【男&幼馴染】星に願いを(116)


俺は『男』、現在21歳の大学生。

可もなく不可もなく、平々凡々とした毎日。自分の今の境遇を表現するなら、それが相応しいと思う。

大学の授業はかったるいものもあるし、課題に追われたり今後の就職活動に憂鬱になったりする事もあるけれど、それも人並みの重さだろう。


もちろん、そんな人並みさに見合った程度の幸せもある。

今のバイトはたかがスーパーの裏方だが、人間関係も含めて結構合っているように思う。

先日ついに普通車免許も取得して、欲しい車の事を考えていればわくわくしてくる。

とびっきり…という程ではないが、俺には勿体無く感じる程度に可愛い、彼女一歩手前な幼馴染もいる。

友人関係も、まあ普通だ。

誰にでもあるように、ついてない日もあれば最高にハッピーな日だってある…それも当たり前の事。

ただ、少なくとも今日はその内の後者にあたる日だった。


車の購入費用にと精を出したバイトで得た金の一部をはたいて、幼馴染との日帰り旅行。

もちろん大した遠方地に行けたわけでは無いものの、ちょっとした非日常に二人の仲は少なからず親密になった。

お互いの自宅まであと少しの帰り道、何も言わずに手を出すとちゃんと彼女が握り返してくれたのがその証拠だろう。

たぶん今朝までであれば少し照れ臭くて出来なかった気がする。


「楽しかったねー」

「そうだな」

「今日みたいな日が毎日ならいいのにね…?」

少しこちらを窺うように、幼馴染はそう言った。

言葉の意味はよく解る、でも気の利いた返事は用意していない。

すっかり暗くなった住宅街、よく立ち寄るコンビニの前を通り過ぎながら、俺は誤魔化すように夜空を見上げた。


…その時だった。

辺りが明るくなる程の大きな流れ星。

「今日がずっと続きますように」

とっさに俺はそう言った。

だいぶ端折ってしまったが、つい先ほどの彼女の言葉を星に願ったつもりだった。

「三回なんて言えねーな…」

「一回だけでも叶うらしいよ?」

「それ、どこ情報よ?」

タイミングの良い流れ星のおかげで、少し気の利いた台詞を言う事ができただろうか。

その後の道のり、彼女と俺の距離はさっきよりもちょっとだけ近かった。


心地よい眠りを阻害する、定間隔の振動音。

蚊の鳴く程の音量から次第に大きくなる、耳慣れたメロディ。

枕元で携帯が鳴っている。

はっきりしない意識を手繰り寄せ、それを手に取り画面を見る。

着信中『幼馴染』

画面上部に目をやると現在時刻は7:02と表示されていた。

昨日起きた時間と同じ位じゃないか、なんだって連日こんなに早く起こすんだ。

頭の中で憎まれ口を叩きながら、それでも今日という日が幼馴染の声で始まる事は嬉しく思えた。


「…もしもし、おはよ」

《あ、出た。おっはよ、もう起きてた?私は準備できてるから、いつでもいいよー》

「は?」

訳が解らなかった。今日も何か約束していただろうか。

「何言ってんだ、お前。今日も何かあったっけ」

《はぁああぁ!?アンタこそ何寝ぼけてんの!?…まさか温泉行こうって自分から誘っといて忘れたっての!?》

いよいよ訳が解らない。なぜなら昨日の小旅行こそ温泉に行ったからだ。

「寝ぼけてんのはそっち…」

そこまで言いかけて、俺は激しい違和感に襲われた。

その原因はテーブルの上にあった。そこにはなぜか昨日の朝捨てたはずの、一昨日の夜食べたコンビニ弁当容器があったからだ。


《アンタ、バカなの?本当に忘れてるの?ねえ、まさか今日行かないの?》

「ちょ…ちょっと待ってくれ!後で掛け直す…」

まだ携帯の向こうで喚いているのが聞こえたが、ひとまず通話を終了した。

もう一度テーブルに目を遣る、確かに一昨日の弁当容器だ。そして確かに昨日、台所のゴミ箱に捨てたはずだ。

寝起きでぐちゃぐちゃなのは髪型だけではない。頭の中も疑問符だらけだった。


手に持った携帯の画面ロックを解除し、カレンダーアプリを起動する。

8月22日、木曜日

俺は目を疑った。幼馴染と温泉に行った、昨日の日付けだ。

詳しくは知らないが、携帯の時計やカレンダーが狂った試しは無い。

たぶんネットに繋がったPCみたいに勝手に現在時刻を合わせているはず。それでもその表示を疑わずにはいられなかった。

最近あまり観ていないTVをつけると、下世話な朝の情報番組が流れていた。

その番組の嫌らしい顔をした中年司会者の立つカウンターに置かれた日付けポップには、携帯と同じ8月22日の文字が並んでいる。

本当に寝ぼけているのは俺の方なのか。


絶対に違う筈だと確信しながら、俺は幼馴染に電話を掛けた。

「もしもし」

《もしもしじゃないっ!どーするのよ?》

あからさまに不機嫌な声だ。ここはひとつ自分の感情は殺した方がいい。

「ごめん、本当寝ぼけてた。すぐに用意してそっち行くから」

《もう、びっくりするよ。待ってるからね》

俺は電話を切ると、首を傾げながらもテーブル上の弁当容器を持って台所へ行き、冷蔵庫脇のゴミ箱に押し込んだ。

その時のガサガサという音に、寝室から母親が顔を覗かせ「そういえば今日は出掛けるって言ってたわね」と声を掛けてくる。

「行ってきます」

まだ着替えも済んでいないのに、俺はそれだけを答えて洗面所に向かった。

そのやりとりもまた、昨日確かにこなした事のはずだという疑問を感じながら。


「おはよ」

幼馴染が玄関から出てくる。

普段はあまり着ないような、一目で余所行きと解る可憐なワンピース姿。

「可愛いじゃん、服」

言葉は嘘ではないが、心からの台詞でもない。あえて自分の記憶の中にあるものと同じ台詞を投げてみたのだ。

「えへへ、こないだ駅前で買ったんだ」

「似合ってるよ」

ここまで全て、記憶の通り。予想通り過ぎて頭がこんがらがるとは、初めての体験だった。

「夜の9時位までには帰るから」

幼馴染が家の中に向かって言うと、彼女の母親は「男くんとデートでしょ、今日は帰らない位言ってみなさいよ」と、からかう様に返した。

おそらくそれに対して幼馴染は…

「変な事言わないで!」

そう…そう言ったはずだ。やはり記憶は正しい。


記憶の中の昨日と全く同じルートを駅へ向かう。

よく立ち寄るコンビニの前には、下品なチューンが施されたセルシオが停まっている。

自動ドアの脇に設置された灰皿スタンドの側には、その車の主を含むと思われるいかにも遊び明けな3人の男が立ち、俺の横を歩く幼馴染をじろじろと見ている。

「やだ…、早く通り過ぎよ」

「そうだね」

しかし見られるだけで絡まれる事は無い…それも確信があった。


最寄の駅、普段は買わないような額面の切符を二人分購入し、普段は行かない地方行きのホームを目指し階段を上がる。

その階段を登りきる時、俺はハッとして言った。

「危ない」

しかし間に合わず、幼馴染は最後の一段につまづく。

俺はとっさにその手を握り、引き起こすように支えた。

「ばか、気をつけろ」

「びっくりした…、ありがとう。よくこうなるって解ったね」

「あ?…ああ、なんとなく」

そう誤魔化したが、あそこでつまづくのは記憶にあった。

ただしその時は手を差し伸べるのが間に合わず、彼女は小さく転んでしまったのだが。


朝のラッシュアワーの影響で、列車は7分遅れてホームに入った。

その後の各停車駅の停車時間を少しずつ短縮し、目的地へはほとんど遅れ無しで到着するはずだ。

次第に田舎の風景に変わってゆく車窓にも、見覚えがある。

確かこのトンネルを抜けると。

「男。見て、手を振ってる」

土手道を走る自転車に乗った小学生くらいの男の子が、過ぎ行く列車に向かって手を振っている。

それに幼馴染はにこにこしながら手を振り返す。そしてそのすぐ後…

「あ、見えなくなっちゃった」

そう、またトンネルに入るんだ。


《本日は御乗車ありがとうございます。他路線の混雑による遅延で大変ご迷惑をおかけしております。今後の各駅到着予定時刻は…》

車内放送が聞き覚えのあるアナウンスを告げた。

記憶の通りなら、もうすぐ早起きが祟った幼馴染はうつらうつらと居眠りをするだろう。

もう既に目はとろんとして、車窓の枠に肘を置いて頬杖をついている。

この後は確か、目的駅の到着直前に案内が流れるまで話をする事は無いはずだ。

丁度いい、その時間を使って頭を整理しよう。


このあまりにリアルな昨日の記憶は何なんだろうか。

ここまで全て、昨日の記憶と相違無い事象が起きている。昨日…といっても、日付は同じなのだが。

ただし幼馴染が転びそうになった時、それを予見した俺が手を貸す事によって彼女は転倒を免れた。その点は記憶と違う。

安っぽく都合の良い言葉で自分を納得させるなら、正夢だったと考えればいい。

ただ、純粋に正夢という言葉を当てはめるには、行動によって結果が変わるという点に疑問が残る。

少しファンタジー的要素を含ませるなら、身に迫る危険を回避するための予知夢だろうか。

とはいえ記憶によれば階段で転んだ幼馴染は何か怪我をしたわけでも無く、その後はこれといった危険の無い楽しい一日だった。

わざわざ予知夢に見る程の事ではない気がする。

もちろん、意味が無くとも見るものは見るのかもしれないが。

ひとつ言えるのは、記憶の中の8月22日は本当に楽しい一日だったという事。

もう一度過ごすとしても不服などあろうはずもないのだから、深く悩み込む必要は無いだろう。


目的の温泉地は山間のロケーションも良く、数多くの旅館や入浴場と共に土産物店やちょっとした観光施設もある。

ゆっくり時間をかけて歩けば、この小さな街だけで一日以上を費やす事ができるだろう。

泊りがけで無いのが残念だが、今は恋人未満の二人だから当然の事だ。

少し曇って日差しが柔らかいとはいっても、まだ8月。先に散策をして温泉で汗を流すのが良い。

本物の古民家とそれを模して建てられた新しい建物が混じる風情の良い石畳の通りを歩く。

少しすると、観光地にはよくあるこじんまりとしたオルゴール館を併設した土産物店があった。

俺達は特に意思を確認するでもなくそこに立ち寄る、それもまた記憶の通り。

店内にはガラス細工と様々なオルゴールが並べられ、メルヘンチックな趣きを演じている。

しかし店舗の奥の一角ではそれとは全く違う、饅頭や木彫といった土産物が陳列されているのが、まさに日本の観光地らしい所だ。


幼馴染はオルゴール本体の台座にクリスタルの人形が載せられた物を手に取り、側面の螺子を巻いた。

「あぁ、この人形ピノキオだったんだ」

オルゴールの音色が奏でたのは『星に願いを』だった。

クリスタルの人形は着色されていないから、一目でピノキオと判らないのも無理は無い。

無論、俺にとっては二度目となるやりとりだ。最初から流れるメロディに予想はついていた。


星に願いを…か。

その時、俺はふと記憶の中のある出来事を思い出した。

昨日、コンビニの前で見た流星に俺は何と願った…?

『今日がずっと続きますように』

込めた意味としてはもちろん、今日のように幸せな日がいつまでも続きますように…という事のつもりだった。

でもその言葉を素直に受け取れば全く違う意味になる。

まさか、その願いはピント外れな言葉のままに叶えられたのか。

俺は正夢…予知夢を見たんじゃなく、8月22日という今日を繰り返しているのか。


「…どしたの、男」

そんな突飛な事を考え無意識に真顔になってしまった俺を見て、幼馴染は不思議そうに声を掛けた。

「あ、ごめん…何でもないよ。星に願いをの歌詞、考えてた」

誤魔化して出鱈目を言う。

「ふうん、どんな歌詞?」

そう来るか。

なるほどやはり記憶と違う言動をとれば違う反応がくるんだな。

「…きーらーきーらーひーかーるー」

「それ違うし」

「思い出せなかったんだよ」

くだらない適当な事を言って、その場を凌ぐ。

記憶とは違うそのやりとりに少しほっとしたような感覚を覚え、同時に先の突拍子もない考えを『そんなバカな』と払拭した。


少し細い川沿いの遊歩道。

俺はわざと記憶にあるよりもゆっくりと歩いた。

確かあのガス灯を模した電気式の街路灯がある辺りだったはず。

がさがさっ…

右手脇に続く紅カナメの生垣の足元から黒猫が顔を覗かせ、そのまま反対の低い石垣を川の砂利浜へ飛び降りた。

「もう、黒猫が前を横切るなんて縁起悪いなぁ」

幼馴染は本気で気にしている風でもなく、軽い口調でそう言った。

昨日のペースで歩いていたら、猫は俺達の真後ろを横切り、幼馴染は少しびっくりしたはずだ。

そして『前を横切るんじゃなくて良かったね』と、記憶の中の彼女は笑った。


幼馴染は俺が歩くペースに合わせているから、記憶とは違う事象に遭遇している。

でも俺が何の影響も与えていない物事は、まさに記憶通りの時間に同じ行動をとっているという事だ。

「…男、楽しくない?」

「え、そんな事ないけど」

「さっきからちっとも話さないし、ちっとも笑わないよ」

…参ったな。

記憶の事ばかり考えてるから、急に記憶と違う言葉を投げかけられると戸惑ってしまう。

「ちょっと…考えてただけだよ」

おかげで全く気の利かない、フォローにもならない返答をしてしまった。


「なにも今、考え事なんてして欲しくないなぁ…って言われるのは面倒臭いですか?」

「ごめん、悪かったです」

「よろしい」

人差し指を立てて幼馴染はにやりと笑う。

彼女はこの仕草をよくする。そして俺は何となくそれが好きだ。

今は考えるのはやめよう。

記憶の通りに行動するも違う事をするも、できるだけ意識しないようにしよう。

せっかくこの良き日を、もう一度過ごせるのだから。


暫くの散歩と土産店巡りの後、昼食として小さな店構えのご当地ハンバーガー屋へ。

イチ押しメニューと表示されているのは、この地域の特産だという山葵の葉と茎を刻んでパティに練りこんだ山葵バーガー。

「私、これにしてみる」

そのメニュー写真を指差す幼馴染に危うく『けっこう辛いぞ』と言いそうになり、内心慌てる。

「じゃあ、これ二つ下さい。あとポテトひとつとカップサラダひとつ。飲み物は…俺はジンジャーエール」

「私も」

「じゃあ、ふたつ」


少しして使い捨ての紙トレーに載せられた商品を受け取る。

俺は日除けのパラソルが立てられた縁台で待つ幼馴染の元へ、それを運んだ。

「いっただきまーす」

余所行きの服には似合わないほど大きく口を開けて、幼馴染はハンバーガーにかぶりつく。

俺はその様子を吹き出すのを堪えながら見ていた、なぜなら。

「う…っ!?…くぅ………」

山葵の意外な程の効き具合に悶絶する事を知っていたから。

「くっ…あははは、涙ぐんでら」

「ずるい、さては先に食べるの待ってたでしょ」

「あ?…ああ、まーな」

「意外と山葵効いてるよー、ちょっと失敗したかな…」

「ま、俺は山葵好きだから」

「私も嫌いじゃ無いんだけどなぁ。ちょっと効き過ぎだよ」

だからさっき忠告しそうになったのだ。

それでも彼女は少し涙目になりながらも時間をかけてそれを平らげた。


その後は川の鯉に餌をやったり、写真撮影のスポットだという古い石橋で幼馴染をモデルにしたり。

帰りに乗る予定の列車の時間から逆算して、午後三時頃から目星をつけていた日帰り入浴のある温泉旅館へ向かう。

その道中で幼馴染は組み紐細工の露天に吸い寄せられ、お揃いのストラップを買った。


目指す温泉旅館は、そのすぐ先だ。

風情ある建築様式には不釣合いな自動ドアを入って、右手の下足箱に履物をしまう。

ふかふかの絨毯の感触は、靴下だけだと少しくすぐったい。

カウンターに近づくと受付の女性が深々と頭を下げた。

「いらっしゃいませ」

「入浴したいんですが」

「ただ今、貸切露天風呂が空いておりますが、本日は大浴場のご利用でよろしいでしょうか?」

「はい」

選ばなかった方の選択肢も、大変魅力的ではあるのだが。

「承知致しました。二名様で1,600円頂戴致します」

財布を出そうとする幼馴染を「いいよ」と制し、俺は千円札を2枚出した。

これも記憶の…おっと、意識しないんだった。


「この通路を左へ進みまして、屋外廊下の先が浴場でございます。ごゆっくりどうぞ」

「どうも」

脱衣所のロッカーの鍵を二つ受け取り、俺達は言われた方へ向かう。

屋外廊下の両脇はよく手入れされた日本庭園が広がり、ピンクのフリルのような百日紅の花が咲き誇っていた。

廊下のつきあたりには暖簾のかかった入り口が二つ。

「私、たぶん長いよ」

「おぅ、せっかくなんだからゆっくり浸かろうぜ」

「うん、じゃあ先に出た方がメール入れとこうね」

「わかった」

互いに頷き、俺は藍染め色の暖簾を、彼女は臙脂色の暖簾をくぐった。


少しぬるめの湯に浸かりながら、ぼんやりと考える。

と言っても予知夢の事ではない、幼馴染の事だ。

恋人一歩手前、あとは互いに一線を超える意思確認をしていないだけ。

彼女を女性として意識し始めたのは、高校の頃だ。

義務教育の間ずっと一緒だった彼女と、はじめて別々の学校という距離を隔てた時、急に意識するようになった。

そしてどうやらそれは向こうもそうだったらしい。

高校2年の時、たまたま一ヶ月近くも顔を合わせない事があった。

俺が短期バイトに行っていたのが理由なのだが、おそらく彼女は連日俺の帰宅が遅い事に気付いたのだろう。

ある日前触れもなく、幼馴染からたった一言だけのメールが届いた。


『彼女できましたか』

俺はそれに『できてません。最近バイトしてます』と返した、すると。

『こっちもできていません。バイトがんばって』

一連のやりとりは、たったのこれだけ。

でもこの三通のメールは、その時の互いの気持ちをよく表している気がして、実は密かに保護設定をかけて機種変しても未だに携帯に入っている。


そのメール以降、およそ月に三度程度は何かしら理由をつけて会うようになった。

まあ、多くは『服を買うの付き合え』とか『ミスドが100円だから行こう』といった他愛もない事。

ひどければ夜、突然SNSのトークを使って『そこのコンビニ行くけど、一緒に行く?』といった程度の事も。

それでも特に用事や理由があったりする時を除けば、断られた事は無い。

ある意味そんな所帯染みているかのような関係を続けた事が、二人の立ち位置の境界をぼやけさせてしまったのかもしれない。


そろそろ、はっきりさせなきゃな。

今日の小旅行だって、流れによってはそこにけじめをつけられるかも…そんな想いもあった。

結局、それは記憶の中の一日では果たされなかったけれど。

ふわり…と緩くも涼やかな風が吹いて、露天風呂の湯気が横にたなびいた。

もう時刻は午後四時頃だ。

やはり盆を過ぎてからは、この時間になると少し気温が下がる。

一日の終わりが迫っているという感に迫られ、気持ちが少しだけ焦った。


そうだ、帰り道に見るはずのあの流れ星。

今度は違う事を願ってみよう。

幼馴染に聞こえるように、例えば『告白が上手くできますように』とか。

きっとそれに対して彼女は何らかのリアクションを返すはずだ。

あとはその流れで、いくつかのパターンで台詞を用意しておけばいい。

よし、と気合を入れるつもりで顔を洗う。

冷水でもないのに、気が引き締まったような…つもりになっておこう。


記憶と同じ時間の列車に乗り、帰りは乗り換え一度。

全く同じ時間に地元の駅に着いたはずだ。

あとは特に意識しない程度のペースで歩けば、多少のずれはあれどコンビニの前あたりで流れ星が見られるはず。

まだコンビニに差し掛かるまでには五分はかかる。

まさか記憶より早かったりしないよな…そう考えながら、今の内からちょくちょく夜空を見上げていた。

「どしたの?上ばかり見て」

「いや、晴れたなと思って」

「ほんと、昼は曇ってたのにね。雨降らなくて良かった」

「そうだな、日差しもきつ過ぎなくて、ちょうど良かったよ」

その時、きらりと光る筋が夜空を流れ、瞬く間に消えた。


「あ、流れ星!…男、見た?」

「うん、見た。珍しいね」

俺がそう言い終わるのとどっちが早かっただろうか。

「あ、また…!すごい!」

「今度のは少し長かったな」

さっきよりも多少低いところを、またひと筋の星が落ちる。

たて続けにふたつも流れるとは、流星群の夜でもないのに本当に稀な事だ。


…でも違う。

あの流れ星はもっと大きくて、あの台詞を言い終わるほどに長く光っていたはずだ。

そしてやがてコンビニの前。

店の自動ドアからは親子連れが出てくる。子供はその手に買って貰ったのであろう花火の袋を提げている。

思い出した、この直後だ。

「楽しかったねー」

そう、この言葉を聞いた。

「そうだな」

「今日みたいな日が毎日ならいいのにね…?」

ここで俺は少し返答に詰まるんだ。そして誤魔化すように空を見上げる。

その時、大きな流れ星が…


「…あれ?聞こえないふりをするのかな?」

「あ、いや…。おかしいな…」

「なにが?」

「えーと、何でもない」

何故、流れ星は光らない。

そんなに歩く速さが違ったか?

でも花火を持った子供はおよそ記憶通りのタイミングで店から現れた。

油断してたら今、流れたりするんだろうか。

もうとっくにタイミングは逸してしまった。

幼馴染はそれなりに意味を込めた言葉を投げてくれたはずなのに、俺は何の反応も示さなかった事になる。


「そーですか、へー」

「いやほんとごめん。ジャスト考え事中だった」

「いーですよー、ぜーんぜん」

「許して、悪かった」

「なんか午前中もこんな事あったなー。男はやっぱり楽しく無かったのかなー」

「そんな事ないって、すごく…思い出に残る日だったよ」

二度過ごしたのだから、当たり前だけど。


「本当かな?」

「神に誓って」

「どこの神様?」

「えーと、幼馴染大明神?」

「何それ」

幼馴染はけらけらと笑った。

「ばっかみたい」

行き当たりばったりな会話でも何とか持ち直す事は出来たらしい。

ほっと胸を撫で下ろすが、気まぐれな流れ星を恨めしく思う。

その後の道のり、彼女と俺の距離はさっきまでと変わる事はなかった。


心地よい眠りを阻害する、定間隔の振動音。蚊の鳴く程の音量から次第に大きくなる、耳慣れたメロディ。

枕元で携帯が鳴っている。

それを認識した俺は、今回は飛ぶように起きた。

着信中『幼馴染』

画面上部に表示された現在時刻は7:02。着信中なので、日付は表示されていない。

それでも俺の心臓は早鐘を打っていた。

「…もしもし」

《もう、出るの遅いよ。起きないのかと思った》

幼馴染の第一声は二度目の8月22日とは違うものだ。

でもそれは俺が電話に出るのが遅かったからかもしれない。


「ごめん、今起きた」

そして次に幼馴染が発した言葉は、全てを悟らせるに足るものだった。

《自分から温泉に誘ったんでしょ?しっかりしてよ》

俺は確信に近い感情を抱きながらテーブルに目を遣る。

そこにはあの弁当容器があった。

《電車の時間、何時だっけ?間に合いそう?》

「…悪い、後で電話する」

《え?何?》

「後でこっちからかけるから」


携帯を切り画面の日付を確認すると、当たり前のように8月22日の表示。

俺は頭の中が真っ白になり、ベッドの上に座ったまま呆然とした。

あれは正夢や予知夢を見たんじゃない。

やはり今日という日が繰り返されている。

どういう事なのか、いくら頭を捻っても納得のいく答えなどあるはずも無い。

唯一、信じ難いながらもこの現象に理由を求めるとしたら、それはあの流れ星への願い以外に考えられないのだ。


『今日がずっと続きますように』

…違う、俺が願いたかったのは、叶えて欲しかったのはこんな事じゃない。

いくら幸せな一日だったとしても、それを繰り返したいんじゃないんだ。

明日、一年後、そして数十年後まで、彼女と当たり前の幸せを分かち合う事だったはずだ。

果たして今夜眠れば、違う明日は来るのだろうか。

そうなるためには、どうすればいい。

また、同じ日を過ごすのか?

そしてあのコンビニの前で流れ星に『元に戻してくれ』と願えばいいのか。


でも二度目の記憶の中では、あの流れ星は現れなかった。

それは何故だ?

二度目の記憶の今日は、何も無い限り最初の記憶と同じ事象が起こっていた。

ただ俺が違う行動や言動をとると、それに関与する事だけは変化した。

駅の階段での幼馴染のアクシデントや、黒猫が横切るタイミングはそれを裏付けていた。

でも流れ星の発生など、俺にどうこう出来る話では無い。

俺の行動が隕石の軌道を変える?…バカな。

いくらバタフライエフェクト的な力が働いても、繋がりようが無いだろう。


ならば、流れ星は現れたはずだ。つまり俺が見落としたんだ。

あの明るさの流れ星を、流れる方向もタイミングも解っていながら、見られなかった。

それもまた考え難い事だが、その方がまだ納得できる。

そもそも星に願いをかけるなどという事自体、何の信憑性も無いまじないに過ぎない。

しかし解決する方法はそれ以外には思い浮かばない。

俺は手に持ったままの携帯で、幼馴染に電話をかけた。

今日は予定をキャンセルしよう。

たぶん二度目の記憶にも増して、俺は上の空になってしまうだろうから。


《もしもし…どうしたの?大丈夫なの?》

電話に出た幼馴染はさっきの不満げな声とは違い、心配そうだった。

《もしかして体調悪い?今日…やめとく?》

最後の『やめとく?』をどんな表情をして言ったか、想像がついた。

きっとサンタに貰ったプレゼントが、欲しい物と違った時の子供のような表情だったはずだ。

「いや、大丈夫だよ。ごめん、すぐ行くから」

俺の心は、それを無視できるほど強くはない。

《よかったぁ、じゃあ待ってるね》

幼馴染は欲しいプレゼントを貰ったかのような声で、そう告げた。


三度目の8月22日。

幼馴染はもう見慣れた余所行きのワンピースを着て、聞き覚えのある台詞を言う。

失礼な話だが、俺はそんな幼馴染にまるでゲームのNPCのような不気味さを感じていた。

だから俺は意識して記憶と違う行動をとり、違う話題をふる。

そうすれば記憶とは違う幼馴染の人間らしい反応に少し安堵できるから。

でもふと気を抜けば、やはり彼女は旅館手前の組み紐細工の露店に寄ってしまうのだ。


「男…」

「ん?…なに?」

「楽しんでない…よね」

ぎくりとした。表情には出していないつもりだったのだが。

「そんな事ない、そんな訳…ないだろ」

「なんか怒ってるみたい」

「気のせいだって」

「…なら、いいんだけど」

やっぱりやめておくべきだった。

もし明日が明日じゃなく今日だったら、今度こそ出掛けるのはやめよう。


帰り道は今までの二度に比べて口数も少なかった。

コンビニの前を通り過ぎる頃になって花火を持った子供が店から出てくる。

歩く速さはできるだけ同じ位にしたつもりだが、やはり気が焦っていたのか。

幼馴染が言うはずだった『楽しかったね』という言葉も、今回は発せられなかった。

当然の事だろう。

そしてやはり…というべきか。その日、流れ星が現れる事はなかった。


その夜、23時59分。

俺はじっと携帯の時計を睨んでいた。

普段はしない時計の全画面表示モードにし、日付から秒数まで余すところ無く目を光らせる。

ベッドの上に座ってクッションを抱き、睨む携帯の向こうには何も置かれていないテーブルがある。

56秒、57秒、58、59…

時計の表示が23:59:59から00:00:00に変わった時、無情にも22日の表示だけがやはり変わらなかった。


予想通りの絶望に携帯から目を逸らすと、テーブルの上には忽然と現れた弁当容器。

しかし抱いていたクッションは相変わらず俺の膝の上にあるし、携帯の待ち受け画面も時計の全画面表示のまま。

つまり俺が影響を与え、また監視していたものは日付を超えても元には戻らなかったという事だ。

でもそれが解ったからどうなるというのか。

このまま、この日を繰り返す事しかできないのか。

そんなまとまらない考えをぐるぐると巡らせる内に、いつしかカーテンの隙間からは青白い夜明けの光が差し始めていた。


相変わらずの薄曇りの空、玄関のポストにコトンと入れられたのは22日付の新聞だろう。

なぜ今朝は雨じゃないんだ。

なぜ眩い程の日差し注ぐ晴れじゃない。

もう同じ日は要らない、こんな事を繰り返したいんじゃないのに。

俺は腹立たしくなって今更ベッドにうつ伏せ、そしてやがて眠りに落ちた。

しかし解っていた事だが、じきに携帯が鳴る。

俺は不快な眠りに落ちたばかりの意識を拾い上げ、画面も見ずに耳に当てた。


《あ、早いね。もう起きてたんだ?》

「おはよう…」

《あれ?それにしては寝ぼけ声だね。温泉行きは大丈夫かな》

「…幼馴染、悪いけど温泉行きはまた今度にさせてくれないか」

《え?》

昨日みたいにその場の感情には流されずに、あくまでも事務的に。

「ほんと、ごめん。悪いんだけど」

《…うん、わかった。じゃあ、もう今日は…どこにも行かない?》

「そうだな、やめとく」


《…風邪でもひいた?》

危うく『そうだ』と言いそうになる。

そう答えれば少しは角がたたない、でも見舞いに来られる可能性があると思った。

「そうじゃないけど」

《あの…えっと、理由…教えてはくれないんだね》

「…ごめん」

暫くの沈黙、彼女は何を思っただろうか。

《…わかった。じゃあね》

いかに事務的に伝えても、心は痛かった。

悲しげな彼女の声色に、俺の苛立ちは更に募る。


もう何度目の8月22日だろうか。

おそらくは12回か13回、日付を表す術が無いとこんなにも感覚は曖昧になるものなんだな。

あれから俺は様々な事を試してきた。


23時56分にセットした10分後に鳴る携帯のアラームは、ちゃんと00時05分に動作した。

無論、日付は22日のままでだ。

24時まで注文できる宅配ピザ店に23時50分に頼んだマルゲリータは、00時30分頃届けられた。

起きてしまった母親に文句を言われたが、「食べたくなったんだよ」とだけ言い返した。

伝票に記載されていた注文を受付けた時間は21日23時50分という事になっていた。


用事もなくビジネスホテルに宿泊してみたりもした。

翌朝、目を覚ましてもそこはホテルのシングルベッドの上。

チェックインの時に受け取った朝食券には22日付のスタンプが押されていたが、朝見ると21日付に変わっていた。

俺がその時どんな所に居て何をしていようと、そのまま辻褄を合わせた22日が来てしまう。

まるで魔法だ。


そして電波の圏内である限り、七時過ぎには幼馴染からの電話が鳴る。

それを受け、また彼女に悲しい想いをさせる事にも、三度目を過ぎた頃から罪悪感は薄れてしまったと思う。

もはや流れ星への願いが言葉通りに叶えられてしまったと信じる以外に、現状を理解する術はなかった。


たぶん14度目の8月22日。

実に10回ぶり以上の間を開けて、俺は幼馴染と温泉旅行へ再訪した。

出来るだけ自然に、出来るだけ楽しんでいるように。

記憶は意識しないように、同じになろうと違う展開になろうと、その場に任せて。

そう心がけたおかげだろうか、良い雰囲気を保ったまま俺達は温泉旅館まで巡る事ができた。


風情ある建築様式には不釣合いな自動ドアを入って、右手の下足箱に履物をしまう。

ふかふかの絨毯の感触は、靴下だけだと少しくすぐったい。

カウンターに近づくと受付の女性が深々と頭を下げた。

「いらっしゃいませ」

「入浴したいんですが」

「ただ今、貸切露天風呂が空いておりますが、本日は大浴場のご利用でよろしいでしょうか?」

4度目になる女性の言葉、それに対しておれの返答は初めての試み。

「じゃあ、貸切の方で」

「え?」

幼馴染が目を丸くする。無理もない。


「あと今夜は空いてる部屋、ありますか?」

「はい、離れのお部屋のみとなりますが、ご準備できます」

「それでいいです」

「離れには元々、専用の露天風呂がついておりますので、入浴はそちらをご利用下さい。お食事はどうなさいますか?」

「朝夕両方つけて下さい」

「ちょ…男、何を」

「いいから」

当然の反応をする幼馴染を出来るだけ平然とした態度で制し、受付を終わらせる。

「お部屋は離れの『菖蒲』でございます。ごゆっくりお寛ぎ下さいませ」

「どうも」


部屋のキーを受け取り、前とは反対側の屋外廊下を進む。

その廊下の両脇もまた日本庭園になっていて、蓮の葉が浮いた池の畔には禊萩が咲いている。

廊下の中ほど、幼馴染の歩みが少し遅れている事に気付き、俺は小さく手招きをした。

左右に降りる木階段、右側の『菖蒲』の表示がある方を降り、備え付けの雪駄を履く。

砂利の海を渡る飛び石は少しごつごつした肌で、よほど下手をうてば転んでしまいそうだ。

俺は何も言わずに手を延べ、彼女は一秒の間をおいてそれを握った。


離れはこじんまりとしていながらも、中は意外と広い。

俺は畳敷きに置かれた卓袱台脇に座り、ふぅ…と息をついた。

しかし幼馴染は閉めた玄関の戸の内側にもたれ、顔を伏している。

「どうした、入れよ」

「…うん」

招く言葉でようやく卓袱台の側に座る幼馴染。

そして暫くの沈黙。

「なんで、こんな…急に」

「ん?」

「今日は日帰りだって…言ってたじゃない」

相変わらず顔を伏したままの彼女は、緊張した声で尋ねた。


「泊まるの、嫌か?」

「嫌じゃない…けど、家に何も言ってない」

「…うん」

「それに、私達は…」

「うん、だからはっきりさせようと思う」

この半ば強引な行動の核心に迫る言葉に、彼女は顔を上げる。

その顔は見た事無い位に真っ赤だ。

「幼馴染、今夜は一緒にいて欲しい」

彼女は黙って頷き、そのままもう一度顔を伏してしまった。

「もう一度訊くけど、嫌じゃないな?」

「…嫌なら、部屋に入ってないよ」

かくいう俺も、彼女の返答にほっとする。

離れに入って数分、もうエアコンは効きはじめているのに、喉はからからだった。


「もしもし…あ、お母さん?えーと、あのね。え?うん…そう、そうなの。…うん、本当に。…うん、わかった…じゃあ」

窓際から午後の温泉地風景を望みつつ、幼馴染は家に電話を掛けた。

「何て言ってた?」

「いきなり向こうから『帰らないんでしょ』って。それから、お父さんには違う事言っといてあげるから…って」

「そうか、よかった」

さすが、朝のからかいは上辺だけでもないんだな。


「男、本当に信じていい?…私達、付き合ってる?」

「うん。俺はずっと、こうなりたかった」

彼女は相変わらず頬に紅葉を散らしたまま、少し涙ぐんで俺に寄りかかった。

俺の言葉に嘘は無い。

でも少しの罪悪感を感じて、俺はその肩を抱き寄せる事はしなかった。

なぜこんなに急に、強引な行動を起こしたのか。

それは夜、日付が変わる瞬間を彼女と一緒に過ごしたらどうなるのかを知るため。

純粋な恋心故の理由ではなかったから、後ろめたさを感じずにはいられなかったのだ。


それでも、その夜。

俺は、彼女を抱いた。

やろうとしている事の本質は、自分の疑問を解く鍵を得るための実験に過ぎない。

だからこれは副産物であるはずの行為だ。

それなのにその瞬間だけは行為に心から没頭し、興奮を禁じ得ない。

そんな身勝手な自分に嫌悪感を覚えつつも、俺はただ懸命に彼女を穢した。


そして、朝。

目覚めるとそこは当然のように旅館の離れ棟だった。

布団の中、隣には裸のままの幼馴染。

まだ微かな寝息をたてている彼女を起こさないよう、そっと布団を抜け出す。

携帯の画面を立ち上げてみる。

日付は8月22日のまま、時刻は7時15分。

また日付は繰り返している。


では、彼女はどうだ。

彼女も俺と共に、彼女にとって二度目の今日を過ごす事になるのか。

日が上り多少暑くなってきた7時30分、エアコンの効き具合を変えようとリモコンを操作すると、ピッ…という電子音が鳴ってしまった。

それによって、幼馴染が目を覚ます。

「ふぁ…おはよう、男」

「おはよう」

上体を起こした彼女は自分があられもない姿でいる事を思い出し、素早く薄い掛け布団を自らに纏った。


「向こう行ってるから、服着なよ。朝飯食べに行こう」

「う、うん」

洗面所で少し待つと『もういいよ』と、かくれんぼの口調で声がかかる。

服を着た幼馴染は余所行きのワンピースではなく、以前から見慣れたブラウスとキュロットという姿だった。

やはり多少は泊りがけになるかもしれないと覚悟していたんだな…と思うと同時に、不覚にも目頭が熱くなる。

彼女のその姿に、この無情な時間のループが始まる前に戻れたような錯覚を感じたから。


「…ん」

俺はそんな女々しい想いを紛らわすように、予告もせずに彼女に口づけた。

まだ慣れない動作に、俺よりも少し小さな身体が僅かにこわばる。

「もう、まだ歯みがきしてないのに」

触れた唇が離れると、また頬を朱に染めて幼馴染は小さな恨み言を零した。

「俺は今の間にしたから」

「ずるい、じゃあ私もする」

俺と入れ替わるように彼女は洗面台へ向かう。

きっと歯を磨くより先に、火照った顔に水を掛けるつもりだろう。


相変わらずの薄曇り、世界には同じ時間が流れている。

それでも朝から今までに無い行動を取っているだけに、その日の空気はどこか新鮮に感じられた。

幼馴染の話す事も全てが真新しい、初めての言葉達。

ただ記憶の中でこの温泉地に着いた午前10時頃になれば、どうだろうか。

その内、川沿いの歩道では黒猫が走るだろう。

橋の下ではたくさんの鯉が、餌を持った人間が来るのを待ち構えているに違いない。

それが、どうしようもなく怖かった。


この街をもう少し歩きたいと言う幼馴染を押し切って、俺は彼女の手を引き駅へと向かう。

あと二駅先にあるという渓谷へ、とにかく行った事の無い所へ行きたかったから。

幸い幼馴染もそこへ着いてしまえば、それはそれで悪くは無かったようだ。

美しい渓流を眺めながら遊歩道を散策したり、水に足を浸して涼んだり、俺達は満たされた時間を過ごした。


「この服、持ってきといてよかった」

「ああ、昨日のワンピースじゃ此処には来られなかったな」

「まして足を浸すなんてねー」

「でも着替え持ってきてるって事は、泊まる気だった?」

「もう、馬鹿。女はもしもに備える物なんだよ?」

これが、幸せなんだろう。

例え俺にとっては、このひと時が仮初めのものだとしても。


帰りの列車。

もう空は茜を過ぎ、藍色を強くしている。

俺はぼんやりと車窓を眺めながら、不機嫌な顔にならぬよう心掛けて物想いに耽っていた。

幼馴染と結ばれ、どんなに満たされた一日を過ごしても、一度離れた夜を過ごせば彼女の記憶はリセットされてしまうだろう。

嫌というほど解っていても、あまりにやるせない。

日付を跨ぐ時に携帯で通話をしていたら、彼女の記憶を繋ぎとめる事は出来るのだろうか。

でもそれをいつまでも繰り返す事など無意味だ。


目を向かいに移すと、幼馴染がバッグから手帳を取り出そうとしていた。

タータンチェック模様の表紙のルーズリーフ。

ぺらぺらと頁をめくり、背表紙に挿していたペンで何かを書き込む。

「…日記か」

「うん、覗いちゃだめよ」

「言うと覗きたくなるな」

「大した事は書いてないけど、でも見せない」

今の俺にとって日記ほど用の無い物もないな…と考え、心がちくりと痛んだ。


「記念日だったからね」

「…記念日」

しかし次の幼馴染の台詞に、俺は心が軋むどころか愕然とする事になる。



「8月21日、私達の記念日でしょ?」


当たり前だった。

今日は8月22日なのだ。

つまり俺達が結ばれたのは、彼女にとっては21日だった事に変えられている。

俺に22日を繰り返させるために、見えない力によって辻褄が合わされている。

でも、違う。

本当は違うだろう。

俺達の記念日は8月22日だ。

「…違う」

その瞬間、俺の中で何かが音をたてて崩れた。

24時間を幾度も繰り返す間に少しずつ理解しては押し殺し、宥めすかしてきた感情の、たがが外れた。


「え?」

「それは俺じゃない」

だって21日の俺はバイトをしていた。

お前との小旅行のために汗を流し、20日締め月末払いの給料を店長に無理を言って先に貰った日だ。

店長は『楽しんでおいで』と、少し色をつけてくれた。

寝る前に『明日、楽しみだな』ってメールした、お前は『新しい服着て行くからね』って返信してくれたじゃないか。

それが、俺の8月21日だ。


「男、何を言ってるの?」

お前の記憶の中でその日を過ごしたのは、本当の俺じゃない。

「違うんだ…」

「何が違うの?どうしちゃったの…」

途端に全てが偽物になった。

目の前の幼馴染も、今日の幸せも、愛しあった二人も。

消えればいい、そもそもこれは実験だったんだから。

昨日囁いた愛は所詮、今夜24時に切れるシンデレラの魔法だった。

種が暴かれた今、律儀に日付が変わるまで信じてる必要なんかない。


「ごめん…」

「何を謝ってるのか解らないよ」

「…ごめん」

それから家まで、どうやって帰ったかさえよく覚えていない。

幼馴染は『疲れたんだよ』とか『色々あり過ぎたね』と俺を気遣う言葉をくれたけど、どうでもよかった。

コンビニの前で空を見上げる事もせずに、ただ偽物の幼馴染と早く別れたかった。


部屋に戻った俺はベッドに伏せて泣いた。

これからは独り、知らない所へ行こう。

一日ずつを新鮮に感じられる、新しい街を点々とすればいい。

金が尽きたら部屋に戻って、財布を自分の棚に押し込んで一晩たてば中身は戻る。

そしてまた違う街へ、初めての所へ。決まって7時過ぎに鳴る電話なんて出なければいい。

幼馴染も知り合いも全て偽物なら、いっそ知らない人しかいなければ判らないだろう。


例え自ら死んだって、どうせまた部屋のベッドで目覚めるに違いない。

本当の俺はあの流れ星を見た夜に死んだんだ、もう記憶も薄れかけた最初の8月22日に。

本当は忘れたく無い記憶など、その一度しかないのに。

だから最後にもう一度だけ、あの日を過ごそう。

俺が俺だった最後の8月22日をもう一度だけ記憶に刻みつけて、その後は偽物の世界に溶けて混じって、消えてしまえばいい。


携帯が鳴る。

着信中『幼馴染』

あの時の俺はどの位の間をもってそれに出ただろう。

「もしもし…おはよう」

《おはよう、男。もう起きてた?》

思い出せ、俺はどう答えた?

「うん、着替えてたよ」

《じゃあ私の勝ちだ、私もう用意できたもん》

「はいはい、負けた負けた。すぐに行くから待ってて」

少し言葉は違ったかもしれないけど、このやりとりは覚えている。


コンビニ弁当の容器を台所のゴミ箱へ押し込み、母親に『行ってきます』と告げて。

彼女の家の呼び鈴を押して。

「可愛いじゃん、服」

出てきた彼女の服を褒めて、そのあと彼女の母がからかう台詞を言って。

コンビニの前には品の悪いセルシオが停まっている。

駅の階段、一番上で彼女がつまづいて。

「痛ぁっ!」

「大袈裟だな、ほら」

起きる時に手を貸して、そういえば手を握るの久しぶりだな…って、その時考えたはずだ。


列車は7分遅れで着くけど、到着する時間はほとんど遅れない。

トンネルとトンネルの間では道行く子供が手を振ってきて、幼馴染が振り返して。

それから車内アナウンスの後、彼女は居眠りをする。

温泉地についたら石畳の小道を歩き、最初はオルゴール館を併設した土産物店へ。

星に願いをのメロディが少し心に影を落とすけれど、あえて気にしない。

できるだけあの日の気持ちで、あの日の顔で。


川沿いの遊歩道では二人の後ろを黒猫が走る。

「前を横切るんじゃなくて良かったね」

「お前、そういうの気にしないくせに」

「あはは、まーね」

ご当地のハンバーガーを頬張る幼馴染が目を潤ませて、慌ててジンジャーエールのストローを口に含む。

そのあと彼女は「こんなに辛いなら甘い飲み物にすればよかった」と後悔を露わにする。


川の鯉に餌をあげて、石橋の上で写真を撮って。

午後三時頃から旅館へ向かい、途中の露店で組み紐のストラップを買って。

「お揃いだねー、照れるねー」

「口に出すとあんまり照れて無さそうに聞こえるな」

「男、照れ隠しって知ってる?」

「知ってるさ。今、俺がした事だからな」

思い返せば、これはなかなか秀逸な回答だった気がする。


旅館の屋外廊下から見る庭園には百日紅の花。

温泉の湯はぬる目で長風呂してしまうけれど、幼馴染はもっと長い。

先に上がった俺は『先に出たから、俺だけアイス食べるよ』とメールを入れて。

10分遅れて出てきた彼女に『ずるい』と文句を言われて、ハーゲンダッツを買ってあげようとしたら『これがいい』とメロンシャーベットを渡されて。

「これが好きなんだよー」

「昔っからな」

旅館を出るとすっかり風が涼やかになっていて、あまり汗をかかずに駅まで歩いて。

乗り換え一度、地元の駅に着いた頃にはすっかり暗くて。

大通りから外れたところで黙って右手を出すと、一瞬の躊躇いの後に彼女がそれを握り返す。

そう、こんな一日だった。


これが俺の本当の8月22日、最後の本当の記憶。

できるだけそれをトレースしたつもりだった。

どうしても今その時を過ごすというより、懐かしい記憶を思い返しているような気持ちになってしまったけれど。

でも二度と忘れない。

この記憶には、決して何も上書きしない。

だからもうこれ以上、幼馴染と過ごす8月22日は要らない。


お互いの自宅まであと少しの帰り道、その温度まで記憶に刻もうと繋いだ手に意識を集めた。

50m程先の歩道を、あのコンビニの明かりが照らしている。

あそこで、あの星を見てしまったんだったな。

そして言葉足らずな願いを唱えてしまった。

それまでトレースしようとしても、きっと星は流れないのだろうけど。


「…ろ」

その時、幼馴染が何かを呟く。

そうだった、確かあの日もそう思ったけど気にしなかったんだ。

「今、何か言った?」

この質問は本当にあの日を再現したいならするべきでない事。

でもこれが最後だと思ったら、彼女の言葉の全てを覚えておきたくなった。


「うん…さっきから、流れ星がふたつも流れたんだよ」

「ふたつも?」

ああ、そうだった。

二度目の今日を過ごした日、上ばかりを向いていた俺もそれを見たっけ。

「男、見た?」

でも今回は、そして最初の日は上を向いていなかったから。


「いや…見てない。見たかったな」

そう答えた俺に、幼馴染はにやりと笑いながら、繋いでいない右手の人差し指を立てて言った。

「大丈夫だよ」

彼女はこの仕草をよくする。

「何が?」

「ふたつめの流れ星、結構長かったんだ。だから」

そして俺は何となくそれが好きだ。



「男のために『もうひとつ流れろ』って願っといたから」


幼馴染は立てた人差し指で、俺のほっぺたをつつく。

さっき、そして最初の日に彼女が呟いたのは、その願いだったのか。

ちょうどコンビニの前だ、見れば花火を提げた子供が店から出てくるところだった。

「楽しかったねー」

そして、まさか。

「そう…だな」

その願いが。

「今日みたいな日が毎日ならいいのにね…?」


言葉の意味はよく解る。でもあの時も今も、気の利いた返事は用意していない。

すっかり暗くなった住宅街、よく立ち寄るコンビニの前を通り過ぎながら、俺は立ち止まり夜空を見上げた。

…その時だった。

辺りが明るくなる程の大きな流れ星。

とっさに俺は言った。



「今日みたいな日がずっと続きますように」

定間隔の振動音。

蚊の鳴く程の音量から次第に大きくなるメロディ。

携帯が鳴っている。

『アラーム 8月23日 金曜日 8時00分』

俺はその衝動を止めると、幼馴染に電話をかけた。

接続を待ちながらカーテンを開けると、快晴の空。

《もしもし?おはよ、どうしたの早くから》

「おはよう。幼馴染…今日、逢えないかな」

《昨日、一日中いっしょにいたのに?…いいけど》

「9時頃行くから、用意してて」


可もなく不可もなく、平々凡々とした毎日。

もう一度訪れた境遇を表現するなら、それが相応しいと思う。

でも、一日として同じ日を過ごす事など無い。

果たして今日、彼女一歩手前の幼馴染の手を握り、目の前のラインを踏み越える事はできるだろうか。

きっと失敗を恐れる今の俺は、幾度目かの記憶で彼女を口説いた俺のように強気にはなれない。

例え下手を打って失敗したとしても、24時を過ぎたらリセットされればいいのに。

幼馴染の家の呼び鈴を押しながら、俺はそう思った。

Fin.

お目汚し失礼しました。

乙です
途中、終わったともと中断とも取れる状態が続いてたのでレスを挟んで申し訳ないです
面白いけど怖さもあり凄く引き込まれる内容で良かった
また次の話も期待しています


よかった

>>103
>>104
読んで頂いてありがとうございました。まだこれが二作目なので、駄文でも書いてて楽しいです。
またよろしくお願いします。

酉でググっても見つけられなかったから1作目の情報を貰えませんか?

>>106

ありがとうございます。
前作ではトリップを付けていませんでした。タイトルは
男「なんで俺に死んでほしいわけ?」
です。今作以上に駄文ですが、よろしければ。

あなたか
どちらも面白かった
乙です!

>>107
あの人だったのか
ラストの男が起きるまでの世話を女に頼んだとこで「得意なんです」って会話だけ
理解しづらかったけど、あれも楽しませてもらってました

>>108
>>109
前作も読んで頂いていたとは、本当に光栄です。ありがとうございます。
前作ラストの「得意なんです」は途中のちょいエろ部分とリンクしてると思って下さい。手つきが、ね。

すっきりまとまっててすごく面白かった。
全然駄作じゃないよ。もっと自信持ってもいいと思う。

おもしろかったなー
童貞だけど童貞じゃない男

>>111
>>112
読んで下さってありがとうございました。お言葉恐れ入ります。

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