京介「俺の妹は、世界一可愛い」(154)
ライトノベル「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」のSSです
11巻の続きを妄想したもので、終盤にヒロイン2人のルート分岐あり
アニメしか知らん&原作全部読んでねーって人でもたぶん読めます
-1-
俺こと高坂京介は受験生である。
来る一月中旬にセンター試験を控え、一に勉強二に勉強、
三四がなくて五に勉強の心意気で机にかじりつく毎日だが、
大晦日の夜くらいは、家族団欒のひとときを過ごしたっていいだろう?
そんなわけで、俺は久々に夕食後も一階に留まり、だらだらしていた。
お袋が台所で洗い物をして、親父がおちょこ片手に晩酌を愉しんで、
桐乃がソファに俯せになってテレビを眺めて――高坂家の日常がここにある。
「さぁて、次の問題です。街頭の正答率85パーセント。
この四字熟語の意味はなんでしょうか?」
テレビ画面に表示されたのは『才色兼備』の四文字。
「ぷっ、こんなの簡単すぎだっつーの」
誇らしげに回答したのは桐乃。
ティーン誌の誌面を飾るほどに優れた容姿と、県内で五指に入る頭の良さ、
陸上大会でいくつも賞を獲得する並外れた運動神経を併せ持つ、
まさに『才色兼備』な俺の妹だ。俺とは三つ年が離れてて、今は中三である。
俺たちは三年前、ある事件がきっかけで冷戦状態に突入し、
長いこと互いを無視し合っていた。
しかし去年の春、俺が桐乃のエロゲー趣味を偶然知ってしまったことから、
徐々に関係は改善されていき……。
「京介、あんた今の問題分かった?」
「おう」
「見栄張らなくていいよ。どうせ分かんなかったんでしょ?」
イラッ。
「仕方ないから教えてあげる。才色兼備っていうのはァ~、
あたしみたいな何でも出来るパーフェクトな美少女のこと」
こ、このアマ……俺が知ってるの分かってて言ってやがるな……!
けたけたと笑う妹に腹パンしたい衝動を抑える。
……まあ、今みたいな感じで兄貴の威厳もへったくれもない兄妹関係だが、
これでもだいぶ改善された方なんだよ。
この生意気でワガママな妹には、これまで何度も人生相談と称して振り回されてきた。
その度に「やれやれ、しょうがねーな」と付き合って面倒を見てきたのは、
俺が桐乃の兄貴で、桐乃のことが大好きだからだ。
申し遅れたが俺はシスコンである。――そこ、キモいとか言うな。
いつの間にか問題の趣向が変わり、
テレビ画面には『獰悪』という単語が映し出されている。
今度は意味ではなく、読みを当てる問題らしい。
「二人とも、分かる?」
妹は観念した様子で、俺と親父に向き直った。
さすがに中学で習う漢字じゃねえよな。高三の俺でも分かんねーもん。
「どうあく、だ。凶悪で荒々しい様を表す」
そのすぐ後で雛壇芸人が回答し、親父の正解が証明される。
「すごいね、お父さん」
「すげーな、親父」
「これぐらいは分かって当然だ」
息子と娘から尊敬の眼差しを浴びて、照れる親父。
その風体はまさにさっきの『獰悪』が相応しく、はにかむ表情は極道ヅラで、
今は緩んでいる酔眼も、素面の時は研ぎ澄まされた眼光を讃えている。
この人がどこで働いてると思う?警察だよ、警察。何の冗談だって話だよな。
「京介、お前はもっと本を読め」
「へいへい」
親父こそ照れ隠しに息子を説教してんじゃねーよ。
「兄貴の語彙力しょぼいねw」
と桐乃まで煽りを入れてくる。
くっ、お前だって分からなかったんだろうがよ!
洗い物を終えたお袋が参戦して、高坂一家はしばしクイズ番組に夢中になった。
が、いつまでもこうしてはいられない。
「勉強してくるわ」
ソファから重い腰を上げる。
「あ、あのさ……」と桐乃が何か言いかけたところで、
「後で年越しそば食べる?」とお袋が口を挟んだ。
「んー、いいや」
「明日、初詣はどうするの?」
「桐乃と麻奈実と――友達と行くつもり」
「あら、そうなの。じゃあ、あたしはお父さんと一緒に行ってこようかしらね」
お袋の言葉を聞き流しつつ、リビングを出る。
二階に上って自分の部屋に入ると、数ヶ月前とは様変わりした光景がそこにあった。
桐乃からプレゼントされた冷蔵庫に、御鏡から送り付けられたコトブキヤのガラスケース。
中には所狭しとフィギュアが並べられている。
これらは俺が九月の初旬から十一月の中旬まで一人暮らししていた折にもらったもので、
前者はありがたく、後者は仕方なく、実家暮らしに復帰した今も使わせてもらっている。
冷蔵庫から飲料水を取り出し、ごくりと飲み干したところで、ポケットの携帯が震えた。
新着メール一件。差出人は桐乃で、内容は「勉強がんば」の五文字(しかも顔文字なし)。
へっ、わざわざメールしなくても、口で言えば済む話だろーがよ。
お袋や親父の前で兄貴を激励するのが、そんなに恥ずかしいのかね。
俺は携帯を閉じて、英語の問題集を開く。
メールを開く前よりも俄然やる気が出ている理由は――
可愛い妹を持つ兄貴なら誰だって、言わなくても分かってくれるよな。
-2-
翌朝。
勢いよくカーテンが引かれ、眩い朝日が瞼越しに目を刺した。
「うっ……」
「ほら、起きて。あと、あけましておめでと」
ぱしぱしと頬を叩いてくるのは、桐乃でまず間違いなかった。
こんなおざなりな年明けの挨拶をしてくるやつは他にいない。
「遅くまで勉強してたのは知ってるけど、
いい加減起きないと、約束の時間に遅れるよ?」
「わぁーってるよ……」
寝ぼけ眼を薄く開く。そこで一気に目が覚めた。
「桐乃……お前……」
「へへーん。どうよ?似合ってるっしょ?」
目をごしごし擦って、改めて桐乃の全身を直視する。
ライトブラウンの髪を軽く結わえて、大人っぽいメイクを施し、
赤を基調とした小紋を着流している。
和装の黒猫が大和撫子なら、和装の桐乃は外国のセレブといったところか。
「お前、こんな着物持ってたっけ?」
「美咲さんからもらったの」
やっぱあの人、桐乃には甘々だな。この着物、買ったら結構な値段するんじゃねーの?
ちなみに美咲――藤真美咲さんとは、
有名ブランド「エターナルブルー」日本支部の取締役兼デザイナーのことである。
モデルの桐乃に対し特別目をかけていて、
海外の本社に桐乃を引き抜こうとした過去もある。
「あ、あんまジロジロ見ないでよね。キモいから」
「わり、見惚れてた」
「開き直るなっ、このシスコン!」
桐乃に毛布を引っぺがされ、俺は白日に晒されたダンゴムシみたく丸まった。
だって寒いんだもん。
「いい加減ベッドから出る!」
蹴飛ばされるのは嫌なので、渋々体を起こす。
「それと……あんた、何か言うことなくない?」
唇を尖らせて、不遜な上目遣い。
妹様が何をお望みか、言葉でなく態度で察するのがお兄ちゃんの務めであろう。
つっても素直に褒めるのも恥ずかしいので、俺はわざとらしくあくびを一つ、
思い出したように桐乃の頭に手を載せて、ぽんぽんしてやった。
「よく似合ってるじゃねーか」
すると桐乃は顔を赤くして、
「こっ、子供扱いすんなっ!
てか、髪崩れちゃったじゃん!せっかく盛ったのに――バカっ!」
ぎゅむ、と俺の足を踏みつぶした。
「痛ぇ!」
桐乃はふんっと鼻を鳴らして、部屋を出て行った。
な、なんだよ。褒めてほしいんじゃなかったの?
じんじん痛む足の甲をさすりつつ、外出用の服に袖を通す。
着替えの途中に時計を見ると、確かに約束の時間が差し迫っていた。
悠長に朝飯を食ってる暇はなさそうだ。
どうせなら桐乃が起きた時点で、俺も起こしてくれれば良かったのにな。
わざわざ着付けして、メイクして、髪をセットしてから俺を起こしに来るなんてよ。
支度を調えて階段を下りると、タイミングを同じくして、チャイムが鳴った。
リビングに向かって「俺が出るよ」と言い、玄関の扉を開くと……。
「あけましておめでとう、きょうちゃん」
「えっと……どちら様ですか?」
声に聞き覚えはあるが、容姿に見覚えがない。
「きょうちゃん、わたしだよぉ。わーたーし」
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「もぉっ、きょうちゃんの意地悪……田村麻奈実。きょうちゃんの幼馴染みだよぉ……」
メガネの奥の瞳がじんわり潤みはじめたところで、俺は麻奈実に謝った。
俺はこの幼馴染みを困らせるのが大好きなのだ。
性格悪いと言われるかもしれないが、
麻奈実だって俺を恥ずかしがらせるのが大好きなので、お互い様である。
「でも、一瞬誰だか分かんなかったのはマジだよ。お前、その髪……カツラか?」
「そ、その言い方はやめてくれないかなぁ……」
「じゃあ、ウィッグ?」
「そう、うぃっぐだよ。この前あやせちゃんに教えてもらったお店で、作ってもらったんだぁ」
麻奈実はぽわぽわと笑み、肩に垂れる髪に触れる。
「髪が伸びるの、待ちきれなかったのか?」
「うん。このくらいの長さになるの待ってたら、春になっちゃいそうだし……。
間に合わないかなって」
「おま……まさか大学デビュー狙ってんの?」
「ちっ、違うよぉ。間に合わないっていうのは、そういう意味じゃなくて……。
それよりも、きょうちゃん。この髪型……似合ってる?」
レンズの向こうの丸っこい瞳が、不安に揺れている。
俺はありのままの感想を言ってやった。
「すげー似合ってるよ」
「ほ、ほんと?」
「ああ、本当だ。その着物もいい感じじゃねーか」
麻奈実は白の小紋を身に纏っていた。
和装にぴったりの古雅な振る舞いや、髪型を変えたことも相まって、
幼馴染みに似つかわしくないオトナな雰囲気を醸している。
不覚にもドキッとさせられたのは、ここだけの内緒だぜ。
そんな俺の動揺を余所に、
「よ、よ」
麻奈実は酸欠の魚みたく口をぱくぱくさせて、
「良かったぁ~~~」
と深く息を吐いた。
このウィッグを披露するのは、麻奈実にとって中々に勇気の要る行為だったんだろうな。
なんせ前髪をちょっと切るのミスっただけで、俺に見られたくないと大騒ぎするくらいだし。
俺が麻奈実の薄化粧も褒めてやろうと口を開いたところで、後ろから妹の声がした。
「ちょっと、いつまで家の前でくっちゃべってるつもり」
すっかり愁眉を開いた麻奈実が、桐乃にお辞儀する。
「あっ、桐乃ちゃん。あけましておめでとう」
「あけましておめでとうございます、麻奈実さん」
玄関先で対面する二人。一年前は想像もできなかった光景がここにある。
俺と桐乃がそうだったように、麻奈実と桐乃も三年前の事件がきっかけで仲が悪くなった。
といっても、不仲は桐乃から一方的に叩きつけられたもので、
麻奈実はさして桐乃のことを意識していなかったらしい。
去る十二月の上旬、麻奈実の家で過去について話し合う機会があり、二人は一応和解した。
そんな経緯があっての、今日である。
俺の支度が終わるのを待ってもらってから、俺たちは電車を乗り継ぎ、
この界隈ではそこそこ名の知れた神社を目指した。
駅を出てロータリーを回り、参拝客で溢れる商店街を抜けていく。
普段は人通りの少ないこの場所も、三が日は盛況が続くだろう。
それにしても、桐乃の目立つこと目立つこと。道行く人間の誰もが桐乃を二度見する。
「俺まで見られてる気がしてムズムズする」
「それはただの自意識過剰じゃないかなぁ」
麻奈実さん、たまにグサリと来る言葉を仰いますよね。
玄関先で虐められた意趣返しのつもりか。
「桐乃ちゃん、すっごく可愛いから、みんなが見るのも仕方ないよ」
調子に乗るかと思いきや、読者モデル様にとって注目は日常茶飯事のことらしく、
桐乃は「寒い」だの「歩きにくい」だのぶつくさ文句を垂れていた。
神社に到着すると、鳥居の傍に、初詣のメンバーが全員揃っていた。
声をかけようとして、開いた口から声にならない空気が漏れる。
え……なに……どゆこと?
「待たせちゃってごめんね」
と謝る桐乃に、
「構わないわ。わたしもついさっき到着したところよ」
と応じたのは黒猫。
一見、新雪をならしたような肌に一本一本梳ったような黒髪を持つ美少女……なのだが、
その実、マスケラというアニメをこよなく愛する厨二病オタクで、桐乃の裏の親友だ。
「黒猫さんとは、来るときに偶然一緒になったんだ」
と続いたのはラブリーマイエンジェルこと新垣あやせ。
先の黒猫とは対を成す、桐乃の表の親友だ。
桐乃の中学の同級生で、モデル活動では桐乃の後輩にあたる、ヤンデレ系美少女である。
余談だが、俺はつい最近まで、この子から「近親相姦上等の鬼畜兄貴」という
酷すぎるレッテルを貼られていた。
「やっと主役の登場かよー。遅ぇーっつの」
と悪態をついたのは来栖加奈子。あやせと同じく桐乃の学校の友達で、
『星くず☆うぃっちメルル』というアニメの主人公キャラにそっくりなロリ系美少女だ。
加奈子がメルルのコスプレイベントに参加したとき、
何度か俺が加奈子のマネージャー(というか付き人?)を務めたりもした。
とまあ、簡単な人物紹介を終えたところで、俺の驚愕のわけを話そう。
今日初詣に行く面子は知っていた。知ってはいたんだが……。
「……なんでみんな着物なんだ?」
「あけましておめでとう、先輩。
どう?この深淵の闇より編まれし黒衣……似合っているかしら?」
「あけましておめでとうございます、お兄さん。
モデルの撮影で使った着物なんですが……お兄さんの感想を聞かせてください」
「ちぃーっす。あけおめことよろー。
それよか、加奈子の着物姿どうよ?あまりの可愛さに欲情だべ?」
三者三様の和装に、視線が定まらない。
黒猫の小紋は黒地に花模様が艶やかで、
あやせは群青の爽やかな色合いの生地に流れる黒髪が鮮やかで、
加奈子は……馬子にも衣装といったところか。
つーか、誰か俺の質問に答えような?
大方「今日は着物で」と口裏を合わせてきたんだろうが……。
気合い入りすぎじゃないッスか?
みんな綺麗だ、とボキャ貧の誹りを受けるような褒め言葉を述べると、
三人は互いをけん制するように視線を交わし、自分を納得させるように頷いた。
境内を目指して参道を歩くと、見えない斥力があるかのように雑踏が割れる。
まるで現代版「葦の海の奇跡」である。
しかし奇跡を起こしているのはモーゼたる俺ではなく、
背後に連れたユダヤ人もとい桐乃、麻奈実、あやせ、加奈子の美少女軍団で、
これで両脇を歩いてくれたら両手に花、いや両手に花束なんだが、
なぜか俺よりも一足分後ろで、四人仲良く並んでいた。
しかも俺が振り向くと、計ったように視線を逸らしやがる。
なに?もしかして俺ハブられてんの?
そんなこんなで境内に到着し、手水で身を清め、拝殿に上がる。
賽銭箱に賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らして、二礼二拍手一礼。
家内安全と大学合格を願って、左右を伺うと、みんな熱心に拝礼を続けていた。
参道を引き返しながら、俺は隣の黒猫に尋ねた。
「お前はどんな願い事をしたんだ?」
「そうね……家内安全と無病息災を願っておいたわ」
「えっと、それだけ?」
そのときの俺は、分かりやすく残念そうなツラを晒していたんだろう。
黒猫は悪戯っぽく笑んで、
「もちろん、先輩の合格祈願もね。
ククク……この堕天聖黒猫が直々に頭を下げたのだから、
今頃八百万の神々は高天原で大騒ぎしていることでしょうね……」
お前はいつから日本の神々を凌駕する存在になったんだ。ま、とにかく、
「ありがとな」
「お、お礼を言われることではないわ。
そもそも、合格祈願で有名だからこの神社を詣でることに決まったのよ。
先輩たちの合格を祈らないで、他に何を祈るというの」
バレバレの照れ隠しに、逆に俺が照れる。黒猫が何を言ったところで、
「先輩が無事合格できますように」と、真摯に祈ってくれたことに間違いはない。
そんな風に想ってくれる人が身近にいることに、得も言われぬ幸福感が募っていく。
そこに、あやせが割り込んできた。
「お兄さんは、わたしがどんな願い事をしたのか、気にならないんですね」
あやせは頬を膨らませて、
「わたしだって、お兄さんとお姉さんの合格を一生懸命お願いしました。
この前のお守りと合わせて、倍の効果があると思いますよ?」
繰り返しになるが、俺は志望大学の模擬試験でA判定を取るために、
二ヶ月間一人暮らしをしていた。
その間、俺の生活の世話をしてくれたのがあやせで、
模擬試験の当日には、湯島天神のお守りをプレゼントしてくれたのだ。
試験の結果はA判定で、俺は晴れて実家暮らしに戻れたのだが……。
「ぶっちゃけ、俺あんまり神様とか信じてないんだよね」
「今、なんと?」
あ、あやせさん?話は最後まで……。
俺が二の句を継ぐ間もなく、ふっ、とあやせの双眸から光彩が失せる。
「模擬試験で好成績を残せたのはお兄さんの独力で、
わたしのお守りは全くの無意味だった……そう言いたいわけですね?」
ひっ、ひぃぃいぃぃぃぃ!言ってねえ!んなこと一言も言ってねえ!
あやせ、頼むから疼く右足を抑える仕草をやめてくれ!
殺人ハイキックを食らわせる前に、俺の言い分を聞け!いや聞いて下さい!
「あのな、俺が言いたいのは、霊験あらたかなお守りよりも、
それをプレゼントしてくれたあやせの気持ちの方が、
よっぽど嬉しくて、支えになったってことなんだよ!」
「なんだ……そういうことだったんですか」
とあやせがホッと胸を撫で下ろす。溜息を吐きたいのはこっちの方だ。
「もうっ、紛らわしい言い方をするお兄さんが悪いんですよ?
ショックのあまり、もう少しでお兄さんを――するところでした」
肝心なところを聞き逃したが、知らぬが仏というやつだろう。
「先輩は果報者ね」
黒猫が穏やかに、ぽつりと呟く。ああ、まったく――その通りだよ。
と、俺はこの二人に聞くつもりだったことを思い出した。
「冬コミの首尾は上々だったみたいだな?」
数日前、「完売したわ(←黒猫)」「大成功でした(←あやせ)」と
二人からメールをもらったとき、俺は自分のことのように喜んだ。
あやせは桐乃のオタク趣味に迎合すべく、
今回の冬コミに黒猫のサークルの一員として参加し、
あれほど嫌がっていたコスプレでの売り子にも挑戦した。
あやせの客引き効果は絶大で、ネットで
『期待の新星!神聖黒猫騎士団のコスプレイヤーが熱い!』と話題になったほどだ。
「同人誌完売の要因は、元々の知名度が三割、
この女の破廉恥な姿態が七割といったところかしらね」
「はっ、破廉恥って……あんな恥ずかしい恰好をさせたのは、黒猫さんですよねっ!?」
「……っふ……わたしは強制した覚えはないのだけど?
オタク趣味を理解する上で、最短の方法を示したまでよ。
それが茨の道であることは、あなたも重々承知していたはず……」
「くっ……」
なんかもうこいつら普通に馴染んでんな。
桐乃の表の親友、裏の親友として、水と油の関係だと思い込んでいたところがあったが、
実際の親和性は高かったみたいだ。
黒猫は嘲弄を加速させる。
「それにあなた、なんだかんだ言って、ノリノリだったじゃない」
「ノリノリだったのか、あやせ?」
俺もそれに乗っかると、あやせは羞恥に顔を赤らめながら、
「ま、まあ……わたしも一応モデルですから?
コスプレをする以上は、完璧に役柄を演じて、黒猫さんの同人誌の売り上げに貢献しようと……頑張りました」
その言葉は真実なんだろう。
俺は携帯を開き、インターネットで収集したあやせのコスプレ画像を眺める。
そこに映っていたのは、実に際どい衣装で華やかな笑顔を振りまくあやせの姿。
「ちょっと、お兄さん、それってもしかして、わたしの写真ですか?」
「おう。ネットで拾ってきた。永久保存版だ」
あやせは俺の携帯を覗き込み、
「……まあ、いいですけど。いかがわしいことには使わないでくださいね」
「……………」
「なんで黙り込むんですかっ!?」
いやー、この写真はまだ健全な方だけど、他にもローアングルで撮った写真とか、
無防備なところを撮った写真とか、他にもいっぱいあるんだよね。
ちなみにネットの記事によれば、パンチラ狙いの撮影者は、
例外なく殺人キックの餌食になったそうである。散っていった殉職者に敬礼。
ともあれ、
「俺もお前のコスプレ姿、生で見たかったな」
「しれっと話を逸らさないで下さい!」
あやせは両手を腰に当てて怒っていたが、おもむろにコホン、と咳払いをひとつ、
「あのですね……お兄さんはそんなにわたしのコスプレ姿が見たいんですか?」
「ああ、見たい」
即答である。
「本能のままに喋ってますよね……」
あやせは、ふぅと呆れたように溜息を吐き、悩ましげに顎先に指を当てて、
「じゃ、じゃあ……もしお兄さんが大学に合格できたら……そのお祝いとして……」
「お祝いとして?」
「……お兄さんのためだけに、コスプレを……」
「はいはいはい、そこまで」
「痛ででででで」
俺とあやせの遣り取りは、桐乃によって強制終了された。
くそっ、思いっきり耳引っ張ってんじゃねーよ!
あともう少しであやせたんとコスプレの約束を――。
「あんたってば、あたしの見てないとこだとすぐにあやせにセクハラするんだね。
端から見てたらどう見てもただの変態だったよ?」
サーセン。自覚してます。
あやせにはもうセクハラしないと誓ったはずなんだが、
どうも本人を目の前にすると、自然とそういう流れになっちまうんだよな。
「あやせもあやせ。いちいち京介が喜ぶような反応してるから京介が調子づくの」
「ご、ごめん、桐乃……」
妹に窘められているうちに、俺たちは鳥居の近くまで戻ってきた。
このまま何事もなければ駅まで歩き、そこで解散の予定だったが……。
突然麻奈実が、こんなことを言い出した。
「きょうちゃん、わたしね、桐乃ちゃんと二人でお話したいことがあるんだけど、
少しだけ桐乃ちゃんを借りてもいいかな?」
借りるもなにも、桐乃は俺の所有物じゃないわけで。
どうするんだ?と視線で尋ねると、桐乃は緊張した面持ちで頷いた。
「それじゃあ、ちょっと静かなところに行こうか、桐乃ちゃん」
「……うん」
麻奈実と桐乃が、雑踏に消えていく。
二人とも携帯を持っているので、合流には困らないだろう。
それにしても、桐乃と二人で話って、何なんだろうな?
順当に推理するなら、この前の仲直りの延長線上にある話で、
しかし麻奈実と桐乃の間に一応の決着を見ている俺には、麻奈実の意図がまるで読めない。
桐乃がやけに素直に応じたのも気になる。
そして黒猫、あやせ、加奈子の三人が、桐乃と麻奈実の離脱を黙して見送ったことにも、
違和感を感じた。全員が小紋を着てきたことに始まり、
今日は俺の与り知らないところで、色んな思惑が渦巻いているような気がしてならない。
疎外されてるような感じで、お兄さん寂しいぜ。
女どものターンは終わらない。
「あっ、そういえばわたし……、
お母さんから破魔矢を買ってくるように頼まれていたんです」
「あら、偶然ね。私も今、両親に破魔矢を頼まれていたことを思い出したわ」
示し合わせたようにあやせと黒猫が言い、踵を返す。
いやいやいや、不自然すぎんだろ!
さっき境内で思いっきり販売所の破魔矢見てたじゃねーか!
「というわけで、お兄さんは加奈子とここで待っていてください」
「やることねーし、俺たちも一緒に……」
「わたしたちの所用に付き合わせるのは悪いわ。先輩たちはここで待っていて頂戴」
有無を言わさぬ物言いに、気圧される俺。二人の背中を見送っていると、
細い体のラインと、長く綺麗な黒髪の共通点から、二人が姉妹に見えた。
―――で。
「さっきから妙に大人しいじゃねーか」
鳥居の傍に取り残された俺は、同じく取り残された加奈子に向き直る。
威勢が良かったのは出会い頭だけで、そのあとはめっきり口数が減っていた。
「もしかして、気分でも悪ぃのか?」
「べっ、別に?」
そっか。でも、さっきからなんかお前、モジモジしてね?
「催したなら、あっちの方にトイレが……」
「ションベンに行きたいワケでもねーヨ!」
「じゃあ、なんでお前、元気ねえの?」
「あに勘ぐってんだよ。加奈子はいつも通りだしィ」
「強がってんじゃねえ。体調悪いなら、正直に言え」
語気を強めて言うと、加奈子は八重歯を引っ込めて、
「か、勝手に決めつけないでくんね~?」
そっぽを向く加奈子を横目に、元気がない原因を考えてみる。
思い当たる節が、ないではなかった。
「そういえば、メルルの三期、あんまり人気出なかったみてーだな?」
加奈子は雑踏に視線を固定したまま、
「作画とかストーリーとか?あんまり子供にウケなかったんだって……。
てゆーか、京介の方がそういう事情に詳しいんじゃね?」
「いや、俺も詳しくは……」
メルル三期の評価は妹からの受け売りである。
この受験勉強真っ盛りの時期に、一クール分のアニメを視聴するヒマはねえ。
「オワコン、って言うんでしょ?そういう人気が無くなったアニメや漫画のコト」
サブカルの新陳代謝は激しい。
次から次へと新しいコンテンツが生まれては、
既存のコンテンツを過去のものへと追いやっていく。でもな。
「世間がメルルを忘れて、次のアニメに夢中になっていようが、
俺はずっとメルルの――お前のファンだぜ」
冗談めかして加奈子の頭を撫でてやる。
加奈子はしばらくぽけーっとしただらしない表情で俺の手を受け入れていたが、
突然我に返り、
「い、いい、いつまで撫でてんだよっ。ガキ扱いすんじゃねー」
「いや、実際ガキだし。見た目なんかまんま小学生じゃんよ、お前」
「…………」
いつものように反論してくると思いきや、悔しそうに下唇を噛んで、俯く加奈子。
「……そんなに加奈子、子供っぽいかな?」
おいおい、ガチ凹みかよ。
お前の幼児体型をからかったのは、一度や二度じゃねえだろうが。
「どうせ選ぶなら、ちんちくりんでお腹ぷよぷよの加奈子より、
桐乃やあやせみたいなモデル体型だよナ……」
いかん。思考がネガティブに染まってやがる。
俺は柄じゃないと知りつつも、
「今日のお前は可愛いよ」
「ふぇっ?」
加奈子が面を上げる。
いつもツインテールにしている髪を下ろして、派手な化粧を控えめにした加奈子は、
あやせほどではないが清純派美少女といった赴きだ。
素材が申し分ない分、黙って口を閉じてれば、良家のお嬢様としても通じるだろう。
まったく、最近ヘアサロンに行った桐乃やあやせといい、
ウィッグを作った麻奈実といい、俺の周りではイメチェンが流行ってるのかね?
「……だから、元気だせ。ナリのことでくよくよ悩むなんて、お前らしくねーぞ?」
俺は顔を近づけて、改めて頭を撫でてやった。
こうして慰めていると、小さい頃の桐乃を思い出すぜ。
加奈子は暴れず「あ……う……」とされるがままになっていたが、
やがて俺を押しのけて、距離を置いた。そして独り言のように呟く。
「やっぱ、京介だわ」
「……何の話だ?」
強い木枯らしが吹抜け、周囲の参拝客が顔を隠す。
加奈子は風に煽られる髪も厭わず、決然とした瞳で俺を見据え、こう言った。
「なー京介……一生、加奈子のマネージャー……やってくんね?」
「は、はぁ?」
意味が分からん。事務所に正規雇用されろってことか?
加奈子はもどかしげに、両手を握りしめ、
「だ、だからぁ……加奈子は京介が好きで……付き合ってって言ってんだヨ!」
瞬間、時が止まったような感覚が訪れ――。
身を切るような木枯らしの冷たさが、俺を現実に引き戻した。
「おま、冗談は……」
「じょ、冗談じゃねーし……今まで京介のこと、
ガチでラブとか、愛してるとか言ってたけど、あれも全部本気だったっつーの!」
驚愕と、戸惑いと、喜びと――綯い交ぜになった感情が、俺の心をかき乱す。
加奈子が俺に懐いてくれてるのは知っていた。
でもさ、それはあくまで、アイドルがマネージャーに信頼を寄せるのに似たようなもので、
恋愛感情はないと、無意識に思い込んでいたんだよ。
「京介が一人暮らししてるときに、弁当持ってったのも、
京介のことが……その、好きで、京介に喜んでもらいたくてやったことだし……。
あそこまでやったら、ちっとでも意識するのが普通じゃね?」
本当に俺は情けない男だよな。
加奈子から好意を受け取るだけ受け取って、その真意に全く気づかなかったんだから。
「……で?京介はどうなんだヨ」
「…………」
「京介は加奈子のこと……どう思ってるワケ?」
そこで加奈子は鼻を啜り、
「返事、聞かせてよ」
と年相応の口調で、問うてきた。
それは小さな加奈子から虚飾を取っ払った等身大の告白で、だからこそ俺の心に響いた。
でも、悩むまでもなく、俺の答えは決まっていた。
「ごめん。俺は今、誰とも付き合う気がねーんだ。
それに……俺には好きなやつがいてさ。
だから、お前の気持ちには答えられない。本当にごめんな」
「そっか。そっかそっか。うん……分かった。
まー、なんとなくダメな予感はしてたっつーか、予想通りっつーか……。
だって、京介が誰とも付き合わない理由も、京介の好きな人も、加奈子、知ってるし」
お前、そこまで分かってるなら、なんで……。
「諦めたらそこで試合終了、って言葉、知んねーの?
相手にどんな事情があろうと、加奈子には知ったこっちゃないしィ。
てか、これで加奈子が京介のことを諦めたとか、思ってねーだろーナ?
さっきの言葉どおりだと、京介はしばらくフリーってことじゃん?
だったら、その間に京介のことを振り向かせて、加奈子が京介の好きな相手になってやんよ!」
強烈なデジャヴが俺を襲う。
勝ち気な言葉と不適な笑顔とは裏腹に、加奈子の瞳からは、
大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。俺は一言、
「おう」
と返した。加奈子は今更頬を伝う涙に気付いたのか、
「……ションベン行ってくる」
と言い残して、逃げるように行ってしまった。化粧直しには結構時間がかかりそうだ。
他の面子が先に戻ってきたら、
加奈子は腹を下してトイレに引きこもってるとでも言っておいてやるか。
しっかし……ここ最近の俺の人生は、波乱続きだ。
俺は十二月の初旬にも、あやせから告白されていた。
『鈍くて理不尽で優しくて、いつもいつもわたしを惑わせて……、
そんなあなたのことが好きです』
俺はそれに対して、加奈子に答えたのと同じように答えた。
するとあやせは、やはり加奈子と同じように、
『お兄さんに彼女が出来るまで、わたしは諦めません。
お兄さんをわたしに振り向かせて、わたしがお兄さんの好きな人になってみせます』
と宣ったのだ。
余談だが、俺は中学時代の友達――櫻井秋美からも、
三年ぶりの再会を果たした際に、告白されている。
この世に生を受けて約十八年。高坂京介に初のモテ期到来か!?
「――などと調子づいているのでしょうね、この雄は」
「わっ」
耳元で囁かれ、飛び退くと、冷たい目をした黒猫が立っていた。
傍らにはあやせがいて、二人の手には破魔矢の袋がある。
「お兄さん、加奈子は……?」
「ん……トイレだってよ」
「そうですか。……お兄さんは本当に、罪作りな人ですね」
言動から察するに、この二人は、加奈子が俺に告白することを知っていたんだろう。
だからこそわざわざ用事を作り、俺と加奈子を二人きりにした。
でもよ、お前らって、その……俺のことが……。
「勘違いしないでくださいね、お兄さん。
わたしは別に、加奈子を応援しているわけじゃありませんから。
わたしたちは尋常に、平等に勝負する……話し合って、そう決めたんです」
ですよね黒猫さん、と振られて、黒猫はクスリと笑みを漏らす。
「一応、今の先輩には何を言っても、無駄だと言い含めたのだけれど……。
どこかの誰かさんと一緒で、気持ちを抑えられなかったようね?」
「い、言ってくれるじゃないですか……。
余裕たっぷりに傍観していたら、足下をすくわれますよ。
黒猫さんの言葉を借りますけど、わたしは自分の目的を達成するために、
手段を選びませんし、遠慮もしませんから」
絶対零度の視線がぶつかりあう。黒髪美人姉妹の凄絶な暗闘をよそに、
俺は戻ってくる気配のない桐乃と麻奈実のことを心配していた。
後日、全てが終わった後で、
俺はこのとき桐乃と麻奈実の遣り取りの一部始終を明かされたのだが、
今、二人の会話を詳らかにするには――別の語り部に物語を託さなくちゃならない。
-3-
あたしの名前は高坂桐乃。
文武両道、容姿端麗、八面玲瓏のスーパー中学生である。
そんな完璧なあたしには、一人の兄がいる。
そしてその人こそが、今のあたしが、胸を張って生きていられる理由。
あたしだって、生まれつき完璧だったワケじゃない。
むしろ友達を作るのが下手で、運動音痴で、勉強も大嫌いだった。
そんなあたしにとって、三歳年上のお兄ちゃんは、何でも出来るスーパーヒーローだった。
成績はいつも高得点で、運動会の徒競走はいつも先頭を走って、
クラスのみんなに慕われるお兄ちゃんのことが、大好きだった。
でも、ある日突然、お兄ちゃん……兄貴は折れてしまった。頑張ることをやめてしまった。
何か困難にぶつかると、「仕方ない」の一言で済ませるようになってしまった。
あたしはそんな兄貴を見たくなかった。憧憬の対象が、嫌悪の対象になった。
あたしは、スーパーヒーローだった頃の兄貴を目指して、努力を続けた。
いつか兄貴を見返してやる……あの頃の兄貴はもういないのに、
そんな気持ちだけが、埋み火のように燃え続けていた。
それから三年。
完璧な自分を手に入れたあたしは、偶然、
兄貴に決して見られたくなかったもの――エロゲー趣味――を知られてしまった。
それを機に、あたしは兄貴と、もう一度関わり合うようになり……。
十二月の初旬、麻奈実さんの家で、兄貴が変わってしまった理由を聞かされた。
『桐乃ちゃんが憧れてたすごいお兄ちゃんは、最初からいなかったんだよ』
三年前のあたしは、麻奈実さんの言葉を頭ごなしに突っぱねた。
でも、人生相談を通じて、兄貴のことを見つめ直した今のあたしは、
その言葉をすんなり受け入れられることができた。
昔のあたしは、兄貴の無茶な頑張りに魅せられていただけで……。
あたしの兄貴は、平凡な人間だったんだ。
今の兄貴は、昔のように『俺に任せろ』とカッコつけたりしない。
それでもあたしが困っていると、渋々、嫌そうに、
『やれやれ、しょーがねーな』と言って助けてくれる。
そんな、カッコ悪くて、頼れる兄貴が今の京介だ。
そして――現在。
元旦の朝、初詣を終えたところで、出し抜けに麻奈実さんが言った。
「きょうちゃん、わたしね、桐乃ちゃんと二人でお話したいことがあるんだけど……。
少しだけ桐乃ちゃんを借りてもいいかな?」
京介は困惑した様子で、あたしの反応を伺っている。
あたしが頷くと、麻奈実さんはにっこり微笑んだ。
「それじゃあ、ちょっと静かなところに行こうか、桐乃ちゃん」
「……うん」
麻奈実さんは、きっと、仲直りの続きをしたいんだと思う。
あの日、京介の挫折話を聞いたのは、あたしと麻奈実さんが仲直りするためだった。
あたしは三年前の京介の変わりように納得がいって、麻奈実さんは、
三年前にあたしが麻奈実さんを責めたことを気にしてないと言ってくれて……、
和解、できたんだと思う。
でも、完全には仲直りできなかっった。
あたしが仲直りの場で、あることを隠していたから。
「縁日、すごいねぇ」
いつ切り出されるのか、内心ドキドキしているあたしを無視して、
麻奈実さんは孫を連れたお婆ちゃんみたいな雰囲気を醸している。
麻奈実さんはたこ焼き屋さんで八個入りのたこ焼きを一パック買うと、
すぐ近くの小さな公園に入り、ベンチに腰掛けた。
麻奈実さんがパックの封を開けると、良い匂いが鼻孔をくすぐった。
「桐乃ちゃんも食べる?美味しいよ?」
「あたしは……要りません」
「たこ焼き、嫌いなの?」
「そうじゃないけど、粉ものは太っちゃうから」
「そっかぁ。桐乃ちゃんはもでるさんだもんね。
ごめんね、気が利かなくて……隣で食べるのもなんだから、
これは後できょうちゃんにあげようかな」
麻奈実さんは申し訳なさそうにパックを閉じて、居住まいを正した。
「あのね、桐乃ちゃん」
――来る。
「この前、きょうちゃんと、桐乃ちゃんと、わたしの三人で話し合ったときに、
わたしたちが二人とも、隠していたことがあるよね」
「…………」
「三年前、わたしと桐乃ちゃんが仲違いした直接の理由。
わたしよりも、桐乃ちゃんの方が、よく憶えてると思うんだ」
「やっぱ、忘れてるわけないか」
あたしは盛大に溜息を吐いた。
もし麻奈実さんが憶えていなかったら、自分から打ち明けなければならないと、
肩肘張っていたのが馬鹿らしくなる。
三年前のあの日。
京介が折れて、その原因が麻奈実さんにあると決めつけて、
『兄貴を返して!』
と麻奈実さんの家に怒鳴り込んだあたしは、
見上げるのも億劫になるほどの、巨大な壁――現実――にぶち当たった。
『桐乃ちゃんは、お兄ちゃんが大好きなんだね』
中学生の麻奈実さんは、諭すように言った。
『でも、わたしは桐乃ちゃんから、お兄ちゃんをとったりしてないよ。
だから、返してって言われても、どうすることもできない。
ねえ、桐乃ちゃん、一つ訊いてもいいかな。
桐乃ちゃんはきょうちゃんのことを、どういう意味で好きなの?
一人のお兄ちゃんとして?それとも、一人の男の子として?』
あたしは下瞼にいっぱい涙を溜めて、それでも必死に泣くまいと堪えながら、答えた。
『りょ、両方っ!兄貴はいつまでも、あたしだけの兄貴だもんっ!』
『そっか……でもね、桐乃ちゃん。
そういう風な意味でお兄ちゃんが好きだなんて、おかしいと思うな。
普通じゃないと思う。異常だと思う。たくさんの人が、気持ち悪いって感じると思う』
麻奈実さんの声は穏やかで、優しくて……、
なのに言葉の一つ一つが、幼いあたしの胸に突き刺さった。
『当たり前だけど、兄妹では結婚なんてできないし、
ご両親だって反対するに決まってるよ。
桐乃ちゃんの気持ちが本物であればあるほど、
大人になっても変わらないものであればあるほど、誰かが不幸になる。
それはもうどうしようもないことで、誰にだって、
たとえきょうちゃんにだって、どうにもならないことなんだよ。
今のきょうちゃんじゃなくて、桐乃ちゃんが好きだった頃のきょうちゃんでも同じ。
だって、桐乃ちゃんが憧れてた「すごいお兄ちゃん」なんてどこにもいないんだから』
あたしは耳を塞いで、涙に濡れた目で麻奈実さんを睨み付けるのが精一杯だった。
口を開けば最後、嗚咽が止まらなくなるような気がした。
『だからね、桐乃ちゃん。
その気持ちは、絶対誰にも言っちゃだめだよ。早く忘れて、諦めて、
ありのままのお兄ちゃんと仲直りして――普通の兄妹に――――なりなさい』
最後の言葉が止めになって、あたしはみっともなく、麻奈実さんの部屋から逃げ出した。
『まなちゃんなんか、大っ嫌い!』
と捨て台詞を遺して。
それから三年の月日が流れ、縁日の喧噪から少し離れた公園のベンチで、
高校生になった麻奈実さんは、中学生になったあたしに、改めて訊いてきた。
「桐乃ちゃんは、お兄ちゃんが好き?」
「……うん、好き」
自分の気持ちを認める一言が、麻奈実さんの前ではあっさりと飛び出す。
隠しても意味がないって、自分で分かってるからかな。
だからきっと、次の質問にも素直に答えられる。
「それは一人のお兄ちゃんとして?それとも、一人の男の子として?」
「あたしの気持ちは、あのときから変わってない。京介は、あたしだけのものだもん」
「それじゃあ桐乃ちゃんは、まだお兄ちゃんと仲直りする気、ないの?」
あたしは頷いて、
「だって、京介と仲直りして、普通の兄妹に戻ったら……、
あたしが京介にとっての一番じゃなくなっちゃうでしょ」
三年前は、あたしが麻奈実さんに言われ放題で、反論する余裕すらなかった。でも、今回は違う。
「今のあたしは、京介がただの平凡な人間だって分かってる」
「それなら……」
「でも、あたしは昔憧れてた兄貴よりも、今の京介の方が、よっぽど好き。
ヘタれでも、カッコ悪くても、あたしのことが大好きで、
あたしが困ってるときには他の何より優先して助けてくれる兄貴が、大好きなの!
誰かに気持ち悪いって思われようが、誰かが不幸になろうが――、
好きなものは好きなんだから、しょうがないでしょ!」
麻奈実さんは唖然とした表情で、あたしの告白を聞いていた。そして、
「成長したね、桐乃ちゃん」
そう、あたしは成長したんだ。どんなに周囲から否定されようが、
兄に恋をしている自分を、開き直って肯定できるほどに。
「でも、桐乃ちゃんだって、いつまでもこのままでいいとは思ってないでしょう?
桐乃ちゃんは、あやせちゃんや加奈子ちゃんや、
黒猫さんの気持ちを知ってるんだよね?
その上で、お兄ちゃんの優しさに甘えるつもりなの……?」
あたしは首を横に振った。
「このままじゃ、あたしも、京介も、前に進めない。
だから……卒業までにケリをつけるつもり」
麻奈実さんは全てを見透かすような、澄み切った瞳であたしを見つめる。
「桐乃ちゃんは中学を卒業したら、海外に行っちゃうんだよね」
え、なんで麻奈実さんがそのことを――。
「黒猫さんから聞いたんだ。
もでるのお仕事をもっともっと頑張るためだって……。
あっちの学校に通うってことは、長い間、あっちで暮らすことになるんだよね。
そのこと、きょうちゃんには、もう話したの?」
「ううん。受験が終わってから、ちゃんと話すつもり」
「そっか。うん、わたしもそれがいいと思う。
あのね、一つだけ、気になることがあるんだけど。
桐乃ちゃんは、海外に行くから、今の状態に決着をつけるの?
それとも、決着をつけるために、海外に行くの?」
麻奈実さんの真顔の問いかけには、ごまかしを許さない迫力があった。
「あたしは――海外に行くから、今の状態に決着をつける。
当たり前じゃん。逃げ道に使うほど、海外留学は軽くないってば」
「気を悪くしたなら、ごめんなさい。でも、どうしても確認しておきたかったんだ」
「麻奈実さんは、あたしがケリをつけるのを、黙って見ててくれるわけ?」
「うん。だってわたしは、桐乃ちゃんがどんな決着のつけ方をしても、
桐乃ちゃんときょうちゃんが普通の兄妹に戻れるって信じてるもん」
「ふぅん……あっそ。アテが外れても、後で怒んないでよね」
以前VIPで書いたことがあったのでスレを建てましたが
SS速報の方があっていたかもしれません
建ててしまったので使い切りたいと思います
すみません
ここまで言われて、後には引けない。
あたしはまんまと麻奈実さんに焚付けられて、
自分に嘘をつかないケリのつけ方を選んでしまった。
黒猫やあやせにも同じように焚付けられたけど、三年前からずっと、
あたしの秘密の恋心を知っていた麻奈実さんだからこそ――敵愾心が燃え上がる。
「ところで、麻奈実さんは京介のこと、結局どう思ってんの?」
「ん、と……好きだよ?」
「じゃあ、今まで付き合おうとか、そういうのはなかったわけ?」
「んー、残念だけど、なかった、かな。
きょうちゃんは鈍感だし、わたしは奥手だし。
あとね、これは強がりとかじゃないんだけど……、
きょうちゃんが幸せになることが、わたしにとっての幸せなんだ」
「なにそれ。自分以外の誰かが京介と付き合っても、構わないってこと?」
「うん。でもね、きょうちゃんが黒猫さんと付き合ったとき、
わたし、すっごく悔しかった。
それで、わたしがきょうちゃんの好きな人になれれば、
きょうちゃんもわたしも幸せになれるかなぁって……いめちぇん、してみました」
長い髪を靡かせて、ふんわりと笑む麻奈実さん。
遠慮せずに認めるあたり、やっぱりあたしはこの人に、
恋敵として見られていないのだろう。……ムカつく。超ムカつく。
「まなちゃん、たこ焼きちょうだい」
「えっ、粉ものは太るんじゃ……あと、今、わたしのことまなちゃんって……」
「うるさい!さっさと食べさせてよねっ!」
-4-
センター試験まであと十日。
寒風吹きすさぶ一月の初旬、世間が未だ正月気分に浮かれているのを尻目に、
俺は麻奈実と最後の詰め作業をすべく、田村屋の門扉を叩いていた。
「こんちわ~」
「よっ、あんちゃん」
いの一番に出迎えてくれたのはロック。
麻奈実の弟で本名はいわおだが、よんどころなき理由によりロックと呼ばれている。
一時は坊主頭で、最近急激に髪が伸び……って、お前、また坊主頭に戻したのか?
「へっへー、あんちゃん騙されてやんのー。
あんときは、姉ちゃんのカツラを借りてたんだって」
ああ、なるほどな。あのとき麻奈実が妙に怒ってたように見えたのは、
自分のウィッグで勝手に遊ばれてたからか。
「紛らわしいことしてんじゃねーよ」
とロックのイガグリ頭を叩いていると、
「まあ、きょうちゃん。やっと婿に来てくれたの?」
「おおーっ、きょうちゃんが来た!婆さんや、式の段取りをせにゃあ!」
「はは……あんたらも相変わらずだな」
お馴染みのネタで出迎えてくれるこちらのお二方は、麻奈実の爺ちゃんと婆ちゃん。
台詞を聞いても分かるとおり、まるで床に伏せる気配のない矍鑠たる老夫婦である。
「もーっ、やめてよ二人とも。きょうちゃんが困ってるでしょ」
そして最後に登場したのが、今更説明も不要だろうが、
田村家の一人娘にして俺の幼馴染み、麻奈実。
楕円の縁の眼鏡がよく似合う、押しも押されぬ地味系女子代表……や、これ誉め言葉な?
麻奈実の両親は家業に追われて忙しく、日中に訪れてもあまり顔を合わせることがない。
もっとも、今日ここにやって来たのは、田村ファミリーと団欒するためじゃなく、
麻奈実もそれをきちんと分かっていて、雑談もそこそこにこう言った。
「きょうちゃん、二階、いこ?」
「俺も着いてっていい?」
とすかさずロックが口を挟む。
「だーめ。お姉ちゃんときょうちゃんは、これから勉強するの。いわおも勉強しなさい」
「えーっ、どうしてもあんちゃんに聞いてもらいたい新曲があるんだって」
「晩ご飯の時まで我慢して。ね?」
弟の我が儘を、優しい声で諫める姉。理想的な姉弟の図だ。
つーか、俺が夕餉の相伴に預かることはいつ決まったんだろうな?
麻奈実はくるりと俺に振り返り、
「今日はねぇ、きょうちゃんの好きなかつ丼を腕に縒をかけて作るから、
楽しみにしててね?」
そんな風に言われると、
「おう。期待しとく」
と答えるしかない。まあいいか。実際、かつ丼は俺の大好物だしよ?
俺と麻奈実が階段を上がりかけると、すかさず背後から煽り文句が飛来する。
「ヒューヒューッ、のっけから二人きりとはお熱いねぇ!」
「若さっていいですねぇ」
麻奈実と俺の関係を色眼鏡で見る奴は少なくないが、
その第一人者が麻奈実の祖父母なもんだから困ったもんだ。
戯れ言ついでに哀愁漂う三味線の響きが聞こえて来たところで、
俺と麻奈実は顔を見合わせて苦笑した。
仲間はずれにして悪いな、ロック。夕食の席ではたっぷり弄ってやるからよ。
麻奈実の部屋に入ると、嗅ぎ慣れた線香とい草の匂いが鼻孔をくすぐった。
陶器、掛け軸、浮世絵などなど調度品の類にも変わりなく、
「はい、きょうちゃん。熱いから気を付けてね」
湯気立つ緑茶がちゃぶ台に添えられれば、
もはや誰もこの部屋の主が現役女子高生だとは思わないだろう。
湯飲みに軽く口を付けて、鞄の中から参考書やらノートやらを取り出す。
専ら俺が生徒役、麻奈実が先生役の勉強会は恙なく進行した。
相変わらず麻奈実の教え方は堂に入っていて、
俺が試験で取りこぼしそうな箇所を分かりやすく教えてくれる。
「こんなふうに、たまには麻奈実の家でやるのもいいな」
二度目の小休止、俺の口からポロッと出た感想に、麻奈実はおっとりと否定を重ねてきた。
「そうかなぁ?わたしは図書館の、ちょっとぴりぴりしてる雰囲気も好きだよ。
集中しなきゃ駄目だよ~って、みんながみんなで確認しあってるみたいじゃない?」
「たまに息が詰まらねぇか?俺はこうして麻奈実と二人きりでいる方が気楽でいいよ」
あの爺さんと婆さんが「婿が来た」だの「式の段取り」だのうるせーから、
昔ほど頻繁に通おうとは思えねえけどさ。
「あはは、一長一短だねぇ」
麻奈実は湯飲みを両手で持つと、ずず、と上品な所作で緑茶を啜る。
それを俺は畳の上に仰向けになった格好で眺めている。
こいつの正座はホント、様になってるっつーか、凜としてるっつーか……古き良き女性の鑑だよな。
「な、なに?わたしの顔に何かついてる?」
視線に気づいたのか、モジモジと落ち着きを無くす麻奈実。
あーあ。それだけでもう、古雅な佇まいは台無しだよ。
「安心しろ。お前の顔はいつも通りだ。
……ところでお前、家の中でもウィッグつけてんだな。
家族の前でお洒落しても、意味なくないか?」
すると麻奈実は口元を隠すように湯呑みを持ち上げて、
「きょうちゃんは……家族じゃないでしょ?」
「ほとんど家族みたいなもんだろ」
何が不満なのか、ぷくーっと頬を膨らませる麻奈実。
まあ、女ってのは常にお洒落をしていた生き物なのかもしれない。
俺の家にも、部屋着が無駄にお洒落で、風呂に入るまで化粧を落とさない妹がいるからな。
俺は軽く上体を起こして、ひょいと麻奈実の眼鏡を取り上げた。
「あっ」
奪い返そうとする麻奈実の両手を片手でいなし、眼鏡を装着する。
「もうっ、返してよう。なんにも見ーえーなーいー……」
ありとあらゆるものの輪郭がぼやけた世界。
水の中にいるみたいだ、と変わり映えのない感想を抱いた。ふと、麻奈実の抵抗が止む。
「ふーんだ……もう勉強教えてあげないから」
それは非常に困る。
「悪い悪い。ほら、返してやるから拗ねんなって」
幼馴染みと他愛もないお喋りをして、ふざけあって、
喧嘩とも呼べないほど些細な諍いを起こして、すぐに仲直りして……。
そんなひとときを、俺は今では尊いものとして感じていた。
勉強会が終わり、夕食をご馳走になった後。
「じゃーなー、あんちゃん、また来てくれYO!
次こそあんちゃんを痺れさせる超カッチョいいリリックを聞かせてやっからなーっ!」
「うっせ!近所迷惑だバカ」
「きょうちゃん、またね」
「おう。かつ丼、メチャクチャ美味かったぜ。ありがとな」
ロックと麻奈実に見送られ、田村家を後にする。
爺さんに「泊まっていってくれなきゃ心臓発作で死ぬ」と脅され、
「せめて風呂だけでも」と懇願されたが、湯に浸かっちまったが最後、
なし崩し的に勉強合宿コースに直行しそうだったので断った。
さすがに自重しておこうと思ったのさ。
いくら麻奈実が喜んで俺の受験勉強を見てくれているとはいえ、麻奈実自身も受験生だ。
自分の勉強を疎かにして欲しくなかった。
高く澄んだ真冬の夜空の下、マフラーに顔を埋めて帰路をとぼとぼ歩いていると、
前方から変態がやってきた。
変態というと裸にトレンチコートを着たおっさんを想像しがちだが、
俺の目前で颯爽とドリフトを決めて自転車から降り立ったのは、眉目秀麗なイケメンで、
何が問題かってーと、ほぼ全裸の女の子がディスクホイールに描かれた自転車の方である。
「こんばんは、京介くん」
「御鏡……お前、まだその自転車乗ってんのな」
「まだ、って、心外だなあ。
僕は『しゅーてぃんぐすたー号』が不慮の事故で壊れるまで乗り回す気でいるよ。
定期メンテナンスも欠かしていないしね」
と臆面も無く宣い、実際に街中で職質必至の痛チャリを駆るこの男は、御鏡光輝という。
エターナルブルーの社長である美咲さんから、サイドブランドである
『エターナルブルーシスター』を一任されている、美形モデル兼デザイナーであり、
同時にコスプレを愛し兄妹モノのエロゲーを嗜むオタク野郎である。
長々と語ったが、男版の桐乃と言えば分かりやすいかもしれない。
ちなみに俺とは同い年だ。
「それで……こんな時間にこんな場所で、俺に何の用だ」
「やれやれ、京介くんは僕に冷たいなぁ。
京介くんが色々と複雑な立場に立たされていると小耳に挟んでね。
お互いの受験勉強の気分転換がてら、お話をしようと思ったんだ」
「俺を肴に気分転換するな」
「まあまあ、ちょっとぐらい、いいじゃない。
どこか近くの喫茶店に入ろうよ。僕が奢るから、ね?」
ここまで言われると、無下に断りづらい。
「んじゃ、ちょっとだけな」
「よかった。……あ、喫茶店まで、後ろに乗ってく?」
「それだけは断る!」
そんなこんなで喫茶店に到着し、小さな卓を間に挟んで、俺は御鏡と向かい合った。
「さっき、お互いの受験勉強って言ってたが――お前も大学受験すんの?」
「するよ?モデルやデザイナーの仕事を続けながらでも大学は通えるし……、
この学歴社会で、高卒止まりは色々と不利でしょう」
上品にコーヒーを啜りながら、御鏡は魅惑的な微笑みを浮かべる。
こいつは自然体なんだろうが、いったいこの笑顔に惑わされた女が何人いるんだろうな。
「ちなみにどこ受けんの?」
「――だよ」
さらりと国立上位大の名称を口にする御鏡。
こいつの仕事柄、芸大の推薦かと思っていたが……頭のよろしいこって。
天は二物を与えず、という格言が嘘っぱちだと痛感するね。
「京介くんはどこに行くの?」
自分だけ聞いて答えないのもアレなので、
「――だ」
と明かすと、御鏡は大袈裟に目を見開いた。
「結構な難関大じゃない」
「お前と似たようなレベルじゃねーか」
「学部は?」
これも明かすと、御鏡は今度は怪訝そうに首をひねって、
「京介くんらしからぬ学部だね」
まあ、その感想はもっともだ。
俺のお袋や親父にも、「社会環境について学んで、どうしたいのか」と聞かれた。
つっても、逆に聞きたいんだが、俺らしい学部って何?
「シスコン心理学部……とか?」
「ねぇよそんな学部!」
「はは、ジョークだよ、ジョーク。
……で、その学部を志望するからには、理由があるんだよね?」
核心を突かれて、俺は口籠もる。
「大した理由はねえよ……ただ単に、幼馴染みがそこを目指してるからだ」
「付和雷同の極みだねぇ」
うっせ!お前って一見好青年だけど、たまに歯に衣着せぬ物言いするよな。
ちなみに麻奈実が社会環境を学びたいのは、
爺ちゃん婆ちゃんの足腰が年々悪くなっているのを見て、
ばりあふりーな世の中を作りたいから、だそうだ。
「まあ、学歴目的で大学に通おうとしている僕が言えた台詞じゃないけどさ。
京介くんには、何か夢がないのかい?」
夢、ねえ。
ガキの頃は宇宙飛行士になりたいだの、野球選手になりたいだの、
お医者さんになりたいだのと嘯いていた記憶があるが……。
「生憎、俺にはお前や桐乃と違って、ただの凡人なんでな」
そんな卑屈の答えのどこが面白かったのか、御鏡はクスクスと笑って、
「僕を桐乃さんと同列に扱ってくれるなんて、光栄だな。
言っておくけど、僕は自分のことを天才だと思ったことはないよ」
「謙遜はやめろっての」
「本気だよ。僕は月並み以上の容姿を持っている自負はあるけど、
大衆紙の紙面を飾るほどじゃない。デザイナーとして実績を残しているけれど、
世界に通用するほどじゃない」
嫌味にしか聞こえないのは俺だけか?
「それだけ恵まれてたら、人生ベリーイージーモードじゃねーか」
「その点については否定しない。
ただ、仕事に関しては……僕は本当に運が良かったと思ってる。
京介くんには話したことがあったよね。
アニメを見て、そこに出てくるキャラクターのアクセサリーを自作して……、
僕は初めてアクセサリーを作ることが楽しく思えたんだ。
創造性を刺激されたのさ。そのきっかけがなかったら、
僕は一生うだつの上がらない下請けデザイナーをやっていたと思う」
「……それで、結局何が言いたいんだよ?」
「京介くんにも、いつか夢が見つかるきっかけが訪れるってこと。
自分の夢に気付いたら、あとはその夢の実現に向けて努力することが、
僕たち凡人に出来ることだよ」
あくまで、御鏡は俺と同じ人種だと言いたいらしい。
つーか、御鏡がだんだん、進路指導の先生に見えてきたぞ。
「夢、ね……精々、大学生活の中で見つけてやるさ……」
御鏡の兄貴みたく、定職に就かないで女のヒモになるのはご免だ。
お前の器量じゃヒモになれねーよ、なんて悲しいツッコミはナシだぜ。
「なあ、御鏡の中では、桐乃も凡人の括りに入るのか?」
御鏡は大仰に両手を顔の前で振って、
「いやいや、桐乃さんは逸材だよ。彼女はきっと、素晴らしいモデルに成長する。
それは僕が保証してあげる」
こいつ、美咲さんの桐乃に対する入れ込みが感染ってね?
御鏡は聞いてもないのに語り出した。
「モデルというと、卓越した容姿や振る舞いに注視しがちだけど、
何よりも重要なのはメンタルなんだ。
陽気さ、妖艶さ、清廉さ……衣装や舞台のコンセプトに応じて、
モデルはがらっと身に纏う雰囲気を変えなくちゃいけない。
落ち込んでいようが、体調が悪かろうが、舞台ではそれを完璧に隠さなくちゃいけない。
その点において、桐乃さんの資質はずば抜けてる。
彼女はね――京介くん。『自分に嘘をつく』のが、とっても上手い女の子なんだよ」
「お前にそこまで評価されてるって知ったら、あいつ、喜ぶだろうな。
あたし世界に通用するカモ、なんて調子づくかもしれねえ」
「世界に通用するもなにも、桐乃さんは――」
御鏡は不自然に言葉尻を切り、何かに気付いたように瞬きすると、
「余談が長引いてしまったね。本題に移ろうか。
風の噂で聞いたんだけど、京介くんは最近モテモテなんでしょう?」
「……誰から聞いた?」
「それは守秘義務の関係で内緒。
否定しないってことは、そうなんだね。で――正妻は誰で、側室は何人?」
「ばっ……」
なに俺がハーレム作る前提で話を進めてんだ、てめえ!?
「……俺は、今は誰とも付き合う気はねえよ」
「それじゃあ、やっぱり妹さんと結婚するんだ。おめでとう、ハッピーエンドだよ」
論理の飛躍が甚だしいなオイ!?
「エロゲーの内容を現実に持ち出すな。……今は、って言っただろ」
御鏡は真面目な態度に立ち帰り、
「その時が来るまでは、現状に甘んじると?」
「そういうこった」
「上手くやれば、エロゲー原作家もびっくりのハーレムエンドに
ソフトランディング出来そうだけど……京介くんは不器用だからね(笑)」
「不器用で悪かったな」
「でも、そんな不器用なところが僕は好きだよ」
BLの誤解を生む発言は慎め。
「トゥルーエンドに至るにあたって、
京介くんはたくさんの女の子を泣かせるわけだよね。
僕、恋愛経験はそれなりに豊富だから、
後腐れなく女の子を振る方法、教えてあげようか?」
「結構だ」
あと勝手に俺の印象操作をしてんじゃねえ!
「京介くんはたくさんの女の子を泣かせる」のあたりで、
隣のテーブルの女子高生からすんごい白い目で見られたんですけど!?
「そっか。でも、恋愛絡みで困ったことがあったら、遠慮なく僕を頼って頂戴」
「……妹ゲーに脳みそやられてるお前から、
良いアドバイスをもらえるとは思えないんだが」
それから俺たちは益体のない妹ゲー談義に終始し(誘導したのは御鏡だ)、
喫茶店をあとにした。別れ際、御鏡はこんなことを言った。
「そういえば、京介くんは『しすしす』はクリアしたのかな?」
しすしす――『妹×妹(シスターシスター)』とは、
桐乃が陸上の強化合宿でロスに行く前、「あたしの代わりに」とプレゼントしてくれた、
妹モノのエロゲーである。ちなみに攻略対象の妹は「みやび」と「りんこ」の二人で、
「俺は今のところ、みやびルートしかクリアしてないな。
ここんところ、エロゲーやる暇がなくてよ」
「リア充おつ、と言っておこうかな」
「受験勉強で忙しいだけだっての」
「何はともあれ、あれは神ゲーだよ。
僕も何度プレイしたか分からないぐらいだ。
特にりんこりんルートは……いや、ネタバレは僕の本意じゃない。
真実の愛は自分の目で確かめてこそ、だからね」
台詞回しはカッコイイのに、内容が致命的にキモかった。
腕時計を見る。飯は要らないと連絡してあるが、
あんまり遅くなると親父の顰蹙を買いそうだ。
「……帰っていいか?」
「ああ、もうこんな時間か。それじゃあ、おやすみなさい」
御鏡は颯爽としゅーてぃんぐすたー号に跨がり、
「りんこりんルート……受験が終わってから、
是非、妹さんと一緒にプレイすることをオススメするよ」
通行人の痛い視線を浴びながら去って行った。
-5-
初詣、麻奈実との最後の勉強会、御鏡との対話に続く予定は受験関連のみとなり、
時間は瞬く間に過ぎ去っていった。
一月中旬のセンター試験、二月中旬の私大試験を経て、
残すは今日――第一志望大学の前期日程試験のみである。
「きょうちゃん、筆記用具の忘れ物、ない?」
「お袋に飽きるほど確認させられた」
「受験票はちゃんと持ってる?」
「それ忘れてたら、試験に間に合わねーよ」
受験生にありがちな会話をしながら、大学に辿り着く。
道中すれ違った他の受験生は、表情でそれと分かった。
不安で落ち着かない者、泰然自若と構えている者。
その差はあれど、誰もが現在の好敵手で、未来の同級生だ。
受験生の中でも、俺は恵まれている方なんだと思う。
こうして試験直前まで幼馴染みと話して、平静な心持ちで試験に臨むことができる。
試験会場に入ると、俺と麻奈実は受験番号の通りに、離れた席に座った。
「頑張ろうね、きょうちゃん」
「頑張ろうな、麻奈実」
泣いても笑っても、これが最後の試験だ。
滑り止めに受けた私立大学には受かっていた。
親には浪人しないと告げてある。
麻奈実と一緒にキャンパスライフを送れるか否かは、この試験にかかっている。
試験官が問題を配付し、やがて、試験開始の号令がかかる。
自信は十分。コンディションは良好。
――全力を叩きつけてやれ。
俺は自分自身に檄を飛ばし、固くシャーペンを握りしめた。
そして、数時間後。
「大丈夫、きょうちゃん?魂が抜けちゃったみたいになってるよ?」
「……………ああ」
試験を振り返れば、手応えはあったが、過信はできないと言ったところ。
模擬試験でネックになっていた英語は、本試験だと拍子抜けするほどスラスラ解けたが、
他の科目が軒並み高難度だった。
なんとか時間内に全問解けたものの、完璧に見直せたとは言い難い。
ケアレスミスが大量にあれば――いかんいかん。マイナス思考よ、消えてなくなれ。
「終わった……んだよな」
「うん……後は、ゆっくり結果が出るのを待とっか」
大学の食堂脇にあるテラスで、俺は麻奈実とベンチに腰掛け、
受験からの解放感に浸っていた。
精神的肉体的な疲労がドッと噴出して、しばらくは体を動かせそうにない。
麻奈実は隣でのほほんと自販機の緑茶を飲んでいるが、
俺はうかつに口を開こうものなら、エクトプラズムが漏れ出てしまいそうだ。
それでも俺には、どうしても、言っておかなければならないことがあった。
「ありがとな――麻奈実。今まで、俺の勉強を見てくれて」
「ま、待ってよきょうちゃん。そのせりふは、無事に合格が決まってからにして?」
「受かろうが落ちようが、俺が麻奈実に感謝してることに変わりはねーよ。
もちろん合格できたら、その時は改めて礼をするつもりだぜ」
「お礼なんて……別にいいよう。
だって、わたしは好きできょうちゃんに勉強を教えてたんだもん。
それに、誰かに教えるのって、復習するのにぴったりで、
わたしにとってもいい勉強になってたんだよ」
「それとこれとは話が別だ。
ちゃんとした礼をすることは、ずっと前から決めてたんだよ。
欲しいもんとか、してほしいこととかあったら、遠慮なく言ってくれ」
俺が身を乗り出すと、麻奈実は神妙な顔つきで悩む素振りを見せ、
急に顔を林檎のように赤く染めると、
「………………………………きょうちゃん」
と呟いた。
「ん?どうした?」
「だ、だからぁ……わたしが欲しいものは、きょうちゃん……です」
「麻奈実……それって、どういう――」
「あ、あああ、あのねっ!
もしもきょうちゃんと一緒の大学に合格して、
一緒にきゃんぱすらいふを過ごせることになったとしても……、
これまで通りの生活とは違って……すれ違いが増えちゃうと思うんだ。
きょうちゃんもわたしも、それぞれ大学で友達が出来るだろうし、
さーくるや部活に入ったり、ばいとを始めたりして、新しい交友関係ができて……、
これまでどおりの幼馴染みでは、いられないと思う」
そこで麻奈実は数拍間をおいて、
「でもね―――どんなに環境が変わっても、わたしはきょうちゃんと離れたくない。
一緒にいたい。だから、これからは幼馴染みじゃなくて……、
その先の関係になりたいんだけど……どっ、どうかな?」
前髪が垂れ、麻奈実の目を覆い隠す。
膝の上の手は固く握られ、振り絞った勇気のほどが窺えた。
幼馴染みからの、遠回しな告白。
どうやら、ひっそりと胸の奥に仕舞っていた、古い恋心を明かすときが来たみてーだな。
「なあ、麻奈実」
「はっ、はい……」
「中学の頃……俺が、お前のこと好きだったの、気付いてたか?」
「ふぇ?そ、そうだったの……?」
「ああ。――でもさ、あるとき自然に……そういう気持ちが、
消えちまってることに気付いたんだ。
たぶん、俺がお前と仲良くなりすぎて――ある意味で本物の家族よりも、
家族らしく接するようになったからだと思う。
だから、ごめん。お前とそういう関係になることは―――考えられない」
面を上げた麻奈実の下瞼に、涙の粒が満ちる。
こいつの本気の泣き顔を見るのはいつ以来だろう。
ジャングルジムから落ちて、大事にしていた眼鏡が割れたときでも、
泣き声一つあげなかったやつだ。
思い返せば、記憶の中の麻奈実は、いつだって俺に笑顔を向けていた。
「でも、だからってお前と疎遠になる気はねーからな。大学が始まって、
新しい友達ができようが、サークルに入ろうが、バイトを始めようが、
俺はお前の幼馴染みをやめねーし、お前にも幼馴染みをやめさせねー。
俺はもう、お前と一生付き合っていくって決めてるんだよ」
「そっか……うん、分かった」
麻奈実は人差し指で涙を拭い、泣き笑いの表情で、ぺこりと頭を下げた。
「これからも、末永くよろしくね、きょうちゃん」
「おう」
俺は鼻の下を擦って、ベンチに深く腰掛ける。
仰いだ先には、果てしない青の空に、まばらに浮かぶ白い雲。
大学に入ったら、ここを麻奈実との憩い場にしよう――ふと、そんなことを考えた。
さて、受験から解放され、精も根も尽き果てた俺を、
妹は模擬試験のときのように、キャンパスの正門前で待っててくれていた。
「お疲れさま。京介、まなちゃん」
麻奈実の呼び名が昔の渾名に戻っている。
へっ、俺の知らないところで、一丁前に仲直りしてやがったな、こいつら。
「ありがとう、桐乃ちゃん」
「試験、どうだった?」
「えへへー、ばっちりだよ」
「さすがまなちゃん。不安そーな顔してるどっかの誰かとは違うね」
桐乃は小馬鹿にするように口角を上げ、しかしふっと目元を緩めて、
「大丈夫だよ。京介、あんなに頑張ってたんだもん。
受かってなきゃ、逆におかしいじゃん」
「桐乃……」
「あの、さ……家に帰る前に、着いてきて欲しいところがあるんだけど……いい?」
「着いてきて欲しいところって、どこだよ?」
「それは後で教える。まなちゃん、ごめん。京介借りるね」
麻奈実は頷いて、ぱたぱたと手を振った。
「じゃあ、またね。きょうちゃん、桐乃ちゃん」
「ああ、近いうちに家に行くからよ」
桐乃は俺の手を引き、早足に歩きだした。
やれやれ、受験が終わって平穏な生活が戻ってきたと思った矢先にコレだよ。
この後は麻奈実の家で、久々に一服する予定だったってのに。
電車に乗って都心に赴き、駅から降りて歩くこと数分。
都内のホテルでは三ツ星を冠する高級ホテルの前で、桐乃は足を止めた。
ふぅっ、と気合いを入れるように深呼吸して、ロビーに入る。
俺は付き人のように、桐乃に黙って着いていくだけだ。
桐乃が目上の誰かと待ち合わせしていることには、薄々気付いていた。
黒のフォーマルパンツにベージュのトレンチコート――大人びた装いは、
いつか桐乃が、携帯小説の書籍化について編集者と話し合ったときのものに、
よく似ていたから。
ロビーの一角、革張りのソファに掛けて俺たちを待っていたのは、
美咲社長と、俺にとって初対面の人物だった。
プラチナブロンドに灰色がかった瞳、彫りの深い精悍な顔立ちに、
ダンディな髭を生やした、一目で外国人と分かる初老の男性。
「お待たせしてすみません」と桐乃。
「いいのよ。さあ、かけて」
美咲さんに促され、対のソファに座る。
いったい今から何が始まるんだ?
美咲さんがいるので、モデル関係の話ということはなんとなく予測できるが、
俺が同伴する意味あんのか?と視線でメッセージを送ってみるものの、
桐乃はそれを無視して、
「あの話……正式にお受けすることにしました」
「そう。決心がついてくれたようで、何より。
それで、電話でも話していたけど、この人が本社の――さん。
あっちで桐乃ちゃんがお世話になる人よ」
紹介された外国人が、にっこりと微笑む。
桐乃は、緊張した面持ちで自己紹介を始めた。もちろん英語で、だ。
桐乃は三ヶ月の留学経験で、一般的な会話が出来る程度には、英語をマスターしている。
ちなみに俺は数時間前まで現役バリバリの受験生だったくせして、
二人の英会話の内容が、さっぱり頭に入ってこない。
頼む、誰かこの状況を説明してくれ。
日本のエターナルブルーは支部扱いで、本社が海外にあることは知っている。
そんでもって、美咲さんは眼前の外国人を本社の人間と言い、
桐乃があっちでお世話になる人だとも言った。
ん……おいおい待て待て、それってつまり……。
「桐乃」
桐乃は俺の言葉を聞き流して、外国人と会話を続けている。
俺は桐乃の肩を掴み、無理矢理に振り向かせた。
「痛ッ……なに?今大事な話してるから、あとで――」
「――お前、海外に行くのか」
さまよう視線。震える肩。
桐乃が頷くよりも先に、俺は全てを理解した。
桐乃は去年の夏に断った、美咲さんからのスカウトを、受けようとしている。
「なんで今まで黙ってた?」
「………」
「なあ、なんとか言えよ。どうして――」
「京介くん」
口を噤んだ桐乃の代わりに、美咲さんが答えた。
「桐乃ちゃんが今まで秘密にしていたのは、
あなたの受験に影響を与えたくなかったからよ」
そっか。そういうワケか。
受験で大変な俺が、余計なことで気を散らさないように……。
俺の妹にしちゃ、粋な計らいだ――なんて言うと思ったか?
「海外に行く段取りはもう済んでて、これは最終面接みたいなもんなんだろ」
「……うん」
「親父やお袋には、もう話してあるのか」
「……うん」
「海外に行くとして……いつ日本を発って、いつ帰ってくるんだ」
「四月の初め……期間は最低でも三年……あっちで通用すれば、それ以上、かな」
三年……だと?
陸上の強化合宿でさえ、一年の予定だった。
それが今回は三年、下手すりゃ無期限ときた。目眩がしたね。
桐乃のことだ――どうにかなっていると確信しつつも、俺は反対材料を口にする。
「学校はどうするんだ」
「あっちの学校に通うつもり」
「学費とか、生活費とかは?」
「貯金を切り崩せば当面はなんとかなるし……、
あっちの仕事は、こっちの仕事より稼げるから……大丈夫だと思う」
そうだ。こいつは中学生の分際で、どえらい額の貯金を持っている。
読者モデルの報酬で、ケータイ小説の印税で……。
こいつが書いた『妹空』はアニメ化までされていて、
どれほどの金が桐乃の銀行口座に舞い込んだのか、想像も出来ない。
俺の語勢が弱まったのを見計らったかのように、突然外国人が喋り出した。
俺は流暢な英語が理解できず――理解したいとも思わなかった。しかし、
「わたしが通訳するわ。……初めまして、桐乃さんのお兄さん。
桐乃さんが海外に行くにあたって、様々な不安があると思いますが、
わたしはあなたに約束します。わたしはモデルのお仕事だけでなく、
普段の生活の面でも、桐乃さんをサポートするつもりです。
桐乃さんには素晴らしい素養があります。
いずれは世界で活躍するモデルになれるでしょう。
そのためには、早くから本場で経験を積むことが大切です。
どうか、桐乃さんのスカウトを、認めてもらえないでしょうか」
美咲さんが通訳を終え、今度は自分の言葉で話し出す。
「わたしからも、お願いするわ。
正直、桐乃ちゃんを手元から手放すのは惜しい。
でも、それ以上に、彼女の才能を日本で枯らしたくないの」
「…………」
はは、なんだか笑えるぜ。まるで俺が桐乃の夢を妨害してる悪者みてーな扱いじゃねーか。
「……勝手にすればいい」
俺は乱暴に席を立った。桐乃を見下ろして、
「あのときと違って、今度は桐乃――お前自身が、海外に行くことを望んでるんだろ。
それじゃあ、なんでわざわざ、俺にお伺いを立てる必要があるんだよ」
「そっ、それは――」
「試験で疲れたし、先に帰るわ」
子供じみたマネだと分かっちゃいたが、自制が利かなかった。
「京介っ!」
妹の呼び声を無視して、俺はロビーを後にした。
『世界に通用するもなにも、桐乃さんは――』
今なら、このあいだ御鏡が言いかけていた言葉の先が分かる。あいつは美咲さん経由で、
桐乃が海外で本格的にモデル修業するつもりなのを知ってたんだろう。
親父やお袋、御鏡の他にも、俺の周りで桐乃の海外行きを知っていたやつはいるはずだ。
そいつらは揃いも揃って、桐乃の意図を汲み、
俺に桐乃の海外行きを秘密にしていやがった。
――気にいらねえ。まったくもって気にいらねえよ。
舌打ちをしながら、往来を振り返る。当然、そこに桐乃の姿はなく。
俺は青息吐息の体で、独りぼっちの帰途についた。
それから数日後の三月初旬――俺の人生の分水嶺とも言うべき、大学合格発表日が訪れた。
朝から麻奈実と待ち合わせて、大学に向かう。
最近はインターネットでも合否を確認できるそうだが、
一分一秒でも早く、自分の目で結果を確かめたかった。
合格者掲示板が運ばれてくるまでの時間は、比喩じゃなく、永遠に感じられた。
そして――運命の瞬間が訪れる。
掲示板の覆いが外され、人混みの各所で沸き起こる喜びの歓声と、落胆の嗚咽。
俺と麻奈実は、必死に自分の受験番号を探し――。
「「………あった」」
ほとんど同時に、番号を見つけた。
夢じゃ……ないよな。俺たち、受かったんだよな。
放心状態の俺に、麻奈実が抱きついてきた。
「やったね、きょうちゃん……」
「ああ……」
麻奈実は鼻声で、顔は見えないが、ボロ泣きしてるに違いない。
かくいう俺もさっきから視界が滲んで困ってる。
喉の奥から熱い塊がこみ上げてくるせいで、まともに喋ることもできない。
そして、合格発表の場に着いてきた桐乃が、誰よりも早く、祝いの言葉を贈ってくれた。
「合格、おめでと」
「ありがとな」と返すのが精一杯の俺に、
「はい、これ……もう電話、繋がってるから」
桐乃が携帯を渡してくる。準備の良いことで。
携帯を耳に当てると、
「京介?」
と落ち着きのないお袋の声が響いてきた。
きっと傍に親父もいるんだろう。俺はもったいぶらずに
「受かったよ」
と言ってやった。
お袋や親父がどんな反応をしたかは割愛するが、
長男の大学合格を知ったときの、ごく一般的な狂喜ぶりだった、と言っておく。
その晩、俺は親父やお袋が寝静まるのを待ってから、桐乃の部屋の扉を叩いた。
特上寿司をたらふく腹におさめ、気持ちの良い湯に浸かって、
睡魔が大挙して押し寄せていたが――いい加減、目を逸らしていたあの件について、
桐乃と話しておかねーと。
合格発表の今日に至るまで、俺は受験からの解放感に浸っていたが、
心の隅っこでは常に、桐乃の海外行きについて考えていた。
俺が美咲さんや本社の人に失礼な態度を取ったことを、桐乃は責めて来なかった。
逆に俺の方が、桐乃を避けるような態度を取ってしまっていた。
俺たちの関係がギクシャクしていたにも関わらず、
今日、桐乃は俺に付き添い、心の底から合格を祝福してくれた。
まったく……できた妹だよ、俺の妹は。
「桐乃、起きてるか?」
数秒の間があって、勢いよくドアが開く。
「……なに?」
「話があるんだけどさ、今、いいか?」
「寝るとこだったんだケド……いいよ、入って」
桐乃の部屋に入ると、甘ったるい匂いが鼻孔をくすぐる。
赤を基調とした女子中高生らしい部屋で、麻奈実のとは大違いだ。
「座布団くれよ」
「ベッドに座れば?」
言うとおりにすると、体一つ分の距離を開けて、桐乃もベッドに座る。
俺は深呼吸してから、口火を切った。
「この前は悪かった。ガキみてーな態度取って、お前のメンツ潰して……ごめん」
「別に謝んなくていいよ?」
「……え?」
「あんたの反応は、予想出来てたし……予め伝えてたから、
美咲さんも、本社の人も、全然怒ってなかったってば」
いやいやいや。伝えてたって、何をだよ?
「あんたが妹と三ヶ月離れ離れになるだけで死にそうになる重度のシスコンだって話」
ちょ、おま……なに俺の知らないところで、俺を社会的に抹殺してくれちゃってんの!?
「だって、事実じゃん?」
「うっ……」
確かに俺は、去年、桐乃をロスから日本に連れ戻す際、
『桐乃がいないと死ぬほど寂しい』
と口にした。まあ、それは置いといて、
「あれから俺、頭冷やしてさ。
一番最初に、お前に聞いておかなくちゃならなかったことに気付いたんだ」
「なに?」
「どうして――今になって、美咲さんのスカウトを受けることにしたんだよ?」
去年の夏、美咲さんから海外でのモデル活動を勧められたとき、桐乃はそれを断った。
そのときは俺も偽彼氏を演じたり、擬装デートしたりと、
美咲さんを諦めさせるために桐乃に協力したのだが、断ると決めたのは桐乃自身だった。
その心境の変化の理由や、如何に?
桐乃は気恥ずかしそうに頬を掻いて、
「……一番になりたいから」
と言った。色々と端折りすぎてわかんねーよ。
「あたしの才能がマルチなのは知ってるでしょ?」
勉強に、モデルに、陸上に、ケータイ小説……桐乃は色んな才能に恵まれてる。
もっとも、それぞれの功績は地道な努力あってこそ、だが。
「でさァ、その中で一番突出してるのが、モデルなわけ。
美咲さんからの受け売りだけど……、
あたしは普通のモデルが何年もかけて手に入れるものを、もう持ってるんだってさ。
それを伸ばせば、世界のトップモデルも夢じゃないって」
これだけの台詞を、微塵も驕らずに言えるんだから、こいつは大物だよ。でもな――。
「それじゃあ、陸上は?才能が足りないからって、諦めちまうのかよ?」
陸上強化合宿で友達になったリアが、日本に遊びに来たとき……お前はリアと競争して、
こてんぱんにやられて……リベンジを誓ったよな?
「勘違いしないでくんない?」
桐乃はマル顔を膨らませて、
「あたしはどんなことがあっても陸上をやめない。
リアへのリベンジも諦めない。だって、陸上はあたしの一部だから。
ただ――あたしは自分のもう一つの可能性を試したいの。
井の中の蛙で終わりたくないの」
桐乃の強い語気からは、断固たる決意が見て取れた。
しかし、桐乃の意思が固ければ固いほど、不思議に思えることがある。
「お前さ、なんで美咲さんたちに、俺を説得させるようなことしたの?」
俺が賛成しようが反対しようが、お前の意思は揺るぎなかったんだろ?
「そっ、それは……てか、そもそもあれは説得じゃなくて……」
桐乃はゴニョゴニョ言っていたが、突然俺に牙を剥き、
「で……結局、あたしの海外行き、認めるワケ?」
と詰め寄ってきた。顔が近ぇよ、顔が。
「……好きにしろよ。本場で修行して、一流モデルと競争して……、
世界で活躍するトップモデルになりゃあいい」
「あんたは……その……あたしがいなくなって、死なない?」
だぁっ、いい加減そのネタは忘れろって!
「そりゃあ、お前がいなくなったら寂しいよ。
けど、そんな理由でお前の夢を邪魔するような兄貴は、兄貴じゃねーだろ。
それとも何か?俺が寂しくて死ぬって言ったら、お前、海外行きやめにすんのか?」
「っ……なわけないじゃん!」
断言した割には、釈然としない面持ちで、つま先のペディキュアに視線を落とす桐乃。
ま、こいつはこいつなりに、シスコンの兄貴に気を遣ってくれていたんだろう。
……余計なお世話だっての。
「お前さ、今度は自分の『好きなもの』を我慢するなよな」
桐乃は去年の陸上強化合宿で、他の陸上メンバーに勝つために、
好きなもの――友達やオタク趣味――を封印した。
そこまでしても周りに勝てなくて、体調を崩すくらいに自分を追い詰めちまった。
「分かってるってば。同じ轍は踏まない」
「辛くなったら、誰かに相談しろ」
「はいはい」
「どうしようもなくなったときは、俺を呼べ」
「あんたが来て、どうするワケ?」
「お前を助ける。場合によっては連れ戻す」
「ぷっ……バカじゃん?」
桐乃は一頻り笑ってから、消え入りそうな声で呟いた。
「でも………ありがと」
やべ、急に気恥ずかしくなってきた。
「まあ、そういうことだから……寝かけのところを邪魔して悪かったな」
ベッドから立ち上がる。
が、廊下に出ようとドアノブに手をかけたところで、寝間着の袖を引かれた。
「あのさ……受験も終わったことだし……久々に、一緒にエロゲーやんない?」
……おまえね。なんで綺麗に締めようとしてたところで、そういうこと言うかなぁ。
「いやいや、お前、眠くねーの?」
「話してたら、目、冴えちゃった。眠くなるまで付き合ってよ」
ったく……しゃーねーな。
俺も都合よく睡魔がどっか行っちまったみたいだから、付き合ってやんよ。
ノートパソコンを机に置いて起動する。
桐乃と肩が触れあうほどの距離で座っているのは、
こうしないと画面が見えないからで……って、俺は誰に言い訳してんだろうな。
「何のエロゲーをやる?」
「んー、ここんとこ不作続きでさぁ。これと言って面白いエロゲーがないんだよねー」
桐乃がマウスを操作し、エロゲーのショートカットをまとめたフォルダを開く。
俺はその中に懐かしいアイコンを見つけた。
『妹×妹(シスターシスター)』――通称しすしす。
ネットでは「妹×妹は真実の愛」との呼び声高く、神ゲー認定されている。
「なあ桐乃、しすしす、やんねーか?」
「えっ」
桐乃はなぜか、瞳に焦燥の色を滲ませる。
「なんで……しすしすなわけ?」
「だって、俺はこのゲーム、みやびルートしかクリアしてねーし……、
どうせならコンプリートしてーじゃん?」
「あたしは全クリしてるし……」
「何度やっても飽きないのが神ゲーたる所以だろ?」
「でも……」
んだよ、ノリ悪ぃな。俺は桐乃の手に自分の手を重ねて、
しすしすのアイコンをダブルクリックした。
「あっ、なに勝手に起動してんの!?」
「いいじゃねーか。ほら、始まったぞ。一緒に真実の愛とやらを確かめようぜ」
「……キモ」
俺がこんなにしすしす推しなのにはワケがある。
『りんこりんルート……受験が終わってから、
是非、妹さんと一緒にプレイすることをオススメするよ』
りんこルートをやるとしても、一人でだと思っていたが――、
何の因果か、俺は御鏡の指示通り、妹と一緒にしすしすをプレイしている。
エロゲーってのは、一口に言っちまえば、攻略対象の女の子の好感度を上げるゲームだ。
だからりんこルートに突入するには、りんこ関連のイベントに進み、
りんこを喜ばせるような選択肢を選べばいいだけなんだが……。
「こいつ、マジで主人公に気があんのか?」
ツン100%で、デレる気配がまったくねえんだけど?
「ハァ?デレの片鱗はところどころに見えてるじゃん」
「そうかあ?」
「あんた読解力なさすぎ」
桐乃は身を乗り出して、俺の手に自分の手を重ね、バックログを表示させる。
「ここの『アンタでガマンしてあげる』って台詞、
マジで主人公のこと嫌ってたら絶対言わないでしょ?
主人公一人にして帰っちゃうでしょ?」
俺が言ってるデレってのは、みやびの「お兄ちゃん大好き」みたく、
もっと誰の目に見ても明らかな好意の表現であってだな……。
「りんこりんをイベント三つ四つこなしたらすぐデレる、
そのへんのツンデレキャラと一緒にしないでくんない?」
お前はどんだけりんこりんに感情移入してんだよ。
しかしまあ、この『りんこ』という妹キャラは、桐乃に似ていなくもない。
外見的特徴もさることながら、クソ生意気で、ワガママで――、
放っておけないところが、そっくりだ。
「そこはあえて、みやびちゃんを選んで」
「ここでりんこりんの好感度稼げるから」
桐乃の的確なアドバイスに助けられ、俺は難なくりんこルートを進めていく。
桐乃曰く、今までやったエロゲーのフローチャートは全て憶えているそうで、
まさに記憶力の無駄遣いだと苦言を呈したい。
そして……三時間後、俺は晴れてりんこりんルートをクリアした。
が、難病を患ったみやびが薄命を散らし、
互いを好きあっていたりんこと主人公の仲は、無理矢理に引き裂かれて――、
正直、バッドエンドじゃね?
結局りんこりんとはキス止まりで、
ちょっぴり期待してたHなシーンもなかったしよぉ……。
「一周目は、どんなに頑張っても主人公とりんこりんは結ばれない運命なの。
あと、しすしすは泣きゲー。エロ目的でやるとか最低だかんね」
なんでエロゲーにエロを求めて怒られなくちゃならないんですかね?
俺は溜息をついて、
「……んじゃ、気を取り直して二周目やろうぜ」
「本気で言ってんの?朝までかかるよ?」
大学に合格した今、俺はどんなに夜更かししても許される身分だ。
「お前が寝るってんなら、ノートパソコン貸してくれよ。
このままじゃ、なんかモヤモヤして眠れねーしさ」
「…………」
桐乃はしばし黙り込み、決心するように、乾いた唇を舌で湿らせた。
「京介一人じゃ、いつまでたってもトゥルーエンドにたどり着けないだろうから……、
一緒にやったげる」
「おう、助かるぜ」
そうして始めたりんこルート二周目は、一周目とその様相を大きく変化させていた。
ギャグ成分少なめ、シリアス成分多めのテキストで、
一周目にはなかった過去編が、各所に挿入されている。
ストーリーの全貌は以下のとおりだ。
りんこは小さい頃から主人公のことが好きだったが、
ある事件がきっかけで主人公に対し、辛辣な態度を取るようになってしまった。
しかしみやびのお節介や、主人公との触れ合いによって、
りんこは徐々に素直さを取り戻し、主人公への恋愛感情を打ち明ける。
そこで立ちふさがる、現実という名の壁……兄妹で愛し合うことは、許されない。
一周目は、ここでエンディングだったが、二周目で、
かつこれまでの選択肢を間違えていなければ、続きがある。
一緒にやったげる、と言った割に、桐乃は一切口出ししてこなかった。
俺は真のエンディングを見るために、何度もセーブ&ロードを繰り返すハメになった。
そして――ようやく辿り着いた、トゥルーエンド。
主人公は、遠方の親戚の家に引き取られ、面会を禁じられた妹……りんこに会いに行く。
誰にどう思われたって構わない。妹と兄が愛し合って、何が悪い。
たとえこの先、どんな困難が待ち受けていようとも、俺はりんこを愛し続ける。
主人公とりんこはもう二度と離れないことを誓い、二人は幸せなキスをしてエンドロール。
妹×妹は真実の愛……その言葉の意味がようやく分かった気がするぜ。
兄妹で愛し合うことは禁忌である――ご都合主義で忘れられがちな命題に、
しすしすは真摯に向き合い、ひとつの答えを出していた。
「ふぅっ……終わったな」
伸びをして隣を見ると、思い詰めたような表情の桐乃と、目が合った。
長時間画面を見続けていたせいか、目が充血している。
「「あのさ」」
声が重なる。
「なんだ?」
しすしすの感想を聞いてくるかと思いきや、
「きょ、京介から先に言って……!」
と手番を譲ってくれる桐乃。俺は桐乃に向き直る形で正座し、
エロゲーをやっている最中、考えていたことを言葉にした。
「あのアルバム、見せてくれよ」
去年の春、桐乃が陸上の強化合宿でロスに行く前夜のことだ。
俺は今日みたいに、妹と二人でエロゲーして……、
妹の部屋の、押し入れの奥にあるものを見せられた。
暗黒物質とも呼ぶべき桐乃の禁断コレクションと、
桐乃の思い出の品が詰まった、パンドラの箱。
あのとき、俺が見たのは桐乃が小学生のときの通信簿と、徒競走のワッペンだけで、
桐乃が見せようとしてきたアルバムとiPodには触れなかった。
人生にセーブ機能やロード機能なんてない。
けど、さっきしすしすをクリアして、選択肢次第で分岐するルートを見て……、
俺は出来ることなら、あのイベントをやりなおしたくなったんだよ。
桐乃がまた、海外に旅立っちまう前にさ。
「や、やだ。あんたにはもう絶対見せないって、言ったじゃん」
ふふ、甘いな。トラップカード発動!
「去年の九月にした約束、憶えてるよな?」
忘れたとは言わせねーぞ。
大学の模擬試験で俺がA判定を取れなかったら、俺は一生桐乃の奴隷になる。
俺がA判定を取ったら、桐乃はなんでも一個、俺の言うことを聞く。
不公平極まる賭けに、俺は勝った。その権利を、今使わせてもらうぜ!
「ぐぬぬ……」
歯ぎしりする桐乃。相当に悩んでいるみたいだが、
約束を反故にするのは、こいつのプライドが許さなかったんだろう。
「……………………………………分かった」
やがて桐乃は立ち上がり、本棚を動かして、禁断の扉を開けた。
パンドラの箱もとい段ボール箱を引っ張り出して、
その奥から、分厚いアルバムを取り出す。
桐乃はさんざ逡巡してから、そいつを俺に手渡した。
アルバムを開こうとしたところで、縁にかけた指が固まる。あのときと同じだ。
これを見たら何かが終わってしまうような、確信めいた予感に支配される。
――弱気になってんじゃねえよ、俺。
「見るぞ」
「…………」
桐乃は下唇を噛みしめて、俯いている。俺は深呼吸して、眦を決した。
俺の予感は正しかった。
日付はとっくに跨いでいたが、その日は大学の合格発表を別にして――、
俺の一生を左右する、特別な日になった。
-6-
私の名前は五更瑠璃。松戸の高校に通う女子高生である。
真名は黒猫といい、闇の渦より生まれし闇の眷属――なのだが、
今は人間に身を窶し、不自由な生活を余儀なくされる日々。
春休みも半分を過ぎた今日、私は外出するために身支度を調えていた。
マスケラに登場する『夜鷹の女王』の装束に身を包み、
赤のカラーコンタクトをはめて……準備完了。
「ねぇールリ姉……あっ、もしかして今からお出かけ?」
遠慮無く襖を開けて、私の衣装を見るや苦笑を浮かべたのは、日向。
春休み明けには小学六年生になる、上の妹だ。
「ええ、そうよ。おでんを作ってあるから、
わたしの帰りが遅くなったときは、お母さんに温めてもらいなさい」
「はぁ~い」
「姉さま……」
日向の後ろから顔を覗かせたのは、おかっぱ頭の愛らしい下の妹、珠希。
眠そうに目を擦っていて、私が作ってあげたぬいぐるみを、片腕に抱いている。
「おにぃちゃんも一緒です?」
この子の勘は鋭い。
「え、ええ。そうよ」
と答えると、案の定、日向が騒ぎ出した。
「高坂くんも一緒なの!?ルリ姉、あたしも連れてって!」
「莫迦おっしゃい。日向は珠希と家でお留守番よ」
日向はともかく、まだ小さい珠希を連れて秋葉原を歩くのは不安だ。
それに何より、『妹』に目がない猛獣に餌を与えてしまうことになる。
「え~~~~~~っ、せっかく高坂くんと会うチャンスなのにィ……」
「今度、お花見をするときには、あなたたちも連れていってあげるわ」
「絶対だからねっ!」
「ぜったい、です」
日向と珠希に指切りをさせられて、私は家を出た。
陽の光は暖かく、桜並木がつけた新芽の緑は瑞々しい。
私は本格的な春の足音に耳を澄ませながら、
『あたし――卒業したから』
昨日、親友に電話で告げられた一言に、心をかき乱されていた。
私が秋葉原のメイド喫茶『プリティガーデン』の框を踏むと、
他の三人は既に到着し、歓談に花を咲かせていた。
「お待ちしておりました、黒猫氏」
といち早く私に気付いたのは、サークル『オタクっ娘あつまれー』の管理人であり、
私を孤独から救い出してくれた恩人――槇島沙織。
今日は白のブラウスにロングスカートという出で立ちで、
ぐるぐる眼鏡を外し、お嬢様然とした顔立ちを露わにしている。
「やっほー、こっちこっち」
と私を手招いているのは、全ての闇の眷属の殲滅を目論む熾天使――ではなく、高坂桐乃。
生意気で、意地っ張りで、努力家で………私の親友。
相も変わらず露出度の高い服を着て、
ライトブラウンの髪に縁取られた美貌を綻ばせている。
「遅かったじゃねーか」
最後に声をかけてきたのは、桐乃の兄で、転校前の高校での先輩にあたる、
今日の主役――高坂京介。
わたしにとってこの人は……。
ああ、ダメ。先輩の顔を直視していると、言葉が編み上げた端から解れてしまう。
「一緒に連れていけと、妹たちがうるさくてね」
言い訳をしながら、テーブルに着く。
私の分の飲み物が届いたところで、沙織が音頭をとった。
「それでは―――京介氏の大学合格を祝しまして―――乾杯!」
杯を合わせた後は、合格祝いと称しながらも、いつもの光景が展開された。
前日、チャットで沙織が「レンタルルームを借りて祝賀パーティをしましょうぞ」と提案したが、
他ならぬ先輩が「面倒くせーのはナシにして、秋葉原で遊ぼうぜ」と発言し、
ここ、プリティガーデンでの集合が決まったのだ。
桐乃は「そんなんでいいの?」と即レスしていたけれど――、
きっと先輩は、私や沙織が少しでも長い時間、桐乃と遊べるように、
秋葉散策を提案したのだろう。本当に……優しい人。
四人の杯が空になり、なんとなしに会話が途切れたとき、桐乃が言った。
「あのね、沙織。あたし――やっぱ、海外に行く」
「……絶対に、絶対でござるか?」
「うん……ごめんね?」
沙織は口をω(←こんなふう)にして笑った。
「あっはっは……きりりん氏が謝ることはないでござる。熟慮の末の結論ならば、
きりりん氏を無理矢理に引き留める道理がどこにありましょうか。
メンバーの出立を笑顔で見送るのが、サークルの長の務めてござるよ」
沙織はただし、と指を一本立てて、
「以前の繰り返しになりますが、連絡を欠かしたり、
わたしたちを蔑ろにするのは許しません。
もちろん、きりりん氏にはちょくちょく会いに行きます。
その時、多忙を理由に会ってくれなかったら……わたし、泣いてしまいますからね?」
一つ目の言葉は、サークルの長として。
二つ目の言葉は、友人として。
沙織は発言時の立ち位置によって、一人称を使い分けている。
「オッケー。でも、いきなり来るのはびっくりするから、やめてよね」
そんな沙織と桐乃の会話を、先輩は微笑ましげに眺めている。私は小声で水を向けた。
「先輩は……あの子の海外行きに納得しているの?」
「ああ。一回海外行って、痛い目見たあいつが、もっかい悩んで決めたことだからな。
それに、俺は桐乃があっちで世話になる人に会ってんだけどさ、
すっげぇ良い人っぽかったんだ」
「……そう」
私は以前、桐乃に言われた台詞を思い出す。
『兄貴を安心させるために、本社の人に会わせる』
――ふふ、あなた、妹に良いように踊らされてるわよ?
「あいつも頻繁に日本に帰ってくるみてーだし、
俺も沙織があっちに行くときに、一緒について行くつもりだ。
電話やスカイプだってある。寂しすぎてどうにかなっちまうことはねえだろうよ」
自嘲気味に笑って見せる先輩。
「二人で何コソコソ話してんの?」
「なんでもねーよ」
先輩は桐乃の頭をぽんと撫でて、席を立つ。
「今日の順路は京介氏にお任せします。
美少女三人を飽きさせない華麗なエスコートを期待しておりますぞ?」と沙織。
「無理無理、京介には荷が重いって」と桐乃。
「さあ、どこに連れて行ってくれるの――先輩?」と私。
先輩は困ったように頭の後ろを掻いて言った。
「お前らなあ……今日は一応、俺の合格祝いってこと忘れてねえ?」
秋葉散策の時間は、あっという間に過ぎていった。
同人誌コーナーを巡り、アニメグッズを漁り、
小休止に入ったマックで、買ったものを見せ合って。
友人たちと過ごす時間は夢のようで、時計の針が止まってしまえばいいのに、
と幼子のような気持ちを抱く。
散策の終点――秋葉原駅で、私たちは沙織と別れた。
「拙者、次に皆さんとお会いできるのは、三月末のお花見になってしまうでござる」
「少し間が空いてしまうわね」
「それまでにヒマな日、ないの?」
「いやぁ、それがなかなか……自分の意思ではどうにもならない部分がありまして。
京介氏、あらためて、大学合格おめでとうございます。
拙者のプレゼントが京介氏の大学生活に少しでも役立つことを祈っておりますぞ。
では、さらばっ」
芝居がかった仕草を最後に、駅構内に消えていく沙織。
電気街は黄昏色を帯びているが、夜の帳が降りるまでには、
まだ、いくばくかの時間が残されている。
もう少し遊びましょう――口を開きかけた私の機先を、桐乃が制した。
「あっ、ごっめーん。あたし、今日仕事の打ち合わせあるの、すっかり忘れてた」
「打ち合わせ?」
先輩が怪訝な表情で尋ねる。
「うん。美咲さんと、新宿で」
「時間は?」
桐乃は腕時計に視線を落として、
「ん……今からダッシュすればギリギリ間に合うかも。
じゃ、そゆことだから――行くね」
踵を返した桐乃の手を、私は逃がさなかった。
「ちょっ……何?」
私は桐乃にだけ聞こえる声で、
「気遣いは無用よ」
「そ、そんなんじゃないってば」
そう。あくまでしらばっくれるというわけね。
「じゃあ、せめてこれだけでも受け取りなさい」
私はあるものを取り出し、桐乃に突き出した。
「何この禍々しい絵柄の……え……あんたからあたしに、手紙?」
「……っふ、勘違いしてもらっては困るわね。
それは闇の眷属が、自らの血をインクにして書き綴る『身代わりの魔道書』――って、
ちょっとあなた、何を勝手に開封しているの!?」
「え、だってコレ、あたし宛の手紙なんでしょ?
今読んだっていいじゃん。てか、ちょっと文字見えたけど、普通の色ペンだよね?」
「お黙りなさい。とにかく――それは家で、一人きりで読むことね。
さもなくば魔力の奔流が駆け巡り、秋葉原は死霊の蔓延る魔都と化すわ」
「厨二設定乙」
「用件はそれだけよ。ほら、さっさと行きなさいな。打ち合わせとやらに遅れるわよ」
「うん……じゃあね」
桐乃は私が渡したそれを、大事そうにバッグにしまって――今度こそ行ってしまった。
背後から、先輩の声がする。
「行っちまったな……なあ、桐乃と何やってたんだ?」
「なっ、なんでもないわ」
「ふぅん。で、このあと、どうする?飯でも食いに行くか?」
ごく自然な誘いに――心臓がとくんと跳ねるのが分かった。
「そ、そうね。私は構わないわ」
「あっ、でもお前、日向ちゃんや珠希ちゃんのご飯の用意があるんじゃないか?」
「作り置きがあるから大丈夫よ」
昨晩、おでんの仕込みを怠らなかった私に、最高の賞賛を送りたい。
「そっか。いやぁ、お前が残ってくれて良かったよ。
今日は親父もお袋も、親戚ん家に出かけててさ、
最初から外で晩飯食う予定だったんだ――」
一見、普段通りに振る舞っている先輩も……その仕草や声音に、微かな緊張が見て取れる。
私は、緊張しているのが自分だけでないことに安堵し――、
期待と不安で、心が砕けてしまいそうだった。
ご飯時にはまだ早いので、私と先輩はゲームセンターに行った。
プリクラコーナーを横目に、階段を上り、格闘ゲームの筐体に着く。
「一緒にプリクラを撮りましょう」――どうしてたったその一言が言えないのだろう。
私の意気地なし。
「ははっ、相変わらずの腕前だな……」
鬱憤を対戦相手にぶつけて、余裕の二十連勝。
時間も良い頃合いになり、私たちは、先輩が友達と行ったことのある和食料理店に入った。
「この鰹のたたきがマジで美味いんだよ。食ってみ?」
「お、美味しい……!」
「だろ?」
明るすぎない照明のある個室で、私は先輩と向かい合っている。
こんな風に二人きりで過ごすのは、去年の夏、私たちが付き合っていた時以来だ。
一ヶ月にも満たない、泡沫のような恋。
私から告白して、付き合い始めて、街を散策して、先輩を家に呼んで、プールに行って、
花火大会に行って……そして、私から別れを告げた。
運命の記述(ディスティニーレコード)に描いた理想の世界を、現実のものとするために。
そして今、私は桐乃に、敗北を認めなければならない。
『あなたが卒業するまでに、先輩から告白されてみせる』
――そんな啖呵を切っておきながら、
桐乃は私が手をこまねいている間に『卒業』してしまった。
「ねえ、先輩」
「どうした?追加で何か頼みたいなら、遠慮は――」
私は先輩の言葉を遮って、
「あなたの妹は……ブラコンを卒業したようね」
「お前……なんでそれを……」
「っふ、この邪眼に見抜けないものはないのよ」
桐乃から電話で聞いていたこともあるが、
今日一日の先輩と桐乃の様子を見ていれば、一目瞭然だった。
それは、誰よりも二人の機微に敏感な私だからこそ、分かること。
「合格が決まった日の夜に……あいつと話してさ。それで、ガキの頃から今まで、
あいつがどんな思いで俺と接してきたのか、教えてもらった」
「先輩にとっては、目から鱗が落ちるような話だったのでしょうね?」
「ああ……俺はなんにも、桐乃の気持ちに気付いちゃいなかった。
お前らは、その……あいつの嘘に気付いてたのか?」
「聞いても傷付くだけよ」
「……だよな」
がっくりと肩を落とす先輩を眺めながら、私の心中では、二つの気持ちが同居していた。
嘘を吐かずにケリをつけたのね――桐乃の勇気を称える気持ちと。
それで、妹の真意を知った先輩はどうしたの――先輩の選択に怯える気持ちが。
先輩が箸を置いて、姿勢を正す。
「あのさ、黒猫」
私は固唾を飲み込んだ。胸が早鐘を撞くように高鳴り、かっと体の表面が熱くなる。
「ずっとお前に、言いたかったことがあるんだ」
半年の時を経て――今再び、私と先輩の時間が動き出そうとしていた。
-7-
春――。
俺こと高坂京介は、となり町の中央公園に、花見にやってきている。
参加者は高坂一家と、俺と桐乃の共通の友人だけだったはずが、
どこから話が漏れたのか、最初の予定人数を大幅にオーバーして……。
「春だねえ」
「春だなあ、婆さんや」
「お茶のお代わり、いる?」
「ああ、頼む」
一応言っとくが、喋ってんのは俺と麻奈実だ。
滲み出るジジババ臭には鼻をつまんでくれ。
「きょうちゃん、また一人暮らし始めるって、ほんとう?」
「ん、ああ……誰から聞いたんだ?」
「おばさんから」
お袋め、ぺらぺらと喋ってからに。
お袋の方を見ると、「はぁ~い、京介。楽しんでるぅ~?」とご機嫌の様子。
良い具合にアルコール回ってんな。
隣では親父が「佳乃、酒はほどほどにしておけ」とお袋を窘めている。
肉親の目から見てもお似合いな二人だ。
そういえば、俺はお袋と親父が喧嘩しているのを、ついぞ見たことがない。
「引越し先は?」
「模擬試験のときに借りてたトコと同じだよ。
結局あれから、借り手がつかなかったんだとさ」
家賃は安いし大学からは近い。
少々手狭だが、初めての一人暮らしには申し分ない部屋だ。
「お家からも通える距離なのに、どうして一人暮らししようと思ったの?」
「それは……」
今のうちから一人暮らしに慣れておくため、と言えばカッコがつくが、
実際の理由は自活の快適さを知っちまったから、というのが大きい。
夜更かししても誰にも怒られねーし、飯は好きなときに食えるし、
部屋でエロ本読んでても、親の目を気にせず済むし?
「……今のうちから一人暮らしに慣れておこうと思ってな」
「そっかぁ……偉いねぇ、きょうちゃんは」
うっ……罪悪感がハンパねぇわ。
俺は内心で土下座しつつ、麻奈実に釘を刺した。
「麻奈実、俺の生活の面倒見ようなんて、考えてねーだろうな?」
「ふぇっ、なんで分かったの?」
やれやれ、やっぱりな。
「お前はしばらく来ちゃダメだ」
「どうしてぇ?」
「大学生になるにあたって……衣食住の管理くらいは、
自分で出来るようになっておきてーんだ。お前が来たら、全部甘えちまうだろうが」
「そんな自信満々に言われても……でも、うん、分かった。頑張ってね、きょうちゃん」
そんな話をしていた俺たちの元へ、
公園のガキんちょたちにサッカーを教えていた赤城がやってくる。
「なんだなんだ高坂。お前、また一人暮らしするって?」
赤城――赤城浩平は高校時代の友人で、俺とは高一からの腐れ縁だ。
顔は良く運動神経も抜群なのに、悲しいかな、重度のシスコンを患っており、
今日も妹の瀬菜と一緒に花見に参加していた。いわゆる残念なイケメンってやつだ。
「おう。もう鍵はもらってる」
と俺が言うと、赤城は俺の耳元に口を寄せ、
「大学で知り合った女の子、連れ込み放題だな」
「バカ言ってんじゃねーよ」
麻奈実に聞こえたらどうする。
肩にパンチを食らわすと、赤城は大袈裟に痛がる素振りを見せて、
「冗談はさておいて、高坂、家賃とか生活費とかはどうすんだ?
仕送りしてもらうのか?」
「当面は家賃だけ出してもらって、生活費はバイトでなんとかする」
「そうなのか。……なあ、良かったら俺のバイト先に来いよ」
「気持ちはありがてーけど、バイト先はもう決まってんだ」
「行動早ぇな!もう面接行ったのかよ?」
「それが、俺のバイト先は面接とか無くてよ。しかも二つ掛け持ちになりそうなんだ」
「おいおい、詳しく説明――」
赤城が言葉を失う。ぴたりと硬直した視線を辿れば、
赤城の妹の瀬菜と、ゲー研部員の真壁くんが肩を寄せ合っていた。
最近瀬菜が開発したスマホアプリ『ホモドラ』を真壁くんにプレイさせているようで、
傍から見れば完全にカップルである。あの二人の仲は今どうなってんだろうな。
てかBLゲーやんないで桜を見ろよ、桜を。
そんでもって案の定、赤城は怒髪冠を衝く形相になっていて、
「真壁、コロス」
「落ち着け、赤城」
「俺の許可なく瀬菜ちゃんとイチャイチャしてんじゃねぇ!!」
俺の制止も虚しく、サッカー部時代に鍛えた脚力を生かして、全力疾走していった。
キモい兄貴だよ、まったく。
次にやってきたのは加奈子だ。
「なーなー、京介ぇ。加奈子の作った料理、食べた?」
「うーん、それがな……」
みんなが料理を持ち寄って、しかも好き勝手に広げたもんだから、
どれが誰のだか分からないんだよ。
「んじゃ……これ。食べてみてくんね?」
加奈子が差し出してきたのは、手のひらよりも少し大きなサイズの弁当箱。
蓋を開けると、中には五種類のおかずが入っていた。
箸を手にとって、口をつける。
「う……うめぇ!これ、本当に全部加奈子が作ったのか!??」
「うひひ……ったりめーじゃんかよー。
どうよ?加奈子ってば、そーとーに料理の腕、上がったっしょ?」
「おう。文句なしの出来だ……!」
ハムッ、ハフハフ、ハフッ!
加奈子は俺が弁当にがっつくのを喜色満面で眺めたあと、麻奈実に深く頭を下げた。
「ありがとうございました、師匠。不器用な加奈子に料理を教えてくれて」
「いいよ、お礼なんて。わたしも加奈子ちゃんに料理教えるの、楽しかったよ?
れぱーとりーを増やしたいときは、いつでも言ってね」
確か、加奈子が麻奈実に師事した理由って、美味い料理を手土産に、
親御さんと仲直りするため、だったよな。
「加奈子、親御さんとはもう仲直りできたのか?」
「ん……まだ。近いうちに行くつもり」
加奈子の表情に陰りが差す。
いくら料理の腕が上がったとは言え、親と仲直りできるか、不安な部分はあるんだろう。
「そんなに気負うなって。娘が家に帰ってきて、嬉しくない親がいるかよ。
胸張って帰って、超美味い料理作って、親御さんの度肝抜いてやれ」
「……へへっ、加奈子の手にかかれば、んなの楽勝だっつーの!」
パンッ、とハイタッチを交わす。これでこそ加奈子だ。
「んで、話変わんだケド……」
加奈子はスマホの画面にカレンダーを表示して、
「京介、来月のシフト決めてくんね?」
さっき赤城に言いそびれた、俺のバイト先の一つが――加奈子のマネージャーだった。
これまでにも何度か非公式にマネージャーを務めていたが、
加奈子が事務所の社長に頼み込んでオーケーをもらったらしく、
これからはちゃんと時給が発生する。
俺としちゃあ、加奈子のワガママ聞いてやるだけで金がもらえるので、実に楽なバイトだ。
「なんか来期の新作アニメの主役、加奈子に激似らしくてさァ、
多分、つーかぜってぇイベント増えんだよねー。いひひ」
「そりゃ良かったな……んーと、四月はこの日と、この日だけでいいか?」
「えーっ、こんだけしか出れねーのォ?」
「あんまりお兄さんを困らせないの」
「うげ……」
続いてやってきたのは、あやせ。
加奈子は天敵を避けるように、俺を盾にして、
「なー京介、あやせの勉強見るのに忙しくて、
マネージャーの仕事減らしてるワケじゃねーよナ?」
「違うって。お前が参加するイベントのだいたいが、
俺が取る予定の講義と、時間が被ってんだよ」
「そうだよ加奈子。言いがかりはやめて?」
あやせさん、目が笑ってないっす。
ちなみに、俺のバイト先その二は――あやせの家庭教師だ。
俺と麻奈実の交代制で、週に二回程度、教えることが決まっている。
先週、試験的に家庭教師をやってみたが、
長いこと麻奈実先生の授業を受けてきたせいか、
いざ教える側に回ってもなんとかなりそうだ。
このバイトも美味い茶菓子とラブリーマイエンジェルという眼福に預かれるので、
逆に俺が金を払いたいくらいである。
「ところでお兄さん、また一人暮らしをされるそうですね?」
「お、おう。麻奈実、お前が話したのか?」
「ううん?だって、おばさんから聞いたの、ついさっきだもん」
あれれー?
じゃあ、あやせはいったいどこから俺の一人暮らし情報を仕入れてきたのかなー?
あとで盗聴探知機を買っておくか……いや、まあないと思うが……。
「それでですね、わたし、考えたんですけど……、
多忙なお兄さんに、わざわざわたしの家まで来てもらうのは悪いので……、
わたしがお兄さんの家に行って、お兄さんの家で勉強を教えてもらおうかな、と」
「お前の気持ちは嬉しいが、そこまでは――」
「あとご迷惑でなければ、洗濯をしたり、料理を作ったり、部屋のお掃除をしたり……」
「あの、あやせさん?」
「終電がなくなった時は仕方なく……、
本当に仕方なくお泊まりすることになると思いますけど、
くれぐれも変なことはしないでくださいね?」
仕方なくお泊まりってどんな状況だよ。
どう考えても被害者が加害者に協力的じゃねーか。
「あやせは通い妻になりたいのか?」
「か、通い妻だなんて……わっ、わたしはあくまで、勉強を教えてもらう代わりに、
家事を手伝ってあげようかなあと思っていただけですから!
一緒にシャワーとか、添い寝とか……過度なサービスを期待されても困りますっ」
この公園内にお医者様はおられませんか?
至急、妄想を止める薬を処方してやってくれ。
助け船を出してくれたのは、今年の春から小学二年生になる黒猫の妹、珠希だった。
「おにぃちゃん」
「おっ、どうした、珠希?」
「たくさん……あつめました」
差し出された両手の平の上には、綺麗な形の桜の花びらが積まれていた。
花びらを傷つけないように、丁寧に一枚一枚、拾い集めたんだろう。
「よく頑張りました」
小学校の先生のノリで頭を撫でてやると、珠希はえへへ、とはにかんだ。
そこにドドドドと足音を響かせて走ってきたのは、珠希の姉の日向。
「珠希、探したんだからね!って、もう高坂くんに見せちゃってるし!
ハァ……一緒に見せるって約束したじゃん……」
「だって、おねぇちゃん、おそいから……」
「だとよ?」
「ハイハイ、どーせあたしはノロマですよー。
それよか見て見て、高坂くんっ。あたしもいっぱい――」
日向が握っていた手を開いた瞬間、一陣の風が通り過ぎ――、
珠希が集めた花びらも、日向が集めた花びらも、空に吸い込まれていく。
「あ~~~~~っ!せっかく集めたのにィ~~~~~っ!!」
成果を失って半泣きの日向を、珠希がよしよしと慰める。
どっちが姉か分からんぞ。
「うっし……食ってじっとしてるのもアレだ。
珠希、日向、もっかい花びら集めに行こうぜ。手伝ってやるよ」
「かっけぇー、さすが高坂くんっ!」
「手をつないでもいいです?」
言ってるそばから、珠希が手を繋いでくる。
「珠希がいいならあたしだっていいよねっ」
空いてる方の手にしがみついてくる日向。手伝ってやるとか言っときながら、
俺は両手を塞がれているので、花びらを拾うのは、もっぱら日向と珠希の役目だ。
歩くことしばらく、ブルーシートを敷いていたところから、
少し離れた桜の木の下に――桐乃、黒猫、沙織が座っていた。
「両手にリトルフラワー状態ですわね、京介さん」
「ははっ、パパになった気分だぜ」
今日の沙織は完璧にお嬢様モードだな。まあ、衣装が衣装だ。
沙織が着ているドレスは陽光を弾いて、品のある光沢を放っていた。値札がついていたら五桁じゃすまなそうである。
「実はわたくし、お見合いをすっぽかしてきましたの。
今日はお花見だと以前から伝えてあったのに、勝手に予定を入れられて、
無理矢理ドレスを着せられて……流石のわたくしも、かちん、と来てしまいましたわ」
沙織は普段温厚な分、怒ると怖い。
家人も顔を真っ青にして花見に送り出したことだろう。
「本当にお見合いすっぽかして良かったのか?」
「もちろんです。わたしにとっては、何をおいてもきりりん氏との――、
皆さんとの時間が、大切ですから」
ありがとな、沙織。お前は本当にいいやつだよ。
「妹たちの面倒を見てくれていたのね」
こちらを見て、微笑む黒猫。今日はカラーコンタクトを外し、
服装も白のワンピースに薄手のピンクのカーディガンを羽織っていて、普通の春の装いだ。
胸元には、いつか俺がプレゼントした、逆十字のロザリオが光っている。
「おねぇちゃんっ」
「ルリ姉たちも遊ぼうよっ」
日向と珠希が俺の手を離し、黒猫にじゃれつく。
「こらこら……私はもう子供じゃないの……ふふっ、やめなさいってば」
三つ巴の姉妹を眺めつつ、空いた両手をちょっと寂しく思っていると、
「ふひひぃ……」
じゅるり、と涎を垂らしている桐乃に気がついた。両手をわきわきと動かしている。
完全に危ない人だ。こいつは可愛い妹を見ると、条件反射的に襲いかかっちまうんだよな。
「大人しくしとけ」
「えぇー、でもぉ……」
「でもじゃねえ」
俺は桐乃の隣に腰を下ろした。そよぐ春風が心地よい。
午睡したくなるような温かさにあてられ、軽く目を閉じた。
「ねえ、京介……………………ありがとね」
「礼を言われるようなこと、したっけか」
「……だから、その……全部。
黒猫や沙織と友達になれたこと……あやせと友達をやめないですんだこと……、
ケータイ小説を出版できたこと……ロスでダメになりかけてたあたしを、
助けてくれたこと……あたしのために、一度黒猫と別れたこと……、
まなちゃんと仲直りできたこと……全部、さ。感謝してるから」
目を開く。
桜の花びらが舞い散る中、木漏れ日を浴びた桐乃は、息を呑むほどに綺麗だった。
遠くを見つめるような、大人びた眼差し。
急に桐乃が成長したように思えて、なんだか寂しい。
「随分、湿っぽい話をしているのね」
と、沙織に妹たちを預けた黒猫が言った。
「出立を明日に控えて感傷的になっているのかしら?」
「……そうかもね」
黒猫のからかいに対して、やけに素直じゃねーか――と思っていたら、
「でもさ、別に寂しくはないんだ。
だって……幾星霜を経ようとも、我らが友情は永久に不滅……だもんね?」
なんだその恥ずかしい台詞は?
「黒猫からもらった『身代わりの魔道書』に書いてあった呪文?みたいなの。
他にもねぇー……」
「や、やめなさい!そ、そそ、それ以上言ったら私の命に関わるわ!」
顔を真っ赤にして恥ずかしがる黒猫。
こんな楽しい時間も、明日からしばらくお預けだ。
例年より桜前線の北上が早かったとは言え、
八重咲きの季節に花見を敢行したのは、明日、桐乃が日本を発ってしまうから。
「こっちを向いて下さい」
突然声がして、俺たちは一斉に顔をそちらに向ける。
そこにはあやせと、一眼レフを構えた女の子が立っていて、
カシャ、とシャッターを切った。
「見て下さい、あやせちゃん、とっても良い写真が撮れましたよ」
褒めて褒めて、と言いたげにあやせを見上げているのは筧沙也佳。
あやせの小学生時代の後輩にあたる女の子だ。
あやせのことが大好きなあまり、ストーカーになった過去がある。
今はあやせと和解しており、あやせ専属のプロカメラマンになるべく、
修行中なのだそうだ。
「どんな写真が撮れたか、俺にも見せてくれよ」
「はい、どうぞ」
デジタル一眼なので、撮った写真はすぐに確認できる。
桜の木を背にして、桐乃、黒猫、俺、沙織、黒猫の妹たちが並んでいる。
「なんだか家族写真みたいですね」
と沙也佳が言った。気が合うな。俺も同じことを思ったぜ。
するとあやせがほっぺたを膨らませ、
「むぅ……ずるいです。沙也佳ちゃん、わたしとお兄さんの写真も撮ってください。
いいですよね、お兄さん?」
「おう、もちろんだ」
それからあやせとツーショット写真を撮っていると、
ブルーシートに座っていた連中も寄ってきて、最終的には集合写真を撮ることになり……。
「賑やかなものだな」
「京介、意外と友達多かったのねえ」
「真壁っ、瀬菜ちゃんとくっつきすぎだ!百メートル離れろ!」
「それじゃあ写真に写らないじゃないですか……」
「お兄ちゃん、あんまり押してこないで」
「加奈子は絶対ここから動かねーかんなっ!」
「じゃあわたしはお兄さんを動かしますっ!」
「あんたら、いつまでやってんの?どこだっていいじゃん」
「と言いつつ、しっかり先輩の右隣を確保しているあなたが言えた台詞じゃないわね」
「きょうちゃん、人気者だねえ」
で、結局どんな並びになったかと言うと。
後列に左から、真壁くん、赤城(兄)、赤城(妹)、あやせ、加奈子、親父、お袋、
前列に左から、沙也佳、沙織、桐乃、俺、黒猫、日向、麻奈実と決まった。
珠希を忘れてないかって?しっかりいるぜ、俺の腕の中にな。
三脚に載せたカメラのタイマーをセットして、沙也佳が戻ってくる。
ざぁっ、と一度強い風が吹き、ぴたりと風がやんだ。
ちぎれ雲に隠れていた太陽が顔を覗かせ、辺りに光が満ちる。
完璧な一瞬――少女が号令をかけ、俺たちは笑った。
後日現像されたその集合写真は、俺の、一生の宝物になった。
さて、宴もたけなわを過ぎた頃――俺は一人ぽつんと座っていた黒猫に呼びかけた。
ぼっちなわけじゃなく、単純に疲れたんだろう。
ちなみに桐乃や沙織は元気なもので、今も日向や珠希と遊んでいる。
「『約束の地』に、行かないか」
黒猫の肩が、ぴくりと震えた。
「……ええ。いつかいつかと、待っていたわ」
俺の合格を祝してみんなで秋葉で遊んだ、あの日――。
俺には、黒猫に伝えなくちゃならないことがあった。
しかし、俺が意を決して唇を動かした矢先、
黒猫に『その先は約束の地で聞かせて頂戴』と言われたのだ。
先送りにしてきたあの日の続きを、俺はこれから果たそうとしている。
俺たちは連れだって、親父のところに行った。
「ちょっと抜けるけど、いいか?」
「構わんが……どう後始末をつければいいのだ?」
親父の目線の先には、酒の匂いをぷんぷんさせて酔臥しているお袋と、
お昼寝のつもりが熟睡してしまい、川の字になっている麻奈実、あやせ、加奈子の姿が。
「わり……任せた」
ま、そのうち起きるだろ。
俺は親父に片手を立てて、駐輪場に赴く。途中、桐乃と目が合った。
「………………」
時間にしては一瞬、体感的には無限にも思える時が経ち、桐乃はこくん、と頷いた。
行ってくるぜ、桐乃――終止符を打ってくる。
エロゲーに端を発する俺と妹の物語も、ようやく終わりを迎えようとしている。
駐輪場に停めていた自転車に跨がり、荷台に黒猫を乗せて、
俺は『約束の地』――高校の校舎裏を目指した。
つい一ヶ月前まで通っていた母校も、卒業した今再訪すると、
自分の居場所ではないような感じがする。
半年ぶりに訪れた黒猫は違和感もひとしおだろう。
それでも、『約束の地』はあのときのまま、何一つ変わっちゃいなかった。
夕暮れ刻。赤く染まった空。長く伸びた影法師。
あのときは俺が呼び出されて、黒猫はあそこのベンチに座っていたんだっけな。
追憶に耽り、現実に立ち帰る。
西日を受けて、横顔を朱に染めた黒猫は気高く、美しかった。
俺が立ち止まると、黒猫は少し遅れて歩みをやめ、振り返った。
彼女は覚悟を決めるように、そっと、胸に手をおいた。
ここまで俺の話に付き合ってくれたあんたなら、気付いているかもしれない。
そう、既にルートは分岐している。
俺が選んだのは……。
- 黒猫ルート -
→ 黒猫ルート
桐乃ルート
「黒猫――俺ともう一度、付き合ってくれ」
告白の瞬間、様々な思いが、脳裏を過ぎった。
大学合格発表日の夜、俺は桐乃がずっと秘めていた気持ちを知らされた。
小学生の桐乃が、俺を兄として、同時に一人の異性として好いていたこと。
その想いを麻奈実に否定されたこと。折れた俺を嫌いになったこと。
人生相談を通じて、また俺のことを好きになっていったこと……。
正直、魂消たさ。俺は無意識に、そんなことはありえない、と自分に言い聞かせていた。桐乃の嘘に甘んじて、騙されていた。
肉親を好きになるなんて頭がおかしい、気持ち悪い――もっともだと思う。
当たり前の意見だと思う。でも――でもさ。
それって、みんなが大人になってから忘れてるだけで、
世の中の兄妹が、小さい頃に一度は通る道なんじゃねーのかな?
俺と桐乃の場合は、その通過儀礼の最中に、兄妹関係が拗れちまった。
告解するが、俺だって妹に異性を意識していなかった、と言えば嘘になる。
冷戦期間中、俺と桐乃は同じ屋根の下に住んでいるのに、まるで他人のようで……、
偶然、桐乃のエロゲー趣味を知って、
人生相談を通じて兄妹をやり直すようになってからも、微妙な距離感が続いていた。
仲直りして、通過儀礼をやりなおして――、
普通の兄妹に戻るか。それとも別の関係に進むか。
俺は、前者を選択した。
『俺は黒猫が好きだ。
桐乃――お前を一人の女として黒猫と比べても、その気持ちは変わらない』
『そ……分かった。あたしが義妹でも、勝てなかったってことでしょ。
……じゃあ、諦めるしかないじゃん』
わたしはもう満足したから、京介は黒猫のこと、大切にしてあげて――。
その言葉に、虚飾はなく。
俺は桐乃と、普通の兄妹に戻ったことを理解した。
そして今、俺は黒猫の返事を待っている。
柔らかい沈黙が、俺と黒猫の間に降りていた。
それをかき分けるように、すっと黒猫が距離を詰めてくる。
下瞼に落ちた、長い睫の陰影。白皙の肌に浮かんだ泣きぼくろ。
それらを観察してから、俺はやっと、黒猫にキスされていることに気がついた。
脳髄が痺れた。
時間にして数秒、身を離した黒猫が、行為を確認するように、指先で自分の唇を撫でる。
……え、エロい。
「今のは……呪いよ。これまでの全ての呪いを上書きする、最上級の呪い」
心臓がバクバク鳴ってるのを聞きながら、冷静を装って返す。
「今度の呪いは、いったいどんな呪いなんだ?」
黒猫の顔は真っ赤で、そいつを笑えないくらい、俺も赤面しているに違いない。
やがて黒猫は、呪い――願い――を口にした。
「――――未来永劫、私を幸せにして」
答えはハナから決まってる。
「ああ。お前より長生きして、お前が死ぬまで幸せにしてやる。
なんせお前の呪いは解呪できねえ上に、
破ったら、全身から血を吹き出して死んじまうらしいからな」
「そうよ……先輩のくせに、よく憶えて……ひうっ……」
言葉の途中で感極まったのか、黒猫が身を寄せてくる。
「大好きよ……先輩のことが、世界で一番、誰よりも好き……。
来世でも、何度生まれ変わっても……私はあなたを愛し続ける……」
小さな黒猫の体を、ぎゅっと抱きしめた。愛しさがこみあげる。
もう絶対に離さねえ。そう誓ったよ。
「……半年も待たせて悪かったな」
「理想の世界のためよ……半年くらい、どうってことないわ」
去年の夏、黒猫は俺に一方的に別れを告げて、行方を眩ました。
俺と桐乃は黒猫をとある温泉街で見つけ、そのまま五更一家と同じ宿に泊まった。
そのとき、俺は黒猫の両親と話す機会があった。
俺と桐乃が押しかけたのがきっかけで、黒猫はその日、体調を崩してしまっていた。
元彼氏ということもあり、親父さんの俺に対する印象は、決して良くはなかったはずだ。
それでも親父さんは、穏やかに問うてきた。
『瑠璃はどうして、君と別れたんだい?』
俺は正直に打ち明けた。
妹の桐乃が、俺と黒猫が付き合っていることに対して、我慢していたこと。
黒猫がそれを知り、自分から身を引いたこと。
妹は俺と黒猫を復縁させたがっていて、俺も同じ気持ちだが、
黒猫はみんなが幸せになれる結末でなければ納得しないこと。
それらを語った上で、俺は黒猫の両親に宣誓した。
『いつか妹が兄離れしたら……俺は改めて、瑠璃さんに告白します。
だからその時は瑠璃さんを、俺に下さい』
頭を下げてから、自分がいつの間にか、結婚の許可を請うていることに気がついた。
その後、俺は黒猫の両親に娘との馴れ初めを聞かれ、
俺のことを気に入ってくれた親父さんと、露天風呂に入ることになったんだが……。
『高坂くん超かっけぇ~~~~~!!!』
一部始終に聞き耳を立てていた日向ちゃんが、
大興奮して部屋を飛び出していったのは、また別の話だ。
あれから半年。
俺と桐乃は普通の兄妹に戻り、俺は黒猫と、もう一度付き合うことになった。
でも、これがゴールじゃない。物語は続いていく。
黒猫が思い描いた理想の世界を壊さないように、
黒猫を不幸せにして、呪いで死んでしまわないように……精一杯、努力していこう。
「なあ――瑠璃」
「なあに――京介」
瑠璃は生まれたての子猫のように、じっと俺の目を見つめている。
思えば俺はこいつに、してやられてばかりだった。
末永くお付き合いするにあたって、尻に敷かれないためにも……、
ここらで反撃の狼煙をあげておかなくちゃならない。
俺は華奢な肩を捕まえて、
「――愛してる」
最愛の彼女に、キスをした。
三年後――。
俺は北イタリアの首都・ミラノにやって来ている。
近代都市でありながらイタリアデザインの伝統を継ぐこの街には、
世界中からクリエーターやアーティストが集う。
ミラノと言えば、ミラノ・コレクションという言葉を聞いたことはないだろうか。
パリ、ニューヨークに並ぶ世界三大ファッションショーの一つである。
モンテ・ラポネオーレに軒を連ねる高級ブランド店には、
その店でしか買えないアイテムも存在するらしい。
まあ要するに、ミラノを一言で表すなら――、
世界的に有名なファッションとデザインの街ってことさ。
最近ようやく日常会話レベルに達したイタリア語を駆使して、
俺はミラノ市内の会場に辿り着いた。入口で『招待状』を提示し、入場を果たすと、
場内のボルテージは既に最高潮に達していた。
そう、先ほど挙げたミラノ・コレクションが、間もなく始まろうとしているのだ。
通常、ミラノ・コレクションを観覧できるのは、
デザイナーやプレス関係、カメラマン、招待客に限られる。
そして俺は、会場内でも数少ない招待客に位置していた。
「こんばんは、京介くん」
肩を叩かれて振り返れば、スーツを着た御鏡が立っていた。
「よう、御鏡。お前もこっちに来てたのか」
「あはは……僕も一応、エターナルブルーの人間だからね」
こいつとは長い付き合いで、今ではたまに良作エロゲーを交換する仲である。
軽く近況を報告し合った後で、御鏡が言った。
「ところで、彼女さんとの仲は順調?」
「おかげさまでな」
「それは何より」
恋愛経験が豊富な御鏡は、恋愛アドバイザーとしても俺を助けてくれている。
これは惚気になっちまうが、瑠璃とは二度目の告白以来、ずっとラブラブで、
今ではあいつの肌にあるほくろで、知らないものはない関係――、
すんません、調子乗りました。
やがて御鏡は腕時計を見て言った。
「そろそろだね、僕は関係者席に戻るよ」
「おう。エターナルブルーの最新ファッションに期待してるぜ」
御鏡が去って間もなく、目もあやな演出があり、ファッションショーが始まる。
神が鑿を振るったとしか思えないような、抜群のスタイルのモデルたちが、
次々と煌びやかな衣装を身につけ、壇上を闊歩する。
ブランドメーカーごとのショーは恙なく進行し――、
いよいよエターナルブルーの時間がやってきた。
今更言う必要もないだろうが、俺に招待状を送ってくれたのは桐乃だ。
招待できるのは一人が限度だったらしく、沙織と瑠璃は、
当然のように俺を送り出してくれた。
『きりりん氏の招待を受けるのは、京介氏をおいて他にありませんわ』
『私たちの代わりに、あの子の晴れ姿を目に焼き付けてきなさい』
桐乃がミラノでモデル活動を初めて三年。
その活躍は目覚ましく、国内外のメディアに露出する機会もぐんと増えた。
桐乃はどんどん遠いところに行ってしまう。
けれど、あいつが俺と血の繋がった、たった一人の妹である点は、昔も今も変わらない。
ところで、あんたはどうだっていいと思うかもしれないが、
俺は大学卒業後は、警察関係の職に就きたいと思っている。
ガキの頃から親父の背中を見てきた俺が抱いた、ささやかな夢だ。
妹が全身全霊で頑張っているのに、俺が頑張らなけりゃ、
胸を張ってあいつの兄貴を名乗れねーだろ?
と、そんなことを言ってる間に、エターナルブルーのブランド服を着たモデルたちが、
壇上に現れる。いやがうえにも興奮が高まった。
モデルの先頭から順に顔を見て、必死に妹の顔を探す。
どこだ。どこにいる――?
「……………っ」
――いた。そのとき、俺は桐乃の姿が輝いて見えた。
嘘じゃない。本当にそう見えたんだよ。華やかな衣装を身に纏い、
衣装に負けないくらいの燦然とした笑顔を振りまいて、桐乃が歩いてくる。
すっげぇ。すっげぇよ、桐乃。
隣で必死にシャッターを切ってるカメラマンに、
手帳に今年のモードを書き留めている記者に、大声で自慢してやりてぇ。
ほら、あそこを見ろって!あそこで歩いてるの、俺の妹なんだぜ!
すげぇだろ!羨ましいだろ!ってさ。
転ぶ気配なんかまったくない、完璧な足取りで桐乃が近づいてくる。
ここに来るまで、計り知れない苦労があっただろう。
想像も及ばない努力があっただろう。
それらを乗り越えて、桐乃は今、万雷のフラッシュを浴びている。
桐乃――お前は、俺の誇りだよ。
締めの言葉は決めてある。
初めて人生相談に乗ってやって、お礼を言われたとき、俺はこう思った。
――俺の妹が、こんなに可愛いわけがない。
でも今は、胸を張ってこう言えるんだ。
――俺の妹は、世界一可愛い、ってさ。
黒猫ルート 了
西日を受けて、横顔を朱に染めた黒猫は気高く、美しかった。
俺が立ち止まると、黒猫は少し遅れて歩みをやめ、振り返った。
彼女は覚悟を決めるように、そっと、胸に手をおいた。
ここまで俺の話に付き合ってくれたあんたなら、気付いているかもしれない。
そう、既にルートは分岐している。
俺が選んだのは……。
- 桐乃ルート -
黒猫ルート
→ 桐乃ルート
「黒猫――俺はお前とは、やりなおせない」
告白の瞬間、様々な思いが、脳裏を過ぎった。
ここで時間は、大学合格発表日の深夜に巻き戻る。
アルバムを開こうとしたところで、縁にかけた指が固まる。
あのときと同じだ。
これを見たら何かが終わってしまうような、確信めいた予感に支配される。
――弱気になってんじゃねえよ、俺。
「見るぞ」
「…………」
桐乃は下唇を噛みしめて、俯いている。俺は深呼吸して、眦を決した。
アルバムを開く。果たしてそこに仕舞われていたのは―――俺がガキの頃の写真だった。
「なんで、俺の写真ばっかり……?」
と困惑する一方で、積年の謎が解けた気がした。
家族用のアルバムに俺の写真がほとんどなかったのは、桐乃が持っていたからだ。
「……そこに……映ってるのは………っ」
桐乃の苦しそうな気息を見ても、言わなくていい、とは言えなかった。
言葉の続きが聞きたかった。
兄貴の写真に映っているのは兄貴――そんなトートロジーを語る気はさらさらないはずだ。
「………った人」
「あん?」
蚊の鳴くような声だった。本当に聞き取れなかったんだよ。
すると桐乃は、真っ赤にした顔をあげて、
「だからっ……そこに映ってるのは、あたしが好きだった人っ!」
金属バットで側頭を打ち抜かれたような衝撃だったね。
「……それは、お前がお兄ちゃん子だった、って意味とは別の意味で……か?」
「…………うん」
俺は希望に縋るように、一縷の糸が切れてしまわないように、言葉を紡ぐ。
「でも、俺が中三のときに、俺が折れちまって……、
お前は俺のことが、大嫌いになったんだよな?」
あれから本格的な冷戦が始まり、互いに見向きもしない生活が、一昨年の春まで続いた。
その間、桐乃は間違いなく俺のことを嫌っていたはずだ。
「そうだけど……だけどっ。人生相談に乗ってくれて、
何度もあたしのこと、助けてくれて……、
あたしはまた、京介のことが好きになったのっ」
おいおいおいおいおい、こいつは何度俺の心臓を止めかければ気が済むんだ?
爆弾発言ってレベルじゃねーぞ!
「……今の俺は、ガキの頃のお前が憧れてたスーパーヒーローなんかじゃないんだぞ」
「んなこと、分かってるっての。
それでも好きになったんだから、しょーがないでしょっ」
高飛車な語調が痛々しい。
ぐっ、と俺を睨み付ける桐乃の双眸は、可哀想なほどに潤んでいた。
俺は深く溜息を吐いて、
「なあ、桐乃。俺だって本音を言えば、お前のことを女として見てた部分はあるんだよ」
ほぼ二年も他人みたく過ごしてたんだ。
いきなり普通の兄妹に戻れって言うのが無理な話だよ。
おまけに俺の妹は、超が三つも五つもつくほどの美人だしさ。
「でもな……だからこそ、俺はお前と仲直りして……、
普通の兄妹をやりなおすのが、最善だと思ってる」
「最善って、誰にとって、どんな風に最善なの?」
クソ、なんでこの馬鹿はいちいち言わねーと分かんねーんだ。
「俺は……お前に、普通の幸せを手に入れて欲しいんだよ!
いつか俺を安心させるような彼氏を連れてきて、悔しがって、
仕方なしに認めて、泣きながらお前の結婚式を祝福して、
可愛い姪っ子か甥っ子が出来て……それが一番に、決まってるじゃねーか……」
言ってる途中で、こみ上げてくるものがあった。
桐乃は震えた声で言った。
「なに……勝手に決めつけてるワケ?」
「桐乃……?」
「何があたしにとっての幸せとか……考えるだけバカじゃん?
あたしの幸せはあたしが決めるのっ!
あたしは京介が好きで、京介にはあたしだけ見ていて欲しくて、
いつでも京介の一番はあたしで……それがあたしの幸せなのっ!何か文句あるっ?」
絶句した。……そうかよ。それがお前の本心か。
ったく、自分だけ好き勝手開き直りやがってよ……。
「兄妹で好きあうことが、どういうことか考えたこと、あるか?
親父やお袋には絶対反対される。友達にも気軽に話せない。理解されない。
気持ち悪がられる。異常だって後ろ指さされる。……それが分かってんのか?」
現実はエロゲーじゃねーんだぞ。
「分かってる……つもり。
まなちゃんから言われたときから、ずっと、考えてたけど……でも……ひくっ……」
あーあ、泣かせちまった。
そっか、こいつ麻奈実にも同じこと言われてたんだな。
それで、ずっと一人で悩んで、誰にも相談できなくて、自分に嘘をつき続けて……。
あまりの憐れさに涙が出てくるね。
ところで――あんたは兄貴の仕事を知ってるか?
妹が泣いたら、泣き止ませるのが兄貴の仕事で、
妹が離れるその時まで、我が儘を聞いてやって、しっかり護ってやらなきゃならないんだ。
――そうだったよな、赤城。
俺は妹を泣き止ませる、魔法の言葉を口にした。
「桐乃…………………………俺と、付き合うか」
なんで俺はくそ真面目な顔して、頭沸いてるとしか思えねー言葉を口走ってるんだろうな。
蟻走感が全身を襲うが、不思議と後悔はなかった。だって、見てみろよ。
さっきまでぽろぽろ涙を零してた妹が、ぴたっと泣き止みやがった。
「……本気で言ってるの?」
「あーあー、とりあえず先に、仲直りだ。
……俺は冷戦してた頃のお前を許してる。
でも、つまんねー嫉妬や劣等感で、お前におかしな態度を取ってた自分を許せてねえ」
「あたしも……冷戦してた頃の京介を、許してるよ。
でも、勝手に京介をスーパーヒーローと勘違いして、京介が普通の人間だってこと、
認められなかった自分を許せてない」
じゃあ、お互いに許し合えばよくね?
互いの脳裏に浮かんだアイデアは、口にするまでもなく、互いに伝わった。
そこまでくれば、残る作業は一つだけだ。俺たちは同時に深呼吸して、
「「ごめん(なさい)」」
と謝った。こうして俺たちは、約三年越しの仲直りを果たしたわけだが……。
魔法の言葉の効果は消えることなく、桐乃の顔を紅潮させている。
例えるなら恋する乙女……いや、それじゃあ例えになってねえのか。
「あのさ……兄貴はあたしのこと……どう思ってるワケ?」
嘘を言って喜ばせても、後でバレたときに、酷く悲しませることになる。
それなら、と俺は正直に言った。
「分かんねえ。お前のことは好きだよ。
でも、それが妹としての好きなのか、女としての好きなのか……、
自分でも分かんねえんだよ」
たぶん、高坂京介の心の中には、両方の気持ちが同居している。
じゃなきゃ、間違っても「俺と付き合うか」なんて台詞は出てこねえだろうからな。
「そっか……うん……今はそれでいいや」
不満に頬を膨らますかと思いきや、桐乃はぐしぐしと涙の痕を拭って、
「いつか絶対、あたしのことを――好きにさせてみせるから」
それはもちろん、一人の女として、だよな?
たじろぐ俺に、桐乃は自信満々な言葉を叩きつける。
「ったりまえでしょ!世界一かわゆい妹の本気、覚悟してなさいよね!」
こうして桐乃は、俺の妹から――彼女になった。
一年後――。
茹だるような熱帯夜。クーラーの設定温度を下げ、ようやく浅い眠りに就いた俺は、
頬にひんやりとした何かを感じた。
強盗か――と慌てることもなく、俺はゆっくりと目を開く。
月明かりの差す薄闇の中、俺に覆い被さるような姿勢の桐乃がそこにいた。
右手には清涼飲料水のペットボトル。頬に押し当てられてたのはコレか。
「久しぶり」
久しぶり、じゃねーよ。
「帰ってくる前に、連絡の一つくらい寄こしやがれ」
桐乃を押しのけてベッドから降り、部屋の電気を付ける。
桐乃は眩しそうに目を細め、ぺろっと舌を出した。
「どう?びっくりしたでしょ?」
「いや、別に……」
寝込みをお前に襲撃されるのは何度も経験済みだからな。
それにこの部屋の合い鍵持ってんの、お前だけだし。
桐乃は八重歯を剥いて憤慨する。
「ハァ?なにその反応、ありえなくない?
どーしてあたしがいきなり日本に帰ってきて、嬉しそうじゃないワケぇ?」
――ったく。嬉しいに決まってんだろボケ。照れ隠しって、なんで分っかんねーかなァ。
「荷物は?」
「玄関先に置いといた」
「成田からどうやってここまで来た?」
「電車とタクシー」
「言ったら駅まで車で迎えに行ってやったのによ」
俺は大学一年の秋に、自動車免許と中古の軽を手に入れていた。
「それじゃサプライズになんないじゃん」
溜息を吐いたところで、桐乃の腹の虫が鳴った。
「あはは……機内食のあと、何も食べてないんだよね」
「焼きそばでも食うか?」
桐乃は夜食の誘惑に抵抗する素振りを見せ、
「ん……食べる」
「分かった。作ってやるから待ってろ」
「あっ、野菜多めでね」
「はいよ」
俺はキッチンに立ち、冷蔵庫のありあわせの野菜を刻んだ。
包丁はあやせからプレゼントされたもので、一年以上愛用している。
よく切れるんだな、コレが。
「大学はどう?」
「変わりねえよ」
大学に入学してから一年と少し。俺は二回生になった。
未だに夢は持てないでいるが、単位だけはばっちり取得している。
麻奈実先生がいるので苦手科目の取り零しもない。
「バイトは?」
フライパンを火にかけ、十分に熱したところでサラダ油を敷く。
麺を軽くレンジで温めておくのも忘れない。
「そっちも順調だ」
マネージャーの仕事は板について久しい。
加奈子は今や『秋葉の女神』と称され、様々なコスプレイベントから引っ張りだこだ。
あやせの家庭教師も絶好調である。
元々優秀なせいか、あやせの成績は右肩上がりで、高二になってからは
「お兄さんたちと同じ大学を目指します」と張り切っている。
「黒猫さ――出版、決まったんだってね」
フライパンに野菜を投入し、強火で煽る。
「らしいな」
黒猫はメディアスキーワークスのライトノベル部門に投稿を続けていて、
先月、審査員特別賞を受賞した。黒猫が初めて作品を持ち込んだ時から、
ずっと赤ペン先生をしてくれていた熊谷さんが編集につき、
トントン拍子で出版が決まったのだ。
自分の作品を世に送り出す――長年の夢を、黒猫は叶えた。
「お前も読んだのか?」
「うん、黒いのからテキストもらった。
相変わらず厨二病全開だったけど、超面白かったよね」
お前のお墨付きがあれば、大ヒット間違いなしだろう。
フライパンに麺を投入し、水を差して、粉末ソースを振りかける。
「もうすぐ出来るぞ――」
キッチンから桐乃に呼びかけるが、返事はなく。
背中に温もりを感じて、フライパンを振る手が、一瞬、止まった。
……後ろから抱きしめられていると、料理しにくいんだが。
「ねえ、京介」
「どうした」
「……あたしと付き合ったこと、後悔してない?」
俺はこの問いを、いったい何度耳にしただろう。そして何度、同じ答えを繰り返してきただろう。
「後悔なんかしてねーよ」
火を止めて、皿に焼きそばを盛りつける。
青のり、かつお節を振って、紅しょうがを添えて出来上がり。
腹の前に回された桐乃の手をほどき、振り返る。
至近距離で見ずとも分かるが、桐乃は去年よりも遙かに美人になっている。
服には最新の流行を取り入れて、高級な香水や化粧品を惜しみなく使って――、
髪につけたヘアピンと耳たぶのピアスだけが、安っぽくて、不釣り合いだ。
お洒落なアクセサリーはたくさん持っているだろうに、
その二つを使っているのは、ただ単純に、俺にプレゼントされたから、という理由に依る。
その執着が、いじらしい。
「俺はとっくに、お前にいかれちまってんだぜ」
桐乃が俺の胸に、顔を埋めてくる。
「好き……大好き。ずっと……会いたかった」
俺は桐乃の髪を、優しく撫でてやった。イタリアと日本。
メールや電話があるとはいえ、物理的な距離はいかんともしがたく、
どんなに互いが努力しても、会えるのは月イチが限度だ。
世界中に、兄妹で遠距離恋愛しているやつらが、いったいどれだけいるかは分からない。
もしそいつらに出会えたら、俺たちは苦笑して、肩を叩き合い――こう言うだろう。
とんでもなく大変な人生を選んじまったよな、ってさ。
でも、俺は後悔していない。
親にも友達にも、妹と恋人同士になったことは秘密にしているが、
沙織と黒猫にだけは、俺たちの関係を明かしている。
一年前の春、約束の地で――俺が妹を選んだことを、黒猫に告げた時。
黒猫はこう問うてきた。
『あなたたちの選択は、百人のうち九十九人が否定するものよ。
それが分かっているのかしら?』
『………ああ』
俺は黒猫に責められるものとばかり思っていた。
なじられて、踏みつけられて……縁を切られたって、仕方ない。
けれど黒猫は、ふっと切なげな笑みを浮かべて、
『なら、私が百人のうちの一人になって、あなたたちを肯定し、祝福するわ』
頬に、黒猫の唇が触れた。
『これは呪いよ。あなたが途中でへたれたら、死ぬ呪い。
死にたくなかったら、例えどんな困難に突き当たろうととも、
あなたの妹を――恋人を手放さないことね』
俺は力強く頷いた。黒猫からの祝福と激励の言葉は、俺の心に深く刻み込まれ、
風化することなく、俺の支えになっている。
「焼きそば、冷めちまうぞ。さっさと食え」
「うん……」
桐乃がはにかんで体を離し、俺たちは部屋に戻った。桐乃が夜食を食べて、
シャワーを浴びてから、俺たちは恒例行事――エロゲー――をやった。
あーだこーだ言い争いながら選択肢を選び、めいめい気に入った妹キャラを攻略する。
桐乃と付き合い始めたのと同時に、俺は桐乃がエロゲーに手を出した理由を聞かされた。
桐乃は小学生の頃に、麻奈実から「兄妹で恋愛は出来ない」と言われ、
そのことで悩んでいた折に、ネットで妹モノのエロゲーの存在を知ったという。
現実では「異常」と見なされる兄妹恋愛も、ゲームでは「普通」のこととして扱われる。
今でこそ妹キャラを愛でるためにプレイしているエロゲーも、
当時の桐乃にとっては、自己を正当化するための、唯一無二の手段だったということだ。
空が白み始めた頃、俺はうつらうつらとし始めた桐乃を、ベッドの上に運んでやった。
床で眠ろうとしたが、袖を引かれ、布団の中に引きずり込まれる。
二人で寝るのに、シングルベッドは手狭だ。
以前、セミダブルの購入を提案したが、桐乃はこの狭さがお気に入りらしい。
「ねえ、京介……あたしのこと、愛してる?」
化粧を落とした桐乃は年相応の幼さで、しかしその言葉には、
未来を見据えた重みが込められていた。俺は桐乃の前髪を指でかき分け、額に口付ける。
「……ああ。愛してるぞ、桐乃」
桐乃からの返事はなく、すぅ、すぅと穏やかな寝息が聞こえてくる。
やれやれ、よっぽど疲れていたんだろうな。
気になっているやつもいるだろうが、俺と桐乃が一線を越えたことはない。
禁忌を恐れているんじゃなく、その必要性を感じていないからだ。
二人で同じベッドで寝て、手を繋いで眠りに落ちる。
そんな無邪気な幸せに、俺も桐乃も満足している。
いつか、お互いを求める気持ちが高まって、
どうしようもなくなったとき、俺は桐乃を抱くのだろう。
関係が兄妹から恋人に変わってからも、俺たちの間で些細な喧嘩は絶えない。
むしろ寂しさや嫉妬が原因で、喧嘩の頻度は増えた。
でも、どんなに深い溝が生まれても、それを埋める術が必ず存在することを――、
俺たちは経験則で知っている。
行く手に待ち構える困難は数知れず、それらに直面する度に、
桐乃は思い悩み、苦しむに違いない。その苦しみを分かち合い、
それ以上の幸せを与えてやるのが、兄として、彼氏としての、俺の役目だ。
さて……締めの言葉は決めてある。
初めて人生相談に乗ってやって、お礼を言われたとき、俺はこう思った。
――俺の妹が、こんなに可愛いわけがない。
でも今は、胸を張ってこう言えるんだ。
――俺の彼女は、世界一可愛い、ってさ。
桐乃ルート 了
長くなりましたが以上です
読んで下さった方、ありがとうございました
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