飛鳥「ボクがエクステを外す時」 (112)

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 覚えているかい? 幼い頃を。
 世界は自分を中心に廻っていて、小さくもたくましいその瞳は輝ける未来を見据えていたはずだ。
 ……ボク? ああ、ボクもさ。でもボクだけじゃない。そうだろう?
 世界はボクのことなんて見向きもしていなかった。
 暖かな光は手を伸ばせば届き、積もる想いはいつか実る。そんなものは幻想に過ぎない。逆らうことも許されずボクらはただ流されていく、それが世界の本質だ。
 勝手に勘違いしていたくせに、ひどく裏切られた気分だったね。

 だからボクは、ボクだけのセカイを創ることにした。
 ボクを見放すような、いや、一瞥もくれなかった世界なんかいらない。周りにいたいつまでも幻想に浸っている連中を時に軽蔑しながら、つまらない世界に抵抗するためのセカイを。

 ――あぁ、キミは今こう思っただろう。『こいつは痛いヤツだ』ってね。

 それからのボクは傍観者としてなるべく世界を俯瞰している。退屈な日常に馴染んでしまわないため、セカイへ浸るようになっていった。
 おかげで世界についていろいろと知れた代わりに、世界から孤立していったボクはもちろん孤独になった。

 ボクは此処にいる。
 つまらない世界なんかいらない。
 そうは思わないか?

 叫んだところで誰の耳にも届かない。届いたところで、そんな愚かなことはやめておけと嗤われる。こいつは痛いヤツだと、抗い続けるボクを認めず流されるままの世界へ飲み込まれていく。最初からボクなんて存在しなかったかのように。

 こんな自分を認めてくれるのは、きっと自分だけ。

 あぁ、知っていたとも。もう慣れたさ、孤独にだって。
 ボクのセカイはボクだけのもの。理解者なんかいなくたっていい、どうせ現れやしないのだから。
 ……。
 そう、思っていた。
 キミと出会ってしまったあの日から、未知の世界を知ることになった。世界についてボクは知ったつもりになっていただけだったんだ。

 暗く閉ざされたセカイに――ヒカリが差し込んだ。




「こんなところにいたのか、飛鳥」

 事務所のあるビルの屋上で、息を白くさせながら流れる雲の行方を追っていると聞き慣れた声がした。
 時間になるまでセカイに浸っていたかったボクは、突然の来客に驚きこそすれ辟易はしなかった。目当てがこの場所ではなくボク自身にあるのだから。
 どうせもうすぐ顔を合わすだろうに、よく探し当てたものだ。緩みそうになる口元を引き締め、振り返る。いつものスーツ姿がそこにあった。

「やぁ、プロデューサー。どうしたんだい、わざわざ迎えに来たという風には見えないね」

「次の仕事が決まったんだよ。早く教えてやろうと思ってさ」

「フフ、仕事もボクも逃げやしないのにご苦労なことだ。伝えるだけなら携帯電話でもよかったろう」

「それだと味気ないだろ? まあ素っ気ない返事がくるかもとは思ってたけど」

「理解っているじゃないか。……理解っているといえば、よくボクがここにいると理解ったね。ボクらの波長が引き合わせたのかな」

「ああ、前に高いところが好きだとか言ってなかったっけ? まーだ肌寒いし、まさか本当にいるなんてなあ。こんなとこで何してたんだ?」

「ちょっと、ね。あぁ、キミと出会った日のことを思い出していたよ」

 アイドルという新しい世界に誘われた日。傍観者に徹していても独りでは知りようもなかった世界へと、ボクを連れていこうとするとはね。
 まさに青天の霹靂ってヤツさ。
 ボクはちょうど新しい居場所を求めていた。でもそんな都合の良い展開はボクのよく知る世界では起こりえない。それなのにこうして出会ってしまったのだから、あの日は世界に抗うボクが初めて報われた記念すべき日ともいえる。
 諦観していたつもりのくせに、心のどこかで求めてやまなかったものが手に入りかけている予感。その夜は眠れなかったものさ。そんなものだろう?
 もっとも、彼は仕事の一環として偶然目に留まったボクをアイドルに誘っただけなのだろうけれど。

「……アイドル、楽しいか?」

 腕をさする手を止め、控えめな調子でボクにそう問うてきた。
 楽しい。感情を四つに大別するなら、悲しくはないし、怒りもしていない。ならそれは楽しい、もしくは喜び?


「楽しめているつもりだよ。ここはボクを飽きさせない。もちろんキミもね」

「そりゃよかった。想像と違って嫌になったのか少し経って辞める人も多くてな」

「掴んだ夢のあまりの熱さに、その身を焦がしてしまったのさ」

「楽しいばかりじゃないからなあ。でも飛鳥にはぜひ長居してもらいたいよ」

 いなくなってしまった人との思い出がそうさせたのか、彼は遠く空の彼方を見つめていた。
 ボクもそれに倣い、意味もなく遠い空を眺める。静寂な空気に肌寒さが際立ち始めて、しかしそれが心地よく感じた。
 このまま浸っていてもよかったけど、彼の方は寒さが苦手なのかあっさりとその静寂を破った。

「うーさむっ。そういやあの時付けてたの、それだよな。黄色」

「あぁ、これかい?」

 エクステンション――エクステのことを言っているのだろう。彼と出会った日にも付けていた代物だ。その時の気分でカラーを選ぶことにしている。
 エクステは付けるのに時間が掛かるけど、その分付けた後にはそれまでと違う自分が待っているんだ。そうだな、目の良いヤツは伊達眼鏡を掛けたことはあるかい。フレーム越しに映る世界は別物に見えてくるだろう?
 ボク、二宮飛鳥という少女が「二宮飛鳥」らしくあるためにエクステは必要なパーツといっていい。これとともに世界に抵抗していたからこそ、今ボクは此処にいられるのだから。
 たとえ本質は何も変わっていなくても、ね。

「相変わらず目立つよなぁ。人混みとかで探しやすそうだ」

「そうやってあの日もボクを探し当てたのかな?」

「かもな。話してみたらもっと興味が湧いたし、声を掛けて正解だった。期待してるよ」

 ボクの方こそ、誰かに、ましてやオトナに、興味を持つようになるなんて思ってもみなかった。
 ボクのセカイに踏み込んできた彼を見ていると、期待せずにはいられない。
 新たな世界を求めて鼓動が高鳴っているくらいだ。

「俺何しにきたんだっけ……あ、そうだ。仕事の件だけど中に入りながら話すよ。もういい時間だろ?」

 携帯電話を確認してみる。たしかに頃合いだ。

「そうするとしよう。往こうか、プロデューサー?」

 肩を並べて歩き出す。つまらない存在だと忌避してきたオトナであるはずの彼と、同じ目的を持って前に進んでいる。それだけでもボクからすれば充分に非日常だ。
 独りじゃない。
 ボクは今、此処にいる。キミがくれた世界で。




「近々行われる年齢別にユニットを組んでの対抗戦フェス、その14歳代表に推薦したら通ってな。三人組が上限で二人までは決まってたんだけどさ」

「代表、ね。ボクが世代を象徴するにふさわしいと?」

 いわゆる中二、思春期真っ只中の14歳であることは自覚している。しかしアイドルとして選出されるなら、この世界に踏み込んでまだ浅いボクより他のアイドルの方が代表されるべきではないのか。

「せっかくだからこれを機に売り込もうってわけだ。同い年で組めばきっと良い刺激にもなる。それに知名度はともかくとして、能力で劣るなんてことはないよ」

「ふぅん。だいぶ買われてしまっているみたいだね」

 とはいえ、誰かと組なきゃいけなくなったと考えると、だんだん乗り気ではなくなる。
 ボクがこの場所で信用しているのは彼だけであり、他のオトナやアイドル達に興味はなかった。
 ……キミさえいればいいのに。
 心に残った古傷が、少し痛む。

「さて、あいつらは来てるかな」

 彼が目的地である一室のドアを開き、促されるように中へ入る。そこには見覚えのある、そして彼があいつらと呼んだ二人がそれぞれ待機していた。

「どこ行ってたんですか、プロデューサーさん! せっかくボクが早くきてあげてたというのに……おや、そちらの方は?」

「ククク、今宵のミサに招かれし同胞よ。邂逅の刻をまずは祝おう!」

 輿水幸子。自身のカワイさに絶対の自信を持ち、ボクと同じく一人称に「ボク」を用いるアイドル。
 神崎蘭子。ゴシックロリータ風の衣装に包まれ、独特な口調に彼女のセカイを感じさせるアイドル。

 ……だったかな。興味のなかったボクでも知っているくらいだ。


「俺がこの前スカウトした新人だ。ほら、お前も挨拶したらどうだ」

「ん……そうだね。やぁ、ボクはアスカ。二宮飛鳥だ。よろしく」

「むむ、あなたも”ボク”なんですね。ちょっとプロデューサーさん、ボクの特権だったのにこれはどういうことですか!」

 彼女の言い分はわからなくもない。所属するアイドル全員を把握してはいないが、ボクが来るまで他にはいなかったはずだ。
 それをわざわざ代表の選出で被らせることもなかっただろうに。
 もしくはそれが14歳らしさを表している、とでも? ……あながち否定できないか、ボクでいえば。

「まあまあ、いいだろそれくらい。二人とも方向性違うのにそこだけが共通してるなんて、面白いじゃないか。しかも同い年ときたもんだ」

「フフーン、ボクのカワイさは同い年どころか、全世代の方々の追随を許しませんけどねぇ♪ いいでしょう、カワイイボクを引き立ててくれるというなら気にしないことにします」

 存外素直というか、よくもここまで確固たる自我を隠すことなく体現しているものだ。
 そういう意味ではこちらもそうなのだが。

「我と近しき領域に住まう者、であるか?」

 翻訳機はないのだろうか。フィーリングは何故だか伝わってくるのだけど。
 えっと、返事した方がいいのかな。

「どうだろうね。似て非なるものだと思うよ。あるいはもう一つのボクのカタチ……近くもあり、遠くもある。そんなところか」

「……うむ! 我が名は神崎蘭子。来たる聖戦に向け、魂を共鳴させて往こうぞ!」


「二人とも、何を仰ってるんです? ああもう、蘭子さんについては覚悟してましたが、ボクの周りに話の通じる方はいないんですか……」

 幸子の中ではボクと蘭子は同類らしい。ボク、そんなに難しいこと言ったか?

「ははは、これから仲良くやっていけそうだな。ちなみに俺がお前ら14歳代表のプロデューサーだ。よろしくな」

「知ってますよ。あなたはボクのカワイさを世界中に広める、とても栄誉ある大役があるんです。忘れていないでしょうね?」

「我が友に遙かより見出されしこの魔翌力、望みとあらば求めに応じ解き放たん!」

 発言の内容を察するに、三人は面識があるようだ。何かを思い出してしまいそうで、なんだか心がささくれ立っていく。
 あぁ、またこの感覚か。自分だけが共有できない世界を前にどうすることもできないでいる。新参者が常に歓迎されると思ったら大間違いなんだ。
 プロデューサーすら、さっきまでボクと屋上にいたヤツと同一にはもう見えない。ボクの知らない歴史と、そこで構築された世界がボクを拒む。そんな錯覚に陥る。
 ……考えすぎか。
 これから同じ舞台を控える同志なのだから、排除する必要性がどこにある?

「やれやれ。個性の海に沈まないよう、足掻いてみるとしよう」

 自分らしい言葉を、一抹の寂しさと一緒に吐き出す。
 白い息に乗せてかき散らしてしまいたかったが、室内は白く染まるほど寒くはなかった。

「心配しなくてもあなたも個性的ですから! ……あー、知ってると思いますがボクは輿水幸子といいます。えっと、飛鳥さん? よろしくお願いします。ちょっとだけ先輩のボクが何でも教えてあげますから、頼ってくださいね!」

 自尊心の塊かと思いきや、礼儀正しさを漂わせながら彼女なりにボクへ気を遣う幸子と、

「我が友の如く、我が波動を解するやもしれぬ『瞳』の片鱗を秘めし者……飛鳥ちゃんかー♪ あ、いえ、その……創世の時!」

 一瞬何か崩れなかったか?
 仮面の奥に潜んでいるのは純真か、それとも。どうにか覆い隠そうと口調を戻す蘭子と、

「この二人のことなんてすぐに追いつけ追い越せだ。頑張ろう、飛鳥」

 その発言の意図はなんですかと幸子からの小さな抗議を軽くあしらいながら、いつもの笑みを浮かべるプロデューサー。

「……うん」

 考えすぎ、だよね。
 こうして期間限定ユニットの結成はあっさりと成されたのだった。
 新参者のボクをなんてことなく許容し迎え入れた同い年のアイドル二人、幸子と蘭子にも少しだけ興味が湧いてきた。彼の思惑通り良い刺激になりそうだ。
 ここが当面のボクの居場所。
 悪くない。


「ところでプロデューサーさん、ボク達のユニット名はどうなってるんですか?」

「そこまでは決めてないんだよ今回。コンセプトが年齢別だから一目でわかりやすいようにさ、お前らはさしずめ14歳組ってとこか」

「味気ないですねぇ。もっとこう、ボクのカワイさがにじみ出るように……カワイイボクと同い年の仲間たち、どうですか!」

 部屋の空気が凍りつく音がした。




「だって、カワイイでしょう?」

 それが幸子の回答だった。
 概ね想定していたが……。

「こんなにカワイイボクがボクだなんて、もうカワイさしかありませんね! いやー、てっきりボクのカワイさに立ち向かってくるライバルがとうとう出現したのかと思いましたよ」

 頭が痛くなってくる。
 どういう過程を乗り越えてその解に到達したのだろう。

「飛鳥さんも、結構お似合いですよ。まぁボクほどではありませんが」

「似合うというのがどういう意味で使われているのかわからないけど、キミとボクでは違うとだけ言っておくよ」

 早速行われたレッスンの休憩の合間に、ボクらが”ボク”を使う理由の話になった。
 “我”である蘭子は当然除け者となってしまう。なんだか悪い気がして様子をうかがうと、蘭子も気になっていたのかボクらの会話に目を輝かせていた。

「ボクほどカワイイ子なんてそうそういないでしょうからねぇ。そりゃあ違いますとも」

 幸子の物事を測る基準にはカワイイかどうかがほぼ必ずついて回ってくる。
 話が通じていない時があるのはボクらが原因ではなくむしろ幸子なのでは、と思わなくもない。ある意味で。

「なにやら不服そうですね? では飛鳥さん、あなたはどうして”ボク”なんですか?」

 ふと、息が詰まる。
 セカイが揺れる。

「……そうだな。一言でいえば、記号に惑わされがちな世界でより正確にボクという存在を示すため、かな」

 全然一言にまとまらなかった。まぁ、お約束ってことで。
 この世界で生きていれば誰もが幾度となく味わってきたはずだ。男だとか、女だとか、コドモだとか、オトナだとか。そういった単純な記号でしか判断せずに測られることが、往々にしてある。
 ボクがボクであることに見向きもせず、ボクが何者かを決定しようとする行為は。
 「二宮飛鳥」という存在を否定しているのと同じだ。
 ボクがボクと自称するのも、世界への抵抗といえなくもない。英語と違って一人称はたくさんあるんだ。女だから私、それではつまらない。

「?? はぁ、苦労されてるんですね?」

 いまいちピンときていないようだった。
 無理もないか、幸子ほど自我を剥き出せるヤツなら、誰の目にも同じ輿水幸子が映し出されることだろう。
 と、思い至ったところで、そんなことはあるはずないとボクの胸の奥が訴え出した。
 自戒する。ボクもまた、輿水幸子という記号だけで幸子を判断してしまってはいないか?
 ……危ない、ボクもまだまだだ。

 人のことなんて簡単に解りやしない、要はそれに尽きる。


「まぁ、そこを言うとプロデューサーはそこいらのオトナとは違うみたいだ。人を見る目というか、記号に惑わされない力がある。ボクはそう思うね」

「……我も同意しよう。その言の葉に内包された言霊を」

 傍観者となっていた蘭子がそこでようやく口を挟んできた。
 思い当たることがあるのか、目の輝きはなりを潜めてしまっている。

「我が友の導きがなければ、我が我を謳歌することも難儀なものであったろう」

「むむむ……? 我が友ってプロデューサーさんのことでしたっけ?」

 うむ、と首肯する蘭子。

「プロデューサーさんといえば、ボクたちをありのままにさせてますよね。知ってますか飛鳥さん、プロデューサーさんの机の下ではキノコが栽培されてたり、セーターが編まれていたりするんですよ。それだけ好きにさせておいてボクのカワイイワガママはあんまり聞いてくれないのは納得いきません!」

 プロデューサーという三人が共通できる数少ない話題のおかげか、幸子も饒舌になっている。
 ……え? キノコ? セーター? 何を言ってるんだろう。

「それはまぁいいんですけど、プロデューサーさんはボクが”ボク”っていうのを聞いてこない珍しい方でしたね。どういうわけかよく聞かれるんですよねぇ、いろんな方に。どうしてでしょう?」

「……どうして、か」

 本気で疑問に感じている幸子が、ボクには違う生き物に見えた。
 世界への抵抗だなんて、それは一定の常識ってヤツをわきまえているから自覚する行為だ。わかってるさ、女がボクというのは普通はおかしい。普通……嫌いな言葉だ。
 しかし彼女は違うらしい。カワイければいいじゃないかと心から思っていて、だから常識に、普通に、囚われたりはしないのだろう。
 ボクとはあまりにもかけ離れた価値観。でもそれが、ボクの目には眩しく映る。

 ……もともとボクらは違う生き物だ。さっき自分でそう発言したばかりじゃないか。輿水幸子と二宮飛鳥は違うんだ。
 ボクらは、違う。
 違うから――解り合えない?
 プロデューサーのことを思い浮かべる。彼とボクは、どうなのだろう。
 彼とボクは――解り合えている?

「我が友の持つ『瞳』の魔翌力を以てすれば、真実を照らす灯火を翳すことなど造作もない!」

「だからわかりませんってば、蘭子さんが何を言いたいのか」

「えー!? 幸子ちゃんにもやっと伝わってきたと思ったのに……はうっ」

「それです、蘭子さん! やればできるじゃないですか、さてはボクをからかってます?」

「ち、違うのー! 我は……そう、我の真なる姿は混沌より舞い降りし堕天使。仮初の姿にて虚言など弄さぬ!」

「蘭子さんが堕天使ならボクは天使そのものですね、なんといってもこんなにカワイイんですからそうに決まってます!」

「むぐぐ、堕天せし我を裁かんとする刺客がこれほど間近にいようとは……!」

 二人が和気藹々とする中、ボクはそう遠くない記憶を静かに辿っていた。ボクが自分をボクと呼ぶようになった頃、それはいつだったか。

 世界の在り様に気付いてしまった時、
 代わりにセカイを望むようになった時、
 ……エクステをつけるようになった時?

 いずれも正しくて、どれも違うような気がした。




「闇に飲まれよ!」

 一日が終わり、事務所を出る前に放った蘭子の台詞は、気疲れからかもはや理解が追い付かなかった。
 ……闇は何のメタファーだろう。飲まれる?

「お疲れさん。気をつけて帰ってなー」

 PCモニターに隠れいていたプロデューサーの顔がこちらを覗き、キーを叩いていた手は宙でひらひらしている。
 蘭子は満足そうに部屋を出た。彼らには意味が通じ合っていたというわけか。
 隣で茫然としていた幸子と目が合う。おそらく彼女と初めて意見が一致した瞬間だった。

「さすが『瞳』の持ち主といったところかい?」

 蘭子の言葉を借りて彼に問う。皮肉などではなく、つい口から出てしまっていた。

「まさか、これでも苦労してるんだぞ?」

 冗談めいた調子で返してきたプロデューサーは、しかし嘘をついているようにも見えない。
 たしかに同類でもなければ無理からぬ話だが。
 ボクとキミが同類であるなら、どうだろう。多少は伝わるんじゃないだろうか。

「同じユニットで活動する身としては、コミュニケーションが取りやすいと助かるんですけどねぇ」

「幸子もコミュニケーション取るの下手な方だろ」

「な、なんてことを! どこに目をつけてるんですかプロデューサーさんは!」

「あはは。飛鳥はどう思う?」

 急に振らないでほしい。
 隣からは、そんなことありませんよね? と視線で訴えかけられている。どうしたものか……。

「……理解るけど理解らない、かな」

「飛鳥さんまで!? こんなにカワイくて完璧なボクのどこに問題があると仰るんですか!!」

「はいはい、その話は今度にしよう。遅くなるぞ」

「絶対ですからね! もう……行きますよ、飛鳥さん?」

 ぶつぶつと文句を漏らしながら退室する幸子を追う前に、プロデューサーへ向き直る。ボクから何を受け取ったのか、首を縦に振ってくれた。


 別れの挨拶もそこそこにボクより一回り小さな背中を探して追い付くと、小言は既に止んでいた。

「飛鳥さんも寮にお帰りでいいんですよね?」

 先ほどのやり取りを気にした素振りもなく、何気ない世間話を持ち出してきた。慣れているのだろうか。
 ほっとした息が漏れてしまわないように気を付けて、返事をする。

「あぁ。キミもかい?」

「ボクの家からここまで通い詰めるのはさすがのボクも少し無理がありますからねぇ。山梨県なのでそう遠くもないですけれど。世界がカワイイボクを望んでいるので仕方ないんです」

「山梨、か。なるほどね」

「? 飛鳥さんの出身はどちらで?」

「静岡さ」

 隣接しているから何だというのか、しかし全国から人が集まっていると僅かながら親しみを感じてしまうものだ。
 もっともボクらの間となると、そこに下らない論争がつきまといがちだが。

「フフーン、富士山はボクのものですからね♪」

 そうきたか。

「好きにするといい。ボクはどっちだっていいしね」

「ではそうします。日本一高い山には日本一カワイイボクこそふさわしいんです!」

「たいした自信だ。見習いたいよ」

「どんどん見習ってください、じゃないと一番になれませんよ!」

 一番、それはトップアイドルという意味だろうか。彼女のことだから可愛さかな。
 ボクは可愛くなりたいとは思っていない。ただ自分のセカイを表現するためにいろいろ気は遣っている。このエクステもそうだ。

「……キミは一番になりたいのかい?」

「なりたい、じゃなくてなるんですよ。いいえむしろなってます! ボクをカワイイと言ってくれる人がいるんです。ボクがボクをカワイイと思わないでどうしてカワイくなれますか?」

「我思う、故に我在り……とは異なるか。でも、そうだね。その通りだ」

「飛鳥さんもせっかくアイドルになったんですから、自分のなりたいものを目指してみては? カワイさ以外でならきっとどうにかなりますよ。プロデューサーさんもついてますし」

 幸子にとってアイドルはどうやら手段でしかないようだ。
 生憎ボクもアイドルそのものになりたくてこの世界に入ったわけじゃなく、初めてボクを解ってくれた人に誘われるがまま非日常へ入り込んだまでだ。アイドルも、まぁ悪い気はしていないけど。
 ボクは何になりたいんだろう。もしくは何をしたいのか。ボクは何者であるかを、アイドルとして歌やダンスで表現する……存在証明?
 よくわからない。アイドルとしてのボクはまだ、そんなことを考える余裕はない。
 少しだけ、幸子がアイドルの先輩らしく見えた。
 これが彼女のセカイなのか。

「ではここで、ボクがどれぐらいカワイイかというお話を特別にしてあげますね。そうですねぇ、あの時の話をしましょう」

「……」


 幸子のカワイイトークを流していると、先に部屋を出ていた蘭子が事務所のビルの敷地から出てすぐの辺りで、落ちかける夕陽を眺めていた。ボクらを待っていたのだろうか。

「来たか、我が同胞達よ。落日の彼方へその身を闇に染めん!」

「?? あ、蘭子さんも寮生活されてるので同じ帰り道ですよ。寒い中待たせてしまいましたかね……あれ、出身はどちらでしたっけ?」

「我が生まれ落ちしは火の国よ!」

「……あぁ、熊本かな」

「ひ、火の国よ!」

 ボクが答えると、こだわりなのか言い直す蘭子だった。

「熊本県って火の国とも言うんですね? では三人で帰りましょうか。飛鳥さん、蘭子さんもボクについてきてください!」

 鼻歌まじりに幸子がボクらを先導する。帰り道ぐらいとっくに覚えているんだけどな。
 しかし東京は三人が横に並んで歩くには狭い路地が多く、いずれにせよ誰かが前を行くか後ろをついてくる形になる。
 今度は蘭子と並んで歩いた。それにしても、誰かと一緒に帰るなんていつ以来だろう。

「我が友から聖なる預言を授かっていたのか?」

 遅れてきた理由を聞いているのかな。まぁ、これぐらいはね。

「何でもないよ。遅くならないうちに帰れってさ」

「宵闇の広がる刻限までもう僅かね。我らが花園に辿り着く頃には月光が降り注ぐであろう」

 どうにも闇というワードの使用頻度が増えている。そもそも好きそうだな、ボクも嫌いじゃない。
 蘭子はそれっきり口を開かず、周囲のノイズに不思議とかき消されない幸子の鼻歌がボクらを包み込んでいる。ボクにとっては知り合ったばかりの二人と会話の続かない空間だというのに、居心地はさほど悪くなかった。
 居心地、か。
 独りに慣れるうちに気にすることもなくなった、とボクは思い込むようにしていたんだ。そういう余計な煩わしさとは無関係でいたかったから。

 他人と距離を置く理由なんてそんなものだろう? 解るヤツにだけ解ってもらえばいい。ボクにとってはそれが、プロデューサー……なのかもしれない。少なくとも、彼のおかげで孤独を感じることは減ってきている。
 そんな彼によって今日、新たに生まれた繋がりからは一体何を得られるのかな。どうせなら楽しいものだといいんだけど。
 ……。孤独にはもう、戻れない。出会ってしまったから。彼と。彼らと。
 そうと決まれば欲張ってみるか。傍観者に徹していたつもりが、ここからは観測者の領分だ。

 セカイが一歩、動き出す。


「闇……飲まれる……」

 蘭子のセカイにも触れるべく、まずは彼女らしい言葉遣いからアプローチしよう。
 蘭子の言葉を思い出す。ここまで何度も繰り返された闇は夜のメタファー、で合っているはず。
 ではその闇に飲まれる者とはどういったヤツなのか。彼が正しいのであれば意味自体は「お疲れ様」という返事で通じること――疲れたヤツが飲まれる闇。レッスンの疲労……それはそこまででもないな。
 空を見上げると陽は落ちきって、群青が漆黒へと塗りつぶされたがっていた。蘭子からすればボクらも闇に飲まれているに違いない。
 そのボクらは今、寮へと帰る途中だ。
 ……帰る?

「……フフ、だからお疲れ様なのか」

 思わず口にしてしまい、蘭子や先行して鼻歌まで歌っていた幸子もこちらを振り向いた。
 傍観者ではなくなってしまった――が、それもいいだろう。
 ボクのセカイは動き出しているのだから。

「いや、闇に飲まれよが気になってね。寮へ帰る途中のボクらは今、夜の闇に飲まれかけようとしている。その直前にプロデューサーへ送った言葉なら、それはつまり別れの挨拶――転じて、一日の役割を終えた労をねぎらう意味も含んでいそうだが、どうだろう」

「あー……わかるようなわからないような、でもそれならお疲れ様とプロデューサーさんが返したのも頷けますね。そうなんですか、蘭子さん?」

 幸子は納得してくれた、が。
 言ってしまった後で、闇なんて夜の他にも様々なメタファーとなり得るじゃないかとか、不安を煽る反証ばかりがちらついた。見当違いも甚だしく彼女のセカイを取り違えていれば、彼女を傷付けてしまうのは目に見えている。
 解ってもらえないのは、つらく、哀しいことだ。

 覚悟を決めて、蘭子の瞳に失望の色が浮かんでいないか確認すると、

「……う、」

 薄明かりではっきりとしないものの、言葉を詰まらせた蘭子の顔には、沈んだはずの夕陽が代わりに浮かび上がっていた。

「……うん」

「蘭子さん、もしかして恥ずかしがってます?」

「恥ずかしがってなどおらぬ! ……ククッ。そこまでの境地に達しようとは、やはり『瞳』を持っていたのだな、飛鳥!」

「……フッ、どうだろうね。プロデューサーがくれたのかもしれないよ」

「ボクは貰ってませんよそんな『瞳』なんて! なんですか、ボクだけ仲間外れなんですか!?」

「天に使えし者には我が魔翌力の波動を見定められぬか……」

「あ、今のはなんとなくわかりましたよ。ボクがカワイイのがいけないってことですね!」

「そういうことにしてあげようか、……蘭子?」

「うむ! 今宵は我も寛大なるぞ!」

 それからというもの、寮に着くまで他愛もない会話が途切れることはなかった。
 ボクより先に非日常を生きていただけあって変わったヤツらが多い。変わっていて、そんなに変わらない。その一員にボクは迎え入れてもらえたかな。
 ボクのセカイは、諦めることで余計な傷を負わなくするための、孤独に満ちた退廃的で閉鎖的なものだったけど。
 こんな帰り道も――良いものだ。




「首尾は上々、といったところか。比較できる判断材料がボクにはないから何とも言えないが」

「いや、正直かなり挑戦した人選だったけど何とかなるもんだ。でもそこはやっぱり同い年パワーもあるんじゃないか? もっとまとまりがつくまで時間かかると覚悟してたのに、驚いたよ。飛鳥のおかげかな?」

 忙しくなった日々の合間、気まぐれに早く事務所へ訪れてみると、デスクで仕事に勤しんでいたプロデューサーの他に誰もいなかった。早く来すぎたか、それともセカイがボクらを引き合わせたのかな、なんてね。
 三人での活動がメインとなってからというもの、彼と二人きりで落ち着いて話すのは久し振りだった。
 もっとも、それ以前から彼が抱えていたアイドルはボクだけじゃない。ボクが周りのアイドルを気にしないようにしていたから、二人でいることを多めに感じていただけだったのだ。
 彼といると、自然と鼓動が高鳴る。
 新しい居場所をまたくれたから、どうにも期待してしまう。

「他の組み合わせがどうなのか知らないけれど、どうだい? 勝算のほうは」

「そうだなあ。よその情報は本番まで何も教えない方が面白いかと思ってさ。言わないでおいたけど、聞く?」

「お楽しみ、ってヤツだね。いいよ、ボクもそういう趣向は嫌いじゃない」

 年齢別の対抗戦、そうは謳っても所詮はフェスティバル、お祭りみたいなものだ。特別に闘争心を掻き立てられるものじゃない。
 しかし彼がボクを選んでくれたからには無様な姿を晒したくない。ついでに好成績を収められたら、その程度のスタンスにとどめている。
 ボクを冷ますのも熱くさせるのもキミ次第、だろう?

「初めてユニットを組んでみてどうだった、ソロで活動した方が気楽だったりするか?」

「フフ、ついこの前まではきっとそうだと思っていたよ。まぁ、やってみるものだね」

「蘭子が『瞳』を持ちし同志よ、ってはしゃいでたな。あれを瞬時に理解するにはやっぱり素質がいるんだろうなあ」

「キミには素質がない、とでも? 蘭子に言わせればキミも『瞳』を持っているはずだ」

「ははっ、ないない」

 あっさりと否定する彼に、ボクは違和感を覚えた。


「今でも通じないことはある。でも蘭子が蘭子なりに何かを伝えようとしてくれているなら、俺はそれが何なのかわかるために努力する。でなけりゃ俺は、蘭子をプロデュースする資格がないと思ってるよ。同僚からは真面目過ぎだって笑われるけどな」

「理解するまで努力、か」

「じゃなきゃ俺を信じてついてきてもらえない。だろ?」

「……」

 そう、ボクがこうして彼を解っていなかったように、彼にもまた解らないことはある。ヒトであればそんなのは当然で、そんな当たり前を忘れさせてくれたから、つい勘違いしていた。
 彼の目に映る「二宮飛鳥」は、どんなヤツなのだろう。
 気になる。
 まるで別人なのか、それとも限りなくボクに近い何かか。案外それは「二宮飛鳥」より「二宮飛鳥」していたりして。
 ……「二宮飛鳥」するってなんだよ。

「俺なんてそんなもんだ。特別な才能なんてないから裏方にいるし、でも俺が裏方で頑張れば、誰かが輝きを増す。平凡なりにできる精一杯も、報われると嬉しくてさ」

「報われる……それがキミにとっての世界への抵抗なのかもね。ふぅん」

 理解者ではない。誰かを完全に理解するなんて無理に決まってる。理解が出来ないものはそこで思考を停止して、理解出来るものへ興味を移す。それが普通、ボクの嫌いな普通だ。
 ただそれを諦めなかったヤツがいる。それが自分の仕事のためだとしても、楽をしようとすればいくらでもやり様があったろうに端から選択肢にないのだ。
 理解されることを諦めていたボクへと引き合うように現れたのは、理解することを諦めない彼、か。
 とても理に適っていた。

「やはり、キミは他のオトナとは違うようだ。たいしたものだよ」

「お褒めに預かるとは光栄だな。そういうわけで、残念ながら俺は飛鳥の言う「痛いヤツ」でもない、と思う」

「さぁ、どうだろう? キミ自身も同僚に笑われるって言っていたじゃないか」

「それは……うぐぐ。ええ……そうか、俺は痛いのか……」

「……フフ、あはは」

 飾り気のない笑みが零れた。自分でも驚くほどに。
 彼のことが以前よりもっと知りたくなった。理解者じゃなくていい。ボクの知らないキミがいるなら、解き明かしてみたい。
 本当に興味の尽きないヤツだ。
 だからこそ、ボクは此処にいるのだろう。
 ボクの期待していた通りのヤツではない、そうはっきり宣言されたはずなのに、どうしたことかボクの心は哀しみに暮れることなく弾んでいる。
 そんなことはない。ボクらはきっと似ているはずだ。

 鼓動は高く、早く。熱を帯びて脈打ち出す。
 世界に抵抗して報われることのヨロコビは、キミのおかげでよく知っているから。
 これまで与えられてばかりだったボクでもキミと対等になれる方法があるというなら。
 ボクも……キミの期待に報いたい。
 あぁ、そうだ。非日常なんかより、ボクが本当に望んでいたものは、きっと――

「フフーン♪ カワイイボクが一番乗り~、ってなんだ飛鳥さんが先に来ていましたか」

「天に使えし者よ、我を忘れて貰っては困る……。ククク、煩わしい太陽ね!(幸子ちゃん、私のこと忘れてない……? おはようございます!)」


「あぁ、おはよう。二人は一緒だったんだね」

 幸子に続いて蘭子が中へ入ってくる。もうそんな時間か、と携帯電話を手に取るとまだ少し余裕があった。

「これでも早めに寮を出たつもりだったんですけどねぇ。さぁプロデューサーさん、時間前の行動を心掛ける立派なボクを褒めていいんですよ!」

「可憐な頬に遺された活力を与えし白き粒、実に甘美なる共演であったぞ(ほっぺたにご飯粒つけた幸子ちゃん、かわいかったな~)」

「ちょ、蘭子さん! それはさすがにわかります、ボクのカワイイほっぺたにそんな変な粒なんてついてないですから! ……もうついてないですよね?」

「なんだ幸子、お行儀悪いなー。寝ぼけてたのか?」

「だから違いますってばぁ! ……コホン。ほーらプロデューサーさん、こんなにカワイイボクがそんな油断するわけないじゃないですか。ボクのカワイイ頭をなでなですれば思い出してくれますかね~?」

「はいはい、カワイイねー」

「気持ちを! もっと気持ちを込めて!」

 四人が揃ったことでいつもの時間が流れ出す。
 幸子がプロデューサーに可愛がられようとするのも、あしらいながら最後にはちゃんと相手をしてあげるプロデューサーも、その様子をただ眺めている蘭子とボクも、いつも通りだった。

 そう、いつも通り。変わったところなんて見当たらない。いずれ飽きたら、おもいおもいに過ごすんだ。ボクだったら、そう。蘭子と話したり、時間まで音楽を聴くとかね。
 だというのに、どうしてだろう。
 今日はその幸子とプロデューサーのやり取りが目から離れなかった。
 ……あれ? おかしいな。見飽きた光景なんだけど。
 くすぐったそうにしている幸子と、なんだかんだと慣れた手つきで扱いを心得ているプロデューサー。そこに特別な意味なんて……ない、はずなのに。


 さっきまで浮かれていたボクの胸に、小さな、それでも確かに、よくわからない何かがつかえはじめた。

とりあえずここまで。以降は不定期更新となります


「どうだ、蘭子?」

「ふむ……微々たるものだが、熱き波動を感じる……(ちょっとだけ熱があるかも……)」

「……本当に体調がよろしくなかったんですね。どうしてボクに言ってくれなかったんですか?」

 口をとがらせた幸子は怒っているようには見えず、見上げる瞳は優しげにボクを映していた。蘭子は蘭子で何かを取り出そうとしている。さっき言っていたホッカイロに違いない。
 そうか、あの時ボクは浮かれていたのではなく、浮かされていたというのか……熱に。笑えない冗談ではあるが、それなら合点もいくというもの。
 言われてみると身体があまり言うことをきかないような気がしてきた。ラジオを聴いたりで夜更かしをしてるせいかな。しばらく睡眠時間を確保した方がよさそうだ。

「参ったな……。俺がしてやれそうなことは……うーん」

「まったく、こういう時は気が利きませんねぇ。寮まで送って差し上げたらいかがです?」

「そ、そうだな。急いで車出してくるから少ししたら下に降りてきてくれ」

 ボクを置いて話が大げさになってきている。このまま帰れないことはない、彼を煩わせるわけには……。
 車のキーを手に急ぎ足で出ていこうとする彼の背中を追おうとして、幸子に止められた。ボクよりも小さな身体が屹然と立ちはだかる。

「駄目ですよ、こんな時ぐらい大人しく言うことを聞いててください。プロデューサーさんもそうしてくれた方が安心するでしょうから」

「真に安息を得るのはそなたではないか?(幸子ちゃんもこれで安心だね!)」

「あーあー、何を仰っているのかわかりません! ボクは将来的にボクの足を引っ張られないために懸命な判断をしたまでですよ!」

 その台詞はただの虚勢で深い意味などない、解っていたつもりなのにボクは二人に謝りたくなった。足を引っ張りかねないのは事実だし、ボクが弱っている証拠だろうか。

「……ごめん」

 長く孤独に過ごしていると、他人にどう謝っていいかも忘れてしまうみたいだ。
 たった三文字の言葉なのに謎めいた重みが出てしまった。言う方も、おそらく受け取る方も。

「うぐ、べ、別に飛鳥さんを責めているわけではなくてですね? ほら、病は気からというのですから、いつものようにキリッとしてればいいんですよ!」

 自信に満ち溢れた態度から一変あたふたと狼狽える幸子は、なんだか見ていて心が安らいだ。素直じゃないな……人のこと言えないか。




「前から思ってたんですけど、飛鳥さんっていつも自室でお料理してるんですか?」

 プロデューサーに寮まで送ってもらった後、蘭子と一緒に部屋の前まで付き添ってくれた幸子が問いかけてきた。
 料理、か。ボクの家庭スキルはいずれも14歳の一般レベルといっていい。つまり、家庭科の授業で習った程度。

「いや、していないよ。どうして?」

「食堂で見かけたことがなかったもので。いつもご飯はどうされてるんです?」

「魔力の源を供給せねば、その身を蝕む魔を祓えぬ……(ちゃんとご飯食べないと、治るものも治らないよ……)」

「……適当に、コンビニとかで買ってきてるさ。霞だけで生きていけるほど徳を積んではいないからね」

 食堂の雰囲気はボクのセカイとは相容れなかった。あの空間に独りで食事をしに行く気にはなれず、同じ独りなら自室で済ませてしまいたい。
 孤独なボクを夜の闇は分け隔てなく包み隠してくれる。たとえ目的地が目的地であっても道中でセカイに浸る時間は充分にあり、夜に外出するのは好きだった。あまり遅い時間はまだ歩きにくいけれど。
 ……いや、もはやボクはここでも独りではないんだったな。習慣になっていたから思考が及ばなかった。

「飛鳥さん、成長期にそんな偏った栄養を摂っていては大きくなれませんよ?」

 ボクより幾分も背が低い幸子に説得力があるかどうかは甚だ疑問だ。
 それに栄養ならサプリメントでも摂った気にはなれる。効果のほどは知れないので敢えて深く追究せず、プラシーボ効果でも作用すればいいのだが。自分を騙すことには慣れている。
 そういえば、ここに住むようになってから少し痩せたかな。体を作るのが食なら、体調管理に続きボクはアイドルとしての職務を放棄しているのだろう。食だけに……やめておこう、お叱りを受けそうだ。誰に?

「……もういいかな? 悪いけどその話は今度に――」

「絶対だめ! 私、寮母さんに許可をもらってお料理運んでくるから待ってて!」

 ……お叱りを受けた。
 誰に? 今のは……蘭子?
 頭で整理する間もなくぱたぱたと小走りでいってしまい、またもボクと幸子は蘭子の背中を茫然と見送ることしか出来なかった。

「たまに、というか割と標準語に戻りますよね、蘭子さん」

「あ、あぁ。でも今のは……」

「あなたのことを思って、でしょうね。フフーン、そういうことですから安静にしていてください♪ ボクもこの辺で失礼しておきましょうかねぇ」

 そうして幸子もボクを残して去っていった。観念しろ、というわけか。
 あの空間で食事する気分にはなれなかったし、これからまた外出して夕飯を調達する気力もなかったから都合はいい。しかしどうして蘭子はそこまでしてボクに?
 ……自分の部屋の前で突っ立ってないで、まずは部屋に入ろう。廊下を誰も通らなくてよかった。


 鍵を開ける。帰っても家族すら出迎える人のいなくなった、今のボクの家だ。
 実家にあるボクの部屋とは比べ物にならないほど広い。当たり前ではあるが、備え付けの設備で生活のほとんどを営める。寮自体に食堂や浴場があっても、食事や入浴のためにここから出る必要はない。
 この部屋には何でも揃っていた。それ故に、ここには何もなかった。
 もとより孤独への対処に慣れていたからホームシックには掛かりそうもない。しかしひとたび事務所を離れれば孤独がつきまとってくる。ヒトは孤独を抱えて生きるものだと、ここへ来る以前のように何度も寂しさを誤魔化してきた。
 そんなボクの部屋に初めて、ノックの音が響いた。
 着替えてる時に。

「……どうぞ」

 まぁ、エクステを外していただけだったけれど。

「持ってきたよ、飛鳥ちゃ……わぁ」

 この非日常の世界で、エクステを付けていないボクを見た最初の一人となった蘭子のリアクションは、わぁ、だった。
 部屋に来られる以上は覚悟していたが、そんなに物珍しそうにしなくてもいいじゃないか。
 ……恥ずかしいな。恥じらいなんて感情が湧き起こるのは久し振りだ。

「ボクに用があるんだろう? 早くしてくれないか」

 いてもたってもいられず、語気を強めないよう抑えただけでも上出来だった。
 今のボクは蘭子の記憶にあるいずれの「二宮飛鳥」でもない。世界への抵抗をやめ、羽を休めている無防備極まりない状態だ。
 この部屋は孤独に憑りつかれているのと同時に、他者をパーソナルエリアへ踏み込ませないための最後の砦でもある。「二宮飛鳥」という仮面がいらないこの場所では尚更、誰にも容易に踏み込ませたくはなかった。
 ……でも、蘭子になら、いいかな。もちろん……幸子も。
 心のどこかでそう思っていたから、来訪を予見できたノックの主に対してボクは「二宮飛鳥」であるためのエクステを外して待っていたのかもしれない。

「ご、ごめんね? えっと、すぐ出て行くから……」

 選んだ言葉が悪かったのか、結局勘違いさせてしまったようだ。廊下に待機させていたカートから蘭子は申し訳なさそうにトレイを取り出し、食欲をそそる匂いとともにボクへ手渡そうとする。
 うん? カートにもう一つ、トレイがある。二人分食べろという意味ではもちろんないだろう。
 ならば、それが意味するところは。
 ……それもまた、ボクの望むところだった。

「そうかい? ……参ったな。誰かに見張ってもらわないと、無理してでも食べる気にはなれないんだ」

 きょとん、というオノマトペが似合うくらい蘭子は普段より顔に出やくなっていた。

「部屋で一緒に食べてくれないか。蘭子さえよければ、だが……どうだろう」

「……、うんっ!」

 言葉の意味を理解するのに数秒、蘭子は満面の笑みで快諾してくれた。その笑顔は今まで彼女がみせてきたものとは違った魅力に溢れている。
 ボクの知らない彼女に出会えた気がして嬉しく思う反面、はたしていつまでこの調子なのかと思わなくもない。特徴ともいえる独特の言語を捨ててまでボクの相手をしているのだから。
 ボクから「二宮飛鳥」の仮面が外れているように、蘭子にも「神崎蘭子」の仮面がどこかで外れたというのか。確かにイーブンではあるが……気掛かりだ。


 蘭子からボクの分のトレイを受け取り、部屋の中へ招き入れる。もっぱら作業台として使っていた備え付けの簡素なテーブルを食卓として誰かと囲むことになろうとは。

「飛鳥……その身に刻まれた煉獄の呪いは未だ解けぬか?(飛鳥ちゃん、熱は上がってない?)」

 あ、戻った。

「どうだろう。指摘されるまで自分でも気付かなかった微熱さ、たいしたものじゃないよ」

「ならば明日には全快しておろう。……常夜を彩るミサを開く刻も、今宵ではない、か(明日までには治りそう? この後お喋りしたかったけど、今日はだめかなぁ)」

「ふふ、看病してくれるのではなかったのかい? 眠くなるまでの喋り相手ぐらいなら、身体に障ることもないんじゃないかな」

「……! ククク、このような刻でもなければ祝宴の幕を上げたものを。さて、今宵我等に捧げられし贄より魔力を補給するとしよう(わーい! って本当は喜んじゃだめだよね。それじゃあご飯食べよっか?)」

「あぁ。……、いただきます」

 独りの時にわざわざしたりしない食前の挨拶も、誰かと一緒ならしてもいいかという気になる。不思議なものだ。
 蘭子が運んできてくれたのはハンバーグを主菜に、ポテトサラダ、野菜の多く入ったミネストローネを副菜へ置いた洋風なメニューだった。どれもまだ冷めてはいない。
 これだけのものをコンビニで買い揃えたところで、満腹にはなっても満足はしなかったろう。千円は掛かるだろうし、14歳の中学生にとって一食でそれは痛過ぎる出費だ。
 それを抜きにしても、食堂で提供された今日の献立は有り体に言って、とても美味しそうだ。

「はっ、深紅の秘薬と漆黒の霊薬……そなたはどちらを所望する?(あっ、ケチャップとソース……飛鳥ちゃんはどっちがよかった?)」

 二種類から選べたらしい。どちらでもよかったが、気分で選ぶとするなら――

「蘭子が好きだという方を食べてみたかったかな。トマトソース派かい?」

「う、うむ。しかしよいのか?(う、うん。でも本当にいいの?)」

「今は蘭子とセカイを共有していたいんだ。たとえそれが、ほんの些細なことでも」

 彼女とは解り合えると思ったから。
 ……そうじゃないな。
 彼女と解り合いたいと願ったから、仮面を被っていては言葉にしにくいことも今なら言える。誰に求められたわけではなく、ボクがそう求めているんだ。
 彼女の言葉を即座に汲み取れるようになっていたのも、『瞳』や素質なんかよりそういう意志の差に過ぎなかったのだろう。努力家の彼のために付け加えておくと、ボクにとっては、ね。

 蘭子は、ボクに何かを求めてくれているのかな。
 彼女の仮面が一時的にでも外された意味。ボクに何を訴えようとしていたのか。
 幸い時間はあるし、ここなら誰に邪魔されることもない。食事を済ませたら……改めて会いにいこう。
 また会わせてくれるだろうか。ボクの知らない、素顔の神崎蘭子に。




 中身が空になった二人分のトレイを、運んできたカートごと蘭子が返しにいっている間にボクはベッドへ潜る準備を整える。後は歯を磨くだけだ。
 軽くシャワーも浴びておきたかったが明日の朝に回すことにした。蘭子いわく「揺り籠にて多量の生命の雫を精製し穢れを祓うとよい(眠ってる時にたくさん汗かいて治しちゃおう)」とのこと。
 微熱のせいもあってか身体が重い。ボクには少し量が多かった夕食のおかげで満足感もあり、まだ眠るには早い時間だけどそのうち眠気もやってきそうだ。
 とはいえ、蘭子がボクを看てくれる間に話したいことは山ほどある。山……どこかからフフーン、と鼻を鳴らす誰かさんの声が聞こえた気がした。
 そこへ再びノックの音が響く。幻聴ではなく、現実に打ち鳴らされたものだ。

「生命の起源もこれだけあれば今宵を乗り越えられよう(お水たくさん持ってきたよ!)」

「蘭子、さすがに一晩でそれは……」

 どこから持ってきたのか2Lのミネラルウォーターを2本、何もなくなったテーブルの上に蘭子は鎮座させた。
 容態が今より悪化したとしてもこれを全て汗の一部として消化するのは無理だ。……まぁ、気持ちだけ受け取っておこう。喉が乾いたらベッドを出なくて済むし、残してもペットボトルならどうにでも保存しておけるのだから。
 歯を磨き終え、ベッドに半身を潜らせる。完全に横になってしまっては話しにくいので上体は起こしたままだ。蘭子からは横になるよう忠告されたけど、そこまで体調は悪くないのと厚着をすることでなんとか納得してもらった。

「……ねぇ、蘭子。聞きたいことがあるんだ。いいかな」

 休息を欲しがる身体に逆らっていられるうちに、ボクは本題を切り出す。
 ベッドの空いている所に座らせて同じ高さに目線のある蘭子は、まるでそうなることを解っていたかのように、ゆっくりと頷いた。

「どうしてボクに、ここまでしてくれるんだい?」

 共に過ごした期間はまだ短い。ボクらの生きた14年という歳月から比較しても、そこまで思い入れられるほどの時間を共にしたとは思えない。
   ――違う
 ボクらは僅かにベクトルの向きは異なるけれど、出発点はとても近いところにある。似て非なるもの、いつかのボクは彼女へそう答えていた。彼女もその回答に頷いていたはずだ。
   ――解っているくせに
 ボクにシンパシーを感じているから? 彼と出会うまで誰かに解ってもらうことを諦め、自分だけのセカイを望み孤独を選んできたボクに?
   ――そうじゃないだろう?

 全てを解れやしなくても、彼女のことを知るために。ボクは問わずにはいられない。

「答えてくれるかな。ううん、答えてほしい……聞かせてほしいんだ」

「……。私、ね」

 ぽつりと、「彼女」は現れた。


「あの人に……プロデューサーにアイドルにしてもらうまで、ずっと私は独りだと思ってたの」

 彼女は穏やかな表情で、過去を懐かしむように語ってくれた。
 どこかで聞いたことがあるような――彼女の物語を。

「私が”私”でいることを、周りの誰にも望まれていなかった。”私”でいちゃいけないんだって、遠回しに言ってくる人もいて」

「そんな時、あの人に出会えた。私が”私”であることを認めてくれて、”私”でいられる場所をくれた……」

「けど、その時はそれだけだったの。”私”のことは認めてくれても、”私”の言葉はここでもなかなか通じなくて」

「やっぱり独りのままなのかなって思った。それでもやっと認めてもらえた”私”をどうしても捨てられなくて、捨てたくなくて……何も言えないまま、気付いたら倒れちゃってた」

 飛鳥ちゃんよりも酷かったかな、と彼女ははにかむ。
 心労も重なっていき、しかし体調不良を訴えることも出来なかったのだろう。訴えたところで伝わらないと、それまでの経験が彼女を諦めさせていたから。

「病院のベッドで目を覚ましたら、あの人がずっとついててくれたみたいで、すごく謝られちゃったな。お前のことをもっと解ってやれていたら……だって。ふふっ、休みたいとも素直に言えなくなってた私が悪いのに、おかしいよね」

 彼を思い、柔らかい微笑を零している。その顔にボクはどこかで見覚えがあった。彼女のものではない、誰かの……。
 急に、胸が締めつけられる。

「それからしばらく、時間さえあれば”私”とお話してくれたの。他の子のプロデュースもあったはずなのに、あの頃だけはほとんど付きっきりみたいになっちゃって」

「そのことについて、あの人が受け持ってるアイドルの人達から何か言われたりはしなかったな。みんな知ってたんだね、あの人がああいう人だってこと」

 理解することを諦めない、諦めの悪い彼。
 ボクも知っていた。……知ったばかりだけど。

「”私”の言葉の意味が通じるまで何度も聞いてくれて、諦めずにずっと側で”私”のことを見ていてくれる……『瞳』の持ち主」

「飛鳥ちゃんも、そうだったよね。”私”の言葉を理解しようとしてくれた。初めて一緒に帰ったあの日、すごく嬉しかったんだよ?」

 『瞳』の持ち主とはそういう意味だったのか。
 ボクがプロデューサーから『瞳』を貰ったというのも、あながち間違いではないのかもしれない。

「飛鳥ちゃん、熱があるのに黙ってたからあの時の私を思い出しちゃって。あの人がそうしてくれたように今度は私が飛鳥ちゃんに、できることならついててあげたかったの。大事なことなら、前よりはちゃんと素直に話せるようになってきたし、それに」

「独りはつらいから……。私のことを気遣ってくれたり解ろうとしてくれる人も増えてきたんだ。だから飛鳥ちゃんにも――私だって、飛鳥ちゃんより少しだけアイドルの先輩だもん。幸子ちゃんばかり頼られててずるい!」


 ……。
 ……………………。

 ……えっ、終わり?
 物語の締め括りが幸子ずるい、って。いいのだろうか?
 ……彼女がそれでいいなら、終幕としよう。美談なんかではなく、彼女のありのままをぶつけてくれた結果だというのなら。

「解ったよ。聞かせてくれて……ありがとう」

 感謝の言葉も、今なら――彼女になら、素直に言えた。

「……ボク、そんなに幸子に頼ってたかな」

「そうだよー、幸子ちゃんが言ってたもん。まだまだボクがついててあげないと駄目ですね! って」

「ふぅん……幸子がね」

 ボクが二人を観測していたように、幸子もボクを観測していたというのか。
 いや、ボクはもう観測者ではないんだった。きっと幸子も、そして蘭子も観察者なのだ。こんな世界でも、手を伸ばせば届くものもあると信じて行動している。だからこうして蘭子はボクの隣にいて――
 新たに、ボクの部屋にノックをする人も現れるのだ。今日だけで三度目だ。
 思わず蘭子と視線が合わさる。そのうちの二回は蘭子であり、その蘭子はここにいる。
 噂をすれば、というヤツか。

「飛鳥さーん、ボクが様子を見にきてあげましたよー。大丈夫ですかー? ……もう寝ちゃいましたかねぇ?」

「……くすっ」

「ふふっ……」

 来訪者が誰であるかなんて、候補が他にいないのだから解りきったことだ。
 ただそれが、今は嬉しかった。

「我が迎えれば、天に使えし者は如何な対応をするであろう?(私がお出迎えしたら、幸子ちゃんどんな反応するかなあ?)」

「さぁて、ね。それより、そっちでいくのかい?」

 そっちとはつまり、仮面を被った方の蘭子だ。
 ボクの代わりに幸子を迎えるため腰を上げた蘭子は、僅かに逡巡し、それでも答えてくれた。

「本当はこうして話すの……やっぱりまだ恥ずかしいけど、飛鳥ちゃんも外して待っててくれたから……おあいこ、だよね!」

「……ちぇっ、バレていたんだ」

 エクステを付けてない姿を晒すことに恥じらいを覚えていたボクを、蘭子はお見通しだったようだ。
 参ったな。蘭子には隠し事をしてもあまり通じなくなりそうだ。




 対抗戦フェスも間近になり、それまでのスケジュールに組まれた最後のオフの日である今日を、ボクはボクらしく過ごすことにした。エクステも付けてある。
 とはいえボクの生活、特に食生活が蘭子や幸子によって改善されてしまい、寮の食堂で朝食や夕食を取るようになったボクがボクらしいといえるかは疑問だ。まだ独りで行く気にはなれないし、それぐらいはいいかな。

 手始めにしばらく手の付かなかった趣味に勤しむとしよう。寮に引っ越してから封を開けていなかった荷物の中に眠らせている、漫画を描くための道具を取り出した。
 何も描かれていない真っ白なページに自分だけの物語を紡ぐ――漫画を描いている時は、ヒトであるボクも世界を創造する側に回れる。現実の世界では思うようにいかないんだ、それぐらいの抵抗は許されるだろう?
 ゆくゆくそれが黒歴史ってヤツになろうとも、ね。ボクは気ままに自分だけの歴史を歩んでいきたい。どうやら歴史が黒く染まった先人は数多いようだが。
 漫画を描くことで抵抗する必要のないほどボク自身が非日常を味わってしまっていたから、こうして自分の望むセカイを描き出す高揚感が懐かしいとさえ思う。

 さぁ、物語を紡ごうか。

 話はだいたい出来ていた。頭も体もあまり使わなくて済む時間――学校にいる時とか、プロットを練ったりして退屈をやり過ごしている。ボクじゃなくても退屈しのぎの方法ぐらいそれぞれ確立してるんじゃないか?
 学校、つまらない日常の最たる例だ。ボクが14歳になってすぐ、つまり中学二年のそれも三学期だなんて時期に寮への引っ越しに伴い、初めての転校を経験した。
 転校生とはそれまでの日常に突如として現れた異物のようなものだ。ボクも例に漏れず奇異の目に晒され、声を掛けてくる人もそれなりにいたけれど、既に作られた輪へ溶け込むことはしなかった。

 ……出来なかった、ともいえる。日常の世界では諦め慣れていたせいかな。
 でもボクは全く気にしていない。ボクには非日常の世界が待っているのだから、とっくに飽きていた日常の世界なんて二の次だ。
 有り余っていた時間で織り成されていた物語の、まずはネームの作成に取り掛かる。今はアナログでの作業をしているけれど、いつかデジタルな作業もしてみたい。パソコンっていくらぐらいするんだったか。
 もしアイドルとして売れることがあれば、それぐらい簡単に買えるかな――


「飛鳥さんはありますか? プロデューサーさんとオフの日に過ごしたことは」

「ボクは……ない、かな」

 アイドルになってから、アイドルとして彼と接するのが当たり前だと思っていた。ボクと彼はトモダチになった訳ではないのだから。
 だというのに、ボクは二人のことを羨んでしまっている。
「二宮飛鳥」らしからぬ感情がボクを惑わそうとする。
 ……。
 どうして?

「あの……プロデューサーさんも忙しい方ですし、ボクたちより日の浅い飛鳥さんにはその機会がまだ巡ってきてないだけですよ。気にしないでください」

 何故か幸子にフォローされている。別に落ち込んだりとかしていない……んだけどな。ただ迷いが生じてしまっているだけで。

「……幸子ちゃん。遊園地、どうだった?」

「え? えぇ、そうですねぇ。絶叫マシーンが面白かったようなそうでもないような。乗ってる最中に水を掛けられる仕組みになってまして、プロデューサーさんはちゃっかりレインコートで濡れないようにしてたんですよ! ボクだけ濡れちゃいましたが……まぁ、水に滴るカワイイボクを見たくて黙ってたなら仕方ないですかね。フフーン!」

 相変わらずプロデューサーのことになると幸子は口がよく回るようだ。蘭子が上手く乗せているのもあるが、おかげで頭の中がごちゃごちゃしているのを気取られずにいられている。
 幸子の話を聞いている振りをしながら、この感情の正体に何とか一つの結論が出そうだった。
 ボクは……彼の特別でありたかったんだ。
 彼にとってのボクは担当アイドルの一人でしかないのだろう。ボクにとっての彼は特別な存在だというのに。出会えたことに満足してしまっていたが、それはボクの視点に過ぎなかった。
 彼女らのおかげで周りのことも少しは見えるようになってきている。だからボクは、彼が見せるいつもの笑顔を他の誰かにも見せていたことや、ボクのように彼を特別視しているアイドルが何人もいることに気付いてしまった。

 ボクは彼に、ボクのことを特別に感じて欲しかった。ボクがそうであるように。
 じゃないと……不公平だろう?

「――それでせっかくプロデューサーさんにもボクをカワイく仕立てるチャンスをあげたのに、結局選んでくれなかったんですよねぇ。プロデューサーさんならボクのカワイさを引き立てるお洋服ぐらい、すぐ見つけられると思ったんですけど。意外とプライベートではこういうことに慣れてないのかもしれませんね?」

「我が礼装はグリモワールに示されし魂の輝きを具現させたもの……しかし友が自ら我へと選定せし召し物というのも興味が尽きぬ(私が描いた絵から衣装をそのまま作ってもらったこともあるけど、プロデューサーに選んでもらったお洋服っていうのもいいなあ)」

「グリモワ……? 蘭子さんもプロデューサーさんとお買い物とかどうですか?」

「む、無理無理無理! 絶対顔見れないよ……だ、だって二人きりでしょう……?」

「二人きりの方が都合がいいと思いますけど? 独占できますしね!」

「独占……!?」

「飛鳥さんも二人きりの方がいいと思いません?」

「ん、あぁ……そうかもね。それより、もうお昼も近いけどどうしようか?」

 頭に入ってこない会話を打ち切りに入る。あるいはあまり聞いていたくなかっただけ、とも。

「うえぇ!? ボクとしたことが、話に夢中になってました……。プロデューサーさんもどうして電話に出てくれないんでしょう? 今度こそ……!」

「天に使えし者の内に抱えた秘め事とは一体……?(幸子ちゃん、何か隠してる?)」

「いずれ解る時が来るさ。蘭子にも、幸子にも、ね」

 結局繋がりはしなかったものの、幸子が気軽にオフの彼へ電話を掛けていたのがずっと心に残った。
 仕事の関連以外でボクは彼に電話をしたことも、ましてやされたこともない。
 それなのに、その日一日、あるはずのない着信がボクのもとに届いたりはしないか、何度も携帯電話を確認してしまった。
 そうこうしてるうちに声を聴きたくもなったけど、こちらから掛けることも出来ないまま、最後のオフはボクらしくなく過ぎていった。




「良い仕上がりだ、二宮。これなら本番が楽しみだな」

 幸子と蘭子がそれぞれの仕事でいない中、ボクはトレーナーとマンツーマンでボーカルレッスンをこなしていた。
 一人だけのレッスン、二人のどちらかが欠けたレッスンはこれまでにも何度かあった。駆け出しのボクが二人よりもスケジュールに余裕があるのは当然だ。
 実力ですら水をあけられないために、一人でのレッスンはユニット結成以前よりも身が入る。三人揃ったレッスンではボクより先を往く二人への焦りを隠すだけでも手一杯だ。
 トレーナーに褒めて貰えたのならば、ボクの水準は上がっているのだろう。
 確かな手応えに胸の内だけでヨロコビを甘受していると――

「お疲れ様です。様子を見に来たのですが、どうですか? 飛鳥は」

 レッスンルームに思いも寄らない来客が顔を出す。プロデューサーだ。
 二人のどちらかに付いているとばかり思っていたが……。

「上々だ。本人もやる気を見せてくれているし、これならあの二人にも引けを取らないのではないかな」

「飛鳥がやる気を……へぇ。トレーナーさんにそこまで言ってもらえたら安心ですね」

 余計なことを言わないで欲しいな。
 視線だけでトレーナーに抗議してみるが、プロデューサーと話をしていてこちらに気付く様子もなかった。

「本人から歌うのは好きだと聞いていたので、飛鳥の武器になってくれたらと考えてはいたんですよ」

「二宮の歌声は個性的なところがある。どこまで曇らせずに伸ばしてやれるか、それが我々の課題だな」

「いやー、早く聴いてみたいなあ飛鳥の歌。今後とも飛鳥をよろしくお願いしますね」

 オトナのする会話をプロデューサーがしていると、ボクは彼のことをまだまだ解れてはいないんだな、そう思い知らされる。
 あれは彼のオトナとしての仮面なんだろうか。それとも、ボクに向けるあの笑顔の方が……。

「なんなら少し聴いていくか? 今の二宮なら充分キミに可能性を見せてくれるだろう。もちろん時間さえあれば、だがね」

「いいんですか!? じゃあちょっとお邪魔しようかなあ。いいよな、飛鳥?」

「ん、あぁ。ボクは別に……」

「決まりだな。では今日の総まとめとしてさっきのところ、もう一度いくぞ。準備はいいな?」

 よくないに決まっている。いつの間にそんな運びになっているんだ。
 ボクに断る権利なんてそもそも無かったのだろうけど、それでもいきなり過ぎる。どうしてこんなことに。
 本番まで取っておくのが面白いんじゃなかったのか?
 いや、これもボクの成長を見せつける良い機会だ。彼を安心させてやれないことには、ボクは彼と対等にはなれない。今日この時をボクのために割いているなら、やってやるさ。

「……いつでもどうぞ」

「よし、始めよう」


 期待を背負う、というのはどうにも大変な重荷になり得る。
 本番前にそれを理解できただけでも彼の前で歌った意味は大きかった。
 ……あぁ、そうとも。彼を前にして、ボクは上手く歌えなかった。


「機嫌直してくれよ飛鳥ー?」

 レッスンが終わり、早足で事務所へ戻ろうとするボクを追ってプロデューサーもついてくる。邪魔をしに来たことをボクが怒っている、とでも察したらしい。
 そうではない。そうじゃないんだよ。今のボクはキミに顔向け出来ないんだ。だから放っておいてくれ。
 言えるはずもなく、ただボクは黙って歩を進める。彼もまたボクの後を追うのをやめない。目的地が一緒なのでそればかりは仕方ないのだが。

「飛鳥の歌、良かったよ。もっとちゃんと聴きたかったな」

「やめてくれ。慰めてるつもりかい?」

「すまん。レッスンルームに入る前、中に入るタイミングを測ってる時にも聴こえたんだ。あまりよくは聴こえなかったけど、あの後トレーナーさんに褒められてたんじゃないか?」

「……」

 なんだ、あれを聴かれてたのか。
 ホッとしたような、釈然としないような。しかし偶々上手く歌えなかった、などと言い訳をしないでいたのは正解だったみたいだ。
 彼に格好悪いところは、なるべく見せたくない。

「でも、アイドルなら人前で本来の力を発揮できるようにならないとなあ。それは俺が飛鳥に経験を積ませてないからいけないんだけどさ」

「……ボクなら出来る、そう信じてこの舞台に推してくれたんだろう? ならそれは、ボクの力が及んでいないせいだ」

「最初からどんな時も全力を出せるやつなんてそういないよ。気にするなって」

「でもキミはボクを――」

「飛鳥」

 名前を呼ばれただけなのに、スッと胸に落ちていった。それは無視出来ない何かを秘めていて、ボクの足の動きが止まる。
 ……振り返ると、そこには笑顔があった。
 微笑みだけで優しさに包まれる、いつもの笑顔だ。

「本番も間近なのはわかってる。でも焦らないでほしいんだ。俺一人なんかよりよっぽど多くの人にお前の歌を聴いてもらうことになっても、その舞台にはあいつらが一緒にいる。だから安心しろって」

「……っ」

 ボクを落ち着かせようとしているのは伝わってくる。それ自体はいい。
 けれど、彼の言い分ではボクだけを甘やかしているように聞こえてしまう。それでは二人に追いつけない。ボクなりに追いつき追い越そうとしているのだから、そんな特別扱いはいらない。して欲しくない。
 ……だから、つい、ボクは。

「裏方のキミに、何が解るっていうんだ?」

 口にした側から後悔するような、思ってもいないことを彼に言ってしまった。


「…………」

 驚き、だろうか。彼の笑顔を奪い去ったボクの台詞は、怒りでも哀しみでもなく、代わりに彼へ与えたのは驚きの表情だった。

「そう、だよな。見ているだけしか出来ない俺が、何を言ってるんだろうな」

 どうも真に受けてしまっている。
 違うんだ、ボクはキミを責めるつもりなんてなかったのに。

「謝ってばっかりだな俺、すまん」

「……怒らない、の?」

「え?」

 思い通りにいかないからと八つ当たりしているコドモを、彼は叱らなかった。叱るどころかそのコドモの稚拙な弁解すらも真剣に受け止めている。
 彼は他のオトナとは違う、そう思っているけどそれはまだボクの勘でしかない。
 彼のことを知り、彼と解り合おうとするのなら……今だ。きっと今なら彼の心に触れられる。
 既にボクは彼を傷付けてしまっている。ならボクも、傷付くつもりで触れ合わなければ嘘ってものだ。
 ボクは再び、彼に問う。

「キミの気持ちも汲まずに生意気なことを言ったボクを、怒らないのかい?」

「……。そんなこと、ないさ」

「そんなこと、とは?」

「飛鳥が言ったことだよ。ステージに上がることのない人間が、ステージに立とうとしている人の気持ちをどうしてわかるんだろうな。飛鳥の言う通りだと思ってさ」

「違う、ボクは本気でそんなことを言うつもりはなかったんだ。だからキミが、ボクの虚言を気にする必要はない」

「……俺さ、気が利かないってよく言われるんだ。飛鳥を安心させようとして掛ける言葉を間違った。そうだろう?」

「それは……」

 奇しくもボクが彼にそうさせてやれなかったように、彼もまたボクを安心させられなかったことを悔いているようだった。

「飛鳥が熱出してどうしようってなった時も、幸子に言われたもんなあ。俺はいつも大事な時に限って何も出来ない、してやれない。そんな俺でもついてきてくれる皆を、輝かせてやりたいってのに……。上手くいかないな。俺は」

 屋上で遠く空の彼方を眺めていた彼が、頭をよぎる。
 常に正解を選択し続けられるわけがないのに、そうしたすれ違いの果てに彼のもとを去った人がいたのかもしれない。邪推であればいいのだが、理解し合えないまま別れてしまっては彼も心残りだろう。
 寂しい思い出として彼の心に住み着くつもりは、ボクにはない。
 ボクは彼と、解り合いたい。


「……ねぇ。ボクは甘やかされたくなかっただけなんだ。あの二人と比べて、経験が浅いからって求めるレベルを下げられるのは、嫌だ」

「飛鳥……」

「でも、場数を踏まなきゃ得られないものもあるんだよね。その事実と向き合わずに、二人に追いつこうとしたボクを……キミは嗤うかい?」

「そんなことない! 俺、飛鳥がやる気だって聞いて嬉しかったんだ。二人を追い抜くつもりで取り組んでくれてるんだろう?」

 ……。
 今それを真顔で問われるのは、堪えるな……。
 だがこれぐらいで恥ずかしがってはいられない。

「まぁ、キミが用意してくれた舞台だ。ボクにとっての大事な……始まりになろうとしている舞台で、ヘマをしたくない。そのつもりでやってきているよ」

 胸中を吐露することで、ボクの中で対抗戦フェスにかける想いが熱くなっていたことを、ボク自身の胸の奥から教えられた気分だ。
 理由はいろいろあるけれど、最高の舞台にしたいと今のボクは思っている。

「……飛鳥。ありがとう」

「おいおい、どうして礼なんて口にするんだ。言うにしてもそれはまだ早いってものだろう?」

「ううん、言わせてくれ。いきなり大き過ぎる舞台へ上がらせようっていう俺に、ついに文句が出たと思ったらそれは俺が飛鳥を見誤っていたせいだった……。それでも、ついてきてくれるんだよな。俺に」

「キミ以外とこの世界、次の世界を歩んでいくつもりはないんでね。ボクの扱いを心得たいなら、ボクのことを理解ってもらわなきゃ。そしてボクは、キミのことを――」

 いけない、歯止めが利かなくなってきている。まずは落ち着こう。
 ひと呼吸置いて下手に口を滑らせないよう整えていると、彼の方からボクの発言の続きを引き取った。

「……そうだな。飛鳥って周りの評価に無頓着でクールに何でもこなしていくタイプかと思ってたけど、違うみたいだ。何を見てきたんだろうな、俺」

「…………」

 心臓を中心に迸っていた温度が、急速に下がっていくのを感じた。
 確かに、「二宮飛鳥」の仮面を被っている時のボクはそういうヤツだった。そう演じてきた。それが今はどうだろう。
 彼がアイドルへ誘ってくれた「二宮飛鳥」と、今のボク。それらが乖離してしまったら、ボクに掛けられた魔法は解けてしまわないだろうか。
 彼と解り合いたい。でもそうすることで、彼の中のボクが「二宮飛鳥」でなくなってしまったら……。

「飛鳥? どうした、固まってるぞ」

「…………何、でもない。立ち話は……終わりだ、事務所に戻ろう」

「ああ。そうだな。もしかしたらあいつらも戻ってきてるかもしれないぞ」

 止まっていた時間が動き出し、彼が前へと歩いていく。
 数歩遅れて今度はボクが彼の後を追った。
 先を歩いていた時とは比べ物にならないほど、重くなった足取りで。


「あ、戻ってきましたね。さぁプロデューサーさん、飛鳥さんも早く支度してください!」

 急かすように帰り支度を促す幸子と、どこか上の空な蘭子がボクらを出迎えた。

「どうした幸子、これから何か用事か? 早く帰りたかったなら待ってなくてよかったんだぞ?」

「ククク、我が友よ。今宵そなたを束縛する鎖が解き放たれているならば、祝宴を開くのもよいと我等で創案していたのだ(プロデューサーが今日は早く帰れるって聞いて、一緒にご飯食べに行きたいなーって話してたんです!)」

「えっと、俺はもう少し仕事残ってるんだけど……」

「なら早く片付けてください! 今すぐに!」

「お、おう。でもどうして急に?」

「フフーン、もうすぐ本番ですからね。景気付けっていうんですか? たまにはこういうことも大事だと思ったまでですよ。あぁ、ボクってなんて冴えてるんでしょう!」

 舞い上がっている幸子を見て、蘭子の様子にも合点がいった。
 食事、か。もちろんボクのことも頭数に入れているのだろう。

「そんなこと言って、ていよく俺から上手いもん食わせてもらおうって企んでたんだな? 幸子はずる賢いなー」

「ちょっ、どうしてボクだけそうなるんですか!? 蘭子さんはどうなんです!?」

「蘭子はそんな悪巧みなんてしないだろ」

「ボークーもー!! こんなにカワイイボクが悪巧みなんてしませんよ! プロデューサーさんはボクを何だと思ってるんですかぁ!」

「冗談だって、ほらほら。幸子はカワイイカワイイ」

「……そうやって撫でればボクのことは何とでもなると思ってません? 騙されませんよ! でもそれはそれとしてもっと撫でてください! そのままお仕事片付けちゃいましょう!」

「撫でながらは効率悪いな……。っと、俺は飯に連れていくぐらいなら別にいいけど」

 プロデューサーは蘭子へ向き直り確認を取る。「愚問!」と蘭子は首肯した。
 そして次は、ボクの番だ。

「飛鳥も来てくれるよな?」

「ボクは……」

 彼らについていけば、それは楽しい晩餐会となるのだろう。
 仕事の外で初めて彼とも親交を重ねられる。何とも魅惑的な誘いだった。
 だがボクは……ボクでいなければ。彼が見ているところでは「二宮飛鳥」としての判断を下さなくてはならない。
 そうしないと、12時を示そうとする時計の針の音がボクへ迫ってくる気がしたから。


「……いい、ボクはやめておくよ」

「そうか? 残念だな……どうしても? 遠慮しなくていいんだぞ?」

「うん。苦手だから、そういうの」

 食い下がる彼から逃げるように視線を逸らす。その先には蘭子の哀しみに染まった瞳が飛び込んできて、たまらず下へと再度視線を逸らした。
 俯きながらボクは帰るための支度を始めようとする。

「飛鳥さん、そう仰らずに行きましょうよ。どうしちゃったんですか? まさかまた具合でも……?」

 頭を撫でる彼の手から離れ、ボクの様子を窺いにくる幸子。

「……。行こ?」

 ボクの手を取り、寂しそうにボクを見つめる蘭子。

「飛鳥もいなきゃ、行く意味が薄れちゃうんだけどな……今日だけでも、だめか?」

 苦手だと告げたはずなのに、なおも優しく食い下がるプロデューサー。

 ……あぁ、なんて居心地が良いんだろう。孤独から抜け出したくて、あんなに求めていたものがここにあるというのに。
 でも、駄目なんだ。ボクはここにいたいから、一緒には行かない。
 つまらない意地かもしれない。それは解ってる。きっと彼らならどんなボクだって受け入れてくれる。根拠はない、だたボクがそう勝手に信じているだけだ。
 それでも、この世界は何が起こるか解らない。さっきのボクのように、その気のない一言で相手を傷付けてしまうこともある。それが引き金となって永遠の別れに繋がったりもするだろう。
 ボクは恐れているんだ。この居場所を失ってしまうことを。
 全ての始まりである彼から……見限られてしまうことを。
 ボクが「二宮飛鳥」で在り続ければ、少なくとも居場所を失うことはない。

 ここにきて、ボクは望んだものの尊さを理解した。

「……いっておいで」

 ボクの手を取る蘭子を軽く振りほどき、支度を済ませる。
 三人の視線に僅かな痛みを覚えながら、ボクは一人で――独りで、事務所を出た。
 帰り道、見慣れた景色であるはずがどうにも色褪せている。雑踏の音も何も聞こえてこない。ここには何もない。
 あるのは孤独だけだ。
 ……いたたまれなくなり、ボクは遠回りをしてでも違う道から寮へ帰ることにした。




 寮の自室へ戻るなり、灯りもつけずにベッドへうつ伏せに横たわった。
 何かをする気になれない、これからどうしたいのかも解らない。真っ暗な部屋でただただ孤独に苛まれている。
 今頃彼らはボクの影をそこに置いて、どこかで食事をしているのだろう。考えただけで後悔しそうになる。ボクも行きたかったな。
 ……でも、これでよかったんだ。ボクがボクである限り、「二宮飛鳥」として彼らと交わることさえ出来れば、他に望むものはない。過ぎた欲は身を滅ぼす。世界ではよくあることさ。
 そうやって自分を騙すのは慣れている。だからといって、それで得られるものはない。あるとすれば虚無感くらいだ。
 暗闇の中、思考まで暗くなっているボクにはお似合いだな。虚無……か。

「飛鳥ちゃん」

 ……? 幻聴だろうか。
 いないはずの人間の声が聞こえてしまうとは、いよいよボクの精神は闇に憑りつかれてしまっているのかもしれない。
 ……そんなわけがなかった。今度はノックの音も暗闇の中に鋭く響いた。

「飛鳥ちゃん、いる……よね? 入ってもいいかな」

 帰ってすぐに部屋の鍵を掛ける習慣は失っている。入ろうと思えばいつでも入れる状態だ。もっとも、この部屋に訪れようとする人間はかなり限られているが。
 いや、限られているからこそ、すぐには鍵を掛けなくなったのだろう。彼女らならいつ来てもいい、そう思っていたから。
 蘭子はボクに何の用だろう。寮にいるということは、ボクのせいで食事をしに行く予定はキャンセルになってしまったのかな。ボクのせい……それならますます今は顔を合わせづらい。
 蘭子も解っているだろうに、それでもボクに寄り添おうとするのか。
 逃げ場は……ない。だが彼女を拒絶することも、ボクには出来なかった。

「……お邪魔しまーす」

 ゆっくりと丁寧に蘭子は部屋のドアを開けた。中が灯りもついていないことを察してか、声のトーンを落としている。そのままほとんど音を立てずにドアが閉まる。
 この暗闇の中にボク以外の誰かが存在している。姿は見えない……今の体勢では明るかろうがどうせ見えないけれど、孤独を選んだボクにも繋がりを求める誰かがいてくれて、心に小さな火が灯るようだった。

「飛鳥ちゃん……聞こえてる?」

 部屋の中までは入ってこようとせず、ドアを閉めてからその場に立ち尽くしている蘭子はボクに問いかけた。

「間違ってたらごめんね。飛鳥ちゃん、プロデューサーと何かあった?」

 ……。
 何かはあった。だがそれはもう決着がついている。ボクが勝手に別なことを引きずっているだけで、あの時のやり取りはもう終わったんだ。

「…………」

 蘭子に答えられそうな返事は持ち合わせておらず、無言を返すしかない。
 それを彼女はどう捉えたのだろう。呆れてしまっているだろうか。それとも……。

「……あ、あのね。それじゃあ、私も答えるから……これだけは聞かせて」

 私も答える? 蘭子は何をボクから引き出すつもりなんだ。
 ろくに返事もしないボクへ語りかける蘭子は、決意のようなものを抱いてこの暗闇を今も存在しているに違いない。そんな彼女の決心を聞いてしまえば、またボクは何かを後悔することにならないだろうか。
 ……聞いてみたい、だけど聞きたくない。逃げ場を失っているボクがいくら迷おうと、蘭子を止められるはずもなかった。

「飛鳥ちゃんは……。あ、飛鳥ちゃんは、あの人のこと…………好き?」

今日はここまで。やっと終わりがうっすら見えてきました

訂正

>>5
×誰かと組なきゃいけなくなった
○誰かと組まなきゃいけなくなった

>>23
×懸命な判断をしたまでですよ
○賢明な判断をしたまでですよ

>>45
×水に滴るカワイイボク
○水も滴るカワイイボク

追加修正

>>39
パソコンっていくらぐらいするんだったか。

パソコンとそれで絵を描くための機材っていくらぐらいするんだったか。




 見覚えのある景色だった。
 それは本来のものとは微妙に異なっているが、どこが間違っているかは解らない。

 見覚えのある人だった。
 そのスーツ姿の男性は背を向けていて、前へ前へと進んでいる。

 ボクはあの屋上にいた。
 ところどころ色を失った空の下、遠ざかっていく背中を見つめているだけだ。

 身体が動かない。音も聞こえない。ただ彼はボクから離れようとしている。
 それ以上は危ない。ここは屋上だ、このまま進めば落ちてしまう。
 まるで意に介さず彼は歩みを止めない。そうか、格子がないのか。どうしてないんだろう。

 ボクは叫んだ。
 声なき声を。こんな時に動かない身体を歯痒く思いながら、ありったけの力を込めて。
 はたして彼に届いたのか、ボクには解らない。立ち止まってくれるまで何度も、何度も叫び続ける。

 置いていかないで、と。

 高い所から身を投げようとしている相手へかける言葉ではないだろうに、ボクはそう叫んでいた。どうして、なんて疑問を抱いている余裕もなかった。
 彼は一向に止まってくれない。このまま飛び降りるつもりなのか。彼がいなくなってしまう。いやだ。待ってくれ。ボクの声が聞こえないのか。

 ボクは叫ぶ。何度も、何度も。

 ボクを置いていかないで、と――




「――ない、で……」

 視界が暗転する。
 さっきまでいた屋上も、彼の後ろ姿も、もうどこにもない。ここはボクの部屋だ。
 夢を見ていたらしい。どうにも臨場感があり、霧散した光景やあるはずのない体験が生々しい感情としてボクの胸に留まっている。
 ……あぁ、夢でよかった。
 時刻は朝5時過ぎ、起床するには早い時間だが寝直す気にはなれない。また同じ光景を見てしまいそうで、寝付けそうもなかった。

 夢は何かを暗示するそうだが、今ボクが見ていたものは何のメタファーだろう。あまり気分のいい内容ではなかったし、忘れたい部類ではあるが。
 それにしても、内容はともかく夢に彼が出てくるとはね。
 彼への想いに気付いた途端これかと思うと、なんだか身悶えしてくる。ボクって単純なのかな。どうせなら良い夢で逢いたいものだ。

 少し早いけど、いつでも出られるように今日の準備をしてしまおうか。3月も後半、中学生は春休みの時期だ。うららかな陽光の差す日が増えてきているものの、この時間はまだ寒い。
 本番まで数えるほどもない。体調を崩さないためにも温かい格好を心掛けなければ。しばらく学校が無いのでアイドルに集中出来るのは有り難かった。


「こうなったら直接聞いてみましょうか、プロデューサーさんに」

 食堂で二人と朝食を取り、事務所へ向かう途中のことだった。幸子と蘭子の後をボクが追う形で歩いていると、前触れもなく幸子が同意を求めてきた。
 もしかしなくても昨日の議題、彼の好みなタイプについての続きだろう。

「し、しかし……禁忌に触れるのでは?(聞いてもいいのかなあ?)」

 聞くのは怖い、けど気になる、そんな態度を貫く蘭子はやはり慎重だった。

「飛鳥さんはどうですか? 気になりません?」

 興味はあるが、答えてくれたとしてそれが真実なのかは判断出来ない。しかし問わなければ彼を知ることもまた出来ない、か。
 ……ボクは彼に、どんな回答を期待しているのだろう。

「どうしても、と言うのであれば聞くだけ聞いてみたらどうかな。彼も答えたくなければ答えないさ」

「それもそうですね。最終的にはボクみたいなカワイイ子しか目に入らなくなるでしょうけど、今のプロデューサーさんに聞いてみるのは面白そうです!」

「むぅ……我が同胞達と共になら、我も恐れず真実の鍵を開こうぞ!(二人がその気なら、私も聞いてみたいな!)」

 満場一致らしい。結局こうなったかと思う一方で、こうなることを待っていたようにも思う。あとは幸子に任せよう。
 そうと決まると、後は他愛ない話をしながら事務所を目指した。蘭子は普段の調子で話しているが、どことなく会話がスムーズに弾んでいる。幸子が彼女の言葉を理解しつつあるからだと信じたい。

「……着きましたね」

 事務所まで辿り着くや否や、ドアを開ける前にこれから大仕事を控えているといった風に幸子が身を引き締めていた。興味本位とはいえ何が飛び出してくるかも解らないんだ、幸子も緊張していると見える。
 ボクと蘭子もあまり幸子のことを言えたものではなかった。先陣を切ろうとするボクらよりも小さな背中が今はたくましい。

「お、おはようございます! 今日もカワイイボクが来てあげましたよ、プロデューサーさん!」

 彼はもう出勤しているようだ。幸子に続いて中へ入る。

「おう、今日も仲良く一緒に来たのか。おはよう三人とも」

 デスクに座りPCのモニターから顔だけをこちらへ覗かせた彼を、一目見ただけで心臓が跳ねた。
 昨日の今日だ、過剰に意識してしまうだろうことは予想していたが……予防線をはるかに突き抜けていった。
 胸が高鳴ること自体は今までもあったのに次元が変わってきている。改めて、ボクは人を想うということに不慣れなのだと痛感する。

「……どうした? なんで誰も目を合わせてくれないんだよう」

 彼を直視出来なかったのはボクだけではないらしい。なんだか安心した。

「それよりですね、プロデューサーさん。ちょっとお聞きしたいことがありまして」

 いつもよりぎこちない動きでプロデューサーに近づいていく幸子を見送って、ボクと蘭子は自然を装いながらソファに座った。装う時点でどこか不自然ではあるのだが、幸子に気を取られている彼はこちらには意識が回らなかったようだ。
 ……なんだか緊張してきた。隣に座る蘭子もそわそわしている。
 こんなにも誰かによって心をかき乱されるのなら、孤独に過ごした日々のなんと穏やかなことだったろう。
 穏やか過ぎて何もない毎日よりはずっと充実しているが、期待を裏切られるのが常なこの世界でボクは欲張り出している。つまらない世界なんかいらないと抵抗していたボクは、何処へ往ってしまったのか。


「俺に聞きたいこと? なんだ?」

「えー、そのぅ……」

 なかなか言い出せずにいる幸子があちらこちらへ視線をさまよわせている。
 一旦引いた方が、という念が通じたのか、幸子はぶれまくりの焦点をあらぬ方向へ定めると、

「……コーヒー、飲みます?」

 彼が常用しているマグカップを手にしてそんなことを言い出した。

「ん、それが聞きたいことなのか? じゃあお願いしようかな、飛鳥と蘭子は?」

「え、えぇ、我にも捧げるとよい。白き雫と甘美なる光の粒子を忘れてはならぬぞ(う、うん、私も貰おうかな。ミルクと砂糖もつけてね?)」

「……頂こうか。ボクはブラックで頼むよ」

 一息つくにはちょうどいい。幸子の様子からして土壇場で機転を利かせたわけではなさそうだが、結果オーライってヤツだ。
 彼のマグカップを手にしたまま、事務所に置いてあるコーヒーメーカーの前までそそくさと移動する幸子。そこでまたも固まっている。今度はどうしたというんだ。

「プロデューサーさぁん……」

「どうした、そんな捨てられた子猫みたいな声出して」

「これ、どうやって使うんですか?」

 ……使い方を知らなかっただけか。
 実家で家事をしたことがないと言っていたし、まぁ無理もない。

「もしかしてそれの使い方を聞きたかったとか? 先にそう言ってくれればいいのに、幸子はカワイイなあ」

「このタイミングで褒められてもあんまり嬉しくないですよ! それで、どうしたらいいんですか!」

 手の掛かる子供をあやすように、彼は柔和な面持ちで幸子の面倒を見に席を立った。

「わかったわかった落ち着け、俺がやるからよく見てろよー。これで好きな時にコーヒー飲めるな、幸子」

「ボクはそこまでコーヒー好きでもないですが、プロデューサーさんがどうしてもボクの淹れるコーヒーが飲みたくなった時のために覚えてあげてもいいです!」

「それが物を教わる態度か? ははっ、ほらいくぞ」

 慣れた手付きでペーパーフィルターを折り、人数分のコーヒー豆を挽いていく。
 彼がコーヒーメーカーを一から使用しているところをこうも注目したことはなかったので、その一挙手一投足に目を奪われた。
 ボクも使う時にもたつかないよう、あの光景を焼き付けておこうかな。そう、そのためにボクは彼をじっと見つめていたに違いない。


「水を入れて……と。あとは作動させて抽出してくれるのを待つだけだ。簡単だろ?」

「ふむむ、手間が掛かるんですねぇ。ボタン押すだけで出てくるようなのはないんですか?」

「事務所にドリンクバーでもつける気か? そりゃあれば便利だろうけど、さすがになあ」

 苦笑しつつ、コーヒーが抽出されるのを幸子と並んで待ち構える彼にいつもと変わりはない。変わったのはボクの彼に対する見方だ。
 何でもない日常のことでもボクのセカイに彩りを与えてくれる。そんな存在を、定点観測せずにはいられない。
 どうして彼が気になるのか、彼を知りたいのか、彼と――解り合いたいのか。行動原理を具体的に自覚している今と以前とでは雲泥の差だった。

「ほら、出来上がり。注ぐくらいはしてみるか? 熱いから気を付けろよー」

「フフーン、それくらいはボクにだって出来ますとも! あ、プロデューサーさんはミルクとかお砂糖はどうしてます?」

「その時の気分によりけりだな。大抵ブラックで飲んでるけど……いけね、つい苦めにしちまった。飛鳥、せめて砂糖入れておいた方がいいぞ」

「フッ、キミがいつも飲んでいるのがそれだというなら、是非ありのままを楽しませて貰おうじゃないか」

 苦いのは得意じゃないけれど、彼と同じものを飲んでみたい。
 彼が淹れたコーヒーなら味わって飲める。……たぶん。

「忠告はしたからなー? じゃあ幸子、俺は席に戻ってるからよろしくな」

「任せてください! 蘭子さんとボクの分はミルクとお砂糖を入れて、と」

 コーヒーメーカーの側に備えてある共用のものを含めた四つのマグカップをトレイに置き、それぞれへ丁寧に注いでいく。香りの良さそうな湯気が立ち上った。

「……。プロデューサーさんのはそのまま持っていった方がいいですよね」

「俺だけ手渡しかい! お盆を片手に飲み物を持ってきてくれるカワイイメイドさんはいなかったんだな……」

「片手!? 四人分をボクのか弱い腕で運ぶのは途中でこぼしてしまわないか……つ、次の機会まで待って頂けますか!?」

「いや、別に片手じゃなくたっていいんだけどさ。でも楽しみにしてるよ」

「むー、どっちなんですかまったく。そんなにカワイイボクの優秀なメイドさん姿が見たいのなら、早く言ってくれたらいいのに……どうぞ」

「ありがとな。せっかく幸子が持ってきてくれたんだ、じっくり味わうとするよ」

 ぶつぶつと不満を漏らしたり彼の一言で機嫌が直ったりしている幸子はどうやら、元々の目的が何だったのかそっちのけでコーヒーのことに勤しんでいた。
 メイド、か。ありふれた属性ではあるが、それだけ彼もまた好みだったりするのだろうか。

「お二人もどうぞ、飛鳥さんのはこれですね。……本当に飲むんですか、こんなに真っ黒な飲み物を?」

 空いてるソファに座り、トレイをテーブルに置いてコーヒーを配る幸子がなおも一つだけ黒く染まったマグカップを覗き込んでいる。

「混沌をも飲み込む漆黒……我の手にも余るやもしれぬ(私もこれは飲めなさそうだなあ……)」

「いいんだ、ボクもこういう気分なんでね」

 何てことの無いようにマグカップを受け取り、淹れたての香りを楽しんでみてから火傷に気を付けて少量のコーヒーを口に含む。
 …………。
 ……………………。


「ほらな。だから言ったのに」

「……ほんの少し熱かっただけさ。キミが飲めるのなら、ボクにだって」

 せめてこの一杯だけは飲み下す。幸いこれだけ熱いんだ、時間を掛ける口実はある。

「実は甘い方が好みなんですよね、飛鳥さんって」

「!?」

 少しずつ飲んでいるのにむせそうになった。
 確かに甘い方がボクの好みには近い。だがそれを今指摘しなくてもいいじゃないか……!

「あれ、好み……? そうでした! プロデューサーさんに好きなタイプを聞くつもりだったのに、何でコーヒーをみんなで飲んでるんでしょう!?」

「けほっ、けほっ!?」

 まだ口に含めてすらいない蘭子までむせた。やってくれるな、幸子。
 こんな時だけ聞き逃したりなんてことはなく、彼も反応を示す。

「俺の好きなタイプ? コーヒーのこと、じゃなさそうだな」

「え、えぇ。何と言いますか……」

 もはや誤魔化す方法はない。幸子は破れかぶれに二の句を継いだ。

「プロデューサーさんのす、好きな女性のタイプってどんな人なのかなと思いまして、ね? 担当されてるアイドルにもいろんな方がいますし、どういった人が好みなのか……気になったまでですよ」

「うーん。女の子が好きそうな話題だなあ、俺のなんか聞いてどうするんだ?」

「そりゃあ、プロデューサーさんってまだご結婚とかされてませんし……ねぇ?」

 幸子が救援を求めてボクらに振ってきたが、何て返すのがベストなんだろう。
 らしくない、と彼に思われるのは避けたいが……ボクだけ素知らぬ振りというのも彼女らに悪い。
 蘭子はどうしてるのか横を振り向くと、ばっちり目が合ってしまった。似たようなことを考えていたのだろうか。
 これらのやり取りからボクら共通の意思だと受け取ったのか、彼はバツが悪そうに首筋を揉んでいる。

「幸子の言う通り結婚もまだだし彼女もいないけどさ。まさか俺、中学生の子達に心配されてるのか? 複雑だな……」

 何か勘違いしているようだが、それより今は誰かと付き合っていることもないのか。
 それだけ引き出せただけでもよしとしておくべきだった。

「今は仕事一筋、とでも言っておこうか。お前達こそそういった話をするなとまで口うるさくするつもりはないが、アイドルであることを忘れてないでくれよ?」

「わかっていますとも。それで、どうして答えてくれないんですか? 仕事に集中しているとしても、好きな女性のタイプくらいはあるでしょう?」

「む……」

「我も、友の嗜好がいかなるものか、聞いてみたいなぁ……なんて」

 蘭子も声を細らせて素とごちゃまぜになりながらではあるが、引き下がるつもりはないようだ。
 彼はどう見ても答えまいと渋っている。そこにどんな理由があるのか、それにどんな意味があるのか、ボクは思考を巡らせていた。

「どうでもいいだろう、俺のことなんか。飛鳥を見習え飛鳥を」


「……えっ?」

 不意に名指しされ、間の抜けた声が出てしまう。
 ボクを、何だって?

「お前達なら大丈夫だと思ってるけど、特に飛鳥は安心できる。こういうことに興味なさそうだもんな、飛鳥は」

「…………」

 彼の目に映る「二宮飛鳥」は、そういうヤツなのだろう。
 あぁ、そうだ。ボクはそんなものに……恋愛沙汰なんかに興味を持っていた覚えはない。持っているとすればつい最近、ほんの少し蓋を開けてみた程度のちっぽけなものだ。
 彼は「二宮飛鳥」を言い当てている。彼がボクを見てくれていることの証左で、歓迎すべきことだった。
 そう、ボクにとっては喜ばしいことなんだ。
 だから……蘭子、幸子。ボクのためにそんな顔をしてくれなくていい。
 ボクまで何かが、込み上げてきそうだ。

「……あぁ、そうさ。そうだとも。よく理解っているじゃないか――」

 彼にまた一つ理解された「二宮飛鳥」として、震え出す声を引き絞る。

「プロ、デュー…………」

 同時にそれは、彼へ想いを寄せるボクを否定されたことに他ならなかった。

 喉元は熱く焼け焦げ、声が出ない。
 気が付けば、温かい何かが頬をつたって零れていた。コーヒー……とは関係なさそうだ。
 こんなことで――いや、こんなことだから、溢れてしまったのだろうか。
 人を想うことに慣れてないボクでも、人に拒絶されるのは慣れているつもりだったんだけどな。

「飛鳥ちゃん……っ!」

 蘭子がボクの肩を優しく抱こうとしてくれた。
 幸子は幸子で、プロデューサーにいつでも食って掛かりそうな見幕を垣間見せたが、そうすることが誰のためにもならないことを弁えており、ただただ葛藤に耐えているようだった。
 そして、彼は……。

「……飛、鳥?」

 目の前にいる既知の14歳の少女が違う生き物にでも見えたのだろう。
 唖然としている。ボクを見て、彼が困惑している。
 ……何をやってるんだボクは。こんなところを見られたら、彼にとってのボクが「二宮飛鳥」ではなくなってしまう。
 魔法が解ける……解けたらボクは、ここにいられなくなるのだろう。

「……何でも、ないよ。蒸気が、目に染みたかな」

 匂いなんてとっくに解らなくなっていたコーヒーの湯気を大げさに振り切り、その勢いでボクは立ち上がる。
 落ち着かせようとしてくれた蘭子を驚かせてしまったかな。ごめん、気が回らなくて。
 このままここにいては、彼との距離が離れてしまいそうだから。

「外の空気……吸って、くる」

 焼けつく喉でそれだけを残し、ボクははやる気持ちを抑えゆっくりと急いで彼と彼女らのいる事務所から逃げ出した。
 ボクの名前を呼ぶ声に、聞こえない振りをして。
 涙を零してしまわないよう、上だけを向いて。

今日はここまで。

思ったより進みませんでしたが、佳境ではあるのでちょこちょこ更新していきたいです




 そうして行き着いた先は……屋上だった。
 こんな時間だ、ひと気もなくて都合が良い。懸念事項として探し当てられやすくはあるが、どうでもいい。いっそのこと雨にでも打たれたい気分だ。空は真っ白な雲が優雅に青い海を泳いでいて、降ってきそうにもなかった。
 ボクがボクであることを確認するためにここには何度も通っている。そのどの時よりも、喧騒から逃れ静寂に満ちたこの空気がボクを凍えさせた。
 そうだ、ボクのセカイはずっとこうだったじゃないか。
 温かい居場所を与えられてそこに浸るようになっていたせいか、独りになったことの寒さが骨身に染みてくる。

 どうしてボクは、孤独を感じているのだろう。

 望み通り彼に理解される一方で、それを嘆いてしまっているボク。矛盾した二つの存在が紛れもなくボクの中に同居している。
 ……そうじゃない。自分を誤魔化すのはやめよう。
 仮面を付けたところでその本質は変わらない。ボクが「二宮飛鳥」であろうとしても、ボクはボクだ。ボクもまた移ろい変わるヒトでしかない。彼と出会えた「二宮飛鳥」で在り続けることは、それはただ「二宮飛鳥」を演じているに過ぎなかった。
 この想いを抱くことに興味が無さそうだと頭ごなしに否定され、こんなところで独り涙を堪えてるボクが……こんなに弱いボクこそが、ボクなんだ。

 ボクがボクであることに見向きもせず、ボクが何者かを決定しようとする行為は――
 「二宮飛鳥」という存在を否定しているのと同じだ――

 出会ったばかりの頃、幸子に対してボクは「輿水幸子」という記号から彼女を判断しかけた。今なら解る。あの時幸子へ抱いたイメージは、彼女の本質に迫るものではなかったことを。
 ボクは……そう、それと同様のことを彼にされてしまったんだ。させてしまった、が正しいのかもしれない。
 仮面を付けることで弱い自分を隠して生きてきた。解り合いたいのに、仮面を外せば彼の望むボクではなくなるだろうと、必死に彼と出会えた「二宮飛鳥」で在ろうとした。
 そのくせ、そんな自分を理解されずに泣いているボクとは、何なのだろう。

 「二宮飛鳥」じゃないボクは、いったい誰だというのか。

「飛鳥……」

「……っ」

 追ってきたようだ。控えめな調子で彼がボクを呼んでいる。
 その声にボクは振り向かなかった。彼が呼ぶボクは「二宮飛鳥」のことであり、こんなところで泣いているのは「二宮飛鳥」ではない。
 それなら……合わす顔なんて、あるはずないじゃないか。
 声、ちゃんと出るかな。

「……どうしたんだい」

「どうしたって、俺はお前を……」

「キミが探しているヤツはきっと、ここにはいないよ。今は、ね」

 やめろ――

「心配しなくていい。すぐ……戻ってくるさ」

 何を言ってるんだボクは――

「キミは待っていればいい。いつものように、あのデスクでね」

 これからずっと演じていくつもりか、「二宮飛鳥」を――

「だから、早く往ってくれ。そこにいられたら……戻れないだろう?」

 ボクは此処にいる。今、此処に、いるのに――


「……」

 静けさが心に突き刺さる。
 彼と過ごすセカイに、こんな痛みが伴うなんて。
 返事はすぐには返ってこなかった。彼は一度失敗している。ボクにかける言葉を、入念に模索しているのだろう。
 十数秒、あるいは十数分経ったろうか。
 そうして彼から返ってきた言葉は――

「わかった。先に戻って……待ってるよ」

 決定的だった。
 遠ざかっていく革靴の足音が、ボクに別れを告げてくる。
 彼が待っているのは「二宮飛鳥」であり、ボクではない。ならば、ボクは早く「二宮飛鳥」に戻らなければ。
 ……戻らなきゃ、いけないのに。

「……ぅ、ううぅ……っ」

 ついに堪えきれなくなり、決壊した。

「うぅ、ぐすっ…………くぅっ……!」

 独りでも強くいられるよう、ボクは仮面を付けていた。
 外れてしまえば……こんなものさ。なんて弱いんだろう、ボクってヤツは。
 結局ボクは彼とは解り合えないんだ。プロデューサーである彼にとって、「二宮飛鳥」という偶像にボクはいらない。この想いも、感情も、胸に秘めることすら許されないのだから。
 頭では解ってた。だが心では解ったふりをしていただけだった。そのことがこうして光の粒となり嫌というほど露わになっている。それは強くあるためにずっと隠されてきたボクが、「二宮飛鳥」へ叫んでいる証だ。
 この痛みを、苦しみを、哀しみを。
 彼と出会い、彼に惹かれ、彼とセカイを共にすることを望み、そのために彼と解り合いたい――
 そんな願いが叶ってはいけないのか、と。やり切れない気持ちを叫んでぶつけてくる。

 ……でも、もうどうしようもないだろう?
 彼は「二宮飛鳥」を待つと言い残して立ち去ったんだ。今さら仮面の下に隠されてきたボクが出てきたところで、お呼びじゃない。

『ボクはね、プロデューサー。変わっていくセカイにそれまでのボクが置き去りにされていないか、何故だか不安なんだ。今ここにいるボクは、キミと出会った頃のボクといえるのか……。ボクはボクで在り続けられているだろうか』

 あぁ、そんなことを彼に問うたこともあった。
 仮面を付け「二宮飛鳥」でいることに慣れ過ぎて、変化していたのが仮面の下のボクだったということに気付いていなかった頃だ。

『んー……月並みなことしか言えないけど、人は変わるものだよ。俺だってそうだ。変わらない人なんていないさ』

『そう、だね。キミは正しい。あぁ、まごうことなき正論だ。変わらないヤツなんていやしない』

 知ったような口を利いて、何もかもを見落としていたんだね。ボクは、ボクのことを。

『それでも、ボクがボクでなくなってしまったら……キミはどうする? 先なんて見えない暗闇の中で、進むべき道はおろか自分のことすら見失ってしまったボクを、キミは……置いていってしまうのかな』

 キミに置いていかれて、ボクは見つけられたよ。ボクの中にいた、ボクってヤツを。

『その時は……見つけてみせる。なーに、俺とお前は一度こうやって出会えたんだ。飛鳥が自分を飛鳥じゃなくなったと思っても、どこかに必ず飛鳥がいるはずだ。それを俺は見つけてみせるよ』

 …………。


 見つけてくれるって、言ったのに。
 自ら隠しておいてどの口が、とキミは思うだろう。でもボクは見つけて欲しかったんだ。伝えることも出来ない、この想いを秘めてしまったボクのことを。仮面の下のボクを。
 キミなら解ってくれると期待して。
 キミとなら解り合えると、勝手に勘違いして。
 ボクは彼に裏切られたと思っているのだろうか。こんなこと、この世界ではよくあることじゃないか。
 世界はボクのことなんて見向きもしていなかった。
 だからこそ、ボクのセカイの中心にいるキミには、ボクのことを見て欲しかった。
 見つけて欲しかった。
 見つけて、欲しかった……!

「…………ひっ、……ぐ」

 嗚咽を噛み殺し、目元を乱暴に拭う。
 もう戻らなくては。彼のもとへ、「二宮飛鳥」として。
 今日だって事務所に遊びに来たわけじゃない。レッスンの始まる時間を過ぎてしまっている。
 最後に一度、流れる雲の行方を追いながら、深呼吸でもしておこう。
 ゆっくりと息を吸い、形状を留めずあるがまま流れていく雲を霞んだ視界で眺めながら、蓋をするように仮面を付け直すんだ。
 全ての息を吐き出すと一緒にこの想いも吐き捨てられたら、迷いなくボクは「二宮飛鳥」へ戻れるのにな――


「――か、飛鳥! 飛鳥ああああ!」


 慌ただしく駆ける足音と共に、再び静寂が破られる。
 思わず振り返りそうになった。まだ心の準備は終わっていなかったせいか、身体が固まってしまっている。
 いや、そんなことよりも……どうして彼はここにいるんだ。彼はボクを、「二宮飛鳥」を待っているんじゃなかったのか?

「飛鳥!」

 息を切らし、乱れた呼吸を捩じ伏せてボクの名前を呼んでいる。

「……っ、飛鳥!」

 何度も、ボクに呼びかける。

「……。飛鳥」

 ボクとの距離を詰めながら、彼はボクの名前を口にするのをやめない。

「飛鳥」

 そして、彼はボクのすぐ後ろまで近寄っていた。
 もう声を大きくしなくても充分に聞こえる距離だ。彼は何を求めてボクのもとに来たのだろう。それが解らないままではボクも振り向くに振り向けず、この事態に翻弄されるのみだ。
 遠く彼方で流れているあの雲のように、流されるまま。
 膠着状態はそう長くは続かなかった。あと一歩進めばぶつかる、そんなところまで彼に詰め寄られ、

「……飛鳥」

 ボクにそっと腕を回し、後ろから彼に肩を抱き寄せられた。
 腕を掴むことすらも……躊躇わせていたはずなのに。

 それは決して、遅くなったボクを捕まえて逃がすまいとする意思表示などではなかった。
 加減が解らないのだろう、ボクの肩を抱く力は弱めで優しくありながらも変に力んでいる。
 まるで壊れ物を傷付けまいとするように、嫌なら振りほどいてくれという彼の意思が伝わってきた。

 ……参ったな、これでは逃げたくても逃げられじゃないか。

 心ごとまんまと囚われてしまった。ボクの肩を抱くなんて、彼にそうさせるだけの心境の変化があったのだろう。
 彼が「二宮飛鳥」を待たずに迎えに来た理由、それをボクは知りたい。
 知らなくてはいけない。「二宮飛鳥」として、そして、ボクとしても。
 それがボクにとって歓迎されるべきものなのか、さらなる絶望へ叩き落とすものなのか――不安は尽きないけれど。
 キミにそうされるの、ボクは嫌じゃないみたいだから。
 少しだけ……このままでいたかった。
 ねぇ。いい、よね?

追加修正

>>79
 デスクに座りPCのモニターから顔だけをこちらへ覗かせた彼を、一目見ただけで心臓が跳ねた。
 昨日の今日だ、過剰に意識してしまうだろうことは予想していたが……予防線をはるかに突き抜けていった。
 胸が高鳴ること自体は今までもあったのに次元が変わってきている。改めて、ボクは人を想うということに不慣れなのだと痛感する。

 ↓

 デスクに座りPCのモニターから顔だけをこちらへ覗かせた彼を、一目見ただけで心臓が跳ねた。
 昨日の今日だ、過剰に意識してしまうだろうことは予想していたが……予防線をはるかに突き抜けていった。
 彼の方はボクらが普段通りに事務所へ来たことから察したのか、ボクが駄目にしてしまった昨日の件をおくびにも出さずに変わらず接してくれているというのに。
 胸が高鳴ること自体は今までもあったのに次元が変わってきている。改めて、ボクは人を想うということに不慣れなのだと痛感する。


「……ごめんな」

 あと少し、あと少しと心の中で唱えている間に彼が痺れを切らしたようだ。
 ここまでボクが何の反応も示さなかったから、いたたまれなくなったのかな。
 せめてボクに声の震えない自信がつくまで待ってくれてもよかったのに。
 仮面はまだ、手放したままだ。

「……。なに、が?」

「飛鳥が何かに悩んでいるのは知っていたのに、俺はまた……」

「いいさ。ボクも……ボク自身に驚いてるくらいだから。それに、キミはこうしてこんなボクを迎えに来てくれた」

「それ、なんだが」

 面と向かって話したいのかボクの肩を抱く腕が離れ、代わりに両肩へ手が置かれた。
 彼の方へ振り向かせる力が加えられないよう、左肩に置かれた手にボクの右手を重ねる。ボクはまだ顔を合わせられるほど落ち着いてはいない。これから、聞きたくない言葉も出てくるかもしれないんだ。
 ボクの意図を汲んでくれたのか、彼はそのままの態勢で続けた。

「実は、あいつらに怒られてな。どうして一人で戻ってきた、って。どうしたらいいのか分からないって答えたら、こうしろって教えてくれたんだ。名前を呼んで抱き締めてやれってさ」

 ……。
 迎えに来たのは、肩を抱き寄せてくれたのは、キミの意思ではなかったの……?

「……そういうことは、黙っているものじゃないのかい?」

「嘘を吐きたくないんだ。ほら、俺って大事なところで間違えるだろ? 今さら格好つけて……俺という人間を誤魔化したくない」

 オトナは平気で自分のために嘘を吐く。
 だからボクは、キミのそういうところも気に入っている。
 以前キミが下手な嘘を吐いた時も、自分のためじゃなかったよね。
 あの時は、おかげで寒くなかったよ。

「飛鳥のことも、俺はわかった気になってついあんなことを言っちまった。わかるために努力するなんて言っておいてこれだ」

「そんなこと、ない。キミはボクを言い当てていたんだ。解り合えてる気がして、嬉しくすら思ったよ」

「それでも……それならきっと、前に飛鳥が言っていた俺の知らない飛鳥を傷付けてしまったんだ。……思い上がり、かな?」

 仮面の下にずっと隠してきて、ようやく浮き彫りになったボク自身。
 ボクでさえ気付いたばかりのボクを理解しろなんて無理に決まっている。
 ……そうフォローしたいけど、打ち明けていいものなのだろうか。弱いボクを晒してしまえば彼は「二宮飛鳥」の認識を改める。
 こんなヤツをスカウトしてしまったのか、と彼を落胆させたくない。
 彼と出会えた奇跡とも呼べる魔法を、自ら解くなんて、ボクには……。


「どんな飛鳥も、飛鳥だよ」

 ……?
 どんなボクも、ボク。

「どういう、意味?」

「まだ14歳なのに、それとも14歳だからなのか、知ってますって顔して物を言う飛鳥も。ずっと俺以外の誰かと関わろうとしなくて年の近い子が苦手なのかと思ってたけど、あいつらと仲良くなって楽しそうにしている飛鳥も」

 ボクという人間の変遷を、見守ってくれていた彼は語った。

「クールなつもりでいてちょっぴり顔に出やすい飛鳥も。悩みがあれば考え過ぎなくらいに悩んでいた飛鳥も。苦いの得意でもないのに無理してコーヒー飲んでた飛鳥も」

 見なくていいところまで見ているんだな。
 ……ずっと、見ててくれてはいたんだ。

「そして、俺が理解してやれなくて……泣いていた飛鳥も、全部だ。全部が二宮飛鳥って名前の女の子なんだよ。俺はその、全部ひっくるめて飛鳥のことを知りたい」

 彼にとって、「二宮飛鳥」の仮面をつけたボクこそが二宮飛鳥という存在だと思っていた。
 でもそれは……ボクの方こそ思い上がりだった、というわけか。
 どんなボクもボクで、ボクのことを知りたい。そうはっきり口にしてもらえて、勝手に自分を縛りつけていた枷はもう、影も形も無くなったかのようだ。
 胸がすっと軽くなり、自由に躍り出している。彼の前で無理をしてでも「二宮飛鳥」である必要はなくなったんだ。
 もう、「二宮飛鳥」という仮面は彼と共に歩むこのセカイでは不要なのかもしれない。

 無邪気に飛び跳ねている心を抑えつけて……最後に、これだけは聞いておこう。
 そうまでしてボクを解ろうとするのは、やはり彼がプロデューサーで、ボクがアイドルだから、なのだろうか。
 ボクとは仕事の上で成り立つ関係、なのかどうかを。

「ボクのことを知りたいってのは、ボクをプロデュースするため、かい?」

「もちろん。でも……何というか俺、本当は怖いんだ。そのための努力をしたいのに、お前達のことを知ろうとすることが、怖くもある」

「知ることが、怖い? 誰かと解り合うことに怯えている?」

「怯える、か。ああ、その方が近いな」

 背を向けたまま彼と言葉を交わしているせいで確認することは出来なかったけれど、何となく今の彼があの時みたいに遠く空の彼方を見つめている気がした。
 彼は話してくれた。
 ボクが一番聞きたかった物語、彼についての物語を。


「前に話したよな。アイドルになれても少し経って辞める人も多いって話。俺が担当してきた中にもいたんだが、そのうちの一人の辞めた理由がな……後から上司に聞かされて、ずっと引きずったままプロデューサーしてるよ」

 彼の心にいつまでも居座っているほどの理由、ね。
 理想と現実の乖離から続けられなくなる人が多いのなら、それで辞められても慣れで済ませられるはずだ。
 そうでないとするなら……。

「俺の方針はずっと変わってない。時に寄り添って、その人をわかろうとして、隠されていた魅力も可能な限り引き出す。ついてきてもらうために、一緒に肩を並べて歩くような、なるべく対等な関係でいたいと思ってる」

 オトナなはずの彼の親しみやすさがその方針に起因していることは、担当アイドルであるボクが身を以て体感している。

「でも……それが悪い方向に働くこともあるって思い知らされた。彼女は、俺には絶対に辞める理由を話してくれなかったんだが、その意味もわかった。……俺のことを、異性として好きになってしまったそうだ」

 辞めてしまった彼女。
 そうくるんじゃないか、とは思っていた。

「アイドル活動にも真面目だったから、浮いた話が出そうもなくてな。そうなると親交のある異性なんて限られてくる。そこへ俺は彼女のことを理解するために、親身になり過ぎていたんだな……」

「ボクらアイドルは誰とも結ばれてはならない、そんな自分を支えるのが最愛の人――その狭間にいながらアイドルをしていくことがつらくなってしまった。そんなところかな」

「そう、だろうな。最終的に引き金を引いたのも俺だったみたいだが。飛鳥にそうしちまったように彼女を見誤っていた俺の言葉で辞めるのを決意したそうだ。こんな想いをしながらファンの人に夢を見せられそうもない、それが表向きの辞めた理由になってる」

 ボクがそうだったように、その彼女もまた彼からだけは欲しくなかった言葉を受け取ってしまった。
 誤解を解くことなく、彼女は身を引いた。一歩間違えばボクは彼女の後を追っていたに違いない。
 もしかすると、彼が好きな女性のタイプをなかなか答えようとしなかったのは、その彼女とのことも含めて彼の中でタブーに近い話題だったからなのだろうか。

「仕事のため、なんて割り切れないんだよな。人と人が接するんだ、良くも悪くも相手のことを考えたり、想ったり、好いたり嫌ったりして当然なのに。ずかずかと相手の心に踏み込むことを許してもらえた意味を、馬鹿だった俺は考えていなかった」

「……それなら、今はどういうつもりでボクらと接しているんだ?」

「多分、一定の距離は置くようにして……表面上でしか見ようとしてなかったんじゃないかな。今回の件も、表面だけで俺が飛鳥をわかった気になっていたせいで、お前を――」

「ボクは、キミと解り合いたいよ」

 重ねた手はそのままに、ボクは彼の方へ振り向く。
 不自然ながら手を繋ぎ合わせた格好になった。ボクなりに彼を離すまいとしている。
 目は赤いだろうし、合わせられる顔ではないから下を向いたままだけど。
 彼の紡ぐ物語に待ったをかける。彼と彼女の物語は聞かせて貰った。しかし彼とボクの物語はまだ序章に過ぎない。ボクがアイドルとしての確かな一歩を踏み出すことになる今度のフェスが、ボクらのスタート地点になるんだ。
 彼とボクの物語なら、ボクにも語り部になる権利はある。


「キミが恐れているのも理解る。余計な感情を抱かせて、つらい想いをさせたくないっていうんだろう?」

「……そうだな。自意識過剰みたいな言い方になるから、凄く恥ずかしいけど」

 実際に好意を寄せられているから仕方ない、とは言わないでおこう。なんかシャクだ。
 ただ、蘭子や幸子、そしてボクにとっての彼が、物語の主人公然とした活躍をしていることは間違いなかった。
 ボクらの物語が喜劇で終わるか悲劇で幕を閉じるか、それは誰にも解らない。
 解らないからこそ、ボクらは自分の物語にありきたりなハッピーエンドってヤツを夢見てしまうんだ。

「それでも、ボクは解り合いたい。この世界に連れてきてくれたキミを、パートナーとして共に歩んでいくことになるキミのことを。孤独なセカイはもう……たくさんだ。こんなに近くにいて、表面だけの寒い付き合いなんてしたくない」

「……」

「ボクだけじゃないよ。キミを信じてついてきているアイドルは口を揃えて言うはずだ。キミのことを知りたい、と。ボクらをありのままに受け入れてくれるキミのことを」

「そう、なのか?」

「そうさ。どうもキミがアイドル性を見い出す相手は癖のあるヤツばかりでね。それまで生きてきた世界で上手く立ち回れていなかった人も少なくない。そんなボクらはキミとなら波長が合うんだよ。まったく不思議な存在だ……だから、知りたい」

 ボクと同じく彼が現れるまで理解されることを諦めていた蘭子や、自分のカワイさを身内でもないのにすんなり認めて貰えた幸子。彼女らが彼を一目置いていることは説明するまでもない。
 キミが受け入れてくれるなら、キミの手で用意された輝きの舞台にボクは往こう。
 ボクは解り合いたい。心置きなく、彼のためにも輝けるように。

「だめ、かな。いつ芽生えてしまうとも解らない感情に、振り回されたくない?」

 悪い芽は早めに摘めというが、既に芽生えてしまったこの感情をボクは摘み取れそうもない。実らないまま日陰で育てることになろうとも、大切にしていたかった。
 そんなボクの覚悟をどこまで察したのか、彼は躊躇いがちに白状した。
 おそらくそこに、彼が隠そうとした本音があるのだろう。

「……俺な、彼女が辞めてしまったことで、もう一つだけわかったことがあるんだ」

「それって?」

「俺だって人間だ。一人の男でもある。なら俺だって、いつお前達にそういう感情を持ってしまうかもわからない。そもそも俺がアイドルにしたいと思った相手なんだから、他の女性よりよっぽど魅力的に映ってる。もし俺の方がお前達にそういう目を向けてしまったら……示しがつかないじゃないか」

「……ふふっ、何それ」

 示しがつかない、か。
 そんなところまで対等になろうとしている彼が、よく解らないけど可笑しかった。


「笑うなよ。お前達のファン1号は俺なんだからな」

「なら、キミは相当に恵まれたファンみたいだね。アイドルとこうして触れ合えるファンなんて、そうはいないんじゃないか?」

「まあな、1号に与えられた特権ともいえる」

「その特権、もっと行使したくならないものなのかい?」

「あのなあ。仕事中にそんなことするかっ」

「ふぅん……プライベートならするんだ」

「あ、いや、そういう意味じゃ……」

「幸子とは遊園地へ遊びに行ったんだって? 蘭子には手作りの料理をご馳走になったそうじゃないか」

「聞いたのか!? それはあいつらに誘われて、無下にするのも可哀想だし……。新たな一面も見れるかと思ってさ」

「自分から誘ったわけじゃないならOK、と」

「ぐぅぅ、勘弁してくれ~」

「勘弁して欲しかったら、観念することさ。キミがボクらに踏み込んでくるのなら、ボクらにだってキミに踏み込む権利はあるはずだ。過去のことが清算出来ていなかろうが、それはそれ。ボクらとは関係ない」

「それはそうだけど……」

「キミはプロデューサーなんだろう? 隠された魅力を引き出す、ってのは嘘なのかい? 余計な感情を抱いたらつらいから、なんて理由で中途半端にボクらと関わっていくつもり? 諦めなよ、そんなこと承知の上でキミとは解り合っていきたいんだから。ボクらを輝かせたいのなら、キミもそのぐらい覚悟しておいてくれないと」

「…………」

 持てる言葉は尽くした。煮え切らない彼にちょっと腹も立ったし、これぐらい言わせて欲しい。
 それでも彼が線引きをしたいというなら、彼の選択を尊重するしかない。彼と共にいられる場所はこういう世界だから。

 ボクは返事を待つ。
 次に返ってくるのがプロデューサーとしての言葉なのか、彼個人としての言葉なのか。見極めなければならない。
 願わくば、彼自身の言葉を……聞かせてくれはしないだろうか。
 仕事のためなんていう物分りのいいオトナの仮面なんか、取り去って。


「……そうだな。虫が良すぎる、よな。こんなんじゃ」

 ボクが重ねたままでいた手を、彼はそっと握り返してきた。
 彼は覚悟を決めたようだ。顔を見られないよう俯いていたボクは、そんなことも忘れて顔を上げる。
 今日初めて、彼と目が合った。

「わかったよ。もう迷わない、昔みたいにもっと無神経にお前達と付き合っていく。踏み込んでいく。だけど一応だぞ。前例があるから、いっちおーう宣言しとくからな」

「っ……聞こうじゃないか。なんだい?」

「間違っても、俺に惚れるなよ?」

「……フッ」

 それは、もう遅いよ。

「そっちこそ。……決まりだね。決まったことだし、ボクは……ええと、レッスンしに行かないと」

 彼が迎えに来た瞬間が、事務所に戻ろうとした矢先だったのを思い出す。
 今ここで彼と話すべきことはもうない。やるべきことをやらなければ。

「いいさ。本番間近の貴重な時間だけど、飛鳥はあいつらよりもレッスンしていた時間が長いし、トレーナーさんからもお墨付きだ。午前の分は休みにしておいたから、自由にしててくれ」

「そう? なんだかサボっているみたいで落ち着かないな、キミはこれからどうするんだい?」

「今日はデスクワーク中心、といってもほとんど片付いてるから余裕があるんだ。もともとお前達の様子を見たくて調整しててさ」

「キミも暇ってことか」

「暇とはなんだ暇とは。あー、だから、俺に聞きたいこととかあるんなら、答えたりできるぞ。たとえば、俺の好みのタイプとかな」

「……まぁ、まずは戻ろう。ボクらの事務所に」

「そうだな。少しずつ温かくなってきたとはいえ、まだまだ外は寒いからなあ。……でも、このままで?」

 このままで、というのは無論、ボクの右手と彼の左手が繋がれていることを指しているのだろう。
 意識しないようにしてたのにとうとう指摘されてしまった。離すタイミング、無かったもんな。
 だけど、やっと彼と対等の存在になれるような気がしている今なら、このままでいた方が新たなボクらのセカイに浸れて好都合だ。

「このまま、戻ってみよう。この方が肩を並べて歩きやすいだろう?」

「なるほど、飛鳥らしい発想だ。試しにそうしてみるか」

 そうしてボクは、いつの日か叶わなかった、彼の手の温もりを感じられながら事務所へ戻った。
 僅かながら二人きりになる時間も貰えたことだし、彼と過ごす時間を大事に使いたい。
 解り合うことを許された今なら話したかったことも素直に話せそうだ。

「……キミってさ、やはり大きい方が――」

「ん? 大きい?」

「っ! いや、何でもない。そうだな……何から話そうか」

 ボクらの事務所へ戻ると、冷めてしまっているコーヒーのマグカップがそのままになっていた。
 彼は淹れ直そうとしてくれたが、ボクは断って冷めた飲みかけを一口ずつ味わって飲む。熱い冷たいの差はあれど、苦みというこの飲み物の本質は変わっていない。
 ボクの「二宮飛鳥」という仮面もまた、そこに潜む本質、ようやく気付いて認めることが出来たボクという存在までを完全に覆い隠すことは不可能だった。仮面があろうとなかろうと、変わらずボクは彼が好きになっていただろうから。
 どんなコーヒーもそのままなら苦い。どんな仮面を付けたってボクはボクだ。

 人は変わるものだと彼は教えてくれた。ボクもそう思う。でも変わらない味があるのなら、変わらない想いがあってもいい。
 ボクはこの先、彼のことをずっと好きなままなのだろう。好きの意味合いが多少変化することはあっても、ボクは彼を好きなボクで在り続ける。そんな自信がある。
 コーヒーを飲んで、やはり苦みに耐えるボクがいることを確かに感じながら、そんなことを思った。

あと1~2回の更新で終わると思います

こんなに長くなった割に内容が無いよう状態になっている気がして反省点しかないです




「――飛鳥、気分はどうだ? 体調は悪くないか? 水ならあるぞ? それとも何か……ああでも食べ物は持ってないな。急いで買ってこようか?」

 本番当日、ステージを直前に控えたボクは過保護なまでに心配されていた。
 そこはボクの分までどっしりと構えていてくれるものではないのか? ボクより慌てられるとなんだか緊張しているのが馬鹿らしく思えてくる。
 まぁ、手の震えが止まらないボクを少しでも安らがせてくれるのは有り難かった。今朝は舞台用に考えておいたエクステをなかなか上手く編めなくて、ゆっくり朝食を取れなかった程度に平静でいられていないのは彼に黙っておこう。

「何も要らないよ。キミはそこで黙って見てればいいさ」

「そうは言うけどな、俺に出来ることはしておきたいんだよ。代わりに出てやれたりはしないんだからな!」

「……蘭子と幸子の時もこうだったのかい?」

 だんだん煩わしくなり、同じ衣装に身を包んだ彼女らへ助けを乞う。
 二人揃って苦笑を隠そうともしなかった。

「我が友の魂の叫びは些か熱すぎて、こちらの熱も冷めるというものよ(プロデューサーがうるさくて、こっちが冷静になれたなあ)」

「ボクの時は首から上全部を撫でられそうになりましたねぇ……ボクたちより落ち着きがなくてどうするんですか」

 散々な言われ様にも意を介さず、今度はボクの手を取り出した。

「ずっと見守ってるから、頑張れよ。レッスン通りにやれば大丈夫だからな!」

「もう何回も聞いたよ……いいから離してくれ」

「まだだ。俺の、せめて気合だけでも飛鳥に送る!」

 手と手を合わせられると、否が応にも屋上でのことを思い出してしまってそれどころではなくなるんだが……。手の震えもこれだと誤魔化せないし、顔を背けるぐらいしか抵抗の術がなかった。
 そんなボクらの様子を幸子は唇をとがらせて、蘭子は微笑ましくといった様子で眺めている。
 どうやら彼のことは、諦めてされるがままになるしかないようだ。

「ボクたちだって同じステージに上がるのにぃ。飛鳥さんが心配になるのはわかりますけども」

「天に使えし者よ、我々が為すべきは天上の舞台を湧かせること。ならば我らが新たなる翼を激励するのが同胞たる役目よ!(幸子ちゃん、私達はステージを盛り上げることを考えなきゃ。そのためには同じユニットで初舞台の飛鳥ちゃんを励ましてあげよう、ねっ♪)」

「わかってますってば。飛鳥さんの大事な初舞台、ボクが引っ張ってあげますとも。なんたってセンターはボクなんですからね、フフーン♪」

「それでこそ幸子ね! 我もそなた達との舞台、全身全霊を尽くさん! 遍く敵を打ち破り今宵は祝盃を交わそうぞ!(それでこそ幸子ちゃん! 私も二人とのライブ、思いっきり頑張るぞー! そして今夜は一位になって祝勝会を開くの!)」

「ボクが出る限り一番は約束されたようなものですが、良いですね! 今の飛鳥さんなら素直についてきてくれそうですし。今夜の予定は空いてますか、プロデューサーさん、飛鳥さん?」

 ……うん?
 何だろう、なにかが引っ掛かる。ボクに予定はないけれど、そうじゃなくて。
 彼に手を取られてるせいもあって違和感の正体を落ち着いてつきとめられない。だが彼はあっさりとその違和感を看破した。あるいは率直な感想をありのまま述べるように。

「幸子、蘭子の言葉通じるようになったのか?」


「え? ……あ、あれ? ボク、蘭子さんと話せてました?」

 お互いぽかんとしながら見つめ合う幸子と蘭子。
 先に動いたのは、仮面が外れて満面の笑みのまま幸子の手を取る蘭子だった。

「幸子ちゃん、最後の最後に私の言葉が伝わったんだね! 嬉しいよぅ!」

「ふ、フフーン! ボクはカワイイだけではありませんからね! 時間は掛かりましたが間に合いました、じゃなくて、これぐらいボクにかかれば何てことはありません!」

 かくしてボクとプロデューサー、蘭子と幸子がそれぞれ手を取り合うというなかなかカオスな空間がライブの直前に出来上がった。
 ……うん、ボクらならどこまででも羽ばたけそうだ。
 今のボクに恐れることは何もない。解り合える彼女らと彼がついててくれるのだから。
 これはボクの初めての舞台であり、ボクら三人が一緒に上がる最初で最後になるかもしれない舞台でもある。是が非でも最高のものにしたい。

 最高のものにしたいのだが、ステージでボクがボクでいられるか、大勢の観客を前に呑まれて自分を見失ってしまわないか、一抹の不安は残っている。
 だからボクは――アイドル「二宮飛鳥」として迷いなく舞台へ上がれるよう、「二宮飛鳥」の仮面を再びつけることにした。
 今日に至るまでの「二宮飛鳥」の記憶を辿る。人目を避けるように孤独のセカイへ溶け込んでいたボクは今や、アイドルとして信頼する仲間と共に多くの人の前で輝こうとしていた。ボクのセカイはこうも一変してしまっている。
 それでもボクはボクなんだ。どんなセカイを望むボクでも、彼の目に映るボクは変わらない。「二宮飛鳥」の仮面を被ろうと、ボクという存在がそこに居続ける。見ていてくれる。
 ならボクは、心置きなく強い自分を演じられる「二宮飛鳥」の仮面を被ろう。ボクを知らないこの世界を生きる人々に、ボクという偶像を掲げるならば、きっとこれが相応しい。

 どんなボクも受け入れてくれる人がいる。
 その人のためにも、ステージでは強く輝きたい。
 ……手の震えは止まった。
 さあ、往こうか――

「飛鳥。蘭子、幸子も」

 最後に彼はいつもの笑顔を見せてくれた。
 ボクらにとって、この上ない餞別だ。

「いってこい!」

「あぁ。往ってくるよ」

「我が魔翌力、友のためにも思いのままに解放せん!(プロデューサー、いってきます!)」

「ちゃんと見ててくださいね、カワイイボクを!」



 幕は上がった。

 ヒカリの中へ、ボクは飛び込む。

 そこは全くの未知の世界。

 まばゆい世界を、仲間と共に駆け抜ける――




 幸運にも窓際に席を配置されたボクは、桜色に染まった景色をいつも見下ろせる権利を手に入れた。
 今日は始業式。まだ二ヶ月と過ごしていないこの学校で中学三年生へと進級した感想を述べるとするなら、早く帰りたい、に尽きる。
 知り合いと呼べる同級生もいないボクにクラス替えなど何の興味もなく、ただただ騒がしい教室で外を眺めていた。これで自分の席がクラスのど真ん中にでもなれば、本の一つでも用意しないとやってられないところだ。
 時折それまで歓談していたグループにふっと沈黙が訪れては、ボクへ向けられる視線を感じることもあった。
 転校して間もない頃と似ている。あの頃は奇異の目に晒されたものだ。しかしそれとはどこか異なる視線のようで、上手く説明できないけれど、とにかく居心地はあまりよくない。

 始業式ということで午前中には学校が終わる。あの対抗戦フェスの日から一週間が過ぎ、期間限定で活動していたボクら四人は午後から一週間ぶりに集まることになっていた。
 あの日の内から急激に忙しくなった彼がやっと一息つけるそうだ。延びに延びていた祝勝会、とまでは残念ながらいかずとも、慰労会をするらしい。もちろんボクも出席するつもりでいる。
 そんなわけで、つまらない日常の世界から一刻も早く離脱したいのだが。

「……?」

 ホームルームを終え、帰り支度をしていると見慣れない封筒がボクの机に入っていた。
 いつの間に? 始業式のために体育館へ移動した時だろうか。今朝はそんなもの無かったはずだ。
 ずっと外ばかり眺めていたボクが不意を突くように教室の中を見回してみると、何人かが不自然に姿勢を変えたりそっぽを向いたり、明らかにボクを観察対象にしていた動きをみせる。
 ……なんだっていうんだ。まさかさっきの中の誰かが、こんなものをボクに?
 教室に居ては身動きを取りにくく感じ、ひと気の少なそうなところへひとまず場所を移すことにした。このままだとあまりいい気がしないので、さっさと帰りたくはあるがボク宛のメッセージを確認してから帰ろう。
 ええと、校内で比較的誰とも会わずに済みそうなところといえば――

 考えた末、体育館裏というありがちなスポットを選んでしまった。
 まぁいい。幸い人の気配もないし、学校指定のバッグから封筒を取り出す。飾り気のない封筒で、差出人を推測するには情報が足りない。
 中に入っていた便箋には小綺麗にまとまった文字で、たった一行、こう書かれている。

『ホームルームが終わり次第、体育館裏で貴女を待つ』

 ……。ふむ。
 用件を書いてくれよ、しかも指定の場所へ来ちゃっているじゃないか。
 このまま闇討ちとかされたりはしないよな、果たし状の類にしては文字も丁寧で気を遣っているし。これでも一応アイドルなんだから、もっと身辺は警戒すべきだったろうか。ボクなんてまだ無名も無名、そこまで気にする必要も無いはずだが。
 確かに春休み中に新人の身で大舞台に立たせて貰ってはいる。テレビ中継、されてたんだったかな。
 もしかしたらボクがアイドルをしていることを偶然知って……? 知ったから呼び出す意味も解らないけれど、差出人はボクに何の用があるというんだ。


 踵を返して寮に帰ろうか、なんて迷い始めるボクのもとに、足音が近づいてくる。時間切れらしい。
 彼の助けも望めないこの日常の世界で、ボクは覚悟を決めた。足音が複数聞こえてこないのが唯一の救いだった。
 振り返ると、ボクを呼び出した張本人らしい女子生徒が佇んでいてた。顔を僅かにしかめていて、むすっとした表情からは不機嫌さが窺える。
 ……どこかで見覚えがあるな。そう、人を寄せ付けなくする雰囲気を纏っている彼女は、孤独だった頃のボクのようだ。
 同類、と呼ぶにはボクのセカイは変わってしまっているが、この日常世界においてはボクもまだ孤独か。ならば彼女はボクの同類なのかもしれない。

「悪かったわね、こんな陳腐な方法で呼び出してしまって。他に思いつかなかったのよ」

 念のため言葉を選んで返答しなければ。
 しかし表情とは裏腹に言葉遣いは粗暴ではないようなので、ボクは彼女の何を信じたらいいのか困惑している。機嫌が悪いわけではない、のか?

「……ボクに何の用かな」

「ふぅん、やっぱり貴女は自分をボクと称するのね」

 そういえば、転校してから誰かと話をした覚えがあまりない。その分アイドル生活の方でよく話すようになったからうっかりしていた。
 彼女の言い方からすると、まるでボクがボクと自称することを知っていたかのようだが。

「単刀直入に聞くわ。貴女って、あの「二宮飛鳥」でしょう? この前……家族が観ていた番組を偶々私も観て、そこに貴女が映っていたと思うのだけれど」

 番組にボクが映っていた、ね。
 それだけではまだ同姓同名の可能性も残っているわけだが、考慮するほどのものでもないだろう。
 はて、どうしたものか。身バレした時の対処方法、蘭子や幸子に聞いておけばよかった。

「だんまり? そうしないといけないのなら、深くは追究しないわ」

「別に、慣れていないだけさ。ボクもまだアイドルになったばかりなんだ」

「季節外れの転校生にはそんな秘密があったのね」

 じろじろ顔を覗かれる。いや、顔じゃない。顔の……後ろ?

「あれ、何て言うの? 黄色かったと思うけど、さすがに学校にはしてこないのかしら」

「エクステンション――エクステだよ。正確にはヘアーエクステンション。学校にはまぁ、没収でもされたらかなわない」

 ボクと彼が出会った時の色であり、始まりに相応しいと思ってあの日は黄色に決めていた。
 やはり彼女はテレビでボクを見たようだ。ここまで来て言い逃れするつもりもなかったが、午後からの予定もあることだし早めに解放して欲しかった。
 彼女と話してみるのも、悪くはなかったけれど。

「一躍不良生徒の出来上がり、ってところ? くだらないわよね」

「まぁね。……こんなところに呼び出して、聞きたかったのはそれかい? 用が済んだのならボクは帰りたいんだが」


「待って。貴女に一つだけ教えて欲しいのよ。……どうやって貴女は、あんなに楽しそうに笑っていられる場所を見つけられたの?」

「えっ?」

「ステージの貴女、別人だったわ。その、エクステというのを付けてたからとかではなくて、笑顔だった。心から楽しんでるって感じの、学校の貴女とは正反対のね」

 ……そんなに楽しそうだったのか、ボク。
 あのライブは「二宮飛鳥」としてクールに決めたつもりでいたけど、そこのところ後で彼に尋ねてみよう。

 それはともかく、彼女だ。
 彼女がボクの同類だとするなら、日常でのボクを多少知っているらしい彼女からすれば納得がいかないのだろう。世界はつまらなくて当たり前、そういう態度でいたくせに非日常の世界を謳歌していたのだから。
 彼女のことはよく知らない。解ることがあるとすれば、彼女もまたつまらない世界に抵抗し、刺激を求めている。ボクのように孤独の道を選んでしまっているのかもしれない。
 教えれられることがあるならそうしたい。でもボクは、あの場所を自分で見つけてなんかいなかった。運良く彼にボクを見つけて貰っただけなのだ。

 アイドルをしている同級生、ってのも非日常の存在ではあるのかな。
 それなら――教えられない代わりに、せめて彼女にも非日常ってヤツをわけてあげたい。

「運が良かっただけ、それしか言い様がない。それで納得出来なければいつでもボクのところに来るといい。ボクが見て、聞いて、感じているセカイを少しでも共有できれば、キミの退屈しのぎぐらいにはなるだろうから」

「……」

「どうだい? 無理にとは言わないよ」

 彼女の意思に委ねる。
 ここで反発されるならそれでも構わない。新世界への扉を開く鍵を拾うかどうかは彼女次第だ。
 逆の立場だったらボクはどうしていただろう。呼び出してまで違う世界に触れようと行動していただろうか。
 彼のおかげでボクは彼女とこうして出会っている。この出会いにもまた、意味があるといいな。
 こうやってセカイを繋げていきたい。共鳴していきたい。
 つまらない世界でも、楽しいセカイは築けるのだから。

「……いいわ。聞かせてくれる? 貴女のこと」

「決まりだね。生憎だが今日は予定があるんだ。今度時間があれば……えっと」

 彼女の名前を知らず言葉に詰まってしまったボクを察したところで、不機嫌そうに見えた彼女の表情がやっと柔らかく緩んだ。

「そうよね、私のことなんか知らないわよね。去年同じクラスだったのだけれど……なんだか不公平だわ。ふふっ、教えてあげない」

「参ったな……」

「今度私が貴女のもとへ向かう時までに調べておくことね。私をただの同級生から、貴女にとっての何者かにしてくれるつもりがあるのなら。今日は付き合ってくれて礼を言うわ。またね、「二宮飛鳥」さん?」

 彼女はボクに背を向けて去っていった。一瞬しか見えなかったが、去り際の彼女は確かに笑顔だった。どうやら満足してくれたようだ。
 彼女の方も、最後にボクをアイドル「二宮飛鳥」として別れを告げた。だがそれは仕方ない。ボクが彼女を知らなかったように、彼女もボクがアイドルをしていることとぐらいしか知らないのだから。
 なぁに、中学三年の春を迎えたばかりなんだ。彼女と話をする機会はあと一年の間に何度も訪れるだろう。まずは彼女と対等になるべく、名前を調査しないといけないな。
 つまらない日常の世界も、この分なら騒がしくなっていきそうだ。

 ねぇ、プロデューサー。

 キミのいない世界でも、ボクはやっと、孤独ではなくなりそうだよ。




「えー、それではこのボクが乾杯の音頭をですね、ってあああーー! 勝手に進めないでくださいプロデューサーさん! せめてボクにもコップを合わさせてくださいよー!」

 帰宅してしっかり着替えてから、ボクだけは急いでエクステも付けてから事務所の敷地内にあるカフェテラスに集合したボクら四人は、慰労会の真似事を開いていた。ただの打ち上げともいえる。
 オトナの世界では仕事帰りの夜にお酒を交えて乾杯するのだろうが、中学生三人がメインでは明るい内にソフトドリンクが関の山だ。この中で唯一のオトナである彼は幸子を置いてきぼりにさせている始末である。

「まあまあ、堅いのは無しでいこう。それより元気してたか? 緊急の案件を抱えちゃってな、相手してやれなくてすまなかった」

 蘭子と幸子はともかく、レッスンぐらいしかスケジュールの埋まっていないボクは彼とこうして話すのも一週間ぶりだった。
 見かけたら挨拶ぐらいはしたけれど、それだけではもの寂しい。緊急の案件って何だろう?

「友の働きは周知の事実。案ずるでないぞ(プロデューサー忙しそうでしたもんね。気にしないで?)」

「それよりも、どうしたんです? 何もフェスの当日からそこまで忙しくならなくてもいいじゃないですか」

「聞いてくれるか幸子……幸子には先に謝っておかないといけないな。すまん」

「ええっ!? ボクに謝ることがありながらさっきの悪戯って、何なんですかもうっ!」

「いや、つい。まずはこれを見てくれ。この前の、お前達がライブしてる時の写真だ」

 鞄から取り出された数々の写真が真っ白なクロスの上に並べられた。その際に見覚えのあるスケッチブックを彼が持っていることに気付いたが、今は置いておこう。こういうのってどこから撮っているのだろう。
 うん? 幸子の隣で歌ってるの、これボクだよな……。
 ちらと彼女らを見やると、二人とも息を飲むかのようだった。

「いい顔してるだろ? こんな飛鳥、初めて見たよ」

 そこに映っていたボクは、普段のボクとは似ても似つかないほど無邪気に笑っていた。
 学校でも彼女が言ってたっけ。ボク……こんな顔も出来たんだ。
 何度も顔に出やすいって指摘されたけど、これを見せられたら否定しようがない。

「我をも惑わせる微笑ね、飛鳥(飛鳥ちゃん、すっごくかわいい♪)」

「むぐ、やっぱり飛鳥さんはカワイイボクに送られた刺客……?」

 それはもういいよ幸子。

「でさ。お前達のライブを見て、方々からあの子は誰だーってその日の内からなったんだ。当然っちゃ当然だがド新人ぶつけてくるなんて思われなかったんだろうなあ。飛鳥、お前のことだぞ?」

「……実感がないものでね。キミの思惑通りに事が運んだというなら、良かったんじゃないか?」

「ああ、良かった。飛鳥にとっても、そして蘭子! お前にとってもだ!」


「ひゃいっ!?」

 完全に不意打ちを食らった蘭子は目を白黒させながら身を竦めていた。
 あまり驚かせないでやって欲しい。でもここで蘭子が絡んでくる理由とは?

「ほら、ライブの後にトークする機会もあっただろ? お前達の相性の良さに、特に蘭子のファンからいろいろ寄せられててな。『新しい中二病の子キター!』『蘭子ちゃんの熊本弁が通じてる!?』『良い相方が見つかったね、おめでとう!』『新人ちゃん、どうか神崎蘭子を幸せにしてあげてください』とか、歓迎の声が来るわ来るわ」

 最後の蘭子を幸せにしてあげてとはどういう意味だ、気にしたら負けってヤツかな。
 すっかり蚊帳の外な幸子はふてくされていた。こればかりは同情の余地がある。

「……ボクだって蘭子さんの言葉、通じるようになったのに」

「幸子は自分のことばかり喋り過ぎたな。でも三人のライブがまた観たいって声もたくさん来てるから、いつかまた限定的に結成させるかもしれないぞ。でもその前に」

 彼は一旦溜めを作ってから、改めてボクと蘭子に向き直った。

「飛鳥と蘭子、二人にはユニットを組んでもらうことになった。あまりの反響に上もうるさくってな、早くデビューさせろってこの一週間ずっと人を馬車馬みたいに働かせやがって……お前達のためだからいいけどさ」

「と、友よ! それは真か!?(プ、プロデューサー! ユニット結成ってほんと!?)」

「嘘なんかつくか! それで、遅くなってごめんな。蘭子にこれ、返しておくぞ」

 彼が持ってきていたスケッチブック、蘭子がプロデューサー以外に中を見せたことがないというそれは、いつから彼に預けられていたのだろう。
 たしか本番前の最後のオフに、今は持っていないって言っていたような。その頃にはもう彼の手に渡っていたのか。

「蘭子のそれ、無駄にならずに済んだぞ。フェスに着させてやることは時間も足りなかったからさすがに無理だったけど、二人のユニット衣装としてなんとか採用してもらってきた」

「…………!」

 蘭子は感激のあまり声も出ないといった具合で、輝かせている瞳が口ほどに物を語っていた。
 そうか、蘭子が以前そうして貰った時のように、ボクら三人の衣装を描いて彼に提案していたのか。
 それをなんとか手配するために動いてて、だからあの日は幸子からの電話にも出られなかった?

「……そうだ、ボクらのユニット名は決まっているのかい?」

 名は体を表す。何よりも大事なことだ。
 誰が決めるものなのか知らないけれど、是非彼に決めて欲しい。彼ならボクと蘭子に相応しい名前をくれそうだから。

「まだ、かな。考えてはいるけど、決定はしてない。これも早く決めないとデビューさせられなくて急かされてるんだよなあ」

「友は、我等に如何なる名を授けるつもりか?(プロデューサーは、私達のユニットにどんな名前を付けてくれるの?)」

「内緒、にしない方がいいかなこれは。うーん、俺が考えているのは……ダークイルミネイト、っていうんだけど」

 ダークイルミネイト。
 さしずめ暗闇を照らす光、といったところか。それとも照らし出された闇?
 正しい解釈は彼の心にあるのだろう。いずれにせよ、ボクと蘭子に相応しそうな雰囲気は漂っている。闇を抱えていたボクらを光り輝かせた彼は、知ってか知らずかボクらのことをまたも言い当てるかのようだ。
 蘭子も名前が気に入ったみたいだし、何事も無ければボクもそれがいいかな、うん。


「あっ、せっかくだからお前の描いた絵、見せてやったらどうだ? 飛鳥はともかく、幸子の分は用意してやれないからさ」

「ふぇっ!? ……うむ。今を以て、禁忌を破らん(ふぇっ!? ……うん。二人にも、見せてあげるね)」

 おずおずと開かれたページにはボクららしき人物が彼女の理想の衣装を纏っていた。衣装の描き込み量は尋常ではないのだが、顔や細かなパーツはデフォルメされている。
 真ん中の背を低く描かれた少女、おそらく幸子は白を基調としている。左右で対をなしているボクと蘭子は黒が基調だ。
 色の統一は取れていないが、統率は取れていそうだ。彼女がセンターならこれはこれで面白いかもしれない。

「も、もういい? いいよね? ね?」

 顔を真っ赤にさせた蘭子はボクらの返事を待つまでもなくスケッチブックを閉じてしまった。よほど恥ずかしかったに違いない。
 そして幸子はというと、除け者にされた挙句こんなものまで見せられてはふてくされるだけでは収まらないだろう。
 そう思っていたのだが、幸子はやれやれと肩まで手を上げて首を振った。

「まぁ、仕方ないですね。お二人がお似合いなのはボクも最初から思っていましたし。ボクはボクで所属しているユニットもありますから、何も気にしてませんよ」

「おっ、聞き分けがいいじゃないか。どうした幸子?」

「……あの、ボクを甘く見てません? プロデューサーさんのおかげでお祝いの席になってしまいましたから、水を差すような真似はしませんとも。それより飛鳥さんの門出の日も近いことですし、もっと盛り上がっていきましょう!」

「よっ、イイ女! さすが幸子、カワイイ!」

「フフーン、今頃気付いても遅いですよ!」

 二人で盛り上がってる傍らで、ボクと蘭子は何の合図もなくお互い視線を合わせていた。
 幸子はボクらのユニット結成に文句はなくても、そこに自分だけいないということに思うところはあるはずだ。そんな素振りすら見せまいとする彼女の手前、蘭子もこの場ではあまり素直に喜べないでいた。
 解りにくい優しさを持つ彼女のために、ボクも正直になるとしようか。

「幸子」

 なんですか? とカワイく首を傾げる幸子へ、布告する。

「前にキミが言っていたアイドルになって目指したいもの、ボクにも見えてきたんだ。ボクは……ボクのようなヤツでも輝ける場所を得られた。独りのセカイに閉じ込もっていたはずのボクが、さ」

 此処へ来るまでに、名前も知らない彼女が教えてくれた。
 ボクのようなヤツだからこそ、歌声に乗せて伝えられることがあることを。
 彼女だけじゃない。世界にはボクの同類が他にもいるのだろう。世界に抵抗して、なかなか報われないでいる彼、あるいは彼女らが。
 そんなヤツらに届けたい。この世界も捨てたものじゃないと。いつか共に解り合っていけそうな人が現れるまで、ボクが受け皿になろう。

 ボクが輝けているうちは、キミらを独りにさせたりしない。
 さぁ、ボクと共鳴していこうじゃないか。

「ボクにも輝きたい理由が出来た。ボクなりに、アイドルってヤツをやっていけそうだよ。キミがキミの往く道を示してくれたおかげだ。ありがとう、幸子」

「……なんだ、もう大丈夫そうですね。飛鳥さん、今日からあなたはボクのライバルでもあるんですから、容赦しませんよ!」

「フッ、望むところさ」

「う~。我も混ぜよ! 我にも目指すべき頂があるぞ!(う~、私も混ぜて! 私にもアイドル活動の目標があるの!)」

 蘭子も加えて、ボクらは各々が見据えた未来を語り合う。悲観せずに将来のことを語る日が来ようとは、ボクもだいぶ変わってしまったみたいだ。
 そんなボクへと変えた彼は、ボクらがひとしきり語り終えるまで一言も口を出さずに耳を傾けていた。


 頃合いを見計らい、彼は口を開く。

「いやー、いいねえ。青春ってやつだね。若いっていいよなあ」

「プロデューサーさん、何を老けたようなことを仰ってるんですか?」

「うっせ、実際そんなに若いとは思ってないんだよ! ところでさ、この後のことなんだが、そろそろ行くか?」

 午後からは四人ともオフだ。集まった後にどこかへ出掛けよう、という話になっている。
 プライベートで彼と会える、ボクにとっては最初の機会。蘭子と幸子もいるけれど気にはならなかった。その方が、ボクらしく振る舞えそうだ。
 ……いや、ボクらしくなんてのは考えるな、ありのままでいよう。仕事の時はアイドル「二宮飛鳥」として、プライベートでは……ただのボクとして。
 そんなことを考えていると、蘭子と幸子は急にいそいそと立ち上がった。

「それでは、ボクらはこの辺で。ね、蘭子さん?」

「我等にも急を要する案件があるのだ。これよりは、そなた達で過ごすとよい(私達、用事があるんだー。後は二人で過ごしてね?)」

「あ、ちょっ、おい幸子! 蘭子も! どうしたんだよ?」

 蘭子がプロデューサーに伝わっているんだか伝わっていないんだか解らない難解な言葉を並べ立てている間に、幸子がこっそりボクに耳打ちをした。

「言っておきますけど、これが最後ですからね? ボクたちからの餞別です。楽しんできてください」

 呼び止める隙も与えてくれない蘭子と幸子の連携プレーを前に、二人の背中を目で追うことしかボクらには許されていなかった。
 ……困った。どうしろっていうんだ、この展開。

「あー、その。飛鳥?」

 先に現状を把握したらしい彼が、ボクに呼び掛ける。

「……なんだい?」

「えっと、この後なんだけど……出る前にさ、それ、エクステ外してくれないか?」

「エクステを? ……どうして?」

「今のお前、時の人にすらなりかけているからな。そこでその飛鳥らしさでもあるエクステをつけたままだと、お前であることがバレやすい。ただでさえ目立つんだ、仕事でもないのに俺と二人きりでそれは……大いにまずい」

 エクステは二宮飛鳥という少女が「二宮飛鳥」らしくあるために必要なパーツだ。それを外してくれという。
 つまりそれは、ボクに「二宮飛鳥」であることを求めない、ということになる。
 これから少しの間、誰でもない少女と誰でもない彼として、ボクらは過ごす。
 ……とても魅力的な提案だった。

「そう、だね。了解だ。化粧室で準備してくるから、待ってて」

 バッグを携えてカフェテラス内の化粧室に足を運ぶ。
 エクステは付けるのに比べれば外すのは簡単だ。でもそれが今はなかなか出来ずにいる。気を抜けば口元が緩んでしまって、鏡に映る自分の姿を見られなかったのだ。
 こんなことでは「二宮飛鳥」に嗤われるな、なんてね。
 帰ったら念入りに手当てをしよう。ボクはやっとエクステを外し、なるべく綺麗に束ねてバッグへしまい込んだ。
 最後に、鏡に映るエクステを外した自分を隈なくチェックする。変なところは、ないよな。まさかこの姿をこんなに早くキミに晒すことになろうとは……ね。

 心を落ち着かせてから席へ戻ると、すぐに会計を済ませることになった。今日は全部彼が出してくれるそうだ。中学生の女の子に一円たりとも出させてたまるか、とのこと。
 ボクはそんなことを気にしたりしないし、出せと言われたら出すつもりもある。だがそうはさせないのが彼の望みであり、黙って出されているのが中学生の……女の子らしいのであれば、一度くらいは抵抗せず流れに逆らわないでみるのもありだろう。
 今のボクは「二宮飛鳥」であろうとしていないのだから。エクステも外したことだし思いのままに、感じるままに、彼と同じ時を過ごしたい。
 カフェテラスを出てすぐに、一陣の風が舞い込んだ。春の風はボクらを凍えさせることはなく、桜色の訪れと共に季節の巡りを感じさせる。

「暖かくなったなあ。飛鳥は春って好きか?」

「うん、嫌いじゃないよ。特に今年は、ボクが経験してきたどの春よりも騒がしくなりそうだからね」

 すぐ側には彼がいる。孤独に身を震わせていたボクの長い冬は終わり、晴れ渡ったあの空のように青い春がやってこようとしていた。
 ボクはこれから何処に往き着くのだろう。彼のプランはまだ聞いていない。
 それでも、楽しい未来が待ってればいいなとボクは彼に期待している。
 暖かな光は手を伸ばせば届き、積もる想いはいつか実る。そんなものは幻想に過ぎない。逆らうことも許されずボクらはただ流されていく、そんな世界にボクらは生まれたけれど。
 彼のおかげで、ボクはこの世界でも生きていける。ヒカリの眩さを忘れずにいられる。

「さあ――」

 往こうか、といういつもの台詞は胸の中で呟いて。

「今日は、何処に連れていってくれるんだい?」

 ボクらは歩き出した。
 ボクの知らない、新しい世界へと。






 キミとボクでどんな未来が見られるかな。楽しい未来だといいね


 キミはボクに新しい世界を見せてくれた。素晴らしいことさ


 キミは――っていうんだね。ボクはアスカ。フフ、知ってるって?







飛鳥を14歳の少女という観点から書きたかったのと、かつ「二宮飛鳥」というキャラクターについて自分なりに詰め込みました
その結果、長いだけの何かになっていなければいいのですが……。表現力や構成力にも乏しく、地の文って難しいですね

飛鳥はあまり女の子としてのデレが少ないと思っているので、拙作のように使い分けてくれてたりしませんかね?
もっとイチャコラさせてみたくもありましたが、いろいろ限界なのでここまでにします

ここまでお読みくださった方、ありがとうございました
飛鳥Pや飛鳥に興味のある方、そうでない方にも読んでいただけたら幸いです

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