ひよっ子魔女の短編集 (148)
ひよっ子魔女と嘘嫌い
ひよっ子魔女と嘘嫌い - SSまとめ速報
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に続く短編いくつかを書いていきます
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ひよっ子魔女と夢見る老人
ラリー爺さん困ってた。どうしたもんかと悩んでた。
あまりに深く悩んでたので、仕事で少し怪我をした。
大した傷じゃなかったけれど、手元がよく見えてなかったのだ。
切り傷を手当てしてもらいながら白髪頭をかく爺さん。
周りのみんなは心配し、どうしたのって訊ねてみた。
爺さんかなり渋ったけれど、ようやく重い口を開いてくれた。
話が終わってみんななあんだと拍子抜け。
全然大したことじゃない。そんなの悩みと言えないよ。
爺さん反論しなかった。そう言われるのはわかってた。
すまんねみんな、もう怪我しないよう気を付けるから。
言葉の通り爺さんあれから怪我してないけれど、それでも悩みはなくならない。
むしろ日に日に気分がなえてくる。
爺さんすっかり元気をなくして、ぼーっとしてることが多くなった。
これはまずいとみんなは思う。
なんとか気分転換させないと。
爺さん町へ行ってきて。町にはたくさん人がいて、少しは気分が上向くかもよ。
そこで爺さん馬車に乗り込み、町の方へと繰り出した。
物々交換用に特製の燻製肉をたくさん載せて、ガタゴトガタゴト繰り出した。
爺さんなんであんなに悩んでるんだろう。
見送るみんなは首を傾げて考える。悩むほどのことには思えないのに。
馬車はすでに小さく遠ざかり、どことなく寂しそうにも見えた。
……
規則正しいようでいて案外そうでもない揺れが、爺さんを小さく揺すっていた。
出発からかなりの時間が経っていて、そろそろ道の先に町の影が見えるかなといったところ。
ここまで特に何もなく、ここからもこれといった出来事は起こりそうにない。
正直なところを言えば爺さんかなり退屈していて、大きなあくびを連発していた。
馬車をひく馬のひづめの音と馬車のガタゴトいう音、
それから近くの木立から聞こえる鳥のさえずり以外は何も聞こえない。
それはある意味静寂と同じだ。柔らかい日光を浴びて、爺さんぼんやり考え事をしていた。
考える内容はもちろん悩み事について。
それはみんなが言ったように大したことじゃないんだけれど、
そのくせこれといった解決方法が見当たらない。
延々考えても頭をよぎるのは役に立つことじゃなくて困ったなあ困ったなあと泣き言ばかり。
爽やかなそよ風も爺さんに助けを与えてはくれないみたい。
爺さん憂鬱なため息をついて荷物の箱に背中を預けた。
空を見上げてまたため息。
悩みが解決しないのはまあ仕方がない。
でもせめて誰か分かってくれないだろうかこの気持ち。
婆さんが生きていてくれたならなあ。
爺さんは寂しくなって目をつむった。
ぼんやりとしたまぶたの裏の暗闇。
温かくてとりあえず居心地はいい。
ゆったりと考える力がほどけて意識が遠のいていく。
そして眠りに落ちるギリギリのところでふと爺さんは思いついた。
普通の人が解決できないことは、普通じゃない人が解決してくれるかもしれない。
虫のいい話だけれど、眠りの手前で考えの鈍った爺さんは気づかない。
普通じゃない人、不思議な人。例えば……例えば、魔女、とか。
そこまで考えて、爺さんは寝息を立て始めた。
「すみませーん!」
しばらくして呼びかけの声で爺さんは目を覚ました。
自慢の馬はちゃんと道に沿って進んでくれていたようで、
馬車はいまだ町に向かって進行中のようだ。
そしてこちらに手を振る人影。
髪を三つ編みにして背中に垂らした、黒っぽい野良着の女の子。
腕にはバスケットを提げていて、中から何かがひょいと頭を出した。仏頂面の黒猫らしい。
爺さん手綱を操って、少女の前に馬車を停めた。
「何か用かね?」
そう訊ねる爺さんに、少女はぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい急に呼び止めて。わたし、ミナっていいます。
この道の先に行きたいんですけど思ったより遠くって。
もしよかったら乗せていただけませんか?」
爺さんは親切な人だったしすっかり退屈もしていたので、こりゃ話相手にいいやと思って快諾する。
荷台にスペースが余ってたから、ミナにはそこに乗ってもらうことにした。
彼女は身軽に乗り込んで、よろしくお願いしますと再び頭を下げた。
「どこで下ろせばいいかのう」
「ちょっとわかりにくいので、その時になったら声かけます」
爺さんはうなずいて、馬に進めの指示を出した。
ゆっくりと馬車が動きだす。背後で猫が一声にゃーと鳴いた。
爺さんさっそく上機嫌に口を開いた。
「お嬢ちゃんはどこから来たんだい? わしの村ではないじゃろう。
お嬢ちゃんみたいなべっぴんさん、うちの村にはおらんから」
さすがに持ち上げがすぎたけど、ミナは気にしなかったようだった。
ふふっと笑った後、別の村からと答えた。
「道を少し戻ると南の方から合流する道があります。
その先にある小さな村から歩いてきました」
爺さんほほうとうなずいた。
そんな道は知らなったけれど、多分居眠り中に通り過ぎてしまったのだろう。
そりゃ爺さんだって全部の道を覚えているわけじゃない。
爺さんは続けて訊いてみた。
「どこに何しにいくところだったんだい?」
「この先に湖があって、その近くの木立でしか採れない薬草があるんです。
そこに向かってたんですよ」
ほほう。爺さん再びうなずいた。
爺さんが訊ねてミナが答えてそれにまた爺さんが頷く、そんな会話がしばらく続いた。
「その猫はお嬢ちゃんの友だちかい?」
「ええ。ペルという名前です」
「ほほう」
話をしているうちに爺さん不意に懐かしくなった。
なんとなく数年前に亡くした奥さんを思い出したのだ。
奥さんは口数の少ない人だったけれどいつもにこにこ笑っていて、
爺さんの話を静かに聞いてくれていた。
そういえば奥さんも爺さんとは別の、小さな村の出身だった。
物思いに少し言葉が途切れて、今度は逆にミナが爺さんに訊いてきた。
「そういえばなんですけど、お爺さんさっき居眠りしてました?」
「おや見られておったかのう」
爺さん恥ずかしくて頭をかく。ミナはくすっと笑ったようだ。
「お昼寝日和ですもんね。いい夢見てる顔でしたよ」
それを聞いて爺さんはぴたりと黙り込んだ。その気配を察したのか、ミナも一緒に言葉を止める。
「どうかしました?」
気を使う声色でミナが問いかけてきたけれど、
爺さんは「夢……夢な」と小さくつつぶやくだけだった。
居心地の悪い沈黙が流れて、しばらくしてから爺さんはようやく口を開いた。
「夢は見んかった」
見られたらどんなにいいことか。元気のない声で爺さんはそうも言った。
爺さん実は長いこと夢を見ていない。
もしかしたら起きた瞬間忘れてしまっているだけかもしれないけれど、
とにかく夢を見た記憶がない。
爺さん夢が大好きだった。
鳥になって空を飛ぶ夢、魚になって海を泳ぐ夢。
夜になるたび今度は何の夢だろうと楽しみにしていたのに、ある時ぱったり見なくなった。
何かこれと分かる原因があるわけでもない。
そもそも何かあったからといって夢を見られなくなるなんてそんなことあるのだろうか。
多分年のせいだろうけれど。
そんなわけで、夢を見れなくなったのにそれへの対処方法が全然思いつかないのだ。
かといって周りは大したこととは思ってくれず、助けは全く得られない。
爺さん完全に孤立無援。
つまり、夢を見たいのに見られない。そのことこそが爺さんの悩みなのだった。
つづきます
事情を聞いたミナは、ふうむと軽く腕組みしたようだった。
後ろを確認したわけじゃないけれど、気配や衣擦れの音でそうと分かった。
「それは大変なことですねえ」
おや、と爺さん奇妙に思う。この子は呆れたりしないみたい。
「心配してくれるのかい?」
「ええ。夢が見られないなんて一大事じゃないですか」
爺さんなんだか嬉しくなって、目頭ちょっと熱くなった。
まさか理解者がいたなんて。
死んだ婆さん以外は誰も分かってくれないと思ってた。
「ありがとう」
「? 何か言いました?」
爺さんこっそり目元の湿りを拭き取って、いいやなんにもと首振った。
「そんなわけで困ってしまってのう。なんとかならんものかねえ」
荷台のミナは考えたようだけれど、沈黙だけが長引いて、
確かな答えは返ってこなかった。
爺さんもちろんがっかりはしたけれど、欲張っちゃいけないと思い直して、
いやいやすまんと取り消した。
「病気ならともかく、そんな小さなことに治す方法なんてあるはずもなかったな」
後ろから小さくごめんなさいの声がした。
すごく申し訳なさそうで、爺さんの方も恐縮してしまう。
「ああいやそんな。
わしこそ変なことを言って悪かった。
どうか気に病まないで忘れておくれ」
それからしばらくどちらも何も言わなかったので、馬車の進む音だけが辺り一帯を満たしてた。
馬が疲れたようなので、道の脇に馬車を停めて休ませていた時だった。
馬を拭いてやっている爺さんに、ミナが荷台から顔を出して声かけた。
「夢の話を聞かせてもらえませんか」
爺さんは「え?」とそちらを見た。
声は聞こえていたけれど、内容を聞き取ることができなかったのだ。
少女は「夢の話をしてほしいんです」と繰り返した。
「夢の話、かい?」
「ええそうです。昔どんな夢を見た、とか」
「そりゃまたなんで」
不思議に思った爺さんが訊ねると、彼女は自らを指で示して言葉を続けた。
「わたし薬草のことならそれなりに知ってるつもりです。
だからよく眠れる薬ぐらいなら作れますが、夢を見させてくれる薬の作り方は知りません。
というよりそもそもそういう薬はないんじゃないかと思います」
「そうじゃのう」
爺さんは素直にうなずいた。そんな便利で不思議な薬、聞いたことがない。
だから確かな解決策はないと思うんですけど、と自信なさそうな声になりながらも少女は言う。
「できることは全部試してみた方がいいんじゃないかなと」
「それが夢の話なのかい?」
爺さんが訊くと、ミナはそうですとうなずいた。
「起きているときに見たものや聞いたものが夢に出てくることって結構多いじゃないですか。
だから今夢の話をして強めに意識していれば、もしかしたらまた夢が見られるかもって」
爺さんふうむと感心した。この子は頭がいいんだなあ。
「確かに噂をしていれば夢の方から近寄ってきてくれるかもしれんのう」
なんだか希望が見えた気がして、気分が少し明るくなった。
「なるほどそういうことならば」
爺さん出発のために御者台に身体を持ち上げて、
一番お気に入りの夢はどんなだったかなと記憶の底を探ってみた。
昔どんな夢を見たかなんて覚えてない人がほとんどだろうけど、
爺さん夢が好きだから割とたくさん覚えているのだ。
「あれはいつ見た夢だったか。大海原から始まるんじゃが――」
爺さんちょっと遠い目をして、静かな口調で話し始めた。
つづきます
「よし完成」
一通りを終えて満足そうにリンはうなずいた。
そんな彼女の目の前で、ミナは居心地悪く身じろぎする。
「なに恥ずかしがってんの。似合うよ」
「そ、そうかなあ」
果てしなく信じる気になれずに眼前の姿身を覗き込む。
そこにあるのはもちろんミナの鏡像だ。
姿見なんてミナの家では物置の奥にしまい込まれているからあまり見る機会はなくて、
そのせいで久しぶりの自分の姿になんともいえない妙な感じがしてしまう。
それがいつもと違う格好となればなおさらのこと。
雑な三つ編みにしていた髪はほどいて丁寧に梳いて整え、その後で一部だけをゆるく編み直してまとめてある。
服も汚れが入った野良着からきれいな薄青のワンピースドレスに着替えていた。
シンプルなデザインながらも地味な印象がないのは、
ほんのわずかながらも細かい各部位のバランスが絶妙に釣り合うように調整してあるのだろうか。
ふんわりと流れるスカートはかわいいけれど慣れていないので落ち着かない。
「うん、すっかりキュートな町娘だね。どう見ても田舎の芋女だったなんて思えないよ」
「い、芋っ……?」
「はいこれ」
愕然とするミナをあっさり無視して、リンは紙束の入った鞄が押し付けてきた。
結構な嵩と重みがあってあやうく取り落とすところだった。
よろめきながらもなんとか抱え直して訊く。
「な、なにこれ……!?」
「チラシ。配ってきて。全部」
そう言って彼女はミナの背中を押して店の外に追い出した。
「じゃ、よろしくー」
ミナの目の前でガタのきているドアが閉じた。
勢いに流されてしまって、ミナはしばらく言葉を失ったままだった。
呆然とした気分が引いてようやく落ち着いてから、チラシとやらを一枚引っ張り出す。
上部に大きい文字で一文、それから細かい文字でそれよりは長く別の文が続いていた。
「『仕立て屋リンのお店、明日開店』」
大字の方を読み上げて、ミナはしばしの間黙ってそれを見つめ続けた。
「駆け出しって言ったでしょ。明日店を開くの。自分の店」
夕方、ようやくのことでチラシを配り終えて戻ってきたミナに、作業を続けながらリンは言った。
芋女の文句に答えての言葉だ。
いろいろ物をあちらからこちら、こちらからあちらに動かしてはなんか違うなとやりながらなので、
こちらを向いてすらいないけれど。
「明日?」
傍らにあった肘掛け椅子に沈み込みながらミナはぐったりとつぶやいた。
「明日って、明日?」
「そうだよ」
小棚の置き場所に満足したのか、うなずきながらリン。
ただ、そのそばにはまだまだたくさん物がある。
続いてリンは小机を持ち上げて移動を始めた。
「わたしの念願だったんだ、自分の店を持つの。ようやく叶ってね。思えば長かったよ」
横顔にうっすらと笑みが浮かんでいる。
一日中開店の準備をしていたようだけど少しも疲れの気配はない。
体力があるのはもちろんだろうけど、
それよりも夢が叶った嬉しさでそんなことを感じている暇がないといった様子だった。
「店主って言ってたからてっきりもう開いてるんだと思ってた」
「あれ? そう?」
ミナの言葉にリンは一瞬だけこちらを向いたけれど、
すぐに作業に戻って「まあそんなことより」と続けた。
「今日はありがとうね、助かったよ。おかげで宣伝もばっちりだろうし明日が楽しみ楽しみ」
たくさんお客が来るといいなあとそっとつぶやくを見て、ミナも少し疲れのとれる思いがした。
「リンちゃんが心を込めて作った服でしょ? 大丈夫だよ。絶対たくさん売れる。間違いないって」
「だといいね」
小机の位置が決まったらしく、リンは再びよしとうなずいた。
もちろんまだまだ物はたくさんあるんだけれど。
「明日までに終わりそう?」
「微妙かな。また徹夜かも」
それを聞いてようやく疲れが引いてきたミナは勢いよく立ち上がった。
「じゃあわたしも手伝うよ。手伝わせて」
「ありがたいけど着替えてからね。それも売り物だから」
あ、そうなの……。
さっぱりとした声に多少出鼻をくじかれた感はあったけど、
とりあえず気を取り直して着替えるために奥に向かった。
結局徹夜まではいかないまでもかなり夜更けまで働いて、開店前準備はようやく終わった。
お疲れーと二人でふらふらとハイタッチしてそのまますぐにベッドに直行した。
それでも朝は早かった。
ミナは夜明けと同時に起きて、リンもその少し後に毛布から起き上がった。
外に出て朝日に照らされる店の様子を眺める。
両隣の店に押しつぶされるように小さくて、あまりきれいでもない建物。
それでもリンの第一歩だ。
店主本人はもちろんだろうがミナもなんだか嬉しかった。
よくよく考えてみれば一昨日出会ったばかりなのだから不思議なものではあるけれど、
気持ちの高ぶりは抑えようがないのも本当だった。
「うーん楽しみだねえ!」
「そうだね」
ミナは弾んだ声で言ったけれどリンの方はかなり落ち着いていた。
「じゃあ開店まで店の外と中を掃除しようか」
「……あ、うん」
また意気をくじかれた気分で所在なくミナうなずいた。
開店はそれからしばらく後。通りに人の姿が見え始めてから。
最後のチェック終えてから、リンが店のドアに開店の札を掛けた。
つづきます
最初のお客さんが来店するまではひどく長く感じた。
その間ミナはあちこち行ったり来たりしていて、店を開いた本人であるリンより落ち着きがないほどだった。
といよりリンの方は落ち着きすぎていたのかもしれない。
売り物を淡々とチェックして、静かに来客に備えているようだった。
だからドアが開く音がした時も彼女は少しも慌てたようには見えなかった。
ミナのいらっしゃいませの声は上ずってしまって聞くに堪えないものだったけれど、
リンは「いらっしゃい」と静かに応対してのけた。
おそるおそる入ってきたのはまだ小さな女の子のようだ。
十歳にもなっていないように見える。
ミナたちを見つけるとびくっと背筋を震わせた。そのまま言葉もなく硬直する。
「いらっしゃい、よくきたね」
一瞬どうしようと戸惑ったミナを追い越してリンが前に出た。
少女のところまでいって視線の高さを合わせる。
「服を買いに来たのかな?」
「あの……チラシ」
少女が手に持っていた店のチラシを差し出した。
「これを見て来てくれたんだね?」
リンの言葉に少女がコクンと小さくうなずいた。リンはにっと笑うと「ありがと」と言って立ち上がった。
「じゃ、さっそく見ていってよ」
少女はしばらくもじもじとしていたけれど、ようやく心を決めたように小棚や服掛けの方に足を進めた。
リンは慣れていないらしい少女について選ぶのを手伝ってやっていた。
似合いそうな服をいくつか取り出してきて並べてやったりおずおずとした質問に答えたりした。
ミナはそれを離れたところから見ていることしかできなくて、ちょっと悔しい気分だった。
いろいろ悩んだ様子の少女だったが、
最後に赤いリボンのついた柔らかそうな素材の服を目にした時にぱっと表情を輝かせた。
それまでずっと硬い顔だったのでまるで花が咲いたかのようにも見えた。
「これがいいの?」
リンの言葉に少女は大きくうなずいた。
少し負けてあげた代金を払って帰っていく少女の後ろ姿は、
最初のこわばった印象が嘘のように嬉しそうに見えた。
「はあ、疲れた……」
「まだ一人目でしょ。それにあんたは見てただけじゃん」
椅子にへたるミナにリンが呆れた。
まったく、とかぶりを振っているけれど、その表情はさっきの女の子に負けないくらい嬉しそうだ。
ミナも口元をほころばせた。
「まずは一人目だね」
リンはうん、と静かにうなずいた。
開店してすぐの来客もあって滑り出しは快調に思えた。のだけれど。
その後は全く人が入ってくる様子がなかった。
ミナは椅子に座ってじっと待っていたけれど、ドアの方からは物音一つしなかった。
相変わらず売り物のチェックをしているリンをちらりと見やると、
ちょうど目が合って彼女はかすかに微笑んだようだった。
まあ最初はこんなもんだよ、という笑みにも見えたし、あるいは自嘲や皮肉の笑みにも見えた。
そのまま昼を過ぎた。
「わたしちょっと客引きしてくる」
軽い昼食を終えたミナは待つのに焦れて、リンの返事も聞かずに外へと出た。
通りを見ると人気は十分にあって、
昨日あんなにチラシを配ったことを考えあわせてもなんでお客が来ないんだろうと不思議に思った。
振り返って見やる。
確かに見栄えのする店じゃない。
なんだか日陰になっているし掃除はしたけれど古びた雰囲気はどうにもならないしで、
どこか近寄りがたいものはある。
でもそれならおいてある服がいいものだと知ってもらえばいい。
「あの、すみません!」
ミナはさっそく正面から来た中年ほどの男性に声をかけた。
また無視されるんじゃないかという考えがちらりと頭をよぎったけれど、
リンお手製の服でおめかししたおかげかそれはなかった。
足を止めた男性はわたしは忙しいんだが、と顔をしかめた。
「すみません急に。あの、素敵な服に興味はありませんか。ほらあのお店です」
店を指さしてから次に自分の恰好を示す。
「こういういい服がたくさんあるんですよ」
男性は店をちらっと見た後しばらくミナをじろじろ見ていたが、興味もなさそうにこう言った。
「地味すぎる」
「え?」
「装飾が手抜きだ。センスがないよ」
そう言い足して男性はミナに背を向けた。ミナは慌てて追いかける。
「でもあの、着心地はすごくいいんです。ちょっと寄るだけでも」
そこまで言ったのだけれど、しっしっと追い払われぽつんと立ち尽くした。
その後も何人かに声をかけてみたのだけれど、
「いくら着心地が良くてもねえ」
「チラシは見たよ。女がやってるんだって? あんまり信用できないなそれは」
「今忙しいから」
全然相手にしてもらえない。店に戻るとリンは椅子に座っていて、ミナの方に手を振った。何も言わなかったけれど、全部わかっているように見えた。
なんだかミナの方が落ち込んでしまって少しだけ涙をこぼした。リンはその間ずっと背中をさすってくれていた。
夕方になる少し前にようやく来客があった。
ドアを開けて現れたのは三十代ほどの女性だった。
「いらっしゃいませ」
ミナたちの挨拶を無視して女性はつかつかとこちらに近寄ってきた。
会計用に置いてあった机に、持っていたものを広げた。
「これ、返品したいのだけれど」
赤いリボンのついた服だった。
「……あの、これって」
言いかけるリンに女性は気難しそうな目を向けた。
「うちの子がここで買ったんですってね。勝手に。すみませんけどお金返してくださる?」
「それは構いませんけど」
「けど? なにかしら?」
とてもきつい口調だったので視線を向けられていないミナですらびくっとしたけれど、リンは少しも引かなかった。
「あの子とても嬉しそうに買っていきましたよ。親御さんが自分だけの考えで返品したらそれこそ勝手じゃないですか?」
女性は顔をしかめた。
「あの子はまだ幼いんです。良いものと悪いものの区別がつかないんですよ。親のわたしが代わって選んであげないと」
ちょっと待って、それはあまりにリンに残酷な言い方だ。
口を開きかけたミナをリンが手振りでとどめた。
「分かりました。少々お待ちください」
返金が終わって女性は店から出て行った。
その背中に向かってありがとうございましたと頭を下げるリンは、どこか寂しげに見えた。
「そろそろ閉店にしようか。片付けもあるし」
頭を上げてリンは笑った。
ミナはなんだかやるせなくて黙って立っていた。
リンも片付けと言いながらも手をつける様子もなくそばの椅子に座りこんだ。
長い長い沈黙の後にリンが再び口を開いた。
「まあ分かってたよ、わたしの実力はわたしが一番ね。自分の店でやってくなんてやっぱり夢でしかなかったってことかな」
彼女は疲れたときにするように顔を両手で覆ってため息をついた。
「ああくたびれた……」
出会ってから初めてリンの弱い部分を見た気がした。
ミナは何も言えずにいた。
何かを言わなければならないことはわかっていたけれど何も言えなかった。
そうしているうちにリンが言葉を続けた。
「一人でお金貯めてさ、店のための建物も借りてさ、服もたくさん作ってさ。
ああそういえば母さんの反対も押し切ってだっけ、まあそうやってようやく店開いたわけだけどさ。
現実って非情だよね。いやすごくシンプルって言った方が近いのかな。当然の結果だもんね」
はは、と弱弱しく笑った。馬鹿みたい、ともつぶやいた。
その時だった。ミナはようやく自分がここに来た理由が分かった。言うべきこともわかった。
それを言うために、そのために自分はここに呼ばれたのだと理解した。
「馬鹿なんかじゃないよ」
小さく、けれどしっかりと言う。リンが少しだけ顔を上げた。
「馬鹿なんかじゃない。それだけ頑張ったのが馬鹿なことなわけがない。
結果がどうだってそれとこれとは別のことだよ」
リンは答えなかった。肯定も否定もしなかった。
ただその言葉の意味をじっくり考えたようだった。
そして多くを訊ねることなく一言だけ訊いてきた。
「わたしの服、どうだった?」
「すごくいい服だった」
間髪入れずに答えた。考えるまでもなかったからだ。
たとえミナがいわゆるいい服に疎かろうと、もっと評判のいい服やそれを作る人がいようと、
百人中九十九人がリンの作る服を否定しようと。
ミナ一人はいい服だと思ったことだけは覆しようがない。
それですべてが解決するわけでもリンが救われるわけでもないだろうけれど、ミナがそう思ったのは事実なのだ。
「大勢に認められない良さだって絶対あるよ」
そしてそれは大勢に認められる良さには絶対真似できない美点を持っているに違いないのだ。
「だから――」
ミナは言葉を続けようとしたけれど、ちょうどそのとき入り口のドアが開いた。
夕日の光の中に立つ小さな人影には見覚えがあった。
「あの……」
最初に来店した女の子だ。リンが立ち上がって声をかけた。
「どうしたの?」
少女は外を一回振り返ってから店の中に入ってきた。誰かを警戒しているようなそぶりだった。
「ここにママが来ませんでした?」
ミナとリンは顔を見合わせる。心当たりはもちろんあった。
「うん、服を返しに来たね」
「その服、もう一度売ってください!」
少女が急に大きな声で頭を下げたのでミナもリンもびっくりした。
少女はお願いしますと繰り返した。
「あの服がどうしても欲しいんです。今度は絶対見つからないようにしますから。お願いします!」
ミナは呆気にとられて何も言えなかった。
リンもそれは同じようだったけれど、すぐに我に返って赤いリボンの服を取り出してきた。
「持って行って。お金はいらないから」
「え? でも……」
「服はね、きっと欲しいと思ってくれる人のところにいるのが一番なんだ」
少女はぱっと顔を輝かせると、ありがとうございますともう一度頭を下げて出て行った。
軽い足取り、嬉しそうな背中で。
嬉しそうな背中と言えばそれを見送るリンの後ろ姿も嬉しそうだった。
ほっとしたようなそんな様子でもあった。
ミナはなんだか泣きたいような気持ちになって目元をおさえた。
リンの服を認めてくれる人はもう一人いたんだってこと。
リンがドアを閉めて、夕日の光がそこで途切れた。
それからもう一泊だけして、ミナは帰路についた。
もう用事は終わったみたいだし、リンは大丈夫だと確信したからだ。
また来てね、と彼女は言った。
今度はもっといい服を作って待ってるから、と。
ミナは笑顔でうなずいた。また手伝いに来るよ。
門の所まで来るとあの時の番兵さんを見つけた。
彼は前と同じように門の脇に立っていて、ミナを見つけると訝しげな顔をして近づいてきた。
「あの時の子かい?」
「ええ」
ミナがうなずくと番兵さんは怪訝の色をもっと濃くした。
「ずいぶん様子が変わったなあ。正直見違えたよ。もう怪しくはないね」
ありがとうございますと頭を下げた後、ミナは思いついて付け足した。
「町の北の方にある仕立て屋リンのお店ってところにいい服が置いてありますから、
暇なとき行ってあげてくださいね」
番兵さんは首を傾げたけれど、一応わかったとうなずいてくれた。
「それじゃあわたしはこれで」
「ああ、気を付けて」
番兵さんに背を向ける。
ずいぶん遠くまで来たと思った。
そしてこれからももっとずっと遠くに行けるだろうとも思った。
ミナは『遠く』が大好きだし、『遠く』の方もミナの方が嫌いじゃないみたいだから。
そして、リンもきっともっともっと先に進めるんだろう。
楽しみだなあと、心から思った。
と、その時。背後でガタン! と音がした。
振り返ると町から出てこようとする大きな荷馬車の車輪が壊れて荷台に亀裂が入ったところで、
聞き覚えのある動物の悲鳴が聞こえてきた。
ミナは慌てて門の外へと逃げ出した。
(ひよっ子魔女と都会の少女:おわり)
三つめ終了
あともう一つ分話のストックが頭にあるのでそれをやって完結としたいと思います
多分短いので今日明日中に終わるはず
それではまた次回
ひよっ子魔女と森の王
ある日のピクニックの最中、突然ペルの言葉が分かるようになった。
「川の上流に森の王がいたぞ」
あまりにいきなりのことだったので、
ミナはパンにかじりつく途中の口を開いた動きのまましばらく固まってしまった。
その日は以前エレクと一緒に見つけた森のお花畑に来ていた。
引っ張り出してきた黒猫は珍しく離れてどこかに散歩に出ていて、
彼の運動不足をひそかに心配していたミナはこれはちょうどいいなと思って好きにさせておいたのだけれど。
帰ってきたと思ったらなんとも奇想天外なこのサプライズ。
ミナはゆっくりとパンを下ろしながら猫を観察する。
とりあえず外見とかに特別な変化はない。
少し土汚れなんかがついているかもしれないがただそれだけだ。
とはいえ目に見える変化がないからしゃべれるようになるわけがないとは言えないわけで、
それが難しいところではある。
「ええと」
ミナは慎重に言葉を選んだ。いやそんなにマシな台詞があるわけでもないけれど。
「今なにか言った? ていうかしゃべった?」
「川の上流に森の王がいる」
声は確かに聞こえた。気がした。
気がしたというのはそのままの意味だ。
確かにペルがしゃべっているようには感じる。
でも何となく確信することができないというか。
黒猫は口を少しも動かしてなかったし、黒猫の方から声が『聞こえてくる』という感じでもないので、
ミナが勝手に心の中でペルに声を当てている感覚が一番近い。
ペルの声というよりミナの心の声だ。
つまり思い込みとよく似ていた。
思い込みと違うのはミナの頭の中に響く言葉とペルの挙動が一致しているということ。
「こっちだ」という声とともにペルはくるりと向きを変えて歩き出した。
無視することもできずにペルに続いて川沿いを歩きながらミナは考える。
(魔法……かな?)
魔法というのはそれ自体生きていて、不思議な物事を起こす目に見えない何かの総称だ。
わけのわからないことは大体これの仕業。
魔女はそれらと身内のごとく馴れ親しんでいたりその才能があったりする。
だから動物の言ってることを想像する何気ない遊びの類が現実とリンクするのは、
あり得ないこととは言い切れない。
ただの『あり得なくはない可能性』を実際に起こったことにする。それが魔法だ。
ペルは迷いなく河原を上流方向へと向かっていく。
何を目指しているのかは分からない。いや、そういえば違う。
(森の王……って言ってた?)
川上の方にそれがいるから会いに行くということになるのだろうか。
森の王? とミナは首を傾げた。
祖母から似たような単語を聞かされた覚えはあるけれど、うまく思い出すことはできなかった。
でも、と考える。王さまというからにはやっぱりすごく偉いんだろう。
それも『森の』と頭についている。
世の中にはいろんな王さまがいるけれど、その中でもかなり偉い王さまに違いない。
森は物言わぬ賢者たちの住処で、そのトップということなんだから。
「あれだ」
考えに没頭しているミナを、声が現実に引き戻した。
しっぽをゆらりとくねらせ黒猫が見やる先、河原の草の上にいたのは何やら黒くて大きい塊だった。
(……なんだろ?)
その時は結構離れていたので多少柔らかそうな黒い岩にしか見えなかったけれど、
さらに近づいていくと多少はわかるようになる。
黒いのは毛皮だ。岩のように大きい獣がうずくまっているのだ。
それに気づいてミナは慌てて距離を測った。
いつでも逃げられるように逃げ道も確認する。
場合によってはペルを連れて川に飛び込むことも必要かもしれない。
水が嫌いなペルはすごく怒るだろうがそんな小さいことは今はどうでもいい。
魔法は役に立つ? 味方してくれる?
そういうこともあるかもしれない。
魔法が気まぐれにミナを助けようという気になればだけれど。
「落ち着け」
いまだかつてない勢いで考えを巡らせるミナにペルが言う。
「大丈夫だ」
「……?」
ミナも異変に気がついた。
ひゅー、ひゅーと隙間風のような呼吸の音がする。
すごく弱くて苦しそうなそれは獣の方から聞こえてくる。
ペルは何を気負った様子もなくさらにそちらへと軽い足取りで近寄っていく。
ミナもそれに続いた。
獣はうずくまっていていたから少し縮んで見えたけれど、
それでも目の前に立ってみるととても大きいことが分かる。
もし起き上がれば四足立ちでも目線がほぼ同じ高さになりそうな、大熊だった。
相変わらず苦しそうな息の音は聞こえていて、それに合わせて背中が震えながら上下している。
「御大、連れてきたぞ」
ペルが言うと、ピクリと熊は反応した。
緩慢な動きで身体をほどき、ゆっくりと顔を上げてこちらを見た。
「魔女……か」
今度は別の声が頭に響いた。
いやそれもミナの心の声なんだけれど、今度のは目の前の熊の代弁だという感覚があった。
顔を上げた熊の大きさはやっぱりびっくりするものがあってミナはひるみそうになる。
でもそれよりは先に口が開いた。
「大丈夫……?」
大熊の下の草は黒く濡れていた。
その時にはもう血の臭いが濃く漂っているのにも気づいていた。
大熊はいいや、と声に弱い笑いの気配を混ぜた。
「もうこの身体を持ち上げることすら、できないな」
「ちょっと待ってて! 今何か持ってくるから」
振り返るが、そこにはペルが座り込んでいた。彼はミナを見上げて言った。
「無駄だ」
「でも」
「諦めろ。仮に治せたとしても今度は返礼として食われるのがオチだ。お前の役割はそれじゃあない」
反論しようとするけれどそれを背後から制止される。
「彼の言う通りだよ魔女どの……あなたには違うことを、頼みたい」
かすれ声で、熊は言った。
「わたしは森の王……いやかつて森の王だった。ギヌという。あなたには……」
ギヌは急にうめいて頭を垂れた。それからもう一度上げた口元は、わずかに血で濡れていた。けれどそれでも目にはまだ力が残っている。
「あなたにはわたしの最後の話相手をお願いしたい」
瞳の光は小さいけれどどこか強さを感じさせた。
ミナは即座にうなずいた。
「わたしでよければ。これも魔法のめぐりあわせだと思うから」
「ありがたい」
ギヌはほっとしたように頭を下ろし体をゆっくり横に倒した。
「申し訳ない。が、この方が楽でね。もう礼を失しないだけの体力がないんだ」
ミナは小さく首を振った。
「気にしないで」
ギヌの呼吸は既に細く長い。
苦しみにのたうつ激しい痙攣や荒い呼吸はもうとっくに通り過ぎ、
あとは静かに死を待つだけの身なのだろう。
「さて、何から話したものか。意識に靄がかかってそれすらもわからなくなってきたが」
「なんでも。あなたが話したいように」
「……あなたはまだ若いが、魔女としての資質は十分のようだね」
そんなことを言われたのは初めてだ。
自分は魔女として魔法と共に生きる術を十分に身に着けてはいないし薬草の扱い方なんかも半人前。
祖母には今みたいに褒めてもらった記憶もない。
「わたしは資質と言ったんだ。それは身につけるものではなく最初からあるものだ。
鳥が鳥であるように。魚が魚であるように。それは『そうである』ということだ」
「……分からない」
どこか悲しい気持ちでかぶりを振る。理解できないことがひどく残念に思えた。
「気にすることはない。そうであるものがそうであることについてその理由を考える必要はない。
ただあるがままに生きればいい」
ギヌは大きめに息を吐いた。
「話が逸れた。いやこれも大事な話には違いないがわたしには時間がない。
ああもう目は見えないのと同じになってしまったな」
そう言って彼は瞼を閉じる。
「魔女の資質はあらゆるものの語る言葉をそのまま素直に聞いて流れに従うことだが、
かつてのわたしの――つまり森の王としての資質は、ただ強く賢くあることだった。
強くあって他を寄せつけないこと。賢くあって他を上回ること」
わたしの体を見てくれ、と彼は言った。大きい体だろう?
確かに大きくて他の生き物ではどうあがいても勝てそうにない。
「わたしには森の王になるためのものが備わっていた。
他を圧倒し、出し抜き、あるいは協力もし、なるべくして王になった。
わたしは長くこの森に君臨することとなった。そして当然の結果として終わりもやってきた」
「どうして?」
「より強く賢いものには勝てないからさ」
自分で言ったことが自分で面白かったのか、彼は笑うように小さく呼吸を乱した。
「わたしは負けた。相手の方が強くこちらは老いていた。
わたしはもうすぐ死ぬ。わたしが話したいのはそのことだ。死についてわたしは知りたいのだ」
「死」
について。ミナは胸中で繰り返した。死について。
「そうだ、死だ。わたしは食べるために殺した。生き延びるために殺した。
森には生命に満ち溢れているがそれは同時に死も満ち溢れているということだ。
わたしはそうした行為を当然と思い何の疑問も持たなかった。
いや今でも持っていないが、今度は自分が死ぬ身になって思う。
死ぬとは何なのだ? なぜこんなにも怖く、寂しいものなのだろう」
うわごとのように長く続いたギヌの言葉はそこで途切れた。
ミナは慌てて彼の頭のそばにしゃがみ込んだが、まだ息はあった。
「教えてくれ。死とは何なのだ?」
ミナはしばしの沈黙の後、首を振った。
分からない。分かるはずもない。
「わたしはまだ一度も死んだことがないもの」
「……そうか。そうだな。違いない」
おそらくギヌの方が先に死を知ることになるのだろう。
その知識はどこに行くのかは知らないけれど。
「では霊魂は存在するのだろうか。霊魂の行き着く死後の世界はあるのだろうか。
そこに神はいるのだろうか」
「分からない」
「そうだな。もうすぐ分かるのかもしれないが」
「ねえ。死についてはまだ分からないなら生について聞きたいな。
あなたはどういう風に生きてきたの?」
今度は長い沈黙があった。
だがギヌはそれでもまだ死んでいなかった。
多分言うべきことを言い終わるまでは死なないのだろう。
魔法がミナをここに導いたのなら、ギヌはまだ死なない。
熊はそれから静かに話し始めた。
つっかえつっかえ、弱っているからというより遠い過去を手探りで探しているかのように少しずつ語った。
生まれたときのことは当然覚えていないけれど、
薄暗い穴の中で母親に抱かれ穏やかな気持ちでいたことは覚えている。
風の音や水の滴る音を遠くに聞きながら寝たり覚めたりを繰り返していた。
それから母親についていろいろ生きる術を学んだはずだけれど、それについては記憶が曖昧だ。
ただ母がくれた魚の味がとてもおいしかったことだけは頭にしっかり残っていた。
あとはひたすら戦う日々。
激しく牙をむき合う戦いもあれば静かで長い戦いもあった。
傷つき今度こそ死ぬと思ったのも一度や二度ではない。
そして敵は形あるものとは限らなかった。飢えや渇きや寒さや恐怖。
そういったもの全てと戦ってきた。
「そういえば魔女とあったこともある」
森の中を一人で歩く、若い魔女だったらしい。
「その人がわたしに名をくれた。わたしはその時ちょうど満腹でその人を襲う気にはならなかったんだ」
あれは魔法だったのかもしれないが、とギヌは続けた。
その魔女は大熊をギヌと名付けその晩長く語り合ったそうだ。
その中に死についてのこともあった気がするとギヌは言う。
「光があるのは闇があるから。生があるのは死があるから。黒い紙には字は書けない。
そんなことを言っていた」
ふと思い出すものがあってミナはつぶやいた。
「わたしその人のこと知ってるかも」
「本当か。誰だ? あれはどういう意味だったんだ?」
「誰かはちょっと自信がないけど。似たような話ならわたしも聞いたことがあるから」
記憶を探って言葉にまとめるのは結構難しかった。確か、と口を開く。
「光が光と分かるのは暗闇の中にそれがあるから。もし暗闇がこの世になかったら、光は光じゃない。
同じように生でない状態がなければ生は生たりえない。紙が黒かったら字は字として働かない」
「つまり……生と死は互いに存在を支え合っているということか。死はあって当たり前のものということか」
ギヌは長くため息のように息を吐いた。
「それが分かったところで死はやはり恐ろしい。寂しい」
「それも当たり前だよ。あなたがあなたとして生きてきたこと、そしてあなたという存在、
全部がなくなるんだから。怖くないわけがない。寂しくないわけがない」
そして、悲しくないわけがない。
「まったく、死とは何なのだろう……」
疲れた声で言うギヌにミナは優しく言った。
「どうしても怖かったら、少し眠るだけだと思えばいいんだよ。
起きてる時間っていうのも眠りの中にあるものだから」
「そうか?」
それまでずっと黙っていたペルがその時だけツッコんできたが、ミナは無視した。
「眠るまでそばにいてあげる。ゆっくりおやすみ、ギヌ」
それからゆったりとしたメロディーを口ずさんだ。
優しく穏やかなそれは寝る子のための子守歌。
森の熊が眠りながら見る夢のお話で、祖母がよく歌ってくれた歌だ。
祖母は若い頃各地を旅していたようで、ある森の王様にもあったことがあるという。
名前をあげて一緒に話をしたんだとか。
彼女は厳しい師匠だったけど、歌う声は優しかった。
柔らかい日の光の中、ミナの歌を聞きながら、かつての森の王は静かに息を引き取った。
……
ギヌを埋めてあげようと思ったけれど、森には森のやり方があると思い直し、
ミナはそのまま帰路に着いた。
草原の中を歩いているときに気づいたけれど、もうペルの言葉はわからなくなっていた。
もう今回の魔法は終わったということなんだろう。
バスケットの中、にゃーと鳴く黒猫の頭をなでてやりながらミナは地平の向こうを眺める。
日の光が今しも赤く染まっていくところ。
不思議に満ちた世界を照らし、沈み、そして夜がやってくる。
夜の後には朝。明日と明後日、明々後日。ミナの周りはそうやって少しずつ巡っていく。
そんな日々を、まだまだ未熟なひよっ子魔女は、ゆっくりゆっくり歩いていくのだ。
(ひよっ子魔女と森の王:おわり)
以上、完結です
正直途中でくじけそうになったけれどレスに本当に助けられました、ありがとでした
ではまたいつか
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