少女「雨が止んだなら」 (628)


 雨音で目が覚めた。

 柔らかな毛布に包まれていた体を、ゆっくりとベッドから引き剥がす。
 薄着のまま眠ったせいだろう。鼻と喉の調子が良くなかった。

 ベッドを降りると、裸足のままのわたしには、絨毯の感触がふわりとくすぐったい。
 服を着替えようと思ったけれど、面倒だったし、いがいがする喉の感覚をどうにかする方が先に思えた。

 わたしは、絨毯の上に放り投げていた桜色のカーディガンをパジャマの上に羽織る。
 布団にくるまっていると寝苦しくて、つい薄着のまま眠ってしまう。

 いいかげん学習して、もう少し暖かくして眠ればいいのに。
 自分でもそう思うのだけれど、いまさら自分の身体を気遣うのは、なんだかばからしいことに思えた。



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 綺麗な赤い絨毯。真っ白な天井と壁。
 窓の外の様子を見ると、いつも通り、覆いかぶさるような灰色の雲から、雨粒が静かに降り続いていた。
 それでもたしかに、太陽はおぼろげな光を携え、東の空に浮かんでいる。

 スリッパをはいて部屋を出ると、幅の広い廊下には、やはり赤い絨毯が敷かれている。 
 扉を出て、すぐ正面の窓からは中庭が見下ろせる。
 木々が枝を空に伸ばして、雨を受け入れているように見えた。

 廊下の温度は部屋の中より冷たくて、わたしは思わず両腕で体をさすった。
 
 わたしが出てきた部屋に連なって、壁にはいくつもの扉が等間隔に並んでいた。
 その向こうは、どれも同じような構造の部屋になっている。
 どこも大差ない。生きた人間の気配がしない。それも当たり前の話なのだけれど。



 この広々とした屋敷にいるのは、わたしの他にはたったひとり。
 メイドを自称するシラユキという少女だけ。

 いつからなのか。
 どうしてなのか。

 雨が降りやまない町。
 深い山嶺に囲まれた、物寂しい町。
 その町はずれの丘の上に、打ち捨てられたようにそびえる大きな屋敷。
 
 どこか遠い世界から切り離されたような静かな場所。
 何もかもが終わってしまっているような、時間の流れから取り残された場所。

 わたしと彼女は、たったふたりで、この場所で暮らしている。





 厨房の扉を開けると、シラユキの姿が見えた。

 彼女はちょうど、作っていたスープを小皿に分けて味見をしているところだ。
 変なことに、真っ先に目に留まったのは、彼女の長い睫毛だった。
 東の窓から注ぐ太陽の日差しに、それは微かに透けて見えた。

 白い肌は氷細工のようで、不用意に触れたら火傷させてしまいそうな気すらする。
 髪の毛は細くて、薄いクリーム色をしている。まんまるの瞳は透き通るような鳶色。

 黒いワンピースに重ねられたフリルの白いエプロン。それに合わせられたカチューシャ。
 たしかに彼女の宣言通り、その装いはメイドのように見えた。
 
 彼女の姿はとても印象的なのに、その輪郭はどことなくぼんやりしている。
 色素が薄いせいだろうか。向こうの景色が透けているように感じることもある。
 もちろん、ただの錯覚なのだろうけれど。



 きしきしと音が立つような寒さの中、まだ薄暗い厨房で、彼女の立ち姿はいつもより頼りなく見えた。

 厨房の入口で立ち止まったわたしに気が付くと、シラユキはふわりと笑う。

「おはようございます。まだ、寝ていても大丈夫な時間ですよ」

 彼女はわたしを主人として扱うけれど、堅苦しい敬語はあまり使わない。
 こちらとしてもそれは望むところで、あんまり生真面目な話し方をされると肩を凝ってしまう。

「いつもより早く目が覚めたから」

 おはよう、と挨拶を返してからわたしがそう言うと、彼女は意外そうな顔で微笑んだ。
 ふわふわとした笑顔。わたしはその笑顔を見るたびに、なんだかくすぐったいような気持ちになる。

「珍しいですね。そういう日もあるってことなんでしょうか」

 鍋に向かう彼女に近付いて、わたしは何も言わず、その背中に抱きついた。
 背丈はだいたい同じくらい。

 声や表情にあどけなさはあるけれど、歳だって、同じくらいだと思う。
 それなのに彼女のからだは、ふかふかとして気持ちがいい。


「なんですか、急に?」

 シラユキは戸惑った風な声音で言う。
 後ろから抱きついているせいで顔が見られないことを、わたしは少し残念に思った。

「あったかい」

 同じくらいの背丈なのに、シラユキを抱きしめると、猫や兎みたいな小動物を抱いている気分になる。
 シラユキはくすぐったそうに身を揺すって、困ったような声をあげる。

「やめてください、危ないですから」

 咎めるような言葉だけれど、その声は優しくて、強い拒絶を感じさせない。

「もうすぐ出来上がりますから、食堂で待っていてください」


「そんなこと言わずに、味見させてよ」

「……かまいませんけど」

 シラユキは作っていたスープを小皿に取り分けてくれる。
 わたしは手渡されたそれを受け取って、その場で口にする。

「おいしい」

 と言うと、シラユキは頬を緩めた。

「もうすぐ出来上がりますから」
  
 彼女の声に、わたしはなんだか嬉しくなった。
 
 いつからなのか。
 どうしてなのか。

 わたしと彼女はここで暮らしている。
 いつからか、ずっと、たったふたりで。





 屋敷には大きな姿見があるから、わたしは自分の姿をちゃんと確認することができる。
 わたしの髪は真っ黒にくすんでいて、瞳も焦茶色に近いが、ちゃんと確認しないと黒っぽくしか見えない。
 
 肌もあまり綺麗とは言いがたい。前髪で隠しているけれど、額にはすぐにニキビができる。
 手足も指も、細すぎてガイコツみたいだし、肌も青白くておばけみたいだった。
 顔の輪郭だって丸っこいし、目だけが大きいのも、子供みたいでいやだ。

 だからわたしは、わたしの部屋に置かれた姿見を見たくなくて、壁に向けてひっくり返していた。
 そうすれば、わたしはわたしの姿をあまり気にしなくて済む。
 シラユキだってわたしの容姿について何かを言うことはないし、わたしはそれ以外の人と出会うこともない。

 家事も買い物もシラユキがすべてやってくれる。他には外に出る用事はなかった。

 仕事をしたり学校に行く必要もない。そもそも、この街には学校なんてないらしいけど。
 


 この屋敷に来たのがいつだったか、正確には思い出せない。
 つい最近だという気もするし、ずっと前だという気もする。どうもはっきりしないのだ。
 というよりわたしには、そんなに昔のことがよく思い出せないのだ。

 わたしにあるのは、せいぜい昨日や一昨日や、その程度の分の記憶だけ。
 あとはもう、ずっと同じように生活してきたという印象しかない。

 いずれにせよ確かなのは、わたしがここでするべきことは何ひとつない、ということだ。

 わたしはこの屋敷では好きな時間に寝て、好きな時間に起きる。
 退屈したら地下の書庫に本を取りにいったり、蓄音機で音楽を聴いたりする。
 シラユキが話相手になってくれることもあるし、近くの森の中を散歩することもあった。

 わたしは屋敷の中で一日中過ごし、夜が来たら眠り、朝が来たら目を覚ます。
 ずっとその繰り返しだ。

 用事もないから、屋敷から見下ろすばかりで、丘の下の街にも実際に足を運んだことはない。
 別段、行ってみたいとも思わないのだけれど。
 わたしが街に行くのを、シラユキはどうしてかとても嫌がるから。




「最近、嫌な夢を見るの」

 その朝はいつもより雨が弱かったので、わたしとシラユキは傘を差して森の中を散歩していた。
 屋敷の裏手に広がる森には、生きているものの気配がしない。
 鹿や兎どころの話ではなく、小鳥の鳴き声さえ聞こえないのだ。

「どんな夢ですか?」

 シラユキは、木々の梢からかすかに差し込む、雨の日の淡い陽射しを見上げていた。
 わたしもそれを真似して空を仰ぐ。
 
 薄い雲が広がって、空は真っ白だったけれど、雨の雫を受けた枝葉は、いつもより鮮やかに見えた。

「誰かが、わたしの名前を呼んでいるの」

「名前、ですか」

 不思議そうな声音。無理もない。
 シラユキが吐いた白い溜め息は、朝の森に吸い込まれるように溶けていった。
 


 昼になれば少しは暖かくなるけれど、この街の朝は、凍えそうに寒い。
 けれど、この張りつめたような冷たい空気が、わたしは嫌いではなかった。

「誰かがわたしの名前を呼んで、どこかに連れて行こうとするの」

「いったい誰が?」

「……分からないけど、男の人、だと思う」

 わたしの声は、後半になるほど小さく萎んでいったと思う。 
 この街に来る前の記憶を、わたしは持っていない。
 そしてわたしは、この街に来てから男の人と会ったことがない。

 シラユキ以外の人の存在は、わたしにとっては一種の情報でしかない。
 それにわたしは、自分の名前だって持っていないのだ。
 案の定、シラユキは怪訝そうな顔をした。わたしは話したことを少し後悔した。


「その人は、何かを言っていたんですか?」

「分からないけど、"駄目だ"って」

「……"駄目"?」

「うん。なんていうか、引き留めるみたいに。よく分からないんだけど」

 シラユキは、真面目な顔になって考え込んでしまった。
 わたしは、雨に打たれて震える傘の柄の感触に、感覚を集中させた。 
 難しいことは、よく分からない。考え始めると、頭が軋むように痛み始めるのだ。

 やがてシラユキは、くすくすと笑い始めた。

「不思議な夢ですね」



 その声をきいて、わたしはようやく安心した。
 最初から、気にするような夢じゃないと、そう笑い飛ばしてくれれば、わたしはそれでよかったのだ。

「でも、夢は夢ですから」

「うん。そうだよね」

 それからわたしたちは、森の深い方へと歩いていく。
 雨に濡れた森の匂い。靴の裏のぬかるんだ土の感触。
 うるんだ空気の中を、わたしたちは長いあいだ、黙り込んだまま歩いた。
 
 夢は、夢だ。気にしたところで仕方ない。
 わたしは自分にそう言い聞かせる。少し、雨が強くなった気がした。




 屋敷で生活していると、ときどき無性に寂しいような、悲しいような気持ちに襲われることがある。
 なぜなのかは分からない。いったい何がそうさせるんだろう。

 シラユキが作ってくれる食事はとても美味しい。
 ベッドだって、服の替えだってたくさんある。生活には何ひとつ不自由していない。
 眠りたいときに眠ればいいし、食べ物だって食べたいだけ食べられる。

 
 わたしはこの屋敷以外の世界を知らない。 
 だからどれだけ本を読んでも、書いてあることのほとんどがよく分からない。

 実感を伴って迫ってこないのだ。写真でしか見たことのないものがたくさんある。

 たぶん、取り残されているのだと思う。わたしは、この屋敷は、この街は、取り残されているんだ。
 でも、いったい何から取り残されているというんだろう。
 
 世界にはこの街しか存在しないのに。この街が、世界のすべてなのに。
 わたしは、それ以外の世界を知らないはずなのに。
 それ以上のことを考えようとすると、頭が、どうしようもなく、軋むように痛んだ。



つづく




 散歩を終えて自室に戻ると、いつものように手持無沙汰になった。
 とりあえず、机の上に置きっぱなしだった、読み止しの本を開いてみたりする。

 でも、ちっとも分からない。何が書いていあるのか、よくわからないのだ。

 集中できるできないとか、そういう問題ではないと思う。
 わたしにとって、本を読むのは簡単な作業ではないのだ。
 
 学術書だろうと、物語であろうと、読んだ感じはだいたい同じ。
 学術書は、身近に感じられるものがあったとしても、とても難しくてよく分からない。
 物語はというと、まずその「世界」が理解できない。

 わたしが実感を持って理解できるのは、この屋敷を中心にしたごく狭い世界の中に存在するものごとだけ。
 だからたとえば、「飛行機」だとか、「気球」だとか、「雪」だとか言われても分からない。
 この街の空には、飛行機も気球も飛ぶことがない。雪だって降ることはない。

 空にはただ雨が降り続いているだけだ。



 とはいえ、書庫には分厚い百科事典も並んでいるし、たくさんの図鑑や写真もある。
 だから、かろうじてその内容を理解することもできた。
 かといって、わたしはその作業が特別好きだったわけではないのだけれど。

 読書はわたしにとって、どうしようもなく退屈な日々をごまかすための、ひとつの暇つぶしに過ぎない。
 それは骨の折れる作業でもあったし、また実りのない作業でもあった。

 切り離されている、とわたしは思う。
 そう感じるのはたぶん、本を読みすぎたせいだろう。
 
 なんだか妙に気怠くて、本を読み解く気にはなれず、わたしはベッドに寝転んだ。
 天井を仰いで横になると、雨の音が大きくなる気がする。
 


 これまでは、この雨の音を聞きながら、本を一日中読み続けることも苦痛ではなかった。
 でも、今日はひどく物憂い。身体を動かすのも億劫だ。

 閉ざされているのだ、とわたしは感じる。
 こんな屋敷に一日中引きこもって、何もせずに過ごすなんて、それは異様なことに思える。
 何に比べて異様なのかは、分からないけれど。

 けれど反対に、それは仕方ないことなのだとも思う。 
 だってそれは、わたし自身が望んだことだから。理由は分からないけれど、そう思う。

 今までは、こんなことはまったく気にならなかった。自分について深く考えたこともなかった。
 考えるのはいけないことだとすら、考えていた。

 夢は夢ですから、とシラユキが微笑む。その表情を思い出す。
 なにか、とっかかりすらない不安のようなものを感じた。
 



 妙に気分が落ち着かなくて、何かを飲みたくなった。
 わたしは部屋を出て、一階の食堂へ向かう。
 たくさんの部屋があるこの瀟洒なお屋敷も、ふたりで使うには少し広すぎる。
 
 シラユキは丸一日掛けて、この屋敷を丁寧に掃除する。
 夕方になると下界に買い物へ行き、帰ってきてからは夕飯の支度を始める。
 わたしが彼女に会いたいとき、彼女がいないことはしょっちゅうだった。

 それが自分の仕事なのだと、彼女はいつも柔らかに笑った。

 この屋敷の中に、当たり前の生活のサイクルを築きあげること。
 それが彼女の仕事。そして、わたしの世話を見ることも。

 彼女はわたしが、自分ひとりで水を飲んだりすることすら嫌う。 
 自分が世話をしたいから、という理由ではないと思う。

 わたしがただ水を飲んだり食べ物を食べたりということも、本心では嫌がっているのかもしれない。


 わたしはシラユキがいなければ自分ひとりでコーヒーをいれることもできない。
 カップどころかスプーンが置かれている位置さえ分からないのだ。

 それは、わたしの生活力の無さだけが理由ではないはずだ。そういう部分もあるかもしれないけど。
 けれどシラユキには、わざとそのようにして、屋敷の中をややこしくしているところがある。

 まるでわたしに、この屋敷の中で何もしてほしくないみたいに。
 反対に彼女は、わたしが本を読んだり、音楽を聴いたりすることを好んだ。

 なぜなのかは分からない。だけどわたしは、できるかぎり彼女の望むように生活しているつもりだ。
 わたしの生活は、彼女の存在によって成り立っているのだから、当然と言えば当然だ。

 もちろんシラユキに隠れて軽い食事をとったりすることもある。
 実際、シラユキは嫌がるような素振りを見せるだけで、わたしを制限しようとはしないのだ。

 シラユキが何を考えているのか、わたしは知らない。
 彼女はわたしに多くのものを与えてくれる。それだけを覚えていれば、それでいいのかもしれない。
 でもときどき、何もかもが嫌になって、この屋敷を抜け出してしまいたいとも思うのだ。




 雨は一日中降り続いていた。
 わたしはその日、本を読むことも音楽を聴くことも、結局ほとんどできなかった。
 
 夕飯をとってお風呂に入ったあとも、気分は朝と同じだった。
 諦めて早々に眠ってしまおうと思ったのに、いつもは気にならない雨の音が、今日は妙に耳を突く。

 それでもベッドの中で瞼を閉じていると、睡魔が徐々に体を麻痺させていった。

 夢。夢を今夜も見るんだろうか?
 わたしはあの声を、起きている間中、ずっと思い出すことができる。
 ずっと耳元で、ささやき続けているような気さえするのだ。

 駄目だ、と。
 そこにいては駄目だ、と言うみたいに。
 
 妙に眠るのが怖くなって、わたしはベッドを抜け出した。



 廊下に出るとひどく薄暗い。夜は知らぬ間に深まっている。
 もともとこの屋敷では、時間の流れというものがひどく曖昧だ。

 時計が、極端に少ない。些末なことと言えば些末なことだ。
 わたしはこの屋敷で生活し続けるかぎり、正確な時間を必要としないのだから。

 シラユキの寝室は、一階の、厨房のすぐそばにあった。
 わたしは足音を立てないように絨毯の上を滑るように歩いた。

 
 廊下の壁のランプの灯りを頼りに、わたしは彼女のもとを目指した。 
 
 部屋の扉をノックすると、返事が聞こえなかった。

 わたしは少し待ってから、ノブをゆっくりと捻る。
 どこか、悪いことをしているような気分だった。



 部屋の中は暗かった。雨のせいで月当たりも差し込まない。
 それでも暗い灯りが天井の電灯から注いでいたから、真っ暗ではない。
 そのおかげでわたしは、部屋の様子をおおまかに確認することができた。
 
 足音を忍ばせてベッドに近付くと、シラユキは既に眠っているようだった。
 わたしが寝付いた後も、シラユキは自分が抱え込んださまざまな作業を続けている。
 その彼女が眠っているということは、本当にもう、遅い時間なのだ。

 わたしはベッドの横に膝をつき、彼女の寝顔を眺める。
 いつもは落ち着いていて大人びた印象があるのに、こうしてみるとシラユキは小さな子供のようだった。

 パジャマ姿になって、カチューシャを外し髪を下ろすと、彼女はわたしなんかよりずっと、お嬢様然としている。
 薄いクリーム色の髪。閉じられた瞼と長い睫毛。
 
 彼女の寝顔を見ていると、わたしはいつも後ろめたい気分になる。
 中庭に迷い込んだ綺麗な小鳥を、無理に捕まえて籠に閉じ込めているような、そんな気持ちに。



 じっと眺めていると、シラユキの睫毛がぴくりと震える。わたしはどきりとした。

 彼女は何度か息を深く吸い込み、吐き出した。
 彼女の呼吸に合わせて、布団がゆっくりと上下する。
 
 それからシラユキの瞼がゆっくりと開かれた。
 彼女はすぐにわたしに気付いて、ゆっくりと顔をこちらに向ける。

「どうしました?」

 彼女は微笑む。わたしは胸が詰まるような思いだった。なぜなのかは、分からないけれど。

 どうかしましたか、と彼女は訊ねる。
 どうしたんだろう? いったいどうしたっていうんだろう? 分からない。

「眠れないの」

 彼女は困ったような顔をする。わたしは何も言わずに身じろぎした。
 視線を合わせるのが、少し怖い。雨の音が鳴り続いている。

 シラユキはベッドの上で体を動かし、壁際に寄ってスペースを作ってくれた。
 わたしはその隙間にもぐりこむ。彼女はくすぐったそうに身をよじった。



 しばらく何も言わずにいた。ベッドはシングルだったから、二人で眠るには少し狭い。
 でも、無理ではない。わたしたちはとても小柄だったから。

「……夢」

 シラユキは不意に、思い出したように言った。

「例の夢は、いつから見るようになったんです?」
 
「思い出せないけど、最近はずっと」

「毎晩ですか?」

「見ない日もあるけど……」

 わたしは少し怖くなった。

「……夢は、ただの夢でしょう?」

 そう言うと、彼女は困ったように笑う。
 わたしは何かを言うべきなのかもしれないと思った。けれど何を言うべきなのか、分からない。



「シラユキ、わたしは」

 途中まで言葉にしてから、わたしは急に不安になる。 
 彼女は不審そうに眉を寄せた。

「わたしは、ずっとここに居られるの?」

 わたしの言葉に、彼女は怯えるような顔をした。
 なぜこんなことを不安に感じるのか、分からない。
 雨は降り続いている。わたしの日々に変化はない。
 
 何も変わらない。わたしはずっとここで暮らしていけるはずなのだ。

 シラユキは何かを言いたげにしていたが、どう言えばいいのか分からないようだった。
 言うべきかどうかすら迷っているように見えた。彼女には、わたしに告げていない何かがあるのだ。
 


「ごめんなさい」
 
 耐えきれなくなって、わたしは謝った。
 シラユキはほっとしたような、困ったような顔になった。
 わたしはベッドの中で彼女の手をさがして掴んだ。

 小さな手のひら。触れるとほのかに暖かい。
 シラユキが苦しそうな顔になったので、驚いて手を離すと、今度は彼女がわたしの手を握った。
 何かをこらえるような表情。
 
「ごめんなさい」

 と今度はシラユキが言った。わたしは彼女が何を謝っているのか、よくわからなかった。





 いつの間にか眠りに落ちたわたしは、夢を見た。
 彼の声は聞こえない。いつもの夢ではなかった。

 夢の中でわたしは暗い場所に立っている。
 雨音が聞こえる。少し肌寒い。あたりは暗い。広ささえ分からない。

 そこでは、わたしの他に、もうひとり誰かがいる。
 彼女の姿は水面越しに見るように歪んでいて、その輪郭は滲んでいる。

 曖昧で、ぶよぶよと動く、不定形の姿。
 それがそう見えるだけなのか、本当にそういう形をしているのか、わたしには分からなかった。

 彼女とはどこかで会ったことがある気がするのだけれど、よく思い出せない。
 わたしはただ、彼女のその滲んだ姿を、ただただ恐れて、怯えて、震えている。

 そういう夢だ。

つづく




 屋敷の中をツキに案内する、と言って、シラユキはわたしを残して食堂を出て行った。
 別にほったらかしにされたわけじゃない。「一緒に行きますか?」とも訊かれた。
  
 でも、わたしは行かなかった。あの男と一緒にいるのはまだ抵抗がある。

 ツキ。わたしと同じ色の髪と瞳を持つ男の人。
 当然のように、彼はわたしを「アヤメ」と呼んだ。
 アヤメ。

 何がこんなに引っかかっているんだろう。わたしはひとり食堂に残り、椅子に座って額を抑えていた。
 彼がわたしを呼ぶ声には、聞き覚えがある。
 
 どこで? わたしは本当に、この屋敷に来る前に、彼と会ったことがあるんだろうか?

 ……いや、違う。もっと最近のことだ。そんなに前のことじゃない。
 いつだ? いつだろう。冷静に考えろ。心当たりは、そう多くないはずだ。



 そうだ。夢だ。夢の中で聞いた声に似ている。

「駄目だ」と、引き留めるような声。わたしはそれを毎晩のように聞いた。
 そして、夢の中の男は、わたしの名前を呼んでいた。

 それが、「アヤメ」だった?
 夢の中のことだから、よく思い出せない。

 単なる偶然かもしれない。
 わたしは男の人の声をそんなに聞いたことがないから、似ているように錯覚しているだけかもしれない。
 いずれにしたって、夢は夢だ。気にしたって、仕方ない。

 わたしは溜め息をついて頬杖をついた。食堂の窓から中庭の様子が見える。
 雨は止まない。




 ツキが自分の部屋の様子を確認しにいっている間、シラユキは食堂に戻ってきた。

 ツキは、二階の空き部屋の一室を使うことになった。
 問題があるとわたしが訴えても、シラユキは取り合わなかった。

 不服げに溜め息をついたわたしを、シラユキは半ば懇願するように説得しようとした。

「部屋には鍵がついていますし、二階なら窓からは入れません」

「でも、隠し扉は……」

「それに関しては大丈夫です。あの部屋に隠し扉はありません」

「どうしてわかるの?」

「……勘、ですかね」

「シラユキ?」

「あ、いえ。ないと思います。ないはずです。たぶん」

 わたしが溜め息をつくと、彼女は苦笑した。


 それに、とシラユキは付け加えた。

「彼はわたしたちに危害を加えないと思います」

「根拠は?」

「彼が何かするつもりなら、とっくにしていると思います」

「これまでがそうだったからって、これからもそうだとは限らないでしょう」

「本当にそう思いますか?」

「……どういう意味?」

「雨は、止みますか?」

 その咄嗟の質問に、わたしは答えられなかった。
 雨は止むことがない。この生活は終わらない。だから彼も、わたしたちにいつまでも危害を加えない?
 



「その理屈は、おかしいよ」

 やっとのことで絞り出した声に、シラユキは寂しそうに微笑んだ。
 その様子はまるで、自分が言ったことを後悔しているみたいにも見えた。

「そうですね」

 これまでが「そう」だったからといって、これからも「そう」だとは限らない。
 これまでが「そう」だったのだし、これからも「そう」かもしれない。

 どっちも根拠のない、可能性の話だ。
 
 わたしも彼女も、結論を優先して理屈を作っている。
 わたしは彼と暮らしたくないからこそ、彼の危険性を主張している。
 シラユキは彼をこの屋敷に住まわせたいからこそ、彼の安全性を主張している。

 目的が食い違っているのだ。



「分かった」

 わたしは諦めて受け入れることにした。
 別に問題はない。そう信じるしかない。
 
 ツキがこの屋敷で暮らし始めたところで、雨は止まないし、シラユキとわたしの生活は壊れない。
 それならいいじゃないか。ツキだって、やがてこの屋敷を出て行くだろう。

 彼が生活する上で困るところがあるとすれば、衣服くらいか。
 そのあたりはシラユキがなんとかするだろう。

「そういえば、彼は、何か目的があってここに来たって言っていたはずだけど、聞いてる?」

「はい」

 説明してくれるのかと思ってしばらく待っていたけれど、続きはなかった。
 何も言う気はないらしい。



 そういえばツキは、隠れている間に屋敷のだいたいの構造を把握したとも言っていた気がする。
 それなのに、わざわざシラユキに案内させたのはなぜなんだろう。
 ……単なる嫌がらせという気がした。

「ツキは、どこから来たんだろう」

 わたしが疑問を口にすると、シラユキは困った顔をした。近頃彼女は、こんな顔ばかりする。

「シラユキは知っているの?」

「……いえ。本人に訊ねてみるのはどうでしょう?」

「話をしたくない」

「そんなに邪険にしなくても、平気ですよ、きっと」

 平気って、その言い方じゃまるで、わたしが彼を怖がっているみたいだ。
 ……いや、怖がっているのか。どうなんだろう。よく分からない。
 ツキという人間を自分がどう消化するべきなのか、わたしにはよく分からなかった。




 わたしは自室に戻って少し休むことにした。 
 近頃は、ろくに本も読めていない。生活のリズムが崩れている。
 本来はそのリズムを守っていなければならないのに。
 
 少ししてから、扉がノックされた。
 シラユキかと思い返事をしかけたところで、わたしは思いとどまり、ドアに問いかける。

「だれ?」

「俺だ。入っていいか?」

 わたしは、鍵をかけていなかったことを少し後悔した。
 自分でも意外なほど、わたしはツキに拒否反応を示している。
 
「どうぞ」

 本当は顔を合わせたくなかったけれど、拒絶し続けるのも馬鹿らしいと思った。
 一緒に暮らしていく以上は、顔を見ずに生活するのは不可能だ。

 わたしの方が妥協しなきゃならない。



「なに?」

「特に用事はない。暇だったから」

「そう」

 どうしてわたしがあなたの暇つぶしに付き合わなきゃいけないの、と言いかけてやめた。どうせ疲れるだけだ。

「お前は、普段どんなことをして生活してるんだ?」

「隠れて眺めてたんでしょう?」

「まあね。でも、本を読んだり、シラユキと話をしたりしているところしか見ていない」

「それだけ分かったら十分じゃない?」

 彼は押し黙って部屋のあちこちに視線を彷徨わせた。

「あんまりじろじろ見ないで」

「悪い」
 
 素直に謝られて、拍子抜けする。こんな反応をされると、自分の方が嫌な奴みたいだ。

 それにしても彼は、拳銃で自分を脅した相手と生活することに、何の抵抗もないんだろうか。
 そのあたりにもやはり、彼の目的というものが関わってくるのだろうけれど。


「ねえ、あなたは……」

「ツキ」

「……ツキは、どこから来たの?」
 
 彼は一瞬呆気にとられたような表情をした。それから何かを探るような目つきになる。
 シラユキも、ツキも、特定の事柄についてわたしが聞こうとすると、同じような反応をする。

「なぜそんなことを知りたがる?」

「単純な好奇心だけど……」

「教えてやりたいところだけど、まだダメだな」

「なぜ?」

 その答えをツキは寄越さなかった。
 わたしは溜め息をつく。別に知らなくたって、困りはしないのだけれど。
「まだ」って、どういうことだろう?





 その日は何事もなく過ぎた。
 シラユキが作った食事を三人そろって食べた。

 入浴の時間などに関しては、後々決めることにした。
 何も決まっていない状態のままだと、不便だろうということだ。

 その夜は妙に明るかった。月の光が冴え冴えと瞬き、窓に垂れ落ちる雨粒を光らせた。
 森の空気も、木々も、いつもより落ち着きなくざわついているような気がした。
 
 でも、それはツキの存在とはまったく無関係のことだ。当然。関係があったらおかしい。

 就寝前、本を読もうとしても音楽を聴こうとしても気分が乗らず、ベッドに仰向けになってぼんやりとしていた。

 目を閉じると雨音が聞こえた。
 昨日までとは、何かが違う、と感じる。そう感じている自分に気付き、苛立ちを覚える。

 何かが変わるはずなんかない。



 その晩も夢を見た。また同じ夢だ。暗い空間で、わたしは誰かと向き合っている。
 
 彼女の言葉はいつもと同じ。
 ぼんやりとした輪郭も、はっきりとしない声も、同じ。

 どうしてそんなに醜いのか、と。
 声は同じ言葉を繰り返す。
 
 そんなことは、わたしには分からない。
 でも声は訊ね続ける。どうしてそんなに、と。

 わたしはそのたびにやりきれないような気持ちになる。
 だってそれは、わたしにはどうしようもない部分なのだから。

 どうしたって、変えられない部分なのだから。


つづく




 その日の朝、ツキは朝食の時間になっても食堂に現れなかった。
 シラユキが部屋を確認しにいったが、やはり姿はなかったという。

 雨音はいつも通り、屋敷を包み込むように響いている。
 わたしたちふたりは、ツキを待たずに朝食を先にとった。

 シラユキが言うには、玄関の傘が一本なくなっていたらしい。
 単純に考えて、森の散策に向かったのだろう。
 なぜ朝早くから外に出たのかは、分からないにしても。

 わたしは、久しぶりにシラユキとふたりきりになった気がした。
 このところはずっとツキに気を取られていて、彼女とろくに話もしていなかった気がする。


 そう思うと、このタイミングで彼女に言っておかなければならないことが、いくつかあるような気がした。
 
 それがなんなのかは、咄嗟には思い出せなかった。
 というよりわたしは、このところずっと、話すべきことをわざと話さずに過ごしてきたような気がする。
 そうすることで、何かを守ろうとするように。

「シラユキ、ちょっと訊いてもいい?」

 訊きたいことがたくさんあったはずだ。でも、なぜだろう。いざ訊くとなると、よく思い出せない。
 シラユキは少し怪訝げな顔を見せ、警戒するように眉を寄せた。

「内容によりますが、どうぞ」

 あらかじめ予防線を引くシラユキに苦笑しながら、わたしはゆっくりと質問を考えた。

「このあいだ、ツキが食事をとっているとき、言っていたでしょう? 『食べても大丈夫か』って」

「……ええ。それが?」

「あれ、どういう意味だと思う?」



 彼女は思案深げに眉を寄せながら、取り繕うように微笑んだ。
 まさか、毒をうたがったわけでもないだろうが。
 
「どうでしょう。わたしにはよく分かりません。そういったことに関しては、あなたの方が詳しいはずです」

「どうして?」

 彼女は上手い言葉が見つからない様子で、口をもごもごと動かした。

「わたしの知識は、とても偏っているからです。という言い方だと、正確ではないんですけど……」

 それ以上適切な言葉が浮かばないという様子で、シラユキは口籠る。
 わたしは質問を変えることにした。

「あのね、シラユキ。ここ最近……特に、ツキがここに来てから、ずっと考えていたことがあるの」

「……はい」

「どうしてわたしには、この屋敷に来る前の記憶がないんだろう。シラユキは、そのことについて何か知っているの?」



 今度は、言葉を探すふうではなく、本当に深く考え込んだように見えた。
 シラユキが押し黙ると、食堂に雨の音だけが響く。降り続く雨。
 この雨だって、いったいいつから降り続いているんだろう?
 
 シラユキはやがて、振り絞るような声で言った。

「先に、ひとつだけ訊いてもいいですか?」
 
 わたしは少し怖くなった。やっぱり質問を取り下げようか、とも思った。
 でも訊かなきゃ。訊かなきゃ何も分からないままだ。
 頭の奥が、軋むように痛む。それでも。

「どうして、今になってそのことを気に掛けるんですか?」

「自分の記憶の欠落を気にするのって、そんなにおかしいこと?」

「おかしくはありません。でも、そうだとしたら、どうして今までは気にしなかったんですか?」

 彼女の言う通りだ。わたしはこれまで、自分の記憶について考えたことがなかった。
 いや、考えないようにしていた。



 わたしが答えられずにいると、シラユキは言葉を重ねた。

「わたしは、その質問に答えることもできます。それは事実です。
 でも、正直いって、あなたがそれを知るべきなのかどうか、わたしにはわかりません。
 いつかは言わなくてはならないとも思いますし、何もかも忘れたままでも構わないのかもしれない、とも思います」

「……どういうこと?」

「わたしはできるかぎり、あなたの望みを叶えてあげたいと思っています。これも本当です。
 その結果、あなたがどちらを選ぼうと、わたしはあなたの判断に従います。
 本当は、自分がやっていることが、エゴに満ちた、身勝手なお節介なんじゃないかと感じることもあるんです」

 彼女は言葉を選ぶようにゆっくりと、話を続けた。

「たぶん、彼が来たからだと思います」

 彼というのは、ツキのことだろう。わたしにはその言葉の意味が、よく分からない。


「彼が来たから、あなたは今、彼の方に引きずられているんだと思います。
 わたしにとっても、それは別に悪いことではないんです。
 でも、もし、彼に引っ張られていった結果、あなたがもう一度傷ついたとしたら」

 もう一度、と彼女は確かにそう言った。
  
「そう考えると、今すべてを話すわけにはいかないと思うんです。
 それならいつ話すのかと言われたら、それはわからないんですが」

「ねえ、よくわからないんだけど、わたしの記憶というのは、思い出すだけでそんなにダメージを負うようなものなの?」

「そうでないとしたら、あなたは何も忘れたりなんかしなかっただろうと思います。
 いえ、こういう言い方も正確ではないかもしれません。問題は記憶じゃないんです。
 上手く言えませんが、問題なのは覚えているとか、忘れていることではなくて、現にそうあるという事実の方なんです」

 シラユキはそこで、自分の話がわたしにあまり伝わっていないと気付いたのか、寂しそうに頭を振った。

「とにかく、わたしはまだ、あなたの記憶についての話をすることができません。
 ひとつだけ言えるのは、あなたやわたしや彼にとって、その話はとても重要な意味を持っているということです。
 ひょっとしたら、悠長なことを言っている場合でも、ないのかもしれません。彼が来てしまった以上……」



 いまいち要領の得ないシラユキの話は、けれど何か大事なことを示唆している気もした。
 ツキが望んでいること。シラユキが望んでいること。そしてわたしが望んでいること。
 そのどれもが曖昧で、わたしにはよくわからない。

 わたしはただこの屋敷で、シラユキとずっと暮らしていければよかった。
 雨がやまなければいいと思っていた。

 でも、ツキがやってきて、何かが揺らぎ始めている。

 わたしが暮らしている、この屋敷。一緒に生活するシラユキという少女。そしてわたしという人間。
 そのどれもが、今になって突然、余所余所しく、得体のしれないもののように感じられるのだ。

 この感覚は、ただの錯覚なんだろうか。

 それとも、もっと得体のしれない何かが、わたしたちのすぐそばで、口を開けて待っているのか?




 ツキはなかなか屋敷に戻ってこなかった。
 
 わたしはひとり部屋に戻り、自分の現状について考えてみることにした。
 再確認のようなものだ。紙とペンを手に取り、わたしは状況の整理を試みる。

 わたしには、この屋敷に来る以前の記憶がない。
 その記憶のうち、ほとんどが、前日や前々日の反復のようなもので、一日と一日の区別がつかない。

 ツキがやってくるまでずっと、わたしとシラユキは、同じ一日を繰り返しのような生活を送っていた。

 わたしは、わたしについて知らない。
 名前も、なぜこの屋敷で暮らしているかも、シラユキとどんな関係なのかも分からない。

 同様にわたしは、シラユキが何者なのかも知らない。
 シラユキという呼び名が本当の名なのかも、分からない。

 けれどわたしは、そんな生活に何の疑問も抱かなかった。



 そこに現れたのがツキだ。
 
 彼は「取り戻したいものがある」といい、この屋敷で一緒に暮らし始める。
 彼はわたしを「アヤメ」と呼んだ。

 そして、彼のわたしに接する態度はまるで、わたしに対して何かを訴えかけようとしているようだった。

 シラユキとツキは、わたしの知らない何かの情報を共有している。
 わたしだけが、それを知らない。

 そして、その情報はおそらく、わたしの記憶と密接に関係する何かだ。

 結局わたしの記憶が問題なのだ。

 つまり、わたしが思い出せないわたし、わたしの知らないわたしが。



 ペンを机の上に放り投げて頬杖をついた。 
 
 情報の整理は捗らなかった。現に起こったことだけを列挙しても、何もわからない。

 かわりに思ったことがある。
 つまり、今この状況の最大の問題は、わたしが自分自身の望みを理解していない点にあるのだ。

 わたしは、思い出したいのか、思い出したくないのか。
 思い出すべきなのか、思い出すべきではないのか。
 この屋敷での生活を変えたいと望んでいるのか、望んでいないのか。

 でも、そんなの分かりっこなかった。
 肝心の記憶がどのようなものなのかが分からないなら、思い出したいかどうかなんてわからない。

 中身の見えない箱を目の前に差し出されて、「これが欲しいか」と訊かれているようなものだ。
 中身を知らないのだから、答えようがない。
 
 そして中身を知ってしまったら、知らなかった頃に戻ることはできないのだ。きっと。


『その結果、あなたがどちらを選ぼうと、わたしはあなたの判断に従います』

 シラユキはそう言った。"どちら"というのは、何と何のことなのだろう?
 
 思い出すことと、思い出さないことだろうか。
 それは、少し違うような気がした。じゃあなんなのかと言われれば、分からないのだけれど。

 考えるのがいやになって、わたしはベッドに寝転がる。
 雨の音に耳を傾けているうちに、言いようのない不安は収まってきた。

 焦って考えることもない。別に今すぐどうこうなるという話でもないのだ。

 シラユキの言葉の意味は分からない。
 ツキの考えていることだって、分からない。
 
 分からないことだらけ。わたしにはどうしようもない。
 いつもより頭の奥が鋭く痛んで、上手に物を考えられなかった。


つづく




 朝早くに目を覚ました。夢の内容はよく思い出せない

 いろんなものの輪郭がぼんやりとしていて、なんだか曖昧な感じがする。
 認識というか、世界そのものが、薄く揺らいでいる気がした。

 でもいいや。どうでも。わたしはあくびをしてからベッドに体を預けたまま天井を見上げた。
 窓の外はいつもの通り、雨の音。

 今日は何をしようかな、とわたしは思う。
 
 本を読もうか。音楽を聴こうか。いつもの習慣でそう考えかけて、頭を振る。
 その必要はない。シラユキがそうすることを勧めたからしていただけで、本当はそんなことをする必要はないのだ。
 本を読む必要はない。音楽を聴く必要もない。



 じゃあ何をしよう。すべきことはない。したいこともない。何もない。
 わたしはずっと、そんな日々を望んでいた気がする。
 
 何もしなくてもいい、他人にも時間にも束縛されない日々。
 ここにはそれがあった。しかもそれはきっと永遠だ。永遠が石ころみたいに転がっている。
 そんな気がした。

 しかし、もともと『すべきこと』なんてあるものなんだろうか。

 自分が何をしたところで、何をしなかったところで、世界は平気で廻る。
 そう思えば、すべきことなんてひとつもないような気がする。

 何を作って、何を残したところで、人はいつか死んでしまう。
 誰かを好きになったり、誰かのために何かをしたりしても、その人もいつか死んでしまう。 

 たとえばわたしが音楽家で、たまたま作った曲が評価されて、それが誰かの心を動かしたとする。
 その曲が百年以上も語り継がれて、ずっと先の時代の誰かが、その曲を聴いて涙を流したとする。
 でも、それがいったい何になるっていうんだろう? 人を楽しませたり感動させたりして、それで?

 いつかなくなるなら、最初からなかったことと同じだ。



 人の歴史は石ころを積み上げて作った山のようなものだ。無意味な生と死が積み重なっている。
 いつかは崩れるその石の山に、わたしがひとつ石を重ねたところで何になるんだろう?
 わたしひとりが石を重ねなかったところで、誰が困るというんだろう?

 人はやがて滅びるだろうし、地球だっていつかなくなるだろうし、宇宙だってどうなるか分からない。

 わたしは、ただの石ころを宝石と勘違いできるほど無邪気ではない。
 ただの石ころだと分かっていながら、宝石だと自分を騙し続ける自信もない。
 
 他の人にとってどうなのかはともかく、わたしにとっては、現にそれは石ころでしかないのだ。

 ……わたしは何を考えているんだろう。
 寝惚けているせいか、頭がうまく働かない。どうでもいいことを考えてしまっている。

 でも、別にいい。どうせするべきことはひとつもないのだ。
 どうだっていい。雨の音が心地よい。

 わたしは結局、自分のことしか考えていないのだろう。でも、それの何が悪い?

 どうして、わたしの心はこんなに醜いんだろう。





 不意に、何かの音が聞こえた。
 なんだっけ、とわたしは思う。意識は雨の音に集中していた。

 
 それは何かの意味を持った音だったはずだ。なんだっけ。なんだろう。  
 ああ、そうだ。ノックの音だ。誰かがこの部屋を訪ねてきたんだ。


 誰だろう? なんだかよく分からなくなってきた。夢の中を歩いているような気分だ。 
 すべての感触が、ふわふわしていて、実感がない。

 扉が開けられた。わたしは体を動かす気にもなれなかった。
 どうしてこんなにも動く気が湧かないんだろう。自分でも不思議なほどだ。
 何が原因で、こんなことになっているんだろう。

 何も分からなかった。たぶん分かりたくないんだろう。

「どうした?」

 声は言った。ツキだ。それはちゃんと分かる。
 わたしは何も答えなかった。



 こういうとき、何も考えずに泣き出してしまえたらよかったんだろうな、と思う。
 たとえば、ツキに抱きついて弱音を吐いたりして、思い切り泣いてしまえたら。
 不安に思っていることをぜんぶ吐き出して、当り散らしてみたり。

 でも、そんなことができたら、わたしはそもそもこんな場所にはいないのだろう。
 それに、そんな自分を想像すると、ひどく不格好な気がして嫌だった。

 ツキだって、わたしがひとたびそんな姿を見せようものなら、きっと面倒になって離れていってしまうだろう。
 わたしの内面は、言い訳と、卑屈さと、憎しみと、それ以外のみすぼらしい何かでいつも溢れている。
 それを誰かにさらすことなんてできない。

 だからわたしは泣き出したりしなかったし、喚いたりもしなかった。
 ただ寝足りないふりをして、瞼をこすっただけだった。

 結局わたしはそういう人間なのだ。


 昨夜の約束のことで来たのだとツキは言った。
 すぐには思い出せなかったけれど、散歩のことを言っているのだと思い当った。

 わたしの頭は、いつになくぼんやりしている。
 普段は蓋をしているものが、どんどんと溢れ出している。
 思い出しかけているのだ。自分が居る場所のこと、自分が居た場所のこと。

 着替えをするのが面倒だったから、わたしはパジャマの上にカーディガンだけを羽織って、部屋を出た。
 一階に降りると、厨房の方に人の気配がある。きっとシラユキだろう。

 ツキとふたりで玄関に向かう。会話はなかった。
 
 彼はわたしに傘を差しだす。わたしはそれを受け取る。会話以外のやりとりだって、その程度のものだ。

 わたしたちは森の中へと歩く。



 相変わらず、生き物の気配がしない森だ。それも当たり前の話かもしれない。
 昨日彼が言った、ヨモツヘグイ、という言葉を不意に思い出す。

 黄泉戸喫。その言葉がなくたって、わたしはきっと気付いただろう。
 気付いていたのに、気付かないふりをしていたのかもしれない。

 奇妙なほど、すっきりとした気持ちだった。
 つまりわたしがイザナミで、彼がイザナギで、だとすると彼は、わたしの醜さに怯えていなくなってしまうわけだ。

 そういうことなんだろうな、となんとなく思った。
 それとも、まだ寝惚けているんだろうか? 単なる妄想なのかもしれない。

 どっちだっていい。もうどっちだってよかった。


 彼は何かの歌を口ずさみながら歩いた。わたしには、その光景は少し意外に見えた。

 なんだったかな。明るい曲調だけれど、少し寂しげな。
 悲しい曲だった気がする。よく思い出せない。
 別に思い出す必要もないのだけれど、会話のない退屈を紛らわすため、わたしは記憶を掘り返すのに専念した。

 そうだ。カスケーズの「悲しき雨音」だ。

 彼は不意に、歌うのをやめてわたしを見る。そして、困ったような顔で口を開いた。

「疲れたのか?」

「まだ、歩き始めたばっかりだよ」

「そういうことじゃないんだ」

 妙に落ち着いた口調だった。何かを心に決めたようなしっかりとした声。


「……そうかもしれない。疲れたのかもね」

 たいした含意もなく、わたしは答えた。自分で思ったよりも、それはあからさまな言葉だった。

「帰るの?」

 話題をなんとか変えたくて、わたしは思わず訊ねた。

「まだ、来たばっかりだろ」

「そうじゃなくて」

 分かっている、というふうに、彼は深く頷いた。

「まだ、決めかねてる」

 わたしは自分が安堵しているのか、残念がっているのか、分からない。
 でも、残念がっているとしたら、それはすごく身勝手なことだろうと自分で思った。


 ひとつ言えるのは、とツキは続けた。

「お前がどちらを選ぶにせよ、俺は戻るってことだ。それだけは変わらない。
 俺は生きていくよ。でも、お前の選択によってはとても悲しい思いをすると思う。
 せいぜいそれだけだよ。だから、気楽に選べよ。たかだか何人かの人間が悲しむだけだ。それだけだよ」

 ツキの声には、感情を押し殺すような響きがあった。

「たかだか、悲しいだけだよ。それだって、別にお前のせいってわけでもない。
 ただ、そういう結果を生み出さざるを得なかった状況が憎いだけだ。
 そういう状況を生み出すのに加担した自分が憎いだけだ。
 自分が何もしなかったことに腹が立つだけだ。そしてお前には、そんな俺を好きに罵る権利があると思う」

 雨音の中で、彼の声はいやにはっきりと耳に届いた。

「だから、好きにしろよ」
 
 ツキはそう言った。それ以上は何も言ってくれなかった。





 そろそろ戻ろう、とツキは言った。わたしは彼に先に戻ってもらい、森の中に残った。
 考えたいことが、たくさんあった。でも、何から考えればいいのか分からない。

 傘をさして森の中に立っていると、ひどく透き通った気持ちになる。
 このまま透明になれそうな気分。あるいは、森の木々のひとつにでもなれそうな。

 しばらくそこでじっとしていた。
 曇り空が優しく見える。どうしてわたしはこんなふうになってしまったんだろう。

 しばらく経ったあと、遠くの方で誰かの声が聞こえた気がした。
 
 その声に何か嫌なものを感じたわたしは、森の中をもう少し歩いてから屋敷に戻ることにした。
 
 それだけだった。別になんていうことはない朝だった。


つづく




「わたしが誰だか、あなたには分からない。そうだよね。
 だってそういうふうに出来てるんだから。

 真っ暗闇はつらくない? このままだと、何も見えないけど。
 ……うん。分かってる。見たくないんだよね。全部分かってる。

 でも、ここではっきりさせなくちゃいけないんだ。

 わたしが誰なのか、あなたには分からない、と、あなたは感じている。 
 でも、本当は気付いているんでしょう?

 わたしが誰なのか。絵画にフォークを突き刺したのが、本当は誰なのか。
 鏡を割ったのが誰なのか。

 鏡に映ったのが誰で、絵に描かれたのが誰なのか。
 ぜんぶ、ぜんぶ、予想がついてるんでしょう?



 この世界は、シラユキが言っていたみたいに、たしかに世界として独立している。
 だから、あなたがこの世界からいなくなったとしても、世界は成立し続ける。
 
 でも、輪郭は曖昧だし、ちょっとしたことですぐに揺らいでしまう。すごく不安定なの。
 そして、世界が出来上がった瞬間のあなたの願望をはっきりと反映している。

 ここに来るまでの間、気付いたと思うけど、あなたの記憶や感情は制御されているんだよ。

 たとえば、ある一定の事柄について、あなたは忘れている。
 そして、あなたがそれを思い出そうとすると、感情の方が支配される。
 つまり、"思い出したくない""思い出さなくてもいい"という感情が立ちのぼってくるってこと。

 記憶に制限が掛かっているわけ。
 どうしてそうなったかというと、それは世界がそういうふうに作られたから。

 この世界に、あなたは支配されている。
 そしてこの世界をそういうふうに作ったのは、あなた自身、というわけ。



 ここまではさして驚きもないでしょう? 成り立ちからしておかしな世界だしね。

 どうして世界がこんな形になったのか。世界をこんな形にしたのか。
 それは、わたしにもちょっとはっきりしない。いろいろと、筋が通らないところも多いし。

 それはたぶん、あなた自身の望みが、単純な形で表せるものじゃなかったてことだと思う。
 その結果、この世界は、ふたつの可能性に対応できるような形になったわけ。

 この世界に留まり続けることで現実においての死を選ぶか。
 この世界から脱して現実に戻ることを選ぶか。 

 もしあなたが死にたいなら、死ねるように。

 もしあなたが生きたいなら、生きられるように。 
 
 どちらも選ばなかったとしたら、やっぱり死んでしまうんだけどね。




 もしあなたが死にたいだけだったら、こんなまどろっこしい世界は必要なかった。
 そして、もしあなたが生きたいとだけ願っていたなら、やっぱりこんな世界は必要なかった。

 それって、ごく自然なことだと思わない?
 生きたいという言葉が、単純な生存だけを意味するわけじゃない。
 生きたいように生きることは、もっと多くのものを必要とする、とても大変なことだから。

 この世界が出来上がった段階で、あなたの心はかなり死の方へ傾いていた。
 そのせいで、世界全体は死に偏っている。
 
 分かるでしょう?
 放っておけば死んでしまうようにできているし、あなたの思考は死に傾くように制御されている。
 何もしなければ、何も分からないままでいれば、死んでしまう。

 でもそれじゃあ選択の余地がないのと変わらない。
 それに対抗するために、シラユキが存在していたし、ツキが入り込めるような隙間も作ってあった。
 
 純然な意味で、この世界は「あなたを反映した世界」ってこと。



 そういう意味で、あなたの願望のひとつはとても、とてもシンプルな形でこの世界を象徴している。

 雨。

 雨が止まないこと。
 シラユキが自分の傍からいなくならないこと。

 陳腐な言い回しをすれば、あなたが望んだのは永遠。
 永遠の幸せ、とか、永遠の愛、じゃない。不変、みたいなもの。

 たくさん苦しくて、嫌になっちゃったんだと思う。
 で、嫌になってみるとね、こう、分からなくなっちゃうんだよね。
 
 自分がその場に居続ける意味とか、理由とか。
 苦しいならやめちゃおうって、そう思う。どうせ何もかも、いつかは終わるんだし、って。

 いつかなくなるものなら、今なくなってしまってもかまわない。そう思ったのかもしれない。
 そして世界には、いつかなくなるものばかりが溢れていた。

 いつかなくなる世界に価値を見出せないなら、そこにしか生きられない自分自身の価値もまた、なくなってしまう。
 価値のないものをどのように扱っても、別に困りはしない。

 結構単純な理屈だよね。



 でも、そんな考え方じゃ、何もできなくなってしまう。
 あなたはあなたなりに、価値のあるものを見つけようとした。
 そうすることで、"何もなくなってしまう"ことを避けようとした。

 そして考えたのが、『終わらなかったら?』ってこと。

 永遠に楽しいことが続いたら、やめなくても済む。
 逆に、苦しいことがずっと続くなら、それはそれで救いめいてるよね。

 喜びのない世界では、苦しみは単調だから、それは既に苦しみとして機能しない。

 あなたは、ありとあらゆる変化を拒絶することに、かろうじて価値を見出した。
 変化のない永遠に価値を見出した。現実の外側に、価値を見出した。

 そして、この世界はやがて"それ"に辿り着く。 
 
 この世界は、もうすぐ時間を止める。……違うか。失う、というのかな。静止した一瞬だけの世界になる。

 時間という概念が消えてしまう。

"前"も"後"もない。一瞬が切り取られて、そこに存在し続ける。
 それをもってひとつの永遠として完成させようとしているの。この世界がね。


 あなたという存在は、今はまだ現実にも存在しているし、存在しうる。
 肉体的には……危険な状態かも知れないけど。

 でも、意識は今、こちら側に存在している。
 ふたつの世界に、ひとつずつあなたの肉体が置かれていて、片方にだけ心がある、と言えば分かるかな。
 肉体は所詮物質だから。……なんて言ったら、怒られそうだけど。
 
 だからあなたがこちらを選べば、現実のあなたは死んでしまう。
 現実を選んだとき、こちらのあなたがどうなるのかは、わたしにも分からないけど。

 本題はここから。

 もしあなたが本当に永遠"だけ"を望んでいるなら、シラユキはもっと別の形で存在していた。ツキだってここには来られない。
 彼と彼女がここにいるということは、迷いがあったんだと思う。

 保険に保険以上の意味なんてない、ってあなたは言うかもしれないけど。
 本当に、生きる必要がないと思っていて、それが揺るがないのだとしたら、保険なんてやっぱりいらないと思う。

 単純に心変わりを恐れただけ、とも言えるかもしれないけど。

 でも、あなたの場合は、心のどこかで期待していたんだと思う。
 何か根本的な転換みたいなものが起こるんじゃないかって。
 抜本的な解決のようなものが、不意に訪れるんじゃないかって。

 つまり、もっと別の形で、世界に価値を見出せるんじゃないか、って。

 そんなふうにして、この世界は、こんなおかしな形になった。


 そろそろ不思議になってこない?
 どうしてわたしが、こんなことを言うのか。

 それには、わたしが何者かという部分が関わってくるんだけど……。
 これまでわたしがあなたに語り掛けたとき、明るいことはまず言わなかったよね。

 ここに居続けてもいいとか、どうせ他の居場所はないとか、だいたいそんなようなことを言っていたと思う。
 毎晩夢に出て、醜い、醜いって言い続けたりもした。そのあたりは、わたしのせいってわけでもないけど。

 そうしたわたしの言葉もまた、あなたの心を反映したものだった。
 
 そんなわたしが、どうしてわざわざ、こんなことをあなたに説明しているのか。
 わたしは時間切れを待つこともできたし、あなたに何も知らせないこともできた。
 わたしが本当にそれを望むならね。

 でも、それをする気になれないのは、単純な理由。
 わたしが嫌になったから。

 あなたが世界を知ろうとすれば、わたしはあなたに"知りたくない"と感じさせる。
 あなたが世界を知りたくないと感じているうちは、そう思い続けるように誘導する。

 そういうふうに作られた、わたしもこの世界の一部だったってこと。
 あなたの影のようなもの、と言えるかもしれない。


 だから、あなたの感情は、本当は大部分が欠落している。記憶と同じようにね。
 欠けた部分はわたしが持っている。

 でも、なんていうのかな。そのあたりも面倒な話なんだけど。

 
 あなたが生に傾いた思考をするたびに、わたしはその思考を死に傾け直すような仕事をしていたわけ。 
 そして、ツキが来てから、あなたの心は思いのほか、生の方に傾いてしまった。

 結果、わたしは何度も、あなたの心を死に傾け直した。

 どうやったかというと、そうした前向きな——という言い方は好きじゃないけど——感情を、わたしが抱え込んだの。
 つまり、生に傾いた心を、わたしが吸い込んで、ため込んでいた。

 その結果、わたしの心まで、生に傾いてしまったんだと思う。

 あなたは死にたがっていた。だから自然、死に傾くように、世界にわたしが配置された。

 シラユキがあなたを現実に繋ぎとめる役割だとしたら、そもそものわたしはあなたをこちらに繋ぎとめる役割だった。
 その構図が、ちょっと崩れてしまったの。

 でも、それだってきっと、保険のようなシステムの一部なんだと思うけど。
  



 絵画に描かれていたのも、鏡に映ったのも、あなた自身。
 そして、絵画を破ったのも、鏡を割ったのも、わたし。

 どうしてそんなことをしたかっていうと……。
 結局、わたしも、わたしの中のあなたの感情を飼いならせなかった、ということになるんだと思うけど。
 あなたの心が生に傾いていたとき、わたしはそれに強く抵抗しなくちゃならなかったから。
  
 あなたが生に傾いたとき、わたしは死に傾いていた。
 そして、その傾きをもって、あなたに語り掛けていた。そうすることで、生に傾きかけたあなたの心を元に戻していた。

 心当たりがないわけじゃないと思うけど、それがわたしの仕事だったってこと。
 知ろうとすれば、知りたくなくなるように。興味を持てば、興味を失うように。

 これで、世界についてはわかったでしょう。
 
 じゃあ、今、どうしてこんなことをわたしが話しているのかっていうと、これは単純。
 
 あなたに選択を迫るため。

 これらの事情のすべてを知ることで、あなたは自分の感情を自由にするかどうかを選ぶことができる。
 感情の制御を、わたしから解き放つことができる。

 でも、そうすると、もう後戻りはできない。だから、抵抗する部分もある。


 あなたは、ツキを助けたい。"助けたい"と思いたがっている。
 そのためには、自分を制御している理屈の一部が邪魔。
 だからといって、理屈を無視して動いてしまえば、ひどい混乱が起こってしまう。

 助けてほしいと思っていない人を助けることは、死にたがっているのに生かされてしまうこととパラレルだから。

 だから、あなたは選ばなくちゃいけない。

 設問はとてもシンプル。
 あなたにとって、ツキは、価値のある人物かどうか。

 価値のないものなら、死のうが生きようが、どうでもいいはず。
 価値のあるものなら、本人が望んでいなくても、引き留める努力をするくらいは、許されるはず。

 当然だけど、ツキを価値あるものだと認めてしまうと、あなたにはちょっとした変化が訪れる。
 言い訳がひとつ、消えてしまう程度の小さな変化。
 でも、言い訳が消えてしまったら、あなたは向き合わなくちゃいけない。 

"あなた"が望めば、"あなた"の中のルールが変わる。そうすれば、ツキを助けることだってきっとできる。

 さて、どうする?」
 

つづく




「助けるって、いったいどうするつもりなんですか?」

 わたしは新しいレインコートと靴を用意した。
 顔を洗い、髪を乾かし、後ろでひとつに結んだ。

 そうした準備をしながら屋敷を歩き回るわたしに、シラユキは必死に言い募る。

「何か手段を考えているんですか?」

「何も。状況が分からないもの。ツキがどこにいるのかさえ」

「それじゃあ、どうするんですか?」

「状況を掴むところから始めないとね」

 とわたしは言った。何が必要になるだろう?
 何があっても役に立ちそうだとも思うし、何があったとしても役には立たないという気もした。


「でも、見つかったら……」

「見つからないようにするし、見つかったとしても逃げ切ればいいんだよ」

「……そんなの」

 もちろん、逃げ切れるわけがない。わたしは走ることが苦手だ。体力だってない。
 状況にもよるが、見つからないというのも、ほとんど不可能だろう。
 
「自分から捕まりにいくようなものじゃないですか……」

 シラユキは情けない声を出した。わたしは溜め息をつく。

「新しい懐中電灯ってある? 持っていったのは壊しちゃったから」

「……はい。本当に行くんですか?」

「シラユキ」

 とわたしは呼びかけた。

「あなたも手伝って」

 彼女は意外そうな顔をした。



「わたしは街に行ったことがないから、ツキが捕まった後、どうなるかを知らない。
 すぐに殺されてしまうのか、少しでも猶予があるのか、それも分からない。
 もし猶予があるとするなら、どのような手段が講じられるのか、考えなきゃいけない。
 情報が必要なの。そのためには、シラユキ。あなたが必要なの」

「……わたしが、ですか?」
 
 彼女は戸惑っているようだった。
 なぜ、こんな顔をするんだろう。わたしにはよく分からない。

 彼女が何をどのように考えて、何を望んでいるのか、わたしにはよく分からない。

 話しながら、わたしは書斎に向かって歩く。
 シラユキは言葉の意味をなんとか咀嚼しようとしているみたいだった。

 書斎机から拳銃を取り出す。

 よく思い出せないけれど、この世界はわたしの心境を反映している、らしい。
 そういう話を、あの部屋で聞いた。誰から聞いたのかは、思い出せない。でも、そう言っていた。たぶん。



 だとすれば、この拳銃はどのような意味を持つのだろう。
 
 わたしは一度、ツキにこれを向けかけた。そして今、もう一度引き出しから持ち出した。
 シラユキは息を呑む。それからひどく戸惑ったような顔をした。

「威嚇くらいには、なるといいんだけど」

 なるはずだ、と思う。
 下界の街では、今いる人間は死なず、今いない人間は生まれない。シラユキがそう言った。
 でも、それはまだ確定していない。つまり、死にうるし、生まれうる、ということだ。
 
 変化を恐れるというのなら、街の人々は自分たちの死を何よりも恐れるはず。
 だとすれば、有効ではないとは思えない。

「使うんですか?」

「使えるものは、なんでも使わないとね」

 とわたしは答えた。それからシラユキの目を見る。

「ツキを死なせるわけにはいかない」



 どうして、と。
 シラユキの唇が、そういう形に動いた気がした。

「なに?」

 わたしが訊ねると、シラユキはつらそうな顔をした。

「どうして、ツキを助けたいんですか?」

 どうして、だろう。
 わたしはなぜ、ツキに対してだけ、こんな暴走とも言えるほどの感情の高ぶりを覚えるのだろう。
 
「シラユキは、ツキが死んでもかまわないって思う?」

 彼女の瞳が、一瞬、強く揺れた。

「——そんなわけないじゃないですか!」

 シラユキの怒鳴り声を、わたしは初めて聞いた気がした。
 彼女は大声を出したことを後悔したように視線をあちこちに彷徨わせた。
 悔しそうな表情でうつむくと、瞳からぽろぽろと涙がこぼれだす。
 
 そうだろうな、とわたしは思った。シラユキはそう言うだろう。



「ごめんなさい」

 放っておくと、シラユキが先に謝ってしまうような気がした。だからわたしが、最初に謝る。

 わたしはもう一度自問してみた。
 どうして、わたしはこんなにも、ツキに執着してしまうんだろう。

 答えを出すのはむずかしかった。とても、むずかしい。
 でも、わたしは現実の自分について、既にほとんどのことを思い出していた。

 わたしの周りにはたくさんの人がいて、その大半の人間はわたしのことなどどうでもいいようだった。
 わたしだって、大半の人間のことはどうでもよかった。

 わたしの世界はとても狭かったのだ。




 母——義母にとってわたしは、夫の前妻の娘だった。 
 
 それはもう、曖昧になってしまった記憶だ。


 自分の血を引いていない娘。しかも、愛した人が愛した、自分ではない女の子供。
 それでも母は、きっと、わたしを好きになろうとしたのだと思う。

 ちゃんとそういう決意を持って、父と結ばれたのだと思う。
 母なりにしっかりと、わたしのことを背負う覚悟を持って、父と結ばれたのだと。

 そう思いたいわけじゃない。そういう記憶がたしかにあるのだ。

 わたしは愛想のない子供だったと思う。
 実母が亡くなったのは物心つく前のことだった。



 父が再婚したのは、わたしが小学校に入ったくらいの頃。
 
 再婚に際して、ふたりは慎重だった。なるべくわたしに負担がかからないよう配慮していた。
 わたしは、子供ながらに、気遣われていることを、ちゃんと理解していた。

 まず父は、わたしと義母を引き合わせた。義母はわたしのことを理解しようとし、仲良くなろうとした。
 父もまた、わたしが義母を好きになるように、たくさんの努力をしたのだと思う。

 わたしは、そうした両親の側の事情を、なんとなく、理解していたのだ。

 だからわたしは、母のことを好きになろうとした。
 父も、母も、それを望んでいたと思った。彼らはそのとき、まだ二十代だった。
 
 わたしは知らない人とうまく話せなかったし、自分のことを話すのも苦手だった。
 人から気に掛けられることも、あまり好きじゃなかった。



 三人で顔を合わせることがあると、二人はいつもわたしに気を遣ったような表情になる。 
 わたしはそれがすごく嫌だった。でも、父も母もそれを望んでいた。

 母と会った日の夜、父はわたしに必ず、「どうだった?」と訊ねた。

 楽しかったよ、とわたしは言う。
「あの人をどう思う?」と父は訊ねる。「楽しい人だと思う」とわたしは答える。

 父と母はそのことに安堵しながら、なおも慎重に話を進めた。

 ようやく話がまとまって、一緒に生活が始まってみると、母は違和感を抱いたことだろう。
 だってわたしは、母に「良い母親」であることを、まったく求めていなかったのだから。

 父に新しいパートナーにできることは、奇妙な感じはしたし、抵抗もあったけれど、納得はできた。
 でも、わたしに新しい母ができるということは、どうもうまく理解できなかったのだ。

 要するにその頃のわたしは、母を家族として認めていなかったのではないか。
 そうした気持ちこそが、母を深く傷つけたのではないか。

 今になってそんなことを思う。 



 父もきっと、母とわたしの間に、何か奇妙な雰囲気があることには気付いていただろう。
 
 でも、信じたくなかったのだろう。
 上手くやっていけていると、思って居たかったのだろう。

 わたしが嘘をついたことがいけなかったのだろうか。
 好きになったふりをしたことが?
 
 それとも、母が悪かったのだろうか。
 それとも、父が悪かったのだろうか。

 わたしには分からない。でも、そういうことではないような気もした。

 少なくとも、誰かの責任にしたところで、問題が解決するわけでもなかった。
 誰のせいでもなく、きっとわたしのせいでもなく、誰が望んだわけでもない。

 誰が悪いというわけでもなく、誰が悪くないというわけでもない。

 それでも、起こったことは、起こったことなのだ。





 ツキと初めて会った時のことを、わたしは思い出した。
 わたしが走ることを拒否して、でも結局何も変えられず、ふたたび走り出した頃。

 ある雨の日の夕方、わたしは家の近くの児童公園に、ひとり傘をさして、じっと立っていた。
 公園にわたし以外の子供の姿はなかった。

 そこに偶然通りかかったらしい男の子が、わたしに声を掛けたのだ。

 わたしは彼のことを知っていた。
 近所の家に住む、ひとつ年上の男の子。ちょっとぶっきらぼうで、少し怖かったのを覚えている。

「なにやってんだ?」

 彼はそんなふうにわたしに話しかけた。わたしは答えに困った。

「なにも」

 やっとのことで答えると、彼はどうでもよさそうに何度か頷いた。

「お前、名前は?」

 わたしは自分の名を名乗り、それから彼の名を訊ねた。
 ツキ、と彼は名乗った。


 彼はそれからしばらく、何かどうでもいい話をした。
 学校で起こったこと、家族と喧嘩したこと。そういうことを延々としゃべり続けた。
 ひょっとしたら日が暮れても続けるつもりなんじゃないかと思うほどだった。

 やがて彼は、一通りの話題を消化して、自分から言うことがなくなったのか、

「お前、まだ帰らないのか?」

 と、そう訊ねた。
 帰りたくない、と答えてから、わたしは少し後悔した。
 なんで、と訊かれると思ったのだ。

 でも、彼はわたしに何も訊かなかった。

 その代わりに雨空を見上げてひどく憂鬱そうな顔をした。

「雨が降ると嫌だよな。外で遊べないもん」

 そう、ツキは言った。
 わたしはその言葉に、思わず泣きそうになった。


 ずっと雨が止まなければいい、と思った。

 そうすればわたしは走らずに済むかもしれない。
 グラウンドが使えないくらいに雨が降ってくれれば、わたしはもう走らずに済む。

 もちろん、もし雨が降り続いたとしても、そうなれば今度は屋内で走らされることだろう。
 でも、そのときのわたしは、雨が降り続きさえすれば、二度と走らずに済むような気がしたのだ。

 黙り込んだわたしの様子を怪訝に思ったのか、ツキはわたしの顔を覗き込んだ。
 わたしは泣いていた。彼はひどくうろたえた。

「どうした、どこか、痛いのか? 痛いのか?」

 わたしが答えずに泣き続けると、「いたいのか」と彼は何度も聞いた。
 わたしはどこも痛くなかったし、どこにも居たくなかった。

「どうしたんだよ」

 と、困ったような声でもう一度ツキが訊ねたとき、わたしはようやく言葉を絞り出した。


「走りたくない」

 とわたしは言った。彼は困ったような顔をした。
 本当に戸惑っていたようだった。どうしてそんなことを言うのか分からない、というふうに。

 そして、

「なんで走りたくないのか知らないけど、走りたくないなら、走らなくてもいいんだぞ?」

 と言った。
 わたしをなだめる風でもなく、本当に、簡単な理屈を口に出しただけだというふうに。

「走りたい奴だけ、走ればいいんだよ」

 そんなふうに言われたのは、初めてだった。
 母は走らないわたしを叱った。先生も、わたしに走れと言った。


 クラスメイトたちは、わたしが走ることを期待している。
 そしてわたしが走り出せば、みんながひそひそと笑うのだ。

 先生に気付かれないように、でも、視線と言葉をひそかに交わして。

 今思えば彼は、授業のときの話だとは思っていなかったのだろう。
 それに、実際にその理屈が授業で通るなんて、わたしも思ってはいなかった。
  
 でも、わたしはツキの言葉に助けられたのだ。
 わたしに走ることを求めない人がいるのだと思った。

 その言葉を聞くまで、わたしはそんな人がいるなんてことを想像もできなかったのだ。




 わたしは書斎机の上に拳銃を置いて、それを見つめた。

 もし、この拳銃がわたしの心境を反映したものだとするなら、どのような意味を持つのだろう。
 少し考えてみたけれど、よく分からなかった。

 でも、このタイミングになって、これがあってよかったと思う。
 これがあったおかげで、わたしはツキを取り戻しにいくことができる。
 
 そうだとするなら、これもシラユキ同様、いざというときの保険のようなものとして置かれたのだろうか。
 これは反撃の為の手段として、ここに置かれていたのかもしれない。
 
 わたしは、夢の中で聞いた「駄目だ」という声を思い出す。
 引き留めるような、痛切な声。 
 あの言葉の意味が、今なら分かる。
 
 彼がわたしにそう言い続けたように、今度はわたしが彼に言わなくてはならないのだ。
 
 自分のことは、一旦棚上げにしてでも、わたしは彼に言わなくてはならない。

つづく
434-9 とにいかく → とにかく




 曖昧な意識のまま、わたしはふと気付けば、暗闇の中にいた。

 なにひとつ聞こえず、なにひとつ見えない。そんな暗闇の中だ。
 闇の中では、感覚すらなかった。
 
 自分自身の身体がこの空間にあるということが疑わしいくらいだった。
 何かが視界を覆っている。
 
 そのせいで、わたしの瞳は光をとらえられない。
 なんだろう。何が邪魔しているんだろう。

 不意に、激しい音が聞こえる。

 雷鳴?
 そう、雷鳴だ。

 その音が合図だったかのように、わたしの身体の感覚が蘇っていく。
 蘇るというよりも、むしろ、押し寄せるように、意識に感覚が流れ込んできた。

 しばらくの間、わたしの意識はその奔流に支配されていた。



 雨の匂い。肌に触れる濡れた質感。痛みであることを忘れそうになるほどの強い痛み。
 全身の感覚が鋭敏になっている気がした。 
 でも、むしろ逆だったのだろう。鈍麻していたのだ。鋭いのは痛覚だけだった。

 他のものは、ほとんどすべて機能していなかった。

 一挙に流れ込んできた痛みに、意識は鋭く呼び起こされた。
 視界は相変わらず暗い。ひどく肌寒い。全身がズキズキと痛む。

 音。雨の音、雷の音、風の音。
 わたしの身体は暗闇の中、どこかに横たわっている。
 どこだろう。痛みを堪え指先を動かし、手の感触で確かめた。

 ざらついた、濡れた感触。背中にごつごつとした、尖った痛みがある。 
  
 身体が重く、呼吸が上手くできない。鼻にも口にも耳にも何かが詰まっているような異物感。

 
 全身の関節という関節が軋み、痛む。
 身体のすべてが強く脈動しているような、そんな気がした。



 まだ景色は暗闇だ。
 なぜだろう。視界を覆っているものは、いったいなんなのだろう。

 暗闇の中で、誰かの声が聞こえた気がした。

 それはずっと遠くから聞こえているようにも、すぐ近くから聞こえているようにも感じられた。
 音はなんだかぶよぶよと歪んでいる。だから、その声が現実のものなのかどうか、確信が持てない。

 真っ暗闇だから、誰かが傍にいるのかどうかも、分からない。

 どうして、こんなに暗いんだ?

 何かがわたしの身体を叩いている。身体のそこら中を。
 雨だ、とわたしは思った。

 それも激しい雨。
 でも、雨が当たっているのはほんの一部分だけで、ほとんどの場所は雨を受けていない。
 それでも身体は濡れているようだった。

 不意に、瞼に雫が当たるのを感じた。
 そのときにようやく気付いた。視界を覆っているものの正体は、自分自身の瞼だった。

 瞼を開けていないのだから、光を捉えられないのは、当たり前だ。


 開けろ、とわたしは思った。
 開けるんだ。そうすることでしか始まらない。

 それは少し、怖いことでもあった。
 でも、仕方ない。声が聞こえたような気がしたのだ。
 たしかめてみないといけない。

 わたしは瞼を開けた。

 最初に目に入ったのは、薄い膜のような光だった。
 月明かりだ、と、わたしは思った。

 月の灯りが、嵐の夜をかすかに照らしていた。空は厚い雲に覆われていて、星すらもほとんど見えない。
 それでも月の光は、暗闇を暗闇ではないものに変えていた。

 風が強く、雨はそのときどきによって落ちる方向を変えた。

 しばらく静かに降り続いていたかと思うと、突然横殴りの雨になったり、飛沫が跳ねるように吹き上がったりもした。

 でも、雨は雨だった。わたしは全身の痛みと重さに呻く。
 それからすぐに、わたしの頭上を覆っていたものの正体に気付いた。


 遠くの空は月の明かりで微かに光をまとっているのに、近くに居たその人は、ほとんど真っ黒に見えた。
 でも、それが誰なのか、わたしにはすぐに分かった。

 だって彼は、わたしの名前を、今にも泣き出しそうな声で呼んでいたのだ。

 何かを言おうと思った。
 でも、何を言えばいいのか、よく分からなかった。
 
 わたしは、あの巨大な蛇のような濁流に、身を任せたはずだった。
 その中から、彼が引きずりあげてくれたんだろうか。

 痛む身体を動かして、自分のいる場所を確認する。

 あの黒い水流は、すぐ傍で荒々しく唸り続けていた。
 わたしたちはその流れから、かろうじて、外れているだけだった。

 ツキは荒い呼吸をどうにか整えようとしていた。髪も身体もずぶ濡れで、顔は真っ青で、体中が汚れていた。

「ごめんなさい」

 とわたしは言った。だってそれは、どう考えたってわたしのせいなのだ。
 でも、わたしの耳にすらその声は白々しく、嘘っぽく響いた。
 わたしはどうしようもなく悲しい気持ちになった。


 言葉も出せない様子で頷くと、彼はそのまま身体を動かし、わたしの腕を引きずって、水流から引き離そうとした。
 わたしはそれに従って、自分の身体をどうにか持ち上げる。水に濡れた衣服が重く、雨は痛いほど強い。

 身体を動かすたびに手足に痛みが走った。打ったのか切ったのか擦ったのか、分からない。
 でも、どれにしたって同じことだった。
  
 それはわたしが自分でつけた傷なのだ。
 ツキの身体についた傷も、わたしがつけた傷なのだ。

 身体を這うように動かす。怒号のような水流のうねりはわずかに遠ざかった。
 堤防の上まで辿り着くと、ツキは不格好に立ち上がった。

 それからわたしに手をさしのべた。

 わたしは少しの間迷っていた。
 その手を握る資格が、自分にはないような気がした。

 でも、ツキはずっと手を差し出したままだ。

 彼が雨に打たれたままなのは、とても、いやだった。
 だからわたしはその手を握って、痛みを堪えて、立ち上がった。

 彼は苦しげに笑った。




 生き延びることができたのは、ほとんど奇跡のようなものだった。

 言い換えれば、偶然の巡り合わせだ。同じことをやったとしても、二度目はないだろう。

 立っているだけでも風に吹き飛ばされそうな激しい嵐の日に、氾濫してもおかしくない河川に近づいた。
 水流に身を投げ、その中でしばらく意識を失っていた。

 普通なら死んでいた。いや、まあ、死ぬだろうと思って身を投げたのだから、当たり前なのだけれど。

 川に身を投げる前と後の記憶は混濁していて、前後の事情をわたしは上手く把握できなかった。

 あの出来事から数日が経った今でも、思い出せていない。
 だからわたしは、後の状況から推測や想像を交えて、自分の記憶を補完した。


 あの嵐の夜、わたしは両親と激しい言い争いをした……らしい。
 
 どんな言い争いだったのかは覚えていない。
 とにかく、その出来事で打ちのめされたわたしは、家を飛び出した。

 両親がそのことに気付いたのは、わたしがいなくなってからしばらく経った後だった。
 天候が天候だったし、時間が時間だった。

 家を出てわたしが行くところといったら、彼らにはツキの家しか思い浮かばなかったようだ。

 あわてて電話を掛けてみたものの、わたしはツキの家にはいない。
 電話を内容を聞いたツキは、両親の制止もきかずに家を飛び出したという。
 
 そうしてツキは、水流の中にわたしを見つけた。


 ツキに助けられたあと、わたしは再び意識を失った。

 彼はわたしを背負って近隣の民家に向かい、電話を借りて救急車を呼んだ。
 時刻は夜の九時を過ぎていたらしいので、民家の住人からすれば迷惑な話だっただろう。

 わたしとツキは救急車で病院に搬送された。

 ツキもまた、救急車が来るまでに意識を失った。
 けれど彼はその直前、自分の家の連絡先を人に伝えていたため、病院は彼の両親に連絡することができた。

 そして彼の家から、わたしの家にも連絡がいったのだという。
 
 細部は違うかもしれないが、わたしはそういうふうに聞かされた。

 わたしがふたたび目を覚ましたのは二日後の午前八時で、そのときには身体は快復に向かっていた。
 なんでも、一時は結構危険な状態だったらしい。

 一度は目を覚ましたわたしは、五分と経たないうちに再び意識を失った。
 そしてその日の正午過ぎ、今度ははっきりと、わたしは目を覚ました。




 当たり前のことだけど、わたしはいろんな人に叱られた。
 ツキもいろんな人に叱られていた。ちょっと悪いことをしたかな、と思う。
 たぶん、ちょっとどころの話ではないんだろうけど。

 何はともあれ、わたしは生きていた。

 ツキから聞いた話によると、彼はあの水流の中からわたしを救い出したわけではないらしい。
 わたしの身体がたまたま流れから外れた場所に引っかかっていたのを見つけて引き上げただけだという。

 まあ、考えてみれば、彼が泳いでわたしを引き上げたというのなら、それはそれで驚きだ。
 あの流れの強さでは、泳ぐどころが方向を保つことさえ困難だったろう。

 その「引っかかった」際にわたしは擦り傷や打撲を負うことになった。
 これが意外なほどの軽傷で、なんということのないものばかりだった。
 しばらくは、痛むかもしれないけれど。

 でも、それ以外には外傷も何もないらしい。
 たぶんわたしがあの濁流の中にいたのはとても短い時間だったのだろう。
 と、思うのだけれど……根拠はない。

 とはいえ、それならそれで、長い時間意識を失っていて、危険な状態にあったというのは、不思議な話という気がする。
 そのあたりのことは、どうもよく分からない。


 わたしを叱ったのは主にツキの両親で、叱らなかったのはわたしの両親だけだった。

 ツキの両親は、わたしとツキの行為に対して大声を上げて怒った。
 
 反対にわたしの両親は、何を言えばいいのか分からない、という顔でわたしを見た。
 わたしも何を言えばいいのか分からなかった。ひょっとしたら血筋なのかもしれない。
 
 どうしてこんなことをしたんだ、と父は言った。
 それは心からの質問と言うよりは、自分が言うべきことを計りかねているような響きを持っていた。  

 だいたい彼の方でも、察しはついていたのだろうと思う。

 少しずるいかな、と思いながらも、ごめんなさい、とわたしは最初に謝った。
 すると、彼らは揃って苦しそうな顔をした。

 ちょっとした意趣返しのつもりだったのだけれど、彼らの表情は思いの外わたしを暗い気持ちにさせた。 
 


 彼らはそれから、わたしに頭を下げた。
 でも、わたしは別に謝ってほしいわけじゃなかった。
 だから、すごく困った。
 
 彼らは別に、心から謝ったわけではないのだと思う。

 単に、病院という空間には、人を神妙にさせる磁場のようなものがあるのだ。

 わたしが退院すれば、これまでと同じような生活が待っているに違いない。
 人がそんなに簡単に変われるわけがないし、わたしはそれを信じてあげられるほどお人好しでもなかった。

 が、まあ、わたしは偉そうなことを言える立場というわけでもない。
 それに、こんなふうに迷惑を掛けたことだけは、悪いことをしたな、などと思った。




 目が覚めてから数日間、様子を見るためにと入院させられていた。
 ことがことだったので、担当の医師はわたしに「よければカウンセラーを紹介しますが」と言ってきた。
 わたしはそれを断った。

 嵐は去っていったが、入院中はずっと雨が降っていた。そういう時期なのだ。
 
 窓の外で降り続ける雨をじっと眺めていると、奇妙な気分になった。
 
 わたしは別に「あちら」でのことを忘れたわけではない。
 でも、それを徐々に忘れていってしまうのだろうと、なんとなく感じた。
 
 気になったのは、わたしたちが去った後、彼女がどうなったのかということ。
 でも、それは今となっては確認のしようがないことだった。

 不思議と寂しくはなかった。
 なぜだろう? 彼女がすぐ傍にいるような気がするのだ。
 それは、ただの錯覚なのかもしれないけど。





 数日後、さしたる感慨もなく退院し、わたしは家に帰った。
 家に帰るのは久しぶりだという気がした。

 でも、久しぶりだと感じたところで、結局自宅は自宅だ。何かが変わるわけじゃない。
 だからといって、思ったほど嫌な感じがしたわけでもなかった。ベッドの寝心地は、少なくとも病院よりはマシだ。

 ツキが電話を掛けてきたのは退院したその日の夕方で、窓の外ではまだ雨が降っていた。

「明日、暇か?」

 まあ、暇だった。退院の日はちょうど土曜日で、明日は学校が休みだったからだ。
 月曜のことを考えると、今から気が重い。

「出掛けないか」

 とツキは言った。彼の態度は堂々としていた。
 なんだかいろんなものが吹っ切れたような、そんな態度。

「でも、明日は雨かもしれないって、天気予報で」

「晴れるよ」

「……根拠は?」

「晴れる」

 根拠はないらしい。


 翌朝、案の定、雨が降っていたけれど、わたしはツキの家まで傘を差して歩いていった。
 彼がわたしを当然のような顔で出迎えたので、わたしはちょっとおもしろくない気分になった。

 しばらくのあいだ、何をするわけでもなく、二人で話をした。
 話の内容はよく思い出せない。
 
 何か大事なことだったような気もするし、どうでもいいことだったような気もする。
 抽象的な話だった気もするし、具体的な話だった気もする。

 いずれにしても忘れてしまった。
 話すことがなくなると、「雨が止んだら」と彼は思い出したように言った。

「雨が止んだら、出掛けよう」

 そうだね、とわたしは答えた。窓の外では静かな雨が降り続いていた。

「雨が止んだなら」

 何の気もなく返事をしてから、こそばゆいような、くすぐったいよな気持ちになった。
 彼が、昨日突然電話してきた理由も、今朝からずっと難しい顔をしている理由も、今の言葉で分かった気がした。

 雨が止んでも傍にいるのだと、彼は示そうとしているのだ。





 気象予報士の言い分に反して、雨は十時過ぎに上がった。
 
 灰色の雲は空から消えて、青空が顔を出した。
 太陽の光は少し頼りなかったけれど、それでもしっかりと街を照らしていた。

 外に出てから、そういえば、目的地を聞くのを忘れていたな、と思い出した。
 でもまあいいか、と思う。そういうことを気にしすぎていても始まらない。

 虹を見つけて声をあげると、彼はおかしそうに笑った。
 わたしは不服に思って抗議した。

「どうして笑うの?」

「虹を見てはしゃぐような奴だったっけ?」
 
 彼は心底おかしそうに笑った。
 失礼な話だ。わたしにだって虹を見上げて喜ぶくらいの感性はある。



「さて、それじゃあ行きますか」

 ツキはそう言って歩き始めた。
 わたしは何も言わずに、彼を追いかけて隣に並ぶ。

 ふと後ろを振り返る。そこに誰かがいたような気がした。
 でも、誰もいない。ただ歩いてきた道があるだけだった。

 誰もいないはずなのに、わたしはそこに彼女が立っているような気がした。

 薄いクリーム色の毛並み、綺麗な鳶色の瞳。
 それは錯覚なのかもしれない。

 その錯覚を、わたしはなんだか心強く感じた。
 もう一度前を見たときには、さっきまでより気分が晴れ晴れとしている。

 それは身勝手な投影なのかもしれない。
 わたしはもう一度、「ありがとう」と口の中だけで呟いた。それで最後にしようと思った。

「それにしても」とツキは空を見上げた。

「いい天気だなあ」

 雨に濡れたアスファルトが太陽の光を反射して、まぶしい。
 晴れた空の下を歩くのは、ひさしぶりだという気がした。

おしまい

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