ほむら「濡れてる……」 (31)
ぼんやりと、天井を眺める。ぼやけた視界は焦点を結ばずに彷徨う。
少し辛いことがあるとすぐにこうなる。
そして、そんな弱い自分に嫌悪感を感じて悪循環に陥るのだ。
分かっている、分かっているのに、止められない。
「せっかく、日常に戻ってこれたのに、知らない明日を掴み取ったのに。こんなことになるんだったら、あの時死んでしまっていればよかった……」
崩れたビルと巨大な歯車がフラッシュバックする。会心の一撃。
それ以外に表現しようのないその瞬間には選択肢なんて一つしかないように思えた。
それが間違いだったのだ。実際には死ぬか、生きるか、の二択だった。
選んだのは生きること。だけれど、知らなかった。
こんなにつらいなんて、こんなに苦しいなんて、こんなに、こんなに幸せが私を押しつぶそうとして来るだなんて。
ようやく、整ってきた焦点で時計を眺める。時刻は八時三分。
はっきり言って遅刻ギリギリだ。もう、起きて学校に行く用意をしないと。
朝ごはんを食べる時間は、ないかな。確か冷蔵庫にバナナが一本だけ残っていたはず。
歩きながらそれを食べれば、いいよね。
そんなことを考えながら、制服へと手をかけて逡巡。
手が、震える。いつもみたいにそれを着て、学校で授業を受ける私を想像する。
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怖い、嫌だ、そんなのは、嫌だ。
奇妙な感情が渦のように私を支配していく。
担任の早乙女先生に、会いたくない。
となりの席の中沢に、会いたくない。
志筑仁美に、会いたくない。
美樹さやかに、巴マミに、会いたくない。
そして何より、鹿目まどかに会いたくない。
どうしてだろう、どうしてだろう。学校に行かずに、一人でここにいる私を想像して、安心したのは。
「駄目ね、本当に」
ふぅぅ、と長く長く息を吐きだして肺の中を空っぽにしてから目いっぱいまで空気を吸い込む。
少しだけ感情の波が静まる。手の震えも、ゆっくりと治まる。
時計を見直せば時刻は二十三分。
どう頑張っても遅刻だ。
溜息をついて制服を取り上げて、いったん戻す。
寝間着を着たままだという事実を思い出したからだった。
ゆっくりとパジャマを脱ぎ、捨てる。
小さめのブラを手に取り、紐に肩を通して背面のホックをカチッと合わせる。
アンダーシャツを身に着けてそれからブラウスを着こむ。
履きなれた黒のタイツに足先を通してゆっくりと伝線しないように太ももまで持ち上げる。
同じ動作をもう一度繰り返したのちに臀部まで引き上げる。
足を延ばしたままよく眺める、伝線はして無いようだった。
プリーツスカートを先に手に取って、足を通す。
履くときにいつも思うのだけれど、なんでこんなに丈が短く作られているのだろうか。
正直、下着が見えそうになって困る。なんて、どうでもいいことを考えながらジャケットに腕を通す。
あとは、リボンを結んで、出来上がりだ。
一限目が始まるのが九時二十五分だから、もうそれまでにつければいいや、という投げやりな気持ちで朝食を用意することにする。
と言っても、冷蔵庫のバナナとコーヒーを飲むだけなのだけれど。
そう思って冷蔵庫を開けてみればバナナのほかにハムとゆで卵が入っていた。
完全に忘れていたけれど、これは僥倖だ。そう思いつつも賞味期限を確認しておく。
大丈夫あと三日は持つわね。
取りあえずお湯を沸かすべく、やかんに水を注ぎ火にかける。
湯が沸くまでの間に歯磨きを済ませてしまおう。そう思い立ち、歯ブラシに歯磨き粉をつけ口に突っ込む。
ブラッシングの軽快な音とコンロの火の音だけが狭い部屋に木霊する。
魔法で虫歯を治すのは難しい、そんなことを巴マミも佐倉杏子も言っていたような気がする。
私自身は病院暮らしが長いせいで歯の磨き方には自信があるし、事実虫歯になった事は無い。
だからよく分からなかったのだけれど、歯っていうものは一度削ってしまうと自己修復したりしないものらしい。骨が折れたりだとか爪が剥げたりだとかとは違うものなんだとか。
まぁ、どうでもいいか。
泡立った唾液を流しへと吐き出す。違和感もないし、もう良さそうだ。そう結論付け、水を口に含んで濯ぐ。
左右の頬を交互に動かして口の中で水を攪拌し、吐き出す。
もう一度含みなおして、今度は上を向いて喉を濯ぐようにガラガラと息を吐きだし、頃合を見計らって吐き出す。
鏡を見れば隈の酷い私が口を開いて立っていた。
慌てて目の下をマッサージしながら顔を洗う。
そうこうしているうちにやかんが甲高い音を立てて泣き始めた。
う、うるさい!
鼓膜が破れるようなその音を止めるべくキュウリと河童が印刷されたマグカップをもって近づく。
勿論、右手にはミトンを装備済みだ。
火を止め、やかんの取っ手を掴みマグカップへと湯を注ぐ。
そのままテーブルに持っていきお気に入りのインスタントコーヒーの粉をスプーンですくって湯へと落とす。
たっぷり三回半かき混ぜてから、冷凍庫の扉を開いて小さな氷を三つほど掴んで、コーヒーへと戻り、入れる。
「よし、これで飲み干せるわ」
流石に熱いコーヒーを楽しめるほどの時間的余裕はないのだ。
「いただきます」
手を合わせて、皿に乗せたバナナとハムとゆで卵に手を伸ばす。
☆
青い空に慎ましい雲たちが流れ、それを見下ろす様にふてぶてしく輝く太陽は眩しい。
寒空の下で、だけれど集まって食べる昼食はそれなりにおいしい。
「いやー、まさかあんたがあんなに堂々と遅刻してくるとは思わなかったよ」
「悪かったわね。だけど、よく考えて見なさい。
一分遅刻しようが、三十分遅刻しようが遅刻には違いないわけだし、それなら一限目が始まるまでに学校に来れれば一緒でしょう?」
いっそ感心したと言いたげな口調でさやかに突っ込まれたので、もはや開き直った回答を口にする。
「感心しないわよ、そう言う屁理屈って。遅刻したら急ぐ、それだけでも相手の心象って全然違うもの」
「そうだよ、ほむらちゃん。遅刻しないように頑張ったっていう努力が大事なんだから」
「そりゃぁ、分かってはいるのよ?」
ふてぶてしく開き直ったらマミさんとまどかに突っ込まれた。
思わずだってだってと駄々をこねたくなるが、大人げないので我慢した。
「それにしても、ほむらちゃんが遅刻するなんて珍しいよね。もしかして、悩み事?」
「ううん、そう言うんじゃないわ。ただちょっと寝坊しただけなの」
まどかに尋ねられて、本当のことを言う訳にもいかず、適当に誤魔化す。
「ははーん。さては病気だな、ほむら」
「馬鹿言わないで頂戴。魔法少女が病気になんてなるわけないでしょう?虫歯にはなるみたいだけれど」
「いいや、あたしの勘が病気だって言ってるもんね。ズバリ、恋の病でしょ!」
したり顔で私のことを指さしてくるさやかに対して、アホかと本気で思った。
「そうだったのね、暁美さん。私応援するわよ!」
「ほ、ほむらちゃん好きな人が出来たの!?」
「いえ、その、ね? さやかのでまかせなんて信じないで頂戴よ。というかどこに根拠があるというのよ?」
まさかの展開に私は動揺を隠すことが出来なかった。なんでそれを信じちゃうのかな、この人たちは!
「そうやって、誤魔化すところがさらに怪しいぞ、ほむらー」
ワキワキと手を動かしながらさやかがにじり寄ってくる。
なんとしても私から情報を引き出そうという訳か。何にも出てこないわよ、全く。
「邪推するのは勝手だけれど、本当に何にもないわよ?」
わざとらしくため息をついてあしらうことにする。
「なぁんだ、心配して損しちゃったよ」
「まさか暁美さんに先を越されちゃったかと思って焦っちゃったわよ」
「なんか、それはそれでイラッとくるわね」
心の底から安堵されたら、それはそれで少々面白くない。
「そのうちいい人が見つかるって!」
なぜか美樹さやかに慰められた。なんという敗北感だろうか。
「まっ、今はあまり興味もないから、別にどうでもいいわ」
「もぉ、強がっちゃって。そんなほむらもかわいいぞぉ!」
あぁ、もう! 鬱陶しいわよ美樹さやか! なんて思いながらも楽しんでいる自分に気がついて、少しばかり安堵した。
「なんか、今日のほむらちゃんはいつもと違う?」
「そんなことは、ないと思うけれど?」
「実は私もそう思っていたのよ?」
「そうかしら?」
自分の変化にはなかなか気付き辛いものがあるのだろうか。
「そんなことよりさ、食べないと時間無くなるぞー」
さやかに言われ、気づく。サンドイッチが丸々残っていることに。
慌てて封を開いてもそもそと口へと詰め込んでいく。
「リスみたい!」
「本当、小動物的なかわいさだわ」
「うちの嫁に欲しくなりますなー」
外野が何かを言っているが無視だ、無視。
口に詰め込んだ食べ物を大急ぎで咀嚼して、飲み下す。
それを何度か繰り返して、ようやく最後の一きれを口に詰め込んだその瞬間に、昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。
「ほら、ほむら行くぞー」
さやかの言葉に私は頻りに頷くと咀嚼をしながらゴミを片付けて教室へと戻る準備を始める。
辺りにゴミが落ちていないかを確認してから、水筒を掴んで先を歩いている三人を追いかける。
すると、突如振り返ったまどかが、私に笑顔を見せた。
「そんなに急がなくても、入り口のところで待ってるから大丈夫だよ?」
一瞬、ほっとしたけれど急がないといけないことには変わりがないのでそのまま早足で三人に追いついた。
だけれど、その時には気がつかなかった。私のソウルジェムが薄らと濁っているという事実に。
☆
足元にインキュベーターを連れて魔女の結界をこじ開ける。
見慣れないグロテスクな様相は、目新しくもありつつやはり既視感に囚われる。
見た事の無いその結界は、だけれど決まりきったように毒々しく、兢々。
それでいてどこか甘美にこちらを誘う。
足元には赤い絨毯。見わたす限りの燭台と蝋燭。銀の食器を運ぶメイドらしき使い魔。
距離感がよく分からない通路には魔女と思わしき肖像画が飾り立てられている。
その姿は一言で言ってしまえば醜悪。
恐らく髪に絡め取られているであろうその巨躯は、薄気味の悪い毛玉としか捉えようのない姿を写されている。
「キュゥべえ、この魔女の特徴は?」
「この魔女のデータは無いね」
「類似の特徴を持っている魔女がいるんでしょう?」
「それでいいのかい?」
「早くして」
「基本的には大人しいタイプの魔女だ。
ただ、テリトリーに侵入されたと知るや、烈火のごとく息巻いて襲いかかってくるだろうね。
この手の魔女はテリトリーを侵されることを極端に忌避するよ」
「むしろそうじゃない魔女を教えてほしいくらいだわ」
「ワルプルギスの夜がいい例だったじゃないか。あれは特定のテリトリーを持たないだろう?」
「攻撃方法は?」
「流石にそれを推測するのは無意味だ。ただ、生前の魔法少女の武器なら分かるよ」
「教えなさい」
「ヤレヤレ、この子の武器は手袋とビーズだったよ。得意な魔法は検知と投擲さ」
「それじゃあ、私は手数で勝負してみましょうか」
ざっくりと方針を決めて、魔女の姿を拝むために足を踏み鳴らす。
「大抵の魔女は結界の中で適当に暴れまわれば勝手に寄ってくるのよね」
「当然じゃないか、彼女たちにとって結界は自分の家も同然だ。
無理やりドアをこじ開けて騒がれたら様子を見に来たくもなるだろう?」
取りあえず、サブマシンガンを取り出して、ぶっ放す。
銃口から、軽快でそれでいて重圧な連射音が鳴り響く。
頭の無いメイドの使い魔を撃ち抜く。
飾り立てられたいくつもの額縁を破壊する。
火が灯っているであろう燭台を粉砕する。
軽妙な弾丸を辺り一面にばら撒く、ばら撒くばら撒く。
あぁ、なんてタノシイノ!
戦いは好きだった。だって余計なことを考えなくてもいいから。
そして、辺りが銃弾でボロボロになってようやくと、結界に変化が訪れた。
「全く、遅いわよ。でもいいわ、丁度気分が乗ってきたところだもの」
そして、毛玉のような魔女と相対する。
「ハチの巣にして、ア・ゲ・ル♪」
蔓のようにうねる髪が私を狙い向かってくるが、その動きは全て私の射線の延長上だ。
「間抜けな毛玉はどちらかしら?」
銃弾が魔女の肉を弾く音が木霊する。あぁ、タノシイ、本っ当にタノシイナァ。
のたくり、床を転がりながら逃げようとする魔女。でも、私は逃がさない。
このまま弾が無くなるまで打ち続ければ私の勝ちだろう。だけれど、それじゃあつまらない。
だから私は一旦手を止めて、サブマシンガンを盾へとしまい込んだ。
「んふっ、ふふふふっ、んふふ」
鼻歌交じりに武器を物色している私をよそに魔女は好機と見たのか髪を触手のようにのばして一気に襲いかかってきた、
がそれに向かってピンを抜いた手榴弾を投げつけてやる。
数は三つだ、取りあえず三つ。
後ろへと大きく跳躍。髪束を回避しつつ盾の中から追加の武装を選び出す。
うん、これがいいかな。
女子中学生が持つことの出来る重量をはるかに超える機関銃を片手で悠然と取り出した。
そして、爆発。指向性の爆風と爆片が魔女を痛めつける。
その証拠にほら、いい声をあげて泣いているじゃない。
「―――――――ッ! ―――――ッ!」
アハッ! 本っ当にタノシイわねぇ!
さぁ、これで止めよ。笑みをこぼしながらトリガーを強く、強く引く。
土木工事でもしているかのような豪快な音を響かせながら弾丸が魔女を肉塊へと変貌させていく。
血のような何かが飛び散っていく。魔女の阿鼻叫喚が私に愉悦と、快楽を流し込む。
もう、最ッ高!
魔女が絶命してから結界が綺麗に崩れ終わるまでの間、笑いながらトリガーを引き続けていたらしい。
我に返って、機関銃をしまい込んだ時には既に夜の公園へと戻ってきていた。
ゆっくりと近づき、グリーフシードを拾い上げる。銃撃に巻き込まれて壊れていたりはしないようだった。
物理的に壊せるのならば苦労はない、か。
それにしても、我に返ってから考えればあれは、
「最悪、よね……」
高鳴る鼓動を押さえつけて家に戻り、服をばさりと、投げ捨てる。
お気に入りのカチューシャもゆっくりと外して、洗面台の横へとしまう。
蒸れたタイツを伝線しないように脱ぎ、ショーツとブラも脱衣して洗濯機へと放り込む。
タイツはそのまま洗うと伝線するから、と思いなおして洗濯機へと掛けなおす。
バスルームの中へと入って蛇口をひねる。
備え付けのシャワーから心地の良い湯が注がれる。
髪が水分を吸ってずっしりと重く、体に纏わりつく、だけれどそれすらも快感のように感じられて、胸がドキリと高鳴る。
溜息をつきつつ、指先を陰部へと運ぶと、ヌルリとした感触があった。
「濡れてる……」
全部シャワーで流せてしまえればどんなにいいことか。
益体もなくそんなことを考えつつもゆっくりと髪を洗い、体を洗う。
たっぷりと時間をかけて、今日一日を洗い流していく。
「すごい! すごいよ、ほむらちゃん!」
はしゃいだまどかに思い切り頬刷りされた。プニプニとした柔肌の感触が懐かしい。
放心しきったわたしは、成すがままされるがままにまどかに抱き寄せられている。
少し周りに目を向ければわたしたちを、温かく見守る巴さんの姿が映る。
「それじゃあ、仕事終わりのティータイムと行きましょうか?」
「そうしよう! ほむらちゃんもいいでしょう?」
「はい! お邪魔じゃなければ……」
「そんなことないよ。ほむらちゃんもいた方が楽しいもん! だよね、マミさん?」
「そうね、一人よりも二人。二人よりも三人が良いわね」
暖かい、本当に暖かいな。
景色が移ろい、巴さんの部屋だ。
目の前には鮮やかな黄色のハーブティー。確か、カモミールだった気がする。
「それでね、この間さやかちゃんが――、って、ほむらちゃん聞いてる?」
「えっ?えと、美樹さんが……?」
「もう、ほむらちゃんったら!」
「鹿目さん? 暁美さんは今日が初めてだったんだから無理もないわよ。鹿目さんが初めての時もぼうっとしていたでしょう?」
「そうだったけ? でも、そうだよね。ごめんね、嬉しくってちょっとはしゃいじゃってて、」
「そんな!でも、なんか私も感激してしまってて、その心ここに非ずって感じです」
「そうだと思ってたの。だから、ほらお茶飲んで? 落ち着くはずだから」
促されて、わたしはティーカップに口を付ける。
爽やかな風味がスゥッと鼻を通り抜けていき、意識がピタッと、戻る。
「すごく、おいしいです。これはなんていうお茶なんですか?」
「それは、カモミールよ。ほかにもいろいろあるけれど、飲んでみたいのとかあるかしら?」
「そ、その。勉強してきます……」
「そんなの気にしなくっていいんだってば、ほむらちゃん。マミさん私あれ好きです。赤くて酸っぱい奴!」
「ローズヒップね。それじゃあ、お茶うけはクッキーにしましょうか。ちょっとまっててね」
なんていうか、本当に幸せだな。
こんなに幸せでいいのかしら。
そうね、幸せで、いい。わけがなかった。
懐かしい記憶の微睡みから意識が舞い戻り、強烈な乖離感を味わう。
何も知らなかったあの頃。ただ、偽りの幸せを甘受出来てしまっていたあの頃。
なんて優しい夢なんだろうか。なんて幸せな夢なんだろうか。
だけれど、それはもう過ぎ去ってしまって手に入らない夢。
もう、あの頃へは帰れない夢。儚い記憶の中の幸せ。
あの時と同じ幸せを手に入れるはずの知らない明日をようやくと手に入れて、だというのに私の心は潰れそうだった。
だって、知らなかった。
知らなかったのよ、私が諦めて切り捨てた彼女たちがこんなにも重いものだったなんて。
幸せになることがこんなにも辛いことだったなんて。
私は頑張ったよね、それなのになんでこんなにつらい思いをしないといけないの。
もういやだ、いやだよ。こんなにつらいなら、こんなに苦しいのなら、もういっそ――――。
そこで、傍と気づく。駄目だ、私は絶望してはいけない。
それじゃあ何のための道程なのかと、何のための屍の山なのかと。
酷く濁ったソウルジェムにグリーフシードを押し当てて浄化する。
穢れを全て吸い取ってだけれどあと二回は使えそうなそれを引き出しへとしまい込む。
行き場のない感情が廻る。浅い息を整えて、思考を押し出す様に長く長く息を吐きだす。
吐く息と一緒にこの絶望も空気に溶けてしまえばいいのに、なんて考える。
けれど、やっぱり駄目だ。
私はモソモソと布団へともぐりこんで頭から掛け布団を被って膝を抱え込む。
焦点が合わない瞳が映すのは、じっくりと穢れを溜め込む私自身のソウルジェムだ。
八時間もあれば真黒に染まるだろうそれを私は眺める。
きっと今の私は薄らと笑っていることだろう。だって、もうそろそろ限界だから。
そしてそれは唐突にやってきた。
チャイムが鳴る。
今は日曜日の昼間で用事なんて何もないはず、そう思うが思い出した。
佐倉杏子と、風見野にあるラーメンを食べに行く約束をしていたんだった。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。会いたくない。一人にしておいてほしい。
だって、私はもう駄目だ、だからもう、放っておいてくれ。嫌だ、嫌なの。
感情が、グチャグチャに滅茶苦茶に、塗りつぶされる。
もういっそ、永遠に夢を見るのも悪くないかなって。
目の前のソウルジェムがゾッとする速度で濁る。
アハッ。ナンダカ、キモチヨクナッテキチャッタミタイ。
私が死んで、私は生まれた。きっとすぐに殺されるとしても。
ぐちゃぐちゃの思考の中で連打されたチャイムの音が空転する。
意識が、完全に外と分断されている。
薄暗い情念が囁きかける。
ふわふわと夢午後地のような優しく破滅へと誘惑するみたい。
向こうでガチャガチャと音が聞こえる。
ガンガン、だんだん、と叩くような物音をが聞こえる。
けど、気にならない。
おいでと私は誘われて、ゆっくり私は歩き出す。
その先に何があるのかを、私は知っている。
そっちにあるのは、タノシイものなのだ。
お外で一際大きな音がした。
もう、少し静かにしてほしいな。私は今から向こうに行くんだっていうのに。
「……ぃ! ……む、ら!…………、ら!」
何か、体が揺さぶられて足元がふらついた。
もう、何なの?
何するのよ。
思わず呻き声が漏れたけど、あれ? なんで呻き声なんて漏れるんだろう?
「……ぁ、グリ……、シ……、……だ?」
あぁ、ちょっと待ってよ、私。
ちょっと、待ってってば、止まってよ、私。
お願いだってば、一緒に、私を一緒に連れて行ってよ、私。
「ぉぃ、ほ……、……む…、」
「ぁ……、ほむら! しっかりしろよ! 目ぇ覚ませ!」
ペチペチペチ、と頬を軽く連打されて、私の集合無意識が返ってきた。
目の中に映り込んでいたはずの景色が、ぼんやりと頭の中で焦点を結ぶ。
なるほど、頭の中で処理しきれないと見えていても見えてないことになるんだね。
目の前には両手で私の頬を挟み、若干涙目になっている見慣れた顔がある。
「ぁぁぁ、あぁぅ。佐倉、きょう、こ?」
多分あってる、と思う。
ただ、よくわからない。
「き、気が付いたか! 馬鹿野郎、あんた一体どうしたってんだよ」
目の前の佐倉杏子らしき人物はほっとしたのか、胸を撫で下ろしている。
あれ?
そういえば、なんで私の家に私じゃない人がいるんだろう?
この時の私は思えば完全に意識から連続性が失われていたことだろう。
「あ、なた。なんで?」
はぁ、でもよかった。
うん? なんでだろう?
「いやその、一緒に飯食いに行く約束してたろ?」
まったくと、何もつながらず、とりあえず頷いてみた。
「で、時間になってもあんたが姿を見せないから、心配になって見に来たんだよ」
頷く。
「何度チャイムを押しても一向に出てこねーし、家の電気はつきっぱだし、何かあったんじゃないかと思ったわけ」
頷く。
「ドアノブ捻ってみりゃ鍵は開いてるし、声かけても反応はないし、揚句とんでもなく嫌な気配が漏れてる」
言葉の意味がつながらない、がとりあえず頷く。
「慌てて来てみればあんたはこんな状態だし、ソウルジェムはごっそり濁ってるし、」
濁っている。
あぁ、そういえばそうだったっけ。
「ほんと、焦ったよ。んで、何があった?」
何が?
……、特に何もない?
よくわからないので、とりあえず首を傾げる。
「お、おい。どうしたんだよ?」
狼狽える杏子の様子が面白い。
というか、別にどうもしていないのだけれど。
と、適当に思考したところで視界の違和感に気が付いた。
「ごめんなさい、ちょっと待って。話すけど、ちょっと待って」
目から涙が溢れている。
理由は何だろう。
ダメだ。心当たりがありすぎて、究明できない。
伝っていく涙を指で救い上げてみれば、止まる気配を見せずに流れていくばかりだ。
堪え切れなくなり、思わず杏子に抱き付いた。
「う、うぅぅ。うぅっ、」
自然と嗚咽が漏れだして、声をあげて見っともなく泣き叫ぶ。
驚いたろうに、だけれど杏子は抱き付いた私のことを優しく抱き返してくれた。
暖かな安心感と同時に、チクリとまた胸に鬱屈が積もる。
「……っ、」
何も言わずに背中と頭を撫でる手が心地よくて、感情と涙が引いていくまで甘えたくなる。
ダメなのに。こんなに甘えればまたあとで辛くなるのに。
だけれど、溢れだした感情は止められず、しがみつくように力が入る。
もはや、抑えも効かず歯止めも効かず、押し流されるまま子供のように泣きじゃくることしかできなくなっていた。
☆
黒い液体の入った透明なグラスが視界の上から降ってきた。
「落ち着いたか?」
「えぇ、ありがとう」
アイスコーヒーの入ったグラスを杏子から受け取り、合わせてお礼をいう。
「そんで、何があったのさ? 話してくれんだろ?」
ベッドに座った私の横に杏子はドカッと腰を下ろす。
その粗雑な動作は、だけれど心地よいものだ。
「ラーメン……」
「あぁ? 腹が減ってアンナンなったとか言うつもりか?」
「ち、違うわよ。ただ、せっかく約束してたのに、行かないのも勿体ないかと思ったのよ。
それに、ただ話すよりは食べながらのほうが……、」
控えめにコーヒーを啜りながら、そこまで言うと、ぐぅと大きな音が鳴った。
杏子のお腹の音らしい。
「あぁ、確かにあたしも腹減ってんだったよ。思い出したら余計空きっ腹になってきやがった」
あまりにも自然体なその姿に心がほぐれる。
「今日はおごるわ」
「おっ、マジか! やりぃ!」
杏子に連れられてやってきた風見野のラーメン屋はこじんまりとしていて、お世辞にも儲かってそうとは言えない感じだ。
豚骨ラーメンとチャーハンのセットが杏子で、ネギ味噌ラーメンもやし盛りが私。
注文のときにもやし多めで、と頼んだら杏子に「もやしがもやし多めにしてやがる」と笑われたので、脛を蹴飛ばしてやったのだ。
そしたら、「悪かったよ、ごめんごめん」と適当に謝られた。
仕方がないので謝罪を受け入れて、いろんなことを洗いざらいしゃべる。
私の昔話を交えつつ、そんな夢を最近よく見るということを。
幸せなはずのその夢が酷い悪夢に思えるということ。
思い出せば体が震えてたまらなくなるということ。
そんなときは決まって一人になりたくなる、とか。
自分が幸せに過ごす権利がない気がする、だとか。
幸せになればなるだけ辛くなる、ということとか。
目を逸らすために一人で魔女と戦っていること。
戦っているときのほうが気楽に感じてしまっている、とか。
あまつさえ、そこに心地よさを感じている、とか。
流石に性的に興奮してるとは言えなかったけど。
それで後ろ暗い情念に飲み込まれかけてたこと、とか。
それに対して杏子は途中で運ばれてきたラーメンを頬張りながら私の言葉を黙って聞いてくれた。
全部話し終わって、思わず大きくため息を吐き出す。
客観的に見て私ってなんてダメで、構ってちゃんなんだろうか。
「あんたも、そんなことで悩むんだな」
話し終っての杏子の第一声がそれだった。
「そんなことで悩むなんてあなたの知っている私らしくないかしら?」
「いや、違うよ。そういうんじゃなくさ、あたしも似たようなこと考えるから、さ」
そういって、「意外か?」と問いかけてくる彼女が何を想っているのかはなんとなく察しがついたが、きっと踏み込まないほうがいいのだろう。
「いいえ、多分。だからこそあなたを見てあんなに安心したんだと思う」
「そうかい、そいつは重畳だ。まっ、飯を奢ってくれんなら相談くらいには乗ってやるよ」
「ふふ、心強いわ」
「それから、」
少しだけ言い淀み、彼女は言葉を繋げる。
「よっぽど辛くなったら、あたしの魔法で何とかしてやるよ」
諦めたようにそんな提案をしてくれた。
「ありがとう、耐え切れなくなったら……、お願いするかもしれないわ」
そう返してみれば、決まりが悪そうに頭をかきながら、
「たくっ、調子狂うな。
あんただったら絶対に『ありがたいけど、これは私が向き合わないといけないことだから』
とでもいうと思ったんだけど?」
まったく、痛いところをつかれたものだ。
「そういう強がりは、卒業しようかしら」
「そうかい」
時間が経って少し伸びてしまった味噌ラーメンを口に含めば、それはなんだかとても暖かかった。
end
おわり
何番煎じかもよくわからない罪悪感に溺れるお話
このSSまとめへのコメント
動作の描写やほむらの一人称視点の内省的な語りが大好き
ほんとは「エロ」タグをつけたくなるほどそれがすごく興奮する。ほむらちゃんの朝の身支度をずっとそばで眺めていたい。
歯磨きで泡立った唾液を味わいながら嚥下したい。
確かに、着替えの描写がヤバい
このほむらは全体的にエロい。直接的なものがなくても、かなりエロい
かと思えば、サンドイッチをリスの様に頬張るほむらがスッと挿入される
仏頂面で、無言で咀嚼し続ける様がすぐ目に浮かぶ
この一瞬のほむほむ具合が、ヤバい
ほむほむ派にはいろいろと味わい深い妙品でした