どう考えても、三歳頃までしか、私はそこにいなかったのに。
遠くには山が連なっているのが青く見えます。
昼を過ぎると太陽に乾かされた土の匂いがします。陽が陰ると豊かな森林の方から爽やかな風が吹き、
家に入ると広い畳の部屋が連なり、床の間には水墨画の掛け軸が掛かっていて、
横になって畳に頬をつけると鼻先に井草のしっとりとした香りがして、
私はその香りを嗅ぐと、安らいだ気持ちになれました。
そうしてよく部屋の真ん中に寝ころんでいたのですけれど、その姿を厳格な祖母に見つけられると、
「みっともない格好はやめなさい」
と叱られました。
それでもやっぱり私はあの匂いが好きで、誰もいないときにこっそりと畳の匂いを嗅いでいました。
それでも、やっぱり、何故かすぐに祖母に感づかれ、叱られてしまう。
なんでだろうと、不思議に思いました。どう考えても見られてないはずなのに。
叱られたすぐあとに、母に尋ねたら、苦笑しながら、
「鏡を見てご覧なさい」
言われて、化粧台の布を払い、鏡を覗き込むと、
そこに映った私の頬にはしっかりと畳の模様の刻印がありました
それから私は畳の上に寝ころぶときは、頬の下に手のひらを当てるようになりました。
手がしびれると寝転がって仰向けになり、そうして上を見て気がついたのですが、
部屋ごとに、欄間があり、その背景の隙間から、隣の部屋の天井が見えるのです。
私はそれまで、壁というものは部屋と部屋を完全に仕切っている嫌なものだと理解していたものですから、
こんなところでこっそり隣の部屋とつながっているという事実を知り、
驚き、また、なんだかとても素晴らしいことを発見したような気持ちになって、
そのときはとても嬉しい気持ちになったのです。
注意して見ると、ほとんどの部屋に欄間は設えてあって、
今まで知っていた部屋というもののイメージがまるで別のものになりました。
そして、その家がとても好きになったのです。
それぞれ閉鎖されていたと思った部屋は、本当は全部つながっていた。
しかも、その一つ一つの図案が異なっていて、気に入らないのもあれば、面白いのもあって、
なんで好きなのと嫌いなのがあるのだろうと、何度も見ているうちに、
私は好きなものも嫌いなものも、その全ての図案を覚え込んでしまいました。
また、時々近所の人がくると「近所の林でとれた」と、アケビを持ってきてくれて、
普段よく食べる果物とはまた違った、微妙で不思議な味わいが、とても珍しくて、
三つも四つも食べていたら、やはり祖母に叱られました。
いつも穏やかな祖父は、そのときも楽しそうに笑っていたっけ。
そういったことも、他のことも、あのころのことは、みんな、みんな、妙にはっきりと覚えています。
父が外国から帰ってくると、祖母の家を出て、別の土地へ引っ越しました。
以前住んでいた場所よりも随分と家の多い所です。
「見てごらん、素敵な家だろう」
父が自慢した新しい家は、どの部屋も壁で密閉されていて、どの床もあの井草の香りがしなくて、
そして何より祖父も祖母もいなくて、本当のところは、あまり楽しい気分にはなれなかったのですけれど、
「ここが、理紗の部屋だぞ。こんな綺麗な部屋が自分の部屋になって、嬉しいだろう?」
言われると、父に悪いような気がして、本当のことが言えず、
「うん、うれしい」
私は、笑顔を作って見せました。
これが、私がやましい嘘をついた、はじめだったと思います。
終わり
文章は「Carnival」より
俺にとって、この欄間の下りは忘れられられないシーンだったので
良かったよ
乙です
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