ほむら「告別」 (190)
改編後の小話です
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時間が止まればいいと。
そう思った昔は、はるかに遠い。
誰だって一度は、そんなことを願うはずだ。
終わってほしくない幸せがあって。
それを誰にも奪われたくない、だから時間を止めて下さいと。
とても素直な、願いのかたち。
そんな願いの結末は、ろくでもないものだ。
自分の時間は凍って動かなくても、世界の時間はどんどん流れていく。
いつの間にか自分一人が置いていかれて、周りにあるのは黒く黒く伸びた影だけ。
欲しかったはずのものは、もうどこにも残っていない。
だから、そんなことを願うな、なんて。
そう言えるかはまた、別の話なのだけど。
「……ふう」ぼんやりと空を見上げる私は、今日もまた同じようにため息をついた。
嘆息の想いは何に向けてのものだろう。
あまり頭を使いたくなかったので、さっさとその疑問を頭から追いやった。
首が痛い。
どれくらいここに立ち尽くしていただろう。
およそ真っ暗だったはずのあたりはもう、朝靄がさしてほの明るい。
数十分で済まないことは確かだろうか。
もう一度、空を見上げた。
天蓋を細く照らしていた月は薄れて、主役の座を太陽に明け渡す準備をしている。
肝心のそれはまだ地平線の向こう側に隠れているが、すぐにでもその輪郭を現すだろう。
考えている暇もなく、その時はやってくる。
うっすらと覗いた光の淵が、あたり一面に光線を振りまいて。
夜と朝を切り分けて、世界中に熱を与える。
私はそっと、目元に手をやる。
眩しすぎて直視できないから。
その輝きはまだ、私には刺激が強すぎるから。
だから瞼を細めながら、慎重に視界を覆いながら、それでも目をしっかりと凝らす。
きっとこの光の彼方に、あの子がいるのだと信じて。
すがるように。
細い吐息といっしょに、声を絞り出す。
「おはよう、まどか。今日も頑張るよ」
しんと静まり返った世界に、音と光がこぼれて跳ね返る。
返事を待たずに私は、踵を返した。
◆
私?
平気だよ。
あなたのかわりに、やることがあるから。
大ウソだ。
初めてそれを口にした時、胸に走った痛みをまだ憶えている。
それでも表情だけは決して変えなかった。
浮かべた笑いをどうしても崩したくなかった。
どこかで見ているあなたに向けて、無様な私を見せたくなかった。
それからは、もう意地だ。
無表情の鉄仮面の上に、笑顔のピエロマスクを張り付けて。
ずいぶんと愛想笑いは上手くなったと思う。
それ以外の顔は、できなくなってしまったけれど。
「ほむら、なんか印象変わったよな」いつだったか、佐倉杏子がそう言った。
あなたほどじゃないわと言おうとしてどうにか堪えた記憶がある。
……まあ、今は逆にあっちが塞ぎこんでいるけれど。
そんな物思いにふけりながら、目的地に辿り着く。
住宅街の一角に位置する人気のない公園。
遊具も何もなくて、ただ古ぼけたベンチが置いてあるだけ。
ベンチは雨風にさらされて、ところどころ塗装がはげている。
軽く手で撫でて、濡れていたり汚れていたりしてないことを確認して、静かに座った。
ギィと音を立てて軋み、すぐに収まった。
待ち人はすぐに来た。
「ごめんなさい、待たせちゃって」声を投げかけてきたのは、巴マミ。
「別に。今来た所だから」
数分も経ってはいない。
立ち上がりつつ、そう返した。
ベンチはもう一度、ギイという悲鳴をあげた。
「そう。ならよかった」
目線を下に落としながら、巴マミはそう呟いた。
とても良かったと思っているような声色ではないけれど。
少し、風が出てきた。
ざわざわと街路樹を賑わせて、いくつかの葉を散らせていく。
公園の入り口で動かない巴マミと、ベンチの前で同じく立ち尽くす私。
近くも遠くもない微妙な距離の中に、何枚かのそれが舞って落ちた。
「何か、用があるのよね」埒が明かないと思って、口を開く。
ただ、なんとなく何かは把握していたから。
それがどういう意味を持っているのかも理解していたから。
あまりきつい口調には、ならないように注意した。
「……ええ。
隣、いいかしら?」
断る理由はなくて。
彼女が座るところを軽くはたいてから、脇に詰めて座る。
ほどなく二人目がオンボロベンチに腰掛けて、少しだけ前よりも大きな音を立てた。
「佐倉さんのことなの」予想通りの言葉を皮切りに、巴マミは話し始めた。
「その……最初は、意外と気にしてる風でもなかったんだけど。
カラ元気だったって言うのかな。
少しずつ暗い表情を浮かべることが多くなってきて。
外にも出なくなったりして、どうしていいのか分からなくて……」
声は弱々しい。
聞きながら私も、佐倉杏子をここ数日見ていないことを確認する。
きっと、そうなんだろうとは思っていた。
続く言葉は、やってこない。
当たり前かもしれない。
彼女が零した言葉の通り、どうしていいのかわからないのだろうから。
「あ、ご、ごめんなさい……これじゃ、ただの愚痴よね」
思い出したように、巴マミは私への謝罪を述べた。
改めて思う。
ああ、お人好しだった。この人は。
自分だって少なからず堪えているのだろうに。
美樹さやかが斃れたことに、一番責任を感じているのは自分だろうに。
「それがあなたの用なら、大人しく聞いているわ」
巴マミの視線を感じながら、そう返した。
私の視線は地面に落としている。
「……ううん。そうじゃなくて」巴マミはすぐに答えた。
でも、それ以上の言葉はついてこない。
黙る私と黙る彼女。
似ているようでまるで違って。
いつか見た二人と、どこか似ていて。
整理できるまで待っているわ。
そう伝えて、背もたれに体重を預けて空を見た。
ひんやりとした木材に熱を奪われながら。
分厚い雲に覆われた、鈍色の空を眺めていた。
「ひと雨来そうね」
ふと、そんな言葉が口をついた。
匂いがしたのだ。
雨の日に特有の、湿気と油分が混じった微妙な匂い。
私の声につられて、巴マミも空を見上げる。
私は空に向けて手をかざす。
ぽつり、ぽつり。雨粒がそこに届くのに、時間はかからなかった。
「ご、ごめんなさい……私のせいで。
ちゃんと言うこと整理してから来ればよかったのに」
多分そう言うだろうな、と思った通りのことを巴マミは口にする。
雨足は少しずつ強まってきている。
確かにこのままここに留まっていては、濡れ鼠二匹の出来あがりだろう。
「そう長くは降らないと思う」
「夕立みたいだから、それはそうかもしれないけれど」
地面に点が少しずつ増えていく。
点と点が重なって、繋がって、色を少しずつ変えていく。
ぽつぽつ、さあさあと音を変えて、あたりを少しずつ濡らしていく。
「このまま家に帰るのも億劫だから、雨宿りをしたい」
「そ、そうね……この辺りで、屋根のある所だと」巴マミはやや混乱したように考え込む。
この公園から私の家まで戻るには、やや遠い。
だから代わりに、もう少し近い所。
「迷惑じゃなければ、あなたの家の軒下を貸してくれないかしら」
驚いたように巴マミの顔が上がった。
雨はもう線になって、私たちの身体を叩いている。
あの子もきっと、そう言っただろう。
そこにはきっと、巴マミの同居人がいるのだから。
◆
「ちょっと待ってね。すぐタオル持ってくるから」巴マミがぱたぱたと駆けていく。
「お邪魔します」
私は玄関で待つことにした。
それなりに濡れた身体で、床を汚してしまうのも躊躇われたし。
もっとも巴マミが派手に水滴を残していったから、今更の話ではあるのだが。
後ろ手にドアを閉めて、少しだけそちらにもたれかかる。
ぽたぽたと髪から雫が滴って、足元に水溜りを作ってしまう。
外で少しでも絞ってきた方がいいだろうか、なんて。
そう思った矢先に、玄関とリビングを繋ぐドアが開いた。
「ごめんなさい、これタオルと着替え。よかったら使って」
そう巴マミから差し出されたのはやたら大きいバスタオルと、彼女のものらしい上下の着替え。
正直、ハンドタオル一枚程度でいいと思っていたので、面喰らった。
「……そんなに気を遣わなくても。部屋を汚さない程度に拭ければ私はそれで」
「ダメよ。風邪引いちゃうでしょ」
「魔法少女だし風邪はひかないと思うのだけれど」
「う……ま、まあ、迷惑だっていうのなら、小さなタオルも持ってくるけど……」
小さくなりながら巴マミが言う。
これじゃまるで、私が悪者みたい。
「……ありがたくお借りするわ」言うや否や、巴マミの表情が明るくなった。
ちょっと待っててね。お風呂も沸かすから。
そう言ってまた引っ込もうとする巴マミの首根っこを掴んで言った。
さすがにそれはいいから、まずは自分の身体を拭きなさい。
雨粒まみれになった床と彼女の身体を交互に指差して、やっと気付いてくれた。
何回か咳払いをして、ちゃんと声が出せそうなことを確認して。
そっと、呼び掛けた。
「入っていい?」
ノックをした先の部屋は、巴マミに案内された、佐倉杏子の寝床。
返事がないことを了承の合図と受け取って、私は躊躇なくドアを開けた。
「なんだよ。珍しいな」佐倉杏子の声が響く。
佐倉杏子は部屋の真ん中で、あぐらをかいて座っていた。
電気は付いているしカーテンも開いている。
何より彼女の声はいつもと、そう変わらないように聞こえた。
「雨宿りに来たの」
ドアを閉めながら、そう返事をする。
答えになっていない気はしたけれど。
「ふーん。それマミの服?」
「ええ。借りた……というか、半ば強引に借りさせられたというか」
「マミは?」
「あれこれ世話を焼こうとしてくるからお風呂に押しこんできたわ」
「なんだそりゃ」ここで初めて、佐倉杏子が笑った。
端的に言えば、意外だった。
なんというか、普通なのだ。
あの巴マミの様子からすると、もっと沈みこんでいるのかと思ったけれど。
「おおかたアンタが来たのも、アイツのお節介の一環だろ」
「私が勝手に来ただけよ」
この感じだと本当に早とちりだったのではないかと思うくらいだ。
着慣れないふわふわした服に足を取られないよう、丹念に気を払いつつ。
ドアをふさぐように、そのまま腰を下ろした。
なんか、変なんだよ。
佐倉杏子は、そうつぶやいた。
私は、特に何も返さず。
その言葉の意味を、考えていた。
部屋の中心に居る彼女とドアを塞ぐように座る私。
それなりの距離はあるが、彼女の表情はよく見える。
どう話をしたものだろう。
そう悩んでいたら、佐倉杏子が口火を切ってくれた。
「……アンタさ」すぐに話しだした割に、そこで少し言葉を濁された。
顔を向けて、拝聴の姿勢を示す。
観念したように、言葉を継いだ。
「あいつの最期の顔、見てた?」
誰を、とは聞かない。
代わりに、首を振ることで答えた。
あいつ、笑ってたんだよ。
佐倉杏子は、そう言った。
「驚かないんだな」
「ええ」
「想像つくのか?」
「あの子らしいわ」
「そっか」
ずっとそれが気になってたんだけど。
あたしにはわかんないや、と佐倉杏子はひとりごちた。
そこに異論を挟むほど野暮ではないつもりだけど。
心の中で、記憶の中の彼女を追想する。
かつての最期の刻、笑っていたその顔を。
「マミの奴にはそういや話してなかったな」
思い出したように、そう言う彼女。
どうして、と聞き返した。
「なんでだろ。格好悪い所見せたくなかったのかな」
「知らないわよ。随分心配してるみたいだったのに」
「そりゃどうも」
あの子が笑っていた理由、聞かないの?
そう問うてみたら、佐倉杏子はあっさりとこう返した。
聞いてもしょうがないだろ。
それもそうね、と納得した。
「まあ、誰かが分かっててやればいいと思うんだ。
それがあたしじゃないのは残念だけど、アンタなら理解できる」
あたしはあたしなりに、あいつのことを忘れないようにするよ。
とんでもないバカ野郎だってね。
そう言い切った佐倉杏子の顔は、私が良く知っているそれだった。
「幼馴染にゃ勝てね―な」
そして、そう、付け加えられた。
私は何も言わず、ただ手元で指をこねくりまわした。
そう呼ばれるべきは、私じゃない。
そう言い返すことは、できなかった。
次はまた明日で
お暇な方お付き合い頂ければ幸いです
夢を見た。
どんな夢だったのかは、もう覚えていない。
「……暑い……」最初に口をついて出たのは、そんな程度のことだった。
全身にじっとりと汗をかいていた。
ここのところ寝苦しくなってきて、そのせいだろう。
湿って重くなったタオルケットを放り投げて、体を起こす。
ぼやける視界を整えつつ時計を見てみたら、まだ四時を少し回ったかどうかというところ。
寝直すにも起きてしまうにも、どうにも中途半端な時間。
ただまあ、二者択一の問題である以上、仕方ない。
少なくともあの蒸しベッドに戻る気にはなれず、嫌々ながら立ち上がってカーテンを開けた。
まだ外は暗い。
夜が明けるには幾分か早いようだった。
少し迷って。
椅子を引いて、机に向かった。
卓上ライトに光をともして、ペンを持つ。
取り出したのは一冊の日記帳。
柄じゃないとは思うけど。
誰に言い訳をしているのだろう。
くるくると指の上でペンを回して、それからゆっくりと握り直す。
まっ白な一ページに黒を落とす。
お世辞にもあまり、字がうまいとは言えない。
これといって書きたいことがあるというわけでもない。
だけど私は、暇潰しでしかないはずのこの時間が、嫌いではなかった。
ただの、暇潰しだから。
昨日何があったっけ。
昨日誰と話したっけ。
昨日何を感じたっけ。
そんなことを思うがままに、気ままに、書き連ねていく。
こうしている今も、私は仮面を外していない。
無表情の能面を張り付けたまま、すました顔をしている。
でも、白いキャンバスの上で踊る黒い文字たちは、自由だった。
私の意志の届かない所で、好き放題に何かを主張していく。
生み出しているのは私ではないのだろうと思うほどに。
とても人には見せられないな。
もっとも、日記ってそういうものでしょう。
だからいいかと、自己完結。
今日もまた支離滅裂で自由奔放な、日記もどきのできあがり。
半ば放り出すようにペンを置いて、それを閉じた。
◆
そのまま二度寝してしまったらしい。
朦朧とした意識に、カーテンの隙間から光が刺激を与えて。
私はどうにか目を覚ました。
「……ん、う」
机に突っ伏していた姿勢のせいもあり、節々が痛い。
さしあたりの眠気飛ばしも兼ねて体を伸ばす。
関節から響く鈍い音をつとめて無視しながら、一息ついた。
伸ばすために入れた力を抜いて、椅子へと再びもたれかかる。
頭の動きはどうにものろい。
何の意味があるでなく、とりあえずの行動として時計を見た。
十時半。
なるほど、大遅刻だ。
それを認識しても焦りを覚えることはない。
面倒だしもういいか、と思えるくらいには寝過ごしていた。
「……どうしようかしら」
サボリを決めた所で、もっとも、やることがあるわけではない。
自分の部屋の中を見回してみても、今日一日を有意義に過ごせそうなものは特に見当たらない。
いっそのこと三度寝を決行しようとすら思ったが、シーツの剥がされたベッドを見て諦めた。
肝心のシーツは汗まみれになって洗濯機に突っ込まれている。
見なかったことにした。
とりあえずシャワーでも浴びて、汗を流そう。
あとのことは、それから考えよう。
そう考えたのは、汗まみれになった自分の身体にやっと気付いたからだった。
適当に汗を流して、適当に朝昼兼用の軽食を取って。
早々にやることをなくした私は、手持無沙汰のまま外を歩いていた。
正午少し前の見滝原の街中は、さすがに人通りもまばら。
通学中の学生はもちろんのこと、通勤中の社会人もいるはずもなく。
昼の買い物だろうか、主婦と思しき人をたまに見かけるくらい。
私はと言うと、一応の保険として私服を着ていた。
制服を着てこんな時間にうろついていたら補導されかねないから。
とはいえ、見た目から学生だとバレはするだろうし、そもそもバレても逃げればいいだけなのだが。
まあ要するに。
そんな気分、だった。
適当に自動販売機で缶コーヒーを買って、それを空けつつ路地を練り歩く。
一応、知らない道ではない。
かつて何度も走りまわったうちの、その中のいくつかの道。
変わってしまったのは、私と世界のほんの少しだけ。
いや、変わってはいないのかもしれない。
きっとこの世界で生きるほとんどの人たちからしたら、そうなのだろう。
ふと、足を止めた。
視界の中にひとつ、見慣れないモノが映っていた。
「……」
少しだけ見つめて、すぐに視線を落とした。
時間をかけるでもなく、それが何かは否応なしにわかってしまう。
それは尋ね人の便りだった。
古ぼけた電信柱の中ほどの高さ、ちょうど顔の高さが一致するくらいの所に。
名前と顔写真と、それから連絡先と。
『探しています 見かけたら連絡をお願いします』なんて、どこにでもある文章と一緒に。
私は彼女の消息を知っている。
より正確に言えば、消息が途絶えたわけを知っている。
だけど、それを伝えることはできなくて。
そのチラシを直視していることはできなかった。
◆
逃げるようにその場を離れて。
知っているはずの道を、しばらく歩いていた。
そう、知っている道。
そのはずだったのだけど。
いつのまにか、そうではなくなっていた。
私の進む速度も、歩くそれではもはや、なくなっていた。
異様な胸騒ぎを掻き消すように。
ずっとずっと続いていく一本道を、走っている。
進んでも進んでも。
おかしな胸騒ぎは、収まることを知らなかった。
異変に気付いたのは、どれくらい経った頃だろう。
最初の兆候は、臭いだった。
「……雨?」そう口走ったけれど、すぐに違うことに気付いた。
湿った臭いが鼻をついた。
それは雨の日によくある、ついこの間も嗅いだ匂い、ではなくて。
思わず顔をしかめてしまう、異臭だった。
水が流れずに腐った臭い。
あたり一面に立ち込める腐臭は、それに近いものがあった。
ふと周りを見渡してみる。
風景は一見して特段の変化もないようにも見えた。
そしてすぐに、それがおかしいと気付いた。
「何、これ」
そう、何の変化もなかった。
全く同じ家と、全く同じ電柱と、全く同じ街路樹とが、延々と道の両脇に伸びている。
当然のように脇道など存在しない。
交差点も信号もなく、ただただどこまでも今の道が続いていた。
「結界だろうね。しかし、こんなものは見たことがないけれど」
びくんと、背筋が跳ねそうになった。
何とかそれを堪えて、後ろから私の疑問に答えたそいつに返事をする。
つとめて無表情を心がけながら。
「キュゥべえ。あなたも居たのね」
「魔獣の気配がしたからね」
「ここはやっぱり、魔獣の結界なの?」
「そうとしか考えられない、っていうのが僕の答えかな」
特に価値のなさそうな会話を無言で切り上げて、また視線を前に戻した。
進んでも進んでも、何も変わらない。
私はそれに疲れて、歩き始めていた。
湿気を含んで身体にまとわりつくような大気の中を、のろのろと。
インキュベーターは何も気にしない風に少し後ろからついてくる。
それがなんだか気に障っていたけど、できるだけ意識の外に追いやるようにした。
動かす足が、とても重い。
地面を足で蹴る感覚が、どこか遠い。
前に進んでいると分かる手掛かりは、鼻に感じる臭いが少しずつ強くなっていくことくらい。
いつの間にかそれは、吐き気を催すまでになっていた。
ただ、足を動かす。
カツ、コツ。
ぺた、ぺた。
私の靴音に、少し小さな足音が、遅れて続く。
その繰り返し。
風もない。
空には赤黒い太陽が昇って、遮る雲も何もないのに、薄暗い。
電柱の合間に立つ街灯が、淡白く光の泡を作っている。
カツ、コツ。
ぺた、ぺた。
足音だけが、いやにうるさく響く。
それ以外の何もない空間で、やたらとその存在を主張する。
私はまた走り出した。
じっとしていると、何かに呑まれてしまいそうだった。
どれくらい、経っただろう。
臭いがとうとう鼻を麻痺させて、音を除いた一切の感覚が消え失せて。
耳すらも遠くなり始めたくらいのところで。
私はやっと、足を止めた。
「……行き止まり……?」
というよりは、止めさせられた。
私の目の前にあったのは、塀。
この先に道はないと、そう主張する、横にあるものと全く同じ塀。
「そのようだね」インキュベーターが何の感慨もないように、私の肩元から返事をした。
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