モバP「アイドルのいる風景」 (31)

彼女――渋谷凛はライブ前、とても静かだ。
同じユニットのメンバーである加蓮と奈緒が二人で話しているのに対し
凛はそれに参加することはない。落ち着いた、人によっては冷たいとも
取れるまなざしでお気に入りのアクセサリーを握り、どこかを見ている。
以前、プロデューサーが彼女にこの時について聞いたことがある。

「凛はいつもライブ前は落ち着いてるな。緊張とかしないのか?」
「落ち着いてないし、緊張してるから」
「でも加蓮とか奈緒みたいに緊張を解すために会話とかしないだろう」
「うん。あの二人はいつも通りの会話をしていつも通りの練習と同じよ
 うにやるようにしてるらしいけど私はそれが性に合わないみたいだか
 らさ。イメージしてる」
「イメージ?」
「そう。私達がステージの上で最高のライブをしているところをね

彼女たちのライブは未熟であるわけではない。むしろトップクラスと言
って過言ではない。事実、それは結果として現れている。

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一週間に一回行われるライブバトル。それを見たファンたちはアンケー
トに記入をし、アイドルのランキングをつける。アイドルランキングア
ワードと呼ばれているものだ。発表されるのはトップ十位までだが凛と
加蓮、奈緒の三人ユニット、トライアドプリムスの名は常連の一つなのだ。

普通のアイドルであればそこに名を連ねることが夢だと言う子もいるの
だが凛はそれだけでは満足してはいない。彼女が目指しているのはトッ
プクラス、ではなくトップ。アイドルランキングアワード一位の座である。

しかしそこには現在絶対君主がいる。トライアドプリムスが登場する以
前より一位の座を守り続けているアイドルがいるのだ。

その日のランキングの一位も彼女の名が書いてあった。最早それは日常
風景とも言える。ランキングに名が乗るほどのアイドルでも一位に関し
ては関心すら寄せない。それは一位である彼女もまた同じだ。

彼女の名は――岡崎泰葉と言う。

「泰葉。一位のご褒美をやろう。何がいい?」
「別に何もいりません」

泰葉は読んでいる本から目も話さずに担当の言葉に答える。彼はため息
を漏らして、聞こえよがしに呟く。

「ヘイヘイ、トップアイドルの岡崎泰葉様にやってあげられることなん
 てこんな惨めな私には何もありませんよっと」
「子供みたいにすねないでください」
「すねたくもなるわ。知ってるか? 俺の世間でのあだ名」
「なんですか?」
「女王様の衣装のほつれた糸くず」

本を読んでいた彼女もこれにはさすがに失笑した。

「プロデューサーなんて所詮裏方だからさ、別に評価されたいわけじゃ
 ないけどいくらなんでもひどいだろ?」
「そうですね」
「だからさ、せめてこの傷心を癒すためにもお前に何かやってやりたいんだ」
「でも私に何かしたところであなたの評価が変わるわけでは……」
「自己満足だよ、自己満足」

泰葉から見て、自分の担当である彼の評価は世間のそれと同じではない。
むしろ自分をアイドルとしてここまで育ててkるえた大切な人なのだ。そん
な彼が落ち込んでいる。泰葉は読んでいた本にしおりを挟み、本を閉じた。

「では何か面白い話をしてください」
「面白い話? 何でもいいのか?」
「はい、何でもいいですよ」

彼は椅子を持ってきて、彼女に正面に座る。どうやらやる気はあるようだ。

「よし、そうだな。最近調子がいいトライアドプリムスの話とか会場で
 ゴキブリが発見されたとか……」
「それは面白くないですよ。ライバルの話なんてされても……」
「でもそのトライアドプリムスの……渋谷凛か。あの子、一位の座を狙っ
 てるって専らの話だぜ?」

泰葉もその名は知っている。おそらくあのグループで一番向上心が高く、
それゆえに危うい子だ。ライブではおくびにも出さないがレッスン場な
どで見た時に時折、他の二人を相手に衝突しているときがある。しかし
一位になったところでそこにあるのは希望ではないというのに……。

「それは面白いかもしれませんが私の言いたい事はそういうのではなくて……」
「わかってるよ。B棟の存在しないはずの八階にある自販機とかレッスン
 場に時計が二つある理由とかドッペルゲンガーが出るとか……」
「オカルト好きですよね」
「面白いじゃないか。どれが聞きたい?」
「そうですね……」

彼女はしばし考えた後、自販機の話を聞く事にした。

プロデューサーに取ってもらったビデオを凛は見返す。内容は前回のライ
ブバトルのものだ。プロデューサーは最近多忙でレッスン場に来ることも
ないのだが、どうしてもライブバトルのビデオは欲しかったので凛がお願
いしたのだ。ちひろに代役を頼まなかったからプロデューサーも見たかっ
たのかもしれない。

最初は他の二人もいたのだが三巡目し始めた辺りでいなくなった。気にな
るところがあれば手元のメモ帳に時間と気になった内容をメモする。

「凛。もういいだろ。何回見る気だよ」

さすがに見かねた奈緒が声をかける。凛はヘッドホンを外し、ビデオを停
止した。

「そうだね。多分これ以上はないと思う」
「結局何回見返したんだ」
「……十回以上?」
「うへぇ……」

ライブでは一曲しか歌わない。他のユニットも待っているからだ。それゆ
えにビデオ自体も長くとも一回五分程度だ。だとしてもそれを十回以上。
奈緒はうんざりしたような表情をする。

「なぁ凛。今日は貴重な、きちょおおぉぉな一日休みなんだぜ? 今日ぐ
 らいゆっくりしてもいいんじゃないか?」

奈緒は貴重を強調して凛を説得する。

「奈緒、休んでるヒマなんてないよ。こうしてる間にライバルは強くなっ
 てるかもしれないんだから」
「まぁ落ち着けって。何をそんなに焦ってるんだか知らないけどさ。最近
 おかしいぞ、お前。ほら、これでも飲めよ」

持っていたペットボトルを凛に差し出す。最近新発売したものだ。こうい
った物はよく奈緒や加蓮が試しに買っていることがある。既に開封された
キャップを外し、ペットボトルを傾ける。そしてすぐに戻した。

「なにこれ、マッズ」

それを見て奈緒が笑った。

「どうだ、落ち着いただろ。新発売の炭酸飲料だ」
「いや、これ商品未満だよ。まずすぎる」
「まぁ買って来た加蓮が飲めなくてアタシも飲めなかったから凛に渡した
 んだけどな」

不思議なもので自分にとって害のあるものだとわかるとペットボトルに満
たされた緑色の液体が毒薬に見えてくる。キャップをしっかりと閉めて、
机の上に置く。

「私、そんなにおかしい?」
「まぁな。前よりかなんというか……トップアイドルって名前に固執して
 る感じがするな」
「でも悔しくない? 一度も勝ったことないんだよ」
「悔しいかどうかか……」

奈緒は頭をかいて、少し考えた後
「悔しくはないかな」
と答えた。

それは凛には信じられない言葉だった。なせ。負けて悔しいと思わないな
んておかしい。自分はこんなに悔しい気持ちでいっぱいなのに。

「いつまで話してんのー」

丁度その時、戻ってくるのが遅い奈緒の様子を見に加蓮がやってきた。
すかさず凛が加蓮に質問する。

「加蓮。ランキング一位になれなくて悔しいよね」
「え、別に」

加蓮は呆気なく答えた。さらに言葉を続ける。

「最近凛おかしいよ。休憩時間切り詰めて練習しようとするし」
「おかしいのは二人だよ。なんで悔しくないの?」
「うーん、全然悔しくないって言ったら嘘になるけどさ、
 アタシは別に一位になれなくてもいいとは思ってる」

凛の頭に黒い考えが横切る。
自分がこれだけ頑張っているのに、悔しいと思っているのに。
なぜ勝つことが出来ないのか。
もしかしてこの二人が足を引っ張っているからじゃないのか。

「……もういい。ちょっと私出かける」
「凛! 待って!」

加蓮の制止に顔も向けず、凛は事務所から出て行った。
その後を加蓮が追いかけようとする。

「加蓮ちゃん。行っちゃだめです」

いつの間にか自分の事務机から離れ、近くにいたちひろが加蓮を止める。

「でもちひろさん……」
「今の凛ちゃんに何を言っても仕方ありません。プロデューサーさんがど
 うにかしてくれるのを待ちましょう」
「Pさんが解決出来るか?」
「出来るかな……」
「……多分」

いくつかの扉を抜け、階段を上り下りし、凛は気付けば普段は来ないよう
な場所にいた。しかし走ったおかげで頭は冷静になっていた。いや、冷静
になったと自分に言い聞かせているだけかもしれない。

歩きながら今後のことを考える。まずは……自分の力がどれほどのものか。
現在不動の一位である岡崎泰葉はユニットを組んだことはない。ずっとソ
ロでやっている。ならば自分もソロでやってみよう。ソロなら今まで出来
なかったようなダンスにも挑戦できる。それでもしも一位になれば……。

足を止める。建物内だというのに静かだ。先ほどまで鳴っていた凛の足音
も聞こえない。他に音は何も。

「気のせい、かな」

人気のない寒々とした廊下。そのせいか他の場所より汚れてるように見え
るし、電灯の明かりもどこか心許ない。そんな暗がりから声が聞こえた気
がした。聞きなれた声が。

そういえば加蓮と奈緒が話していたアイドル志望生の幽霊の噂はこの辺り
だったのかもしれない。凛は気付けば歩を早め、自分の事務所へと向かっ
ていた。

「ということで来週は凛ソロと加蓮奈緒の二人組みでライブバトルします」

そう説明するプロデューサーと涼しげな顔をした凛。
そして半目でプロデューサーを見る加蓮と奈緒。ため息をつくちひろ。

「まぁ経験だよ。経験。いいじゃないか」

奈緒と加蓮はそれでもなんとなく納得出来ない顔をしている。
凛が出て行った後、プロデューサーが入れ違いで帰って来て、二人は事情を
説明した。プロデューサーは大して驚く様子もなく、二人の話を聞いた後に
丁度帰って来た凛のソロライブの申し出を何のためらいもなく受けたのだ。

「練習も別々にするようにトレーナーさんに話を通しておくから」
「でもよー、一週間でアタシたちは二人での動きをマスターしなきゃいけな
 いんだろ? 出来るもんなのか?」
「やるだけやってみればいいさ」
「適当だよね。Pさんって……」

加蓮と奈緒が二人揃ってため息をつく。凛が立ち上がり、予定の書かれたホ
ワイトボードの前に行く。

「練習時間ってここに書いてあるのを私と奈緒加蓮の二つで分けることになるの?」
「いや、そこに書いてあるのは二人の練習時間にして凛のは別に作ろう」
「出来るの?」
「出来るよ。多分」
「じゃあ今お願い」
「今?」
「うん、すぐに練習したいから」

凛にせっつかれてプロデューサーが連絡をし始める。それを見ていた奈緒と
加蓮が顔を見合わせる。普段から頼りがいがあるとは思っていなかったがこ
うもアイドルの尻に敷かれているのを見ると自分達の将来まで心配になってくる。

「二十分後にダンスの練習できるってさ。第三練習場な」
「うん、ありがとう。練習どんどん入れてね」
「適度に入れておくよ」

凛は待ちきれないのか必要な物を持って、練習に向かった。
彼女が行くのを見送った後、奈緒がプロデューサーに不満そうな顔を向ける。

「なんで止めないんだよ」
「止める必要がないからだよ」
「このままじゃトライアド解散しちまうぞ」
「するはずないだろ。お前だって凛の傍にいたんだからわかるだろ」

凛は協調性がないということもないし、本気で友人を疑う人間ではない。た
だ時折、思いこみから暴走することがあるだけだ。それは奈緒も加蓮もよく
わかっている。今回もどうしても勝てない悔しさからこういった行為に走っ
たのだ。

もちろん奈緒や加蓮があそこで悔しい、勝ちたいと言えば結果は変わったも
のになっただろう。しかしそうなれば凛は二人にあらゆる練習を強いること
になる。過剰なレッスンは治ったとは言え、病弱であった加蓮には酷な話だ。

だから奈緒も加蓮の側に立ってブレーキ役になったのだ。仮にレッスンが始
まり、加蓮がもしも倒れたら凛は大きな罪悪感に苛むことになる。うまく説
得出来ればそれがよかったのだがあの状態の凛を止める言葉が浮かばず、僅
かな希望がかかっていたプロデューサーも案の定だったので結果として凛の
孤立を招いた。

プロデューサーが平然としているのは凛が今溜めているガスを今回のライブ
で抜けばいいと考えているからだ。
しかしそうまでわかっていても奈緒はどうしても不服に思ってしまう。

「プロデューサーならうまい落とし所を見つけてくれると思ったんだけどな」
「また心にもない事を言って」
「バレたか」

悲しそうに俯くプロデューサーを無視して、加蓮が奈緒に謝る。

「ごめんね。私のせいでこんなことになって」

それを聞いて、照れたのか奈緒がそっぽを向いて頭をかく。

「別にこういうときはアタシがどうにかしないとって思ってたからさ」
「どうにも出来て無いけどね」
「うるさい」

二人のやり取りを見ていてこれなら大丈夫だろうとプロデューサーは安心する。
この様子であればメンタル面からのライブへの影響は少なそうだ。ランキング
には乗れなくてもそこそこの順位にはなれるだろう。凛も一回やれば納得して、
元の鞘に戻るはずだ。しかし万が一戻らなかったときのことも考えなければな
らない。ただでさえオーディションの問題で忙しいのに……。

ふとちひろをプロデューサーが見る。目線が合い、彼女は懐からスタドリを取
り出した。まさかそんなことは。プロデューサーは自分の頭に浮かんだ疑問を
沸き出てきた頭痛と一緒に振り払うように頭を振った。

こうしてみるとレッスン場は普段より広く、そして寒々しく感じられる。実際
には冷暖房がついているので暑い寒いということはない。今も動いた後なので
体は暑いくらいなのだ。それなのにどうしてこんなに寒く感じるのか。

「一週間とは言え、かなりのレッスン量をこなしたし、君には元々の能力があ
 る。そういった意味では明日のライブバトルはいい出来になるだろう」

レッスンの終わり。トレーナーが凛に語りかける。しかしどこか引っかかる言
い方だ。凛は汗を拭き、立ち上がる。

「それだけではないってことですか」
「そうだな。無論それだけではない。ダンスがうまいだのボーカルが素晴しい
 だのヴィジュアルが美しいだのそれも確かに重要ではあるがそれが全てでは
 ない。それは君だってわかるだろう」
「わかりません」

凛の心のどこかにあるぼんやりとした何か。そのはっきりとしないヴィジョン
の正体がトレーナーの言うそれなのかもしれない。それならその答えをここで
聞きたい。
トレーナーは悩むそぶりを見せ、口を開く。

「君は……君はどんな未来を夢見てアイドルをやってきたんだ?」
「どんな……未来?」

トップアイドルになってプロデューサーを喜ばせたい。それが凛が夢見てきた
こと。それなのになぜだろうか。凛にはそれが違う何かに思えてきた。

「……余計な事を言ったかもしれないな。何にしろ、今の君はトップクラスの
 アイドルであることは間違いない。自信を持ってライブするんだぞ」

そう言ってトレーナーは出て行った。トレーナーは励ますつもりで最後の言葉
を言ったのかもしれない。しかし今の凛にはそれが不安を煽るものにしか聞こ
えなかった。

奈緒と加蓮のユニット、ツインスターはなかなか好評で観客の声援も舞台袖ま
で聞こえてくる。凛はいつもと同じようにお気に入りの蒼いアクセサリーを握
ってイメージする。しかしどうにも定まらない。普段なら気にならない声援が
今日は耳に付いてしまう。もうすぐツインスターのライブが終わり、自分の番
が来る。それなのにイメージは雲散霧消してしまった。なぜ自分がライブをや
っているところが想像出来ないのか。先週までは確かに……。

凛の頭に色鮮やかなイメージが浮かぶ。そうだ。そのイメージには。
ツインスターが拍手喝采に送られて帰って来た。息を切らした奈緒と加蓮とす
れ違う。

「ごめん」

凛の口から自然にその言葉が零れた。

「気にすんな」
「頑張ってね」

煌くステージに向かう彼女の背中に二つの言葉が届いた。
もう心に迷うものはない。
今の私にはちょっとこのステージは広いけど、でも私はここで輝く。
ただアイドルを楽しむために。

案の定と言うべきなのか。凛の名前はランキングになく、ツインスターの名前
はギリギリの順位に残っていた。そして一位にはいつも通りの名前が乗ってい
た。来週にはツインスターの名前もなくなり、トライアドプリムスの名前がラ
ンキングに戻る。また変わらぬ日常が戻ってくる。ランキングを後にして、事
務所に向かうことにした。

「あら、渋谷さん」

声をかけられて顔を上げる。そこには一位でおなじみの人がいた。

「こんにちは。岡崎さん」
「どうでしたか。一人っきりのライブは」
「私にはあのステージは広いみたいです」
「でしょうね。あなたは三人でやってるときが一番楽しそうですし」
「岡崎さんはアイドル、楽しいですか」

会話が止む。泰葉は寂しそうに微笑んでいる。
少し間が空いた後、泰葉が静かに言う。

「光が強く輝けば、闇はより濃く生まれます。
 昔はそうだったかもしれません。今となってはもう……」

泰葉は目線を伏せる。凛は触れてはいけないところに触れたのだろうかと慌て、
口を開こうとしたら泰葉が伏せていた目線を上げた。

「渋谷さん。あなたなら私よりいいアイドルになれます。頑張ってください」
「え、あ、ありがとうございます」

突然の応援にどもってしまう。泰葉は一礼するとその場を立ち去った。なぜ応
援するのにあんな悲しそうな目だったのか。凛にはそれがわからなかった。
そしてその翌週。
トライアドプリムスがランキング一位を取り、岡崎泰葉はアイドルを引退した。

「どうしても教えてくれないんですか」
「どうしても教えることは出来ない」

とある事務所の前で凛とその事務所のプロデューサーが対立する。
泰葉の引退を知った凛はどうしてアイドルをやめるのか聞きたくなり、かつて
岡崎泰葉が所属していた事務所まで来て、担当していたプロデューサーと話す
ことは出来たのだが泰葉の連絡先を教えることも会わせる事も出来ないの一点
張りで話が膠着していた。

「ちょっと話が聞きたいだけなんです」
「ちょっとでもたくさんでも変わらん」
「なんでそんなに頑なに拒否するんですか」
「そういう決まりなんだよ。君の事務所だって同じだ」

それは凛には初耳だった。元からあの事務所に他のアイドルがいたところを見
た事ないのだが。

「そもそも君はなんでそんなに泰葉と話したいんだ。アイドルの引退する理由
 なんてありきたりのものだぞ。泰葉だってもう二十三なんだ。理由としては
 十分だ。君はまだ十六だったっけ。泰葉ぐらいの歳になればわかるさ」
「先週までトップアイドルだった人が一回負けた程度で引退するなんておかしいです」
「その座から引き摺り下ろしたのはまさしく君なんだけどなぁ……」

プロデューサーが残念そうに言う。

「本当の理由があるはずです。知っているなら教えてください。それとも言え
 ない何かがあったんですか」
「何かがあったか……いや、逆だね。何にもなかったんだよ」
「何も無かった……?」

プロデューサーは周りを見た後、事務所のドアを開けた。無言で中に入れと言
っている。廊下では話せないことなのだろう。凛は事務所の中に入った。

「泰葉が何週間一位だったか知ってるかい?」

案内された部屋の椅子に座るとそれまで無言だったプロデューサーは話し始めた。

「いえ……でも私がアイドルを始めて一年間はずっと一位だったと思います」
「君、アイドル初めて一年で一位取ったのか。すごいな……」

本当に関心しているように褒める。

「泰葉は十六の時にアイドルを始めて、十八で一位を取った。それ以来ずっと
 一位だった。だから五年ぐらいか」
「ごね……!?」

凛が絶句する。アイドル業界というのは流行り廃りのサイクルがとても早い。
ランキングに入るような人気のユニットならともかく普通のユニットやアイド
ルは三ヶ月もすれば消えたりしてしまう。そんな中で常に人気一位であるなん
て本来ならとても考えられない。

「まぁ君だって泰葉のライブを舞台袖なりなんなりから見てるだろうからわか
 るだろうけど彼女のアイドルとしての才能は恐ろしく高い。それを引き出し
 た俺はとてもすごいんだよ」

フフーンと威張っている。しかしこれを凛はスルーする。

「才能があるならなおさらすぐにやめるのは勿体ないじゃないですか」
「才能を持つということを知られてしまえば、その人間にはこれからずっと期
 待と結果が付き纏うんだよ」

泰葉の天賦の才能という光は、同時に重圧という闇を生み出し彼女に付き纏った。

「それじゃあ岡崎さんがやめた理由は……」
「『疲れた』。それだけだ」

あの時の言葉を思いだす。かつては楽しかったアイドルも今となっては一位を
取り続けるという苦痛でしかなかった。彼女はその苦痛とずっと付き合っていた。

「もしかしたら泰葉は君に感謝しているかもしれない。苦痛を解放するきっか
 けをくれて」

プロデューサーにお礼をし、泰葉の事務所を後にする。

彼女の苦痛を今の凛が分かち合うことは出来ない。少し前まで凛も苦しんでは
いたが彼女の比ではないだろう。そんな重圧の中で凛はステージで踊り、微笑
むことは出来るだろうか。

カン、と何かが落ちる音がした。階段を下っているときに何か落としたのかと
見ましたが何も落ちていない。音からすると固そうなものだ。周りを見渡して
丁度ここが前に凛が幽霊のようなものを感じた気がした場所だということに気
付いた。やはりここには何かいるのだろうかと階段を下りようとしたとき、暗
い廊下の先に何かが落ちているのに気付いた。凛は少し葛藤した後、走ってそ
れを取りに行く。誰かの落とし物かもしれない。しかし近づいて拾ってから凛
は愕然とした。

それは自分の持っているアクセサリーと同じものだったからだ。
慌てて懐を探る。自分のは確かに持っている。取り出して見比べても同じもの
にしか見えない。そういえばこれはどこで手に入れたものだったか。

思いだそうとしたら鋭い痛みが頭を走った。頭を抱えて、膝を付く。手を離し
たため、二つのアクセサリーが床に落ちてカンと音を立てる。一瞬ではあった
が今の痛みは何なのか。予測してない状況に脳みそがパンクしているのだろう
か。

落ちたアクセサリーを拾おうと屈むと、そこに人が立っていることに気付いた。
ゆっくりとつま先から目線を上げて行く。見慣れた靴、服、体つき。そして。

「な……んで」

そこには渋谷凛が立っていた。少しだけ驚いたように目を見開いている。
どこかから聞こえてきた足音を聞いて、もう一人の凛が凛の手を掴み走り出す。

「え、何」
「いいから」

引っ張られるがままに暗い廊下を走っていく。後ろから聞こえてくる足音は段
々と遠くなりそのうち聞こえなくなった。

「そろそろいいかな」

もう一人の凛が凛の手を離し、立ち止まる。どうやら追っ手から逃げているよ
うだ。息を整えている間、凛はもう一人の凛を観察する。よく見ればこの凛は
少し幼い感じがする。丁度凛がアイドルを始めた頃の年齢くらいだろうか。

「あんたはえっと……私だよね」
「うん。渋谷凛、十五歳。あなたは……少し成長してる私だね」
「十六だけど……。いや、それはどうでもいいよ」
「よくないよ。ねぇ、自分がどうやってアイドルになったか思いだせる?」
「え?」

確かオーディションで選ばれたんだ。でもなんでオーディションなんかに参加
したのだろうか。思いだそうとするとまた痛みが走る。

「やっぱりあなたも過去のことを思いだそうとすると頭が痛くなるんだ」
「なんでこんな痛みが……」
「わかんない。わかるのは多分私が追いかけられていることと私がここに存在
 しちゃいけないってこと」
「幽霊、じゃないの?」
「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。私の最初の記憶、痛みなし
 で思いだせる最初の記憶は何もない白い部屋の椅子に座らせてるところから
 だった。それ以外のことはオーディションで選ばれたぐらい。なぜどうやっ
 てそこに来たのかは思いだそうとすると痛みが走る。その時、既に持ってい
 たのがこのアクセサリー。あなたも持ってる奴だね」

先ほど落とした二つのアクセサリー。見比べると僅かに傷や汚れが片方のほう
が多いのがわかる。もう一人の凛は汚れているほうを凛に差し出す。

「少ししてから知らない男の人が入ってきた。その人に着いて行って、今
 度は家具とかある普通の部屋に案内されて『今日からここがお前の部屋だ』
 って言われたの。あなたにも記憶にない?」

そうだ。オーディションに選ばれて寮生活することになり、案内されたんだ。
何もない白い部屋から。

「でもそれからずっと私は待機させられてた。外に出ようと思っても見張りが
 いて出れなかった。でもある日、食料がなくなったから外の人に頼もう と
 思ったら見張りがいなくなってて……。それで私はその部屋を抜け出した。
 真実を知るために」
「真実……」
「あなただって知りたいでしょ?
 なぜ自分が二人いるのか。この頭の痛みは何なのか」

数日後。作戦は決行された。作戦とは言うものの事はとても単純なものだ。
当日。幼いほうの凛が普通の凛として事務所に向かう。そしてお昼時になった
ら他の二人とプロデューサー、そしてちひろを連れ出すというものだ。おそらく
中に無人となったら事務所のカギは閉められる。なので普通の凛は前日より事務
所の凛専用ロッカー内に潜む事になった。もしも二人の凛が同時に見つかったら
一大時になる。しかし彼女たちが考えた限りではこれが一番真実に近づけるもの
だと確信していた。

狙うのは事務所の資料。この事務所にいたかつてのアイドルの情報だ。詳細な個
人情報はないにしてもなにかしらの記録、過去が残されている。そうでなければ
プロデューサーの机の後ろの棚にぎっしり詰まったファイルの存在はおかしい。

「よろしくね」

そう言い残し、事務所のみんなを連れて幼い凛は出て行った。遠くで事務所のカ
ギが閉まる音を確認してからロッカーを出る。いつ帰ってくるかもわからない。
すぐにプロデューサーの机まで行き、後ろの棚のガラス戸を開ける。しかし開か
ない。カギがされていたのだ。探す暇なんてありはしない。そもそもなぜカギな
んてかけられているのか。そんなに大事な資料なのだろうか。凛は意を決し、プ
ロデューサーの椅子を持ち上げ、ぶつけた。

派手な音共に散らばるガラス。椅子を投げ捨てて、ファイルを一つ抜き出す。青
いプラスチックで出来たファイルは無地で何も書かれていない。例えばいつの記
録だとかわかりやすく背表紙に書くものではなかろうか。だがそれを気にしてい
る場合じゃない。凛はそれを開いた。

「え……?」

凛はファイルのページを一気に捲る。そして投げ捨てて次のファイルも取り出す。
それも同じように捲り、投げ捨てる。また次のを取り出す。

気付けば棚には既にファイルは残っていない。手はガラス戸に残っていた破片や
散らばったガラスで傷も出来てる。最後のファイルを地面に落とす。今度はプロ
デューサーの机の引き出しを開ける。そのまま引き出しごと取り出し、投げる。
それを最後までやったところで凛は現実を悟った。

ファイルの中身は全て白紙だった。いつもプロデューサーが使ってる机の引き出
しにも何も入っていない。あと記録があるとすれば。机の上にあるいくつかのノ
ート。プロデューサーが業務日誌と呼んでいるものだ。凛はその中身を見たこと
ないが書いているところを見たことはある。書いてあるとしたら最近の出来事ぐ
らいのはず。震える手で業務日誌を開く。だがそこにもなにも書かれてはいなかった。

凛の心が深い絶望に満ちていく。
プロデューサーは机に向かっていつも何していた? 棚のファイルは何のために
存在した? 自分達は今まで一体何をしてきた?

「何かおかしいと思ったんですよね」

背後から声がした。凛がゆっくりと振り返る。

「ひどい不祥事ですね。全く」

そこにはこの事務所の事務員、千川ちひろが立っていた。

「さてと、お話しましょうか」

その日の夜。凛の家にちひろはやってきた。
あの後、凛は自室に帰るように命令され、傷の手当をした後、そのまま部屋に
篭っていたのだ。

「もう一人の私は……?」

だから凛は幼い凛がどうなったのかを知らない。もしも順調にことが運んでいた
らこの部屋に戻ってくる手筈になっていたのに、その姿はない。

「まずそれからお話しましょうか。もう一人の凛ちゃん、いえ渋谷凛についてです」

ちひろが用意したコーヒーに口をつける。

「蒼いアクセサリーもってますか?」

おとなしく懐からアクセサリーを取り出す。ちひろはそれを手に持って様々な角
度から眺めている。

「あなたが遭遇したもう一人の渋谷凛もこれを絶対に持っています。なぜならこ
 れが渋谷凛だからです」

そしてアクセサリーを机の上に置く。凛にはちひろが何を言っているのかわからない。

「あなただけじゃありません。あなたは知らないかもしれませんけど現在アイド
 ルと呼ばれている存在は全てこれと同じように何かしらの小物を所持していま
 す。例外は存在しません。なぜならばこれがあなたたちアイドルがアイドルた
 る所以だからです」

一度言葉を切り、コーヒーを飲む。

「オーディションを行うことでアイドルの適正が高い個体を発掘し、それにアイ
 ドルが宿ったアクセサリーを渡すことでその個体をアイドルに変える。それが
 この世界でのオーディションでの全容です。あなたの場合は渋谷凛の適正 が
 高い個体がいたのでそのアクセサリーを渡すことで渋谷凛になったにすぎませ
 ん。今回渋谷凛が二人いたのは……まぁオーディションをしたら渋谷凛の適正
 が高い子がみつかったのでその子も渋谷凛にしちゃっただけですね」
「わからない……わかんないよ」
「簡単に言えば、あなたは渋谷凛のコピーのようなものです」

コピー? それじゃあ私は誰なの? 本当の私は?
頭に痛みが走り、頭を抱える。しかし痛みはすぐに綺麗になくなった。

「その痛みも我々がかけた制限によるものです。とりあえず話す上で邪魔なので
 あなたのは外しました。とは言ってもすぐに全ては思い出せないでしょうけど」
「私は……誰なの?」
「回答は二つ。今のあなたである渋谷凛はかつて存在したアイドルの一人です。
 そして本来のあなたはこの世界に住むただの人間の一人です」
「かつて存在……」
「ええ。昔アイドル時代というのがあったんですよ。猫も杓子もアイドルアイドル。
 世界的なアイドルブームでした。渋谷凛はそれこそ一時代の担い手と言っても言
 いぐらいの素晴らしいアイドルだったんです。神谷奈緒や北条加蓮もその時代の
 アイドルでした。しかしその繁栄の時代も唐突に終わりを迎えます。
 人間同士の戦争です」
「戦争?」
「争いですよ。まぁあなたが想像するものを遥かに越えるものですけど。なにせそ
 の戦争でこの星の大部分の動植物が死に絶え、人の住めぬ汚染された地となり、
 そして人自身もほとんどいなくなりましたから」

凛にはそれがどれほど悲惨なものであるか全く理解が出来ない。

「その戦いで生き残った人間は深い悲しみに包まれ、そして疲れてしまった。こ
 の先、人類が再び繁栄したらまたこのような争いが生まれるのか。自分達は同じ
 種族すら手を組み合うことが出来ないのか。だから人類は決意したのです。人
 間の行く末を、この星の未来を自分達を越える知性を持つものに託そうと。
 残された人材、資源、技術を駆使し、人間はついに戦争前にも生み出すことの出
 来なかった自己進化するロボットを作り出すことに成功しました」
「待って。話がよくわからない」

「我慢してください。もう終わります。それにこれも全部必要な話なんですから。
 そのロボットは人間の願いを受け入れ、進化し、この星が生まれてから誰も成し
 遂げることのなかった世界征服をいとも簡単に行い、人類を制圧、洗脳しました。
 洗脳の内容は多岐に渡りますが、思考と思想の制限を始め、未来のための記録を
 残すのを禁じたり、宗教をなくしたり、この星への認識を変えさせたりと極力手
 を加えず、自らの力のみで発展も滅亡もすることのないように調整されています。
 その最適化の実験と研究の末に、人は何かしらの崇拝対象が必要だということが
 わかりました。しかし再び宗教を持たせれば争いが起きる可能性がある。そう考
 えたロボットは失われた過去を掘り起こし、一つの可能性を見つけました」

ちひろが凛を見据える。

「それがあなたたちアイドルです」

世界征服? 洗脳? 最適化? 可能性?
凛の頭の中をバラバラの単語が巡る。意味のなす文章にはならない。

「アイドルを崇拝させるにしても生半可な人ではいけません。それこそ世界中を魅了
 するぐらいの潜在能力を秘めた人が必要になります。そこで白羽の矢が立ったのが
 アイドル時代のアイドル達です。あとは適正のある子を探し出し、アイドルの記憶
 が宿ったアイテムを使いその子をアイドルにする。アイテムを媒体にして過去の人
 を呼び起こし憑依させる、と言い換えてもいいですね。
 うまくいくかはわからなかったのですがどうやら成功しているようですね」
「……つまり私達はこの世界の平和のために呼び出された過去の記憶ってこと?」
「ええ、その通りです」
「プロデューサーは知ってるの?」
「あの人は何も知りませんよ。自身が何をやっているのか、何のためにいるのかも
 わからないでしょう。あの人の役目は担当アイドルの精神安定のためですし、そ
 もそもあの人自身も過去から呼び戻したものですし」
「そっか……」

凛は自分のコップに視線を落とす。注がれたコーヒーは減る事なく既に冷めてしま
った。あまりにも途方もない真実を突きつけられて、頭の整理が追いつかないのだ。

「そういえば先ほどの質問……。もう一人の渋谷凛ですが既に渋谷凛ではなく普通
 の人に戻っています」
「私になる前の状態ってこと?」
「ええ、そうです。アイドルの状態で過ごした時間までは戻せませんが、引退する
 時は元の人に戻るんです」

岡崎泰葉や過去にいたアイドルに連絡が取れないのは既にこの世界に存在しないから。
事務所に記録が残っていないのはプロデューサーがこのために呼び出された存在だから。

「生物としてみればこの状態は良いものでしょう。栄華を迎えることは出来なく
 ても種はずっと残すことができます。
 人間としてみれば素晴しいことです。例え洗脳されているとは言ってもその中
 で幸福でいられるんです。争いに怯える必要はありません。かつての願いは成
 し遂げられました。
 アイドルとしてみれば少し物足りないかもしれませんね。なにせこの世界での
 お仕事はライブバトルだけですし。切磋琢磨できるのはいいかもしれませんが。
 それでどうです。渋谷凛にとってはこの世界はいいものですか?」

ロボットによって管理された世界。人々は自らが囲いの中にいることも知らず、生
きている。そしてアイドル達もかつての記憶を身に纏い、今が自分の生きる場所だ
と思って輝いている。真実というのを求めなければ凛もその中の住人であった。
しかし今となっては。

「……外を見たい」

その言葉が出てきたのはなぜかわからない。ただ凛はそう思ったのだ。

「外、ですか」
「うん。屋上とかあるよね?」
「まぁありますけど……。そうですね、行きましょうか」

ちひろがちらりと時計を確認した。夜が明けるまでまだ少しある。部屋から出て、
薄い明かりしか点いていない廊下を二人で歩く。凛にとってこんな夜中に廊下に出
るのは始めての行為だった。もしかしたらそんなことが思いつかないように洗脳さ
れていたのかもしれない。

廊下を渡り、階段を上り、迷路のような建物内部を歩き、気付けばB棟の七階にいた。
B棟は七階までなので先に行く階段はないし、屋上に出る道もない。
ちひろが空中に手をかざす。すると景色が歪み始め、薄ぼんやりと階段が現れた。

「すごい……。こんなのが……」
「隠し階段ですよ。普通の人には出現させることも出来ませんが」

階段の形ははっきりし始めて、やがて今までそこにあったかのように普通の姿になっ
た。ちひろがそれを登っていくのを凛が追いかける。踊り場には稼働している自動販
売機が置いてあり、それを過ぎると鉄板のような窓のないドアがあった。

それを見て、凛は思いだした。この建物にはどこにも窓がないことを。
ちひろがドアノブを回すと、鉄が軋む音を立ててゆっくりと開いていく。少し冷たい
風が凛の体を撫でていく。そして一歩、屋上へと踏み出した。

「静かだね」

凛が一歩ずつ縁にある柵に近づいていく。二人の足音しか聞こえない。
柵に手を乗せて、町を一望する。凛のいるところより低い建物しかない。電気は点い
ておらず、町はとても静かだ。

「車とか、ないんだね」

暗い空の下。呼吸するたびに凛の肺の中に今まで味わった事のない空気が入り込む。
体内に貯まった空気が出て行くたびに頭の中にあったものが蘇っていく。

「あるにはあるんですけど走らせていい時間が決まっているんですよ。夜は寝るもの
 と決まっています」
「コンビニとかもないの?」
「ええ。ありません」
「夜中にお腹減ったときとか大変だね」
「食べたら太るんですから我慢してください」

二人で顔を見合わせて、笑った。
それから町を見ながら二人で談笑をした。主に凛が質問し、ちひろが答えるものだ。
ご飯はどうなっているのか。普通の人間はどうやって暮らしているのか。今の凛には聞
きたいことが山ほどある。凛からすれば始めてこの世界に産まれようなものだからだ。
驚いたことに犯罪は未だに起こるそうだ。ロボットも世界の一人ひとりまで監視ている
わけではないし、犯罪もまた許される自由であるようだ。逃げ出した凛が捕まらなかった
のもそれが理由なのかもしれない。
ちひろの正体も聞かなかった。あの頃から寸分変わらぬ彼女はこちら側の人間ではないこ
とが一目瞭然だからだ。

やがて空に薄明が差し始めた。二人の口数が徐々に少なくなっていく。
夜の闇が空から取り払われて、朝の光が満ちていく。空に輝いていた星が青空に消えて
いった。
凛がぽつりと呟く。

「最初はさ、半球体のドームに囲われた町を想像してた」

「ドームの外は荒野が広がっててさ、外に出たら死んじゃうとか」

「管理された世界ってそんなの想像しちゃうんだよ」

「でもこうやって実際に眺めたら普通の町なんだよね」

「夜の空気も光る星も全部私の時代と変わりない」

「満ちていく朝日も青色に染まっていく空も」

「夜の眠る町並みも朝の目覚め始めた町並みも」

「全部かつて見た何も変わらない見慣れた日常」

「その上、ロボットに管理された箱庭の中にいるような世界」

「だから私にはこの世界が冷たく狭く悲しいものに見えると思ってた」

「なのにどうしてこんなにも」

「世界は美しく見えるんだろう――」

朝日が世界を照らしていく。彼女の心にも光が満ちていった。

凛はその後、普段通りのアイドル活動に戻った。記憶はそのままなので全ての真実は
知っている。それでもなぜアイドルを続けるのか。凛は笑顔で「好きだから」と答えた。
もちろんこの世界で凛が一人騒いだところで何も変えられないと諦めた結果の答えなの
かもしれない。しかしちひろは彼女の言葉と顔を見て、それが本心から出た言葉だと確
信した。

いつか凛は引退する。そしていつの日かまた凛はアイドルとして輝くステージへ登る。
今までの数百年と同じようにこれから数百年、数千年そうやって時間は進んでいくのだ。
この世界があり続ける限り、彼女たちのライブは終わらない。

以上

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