響「2」 (136)


このスレは
春香「私達は仮想世界『THE IDOLM@STER』で生きている」
春香「私達は仮想世界『THE IDOLM@STER』で生きている」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1434271168/)
の続編となります。

前スレを読んでいなくても内容自体は分かるかと思いますが
読んでいただいた方がより理解できるかと思います。


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1441547161


[Dream]


* * *

「進め 私の心 どこまでも 夢を描いて」

どこからか聴こえてくるメロディが耳に届いた。

皆で円になって歌う幸せな音がそこにはあった。

「進め きらめくステージ めぐり逢えた奇跡 ここから始めよう」

ステージの上から眺める人たちの声が届く。

みんなの笑顔が瞳に飛び込んでくる。

「歌って歌って 届け明日へ」

両手を広げて大きな声で歌う。

「歌って歌って 届けてあなたに」

この歌を聞いてくれている全ての人たちに届くように。

「あげる 終わらない全てを」

ここに立つ全員で、その思いを一つにして。

そうだ、自分たちは――。


* * *


はっと目を覚ました時、けたたましく目覚まし時計のアラーム音が鳴り響いていた。

すぐに半身を起こして辺りを見回してみるも、見慣れた家具が立ち並んでいることに気付くと、ふうっと大きく息を吐いた。

響「んー、夢かあ」

そう言うともう一度頭を枕に預ける。

響「本当にステージに立ってたかと思ったのになあ」

自分があんなに大きなステージで歌ってるなんて確かにおかしいなあと思ったけど、それくらいさっきまで見ていた夢は現実感がすごかった。

だってまだドキドキがやまないくらいお客さんの歓声が聞こえてきてた。

響「凄かったなあ」

いつかあんなに大きなステージに立ってみたいなあ……、ってあれ自分何か忘れてるような。

響「うがー! もうこんな時間! 起きて準備しなくちゃ!」

今日はライブなのに遅刻しそうになっちゃったさー! 怒られるー!

猛スピードで準備を済ませると慌てて家を飛び出した。

……間に合うかなあ。


――――
――


響「ギリギリ間に合ったさ……」

息を切らしながらもなんとか集合場所までたどり着くと、そこで悠々と待っていた人物が自分に声をかけてくる。

……あ、ちょっと怒ってるぞ。

貴音「響、遅いではありませんか。私、待ちくたびれましたよ」

響「うー、貴音ごめん!」

貴音「今日は小さなライブ会場ではありますが、私たちを待ってくれているファンの方々がいるのです。それを忘れてはいけません」

響「うう……」

貴音「遅刻はプロとして許される行為ではありません。どうやら寝坊のようですが、しっかりと自己管理をするのです」

響「次はちゃんと起きるさ……」

貴音「準備をしましょう、スタッフの方々も響のことを待っていますよ」

貴音は言うことを言うと、いつものように自分に笑いかけてきた。

ごめんね、貴音。次は絶対遅刻しないよ!


――――
――


ライブ後、自分たちはささやかな声援に包まれてステージを後にした。

まだまだ未熟だと思う部分がたくさんあって、ミスもたくさんあった。

なんだか今日は朝からずっとダメダメさあ……。

貴音「響、気を落とすことはありません」

響「貴音……」

貴音「私たちはまだ発展をしていく存在なのです。今日の失敗を活かして前に進まなければなりません」

響「……そうだね」

自分たちは舞台の裏で手を握り合った。貴音の手は暖かくて、さっきまでのブルーだった気持ちがどこかへ消え去ってしまったように思えた。

スタッフ「961プロのみなさんお疲れ様でした!」

その時、スタッフの人から声がかかる。

どうやら楽屋に戻って帰る準備をしないといけないみたいだ。

貴音「響、戻りましょう」

貴音の呼びかけに頷くと、そのまま舞台裏を後にした。

もっともっと自分を磨き上げなくちゃ。

今日の朝見た夢みたいな自分になるために!


貴音「今日は何かあったのですか?」

響「え?」

楽屋に戻ったあと、支度をする自分に問いかけるように貴音は口を開いた。

何か……何かってなんだ?

貴音「ライブは確かにあまり良いものではなかったと思います。ですが、それ以上に今日の響はどこかずっと先を見ているように思えました。……違いますか?」

響「やっぱり貴音ってすごいんだなあ。その通りさあ」

目を丸くして驚いた後、「何がありましたか?」ともう一度尋ねる貴音に、ちょっと照れくさかったけど今日の朝に見た夢の話をした。

自分でも全部覚えていたわけじゃないけど、でもすごかったということを話したんだけど……。

貴音「…………」

響「……た、貴音?」

自分がその話をした後、今度は貴音が目を丸くして固まっていた。

自分、何か変なこと言ったかな?

貴音「真、驚きました」

貴音は暫く黙っていたけど、ある時腕を組んで興味深そうな顔つきで一言だけそう呟いた。

響「どうしたの?」




貴音「実は……響の見たその夢を私も今朝見たのです」

響「え!? それ本当!?」

貴音「間違いありません」

まだ興奮がさめきらない自分に、貴音は「ですが」と付け加える。

貴音「私はその歌だけではなく、その続きも夢で見ました」

響「続き?」

神妙な面持ちで貴音は頷く。

貴音「その夢の中では私や響は別の事務所に所属していました」

響「別の事務所?」

っていうと、961プロじゃなくて他のプロダクションってことになるのかな?

貴音「そこでは実に多くの仲間がいました」

響「……仲間」

貴音「私たち二人だけではありませんでした」

貴音は遠くを眺めて憂うようにそう呟いていた。

響「そっかー、それは楽しそうだなあ」

貴音「ええ、とても楽しい場所だったと感じました」

それからは二人して黙っていた。

傍らで眠っていたハム蔵も心配そうな瞳を覗かせる。

……なんだろう、この気持ち。

モヤモヤとしたまま、自分と貴音は楽屋を後にした。


後日。

あの日から何だか上手くいかない日が続いていた。

何をやっても失敗続き、完璧完璧と言い聞かせてもミスばっかり。

ちょっと疲れちゃっただけと思っていたけど、日に日にミスが増えていくとそんなことも言えなくなってくる。

961プロのプロデューサーには何度も怒られちゃったし……。

何より、貴音に迷惑をかけてしまってることが耐え難い事実だった。

貴音「響……」

楽屋の裏で一人落ち込んでいたときのこと、貴音が自分のもとにやってきて心配そうな顔で自分の隣に腰を下ろした。

しばらく何も言わないまま静謐が訪れる。

貴音「響、とても辛そうな顔をしています」

そんな沈黙を破ったのは貴音だった。

響「…………そうかな」

何とか絞り出すようにして返事を返す。


貴音「自分では分からないのでしょうが、長く共にした私には分かります」

その言葉を聞いて胸を打たれる。貴音は失敗続きの自分を責めるわけでもなく、横に並びそして励ましてくれている。それだけで涙を流しそうになった。

響「……自分、何でこんなことになっちゃったのか分からないさ」

ようやく出せた本音はきっと自分に言い聞かせるための言葉だった。

貴音「私にはわかります」

響「え?」

貴音「あの夢のことが気になっているのですね?」

――その言葉に大きく目を見開く。

そうだった、貴音の言う通り自分は……自分は。

貴音「その様子を見る限り、私の考えは間違ってはいなさそうですね」

自分たち以外誰もいない廊下に貴音の凛とした声はよく響いていた。

自分は小さく頷く。


響「今の961プロのやり方は苦手さー……」

だからこそあの日見た夢の中のステージは広く壮大な未来を描いているように思えた。

貴音「実力主義、それがここでのやり方です。郷に入れば郷に従え、この世界ではそれは泣き言と同じです」

自分の弱音は貴音の強い言葉でピシャリと咎められる。

でも貴音の言っていることは何も間違っていない。

間違っているのは――。

響「分かってるさ……だから次からは上手くやるさ」

そう言って立ち上がろうとする――だけどその手を貴音に掴まれる。

響「……まだ何かあるの?」

貴音「響、この後時間をいただけませんか?」

貴音は真摯な眼差しで自分を見つめてくる。

それに圧倒されて、本当は気分が乗らなかったけど首を縦に振った。

……なんだろう、ご飯でも行くのかな?

――――
――


貴音に連れてこられた場所、そこはどこか寂れたビルの前だった。

響「貴音、ここはどこ?」

貴音「……私も初めて来ました」

貴音の言動に疑問を抱きつつも、そのまま貴音は脇の階段を上っていく。

それについていくように自分も暗がりの階段を上っていく。

どこか埃っぽい階段を上がった先には扉が佇んでいた。

響「貴音?」

貴音「…………」

貴音はその扉を開けようとするけれど扉には鍵がかかっていて開くことはなかった。

貴音は溜息をつくと、自分の方に振り返り申し訳なさそうな顔を見せる。

貴音「響、どうやらここには何もないようです……。時間を取らせてしまい申し訳ありませんでした」

貴音はそういうと深々と頭を下げる。

響「貴音、自分何も思ってないさー! だから頭あげて!」

貴音の言っている意味が分からず、慌てて頭を上げさせる。

貴音「……失礼しました」

しかし貴音はまだ眉根を寄せていた。

響「ここはどこなんだ?」

貴音「そうですね……説明が遅れました。ここは――」

「そこで何をしているのかね?」

突然自分たちに声がかけられる。

びくりと肩を跳ね上げると、声のした方に恐る恐る顔を向ける。


高木「私の事務所に何か用かね?」

茶色いスーツに身を包んだ年配の男の人がそこに立っていて、自分は思わず声を上げて弁明する。

響「わー! 違うさー! 自分たち、そんな悪いことをするつもりじゃなくって……! た、た、貴音も何か言ってよ!」

そう言って貴音の方を眺めると、貴音は声にならないと言ったように口を開いてその男の人のことを見ていた。

響「た、貴音?」

高木「ん? 君たち、どこかで見たことがあるような……」

貴音「……なるほど、そういうことだったんですね」

貴音はかみ合わない言葉を呟くと、いつものように凛とした顔つきでその男の人に喋りかける。

貴音「自己紹介が遅れました。私たちは961プロのアイドル、四条貴音と我那覇響と申します」

高木「なっ、黒井の事務所のアイドルだと?」

男の人が狼狽している中で立て続けに貴音は口を開く。


貴音「少しお話を聞かせていただいてもよろしいでしょうか? 高木殿」

高木、と呼ばれた男性は貴音の方を見据えて、何かを思案するようなそぶりを見せる。

貴音はなんで名前知ってるんだろう? 知り合いなのかな?

高木「立ち話も悪いから中に入りたまえ」

そう言うと、高木さんは自分の事務所の中に入れてくれた。

内装はまだ新しいようで、綺麗なソファが置かれている。

そこに座る様に言われると、貴音と二人で腰を下ろす。

お茶を出されると、高木さんは自分たちの前のソファに腰かける。

高木「……それで、私に聞きたいこととは何かね?」

貴音「ええ、単刀直入に言わせていただきます。高木殿はここにアイドルのためのプロダクションを立ち上げるつもりなのではないでしょうか?」

高木「なぜ、それを知っているのかね?」

高木さんは本当に不思議そうな顔を浮かべる。

自分も同じように貴音の顔を眺めると、貴音は不敵な笑みで一人納得しているようだった。

貴音「それは申し上げることは出来ません」

うがー! なんだか貴音のことがわからなくなってきたぞ……。



高木「まあ言いたくないのなら仕方ない……だが」

貴音「どうかされましたか?」

自分は貴音と高木さんの会話を聞くために首を左右に振る。

首が痛いぞ……。

高木「確かに四条君の言う通り、私はここにアイドルのプロダクションを設立しようと考えてはいるんだ――厳密に言えばこの事務所はずっと昔からあってね、先代の社長……私の父が設立したアイドル事務所だったんだ。だが経営が上手くいかなくなってね、一時期プロダクション自体の活動を止め、長らく日の目を見ることはなかったんだ。それでようやく再出発できる見通しが立ってね、今はその準備をしているところなんだ。だが、如何せん所属アイドルが全く決まっていなくてね。このままでは形だけのプロダクションになってしまう。やはり設立するには、一人でもいいからアイドルを誘っておきたいんだがね……」

両手を組み、真剣なまなざしで遠くを見つめる高木さんは心の内を明かした。

うーん、でも確かにアイドルが決まっていなくちゃ事務所を立ち上げても何もできないしなあ。

と、そのとき貴音は『それを待っていた』と言いたかったように口角を上げる。

自分はそれを見逃さなかった。こういうときの貴音はビックリするようなことを言い出すさ――。


貴音「それなら心配ありません」

高木「ん? どういうことかね?」

貴音「私たち二人がこの再建される事務所のアイドルとなりますので」

響「そうそう、だから心配しないでいいさー…………って、えっ!?」

まるでそれが当然のこととでも言いたいように貴音は驚く自分をきょとんとした目つきで見つめてくる。

高木「それはありがたいんだが……」

貴音の発言に高木さんも困惑が隠せないようだ。

響「貴音、961プロはどうするの?」

貴音「もちろん、961プロからは去らなくてはなりません」

響「えっ!? だって、まだこれからなのに……」

貴音の諭すような発言に流されそうになってたけど、これって結構問題発言なんじゃ……。


貴音「響、決断する時が来たのです。961プロに残るのか、新たな道を進むのか……私はもう既に心は決めています」

そう言う貴音の言葉には一点の曇りもなかった。

でも、だって……失敗ばっかりだったけどちょっとずつ成長してたのに……。それを手放して違う事務所に行くなんて……。

高木「我那覇君、四条君。ちょっといいかね」

まだ気持ちが揺れ動いていた時、高木さんの低い声が耳に響く。

貴音「なんでしょうか」

高木「黒井の事務所はどういうやり方でアイドルを育てていたのかね?」

突然の質問の意図は分からなかった。だけど、自分はいつの間にか口を開いていた。

響「黒井社長は……アイドルは自分自身を高めてこそって気持ちが強くて、仲間だとか絆なんてことは二の次さー……」

それはこれまでのやり方の中で分かったことだった。

黒井社長のやり方は手を取り合って一緒に進むことじゃない。

だけど、芸能界はそういう場所で誰かを蹴飛ばしてでも進んでいかなくちゃいけないんだってことを教わった。

……たぶん、それは間違っていないと思うんだ。

でも――。


高木「私はアイドルの本質は誰かを笑顔にすることの出来るということだと信じている」

響「え……?」

高木さんの一言に自分は俯いていた顔を上げる。

高木さんは立ち上がり、窓際まで歩いていく。

高木「横に並び立ち、共に高め合う――時には励まし合い、傷つけながらもそれを思い出に変えて、手を取り助け合って成長していくものだと思っている」

貴音「それは、真素晴らしいことですね」

貴音は高木さんの言葉を聞いて嬉しそうに微笑む。

響「自分も、そう思うんだ……。だって一人は誰だって寂しいさー……」

あの時見た夢の世界。

手を取り合って円を作って大勢の人の前で歌う。

響く歓声も、キラキラって輝くライトを目で追うことも……すごく素敵なことさー。

高木「これから私が作っていくアイドルプロダクションはそういうものにしたいんだ。一人で戦うのではなく、みんなで立ち向かう。それこそ私が望むアイドルの形なんだ」

その言葉に自分は雷に打たれるような衝撃が走る。

……だって、それはずっと待っていた言葉だったから。


貴音「響……」

響「貴音、自分はもう大丈夫! 決めたよ! ここでまた一からスタートするさー!」

もう何の迷いもなかった。

こうなったらもう進むだけさー!

高木「そう言ってくれて嬉しいよ……。だがこうなると、また黒井の奴に怒られてしまうな」

やれやれ、と言ったように高木さんは溜息をつく。

だけどその表情は初めて見た時よりもずっと柔らかかった。

貴音「もう一つ、提案があるのですが」

高木「なにかね?」

貴音「ここのプロダクションの名前なのですが」

いつになく貴音が提案をするな、と思っていたら高木さんは貴音に返答するように大きな声を出す。

高木「ああ、それは先代の意志を継ごうと思っていたんだ」

こっちへ歩み寄り、高木さんは一枚の書類を見せる。

高木「765プロダクション――どうだい? いい名前だろう?」

無邪気な表情で笑う高木さん。

貴音は何か言いたそうにしていたけど、それを飲み込むと目じりを下げる。


貴音「……ええ、とてもいい名前です」

765プロダクション……765プロ! 確かにいい名前さー!

高木「まだまだやることもたくさん残っている。だが、君たちがこの新たな765プロにとっての初めてのアイドルになる。これからよろしく頼むよ!」

深々と高木さんは頭を下げる。

貴音「こちらこそよろしくお願いいたします」

響「自分、精一杯頑張るさー!」

こうして自分と貴音は新生765プロにアイドル候補生として加わることになった。

――事務所に戻ってから黒井社長に怒られるのはまた別の話さー……。


[Side Haruka]

春香「はあ……」

私はまた深いため息をついた。

春香「アイドルかあ……」

河川敷で一人キラキラと光る水面を眺めながら、そんなことを呟く。

――実は私、天海春香はアイドルを目指そうと思っておりまして。

だけど踏ん切りがつかなくて、こうやって一人でウジウジとしていたわけでして。

春香「ああ……本当にどうしよ……」

結局今日も何も決まることもなく、私は河川敷を後にした。


――――
――


春香「あー……」

家でベッドに寝転がってごろごろと転がりながら、決まることのない自問を繰り返していた。

『私は本当にアイドルになれるのだろうか?』

テレビをつけるとそこには輝く笑顔を見せるアイドルがこっちを向いて笑っていた。

いいなあ……。あんな風に私も……。

春香「無理かな……」

そう、私が踏ん切りがつかない理由はそこにあった。

私は何の取り柄もない、ただの平凡な子なのだ。

歌が上手いわけでも、ダンスが踊れるわけでもない。

そんな自分があんな風に観客の皆を盛り上げることが出来るのだろうか?

春香「んー……」

無理無理……無理だよ、そんなの。

頭ではわかってるのに、でも諦めきれない自分がいた。

だって小さなころからの夢なんだから!

春香「……寝よう」

こうしてまた答えを出さずに一日を終えた。

大丈夫なのかなあ、私。


春香「結局眠れなかった……」

とほほ、と頭を垂れながら学校へ向かう。

道中ケイと話して向かう中で、また痛いところを突かれた。

恵子「そう言えば、春香アイドルになるって……あれ決まったの?」

春香「……まだ決めておりません」

恵子「まあそんなことだろうとは思ったけどさ、自分の人生決める大事なことなんだからきちんと決断しなくちゃ」

春香「おっしゃる通りです……」

学校に着くまでケイの尋問を受け続けた私は疲弊していた。

アイドルになるっていう私の夢は無謀なのかな……。

朝よりもっと項垂れながら、私は教室へと向かっていった。


そんな状態で授業がまともに聞けるはずもなく、何度も先生から注意を受けてしまった。

そんな私は、今日もいつもの河川敷で反省会を開いていた。

春香「はあ……」

溜息をつくと、また同じようにあの質問を自分に投げかける。

『私は本当にアイドルになれるのだろうか?』

それは答えのない問題。

だけど、本当は分かっていた。

それが届かない夢だってことを――。

「ひとりでは 出来ないこと」

春香「……なんだろう、何か聴こえてくる」

この河川敷で誰かが歌を歌っているようだった。

「空見上げ 手をつなごう」

とってもいい歌詞だなあ……。

誰が歌ってるんだろう?

私は声の聞こえる場所へ引き寄せられるように歩いていく。

「ねぇ、この未来は ねぇ、何が待ってる?」

そこにいたのは二人の少女だった。

白と黒の髪を乱しながら、元気よく踊っていた。

「どれだけの夢 溢れてるの? ねぇ、空の向こうに」

二人の声が重なって、とても綺麗な音が奏でられていく。

「ねぇ、夢があるなら それはみんなの 輝きのしるしよ」

心に響く、思いのこもった歌は私をたちまちのうちに魅了していた。


響「貴音、そこの振りはもっと……こんな感じだぞ?」

貴音「真、失礼いたしました。精進いたします――ふふ、どうやら観客の方がいらっしゃったようですね」

と、そのときその中の白い髪の女の人は私が見ていたことに気付き、もう一人の女の子に声をかける。

あっ、こっちにやってくる! どうしよう!

貴音「どうかなさいましたか?」

響「自分たちに何か用なのか?」

春香「あ、あの、その」

上手く言葉に出来ない……。だけど、この溢れてくる気持ちを伝えようと勇気を振り絞って言葉を紡ぐ。

春香「とっても、良い歌でした……。私、感動しちゃって」

私の言葉が何かおかしかったのか、二人は目を見合わせて笑っていた。

響「そう言って貰えて嬉しいさー」

黒髪の女の子は両手を頭の後ろに回して、照れくさそうに笑う。

貴音「……はて、貴方とどこかでお会いしたことはありませんでしたか?」

そのとき、もう一人の白髪の女の人にそんな質問をされる。

咄嗟に私は両手を振る。

春香「い、いえっ! そんなことはないと思います……けど」

言葉じりが下がっていく……。でもそれは私も感じていた。どこかで会った記憶は確かにあった。

でも、名前も出てこないし……気のせいだと思っていたんだけど……。

貴音「それは失礼いたしました。ですが、ここで会ったのも何かの縁でしょう。少しお話をしていきませんか?」

春香「えと、あ、はい……」

言われるがままに、私は二人に連れられてしまった。

うう……何を話そう……。


だけど、そんなことを考える間もなく私は叫び声をあげる。

春香「えええ!? 貴音さんも、響ちゃんもアイドルなの!?」

貴音「ええ、その通りです」

響「なんくるないさー」

私は驚愕のあまり、もう一度信じられないといった声を上げる。

なんでも二人はあの大手の961プロから移籍して、今の765プロという事務所に移ったようだった。

だけどまだ事務所は活動できるような状態ではなく、仕方なく体制が整うまで、曲の振り付けの練習をしていたらしい(流していた曲は社長が知り合いの音響の方に頼んで作ってもらったものだと言った)。

だけどそれもレッスン場なんかじゃなくて、こんな河川敷で……ということだった。

春香「なんであの961プロから移ったの?」

響「あー、えーと、それは……」

私の質問への答えを渋る様に目を泳がせる響ちゃん。

その代わりと言ったように、貴音さんが代役を打って出る。


貴音「961プロのやり方は私たちにはあっていませんでした。ですが、今の765プロのやり方で私たちはきっともっと大きな場所へ進める、とそう思ったのです」

春香「なるほど……そういう理由が……」

貴音「……時に春香、貴方はアイドルに興味はないのですか?」

春香「わ、私がですか?」

響「貴音、急にどうしたの?」

貴音さんは響ちゃんの質問に答えることはなく、じっと私の方を見つめ続けていた。

『私は本当にアイドルになれるのだろうか?』

何度も自問したことがふと頭をよぎる。

興味がないわけがない!

だけど、踏ん切りがつかない……ただそれだけだった。

私は答えることが出来ず、下を俯く。


貴音「ふふ……そうですか。響、少し耳を貸してください」

響「ん? なになに? ……ふんふん……ふんふん、ん? ええっ!? 本当にそれやるの?」

貴音「本気です」

二人が何かをしようとしているのは分かるけど、それが何なのか伝わって来ずに、私は手持無沙汰で宙を見上げる。

貴音「春香、今から少し時間はありますか?」

春香「ありますけど……」

貴音「それなら良かったです」

そう言うと、貴音さんは立ちあがる。

貴音「私たちと一緒に歌を歌いましょう」

その一言を理解するのに、私は少々時間を要した。

――――
――


春香「た、貴音さん……。やっぱりやめた方が……」

貴音「臆することはありませんよ、春香」

響「本当に大丈夫なのかー?」

私たちは無料の屋外ステージに立ち、誰もいない観客席を眺めていた。

貴音「踊りはサビのところだけやってもらえれば大丈夫ですので」

春香「そうは言っても……」

響「でも四の五の言ってたら始まらないさー。もう曲流すよ?」

春香「わっ! 響ちゃんちょっと待って!」

響「え? あ、ごめん。流しちゃった」

私の静止を聞くこともせず、ラジカセからは『The world is all one!!』が流れ出した。

貴音「さあ、手を」

貴音さんに言われて、私は手を握りしめる。

歌い出しも歌詞も間違えつつ、ダンスも二人に遅れつつ、そんな中で私は歌を歌った。

苦手な歌だけど、頑張って音を合わせようとする。

二人は慣れたように私をカバーするように歌を歌い、そして踊りを踊る。

私はセンターで二人の見よう見まねで踊りを踊る。

そんなことをしている内に、曲が終わる。


貴音「……春香、どうでしたか?」

響「大丈夫?」

春香「…………」

私の中で沸々と何かがこみ上げてくる。

それは今、言葉に出来ない感情だった。

春香「もう一回、やらせて!」

響「も、もう一回?」

響ちゃんはどうするのかを尋ねるように貴音さんの顔を窺う。

貴音「ええ、春香の気が済むまで何度もやりましょう」

そう言うと、もう一度『The world is all one !!』が流れ出す。

さっき間違えたところを直す様に、そしてさっきよりも上手く踊れるように頑張って食らいつく。

そうだ、これはきっと私の夢に対する覚悟を決める機会なんだ。

ただの願望で終わらせるんじゃない。

アイドルを目指すのは、天海春香にとっての道なんだ。


二人の歌とダンスに負けないように、何度も失敗を繰り返しつつも私は何度も歌を歌い、ダンスを踊る。

もしかしたらそれは人の目には滑稽に映ったかもしれない。

だけど、これが私という人間なんだ。

それに気づけたとき、私はあの自問の答えを見つけていた。

『私は本当にアイドルになれるのだろうか?』

それは――分からない。

アイドルと言う職業がどれだけ大変なことなのか、今の私には分からない。

――だけど私はアイドルになる。

アイドルになって、こうやって同じように必死に走って、もがきながらも、苦しみながらも、前へ進んでいく。

それが私だから。

それが、天海春香だから。


――――
――


この曲を何度歌ったか分からなかった。

何度も間違えて、何度もこけそうになって――。

でもそんな私でもこうやって頑張った先に見える景色があるんだということを初めて知った。

「良かったぞー!」

いつの間にか観客の人も増えていて、最後は観客席には人が集まっていた。

その人達に感謝のお礼を言うと、私たちはその場を後にした。

響「春香、凄かったぞ! 自分感動しちゃったさー」

貴音「真、春香の踏ん張りには驚かされました」

春香「えへへ……」

くたくたで息も切れ切れになりながら、私は照れたように頬を染める。

そして、あの時出てこなかった言葉は、その時には何の躊躇いもなく言うことが出来た。

春香「私ね、ずっとアイドルになりたかったんだ……。でも踏ん切りがつかなくて、きっとこのまま夢で終わっちゃうのかなあってなんとなく思ってたの」

響「春香……」

貴音「今はどんな気持ちですか?」

貴音さんに尋ねられて、私はぐっと胸の前で拳を作る。

今ならきっと自分の本当の気持ちを吐き出せる――私は覚悟を決めその言葉を告げる。


春香「私……アイドルになりたいです!」

それは私の口から飛び出たのかと不思議になるくらい、迷いのない言葉だった。

でもそんな私を見て、響ちゃんと貴音さんは穏やかに微笑む。

響「貴音……、自分たちで勝手に決めていいのかな?」

貴音「高木殿もまだアイドル達を探している途中でしょう。その手助けになるのなら、それもいいかもしれませんね」

春香「何の話……?」

響「春香、自分たちと一緒に765プロでアイドルやらないか?」

春香「えっ!?」

貴音「貴方のその力を私たちと一緒に輝かせてはみませんか?」

そう言う二人の顔は本気の目つきだった。

……そっか、私アイドルに誘われてるんだ。

やっと、これで。

私は肩を震わせると、手を伸ばす二人の手を取る。

春香「二人とも……よろしくね」

響ちゃんも貴音さんも私に笑顔を見せる。

――今日、この日から私はアイドルになった。


――――
――



高木「それじゃあ、君が我が765プロに入りたいという天海春香君かね?」

春香「あっ……、はい」

高木社長は二人が連れてきた私をじっと眺める。

高木「ふむふむ、まあ二人が連れてきたということは何か大きな理由があるのだろう。……それに、私の目から見ても君は大きく大成するように思える」

響「自分たちの目に間違いはないさー」

響ちゃんはそんな社長をからかうように笑顔を見せる。

高木「しかし、本当は君たちに報告することがあって呼んだのだが……。こうして私が面食らうことになるとはね」

貴音「報告、ですか?」

私と響ちゃんは目を見合わせる。

どうやら、三人とも身に覚えがないことらしい。


高木「実はね、私のツテでこの事務所の事務員になる人物を連れてきたんだ」

春香「事務員……」

高木「ああ、さあ入って来てくれたまえ」

社長の呼びかけで、奥の社長室の扉が開かれる。

小鳥「音無小鳥と言います。今日から配属することが決まりました。よろしくね」

穏やかな雰囲気を纏った女性は深々と私たちにお辞儀をして見せた。

それにつられて私も、そして他の二人もお辞儀を返す。

高木「私の古くからの知人の娘さんでね。事務員として優秀な働きをしてくれるはずだ、君たちとも長い付き合いになるだろう。仲良くしてくれたまえ」

そう言って社長は社長室に戻っていった。

残された私たち四人は、挨拶もそこそこいつの間にか打ち解けていて、小鳥さんも含めて話が膨らんでいった。

でも不思議なことがあったんです……。

だって、こうやって初めてのはずのこの765プロという場所。

私はどう思っても初めてには思えなかった。

なんでかな? 気のせいなのかな?

そんな疑問も四人で話すうちに頭から霧散していった。


[Side Miki]

マネージャー「それじゃあ、ここの仕事終わった後は新宿の方で別の仕事が待ってるから」

美希「分かったの」

ミキにそれだけ伝えると、マネージャーは去っていった。

961プロに入ってアイドル活動をするようになってから、ミキはちょっとずつ人気になってた。

だけど、仕事って思ってたよりもつまんなくて、しんどいことの方が多かった。

美希「つまんない」

ジュースに刺したストローを咥えながら、ミキはそんなことを呟く。

つまらないことは他にもあった。

同じ961プロに入っていた響と貴音がここを辞めて他の事務所に入ったって聞いたこと、それがずっと頭の中に引っかかっていた。

ちょっとだけ注目してたのに……。

移籍した事務所は……765プロ? そんな名前だった気がする。


美希「もうミキには関係ないの」

スタッフ「星井さん、そろそろ準備の方よろしくお願いします」

美希「はーい」

スタッフに呼ばれて、ミキは楽屋を後にした。

この後も仕事――やだなあ……。


――――
――



スタッフ「お疲れ様でした」

美希「ありがとうございました……なの」

クタクタになった足を引きずる様にして、マネージャーの元へ向かう。

マネージャー「それじゃあ次はこの現場に向かいます。車の中で寝ていていいから、それまで休んでて。

美希「はい、なの」

マネージャーに言われるまでもなく、ミキはどっぷりと眠ってしまった。


* * *

気が付くとミキはお祭りの屋台の中にいた。

美希「ここはどこ……?」

ガヤガヤと賑わう人たちの中でミキはどこか取り残されたかのような錯覚を味わっていた。

……みんな浴衣着てる。

ミキが私服でウロウロとしていると、一人の女の子がこっちを見ていた。

それは――ミキだった。

「……プロデューサー?」

そう呟くともう一人のミキはフラフラとミキのことを追いかけようとする。

ミキは怖くなって、その場から逃げ出したの。


――――
――


気が付くと、ミキは誰もいない場所に立っていた。

ここはどこだろう。

何も聞こえない。

何も見えない。

空にはたくさんの花火が打ちあがっていた。

キラキラって綺麗な花火。

打ちあがるたびに瞳の奥を照らしていく。

美希「ここはどこ……?」

答えてくれる人は誰もいない。

「美希」

その時、誰かの声を確かに聞いた。

きっとミキがいつか忘れてしまったあの暖かい声。

ミキを呼ぶその声に振り返ろうとしたとき――視界は光に包まれた。

* * *


マネージャー「美希、起きなさい」

美希「あ……」

揺すり起こされて、ミキは瞼を開く。

そこにはいつものマネージャーが立っていた。長い髪を束ね直しながら、マネージャーはミキの顔を窺う。

マネージャー「仕事、始まるわよ」

そう言って、マネージャーはミキにハンカチを渡してきた。

美希「どうして?」

マネージャー「涙、拭かないと仕事にならないでしょう?」

マネージャーに言われて気が付いた。

ミキはぽろぽろと涙を流していた。

マネージャー「怖い夢でも見たの?」

そう言われて思い返そうとするけど、全然思い出せなくてミキは首をかしげる。

でも――。

美希「たぶん、とっても幸せな夢だったの」

そう、それはきっとミキにとって大事な夢。

誰かは分からないけど、この胸の温かさを教えてくれた。


マネージャー「お疲れ様、今日はこれで終りね」

美希「あふう……」

あくびをしながらも、ミキはマネージャーに頷く。

そっかもう終わったんだ。

今日は何でかあっという間に終わっちゃったな。

マネージャー「家の近くまで送っていくからね」

美希「分かったの」

まだ夕方過ぎで、夕日が落ち切る前にマネージャーは車を走らせ始めた。

ミキはじっとその夕日を眺めていた。

とってもキラキラして綺麗だったから。

その時、ミキの目に止まったのは見た覚えのある姿だった。

美希「マネージャー! ちょっと止めて!」

マネージャー「え、どうしたの?」

美希「早く!」

マネージャーに車を止めてもらうと、ミキはすぐに車を降りて走り出す。

そこには――響と貴音がいた。

二人は屋外のステージに立ち観客の前で踊っていた。


マネージャー「ちょっと、美希! 急に飛び出たら危ないでしょ!」

遅れてついてきたマネージャーは初めこそミキを怒っていたけど、ミキの視線の先にいた二人に気付くとじっとその様子を眺めていた。

マネージャー「響と貴音……、あの二人こんなところで踊っていたのね」

美希「うん、二人ともすごくキラキラしてるの」

夕日に照らされた二人の横顔を見て、ミキは胸を締め付けられる思いを感じた

――そして。

マネージャー「もう一人の子、あの子も二人の移籍した765プロのアイドルなのかしら」

美希「分からない……けど」

もう一人のセンターを務めていた子は、ダンスなんて見るに堪えない出来で、歌だって二人に支えられてやっとそれっぽくなるくらいだった。

だけど、それを覆すくらいセンターの子は笑顔がステキだった。


美希「あの子、二人に負けないくらいとってもキラキラしてるの」

マネージャー「……ええ、そうね」

ミキは三人が踊り終えるまでずっとその様子を眺めていた。

だって、それはミキがずっと欲しかったものだったから。

キラキラして、輝いて……。

マネージャー「美希が他の子を褒めるなんて珍しいわね」

美希「そうかな?」

マネージャー「そうよ」

ミキとマネージャーは顔を見合わせて笑った。

あそこには今のミキの仕事にはないキラキラがある。

それがすごく羨ましくて、とても引き寄せられた。

――二人があそこに入った理由は今ならなんとなくわかる気がするな。

マネージャー「ふふ、そろそろ行きましょうか」

歌が終わって、観客の皆に手を振る三人を眺めてミキとマネージャーはその場を去った。

マネージャー「765プロ……ね」

車に乗り込んでから、マネージャーは何かを呟いていたけどもうミキの耳には届かなかった。

だってこんなにも胸が一杯になったんだから。


[Side Mami]


* * *


「だから、次はきっと――」


* * *


真美「……夢」

目を覚ますと、そこはいつものベッドの上だった。

またあの夢を見た。

囁くように、真美に対して語り掛けてくる声。

それが誰の声なのか、真美には分からなかった。

亜美「真美、どうかしたの?」

真美の様子がおかしいのに気付いたのか、亜美はベッドの上から顔を出して心配そうな声で様子を伺ってくる。

真美「あ、亜美……。ううん、何もないよ」

右手を振って、大丈夫と告げると亜美はそのまま学校へ向かう支度をはじめていた。

そう、大丈夫。

何の問題もない……はず。


亜美「真美、今日家にすぐ帰る?」

真美「昨日のゲームの続き?」

亜美「その通り!」

真美「りょーかいです、亜美隊員!」

亜美「ではでは今日も学校の時間ですぞー」

真美「うあうあー、待って髪セットしてくるから!」

亜美「んもー、真美早くしてよー」

亜美に文句を言われながら、真美は洗面台までやってくる。

少し伸ばした髪を揺らしながら、それをヘアゴムで結わえる。

サイドポニーがふりふりと揺れるのを見ながら、ぽつりと呟く。

真美「もう亜美とは同じ髪型じゃないんだなあ」

何となく変えてみた髪型。

伸ばした髪が揺れると、亜美とは違う自分がいるということがはっきりと分かる。

そう言えば……なんで髪型変えたんだっけ?

亜美「真美ー。まだー?」

真美「あっ、すぐ行く!」

亜美に呼ばれてバタバタと洗面所を後にする。

そう、鏡の向こうには確かに『双海真美』がいた。


――――
――



学校も終わり、帰宅途中――亜美は何やら課題をやってないところがあったみたいで、先に帰らされることになった。

んもー、亜美ってば何やってんだよー。

そんなわけで真美一人で帰宅することに。

真美「暇だし、ぶらついて帰ろっかなー」

家に帰ってもすることがないし……。ちょっと離れたとこまで歩いていこっかな。

そんなわけでブラブラと歩いていた矢先、どこからともなく心地よい音楽が聞こえてきた。

「空見上げ 手をつなごう この空は輝いてる」

ポップで弾むようなメロディーに思わず足を止めてしまう。

真美「……あっちからかな」

その音のする方へいつの間にか誘われていた。

――そこには三人の女の子たちが踊りながら歌っていた。


真美「うーん、なにしてるんだろ?」

「ねえ、この世界で ねえ、いくつの出会い どれだけの人が 笑っているの?」

真美「歌手?」

「ねえ、泣くも一生 ねえ、笑うも一生」

真美「あ、分かった。アイドルだ!」

真美が一人で納得している間にも、三人は息を合わせて踊りと歌を続ける。

「ならば笑って 生きようよ一緒に」

真美はその様子を遠巻きにじっと眺めていた。

正直センターで踊っている子はあんまし上手くないな、と思った。

でもそれはきっと両隣の二人が上手いからなんだろうなと思っていた。

真美「うーん、でも」

でも、不思議とセンターの女の子にばかり目がいってしまっていた。

たぶんダンスがところどころあっていないから、気になってしまうんだろう。

……あっまた間違えた。

気づけば細かいところをセンターの子はミスしていた。

決して完璧じゃないそのダンスも、歌も何故だか嫌いじゃなかった。


真美「なんでだろ……」

「前に進もう 前に進もう 人生は楽しめる」

結局、終わりの方まで真美は三人の様子を眺めていた。

最後のサビが繰り返される頃には、真美も三人と同じように振りを真似して踊っていた。

「ありがとうございました!」

三人がお辞儀をすると見ていたお客さんから拍手が響いていた。

決してたくさんというわけじゃないけど、見ている人には届いているものがあったのかな。

――でも、それは真美も同じだった。

真美「…………」

汗を流してお客さんに手を振る三人を見て、一瞬だけ真美はこんなことを考えてしまった。

――自分もあんな風に出来るかな、と。

真美「なんてね」

すぐにその考えを誤魔化すと、真美は踵を返して帰路についた。

胸のバクバクは家に着くまでずっと続いていた。


亜美「真美~、そこそうじゃないったらー」

真美「あっ、ほんとだ」

亜美「しっかりしてくれよーん」

真美「失敬失敬」

亜美「それじゃあ気を取り直しまして」

亜美が帰って来てから、自室で二人でゲームをして遊んでいたけど、いまいち身が入らなかった。

亜美「もー、真美また間違えたよ?」

真美「うあうあ、ごめーん!」

亜美「……真美、何かあったの?」

パタリ、とゲーム機の画面を閉じると亜美は深刻そうな表情でそう尋ねてきた。

あると言えば……あるんだけど、こんなこと亜美にも言えないYO。

真美「ちょっと眠たいのかも。顔洗ってくるぜい」

亜美「あっ、真美……」

亜美の静止を振り切って、真美は部屋を飛び出た。

洗面台に向かうまでずっとさっきまでの音がぐるぐると頭を巡っていた。


真美「うーむ、これは重症ですな」

そう言って顔に水を浴びせると、冷たさが肌を浸透してくる。

真美「ふう、シャキッと――」

そう言って顔をあげたとき、そこには『双海真美』がいた。

それは当たり前のことなんだけど、一昔前までは鏡の向こうにいた亜美はもういない。

代わりに真美を見つめるのは、真美だった。

真美「…………」

今、真美は何をしたい?

今、真美は何を思ってる?

……今、真美は何になりたい?

誰も応える人はいなかった。

だけど――あのときの音楽はまだ真美を締め付ける。

真美「…………」

真美は、いつの日か亜美と同じであることをやめた。

それは決して亜美が嫌いになったとかじゃなくて……。

そんなんじゃなくて……。

そう、きっと真美は亜美と違う道を歩みたかった。

双海真美は双海亜美じゃないんだぞ! って誰かに見せてやりたかった。


真美「…………そっか」

答えは簡単だった。

真美『どうするの?』

鏡の向こうで、真美が尋ねてくる。

それはきっと、真美自身が作り出した幻影だったんだけど。

真美「やるからには本気だよ?」

真美『……そっか、やっと次が始まるんだね』

それだけ言うと、真美は何も言わなくなった。

すごく嬉しそうな瞳をしていた。

真美「頑張るからね」



* * *


双海真美が765プロの扉を叩くのはもう少し後の話になる。


* * *


[765Pro1]

事務所の中で、自分たちは談笑をしていた。

河川敷でのダンスの練習もいいけど、たまには休むのも悪くないさー。

春香「今日は社長と小鳥さんはいないのかな?」

響「色々と準備があるから、てんてこ舞いらしいよ」

貴音「真、慌ただしいですね」

自分たちはお茶を啜りながら、そんな話をしていた。

春香とは前よりもずっと打ち解けていて、春香の方も自分や貴音と話すのを楽しんでいるようだった。

アイドルの友達ができるのは、すごく嬉しいさ。

響「もっと事務所の仲間が増えないかな?」

春香「どうだろね? まだ何も活動してないし……」

貴音「この765プロという名前すら知らない人がほとんどでしょう」

響「難しそうさー」

この事務所は決して広いわけじゃないけど、三人で過ごすにはちょっと寂しいんだけどなあ。

だから、もっと賑わってほしいな。


春香「……でも、もっといろんな子たちと楽しくお喋りできたらいいね」

春香もそんなことを呟いていた。

貴音「そうですね。それはとても楽しそうです」

貴音が微笑むと、事務所は暖かい空気で包まれる。

……そっか、これがずっと欲しかったんだ。

貴音「響、どうかしましたか?」

響「ううん、なんでもないさー」

――それは遠くない未来だと思うんだ。

あの夢みたいな光景も見れるかな?


[Side Iori]

伊織「……ねえ、私って何か取り柄があると思う?」

新堂「どうかなされましたか?」

エンジン音だけが鳴り響く車内でそんなことを尋ねた私に新堂は穏やかな声をかけてくる。

新堂は心配そうにミラー越しに私の顔を窺ってきたけれど、私はそんな新堂から目をそらした。

……別にどうかしたわけじゃないけど。

そう、別にどうかしたわけじゃなかった。

ただお母様からお兄様の話を聞かされて……ちょっと、ほんのちょっとだけ弱音を出したかっただけなの。

だから、何でもない。私はそう自分に言い聞かせる。

新堂「……伊織様は大変お優しい方です。言い方こそ千差万別でしょうが、その優しさこそ伊織様にとっての取り柄になり得るのではないでしょうか?」

新堂は黙りきっていた私に向かってそんなことを語り掛けた。

伊織「……ありがと」

照れくさいけど、一応お礼を言う。


新堂は目を細め小さく頭を下げると再び運転に集中を向ける。

新堂の言ってくれたことは嬉しい。

嬉しいけど……私が今欲しいのはそういうものじゃなかった。

上手く口には出せないけど……、何かずっと別のものだったのだ。

私は頭に微かな取っ掛かりを感じながら、車の窓から外の景色を眺めていた。

そして目に止まったのは、大きな宣伝用の看板。

そこには今どきの女の子が大きく彩られた格好で写されていた。

――そうね、どうせだったあんな風に堂々と生きてみたいものね。

そんな冗談を考えながら、私は溜息を一つ吐いた。


新堂「到着いたしました」

伊織「ありがとう」

もやもやとした考えを膨らませているといつの間にか自宅に着いていた。

私は車から降りると家の中へ戻ろうとする。

そのとき、新堂が私を呼び止めた。

新堂「……そう言えば、お父様が伊織様に何やらお話ししたいことがあるとおっしゃっておりました」

私は振り返ると、新堂はいつもと変わらない表情のままでそんなことを口走っていた。

伊織「何の話?」

新堂「残念ながら私は存じ上げておりません」

申し訳なさそうに新堂が頭を下げると、私は「そう」と一言残し今度こそ家へ向かった。

……お父様が私に話? なんのことかしら?

私はやはり頭にモヤモヤを残しながらぐるぐると思考を巡らせていた。

自室に戻ると私はぽすりとベッドに横たわる。

最近、考えることが多くなった気がする。

どうしようもないことばかり浮かんでは消えて、それをずっと繰り返してる。

ほんと、どうしようもないことばかり――。

伊織「…………」

私は目を瞑り、それらを全て洗い流してしまおうとする。

……こんなこと、思うはずじゃなかったのに。

私は両手にうさちゃんを抱えるとまた溜息をもらす。

重たい気持ちを携えて、そこで私は思考をやめる。

そうやって暫く経ったころ、いつの間にか眠りの中に私は落ちていた。


* * *

「ねえ、起きて」

どこからか声が響く。

それはいつの日か聞いたことのある声。

「伊織ちゃん、起きて」

私は軽く体を揺らされていることに気付くと、その瞼をゆっくりと開いた。

ぼんやりとした輪郭がやがてはっきりと目に見えるようになる。

伊織「……ウサギ?」

私は思わずそんなことを口走る。

目を覚ました光景の中に、大きなウサギが私を見下ろしていた。

ウサギ「おはよう、伊織ちゃん」

ウサギはゆったりとした声をあげる。

気づけばウサギが居て、そのウサギが喋ってる?

アリスの世界に迷い込んだのかしら……なんてね。

私は不思議とその景色に怯えることはなかった。

何故だかは分からないけど。

でもこのウサギの顔、私どこかで見たことがあるような……。

ああ、もしかして――。


伊織「もしかして、あなたうさちゃんなの?」

その面影を思い出すと、私はすぐにウサギにそう尋ねかける。

ウサギ「そうだよ、ボクは伊織ちゃんのうさちゃんだよ」

ウサギがそんな自己紹介を言うと、「そろそろ行こっか」と私の手を引こうとする。

私は抵抗するわけでもなく、ベッドから降りてウサギの後をついていくことになった。

気づけばパジャマになってるし、おかしなことがたくさん起こるわね……でも。

伊織「ねえ、ここって夢の中なの?」

ここが夢の世界であると私は確信していた。

夢であるって自覚してることは、これは明晰夢とでも言うのかしら?

ウサギ「…………」

けれど私の問いかけにウサギは答えようとしなかった。

不審に思ったけれど、私は結局黙ってウサギについていくことにした。

暫く歩くと、見慣れた光景が広がっていた。

ウサギ「ここに座ろうか」

伊織「ここって……」

そこは私の家のベランダであった。窓を開いた先に、チェアが何脚か置かれており、ウサギはそこに私を座る様に促してきた。

私は特に拒むこともせず、おずおずとそこへ座る。

よくよく考えてみれば異様な雰囲気が辺りには漂っていた。

空は仄暗く月が空に昇っている。

そして私の隣には言葉を話すウサギ……。

少し頭を押さえたくなった。


ウサギ「伊織ちゃんはずっと何に悩んでいるの?」

唐突にウサギは私に話しかけてきた。

伊織「急に何よ」

ウサギ「……ここ最近、ずっと悩んでいるみたいだったから気になって」

伊織「……悩み、ね」

私は椅子に深く腰掛けると一度頭に思い浮かべてみる。

悩みと言っていいのかもわからないけど、どうせここは夢なんだからと私は正直に打ち明けることにした。

伊織「きっと羨ましいの、お兄様たちのことが」

ウサギ「それは……どうして?」

伊織「それは……」

なんでだろう。

ウサギ「伊織ちゃんはどうしてそう思っているの?」

私は……。

伊織「私は……、私は変わりたいの。こんな自分自身を認めることの出来る自分に……変えたい」

それは本心だった。

私は認められたい。お兄様たちのような存在に私もなってみたい。

……違う、そうならなくちゃいけないの。

ウサギ「そっか。伊織ちゃんは『ここ』でもやっぱりそうなんだね」

伊織「……何の話?」

ウサギは椅子から立ち上がると、ゆっくりと手すりまで歩いていく。


ウサギ「今も、昔も、伊織ちゃんはそう言ってたんだよ」

ウサギは何のことか分からないようなことを呟く。

ウサギ「この世界では、伊織ちゃんはそれを成し遂げることは出来るのかな?」

伊織「…………」

ウサギ「あの時、ボクは伊織ちゃんの涙を見たんだ。何もすることが出来ないって」

ウサギは独り言のように何かを呟いていた。

それは私には何の記憶もない出来事ばかりで私は首をかしげる。

ウサギ「いつかの伊織ちゃんを救うことは出来るのかな……」

ウサギは私の方に振り替える。

ウサギ「もしかしたらそれが出来るのはここじゃない『別の世界』なのかもしれないね……」

伊織「……どういう意味?」

ウサギは何も答えずに朝日の上る丘の向こうを眺める。


ウサギ「……もう、終わりが近づいてきたよ」

私は光を遮る様に手を翳す。

ウサギ「ボクはいつだって伊織ちゃんの味方だよ。伊織ちゃんが道に迷ったとき、正しい道を教えてあげられる、そういう存在になりたいなって思うんだ」

――ウサギはそれだけ言い残してその姿を消した。

私はもう目も開けることも出来なかった。

「だってここは伊織ちゃんの心の中なんだからさ」

そして私は光の中に包まれていった。

 
* * *  



私は目を覚ます。そこはさっき倒れこんだベッドの上だった。

伊織「……夢、か」

なんだか不思議な夢を見たな、と思いながら体を起こす。

傍らにはうさちゃんが寝ころんでいた。

伊織「……まさかね」

私はくすりと笑うと、部屋を飛び出した。


父「伊織、お前に折り入って話があるんだ」

伊織「話……ですか?」

お父様の部屋に訪れると、私はそんなことを打ち明けられた。

お父様から私に申し出るなんて……何の話かしら?

父「古くから知人でね。名を高木という男がいるんだ。その高木が今度、自分の父親のアイドル事務所を受け継ぐと言っていてね」

お父様は少し言葉を濁らせながら、私の顔を窺う。

父「私に娘がいることを知っていたからなのか、そのアイドル事務所に入る気はないかを聞いて欲しいと言われてね」

伊織「私が……アイドルを?」

正直、そんなことを考えたこともなかった。

アイドルという職業は知っている。テレビなどで見かけることもある。

だけど、それを私がやるということはどういうことになるのか、私は計り知れていなかった。


父「伊織がその申し出を断ると言うのならば、私の方から断りを入れておこうと思うんだ」

お父様は暗に私に回答を任せる旨を伝えると、それっきり押し黙ってしまった。

……私がアイドル。

揺れる気持ちの中で、私は微かに気持ちを固めていた。

――断ろう。

芸能界と言うものがどんなところなのか、そういった知人の多いお父様から私は何度か聞かされたことがあった。

その世界に飛び込むことがどういうことなのか、単に憧れがあったからというだけで足を踏み入れることがどれだけ愚かな行為かを。

父「……やめておくか」

私の表情から読み取ったのか、父はそう問いかけた。

そのとき私の心の中から、声が響いた。

『あの時、ボクは伊織ちゃんの涙を見たんだ。何もすることが出来ないって』

どきりと胸が飛び跳ねそうになった。

私は……、私は何もできないんだろうか?

このままくよくよと悩んでは、自分の道を何度も自分に問いかけ直すんだろうか?


伊織「……違う」

それは絶対に違う。

そんなこと他の誰かが許したって、私が許さない!

私は一人でもすごいことが出来るってことを示さないとダメなんだから!

伊織「お父様、私その話引き受けます」

父「……本当か?」

お父様は大層驚いたように目を見開いた。

私はもう一度大きく頷く。

父「そうか、伊織はこの話受けないと思っていたんだがな」

確かに私だって今も自分からこんな答えが出てきたことに驚いている。

だけど、だからこそ自分を変えていかなくちゃいけないの。

私が変わるためには、私が変わる努力をしなくちゃいけないんだから。

お父様は嬉しそうに「また連絡するよ」と言うと、どこかに電話をかけていた。



――こうして私はアイドルとしての第一歩を踏み出すことになった。


[Side Azusa]

あずさ「ええと……ここはどこかしら?」

私は道に迷っていた。

今日は友達と出かけた帰りにふらっと寄り道をしてしまったことが原因だったみたいだ。

私はいつもと同じような調子で顔に手を当ててきょろきょろ辺りを眺める。

けれどその道に見覚えがあるわけでもなく、私は途方に暮れてしまう。

気づけば、大通りから外れて少しくらい路地にまで歩いてきてしまっていた。

……迷子癖を早く治したいんだけどなあ。

「道に迷われましたか?」

そんなとき、どこからか声が聴こえた。

私はその声の方に顔を向ける。

そこには黒い服に身を包んだ男の人が一人電信柱に寄りかかりこちらを眺めていた。

あずさ「どちら様でしょうか?」

男「名乗るほどのものではありません」

男は言動もそうだが、風貌もいかにも怪しげな雰囲気が漂っていた。

この時期に厚手のコートに身を包んでいるというのはどういう物好きなのかしら?

私は多くの疑問を抱きながら、じっと男の顔を見つめる。


男「……怪しがらないで下さいと申し出るのもよくないのでしょう。ですが、私は『この世界』では本当に無害な存在ですよ」

男が何を言っているのかも分からなかった。

ちょっと危ない人なのかしら……?

だとすれば近づかない方が身のためね。

私はそんな結論に至ると、男の話も聞かずに踵を返す。

男「その道は行き止まりですよ」

少し遠くなった男の声が私を呼び止める。仕方なく私はそちらに顔を向ける。

あずさ「……失礼ですが、道を教えていただけませんか?」

私は気が乗らなかったものの、背に腹も変えられず男に道を尋ねることにした。

男「そうですね、道と言うものは幾千にも広がっています。そこには行き止まりだって、それ以上に続く道もある。それを選択するのはあなたです」

男は言葉を続ける。


男「その先に伸びている道が本当に正しいのか、間違っているのか、それはその道を歩いてみなければ分からない。そして、その幾千にも伸びた道を歩くことの出来るのは一回限りなのです」

あずさ「……あの」

そういうことではなく、という言葉は男の声にさえぎられる。

男「失礼しました、あなただけが通ることの出来る道は私の指さす方に伸びています」

長く伸びる分岐路の真ん中を男は指さした。

あずさ「……ありがとうございます」

私はお礼だけ言うと今度こそその場を立ち去ろうと踵を返した。

男「終わりがあれば、必ず始まりもあるものです。私はいつでもそう信じています。そうですね、私が終わらせてしまった『前の世界』ではなかったものがここにはあります。……それをあなたが見つけることが出来るかはあなた次第ですがね。その道の先には険しいものが待っているでしょう。あなたの健闘を祈っています」

私が男の声に振り返ったとき、男の姿はもう既にそこにはなかった。


私は不審に思いながらも、男の指した道の先を目指して歩いていく。

暗がりだった路地は、徐々に光を帯び始めていた。

穏やかなぬくもりが私を包み込むと、車の走る音が響きだした。

……どうやら男の言っていたことは本当のようだった。

あずさ「ふう、良かった」

私はほっと胸を撫で下ろすと、その大通りの先にそびえたった建物の窓に掲げられた数字が私の目に飛び込んできた。

あずさ「7、6、……5?」

それが何を意味しているのか私にはわからなかった。

あずさ「気になっちゃったし、ちょっと覗いてみようかしら」

――私はウキウキとした気分のままその建物に足を伸ばした。

これが私と765プロの出会いになるとは、そのときの私は思いもしなかった。


[765Pro2]

自分たちが事務所でにぎわっているとき、社長が小鳥さんと共に入ってきた。

何かあったのかな? と自分たちは顔を見合わせる。

高木「おほん、諸君らに新しい仲間を紹介しようと思う」

その一言に、自分と春香は大きな声を上げる。

響「新しい仲間!?」

春香「そ、それはどんな子ですか!?」

高木「はっはっは。すぐに連れてくるからここで待ってなさい」

自分たちの反応を見て社長は大いに笑うと、社長室へと戻っていった。

春香「ちょっとわくわくするね」

響「自分、どんな顔しとけばいいのかな……」

小鳥「響ちゃんはいつも通りで大丈夫よ!」

貴音「真、素晴らしき報告ですね」

貴音はいつも通り微笑みを浮かべると、遠くの方を眺めていた。

――そして社長室の扉が開かれると二人の女の子が顔を出した。


高木「紹介しよう。水瀬伊織君と三浦あずさ君だ」

「自己紹介してくれるかね?」という社長の言葉に、伊織という女の子は少し不満げな顔で、あずささんという女性は穏やかに顔に手を当てて頷いていた。

伊織「水瀬伊織よ。呼び方は何でもいいから好きに呼んでよね。私はこの事務所で凄いアイドルになるのが目標だから、わきまえておきなさい!」

ふん、と息を漏らすと伊織はそっぽを向いていた。

なんだか難しそうな子だぞ……。

あずさ「三浦あずさと言います。みんなよりはちょっと歳が上になっちゃうけど、仲良くしてねえ」

対してあずささんは表情と同じく穏やかな声を上げていた。

両極端な二人の自己紹介に自分たちは戸惑いながらも、各々の自己紹介をした。

……ぎくしゃくとした雰囲気の中で再び社長が声を漏らす。


高木「我が765プロはこれで五人になった。これからもっとたくさんのアイドル達が増えていくことになるだろう。そして活動の準備が出来るまでの間は諸君らはいつでもそれが出来るように各自調整をしておいてくれたまえ」

響「……とは言っても、何をすればいいか分からないぞ」

小鳥「まだプロデューサーも決まってないからねえ」

小鳥さんの無言の視線に社長は額に汗を浮かべる。

高木「うぉっほん。ま、まあすぐに優秀な人材を見つけてくるから、それまでは――」

伊織「なによ、無責任なことばっかり言って」

あずさ「伊織ちゃん、そんなに怖い顔しちゃあダメよ~」

この事務所の方針に一抹の不安を感じながらも、自分は貴音と目を見合わせて笑った。

――だって、自分たちの新しい仲間が増えたんだから!

それだけで心が満たされた。


[Side Chihaya]

歌うことでしか、自分を正当化できなかった。

声を上げて、ただ胸の奥からこみ上げてくる震えるような感情を音に乗せる。

誰に届けるのでもなく、ただ自分のためだけに歌う歌。

千早「ありがとうございました」

私が深くお辞儀をするとまばらな拍手が聞こえてきた。

三人ほどのお客さんが散り散りに去っていく中で、一人の年老いた男が私に向けてこんなことを言った。

「お嬢ちゃん、歌上手いけどね。そんなに暗い顔して歌ってても何も楽しくないよ?」

老人はそれだけ言うと、手をひらひらと振って去っていった。

……以前にも同じことを言われたことがあった。

――君、なんでそんな苦しそうに歌うの?

――ちょっと聞いていて落ち込んじゃうよ。

――路上ライブ向いてないんじゃないの。

良かったよと声かけてくれる人はあまりいなかった。

誰もが最後には素知らぬ顔をして消えていく。


『私は何のために歌うのだろうか』

そんな言葉を自分自身に問いかけても返ってくる答えはなかった。

私は、俯きながら機材を片付ける。

……もう潮時かな。

過去に弟を亡くしてから、私は歌に逃げ込んだ。

それしか生きるために縋ることのできるものがなかったからだ。

けれど、それは私にとって泥沼のような人生になった。

どれだけ声を上げようとも、誰の心にも響かない。届かない。

ただ自分のためだけに歌っている私の音にどれだけの価値があると言うのだろうか。

それでも、きっといつかは分かってくれる人が現れる。

そう信じ続けていたのだけれど……。

私は自らを嘲笑うかのように心の中でそんな自分を蔑む。

なんで、どうして――そんな言葉はもう言い過ぎてしまった。

もう、歌すらも失ってしまうのかな……。

「――ありがとうございます!」

そんなとき、私の耳に飛び込んできたのは誰かの元気の良い声だった。


こんな気分のときには、あんな明るい声がいつもよりもよく響いてくる。

「天海春香をよろしくお願いしまーす!」

それにしてもよく通る声ね、と私はその声の主の顔を窺い見ようと目を向ける。

……どうやら私が歌っていた場所からあまり離れていないようだ。

いつもならばそんなことに気に掛ける余裕もなかった。

けれど、今日は……いや、その女の子の声が私をその場から去ることを許さなかったのだ。

不思議なこともあるのね、と私は思い足どりで女の子の方へ向かう。

――その女の子はリボンを結んで、笑顔でお客さんに手を振っていた。

その立ち振る舞いは、アイドルというものに近いのだろうか?

少なくとも路上シンガーには見えなかった。

よく見ればその顔立ちは私とあまり変わりない。

同じ歳くらいなのだろうか? その答えを知ることは出来ない。


「アンコールはやらないの?」

観客の一人がそんなことを口走った。

春香「あ、それじゃあお言葉に甘えてもう一曲!」

それに応えるように、天海春香という女の子はBGMを流し始めた。

それは一昔前に流行ったことのある曲だった。私も聞き覚えがある。

イントロが終わり、女の子が歌いだす。

――正直に言えば、お世辞にもうまいとは言えなかった。

いや、それは下手だと言ってしまったほうが本人のためだと思えるくらいに酷い有様だった。

周囲を見渡せば、私と同じように渋い顔をしている人もいた。

……この子は、なんで歌を歌うのだろうか。

私はもしも自分の歌に自信がなければ歌うことはしなかっただろう。

けれど、この女の子は歌うことをやめようとはしない。

それは何でなのだろうか。


春香「ありがとうございました!」

歌い終わったとき、女の子は屈託のない笑顔を見せていた。

それに呼応するかのように観客の誰かが「応援してるよ!」と声をかける。

そんな観客の一人一人に丁寧にお礼を言っていく女の子の姿に私は見とれていた。

『私は何のために歌うのだろうか』

ふいに胸が高鳴る。

さっきまでずっと問いかけていた答えが見つかりそうな気がした。


――――
――


千早「……あの」

その女の子のライブが終わった後、私はその子に話しかけていた。

いつもならば絶対こんなことはしない。

それなのに私は胸の高まりを抑えることが出来なかった。

どうしてもこの子に聞いておきたいことがあったのだ。

春香「えっ! あ、はい! どうかしましたか!?」

女の子は酷く狼狽しながら、あたふたと応対しようと努めていた。

そんな女の子に向けて、私は質問を投げかける。

千早「あなたは……歌うことが好きなの?」

喉から声を絞り出すようにして、私はそんな言葉を問いかける。

突然の質問に女の子は余計に戸惑ったそぶりを見せる。

春香「え、あ……えーと、なんでそんな質問を?」

千早「いえ、あの……特に深い意味はないですが……」

私はこの子にどんな答えを期待していたというのか。

急に恥ずかしくなり、私は「すいません、失礼しました」と頭を下げると足早にその場を去ろうとした――のだけれど。


春香「わわっ、ちょっと待って!」

女の子に腕を掴まれて引き止められてしまった。

千早「あの……腕……」

私は目線は合わせずに声を出す。

春香「ご、ごめんなさい!」

すると女の子はすぐにその手を放してくれた。

暫く、短い沈黙が訪れた。

春香「えーと、さっきの質問なんだけど……」

そんな沈黙を破ったのは女の子の方だった。

春香「私、歌うことも好きだけど、歌を歌ってそれで喜んでくれる人の顔を見るのがすごい好きで……」

千早「顔を?」

春香「上手くは言えないんだけど……、私そんなに歌が上手くないけど、それでも聞いてくれる人がいるなら精一杯歌うし、それで楽しんでくれたりしたら凄い嬉しいの」

その言葉を聞いた時、私の中で何かが決壊する音が響き渡った。

千早「…………」

春香「私にとって、それが全てなの」

本当に心からそう思っているのだ、と言わんばかりに女の子は微笑んでいた。

私は……私はそんなふうに思ったことが一度でもあっただろうか。


春香「あの……ごめんなさい、何だかよく分からないこと言っちゃって……」

千早「いえ……私の方こそ急に失礼しました」

『私は何のために歌うのだろうか』

答えはきっと、思っていたよりもずっと単純だったのだ。

――私は、誰かに歌を届けたいのだ。

そのとき、ふと優の顔が浮かんできた。

あのとき、私は弟のために歌を歌っていた。

だったら……そうだ、私には歌を歌う理由が確かにあったんだ。

理由があったのだとすれば……私は、まだ歌うことが出来る。

私は女の子の元を去ると、少しだけ気持ちが晴れやかになっていたことに気が付いた。

もっと広い場所で歌を歌うために、私は何をすればいいのか。

答えはもう決まっていた。



――そして、その女の子と再び会うことになるのは少しだけ先の未来の話だった。



[Hibiki-Takane]

響「ねえ、貴音」

貴音「どうかしましたか、響」

響「自分、トップアイドルになるためにはずっと一人で頑張るものだと思ってたんだ」

貴音「…………」

響「もちろん、貴音と出会ってそんな考え方もちょっと変わったんだけど……」

貴音「ええ、そうですね」

響「自分、一人でいるのは寂しいさー」

貴音「響は寂しがりですね」

響「うがー! 自分、そんなんじゃないぞー!」

貴音「ですが響、それは私にとっても同じことです」

響「貴音もそうなのか……?」

貴音「誰しも孤独とは辛いものです。人は、誰かと手を取り合わなければ脆く弱弱しい存在なのです」

響「手を取り合う……」

貴音「そうです。そして幸せとは誰かと共に分かち合うものなのです」

響「なんだかちょっと分かった気がするかも……」

貴音「一人では出来なくとも、誰かとならば成し遂げられることもあるでしょう」

響「……もっと765プロに色んなアイドルが増えたら、もっとたくさんのことが出来るのかな?」

貴音「ええ、その通りです」

響「楽しみさー」

貴音「響はたくさんの仲間が増えた時、何かしたいことはありますか?」

響「うーん、自分は――」

自分は、あのときの夢が叶えばいいなって思うぞ。


[Side Makoto]

――もっと女の子らしくなりたい。

ボクがそう思い立ったとき、まず何から始めるべきなのかということで行き詰まった。

女の子ってなんだろう?

分からない。

どうすれば女の子になるのだろう?

分からない。

分からないことばかりがボクに圧し掛かって来た。

ボクは何も分からないままずっと一人でそんな疑問を抱えてきた。

「だったら、一歩進んでみようよ」

「そしたら見える世界もきっと変わってくるよ!」

そんなボクに誰かがそんなことを言った。

誰だったかは覚えていなかった。

けれど、ボクはその子と観覧車に乗っていたんだ。

あれは……夢だったのかなあ。


「これでよろしいですか?」

真「あっ、はい! ありがとうございます!」

ボクは美容師さんの一言で、目の前の鏡の中の自分を眺める。

そこには髪を整えた自分が居て、なんだか女の子に近づいたような気がした。

「よく似合ってますよ」

そう言って微笑んでくれた美容師さんにお礼を言うと、ボクは街へと繰り出した。

『女の子らしさってなんだろう?』

髪を伸ばしてみれば女の子になれるのかもしれないと思い、ボクは自分の髪型を変えてみた。

だけど、これが正しいのかも分からない。

ボクはまだその答えを見つけていない。

真「服でも見に行こうかな……」

晴れやかとは言えない気分のまま家に戻るのも躊躇ったために、ボクは買い物をしにお店を回ることにした。

真「うーん、これとかどうかな」

そう言って手にした服は、フリフリのピンクのドレスのような装飾をしていた。

うーん、これは凄い女の子らしいと思うぞ。

さっそく試着室に向かおうと思っていた矢先のことだった。


「そんな服着てもだめだよ!」

誰かがそんなことを言うのを耳にして、ボクはそちらに顔を向けた。

そこには黒髪の女の子が立っていて、頬を膨らましてこちらに歩み寄って来ていた。

真「え、えーと……」

ボクは見知らぬ女の子に唐突に否定され狼狽してしまう。

少女「ほら、こっちにある服の方が似合ってるよ」

そんなボクにお構いなしに、女の子は辺りに掛かっていた服を持ち出して、ボクに押し付けてきた。

少女「ボーっとしてないで、ほら早く試着しないと!」

何が何だか分からないまま、ボクは試着室に押し込まれた。


真「ど、どうかな?」

少女「うーん、結構良くなったけどもうちょっとアクセントも欲しいね」

暫くして試着室の外を覗くと、女の子は難しい顔をしてボクを見つめていた。

真剣に選んでくれるのは嬉しいけど、この子は一体誰なんだろうか。

そんな疑問を抱く暇もない位に、次々に女の子から服を渡されそれを着る羽目になった。

……まさか、こんな日になるなんて。

ボクは途方に暮れながら右手に携えた服にいそいそと着替える。

はあ、なんでこんなことになってしまったんだ。

ボクは心の中で溜息を吐いた。



――――
――


少女「うん、完璧!」

真「や、やっとか……」

女の子が満面の笑みでそう言ったとき、ボクは完全に疲れ果てていた。

かれこれ一時間近く女の子の言われるがままに服を着替えさせられていたからか、精神的な面で疲れを感じていたのかもしれない。

一先ず、ボクは選んでもらった服の会計を済ませると女の子にお礼を言いに行った。

真「あ、ありがとう。えーと、見ず知らずの人に選んでもらうことになるとは思わなかったよ」

少女「…………」

ボクが頭をかきながらそう伝えると、女の子は一瞬寂しそうな顔をして、それから「ううん、いいの」と一言つぶやいた。

……もしかするとどこかで会ったことがあるのかもしれない。

真「名前、聞かせてもらってもいいかな?」

そう考えたボクは女の子に名前を尋ねることにした。

少女「うーん、内緒」

真「え!?」

まさかの回答にボクは素っ頓狂な声を上げてしまう。

少女「それよりもどこか回ろうよ!」

真「え、どこかって? ……って、わわっ」

ボクがそう聞き返すよりも早く、女の子はボクの手を引いて走り出した。

……ほんとうに何でこんなことになってしまったんだろうか。


――――
――



少女「夕日が綺麗だね」

真「そうだね……」

結局、今日一日をこの子と過ごす羽目になってしまった。

ボクらは夕日を眺めながら、手すりに体を預けていた。

でも、本当に綺麗だな……。

少女「真くんは女の子らしくなりたいんだよね?」

真「え? ……あ、うん。そうだけど」

ふいな質問にボクはたじろいでしまう。

と言うよりも、ボクの名前言ってたっけ……?

少女「だったらアイドルになりなよ」

真「あ、アイドル?」

その提案にボクは思わず大きな声を上げる。


少女「アイドルになって、それで大きな舞台で綺麗な衣装を着るの」

真「…………」

ボクはふとそんな自分を想像する。

歌を歌う自分、踊りを踊る自分。

そんな自分はいったいどう映るのだろうか。

少女「でも真くんは、真くんらしくすればいいんだよ」

真「ボクらしく……?」

女の子は一度だけ頷く。

少女「男みたいな自分に悩んで、女の子になりたいと願う……そんな真くんがステキなの」

真「そんな……」

そんなことないよと言うよりも前に、女の子は真っ直ぐな瞳でこちらを眺めていた。

少女「だからアイドルになってね」

その一言で、ボクの心が高鳴る音がした。


真「君は……一体」

女の子は少しだけボクから離れた。

少女「私、菊地真って言うんだ」

真「それって……」

ざあっと風がボクの髪を靡かせる。

思わずボクは目を瞑る。

そのとき、その子の声が聞こえた。

「真くんは自分が身も心も女の子になったらどうなっていたと思う?」

ボクが目を開いた時、女の子の姿はもうそこにはなかった。

辺りを見回しても、女の子はどこにもいなかった。

戸惑いながらも、ボクは最後に女の子が問いかけた質問を考える。

真「ボクは……」

どうなっていたのだろう。

その答えは今の自分には出すことは出来ない。

……その答えはどこで見つけることができるのだろう。

『だからアイドルになってね』

真「アイドルか……」

夕日は赤く燃えるように空を照らしていた。

ボクはその瞬間決断した。

――アイドルになってみよう、と。


[Side Yayoi]

長介「やよい姉ちゃん! 長袖のパーカーどこに閉まったか分かる?」

やよい「えーと、たしかそこの襖の中に入ってたはずだけど……」

私はふすまを開けると、奥に閉まっていた服を取り出す。

かすみ「お姉ちゃん、お鍋に入れるのってこれだけでいい?」

やよい「あっ、あとはこれとこれを入れないと」

かすみに呼びかけられて、台所へとせかせかと走る。

浩太郎「やよいお姉ちゃん、浩三が泣いてるよー」

やよい「大変! 浩太郎ありがとう!」

浩太郎に言われて、浩三のもとへ向かうと確かに大きな声を上げて泣いていた。

私は体を抱いて、よしよしと小さく揺する。

だけど、浩三は一向に泣き止む気配がない。

やよい「うーん、困ったなあ」

浩太郎「やよいお姉ちゃん、大丈夫?」

心配そうに浩太郎が私に声をかける。

やよい「やよいお姉ちゃんに任せて!」

私はそう言うと、歌を歌い始める。

それは子守唄ではなくて、最近私が気に入っている歌だった。


長介「あ、やよい姉ちゃんまた歌ってる」

かすみ「こら、浩三がまた泣いちゃうでしょ」

少し離れた場所から二人がそんなことを口走っていた。

私は浩三が笑ってくれるように、心を込めて歌を歌う。

浩司「あ、浩三笑ってる!」

しばらくすると、浩三は笑顔を見せてくれていた。

私もそれにつられて笑顔になってしまう。

浩太郎「やよいお姉ちゃん、嬉しいの?」

やよい「私はみんなが笑ってくれたら嬉しいの!」

長介「まーた、そんなこと言ってる」

かすみ「構ってもらえないからってそんなこと言って」

長介「バカ! そんなことねえよ!」

やよい「どうかした?」

私が二人の会話に加わろうと近づくと、長介は「なんでもないよ!」と声を上げてどこかへ行ってしまった。それを見てかすみはクスクスと笑っていた。

やよい「う?」

かすみ「お姉ちゃん、料理の続きしないと」

そう言われて私はかすみに手を引かれていく。

……何かあったのかな?


「いただきまーす」

ご飯の時間になって、皆でご飯を食べる。

今日は合挽き肉が安かったからそれを使った料理だ。

みんながおいしそうにご飯を食べているのを見て、思わず笑みが零れてしまう。

かすみ「どうかしたの?」

やよい「何でもないよ」

かすみには気づかれてしまっていたようだった。

慌てて、私はテレビへと話題を移す。

やよい「あっ、この歌」

長介「最近、よく流れてるやつだ」

浩太郎「やよいお姉ちゃん好きなの?」

浩太郎に聞かれて、私は大きくうなずく。

やよい「よく口ずさんじゃうの」

それは巷で有名なアイドルの歌だった。さっき浩三に歌ってあげたのもこの歌だった。

長介「ふーん」

かすみ「長介、ご飯こぼしてるよ」

かすみに指摘されて長介は箸からこぼしていたことに気付くと、顔を赤くしてかすみに食って掛かる。

長介「うるさいな、分かってるよ」

やよい「こら長介、そんな言い方ないでしょ!」

私は長介の言葉遣いを正すために、眉根を寄せて注意する。


長介「…………」

やよい「ほら、謝りなさい」

しかし長介は頑なに口を開こうとしなかった。

かすみ「もういいよ、お姉ちゃん」

やよい「駄目だよ、かすみ。ちゃんと謝ってもらわないと」

私は依然として長介の方を眺めていた。

長介「……ごめんなさい」

長介はそう言葉にすると、食べかけのまま「ごちそうさま」と言い、食卓から姿を消した。

かすみ「お姉ちゃん、いいの?」

やよい「…………」

私は少し心配になりながらも、長介に反省してもらおうと「大丈夫」と言ってご飯を食べるように促した。

……長介、本当に大丈夫かな。


――――
――



浩太郎「やよいお姉ちゃん」

やよい「どうしたの?」

洗い物をしていたとき、浩太郎は私に声をかけてきた。

洗う手を止めて、振り返ると浩太郎は少し不安そうな顔をして私の目を覗いていた。

浩太郎「長介お兄ちゃんが部屋にいないよ……」

やよい「えっ!?」

私は驚いた声を上げて、すぐに浩太郎と共に部屋へ向かった。

――しかしそこには長介の姿はなかった。

浩太郎「やよいお姉ちゃん……」

私は内心動揺を隠せなかった。

あの時、言い過ぎてしまったのかもしれない。

だから長介は家を飛び出して行ったのかもしれない。

こんな夜遅くに、どこへ行ったというのだろうか。

私の思考はぐるぐるとめぐっていた。

かすみ「どうかしたの?」

その時、後ろからかすみの声がした。

やよい「長介が……」

かすみ「ああ、長介ならたぶん……」

かすみは長介の居場所を知っているような口ぶりを見せた。

やよい「分かるの?」

かすみ「うん。ついてきて」

私はかすみに言われるがまま他のみんなを家に残し外へと繰り出した。


――――
――



やよい「ここって……」

私たちが訪れたのは、鬱蒼と生い茂った山がそびえていた。

かすみ「こっち」

かすみに手を引かれて、私は恐る恐る足を運ぶ。

ひんやりとした冷気が肌を突き刺すような感覚に陥る。

かすみ「すぐに着くよ」

かすみにそう告げられても、私はまだドキドキとしていた。

家の近くにこんな場所があるなんて知らなかった。

――けれど、この場所にはどこか見覚えがあった。

それが何なのかは分からないままだったけれど。

かすみ「ほら、やっぱりここにいた」

私はかすみの背後から覗くと、長介はそこに腰を下ろしていた。

長介は私とかすみがここにいることに気付くと、ひどく慌てた表情を見せていた。

やよい「長介……」

私がその名前を呟くと、長介はすっと立ち上がり、空を指さした。

私はそれにつられて空を見上げる。

長介「ここ、すごい星が綺麗なんだ」

私の瞳は、長介の言う通りそんな満天の星空をとらえていた。

キラキラと輝く星空に、尾を引く星が流れた。


長介「俺、すぐにカッとなっちゃうから。頭を冷やそうと思って」

たどたどしく長介はばつが悪そうに述べていく。

長介「本当はやよい姉ちゃんに迷惑かけたくないんだ」

やよい「…………」

長介「やよい姉ちゃんにもやりたいことやってもらいたいんだよ」

かすみ「やりたいこと……?」

私は長介が次に言うことが分かってしまう。

やよい「ちょ、長介それは……」

長介「やよい姉ちゃん、アイドルになりたいんだろ?」

今度は私がばつの悪そうに俯く。

かすみ「お姉ちゃん、そうなの……?」

私は目を泳がす。けれど、かすみも長介も私から目を外そうをしない。

私は観念して、一度だけ頷いた。

長介「俺、姉ちゃんが募集のチラシ眺めてるの見ちゃったんだ」

やよい「そっか……知ってたんだ……」

そこまで言われちゃったら、もう言うしかないだろう。


やよい「私、みんなを元気にさせたいなって……思ってて」

これは私の心の声だ。今、それが溢れ出そうとしている。

やよい「歌を歌うのが好きで、それで……それを聞いて誰かを笑顔にさせたいなって」

――そう思っていた。

やよい「だけど、今の生活もあるの。家族みんなと過ごす時間もある、やらなくちゃいけないこともある。だから、これは胸の中に押しとどめておこうって決めたの」

これが私の全て。

私の選んだ決断だった。

長介「そんなのダメだよ! 俺、姉ちゃんに夢をかなえてほしいんだ!」

そんな私に向かって、長介は叫んだ。

長介「俺たちが姉ちゃんの重しになってるんだったら、俺がもっと頑張るから! もっと家のことも、浩太郎たちのこともしっかり面倒見るから! ……だから!」

長介はボロボロと涙をこぼしながら、そう言ったのだ。


かすみ「私も……お姉ちゃんのやりたいことやって欲しい」

かすみはいつの間にか、私から離れ長介の隣に立っていた。

やよい「二人とも……」

私はそんな二人の後押しに揺れていた。

一度諦めたアイドルへの夢。

それを今、家族が応援してくれようとしている。

……私はこのままでいいのかな?

長介「……姉ちゃん、あの歌うたってよ」

まだ決めあぐねていた私は長介の声に顔を上げる。

かすみ「私もお姉ちゃんの歌聞きたいな」

私は……私は……。

やよい「うん……、ありがとう」

観客は二人だけだった。

だけど、それは私の大切な家族だった。

私は堪え切れない涙を抑えて歌を歌う。

いつまでもこの星空の下で歌ったこの記憶を私は忘れないだろう。


――そして私はアイドルになることを決めた。



[765Pro3]

高木「おっほん、えーそれでは新しく765プロに加わった諸君について紹介しよう」

社長から新しい候補生が紹介されるという話は少し前に聞かされていた。

けれど、やっぱりこの瞬間と言うのはドキドキしてしまう。

仲良くできるか不安さー。

高木「それじゃあ入って来てくれたまえ」

社長の呼びかけで、扉が開かれる。

今回は四人であるということは聞かされていたけど……。

高木「紹介しよう。双海真美君、菊地真君、高槻やよい君、そして如月千早君だ」

如月千早という名前が聞こえてきたとき、ふいに春香の驚く声が響いた。

それと同じように千早という女の子も目を大きく見開いていた。

高木「ん? どうかしたかね?」

千早「いえ、何でもありません……」

そんな会話があったものの、すぐに自己紹介をする流れに変わる。

真「えー、菊地真です。特技は……空手ですかね? かわいいアイドル目指して頑張ります!」

真美「双海真美でーす! 特技は物まねなんで手始めにまこちんの物まねしまーす。んんっ、……えー菊地真です。女の子を手籠めにするのが趣味です」

真「こらっ、真美何言ってんだよ!」

真美「へへっ、やーりぃ!」

高木「こらこら、まだ他の候補生もいるんだから……」

元気のいい二人の会話を見せられたあと、次は二つに髪を結んだ女の子だった。


やよい「えーと、高槻やよいです! 元気いっぱい頑張りまーす!」

やよいという女の子は満面の笑みでお辞儀をしていた。

なんだかすごい元気いっぱいだぞ。

千早「如月千早です。趣味は歌を歌うことです。よろしくお願いします」

最後に自己紹介をした千早と言う子は他の三人とは違って大人しい雰囲気を醸し出していた。

うーん、仲良くなれるか不安だぞ……。

高木「はっはっは。みんないろんな個性を持っているようだ。じきに新たな候補生も入ってくることになるだろう。今はここにいるみんなで仲良くしてくれたまえ」

小鳥「それで、プロデューサーの方はお決まりになったんですか?」

小鳥さんが突き刺すような声で社長に尋ねる。

高木「いやあ、まあじきに……ああ、そうだ。書類整理がまだ残っていたな。はっはっは」

そう言って社長は部屋に戻っていった。

うーん、前途多難な予感しかしないけど大丈夫なのかなあ。


貴音「もう少しですね、響」

響「ん?」

そんなとき、貴音がそんなことを呟いた。

もう少しってなんのことだろう?

貴音「いえ、私事です」

ふふっとほほ笑みながら、貴音は皆の輪に加わっていった。

自分ももっと仲良くならなくちゃ!

そう思ったが早く、自分もその輪に加わっていった。




[Side Ami]

真美がアイドル候補生になったという話を聞いたのは本当に最近のことだった。

真美「真美ね、アイドルを始めてみようと思って」

驚かなかったと言うと嘘になる。

亜美に相談もなく、そんな大きな決断をしていたということに一抹の不安も感じていた。

ずっと近くにいたと思っていた真美がどこか遠くに行ってしまったのではないかと、そう思った。

亜美「なんだよ真美め……、亜美に何にも言わないなんてさあ」

相談をしてくれたらちょっとくらいアドバイスとかしてあげたのに……。

亜美「亜美にアドバイスなんてできないよお」

家で一人で項垂れる時間も増えた。

真美はと言うと、事務所とかとやらに行ってアイドル活動をする準備をしていると聞いた。

それを聞いたのも一週間ほど前のことだ。

亜美「ちぇー、いいもんね。亜美だけこの最新作のソフトやっちゃうから!」

そう言いながらゲームの電源を入れる。

………………うーん。

…………あー。

………………おーおーあー。

…………うん。

亜美「全然面白くないじゃんか!」

そもそもこのゲームは、二人でやるから面白そうって真美と話し合って買ったのに。

当の真美がいないんじゃ、楽しいわけないよ!


亜美「…………暇だ」

ゲームの電源を落とし、亜美はまたもやベッドの上で項垂れる。

学校の友達を遊びに誘ってもいいけど、真美の代わりみたいにするのも違う気がするしなあ。

何かもっと面白い遊びは……。

亜美「あっ!」

そのとき亜美の頭の中に衝撃が走った。

――真美が何してるか見に行けばきっと面白いはず!

亜美「そうと決まれば即行動っしょ!」


――――
――



真美「それじゃあ亜美、お母さんに事務所行くって伝えておいて」

亜美「ほーい、了解しましたぞ真美隊長」

真美は手を振り、玄関から外へ出ていった。

……よし。

亜美はそそくさと帽子を被ると、真美に少し遅れて家を飛び出した。

きょろきょろと眺めると、軽い足取りで駅へと向かう真美の姿があった。

亜美「ほほう、電車で向かうわけですな」

亜美もそれに続いて駅へと足を運ぶ。

さてさて、真美はどこの駅で降りるのかな。

亜美は一つ横の車両に乗りながら、真美の姿を観察していた。

……ん? あれは真美も最新作のソフトをしているのでは?

そう思っていた時、真美が席を立った。

慌てて亜美もその駅で降りたのだった。


降車駅からしばらく歩くと、道路の脇に立っていたビルがあった。

なんだか小汚いような気がするけど……。

真美がそのビルの中に入っていくのを確認すると、亜美はうげーと口を開く。

……もしかすると真美は何やらいかがわしいアイドル事務所に入ってしまったのでは?

うーん、亜美の勘がそれは正しいと囁いてくる。

亜美「真美の目を覚ましてあげないと!」

亜美はそのビルの中に入っていった。

ビルは少し埃っぽかったけれど、階段を上った先に765プロダクションと書かれた扉が待っていた。

亜美「ここか……」

気分は名探偵。ホームズもおったますぞー。

偶然にも扉は少しだけ開かれていた。

どうやら真美が閉め忘れてしまったようだった。

真美、だめですなあ。こういうのはセキュリティが疑われてしまいますぞ。

そう思いながら、顔だけ覗かせて事務所の中を確認する。

中はどこか小奇麗な様相をしていた。

そして、どこからともなく中から楽しそうな声が聞こえてきた。


「あー、真美またボクのお菓子食べたでしょ!」

「違うよー、はるるんだよ!」

「えっ、私!?」

「春香、アンタなんで動揺してるのよ」

「……春香、食べたのは真美だから大丈夫よ」

「えっ、ホントに真美じゃないよ! 信じてよ!」

「真美、人のお菓子食べたらダメだよー」

「やよいっちまで!」

「……ごめんなさい、実は私が……」

「あ、あずささんだったんですか……」

少し間があってから、笑い声が事務所の中に響いていた。

……なんだか、楽しそうだな。

真美もいつもより楽しそうな声で笑ってるし……。


響「ん? 真美?」

そんなとき、階段の下から声が聞こえた。

ま、まずいですぞ!

亜美「あー、えーと」

貴音「響、どうかしましたか?」

あたふたとしていると、もう一人飛び出てきて――亜美の頭はパニックになっていた。

あわあわ、どうしよう。

響「いや、真美がなんだかいつもと違うから」

貴音「真美、どうかしたのですか?」

亜美「え、えーと。ちょっとお腹痛いから……と、トイレに行こうと」

適当な言い訳をつけて亜美は階段を駆け下りる。

そんな亜美を止めるわけでもなく、二人は不思議そうな顔をしていた。

うあうあー、やっちゃったよー!

亜美はちょっと離れた場所まで走ってくると息を切らしながら、近くにあったベンチに腰を掛ける。

これはホームズにも落第点つけられてしまいますなあ。

真美にもばれちゃうのかなあ。


真美「亜美、こんなところで何してるの?」

そんなときだった。

聞きなれた声が亜美の鼓膜を揺らしたのだ。

亜美「ま、真美……」

真美は少しだけ真面目な顔をして、亜美の顔を見つめていた。

亜美「いや、ちょっとこの辺りを散歩して……て」

真美「亜美」

適当な言い訳が真美には通用するわけもなく、亜美は観念してぐったりと項垂れる。

亜美「……ごめん、真美が何してるのかちょっと見に来たくて……」

真美は何も言わずに、亜美の隣に腰を掛けた。

真美「それだけ?」

亜美「……う、うん」

真美「ほんとに?」

亜美は真美の問いかけに言葉を詰まらせた。

……ほんとは。

亜美「……真美とまた遊びたかった」

亜美は小さくそう呟いた。

亜美「真美といる時間が減っちゃって、だから事務所を辞めるように説得すれば……また遊べるのかなって……思って……」

それは全部亜美のわがままだった。


こんなことを言うはずじゃなかった。

新たな一歩を踏み出した真美を祝福しなくちゃいけないはずなのに……。

亜美は、真美の袖を掴んでいた。


亜美「でも、真美はあの場所がいいんだよね」

亜美がそう尋ねると、真美は眉根を寄せて、それから一度だけ頷いた。

亜美「そっか……そうだよね」

双子はいつまでも一緒だと、そう思っていたのはきっと亜美の方だけだったんだ。

真美は自分の道を見つけて、それで歩き出そうとしてる。

いつまでも立ち止まってるのは……亜美だけだ。

亜美「分かった。それじゃあ、真美頑張って」

亜美はベンチから立ち上がって、そう呟くとその場所を去ろうと踵を返した――けれど。

亜美「……真美?」

真美は亜美の手を握って、下を俯いていた。

何かを悩んでいるような顔をしていた。

そして――何かを決断したかのように頷くと口を開く。

真美「ねえ、亜美……。二人でアイドルやってみない?」

亜美「え……?」

真美の提案に、亜美は目を丸くしていた。

亜美も、真美と一緒にアイドルをする……?


真美「真美も、亜美と一緒だったんだよ。新しいゲームも二人でする時間も減っちゃって、だから亜美も一緒の場所にいれば、またいつもみたいに遊べるんじゃないかなって……そう思って……」

真美はじっと亜美の目を見つめていた。

亜美は……なんと返せばいいのか分からなかった。

亜美「だけど、そんなの急に言われたって……」

アイドルなんて何をするかも分かんないよ!

だけど亜美は、自分の胸がトクンと波打つのを感じていた。

真美「だって、双子はいつでも一緒じゃん!」

『双子はいつまでも一緒だと、そう思っていたのはきっと亜美の方だけだったんだ』

……真美も、亜美と同じこと思ってくれたんだ。

亜美はちょっとだけ笑みを浮かべる。

だったら、もう迷う必要なんてないよね。

亜美「……まずは何からすればいいの?」

亜美がそう言ったとき、真美はいつもと同じように笑って亜美に抱き付いてきた。

……また二人で何かできるんだね。

そんな未来を眺めて、亜美は心の中で少しだけ笑った。

またよろしくね、真美。


[Side Yukiho]

私は自分に自信がなかった。

世界には不安なことがたくさんあって、その一つ一つが私に圧し掛かってくる。

その重圧に私は耐えきることは出来なかった。

臆病な自分自身が好きではなかった。

いつかどこかのタイミングで変わることが出来るのではないだろうか、そんな風に思っていたのだろう。

そんな甘いことを考えていたのだ、私は。

自分が変わる努力をしなければ、嫌な部分は変わるわけもない。

心の奥底に起因する部分が変わるはずもない。

ただ体だけが大きくなった私は、何度も同じことを問いかけるのだ。

『私はこのままでいいのだろうか?』と。


雪歩「雨、すごい降ってる……」

今日は土砂降りの雨が降ると天気予報でも言っていた。

まるでバケツをそのままひっくり返したかのような土砂降りだった。

私は窓に右手を添えると、そのガラスにひたひたと落ちてくる水滴を眺めていた。

どこか遠くに映っていた町並みは、曇天によって淀んだ雰囲気を漂わせていた。

こんな日は気持ちさえも沈んでしまう。

私は添えていた右手を心臓の傍まで持ってきて、静かに脈を打つ鼓動を感じさせる。

弱弱しくとも私はここで息をしている。

いつか強くなることを夢見て……。

雪歩「もうこんな時間……」

壁に掛かった時計を見ると、もう深夜を迎えようとしていた。

明日も学校がある、私は寝る支度を済ませると布団に潜り込んだ。

疲れていたのか、しばらくするとすぐに私は眠りの中へ落ちていった。



* * *

雪歩「ここは……」

気が付くと私は暗がりの中でベンチに座っていた。

地平線のように向こうも見えない真っ暗な世界。

私は辺りをキョロキョロと眺める。

ここには何もない。ただあるのは私という存在だけ。

……ふいに奇妙な焦燥感が私を襲った。

ここにいれば、私は私を見つめなければならない。

ずっと目を逸らしつづけていた自分自身を見つめなければならない。

それは恐ろしいことだった。

「こんなところにいたんだね」

そんなときだった。

私は誰かに声をかけられたのだ。

雪歩「……誰?」

私は身を寄せながら、小さな声でその人物に話しかける。

「横、座るね?」

その人は自分のことに何かを言うわけでもなく、私の隣に腰かけた。

――だけど、それは何も言わなくとも私はそれが誰なのか分かってしまった。


雪歩「わ、私?」

そこには私自身がいた。

しかし私の動揺をものともせずに、『私』はまた口を開く。

「今の自分を変えたいと思ってるんだよね?」

私は、まだ怯えながらも必死に頷く。

「だったらとてもいい場所があるの」

雪歩「いい場所?」

「そう、自分を変えることの出来る場所」

『私』は暗闇の先を眺めて、もう一度言葉を漏らした。

「私はそこで変わることが出来た」

そう言うと『私』はベンチから立ち上がった。

雪歩「わ、私も変わることが出来る?」

歩き出した足を止めて、『私』はこちらに振り返る。

雪歩「こんな自分を変えられる?」

私はいつの間にか立ち上がって、叫ぶようにそう言葉を吐き出していた。

「私が変われたんだから、今の雪歩もきっと変われるよ」

『私』はにっこりと笑うと、「それじゃあもう行かなくちゃ」と言った。


雪歩「どこへ行くの?」

「私は思い出の中でしか生きることが出来ないから」

雪歩「それは、どういう――」

そのとき、暗闇の向こうから大きな歓声が聞こえてきた。

その途端に、暗闇だけが広がっていた世界に光が差し込んできた。

私は思わず腕をかざし、その光を妨げようとする。

そこはどこかの舞台裏だった。

私と『私』はステージの脇で立ち尽くしていた。

『私』の背後から少しだけ見えるステージの向こうには、何色ものサイリウムが瞬きその会場全体を照らしていた。

「あの場所が私を変えてくれたよ」

『私』はいつの間にかステージ衣装に身を包んでいた。

マイクを携えて、『私』はにっこりとほほ笑む。

雪歩「あ、あの……」

「またね」

『私』はそう言うと、ステージの方へ走っていく。

『私』が大きく手を振りながら飛び出た会場はすさまじい歓声に包まれた。

私は、そんな光を見つめていた。

あの先に何があるんだろう。

今の自分には見つけることの出来ない何かがあるのかもしれない。

――だったら、私は。


* * *


雪歩「夢……」

私は布団の中で目を覚ました。

窓辺からは太陽の光が差し込み、あの土砂降りが嘘だったかのように今日は快晴であった。

私は身を起こし、窓を開く。

雪歩「あ、虹が……」

小鳥の囀る朝に虹がかかっていた。

私はそんな空を眺め、今日見た夢を思い返す。

あの夢は、私の心が訴えかけてきた夢だったのかもしれない。

『私はこのままでいいのだろうか?』

その問いの答えは、『私』が教えてくれた。

きっとあのステージの向こうにその答えがあるのだ。

雪歩「頑張らなくちゃ……」

私は拳を握りしめ、晴れやかな空を眺めた。

不思議ともう心に迷いはなかった。


[765Pro4]

高木「今日は新たなアイドル候補生の諸君を紹介したいと思う」

伊織「社長、まだ真美が来てないわよ。ったく、なにやってんのよ!」

響「伊織、そんなに大きな声出さなくても……」

春香「千早ちゃん、どんな子が来るんだろうね」

千早「一人は真美から聞いていたけれど。他の子は知らないわね」

そんな会話が響き渡る中で、社長に呼ばれて候補生の子たちが顔を出す。

高木「ううん、真美君には悪いが先に紹介をさせてもらおうか。えー、双海亜美君と萩原雪歩君だ」

社長に促されて、二人は自己紹介をするように言われる。

亜美「いぇーい! 双海亜美でーす! 真美とは双子の妹だよー! よろしく!」

そのとき、ガチャリと事務所の扉が開かれる。

亜美2「あのー、遅れちゃってすいません。電車乗り遅れちゃいまして」

春香「えっ!? 亜美が二人いる!?」

亜美2「なっ、貴様さては偽物だな!」

亜美「亜美が本当の亜美だ!」

なぜか二人の亜美による小競り合いが始まる。

ん? でもなんで亜美が二人いるんだ?

伊織「あんたたち、何やってんのよ。真美も悪ふざけはそれくらいにしときなさい」

亜美2「あ、ばれちゃった?」

後から入ってきた方の亜美がいそいそと髪型を変えると、そこには真美が立っていた。

亜美、真美「いぇーい! 大成功!」

双海姉妹は両手を重ねてハイタッチをして、笑いあっていた。

なるほど、真美が亜美の物まねをしていたのかー。全然気づかなかったぞ。


雪歩「え、えーと……」

そんなインパクトのある自己紹介に圧倒されてか、もう一人の候補生は言葉を詰まらせる。

真「緊張しないで、ゆっくりでいいよ」

そんな女の子に向けて、真が優しく声をかける。

そのとき女の子が赤く頬を染めていたようなきがしたけど……、気のせいか?

雪歩「あ、萩原雪歩です……。あの、あ、アイドル目指して頑張るのでよろしくお願いしますう……」

おどおどとした感じで雪歩という女の子が自己紹介を済ませた。

二人も新しい子が入ってくるなんて、嬉しいさー。

と、思っていた時奥で立っていた社長が咳払いをする。

高木「実はだね、もう一人だけ紹介したい候補生がいるんだ」


響「もう一人いるのか?」

高木「ああ、美希君入って来てくれたまえ」

その名前を聞き、そして実際にその姿を見た時、自分はどんな顔をしたか分からなかった。

そして、貴音もそれは同じで目を大きく見開き動揺していた。

美希「星井美希なの。961プロからこっちに来たからよろしくね」

美希は眠そうにそれだけ言うと、ソファに向かって腰かけていた。

高木「美希君は少し異例ではあるんだが、961プロの方を辞めて765プロに所属する形になった」

美希は相変わらず眠そうに目を瞑っていたけれど、自分はいまだ驚きを隠すことは出来なかった。

――こうして765プロは12人というアイドル候補生が所属することになった。

……なんだかさらに賑やかになる予感がするぞ。


[Side Ritsuko]

将来の自分などんな仕事に就いていて、何をしているのだろう。

それは今の自分には決してわからないことだ。

けれど先の自分を考えると言う行為は非常に馬鹿げている。

自分というものは今しかいないのだから。

今を考えることの出来ない人が、先を考えても何も思いつくことが出来ないのだから。

律子「なんてね……」

将来設計と言うのは難しいものだ。

私自身、自分の将来を形作ることを非常に難しく思っているのだから。

他の人がどうやって組み立てているのかと言うことを一度聞いてみたいくらいだ。

律子「どうしようかな……」

私はまた言葉を漏らす。

そう、何を隠そう私は今自分の将来について悩んでいた。

私はどんな職業に就きたいのか、どんなことがしたいのか。

その明確な答えは見つかっていないままだ。

しかし、おおよそのやってみたいことというのはあるつもりだ。

律子「やっぱり事務職かなあ」

事務員という仕事にある程度の目標を掲げてはいた。

けれど事務職に就くにも様々な困難が降りかかってくることだろう。

女性の多い職場ということもあり、そういった軋轢で体を壊す人もいると聞いた。

そういうことに耐えきれるのかどうか、自信をもって、はいとは言えないでいた。


律子「……うーん」

だとすれば、やはりそこに行きつくまでのプロセスを考える必要がある。

例えば……事務職を応募しているような会社に応募して……体験のようにアルバイトとして雇ってもらうというのはどうだろうか?

律子「あ、いいかもしれないわね」

そこで事務職としてのキャリアをつけて、それから自分がその職業にあっているかを判断すればいいのではないだろうか。

仮にそういった職に向いていないと判断できたとすれば、別の道に進むと言うことも可能だろう。

若いうちに様々なことを体験してみるということはそれだけ将来の自分への肥やしになるはずだ。

過去の自分の積み重ねが今の自分であるわけなんだから……その判断は間違ってはいないはずである。

律子「よし、そうと決まれば広告を片っ端から見て回りますか」

私は意気込んで、パソコンを開いた。


律子「立地だとか金銭面とかの条件的には、ここが一番よさそうね」

私は眼鏡の奥から瞳を光らせて、一つの広告を眺めていた。

765プロダクション……、ここはアイドル候補生を抱える事務所という旨が書かれていた。

アイドルというものは、私の人生において全くかかわりのないものだった。

人前に立って歌や踊りをするという概念が、私の中にはなかったのだ。

あくまでも堅実に生きていくことを決めていたからか、そういう世界に少しでも片足を突っ込むということに多少なりとも躊躇いはあった。

けれど……、どこかこの事務所に惹かれるものがあった。

中身も知らないアイドル事務所に何で自分が惹かれるのか訳も分からなかったけれど、とにかくここに応募したいという気持ちが湧き上がっていた。

律子「よし、ここにしよう」

私はそう決めると、早速履歴書を取り出した。


――――
――



書類選考が通り、今日は面接の日だった。

服装に関しては文句の付けどころがないだろう。

私は気持ちを落ち着かせて、事務所の扉を開いた。

そのときの私は知らなかった。

この場所で、社会経験という言葉では収まりのつかないような様々な経験をすることになるなんて。



――なんてね、そんなことあるわけないわよね。



[Brand new day]

高木「えー、それでは今日はアイドルではなく、新しく765プロに事務職のアルバイトとして加わった秋月律子君を紹介したいと思う」

社長に呼ばれると、律子さんという人が事務所に顔を出す。

出来るビジネスウーマンという感じであったが、何でも自分たちとは年齢があまり変わらないようだった。

律子「秋月律子です。このたび、音無さんと同じく事務員として配属されることになりました。アルバイトではありますが、よろしくお願いします」

ぺこりと一礼すると、いつもは騒がしい事務所のみんなが一斉に拍手をしていた。

……なんでか、みんないい子ぶってるぞ。

高木「律子君が加わったことで、新たな幅を利かせることが出来るようになったわけだが……」

亜美「プロデューサーとかいう人はまだ決まんないの?」

亜美のツッコミに社長は一気にたじろぐ。

伊織「なによ、まだ決まってないわけ?」

真「ボク、早くアイドルの活動したいなあ」

雪歩「私も真ちゃんと同じですう」

口々に社長に言い出して、冷や汗をかきながら社長は目線を泳がす。


小鳥「高木社長、そろそろみんなに言ってもいいんじゃないですか?」

そんなとき、小鳥さんがそんな意味深なことを口走った。

真美「なになに! 何か発表あるの?」

真美が囃し立てるように社長の方を眺める。

みんなもそれに倣って、社長に熱いまなざしを向ける。

高木「あ、あー……。実はだね、一応みんなのデビューが決まったんだ」

「おー!」

社長の言葉に皆が声を上げる。

ついに765プロとしての活動が始まろうとしていた。

伊織「それってデビューだけしても活動ってできるの?」

伊織が鋭い指摘を社長に向ける。

高木「う、うーむ。伊織君は手厳しいな」

春香「どうなんですか?」

高木「え、えーとだね。ごっほん。アイドルとしてのデビューは決まったんだが、それをプロデュースする人物が必要でね……」

真美「結局、今と変わんないじゃん!」

亜美「なんだよちきしょー!」

亜美と真美が悲痛な叫びをあげる。

う、うーん。ほんとうにアイドルとして活動できるのかなあ?


高木「一応、私がコネクションを持っているような仕事はいくつかあるから、それに出演している間にプロデューサーの方は私が必ずなんとかしてみせよう」

社長は近くにした律子さんに目くばせする。

高木「り、律子君。どうかね、プロデューサー業は」

律子「えっ、私ですか!? そうですね、まだ入ったばかりで業界のことを知らないので、行く行くは考えてみても大丈夫ですけど……」

律子さんは今は出来ないという旨を伝えると、社長は肩を落とす。

……落としたいのは自分たちの方なんだけどなあ。

高木「とにかく、必ずみんなの元へプロデューサーを届けてみせる! だから、もう少しの間辛抱しておいてくれ!」

伊織「まあ、私は少しくらいなら待てるけど……」

皆も伊織と同じ意見だったようだ。

春香「ひとまず、デビューが決まったんだから喜ばないと!」

千早「そうね、春香の言う通りだわ」

春香の言葉に促されて、みんなも各々頷きだす。


自分も貴音に目配せをする。

貴音「真、賑やかになりました」

貴音は嬉しそうに笑っていた。

響「その通りだぞ」

自分も貴音につられて笑う。

まだ自分と貴音しかいなかった765プロは今はこんなに大人数になった。

ここが自分たちのスタート地点なんだ。

そう思うと、胸が高鳴った。

響「新たな第一歩が始まったんだね」

ここではどんな景色を見ることが出来るだろうか。

それはきっと楽しいことも、悲しいことも、たくさんあるだろう。

だけど――それでも。

響「ここには笑顔がたくさんあるもんね」




――そう、事務所にはみんなの笑顔があった。




――――
――



それから半年たったころ、765プロは半年前とは打って変わり、みんなアイドルとして活動を始めていた。

特に秋月律子がプロデューサーを務める竜宮小町は爆発的な人気を獲得しようとしていた。

そして、今日一人の人物が訪れようとしていた。

社長室の扉がノックされると、高木社長はその人を迎え入れる。




高木「よく来てくれた! 私が、このプロダクションの社長、高木順二朗だ」


――また新たな風が765プロに吹き込もうとしていた。


[Another world]

自宅で男は、一つのゲームを取り出していた。

それは以前、友人と新たに『THE iDOLM@STER』を買いに行ったときに見つけた『THE iDOLM@STER 2』であった。

今日は久しぶりの休暇であったためか、男は何気なしにゲームのソフトを手に取ると起動を始めた。

男「アイマスやるの久しぶりだな……」

男はそんなことを呟いた。

無印に関しては色々な思い出を持って熱中していた男ではあったが、仕事を始めてからはそんな時間すらも取れないままでいたのだ。

そんなことを考えているうちに、ロード画面に差し掛かる。

ゲームが始まり少し経った頃、いつものように高木社長がこんなことを言ってくるのだ。

高木「よく来てくれた! 私が、このプロダクションの社長、高木順二朗だ」

男は少しだけ苦笑して、それから少しだけ懐かしい気持ちになった。

アイマスに触れあった頃の自分を思い出す。

何気ないきっかけで始めたゲームだったけれど、それはゲームの枠を超えて、自分という存在を支えてくれていた存在だった。

――またあの頃のように夢中になれるだろうか?

男は自分自身に問いかける。

高木「君の仕事は、わが社に所属するアイドル達を、プロデュースすること」

その答えはもう見つかっていた。

こんなにも胸が高鳴っている自分がそこにはいたのだ。



高木「目的は、彼女たちを、芸能界のトップアイドルへと導くことだ。道は険しいとは思うが、がんばってくれ」


P「はいっ! よろしくお願いします」



これで終わります。
前作と今作を照らし合わせて見て貰えればと思います。
今後もアイマスが大きな発展をしていって欲しいですね。


このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2018年01月18日 (木) 23:48:20   ID: YaOF8SGE

面白かったよ。今作は希望的でいいねぇ

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