三船美優「純情な想いに酔わせていただけませんか……?」 (57)


これはモバマスssです

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 初めての出会いは、とある歩道橋だった。

 失敗続きのスカウトに嫌気がさし、一人寂しくビールを煽った帰り道。
 次に失敗したら、本当に俺は向いてなかったんだと諦めようなんて思っていて。
 もういっそのこと空から美人が降ってきたり何処かに落ちてたりしないかな、なんてアホな事を考え始めていた時。
 歩道橋を登り、寒い夜道に恨みを飛ばしていたところで……

「……はぁ」

 俺は、彼女と出会った。

「……大丈夫ですか?飲み過ぎですか?」

「……えっ?あ、いえ……」

 蹲った彼女は、俺の声に反応して此方を向く。
 何となく声を掛けてみたが、とんでもない美人だった。
 落ちてるもんだな、美人なんて失礼な事を考えてしまう。
 それくらいタイミングが良くて、なんだか運命的な出会いだな、なんて柄にもない事を考えてしまって。

「買ったばかりのヒールが折れてしまって……散々です。本当に……散々で……」
 
 明るい栗色の長い髪を揺らし、彼女は首を振った。

「慣れない靴を履いて、背伸びしたくらいでは……人は、変われないんですね。靴を変えた事も、誰にも気付いて貰えなくて……」

 わかるー、と軽く返せそうな雰囲気ではなかった。
 思ったよりも良く話す女性なのかもしれない。

「……そんな事、分かってるくらい大人だったつもりなのに……」

「……諦めを学ぶ事が大人になるって事ではないと思いますよ」

 ……?
 俺は何を言っているんだろう。



 彼女は、変わりたかったのだろうか。
 誰かに、気付いて貰いたかったのだろうか。
 大人に、なりたかったのだろうか。
 子供に、憧れているのだろうか。

「……すみません、もう大丈夫ですから……これ以上、構わないで下さい」

 そういうわけにもいかないだろう。
 見捨てるには気分が悪い。
 それに、せっかく出会ったのだ。
 少しくらいこっちの話をしたってバチは当たらないだろう。

「お名前、聞いても大丈夫ですか?」

「あ……ええと、三船、美優です……」

 三船美優さん、か。
 さて……若干酔いは残ってるけど、きちんと届くかどうか。



「三船さん。アイドルに興味はありませんか?」

「……え?アイドルって、あの……若い女の子が、歌って踊る……?」

「はい。俺、とある事務所でプロデューサーの様なものをやってまして。此方が名刺になります」

 すっと、彼女に名刺を渡す。
 えっ?という表情をされたと言うことは、彼女もうちのプロダクションは知っていたのかもしれない。

「ありがたいですけど……私には、向いてないと思います。もう20代の真ん中ですし、ただのOLにそんな事……」

「そんなことはありません!」

 つい、大声をあげてしまった。

「貴女は変化を求めていた、慣れない事をしようとしていた、誰かに気付いて貰いたかった、背伸びをしようとした……その全てを叶えられる場所なんです!遅いも早いもありません!」

 かなり熱が入ってしまった。

 なるほど、自分で思っている以上に俺はこの仕事に誇りを持っていたようだ。
 そして、目の前で諦めようとしている女性を諦める事が出来なかったらしい。



「もういっそ、そういう運命なんだと思って……アイドル、やってみませんか?」

 こんな小っ恥ずかしい事を言えたのは、確実にお酒の産物だろう。
 
 しばらくの沈黙。
 流石にクサすぎただろうか。

「……ふふっ、変わった人ですね」

「かもしれません。どうせなら、貴女も変わってみませんか?」

 手を差し伸べる。
 彼女はそれを、恐る恐るだが力強く握ってくれて。

「……信頼……しても、いいんですか?」

「貴女が放そうとしない限り、俺は絶対にこの手を放しませんから」

 ちょっとお酒の力を使いながらも。
 俺は最高の原石をスカウトすることに成功した。





 それから、色々な事があった。

 レッスンをして、オーディションを受け、小さなステージに立ったり、ドラマのエキストラとして出演したり。
 時にはかなりしんどい状況もあったと思うが、それでも二人で支えあって進んできた。
 最初はずっと自信なさそうにしていた彼女も、少しずつだか、笑顔で仕事に臨めるようになった。
 最初は人付き合いが苦手だった彼女も、今では自分から人に話しかけてゆくようになった。
 
 最近はあまりマイナスな事を言わなくなった。
 それはきっと、彼女の心が強くなったからだろう。
 それはきっと、彼女が自分に自信を持ち始めたからだろう。
 それが、一緒に進んできたプロデューサーとして堪らなく嬉しかった。

「……私が変われたのは。私が、アイドルに変われたのは……プロデューサーさん。貴方のおかげです」

 そう言う彼女の目は輝いていた。
 笑顔で『変われた』と言う彼女の言葉は力強い。
 初めて歩道橋で出会ったときの諦めなんて、どこにもなくて。
 俺もまた、彼女に感謝した。

「……あの日、貴方が言った……運命って言葉。私は、信じていますから」

 そう言えば確かに、そんな小っ恥ずかしい言葉を言った気がする。
 彼女も、信じてくれていたのか。

 ライブに出演し、ドラマでメインを張り、CDもリリースし。
 彼女はどんどんと売れていった。
 テレビをつければ目にしない日はないくらいに。
 1年が経った頃には、うちの事務所の稼ぎ頭レベルになっていて。

 そして、久しぶりに二人でお酒を飲んだ翌日。

 そこから、このお話は始まる。






「うーん……」

 飲み過ぎた。
 久しぶりに三船さんと飲みながら話しているうちに、かなりペースアップしてしまったらしい。
 どうやって帰ってきたのか覚えてないが、人の帰巣本能のは凄いものだ。
 なんやかんやタクシーでも使ったのだろうか。

 そう言えば、三船さんもちゃんと帰れたのかな。
 大丈夫だとは思うが、一応連絡を入れておこう。
 今日はお互い休みだし、寝てるなら寝てるでそれで良い。
 枕元のスマホを手探りで拾い、三船さんの番号に電話を掛けた。

 ぷるるるる、ぷるるるる

 何度かのコール音。
 それと同時に、ぶーん、ぶーんと何かが振動する音。
 俺の携帯ではない。
 俺の頭の上から、それは聞こえてきている。

 なんだろう。
 枕元の震源を探る。
 そしてようやく姿を現したそれは、スマートフォンの形状をしていた。
 いやもろスマートフォンだった。



「……?」

 俺はスマートフォンを二台契約していただろうか?
 いや、今電話を掛けた一台しか持っていなかった筈だ。
 では、この未だに振動を続けるスマホはなんだ?
 なんか画面に『運命の人』って表示されていて、その下に俺の電話番号が……

「……え?俺の電話番号?」

 どう言う事だろう。
 この謎のスマートフォンは俺の電話から着信を受けていて。
 俺は、三船さんに電話を掛けていて。
 つまり俺は、間違えて三船さんのスマホも持って帰ってきてしまったのだろうか?

「んんっ……あ……おはよう、ございます」

「おはようございます。俺間違えて三船さんのスマホも持って帰って来ちゃったみたいです」

「いえ……大丈夫です。私が持って来たものですから……」



 良かった、人のスマホ勝手に持って帰る男にならずに済んで。
 泥棒は嘘つきの始まりになってしまうから。
 さて、そろそろ起きて朝食でも食べようか。
 面倒だしインスタント味噌汁でいいだろう。
 
「三船さんも何か食べます?」

「あ……でしたら、私が何か作ります」

「おっ、ありがとうございます」

 三船さんみたいな美人に朝食を作ってもらえるなんて、俺はなんて幸せな男なのだろう。
 三船さんみたいな綺麗な女性と朝を過ごせるなんて、俺はなんて贅沢な男なのだろう。
 三船さんみたいな素敵な女性が家にいるだなんて、俺はなんて……ん?




 待て待て待て待て、何かおかしいだろう。

「……三船さん?」

「もう、プロデューサーさん……美優、って呼んで下さい」

 背後から誰かにギュッと抱きつかれる感触。
 柔らかい塊が背中にあたり、一瞬ここは天国なんじゃないかと勘違いしてしまう。
 
 いや、俺の家だ。
 だから、おかしい。

「三船さんさん、一つお尋ねしたい事が……」

「美優って……呼んでくれないんですね……」

「……美優さん、一ついいですか?」

 俺の美優さんと言う言葉に反応して、背中にグイッと頭が押し付けられた。
 あと抱きつく力も強くなっている。
 かわいいなぁ、まったく。
 いや、そうではなくて。

「ぎゅ、ぎゅー……っ!」

 ……もう、可愛いからいいや。

「朝食の準備しましょうか」

「あっ、その……もう少しだけ、このままで……ダメでしょうか……?」

 NOと言える勇気は持ち合わせていなかった。



あくあく

あくあくあく

期待




 二人で食卓を囲む。
 いや囲むと言っても一辺に二人で並んでいるのだが。
 誰かと一緒に朝食を食べられるのが、こんなに楽しい事だと思わなかった。
 少し距離が近過ぎる気もするが、三船さんの様な綺麗な女性ならむしろ此方がバッチウェルカム。

「……で、あのですね」

「あ……味付け、薄かったでしょうか……?でも、お酒の飲んだ翌日はこれくらいの方がいいと思ったので……」

「いや美味しいですよ、凄く。隣に美優さんがいるからですかね」

「そんな……ふふっ、ありがとうございます」

 とても素敵な笑顔。
 もう流れに流されてしまおうかと思わなくもないが、聞いておかなければならない事は山ほどある。

「あの……美優さん。なんで俺の家に居るんですか?」

「え……?その、夫婦が夫の家に居ることがそんなに不自然でしょうか?」

「いや全く不自然じゃないかな、うん。夫婦なら当然ですよね」




 確かに当然だ。
 結婚を迎えて夫婦になった二人であれば、同じ屋根の下一緒に食卓を囲むなんて至極当然のことだろう。
 ただ、なんかこう……なんだろう?
 前提条件が全体的におかしい気もする。

「あの、えっとですね……俺たちって夫婦でしたっけ?」

「……うっ……うぅ……っ……!」

「すみませんなんでもないです!泣かないで下さい俺が変な事言ってましたね!ほんとごめんなさい!!」

 果たして俺は変な事を言っていただろうか。
 自分に疑問を投げつつも三船さんをなだめる。

「昨日、貴方が言ってくれたんです」

 何をだろう。

 そう思っていると、三船さんがスマホをいじりだした。
 SNSで変な事を呟かれない事を祈りつつ、その動向を見守る。
 しばらくして、そのスマホから何やら音声が流れ出した。
 箸を置いて耳をすませる。



『……プロデューサーさん……私、貴方の言葉を信じて良かったです』

『すー……んん……』

『貴女が放そうとしない限り、俺は絶対この手を放しませんから。運命だと思って、と……とても、嬉しかったの……』

『……んんんー……』

『それで、その……つまり……その言葉って……ぷ、プロポーズとして受け取っても……』

『……うん……』

『……っ!ほ、本当ですよね?!私、貴方のつ、つ、妻に……』

『ぅん……んー……』

『……不束者ですが、これからもよろしくお願いします。旦那様……?ぎゅ、ぎゅー……』



「……なるほど」

「私、とても嬉しくて……ふふっ、貴方と結ばれたのは運命だったんだ、って……ふふふっ」

 華やかな、初めてみたくらいの素敵な笑顔を見せる三船さん。
 きっととても嬉しかったのだろう。
 俺の言った言葉を覚えていてくれて、とても嬉しい。
 俺の言った言葉を信じていてくれて、とても有難い。

 ……やべぇ。

 俺寝言だし。
 そんな初対面の人に酔っ払ってプロポーズしたつもりはないし。
 と言うか三船さん、何故録音したのだろう。
 おかしい、こういう女性だと思っていなかった。

「……美優さん、そのー……」

「あっ、そうですよね!すみません、せっかく夫婦水入らずの食事なんですから……はい、あーん」

「あーん……うん、良いですね、こういうの」

 照れた表情の三船さんもまた可愛らしい。
 ファンが見たら卒倒モノだろう。





 ……そう言えば、そもそも何故三船さんは俺の家に居たんだ?

「昨日俺、どうやって帰って来たか分かります?」

「プロデューサーさん、とても泥酔させ……してしまったので、私が付き添いを……」

 とてもありがたい事だが、なんだか一瞬不安なワードになりかけていた気がする。
 気のせいだと信じたい。
 三船さんは純情で、変な企みなんてしない人だと信じたい。
 あ、自信なくなってきた。

 さてさて、うーん。
 一応誤解はきちんと解いておくべきだろう。
 寝言だという事と、運命や手を離さないにそんな意味はなかったという事。
 寝てる間のプロポーズなんて、俺はしたくない。



「三船さん」

「そんな、三船だなんて……でも、分かります。これからは、三船って呼べなくなってしまいますから……ですよね?」

「そ、そうではなくてですね……」

「あ、そうですよね。芸能活動をしているわけですから、しばらくはこのまま苗字は三船で……」

「えっと、大変言いづらいんですが……」

「私、勇気を出して貴方に尋ねて良かったです……一歩踏み出せたおかげで、貴方と結ばれる事が出来たんですから」

「……その事なんですが……」

「もし断られたら、私一人の思い違いだったらどうしよう……そうやってずっと悩んでいた夜が嘘のようで……ふふっ」

 思い違いです。
 勘違いです。
 俺にそんな意志は……そもそも意識がありませんでしたから。
 そう、きちんと伝えないと。





「お仕事も、人間関係も、自分の未来すらも全部諦めようとしてたのに……貴方に出会えて、貴方と結ばれて。今、私はとても幸せです」

「……これからもよろしくお願いします、美優さん」

「はいっ、こちらこそ……!」

 幸せを咲かせる三船さん。
 俺はそれを枯らせる事は出来なかった。

 こうして、三船さんとの婚前同棲生活が始まった。

あかんやろ・・・
言わなあかんやろ・・・

へーきへーき
どうせ真実になる




「あの……最近、とても寒くなってきましたね」

「ですねー、手袋とか着けてくれば良かったです」

 11月頭だと言うのに、もう真冬なんじゃないかと疑うくらい街は寒かった。

 隣に並んで歩いているのは三船さん。
 彼女の提案で、お昼は外で食べる事になっていた。
 ついでに、それまでとその後はデートをする事にも。
 眼鏡と帽子で変装はバッチリだが、三船さんも少し寒そうだ。

「私も手が冷えちゃって……あの、手袋の代わりになるか分かりませんが……」

「あ、カイロ一つだけありますよ。是非使って下さい」

「……ありがとうございます」

 三船さんは渡したカイロをそのまま鞄にしまった。
 いや使って下さいよ、なんて言える表情ではなかった。

「その……よければ、一緒に温めあいませんか?」

 そう言って、此方へ手を伸ばしてくる。
 なるほど、確かに文字通りその手があったか。

「……お嫌でしたか……?」

 そんな三船さんの表情が、堪らなく愛おしい。
 恥じらいながらも目だけは逸らさず、しっかりと俺に想いを伝えてくる。

「あー、こちらこそ」

 ぎゅっ、と。
 差し出された手を握る。
 指と指を絡ませ、ガッチリ離れないように。
 俺の手が冷た過ぎて申し訳ないが、直ぐにあったまるだろう。
 
「何処か行きたい場所はありますか?」

「貴方の行きたい場所でしたら、何処へでも……」

 それなら、と。

 俺は手を離さないように強く握りしめ、三船さんを自由に振り回す事にした。







 っしゃーせー

「ふー、あったかいですね」

「……ですね。はい、店内はあったかいと思います」

 三船さんの顔が少し曇っていた。
 あれ、間違いだっただろうか。
 行きたい場所なら何処でも良いと言っていた筈なのに。
 何食べたい?と尋ねて何でもいいと返ってきたから勝手に決めたら文句言われたアレを感じる。

 ダメだっただろうか、レンタルビデオショップ。
 ちょうど返さなければならないものがあったのだが。
 ここなら行きつけだし、割と何でも案内出来るつもりだったけれど。

「……あ、そうです!夜一緒に見る映画を選びたいなって思ってて!」

「あ……そうですか、成る程……ふふっ」

 よし、機嫌がもち直った様だ。
 セーフ、咄嗟の機転の効く男でありたい。

「ついでに借りてたDVD返してきますね。少しだけ待ってて下さい」

「はい」

 三船さんに少し離れててもらい、返却の手続きをしようとする。
 レジにいる店員は顔見知りの相手だ。
 何も言わずさっさと済ませてくれることを願おう。
 返却でーす、と鞄から借りていたDVDを取り出した。

「お、お兄さんこんにちは。新作入ってますよ」

「あぁいや、今日は普通の映画借りに来てるんで」

 まぁ俺が借りていたのは所謂Rで18なアダルティな感じのDVDで。
 これを三船さんに見られてしまった場合、俺の信頼と社会的なあれが地に叩きつけられてしまう。
 店員に目で「連れがいるんで何も言わずさっさと済ませてくれ」と伝える。
 よし、乗り越えた。



 ……わざわざ今日危険を犯してまで返却に踏み切らなくても良かった気がする。
 延長料金を乗せた天秤なんて、一瞬で宙を舞う。

「さて、それじゃ何か一本借りて行きましょうか」

「はい……貴方は普段、どんなDVDを借りてるんですか?」

 アダルトビデオです!と即答する程俺もバカじゃない。
 再び手を繋いで、店内を歩く。

「えっと、まぁ有名な作品には目を通す様にしてますね。俺の名は、とかシンゴ・ジーラとか」

 他愛の無い会話をしながら、新作のコーナーを二人で眺める。
 普段はアダルトコーナーにしか寄らないが、こう見ると気になる映画が盛りだくさんだ。
 タイトルで心が惹かれる作品、パッケージで気になる作品と様々。
 折角だし一番人気のやつでも借りて行こうか。

「よし、これにしますか」

「はい……ところで」

 ところで、何だろう。
 三船さんも気になっている映画があったのだろうか。



「……アダルトコーナーは、寄らなくて大丈夫なんですか……?」

 店内に氷河期が訪れる。
 背筋が凍る、と言う現象は本当に起きるらしい。
 身体どころか口も頭も動かず、俺は完全に静止してしまった。

「……い、いやぁだなぁ!え?あ、アダルトコーナー?ははっ、そんなコーナーこの店にあるんですか?知らなかったなぁ!」

 三船さんが何を言っているのか分からない。
 三船さんがそんな事を言う筈がない。
 あれか?アニマルコーナーの間違えてしまったのだろうか。
 だとしたら仕方ない、うっかりさんだなぁ三船さんは。

「……激似、3◯6プロアイドル新妻御奉仕特集24時」

 俺の手を握る三船さんの手が、面白いくらい力強い。
 あと俺の手が多分汗塗れになってるだろう。
 三船さんに申し訳ないし一度手を離そうとしたが、ダメだった。
 彼女の細い身体と腕のどこからこんな力が出ているのだろう。

「あぁぁあ!なんか聞いた事あるタイトルだなぁ!そうだ、前回借りた時中身が入れ替わってて気付かず借りちゃったんです!」

「……私にソックリな女性との……その、最後のシーンまで再生していて、ですか……?」

「本当に申し訳ございません」

 ここが自宅だったら土下座を極めていた。
 いやその、気になっちゃうじゃないですか。
 激似とか言われてたら。
 はい、ごめんなさい。

「……はぁ……」

 三船さんに呆れられてしまった。
 ジト目が心に刺さって激痛が走る。



「私がいるのに、そんな何処の誰が出てるか分からない偽物の作品を借りるなんて……産地偽装です……」

「言葉もございません……プロデューサーとして、信頼を失うような行動をしてしまった事は自覚してます……」

「いえ、プロデューサーである前に一人の男性ですから……そうではなくて、私がいるのに……」

「え、頼めば24時間スッポコ新妻ダンシング肉じゃがプロレスしてくれましたか?」

「御奉仕が何なのか、私にはわかりません……!」

 とても哀しそうな顔をさせてしまった。
 俺だってそんなプロレスあるのか突っ込んでしまったが、やはり三船さんも同じ反応らしい。
 ……いや、今はそんな事どうでも良い。
 誠心誠意謝らないと。

「二度と、こう言うものは借りないと誓います」

「……本棚の裏の、出版日順に並んだ雑誌も……」

「はい、捨てます」

「パソコンのフォルダ『事務用写真集4545枚』の画像や動画も……」

「はい、削除します」

 何で知ってるのか気になるが、今は言い返せそうにない。
 捨てよう、消そう、三船さんを悲しませてしまう。

「……今回に限り、多目にみます……」

「ありがとうございます。さ、お昼に行きませんか?」

 ……よし、なんとか持ち直せた様だ。
 あとはこのまま映画を借りて、楽しく食事しているうちに雰囲気も完治するだろう。

「これ、1週間でお願いします」

「はーい。以上でよろしいでしょうか?」

 よろしいから、さっさと済ませてくれ。
 お前、俺が借りてくと思って三船さん似の女性がパッケージに写ってる新作をレジに用意してるんじゃないよほんと。
 これじゃあ毎度毎度俺が三船さん似のアダルティなビデオを借りてるみたいじゃないか。
 三船さんに少し後ろで待ってて貰って良かった。



「あっしたー」

 何事もなく、平穏無味なまま会計は終わった。
 デートでレンタルビデオショップは、多分間違いだったと思う。

「それじゃ、行きましょうか」

「はい。その……」

 その?

「……私、プロレスを学んだ方が良いですか……?」

 全力で身体を地に這わせる。
 冬の路上は、とても冷たかった。



「お昼、何か食べたいものはありますか?」

「貴方の食べたいもので……いえ、イタリアンなんかがあれば」

 先ほどの件で何かを学んだ三船さんが、自分から意見を出してきた。
 以前であれば、積極的に意見を出すなんてなかった事だろう。
 彼女の成長が、プロデューサーとしてとても喜ばしい。
 こんな状況じゃなければどれだけ嬉しかった事か。

「それじゃ、近くに気になるイタリアンの店があるんで。そこで大丈夫ですか?」

「はい……期待、してますから」

 今度こそ、彼女の期待に応えてみせよう。



 からんからん

 ドアに付けられたベルが鳴り、店内の暖気が流れてくる。
 店員に二人でと伝え案内された席は、一番奥の周りから見づらい席だった。
 店内に俺たち以外の客は2.3組しかいない。
 これなら三船さんが眼鏡と帽子を外しても大丈夫そうだ。

「……素敵なお店ですね」

「前から気になってたんですけど、一人だと入る機会がなかなかなくて」

 そう言って、ナチュラルに俺側の席に座る三船さん。
 外だと流石に恥ずかしさもあるが、三船さんが喜んでくれるならそれで良いだろう。
 こんな積極的に以下略。

「さて、美優さんは何にしますか?」

「……その……キスが、したいです……」

 キスはイタリアンではない。

「メニューに載ってるものから選びましょう」

「……ちゅ、チューなら良いですか……?」

 チューもメニューに載ってない。

「俺はカルボナーラにします。美優さんは?」

「接吻なら……」

 イタリアンなのだから和風な言い回しは通用しない。

「……少し、意地悪じゃないですか……?」

「そう言うのは、誰もいない雰囲気のあるとこ……メニュー、選んで下さい」

 口がハイドロプレーニング現象を起こしてしまった。
 少し上機嫌になった三船さんを横に、めちゃくちゃ恥ずかしくて顔が赤くなる。



「それでは、私はペスカトーレで」

「飲み物はどうします?」

「あ、お水で大丈夫です」

 注文を済ませ、二人して向き合う。
 向き合うなら反対側の席に座れば良いのでは?と思わなくもない。
 俺としてはかなり美味しい状況だが、店員さんが一瞬凄い表情をしていた。
 チップという制度があったらかなり多目に握らせた事だろう。

「……貴方、今店員さんずっと見てませんでしたか……?」

「注文だろうが、人と話すときはちゃんと目を見て話すようにしてるんで」

「初対面の方に……素敵な心がけだとは思います」

「確か初めて会ったあの夜も、俺ちゃんと美優さんの目を見てスカウトしてたと思いますよ」

「……ふふっ、そうでしたね」

 思い出して、なんだか少し恥ずかしくなる。
 俺はほんと、初対面の女性相手にどれだけ熱く語ってたんだ。
 三船さんも思い出して、少し顔を赤く染めた。
 彼女もちゃんと、覚えていてくれてる。

「……あんな、熱烈なプロポーズの言葉を……」

 違う、プロポーズではない。
 会って数分の相手にプロポーズする男ってどうなのだろう。

 ぷるるるる、ぷるるるる

「あ、すみません。ちひろさんから連絡来ちゃったんで」

「…………」

「……あの、少し動いてくれると嬉しいんですが」

 三船さんがズレてくれないと、俺が外に出れない。
 中で出るのはマナー的によろしくないだろう。

「……ちひろさん、ですか……仕方ありません」

 ようやく退いてくれた頃には既にコールは終わっていた。
 取り敢えずいったん外に出て、ちひろさんに掛け返す。

 数コールして、通話が繋がる。

「もしもし、どうしたんですか?」

『……心当たりはありませんか?』

 ちひろさんからの連絡。
 心当たりしかない。

『今朝、美優さんから画像が送られて来たんです……とある男性の寝顔でした』

「えっと、そのですね……弁解させて下さい」

 俺は包み隠さず、今の状況を説明した。




『なるほど……バカなんじゃないですか?』

 辛辣だが何も間違っていない。

『立場とかそういう問題は、今回はもうどうでも良いでしょう。問題なのはプロデューサーさんが何も言い返さないところです』

「ですよね……勢いに流されてた事は否定出来ません」

『貴方にその気がなかったのであれば、きちんと説明してお断りして下さい。彼女の人生全部が台無しになってしまうんですよ?』

 人間としての未熟さが心に刺さる。
 そうじゃありません、そのつもりはありませんでした。
 そう、きちんと伝えなければならなかったのに。
 今の三船さんを困らせない事と今の俺が困らない事しか考えず、彼女の今後を台無しにするところだった。

『……報告は、明日聞きますから。必ず伝えて下さい』

「はい、必ず」

 通話を切る。
 
 流されてしまったが、今日ならまだ引き返せる。
 彼女を傷付けてしまう事になるが、それで彼女の人生を台無しにするよりはマシだ。
 ……なら、自分の気持ちは?
 ちひろさんの言葉を思い出す。

「……ふぅ」

 頭の中で思考の波が渦を巻く。
 結局、その後のパスタの味は覚えていない。
 



「ふぅ……お疲れ様でした」

 デートを終えて、夕方ごろに自宅に着いた。
 結構歩き回ったのでなかなか足が疲れている。

「えっと……お帰りなさい、貴方」

「……ただいま、美優」

 子供の頃は当たり前にしていたやりとりが、堪らなく心地よい。
 夫婦としては、あたりまえのやりとりなのだろう。
 この会話を、これからも……
 午後ずっと悩んでいた事は、少しだけ薄くなった。

「夕飯は……どうしましょうか?」

 三船さんが夕飯を作ってくれるつもりなのだろう。
 それはとてもありがたいことだが。
 その前に、きちんと。
 伝えなければならない言葉が、伝えなければいけない想いがある。

「……三船さん」

「はい……美優、って呼んでくれると嬉しいんですけど……」

 今、それはダメだ。
 きちんと言葉にしなければ。

「少し、お話があります」




「まず……今日は一日、俺に付き合ってくれてありがとうございました。とっても充実した休日でした」

「そんな……私こそ。それに、これからもずっと……」

 その事なのですが、と。
 幸せそうな表情をする三船さんを制す。

「三船さん。あの日、初めて会ったあの時貴女に言った言葉は……」

「……やめて下さい」

 三船さんも、勘付いてしまったらしい。
 一瞬にして哀しそうな表情に変わる。
 もしかしたら、彼女も分かっていたのかもしれない。
 それでも、そういう意味だったら良いな、と思ってくれていたのだとしたら……

 それでも、俺はきちんと告げなければいけない。

「……プロポーズのつもりなんて、俺にはありませんでした」

「……はい」

 なんて、冗談ですよ、と。
 そう軽く流して、そのまま夕飯の準備を一緒に出来たらどれだけ楽な事か。
 けれど、そんな楽な方楽な方ばかりへ進んで。
 最後に俺は、覚悟のない責任を取れるだろうか。

 寝言での、意識のないプロポーズなんて。
 自分は何も言わず、相手の気持ちだけ聞いてそれに乗っかるなんて。
 そんなの、誰も幸せになれない。
 きっと必ず、最後にはツケが回ってくる。

「……分かって、いました……きっと私だけなのかも、って……幸せな想いに酔いたいのは、私だけで……」

「貴女と結婚なんて……夢見ることはあれど、実現出来るなんて思ってなくて……」

 今日一日、本当に申し訳ありませんでした。
 そう、頭を全力で下げた。



「……ふふっ、私……少し浮かれてたのかもしれせん……」

「いえ、誤解を解こうとしなかったのはこっちですから……誤解を解こうとしないのは、嘘をついているのと何ら変わりません」

 そして。
 ここまでが事実、俺の謝罪。
 過ぎた誤ちへの尻拭い。
 ここからは……

「……三船さん。俺はプロデューサーで、貴女はアイドルです。今結婚なんて、かなり厳しいと思います」

「分かってます。分かって……いたのに……」

「だから……」

 一旦息を吸い込む。
 想いを伝えるのが、こんなに緊張すると思わなかった。
 失望さてれ、失敗に終わる可能性だってある。
 それでも……

「いつになるかは分かりませんが……結婚を前提に、俺と付き合って貰えませんか?」

 きちんと、俺の気持ちを告げた。

「今日一日、とても楽しかったです。朝食を一緒に食べたり、一緒に観る映画を選んだり、お帰りなさいって言ってもらったり。こんな幸せを……これからも、貴女と続けたいです」

「……え……」

「あの言葉にプロポーズの意味はありませんでした。でも今、貴女が大好きだと言う気持ちは本当です」

「……本当、ですか?」

「本当です。改めて、今から……俺と、付き合って貰えませんか?」

 束の間の沈黙。
 都合の良い男だと言うことはわかっている。
 ダメと言われたら、引っ叩かれたらそれまでだ。
 仕事に関しても、出来る限り責任を取ろう。



「……信じられません」

「……そう、ですか……」

 想いを伝えて、断れる事がこんなに辛いなんて。
 お互い全く得のない出来事が、ここで終わった。

「……美優、って呼んでくれない貴方なんて……」

「……え?」

「貴方の想いが本当か……証拠を、見せて下さい」

 そう言って、三船さんが目を瞑った。

 きっとこれは、そう言う事でいいのだろう。
 雰囲気があるかどうかなんて、脳がオーバーフローしかけてて分からないが。
 それでも今俺が為すべき事は分かっている。
 どうすれば俺の想いが本物か伝わるかなんて、もう分かっている。

「……ありがとう、美優」

 証拠として渡したものは。
 証拠として行った行為は。

 少しばかり、甘ったるかった。

地雷を踏みに行くその姿勢、嫌いじゃないよ
でもちっひはどんなリアクションするんやろな



「と言うわけで、正式に付き合う事になりました」

 翌日、俺と美優さんは昨日の事をちひろさんに報告した。

 俺の背中を押してくれた訳だし。
 ちひろさんのおかげで俺も間違いを正せた訳だし。
 ちひろさんも上機嫌で事務所に入ってきた美優さんを見て安心していた。
 これで、万事解決だ。

「なるほど……バカなんじゃないですか?」

 辛辣すぎやしませんか、ちひろさん。
 全く同じセリフを昨日も聞いた気がする。

「はい、確かに俺はバカでした。でもきちんと想いを伝える事が出来ましたから」

「そうではなくて、ですね……」

 あれ?
 何か違ったのだろうか。



「……プロデューサーさん。貴方の職業は何ですか?」

「え、プロデューサーに決まってるじゃないですか」

 何を言っているんだ、ちひろさん。
 まるで意味がわからない。

「そんな貴方が、アイドルと一緒に歩いていたりなんてしたら……」

「所謂……同伴出勤、ですね。ふふっ」

 美優さんが微笑みながら呟く。
 とても素敵だ、恋人になれてよかった。

「良いですね、同伴出勤って響き」

「良いですね、じゃありません!貴方はプロデューサー!美優さんはアイドル!ではそんな二人が付き合うのは?」

「え、ちひろさんがNGって言い出すんですか?!『立場とかそういう問題は、今回はもうどうでも良いでしょう』って言ってたじゃないですか」

「それはそれ、これはこれです!その言葉は貴方が人間としての道を踏み外しそうになっていたからであって、貴方が人間になったのなら人間としての問題があります!!」



 酷い扱いだ、人間になったのならって……
 いや実際、それくらい言われても仕方のないくらい程馬鹿な事をしてしまっていたのは自覚している。
 なあなあに流されて人の人生を台無しにするような奴は。
 とは言え……

「……プロデューサーさん。一線は踏み越えてませんよね?」

「あ、まだキスまでです」

「ぷ、プロデューサーさん……っ!」

 唇が地滑りした。
 さすがちひろさんだ、駆け引きが上手い。
 上手く此方の情報を引き出そうとしてくる。
 とは言え本当に、キスしかしていない。

「美優さん。本当ですか?」

「えっと……その、はい……う、うふふ……恥ずかしいですね、思い出してしまって……後からくるんですね……ふふっ」

 頬に手を当てて恥じらう美優さん。
 かわいい、今すぐにでもキスがしたくなる。
 多分したらちひろさんにデリートされるだろうからしないが。
 雰囲気も無いし。



「……分かりました。多分これは私が何を言っても届かないと思うので」

「え……いいんですか?!」

「で、す、が!ぜっったいに外ではバレないようにして下さいね?同棲も諦め

「ちひろさん、ありがとうございます……っ!私達を認めてくれるなんて……結婚まで後少しですね、あなた……!」

 パァァッ、と効果音が聞こえそうな程美優さんが表情を輝かせた。
 眩し過ぎてくらっとくる。
 俺じゃなければ一目惚れしていただろう。
 俺は既に惚れているからセーフ。

「……同棲は諦め

「ちひろさん。ありがとうございます」

「……ど

「ありがとうございます」

 ちひろさんが押されていた。
 なんだろう、美優さんの声が地均しされたてのコンクリの様に真っ平らだ。
 どんな表情をしているのか気になるが、絶対に見てはいけない気がする。
 鶴の恩返しのおじいさんもこんな気持ちだったのだろうか。

「……絶対にバレない様にして下さいね。その時は私でも責任は取れませんから」

 それは勿論だ。
 ファンを裏切ってしまっている事に変わりはないが、それでも美優さんにはアイドルを続けて貰いたい。
 自分勝手な我儘だが。

「はい、色々とご迷惑おかけしました。ありがとうございます」

 こうして、俺たちは事務所と家でのみイチャイチャ出来る権利を獲得した。






「……ところで、イチャイチャするって何すればいいんでしょうね」

「……確かにそうですね、その……私にも分かりません」

 改めて考えると、何をどうすればいいのだろう。
 恋愛経験なんてかなりのご無沙汰だし、全く勝手を覚えていない。

「ちひろさーん。イチャイチャって何すればいいんでしょう」

「張っ倒しますよ」

 断られてしまった。

「む……プロデューサーさん。せっかく二人きりなんですから、私だけとお話しませんか……?」

「いや、私いますからね?」

 ちひろさんの声は、果たして美優さんに届いているのだろうか。
 届いていないのだろうな。
 恋する女性の猪突猛進ぶりがなかなか凄まじい。
 さながら特急電車の様に、俺に向かって一直線に突き進んで来ている。

「……そんなところも可愛いんだよなぁ。男性冥利に尽きるし」

「あ……えっと、その……か、可愛いだなんて……ふふふ……っ!」

「電車は急には止まれない、ですね。正面衝突で事故だけはしない様に気をつけて下さい」

 ちひろさんが物凄く嫌そうな顔をしながらコーヒーを一気飲みしていた。
 そんなに喉が渇いているのだろうか。



「あ……二人きりですから……あの……ええと……」

「あ、もう私完全に居ない設定なんですね」

 そう言いながら、美優さんが頬を赤らめ顔を逸らした。
 それでも此方に向けられている目が、キスをしたいと語っている。
 とは言え、流石にそれはちひろさんが気不味いだろう。
 非常に魅力的な誘いだが、ここは心を鬼にしなくてはならない。

「美優さん。事務所でキスまでするのは流石に

「……引き出し三段目の二重底。背徳、事務所であのアイドルが淫らに乱れて

「キスしましょう!俺今猛烈にキスがしたくなってきました!!」

「そんな……そ、そこまで貴方に熱烈に求められるなんて……私、断れないじゃないですか……」

 困った様な照れ顔もとても素晴らしい。
 対して俺は少し足が震えてるけれど。



 少し強引に、俺は美優さんの唇を奪った。

「……んっ、ちゅっ……んちゅ、んんっ……っ!……っふぅ……」

 ……思ったより大人なキスになってしまった。
 そんなつもりは無かったのだが。
 唇と唇を重ねるだけのつもりが、気付けばなんだか、こう……うん。
 まぁそんなこともあるだろう。

「……ふふっ……貴方ってば、甘えんぼさんですね……」

 先にキスを求めてきたのはどっちだっただろうか。
 俺の記憶が間違っていなければ……いやそれ以前に、誰かの前でキスする時点で間違いだ。



「……私、少しお花を摘みに行ってきます……」

 そう言って、美優さんは部屋から出て行った。
 部屋には居心地が悪すぎる空気が淀み漂う。
 ちひろさん、なかなか口を開いてくれないな……
 寧ろ何か言ってくれた方が気が楽なのだが……

 いや、こういう時こそ自分から話題を作るべきなのだろう。
 持てる限りのコミュ力を駆使して話し掛けた。

「イチャイチャって何すればいいんでしょうね?」

「事務所ではイチャイチャ禁止で。これは決定事項です」

 事務所でのイチャイチャの権利はほんの数分で剥奪された。


残当



「と言うわけで……美優さん。恋人的な振る舞いは家でのみになりました」

「……そんな……事務所でキスは……」

「ダメです。ダメだそうです」

 よくよく考えれば当たり前のことのような気がする。
 なぜ俺は事務所でキスをしていたのだろう。
 なぜ美優さんは事務所でキスを求めて来たのだろう。
 恋愛は人を馬鹿にするのか。

「事務所にちひろさんが不在な時でしたら……」

「ダメです。きっちりと線引きしませんと」

「で、デートしていてしたい気分になってしまった時は……」

「外はダメです。家のみです」

「夜景の見える、お洒落なバーやレストランでは……」

「だめです。他の人いますから」

「……家だけじゃないですか……」

 最初からそう言っているつもりなのだが。
 なんで外に拘るのだろう。



「……プロデューサーさんは、突然私にキスしたくなったり……しないんですか……?」

 ……上目遣いはズルいと思う。
 
 そんなやりとりをしながら、二人で食卓を囲む。
 愛も変わらず隣同士だが。
 美優さんの手料理はとても美味しく、ついつい食べ過ぎてしまう。
 二人きりとはいえ『あーん』は物凄く恥ずかしかったが。

 ところで。
 いつのまに、美優さんは私物を俺の家に持ち込んでいたのだろう。
 気付けばキャリーケースといくつかの段ボールが部屋に並んでいた。
 今朝家を出た時点では無かった気がするのだが。

 細かい事を気にしたら負けか。
 恋する乙女の行動力はすごい、とひとつ賢くなった。
 ここまでアクティブな女性だとは思っていなかったが。
 美優さんが笑顔だし、それで良しとしよう。

「あ、もう……口元、汚れてます」

 そう言って、ナプキンで口元を拭き取ってくれる。
 なんだこの新婚ごっこは。
 俺はこんなに幸せで大丈夫なのだろうか。
 つい数日前までの一人寂しい夕食はなんだったのだろうか。

 食器を洗い終え、二人でテレビをのんびり眺める。
 歌番組では美優さんが新曲を披露していた。
 その本人が隣にいるだなんて、なんて贅沢なのだろう。
 改めて、やばい。



「色々やってもらっちゃって……何から何までありがとうございます」

「いえ……私がしたくてしてる事ですから……」

 微笑む美優さんの手には俺のスマホが握られていた。

 ……なんで?

「美優さん、何してるんですか?」

「……浮気チェックです……男性の心を掴むには、まずは個人情報を掴むところから、と……」

 なんだその情報、普通胃袋ではないのだろうか。
 まぁやましい事は一切無くしたから問題ないが。
 今朝の時点で肌色な面積の多い画像は片っ端から消してある。
 もちろん削除した画像一覧も消去してある。

「……パスワード、私の誕生日じゃないんですね……」

 6桁ですから。

「……999999だなんて、適当過ぎます。でも……何通りも試してロックが解除された時は、貴方との運命を感じました……ふふっ」

 照れたように笑う美優さんに水を差すつもりはない。
 文字通り100万の笑顔だ。
 ついでに背筋が凍ったりもしてない。
 なかなかの執念に怖がったりもしない、してない。

「……プロデューサーさん、女性とプライベートなやりとりはあまりしないんですね」

「そりゃまあ、ずっと美優さんのプロデュースに一筋でしたから」

「……もうっ、ズルい人……」

 頬を赤く染めて、視線をそらす美優さん。
 大人な女性のそんな純情な仕草が愛らし過ぎる。
 この一日でなんど恋に落ちた事か。
 まるで沼だ、沼。



「それで。この『ちっひちゃん』って方はどなたなんですか?高頻度でやりとりしている様ですが……」

 一瞬にして美優さんの声の温度が下がった気がする。
 とはいえ、俺としては別にやましい事ではないから怖くない。
 怖くない、まったく。

「ちひろさんですよ、千川ちひろさんのプライベートアカウント」

「……私も、みゆちゃんにしようかしら……」

 ……あぁ、可愛いな本当。
 流石に他の知り合いに心配されるだろうからやめた方がいいと思うが。
 
「それでは、この『ミッシー』という女性は……」

「美優さん、キスしませんか?俺、突然美優さんとキスしたくなってきました」

「え……あ、もちろんです……って、そんな風に誤魔化せると思わないで下さい」

「美優さん、こっち向いて下さい」

「あ……はい……」

 目を瞑って此方に顔を向ける美優さん。
 正直待ち受けにしたいレベルで色々とやばいが、流石に怒られるだろう。
 そのまま唇と唇を軽く重ねるだけのキスをする。

「……ふふっ。私、幸せです……」

「俺もですよ、美優さん」

「それで『ミッシー』さんってどなたなんですか」

 言えない。
 美城専務のアカウントだなんて、言えない。
 いい感じに上司の尊厳を壊すことになってしまう。
 なんであの人もこんな名前にしてるんだ、男でもできたのか。

「あ……すみません……私、自分の事ばかり考えて……今の幸せ過ぎる状況に酔ってたみたいです……」

「美城専務のです、はい。業務連絡しかしてません」

 



「さて、そろそろお風呂入って寝ましょうか」

「……え、ええ?!い、一緒にですか……?」

 言ってない、筈。
 心に羽が生えて勝手に願望を口にしてしまっていたかもしれないが、多分言ってない。

「流石に二人で入れるほど大きな風呂場じゃないんで……」

「で、ですよね……はぁ……」

 露骨にがっかりされてもちょっと困るのだが。
 そこまで積極的な女性だっただろうか。

「それじゃ美優さん、先どうぞ」

「ありがとうございます……あの、決して、絶対に覗かないで下さいね……?」

「神に誓って」

「……そうですか……そうですよね……私の身体になんて、貴方は興味ありませんよね……」

「今からちょっと神倒してきます」

 そんなやりとりをしてから、順番にお風呂を済ませる。
 もちろん覗いてはいない。
 それは、こう……ダメな気がした。
 そういうのは正しい手順を踏んでから、的な思考で。

 パジャマ姿の美優さんの破壊力は高かった。
 こんな光景が自宅にあるなんて。
 世界絶景スポットに自宅を登録出来ないだろうか。
 記念に、と一枚だけ写真を撮らせてもらう。

「あ……ホットミルクです。ぐっすり眠れるように、と」

「ありがとうございます。頂きますね」

 果たして一つ屋根の下に美優さんがいる状況でぐっすり眠れるだろうか。
 昨日はなんか色々な疲れて普通に眠れてしまっていたが、改めてこうなると心が落ち着かない。

「あ、布団一組しかないんで俺ソファで寝ますね」

「すみません、お布団だけ持ってくるのを忘れてしまって。ですから、貴方に悪いですし……い、一緒に寝ませんか……?」

 流石にそれはまずいだろう。
 なんというかこう、早過ぎる気がする。
 尚更気持ち的に寝れなくなってしまうだろうし。
 明日は仕事だし、布団一組だと流石に狭すぎて密着する事になってしまうし。

「是非よろしくお願いします」

「はい……こ、こちらこそ……」




 二人で一組の布団に潜る。
 最初は譲り合って牽制しあっていたが、流石に少し寒くなってきたので二人同時に潜った。
 なんだこの付き合いたてのカップルは。
 実際その通りなのだが。

「……あったかい、ですね……」

「はい……」

 会話が続かない。
 緊張しすぎて本当に眠れる気がしなかった。

「……プロデューサーさん。あの日、貴方に出会えて……本当に良かったです」

 ふと、美優さんの方から口を開いた。

「正直、あの時俺少し酔ってたんです……だからこう、勢いというかなんといえばいいか……」

「……でも、そのおかげで……私はずっと幸せな想いに酔う事が出来ましたから……今では本当に運命だったんじゃないか、なんて思うんです」

「まさか、一緒に同じ布団で眠る日が来るなんて思いもしませんでしたよ」

「では、そういう運命なんだと思って……これからも、一緒に過ごして頂けませんか?」

「……こちらこそ。これからもずっと……一緒にいて下さい」

「……はい……っ!」

 ギュッ、と。

 美優さんに抱き付かれる。
 俺も両手を彼女の差に回して抱きしめた。
 密着した部分から伝わってくる彼女の鼓動が、なんとなく心地よい。
 幸せと安心に包まれているような、そんな感覚。

 気が付けば、俺は眠りへと落ちていた。





「おはようございます、ちひろさん」

「おはようございますプロデューサーさん。朝から随分機嫌が良いみたいですね」

 そういうちひろさんは物凄く機嫌が悪そうだった。
 実際俺も機嫌は良いが身体は若干重い。
 美優さんと一緒に眠るなんて、結局落ち着かなくて安眠出来なかったのだろうか。
 それでもお釣りが返ってくるくらいには幸せだったが。

「……プロデューサーさん。家でもイチャイチャするのは禁止です」

「え?!なんでですか?!」

「今朝、美優さんから何枚か画像が送られてきました。諸事情があって貴方にお見せすることは出来ませんが」

 どんな画像だったのだろう。
 物凄く気になる。

「何が『素敵な寝顔ですよね』ですかまったく!しかも完全に事ご……ごほんっごほんっ!」

 俺の寝顔だったのか。
 俺の寝顔を写真に撮ったのか。
 ……本当にかわいいなぁ美優さん。
 人に送るのはどうかと思うが。

「ですので!場所とか関係なくイチャイチャするの禁止です!いいですね?!」

「それは流石に……」

「禁止です。いいですね?」

「……はい……」

 まぁ、過去の偉人は言ったらしいし。
 バレなければ良い、と。

「本当に、もう……美優さんは貴方からの注意ならきちんと聞くでしょうし……」



 がちゃ

「おはようございます……」

 部屋のドアが開き、美優さんが入ってきた。
 一応家を出るのは時間をずらして別々に来るようにしている。
 流石に二人で手を繋いで同伴出勤はマズイだろう。
 世間的にも、ちひろさん的にも。

「プロデューサーさん……忘れ物です」

「え、何か忘れてましたか?」

 そう振り返ると。
 ちゅっ、と。
 軽いキスをされた。

「その……行ってらっしゃいのキスを、忘れていましたから……」

 ……かわいいなもう。
 ズルすぎやしないだろうか。

「それと……お帰りなさいのキスも、よろしくお願いします」

「……はい、帰ったら必ず」

「……ふふっ……それでは、レッスンに行ってきます」

 バタン。
 部屋の扉が閉まる。

 それと同時に、部屋に殺意が満ちた気がする。

「プロデューサーさん」

「はい」

「さっきの会話覚えてますか?」

 そんな感じで、ちひろさんに何度も頭を下げながら。

 俺は床の冷たさと幸せを同時に堪能した。



以上です
お付き合い、ありがとうございました

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青姦の人か

乙乙
成程、納得したw

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