少女「雨が止んだなら」 (628)


 雨音で目が覚めた。

 柔らかな毛布に包まれていた体を、ゆっくりとベッドから引き剥がす。
 薄着のまま眠ったせいだろう。鼻と喉の調子が良くなかった。

 ベッドを降りると、裸足のままのわたしには、絨毯の感触がふわりとくすぐったい。
 服を着替えようと思ったけれど、面倒だったし、いがいがする喉の感覚をどうにかする方が先に思えた。

 わたしは、絨毯の上に放り投げていた桜色のカーディガンをパジャマの上に羽織る。
 布団にくるまっていると寝苦しくて、つい薄着のまま眠ってしまう。

 いいかげん学習して、もう少し暖かくして眠ればいいのに。
 自分でもそう思うのだけれど、いまさら自分の身体を気遣うのは、なんだかばからしいことに思えた。



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 綺麗な赤い絨毯。真っ白な天井と壁。
 窓の外の様子を見ると、いつも通り、覆いかぶさるような灰色の雲から、雨粒が静かに降り続いていた。
 それでもたしかに、太陽はおぼろげな光を携え、東の空に浮かんでいる。

 スリッパをはいて部屋を出ると、幅の広い廊下には、やはり赤い絨毯が敷かれている。 
 扉を出て、すぐ正面の窓からは中庭が見下ろせる。
 木々が枝を空に伸ばして、雨を受け入れているように見えた。

 廊下の温度は部屋の中より冷たくて、わたしは思わず両腕で体をさすった。
 
 わたしが出てきた部屋に連なって、壁にはいくつもの扉が等間隔に並んでいた。
 その向こうは、どれも同じような構造の部屋になっている。
 どこも大差ない。生きた人間の気配がしない。それも当たり前の話なのだけれど。



 この広々とした屋敷にいるのは、わたしの他にはたったひとり。
 メイドを自称するシラユキという少女だけ。

 いつからなのか。
 どうしてなのか。

 雨が降りやまない町。
 深い山嶺に囲まれた、物寂しい町。
 その町はずれの丘の上に、打ち捨てられたようにそびえる大きな屋敷。
 
 どこか遠い世界から切り離されたような静かな場所。
 何もかもが終わってしまっているような、時間の流れから取り残された場所。

 わたしと彼女は、たったふたりで、この場所で暮らしている。





 厨房の扉を開けると、シラユキの姿が見えた。

 彼女はちょうど、作っていたスープを小皿に分けて味見をしているところだ。
 変なことに、真っ先に目に留まったのは、彼女の長い睫毛だった。
 東の窓から注ぐ太陽の日差しに、それは微かに透けて見えた。

 白い肌は氷細工のようで、不用意に触れたら火傷させてしまいそうな気すらする。
 髪の毛は細くて、薄いクリーム色をしている。まんまるの瞳は透き通るような鳶色。

 黒いワンピースに重ねられたフリルの白いエプロン。それに合わせられたカチューシャ。
 たしかに彼女の宣言通り、その装いはメイドのように見えた。
 
 彼女の姿はとても印象的なのに、その輪郭はどことなくぼんやりしている。
 色素が薄いせいだろうか。向こうの景色が透けているように感じることもある。
 もちろん、ただの錯覚なのだろうけれど。



 きしきしと音が立つような寒さの中、まだ薄暗い厨房で、彼女の立ち姿はいつもより頼りなく見えた。

 厨房の入口で立ち止まったわたしに気が付くと、シラユキはふわりと笑う。

「おはようございます。まだ、寝ていても大丈夫な時間ですよ」

 彼女はわたしを主人として扱うけれど、堅苦しい敬語はあまり使わない。
 こちらとしてもそれは望むところで、あんまり生真面目な話し方をされると肩を凝ってしまう。

「いつもより早く目が覚めたから」

 おはよう、と挨拶を返してからわたしがそう言うと、彼女は意外そうな顔で微笑んだ。
 ふわふわとした笑顔。わたしはその笑顔を見るたびに、なんだかくすぐったいような気持ちになる。

「珍しいですね。そういう日もあるってことなんでしょうか」

 鍋に向かう彼女に近付いて、わたしは何も言わず、その背中に抱きついた。
 背丈はだいたい同じくらい。

 声や表情にあどけなさはあるけれど、歳だって、同じくらいだと思う。
 それなのに彼女のからだは、ふかふかとして気持ちがいい。


「なんですか、急に?」

 シラユキは戸惑った風な声音で言う。
 後ろから抱きついているせいで顔が見られないことを、わたしは少し残念に思った。

「あったかい」

 同じくらいの背丈なのに、シラユキを抱きしめると、猫や兎みたいな小動物を抱いている気分になる。
 シラユキはくすぐったそうに身を揺すって、困ったような声をあげる。

「やめてください、危ないですから」

 咎めるような言葉だけれど、その声は優しくて、強い拒絶を感じさせない。

「もうすぐ出来上がりますから、食堂で待っていてください」


「そんなこと言わずに、味見させてよ」

「……かまいませんけど」

 シラユキは作っていたスープを小皿に取り分けてくれる。
 わたしは手渡されたそれを受け取って、その場で口にする。

「おいしい」

 と言うと、シラユキは頬を緩めた。

「もうすぐ出来上がりますから」
  
 彼女の声に、わたしはなんだか嬉しくなった。
 
 いつからなのか。
 どうしてなのか。

 わたしと彼女はここで暮らしている。
 いつからか、ずっと、たったふたりで。





 屋敷には大きな姿見があるから、わたしは自分の姿をちゃんと確認することができる。
 わたしの髪は真っ黒にくすんでいて、瞳も焦茶色に近いが、ちゃんと確認しないと黒っぽくしか見えない。
 
 肌もあまり綺麗とは言いがたい。前髪で隠しているけれど、額にはすぐにニキビができる。
 手足も指も、細すぎてガイコツみたいだし、肌も青白くておばけみたいだった。
 顔の輪郭だって丸っこいし、目だけが大きいのも、子供みたいでいやだ。

 だからわたしは、わたしの部屋に置かれた姿見を見たくなくて、壁に向けてひっくり返していた。
 そうすれば、わたしはわたしの姿をあまり気にしなくて済む。
 シラユキだってわたしの容姿について何かを言うことはないし、わたしはそれ以外の人と出会うこともない。

 家事も買い物もシラユキがすべてやってくれる。他には外に出る用事はなかった。

 仕事をしたり学校に行く必要もない。そもそも、この街には学校なんてないらしいけど。
 


 この屋敷に来たのがいつだったか、正確には思い出せない。
 つい最近だという気もするし、ずっと前だという気もする。どうもはっきりしないのだ。
 というよりわたしには、そんなに昔のことがよく思い出せないのだ。

 わたしにあるのは、せいぜい昨日や一昨日や、その程度の分の記憶だけ。
 あとはもう、ずっと同じように生活してきたという印象しかない。

 いずれにせよ確かなのは、わたしがここでするべきことは何ひとつない、ということだ。

 わたしはこの屋敷では好きな時間に寝て、好きな時間に起きる。
 退屈したら地下の書庫に本を取りにいったり、蓄音機で音楽を聴いたりする。
 シラユキが話相手になってくれることもあるし、近くの森の中を散歩することもあった。

 わたしは屋敷の中で一日中過ごし、夜が来たら眠り、朝が来たら目を覚ます。
 ずっとその繰り返しだ。

 用事もないから、屋敷から見下ろすばかりで、丘の下の街にも実際に足を運んだことはない。
 別段、行ってみたいとも思わないのだけれど。
 わたしが街に行くのを、シラユキはどうしてかとても嫌がるから。




「最近、嫌な夢を見るの」

 その朝はいつもより雨が弱かったので、わたしとシラユキは傘を差して森の中を散歩していた。
 屋敷の裏手に広がる森には、生きているものの気配がしない。
 鹿や兎どころの話ではなく、小鳥の鳴き声さえ聞こえないのだ。

「どんな夢ですか?」

 シラユキは、木々の梢からかすかに差し込む、雨の日の淡い陽射しを見上げていた。
 わたしもそれを真似して空を仰ぐ。
 
 薄い雲が広がって、空は真っ白だったけれど、雨の雫を受けた枝葉は、いつもより鮮やかに見えた。

「誰かが、わたしの名前を呼んでいるの」

「名前、ですか」

 不思議そうな声音。無理もない。
 シラユキが吐いた白い溜め息は、朝の森に吸い込まれるように溶けていった。
 


 昼になれば少しは暖かくなるけれど、この街の朝は、凍えそうに寒い。
 けれど、この張りつめたような冷たい空気が、わたしは嫌いではなかった。

「誰かがわたしの名前を呼んで、どこかに連れて行こうとするの」

「いったい誰が?」

「……分からないけど、男の人、だと思う」

 わたしの声は、後半になるほど小さく萎んでいったと思う。 
 この街に来る前の記憶を、わたしは持っていない。
 そしてわたしは、この街に来てから男の人と会ったことがない。

 シラユキ以外の人の存在は、わたしにとっては一種の情報でしかない。
 それにわたしは、自分の名前だって持っていないのだ。
 案の定、シラユキは怪訝そうな顔をした。わたしは話したことを少し後悔した。


「その人は、何かを言っていたんですか?」

「分からないけど、"駄目だ"って」

「……"駄目"?」

「うん。なんていうか、引き留めるみたいに。よく分からないんだけど」

 シラユキは、真面目な顔になって考え込んでしまった。
 わたしは、雨に打たれて震える傘の柄の感触に、感覚を集中させた。 
 難しいことは、よく分からない。考え始めると、頭が軋むように痛み始めるのだ。

 やがてシラユキは、くすくすと笑い始めた。

「不思議な夢ですね」



 その声をきいて、わたしはようやく安心した。
 最初から、気にするような夢じゃないと、そう笑い飛ばしてくれれば、わたしはそれでよかったのだ。

「でも、夢は夢ですから」

「うん。そうだよね」

 それからわたしたちは、森の深い方へと歩いていく。
 雨に濡れた森の匂い。靴の裏のぬかるんだ土の感触。
 うるんだ空気の中を、わたしたちは長いあいだ、黙り込んだまま歩いた。
 
 夢は、夢だ。気にしたところで仕方ない。
 わたしは自分にそう言い聞かせる。少し、雨が強くなった気がした。




 屋敷で生活していると、ときどき無性に寂しいような、悲しいような気持ちに襲われることがある。
 なぜなのかは分からない。いったい何がそうさせるんだろう。

 シラユキが作ってくれる食事はとても美味しい。
 ベッドだって、服の替えだってたくさんある。生活には何ひとつ不自由していない。
 眠りたいときに眠ればいいし、食べ物だって食べたいだけ食べられる。

 
 わたしはこの屋敷以外の世界を知らない。 
 だからどれだけ本を読んでも、書いてあることのほとんどがよく分からない。

 実感を伴って迫ってこないのだ。写真でしか見たことのないものがたくさんある。

 たぶん、取り残されているのだと思う。わたしは、この屋敷は、この街は、取り残されているんだ。
 でも、いったい何から取り残されているというんだろう。
 
 世界にはこの街しか存在しないのに。この街が、世界のすべてなのに。
 わたしは、それ以外の世界を知らないはずなのに。
 それ以上のことを考えようとすると、頭が、どうしようもなく、軋むように痛んだ。



つづく

がんば

面白そうだ




 散歩を終えて自室に戻ると、いつものように手持無沙汰になった。
 とりあえず、机の上に置きっぱなしだった、読み止しの本を開いてみたりする。

 でも、ちっとも分からない。何が書いていあるのか、よくわからないのだ。

 集中できるできないとか、そういう問題ではないと思う。
 わたしにとって、本を読むのは簡単な作業ではないのだ。
 
 学術書だろうと、物語であろうと、読んだ感じはだいたい同じ。
 学術書は、身近に感じられるものがあったとしても、とても難しくてよく分からない。
 物語はというと、まずその「世界」が理解できない。

 わたしが実感を持って理解できるのは、この屋敷を中心にしたごく狭い世界の中に存在するものごとだけ。
 だからたとえば、「飛行機」だとか、「気球」だとか、「雪」だとか言われても分からない。
 この街の空には、飛行機も気球も飛ぶことがない。雪だって降ることはない。

 空にはただ雨が降り続いているだけだ。



 とはいえ、書庫には分厚い百科事典も並んでいるし、たくさんの図鑑や写真もある。
 だから、かろうじてその内容を理解することもできた。
 かといって、わたしはその作業が特別好きだったわけではないのだけれど。

 読書はわたしにとって、どうしようもなく退屈な日々をごまかすための、ひとつの暇つぶしに過ぎない。
 それは骨の折れる作業でもあったし、また実りのない作業でもあった。

 切り離されている、とわたしは思う。
 そう感じるのはたぶん、本を読みすぎたせいだろう。
 
 なんだか妙に気怠くて、本を読み解く気にはなれず、わたしはベッドに寝転んだ。
 天井を仰いで横になると、雨の音が大きくなる気がする。
 


 これまでは、この雨の音を聞きながら、本を一日中読み続けることも苦痛ではなかった。
 でも、今日はひどく物憂い。身体を動かすのも億劫だ。

 閉ざされているのだ、とわたしは感じる。
 こんな屋敷に一日中引きこもって、何もせずに過ごすなんて、それは異様なことに思える。
 何に比べて異様なのかは、分からないけれど。

 けれど反対に、それは仕方ないことなのだとも思う。 
 だってそれは、わたし自身が望んだことだから。理由は分からないけれど、そう思う。

 今までは、こんなことはまったく気にならなかった。自分について深く考えたこともなかった。
 考えるのはいけないことだとすら、考えていた。

 夢は夢ですから、とシラユキが微笑む。その表情を思い出す。
 なにか、とっかかりすらない不安のようなものを感じた。
 



 妙に気分が落ち着かなくて、何かを飲みたくなった。
 わたしは部屋を出て、一階の食堂へ向かう。
 たくさんの部屋があるこの瀟洒なお屋敷も、ふたりで使うには少し広すぎる。
 
 シラユキは丸一日掛けて、この屋敷を丁寧に掃除する。
 夕方になると下界に買い物へ行き、帰ってきてからは夕飯の支度を始める。
 わたしが彼女に会いたいとき、彼女がいないことはしょっちゅうだった。

 それが自分の仕事なのだと、彼女はいつも柔らかに笑った。

 この屋敷の中に、当たり前の生活のサイクルを築きあげること。
 それが彼女の仕事。そして、わたしの世話を見ることも。

 彼女はわたしが、自分ひとりで水を飲んだりすることすら嫌う。 
 自分が世話をしたいから、という理由ではないと思う。

 わたしがただ水を飲んだり食べ物を食べたりということも、本心では嫌がっているのかもしれない。


 わたしはシラユキがいなければ自分ひとりでコーヒーをいれることもできない。
 カップどころかスプーンが置かれている位置さえ分からないのだ。

 それは、わたしの生活力の無さだけが理由ではないはずだ。そういう部分もあるかもしれないけど。
 けれどシラユキには、わざとそのようにして、屋敷の中をややこしくしているところがある。

 まるでわたしに、この屋敷の中で何もしてほしくないみたいに。
 反対に彼女は、わたしが本を読んだり、音楽を聴いたりすることを好んだ。

 なぜなのかは分からない。だけどわたしは、できるかぎり彼女の望むように生活しているつもりだ。
 わたしの生活は、彼女の存在によって成り立っているのだから、当然と言えば当然だ。

 もちろんシラユキに隠れて軽い食事をとったりすることもある。
 実際、シラユキは嫌がるような素振りを見せるだけで、わたしを制限しようとはしないのだ。

 シラユキが何を考えているのか、わたしは知らない。
 彼女はわたしに多くのものを与えてくれる。それだけを覚えていれば、それでいいのかもしれない。
 でもときどき、何もかもが嫌になって、この屋敷を抜け出してしまいたいとも思うのだ。




 雨は一日中降り続いていた。
 わたしはその日、本を読むことも音楽を聴くことも、結局ほとんどできなかった。
 
 夕飯をとってお風呂に入ったあとも、気分は朝と同じだった。
 諦めて早々に眠ってしまおうと思ったのに、いつもは気にならない雨の音が、今日は妙に耳を突く。

 それでもベッドの中で瞼を閉じていると、睡魔が徐々に体を麻痺させていった。

 夢。夢を今夜も見るんだろうか?
 わたしはあの声を、起きている間中、ずっと思い出すことができる。
 ずっと耳元で、ささやき続けているような気さえするのだ。

 駄目だ、と。
 そこにいては駄目だ、と言うみたいに。
 
 妙に眠るのが怖くなって、わたしはベッドを抜け出した。



 廊下に出るとひどく薄暗い。夜は知らぬ間に深まっている。
 もともとこの屋敷では、時間の流れというものがひどく曖昧だ。

 時計が、極端に少ない。些末なことと言えば些末なことだ。
 わたしはこの屋敷で生活し続けるかぎり、正確な時間を必要としないのだから。

 シラユキの寝室は、一階の、厨房のすぐそばにあった。
 わたしは足音を立てないように絨毯の上を滑るように歩いた。

 
 廊下の壁のランプの灯りを頼りに、わたしは彼女のもとを目指した。 
 
 部屋の扉をノックすると、返事が聞こえなかった。

 わたしは少し待ってから、ノブをゆっくりと捻る。
 どこか、悪いことをしているような気分だった。



 部屋の中は暗かった。雨のせいで月当たりも差し込まない。
 それでも暗い灯りが天井の電灯から注いでいたから、真っ暗ではない。
 そのおかげでわたしは、部屋の様子をおおまかに確認することができた。
 
 足音を忍ばせてベッドに近付くと、シラユキは既に眠っているようだった。
 わたしが寝付いた後も、シラユキは自分が抱え込んださまざまな作業を続けている。
 その彼女が眠っているということは、本当にもう、遅い時間なのだ。

 わたしはベッドの横に膝をつき、彼女の寝顔を眺める。
 いつもは落ち着いていて大人びた印象があるのに、こうしてみるとシラユキは小さな子供のようだった。

 パジャマ姿になって、カチューシャを外し髪を下ろすと、彼女はわたしなんかよりずっと、お嬢様然としている。
 薄いクリーム色の髪。閉じられた瞼と長い睫毛。
 
 彼女の寝顔を見ていると、わたしはいつも後ろめたい気分になる。
 中庭に迷い込んだ綺麗な小鳥を、無理に捕まえて籠に閉じ込めているような、そんな気持ちに。



 じっと眺めていると、シラユキの睫毛がぴくりと震える。わたしはどきりとした。

 彼女は何度か息を深く吸い込み、吐き出した。
 彼女の呼吸に合わせて、布団がゆっくりと上下する。
 
 それからシラユキの瞼がゆっくりと開かれた。
 彼女はすぐにわたしに気付いて、ゆっくりと顔をこちらに向ける。

「どうしました?」

 彼女は微笑む。わたしは胸が詰まるような思いだった。なぜなのかは、分からないけれど。

 どうかしましたか、と彼女は訊ねる。
 どうしたんだろう? いったいどうしたっていうんだろう? 分からない。

「眠れないの」

 彼女は困ったような顔をする。わたしは何も言わずに身じろぎした。
 視線を合わせるのが、少し怖い。雨の音が鳴り続いている。

 シラユキはベッドの上で体を動かし、壁際に寄ってスペースを作ってくれた。
 わたしはその隙間にもぐりこむ。彼女はくすぐったそうに身をよじった。



 しばらく何も言わずにいた。ベッドはシングルだったから、二人で眠るには少し狭い。
 でも、無理ではない。わたしたちはとても小柄だったから。

「……夢」

 シラユキは不意に、思い出したように言った。

「例の夢は、いつから見るようになったんです?」
 
「思い出せないけど、最近はずっと」

「毎晩ですか?」

「見ない日もあるけど……」

 わたしは少し怖くなった。

「……夢は、ただの夢でしょう?」

 そう言うと、彼女は困ったように笑う。
 わたしは何かを言うべきなのかもしれないと思った。けれど何を言うべきなのか、分からない。



「シラユキ、わたしは」

 途中まで言葉にしてから、わたしは急に不安になる。 
 彼女は不審そうに眉を寄せた。

「わたしは、ずっとここに居られるの?」

 わたしの言葉に、彼女は怯えるような顔をした。
 なぜこんなことを不安に感じるのか、分からない。
 雨は降り続いている。わたしの日々に変化はない。
 
 何も変わらない。わたしはずっとここで暮らしていけるはずなのだ。

 シラユキは何かを言いたげにしていたが、どう言えばいいのか分からないようだった。
 言うべきかどうかすら迷っているように見えた。彼女には、わたしに告げていない何かがあるのだ。
 


「ごめんなさい」
 
 耐えきれなくなって、わたしは謝った。
 シラユキはほっとしたような、困ったような顔になった。
 わたしはベッドの中で彼女の手をさがして掴んだ。

 小さな手のひら。触れるとほのかに暖かい。
 シラユキが苦しそうな顔になったので、驚いて手を離すと、今度は彼女がわたしの手を握った。
 何かをこらえるような表情。
 
「ごめんなさい」

 と今度はシラユキが言った。わたしは彼女が何を謝っているのか、よくわからなかった。





 いつの間にか眠りに落ちたわたしは、夢を見た。
 彼の声は聞こえない。いつもの夢ではなかった。

 夢の中でわたしは暗い場所に立っている。
 雨音が聞こえる。少し肌寒い。あたりは暗い。広ささえ分からない。

 そこでは、わたしの他に、もうひとり誰かがいる。
 彼女の姿は水面越しに見るように歪んでいて、その輪郭は滲んでいる。

 曖昧で、ぶよぶよと動く、不定形の姿。
 それがそう見えるだけなのか、本当にそういう形をしているのか、わたしには分からなかった。

 彼女とはどこかで会ったことがある気がするのだけれど、よく思い出せない。
 わたしはただ、彼女のその滲んだ姿を、ただただ恐れて、怯えて、震えている。

 そういう夢だ。

つづく

乙。雰囲気いいね

続けてください




 目が覚めたとき、シラユキの姿は既になかった。
 起き抜けの気怠い気分のまま、窓の外から変わらず聞こえる雨の音に、しばらく耳を傾ける。

 夢。奇妙な夢。なんだったのだろう?
 妙に不安にさせられる、嫌な夢だった。

 ……あまり気にしても仕方ない。わたしはベッドを抜け出す。
 朝食の時間がきたらシラユキが起こしにくるはずだから、まだ朝早い時間だろう。
 
 わたしは少し迷ったが、いちど自室に戻ることにした。
 
 何かが、気がかりだった。でも、それがなんなのか分からない。



 自分の部屋に戻ると、やはりいつもとは何かが違う気がする。
 何が、違うんだろう?
 
 窓や扉の形が変わっていたわけでもない。
 壁や天井だっていつもの通り真っ白だ。絨毯も赤い。
 
 窓の外はどうだろう? 雨だ。いつもより、雲が暗い気がする。
 わたしの部屋には物が少ないから、何か余計なものが加わっていればすぐわかる。
 
 机の上には何冊かの本が置かれている。書庫から持ってきて置いたものだ。
 タイトルも装丁も変わっていない。当たり前だ。
 筆立てにはろくに使ったこともないペンが何本か立てられている。

 他には何もない。 
 わたしは溜め息をついてからベッドに体を投げ込もうとして、強烈な引っかかりを覚えた。

 もう一度机の上を見る。



 本の冊数は三冊だった。わざわざ数え直さなくても、見ただけで分かる。
 念のため、一冊一冊、しっかりと手で確認してみた。三冊だ。
 思わず机の周りを見回す。枕元も床も、全部。

 でもない。部屋中探しても、本は三冊だけだった。もともとそうだっただろうか?
 違うような気がする。わたしは書庫から、本を四冊持ち出したはずだ。
 
 ……記憶違いということもあるかもしれない。
 いつも、読みたい本を読める範囲で、気まぐれに持ってきているだけだから。
 
 気のせい、なのだろうか。そうではないという気がする。でも、それ以外に考えられない。
 本は勝手になくなったりしないし、シラユキだって勝手に——しかも一冊だけ——片付けたりはしないだろう。
 
 どこかに置き忘れたのだろうか? でも、部屋に戻ってきたときは、たしかに四冊あった気がする。
 それ以降は、ずっと机の上においていたはずなのだ。
 
 しばらく考え続けていたけれど、結局ばかばかしくなってベッドに倒れ込んだ。
 勘違いだ。そうじゃないとしたら、なんだというんだろう?
 本は勝手になくなったりしない。勘違いだ。





 朝食をとったあと、自室に戻って本を読もうとしたが、気分が乗らなかった。 
 毎日、同じことの繰り返し。何も変わったことは起こらない。

 窓の外では、雨が降り続いている。
 ずっと降り続く雨。空がいつもより暗いから、寒さが増している気がする。
 不気味な雨雲。ここから見下ろせる森も、いつもより薄暗く見える。

 何が、わたしをこんなにも不安にさせているんだろう。

 シラユキとわたしだけの、ごくあたりまえの生活。
 これまでずっと続いてきて、これからもずっと続くだろう、生活。

 なのになぜこんなに、胸がざわつくのだろう。
 わたしが溜め息をついて窓辺を離れたとき、何か鮮烈な光が空から降ってきた。
 一瞬、それは強く部屋の中に入り込んで、消えた。

 続く、轟くような怒号に、わたしは思わず窓から距離をとった。
 今のは……雷鳴?
 


 わたしは泣き出したい気持ちになる。どうして、雷が鳴ったりするんだろう。
 いままでは、そんなことは一度もなかったのに。

 おそろしくなって、わたしは部屋を出た。シラユキはまだ朝食の片付けをしているはずだ。
 厨房にいけば、彼女はそこにいるはずだ。
 廊下を歩いているとき、また雷鳴が聞こえた。
 
 階段を途中まで降りると、玄関ホールを通ることになる。
 普段なら何の意味もない場所だ。でも、今日はそうではない。

 話し声が聞こえた。
 そしてより一層恐くなる。どうして、話し声が聞こえたりするんだろう?



 わたしは階段の半ばに座り込んで、その声が止むのを待った。
 まるで影がささやきあっているような声だった。上手に聞き取れない。聞き取りたくもなかった。
 雷がまた響く。わたしは瞼を閉じてぎゅっと耐える。いったい何が起こってるんだろう?

 声はひそひそと話を続けている。その片方がシラユキのものだと、なんとなくわかった。
 話は長くかかっている。そう感じただけかもしれない。早く終わってほしいとわたしは思った。

 やがてその声は途切れた。わたしは少し待ってから、立ち上がって階段を下りる。
 足元の感触がふわふわとしている気がした。

「おいおい、大丈夫か?」

「うん」

 ——?

 わたしは振り向いた。でも、誰もいない。当たり前だ。
 


「……誰かいるの?」

 声は、自分でも分かるほど震えていた。辺りを見回してみても誰もいない。階段の上にも、踊り場にも。
 じゃあ、どうして、声が聞こえたりする?
 
 ……わたしはひょっとして、疲れているのかもしれない。
 この屋敷にいるのは、わたしとシラユキだけ。それはもうずっと続いてきたことだ。
 珍しく来客があった。滅多に鳴らない雷が鳴った。それだけだ。

 それだけなのに、わたしは何を怖がっているんだろう。
 ことさら強く自分に言い聞かせて、階段を降り切る。
 
 シラユキは外に繋がる扉の前に、ぼんやりと立っていた。
 かすかな冷気と、雨の匂い。

「シラユキ?」



 声を掛けると、彼女の身体はびくりと震えた。

「どうしたの?」

 訊ねるわたしの声は、やっぱり震えている気がする。
 シラユキもそうなのかと思った。何かに怯えているのかと。でも違う。
 彼女の表情は、恐怖や怯えと言うよりも、むしろ、考え込んでいるようなものだった。

「なんでも。少し来客があっただけです」

 そう言ってから、彼女はことさらに笑って見せた。

「どんな用事?」

「街の方で空き巣が出ているようだから、気を付けるようにと。それだけです」

「本当に、それだけ?」

 自分でも驚くほど、強い声音だった。シラユキは驚いたような表情になる。
 そして、少し頬を緩めた。


「それだけです。驚きましたか?」

「……うん」

 だって、この屋敷に来客があったのなんて、わたしが知る限りでは初めてだ。
 そう言おうとして、やめておいた。どこかで、その事実を認めたくなかったのだと思う。

「それより、顔が真っ青ですよ」

 シラユキはこちらに歩み寄り、静かに手を伸ばして、わたしの頬に触れた。

「暖かい飲み物、用意しましょうか?」

「……うん」

 本当はなくても構わなかったけれど、いまはシラユキの傍にいたかった。
 食堂で待っているように言われたけれど、わたしは厨房までついていった。
 彼女は困ったように笑う。


「どうしたんですか、今日は」

 シラユキは、いつもより近くにいたがるわたしに、照れくさそうに笑った。
 茶化すように言われても、わたしは離れる気になれない。
 
「雷が……」

「雷?」

「うん。雷が、さっき、鳴っていたから」

「雷、ですか。雷が、怖かったんですか?」

「……そうだけど、悪い?」

 意外そうな声音に、拗ねたような気分で返す。彼女はくすくすと笑う。わたしは恥ずかしくなった。
 同時に、シラユキの反応に少し安心する。
 
 珍しいことではあるけれど、わたしは見るのがはじめてだったけれど、雷なんて、全然不思議なものじゃないのだ。
 それがちょっと、意外と大きな音を鳴らして、意外と強く光ったから、驚いただけ。それだけだ。



 それでもなんとなく不安がぬぐえずに、仕事に向かおうとするシラユキを引きとめて、食堂で少しの間休んだ。
 彼女はわたしが少しでも目を離すと、すぐに思案深げな表情をした。
 
 シラユキが作ってくれたホットミルクを飲みながら、わたしは彼女の表情をじっと見つめる。

「何か、考え事?」

 わたしが訊ねると、シラユキははっとしたように顔をあげた。
 そして笑う。ごまかすみたいに。

「いえ、そうではないんですけど」

 と一度否定してから、

「……いえ。そう、ですね。考え事かもしれない、です」

 少し言いにくそうに、笑った。



「あの、お願いがあるんです」

「……お願い?」

「はい。……お願い、です」

 彼女の真面目な雰囲気に、わたしはなんだか不安になった。

「もし、今日のように来客があった場合、できるかぎり、彼らと会わないようにしてほしいんです」

 そこまで言ってから、一度言葉を区切り、

「……いえ。正確に言うと、見つからないようにしてほしい、んです」

 そう訂正した。

「見つからないように?」

「はい」


 わたしは判断に困った。それじゃあまるで、わたしがここにいることを、誰も知らないみたいだ。
 ……いや、そうなのかもしれない。わたしは誰とも、会ったことがないのだから。
 でも、だとすると、シラユキは街のひとびとに、わたしの存在を隠していることになるんだろうか。

 わたしはどう答えようか迷ったけれど、彼女の表情は真剣だった。
 気圧されるように頷くと、シラユキは安堵したように息を吐いた。

「ありがとう、ございます」

 わたしはその声に頷いたけれど、素直に納得できない何かがあった。
 シラユキは、わたしに何を隠しているんだろう。

 でも、わたしはそれを、知りたいのだろうか?

 わたしはただ、ここで彼女と穏やかに暮らせれば、それでいいはずなのだ。
 ただ、それだけで。

訂正
38-6
 階段を途中まで降りると、玄関ホールを通ることになる。
→階段を降り切ると、玄関ホールに出る。

つづく

ふむ
この書き方に見覚えがあるぞ

乙乙
人いないのはもったいない

見てますよ 乙。




 シラユキが仕事を始めると、わたしは暇になってしまった。
 本当は彼女のことを追いかけまわして一緒にいたい気持ちもあるけれど、からかわれるのが目に見えている。
 
 かといって、今は本を読む気にもなれなかった。
 自分の部屋でじっとしているのも嫌だった。見知ったはずの屋敷が、変に余所余所しく感じられる。

 今にも廊下の角から、「何か」が出てきそうな気がした。
 部屋で休んでいると、ノックの音が聞こえて、「誰か」が現れるような気が。

 たぶん、気にしすぎているのだろうけど。でも、さっきの声、あれは……。
 たしかに聞こえた気がしたのだ。わたしが知るはずもない男の低い声が、聞こえた気がした。

 散歩にでも行こうかと思ったけれど、シラユキにあんなことを言われたばかりで、外には出るべきではないだろう。

 仕方なく、わたしは書庫に向かった。



 書庫は地下にあるから、昼に行っても薄暗く、肌寒い。

 蔵書の正確な量は分からないが、尋常な量ではない。
 もし確認しようとするなら、本棚の数から数えなければならないだろう。

 誰が集めたものなのかも、わたしは知らない。
 そもそも、この屋敷が誰のものなのかも、わたしは知らないのだけれど。
 それを思えば、わたしはあまりにわたしについて無知だという気がした。
 かといって、別に知りたいとも思わないのだけれど。
  
 むしろ、知ってしまうことへの恐怖の方が大きい。
 それは自分の知らない自分を知ることに対する恐怖、ではない。
 それを知ってしまったら、何かが壊れてしまうような、そんな予感があるのだ。



 ひんやりとした冷たい空気と、宿命的なカビの匂い。

 林立する本棚の隙間を縫うように歩く。
 書庫はあまりに広い。ひとひとり隠れていたって、わたしはきっと気付かないだろう。

 地下では影が大きい。
 電気はここまで届いていたし、灯りだって少なくはない。
 でも、影が大きいのだ。たぶん外と同じ明るさにできたって、その事実は変わらない気がする。

 それを言えばこの街だって、ずっと薄暗いままなのだけれど。
 ……わたしはこの街の明るさを、他の何処と比較しているんだろう。
 
 読みたい本は既に部屋に持って行ってしまったから、書庫でやることはなかった。
 新しい本を探すこともできたけれど、どちらにしても読む気はしないのだ。

 わたしは入口からずっと奥へと進み、突き当りの壁の傍に置かれた、木製の椅子に腰かけた。
 簡素な机が置かれていて、ここでも読書ができるようになっている。

 といっても、地下は居心地が悪いから、あまりここで本を読むことはないのだけれど。



 わたしは溜め息をついて、近頃の自分について考えた。
 妙に不安になったり、落ち着かなくなったりする自分。

 何が原因なのだろう? 考えると答えはすぐに出てきた。
 
“駄目だ”、と。

 夢の中で、男は言った。
 起きたらすっかり忘れているけれど、彼はいつも、わたしの名前を呼ぶ。
 それはたしかにわたしの名前なのだ。起きると思い出せないだけで、そういう実感があった。

 単なる夢と割り切ることもできる。でも、もしそうじゃないとしたら?
 そうじゃないとしたら、どんなことが考えられるんだろう。



 単なる夢でないとするなら、二つ、考えられる気がした。

 まず素直に考えるなら、実際にわたしが、そういう経験をした、という可能性。
 過去に見た映像、過去に経験したシーンを、わたしは繰り返し見ているのだ。

 そうだとするとわたしは、あの夢の光景を、経験したことがあるということになる。

 引き留めるような男の声。 “駄目だ”と言う声。
 そして、彼はわたしの名前を呼び続ける。

 もしあの夢が、わたしが思い出せない過去だとするなら……。
 わたしはやっぱり、何かを忘れてしまっているのだ。

 そしてその頃のわたしは、少なくとも名前を持っていた。
 じゃあ、なぜ今のわたしはここにいるんだろう?
 名前を忘れてしまっているんだろう?

 もちろん、ちょっと考えたところで、簡単には分からなかった。


 もうひとつの可能性は、冗談のようなものだが、予知夢のようなものだという可能性。
 あるいは、誰か知らない人が、わたしが寝ている間に、わたしの頭に直接交信しているとか。

 ……ばかばかしい、とわたしは思った。
 まあ、ないとは断言できないけど、ちょっと考えにくい。

 そういえば、今朝、階段で聞いたあの声。
 あのときの声は、夢で聞いたそれに、少し似ていた気がする。

 だとすればやはり、階段で聞いた声は、幻聴のようなものだったのだろう。
 夢で見た声を、現実で聞いたように錯覚しただけだ。

 ばかばかしい、とわたしは自分に言い聞かせた。そして溜め息をつく。
 何を大真面目に考えているんだろう。ただの夢だ。シラユキだって、そう言っていた。


 そういえば、とわたしは思う。
 昨晩、シラユキと一緒に眠ったときにみた夢は、いつもとは違った。
 ここのところ、ほとんど毎晩のように彼の夢を見ていたのに、昨夜のものは違った。

 どんな夢だっただろう? 漠然としたイメージすら、引っ張り出すのが難しかった。
 でも、かろうじて思い出せる。
 たしか、わたしは暗いところにいて、そして誰かと向かい合っていた。
 誰か。薄い皮膜のようなものを挟んで、輪郭が歪んで見えた。

 わたしはそれを、とても恐れた。

 なぜ今日になって急に、そんな夢を見たのだろう。
 何度試みても、夢のことが頭から追い出せない。


 わたしは立ち上がって、夢について書いてありそうな本を探すことにした。
 これだけ蔵書があるのだから、あってもおかしくない。
 でも、いくら本を読んでも無駄だという気もした。

 仮にわたしの夢についてそれらしい注釈を付け加えてくれる本があったとしても、わたしはそれを信じないだろう。
 だって、これは、そうした説明や理屈の、外側の出来事なのだ。分からないけど、そう思う。

 でも、そういった直感とは別の話として、本を紐解いてみても無駄だった。
 何冊か集めたが、むずかしくてほとんど理解できないのだ。なんだかごちゃごちゃとしていて抽象的だった。
 諦めて、一度は集めた何冊かの本を棚に戻すことにした。

 半分を戻し終えて溜め息をついたとき、かたん、と物音が聞こえた。
 何かが、落ちるような音。


「……シラユキ?」

 声を掛けたけれど、返事はなかった。
 背筋がざわざわする。シラユキなら、すぐに返事を寄越す。
 そもそも彼女はこの時間、書庫には近付かないはずなのだ。

 書庫はあまりに広いから。
 ひとひとり隠れていたって、わたしはきっと気付かない。

「だれ?」

 とわたしは訊ねた。頭の中でもうひとりの自分が嘲笑う。シラユキのほかに誰がいるっていうの? 
 でも音は聞こえたのだ。
 ただの錯覚なんだろうか? わたしは神経質になっているのか?
 
 おそるおそる物音のした方へと向かう。
 ゆっくりと歩いたのは足音を忍ばせる意味もあったけれど、たぶん怖かったからだ。

 心臓の震えがいやに大きく、警鐘のように感じられた。
 警鐘? 何に対する?
 


 物音のした棚と棚の間を覗き込む。誰もいない。
 
 けれど、本が一冊、床に落ちていた。
 わたしは少し怖くなったけれど、さっき自分が歩いた棚だったので、そのとき何かの拍子に落ちたのかもしれないと思った。
 ちょうど夢に関する本の一冊は、ここからとったものだ。今手元にあるうちの一冊がそれだった。

 わたしは溜め息をついてから本に近付いた。
 気にしすぎているのだ。単なる神経質。そうだろう。

 わたしは一度、持っていた本を棚の元の位置に戻す。それから床に落ちていた本を拾い上げた。
 心臓が凍るようだった。

 それはわたしが、自分の部屋に持っていったはずの本だった。
 そして、自分の部屋からなくなっていたはずの本だった。



 ……落ち着け、と、わたしは思う。
 やっぱり書庫から持ち出していなかった。きっとそれだけのことだ。
 その本が、たまたまわたしが取った本の近くにあって、たまたま落ちてしまっただけだ。

 そう、全部偶然。ありえないことじゃない。

 ……本当に?

 そんなことが、本当にあるのか?

 わたしは持っていた本を近くの棚の空いたスペースに突っ込んだ。
 一刻も早く書庫を抜け出したかった。

 地下室の出口に向かい、階段をのぼる。扉を開けると視界が少し眩む。
 息を切らして廊下を駆け回った。一階を探し終えるとそのまま階段を昇って二階に向かう。

 シラユキは二階の廊下を掃除していた。彼女はこちらを見て驚いた顔になる。
 彼女が何か言う前に、わたしは彼女に抱きついた。走るのをやめると、とたんに体が震えだした。


 わたしはしばらく彼女が何を訊いても何も言えなかった。ただ怖かった。
 
「何があったんですか?」

 シラユキは慌てた様子で何度も訊ねた。わたしはうまく答えることができない。
 窓の外の雨音がいつもより緩やかなテンポに聞こえた。呼吸を整えるのに時間がかかる。
 わたしは振り絞るような気持ちで口を開いた。

「シラユキ……」

 唇が、うまく動かなかった。

「この屋敷に、わたしたち以外の誰かがいるの?」

「……え?」

 シラユキの表情が凍る。
 わたしには、もうそうとしか思えなかった。
 もうこれを、単なる錯覚だとか、偶然だとか、そういうふうに考えることはできない。



「何があったんですか?」

 シラユキは、今度は真剣な声を出した。
 わたしは彼女に抱きつく力を少し緩めて、深呼吸をした。怖さはなくならない。

 そして、どうにか説明しようと思った。でも難しい。もどかしかった。

「とにかく、ここでは……」

 シラユキが言いかけたとき、窓の外から雷鳴が響いた。
 わたしは自分の身体をこの場に縫い付けるのに必死だった。

 誰かがいるかもしれないことも恐ろしかったが、それだけではない。
 昨日まではずっと同じだったことが、今日、そうではなくなっていることの方が、よっぽど怖かった。

つづく

乙…!

乙です
続き楽しみにしてます




 わたしの説明を聞いて、シラユキは考え込むように頷いた。
 
 それから書庫の様子を見に行くと言い出したので、わたしもついていくことになった。
 書庫には近付きたくなかったが、シラユキからも離れたくなかった。

「あの、一緒に行くのはいいんですけど」

「なに?」

「裾、掴まれてると、ちょっと歩きにくいです」

「……」

「……あの」

 わたしが答えないでいると、シラユキは困ったように溜め息をつく。



 書庫はやはり、薄暗い。シラユキは入口で一度立ち止まって辺りを見回したあと、ゆっくりと歩き始めた。
 わたしは半ば引っ張られるようにしてついていく。

 彼女は本棚と本棚の間を一列ごとにしっかりと確認した。
 わたしもそれに倣う。人の姿はないし、物音もしない。ただ深い影が落ちているだけだった。

「ここ」

 わたしは途中でシラユキの服の裾を引っ張って引き留めた。

「ここで物音がしたの」

 シラユキは頷いて、わたしが示した方へと進む。
 彼女の歩調がいつもより速いように思えるのは、気のせいだろうか。


「何もないですね」

「……何かあったら、困るよ」

「何かあったから、ここに来てるんじゃないですか」

「そりゃ、そうなんだけど……」

 わたしが黙ると、彼女はもういちど首を巡らせて周囲を窺い、ふたたび歩き始めた。
 彼女は書庫の奥の壁を見つめて、少しの間黙った。ちょうど机と椅子が置かれているあたりだった。

「シラユキ?」

「……はい」

 呼びかけると、すぐに返事が返ってきた。

「とにかく、ここは何ともないようですから、とりあえず上に行きましょう」

「……うん」


 でも、もしすべてがわたしの気のせいじゃないなら、おかしなことがあったのはここだけじゃない。
 わたしの部屋、それから階段、この地下。
 そのすべてに現れた何者かがいるとするなら、その人物は屋敷を自由に闊歩していることになる。

 あるいは、複数の人間なのかもしれないが。

 考えてみれば当たり前の話で、この屋敷はあまりに広い。
 それに対して暮らしているのは二人だけ。
 入口さえ見つければ、誰でも簡単に侵入して、隠れていることができる。

 わたしたちに知られずこっそりと、屋根裏かどこかで生活することだってできる。
 シラユキが掃除する時間にさえ気を付けていれば、空き部屋で堂々と生活だってできる。
 あるいは、隠し扉みたいなものだってあるかもしれない。

「とにかく、戸締りをしっかりするようにしましょう。一応、確認して回ってみます」

「一緒に行く」

 シラユキは少し戸惑ったような顔をした。


「部屋で休んでいた方が……。鍵だって一応ありますし」

「その部屋に、誰かがいるかもしれないんだってば」

「でも、屋敷の中に既に侵入されているとしたら、どこにいても関係ないですよ?」

「もし別々に行動して、どちらかが不審者に襲われたらどうするの」
 
「襲ってくるような相手なら、今までに襲われている気がしますが……」
 
 それを思えば、そうなのだけれど。でも、離れる気にはなれなかった。

「それに……」

 と、シラユキは一度何かを言いかけたが、それを引っ込めた。
 それから、気を取り直すように言葉を続ける。

「ひょっとしたら、村長さんが言っていた空き巣かもしれません」

「……空き巣」


 わたしは、あのときの声は村長だったのか、と少し場違いな気持ちになった。
 空き巣? わたしは少し拍子抜けしたような気分になる。
 でも、たしかに考えてみればそうだ。もし屋敷に忍び込んだのが空き巣なのだとしたら、納得できる。

 ……できる、か?

 ただの空き巣が、わたしの部屋に忍び込んで、本を一冊だけ盗む。
 それをご丁寧に地下の書庫まで返しに行く。そこで屋敷の主に遭遇し、本を落として音を立ててしまう。
 あわててわたしに気付かれないよう、隠れるなりやり過ごすなりした……。
 
 ……なぜ、空き巣が、わざわざ本を返すのだ。
 でも、もし襲ってくるような相手なら、そのときわたしの前に姿を現していただろう。 

 結局シラユキはわたしの同伴を認めて、一階から順に戸締りを確認していくことになった。
 食堂に厨房、シラユキの部屋、大浴場、リネン室、ランドリー室。
 応接間、書斎、ボイラー室、いくつかの空き部屋。
 


「その空き巣って、どんな話だったの?」

「どんな、というと?」

「何か、盗まれたとか」

 ああ、とシラユキは頷く。

「いえ、何も。ただ、不審な人影が何度も目撃されたみたいなんです」

「何度も?」

「はい。なんでも、そこら中の家に忍び込んでいたみたいで、出てくるのを見たって言う人が大勢いるそうなんです」

「……このあたりの防犯意識って、どうなってるの」

「まあ、小さな町ですからね。みんな顔見知り同士ですし、警戒心は結構、緩いんだと思います」

 そもそも、とまたシラユキは何かを言いかけたが、口を閉ざした。
 さっきから、彼女の様子はどこかおかしい。


「でも、何も盗まれてはいなかったそうです」

「盗まれていない?」

「はい。お金も食べ物も、服も貴金属も、何も、です」
 
 そもそも金目のものを狙うなら、こんな辺鄙なところではなく、もっと都会の方で盗むでしょうし。
 どこか白々しい口調で、シラユキは言った。
 彼女の態度は、何かを盗む人なんているはずがない、とでも言いたげだった。
 そこには確信に近い何かが宿っている気がした。

 怪訝に思いつつも、わたしは質問を続ける。

「でも、じゃあ、仮にその目撃された人影が本当だったら、何が目的なんだろう?」

 外では雨が降り続いている。雲が青白く浮かんでいた。
 窓を叩く雨粒の音が、静寂よりはましに思えた。



 シラユキはわたしの疑問には答えなかった。
 不思議な沈黙だった。わたしはシラユキがの考えが手に取るようにわかった。
 彼女はその疑問の答えが想像できているのに、わたしに対して口にしなかったのだ。

 なぜかは分からないけれど、そのことがはっきりとわかった。

 答えがなくても、わたしにも疑問の答えは想像できた。
 何かを盗むでもなく、何度もさまざまな場所に侵入を繰り返しているとするなら、その人が探しているのは、何か特定の何かなのだ。

 それがこの街にあるのは分かっているけれど、どの家にあるのかが分からない。
 だから片っ端から侵入して確認した。と、そんなところだろう。

 その空き巣が、侵入者? 
 何か明確な目的がある人が、なぜ本を盗んで、返したりするんだろう。
 そうすることには、当然リスクが付きまとうのに。



 とはいえ、

『おいおい、大丈夫か?』

 あの声、言葉を思い出すかぎりでは、なんだか真面目に目的を想像しても仕方ないような気もする。
 屋敷の昔の住人の霊魂だとか言われた方が、まだ納得できそうだ。
 
 ひょっとしたら、その人物は探していた何かをこの屋敷で既に見つけたのではないか。
 そして、わたしたちに見つからないように、盗み出す機会を探っている。
 だとするなら、本を盗んだりしたのは、そのための陽動なのかもしれない。

 ただの想像だけれど、それは少し信憑性を帯びている気がした。

 なんにしても、知らない人間が知らないうちにこの屋敷に侵入しているかと思うと、ひどく落ち着かない。
 気味が悪い。背筋がぞわぞわする。

 シラユキはさっきからずっと黙ったままだ。わたしは俯いて廊下の絨毯の赤色を見つめる。




 わたしは、訊ねるべきなのだろうか。
 いったい何を隠しているのだと、シラユキに。
 でも、そうしたら、きっと何かが変わってしまう。そんな予感があった。

「……ねえ、シラユキ」

「なんですか?」

「その……」

 彼女は立ち止まって、きょとんとした顔でこちらを振り向く。 
 わたしは少しためらったが、諦めて口を開いた。

「トイレ、行きたいんだけど……」

「……はあ」

 呆れた顔をされて、頬がかすかに熱くなった気がした。



「じゃあ、ここで待ってますね」

「……あの、一度離れると、何かあるかもしれないし」

「何も起こらないと思いますよ」

「でも、万が一ってこともあるし……」

 シラユキは少し間を置いて、くすくすとおかしそうに笑った。

「近くまでついていきます。それでいいんですよね?」

「……うん」

 わたしはいじけたような気持ちで頷いた。

つづく

見てます 乙…

おつ。寒色系しか浮かばない空気だ




 屋敷中見て回っても、結局何も見つからなかった。

 わたしはどうしても一人になりたくて、掃除や洗濯をこなすシラユキの後ろをずっとついて回った。
 最初こそ困った顔をしていた彼女も、そのうち慣れてしまったらしく、言葉さえ交わさなくなった。

 シラユキが廊下や空き部屋を掃除する間、わたしはずっと考え事をしていた。
 でも、自分が何を考えているのかよく分からなかった。

 それは不思議な感覚だ。自分は何を考えているのだろう? と気付けば考えている。
 その答えが分からなくなる。どうして分からなくなるのだ? 分からない。

  
 そしてふと思い出す。わたしは、自分が何を考えているのかを、考えているのだ。 
 そうした多重的な感覚に、気付けば溺れている。要するに何も考えていないだけだ。




 昼食を取ったあとも、シラユキの仕事は続く。わたしはそれを追いかける。
 夕方を過ぎ、日が沈み、雨音が夜の闇に沈む。

 夕食を作らなくては、と言ったシラユキを追って、わたしも厨房へ向かう。 
 シラユキは、さすがに不審そうな顔をした。
 でも、わたしにもよく分からなかったのだ。

 なぜこんなにも、シラユキから離れたくないのだろう。
 それは、屋敷にいるかもしれない誰かが怖いからではないような気がした。
 わたしが恐れているのは、もっと根源的なものだという気が。

 不意に、頭の中が軋むような痛んだ気がした。


 そもそもわたしは、自分がなんなのかすら、よくわかっていない。
 何が起こっているのかも、まったくわからない。

 考えるな、とわたしは思った。忘れるんだ、何もかも。

 不思議なことに、頭の中でそう念じるだけで、痛みは最初からなかったかのように消えてしまう。
 わたしはいったい、何をそんなに考え込んでいたんだろう。
 余計なことなんて考えなくてもいい。忘れてしまったって、かまわない。

『駄目だ』と、どこかで誰かが言った気がした。

 雨が降り続いている。明日の朝は散歩でもしよう。
 雷の音は、もう聞こえない。




 夕食を食べ終えて、シラユキが食器を片づける。
 部屋に戻る気にもなれなかったけれど、シラユキを追いかける気にもなれなかった。

 わたしは食堂の自分の席に座り、ぼんやりとしていた。
 不思議なことはもう起こらなかった。
 朝からいろいろなことがあったせいか、体がひどく重い。
 
 そういえば、屋敷中を歩き回ったのなんて、久し振りかもしれない。
 
 久し振り。
 
 久し振りと感じるということは、以前にも似たようなことをしたことがあるのだろう。
 でも、いつなのかは思い出せない。わたしはいつからこの屋敷にいたんだろう。

 頭が、また痛んだ。



 シラユキが洗い物を終えて戻ってくる。彼女は食事を作るのも片付けるのも、手際がいい。
 もっとも、二人分なのでそう手間がかからないだけかもしれないが。
 今日は買い物に行かなかったから、明日、シラユキは街に行くのだろう。

 そうだとすれば、わたしはこの屋敷にひとりで残ることになるのか。
 そのことを考えると、追い払ったはずの不安が、ふたたび胸の中で疼いた。

「部屋に、戻らないんですか?」

「……」

「不安なのは分かりますけど、お風呂に入って寝ちゃった方がいいですよ」

「……シラユキ」

「はい?」

「ずっと不思議だったんだけど、シラユキは今回のこと、そんなに怖がってないみたいだね」


 彼女は少し困ったような顔になる。わたしは少し後悔した。
 
「わたしには直接、何かが起こったわけではありませんから。上手く実感できないのかもしれません」

「……でも、本当に誰か隠れていて、何か起こったら」

 シラユキは黙り込む。彼女の反応はおかしい。……おかしい、と思う。
 もしかしたら、わたしの方がおかしいのかもしれないけれど。
 だってわたしは、『この世界』について何も知らない。

 どうするのが普通なのかなんて、分からない。
 でも、このまま眠って、その間に何かが起こったら……?
 シラユキだって、そういう可能性に気付いていないわけではないだろう。

 わたしはじっと彼女の答えを待った。



「いくつか、理由を言うことはできます」

 ゆっくりと口を開いたシラユキの表情は、どことなく考えをまとめるのに苦労しているようにも見えた。 
 
「まず、本当に誰かがこの屋敷に忍び込んでいても、わたしにはそれをどうすることもできません。

 仮に屋敷中見て回ったとしても、わたしの目を盗んで他の場所に隠れているだけかもしれないですから。
 そうである以上、可能性を完全に払拭することはできません」

 シラユキはわたしの瞳をじっと見た。わたしはどう反応すべきなのかを迷った。

「それにこの屋敷のすべての出入り口を、わたしは完全には把握できていないんです。 
 だからわたしの知らない通路なりなんなりがあるとしたら、わたしはどうしてもそれを防げない。
 このふたつに関しては、わたしの力不足です」

 シラユキが、この屋敷の出入り口について、完全には把握できていない。
 わたしは何よりもまず、そこに驚いた。彼女はこの屋敷のすべてを把握しているような気がしていたのだ。



「それから、この屋敷に人を呼んで見張りをしてもらうこともできません。
 街にはあまり人がいませんし、ここは丘の上ですし……。
 ましてや、そうなると寝ずの番か、それに近いことをしてもらうことになります。
 証拠もなしにそんなことをしていただくわけにはいきません」

 そこでシラユキは少し嘘をついた。……と、思う。
 直感的に、彼女は建前を口にしているのだと分かった。
 人を呼べないのではなく、呼びたくないのだ。

 わたしを、街の人々に会わせたくないのだ。なぜなのかは、分からないけど。

「それから、仮に誰かが忍び込んでいたとしても」

 シラユキは、どう説明するかを迷うように、一瞬、躊躇した表情を見せた。

「根拠は言えませんが、わたしたちに危害を加えることはないと思います」

「……なぜ?」

 彼女は困ったような顔をした。またこの顔だ、とわたしは思う。
 この顔をされると、わたしはもう何も言えない。
 


 けれど最後に、ひとつだけ、わたしは訊ねることにした。

「本当に大丈夫だと思う?」

「はい」
 
 確信めいた声で、シラユキは言う。
 もちろん、正直に言って疑わしいところだったけれど、かといってこれ以上言えることもなかった。
 わたしは溜め息をついて、それならば、と思う。

「ね、せっかくだし、一緒にお風呂に入ろう?」

「……待ってください。何が"せっかく"なのか、よく分からないです」

 シラユキは戸惑ったような声をあげた。

「シラユキの言う通り本当に何もないとしても、気を付けておくに越したことはないし」

 気を付けるっていうなら別々に入って、それぞれ見張るとか、方法があると思うんですけど、と彼女は俯く。


「だめかな?」

「子供じゃないんですから」

 彼女は一度そう言ってから、

「……あれ、子供ですかね?」

 と首をかしげた。

「子供でいいから」

 わたしが言うと、彼女はまた困った顔をする。
 今度はさっきより、いくらか穏やかな表情だった。

「わかりました。今日だけですからね」

「浴場は大きいんだから、いつも一緒でもいいのに」

「……まあ、そういう言い方をすれば、そうなんですけどね」




 それからわたしたちは一緒にお風呂に入って、シラユキの部屋で一緒に眠った。
 不思議と、穏やかな夜だった。雨の音がとても優しく聞こえるような。

 外を見れば満天の星が見られるんじゃないかと思えた。月が煌々と夜の森を照らしているんじゃないかと。
 でも、現実にはそうじゃなかった。雨粒が窓を叩いているうちは、空は雲に覆われているのだ。

 けれど、わたしの傍にはシラユキがいたし、星が見えないこともさして悲しくはなかった。
 シラユキさえ傍にいれば、どんなことが起きても平気な気がした。

 それは本当だ。少なくとも、そう信じている。
 でも、じゃあ、シラユキがいなくなったら、わたしはどうするんだろう。
 シラユキがいなくなったら……。

 その想像は、あまりうまくいかなかった。
 わたしはなかなか寝付けず、すぐそばで静かな寝息を立てていたシラユキの手のひらに触れた。


 手のひらの感触。
 わたしが触れた瞬間、彼女の指先がぴくりと動いた。
 でも、それだけだった。目を覚ますこともなかったし、握りかえしてくれることもなかった。

 わたしは瞼を閉じて、雨のことを考えた。
 それから今日の出来事を思い出して、シラユキのことを考えた。

 丘の下の街のことを考えて、屋敷の近くの森のことを考えた。
 そういえば森の奥には古い井戸があった。ひどくみすぼらしい井戸。
 でも、だからなんなんだろう。どうして今そんなことを考えたんだろう。

 ぼんやりとどうでもいいことを考えているうちに、わたしは眠ってしまっていた。




 夢を見ている。

 暗い場所。また同じ夢だ。わたしは、その人と向かい合っている。
 水面越しの歪んだ輪郭。それが誰なのかは分からない。

 わたしは彼女を恐れている。彼女もまた、わたしを恐れている。

 そこで終わる夢かと思った。
 けれど、彼女は、輪郭を歪ませたまま声をあげる。
 くぐもった音。わたしはその声をうまく聞き取ることができなかった。
 何を言おうとしているのか、ほとんど分からない。
 
 でも、ところどころ聞きとることもできた。

「醜い」と声は言っていた。

「どうしてそんなに、醜いのか」と。
 声はわたしに、そう言っている気がした。
 

つづく

どういうこと……?


続きが気になる気




 目を覚ますと、わたしはひとりだった。 
 まるで同じ一日を再現しているかのように、シラユキは既にベッドにいなかった。
 
 わたしは奇妙な感覚にとらわれる。いやな夢を見たというのは、思い出せる。
 でも、もっと別の、予感めいたざわめきがあった。

 なんだろう?
 窓の外の空は、まだ明るくなりはじめたばかりのようだった。
 わたしはシラユキの姿を探して部屋を出る。
 
 やはり肌寒い。わたしはなんだか不安になる。

 海の底のような暗さの、凍ったような空気。
 この屋敷の朝は、いつもその空気に包まれている。



 その静寂は、物寂しげで、悲しげで、ひどく寒々しい。
 窓から差す蒼白い光。それも、慣れてしまえば心地よくなる。
 
 だからわたしは、どれだけ寒くても、この朝の引き締まった空気が好きだ。
 でも、今日は何かが変だった。いや、今日も、か。

 廊下を歩いて、わたしは厨房に向かう。シラユキの姿はない。
 じゃあ、食堂かどこかだろうか。思いついたところを探してみても、彼女の姿はない。
 
 不思議な感じがした。シラユキは普段、こんなに朝早い時間から動き回ったりしないのに。

 シラユキの様子は近頃変だ。……いや、変なのはわたしなのだろうか?
 どっちなのかは分からない。いずれにしても、何かが……変だ。
 


 わたしが玄関ホールの近くに行くと、話し声が聞こえた。
 誰かがいる。

「……ですけど、本当に」

 シラユキの声だった。わたしは姿を現すのを躊躇する。
 彼女は、客人が来たときは隠れていてほしいと言っていた。

 わたしはどうすればいいか分からずに、少しの間そこにとどまった。
 戸惑うようなシラユキの言葉に対して、話の相手はすぐに返事を寄越した。

「ただの確認です」

 声は言った。低い、太い声。男の声だろう。わたしは男の人の声をはじめて聞いた気がした。
 あのとき階段で聞いた声が幻聴だったら、本当に初めてだ。

 わたしはホールの脇の壁に隠れて聞き耳を立てた。


「例の人影が、この屋敷の方に向かうのを見た者がいるのです」

 すぐに、例の空き巣の話をしているのだと分かった。
 わたしは壁にもたれて静かに溜め息をつく。男の神経質そうな声。なんだか、無機質な印象を受ける。

「……ですが、本当に、何も起こっていませんから」

 わたしは戸惑う。
 どうしてシラユキが嘘なんてつくんだろう?

 それとも、彼女はわたしの言ったことを信じなかったのだろうか?
 そんなわけは、ない、と思うのだけれど。

「ですから、確認なのです。ご存知でしょう。私の仕事です。仕事はしなくてはならない。
 規則です。規則は守らねばなりません。じっさい私は、人影が目撃された家のすべてを自分の目で確認しました。
 この屋敷も確認しなければなりません。例外はありません。規則なのです」


 堅苦しい口調で話すその男に、わたしはなんだか嫌な気持ちになった。
 声に抑揚というものがないのだ。色というか、気配というか、そういうものがなかった。
 生きている感じがしないのだ。下界の人間はみんなそうなのだろうか?
 
 だが、話の大体の流れは理解できた。

「ですが、本当に問題は起こっていないんです。なんともないんですよ」

「これまでもそうでした。ですが皆、侵入者の確保のために協力してくれました。
 あなたがそうしてくれることを私は望んでいますし、そうしてくれるはずだとも思っています」

「侵入者」とは変な言い方だ。空き巣ではないのだろうか。
 つまり男の方は、本当に空き巣が屋敷の中にいないのか、取られたものはないのか、確認したいのだろう。
 そしてシラユキは、なぜかはわからないが、それを拒絶している。

 たぶん、わたしの存在を知られたくないという理由で。 
 


 シラユキはしばらく黙りこんだようだったが、やがて諦めたように口を開いた。

「わかりました。ただ、少しの間待っていていただけませんか? 屋敷の中を少し片付けさせてください」

「なぜです?」

「散らかっているので……」

「気になりません。私は仕事で来ています」

「申し訳ないですが、わたしが気にするのです」

「……あなたが?」

 男の声には一瞬、底冷えするような冷たさが宿った気がした。

「……はい」

 どことなく緊張した様子で、シラユキは答えた。わたしはホールと通路の出入口から少し距離を取る。

「わかりました。まあ、ただの確認ですからね。少しの間待たせていただきます」

「……申し訳ないのですが、こちらでしばらくお待ちいただいてよろしいですか?」

「かまいませんよ。なるべく早くお願いします」


 わたしは通路を逆戻りし、玄関ホールから距離を取る。 
 シラユキとすぐ近くで言葉を交わすわけにはいかなかった。
 
 わたしが厨房の付近まで移動したとき、シラユキは玄関ホールの方から姿を現した。

 シラユキは口元に人差し指を立てて当てた。真面目な表情だった。
 彼女とわたしは厨房の中に入り、小声で言葉を交わした。

「話、聞いていましたか?」

「……途中から」

 怒られるかと思ったが、シラユキはそこをあまり気にしていない様子だった。

「どこか、隠れられる場所に心当たりはありますか?」

「……分からない。ねえ、どうして隠れなくちゃダメなの?」

「あとで説明します。とにかくわたしが村長さんを案内します。
 あなたはできれば、長い時間隠れられて、見つからない場所を探してください」

「そんな場所なんて……」



 シラユキは困った顔をした。わたしも困った。
 書庫だろうとどこだろうと、しっかりと探されれば見つかってしまう可能性は拭えない。

「そんなにしっかりとは確認しないと思うんです。どこか見つからないような場所なら……」

「それって、どこ?」

 彼女はだんだん追いつめられたような表情になっていった。悲しそうな、必死そうな顔。
 わたしは彼女がそんな顔をする理由が分からなかった。

 わたしは気付けば、

「分かった。なんとかしてみる」

 と答えていた。
 シラユキはようやく安堵したような顔になった。
 それから少しの間、隠れる場所を一緒に考えた。
 


 窓の外は雨が降っている。森の中に逃げ込めば隠れることはできなくはないが、傘は玄関にしかない。
 何より、廊下の窓から見つかるかもしれなかった。
 
 どこかの空き部屋のクローゼットやベッドの下は、いざというときに逃げることができない。
 
 かといってボイラー室や書庫なんかでは、しっかりと探されたら見つかってしまう。
 運が良ければ見逃してもらえるだろうけれど、やっぱり不安はある。

 他にどんなことが場所があるだろう。
 考えれば考えるほど、隠れることがバカバカしくなってくる。

 とはいえ、シラユキが言うのだから仕方ない。何か理由があるに違いないのだから。
 
「……書斎は?」

 わたしの声に、シラユキは少し考え込むようにしていた。
 誰も使うもののいない書斎。そこには書庫ほどではないが本があり、暖炉があった。
 書斎には簡易なクローゼットがあるし、身を隠す場所は一応あった。
 一階だし、窓があるからいざとなれば外にも逃げられる。


 シラユキは少し不安そうな顔をした。
 でも、他のどこでも同じなのだ。彼女は最後に覚悟を決めたように頷いた。

「じゃあ、書斎の中に身を隠して、内側から鍵をかけてください。
 中に入るときはわざと音を立てますから、それから可能なかぎり隠れていてください」

「……鍵なんてかけたら、怪しまれるんじゃ」

「大丈夫です」

 シラユキはまた、妙に確信を込めた声を出した。
 下界の人間について何かを言うとき、彼女はときどきこんな声を出した。

「わかった。じゃあ、隠れてる」

 シラユキは間を置いて玄関ホールに戻ると言った。わたしはすぐに書斎を目指す。
 どうしてこんなことをするのかは分からない。どうして会ってはならないのだろう。
 でも、わたしだって彼に会いたいわけじゃない。
 むしろ、あの男の声からは、なにかいやな感じがした。




 書斎に行ってみて思ったのは、クローゼットには隠れられないということだった。
 あまりに「あからさま」過ぎるのだ。
 もし何者かがいるかもしれないという前提で家探しするとしたら、わたしならまず見逃さない。
 
 とはいえ、他に隠れられそうな場所はない。
 こんなことなら書庫に行けばよかったかもしれない。
 本棚の隙間を移動しながらやり過ごすことができたかもしれないのに。

 わたしはひょっとしたらと思い、本棚の裏に隠し扉でもないかと壁を触ってみた。
 埃が手のひらについただけだった。

 あとは書斎机の下に潜り込むこともできるが、見逃してもらえるとは限らない。
 その後ろには暖炉がある。

 中庭側と森側、両方の壁に窓があった。だが、廊下の窓からも見えない場所じゃない。
 上手くやれば見つからないだろうが、あくまでも「上手くやれば」だ。
 手間取って見つかる可能性の方が大きいように思う。



 さて、とわたしは思う。困った。手詰まりだ。
 ためしに机の引き出しを開けてみる。たいしたものは入っていない。
 簡単な文具や羊皮紙なんかが入っているだけだった。 

 事務机が事務机であるための義務を果たそうとしているみたいに見えた。

 二段目には懐中電灯と、双眼鏡、それから拳銃といくらかの銃弾が入っているだけだった。
 たいして役にも立たない。三段目には何も入っていなかった。四段目も同様。

 焦っているうちに、廊下の方から足音が聞こえた。
 わたしは慌てて机の下に隠れる。鍵を開けようとする音。
 シラユキはゆっくりと時間をかけて、鍵を開けようとしていた。

 どうしよう、とわたしは思う。見つかってしまう。このままでは、すぐに。



 やっぱり書斎はだめだったんだ。見つかってしまう。見つかったらどうなるんだろう?
 わたしはシラユキの表情を思い出した。あの悲しそうな顔。
 彼女はわたしに猶予を与えようとして、静かに書斎の鍵を開けようとしている。

「どうしたのです」

 と男の声が扉越しに聞こえた。

「すみません。どれがここの鍵か、分からなくなってしまって……」

 シラユキは困ったような声で言った。
 いくら時間を稼いでもらっても、わたしはもうどうしようもない。

 どうしようと思った、そのとき。

 小さな声が聞こえた。

「こっちだ」

 気配をひそめた、静かな声。わたしは思わず息をのんだ。
 声は暖炉の方から聞こえた。目を向けると、暖炉の奥から腕が伸びている。しかも手招きしていた。


 思わず声をあげかけて、口元を押さえる。

「早くしろ。見つかりたいのか」

 声は言う。わたしは少し迷ってから暖炉を覗き込んだ。
 強迫観念に近い感覚。わたしはあの無機的な男から逃げなくてはならない。
 
 暖炉の中は意外と広かった。それこそ本棚のひとつくらい入りそうな広さだ。
 手は右側の底から伸びている。どうやら穴が開いているようだった。

 わたしが近付いてきた気配に気付いてか、腕が引っ込む。
 わたしはその中を一度覗き込んだ。暗くてよく見えない。

 昨日、屋敷中を見て回ったときは、この暖炉は見逃していた。暗くて、中がどうなっていたかなんて気にしなかったのだ。
 
 扉が開く音。暖炉の位置は書斎机に隠れているが、猶予はない。

 足音。わたしは焦って、穴の中に足から飛び込んだ。
 思ったより高さはなく、足はすぐついたが、階段のようになっているらしい。
 慌てて体を屈める。意外なほど、空間は広がっていた。

 わたしの身体が完全に暖炉の下に入ると、静かに、何かが閉じる音がした。
 かすかに差し込んでいた光がなくなり、真っ暗になった。蓋? 蓋が閉められたのだ。


「喋るなよ」

 とその人は小声で言った。
 かちり、という音がして、辺りが微かに明るくなる。
 ささやかな灯り。ライターに火をつけたらしい。
 
 光は慰め程度のものだったけれど、それでも完全な闇の中では、たしかに役に立つ。

 そしてわたしは、相手の姿をようやく見ることができた。
 わたしは声をあげなかった。

「ひやひやしたな」

 とその人は言った。
 声をあげなかったのは驚かなかったからじゃない。
 
 あまりに混乱していて、自分が声を出すべきかどうかすら分からなかったのだ。


84-2
なりたくて → なりたくなくて

つづく


オリSSの枷なのか人少




 灯りに照らされてみて、暖炉の下には想像以上のスペースがあったことに気付かされる。
 目の前に立つ誰かは、わたしの姿を見て一度怪訝そうに眉をひそめた。

 黒いっぽい服。歳は、わたしやシラユキよりもいくらか上という程度か。
 背はわたしより二回りほど大きかったが、大人というよりも青年と呼ぶのが近い。
 
 髪は黒く、瞳は焦げ茶色。目つきは鋭いが、雰囲気に冷たさはない。

「ここで話をしたら、上に聞こえるかもな。移動するぞ」

 その声に、わたしはハッとする。明かりに照らされて、空間の輪郭が浮かびあがっている。
 黴の匂いと地下の冷気。どこかに繋がっているらしい。

「あなた、誰?」

 わたしは「ここで何やってるの」や、「どうしてこんな通路を知っているの」を先に聞くべきだったかとも思った。
 
「静かにしろ」

 男は嗜めるように言う。わたしはとりあえず従った。他にどうすべきか分からなかったから。
 まさか書斎の方に戻るわけにもいかないし、第一わたしは灯りになりそうなものを持っていない。



 ついていくしかなかった。

「しばらく隠れていなきゃいけないんだろ?」

 通路を歩きながら、男は静かに口を開いた。奇妙なことに、気遣うような響きを感じた。
 わたしが咄嗟に答えられずにいると、男は振り返る。

「……おい?」

 わたしは覚悟を決めて、もう一度訊ねる。

「あなた、誰?」

 彼は溜め息をついた。わたしはなんとなく嫌な気持ちになる。
 でも、彼の方はもっと嫌そうな顔をしていた。結局彼は答えなかった。

 それからお互い黙り込んだまま、しばらく歩いた。
 何をどうすればいいのか、分からなかった。足元の感触がぼんやりしている。 



 男は何の前触れもなく立ち止まった。わたしも立ち止まって距離を取った。
 それから彼は、わたしの方を振り返る。

 射抜くような視線に、わたしは目を逸らした。
 彼が例の空き巣で、下界の人間が言っていた人影なんだろうか。
 疲れ切ったような顔をしている。ひどく、頼りなく見えた。

「覚えていないな?」と彼は言った。

「……何を?」とわたしは訊ねた。

 
 彼はライターの灯りを消した。わたしは何かをするつもりなのかと思い、身構える。 
 でも、何も起こらなかった。深い暗闇が帳のように降りてきただけだった。




「まあ、いいか」

 彼はそう言って溜め息をついたようだった。真っ暗な空間に、声は静かに反響する。
 が、わたしからすれば、ぜんぜんよくない。

「あなた、わたしを知ってるの?」

 その質問に、彼は答えなかった。
 わたしは、自分が不思議なほど落ち着いていることに気付いていた。
 男の人に会うのは、というより、シラユキ以外の人と話すのは、初めてなのに。
 
「この通路を歩いていくと、道がいくつかに分かれてる」

 彼は一方的に話を始めた。わたしは、どうするべきか分からない。
 
「通路にはさっきと同じような扉がある。確認した限りでは書庫にも入口があった」

 書庫、とわたしは思う。

「あなた、このところ屋敷の中をうろついていた人?」



 彼は躊躇した様子もなく答える。

「そうだよ。お前の部屋から本を持ち出したのも、それを書庫に戻そうとしてお前と鉢合わせしそうになった間抜けも。
 それから真っ青な顔で階段を降りようとしていたお前に咄嗟に声を掛けたのも、俺だ」

「……なぜこの屋敷に?」

「答えたって今のお前には分からないよ」

「今の、って、どういうこと?」

 彼はまた黙り込んだ。答えてくれそうな様子はない。
 
「あなた、どうしてこの屋敷にいるの?」

「お前、名前は?」

 彼は質問に質問で返す。わたしは戸惑った。答えがもらえなかったことに、ではない。 
 わたしには、名前がないのだ。今度はわたしが黙り込む番だった。
 


「なあ、俺は別にお前をいじめたいわけじゃない。むしろ逆だよ。本当は」

「……なに、それ」

「でも、言えることと言えないことがあるんだよ。俺にだってどうするのが最善かなんてわからないんだ」

 彼が何の話をしているのか、わたしには、よく分からなかった。

 
「俺がこの屋敷にいるのは単純な理由だ。『あるもの』を取り戻しに来た。 
 丘の下の街にやってきてから、そこら中探しまわってたんだけど、結局この屋敷で見つけた。

 でもどうやって取り戻せばいいか分からないんだよ。ただ持ち出しておしまいってわけにはいかない。
 乗り込んできたのはいいが、俺はそのあたりのことをまったく考えていなかった。手詰まりだったわけだ」

「……『あるもの』って?」

「仕方ないんで、お前らふたりの生活をしばらく隠れて見張っていた。
 話を盗み聞きしたりはできなかったけど、屋敷の構造はだいたい掴めた。
 何もしないでいると退屈したから、誰もいないときにお前の部屋から本を盗んだ。暇つぶしだよ」

 わたしの質問に、彼は一切答えない。わたしはいまさらのように怖くなりはじめた。


「まあ、お前の部屋の様子を観察する意味もあった。
 普段はなかなか隙がなかったから忍び込めなかったしな。
 それに、あんまり動きがないから、そろそろ姿を見せてもいい頃だとも思った」

 真っ暗な通路に彼の声だけが響く。
 頭の奥がずきずきと痛む。

「階段でふらふらしていたお前を見かけたときは、思わず声を掛けた。
 あんまりにも様子が変だったから。本を取ったのを少し後悔したよ。
 そのあとまずいと思ってすぐに隠れた。人がいたからな。奴らに見つかるわけにはいかなかった」

「奴ら?」

「それから俺は他の入口から通路を使って、書庫に行った。結構いろんな場所に繋がっているもんなんだよ。
 お前ら、生活していて良く気付かなかったな。気付きたくなかったのか、気付かないふりをしていたのか」


「ねえ」

「まあどっちでもいいか。あとはだいたい想像する通りだと思うよ。それにしたって不健康な場所だ」

「ねえってば!」

 わたしは怒鳴り声をあげた。頭の奥の痛みが鋭さを増す。男が、息をのんだように聞こえた。

「さっきから、何を言ってるの?」

 必死の思いで声を絞り出す。彼の反応は、分からない。
 どうしてわたしはこんなところで、知りもしない男に、分かった風なことを言われなくてはならないのだろう。
 男はわたしの質問に答えるかわりに、ライターに火をつけた。

「そろそろ戻ろう。いいかげん書斎は調べ終えている頃のはずだ」

 わたしは何も言えなかった。すごく嫌な気持ちだった。
 でも何よりも嫌だったのは、わたしが彼の言葉に従わなくてはならないということだった。
 灯りを持っているのは彼。この通路の構造を知っているのも彼。
 
 わたしについて、何か知っているらしいのも彼。
 


 わたしは別に、自分のことを知りたいわけじゃないのだ。そのことに気付いた。
 シラユキと一緒に暮らせれば、それでいい。

 なのにどうして、そっとしておいてくれないんだろう。
 誰が、わたしたちの生活を壊そうとしているんだろう。
 いったいなぜ、わたしたちの生活に変化をくわえようとするんだろう。

 どうして、こんなふうに、見ず知らずの男に、観察されたり、好き勝手言われなくちゃいけないんだろう。
 
「あのメイドのことは信頼しすぎるなよ」

 男は、付け加えるように言った。わたしは顔をあげて彼を見た。
 どうして彼が、そんなことを言うのだ。
 
 泣き出したいような、笑い出したいような、よく分からない気持ちだった。

「あいつがなんなのかは知らないが、それでも『ここ』の住人ってことは確かなんだ。
 引きずり込まれると、戻れなくなる。絶対に信用するな」

 わたしは、結局笑った。

「その言葉を、わたしが信用すると思うの?」


 のしかかるような沈黙。わたしは言葉にしたことを少し後悔した。
 けれど結局、彼は穏やかな、諦めたような、傷ついたような静かな声で、

「そうだな」

 と頷いただけだった。

「……あなたは、わたしがなぜ書斎に隠れようとしたか、知っているの?」

 わたしは最後に、それだけを訊ねることにした。

「別にお前がどう考えていたかは知らなかったよ。でも、お前を奴らに会わせたくなかった」

「そういう言い方をするっていうことは、あなたが言う『あるもの』というのは、わたしに関係があるんだよね?」

 彼は静かに舌打ちした。肯定だ。


「なぜ、会わせたくないの?」

「あのメイドに、その質問をしたか?」

「……シラユキは、はぐらかした」

「"シラユキ"?」

 その名前を聞いたとき、彼の雰囲気がはっきりと変わった。
 それから彼は口の中で何度も繰り返す。シラユキ、シラユキ。

「まあいいさ。出ようぜ」

「……わたしが下界の人たちにあなたを引き渡すのが先だとは思わないの?」

「お前にはできないよ」


 彼はいやに自信ありげに言った。
 それから何かをぶつぶつと呟く。

 彼の話していることは、わたしにはまったく理解できなかった。
 違う言葉で話しているようだった。それともわたしが、無知が原因なのか。

 彼は暗い通路を歩いていく。
 わたしは不安な気持ちを抱えたまま、それについていった。

 どうするべきだったのだろう。わたしには何も分からない。
 あるのはただ、頭の奥の、軋むような痛みだけ。それ以外のことは、何も分からなかった。

 雨の音が聞きたいなと思った。
 ここからは雨の音が聞こえない。だから頭が痛むんだ。

 大丈夫。何も変わったりしない。大丈夫。
 祈るような気持ちで、わたしは自分に言い聞かせた。


つづく


大事件が起きてるとも言えないのに緊張感が高くて途中で口出しもし難い雰囲気。

乙です




 通ってきた道を遡っていくと、やがて小さな階段が通路の脇に現れた。
 さっき降りてきたものだろう。彼は階段の上部に突き出た取っ手のような部分を掴んだ。
 持ち上げるように押すと、それは重々しい音をあげながら開いた。

 光が目を刺す。彼はライターの火を消し、身を低くして階段を昇った。
 上半身を地下から出して、彼は暖炉の外の様子をうかがった。物音はしない。

 彼は暖炉から抜け出して、わたしを手招きした。わたしは不服に思いながらそれに従う。

 ずっと薄暗いと思っていた曇り空も、真っ暗な場所から出てきたあとだと、明るく感じる。
 雨の音が聞こえて、わたしはほっとした。

 地下にいたのはほんの少しの間だけなのに、わたしは疲れ切って溜め息をついてしまった。

 これからどうすればいいのだろう。 
 目の前にいる男に対して、わたしはどうすればいいんだろう。



 彼は窓際にはあまり近付かず、部屋の様子を眺めた。
 わたしはその姿を確認しながら、書斎机の二段目の引き出しを開ける。

 彼には見えないように拳銃を取り出し、シリンダーを出して弾を込めた。

 物音に気付いたのか、彼はわたしの方を振り返る。
 机を挟んでいるから、屈みこんだわたしが何をやっているのか、すぐには分からないだろう。
 
 シリンダーを押し戻す。右手で握り、左手は添えた。撃鉄は起こさなかったし、銃口は向けなかった。

「あなた、誰?」

 彼は怪訝そうに眉をひそめたあと、わたしの手元を見て引きつったような笑みを浮かべた。
 思ったよりもずっしりと重い。持ち上げるのに苦労するくらいだ。
 一分も構え続けていれば、腕が震えだすかもしれなかった。



「何をしてるんだよ、お前は」

「答えて。何が目的なのか。これからどうするつもりなのか」

 彼は小さく舌打ちした。わたしは努めて無表情を装う。
 
「あの男は、たぶんまだ屋敷の中にいる。銃声が聞こえれば飛んでくるぞ」

「撃つつもりはないから、安心して。何も持ってないのと一緒だよ」

 だいいち、痛そうだしね。わたしが言うと彼は表情をくしゃりと歪めた。

「わたしはここで、シラユキと暮らしていくの。ずっと。ねえ、あなたの目的はなに?」

 彼は黙り込んだ。視線は逸らさない。
 一瞬彼は、泣き出しそうな顔をしたように見えた。たぶん錯覚だろう。だって、本当に一瞬だけだったから。
 窓の外では何事もないかのように雨が降り続いている。中庭には水溜りができていた。

 こんな日には、傘をさして森の中を散歩したくなる。彼のことが片付いたら、そうしよう。
  


 やがて、彼はわたしから視線を逸らした。
 銃を持っている相手から、視線を逸らすものだろうか、普通。

 いや、わたしには、何が普通なのかなんてわからないんだけど。
 あるいはそれは降伏の宣言なのかもしれなかった。

「……シラユキと話をさせてくれ」

「ねえ、冗談でしょう?」

 わたしは撃鉄に指を添えた。

「どうしてわたしが、あなたをシラユキに会わせなきゃいけないの?」

「本来、こういう台詞は好きじゃないが、俺を殺せばシラユキが悲しむよ」


「そうかもね」

 自分で思ったよりも冷たい声が出て、わたしは少し怖くなった。でも、言葉は自然に続けられた。
 
「それで?」

 わたしはなんだか拍子抜けした気分になる。
 この男も結局、死ぬのを恐れているのだ。得体のしれない何かなんかじゃない。
 生きた人間だ。当然と言えば当然か。そうだ。彼は生きている。だから死ぬのが怖い。

 そう思うと身体の中の熱が急激に冷めていくのを感じた。頭に血が昇っているわけじゃない。
 わたしはとても冷静だ。

「なあ、聞いてくれ。俺はお前たちに危害を加えたいわけじゃない」

「うん。そうかもね。でも、そうじゃないかもね?」



 彼の肩からふっと力が抜けたのが分かった。
 そして、彼は息を深く吸い込んだ。

「お前がそんなんだから、俺がここにいるんだろうが!」

 怒鳴り声のあと、奇妙な静けさが書斎の中を支配した。
 わたしはその声の大きさにも驚いたけれど、それよりも何か変だと思った。

 
 どこかで聞いたことのある声だ。どこで? 
 いや、どこでもない。わたしにはこの屋敷以外の記憶はない。

 シラユキ以外の人と会ったことなんて、ない。
 
 でも、わたしは急にばかばかしくなった。沈黙を雨音が埋める。
 足音は聞こえないから、今の怒鳴り声はシラユキたちには聞こえなかったのだろう。



「分かった。シラユキに会わせる」

 わたしは拳銃から弾を抜いてテーブルの上に置いた。
 何か反応を見せるかと思ったけれど、彼は胸を撫で下ろしただけのようだ。

「しばらく待って。あの男が帰ったあと、たぶんシラユキはこの部屋にやってくると思う」

「ああ、分かった」

 さっきまでの余裕ありげな態度ではなかった。
 彼は忌々しげな表情で俯く。飼い犬に手を噛まれたような表情をしていた。
 とすれば、わたしは彼の飼い犬なのか。それは笑えない冗談だ。

 わたしは溜め息をついて窓辺に近付いた。森の様子は今日も変わらない。
 植物になりたいなあとわたしは思った。そうすればきっと誰も傷つけないで済む。

頭の奥の方が、軋むように痛んだ。




 シラユキが書斎に現れるまで、わたしたちの間には会話ひとつなかった。
 会話の予兆のようなものすらなかった。ただお互いを、いないものとして扱うように努めた。

 わたしは自分を調整するのに必死だった。彼はわたしを刺激しないために必死だったのだと思う。
 
 シラユキが書斎に姿を見せたのは、わたしが空腹をこらえきれなくなった頃だった。

 まず彼女は、見ず知らずの男がわたしと一緒にいることに気付き、動揺した。当たり前だ。
 男を問い詰めようとするシラユキ抑え込んで、わたしは空腹を訴えた。

「詳しいことは、ちゃんと説明してくれるらしいから」

 そしてわたしたちは一緒に食事をとることになった。
 遅い朝食か、早い昼食かのどちらかを。


「それで、この人は……」

 食事を終えて、最初に口を開いたのはシラユキだった。
 二人分の視線を受けて、男は居心地悪そうにした。

 何も言い始める様子がなかったので、仕方なくわたしは口を開く。

「近頃、屋敷の中をうろついていた人。何か目的があって、この屋敷に来たんだって」

「……目的、ですか」

「それは教えてくれなかったけど、書斎で隠れる場所がなくて困ってたら、助けてくれた」

「ああ、そうだったんですか」

 シラユキは納得したように何度か頷いた。


「屋敷には隠し通路みたいなものがあるんだって。書斎の暖炉から、そこに入れた」

「そこで、彼と一緒に隠れていたんですか?」

「うん」

 そこまで話してから、あとはシラユキに任せることにした。
 別に彼の処遇なんてどうでもよかった。いざとなれば脅迫して追い出せばいいのだから。
 変化のない日常。ずっと降り続ける雨。わたしにはそれだけあれば十分だ。

「なあ、目的を話すのはかまわないんだが、ひとつだけいいか?」

 ようやく口を開いたかと思うと、彼はそんなことを言い始めた。
 シラユキはあくまで落ち着いて、彼の言葉の続きを求める。

「なんでしょう?」

「そこのお嬢様には、聞かれたくない」


 シラユキはいくらか考え込んだあと、仕方なさそうに頷いた。

「いいですか?」

 彼女がそう言ったので、わたしは立ち上がった。

「うん。ちょっと疲れたから、部屋で休んでる」

「あとで、話をしに行きます」

「いいよ、別に。ぜんぶシラユキに任せる」

「ですけど……」

「どうせ、全部は話してくれないんでしょう?」

 シラユキが悲しそうな顔をしたので、わたしは少し罪悪感を抱いた。
 でも、そんな顔をするってことは、やっぱり話してくれないんだろう。 
 まあ、どうしても知りたいってわけじゃないけど。


 わたしは何も言わずに食堂を抜け出した。
 話を盗み聞きしようかとも思ったけど、やめた。
 たぶんわたしには、聞いたって理解できない。

 別に拗ねているわけでもない。
 気に食わない部分だってあったけど、本心を言えば、わたしは新しい何かを知りたくなんてなかったから。

 自室に戻ってから、音楽が聴きたくなった。

 蓄音機。便宜上そう呼んでいるけれど、実際にはレコードプレイヤーの一種らしい。
 本当は、この屋敷にだってCDなんかを再生できる環境がある。

 けれどそういうものは、この屋敷で生活するうえで、できるだけ遠ざけていたかった。
 でも、今は動くのが億劫だ。

 枕元にポータブルCDプレイヤーが置きっぱなしになっていた。 
 イヤホンを耳につけて、プレイヤーを再生してみる。CDは入ったままになっていた。

 流れ出したのは、スキータ・デイビスの「この世の果てまで」だった。


つづく

乙。リアルタイム遭遇
そういえば主人公の名前まだ出てないのな
過去の記憶がないわ銃の扱い方を知ってるわで謎が多い

乙です。

>>145
スキータ・デイビスの「この世の果てまで」

♪絶望してるけど私は元気、死にたい気分でもお腹は空くのね……

みたいな歌詞ですね




 音楽をかけたまま、眠ってしまったらしい。

 目をさますと耳が痛かった。イヤホンをはずして頭を軽く振る。 
 音の波から解放されると、雨の音がいつもよりはっきり聞こえる気がした。

 わたしはしばらくベッドの上でぼんやりとする。
 何かを考えなければいけなかったはずだ。なんだっけ?
 ずっと雨の音を聞いたまま、ぼんやりとしていられたらな。わたしはそう思った。
 
 そして気付く。ここではそれができるのだ。

 雨は決して降りやまない。わたしはわたしが望むだけ、ここでじっとしていられる。
 この雨は降りやまない。絶対に。




 ふと、例の男のことを思い出した。
 自分がどのくらい眠っていたのかは分からないけれど、話はもう終わったのだろうか?

 シラユキは、話が終わったらわたしのところに来ると言っていた。
 でも、眠っていたから遠慮して、声を掛けなかったのかもしれない。

 体をベッドから引きずり落とし、少し考えてから、わたしは着替えることにした。
 朝起きて、すぐにあの騒動があったものだから、ずっとパジャマ姿だった。

 あの男にパジャマ姿を、しかも寝起きの顔を見られたのだと思うと、なんだか居心地が悪くなった。
 でも、居心地が悪くなるのは不自然だという気もした。なぜだろう?

 わたしは彼を知っているのだろうか。


 着替えを終えて廊下に出る。いつもより肌寒いような気がした。
 ここでの生活には、現実感というものがほとんどない。

 地に足をつけてここに生活しているという実感が、ほとんどないのだ。
 それは当たり前の話で、わたしの生活は「生活」と呼べるような代物ではない。

 シラユキに守られて、かろうじて息をしているだけ。
 
 ふたりはどこにいるのだろう?
 ひょっとしたら、シラユキはあの男を追い出してしまったかもしれない。
 そうだとしたら、どうしよう。

 ……どうしようって、どういうことだろう。
 別にあの男がいなくなったところで、わたしは困らないじゃないか。
 むしろ追い出そうと思っていたくらいなのに。何を考えているんだろう。

 一階に降りて、食堂を覗く。ふたりはまだそこにいた。
 わたしは少し安堵した。

 なぜ?



 わたしが降りてきたことに気付いたのは、シラユキより男の方が先だった。
 そのことに、すごく嫌な気持ちになる。

 気分が落ち着かない。何かもやもやとしている。

 異物感のような据わりの悪さ。
 つまり、見知らぬものがこの屋敷にいることに対する不快感。
 最初はそれだけなのかとも思った。でも、それだけじゃない。

 彼がわたしを知っているかもしれないとか、わたしが彼を知っているかもしれないとか、そういうことでもない。
 
 もっと別の何かが、明白にある。不快感でもない。好奇心でもない。もっと別のもの。

「まだいたの?」

 皮肉を言うと、彼は落ち着いた様子で肩をすくめた。

「今日から、ここで暮らしたい」

「……どういうこと?」



 シラユキに視線をやると、彼女はわたしから目を逸らした。

「シラユキ?」

 名前を呼ぶと、彼女は困った顔をした。

「……泊まる場所が、ないそうなんです」

「その人、不法侵入者だよ。街につき出せば、少なくとも屋根と食事は確保されると思うけど」

 彼女はますます困ったような顔をして、何かを言いかけて口をもごもごと動かした。
 困っているのはわたしの方だ。

 仕方なく、わたしは黙り込んだままの男に声を掛けた。

「どういうこと? ここに住むって」

「そのままの意味だよ。宿がない。でも、下界に降りるわけにもいかない」

 降りるわけにもいかない。変な言い方だ。


 わたしは問い詰めようとして、彼の名前を知らないことに気付いた。
 相手のことを知るのは対話の一歩目だ。何かの本に、それらしいことが書いてあった。
 名前は相手の情報の中でも、もっとも基本的なものだ。

 だとすれば、わたしという人間は、対話を放棄していることになるのか。 
 もしくは、忘れているのか。資格を失っているのか。深くは考えないようにした。

「あなた、名前は?」

 彼は少し変な顔をした。意外そうな顔だった。
 何かまずいことをしただろうか? いや。名前を聞いただけだ。特別なことじゃない。
 
「名前なんていいよ。呼ぶときは適当でいい」

 彼は悪戯っぽく笑った。



「そうだな。一度、お兄ちゃんって呼ばれてみたかった。それでどうだ?」

「わたしはあなたの妹じゃない」とわたしは言った。

「本当に?」と彼は言った。当たり前だ。
 
 苛立つわたしを無視して、彼は平然と話を続ける。

「そういえば、お前、ここでは名前がないんだっけ?」

 ここでは、と彼は言った。
 この男は危険だ。わたしを混乱させる。

「でも、ないのは不便だもんな。俺がつけてやるよ」

「結構です」

 わたしが即座に答えると、男はくっくと笑った。シラユキがひどく慌てた顔をしている。



「あの——」

 何かを言いかけた彼女を、

「わかってる」

 男が制した。
 そのやり取りに、わたしは言いようのない不安を感じた。
 このふたりは何かを共有している。わたしには分からないことを。

「お前はアヤメだ」

 男はそう言って満足そうな顔をした。わたしには彼の言葉が良よく理解できない。
 けれど、なぜか、シラユキはほっとしたような顔をする。

「いったい、何の話をしているの?」


「アヤメ」
 
 と、それが当たり前のことかのように、彼はその名前でわたしを呼んだ。

「受け入れろ。お前はアヤメだ。決まってる。逃げられない」

「……なにそれ、何の話をしてるの?」

 相手をするまでもない、見知らぬ男の奇妙な戯言。
 それなのになぜ、こんなふうに、頭の奥が痛むんだろう?

 わたしの様子を無視して、彼は平然と言う。

「お前がアヤメで、そっちのメイドがシラユキだから、残った俺はツキだな」

 わたしは彼の言葉をどう処理すればいいのだろう。
 たぶん無視すればよかった。そして追い出せばよかった。それなのに、逆らえない。

「雪月花だよ。知ってるだろ? お前が花で、俺が月で」

 頭が軋むように痛むのだ。それはどんどん鋭くなっていく。




「ちょっと待って」

「同じ屋敷で暮らすんだ。仲良くしよう、アヤメ」

「……その名前でわたしを呼ばないで」

「屋敷の中を案内してもらっていいか? どうせちょっとやそっとじゃ帰れないだろうし」

「——待ってってば!」

 頭がぎしぎしと痛む。音を立てて。なぜこんなふうに痛むんだろう?
 歯車の間で押しつぶされているみたいだ。
 
「何の話をしているの? 人をからかってるの?」

「誰もお前をからかったりなんてしない」



 彼の表情はあくまで真剣だった。
 わたしは強く混乱しながら、自分がどうしてこんなにも混乱しているのかについて考えていた。

 いいじゃないか呼び方くらい。好きに呼ばせてあげればいいんだ。名前なんてなんだっていい。
 それなのにどうしてこんなに嫌になるんだろう。不安になるんだろう。

 嫌だった。名前は。ここで名前を呼ばれると、わたしは。

「あの」
 
 不意に、シラユキが声をあげて、わたしの頭は空っぽになった。
 混乱は熱が引いたように去っていき、わたしは一瞬自分が何をやっていたのかさえ思い出せなかった。

「そのくらいにしてください」

 彼女は戸惑ったような表情で、静かに、強く、言う。
 男は舌打ちをして、億劫そうに頷いた。

「急ぎすぎたな」

 シラユキは、何も言い返さなかった。



 それから彼女はわたしの方を見る。静かな視線だった。

「嫌なのはわかります。ですけど、彼をここから追い出すわけにはいかないんです。
 仮に、あなたがここにいなかったとしても、わたしは彼をここに滞在させると思います。
 彼をここに置くのは、あなたがここにいるのと同じことなんです。こういう言い方をすると、混乱するかもしれませんけど」

 言葉の通り、わたしはまた混乱に放り込まれた。

「下界に行かせるわけにはいきません。彼がここに無事にやってこられたのだって、奇跡のようなものですから」

 要領を得ない話し方だったけれど、わたしは反論する気力を失ってしまった。

 シラユキが決めたことに、どう逆らえるというんだろう。
 わたしはシラユキによって、かろうじて生かされているだけなんだから。
 
 わたしと"ツキ"が黙り込んだのを見て、シラユキは静かに溜め息をついた。


つづく

乙です。

続きが気になります。

お疲れ様です。
この雰囲気がたまらない。


アヤメちゃんかわゆすとは言えない重怠い空気に俺は自重した
スレタイにもそこはかとなく合ってるな、良い名前




 屋敷の中をツキに案内する、と言って、シラユキはわたしを残して食堂を出て行った。
 別にほったらかしにされたわけじゃない。「一緒に行きますか?」とも訊かれた。
  
 でも、わたしは行かなかった。あの男と一緒にいるのはまだ抵抗がある。

 ツキ。わたしと同じ色の髪と瞳を持つ男の人。
 当然のように、彼はわたしを「アヤメ」と呼んだ。
 アヤメ。

 何がこんなに引っかかっているんだろう。わたしはひとり食堂に残り、椅子に座って額を抑えていた。
 彼がわたしを呼ぶ声には、聞き覚えがある。
 
 どこで? わたしは本当に、この屋敷に来る前に、彼と会ったことがあるんだろうか?

 ……いや、違う。もっと最近のことだ。そんなに前のことじゃない。
 いつだ? いつだろう。冷静に考えろ。心当たりは、そう多くないはずだ。



 そうだ。夢だ。夢の中で聞いた声に似ている。

「駄目だ」と、引き留めるような声。わたしはそれを毎晩のように聞いた。
 そして、夢の中の男は、わたしの名前を呼んでいた。

 それが、「アヤメ」だった?
 夢の中のことだから、よく思い出せない。

 単なる偶然かもしれない。
 わたしは男の人の声をそんなに聞いたことがないから、似ているように錯覚しているだけかもしれない。
 いずれにしたって、夢は夢だ。気にしたって、仕方ない。

 わたしは溜め息をついて頬杖をついた。食堂の窓から中庭の様子が見える。
 雨は止まない。




 ツキが自分の部屋の様子を確認しにいっている間、シラユキは食堂に戻ってきた。

 ツキは、二階の空き部屋の一室を使うことになった。
 問題があるとわたしが訴えても、シラユキは取り合わなかった。

 不服げに溜め息をついたわたしを、シラユキは半ば懇願するように説得しようとした。

「部屋には鍵がついていますし、二階なら窓からは入れません」

「でも、隠し扉は……」

「それに関しては大丈夫です。あの部屋に隠し扉はありません」

「どうしてわかるの?」

「……勘、ですかね」

「シラユキ?」

「あ、いえ。ないと思います。ないはずです。たぶん」

 わたしが溜め息をつくと、彼女は苦笑した。


 それに、とシラユキは付け加えた。

「彼はわたしたちに危害を加えないと思います」

「根拠は?」

「彼が何かするつもりなら、とっくにしていると思います」

「これまでがそうだったからって、これからもそうだとは限らないでしょう」

「本当にそう思いますか?」

「……どういう意味?」

「雨は、止みますか?」

 その咄嗟の質問に、わたしは答えられなかった。
 雨は止むことがない。この生活は終わらない。だから彼も、わたしたちにいつまでも危害を加えない?
 



「その理屈は、おかしいよ」

 やっとのことで絞り出した声に、シラユキは寂しそうに微笑んだ。
 その様子はまるで、自分が言ったことを後悔しているみたいにも見えた。

「そうですね」

 これまでが「そう」だったからといって、これからも「そう」だとは限らない。
 これまでが「そう」だったのだし、これからも「そう」かもしれない。

 どっちも根拠のない、可能性の話だ。
 
 わたしも彼女も、結論を優先して理屈を作っている。
 わたしは彼と暮らしたくないからこそ、彼の危険性を主張している。
 シラユキは彼をこの屋敷に住まわせたいからこそ、彼の安全性を主張している。

 目的が食い違っているのだ。



「分かった」

 わたしは諦めて受け入れることにした。
 別に問題はない。そう信じるしかない。
 
 ツキがこの屋敷で暮らし始めたところで、雨は止まないし、シラユキとわたしの生活は壊れない。
 それならいいじゃないか。ツキだって、やがてこの屋敷を出て行くだろう。

 彼が生活する上で困るところがあるとすれば、衣服くらいか。
 そのあたりはシラユキがなんとかするだろう。

「そういえば、彼は、何か目的があってここに来たって言っていたはずだけど、聞いてる?」

「はい」

 説明してくれるのかと思ってしばらく待っていたけれど、続きはなかった。
 何も言う気はないらしい。



 そういえばツキは、隠れている間に屋敷のだいたいの構造を把握したとも言っていた気がする。
 それなのに、わざわざシラユキに案内させたのはなぜなんだろう。
 ……単なる嫌がらせという気がした。

「ツキは、どこから来たんだろう」

 わたしが疑問を口にすると、シラユキは困った顔をした。近頃彼女は、こんな顔ばかりする。

「シラユキは知っているの?」

「……いえ。本人に訊ねてみるのはどうでしょう?」

「話をしたくない」

「そんなに邪険にしなくても、平気ですよ、きっと」

 平気って、その言い方じゃまるで、わたしが彼を怖がっているみたいだ。
 ……いや、怖がっているのか。どうなんだろう。よく分からない。
 ツキという人間を自分がどう消化するべきなのか、わたしにはよく分からなかった。




 わたしは自室に戻って少し休むことにした。 
 近頃は、ろくに本も読めていない。生活のリズムが崩れている。
 本来はそのリズムを守っていなければならないのに。
 
 少ししてから、扉がノックされた。
 シラユキかと思い返事をしかけたところで、わたしは思いとどまり、ドアに問いかける。

「だれ?」

「俺だ。入っていいか?」

 わたしは、鍵をかけていなかったことを少し後悔した。
 自分でも意外なほど、わたしはツキに拒否反応を示している。
 
「どうぞ」

 本当は顔を合わせたくなかったけれど、拒絶し続けるのも馬鹿らしいと思った。
 一緒に暮らしていく以上は、顔を見ずに生活するのは不可能だ。

 わたしの方が妥協しなきゃならない。



「なに?」

「特に用事はない。暇だったから」

「そう」

 どうしてわたしがあなたの暇つぶしに付き合わなきゃいけないの、と言いかけてやめた。どうせ疲れるだけだ。

「お前は、普段どんなことをして生活してるんだ?」

「隠れて眺めてたんでしょう?」

「まあね。でも、本を読んだり、シラユキと話をしたりしているところしか見ていない」

「それだけ分かったら十分じゃない?」

 彼は押し黙って部屋のあちこちに視線を彷徨わせた。

「あんまりじろじろ見ないで」

「悪い」
 
 素直に謝られて、拍子抜けする。こんな反応をされると、自分の方が嫌な奴みたいだ。

 それにしても彼は、拳銃で自分を脅した相手と生活することに、何の抵抗もないんだろうか。
 そのあたりにもやはり、彼の目的というものが関わってくるのだろうけれど。


「ねえ、あなたは……」

「ツキ」

「……ツキは、どこから来たの?」
 
 彼は一瞬呆気にとられたような表情をした。それから何かを探るような目つきになる。
 シラユキも、ツキも、特定の事柄についてわたしが聞こうとすると、同じような反応をする。

「なぜそんなことを知りたがる?」

「単純な好奇心だけど……」

「教えてやりたいところだけど、まだダメだな」

「なぜ?」

 その答えをツキは寄越さなかった。
 わたしは溜め息をつく。別に知らなくたって、困りはしないのだけれど。
「まだ」って、どういうことだろう?





 その日は何事もなく過ぎた。
 シラユキが作った食事を三人そろって食べた。

 入浴の時間などに関しては、後々決めることにした。
 何も決まっていない状態のままだと、不便だろうということだ。

 その夜は妙に明るかった。月の光が冴え冴えと瞬き、窓に垂れ落ちる雨粒を光らせた。
 森の空気も、木々も、いつもより落ち着きなくざわついているような気がした。
 
 でも、それはツキの存在とはまったく無関係のことだ。当然。関係があったらおかしい。

 就寝前、本を読もうとしても音楽を聴こうとしても気分が乗らず、ベッドに仰向けになってぼんやりとしていた。

 目を閉じると雨音が聞こえた。
 昨日までとは、何かが違う、と感じる。そう感じている自分に気付き、苛立ちを覚える。

 何かが変わるはずなんかない。



 その晩も夢を見た。また同じ夢だ。暗い空間で、わたしは誰かと向き合っている。
 
 彼女の言葉はいつもと同じ。
 ぼんやりとした輪郭も、はっきりとしない声も、同じ。

 どうしてそんなに醜いのか、と。
 声は同じ言葉を繰り返す。
 
 そんなことは、わたしには分からない。
 でも声は訊ね続ける。どうしてそんなに、と。

 わたしはそのたびにやりきれないような気持ちになる。
 だってそれは、わたしにはどうしようもない部分なのだから。

 どうしたって、変えられない部分なのだから。


つづく

乙です。

アヤメの記憶や認識には何らかのバイアスがかかっているのだが、どう見ても信用できる筈のないツキの存在を受け入れる事には抵抗が生じない。彼の存在は好ましいものという事だろう。でも誰にとって?

ある程度の憶測は立てられるが、所詮は憶測でしかない…
でも、もし憶測通りだとしたら…じれった過ぎる…




 ツキがこの屋敷にやってきてから、何日か経った。
 
 彼は驚くほどこの屋敷の生活に馴染んだ。
 そういう適正でもあるのかと思うほどに。

 でも、屋敷で生活することに適正というものがあるのかどうか、わたしには分からなかった。

 最初は警戒していたわたしも、彼の態度があまりに柔らかいものだから、変に気疲れしてしまった。

 最初の頃こそ皮肉めいた口調でわたしに接していたが、すぐにそういった棘はなくなった。
 こっちが不思議に思うくらいだった。

 この屋敷にやってきてからツキがやったことと言えば、本を読むこと、音楽を聴くこと。
 それからわたしやシラユキと言葉を交わすことくらいだった。

 そのほかには、屋敷や森を散策する程度。
 まるで何かを探すような様子だった。



 シラユキは彼が頻繁に外出することを快く思ってはいないようだった。
 下界の人間に人影が見つかったら面倒だと思うのだろう。

 それがなぜかは分からないけれど、わたしも、ツキの外出をあまり好ましくは思わなかった。

 ある朝、三人で朝食をとっているとき、ツキが唐突に食事の手を止めた。 
 どうかしたのかと様子を見ると、顔色が真っ青だった。

「なあ、今までは気にしなかったけど、これ、食べても平気なのか」

「どういうこと?」

 わたしが訊ね返しても、彼は反応しなかった。ただ、真剣な表情で、じっとシラユキを見つめていた。
 シラユキは、何のことを言われたのか分からなかったらしく、首をかしげるばかりだった。



 ツキはやがて思い直したように頭を振ると、頭痛でもするように額を抑えた。

「いや、平気なんだよな。平気じゃないと、困る」

 一事が万事というわけではないが、ツキがこういった奇妙な態度をとることは珍しくなかった。

 それでも、シラユキの言った通り、ツキがわたしたちに危害を加えることはなかった。
 だからわたしは、尚更彼のことが分からなくなった。
 
 最初は皮肉を言う元気もあったのに、時間が経つにつれて余裕がなくなっているように見えた。
 何かを急いでいるようにも見えたし、何かに抗おうとしているようにも見えた。何かを恐れているようにも見えた。
 でも、それがなんなのかは分からない。

 最初は気に掛けていなかったものの、そんな様子をずっと見せられていると、こちらも不安になってくる。

 それでも実害はなかったし、わたしやシラユキに何かを求めてくるわけでもなかった。
 
 表面的には、よく散歩をする変わった住人が増えただけことだった。





 ある日、わたしが部屋で本を読んでいると、不意にノックの音が聞こえた。

「どうぞ」

 部屋に入ってきたのはツキだった。疲れ切ったような顔をしていた。

「何を読んでる?」

 彼は、ベッドに横になって本を読むわたしを見て、そう訊ねてきた。
 わたしは口にするのが億劫だったので、読むのを中断して彼にタイトルを見えた。
「人類が消えた世界」だった。

「面白いか?」

「そこそこ」

「どんなところが?」

「現実的じゃないことに、現実的に迫ってるところ」

 彼が一瞬表情をこわばらせたので、わたしは戸惑った。でも一瞬のことだ。彼はすぐ、持ち直すように笑った。


 わたしがベッドに寝転がっていたのをいいことに、彼はわたしの椅子に勝手に座る。
 注意しようかと思ったけれど、やめた。
 このところのツキはあまりに追いつめられているようで、思わず咎めるのを遠慮してしまうほどだった。
 
 彼は深い溜め息をついて、頽れるように俯いた。

「どうしたの?」

 思わず訊ねると、彼は顔もあげずに笑った。

「別に。そっちこそ、そんなことを言ってくるなんて珍しいな」

「……なんとなく」

 顔は見えないのに、彼が泣き出してしまうような予感があった。
 胸の中がざわついた。別に彼が泣こうが、わたしには関係ないじゃないか。
 そう思った。そう思おうとした。



「ねえ、あなたは何を欲しがってるの?」

 わたしは思わず訊ねた。何がこの人をこんなに苦しめているんだろう。
 何のために、この人はこんなにつらそうなんだろう。

 やってきた返事は、答えと呼べるものではなかった。

「お前の方こそどうなんだ」

 ツキはそう言った。

「お前は俺にどうして欲しいんだ?」

 わたしには彼の言うことが分からなかった。
 雨が窓の外で降り続いている。不意に忘れそうになるくらい、ずっと。

「……別に、何も」

 わたしはそう答えた。ツキは身じろぎひとつしなかった。ただ俯いているだけだ。
 それなのに、何の変化もなかったのに、わたしはわたしの言葉で、ツキを傷つけたのだと感じた。なぜか。


 しばらく、部屋の中には何の変化もなかった。雨の音だけがずっと続いている。
 気付けばわたしは、本を読むのをやめてツキの方をじっと見つめていた。
 
 やがて彼は、やはり身じろぎひとつせず、顔もこちらに向けないまま、

「何か音楽を掛けてくれないか?」

 と言った。わたしは返事もしないかわりに反発もせず、音楽を掛けることにした。
 スピーカーから流れ始めたのはシーナ・イーストンの「モーニング・トレイン」だった。
 わざと明るい曲を掛けたのだ。なぜかは自分でも分からない。

 ……別に元気づけたいわけじゃない、と思う。

 それにしても、深く落ち込んだ様子の男の人が、「モーニング・トレイン」を静かに聴いているのは、少し滑稽だった。
 わたしは、こんなにも悲しそうに「モーニング・トレイン」を聴く人を、初めて見た気がした。
 もちろんそれは真実で、わたしは他の人が音楽を聴くところなんて、初めてみたのだけれど。



 不意に彼は、何かに気付いたように顔をあげた。
 それからわたしの顔をじっと見た。何かに驚いているような目だ。

「なに?」

「……いや」

 何かの違和感のようなものがあったのか、彼は眉をひそめた。
 それから部屋を見回す。じろじろ見るなと言うには、彼は少し情緒不安定だった。

 そして彼は、部屋の片隅に置かれたCDコンポに目を止めた。

「レコードは?」

 と彼は訊ねた。


「……急に何?」

「前は、レコードだった」

「そうだったけど、それが?」

「なぜCDになってる?」

「……物置にあったから、取り替えたの。こっちの方が手間がないし」

 それから彼はしばらく唖然とした様子で黙り込んで、何かを考え始めたようだった。
 彼はもう落ち込んではいない。そのかわりに、何かに驚いているようだった。

 なにが彼の心境を変化させたのか、わたしにはよく分からなかった。
 たかだか、レコードプレイヤーがCDコンポに変わった程度の変化。
 
 それが彼にとって、何か重要なことなんだろうか?

「邪魔して悪かった」 

 ツキはそれだけ言い残して、部屋から出て行った。
 何かを吹っ切ったような表情だった。  





 ツキはそのようにして、この屋敷での暮らしを続けた。
 いなくなる気配もなければ、例の何かを「取り戻す」こともできてはいないようだった。
 
 またある日ツキは、わたしを森の散歩に誘った。
 最初の頃こそ落ち込んだりしていたが、彼はそのうち開き直ったように明るくなった。
 
 わたしも段々、彼がわたしに危害を加える気がないということを、実感と共に理解し始めていた。
 だからその散歩にも、付き合う気になったのだ。

「ツキは、どうして森の中を歩くの?」

 傘をさして、並んで歩きながら、わたしは訊ねてみた。
 ただの気分転換とは思えないほど真剣に、彼は森の中を歩いていたのだ。
 
「さあ?」

「わたしには言えないこと?」

 こんなふうに訊ねると、シラユキもツキも、決まって黙り込んだ。
 鳥の声すら聞こえない森の中で、雨が木々の梢を打つ音だけが響く。
 世界から取り残されているみたいだ。でも、"世界"ってなんだろう。どこだろう?



「出口」

 ツキは不意にそう言った。

「なに?」

「出口を探してたんだよ」

「……出口って、森の?」

 彼は、それ以上何も言わなかった。わたしはなんとなく不安になる。

 シラユキとツキ、どちらと話しても、わたしはときどき不安になることがあった。
 ふたりの言葉の節々に、予兆めいた何かを感じるのだ。
 
 その予兆が、何を言わんとしているのかは分からない。
 でもわたしは、それを素直に受け入れることができないのだ。





 ツキがこの屋敷で暮らすようになってからも、わたしは毎夜同じ夢を見た。

 水面越しに見る彼女の姿は、段々と正確な輪郭を取り戻し始めていた。
 わたしはそれを直視することができない。

 ひどく恐ろしいのだ。
 影は同じ言葉を吐き続ける。怨嗟がこもったような暗い声で、何度も。

 わたしの怯えを見透したように、彼女はじっとこちらを見つめている。

 わたしは彼女を見たくない。彼女のことを知りたくない。
 彼女の声を聞きたくない。彼女なんていなくなってしまえばいい。

 そう思う自分自身すら恐ろしく思えて、わたしはどうすることもできず、ただ震えている。

 でも、夢は夢なのだ。そうでなくてはならない。

つづく

乙。
全体が見えてこないと中々不気味だ。
外界には二人と同じ人間はいないのか。




 その日の朝、ツキは朝食の時間になっても食堂に現れなかった。
 シラユキが部屋を確認しにいったが、やはり姿はなかったという。

 雨音はいつも通り、屋敷を包み込むように響いている。
 わたしたちふたりは、ツキを待たずに朝食を先にとった。

 シラユキが言うには、玄関の傘が一本なくなっていたらしい。
 単純に考えて、森の散策に向かったのだろう。
 なぜ朝早くから外に出たのかは、分からないにしても。

 わたしは、久しぶりにシラユキとふたりきりになった気がした。
 このところはずっとツキに気を取られていて、彼女とろくに話もしていなかった気がする。


 そう思うと、このタイミングで彼女に言っておかなければならないことが、いくつかあるような気がした。
 
 それがなんなのかは、咄嗟には思い出せなかった。
 というよりわたしは、このところずっと、話すべきことをわざと話さずに過ごしてきたような気がする。
 そうすることで、何かを守ろうとするように。

「シラユキ、ちょっと訊いてもいい?」

 訊きたいことがたくさんあったはずだ。でも、なぜだろう。いざ訊くとなると、よく思い出せない。
 シラユキは少し怪訝げな顔を見せ、警戒するように眉を寄せた。

「内容によりますが、どうぞ」

 あらかじめ予防線を引くシラユキに苦笑しながら、わたしはゆっくりと質問を考えた。

「このあいだ、ツキが食事をとっているとき、言っていたでしょう? 『食べても大丈夫か』って」

「……ええ。それが?」

「あれ、どういう意味だと思う?」



 彼女は思案深げに眉を寄せながら、取り繕うように微笑んだ。
 まさか、毒をうたがったわけでもないだろうが。
 
「どうでしょう。わたしにはよく分かりません。そういったことに関しては、あなたの方が詳しいはずです」

「どうして?」

 彼女は上手い言葉が見つからない様子で、口をもごもごと動かした。

「わたしの知識は、とても偏っているからです。という言い方だと、正確ではないんですけど……」

 それ以上適切な言葉が浮かばないという様子で、シラユキは口籠る。
 わたしは質問を変えることにした。

「あのね、シラユキ。ここ最近……特に、ツキがここに来てから、ずっと考えていたことがあるの」

「……はい」

「どうしてわたしには、この屋敷に来る前の記憶がないんだろう。シラユキは、そのことについて何か知っているの?」



 今度は、言葉を探すふうではなく、本当に深く考え込んだように見えた。
 シラユキが押し黙ると、食堂に雨の音だけが響く。降り続く雨。
 この雨だって、いったいいつから降り続いているんだろう?
 
 シラユキはやがて、振り絞るような声で言った。

「先に、ひとつだけ訊いてもいいですか?」
 
 わたしは少し怖くなった。やっぱり質問を取り下げようか、とも思った。
 でも訊かなきゃ。訊かなきゃ何も分からないままだ。
 頭の奥が、軋むように痛む。それでも。

「どうして、今になってそのことを気に掛けるんですか?」

「自分の記憶の欠落を気にするのって、そんなにおかしいこと?」

「おかしくはありません。でも、そうだとしたら、どうして今までは気にしなかったんですか?」

 彼女の言う通りだ。わたしはこれまで、自分の記憶について考えたことがなかった。
 いや、考えないようにしていた。



 わたしが答えられずにいると、シラユキは言葉を重ねた。

「わたしは、その質問に答えることもできます。それは事実です。
 でも、正直いって、あなたがそれを知るべきなのかどうか、わたしにはわかりません。
 いつかは言わなくてはならないとも思いますし、何もかも忘れたままでも構わないのかもしれない、とも思います」

「……どういうこと?」

「わたしはできるかぎり、あなたの望みを叶えてあげたいと思っています。これも本当です。
 その結果、あなたがどちらを選ぼうと、わたしはあなたの判断に従います。
 本当は、自分がやっていることが、エゴに満ちた、身勝手なお節介なんじゃないかと感じることもあるんです」

 彼女は言葉を選ぶようにゆっくりと、話を続けた。

「たぶん、彼が来たからだと思います」

 彼というのは、ツキのことだろう。わたしにはその言葉の意味が、よく分からない。


「彼が来たから、あなたは今、彼の方に引きずられているんだと思います。
 わたしにとっても、それは別に悪いことではないんです。
 でも、もし、彼に引っ張られていった結果、あなたがもう一度傷ついたとしたら」

 もう一度、と彼女は確かにそう言った。
  
「そう考えると、今すべてを話すわけにはいかないと思うんです。
 それならいつ話すのかと言われたら、それはわからないんですが」

「ねえ、よくわからないんだけど、わたしの記憶というのは、思い出すだけでそんなにダメージを負うようなものなの?」

「そうでないとしたら、あなたは何も忘れたりなんかしなかっただろうと思います。
 いえ、こういう言い方も正確ではないかもしれません。問題は記憶じゃないんです。
 上手く言えませんが、問題なのは覚えているとか、忘れていることではなくて、現にそうあるという事実の方なんです」

 シラユキはそこで、自分の話がわたしにあまり伝わっていないと気付いたのか、寂しそうに頭を振った。

「とにかく、わたしはまだ、あなたの記憶についての話をすることができません。
 ひとつだけ言えるのは、あなたやわたしや彼にとって、その話はとても重要な意味を持っているということです。
 ひょっとしたら、悠長なことを言っている場合でも、ないのかもしれません。彼が来てしまった以上……」



 いまいち要領の得ないシラユキの話は、けれど何か大事なことを示唆している気もした。
 ツキが望んでいること。シラユキが望んでいること。そしてわたしが望んでいること。
 そのどれもが曖昧で、わたしにはよくわからない。

 わたしはただこの屋敷で、シラユキとずっと暮らしていければよかった。
 雨がやまなければいいと思っていた。

 でも、ツキがやってきて、何かが揺らぎ始めている。

 わたしが暮らしている、この屋敷。一緒に生活するシラユキという少女。そしてわたしという人間。
 そのどれもが、今になって突然、余所余所しく、得体のしれないもののように感じられるのだ。

 この感覚は、ただの錯覚なんだろうか。

 それとも、もっと得体のしれない何かが、わたしたちのすぐそばで、口を開けて待っているのか?




 ツキはなかなか屋敷に戻ってこなかった。
 
 わたしはひとり部屋に戻り、自分の現状について考えてみることにした。
 再確認のようなものだ。紙とペンを手に取り、わたしは状況の整理を試みる。

 わたしには、この屋敷に来る以前の記憶がない。
 その記憶のうち、ほとんどが、前日や前々日の反復のようなもので、一日と一日の区別がつかない。

 ツキがやってくるまでずっと、わたしとシラユキは、同じ一日を繰り返しのような生活を送っていた。

 わたしは、わたしについて知らない。
 名前も、なぜこの屋敷で暮らしているかも、シラユキとどんな関係なのかも分からない。

 同様にわたしは、シラユキが何者なのかも知らない。
 シラユキという呼び名が本当の名なのかも、分からない。

 けれどわたしは、そんな生活に何の疑問も抱かなかった。



 そこに現れたのがツキだ。
 
 彼は「取り戻したいものがある」といい、この屋敷で一緒に暮らし始める。
 彼はわたしを「アヤメ」と呼んだ。

 そして、彼のわたしに接する態度はまるで、わたしに対して何かを訴えかけようとしているようだった。

 シラユキとツキは、わたしの知らない何かの情報を共有している。
 わたしだけが、それを知らない。

 そして、その情報はおそらく、わたしの記憶と密接に関係する何かだ。

 結局わたしの記憶が問題なのだ。

 つまり、わたしが思い出せないわたし、わたしの知らないわたしが。



 ペンを机の上に放り投げて頬杖をついた。 
 
 情報の整理は捗らなかった。現に起こったことだけを列挙しても、何もわからない。

 かわりに思ったことがある。
 つまり、今この状況の最大の問題は、わたしが自分自身の望みを理解していない点にあるのだ。

 わたしは、思い出したいのか、思い出したくないのか。
 思い出すべきなのか、思い出すべきではないのか。
 この屋敷での生活を変えたいと望んでいるのか、望んでいないのか。

 でも、そんなの分かりっこなかった。
 肝心の記憶がどのようなものなのかが分からないなら、思い出したいかどうかなんてわからない。

 中身の見えない箱を目の前に差し出されて、「これが欲しいか」と訊かれているようなものだ。
 中身を知らないのだから、答えようがない。
 
 そして中身を知ってしまったら、知らなかった頃に戻ることはできないのだ。きっと。


『その結果、あなたがどちらを選ぼうと、わたしはあなたの判断に従います』

 シラユキはそう言った。"どちら"というのは、何と何のことなのだろう?
 
 思い出すことと、思い出さないことだろうか。
 それは、少し違うような気がした。じゃあなんなのかと言われれば、分からないのだけれど。

 考えるのがいやになって、わたしはベッドに寝転がる。
 雨の音に耳を傾けているうちに、言いようのない不安は収まってきた。

 焦って考えることもない。別に今すぐどうこうなるという話でもないのだ。

 シラユキの言葉の意味は分からない。
 ツキの考えていることだって、分からない。
 
 分からないことだらけ。わたしにはどうしようもない。
 いつもより頭の奥が鋭く痛んで、上手に物を考えられなかった。


つづく

乙。

読んでるこっちも頭痛がしてきた。


わからん




 夕方過ぎ、わたしは部屋を出た。
 なぜなのかは分からないけれど、じっとしていられなかった。
 
 胸がざわざわとした。何かが起こりそうな気がする。
 いや、ひょっとしたらそれは既に起こっているのかもしれない。
 
 そんな気がした。それがなんなのかも分からないのに。
 
 わたしは目的なく屋敷の中を歩き回る。
 二階の窓から、中庭を見下ろしてみると、立ち並ぶ木々は雨を受け続けていた。
 
 そもそも、根源的な話として、どうしてこの街には、雨が降り続いているのだろう?

 どのような本を読んでも、そんなものはフィクションとしてしか描かれていない。
 でも現に、この街はずっと雨に打たれ続けている。
 



 わたしはこの街を、切り離されていると感じたことがあった。
 
 わたしにとっては、この街に雨が降り続けていることは自然なことだ。
 けれど、どの本を読んでみても、雨が降り続ける街を実在のものとして描いているものはない。

 だから、わたしがこの街を切り離されていると感じてもおかしい話ではない。
 
 現に雨の降り続ける街があるとしたら、きっとその街はすぐ有名になる。
 本にだって載るし、人だって来るだろう。でも、そんな様子はない。

 切り離されているのだ。本の中の世界から。
 この街以外の世界から。あるいは、本に記されていることが、すべて嘘なのかもしれない。

 だとすれば、なぜシラユキはわたしが本を読むことを好ましく思うのだろう。



 おかしいことはいくつもある。
 シラユキは外で働いているわけではない。それなのに食材を買うお金には困っている様子がなかった。 

 そして書斎にあった拳銃。あれはいったい誰がなんのために置いたものなんだろう。
 ……そして、その存在を疑問に思わなかったわたしも。

 そもそもこの屋敷は、なんなんだろう?
 
 たくさんの隠し通路。拳銃。シラユキという少女。雨の降り続く街の、高い丘の上。
 生き物の気配のしない森。わたしの記憶。突然あらわれたツキという人。
 丘の下には、無機的な声の人々が住んでいる。

 悪い夢のような世界。

 わたしは今までここで、何の疑問も持たずに暮らしてきたのだ。
 そう思うと、なんだか急に不安になった。 
 自分を包む空気がひんやりと冷たくなるような感覚。

 軋むような痛み。



 シラユキと話をしたくなって階段を目指した。
 彼女は一階にいるはずだ。
  
 何が訊きたいというわけでもない。何を話してほしいわけでもない。
 ただ声がききたくなった。わたしは怖かった。

 この得体の知れない場所が怖いんじゃない。
 何も話してくれないシラユキやツキが怖いわけでもない。

 わたしは自分が怖い。この場所に何の疑問も暮らしていなかった自分。
 何の抵抗もなく銃を握った自分。誰に会うわけでもなく、雨が止まないことを願い続ける自分。 

 どこかで誰かがわたしを見ている気がした。



 いや、見ているだけではない。その人はわたしに語りかけていた。
 わたしにだけ聞こえる声、わたしにだけ届く音で、彼女は何かを言っている。

 本当にそうなのだ。

 いつものように彼女は.、言う。

「どうしてそんなに、醜いの?」

 でもおかしい。どうしてそんな声が聞こえたりするんだろう?
 聞こえるはずのない声。

「……でもいいんだよ。別に。だってもう関係ないから」

 いつもとは違う続き。声音は冷たい。あたりを見回しても姿は見えなかった。
 


「あなたはそこに居ていいんだよ。だってそこ以外にあなたに居場所なんてないから」

 声はわたしの頭の中で直接響いていた。空気の振動を伴わない声。
 意味が先立ち、音が追いかけるような声。

「もう決まったの。逃げられないの。あなたはそこにいるの。絶対に」

 声はわたしに話しかける。
 どこから? どこからだろう。内側からだ。
 頭の奥が軋むように痛む。幻聴? 幻聴。

 わたしはよろめきそうになったが、目の前に階段があることに気付き、バランスを取り直す。
 視界がぐるぐるとまわっている。混乱している自分と、それを冷静に眺めている自分がいる気がした。

 夢が現実になったのか? あるいは、現実が夢になったのか?

 何が起こった? どこかに変なスイッチでもあったか?
 わたしの身に何が起こったんだろう。何が起こっているんだろう。
 


「ねえ、聞いて。あなたはもう自由なの。何にも縛られる必要はない。
 本当は縛られてすらいなかったの。最初から自由なの。
 誰もあなたを縛り付けないし、誰もあなたを必要としない。何もあなたに求めない。
 だからもう苦しまなくていいの。あなたはそこに居るだけでいいの。そうすればすべて終わるから」

 何を言っているのか分からなかった。分かりたくもなかった。
 その声を聞いていることが嫌だった。足元の空気が凍てついたように冷たい。
  
「何も思い出さなくても大丈夫。気にしないで。本当に、全然、何の問題もないから」

 痛みが鋭さを増す。これはいったい、どういう冗談なんだろう。
 わたしは夢でも見ているんだろうか? 見ているとしたら、いったいいつから?

「ねえ、本当にそうなんだよ。あなたはもう、そこに居ていいんだよ」

 その諭すような優しげな声が、わたしにはとても悲しかった。



 声はそれ以上何も言わなかった。
 けれど、声の主の気配だけが、辺りに散らばったままだった。

 わたしの足元の絨毯にも、壁にも、窓にも、扉にも、階段にも、中庭の木々にも、雨の雫の一粒にさえ。
 その気配は、ひそやかに宿っている気がした。

 わたしはしばらくその場で深呼吸をして、視界の回転が収まるのを待った。
 荒くなった呼吸が戻るのを待った。心臓の鼓動が落ち着くのを待った。

 瞼を閉じて、深呼吸をもう一度する。そして瞼をもう一度開ける。
 なんてことのない、いつもの屋敷だった。何も変わったところなんてなかった。声も聞こえない。
 
 溜め息をつく。幻聴だ。疲れているんだ。きっと。

 そしてわたしは階段を下りることにした。シラユキを探していたのだ。
 シラユキ。シラユキがいる。そうだ、シラユキがいるじゃないか、とわたしは思った。
 シラユキがいさえすれば、他に何も必要ない。

 必要とされなかったんじゃない。わたしが必要としなかったんだ。
 わたしの方が、必要と思わなくなっただけだ。わけもわからず、そう思った。




 
 階段を途中まで降りたとき、話し声がするのに聞こえた。
 声だけで分かる。シラユキとツキが、玄関ホールで話をしていた。

 ツキが、何か、声を荒げている。
 シラユキはそれに対して戸惑っているようだった。

 止めに行こうと思ったけれど、今そういった会話に巻き込まれると、冷静でいられない気がした。
 わたしは身動きもとれずに、その場にとどまった。

「どうすればいいんだ?」

 何かを焦っているような声で、ツキは言った。

「俺はもう何が何だか分からない。何をどうすればいいんだ? どうすれば元に戻るんだ?
 何が原因でこんなことになったんだろう。なあ、誰のせいだ? いったいなぜこうなった?」

 シラユキは答えなかった。ただ静かに息を呑んだだけだった。

「シラユキ。シラユキ、お前はシラユキなんだよな? あの、シラユキだな?」



 ツキの、その奇妙な質問に、シラユキは少し間を置いて、

「……はい」
 
 確かな声で、頷いた。わたしには、そのやりとりの意味が分からなかった。
「あの」シラユキ。ツキとシラユキは、ここではないどこかで会ったことがあるのだろうか。
 
「そうだよ。知ってる。そうなんだ。ここにいるってことは、アヤメと一緒にいるってことは、そうなんだ。
 なあ、シラユキ。教えてくれ、俺はどうすればいいんだ? どうするのがアヤメのためなんだ?」

 わたしに対しても、何度も使ったわけではない、便宜上の呼び名。
 アヤメというその名前を、彼は何年も前から知っていたように使った。

"わたしのため"って、どういうことだろう?
 何の話を、しているんだろう。

 どうしてこんなに、頭が痛むんだろう。




 すっかりと混乱した様子のツキに対して、シラユキは落ち着いた口調で答えた。

「わたしにもわかりません。どうにかしたいとは思いますけど、でも、わたしにはどうすることもできない。
 それはもう、わたしたちがどうこうできる次元にはないんです。
 彼女の問題なんです。彼女だけの問題なんです。わたしたちにできることなんて何もない」

 ツキはしばらく押し黙った。シラユキも、すぐには答えない。
 雨の音。雨は降り続いている。何も変わることはないと言っているようだ。
 その雨音に安堵したのか、それとも悲しいのか、自分の気持ちが分からない。

「シラユキ、俺がここに来たのは、間違いだったと思うか? 無駄なことだったと思うか?」

「そんなこと……」

 シラユキはそれ以上何も言わなかった。
 ふたりがどんな表情をしているのか、わたしには見えない。

 でも、きっと悲しそうな顔をしているんだろう。そう思った。
 そして、きっと、その表情の原因はわたしなのだろう、と、漠然と感じた。
 なぜかは、分からないけれど。


「シラユキ、俺はもう駄目かも知れないよ」

 震えた声でツキは言う。

「あっちにいたときのことをどんどん忘れていくんだ。ここにいると不安でたまらなくなる。
 いろんなものが俺を取り残して進んでいっているのを、肌で感じるんだ。 
 そう長い時間、耐えられそうにない。俺はきっと、近いうちアヤメを見捨てるよ。そうなったら……」

 そうなったら、と彼は繰り返す。

「そうなったら、俺は何をしにここに来たんだ? わざわざ自分の手で、とどめを刺す為に来たのか?」

 泣き出しそうな声のツキに、シラユキは何も言わなかった。

 考えなくては、とわたしは思う。何を? 分からない。何を考えればいい?

『あなたはそこに居ていいんだよ』と、声がもう一度言った気がした。
『だってそこ以外にあなたに居場所なんてないから』。

 その声は、本当に優しげに聞こえたのだ。


つづく

185-11 増えただけこと → 増えただけのこと



急に話が動いたからこのまま一気に終わるんじゃないかと途中心配になったがまだまだ続きそうで一安心

ここ見るのが毎朝の楽しみになってます。頑張ってください



目が離せない。

アヤメの未来に幸福はあるのだろうか…

乙乙。




 ふと気付けば、夜だった。
 わたしはもうパジャマ姿だった。髪もしっとりと濡れていた。
 ベッドの上に腰かけていた。

 夕食をとった記憶もお風呂に入った記憶もない。
 でも、事実としてお腹は空いていないし、髪は濡れている。
 だから、夕食はとったのだろうし、お風呂にも入ったのだろうと思う。

 頭がぼんやりとして、うまく働かない。
 でも、別に問題はない。頭が働かなくたって、別にかまわない。
 考える必要なんてもうないんだ。

 そう思った。

 眠気がなかった。音楽を聴くのもいいだろう。本を読むのもいいだろう。
 静かな雨の音が聞こえる。何も変わらない。


 これでいいんだ、とわたしは思う。 
 何も考えなくていい。ただぼんやりと何もかもをやり過ごせばいい。
 
 それでいいんでしょう? わたしは頭の中に訊ねた。
 答えは聞こえなかった。頭が痛むこともなかった。
 それでいいんだ、と何もかもが言っている気がした。

 雨の音。部屋の灯り。机の上におかれたペン立て。ベッドの感触。
 そのすべてがわたしに語り掛けている気がする。それでいいんだ、と。

 だって、何かを考えようとすると、頭が鋭く痛むから。
 痛いのは嫌だから。

 だから、これでいい。

 ——本当に?



 痛みは思っていたよりも小さかったけれど、わたしはその思考を頭からすぐに追い出した。
 そうするとすぐに気分が落ち着いてきた。自分の心臓の鼓動すら、なくなった気がした。
 いいんだ。これでいい。

 ——本当に?

 そう、本当に。
 別に深く考えることなんて何もない。
 わたしはここで、何もかも忘れて生活すればいい。もしくは、何もかもから忘れられて生活すればいい。

 それだけでいい。
 
 ——本当に?

 何度目かの疑問と、それに付き従う頭の奥の痛み。
 ひょっとしたら、わたしは納得していないのかもしれない。

 ふと、昔どこかで見たことがある、綺麗な毛並みの猫のことを思い出した。
 綺麗なクリーム色の毛並。鳶色をした真ん丸の瞳。

 あの子とはどこで会ったんだっけ? あの子はどこにいったんだっけ?

 不意に、ノックの音が聞こえた。





 扉を開けたのはツキだった。 
 
「どうしたの?」


 訊ねると、彼は部屋の前に立ち尽くしたまま頭を振った。
 自分でも何をしているのかわからない、といった様子だ。
  
「入ったら?」

 わたしはそう言ってから、妙な気分になった。
 ツキに対する警戒心は、いったいどこにいってしまったんだろう。
 
「話があってきたんだ」

「うん」

 そんなのは、部屋にきた時点で分かっていた。だからわたしは迷わずに頷く。
 なぜか、彼と目を合わせるのが怖かった。



 ツキはなかなか口を開かなかった。
 こちらから何かを訊ねるべきなんだろうか?
 なんだかひどく体が重い。起きているのが億劫だった。

 雨の音。重苦しい沈黙に、耐えられなくなる。

「ここを出ていくの?」

 とわたしは訊ねた。
 ツキは意外そうな顔をする。わたしの心はさして動かなかった。
 たぶん拳銃を出されたって、ツキが泣き出したって、ぴくりとも動かなかっただろうと思う。

「それでいいと思う」

 彼は黙ったままだった。わたしはどうして自分がこんなことを言っているのか、分からなかった。
 


 やがて彼は、何かを確かめようとするみたいに口を開いた。

「どうしてそんなことを言う?」

「……さあ?」

 ツキは悲しそうな顔をして、部屋の隅に置きっぱなしの、壁を向いたままの姿見を見遣った。
 そこには何もないのに。

「何か別のことを話そう」

 取り繕うみたいにツキはそう提案した。 
 わたしは気乗りしなかったけれど、仕方なく頷く。
 
「たとえば?」

「俺のこととか、お前のこととか」

 そのどちらも、たいして話が弾みそうになかった。



「そういえば、あなたは以前、シラユキの食事を口にするのをためらっていた気がしたけど」

「……ああ」

「あれって、なんだったの? 毒でも入っていると思った?」

 ツキは少し答えるのを躊躇った様子だったが、やがて諦めたように笑った。

「別にそういうわけじゃない。ただ、ここの食べ物を食べると、帰れなくなりそうな気がしたんだ」

「なに、それ。どういう意味?」

「ヨモツヘグイ」

「……え?」

「そういう話があるんだよ」

 彼はそれ以上何も言わなかった。
 こちらも、質問を重ねる気にはなれない。別の話をしようと思った。
 


「シラユキのことを、ここに来る前から知っていたの?」

 彼は頷いた。

「わたしのことも?」

 また頷く。今度は少し間があった。

「あなたは、いったい誰なの?」

「その質問に俺が答えても、お前が自分で思い出せなきゃ、納得なんかできないよ」

「わたしは、どうすればいいの?」

 その質問には、答えてくれなかった。きっとシラユキも答えてくれないだろう。
 それはわたしが決めなければならないのだ。


 急に心細くなって、泣きたいような気持ちになった。
 でもきっと、わたしが泣けばツキは困ってしまう。
 そう思うのは、傲慢ではないと思う。

 言いようのない気持ちが胸の中で氾濫している。

「明日の朝、一緒に森を散歩しないか」

 不意に、ツキはそんなことを言った。

「それを言うためにここに来たんだ。すっかり忘れてた」

「どうして?」

 思わず訊ね返すと、彼は不思議そうな顔をする。

「どうしてって。駄目か?」

「そうじゃなくて……あなたはもう、ここを出るんじゃないの?」


「出ていってほしいか?」

 そう訊かれて、分からなくなった。
 わたしはツキにいてほしいのか、それともいなくなってほしいのか。

「分からない」

 正直に答えると、ツキは笑った。
 それから彼は部屋を出ていった。何を考えればいいのか、分からない。

 わたしは眠ることにした。ベッドにもぐりこむ。雨音がいつもよりうるさい。
 どうすればいいんだろう。どうすればいい?

 答えがあるはずもなかった。




 いつものように、夢を見た。いつもとは、様子が違った。

「どうしてそんなに、醜いのか」

 聞こえるはずのその声がなかった。彼女は、輪郭をほとんど取り戻している。
 怖くてたまらなかったけれど、ためしに声を掛けてみることにした。

「ねえ」

 声は思ったよりも大きく反響する。わたしは少し怖気づいた。それでも、なんだか逃げることはできない気がした。

「あなたは、誰なの?」

 水面越しに見るように歪んでいた彼女の姿。
 それも、もうほとんど、はっきりと見えるようになった。
 返事はなかったけれど、わたしは彼女の顔を知っている。彼女の声を知っている。

 全身に寒気が走った気がした。不意に確信に近い予感を抱く。
 
 わたしは、思い出しかけているのだ。

つづく

乙。

黄泉戸喫…

乙。近未来ではなかったか。




 朝早くに目を覚ました。夢の内容はよく思い出せない

 いろんなものの輪郭がぼんやりとしていて、なんだか曖昧な感じがする。
 認識というか、世界そのものが、薄く揺らいでいる気がした。

 でもいいや。どうでも。わたしはあくびをしてからベッドに体を預けたまま天井を見上げた。
 窓の外はいつもの通り、雨の音。

 今日は何をしようかな、とわたしは思う。
 
 本を読もうか。音楽を聴こうか。いつもの習慣でそう考えかけて、頭を振る。
 その必要はない。シラユキがそうすることを勧めたからしていただけで、本当はそんなことをする必要はないのだ。
 本を読む必要はない。音楽を聴く必要もない。



 じゃあ何をしよう。すべきことはない。したいこともない。何もない。
 わたしはずっと、そんな日々を望んでいた気がする。
 
 何もしなくてもいい、他人にも時間にも束縛されない日々。
 ここにはそれがあった。しかもそれはきっと永遠だ。永遠が石ころみたいに転がっている。
 そんな気がした。

 しかし、もともと『すべきこと』なんてあるものなんだろうか。

 自分が何をしたところで、何をしなかったところで、世界は平気で廻る。
 そう思えば、すべきことなんてひとつもないような気がする。

 何を作って、何を残したところで、人はいつか死んでしまう。
 誰かを好きになったり、誰かのために何かをしたりしても、その人もいつか死んでしまう。 

 たとえばわたしが音楽家で、たまたま作った曲が評価されて、それが誰かの心を動かしたとする。
 その曲が百年以上も語り継がれて、ずっと先の時代の誰かが、その曲を聴いて涙を流したとする。
 でも、それがいったい何になるっていうんだろう? 人を楽しませたり感動させたりして、それで?

 いつかなくなるなら、最初からなかったことと同じだ。



 人の歴史は石ころを積み上げて作った山のようなものだ。無意味な生と死が積み重なっている。
 いつかは崩れるその石の山に、わたしがひとつ石を重ねたところで何になるんだろう?
 わたしひとりが石を重ねなかったところで、誰が困るというんだろう?

 人はやがて滅びるだろうし、地球だっていつかなくなるだろうし、宇宙だってどうなるか分からない。

 わたしは、ただの石ころを宝石と勘違いできるほど無邪気ではない。
 ただの石ころだと分かっていながら、宝石だと自分を騙し続ける自信もない。
 
 他の人にとってどうなのかはともかく、わたしにとっては、現にそれは石ころでしかないのだ。

 ……わたしは何を考えているんだろう。
 寝惚けているせいか、頭がうまく働かない。どうでもいいことを考えてしまっている。

 でも、別にいい。どうせするべきことはひとつもないのだ。
 どうだっていい。雨の音が心地よい。

 わたしは結局、自分のことしか考えていないのだろう。でも、それの何が悪い?

 どうして、わたしの心はこんなに醜いんだろう。





 不意に、何かの音が聞こえた。
 なんだっけ、とわたしは思う。意識は雨の音に集中していた。

 
 それは何かの意味を持った音だったはずだ。なんだっけ。なんだろう。  
 ああ、そうだ。ノックの音だ。誰かがこの部屋を訪ねてきたんだ。


 誰だろう? なんだかよく分からなくなってきた。夢の中を歩いているような気分だ。 
 すべての感触が、ふわふわしていて、実感がない。

 扉が開けられた。わたしは体を動かす気にもなれなかった。
 どうしてこんなにも動く気が湧かないんだろう。自分でも不思議なほどだ。
 何が原因で、こんなことになっているんだろう。

 何も分からなかった。たぶん分かりたくないんだろう。

「どうした?」

 声は言った。ツキだ。それはちゃんと分かる。
 わたしは何も答えなかった。



 こういうとき、何も考えずに泣き出してしまえたらよかったんだろうな、と思う。
 たとえば、ツキに抱きついて弱音を吐いたりして、思い切り泣いてしまえたら。
 不安に思っていることをぜんぶ吐き出して、当り散らしてみたり。

 でも、そんなことができたら、わたしはそもそもこんな場所にはいないのだろう。
 それに、そんな自分を想像すると、ひどく不格好な気がして嫌だった。

 ツキだって、わたしがひとたびそんな姿を見せようものなら、きっと面倒になって離れていってしまうだろう。
 わたしの内面は、言い訳と、卑屈さと、憎しみと、それ以外のみすぼらしい何かでいつも溢れている。
 それを誰かにさらすことなんてできない。

 だからわたしは泣き出したりしなかったし、喚いたりもしなかった。
 ただ寝足りないふりをして、瞼をこすっただけだった。

 結局わたしはそういう人間なのだ。


 昨夜の約束のことで来たのだとツキは言った。
 すぐには思い出せなかったけれど、散歩のことを言っているのだと思い当った。

 わたしの頭は、いつになくぼんやりしている。
 普段は蓋をしているものが、どんどんと溢れ出している。
 思い出しかけているのだ。自分が居る場所のこと、自分が居た場所のこと。

 着替えをするのが面倒だったから、わたしはパジャマの上にカーディガンだけを羽織って、部屋を出た。
 一階に降りると、厨房の方に人の気配がある。きっとシラユキだろう。

 ツキとふたりで玄関に向かう。会話はなかった。
 
 彼はわたしに傘を差しだす。わたしはそれを受け取る。会話以外のやりとりだって、その程度のものだ。

 わたしたちは森の中へと歩く。



 相変わらず、生き物の気配がしない森だ。それも当たり前の話かもしれない。
 昨日彼が言った、ヨモツヘグイ、という言葉を不意に思い出す。

 黄泉戸喫。その言葉がなくたって、わたしはきっと気付いただろう。
 気付いていたのに、気付かないふりをしていたのかもしれない。

 奇妙なほど、すっきりとした気持ちだった。
 つまりわたしがイザナミで、彼がイザナギで、だとすると彼は、わたしの醜さに怯えていなくなってしまうわけだ。

 そういうことなんだろうな、となんとなく思った。
 それとも、まだ寝惚けているんだろうか? 単なる妄想なのかもしれない。

 どっちだっていい。もうどっちだってよかった。


 彼は何かの歌を口ずさみながら歩いた。わたしには、その光景は少し意外に見えた。

 なんだったかな。明るい曲調だけれど、少し寂しげな。
 悲しい曲だった気がする。よく思い出せない。
 別に思い出す必要もないのだけれど、会話のない退屈を紛らわすため、わたしは記憶を掘り返すのに専念した。

 そうだ。カスケーズの「悲しき雨音」だ。

 彼は不意に、歌うのをやめてわたしを見る。そして、困ったような顔で口を開いた。

「疲れたのか?」

「まだ、歩き始めたばっかりだよ」

「そういうことじゃないんだ」

 妙に落ち着いた口調だった。何かを心に決めたようなしっかりとした声。


「……そうかもしれない。疲れたのかもね」

 たいした含意もなく、わたしは答えた。自分で思ったよりも、それはあからさまな言葉だった。

「帰るの?」

 話題をなんとか変えたくて、わたしは思わず訊ねた。

「まだ、来たばっかりだろ」

「そうじゃなくて」

 分かっている、というふうに、彼は深く頷いた。

「まだ、決めかねてる」

 わたしは自分が安堵しているのか、残念がっているのか、分からない。
 でも、残念がっているとしたら、それはすごく身勝手なことだろうと自分で思った。


 ひとつ言えるのは、とツキは続けた。

「お前がどちらを選ぶにせよ、俺は戻るってことだ。それだけは変わらない。
 俺は生きていくよ。でも、お前の選択によってはとても悲しい思いをすると思う。
 せいぜいそれだけだよ。だから、気楽に選べよ。たかだか何人かの人間が悲しむだけだ。それだけだよ」

 ツキの声には、感情を押し殺すような響きがあった。

「たかだか、悲しいだけだよ。それだって、別にお前のせいってわけでもない。
 ただ、そういう結果を生み出さざるを得なかった状況が憎いだけだ。
 そういう状況を生み出すのに加担した自分が憎いだけだ。
 自分が何もしなかったことに腹が立つだけだ。そしてお前には、そんな俺を好きに罵る権利があると思う」

 雨音の中で、彼の声はいやにはっきりと耳に届いた。

「だから、好きにしろよ」
 
 ツキはそう言った。それ以上は何も言ってくれなかった。





 そろそろ戻ろう、とツキは言った。わたしは彼に先に戻ってもらい、森の中に残った。
 考えたいことが、たくさんあった。でも、何から考えればいいのか分からない。

 傘をさして森の中に立っていると、ひどく透き通った気持ちになる。
 このまま透明になれそうな気分。あるいは、森の木々のひとつにでもなれそうな。

 しばらくそこでじっとしていた。
 曇り空が優しく見える。どうしてわたしはこんなふうになってしまったんだろう。

 しばらく経ったあと、遠くの方で誰かの声が聞こえた気がした。
 
 その声に何か嫌なものを感じたわたしは、森の中をもう少し歩いてから屋敷に戻ることにした。
 
 それだけだった。別になんていうことはない朝だった。


つづく

乙乙!

物語も佳境に!……入ったのか入らないのか。
ただ雨が降り続く。

ツキに対する心境に大分変化があったな

巷に雨の降る如く、我が心にも、雨ぞ降る

ヴェルレーヌの詩だったかな…

乙。




 屋敷に戻るとき、何か奇妙な感じがした。
 なんだか、物々しいような雰囲気を感じたのだ。

 これまで暮らしてきて、屋敷をこんなふうに感じたことはなかった。
 不審に思いつつ玄関に向かう途中、誰かが屋敷の前に立っていることに気付いた。
 
 誰か、ふたり。

 片方がシラユキだということは分かった。でも、もう片方はツキではない。
 わたしは物音を立てないように引き返し、森の木々の影に隠れた。

 いまさらという気もした。もう見つかったってかまわないじゃないか、と。
 だいたいのことは、想像がついているのだ。もう何が起こってもかまわない。
 どうなったって、知るものか。



 話し声は、雨の音に途切れてろくに聞こえなかった。
 それなのに、シラユキではない方の声は、ひどく冷たく、無機的に聞こえる。
 なぜかは知らない。

 その人とシラユキの、何が違うのか、わたしには分からない。

 そういうところも含めて、たしかめないといけないんだろう。
 わたしはそろそろ、終わりにしなくちゃならない。そんな気がした。
  
 というよりは、もう終わってしまうのだろう。そういう予感がある。
 だってわたしは思い出しかけているんだから。

 わたしのささやかな平穏は、忘却によって維持されていた。
 本来ならもっと長い間、何もかもを忘れられていたんだろう。

 思い出したのは、ツキがここに来てしまったから。



 シラユキと話をしていた誰かは、やがて丘の下へと向かう道を歩いていった。
 わたしはその場で少しのあいだ空を見ていた。

 雨は降り続いている。灰色の雲と白っぽい太陽。生き物の気配のしない森の中。
 まるで世界の果てにでもいるような、そんな気持ちになる。

 溜め息をついて歩き出す。ぬかるんだ土の感触。それは分かる。
 雨の匂いも、土の感触も、太陽の光も、ちゃんと分かる。

 でも、そのすべてに現実感がない。

 ここにはもう何もないのだな、とわたしは思った。
 ひょっとしたら、最初から何もなかったのかも知れない。
 今まで気付かなかっただけで。
 
 でも、別にそれでもいい。
 もう思い出してしまっているから。
 




 しばらく経ったあとだというのに、わたしがふたたび屋敷に向かったとき、シラユキはまだそこに立っていた。
 まるで待ち構えるみたいに。
 わたしと彼女は、傘をさしたまま少しのあいだ視線を合わせた。

 それだけで、彼女の方からも何か話があるんだろうと分かった。
 わたしにそう分かったということは、彼女の方も、わたしから話があることが分かったのだろう。
 
 シラユキはそれから視線を落として、顔をわずかに俯けた。悲しげな表情だった。
 でも、なんだか不安定な悲しみ方だった。憤りと諦めを行き来しているような、そんな悲しみ方。

「少し、歩きませんか」

 わたしは散歩から戻ってきたばかりだったけれど、頷いた。
 どうせ、屋敷の中に戻る気にはなれなかったのだ。

 彼女と並んで歩き出すと、なんだか懐かしいような気持ちになった。
 ツキと並んで歩いたときにも、こんな感覚があった気がする。
 いや、懐かしいと思うのも、当たり前か。


「話があるんですよね?」

「うん。シラユキもでしょう?」

「……はい。大事な話です。でも、あなたの話を聞いてからでも、かまいませんか?」

「なぜ?」

「少し、ややこしい話ですから。その話をする前に、あなたがどう思っているのかを教えてほしいんです」

「どう思っているかって、何を?」

 いつもの彼女なら、少し間を置いて、困ったような顔をする場面だ。
 けれど、彼女は躊躇わなかった。もうそういう場面ではないのだ。

「わたしや、ツキや、この屋敷や、あなた自身のことや、この街のこと。それから、この世界のことです」

「……うん。いくつか質問するけど、いいよね?」

「答えられる類のものであれば」

 彼女はいつもよりもずっと控えめに微笑んだ。


 薄いクリーム色をした、細い髪。まんまるの、鳶色の瞳。
 淡く滲んだような森の中に、彼女の気配は溶け込むようにうつろだった。

 どこから話せばいいんだろう。思い浮かんだこと、思い出したこと、思いついたこと。
 どれから話を始めても、どこかが中途半端になってしまいそうな気がする。

 ともあれ、話すしかない。そうすることでしか、たしかめられないのだ。

「これから話すこと、もし、おかしいところがあったら、言ってね」

「はい」

「思い出したことが、いくつかあるの」

 シラユキは相槌も打たず、話の続きを待った。わたしは話をするのが得意じゃない。
 でも、そうするしかない。今はもう。


「わたしは、ここじゃない世界に生きていたんだよね?」

 シラユキは答えなかった。雨の音が、かすかに強まった気がした。

「そこで、どんな理由かはわからないけど、わたしは……」

 言葉にするのが、少しだけ怖かった。でも、それだけだった。
 たかだか、少し怖い程度だった。

「……死んだ。それも、ただ死んだんじゃなくて、自分の意思で」

 掠めるのはわずかな記憶ばかりだけれど、反芻するたびに肌があのときの冷たさを思い出す。
 水の唸りが獣の咆哮のようだった。夜の静寂を嵐が吹き飛ばしていた。
 灯りも見えない暗闇の中で、澱んだ水流のすさまじい勢いと、突き刺さるような冷たさだけを感じた。

 その冷たさを、徐々に感じられなくなっていった。
 


「だから、ここは死後の世界なんでしょう? ツキが、ヨモツヘグイって言ってた。
 死後の世界に迷い込んだ人間が、その世界の物を口にすると、帰れなくなるって話。
 そうなるかもしれないと、ツキは疑ってた。彼はきっと、最初からこの世界がどんなところなのか知っていたんでしょう?」

 答えを待って、わたしは黙り込む。いつもより、雨の音がよそよそしく思えた。

「……概ね、正解です」

 彼女は、感情的になるのを恐れているみたいに、無表情のままだった。

「ただ、この世界の食べ物を食べても、帰れないということはありません。
 この世界が、死後の世界、というわけでもありません。ただ、あなたの記憶に関しては、正解です。
 あなたはここじゃない世界で生きていて、そこで自ら命を絶とうとしました」

「そう、なんだ」

 死後の世界ではない、という言葉も気になったけれど、記憶の内容が事実だと肯定された衝撃の方が大きかった。
 分かっていたことなのに、どうしてこんなにも胸が苦しいんだろう。


「ツキのことは、思い出せましたか?」

 シラユキの方から質問されて、わたしは少し戸惑った。

「まだ、ほとんど分からないけど、情景みたいなものは……」

「それは、どんな?」

「……雨の街を、傘をさして、並んで歩いているの。今よりずっと子供のとき、だと思う。
 こことは全然違う場所。なんだかもっと、なんていうか、"普通"の……」

 そう言いかけて、わたしにとってこの街は"普通"ではなかったのだな、と、いまさらのように気付いた。 
 シラユキは何も言わず、続きを待つ。わたしはその光景を思い出しながら、丁寧に言葉にしていった。

「それはたぶん、"いつも"のことで、"当たり前"のことだった、と、思う。
 ツキも、わたしも、特別なことだって意識はなかった。わたしたちは、当たり前みたいに並んで歩いてた。
 これは、生きていた頃の記憶ってことで、いいんだよね? わたしは、ツキのことを知っていた」

「……あなたがそう感じるなら、そうなんだと思います。その情景に続きはありますか?」 

 シラユキは穏やかに言った。まるで催眠術にかかったみたいに、口が勝手に動き始めた。
 頭が、続きを探していく。


「それは、どこかからの帰り道で……たぶん学校からの、帰り道。
 いつも通る公園があった。晴れた日にはそこで、ふたりで話をしたりもした。
 でも、その日は、雨が降っていて、わたしとツキは、つまらないことで喧嘩してた。だから、公園には寄らなかった」

 そう、寄らなかった。通り過ぎようとした。

「でも、通り過ぎようとしたとき、鳴き声が聞こえた。公園の、ベンチの下から。
 小さな動物の鳴き声。雨音にかき消されるほど弱々しくて、小さな声。
 わたしはたしかに聞こえたって言ったけど、ツキは聞こえなかったって言った。
 それでまた喧嘩になって、たしかめようってことになって……」

 そして、ベンチの下には、どこかで聞いた話のように、段ボールが置かれていた。

「底に敷かれた薄っぺらなブランケットの上で、まだ目も開いていない子猫が鳴いてた。
 白っぽい、薄いクリーム色がかった毛並をしていて、小さくてかわいかった。
 わたしとツキは、雨の中にその子猫を放っておく気になれなくて、段ボールを抱えて、慌てて家に帰った」


 思い出していなかったはずの、記憶の続きだった。
 わたしはその記憶を必死に辿る。
 
 ツキの両親は猫を連れて帰った息子を叱った。
 ペットを飼ったことがなかった彼らは、市販の牛乳を舐めさせて、子猫の腹を壊させた。
 急いで本屋に向かい、子猫の本を買ってきて、ペット用品を買いそろえて、次の日には飼うことになっていた。

 わたしはその猫がかわいくて仕方なかった。
 毎日のようにツキの家に行き、その猫と遊んでいた。

 あんまりにもわたしが猫と遊びたがるものだから、ツキはいつも不機嫌になった。
 そんなに遊びたいならお前の家で飼えばよかったんだって。
 でもそんなことはできなかった。両親にそんなことを言えば……どうなるか、わからなかったから。

 その子には名前があった。

 ツキが考えたのだ。『お前が花で、俺が月だから、こいつの名前は雪がいい』って。
 そのままだと人の名前みたいでややこしいから、少し付け加えて。
 柔らかな、綺麗な毛並の子猫に、その名前はぴったりのものに思えた。
 
 シラユキ。

つづく

乙にゃんこ。




「猫は長い間ツキの家で飼われていた。
 わたしはその子のことが好きだったし、ツキだってその子のことが好きだった。
 でも、死んだ。四年か、五年経った頃だったと思う。
 季節は秋で、よく晴れた日だったことを覚えてる。車に轢かれて、ひどい姿だった」

 連鎖するように、記憶が次々と浮かび上がってくる。
 ツキのこと。シラユキのこと。それから自分のこと。
 わたしが何かを言いかけるより先に、シラユキは口を開いた。

「もし、わたしがその猫の死後の姿なのではないかと、あなたが考えているとしたら、それは誤りです」

 彼女はわたしの考えを、あっさりと否定する。
 何の躊躇もなさそうに、はっきりと。

 不思議と驚きはなかった。いや、不思議でもなんでもない。
 いくら死んだあとだからといって、どうして猫が人の形になったりするだろう。


「続きを、話してもらえますか?」

「……続き?」

「はい。その猫が死んで、あなたはどう思ったんですか?」

「……わたしは」

 わたしは、とても悲しんだ。
 猫はだいぶわたしたちになついていたし、死んでしまうのもあまりに唐突だったから。
 当たり前のように悲しんで、それで……。

「悲しかった、までは分かります。それから?」

 それから。

「……それから、って、なに? それ以上に何があるっていうの?」

「ないのですか?」

 シラユキの表情は、いたって真面目なものに見える。
 こんなときに、彼女はふざけたりしない。
 頭が、軋むように痛む。


「あなたはシラユキの死に、どんなことを思ったのですか?」

 わたしは。

「……生き物は、死ぬんだなって思ったよ。すごく素朴に。
 なんだかすごく虚しい気がした。こんなことがずっと繰り返されていたんだと思うと」

「はい」

 そこで終わりではないでしょう、と言うみたいに、彼女は頷く。
 わたしは続きを引き出される。自覚できないほど深い部分から。

「……いつか終わるなら、もういいやって思った」

「どういう意味ですか?」

「だから、もういいや、って思ったの。いつか終わるとしたら、ここで終わりでもいいやって」

「なぜ?」

「全部が全部、いつか終わってしまうなら、それが今すぐでも構わないって思った。
 だって、苦しかったから。いろんなことが分からなくなっていたから。今だって、そうだと思う」


「生き続けて苦しむより、何もかも終わりにしてしまった方が楽だったってことですか?」

「……うん。そういうことになるんだと、思う」

 シラユキには、たいした衝撃もなさそうだった。まるであらかじめ知っていたみたいに。
 わたしは自分の記憶と、自分の言葉を整理するので頭が追いつかない。

「だから、何もかも終わりにするために、死のうとしたんですね?」

「……そう、だと思う」

 頭痛がなくなってくれない。記憶が無理に引きずり出されているような痛み。
 雨音がノイズのようにのしかかる。わたしは痛みに対しての耐性を持ち合わせていない。

「ことの是非に関して、わたしはまったく興味がありません。
 問題は、何があなたをそこまで苦しめていたかという点です」

「シラユキ、やめて」

 気付けば、そう言っていた。自分でもびっくりするほど頼りない、怯えた声だった。


「そんな言い方をするということは、あなたは既に思い出しているはずです。
 自分が誰によって苦しめられていたのか。そのことをちゃんと理解しているはずです」

「……そんなの」

 ——どうしてそんなに、醜いのか。

 耳元で粘つくようなささやき声。
 でもわたしは、なるべくその声の主のことを思い出さないようにした。

「あなたの母親です。正確にいえば父親の後妻。あなたから見れば継母にあたります。
 実の母親は、あなたが立って歩けるようになった頃には亡くなっていましたから」

 シラユキはそこで一度言葉を切ると、吐き捨てるような調子で続けた。
 わたしは彼女のそんな声を、初めて聞いたような気がした。

「あまり気分の良い話ではありませんから、細かい部分は割愛しましょう。
"それ"は日常的に繰り返されていました。父親の目がない時に。
 再婚した直後はそうでもなかった。でも、それに関してもさまざまな要因があったのでしょうね。
 あなたの方も、誰にも言うことはできずに、ただ投げつけられる言葉に耐えていました」

 それ以上何も聞きたくなかった。どうしてこんな話をしているのか、分からなくなってしまう。


「あなたにとって、家は安らげる空間ではありませんでした。
 学校に行くことだって、家から離れられる安堵を除けば、楽しいことでもなかったでしょう。
 苦しいばかりだったでしょうね。唯一の友だちだったツキと、その家族。それからシラユキという子猫。
 もし苦しみではないところがあるとしたら、そうした人々との交流くらいでしょう」

 シラユキは、淡々と言葉を吐き続けた。
 
 わたしの頭は心とは別に、答えを導き出していく。

 長い間、その自覚もなく、わたしは耐え続けていた。
 けれどある日、何の脈絡もなく、猫は死んでしまった。
 その出来事に、わたしは分からなくなってしまった。

 どうしてわたしは、必死になってここに留まり続けているんだろうと思った。

 いつからか、自殺と疑われずに死ねる方法を考えている自分に気付いた。
 


「そうして、あなたは死にました」とシラユキは言った。

 他人事のようなニュアンス。そのことが、むしろ事実を際立たせていた。
 
「激しく風雨の吹き荒ぶ、嵐の夜のことでした。
 暗い夜の中、いつも通っていた橋の下の河は、とぐろを巻いた巨大な黒い蛇のように見えました。
 それから先は、わたしが言わなくても感覚が覚えているでしょう」

 沈黙の隙間を、雨音が縫うように埋めた。
 わたしは何を言えばよかったんだろう。

 自分の死の顛末に、感想のひとつでも寄せればよかったのだろうか。
 視野狭窄だった、とか、周りに相談するべきだった、とか、父親は何をしていたんだ、とか。
 そんな間抜けな感想のひとつでも、付け加えればよかっただろうか?
 
 何も言えることなんてなかった。
 


 父親はいつも仕事で帰りが遅かったし、義母は父の前では良き妻を演じていた。
 ……いや、良き妻だったのだろう。きっと良き母にもなれたはずだ。
 でも彼女はそれを拒んだのだと思う。きっと、そうだと思う。

 生きている間、ずっと、わたしは自分の日々を覆う暗闇の正体がつかめなかった。
 何かが覆いかぶさっているのは分かっていた。
 でも、それがどんなもので、どのように取り除けばいいのか、見当もつかなかった。

 だって誰も教えてくれなかったのだ。 

「……記憶の話は、ここまでにしましょう」
 
 シラユキは言った。わたしは頷くこともできなかった。
 傘の柄を握る手のひらの感触が、いつもより心もとない。
 
 自分は死んだのだ、と思った。そして二度と生き返らない。
 そう思うと虚ろな解放感がわたしの心を支配した。
 かすかな安堵。あとは少し、胸の痛んだ。それだけだった


「ひとつだけ、聞いておきたいことがあります」

 シラユキは真剣な瞳でわたしを見つめた。 
 鳶色の、まんまるの瞳。あの猫ではない、と彼女は言った。でも、よく似ている。

 わたしは少し、悲しくなった。

「死を選んだことに後悔はありませんか?」

 どう答えればよかったのだろう。わたしは迷う間もなく、返事をしていた。

「……後悔? なぜ?」

 シラユキは何も言わなかった。少しだけ後悔したけれど、取り繕うような言葉は浮かばない。
 きっと本心から出た疑問だったのだろう。

「そうですか」

 とシラユキは頷いた。



「では、まだ生きて帰る術があると聞いても、あなたは嫌がるだけなのでしょうね」

 その言葉に、彼女の言う通り、嫌な気持ちになる。
 選択の余地がないこと、選択が終わったあとだからこそ、解放されたと言えるのだ。
 選択の余地があるあいだは、わたしは考え続けなければならない。

 もう、そういうのは、うんざりだ。

 シラユキはわたしの気持ちを知ってか知らずが、話を続けた。

「いくつか、話さなければならないことが残っています。
 あなたがさまざまなことが思い出したのも、そういうタイミングだからでしょう。
 それを思えば、あまりにもお誂え向きと言えるかもしれない。そろそろ終わりが近づいているということでしょう」

 わたしが不審に思っていると、彼女は困ったように笑った。

「大丈夫。迷いがないなら、話は簡単です」

 それから彼女は、いつものように微笑む。

「この世界についての話をしましょう」

つづく

明日が楽しみだ。




 風が吹いた気がした。冷たく湿った風だ。少しだけ雨を揺さぶって、すぐに消えた。
 生き物の気配のしない森の中に、わたしたちは立ち尽くしている。

「死後の世界ではない、と、さっき言いました。では現実なのか、と訊かれるとそうではありません」

 シラユキは話し始めた。わたしは話の続きを聞くべきなのだろうかと考えた。
 でも、もう無駄なのだろう。わたしは聞くしかない。聞いたうえで選択しなくてはならない。
 
「上手く説明するのは難しいですが、この世界は、あなたを中心に出来上がったものです。
 というよりは、あなたこそが世界そのものである、という言い方をすべきかもしれません。 
 あなたの心象風景が具現化されたもの、それがいくつかの現実的な要素によって補強されたもの、とも言えます。
 厳密には異なりますが、走馬灯や妄想と言い換えることもできるでしょう」

 心象風景。走馬灯。妄想。
 それならたしかに、現実とは言えない。死後の世界とも言えない。

 ということは、このシラユキとの会話も、わたしの頭の中での出来事ということになるのか。
 要するに、すべて、わたしの妄想ということに。



「つまり、全部が全部、わたしの自作自演ってこと?」

 そう思うと、なんだかこんな会話すら無意味だという気がしてきた。 
 人形遊びのようなものだ。自分の頭の中での会話。

 だとすれば、この雨の匂いも、土の感触も、すべては夢のようなものなんだろうか。

「そうだ、とも言えますし、そうではない、とも言えます」

「よく分からない。つまり、どういうこと?」

「この世界は、あなたの精神に依拠して生み出されました。
 ですが、それはこの世界があなたの願望によって成立していることを意味しません。
 まったく無関係というわけではありませんが、世界は既にあなたから独立してしまっています」



 彼女なりに、噛み砕いて説明したつもりなのかもしれないけれど、わたしにはさっぱり分からなかった。
 シラユキは少し黙った。それから気を取り直すように深呼吸をする。
 長い睫毛が、かすかに揺れた。

「丘の下の街には、変化が存在しません。
 今いる人間は決していなくなりませんし、今いない人間が新たに生まれることもありません。
 大人は永遠に大人ですし、子供は永遠に子供です。そして毎日、ほとんど同じことを繰り返しています。
 つまり、今降っている雨は、ずっと降り続けるんです」

 これらは街が街として生まれてから、街として獲得したものです、とシラユキは言う。

「生み出したのはあなたでも、管理しているのはあなたではありません。
 だから、丘の下の人々は自分の意思で行動していますし、あなたの意思でこの街が消えてなくなることもありません。
 世界は世界として成立してしまっているんです」

 わたしには彼女の言うことの半分も理解できなかった。


 でも、少し考えてどうでもいいやと思った。
 だってここは結局、わたしにとっての現実ではないのだ。
 夢のようなものだ。

 そしてわたしは、別に現実に帰りたいとも思わない。
 死ぬというのならそれでいい。生きたいとも願わない。
 
 わたしの願いは、シラユキとずっとここで暮らし続けることだった。
 でも、それすらも、もはや関係ない。

 にも関わらず、シラユキは続ける。

「丘の下の街で暮らす人々は、変化を毛嫌いします。
 街にいる人間が増えることを許しません。絶対量が決まっているんです。
 それは決して減りませんし、増えることは許されません」



 いまさらそんなことを知ったところで、何の意味があるんだろう。

「あなたは世界が生み出されたとき、既にこの世界に存在していました。
 ですが、厳密には、あなたはこの世界、この街の住人ではありません。
 そのことは分かりますね?」

「わたしにとっての現実は、ここじゃないってことでしょう?」

「はい。ですから、あなたはとても曖昧な立ち位置にいます。
 あなたがこの世界に居続けるかぎり、この世界はあなたに危害を加えません。
 ですが、もしあなたが変化を望み、この世界を去ろうとしていると気付いたら、この世界はあなたに容赦しません」

「……どういう意味?」

「もし発覚すれば、拘束してでもあなたを街に留め続けるでしょう。
 それでも逃げ切ることはできるとは思います。出口が見つけられれば、ですけど」


 なんだ、とわたしは思った。
 じゃあもうわたしの結論は決まっているんじゃないか。

「つまり、わたしがここに居続けることを選べば、何の問題もないの?」

「……そうなります」

 シラユキは硬い表情で頷いた。簡単な話だ。わたしはここに留まることができるのだ。

「そっか。そうなんだ。じゃあ、別にいいや。わたしはここに居られるんでしょう?」

「はい。永遠に、です」

 シラユキは少しだけ困ったような顔をした。

「一応、言っておきます。今はまだ仮の状態ですから、違う答えを選び直すこともできますけど……。
 もう、そんなに猶予はありません。もう少ししたら、永遠が確定されます。
 そうなるともう、後悔すらできません。その先ではあらゆる変化が許されません」

「そう」

「それはそのまま、現実世界での死を意味します」

「そっか。うん。分かった」


「……本当に、構わないんですか?」

 雨音は続く。わたしはシラユキの不安そうな表情がおかしくてしかたなかった。
 
「どうして駄目だって思うの?」

「……わたしはおそらく、あなた自身が作り出した存在です。シラユキという猫をモデルに。
 どういう理屈かは分かりませんが、わたしの中には、あなたやツキと過ごした記憶があります」

「本当に、猫のシラユキとは違うの?」

「シラユキは死にました。死んだものはどのような形であれ、生き返ることができません」

 そうだろうなとわたしは思った。でも、どうなのだろう。
 理屈はどうあれ、彼女は——猫のシラユキなんじゃないか。
 いつだったか、ツキが「あの"シラユキ"か」と訊ねたとき、彼女は頷いてはいなかったか。
 
 ひょっとしたら単純に、そう言っておいた方が、話が早かっただけなのかもしれないが。
  


「わたしは、あなたを丘の下から隔離して、できるだけ街から遠ざけるように行動してきました。
 それはたぶん、この選択を迫るためのこと、だと思います。現実を望んだときは、現実に帰れるように。
 わたしはその為の保険のようなもの、なんだと思います」

「なんだか釈然としないけど、つまりあなたも、わたしが勝手に生み出した存在ってこと?」

「……もちろん、わたしにも意思や感情はあります。独立した一個の存在です。
 ですが、そういうふうに作られたんだということは、状況的に想像ができます」

「それで?」

「もし本当に、この世界に居続けることを、あなたが望んでいるなら、自分で選択の余地を残すでしょうか?」

 わたしは溜め息をつきたくなった。
 


 この世界で暮らし続けること。"永遠"が確定されること。それは現実世界における死を意味する。
 理解しにくい、納得しにくい理屈だ。でも要するに、言葉の使い方が違うだけのことなんだろう。

 ここから出るか、出ないか。
 あるいは、生きるか、死ぬか。
 問われているのはそこだけなんだろう。

「シラユキ、選択の余地に、保険以上の意味なんてないよ」

 誰かが、似たようなことを言っていた。まだ生きていた頃だ。

『痛くて、苦しくて、死にたいって言いながら、それでも死なないのは、本心では生きたいと思っているからじゃないのか?』

 誰が言ったんだっけ。わたしには関係のない場面だったような気がする。
 わたしはあのとき、何も言わなかった。
 何も言わなかったけれど、覚えている。
 


 その人は根本的に誤解していたのだ。 

 死を望みながらも、最後の一歩を踏み出さないのは、本心だとか、無意識だとか、そういうものが理由じゃない。

 積極的な死と消極的な生ならば、消極的な生の方が労力が少ないだけだ。

 生きている状態から死を望むなら、積極的に行動を起こす必要がある。
 でも、ずるずると生き続けるだけなら、覚悟も、決意も、必要ない。

 きっかけひとつ、あるかないかの問題なのだ。きっかけさえあれば、いつだって死ぬはずだ。
 世界を救うために誰かひとりの命が必要だったなら、喜び勇んで名乗り出るだろう。
 大義名分を手に死ねるなら、それほど楽なことはない。
   
 選択の余地に、保険以上の意味なんてない。



「じゃあ、あなたは、死にたいんですか?」とシラユキは言った。

「正確に言うと、もう生きていたくない」

 雨。
 ずっと続いている。昔から雨は好きだった。止まなければいいと思っていた。
 どうしてだっけ。雨はわたしに優しかった。

「……わたしは、この世界に、意思と感情を持って存在しています。信用できないかもしれませんが。
 ですから、そうする権利はないと知っていながら、少し勝手な行動もとりました。
 少しでも現実のことを思い出せるよう、本や音楽を勧めました。
 この街に馴染んでしまわないよう、他の人と会わせることを避けたりもしました」

「ああ、そうだったんだ」

「それは、あなたのことが好きだからです。生きてほしかったからです。知っていましたか?」

「シラユキ」

 とわたしは強く呼びかけた。

「もう、現実のことなんて、ぜんぶどうでもいいよ。ぜんぶ、終わりでいいよ」


 彼女は悲しそうな顔をした。でも、本当にそうなのだ。
 もう、全部終わってしまって構わない。
 
 現実はわたしにとって積み上げられた石ころに過ぎない。
 ここにきてより一層、その感覚は強まっている。

「そうですか。では、あなたの身の周りにいた人々のことも、どうでもいいんですね?」

「石ころ」とわたしは言った。口に出すつもりはなかったけれど、それは転がり出るように声になってしまった。
 シラユキは眉をひそめた。

「本当に?」

「なぜ違うと思うの?」

「わたしも——」

 と彼女は言いかけて、一度口を閉ざしてから、言葉を選び直した。



「——シラユキという猫も、あなたにとっては石ころでしたか?」

「……どうだったかな」

 いいかげん話を終わらせてしまいたいなとわたしは思った。
 そうじゃないと……。

「ツキは、どうですか? 何の価値もない相手でしたか?」

 ……ああ、そうだ。思い出した。
 ツキだ。

 雨の日が好きだった理由。

 外で遊ぶのが好きだった彼は、晴れた日には、わたしを置き去りにして他の誰かと外に遊びにいった。
 でも、雨の日は、退屈そうにしながらも、一日中だって一緒にいてくれた。

 だからわたしは雨が好きだった。

 ツキの、少し物憂げな横顔を眺めながら、シラユキの背中を撫でるのが好きだった。


「あなたがここに残ることを決めるというのなら、わたしはそれに従うしかありません」

 怒ったような声だった。少し、震えているようにも聞こえる。
 わたしの胸は少し痛んだ。どうして痛むんだろう。わたしはほとんど死んでいるのに。

「あなたはこの屋敷で暮らしながら、そのときが来るのを待てばいいだけです。
 ただ、その前にひとつだけ言っておくことがあります。
 ツキがこの世界にやってきたのは、なぜだと思いますか?」

「……それだって、わたしの妄想の一部でしょう?」

「さっき言った通り、この世界では人口の増減は起こりません。ツキは最初、この世界に存在しませんでした。
 もし彼が現れたのなら、それは他のどこかから来たということです。やってくることができた、ということです」

「……それが?」

「……それすらあなたにとってどうでもいいことなら、もう何も言いません。責めるつもりも、ありません。
 あなたにとって、それだけ現実が決定的だったんだと解釈します。
 ただ、これはそうした決定とは無関係のこととして聞いてください」


 シラユキは一度深呼吸をした。わたしは何か嫌な予感がした
 でも、なぜ嫌な感じがするのか、分からなかった。
 何が起ころうとわたしは揺るがない。そのはずだ。だったら、関係ないじゃないか。

「先ほどまで、丘の下の村長さんが、屋敷にいらっしゃっていました。
 変化を嫌うはずの彼が、今日ここを訪れたのは、何かを感じ取ったためかもしれません。
 そして、タイミング悪く、散歩から帰ってきたツキの姿を、彼は目撃しました。
 今頃、ツキを探すために、丘の下で人を集めているところでしょう」
 
 急な話題の変化に、わたしは少し戸惑った。それからやっぱり、嫌な気持ちになった。

「丘の下の人々は、人口の増減を決して許しません。
 もしいないはずの人間が現れれば、彼らは必ず探し出して、殺害しようとします」

「……サツガイ?」

「はい。殺害、です。あなたにとっては、もうどうでもいいことなのかもしれませんが」

 そう言うと、シラユキは静かに空を仰いだ。

「積み上げられた石ころの山から、たったひとつ石ころがなくなるだけの話です」

 わたしは、答えられなかった。


つづく

oh…


海辺のカフカの森とか灰羽のグリの街とか憧れる
しかし流9州は嫌だ




 わたしとシラユキは言葉もかわさずに屋敷に戻った。
 ツキは森の奥に逃げ込んだという。まだ、つかまってはいないらしい。
 
 ひとり部屋に戻り、ベッドに寝転がる。それからさっき話した内容を吟味した。
 この世界のこと、わたしのこと、シラユキのこと、ツキのこと。
 
 そして自分の記憶にある「現実」のことを考えた。
 思い出してみると、それはさほど悪くないように思えた。

 ツキがいた。彼の両親は良い人たちだった。わたしにも優しくしてくれた。
 それにシラユキが言っていたように、現実には面白い本もあったし、音楽だってあった。
 映画だってドラマだって娯楽には事欠かなかった。その中にはいくつか好きなものだってあった。

 きっとわたしが知らないだけで、現実にはたくさん、素敵なものや場所があるのだろうと思う。
 そして生きてさえいれば、そうしたものを求め、出会い続けることができるのだ。
 
 でも、それだけと言ってしまえば、それだけのことだった。

 本も音楽も映画も、実際の境遇からわたしを救ってくれるわけではなかった。
 耐える手助けにはなるかもしれない。でもそれだって結局、それだけのものだ。
 耐えたあとに何かを残してくれるわけでもなかった。



 世界は世界として独立している。シラユキはそう言った。
 死後の世界というわけでもなく、現実でもない。

 一種の異世界のような場所。わたしの精神を土台に作られた場所。

 そして、ツキはそこにやってきた。 
 彼の存在は、この世界では許されないものだ。だから彼は、人々に見つかれば殺されてしまう。

 それでなくても、この世界に来るために、どのような手段を取ったのだろう?
 
 この世界が世界として独立しているなら尚のこと、普通の手段でここに来ることはできない。

 ……入口があるなら、出口もあるのだろうか。

 ツキ。ツキが死ぬかもしれない。
 この世界で死んだら、現実でも死んだことになるのだろうか?
 たぶん、そうなのだろう。ここで死んだ人間は、現実でもやはり死んでしまうんだろう。



 別にかまわないじゃないか。そう思った。ツキが死のうと生きようと関係ない。 
 そう思ったから、わたしはここにいるんじゃないのか?

 ツキが悲しんでも、苦しんでも、関係ない。そう思ったから、わたしは今ここにいるのだ。
 
 身の回りの人間のことだって知ったことじゃない。そう思ったから……。

 わたしは瞼を閉じて、ツキのことを思い出そうとした。 
 現実に生きていたときの記憶。ツキはわたしに、どんなふうに接していたのか。
  
 思い出す必要なんてない、と思う自分もいた。
 でも、わたしは思い出そうとした。なぜだろう? それは分からない。

 思い出そうとしてもろくな記憶がなかった。
 かろうじていくつかの表情が思い出せるだけだ。笑った。怒った。泣いた。強がった。 
 そんな断片的な記憶だけ。でも、それはツキだった。



 わたしは無性に叫びだしたいような気持ちになった。
 どうしようもなく、気分が収まらなかった。そう考える自分を抑え込もうとした。

 ベッドを降りて、窓の外を睨んだ。そして思う。
 見ろ、と。雨はまだ降っている。雨が降っている。それだけだ。それ以上に何がほしいんだ?

 窓の外には森が見えた。ツキは今、どこにいるんだろう?
 きっと逃げている最中だ。

 どうなんだ? わたしはわたしに訊ねる。
 ツキにどうなってほしい? 本当に、ツキのことはどうでもいいのか?

 答えは、すぐに出た。

 どうでもよくなんかない。
 彼は、石ころなんかじゃない。


 そう思うことに、どことなく抵抗もあった。理屈が合わなくなってしまう不安。
 でも、それどころじゃない。彼はこんなところにいてはいけないのだ。

 ツキの両親は、彼が死んだらきっと悲しむ。
 わたしのために、彼らにそんな顔をさせるわけにはいかない。

 理屈なんてどうでもいい。わたしは、彼が現実に帰る手助けをしなければならないのだ。

 わたしは部屋をあとにして、屋敷の中でシラユキの姿を探した。
 二階にはいなかった。階段を下りて一階を目指す。

 シラユキは厨房にいた。そうだ。わたしたちは朝食だってとっていない。
 ここは現実ではないけれど、ひとつの世界だ。
 お腹だって空くし眠くだってなる。現実感に乏しいなんて嘘っぱちだ。

 ツキだってきっとお腹を空かしている。
 雨に打たれて寒い思いをしているかもしれない。
 そんな思いをしていい人じゃない。

 彼はわたしとは違うのだ。


「シラユキ」

 呼びかけると、彼女は意外そうに顔をあげた。

 彼女はわたしの声に、どこか戸惑ったような表情を見せた。
 当然と言えば当然か。
 この屋敷に来てから、ここまではっきりとした意思を持ったことはなかった気がした。

「この世界に、出口はあるの?」

 彼女は怪訝そうにしながらも、答えをよこした。

「あります。そうでなくては、あなたが現実に帰ることができませんから。それでは、保険が機能しません」

「そこから、ツキも現実に帰れるの?」

「……おそらくは」

「分かった」


「分かったって、どうしたんです?」

「ツキを現実に送り返す。彼に死なれるのは困るから」

「……なぜです?」

 心底不思議そうな顔を、シラユキはした。
 なぜ、死のうとしている人間が、生きている人間のことを考えるのか。
 そういう表情だ。

「彼を巻き込んだら、わたしが気持ちよく死ねないの」

 シラユキは、答えに迷ったようだった。
 というよりは、まだ、どうにかしてわたしを説得しようとしているような態度だった。

「わたしのことについては、何も言わないで。それはわたしも、あとで考える。
 ツキのことは、急がないといけない。そうでしょう? 彼を一刻も早く、現実に戻さないといけない」

「アヤメ」

 と彼女はわたしを呼んだ。わたしは彼女が何か言うより先に答えを返す。

「協力して。ツキをどうやって助ければいいの?」




 わたしは部屋に戻り、動きやすい服に着替えた。
 それから何か武器になるようなものを探した。
 
 書斎にある拳銃が手っ取り早そうだったが、あれはあまりに物騒だ。
 
 部屋の中を探しても、それらしいものは見つからない。
 仕方ないか、とわたしは思った。もし武器が必要な場面になったら、わたしにはどうしようもないだろう。

 できるかぎり、そのような状況に出会わないようにしなければならない。

「どうして、下界の人たちは殺そうとするの?」

 わたしがそう訊ねたとき、シラユキは考え込むような顔をした。

「だって、別に殺さなくても、追い出せばいいだけのことでしょう?」

「……たぶん、彼らは出口があるということを知らないんだと思います」

 純粋な意味でのこの世界の住人は、この世界以外の世界を知らない。

 だから、殺す以外に数を維持する方法を持たないのだと。



 彼らはツキを見つければ、すぐに捕縛し、殺害しようとする。
 里にやってきた熊を撃ち殺すみたいに。

 そして、仮にわたしがこの世界から逃げようとすれば、わたしを捕らえようとする。
 逃げるとまではいかなくとも、何かの変化をわたしが望めば、彼らは動く。

 おそらく、ツキを逃がそうとすることも、それに抵触するだろうという気がした。
 出口の存在を知らないのに、わたしが逃げることを嫌がるというのは、変な話だ。
 
 でも、細かいことはどうでもいい。

 彼らに見つからずにツキを探し出し、出口まで連れて行き、逃がしてしまえばいいのだ。

 たったそれだけだ。



 なんとか気持ちを落ち着かせなくては、とわたしは思った。

 それから軽く食事をとった。
 シラユキはなんとも言えないような表情でわたしを見た。

 わたしは何も言わなかった。

 彼女はきっと、まだわたしに期待しているのだろう。 
 わたしは、その期待に応えるつもりはない。

 ただ、ツキを見過ごせないだけだ。

 食事をとったあと、玄関ホールに向かう。 
 シラユキはわたしに薄い水色のレインコートを渡した。

 わたしがそれを羽織ったとき、外から物々しい足音が聞こえる。

 シラユキと顔を見合わせてから、わたしは通路の影に隠れた。
 



 ドアを叩く音。シラユキが扉を開けた。

 客人が何かを言うよりも先に、彼女が声を掛けた。

「どうされました?」

「例の、人影です。これから森の中を探そうと思っています」

 無機的な声。聞き覚えのある、男の声だ。

「……はい」

「それで、あの男については、どうでしょう。このところ人影などを見かけたことはありましたか?」

「いえ、そんなことはまったく……」

「そうですか。この屋敷の周りを、ひょっとしたらうろついているのかもしれません。
 この屋敷の近くを重点的に探してみたい、と思っています。よろしいですか」

「……はい」


 シラユキは頷く。特殊ではあるが、,彼女もこの世界の住人だ。
 この世界のしがらみには、従わざるを得ないのだろう。

「それでは、少しのあいだ騒がしくなると思いますが、よろしくお願いします。
 こちらも仕事ですから、ご容赦ください。ご存知でしょう。仕事なのです。申し訳ありませんがね」

 男はそういって、玄関を出て行った。しばらくの間、屋敷の外をうろつくのだろう。
 それに、彼ひとりではないようだった。何人もの住人を連れてきたらしい。

 シラユキは無言のまま、わたしを屋敷の奥へと促した。
 窓の外から見えないような位置を通る。

「そのうち、屋敷の中を調べさせてくれ、と言い出すでしょうね」

 とシラユキは言う。わたしもそうだろうと思った。


「森の中で人ひとりを探すというのは、大勢の人間がいるにしても、簡単なことではありません。
 とはいえ、外は雨が降っていますから、ツキの体力の方も心配しなくてはいけません」

「……うん。でも、これじゃ、外に出られない」

「時間が経てば、屋敷の周りの人は減るでしょうけど、そうすると森の中に数が増えますね。
 かといって、いま真っ向から外に出ようとしても、難しいと思います」

 完全に出鼻をくじかれた形になった。
 わたしは焦る気持ちを抑え込んで、なんとか方法を考える。

 玄関はダメ。窓からだって、きっと同じだろう。安全さに欠ける。
 それ以外の出入口はない。出入り口は……。

 ……入口があるなら、出口もある。

「ツキは、どうやってこの屋敷に入ったんだっけ?」

 わたしが訊ねると、シラユキはちょっと驚いた顔をした。


「普通に玄関から入ったら、シラユキは気付いていたはずだよね?」

「……それは、まあ」

 玄関の扉には鈴が取り付けられていて、開閉する際はそれが大きな音を鳴らすようになっている。
 でも、この街では雨が降り続いているから、わたしもシラユキもめったなことでは窓を開けない。

 毎晩、シラユキが厳重に戸締りを確認しているから、どこかの鍵が空いていたとは考えにくい。

 思い浮かんだのは、ツキの姿を最初に見た、例の隠し扉の向こう、あの地下通路だ。
 あの通路を進んだ先に、ひょっとしたらどこか外へ繋がる道があるのではないか。

 あくまでも可能性だ。どこにも繋がっていない場合もある。
 それに、万一、外に繋がっていたとしても、それが屋敷からすぐ傍の場所では意味がない。

 それでは街の人々に見つかってしまうかもしれないからだ。

 理想は、地下通路を辿って、森の中に出られること。
 そんなふうに繋がっている確率は、かなり低そうだ。

「でも、他に手段もありませんね」

 シラユキはそう言った。わたしもそう思う。


「地下通路を通って、森に出られそうなら、そのままツキを探すのがいいと思います。
 もし危険そうなら、戻ってきてください。別の方法を考えましょう」

 安全な方法なんてあるものか、とわたしは思った。多少のことは仕方ない。
 手をこまねいている間に、ツキが見つかってしまうかもしれないのだ。
 
 わたしたちは書斎に向かった。わたしは書斎机の二段目に入っていた懐中電灯を持ち出す。
 それから暖炉の中に入り込み、例の蓋を開けようとした。

 どうやって開けるのか、分からなかった。
 ようやくそれらしい隙間を見つけて動かそうとすると、重くてなかなか持ち上がらない。

 シラユキに協力してもらおうと思ったが、ふたりが入って持ち上げようとするには、暖炉の中の幅が足りない。

 わたしはやっとの思いで蓋を開けた。



「お気をつけて」とシラユキは言った。

 わたしは頷きだけを返して階段を降りた。
 懐中電灯をつける。黴の匂い。こもった冷気。この先に出口があればいいのだが。

 蓋を閉める直前、シラユキと目が合った。不安そうな表情。
 わたしも似たような顔をしているのかもしれない。
 怖くなりそうだったので、気が変わる前に蓋を閉めた。

 それはあっさりとした音を立てて閉まった。上からの光はなくなって、懐中電灯の灯りだけが頼りになる。
 さて、とわたしは思う。

 進まなくては。

つづく


物語が大きく動いてるな




 引き伸ばされた棺の中を延々と歩いているような、そんな気分だった。
 
 黴の匂いが湿った空気に混じり、わたしを不安にさせる。
 石造りの通路は、そっけないような冷たさで満ちていた。

 ありとあらゆる温かみが存在しない、何もかもから隔絶されているかのような空気。
 
 それも当然のことだろう。
 
 天井の隅では大きな蜘蛛の巣が埃をかぶっていた。
 この場所にも蜘蛛がいるのだと思い、わたしは少し怖くなる。

 以前来た時に、そんなものを見ただろうか?
 考えたけれど、よく思い出せない。あのときはツキを警戒するので精一杯だった。
 今はそのツキをどうにかするために歩いているのだから、考えてみれば不思議な話だ。



 以前ツキが言っていたように、しばらく進むと道がいくつかに分かれていた。
 
 懐中電灯で照らせる限りを照らしてみたけれど、その先に何があるのかは分からない。
 どのくらい続いているのかも分からない。本当に暗い。自分がどのくらい進んだのかも分からなかった。
 今この懐中電灯が壊れてしまえば、わたしはどうなってしまうんだろう。

 とにかく進んでみないとならない。
 道はまっすぐ進むものと、左に向かうものがあった。
 
 わたしは左に折れてみることにした。変わり映えのしない景色が続く。
 
 不意に何かが蠢くような気配がして、背筋がぞっとした。
 慌てて床を照らすが、そこには何もいない。けれどたしかに、何かがいたのを感じた。

 辺りを照らしてみると、壁の下に開いた小さな隙間に、何かが入り込もうとしていた。
 細い尻尾と黒ずんだ毛並み。かすかな鳴き声が聞こえた。
 鼠。わたしの手のひらよりも大きそうな鼠だった。鼠は尻尾を振りながら穴の中へと逃げ込んでいった。

 わたしは慌てて辺りを照らした。そこらじゅうを照らしても、他の鼠の気配はしない。
 けれど、たしかにいるのだ。わたしはその一匹を目の当たりにした。
 そう思うと怖気がするような不安に駆られた。



 パニックになってそこらじゅうを振り向いたせいで、自分が進んでいた方向が分からなくなる。
 自分の間抜けさに泣きたくなってきた。

 皮肉なことに、再び正確な方向を把握できたのは、鼠が入っていった隙間の位置のおかげだった。

 わたしは緊張しながら先に進む。
 
 通路の突き当りは、行き止まりになっていた。
 わたしは溜め息をつく。
 それから周囲を見回して、不審なところがないかを確認した。

 少なくとも鼠が出入りできそうな隙間は三か所ほどあった。行き止まりの天井の隅には蜘蛛の巣があった。
 風もない澱んだ空気。饐えたような臭気。
 
 なんだかもう帰りたい気持ちだ。なんでツキのためにこんな思いをしなければならないのだ。
 そう思うと涙が出てきそうになった。暗いし、怖いし。でも、それはわたしのせいなのだ。
 そしてツキだって、今頃同じようなことを考えているに違いない。
 
 森の中で雨に打たれて、どうして自分がこんな思いをしなければならないのかと。
 それを思えばあまり弱気なことも言って居られない。

 それでもわたしは、怖くてその場で少しだけ泣いた。
 死にたがりが鼠に怯えて泣くのもおかしいものだとも思ったけれど、それとこれとは話が別だ。



 気を取り直して、行き止まりの壁の一部を照らしてみると、鉄製の取っ手のようなものがあった。
 わたしは少し躊躇したけれど、結局それを掴んだ。
 ざらついた埃の感触が嫌で、わたしはまた泣きたくなった。

 世界には、嫌なものが多すぎる。

 押してみてもだめだったので、とりあえず引いてみた。それはドアのように簡単に開いた。 
 石でできているように見えたのは、見せかけだけだったらしく、いやに軽い。
 ためしに壁を叩いてみると、こんこんと軽い音が鳴った。素材が分からないのも、それはそれで不気味だった。

 扉の先には石造りの綺麗な階段があった。
 天井が低いので、身を屈めて昇るしかない。
 
 ここを進むべきだろうか。

 少し迷ったけれど、結局昇ってみる以外に術はなかった。
 階段はたいした高さではなかった。少し昇ると平坦な狭い道に出る。
 さらに奥に行くと、今度は深い下り階段があった。階段の一番下は行き止まりになっている。



 念のため進んで確認してみると、一番奥まったところの天井に取っ手があった。
 ためしに叩いてみる。音が軽かったりはしなかった。

 取っ手を引いてみたが、ダメだった。今度は押すのだろう。
 天井が低かったので、押し上げるのはさして難しくはない。 

 押し上げると、ぎしぎしという音がした。何かが引っかかっているような感覚。
 構わずに押していくと、やがて抵抗がすっとなくなり、何かが倒れるような音がした。
 
 わたしは少し不安になってその場で息をひそめた。
 数秒待っても何かが動くような気配はなかった。扉の向こうに顔を出す。

 本棚が並んでいるのが見えた。確認してみると、扉に引っかかっていたのは、椅子だったらしい。

 書庫だ。書庫に繋がっていると、そういえばツキも言っていた。
 屋敷から出るどころか、屋敷から離れてさえいないことに気付かされて、わたしはショックを受けた。 
 でも、そうなのだろう。実際、その程度しかまだ歩いていないのだ。

 もうやめてしまいたかったけれど、そういうわけにもいかない。

 一度屋敷に戻って何か使えそうなものを持ってくるべきだろうか?
 でも、そうこうしているうちに動きがあるかもしれない。わたしは急いでいるのだ。



 扉を閉めて、地下に戻る。椅子のことはシラユキがなんとかしてくれるだろう。

 急いで通路を戻る。わたしが走ると、足元でまた鼠が動くのが見えた。 
 転びかけて、転んだ先に鼠がいることを想像し、ぞわりとした。

 なんとかバランスを取り戻しながら、一瞬考えごとをしかけた。
 その方向に思考が転がっていくのを、どうにか抑え込む。

 とにかくツキを現実に返さなくてはならない。
 返す意味と、返したい理由については、あとで考えることにしよう。それは今は重要じゃない。

 溜め息が出る。泣き出したいような気持だった。でも、泣き出すのもわがままだという気がした。
 わがままで何が悪いのだとも思った。思考が混乱している。ここにはツキもシラユキもいない。

 とにかくこの地下通路を進まなくてはならない。



 さっきの分かれ道まで戻る。左側の壁に沿うように進んでいく。

 出口は、ないかもしれない。
 ツキはひょっとしたら、まったく別の手段で屋敷に忍び込んだのかも。

 そう考えると、わたしはどこにも繋がらない通路を延々と進んでいることになる。
 むしろ可能性だけいえば、そう都合のいい道があるとも思えないのだ。

 わたしは急に不安になる。暗闇を懐中電灯の灯りで照らしながら、足だけを動かす。
 
 しばらく進むと、道が右に曲がった。わたしは注意深く進む。
 こんなふうに時間をかけて歩いていて大丈夫なのだろうか。
 ひょっとしたらツキはもうとっくに、街の人々に捕まってしまっているかもしれない。

 それにこの通路は迷路のようなものかもしれない。
 今ならまだ帰ることもできるけれど、この先どんどんと進んで、ちゃんと屋敷に戻れる保証なんてあるのだろうか。
 
 そこまで考えて、また思考が引きずられる。

 飢えて死んだところで、鼠に齧られたところで、わたしはどうでもいいはずだ。 
 


「どうして、彼を助けたいの?」

 不意に、声が聞こえた。わたしはそれを何かの錯覚だと思った。 
 でも違う。以前にも聞いたことのある声。それはわたしの頭の中に直接語り掛けてきているのだ。

「だってそうでしょう? どっちにしたって、同じじゃない? 
 彼が生きようと死のうと関係ない。自分がどうなったって関係ない。 
 だって、あなたは死んでしまうつもりなんでしょう?」


 うるさいなあとわたしは思った。そのことは考えないようにしていたのに。
 通路はずっと伸びている。引き伸ばされた棺みたいに。
 暗闇にわたしの足音が響く。ここからは雨の音は聞こえない。

 雨の音がしない場所。そういえば、そんな場所は、この世界には他になかった。
 意識してみると、雨の音が聞こえないのは、少し不思議な感じだった。

「放っておいて」

 とわたしは言った。でも答えはなかった。当たり前だ。ここには誰もいないんだから。



 通路が再び別れた。まっすぐと、右。わたしは少し迷ったけれど、右に進むことにした。
 今度はすぐに行き止まりに出会う。取っ手もすぐに見つかった。
 
 扉の先に階段はなかった。

 何か、奇妙な部屋があるだけだった。

 大きなソファと、テーブル。テーブルの上にはティーカップが四つ置かれていた。ティーポッドと砂糖瓶もあった。
 カップの中には冷えきった紅茶が入っている。ひとつを除いて、手もつけられていないようだった。
 壁際には鏡台が置かれていたが、鏡は割れて散乱している。
 
 どこもかしこも埃をかぶっていて、壁の四隅には蜘蛛の巣が張っていた。

 石の壁には大きな絵画が掛けられている。
 少女の絵だった。正確にいうと、少女の絵なのだろう、という方が近い。 
 水色のワンピースを着た女の子が、森の中の湖を背景に、傘をさし、こちらに背を向けて立っている。



 悲しそうな絵だった。空は灰色に歪んでいて、湖面は暗かった。空虚な静寂がこちらにも伝わってくるほどだ。
 でも、目を引くのはそうした部分ではない。

 肩越しに振り向いているように見える少女の顔の部分は、ズタズタに破かれていた。
 何本かのフォークが突き立っている。壁の下にはそれでも足りないというようにフォークやナイフが落ちている。
 わたしは怖くなった。

 居ても立ってもいられない気持ちになって、部屋を出ようとする。

 扉に手を掛けたとき、不意に気配を感じた。
 何の気配なのかは分からない。でも、背中越しに誰かがこちらを見ている気がする。

 この部屋には、誰もいなかったはずだ。 
 それなのに、気配はたしかにあった。

 くすくすと含み笑いすら聞こえてきそうだった。錯覚だ、とわたしは思う。
 でも、振り向けなかった。振り向くのが怖かった。

 ここに来てはいけなかったのだ、と思った。

 視線を感じながら部屋を出た。扉を閉めると、静寂が辺り一帯を支配した。
 でも、さっきの部屋の中だって、何の物音もしない、静かな場所だったはずなのに。
 
 それ以上は考えないようにした。誰もいなかった。そのはずだ。



 通路を戻り、右の壁に沿って進む。わたしはさっきの部屋のことを忘れることにした。

 ここまでの通路に、迷うような部分はなかった。
 ただ鼠と蜘蛛の気配があるだけだ。
 
 それからしばらく、道は別れず、まっすぐと進んでいく。
 わたしは長い時間、何も考えずに黙々と歩き続けた。
 本当に長い間だった。途中で時間の流れが分からなくなった。

 ここを彷徨っている間に、世界が終わったと言われても信じられるほど長い時間に、わたしには思えた。

 やがて通路の雰囲気が変わってきた。
 
 無愛想だった石の壁の両側に、額縁が飾られている。
 最初に見えた額縁の中は真っ黒だった。
 次は白。その次はまた黒。それが延々と続いていく。通路の続く限り。
 
 ふと振り返ると、見えるかぎりの壁に額縁が飾られている。わたしは言葉を失った。
 何も言わずに進む。ずっと進む。何も考えなかった。ツキのことすら考えなかった。

 わたしはここに来るべきではなかったのだ、とふと思った。



 やがて、懐中電灯のものではない光が、奥から見えた。
 わたしは叫びだしたいほどほっとした気持ちになり、そのすぐ後、また不安になった。
 
 どうして、光が見えたりするんだ?

 でも進むしかなかった。
 ここを出なければならない。

 通路をずっと進む。光は思ったよりも遠かった。
 永遠にたどり着けないのではないかと不安に思うほどだった。
 やがて、懐中電灯の灯りが意味をなさないほど、辺りが明るくなる。

 雨の音が聞こえた。額縁が途切れた。

 行き止まりは広い空間だった。
 光は、頭上から差している。見上げてみても、まぶしくて何がどうなっているのか分からない。



 光に気を取られながら進むと、靴が不意に突き抜けるような感触に触れた。
 不意の冷たさ。足元が土になっていて、そこには結構な大きさの水たまりがあった。

 雨が、ここまで降り注いでいた。よく見れば壁の端に穴があけられていて、水を掃くようになっている。 
 頭上を振り仰ぐ。光と雨。外に繋がっているのだ。でも、とても遠い。
 けれど、通路はここで終わっている。どうやって昇ればいいだろう?

 レインコートのフードを被り、雨の感触を感じながら壁に向けて歩く。
 正面の壁に、ここに来るまでの間に何度か見かけたような取っ手があった。
 それは上に向かって無数に並んでいる。梯子になっているのだ。

 わたしは念のため何度か引っ張って、安全かどうかを確認する。それから一番下の段に足を掛けた。

 どんどんと昇っていくが、光は遠い。
 結構な高さがあるようで、進んでいくうちに怖くなった。雨のせいで滑り落ちそうになる。
 下を見ると、高さに震えそうになった。

 わたしは手にしっかりと力を込めた。さっきまでの通路に比べれば、こっちの方がぜんぜんマシだ。



 やがて、外の様子が見えた。木? 木だ。
 わたしは少し不安になった。屋敷の中庭に続いているんじゃないかと思ったのだ。
 
 でもちがった。梯子を昇りきると、そこは森の中だった。外に出られたのだ。
 わたしは体を地面に投げ出した。腕と足が緊張で震えた。

 それから、自分が出てきた場所を振り向いてみる。
 それは井戸だった。見覚えのある、古い枯れ井戸。森の中で、ずっと前に見たことがある。
 
 わたしは頭上を仰いだ。
 木々が枝を広げている。雨が降っている。空は灰色だ。ちゃんとした世界だ。
 息を深く吸い込む。土と森の匂いがした。

 外に繋がっていた、とわたしは思った。しばらく何も考えられなかった。
 
 少ししてからようやく頭が機能し始めて、ツキを探さなくては、と思った。

 さっきまでの移動でよほど精神が疲弊したのかもしれない。わたしは自分が混乱しているのを感じた。

 森はいつもより、ずっとよそよそしく、不気味な気配をまとっているように思える。
 この中で、わたしはツキを探さなくてはならないのだ。


つづく

サイレントヒルのようになってきた

乙です




 森の空気はいつにもまして重苦しかった。
 今朝がた歩いた場所と、地続きにあるのだとは、ちょっと信じられないくらいだ。

 とりあえず森の中に来られたのは良いけれど、問題はここからだった。

 時間がどれだけ経ったのかは分からないが、下界の人々はとっくに動き出しているはずだ。
 彼らは十数人がかりでツキを探している。

 その隙間を縫って、わたしはツキを見つけて、しかも逃げなくてはならない。
 それはほとんど現実的ではないように思えた。

 自分が途方もなく見当違いなことをしているのではないかという不安に陥る。
 ツキはどこにいるんだろう。


 わたしはとにかく歩き出すことにした。
 ツキを探さなければいけない。
 
 見つけられなかったときや、既にツキが下界の人々に捕まっているときのことは考えないことにした。
 いずれにしたってわたしは、この森の中を歩いてみなければならない。

 森の中には、はっきりとした道があるわけではなかった。
 屋敷から入ってすぐの場所には、多少歩きやすい道があるけれど、そこだってしばらく進めば木々に阻まれる。

 仮に道があったとしても、ツキがそうした分かりやすい道を歩くとはえない。
 だとするとわたしは、この森の中を、何の心当たりもなく、進んでいかなければならないのだ。

 周りに人の気配はなかった。
 それが幸いなのかどうかは、わたしには分からない。
 もうツキが見つかってしまったのかもしれないし、ここまで捜索の手が伸びていないだけかもしれない。

 木々の枝葉が奇妙に輝いて見えた。空は灰色だけれど、雫が照らされて光っている。
 雨の音。濡れた土の匂い。


 雨の音が、不意に弱まるのを感じた。
 空を見上げても、雨が止む気配はない。単に音が弱まっただけだ。

 それなのに、この感覚はなんなのだろう。

 今にも鳥の声でも聞こえてきそうな気がした。
 もちろん実際にはそんなことはなく、生き物の気配は感じない。
 
 ただ雨の音と自分の足音が聞こえるだけだ。

 何かが変だった。
 何が変なんだろう? わたしの感じ方の問題なんだろうか?
 
 わたしは木々の隙間を進んでいく。井戸は森の奥の方にあるはずだった。
 ここからさらに奥に進むべきなのか、戻るべきなのかは分からなかった。

 それともこの井戸を中心に、周囲の様子を探ってみるべきなのか。

 いずれにせよ、歩いてみないことには仕方ない。
 自分の無計画さに溜め息が出てきそうだった。
 でも、他に手段はないのだ。



 どうにかしてツキと連絡が取れたらいいのだけれど、手段はない。
 少し躊躇ったけれど、彼の名前を呼んでみることにした。

「ツキ」

 声は森の中に静かに溶けていった。
 雨の音が落ち着いていたこともあって、声は奇妙な響きで辺りに広がっていく。

 何かがおかしい、ともう一度思った。これまでと様子がまったく違う。
 でも、考えたって仕方のないことだ。何はともあれ世界はこういうふうに出来ているんだから。

 歩を進めていくうちに雨粒が細やかになっていくことに気付いた。
 もちろん雨は止んだりはしない。その確信はあった。

「ツキ!」

 もう一度呼びかけてみても、返事も何もなかった。
 人の息遣いすら感じられない。


 わたしは一度立ち止まって、後ろを振り返った。

 今のところまっすぐ進んできたつもりだけれど、迷わない保証はない。 
 
 人を探しに来て自分が遭難していたんじゃ、冗談にもならない。

 まあ、それならそれで、わたしはかまわないのだけれど……。
 とはいえ、その前にツキのことはどうにかしなくてはならなかった。

 ああ、もう。どうして頭がうまく働かないんだろう。
 頭の中に靄がかかっているようだ。靄というか霧というか。
 そんなことを考えていたら、雨がいつのまにか、ほとんど霧のようになっていた。

 わたしはこの世界で初めて、こんな雨を見た気がした。

 あまり考えすぎたって仕方ない。それなのにいつまでも堂々巡りを続けている。

 思わずため息が出る。
 とにかく、ツキを見つけるしかない。
 見つけるのは困難だろう。でもやるしかないのだ。



 しばらく歩き回ってみても、ほとんど何も見つからなかった。
 ただ木々や草花が生い茂っているだけだ。足場は悪く、草の上の露が何度も足を濡らした。

 樹木が枝を伸ばしているせいで、ここからは太陽がろくに見えなかった。
 霧雨が、森の暗さと相まって視界を悪くさせた。わたしは不安になる。
 
 迷い込んではいけない場所に来てしまったような、居心地の悪さ。
 わたしはそれでも歩く。催眠術にかかったみたいに。
 
 自分が分裂しているような頼りなさ。
 何かがわたしをどこかへ引きずり込もうとしているような錯覚。
 それはもちろん錯覚でしかないのだけれど。

「助けなきゃ」

 わたしはその言葉を口に出してみた。誰に対してというわけではない。
 ただ口に出すと、その言葉はすとんと胸に落ちた。頭が軋むように痛んだ。

 ツキを助けなければ、と思う。でも、何かがそれに反発している。
 何か? 何かって、なんだろう。
 


 ふと、何かが草を掻き分けるような音が聞こえた。 
 咄嗟のことに身が竦む。音は近付いてきていた。

 心臓がどくりと跳ねる。

 草の間から顔を出したそれは、大儀そうに首を振って、わたしと目を合わせた。

 わたしは最初、それをウサギかと思った。でも違う。どうしてウサギと見間違えたりしたんだろう。
 それは猫だった。白っぽい毛並みの猫。雨に濡れて小さく見える。

 どうして、ここに猫がいたりするんだろう。 
 わたしは疑問を抱きつつも、物音の正体がこの小動物だったことに安堵した。
 
 それから溜め息をついて、わたしにもまだ心臓はあったのだなと思った。
 どくどくと脈を打っている。

 体には血が流れている。わたしはちゃんと呼吸だってしている。一応生きてはいるのだ。
 わたしはまだ死んでいない。じゃあ、わたしの身体はどうなっているんだろう?
 現実における、わたしの身体は。まだ生きているんだろうか? そうでなくては、戻れはしないだろうけれど。




 猫の姿は見るからにシラユキに似ていた。
 雨と土に汚れ黒ずんではいたけれど、毛並みは薄くクリーム色がかっていた。
 瞳の色は左右どちらも鳶色だった。

 抱き上げようとすると、猫は抵抗もなくわたしの腕にもぐりこんできた。
 ちょっと気になって確認してみると、ちゃんとメスだった。

 かといって、彼女がシラユキだという話にはならない。
 この世界に猫のシラユキは居ない。彼女は死んでしまったのだ。

 ただ似ているだけの猫(髪や目の色や体つきや性別が一致しているからといって、同一人物だということにはならない)。

 でも、この森の中に生き物がいるのはちょっと妙だった。
 もちろん、本来なら森の中に生き物がいたって変じゃない。けれど、この森で生き物を見かけたことはないのだ。
 屋敷で暮らしていたときも、鳥の声ひとつ聞いたことはなかった。

 それも、どうして猫なのだろう?


 彼女はひらりと体を翻して、わたしの腕の中から地面へと着地した。
 手のひらが泥で汚れてしまったことに気付き、レインコートで軽く拭ってみた。
 汚れは広がっただけだった。
 
 わたしは泥を取ることを諦めて、猫の姿を追いかけた。

 猫はわたしから少し距離を取ると、ついてこいと言わんばかりに振りかえる。
 わたしと目が合うと、ゆっくりと歩きはじめた。

 まるで道案内を買って出てくれたみたいだった。

 さすがのわたしも、これはおかしい、と思った。
 でも、考えてみても結論は出なかった。いずれにしたって心当たりがあるわけではなかったのだ。
 結局、何も考えずに歩き回るだけなら、この猫についていくのも選択肢のひとつではある。

 猫は姿が遠くなり、霧の中にかすみはじめる。わたしはまだ逡巡していた。
 それを見透かしたように、もう一度彼女は振りかえった。

 そして促すように、何度かその場で走り回った。
 仕方ない、とわたしは思う。
 
 ついていこう。こうなったら賭けだ。いずれにしたって猶予はそんなにない。



 猫は常にわたしの少し前を歩いた。
 わたしが立ち止まると、当然のようにその場で待っていた。

 それは考えるまでもなくおかしな話だ。
 嫌な予感とはいかないまでも、何か変なことに巻き込まれている自覚はあった。
 
 いくらここが奇妙な世界だからって、こんなことが尋常な事柄であるはずがない。

 まるで人の意を解しているかのようにふるまう猫。

 ……でも、どうなのだろう。
 わたしには世界のことがよく分からない。

 もうどうでもいい、という気もした。
 とにかくわたしは、無心になって猫を追いかけた。

 追いかけているうちにわけが分からなくなってきた。
 ツキを探しにきたはずなのに、猫を追いかけている自分。
 
 森の中はまるで、時間の流れから切り離されているように静かだった。
 この先に何かあるんだろうか? それとも、単なる動物の気まぐれにすぎないのか。



 やがて、猫は立ち止まった。
 わたしは少し不安に思ったけれど、それを追いかける。木々の隙間から水の音が聞こえた。

 猫の傍らまで歩み寄ると、そこが開けた空間になっているのが見えた。

 そこにあったのは大きな泉だった。

 ちょっとした池ほどの大きさの水たまり。
 こんなことがあるものなんだろうか、とわたしは思った。

 水面を弱々しい雨が揺らしているが、木々の葉に守られ、このあたりは雨粒がほとんど届かない。

 ふと辺りを見回すと、あの猫の姿はもうここにはなかった。

 いったい、なんだと言うんだろう。この泉に何かあるんだろうか。
 近付いてみると、泉の水は透き通るように綺麗だった。
 水底の土の色がはっきりと見える。


そうやって泉を覗き込んでいるとき、不意に、水面に自分の顔が映っていることに気付いてぞっとする。
 水面に映る自分と、目が合った気がした。

 凍てつくような目。誰とも知れない他人のようだった。
 思わず顔を逸らし、今見たものを忘れようとする。心臓が嫌にうるさかった。

 自分の顔を見たのは久しぶりだという気がした。
 心底、嫌な気持ちになる。薄暗い場所で、何かも分からない奇妙なものを踏みつけてしまったときのような気分。

 深呼吸をする。景色は綺麗だったけれど、わたしの気分は落ち着かない。
 
 ツキを探さなくては、とわたしは思う。でも、すぐには動けなかった。
 今、水面にうつった自分の顔が忘れられなかった。どうしてだろう。
 
 さっきまでよりずっと不安な気持ちになる。泣き出したい気持ち。
 どうしてわたしはこんなふうなのだろう。蹲って顔を伏せてみると、本当に泣き出してしまいそうだった。
 わたしはこんな場所で何をやっているんだろう。

 そのとき、不意に、

「アヤメ?」

 と声が聞こえた。最初、何かの間違いかと思った。

 顔をあげて声の方を振り返ると、ツキはそこに立っていた。


つづく

いいところで

不思議の国のアリスにでもなってしまった気分だ…

不穏だ


 長い時間、ツキの顔を見ていなかったような気がした。
 でも、それは真実ではない。朝、ツキと別れてから、まだ三時間と経っていないはずなのだ。
 
 わたしは自分の心がいくつかに分かれるのを感じた。というより、"分かれている"のを感じた。

 ツキを、知り合ったばかりのおかしな人物だと思う自分。
 ツキを、昔からの仲の良い友達だと感じる、自分。

 そして、ツキになんとか現実に戻り、生きて欲しいと感じる自分。
 ツキのことなんてどうでもいいと思う、自分。

 おかげでわたしは、ツキに対してどんな態度をとればいいのか、すぐには決められなかった。 
 自分の中の感情が、なぜかよそよそしいものに感じられてしまう。

 どうしてだろう?
 まるで心の一部を切り取られ、盗み出されたみたいだ。
 自分自身の感情に、実感が湧かない。


 雨音がふたたび強まった。泉の水面が波立つ。
 
 咄嗟には、何も言えなかった。
 わたしも何も言わなかったし、彼も何も言わなかった。

 疲れ切ったような表情。ツキの顔つきは、今朝見たそれとは、まるで違って見えた。

「どうして、ここに?」

 とツキは苦しげに言った。わたしは答えに窮する。
 森の中は雨の音に包まれている。空気は少し冷たかった。

 ツキの服は、雨に濡れ、土に汚れている。
 雨の降る森の中を、彼はこの場所まで逃げてきたのだ。
 でも、逃げて、どうするつもりだったんだろう。

 彼には逃げ場所なんて存在しないのに。
 いつかは追いつかれてしまうのに。


「……あなたを探しに」

 わたしがそう答えると、彼は怪訝そうな顔になった。
 それから少し間を置いて、ばからしいと言いたげに笑う。

「どうして?」

「逃げているんでしょう?」

「ああ、そうだよ。逃げてる」
 
 彼はまた笑った。それはなんだか、嫌な感じの笑いだった。

「捕まったら、死んでしまうって、シラユキが言ってた」

「そう。殺されるんだってさ。俺もそう聞かされた。ただそこにいるだけで殺されるなんて、バカみたいな話だ」

 でも実際に、下界の人々は森の中でツキを探し回っている。
 


「それで、俺が逃げてるとしたら、お前は何しに来たんだ?」

 ツキは皮肉っぽく唇を歪める。
 わたしは段々不安になってきた。

「シラユキに、教えてもらった。この世界のこと」

 少し驚いたような顔をしたあと、「それで?」と彼は続きを促す。
 シラユキとの、裁判みたいなやりとりを思い出す。もうずいぶん前のことに思えた。

「あなたのことも、少しだけど思い出した」

「へえ。たとえばどんなことを?」

「飼っていた猫のこととか、学校の帰り道のこととか……そういうことを」

「そうか。それは嬉しいな」と、彼はたいして嬉しくもなさそうに言った。

「ツキ?」

 思わず名を呼びかけると、彼は忘れていた傷口が痛んだというふうに顔を歪める。


「それで?」

「それで、って?」

「続きは?」

 わたしはなんだか怖くなった。
 彼の態度は今までになく冷たいものに感じられる。
 わたしのことなどどうでもいいと言わんばかりだ。
 
「あなたには、死んでほしくない」

 彼はこらえきれないというように笑った。ひどく苦しそうな笑い方だった。

「それはまた……不思議な話だ」

 忘れていた痛みが、頭の中で暴れ出しそうになる。
 彼の言う通り、それは不思議な話だ。そのことは、今は考えない。

 なんだろう? 今までとは何かが違う気がした。
 ツキの態度も、森の空気も、よそよそしく、冷たいものに感じられてしまう。
 この場所のせいだろうか。


「わたしは出口を教えるために来たの。シラユキから、聞いてきた」

「そうか」

 彼はそう繰り返すだけで、わたしに助けを乞おうとはしなかった。
 出口を教えてくれとも言わなかった。ただ黙っていた。
  
 立っているのも億劫というふうに、ツキは泉の傍らの樹に背中を預けて溜め息をつく。

「ありがたい話だけど、来てくれなくてもよかった」

 彼はそう言った。わたしは一瞬、その言葉の意味がよくつかめなかった。
 
「出口の場所も、教えてくれなくていい。もういいんだ」

「なぜ?」

 彼の態度は、あまりに今朝までと違いすぎる。わたしは彼の答えを聞きたくなかった。

「疲れたんだよ。もう放っておいてくれ」

 何もかも面倒だというふうに、彼は瞼を閉じた。


「もういいんだよ。お前をどうこうしようとも、思わない」

「何があったの?」

「何もないよ。ただ森の中を歩きながら考えてたんだ。どうして俺は逃げてるんだろうって。
 逃げることに何の意味もないように思えたんだ。段々分からなくなってきたんだ」

「でも、ツキ……」
 
 彼の言葉を聞いて湧いてきたのは、戸惑いというよりは拒否感のようなものだった。

 自分が何を言おうとしているのか、よく分からない。
 でも、どうしても納得できない気持ちだけが溢れてくる。

 
 だって彼は言っていたのだ。 

 わたしがどちらを選んだって、自分は生きていくんだって。
 だから好きにしろって。
 
 でも、わたしはそのことを口に出せなかった。


「お前のこととは、関係ないよ。関係ないんだ。
 ただ、なんていうのかな。もう疲れたんだ。別に帰れなくたって、捕まったってかまわない。
 だから、助けはいらなかったんだよ、アヤメ。お前は屋敷に戻れ。俺はここに残るから」

「そんなの……」

 そんなの、わたしには関係ない。そう思った。
 ツキの意思なんて関係ない。わたしはわたしの身勝手として、ツキが生きることを望んでいるだけだ。
 だから、言ってしまった。

「そんなの、わたしには関係ない。ツキはちゃんと生きて」

 口に出してから後悔した。わたしに、どうしてそんなことが言えるだろう。
 彼はこちらを鋭く睨んで、何も言おうとはしなかった。
 胸が苦しくなる。わけもわからず悲しくてしかたなかった。

「……ツキ」

 懇願するような声音だった。自分でも驚くほど、頼りない声。
 でも、彼は態度を変えなかった。


「屋敷に戻れ、アヤメ」

 わたしはとても悲しい気持ちになる。
 自分がここで悲しむのはおかしいのだとも思った。

 
 とにかく彼は、態度を変えようとはしない。

 わたしが彼に言えることは、ぜんぶなくなってしまった。
 彼がそれを望むというなら、わたしには何もできない。

 どうしようもなかった。

  
 それでもわたしは、その場を動く気にも、ツキに背を向ける気にもなれなかった。 

 頭ではちゃんと分かっていた。わたしはここを離れなくてはならないのだ。
 理屈ではそう分かっている。

 でもわたしは動けなかった。足の裏が根を張ったみたいに動いてくれなかった。

 自分がここを立ち去るべきだということは、ちゃんと分かっていた。
 このままここに居続けることは、自分から破綻へ向かっていくようなものだ。

 分かっているのに、わたしの足は動かない。



 見かねたように、ツキは言う。
 
「行けってば」

 彼は悲しそうに笑った。わたしは何がなんだか分からなくなってしまう。
 自分が何を望んでいるのかすら、分からなくなった。

 少なくとも、ツキがいなくなることを望んだんじゃない。 
 だったらなぜ無理矢理にでもツキを連れていけないんだろう。
 もっと必死になって説得できないんだろう。

 その答えだってちゃんと分かっていた。 
 
 だからわたしは、その場をあとにするしかなかった。


「じゃあな」

 ツキは最後に、また笑う。わたしは悲しくなった。
 わたしは、どうしてこんなに自分のことしか考えられないんだろう。
 
 でも、こんなときにさえ、わたしの心のなかには、褪めたような思いがあった。
 それだってもう、あと少しで終わるのだ、と。




 木々の中を歩いていく。自分がどこを目指しているのか、分からなかった。
 何もかもが覚束なく、頼りなかった。

 歩けば転びそうになったし、立ち止まればふらつきそうになった。
 声を出せば雨の音にかき消されたし、目を開ければ視界は歪んで見えた。

 何をしようとしても上手くいかなかった。どれだけ上手くやろうとしても無駄だった。

 わたしはできるかぎり完璧にやろうとした。
 転ばないように歩こうとしたし、ふらつかないように立っていようと思っていた。
 何かを言うならば大きな声で言おうと思ったし、しっかりと目を見開いて物事を見ようと心掛けていた。

 でも全部が全部上手くいかなかった。まったくの無意味だ。
 わたしの手も足も、目も喉も、欠陥だらけのガラクタだった。
  
 いつだって自分のことしか考えられない。だからわたしはわたしが嫌いだ。
 それも、もうすぐ終わる。わたしは自分を世界ごと捨てることで、嫌いな自分を見ずに済むようになる。
 
 それなのに、どうして今になって、繰りかえし、自分の嫌な部分ばかり見せられるんだろう。



 気付けば、わたしの前を、猫が走っていた。
 わたしはそれを、いつのまにか追いかけている。

 何度こんなことを繰り返すのだろう。
 どこか新しい場所に連れて行かれるのかと思ったけれど、彼女を追ってたどり着いたのは、さっきの井戸の前だった。

 わたしはしばらくその場に立ち尽くした。
 雨が強くなる。レインコート越しに叩くような雨粒がわたしを打った。

 どうしようもなく悲しかった。
 でも、それすらも身勝手なのだ。だから、そのことについては何も考えないことにした。

 猫はわたしを置き去りにして姿を消す。
 結果として残されたのは、自分自身だけだった。
 そしてそれは、たぶん自分が望んだことでもあったのだ。

 どうすればいいんだろう?
 どうすればよかったんだろう?
 
 頭の中で、そんな問いがずっとこだまし続けていた。

つづく

乙、

乙です。

最初に思ったよりも地獄的な世界。
でもアヤメもツキも孤独なのは、きっとこの世界のせいじゃないよ。




 ずっとその場で立ち尽くしていたって、しかたがない。
 わたしは重い体をどうにか動かして、井戸に近付いた。

 頭がぼんやりとしている。雨に降られているせいだろうか。
 自分の手足を、ひどく頼りなく感じる。空気の冷たさが、刺さりそうに尖っている。

 わたしは自分に問いかけた。
 本当に、ツキを連れて行かなくてかまわないのか、と。

 今ならまだ間に合うかもしれない。駆け出して彼を説得することだってできる。
 その努力を継続することだって、できる。

 でも、説得なんてできるわけがない。
 彼は彼なりに納得して、あの場所に残ることを選んだのだ。
 強引に連れていこうとしたって、同じことだ。

 どうしようもない。
 彼をどうにかしてあの場から動かそうとするなら、彼の気持ちを、まず動かさなくてはならない。
 
 第一もう、彼のいる場所にどうやって戻ればいいのか、わたしには分からなかった。


 頭が痛かった。どうしてこんなに痛むんだろう。
 何もかもが刺々しい気配を纏っていた。
 木々も雨粒も土も、すべてがすべて、視線のように無神経にまとわりつく。

 仕方ないな、とわたしは思った。それから小さく溜め息をついた。
 額に触れると、うっすらと汗が滲んでいるようだった。

 こんなに、肌寒いのに。

 わたしは井戸の中を覗き込んだ。
 深く暗い。底が見えない。暗闇が、雨を静かに飲み込んでいた。

 寒々しいほどの暗闇。わたしはその先に何があるのかを知っている。
 それなのに、得体の知れない雰囲気が、肌にまとわりつく。


 この井戸を、降りてしまっていいのだろうか。

 この先に何があるのか、わたしは知っている。
 何がないのかも、わたしは知っている。

 本当に降りてしまっていいのだろうか? 
 
 しばらく逡巡していたけれど、やがて諦めた。


 わたしはここを降りるしかないのだ。
 とにかくもう一度戻ってみるしかない。
 そのあとのことは、そのときになってしか考えられない。

 梯子に足を掛けるとき、危うく滑り落ちそうになった。 
 この高さから落ちたら、さすがに死んでしまうだろう。

 梯子を降りていくと、空が段々と小さくなっていく。

 分かることは、そのくらいだった。



 あと少しで井戸の底に辿り着けるというときに、手のひらが滑ってバランスを崩し、足が滑った。
 
 まずいと思ったときには遅かった。わたしは重力に従って、水溜りの中に落下した。

 幸運にも、というべきなのか、体を打ち付けただけで、頭を打ったりはしなかった。
 咄嗟のことに、体に上手く力が入らなかった。
 レインコートの下に着ていた服が濡れてしまう。
 
 体に泥がついて、たぶんひどい姿になっていることだろう。

 念の為に手足がちゃんと動くかを確認する。
 強く打ちつけられた左手の手首がずきりと痛んだ。でも、それだけだった。

 外から来てみると、この中の暗さがよく分かる。 
 レインコートのポケットの中に手を突っ込んで、懐中電灯を探す。

 けれど、見つからない。
 さっき落ちた拍子に落としてしまったのだろうか。
 
 慌てて足元を探そうとしても、暗くてろくに見えなかった。
 加えて、水溜りの中だ。手さぐりで探そうとしても、難しい。



 濡れるのも厭わず膝をついて探したけれど、見つけるまで結構な時間が掛かった。
 泥に手が汚れる。頭が痛くて、何も考えられない。 

 でも、たまらなく不安になった。
 灯りがなければ、わたしは帰ることができない。
 
 灯りがなければ……。

 必死になって這い蹲っているうちに、たまらなく悲しい気持ちになる。
 灯りがなければ、わたしは帰ることができない。

 ようやく硬い何かに触れた。水の中から拾い上げると、たしかに探していたものだった。
 爪に泥が入って気持ち悪い。それでも、わたしはほっとした。

 曇り空に太陽が遮られているから、光は井戸の外には届かない。

 わたしはスイッチを入れる。カチリという音がする。
 でも、灯りはつかない。

 何度か試してみたが、結果は同じだった。水に濡れて、壊れてしまったのだろうか。
 たかだがちょっと濡れただけで? それか、落としたときの衝撃か何かかもしれない。



 どちらにしても同じことだ。わたしは灯りを失ったのだ。
 そう思うと絶望的な気持ちが襲ってきた。わたしにはもうどうすることもできない。

 もう一度梯子を昇って、森の中を通って屋敷に帰れるだろうか。
 わたしは左手の手首をゆっくりと動かしてみる。

 這い蹲って懐中電灯を探している間に、手首の痛みは増していた。
 ズキズキと痛み、手のひらに上手く力が入らない。
 それ以外のところだって、完全に無傷というわけではなかった。

 濡れた梯子を昇るには、ちょっと心もとない。
 空が、さっきまでよりずっと遠く、光が、さっきまでよりずっと弱々しく思える。

 わたしはたまらなく怖くなった。
 足元から恐怖が這い上がってくるのを感じる。
 
「ツキ!」

 思わず、地上に向けてそう叫ぶ。




 答えはない。当たり前だ。ツキはここにはいない。
 ここからじゃ、わたしの声はツキに届かない。

 一度は届く場所まで行ったはずなのに、わたしは彼をここに連れてこなかった。
 梯子から落ちた自分の間抜けさが心底嫌になる。
 
 地上に出ることもできない。灯りもない。ツキだっていない。
 自嘲からか、恐怖からか、思わず笑みがこぼれた。
 とても虚ろな笑い方だと、自分で気付いた。

 これが結果だ、とわたしは思った。
 これが、ツキを説得しなかった結果だ。
 自分が選んできたことの結果だ。灯りもなく、助けもない。

 わたしは溜め息をついた。そして自分に言い聞かせる。落ち着け、と。
 


 ふたつ、手段が考えられる。
 
 まずは、手の痛みをこらえて、どうにか梯子を昇り、外に出る方法。
 掛かる時間は少ないが、あまり採りたい手段ではない。
 下手をすれば、今度は手首では済まないかもしれない。

 それに、井戸を出ることができても、今のわたしは体力を使い果たしている。
 森を抜けて、雨の中を歩きまわり、屋敷に戻ることができるだろうか。
 
 下手をすれば森の中で迷ってしまうことだって考えられる。
 さっきみたいに、猫が案内してくれるとも限らないのだ。

 次に、暗闇の中を歩いて戻る方法。
 
 こちらの方が、たぶん危険はない。
 地下通路の構造は、わたしが思っていたよりも単純だった。
 結構な距離を歩いてきたけれど、壁沿いに歩けば迷うこともないだろう。

 歩いていけば、書庫につくはずなのだ。

 とはいえ、本当に長い時間、暗闇の中を歩くことになる。
 鼠だっている。一度方向が分からなくなれば、こちらに戻ってしまうこともあるだろう。
 それに、何も起こらないとも限らない。


 わたしは、暗闇を歩くことにした。
 時間の感覚が曖昧で思い出せないけど、来るときは相当な距離を歩いてきた気がする。
 足の筋肉だって、だいぶ疲れていた。

 でも、少なくとも命の危険はない、はずだ。
 それに、結構な距離はあったけれど、戻る途中に、例の奇妙な部屋があった。
 あそこだって地下にあるのだし、何らかの灯りが置かれていても不思議じゃない。

 蝋燭はテーブルの上に置かれていた気がするし、探せばマッチくらいはあるだろう。
 
 わたしは壁に手を触れて、歩き始める。
 最初の方はなんとか視界がきいたけれど、少し歩くとすぐに真っ暗になった。

 歩き続けてれば、例の額縁に、すぐに触れるはずだ。 
 あの額縁が途切れた頃に、光が見えたはずなのだから。

 でも、真っ暗になっても、額縁の感触は訪れなかった。
 暗闇に怯えて、歩幅が狭くなっているのだろうか?
 いっそ走り出したかったけれど、何かあったとき混乱してしまうかもしれない。



 案の定、額縁の感触が現れたのはだいぶ経ってからだった。
 わたしはそこでようやく溜め息をつく。
 ここからさらに歩かなければならないのだ。

 さっきからずっと、頭がズキズキと痛んでいる。

 意識を手放してしまいそうなほどだ。
 指先で触れる壁の感触だけが、わたしを繋ぎとめている。

 真っ暗な中を、わたしは歩き続けていく。
 
 自分の意識に入り込もうとしているような気分だった。
 足元も見えない。伸ばした手の先も見えない。

 それでも、歩き続けなくてはならない。
 わたしは、一度振り返ってみた。でも、光は見えない。

 まだ、そんなに歩いていないものだと思っていた。
 ずっとまっすぐ歩いてきたのに、既に光は見えない。

 後悔しても遅い。
 とにかく、進んでみるしかなかった。



つづく

乙!




 何かがおかしいな、と思い始めたのは、額縁の感触がなくなって、しばらく経ってからだった。
 
 だいぶ歩いてきて、そろそろ分かれ道に辿り着くはずだ、と思い始めた頃。
 空気が奇妙な気配を纏い始めた。

 ざらついた埃の感触が風に乗って肌を撫でるような、そういう気配だ。

 しばらく歩くと、壁が不意になくなった。
 真っ暗だから分からないけれど、多分、分かれ道に来たのだろう。
 手探りで壁の角を探し、それに沿って方向を変える。
 
 記憶に間違いがなければ、すぐに扉と出会うはずだ。
 
 わたしは扉に体をぶつけないように、慎重に歩く。
 少しすると、確かに行き止まりのような場所に辿り着いた。
 
 取っ手の位置を探って扉を開けると、灯りが見えた。



 わたしはほっとした。
 扉を開けた先には、ついさっき見たのと同じままの景色があった。

 机の上に並べられたティーカップ。壁に掛けられた絵画。
 それから粉々に散らかった割れた鏡。

 光源は机の上の燭台だった。蝋燭に火がついている。

 何か変だなとわたしは思った。物の配置はまったく同じだ。
 それなのに、さっき見たときとは、雰囲気が違う。

 さっき来たときと同じように、嫌な予感ばかりが募る。
 そういう部屋なのだ。あまり長居はしない方がいいだろう。

 わたしは机に歩み寄り、燭台に手を伸ばしかけて、動きを止めた。

 ……雰囲気が違うんじゃない。光の加減が違うのだ。
 さっきは、真っ暗だったから、懐中電灯の光で部屋の様子を見た。
 今は炎の灯りで、部屋の様子はかすかに赤みがかっている。

 誰がいつ、この蝋燭に火をつけたんだろう?


 振り返ると、炎に照らされたわたしの影が、壁に大きく映し出される。

 掛けられた絵画の様子は変わらない。少女の顔がズタズタに裂かれている。
 誰が裂いたんだろう。

 鏡台の鏡は、なぜ割れているのだろう。

 いや、そもそも……。

 この部屋は、なんなのだろう?

 シラユキはこの部屋のことを知っていたのだろうか。
 ……いや、彼女は隠し通路のことを知らなかったはずだ。

 そういうものが存在している、という程度は感じていたかもしれないけれど。
 そうでなければ、彼女の振る舞いはあまりに不自然だ。


 この部屋がただここにあるだけなら、わたしは何も考えずに済んだ。

 わたしが暮らしている屋敷についてだって、詳しいことは分からないのだ。
 ただ、そういうふうに出来上がってしまったものなのだろうと、シラユキの話を聞いてからは考えていた。

 でも……蝋燭に火がついているということは、ここに誰かがいたということなのだ。

 わたしが井戸を出て、ツキと話している間に、その人はここにやってきて、蝋燭に火をつけたのだ。

 この部屋には誰かがいたのだ。
 わたしでもなく、シラユキでもない。そしてきっとツキでもない。

 ティーカップは四人分。
 そのうちひとつだけ、紅茶が飲みかけになっていたはずだ。

 部屋中に埃が積もっていて、ひどく薄暗く、寒々しい。


 火をつけた人物は、いったいどこにいるんだろう。
 いや、そもそも、その人は何者なんだろう。 

 少なくとも、下界の人間ではないだろう。
 彼らがわざわざ、こんな場所に部屋を作るわけがない。

 ましてや、この通路の存在を知っていたなら、以前、「空き巣」を探した際に、隠し扉の存在に気付いていたはず。

 あるいは下界の人間にも、群れからはぐれたような人物がいるのかもしれない。
 シラユキのような存在が、まだいるのかもしれない。

 だとすれば。
 ここに、執拗なまでに絵の中の少女の顔を突き刺し、何かに怯えたように鏡を割った人物が。
 飲まれるあてもない紅茶を入れるような人物が、この部屋で暮らしていたということになる。


 わたしたちは、何の苦労もせずに屋敷に忍び込める隠し通路があることにも気付かなかった。
 その通路に、こんな部屋があることにも気付かなかった。

 つまり、ここに以前から"誰か"が居たのだとするなら、その人物は今までずっと、容易に屋敷に忍び込むことができたのだ。
 わたしやシラユキが眠っている隙に、その寝顔を観察することだって、その人物には簡単なことだったのだ。

 ……いや、そんなことよりも今考えるべきなのは。
 
 その人物が、"今"、どこにいるかだ。

 そもそも、わたしが最初に来たとき、ここには誰の姿もなかった。
 通路はほとんど一本道だ。途中で分かれ道はあったけど、書庫に入る道があるだけ。

 つまり、書斎から井戸まで向かう一本の道から、書庫に向かう通路、この部屋に向かう通路と枝分かれしている。
 
 その人は、わたしがこの部屋に来たとき、いったいどこにいたんだろう?
 
 わたしは壁や床を見遣り、さらに隠し扉があったりしないか確認してみた。
 鏡台の後ろにも絵画の裏にも、何もない。

 この部屋に隠れられる空間はない。



 ということは、この部屋の主は、わたしがここにいたとき、他の空間にいたことになる。
 他の空間。

 わたしは書斎からこの部屋まで歩いてきた。

 その人物は、書庫や書斎を通じて、屋敷に忍び込むこともできた。
 井戸を通じて森に出ることもできた。

 ……まったく、予想もつかない。
 目的も、理由も分からない。

 いずれにせよ、わたしがツキに会いに行くためにこの通路を歩いている間、その人はここじゃない場所にいた。
 森なのか、屋敷なのかは分からない。

 そして、わたしが戻ってくるまでの間、その人もこの部屋に一度やってきた。
 机の上の蝋燭に火をつけて、そしてまたいなくなった。

 ……なぜ? 何のために?


 その人がわたしの目を盗み、この部屋にやってきて、再びいなくなるのは簡単だったろう。

 森は四方に開けているから、隠れるのは困難ではない。
 書庫は本棚がたくさんあるから、身を隠すのは簡単だ。

 疑問はいくつかある。

 なぜ隠れたのか。
 なぜ、隠れたにも関わらず、自分の存在を誇示するように火をつけたのか。
 自分の存在を誇示するように火をつけたにも関わらず、なぜ、姿を見せないのか。

 ひょっとしたらその人は、隠れたつもりもなかったのかもしれない。

 わたしが再びここに来るとき、灯りを持っていなかったから、通路は真っ暗だった。
 その人は、わたしと平然とすれ違い、井戸の方へと抜けて行ったのかもしれない。

 まるで悪戯でもするように、簡単そうに。


 怖気に、体が震えた。
 わたしは静かに息を吐き出して、ゆっくりと吸い込んだ。
  
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。
 そのときだった。わたしの心が落ち着くのを邪魔するみたいに、声が聞こえた。

「何がおかしいって、現実的じゃないことに、現実的に迫ろうとしていることだよね」

 女の子の声。どこかで聞き覚えのある声だった。

 背中越しに聞こえたその声に、わたしは扉の方を振り向こうとした。
 振り向こうとしたのに、怖くて振り向けない。

"怖い"? 違う。これは単純な怖さじゃない。もっと衝動的で絶対的な抵抗感。
 わたしは彼女の姿を見てはいけない。
 
 なぜかは知らないけど、そう思った。心臓も、思考も、落ち着きを失っている。

「いいかげんにしたら?」

 と彼女は言う。わたしは目を瞑った。


「あなた、誰?」

「見れば分かるよ」

 わたしは見たくなかった。今の言葉で、話をしたくもなくなった。
 だからわたしは目を瞑ったまま、振り返って扉の方に向かう。

 そして扉から、部屋を出ようとした。
   
 視界はきかなかったけれど、幸い彼女とはぶつからずに済んだ。
 もしこのままこの部屋を出れば、わたしは再び暗闇に舞い戻ることになる。

 でも、暗闇の方がいくらかマシだ。
 真っ暗闇の中では彼女の姿も見ることもできない。
 
 それは彼女の姿を見てしまうことよりも、いくらかマシなことに思える。
 灯りよりも、暗闇に親しみを感じる。



「逃げるんだ?」

 と声は言った。聞き覚えのある声。

"どうしてそんなに、醜いのか"

 そうだ。夢に出てきた声に似ている。
 以前、屋敷の中で聞いた、頭の中に直接響くような幻聴。
 あの声に似ているのだ。……でも、違う。本当は分かっている。

 わたしはこの声を、もっと他の場所で聞いたことがある。

 でもわたしはそれを"思い出したくない"。
 思い出したくないということは……本当は思い出さなくても知っているのだ。

 自分の思考が混乱していて、何がどうなっているのか、よく分からない。


「落ち着いて、話をしてみない?」

 返事をしたらいけない。そう思った。
 でも、腕を掴まれてしまった。目を瞑りながら、振り払って逃げ切るのも現実的じゃない。
  
 第一、屋敷だろうと、森だろうと、彼女がわたしを追い切れないとは思えなかった。

「ふたりきりになっちゃったけど……お茶でも飲んでいかない?」

 その言葉に、諦めのような気持ちが、自分の中で湧き始めるのを感じた。
 諦めろ。わたしはここでこの人と話すしかないのだ。

 そして、上手に話すことができれば、わたしはわたしのままで居続けられる。

「目を開けたら?」

「……ごめんなさい」
 
「……分かった。手を引くから、転ばないように椅子に座ってくれる? 床にはいろいろ落ちてるから、危ないの。分かるでしょう?」

 わたしは彼女に誘導され、椅子に腰かけた。


「お願いがあるんだけど」

「なに?」

「火を、消してもらえる?」

 わたしがそう言うと、彼女は苦笑したようだった。
  
「そんなに、わたしを見たくない?」

 わたしは答えなかった。
 彼女は溜め息をついた。それから、息を吹きかけるような音が聞こえる。
 瞼越しの視界から、肌色の光が消えた。

 目を開けると、暗闇の中にいた。
 わたしはほっとして溜め息をつく。
 
「これじゃ、紅茶も飲めないね」

 と彼女は冗談っぽく言った。事実、皮肉のつもりもない冗談なのだろう。


「さて、それじゃ、話をしようか」

「話すことなんてない」

「……そうもいかないって。わたしたちにとって最悪の事態は、このまま時間切れになってしまうことなんだよ」

 分かってるでしょう、と彼女は言う。でも分からなかったし、分かりたくもなかった。
 そんな自分の感情の高ぶりが、彼女の言葉を肯定しているのと同じことなのだろう。

「あなたも、わたしも、選ばないといけない。はっきりとした答えを。ううん。選ぶべきだと思う、かな。
 ……そうじゃないかもしれない。選んでほしい、かもしれない」

 彼女は寂しそうな声でそう言った。わたしは暗闇の中、じっとうつむいて椅子に座っている。
 誰も彼もがそんな声でわたしに話しかける。憐れむように、懇願するように。

「ツキは、下界の人たちに捕まったよ」

 と彼女は言った。わたしはぎくりとする。
 何かを試そうとするように、彼女は続けた。

「どうしようか。それを、決めないとね」

 わたしはまた、何も言えなくなった。

つづく

乙…




「わたしが誰だか、あなたには分からない。そうだよね。
 だってそういうふうに出来てるんだから。

 真っ暗闇はつらくない? このままだと、何も見えないけど。
 ……うん。分かってる。見たくないんだよね。全部分かってる。

 でも、ここではっきりさせなくちゃいけないんだ。

 わたしが誰なのか、あなたには分からない、と、あなたは感じている。 
 でも、本当は気付いているんでしょう?

 わたしが誰なのか。絵画にフォークを突き刺したのが、本当は誰なのか。
 鏡を割ったのが誰なのか。

 鏡に映ったのが誰で、絵に描かれたのが誰なのか。
 ぜんぶ、ぜんぶ、予想がついてるんでしょう?



 この世界は、シラユキが言っていたみたいに、たしかに世界として独立している。
 だから、あなたがこの世界からいなくなったとしても、世界は成立し続ける。
 
 でも、輪郭は曖昧だし、ちょっとしたことですぐに揺らいでしまう。すごく不安定なの。
 そして、世界が出来上がった瞬間のあなたの願望をはっきりと反映している。

 ここに来るまでの間、気付いたと思うけど、あなたの記憶や感情は制御されているんだよ。

 たとえば、ある一定の事柄について、あなたは忘れている。
 そして、あなたがそれを思い出そうとすると、感情の方が支配される。
 つまり、"思い出したくない""思い出さなくてもいい"という感情が立ちのぼってくるってこと。

 記憶に制限が掛かっているわけ。
 どうしてそうなったかというと、それは世界がそういうふうに作られたから。

 この世界に、あなたは支配されている。
 そしてこの世界をそういうふうに作ったのは、あなた自身、というわけ。



 ここまではさして驚きもないでしょう? 成り立ちからしておかしな世界だしね。

 どうして世界がこんな形になったのか。世界をこんな形にしたのか。
 それは、わたしにもちょっとはっきりしない。いろいろと、筋が通らないところも多いし。

 それはたぶん、あなた自身の望みが、単純な形で表せるものじゃなかったてことだと思う。
 その結果、この世界は、ふたつの可能性に対応できるような形になったわけ。

 この世界に留まり続けることで現実においての死を選ぶか。
 この世界から脱して現実に戻ることを選ぶか。 

 もしあなたが死にたいなら、死ねるように。

 もしあなたが生きたいなら、生きられるように。 
 
 どちらも選ばなかったとしたら、やっぱり死んでしまうんだけどね。




 もしあなたが死にたいだけだったら、こんなまどろっこしい世界は必要なかった。
 そして、もしあなたが生きたいとだけ願っていたなら、やっぱりこんな世界は必要なかった。

 それって、ごく自然なことだと思わない?
 生きたいという言葉が、単純な生存だけを意味するわけじゃない。
 生きたいように生きることは、もっと多くのものを必要とする、とても大変なことだから。

 この世界が出来上がった段階で、あなたの心はかなり死の方へ傾いていた。
 そのせいで、世界全体は死に偏っている。
 
 分かるでしょう?
 放っておけば死んでしまうようにできているし、あなたの思考は死に傾くように制御されている。
 何もしなければ、何も分からないままでいれば、死んでしまう。

 でもそれじゃあ選択の余地がないのと変わらない。
 それに対抗するために、シラユキが存在していたし、ツキが入り込めるような隙間も作ってあった。
 
 純然な意味で、この世界は「あなたを反映した世界」ってこと。



 そういう意味で、あなたの願望のひとつはとても、とてもシンプルな形でこの世界を象徴している。

 雨。

 雨が止まないこと。
 シラユキが自分の傍からいなくならないこと。

 陳腐な言い回しをすれば、あなたが望んだのは永遠。
 永遠の幸せ、とか、永遠の愛、じゃない。不変、みたいなもの。

 たくさん苦しくて、嫌になっちゃったんだと思う。
 で、嫌になってみるとね、こう、分からなくなっちゃうんだよね。
 
 自分がその場に居続ける意味とか、理由とか。
 苦しいならやめちゃおうって、そう思う。どうせ何もかも、いつかは終わるんだし、って。

 いつかなくなるものなら、今なくなってしまってもかまわない。そう思ったのかもしれない。
 そして世界には、いつかなくなるものばかりが溢れていた。

 いつかなくなる世界に価値を見出せないなら、そこにしか生きられない自分自身の価値もまた、なくなってしまう。
 価値のないものをどのように扱っても、別に困りはしない。

 結構単純な理屈だよね。



 でも、そんな考え方じゃ、何もできなくなってしまう。
 あなたはあなたなりに、価値のあるものを見つけようとした。
 そうすることで、"何もなくなってしまう"ことを避けようとした。

 そして考えたのが、『終わらなかったら?』ってこと。

 永遠に楽しいことが続いたら、やめなくても済む。
 逆に、苦しいことがずっと続くなら、それはそれで救いめいてるよね。

 喜びのない世界では、苦しみは単調だから、それは既に苦しみとして機能しない。

 あなたは、ありとあらゆる変化を拒絶することに、かろうじて価値を見出した。
 変化のない永遠に価値を見出した。現実の外側に、価値を見出した。

 そして、この世界はやがて"それ"に辿り着く。 
 
 この世界は、もうすぐ時間を止める。……違うか。失う、というのかな。静止した一瞬だけの世界になる。

 時間という概念が消えてしまう。

"前"も"後"もない。一瞬が切り取られて、そこに存在し続ける。
 それをもってひとつの永遠として完成させようとしているの。この世界がね。


 あなたという存在は、今はまだ現実にも存在しているし、存在しうる。
 肉体的には……危険な状態かも知れないけど。

 でも、意識は今、こちら側に存在している。
 ふたつの世界に、ひとつずつあなたの肉体が置かれていて、片方にだけ心がある、と言えば分かるかな。
 肉体は所詮物質だから。……なんて言ったら、怒られそうだけど。
 
 だからあなたがこちらを選べば、現実のあなたは死んでしまう。
 現実を選んだとき、こちらのあなたがどうなるのかは、わたしにも分からないけど。

 本題はここから。

 もしあなたが本当に永遠"だけ"を望んでいるなら、シラユキはもっと別の形で存在していた。ツキだってここには来られない。
 彼と彼女がここにいるということは、迷いがあったんだと思う。

 保険に保険以上の意味なんてない、ってあなたは言うかもしれないけど。
 本当に、生きる必要がないと思っていて、それが揺るがないのだとしたら、保険なんてやっぱりいらないと思う。

 単純に心変わりを恐れただけ、とも言えるかもしれないけど。

 でも、あなたの場合は、心のどこかで期待していたんだと思う。
 何か根本的な転換みたいなものが起こるんじゃないかって。
 抜本的な解決のようなものが、不意に訪れるんじゃないかって。

 つまり、もっと別の形で、世界に価値を見出せるんじゃないか、って。

 そんなふうにして、この世界は、こんなおかしな形になった。


 そろそろ不思議になってこない?
 どうしてわたしが、こんなことを言うのか。

 それには、わたしが何者かという部分が関わってくるんだけど……。
 これまでわたしがあなたに語り掛けたとき、明るいことはまず言わなかったよね。

 ここに居続けてもいいとか、どうせ他の居場所はないとか、だいたいそんなようなことを言っていたと思う。
 毎晩夢に出て、醜い、醜いって言い続けたりもした。そのあたりは、わたしのせいってわけでもないけど。

 そうしたわたしの言葉もまた、あなたの心を反映したものだった。
 
 そんなわたしが、どうしてわざわざ、こんなことをあなたに説明しているのか。
 わたしは時間切れを待つこともできたし、あなたに何も知らせないこともできた。
 わたしが本当にそれを望むならね。

 でも、それをする気になれないのは、単純な理由。
 わたしが嫌になったから。

 あなたが世界を知ろうとすれば、わたしはあなたに"知りたくない"と感じさせる。
 あなたが世界を知りたくないと感じているうちは、そう思い続けるように誘導する。

 そういうふうに作られた、わたしもこの世界の一部だったってこと。
 あなたの影のようなもの、と言えるかもしれない。


 だから、あなたの感情は、本当は大部分が欠落している。記憶と同じようにね。
 欠けた部分はわたしが持っている。

 でも、なんていうのかな。そのあたりも面倒な話なんだけど。

 
 あなたが生に傾いた思考をするたびに、わたしはその思考を死に傾け直すような仕事をしていたわけ。 
 そして、ツキが来てから、あなたの心は思いのほか、生の方に傾いてしまった。

 結果、わたしは何度も、あなたの心を死に傾け直した。

 どうやったかというと、そうした前向きな——という言い方は好きじゃないけど——感情を、わたしが抱え込んだの。
 つまり、生に傾いた心を、わたしが吸い込んで、ため込んでいた。

 その結果、わたしの心まで、生に傾いてしまったんだと思う。

 あなたは死にたがっていた。だから自然、死に傾くように、世界にわたしが配置された。

 シラユキがあなたを現実に繋ぎとめる役割だとしたら、そもそものわたしはあなたをこちらに繋ぎとめる役割だった。
 その構図が、ちょっと崩れてしまったの。

 でも、それだってきっと、保険のようなシステムの一部なんだと思うけど。
  



 絵画に描かれていたのも、鏡に映ったのも、あなた自身。
 そして、絵画を破ったのも、鏡を割ったのも、わたし。

 どうしてそんなことをしたかっていうと……。
 結局、わたしも、わたしの中のあなたの感情を飼いならせなかった、ということになるんだと思うけど。
 あなたの心が生に傾いていたとき、わたしはそれに強く抵抗しなくちゃならなかったから。
  
 あなたが生に傾いたとき、わたしは死に傾いていた。
 そして、その傾きをもって、あなたに語り掛けていた。そうすることで、生に傾きかけたあなたの心を元に戻していた。

 心当たりがないわけじゃないと思うけど、それがわたしの仕事だったってこと。
 知ろうとすれば、知りたくなくなるように。興味を持てば、興味を失うように。

 これで、世界についてはわかったでしょう。
 
 じゃあ、今、どうしてこんなことをわたしが話しているのかっていうと、これは単純。
 
 あなたに選択を迫るため。

 これらの事情のすべてを知ることで、あなたは自分の感情を自由にするかどうかを選ぶことができる。
 感情の制御を、わたしから解き放つことができる。

 でも、そうすると、もう後戻りはできない。だから、抵抗する部分もある。


 あなたは、ツキを助けたい。"助けたい"と思いたがっている。
 そのためには、自分を制御している理屈の一部が邪魔。
 だからといって、理屈を無視して動いてしまえば、ひどい混乱が起こってしまう。

 助けてほしいと思っていない人を助けることは、死にたがっているのに生かされてしまうこととパラレルだから。

 だから、あなたは選ばなくちゃいけない。

 設問はとてもシンプル。
 あなたにとって、ツキは、価値のある人物かどうか。

 価値のないものなら、死のうが生きようが、どうでもいいはず。
 価値のあるものなら、本人が望んでいなくても、引き留める努力をするくらいは、許されるはず。

 当然だけど、ツキを価値あるものだと認めてしまうと、あなたにはちょっとした変化が訪れる。
 言い訳がひとつ、消えてしまう程度の小さな変化。
 でも、言い訳が消えてしまったら、あなたは向き合わなくちゃいけない。 

"あなた"が望めば、"あなた"の中のルールが変わる。そうすれば、ツキを助けることだってきっとできる。

 さて、どうする?」
 

つづく



アヤメはどうしてるんだ…
影の一人語りでアヤメから視点がこれだけ離れたのは初めてだ。
どうかはやまらないで……


語るなぁ。先が怖い




「ツキは石ころじゃない」

 とわたしは言った。そう言った瞬間、前後の記憶がひどく曖昧なことに気付く。
 なぜわたしは、不意にそんなことを口にしたんだろう。

 それから、世界に光があることを、ふと意識する。
 それまでと変わらず、赤みがかった頼りない灯りだ。

 その光は大きな影をも作り出していた。
 それがあることで、よりいっそう影を際立たせてしまうような光。

 でも、何はともあれ、それが光であるのは確かだ。
 光がある以上は、まったくの暗闇というわけではない。
 影は闇ではなく、光のひとつの性質であり一面だ。

 机の上の燭台。そこに刺さった蝋燭。その先の炎。
 あの部屋の中に、わたしはいる。
 そうやって、視界の中の情報を連結させていく。


 石の壁。鏡台。絵画。机とティーカップ。自分が座っている椅子。

 わたしの目の前には誰の姿もなかった。

 さっきまで誰かと話をしていたような気もするけれど、よく思い出せない。
 誰かの姿を見た記憶がない。
 
 ただ、炎が煌々と燃えていた。

 わたしは立ち上がり、深呼吸をする。
 それから部屋の様子を確認した。

 机の上のティーカップは三つ。冷めた紅茶が入っている。
 鏡は割れていない。振り返ると、壁に掛けられた絵画は、裂かれてなんていなかった。

 おかしなことじゃない、とわたしは思う。
 ただ、世界はそういうものだったのだ。少なくともこの世界は。
 わたしはわたしのことをちゃんと思い出せたし、感情が切り離されたりもしていない。

 壁に大きく映るわたしの影は、ちゃんとわたしと繋がっていた。


 わたしは燭台を掴みあげ、扉に向き直る。
 行かなければ、と思う。
 
 そう思うことができる。
 後のことなんて今は考えない。
 わたしがわたしをどうするかなんてものは、保留でいい。

 ツキに会わなきゃ、とわたしは思った。
 わたしはまだツキに何も言えていない。

 結果がどちらになるかなんて、わたしには分からない。
 
 でもわたしは、そうしたい。

 それは、難しいことかもしれない。
 わたしの言葉はもう、彼には届かないかもしれない。

 顔を合わせることだって、できなくなるかもしれないのだ。
 もしかしたら、既にそうなっているのかもしれない。



 どれだけの決意で臨もうと、世界はそれを無視してあっというまに通り過ぎてしまう。
 この世界も、現実も、変わりはない。
 ルールが既に決まっていて、わたしはその内側に従うことしかできない。

 望むだけで、現に起こっている何かを覆せたりはしない。
 唯一、わたしの意思によって変えられるものがあるとしたら、それはわたし自身だけだ。

 あとのことは、意思だけでは、変えることはできない。せいぜい、変化を促すくらいが限界だ。
 ツキのことだってそうだし、わたしのことだってそうだった。
 
 どうだろう、とわたしは自分に問いかけた。
 わたしに何かを変えることなんてできるだろうか。変化を促すことなんてできるだろうか。
 
 分からない、とわたしは答えた。
 でも、変化を望むなら試みるしかない。それは降って湧くようなものではない。

 扉をくぐるとき、一度だけ部屋を振り返った。わたしの影がかすかに揺らめいた気がした。


 蝋燭の灯りを頼りに、わたしは急いで屋敷への通路を辿る。
 運動はあまり得意じゃない。走るのは苦手だった。
 
 ずっと昔、現実の学校で、体育の授業のとき、走り方が変だってバカにされたことがあった。
 今でも覚えている。先生も一緒になって笑っていたっけ。
 でも、自分じゃ何がおかしいのか、分からなかった。指摘してくれる人もいなかった。
 
 だからわたしは、次の授業から走らなくなった。笑われるのは嫌だった。
 そしてわたしが走らないでいると、先生はわたしを叱った。
 言い聞かせるみたいな優しい声を作って訊ねた。どうして走らないの、と。
 
「笑われるから」とわたしは答えた。先生は困ったような顔をして、笑わないから走りなさい、と言った。
 
 でもわたしは走らなかった。叱られても宥められても、わたしは走らなかった。



 そのことはちょっとした学級問題にもなった。

 たとえ自分が変に思ったことでも、一生懸命にやっている人を笑うのはやめましょう、と先生はみんなに言った。
 もちろん、その理屈の方がよっぽど変だった。

 先生は次の体育の授業のとき、走らないわたしを責めた。
 わたしはあなたのために働きかけたのに、あなたがわたしの努力を台無しにしている、とでも言いたげな態度だった。
 
 みんなが笑わなくなったって、みんながわたしの走り方を変だと思うことは変わらない。
 だからわたしは走りたくない。「走りたくない」というそれを認めてほしかっただけだ。
 
 別に自分の走り方に誇りをもっていたわけでもないのに、それを認められたところで何も言えない。

 正しい走り方が知りたかったのだ。笑われない走り方が。
 わたしだってちゃんと走りたいとは思っていた。



 いつも。ずっと。昔から。いつだって、わたしはわたしなりにまともになろうと思っていた。
 そのための努力だって必死にしてきたつもりだった。

 母がわたしを不快に思うのは、わたしが不快なことをしているからだと思った。
 他の子どもができることを、わたしがこなせていないから、他の子どものように愛してもらえないのだと。

 だからいい子になろうとした。好かれることができなかったとしても、嫌われ続けることは嫌だった。
 思いつくことは何だってやった。勉強だってがんばったし、それは成績にだって出た。
 でも、母は態度を変えなかった。何をやっても。どうすることもできないのだろうか、とわたしは思った。

 家庭訪問のときに、先生は体育の授業でわたしが走らないということを母に伝えた。

 母はわたしを叱った。どうして走らないの、と母は訊いた。
 走り方が分からないから、と言うと、母は強烈な皮肉でも言われたときのように激昂した。

 ごめんなさい、とわたしは謝った。そして体育の授業で走るようになった。
 どうすることもできないかもしれない。
 それでも、母が望む通りで居続ければ、ひょっとしたら何かが変わるかもしれない。そう思った。


 わたしが走ると、先生は満足そうに笑った。それを聞いて母はほっとした。
 クラスメイトたちはわたしを笑っていた。

 何も変わらなかった。

 正しい走り方なんて、誰も教えてくれなかった。

 訊いてみたら教えてくれたかもしれない。
 どういうのが正しい走り方なんですか、と。

 そうすればきっと誰かが快く説明してくれたかもしれない。
 コーチだって買って出てくれたかもしれない。でも、わたしはそんなことを言えなかった。

 それを訊くのはとてもみじめなことに思えたのだ。

 どうして今、こんなことを思い出しているんだろう。


 書庫に這い出るとき、埃のせいで咳が出た。
 泥だらけのレインコートをその場で脱ぎ捨てる。

 走ることが嫌になるよりも、ずっと前、あなたはどうしてそんなに醜いの? と母はわたしに訊ねた。
 初めてそう言われるまで、わたしはそんな自覚を持ったことはなかった。
 自分の容貌について深く考えたこともなかった。

 でも、母が言うならそうなのだろう。そうか、わたしは醜かったんだ。そう思った。
 
 鏡を見つめる日々が始まった。醜いと言われてから鏡を見てみると、実際に醜く見える。
 どうしてわたしはこんなに醜いんだろう? そう思った。そう問いかけ続けた。
 
 自分の顔を見ることが、段々と怖くなってきた。人前に姿を出すことも、怖くなった。
 本当は外にだって出たくなかった。でも、家の中に居る方がずっと怖いのだ。

 母の視線には、憎しみや嫌悪ですらない、憐れみに近いものが宿っていた。
 本当にどうして、この子はこんなに醜いんだろう、と、そう言いたげな瞳。

 その目で見られると、わたしはすぐにでも消えたくなった。



 髪型が悪いのかもしれない。骨格が理由なのかもしれない。
 体型かもしれないし、顔つきかもしれない。

 何がそう見せるかは知らない。でも、醜いから、母はわたしを嫌う。
 何をしたって取り返せないのだ。

 どうしてわたしは、こんなに醜いんだろう。
 そう思いながらわたしは鏡と向かい合い続けた。

 何ひとつ、変わらなかった。 
 
 世界はわたしとは無関係のルールで動いているようだった。

 誰かひとりを特別扱いしたりしないし、誰かひとりを助けたりしない。
 今までも、これからも、世界はずっとそんなふうに動いていた。

 だから世界とは関係がない。 
 これはわたし自身の問題だ。



 書庫から階段を駆け上がり屋敷の一階に出た。
 地下から出ると、途端に外の明るさが目に突き刺さった。
 廊下の窓から、シラユキが傘をさして中庭に立っているのが見えた。

 わたしは蝋燭の炎を吹き消した。
 
 それから燭台をその場に放り投げた。思ったよりも大きな音がする。
 シラユキにも聞こえたのか、彼女はわたしに気付いたようだった。

 わたしが廊下の窓を開けると、彼女は中庭の中央からこちらの方に慌てて駆け寄ってきた。

「どうでしたか?」

 と彼女は訊いた。

「ツキが、捕まっちゃったみたい」

 とわたしは答えた。呼吸が苦しい。息がひどく乱れているのだ。
 そしてわたしは、自分の放った言葉を頭の中で反芻してみた。

 ツキが捕まった、と、わたしはどうして知っているんだっけ。
 でも、確信があった。ツキはもう捕まってしまった。わたしはそう知っている。

 とにかくそうなっている、という事実だけは分かっている。


 シラユキは悲しそうな顔をした。もう泣き出してしまいそうな顔。
 今まで彼女は、何度こんな顔をしただろう。何度彼女にこんな顔をさせてきたんだろう。

「どうしたら……」

「助けに行く」
 
 間髪おかないわたしの返事に、彼女は息を呑んだようだった。

「準備をしたら、街に行く。ツキを現実に帰らせる」

「待ってください、そんなの……」

 無理です、とか、ダメです、とか、そういうことを言おうとしたのかも知れない。
 わたしがツキを逃がそうとすれば、そのことに下界の住人達が気付けば、彼らはわたしを捕らえようとする。

 それはシラユキにとって望ましいことではない。
 そうなってしまうと、わたしは自分の意思で選択することができなくなってしまうから。


「もう決めたの」

 とわたしは言った。シラユキは混乱した表情でこちらを見る。
 話している時間が惜しくなって、わたしは駆け出した。
 階段を昇って、自分の部屋に向かった。

 泥に汚れ、雨に濡れた服を着替える。
 ふと爪先に触れてみると、思っていたよりずっと冷たかった。
 
 着替えを終えてから、わたしは部屋の中央に立った。
 それから、壁際でそっぽを向いている姿見を見遣る。

 壁に向かっていた姿見の鏡面を、わたしは自分の方に向けた。

 鏡に映った自分の顔は、思ったよりも間抜けだった。
 転んだときについた泥が、顔に貼りついたまま乾いてしまっている。
 レインコートを着ていたとはいえ、髪だって結構濡れてる。

 みっともない姿なのに、服だけが汚れのない綺麗なものだから、それが尚更おかしさを掻き立てた。



 わたしは少し笑う。そして、これがわたしだ、と思った。しっかりと見ろ、これがわたしだ。

 手足は細い。運動をほとんどしなかったせいだろう。この世界でもそうだし、現実でもそうだった。
 外に出て遊ぶことが少なかったから、肌だって真っ白だ。
 
 わたしは指先で鏡に触れた。

 もう見て見ぬふりなんてできない。どんな結論を出すにしたって、そうなんだ。
 顔を洗って髪を乾かしたら、わたしにはやらなければいけないことがあるのだ。

 もう目を逸らし続けることはできない。
 これが、わたしなのだ。

 誰がなんて言ったって、とにいかくそれだけは揺るがない。
 わたしはこのわたし自身を認めて、受け入れて、そのうえで選ばなくてはならないのだ。

 選ぶ結果がなんであれ、そうすることでしか始まらないのだ。

つづく


それが歩き方に及ぶとありふれた日常が生き地獄になる



子供の日常も地獄で戦場だけど、楽しく生きる手立てはある。
それを教えられない大人は有能でないと言うしかないが。

ううむ……
実際にありそうな話だから困る

>>437
それを教えられる(形だけじゃなくて、本質的な意味で)大人がどれだけいるだろうか




「助けるって、いったいどうするつもりなんですか?」

 わたしは新しいレインコートと靴を用意した。
 顔を洗い、髪を乾かし、後ろでひとつに結んだ。

 そうした準備をしながら屋敷を歩き回るわたしに、シラユキは必死に言い募る。

「何か手段を考えているんですか?」

「何も。状況が分からないもの。ツキがどこにいるのかさえ」

「それじゃあ、どうするんですか?」

「状況を掴むところから始めないとね」

 とわたしは言った。何が必要になるだろう?
 何があっても役に立ちそうだとも思うし、何があったとしても役には立たないという気もした。


「でも、見つかったら……」

「見つからないようにするし、見つかったとしても逃げ切ればいいんだよ」

「……そんなの」

 もちろん、逃げ切れるわけがない。わたしは走ることが苦手だ。体力だってない。
 状況にもよるが、見つからないというのも、ほとんど不可能だろう。
 
「自分から捕まりにいくようなものじゃないですか……」

 シラユキは情けない声を出した。わたしは溜め息をつく。

「新しい懐中電灯ってある? 持っていったのは壊しちゃったから」

「……はい。本当に行くんですか?」

「シラユキ」

 とわたしは呼びかけた。

「あなたも手伝って」

 彼女は意外そうな顔をした。



「わたしは街に行ったことがないから、ツキが捕まった後、どうなるかを知らない。
 すぐに殺されてしまうのか、少しでも猶予があるのか、それも分からない。
 もし猶予があるとするなら、どのような手段が講じられるのか、考えなきゃいけない。
 情報が必要なの。そのためには、シラユキ。あなたが必要なの」

「……わたしが、ですか?」
 
 彼女は戸惑っているようだった。
 なぜ、こんな顔をするんだろう。わたしにはよく分からない。

 彼女が何をどのように考えて、何を望んでいるのか、わたしにはよく分からない。

 話しながら、わたしは書斎に向かって歩く。
 シラユキは言葉の意味をなんとか咀嚼しようとしているみたいだった。

 書斎机から拳銃を取り出す。

 よく思い出せないけれど、この世界はわたしの心境を反映している、らしい。
 そういう話を、あの部屋で聞いた。誰から聞いたのかは、思い出せない。でも、そう言っていた。たぶん。



 だとすれば、この拳銃はどのような意味を持つのだろう。
 
 わたしは一度、ツキにこれを向けかけた。そして今、もう一度引き出しから持ち出した。
 シラユキは息を呑む。それからひどく戸惑ったような顔をした。

「威嚇くらいには、なるといいんだけど」

 なるはずだ、と思う。
 下界の街では、今いる人間は死なず、今いない人間は生まれない。シラユキがそう言った。
 でも、それはまだ確定していない。つまり、死にうるし、生まれうる、ということだ。
 
 変化を恐れるというのなら、街の人々は自分たちの死を何よりも恐れるはず。
 だとすれば、有効ではないとは思えない。

「使うんですか?」

「使えるものは、なんでも使わないとね」

 とわたしは答えた。それからシラユキの目を見る。

「ツキを死なせるわけにはいかない」



 どうして、と。
 シラユキの唇が、そういう形に動いた気がした。

「なに?」

 わたしが訊ねると、シラユキはつらそうな顔をした。

「どうして、ツキを助けたいんですか?」

 どうして、だろう。
 わたしはなぜ、ツキに対してだけ、こんな暴走とも言えるほどの感情の高ぶりを覚えるのだろう。
 
「シラユキは、ツキが死んでもかまわないって思う?」

 彼女の瞳が、一瞬、強く揺れた。

「——そんなわけないじゃないですか!」

 シラユキの怒鳴り声を、わたしは初めて聞いた気がした。
 彼女は大声を出したことを後悔したように視線をあちこちに彷徨わせた。
 悔しそうな表情でうつむくと、瞳からぽろぽろと涙がこぼれだす。
 
 そうだろうな、とわたしは思った。シラユキはそう言うだろう。



「ごめんなさい」

 放っておくと、シラユキが先に謝ってしまうような気がした。だからわたしが、最初に謝る。

 わたしはもう一度自問してみた。
 どうして、わたしはこんなにも、ツキに執着してしまうんだろう。

 答えを出すのはむずかしかった。とても、むずかしい。
 でも、わたしは現実の自分について、既にほとんどのことを思い出していた。

 わたしの周りにはたくさんの人がいて、その大半の人間はわたしのことなどどうでもいいようだった。
 わたしだって、大半の人間のことはどうでもよかった。

 わたしの世界はとても狭かったのだ。




 母——義母にとってわたしは、夫の前妻の娘だった。 
 
 それはもう、曖昧になってしまった記憶だ。


 自分の血を引いていない娘。しかも、愛した人が愛した、自分ではない女の子供。
 それでも母は、きっと、わたしを好きになろうとしたのだと思う。

 ちゃんとそういう決意を持って、父と結ばれたのだと思う。
 母なりにしっかりと、わたしのことを背負う覚悟を持って、父と結ばれたのだと。

 そう思いたいわけじゃない。そういう記憶がたしかにあるのだ。

 わたしは愛想のない子供だったと思う。
 実母が亡くなったのは物心つく前のことだった。



 父が再婚したのは、わたしが小学校に入ったくらいの頃。
 
 再婚に際して、ふたりは慎重だった。なるべくわたしに負担がかからないよう配慮していた。
 わたしは、子供ながらに、気遣われていることを、ちゃんと理解していた。

 まず父は、わたしと義母を引き合わせた。義母はわたしのことを理解しようとし、仲良くなろうとした。
 父もまた、わたしが義母を好きになるように、たくさんの努力をしたのだと思う。

 わたしは、そうした両親の側の事情を、なんとなく、理解していたのだ。

 だからわたしは、母のことを好きになろうとした。
 父も、母も、それを望んでいたと思った。彼らはそのとき、まだ二十代だった。
 
 わたしは知らない人とうまく話せなかったし、自分のことを話すのも苦手だった。
 人から気に掛けられることも、あまり好きじゃなかった。



 三人で顔を合わせることがあると、二人はいつもわたしに気を遣ったような表情になる。 
 わたしはそれがすごく嫌だった。でも、父も母もそれを望んでいた。

 母と会った日の夜、父はわたしに必ず、「どうだった?」と訊ねた。

 楽しかったよ、とわたしは言う。
「あの人をどう思う?」と父は訊ねる。「楽しい人だと思う」とわたしは答える。

 父と母はそのことに安堵しながら、なおも慎重に話を進めた。

 ようやく話がまとまって、一緒に生活が始まってみると、母は違和感を抱いたことだろう。
 だってわたしは、母に「良い母親」であることを、まったく求めていなかったのだから。

 父に新しいパートナーにできることは、奇妙な感じはしたし、抵抗もあったけれど、納得はできた。
 でも、わたしに新しい母ができるということは、どうもうまく理解できなかったのだ。

 要するにその頃のわたしは、母を家族として認めていなかったのではないか。
 そうした気持ちこそが、母を深く傷つけたのではないか。

 今になってそんなことを思う。 



 父もきっと、母とわたしの間に、何か奇妙な雰囲気があることには気付いていただろう。
 
 でも、信じたくなかったのだろう。
 上手くやっていけていると、思って居たかったのだろう。

 わたしが嘘をついたことがいけなかったのだろうか。
 好きになったふりをしたことが?
 
 それとも、母が悪かったのだろうか。
 それとも、父が悪かったのだろうか。

 わたしには分からない。でも、そういうことではないような気もした。

 少なくとも、誰かの責任にしたところで、問題が解決するわけでもなかった。
 誰のせいでもなく、きっとわたしのせいでもなく、誰が望んだわけでもない。

 誰が悪いというわけでもなく、誰が悪くないというわけでもない。

 それでも、起こったことは、起こったことなのだ。





 ツキと初めて会った時のことを、わたしは思い出した。
 わたしが走ることを拒否して、でも結局何も変えられず、ふたたび走り出した頃。

 ある雨の日の夕方、わたしは家の近くの児童公園に、ひとり傘をさして、じっと立っていた。
 公園にわたし以外の子供の姿はなかった。

 そこに偶然通りかかったらしい男の子が、わたしに声を掛けたのだ。

 わたしは彼のことを知っていた。
 近所の家に住む、ひとつ年上の男の子。ちょっとぶっきらぼうで、少し怖かったのを覚えている。

「なにやってんだ?」

 彼はそんなふうにわたしに話しかけた。わたしは答えに困った。

「なにも」

 やっとのことで答えると、彼はどうでもよさそうに何度か頷いた。

「お前、名前は?」

 わたしは自分の名を名乗り、それから彼の名を訊ねた。
 ツキ、と彼は名乗った。


 彼はそれからしばらく、何かどうでもいい話をした。
 学校で起こったこと、家族と喧嘩したこと。そういうことを延々としゃべり続けた。
 ひょっとしたら日が暮れても続けるつもりなんじゃないかと思うほどだった。

 やがて彼は、一通りの話題を消化して、自分から言うことがなくなったのか、

「お前、まだ帰らないのか?」

 と、そう訊ねた。
 帰りたくない、と答えてから、わたしは少し後悔した。
 なんで、と訊かれると思ったのだ。

 でも、彼はわたしに何も訊かなかった。

 その代わりに雨空を見上げてひどく憂鬱そうな顔をした。

「雨が降ると嫌だよな。外で遊べないもん」

 そう、ツキは言った。
 わたしはその言葉に、思わず泣きそうになった。


 ずっと雨が止まなければいい、と思った。

 そうすればわたしは走らずに済むかもしれない。
 グラウンドが使えないくらいに雨が降ってくれれば、わたしはもう走らずに済む。

 もちろん、もし雨が降り続いたとしても、そうなれば今度は屋内で走らされることだろう。
 でも、そのときのわたしは、雨が降り続きさえすれば、二度と走らずに済むような気がしたのだ。

 黙り込んだわたしの様子を怪訝に思ったのか、ツキはわたしの顔を覗き込んだ。
 わたしは泣いていた。彼はひどくうろたえた。

「どうした、どこか、痛いのか? 痛いのか?」

 わたしが答えずに泣き続けると、「いたいのか」と彼は何度も聞いた。
 わたしはどこも痛くなかったし、どこにも居たくなかった。

「どうしたんだよ」

 と、困ったような声でもう一度ツキが訊ねたとき、わたしはようやく言葉を絞り出した。


「走りたくない」

 とわたしは言った。彼は困ったような顔をした。
 本当に戸惑っていたようだった。どうしてそんなことを言うのか分からない、というふうに。

 そして、

「なんで走りたくないのか知らないけど、走りたくないなら、走らなくてもいいんだぞ?」

 と言った。
 わたしをなだめる風でもなく、本当に、簡単な理屈を口に出しただけだというふうに。

「走りたい奴だけ、走ればいいんだよ」

 そんなふうに言われたのは、初めてだった。
 母は走らないわたしを叱った。先生も、わたしに走れと言った。


 クラスメイトたちは、わたしが走ることを期待している。
 そしてわたしが走り出せば、みんながひそひそと笑うのだ。

 先生に気付かれないように、でも、視線と言葉をひそかに交わして。

 今思えば彼は、授業のときの話だとは思っていなかったのだろう。
 それに、実際にその理屈が授業で通るなんて、わたしも思ってはいなかった。
  
 でも、わたしはツキの言葉に助けられたのだ。
 わたしに走ることを求めない人がいるのだと思った。

 その言葉を聞くまで、わたしはそんな人がいるなんてことを想像もできなかったのだ。




 わたしは書斎机の上に拳銃を置いて、それを見つめた。

 もし、この拳銃がわたしの心境を反映したものだとするなら、どのような意味を持つのだろう。
 少し考えてみたけれど、よく分からなかった。

 でも、このタイミングになって、これがあってよかったと思う。
 これがあったおかげで、わたしはツキを取り戻しにいくことができる。
 
 そうだとするなら、これもシラユキ同様、いざというときの保険のようなものとして置かれたのだろうか。
 これは反撃の為の手段として、ここに置かれていたのかもしれない。
 
 わたしは、夢の中で聞いた「駄目だ」という声を思い出す。
 引き留めるような、痛切な声。 
 あの言葉の意味が、今なら分かる。
 
 彼がわたしにそう言い続けたように、今度はわたしが彼に言わなくてはならないのだ。
 
 自分のことは、一旦棚上げにしてでも、わたしは彼に言わなくてはならない。

つづく
434-9 とにいかく → とにかく




 丘の下の街並みは、実際に歩いてみると、見下ろしていたときよりも、ずっと大きく、広く思えた。
 石畳の通りを歩きながら、雨の降り続く街を歩く。
 
 人の気配は、不思議としなかった。ささやき声もなかった。
 隣を歩くシラユキは、特に不思議そうな顔もしない。
 この街はずっとこうなのかもしれない。

「こんなふうに堂々と歩いていて、平気?」

 わたしが訊ねると、シラユキは一拍おいて、静かに頷いた。

「まだ平気です」

 と彼女は言った。それがどういう意味なのか、わたしにはよく分からなかった。
『まだ』ってどういうことだろう?



 シラユキは黙り込んでいる。
 
 わたしが街に向かうと言ってから、彼女の態度は明らかに変だった。
 何か言いたいことがあるのに、それを言うことができないというような表情。

 彼女はいつも買い物に行くときに使っていた手提げ鞄を肩に掛けていた。 
 その中には書斎から持ち出した拳銃が入っている。
 
 ホルスターが見つからなかったので、そうやって持ち歩くほかなかった。

 最初はわたしが持ち歩こうとしたのだけれど、彼女はそれを強く拒絶した。

 わたしだって好んで持ち歩きたくはなかったから、別に彼女に持たせたっていいとは思ったのだけれど。
 それでも、何か、彼女の様子は変だった。

 雨に打たれて、石畳には染み込むような水溜りが出来ている。

 当たり前のように雨が降り続いている。
 
 何かを、見逃しているような気がした。



 背の高い石造りの建物が通りの両側を囲んでいた。
 わたしはなんだか奇妙な気分になってくる。
 
 わたしも、シラユキも傘をさして歩いていた。
 レインコートは目立つから、と彼女は言ったけれど、この人気のない街中で、目立つも何もあるだろうか。
 そもそも、彼女が懸念していた見つかるかもしれないという可能性だって、今のところ気配すらない。

「人の姿がないのは、きっと皆、広場に集まっているからでしょう」

 わたしの疑念を見透かしたように、シラユキは落ち着いた声で言った。

「はっきり言っておきますけど、今のままでは、あなたがツキを助けるのは、不可能です」

 彼女はそんなふうに続ける。わたしには、彼女の発言の意味がうまくつかめなかった。

「……なぜ?」

 彼女は答えなかった。



「……ねえ、シラユキ。わたしはずっと思っていたんだけど」

 わたしは彼女の横顔をひそかに眺めながら、訊ねた。
 シラユキの表情は透明で、雨の街の中で、静かに消えてしまいそうにすら見えた。

「あなたのことが、よく分からない。あなたはどこまで知っているの?」

 シラユキは、ときどきわたしの考えを見透かしたようなことを言う。
 それにくわえて、彼女がいないとき、わたしがどのような体験をしたかも、知っている節がある。
 にも関わらず、どんなことにも純粋に驚いたりしている。

「……わたしは、何も知りません」

「でも——」

「情報としては、何も知らないんです。ただ、分かるんです。
 そうでなければ、どこまで働きかけていいか、分かりませんから。
 このままでいいのか。このままではだめなのか。そういうことだけ、はっきりと分かるんです」


 それは、つまり、どういうことなのだろう。
 よく分からない。でも、このままでは不可能、という言葉は、なんだかわたしを不安にさせた。

 彼女の言葉が本当なら、わたしは一度出直すべきなのか。
 それとも、何か策を講じるべきなのか。……いや。そのような猶予はなさそうだった。
 
 通りの向こう側には広場があった。
 遠目にも、人だかりがあることが分かる。
 大中小の大勢の人々。彼らは一様に存在感というものが希薄で、影絵のように薄っぺらに見えた。

 わたしは一度立ち止まり、その様子を見た。
 こちらに気付く人は、いないようだ。皆が、何かに注目しているようだった。
 こんなにも大勢の人が、この街には住んでいたのか、とわたしは思った。

 誰もが傘をさしている。
 
「……大丈夫です」

 とシラユキは言った。

「なにが?」とわたしは訊ね返す。

「今はまだ、人に見つかっても平気です」



 わたしはその言葉に、さらに不安を掻き立てられた。
 シラユキはわたしを促すと、広場への道を先導した。

「シラユキ?」

 不安からそう呼びかける。彼女は返事をしなかった。

 遅れてついていくと、彼女は人だかりの最後尾に並んだ。
 たくさんの傘で隠れて、人の輪の内側の様子は覗けない。

 シラユキは人々に声を掛け、輪の中心へと近付いていく。
 人の裂け目。わたしはそこに入り込むかどうか、しばらく悩んでいた。
 
 けれど、考える隙はそんなになかった。人の輪はシラユキが歩くのに合わせて裂けていく。

 中央の様子が、わたしの位置からも見えた。 
 


 輪の中心の地面は大きな円形に高く盛り上がっている。
 ちょうど人々の胸のあたりの高さで、奥から昇るための階段があるらしい。

 その中央には、背の高い男性二人に捕らえられた、ツキの姿が見えた。
 
 ツキの表情はここからでは見えない。
 衝動なのか、予感なのか、よく分からない何かに、体が支配される。

 彼はちゃんと立っているのに、わたしは既に彼が死んでいるような錯覚に陥った。
 わたしは思わず、呟いていた。

「ツキ」

 わたしが声を出したその瞬間、それまで壇上に注目していた人々が、一人残らずわたしを見た。
 死体のような表情。影のような存在感のなさ。その顔のひとつひとつが、目を見開いてわたしを見る。

 一瞬の出来事。薄ら寒さに、身が震えた。自分が何か、してはいけないことをしてしまったような気がした。



 静寂が広場を包む。
 ほかの人々に遅れて、ツキが顔をあげ、わたしを睨んだ。
 
 思わず、息を呑む。
 ここには誰も、わたしの味方がいない気がした。

 人々はわたしを見つめたまま、ひそひそと声を交わし始める。
 最初は蚊の鳴くような小さな声だったのに、徐々に伝播し、広がって大きくなっていく。

 最後には口を開いていないものの姿が見えなかった。ざわめきの中心にわたしがいた。
 耳元で蝿が騒いでいるような大きな音になっていく。

 怖くなってシラユキを見たけれど、彼女はわたしの方なんてちらりとも見ていなかった。
 ただ壇上を見つめているだけだ。

 その視線を追いかけて、ふたたびツキを見る。
 彼は何も言わなかった。


「御嬢さん」

 と声がした。聞き覚えのある声。わたしはその声に、強い抵抗を覚えた。

「珍しいですね。あなたがこちらに降りてくるとは。ひょっとして初めてではないですか?」

 声の主は壇上からわたしに話しかけていた。
 ツキを捕らえる二人の男の傍らに、その男は立っている。

 何度か、聞いた声。そうだ。シラユキが村長と呼んでいた。

「そういえば直接お目に掛かるのも、初めてだという気がしますね。まあ、どうでもいいことですが」

 男の声には抑揚がなく、表情には色がなかった。ただ喉が音を起こしているだけという感じだった。
 喋るというよりも吐き出すような声だ。

「それで、いかがなさいました? あなたも見物ですか?」

 わたしは思わず、シラユキの服の裾を掴んだ。


 男は首をかしげた。心底不思議そうな顔。

「ツキ」

 とわたしはもう一度言った。 
 ツキはわたしから目を逸らした。シラユキも何も言ってくれなかった。

 ざわめきは収まらない。段々と人の話し声が大きくなっていく。
 それなのに、誰も彼もがわたしの言葉を聞くために耳をすませている気がする。

「……この男が、どうかなさいましたか」

 冷たい声で、彼はわたしに言った。
 わたしの心臓は嫌なふうに昂ぶった。
 わたしが態度をひとつ間違えるだけで、どうなるか分からない。そう思った。
 
 覚悟を決めて、言葉にしようとした。ツキを助けに来た、と。
 でも、言ってしまっていいのだろうか。このタイミングで? それは最悪だ。
 そうなれば、わたしもツキも、どうなってしまうか分からない。



 わたしは縋るような気持ちでシラユキを見た。でも、彼女は何も言わない。
 段々と焦ってきて、わたしは彼女の服を何度か引っ張った。

 それでようやく、彼女はわたしの方を見てくれた。
 でも、何も言ってくれなかった。どうすればいいんだろう。

「ふむ」

 と村長は言った。彼はしばらくわたしの方を見つめた後、後ろを振り向いて誰かに合図をしたようだった。

「珍客がおられるようですが、まあ予定通り執り行いましょう。仕事ですからね」

 村長が言うのと同時に、檀上に何者かが現れた。
 巨躯の大男だ。仮面で顔を覆い、黒い衣服に身を包んでいる。
 
 手には巨大な剣のような、斧のような何かを抱えている。
 刃は鈍色に輝いていた。
 
 人々の視線はわたしから逸れて壇上へ向かう。
 わたしは息を呑んだ。
 
 彼らはツキを殺そうとしているのだ、と今更のように思う。




 ツキはわたしをじっと見つめた。

「待って」

 たまらなくなって、後先も考えず、わたしは言った。

 ふたたび、視線がわたしに集まる。 
 ざわめきが一度収まる。痛いほどの静寂。

 雨が降り続いている。壇上の男たちは傘もささずに濡れていた。
 
「……待って」

 もう一度言うと、誰もが怪訝そうな顔をした。
 まるで話の通じない人を相手にしているような顔。
 
 何を言うつもりなんだろう、わたしは。


「どうされました?」

 と村長は言った。わたしは一度シラユキを見た。彼女はわたしを見ているだけだった。
 ツキもまた、何も言わない。何も言わず、こちらを見ている。

「その人を、殺すの?」

 と、わたしは訊ねた。
 村長は一瞬、何を言い出すのかと言いたげな表情で、

「それが決まりですから」

 と当たり前のように答えた。

「……ちょっと、待ってくれない?」

 ざわめきが起こる。
 わたしは自分が何を言っているのか、よく分からなかった。

「なりません」

 と村長は言った。

「決まりです。決まりは守らねばなりません。お分かりでしょう」


「……何も、殺すことはないんじゃないの?」

「決まりです」

 取りつく島もなかった。尚もわたしは言い募る。

「でも……」

「御嬢さん。この男が、どうかしたのですか」

 わたしは何を言おうか迷った。どこまで言っていいのか、わからなかった。
 それを教えてくれるはずのシラユキも、今は何も言ってくれない。

「ふむ」ともう一度村長は言う。

「わかりませんね。変化を認めるわけにはいきません。
 この男はここで殺さねばならないのです。可哀想なことですがね。
 けれどそれは、わたしたち皆の為です。いわば平穏のための礎なのです。
 ここで彼を生かしてしまえば、我々の守ってきたバランスが崩れてしまいます」 



「でもわたしは、彼を助けたいの」

「"助けたい"?」

 と村長は繰り返す。ざわめきが波紋のように大きくなる。
 人々の声が波立つ。雨の音がかき消そうなほどだ。 
 わたしは不安と緊張に、気が遠くなりそうだった。

「助けたいとは、どういうことです?」

 わたしは何も言えなかった。

「それはひょっとして、この男を生かしたいということですか?
 バランスを崩しても、かまわないと? あなたはそう言うのですか?」

 呼吸がうまくできなかった。なんだかひどい重圧を感じる。
 視線が圧力になって、わたしを押しつぶしているような気がした。

 わたしはこんな気持ちを経験したことがある。 
 わたしが走る姿をみんなは笑おうとしているのだ。



 ざわめきの中で、わたしは段々と自分が何をしているのかも分からなくなっていく。
 いったいここで何をしていたのだっけ?
 ただ人々の視線がわたしに突き刺さるようで……耐え難く、苦痛だった。

「そこの御嬢さんは——」

 不意に、声が聞こえた。

「どうやら俺の望みを理解してくれているらしい」

 ざわめきはふたたび、静寂へと変わる。わたしの呼吸は尚も乱れていた。
 
 檀上に立つ村長は、視線を巡らせ、やがてツキに視線を向けた。

「今喋ったのは、貴方ですか?」

 ツキは村長の顔を見つめ、唇を釣り上げた。
 質問には答えずに、彼は言う。

「俺は死にたがりですから、首を斬られるのに抵抗はないんですがね。
 斬るのがこの野暮ったい男じゃ——」
 
 と、彼は顎で仮面の男を示す。

「——なんとも救われない話です。どうせ殺されるなら、他の方法か、他の相手がいいですね」

「残念ながら、これは決まりです。役割は決まっているのです。貴方に選ぶ権利はない。」



「そういう事情は分かっているつもりですよ。ですけど、どうせ殺されるなら女の子に殺されたい」

 村長は奇妙そうに首をかしげた。

「わかりませんね。結局死ぬのではないですか」

「どうせ死ぬからですよ」

 ツキはそう言って、村長の方をじっと見つめた。わたしは目の前で何が起こっているのか、よく分からなかった。
 
 今、ツキは何をしたんだろう。
 わたしを、庇ったのか?

「そこの御嬢さんは、俺の望みを理解してくれたのではないですかね。
 ですから、助けたいと仰られたんでしょう。俺も彼女に殺されるなら後悔はない。もしそうなれば、非常に助かる」

 村長はしばらく疑わしそうな顔つきでツキを見て、それからわたしに視線を寄越した。

「そういう意味だったのですか?」

 わたしは上手く答えられなかった。
 それでも、黙り込んだのを肯定と受け取ったのか、村長は思案深げに溜め息をつく。



「……まあ、そうですね。その程度の変更なら、問題はないでしょう。
 決まりに反するというほどでもありません。もともと誰もやりたがらない仕事ですし、御嬢さんが是非にと仰られるなら」

 わたしは一連の流れに唖然としていた。 
 自分の身に何が起こったのか、よく分からなかった。

 村長はわたしを壇上に手招きする。人々の視線が、またわたしに集まる。
 
 彼らは何を言っているんだろう。
 ツキは何を言ったんだろう。
 
 わたしに、この場で、ツキを殺せと。
 彼らはそう言っているのだろうか?

「どうぞ、こちらへ」

 と彼は言った。
 ざわめきの中、わたしはシラユキの横顔を見る。

 彼女は何も言わなかった。


つづく

乙。ここからどうなるのか

シラユキは何をかんがえてるんだ……

どうなるのか不安すぎる…


 檀上は思ったよりも広く、また寒々しかった。
 見下ろす視界は人と傘で覆い尽くされている。
 
 階段を昇るとき、村長が傘を畳むように言った。

「ここでは邪魔になるだけです」

 わたしはシラユキからレインコートを受け取り、それを羽織る。
 
「シラユキ」

 とわたしは彼女の名を一度呼んでみた。

 彼女は一瞬、怯えたように瞳を揺らした。
 それからわたしの方を見て、またそっけない表情に戻った。



 その一瞬のゆらぎが、わたしを余計に混乱させる。
 
「さすがにあなたの腕では、首を落とすのは難しいでしょうね」
 
 と村長は言った。その物々しい響きに、わたしは怖くなった。
 現実感がないのだ。
 
 今、これは本当に起きていることなのだろうか。
 シラユキは鞄の中に手を入れて、拳銃を取り出し、わたしに差し出した。

「……ああ、それはちょうどいい」
 
 村長は言った。わたしはまたシラユキの顔を見た。
 彼女が何を考えているのか、分からない。

 受け取れずにいると、彼女は不意にわたしの耳元に唇を寄せた。

「これが最後になると思います」

「——え?」



「これから先のことは、すべてあなたが選んでください」

「ちょっと待って、選ぶも何も、この状況じゃ——」

 選択の余地なんてない。
 わたしはそう言おうとした。

「もしあなたがここからツキを連れて逃げたいというなら、簡単な方法があります」

 問題はそれ以外のことなんです、とシラユキは言う。

「どういうこと?」

「とにかく、あなたはここで選ばなければいけません。もう猶予はありませんから」

 わたしの問いにも答えずに言い切ると、シラユキはまた無表情を作った。


 シラユキはわたしの手のひらに銃を握らせる。それからわたしに弾丸を込めるように言った。

 わたしは混乱しながらも、人々の目を気にして、弾倉に弾を込める。
 何が起こっているんだろう。どうしてこうなったんだろう。

 腕が震えていた。

 なぜわたしがツキを殺さなくちゃいけないのだろう。
 どうしてわたしはこんなところに立っているのだろう。

 村長に背を押され、わたしは壇上で捕らえられたツキの元に歩み寄る。

 雨の音。ツキはずぶ濡れだ。疲れ切ったような表情で、わたしを見る。
 わたしと入れ違うように、黒衣の男が壇上から降りた。 

「ツキ、わたしは……」

 わたしは、と。
 そこまで言って、自分が何を言いたいのか、分からなくなってしまう。
 視界がぐらぐらと揺れている気がした。




 わたしが黙り込んでいると、ツキを抑え込んでいた二人の男が、彼を濡れた地面にうつ伏せに組み伏せた。
 それを遮り、ふたりをツキから離れさせる。

 彼は特に縛られていたわけでもなかった。もう全身は自由だ。
 それなのに、逃げ出す気配は見せない。

 ツキはわたしを見上げて、

「殺してくれるんだろう?」

 つまらなそうに言った。
 わたしは絵の中の世界に迷い込んでしまったような気がした。

「ツキは、それでいいの?」

 周囲の人々のことも忘れ、わたしがそう訊ねると、彼は嘲るように笑う。

「俺がそれを望んだんだ。構わないよ、全部」

「あなたがいなくなったら、わたしは……」

「……俺がいなくなったら、なんだ?」

 その続きは、わたしには言えなかった。続きが、分からなかった。
 ツキがいなくなったら、わたしはどうなるのだろう。
 


「どうしてわたしが、ツキを殺さなきゃいけないの?」

 まずいと思ったけれど、そう言わずにはいられなかった。
 檀上に集う視線。わたしを見張る何人かの人々。手に握った拳銃。
 傘をさしたままのシラユキ。何もかもが、わたしを無視して動いている。

 人々はわたしに何も言わなかった。
 何かが致命的に狂ってしまっている気がした。

「ツキ、あなたはここを去って、生きるべきだと思う」

 わたしがそう言うと、彼は皮肉っぽく唇を歪めた。
 傍に立っていて、わたしの言葉が聞こえたはずなのに、村長も、誰も、何も言わなかった。
 まるで、わたしの言葉は口先だけだと言っているみたいだ。

「お前はどうするんだ?」

「……わたしのことは、そのあとで考える」

「駄目だね」
 
 とツキは言った。



「それじゃあ順番が逆だ。お前は選ばなくちゃいけないんだよ。俺を殺すか、俺を殺さないか」

「どうして?」

「順番だよ。順番が決まってるんだ」

「順番?」

「そう。お前が死ねば、俺も死ぬ。お前が生き延びれば、俺も生き延びる。
 より正確に言えば、お前が死んだからこそ俺が死に、お前が生き延びるからこそ俺も生き延びる。逆はない」

「どうして、そんなことに?」

「自分の胸に聞けよ」

 彼は無感情に言った。

 一瞬、雨に打たれるツキの姿が、視界の中でぼやけた気がした。
 ぼやけたツキの輪郭は、雨の飛沫に紛れながら、ひそかに線を揺らがせる。 
 錯覚だろう。ツキの姿が、わたし自身のように見えた。


「生き長らえるつもりがないなら、俺が生きるか死ぬかだって些細なことだ。
 いまさら俺が生き残るかどうかなんて気にしない。そうだろ。
 だってお前は、俺のことなんてどうでもいいと思ったからこそ、死のうとしたんだから。
 後のことなんてどうなったってかまわないって思ったから、ここに来たんだろう。
 だったら、お前は俺を殺したってかまわないはずだよ。俺が死ぬのは今じゃない。お前が死んだあとのことだ」

「……言っている意味が、分からないんだけど」

「分からなくていいよ」

 わたしは少しの間押し黙ってから、「どうでもよくなんかない」と言った。

「嘘だね」

「嘘じゃない」

「じゃあなぜ死のうとした?」

「それは……」

 口籠るわたしを、ツキは一瞥する。

「それとこれとは、関係ないでしょう?」

「冗談だろう?」

 雨音が続いている。地面の感触がふわふわとしている気がする。



 わたしは少し考えてから、彼の疑問に答えた。

「あなたの価値とか、世界そのものの価値とか、関係ないんだよ、ツキ。
 わたしはただ、わたしとして生きるのが嫌になったから、死んでしまいたいの。
 自分が上手くいかないから、死んでしまいたいの。もう、価値とは関係ないんだよ」

「そんなこと、俺が知るか」

 わたしの答えに対して即座にそう言い切ると、彼は促すように頭を揺すった。

「いずれにしたって順番は決まっている。お前が死ねば、俺は死ぬんだ」

 順番。
 わたしが死ねば、彼は死ぬ。
 その順番は決まっているのに、なぜ、わたしが彼を殺すことになるんだろう?
 
「なぜ、そんなことになるの?」

「嫌になったからだよ」

 わたしはそれ以上、何を言うべきなのか分からなかった。


 街の人々は、なにも言わない。
 わたしたちのやりとりなんてまるで聞いていないようだった。

「殺せよ」

 と彼は言った。

 わたしはしばらくの間、何も言わなかった。
 何度考えても、彼の言う理屈はおかしい。

 それなのになぜか、わたしは彼に真っ向から反論することができない。
 
「あなたに死んでほしくない」

「俺もお前に死んでほしくなかったな」

「わたしは……」



 わたしは溜め息をついた。
 そして、どうしてこんな馬鹿らしい会話を続けているんだろう、と不意に考えた。

 もういいじゃないか、とわたしは思う。こんな押し問答を続けて何になるのだ?
 もう理屈なんて知ったことか、とわたしは思った。

「ツキ、もういい」

「……何が?」

「あなたの意思は、もう関係ない。わたしはとにかく、あなたを現実に帰らせる」

「無理だよ」

「無理じゃない。順番だかなんだか知らないけど、わたしがそんなものに付き合う理由がない」

 不意に、辺りがざわめき始めるのを感じた。いまさらだ、とわたしは思った。

「つまり、俺に選択の余地はないのか?」

「わたしはあなたを殺さない」


「そうか。なるほどな」

 彼は考え込むような顔になった。静寂が辺りを包み込む。誰もなにも言わない。
 ただ雨が降り続いている。

 やがて彼は、笑い始めた。最初は震えのような小さな声。
 その声が段々と大きくなっていく。広場中に響くくらいに。

 そして彼は、はっきりとこう告げた。

「お前が俺の都合を知らないというなら、俺もお前の都合を気遣ってやる義理はない」

 戸惑うわたしに、ツキは、これまでにない晴れやかな表情で笑う。

「順番は変わらないんだよ。アヤメ。俺に選択の余地がないっていうなら、お前にも選択の余地はない」

 そう言って彼は、わたしの手首を掴んだ。

「俺を生かしたいなら、お前も生きるしかないんだよ。お前が死ねば、俺も死ぬからな」

 彼はわたしの腕を思い切り引っ張ってから捻り、背を向けさせると、腕の中にわたしを抱え込んだ。
 握っていた拳銃が強引に奪い取られる。彼はそれをわたしの耳の後ろに当てた。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。ツキが何をしようとしているのかも。 
 銃口の硬い感触が、冗談みたいに冷たかった。


 真っ先に声をあげたのは、少し離れた位置にいた村長だった。

「捕えろ!」

 という彼の叫びに、

「動けばこの女を撃つ」

 ツキは大きな声で答えた。その声は笑っているように聞こえた。
 わたしは背筋が凍るのを感じた。彼は村長の顔を見て続ける。

「嘘だと思っているな? でも俺は撃つ。お前らに捕まりそうになったら撃つ。
 お前らに捕まったら、俺は死んだも同然だからな。だとすれば、この女を撃ったって同じことだ」

 その声を聞いて、村人たちは動くのをやめた。誰もなにもできなかった。
 わたしは冷たい汗が流れるのを感じる。状況の変化に、ついていけない。

「そう心配するなよ。あんたらのたくらみを邪魔しようと思っているわけじゃない。 
 ただ、俺らは抜けさせてもらうだけだ。かまわないだろう?」

 広場を沈黙が支配した。誰もなにも言わなかった。
 雨の音が降り続いている。

 何か決定的なことが起こったのだと、わたしは遅れて気付いた。

つづく

ほう

アヤメの覚悟がことごとく潰されていってる…




 広場には武装した人々はほとんどいなかった。
 処刑人と思われる男の持っていた剣さえ、実際の武器としては扱えない、処刑専用のものだろう。
 
 大勢の人がいたけれど、その人々は単純な見物人でしかなかった。
 拳銃を持って人質をとったツキにとれる対策は、そう多くない。

 ましてや急な状況の変化に、ほとんどの人間は唖然としていた。
 
 人々が騒ぎ始めたのはわたしたちが丘に向かう道へ出たのと同じタイミングだった。
 広場で起こっただろうそのざわめきは、街を出るわたしたちのもとにも聞こえた。

 わたしは途中から必死になってツキの腕を振り払おうとした。
 彼はもう、わたしに銃口を向けてはいない。

 単純で物理的な力だけで、わたしを捕らえていた。

「どういうつもり?」

 とわたしは訊ねた。
 ツキは一度立ち止まり、それから窺うように広場の方を振り返る。




「出口はどこだ?」

 と彼は言った。

「手を離して」

「こんな世界、さっさと出るぞ」

「……離してってば!」

 まるで予想外の力に押しのけられたみたいに、ツキはわたしの手を離した。
 彼は古傷が痛んだような顔をする。実際に痛んだわけではないはずだ。
 わたしは彼に何もしていないんだから。

「……追手がすぐに来る。ここを離れよう」

 なおも、ツキは言う。わたしは彼に、はっきりとした敵意を抱いた。
 
「あなただけが行けばいい」

 とわたしは言った。声が震えている。怒りからだろうか。悲しみからだろうか。



「わたしはここでシラユキを待つ」

「……なあ、よく聞けよ、アヤメ」

 ツキは感情を抑え込もうとするような、静かな声で言った。
 彼はずぶ濡れだった。顔色はひどいものだ。
 
 このままここに突っ立っていたら、すぐに動けなくなってしまうだろう。
 
「俺はお前の都合なんてかえりみないって決めたんだよ」

「だったら、好きにすればいい」

「……そうかよ」

 彼はわたしの腕を掴んだ。強い力だった。骨が軋んだような気さえする。
 それからわたしの身体を引き寄せると、わたしの首筋に銃口を当てた。

「俺に従ってくれ。さもないと……」

「……さもないと、撃つの?」

 わたしは笑いそうになる。撃つわけがない。



「わたしを殺して困るのは、あなたの方でしょ?
 あなたはわたしに生きていてほしい。わたしが死ねば、あなたも死ぬ。
 わたしを殺してしまったら、あなたの目的は達成されない。だから、あなたは撃てない。
 わたしはわたしが死んだって、別に困らない。困るのはあなただけ」

 彼はわたしの瞳をじっと覗き込んだ。悲しそうな目をしていた。
 でも、それはそう見えるだけのことだ。彼はわたしのことなんてもうどうでもいいのだ。

「どうしてこんな世界に残ろうとするんだよ」

 ツキの言葉は、雨音の中に溶けていく。
 もう何も変わりようがない。わたしの心は決まってしまった。

 ツキのせい? きっと違う。
 ツキも、シラユキも、この世界も、現実も、すべて、わたしとは関係がない。
 わたしとは無関係に考え、思い、感じ、行動している。

 その積み重ねの果ての果てが、ここだっただけだ。

「少なくともここにはシラユキがいる。わたしはここで、彼女と一緒に暮らす」


「なんだよ、それ……」

 悲しげな声だった。でも、それだってそう聞こえるだけのことだ。

 彼はわたしの腕を引き、強引に歩き始めた。
 抵抗しようとしても、彼は離してくれない。
 わたしは振り払おうとするのをやめた。どうせ彼には、どこにも行きようがないのだ。
 
 彼は出口を知らない。わたしは出口に向かうつもりがない。

「シラユキは死んだんだよ、アヤメ。生き返ったりしない」

「この世界には、シラユキがいる」

「現実にはいない。土の下だ」

「だったら、現実なんていらない」
 
 とわたしは言った。

「わたしはここに残る」



 彼は表情を歪めたけれど、わたしにはもう、その表情が何を意味するのかも分からなかった。
 どんな感情なのかも、分からない。

 雨の雫が彼を打ち続ける。
 わたしにはどうしようもない。

 彼はそれでも、出口も分からないまま、歩き続ける。 

 丘の上へと、彼は足を動かす。でも、その先に何があるというんだろう。

「ツキ、離して」

 彼は返事をしなかった。

「わたしはシラユキのところに行く」

 それでも彼は離さない。
 わたしは泣きたくなってきた。

 なぜわたしたちがこんな話をしなければならないんだろう。
 ……それはきっと、わたしのせいなのだ。



「シラユキが死んだのは、俺だって悲しいよ」

 ツキはわたしの方を振り向かず、前を見て、歩き続ける。
 わたしの腕を引いたまま。

 わたしは引きずられるままに、足を動かし続けている。
 歩いているのではない。ただ引きずられているだけだ。

「でも、仕方ないじゃないか。俺だって悲しいけど、そういうもんだって受け入れるしかないだろ」

「だったら、わたしが死ぬのも受け入れて」

「アヤメ」

「あなただけ、生きればいい。わたしだって、それを望んでる」

 わたしはようやく、自分がどう考えているかを理解できた気がした。


 ツキを助けたい、と思った。
 でもわたしは、生きていたくなんてなかった。
 
 ツキには生きていてほしい。
 そう思って、自分のことはあとで考える、と棚上げにしていたつもりだった。
 
 でも、答えは決まっていたのだ。
 わたしはツキに生きていてほしいだけで、自分まで生き延びるつもりはなかった。

「なんでお前が死ななきゃいけないんだ」

 ツキはそう言った。そんなことはわたしにだって分からない。
 どうしてだろう?

 別に死にたいわけではないのだ。怖い気持ちだってある。
 でもそれ以上に、生きていたくない。もう全部やめにしたいのだ。



「お前の考えなんて知らない」
 
 自分に言い聞かせるみたいに、ツキは言った。

「俺がお前に生きていて欲しいんだよ。俺の勝手だ」

「本当に、勝手だよ」
 
 わたしは呆れたような気持ちだった。
 それと一緒に、わたしの中の決意のようなものが、かすかに揺らいだのも感じる。

 本当にそうできたらよかった。
 でも、わたしは逃げるのだ。

 苦しいのはもういやだ。
 つらいのももういやだ。

 情けないし、ふがいない。申し訳ないし、自分に酔っているのかもしれない。 
 でも、そんなことはもう関係ない。



「ツキ、あのね、仮に、あなたと一緒に現実に帰ったとしても……。
 たとえばわたしが今、ちょっとだけ前向きになって、もうちょっとだけがんばってみようって、そう思ったとしてもね。
 きっといつか、嫌になってしまうと思う。また同じことの繰り返しになると思うの」

「そんなの、分からない」

「わたしはここにいたい。だってここには苦しいことがないから。
 それにここには、シラユキだっているから、寂しくない。
 だから、わたしのことは、もう放っておいてほしいの」

「だったら、お前を苦しめるものなんて、俺が全部取り除いてやる。
 だから、現実に戻ろう。お前がいないと、俺は嫌だ」

「それなら、あなたもここに残ればいい」

「……アヤメ」

「それに、わたしを苦しめるものを取り除くって、いったいどうするの?
 わたしを苦しめる人を殺して、わたしを苦しめるものをなくして、それで本当にわたしの苦しみが消えると思う?」

 彼は背を向けたまま小さく頭を振った。坂の上に、わたしの身体が引きずられていく。


「この世界でずっと生きられるなら、たしかに幸せかもしれないな。
 でも、実際にはそうじゃない。この世界で作り上げられる永遠は偽物だろ。
 実際にずっと暮らせるわけじゃない。単に時間の流れが止まるだけだ。それを永遠と呼ぶだけだ」

「そうかもね」

 とわたしは言った。

「ただ生きてるのが嫌になっただけだったら、なんでこんな場所を作ったんだ?」

 わたしはその問いに答えようとして、ふと疑問に思う。

 ——なんでだろう?
 なぜ、わたしはこんな場所にやってきたのだろう。
 
 ……シラユキがいなくなったのが悲しかった。
 なくなってしまうなら、どんなに大事に思っても、意味なんてないと思った。
 だから……。



 思考が急に混乱しはじめる。
 
 おかしい、と思った。

 この街はわたしの望みを反映しているのだと誰かが言った。
 永遠を望んだから、雨が降り続くのだと。

 でも、わたしはなぜ、こんな永遠を望んだのだ?

 シラユキが、単にわたしに選択を迫るための"保険"でしかないとすれば……。
 この世界には、わたしにとって価値あるものは何もない。

 そんな形で永遠を手に入れて、いったい何になると言うんだろう。
 石ころがいくら壊れたところで、わたしは悲しくない。
 それと同じように、石ころがいつまで形を保っていようと、わたしには何の関係もない。

 この世界には、わたしにとって価値ある永遠がなくてはならない。
 そうでなければ成立しないはずなのだ。



 わたしが何も言わなくなったのを不審がってか、ツキが立ち止まり、振り返った。

 彼はなおもわたしの腕を引いていこうとしたけれど、わたしは動かない。

 どういうことだろう。

 この世界の"永遠"が価値を持つためには、この世界には、わたしにとって価値あるものがなくてはならない。
 それが在り続けなければならない。

 もし、それがあるとするならば、なんだろう?

 考えるまでもない。シラユキだ。
 わたしはシラユキとあの屋敷で暮らし続けることを望んでいる。

 何か、不安のようなものが頭をよぎった。
 シラユキ。

 そうだ。
 この世界においての価値をシラユキが担っているなら、どうしてシラユキが保険の役目を背負うのだろう。


 わたしは、現実において死を望んだ。そして、実際に死のうとした。
 その際、自分の願いを反映させたこの世界を作り上げた。
 
 死のうとした理由は、現実が苦しいことばかりだったから。
 楽しいことがあっても、いつか終わってしまうから。

 でも……。
 選択の余地を残したのは、どうしてだっけ。
"何かの拍子で、生きたいと思うかも知れないから"?

 ……でも、それはおかしい。順番がおかしい。

 この世界を最初から確定した形で作ってしまえば、「何かの拍子」なんて起こらないのだ。
 そして、本当に素朴な意味でわたしの願いを反映するなら、最初から確定された世界ができあがるはずだ。

 だとすれば——。


「ねえ、ツキ」

 自分でもよくわからない不安に支配されて、わたしは彼に問いかけた。

「どうして、シラユキはわたしたちを追ってこないんだろう」

 彼は怪訝な顔をした。

「お前を撃たれたら困るから、じゃないのか」

「……シラユキは、あなたが撃つはずがないことを知っているはずでしょう?」

 彼は少し考え込む。わたしは自分の心がこんなにも揺れ動く理由が分からなかった。

「俺が暴走して、お前を殺しかねないと思ったのかもしれない」

 そうかもしれない。でも、本当にそうなのだろうか?

「何が言いたいんだ?」

 自分でも、何がこんなに引っかかっているのかは分からない。
 シラユキは、何を考えているんだろう。

つづく

おつ

明日は投下できません




 黙り込んでいると、ツキは街の方を振り向いて、焦ったような顔になった。
 振り返ると、街の人々が何人か連れ立ってこちらに向かってきているようだ。

 まだ遠いけれど、ここまで追ってくるのにそう時間はかからないだろう。

 彼らが手に持っているのは鎌や熊手のような農具ばかりだった。
 街に武器はないのだとわたしは思った。
 
 本来この街に外敵はいないのだろう。

「急ぐぞ」

 ツキはそう言って、またわたしの腕を引いた。わたしは抵抗しなかった。
 その抵抗のなさを不審に思ったのだろうか。

 彼はわたしの方を振り向いた。
 
「どうした?」

 どうしたんだろう。自分でもよく分からない。



 どうしてこんなことになったんだろう?
 
 わたしはここに来ることで救われるはずなのに、何もかもが致命的に狂ってしまっている。
 これでは現実に生きるのと変わらない。

 ツキはわたしの腕を引いて歩き始める。出口も知らないはずなのに、彼はどこを目指して歩いているんだろう。
 わたしたちは森の中へと向かっていく。森の奥の奥の方へ。

 隠れるには都合のいい場所だけれど、そこで何かが生まれるわけでもなかった。

 きっと何かの拍子で、どこかの歯車が狂ってしまったのだ。
 その小さな狂いがいろんなものを動かしてしまった。その結果がここなのだろう。

 わたしはシラユキとここで暮らせればそれでよかった。
 そして彼女の方は、きっとそれを望んでいない。

 わたしに選ばせるようなことを言っておきながら、彼女は自分の満足のいく答えが出るまで、問いを繰り返し続けている。



 シラユキと話がしたかった。
 どういうことなのか説明してほしかった。

 ツキはわたしを現実に帰らせようとしている。わたしは帰りたくない。
 だからわたしは、彼に出口を教えるわけにはいかない。

 出口が分からなければ、彼はこの森の中をさまよい続けるしかない。
 そうなれば下界の人々に見つかるのも時間の問題だ。今度こそ、本当に殺されてしまうだろう。
 
 シラユキと会って、説明をつけくわえてもらったとしても、結果は変わらない気がした。

 なんだか、何もかもが疑わしい。
 いろんなものが馬鹿らしかった。
 


 もういいか、とわたしは思った。
 無理して考えたりしなくたっていい。もう事態はわたしの手には負えない。

 唯一、ツキのことだけはどうにかできるかもしれないと思ったけど、それだってこのありさまだ。
 
 わたしの考えとは無関係のところで、いろんなことは廻っていくのだ。
 この世界でも、現実でも、何も変わらない。わたしがどうしたところで変わらないのだ。

 全部やめにしてしまってもいいじゃないか。誰も困らない。
 いや、誰かが困ったとしても関係ないのだ。

 シラユキだって、何を考えているのか分からない。

 ……本当に?
 
 ふと、わたしの腕を引くツキのことを考えた。

 彼はどうしてここに来たんだろう。
 それを、どうしてか不思議に思った。



 考え始めると、彼がこの場所にいるのはとても不思議なことのように思えた。
 どうやってここに来たのか。どうしてここに来たのか。
 
 なんだか、とても不思議なことに思えた。
 
「ツキ」
 
 とわたしは呼びかけてみた。呼びかけてみると、なんだか不思議な気持ちになった。
 よくわからない感情が心を波立たせた。
 木々が雨に打たれる音が、響いている。

「なに?」

 彼はすぐに振り向いた。

「あなたは、どうしてここに来たの?」



 ツキは怪訝そうな顔になる。わたしは少し不安になった。
 わたしはまた変なことを言ってしまったのだろうか。
 そんなふうに不安に思うことを、ずっと続けてきたような気がする。
 
 それももう、終わらせてしまえるのだけれど。

「言わなかったっけ?」

「……どうだったかな」

 そもそも、彼から聞いた話を、わたしはほとんど思い出せなかった。
 彼は困ったような顔をした。
 
 やがて何かを諦めたような顔をして、前を向く。
 それから話を始めた。

「何度も言ったよ。俺はお前に生きていてほしいんだ」



「聞いてもいい?」

「なに?」

「どうして?」

「……どうしてって、それは、どうして生きていてほしいかってこと?」

「……うん」

 彼は溜め息をついた。

「そんなの知るかよ」

 わたしは何も言えなかった。


 しばらく、わたしたちは黙り込んだまま歩いた。
 彼はわたしの腕を引いたままで、雨は降ったままで、なにも変わっていなかった。

 世界がこの場所だけで完結しているような気がした。
 外側なんてどこにもなくて、この森の他には世界なんてないような、そんな気がした。
 
 そんなのはわたしの錯覚でしかなく、世界はわたしの意思とは無関係に動いている。

 でも、今、わたしはたしかにそんなふうに感じたのだ。

 木々が雨に打たれる音。土の感触。雨の匂い。
 他には何もないような気がした。
 
「……違うよな」

 不意に、彼は前を向いたまま、自分に言い聞かせるような調子で言った。

「違うんだよな。分かってるんだよ。なんでお前に生きていてほしいのか。
 ちゃんと言葉にだってできる。本当はもっと早く言うべきだったんだろうな」



 ふと立ち止まったかと思うと、彼はわたしを振り向いた。
 右手で拳銃を握り、左手でわたしの腕を握っている。
 
 傘もささず、雨に濡れたまま。

「俺はお前のことが好きなんだよ。だからお前がいなくなったら悲しい。
 勝手な話かもしれないけど、お前に生きていてほしい。
 だから俺はこんなところまで来たんだと思う」

 なぜだろう。
 彼の表情が、シラユキのそれと重なった。

「本当は分かってるんだよ。このままじゃ、帰ったって意味なんてないって。
 強引に連れ帰ったって、結局同じことの繰り返しなんだって。お前が納得しないといけないんだって。 
 だからって、なにもせずにはいられないんだよ。このままじゃ、俺まで世界を嫌いになりそうなんだ」

 ずぶ濡れで立っている彼の姿は、雨の日の捨て猫みたいに見えた。


「ツキは帰らなきゃだめだよ」

 とわたしは言った。

「おじさんも、おばさんも、いい人だもん。悲しませちゃだめだよ」

 ツキは苦しそうな顔をした。

 わたしは自分の感情がうまく整理できなかった。
 さっき、ツキのことなんてどうでもいいって思ったのに、彼に死なれるのは、やっぱり少し悲しい。 

 わたしの気持ちはどこにあるんだろう。

 別に何かがわたしの思考を邪魔しているわけでもない。
 記憶だって、もうほとんど取り戻している。



 でも、そういうことではないのだ。
 そういうこととは無関係に、わたしの思考は、まだ正直じゃない。

 だからこんなに混乱しているんだろう。

「うちの両親は、お前が死んだって悲しむよ。そう思うなら、死なないでくれよ。俺だって、悲しいよ」

「……うん」

 不意に腕に痛みが走った。ツキがわたしの腕を握っていた手に力を込めた。
 ものすごく強い力というわけではない。
 ものすごく痛いというわけではない。
 力を込めたといっても、ささやかなものだ。
 
「ごめんね」

 でも、そうされるのは痛かった。
 痛みを訴えようかとも思った。「痛いよ」と言おうかとも思った。
 どうしてかはわからないけれど、たったそれだけの言葉が、すごく身勝手なものに感じた。



 わたしの頭が混乱しているのと同じくらい、ツキの行動だって混乱している。
 
 いろんなことが、よく分からない。
 どうするのが最善なんだろう。
 
 わたしはこの状況をどうにかしたいと思っているんだろうか。
 
 自分の気持ちがうまく掴めなかった。
 ツキがつらそうな目でわたしを見ていた。

 わたしはそれに何も言えない。

 ——不意に、物音が聞こえた。がさりという生き物の気配。

 わたしとツキは、慌てて物音のした方へと目を向ける。

 草むらから、猫が顔を出していた。


つづく

乙です。辛いな。




 猫は飛び跳ねるようにしてわたしとツキの目の前にやってきた。
 それから素っ気ない態度で前を向いたかと思うと、前方の木々の隙間を進んでいく。

 ツキはしばらくの間、あっけにとられたようにしてその後ろ姿を見つめていた。

 猫は少し歩いたかと思うと、追いかけて来いと言うように首だけでこちらを振り返る。

 どうしようか、わたしは迷った。
 もういいじゃないか、と、そう思った。でも、ツキは歩き始めてしまった。
 腕を引かれれば、わたしも歩くしかない。抵抗するのも面倒だった。

 猫はわたしたちがついてくることが分かると、すぐに歩くのを再開した。


 何か悪い冗談みたいだった。
 実は夢でも見ているのかもしれない。
 
 目を覚ましたら、わたしはごく当たり前にシラユキと屋敷で生活しているのかもしれない。
 
 ツキの存在も、この世界のルールも、ぜんぶがぜんぶ夢なんじゃないか。
 その方がよっぽど理屈が合う気がした。

 雨は降り続いている。
 ツキはずぶ濡れのままわたしの腕を掴んでいた。

 景色にはまったく変化がない。どこまでいっても、ずっと同じような風景。
 焼き増しされたように同じだ。

 ツキに訊きたいことがあったような気がした。
 
 下界の住人に見つかる前までは、わたしが死んでも生きていくと言っていた。
 森の中で会ったときは、もうどうでもいいと言っていた。
 街の中で会ったときは、わたしが死んだら自分も死ぬ、と言った。お前が俺の都合を考えないなら、俺もお前の都合は考えない、と。

 でも、さっきは、本当は無意味だと分かっている、と言った。

 よくわからない。
 ツキ自身にもよく分かっていないのかもしれない。



「……ツキ?」

 呼びかけてみたけれど、彼は返事をしなかった。
 わたしは何か、彼の機嫌を損ねるようなことをしてしまっただろうか。
 心当たりは山ほどあった。

 そもそも、わたしに早々に愛想を尽かして、ほったらかしにしていかないこの状況自体、奇跡のようなことなのだ。
 
 わたしは途端に怖くなった。怖くなってから、どうして怖いと思うんだろうと考える。
 彼にどう思われても、もう、構わないはずじゃなかったのか。

 けれど、そんなことを考えている状況ではなくなってしまった。

 わたしの腕をとらえていたツキの手のひらから、不意に力が抜けた。ふらりと、彼の体が傾いた。
 咄嗟に体を受け止めると、彼は真っ青な顔で荒い呼吸をしていた。
 ほとんど足に力が入らないらしく、彼はわたしの体にもたれかかった。

 朝からずっと、雨の降り続く森の中を身ひとつで逃げ回っていたのだ。傘もささず。
 そしてずぶ濡れのまま捕らえられて、ようやくそこから逃げ出してきた。
 
 猫を追いかけはじめてから、しばらく経つ。
 木々のせいで地面は荒れているし、雨でぬかるんでいる。体力は余計に消耗する。

 今までだって、決して平気そうにしていたわけじゃなかった。



「大丈夫?」 

 訊ねてから、心底自分が嫌になった。
 大丈夫なわけがないのだ。

 ツキをこんな場所に追いやったのも、ツキがこんなことになったのも、全部わたしのせいなのだ。

 そしてそれは、わたしが認めたことでもある。

 自分が苦しみから逃れるためなら、ツキがどんな思いをしたって構わないと、そう思ったから、わたしはここにいるのだ。

「……大丈夫。ちょっとふらついただけだよ」

 言葉は強がっていたけれど、声はひどく弱々しい。
 
「心配するな」

 彼はそう言い切って、自分の足で立とうとする。
 心配する資格だって、わたしにはないような気がした。
 
「……ごめんなさい」

 わたしが謝ると、彼はきょとんとした顔になった。
 それから困ったように笑い、空いた左手でわたしの頭を撫でた。
 レインコートのフード越しで、その感触はほとんど伝わってこなかった。

 急に胸が詰まって、わたしは泣いてしまいそうになる。
 でもそれだって、わたしの身勝手だ。



 わたしは、ツキがこんな場所までやってくるとは思っていなかった。
 シラユキが死んだときだって、彼は確かに悲しんでいたけれど、ちゃんと起こったことを受け入れていた。

 だからわたしが死んだところで、最初は少し悲しかったとしても、少し怒ったとしても、すぐに慣れてしまうだろうと思った。
 わたしのいない世界に、すぐに溶け込んでいくのだろうと、勝手に思っていた。

「……どうして、こんなところまで来たの?」

 ふたたび猫を追いかけ始めた彼の背中に、わたしは気付けばそう投げかけていた。
 彼は呆れたように溜め息をついて、仕方なさそうに笑う。
 
「その質問の答えは、もう言った」

 それから彼はもう一度わたしの腕を掴んだ。
 わたしはなんだかすごく混乱していた。
 
 さっきまでしていた会話の内容の実感が、遅れてやってくる。
 怖さとか、疑念とか、後ろめたさとか、そういうものと一緒に、気恥ずかしさみたいなものまで。
 


「嘘だよ、そんなの」

 混乱した頭のまま、わたしは言った。

「何が?」

「だってわたしは、ツキに何もしてない。嫌われる心当たりはあっても、好かれる覚えなんてない」

「……ああ、いや。そのことか」

 彼はまた困った顔をした。それから少し、呆れたみたいだった。

「好かれる覚えはないって、すごい言い草だな」
 
 彼は自分で言った言葉に少しだけ笑った。

「ツキが苦しい思いをしてるのだって、わたしのせいでしょ?
 嫌にならないの? わたしのせいだってなじらないの? なんでそんなふうに、笑っていられるの?」

 大真面目に訊ねたつもりだった。

「……惚れた弱みかなあ」

「からかわないで」

「からかってるつもりはない」



 わたしはまた泣き出したい気持ちになる。

「……どうしてそんなに、平然としてるの?」

「平然としてないから、ここにいるんだ」

「そうじゃなくて……もっとわたしを、責めたり、したいんじゃないの?」
 
「それは、まあ、そうかもな。どんな理由があったって、置いていかれる方からしたら冗談じゃないって思うよ」
 
 言葉を選ぶように慎重な様子で、彼は言った。

「でも、そんなのはこっちの都合であって、結局お前に何もできなかったのは俺も一緒だから。
 だからそんなに簡単に責めたりはできない。お前のことを何にも知らない赤の他人だったら、責めてたかもしれないけど。 
 それに、ここでお前のことを責めたりしたら、それこそ死んじまいそうだ」

 結局、わたしは抵抗できていなかったのだな、と思う。
 
 ツキを苦しめることに対して後ろめたさが沸くということは、責めてほしいと思うということは、結局そういうことだ。
 ツキが責めてくれれば、わたしは迷わずに、後ろめたさもなく、いなくなれるから。
 
 後ろめたさが沸くということは、結局、ツキのことをどうでもいいと思えなかったということだ。
 ツキがわたしのせいで悲しむのはつらい。



 覚束ない足取りで、ツキは猫を追い続ける。
 わたしは腕を引かれたまま、どうすることもできない。

 ひょっとしたら、このツキも、わたしに都合のいい妄想のようなものなのかもしれない。
 現実のツキは死に瀕するわたしの隣で、どうでもよさそうにあくびをしているかもしれない。

 ……彼はそんな人ではない、と、心の中で誰かが言った。それだって、わたしの中のイメージがそうというだけだ。

 このツキが、「わたしにとって都合のいい」妄想のようだと言えるなら。
 結局わたしは、こんなふうに言われることを望んでいるということになるのだろうか。
 
 そうだとしたら、すごく、滑稽な話だ。

 それでも。
 そんなふうに言ってもらえたとしても、やっぱりわたしは、あの日々に戻ることが怖い。
 みんなの視線も、母親の表情も、何より自分が浮かべる愛想笑いも、これからずっと続くのかと思うと、怖い。

 ツキはもう何も言わなかったし、わたしも訊ねるべき疑問を持っていなかった。
 ツキの荒い呼吸が、ふらついた足取りが、わたしを不安にさせた。



 やがて、前を猫は立ち止まった。

 代わり映えのしない森の中。さっきまで歩いてきた景色と、何も変わらない。そんな場所だ。
 
 わたしたちが追いつくと、猫はあっというまに木々の隙間を走っていった。
 追いかけることもできないような速さだった。

 ツキはしばらく猫の走っていったほうを見つめていたが、やがて疲れ切ったように近くの木にもたれかかった。

 わたしがあわてて駆け寄ると、彼は変なものでも見たような顔をする。

 自分が何かを持っていないか、確認しようとしたけれど、何も持っていなかった。
 荷物は全部、シラユキが持っていたのだ。

 今度こそ本当に泣いてしまうかと思った。どうしてわたしはこんなに役に立たないんだろう。
 呼吸すらも苦しそうで、表情は疲れ切っていて、体を起こしているのもつらそうだった。

 わたしのせいでそんな思いをしている人に、わたしは何もできずにいるのだ。

 そのとき、

「……大丈夫ですか?」
 
 と、声が聞こえた。

 すぐそばに、シラユキが立っていた。

つづく

シラユキは何を考えているんだ……?

乙、冥土




 木の根本に腰を下ろしたツキに近づいて、シラユキは自らの傘を差し出した。
 そして鞄の中から大きめの乾いた布を取り出し、ツキに渡す。

 布を受け取った彼は、自分の体を念入りに拭き始める。
 ツキが上半身にまとっていたシャツを脱ぎ、布で体を拭いている間に、シラユキはわたしの方を見た。

 その一連の流れを、わたしは何も言えずに見守っていた。

 シラユキは傘をツキの肩に掛けるように置いた。
 二本目の傘は持っていないようだった。

「いくつか、謝らなければならないことがあります」

 とシラユキは言った。

「謝らなければならないこと?」

「わたしがあなたにした、この世界についての説明には、少し嘘がありました」

「……嘘?」

 シラユキが、わたしに、嘘をついた?


 わたしは少し戸惑った。
 隠し事をしているとか言い忘れていたことがあるとか、そういうことなら、別に驚かない。
 でも、シラユキがわたしに嘘をつくなんてことを、わたしは想像すらもしていなかった。

 想像していたとしても、どこか実感のわかない空想のようなものとして扱っていた。

「驚くのも、無理はないと思います。シラユキは、本当は嘘をつきませんから」

「……どういう意味?」

 違和感。
“わたしは”ではなく、“シラユキは”、と彼女は言った。

 どこから説明すればいいかわからない、というふうに、彼女は眉を寄せた。
 木々は奇妙な静けさをまとっているのに、雨の音がいやにうるさかった。

「まず最初に、ツキが処刑されかけたときのことです。
 侵入者がとらえられたあと、処刑されるタイミングというのは、下界の規則で決まっているんです。
 わたしは、わざとツキの処刑が行われる少し前に広場に着くように、準備に掛かる時間を調整していました」

「……わざと時間を掛けていたってこと?」

「はい。もちろん、ぎりぎりにならないようにしましたが」

 それじゃあ、何かのアクシデントが起こってわたしたちの到着が遅れたり、処刑の時間が早まっていたら……。


「何のために、そんなことをしたの?」

「いくつか理由があります。まず、捕らえられた状態からツキを直接救出しようとしたら、結構な労力が掛かるからです。
 ツキを助けようと思うなら、一番都合のいい状態は、ツキが処刑される直前だったんです。
 多少不安点もありましたが、むしろ街の人たちの用心のなさに救われた形ですね。結果的には、予想以上に容易でした」

 それは、わたしも感じた。
 いくら抵抗がなかったとはいえ、ツキを縛ったりもせず、また周囲に武器を持った人間を控えさせたりもしていなかった。
 
「今回のような事態は初めてだったはずですし、普段は荒事などない街ですから、仕方のないことだとも言えます。
 この街では罪を犯す人間がいませんし、争いごとも起こりませんから、そうした想像が回らなかったんでしょうね。
 彼らの頭の中にあったのは、余計な人間は殺すという、ただそれだけだったのだと思います。それを規則通りにこなすだけです」

「……質問の答えになってないと思う」

 シラユキは笑った。

「そうですね。本当なら、今言ったことはあらかじめ説明しておいてもよかったんです。
 でも、どこまで教えていいのか、判断がつかなかったものですから。
 それで、どうしてわたしが、わざとあのタイミングで広場に着くようにしたかというと、ですね」

 彼女はそこで、少し言いにくそうにした。それからツキの方をちらりと見やる。
 彼女の体が雨に濡れていく。

「あなたに、ツキの処刑を見せたかったからです」



 わたしは息を呑んだ。
 急に、目の前の少女が、得体の知れない怪物のように見えた。

「それは、ツキが殺される瞬間を、ということ?」

「……え?」

 わたしの疑問に、彼女はきょとんとした顔をする。

「あ、ちがいます、ちがいます。そうではなくて……。今の言い方だと、たしかにそう聞こえたかもしれませんが」

 彼女は苦笑する。わたしは少しほっとした。
 
「ツキの処刑に対して、あなたがどんな反応を見せるか、確認したかったんです」

「……同じに、聞こえるんだけど?」

「えっと、つまり、あなたがツキを助けたいと思うかどうか、確認したかったんです」

「わたしはずっと、ツキを助けたいって言ってたよね?」

「はい。口先では」

 毒のない笑みを浮かべるシラユキに、わたしは内心ぎくりとした。



「ツキを助けたい、とは思っていたかもしれません。
 でも、ツキを助けるために自分も生き延びる、とまでは考えていなかったように思います。
 あのときも言ったと思いますが、それではツキを助けることはできません」

「……なぜ?」

「順番が決まっていますから」

 ツキも同じことを言っていた。……だとすると、ツキはシラユキからこの話を聞いていたのだろうか。
 いや、そうではないような気がする。

 なぜかは分からないけれど、ツキとシラユキは、完全に互いの思惑を把握しきってはいない、と感じる。
 もし把握できていたなら、もっと他に手段があったはずなのだ。

「あなたが死ねば、ツキも死にます。これはこの世界においての話ではありません。
 現実においての話です。あなたが死んだ結果、ツキも死にます。
 別に、あなたの死を苦にしてツキが自殺するというわけじゃありません。
 もしかしたらそういう結果もあるかもしれませんが、あなたの死がツキの未来に強い影響を与えるわけです」

 シラユキはそこで言葉を一度詰まらせて、ツキの様子を見た。
 彼は何も言わず、ただ呼吸を整えている。


「あなたが死に傾けば傾くほど、ツキもわたしも、そうした結果を想像することができました。
 擬似的に未来を感じ取ることができたわけです。あなたが死んだ結果として、ツキは死に蝕まれる。
 そうである以上、“あなたの死の影響”からツキを助けるには、あなたが死なない以外に方法はないんです」

 ……よく、分からなかった。
 分からなかったけれど、なんとなく、彼女がひとつの結論を示唆していることは伝わってくる。

「あなたがその決断を下すのかどうか、確認したかったんです。
 だからあえてあのタイミングで広場に向かった。結局あなたは、自分の死を覆す気にはならなかったようですけど」

 そうだ。
 あのときわたしは、自分の死はそのままに、ツキの生を確定させようとした。

「その後のツキの行動は、ちょっと予想外でしたね。あんなことをする体力が残っているとは思っていませんでした。
 それにさっきも言いましたけど……住人たちの警戒の薄さが、あんなことを可能にさせたんだと思います。
 まして、あなたが直接ツキを処刑する立場になるとは、正直思っていませんでした」

 内心どきどきしていましたよ、と、シラユキは平然とした様子で言う。

「ひょっとしたら、あなたがツキを殺しちゃうんじゃないかって思いました」

 冗談には、聞こえない。


「結果そうはならなかったのは、救いでしたね。
 でもあの段階で、どうすればいいのか、さらに分からなくなりました。
 ツキの死を見過ごすのか、見過ごさず自分も生きるのか、二択を迫ったつもりだったんです。
 あなたはどちらも選ばなかったから。わたしが上手く説明できなかったのも、悪かったんでしょうけど」

 それに、と彼女はツキを睨んだ。

「あんな逃げ方をされたものですから、荷物なんかもわたしが持ちっぱなしでしたし……」

「最初から、わたしに持たせていればよかったんじゃ……」

「多少なら、あなたに持たせてもよかったんですけど、すべてを預けるわけにはいきませんでした」

「なぜ?」

 訊ねると、彼女は肩にさげた鞄を慎重にのぞき込み、底の方から何かを取り出した。
 布に包まれた、棒状のもの。彼女は布をゆっくりとほどいていく。

 出てきたのは、包丁だった。

「いざというときは、これを使おうと思っていたんです」

「……ずいぶん、物騒だね」

「拳銃よりは穏やかだと思います。どのような状況になっても、これさえあればどうにでもなると思っていました」

 何か、怖いことを言っている。
 


「誤解のないように言っておきますが、包丁を振り回して暴れるつもりはありませんでしたよ。
 ただ、仮にあなたが生きようと思っても、そう思わなくても、ツキを助ける必要があったんです。
 わたしにとってはあなただけでなく、ツキも死なせるわけにはいかない存在ですから」

「……じゃあ、何に使うの? それは」

 彼女は平然と、自らの首筋に刃を当てた。

「わたしも一応、この世界の住人ですから。わたしがこうするだけで、人々は手を出せません。
 あの場から逃げるとき、本当はこの手段を用いるつもりでした。
 だからある程度、他の住人たちとは距離をとってもいたんです」

 結果的には、ツキにその役目を奪われてしまいましたが。シラユキはそう苦笑した。
 それから彼女は、少しのあいだ考え込んだ。

 何を説明するべきか、分からなくなってしまったのかもしれない。
 わたしはツキの様子を見る。さっきまでより、顔色が悪くなっているような気がした。
 もしくは、よくなっているのかもしれない。よく分からない。判断がつかない。


 やがてシラユキは、真剣な顔で小さく頷いた。自分を納得させようとしているみたいに見えた。

「ここまで話したのは、もう本当に、どうしようもない状況になってしまったからです」

「……どうしようもない状況、って、どういうこと?」

「ツキは、あなたの意思とは無関係に、あなたを現実に帰らせようとしています。
 わたしは、ツキにも生き延びてほしい。ですから、ツキに出口を教えるしかありません。
 ……でも、もしあなたがこの世界に残るというのなら、ツキには一人で帰ってもらおうと思います」

 ……つまり、何かの決着をつけないとならない状況まで来てしまった、という意味だろうか。
 たしかにツキが取った行動を考えれば、何かの形で結論は出さなければならない。
 もう、何事もなかったように平然と三人での生活を続けることは不可能だ。

 シラユキは、何かを言いたげな表情をした。
 
「……どうしたの?」

 彼女は戸惑っているようだった。何かを言いたいのだけれど、うまく言葉にできないというように。
 でも結局、諦めたように口を開く。


「まだ、隠してることがあるんです。
 本当はまだ言いたくないんですけど、言わないとフェアじゃないような気がして……。
 でも、これを言ったら、あなたは騙されたと思うかもしれない」

 シラユキが隠していること。うまく想像できない。
 でも、それはたぶん本当なのだろう。

「わたしは、厳密には、この世界に生まれたシラユキではありません」

「……どういう意味?」

「わたしは、すべての判断をあなたに任せるような言い方をしてきました。
 あなたが決めたことに従うと、そういう言い回しを何度もしてきたと思います。
“シラユキ”は本来、そうした中立的な立場だったはずなんです。
 でも、“わたし”は違います。“わたし”は明確に、あなたが生き延びることを望んでいます」

 言葉の意味がうまくつかみ取れなかった。

「本来、シラユキという人格は、わたしとは別の形で生まれるはずでした。
 より単純化されたひとつの機能として。でも、その“シラユキ”の体に、“わたし”の人格が割り込んだんです。
 ですからわたしは、厳密に言えばメイドの“シラユキ”ではありません」


「……わたしが知っているシラユキは、あなただけど。でも、それなら、あなたは誰なの?」

「それについても、シラユキ、と言うほかありません」

「待って。何が言いたいのか、よく分からないんだけど」

「わたしはあなたがこの世界に逃げ込もうとしていることに気付き、その邪魔立てをするためにここに来たんです。
 その際、あなたが“シラユキ”という名前の住人を作り出そうとしていることに気付いた。
 ですから、その人物の人格として、わたしは紛れ込んだんです。そして、この世界に隙間を作った。
 その隙間が出口であり、ツキがこの世界にやってくるときに通った入り口でもある」

 彼女の言葉に、実感を伴った感想を抱くことができなかった。
 ただなんとなく、言葉として聞き流すことしかできない。

「本来ならこの世界は、作り上げられた段階で完成していたんです。
“保険”なんて、最初はありませんでした。わたしはそこに紛れ込むことで、結論を一度保留させたんです。
 そして、あなたが選択するための猶予期間を強引に作り出した。
 つまり……猶予なんて最初はなかったんです。ツキがこの世界にやってくるだけの隙間も。 
 わたしは、あなたが結論を変えてくれるようにと、ずっと働きかけていたんです。その猶予期間を、ずっと引き延ばしていたんです」



537-1 前を猫は → 猫は

つづく

なんと
シラユキが世界に綻びを作っていたのか
なら尚更シラユキの正体が気になるな




 シラユキの話をそこまで聞いたとき、頭に鈍い痛みを覚えはじめた。
 ツキはまだ座り込んでいる。シラユキは雨に打たれている。
 
 話の続きはないらしい。

 
 どうしよう、とわたしは思った。 
 わたしが何かを言わなければならないのだろうか。

 何かをしないといけないのだろうか。

 よくわからなかった。どうすればいいのか。
 ツキも、シラユキも、わたしに何かを求めているみたいだった。
 何か、というより、結論を。

 でも、どうすればいいんだろう。その判断がいまだにつかない。



 ……なんとなく、分かった。
 今の今まで、ずっと、わたしは茶番を演じているような気分のままだった。
 行動の一つ一つにも、出来事の一つ一つにも、現実感のようなものがまるで伴っていない。
 
 その理由が、ようやく分かった。
 
「ねえ、シラユキ」

 シラユキは意外そうな顔をして首を傾げる。続きを促しているようだった。

「本当はね、世界の成り立ちとか、シラユキがどういう存在かとか、わたし、どうでもいいの」

 彼女はきょとんとした顔をする。

「本当に気になっているのは……わたしがどうするべきなのかってこと。
 ここが現実じゃないって分かったときから、ずっと、考えてた。
 じゃあ、わたしは、どうすればいいのかって。それ以外のことは、本当はどうでもいいんだ」

 わたしの言葉に、シラユキは何を言っていいのか分からないという顔をした。

 思えば彼女も、随分混乱していたのだろう。
 何処まで話して良いかも分からず、どうすればわたしを望み通りにできるのかも分からず。
 でも、そんなことはもうどうだっていいのだ。



 とにかく、問題は……わたしがどうするか、という一点に尽きる。
 
「ねえ、シラユキ。わたしはどうすればいいんだろう?」

 そう訊ねてみた。彼女は悲しげに首を振るばかりだった。
 それはそうなのだろう。心細いような気持ちが、雨の中でふくらんでいく。

 傍に誰もいないような気さえした。

 わたしの表情が曇ったことに気付いてか、シラユキは再び口を開いた。

「……とても一方的な話になりますけど」

 雨に濡れて、彼女の髪は静かにきらめいて見えた。

「この世界に猶予を生んだのがわたしだということは、あなたを戸惑わせているのも、わたしということです。
 わたしは、あなたがした決断を保留にさせ、あなたを迷わせるために行動してきたんです。
 ですから、どうすればいいかと聞かれれば、わたしの答えはひとつしかありません」

 そうなんだろうな、とわたしは思った。 
 何かを考えるべきなんだろう。でも、何を考えればいいのか、分からない。



「ここを出て、もう一度、生きてみる気にはなれませんか」

 とシラユキは言った。
 彼女はそう言うだろうな。そんなのは分かっていたことだった。

「やめてしまいたい気持ちも、分かるんです、なんて言ったら、安っぽいかもしれませんけど。
 でも、ツキを悲しませてしまうことを、少しでも心苦しく思うなら……。
 少しでも、気がかりなことがあるなら、もう少しだけ、続けてみませんか」

 たしかに、ツキがどうなってしまうのかは、わたしにとっては気がかりな問題だった。
 そういう説得の仕方は、たしかに正しい。

「単なる気まぐれでも、構わないんです。もう少しだけ続けてみませんか。
 結果はまったく変わらないかもしれない。でもひょっとしたら、何かが起こって、根本的な転換のようなものが起こるかもしれない。
 抜本的な解決のようなものが、あらわれるかもしれない。それを期待してみるのも、悪くはないと思うんです」

 そう、確かに彼女の言う通り。悪くない。そう。悪くない。
 そう思える。でも……なぜだろう?
 ちっともその気になれないのは。


「とにかく生きてみて、それでも結果、なにひとつ変わらなかったら、何の解決も訪れなかったら……。
 そのときは、わたしのことを恨んでくれてもかまいません。とにかく、もう一度生きてみませんか。
 わたしが言いたかったのは、ずっとそれだけなんです。あなたに、もう少しだけ続けてみようと、思って欲しかったんです」

 だとすれば、彼女はそれに失敗したのかもしれない。
 どうなのだろう? よくわからなかった。
 
 今、シラユキはすべてを明かしたのだろう。
 たぶん本当のことを言っている。
 いままで隠してきたのは、わたしを上手に誘導できている自信がなかったからだろうか。
 
 自分でも不可解なほど、わたしの気持ちは透き通っている。
 凍り付いていると言い換えてもいい。何も反射していない。
 奇妙なほど、わたしの気持ちは透明だった。

 シラユキの言うことも悪くないかな、と思った。
 そう。試すような気軽さで、もう一度生きてみるのも。
 彼女の言うように、ひょっとしたら何もかもが簡単に解決するような結果が生まれるかもしれない。

 もしそうならなかったとしたら、そのときは彼女を恨めばいいだけだ。
 とても簡単なことだ。今までどうして気付かなかったんだと、疑問に思うくらいに。



 なんだかおなかが空いていた。最後に何かを食べたのはいつだったっけ。
 朝からずっと、時間の流れが遅くて早い。

 どうしてだろう。

 自分が今までやってきたこと、自分が過ごしてきた時間。 
 そういうものがまるまる全部、消えてなくなってしまったような喪失感があった。

 なぜだろう?

 たぶん、わたしは、シラユキに裏切られたような気がしているのだ。
 
 それはまったく身勝手な話で、わたしが彼女にそういうイメージを押しつけていただけのことなのだろうけど。
 どのような決断をしようと、シラユキだけは、わたしのことを受け入れてくれるような気がしていた。

 それは結局、ただの錯覚だったのだけれど。

 ツキも、シラユキも、もうわたしに自分の意思を伝えてしまった。
 知る前に戻ることはできない。取り返しがつかないのだ。



 シラユキはツキに向かい、声を掛けた。彼に手を貸して立ち上がらせる。

「出口に向かいましょう。どちらにしても、この世界の住人達は、わたしたちを探しに来るはずです。
 逃れる手段はありますが、リスクを背負う必要もありません。とにかく、ツキだけでも現実に帰さなくちゃいけない。
 あなたがどういう決断を下そうと、です」

「……うん」

 気力が沸かなかった。
 森を歩き始めたシラユキの後を追う。シラユキはツキに肩を貸し、傘を自分で持った。
 わたしは並び歩くふたりの姿を、後ろからぼんやりと眺めた。

 もう彼らはわたしに何も働きかけるつもりはないのだと思った。

 本当に、わたしに決断を任せてしまった。そして、その決断がどのようなものであれ、それに従うつもりでいるのだ。 
 
 そういうことがわたしには分かった。手触りすら伝わってきそうなほどだった。


 シラユキ。
 森の中を歩いていた猫。あれは、なんだったのだろう。聞いてみようかとも思ったけれど、やめた。
 あの猫は、わたしを導き、誘導するためにいた。それは、それだけで、ほとんど答えのようなものだ。



 仕方ないか、とわたしは思った。
 
 わたしはどうしてこんな場所を作ったのだろう。
 死にたいのなら、もうやめにしたいのなら、死ぬだけでいいじゃないか。
 どうしてこんな場所に逃げ込んだのだろう?

 それはたぶん、寂しかったからかもしれない。怖かったからかもしれない。
 ひとりぼっちになることも、死ぬことも、怖かったから、わたしはこの世界を作ったんだろう。  
 その中で、ずっと傍にいてくれる人を求めたんだろう。わたしを傷つけない人を。

 でも、結果はこれだ。

 この世界はわたしに何ももたらさなかった。安息も何も。
 結局ここも、現実と同じになってしまった。

 どうでもいいや、とわたしは思う。シラユキは歩きながら何度かわたしの方を振り返った。
 何か心配そうな顔をしている。それはそうだろう。そうなのだ。そんなことは、分かってるのだ。
 
 彼女の言う通りだ。たぶん、彼女が正しい。わたしは彼女に従うことができる。

 どれだけ歩いても、景色はやはり変わらない。変わるのは雨の強さくらいのものだった。
 沈黙はずっと破られることがない。もう語るべきことはぜんぶ語ってしまったのだろう。
 もう誰も、わたしに何も語りかけはしない。

 わたしにすべてが委ねられている。



 わたしたちは歩いていく。 
 代わり映えのしない景色の中を、ずっと。

 ひょっとしたら細部は違うのかもしれない。でも、だいたいは同じようなものだ。

 それは当たり前と言えば当たり前のことだ。

 この森が急に終わって、巨大な砂漠が現れたりするはずがない。
 森はずっと森のまま。突然何か大きな変化が訪れたりすることは、ないのだ。奇跡でも起こらないかぎり。

 そういう意味では、わたしたちは奇跡を望んでもいた。

 森が突然砂漠になったり、砂漠が突然海になったり、ということを。
 でもそんなことは起こるはずがない。
 少なくともわたしには信じられそうになかった。
 
 でも、奇跡が起こらなかったからといって、落胆する必要はない。
 奇跡なんて起こらないのが普通なんだから。起こらなくなって、まあそうだろう、という程度にしか思わない。
 
 その程度のものなのだ。



 やがて、わたしたちの前に泉が現れた。
 ツキは苦しそうにしていたが、意識ははっきりとしているようだ。
 
 彼は長い間、一言も言葉を発していない。
 
 わたしは何を望んでいるんだろう。
 何かを期待しているんだろうか?
 ひょっとしたら、誰かがわたしに何かを言ってくれるんじゃないか、というようなことを?

 でも、それは起こりそうもなかった。泉の中に、シラユキは足を踏み入れる。
 雨の波紋に歪みながら、水面はわたしの顔を映した。

 わたしはその姿を掻き分けるように、シラユキのあとを追う。
 水面に映る自分の姿に、特別恐れを抱くことはなかったし、何か記憶がつつかれるようなこともなかった。
 わたしはちゃんと自分のことを思い出している。自分のことをちゃんとつかめている。

 今、わたしは何の邪魔立てもなく、わたし自身を理解できている。

 何とも言いようがない空虚さが、わたしをとらえている。



 泉を抜けると、森の様相は少しずつ変わりはじめた。
 でも、結局森は森だった。砂漠になったりはしない。

 なんだか息苦しかった。なぜだろう。何が原因なんだろう。
 
 シラユキは、何度もわたしを気に掛けながら、それでもかまわずに進んでいく。
 
 足を進めるたびに、なんだか体が重くなっていく気がした。歩いているという実感がうまく沸かない。
 ツキもまた、苦しそうにしていたけれど、それでも自分の足でしっかりと歩いていた。

 わたしの足下の感触はふわふわとしている。
 わたしは自分の意思で歩いているのだろうか。とてもそうは思えない。

 何者かがわたしを糸で吊して操っているように感じた。だとすると、それは誰だろう?
 シラユキか? ツキか? それともわたし自身なのか?
  
 もちろんそんなのは妄想のようなもので、いくら考えたって無駄なのだけれど。


 やがて前方に岩壁が姿を現した。それはまだ遠くにある。見えてきたというだけだ。

 どうしてこんなに心が凍てついているんだろう。

 たぶん、わたしはどうだっていいのだろう。
 結局、この世界で起こったさまざまなことだって、わたしの意思とは関係がなかったのだ。
 ただ、シラユキが引っかき回したというわけ。

 いずれにしたっておんなじなのだ。

 立ち止まりそうになっている人間に、もう少しだけがんばってみろと言う人間がいたなら。
 それは、もう少しがんばることもできるだろう。

 でも、既に立ち止まってしまった人間にどれだけ声を掛けたところで、それはたぶん、徒労に終わる。
 歩くのをやめてしまってから、もう一度歩き出すためには、歩き続けるのとは違う何かが必要になる。

 どんなに長く続けていたことでも、一度やめてしまえば、どうして今までそれを続けていたのか、分からなくなってしまう。
 たしかにツキを悲しませたくはない。苦しませたくもない。
 でも、死んでしまえば……そんなことはもう、関係ない。

 岩壁の足下には穴が空いていた。大きな洞穴。足場は悪いが、シラユキは注意深く、けれど躊躇わず、進んでいく。
 わたしは両手の塞がった彼女のかわりに、彼女の鞄から懐中電灯を取り出した。
 真っ暗闇の中で、それは気休め程度の効用しかもたない。

「行きましょう」とシラユキは言った。

 洞穴の中の空気は冷たい。
 誰もわたしを求めていないという気がした。

つづく

うぅん、乙。

全てが逆効果に働いて仕舞っている気がする…




 一歩足を踏み入れてみると、そこから先は、もうさっきまでの森とは空気がまったく異なっていた。
 それは今まで居た世界とは別の場所だという気がした。

 たかだか一歩足を踏み入れただけ。
 それだけなのに、とてつもなく大きな断絶が背後に生まれたような気がした。

 異質な感触。
 でも、異質なのは今いる洞窟の方ではない。

 断絶の向こうに置き去りにした森の方が、今となっては異質に感じられた。

 仮に、とわたしは思う。

 仮にツキをここで現実に帰して、そのあと、どうするのだろう。
 シラユキの言うように、わたしも現実に帰るのだろうか。

 そうだとすれば、あの森にもう一度帰ることはないのだろうか。

 ……どちらにしても、もう見ることはないだろうという気がした。

 もうあの場所ですべきことは全部済ませてしまったのだ。


 わたしを外から守り続けたあの屋敷。雨の降り続ける森。
 もう、わたしとは関係のない場所だ。

 現実に帰るにしても、帰らないにしても、わたしはもう二度とそこにはいかないだろう。
 いずれにせよ、わたしはもうこの世界を去るのだ。

 わたしは、それでもしばらくの間、入り口から少し過ぎたあたりで立ち止まっていた。 

 ただ、なんとなく、そうしたかっただけのことだ。

 もう一度前を向いたとき、シラユキが心配そうにこちらを見ていた。
 彼女は彼女なりによくやったのだと言える。
 
 目論見はすべて、うまく行った。この世界の存在意義を破壊したし、わたしに選択も迫った。
 そしてツキの死に抵抗しようとするわたしを発見し、今はわたしを出口に向かわせてすらいる。

 でも、彼女は上手くいったなんて思っていないだろう。 


 洞窟の中を歩き始める。冷たい岩の感触。雨の音が反響しながら後ろから追いかけてきていた。
 それも、しばらく進んだら止んだ。でも、音が聞こえなくなっただけだ。
 雨が止んだわけではない。

 わたしは頭の中でその言葉を繰り返した。
 雨が止んだわけではない。だから、大丈夫だ。

 足音と呼吸音だけが響いていた。もう誰も何も言わない。
 仕方がないので、わたしも黙っていた。もちろん、話したいことなんてなかったのだけれど。

 暗い道を進んでいく。すごく長い時間、静寂と暗闇の中を歩いた。
 わたしは前方をずっと照らし続ける。予定調和のような景色があるだけだ。

 何もかもが想像の範疇で、変化は起こらない。
 


 不意にツキがうめき声をあげて、自分の足に体重をのせたようだった。
 シラユキは咄嗟に支えようとしたが、彼はそれを断った。

「自分で立つ」

 まだふらついているようだったけれど、さっきまでよりはずっとマシになっていたようだった。
 少しの間、その場で動かなかった。ツキはやがて長い溜め息をつき、「行こう」と言った。

 それから何度か、うわごとのように、

「お前が死んでも、俺は生きる」

 と呟いた。わたしの顔なんて一度も見なかった。自分に言い聞かせているみたいに見えた。

 また、さっきまでと言ってることが違う。

 たぶんそういう磁場があるのだろう。
 わたしたちは自分で思うよりもずっと、場の力というものに影響を受けやすいのだ。


 雨に打たれ続け、森を歩き続け、今はこんな薄暗い場所にいる。
 そんな無茶をしているにもかかわらず、わたしの体はまったく問題なく動いた。
 もう実感がないのかもしれない。

 本当に長い間、わたしたちは歩き続けた。ずっと、何も起こらなかった。
 何の変化もなかった。ただ暗闇が続いていただけだ。

 そして、不意に、雨の音が聞こえた。

 その場所は、ひどく肌寒かった。
 広ささえ分からないほど暗い。でも、真っ暗闇というわけではなかった。
 
 そこは行き止まりだったけれど、壁には穴が空いていた。
 そしてその穴は、水面越しに見るように、向こう側の輪郭を滲ませてしまっている。

 わたしはその景色をどこかで見たことがあるような気がした。

 ぶよぶよとした皮膜のような、そんな断絶。

 シラユキは「ここが出口です」と言った。でもそんなことは言われなくたって分かった。



 強い風が吹きすさぶような、そんな音が向こう側から聞こえた気がした。
 激しい雨の音も。この向こう側は、きっと嵐なのだ。
 そして、暗い。夜なのだろうか。それは荒々しく、寒々しく、硬質な気配だった。

 皮膜越しに、たしかにそうした感触が伝わってくる。

 ツキは一度立ち止まると、洞窟の壁にもたれて長い溜め息をついた。
 それから自分が拳銃を持ったままだったことに気付いたようだ。シラユキもよく取り上げずに肩を貸したものだ。

「ここを通ると、どうなる?」

 質問はわたしではなく、シラユキに向けられていた。当たり前と言えば当たり前のことだ。わたしに聞いたところで仕方ない。

「想像した通りになると思います」

「なるほどね」

 シラユキの答えにツキはそう頷いたけれど、わたしにはいまいち向こう側が想像できなかった。
 ただ、暗く、激しい雨が降っているようだ、ということしか。

 それからしばらくの間、また沈黙が降りた。


 わたしは少しの間、その輪郭のぼやけた景色をじっと見つめた。
 その先に何があるのかは、よくわからない。

 それで、わたしはここを通るべきなのだろうか?
 
 それが問題だった。それ以外のことは、わたしの判断を必要としていない。

 この先に、何があるのだろう。
 そのことを考えたとき、頭に鈍い痛みが走った。耳元で囁き声が聞こえた気がした。

「どうしてそんなに、醜いの?」

 もちろん、そんなものは錯覚だった。誰もそんなことを言ってはいない。
 でも、そう聞こえた。



 わたしは現実に向かうべきなのかもしれない、と、そう考えてみることにした。
 それから自分が嫌だと思ったこと、自分が逃げ出したもののことを思い出してみる。
 
 すると、どれもこれもたいしたことではないような気がしてきた。
 わたしはどうしてその程度のことで現実から逃げたのだろう、と思えそうな気がした。

 なんだ、その程度のことじゃないか、と努めて考えるようにしてみようとした。

 でも、だめだった。すぐに心は折れてしまった。

 ツキは不意に拳銃を持ち上げた。それから、銃口をシラユキに向ける。

 シラユキは怪訝そうな顔をした。ツキは「ばあん」と言って、銃を下ろす。それだけだった。
 彼は弾倉から弾を外してその場に投げ捨てて、それから拳銃を放り投げた。
 
 激しい雨の音が聞こえる。

 雨の音を聞くと、わたしは安心する。 
 雨が降っている間は、ツキはわたしの傍にいてくれた。
 


「アヤメ」

 不意に、ツキはわたしを呼んだ。
 それから困ったように笑う。

「お前が死んでも、俺は生きる」

 わたしは反応に困った。だって、何も感じなかったのだ。

「でも、お前がいないと、とても悲しい」

 彼は今まで、何度かそう言った。
 わたしはそれを何度か聞いた。
 
 それなのに、今度ばかりは何かが違うような気がした。

「ツキがいなくなると、わたしも悲しいよ」

 泣き出しそうな気持ちで、わたしはそう言った。
 ツキがいなくなれば、わたしも悲しい。
 置き去りにされるのは、寂しい。



「雨が降っている間、ツキはわたしと一緒にいてくれた。
 わたしはツキの家で過ごすことができた。シラユキの背中を撫でていることができた。
 その時間が好きだった。一緒にいてくれて、嬉しかった」

 ツキは泣きそうな顔をした。わたしは今、どんな顔をしているのだろう。よくわからなかった。

「でも、雨が止んだら、ツキはわたしの傍からいなくなってしまう。いつも。
 ツキはどこかに遊びに行って、わたしはどこにも行けないまま。
 だから……雨が止んだなら、わたしはたったひとり、現実に向き合わなきゃいけなかった」

 わたしはずっと傍にいてほしかった。どんなときだって。
 でも、永遠に雨が降り続くことはない。雨が止んでしまうことを、わたしは受け入れなければいけなかった。

 雨はいつか止んでしまう。
 いつでも、いつまでも、ツキが一緒にいてくれるわけではない。

 そんなのは、当たり前のことなのだ。
 わたしはそれを望んでいたのだ。現実的に不可能だったって、理屈として間違っていたって、わたしはそうしてほしかった。
 
 ツキに非があるわけではない。
 どこにも行けなかったわたしが悪かったのだ。
 彼を追いかけることのできなかったわたしが。



「アヤメ」

 彼はもういちど、わたしの名前を呼んだ。それきり、しばらく黙り込んでしまった。
 何度も苦しそうな顔をした。後悔しているようにも見えたし、何かを言いあぐねているようにも見えた。
 どれが本当なのか、わたしにはよく分からない。

「ずっと一緒にいることはできない」

 そう、彼は言った。そうだよ、とわたしは思った。ずっと一緒にいることはできない。

「でも、雨が止んだからって、傍にいられないわけじゃない。
 一緒にいたいなら、一緒にいたいって言ってくれてもよかった。
 俺はそれを嫌がったりしない。ずっと一緒にいられないとしても、ずっと離れたままってわけでもない」

「……うん。そうだね」

「お前がいなくなるなんて嫌だ」

 彼はもう一度そう言った。

「ずっと一緒にいることはできない。俺はお前の痛みを分けてもらうことも、肩代わりすることもできない。
 でも、だからって、ずっとひとりぼっちで戦わなきゃいけないわけじゃない。俺はそう思うよ。
 雨が降っている間しか、人に甘えられないなんて理屈はない。お前はもっと泣きわめいて、誰かを頼ったって良かったんだ」

「でも、それが上手にできなかったんだよ」

 だってそれは、明らかにわたしの問題なのだ。
 誰かが関わって、うまく解決できる種類の問題ではないのだ。


「たぶん俺も、もっとお前にいろんなことを言うべきだったし、いろんな態度を示すべきだったんだろうと思う。
 でもそれは手遅れじゃないって思うんだよ。お前がもう一度、俺のところに来てくれさえすれば……」

 それから彼は思い直すように頭を振った。わたしは悲しい気持ちになった。

「そうだね」
 
 とわたしは言った。わたしはそうすることもできるのだ。
 
 でも、あの輪郭のぼやけた向こう側の世界に足を踏み出すのは、怖い。
 強い風の声と、激しい雨の音。
 凍えるような寒さと、深い暗闇。

「もしも、もう一度機会があるなら、今度は、雨が止んでも一緒にいたい」

 ツキは最後にそう言って、自嘲するように笑った。
 今にも泣き出しそうな、迷子みたいな表情だった。 

 そうだなあ、とわたしはぼんやり思った。
 そうなれたら、わたしもきっと嬉しいのだと思う。

 もしも、そんな機会があるならば。




 そのようにして、ツキは向こう側へと去っていった。
 後にはシラユキとわたしが残された。

 雨と風の音。冷たい空気。

 わたしはこれから、どうするつもりなんだろう。どうすればいいんだろう。

つづく

さてどうする




 シラユキは何も言わなかった。

 だからわたしは困ってしまった。雨と風の音だけが周囲を支配している。
 何を言えばいいんだろう? でも、言うべきことなんて、もうないのだ。

 ツキは行ってしまった。わたしはどうしよう?
 
 そのあたりのことは自分で決めなければならないのだろう。
 でも、考えるのが面倒だった。
 
 もう少しだけがんばってみてもいいかな、という気持ちに、わたしはたしかになっていた。
 この世界に来たとき、きっとわたしはすごく追いつめられていたんだろう。
 状況はよく思い出せないけれど、とにかくすごく混乱して、周囲が見えなくなっていたんだろう。
 
 それは分かる。



 でも、混乱していたからってそのときに下した判断が間違いだったということにはならない。
 冷静な視点で考え直してみても、やっぱり耐え難い状況だったのかもしれない。

 何より確かめるのが面倒だった。

 この世界はすごく空虚だ。
 でも、少なくとも痛みはない。苦しみもない。
 そしてもうすぐ終わりを手に入れる。
 
 黙って待っていれば、わたしはもうすぐ苦しみのない場所に行ける。

 現実にまったく未練がないわけじゃない。
 ツキのことだって、悲しませたくない。

 だからって、もう一度現実に戻れるか?

 ずっとひとりで考えてばかりいるから悪いのかもしれないな、とわたしは思った。
 わたしはもっと誰かに話しかけたり相談したりするべきなのだ。

 でも、面倒だ。
 


 面倒だ面倒だって言っていたって仕方ないじゃないか、とわたしの中のわたしが言う。
 
 とにかく冷静になってみよう、とわたしの中のわたしはわたしを説得した。
 わたしに、ここを出るだけの理由があるのだろうか?
 理由。必然性。事態の要請。なんでもいい。とにかく、そうしたものがあるのか。

 ないような気がした。

 もう少し考えてみよう。本当にないのだろうか?

 頭の中をめいっぱい探してみても、やっぱり見つからなかった。

 そうしているうちに、もういいじゃないかという気持ちになってきた。
 理由なんてないのだ。

 いや、もうちょっとだけ考えてみようと思い直す。
 理由。理由が必要なのだろうか。
 
 じゃあこういうのはどうだろう。宇宙は巨大な果実のひとつだと考えるのは。
 それは葡萄のように房になっていて、宇宙と宇宙は並んでいる。
 果実の中で生命が発展するほど、果実は甘くなる。だから果実を甘くするために、生命の発展に寄与しなくてはいけない、とか。
 
 それなら生きる理由にだってなる気がした。でもだめだ。果実を甘くする義理なんてない。
 そこまで巨視的な意味や理由は問題にならない。問題なのは、もっと個人的な理由。

 それこそ、そこらじゅう探しても出てこないような気がした。



 ツキのため?
 でも、どうだろう。ツキだってずっとわたしのことを覚えているわけではないはずだ。
 いつかは忘れてしまう。それに、忘れなかったとしても、ツキだっていつか死んでしまうのだ。

 わたしだって、今死ななくたっていつかは死ぬのだ。今死んだってかまわないはずだ。

 考えれば考えるほど理由はなくなっていく気がした。
 何より、いまさら現実に帰ってもう一度苦しむというのは、ちょっと面倒だった。

 たとえば、台風の影響でひょっとしたら学校が休みになるかもしれない、と期待していたときのよう。
 雨が段々弱まってきて、連絡網が回ってきて、通常通りに登校するようにと言われたときの、あのけだるさ。

 正直、いまさら面倒だ。

 だってわたしは、一度やめてしまったのだ。
 一度やめたことをもう一度始めるのは、面倒だ。


 こんなことばかり考えているから、お母さんはわたしのことが嫌いだったのかもしれないな。
 四六時中こんなことばかり考えているような子供を誰が好きになるだろう。

 わたしだってできればみんなに好かれたいと思ったけれど、あんまり上手くはいかなかった。
 あの努力をもう一度続けろというんだろうか。

 それよりは、もう何もかも諦めてしまって、敗北宣言をして、やめてしまった方がずっと楽だ。
 もう期待も持ち合わせてはいない。
 
 どうしようもないのだ。

 本当に空っぽなのだなあとわたしは思った。
 わたしは穴の向こうの歪んだ景色を見つめた。
 じっと見ていると、そのうち目がおかしくなったような気がしてくる。あるいはとうにおかしかったのかも。

 誰がわたしのような人間を好きになると言うのだ。
 別に、好きになられたって、今更なんだけど。



 そう、全部が今更だ。
 
 もう、ぜんぶぜんぶ終わってしまったことなのだ。
 わたしはとっくに決断を済ませていた。

 シラユキがその邪魔をしただけで、わたしはとっくに決断していた。
 すべては終わっていることなのだ。

 なにかがおかしい。そう思った。
 そして気付く。わたしはここからツキが居なくなったことが、悲しいのだ。

 この世界では、わたしは悲しい気持ちにならずに済むはずだったのに。

 それもシラユキが壊してしまったんだっけ。
 それなら、こっちもあっちも同じじゃないか。同じだったら、尚更出ていく意味が分からなくなってしまった。

 悲しくはなかった。ただ少し寂しいだけだ。みんなわたしのことを忘れていくのだ。
 そして思い出しはしない。置き去りにしたのか、置き去りにされたのか、よくわからない。

 わたしを置いてみんなは進んでいくのだ。



 でも、それだってそんなに悪いことばかりではない。
 少なくとも、一度終わらせてしまえば、それ以上はない。わたしはわたしであることを終わりにできる。
 そうすれば、もうこんなふうに考え込む必要もない。

 考えれば考えるほどわけが分からなくなってくる。

 
 わたしはシラユキの方を見た。 
 シラユキは何も言わなかった。

 
 何か言ってくれないかな。そう思った。でも何も言わない。もう言うことがないのだ。
 
 どうすればいいんだろう。

 向こうに行くのは、怖い。

 怖い、と言ってしまいたかった。でも、怖いと言ってしまうことも怖かった。
 だって、それでも行ってほしいと、シラユキはきっと、わたしにそう言うのだ。

 怖いならいい、とは、言ってくれないのだ、きっと。

 何かが胸の奥でわだかまっているような気持ち。



「シラユキ」

 とわたしは彼女の名前を呼んでみた。
 答えはないかもしれない。でも、とにかく呼びかけてみた。

「なんですか?」
 
 と、シラユキはそう返事をしてくれた。わたしはまだ自分がここにいるのだな、と思うことができた。

「どうしよう?」

 わたしは咄嗟にそう訊ねていた。彼女は困った顔をした。
 怖かった。
 
 本当は分かっている。わたしはもう一度向こう側に行くべきなのだ。
 そこには、何か根本的な転換のようなものが待っているのかもしれないのだ。

 もしそれがなくても、それを期待して生き続けることだって、できるのだ。
 ツキも、シラユキも、きっとそれを望んでいるのだ。

 シラユキは何かを言おうとしたようだった。
 それから諦めたように口を閉ざす。そして、もう一度何かを言おうとした。そういうことの繰り返しだ。

「あなたのことが、好きですよ」

 シラユキは、長い逡巡のあとにそう言った。それはきっと、嘘じゃないのだ。



 雨の音と風の声が絶えず響いている。

 わたしは少しの間、何も考えずにその音に耳をすませていた。本当に何も考えなかった。

「うん」

 わたしはシラユキに、そう答えた。
 
 彼女は、向こう側にはきっといない。
 だから、彼女がわたしを好きだったとしても、もうそれは何の役にも立たないし、理由にもならない。
 
 それは妄想のようなものだ。
 この世界がすべて、わたしに都合の良いだけの妄想なのかもしれない。

 シラユキも、ツキも、ぜんぶがぜんぶ嘘なのかもしれない。
 わたしのことなんて、誰も好きじゃないかもしれない。

 現実感が薄いのだ。
 きっとわたしの五感はもう正常じゃない。そして、正常さを求めてもいない。



 ふと、泣き声が聞こえた気がした。
 
 それは向こう側から聞こえていた。誰の声だろう。知っている人の声だ。
 わたしはその人がそんなふうに泣くのを初めて聞いた。とても激しい泣き方だった。
 
 それから、ツキの声だ、と追われるように気付いた。

 ツキが泣いているのだ。

 なんのために泣いているんだろう。

 それで……ツキが泣いているから、なんだっていうんだ?

 もうだめだな、とわたしは思った。もう全部だめなのだ。根拠はないけれどそう思った。

 恐怖だけが実感を伴っていた。それ以外のものには現実感がない。
 心臓がいやなふうに鼓動した。眩暈がしそうだった。

 どうする? とわたしは訊いた。どうしよう? とわたしは訊ね返した。


 もういいじゃないか、とわたしは思う。
 ぜんぶ終わりにしよう。やめてしまおう。もう怖い思いをするのは嫌だ。

 わたしは体を動かした。シラユキに何かを言おうと思ったけれど、口がうまく動かなかった。
 だから仕方なく、何も言わないことにした。「向こう側」へと繋がる穴に、背を向けようとした。

 そのとき、雨と風の隙間から、鋭い声が耳に届いた。

「駄目だ」

 と、その声は言っていた。引き留めるような響きだった。
 ツキの声だ。もう、泣いてはいなかった。

「駄目だ」

 と彼はもう一度繰り返した。

 わたしはうまく呼吸ができなくなってしまった。


 もう一度、向こう側へ繋がる穴を、わたしは振り返った。
 何も映っていない。ただ、音だけが聞こえる。景色は滲んでいる。
 
 わたしは急に泣きたい気持ちになった。心細いような、寂しいような、そんな気持ちに。

 彼は向こう側から、わたしの名前を呼んだ。
 何度も繰り返した。また泣き出してしまいそうな声で、哀願するように。
  
 駄目だ、と。

 その声がたしかに聞こえた。

 わたしはもう一度シラユキの方を見た。
 彼女は泣いているような、笑っているような、奇妙な顔をしていた。
 わたしは彼女のその顔を見て、少しだけ笑った。

「……駄目なんだって」

 と、わたしは笑いながら言った。シラユキは、困ったような顔をした。



 そっか、駄目なのか、とわたしは思った。
 そうだろうな、駄目なんだろう、きっと。駄目なら仕方ない。

 ツキがこんな声で、必死になってわたしに語りかけているのだ。

 理屈も何もない、感情や、衝動のようなものだけで。 
 
 だったらもう、いくら考えても無駄なのだろう。


 シラユキはしばらく唖然とした顔をしていたが、やがてわたしの方を見て、くすくすと笑った。

「どうするんです?」

「だって、駄目なんだって」

「それじゃあ……」

「うん。そうだね」

 あんなふうに言われたのでは、仕方ない。
 それに、もしまた機会があるなら、彼は雨が止んでも、一緒にいてくれるそうだから。
 嘘かもしれない。でも、信じてみたくなった。

 痛かったり、苦しかったりするかもしれない。でも仕方ない。ツキが、駄目だと言うんだから。
 なんだか、いろいろと考えていたことのほとんどすべてを、今の一瞬で、まるごとすべて忘れてしまった。

 怖さだけは、まだ残っていたけれど。


「わたし、帰るね」

 とわたしは言った。シラユキは、また、困ったように笑った。
 それから小さく頷く。彼女の仕草はいつだって変わらない。

 皮膜越しに、ツキはわたしの名前を呼び続けている。
 そういえばわたしも、いつだったか、こんなふうに誰かの名前を呼び続けたことがあった。

 シラユキが死んだときだ。
 
 だとしたら、ツキをもう一度あんな目に遭わせるわけにもいかない。
 少なくともわたしは、まだ選ぶことができるんだから。

 その先がどんなものであったとしても。

 シラユキは、何かを言いたそうにしていた。その表情は笑っていたけれど、どこか寂しそうだった。

「ありがとう」

 とわたしは言った。
 彼女ははっとしたような顔をして、すぐにまた、取り繕うように笑った。
 大事なことを声に出して伝えるのはすごく難しい。

「ごめんね」



 シラユキはまだ何かを言いたそうにしている。

 わたしはその言葉を待っていたけれど、その声はいつまで待っても訪れなかった。
 やがて、彼女はふわりと笑う。わたしはなんだかくすぐったいような気持ちになった。
 
 そうして、彼女は最後に、

「ごめんなさい」

 と苦しげに言い、 

「ありがとう」

 と笑って付け加えた。

 わたしは前に足を踏み出した。
 すると、足の裏からごつごつとした岩の感触が伝わってくる。冷えた空気が肌を撫でた。
 一歩進むたびに、雨の音が激しさを増していく。

 わたしは指先を伸ばし、その皮膜に触れる。
 するりと、何の抵抗もなく、飲み込まれていく。

 わたしは最後に振り向こうかと思って、やめた。
 それから、不意に思い出して、「さよなら」と、そう呟いた。

 それで最後だった。


つづく
次で終わると思います

おお、やっと決心したか。
乙です。

毎朝の楽しみであったこのSSも、とうとう次回で終わりですか…

貴重なオリジナルSSだからという理由で読み始め、その世界観に引き込まれていきました。

止まない雨は無い、雨が止んだ先にあるのは、希望か、絶望か…

きっかけは、理屈なんかより単純なものなんだろうね

更新乙
ここ最近一番楽しみにさせてもらってたから寂しくなるな

おつー
次で最後かぁ 楽しく読めたが終わるのは寂しいな




 曖昧な意識のまま、わたしはふと気付けば、暗闇の中にいた。

 なにひとつ聞こえず、なにひとつ見えない。そんな暗闇の中だ。
 闇の中では、感覚すらなかった。
 
 自分自身の身体がこの空間にあるということが疑わしいくらいだった。
 何かが視界を覆っている。
 
 そのせいで、わたしの瞳は光をとらえられない。
 なんだろう。何が邪魔しているんだろう。

 不意に、激しい音が聞こえる。

 雷鳴?
 そう、雷鳴だ。

 その音が合図だったかのように、わたしの身体の感覚が蘇っていく。
 蘇るというよりも、むしろ、押し寄せるように、意識に感覚が流れ込んできた。

 しばらくの間、わたしの意識はその奔流に支配されていた。



 雨の匂い。肌に触れる濡れた質感。痛みであることを忘れそうになるほどの強い痛み。
 全身の感覚が鋭敏になっている気がした。 
 でも、むしろ逆だったのだろう。鈍麻していたのだ。鋭いのは痛覚だけだった。

 他のものは、ほとんどすべて機能していなかった。

 一挙に流れ込んできた痛みに、意識は鋭く呼び起こされた。
 視界は相変わらず暗い。ひどく肌寒い。全身がズキズキと痛む。

 音。雨の音、雷の音、風の音。
 わたしの身体は暗闇の中、どこかに横たわっている。
 どこだろう。痛みを堪え指先を動かし、手の感触で確かめた。

 ざらついた、濡れた感触。背中にごつごつとした、尖った痛みがある。 
  
 身体が重く、呼吸が上手くできない。鼻にも口にも耳にも何かが詰まっているような異物感。

 
 全身の関節という関節が軋み、痛む。
 身体のすべてが強く脈動しているような、そんな気がした。



 まだ景色は暗闇だ。
 なぜだろう。視界を覆っているものは、いったいなんなのだろう。

 暗闇の中で、誰かの声が聞こえた気がした。

 それはずっと遠くから聞こえているようにも、すぐ近くから聞こえているようにも感じられた。
 音はなんだかぶよぶよと歪んでいる。だから、その声が現実のものなのかどうか、確信が持てない。

 真っ暗闇だから、誰かが傍にいるのかどうかも、分からない。

 どうして、こんなに暗いんだ?

 何かがわたしの身体を叩いている。身体のそこら中を。
 雨だ、とわたしは思った。

 それも激しい雨。
 でも、雨が当たっているのはほんの一部分だけで、ほとんどの場所は雨を受けていない。
 それでも身体は濡れているようだった。

 不意に、瞼に雫が当たるのを感じた。
 そのときにようやく気付いた。視界を覆っているものの正体は、自分自身の瞼だった。

 瞼を開けていないのだから、光を捉えられないのは、当たり前だ。


 開けろ、とわたしは思った。
 開けるんだ。そうすることでしか始まらない。

 それは少し、怖いことでもあった。
 でも、仕方ない。声が聞こえたような気がしたのだ。
 たしかめてみないといけない。

 わたしは瞼を開けた。

 最初に目に入ったのは、薄い膜のような光だった。
 月明かりだ、と、わたしは思った。

 月の灯りが、嵐の夜をかすかに照らしていた。空は厚い雲に覆われていて、星すらもほとんど見えない。
 それでも月の光は、暗闇を暗闇ではないものに変えていた。

 風が強く、雨はそのときどきによって落ちる方向を変えた。

 しばらく静かに降り続いていたかと思うと、突然横殴りの雨になったり、飛沫が跳ねるように吹き上がったりもした。

 でも、雨は雨だった。わたしは全身の痛みと重さに呻く。
 それからすぐに、わたしの頭上を覆っていたものの正体に気付いた。


 遠くの空は月の明かりで微かに光をまとっているのに、近くに居たその人は、ほとんど真っ黒に見えた。
 でも、それが誰なのか、わたしにはすぐに分かった。

 だって彼は、わたしの名前を、今にも泣き出しそうな声で呼んでいたのだ。

 何かを言おうと思った。
 でも、何を言えばいいのか、よく分からなかった。
 
 わたしは、あの巨大な蛇のような濁流に、身を任せたはずだった。
 その中から、彼が引きずりあげてくれたんだろうか。

 痛む身体を動かして、自分のいる場所を確認する。

 あの黒い水流は、すぐ傍で荒々しく唸り続けていた。
 わたしたちはその流れから、かろうじて、外れているだけだった。

 ツキは荒い呼吸をどうにか整えようとしていた。髪も身体もずぶ濡れで、顔は真っ青で、体中が汚れていた。

「ごめんなさい」

 とわたしは言った。だってそれは、どう考えたってわたしのせいなのだ。
 でも、わたしの耳にすらその声は白々しく、嘘っぽく響いた。
 わたしはどうしようもなく悲しい気持ちになった。


 言葉も出せない様子で頷くと、彼はそのまま身体を動かし、わたしの腕を引きずって、水流から引き離そうとした。
 わたしはそれに従って、自分の身体をどうにか持ち上げる。水に濡れた衣服が重く、雨は痛いほど強い。

 身体を動かすたびに手足に痛みが走った。打ったのか切ったのか擦ったのか、分からない。
 でも、どれにしたって同じことだった。
  
 それはわたしが自分でつけた傷なのだ。
 ツキの身体についた傷も、わたしがつけた傷なのだ。

 身体を這うように動かす。怒号のような水流のうねりはわずかに遠ざかった。
 堤防の上まで辿り着くと、ツキは不格好に立ち上がった。

 それからわたしに手をさしのべた。

 わたしは少しの間迷っていた。
 その手を握る資格が、自分にはないような気がした。

 でも、ツキはずっと手を差し出したままだ。

 彼が雨に打たれたままなのは、とても、いやだった。
 だからわたしはその手を握って、痛みを堪えて、立ち上がった。

 彼は苦しげに笑った。




 生き延びることができたのは、ほとんど奇跡のようなものだった。

 言い換えれば、偶然の巡り合わせだ。同じことをやったとしても、二度目はないだろう。

 立っているだけでも風に吹き飛ばされそうな激しい嵐の日に、氾濫してもおかしくない河川に近づいた。
 水流に身を投げ、その中でしばらく意識を失っていた。

 普通なら死んでいた。いや、まあ、死ぬだろうと思って身を投げたのだから、当たり前なのだけれど。

 川に身を投げる前と後の記憶は混濁していて、前後の事情をわたしは上手く把握できなかった。

 あの出来事から数日が経った今でも、思い出せていない。
 だからわたしは、後の状況から推測や想像を交えて、自分の記憶を補完した。


 あの嵐の夜、わたしは両親と激しい言い争いをした……らしい。
 
 どんな言い争いだったのかは覚えていない。
 とにかく、その出来事で打ちのめされたわたしは、家を飛び出した。

 両親がそのことに気付いたのは、わたしがいなくなってからしばらく経った後だった。
 天候が天候だったし、時間が時間だった。

 家を出てわたしが行くところといったら、彼らにはツキの家しか思い浮かばなかったようだ。

 あわてて電話を掛けてみたものの、わたしはツキの家にはいない。
 電話を内容を聞いたツキは、両親の制止もきかずに家を飛び出したという。
 
 そうしてツキは、水流の中にわたしを見つけた。


 ツキに助けられたあと、わたしは再び意識を失った。

 彼はわたしを背負って近隣の民家に向かい、電話を借りて救急車を呼んだ。
 時刻は夜の九時を過ぎていたらしいので、民家の住人からすれば迷惑な話だっただろう。

 わたしとツキは救急車で病院に搬送された。

 ツキもまた、救急車が来るまでに意識を失った。
 けれど彼はその直前、自分の家の連絡先を人に伝えていたため、病院は彼の両親に連絡することができた。

 そして彼の家から、わたしの家にも連絡がいったのだという。
 
 細部は違うかもしれないが、わたしはそういうふうに聞かされた。

 わたしがふたたび目を覚ましたのは二日後の午前八時で、そのときには身体は快復に向かっていた。
 なんでも、一時は結構危険な状態だったらしい。

 一度は目を覚ましたわたしは、五分と経たないうちに再び意識を失った。
 そしてその日の正午過ぎ、今度ははっきりと、わたしは目を覚ました。




 当たり前のことだけど、わたしはいろんな人に叱られた。
 ツキもいろんな人に叱られていた。ちょっと悪いことをしたかな、と思う。
 たぶん、ちょっとどころの話ではないんだろうけど。

 何はともあれ、わたしは生きていた。

 ツキから聞いた話によると、彼はあの水流の中からわたしを救い出したわけではないらしい。
 わたしの身体がたまたま流れから外れた場所に引っかかっていたのを見つけて引き上げただけだという。

 まあ、考えてみれば、彼が泳いでわたしを引き上げたというのなら、それはそれで驚きだ。
 あの流れの強さでは、泳ぐどころが方向を保つことさえ困難だったろう。

 その「引っかかった」際にわたしは擦り傷や打撲を負うことになった。
 これが意外なほどの軽傷で、なんということのないものばかりだった。
 しばらくは、痛むかもしれないけれど。

 でも、それ以外には外傷も何もないらしい。
 たぶんわたしがあの濁流の中にいたのはとても短い時間だったのだろう。
 と、思うのだけれど……根拠はない。

 とはいえ、それならそれで、長い時間意識を失っていて、危険な状態にあったというのは、不思議な話という気がする。
 そのあたりのことは、どうもよく分からない。


 わたしを叱ったのは主にツキの両親で、叱らなかったのはわたしの両親だけだった。

 ツキの両親は、わたしとツキの行為に対して大声を上げて怒った。
 
 反対にわたしの両親は、何を言えばいいのか分からない、という顔でわたしを見た。
 わたしも何を言えばいいのか分からなかった。ひょっとしたら血筋なのかもしれない。
 
 どうしてこんなことをしたんだ、と父は言った。
 それは心からの質問と言うよりは、自分が言うべきことを計りかねているような響きを持っていた。  

 だいたい彼の方でも、察しはついていたのだろうと思う。

 少しずるいかな、と思いながらも、ごめんなさい、とわたしは最初に謝った。
 すると、彼らは揃って苦しそうな顔をした。

 ちょっとした意趣返しのつもりだったのだけれど、彼らの表情は思いの外わたしを暗い気持ちにさせた。 
 


 彼らはそれから、わたしに頭を下げた。
 でも、わたしは別に謝ってほしいわけじゃなかった。
 だから、すごく困った。
 
 彼らは別に、心から謝ったわけではないのだと思う。

 単に、病院という空間には、人を神妙にさせる磁場のようなものがあるのだ。

 わたしが退院すれば、これまでと同じような生活が待っているに違いない。
 人がそんなに簡単に変われるわけがないし、わたしはそれを信じてあげられるほどお人好しでもなかった。

 が、まあ、わたしは偉そうなことを言える立場というわけでもない。
 それに、こんなふうに迷惑を掛けたことだけは、悪いことをしたな、などと思った。




 目が覚めてから数日間、様子を見るためにと入院させられていた。
 ことがことだったので、担当の医師はわたしに「よければカウンセラーを紹介しますが」と言ってきた。
 わたしはそれを断った。

 嵐は去っていったが、入院中はずっと雨が降っていた。そういう時期なのだ。
 
 窓の外で降り続ける雨をじっと眺めていると、奇妙な気分になった。
 
 わたしは別に「あちら」でのことを忘れたわけではない。
 でも、それを徐々に忘れていってしまうのだろうと、なんとなく感じた。
 
 気になったのは、わたしたちが去った後、彼女がどうなったのかということ。
 でも、それは今となっては確認のしようがないことだった。

 不思議と寂しくはなかった。
 なぜだろう? 彼女がすぐ傍にいるような気がするのだ。
 それは、ただの錯覚なのかもしれないけど。





 数日後、さしたる感慨もなく退院し、わたしは家に帰った。
 家に帰るのは久しぶりだという気がした。

 でも、久しぶりだと感じたところで、結局自宅は自宅だ。何かが変わるわけじゃない。
 だからといって、思ったほど嫌な感じがしたわけでもなかった。ベッドの寝心地は、少なくとも病院よりはマシだ。

 ツキが電話を掛けてきたのは退院したその日の夕方で、窓の外ではまだ雨が降っていた。

「明日、暇か?」

 まあ、暇だった。退院の日はちょうど土曜日で、明日は学校が休みだったからだ。
 月曜のことを考えると、今から気が重い。

「出掛けないか」

 とツキは言った。彼の態度は堂々としていた。
 なんだかいろんなものが吹っ切れたような、そんな態度。

「でも、明日は雨かもしれないって、天気予報で」

「晴れるよ」

「……根拠は?」

「晴れる」

 根拠はないらしい。


 翌朝、案の定、雨が降っていたけれど、わたしはツキの家まで傘を差して歩いていった。
 彼がわたしを当然のような顔で出迎えたので、わたしはちょっとおもしろくない気分になった。

 しばらくのあいだ、何をするわけでもなく、二人で話をした。
 話の内容はよく思い出せない。
 
 何か大事なことだったような気もするし、どうでもいいことだったような気もする。
 抽象的な話だった気もするし、具体的な話だった気もする。

 いずれにしても忘れてしまった。
 話すことがなくなると、「雨が止んだら」と彼は思い出したように言った。

「雨が止んだら、出掛けよう」

 そうだね、とわたしは答えた。窓の外では静かな雨が降り続いていた。

「雨が止んだなら」

 何の気もなく返事をしてから、こそばゆいような、くすぐったいよな気持ちになった。
 彼が、昨日突然電話してきた理由も、今朝からずっと難しい顔をしている理由も、今の言葉で分かった気がした。

 雨が止んでも傍にいるのだと、彼は示そうとしているのだ。





 気象予報士の言い分に反して、雨は十時過ぎに上がった。
 
 灰色の雲は空から消えて、青空が顔を出した。
 太陽の光は少し頼りなかったけれど、それでもしっかりと街を照らしていた。

 外に出てから、そういえば、目的地を聞くのを忘れていたな、と思い出した。
 でもまあいいか、と思う。そういうことを気にしすぎていても始まらない。

 虹を見つけて声をあげると、彼はおかしそうに笑った。
 わたしは不服に思って抗議した。

「どうして笑うの?」

「虹を見てはしゃぐような奴だったっけ?」
 
 彼は心底おかしそうに笑った。
 失礼な話だ。わたしにだって虹を見上げて喜ぶくらいの感性はある。



「さて、それじゃあ行きますか」

 ツキはそう言って歩き始めた。
 わたしは何も言わずに、彼を追いかけて隣に並ぶ。

 ふと後ろを振り返る。そこに誰かがいたような気がした。
 でも、誰もいない。ただ歩いてきた道があるだけだった。

 誰もいないはずなのに、わたしはそこに彼女が立っているような気がした。

 薄いクリーム色の毛並み、綺麗な鳶色の瞳。
 それは錯覚なのかもしれない。

 その錯覚を、わたしはなんだか心強く感じた。
 もう一度前を見たときには、さっきまでより気分が晴れ晴れとしている。

 それは身勝手な投影なのかもしれない。
 わたしはもう一度、「ありがとう」と口の中だけで呟いた。それで最後にしようと思った。

「それにしても」とツキは空を見上げた。

「いい天気だなあ」

 雨に濡れたアスファルトが太陽の光を反射して、まぶしい。
 晴れた空の下を歩くのは、ひさしぶりだという気がした。

おしまい

おつおつ
よかった

お疲れ様でした。

今まで長い間ありがとうございました。


やっと晴れたんだな

前に何か書いてたりする?

面白かった、お疲れさま!

おつー
楽しかったです、晴れやかな気分で読み終えた
読んでる間、「雨と夢のあと」という曲が頭に流れ続けてた

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