原田美世「……迅帝?」 【モバマス×首都高バトル】 (192)


諸注意。


・モバマスと首都高バトルのクロスSSになります。

・とは言いつつも、色々な要素が混ざってます。

・首都高バトル側のキャラクターは、ほぼオリジナルに近いです。

・地の文あり。かなり長いです。

・このSSの演出の様な走行は、絶対に真似しないでください。捕まります。

・ダーチャンの演出に、好みが別れると思いますが、そこは見逃してください。


最後に。原田美世は可愛い。そして、かっこいい。

では、お楽しみください。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1434796447


序章

 かつて、首都高に伝説を作った走り屋が存在した。
 彗星の如く現れた、ベイサイドブルーのR34スカイラインGT-Rは、それまで最速と謳われた首都高ランナー達を次々と撃墜していく。

 その走り屋は、何時しか“迅帝”と呼ばれるようになっていた。

 しかし……“迅帝”はある時を境にし、こつ然と姿を消してしまった。

 最速の座を、明け渡さないままで。

 それから、何年も月日が流れた……。



 石川県の車屋の娘に生まれ育った原田美世は、ガキの頃から車とスピードに魅せられていた。

 誕生日プレゼントに欲しい物を聞かれれば、ウサギのお人形さんよりも、スポーツカーのミニカーと答える。自転車で走れば、下り坂で思いっきりかっ飛ばし、転んだ挙句に傷だらけで泣きながら帰ってくる。

 その度、父親は頭をなでながら「俺達の娘だな」と笑っていた。

 ある日。鈴鹿サーキットへ、家族でレースの観戦に行った。
 幼い美世は、帰りの車の中でこう言った。

「……レーサーになりたい」

 女の子の言うセリフでは無い。ただ、車好きの子供なら高い確率で言う言葉だ。

「やっぱり、美世は俺達の娘だよ」

 父親は、同じセリフを言った。



 10歳の頃、両親と共に西日本ジュニアカート選手権にチャレンジを始める。

 有力チームには属さず、あえて家族だけで挑戦するプライベート参戦の形を取った。ドライバーも監督も、メカニックもスポンサーも、エントリーチーム名も、原田一家。一家総出のチャレンジだった。

 ドライバーとして、メカニックとして。美世は着実に成長していった。

 中学二年の時。西日本選手権で、優勝一回。選手権はシリーズ三位に食い込む活躍を見せた。今でも、その時のトロフィーと盾は、実家で大切に保管しているそうだ。

 中学三年に上がると、全日本選手権へステップアップ。三位一回、入賞一回。シリーズランキング九位。有力な強豪チームを相手に回して、小規模なプライベート参戦としては相当に善戦した成績といえる。

 しかしだ。モータースポーツは、あらゆる競技の中で、最もお金のかかる競技である。

 最下層のカートレースとは言え、その例外ではない。レース活動に費用を費やす分、生活は目に見えて苦しくなっていた。弱小プライベートチームの原田一家に、参戦を続ける体力はなかった。


 そんな、15歳になったばかりの秋の事。
 原田家には、ある珍客が訪れていた。

 その男は、名刺を出しながら、346プロダクションのプロデューサーだと名乗った。

「アイドルになりませんか?」

 その一言を聞いた原田一家は、呆然としていた。

 突然アイドルにならないかと聞かれても、答えられる訳が無い。何年か振りの家族会議の後、美世は一晩じっくりと考えた。

 美世は、ある打算をした。

 近藤真彦は、今でこそ日産のサテライトチームの監督だが、元は一世風靡をしたアイドルだった。

 岩城晃一は、俳優活動と並行してレーサー活動もしていた事もある。

 女性では三原じゅん子という事例もあるし、現役なら神子島みかと言うモデルも、レーサー活動を行っている。


 彼女の出した結論は、アイドルになる、だった。

 父親は、こう言った。

「やれるだけやって来い。ダメだったときに、帰る場所は用意しておく」

 母親は、こう言った。

「こう見えて、お父さん昔は俳優になりたかったらしいわよ」

 弟は、こう言った。

「姉ちゃんが売れっ子になったら、友達に自慢するから」

 家族の後押しに、美世は涙を流した。

 時は流れ、翌年の春。

 通信制の高校へ進学すると同時に、アイドル事務所の練習生。加えて、事務所の伝手で紹介して貰った、自動車整備工場でのアルバイト。

15歳の美世は、多忙な生活に身を投じるのだった。

一章 追撃のテイルガンナー

 346プロダクション本社ビルから、車で数分。倉庫街に立派とは言えない店舗を構える、内藤自動車。
 従業員二名の小さな自動車整備工場は、346プロダクションの社用車の整備等の面倒を見ている。

 しかし、社用車のみならず、アイドル達の愛車のメンテナンスや売買も行う事も良く有る事。346プロダクション全般が、内藤自動車のお得意様だったりするのである。

 お得意様の営業車であるプロボックスを、慣れた手付きでオイル交換する一人の女性。

「……完了っと」

 得意げに呟きながら、汗と煤にまみれた頬を、軍手をはめた手の甲で拭った。


 原田美世、20歳。内藤自動車の従業員でありながら、346プロダクションに所属するアイドルでもある。

 346プロダクションに入社して、早5年。現在所属しているメンバーの中でも、かなりの古株になる。
 アイドルらしく可愛らしい容姿に加えて、出る所は出てるナイスバディ。担当プロデューサー曰く、もっと売れてもおかしく無い、と断言する逸材なのだが。

 正直な所、売れ筋のアイドルと言えるか微妙である。

 レースクイーンやモデルの仕事など、一定量の仕事はしているが、それ以上に芸能活動に打ち込まないのだ。むしろ、芸能活動より自動車整備のアルバイトの方が、よっぽど熱の入ったものになっている。

 車屋の従業員としては正しいが、アイドルとしては非常に間違っていると言える。


「おっし。そんなら、そのままシャワー浴びて、納車と一緒に上がりで良いぞ」

 内藤自動車の店主である内藤健二は、美世にそう言った。

「え~? 納車と一緒に上がりだと、そのままレッスンになっちゃうよ?」

 不満げに、美世は口を尖らせた。

「お前のプロデューサーが、そうさせろってよ。そうでなきゃ、多分サボるって勘ぐってるぜ?」

 内藤の方には、プロデューサーからの根回しが既に届いていたようだ。

「……ちぇ」

 観念した様に、美世は軍手を脱ぎ捨て、奥の休憩室へ向かう。

「……のぞかないで下さいよ?」

「悪いが、俺は幸子ちゃん一筋だ」

「……変態」

 店主に向かって暴言を吐いてから、美世はシャワー室へ消えて行った。


 内藤自動車の社長、内藤健二。40手前の独身で、無精ひげを蓄えたおっさん。クルマバカを地で行き、そのまま車屋を開業した生粋の車好きである。そして、美世と同じ事務所の売れっ子アイドル、輿水幸子の熱狂的なファンでもある。

 美世は上京した15歳の時から、この内藤自動車でアルバイトしており、内藤は自動車整備のイロハを叩き込んだ師匠になる。

 ロリコンの疑いがあるが、メカニックの腕は超一流なのだ。


 汗と埃にまみれた体を、熱めのシャワーで流す。

(……アイドルは続けるつもり。だけど、あたし自身はアイドルって柄じゃないんだよなぁ……)

 鏡に写る美世の顔は、少々憂鬱な色を浮かべていた。


 仕事着の入ったボストンバッグと領収書を持って、美世はプロボックスに乗り込んだ。

「じゃ、行ってきます」

「おう。それと、明日はオフらしいし、店も休みだ。夜は空けとけよ」

 内藤は、タバコをくわえた口をニヤリとさせた。

「……良いですよ。あたしもそのつもりでしたから」

 美世の口元は、笑みを作る。憂いを見せていた表情は、少しだけキリッと引き締まった。


 346プロダクションと、デカールの貼られたプロボックスを見送って、内藤は根元まで吸ったタバコを、灰皿に投げ入れた。

「……さてと。次は、東郷さんのパンテーラか……」

 次の段取りで独り言を呟いていると、内藤の携帯電話から着信音が鳴り響いた。

「……ほー」

 画面に表示される相手の名前を見て、内藤の目付きは変わっていた。




 PM11:50。

 都会の夜は明るい。眠らない街とは良く言ったもの。
 銀座、六本木、赤坂等々。煌びやかなネオンの光が人々を誘う。

 内藤自動車のガレージ内。使い込まれた蛍光灯が、二台のマシンと二人の人間を照らしていた。

「……久々に出撃しますか」

 美世は、FRP製のボンネットを閉じて、ボンネットピンを閉める。

 日産純正のスーパーレッドに身を染めた、BCNR33スカイラインGT-R。美世が手塩にかけて育てた、自慢の愛機だ。

「……」

 右手で我が子をあやすように、右フェンダーをそっと撫でる。無機物の集合体でしかない自動車と、心を通わせるように。

 カート時代から続けている、美世独特のおまじないだ。
 美世にとって、愛車は我が子と同じ存在なのだろう。

 レカロ製のセミバケットシートに体を滑り込ませる。キーを捻って、メインスイッチオン、イグニッションオン。
 セルモーターのノイズが鳴った直後。

 RB26の力強いエキゾーストが、雄叫びを上げる。
 サベルト製の4点式ハーネスで、がっちりと体を固定する。自分自身が、車の部品の一部になる様に。

(頼んだよ……相棒)

 美世の目は、鋭く研ぎ澄まされていた。




 内藤は、その様子を見つめる。それは、若かりし日の自分と姿を被らせていた。

(……あの頃もそうだったよな。憧れのアマさんに、昼はメカでしごかれ、夜は走りでしごかれる。コイツの趣味は、アイドルには向いてないよなぁ……)

 付き合いの長い従業員に内心で茶化しつつ、内藤は愛機のイグニンション捻る。

 セルモーターが回り、エンジンに火が入る。ロータリー特有のバラついたアイドリングが、工場に響く。

 ソリッドの赤に染まったFC3S。内藤が免許を取って、最初に買った自慢の愛車。20年以上もの間、共に走り続けている。もはや、内藤自身の体の一部と言っても過言では無い。

 何を喋っても、直列6気筒とロータリーの轟音にかき消される。美世と内藤は、アイコンタクトを取る。

 出撃準備完了。二台のマシンは深夜の舞踏会場へと向かうのだった。




 日付が変わり、0:42。
 平日の深夜は、タクシーと長距離トラック程度。昼間の渋滞が嘘の様に空いている。

 谷町JCTから首都高速環状線に乗り、外回りを法定速度でクルージング。路面のわだちや継ぎ目のギャップを拾っては、車体が小さく跳ねる。締め上げられたサスペンションは、巡航速度では少し硬い。

 9号線に乗り湾岸方面へ向かう。100km程度の速度は、美世にとってはクルージングに過ぎない。デジタル表示の追加メーターで、マシンのコンディションを確認。

(水温……81、油温……94、油圧……4kgちょっと。うん……絶好調)

 5速、2000rpm。RB26は、まだその牙を隠している。


 原田美世は、346プロダクションのアイドルであり、内藤自動車のメカニックである。
 そして、首都高の走り屋の一人でもある。

 自らの手で仕上げたR33スカイラインGT-Rで、隙を見つけて夜な夜な走りに繰り出す。美世が、もっとも熱を入れているのが、改造車で公道をぶっ飛ばす事である。

 アイドルどころか、社会人としても失格の行為だが、彼女を止める事は誰も出来ない。

 首都高速辰巳JCTから、二台は湾岸線へ。川崎方面へ向かう下り線に、2台は流れ込む。



(……行くよ!!)

 美世は蹴っ飛ばす様にクラッチを切り、右足を連動させてアクセルを煽り、エンジン回転を合わせる。5速から3速へギアを叩き込まれると、タコメーターは5000rpmを指している。

 フルスロットルと同時に、加速Gが体をバケットシートに押し付ける。ステンレス製のマフラーから放たれる直6エンジンの咆哮が、美世の背筋をゾクゾクと震えさせる。

「さいっ……こー」

 改良を重ねたRB26のエキゾーストに体中を包み込まれると、美世の脳みそからアドレナリンが溢れ出していた。


 内藤は、美世の動きをじっくり見ながら、5速から3速にシフトダウン。5500rpmにタコメーターが跳ね上がる。

「おーおー……。初っ端から飛ばすねぇ」

 R33の丸4灯のテールランプを拝みながら、そう呟いた。
 そして、前に倣ってアクセル全開。タコメーターとスピードメーターが、平行して上っていく。

 フルチューンの13B-REWを、強引に換装したFC3S。
 湾岸で、長年一線級を走り続けるRX-7。歴戦の猛者が駆るマシンは、R33の加速力に勝るとも劣らない。

 時速100kmのクルージングから、流れる景色は一変する。


(……これだよ。この感覚……)

 美世の視線の先に見えるは、道路を照らす街灯と、先を行く一般車両の赤いランプ達。

 3速、8000rpm。素早く4速にシフトアップ。一気に200km近くまで速度が跳ね上がる。

 僅かでもステアリング操作をミスすれば、人も車も粉々の残骸になる。狂ったような暴走行為でしか味わえないスリルが、全身の細胞を漲らせる。

 美世は、スピードと言う麻薬にどっぷりと浸かっていた。




 法定速度で巡航する一般車両を、縫う様に追い抜いて行くR33とFC。超高速のレーンチェンジを繰り返し、アクセルを床まで抜みつける。

「結構煮詰めてるが……まだまだだな」

 内藤はFCのノーズを、美世のR33のテールに滑り込ませ、ロックオン。スリップストリームに入った。

 フルチューンとは言え2ローターの13Bでは、RB26の絶対的なパワーに敵う訳が無い。
 埋められない馬力の差は、前走車の後ろにぴったりと張り付いて、空気抵抗を減らす走法。スリップストリームと呼ばれる、レーシングテクニックを駆使する事だ。

 内藤は長年湾岸を走ってきたが、この技で何台ものハイパワーマシンを仕留めてきた。

 一度張り付いたら、撃墜するまで離れない。

 何時しか内藤のFCに付いた異名は“追撃のテイルガンナー”。首都高で修羅場を潜り抜けてきたベテランの走り屋は、相手が弟子でも一切容赦しない。


 HIDに交換したFCのヘッドライトで、パッシングを繰り返す。
 GT-Rのルームミラーに、5000ケルビンの青白い光が反射する。

(健さん、眩しいって!!)

 美世は視線を細める。しかし、内藤は執拗に煽り倒す。

 二台の車間は、50cm程度。この距離で美世が少しでも減速すれば、即追突。二台諸共あの世に葬られるだろう。
 この距離で走れるのは、互いに信頼があるからに違いない。



 4速8000rpm。速度は220kmを越え、5速にシフトアップ。
 R33のマフラーから、アフターファイヤーが噴き出て、FCのバンパーにかすめる。

「……ほれほれ。そのデカいケツを、突っついてやろうか?」

 セクハラっぽく聞こえる内藤の台詞だが、あくまで車が対象だ。

「もー……」

 美世は口を尖らせた。後ろから散々煽られれば、誰だって不機嫌にはなる。

(前に見た動画に、確かこういう技が有ったんだよね~♪)

 左手をワイパースイッチに手を伸ばし、ウォッシャースイッチをオン。高速域で、ウインドウォッシャーを出せば、その水滴は後方に弾け飛ぶ。水しぶきで後方の車の視界を遮る、通称ウォッシャー攻撃。

 どれ程の効果が有るかは不明だが、嫌がらせ程度にはなる。

「古い手だな……」

 呆れながら、内藤はワイパースイッチをオン。フロントウインドーに降りかかった水滴を、ワイパーで拭った。

 5速、6500rpm。240km。湾岸線に合流し、1分足らずで有明JCTを通過した。2台は東京湾トンネルに入る。

「遊びはここまでだぜ……」

 内藤は、ブーストコントローラーのダイアルを2ノッチ捻って、更にブーストを上げる。

 自身の手でくみ上げた、13B-REW。ブリッジポート加工にT78-34Dのビッグシングルタービンの組み合わせ。ブースト1.2キロで、530馬力を発揮する、フルチューンのロケットロータリー。

 ついに本領を発揮したFC3Sは、更に加速する。左車線にレーンチェンジし、R33を一気にまくる。


 ミラーから光が消え、ロータリーのエキゾーストノートが左から耳に飛び込む。

(……やっぱり……速い)

 一瞬だけ左のサイドウインドーから、FC3Sの影を見る。

(流石に元四天王の一人、追撃のテイルガンナーの異名は伊達じゃないなぁ……)

 美世は、無意識の内に苦笑いを作っていた。

 トンネルを抜け、緩い左コーナーに差し掛かる。

 FC3Sのテールが、少しずつ離れていくが、美世は焦る気は無い。

(……まだまだ。……チャンスはあるから)

 5速7000rpm。時速250kmを越えた。

 迫りくる一般車のテールランプを次々に避けながら、美世はFC3Sのテールを追いかけ続ける。

 2台は大井JCTを通過。250kmでレーンチェンジを繰り返す中、一般車の流れがここで途絶えた。

(……オールクリア)

 内藤の視界に広がるのは、三車線の直線のみ。相棒のスロットルを踏み抜いて、FC3Sに鞭をくれる。

 そして、美世の視界に入る車両は、内藤のFC3Sのみ。

(よし……スリップに入れる)

 さっきのお返しとばかりに、今度は美世がFC3Sの後方に車体を潜り込ませた。



 デジタル表示の追加メーターを、美世はチラリと見る。
(……水温96……油温127。…………行ける)

 MOMO製のステアリングに取りつけたミサイルスイッチに、美世は親指を伸ばした。
 スクランブルブースト。ボタンを押してる間は、過給圧を1.6kgまで上げる。パワーを上げて、勝負をかける。

「……ッ!!」

 限界まで高めた過給圧で、燃焼室に空気を送り込む。更なる加速Gで、美世の体はバケットシートに押し付けられた。

 600馬力以上を絞り出すRB26のパワーに任せて、空気の壁を無理やり押し返す。

 7500rpm、280km。FC3Sのテールに、R33のノーズが迫りくる。

 7700rpm、290km。美世はステアリングを指二本分だけ、右に傾ける。

 スリップストリームから出た瞬間、空気の壁がR33のボディを、ドン、と叩いた。

「……行ける!!」

 美世は叫んだ。同時に、R33がFC3Sを抜きにかかる。

 2台が並んだまま、スピードメーターは300kmを指している。

 だが、R33のコクピットに、警告を教えるアラームが鳴り響いた。

「……!?」

 追加メーターのモニターが、赤く点灯している。

(……水温116の油温145!?)

 急激なパワーをかけたGT-Rのエンジンは、一気にオーバーヒートしていた。一時的にパワーを上げた代償が重く伸し掛かる。

「……ダメかぁ」

 ポツリと呟いて、美世はゆっくりとアクセルを戻す。並走していたFC3Sは、嘲笑う様にR33を置き去りにしていく。

 バシュン、とブローオフバルブが鳴ると同時に、R33は空気の壁に押されて失速していった。




 湾岸線下り方面、大井パーキングエリア。
 周囲に停車しているのは長距離輸送のトラックが2台だけで、R33とFC3Sは明らかに浮いてる。

「……むー」

 美世は、ボンネットを開けて、熱気の冷めないエンジンルームを覗き込む。その表情は、かなり険しい顔を見せていた。

「まだまだって事だな」

 内藤は、からかう様に美世にそう言った。

「もうちょっとで、抜けそうだったのに……。だけど、あれ以上踏んでたら、ガスケットが飛んじゃうし……」

「ブーストどれ位かけたんだよ?」

「……1.6キロ」

「…………そりゃ、そうなるわ」

 内藤は呆れながら、美世に告げた。

「エアコンとっちまえよ」

「……そこまでしないです。街乗り出来ないもん」

「ま、熱対策はチューニングカーの宿命みたいなもんだ。次の課題だな」

「……はーい。せんせー」

 美世は不満げにそう答えた。

 その後、2台は湾岸線を下り、川崎線から横羽線上りへ。150km前後の高速クルーズを満喫しながら、都内へと戻るのだった。




 翌日。AM9:03。
 結局3時過ぎまで起きていた美世は、携帯電話の着信で叩き起こされた。

(……ん~?)

 寝ぼけた脳を無理やり叩き起こして、ディスプレイを見る。
 表示されていたのは、事務所、という文字。

「……はい……原田ですぅ。……あ~……ちひろさんですかぁ……」

 半分寝ている状態での応対だった。

「はい……? あたしを訪ねてきている人が居るんですか?」

 そう言われ、美世の脳みそはようやく覚醒した。

「……解りました。一度事務所に向かいます」

 伝える事だけ伝えて、寝間着から洗いざらしのデニムパンツと、無地のTシャツに着替える。

 顔を洗っている時、眼の下の隈が酷かったのと、すっぴんだという事に気が付く。化粧をする時間が惜しいので、大きめのサングラスを着けて、お気に入りのジャケットを羽織り家を出た。

 美世のアパートから、346プロダクションの事務所まで5分もかからない。
 大通りを避けて、裏道をやかましいGT-Rで通り抜けて、事務所の駐車場に車を停める。でかい排気音のお蔭で、誰が来たかは簡単に解るのだとか。



 正面玄関からすぐに曲がって、応接室に直接乗り込んだ。
 サングラスを外してから、ドアを開ける。

「……おはようございます」

 事務員の千川ちひろと担当プロデューサー。そして、サングラスをかけた謎の美女が、ソファーに座って待ち構えて居た。

「おはよう、美世ちゃん」

 最初に声をかけてきたのは、ちひろだった。

「すまないな、休みの日なのに起こして。どうしても、こちらの方が美世に会いたいって事だったからな」

 担当プロデューサーは、呼び出した訳をそれとなく説明した。

「……こちらの方は?」

 美世と、謎の美女は視線を合わせた。

「初めまして、原田美世さん。あなたの事は、内藤から良く聞いてるわ」

 美女はサングラスを外しながら、ソファーから立ち上がった。

「…………」

「…………」

 プロデューサーもちひろも。思わず見とれて、押し黙っていた。

 その素顔は、美しいだけでなく、周囲の空気を一変させるほどのオーラを持ち合わせている。

「ファッションデザイナーの、緒方明子です」

 そう名乗り、彼女は名刺を差し出した。

「改めて、ご紹介に預かりました。原田美世です」

 美世は左手で名刺を受取ってから、右手を差し出す。
 緒方は、クスリと笑みを見せてから、その手を握り返す。がっちりと握手をした。




 手を合わせた瞬間に、美世は感じ取った。

(……只者じゃない)

 美世の直感は、緒方と言う女性にある確信を抱いた。ましてや、内藤から話を聞いていると言われれば、その筋の人間に間違いは無い。

(……この人、首都高の走り屋。しかも、相当に走り込んでる……)

 自然と、美世の顔は強張っていた。

 対照的に緒方は、笑みを崩さないままだった。そして、プロデューサーとちひろに向けて、こう言った。

「すいません。少し、二人でお話ししたいので、席を外していただけますか?」

「……え、ええ。解りました」

 押し切られる様に、プロデューサーとちひろは、退室していった。


「ごめんなさいね。突然、押しかける形になっちゃって。一昨日、フランスから戻って来たばかりなのよ」

 クスリと笑みを見せながら、緒方はそう言った。

「えっと……。健さんに話を聞いてるって事は、緒方さんも首都高の走り屋ですか?」

 美世は、ずばりと確信に踏み込んだ。

「元だけどね。内藤とは、良く走ってたわ。

 今じゃ仕事の都合で日本に居ないから、出来ないけれどね……」

「そうなんですか。でも、どうしてあたしに会いたいと思ったんですか?」

「……そうね。簡単に言っちゃえば、興味が沸いたからかしらね。
 アイドルと走り屋を両方やってる人なんて、まず居ないじゃない。まして、現役の首都高ランナーなんて、数える程度しか居ない中でね……」

 緒方の言葉は、少し嘆きも含まれている。美世はそう思えて仕方なかった。

「……それに、これでもヨーロッパのアパレル業界じゃ、それなりに名前は売れているのよ。日本に戻って来たのも、次に発表する新作を着てくれるモデルを探すって名目なんだから」

「という事は……?
 うちの事務所から、新しいモデルの候補を選ぶんですか?」

「その通り。

 ただし……条件付きでね」

 緒方の目付きが、少しだけ鋭くなった。

「……条件ですか」

 美世も、表情がキリッと引き締まった。


二章 美世のお仕事


 自宅のアパートに帰って、美世は布団に寝っころがった。
 ぼんやりと宙を見ながら、緒方に言われた条件の内容を思い返していた。

(あたしの首都高の走りを見て、モデルの仕事をどうするか決めるって、緒方さんは言ってた。モデルの仕事と、首都高の走り……。絶対関係無いよね……)

 美世は、何故そんな条件を付けたのか理解に、苦しんでいた。
 単なる興味本位にしては、随分と遠回りになる方法である。仮に、自分の走りを見て駄目だとすれば、大きな仕事が消えてしまうのだ。

(……プレッシャーかかるなぁ。多分、プロデューサーさん達には、言ってないだろうし……)

 美世の顔は、しかめっ面を作っている。
 ウジウジして考えるだけでも無駄だと、自分に言い聞かせて、勢い良く飛び起きた。

(何処か、流しに行こ……)

 リフレッシュするには、愛車で走るのが一番。美世はGT-Rのキーを引っ手繰り、右手に握りしめた。




 国道246号線沿いのとある喫茶店。
 駐車場に止まる真っ赤なFC3Sは、首都高の走り屋で知らなければモグリだ。

 窓際に座っているのは、追撃のテイルガンナーの異名を持つ内藤健二。そして、緒方明子。

 愛機を眺めながら、内藤はコーヒーに口を付けた。

「……久しぶりにここのコーヒー飲んだな」

 この店には、何年ぶりかに訪れた様だ。

「そうね。あの頃は、コーヒー飲みながら深夜近くまで喋って。
 誰かが首都高に向かうと、皆それに続いて首都高に向かった。……懐かしいわね」

 緒方は、コーヒーをスプーンでかき混ぜながら、懐かしむ様にそう言った。

「所でよ……。なんでまた、美世に興味を持ったんだ?
 そりゃ、電話で話した事もあるし、女の若い首都高ランナーは相当に珍しいのもわかっけどよ……」

 内藤は、率直な疑問を緒方に投げかけた。

「それは、こっちの台詞よ。
 大のGT-R嫌いの人間が経営する車屋に、GT-R乗ってる従業員が居るのが不思議で仕方ないわ」

 緒方は、質問に対して質問で返した。

「……そりゃ、成り行きだよ」

 そう言い放ち、内藤はタバコを一本吸い始めた。




「元々、346プロの部長さんが俺の常客だったんだよ。んで、その流れで、346の社用車は俺ん所で面倒見てたんだ。

 そんで、美世が346に入って、メカニックの事も学びたいって事だったから、俺の下でバイトを始めたんだ。かれこれ、五年前の話だ」

「へぇ~……。ずっと一人でやってきたアンタが、他人の面倒みるなんてね……」

「ま、俺もいい年だしな。少しは若い連中を育てねぇと、って思っただけよ。
 俺がアマさんやカワノさんに、色々教わったようにな」

 内藤は、紫煙と共に言葉を吐き出した。

「……じゃ、彼女はお気に入りなの?」

 緒方は、意地の悪い事を聞き出した。

「走り屋としちゃお気に入りだ。チューニングのセンスも高いが、走りのセンスもかなりの物だぜ。
 アイツを、アイドルにしておくのは、はっきり言って勿体ねぇよ」

「フフ……。あんたにそこまで言わせる逸材なんだ」

「そりゃな……。ただ、女として見るには、年下過ぎる。姪っ子みたいなもんだよ」

 内藤はそう付け加えた。ただし、中学生のアイドルの追っかけをやっているおじさんが言うには、説得力があまり無い。




「んで、お前は美世と走るつもりなんだろ?」

 内藤は、緒方に改めて聞き返した。

「そうよ。
 最初は話をしてみるだけのつもりだったけど、直接見て気が変わったわ」

 緒方は、不敵な微笑を見せていた。

「ほー……」

 内藤の目付きは、少しだけ尖った。

「確かに、あなたの言う通りよ。彼女が乗って来たGT-Rの音を聞けば、どれくらいの仕上がりなのかは解るわ。

 それに、あの子は……あの走り屋と同じオーラを纏ってる気がするの……」

「迅帝の事か……」

 内藤の口から出たワードを聞き、緒方はコクリと頷いた。

「あの走り屋だけは、特別よ。
 パープルメテオ、紅の悪魔、真夜中の銀狼……。首都高の名だたるGT-R使いの中でも、飛び抜けて速かった……。

 だけど、その正体は解らないまま……」

「……ああ。アイツだけは、一度も抜けなかったし……勝てる気もしなかった」

「だからこそ、私は彼女と走りたいのよ。……ちょっと、意地悪な条件も付けたけどね」

「条件?」

 内藤は、キョトンとした顔で緒方を見た。




「そうよ。これでも、ファッションデザイナーで名前が売れてるのよ?
 今所属してるブランドは、欧州以外のマーケットにも進出を進めてる。そこで、日本向けのマーケットを私が担当する事になったのよ。

 私のデザインした服のモデルを、346プロダクション所属の子にお願いしようと思ってるわ」

「……それを、美世の走りを見て決めるのか?」

「そうよ。と言っても、もう346プロに頼むつもりだけどね」

 緒方の考えは、もう決まっていた。

「だったら、何でそんな条件出したんだよ……」

「あの子を焚き付ける、適当な理由が欲しかっただけよ♪」

 意地の悪い条件を付けた緒方に、内藤はあきれ顔を見せた。

 一本目のタバコを吸い終えて、内藤はコーヒーを半分飲み干した。

「一応言っとくけど、美世は明日から九州に仕事だから、三日間はこっちに居ねぇぞ?」

 内藤も一応店主なので、従業員の予定は把握していた。

「そうなの……。だったら、好都合ね」

 緒方はワンテンポ間を作ってから、内藤に告知した。

「私のスープラ、メンテナンスしといてね」

 100万ドルの笑顔を作って、そう頼んだ。

(……やっぱな)

 内藤の顔は引きつっていた。




 翌日。金曜の夕方。

 美世は仕事仲間である日野茜と共に、大分県日田市のビジネスホテルに到着した。

「ん~……九州は遠いや」

 ホテルに到着し、茜は開口一番でそう言った。東京を出発し、電車と飛行機を乗り継いで、熊本到着。そこからレンタカーで県境を超えて阿蘇山のお膝元、オートポリスの近くまでに来たのだ。

 本来は仕事なので、担当プロデューサーも着いてくるのが通例だ。

 しかし、大手である346プロダクションは、レッスン生を含めて200人近くのアイドルが所属しているのに対し、プロデューサーの数が圧倒的に足りていないという問題を抱えている。
 その為、社会人組やベテラン組は、各自で仕事に向かう事も多いのである。

「やっぱり、全部車で来た方がいいんだけどな。あたしは、その方が楽なんだけどね~」

 美世の顔には、移動の疲れが見えていた。

「そうなの? だったら、プロデューサーに頼めばよかったんじゃないです?」

「いや~……頼んだんだけどね。経費が余計に掛かるし、危ないから止めろって言われたんだよね~……」

「それはそうですよ。東京からじゃ、丸一日位走りっぱなしじゃないですか?」

「自分の車なら、余裕なんだけどねー。ついでに阿蘇の温泉街で、もう一泊とか最高じゃない?」

「絶対それ最高ですよ!!」

 美世は所属アイドルの中でも古株だけあって、手の抜き方も心得ている。

「……ま、あたしがそういう事を繰り返してたから、飛行機のチケットは往復で渡されるんだよね~」

「あはは……残念です」

 しかし、その目論見はあっさりと破綻していた。茜も、苦笑いを見せる。



「それはそれとして、明日は頑張ろうね」

「わっかりましたー」

 茜は、元気一杯でそう答えた。


 美世が芸能活動で力を入れているのが、レースクイーンだ。車好きの美世にとって、一番適した仕事とも言える。

 現在のチームに所属して、二年目になる。茜より一年先輩になるので、色々教えているようだ。
 もっとも、事務所内では茜よりも相当先輩に当たる上に、年齢も美世の方が年上だ。何かと、頼られる事も多かったりする。

「そういえば、今日はチームの所に顔を出さないんですか? きっと、もうホテルに着いていると思うんですけど……」

 茜はそう言って切り出した。

「う~ん、行きたいのは山々だけど、今日は顔を出さない方が良いよ。
 今回は、天王山だから……ね?」

「えっと、チャンピオン争いでしたっけ?」

「そうそう。チームKSを結成してから、初めての事だって監督は言ってたんだ。
 今回のレースを含めて、残り二戦……」

 美世は、右手に二の数字を作ってから、更に言葉を続ける。

「このレースの結果次第で、チャンピオン争いに踏み止まれるか。それとも、争いから脱落するか……。
 流石に、今回ばかりはチームの空気はピリピリしてると思うよ」

 そう語った美世の表情は、自然と引き締まっていた。




「……そう言えば、美世さんってレースの経験があったんですよね?」

 思い出した様に、茜はそう聞いた。

「まーね……。昔、カートレースに少し出てた程度だよ」

 美世は少し照れた様子で答えた。

「どれ位してたんですか?」

「10歳の時から、五年間。結構いい所までは行ったんだけどね~」

(……全然、少しじゃない)

 と、心の内で茜はツッコミを入れていた。

「こういうの聞くのも、ちょっとアレなんですけど……どうして辞めちゃったんですか?」

 茜は恐る恐るといった感じで、切り出した。

「ん~……簡単に言っちゃえば、お金が続かなかっただけだよ」

 美世の出した答えは、単純な物だった。

「……世知辛い世の中ですね」

「まーね……。
 だけど、カートレースやってる女の子が居るってだけで、アイドルのスカウトに来る物好きが居るんだからさ。面白い話だよね」

「何だか、ドラマチックですね」

「ん~……。確かに、退屈はしてないよ」

 美世は、笑いをみせてそう言った。

「……美世さん。改めて、明日は頑張りましょう!!」

 346プロの元気印は、でっかい声でそう言った。

「うん。もちろんだよ!!」

 美世も、負けじとでっかい声で答えた。




 翌日、明朝。まだ、太陽は顔を出していない。

 美世と茜は、レンタルしたヴィッツで、ホテルを出発。仕事の現場を目指して、県道の峠道をひた走る。
 到着する頃には、太陽が少しだけ頭を出していた。

 大分県日田市にある、オートポリス国際レーシングコース。1991年に開業した、九州唯一の国際サーキット。F1開催も視野に入れた大型サーキットだが、近年はGT終盤戦を開催する事で注目を集めている。

「おはようございます」

「おはよーございます!!」

 朝から元気よく、美世と茜は所属チームのモーターホームに顔を見せた。

「おう。おはようさん」

 チーム代表である、菊地真一が二人を出迎えた。

 二人の所属する、チームKS。
 元ホンダのワークスドライバーである、菊地真一が自ら立ち上げたレーシングチームで、スーパーGTの300クラスに参戦している。

 かつては、ホンダのワークスチームでGT500やフォーミュラーニッポンを戦っていた菊地だが、御年四十路後半。現在は、プライベーターとしてレースを戦う。

 自らオーナーと監督、そしてドライバーを兼任する、レース馬鹿一代。チーム名は、菊池自身の愛称、キクシンから頭文字を取っただけとの事。

 余談だが、一人娘は美世達の同業者だったりする。




 昨日美世の予想した通り、菊地の表情はかなり固い。

「……」

 無言で、昨年のデータを見続ける。

(……気まずい)

 チーム内が、ここまでナーバスな雰囲気になる事は全く無く、美世は少し狼狽えていたが。

「監督、今日も明日もがんばりましょう!!」

 茜はそう言った。言ったのか叫んだのか、判断は難しい所だが。

「……」

 菊地は無言のまま、茜に視線を向けた。

(ああ~……茜ちゃんのバカぁ!!)

 心臓バクバクの美世は心の内で、空気を読まなかった茜を批判した。

「……そうだな。考えるだけ無駄だ」

 菊地は、ニヤリと笑って見せ、データの記載してある資料を投げ捨てる。そのまま椅子から立ち上がって、一言。

「車見てくるから、二人ともゆっくりしてな」

 そう言い残して、部屋から立ち去って行った。

「……?」

 茜はキョトンとしたまま、キョロキョロと辺りを見回した。

「茜ちゃん……命拾いしたね」

 美世はそう伝えたが、茜は何のことやら解らないままだった。




「おはようございます」

 そして、菊地と入れ違いで、もう一人のレースドライバーが入って来た。

「おはようございます、岩崎さん」

「岩崎さん、おはようございます!!」

 二人は、出迎える形で挨拶を交した。

 チームKSのもう一人のドライバー、岩崎基矢。
 昨年から、チームKSでGT300にデビューしたレーサー。先日28歳になったばかりで、近年のドライバーとしては遅咲きの部類に入る。しかし、実力派として注目を集めつつある。

 また、イケメンレーサーとして女性人気も高く、菊地は“俺の若い頃とそっくり”と言い張っているそうだ。

「菊さんは?」

 岩崎は、菊地とまだ顔を会わせていないようだ。

「さっき、出て行きましたよ。車見てくるって言ってました」

 美世はそう伝えた。

「そうか……」

 やはり、岩崎も表情は固い。なにせ、スーパーGT参戦二年目でシリーズチャンピオン争いに加わっているのだ。緊張するのも、無理はない。

「大丈夫ですよ!! きっと、勝てます!!」

 茜は元気づける様に、岩崎に声をぶつける。

「そうだね……。勝つつもりで走らないとね」

 岩崎は、ぎこちなく笑った。




 AM8:10。

 チームKSの参戦マシン。ポルシェ911GT3Rのフラット6に、火が入った。ピット内に、エンジン音が響き始める。暖気を開始し、八時半から始まるフリー走行に備える。

 昨年のデータと照らし合わせ、メカニックたちが、迅速にセットアップに取りかかる。

 監督兼任の菊地は、エンジニアやチーフメカニック、タイヤサービスの人間と打ち合わせを続けている。

 岩崎は、既にレーシングスーツに着替えて、何時でもフリー走行に繰り出せる状態だ。

 レーシングドライバーは、レースを速く走る事が求められる。
 しかし、それを成立させるには、マシンのセットアップが大きなカギを握る。朝のフリー走行でマシンを仕上げて、予選で好タイムを叩き出せればベスト。

 前列からスタート出来れば、勝てる確率も一層高くなる。
 つまり、この朝のプラクティスから、勝負は始まっているのだ。

「……」

 岩崎は、無言でGT3Rを見つめ、集中力を高める。

「岩崎さん」

 まだ私服姿の美世は、声をかけた。

「どうしたんだい? まだ、出番は先のはずだよね?」

「少し、この子の音を聞きたかっただけですよ」

 そう言った美世も、ポルシェの流麗なボディを見つめている。

「そう言えば、原田さんはメカニックの仕事もしてるんだよね?」

「はい。車の大体の調子は、音でわかります」

 美世は、自信満々でそう言った。

「エキゾーストノートは、車の基本だからね。コンディションにしても、走りにしても」

 岩崎はそう追従した。



「……あたしの師匠の受け売りですけどね」

 と言いつつ、美世は舌をペロッと見せた。

「そうか……。原田さんから見て、今日のマシンの仕上がりはどう思う?」

「ん~……」

 美世は、神経を聴覚に集中させる。フリッピングを続ける、ポルシェ特有のエキゾーストノートを聞き、一言。

「……良い音です。きっと、良い走りできますよ」

「……期待に応えられるように、頑張るよ」

 岩崎はそう答えた。

「……岩崎さん。準備は出来ました」

 メカニックが、出撃体制が整った事を伝えた。

「じゃあ、行って来るよ」

「はい。頑張ってください」

 美世は、黙々と準備に取り掛かる岩崎の後ろ姿を、ジッと見いっていた。


「……わっ!!」

「おおう!?」

 突然、後ろから大声を出されて、美世の肩がビクッと飛び跳ねる。

 すぐそこには、茜が居た。

「も~……美世さんは、ちゃっかりしてるんだから~」

 肘で突っつきながら、茜は美世をおちょくった。

「違うよ~。そんなんじゃ無いって」

 美世は、即座に否定した。

「またまた~……。
 だけど、解りますよ。岩崎さん、かっこいいし、運転も上手い。そりゃ、あれで結婚してないって話だから、お近づきになりたくなるのは、よ~くわかります」

 茜は腕組みをしながら、ウンウンと頷く仕草を見せる。

「だからぁ……そうじゃないんだよ」

「ほほう。だったら、どういう理由なんですかぁ~?」

 なおも否定する美世を問い詰める様に、茜は言葉を続ける。

「……波長が凄く合う気がするんだ」

 そう呟いた美世の瞳は、鋭い眼光を見せていた。

「……どゆこと?」

 何のことやら、茜には理解出来ない様だった。




スーパーGT第7戦 リザルト

エントラント:チームKS
マシン:KSポルシェGT3R
予選:7位
決勝:4位(+34.472)




 夕暮れのオートポリス国際サーキット。チームクルー達は、ピットの片づけを始めて、撤収の段取りを開始した。

 つい二時間前まで戦場であったサーキットは、帰宅に向かう観客達の声が少し聞こえる程度まで、静かになっていた。

「あ~……表彰台までもう少しでしたねぇ」

 茜は残念そうに言った。

「惜しかったよね。だけど、8ポイント獲得だから、まだチャンピオンの可能性は残ってるよ」

 そう答える美世も、どこか悔しそうだった。

「お疲れ、お二人さん」

 菊地は、二人の後ろ姿を見つけた様で、声をかけてきた。

「監督、お疲れ様でした!!」

 茜は、夕方でも元気満点だ。

「お疲れ様です。表彰台まで、もう少しでしたね。惜しかったです」

 美世は、率直に感想を述べた。

「まあな。だけど、途中で黄旗が出てセーフティーカーが入っただろ?
 あれのお蔭で、順位を上げる事が出来たからな。結果的には、4位に入れてむしろラッキーだったよ」

 監督らしく、今回の結果をきっちり分析していた。

「そうだったんですか……。チャンピオンは取れそうですか?」

 今度は、茜が質問をぶつける。

「さっき取材でも聞かれたけどな……。正直、難しい所だ。
 ランキングトップとは、12点差のシリーズ3位。もでぎで2位以上がに入るのが最低条件だが、全チームノーハンデになる。

 そうなると、最終戦に勝って初めてチャンピオン争いに加われるって所だ。
 勿論、どのレースも勝ちには行ってるが……。最終戦は、本当に勝ちたいな」

 しみじみと語る菊地の表情には、不安と心配が浮かんでいた。




「お疲れです」

 今度は、岩崎が三人の元にやってきた。三人とも、岩崎へ視線を向ける。

「おう、お疲れ」

 真っ先に、声をかけたのは菊地だ。

 そして、次の瞬間。

「……あー!!」

 茜は、突然大声を張り上げた。

「どうしたの?」

 美世は、反射的に茜にそう言った。

「あたし、監督に聞きたい事があったんだ!!
 ちょっと、こっちに来てくださいよ!!」

 茜は強引に菊地の腕を掴み取って、そのまま引っ張りだした。

「お、おい!? 何だよ!?」

 何が何だかわからないまま、菊地は茜に引きずられていった。


 二人はコントのような光景を見て、残された二人は呆然とした。

「……何なんだ?」

 岩崎は、首を傾げてしまう。

「あたしも良く解りません……」

 美世も、同じく途方に暮れたような様子だ。

「えっと……改めてお疲れ様です。岩崎さん」

「ありがと。中々、しんどいレースだったよ。結果だけ見れば悪くは無いけど、運に助けられた所は多いしね」

 岩崎の表情は、安堵の色を浮かべていた。

「でも、最後の10週の追い上げは凄かったですよ。抜けなかったですけど、皆注目してましたもん。
 きっと、最終戦も良い結果が出せます」

 美世は満面の笑みを見せて、親指を立てるジェスチャーを作った。




「あんまり、プレッシャーかけないでくれよ。
 だけど、もてぎとポルシェは相性がいいからね。チャンピオン争いも有るし、当然勝ちにいくさ」

 岩崎も、親指を立ててそれに答えた。

「そう言えば。原田さんは、R33に乗ってるんだっけ?」

 岩崎は、突如思い出した様に聞いた。

「はい。自慢の愛車です」

 美世は、少し照れ臭そうに言った。

「……いいね。RB26は、俺も一番好きなエンジンだよ。あの直6のサウンドと、一気に吹け上がる感覚は、他のエンジンじゃ絶対に味わえないフィーリングだからね」

 そう語る岩崎に、美世は少しピンと来るものがあった。

「岩崎さんも、GT-Rに乗ってたんですか?」

「……まあね。R34のGT-Rに乗ってた。
 まだ、中学の頃かな。星野一義が乗る、青いGT-Rに憧れたからね。勢いだけで、買って乗ってた。

 GT-Rに乗ってるだけで、自分が世界一速くなったんじゃないかって。そう思う位に舞い上がってたよ」

「R34……カッコイイですよね。今でも持ってるんですか?」

「……一応ね。だけど、乗る機会は暫く無いと思うよ」

 岩崎が、少し複雑そうな顔を見せた事を、美世は見逃さなかった。

「そうですか……」


「……だけど、時が来ればまた乗る事になるだろうね」

 そう呟いた時。岩崎の視線は、刀の様に鋭く尖っていた。

「…………」

 その視線を浴びた時、美世は何も答えられなかった。



少し、休憩します。

三章 緒方明子の正体


 月曜日の昼前。

 向井拓海は慌てた様子で、内藤自動車にバイクを滑り込ませた。

「おっちゃーん!! ヘルプ!!」

 ヘルメットを脱ぎながら、大声で内藤を呼びつける。

「なんだよ、騒がしいな……」

 ガレージから姿を見せた内藤は、憮然とした表情だった。

「おっちゃん、エンジンがおかしいんだよ!!
 全然吹けねーんだ!!」

 拓海は狼狽えた様子で、声を荒げる。
 パープルに全塗装された拓海の愛機、カワサキバリオス2。しかし、ご機嫌が斜めなのか、不整脈のようなバラついたアイドリングだった。

「……ちょっと吹かしてみろ」

 内藤に言われて、拓海はスロットルを開けて空ぶかしする。
 バリオスのエキゾーストノートは、水冷4気筒らしからぬ重たい吹け上がりだ。

「……よし。エンジン止めろ」

 指示に従って、拓海はエンジンを止める。

「キャブ周りが怪しいな。二次エア吸ってる感じの音だ」

 内藤は症状から、そう分析した。

「お~……音だけで解るのはすげえ。流石、職人」

「……おだてたって、修理代は取るからな」

「……ちっ」

 拓海の口から、ついつい舌打ちが出てしまう。

「とは言っても、まだ怪しいって段階だからな。点火系って事も有り得る。何にしても、一回ばらしてみなきゃ解らんから、今日はバイクを置いていけ」

 内藤は拓海にそう宣告した。


「ちぇ……。あたしのバリオスちゃん……」

 がっくりと肩を落とす拓海は、名残惜しそうに愛車を見つめる。

「まあ、15年選手になればガタが出てくるのは仕方ねぇ事だ。またぶん回せるように直しとくから、少しの間は我慢しときな」

「はぁ~……」

 内藤に言われ、拓海は大きなため息を吐き出した。

「……コーヒーでも飲むか?」

 内藤はポケットをまさぐって、小銭を取り出した。

「うん……」

 はっきり解る程、拓海のテンションはダダ下がりだった。


 内藤は不調のバリオスを押して、ガレージの中へ入れる。
 拓海は、周囲を何気なく見ていると、二台のリトラクタブルヘッドライトの車が気になった。

「おっちゃん。こっちは、あいさんの車だよな? ホントたまにだけど、事務所に乗ってきてた気がする……」

 そう言って、外に駐車している赤黒ツートン車両を指差した。

「そうだぞ。そいつは、東郷さんのデ・トマソ“パンテーラ”だ」

「へぇ……。あいさんって、高そうな車乗ってるんだな」

「多分、今なら1000万以上はするんじゃねえか?」

「そんなすんの!?」

 目玉が飛び出そうな金額を聞き、拓海のリアクションはオーバーになる。

「そりゃ、スーパーカーブーム真っ盛りの頃のスーパーカーだからな。このGTSって奴は、日本にも輸入されてたらしいぜ。
 これは、73年式だから……俺より年上だ」

「へぇ……。凄い車なんだ」

「そうだな……CBX1000とかゼッツー。あとは……CB750FのK0か。それと同じ位って例えれば、向井には解りやすいだろ?」

「そりゃ、すげぇなんてもんじゃねーな……」

 感心した様に、拓海は頷いた。バイク好きの拓海に向けて、内藤は希少なバイクで物を例えたのだ。




「でも、何であいさんは、こんなすげえ車乗ってるんだ?」

「さあな。俺の仕事は、車を修理する所までだ。どうやって手に入れたのかは気にはなるけど、追求するつもりはないぞ」

 内藤は、淡々と言った。

「んで、こっちの紫の車は?」

 今度は、リフトに乗せられているJZA70を、拓海は見つめた。

「それは、スープラだ。知り合いの乗ってる車で、メンテナンスを頼まれたからな」

「……」

 拓海は、無言でスープラを見つめる。

「どうした?」

 内藤は、拓海にそう声をかけた。

「……いや。ちょっとだけ気になったんだ」

「バリオスと同じ色だからか?」

「わかんねぇけど……。
 ただ、何かこう……。凄そうな気がしただけだよ……」

 スープラを真っ直ぐに見つめたまま、拓海は答えた。

「……そうか」

 内藤は、素っ気ない態度だった。

「そういや、346プロ行くのに足が無いだろ?」

「……そうだった」

 内藤に言われ、拓海は我に返った。

「東郷さんが、もうすぐパンテーラ取りに来るからな。ついでに乗せてって貰えよ」

「良いのかなぁ……」

 先程、金額の事を聞いた話のせいか、拓海はちょっと気が引けた。




 そんな噂をしていると、内藤自動車にダイハツミラが入って来た。

「こんにちは」

 ポンコツの代車から颯爽と降りてきたのは、東郷あい。噂をすれば何とやら、である。

「丁度良かったな」

 内藤はニヤニヤしながら、拓海を見た。

「……そりゃそうだけど」

 拓海の口元は、引きつっていた。

「……何の話なんだ?」

 あいの頭上に、クエスチョンマークが点滅していた。

「向井の単車が調子悪いから、事務所まで乗っけ貰うって話してたんだよ。だけど、パンテーラの値段聞いて、コイツ乗せてもらうのにビビってんだ」

「ビビってねーよ!!」

 おちょくられて、拓海は声を荒げて反論した。

「ああ。それ位なら、お安い御用さ。何も問題は無いよ。
 所で、私の車の不調の原因は何だったんだい?」

 あいは、本題を内藤に聞きただす。

「案の定、点火系がパンクしてたな。とりあえず、デスビとプラグコードだけ新品に変えたら、普通に吹ける様になったぞ」

「ふふ……助かるよ」

 あいは、嬉しそうに笑みを見せた。




「何にせよ車が古いから、トラブルは付き物だ。寿命の部分を上げたらキリがねぇ。地道に直していくしかねぇな」

「ありがとう。また何かあったら、お願いしますね」

 ニコッと笑って、あいはそう伝えた。

「おう。領収書は、車の中に入ってるからな」

 あいは、パンテーラに乗り込んだ。左側のドライバーズシートに座る姿は、さっき乗って来た軽自動車よりも、随分と様になる。

 イグニッションを入れてから、アクセルを二度三度あおる。燃料チャンバーにガソリンを送り込む、キャブ車独特の儀式だ。
 セルモーターを回し、少し長めのクランキングの後。

 4本出しのマフラーが、ズゴーンと野太いエキゾーストを奏でる。フォード製のV8エンジン、通称クリーブランド351が目を覚ました。
(……すっげぇ音)

 排気音がうるさい事には慣れているが、拓海の馴染んだサウンドとは、また異質のエキゾーストノートだった。
 4気筒の甲高い音が鼓膜に響くなら、V8の野太い音は腹に響く。

「……拓海くん、行こうか」

「はい、お願いします……」

 自分の愛車の何十倍もする高級車に、拓海は恐る恐る乗り込む。
 右側のナビシートに体を滑り込ませると、バルクヘッド一枚を隔てて搭載される、フォード製の5.8リッターV8エンジンの振動が背中に伝わってきた。

「さあ、出発だ」

 あいは、右手で一速にギアを入れる。多少クラッチが重たくても、超低回転からの鬼トルクで、容易く車体を発進させられる。

 アメリカンV8が雄叫びを上げながら、パンテーラは事務所とは反対方向に走り出していった。

 あいと拓海を見送って、内藤は再びガレージに戻る。

「さーて。次は、コイツか」

 その眼に写るのは、メタリックパープルのスープラだった。




 夕方。レッスンもひと段落して、346プロダクションの中は、アイドルやレッスン生の談笑で賑わっていた。

 九州から戻って来た、美世と茜は一度事務所に顔を出した。

「……これが、熊本名物のいきなり団子って奴です!!」

 そう言って、茜がお土産を広げた。事務所の規模が大きいので、お土産の量も結構な量になる。

「と言っても、熊本空港で慌てて買ったんだけどね……」

 美世は、そう付け加えた。

「所で、蘭子ちゃん。天女の衣を羽織った黄金……ってこれで正解?」

「ククク……。紛う事無き求めた宝珠なり」

 美世は、熊本出身の神崎蘭子に聞いたが、ご覧の回答だった。

「……間違いない、だそうです」

 シンデレラプロジェクトの担当プロデューサー、武内はそう言った。もとい、通訳した。

(良かった。何とか正解したみたい……)

 美世はホッと胸を撫で下ろした。あまり解析率は、良く無いようだ。




「なあ、美世。ちょっと相談があるんだよ」

 そう言って、拓海は美世に話しかける。

「どうしたの? 深刻な顔して」

「それがさ。あたしのバリオス、調子崩れちまってよ。今日おっちゃんの所に持ってったんだ。
 おっちゃんはキャブが怪しいって言ってたから、バラさねーと解んねーみたいでよ……」

「あちゃ~……。ということは、何か代車になるバイクが必要って事だね」

「さすが美世。話が早くて助かるぜ」

 拓海の表情は、パッと明るくなった。

 美世は少し考える素振りを見せる。

「……じゃあさ。直るまで、あたしのVTR使いなよ。あのバリオスと比べると、あんまり速く無いけど」

「……良いのか?」

「バイクの代車は無いんだよ。前に足で使ってたスクーターは、売っちゃったし」

 今の拓海には、美世の姿が女神に見えた。

「いや~、助かるわ~。神様、仏様、原田美世様々だな」

「た、だ、し……転んだら、どうなるかは解るよね?」

 満面の笑みを作って、美世はそう釘を刺した。

「わ、わかってるよ……」

 拓海の表情は、一変して硬直した。




「……それはそうとよ。
 丁度、おっちゃん所であいさんと鉢合わせたから、事務所まで乗っけて貰ったんだ。あの車すっげぇな。パン……なんだっけ?」

「……パンテーラだね」

「そう、それ!!」

 拓海は、案の定名前をド忘れていた。

「カッコイイよね。フルエアロのGT5仕様じゃ無くて、オーバーフェンダーのGTSなのが渋いよ」

 美世は、うっとりした表情でそう語った。

「あいさんが、ちょっとドライブで遠回りしてくれてさ。あのズドドドドって音が、たまんねぇよ。また乗せてくれねぇかなぁ……」

 拓海は、アメリカンV8のエキゾーストノートが、随分気に行った様だ。


「……異次元の言霊?」

 蘭子は、キョトンとしてそう言った。二人の会話が、どうも解らないらしい。

(……あなたがそれを言いますか)

 心の内で、武内はポツリと呟いた。

「大丈夫だよ。あたしも、美世さん達の話は良く解らないから!!」

 茜は胸を張ってそう言った。ただ、威張りながら言うセリフでは無い。




「あと、おっちゃん所に、もう一台凄そうな車が有ったんだ。知り合いの車だって、おっちゃんは言ってたけど」

 拓海は、更に会話を弾ませる。

「へぇ。何て車?」

「スープラ。しかも、あたしのバリオスと同じ紫だったから、妙に気になったんだ」

 紫のスープラと聞いた瞬間、美世の顔は少し険しくなった。

「……それって、こういうライトだった?」

 美世は、リトラクタブルヘッドライトの動きを、手で真似しながら聞きただす。

「そうそう。ライトの開く奴」

「…………」

 拓海が追従した瞬間、美世は黙り込んだ。


「……どうしたんだよ?」

 美世の不穏な仕草が、拓海は気になった。

「……少し、気になる事が出来たから帰るね。明日、鍵と一緒にVTR渡すから!!」

 必要な事だけ伝えて、美世は事務所を飛び出した。

「……お、おい!?」

 拓海は呼びとめようとするが、美世の影は既に無くなっていた。




(……パープルのJZA70スープラ。しかも、健さんの知り合い……)

 拓海の言ってた車両に、美世は勘付いた。
 駐車場まで駆け下りて、堂々と鎮座するGT-Rに乗り込む。

「……シャドウアイズ」

 そう呟いた。
 ミラーに映る美世の目付きは、首都高を走る時のそれだった。


 空は薄暗くなり、内藤自動車の工場内は蛍光灯の光が灯っている。
 パープルメタリックのスープラは、既にリフトから下ろされている。艶無しのカーボンのボンネットは開いており、内藤は慣れた手さばきで、6本のプラグを交換していく。

 作業を進める過程で、遠吠えの様にRBのエキゾーストが聞こえてきた。

「……帰って来たか」

 ポツリと言った。
 赤色のR33が内藤自動車に滑り込んできたのは、その五分後だった。

「健さん!!」

 車を停めて、美世は脇目も振らないで、ガレージで作業を進める内藤に駆け寄った。

「おー、帰って来たか」

 内藤の手は全く止まらない。

「……そのスープラの持ち主は、緒方さんなんでしょ?」

「そうだ」

「緒方さんが四天王の一人……シャドウアイズだったんだね」

 美世は断言した。

「そう言うこった。まぁ、隠すつもりは無かったが、緒方が日本に居ない以上は走る事はねぇしな」

「……点と点が繋がったよ」




 今の美世に見えて居るのは、首都高で長きに渡ってトップランナーであった、モンスターマシンだけ。

「……解るか?」

 内藤は、そう聞いた。

「うん……。間違いなくホンモノのマシンだね」

 極限まで煮詰められたチューニングカーに纏う、独特のオーラ。数多くの歴戦を潜り抜けてきた、地上の戦闘機の匂い。

 自動車と言う機械に魅せられた人間だけが解るその雰囲気を、美世は感じ取っていた。

「……走るのは明日の夜だ。緒方は、今夜は予定があるらしい。
 それに、九州から帰ってきたばかりだから、お前も疲れがあるだろ。今日は、ゆっくり寝ておけ」

 内藤はそう告知した。

「…………」

 美世は、無言でコクリと頷いた。




 同日、深夜。
 一通り営業を終わらせた緒方明子は、六本木のバーでカクテルを飲んでいた。

「お隣、よろしいですか?」

 そう声をかけられ、緒方は振り向く。

「……久しぶりね。柊さん」

「お久しぶりです……先輩」

 346プロダクションの最年長。柊志乃は、緒方を訪ねてきたのだ。

「良く覚えてたわね。仕事が終わったら、何時もこのバーに寄る事」

 緒方は、志乃の読みに関心しきりだ。

「当然ですよ。私もご一緒させて貰ってましたから」

 志乃は、得意げだった。

「何時、日本に戻って来たんですか?」

「先週かしらね。と言っても、仕事半分遊び半分よ」

「そうですか。
 だけど、ファッションデザイナーの緒方明子が、346プロに来てたって聞いた時はビックリしましたよ」

 志乃は、自然と笑みを作っていた。

「そう言われてもね……。346プロに顔を出したのは、単なる気まぐれよ」

 緒方の答えに他意は無い。


「……もう十何年前の事だから、うちの事務所で貴女を知ってる人は居ないんでしょうね。

 パリコレでも活躍した、伝説の日本人ファッションモデル“アキ”。世界的にも知名度は高いけれど、メディアに出る事が全く無くて、私生活は謎に包まれていた」

「昔の話よ……」

 緒方は、深い溜息を吐き出した。

「……だけど、まだ駆け出しのモデルだった私にとっては、憧れの存在でしたよ。
 今も私の中で、アキの存在は色あせていませんから」

 志乃は、素直にそう言った。

「…………」

「今じゃ、私が346プロでも一番の古株で、一番年上ですもの。こう言うのも、何ですけれど……年取ったって思いますね」

「……嫌味かしら?」

「どうでしょうね?」

 緒方も志乃も、自然と口元が緩んだ。


「……とは言っても、本当にそう思うわ。もう十二年も経つのよね。
 私達が所属してたモデル事務所は、346プロダクションに吸収されて、アイドル事務所に鞍替えした……。

 だけど、私はアイドル業をする気は更々無かったわ。だから、モデルを引退。ファッションデザイナーに転身して、裏方になったわ」

「346に移籍して……。礼子が移籍してきて。楓ちゃんが入って……。気が付いたら、外様の人間が一番の古参。変な話ですよ」

 二人揃って、しみじみと語った。

「良いじゃない。それだけ、志乃が認められてるって事よ」

 緒方は、太鼓判を押した。




 注文したカクテルが出された所で、緒方は志乃に質問をぶつけた。

「話は変わるけど、原田美世ちゃんって居るわよね。
 彼女は、アイドルとしてどういう感じなの?」

 そう聞かれ、志乃はカクテルグラスを右手で持った。

「彼女は、346の中じゃ古株ですけど……正直、売れ筋の子では無いんですよね。
 ただ……不思議とレギュラーの仕事は有るんです。何ていうか、アイドルとしては掴み所が無いんですよね……。

 それに、ベテランらしく他の子も面倒も良く見てます。でも、慕ってる子の大半は、彼女よりも全然売れているんですよね。

 何ていうか……周囲との距離感の作り方が、凄く上手な子ですよ」

 志乃はそう評して、カクテルを一口飲んだ。

「……言ってみれば、器用って事?」

「その表現が、一番適切なのかもしれませんね」

 緒方の例えに、志乃は納得の表情を見せた。

「でも、どうして美世ちゃんが気になるんですか?」

「……あの子の働いてる車屋の社長が、古い友人なのよ。だから……ね」

 緒方の見せる笑みは、何かが確実に含まれている。




「……フフ。やっぱり、美世ちゃんは美世ちゃんのままね」

 志乃はクスクスと、小さく笑った。

「……?」

 緒方はキョトンとした顔で、志乃を見つめる。

「今では大人しくなってるけど、以前は346プロ始まって以来の問題児って言われてたんですよ」

「そうなの?」

「そうですよ。門限破り、レッスンサボり、性質の悪い悪戯……。
 今所属してる子達にも、問題行動する子は居るけれど……美世ちゃんに比べたら可愛いレベルですもの」

「……どんな事してたの?」

 緒方は、その問題行動に興味深々だ。

「一番最近だと……。

 346プロの所属アイドルで、人気投票が有ったんですよ。ファンの人達では、総選挙って呼ばれてたんですけど……。そういう時って、やっぱり事務所の空気はナーバスになってるんです。

 皆がピリピリしてる中で、何人かに声をかけてたんです。
 そしたら、皆で協力して事務所のワゴン車を選挙カーに改造して、皆で乗り合わせて事務所に出勤ですよ。しかも、書いてある名前は、社長の名前……。

 あれは、みんな呆れてましたね……」

「……手が込んでるわね」

 緒方は、苦笑いするしかなかった。

「後でプロデューサー達に、思いっきり怒られてましたけどね……」

「……面白い子ね」

「だけど、憎めないのは……人柄が良い証拠だと思いますよ。私にとっても、可愛い後輩ですから」

 志乃は、妹を語る様な口ぶりだった。


四章 シャドウアイズ


 内藤自動車のガレージで、美世は愛車のエンジンオイルを変えている。

「……」

 作業を進めながら、横目でパープルのスープラを少しだけ見る。
 首都高で長らくトップを走り続けたマシンに、自らの手で仕上げた愛機が何処まで通用するのか。そして、自分のテクニックが、どれ程のレベルなのか。

 美世の顔に浮かぶのは、確かな自信なのか。或いは、まだ見ぬ強敵への不安なのか。

(……JZA70スープラとBCNR33スカイラインGT-R。
 車両のポテンシャルで言えば、明らかにGT-Rが有利だけど……。それは、健さん達が全盛期の頃から解りきっていた事。

 歴戦の猛者なら、GT-Rを相手にする事なんて慣れてる筈……)

 右手でドレンボルトを取りつける。手で絞めつけた後、メガネレンチで適切なトルクで増し締めをする。
 RB26のオイルパンの材質は、アルミの鋳造。ネジ山を痛めやすい為に、オイル交換一つとっても手順が有るのだ。

(あたしのやる事は一つ……。この子を信じて、自分の走りをする)

 メカニックとして。走り屋として。美世は自身のプライドを賭ける。

「……おーい」

 呼びかけられ、ハッとしながら美世は振り返る。

「……ったく。集中するのも良いけど、仕事はやれよ?」

 内藤は、美世にそう注意を促す。なにせ、今整備しているのは、マイカーだ。

「……すいませーん」

 拗ねた様に、心のこもっていない謝罪をした。

「それにしてもよ。何時に無く、気合入ってるじゃねぇか」

「相手は、元四天王の一人ですから。緒方さんが本気で来るのなら……こっちも本気で走らないと」

 そう語る美世の目付きは、真剣だ。

「……その心意気やよし」

 美世を見つめる内藤の表情も、引き締まっていた。




 そして、夜。時計は11時を指していた。
 緒方は、内藤自動車にタクシーで乗り付ける。待ち構えるのは、美世と内藤。

「こんばんわ」

 笑みを見せる緒方。ノーブランドのジーンズとジャケットを華麗に着こなす様は、流石は元トップモデルだ。

「こんばんは、緒方さん」

 社交辞令程度に、美世は挨拶をした。

「おう。キッチリ仕上げといたぞ」

 内藤は、普段と変わらず淡々とした様子だ。

「ねえ、内藤。あなた、私のスープラの隣に乗ってくれる?」

 緒方は内藤にそう提案した。

「何でだよ……」

 内藤は、その案件には不服そうだ。

「美世ちゃんの走りとか車の事とか、解説して欲しいのよ。
 しっかり見極めるなら、解説者が必要じゃない?」

「マジかよ……。四十路寸前のおばさんの助手せ……」

 台詞を言い終わる前に、緒方がつま先で、スネを蹴りつけた。ゴツン、と鈍い音が聞こえると同時に、内藤は黙り込むしかなかった。

「……何か言ったかしら?」

 ニコニコしながら問い詰める緒方だが、後ろには黒いモヤモヤが漂う。

「イイエナンデモゴザイマセン……」

 引きつった顔で、内藤はそう言うしかなかった。なお、緒方の容姿で実年齢を当てるのは不可能なレベルである。
 20歳の美世と並んでも、緒方の方が少し年上に見える程度の容姿だ。

「……今のは健さんが悪いよね」

 美世は、ばっさりと切り捨てた。

「……そういう訳だから、あなたの走りを後ろから見極めさせて貰うわ」

 緒方の目付きは、打って変った様に、鋭くなっていた。

「……解りました」

 美世の顔付きも、ぐっと引き締まった。




 深夜の首都高と言う舞踏会場。真夜中のシンデレラが乗るのは、魔女の用意した馬車ではない。
 獰猛な力を誇る鉄馬を、自ら手なずけるのだ。直列6気筒のエキゾーストノートは、己の牙を見せつけるかの様に雄叫びを上げる。

 RB26と1JZ。どちらも、ツインカムの直列6気筒のターボエンジン。
 メーカーは異なるが、日本のチューニング界を支えてきた名機である。

 首都高速2号線から、一ノ橋JCTへ。C1外回りに合流。

 先行するR33GT-Rは、ハザードを三回光らす。ペースを上げる合図だ。

(……行くよ)

 3速にギアを入れて、アクセルをじわりと踏み込む。
 デジタルのブースト計は、1.2kgを表示。加速Gで、体をバケットシートに押し付けられる。

「ペースを上げたわね……」




 緒方も、ギアを4速に落として、スープラのアクセルをじっくりと踏み込む。

 1JZ-GTEに2JZの腰下を組み合わせ、3リッターまで排気量を上げる、通称1.5J仕様のエンジン。
 更に、HKS製のT51Sと言うビッグシングルタービンを組み合わせる。
 ブースト1.7キロで700馬力を発生するハイパワーを、80スープラ用のゲドラグ6速を介して、リア二本のタイヤを蹴とばす。

 下手な踏み方をすれば、簡単にホイールスピンを起こしてコンクリートの壁とディープキスする所だ。
 しかし、路面に余すことなくパワーを伝える辺りは、ハイパワーFRの乗り方を心得ている。

 二台のマシンが、高速のクレイジーランデブーを開始した。

「……彼女のR33は、どんな仕様なの?」

「GT2530ツインに、カムは250の252だ。ピークパワーよりも、レスポンスを重視してセッティングして有るから、C1とかサーキットは走りやすい筈だ。
 ただ、軽量化してないからクソ重たいのが欠点だな。それでも、300キロオーバーも狙えるから、全体の仕上がりは相当ハイレベルだ」

 緒方の質問に、内藤はそう評した。裏を返せば、美世のチューニングセンスの高さを認めているとも言えよう。

「……そう」

 緒方は、R33の丸二灯のテールを睨みつけた。




「……一般車の抜き方も上手いわね。間合いの取り方も丁寧だし、スパッと横に出て、一気に前に出る。
 ステアリング操作も、急激じゃないわ」

「……霞ジャンプと逆バンクで、面白い技が見せるぜ」

 内藤は得意気な顔で、緒方に言い付けた。


 霞が関トンネルの手前には大きなギャップが有り、200kmオーバーで進入すると車が一瞬浮き上がるのだ。そのギャップをクリアしながら、フルブレーキングで霞が関トンネルの、カントの無いコーナーに飛び込む。

 霞ジャンプと逆バンクと呼ばれ、首都高速環状線で最大の難所と言われる。

 度胸とテクニック。そして、マシンの仕上がり。全てが揃わなければ、攻める事の出来ない、デンジャラスなスポットだ。

 谷町JCTを通り越し、緩い右コーナーに差し掛かる。

(……難所の霞ジャンプ)

 4速全開のまま、美世は左足をブレーキペダルに伸ばす。軽くペダルをダブって、ブレーキラインの油圧を上げておく。
 プレブレーキと言われるレーシングテクニックで、サーキット等でハードブレーキングする際に、多用されるテクニックだ。

 右コーナーをクリアし、ジャンピングスポットに飛び込む。

 僅かにアクセルを緩めて、左足でブレーキの動力をコントロール。
 エキゾーストが途切れないまま、R33のブレーキランプが点滅する。

「……っ!!」

 一瞬浮いた様な感覚から、ドン、と四輪のサスペンションがフルバンプする。




 ここで、美世は左足をクラッチペダルにスイッチ。同時に、右足でブレーキペダルを踏み抜いた。
 対抗ピストンの純正ブレンボに装着されるニスモのスポーツパッドが、ローターを挟み込む。

 鉄製のローターの表面は摩擦熱で真っ赤に焼けて、発火寸前の温度まで上昇。ABSの制御のお蔭で、タイヤは転がり続ける。重量のある巨体を、一気に140キロまで減速させる。

 右足のかかとでアクセルを使い、エンジン回転を合わせて、リズミカルに3速にシフトダウン。きっちりと、ヒールアンドトゥを使いこなす。
 ジワリと左にステアリングを切り、再び左足をブレーキペダルにスイッチ。ブレーキペダルを踏み込んで、フロントに荷重を乗せる。

 トンネルに反響するエキゾーストは途切れない。だが、ブレーキランプはチカチカと点滅を繰り返す。

 それが、何を意味するのか。この二人に、解らない筈が無い。

「……左足ブレーキ!?」

 緒方は、思わず口走った。

「面白い攻略方法だろ。
 車が浮き上がる瞬間と、曲がり込むコーナーで左足ブレーキを使って、4輪の荷重をコントロールしてんだ。
 C1で左足ブレーキを使うのは、世界中でもあいつ一人だ」

 内藤はそう解説した。
 特徴的なレーシングテクニックを使い、C1を攻略する。美世独特の走り方に、緒方は驚きを隠せない。

 二台は、霞が関トンネルを抜け三宅坂JCTを通過。皇居の横を通り過ぎる、テクニカルなセクションに入る。




 スープラは、R33に少しづつ離されていく。

「……彼女、何か競技でもやってたの?」

「カートを5年やってたらしい。左足が器用なのは、そのお蔭だろうな。
 それに、仕事が休みの時はサーキットも走ってる」

「なるほどね……。確かに、あの荷重のコントロールの仕方は、普通の運転では身に付かない筈よ」

 緒方は舌を巻いた。

「……ま、このスープラとC1の相性は最悪だからな。
 美世もマージンを残して走ってるが……今日ばかりは相手が悪いな」

 内藤には解っていた。
 環状線では、緒方のスープラは乗りにくい。言い換えれば、相性の悪いコースでも、緒方はついて行っているのだ。

「……湾岸か横羽に入ればこっちの物よ……」

 緒方は、不敵な笑みで、R33のテールランプを睨みつける。




 江戸橋JCTを真っ直ぐに通り越し、4速で抜ける緩やかな右コーナーをクリア。ブレーキングから、3速にシフトダウン。箱崎インターの左コーナーを、アウトからインをなめて立ち上がる。

 ブラインドコーナーの先は見えない為、立ち上がりはインベタでクリアする。

 本来コーナリングは、アウトインアウトのライン取りが一番理想とされるが、それはあくまでサーキットという条件での話だ。

 加速体勢に入った所で一般車が居たとすれば、フルブレーキングしながら避けなければならない。下手すれば、一般車に追突して多重事故。皆揃って火葬場に直行と言う事も十分に有り得る。

 ストリートを攻める時は、マージンを取って走る必要が有る。つまり、いざと言う時の為の、逃げの一手を確保しておかなければならない。
 インベタで立ち上がるラインだと、必然的にクリッピングポイントが、コーナーの奥をなめる格好になる。

 脱出速度と逃げの一手を両立する、首都高ならではの常套手段だ。

 更に速度を乗せ、箱崎JCTの左側の合流点から、首都高速9号線へ。俗称、新環状線。C1よりもスピードが乗る、高速コーナーが連続する。

 200キロ近いスピードで、ブラインドコーナーをクリアしつつ、一般車両を抜き去る技量が求められる。

(一般車は少ない……。ロングホイールベースのR33は、高速域のスタビリティが優れているんだよ!!)




 新環状エリアは、美世とR33が一番得意とする高速コーナーエリアだ。
 しかし、ミラーに反射する、青白いヘッドライトは、一定の間合いを保っている。

(……突かず離れず。こういうのが、一番不気味なんだよね……)

 美世の背筋に、冷たい汗が流れ始めていた。

(……きっと、辰巳を過ぎてから、湾岸線で仕掛けてくる。湾岸でGT-Rと互角に勝負できる、唯一の70スープラ。
 シャドウアイズは、そう呼ばれてたらしいし……)

 そう勘ぐっていた。


「綺麗な走りね……」

 霞が関のトンネルを抜けてから、無言だった緒方が舌を巻いた。

「一応、基本の走り方とラインは教えたが、その先はあいつが自力で応用したよ。
 伊達に、レース経験はつんでねぇってこったな」

 内藤の言葉を聞き、緒方は何を思うのか。冷たい瞳のまま、口元はニヤリと歪めたままだ。

(……シャドウアイズの由来。アイツはそれを知らねぇからな……)

 内藤は、先行するR33の影を見つめる。


 辰巳JCTから、湾岸線下りへなだれ込む。

 右コーナーを3速でクリア。立ち上がって、4速フラットアウト。

(……ブースト1.2……水温97……油温122か)

 横目でコンディションを確認。
 再び前を見つめると、水銀灯が列を成す長く広いアスファルトが、美世の視界に広がる。
 ここまでハイペースを保ってきたRB26は、水温油温とも上がっている。このまま踏み続ければ、オーバーヒートは免れられないが。

「……ごめんね。今日だけは、踏ん張って……」

 祈る様に、美世は呟いた。




 GT-Rが5速に入る頃に、スープラは6速にシフトアップ。

(……ここからが本番よ)

 湾岸のストレート区間に入ると、緒方のスープラは本領を発揮する。
 JZA80用ミッションの6速のギア比は、0.818。更に、デフケースごと80スープラRZ用に載せ替え、組み合わせるファイナルは3.266。

 6速で7000rpmまで引っ張れば、300キロを僅かに超える。レブリミットの8200rpmまで吹けきると、320キロオーバー。
 200マイルを視野に入れた最強の70スープラは、ここでGT-Rを追いたてる。

 メーター読み、250キロ。

 緒方はウインカースイッチに手を伸ばし、ヘッドライトを消した。

(……こりゃ、コイツ本気になってるな)

 助手席の内藤は、真っ暗闇の中で顔を硬直させる。


 緒方がヘッドライトを消した理由は二つ有る。

 一つ目は、リトラクタブルヘッドライトを閉じて、僅かでも空気抵抗を減らす事。もう一つは、一般車に自分の存在を確認させない為だ。

 夜の運転の際、後方から迫る車を確認するには、ミラーからヘッドライトの光だけで判別するしかない。一般車両が光を発見し、慌てて変な動きをされては、貰い事故に巻き込まれるかもしれない。

 余計な動きをされない為の、ブラインド走法。
 この瞬間、緒方はスープラと共に、真っ暗闇に吹き抜ける風になるのだ。




 ミラーを見るのは一般車だけでは無い。

「……消えた!?」

 スープラのヘッドライトを確認出来なくなったのは、美世も同じだ。

(……ライトを消してるのかな)

 その真意までは解らないが、美世は後ろからスープラが迫っている事は解る。

(どこから仕掛けてくるの……?)

 そう。見えないという事は、何処から抜きに来るのか、解らないのだ。

 一瞬で影が抜き去って行く。
 このブラインド走法から、緒方にはシャドウアイズと異名が付いたのだ。

 5速でアクセルを踏み続ける。だが、ここまでのハイペースがたたり、水温107℃、油温129℃。

 280キロを超えた辺りから、スピードの乗りは鈍くなり、ステアリングの接地感が無くなっていく。

(……少しヤバいかも)

 美世が焦りを感じ始めるのは、RB26が熱ダレの兆候を見せるだけではない。
 迫りくるプレッシャーを、背中に受けているからだ。

 迫りくる、大型トラックのテールランプは、追い越し車線を走っている。
 GT-Rは一番右車線から、真ん中へレーンチェンジ。追い抜くと同時に、風を切る音が聞こえた。

(……隣!?)

 美世は、左サイドウインドウに、影がかかっているのを見た。

「悪いわね……ちょっと本気にならせてもらったわ」

 得意げに呟いた緒方は、GT-Rの真横に並んで、ヘッドライトを点灯させた。
 メーター読み290キロ。スープラはR33を、直線でぶち抜いた。

 緒方はなおも、アクセルを緩めない。
 300キロを超えても、加速を続けるモンスターマシン。

 遠ざかって行くスープラの四角いテールランプが、美世の瞳に写る。290キロあたりで、GT-Rの加速は頭打ちになっていた。

(……水温116……油温139。ここまでだね……)

 美世は、小さく溜息を吐いた。
 そして、GT-Rはゆっくりと速度を落としていく。

「……お疲れ様、相棒」

 労う様に、美世は相棒のハンドルを撫でていた。




 大井パーキングエリアに美世が入った時、スープラはとっくに停車していた。

 内藤は外に降りてタバコを吸い始め、緒方はスープラの側に立って待ち構えて居る。
 空いているスープラの隣にGT-Rを停車させる。

「……お疲れ様です」

 そう言いながら、美世は緒方に歩み寄った。

「ええ……良い走りを見せてもらったわ」

 緒方は、笑みを浮かべながら美世をねぎらった。

「ありがとうございます」

 緊迫感から解放されたのか、美世の表情はほころんだ。

「……霞ジャンプの攻略方法は驚かされたわ。
 左足ブレーキを使うって発想が、普通は無いわ。大体の奴は、度胸一発で勝負する所だけど、あなたは違う……。
 それに、一般車の抜き方もライン取りも、マージンを取っている。リスクを抑えるという事は、ストリートを走る上では鉄則。

 信用出来ない奴とは一緒に走れない。下手に事故でもされたら、こっちが迷惑だもの。あなたの走りは、信用できるわ」

 そう言って、緒方は太鼓判を押した。

「また、一緒に走って貰えますか?」

「勿論よ。是非ともお願いしたいわ」

 緒方は、右手を差し出した。美世は両手で、しっかりと握り返した。


 内藤は無関心を装いながらも、チラチラと二人を見る。

(……俺、空気だな)

 溜息交じりで吐き出した紫煙は、風に煽られてふわりと消えて行った。




 三日後。
 346プロダクションの事務所は、やいのやいのの大騒ぎだった。

 プロデューサーが作った企画書は、何人も回し読みしたせいで、既にシワクチャになっている。

「……あのフランスの一流ブランドが、日本に向けて新作をリリースする。そのモデルを346プロダクションで請け負ってほしいって話だからな。
 こっちも、気合入れてやらないと……」

 大仕事のオファーに、プロデューサーの鼻息は荒い。

「……緒方明子さんから、直々にオファーを頂いてるんです。
 先日来ていただいた時は、私達も知らなかったんですけどね。あの人が、あのブランドのデザイナーだったなんて……。
 私も詳しくは知りませんけど、志乃さんが緒方さんの古い知り合いらしくて……」

 ちひろは、聞いた話をそのまま伝えた。

「へぇ~……。まぁ、うちとしては嬉しい限りだけど」

 プロデューサーは、そう答えた。

「誰にこのオファーを頼むかな……。
 モデル上がりのまゆか美嘉か……。いや、あいさんや真奈美さんの大人組も捨てがたいし……」

 誰を抜擢するか。プロデューサーの心は揺れ動く。

「そういえば……緒方さんから、是非使いたいってご指名が、一人だけ来てるんです」

「……志乃さんとか?」

 プロデューサーの予想はそうだった。

「いえ……美世ちゃんです」

 ちひろはそう答えた。
 その裏ではどういう出来事があったのかは、この二人が知る訳が無い。




 その日の内藤自動車。
 路肩に押し出された、紫のバリオス。拓海はキーを捻って、恐る恐るスターターボタンを押す。

 セル一発で、4気筒エンジンが目を覚ました。高周波の様に甲高い、クォーターマルチのアイドリングが、復活していた。

「……おっしゃあ!!
 あたしのバリオスちゃん、ついに復活だ!!」

 興奮冷めやらぬ、拓海のテンションは、レッドゾーンを吹け切っている。

「キャブもオーバーホールしたし、CDIとプラグコードも新品に変えたからね。二万まで、きっちり回るよ」

 得意げに美世は言った。
 軽くアクセルを捻れば、タコメーターは軽やかに踊り、シャシーブラックで塗装された等長フルエキゾーストマフラーが、ソプラノの歌声を奏でる。

「この音だよ……。もう最高~……」

 イケナイオクスリを使っているかの様に、拓海の表情はとろけている。完全にアイドルの顔では無いし、見せてはいけないレベルだ。

 慣れた手付きでヘルメットを被り、拓海は颯爽とバリオスに跨った。

「んじゃ、ちょっくら試走に行って来るわ!!」

「えっ!? 何て言ったの!!」

 大声を張り上げるが、既にアクセルを煽っている為、何を言ってるか美世には聞こえていない。

 我慢しきれない拓海は、既に一速にギアを入れてクラッチを繋いでいる。

 美世が振り向いた時には、甲高いエキゾーストだけを置き去りにして、バリオスは公道へ出撃していた。

「……まったく。拓海らしいや」

 呆れ半分、微笑ましさ半分で、美世は笑っていた。

「さーて、残りのお仕事もがんばりますか!!」

 そう言って、再びガレージの中へ戻るのだった。


五章 夢見の生霊


 政治家や巨大企業の役員が御用達している、赤坂の一流ホテル。

 宴会場の入口には彩り鮮やかな花が飾られ、パーティーに参加する人々は業界の一流ばかり。
 大手芸能プロダクションの重役や、絶賛活躍中の芸能人、CDを出せば必ず当たるアーティスト等。男性は高級なタキシードで、女性は彩り鮮やかなパーティードレス。

 正装で身だしなみを整え、談笑に花を添える。


 プロカメラマン、君嶋陽平の活動20周年パーティーが、華々しく行われていた。


 君嶋陽平、45歳。

 女を撮らせれば右に出る者は居ないと言われ、数多くのアイドルや女優を被写体にしてきた。

 彼の手がけた写真集やグラビアで、ブレイクの足掛かりを掴んだ芸能人は数多く、フリーランスながら、幾つものプロダクションからの依頼を一手に引き受ける。
 当然ながら、346プロダクションとも、付き合いは長い。

 カメラマンとして、もっとも成功していると言われる人物だ。




 しかしだ。パーティーの主役の心情は、冷め切っていた。

(……つまらんな)

 歯が浮きそうなお世辞ばかりの、敏腕プロデューサー。営業スマイル丸出しで、歩み寄ってくる大物タレント。腹に一物を持っていそうな連中ばかり。

 芸能界で生きていく以上、こういう場を設ける事は必要だ。何せ、このパーティーを企画したのも、君嶋本人では無く、お得意先である大手芸能プロダクションの幹部なのだ。
 今後の仕事の為とは言え、出たくも無いパーティーで、主役を務めている。君嶋本人にしてみれば、拷問に等しい。

「では、今後とも是非よろしくお願いします」

「いえいえ。こちらこそよろしくお願いします……」

 笑みを作って接するが、その顔付きはさぞ固かっただろう。


「……では、今後とも君嶋先生のご活躍と健康を祈り、一本閉めで閉めさせていただきます。

 では、お手を拝借……よぉーお!!」

 パン、と打ち手が鳴らされる。

(やっと、解放されるか……)

 ここまで、文句も言わないまま主役を演じきった。君嶋は、自分で自分を賞賛したかったに違いない。




 パーティーも終わり、やっとの思いで解放された君嶋。
 高級ブランドのネクタイを外しながら、愛車を停めた地下駐車場に足を急がせる。

 一流ホテルの駐車場に、似合う様で似合わない、イエローパールのNA2型NSXタイプR。
 埋め込まれた二灯プロジェクターのヘッドライトに、純正カーボンボンネットは、あえて無塗装。02Rの通称で通っている、最後のNSX-R。

 唯一の国産スーパーカーと謳われるNSXだが、君嶋のそれはスーパーカーの域を超えている。あえて言いえば、レーシングカーにナンバーを取りつけただけ。

 往年のJGTCのNSXを彷彿とさせる、ストイックかつスパルタンなマシンだ。


 そのレーシングカーまがいの車両にもたれ掛って待ち構えている、一人の麗しい女性がいた。漆黒のパーティードレスを身に纏い、振り向いたと同時にポニーテールに束ねた髪はひらりと翻る。

 346プロダクションから、今宵のパーティーに参加していた原田美世だ。

「お待ちしてましたよ、君嶋先生♪」

「……何してんの、原田さん?」

 君嶋は、呆然とした。何せ、一介のアイドルが、自分の愛車の前で待ち伏せているのだ。

「何って、送って貰おうと思ったんですよ。先生自慢のNSX-Rで」

「プロデューサーと一緒に来てたんじゃないのか?」

「タクシーで帰るって言いましたから、大丈夫です」

 美世が何を根拠にしているのか、君嶋には解らなかった。

「……あんたも良い度胸してるな」

 君嶋の言葉には、色々な意味が含まれているだろう。
 仕方なしとばかりに、NSXの鍵を開けた。




 ドアを開けて、ロールバーを避けながら助手席に滑り込む。

「では、失礼します」

 ドレスで座るフルバケットシートは、不釣り合いを通り越してシュールな光景だ。

「……これでスキャンダルになったら、俺は枕営業を求めてきたって言い切るからな」

 君嶋は毒付いた。

「大丈夫ですよ。あたしそんなに売れてないから」

 自信満々で自虐した美世。

「そうかい。ま、いいさ……」

 会話を打ち切って、君嶋はNSXのエンジンに火を入れる。
 屋内の駐車場に反響する、乾いたC32Bのエキゾースト。NAならではのキレの有る音が、君嶋の血を騒がせる。

「……どうせ、俺の所に来たのもそのつもりだったからだろ?」

「勿論ですよ。先生、ああいう場嫌いでしょ?」

「その通りだ!!」

 君嶋は怒声混じりで言い放ち、クラッチを切ってから、シフトレバーを前に押し込んだ。

 ゴン、と歯車がぶつかり合う。ミッションが唸りをあげ、メカニカルノイズが車内に充満する。
 アクセルを小刻みに煽ると、タコメーターはレスポンス良く反応する。アクセルのツキが良いのは、メカチューンのNAならでは。

 フォーミュラーマシンばりの快音を奏でながら、NSXは動き出した。




 君嶋陽平は、長きに渡り首都高のトップランナーを走っている。最古参のNSX使い“夢見の生霊”と異名を持つ。

 内藤もベテランの首都高ランナーである為、君嶋とは古くからの知り合いになる。モデル業を務めている事を差し引いても、美世が君嶋と知り合う事に訳が無い。

「今日は、湾岸に居ますよ。鬼の様に速い赤のFCが……」

 美世は、そう伝えた。

「……解るのか?」

「ええ。うちの事務所の輿水幸子のライブチケットが取れなかったんですよ。健さん、幸子ちゃんのファンクラブに入ってるけど、それでも競争率高くって……。
 憂さ晴らしに、湾岸を走ってると思います」

「…………アホかアイツは」

 バカバカしい動機に、君嶋はあきれ果てた。


 NSXは飯倉からC1内回りへ。

「…………」

 料金所を通過し、何のためらいも忠告も無く、内藤はアクセルを踏み込んだ。

 高回転型のNAエンジンならではの、切り裂くような甲高いエキゾーストノートが、コンクリートウォールに反響する。

「……良い音ですよ。このNSX」

「当然だ。ただブーストを上げてパワーを稼ぐ、ターボ車とは違う」

 美世に言われ、内藤は自慢げに答えた。

「……四駆のターボなんざ、スポーツカーじゃない。後輪駆動のNAこそ、至高のスポーツカーだ」

 それが、内藤の持論だった。

「あたし、四駆のターボのスポーツカーに乗ってるんですけど?」

 美世は、異論とばかりに言い返した。

「あれはツーリングカーだ」

「……なるほど」

 上手い例えで返された為、納得していた。




 芝公園150kmで通過し、浜崎橋JCTを右へ折れる。横羽線及び、環状11号レインボーブリッジ方面へ。法定の倍近い速度だが、これでも君嶋にとってはウォーミングアップ程度に過ぎない。

 芝浦JCTから環状11号線に乗ると、君嶋は更にNSXのペースを上げる。

「飛ばすぞ」

 君嶋がそう言うと、シフトを前に一回押し倒した。PIリサーチ製のデジタルメーターの、シフトインジケーターが3と表示された。

 C32Bに組み合わせた、特注のヒューランド製のシーケンシャル6速ドグミッション。バイクのミッションの様に、押すか引くかの動作しかないので、手首のアクション一つで素早いシフトチェンジを可能にする。

 NSXにこだわる君嶋の、自慢の一品だ。

 国産車唯一のスーパーカーと言われる、NSXのチューニングカーは少ない。その理由は二つある。

 一つは、値段が高くて購入できる人間が少ない。
 もう一つは、NAエンジンだという事を差し引いても、元々の設計がギリギリまで煮詰められている故に、パワーを上げる事は容易では無いのだ。

 例えば同世代のBNR32GT-Rは、650psのパワーでツーリングカーレースを戦う事を考えて、全てを開発していた。
 しかし、NSXはノーマル状態で走行性能を高める事を、重点に置いて開発されている。

 その分、伸びしろが無いと言っても過言では無い。

 フルノーマルで、世界の一流マシンと互角の性能を持つ事。これこそ、ホンダ技研という技術屋集団のポリシーその物では無いだろうか。


 そのストイックな思想が、君嶋がNSXにほれ込んだ理由だった。




 C32Bのエキゾーストは、オールチタン製でエキマニから出口までフルストレートのワンオフ品。

 スーパーGTマシン並みの、けたたましいエキゾーストノートを放ち、レインボーブリッジを駆け抜ける。

 巡航速度で走れば緩い左コーナーも、200kmで飛び込めば非常にRのきついコーナーに早変わりする。しかし、君嶋はアクセルをべた踏みのまま突っ込んで行く。

 NSXのノーズをクリッピングポイントに向けると、絶妙なアクセルワークだけで車体をコントロールし、綺麗なアウトインアウトのラインをトレースして立ち上がる。

 加速体勢に入った瞬間。ブラインドコーナーの先で、右車線を走るタクシーのテールランプが視界に飛び込んできた。

「……!?」

 美世は背筋に悪寒が走った。こういう時の人間の勘は、恐ろしく的中するものだ。

 NSXの接近に気が付いて、慌てたタクシーは左にウインカーを出した。

「……邪魔くせぇ」

 しかし、君嶋は一瞬のアクセルオフとステアリングだけで、即座に左車線にレーンチェンジ。殆ど減速しないまま、タクシーの左側をすり抜けていく。

 タクシーが左に車線変更を始めた頃には、既にNSXのテールランプを拝んでいた。
 左車線にレーンチェンジする一般車を、左から抜く。強引かつ滅茶苦茶な抜き方だが、オーバーテイクのタイミングは絶妙だった。

(……今のは焦ったよ)

 流石の美世も、君嶋の運転には恐れ慄いた。後コンマ何秒か反応が遅れていたら、二人して三途の川で泳ぐ羽目になっていただろう。




 君嶋の首都高のドライビングは、半端じゃ無くキレている事で有名だ。
 恐怖心が欠落しているかの様な、鬼気迫る走り。NSXの性能を極限まで高め、その上で限界まで引きずり出す。

 シビアな挙動を示すマシンを、手足の如く扱うテクニックは、間違いなく本物だといえる。

 しかしだ。自分中心で、マナーは最悪。追い越しに右も左も関係無し。一般車を路肩からぶち抜く事は日常茶飯事。バトル中に幅寄せする等、事例を挙げればキリがない。

 テクニックに裏付けはあっても、やりたい放題のドライビングには非難が集中する。他の首都高ランナーから、嫌われているのも事実だった。


 夢見の生霊。首都高に巣食う生きた亡霊は、他の走り屋に夢でも見せるかの様に、走り去る。


 有明JCTから、湾岸線下りへ。NSXのペースは、落ちる事は無い。

 150kmで一番左車線に合流すると同時に、右車線をかっ飛ばす赤いマシンが見えた。

「……グッドタイミング」

 君嶋はボソリと呟いた。

(あれは……間違いなく健さんのFCだ)

 美世も、そのマシンの正体は一発で見抜いた。

 夢見の生霊と、追撃のテイルガンナー。長きに渡り、首都高のトップに立ち続ける走り屋が、ここで遭遇するという事。


 やる事は、決まっている。




 NSXが即座にFCの後方に付くと、ヘッドライトをパッシングさせる。

 FCも解ったようで、ハザードを点滅させた。
 互い威嚇するかの様に、エキゾーストノートが高鳴る。トップランナーのバトルの幕が切って落とされた。

(……健さんと、夢見の生霊の本気走り)

 美世は、ベテランランナーの真剣勝負を見逃すまいと、目を凝らす。

 君嶋は、シフトレバーを押して、瞬時に4速にギアを落とすと、C32Bは甲高い咆哮を上げた。

(……流石に、230km以上の加速だと分が悪いか)

 内藤のFCが、ジリジリとNSXを引き離しながら、東京湾トンネルに飛び込む。

(まあいいさ。コイツの本領は、250kmオーバーのスラロームだ!!)

 一般車両を避けながら、なおもアクセルを緩めない。

 ハイカムとハイコンプピストンに、特注の6連スロットル。コンロッドからクランクに至るまで、精密なバランス取りにポート加工等々。
 完成度の高いC32Bに、最高10000rpmまで回るメカチューンを施した。

 とは言え、君嶋のNSX-Rは精々350psも出ていれば御の字。

 チューニングされたNSXの最大の欠点は、ピークパワーが劣る分ストレートが遅いのだ。

 しかし、瞬時に反応するレスポンスと、シーケンシャルの6速ミッション。元々軽いオールアルミモノコックのボディを、更に限界まで贅肉をそぎ落として軽量化。

 極めつけは、カーボンパネルを車体下面に張り付けて、フラットボトム化。リアオーバーハングにはディフューザーも装備し、ドラッグを低減とダウンフォースの増大を実現。

 究極のNSXタイプRは、高速域のコーナリングとスラロームに的を絞った、レーシング仕様。これが、君嶋の導いた答えだ。




 コーナリングの優れたFCと言えど、スラロームでは僅かにアクセルを緩めなければならない。低速トルクの細いフルチューンロータリーに、ビッグシングルタービンを組み合わせた仕様は、ブーストの立ち上がりが悪い。

 対して、君嶋はべた踏みのまま、ステアリングだけで一般車をオーバーテイク。僅かにFCの加速が鈍った瞬間に、一気に追いつく。

(捕えたぜ……)

 内藤のスリップストリームに入り、NSXはFC3Sをロックオン。


 東京湾トンネルを出て、緩い左コーナー。
 内藤はあえて右車線にレーンチェンジし、内藤にインを譲る。

(……解ってるじゃねぇか)

 NSXがFCのイン側を抉って前に出た。260kmでの並走だが、彼らにとっては良く有る光景だ。
 今度の先行はNSX。元々空気抵抗の少ない車体は、空気の壁を切り裂いて加速を続ける。

 しかしだ。FCもNSXのスリップストリームを有効に使い、君嶋のテールに喰らい付く。
 270kmオーバー。大井JCT付近で、一般車が少し増えてきた。

 しかし、君嶋はペースを下げる気は無い。絶妙なアクセルワークと、ステアリングさばきを披露。右に左に車線を変えて、自由自在にNSXを操る。

 マシンのセッティング、及びスラロームのテクニック自体は、君嶋の方が上手の様だ。




 コーナリングの優れたFCと言えど、スラロームでは僅かにアクセルを緩めなければならない。低速トルクの細いフルチューンロータリーに、ビッグシングルタービンを組み合わせた仕様は、ブーストの立ち上がりが悪い。

 対して、君嶋はべた踏みのまま、ステアリングだけで一般車をオーバーテイク。僅かにFCの加速が鈍った瞬間に、一気に追いつく。

(捕えたぜ……)

 内藤のスリップストリームに入り、NSXはFC3Sをロックオン。


 東京湾トンネルを出て、緩い左コーナー。
 内藤はあえて右車線にレーンチェンジし、内藤にインを譲る。

(……解ってるじゃねぇか)

 NSXがFCのイン側を抉って前に出た。260kmでの並走だが、彼らにとっては良く有る光景だ。
 今度の先行はNSX。元々空気抵抗の少ない車体は、空気の壁を切り裂いて加速を続ける。

 しかしだ。FCもNSXのスリップストリームを有効に使い、君嶋のテールに喰らい付く。
 270kmオーバー。大井JCT付近で、一般車が少し増えてきた。

 しかし、君嶋はペースを下げる気は無い。絶妙なアクセルワークと、ステアリングさばきを披露。右に左に車線を変えて、自由自在にNSXを操る。

 マシンのセッティング、及びスラロームのテクニック自体は、君嶋の方が上手の様だ。




 NSX、FCの順に、東海JCTを通過。もう少し先には、空港北トンネルが待ち構えて居る。
 フロントウインドウから見える光景は、シューティングゲームの的の様に、赤い光が次々と迫りくる。

 次々に避けながら、君嶋はミラーで後方を一瞬だけ見る。

(……少しは離したか?)

 しかし、光の群れの中では、FCのヘッドライトは確認しきれない。

(……恐らく、オールクリアは近い)

 先を行く、テールランプの数は減って来た。


 空港北トンネルに入ると、赤い光は姿を消した。

(オールクリア!!)

 6速全開、フラットアウト。君嶋はNSXに鞭をくれる。
 防音壁に跳ね返る、C32Bのエキゾーストが、車内にまで飛び込んでくる。

「……来てる」

 美世は、小さく呟いた。しかし、空気の壁を切り裂く音は、高周波音と化して君嶋には聞こえていない。

 NSXのルームミラーに、パッシングの閃光が反射した。

(……後ろに来てるか!!)

 君嶋の駆るNSXの真後ろに、内藤のFC3Sは喰らい付いた。




 メーターは280kmを指す。空気抵抗の少ないNSXと、高回転域で伸びるエンジン特性。風圧に負けじと、ジリジリと速度を伸ばしていく。

 しかし、テールに張り付くFCは、NSXを凌駕する伸びを見せる。スリップストリームを有効に使い、前を走るマシンを撃墜するのは、追撃のテイルガンナーのお家芸。

 内藤はギリギリまでスリップを効かせ、NSXの右側に出る。横に出ても、ギリギリまで車体を寄せて、空気抵抗を軽くする。サイドスリップという技も駆使し、FCのノーズをNSXの前に出す。

 290km。
 並走する二台。トンネルの出口に、赤いテールランプが見えた。

(……真ん中か)

 君嶋は、仕方なしに一番左にレーンチェンジ。
 大型トラックの両脇を、二つの閃光が突き抜けた。


 羽田空港の脇を、一気に通過。

 メーターは300kmを超えた。それでも、NSXとFC3Sは、加速を止めない。
 湾岸環八ICを突っ切る。

 緩やかに弧を描く、多摩川トンネルが迫る。もうすぐ、東京都と神奈川県の県境だ。




 君嶋がNSXのステアリングを、ほんの少しだけ右に切った。多摩川トンネルに入ったその瞬間だった。

 ガン、と金属のぶつかる音が響いた。

「……っ!?」

 君嶋は、反射的にアクセルを抜いてしまった。リアの荷重が抜けて、NSXのテールがグニャリと揺れる。

「……くっそ!!」

 咄嗟にアクセルを入れ直し、ステアリングと連動させて、四輪の荷重をコントロール。
 車速を少しづつ落としていく。

 更に270kmまで落ちた所で、もう一度アクセルをゆっくり抜く。リア周辺からガタガタと、嫌な振動が伝わってくる。

 パーシャルスロットルを維持して、後は空気抵抗に任せて速度を落としていく。200kmより速度を下げてから、軽いブレーキをかけてようやく巡航速度まで車速を落とす事に成功した。

 NSXのリアから、バイブレーションが起こっていた。バタバタと何かが震えているのだろう。

「先生……今のは死んだと思いましたよ」

 助手席の美世は、安堵の息を吐いた。

「……最高速で曲がった時に、多分ディフューザーがわだちに当たったんだ。その時の衝撃で、脱落したんだろうな」

 そう呟いて、君嶋はステアリングをソーイングさせた。ステアリングは効いているが、車体が振る度に、ガタガタと嫌な振動が体に伝わってくる。




 空力を追求したエアロダイナミックスは、300kmという最高速度域で大きなダウンフォースを生み出し、車体を地面に押し付ける。すなわち、その速度域ではマシンの車高が下がるのだ。

 最低地上高が下がってしまった分、地面とのクリアランスが無くなり、路面のうねりとディフューザーが接触したのだ。

 加えて、超高速域ではほんのわずかなアクセル操作で、非常に大きな荷重移動が起きる。一瞬のアクセルオフでリアの荷重が抜け、NSXの挙動は不安定になった。
 あと一歩間違えば、操作不可能でコンクリート壁に突っ込んでいたに違いない。

 君嶋の神がかり的な緊急回避で事なきを得たが、美世の心臓はバクバクしている。暗くて解らないが、間違いなく顔面は蒼白だ。

「……とりあえず、湾岸を降りるしかないな」

 君嶋は、落胆した様子だった。


 手負いのNSXが多摩川トンネルを抜けると、浮島料金所跡でFCはハザードを焚いて待っていた。

 君嶋の存在を確認したのか、ハザードを付けたまま先導していく。

(……仕方ないか)

 君嶋は不本意ながらも、内藤の動きに倣った。




 浮島ICから、浮島公園前の交差点を右折。すぐそばの路側帯に、FCとNSXは滑り込んだ。

「こんばんは、健さん」

 NSXから降りて、美世は内藤に歩み寄った。君嶋と美世はパーティーの帰りなので、正装しているが、内藤は何時もの通り薄汚れたつなぎ姿だ。

「あれ? お前、君嶋の横に乗ってたのかよ……」

 美世の突拍子も無い行動に、内藤は少々呆れ顔を見せる。

「まー、成り行きですよ。一回NSXの横に乗ってみたかったんです。ちょっと、二回位死ぬかと思いましたけど……」

 苦笑いを作りながら、美世はそう言った。
 君嶋も、NSXを降りて、車の周りを一周する。

「……君嶋。コイツ持ち帰って良いぞ」

 内藤は、美世を物扱いし、君嶋に押し付けようとした。

「……いらん。血にガソリンが混ざってそうな女を、抱く気は無い」

 君嶋は、そっぽを向いた。

「ひどーい。セクハラだー」

 唇を尖らせながら、美世はブーたれるが、君嶋は既に聞いていない。

「健さんもそういう事言うんだ……。じゃあ、これは必要ないんですか~?」

 美世はニヤニヤと笑いながら、ハンドバッグから封筒を取り出した。

「それ……もしかして?」

「はい。幸子ちゃんのライブチケット。しかもB席です♪」

「……ごめんなさい。すいません。許してください、原田美世様」

 内藤は、これでもかと言う位に手の平を返して、へりくだる。実に解りやすい男である。




 二人のコントはほっといて、君嶋は左リアの下回りを覗き込んだ。

(やっぱり……ディフューザーが落ちてる)

 下回りを擦った衝撃で、ディフューザーを固定しているボルトの頭が、いくつか飛んでしまった様だ。これでは、ダウンフォースがディフューザーにしかかからず、引きずる格好になってしまう。

 流石に、君嶋も肩を落とした。

「先生。これ使ってください」

 そう言いながら、美世は赤い布テープを差し出した。

「……何でそんなもん持ってるんだ?」

「ハンドバッグに入ってました」

 ニッコリと笑いながら、美世は言った。

「……パーティー会場に布テープを持ち歩くの、世界中でもアンタだけだな。
 だけど、助かったよ」

 君嶋は、素直に好意を受け取った。


 ドレス姿の美世が地面に這いつくばる訳にはいかないので、結局は内藤が落ちかけているディフューザーを、テープで止めて応急処置を施した。

「……ま、ゆっくりなら何とか帰れるだろ。見た所、ディフューザーが落ちてるだけみたいだからな」

 内藤は、地べたから起き上がって、テープを美世に渡す。

「そうか。助かったぜ……」

 君嶋は、一応礼を述べた。

「ま、ここだけで済んでラッキーだったな。下手すりゃ、落ちたディフューザーがタイヤを突き破って、300kmでタイヤバーストって事も考えられたしな……」

 内藤の言葉を聞き、美世は背筋が少し震えた。

「……その時はその時だ」

 君嶋は、あっさりした様子で答えた。そのまま、NSXのドアを開く。

「じゃあな、原田さん。次は俺の横じゃ無くて、GT-Rでな……」

 そう言い残して、君嶋はNSXのエンジンを再スタートさせた。
 乾いたNAサウンドを響かせながら、NSXは走り出していた。




 NSXを見送ると、内藤はつなぎの胸ポケットからタバコを取り出した。

「んで、どうだったよ。アレの横は?」

 内藤は、タバコの先に火を点けながら聞いた。

「正直……怖かったですね。
 自分だったらブレーキ踏む所でも、アクセル緩めないですもん」

 実際、美世は二回程肝を冷やしている。

「……いけすかねぇ野郎だが、腕は一流だ。あいつに挑んで、壁に張り付いた奴を何人見てきたか解らねぇよ。
 今回は、あっちのトラブルに助けられたが……あのままのペースだったら、こっちのエンジンがオシャカになってる。

 少なくとも、あいつ以上に速かった走り屋は、俺の知る限り一人だ……」

「……?」


「……“迅帝”。名前くらいは聞いた事あるだろ?」

 内藤に言われ、美世は首を縦に動かす。

「……首都高の名だたる走り屋を撃墜していった、蒼いR34スカイラインGT-R。半年足らずで、首都高のトップに立った伝説の走り屋……。

 だけど、迅帝は無敗のまま、何時しか姿を消してしまった。ここまでは知ってます」

 美世は、静かに言った。

「ああ。俺も何度か挑んだが、一度も前には出れなかった。迅帝の顔を拝む事は、一回も無かったな……。お蔭で、何機エンジンぶっ壊したか……」

「…………」

「そりゃ、フルチューンのR34に旧型のFC3Sで挑んだって、勝ち目はねぇよ。だけど、俺はコイツで頂点を目指したんだ。反省も後悔もしちゃいねぇ」

 そう言いながら、内藤はFCのルーフをポンポンと叩いた。




「……健さん。迅帝は……生きてるんですか?」

「……さてな。事故って死んだって話も聞いた事あるが、噂のレベルだ。今思えば、あれが何者だったのかも解らん。都市伝説って奴だな」

「……そうですか」

 美世は、少し残念そうだった。

「……ま、今日の所は引き上げだ。久々にベテランの野郎と走ると、くたびれるぜ」

 内藤は背伸びしながら、美世に言った。

「うん。乗せてってくれますよね?」

「……ここでお前を置いてくほど、人間終わってねぇよ。チケットの事も有るしよ」

「良かった~」

 そうは言いながらも、美世は先にFCのナビシートに滑り込んだ。間違いなく、確信犯に違いない。

(……ったく)

 内藤は、溜息交じりで紫煙を吐き出した。



ここで半分です。残りは明日投下します。

>>77>>78がダブってました。すいません。


では、続きを投下します。

六章 ダイングスター


 美世とプロデューサーは、ダイングスターグループの本社ビルへ、営業に来ていた。

 ダイングスターグループと言えば、関東を中心に50以上の店舗を構える、パチンコグループである。他にも、レジャー施設や観光会社の経営も行っているが、大黒柱はパチンコ店の経営になる。

 346プロダクションとの関わりは深く、所属アイドルを各業種のイメージガールに抜擢したり、テレビのCMに起用する等、その恩恵は計り知れない。
 また、346プロのメインスポンサーとして支援している事も付け加えておく。

 美世も、ダイングスターグループのイメージガールとして、起用されている一人。営業に訪れるのも当然だ。

「はい。今後とも、原田をよろしくお願いします」

 広報担当者へ頭を下げる、プロデューサーと美世。しかし、その打ち合わせも程々にして、次に二人が向かうのは社長室だ。

 本来、営業で社長と顔を会わせる事は無い。普通は広報を通じて行うのだが、美世だけは例外だったりする。




 最上階の社長室のドアを、二回ノックする。

「どうぞ」

 中から、秘書が返事をした。

「……失礼します」

 ドアを開けると、高級そうな革張りのソファーに座るスーツ姿の体格の良い男性は、立ち上がって出迎えた。

 立ち上がったその姿は、体格が良いと言うだけでは、言葉が少し足りない。
 なにせ、身長195センチ、体重140キロという巨大な体躯。オールバックに髪を整えるその姿は、どこその組の若頭か、プロレスラーとしか例えられない。

 ヘラクレスの如きこの男が、ダイングスターグループの社長である。

 魚住静太。若干35歳にして、総合レジャー事業の社長を務める実業家である。

(……相変わらず、すげえ威圧感。
 そういや、武内が『他の人を見上げるのは子供の時以来です』とか言ってたな……)

 プロデューサーは、そんなやり取りを思い出しながら、魚住の迫力に圧倒されてしまう。

「どうもです、魚住さん♪」

 しかし、美世は割と軽いノリだった。

「久しぶりだね。原田さんに、プロデューサーさん」

 魚住は、歓迎する様に強面な顔に笑みを見せていた。




「まー、座って楽にしてよ」

 社長と言う肩書を持つ割に、随分とフランクな態度を見せる。

「八月に、筑波で走って以来ですね。GTOの調子はどうですか?」

 美世は、我先にとばかりに、そう切り出した。

「ボチボチって所だね。冬には、Sタイヤで1分フラットに持ってきたい所だな」

 車の話題を振られて、魚住は楽しそうに答えた。
 実は、美世と魚住は、サーキット仲間なのである。


 魚住自身カーマニアであり、GTOを5台も乗り継いでいる、生粋のGTOマニア。

 三菱車の愛好家の中では、名前が知られている男だ。

「でも、魚住さんのベストは、1秒台ですよね? あたしは、まだSタイヤで3秒切った事無いですし」

「そりゃ、経験が違うからね。これでも、筑波は十年以上走り込んでるんだ。二十歳で3秒台まで出せるんなら、十分すぎるよ」

 美世は謙遜するが、魚住は美世のテクニックに太鼓判を押していた。

「どうだい? また、来週あたりにでも……」

「……社長。生憎ですが、暫くは予定を空ける事は出来ません」

 魚住に待ったをかけるのは、隣に立つ秘書だった。

「……ゴルフより、サーキット走った方が面白いんだけど?」

「なりません」

 願いもむなしく、秘書はバッサリと切り捨てた。

「……残念ですけど、持ち越しですね。でも、一緒に走る機会を楽しみにしてますよ」

 美世は、そうフォローを入れた。




 一旦咳払いして、魚住は別の話題を切り出した。

「それはそうとして……。
 所で、プロデューサーさん。和久井は元気にやってるか?」

「留美さんは、隣の落ちこぼれと違って、アイドルとして順調に成長してますね」

 プロデューサーの言葉に、美世は頬を膨らませる。

「そうか……。ま、彼女の能力はこっちとしても惜しかった。ただ、本人の意思を尊重すればこその結果だからな」

 魚住はそう語った。

「ええ。最近は料理と、野良猫を窓越しに餌付けする事がマイブームって、本人は言ってました」

 プロデューサーの言葉に、魚住は晴れた表情を見せていた。

「理由はさておき、彼女が元気なら何よりだ」

 346プロの所属アイドルの一人である、和久井留美。彼女は、一年前までは魚住の秘書だった。
 何故、秘書を辞めてアイドルに転身したかは、未だに本人の口からは語られていないようだ。


「……お、そろそろ昼時だな。良かったら、一緒に食事でもどうかな? 折角だから、御馳走するよ」

 魚住から、そう打診される。

「……良いんですか?」

 美世の目はキラキラと輝く。

「勿論。いい機会だからな。プロデューサーさんも、そう思うだろ?」

 魚住は、プロデューサーに同意を求める。

「いや~……なんかすいません」

 プロデューサーも、好意に甘える事となった。



 高層ビルの最上階に店舗を持つ、都内の高級焼き肉店。
 美世とプロデューサー、そして魚住と秘書。四人は、窓際から街を見下ろす、絶好の席に座ったが。

(……高っ!?)

 メニューを見ながら、美世は言葉を見失う。普段行く焼き肉店の、三倍以上の値段が書かれているだから、無理も無い。

「……」

 プロデューサーも、何を頼んで良いのか、戸惑うばかりだ。

「すいません。ウーロン茶四つと……黒毛和牛のタン塩と上カルビを五人前づつ。それと……」

 魚住は、惜しげも無く高いメニューを注文する。おまけに、一人で二人分食べるつもりだろうか。

「俺ってさ、車の燃費以上に人間の燃費が悪いんだよな」

「……そ、そうですか」

 美世は、乾いた笑いしか出てこなかった。


 談笑を入れつつ、ランチを満喫する。
 そして、話題は何時しか、ある話題に踏み込んでいく事になった。

「……そう言えば、魚住さんも首都高ランナーだったんですよね?」

 美世は、その話題を切り出した。

「……美世!!」

 プロデューサーは、制止するべく声を荒げた。

「…………」

 テーブルは、一瞬にして静まり返った。

「……すいません。変な話題を出して」

 プロデューサーは、そう断るが。

「いや……事実だから、仕方ないさ」

 魚住がそう答えた時、その目付きは鋭くなっていた。

「……」

 プロデューサーは、その迫力に圧倒され、何も言えなくなっていた。




 そして、魚住はゆっくりと、口を開いた。

「……何年か前。首都高速は、走り屋達で賑わっていた。今では、首都高全盛期って呼ばれた頃の話だ。当然、俺も毎晩の様に走ってた。
 首都高最速を目指して、GTOを仕上げて攻めてたよ」

「……首都高最強のGTO使い“ダイングスター”。その正体が魚住さんなんですよね?」

 美世の問いに、魚住の首は縦に動いた。

「ああ。その辺は、内藤に聞いた事あるんだろ?」

「……はい」

「話を続けるよ。
 チームを組んで、最速を狙った走り屋も居れば、徒党を組まない一匹狼の走り屋も居た。

 勿論、速い奴は必然と名前が売れてくる。そうなれば、その走り屋を倒して、自分の名前を売る。そんな理由で、毎週バトルが繰り返されてた。

 そんなある夏の日だ。
 それまで、首都高のトップランナーだった走り屋を、次々と撃墜していく蒼いR34が現れた。

 名だたる走り屋を、あっさりと置き去りにしていく。丸で、悪夢でも見てるかと思う位に速かった。俺も、他のトップランナーも、何度も挑んだ。だけど、追い付く事は一度も出来なかった。

 一部のフリークには、首都高の不敗神話って今でも語られる。そのGT-Rは、何時からか“迅帝”と呼ばれるようになった……」

「…………」




「迅帝が姿を見せる様になってから、首都高の走り屋達のバトルは激しさを増して行った。

 そのバトルの中で、勝ち続けた走り屋達は、十三鬼将(サーティンデビルズ)と呼ばれるようになった……。
 もっとも、徒党を組んでいる訳でも無いし、他の連中と仲良くする気も無かった。十三鬼将の中で、交流が有ったとすれば、打倒迅帝の為の情報交換くらいしかない。

 その中で、迅帝撃墜にもっとも近い四人の走り屋は四天王と謳われた……」

「……ダイングスター、追撃のテイルガンナー、シャドウアイズ……そして夢見の生霊」

「その通り……。

 飛び抜けた速さを持ち、その上でキャリアも長い。そして、チューニングカーの王道であるGT-Rに負けない。だからこそ、俺達は四天王って言われたんだ」

 当時の記憶を回顧する、魚住の表情は凄みを増していく。

「だが……結局のところ、迅帝の前に出た走り屋はついに現れなかった。
 仮に、四天王が手を組んで居たとしたら、結果は違ってたかもしれない。だけど、当時の俺達にそんな事を考える余裕は無かった。

 自分が一番速い。自分が迅帝をぶち抜く。それしか頭に無かったからね……。

 そのまま、一年も経たない内に、迅帝の姿を見る事は無くなってた……。その尻尾は結局捕まえる事は出来なかった……」

 そこまで語ると、肉の乗っていない網がパチパチと音を立てていた。



「そして、迅帝が消えてしまった首都高にも、不穏な空気が漂い始めた……。
 王者の不在により、首都高は群雄割拠。元々首都高を走っていた連中は勿論。各地から遠征してくる走り屋も出てきた。

 首都高最速を目指して、走り屋達はヒートアップしていった。そうなれば……マナーの悪化、事故、派閥争い……そして抗争。エスカレートし続けた走り屋達は、もう誰も止められない所まで行きついてた。

 その頃には、うんざりしてたよ。名前を上げたい走り屋に、付き纏われるだけ。そいつらと走ってる時には、体が冷めていくのが解った……。

 迅帝を追ってる時や、他の十三鬼将とバトルしてる時は、体が芯から熱くなってたのにな……。熱くなれないバトルをする気は無い。だから、俺は首都高を降りたんだ……」

「…………」

「俺が降りる直前には、首都高は荒れ切ってた。

 走りの舞台が無法地帯となれば、警察の取り締まりも強化していく。走り屋が、首都高から締め出されるのも無理は無い。

 結局の所、自分達のステージを、自分達で壊してたのさ……俺を含めてね。
 これが、首都高全盛期の終焉さ……」


 魚住の口から聞いた過去の話。美世は神妙な面持ちで、何を思うのか。

「……ま、今となっては昔話だ。もうそこまで本気で走る奴は、殆ど居ないし、走る事も難しい。
 そもそも、今の俺にはそこまで時間を作る余裕も無い。

 もし、原田さんにまだ首都高を走るつもりがあるのなら……それ相応のリスクが有る事は肝に命じてほしい。

 命を失う事も、信頼を失う事も、簡単に起こり得る事だからね。少なくとも、君はまだ引き返せるんだ」

 魚住は、そう忠告をした。

 激戦を潜り抜け、繁栄と衰退を見てきた強者からの忠告。何も言い返せない美世は、うつむいていた。




「ま、しょうがない話もここまでだ。肉も残ってるし、焼いて食べよう」

 魚住は、少なくなった肉を、網に並べる。

「社長。マロンパフェを注文してよろしいでしょうか?」

「……構わないぞ」

 秘書に聞かれ、魚住はオーケーを出した。インターホンを押すと、すぐさま店員が駆け付けた。

「すいません。マロンパフェ五つ下さい」

 秘書の注文と、テーブルの人数は、またもかみ合っていなかった。


 数分もすると、残った肉は魚住が全て平らげていた。

「原田さん。
 もし、迅帝の正体が知りたいのなら、ファクトリーFUJIってショップに行ってみると良いかもしれない」

 魚住の助言に、美世はうつむいた顔を上げる。

「……そこの代表の藤巻さんは、俺達よりもベテランの首都高ランナーだった。もしかしたら迅帝の事で、何かを知ってるかもしれない」

 そう告げた時、美世の表情は引き締まっていた。

 結局、ランチは微妙な空気のまま終了してしまった。ちなみに、五つマロンパフェの内の三つは、秘書の胃袋に収まった。




 その日の夕方。

 自家用車を持っていないプロデューサーは、歩きで内藤自動車を訪れた。

「こんばんは……」

 半開きのシャッターを潜り、ガレージに入ると、内藤はワゴンRのクランク角センサーにタイミングライトを当て、点火タイミングを調整していた。

「はいよ。ちょっと待ってくれ……」

 調整を終わらせると、エンジンを止めて軍手を脱ぎ捨てた。

「歩きでうちに来るなんて、珍しいね。呑みのお誘いか?」

 内藤は笑いながらそう言ったが、プロデューサーの顔付きは固い。

「いえ……。ちょっと、美世の事で相談が有って……」

「……ほう」

 内藤の表情は、目の色は切り替わった。

 内藤は備え付けの自動販売機で、ホットコーヒーを二本買って、一本をプロデューサーに手渡す。

「……どうも」

 プロデューサーは礼を述べるが、声のトーンは低い。

「ま、大体言いたい事は解る。
 美世に首都高を走る事を止めさせたい……だろ?」

 内藤はズバリと言い当てた。




「……はい。
 本音を言うなら、車で走らせる事も控えさせたい位ですよ。だけど……美世は、車をかまってる時や、運転をしている時が、一番イキイキしてるんです。

 そこまで制限するのは、美世にとって酷でしょうし……」

 プロデューサーの言葉には、葛藤が垣間見えた。

「……だろうな。アイツ、初めての愛車を全損させた時とか酷かったもんな……。
 R32のタイプMだったけど、筑波の最終コーナーでひっくり返ってさ。子供みたいに泣いてたってのを、良く覚えてるよ」

 内藤は懐かしむ様に言った。

「……見習い期間が終わって、俺がプロデューサーとして一人立ちしてから、一番最初に見出したのは原田美世なんです。

 たまたま、立ち読みしたレース雑誌に、カートレースの記事があって。その中に、美世の事が掲載されてたんです。

 当時は、まだ中学生でしたけど……磨けば光るって気がしたっていうか。こう……ピンと来たんです」

「…………」

「彼女をスカウトして、アイドルになると言ってくれた時は、正直嬉しかったです。
 ……想像してた十倍はお転婆というか、じゃじゃ馬でしたけどね……」

 プロデューサーの口元は、少し笑みを作っていた。

「……そりゃ、プロデューサーの言い分も解らんでも無い。
 ただな……止めろって言われて止めれるなら、最初からやってねぇ。或いは、とっくに止めてる。

 そりゃ常識的に言えば、アイドルが公道で暴走行為をしてる時点で間違ってる。
 俺にも原因は有るけどな……」

 そう言って、内藤はコーヒーのプルタップを空けた。




「……例えばの話だ。仮にプロデューサーさん自身が、担当してるアイドルに。セックスを求められたとしよう。その時、あんた自身は我慢できるか?」

「……そりゃ。我慢するしかないでしょう」

 その問いに、プロデューサーはそう答えたが。

「……言い切ってやるよ。それは、無理だ」

 しかし、内藤は断言した。

「何故言い切れるんですか……?」

 プロデューサーは反論とばかりに、言葉を出す。

「あんたより十年は長く生きてる、アイドル好きのおっさんからの忠告だ。
 セックスって気持ちの良いもんだ。まして、アイドルとセックスするのなら、その背徳感がたまらなく病み付きになる。

 テレビで、愛想を振りまいてるアイドルが、自分の目の前で滅茶苦茶に乱れてる。やってはいけない事を、やってる時の気分は最高だろう。
 自分自身でも、ヤバいって思った事は、何回かあるだろ?」

「…………ええ。正直な所は、ありますよ」

「……もし、一歩でも堕ちれば最後。その快楽の虜になって、ズルズルと引きずって……もう一回、あともう一回。そんな事を繰り返すようになる。

 それが、どんなに悪い事だって解ってても、欲望には勝てねぇ。それこそ、泥沼だ」

「…………」




「美世も同じだ。スピードって麻薬にどっぷりと浸かってる。1kmでも速く。1メートルでも前に。終わりの無いゲームに、のめり込んじまってる。

 その快楽を体が覚えちまって、我慢が出来ない。

 だとしたら、だましだましその快楽と、上手く付き合っていくしかねぇ。それが、最善の方法だ」

 そこまで言うと、内藤は温くなったコーヒーを一口飲んだ。

「……元も子も無い考えですね」

「まぁな……。
 でもよ。首都高を走る事を正当化するよりは、自分がイカれてるって自覚が有った方が良い。美世自身は、自分が狂ってる事を理解して、その上で器用に立ち回ってる。

 アイドルとして売れてないって事も、逆に言えば意図的に抑えてるんじゃねぇの?

 下手に名前が売れて、自分のせいで事務所の顔に泥を塗る羽目になる。そうならない様に、予防線を張ってるんだろ」

 内藤の助言は的確だった。実際、プロデューサーの身に覚えの有る事も多い。

「世の中、上手く作られてるもんでな。体に悪い物ほど美味い物にして、教養に悪いこと程面白くしてある。
 だから、人は狂う。俺はそう思ってる」

 そう言うと、内藤はコーヒーを一気に飲み干した。




「内藤さん。一つだけ、教えてください。
 美世は、首都高に何を求めてるんですか?」

 プロデューサーに聞かれ、内藤は少し考える素振りを見せた。

 そして、タバコをくわえて、火を点ける。一口目の煙を吐き出してから、こう言った。

「……解らん。ただ、あいつは行きつく所まで行かなきゃ、気が済まないタイプだ。
 何かを求めてるとしたら、自分の限界を求めてるのかもな……」

 そう言い切って、内藤はタバコをもう一口吸い込んだ。

(……美世)

 コーヒーの蓋を開けないまま、その場に居合わせない担当アイドルの顔を思い浮かべる。
 プロデューサーの胸は、締め付けられるように痛くなっていた。




 ダイングスターグループ、本社ビル。

「……明日は、重役会議か。面倒だな」

 明日のスケジュールを確認し、魚住は憂鬱な面持ちを作っていた。

「仕方ありません。我慢してください」

 秘書は、淡々と言いのけた。

「……なあ、黒江。
 原田さんを見て、どう思った?」

「それは、秘書の黒江世津子として答えるべきですか?
 それとも、ユウウツな天使と呼ばれてた、走り屋としてですか?」

 秘書は、ポーカーフェイスを保ったまま聞き返す。

「それは、走り屋としてに決まってるさ」

 魚住の言葉に、ためらいは無かった。

「そうですね……。
 社長は、止めるべく助言をしたんでしょうけど、彼女は止まりませんよ。間違いなく、そういうタイプです。

 そもそも、彼女のすぐ身近に、未だに降りていない走り屋が居るんですから」

「……そうだよな」

 魚住は、何かを考えている様だった。

「少なくとも、何か切っ掛けが有れば、降りる事は出来るかも知れませんよ。私や社長と同じ様に……」

 秘書の言葉に、魚住は何も答えなかった。


 そして、秘書はある疑問を投げかけた。

「ところで、社長。何故、藤巻氏のショップの事を教えたのですか?」

「……恐らく、彼女は迅帝の事を追う気がした。
 だとしても、首都高を走った所で、迅帝を見つける事は出来る訳が無い。それだったら、首都高を一番長く走っていた、走り屋の元へ行かせるべきだと思っただけさ。

 藤巻の親父は、俺が首都高を走り始めたに、既にベテランの走り屋だった……」

「パープルメテオ……。
 首都高の歴史そのものを見てきた、最古参のGT-R使いですからね……」

「それに、原田さん自身もGT-Rに乗ってる。
 迅帝に繋がるヒントが無かったとしても、彼女にしてみればメリットは大きいさ」

 魚住は、そう締めくくった。




 美世は、自室でスマホをいじくっていた。

 検索するキーワードは、ファクトリーFUJI。魚住に教えられた、レーシングガレージの名前だ。

(……ファクトリーFUJI。92年から、レース屋としてマシンを制作してる。
 特に、R33で参戦していた、N1耐久車両には定評が有った。

 それ以外にも、GT-Rのチューニングカーも手掛けてた……)

 画面に映るのは、紫のR32GT-R。各地のサーキットのタイムアタックで、名を馳せたファクトリーFUJIのデモカー、と書いてある。

(……仕事が落ち着いたら、一回行ってみよう)

 そう決めて、スマホをスリープ状態に。
 美世本人も、気が付いたらスリープ状態となっていた。


七章 もてぎ決戦


 11月14日、土曜日。美世の21歳の誕生日は、生憎ながら仕事先で過ごす事になった。
 もっとも、サーキットで誕生日を迎えるのは、本人にとっては問題無い事なのだろうが。

 栃木県は芳賀群茂木町、ツインリンクもてぎ。
 日本で一番新しい国際サーキットであり、日本で唯一バンクを備えるオーバルコースを持つ。ただし、今日の舞台はロードコースだ。


 ツインリンクもてぎで開催される、スーパーGT最終戦。本日は予選日なのだが。

 午前十時の時点で、台風の接近に伴い、栃木県全域に大雨洪水暴風警報が発令された。

 これにより、前座のF4とポルシェカップの予選。更に、スーパーGTの練習走行は、悪天により中止となった。

 正午の時点で、少しは雨と風が落ち着いてきた。十四時から開始される予定のスーパーGTの予選だが、コンディションは最悪。

 各参加チームは空を眺めて、難しい表情を作っていた。

「……凄い雨ですね」

 茜は、モーターホームの窓から外を眺め、ポツリと言った。

「……これだと、予選は出来ないかもしれないね」

 美世も、心配そうな表情を見せる。

 逆転チャンピオンのかかるチームKSも、ガレージ内でポルシェを待機させたまま。ぶっつけ本番でセッティングを決めて、予選を走らなければならない。

 菊地も岩崎も。チーム員全員が神妙な面持ちのまま。この大雨は、勝利の呼び水となるのか。それとも、結末は水に流れてしまうのか。




 15:00。
 雨は降り止まない中、1時間遅れでGT300の15分間の予選Q1が開始された。

 ピットオープンと同時に、各チーム一斉にコースに出撃した。

 チームKSのQ1アタッカーは、菊地真一。タイヤは当然フルウェット。

 ベテランらしく、あえてスタートタイミングを遅めにし、他チームの様子をうかがう作戦だ。

(……こりゃ、すごい雨だな)

 ピットロードから、慎重にコースイン。アスファルトの上は、ほとんど水たまり状態だ。
 フロントウインドウに降りかかる雨粒を、ワイパーが拭っても焼け石に水。視界不良の中、1コーナーをクリア。

(……あーあ。いきなりやっちゃってるよ……)

 しかし、コースイン早々に、2コーナーで多重クラッシュが発生していた。三台のマシンが立ち往生している横を、ゆっくりと抜けていく。

 菊地は無線でピットに確認をとる。

「今、2コーナーでクラッシュしてたけど、黄旗出てる?」

『……いま、赤旗出ました。赤端です』

「……解った。ピットに戻る」

 開始早々に走行中断。出鼻をくじかれた。

 ゆっくりと一週してからピットに戻り、車両に乗ったまま待機。しかし、コースの整備に時間がかかり、そのまま予選時間は終了。

 オフィシャルからの指示は、500、300共に、予選は翌朝に延期と発表された。




 夕暮れ。ここに来て、空は小雨になるまで回復してきた。
 サーキットでは、午前に中止となった前座レースの予選が始まっていた。

 チームKSのガレージは、明日の予選と決勝に備え、マシンのセットアップに取りかかっていた。


 そんな中。

「こんにちわー」

 パドックパスを首からぶら下げて、プロデューサーが訪れてきた。しかも、何やら手土産らしきものも持っている。

「……プロデューサー!?」

 美世は、プロデューサーが突然訪問してきた事に、驚きを隠せない。普段は美世に任せているのだが、今日は違う様だ。

「えへへ~。

 実はですね、今日は美世さんの誕生日なので、プロデューサーも交えてお祝いしようって考えてたんです。
 えーっと……さ……さ……」

「サプライズな」

「そう!! それです!!」

 単語を思い出せない茜に、プロデューサーは正解を教えた。

「……何だか照れますね」

 そう言いながらも、美世の表情は嬉しそうだった。

「お、ようやくお出ましですな。おっし、全員一回手を止めろ」

 菊地も、プロデューサーが訪問した事に気が付き、作業を一旦中断させる。

「すいません、これは何処にセットしましょう?」

 プロデューサーは、手土産を差し出しながら、菊地に聞いた。

「折角だから、ボンネットの上に広げよう」

 菊地はそう指示を出した。

 プロデューサーが広げたのは、美世へのバースデーケーキだ。
 しかも、ポルシェのボンネットをテーブル代わりにしている。美世にとって、一番おあつらえ向きだ。




「では、改めて……。美世、誕生日おめでとう!!」

「おめでとー!!」

 バースデイを、温かい拍手で迎えられ、美世は胸の奥がくすぐったくなった。

「ありがとうございます。忘れられない誕生日になりました」

 美世は、満面の笑顔を作っていた。

「原田さん。これ、大したものじゃないけど……」

 そう言って、岩崎は美世へ小包を手渡した。

「あ、ありがとうございます。開けても良いですか?」

「勿論」

 美世は、目を輝かせた。そして、小包を開けると。

(……大仏?)

 何故か、大仏のキーホルダーだ。

(大仏?)
(なんで、大仏?)
(大仏って……)

 ガレージ内は、微妙に凍り付いた。

「どう? お気に入りなんだ。そのキーホルダー」

 しかし、岩崎はニコニコとしている。

「あ……ありがとうございます。ステキです……」

 そう礼を述べるが、美世の声は少し上ずっていた。というか、チームクルー全員が、岩崎のセンスに戸惑うばかりだった。




 一夜明けて翌日。

 台風一過の言葉通り、ツインリンクもてぎの上空には、一欠けらの雲の見当たらない。
 ようやく太陽の光が差し込んできた、午前六時。早朝から各参加チームは、マシンのセットアップに大忙しだ。

 本来、9時から開始される予定だった30分のフリー走行は、両クラス共に予選のQ1に当てられる事になった。

 そして、Q1の順位で決勝グリッドが決まる。つまり、ぶっつけ本番のワンデイイベントとなる。

 条件はどのチームも同じ。だからこそ、気合が入る。
 それは、チャンピオン争いの渦中にいる、チームKSも例外では無い。


「おはようございます」

「おはよーございます!!」

 モーターホームに顔を見せた、美世と茜。二人共レースを走る訳では無いが、チームクルー同様に気合が漲る。

「おはよう。今日が最終戦だけど、よろしく頼むな」

 レーシングスーツ姿の菊地は、二人を見つめてそう言った。

「はい!!」

 勢いのある返事が、ガレージの壁に反響した。




 そして、9:00。
 GT300クラスの予選が開始された。各マシンが、我先にとコースイン。

 チームKSのGT3Rは、中団グループに混ざり、じっくりと腰を据える。登録の関係上、予選アタッカーは引き続き菊地真一。

 ホンダのワークスドライバーとして、GT500のNSXを駆っていたのも、もう10年以上前の話だ。四十路後半という年齢故に、体力は厳しい。

 しかし、長年積み上げた老獪なテクニックは、若手の壁として立ちはだかる。

(……ド新品のソフトだからな。じっくり皮むきしてから熱を入れないと、レースでタイヤがダメになる……)

 菊地は、とにかくタイヤが一番の懸念材料だった。

 通常の市販タイヤと違い、スリックタイヤの場合はトレッド面のゴムを柔らかくするために、ゴムに多くの油を混ぜてある。
 全くの新品タイヤの場合、表面にその油が浮いてしまい、滑りやすくなっている。

 表面を削って油を落とし、もっともグリップしやすい状態にする事を、タイヤの皮向きと言う。

 また、皮むきが不十分なタイヤで熱を入れてしまうと、表面の油が沸騰してしまいトレッド面が水膨れになってしまう。
 これをブリスターというが、これが発生した時、最悪の場合トレッドが剥離しバーストしてしまう。

 スーパーGTの場合、予選で使用したタイヤでレースをスタートしなければならない為、新品で出走した場合は、ウォームアップに細心の注意を図る必要が有る。




 最初の3週は7割のペースで流し、タイヤとブレーキじっくり熱を入れる。そして、ダウンヒルストレート後の直角コーナーを立ち上がってから、全開。
 複合の最終コーナーを抜けて、アタックラップに入る。

(ツインリンクもてぎの最大の特徴は、加速と減速を繰り返すストップ&ゴーのレイアウト。ポルシェの最大の武器は、コーナー立ち上がりのトラクションだ!!)

 古典的なRRレイアウトの最大の特色を生かして、菊地はもてぎロードコースを攻める。マージンをギリギリでコントロールし、GT3Rに鞭をくれる。

 しかし、立体交差後のS字コーナーで、ペースを落としているマシンが居た。

(……クソッ。少し、詰まっちまうな)

 S字二つ目で外側から追い抜くが、クリップを取る事が出来ず僅かにタイムロス。

 ヘアピンを立ち上がり、もてぎ名物のダウンヒルストレートを一気に駆け抜ける。

(……難所の90度コーナー)

 最高速から、下りながらブレーキングする90度コーナー。もでぎで、最も勝負所となるが、失敗すると飛び出してしまう。

 最終のビクトリーコーナーは、左、右と続く複合コーナー。リズミカルに駆け抜けて、ホームストレートに立ち上がる。

(……もう一週だな)

 このアタックは、クリアラップにならず。菊地はもう1週続けて、タイムアタックする。




 しかし、この後も他車に引っ掛かってしまい、タイムアップはならなかった。ここで、予選は終了。

「……何位だ?」

 菊地は、無線でピットに確認する。

『9位です』

「……そうか」

 結果を聞き、菊地の口調は少し落胆していた。優勝を狙うには、厳しいスタートポジションだ。


 ピットに戻り、ポルシェはガレージに押し戻される。

「お疲れ様です」

 チーフエンジニアは、菊地にタオルを渡しながらそう言った。

「……おう。二週とも他の車に引っ掛かったからな……」

 そう語る、菊地の表情は険しい。

「お疲れ様です」

 そう言って、岩崎も菊地に歩み寄る。

「すまんな。思ったよりも、縮まなかったよ」

「仕方ないですよ。決勝は、当たって砕けるつもりでいきましょう」

 渋い表情の菊地に対して、岩崎はもはや吹っ切れている。

「……そうだな。もう、攻めていくしかない。皆、頼むぞ」

「はい!!」

 菊地の言葉に、チームクルーは大きな返事で答えた。

 チーム一丸となり、首の皮一枚で繋がるチャンピオンの栄冠をもぎ取りに行く。




 午後になり、全てのマシンがグリッド上に整列した。
 パドックパスをもった観客を、グリッドに招き入れる、グリッドウォークの時間だ。

 GT3Rの前に立つ、美世と茜。例によって、カメラ小僧たちが群れを作っていた。

「……すいません、もう一枚お願いします!!」

「こっちも、お願い!!」

 カメラのフラッシュを浴びながら、愛想笑いを作る。

(仕事だから仕方ないけど……好きじゃないんだよなぁ)

 美世は内心でぼやいていた。本音を言えば、カメラを蹴り壊したい位だ。

(もー……下からのアングルばっかりじゃん……)

 茜も、正直カメラ小僧は好きでは無い。特に、下半身を露骨に狙う撮影は、願い下げたいようだ。

 そんな二人のレースクイーンを余所に、菊地と岩崎は燃密な打ち合わせを続ける。

(……菊地さんと岩崎さんの会話が気になる)

 美世は、チームの作戦が気になって仕方ない。

(やっぱり……美世さんは、岩崎さんの事が……? 絶対そうだ……!!)

 茜は茜で、何かを勘違いしている様だ。




 そして、グリッドウォークもスケジュール通りに終了。

 国家斉唱と開会宣言の後、フォーメーションラップ十分前のアナウンスが流れる。
 ここで、ドライバー以外はピットに戻らなければいけない。

 逆転を狙うチームKSの、決勝のスタートドライバーは岩崎だ。

「岩崎さん。ファイトですよ!!」

 茜は、レーシングカーに負けないデカい声で、声援を送った。

「岩崎さん……頑張ってください!!」

 美世も、岩崎へ言葉を贈る。

 岩崎は言葉を出さなかったが、親指を立てて、それに答えた。


 エンジンスタートのアナウンスが流れると共に、各車のエンジンに火が入る。
 フォーメーションラップが始まると、サーキット中が緊張感に包まれてきた。全車がゆっくりとローリングラップを開始する。

(……スタートから勝負だな)

 タイヤに熱を入れる為、岩崎は執拗に車を左右にウェービングする。

 もはや、背水の陣。初っ端から攻めるしかないと、決めていた。

 全車隊列を整え、ペースカーはピットロードへ。まずは、GT500クラスから、レーススタート。

 少し間合いを開けて、GT300クラスがスタートする。




(……行け!!)

 絶妙なタイミングでアクセルを入れ、ポルシェを加速させる。スタートのタイミングが遅れた、7番手スタートのBMWZ4のイン側に車体を寄せて、1コーナーでインを刺す。

 更に、8番手スタートのスバルBRZも、大外から仕掛ける。一週目の1コーナーで、いきなりの三台並び。
 小さく回り込んで、立ち上がりのトラクションを生かして前に出る。一気に2台を抜いて、ポジションを7番手にアップ。

(……上手く行ったな。このまま行くぜ!!)

 逆転を狙う岩崎の闘志に、火が付いた。

 しかし、真後ろに喰らい付いたBMWとBRZは、コーナーが速い。インフィールド区間ではGT3Rの分が悪いが、岩崎は巧みにラインを塞ぎ並ばせない。

 三台はテールトゥノーズのまま、ヘアピンに差し掛かる。

(後ろも来てるが……前のSLSをどう仕留めるかな)

 6番手スタートのメルセデスベンツSLSは、タイヤがまだ温まって無いのか、ペースが悪い。ヘアピンのブレーキングで、一気に差を詰める。

 しかし、立ち上がりからの加速競争はSLSが速い。ダウンヒルストレートでは、逃げられる。

(……流石直線番長だな)

 SLSは、イン側のラインを閉める。岩崎も、ブロックラインを通って、後方を牽制する。




 ブレーキング争いはせず、各車等間隔で90度コーナー、最終のビクトリーコーナーをクリア。

 2週目に突入する。
 ホームストレートで少し差が開いたが、1コーナーのブレーキングで再び差が縮まる。

 4台が数珠つなぎのまま、各コーナーを駆け抜けていく。更に、ストレートでは互いに牽制を入れながら、相手の出方を見る。

(性能の差は無いからな……。GT500が絡んでからが、勝負だな……)

 車種は違えど、性能の差は僅か。
 それぞれの特性を生かしたとしても、そう簡単には抜けない。無理に抜きに行けば、かえって自滅する可能性もある。

 岩崎は、前と後ろに気を回しながら、GT3Rを全開で走らせる。


 そして、5週目。

 2コーナーを立ち上がった時。

「……ッ!?」

 GT3Rのエンジンに、息つきの症状が現れた。僅かに加速が鈍った瞬間に、BMWが並びかける。

(……何だ!? 加速が鈍い!!)

 シフトアップしても、回転は全く上がらない。

 そして、3コーナーの飛び込みでは、アウト側からBMWが前に出ていた。イン側のラインをトレースしても、明らかに速度が遅く、BRZに立ち上がりでパスされる。




 立体交差手前。アクセルを踏み込んでも、マシンは加速しない。更に、車内には白煙が入り込んできた。

「……ヤバい!! エンジンがおかしい!!」

 岩崎は慌てて、無線でピットに連絡をする。

『……どうおかしい?』

「……全然、加速しない!! 車の中に煙も入って来た!!」

『ピットまで戻れる?』

「……何とか、帰ってみる!!」

 S字をクリアする頃には、ポルシェのエンジンは全く吹け上がらない。スロー走行を強いられ、順位は後退していく。

(……頼む。何とか、ピットまで持ってくれ!!)

 祈る思いでダウンヒルストレートを通過。やっとの思いでピットに滑り込んだ時には、最後尾まで順位を下げていた。


 メカニックがGT3Rのエンジンフードを開く。

 エンジンからは、煙が吹き上がり、オイルの焼ける匂いが充満していた。

「オイル持ってこい!! ウエスもだ!!」

 怒鳴り声で、メカニックが指示を飛ばす。しかし、応急処置を施しても、煙は止まらない。
 GT3Rのエンジンは、完全に根を上げていた。

「どうだ!?」

 菊地は、エンジニアに聞く。

「ダメです……。エンジンが完全にイッてます……」

 エンジニアは、沈痛な声で答えた。もはや、修復の出来るトラブルではなかった。

「……そうか」

 菊地は、天を仰いだ。
 チーフエンジニアが運転席の横に並び、腕を交差させてバッテンのマークを作る。

 その動作を確認した岩崎は、シートベルトを緩める。

(……ちくしょう。ここでかよ……)

 マシンを降りて、ヘルメットを脱ぐ。
 その表情には、割り切れない悔しさが滲み出ていた。


スーパーGT最終戦 リザルト

エントラント:チームKS
マシン:KSポルシェGT3R
予選:9位
決勝:R(-50Lap)




 表彰台の壇上に登る、シリーズチャンピオン。沢山のフラッシュを浴びて、高々とトロフィーを抱え上げる。

 勝利の女神がほほ笑んだレーサーは、最高の笑顔を見せていた。

 早々とレースを終えたチームKSは、既に撤収準備も終わっていた。

 そして、今シーズン最後のミーティングを始める。

「皆、最終戦は残念ながら結果は残らなかったけれど、シリーズチャンピオン争いに加わる事も出来た。チームを結成してから、一番いい成績を残す事も出来た。

 一年間、本当にご苦労様。来年こそ、チャンピオンを取りに行けるように、頑張ろう」

 そう述べて、菊地は深々と頭を下げた。

 ガレージ内に、温かい拍手が沸き起こった。

「……岩崎。お前も何か言え」

「え!? 俺も言うんですか?」

 突然、話を振られて、岩崎は若干戸惑う。

「え~……っと。
 何を言えば良いか解らないですけど……。ま、来年もぜひ菊さんと一緒に戦えれば、面白いかなって思ってます。

 一年間、支えてくれてありがとうございました」

 岩崎は、ペコリと頭を下げた。


 チームKSの一年間の戦いは、ここで幕を閉じた。




 仕事の衣装から私服に着替えた美世と茜は、モーターホームに顔を出した。

 結果はともかく、今年最後の仕事をやり遂げた満足感を感じながら、オーナーでもある菊地と挨拶を交わした。

「監督、一年間お世話になりました!!」

「一年間、ありがとうございました。今年も、いい勉強させていただきました」

 二人は、揃って頭を垂れる。

 そして菊地は、チームの監督として、キャンペーンガールの二人へ労いの言葉をかける。

「原田さん、日野さん。二人とも、一年間ご苦労様。
 君達二人もチームの一員として、レースを大いに盛り上げてくれた。感謝してるよ」

 菊地に言われ、一年間の苦労が報われた気分だった。

「あたしは、美世さんに色々教わりながらでしたから。失敗もしたけど、このチームでお仕事出来て、楽しかったです」

 謙虚な姿勢を見せる茜。美世は、微笑ましいのか、笑みを作っていた。

「あたしは去年からご一緒させて頂いてますけど、今年も良い経験が出来ました。
 それに、あたし自身モータースポーツが好きなので、チームKSでお仕事出来た事がとても嬉しいです。

 まだ、来年の契約は解らないですけど、一緒に仕事が出来たら嬉しいですね」

 そう言った美世は、すっきりとした表情だった。

「ま、来季の契約に関しては、346さんとの兼ね合いもあるしな。うちのチームは、引き続き346さんにお願いするつもりだ。
 細かくは、事務所の方から追って連絡が行くと思う」

 そう言われ、二人はホッとした表情を見せた。

「そういう訳だ。今日は帰ってゆっくり休んでくれ」

「はい!! ありがとうございました!!」

 二人は、揃って菊地に頭を下げた。




「そうだ……。監督に一つ聞きたい事があったんだけど、良いですか?」

「構わないよ」

 美世は思い出した様に、菊地にある事を聞いた。

「個人的な事なんですけど……。
 ファクトリーFUJIってレーシングガレージの事を、お聞きしたいんですけど……」

「おー、あいつの所か。
 知ってるも何も、あそこの代表の藤巻って野郎は古い仲間だよ。俺がまだ新人で、富士チャンピオンシリーズに出てた頃は、駆け出しのレース屋だったな」

「そうなんですか?」

 意外な所から、情報を引っ張り出せた。美世の顔付きは、自然と引き締まる。

「でも、何であいつの店の事を聞いたんだ?」

 菊地に聞かれ、美世は少し間を置いて答えた。

「……単なる興味本位ですよ」

 興味本位と言うには、美世の目はかなり鋭くなっていた。

「……そうか。ま、あれだったら、原田さんに藤巻に教えておくよ」

「……ありがとうございます」

 菊地は、美世の顔付きが変わった事が、とにかく気になった。

(……美世さん?)

 茜は、美世が滅多に見せる事の無い厳しい表情に、一抹の不安を覚えた。




 サーキットから撤収した菊地は、愛車のFD2シビックタイプRで帰路に付いていた。ハンドルを握りながら、ハンズフリーを使ってある人物と携帯電話で会話していた。

「……原田さんは、藤巻の所に行くつもりだろうな。

 …………ああ。そういうつもりだろう。多分、お前さんの元に辿り着くな。

 ……そうか。

 口うるさく言うつもりは無いが、程々にしとけよ……」

 そう伝えて、携帯電話を切った。


八章 パープルメテオ


 完全オフとなった平日。

 美世は、GT-Rで東名高速を突っ走っていた。昼間なので、法定速度は巡視していることも、付け加えておく。

(……もうすぐ大井松田インター)

 スマホのナビの目的地は、松田町の山間に店舗を持つ、ファクトリーFUJIだ。


 大井松田インターから、車で1時間。熊や猪でも出てきそうな山の中に、ファクトリーFUJIの看板を見つけた。

「……ここだね」

 規模は内藤自動車の何倍も大きいが、佇まいはさびれている。古びたガレージにかかる小さな看板には、ファクトリーFUJIと書いてあった。

 シャッターは閉まっているものの、ドアは開いている。

「……こんにちはー」

 恐る恐ると言った様子で、美世はガレージの中に入って行った。

「……はい?」

 中から出てきたのは、若いメカニックだ。

「すいません。あたし、原田と申します。藤巻さんはお見えですか?」

「……社長ですか。今、事務所にいるんで、呼んできますね」

 そう伝えて、若いメカニックはプレハブ小屋の事務所に駆け込んで行った。


 すぐに入れ違いで出てきたのは、薄汚れたつなぎ姿が様になる、スキンヘッドの男性。美世は心の中で、親父さんというワードを思い浮かべたが、何とか口からは出なかった。

「君が、原田さんかね? 話は菊地から聞いてるよ」

「……藤巻さん、ですね?」

「そうだ。ま、立ち話もなんだから、事務所にいらっしゃい」

「……はい」

 藤巻は、美世を招き入れる。




 案内された事務室には、幾つ物トロフィーや盾が飾られている。

 ただその中に、美世が水着姿でオイルのペール缶に座っているポスターが貼ってあった。

「あ……去年のポスターだ」

 美世は思わず、口走った。よくよく見渡せば、美世がモデルを務めたポスター類が、さりげなく貼ってある。

「ああ。コイツ、君のファンなんだ。それで、君がモデルになってるポスターを、方々から貰てきてるんだよ」

 そう言って、藤巻はさっきの若いメカニックを指差した。メカニックは、頬を赤くしながら、下を向いてしまった。

「……そ、そうですか」

 ちょっと照れくさそうに、美世は笑っていた。


 若いメカニックは、いそいそと仕事に戻っていった。

「……さて。本題に入ろうか」

 藤巻は、美世と一対一になったタイミングで、そう切り出した。

「……はい。あたしは今、現役で首都高を走っています。元四天王の方々とも面識があります。その中で、ある走り屋の話を聞きました。

 迅帝と呼ばれた、伝説の走り屋です」

「……ほう」

「藤巻さんは、かつては首都高の走り屋だって聞きました。

 首都高全盛期の以前から走っていたベテランの走り屋に会えば、迅帝に繋がるヒントがあると思って、ここに来ました」

 美世は、真っ直ぐに藤巻を見つめた。

「……仮に、迅帝に会ってどうする?」

 藤巻は、美世に問う。

「……走ってみたいんです。
 自分がどれ位のレベルなのか。自分で仕上げたGT-Rが、何処まで通用するのか。ただ、腕を試してみたいんです」

 美世の瞳に、曇りは一片も無い。

 そして、藤巻は真っ直ぐに美世を見つめた。

「……車を見せてくれるか」

「……はい」

 美世の顔付きが、一層引き締まった。




 表に停めてあるR33を見つめ、藤巻は一言告げた。

「……なるほどな」

 藤巻が何を察したか、美世は今一つピンとこない。

 運転席を開け、車内をのぞきみる。

「……ボンピン外してくれるか?」

「解りました」

 美世がボンネットピンを外すと、藤巻はダッシュボード下のボンネットオープナーを引っ張る。
 ボンネットを開けて、美世の組み上げたRB26とご対面だ。

「一見はノーマル風だが、パイピングや冷却類はきっちり変えてあるな。ヘッド周りのオイル汚れも無い。
 RB系統はブローバイが多いから、メンテナンスが雑だとすぐに真っ黒になる。

 綺麗にしてるし、オイルキャッチタンクの付けた方も丁寧だ。
 エキマニはノーマルだが、この感じだと……タービンはGT2530ツイン辺りか?」

 藤巻は、一目見ただけで改造のポイントを見抜いている。

「その通りです」

「カムスプロケットが調整式に変わってるって事は、ヘッド周りもいじってそうだな」

「ええ。ヘッド周りのオーバーホールついでに、1、2mmのメタルガスケットに変えました。
 カムは、IN250のEX252のハイリフト9,5mmです。バルブもバルブスプリングも強化品してます」

「ピークパワーよりも、レスポンス重視の選択だな。インジェクターは、720ccか?」

「いえ、660ccです。これ以上馬力をあげても、使い切れないですし……」




「……手堅い作りだね。あえて、ロールバーとタワーバーしか組んでないのは、ストリートも優先してるからだろう?

 極端な軽量化やスポット増しまで手を出すと、挙動がピーキーになって足回りのセットが難しくなる」

「ええ。その辺りは、師匠に教わりました」

 美世の組み上げたRB26を見て、藤巻は何を思うのか。


 次に藤巻は、右フロントに屈み込んだ。フェンダーとタイヤの、指一本半程度の狭い隙間から、足回りを覗き見る。

「足回りは、一通り変えてありそうだね……」

「ザックスの車高調キットに、10キロバネを組んでます。ブッシュは、全部ニスモの強化ブッシュに打ち変えてます」

「ブレーキは純正のブレンボのままか。パッドとローター、それにホースも強化して有るのかな?
 ダクトも追加してるけど、サーキットの連続走行だと少し厳しいかもね」

「そうですね。もっと大きいキャリパーも考えてるんですけど、ちょっと手が出なくって……」

「ま、第二世代のGT-Rは、全部ブレーキの負担がデカいからな。俺もR33でN1に出てた時は、とにかくブレーキが悩みの種だったよ。

 かといって、APにせよブレンボにせよアルコンにせよ、キャリパー自体も高いがパッドも高くつくからな……」

「そうなんですよね……」

 R33を見定めたのか、藤巻は腰を上げた。




「……全部、自分で組んだんだって?」

「はい。
 最初に乗ってたのは、R32のタイプMだったんです。だけど、筑波の最終コーナー飛び出して、横転で廃車にしちゃって……。

 そしたら、あたしの師匠がこの子を見つけてきてくれたんです。15万キロ走行だったけど、純正のスーパーレッドはタマも無いですし……。

 あれこれ直しながら、いじってたら今の仕様になったんです」

「……良い腕だな。
 その若さでここまで仕上げれるのは、大したセンスだよ」

 藤巻の言葉に、美世は照れくさそうに頬を掻いた。


「……原田さん。

 君自身は、首都高に何を求めている?」

 藤巻は、唐突にそう聞いた。

「……正直な所は、自分でも良く解らないんです。

 たまたま、あたしの師匠が首都高の走り屋で……。それを見てる内に、走りたいなって思う様になってました。

 そりゃ、悪い事なのは解ってるけど……。
 走るのが楽しいから……止められないんです」

 美世は、そう答えた。




「走り屋なんて、いつの時代だって同じようなもんさ。

 どうしようもなく車が好きで、走ってると気持ちよくって、いじってると楽しくて。
 走る理由は、取るに足らない程度の事だ」

「…………」

「迅帝は首都高に伝説を作った、だなんて言われてるがな。実際は、少し違う。

 車が好きで、走るのが好きで、バトルが楽しくて。そんな事を繰り返してる内に、たまたま伝説になっちまっただけだ。

 迅帝も、一介の走り屋に過ぎないんだ」

「……やっぱり、藤巻さんは迅帝を知っているんですね?」

 美世は、思わず聞いていた。

「……ああ」

 藤巻の首は、縦に動いた。


「あたしは何時か会えますか? 迅帝に……」

 美世は、思い切って切り出した。

「……アイツは俺の弟子だからな。迅帝の乗ってたR34は、俺が組んだんだ。

 君がうちに来るって話をしたから、今日ここに来るよ」

「……え!?」

 思いもよらぬ回答だった。

「…………」

 そして、その言い回しに、美世は引っ掛かりを感じた。




 そして、30分も経過すると。

「ようやく来たか……」

 藤巻が呟くと、ファクトリーFUJIの元へ、一台のV35スカイラインクーペが辿り着いた。

(あのV35……)

 美世は、そのV35を良く知っていた。


 運転席から、一人の男性が降りてきた。

「……こんにちは。原田さん」

「岩崎さん……」

 美世は、岩崎から目を離せなかった。

「あなたが……迅帝と呼ばれた走り屋だったんですか?」

 美世は、問い詰めた。自分が契約しているレースチームのドライバーが、首都高最速と謳われた走り屋なのだから、無理も無い。

「そうらしいね。だけど、俺自身は他の走り屋と特に交流してなかったからさ。
 それに、今の立場上、首都高の走り屋だった事は隠さないとね……」

 岩崎は、飄々としていた。

「……あたしも、首都高の走り屋だって事は話した事無いですよ?」

 美世は、そう捲し立てた。

「……無理だよ。隠そうとしても、解るんだ」

「……どうしてですか?」

「原田さんから見えてるんだよ。オーラって奴がね」

「…………」

 美世は黙り込んだ。そして、仕事中の岩崎とのやり取りを思い返す。

(……思い返せば。うん……)

 心当たりが、決して無いわけでは無かった。




 岩崎の視線は、自然にR33へと向いていた。

「……いいね、原田さんのGT-R。良く整備は行き届いてるし、全体的に仕上がってる」

「見ただけで、解るんですか?」

「そりゃね。伊達に、走って無いからさ」

 岩崎の視線は、GT-Rから離れない。

「どうだ。折角だから、その辺試走してこいよ」

 藤巻は、横からそう提案した。

「そうですね……。プロのドライバーに乗って貰う機会なんて、そうそう無いですもの」

 美世は、その提案に乗り気になった。

「いいのかい?」

「はい」

 岩崎に聞かれ、美世はR33のキーを差し出した。

「キーホルダー付けてくれたんだね」

「ええ。折角頂いた物なので」

 岩崎は、笑みを作っていた。


 美世は、ナビシートに体を滑り込ませる。岩崎は恐る恐る、ドライバーズシートに収まった。
 レカロ製セミバケットシートを後ろにスライドさせて、ダイアルでリクライニングの角度調整する。

「実は、あたし以外で運転席に座ったのは、岩崎さんが初めてです」

 美世は悪戯っぽく言った。

「そりゃ、光栄だね」

 そう答えて、岩崎はハンドルの天辺に両手を合わせる。ポジションがしっくりきたのか、調整を終えてキーを差し込む。

 イグニッションオン。エンジンスタート。
 RB26のエキゾーストノートが、山間に木霊する。

 岩崎の右足は、小刻みにペダルを煽って、フリッピングした。ペダルの動きに、レスポンスよくタコメーターが反応する。

「……良い音だね」

 自然と、岩崎の口から言葉が出ていた。
 適度な重さのクラッチを切って、一速に入れる。

「さあ、出発だ」

 R33は、富士山方面へ向かい発進した。




 国道246号線。国道とは言っても、峠道と変わらないレベルで曲がりくねっている。路面のギャップを拾っては、R33は小刻みに跳ねる。

「ここを走るには、ちょっと硬いかな。だけど、スピードレンジがもっと高い所なら、丁度良い位だと思うよ」

「サーキットだと、少し柔らかいんですよ。富士の100Rとかだと、アンダーっぽい感じで……」

「GT-Rはフロントヘビーだからね。ターンインはアンダーで、立ち上がりはオーバーステア。奥がきつくなるコーナーは、基本的に苦手さ。

 そもそもサーキット専用じゃないなら、これ位がベストだよ。それに、これ以上固いと首都高のギャップはクリアできないね」

 岩崎のアドバイスは的確で、美世は思わず耳を傾ける。

「R33とR34の大きな違いは、ホイールベースとボディ剛性だね。

 R34の方が、ホイールベースが短くてボディ剛性は高い分、キビキビ動く。反面、限界域が高くて、セッティングが決まらないと乗りにくいんだ」

「そうなんですね。あたしは、R34に乗った事無いからなぁ……」

「俺もR33は、ショップのデモカーを、タイムアタックで乗った位さ。

 実際、R33GT-Rは失敗作何て言う奴がいるけど、それは乗った事の無い奴が、得意顔で言ってるだけ。

 R33にはR33の良さがある。高速域のスタビリティと空力なんかは、良く言われるし。
 何よりも、ロングホイールベースとワイドトレッドのお蔭で、限界域の特性がマイルドで乗りやすいんだ」

「岩崎さんも、やっぱりGT-Rが好きなんですね」

「もちろん。そろそろ、R35も欲しいけど……」

「……あれは、高いですもんね」

 GT-Rオーナー同士で、談義に花が咲いていた。




「足も煮詰まってるけど、それ以上にエンジンが良いね。

 RB26は、簡単にパワーを上げられる。だけど、相当にセッティングを煮詰めないと、このアクセルのツキの良さは得られない。

 アクセルを入れた瞬間に、ブーストが立ち上がる。コンピューターのセッティングもだけど、パーツ選びも良い目利きだよ」

「そこまで誉められるのは……恐縮です」

「……このGT-R、売ってくれない?」

「それは無理です」

 岩崎の交渉は、即座に決裂していた。


 軽く30分程度流して、再びファクトリーFUJIへ帰還。岩崎のインプレッションは終了した。

 運転席から、岩崎が降りて一言。

「無事に戻りました。車も無事です」

(縁起でも無い事を言わないで下さい……)

 助手席からおりて、美世は心の中で突っ込んだ。

「おう。どうだったよ?」

 藤巻は、運転席を降りた岩崎に訊ねた。

「凄く良くできてますよ。レスポンスも良いし、足も良い感じに仕上がってますね。ストリートチューンのお手本って感じです」

 岩崎は、美世のR33を絶賛した。

「……ほー。お前さんにそこまで言わせるか」

 藤巻は、豊齢線が更に深くなるほど、ほくそ笑んだ。

「……?」

 意味深な笑みに、美世は何かを感じた。

「……藤巻さん。アレは、まだ有りますよね?」

 岩崎は、藤巻にそう聞く。

「当然だろ。ガレージの奥で眠ってる」




 藤巻に案内され、ファクトリーFUJIの奥へと進む。
 使われなくなったレーシングカーのフレームや、ばらされたエンジンの部品、大小様々な工具等。

 物は多いが、きっちり整理して置かれているのが、美世には印象的だった。

 そして、ガレージの一番奥へ辿り着く。窓は無く、日差しは入らない。

 藤巻は、蛍光灯のスイッチを入れる。

「……こいつだ」

 人工的な光が照らしているのは、シートの被せられた車両。

 藤巻と岩崎の二人掛かりで、埃にまみれたシートをめくり上げる。


「これ……」

 美世は、食い入るように、それを見つめた。

 ベイサイドブルーのBNR34スカイラインGT-R。

(……感じる)

 ボディは埃を被り、バンパーの塗装は剥げていた。色あせたステッカーが、年月の流れを感じさせる。

(このGT-Rは……半端じゃない)

 しかし、ホンモノのマシンだけが放つオーラは、現役のトップランナーのマシンと比べても遜色がない。

「……すごい」

 それを感じた時、美世は自然と言葉を出していた。


 首都高の不敗神話を打ち立てた伝説のマシンは、ガレージの片隅で長い眠りについていたのだ。




「……解るかい?」

 岩崎は、そう聞いた。

「はい……。この子は、紛れも無くホンモノです」

 美世は、断言した。

「……原田さん。折り入って、頼みたい事があるんだ」

 岩崎は、美世へ視線を向ける。

「……?」

 美世は、自然と岩崎の方を向く。


 そして、岩崎はR34のAピラーに、そっと手を乗せた。

「君の手で、このGT-Rをオーバーホールして欲しい」 

 岩崎は、ジッと美世を見つめた。

「……あたしの手で、ですか?」

 美世は、自分が指名された事を、疑わずにいられなかった。

「ああ。代金は、当然払うさ」

「いえ……お金の問題じゃ無いんです」

「……?」

「確かに、あたしを指名して貰えるのはありがたい話ですけど……。

 藤巻さんの組んだマシンですし。何よりも、GT-Rを得意にしているチューナーは、他にも沢山いるんです。藤巻さんだってそうですよ?

 何故、あたしなんですか?」

 美世は、疑問を岩崎にぶつけた。

「……なんでだろうね。解らない。
 だけどさ……」

 ワンテンポ置いて、岩崎は言った。

「君じゃ無ければ、ダメなんだ」

 岩崎は、直感だけで美世を指名していた。


「……解りました。店主にやらせて貰えるか、聞いてみます」

 引き締まった顔つきを見せて、美世は答えた。

 藤巻は、ふぅと息を吐き出してから、口を開く。

「こいつは、何年も動いてない。バッテリーは死んでるし、オイルは腐ってる。電装系は特にダメだろうな。

 引き取りに来るなら、積車を貸してやるよ。話がまとまったら、電話してくれ」

「ありがとうございます」

 美世は、藤巻に頭を下げた。



九章 オーバーホール


 年の瀬が迫る十二月。

 346プロのアイドル達は、年末年始のイベントや、特番の出演に向けたレッスンに力が入る。それは、このユニットも同じ事だ。

 マッシブライダーズは、向井拓海、木村夏樹、藤本里奈の三名で構成されるユニットである。

 その名の通り、バイク趣味の三人で構成されるのが大きな特徴である。

 余談だが、三人ともバイク絡みの事で、内藤自動車にしょっちゅうお世話になっている。


 レッスン合間の談笑。その話題は、原田美世の事だった。

「……最近、美世っつぁん見ないね~」

 藤本里奈は、スポーツドリンクを飲みながら呟いた。

「あたしが聞いた話だけど、車の方の仕事がどうしても抜けられねーって事らしいぞ。だから、年内はうちの仕事は全部キャンセルしたってよ」

 拓海は、一応の事情は聞いていたらしい。

「へぇ~。ま、美世さんらしいと言えばらしいけど」

 木村夏樹は、納得した様にそう言った。

「ねぇねぇ。今日のレッスン終わったら、とっつぁん所いかね?」

 里奈は、内藤自動車に顔を出すという提案をした。

「そうだな。折角だから、差し入れでも持って行こうぜ」

 夏樹は、その案に乗り気だ。

「いいねぇ。最近、忙しくて行ってなかったしな」

 拓海も、それに追従した。




 レッスンも終了し、日が暮れた午後七時過ぎ。寒波到来の中、マッシブライダーズの面々は、わざわざバイクで通勤してきている。

「……うぉっ!? ちょーさみーしー……」

 外に出た瞬間、その冷え込みに里奈は戸惑う。

「こりゃ……冷えるな」

 夏樹の奥歯が、ガチガチと鳴る。

「……仕方ねー。気合で突っ走るか!!」

 自らの頬を叩いて、気合を入れる拓海。しかし、下半身はぶるぶると震えている。

 それぞれエンジンをスタートさせて、暖気をする。5分程温めて、各自愛機に跨った。

「おっし!!」

「っしゃぁ!!」

「行くぽよ!!」

 外気温5度の寒さの中、三人とも根性で走る事に決めた。
 10分間の耐久ツーリングが始まった。


 ちなみに、バイクで走る場合、風の影響で体感温度は約10度下がる。現在の外気温は4度。つまり、体感はマイナス6度になる。




 どうにか内藤自動車に辿り着いた頃には、三人とも指先の感覚が無くなっていた。気合と根性だけでは、寒さに勝てなかった。

 ガレージ前にバイクを停車させると、一目散にガレージの中に駆けこんだ。

 整備中のヴィッツの近くには、古めかしい石油ストーブに火が灯っている。

「だーっ!! 着いたー!!」

 我先にと、夏樹は石油ストーブの前に陣取る。

「死ぬ!! 死ぬ!! なつきちどいて!!」

 里奈の視界には、暖を取る為の炎しか見えて居ない。

「あたしにも場所よこせ!!」

 拓海も、レッスンですら見せないくらい、素早い動きでストーブの元へ。

 突然ドタドタと駆けこんでくる三人を見て、内藤は事務室から出てきた。

「……お前ら、このクソ寒い中単車で来たのか?」

 内藤の言葉を聞き、三人は首を縦に振った。もう、喋る気力も無いらしい。

「……大体、もう店じまいだぞ?」

 そう、バッサリと切り捨てた。

「……しょ、しょれはないっしょ、とっつぁん」

 里奈はそう反論したが、寒さで呂律が回っていない。

「しぇ、しぇっかくだから、み、美世の事見に来ちゃってのに……」

 拓海も、ガチガチと歯を鳴らしながら、そう言った。

「あ……しゃし入れ買っちぇねぇ……」

 当初の目的の一つを忘れていた事を思い出し、夏樹は我に返った。たった一言でも、言葉はかみかみだ。




「……そういう事な」

 三人の行動に納得したのか、内藤は自動販売機でホットコーヒーを三本買った。

「ほれよ」

 内藤は一本づつ、コーヒーを手渡していく。

「あ、あざーす」

 ホットコーヒーの温もりが、三人の冷え切った手に染み渡る。

「美世の奴なら、隣に籠ってるぞ」

 そう伝え、内藤は隣の板金専用のガレージを指差した。扉の隙間から、電灯の光が見えるので、まだ仕事をしているようだ。

「……美世の奴、この寒いのにまだ作業してんの?」

 拓海は、内藤にそう聞いた。

「ま、見りゃ解るさ……。俺は、まだ事務が終わってねぇから、中に戻るぞ」

 そう言い放って、内藤は事務室に戻って行った。

「……どゆこと?」

 里奈は、変な言い回しに、奇妙な印象を持った。

「……忙しいって話の割には、内藤さんは手を貸さないもんな」

 夏樹の頭の中にも、疑問が浮かび上がる。

「どうせ、ここまで来てんだ。美世の所に、ちょっかいかけに行ってやろうぜ」

 拓海は、ニヤリと笑った。




 買い忘れた差し入れの変わりに、ホットコーヒーを買ってから、美世の籠っている奥のガレージに入り込む。

「おーっす。美世ー。居るかー?」

 リジットジャックに乗せられた、蒼いスカイライン。

 それに加えて、その側にしゃがみ込んで作業を黙々と続ける、美世の後ろ姿が目に入った。

「……?」

 美世がゆっくりと振り返ると、三人と視線が交わる。その瞬間、拓海も、里奈も、夏樹も、言葉を失っていた。

「あ~……随分、久しぶり、だね……」

 美世は、そう告げる。しかし、余りにも変わり果てた姿は、とても同一人物とは思えなかった。

「……美世、だよな……?」

 拓海は恐る恐る聞いた。

「……そう、だよ?」

 そう答えた美世は、明らかに正気では無かった。顔色は青白くなり、遠目でも解るくらい、はっきりとした目の隈。ほこりと油にまみれた頬に、ドロドロに汚れたつなぎ。

 それでも、美世はうっすらと笑っている。

「だ、大丈夫なん……?」

「……全然平気、だよ?」

 心配そうな里奈を余所に、美世は平然と答えた。

「……美世さん。これ、差し入れだけど……」

「ん? ありがと……」

 夏樹の差し出した缶コーヒーを貰おうとして、美世は立ち上がった。

 しかし、足元がふらついて、倒れ込む様に三人に寄りかかってしまう。

「ちょっ!?」

 里奈と夏樹の二人がかりで、倒れかかった美世を支える。

「おいおい……どうしちまったんだよ……」

 拓海は、美世に聞きただす。

「……フフ」

 それでも、美世は笑っている。

 缶コーヒーを手に取ると、そのまま元の位置に座り込んだ。美世の周囲には、ばらしたであろうエンジンの部品が、綺麗に鎮座している。




「だって……これすっごいんだよ?
 ベースはN1用のRB26だね。これなら、普通のRB26よりもブロックの肉厚があるから、耐久性も優れてるよ。
 87パイの鍛造ピストンに、コンロッドはH断面だね。クランクは、ノーマルをWPC加工して、高回転高出力に耐えられる様にしてる。あえてノーマルストロークのままで、高回転の伸びだけを追求してるんだ。
 カムは280の282で、リフト量もかなり大きく取ってあるし、バルブもバルブスプリングも強化品。ポートの加工も絶妙だよ。
 タービンは、T51Rのビッグシングル。ウエイストゲートも大型にして、安定したブースト圧をかけられるようにしてるの。
 エキマニはワンオフ。等長のステンレスだから、良い音を奏でるよ。インテークパイプから、サージタンクまでのパイピングは全てワンオフ品で、エアフロレス。当然サージタンクも大容量品にしてるよ。インジェクターは1000ccまで、容量を上げてるね。
 ラジエーターもアルミ3層に、オイルクーラーも32段の大型だね。オイルクーラーの搭載位置も、冷却効率を優先してるし、導風板も付けてる。如何にして風を導くかを、最優先に考えたんだね。
 これだったら、900馬力以上を狙える……。
 パワーと耐久性。相反する要素を、高次元で両立させてるんだね。

 勿論、エンジンだけが凄いんじゃないよ?
 クラッチもAPのトリプルで、ミッションはホリンジャーの6速シーケンシャルに載せ替えてる。デフも、前後共に強化して、トラクションを稼いでる。このパワーだったら、アテーサET-Sでも、4輪でホイールスピンを起こすんだ。
 トラクションの要の足回りだって、オーリンズのショックだし、ブッシュもフルピロ化してる。メンバーも溶接止めで補強してる上に、メンバーの位置をかさ上げして、ロールセンターを適正化してるんだ。むやみに車高を下げれば、足回りの動きを抑制しちゃうからね。それじゃ、首都高のギャップに対応できない。
 ブレーキなんか、アルコンの6ポットだよ。ローターも大きくしてるし、ホースもステンメッシュ。パッドも、相当に良い物組みつけてる。当然、ブレーキダクトも付いてる。
 ボディだって、フルスポット増しと溶接止めのロールケージで剛性を高めてるんだ。補強の仕方も、N1マシンを超えてるよ。軽量化も極限まで突き詰めてる。
 エアロも空気抵抗の低減と、冷却効率を上げる様にしてる。元々R34のVspecには、前後にディフューザーが付いてるけど、それに加えて車体の底面をフラットボトム化してる。空力面も抜かりないんだ。
 本当に、レーシングマシンを……いいや。それ以上だね。
 最強のマシンを組み上げたかったに違いないんだ。凄いよ……本当に」



 美世の口から、次々と飛び出る言葉。三人には、何の呪文なのか解らない。

 今の美世は、亡霊に取り憑かれたとしか、形容出来ない。それ程、狂っていた。

「美世……本当に、大丈夫なのか?」

 拓海は改めて、聞きただした。

「……大丈夫だよ。今のあたしには……この子しか見えて居ないんだ」

 美世は、含みのある笑みを見せて、そう答えた。


 その気迫に圧倒され、三人は作業場から立ち去るしかなかった。

 何も言えないまま、事務室に入る。室内は暖房が効いており、ガレージ内と比べれば天国かと思えるくらいに暖かい。

 内藤は、伝票の山を慣れた手付きでさばいていた。

「……とっつぁん。美世っつぁんは、どうしちゃったの?」

 不安な面持ちで、里奈は聞いた。

 伝票整理を止めて、内藤は胸ポケットからタバコを取り出した。

「……アイツが今いじくってるスカイラインは、俺達が探してたマシンなんだ」

 そう告げて、くわえたタバコに火を点ける。

「探してた……って、どういう事ですか?」

 夏樹は食い入るように、内藤を見つめる。




「……十年くらい前の話だな。首都高が、走り屋で賑わってた頃だ。
 正体不明だが、誰も追いつけなかった走り屋が居た。蒼いR34に乗って、あっという間に首都高最速の座を奪った。何時からか、迅帝って異名で呼ばれる様になった。

 ただ、迅帝は何時の間にか、その姿をくらましていた。一説には、死んだって噂まで流れたけど、真相は俺達も解らなかった」

 そこで、一旦区切って、内藤は吸い込んだ煙を吐き出した。

「迅帝が消えた後。当時走ってた奴の、殆どは首都高を降りたよ。ま、それぞれ事情があるから、仕方ねぇ事だ。

 だけど、俺は降りれなかった。いつか、迅帝は俺の前に現れる。次に現れた時こそ、迅帝をぶち抜ける。

 そんな期待を、ずっと持ってたからな……」

 内藤の言葉に、一同は何を思うのか。


「……つまり。おっちゃんが探してた走り屋を、美世が見つけてきたって事?」

 拓海の解釈を聞き、内藤は無言で頷く。肯定のサインだ。

「へぇ……。すると……美世さんが、その走り屋の車を復活させてるんだ」

「……そういう事だ」

 夏樹の意見に、内藤はそう答えた。

「でもさ。何で、美世っつぁん一人で車直してんの? 内藤のとっつぁんも、直せるっしょ?」

 里奈は、次に湧き出た疑問をぶつけた。

「まぁな。ただ、あの車の持ち主直々に、美世を指名したらしい。だから、一人でやらせてくれって言われたよ。

 美世の奴は、ああ見えてメチャメチャ頑固だからな。一度決めたら、意地でも曲げねぇんだ。だったら、気が済むまでやらせてやるよ……」

 そう言いつつも、内藤は少し心配そうな表情だった。

「…………」

 三人とも押し黙ったまま、何も喋れなかった。

「……悪いが、今日の所は引き上げてくれ。こうなったら、あいつはテコでもジャッキでもレッカーでも動かねぇからな」

 内藤の言葉に、三人はうなずいた。あえて言うなら、従うしかなかった。




 それから、数日間。

 美世は、泊まり込みで、GT-Rを仕上げ続けた。
 深夜まで作業し、シャワー室で体を洗う。寝具は、事務室の古びた安物のソファーと、自宅から持ってきた煎餅布団と毛布だけ。食事はコンビニで買えば済む。

 たとえ一秒でも時間が惜しい。寝る時間も、食事の時間さえも。

 蒼いモンスターマシンを完成させる為に、美世は作業を続けた。


 R34のフルオーバーホールが完了する頃には、12月も半ばに入っていた。

 外が薄暗くなった頃に、R34は地面に降り立った。

(……出来た)

 エンジン、ミッション、デフ、サスペンション、ブレーキ、タイヤ……。全てを組み付け、伝説のマシンは蘇った。

 その瞬間。

 美世は、足元から崩れ落ち、地面にへたり込んだ。

(あれ……?)

 視界はグニャリと揺れ、平衡感覚が無くなって行く。辛うじて意識はあるが、体のどこにも力が入らない。

(……疲れてるのかな?)

 そう思った時、美世の意識はどこかへ飛んでいた。




「……?」

 次に美世が見えたのは、白い天井だった。
 鉛が付けられてる様に体は重く、頭が朦朧として揺れている様だった。

(……ここは?)

 周囲を見渡すが、見た事の無い部屋だ。薬品の様な匂いが、鼻にツンとくる。腕に、チクリと痛みが走る。

「……気が付いたか?」

 その声を聞き、美世は目でそれの主を追う。

「……プロデューサー?」

 ベッドの横で、プロデューサーは椅子に座ったまま、美世を見下ろしていた。

「ここは近くの病院だよ。美世はガレージで倒れて、救急車で運ばれたんだ。丸一日眠ってたんだぞ?」

「……そうだったんですか。ご迷惑おかけしました……」

 美世は、力の無い声でそう言った。

 一度起きようとするが、プロデューサーは肩を押さえて、寝かせるようにした。

「起きなくて良い。今はゆっくり寝てろ……」

「でも……」

「いいから。仕上げは、内藤さんがやるって言ってたから……」

 プロデューサーは、何が何でも寝かしつけるつもりだ。

「……」

 美世は、不服そうにプロデューサーをジッと見つめる。




「医者に聞いたけど、倒れた理由は過労だそうだ。相当切羽詰って、作業してたって事も皆から聞いてる」

 プロデューサーが美世を見つめるその目は、嘆きや憂いの感情が出ていた。

「……確かに、お前が車好きなのは承知してる。ぶっ倒れるまで車を触り続ける程の、クルマバカだ。

 だけど、体を壊すまで無理をする意味は無いんだ。車の仕事も、アイドルの仕事も、体が資本なんだ。だから、これ以上無理はしないでくれ」

 プロデューサーの言葉を聞き、美世は何を思うか。そっと目を閉じて、その口がゆっくりと開いていく。


「ねぇ……プロデューサー。アイドルのプロデュースって、楽しい?」

 美世の口から飛び出た唐突な質問に、プロデューサーは少し戸惑った。

 数秒だけ考えた後、こう答えた。

「……楽しいな。
 そりゃ、苦労する事も多いし、失敗する事も有る。

 だけど、ステージの上だったり、スタジオでモデルになってる時に、皆が生き生きしてる表情を見ると、やってて良かったなって。本当に、そう思うよ」

 プロデューサーは、笑みを見せていた。

「……似てるね。あたし達」

 美世は、そう言った。そして、言葉を続ける。

「……シンデレラに魔法をかける魔女が居なかったら、シンデレラは舞踏会に行く事は無かった。あの家の中で、ずっといじめられるだけだった。

 シンデレラの運命を変えるのは、魔女の気まぐれ。あたし達の運命を変えたのは、魔女の役目を持つプロデューサーなんだよ?」

「…………」




「あたしは、車と言うシンデレラに魔法をかける、魔女でありたいの。

 車が好きだからさ。イジるのが好きで、走るのが好き。子供の時から、何も変わってないんだ」

「美世……」

 不安そうに見つめるプロデューサーだが、美世には見えて居ない。

「大丈夫。これで最後にするから……。

 これが終わったら、あたしに区切りがつく気がするんだ。そうしたら、心置きなく降りる事が出来るよ……」

 そう語った美世は、青白い顔に笑みを浮かべていた。


「……お前は、何も変わって無いな。15歳でこの事務所に入った頃から、何一つ変わって無い。

 あたしのハンドルを握ってて何て言う割に、ハンドルが全く効かない。じゃじゃ馬で扱える代物じゃない。

 今更、何言ったって原田美世が止まらない事は解ってる」

 プロデューサーは、吹っ切れた様子だ。そう言って、封の閉じたスタミナドリンクを二本置いた。

「ちひろさんに無理言って仕入れて貰った、とびっきりのスタドリだ。
 ……これで最後にするのなら、好きなだけ……思う存分やってこい。気が済むまでな。

 だけど、絶対に無事に帰ってくる事だけは約束しろ。それだけはな……」

「プロデューサー……ちがうね。

 Pさん……あたしのわがまま聞いてくれて、ありがと」

 美世の言葉に、プロデューサーはフッと笑みを作っていた。




 翌朝。

 内藤は、朝早くから仕事に取り掛かった。美世を病院に送り込んだのは、内藤なのだから、入院している事は承知の上。

 R34の仕上げを、早い段階から取り掛かる寸断で、わざわざ早めに店を開けたのだ。

 菓子パンをかじって、缶コーヒーで流し込む。事務室のテレビに、情報番組の占いコーナーが流れている。


『今日一番ラッキーなのは……さそり座のあなた。どんなこともパワフルにこなせる一日です♪』


 テレビをBGMにして、段取りを考えていた。

(……とりあえず、アライメントからだな)

 そんな時。
 店の前に、タクシーが止まった。

「……?」

 店舗に、タクシーで乗り付ける人間は皆無。近所の誰かが、飲み屋からの朝帰りしたのかと。内藤はそう思っていたが。

「おはようございます」

 入院していた筈の原田美世が、タクシーを使ってまで出勤してきたのだ。きっちりとつなぎを着て、何時でも作業を再開できる格好だ。

「お前……病院はどうしたんだよ」

「……朝一で退院してきました」

 得意顔で、美世はそう言った。とはいえ、美世の顔色は、明らかに悪い。

「それ、脱走っていうぞ?」

 内藤は呆れ返った。

「良いんです。あたしの役目は、終わって無いんです。まだ仕上げが残ってますから」

 そう断言した。

「……どうしようもねぇバカだな。死ぬ気か?」

「今更ですよ」

 原田美世は、何を言われても止まらない。フルスロットルになったら、何があっても突っ走り続けるのだ。

「しゃーねぇな。二人掛かりで、一気に仕上げるぞ。
 まずはアライメントだ」

「はい!!」

 内藤の指示に、美世は元気よく答えた。


ちょっと、朝飯食ってきます。

十章 迅帝


 深夜の首都高速。横羽線上り。

 けたたましい爆音を響かせて、狭く路面の荒れた羽田線を、青いR34が駆け抜ける。

(良い……最高の仕上がりだな)

 オーバーホール後の慣らしを終え、セッティングも完了。ついに、迅帝は首都高と言うステージに、蘇ったのだ。

 岩崎は、路面のギャップの一つ一つを確かめる様に、GT-Rのペースを上げていく。

(……見立て通りだ。彼女は天才だ……)

 現在のブーストは1,5kgだが、それでも700馬力近く発揮。
 フルブーストの2,0kgまで過給圧を高めれば、950馬力を絞り出す。文字通りの怪物マシン。

 一踏みで、軽く250キロオーバーまで加速させる。

(……6000より上の伸びは勿論凄い。9500まで一気に吹ける。だけど、中速域のピックアップも、決して悪く無い……)

 ビッグシングルタービンの最高速仕様。だが、レスポンスも十分についてくる、絶妙な仕上がりだった。

(……足回りのセッティングも、アライメントも決まってる)

 桁外れのパワーを受け止める、強靭なボディ。それに加え、パワーをしなやかに路面に伝えるサスペンション。全てが、パーフェクトなセッティングだった。

(……狭くて路面の悪い横羽で、ここまで踏める様にするとはね……。恐れ入るよ、原田さん)

 岩崎は、自然とほくそ笑んでいた。




 基本設計からして、フロントヘビーなGT-R。大きく重い直列6気筒をフロントに積むが故の弊害で、過去に参戦していたJGTC時代で一番苦戦した要因と言われる。

 元々の車重が重い事も言われるが、軽量化を進めれば進める程、リアがばかり軽くなる傾向がある。したがって、重量バランスがノーマル以上に、フロントヘビーになってしまうのだ。

 タイムアタック仕様のGT-Rでも、リアにラジエーターを移設する例がある等、第二世代GT-Rの大きなネックの一つとしてあげられる。

 重量バランスがフロント寄りになると、リアタイヤの荷重変化が大きく、スープラ等のFRの場合はトラクションが抜けやすい傾向になる。

 その点GT-Rの場合、トルクスプリット式4WDシステム。アテーサET-Sの制御によって、トラクション性能とハンドリングを両立している。


(リアの接地感が良い……。トーを直進安定方向に振って、キャンバーを2度くらいかな。ショックの伸び側を柔らかくして、タイヤの接地変化を抑えてる……。

 ハンドリングはニュートラルから弱アンダーが一番乗りやすいって言われる……。絶妙なステアバランスになってるね)

 美世のセットアップは、見事なほど決まっていた。

 全盛期。否、それ以上かもしれない。
 蘇った伝説は、更なる高みを目指すのか。

 蒼い閃光は、闇夜を貫く。




 12月22日。都内は、サンタクロースの格好をしたごついおじさんの像や、ミニスカサンタに衣装を替えたアルバイトの女の子等、クリスマスムード一色だ。

 内藤自動車の窓に、ミニスカサンタの格好をしている、輿水幸子のポスターが貼ってある。お菓子メーカーの広告なのだが、店主の趣味で貰ってきたのは間違いない。


 ガレージ内で愛機を見つめる原田美世。

 彼女は納車の際に、岩崎とある約束にこぎつけた。

(……岩崎さん。違う……迅帝と首都高を本気で走る)

 美世は、迅帝への挑戦状を叩きつけた。
 首都高の伝説へ挑む事。それが、どれ程無謀な事なのか、本人も重々に理解している。

(……あのモンスターマシン相手だと、あたしのGT-Rで追いつける訳が無い)

 オーバーホールとセッティングした張本人なので、迅帝のマシンが恐ろしく速い事は解りきっている。


 レーシングカーの様に、レギュレーションという足枷が無いのが、チューニングカー。

 往年のグループA時代、RB26は650馬力以上と言われていた。
 しかし、チューニング業界はRB26DETTチューニングを極めつづけ、90年代の終わり頃には1000馬力を超えるチューンドGT-Rがゴロゴロしていた。

 耐久性を犠牲にしている面も有るが、そこまでのパワーを受け止める事が出来る素材なのだ。




(……今更、馬力を上げるにしても、時間が無い。一晩で軽量化をしたとしても、足回りを仕上げる事はまず出来ない……)

 美世のR33は、あくまでもストリート仕様。パワーも劣るし、車重もはるかに重い。

 迅帝のR34のスペックと比べれば、天と地ほどの差が存在する。

「……随分、考え込んでるな」

 愛機を見つめる美世へ、師匠の内藤はそう声をかけた。

「……健さん」

 美世は、ゆっくりと振り向く。

「しかしなぁ。お前が、迅帝を引っ張りだしてきたのは、驚いたぜ……。
 しかも、美世の所属してるチームのドライバーだったとはな」

「それは、あたし自身もびっくりしてますよ。だけど……巡り合う運命だったかもしれません」

 美世は、そう言ってから、視線をGT-Rの方へ戻した。

「そうか。
 ……んで、迅帝と走るとしてもだ。コイツで、着いていけるのか?」

「…………」

 内藤からの意地の悪い質問に、美世はまだ何も言わない。

「あのマシンが、桁違いのバケモノなのは、お前自身で組んでるから解る筈だろ。

 恐らく、全盛期以上のスピードを出せる筈だ。俺達ですら、追い付けなかった相手に、このGT-Rで立ち向かうつもりだ?」




 そう言われ、美世はガレージの端に移動した。そこに置いてある荷物には、青いビニールシートが被せてあった。

「……これが、あたしの秘密兵器です」

 そう言い放ち、美世はビニールシートを捲り上げた。


 その秘策に、内藤は押し黙った。

「……一か八かだけど、この策なら恐らく勝負できる筈です」

 埋められないスペックの差を埋める秘策。それが、美世にはあった。

「なるほどね……。
 随分と面白い事考えやがるわ……」

 内藤はニヤリとしていた。




 12月24日。クリスマスイブ。天空に広がる闇夜は雲一つ無く、天気予報師曰くホワイトクリスマスには到底ならないそうだ。

 毎年346プロでは、クリスマスパーティー兼バースデーパーティーが行われる。美世も誘われたが、今年はどうしても外せない用事が有ると、断りをいれていた。

 時刻はもうすぐ、日付が変わる頃。


 美世は国道246号線、三軒茶屋のコンビニの駐車場に居た。

(……そろそろかな)

 R33にもたれ掛りながら、缶コーヒーを飲んで約束の相手を待つ。

 クリスマスの待ち合わせはロマンチックな雰囲気になる筈だが、少なくとも約束の内容はクリスマスにそぐわない。


 そして……。

「……来た」

 遠吠えの様に、そのエキゾーストが響いてくる。
 ジェット戦闘機が低空飛行してるかと思う程の轟音。外で待っていれば、振動がビリビリと伝わる。

 駐車場に入って来た、蒼いR34スカイラインGT-RVspec。

 トレードマークの“壱・激・離・脱”と記されたステッカー。蘇ったそのマシンは、そのオーラを隠そうともしない。

「……こんばんは」

 R34から降り立った岩崎。




「岩崎さん。メリークリスマス、ですよ?」

 美世はそう言った。

「そう言えば、そうだったね。長い事、クリスマスには無縁だからさ」

 岩崎は、クスリと笑みを見せた。

 そして、少しの沈黙。


「……行きましょう」

「ええ。行きますか」

 美世の言葉に、岩崎は相槌を打つ。


 R33の右フェンダーを、美世はそっと撫でてから、ドライバーズシートに滑り込んだ。

(頑張ろうね……相棒!!)

 ホーリーナイトの夜会。華麗なる、鉄馬の舞踏会は、始まりを告げる。




 時同じくして。内藤自動車。

 閉店時間は、とっくに過ぎている。しかし、店主は事務室に籠ったままだ。特に事務仕事が溜まっている訳では無い。単純に、弟子の事が気がかりなのだ。

 そして、もう一人だけ。


 美世の事が気がかりな人物が、閉店後の内藤自動車を訪ねてきた。

「こんばんは……」

 そう言いながら、事務室に入って来たのは、担当プロデューサーだった。

「……やっぱり、あんたも来たね」

 内藤は、彼が来る事を確信していたようだ。

「ええ……。美世が、クリスマス会に来ないって聞いた時に、ピンときましたから」

 プロデューサーは、来る事の出来ない野暮用に、勘付いていた。

「……そっちの用事は大丈夫なのか?」

「とっくに、お開きですよ。多分、飲み足りない方々は、各自で呑みに行ってる筈ですよ」

「そうかい」

 そう言って、内藤はタバコをくわえた。


 プロデューサーは、椅子に座って、内藤をジッと見た。

「……今日、美世がクリスマス会に来なかったのは、前に修理していた青い車と関係があるんですよね?」

「……そうだ」

 その言葉に、プロデューサーは何も答えない。

「……今から、適当な独り言を話すから、聞き流してくれ」

 そう告げ、内藤はタバコに火を点ける。プロデューサーは、無言で見ているだけ。




「……アイツは、伝説の走り屋と今夜本気で走る。例えて言えば、日高舞が一晩限り全盛期の姿で復活するくらい、とんでもない話だ。

 まぁ、勝ち目が有る訳がねぇ。それでもアイツは挑むんだ。アイツ自身で、R34を蘇らせた。それで、火が点いたんだろうな。

 本当に、美世は凄い奴だぜ。オーバーホールして、慣らし運転を終わらせた後だ。アイツ自身で、足回りと燃調を決めた。

 燃調ってのは、インジェクターから噴き出たガソリンを、空気と混ぜた混合気の比率の事だ。
 これが濃いと、エンジンのレスポンスは鈍くて回らない。かと言って、薄いと爆発力が上がり過ぎて、エンジンがブローする。
 チューニングカーの一番の詰めだ。

 丸で、インジェクターから噴射されるガソリンが、見えてるんじゃねぇかって。燃焼室を透視出来てるんじゃねぇか。そう思うくらい、絶妙なセッティングを叩き出しやがった。

 足回りもそうだ。高速領域のセッティングは、極端に大きな荷重変化が起きる。その時に、タイヤが地面に接地してなきゃ、車は何処にすっ飛んでいくか解らない。壁に突き刺さるのがオチだ。

 首都高の荒れた路面で、ハイパワーを踏み切れるセッティングを、短時間で見つける。そんなもん、長い事走ってきた俺でも、まず無理だ。
 この速度なら、車がどういう風に動くか。頭の中で、完全にシュミレート出来てる。

 才能があるのは知ってた。だけど、原田美世がここまで天才だとは思わなかったぜ……」

 一気にしゃべると、殆ど吸っていないタバコは、半分以上が灰になっていた。




「…………」

 プロデューサーは、ただ聞くだけ。

「そんでもって、今夜走る為にアイツは秘策を練りやがった。

 あのR33に、スリックタイヤを履かせたんだ。低温用のソフトコンパウンドのな。
 更に、タイヤのグリップが格段に上がった事に耐えれる様に、バネレートを前後とも上げて、ブレーキもスプリントレース用の高温対応にしてる。

 タイヤのグリップを思いっきり上げる事で、パワーと車重の差を少しでも埋めるって考えだ。

 タイヤもブレーキも、今夜一晩しか持たないし、空気圧の調整も一発で決めなきゃいけねぇ。
 極端な裏技だが、今夜の走りにアイツはそこまで賭けたんだ。

 誰よりも本気になっちまう。それが、原田美世って奴だ」

 プロデューサーは、言葉の半分以上が理解出来ていない。ただ、美世が本気になってる事だけは、よく解った。


「朝方に、美世は帰ってきます。人間も車も無事なままで。そう信じてますから」

 プロデューサーは、自分自身に言い聞かせるように、そう言った。




 R33、R34の順に、三軒茶屋ICから首都高速3号線に乗り、二台は渋谷方面へ向かう。

 環状線に入るまでの間。美世のR33は、奇妙な動きをしていた。

 小さくウェービングを繰り返し、加速したかと思えば、すぐに減速。その動きをじっくりと見つめる岩崎。

(……牽制じゃない。煽ってる訳でも無いな)

 その動きは、岩崎もサーキットで見覚えがある。

(あの動き方は……フォーメーションラップの動作そのものだ。
 だとすると……)

 岩崎は、すぐに勘付いた。

(……スリックタイヤ)

 その考えが脳裏をかすった時。口元がニヤリと笑った。


 美世は、タイヤとブレーキに熱を入れる為に、この動きを繰り返している。

(……大分、グリップ感も減速感も出てきた。何とか、環状線までに熱は入るかな……)

 この策は、大きな博打だった。

 レース専用のスリックタイヤは、市販のタイヤより遥かにグリップ力が高い。
 熱で表面のゴムを溶かして、グリップ力を高めるという構造になっているからだ。

 反面、寿命は極端に短い上に、タイヤの温度管理が極端にシビアになる。一番グリップを発揮する温度域が、極めて狭いからだ。

 熱が入らなければ、スリックタイヤを履かせた意味は無い。
 冬の冷えた路面温度で、タイヤに熱を入れれるかは、正直無謀な賭けと言える。

 また、ブレーキの超高温用にしている為、冷えている状態では全く効かない。
 ローター温度が300度を超える状態まで、発熱させなければならない為、極端な加速と減速を繰り返していたのだ。




(……もうすぐだね)

 谷町JCTまで、後500メートル。

 後ろに着く岩崎は、R33の丸二灯テールを、ジッと見つめる。

(……見せて貰うよ。君の全てを……)

 そして、二台は巡航速度で、環状線内回りへ合流。


 R33のハザードが、三回点滅する。

 それに倣うと、R34はパッシングを三回光らせた。

「……行くよ!!」

 3速のまま、美世はアクセルを踏みつけ、ペースを上げる。ブースト計は1.3kgを指していた。

「……オーケー」

 岩崎は、一瞬2速に落としてから、全開。5000rpmから、一気に9000rpmまで、タコメーターが跳ね上がった。

 クラッチペダルを蹴りつけて、シフトレバーを引っ張って3速へ。
 シフトアップした瞬間。後ろから蹴っ飛ばされたと思う程の、加速Gを感じる。

(アクセルを踏むのが恐ろしくなるパワーだが……この吹け上がりこそが最高なんだ)

 恐怖心と、快楽。反する気持ちが、岩崎の心に飛来する。
 これこそが、スピードという魔力なのだ。




 先行するR33が、一ノ橋JCTを通過。
 美世の見えて居るのは、道の先だけ。

(……乗れてる)

 全ての神経が研ぎ澄まされ、車体の動きが手に取るように解る。
 先を行く一般車の動きが、スローモーションの様に見える。

(こんなに乗れてた事は一度だって無い……)

 丸で魔法がかかった様に、美世はドライビングに集中していた。

 芝公園ICから左、右と続くコーナーは、4速でクリア。熱の入ったスリックタイヤに物を言わせて、R33は迅帝を引き離す。

(凄いね……タイヤが路面に張り付いてる)

 狙ったラインを、寸分狂わずトレースしていく赤いボディ。ドライバーもマシンも、今夜のコンディションは、間違いなく最高だった。


(……見事だね)

 後ろから観察する岩崎は、その走りにほれぼれした。

(ライントレースも見事だし、それに加えて、スリックタイヤも使いこなしてる。
 あのR33の武器でもある、レスポンスの良さを生かす為に、タイヤグリップをあげてコーナリングスピードを稼いでる……)

 しかし、相手は首都高の伝説を作った走り屋。ましてや、現役のGTドライバーだ。

(……こっちも、全力を尽くさなきゃ、失礼に値するね)

 岩崎の目付きは、レース時の鋭い眼光を放っていた。




 浜崎橋JCTを右に折れて、首都高速羽田線へ。更に、芝浦JCTから、環状11号線へ。

 緩い右コーナーを抜け、レインボーブリッジへ。
 一般車両の量が、少しだけ増えてきた。

(……ここは勝負所)

 美世は目を凝らし、先を走る一般車のテールランプの群れを睨んだ。


(……見える!!)


 時速200キロオーバーの中で、すり抜けられるラインが、一本だけ見えていた。
 右に左にレーンチェンジし、ヘビー級のマシンとは思えない身のこなしで、縫う様にアザーカーを抜いていく。

 ハイレスポンスに仕上げたRB26と、スリックタイヤの強大なグリップ力は、抜群の相性だった。

 ジリジリと、R33とR34の距離は離れていく。
 相手がスリックタイヤを履いているとは言え、岩崎自身スラロームで引き離された記憶はあまりない。

(……夢見の生霊と同格の速さか)

 岩崎はどっしりと構えて、R33の動きを見極める。


 そして、有明JCTから湾岸線へ合流。下りの神奈川方面へ流れていく。

 勝負は、超高速ステージへ。




 新環状内のスラロームと、合流地点のコーナーで稼ぎ出したマージンは、約2秒。200kmオーバーの世界なら、その差は100メートル弱。

 合流地点に一般車は少ない。ただ、前方には一般車のテールが流れていた。

(……追いつかれるかな)

 パワー差は解りきっている。それでも、美世は愛機のアクセルを踏み込む。


 4速、8000rpm。220km。


 素早く5速へシフトアップ。6000rpmまでドロップしたエンジン回転は、咆哮を上げて再び上昇していく。

(……水温89……油温108)

 外気温が低い分、オーバーヒートの心配は少ない。
 ステアリングに装備されるミサイルボタンに、美世の親指が伸びた。

(頑張って……相棒!!)

 1,6キロのスクランブルブースト。GT-Rを信じ、床を突き破らんばかりに、アクセルを踏みつける。




 少しだけ引き離されて、R34が湾岸に合流。

(……試させて貰うよ。君の組んだRB26のフルパワーを……)

 そして、岩崎もスクランブルブースト。過給圧2,0キロで950馬力。
 レースフィールドでは考えられないパワーを与えられた、RB26。

「……ッ!!」

 ワープしていると錯覚させる程の加速力。全身が、巨人の掌で押さえつけられていると思える程の力で、バケットシートに押し付けられている。

(……恐ろしい加速だね)

 岩崎をして、そこまで思わせた。
 しかし、恐怖感と裏腹に、岩崎の口の両端は吊り上っている。

(……水温96……油温119……まだまだ行ける)

 猛然とR33のテールに迫りくる、R34の蒼い疾風。


(……来てる!!)

 強大なグリップに任せて築いたマージンは、ストレート一本で即座に帳消し。

(……我ながら、恐ろしいマシンを組んだんだね)

 ミラーに迫るヘッドライトを見て、美世は苦々しく笑った。




 東京湾トンネルから、一般車両の流れに追いついてしまう。
 ブレーキを踏んで、220キロまで減速。

(……右……真ん中……また右)

 テールランプの流れを読んで、ラインを読む。
 そして、狙ったラインをトレースしながら、一般車を次々と抜き去る。

 二台は一定の間隔をキープしたまま、東京湾トンネルを突き抜ける。
 迫りくる左コーナー。真ん中を走る長距離トラックを抜けば、一般車が消える。

(……右)

 そして、R33が一番右車線からトラックをオーバーテイク。


 オールクリア。フラットアウト。


 美世は、再びスクランブルブーストを使う。

(……隣だ)

 一瞬だけ、左のサイドウインドウから、横を見る。
 蒼い影が、一番左車線に見えた。


 最後のトラックを、左から抜いた岩崎も、スクランブルをかけていた。

(……並びさえすれば、こっちのものだよ)

 絶対パワーに物を言わせて、R34を加速させる。

 250キロ。
 ここからの加速力は、R34が伸びる。

 大井JCTを通過。美世はまだ諦めない。

(……岩崎さん、使わせて貰います)

 前に出られたが、二車線一気にレーンチェンジし、R34の後方にR33のノーズを滑り込ませた。

 スリップストリーム。空気抵抗を減らして、パワー差を少しでも埋める。

(……これなら、着いていける)

 テールに張りついて、先行するR34の隙を覗き見る。




 大井パーキングエリア。閑散としたパーキングエリアに、停車するADバンと、FD2シビックタイプR。
 菊地と藤巻が、ギャラリーに来ているのだ。道路沿いの壁から、湾岸高速の流れを見つめる。

「……今日走ってるのは、確かなんだよな?」

 菊地は、藤巻にそう聞いた。

「岩崎本人が言ってたから、間違いないぞ」

 藤巻は、確信を持って伝えた。

 藤巻は走り屋時代。そして、菊地はレーサーになってからの。どちらも、岩崎の師匠になるが。


「……首都高も、昔に比べれば静かになったなぁ。ま、当然と言えば当然だが……」

 菊地は、しみじみと語った。

「とか言いながらよ。

 ニュルブルクリンク24時間に出るのが決まったからって、無灯火で首都高走って、特訓してただろ……」

 藤巻は、そう言ってからかった。

「バカ言え。六年前の話だ。もう時効だよ」

 菊地は、そう言い張った。

「……へ。相変わらずだな」

「大体、R33のN1仕様の試走で、二人して真夜中に箱根やら、東名やら走ってただろうが。お互い様だ」

 どちらも、結構な前例がある様だ。




 耳を澄ませば、轟音が迫りくるのが解った。

「……来たな」

 吹き抜ける風の如く、通り過ぎるのは一瞬だけ。

「蒼の34……岩崎が前か。だが、R33もぴったりと後ろに着いてる……」

 菊地は、そこまでは見切った。

「……予想外だな。あいつが湾岸で張り付かれるなんてよ」

 美世の予想外の健闘に、藤巻は舌を巻いた。

「……あれは、二台とも原田さんが組んだんだろ?」

「ああ。R34はオーバーホールとセッティングまで決めたし、R33はコツコツ地道に仕上げたみたいだ」

 菊地の問いに、藤巻は淡々と答えた。

「そうか……」


 菊地は、顎に手を当てて、何かを考え始めた。

「……どうした」

「いや……。特に何でも無い」

 菊地の答えは、歯切れが悪かった。




 東海JCTを通過すると、羽田空港までもう少しだ。

 R34のスリップストリームを有効に使いつつ、スラロームを続ける。

(……橋を過ぎた後の左コーナーが勝負所!!)

 美世は、オーバーテイクのポイントを定めていた。

 時速270キロで、迫りくる左コーナー。


 R34の選んだラインは、一番左から進入する、インベタのラインだ。

 ペダルの操作の一つ一つを丁寧に。この速度域での急激な操作は、姿勢を乱す原因を作ってしまう。

 一瞬のフットブレーキから、ヒールアンドトゥ。シフトレバーを押して、5速へシフトダウン。240キロに速度を落とす。

「……!?」

 R34の右サイドミラーに、パッシングの光が反射した。


 美世はコーナーギリギリまでブレーキングを遅らせていた。そして、5速のまま一瞬のチョンブレーキだけで、アウトからR34に並びかける。

(……っ!!)

 コーナー中盤で、パーシャルスロットルと左足ブレーキを使って、荷重をコントロール。

 出口で僅かに跳ねて、ポンポンと外へ膨らむが、強力なスリックタイヤのグリップに任せて立ち上がる。

 260キロで大外刈りを決め、R33が再び前に出る。


(……今のは、結構無理したよ)

 何とかコーナーを抜けて、美世は小さく息を吐いた。


 再び、R33のテールを拝む岩崎。

(……こっちだと、流石にそれは無理だな)

 しかし、動じる気配は無い。むしろ、抜き返した美世に、敬意さえ表する様だ。

(直線で料理させてもらうよ……)

 まだ、バトルは終わらない。




 羽田空港北トンネルを抜け、左手に羽田空港が見える。一般車の姿は消えない。

(スラロームだけなら何とか……)

 前には出たものの、中々引き離せない。

 背中に、ピリピリと大きなプレッシャーが、津波の様に押し寄せてくる。
 しかし、美世の表情は、不思議と緩んでいた。

(……この瞬間なんだ)

 狂ったスピードの中でしか味わえないスリル。

 背徳行為の代償は、麻薬以上の快感。美世の脳内は、アドレナリンで満たされる。


(熱くなれるんだ!!)


 愛機に鞭をくれる。




 大きく弧を描く、多摩川トンネル。防音壁に反響する、RB26DETT。

 二台のGT-Rは、互いに威嚇する様な咆哮であり。それでいて、仲間を呼ぶ遠吠えの様であった。


 時代を象徴する名車、GT-R。多くのチューナーを虜にし。また、多くのファンを魅了した。

(……最高のエンジンだよ。君の組んだRB26は……)

 首都高の伝説を作った男も、その車に惚れ込んだ一人に過ぎない。


 一般車の流れが、少しづつ減っていく。

 浮島JCTを過ぎ、海底を抜ける川崎航路トンネルへ。

(……近い。もうすぐだ……)

 美世は、ただ行く先を睨みつけるだけ。

 250キロでのスラローム。1キロでも速く。1センチでも前へ。

 トンネルを抜けると、そこには広大な闇が広がり。道標となる街灯が、遠くまで続いていた。

(……オールクリア!!)

 6キロの直線。差し詰め、和製ユノディエールと形容しようか。
 丸で、2台の為だけに道が有るかのように。




 美世は、迷わずスクランブルブースト。


(……頼んだよ!!)


 相棒を信じ、アクセルを踏み抜いた。



 260キロ。

 風圧に負けまいと、力任せに押し返す赤いボディ。


 270キロ。

 蒼い王者が、右に並んだ。



「遊ぼうぜ……」


 岩崎は小さく呟いた。





 サイドバイサイド。280キロで、並走するGT-R。


(……あたしは、あなたと走れて幸せです)


 恋でも愛情でも友情でも無い。ただ、一瞬を共にするだけの共感。美世にとっては、何よりも尊い物だった。



 285キロ。迅帝が、ジリジリと前に出る。






 290キロ。高周波と化した風切音に、エキゾーストノートがかき消されていく。



 295キロ。タコメーターは、レッドゾーンでビリビリと震える。



 300キロ。美世の目に、異型の丸二灯テールの、赤い光が見えていた。



 305キロ。迅帝の背中を見つめる。少しずつ離れていく。



 全てを出し切れた。否。それ以上だった。


 自分の培った実力が、120パーセント絞り出せた時だった。


(……ありがとうございました。最高の走りが出来ました……)


 何の意味も価値も無い、最高の奇跡が起きた瞬間だった。




 大黒パーキングエリア。かつては、走り屋で賑わっていた深夜のパーキング。今では見る影も無い程、ガラガラに空いていた。

 2台共、ゆっくりと滑り込んだ。並んで停車し、車を降りる。

 岩崎は、美世の元へ歩み寄った。

「……お疲れ様。良い走りだったよ」

 岩崎は、笑みを見せていた。

「……お疲れ様でした。……最高の走りが出来て、何も言う事はありません。これで、心置きなく……首都高を降りれます。

 岩崎さん……ありがとうございました」

 美世は、右手を差し出した。

「楽しかったよ。俺自身も……もう二度とここで走るつもりは無い。だけど、最後に走れたのが……原田さんで良かったよ」

 そう言って、岩崎は右手を掴み取った。

「……また、どこかで会おう。きっと、原田さんとは縁があるからさ」

 そう言い残して、岩崎はR34に乗り込んだ。

 RB26の快音を残して、岩崎は大黒パーキングを去って行った。


(……来年も、チームKSで仕事出来たら良いな……)

 そんな希望を胸に、美世はR33へ乗り込んだ。


「……お疲れ様。相棒」


 そう言いながら、ステアリングを撫でていた。


終章


 年が明けて、一週間。

 原田美世は、346プロダクションの応接室へ呼び出された。
 対面に座るのは、菊地真一。チームKSの今年の契約の話なのは、容易に想像できる。

 右隣に座るプロデューサーは、恐る恐る話を切り出した。

「えっと、今年の契約の事ですよね?」

「勿論、そうですよ」

 菊地は、間髪入れずそう答えた。

 本来であれば、プロデューサーから、相手方へ出向くのが普通なのだが。美世も、プロデューサーも疑問を払拭出来ない。




「まずは、こちらの契約書類に目を通していただけますか?」

 そう言いながら、菊地は書類を提示した。

「えっと……今季は、チームKSのテストドライバーとしての契約!?」

 内容を読み上げ、美世は素っ頓狂な声を上げた。

「それって、レースクイーンじゃなくて、ドライバーとしての契約ですか!?」

 プロデューサーも、予想外の内容に戸惑いを隠せない。

「その通り。スカウトと思って貰って構わない」

 菊地の首は縦に動いた。




 そして、言葉を続ける。

「最初に断っておくと、原田さんの事は色々聞いてる。普段乗っている、GT-Rを自ら手掛けた事も含めてね。

 そこで、芸能活動と並行して、うちチームで一年間テストドライバーをやって貰いたいんだ。
 まず、岩崎自身も他のカテゴリーのエントリーや、パーツメーカーのテストが増えてきた分、テストのスケジュールが取れなくなった。

 俺自身でテストする事も出来るが、正直年齢的にも結構きつい」

 菊地は、真っ直ぐに美世を見ている。

「何よりも、君の年齢は若い。その若さで、あれだけ車を仕上げて、尚且つ走りの方も中々の物だと思っている。
 今後のチームの為にも、若手の育成は急務なんだ」

 菊地の言葉に、美世もプロデューサーも呆然と固まる。


「……タレントとレーサーの兼業は、過去に例が幾つも存在する。近藤真彦さんをしかりね。
 是非とも、検討していただきたい」

 そう言って、頭を下げた菊地。


「……願っても無い話です。あたしなんかで良ければ、この場で契約書にサインをしても良いくらいです」

 美世は、目をキラキラと輝かせる。


「……細かい内容の詰めもあります。ですが、是非とも前向きに考えさせて頂きます。

 何せ、一般公道をぶっ飛ばすより、よっぽど健全ですから」

 プロデューサーは、笑いながらそう言った。




「では、よろしくお願いします。

 ……それと、原田さん」


 菊地は、最後にある人物からのメッセージを伝えた。



「岩崎が、サーキットで待ってるそうだ。それだけです」



 少しの間を置いて、美世は満面の笑みを見せて答えた。


「……はい!!」




原田美世「……迅帝?」 FIN



これにて、完結です。

今更首都高バトルかよ、と思った人も多いかと思いますが……。
好きなゲームの一つなので、どうしても一度書いてみたかったんです。


それと、アイドルの原田美世では無く、人間の原田美世を深く掘り下げてみたい部分もありました。
随分と偏った人物像が出来てしまいましたが、そこは勘弁してください。


実は、最初はレーシングラグーンで書こうとしてましたが……止めました。
調べるなりして、理由は察してください。


余談ですが、今年の11月14日は、本当にスーパーGT最終戦の予選日です。

では、ご視聴ありがとうございました。


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