阿良々木暦「えりハーミット」 (40)
・アイドルマスター・ディアリースターズと物語シリーズのクロスです。
・物語シリーズは続・終物語から五年後設定。
・涼はAランク敗退ルート、愛はBランク下位勝利ルート、絵理はベストエンド後となります。
・参考:「serial experiments lain」
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少ししたら書かせていただきます。
001
その起動の唸り声は、心臓を動かす胎動の合図。
その駆動の音は、血液の流れる音に酷似していて好ましい。
その打鍵の無機質な響きは、彼等との会話のようで心が弾む。
その15.6インチのディスプレイに映るのは、顔のない人々の声。
そこには年齢も性別も国籍すらも問われない、自由な世界がある。
一般的にインターネットと呼ばれる、プロトコルによりコンピュータ間を繋ぐネットワークによって形作られた仮想世界。
かつては物理的に手を出せない空間として、機密データを保管する為にごく限られた一部の人間が利用する目的で作られたと聞くけれど、それも今は過去の話。
現在では人類の大半が有用なツールとして何らかの形で使用している。
ここは人の意志が介入していながら、誰が定めた訳でもない独自のルールと秩序によって保たれている、不思議な世界だ。
悪意や憎悪といった負の感情も、現世とは比べものにならないレベルで蔓延しているけれど、大抵は常識のある住人たちによって排除もしくは無視される。
それに何も、悪口や罵詈雑言が悪意だけとは限らないのもこの世界の特徴だ。
顔のない彼等は、本音を隠す必要がない。
人間同士のやり取りで良く見られる、おべっかや上っ面だけの褒め言葉を彼等は使わない。
だから、人の本音を垣間見ることの出来る貴重な世界とも言える。
褒めるだけでは人間性は成長しない。
わたしの動画も、アップしていく過程で多くの声援と共に送られてきた指摘や、時には辛辣な言葉を受けて成長して来た。
いかがわしい人間が集うのがネット社会、と言う人もいるけれど、わたしは違うと思う。
確かにそういう人もいる。
けれど、わたしのように、人と対するのが苦手な人間がディスプレイを通して本音を語れる場所でもあるのだ。
人間は、本能的に本音を隠す。
他人に自分の胸の内を知られることは、とても怖いから。
その点、ネットでは知られたところで相手は顔どころか人間じゃない可能性だってあり得る。
わたしの動画に寄せられたコメントが全てコンピュータの自演だったとしても、わたしはわからないだろうから。
だからだろうか、わたしは逆に安心する。
ここはどこよりも優しい世界だ。
誰もわたしを縛らない。
誰もわたしを咎めない。
誰もわたしを憎まない。
誰も本当のわたしを知らない。
皆が皆、仮面を被ったアバターだ。
争いも諍いも匿名同士の絵空事。
痛みもない、苦しみもない、死の概念すらもない優しい世界。正しい知識を持った者だけが居住を許される、理想の世界。
仮想とは言えども世界は世界だ。
世界があれば、そこに住まうものも必然的に存在する。
それこそ、元にいた世界を投げ捨てて『移住』してしまう人だって、決して少なくはない。
何故ならわたしもそんな中のひとりだから。
わたしの名前は、Ellie。
電子の海を漂う、どこにもいない、架空の女の子。
さあ、今日も今日とて、今日を始めよう。
かたん、かたん、
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かたん。
002
「すぅ……はぁ……」
大きく息を吸って、吐く。それだけで、肺の中が一気に清浄された気がする。
気分は身体そのものをアップデートしたような感じだ。
その、疑似的な爽快感と共に歩みを進める。
外の空気は、部屋の外、という事実だけで新鮮に思えるから、不思議。
例え砂漠のような熱い日でも、極地点における絶対零度以下であろうと、それだけは変わらない。
わたしの名前は水谷絵理。
少し前にスカウトを通し芸能事務所である876プロダクションに所属し、ネットアイドルから現実のアイドルへと転身。
これを昇華と呼んでいいものかどうかはわたしには答えかねる。
ネットアイドルと現実のアイドル、どちらが優れているかなんて、そもそも秤にかけるようなものじゃ、ない?
実際に、特に日本ではインターネットの過剰とも言える程の普及によりリアルとネットの境目はかなり水平に近づいてきていると思う。
まだネットすらもない時代にあった、アイドルはテレビの中だけの仮想現実であり偶像――そんな認識はもう古い。
わたしはネトアとリアルアイドル、両方を体験している身だからこそ言えるのだけれど、両方とも一長一短だと思っている。
今でこそリアルアイドル側に寄っているが、わたしは決してネトアを捨てた訳じゃない。
デビューしたての頃はリアルアイドルを軽んじていたこともあったけれど、今は、違う?
今は、どっちも大事。
リアルアイドルをやる過程で、わたしは多くの大切なものを手に入れた。
サイネリアは文句を言いそうだが、それはネトアをやるために、と手放すにはあまりにも惜しいもの。
「おはようございます……」
事務所のドアを開けると、見慣れた風景が飛び込んでくる。
……はずだったの、だけど。
「よう水谷、おはよう」
「…………?」
思わぬ首を傾げてしまったのは、見知らぬ人が事務所にいたからだ。
しかもわたしの名前を知っている。
アイドルだから顔を知られていて当然、と思う程にわたしは自惚れてはいない……と思う。
どちら様だろう。
わたしに対し親しげに歯を見せ、手を上げて挨拶をしてくるその様は、まるで十年来の付き合いがある友人のするそれのようだった。
だけど、わたしの記憶を探っても、こんなロン毛でアホ毛が立っている、リュックサックを背負ったツインテールの小学生を追い回してセクハラしていそうな男の人は見覚えがない。
どこかで一度会ったことがあるのだろうか。それにしては、馴れ馴れしすぎるけれど……。
万が一彼が芸能界のとても偉い人、という可能性だってあるにはある(年齢的に、そうは見えないけれど)。
それ以前に、挨拶されたからには返すのが、社会の常識。
「……おはよう、ございます?」
「……なんで疑問形なんだ」
呆れるように目を細める彼。悪い人には、見えない?
あと語尾が疑問形になってしまうのはわたしの昔からの癖。
「どちら様……ですか?」
「……それは水谷なりの冗談か?」
日高ならともかく水谷にやられるとちょっと傷付くんだけど、と悲しそうに眉を顰める阿良々木さん。
かたん、と打鍵の音が頭に響く。
……ああ、そうだ。
阿良々木さん。わたしをスカウトし、リアルアイドルの世界へと誘導した、阿良々木暦プロデューサーさん。
「冗談です……阿良々木さん」
「僕のガラスのハートを傷つけたら強制的癒しという形で責任を取ってもらうぞ」
そんな、皮肉なのか事実なのか微妙なラインの発言と共に笑う阿良々木さん。こういう冗談を言う人は私の周りにいなかったから、中々に、新鮮?
涼さんと夢子さんは真面目だし、愛ちゃんは天然だから。
「…………具体的には?」
「膝枕待ったなしだ!」
「それは……ちょっと」
「アイドルに膝枕されながら子守唄を聞くのが僕の長年の夢だったんだ」
「ちなみに曲目は?」
「DOKIDOKIリズムがいいな。是非水谷に歌ってもらいたい」
「無理?」
わたしにあんな超ハイテンション曲が似合う訳がない。
愛ちゃんも言っていたが、曲にはイメージがある。
歌い手によって曲の魅力はそれこそ千差万別に変化する。
しかも子守唄としてのチョイスじゃない。
でもあの曲、すごくかわいいよね。
「恋愛サーキュレーションでもいいぞ」
「それ以上は、だめ」
世界観ごとふっ飛ばしている気がしたけれど、たぶん気のせい。
「外見に似合わず……メルヘン?」
「メルヘン!?」
ちょっとエッチで変態で年齢の割にオヤジくさいけれど、仕事は真面目。
それでいて全力でわたしたちディアリースターズをサポートしてくれる人。
なぜ忘れていたんだろう。
「メルヘンなんて言葉で罵倒されたのは産まれて初めてだが……中々どうして心を抉るな」
「…………?」
……わたしのプロデューサー?
そんな、わたしのプロデューサーは、確か……。
かたん、と打鍵の音が頭に響く。
「いた……っ」
頭の奥がずきりと痛む。
「おい、大丈夫か水谷?」
「はい……大丈夫、です」
本当はあまり大丈夫ではないけれど、これくらいの事でアイドルの仕事を休んではいられない。
「おっはようございまーす!」
「おはようございます」
と、丁度いいタイミングで涼さんと愛ちゃんが出勤して来た。
「よう、おはよう日高、涼」
「あっ……ごっ、ごめんね絵理ちゃん! 私、何も見てないから!」
「阿良々木さんが絵理さんにちゅーしようとしてるー!?」
「ん?」
見ると、頭痛でふらついたわたしに、阿良々木さんが肩に手をかけた状態だった。
見ようによっては、今からキスでもするように見えたかも。
「すごいですよ涼さん! あたしこういうの初めて見ます!」
「ダメだよ愛ちゃん、二人の邪魔しちゃ……行こう?」
「違う違う違う! 個人的には嬉しい誤解だが社会的には全くもって嬉しくないから戻って来い、二人とも!」
何だか愉快な勘違いをしている二人を阿良々木さんが必死で呼び戻す。
阿良々木さんがふざけて、愛ちゃんが突っ込んで、涼さんが巻き込まれて、わたしは静かに笑いながら傍観。
いつもの事務所の風景。
こんな楽しい日々が、いつまでも続けばいい。
だから、取っておこう。
かたん、かたん、
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かたん。
003
恒久の現状維持という望みは、誰もが一度は願ったことがあると思う。
それが叶わない願いだなんて事は、とっくに理解している。
わたしだって子供じゃない。
時間だけはどんな障害も厭わずに流れ続ける。
そもそも時間に障害なんて概念はない。
時間だけは誰にでも平等。
でも、願うだけならば許されるはずだから。
わたしも今でこそスカウトされ、アイドルとなったけれど、元は部屋にこもって動画のアップを生き甲斐としていた極端なインドア派だ。
一人でいると、ネガティブな考えもたくさんする。
漠然とした未来への不安、この停滞に近い状況を何とかしないといけない、と心の何処かで思うものの、具体的に何をしたらいいのかはわからない。
いっそのこと死んでしまおうか、と思ったことも、正直言って一度だけじゃない。
でも死ぬことに値する理由もなければ、実行に移す勇気もない。
結局はだらだらと振れ幅の弱い日々を繰り返す。
生きることは、力がいる。
何もしなくても、あんなに辛い。
過酷に生きることは、過酷に死ぬよりも何倍も辛く大変なこと?
わたしがネットという電子の世界に傾倒しているのも、そんな理由があってのことなんだと思う。
ネットの世界は朽ちない。果てない。
世界中に点在し今も語り継がれる英雄や偉人と同じだ。
もし明日私が死んでも、私がいたという事実は動画やつぶやきとして半永久的に残る。
ネトアになったのも、ネットの住人として永久に生きていたい、と心の何処かで思っていたのかも。
不老不死や不死身の身体に興味はないけれど。
わたしがいた痕跡をどんな形であろうと残しておきたいと思うのは、傲慢なのかな。
「絵理ちゃん? どうしたの?」
気付くと涼さんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
いつも元気で前向きな涼さんも、わたしのように思い煩うこと、あるのかな。
「ううん……なんでも、ない」
「お邪魔します」
と、そんなわたしの理想の日常を阻むかのように、突然の来客があった。
年齢は、小学生くらいだろうか。
奇抜な衣装を着た、無表情な子。
「……斧乃木ちゃん?」
「……鬼いちゃん」
かたん、と打鍵の音が頭に響く。
「い、た……」
頭痛と共に思い出す。
ああ、『また来たのか』。
わたしは彼女を知っている。
彼女の名前は斧乃木余接。
恐らくは、人間じゃない、別の生き物。
「……そっか。鬼いちゃんも巻き込まれたんだ。相変わらずだね」
「なんでこんな所にいるんだ?」
「それとも悪足掻きかな……まあいいか、どっちでも」
やる事は変わらないよね、と呟く。
斧乃木ちゃんと阿良々木さんの様子を見る限り、どうやら知り合いのようだった。
「僕が用があるのは、そこのお姉ちゃん」
「え……水谷?」
阿良々木さんが言うが早いか、斧乃木ちゃんが私の目の前まで肉薄する。
「こんにちは、宿借のお姉ちゃん。僕のことは覚えているよね」
「…………うん」
「そう。『それじゃあ、さようなら』」
聞きたいことがあったのだが、その前に斧乃木ちゃんが前方に手をかざす。
「『例外のほうが多い規則(アンリミテッド・ルールブック)』」
斧乃木ちゃんの指先が光ったかと思うと、次の瞬間、わたしの身体は貫かれていた。
「…………?」
それは傍から見たら滑稽な絵図だったと思う。
なんせ、わたしの胸に少女の手がめり込んでいる。
べき、ごき、と体内から鈍く響く生理的に嫌悪される音は、彼女がわたしの胸の中で肋骨を掻き分けているのだろう。
「水谷!」
「絵理ちゃん!」
こほ、と反射で出た咳と共に、大量の血液が外へと出て行く感触を味わう。
肺に肋骨が刺さったらしい。
あれだけ胸の中をいじられたら、当たり前だよね。
ああ、血を失くすって結構寒いんだな、なんて場違いな感想が浮かぶ。
涼さんと愛ちゃん、そして阿良々木さんに逃げて、と言おうとするものの、喉から出るのはひゅうひゅうと鳴る呼吸だけだった。
「あった」
ぼそり、と斧乃木ちゃんが、何かを呟く。まだちゃんと耳が聞こえていること自体が不思議で仕方ない。
人間の身体はわたしのような引きこもりの健康不良児でも中々丈夫に出来ているみたいだ。
ああ、もう。
苦しいのは辛いから、早く死んでくれないかな。
わたしの願いが通じたのか、斧乃木ちゃんがわたしの胸から手を引き出す。
ぶちぶちと嫌な音を立てた後、斧乃木ちゃんの真っ赤な手の上に収まっていたのは、わたしの心臓なんだろう。
自分の心臓をこの目で見て死ねる人間なんて、そうはいないと思う。
それにしても、意外に小さいね、わたしの心臓。
これじゃあ勇気も度胸もなくて当たり前?
「■■さん!」
「何■■■だ、■めえ■■■えぇぇぇぇぇ!」
薄れて行く意識の中で、愛ちゃんの悲痛な叫びと、阿良々木さんがとても人間とは思えない程の慟哭を上げながら斧乃木ちゃんに掴みかかっているところを視界の端に捉える。
「落■■てよ、■■■ゃん」
「■■けるな! 水谷が■■■■■っ■■■■だ!」
ああ、今回もまたダメだった。
それじゃあ、やり直そうか。
かたん、かたん、
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かたん。
004
生理的に受け付けない音と共に、ノイズが走る。やがてノイズが収まり拓けた視界に映るのは、見慣れた事務所内の風景。
ただ一ついつもと違うのは、机の上に立つ一人の女性の姿。
おかっぱ頭の似合う凛としたスタイル抜群の彼女の名前を、私は知っている。
彼女の名前は影縫余弦。
不死身の怪異の専門家。
「のう、いつまでもいちびっとったらあかんで、宿借のお姉やん」
「…………」
「うちと何度も会うとるやろ?」
まただ。
また、影縫さんは現れた。
膨大なデータは蓄積する。
今日一日に限定して『やり直し』が可能な今の私には、彼女と斧乃木余接ちゃんとの邂逅が、それこそ膨大な量のデータとなって記憶というドライブに保存されている。
来るのは、大抵どちらか一方。
たまに二人で一緒に来る。
レアなケースとして、変な髪形をした喪服の人と一緒に来たこともある。
「水谷……!」
「鬼畜なお兄やん、今回は義理もあれへんし、譲らへんで」
阿良々木さんが歯軋りをしながら、対峙する私と影縫さんを忙しなく交互に見比べていた。
「うちはそこなお姉やんを殺しに来たんや」
「影縫さん……知り合いの馴染みで、せめて話だけでも聞いてくれませんか」
影縫余弦と斧乃木余接は、私を殺しにやってくる。
目的は、今までの口振りからして、そうすることが仕事のようだ。
人間ではなく、今の私のような、異能の存在を消す仕事。
だからだろうか、不思議なことに何度も殺されているというのにあまり憎しみは湧いてこなかった。
「あかんあかん。うちが出張っとるんや。余接も動いとる。そんだけ言えばわかるやろ、鬼畜なお兄やん」
「……水谷……」
頼むから何か言ってくれ、と阿良々木さんが哀願していた。
ここで阿良々木さんに嘘をつくこと自体は簡単。
けれど、それでは意味がない。
それでは、わたしの目標に届かない。
「影縫さんが言っていることは……本当。今のわたしは、人間の域を越えている……?」
自分で言ってて馬鹿らしいと思うくらいだから、聞いている側からしたら、相当のものだろう。
阿良々木さんの期待を裏切るのは、それが謂れのないものであろうと、少し心が痛い。
「でも……やめるわけには……いかない」
想いを言葉に乗せ、二人を睨み付ける。
何があっても意志は変えない、と無言の圧力で気位を示す。
「……うちは快楽殺人者とちゃう。えんばんと不死身の怪異の専門家や」
「……知っています」
「どないしても気ィは変われへんか」
「はい」
「水谷……」
「ほな、しゃあないな」
影縫さんが歩を進める。
「言葉が通用せぇへんなら、力に訴えるしか、うちはやり方を知らん」
わかっている。
間違っているのは、わたし。
わたしは取り返しのつかない、時間という枠を弄っていたずらに常識を曲げている。
「せめてもの情けや。いっこも痛ないようしたるけど……うちらが同情で止まることはあれへんで」
「……お気遣い、ありがとう……?」
それはわたしのせめてもの抵抗だったのか、馬鹿げた台詞を紡ぐ声は震えていた。
当たり前だ。
何回殺されたって、死ぬことに対する恐怖が拭えるはずもない。
「ほな、今日のところはさいなら」
無慈悲な言葉と共に手刀が迫る。
きっとあの手に心臓を貫かれるのだろう、なんて他人事な感想が思い浮かぶ。
唯一の救いは、影縫さんも斧乃木ちゃんも、毎回それほど苦しまずに殺してくれることだ。
そんなことを救いとしている時点で、わたしはもう人ではないのかも知れないけれど。
目を閉じる。
またやり直そう。
いずれ報われる時は来る。
そう信じることしかわたしには出来ないし、信じてもいないとやっていけない。
と、
「水谷!」
身体を貫く痛みの代わりに、生温い感触が顔全体を覆い、粘着性のある液体が眼球を洗う。
ねばつく感触に阻まれながらも目を開けると、赤色の視界に阿良々木さんの背中から、影縫さんの腕らしきもの生えている光景があった。
「阿良々木……さん?」
「が、は……」
「……このあほたれ」
だめだ。
自分が死ぬのはまだしも、他人の死なんて見たくない。
「水、谷……っ」
だめだ。だめ。だめだ。
だめだから、だめだ。だめ。だめ。だめ。
早くやり直さなきゃ。
やり直せば元通りだ。
記録は残りこそすれ、事実は消える。
「やめろ、水谷……ぃっ!」
かたかたかたかたかたん、
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かたん。
005
「――――――――」
冷たい椅子の上で目が覚める。
周囲には多くの窓が宙に浮いており、そこには全部、わたしの姿が映っていた。
また、ダメだった。
今まではずっと何の障害もなく上手く行っていた……いや、上手くは行ってない?
『繰り返し』を始めてからすぐ、毎回、必ず邪魔が入るようになった。
影縫余弦と斧乃木余接。
彼女たちは、何者なんだろう。どうやら阿良々木さんの知己のようだけど、何が目的なのか、しつこく毎度わたしの前に現れる。
彼女たちの目的はわからないけれど、何度殺されようと、わたしは諦めない。
ここはわたしの理想の世界。
ここでは食事をする必要もないどころか、睡眠も呼吸すらも必要ない。
ゲームの登場人物の体調により行動が制限されるゲームは多々あるけれど、あまりにもリアルに再現したところで、行き着く先は面倒の一言に尽きる。
いつかのリアルタイムで成長する某携帯遊戯機の揶揄じゃないけど、四六時中関わることを強制するゲームはいつしか娯楽としてではなく、義務へと意義を変換する。
誰に命令された訳でもなく、何か明確な報酬がある訳でもないのにやらなければならない、という妙な強制力に支配されてしまう。
ゲームをやったことのない人にとってはそんな馬鹿な、と思うかも知れないけれど、実際に世の中には廃人と呼ばれる、ゲームを日常とする人種が存在する。
彼らの大半は何かを引き換えにそうしているのだと思う。
それは貯めた金銭だったり、または信用や人生といった購入出来ないものなのかも。
毎日、一日の半分以上をゲームに費やすとも聞くのだから、それ相応の対価が必要となるのは火を見るよりも、明らか?
先に自己弁護しておくと、わたしはゲームのみにのめり込んで死んでいくのも悪くはないと思う(わたしも、人のことは言えないし)。
個人にとっての幸せが個人ごとによって違うように、他人の幸せを非難する権利は本人以外に持つはずがない。
それは、それが家族や他人に迷惑をかけると言うのならば矯正して然るべしだけれど、働かざるもの食うべからずが常の世の中、その文言を享受した上でその体制を貫いているのならば、意志の強さとしては一人前以上のように思う。
働かなければ生きてはいけないが、『働いてなんかいたら、ゲームをやる暇がなくなってしまう』。
だからゲームに重きを置く身としては当たり前の決断。
だけど、それはもはやゲームじゃない。
現実だ。
これは予想だけれど、きっと彼らにとってゲームの世界は現実と等価値に近い。
ただ単純に人生とゲームどちらが大切か、という比率が他人とは違うと言うだけであって、そこに他人が口を挟むべきじゃない。
わたしとサイネリアと尾崎さんがそれぞれ現実のアイドルとネットアイドルを秤にかけていたように、価値なんてものは人によってゴミ同然から大切なものにまで変わる。
生きている以上、人にはそれぞれ譲れない最後の一線というものが存在する。
それは全てのものと同意義であり、かつ等価値であり、文字通り死んでも譲れないもの。
そして、それはきっと、わたしにとっても。
そう、今のわたしには、文字通りその死んでも譲れないものがある。
どうしてもやり遂げないといけないことがある。
何度殺されたってそれだけは曲げちゃいけない。
かつて尾崎さんと一緒にアイドルの道を駆け登った時のように、ネトアでも現実で立派なアイドルになれると、証明したかったあの時のように。
愛ちゃんと涼さんに異変が起きた時、わたしは夢で宿借に出会った。
次に目覚めた時にはこのデスクとパソコンだけの空間。
最初は置かれた状況自体に戸惑ったが、試行錯誤を繰り返しやがて気付く。
これは、一日をあたかもアドベンチャーゲームに見立て、セーブとロードを可能とする力。
まるで漫画や小説。
何故わたしにいきなりこんな超能力みたいなものが身についたのかはわからないけれど、この状況下では丁度いい。
愛ちゃんと涼さんを、助けることが出来る。
けれどこれはゲームであってゲームじゃない。
コンティニュー回数は無限だけれど、わたしはレベルアップもしなければチートコードでステータスをいじることも出来ない。
限られた条件下でどれだけ最良の答えを出せるか、という詰将棋に近いもの。
影縫さんと斧乃木ちゃんに勝てる、もしくは逃げられるくらいにわたしが強くなれれば別だけれど、今までの経験から、それも望み薄。
ならば、『最善』を尽くそう。
何度繰り返したっていい。
どうせ残機は無限の世界だ。
ゲームで言うベストエンドが気の遠くなるような先にあるとしても、ひたすらに続けよう。
永遠とは、途切れないこと。
途切れないならば、必ずどこかに望みはある。
世の中悪いことばかりじゃない。
そう信じるしか、わたしには出来ないのだから。
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かたん。
006
そしてまた、今日は繰り返す。
終わりの見えない繰り返し。
朧げどころか、影すらも見えない光明に向かい足踏みを続ける。
けれど諦めることだけはしたくない。
どんな困難な道だって可能性はゼロではないと、アイドルを始めてから知り合ったみんなが、教えてくれたから。
「よ、水谷。おはよう」
「……おはようございます」
何度かわたしを庇って死んでいる阿良々木さんが、何事もなかったかのようにわたしに微笑みを向ける。
それはそうだ、この世界では何がどうなろうとリセットがかかる。
誰が死のうが、隕石が落ちて地球が滅亡しようがそれは変わらない。
だから大丈夫。
諦めなければ夢は叶うって涼さんは言ってくれた。
強く想い続ける事が夢そのものだって、愛ちゃんが教えてくれた。
だから。
「なあ水谷……僕と話をしないか?」
「話……?」
何百回目かもわからない今日について新しい切り口を模索していると、いつの間にか阿良々木さんが何とも言えない表情でわたしに向き合っていた。
そう、例えるのなら、悪戯をした子供を見るような。
水谷は仕方ないな、って言われている、気がした。
「もう、止めにしないか。こんなこと、続けても仕方がないだろう」
「え……?」
「何度繰り返したって変わらない。既に一度起こった事象を引っ繰り返すのは、神様にだって不可能なんだよ、水谷」
何を、言っているのだろうか。
その時、急に靄がかった意識が明瞭になって行く気がした。
そんなことよりも、目の前にいる人は、一体どこの誰?
「貴方は……誰?」
そう。
『私は阿良々木暦なんて人、知らない』。
わたしのプロデューサーは、尾崎さんだ。
突如として身を襲う、捩れた事実に動揺する。
目の前の阿良々木さんは、そんなわたしにも構わず説明を続ける。
「落籍しかみな。ひかしかみなだ。宿借の怪異……今、水谷が使っている不思議な力の正体だ」
「怪異……?」
怪異。
怪しく、異なるもの。
人ではない、異形のもの。
「落籍しかみなは電子の海に棲む宿借だ。膨大な、無限に近く広がるネットの世界を媒体に、宿主にコピーした一日という宿を貸す。その宿の中では好きな時間を繰り返す事が出来る……その代わり、宿主……水谷の心を餌とする。いつまで経っても変わらない一日への絶望や虚無感……そんなマイナスの感情を、活動源としているんだ」
「…………」
「かみな、とは古語で宿借を指す。落籍すは身請けするという意味だ。一日を貸し、その身を囲い、生命エネルギーを餌にする。賃貸と沈滞も掛かっている。つまり、これはお前の心が磨耗して崩壊するまでの間、永遠に変わらない時間を繰り返すだけのものなんだ……水谷」
残念ながらな、と苦しそうに眉根を寄せるその様子は、まるで自分に与えられた痛みに耐えているようにも見えた。
どうして。
どうして、そんな顔をするの?
「影縫さんと斧乃木ちゃんは、こういう怪奇現象に対するプロフェッショナルとでも思ってくれればいい。僕も格は下がるが似たようなものだ。僕も含め、お前を止めに来たんだ、水谷」
「……わたしを、止めに?」
「外から見ると、この876プロダクションの事務所だけが、今日という日を繰り返している。さっきも言ったように、この繰り返しに意味はない。それに電子の世界ということもあって、外部から宿を壊すことは困難なんだ。水谷が自らループをやめるしか、ここから脱け出す手立てはない」
阿良々木さんはそう言って、わたしを真っ直ぐに見据える。
多くの人から見られるのは、怖くない。
長きに渡るネトア生活で、誰かに見られることはむしろ嬉しいとも思える。
けれど、こうやって面と向かってわたしを見られるのは、苦手。
何故ならネトアのわたしもアイドルのわたしも、わたしでありながら別人に近い。
ネットのわたしはEllieと言う名の、電子の世界に住む架空の女の子。
アイドルのわたしは水谷絵理という同姓同名の偶像の女の子。
わたしを見ないで欲しい。
水谷絵理を、わたし自身を、そんな眼で見ないで。
「あ……あ……!」
ぷつん、と音がした。
それはテレビの電源が落ちる音にどこか似ていて、お誂え向きに目の前が真っ暗になる。
次いで周囲の景色が音もなく変わって行き、事務所はあっという間に無機質なアイボリーの壁で覆われた部屋となった。
四畳半ほどの窓すらない空間の中、パソコンと椅子だけがある。
寂しいけれど、何処か落ち着く、そんな部屋。
「……水谷」
そんな中、阿良々木さんは動揺した素振りもなく困ったような苦笑いを浮かべ、わたしを見据えつづけていた。
ここはきっと、貝殻の中だ。
他人を怖がり、他人に見出され、他人に導かれ、他人の力を借り、他人に支えられてきたわたしには相応しい。
「わたしは……ここから出たくない……!」
わたしの名前は水谷絵理。
どこにでもいて、どこにもいない女の子。
わたしは、宿借に囲われた。
本当の自分がどこにいるのかすら。
わからない。
007
「それがお前の本音なのか、水谷」
囁くその声は、予想外にも優しかった。阿良々木さんがどんな立ち位置で、何を目的にこの世界にやって来たのかは目下わからないけれど、そんなに悪い人には思えなかった。
そうだ。
涼さんを、愛ちゃんを、助けるため。
それが繰り返しのきっかけだったことだけは、事実。
はじめは、何とかなると思った。
今まで大抵のことは何とかなったし、みんなを巻き込んで繰り返しを続ければ、最悪、現状だけは維持できる。
それに何回も繰り返せば一回くらい成功するんじゃないか、なんて思っていた。
でも、次第にどうしようもない壁に至る。
涼さんは呼吸もままならなくなる程に衰弱し、愛ちゃんは大震災もかくやと天災を巻き起こした。
気付いた時にはもう手遅れで、わたしのこの異能をもってしても、手には負えなくなっていた。
弱音を吐いていいのならば、悪意しかない世界に、もう疲れたんだ。
人間関係を築くのはとてつもなく難しいのに対して、崩壊は一瞬。
だから積み上げた。
崩れないように、壊さないように、丁寧にひとつひとつ。
けれどそれも、ほんの些細な事で壊れる可能性を孕んでいることに変わりはない。
それは死別だったり、意見の食い違いによる離縁だったり、そうでなくとも一身上の事情による離別かも知れない。
出会いがあれば別れもある。
そんな事は物心ついた頃から百も承知だけど、だからと言って許容できる事じゃない。
だったら、壊れない世界がいい。
いつだって同じ時を、同じ人と、死ぬまで一緒にいられる世界。
それを優しい世界と呼ぶのかは、人によるのだろうけれど、わたしにとっては安心出来る場所に違いない。
例え殺され続けるとわかっていても、不変の永遠というアイテムの対価としては適正だとわたしは思う。
「……いつも通りだけの世界が、そんなに楽しいのか?」
そんなもの、楽しいか楽しくないかで問われたら、楽しいに決まっている。
世のしがらみもなく、面倒な対人関係もなく、全てがいつもと同じ世界。それが傍から見たらどれだけ虚しいことなのかも、理解しているつもり。
自己満足の自慰と欺瞞だけで作られた世界。
それが果たして何も産まない、わたしの中だけで完結する世界だとしても、幸せならばそれでいい。
「……何が、悪いの……?」
人と対する事がそこまで怖い訳じゃない。
生きる事に疲れる程には歳も食っていない。
厭世家を気取って現世を隔離している自覚もない。
ただ。
「……面倒事は、少ない方がいいじゃない……!」
これは、わたしの紛うことなき本音。
私は半引きこもりから紆余曲折の末にアイドルをやる事にはなった。
一生懸命わたしをサポートしてくれる尾崎さんには悪いけれど、あんなものはその場のノリと勢いだけで来たようなものだ。
アイドル活動自体は楽しいし、わたしのことを好きになってくれるファンの皆にはいくら感謝してもし足りない。
けれど、それでも。
「わたしは、悪意が、怖い……」
両腕を交差させ抱き、身体を縮こませる。
寒い。思わずしゃがみ込んだ。
二進数で構成されるこの世界に温度なんて上等なものはないけれど、凍えてしまいそうだ。
世の中は綺麗事ばかりじゃない。
この呼吸が定まらなくなる程の悪寒と鬼胎は、以前にも感じたことがある。
アイドルを始めた頃にあった違和感。
あの時は何とか折り合いをつけたけれど、今でも常に晒され続けていることには違いない。
わたしがアイドルとして成功すればする程に蓄積するそれは、形も悪意もない暴力となってこの身を削る。
怨恨、遺恨、嫉妬、怨嗟。
殊更、アイドルにおいてはその濃度も一般のそれとは異なる色と密度でのし掛かる。
わたしも負けたことがあるからわかる。
相手が友達だからと言って、気の良い人物だからと言って、負けて悔しくない訳がない。
本人に悪意が微塵もなくとも、微量の無意識的な負の感情は発生する。
それも堆く積み重なれば、醜いオブジェとしてわたしの中に残る。
動画の辛辣コメントよりも、荒らしを目的とした輩よりも、わたしはそれが怖くて仕方がない。
この世で最も恐ろしいのは、悪意のない負の産物。
天災や、先述した別れもそれにあたる。
誰の手にもどうにも出来なくて、その上悲しみしか産み出さない。
そんなものがあると考えた時点で、あまりの重さに押し潰されそうになる。
「ここでは全てが私の思い通りになる。誰も私を傷付けない。誰も私を責めはしない……!」
わたしはただ、波風の立たない日常が欲しいだけ。
わたしがいなくても、世界は廻る。
水谷絵理という部品が欠けていようが、わたし抜きでも世界は機能する。
だったら、もうそっとしておいて欲しいだけなのに。
「……落籍しかみなは擬似的な永遠を作るけれど、それも決して完全な永遠じゃあない。この世に劣化しないものなんてないからな、繰り返すことで必ず何処かに綻びは現れる。ここに居続ける限り、いつかは記録も水谷自身も電子の海に溶け、単なる『情報』になって永遠に戻って来れなくなるぞ」
それなら、それでもいい。
ネットアイドルも、リアルアイドルも体験したわたしには、顔のない、名前だけの存在になることには慣れている。
今ここでわたしがいなくなろうとも、わたしがいた形跡は電子の海に残っている。
いずれ風化して忘れ去られるだろうけれど、情報だけは別だ。
どんな形だろうと、消えることは絶対にない。
それはわたしにとって、原初の海に溶けることと、そう変わりはしない。
むしろ、理想の死に方かも知れない。
そんな事を考え始めているわたしは、もう手遅れなのかも知れなかった。
「水谷、お前が一人を選ぶならそれもいい。僕は止めない」
言って、しゃがみながらわたしと目線を合わせる阿良々木さん。
「……他人と接するのは、怖いよな。仲良くなれることよりも、嫌われる恐れの方が遥かに大きい」
そう、阿良々木さんの言う通りだ。
誰かと仲良くなることは嬉しい。
勇気を出して飛び出した先に、涼さんや愛ちゃんみたいな素敵な友達も出来た。
でも、だからこそ、それらを失うのが怖い。
今回は上手くいったけれど、次も上手くいくとは限らない。
この先、とても長い人生、悲しい思いをしたくないと願うわたし、間違ってる?
「……でもさ、水谷」
言って、阿良々木さんは泣きそうな顔で、
「友達を、理由にするなよ」
「友達……?」
涼さんと愛ちゃんの顔が思い浮かぶ。
わたしは、あの二人を理由にここに引きこもっている……?
と、
「…………なに?」
「どうした、水谷」
「何か……聞こえる?」
壁の向こう側から、一定のリズムで音が聞こえた。
とんとん、とノックに似たその音は次第に大きく、暴力的な響きへと変わっていく。
「うおおぉぉぉっ!?」
「ひぅ……っ!?」
遂には戦車でも突っ込んできたのかと錯覚するかのように、突如として壁が崩れ、四方の一面が空洞に変わる。
外から入って来たのは、影縫さんと斧乃木ちゃんだった。
「おまっとさん、鬼畜なお兄やん」
どうやら二人が外部から攻撃を加えていたらしい。
「か、影縫さんに……斧乃木ちゃん」
「ようやっと見つけたわ、宿借の本拠地」
「すごく固かった」
「ほんまやで、かなんなぁ」
両手をぷらぷらさせながら、無表情で答える斧乃木ちゃん。
……まさか、あの堅そうな壁を素手で壊したのだろうか。
この二人ならそれも可能かな、と思ってしまうあたり、さすがだけど。
「落籍しかみなの退治方法はふたつ。宿主が自ら殻を捨てて放棄するか、ループ世界の何処かにある本拠地の貝殻を破壊するかのどっちかや」
それで、『わたしに諦めさせるため』、何度も何度もわたしを殺していたということだろうか。
薄々意図は気付いていたけど……暴力的にも程がある?
「でも宿借のお姉ちゃんはこの部屋じゃなくてずっと外に出てたから、場所がわからなかったんだよ」
「って事は……僕を餌にしたのか?」
「うん」
「しれっと言うな!」
「でもこんなに時間がかかるとは思わなかったよ。餌失格」
「ひどい言い草どわっ!?」
「絵理ちゃん!」
阿良々木さんの言葉を身体ごと遮って現れたのは、わたしの良く知っている人。
「涼、さん……?」
「絵理ちゃん……良かった……!」
涙を浮かべ、力いっぱい抱きついてくる。
疑問と驚愕の入り混じった複雑な感情が渦巻き、答えを探す。
だけど、結論は出ない。
「涼さん……どうして……?」
何故こんな場所に涼さんがいるのかもわからなければ、動けていること自体、不思議。涼さんは衰弱の果てに、今日という日が終わる瞬間、命を落とす。
そのはずだった。
だからこそ、こうやって明日が来ないようにしていたのに。
「もういいんだよ、絵理ちゃん」
「え……?」
「涼と日高の一件はもう大丈夫だ。だから、お前はもう無理をしなくてもいいんだ、水谷」
その言葉を、何年も待ち続けた。
「お前がずっと止めてくれていたから、みんな悪化せずに無事に済んだ。お前のお蔭だ、水谷」
努力は、総じて報われないことをわたしは知っている。
努力して願い続ければ夢は叶うなんていうのは、一部の人に限定した建前。
本当は、その裏で何倍、何十倍、何百倍という数の夢が果てては消えている。
「もう……誰もいなくならない?」
「うん」
わたしは、とても幸運な方。
でも、だからこそ、手に入れたものを失いたくなかった。
「また……みんなでアイドルできる?」
「うん」
それがどんな歪な方法でも。
失うことが、何より怖かったから。
「わたし……もう、泣かなくても、いい?」
「うん」
思わず、涙が出た。
その一粒一粒には、様々な名前がついていたのだと思う。
後悔、懺悔、悔悟、猜疑、諦観、数え出せばきりがない。
毎日のように、泣いていた。
こんな異常な環境で踏ん張って前に進めるほど、わたしは強くない。
辛うじてわたしを繋ぎとめていたのは、涼さんと愛ちゃんの存在、そしてわたしの中の黒い闇。
誰にも知られたくなかった、わたしの本音。
「うぁ……うわぁぁぁぁぁん……」
最後に、総量を考えたら海が出来るんじゃないか、と言いたくなるような量の、涙。
この三つが鼎立するかのように、この世界は成り立っていたんだ。
脇目も振らずに泣き続ける。
「絵理ちゃん……」
涼さんが赤子をあやすように背中を叩いてくれた。
「宿借のお姉やん、感極まっとるとこ悪いんやけど、ええか」
「……?」
「最初の一回のセーブ、あるやろ? 一番初めの、今日」
「あ……はい」
「それをロードして、もう二度と使たらあかん。後はうちらが何とかするさかい」
「帰ろう、絵理ちゃん。いつもの毎日に」
「……うん」
この世界に未練がないかと問われれば、全くないとは言えない。
鏡合わせの、全く同じ永遠を映し続ける毎日。
それは何よりも温かく、何よりもおぞましい。
永劫にも近い時間をかけて、存在ごと少しずつ溶かされるような日々。
それはそれで一つの選択肢だったけれど、わたしは前に進まなきゃいけない。
わたしは、水谷絵理は、みんなに夢と希望を与えるアイドルだから。
大丈夫。
わたしには、一緒に歩いてくれる友達がいる。
デスクに座って、PCを操作する。
これが最後の今日。
今日が終われば、明日が来る。
明日こそは、今日という日を、後悔しないように。
かたん、かたん、
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かたん。
008
後日談というか、今回のオチ?
ノートパソコンを操作しながらニュースサイトを巡回し、その傍らでiPodで音楽を聞く。
曲はプリコグ。わたしの持ち歌だ。
今度765プロダクションとの共同イベントがあるらしいから、この後レッスンにも行く予定。
久し振りに伊織さんにも会える……楽しみ?
目の前では、876プロダクションに打ち合わせと称して遊びに来た(と、本人が言っていた)阿良々木さんが仕事用のパソコンとにらめっこをしている。
遊びに来たとは言っているものの、何かと理由をつけてちょくちょく来るあたり、実際はわたしたちを心配して、様子を見に来ているのだろう。
あとから伊織さんにも聞いたけれど、阿良々木さんは相当のお人好し、らしい。
セクハラのためなら社会的地位も厭わない変態だとも。
まあ、伊織さんは本当に信頼しているか、本当に嫌いな人にしか悪口を言わない人だ。
だから、そういうことなんだろう。
今回のことは当然の結果として、闇に葬られた。
社長や尾崎さんはあまり納得していなかったようだけど、みんなが無事なら良かった、と一応の帰結を見せた。
「あの、阿良々木さん」
ふと気になることがあり、イヤホンを外し、対面に座る彼に話し掛ける。
反応した阿良々木さんの目線がこちらへ向く。
「わからないことが……聞いても、いい?」
「なんだ、僕のパンツの色は青と白のしましまだぞ」
「そんなこと、聞いてない」
それに、その説明だと一番最初に思い付いたのは天才バカボンのデカパンだった。
あれ……なんか、意外と似合う?
「なん……だと……! そんな馬鹿な! じゃあお前のパンツは何色だって言うんだ、水谷!」
「……勢いに任せてそういうこと聞くの、どうかと思う」
「とても的確で冷静な突っ込みをありがとう、水谷」
短い付き合いだけど、阿良々木さんはこういう人だとわかった。
たぶん、いちいち真面目に相手にしないのが一番。
「どうして、阿良々木さんはあっちに……来たの?」
ことが全て終わって、一つだけ残った疑問点。
影縫さんと斧乃木ちゃんは仕事で来たとして、阿良々木さんは現状を何も聞かされていなかった。
阿良々木さんは、過去何度も似たような体験をして来た、とも聞いた。
なら、未知の怪異に対する怖さも、知っていたはずなのに。
そんな状態で来るなんて、阿良々木さんには悪いけれど、猛獣の巣に裸で飛び込むようなもの?
「ああ……それは、な」
少々の逡巡の末、まあいいか、なんて頭を掻きながら、阿良々木さんは言った。
「涼と日高の件があったから知った、ってのもあるけど……水瀬にな、尻を引っ叩かれたんだよ」
「伊織さん……が?」
「水谷には言うな、って言われてたんだけどな……水谷を助けてやって欲しい、水谷は辛いことがあっても何でも自分で抱え込む癖があるから、助けてやってくれって。僕ならそれが出来る、って」
「…………」
伊織さん……わたしのこと、気にかけてくれてたんだ。
宿借にまつわる一連の出来事が済んだ後、一番に伊織さんから電話がかかってきたのだ。
その時の会話は何ら変わる事のない、いつもの伊織さんだったけれど。
少し……ううん、とても嬉しい。
「僕は元々、日高と涼を通して知ってしまったからには水谷に関わるつもりだったけれど……加えてあの水瀬にそこまで言われちゃ、男として完璧にやらざるを得ないよな」
今回は僕、全然役に立たなかったけど、とばつの悪そうな顔をする阿良々木さん。
「ツンデレ……いただきました?」
「ああ、水瀬のツンデレはこの世の至宝だ。羨ましいぞ水谷」
「伊織さん……かわいい」
「最近、水瀬もわかってきたのか、僕がからかっても無視するようになったんだよな……」
哀しいことだ、と哀愁の空気を醸し出しながら自嘲する阿良々木さん。
本人がどういうつもりなのかわからないけれど、内容が内容なので全然かっこよくなかった。
阿良々木さんは、自分では何もしなかったとは言っているけれど。
アイドルがプロデューサーや事務所なしに活動出来ないように、世の中に本当に必要なのは、阿良々木さんのような間を取り持つ人だと、わたしは思う。
今回も、阿良々木さんがいなかったら、結末はきっと違っていた。
あ……そうだ。
「阿良々木さん……わたし、阿良々木さんにお弁当、作ってきた?」
「えっマジで!?」
「ひぅ……」
パソコンを放り出して身を乗り出す阿良々木さんに、ちょっと引く。
今日も876プロダクションに来るだろうと思って、せめてものお礼に作ってきたのだ。
尻込みしながらも、用意して来たバッグを手渡す。
「伊織さんが、阿良々木さんはアイドルお手製のものなら例え生ゴミでも喜ぶわよ、って……」
「……あいつは僕を何だと思っているんだ」
まあ喜ぶけど、なんて返す阿良々木さん。
「さて、水谷の手料理となれば心してかからないとな……中身はなんですか――」
「…………」
「……おにぎり?」
バッグから現れるは、巨大なおにぎり。
軽くバスケットボールくらいはある。
「うん……阿良々木さん、おにぎり、嫌い……?」
「いや、嫌いじゃない……おにぎりは日本の心だからな」
「そう……よかった」
「でも……かなりでかいな。人の頭くらいありそうな巨大なおにぎり一個というのも中々インパクトがある……」
「そう……?」
「おにぎりと言えば星井なんだが……まぁいい、水谷がその可愛い手で握ったおにぎりとなれば僕の命と引き換えにするくらいの価値はある」
「ラップ越しに握った?」
「構わん。一時であれ水谷の体温が移ったおにぎりであれば僕のアホ毛と引き換えにするくらいの価値はある」
……阿良々木さんはどうやらかなりの高レベル?
「いただきます…………うん、普通に美味い……うん?」
「…………」
「……なんだこれは、おにぎりの中におにぎりが入ってるぞ」
「みんなにも大好評……マトリョーシカおにぎり」
実は、作るのけっこう大変。
「そのおにぎりの中に更におにぎりが!?」
おにぎり探究の旅に出た阿良々木さんを前に、思う。
わたしは、自分に臆病だった。
ネトアのわたし。
アイドルのわたし。
なにもないわたし。
全部、違う存在だって、心の何処かで境界線を引いていた。
あの世界だって、臆病なわたしが心を歪めて産みだしたものだから。
でも今は違う。
Ellieも、アイドル水谷絵理も、今ここにいるわたしも、全部同じわたしだって、胸を張って言えるようになろう。
多くの努力と、研鑽と、少しの矜恃と共に。
わたしには素晴らしい仲間や導いてくれる人がいる。
私はこんなにも恵まれている。
やる事もなく、何となしに大した覚悟もなく始めたアイドルだったけれど、今からでも遅くはない。
どんなことにも、悲しいこと、怖いこと、どうにもならないこと、沢山ある。
……でも。
「おにぎりの中のおにぎりの中のおにぎりの中のおにぎりからまた――――ん? おい水谷、サンドイッチが入ってるぞ、どういう事だ」
わたしは、もうくじけない。
ここから一歩を踏み出そう。
波風の立たない日々を望むわたしから変わるために。
ずっと、この先にある、たくさんの楽しいことのために。
わたしがわたしになるために。
何も変わらないままのわたしは――――もう、おしまい。
かたん、かたん、かたん、かたん、
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終了しますか?
→はい
いいえ
かたん。
えりハーミットEND
拙文失礼いたしました。
一区切りつけようと思いまして、続けて愛と涼ちんを書かせていただきます。
読んでくれた方、ありがとうございました。
一言で言うとそびえ立つクソ
ただ、周りからボロクソ言われながら完結まで続けられるメンタルは素晴らしい
次はメアリー・スー系「以外」のSSをよく読んで出直してくれ
一言で言うとそびえ立つクソ
ただ、周りからボロクソ言われながら完結まで続けられるメンタルは素晴らしい
次はメアリー・スー系「以外」のSSをよく読んで出直してくれ
乙です
衰弱だの天災だの一件だのよくわからなかったけど、
これから書かれる続きを読めば理解できるってことでいいのかな?
>>38
そんな感じです。すいません説明不足で。
あとレスくれた方々、ありがとうございます。
何よりの活動源です。
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません