鷺沢文香「埃を被る暇も無く」 (69)


きっとこのまま、私は。
私の生涯を、大きな子供のようなままに終えるのだと、そう思っていました。


恐らくは、大学生の身分にまで収まり、先が見えてしまったからなのだと思います。
幼稚園、小学校、中学校、高校。
さしたる変化も成長も無く。
これまでの十数年、『人生の転機』などと言ったものは、一度として訪れませんでした。
多分、このまま叔父の書店を継ぐなりして――



――私の人生は、一冊の本として綴じられる類のものだと、そう思っていたのです。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1546436854



人生とは、一冊の本である。


何処の書店でも。更に言うならば、この古書店でさえ。
少し探してみるだけでそんな本が見つかりそうな、ありふれた人生論です。
心の底でぼんやりと、私もこの詠み人知らずの金言を抱えていたのでしょう。

少しずつ少しずつ、ページを重ねて。
最後には古ぼけた、灰を、煤を、埃を被った、少しだけ厚めの本と成って。
手に取ったどなたかが、


 『ああ、こんな本もあったな』


そう、ぽつりと零すような。


そこまで考えたところで、頁へ落ちた影にようやく気が付きました。


ああ、いけません。店番中だったというのに。
読書の最中に考え事とは、お客さんにも、本にも失礼を働いてしまいました。

 「申し訳ありません」

本を閉じ、顔を上げ、目の前にいた方にひどく驚きました。

言葉を探すように開けられた口と、眼鏡越しに私を見つめる瞳。
ごく普通の、やや理知的な顔立ち。それはよいのですが……。


 「……」


厚み、を感じる方でした。


ビジネスマンらしきネクタイもスーツも、恐ろしく似合っていません。
その胸板は、今までに出会ったどなたよりも分厚く。

 「あの……何か、探し物でしょうか」

 「……ああ、いえ。探し物、と言うか」

お客さんは、その分厚い胸元を探ると。


栞よりも小さな、一枚の名刺を差し出します。



 「貴女を探していたんです」


何処からか秋の風が吹き込んで、閉じておいた小説を悪戯にめくりました。


文学女神こと鷺沢文香さんのSSです


http://i.imgur.com/v6mMZbU.jpg
http://i.imgur.com/7NVbwsv.jpg

前作とか
モバP「楓さんも敬語を崩したりするんですか?」 ( モバP「楓さんも敬語を崩したりするんですか?」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1542458996/) )
中野有香「いつだってストレート」 ( http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1489823741 )


言葉を選びました


 ― = ― ≡ ― = ―


 『――いや、同僚にこの辺りを回ってみてほしいと言われて』


私を探していた。

彼は……プロデューサーさんは、確かにそう言っていました。
言葉尻だけを捉えれば、まるで予知能力者か占い師のようです。
理由を訊ねてみましたが、プロデューサーさん自身にも判然としないようで。


 『まぁ……あの人が言う事だから。きっと、そういう事なんだと思う』


論拠をそう曖昧にぼかされたまま、彼はアイドルの魅力を丁寧に丁寧に説明してくれました。
三日に一度ほど、文庫本を買い求めにやって来た際、レジを挟んで。
毎回お客さんの少ない時間帯でしたし、説明もせいぜい五分程度。
何か作業をしている時にはおとなしく退店されて行きますし、無下には出来ません。

ただ、彼は大変粘り強い方のようでした。
およそ二ヶ月に渡る説得の末、とうとう私は首を縦に振ってしまい。


プロデューサーさんは、少し強引です。



 「――……、……、……」


新しい事務所だと聞いて想像したよりも、随分と広々としたレッスンルーム。
その広々とした一角で、私はフローリングにへばり付いているばかりでした。

 「……あの、トレーナーさん。一体何をやらせたんです」

 「い、いえ……最初だから、簡単なステップとターンを少し」

 「…………、……、……」

 「少しには見えませんが……息、上手く出来ていませんし」

 「……ぷろっ、ろ……けほっ……!」

 「ああ、文香さん落ち着いて……!」

トレーナーさんの言葉に嘘は何もありません。
本当に、ステップとターンを少し教わっただけ。
この惨状は、偏に私の体力が為し得た光景に過ぎないのです。

 「えーと……どうしましょう、か?」

 「……今日はこれぐらいにしておきましょう。少し、考えを改めます」

 「す……すみ、ませ……こほっ」

私の有り様に、プロデューサーさんは明らかに困惑しているようでした。
彼自身の鍛え方以前に、どう考えても私の体力水準は低く。

……アイドルとは、本当に私のような者でも務まるのでしょうか。


 「あの……すみません、プロデューサーさん……」

 「いや、文香さんが謝る必要は無いよ。こちらも配慮が足りなかった」


帰りの車中は形容しがたい空気に満ちていました。
ぼんやりとした気まずさとは対照的に。
プロデューサーさんの締める二点式のシートベルトは、ぴんと強く張り詰めています。
ひょっとすると、胸囲で言えば私よりもあるのではないでしょうか。

 「文香さん、日曜の昼は暇だったりするかな」


 「……? はい……特に、予定などはありません」

 「そうか。良ければ、なんだけど――」


告げられた集合場所は、私にとって縁遠い場所で。
けれど私は、何となく頷いてしまいました。


 ― = ― ≡ ― = ―

未明には霜付いていた草も解け、澄んだ大気を太陽が照らしつけていました。
これから厳しさを増すとは言え、まだ柔らかい冬と言えます。
穏やかな川の流れが眩しい程に煌めいていました。


 「お待たせ、文香さん。準備運動は済ませたかな?」

 「あ……プロデューサーさん……いえ、まだ」

 「うん。じゃあ、教えるから一緒にやってみよう」


動きやすさを考えてか、太さに耐えかねてか、首元のジッパーは閉まりきっていません。
スポーツウェア姿で向かい合い、河川敷にて準備運動を始めます。

 「そうそう。それから反対に伸ばして」

 「……い、痛い……です……」

 「痛むほど伸ばすのは良くないよ。無理せず、出来る範囲で」

二十分も準備運動に時間を掛けたのは初めての経験でした。
すっかり浮かび始めた汗が、冷たい風に溶けてゆきます。

 「よし、行こうか」


首から提げたストップウォッチを操作して、私達は並んで走り始めました。

 「文香さん、大丈夫? 速過ぎたりしない?」

 「大丈夫……です。ありがとうございます」

傍から見れば笑われてしまいそうな。
……あ。今、すれ違った老夫婦の方に微笑まれてしまいました。

ともかく、私達はそんなペースでジョギングをしています。

 「まずはこの速さで、出来る限り長く走ってみよう」

 「はい」

サイクリング中らしき、自転車の方に追い越されました。
ロードワーク中の、野球部員らしき方々に追い抜かれました。
お友達と仲良く戯れる、小学生らしき方々が走り抜けていきました。

 「……」

思い返してみれば、走るなどというのはいつ以来でしょう。
高校三年生の体育はほとんどレクリエーションでしたから……丸、二年ぶりくらいですね。

 「早筋と遅筋は、分かるかな」


 「……え? チキンと……側近?」

 「簡単に言うと、それぞれ持久力と瞬発力を受け持つ筋肉でね」

 「……ああ。早筋と……遅筋、ですか」

 「ジョギングでは遅筋が鍛えられるんだ」

 「なるほど……」

 「体力測定の結果を見ると、鷺沢さん、早筋は結構ありそうだったから――」

ゆっくりと走りながら、プロデューサーさんは様々な事を語ってくれました。


食生活と健康について。
睡眠の重要性。
視力改善の為に目の筋肉を鍛えようとした話。


そのどれもが淀み無く、確かな知識に基づいたものだとすぐに分かりました。
話上手な方の語りに、ついつい耳も夢中になってしまいます。


 「――よし、45分。休憩にしよう」


 「はあっ……ふぅ……」

 「お疲れ様。こんなに長く、一定のペースで走れるのは素晴らしいよ」

 「これ……くらいの速さ、でしたら……」

私は少しだけ痛む脚と、心地良い疲労を抱えていました。
身体の芯に篭もったような熱が、走った道のりの証左の如く燻っています。

 「プロデューサーさんは……お強い上に……物知り、なのですね」

 「文香さんの知識には敵わないと思うけど……照れるね」

もう息一つ乱れていないプロデューサーさんが、少し困ったように笑います。
とん、とんと、拳でお腹を何度が叩きました。

 「トレーニングの界隈で、こんな言葉があるんだ」

 「……?」

 「筋肉は裏切らない」


 「……素敵な、言葉ですね」

 「無理はしなくていいよ、文香さん」


……本当に、良い言葉だと思ったのですが。


 「同じように、知識だって裏切らないと思うんだ。身に着けた経験は、決して」

 「そうかも、しれません」

 「だから文香さんに、この言葉も贈ろう」

小脇に、本を抱える格好をして。

 「書を持てよ、町へ出よう」

 「……寺山修司の名著。そのもじり、ですね」

 「流石。ほら、裏切らないだろう?」

体力と、知力と、諧謔。
プロデューサーさんに感じた厚みは、きっと積み重ねた経験から来たものでしょう。
私も、ほんの少しではありますが……知識を蓄えながら生きてきました。
次は、この貧弱な身に体力をつける番だと、そう仰りたいのですね。


 「……文香さん」

 「はい……何でしょう」

 「運動後は、みだりに前を開けないように。良くないからね、その……急に冷えて」


なかなか冷めない熱を逃がそうと、上着の前を開けて風を取り入れます。
確かに、急にTシャツ一枚の身体を晒しては風邪を引いてしまうかもしれません。
体調管理もアイドル活動の一環、という事でしょう。

 「うんその、そう、悪いけど早いとこ閉めてもらえるかな」

 「はい……知らず、申し訳ありませんでした」

 「いやいや気にしなくていいさ。他意は無いから、本当に」

プロデューサーさんが、何故か慌てたように手を振ります。
首を傾げながらも前を戻すと、安堵したように分厚い胸を撫で下ろしていました。

 「よし。じゃあ、もう少ししたら再開しようか」

 「はい」

そして再び走ります。
ふと、今の今まで訊きそびれていた事を思い出しました。

 「……プロデューサーさん」

 「ん、何かな」

 「今日は……どうして、ご一緒に、ジョギングを?」


 「前々から思っていたんだ」

 「……?」

 「アイドルだけに厳しいレッスンを課すのは、果たしてどうなんだろうと」


思わず隣を向くと、プロデューサーさんと目が合いました。

 「まずカイより始めよ」


先従隗始。
小さな計画から着手すること。
また、言い出しっぺの法則とも取られる事のある、古代中国の格言でした。

 「……なるほど。つまり、プロデューサーさんは」

 「ああ。まずはこうして甲斐性を見せてるって訳さ」



 「……」

 「よく見ててくれ、文香さん。俺の甲斐を」


穏やかに笑い掛けてくれるプロデューサーさんを前に。
私は、まず正しい解説から始めようと決心しました。


プロデューサーさんは、少しだけ抜けています。


 ― = ― ≡ ― = ―


 「あの、プロデューサーさん……少々、相談が」

 「ん。どうしたの、文香さん?」


何かの間違いではないかとも思いました。
このままにするべきなのか、するにしてもどうすれば。
迷った挙句、私はプロデューサーさんへ話してみる事に決めました。

 「その、ですね」

 「うん」

 「お金が……振り込まれていまして……」

 「うん……うん?」

 「何故……振り込まれているのでしょう」

 「何故って、文香さんがお仕事をこなしたからだけど」

回答を聞き、私はしばらく固まってしまいました。
やはり、間違いではなかったのですね。

 「貰ってしまっても……よろしいのでしょうか」

 「よろしいと言うか、貰ってくれないと会社的に困ると言うか」


困る……。
ならば、ここは貰っておいた方が、きっと丸く収まるのでしょう。

 「まぁ、まだ多くはないけどさ。それは文香さんに対して支払われた報酬だよ」

 「……」

 「文香さん?」

 「……私、お金を稼いだのは、生まれて初めてで……どうしたらいいのでしょう」

 「えっと、古書店の方は? アルバイトじゃ……」

 「叔父の店を手伝っているだけですので」

 「なるほど」

そもそも私の財布は、使い所がごく限られています。
書店、古書店、古本市。後は、日用雑貨と食事に少々。
今回の給与は、それらへ回すには少し多いくらいで。


 「そうだね……大人とか社会人とか、そういう予行演習だと思っておけばいいと思うよ」


プロデューサーさんの返した言葉に、私は再び固まってしまいます。
私が……私が。

 「大人……?」

 「ああ。使い途が無いなら将来の為に貯めておくのも良い」

 「……私は」

 「うん」

 「まだ、子供なので……叔父に、預けておこうかと思います」

 「大人な判断だね」


聞き分けの無い子供を前にしたように。
プロデューサーさんが、苦笑を零しました。


 ― = ― ≡ ― = ―

一頁ずつ、一頁ずつ。
これまで本のようにゆっくりとめくられてきた私の日々は、少しだけ流れる勢いを増しました。

アイドルという新しい巻を見つけ、また新たなページが開かれて。
とすると、私の人生は一冊の本とも、また違うのではないかと思い始めて。

 「……」

顔を上げると、そこには闇に包まれた店内があります。
私はこうして閉店後のカウンターで読む本も好きでした。
色ガラスの被せられたスタンドを灯し、書に囲まれて時を過ごす。
ややもすると自室以上に、ここは落ち着く空間でした。

叔父には、やはり苦笑を零されてしまいますが。


アイドルとなり、少々の金子を稼ぐ。
少しずつ交友関係も広がり、手頃だった私の世界は俄に広がってしまいました。
これも大人に成りつつある影響と言えるのでしょうか。


果たして、私の身でも、大人と成れるのでしょうか。
まだまだ知らない事、出来ないもの、手の届かないそれ。
それでも、私も……いつか。


終の棲家のように考えていたこの空間を離れて。
いつしか別の地へ移り住む将来が、急に現実味を帯びて頭の上へと落ちて来ます。
最近は頁をめくる間にも、こうした考えを挟んでしまう事が多くありました。
私の頭は、少しだけ未来の私自身を描いています。


部屋に本の塔を積み上げ、ふとした地震で下敷きとなる私。
大根を切ろうとして指を切る私。
書を嗜む間に、洗濯物をすっかり雨に濡らしてしまう私。


 「……」


ふと、立ち並ぶ本棚が目に留まりました。


 ― = ― ≡ ― = ―

 「あの……プロデューサーさんは、今日もお弁当、でしょうか」

 「ああ、うん」

 「よろしければ……共に、席を囲んでも……?」

 「もちろん。その包み、作ってきたんだ」

 「はい。念の為、大根はやめておきました」

 「……うん?」


プロデューサーさんは、大抵お弁当を持参して来ていました。
栄養や節約面を考えるとこれが一番なんだ、と。

 「じゃ、いただきます」

 「頂きます」


同時に蓋を開けて、私はそこに確かな現実を見ました。


薄い茶色が見た目にも食欲をくすぐるお米。
ひじき等が混ぜられた玄米でした。

主菜には鶏の生姜焼き。
摺り下ろしたものの他に、細切りにされた姿の生姜も添えられています。

脇を固めるのは金平牛蒡。
やや牛蒡が多めで、かつ太めに切られています。
歯応えを楽しむのにほど良い太さでしょう。

彩りを加えるのは玉子焼き。
間にほうれん草が挟まれ、ともすれば地味な見た目の差し色となっています。


いっそ潔い程に白い米。
中心にはどこか誇らしげに梅干しさんが鎮座していらっしゃいます。

主菜はウィンナーを炒めたもの。
清々しい程に質実剛健です。

緑はほうれん草のお浸し。
冷凍食品といえども、最近のそれは決して侮れません。

玉子焼きに失敗した結果の炒り玉子。
玉子の……ええと……炒り玉子です。



言うまでも無く、こちらが私の持参したものです。


 「……シンプルでいいね」

二つの弁当箱を挟んで、私達の間には奇妙な沈黙がありました。
いえ、理解はしていたのです。
私の腕がプロデューサーさんに及ぶ筈も無いと。
ですが私も女は女。やってみたら案外何とかなるのではないか。


そんな考えを、目の前の現実が何よりも雄弁に論破してゆきました。


 「……はい」

明らかな慰めを受け容れられる程度には、私も成長したようです。

 「おかず、幾つか交換してみようか」

 「……ありがとう、ございます。美味しいです」

 「うん、美味しい」


……プロデューサーさんは、優しいです。


 ― = ― ≡ ― = ―

どうしたものでしょう。

呼び出されるまま会議室へと入り、プロデューサーさんの正面に座るまでは問題ありませんでした。
向かいで腕を組む彼の眉は曲がり、首は横に倒れ、喉は低く唸り上げています。
ひょっとして私は、相当に不味い何かをしでかしてしまったのでしょうか。

 「…………文香さん」

 「はい」

 「まず、聴いてほしい」

そう言うと、プロデューサーさんは机上のCDプレイヤーを操作しました。
しばらく無音の状態が続いてから、やがて旋律が流れ始めます。
穏やかな曲調にともかくも耳を澄ませようとしたところで手渡されたのは、一枚の紙。


Bright Blue――鷺沢文香。


 「これは……私の……?」

 「デビューシングルになる。なるんだけど、ね……」

 「何か……?」

 「……俺は、一旦の白紙も選択肢に入れるべきだと考えてる」


後ろの壁まで縫い止められてしまいそうな視線が、私を射抜きました。


 「先生へ、俺なりに鷺沢文香を伝えてみたんだ」

 「……はい」

 「そしたら、そんな歌詞だ」


 ファンタジーな世界に逃げてるだけじゃ
 本当の私は探せないまま

 ファンタジーな世界に救われたけど
 本当の居場所は探せないまま


プロデューサーさんが指で示した先には、そう書かれていました。

 「俺は、文香さんがそんな気持ちで読書に耽ってる訳じゃないって知ってる」

 「……」

 「総体としては前向きではあるけれど、どうしてもここが引っ掛かるんだ」

 「……」

 「上手く言葉に……文香さん?」

 「……あ」

文字と見れば読み耽る。
詩と聞けば紐解きに掛かる。

生来の悪い癖がまた顔を出してしまいました。
プロデューサーさんの言葉がようやく耳へ入ってきたのは、最後の一文をなぞり終えた時で。
尚も私を貫く彼の視線に、知らず浮かんでしまったのは――薄い笑み。


 「プロデューサーさんは、やっぱり、とてもお優しいですね」

 「……」

 「私の為に怒ってくれて、ありがとうございます」

 「……なら、一旦」

 「ですが、杞憂です。青空が落っこちてきたりは、しません」

何か言葉を継ごうとして開かれた彼の口が、そのまま開きっぱなしになりました。
沈黙の妖精が私達の間を通り抜けて行きました。
これはひょっとして、やってしまったのでしょうか。
場を和ませるには、気の利いた洒落が一番だと彼女に聞いたのですが。

 「……ひょっとして、Bright Blueに掛け」

 「ともかく」


ともかく。


 「プロデューサーさんは少し、勘違いをされているようでしたので」

 「勘違い、って」

 「この歌は……私の曲でこそありますが、私について歌った曲では、ありません」

作詞をされた方も、恐らくは承知の上で提出した一稿なのでしょう。
あるいは新人アイドルへ向けた、実力考査のような何かかも知れませんね。


 「プロデューサーさんは、やっぱり、とてもお優しいですね」

 「……」

 「私の為に怒ってくれて、ありがとうございます」

 「……なら、一旦」

 「ですが、杞憂です。青空が落っこちてきたりは、しません」

何か言葉を継ごうとして開かれた彼の口が、そのまま開きっぱなしになりました。
沈黙の妖精が私達の間を通り抜けて行きました。
これはひょっとして、やってしまったのでしょうか。
場を和ませるには、気の利いた洒落が一番だと彼女に聞いたのですが。

 「……ひょっとして、Bright Blueに掛け」

 「ともかく」


ともかく。


 「プロデューサーさんは少し、勘違いをされているようでしたので」

 「勘違い、って」

 「この歌は……私の曲でこそありますが、私について歌った曲では、ありません」

作詞をされた方も、恐らくは承知の上で提出した一稿なのでしょう。
あるいは新人アイドルへ向けた、実力考査のような何かかも知れませんね。


 「読書を逃げ道にしてしまった選択への再考」

あるいは。

 「とある女の子の……ある種の、転回を歌った曲だと……思います」

向かいに座るプロデューサーさんは黙ったまま。
その眼差しは、少しだけ揺らぎを湛えているように見えました。

 「……文香さん」

 「それに彼女は、顔を上げて……空の蒼きを知って、尚」

ぶつけ合っていた視線を少しだけ外して。
ブラインド越しに、薄く切り取られた栞のような青色を盗み見て。


 「頁をめくる指を、止めてはいません」


かさり。

眼鏡の位置を直すと、プロデューサーさんの指が歌詞カードを拾い上げました。
並ぶ文字を未だ厳しいままの眼差しが追い掛けて行きます。
左右へと行き来して、下へ下へと順繰りに。
目の前で弾むリズムが、何だか無闇に嬉しく感じられました。

そして小さな吐息。
歌詞カードを机の上へ丁寧に戻すと……プロデューサーさんは、肩を竦めました。
竦めて尚、分厚い方です。

 「……穴があったら入りたいよ」

 「……ふふ。プロデューサーさんの場合は少々……大きめに掘らないといけませんね」

しばし私達は笑い合って、それからまた視線をぶつけ合いました。


 「唄おう」

 「はい」


プロデューサーさんは、少し慌てん坊で……とても、真摯です。


 ― = ― ≡ ― = ―

直した考えを、どうやらまた改めなければならないようです。


私の人生は、本棚に似たものなのかも知れません。
小説があり、図鑑があり、ルポルタージュがあり。
出会う一冊一冊にはそれぞれの想いが籠められていて。
そんな素敵な思い出を集めていく、そういう人生なのではないか、と。


飾り気の無い棚にはまだまだ空きがあります。
空きがあれば、埋めてゆきたくなるのが人情というもので。
一巻を読めば二巻を、二巻を読めば三巻に手を伸ばしたくなるように。


私もまだ見ぬ書を探し求め、町へ出ようとしたのです。

(>>27>>28は二重投稿でした)


 ― = ― ≡ ― = ―

大丈夫です。
全然、全く、こわくなどありません。

いえ、むしろ可愛いくらいではありませんか。
円らな瞳。こちらをじっと見上げる瞳。
ふかふかの身体。大きくて……大きいですね……。


 「わんっ」

 「ひぅ」

 「あの、文香ちゃん? ムリしなくても」

 「だ、大丈夫……です」


この事務所は、良き人々でいっぱいでした。
綺麗な方。強い方。明るい方。ユーモアあふれる方。
そのような人たちに囲まれていると、私も憧れに近い気持ちを抱くようになり。


――強くなりたい。成長したい。


私の奥底にもそのような決心が芽生え得るなど、以前の自分には想像もつかない事でした。

このような機会が今後、再び訪れるとも限りません。
ならば折角頂けたこの貴重な出会い。
この身を晒してでも、私も素敵な人物になってみたいと。
いつしか私も、そう思えるようになったのです。


 「う、うぅ……」

 「わふっ」

 「頑張れ、文香ちゃんっ、もうちょい!」


どうすればそうなれるのか。
私はまず、数ある不得手を無くそうと考えました。


ところで私は幼少の頃、犬に追い回された経験があります。
かの犬は私の背丈程もあり、恐ろしい唸り声を……うぅ。
その様を、あろう事か両親は笑って眺めていて。
私が顔を隈無く蹂躙されている間、助けを求める必死の声は届く事叶いませんでした。

今でも少しだけ……ほんの少しだけ根に持っているのは、否定出来ません。


もふ。


 「……っ」


指先に触れた瞬間、思わず手を引っ込めて。
目の前のわんこさんは、不思議そうに私の目をじっと見つめています。


 「やった! 触れてた、触れてたよ文香ちゃんっ」

 「……」

恐る恐る、もう一度手を伸ばして。
今度はしっかりと、わんこさんの背を撫でる事が出来ました。
毛並みに逆らわぬよう、優しく、優しく。
夕焼けに揺れる小麦畑のような背は、掌に心地良い熱と感触を与えてくれました。

 「わん」

 「……ありがとう、ございます。わんこさん。聖來さん」

 「わんっ!」

 「どういたしまして!」

一度触れてしまえば、笑ってしまうほど呆気無いものでした。
むしろ、もっと触れていたくなるような、本当に好ましい心地で。

 「……わんこさんは、良い子ですね」

 「わふ……」

そっと身を寄せると、わんこさんは私の膝に頭を載せました。
頭を撫でるのが段々と楽しくなり、ついつい撫でる手が止まらなくなってしまいます。


かしゃり。


 「えっ」

 「あ、すまない。良い光景だったから、つい」

携帯電話を手にしたプロデューサーさんが、軽く頭を下げました。
手元の画面を横から覗き込んだ聖來さんが目を輝かせます。

 「わ、ホントだ。写真コンテストにでも出してみる?」

 「うーん……真剣に考えてもいいかもしれない……」

 「あの……まずは、私とわんこさんの、許可を」

 「ああ、それもそうだね。こんな写真なんだけど」

差し出された画面。


そこには私が――無邪気な子供のように笑う光景が、綺麗に収められていました。


……プロデューサーさんに、悪気は無いのです。いつだって、恐らく。


 ― = ― ≡ ― = ―


 「メイク? いいよー」


加蓮さんは、とても社交的な方です。
交友関係が広く、流行に敏感で、いかにも今どきの方、といった趣があります。
話し掛けやすい雰囲気に、私もまた引き寄せられていました。

 「ありがとうございます……まだ、不慣れなもので」

 「あれ? でも何回かライブ出てるよね、文香」

 「はい。ですが、いつも全てメイクの方に任せきりで……」

 「なーるほど。とりあえず衣装室行こっか。鏡台あるし」

鏡台とは、ライブ前に座ってじっとする場所。
そのような意識から、まずは切り替える必要があるのかもしれませんね。


 「とりあえず手持ちので……あ、まず一旦お化粧落とさないと」

 「あ、いえ……今日はしていませんので、大丈夫です」

 「……え”っ」


加蓮さんが顔をぐいと寄せてきます。
そのままぶつかりそうな勢いに、思わず目をつむってしまいました。

 「……ホントだ」

 「はい……あの、加蓮、さん……?」

 「……」

加蓮さんが黙ったまま、私の頬やおとがいをつつと撫でていきます。


幾ら疎い私とて、多少は化粧の心得も持ち併せています。
ですが、それは大学で講義を受ける際やアイドルの仕事がある時に限っていて。
家に居る間やレッスンの日はしませんし、ライブ本番などは先の通りです。

大人と言えば、化粧。
漠然に過ぎる考えとも思えますが、それほど的外れでもないとも思います。
我流の道に見切りを付け、師に教えを請わねばならない身分に私はなりつつあります。
その意味で、今回加蓮さんには一から十までをご教授願いたい所です。

所、なのですが……。

 「加蓮……さん?」

 「……マジ……? いや、ヤバいでしょこれ…………ここは……」

一通り私の顔を撫で回すと、加蓮さんは難しい顔をして再び黙り込みました。
私は、そんなにまずい顔をしていたのでしょうか……?


 「文香……いや、文香さん」

 「は、はい」

 「ゴメン、私一人じゃ力不足。ヘルプ呼ぶね」

 「はい……はい?」

そう言うと、加蓮さんがポケットから携帯電話を取り出します。
目にも留まらぬ指捌きで操作を終えると、すぐに幾度かの振動が続きました。


 「ちょっと加蓮ー。なに、緊急招集って……文香ちゃん?」

数分と経たずにやって来たのは制服姿の美嘉さんでした。
彼女もまた加蓮さんに負けないほど社交的な方で、メイクにも精通していらっしゃいます。

 「ケンカ……ってワケでもないみたいだけど」

 「とりあえずさ、文香さんの顔と髪触ってみて。これからメイクするんだけど」

 「何それ?」

 「ええと……どうぞ」

 「ええ……? えっと、じゃあ失礼して」

私の髪に指を通した瞬間、美嘉さんの動きが止まりました。

 「……え、うわスゴ……」

 「ヤバいでしょ」

 「ヤバい……」


……褒められている、のでしょうか。
ヤバい、という言葉に籠められた意味を、今一つ解釈しきれていない気もします。

 「奏呼ぶ?」

 「もう呼んだよ」

 「呼ばれて来たけど……どうしたの? 緊急って書いてあったけど」

続けて部屋へ入って来たのは奏さんでした。
高校生の身ながら、出演した化粧品のCMは好評を博していると聞いています。
さしずめ……三人寄ればモンローの知恵と言った所でしょうか。

 「文香さんの顔、改めてよーく見てみて」

 「どうしたの、急に」

 「文香さん、前髪上げるね」

 「あ、はい……」

十秒たっぷり私の顔を見つめると、奏さんが何か納得したように頷きました。


 「力を貸して頂戴。全力で素材を活かしましょう」

 「オッケー。任せて★」

 「そうこなくっちゃ」


三人がそれぞれ箱を取り出しました。
合わせれば本職さん顔負けの数が揃っているでしょう。

私は習う事を諦め、ただ流れへ身を任せる事に決めました。



 「完成っ★」

 「やりきったわね……」

 「すっごい楽しかった」


一応、覚えようと努力はしてみました。
ですが、残念ながらお三方の間を飛び交う用語は半分も理解出来ず。


ただ、鏡の中に居る、幾分も綺麗に見える私に驚くばかりでした。


 「……凄い、ですね……」

 「こっちの台詞よ、それ」

加蓮さんが髪を、美嘉さんが目元を、奏さんが頬と唇を。
これはお代を支払うべきではないかと思うほど、皆さんの目付きは真剣そのものでした。

 「グループに投げよーよ」

 「というか、これ担当さんに見せなきゃダメっしょ」

 「両方やりましょ。文香、いい?」

 「ええと……全て、お任せします……」


私の写真を撮った後、美嘉さんがやはり素早く操作をします。
しばらくすると私のポケットも震え、取り出すと事務所のグループ窓が開いていました。



 美嘉★
 【どうよこの文香ちゃん? 超イケてるっしょ!!!】

 未央ちゃんだよ
 【うわ綺麗! 僕と付き合ってください!】

 渋谷凛
 【ちょっと未央】

 カレン
 【私も協力したよー。肌すんごいの、もちすべ。】

 みく
 【ここまで来るとホントに魔法だにゃ】

 †††漆黒の翼†††
 【其の大魔術、我にも授けよ】

 みなみ
 【文香さん、すっごく綺麗だよ!】



どうやら概ね好評のようです。
いずれはこれを一人でもこなせるように熟達しなければなりませんが。
魔法を使う為には、修行を積む必要があるように。


 「……肝心の担当さんから来ないわね」

 「個別の方に送った、グループ見て、ってやつは既読付いてるよ」

 「訊いてみればいいんじゃない?」

 「そうしましょうか」



 奏
 【担当さん、お姫様が感想をご所望よ】



 「……え? あの、奏さん」

 「まぁまぁ、いいから文香ちゃん」

奏さんがウィンクをして、唇に指を立てます。
その仕草がとてもとても様になっていて、私は彼女も目標の一人にしようと決めました。



 P
 【綺麗です】


 「お」

プロデューサーさんの返答に、皆さんが口を丸くします。

 「意外に素直ね」

 「でも短過ぎ。感想としては0点でしょ」

 「じゃあこうして」



 カレン
 【他に何か無いの?】

 P
 【ええと、そうですね】

 P
 【文香さんは元よりとても綺麗ですので】

 P
 【どこがと言われると少々難しいのですが】



それまで軽快に流れていた皆さんの投稿が、ぴたりと止まりました。


 「……50点かな」

 「あら、私は満点を上げたい所だけど」

 「文香さんはどう?」

 「……ええと」

どう答えたものか考えあぐねた挙句。
私は拙い指捌きで、ゆっくりと文字を打ち込みました。



 鷺沢文香
 【ありがとうございます】

 鷺沢文香
 【とても嬉しいです】

 P
 【はい】

 P
 【すみません、業務に戻ります】



プロデューサーさんは……少し、物足りません。

大変な事態になってるけど続けるよ


 ― = ― ≡ ― = ―

きっと、図書館に似たものなのでしょう。
私という本棚があり、叔父さんという本棚もあり、プロデューサーさんという本棚があり。

名も知らぬ人や、あるいは知己が、その間を自由に漫ろ歩いて。
好きな本、興味のあった書、間違えて抜き出した一冊を楽しんで。

館内はやや昏く、けれど、果ても知らぬほど広く――


 「――文香ちゃん?」


背中からの声に意識を引き戻されました。
2001年の宇宙を漂っていた筈の視線は、いつの間にか歩みを止めて。
あぁ、いつからでしょう。
頁を飛び出した私が、見知らぬ世界を彷徨ってしまうようになったのは。

 「すみません、叔父さん……煩かったでしょうか」

 「いやいや、微かに聞こえたものだから驚いてね……吹けたんだね、口笛なんて」

 「まだ、高い音は出ませんが……友人に、教わりまして」

 「……へぇ……ちなみに、何と言う曲なのかな」

 「……Kawaii make MY day!、です」

 「それはまた……随分と文字通りに、可愛らしい」


シンデレラガールズプロダクションでは、他の皆さんの曲を自由に聴く事が出来ます。
以前は音楽を聴くなどと言った習慣の無かった私も、近頃は、少し。
プロデューサーさんから貰ったお古の音楽プレイヤーに入れて、持ち歩くようになりました。

 「文香ちゃんの趣味からは外れていそうだけど……お気に入りなのかい」

 「はい……歌詞が、素晴らしく」


 鏡の中の自分が「変わりたい!」
 そう言ってるから

 あぁ何だか世界が変わったな
 ほんの5cmだけ空中散歩


一歩を踏み出した女の子が、失敗を繰り返しながらも進んでいく物語。
私にとって眩し過ぎる歌は、知らず口ずさんでしまう魅力を持っていました。

 「変わったね、文香ちゃん」

 「……そう、でしょうか」

 「あぁ。でも、決して悪いことじゃない」

スタンドの橙色に照らされながら、叔父さんが静かに笑いました。


 「コーヒー、飲むかい?」


 ― = ― ≡ ― = ―

デジャ・ヴュ。

私はこの光景を見た覚えがありました。
会議室、腕を組むプロデューサーさん、CDプレイヤー、伏せられた紙。

唯一違うのは彼の表情。
あの時とは違った、静かで、何かを決めたような空気を纏って。
これからきっと、彼はこう言い出すのです。

 『文香さん」


 「……はい」

 「まずは、聴いてほしい」

そう言うと、プロデューサーさんは机上のCDプレイヤーを操作しました。
しばらく無音の状態が続いてから、やがて旋律が流れ始めます。
耳を澄ませようとしたところで手渡されたのは、一枚の紙。


銀河図書館――鷺沢文香。


 「俺も、たいがい負けず嫌いでね」

 「……」

 「文香さんに、どうしても鷺沢文香の曲を贈りたかった」


会議室を満たすメロディに包まれて、私は詩を辿ります。
それはやっぱり、一人の女の子の物語。
大きな大きな――とある図書館のお話。

 「プロデューサーさん」

彼の瞳に込められた意味を理解して。
私は久しぶりに……彼よりも先に、頷きました。


 「歌わせてください」

 「ありがとう、文香さん」


答えるように頷くと、プロデューサーさんはクリップで留められた資料を取り出します。

 「冒険をしてみようと思う」

手渡された資料に視線を落とします。
いわゆる企画書、と呼ばれるそれでしょう。
幾つかの図案と共に、お披露目ライブの概要が記されていました。

 「これは……確か、杏さんが以前に」

 「うん。彼女の場合は布団だったけど」

 「……上手く、歌えるでしょうか」

 「そこを何とかするのが」

プロデューサーさんが二の腕に力こぶを作ります。
びりっ、という音と共にジャケットの脇が裂けて、私達は顔を見合わせて。


図書館だったら叱られてしまいそうなくらい、大笑いしてしまいました。


 ― = ― ≡ ― = ―


 「それではー、次へと縁を繋ぎましょー」

 「文香さんの新曲、私も楽しみです」


定例ライブよりも大きな会場で行われる、事務所の周年ライブ。
山紫水明のお二人が頭を下げると、拍手と共にサイリウムの海が波立ちました。
手を繋ぎながら舞台袖へと戻って来た肇さん達と視線を交わします。

 「お願いします」

 「お任せあれー」

 「これでも力持ちですから」

袖に用意してあった椅子を芳乃さんが、小さな机を肇さんが抱えて。

 「うんとこしょー、どっこいしょー」

小芝居を交わしながらステージの真ん中へ運んで行きます。
設置し終えた後、お二人が揃って力こぶを作ると、会場からは大きな笑いがあふれました。

 「文香さん」


隣に居たプロデューサーさんが口を開きました。
私は本を抱えたまま彼を見上げます。

そしてまた、彼より先に頷いてやりました。

 「書を持てよ、町へ出よう」

 「……敵わないね、文香さんには」

 「鍛えられましたから」

私も力こぶを作りました。
きっと、作れていたと思います。


 「万事済みましてー」

 「ここで、聴かせて頂きますね」

芳乃さん達が再び袖へ戻って来ると同時、会場の照明が落とされました。
さざめく声を待たずに、スポットライトがステージの真ん中を照らし出します。
やがて会場は静謐に満たされて、私は胸元の本を抱え直しました。

 「最後に、そのまま聞いてほしい」

背後からの声に、私は頷きます。


 「これは、君の曲だよ」


銀河図書館。
そう題された一冊を胸に、私は靴を鳴らして歩き始めました。


鮮烈な白に照らされた机は埃一つ被っていません。
静かに引いた椅子の音は、それでも会場に響き渡ってしまいます。


ゆったりと腰を下ろして。
抱えていた本を置いて。
目の前に広がる光景を、両の瞳へ焼き付けます。
そこは昏く、密やかに、さざめく場所。


そっと頁を開くと……メロディが、流れ出しました。


 「三行と、四文字の――」


小さな小さな古書店で、一人の女の子が本を読んでいました。
そこはとても静かな場所。
誰も知らない世界の片隅で、女の子は本を読んでいました。


けれど、ある日小さな秋風が吹き込んで、
女の子は知らない世界へと迷い込んでしまいました。


そこへ一人の分厚い人がやって来て、本を手渡してこう言いました。


 これは、君の物語だよ。


本を読み始めると、たくさんの、たくさんの人が聴いてくれました。
きっと……きっと、みんな物語に夢中でした。




 「――めでたし、めでたし」


そしてみんなは笑顔になって、ライブ会場にサイリウムが煌めき出すのでした。


 ― = ― ≡ ― = ―

今回、私の意識を六番目の星から引き戻してくれたのは、鼻孔をくすぐる温かな香りでした。

 「コーンポタージュでもいかがかな、文香ちゃん」

 「……いただきます」

お菓子のオマケに付いてきたらしい赤いマグカップを満たす、優しい黄色。
物言えば唇も寒くなるこの季節には、大変ありがたい温もりです。

 「随分と上手くなったじゃないか、口笛も」

 「聞こえていましたか……」

 「今宵のナンバァは、何を?」

 「……アーニャさんの、たくさん!、を」

 「ほう」

 「いつもクールな彼女が爛漫に唄う……彼女らしさを引き出した曲です」

温かなポタージュをもう一口。
ほぅとついた吐息が心なしか黄色付いていたのは、スタンドの灯りのせいでしょうか。
秋風が窓硝子をかたかたと鳴らしてゆきました。


 「今度、アーニャさんと……長野まで行ってきます」

 「実家にかい」

 「はい。北海道の他にも、美しい星空を見て頂きたく」

 「すると、膝の上のそれは」

 「……彼女はまだ、読んだことがないと……言っていました」

膝掛けに埋もれるようにして閉じられた一冊。
サン=テグジュペリ著、星の王子さま。
先ほどまで口笛を吹きながら読んでいた本の、その背表紙を、指でついと撫でました。

 「ぜひ、星空の下で読んでほしいと思いまして」

 「……」

 「やはり寒いでしょうから、毛布と……あぁ、このポタージュも……叔父さん?」

 「やっぱり、変わったよ」

納得するように口の端を曲げて、叔父さんもポタージュをぐいと。
銀縁の眼鏡が湯気に曇って、すぐに晴れてゆきます。
手に持ったマグカップを揺らしながら笑いました。

 「これだってそうさ。読書中の文香ちゃんは、コーヒーだって飲もうとしなかった」

 「それは」

 「ささいな気まぐれ、だろうね。ただ……物事は往々にして、些事から色を変えていく」


最後の一口で空にしたカップをカウンターへ置き、叔父さんは指先を揉みます。

 「埃でも積もってしまいそうなくらいじっと佇んでいた君が、綺麗に着飾るようになって」

 「……」

 「おっと……今のはハラスメントの範疇かな。失礼」

 「いえ……ありがとう、ございます」

 「はは。お礼を伝える場面じゃあないよ、今のは」

何だか据わりが悪くなって、もぞもぞとお尻の位置を直します。
揺れた髪から、加連さんオススメのトリートメントが香りました。

 「さて……どうだろう。失礼ついでに、ここらで一つ、謎掛けといこうか」

 「随分と……藪から棒、ですね」

 「今の文香ちゃんなら解けるかと思ってね……よっこらしょ」

叔父さんが立ち上がり、灯りも点けずに何かを探し始めました。
暗い店内のそこかしこから一冊ずつ本を抜き出してはもう片方の腕へと載せてゆき。
ものの一分足らずで集めて来た十数冊の本が、どさりとカウンターに載せられます。
洋の東西、古今を問わず、版型もまちまちでした。


 「人は、変わる。進む。成長する。異論はあるかな」

 「…………いえ」

 「さて、ここで質問。いちばん人を変える『何か』とは、何だろうか」

こと本の話題になると、どちらかと言えば寡黙な叔父は、嬉々としてはしゃぎ出します。
それを見るにつけ、やはり私の血族なのだと思い知らされるようでもありました。

ともあれ、せっかく叔父さんが投げ掛けてくれた問いです。
及第点を取って見せねば学が廃るというものでしょう。
叔父が積み上げた参考書と、私の頭に仕舞い込んだ蔵書とを、じっくりと見比べました。


 「……激しい、復讐心」

 「その心は?」

 「エンタテイメントの王道は……仇敵を打倒すること。亡郷の相手であることも多く」

 「文香ちゃんらしい回答だね。間違いなく良は与えられるだろう」

私の提出した答案を、叔父さんは満足気な笑みと共に受け取ってくれました。

 「僕の回答を聞いてもらってもいいかな」

 「ええ……是非」

 「もう一つ、忘れちゃいけない王道があるだろう」


笑みに何かが混じりました。
ランプの灯りだけでは、探り当てる事も出来ず。

積み上げた書の一番上。
やや大仰にも思える装丁の一冊を、叔父さんが丁寧に拾い上げて。
題がよく見えるように、私へ掲げてみせました。


 「ボーイ・ミーツ・ガール。あるいは、その逆さ」


ロミオとジュリエット。
言わずと知れた、大作家の代表作を。


手渡された回答に目を通し、確かめ、咀嚼し。
それから私は頷きました。

 「……成程。確かに、恋を……恋愛を扱った作品は、枚挙に暇がありません」

 「優を貰っても?」

 「……そもそも、私は……書の探究者では、ありませんが……」

 「はは。その通り。なに、僕が言いたいのはたったの一つだよ」

混ざっていた何かがすぅと抜けて。
叔父は再び、橙色の笑顔を浮かべました。


 「――変わったね、文香ちゃん」


何度も繰り返されたその一言に、私の頭が思索を巡らせようとします。
あぁ、あぁ、いけません。
それは、とても……いけません。


私が変わった訳では、ないのです。
駄目です。それ以上は……駄目、です。


埃に埋もれるのも厭わずに、いっそ書に埋没できればとさえ思っていた私を。
鷺沢文香の頁を、次へと進めてくれたのは。


やめて……やめてください。ばか。


私の物語を、目の覚めるほどに彩ってくれたのは――




かちり。



 「あっ」


ただ一つの頼りだったランプを消すと、世界の片隅は闇に包まれたのでした。


白も朱も区別が付かない程の、真っ暗闇でした。


 ― = ― ≡ ― = ―



本を渡した分厚い人が、女の子の前にやって来て、言いました。



 ありがとう。ずっとずっと、これからも、素敵な物語を聞かせてほしい。



女の子はどうしてか、顔を真っ赤にしながら頷くのでした。


おしまい。
鷺沢さんは一拍遅れがち可愛い


http://www.youtube.com/watch?v=AEmfBH2qj70
最初に言い忘れてたけど銀河図書館をフルで聴いてほしい
とてもとても良い曲です

あと冬コミ遊びに来てくれてありがとね


ちなみに微課金なので15時にトイレで悲鳴を上げそうになりました
誰か助けてくれ

おっつおっつ、まだ無料10連期間は終わってないぜ!

乙!
楓さんはひけましたか…?(小声)

いい雰囲気のssだった
乙乙

2019読み初めにできましたありがとう
楓さん引けますように

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