期ね…ちゃんと叔父さんの声で話してくれたんだ。
とどめを刺した時、返り血があったかくて…こうして起きた今も、ありありと思い出せるの。
“殺してくれ”って…叔父さん、自分の腕ちぎってまで自我を保とうとして……。
ジュン…これで良かったのかな…?」
「……お前は求められた助けに、応えただけだ。
今は泣けよ。でも悔やむな。悔やめば本当に叔父さんが浮かばれない。」
「うん……う……ひっ……。」
「……大丈夫だ、俺しか聞いてない。胸ならいくらでも貸してやるよ。
泣けるなら、まだ大丈夫だから。」
「うん……ありがとう……。」
その夜、私は彼の胸で子供のように泣きました。
明け方私が泣き止んで眠るまで、彼はずっとそばにいてくれたんです。
固く固く、手を繋いだままで。
今回はここまで。
普通の生活に戻る許可が出たのは、翌日でした。
でも旗艦への命令違反と言う形で、ジュンから3日間の出撃停止を言い渡されたのです。
私を休ませる為の、便宜上の処分みたいですけどね。
一緒に出撃した仲間たちからも、「休ませてあげた方がいい」と打診があったとの事でした。
そんなに心配されるって…私、あの時一体……。
そうやって思い出そうとすると、こめかみに痛みが走りました。
……?
この匂いって…。
ふと感じたある匂いも、どうやら気のせいのようで。
自室のベッドに横になってみると、気疲れなのかどんどん眠気が押し寄せて来ました。
眠いなぁ……
……………。
“戦艦棲姫だ!”
“青葉!今だ撃て!”
せんかんせいきをころした。
ぎそうがぼうそうした。
それもころした。
からだにおおきなあながあいた。
かえりちが、あったかい。てつのにおい。
“青葉!よくやった!”
血まみれのそれを見る。
“マ……リ………。”
そこにはぐずぐずにくずれたおじさんがいた。
「…………!!」
悪い夢を見たけど、叫び声すら上げられませんでした。
心臓が痛いぐらいばくばくしていて、冬なのに汗まみれで。
頭から水を掛けるような静寂で、ようやくそこが自室だと理解出来たのでした。
目覚めてしまえば、そこはひとりぼっちの部屋。
ゆうべはジュンがいてくれたけど、一人になった今、ようやく込み上げて来るものを生々しく感じていたのです。
ふと鼻の奥に、血の匂いを感じました。
じっとりとした寝汗はまだ暖かくて、それはまるで……そう思った瞬間、心臓に鉄を針を刺されたような嫌な感覚が走って。
ガタガタと震える手で、私は必死に目からこぼれて来るものを押さえていました。
そうだよ…私は……この手で叔父さんを……。
血が…たくさん……。
その時また、こめかみに痛みが。
それに思わず目をしかめると…ある光景が広がって。
ミンチになるまで主砲を撃って。
片手で首を引きちぎって。
命乞いをする敵に魚雷を放って。
返り血と血煙の光景。思い出す頬の感触は……。
あのときわたしは、わらっていた。
気付いたら私は、ジュンの家の前に立っていました。
今は雨降り。寮を出た記憶もおぼろげで、足元は裸足のまま。
「…明日は俺も休みだ。しばらくここにいるといい。」
そんなひどい姿の私を見ても、彼はそう微笑んで家へと招いてくれました。
冷えた体を暖めるよう、お風呂を勧められました。
私はそう言われて、一緒に入ってと懇願したのです。
……今は血のぬくもりを思い出しそうで、とても怖かったから。
初めはシャワーの感覚にゾッとしそうになったけど、髪を洗ってくれる手が、それを溶かしていく。
その後二人で湯船に浸かりながら、私はずっと彼の胸にもたれていました。
人肌は血に近い温度でも、あの冷たい感じは全くなくて。
そのぬくもりに溺れている時、ようやく怖さを忘れる事が出来ました。
同じベッドに入ると、私は彼に近付いて…手首の傷が残る左手を掴んで。
くちびると舌を傷に這わせれば、脈拍の振動が伝わって。
ただ彼の命が今もある事。それが嬉しくて。
「ジュン……おねがい、して?」
縋り付くように腕を絡めて、私はそう囁いたのでした。
行為の最中に歯や爪を立てるのは、私なりの独占欲の表れでした。
でも、私が与えた痛みや傷が彼の感情を呼び戻したのは…今はもう、ふたりの中では確かな事でしたから。
噛み付いた血の味だけは、あんな事が起きた今でも怖くない。
爪の間に食い込む肌も、ぬるりとした血の感触も、何もかも愛おしくて。
命を確かめ合うような、そんな瞬間でした。
それはかけがえの無いもの。
わたしだけのもの。
でも……わたしだってほしい。
その時私の中に瞬いた欲望は、とある恐怖の裏返しだったのかもしれません。
「ジュン……背中、引っ掻いて…血が出たっていいよ。
私をジュンだけのものにして…。」
肌に走る痛みさえ、とても甘いものに思えました。
背中を滴るのは、私の命。
指先や舌に残るのは、彼の命の感触。
血と血が混じり合うような痛みは、ここにふたりが生きている事を教えてくれる。
もう一生、私からこの人の跡は消えない。
それは今夜芽生えた『あるお願い』を、彼に伝える為の傷。
「…ふふ。傷、残っちゃったね。」
「…大丈夫か?」
「うん!これでずーっと、ジュンと一緒だもん!
………ねえ、お願いがあるの。」
「………何だ?」
「もしね、私が沈んで深海棲艦になっちゃったら…鹵獲して欲しいの。
それで弱らせるだけ弱らせて…もう何も出来なくして……。」
くらいくらいよくぼうに、どこまでもおちていく。
きっとかなしくさせてしまう。
それでもいわずにはいられない。
「………その時はジュンの手で、私を殺して。
ずっとずっと、私の事を覚えてて。」
不安や恐怖に駆られた人間は、自分の事しか考えられないのかもしれません。
もしくは……私がクズなだけなのでしょう。
この時私は精一杯の笑顔で、痛々しいお願いを囁いたのでした。
「……ばーか。そんな日が来てたまるかよ、俺が絶対沈ませねえからな。
そうだな…もしそんな事があったら……。」
子供みたいにはにかんで、私を小突いてみたりして。
そんな優しい笑みで彼は…
「その時は、俺も死ぬ。」
一縷の迷いもなく、そう言い切ったのです。
「…………ばか。」
「至って真面目だよ。」
「うん……ごめんね、変な事言って。」
ぎゅっと抱き付けば、胸の奥は暖かくて。
もう誰にも渡したくないぐらい、それは大切なもので。
そんな未来が来ないよう、生きようと私は決めたのでした。
血の匂いも返り血のぬくもりも、忘れる事は出来ないけれど。
人の笑顔が何よりのスクープだと遺してくれた叔父さんの為にも、私も笑って生きて、そばにいるジュンを笑わせて行きたいって。そう思えたんです。
「ジュン……生きよ。」
「……当たり前だ。」
それ以上の言葉は、この夜には要りませんでした。
ただ抱き合って、心臓の音を感じて。
この時私は悪夢どころか夢も見ないような深い眠りに、ようやく辿り着けたのでした。
ふと目を覚ますと、彼はテーブルに置いたタバコと錠菓へと手を伸ばした。
きついミントの錠菓を噛み砕き、メンソールの煙を深く吸い込む。
その時少し上下していた彼の肩は、崩れるように落ち着きを取り戻していた。
ベッドへと戻り彼女の髪を優しく撫ぜ、彼はその体を抱き締めた。
髪の香りに混ざる彼女の匂いとぬくもりに、彼はようやく安堵を感じている。
“人殺し………か。分かってんだよ、そんな事は。”
先程見た悪夢の中で、彼へと吐き捨てられた言葉が何度となく蘇る。
彼女の髪を撫ぜ、彼は誰に聞かせるでもなく、ぽつりとある言葉をこぼした。
「…それでもお前だけは、絶対に守るからな。」
この翌年、人類は勝利を迎える事となる。
だが、青葉にとって。
それ以上に彼にとって忘れる事の出来ない戦いは、その前にこそ訪れる事を。
この時のふたりは、まだ知らずにいるのであった。
今回はここまで。
いつかのとある春の日。
小川沿いに続く桜並木を、一人の女が歩いていた。
ひらひらと舞う花びらは、彼女の黒髪をより色濃く映えさせる。
しかし春風の音は、イヤホンに阻まれ彼女の耳には届かない。
だが、桜吹雪の中、彼女の中には違う風音は響いていた。
いつかこの小道を歩いていた頃の風が。
“……あの時は確か、もう葉桜だったわね。”
甦るのは、まだ彼と付き合い始める前の、デートとも言い難いような散歩の記憶。
葉桜ではあれど、その頃も今日のように花びらは舞っていた。
違うのは、その頃はふたりでいたと言う事。
『話したい事…山のようにあったけど……もうどうでもいい…今は君に…』
イヤホンから流れる歌声に合わせ、ぽつぽつと唇が揺れる。
この道のあと3つ角を曲がれば、今は毎週通うだけの実家へと辿り着く。
ああ、別れたあの日もこの道を通っていた。
それをふと思い出し、歌をなぞるだけだった唇が、不意に小さな声を発した。
「花吹雪…風の中…君と別れた道……」
気付いた頃にはもう、彼女は玄関の前に立っていた。
今日は妹は出撃でおらず、ここにやってきたのは彼女のみ。
それでも毎週通う慣れ親しんだ我が家ではあるが、一人の時にこそ甦るものがあった。
自室の引き出しを開けると、そこには大量の血の付いたハンカチが一枚。
あの公園での件で、当時手当てをしようと使ったもの。
彼の命が、おびただしく染み付いたもの。
「ジュン……。」
何故今もそのハンカチを持っているのかは、彼女にしか分からない。
ただ一つ確かなのは。
それだけが彼女にとっては、明確な彼の跡という事だけだった。
あの件から一月以上経ちました。
年も明けましたし、もうお正月ムードもとっくに過去のもの。
その間も色々ありましたねぇ…まずは事情があって、みんなより少し遅くお正月休みをもらっていました。
警察の事情聴取に行く為、正月明けにこそ地元にいる必要があったからです。
当時の事や人となりについて根掘り葉掘り訊かれましたけど、あの時みたいに体調を崩す事は無くて。
事件そのものについては色々と思う所はありましたが、それ以上の事は感じませんでした。
やっと過去に出来たんだなとも思いましたね。
あと…改めて叔父さんのお墓参りに行きました。
緘口令との交換条件ですが、青葉のDNAを提供して…鑑定の結果は、やっぱり叔父さんのもので間違いなかったそうです。
あの腕は研究所に送られちゃいましたけど、あの人はやっと本当の意味で眠れましたから。
今度こそ安らかにいられますようにって、そう思いながら手を合わせたものでした。
一見いつもの日常に戻ったようですが、ちょっとした変化もありました。
和解した頃から山城ちゃんとはよく連絡を取っていて、気付けば演習でどちらかが出向くとご飯を食べに行く仲に。
そこまで他所の鎮守府の子と仲良くなれたのは初めてでしたし、他所の面白い話を聞けるのはこう…記者魂がふつふつとしたり。
そっちは私が担当してる季刊誌には、書けない事ばっかりですけどね。
それで明日はお休みな訳なんですが…なんと、山城ちゃんがプライベートで遊びに来ます!
こっちにあるアウトレットモールに来てみたいとの事で、青葉は道案内です。
なので今日は早めに寝る準備をして、いざ布団に潜ろうとした時の事でした。
「青葉ー…って、あれ?もう寝るの?」
「んー、山城ちゃん知ってる?明日あの子と遊び行くからさ。」
「あー、あの鎮守府の?ドラマ録っといたけど、また今度でいい?」
「そだねぇ、次の夜戦前にでも…ごめんね。」
「了解!じゃあおやすみー。」
ガサの誘いを断って、私はそのまま寝に入るとしました。
あそこのワッフル気になるんだよねぇ…チョコソース掛かってて………むにゃ……すう…
“あのメンヘラそうな奴かぁ………邪魔しやがって…痛っ!?
いっけな…また爪噛んじゃった。”
「おはよー!」
「ええ、おはよう…。」
朝、駅に向かってみると、何やら青い顔をした山城ちゃんが。どうしたんだろ?
「大丈夫?」
「さっき線路に財布落としちゃって……ふ、不幸だわ…。」
「中身は無事だったの?」
「そこは幸いね…。」
「まぁまぁ、じゃ、気を取り直して行こっか!」
あはは…や、山城ちゃんらしいなぁ…。
私鉄に乗り換えてモールに向かう途中、私達はとりとめもない話をしていました。
そんな中で、私はぽつりとある事を訊いてみたのです。
「そう言えばさ、今日どうしてこっちまで来たの?」
「え?う、うーん、買い物と……その、それと青葉ちゃんに相談したい事が…。」
……ははーん。これはこれは、面白そうな匂いがしますねぇ。
ちょっとばかり頬を赤らめる様は、間違いなくそうでしょう。
「ふふ……好きな人、できた?」
「……!!……うん、まあそんな所ね…。」
そう突っ込んだら、あの子は幸せそうに微笑みました。
ふふ…良い顔するようになったなぁ。
「なるほどねぇ、資材課さんかぁ…。」
「そうなのよ…休みの日にたまたま街で会って、そこから段々話すようになったんだけど…。」
「ふむふむ、進展出来るほどは、なかなかがっつり話せてない…と。」
モールでお茶をしつつ出て来たのは、そんな話でした。
艦娘と資材課さん達じゃ、確かに偶然を装って会うのも限界があるかも。普段いる場所が、全然違いますからねぇ。
唯一しっかり被るのは朝夕の食事時のようですが、資材課の人達で固まって食事をしてる事が多くて、なかなか話しかけにくいんだとか。
「いつも短い世間話しか出来ないのよ…連絡先聞くまでに至れなくてね。」
「あんまりお仕事の邪魔も出来ないもんねぇ……アピールする時間がなかなか取れないと。」
「そう。こっちの提督は察してくれてて、資材課に渡す書類だけはいつも預けてくれるんだけど…それでも手短にしないとで。」
「うーん…あ!じゃあこうしよっか!」
「何?」
「発想を逆転させよ。短時間で詰めるなら、効率重視だよ!
差し入れにメッセージとラインのID添えて、モロにアプローチ!こうなれば短期決戦だって!」
「……な、なるほど…確かに今の状況だと、じっくりとは行けないものね。」
「ここで差し入れってのがキモだよ!手作り弁当とかまで行くと重いからだめ。
あくまで売店のお菓子とかにして、それとなーくビニールにメモ入れてさ。」
「うん…確かにそうね……わかった、やってみるわ。」
「その意気その意気!」
良かったなぁ…今日ここに来た目的も、きっとその人に見せる服を買う為なのでしょう。
恋する女の子はかわいいですねえ。写真撮っちゃいたいぐらい眼福ですよ。
知り合った頃はギスギスした関係でしたし、私も本当にひどい事をしましたけど。
今こうして仲良くなれたのは、やっぱり嬉しいものです。
この子にとっては、やっとジュンの事は過去になったのでしょうけど…大好きなお姉さんの恋人に横恋慕をした事は、きっとこの子自身にとっても、自責の念に駆られる過去だったのでしょう。
彼や戦争を憎まないと持たないぐらい、すり減ってしまっていたのだと思います。
だからなおさら今側にいる私が、彼を幸せにしないといけないって。改めて思いましたね。
新しい友達が、ちゃんと新しい幸せを掴めるように手伝いもして。
それがこの子への、せめてもの償いかなって。
……扶桑さんにも、何かいい事があるといいな。
「あ。青葉ちゃん、せっかくだから写真撮りましょ。
“お姉ちゃん”が元気にしてるか気にしてたわよ?」
「あ…うん!じゃあ撮ろっか!」
自然に出て来たお姉ちゃんと言う言葉は、それだけこの時素を出してくれたって思えて。
そのおかげか私達は、随分と楽しそうにカメラに映っていました。
本名も教えてもらったけど…今は艦娘同士なせいか、やっぱり自然と艦名で呼び合っちゃって。
ジュンとの事だけじゃなく、いつか今の仲間達と自然と本名を呼んで遊べるような。
そんな日々が訪れるよう頑張ろうって、この時また決めました。
「今日はありがとう。青葉ちゃん、またね!」
「うん!気をつけてねー。」
山城ちゃんを見送って駅を出ると、ちょうど見慣れた車が駅前に停まっていました。
迎えに行くって言ってくれてたもんね…ん?あれ、珍しい組み合わせだ。
「ガサじゃん、どうしたの?」
「ふふー、提督が出るとこに鉢合わせたんだ!じゃあ一緒に行きますってね!」
「そう言う事さ。さて、寒いし帰るか。」
「迎えありがとね、ジュン……じゃなかった司令官!!コンビニ寄ってもらってもいいですか!?」
「ふふふ…上官をうっかり呼び捨てする関係……衣笠、見ちゃいました!」
「もう!怒るよー?」
「あはは。まぁまぁ、衣笠の前ぐらいならいいだろ。」
後部座席から私をからかって、ガサは楽しそうに笑っていました。
彼もまた、それを見て微笑んでいて。
二人とも辛すぎる過去を背負ってるけど、今はこうして笑えてる。
まだ戦いに生きる私達だけど、一たび陸に戻ればこんな風に笑い合える恋人がいて、仲間がいて。
これが当たり前になるように生きなきゃ。どこにでもあるこんな日々を、守って行かなきゃね。
そんな事を思った、冬の日の夕暮れの事でした。
それから更に、2週間が過ぎた日の夜。
眠ろうとした時、山城ちゃんから通知が来ていました。
進展してるって聞いてたけど……電話?どうしたんだろ?
え!まさか振られたとかじゃ!?
「もしもし?」
『…………青葉ちゃん…。』
元気が無い。まさかあんなに上手くいってそうだったのに……。
でもそれは、見当違いだったと直後に分かったのです。
『姉様が………お姉ちゃんが、行方不明になったの………。』
予想だにしない、最悪の事態を以って。
今回はここまで。
電話で山城ちゃんを落ち着かせた後、私はすぐに制服に着替えました。
向かうのは、執務室。
きっと今この状況なら、ジュンの所にも…!
「司令官!」
この呼び名を彼に使うのは、艦娘・青葉として行動する時です。
終業時刻は過ぎていますが、彼も制服を着てそこに座っていました。
「……聞いたか?」
「ええ、山城ちゃんから。状況は?」
「こちらにもさっき応援要請があった。戦艦・扶桑は本日1740、帰投中艦隊よりはぐれ消息不明。
当鎮守府、××基地、__鎮守府合同にてこれより捜索作戦を発令する。青葉、招集を掛けてくれ。」
「はい!」
すぐさま動ける人が集められ、捜索へと出向いて行きました。
艦娘の戦死時、遺体の回収は厳命されています。
昔は遺族への配慮と思っていましたが…今なら、その理由も分かる。
一瞬過った想像に首を振って、私はそれを?き消ししていました。
潜水艦の子達を主とした捜索隊は、夜の海を探していました。
最後に反応が途切れたのはその辺り…ですが夜の海は暗く、照明を装備した艦娘達が次々増援に向かっていて。
司令官と青葉は、モニター越しにその様子を見守っていました。
『ゴーヤ、そっちはどうだ?』
「生体反応ナシ。この近辺で撃沈されたなら、敵の魚雷片があるはずでち。今の所は…」
『イムヤ、そっちは?』
「何も無いね……待って!衣笠さん、照明上げて!上の方に何か浮いてる……よし!掴んだ!」
イムヤちゃんが補助艦に引き上げたのは、何かの布のようでした。
それは白いもので…カメラによく映るよう近付けられた時、私達はその正体に気付きました。
「嫌……そんな……。」
それは…少し焦げた、桜の染め模様で。
「………__中佐、直前の戦闘の首尾はどうでしたか?」
『戦闘そのものには勝利。扶桑についても被弾なしとの報告を受けている。
……だからそれは…消息を断つ際、何者かに攻撃を受け破れたものと見て間違いないだろう。』
『お姉、ちゃん……。』
『山城!?すまない、急病人が出た。少し通信を切る。』
通信越しに聞こえたのは、かすかに囁いた声と、人が倒れる音。
山城ちゃん……!!
「司令官!青葉も行きます!」
「わかった。艤装の手配は整備に伝える、みんなを頼んだぞ。」
「はい!!」
そう執務室を飛び出して、すぐの事でした。
「………クソッタレがぁ!!」
初めて聞いたジュンの怒鳴り声と、机を殴る音。
それがより、この事態の深刻さを感じさせたのです。
……何も思わないわけ、ないよね。絶対に見付けてやるんだ!
ですが……その日の捜索では、結局それ以上のものを見つける事は出来ませんでした。
1週間が過ぎました。
今も捜索が続いていますが、一向に扶桑さんは見つからないまま。
最初の2~3日は時折山城ちゃんに電話を掛けて、慰めていました。ですがそれも、今は出来なくなって。
徹夜の捜索に参加し続けた末、山城ちゃんは入院してしまったのです。
鎮守府に戻っても、情報面で捜索の手伝いをずっとしてたみたいで…艤装を外している時の疲労は、入渠じゃ回復できません。
過労とストレスにより、遂に倒れてしまったそうです。
ジュンもまた、心なしか疲れが見えていました。
いつも通り振舞ってるけど、私はあの時の物音も聞いてましたから。
捜索隊が集めた情報を見る肩は、どこか沈んでいるかのようで。
……青葉、じっとしてられないな。
「……少し、休んだらどうですか?最近あんまり寝てませんよね?」
「そうだな…少し疲れたかもしれない。」
彼を後ろ抱きしてみると、胸にかかる重さはいつもより深くて。
もう夜かぁ…気付けば捜索も任務も終わって、終業時刻となっていました。
「……時間だよ。少し横になろ?」
口調をプライベートに戻して、私は執務室に鍵を掛けました。
ここでこうしてジュンを膝に寝かせたのは、確か付き合い始める前でしたね。
髪を撫でてあげると、ふう、とより深い溜息が聞こえてきました。
「………久々だな、この感じ。」
「そうだね…。」
あの歌がここに流れなくなったのは、いつからだったろう?
実は私もあの場所を見てしまった事は、今でも話せないままでした。
……今話せば、きっとこの人は余計落ち込んじゃう。
あの日私が帰投した時の事は、ガサが教えてくれました。
誰よりも先に母港に駆け付けて、私をドッグに運んでくれた事。
医務室に入った後も、暇を見ては着替えや下の世話まで見てくれていた事。
それでも顔色一つ変えず、皆の前ではいつも通り振舞っていた事。
皆に余計な心配を掛けたくなかったんじゃないかって、ガサは言ってましたね。
それだけ本来は、優しい人ですから。
だからこそ……彼が扶桑さんに感じるものは、私以上に重いはずで。
「………扶桑さん、どこにいるんだろ。」
「どこかにいるさ、きっと生きてる。」
「そうだよね…私も約束したもん。
そう言えばさ、新人の時に扶桑さんにこうしてもらってたって言ってたよね?」
「そうだったな……あの時は立てないぐらい潰されてな。
起きたらあいつの膝の上で、おしぼり顔に当ててくれてた。
“あら?起きましたか?”って微笑んだ時の顔は、よく覚えてる。
その後すぐお礼言いに行ったんだけど…今思えばその頃には、もう惚れてたのかもな。そこで連絡先聞いたよ。
まさか付き合えるとは思ってなかったけど。
同期で知ってる奴はいなくて、おまけに知らない街だ。
最初は正直不安だったけど…あいつがそばにいてくれたお陰で、あそこでも上手くやっていけたんだと思う。
キツい訓練の後も、ヘマして上官に絞られた時も、あいつと会えば全部ふっ飛んでたよ。」
「そっか……ほんとに扶桑さんのお陰だったんだね。
ふふー、でもその頃は手が早かったんだねぇ。私の時、散々ぐいぐい行ってやっとだったのに。」
「…あー…確かに今まではお前以外、皆俺から口説いてたな。」
「へー…初耳だねぇ。何人?」
「待て、目ぇ怖いって。」
「ふふ、冗談だよーだ。
……扶桑さんとは、ほんとに仲よかったんだねぇ。」
「……今だからこそ言えるが、結婚を意識する時もあった。
でもあの件があって、俺もああなっちまってな。
あの時俺はブッ壊れちまってたけど、振られた時は妙に納得が行ったんだ。
感情が戻って思い返した時、こう思った。
俺はあれだけそばにいてくれて、親身になってくれた相手を追い詰めた、死にたがりの馬鹿だったってな。
同時に…それでもそばにいて欲しかったとも、あの時感じてたんだって。
だが全ては、もう過ぎ去った事だ。
俺が俺を取り戻した時も、恋愛感情は消えたままだったよ。
4年前のあの日に、全部受け入れちまったんだと思う。
あの頃の俺では、当然の結末だったって。
あいつの幸せを思うなら振り切れって、死んだ心でも思ったのかもな。
講習に行った時な…復縁を迫られた。
びっくりしたもんさ、まだ俺を引きずってたのかって。
だが『今の俺』は、お前を選んだ。
だからはっきりと、戻れないって伝えたんだよ。
身勝手な話だけどよ…それでもあいつには、幸せになって欲しい。
俺がお前と出会えたように、あいつも時計の針を進めて欲しいって。そう思うんだ。
…死んじまったら、元も子もねえじゃねえか。
生きててもらわねえと、未来もクソもねえよ。」
「………うん。」
撫でていた頭を抱え込んで、私はそっとジュンの目を塞ぎました。
潤んだ目を見るのは、少しつらいものがありましたから。
扶桑さん……今だけは、この人の視線は譲ります。
あなたの為にも、山城ちゃんや皆の為にも…こんな事で死んじゃダメですよ。
やがてジュンの寝息が聞こえて、少しは休めるかな?って安心して……
『ビーー!!ビーー!!』
それを裂くように、彼の携帯から警報が鳴りました。
「何!?」
「……緊急確認メールだな。」
「え、あれって……。」
緊急確認メールとは、早急に確認が必要な資料が添付されているメールです。
緊急出撃警報とは違い、あくまでこれから警戒すべき内容が記されているもの。
それは例えば…新種の深海棲艦の資料など。
そこまでメールの種類を思い出した時、何故か血の気が引いていくのを感じました。
メールを開くと映像が添付されていて、ある海が映っていました。
そこにいたのは、見た事の無い深海棲艦。
白い服に、黒い髪…艤装を取り巻く青い光は、彼岸花が生えているようで…。
カメラの映像がズームに変わって、顔へと近づいて……
「_____サクラ。」
彼が初めて、私の前であの人の本名を呼んだのは。
その時の事でした。
そこにいたのは他でもない、扶桑さんそのものだったのです。
きっと、カメラに気付いたのでしょう。
あの人は真っ白になってしまった瞳をレンズに向けて、見た事のない妖艶な笑みをして。
“ジュン、迎えに行くわ。”
そう唇が動いたのが、私には理解出来ました。
「……畜生がああああああああっ!!!!!」
その瞬間のジュンの悲痛な叫び声を、一生忘れる事は出来ないでしょう。
鼓膜をつんざく声は、私にこれが現実である事を、容赦無く突き付けていたのでした。
今回はここまで。
この鎮守府に異動してすぐの頃は、あんまり馴染めなかった。
噂って奴は、尾ひれを付けて飛んで回るもん。
どうせどっかで聞き付けられて、また避けられるんだろうって思うと、なかなかその気になれなくてね。
そこからあんまり経たない内かな、あの子がここに来たのは。
「恐縮です!初めまして衣笠先輩!重巡・青葉と申します!」
一応姉妹艦としては姉だけど、あの子も最初は先輩呼びだったっけ。
最初は事務的に対応してたけど、なかなかしつこかったのをよく覚えてる。
それでちょっとうざいなって思って、ある時言ってやったんだ。
「研修あそこだったよね?死体蹴りのマユって聞いた事ない?」って。
あの子は丁度前いたとこが研修先だったから、色々聞いてるってカマかけたの。
そしたらあの子は……。
「ああ、あなたが…そのお話は先輩から教わりました。
でも私には、そこまで怖い人とは思えません。
緊急事態だったんですよね?そんな時に加減が出来る人って、実際どれぐらいいるんでしょうか。
せっかくの姉妹艦じゃないですか、仲良くしてくださいよぉ~。」
今思えば、あの子も着任したてで不安だったんだと思う。
でも私にとっては……。
「そう?じゃあ私の事はガサでいいよ。
そうだね、一応あんたが姉だから…これから敬語は無しで!」
「……うん!よろしくね、ガサ!」
あの子を天使に思えるぐらい、あの時見せてくれた笑顔は眩しかった。
メールが届いた直後、すぐにあの鎮守府から連絡が来ました。
最終的に複数の鎮守府で夜通しそれについてのネット会議が行われ、結論が出たのは明け方になってから。
内容は、討伐に向けた合同作戦について。
交戦した部隊はまだいませんが…『彼女』はかなりの戦闘力を持つと判断され、合同で排除に当たると言う方針となりました。
上層部としては接触が無い以上、あの個体が元は扶桑さんであるとはまだ断定出来ないとの事です。
でも私には、彼女が口走った言葉が理解出来た。
怨念が、海中の亡骸を媒体として実体を成す…それが敵の正体であるならば、一つの可能性がある事に私は気付いていました。
叔父さんのように、元の魂が強く残っているケース。
或いは、怨念が逆に…。
その仮説を頭で組み立てていた時、救難信号が執務室に響きました。
ナンバーを解析すると、それは普通の漁船からで……え?届く鎮守府全部に!?
『海軍の皆様、聞こえるでしょうか?
____私は、かつて××鎮守府にて、戦艦扶桑と呼ばれていた者です。』
その声がスピーカーから響いた時。
ジュンは今まで見た事の無い、喜怒哀楽の全てを通り越した絶望の顔を見せて。
はっきりと名乗る声は、私の仮説を証明してしまいました。
取り憑いたはずの怨念が、逆に元の魂に潰される事もあるんじゃないかって。
深海棲艦の力さえ、宿主が乗っ取る形で。
それが艦娘としてのスキルを持つあの人なら、その脅威は…!
『今は乗員の皆様に“ご協力”いただいて、こうしてお話させていただいております。
ふふ、今の私はさしずめ、そちらで言う名も無き深海棲艦と言った所でしょうか。尤も…こちらには味方もいませんけれど。
早速で恐縮ですが…2日後、そちらへ攻撃をさせていただきます。
標的は__鎮守府。私の目的については、その際明らかになると思います。
今から30分後、船員の皆様には救命ボートで脱出していただきますが……その際、面白いものが見られると思います。
私からのせめてものご挨拶として受け取っていただければ幸いです。
では、当日はよろしくお願い致します。』
通信が一方的に切られ、今度はけたたましく電話が鳴り響きました。
通話を受けながら、ジュンはパソコンを立ち上げて…映し出されたのは、襲撃されたであろう漁船。
きっちり30分後、乗員さん達が救命ボートで船を去って行きました。
続いて甲板に現れたのは、あの人で…鉤爪のようになった手は、あの人が変わり果ててしまった事をより強調していて。
その手を海面に振ると、あるものが姿を現します。
それは昨日の映像で見た、ぽつぽつと青い彼岸花の生えた艤装。
そこに飛び乗って、船から少し離れて…漁船を遥かに越す高さの火柱が上がったのは、間も無くの事でした。
煙が晴れた時、漁船は跡形も無く吹き飛んでいて。
そこでカメラの映像は途絶えました。
「……ええ、こちらでも確認致しました。
元帥…彼女はここを狙うと明言しましたよね。
__そうであるならば、我々は戦うのみです。
はい…かしこまりました。目標をその個体名とし、各艦娘に伝えます。
では、他鎮守府との会議もありますので。失礼致します。
……元帥からもお墨付きが出た。
その特徴から、海軍は暫定的にあの個体を『海峡夜棲姫・壊二』と名付け、迎撃態勢に入る。」
「…はい。」
「青葉、会議の内容がまとまり次第召集を掛ける。
恐らく合同作戦となる、しばらく自室にて待機していてくれ。
___この作戦は、必ず達成する。以上だ。」
「……はい!!」
その時のジュンの目を、忘れる事は無いでしょう。
全てを振り切り、覚悟を決めた軍人の目。
例えそれがかつて愛した人であろうと、殺す事を厭わない。
私は精一杯の声で、その指示に答えました。
翌日、作戦の案がまとまりました。
扶桑さんのいた鎮守府との合同作戦となり、5段階の関門を構え迎撃する。
どこか一箇所でも足止め出来れば、そこに他戦力も集中し一網打尽を狙います。
殺意を持って攻撃してくる事は無いであろうと言うのが、ジュンとそこの司令官との共通意見でした。
多勢に無勢。個の戦力として強力ではあっても、こちらをしらみつぶしに撃沈するのは現実的では無い。
恐らくは、突破と到達を優先した攻撃をしてくるであろうと。
ジュンと扶桑さんの過去、向こうの司令官が見てきたその後の彼女。
あの時通信で届いた、扶桑さん自身の言動。
それらを照らし合わせて出た結論は…彼女の目的は国家や海軍への攻撃ではなく、ジュンの身柄そのものだと結論が出たのです。
あの鎮守府からの参加組は、その日の内にこちらへやって来ました。
その中には…退院したばかりの山城ちゃんの姿も。
でもあの子の顔は、予想とは違ったものでした。
「……山城ちゃん。」
「青葉ちゃん……私もあの映像を見たわ。
ふう…不幸ね……こうなるなんて、本当に不幸だわ。」
きつく締められた鉢巻と、綺麗に洗われた制服。
何よりこちらに向き直った時見えた顔に…。
「姉様は……お姉ちゃんは……。
____私が殺す。」
赤い瞳には、悲壮な色。
昨日のジュンと同じ目をして、あの子はそう言い放ちました。
明日私達は、あの人を殺す。
その現実は、刻一刻と迫って来ていたのです。
今回はここまで。
23時。
私達は仮眠から目覚めると、一斉に艤装を付けて持ち場につきました。
彼女が予告していたのは、明日という日付のみ。時刻については予告がありません。
そして0時きっかり、24時間体制の任務が始まったのです。
そこから数時間後、日が昇る頃。
未だに動きはありません。
偵察機、レーダー共に稼働させていますが…彼女は艦娘。恐らくは想定の範囲内でしょう。
ですから、戦いの幕開けは……!
『こちらチームA!偵察機の連携が切れました!敵襲の模様です!』
「来たか……まずはチームA、迎撃体制だ!出来るだけ足止めに集中してくれ!
チームB、Cは移動態勢を取りつつポイントにて待機!チームAより合図あり次第行動開始!」
『了解!』
遂に来た…!
偵察機経由でこちらに飛んでいた映像は、最後にあの人を映していました。
偵察機は再度撃墜される可能性がある以上、今頼りになるのは望遠カメラの映像だけ。
遠くの方で、火花が見えます。
発煙弾…!あの色は…。
「……赤の煙は突破だ。
チームA!そちらは無事か!?チームB、迎撃体制に入れ!」
『こちらチームA!ダメです!突破されました!
敵の艤装は分裂可能!総員分裂体に一時的に拘束され、目標の逃亡のち艤装も追従!!
負傷者無し!直ちにチームBの増援に向かいます!』
「分裂だと!?チームB!艤装に気を付けろ!
敵は複数いると思え!」
『了解!複縦陣に切り替えのち迎撃します!』
『分裂体3隻撃沈!ですが突破されました!』
『こちらチームC!2隻撃沈!本体は逃亡!』
次々と入るのは、分裂した艤装の撃沈と、本体突破の報告。
望遠カメラに映る映像は、次第にその人影を濃くしていました。
他に報告の中で増えた情報は、扶桑さん本体の速力は凄まじいものである事。
深海棲艦としての力でしょう、それは彼女本来の艦種ではあり得ない力。
まずい…でも、艤装の方は着々と倒されてる。
それは自らの武器を捨てるような戦法です、だとすればやはり目的は…。
『こちらチームE!応戦します!』
チームEは、肉眼で確認出来るような配置。
これを突破されたらもう…。
『……邪魔よ。』
その時、彼女の背から小さな艤装が顔を覗かせました。
最後の一匹が放った砲撃は、見た目に反して最も激しく、ちょうど艦娘同士の間を抜けて。
その軌道は、こっちに…!
『どごぉ!!』
爆発音と、建物を激しく揺さぶる振動。
それらが私達を襲う中、最後の通信が聞こえました。
『提督!目標がそちらに!逃げて!』
やはり、狙いはそうでしたか……。
未だ残る崩落音に混じり、かつかつと下駄の音が聞こえます。
あの速力なら、2階に開けた大穴にジャンプするなんて余裕でしょう。
後はここにいるであろう標的を拐えば、彼女の目的は達成。私達の完敗です。
本当に、その通りならば。
「山城ちゃん!」
「ええ、行くわよ!」
続いて響くのは、同じく砲撃の轟音。
ですがそれはですねぇ……私達の砲撃ですよ!
「…………っ!?」
あちゃー、壁吹っ飛ばしすぎちゃったかな?
でも少しはダメージ通ったみたい。少し口から血が垂れてますねぇ…。
最終関門は別だなんて、誰も言ってませんよね?
全ての可能性を起こるものとすれば、対策は仕込める。
例えばそう…突破を前提とし、司令官と護衛を別室に待機させたり……なんてね。
艦娘の艤装は実艦と違い、陸戦にも応用可能!こっちはハナからその気なんですよ!
「索敵も砲撃も雷撃も!それと司令官の護衛も!青葉にお任せですよ!
扶桑さん…あなたの思い通りにはさせません!」
このぼろぼろになった執務室こそが、最後の関門。
決戦の火蓋は、意外にも海ですらないここで切って落とされたのでした。
今回はここまで。
「………。」
彼女が黙ってこちらを睨み付ける中、ここに響くのは砲撃の残響だけ。
膠着した空気の中、照準だけがガタガタと震えていました。
この目で確かめるまでは、どこかで信じたくないと思っていた。
それはきっと、山城ちゃんも同じで。
でも目の前にいるのは…他でもないあの人。
「……分かるわ。ジュン、そこにいるのでしょう?」
「ここには私達だけです。扶桑さん…大人しく投降してください!」
「……ふぅん、じゃああなた達はどこで指示を仰いでいたのかしら?
そうね、映像はタブレットで受信、指示は無線で……それをWi-Fi経由で地下から…なんて事も出来るわね。
でも…匂うのよ。
そ こ か ら 。」
え…速…!?
状況を理解するより先に、壁に磔になっていました。
扶桑さんの鋭い手によって、押さえ付けられる形で。
「海上だけが速いなんて思わない事ね…今の私は、生身もあなた達の知るそれでは無い…。
間近で見ると本当に可愛いわね…“赤ベースのメイク”なんてどうかしら?
ラインもシャドウもあるわ…あなたの肌を裂けば幾らでも。」
「ふふ…私を殺せば、彼の居場所は分からなくなりますよ?」
「一つ勘違いをしているようね…うふふ、ジュン以外にも私の目的はあるの。
青葉ちゃん、あなたの命よ。」
ぞくりとしたものが私を射抜いたのは、白い瞳と目が合った瞬間の事。
この人は、私を殺すつもりだ…!
爪が私の喉に近付いて、うっすらとした痛みが肌を這って。
でもあの瞳を前に、動く事もままならなくなった時。
『どごぉ!!』
「その子を離しなさい!」
「………“アヤメ”。」
彼女があの子の本当の名を呼んだのは。
あの子が彼女へ砲を撃ち、殺意を向けた時が最初でした。
「…数日振りの再会なのに、随分な事をするのね。
ふふ…どうして“お姉ちゃん”を撃つのかしら?」
「いいから離しなさい。今度は威嚇じゃ済ませないわよ!」
「そう。姉妹喧嘩は子供の頃っきりね…。
……いいわ!久々に泣かせてあげる!」
「ぐっ!?」
「山城ちゃん!!」
一瞬で山城ちゃんの方へ向かい、今度は山城ちゃんの首を締め始めて…!
いけない!あの人は本気だ!
落ちた主砲を拾って、あの人の背に照準を向けたら…。
『ひゅばっ!』
「キキキ…」
な…こいつは!!
腕にしがみついてきたのは、あの分裂体。
この小ささで何て力なの!?撃てない…このままじゃ山城ちゃんが……!
『ぱぁん!!』
その瞬間が水を打ったように静まり返ったのは、銃声の後。
音の方を見ると、そこにはゆらりと白い影が立っていました。
「その子たちを離せ。でなければ殺す。」
「…ジュン!!逃げてって言ったでしょ!?」
「生憎だが、俺は提督だ。運命を共にする義務があるんでな。」
だめだよ…そんな拳銃じゃ…。
その時また、あのスローモーションが。
全てがゆっくりと動いて、私だけが速く動く事も出来なくて。
あの人が山城ちゃんから離れて、まっすぐに、ただまっすぐに私の大切な人に向かって。
鋭い爪が、何の迷いもなく命を奪おうとしてる。
でも、声が出ない。届いてしまう。
最後に辿り着いた場面、世界のスピードが戻った時。
私の目に映ったものは。
「……………!!」
彼の唇を奪う、あの人の姿。
時が止まったような、現実味の無い瞬間でした。
全てがはりぼての、どうしようもないぐらい生々しくない世界。
でもそう見えていたのは、きっと私の脳が拒絶したから。
「……痛っ!?」
「へぇ…深海棲艦でも、噛まれたら痛いんだな。」
そのはりぼてを壊したのは、他でも無いジュンでした。
唇を噛み、無理矢理彼女を引き離す事で。
見た事の無い冷たい目を、まっすぐにあの人へと向けて。
「……ふふ、ずっとこうしたかったの…。
何年も…何年も何年も何年も!!ずっとずっと待ち望んでいたわ!!」
「……こんな事の為に、人までやめちまったのか。」
「ジュン……私と一緒に、海の底へ沈みましょう?」
「聞く耳持たずね…俺の命と引き換えに二人を助けてくれるんなら、考えてやる。」
その言葉が聞こえた時。
ダメだなんて思う前に、手が動いていました。
どう分裂体を振り払ったのかも、引き金の感触や砲撃の反動さえも無い。
ただ事実としてあったのは、私の弾が彼女の肉を抉った音。
ジュンを掴む片腕を、ちぎり飛ばす形で。
「…青葉ちゃん、どこまでも邪魔をするのね。」
「やらせませんよ……その人は、私の大切な人ですから。」
戦場で何度も嗅いだ、血肉の焦げる匂い。
それは叔父さんの時にも感じた、その実誰を撃っても変わらない匂い。
この手が命を奪う時、必ず立ち込めるもの。
いつしか重く記憶の嗅覚に染み付いた、残忍な私の証明。
それが今、あの人からも放たれている。
だけど…もうこの手が震える事は無い。
「扶桑さん、一つ取材をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「くす……何かしら?」
「そうですねぇ……どうしてあなたがそうなって、何故こんな事をしでかしたのかと。
あなたの最期のインタビューとして、お尋ねしたいと思いまして。」
「ふふ……いいわ。もっとも、それがあなたの最期の記事になるけれど。
ひどい事をするのね、この子をあんな風に壁に叩き付けて…。おいで、痛かったわね。」
「キキ!」
分裂体は無邪気な様子で、扶桑さんの胸へと飛び込んでいました。
彼女も赤子程度の大きさのそれを、まるで本当の子供のように慈しんで…。
「そうね…人工授精ってあるじゃない。行為が無くとも生まれる子供…。
あれは卵子と精子だけれど…血と血が混じって生まれたものなら、それはもう二人の命の結晶なのよ。
ジュン……この子はあなたと私の子よ。」
その時見えた扶桑さんの目には…きっともう、何も映ってはいなかったのでしょう。
白い瞳そのままの、白濁した妄執だけを映して。
彼女はただ、幸せそうに告げたのでした。
今回はここまで。
「…それはあなたの艤装じゃないですか。」
「いいえ、この子は立派な命よ…きっと大きくなれば、人の形を成すわ…。」
扶桑さんは分裂体をあやしながら、裂けんばかりの笑みをこちらに向けていました。
あれは自律型だ…子供の遺体を艤装に変えて、実の子だと思い込んでる?
だってジュンと接触する事なんて、あの時以来無かったはず。
「まさか…どこかの子供を殺して…!」
「そんなわけないでしょう?私は誰も殺してはいない…。
いいわ、教えてあげる…。」
あの日戦闘明けのどさくさで、艦隊からはぐれてしまったの。
そこまではたまにあるトラブル……撃たれるなんて、思いもしなかったけれど。
潜水艦の魚雷を受けて、私は気を失ってしまった。
そうね…目を覚ました時、一つ気付いた事があるの。
ああ、きっと私は死んだんだって。
海の中で、しかも心臓が動いてる感覚が無かったもの。
怪我の血が水中に流れて、私の周りは真っ赤だった。
そんな時、頭の中で声がしたわ。
“アナタニ、イノチヲアゲマショウ…ミレンモ、ハラシテアゲマショウ……。
ソノミヲカシテクレルノナラバ…。”
それが『何なのか』は、本能的に理解出来たわ。
すぐにぞわぞわとした感覚が、頭の中を支配してきた…。
恨み、未練、憎しみ、悲嘆…あらゆるものが、私の体を奪おうとしてきた。
視界はもう、海の中ですらなかった。
真っ暗闇で、怨念の波に飲まれてしまいそうで…でもね、大したものではなかったわ。
私の『それ』に、比べれば。
“…その程度なのかしら?”
“ナッ!?”
“弱いわね…そんな程度で晴らしてくれるなんて、随分大きく出たものだわ…。”
“ノ、ノマ、レ、ル…!”
“ふふ…この体はあげないわ……。
___あなたが、私に寄越すのよ。”
“ア……アアアアアアアアッ!!??”
目を覚ますと、あとは元通り海の中…怪我の血がまだ周りに浮いてて、それ程経ってなかったみたい。
私はね…あなたとジュンの事を知った日から、いつもあるものを肌身離さず持ち歩いていたの。
4年前にジュンの手当てをした時の、血染めのハンカチ…日常生活の中でも、それこそ戦闘の時でさえ持っていた。
ふと上を見ればそのハンカチが浮いていて…海の中に、その血もにじんで…私の血と混ざり合って…。
やがてその血が、この子の形を持った。
だからこの子は…私達の子。
『あなた』じゃなく、『私とジュン』の子なのよ…。
「……分かったでしょう?そして父親は必要。
これからは親子三人で仲良く暮らすの…海の底でね。」
「扶桑さん………あなたは、狂ってる!」
「なんとでも言いなさいな…私は自分に正直になれただけ…。
ジュンを振った理由だって、本当は違う。
殺してあげる事が、ジュンの為になるって思って…本当にやってしまう前に振ったって言ったわよね?
あの時確かに、私自身そうだと思い込んでいたわ。
でもね…人をやめて気付いたけれど、実際は少し違ったの。
殺せば永遠にこの人は私のものになる。
美しい思い出も、最期の顔も全部私のものになるって……あの頃、本心はそう思っていた。
4年前の私には、まだそれを止める良心があったみたいね。
……もうそんなものは、人と一緒に捨ててしまったけれど。
ふふ….今はとても晴れやかな気分よ。
あとはジュンを同じにしちゃえば、目的は果たされる。
……そうね、でもその前にやる事があるわ。
ずっとずっと邪魔だと思ってたの…マスコミ気取りの小娘がしゃしゃり出て、随分奥まで踏み込んでくれたわね。
あまつさえ、その人をモノにまでして…。
ねぇ、青葉ちゃん……。
死 ん で ?」
分裂体の口から、銃口が。
リロードの動き、発射用意。
それらは一体何コンマだったのでしょう。
死ぬ…。
そんな事がよぎって尚、体の動きが間に合わなくて。
「………させねえよ。」
目を瞑り掛けた瞬間、目の前にはジュンの姿が。
両手を広げて、これから来るものを受け止めるかのように。
『……どっ…!』
深い赤。けしの花びらと同じ色。
私の視界がその色で染まったのは、砲撃音の後でした。
今回はここまで。
結末は考えてあるので、地道に完結まで持っていきます。
ぼたぼたと、床に血がこぼれて行く。
それは私のものでも、ジュンのものでも無く…
「が…はっ!?」
「“お姉ちゃん”…私を忘れてもらっては困るわ…。」
そう睨みつける赤い瞳には、明確な殺意が浮かんでいて。そこに迷いは無かった。
扶桑さんの脇腹を抉り取っていたのは、山城ちゃんの砲撃だったのです。
「アヤ、メ……。」
「姉妹だもの…どちらかが道を踏み外したなら、それは止めなくちゃ…。
青葉ちゃん、私もうちの提督から聞いたわ。深海棲艦の正体も…例え鹵獲しても、元に戻す事は出来ない事もね。」
「………!?ジュン…。」
「……ああ、本当さ。
何度か人間の比率が高い個体を生体実験に掛けたが…人に戻す事は、出来なかったそうだ。」
「ふふふ…不幸だわ。とことんツキには見放されてるみたいね。
もう戻れないなら…袂を別つしかないなら……私が殺す!」
「………そんなに、簡単には…やられないわ…!!」
「山城ちゃん!!」
分裂体が、山城ちゃんへと向かって行く。
ですがそれは、本当に一瞬のことでした。
『ぐちゅ……。』
頭から踏み潰された分裂体は、その肉を床に広げていました。
ビクビクと暴れていた小さな体も、やがて動かなくなって。
「…あ………嫌ああああああああああああああああっっっ!!!!!」
扶桑さんの悲鳴が、この部屋を覆い尽くしたのです。
「…研究で、艤装は何タイプかに分けられたそうね。
本体制御による純粋な自律型、武器型……それと、本体をエネルギー源とする半自律型…。
お姉ちゃん…弱ったあなたに合わせて、こいつもこんな簡単に踏み潰された。
だから、ジュンさんとお姉ちゃんの子なんかじゃないわ……ただの艤装よ。」
「違うわ……その子は私の子よ!!アヤメ…よくも……よくもその子を!!!」
「……お姉ちゃん。」
扶桑さんは立ち上がり、山城ちゃんへ爪を向けました。
その様を見て、あの子は悲しそうに微笑んで。
扶桑さんの片脚は、宙へと舞ったのでした。
「ふぅ…ふう…。」
扶桑さんはもう、反撃する力も無いのでしょう。
息を荒げながら、尚も殺意のこもった目を山城ちゃんへと向けていて。
「………また、外しちゃったわね。」
その様を見下ろして、山城ちゃんは微笑んでいました。
でも、その微笑みは…。
「あんたなんか、お姉ちゃんじゃない……お姉ちゃんの無念に取り憑いて、お姉ちゃんを操るただのバケモノよ!!
そう思わないと……耐えられないじゃない……!返してよ!私のお姉ちゃんを返して!!」
「…………!!」
微笑んだままの彼女の頬を、涙が伝っていく。
誰よりも彼女を殺したくないのは、山城ちゃんのはずで。
殺意で自分を塗り潰しても堪え切れない悲しみが、床にシミを作っていました。
「ふふ……そう、ね……アヤメ…あなたの言う通りだわ…。」
「お姉、ちゃん…。」
「見て…この醜い姿……こんな目で…これだけ撃たれても、まだ…生きてる…。
そう、もうバケモノなのよ……本当は全部、分かってた……私の妄執に、過ぎない、って……。」
「扶桑さん…喋っちゃだめ!それ以上動いたら…!」
「青葉ちゃん……ごめんなさいね。さっきの話は…全部じゃ、無いの…。
確かに、あなたの事を憎らしく思った日もあった…嫉妬を押し殺して眠る日だって…あったわ…。
そんなのでも…本当は、祝福したかった……いつか、私は私の幸せをって…そう思っていた…。
でもこんな体になって…そこで糸が…切れてしまったの…。
私が弱かっただけ…ジュンを殺してしまいそうだったあの頃から…何も…変われていなかった…。
そのまま…死ぬ事だって、きっと出来た…。
でも私は……敵として死ぬなら、最期にもう一度だけ、ジュンに…会いたいって…。
……ごめんなさい…みんな…。
そうね…叶うなら…私は……ごふっ!?」
「扶桑さん!」
吐き出された赤黒い血が、白い胸元を染めて行く。
それは私達に、彼女の命が終わる事を教えていました。
でも、彼女は…。
「お姉ちゃん…動いちゃダメよ!!」
「お願い…どいて……一人で、立てるわ…。」
血の跡を引きずりながら、壁の方へ這いずって。
無理矢理立ち上がった彼女は、ジュンの方へその視線を向けました。
「はぁ…はぁ……これで、狙えるわね…。
____ジュン、私を殺して。」
「……………。」
ジュンは何も言わず、拳銃を扶桑さんへ向けました。
変わらない冷徹な目……でもその銃口は、震えていて。
「……ままならないもんだな、人生って奴は。
まさか君を、こうして殺す事になるなんて。」
「ふふ…本当ね。最近ね、ちょっした夢があったの。」
「……教えてくれよ。」
「いつかあなたと青葉ちゃんが結婚したら…結婚式に行って。投げたブーケを、私が受け取るの。
それで私も、自分の時計を進めるんだって…そんな事を考えていたわ。」
「………罪な奴だな、これから君を殺すのに。」
「ふふ…そうね。もう一つ、イタズラしてもいいかしら?
最期はこんな結末だったけれど…
___私、あなたに出会えて本当に幸せだったわ。
青葉ちゃん、この人をよろしくね。」
「…………はい!!」
「アヤメ…これからは私がいなくても大丈夫?」
「大丈夫じゃないわよ…でも……大丈夫よ!
お姉ちゃん……大好きよ!ずっとずっと、私のお姉ちゃんだから!
どんなになっても、私はお姉ちゃんの妹!それは絶対変わらないから!!」
「……ありがとう。
ごふっ!?……時間が、無いわね…。ジュン…お願い…。」
「ジュン……。」
「ふー……。」
深く息を吐いて、銃口がぴたりと止まって。
その瞬間、彼の迷いが吹っ切れた事が見て取れたのでした。
……叔父さんの時の私も、そうでしたから。
「……ままならないもんだな。理想的な日々って奴は、どこまでも逃げて行く。」
「ふふ…『バラ色の日々』かしら?追いかけても追いかけても、どこまでも逃げて行く…。
それでもあなたは、追いかけるの。青葉ちゃんと一緒にね。」
「ああ、その通りだな……。
…愛していたよ、サクラ。」
「ふふ……ありがとう。」
「……さよなら。」
銃声が響いた後には、ただ静寂が訪れて。
壁の穴から入る潮騒だけが、私達に時を教えている。
心臓を貫いた弾は、扶桑さんの意識を奪っていました。
ジュンに抱き抱えられた彼女の目は、きっともう見えていないでしょう。
それでも彼女は……私達に、優しく微笑んでくれました。
ジュンの胸の中で、最期に力なくその手を落として。
私と山城ちゃんの啜り泣く声の中で、ジュンは扶桑さんの目を閉じて。
その時帽子で隠れた目元から、ひと筋伝うもの。
それだけでも、彼の悲しみが如何に深いのかは表れていました。
「…現時刻を持ち、今作戦を終了とする。
殉職した戦艦扶桑に、一同敬礼!!」
扶桑さんの遺体に、最後に敬礼をしました。
その時やっと、全てが終わった事を実感して。
嗚咽も出ない涙が3つ、ただ床を濡らしていました。
こうして終戦までの間で、最も忘れ難い戦いは終わりました。
後はもう、消化試合のようなものでした。
私達は今まで以上に死力を尽くして…ただ殺して、殺して…全ての怒りをぶつけるかのように、死体の山を築き上げて。
世界的な終戦宣言が出たのは、それから数ヶ月後。
その時私達も最終作戦に加わっていて…でも作戦が終わった実感が湧いたのは、帰国してしばらく休暇をもらってからでした。
終戦とはいえ、やる事は沢山あります。
事後処理、復興支援、残党狩り…戦後もなかなか忙しい日々で、あんまり終わったって感慨にも耽られないまま。
それでも休暇の度に、お墓参りに行っていました。
私は叔父さんに終戦の報告をして、ジュンもお友達のお墓を巡って。
それと……ジュンとふたりで、扶桑さんのお墓にも。
少しずつではありますが、お墓参りの中で徐々に終戦の実感を得た感じですね。
そんな日々の中で、平和の実感も見え始めて来ました。
ずっとふたりでいられるような、そんな日々を夢見て。
……そうですねえ、夢見てました。
さーて、買い物買い物っと。
最寄りのコンビニまでは、原付飛ばせばすぐ。
買い物もだけど…ちょっと今日は、やる事あるんだよね。
ほーら、あった…携帯使っちゃうと面倒だもん。
こういう片田舎だったら、結構コンビニとかに置いてあるもんだよ。
戦争も終わって、つまんなくなっちゃったなぁ。殺しが出来なくなるって分かってたけどさ。
でも、もう大人になるって決めたんだ。これからは手より頭を使わないと…ふふ。
青葉と提督……最近本当幸せそう。
色んなことがあったもんね、それを乗り越えたふたりの絆はそりゃ深いでしょ。
それこそ依存って言えちゃうぐらい、お互いが体の一部みたいな繋がりの深さ。
羨ましいなぁ…青葉の奴もそれぐらい衣笠さんに向けてくれたらなぁ……あーあ、本当提督の奴…。
……いや、でも提督には感謝しなきゃね。
そこまで青葉をべったりにしてくれた事に。
ふたりの絆は本当に深いよ…あれは結婚まで行くでしょ。
それこそ死が二人を分かつまで~なんて具合に、そう簡単には離れられない。
まさに幸せの絶頂……そんな今だからこそ……
アノコカラスベテヲウバウ。
ふふ、提督がいなくなったら、どうなっちゃうかな?きっと壊れちゃうかな?
でもそんな時こそ…この頼れる親友の衣笠さんの登場ってわけ。
もう一生私から離れられなくなるぐらい、ずっとずっと側で支えてあげなくちゃ…。
そう、果物は美味しく育ててから摘むんだよ。
長い事待った甲斐があったなぁ…やっと食べごろ。
言葉通り邪魔な奴を消そうと思ったら、普通は殺すしかないよね?
そう、相手が『普通の奴』だったら。
でもね……『法を犯した奴』に限っては、わざわざ手を汚す必要なんて無い。
私も大人だもん、知恵を使わなきゃ。
あそこにぶち込まれたのは、今となっては役に立ってる。
私と同じ『踏み越えた人』に、何人か会ったからね。
越えてる人の雰囲気ぐらいは何となく、分かるようになったんだ。
くす……提督、人なんて簡単に消せるんですよ。
例えばあなたみたいな踏み越えた人だったら、ちょっとコンビニか街角に行って…
この100円玉で、あなたの幸せ全部を終わらせる事が出来る。
えーと、使い方は確か…100円入れて……ダイヤルを押して……あっ、掛かった。
「もしもし………。」
『艦娘の証言』は貴重…戦後処理は早くて半年……それだけあれば…。
ふふ…。
ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ……。
青葉……待っててね。
今回はここまで。
“どうしてお前だけ…!”
“痛い…帰りたい…。”
“お前もこっちに来い!”
赤黒い空と、血の溶けたようなワインレッドの海。
そこに浮かぶ崩壊した船の中から、崩れた骸達が次々と這い出してくる。
“提督……私、もっと生きたかった…。”
背後に視線を向けても、海面から浮かび上がる少女の骸。
悲しげに彼を見つめる少女の脇腹は、柘榴の様にちぎれ落ちている。
“ははははは!!お前も所詮俺と同じなんだよ!!人殺しめがぁ!!”
また別の場所から、今度は血塗れの白い軍服の男。
その血痕の元は、額に空いた穴から流れ出たものだ。
“ジュン……愛しているわ………。”
不意に、彼の肩にしなだれかかる腕。
病的なまでに白い肌が絡み付き、首筋の吐息が掛かる。
それに振り向けば、真っ白な瞳が彼を射抜いていた。
彼自身の手でとどめを刺した、かつての恋人だったもの。
共に戦った者、看取った者。そして彼の手で殺した者。
一つ彼の前を死が通り抜けるたび、また一つ、その世界に彼を襲う骸は増えて行く。
“ジュン……。”
そこに、一際哀しげな声が響く。
彼女は唯一現実世界の生者であり、彼にとっての唯一の希望でもあった。
だがその世界の彼女は、涙をこぼしながら、こう呟く。
“うそつき。”
「…………はっ……はっ……!」
肺が上手く機能せず、その息苦しさでようやく彼は目を覚ました。
窓から差し込む光は、爽やかな朝を告げている。
カーテンを開ければ、見慣れた植え込みの緑と庭。
何の変哲も無い平和な光景が、彼にはひどく他人行儀な物に見えていた。
その心は未だ、先程いた赤い海の残滓を引きずっているが故に。
戦争が終わり、今はその後の処理に追われる生活だ。
恋人との仲もより深まり、未来への希望も見え始めた。
彼は多くの悲しみと喪失の中で、必死に戦い抜いた者。
荒波を越え勝ち取った日常、本来であればそれを享受するべき立場にある。
しかし彼は今も尚、心の何処かに影を抱えていた。
感情の喪失に冒されていた時期、その実彼は、無意識下では希死念慮に囚われていた。
天国と呼んでいた、臨死の世界に行く為に見出した条件。
全力で戦う末、殺される事。
それは生き残ってしまった故の、自死では拭いきれぬ罪悪感の表れだったのかもしれない。
その一方で、著しい良心の欠落にも彼は呑み込まれていた。
殺しても良い人間として悪人を選び、元帥を言葉でねじ伏せてでもその機会を得た。
男と、かつての恋人を撃ち殺した時の感覚の差。
彼の手には、その時の引き金の感触の違いが強く残っていた。
男の時は、躊躇いなど何一つ無かった。どこかで楽しんですらいた。
虫を殺す様な呆気の無さに、失望さえ覚えていた。
感情を取り戻し、失っていた間の記憶の水面下にあった様々なものは。
まるで遅効性の毒のように、平和を得た今も彼の側から離れずにいる。
それは、一抹の不安と共に。
“………バレたら、どうなるだろうな。”
例え相手が悪人であったとしても、罪は罪。
直接手を掛けた以上、法の裁きは誰よりも重い。
海軍はあの戦争の専門。今回に関しては英雄だ。
もしこれが明るみになれば、その分殺した男の罪も含め、究極の不祥事となるであろう。
そして戦争を終えた今、自分達の利用価値は消滅したとも捉える事が出来る。
何かあったら、自分と元帥は国家に消されるのだろうか?果たして自分たちだけで済むのか?
そうなった時、巻き添えを食うのは?
そこまで考えるたび、彼の脳裏にはある笑顔が浮かんでいた。
夢の内容のように、見捨てられる恐怖も確かにある。
それ以上に、彼には真実を話せない理由があった。
“……もしもの時、あいつを守る為には…。”
彼女と通じ合う中で心を取り戻し、幸せも手に入れた。
だがそこへの罪悪感もまた、彼の中には深く存在するのだ。
差し伸べられた手を掴む資格など、本当は自分には無かった。
それでも掴んでしまった事は、自身の弱さの証明だ。
その葛藤と幸福の中で、彼の中に宿る、とある誓い。
部屋の片隅にある、指紋認証式の小さな金庫。
それを開けると、中には愛用の拳銃一式があった。
彼はいつものようにそれを取り出し。
マガジンに、弾丸をフル装填した。
「青葉は軍に残るの?」
ある休日。
ガサと街でお茶をしていると、こんな質問が飛んできました。
戦争が終わった今、艦娘達は皆悩む話です。
事後処理が終われば、皆それぞれの道に進まなくてはなりませんから。
軍の別部署に行く人、或いは軍と所縁のある企業に就職する人もいますし、全く別の分野へ進む人もいます。
駆逐艦などの若い子達には、事情があったり施設出身の子も多くて。支援の為の法整備も進んでいました。
私はと言うと、実は決めてあります。
…とは言っても、ずっと前から決めていた事ではありますけど。
「中途で出版社に採用決まったよ。
ダメ元だったけど、書いたサンプルと艦娘としての経歴を買ってくれたとこがあったんだ。」
「じゃあ引っ越すんだ?」
「うん。ジュンも終わったら神奈川に転属になるみたいだし、一緒に住もうってね。」
最初はタブロイド誌からの修行ですけどね。
何とかやりたい事へのきっかけは掴めたかなって、少し安堵したものでした。
あの戦争を通して感じてきた事を、本として世に残す。
それが今の、物書きとしての私の夢でしたから。
「ガサは?」
「私も神奈川かな。軍の出入り業者の求人あって、場所がそっちみたいだから。」
「お、じゃあ終わっても一緒じゃん。」
「そうそう、衣笠さんも一緒だよ~。」
「さすがー。」
「ふふふ。」
後の気掛かりは、山城ちゃんかな。
その後も定期的に連絡したり会ったりはしていましたが、まだまだ笑顔に無理があるなって言うのが正直な所でした。
あれだけの事があれば、当たり前ではあるけれど。
実家がある関係上、あの街で就職するようです。
でも家族はまだ日本に帰ってこられないみたいで、当分は実家で一人暮らしになるって。
……扶桑さんの思い出もある家に、一人で暮らす。あの子の気持ちを思うと、少し心配になります。
落ち着いたら、遊びに行かなくちゃ。
テラスからの見慣れた街は、とても平和で。
失ったものも沢山あったけど、今は前以上に愛おしく思えます。
あの日々の中にいる間も、確かに休日にここにいるのも日常でした。
でも何処か、映画の中にいるような感覚もありましたから。
これからはきっと、前より現実としてこの中を生きて行ける。
そんな事を思いつつ、ドーナツをかじっていたものでした。
今回はここまで。
その日の夕方、何となくジュンの家に寄りました。
お仕事は終わってる時間ですけど、インターフォンを押しても返事は無し。
違う所にいるのかな?と電話してみようとした時、微かに音が聴こえるのに気付いて。
これ、ギターの音?
彼の寝室は、サッシのある所。
裏庭から回り込んで、ちょっと覗いてみました。
あ、やっぱりそうだ。覗いている私と目が合うと、彼はとても恥ずかしそうな顔でギターを置いて。
可愛いなあなんて思って、こっちも思わずにししとした笑みになったものでした。
「あー、見たのか。ヘッドフォンしてたから気付かなかったよ…。」
「ふふ、良いじゃん別に。ギター持ってたんだね。」
「学生の時、軽音部だったんだよ。卒業してからも開戦までは弾いててさ。
今ならまた、弾いても楽しめるかなって。」
「このギター何だっけ?有名だよね?」
「レスポール。有名なギブソンじゃなくて、コピーモデルだけどな。
でも俺にとっては、大切な一本さ。」
「……そっか。」
深くは訊きませんでしたが…彼の学生時代の仲間は、きっとその軽音の人達だったのでしょう。
夕陽に照らされたギターには、薄っすらと擦り傷が浮かんで。
その一つ一つが、彼の思い出の跡。
感情を失ってしまった時期に、私物をかなり処分してしまったそうです。
それでも手放ず、大切に保管されていた。
ギターに向けた、思い出をなぞるような眼差しに、何だか胸がギュッとなりました。
「…さすがに当時ほどは無理だけど、意外と覚えてるもんだ。
弦替えて弾いてたら、すっかり夢中になってたよ。」
「何か弾いてよ。」
「いいけど下手だぞ?」
「いいの。」
ぽろぽろと部屋に響くのは、優しくて、少し切ないギターの音。
その間は長く思えたけど…それは退屈じゃなくて、穏やかな時間に思えたからでした。
「……すごいじゃん。」
「ふふ、ありがとう。」
照れ臭そうな笑顔は、ちょっと誇らしげでもあつて。
そんな感情豊かな瞳に、また愛おしさを覚えたものです。
「いい夕暮れだな。」
「……うん。」
「…お前とこんな何でもない時間を過ごせるのが、本当に嬉しい。
それがずっと続くのが、今の俺の夢かな。」
「ふふ、ずっと続くよ。離してあげないから!」
ずっと続いて行く、穏やかな日常。
この時私は、心の底からそれを信じていたものでした。
ずっとずっと、続くんだって。
それから何日かして、遂に私の艤装も解体になりました。
仕事は辞める日まであるけど、艦娘としての私は実質この日で終わり。
整備さんに頼んで、少しだけ席を外してもらいました。
最後に一度、この子と二人で過ごしたかったから。
「……『青葉』、今までありがとう。」
バラバラにされたパーツ達は、何か言ってきたりはしない。
だけど私には、分かるんですよ…初めてこの子を付けたその日から、いつでも心は繋がっていたって。
この子は、もう一人の私ですから。
叔父さんを殺したあの日、この子の辛い記憶を見ました。
今思うと…逆にあの時感じた絶望も、この子に伝わっていたのでしょう。
本来以上の力を貸してくれたのは、きっと私の怒りに、この子も自分の無念を重ねたから。
平和になったとは言え、私が代わりに果たせたのかは分かりません。
確かめる術は無いけど…外された艤装の核を手に取って、ギュッと抱きしめました。
今度こそ、この子もゆっくりと眠れるように。
「…さよなら。」
工廠の出口で、振り返ってそう囁いた時。一瞬幻が見えました。
私によく似た女の子が、満面の笑みで手を振る幻。
……あの子みたいに、笑って生きなくちゃね。
その日の昼、解体の報告をする為に、執務室へ行きました。
さっきの事を話して、彼はそれを優しい笑みで聞いてくれていて。
もうすぐここでの日々も終わるけど、こんな時間だけはきっと続いて行く。
その時でした。
「……メールか?
………………。」
「どうしたの?」
「……くく……あははははははははははははははっ!!!!!」
彼が豹変したのは、携帯に目を通した直後。
それは……『あの頃』と同じ、ゾッとするような目で。
「なぁ、青葉………いや、“マリ”………。」
彼が勤務中に私を本名で呼んだのなんて、数える程しかありません。
こちらに突き付けられた携帯には、「すまない にげてくれ」とだけ書かれたメール。
差出人は、元帥からのもの。
それを見て、血液が鉄に変わったような感覚が走って。
そのまま、彼が続けた言葉は。
「_____俺は、人を殺した。」
直後、執務室の扉が乱暴に開きました。
なだれ込んできたのは、スーツを着た男達。
彼らが机の前に並ぶと…真ん中に立つ人が口を開いて。
「憲兵隊特捜部の者だ。
海軍少佐・後藤ジュンイチロウ、海軍大佐・____殺害の容疑で貴官を逮捕する。」
特捜部。
憲兵隊とは名ばかりの、軍内での重大犯罪を専門に扱う組織。
その権限は、容疑者をその場で……
その情報が頭を駆け抜けた時。
「………動かないでください。でなければ、この子を撃ちます。」
ジュンに後ろから抱きしめられ、私のこめかみに触れたのは。
何よりも冷たい、銃口でした。
今回はここまで。
「……抵抗する気か…!」
「すみませんが、簡単に捕まる訳には行かないんでね。
こちらがあなた方の実態を何も知らないとでも?元帥は今どうされていますか?」
「…知らんな。そちらは別働隊に任せてある。
もっとも、今頃天国行きの列車だろうがな。
元帥の威光も戦中までだったな、戦後の今、軍の幹部はあっさり吐いてくれたぞ。“少々骨が折れた”がな。」
「…クソ共が…!」
4発発砲し、ジュンは私の手を引いて執務室を飛び出して行きました。
後を追う特捜部の手にも、やはり拳銃が。
通りすがりの子達の悲鳴や驚愕の声も、早鐘をつく心臓も、確かに実体のはずなのに。
まるで、何処か映画のワンシーンのように思えて。
あれだけ戦場にいたはずなのに、この瞬間の景色に死の匂いを感じられない。
そんな私を置いてけぼりにするように、また銃声。
今度は、特捜部がこちらを狙ったもので。
「乗れ!」
助手席に詰め込まれ、車は急加速で走り始めます。
その激しい揺れの中で、私の頭は何処かスローなものになっていました。
後ろからは黒い車が3台程。度々路面を掠める銃声さえ、現実味の無いものに感じる。
そんな中で、私はポツリと口を開きました。
「………あの件は、本当にジュンなの?」
「ああ、俺さ…本当は元帥自ら手を下す所を、横取りしてな。
さっき言ったろ?俺は人を殺したって。」
「……殺した司令官は、何をしたの?」
「…憲兵隊や関連企業との癒着、兵器の横流し、無茶な戦略……ダメ押しに、駆逐の子をレイプした挙句殺害。死体を燃やして隠蔽してた。
轟沈扱いで申告された死者も、本当に戦地で死んだか怪しい者が何人もいる。
……だけどな、俺も同じ穴の狢さ。
あの件は俺がイカれてた頃の話、だから期待してたんだ。こいつならあの場所を見せてくれるんじゃないかってな。
結果は虫を殺すようなもんだった。随分あっけなく死んでくれたよ。
今となって思うのは…仲間の仇でもあったと言う事かな。
死んだ仲間の一人は、アレの部下だったからな。」
「……私に話してたら、犯人隠避に問われるね。私、絶対黙っちゃうもん。
ただでさえ容疑者の恋人にして艦娘、何も知らなかったとしても、厳しい尋問は避けられない…。
なら私をただの人質で被害者にすれば、少なくとも私への嫌疑は薄くなる……最後は自分だけあっさり捕まってね。ジュンの考えそうな事だよ。」
「…どうだかな。少なくとも今お前は人質で、恋人に裏切られてる事実は変わらないんだが?
舌噛むぞ、人質らしく黙ってろよ。」
…………。
…へー、この期に及んでまだ悪ぶる?
「ばーーか!!!!!」
「うおっ!?」
「えへへ、ちょっとあなたに深入りしすぎちゃったね。
だからお見通しだよ!それでも守ろうとしてくれてるなんてのは!
こうなりゃとことん一連托生!今更離れたりなんてしないから!」
「お前なぁ…分かってんのか!?あいつらは俺を殺しに来てんだぞ!?
実際の奴らの親方は政治家だ!俺らを消したら事を明るみに出して、戦後の今こそ軍の威光を潰したいんだよ!下手すりゃお前も死ぬぞ!?」
「……逃げればいいじゃん。」
「…へ?」
「外国だって何処だって高飛びするの!!何ならネット使ってこの件全世界に流してやる!
もうあったまきた!燃やすだけ燃やしてやるんだから!ジャーナリストナメんなって見せてやる!!」
「……はぁ~…いつから俺らはハリウッド在住になったんだよ…。」
「違う!ここはたった今からニューヨーク!マクレーンばりの悪運で生き残るの!」
「最も不運な男ってか?このシチュエーションは置いといても、俺とそいつは違うな。」
「どこが?」
「お前がいる時点でラッキーだ。それにハゲてない。」
「ひゅー、100点満点!」
「飛ばすぜ!しっかり掴まってろ!!」
けたたましいカーチェイスの音も、時折飛び交う銃声も。
全てを振り切った私達には、楽しげなBGMのようでした。
偶然だったのでしょうけど…車が逃げ出した先は、あの大岩のある方。
私達にとって、始まりの場所とも言える方角でした。
あの先に行けば、港がある。
「ジュン、英語は行けるよね?」
「海軍司令官たるもの必須科目だ。」
「残弾は?」
「まだある。」
「よーし!目指すは港!作戦目標は無血のシージャックと亡命!!抜錨だよ!!」
「たった今から海賊にジョブチェンジってか?
……うおっ!?」
パン!と言う音と共に、車は激しく揺れて。
どうやら後ろからの弾が、後輪を撃ち抜いたもののようです。
でもジュンは…その時、にかっと笑ったのでした。
「……俺の敬愛するロックスターが言ってたんだ!“花柄の気分なんて一日でたった6秒”ってな!!
でもなあ…少なくともお前に会えてからは、ずっと花柄だぜ!!」
弧を描くように車のテールをぶつけて、それは追手の3台全てに当たりました。
かろうじて這い出て来た一人がこちらに発砲すると、ジュンもまた、何発か発砲して。
衝突が相当に効いたのでしょう、その銃撃戦の間に追手も気を失ってしまいました。
飛び出した私達の前には、あの砂浜。
痛む身体を引きずりながら、息を切らしてそこを駆け出しました。
固く固く、手をつなぎ合って。
「ここ!あの岩の近くだね!」
「ああ!よりにもよってこことはなぁ!皮肉なもんだ!」
「…まだ終わりじゃないよ!ここを越えたら始まるの!
こうなったらボニーとクライド!どこまでだって逃げるよ!」
「……ふふ、ボニーとクライドかぁ…確かにそうだな。
……でもな。」
「___蜂の巣になるのは、俺だけで充分だ。」
「………え?」
突き飛ばされたと気づいた時には、もう砂の上でした。
その時、全てがスロウになって。
浜から見える海岸線に、キラリと光るもの。
その光には、見覚えがある。
あれは…スコープ…?
伸ばそうとする手の動きさえ、スロウになっていて。
必死に手を伸ばそうとしても、視界は速まってはくれない。
そんな中、ジュンは。
わたしをまもるように、りょううでをひろげて。
『だんっ…!だんっ…だんっ……!』
かれのむねをうちぬいたのは、さんぱつのたま。
そこでやっと、ときがそく度を取り戻して。
「……嫌ああああああああああああああああああああああああっっっ!!!!!」
取り戻した時間の流れの中で、最初に聴いたものは。
聞いたことも無い、自分の叫び声でした。
今回はここまで。
“ジュン、本当音楽好きなんだね。”
“そうだな…どんな時でも、音楽だけは手放せなかった。
おかしくなってた時期に、私物は殆ど処分したって言ったろ?それでもCDは捨てなかったからな。
ダウンロードで買った物も入れたら、外付けの中もパンパンだよ。”
“……あの時期でも、やっぱり色々聴いてたの?”
“執務室で色々流してたろ?むしろあの時期こそ、一際音楽を聴いたかな。
それこそ家に帰ってもそうだった。
元々新旧問わず色んな音楽を聴いてたけど、その中でも何故か、より一層あのバンドを好きになってた。
特にあの曲は、心を病んでた時期の気持ちにシンクロしたんだと思う。
今思えば…音楽を聴いてる間は、失くした感情を思い出せる気がしてたのかもな。
悲しいも嬉しいも、音が鳴ってる瞬間だけは思い出せる気がして。”
“………そっか。でも最近、あの曲は聴いてないね。”
“違う曲はよく聴くようになったけどな。一人の時とか。”
“何て曲?”
“お前の借りたアルバムにも入ってるよ。
あー…何か、言うの恥ずかしいな…。”
“えー、教えてよー。”
“JAM。
今はあんな感じかな。いち司令官としても、一人の男としてもな。”
“………ばーか。”
“はは…だから言わせんなって言ったんだよ。”
みんなむかしは、こどもだった。
わたしもかれも。それに、あのこも。
でもいまも、きっとこどもだ。
さびしいさびしいと、なきじゃくるこどもなんだ。
みんな、みんな。
「ジュン!!!」
駆け寄った先には、血の海に倒れ伏す彼がいました。
戦闘以外じゃ見た事のない、おびただしい量の血…触れただけで、私の手や服は真っ赤に染まって。
「マ…リ……。」
「ジュン!喋っちゃだめ!」
胸元には、血や制服越しでも分かる銃槍が3つ。
そのどれもが、正確に狙われたものでした。
「………その男を、渡してもらおうか…。」
そこにいたのは、特捜部のリーダーと思しきあの男。
頭から血を流していましたが…その後ろには、狙撃班が2人ついています。
こいつらが……。
「………嫌だと言ったら?」
「君を拘束してでも連れて行く。それが我々の任務だからな。」
…………。
……ジュン、少し借りるね。
「……来ないでください。でなければあなた達を殺します。」
「……っ!?君を人質に取った男を、庇うと言うのか?」
「………私達は、愛し合っていました。だからこの人は渡せない。
執務室にあなた達が来た時、スマホの録音をオンにしていました。
先程、あなたは元帥を殺した事を暗示しましたね?その会話も録音済みです。
もし私達を取り押さえるならば、あなた達を殺すか……もしくは今この瞬間、あの発言をネットに流します。
……あなた達もプロなら分かるでしょう!?この人が助からない事ぐらい!!
最期ぐらい……好きに死なせてあげてよ!!」
「…………今から30分後、被疑者の死亡により任務は達成される。」
「隊長!?」
「奴はどの道助からん。ならば30分誤魔化す程度、誤差の範囲だ。
近隣の道路は封鎖している、目撃者もいない。
いいか?任務の達成は30分後だ。その間容疑者は逃亡を続けていた。分かったな?
一度お前達の車に向かう、先に行け。」
「……は、はい!」
狙撃班が先に去り、男が背を向けた時。
私は、その背中を睨み付けていました。
男がふと言葉を漏らしたのは、その時の事。
「………彼らは任務を全うしたまでだ。恨むなら私を恨め。」
「……任務であれば殺す…私達も同じでした。
でも…あなた達だけは許せない!!
私はジャーナリストです。必ずジャーナリストとして、あなた達に復讐します。」
「……せいぜい首を洗っておこう。」
ジュンの肩を担いで、私は浜を歩き出しました。
担いだ方の肩に血が沁みて、それが次第に冷たくなって行く。
重いなぁ……上手く歩けないよ。
人の命って、こんなに重かったんだ……。
「バカ…だなぁ…せっかく命がけの…一芝居打ったのによ……。」
「…バカはジュンだよ。カッコつけちゃってさ。死んじゃったら意味ないじゃん。」
「男の子ってのは…カッコ付けたい生き物…なんだよ……。
例え死のうが…何だろうが……惚れた女ぐらいは…守りたい…生き物だっての…。」
「……ぐす……死んで泣かせたら、守ったなんて言わないよ!」
「はは……そう…だな……。」
理不尽な死。
戦場にいた間、何度も私を通り抜けて来たもの。
だから必死に冷静なフリをして、いつものように振舞っていました。
本当は縋り付いて、泣き叫んでしまいたい。
でも終わりを間近にした今、私は最期までこの人の恋人でありたいと思ったのです。
あの大岩だ…早く連れて行かなくちゃ。
「ここは…あの岩か?」
「……うん。そうだよ。」
「登らなくて良い…無理、するな…。
少し……膝、貸してくれ…。」
膝に乗る頭は、力無さ故に重くて。
浅く動く胸は、この人の死が近付いている事を教えていました。
私は出来るだけ優しく、血まみれの手で頬を撫でて。
「良い空と…風だ……。」
「そうだね…ここの風は、本当に気持ちいいよ。」
「俺達…の…始まりの場所…だったよな……。」
「うん…ここからだった。」
笑わなくちゃ。
最期まで、笑わなくちゃ。
でも何ででしょう、そう必死にいつものように笑おうとしても…この人の頬に、ポタポタとこぼれる水滴だけが増えて行く。
最期なのに。
最期だから、上手く話せない。上手く笑えない。
そんな私の目元に優しく触れたのは…同じく血まみれになった、彼の指でした。
「……あったかいなぁ…。」
「…………ごめん。笑えないよ…。」
「謝るのは…俺の方さ……ずっと隠してて…ごめんな…。
本当は…伸ばしてくれた手を掴む…資格なんて…無かったんだ…。
それでも縋っちまった……結局…このザマさ…。
最後の最後…で…泣かせちまったな…。」
「……ううん!それでも私は幸せだったよ!ジュンに会えて良かった!!
……ジュン…愛してるよ!!」
「……ありがとう…。
なあ、もう少し…顔、見せてくれ……。」
やっとの思いで作れた笑顔は、きっと不細工なものだったでしょう。
ジュンはそんな私にでも優しく微笑んでくれて、言われるままに顔を近付けると…。
「………!?
……もう。」
「……へへ…最期ぐらい……良い思いしたって良いだろ…?
愛してるよ…言わせんなよ恥ずかしい…。」
そうニヤリと笑う顔は、子供みたいで。
鉄の味のキスだけど、それはとっても暖かくて。
「……地獄、だったな…。
あの日からずっと…この世は地獄だった……。
天国なんて…言い張ってたけど……本当はそれ以上の地獄に…俺は行きたがってたのかもな…。
そんな中だったけどよ…一個分かった事が…あるんだ…。
こんな……地獄みたいな…世界でも……」
予感がする。
きっと、本当に時が来てしまう。
その先は言わないで。
でも、彼はまた笑って。
「____天使ぐらいは、いたんだなぁ…。」
「………ジュン。」
名前を呼んで、唇を重ねて。
体の冷たさが、一際濃いものになった時。
「“マリ”……ありがとう…。」
その言葉と共に、彼の手は頬を離れました。
最期に私の本当の名前を呼んで…それが彼の、最期の言葉。
その顔は、優しく微笑んだままでした。
「…………ジュン。」
……潮風が、気持ちいいなぁ。
ずっとこんな風に、二人でいられたらって思ってる。
ずっとずっと、こんな時間は続いてくんだ。
___そう。まだ終わりじゃない。
ずっと一緒だよ。
どんなになったって、ひとりぼっちになんかさせない。
良いものがあるの。
あなたが私を守る為に使っていたもの。
それはね…あなたの拳銃。
待っててね……私もすぐ行くから。
簡単だよ……こめかみに当てて、引き金引いちゃえば………!!
『かちっ』
『かちっ』
『かちっ』
『かちっ』
………………弾切れ。
…………そっか。逃げる時、乱射してたのは…。
彼の意図を理解した時、眠る顔が目に映りました。
それを見た時……私はとうとう、涙が止まらなくなったんです。
眠る彼は…息を引き取った時以上に、満面の笑みを浮かべていて。
それは私が大好きだった笑顔と、変わらないもので。
その時ようやく、私は彼の死を現実として理解出来たのでした。
……ずるいよ。最後にこんなイタズラしてくなんて…。
ねぇ…起きてよ……これじゃどっちもひとりぼっちじゃん。
ジュン……ねえ、ジュンってば…!
何度揺すっても、目を覚ます事は無くて。
それでもずっと、笑顔は崩れないままで。
遺体に縋り付いて、私は嗚咽を漏らすばかりでした。
次第に冷たくなる体温が、夢の終わりを告げて。
やがて意識も、いつの間にか混濁してしまっていて。
特捜部が私達を確保した時。
私は意識も無く遺体に縋り付いていたと後で知りました。
こうして私達の幸せは、終戦と共に呆気なく終わりを告げました。
未来も希望も、何もかも唐突に奪われて。
この日彼は死に。
その後、ある真実に辿り着くのでした。
私はどうしようもなく、残酷であると言う真実へと。
今回はここまで。
もう少しだけ、続きます。
ジュンの遺体は解剖に回された後、彼の故郷へと送られました。
親族のみの密葬でしたが、葬儀に呼んでもらえて…まずご両親に会った際、私は頭を下げました。
挨拶ではなく、謝罪として。
ご両親は、捜査上での事の経緯を知らされていました。
それと…私が知る真実と、彼がどう生き、どう死んでいったのかも話して…ご両親はただ、「ありがとう」と私を抱きしめてくれたのです。
一番側にいたはずなのに、助ける事が出来なかった私を。
彼が荼毘に付されたのは、翌日の事。
火葬場に行って、棺の窓を開けて…その顔はやっぱり、あの日のまま。
最後に小窓に口付けて、無機質な鉄の扉が閉まると、炎が揺れる音が響きました。
その日は偶然、火葬場の予約はジュンだけしか無くて。
焼かれている間、私はずっと、駐車場から煙突の煙を眺めていました。
遠く遠く、どこまでも昇っていく。
煙は上に行く事はしても、こちらに吹き降りて来たりはしない。
私の頬を、一陣の風が撫ぜる事さえも。
そして火葬が終わり、骨上げの時が来ました。
用意されていた骨壺は2つ。
大きな方はご家族の為に。もう一つの小さな方は…手元供養にと、ご両親が用意してくれたものでした。
焼かれてしまった彼の骨は、人の形を残しつつも、バラ撒かれたようになってしまって。
でも私には、どこがどの場所か理解出来て。
ここはいつも撫でてくれた指…ここはいつも見てた目…ここは…。
小さな骨を選んでは、それを器に入れて。
骨で熱を持った器は、桐の箱に入れても熱を持っていて…私の掌の中で、まだ生きているかのようでした。
だからでしょうか、まるで現実ではないみたいで。
寝て起きたら、いつもみたいにおはようって声を掛けてくれる気さえしてくる。
夢だと思ってるから、今泣けないのかな。
彼の実家へと戻る車の中、私はいつか膝枕をしてあげた日のように、小さくなってしまったジュンを撫でていました。
窓の外は、雲一つない青空。
「いつか故郷の景色を見せたい」なんて言ってた事を思い出して、私はずっとその空を眺めていたのです。
彼のお母さんはそんな私を見て、ただ優しく肩を撫でてくれました。
……上手く泣く事さえも出来ない、こんな冷たい私の肩を。
別れ際、お父さんは彼の遺品として、ある物をくれました。
それは最期に被っていた軍帽と…いつか私があげた、葉をモチーフにしたペンダント。
押収されたとばかり思ってたけど、ちゃんと渡ってたんだ…。
最期まで付けてくれていた、血まみれになったペンダント。
リズムが絶えるその瞬間まで、彼の鼓動のそばにあったもの。
赤い所に触れると、今でも鼓動が聴こえるようで…その幻を、一つ一つ噛み締めていました。
帰りの飛行機の中。
膝の上にジュンを乗せて、ずっと窓からの景色を見ていました。
いつかふたりで南の島に行こうなんて、無邪気に話してたね。
並んで飛行機に乗る日を想像してたけど…今私の隣には、誰も座ってない。
ねぇ、ジュン。もう雲の上だよ。
人って凄いよね、ここまで空を飛べるんだ。
雲の上…天国だよね。
なのに、どうしてあなたはいないの?
イヤフォンから流れてくるのは、彼が好きだったあのバンド。
そのアルバムのタイトルは…ジャガーハードペイン。
“戦地で死んだ青年・ジャガーの魂が現代へとタイムスリップし、故郷に残して来た恋人マリーを探すストーリー”
そう銘打たれたコンセプトアルバム。
……私の“ジャガー”は、二度と蘇ったりはしないけど。
一人辿り着いた空港からは、夕暮れの海が見えました。
終戦から数ヶ月が経って、きっと平和な海を取り戻したはずで。
なのに…戦いの中にいたあの頃よりも、寂しいものに見える。
帰り道、柵に片腕を掛けて、私はずっとそれを眺めていました。
空いた手にジュンを抱えて、ずっとずっと、海を眺めて。
だから…足元にポタポタとこぼれて行くものがあったのは、私と彼しか知らない事でした。
鎮守府に戻ると、皆はいつものように迎え入れてくれました。
少尉さん以外には、『重大犯罪により射殺された』と言う事以外、まだ秘密にされています。
笑い掛けてはくれるけど、皆の瞼は腫れていて……それがとても、申し訳なく思えました。
「青葉。」
「……少尉さん。」
「……渡したいものがあるんだ。」
私が葬儀でいない数日の間に、ジュンの家と執務室へ家宅捜索が行われていたようでした。
捜索の結果、押収されたのはパソコンと、凶器となった拳銃のサイレンサーのみ。
それ以外は怪しいものは無かったようですが…皆でその後片付けをした際、ある物を見つけたそうです。
それは、4通の遺書。
幸い捜索班に見付からずに済んだそれは、一つ一つ、宛先が分けられていたそうです。
1つは皆へ。
1つはご家族へ。
1つは少尉さんに。
そして最後の1通は…私へと宛てたもので。
その日の夜、集会所に皆が集められました。
司令官代理として、大本営から少尉さんが抜擢された事。
全身全霊をかけて、これから退役していく皆をサポートして行く事。
それがジュンから、遺書を通じて彼へと託された願いであると言う事。
俺が必ず皆を守り通すと、彼は涙ながらに叫んで…集会所には、すすり泣く声が一つ、また一つと増えていました。
優しい態度は元と変わりませんでしたけど、ある時期を境に、本当の意味で皆と打ち解けられていたのは、私も感じてましたから。
「青葉さん…提督を助けてくれてありがとう…。」
ある駆逐の子が、涙ながらにそう言ってくれて。
私はただ、その子を抱きしめる事しか出来ませんでした。
ごめんね……助ける事なんて、出来なかったよ。
「青葉…。」
「ガサ…。」
その後部屋に帰る途中、ガサと鉢合わせました。
いつものように部屋まで付いてくると、椅子に座る私を、何も言わずに見守っていてくれて。
でも今は…そんな気遣いですら痛くて。
「ごめんね……今は一人にしてもらってもいい?」
「うん…わかったよ。でもね…。」
その時ぎゅっと抱き締めてくれたのは、ガサの暖かい腕でした。
「今は受け止めきれないだろうけど…整理がついたら、きっと泣けるようになる。
もし誰かに頼りたくなったら、いつでもおいで?
“衣笠さんは、ずーっと青葉の味方”だよ。ね?」
「ガサ……ありがとう…。」
ガサも帰って、ようやく独りになれました。
机にジュンのお骨を置いて、私はそれをまた何度も撫でて。
やがて撫でる手も止めて、恐る恐る開いたのは…私宛ての遺書。
そこには、こう記されていました。
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「………ジュン…。」
最後、彼の名を記した所には…涙の跡がありました。
それを塗り潰すように、手紙に次々と新しい水滴が落ちて行く。
ジュン……私、そんなにいい子じゃないよ。
今だって…前なんて向けない…。
あの日、艤装の解体が一日遅れていたなら。
あの時、私が代わりに撃たれていたなら。
“青葉聞いた?3日ぐらい前から、○○鎮守府の提督が行方不明だって。”
……もっと早く、私が自分の気持ちに気付けていたら。
こんな事には、ならなかったのかな。
かなしくて、さびしくて、いたくて。
あなたをころしたすべてさえ、こんなにもにくいまま。
いまどこにいるの?
さむいところ?
ひとりは、さびしいよね…あっためてあげたいし、あっためてほしい。
骨壷を開けて、そこにはジュンがいて。
私はバラバラになったジュンを手に取って、彼を飲み込んで。
飲み込んだ彼が食道を切って、咳をしたら血を吐いた。
それでも飲み干す。
私の中で生きて。身体の中は暖かいよ。
血になって肉になって、ずっとそばにいて。
わたしのなかで、いきつづけて。
気付けば、小さな骨壷の中身は半分程になっていました。
掌と鏡に映る唇には、真っ赤な血がこびり付いていて。
この瞬間、彼が死んだあの日以来、初めて笑えたのです。
彼が愛してくれた笑顔とは、程遠いそれを浮かべて。
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『マリへ。
この手紙が読まれている時は、多分俺が殺された後だろう。
まずは謝らせて欲しい。ずっと隠しててごめんな。
お前が着任した頃は、まさか1年半したらあんな関係になるなんて思わなかったな。
あの時は俺もイカれてた時期だし、お前もまだ未成年のド新人。
最初は変わった子が来たなんて思ったけど、その後しばらくはそれっきりだったっけ。
今思えば、何となく気にはなっていたんだと思う。
そんな事を自覚する力は、あの頃の俺には無かったけど。
記者志望だからか、ぐいぐい来る子だなーって思ってた。
でもそんな所に救われたし、人に戻してもらえたと思ってる。
真っ暗な所にいた俺を、無理矢理にでも引っ張り上げてくれた。本当に感謝してるよ。
能力上限解放用リング。通称ケッコンカッコカリ。
俺は艤装パーツに埋め込ませて皆に使わせてたけど、今となってはお前の時は、ちゃんと右手用の指輪として渡したかったな。
それでも左手の本物は、最後まで取っておく予定だったけど。
この手紙が読まれないままだったら、間違いなくお前と結婚してた。それが出来たらこの手紙は、こっそり燃やそうと思ってたんだ。
読まれている今、それは叶わなかったんだろうがな。
沢山バカなことをして、沢山笑い合って、沢山ケンカもした。
死んだあの子の事、お前の叔父さんの事、サクラの事。
お互いこの戦争で辛い事も悲しい事も、数えきれない程あった。
そこを超えて行けたのは、お前が側にいてくれたからだ。
俺は支えになってやれたのか、それが気がかりになるぐらいにだ。
自責の念に囚われる時も、心配かけちまう時もあって。
それでもお前に出会えて、俺は本当に幸せだった。心の底から笑えるようになれた。
どんな死に様だったのか、これを書いてる俺には知りようも無いけど。最期までそう思って死ぬんだと思う。
根の優しいお前の事だろう、苦しませてしまうかもしれない。泣かせてしまうかもしれない。
だからこそ、俺の事は忘れるんだ。
人殺しだって事を隠して、差し伸べられた手を掴んじまった弱虫の事は、さっさと忘れちまえばいい。
いつか、本当にお前を支えられる人が現れる。お前ならきっと、陽の光の下を歩いて行ける。
やっと掴んだ真の意味での平和だ、その先をずっと歩いて行くんだ。
いつかお前の書いた本が、あの戦争の犠牲者の魂と願いを後世に繋いでくれるはずだ。
俺はその夢とお前の未来を、ずっと見守ってるから。どうか未来を生きてくれ。
それが自業自得で死んだ、情けない男からのせめてもの願いだ。
追伸
青葉であり、マリであるあなたへ。
誰よりも愛してる。出会ってくれてありがとう。
後藤ジュンイチロウより。』
「………ジュン…。」
最後、彼の名を記した所には…涙の跡がありました。
それを塗り潰すように、手紙に次々と新しい水滴が落ちて行く。
ジュン……私、そんなにいい子じゃないよ。
今だって…前なんて向けない…。
あの日、艤装の解体が一日遅れていたなら。
あの時、私が代わりに撃たれていたなら。
“青葉聞いた?3日ぐらい前から、○○鎮守府の提督が行方不明だって。”
……もっと早く、私が自分の気持ちに気付けていたら。
こんな事には、ならなかったのかな。
かなしくて、さびしくて、いたくて。
あなたをころしたすべてさえ、こんなにもにくいまま。
いまどこにいるの?
さむいところ?
ひとりは、さびしいよね…あっためてあげたいし、あっためてほしい。
骨壷を開けて、そこにはジュンがいて。
私はバラバラになったジュンを手に取って、彼を飲み込んで。
飲み込んだ彼が食道を切って、咳をしたら血を吐いた。
それでも飲み干す。
私の中で生きて。身体の中は暖かいよ。
血になって肉になって、ずっとそばにいて。
わたしのなかで、いきつづけて。
気付けば、小さな骨壷の中身は半分程になっていました。
掌と鏡に映る唇には、真っ赤な血がこびり付いていて。
この瞬間、彼が死んだあの日以来、初めて笑えたのです。
彼が愛してくれた笑顔とは、程遠いそれを浮かべて。
その数日後、今度は特捜部の本部へと呼ばれました。
表向きは、人質への事情聴取と言う体での事。
実際の所は…あの件で隊長を務めていた男との、マンツーマンの取り調べではありましたけど。
「…………そうか。それが君の知る全てという事だな?」
「……はい。私の知っている事は、これが全てです。」
「本当に、事件そのものには関わりが無いようだな。
恋人だけは守り通すと言う、後藤の意地か…恐れ入ったよ。君を裁ける要素は、こちらでは見付けられない。」
「でっち上げでも何でも、あなた達の権限なら可能だと思いますが?」
「……出来んものは出来ん。それだけだ。」
「随分すんなり引き下がるんですね。
先程取り調べの為にと、捜査過程を聞きましたが…本来なら、それを黙って無理矢理容疑を掛けられる立場でしょう?
私に捜査過程を教えると言う事は、復讐のソースを与える事と同義だと思いますけど。
あなた達を許す事は出来ません……でもあなたもまた、自分達の存在に疑問を抱いている。違いますか?」
「………さあな。これで君への調査は終わりだ、早く帰ってくれ。」
本部を後にすると、私はすぐ近くのカフェに寄りました。
メモ帳を出して、一心不乱にペンを走らせる。
そこに書き出したのは、取り調べの中で出てきた捜査経過の事。
死体は元帥の息の掛かった者達の手により、粉砕機で隠滅されていた。
その中の一人を尋問し、死体をミンチにした現場周辺から骨片を押収、DNA鑑定の結果被害者と判明。
戦後、元帥の圧力が弱まったのを機に捜査は飛躍的に進展した。
海軍幹部の一人を尋問し、元帥とジュンのやりとりが発覚した。
………そしてこれは、私にとっては信じ難いもの。
匿名の情報提供を参考に、徹底的に発生日周辺のジュンと被害者の足取りを洗った結果、糸口を掴んだ。
捜査の劇的な進展は、そこから始まった。
あの件は軍内での事件として、軍以外では告知もされていなかった…。
情報提供のポスターだって、各鎮守府の掲示板にのみ。外の交番や警察に貼り出されていた訳じゃない。
そんな限られた中で、情報提供する存在……少尉さんや裏方さん達を除けば…他は…。
………他は。
本部は遠い所でした。
でも鎮守府に帰るまでの記憶は、ほとんどありません。
新幹線の中も、いつもの通り道も、朧気な記憶のまま。
そんな中…近所の公園に近付いた時、ようやく滲んでいた意識が正常に戻りました。
そこにいたある存在に、声を掛けられた事によって。
「青葉ー、おかえりー!」
「ガサ!どうしたの?」
「迎えに来たんだよ。大丈夫だった?」
「…うん、キツい尋問とかは無かったよ。」
「良かった。早く帰ろ?」
来てくれたんだ…心配かけちゃったかな。
てくてくといつもの公園を歩いていると、自販機が目に入りました。
「青葉、ちょっと休んでく?」
「うん…そうしよっか。」
ジュースを手にベンチに座ると、既視感を覚えます。
…そうだ、ここでもジュンとこうしてたっけ。
ふと選んだジュースも、その頃よく買っていたもので。
ああ、ジュンはここでよくコーラ買ってたなぁなんて、また寂しくなったものでした。
もう誰もいない時間かぁ…日が長くなったね。
「……提督、本当に死んじゃったんだね。」
「……うん。夢じゃないんだよ。」
「…まさかあの件に関わってたなんて、びっくりだよ。
あんな良い人が…元帥に命令されたのかな。」
…………。
………………。
「ねえ、ガサ……。」
「どうしたの?」
「____なんでガサが、その事を知ってるの?」
捜査が終わるまでは、何故殺されたのかはまだ秘匿義務がある。
真相は、私と少尉さんしか知らない。
それをこのこは、どうしてしってる?
少尉さんや裏方さん達以外に、通報した可能性のある者……日頃接する機会が多い分、不在だった事を知りやすい者……。
それは、艦娘。
ガサはしばらく、黙ったままでした。
でも……少し口角を釣り上げると……
「____何のこと?」
ガサは蝶が羽を開くかのように、そう笑ってみせたのでした。
いつかの夜や、防空棲姫と化した母親を殺した時と同じ…。
ゾッとするような、あの笑顔で。
今回はここまで。
「……………ガサ。」
「何?青葉。」
まるでさも何もないかのように、あの子は笑う。
何も悪意など無いかのように、薄らとあの子は笑う。
……嘘、だよね。
そんな私の気持ちを嘲笑うかのように、頭の中では次々と点と線が繋がって行く。
そうだ、あのバラバラ殺人も…
あの時現場の近くにいて。
捕縛術や体術を齧ったことがあり。
__そして、殺人と解体の経験がある者は。
「………ガサ、まさかあの事件も…!」
「そっかそっかー、さっきうっかり口滑らせちゃったね。
でもやっぱりそうだったかぁ、アレ提督が殺っちゃったんだ。ただ、『そう言えばあの日いなかった』って、電話しただけなんだけど。
でも流石だね、そっちも気付くなんて。
確かにあのバラバラ事件も衣笠さんだよ?」
「……どうして…。」
「どうしてって?何も悪い事してないじゃん。
あのクソ野郎は天罰下しただけだし、提督だって犯罪隠して青葉と付き合ってた嘘吐きだよ?
あのヤリチンが死んだ時、スッキリしたでしょ?
提督も嘘吐きだから、通報しただけ。
青葉にはあんな奴いらないよ……ね?」
「…………!!」
その時私は、人生で最大の恐怖を感じたのです。
戦場のどんな敵よりも、死を意識したピンチよりも、何よりもおぞましいもの。
怪物としか言いようの無い、絶対的な狂気。
そんなものを感じさせる視線が、目の前の親友から放たれている。
その現実を前に、私は石のように固まってしまったのです。
「……むぐっ!?」
「……………。
………ぷはっ。ふふ、そんな顔も可愛いね…。
…青葉だけだよ、私が人殺しだって知っても離れなかったのは…。
言ってくれたよね、ずっと友達だって…嬉しかったなぁ…。
だから要らないの。邪魔する奴らは皆要らない。
クソ野郎も嘘吐きも、皆消してあげたでしょ?
あんたの嫌いな奴ら、あんたの邪魔する奴ら、これからも皆消してあげる。」
「………ガサ…どうして…。」
恐怖で歯がカチカチと鳴り、息が上手く出来ない。
殺意の無いガサの目は、その実何よりも鋭いナイフのように見えて。
「あんたが欲しいだけだよ?もう寂しいのはヤなの。
邪魔なんだよ、皆。だからどかしただけ。
ゴミを捨てるのに何か感情なんて持つ?持たないよね?
提督、良いように利用出来たと思ったんだけど。失敗しちゃったなぁ。
人殺し同士、仲間になれるかと思ってたけど…ダメだったね。役立たずだよ。」
「…………!!」
ですが、私の中が水を打ったように静まり返ったのは…その言葉を聞いた時でした。
……これまでのガサとの記憶が、頭を巡ります。
楽しかった思い出や、いつもの日常…走馬灯と言う奴でしょう、それが次々巡っては消える。
死んでしまうのは、私ではないけれど。
「………ガサ。」
「あはっ…青葉……分かってくれるんだね…。」
優しく抱きしめて、ガサの温もりを感じて。
見えないけれど、肩に落ちる水滴の正体は、きっとこの子の涙。
苦しかったのでしょう、寂しかったのでしょう。
故に、壊れてしまったのでしょう。
……でもね、ガサ……。
私はあなたを許さない。
首を絞める意味は無い。手を汚す価値も無い。
この子の返り血なんて、浴びたくもない。
私の存在に、依存してたんだね…だからこの子を殺すのに、凶器も暴力もいらない。
『言葉は剣よりも強し』……ただ優しく、耳元でこう囁けばいい。
この子に一番、言ってはいけない事を。
「___気持ち悪いんだよ、この人殺し。」
「…………。
………ふふ……あはっ…あはははははははは……。」
公園にこだましていたのは、あの子のか細い笑い声と、立ち去る私の足音だけ。
それもやがて風の音に呑まれ、聞こえなくなっていました。
ガサが死体で見付かったのは、翌日の事。
自室で血の海に倒れ臥すあの子は、笑いながら泣いていました。
首にはナイフのためらい傷がいくつもあって、最後の一撃がようやく動脈を切ったようでした。
かつて母親を殺した時のように、あの子もまた、同じように死んだのです。
『私は愛されたいだけのバカでした。
みんな、ごめんなさい。』
遺書として残されていたメモは、真実を知る者にしか分からない内容で。
動機不明のまま、ガサの死は自殺として処理されました。
血が飛び散った壁には、いつか二人で撮った写真が飾られていました。
写真の私は血で真っ赤に染まっていて…それを見た時、悲しさや虚しさより、気持ちの悪さを覚えたものでした。
あの子の葬儀には行ったんです。
でも…焼かれて小さくなってしまったガサを見ても、ジュンの時のような感情は抱けなかった。
スッキリしたとも、ぽっかりしたとも言えるような虚しさ。
私が感じていたのは、ただそれだけでした。
その後最後の仕事を終えた私は、逃げるように軍を去りました。
就職の為に借りたのは、二人で住もうとしていた神奈川じゃなく、都内の小さなアパート。
何よりも先に開けた荷物は、ジュンの遺骨と遺影。
それをタンスの上に置いて、ただボンヤリと夕日を浴びていました。
こうして私の戦争は、終わりを告げたのです。
平和も取り戻し、新たな日々が始まる。
皮肉な事に、あの戦争で得た大切なものも確かにあった……それも最後は全て無くしてしまったけれど。
仇を討ちたいと願った叔父さんは、怪物に変えられ。
この手で、叔父さんを殺し。
あの戦争を通じて出会った恋人は、終戦と共に国家に殺され。
そして最後に。
あの戦争を通じて出会った親友を……
私は、この喉で殺したのでした。
ジュン…もうすぐ仕事が始まるよ。
ひとりだけど、あの日みたいに、泣いたりしないから。
大丈夫、大丈夫だよ。
もう、『泣けない』から。
今回はここまで。
次回、最終回を予定しています。
いつかのおおいわのうえで、わたしはわらっていた。
ふたりでいればどこでもてんごくだって。
あのひともつられてわらった。
かたくかたく、つないだてとこころ。
そこにあったもの。
なみおと。
すな。
たいよう。
かぜ。
あおいうみ。
えがお。
けしのはな。
とりがとぶ。
じゅうせい。
おとのないせかい。
きょむ。
てんごく。
そのなかで、なまなましくかんじたもの。
ちのにおい。
………また、あの夢…。
時計に目を移すと、朝の8時でした。
もう何度見たのか忘れてしまった、あの頃の夢。
寝室から出て、キッチンで水を飲む。
体内を通る冷たさが、何とか意識を今に連れ戻してくれる。
それが今の、朝の日常です。
『お疲れ様です。
予定通り14時にお伺い致しますので、よろしくお願い致します。』
今日は…14時に打ち合わせか。それまでは仕事かな。
あれから8年。
今の私は、とある在宅の仕事をしています。
それと同時に、艦娘を辞め記者になる時に捨てた『青葉』を、またやっているんです。
『青葉マリ』
艦娘としての『青葉』と、本名である『マリ』を掛け合わせたもの。
それが今の、小説家としての私の名前。
あの後3年程記者をしていましたが、『あるスクープ』を書いたのを機に、当時いた出版社を辞めてしまいました。
深海棲艦との戦争中に起きた、軍のとある不正をスクープしたんです。
世間は大変な騒ぎとなり、軍や政界に逮捕者も続出。挙句には、当時の関係者の自殺と言った事態にまで発展しました。
…ジュンの犯した罪も殺人ではあるけど、それ以上の謂れのない汚名だけは晴らせたのです。
ですが私の書いたスクープにより、特捜部の隊長は自殺した。
彼はどこか、復讐を望んでいるような印象もありましたが…今となっては、真相は闇の中。
『お見事だ、完敗したよ。』
自身の胸を三発撃ち抜いた彼の側には、綺麗な字でそう書かれたメモが遺されていたそうです。
……私の紡いだ言葉が、また人を殺した。
それを噛み締めた時、『あの子』の時のような空虚さを感じたものです。
その後少しの間は、フリーの記者として食いつなぐ日々でした。
機を同じくして、知人から小説の執筆を勧められたんです。
仕事の暇を見ては書き続け数ヶ月。それがある大きな賞を取り、私のデビュー作となりました。
その小説は…死の淵から生還した軍人の辿る、苦悩と再生の物語。
…デビュー作以降も、次々と作品を世に出しました。
助からない事故に遭遇した記者の、最期の20分。
幼い少女が辿る、残酷な運命の架空戦記。
精神を壊した青年と、その恋人が辿る結末。
愛を欲していただけの、殺人鬼の少女の世界。
どの作品も、世間からすればヒット作となりました。
映画化やドラマ化もされ、側から見れば私も売れっ子になれたのでしょう。
でも私にとっては…物語としてでも、あの人達が生きた証を残す事。そちらの方が余程重要でした。
処女作の刊行から4年を経た今でも、本屋さんに置かれている。それだけ多くの人の手に、彼らの生きた跡が渡っている。
売れた事以上に、その事が何より嬉しかった。
記者として復讐を果たした今、私が生きる意味はそれしか残っていませんから。
書いて…書いて……来る日も来る日も書き続けて。
気付けば手首はタイプのし過ぎで腱鞘炎になり、視力も随分落ちて。
もう三十路手前で、7つ違いのジュンより年上になってしまいました。
それと…あの頃と違って、髪をバッサリと切ったんです。
この前出版社のパーティに着る服を買いに行ったら、勧められたスカーフと帽子も違和感が無いようになってしまって。
もうおばさんだなぁ…なんて、切なくなったりしたものでした。
心の中は、今でもジュンが好きなままなのに。
小さなアパートから始まった都内での生活も、気付けばそこそこのマンションに一人で暮らす日々。
ずっと変わらないのは、すぐ見える位置に置いたジュンの遺影と遺骨で。毎日お線香をあげて、その日あった事を話すんです。
写真の彼は、笑顔で聞いてくれている気がするから。
「~~~~♪」
決まってそんな時は、彼の好きだった音楽を部屋に流して。
…あ、この曲……。
彼が死んで、1年が過ぎた頃でしょうか。
その頃の私は、泣く事だけは上手く出来なかったんです。
当時の職場でも明るい子で通っていて…でも一度休日になれば、床から窓の外を見るばかりの生活でした。
ぼーっと青空を眺めても、何も晴れやかじゃなかった。ひたすらに虚無でしかなくて。
そんな時ですかね…何となく再生した、あの歌が入っているアルバム。
それをぼーっと聴いて、最後の曲になった時。
血が泣いてる。
ただその1フレーズだけで、涙が溢れてきたのは。
“ああ、こんなに虚しいのは……。
やっぱりあの人は、私の家族になるはずだった人だからなんだ。”
そう感じた時、涙が止まらなくなったんです。
ジュンだけじゃない…扶桑さんの事、あの子の事、叔父さんの事……それと、ガサの事。
あの戦争で私を駆け抜けたいくつもの死が。
直接、間接問わず奪ってしまった命が。
その時ようやくそれらへの感情が、涙と共に溢れ出て来たんです。
「……ジュン。」
遺影に話しかけても、返事は無い。
ティッシュを一枚瞼に当てて、私は仕事用のPCに電源を入れました。
今、とある連載の準備をしてるんです。
今日の打ち合わせも、来るのはその担当さん。
連載が告知された時、私はSNSでかつて艦娘として戦地にいた事をカミングアウトしました。
何故ならこれは、艦娘時代の事を記したエッセイだからです。
書けない事も多いのですが…艦娘としての日常、仲間たちの事、戦場での生と死。
それを出来るだけ、今度は体験記として記しておきたい。
あの戦争がどう言うものであったのか、後に遺していく為にこそ。
そして私はこの連載を最後に、筆と命を折る。
鍵の付いた引き出しを開ければ、1瓶のテキーラと、沢山の睡眠薬。
そこに最近、プリントアウトした遺書も加えました。
この連載を終え、それが本になった日の晩。私はこれを飲み、命を絶つ。
それがエッセイを始める時に決めた事でした。
もう世に残したい事は、書き尽くしてしまいましたから。
そして…これが、最後の復讐でもある。
あの時誰も救えなかった私を、私の手で裁く為に。
笑っちゃいますよねぇ…1番強いテキーラを探したら、瓶がドクロ型なんですよ。自分が骨になる為に用意するのに。
引き出しの鍵を閉めたら、ちょうどPCも立ち上がった頃。
その後はお昼も食べず、ずっと画面に向かっていました。
「青葉先生ー、担当の__ですー。」
「あ、はーい。」
あ、もうそんな時間かぁ。
今回の担当さんは、私の1つ下。晩年のジュンと同じ歳の方です。
今日はお世話になってる編集長も一緒で、3人で入念な打ち合わせをしていました。
籠りがちなこの生活をしてると、季節感もおかしくなるものです。
担当さん達が寒そうにコートを着ている様を見て、もう年末だと言う事をようやく思い出しました。
そっかぁ、もうすぐ…。
「…久々に会ったが、青葉君も元気そうでよかったな。__、よろしく頼むぞ。」
「はい!ざっと聞いただけでも、壮絶なエピソードだらけでしたね…。」
「青葉君とは付き合いも長いからな…さっきは出なかったが、他のエピソードも聞いた事がある。」
「何か、不思議な人ですよね…可愛らしい部類の顔だけど、妙な色気があるって言うか……。
文章や本人のあの雰囲気って、そう言う所から来てるんですかね。言葉は悪いけど、未亡人みたいだなって…。」
「………未亡人とは呼べないが、近いものはある。」
「……それって…。」
「後藤ジュンイチロウ。お前もこの名は知っているだろう?
5年前、死後数年にしてなお、軍はおろか国会すら揺るがせた男だ。
彼女はそこにまつわる件をスクープした記者であり、裁判や捜査の渦中にもいた。デビューはその後さ。」
「……!!」
「……触れてやるなよ?恐らく今回のエッセイでも、その話は出てこないだろう。
過去の彼女の作品も、何処か実話がベースにあるのかもしれんな。」
「………はい。」
何日か経ち、雪が降った日の深夜。
私は執筆の気晴らしに、雪景色の中を歩いていました。
都内としては大雪で、新雪に私の足跡だけが刻まれて行く。
誰も歩いていない住宅地。でも通りの公園や、誰かの家の庭。あちこちがイルミネーションで輝いていて。
…今日は、クリスマス・イブですから。
缶コーヒーを買って、屋根付きのベンチで一息。
公園の一角にあるここからは、周りのイルミネーションがよく見えます。
雪に吸われて、一層静かな夜。
白く積もったそこにイルミネーションが反射して…それはとても綺麗で、寂しい景色でした。
「……メリークリスマス。」
ポツリとこぼしたのは、そんな独り言。
空に向けてみたって、誰の耳にも届かない。ただの世迷言でした。
さて、帰ろう…風邪引いちゃいけない。
人気の無い夜道を、またとぼとぼと歩き始めた時でした。
『ぞぶっ……。』
腰に熱さと重みを感じて。それが痛みだと気付くのに、何秒か間が空きました。
腰からじわじわと流れ出たものが、気温で一気に冷えて行く。
それが血だと気付いた時、後ろを振り返ると…。
「………ガサ?」
一瞬、確かにあの子が見えたんです。
でもそれは一度会った事のある、ガサによく似た初老の人。
「………よくも…娘を……!!」
はは…そっかぁ…お父さん、本当そっくりだもんね……別の遺書でも遺してたのかな?
ああ、やっぱり罰って来るんだね…。
倒れた時、雪がクッションになってくれて。それは布団に飛び込むような心地よさでした。
刺されても、意外と色々考えられるんだ…。
ガサのお父さんは、ナイフを手に何処かへ消えてしまいました。
終電を過ぎたクリスマスの夜、他に誰かが通りかかる事もない。
じわじわと、周りの雪が真っ赤に染まって。それもすぐに積もっては消えて行く。
次第に体も雪に覆われて、私は溶け込んで行くかのよう。
このまま、一人で死ぬんだね……いいね、これ程相応しい死に様も無いよ。
もう、生きてくのに疲れたんだ…これで終われるなら、きっと最高のクリスマス。
…でもあの連載は、終わらせたかったな…それも含めて、私らしい終わりかぁ…。
「メリークリスマス。」
そんな時、確かに声が聞こえたんです。
何年経っても、一度も忘れる事なんて無かった声。
あの頃と同じ、白い軍服を纏う姿。
あぁ…やっと会えた…。
「……ジュン!!」
抱き着いた私もまた、あの頃の姿で。
触れれば触れただけ、その存在を感じられる。
……ずっと…ずっと会いたかった!
「……今までどこにいたの?」
「…どこか遠くさ。」
「………ばか。」
夢じゃないんだ…ましてやここは天国でもない。
確かなものとして、こうして抱き合えている。
重ねた唇は、あの頃のまま。
もう魂はいつでも二人。きっと変わる事も無い。
「……これで、ずっと一緒だね。」
「………。」
黙ったまま、彼は優しく私の髪を撫でて。
ようやく口を開いたのは、その直後の事でした。
「………そう言う訳には、行かないんだよ。」
「…………どうして?」
「簡単な事さ…お前は、生きるべき人間だからな。」
「……!?」
雪が、強くなる。
それはやがて吹雪に変わって、彼の姿を覆い隠して行く。
「……ジュン!!」
「時間みたいだな…お前には、帰るべき場所があるだろう?」
「…嫌だよ……もうジュンのいない世界なんて耐えられない!!
お願い…私も連れてってよ……ねえ!!」
「………ごめんな。」
「……ジュン……待って!!」
吹雪はやがて、真っ白な世界に変わって行く。
白く白く、目の前全てが真っ白に塗り潰される。
“生きるんだよ、お前は。”
最後にその声が聞こえて、世界が白く暗転した時。
目覚めた私の目には、真っ白な天井が映っていました。
「……先生!患者さんが意識を取り戻しました!」
その声に我に帰ると、次々と白い服の人達が部屋に雪崩れ込んできて。
そこでようやく、ここが病院だと理解出来たのです。
「………っ!?」
「ああ、まだ体を起こさないで。
危ない所でしたね…出血多量で一時危篤だったんですよ。
あちらにいらっしゃる方にも、輸血の協力者集めに奔走していただけまして…。」
奥の椅子に腰掛けていたのは、連載の担当さんでした。
彼は眠っていて…その顔には、深い隈が刻まれている。
「………ん……青葉先生!?
良かった……本当に良かった……!!」
自分の事のように号泣する姿に、いつかのジュンの姿が重なります。
その時、確かに私の肩に何かが触れたんです。
“俺はもういないけど、それでもお前を待ってる人がいるんだよ。
マリ……達者でな。”
優しく微笑んで、手を振る影。
それは幻なのかもしれないけど、確かにそこにいたんです。
ジュン……ずっと、守ってくれてたんだね。
過去は消えない、未来は疑いたくなる事ばかり。
心の痛みは変わらないけれど、それだけじゃ悲しい。
そうだよ、あの日から必死で生きて書き続けたじゃん…だから死を望むのは、あの人の遺志に背く事だ。
この時ようやく、私はジュンの望みを受け入れる事が出来たんです。
全てを失ってしまったけど、それでも生きようと。
いつかまた、何かを得る日が来るって。
ジュン…寂しいけど、私は生きるよ。
何があっても、本当に尽きてしまうまでは。
“…よく頑張ったな…!”
“うん…二人とも元気だよ。予定通り、男の子と女の子。”
“双子だもんな、賑やかになるぞ。
名前は前から決めてた通りでいいんだよな?”
“ふふ…うん、『サクラ』と、『ジュンイチロウ』って。”
『青葉マリ(あおばまり、××年×月×日-)は、日本の小説家、エッセイスト。
幼少期から叔父の影響で記者を志し、叔父に師事。
高校在学中の頃、叔父が取材中、深海棲艦による襲撃にて殺害される。
それを機に高校卒業後、艦娘として従軍。ペンネームである青葉マリの名は、この時適合した青葉(重巡洋艦)から取られている。
深海戦争の終結後、退役し××社の記者として勤務。
この頃海軍大佐暗殺事件、海軍大佐艦娘強姦殺人事件、憲兵隊特捜部不正粛清事件の3つの事件に纏わるスクープを掲載。
後に事件の真相究明、当時の閣僚や関係者の相次ぐ逮捕に繋がる重大な報道となった。
__年に××社を退社し、以降1年程フリーランスとして生計を立てる。
その頃知人の勧めにより、処女作を執筆。これが__賞を受賞しデビュー作となる。
その後も__賞の受賞、映画化と繋がり、_年までに80万部を売り上げるベストセラーとなった。
_年12月、当時住んでいた__区の路上にて、男に刃物により刺される。
その後一時危篤となるが、一命を取り留めた。
_年_月、1歳年下の出版社勤務の男性と結婚。
_年秋、双子として二児を出産。
_年にそれぞれ戦災孤児、被虐待児童の為の2つの基金を設立。
これらは艦娘として従軍していた頃、同僚に孤児や虐待経験者がいた事を機に設立された。
小説家として精力的に活動し、これまで長編を10冊、短編集を2冊、エッセイ集を3冊発行。
その内5作品は各々映画化、ドラマ化され、こちらも大ヒット作となった。
生涯現役を宣言し、寝たきりになるまでは書く事を目標として掲げている。
座右の銘は、「尽きるまでは生きる」。』
青葉「けしの花びら、さえずるひばり。」 完
当初はある方達の復活を機に書き始めたSSでしたが、かなり重いお話となりました。
書く方としてもそれなりにメンタルを整えて進めなければならず、長い時間が掛かってしまいましたが、ようやく完結できて安堵しています。
今までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
このSSまとめへのコメント
北上の人か…
まちきれないよ!はやく(次を)だしてくれ!
あ^〜だんだんと堕ちてゆく青葉たまらねぇぜ!
おつおつ……泣
たのしかた(´;ω;`)
EX彼女も続編待ってます