【将棋】神の一手が生まれる【バトル】 (10)
男「はぁ……はぁ……」
自分の心臓が早鐘を打って、首筋が痛むのを感じる。
彼はとある組織に追われていた。
追われる理由は彼自身重々承知していたし、彼がある『箱』を組織から盗み出しさえしなければ、こんな風に生死の狭間に立つ事はなかった。
追手は、男の隠れた倉庫のすぐそばにまで迫っていた。
戦闘員「いい加減腹決めて出てこいよコラァ……!」
誰が命を捨てに出ていくものか。
男は心の中で毒づくと、懐に手を入れ、盗んだそれを取り出した。
丁寧に手入れされた、椿油の香りがする桐箱。
それだけだったら大した価値はない。
中に入っているものが重要なのだ。
戦闘員「居んのは分かってんだよ!!出てこい!!」
男「……」
戦闘員「だんまりか……。テメェの首、大将の前に持ってくまで帰らんぞ俺ァ……」
流石にこれ以上は逃げられない。
悟って男は腹を決め、戦闘員の前に姿を現した。
戦闘員「! ようやく諦めがついたか?」
男「……」
戦闘員「ウチの組織から逃げきれねぇ事くらい、お前が一番よく分かってた筈じゃねぇか。しかも今回は盗んだものが悪かった。怒り狂ってたぜ、大将」
男「……」
戦闘員「不愛想な奴だ。言い残すこともねぇか?」
数秒、間があった。
男は静かに口を開いた。
男「『棒銀』」
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戦闘員「テメェエ?!使いやがったなッ?!」
組織の戦闘員は鬼の形相で激昂した。
間違いなく、一番に危惧されていたことが起きた瞬間だった。
戦闘員「テメェはもう許さねぇ……半殺しで連れ帰って地獄を見せてやるッ!!」
男「許してもらわんでいい……。お前に勝って俺は行く」
男の手には銀色のこん棒が握られていた。
先ほどまで持っていた桐の箱はどこにもなく、ただこん棒が青白く輝く姿が、サビだらけの倉庫の中で唯一美しかった。
戦闘員「しかも『棒銀』……俺も舐められたもんだなぁッ!!」
男「舐めちゃいないさ……これしか『知らん』のだ」
怒り狂う戦闘員とは裏腹に、男は息を整えながらも冷静だった。
もう追われる側の目ではない。
戦闘員はその目に更なる怒りを覚えた。
ついさっき『駒』を手にし、あまつさえ『棒銀』しか知らないような輩が、組織の戦闘員として確固たる地位を確立してきた自分に盾突いている。
プライドは大きく抉れた。
戦闘員「いいだろう、それなら徹底的に叩き潰してやる!!俺の得意戦法でな!!」
男「どうせ勝つしかないんだ……全力で行くぞ」
戦闘員「ハハハッ、俺を怒らせるのも大概にしろ!!初心者の小僧がッ!!」
戦闘員は渾身の怒りを持って叫んだ。
戦闘員「『四間飛車』ッ!!」
男「『四間飛車』か……カッコいいな」
戦闘員「ほざけ、これから嬲り殺しにしてやる」
戦闘員の左肩には大きな大砲が設置され、ゴウゴウと音を立てて唸り始めた。
―『棒銀』―
将棋を知らなくとも、どこかで耳にしているやもしれぬこの『棒銀』は、将棋の最も基本的な戦法である。
飛車先の歩を伸ばし、銀を繰り出して相手の角頭を突破する。
狙いは単純だがその実奥が深く、名人位獲得経験のある大御所の中にも、この戦法を愛用する棋士が居る。
―『四間飛車』―
最古の棋譜(将棋の一連の指し手を記録したもの)にも四間飛車が採用されている。
飛車を盤の右から六列目、四間と呼ばれる列に置く事で成立する戦法である。
かつて『居飛車穴熊』に駆逐された『四間飛車』だが、藤井システムで復刻を狙う侮れない戦法である。
男「泣いたって知らんぞ」
戦闘員「馬鹿が、さっさと投了しろ」
『棒銀』と『四間飛車』自体に、戦法による決定的な優劣はない。
両者は静かに向き合った。
男(『四間飛車』……『美濃』まで組まれたら厄介だが、『四間飛車』に対する居飛車は、こちらが指しやすい!)
戦闘員(『棒銀』……素人との実戦で何度も見てきた変化だ)
男「ハッ!!」
まず仕掛けたのは男だった。
手にした『棒銀』を振りかぶり、戦闘員の左肩へと振り下ろす。
戦闘員「易々と突破できると思うか?」
男「くっ!」
しかし『棒銀』はあっけなく弾かれる。
左肩に搭載した飛車はなおもゴウゴウと唸りを上げ、戦いの準備を進めているように見えた。
地面を転がった男は起き上がると、飛車の隣にもう二枚『駒』が存在しているのを見た。
男「『角銀』の盾……」
戦闘員「無謀だな、初心者」
単純な武器では届かない。
背を向けないようにじりじりと後退し、男はコンテナの陰に隠れた。
それを見た戦闘員は、次は自分の番とばかりに右腕を構えた。
腕がうっすらと銀色のコーティングで覆われていき、完全に包み込むと、それは鋭い槍と化した。
戦闘員「本来、居飛車の攻めを受け潰してカウンターが四間飛車の指し方だけどなぁ……それだけじゃ、腹の虫が治まらないんだよォ」
銀の6六銀型と呼ばれる四間飛車の戦型の一つで、持久戦を示す居飛車に対し『攻め』の形を見せることが出来る。
居飛車側が深い囲いに持ち込もうとするところへ、強烈な攻めをお見舞いする狙いである。
男(……この位置、まずいな)
間近で数々の『将棋』を見てきた男は、こんなコンテナなど無意味だという事をよく知っていた。
将棋盤を挟んで棋士が向き合えば、『駒』の威力はこんな鉄の塊一つで止まるほど温いものではない。
あくまで視界から隠れるための移動。
すぐに次の一手を放てなければ、ここは休める場所にはなり得ない。
戦闘員「はぁッ!!!」
男「う……おぉおっ?!」
男がコンテナから離れようとした矢先、背後から衝撃が襲って来た。
四間飛車と銀から繰り出される強烈な一撃は、何一つ『囲い』を持たない男の身体を、いとも簡単に吹き飛ばした。
戦闘員「『居玉』じゃあ話になんねーなァ」
男「くっ」
男は一度銀を引っ込めて立ち上がった。
口元を拭った男は、次の瞬間、苦しそうな表情を残したまま――
戦闘員「あ?」
その場に、ある『駒』を落とした。
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