八幡「雪ノ下が壊れた日」 (435)
それはいつも通りの日になるはずだった。少なくとも俺はそう思っていた。
この日は由比ヶ浜が部室に来るのが少し遅れるとの事だった。隣のクラスの友達と少し話す事があるらしい。俺と雪ノ下はいつも通り部室で本を読んで、由比ヶ浜、あるいは依頼が来るのを待っていた。
そんな時に、不意に雪ノ下が口を開いた。
雪ノ下「比企谷君、私、葉山君と付き合う事になったの」
八幡「…………」
咄嗟に声が出なかった。
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雪ノ下が葉山と……。それだけは有り得ないと思っていた。いや、正確にはそう思い込んでいたって事になる。瞬間、頭の中が真っ白になった。まさかという思いよりも動揺の方が遥かに強かった。
八幡「そうか……」
辛うじて出た言葉がこれだった。雪ノ下が「ええ」と答えながら小説のページをめくる。その音がやけにかすれて聞こえた。
俺は何を雪ノ下に言えばいいんだろうか? 内心では酷く動揺している俺に比べて、雪ノ下はいつも通りだった。何も変わりがない。昨日と全く同じの、俺がよく知る雪ノ下雪乃だ。
文庫本から少しだけ目を離して俺の顔を見る雪ノ下の表情は、その名前通り雪の様に白く、そして凛としていた。
走馬灯の様に嫌な想い出が甦ってきた。普段は自虐ネタとして使っているあれらだ。結局、俺は中学の時から何一つ変わっていない。期待するのをやめたと思っていたのに俺はまた不様にも期待していたのだ。
何が、なんて事は言いたくない。言えば急に安っぽいものに変わる気がした。この気持ちだけは何があっても自虐ネタとして使いたくもない。俺が言えるのはそれだけで、それ以上の事を言えば、感情が一気に溢れそうになる。理性の怪物だと自負する俺としては、それらを押さえつけて、別の答えを探す必要があった。
雪ノ下雪乃に何を言えばいいのか。
しばらく考えた末に、俺は結論を出した。これは『いつも』の事だ。俺は卑屈に俺らしく答えればいい。それは何も変わらない。
八幡「ぁ……」
一旦、口を開いて、慌てて俺は声を出す直前でまた閉じた。出した声が震え声になりそうで怖かった。雪ノ下が俺の方にしっかりと顔を向ける。気が付けば俺は、脳内で考えていた事とはまるで違う言葉を口から出していた。
八幡「よ……良かったな」
雪乃「…………」
まるで蛇がゆっくりと鼠を飲み込んでいくように、雪ノ下はその言葉を黙って聞いていた。長い長い時間をかけて、ようやく一言だけ。
雪乃「そうね」
そして、また読書に戻った。
俺はもちろんそれ以上何も言えない状態にあった。雪ノ下もきっとそうだろう。
つまり、由比ヶ浜が来るまで、この気まずい空気の中にいなきゃいけない事になる。俺はその時は理由もなくそう思っていた。これまでの経験から出た答えだから当然だ。
だが、現実はまるで違っていた。
それから数分ぐらい経った頃だろうか。雪ノ下が「比企谷君」と言って、不意に立ち上がった。俺の座っている席までゆっくりと移動してくる。
雪乃「この本、図書館から借りてきた物なんだけど」
座っている俺に対して、雪ノ下は立って目の前にいる。自然と俺は見上げる結果となる。
雪乃「あなた、返しておいてもらえるかしら」
その直後、俺の頬にかなりの衝撃が走った。耳元で激しい音が響き、そして頭の中にキーンという甲高い金属音が聞こえた。一瞬、何が起こったのかわからなかった。それを理解したのは、つかつかと部室から去っていく雪ノ下の後ろ姿と、床に落ちてよれ曲がっている文庫本を眺めた後だった。
はたかれたのだ。思いっきり。雪ノ下に、文庫本で、頬を……。
ぴしゃりと閉じられた部室の中で、俺は多分信じられないぐらいの間抜け面を晒していたと思う。実際、何が起きたかを理解した後でも、起こった出来事が信じられなかった。
あの雪ノ下雪乃が、文庫本を使って俺の頬を手加減なしに叩く……?
俺は口の中に血の味を感じながら、落ちた文庫本をそっと拾い上げた。その文庫本には書店のブックカバーがつけられていて、無論、図書館の管理カードも入っていなかった……。
とりまここまで
「零点ね」
髪も直さず、雪ノ下は向き直ってそう言った。
「一瞬でも、そんな心配そうな顔を見せたら何も意味がないわよ。つまらないミスをしたわね」
思わず息が詰まった。
雪ノ下は『いつも』と同じ静かな口調で告げた。
「あなたはやはり『紛い物』よ。それについてだけはこの私が保証してあげる」
髪を軽く直しつつ、雪ノ下は自分の鞄を取り上げた。そして落ちた文庫本も机の上に置いてある文庫本もしまわずに立ち上がった。
「それ、図書館に返しておいてちょうだい。……頼んだわよ、ヒキタニ君」
そう言い残して部室から去っていた。
誰もいなくなった静かな部室で俺は独語する。
「じゃあ……。どうすれば良かったんだよ」
何も言わず俺がここから出ていけば、お前は満足したのか?
雪ノ下雪乃はそれに答えを示そうとしない。
俺は雪ノ下に暴力を振るった事を今更ながら酷く後悔していた。
ここまで
◆3
『動かす』という言葉は『重い力』と書く。何かを動かそうとするなら、それが物であれ、社会であれ、人であれ、多大な『力』を必要とする。
『力』がなければ動かない。『重い』だけだ。だとしたら今の俺はひたすら重いだけなんだろう。雪ノ下にとって、俺は無力で重いだけの存在なのだろう。
雪ノ下が葉山と付き合っているという話を聞いてからずっと俺は雪ノ下に振り回されっぱなしだった。それなら俺はどうかと言えば、雪ノ下の本心を知る事もなく何も変えられず何も出来ていない。ただただ流されてきただけだ。
部室から出てトイレに行きハンカチを濡らす。設置されている薄汚れた鏡を見ると、案の定、両頬が赤く腫れている上に死んだ目をした俺がいた。首や頬には小さな血の痕が幾つも付いている。
このまま家に帰ると、まず間違いなく小町に何があったのかを尋ねられる。冷やしてどれだけ腫れが引くかはわからないが、とにかく今、家に帰る訳には行かなかった。
軽く絞って水気を抜き、ハンカチで首や頬の血を拭う。それからまた洗い、絞って、それを左頬に当てながら部室へと戻った。
『やっぱり今のゆきのんはおかしいよ……。絶対に何かを隠してる』
今の俺もそう思う。
雪ノ下雪乃は何かを隠している。そして、それは恐らくとても重大な何かだ。
正直、今はわからない事があまりにも多い。
疑問を言えばきりがなかった。
だが、今日の事で一つだけはっきりとした事がある。雪ノ下は葉山と上手くいってない。付き合っているというのなら、それがマイナスになっているのは明らかだ。そして、本当に付き合っているかどうかも今では疑ってかかるべきだ。
でなければ、俺へのキスの説明がつかない。
何もかも上手くいっている彼氏持ちの女が、他の男と、しかもゴミと断言した男とキスをするというのは有り得ない。
由比ヶ浜に、葉山と付き合っていて幸せだと雪ノ下は言った。幸せなら、どうしてこんな事をする。幸せじゃないからするんじゃないのか。
何かそこには訳や事情があって、それを雪ノ下は隠している気がした。
ハンカチを持つ手を代えて、逆の頬を冷やす。もう痛みは引いてるが、まだ心の痛みは消えてはいない。
口の中にはまだ雪ノ下の艶かしい舌の感触が残っていた。
あれが俺のファーストキスだ。雰囲気も何もなくただ強引に奪われた。それだけだ。
別に俺は乙女でもなければロマンチストでもない。だから、その事について純情を汚されたなんて馬鹿みたいな事を言うつもりはない。だが、あのキスが無理矢理なもので、心の蹂躙にも似た行為だったという事を否定するつもりもない。
これが逆なら犯罪だ。いや、暴行を受けている時点でもう立派な犯罪か。加害者は雪ノ下で、被害者は俺だ。雪ノ下にどんな事情があるにせよ、その事実だけは絶対に変わらない。
俺は雪ノ下から大切にしていたものを根こそぎ奪われた気がしていた。
居場所も、理想も、安らぎも、思い出も。
そして、由比ヶ浜も。あいつが奉仕部を辞めると言い出したのは、まず間違いなく雪ノ下のせいだ。
だが、それでも雪ノ下雪乃という存在を俺は心の底から憎めなかったのだ。由比ヶ浜の様に諦めもつかなかった。
『ねえ、比企谷君。いつか、私を助けてね』
ディスティニーランドの時の雪ノ下の言葉と表情が俺の中に甦る。俺はそれでも雪ノ下雪乃という存在が恐らくまだ好きなのだ。心のどこかで固く信じている。まだ間に合う、元に戻る事が出来ると。
雪ノ下が言っていた『いつか』は、『今』なんじゃないのかと。
それなら助ける為にはどうしたらいい。
雪ノ下の姉である陽乃さんは前に俺に言った。君は人の心の裏を読もうとすると。確かにそうだ。俺は今、雪ノ下の裏の心を考えている。
人が怒りや悲しみなどの感情を人にぶつけるのは何故か。それはたまったものを吐き出そうとする意味もあるが、相手に訴える為でもある。怒っていたり悲しんでいるという事を相手に伝えようとしているのだ。
なら雪ノ下は何を伝えようとしているのか。何の為に俺の弱く醜い部分を突き、暴行を振るい、キスをしたのか。
それに全て目的があったとしたなら、雪ノ下は俺を傷付け、俺をいたぶる事を目的としている。そして、自分の存在を刻み付けようとしている。
雪ノ下雪乃という存在を、俺が一生忘れる事が出来なくなるようにしている。その為のキスの様な気がした。
なら、何の為に雪ノ下はそれをしたのか。
愛情の反対は憎しみではなく無関心だ。無関心という点においては雪ノ下は正反対だった。だとしたら、雪ノ下の裏の心は。
雪ノ下は嫌われたいと望んでいる。
憎まれたいと望んでいる。
そして矛盾しているのだが、自分を見て欲しいと、そう望んでいる。そうとしか思えない。
ならそこから更に考えるべきだ。何の為に雪ノ下は、嫌われ、憎まれ、自分を見て欲しいと願うのか。
……考えられる仮説は幾つかあった。
だが、そのどれかまではわからない。仮説を裏付ける証拠が不足し過ぎている。組み上げるパーツが足りなさ過ぎる。
そして、雪ノ下雪乃をどうやって助けるのかも。今の段階ではぼんやりとしか見えない。情報が足りない。覚悟も足りない。
……何にしろ、あいつと一度会って話を聞く必要がある。
雪ノ下の彼氏である葉山隼人に。
頬を冷やして腫れを取る時間は、俺にとって完全に無駄な時間という訳ではなかった。サッカー部の練習が終わるまでどうせ待つ事になったのだ。
職員室に鍵を返しに行く。平塚先生は自分の恋愛以外の事となるとやけに的確で鋭い。目ざとく俺の頬回りの傷を見つけて、それについて聞かれた。
「どうしたんだ、比企谷。その傷は?」
「……飼い猫に今朝やられました」
予め用意しておいた嘘だ。最近、嘘ばかりついている。
「そうか。猫か」
そして、平塚先生はそれを疑わない。余計な事を言いはするが。
「私は傷跡からして、てっきり痴話喧嘩で女にひっかかれたものだと思ったんだがな。だが、君に限ってそんな事は有り得ないか」
むしろ、そう思うあなたの方がどうかしてます。かなり本気で。そういう目をしていたからか、平塚先生は少し困ったように息を吐いた。
「比企谷。言っておくが冗談だからな」
冗談に聞こえないから怖い。特に今の俺にとっては。
「……知っています。それじゃ、これで」
鍵をさっさと返して、俺は日の沈みかけたグラウンドへと向かった。丁度、サッカー部がボールを片付けて帰り支度をしているところだった。葉山の姿もそこにあった。
「話がある」
こうして葉山に話しかけるのは二回目だ。前は理系か文系かで尋ねたはずだ。
あの時と違って葉山は露骨に嫌そうな顔を見せた。
「悪いが、今度にしてくれないか。今日はこの後、用事が入っているんだ」
「用件は雪ノ下の事でだ」
「…………」
葉山は良いとも悪いとも言わず、俺の目を見据えた。
「お前、雪ノ下と付き合ってるんだってな」
「だったら何だ?」
ほとんど喧嘩腰の様な反応だった。厳しい目を俺に向ける。やはり何かある。そう感じた俺はカマをかけた。
「雪ノ下から相談を受けた。お前の事でだ」
「……っ!」
ある程度の反応はすると予想していたが、予想以上の反応を葉山は見せた。一瞬、肩を震わせて、明らかに動揺した。
「……何を聞いた?」
普段のあいつなら絶対に見せない様なきつい表情が向けられた。俺が答えないでいると葉山は一歩詰め寄った。その時には動揺はもう消えていたが、代わりに完全に目が座っていた。
「どんな相談を受けたんだ、比企谷」
「…………」
「答えてもらおうか。その事で質問があったのは君の方だろう」
「答えなくてもお前はわかってるんじゃないのか? いや、わかっているよな?」
「さあね。俺には見当もつかない。だから、君の方から言ってもらわないとわからない」
「嘘をつくな」
「ついてなんかいないさ。で、雪ノ下さんから何を聞いた?」
そのまま更に一歩詰め寄られた。胸ぐらを掴もうと思えば掴める距離だ。そして今の葉山はそれをやりかねない雰囲気を漂わせていた。
「答えてもらおうか、比企谷。彼女から君は何を聞いた」
「…………」
このまま答えず、胸ぐらでも掴まれて更に一発ぐらいなら殴られてやろうかとも考えた。そうすれば、それを脅しとして葉山から聞き出す方法も取れるだろう。だが、元がはったりである以上、そこまで葉山を挑発出来るとは思えなかったし、何より葉山がそこで一線を引いたかのように冷静さを取り戻しつつあった。
「答えないなら、俺は帰らせてもらう」
本当にそうしそうな気配だった。ここまでか……。
俺は方針を変更した。
「はったりだ。俺は雪ノ下から何も相談を受けていない」
「やっぱりか」
葉山はどこか納得した様に頷いた。そして、話は終わったとばかりに踵を返して立ち去ろうとした。俺はその背中に向けて言った。
「だが、その反応でお前と雪ノ下の間に何かあるのはわかった」
「そうか」
興味がないようにそのまま速度を緩める事なく歩いていく葉山。俺の一つ目の弾丸は外れた。だが、二つ目のこの弾丸は恐らく外れない。
「お前がその事を俺に話す気がないなら、俺は雪ノ下とお前の事を噂で流すつもりでいる。付き合ってるとかそんな事じゃなくて、もっとどぎついやつだ」
「…………」
歩みが止まった。世間体といったものは葉山の数少ないウィークポイントだ。出来る事ならある事ない事ばらまかれたくはないだろう。止まらずにはいられないはずだ。
だが、その後には予想外の反応が返ってきた。
「好きにすればいい」
また葉山は歩き出す。俺は葉山の後を追いかけ、その腕を掴んだ。
「待てよ」
「待たない。その手を離せ、比企谷」
「お前と雪ノ下の間で何があったか、それを聞くまでは離さない」
「どうかしてるのか、比企谷」
振り向いて葉山は冷たい目を向けながら言った。
「君はこういう事をするタイプじゃないだろう」
「タイプなんか知るか。お前の勝手なイメージで俺を決めつけるな」
まるで今の雪ノ下の様な台詞だった。言って初めて気が付いた。
葉山は小さく息を吐いた。
「手を離せ、比企谷」
「……さっきも言っただろ。お前が何か話すまで、俺はこの手を離す気はない」
「何を話せと言うんだ? 俺は今雪ノ下さんと付き合っている。それだけだ。他に話す様な事は何もない」
「嘘だな。だったら、さっきの反応は何だ? 何かなければそんな反応はしないはずだ」
「彼女が俺の知らない何かを、別の誰かに相談したと聞いたら、それが気になるのは当然だろ」
「そうじゃないよな、葉山。雪ノ下の相談に自分が何か関係していると確信していたからお前は気になったんだ」
「違う」
「違わない」
そこで葉山は苛立った様に溜め息を吐いた。
「話が平行線だな」
「そうだな。お前のせいでな」
俺もここは譲る気はなかった。
葉山は心底わずらわしそうな顔で俺の掴んだ手を眺め、それから俺にまた視線を向ける。
「俺は何もないとさっきから言っている。だが、君はそれを信じない。仮に俺が何か他の事を言ったとしても、どうせ君は信じないだろう。自分が納得する言葉しか信じないと言っている様な奴に、俺がこれ以上何か話す意味があるのか。時間の無駄だ」
「だったら、どうして雪ノ下はあれだけ変わったんだ。彼氏のお前がそれを知らないとは言わせない。お前と付き合う事で雪ノ下は変わったんだ。お前が何か知っていなきゃおかしいだろ。どうして雪ノ下はあんなに変わってしまったんだよ」
「比企谷……。君は今日、鏡を見たか?」
「……何が言いたい?」
頬の傷の事を言われるのかと思った。だが、それは違った。
「見てないのなら、今すぐ見てきた方がいい。今の君は、普段とは別人だぞ。人を殺しそうな目をしている。少し普通じゃない」
一瞬、息が詰まった。が、すぐに、まさか、と思い直す。
「ずいぶん大袈裟な事を言うな、葉山。どうせ鏡を見に行かせたいだけだろ」
「本気だ。だから、そんな奴と会話するだけ無駄だと思っている。離せ」
「お前が隠している事を言えば、すぐにでも離す」
「……どうやら、もう話し合いは無理みたいだな」
「元から話し合いなんかしていた覚えは俺にはねーよ」
その言葉に、葉山は俺の掴んだ腕にまた視線を落とした。
「……そうか。君はそういうつもりか」
「ああ。形振り構わずお前から聞き出す。腕を掴まれていて、困るのは俺じゃなくてお前の方だ。何なら家まで俺も一緒について行ってもいいぞ。二泊三日で泊まってやってもいいぐらいだ」
葉山と俺はしばらくその場で睨みあった。「子供の喧嘩か」と、葉山は苦虫を噛み潰した様に呟いたが、子供だろうが大人だろうが関係ない。嫌がらせをするなら子供のやり方で十分だから、それを選んでいるだけの事だ 。
「……比企谷、その手をどうしても離すつもりはないんだな?」
「お前が本当の事を言うまではな。例え海老名さんが熱愛中のホモカップルと勘違いしようと、ずっと握り続けてやる」
「その言葉、意地でも撤回してもらうからな」
不意に肩を掴まれた。その瞬間、俺の体勢が崩れた。足が浮いた。視界が一気にぐるりと回って気が付けば俺は空を見上げる形になっていた。そして背中に強い衝撃。息が一瞬止まった。恐らく足をかけられて体ごと倒された。柔道技かよ……!
「俺はこれで帰る。それじゃあな」
見下ろされる形で葉山からそう言われた。いつのまにか俺は腕を離していたのだ。
どことなく後ろめたそうな面持ちで葉山は足早に去っていった。
俺はそれを追いかけなかった。別に追いかける必要がないからだ。葉山が完全に見えなくなるまで待ってから、俺は服の裏にガムテープでしっかりと張り付けておいたスマホを取り外し、アプリの録音停止ボタンを押した。
部室で一人試した時は、音がくぐもって聞き辛い感はあったが、判別がつく程度には問題なく録れていた。今回も問題ないはずだ。
俺はそれを最終的には雪ノ下陽乃さんに聞いてもらうつもりだった。
今回の録音で、葉山が雪ノ下と付き合っている事はあいつから言質が取れた。そして、雪ノ下の変化について俺が喋った時に葉山はそれを肯定はしなかったが否定もしなかった。雪ノ下が今おかしいという事、それを葉山は知っているという事、そして恐らく葉山も何か隠しているという事。この三つを雪ノ下さんに信じさせる状況証拠ぐらいにはなるはずだ。
ただ、それをする前に、俺は雪ノ下ともう一度あの部室で二人きりで話す必要があった。その会話も録音しなければならない。でないと、雪ノ下さんは妹が葉山と付き合っている事は信用しても、今の雪ノ下の普通ではない変化を決して信じないだろうからだ。
ただでさえ低い信頼性を誇る俺だ。何か証拠がないと、葉山や雪ノ下の事で妙な勘繰りや疑いを受け、次から俺の言葉がまったく信用されなくなるまである。時間と手間はかかるが、これは惜しんではいけない時間と手間だった。
明日だ。明日、雪ノ下ともう一度話す。態度からして葉山が関わっている事は確信出来た。だから、それについてまたカマをかけて話し、何かを聞き出す。
それで上手くいって核心に迫る事を聞ければいいが、もし駄目でまた雪ノ下が暴走を始めたなら……。
その時は、例え雪ノ下が実家へ強制的に戻る事になろうとも、その二つの録音を雪ノ下さんに聞いてもらうしかないだろう。それが雪ノ下にとっての最善だと信じざるを得ないからだ。
今の雪ノ下が精神的に病んでいる事を、俺は視野に入れている。入れたくはなかったが入れない訳にはいかなかった。そしてそれは、俺が考えた仮説の中での最悪のケースだ。
その場合、必要なのは原因を取り除いて事態を解決する事ではない。
必要なのは、精神科医と薬だ。
それは俺に用意出来るものではないのだ。
背中についた砂を払いながら俺は立ち上がる。この前から痛みばかりもらっている。主に雪ノ下からだ。昔、どこかで聞いた言葉を俺は思い出していた。
『痛みってのは、耐える事は出来ても、慣れる事は出来ない。痛いと思う気持ちは、何回繰り返しても痛い』
そして、体の傷は治っても、一度ついた心の傷は絶対に治らない……。確か、そんな言葉もあった気がするな。
俺は地面に置いておいた鞄を掴んで、家へと帰る為に歩きだした。耐える事は出来ても、慣れる事は出来ない。痛いと思う気持ちは、何回繰り返しても痛い。その言葉がやけに頭の中から離れなかった。
長くなったけど、ここまで
◆4
二度ある事は三度あるというが、俺はそれを絶対にする気はない。ようやく目眩や吐き気がおさまり、昨日と同じくトイレに行って鏡を見て、そこで俺は愕然とした。
おい……。これ、どこの試合後のボクサーだよ……。
左頬と右目の真横あたりに紫色の痣がくっきりと残ってる。それだけじゃなく額や目元、頬にもかなりの切り傷が。首には歯形のみみずばれが出来てたし、それは手にもだ。これが葉山や戸部あたりならケンカでつけられた傷だと思ってくれるだろうが、俺の場合だとイジメを受けてるとしか思われないはずだ。
保健室だな……。そこに行って湿布だとかをもらってくるしかない。
前みたいに濡れたハンカチ程度では駄目だ。というか、本当に何だよ、これ。何で俺、こんな目に遭ってるんだ……?
何でかと言えば、雪ノ下のせいとなるのだが、実質的には俺のせいだ。君子危うきに近寄らずというのが俺のモットーであるというのに、自ら火中の栗を何回も拾いに行っている。誰がどう見ても馬鹿なのは俺だ。
不意に由比ヶ浜の声が甦った。
『ゆきのんは……ゆきのんはもう一人にしといた方がいいの』
……未だに俺はそう思わない。だが、由比ヶ浜の言ってる事も間違ってはいない様な気がした。
『このままじゃずるずる変な方に行っちゃうから。余計おかしくなっちゃう。ヒッキーまできっと巻き込まれる』
もう巻き込まれてる。後悔ってのは、本当に後からするものだと、そんな当たり前の事を痛感した。
保健室まで重い足取りで歩く。そして、ドアに鍵がかかっている事を知って更に重い足取りで再び部室へと戻った。そりゃそうだろう。少し考えればわかる事だ。俺はそんな事にすら頭が回ってなかった。
部室。雪ノ下が戻ってきている事はないだろうが、それでもその可能性を考慮して、ドアは慎重に開けた。目に映ったのはスマホの残骸と雪ノ下がいた痕跡だけだ。落ちてくしゃけた文庫本、放置されて倒れたままの椅子、自殺でもするかの様にしっかりと揃えられて置いてある上履きと靴下。
下着だけはそのままではなく、俺の鞄の中に入っている。部室に放置しておいて、もしそれが誰かに見つかったとしたら、後からそこにやってきたボコボコの顔をした男を疑うのは当然の事だろう。最悪、問題として職員会議にまでかけられ停学処分まである。
正直に言えば、少しもったいなくはあった。だが、帰りにどこかコンビニのゴミ箱にでもこっそり捨てるしかないだろう。もしも家に持ち帰って小町にでも見つかったら洒落になってない。怪我の事も合わせて本当に冗談では済まされない。間違いなくレイプ犯と勘違いされる事、疑いなしだ。
上履きと靴下は……そのままにしておく。これを捨てるのは躊躇いがあったし、部屋の隅にでも隠しておけばいいだろう。見つかったところでそう問題になるものとは思えない。だが、俺が持ち帰れば一気に事案発生だ。やはり置いていった方がいい。
雪ノ下のスマホは片付けて捨てる。もう使えないし修理もきかない。捨てても一向に構わないだろう。
落ちている文庫本を拾って鞄の中に放りいれた。これで三冊目だ。本の題名を見る気もしなかった。
さて……どうするか。
部屋の片付けを終えた後で、俺は顔の腫れと痣の事で困って途方に暮れていた。これはアレだ。テスト前日に部屋の掃除を始めるとやけに捗って、気が付けばテスト勉強を何もしてないのに深夜になっていた時と同じだ。つまりは、現実逃避だ。それが済んでしまったから、俺は見たくもない現実に目を向けなければならなくなっていた。
やはり……どうしようもないか……。
部室の鍵を返しに行かなければいけない以上、平塚先生とは嫌でも顔を会わせる事になる。例えば、一色あたりに代わりに鍵を返す事を頼んだとしても、どうせ明日の授業で会う事になる。その時に尋ねられるよりは、今、会いに行って話を済ませた方がいい。
ここまでは消去法だから問題はないというより仕方ない。だが、その次が問題だ。
どう言い訳するんだ、この傷と痣……。
触ってみるとまだずきずきと痛む。平塚先生もそうだが小町に対してもだ。明日の由比ヶ浜に対してもそうだし、戸塚に対してもそうだ。正直に話せばどれも面倒な事になる。
録音を確認する。きちんと録れていた。だから、これを聞いてもらえれば話を信じてもらえないという事はないだろう。しかし、これを平塚先生に聞かせた場合、どうなるか。喧嘩両成敗であっさり収めてくれればいいが、そうはならない予感がする。
特に雪ノ下は言動と行動がまずい。親に連絡がいき、更にややこしい事態になりそうだ。下手すればあいつの内申点にまで響いて受験に関わってくるだろう。雪ノ下さんに頼んで穏便におさめてくれるのを願っている俺としては、平塚先生にこの録音を聞かせる気はなかった。とはいえ、上手く誤魔化せるような嘘の言い訳も思い付かない。
詰んでるな、これ……。
いっその事、全部正直に話して丸投げにしたい気分だった。理由はどうあれ被害者は俺なのだし、それを証明してくれるテープもある。俺にとってはどう転んでも今より悪くなる事はないだろう。だが、雪ノ下にとっては。
……あいつを最悪の状態に持っていくか、それとも出来るだけ痛手にならないようにするか、その決定権が今の俺にはあった。そして、痛手にしない方が遥かに難しい状況なのだ。だが、楽な方を選べば俺は完全に雪ノ下を見捨てた事になる。それだけは、俺はする気はなかった。
職員室へと向かい扉を開ける。案の定、平塚先生は俺の顔を見てすぐさま眉を上げて尋ねてきた。「比企谷。その顔、何があった」やはり何もないでは済まされないだろうな。
「戸塚のテニスに付き合ってたら、ボールが当たりました」
そう答える。だが、予想通りというか、平塚先生は軽く溜め息の様なものを吐いた。
「つくならもう少しマシな嘘をつけ。ボールが当たって出来る様な痕じゃないだろう」
……だよな。俺自身もそれについては非常に同感だ。だが、他に思い付かなかったから、もうこれで突き通すしかない。
「戸塚、今日は絶好調だったんで。ボールが魔球の様に動いて、俺はそれに翻弄されて、気が付けばこうなってました」
「比企谷……。いい加減にしておけ。温厚な私でも流石に怒るぞ」
拳の準備を始める。温厚の意味を絶対に間違えている。
「とにかく、一度保健室に行くぞ。手当てをしてやる」
周囲の先生達の注目を集めながら、俺と平塚先生は職員室を出た。残っている先生達が少なかったのは不幸中の幸いだった。
並んで歩きながら、平塚先生はまた尋ねてきた。
「で、誰からイジメを受けた?」
イジメ前提かよ。
「それか、恐喝でもされたのか。そんな目をしているから君はそういう事をされるんだ」
むしろ、今、イジメを受けてね? 俺の目関係ないだろ。
「本当にテニスボールが当たったんです。……それだけなんですけどね」
そう言いながら、平塚先生の方にじっと目を向けた。これは賭けでもある。事情があって言いたくないという事を先生なら察してくれると思った。そして、それさえわかってくれれば平塚先生の場合、それ以上は聞いてこない気がした。放任主義とは違うが、自主性を重んじるとでもいうのか、この人は手放しに助けをしない。そういう面を持っている。
先生はやれやれといった感じで軽く頭を振った。
「雪ノ下か?」
予想外の言葉に俺は固まった。
「その反応だと図星か」
迂闊だった。俺のミスだ。十年前からわかっていたという顔を平塚先生は見せる。同じカマのかけ方でも平塚先生と俺とでは大違いだ。攻め方が直線的で強引なのだ、この人は。
「前から何かあるとは思ってたんだ。雪ノ下でなく君が何度も鍵を返しに来るし、由比ヶ浜も目に見えて沈んだ表情をしている。そして、昨日の引っ掻き傷、今日の君の痣とくれば、ピンとこない方がおかしいだろう」
私はいつでも君達を見ている、というこの人の言葉は、本当に冗談でも嘘でもないなと毎回忘れた頃に思い出す。いや、思い出させてくるのか、この人が。
「で、何を私に隠しているんだ、比企谷。雪ノ下と何があった? 素直に言った方が君の為だぞ。新しい傷を増やしたくあるまい」
いや、それ脅迫ですから。ポキポキ指を鳴らすのやめて下さい。かなり本気で。
仕方なく腹をくくった。虎穴に入らずんば虎児を得ずとも言うしな。もっとも俺は正面から堂々と穴に入るなんて真似は絶対にしないが。一人が囮になって親虎を引き付けている間に、横穴を掘ってそこから入る事を提案する人間だ、俺は。
「……テニスボールに当たった、って事にしといてもらえませんか。先生に迷惑はかけない様におさめるつもりなんで」
「やはり訳ありか」
平塚先生はちらりと俺に目を向け、頭から足の爪先まで一周した後、また軽く溜め息をこぼした。
「まあ、どんな形かは知らんが、雪ノ下が君の怪我に関わっているというなら、君はそうするだろうな。表沙汰にならないように、内々で片付けるつもりなんだろう。違うか?」
「……図星です」
「それで、君の考えているやり方で事がおさまる自信はどうなんだ。あるのか?」
「さあ……。それはやってみないとわからないです。ただ……自信はともかく、このままだと俺もまずいんで。そう見えないかもしれないですけど、めちゃくちゃ真剣なんですよ。……どうにもならないって訳でもないですし」
「まったく、本当に君ってやつは……」
諦めた様な口調。恐らく、提案を受け入れてくれたのだろう。だが、それにほっとしたのも束の間だった。
「だが、一つだけ正直に答えてもらうぞ、比企谷。その怪我は誰からつけられた? 教師として、それだけは黙認出来ないからな。犯人をはっきり答えてもらうぞ」
一難去ってまた一難。そんな諺が思い浮かんだ。
「で、誰だ?」
話している間に保健室に着いた。平塚先生が鍵を開けながら、俺に聞いてくる。誰かを言えば、俺が隠しておきたい事を白状している様なもんなんだが。
溜め息を一つ。中に先に入った平塚先生から「ほら、入れ。手当てをしてやる」との声。「こういうのは慣れてるからな」怖いんですが。
実際、手際よく消毒やら湿布やらされた。先生のイメージからして救急箱を放り投げられて「手当てをしておけ」と言われそうな気がしていたが、そうではなかった。俺の勝手なイメージってのは、腐るほどある訳だ。今更だが、そんな事を思った。
「顔と手はこんなものか。次は体だな。脱げ」
「は……?」
「脱げ。抱いてやる」
ちょっと、先生……? なんかワイルドさに思わずドキッとしちゃったんですけど? 責任取ってもらえるんですか?
「比企谷……。真に受けるな。冗談だ」
「いや、俺はそんな、別に……」
顔に出ていたらしい。恥ずかしさから思わず目を逸らした。今ここに列車がやって来て、それに「姉御女房エンド行き、平塚ルート経由」と書かれてあったら、俺は迷わず切符を買って乗車していただろう。いや、それは嘘だ。誰か早いとこもらってあげて。色々拗らせちゃってるから。
「私が思うに、男というものはそれぐらい大胆に言ってきてもいいと思うんだが、昨今の男は草食系ばかりでな。例えばデートに行くにしても、どこに行く? と聞いてくるやつばかりで、ついて来い、なんて私は言われた事すらないぞ」
そりゃ、先生にそんな事を言う男はいないでしょうね。言ったら泣き出しそうな気がしたので流石にやめた。
「体の方は自分でやっておけ。セクハラパワハラと最近はうるさいからな。背中だけは手伝ってやってもいいが、どうする?」
「いや……どうするという前に、多分、背中には怪我とかないんで」
腹の方も多分大丈夫だろう。怪我の原因は爪とスマホによる殴打がほとんどだからな。
「そうか。だが、一応確認しておけ。恥ずかしいというなら、私は後ろでも向いてるし、君はそっちのカーテン付きのベッドで脱げば問題ない。男の裸を覗く趣味は私にはないからな」
本当ですかね、それ? 思わず疑ってしまう俺がいる。いや、本当だろうけどな。特に俺の裸なんて見てもどうしようもないだろうし。流石にこれは偏見というものだ。
「で、誰だ?」
話している間に保健室に着いた。平塚先生が鍵を開けながら、俺に聞いてくる。誰かを言えば、俺が隠しておきたい事を白状している様なもんなんだが。
溜め息を一つ。中に先に入った平塚先生から「ほら、入れ。手当てをしてやる」との声。「こういうのは慣れてるからな」怖いんですが。
実際、手際よく消毒やら湿布やらされた。先生のイメージからして救急箱を放り投げられて「手当てをしておけ」と言われそうな気がしていたが、そうではなかった。俺の勝手なイメージってのは、腐るほどある訳だ。今更だが、そんな事を思った。
「顔と手はこんなものか。次は体だな。脱げ」
「は……?」
「脱げ。抱いてやる」
ちょっと、先生……? なんかワイルドさに思わずドキッとしちゃったんですけど? 責任取ってもらえるんですか?
「比企谷……。真に受けるな。冗談だ」
「いや、俺はそんな、別に……」
顔に出ていたらしい。恥ずかしさから思わず目を逸らした。今ここに列車がやって来て、それに「姉御女房エンド行き、平塚ルート経由」と書かれてあったら、俺は迷わず切符を買って乗車していただろう。いや、それは嘘だ。誰か早いとこもらってあげて。色々拗らせちゃってるから。
「私が思うに、男というものはそれぐらい大胆に言ってきてもいいと思うんだが、昨今の男は草食系ばかりでな。例えばデートに行くにしても、どこに行く? と聞いてくるやつばかりで、ついて来い、なんて私は言われた事すらないぞ」
そりゃ、先生にそんな事を言う男はいないでしょうね。言ったら泣き出しそうな気がしたので流石にやめた。
「体の方は自分でやっておけ。セクハラパワハラと最近はうるさいからな。背中だけは手伝ってやってもいいが、どうする?」
「いや……どうするという前に、多分、背中には怪我とかないんで」
腹の方も多分大丈夫だろう。怪我の原因は爪とスマホによる殴打がほとんどだからな。
「そうか。だが、一応確認しておけ。恥ずかしいというなら、私は後ろでも向いてるし、君はそっちのカーテン付きのベッドで脱げば問題ない。男の裸を覗く趣味は私にはないからな」
本当ですかね、それ? 思わず疑ってしまう俺がいる。いや、本当だろうけどな。特に俺の裸なんて見てもどうしようもないだろうし。流石にこれは偏見というものだ。
>>317
連投ミス
飛ばして
「それで、比企谷……」
素直にカーテンを引いてベッドで服を脱いでる時に言われた。何故かドキリとした。やはり俺の青春ラブコメ間違ってないか? 普通これ逆だよな?
だが、やはり間違っていなかった。それを瞬時に思い知らされた。
「話を最初に戻すが、その怪我は誰につけられたんだ? そろそろ話したらどうだ」
蝶が飛び回る庭園をのんびり歩いていたら、いきなり蜂の大群が飛んできた気分だった。どう答えるべきか考えながら、自分の体を確認する。腰や足らへんに小さな青痣が出来ている程度だ。これなら湿布もいらないだろう。
はだけたシャツを着直しながら、俺はカーテン越しに答えた。正面から攻めず搦め手から攻めるのは変わらないが。
「……雪ノ下陽乃さんに相談するつもりなんで。それを返答の代わりにしといてもらえませんか」
「陽乃に?」
意外という感じの声。それから「陽乃にか……」と呟く。そのまま長い事沈黙があり、それは俺が服を着直してカーテンを開けるまで続いた。
「……終わりましたけど」
渡された湿布やら消毒薬やらを返す。「ああ」と平塚先生は受け取ってそれをしまい始めた。それから「そうか、陽乃にか……」とまた呟く。
しまい終えてから、それが区切りの様に平塚先生は向き直って告げた。
「まあ、いいだろう。今回だけは君を信用して教師の理念を曲げてやる。誰がつけたかは聞かないでおこう」
俺は黙って頭を下げた。他の教師ならこうは言ってくれなかっただろう。何だかんだで俺は平塚先生に世話になりすぎている。
「ただ、比企谷。それは君の責任だという事を覚えておけよ」
真面目な顔で真面目な口調だった。俺は当然頷く。
「わかってます。さっきも言いましたけど、先生には迷惑はかけないんで」
「そうじゃないんだ。君はやはりわかっていないな」
半ば呆れた様な声だった。「……それって、どういう意味ですか?」
「その判断の結果、君が泣く様な事になったとしても、他に責任を押し付けるな、という事だ」
「それもわかっているつもりなんですけどね……」
「それが既に間違いだ。つもりと、わかっているとでは、何千万光年も離れているのだからな。東大に受かるつもりでいるのと、東大に受かるのとでは大違いだろ?」
それは確かにそうだろう。だが……。
「比企谷。世の中ってのは、冷たい様だが、行動は全て自己責任だと言うのは事実だ。何かをした結果、それで泣くも笑うも全部自分に返ってくる。そこまではわかるな?」
「ええ……まあ」
「だから、良い結果が出たなら自分を誇るといい。悪い結果なら反省するといい。それが普通だ」
「…………」
「だがな、たまに反省では足りない結果が出てくる時があるんだ。それについて一生後悔する様な結果がな」
一生、後悔か……。
「それを自分ではなく他のせいにするのは簡単だから、人はいとも容易く責任を転嫁する。自分は悪くない、あの時の状況ではああするしかなかった、仕方ない事だ、と自分を誤魔化して正当化する。結果的にそうなってしまったんだ、運やタイミングが悪かった。だが、そんな訳がない。特殊な例を除けば、大体は本人の責任だ」
修学旅行での告白、文化祭の時の相模への言葉の一件、それを暗に言われている気がした。俺にとっては耳が痛い事だらけだった。
「私はな、比企谷。君がいつか、そういう一生ものの後悔をしそうで怖いんだ」
平塚先生は尚も続ける。
「あの時の事は間違っていない、あの時はああするしかなかった、そう思い込んでまた同じ様な事をする。君にはそういう心配があるんだ。身に覚えがないとは言わせないぞ」
返す言葉がなかった。
「君は優しい、と私は思っている。だが、その優しさを自分に向けないのは誉められた事ではない。自分を省みない事を武器にするのは良くない。それは、自分が傷つくだけでなく、他人をも傷つける両刃の剣だ。君はそれを何回か味わっているだろう? 私の言いたい事はわかるか?」
「……はい」
「『正論は常に正しい、だが優しくない』という言葉が世の中にはある。正論で責められたら、どれだけその人に事情があろうとも反論出来ないからだ。正論は厳しいと言ってもいい。逆に言えば、正しくない事は優しい事でもある。だが、どれだけ優しくても間違いは間違いなんだ。優しさにより犯人を逮捕しない警察官は無能だと謗られるし、それ以前に害悪でもある。正しい事と優しい事、それを君は履き違えないようにしたまえ」
「……はい」
「そのせいで君が一生後悔する様な傷を負ったとしても、それは自分の責任になるのだからな。誰も君の痛みを肩代わり出来ないんだ。だから、それを忘れないようにした上で、君にとっての最善の行動を探すといい」
「……うす」
平塚先生は納得したように一つ頷いた。
「よし。説教はここまでだ。私は仕事がまだあるから戻るが、君はもう帰りたまえ。その怪我の事は、他の先生方には上手く誤魔化しておいてやるから安心しろ」
「……助かります」
軽く頭を下げる。「なに、構わんさ。大した事ではない」そんな言葉をかけられた。本当にこの人には頭が上がらない。
二人で保健室を出たが、行き先が違うので途中で別れた。別れる前に、最後に平塚先生は軽く微笑んで見せた。
「仮に、君の怪我が色々とバレて問題になろうとも、その時は私がつけた傷だとすればいい。君の御両親に私が土下座して謝れば大体の事はそれで片付く。遠慮なくやれ」
いや、流石にそれはまずいだろ……。だが、平塚先生は悪戯を仕掛ける前の子供の様な顔を見せた。
「もちろん、その時は君がムラムラきて私を襲ってきたという事にするがな。私は過剰防衛、君は強姦未遂だ。学校側も君の御両親も、どちらも隠しておきたい事情があるのだから、公になる事はない」
俺が言うのもあれだが、えげつないな……。流石だ、この人。男関係以外は油断も隙もない……。
「ま、そういう訳だから君は好きにやるといい。私はいつだって君の味方だ」
そう言って微笑してみせる平塚先生は、一瞬だがとても綺麗に見えた。いや、前から美人なのは確かなんだが、それ以上にという意味で。危うく惚れかけて慌てて思い直す。教師としてって意味だから。別に他に意味はないから。
『だから、いざという時は遠慮なく頼ってくるといい。私をあまり見くびるなよ』
また俺の勘違いや期待の押し付けかもしれないが、平塚先生の微笑はそう語っている様な気がした。
「それじゃあな、気を付けて帰れよ」
廊下を歩いて去っていく平塚先生の後ろ姿。俺はその背中に向けて自然と頭を下げていた。見えないのだから、この礼にははっきり言って意味がない。だが、意味がなくても俺はそれをした。俺にとって、それは意味のある行為なのだから。
ここまで
このSSまとめへのコメント
え?雪の下を殴った?
殴られたんじゃ無いの?
本スレ見たら分かるけど途中の話がまとめられてない
※1
無効化して見ると話が変わるよ
なんかこう、イライラする
こんだけ引っ張っといて途中で終わるのか、面白かった分残念
この作者日本語大丈夫か?
haha
本スレの方見てきたが
一体この雪乃はなにがしたいのかわからん・・てか
障害事件やんかあれ・・
意味がわからない
いつ八幡はキスされた?
しっかしgdgdやな
作者は海外出身の方なのかな
ここで読んだらワケがわからなかったけど
本スレ見て納得
早く続きが読みたい
話自体は面白いのだがなぜか見てるとイライラしてくる。
とりまはよ
うん、死ね☆
雪ノ下の比企ヶ谷への気持ちは
ただ一つってわけね。