藤原肇「釣れましたとも」 (26)

モバマスSS、地の文あり、元ネタあり



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「釣れませんね……」


私はぼんやりと、ただぼんやりと竿を垂らしていました。


川のせせらぎと、鳥や虫達の鳴き声ばかりが山の中に響いています。


渓流の釣り場に腰を下ろして、一時間ほど経っているでしょうか。


時間だけが、すっと過ぎてゆきます。


こうして時間だけが過ぎていくような瞬間が、私にとっての癒やしでした。


釣り糸の先、水の流れの中できらきらと輝く針には、しっかりと餌がついています。


けれども場所が悪いのか、食いつきが悪いのか。


釣果は未だにゼロ。


でも、これでいいのです。


こうやって釣りをしているということが、今の私にとって大事なことのように感じたからです。


そんなわけで、私はもうしばらくここに座っていることにしました。


ぴくりとも動かない釣り竿を軽く握っていると、ぼんやりと今までのことが思い浮かびます。


何も変わることのない日常を過ごしてきた私。


ある日突然、目の前に彼が現れて私に魔法をかけてしまいました。


臙脂色の作務衣は、美しいドレスに。


岡山の長閑な町並みは、銀色のビルの並び立つ都会に。


なんとなく過ぎていた毎日は、一日一日が忘れられないようなアイドル生活に。


ただの陶芸と釣りの好きな女の子は、アイドル藤原肇へと生まれ変わりました。


ですが……ある時、ふと感じてしまうことがあります。


もしも私がアイドルではなかったら。


もしも私が普通の女の子のままでいたら、どうなっていたのか。


やはり、イメージは少しも浮かびません。


地元の高校で、地元からの友人や高校からの新しい友人達と遊んで。


クラブ活動や委員会活動などをして。


けれども、私のイメージはここまで。


ここまでなら、きっと誰にだって当てはまる高校生活でしょう。


その先、私にしか当てはまらない世界は、こうしていくら悩んだところで浮かびはしません。


私の目で、耳で、肌で、心で感じ取ったことがなければ。


それは夢物語。


ただのまぼろしに過ぎないのですから。


イメージすることのできないもう一つの可能性は、やはり私の心の隅からどいてはくれません。


これでよかったのか、という不思議な気持ちは、頭のなかでぐるぐると渦を巻いています。


アイドルになって、よかったのか。


私はまだ、答えを出せていません。




トレーナーさんにも、どこか上の空だと指摘を受けて。


皆にもどうしたのと聞かれて、心配されて。


彼やちひろさんは無理をするんじゃないと言い、あちらこちらに電話を掛けだして。


そうして私は、気づけば突然の休暇を頂いていました。


ものの数十分で頂いてしまった休暇。


どう過ごそうかとイメージをしてみても、やはり浮かぶことはありませんでした。




……こればかりは本当に偶然なのですが、頂いた休暇は丁度彼の休暇と重なっていて。


私は無理を言って、大自然の中で釣りがしたいと頼みました。


こうして自分の好きなことに没頭することで、何か感じること、見えてくるものがあるのではないか。


そんな思いを汲み取ってか、彼は二つ返事で私を東京の山奥へと連れて行ってくれました。


そうしてこの釣り場でのんびりと構えているわけですが……。


なんとなく、釣れない理由もわかってきた気がしました。


今の私には魚を釣り上げるイメージが浮かんでいません。


イメージが出来なければ釣れない、という訳ではないのかもしれませんけれど。


釣れるかどうかを信じていないのでは、仕方がありません。


魚達も、こんな私に釣られるものかと考えているのでしょうか。


そう考えていると、一層釣れる予感は失せてしまいました。


こうして迷っているようでは、何も釣ることは出来ない。


心に曇りがあれば、良い焼き物は生まれないように。


一度、釣りを中断しようと、竿を引き上げました。


いえ……正確には、竿を引き上げようとしました。



「あれ……?」


ぼうっとしすぎていたのか、針が岩にでも引っかかっていたようです。


ゆっくりと外すか、針を諦めればよかったものを、私は少しだけ焦ってしまいました。


竿を引き上げられなければ、考えをまとめることも出来ないのではないか。


そんな思いが脳裏をよぎり、私は無理に竿を引き上げてしまいました。




案の定、針は水底の岩に引っかかっていたようでした。


無理に引き上げてしまい、糸は切れなかったものの餌は取れて、針は使い物にならなくなっていました。


この針は長く使い込んだものだったな、と思い出すと仕方ないのかもしれません。


針は弧の中程から折れて、見た目は真っ直ぐになってしまいました。


「……針、取り替えなきゃ」


と、折れてしまった針を見つめて。



何を思ったのか、私は針をそのまま、川へと投じました。


当然、釣れるはずはありません。


それでもいいのです。


何せ、これは魚釣りではありませんから。


この真っ直ぐになった針で、私はもっと大きなものを、大事なものを釣り上げようとしていました。


じっと、このままで待ってみます。


折れた針の先は尖っていますが、勿論かえしはありません。


餌だってないのですから、こんな針で釣りをすることは到底無理でしょう。


それでも……きっと、意味があると私には思えたのです。


おかしな事をしているのは承知の上。


ですが……これで、いいのです。


これでようやく、物思いに耽ることができるのですから。


先程からずっと考えていたこと……あったかもしれない、もうひとつの可能性。


私は、地元の高校に入学する少し前に、彼と出会って。


まさか、彼がアイドルのプロデューサーだなんて思いませんでした。


なにもない私にアイドルが務まるのか。


そんな疑問を、不安を、言葉巧みに拭い取って。


そうして……お父さんやお母さん、ついにはおじいちゃんまで説き伏せてしまうとは。


彼はきっと魔法使いだ、なんて言っては怒られてしまうでしょうか。


そうして今年の春から、東京で暮らすことになりました。


東京なんて、一度も来たことはありません。


右も左も分からないこの場所で、私を助けてくれたのは……。


そうですね。事務所の皆さんです。


私と一緒に今年からアイドルを始めた子や、私よりずっと年上のお姉さん。


同い年なのに芸能界では先輩であったり、はたまた海の向こうや宇宙から来た方だったり。


アイドルの数に負けないほど、プロデューサーや事務員さんもいます。


といっても、私がよく会うのは彼……私のプロデューサーさんと、事務員のちひろさんくらいですけれど。


一つの事務所ですが、とても沢山の人がいて……。


皆さんに支えられて、今の私がいる。


今の私。


もし、私がアイドルをやめてしまったら?


今の私はどうなってしまうのだろう。


今と変わらず、事務所のみんなとは……会えそうにはありません。


いつの間にか出来上がった、今の私の日常。


それが壊れてしまうことが……何よりも今、恐れている事なのかもしれません。


「……そう、ですね」


私が、求めていたものは。


私の、答えは。




この、不安からの――



「ふふっ。肇さん、釣れていますか――」


あら。


いつの間にか、私の後ろに一人の少女が立っていました。


その顔は、まるで誰かにそっくりのような……それでいて、誰とはわかりませんでした。


ただ不思議と、私は彼女が誰なのかを知っているような気がしました。


「……あなたは?どうして、私の名を」


その時でした。


ぴくり、と釣り竿が動きます。


「……え?」


「ほら、引いていますよ」


慌てて竿をあげようとしましたが、上手く行かず逃してしまいます。


「あら、逃してしまいましたか」


「……今のは?」


気にするほどの事ではありませんよ、と彼女は教えてくれました。


「そう、ですね」


第一、この真っ直ぐな針では、釣れるはずがありませんから。


「いえ……信じてみてください。釣れることを」


「え?」


ぽかんと口を開けていると、彼女はまた、笑います。


「……では、一度場所を変えましょうか。ついて来てください」


彼女の後をついて、山の奥へと進んでゆきます。


「ここなど、いかがでしょうか」


そうして連れて来られたのは……。


先程とそう変わらないはずの、渓流。


ただ、一つだけ大きく違うところがありました。


「きっと、見覚えがあるでしょう?」


ええ、そうです。


私はこの場所を覚えています。


だって、ここは……。


おじいちゃんに、何度も連れて行ってもらった場所。


そして、忘れもしない――




「ほら、釣ってみてください」


「でも……かえしも、餌も」


そんなものはいりませんから、早く、と急かされて。


私は糸を垂らします。


「気を抜いてはいけませんよ。全身全霊を込めて、集中するのです」


そうすれば、魚どころか竜さえ釣れますよ、と彼女は付け加えました。


「竜でも、ですか……」


「ええ。竿の先、糸の先に……全身の気を、込めてください」


私は祈るように竿を握りしめ、気を整えます。




「私は……あなたの『答えを出したい』という気持ちに応じて、あなたの元に来ました」


また、竿がぴくり、と動きます。


「一点の濁りもない、純粋な心で竿を引いてください。心を、純粋にするのです」


ぐいぐいと、竿は水底へ引かれてゆきます。


「邪な気持ちも、不安や恐れも、何もかもを捨てて……」


力を込め、竿を奪われないよう必死にこらえます。


「この大自然に、その身を委ねてください」




ああ、水底が見える。


糸の先に喰らいつく、竜のその姿さえ、見える。




大自然の力を、糸の先に生まれた宇宙を。


目で、耳で、肌で、心で。


感じる。


感じる。


手に取るように、最初から知っていたかのように。




――この世界の全てを、いま、私は感じている。


















「――さあ、竜を釣ってみてください」















「……あら?」


ふと気づけば、そこはあの、岡山の山奥……ではなく。


先程まで腰を下ろしていた、東京の山奥の、渓流でした。


まさか……夢を、見ていたのでしょうか?


「――きゃっ」


突然はね出した足元の魚を見て、思わず声を上げてしまいました。


……これは、もしかして。


その魚の口から出ているのは、まぎれもなく、私の竿から伸びる釣り糸でした。


「……ふふっ」


竜と言うには、あまりにも小さな魚。


もしもこれが鯉であったら、本当に竜だったのだと信じたかもしれません。


けれども、今までのことが夢でなかったと……今なら、わかります。




まだ元気よくはねている魚を、バケツへと移して針を抜きます。


かえしのない針は、もちろん、するりと外れました。


「――調子はどうだ、肇」


今度は少女ではなく、彼が後ろに立っていました。


「ぼちぼち、です」


そうか、と彼は片手に持っていたバケツを置き、私の隣に座ります。


「……いい顔になったな、肇」


「そうですか?」


ああ、と彼は私の目を覗き込みます。


……少々、恥ずかしいのですが。


「晴れ晴れとしたような……いい表情だ」


急に頭を撫でられて、私は少しだけ驚いてしまいました。


彼は、何も気にせずに、ずっと私の頭を撫でています。


恥ずかしいけれど……なんだか、落ち着きます。


「悩みがあったみたいだったが……もう、大丈夫なのか?」


ええ、ご覧のとおり。


先程までずっと考えていたことは、どこかへと消え去ってしまいました。


「はい。どんなことがあっても……私は、私です」


また、どこかで不安を感じてしまうかもしれません。


けれどもそれは、私の生み出したまぼろし。


こうして嫌な気持ちや不安な気持ちを捨てて、心を純粋にして。


大自然に身を委ねて、ゆっくりと自由を感じれば。


もう怖いものなど、ないのですから。


「信じるべきものは……見つかりました」


「そうか」


大切なのは、信じること。


そう言うと彼は、


「信じることは……こわいこと、だな」


と笑いました。



「肇が元気になってくれて、よかった」


今日の休暇は、それだけで価値があった、と彼は言ってくれました。


「あの、――さん」


いつかの休暇に、また、あの場所に行きましょうね。


「そうだな」


忘れもしない、あの渓流。


小さい頃からおじいちゃんに連れられて、ずっと釣りをしていたあの場所に。


大切な、大切なあなたに出会えたあの場所に。


「いつになるかは分からないが……努力する」




アイドル藤原肇の生まれた、あの場所に。


あなたと、二人で。


「肇、その針は――」


食い入るように私の釣り針を見つめていましたが、


「そうか、そうか」


と彼は何かに気付いたかのように頷いて、笑ってくれました。


「自由な気持ち……思い出したみたいだな」


ええ、その通りです。




不安や焦り。


苦痛や悩み。


それらすべての、生きることからの自由。


見えない未来からの、自由。




悪いイメージは、もう浮かびません。


見えない未来は、そのままでいいのですから。


もう、恐れるものはどこにもありません。


私は……自由な気持ちを、思い出しましたから。


「それで、肇――」


針を付け替えて、二人並んで糸を垂らして。


ふと、思い立ったように、彼が聞きます。




「――釣れているか?」


「――ふふっ。ええ、釣れました」




ぱしゃんと水面をはねる魚。


さえずりを続ける小鳥達。


絶えず流れ続ける清流。




この世界のすべてを感じながら、私は彼に笑顔を向けました。






「釣れましたとも、私自身が……」





竜を釣り上げる話は諸星大二郎の「太公望伝」が元ネタになっています

ありがとうございました

やっぱり太公望か
幻想的にいいかんじなSSだった。乙

釣り乙

これはいい釣りだ。
乙。
↑これは釣り針じゃなくて乙なんだからね!

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