男「星に願いを…か、アホくさ」(156)
「──ずっと昨日を繰り返させてくれ!」
俺は夜空に向かって叫ぶように言った。
直後、僅かに明るく照らされていた住宅街がまた暗闇に落ちてゆく。
言えた、間違いなく。
先の言葉の最初から最後まで、ちゃんと流れ星が現れてから消える間に声にする事ができたはず。
下らないおまじないには違いない。
もちろん心からその願いが叶うなんて思ってもいない。
迷信なんて人並み程度にしかアテにしない自分が、なぜ星に願うなんてメルヘンな行為を演じたか。
それは小一時間ほど前にスマホで流し読みしていたつまらない創作話のせいだ。
素人が匿名の掲示板に書き捨てる、他愛もない落書き。
系統は様々だが総じて『SS』と呼ばれる、お世辞にも文学とは呼べない趣味の産物を寄せ集めたサイトが存在する。
時々暇つぶし程度に眺めるそこで、今夜自分が開いてみたのは『星に願いを』というタイトルのSF崩れの話。
想い人と幸せな一日を過ごした男が帰り道で大きな流れ星に「ずっと今日が続きますように」なんて言葉足らずな願いをかけて、それがその意味通りに叶ってしまう。
結果、その日と同じ日付で同じ事を繰り返す時間のループに陥り、それを脱出しようと足掻く…という内容だった。
所詮は素人の創作、文章も内容も大したものではないが、まあ寝る前三十分ほどの時間潰し、金を払った訳でも無いし損をしたとまでは思わなかった。
そして大して面白くは無くとも、読み終えればやはり少々の妄想には耽る。
そんなおまじないが本当にあるとしたら、自分ならどう願うか。
俺はごく一般的な会社員だ。
学生という設定だったその話の主人公とは違い、希望に満ちた未来が控えているわけでもなく、今現在は想い人がいるわけでもない。
だから必ず来て欲しい明日など無い。
しかし今日は月曜日、朝どれだけ憂鬱だったかを思えば繰り返すなどごめん被る。
だから同じ一日を繰り返すとしたら給料日後で財布も潤っていた休日、つまり昨日の日曜日の方が良いと思った。
もちろん過去を洗い出せばもっと幸せな一日はあったと思う。
だけどその日付も覚えてはいないし、そういう強い印象に残る一日が何度も繰り返したい日であるとは限らない。
それならむしろ、なんでもできる何も特別な事が無かった休日の方が相応しいのではないか。
そんな馬鹿げた獲れるはずのない狸の皮算用を頭に巡らせながら、俺は開けた窓辺に座り込んで缶ビールをあおっていた。
期待など微塵もしていないつもりで、ぼうっと夜空を眺めて。
その視界の右端、出来過ぎのタイミングで現れたそれは数秒をかけて濃紺の夜空を横切ったんだ。
見た事も無い、巨大な流れ星。
特に言葉を練っていたわけでもない、なのに冒頭の願いは口をついて出た。
昔から願掛けでよく言われるのは『願いを三度』唱える事だ。
でも言えたのはたった一度、まさにあの話の通りならそれでも叶うはずだが。
「星に願いを…か、アホくさ」
大真面目にそんな考えを巡らせる事が急に馬鹿らしくなる。
何を期待してるんだ、俺は。
もう二十代も半ばのいい大人だというのに。
三分の一ほど残ったビールを一気にあおって、そのアルミ缶を握り潰す。
立ち上がり洗面所へと向かう途中、一度だけ窓辺を振り返った事に深い意味は無い。
……………
………
…
心地よい眠りを阻害する、定間隔の振動音。
蚊の鳴く程の音量から次第に大きくなる、耳慣れたメロディ。
枕元でスマホが鳴っている。
「…う…うん……あれ?」
おかしい、平日の朝はスマホのアラームではなく電波式の目覚まし時計をセットしているはずなのに。
はっきりしない意識を手繰り寄せ、それを手に取り画面を見る。
『アラーム AM10:30』
しばし思考が停止する。
その僅か後に冷や汗がどっと噴出す。
(まさか! 寝過ごした…!?)
部屋の壁に掛けた無機質なデジタル時計はさっきのアラームと同じ時刻を表示していた。
まずい、大遅刻だ。
なぜスマホのアラームが鳴ったのかは解らないが、今は間違いなく午前10時半らしい。
昨日は憂鬱な月曜だったのだから、今日が平日火曜日なのは疑いようもない。
しかしそこで俺は、ふと昨夜の願いを思い出す。
(まさか…いや、ありえないけど…でも)
急ぐ動作で寝巻き代わりのジャージを脱ぎながら、それでも僅かな期待を抱いてTVのリモコンを手にとり赤いボタンを押す。
画面が表示されるまで数秒のラグ、先だって発せられる音声。
それが耳に届いた時、俺はスーツに伸ばそうとしていた手を止めた。
《○○川に他殺体が上がった!?》
《またか…これで今月に入って3人目ですね…》
俺がTV画面に振り向くと同時に、映し出された映像。
刑事ドラマの冒頭のシーン、そしてその番組は──
「嘘だろ……おい…」
──毎週日曜に再放送されているものだったから。
《ピーン…ポーン》
入居しているアパート備え付けのインターホンが鳴った。
築10年ほど、古いなりに安いこの部屋だが一応カメラとモニターがセットになった機器が備えられている。
その小さな画面に映されているのは、青色ベースのユニフォーム姿で荷物を小脇に抱えた配達員。
「はい」
《宅配便です》
「…すぐ行きます」
高鳴る胸に手を当てて、俺は玄関へと歩む。
ここで届く荷物が何かを、俺はきっと知っている。
ドアを開け、やはり予想通りの大きさだった段ボール箱を受け取り伝票にサインをした。
送り主は実家の母、内容物は衣類、全てが記憶の通り。
箱のガムテープを剥がし手荒く中身を取り出して、心の中で何度も『やっぱりそうだ』と繰り返しながら床に広げてみる。
「本当に…同じ日なのか」
見覚えのある涼しげな甚平、その胸元に挟むようにして添えられた手書きのメモ。
… … … … …
男へ
元気にやっていますか?
昼間と夜で気温が大きく違う時期だから、風邪などひかないように
家に余ってた生地で甚平を縫ってみたので送ります。夏向けの部屋着に使って下さい
後輩ちゃんとは仲良くしてますか?
何度かしか会っていないけど、あの娘はいい子だから喧嘩なんかしちゃだめよ
それからたまには帰って、元気な顔を見せるように
母より
同じ甚平を二着も作って送るわけはない。
ましてそれに一文字も違わぬ内容の手紙を再度添えるなど、あるはずがない。
「嘘だろ、おい」
あまりにも常識を超えた出来事に、得体の知れない不安が胸を襲う。
思いつきで適当に唱えたまじないが、本当に叶ってしまったのか。
あの馬鹿げた創作話のように、俺はこれから閉じた時間の中を生きる事になるというのか。
スマホのスリープ解除のボタンを押し、ロック画面を確認する。
日付は6月1日、俺が『繰り返したい』と星に願った日曜日だった。
心が平穏でないせいか、それとも単に寝起きだからか、やけに喉が渇いている。
俺は独り暮らし用の小さめな冷蔵庫を開け、中を見回した。
「…やっぱりあるのかよ」
買い置きしていると飲み過ぎてしまうから、週末以外はその日飲む分しか購入しない事にしている缶ビール。
しかし信じ難くも今日は日曜日だから、庫内には3本のそれが冷やされていた。
アルコールを含む飲料は水分補給には適さないと聞く。
でも渇いた喉も不安に苛まれる心も、それを求めている。
2本を片手にとってソファーへと向かい、まずは1本目を3口で飲み干した。
スマホの画面ロックを解き、連絡先を開く。
緑色に表示された通話マークをタッチし、数秒後に鳴り始める呼出音。
5コール目、ぶつっというノイズの後で聞き慣れた声は届いた。
《もしもし、○○ですが》
「ああ…母さん、俺だよ、俺」
《あんた毎回『オレオレ詐欺』を装うのやめなさい、通報するわよ》
決してマザコンなつもりはないが、やはりこんな心境の時に母親の声というのは安らぐものだ。
自分でふざけた事を言っておいて、思わず口もとが緩んだ。
「ごめんごめん、荷物届いたよ」
《ああ…もうじき梅雨だからね、部屋ではそんなのもいいでしょ》
「うん、シンプルだしいい色だ。ありがとう」
「それと…」
メモで釘を刺された事を、謝ろうと思った。
半年ほども前に後輩と別れている事。
しかしきっと母親が落胆するであろうその言葉は、喉に引っ掛かったように出てくる事を拒んだ。
《…どうしたの?》
「いや…今度、来週か再来週にはそっちに顔出すよ」
結局それを母親に伝える事はできないまま、通話を終える。
心のどこかには『本当に今日6月1日を繰り返すなら、伝える意味が無い』という考えもあったと思う。
俺は2本目のビールの蓋を開け、今度は小さめなひと口を喉に流し込んだ。
後輩と別れたのは、クリスマスの事だった。
俺が大学卒業を控えていた年、新入生として同じサークルに入ってきた彼女とは、およそ半年の期間を経て恋仲となった。
『十代の彼女なんて羨ましいやつめ』と周りに冷やかされる事も、当初は嬉しかったはずだ。
少しヤキモチ妬きで寂しがりやな彼女の事を、心から愛しく思っていた。
そして時は流れ、俺は社会に出て三年目、今度は彼女が卒業を控えた年。
今から半年前…つまり昨年末の事だ。
ただでさえ忙しいその時期、俺は10月頃に怪我で入院した同僚の分まで仕事を抱えていた。
もちろんその同僚の全ての仕事量を一手に引き受けていたわけではない。
他数名の仲間達と手分けをして、その重荷を共有していたのだ。
その連帯責任は、やむをえず暗黙のルールを生んでしまう。
その日の仕事にキリがついたからといって、自分だけが先に帰るというわけにいかないのは当然の事。
およそ三ヶ月に渡り、メンバー全員が残業や休日出勤に身を投じなければならない状況だった。
必然的に、後輩と会う機会は減ってゆく。
年齢の違いは三つとはいえ、二十代前半においてその差は小さくない。
まして社会人と学生というそれぞれの立場は、精神年齢の面で実年齢以上に大きな差をもたらしていた。
大人社会の荒波に揉まれ、ノルマに疲れ果てて。
たまの休日に恋人に会う気力さえ削がれていた自分。
会えない事、連絡が少ない事に不満を募らせ、仕方ないと言いつつも寂しさを隠せない彼女。
『今度はいつ会えますか?』
SNSアプリのトーク画面に表示された文字を見て、向こうには既読マークもついている筈なのに俺の返答は遅れて。
ようやく返したメッセージすら、ぶっきらぼうなものだった。
『解らない、年末までは難しい』
『忙しいのは解ってます。でもクリスマスイブくらいは一緒にいたいです』
『今年に限ってはイブなんてただの平日でしかないよ、たぶん無理』
イブ当日、同じアプリには『メリークリスマス』とメッセージが届いた。
それはスマホのロック画面、通知エリアへの表示で気づいていた。
でも俺はアプリを起ち上げもしない、彼女に返信はおろか既読マークをつける事さえせずに。
彼女の心に積もった寂しさ、その許容量が限界を迎えている事など、翌日クリスマスの夜まで気づきもしなかった。
日付が変わる直前、なんの連絡もなく涙化粧の彼女が部屋を訪ねてくるまで。
イブのメッセージに返信が無かった事。
泊めてくれと願う彼女を、タクシーを呼んで帰そうとした事。
年が明ければ会えるようになる、嘘でもそう約束さえしなかった事。
それら全てが彼女の感情のたがを外した。
ごくん…と、またビールを一口あおる。
母のメモのせいで変に感傷的になってしまった、今はそれよりも大きな問題に直面しているというのに。
今夜寝て、次に起きたらどうなる?
また今朝に戻るのか、それとも一度だけの不思議な星の悪戯なのか。
一度きりの現象だとすれば、いっそ夢でも見た事にすればいい。
せっかくの思いがけない休日だ、存分に身体を休めてのんびりすればいいだろう。
きっと大丈夫だ、明日は2日の月曜日かあるいは3日火曜日か。
できれば憂鬱の大きな月曜でなければいいな。
自分に言い聞かせるように頷き、俺は残りのビールを空けた。
………
…
10時半までたっぷりと寝ていれば、缶ビールの二本や三本飲んだところで昼寝をする気にもなれない。
(外の人達は俺の知ってる6月1日と同じ行動をしてたりするのかな)
ふと湧いたそんな疑問も手伝って、俺はぶらぶらと散歩にでも行く事にした。
時刻は午後二時、一度目の今日は本屋に行って立ち読みをしていた頃だ。
たしかその前、既に過ぎてしまったが午後一時頃にはアパートから数軒先にあるコンビニに立ち寄ったはず。
「いらっしゃいませ…って、お前か」
コンビニの自動ドアをくぐるといつもの声、ここは中学校時代の同級生である『友』の親が店長を務める店だ。
俺が就職して近所のアパートに入居した頃に再会したわけだが、友とは不思議と昔よりも馬があった。
今では月に一度くらいは飲みに出るし、およそ毎日と言っていいほど仕事帰りに立ち寄っている。
「客は客だろ、差別すんなよ」
「おうよ、会計は一切オマケしないぜ」
「そこじゃねーよ」
客は少ない時間帯、ちょっとだけ雑談に興じる。
その中で、彼は確かに聞き覚えのある問いを口にした。
「俺、この夏は海外に行こうと考えてんだ。どこだと思う?」
やはり、俺の記憶にある6月1日は嘘ではない。
あまり裕福とは言えない彼、ホテルの予約も知り合いのつても無い状態で、無謀にも行き当たりばったりの旅に出ようと考えていたはずだ。
その行き先は──
「──インドだろ?」
「げっ、なんで解るんだ」
「当たったか、なんとなくだよ」
日本企業が多く進出しているから、比較的日本人は歓迎してもらえるはずだ…なんて、根拠のない見通しを語る友に呆れ顔を返す。
何泊する気かは知らないが『せめてホテルくらいは決めとけよ』と言おうとした。
しかしちょうどそのタイミングで他の客がレジに近づいた。
「また来るわ」
「何も買わないのかよ」
「帰りに寄るよ」
「ビール、箱ごと冷やしとこうか……っと、いらっしゃいませー」
客の応対を始めた彼に小さく手を振り、俺は自動ドアを外へとくぐる。
友の問いの内容は記憶の日曜と同じものだった。
しかし彼はその問いを初めてのものとして俺によこしたはずだ。
(やっぱり今日もあの日も、夢じゃないんだな)
未だ信じ難いけれど、俺は間違いなく二度目の6月1日を過ごしているんだ。
更に散歩を小一時間、スポーツ用品店を眺めるだけの時間を三十分。
わざと少し遠回りをして、川沿いを地元へ戻る。
約束通りもう一度コンビニに寄って、その日の分だけ酒を買って。
今度は客の多い時間帯だったから、雑談は一言ふた言にとどめた。
アパートに戻ってTVをつけて、いつも日曜に観ている番組をまるで再放送のように眺めて。
夕食は一度食べたはずのチルドピザを焼いて酒の肴にする。
昼間に割と長い散歩をしたせいか、眠くなるのはいつもより早い。
もし目覚めてまた月曜だったら憂鬱だけど、一度目よりも上手く立ち回れるかな……そんな不思議な考えを巡らせている内に、睡魔は俺を拐っていった。
……………
………
…
心地よい眠りを阻害する、定間隔の振動音。
蚊の鳴く程の音量から次第に大きくなる、耳慣れたメロディ。
それに気づいた俺は、ひったくるように枕元のスマホを手にとった。
目覚まし時計ではなくスマホがアラームを告げるという事は、平日ではない。
(本当に日曜を繰り返してるってのか…!?)
画面を確認する、時刻はAM10:30。
しかしその下に小さく表示された日付は──
「──まさか、嘘だろ」
俺が読んだSSでは、主人公は『ずっと今日が続きますように』という不完全な願いを唱えた。
じゃあ、俺の願いはどうだったか。
『ずっと昨日を繰り返させてくれ』
6月2日、月曜日にとって昨日とは当然6月1日の事だ。
だけど俺の唱えた言葉を、最もシンプルに解釈したらどうなる。
ずっと、目覚める度に『昨日』を繰り返す。
6月2日に寝て目覚めれば1日に、1日に寝て目覚めたら──
「なんて事だよ…! ふざけんなっ!」
──ディスプレイには『5月31日土曜日』の日付が表示されていた。
ここまで
冒頭でスレタイを引用した過去作
【男&幼馴染】星に願いを - SSまとめ速報
(http://jbbs.shitaraba.net/internet/14562/storage/1378443967.html)
読まなくても全く問題ありません
昨日を繰り返すって6月2日から考えて昨日なんだよな?
昨日に巻き戻るなら一日一日逆行してくのも理解できるんだが普通におかしくね?
>>30
男は(6月2日にとっての)昨日を繰り返したいと願ったけど
星は(過ごしたその日その日にとっての)昨日を繰り返したいと受け取った
…というつもりで書いてます、おかしかったかな?
……………
………
…
当たり前の話だ、5月31日の昨日は30日の金曜だった。
本当にそうすべきか疑問に思いながらも出勤し、一度はこなしたはずの打ち合わせや書類を片付ける。
ただでさえひとつの仕事のやり直しは気が重い。
ましてや落ち度や変更があったわけでもないのに、全く同じ資料を作成するのは相当苦痛だった。
しかしそれもB5サイズのビジネスダイアリーをつけていたから可能な事。
もしその習慣が無かったら、職場にきたところで何をすれば良いのか思い出せず途方に暮れていただろう。
「男、どうした進んでないぜ」
「悪い、ちょっと体調が優れなくてな…」
「割と楽な時期だから言うわけじゃないけど、ダメになる前には休めよ」
俺を気遣うその言葉は決して嘘ではないと思う。
解ってる、同僚はみんな悪い奴じゃない。
例えあの激務に追われた年末でさえ『どうしても』と頼めば苦笑いひとつで許してくれただろう。
仕事にキリがつけば、たまに早く帰ったって酷く文句を言う奴なんかいないんだ。
でも『彼女が寂しがってるから』なんて理由を言い出すのはどうかと思ったし、似た事情を抱えているのは俺だけじゃなかったから。
「すまん、大丈夫だよ」
「ならいいけど、無理はするなよな──」
………
…
30日に眠れば次は29日。
目覚める度に、日付は1日ずつ遡ってゆく。
《──今朝の中継車は◯◯駅前にある、人気のパン屋さんに来てまーす! こちらのお店は二月にリニューアルオープンしたばかり…》
今日でまだ五日目だ、朝の情報番組は確かに一度視た記憶が残っている。
しかしいずれもっと長い時間を遡れば、この感覚も無くなってしまうのだろうか。
「…そんな馬鹿な事、あってたまるか」
自らの想いを否定する言葉を呟くも、聞く者はいない。
ましてやそれを聞かせるなら数日後に流れるはずの星に対してだ、あまりに馬鹿げた話だろう。
玄関のドアを少し乱暴に閉め、ぶつける先の無い苛立ちを紛らわせようとした。
つまりこういうことだな
・男の意図:昨日(=6月1日)を無限ループしたい
・星の解釈:日付変更時に日付をインクリメントする代わりにデクリメントする
なんか「顧客が本当に必要だったもの」の10コマ漫画思い出した
ところで先日のアレのせいでバッドEDの未来しか見えないんだが
星に願いをが1番好きだったからバッドになったらかなしひ、とても
「──すげえな、なんで部長が欲しい資料が解ったんだ。あの顔は『どうせ用意してないだろ』って俺達を試してたぜ」
「それだけじゃない、シナリオでも用意してたのかってくらい受け答えもバッチリだったじゃんか」
「お前、部長を買収して事前にネタを仕入れてんじゃねえの?…なーんてな」
先の会議を無難に切り抜けた後、同僚が俺を囲んだ。
一度目のあの会議には手を焼いた覚えがあった。
用意した資料も足らず、纏め役の課長には随分と気を揉ませたと思う。
でもその記憶をもって二度目に臨めば、上手くこなせるのは当たり前だろう。
「男、上出来過ぎるくらいだよ。このままプランを練ってくれ」
「ありがとうございます、課長」
ただその働きによる成果も評価も、明日を迎えられない俺には関係の無い事なんだ。
その前の日も、その次に目覚めても、また俺は報われる事のない仕事へと身を投じる。
正直いってどうしようもないくらいに馬鹿らしいと感じていた。
この先どうなってしまうのかという不安と、何をやったって意味が無いという拭えない想いに苛まれ発狂しそうだった。
『──仕事には忙しい時も凌ぎやすい時もあるんだ、今はその前者の時なんだ…解ってくれよ』
『でも…メッセージの返信くらい…』
『ごめん、真夜中になるまで携帯も見なかったんだ』
『……それって、イブの夜に私の事を思い出しもしなかったって意味ですよね』
仕事を優先して、後輩との関係をないがしろにしたんだ。
例え報われる事が無くとも働かなければ、後輩を失った意味さえ解らなくなってしまう……その一心で出社を続けた。
でも俺が生きたかった明日は、隣りを歩く彼女と分かち合う時間だったはずだ。
それを諦めて仕事をとった理由はなんだ。
人は明日を生きるために働くんじゃないのか。
明日の来ない俺は何のために働いているんだ。
そんなの矛盾してる。
じゃあ、いつから矛盾してるんだ。
この時間の逆行が始まった夜から?
彼女と別れたクリスマスの夜から?
「──もしもし、男です」
《どうした、電車でも遅れたか?》
「すみません、有給使わせて下さい」
この日々が始まって10日目、その日から俺は朝の内に会社支給の携帯を切るようになった。
………
…
《──今週、最も運勢が良いのは『さそり座』の人! 対人関係は良好で、思わぬ出会いが…》
朝の番組、占いのコーナーを眺めながら渇いた笑いを零す。
もともとアテにするような性質ではなかったが、今の俺には尚のこと無意味だと思った。
「……そうか、この日はパンもご飯も無かったんだな」
朝食を摂ろうとしたが、すぐ食べられてそれに相応しいものは見当たらなかった。
たぶん一度目の今朝は、友のいるコンビニに寄ってから出勤したのだろう。
平日に私服で行ったら友が驚くだろうな……そんな事を思いながら、髭を剃るために洗面台に向かった。
「あれ…?」
日付を逆行する事およそ半月、俺は鏡に映った自分の髪が短くなっているのにようやく気付いた。
どうやら身体は目覚めたその当日の状態であるらしい。
つまり一日ずつ時間を遡っているのは、記憶を引き継いだ精神だけなのだと考えた方が良いかもしれない。
もちろんいくら使い込んでも、口座の預金額は前日に戻る。
新たに増えた部屋の物も、うっかり汚してしまったシャツの染みも、目覚めれば消えて無くなっている。
不安に苛まれてはついつい飲み過ぎてしまう酒も、前日の俺に二日酔いをもたらす事はなかった。
夜、日付を跨ぐ際に起きていたらどうなるのかも試した。
結果は24時ちょうどに視界が暗転し、意識を取り戻したのは前日の朝…という残酷なものだった。
目覚めると出張先のホテルだった事もある。
その時はやむを得ず、同行していた同僚と共に俺にとっては無意味な仕事をこなした。
このまま何百、何千という一日を遡ればいつか自分の存在は消えてしまうのだろうか。
大学生、高校生の内はまだいい。
小学生や幼児になっても、今のこの精神を引き継ぐというのか。
そのギャップで自分はおかしくなってしまうのではないか…そんな恐ろしい考えが頭を巡った。
俺が読んだ話では主人公達はループの元凶たる流れ星が現れたその日を繰り返していた。
つまりまた同じ流れ星に出会うチャンスはあったわけだ。
しかし日付を遡ってゆくこの状況は、二度とあの日を過ごせない。
同じ星に『元に戻してくれ』と唱えられる機会は無い。
………
…
《──事故以来、その修復とあわせて改修を進めていた○○中央図書館が今日再オープンの式典を…》
日付を遡り始めておよそひと月が経過した頃、俺の気持ちは半ば諦めに達していた。
心の大部分を支配するのは『いつか俺は絶望の中で自らの命を断つのではないか』などという自暴自棄な考え。
それでも変わらず前日の朝に目覚めたりするなら、それこそ最悪だな……そう考えるとすぐに実行する気にはならなかったけど。
やる事も無く、会社に出勤する気にもなれず、日々ただ彷徨い途方に暮れて過ごす。
あのコンビニに立ち寄る毎に友から「どうした、顔色が悪いぞ」と、初めて言う顔で心配される事にも次第に慣れた。
その度に「大丈夫、ちょっと昨夜眠れなかっただけだ」と返事をするが、それもすっかり事務的なものになった気がする。
「もし何か悩んでる事があるなら相談してくれよ? できる事なら協力するから」
「サンキュ、心強いよ」
ある日、そんな友が二度の6月1日でよこしてきた問いを思い出す。
「この夏は海外へ行く」彼は意気揚々とした顔でそう言ったっけ。
自分はその夏に永遠に辿り着けないのだろう……でも、旅をするというのはいいかもしれないと思った。
少しでも投げやりな考えを忘れ、不安から目を背ける事ができるような気がしたから。
幸いここ二年くらい、口座の預金額が六桁を下回った事は無かったはずだ。
日帰り…いや、帰る必要も無いのだから、かなりどこへでも行ける。
歩くに適したスニーカーを履いて、必要最小限の荷物で。
着替えなんか要らない、出張で持ってゆく外泊セットにも用は無い。
俺は玄関を出てアパートの階段を降りると、普段は向かわない方向へと歩き出した。
角の煙草屋を曲がり、元々は線路が走っていた跡に整備された緑道公園を歩く。
この辺りまでは、たまに来た事はある。
あと15分ほども歩けば、利用した事の無いローカル線の駅があるはず。
車道を跨ぐアーチ状の橋を渡り、初めて歩くエリアに入った。
緑道には様々な木々が植えられているが、一定間隔で並んだ大きな木はクスノキのようだ。
これが桜なら花の時季には散歩もしただろうに。
今、その歩道を彩るのはハナミズキの花くらいだ。
『──知ってます?』
ああ、そういえばいつかのデートで街路樹のハナミズキを見ながら、後輩が得意げに教えてくれた事があったっけ。
『ハナミズキの花って、本当は花じゃないんですよ』
白やピンクに色づいているのは『がく』で、本当の花は地味で目立たない中央の団子のような部分。
確かあの時、彼女はそう言って笑った。
『しかも本来の名前はアメリカヤマボウシって言うんです』
『ハナミズキなんて風流な通称だけど、日本の木じゃないなんて面白いでしょ──』
感心してみせた俺にそんな追加情報まで披露して、彼女はその木をモチーフにした女性シンガーの曲を口ずさんだ。
その曲は片想い相手の女性を見送る男性の心境を歌ってるけど、女々しすぎて好きじゃない…たぶん俺はそんな文句を言ったと思う。
まさかその時、いずれ俺に愛想を尽かして去ってゆく彼女を見送る事になるとは思いもせずに。
ハナミズキ咲く緑道公園の終わりは、目指した駅の真正面。
陸橋で車道を越え、そう大きくない駅の改札を目指して歩みを進めていると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
(…電車に乗る前に買っとくのもいいか)
特に乗る電車の時間にあたりなどつけてはいないし、何に縛られる事もない。
漂ってきた香りの元、ロータリーになった駅前の広場に面した小さなパン屋に、俺は吸い寄せられていった。
店内への入り口ドア、その脇には窓口形式の販売カウンターがある。
女性が佇み売り子をしているその棚の下段は『一番人気!ミニスイートクロワッサン』とポップの貼られたショーケース。
店内には他にも多くの種類のパンが列んでいるようだったが、一番人気だというなら単純に信じてみようか。
カウンターの目の前まで来て、いくつかの疑問を抱く。
ひとつは掲示された注意書き、レジ脇に立てられたクリップ台に『5個200円』という札と共に『100円玉でお支払い下さい(※無い方は店内へ)』との表示がある事。
ひとつはそこで販売されている『プレーンシュガー』『チョコ』の二種類以外にも『店内にはキャラメル・カスタード等もあります』という貼り紙。
そしてもうひとつは俺が目の前まで近づいても、カウンターの売り子さんは「いらっしゃいませ」とも「こんにちは」とも言わない事だ。
しかしそれらの疑問は、彼女の顔を見た時に概ね晴れた。
かなり…いや、とびきり綺麗なその女性は、ずっと目を閉じたままだったから。
「こんにちは」
驚かせない程度の大きさで、こちらから声をかけてみる。
「あ…こんにちは、いらっしゃいませ」
「プレーンの方を5個下さい」
「ありがとうございます、少々お待ち下さいませ」
黒く長い髪、細い肩、どこか愁いを感じさせる口もと。
その柔らかな声や言葉遣いも含めて、大和撫子という呼び名が似合い過ぎるほどだ。
彼女はカウンターの上の箱から薄いビニール袋を引き出し、それを壊れものほどに華奢と思える右手に被せてガラスケースを開ける。
手探りの様子で、ふた口分くらいの小さなクロワッサンを袋越しにそっと掴んでは取り込み、5個ちょうどを入れ終わってから完全に裏返した。
そして店名のロゴが入ったテープを反対の指にとり折り返した袋の口を留めると、同じロゴがあしらわれた外袋に納める。
「二百円頂戴いたします」
「はい、ちょうどですから」
袋と引き換えに百円玉を二枚渡し、彼女がそれを確認し終わるのを待つ。
受け取った手の親指でコインの感触を確かめてから、彼女は「ちょうど頂戴します」と言った。
「ありがとうございました、お気をつけて」
たかが二百円の買い物で深くお辞儀をしてくれたその人には、そこを離れる俺の背中は見えていないだろう。
パンを詰める間も代金を受け取った後も、彼女は一度も目を開けなかった。
おそらく彼女は目が見えない…だから代金は百円玉でぴったり支払う必要があるのだろう。
そして他にもバリエーションのあるクロワッサンは、売れ筋の二種類しかカウンターに置かれていないのもまた同じ理由。
俺は改札脇にある自販機でボトル缶のコーヒーを買い、ホームへと向かう。
田舎の方面へ向かう列車は程なく滑り込み、がらがらの車内でボックス席を一人で陣取った。
街へ向かう列車とは違い、ホームに停車している時間は少し長い。
それでもやがて静かな駅に車掌の笛が響く。
三十分ほどして風景に緑色が占める割合が多くなり始める頃、俺はクロワッサンの袋を開けてひとつをかじった。
ほんのり甘い砂糖の風味と豊かなパン生地の香り、一番人気の文句は嘘ではなさそうだ。
(こりゃ、5個くらい軽いな)
線路の継ぎ目が刻む、定期的な音と小さな揺れ。
たまにトンネルに入っては再び広がる風景は、その度にのどかさを増してゆく。
(明日…いや、昨日か。また来てもいいかも)
悲しいかな、毎日通ったところで彼女の『ストーカーじみた熱心なファン』にはなれない。
初対面を繰り返すあの人が、俺の声を覚えてくれる事は無いからだ。
それでもいい、別に下心があるわけじゃない。
そういえばさっきのパン屋での買い物から今まで、今の自分の境遇を憂う事を忘れていた。
確かにこの小さな旅は、良い気分転換にはなりそうだ。
次はチョコ味のクロワッサンを買いに、来てみよう。
ついでにカウンター越しの美人に会いに、そして車窓越しの田舎風景を眺めに。
……………
………
…
それから俺は雨の日を除き、三日に一度以上はその店に通った。
同じように列車に乗って遠くへ行く事もあれば、わざわざ彼女からパンを買うだけのために訪れる事もある。
『おはよう』
『いらっしゃいませ、おはようございます』
『プレーンとチョコを5個ずつ下さい』
『かしこまりました、お待ち下さい』
ただひとつ言えるのは、彼女に対して憧れに似た想いは抱いても下心や恋心は無いという事。
あまりに綺麗だと思う一方で、俺と彼女が恋仲になる事など想像もつかないし望まない。
強がりや負け惜しみではなく、本当にそう思った。
『プレーンとチョコ、合わせて5個でもいいですか?』
『はい、構いませんよ』
『じゃあプレーンを3とチョコを2で』
『承知いたしました』
『ああ、今日はもうプレーンは売り切れですか』
『いいえ、もうすぐ次が焼きあがりますよ』
『あと何分くらい?』
『本当にもうすぐです。…電車、間に合いませんか?』
『……いえ、じゃあせっかくだから焼きたてを頂いてみようかな』
『はい、是非。お声掛けしますので、よかったら向かいのベンチでお待ち下さい』
『ありがとうございました』
『お気をつけて』
『いってらっしゃい──』
彼女の声や姿、その雰囲気に魅了されているのは否定できないかもしれない。
パンが差し出されるまでの間、俺は間違いなくその横顔に見とれている。
彼女の目が不自由だから許されるものの、もし見えてたらきっと不審者扱いで塩を撒かれてしまうだろう。
それでもこのカウンター越しの女性に恋はしない。
むしろ彼女に会えば会うほど、声を聞くほどに愛しく想うようになったのは別れた後輩の事だった。
とびっきりの美人ではなくても、寂しがりやのヤキモチ妬きでも。
あいつに対して近寄り難いなんて思った事はない。
最も違和感なく隣にいられて、なんの遠慮もなく付き合える。
あいつこそが俺にはちょうど良かったんだ。
自分とは違う世界にいるかのような女性に会う事で、自分と同じ世界にいて欲しい人が誰だったのかを理解するなんて、妙な話だと思う。
でも、今更そう気付いたって遅い。
…普通ならば。
ここまで
>>37
あざす
流れ星「よっしゃ!昨日の次はその昨日、ずっと昨日を繰り返させたるで!」
星は↑くらいのノリで受け取ったと思って頂ければ
……………
………
…
時は桜の咲く頃を逆方向に過ぎる。
日増しに強まる『後輩とやりなおしたい』という想いは、いつの間にか不安や葛藤を凌駕していた。
気づけば俺は、時があのクリスマスまで遡るのを待ち遠しく感じるようになっていたのだ。
すぐに電話して後輩に謝る事も考えはしたけど、なかなかそうは踏み切れなかった。
想いが強まるほどに、もし連絡をとった時に『既に新しい恋人がいる』と言われる事を怖れるようになっていたからだと思う。
身勝手なものだ。
でも、違う誰かに想いを向けた後輩の事など想像もしたくなかった。
それに、あんなにもおざなりに接し傷つけたという事実そのものをリセットしてしまいたい…という気持ちもあったと思う。
月日が遡り、そうするべき時が来ればどんな事だっていとわない。
二人の関係が戻ったあとは毎晩だって空を見上げよう。
そしていつ現れるとも知れない流れ星を探し続ければいい。
「どうした、なんか顔が活きいきとしてるな」
「そうか?」
「いい事だよ。仕事で疲れてたせいもあるんだろうけど、後輩ちゃんと別れてからずっと元気無かったもんな」
三月の初め、月日を遡り始めてからおよそ80日を数えた頃、店を訪れた俺に友は言った。
以前には顔色を心配されていた事を思えば、彼のこの反応は嬉しかった。
時が遡り続け、いつか絶望に沈んでしまう事を怖れる自分が完全にいなくなったわけではない。
でもそれよりも強く、俺はこの状況を星に与えられたチャンスだと捉えているんだ。
ただこの頃、ひとつ新たに気付いた事がある。
それは俺に前を向く力をくれた、カウンター越しの女性に見られる小さな変化だった。
「こんにちは」
「…いらっしゃいませ」
決して無礼や無愛想という事は無いが、以前より彼女に凛とした雰囲気が無い。
正確には『以前』ではなく『未来』よりも…の事だが。
「プレーンを10個下さい」
「はい、少々お待ち下さい」
彼女はカウンター上を手探りでビニール袋の入った箱を探す。
その動作はぎこちなく、クロワッサンを詰める際にはひとつ誤って床に落としてしまう程だった。
「…ゆっくりでいいですから」
「はい、すみません」
代金として渡した四枚の百円玉。
その縁の部分を爪で触り『ぎざ』があるのを確かめて、それから表面に穴が無い事を探る。
四度同じ事を繰り返し、かなりの時間を費やしてようやく俺にパンの袋が渡された。
それはいかにも不慣れな、そこに立って間も無い事を感じさせる動作だ。
きっとあと何日か何週間ほども遡れば、彼女の姿はこのカウンターから消えるのだろう。
そして二月の半ば、その時は訪れた。
耳が痛くなるほどの寒風に耐えながら歩き、冬枯れの緑道公園を抜けた先。
その変化は駅前の広場越しにも解った、販売カウンターの窓が閉じているのだ。
おそらくそれはまだ完成したばかりで、ガラスケースには保護のためのセロハンが貼られたまま。
一応店内に入り、クロワッサンではないパンを幾つか買ったが、そこに彼女の姿は無かった。
いつだったか、チョコのクロワッサンを10個頼んだが残りが9個しかなかった事がある。
それに気付いた彼女は、店の奥に向かって『お父さん、チョコの追加は焼けてる?』と訊いていた。
つまりこの店は彼女の実家なのだ。
あのカウンター式の販売窓は目の不自由な娘のために、新たに設けられたものだったらしい。
それでも俺は変わらない頻度で店に通った。
彼女が立つ事になる販売カウンターは、訪れる度に工事の未完成さを増してゆく。
行く度にもしかしたら今日は店内に彼女の姿があるかも…と期待するが、それは裏切られてばかりだった。
彼女に対して恋をしているわけじゃないのに、その姿を求める理由は自分でもよく解らない。
絶望に瀕していた心に晴れ間をつくってくれた人だからだろうか。
あるいは彼女が気付かせてくれた後輩への気持ちを、僅かにでも鈍らせないためなのかもしれない。
そして一月下旬、店を訪れた俺は呆然とする事になる。
販売カウンターはまだ施工に着手される前で影も形も無い、それは進捗から予想できていた。
考えてもいなかったのは、彼女の実家であるパン屋自体が閉まっている事だ。
この店の定休日は火曜だったはず。
今日は日曜、普通なら閉めているわけがないのに。
見れば店内へのドアに、少し破れかけた貼り紙がされている。
『1月31日(金)まで臨時休業』
その文字の薄れ具合から察すれば、この紙が貼られたのは数日や一週間程度前の事ではない。
少なくともひと月、きっと年が変わる前くらいの事だろう。
小さく溜息をつき「仕方ないか」と呟いて、パン屋に背を向ける。
その時、俺の視界は確かに見覚えのある人影を捉えた。
駅前のロータリーを囲んだ歩道上。
両手を前に伸ばした姿勢で、いかにも周囲の状況が判らない風に歩いているのは目の不自由な彼女に違いない。
しかしそのすぐ前方の足元には歩車道の段差があるようだった。
そして彼女はそれに気づかず、すり足でゆっくりと前進している。
「危ない!」
咄嗟に叫んだ。
幸い彼女は俺の声に驚いたのか、その場で動きを止める。
「…はぁ、よかった。目の前に段差があったもんで」
「すみません、ありがとうございました」
近づいて事情を話すと彼女は礼を言い、深く頭を下げた。
その方向は俺の立つ位置とは少しずれていたけれど。
見慣れたエプロン姿ではなく明らかに部屋着で、しかもその裾や襟元はお世辞にもきちんとしているとは言えない。
髪もあまり纏まっておらず、きっと誰にも身嗜みを整えて貰わなかったのだろうと思った。
「…杖も持たずに、どうして一人で外に?」
「ごめんなさい、ちょっと…」
「とにかくここじゃ危ない、店まで行きましょう」
「あの…それは嫌なんです」
いつも通り目は瞑ったままだが、その表情は曇りを強く見せている。
たぶん家族と何かあったのだろう、そして内緒で抜け出したに違いない。
「じゃあ、せめてそこのベンチに」
「…無理を言うんですが、できれば店から見えない所がいいです」
「わかりました、手…いいですか?」
少し躊躇いの間をもって、彼女はその左手を差し出した。
その指先を摘まむ程度に繋いで、俺は店から少し離れた駅のベンチに連れてゆく。
軽く肩に手を添え身体の向きを変えさせて「そこで大丈夫」と告げると、彼女はゆっくりと腰を降ろした。
「あの、ありがとうございました」
「大した事じゃない、気にしないで」
去るべきか隣に腰を降ろすべきか、でも誰もいなくなったら彼女は店に戻れない。
そんな思案は彼女の問いかけによって遮られる。
「…私があのパン屋の者だって、知ってるんですね」
当然の疑問だ、今日も俺と彼女は初対面なのだから。
俺の声や喋り方に確かな聞き覚えなど無いはずだ。
貼り紙には臨時休業と書いてあった。
店が以前からあったとしたら、そこの娘が手伝っていた可能性は高い。
そうでなくとも自宅兼店舗、しかもこの小ささの店だから家族を見かける事くらいあり得る。
「……前から利用してたもんでね」
だからこの嘘に大きく不自然な点は無いはず…という読みは当たった。
そしてその嘘は思わぬ情報を彼女から引き出す事になる。
「じゃあ、事故のことも…それで私の目が見えないって解ったんですね」
生まれつき目が見えないわけじゃないんだろうとは思っていた。
カウンターが出来たばかりの頃に見た動作の不慣れさは、そこへ立つ事に馴染みがないというだけでは無さそうだったから。
それにさっきの歩き方にしても、あまりにぎこちなかった。
「詳しくは知らないですけど」
「…気を遣わせちゃいますよね、ごめんなさい」
「大丈夫です、そんなに謝るばかりしないで」
最近に事故で光を失ったとしたら、気持ちが沈んでいるのも無理はない。
苛立ちに家族と仲違いする事だってあるだろう。
落ち着いたら店まで手をひく必要もあるから……そう自分に言い訳をして、俺は彼女の隣に腰を降ろした。
「家の方と何かあったんですか?」
「…悪いのは私なんです。父は私を想って言ってくれたのに」
余計な世話だと思う。
たぶん彼女を心配する以上に、俺自身がその理由を知りたいんだ。
「良かったら、聞きますよ」
そう思いながらも俺は、彼女の更なる言葉を引き出そうとした。
「──事故で目が見えなくなった私の気が少しでも紛れれば…父はそう言いました」
ぽつりぽつりと隣の女性は言葉を紡ぎ始める。
「店の入り口、その脇にカウンター式の販売窓口を作って、そこに立ってみたら…って」
「一種類か二種類だけ、一番よく売れるパンだけを扱うなら手探りでもできるんじゃないかと」
「…でも、私は嫌なんです」
「いつも店に来てくれてた顔馴染みのお客さん、その声に聞き覚えがあっても姿は見られない」
「なんだか余計に目が見えない事実を突きつけられるみたいな気がして」
「…貴方の事だって、目さえ見えたら顔がわかるかもしれないのに」
聞きながら『それは無いんだ』と心の内でだけ詫びる。
少し震えた声で話す彼女の横顔、そのこちら側の頬には涙が伝っているようだった。
彼女の悲しみや怖れも、何か励みになる事を与えたいと願う父親の気持ちも解る気がして、かけるべき言葉が見つからない。
「私、泣いてると思うでしょう?」
「……泣いてるよ」
「はい、でも半分だけなんです」
その言葉と共に、彼女はくるりとこちらを向く。
今まで反対側で見えなかった右の頬、そこに涙が伝う様子はなかった。
「右の涙腺、壊れちゃったんですって……私、どんなに悲しくても半分しか泣けないんですよ」
「愛する人が死んだと知っても、私の右半分は涙さえ零さない薄情な女なんです」
「……おかしいでしょう?」
言い終わると口を一文字に結んで、彼女は前に向き直り肩を震わせた。
その表情はあまりに痛々しく、言葉はあまりにも悲しい。
俺は安易にその傷に踏み込んだ事を、少し後悔した。
「涙を流すだけが悲しむ事じゃないですよ」
「そうでしょうか」
「きっと亡くなった方だって、そう思ってる」
気の利いた言葉は、腹が立つほど浮かんでこない。
その悲しみは、こんな安い慰めで楽になる程度のものじゃないはずだ。
──でも俺は知っている。
今はそれを受け入れられない彼女も、これからできるカウンターに立って慣れない手探りの売り子を勤める内に少しずつ前を向く。
俺の心に希望の芽を吹かせてくれた人は、決して後ろばかりを振り返っているようには思えなかった。
父親が目論む通り、あのカウンターは彼女に小さくとも新しい生き甲斐を与えるものであるはずなんだ。
「…試してみるべきですよ」
「はい…?」
「お父さんの言う事、受け入れてみたら。どうしても駄目ならその時やめればいい」
「さっき、今まで店に来てくれていた人達の顔が見られない事を嘆いてたでしょう? 貴女はあの店の仕事、好きだったはずです」
「………」
「こんにちは、いらっしゃいませ、ありがとうございました、いってらっしゃい…目が見えなくったって、お客さんと繋がる言葉は一緒ですよ」
どれも、あの窓から彼女にかけてもらった言葉だ。
俺はそれらに力を貰いながら、少しずつでも前に向けるようになった。
「…そう…ですね」
「何もかもを諦めてしまうより、ずっといいんじゃないですか」
ようやくちょっとだけまともな事が言えた気がする。
見た事がある、解っている未来を勧めただけなのだから当たり前かもしれないけれど。
「……ウチのお客さんだった貴方に言ってもらえたら、なんとなくそんな気がしてきました」
「また貴女の手から、一押しのミニクロワッサンを買いたいしね」
「あはは…ありがとうございます」
まだ左頬の涙も乾いてはいないけど、やっと彼女は笑みを零した。
少しだけ気持ちが軽くなったのかと感じられる、柔らかな微笑みだった。
「良かった、笑ってくれて」
「はい、笑ったのはすごく久しぶりです」
「あそこにカウンターができるの、楽しみにしてますから」
「……その方が、あの人も喜んでくれるのかもしれませんね」
「あの人…って、亡くなった方?」
「お店で見た事あるでしょう? ウチの従業員さんだった人……私の婚約者でした」
「婚約者…」
「はい、春になったら結婚するって決めてたんです」
「すみません、こんな事まで聞いてもらって」
「全然、構わないですよ」
「…あの、申し訳ないついでなんですけど」
「ん?」
「店まで、連れて行ってもらっていいでしょうか」
「ああ…お父さん達に見つかる前に、こっそり戻らなきゃ」
「はい」
店の裏口だというところまで送って別れを告げる。
彼女は家族に悟られないように声をひそめつつも、何度も「ありがとうございました」「また来て下さいね」と繰り返していた。
来た道を戻る帰りがけ、また冷たい風に耳が痛くなりながらも辛さはあまり感じない。
まさか彼女と並んで座り、身の上話を聞く日がくるとは……悲しい内容ではあったが、それを自分が励ます事ができたのは嬉かった。
彼女に対する恋心は無い、自分と釣り合う人じゃない。
でも今日の、弱さを垣間見せた彼女ならばあるいは……?
あくまで冗談としてそんな想像を巡らせ、でもやはり少しだけ後輩に後ろめたい気持ちになる。
誤魔化すように「夕食、どうしようかな」と小さく声に出し、現在時刻を確認するために腕時計を見た。
そのデジタル表示の時刻とカレンダーが示す日付が『1月26日』だという事に気付いて、俺は妙に納得する。
(ああ…そういう事か)
日付が逆行しているからあまり意識もしなかったけど、今日は俺の誕生日だったんだ。
思いがけず彼女と共有できたこの時間は、俺に与えられたプレゼントだったのかもしれない…と思った。
今日のプレゼントがこれだけではないなんて、この時は知る由もなかったから。
………
…
夕方、俺は何をするでもなくソファーに座り思いを巡らせていた。
日数にしておよそあとひと月を遡れば、後輩との再会を迎える。
その後も一日ずつ時間は逆行してゆくのだろうから、彼女に許しを乞うのは意味の無い事にも思える。
でも惜しむつもりは無い。
出会うその日の彼女に対して、毎日だって詫び続けよう。
再会して三ヶ月も経てば、あのオーバーワークな日々が始まる前になる。
その時には謝る必要は無くなるだろう……せめてそれまで、彼女に寂しさを覚えさせる前に遡るまでは、できる限りの罪ほろぼしを──
《ピーン…ポーン》
来訪者の存在を知らせるインターホンが音。
何かこの頃に届いた荷物でもあっただろうか。
頭を捻っても二重に過ごしている事を思えば八ヶ月以上も前の記憶だ、思い出せるわけがない。
一度目のこの頃は、年末までの多忙さに押され遅れ気味だった自分の仕事を片付けるため、変わらず休日出勤を続けていた。
…いや、それだけじゃなかった。
後輩との別れ、その時から隠し持っていた後悔を紛らすためにも、仕事に打ち込むふりをしていたんだ。
《ピーン…ポーン》
二度目、催促のチャイムが鳴る。
リビングの角の壁に設置されたモニター付きのインターホン。
その画面に映された見覚えのある姿に気づいたのは、応答ボタンを押した後だった。
「えっ…?」
言葉が出て来ない。
なんの台詞も用意していない、心の準備なんて全く整ってない。
でも今のささやかな驚きの声は、外のスピーカーに通じてしまったらしい。
《あの、先輩…いるんですよね…?》
モニターの人物はカメラに対して俯いたままで言った。
きっと俺がこのまま無言で通話を遮断する事を恐れているのだろう、不鮮明な画像からでも彼女の不安げな面持ちは見てとれる。
「ちょ…ちょっと待ってくれ! すぐに開ける!」
会う意思がある事だけを告げて、通話終了のボタンを押す。
慌てて洗面所に向かい、せめて髪型の乱れだけでも整えようとするが、さほど酷い状態ではなかった。
(どうする、何を話せばいい)
(いやいや何を…って、謝るんだろ!?)
(ああ…くそ、これ以上待たせらんねえし…!)
ドアを開ける、きっと俺の顔は焦りに引きつっている。
一歩退がって待っていた彼女は、小さな白い紙箱を手に提げていた。
俺の顔を見上げるその瞳は潤んで、今にも涙が堰を切りそうだ。
「先輩…すみません、急に──」
「──後輩っ!」
一度目の今日、出勤していた俺は知らなかった。
彼女は来てくれていたんだ、別れた俺の誕生日を祝うために。
おそらくこれが最後の分岐点だと考えて。
「せ…先輩、ケーキ…潰れちゃう…」
誰が見ているかもしれないアパートの廊下、そんな事に構いもせず俺は彼女をきつく抱き締めた。
「ごめん…! 後輩…ごめんな…!」
「先…輩……」
細い肩が小さく震えて、後輩はその鼻先を俺の胸に埋める。
これ以上泣かせるようなつもりは無かったはずなのに。
涙は彼女の目から大粒に零れて、俺の胸元を濡らしてゆく。
………
…
さっきまで独りで座っていた、リビングのソファー。
その上で俺は彼女を膝に置いて、何度と無く謝罪の言葉を繰り返した。
「もういいですから」
「またこうしていられるだけで充分なんです」
「忙しい時にしつこくつき纏ってごめんなさい」
俺が謝るたびに彼女は涙目のままでそんな風に答えた。
俺は許された事に安堵すると共に、会う日を焦がれた彼女の温もりがあまりにも愛しくて、格好悪くも自分の涙を堪えるのが大変だった。
彼女にとってはひと月の別れ、でも俺にとっては半年を超える時間を隔てた事になる。
「どんなに忙しくても、もう二度とぞんざいな事しないから…」
「はい、信じます」
「俺、やっぱりお前じゃないと駄目なんだ…別れて気づくなんて、最低だけど」
「…あれ? その言い方、違う人に目移りしたみたいに聞こえますよ」
「違う! 断じてそんな事ないから!」
「うん…ごめんなさい、ちょっと意地悪しました」
その体勢のままで一時間。
少しずつ彼女は以前と同じ悪戯な笑顔を取り戻してきた。
「これで仲直り」と言って俺に口づけて、もう一度背中をきつく抱いたあと膝から降りる。
「台所、借りますね!」
「冷蔵庫なにも無いかも…」
「大丈夫、なんとかなります。軽くご飯食べてからケーキ開けましょ」
足どり軽くキッチンに向かう後輩。
何度も立った事のあるその前で、彼女は小さな声で「ただいま」と言っていた。
……………
………
…
《──この冬、雪不足に悩まされ営業できない期間が多かったゲレンデも、今週の大雪で滑走可能となり…》
次に俺が目覚めた朝、当然だけど隣りに後輩の姿は無かった。
今日は俺の誕生日前日、あの仲直りは無かった事になっているのだから。
昨夜は食事に続いてケーキを頂き、後輩はこの部屋で眠った。
本当は時間を忘れてでも彼女を確かめていたかったけれど、意識のある内に日付を跨いで視界がフェードアウトするのは嫌だった。
だけどもう恐れる事は無い。
今、彼女に電話をかけたって仲直りはできる。
俺は携帯を手に取ろうとした。
しかし俺はそこで少し考えに耽る。
別れたあの日まで遡れば、その先は会う事になる日は会えばいい。
でも俺が本当に求めるのは、その日その日のあいつだけじゃないだろう。
「……探すか」
時は来た、この時間の逆行を抜け出す方法を考えるべき状態になったんだ。
「星の悪戯は、星に消してもらうしかないよな」
俺はこれから、まだ見ぬ星を探さなきゃいけない。
後輩と共に一度目とも二度目とも違う、新しい明日を生きるために──
ここまで
できるだけ次の投下で完結させる予定
おけー、約束する
そうですー
完結させます
……………
………
…
「──無理だろ、あれ」
星を探し始めてから五日。
厳寒期のベランダで毛布を被りながら夜空を見つめ続けるも、願いを唱えられるほど長い流れ星は現れない。
というよりも、流れ星そのものがほとんど落ちない。
ひと晩、12時まで粘ってせいぜいみっつ流れるくらいのものか。
そのどれもが一秒にすら満たない時間で消えてゆく。
この数日間で得た収穫は、あの大きな流れ星を偶然に見るという事がどれほど稀な機会だったかを知っただけ。
それだけ貴重なものなら確かに願いも通じるかもしれないな……と、変に納得した。
『流れ星・大きい』
『流星・記録』
『流星群・時期』
さまざまなキーワードでネットの海を検索する。
いっそ去年の2月まで待って、ロシアにいけば巨大隕石と会えるかもしれない。
しかし夜空に現れる流れ星と、日中に空中爆発した隕石に同じ魔法が通用するものだろうか。
それに目覚めてから20時間にも満たない一日の活動時間で、その場まで達する事ができるのかもよく解らない。
ただ調べる中で見つけた新たなキーワードとして『火球』というものがあった。
その明るさや流れる時間を含め、特に大きな流れ星を指してそう呼ぶらしい。
期待を込めてその単語を検索した、その結果ページには──
「──あった! これなら…!」
その火球という現象は、全国的に見ればそう少なくはないようだ。
報告掲示板には連日のように『見た』という書き込みがなされている。
しかしはっきりした観測時間が解るような記録が少ない。
見えていた長さも、おそらく同じ星を指して一秒という報告もあれば三秒以上見えていたという書き込みもある。
(もっと確実性のある情報が欲しいな…)
少しばかり期待できるか…と思う星の情報があっても、その時間は午前1時や3時という俺が活動できない頃のものが多かった。
やはり街灯りが弱くなる深夜の時間帯が観測のチャンスなのだろう。
その日その日の俺を目覚めさせるのは、過去の俺がセットしたアラーム。
悔しいけど、俺は深夜に目覚める事はできないのだ。
報告書き込みの日付は遡り、去年に入る。
12月30日、28日……そして『次へ』のボタンをクリックしてページを進めた、そこには。
【晴れた日は趣味で星空を眺めてるけど、あんな大きな火球は初めて見た!】
【まさかこんな日に、新聞に載るんじゃないか?】
それらの書き込みは他のものとは比較にならない件数で、内容も明らかにテンションが違った。
いくつか読み進めるだけで『これならもしかして』という想いは強まってゆく。
あとは観測した位置、方角、時間がはっきりすれば…そう考えた矢先。
【◯◯市内からも見えました! 方向は南東、45度くらい見上げた角度だったと思います!】
地元の名だ。
鼓動が強く、速くなるのが判った。
【私は隣の△△市ですー! 同じ星でしょう、すごかったですねー! すぐに時計を見ましたが、19時52分でしたよー!】
【たぶん四~五秒は見えてたんじゃないかな? 右上から少し左下方向へ、軌道も綺麗な向きだったね】
これしかない、無意識にマウスを握る手に力が入った。
地元から見えて、あの日の流れ星に匹敵するほど長く、しかも俺にとって活動可能な時間帯に現れる記録的に大きな星。
まさに奇跡的と思える条件だ。
ただ俺個人にとってだけでなく、その星の出現について最も奇跡と呼ぶに相応しいのは観測された日付かもしれない。
それは──
「まじか、その日かよ…!」
【まさに聖夜が呼んだ奇跡! 素晴らしいイブの思い出でした!】
──12月24日、俺が後輩を深く傷つけたクリスマスイブその日だった。
……………
………
…
《──スタジオの皆さん、視聴者の皆さん、おはようございます! 今朝の中継車は◯◯市の総合公園に来ています。見て下さい、池が全面凍って…》
次に目覚めた朝、情報番組は昨夜の全国的な冷え込みを大袈裟に伝えていた。
もはやその映像に観た記憶は全く無いが、確かにこの冬めっぽう冷える時期があったのは覚えている。
俺は9時頃まで待って友に電話を掛けた。
「…ああ、もしもし。悪いな仕事中に、大丈夫だったか?」
《ああ、通勤ラッシュも過ぎたからな。でもどうしたんだ、こんな時間に》
この頃の俺が有給をとるとは思えなかったのだろう、彼は少し驚いたような声色だった。
「今日、休憩は何時からだ? ちょっと店にお邪魔したいんだけど」
《13時半からだな、昼を過ぎれば暇になる》
「そうか、悪いけど無理をきいてくれ」
そのコンビニは彼の親が店長を務めている店、息子に頼めばバックヤードに入らせてもらえないだろうか。
「お前…『できる事なら協力する』って、言ってくれたよな?」
《へ…? 言ったっけ…?》
「言ったんだよ、まだ先の事だけど」
《……は?》
店の入り口は北東から南西に走る県道に面している……だから。
「防犯カメラの記録、見せてもらえないか?」
駐車場を睨むそれには、星の姿が捉えられているに違いない。
……………
………
…
《──昨夜、イベント会場となっていた◯◯中央公園で起きた惨劇。乗用車が園内にある図書館の大ガラス窓に突っ込み、一人が死亡、数名が重軽傷を…》
12月25日クリスマス、つまり夜には涙化粧の後輩が部屋を訪ねてくる日の朝。
俺は目覚めてすぐ、会社に電話を入れるよりも先にスマホのSNSアプリを起ち上げた。
【トーク:新着1件】
前日、イブの夜に届いていた後輩からのメッセージを開く。
俺が着信に気づきながらも、通知エリアでしか確認しなかったものだ。
* * * * *
メリークリスマス、お仕事お疲れさまです。会いたかったけど仕方ないですよね。
でも何時になってもいいから、電話だけしてくれませんか。
先輩の声だけでも聞かせて欲しいです。
* * * * *
ぎゅっ…と唇を噛んだ。
俺はこれを無視したのか。
こんなに健気に、僅かな時間だけでもイブの夜を共有したいと望んだ後輩を気にも留めなかったのか。
このメッセージは一度目の今日、確かに見たはずだ。
でも業務に疲れ果て目覚めたその朝の俺は、これを読んでも何も思わなかったらしい。
「フラれて当然じゃねえか…こんなの」
今日、俺はどうするべきだろう。
今すぐに彼女に電話をかけて、会って許しを乞えばいいのか。
それとも真夜中、部屋に訪れた後輩を抱き締めて詫びるべきなのだろうか。
しかし俺はそのどちらも選ばなかった。
同じSNSのトークを使って『昨夜は本当にすまなかった』『次の週末は必ず一緒に過ごそう』とだけ、メッセージを入れる。
(ごめん、後輩……今日一日は時間をくれ)
次に目覚める12月24日クリスマスイブ、その夜に備えるために。
俺は星に願う言葉を探し、心の準備をしなきゃいけない。
当日は必ず朝から彼女に連絡をとるつもりだ、会えるものならすぐにでも会う。
その時点で既に数ヶ月も寂しい想いをさせていた事にはなるけど、手元のディスプレイに表示されたメッセージが送られるよりは前だ。
それを無視して負わせた最も深い傷、せめてその痛みを与える前に彼女の気持ちに応えなければ。
だから24日には星に備える時間はあまり無いはずなんだ。
一月に星の情報を手に入れてからも、俺は毎晩のように夜空を眺め続けた。
誰もが見逃した未知の星が流れるのではないか…という期待は少しだけに、どちらかというと狙う星が流れる際のシミュレーションのつもりで。
友の店の防犯カメラには、確かに星は映っていた。
『ほぼ狂いは無い』という彼の言葉を信じれば、星が流れるのは午後7時52分36秒からおよそ四秒間。
願いを唱え始めるまでに一秒をロスしたとして、チャンスは三秒ほどだ。
一応、それ以前の火球について情報を集めはしたが、目ぼしい記録は近い日付には無かった。
絶対に失敗は許されない。
「あー、一車線・二車線・三車線、右折車線・左折車線・直進車線…」
あまり誰にも見せたくないし聞かせたくもないが、毎日早口言葉の練習は欠かさない。
部屋の窓から外を見て、向かいの曲がり角から車が出てくる瞬間に願いを唱える…という、反射神経を鍛えるつもりの練習も繰り返してきた。
ただ、情けなくも肝心の『願う言葉』だけが完全に決めきれていない。
『元に戻してくれ』だと、後輩との仲直りすら無かった事にされて6月3日の朝に目覚めそうだ。
『後輩との関係を保ったままで明日を迎えさせてくれ』…これは少し長い、噛まずに言い切る自信が無い。
これまでずっと考えてきたのに定まらない、でも少なくとも今日中には候補を絞り込まなければ。
俺は紙に思いつく候補を書き並べてみた。
「これ……いや、不安が残るな…」
ぶつぶつと独り言を漏らす程、考え込む。
寒い時期とはいえ部屋には適度な暖房も効かせているし、ひどく喉が渇いてきた。
ちらりと冷蔵庫を見る。
今日はクリスマス、でも平日だ。
昨日のイブもそうだった事を思えば、そこに望むものは無いはず。
(…でも、もしかして…な)
立ち上がり、祈る気持ちで冷蔵庫を開ける…しかし。
「無いわな、そりゃ」
残念ながら、その扉には緑茶のペットボトルが立っているだけ。
小さく溜息をつき友の店に行こうかと考えたその時、さっきまで向かっていたテーブル上でスマホが小さく振動した。
【トーク:新着1件】
* * * * *
返信してくれてよかった、嬉しいです。
本当は今夜、先輩が仕事から帰ってる頃を見計らって訪ねてみようって思ってました。
そこでお話しして、ダメならもう先輩のこと諦めようって。
でも今週末、会えるんですよね。
万一それが無理になっても、そう言ってくれただけで私は大丈夫。
お仕事、がんばって下さい。
* * * * *
メッセージに目を通し、俺は改めて冷蔵庫に向かう。
そして緑茶をグラスに注ぐと一気に飲み干して、心の中で後輩に『今日はお酒は飲みません』と誓った。
……………
………
…
「…もしもし、おはよう」
《先輩……!》
次に目覚めた朝、俺は後輩に電話をかけた。
今日はクリスマスイブ、彼女と本当にやりなおす日であり、夜には願いを唱えるべき星が現れる日だ。
「俺、今日は会社を休むから。できるだけ早く会おう」
《本当に…でも、大丈夫なんですか》
「大丈夫だよ、今日はずっとお前と過ごしたい」
少し涙声で喜びをあらわにする後輩。
今までの事を申し訳なく思いはするけど、まだ彼女の心に深い傷は無いはずだ。
朝の内に一度大学に行かなければならない彼女は、その帰りの足でこの部屋に来ると言った。
時間は11時頃になるらしい、残念だが何かクリスマスプレゼントを用意するには少し時間が足りないだろう。
午前10時過ぎ、俺はまたテーブルに向かって頭を抱えていた。
星に願う言葉は25日の内に候補を三つまで絞りはしたが、まだ完全に決められてはいない。
俺にとっての昨日に幾つもの候補を書いた紙は、当然のように今朝には消えていた。
だから今は改めて残る候補だけを書いた紙と睨めっこをしている。
願いの内容を自分にとって都合が良いものに近づけるほど、台詞は長くなってしまう。
やり直しのきかない僅か三秒、確実にいこうと思えばシンプルな方がいい。
そこに必要な情報を詰め込んだ、最小限の言葉──
(…やっぱこれか?)
候補の中で二番目に長くて短い中間どころの言葉、その先頭に丸印をつける。
【今日から新たな明日を迎えていけますように】
これでいいはずだ……頷いてそう自分に言い聞かせた。
《ピーン…ポーン》
部屋に響くインターホンの呼び出し音。
リビングの角の壁に設置されたモニターには、後輩の姿が映っていた。
言っていたよりも随分早いな…と思いながら、通話ボタンを押す。
「早かったな、すぐ開けるから」
《はいっ!》
さすがにまだ来ないだろうと思って、服は部屋着のままだ。
でも朝の内に髭は剃ったし寝癖も直した、会うのが恥ずかしいほどの状態じゃない。
「…よしっ」
両の平手で頬を二度叩き、深呼吸をひとつ。
夜8時前には少しだけ時間をとらせてもらうけど、それ以外は目いっぱい彼女と心を寄せあって過ごすんだ。
「お待たせ、寒かったろ。ちょっと入っててくれ」
「はい、あの…」
「ん?」
「…玄関、入ってからでいいです」
タイトスカートに薄いピンクのセーター、その上にベージュのコート。
どれも俺が気に入っていた冬物を着込んだ彼女を招き入れ、俺は後ろ手にドアを閉める。
かちゃり…という音がした、その直後だ。
「先輩っ!」
彼女は前触れもなく俺に抱きつき、胸に顔を埋めて首を振った。
「今日、休みをとってくれてありがとう……朝の電話、すごく嬉しかった」
「……ごめんな、ずっと忙しくて構ってやれずに」
念入りに整えたであろう髪型を崩さないように、俺はそっと彼女の頭を撫でる。
反対の手でその背中を抱き寄せると、僅かに肩の震えが伝わった。
後輩を部屋で待たせて、服を着替える。
朝済ませてはいたけど、歯も念入りにもう一度磨く。
これで出かける準備は整った。
しかし彼女に「どこに行きたい?」と尋ねても「どこでもいいです」としか返ってこない。
駅前に出ようか、郊外のシネコンが入ったモールで映画でも観るか、どんな提案をしても「それでもいいですよ」というピンとこない反応。
「ここのところ寂しい想いさせたからな、どこでも好きなところ希望していいんだぞ?」
「…じゃあ、ここがいいです」
「ここ…? 部屋?」
「はい」
少し考えて、ようやく理解する。
これはさっきの抱擁の『おかわり』を求められているんだ。
つまり改めて歯を磨いた事は正解だけど、服を着替えたのは無意味だったという事だろう。
………
…
冬の日は短い、午後6時頃にはもう暗くなっていた。
俺達はその時間から、歩いて三十分ほどのところにある大きな公園に向かう。
今日、クリスマスイブのそこはちょっとしたイベント会場になっていると後輩が教えてくれたからだ。
大通りでは街路樹がイルミネーションを纏っているし、公園には地域で一番大きなツリーがあるから見にいこうと彼女は言った。
俺も行った事のあるその公園は、中央の建物の周囲に広い芝の庭やサッカーのフィールドが整備されていたはず。
そこなら流れ星は確実に見られるだろう。
「イルミネーションの道、綺麗ですねー」
「食事とか全然予約とってなくて悪かったな」
「いいんですよー、ケンタッキー大好きですもん」
それは知っている、だから選んだんだ。
もちろんせめて少しはクリスマスっぽい食事を…というつもりもあったけれど。
「ごめんな、普段はあんまり行かなくて」
「先輩、チキン食べるとビール欲しくなりますもんね」
「そうなんだよなー」
「でも今日は我慢したじゃないですか。偉い偉い、いい子いい子」
しかし彼女が褒めた我慢も、長続きするものではなかったらしい。
イベント会場の公園では、中央の大きなクリスマスツリーを囲んでテイクアウトの仮設飲食店も並んでいた。
もちろんその中には紙カップの生ビールを出す店もある。
「…もう我慢しなくていいんじゃないですか?」
「お? そんな事を言われると…」
「私、あそこのチュロス食べたいなー」
指差す方にはチュロスを出す店、そして隣にはビールを扱う店。
少しだけ迷って、やっぱり彼女がいいと言うのなら…という思いに達してしまう。
「じゃあ、一杯だけ飲もうかな」
「ついでに私にも紅茶を!」
「了解、ツリーのところにいろよ」
少しだけ列んで、先にチュロスを二本と紅茶を買う。
続けて生ビールを買って彼女の待つツリーの下へ向かう時、俺は漆黒の夜空を見上げた。
街灯りがあるから見える数こそ多くはないが、雲ひとつない星空だ。
待つ流れ星にあんなにも目撃の書き込みがあったくらいだから、当然の事かもしれないけど。
「お待ちどう」
「わーい、頂きまーす」
「…もうちょっとこっち側に座ろうか」
「ん? なんでです?」
この位置、この向きでいいはずだ。
星は南東方向、約45度見上げた角度を右上から左下に流れる。
現在の時刻は午後7時20分。
あと三十分ほどで運命の時間を迎える、準備は万端のはずだ。
でも更に念を入れるなら。
「後輩…悪いんだけど、8時前くらいになったら俺、ちょっとの間だけ黙るぞ」
「なんですか、それ」
「流れ星が見えるはずなんだよ、でっかいやつ」
「……ああ」
たぶん訳の解らない事を言ったはずなのだが、後輩はさほど気にもとめなかったようだ。
それは別に構わない、その頃に俺が心ここにあらずな状態になる事を理解してさえくれたらそれでいい。
………
…
しかし人間の身体というのは、そう簡単に言うことをきくものではない。
迫る時間に緊張は高まっている、ましてこの寒空の下で一杯でもビールを飲めば尚更の事だ。
つまり簡単に言えば、俺はトイレに行きたくなっていた。
時刻は7時40分、まだ10分以上の余裕はある。
トイレは100mと離れていない公園中央の建物に行けばあるだろう。
星が現れる時間ははっきりしているのだから、ここは落ち着ける状態になった方がいい。
「ごめん、ちょっと花摘んでくる」
「なにその乙女な表現。でも星が流れちゃいますよ?」
「大丈夫、流れるのは50分を過ぎてから。まだ余裕あるから」
「変な星ですね、本当かなー?」
笑う後輩に「そこにいろ」と告げて、俺は腰を上げた。
少し年季は入っているが、綺麗な大きな建物に向かう。
この建物は多目的ホールと図書館を兼ねた施設になっている。
中に入ると暖房が効いており、冷えた身体に血が巡るような感覚がした。
トイレは中央の階段脇、右手はいくつかのテーブルが置かれた休憩ロビーとなっている。
ほんの二人ほどの順番待ち、これならすぐに回ってくるだろう。
一応スマホの時計を確認したが、時刻はまだ45分にもなっていない。
実際、待ち時間はほんの1分無いくらいだった。
入り口で背の高い男性とすれ違い、俺は無事に用を足す。
少し早足でトイレを後にし、もう一度建物のロビー横を通り過ぎようとした。
余裕はあっても時間は迫っている、それなのに俺の歩みはそこで止まる事になる。
「えっ…」
俺の心臓は鼓動を乱した。
さっきトイレの入り口ですれ違った男性の隣にいる、その女性の姿に。
黒く長い髪、細い肩、大和撫子という呼び名が似合い過ぎる。
でもその口元に愁いは無く、幸せそうに微笑んでいる。
そして何より、その瞳は隣の男性を愛おしく見つめているようだった。
休憩ロビーの大きなガラス窓の前、並んで佇む彼女らは冷えた身体を暖めているのだろう。
俺は目を開けた彼女の横顔の美しさに、少しの間だけ心を奪われていた。
この時はまだ、彼女は光を失っていなかったんだ。
そして隣の男性こそ、もうすぐの未来で命を落としてしまう人なのだろう。
一瞬、なにか彼女達にしてあげられる事は無いかという考えが頭を過った。
しかし時間は無い。
再度スマホを確認すると、既に時刻は49分に迫っている。
星に願う事が叶ったら、そのあとまた彼女達を探してもいい。
きっと変な顔をされるだろうけど、もし悲しい未来を変える事ができるなら。
このままだといつか襲うであろう事故を避ける事が──
(…事故?)
──突然、頭の中に幾つものキーワードが浮かんだ。
それは一月の下旬、駅前のベンチで彼女から聞いたもの。
そして流し聞きしていた、テレビの音声の断片。
『事故』
『失明』
『イベント会場』
『中央公園』
『大ガラス』
『図書館』
『一人が死亡』
『数名が重軽傷』
一月、俺の誕生日に見たあのパン屋の貼り紙は、年末頃に貼られたものじゃないかと思った。
なぜその頃に臨時休業に入った?
店が再オープンするのは、失明した彼女が立つためのカウンターができた時だった。
それなら休業し始めたのは、彼女達の事故の時なんじゃないか?
それは、いつだ──?
時刻は7時51分を回っている。
もう建物を駆け出さないと間に合わない。
しかしロビーの天井から足元まである大きなガラス窓は、南東側を見渡せる向きに面している。
星への願いはガラス越しでも叶うだろうか。
ふと、窓の向こうの駐車場で乗用車に乗り込むお年寄りが目に入った。
かなり高齢に見えたが、運転席に座ったようだった。
嫌な予感に襲われる。
乗用車のヘッドライトが点灯して、後ろの路面がテールランプの赤色に照らされた。
頭から駐車枠に進入していたその車はバックするはずだ。
しかし──
「そこを離れて!」
俺は叫んだ。
乗用車が前に進み、縁石の段差にぶつかって大きく揺れた。
ニュースで度々耳にした事はある。
若者には今ひとつピンとこないが特に高齢者は運転に慌てた時、アクセルとブレーキを踏み違える事があると。
乗用車はがたがたと揺れながら、縁石を乗り越えてゆく。
俺の叫びが誰に向けられたものなのか、何のための言葉なのかは彼女達に一瞬では伝わらない。
不思議そうな顔をして、二人はその場で俺の方を向いている。
明らかに異常な挙動を見せながら、暴走する車は図書館のガラス窓に迫ってくる。
その向こう。
一面のガラス窓から見渡せる空の、右上の方向から──
「車を…止めてくれっ!!」
──眩しい程の光を放ちながら、星が流れる。
.
違う願いを唱えてしまった事。
ガラス越しの星にそれ通じるか、解らない事。
頭の中でそれらがぐるぐると渦を巻く。
俺は先の願いを叫びながら、下を向き目を閉じていた。
しかしガラス窓が砕ける音は数秒経っても聞こえない。
代わりに男性の「うわっ」という声が届く。
恐る恐る目を開けて前を向いた。
乗用車はガラス窓の僅か1m手前で止まっている。
彼女と男性はそれに気づいたようで、酷く驚いた様子だった。
「す…すみません、この事を教えようとしてくれていたんですね!」
男性が彼女の手をひき、俺の前に駆け寄った。
「なんとか止まってくれたみたいで助かったけど、危ないところでした。せっかく叫んでくれたのに気づかなくてすみません」
「…いえ」
「本当、ありがとうございます」
まさか流れ星が車を止めたとは知らない二人、それでも彼らは俺に深く頭を下げる。
「…よして下さい、何事も無くて良かったですよ」
俺はそれだけを告げて、逃げるように建物から早足で出た。
ツリーで待つ後輩の元へ歩く。
俺は自分の願いを果たせなかった後悔と、彼女が巻き込まれる事故を見ずにすんだ事への安堵で考えが纏まらない。
「もう、遅かったじゃないですか」
まだ少し離れたところで後輩の声が聞こえた。
ちょっと呆れたような笑顔、人差し指をたてた仕草で俺を迎える彼女。
「…ごめん」
「流れ星、過ぎちゃいましたよ」
「そうだな」
「トイレ行ってて逃しちゃうなんて、ドジな先輩ですねー」
その笑顔に、俺は少し気持ちが軽くなった気がした。
どのくらい先の話になるかは判らないけど、また次の大きな星を探せばいい。
「でも、ご心配なく──」
ニヤリと後輩が笑う。
ハナミズキの雑学を俺に話した時のような、得意げな顔で。
「──先輩が新しい明日を迎えられますように…って、願っときましたから」
きっと俺は今、彼女に比べて間抜けな顔をしているに違いない。
流れ星を見たから願い事をした…それだけなら解る。
何故、彼女は俺の願いを知っているんだ。
「ごめんなさい。部屋に入ってすぐ、先輩が着替えたりしてる時にテーブルの紙…見ちゃったんです」
「三つくらい候補があってどれかには丸印がついてたのに、一番短いのしか覚えてませんでしたけど」
「さっき『流れ星が見えるはず』って先輩が言った時、あの紙の意味がなんとなく解りました」
「まさか本当に流れるとは思いませんでしたけど。すごかったですよ、あんな大きな流れ星はじめてだったなぁ──」
「──後輩っ!」
「きゃっ…!? せ、先輩…」
俺は思いきり彼女を抱き締めた。
唱えられた願いは、俺が最終的に選んだものではない。
一番シンプルな、短い時間で言える願い。
『新しい明日を迎えられますように』
それは叶ったとしても『今の状態』をキープした明日がくるという確信がもてないものだ。
果たして次に目覚める朝が12月25日なのか、6月3日なのかも解らない。
「後輩…! 俺、これからはどんなに忙しくてもお前を大事にするから!」
「先輩、急になに言ってるんですか…嬉しいですけど」
「だから、どんな事があっても別れないでくれ! 頼む──!」
……………
………
…
眠りを阻害する、定間隔の振動音。
蚊の鳴く程の音量から次第に大きくなる、耳慣れたメロディ。
枕元でスマホが鳴っている。
次に目覚めた俺は、いきなり嫌な鼓動に襲われた。
(冬じゃない…!)
部屋の中とはいえ、体感温度が明らかに12月ではない。
直感で解った、今は6月だ。
おそらく6月3日火曜日なのだろう。
それなら後輩との関係は、イブに事故を免れた二人はどうなった。
この朝は全てが始まる前だった6月2日の翌日なのか、それとも後輩とやり直したあのイブの続きなのか。
俺は鳴り続けるスマホを手にとった、そのディスプレイには──
【着信中:後輩】
──目を見開く、途端に脳内に記憶が再生される。
イブの翌日、出社した俺に同僚達が冗談半分の憎まれ口を叩いてきた事。
二人で過ごした年末、初詣と正月休みのスノーボード。
四月になって彼女が就職した時の事。
一泊二日の旅行に行った、ゴールデンウィーク。
さっき目覚めた俺は確かに数ヶ月を遡った俺だ、でも三度目の同じ日付を生きた記憶がある。
この朝は、後輩と仲直りしたイブの未来だ。
ずいぶん長く待たせた着信、ようやく通話ボタンをタッチする。
俺が声を発するより早く、後輩は大きな声を届けてくれた。
《遅ーい!! 昨日、飲み過ぎたでしょ!》
「…おはよう、後輩」
不覚にも涙が出そうになった。
《おはようございます、愛しの私に会える週末まであと四日がんばって仕事しましょう!》
「いや…休む」
《へ…?》
「後輩、どうしても会いたいんだ。今日、仕事休めないか?」
《ど、どうしたんです? うーん…私まだ有給無いんだけど……》
「…無理か?」
《うわ、残念そうな声……先輩がそう言うなら、風邪でもひいた事にします! 嬉しいですしっ!》
………
…
「──ここだよ」
「へえ……でもわざわざ会社休んで、なんで散歩とパン屋なんです?」
「それはいいから、お前に会いたかっただけだよ。ここは友が美味いって言ってたんだ」
三度目の記憶の中で、俺はパン屋に訪れはしなかった。
この新しい日を迎えたら後輩と一緒に来てみよう…そう考えていた。
そして予想した通り。
「…良かった」
「はい?」
入り口の脇にもどこにも、カウンター式の販売窓は無かった。
「いらっしゃいませ、おはようございます」
トレイにミニクロワッサンなどの商品を取りレジに置くと、綺麗な目をした女性が挨拶をしてくれた。
彼女はてきぱきとパンを袋詰めし、俺が渡した千円札の代わりにお釣りの小銭をレジから取り出してゆく。
それを手渡す時に添えられた左手、その薬指にはプラチナのリングが通されている。
「カスタード、追加焼きあがったからね」
「うん、置いといて」
奥から顔を出した背が高くて優しそうな男性は、彼女の夫に違いない。
二人の幸せそうな顔を見ていると俺の方まで嬉しくなるような、とてもお似合いの夫婦だった。
「ありがとうございました、お気をつけて」
パンが入れられた袋を受け取り店から出ようとした、その時。
「…あの、お客様」
もう一度、レジの女性に呼び止められる。
振り向くと彼女は少し不思議そうな顔をしていた。
「前から来て頂いてましたか? …どこかでお会いしたような気がして」
「…いえ、初めて来ました」
できるだけ驚きを表情に出さないよう努めて、俺は返事をした。
「そうですか…失礼しました。またいらして下さいね」
彼女がおぼろげにでも俺に記憶を感じたのは、イブの夜に短く接した時の姿か。
それとも──
「──なんかデレデレしてなかったですか!?」
店を出て歩く緑道公園で、後輩は俺の脇腹をつつきながら言った。
「してないって。さあ、友の店に寄って酒買って帰ろうぜ」
「してた! 絶対こーんな顔してましたもん!」
彼女はさびしがりやで、ちょっとやきもち妬きだ。
でもこれからは絶対に悲しませないように、どんなに忙しくても大事にしていきたいと思っている。
「あ、これ…今は咲いてないけど、前に後輩が豆知識を教えてくれたハナミズキだよな」
「もう…誤魔化して。そうですー、ハナミズキですー。歌いましょうか?」
「おう、頼むよ。歌ってくれ」
「あれ? 女々しくて嫌いじゃなかったっけ…」
「男なんて案外、女々しいもんなんだよ──」
おわり
過去作置場、よかったらお願いします
http://garakutasyobunjo.blog.fc2.com/
乙
投稿初日の時点でこの結末は予想できたが、予想を裏切られなくて心底よかった
邪道で奇想天外な結末より、「承」「転」を工夫した王道の結末の方があってると思うわ
(あ、でも恋のクロスカウンターみたいなのもよかったよ、と一応補足)
この流れ星に「幸せな明日を繰り返したい」と願えば最強だな
ときに、男は2周目の6月2日(月)には天体観測しなかったんだろうか
乙レスありがとございます
6/2の男は布団かぶってガクブルしてたと思います
釣り書きまーす
このSSまとめへのコメント
いい話やないか……
神SSあざっす
神SSあざっす