奉仕部の三人は居場所について考える 続きと終わり (346)
※注意点
・「奉仕部の三人は居場所について考える」の続きのエンドのみ書かれたスレです
・なのでできればそっちから見てもらえると嬉しいです
奉仕部の三人は居場所について考える - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1435581486/)
・他の注意点は前と同じ
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1445069383
これから比企谷君が忘れたスマホを取りに来るらしい。
皆が帰宅の途に就いたことで気が緩み、楽な部屋着に着替えたところだったので慌てて同じ服に着替え直すことになった。
今日の楽しかった素敵な出来事を一人思い返し余韻に浸っていると、どこからかくぐもった音が聞こえてきた。
耳を頼りに音の発生源を追うと、ソファの下で微かに見覚えのある電話が振動していた。
あまり触っているところを見ないが、確かこれは比企谷君のものだ。拾い上げ画面を見ると、そうしないわけにもいかなかったのに、そうしたことを悔いたくなった。
ディスプレイには『★☆ゆい☆★』と表示されていた。
彼の連絡先を知っていて、傍にいるはずの由比ヶ浜さんが電話をかけるのは自然な流れだ。このポップで親近感のある登録名も彼女自身がしたものであろうこともわかる。
私には、彼が未だにこの登録名を残し変更していないことに、特別な意味があるように思えた。
それに対し私は、彼の直接の連絡先すら未だに知らない。
当然だ。これまで私は何もしてこなかったのだから。
一方彼女は最初から、どうしようもない彼に自分から近づこうとしていたし、なかなか歩み寄れない私のことを辛抱強く待ってくれていた。
自業自得でしかないのに、何を悔いているというのか。何に痛みを感じているのか。
やっぱり、私には…………。
急にエントランスからの呼び出し音が鳴り響き、飛び上がりそうな勢いで背筋が伸びる。
来ることはわかっていたのに、何をそんなに驚いてるんだか……。
インターホンの通話ボタンを押すと、私が話すより先に彼のおどおどした声がスピーカーから聞こえてきた。
「あ、ん?いいのかこれ……雪ノ下?聞こえてる?」
液晶モニタを見れば、カメラに映されていることを知ってか知らずか、そわそわと忙しなく動く彼の姿があった。
おもわずくすりとした微笑が漏れてしまう。
「……聞こえてるわよ」
「あ、えー、あのー……比企谷ですけど……。開けてもらえませんかね……」
「どうぞ」
鍵マークの開錠ボタンを押すと、やがてカメラの範囲から外れて液晶モニタから姿を消した。何故彼はあんなに挙動不審なのかしら……。
しばらく待つと今度はドア前からの呼び出しベルが聞こえ、彼のスマホを手に玄関に向かう。
開錠して半分だけ扉を開くと、気まずそうな顔をした比企谷君が立っていた。
「あー、えー……忘れものをした」
「知ってるわよ。はい、これでしょ。大事なものなんだから……忘れないようにね」
そう。彼が由比ヶ浜さんと連絡を取るのに必要なものだ。彼は控えめにそっと受け取り、まじまじと手の中のスマホを眺める。
「そうだな。大事だな……」
そうよね。あなたは、それでいいの。
「それじゃあ、またね」
俯いて短い別れを告げ、閉まらないように押さえていた、彼と私を分かつぶ厚いドアから手を離す。
ドアクローザによりゆっくりと扉が閉まり始める。姿が見えなくなるその瞬間、彼の手が閉まろうとする扉の動きを遮った。
見上げると、唇を引き結んでいる彼と目が合った。
そのまま待っていると、固まっていた筋肉が解きほぐされるようにゆっくりと唇が動き、予想していなかった言葉が紡がれる。
「……あの、何もしねぇから、いやこの表現はおかしいな。ここじゃなんだから、玄関でいいから上げてくんねぇか。少しだけ、話がある」
「え、ええ。別に、構わないわよ」
深刻そうだが、いったいなんの話だろうか。
彼に何か、犯罪まがいのことをされるとは微塵も思わない。だが、くだらない被害妄想とも言い切れない、考えるだけで吐き気を催すような拒絶の言葉が、想像が頭をよぎる。
彼を玄関に招き入れて、またすぐに鍵を掛けた。そうする癖がついているからで、別に他意はない。
「あー、なんか悪いな」
「気にしないで。それよりここでいいの?上がっても別に……」
「いや、ここでいい。すぐ、なるべく早く終わらせるつもりだから」
「ああ……。みんな、由比ヶ浜さんが待っているのね」
忘れ物を取りに来るついでに伝えるだけ、ということが強調されたように感じた。
ならばそう重要なことではないかもしれないと、そう期待した。しかし彼はまだ言いにくそうに電話を握りしめている。
「……あいつらには先帰ってくれって言っといた」
他の人が近くにいないということを聞かされると、急に胸が早鐘のように躍り始めた。彼の行動の意図が、目的が読めない。
「そ、そう。いいの?」
「いいんだ。…………その、れ……」
「れ?」
れ……恋愛、相談?かしら。それはちょっと困るのだけれど……。
「れ、連絡先、教えてくれねぇか」
「……そうね。そういえばあなたのだけ知らないから丁度いいわ。生徒会で連絡が必要な時もあるものね」
比企谷君のほうから聞いてくれたのは意外だった。生徒会云々は照れ隠しに咄嗟に出てきた建前だが、生徒会長になったときにこうして聞いておけばよかったと思った。
さほど大事でもないのにそらで言える電話番号を伝えると、彼はスマホを操作して私にワンコールしてくれた。
彼はどういう名称で私の番号を登録をしたのか、少しだけ気になった。
「……そんな、生徒会の連絡とかで聞いたんじゃねぇんだけどな」
「?……では、何かしら」
「お前の電話番号知らないと、休みに誘ったりできないだろ」
「それ、は、どういう……?」
「あー、違う。そもそもこんなこと話しにきたんじゃねぇ。ちゃんと伝えるから。聞いてくれ」
「え、え?あ、うん……」
どうしよう、頭が全然働いていない。さっきから心臓が煩いせいだ。
比企谷君は頭を掻いたりして落ち着きがないのに、目だけは逸らさず、ずっと私を見据えている。彼はそのままの視線で私に語りかける。
「雪ノ下、あのな……。よかったら、俺と…………」
ああ、そうか。ここまで言われて、やっとわかった。
この言葉の続きを私は知っている。
生徒会室での彼の本音を聞き、理解し、今からそれが告げられようとしているということは、予想通りということだ。
つまり、私の恋はまた実らない。
どうしようもないな、私は。
二人を祝福しようと決めたのに、どうしようもなく、耐えようもなく、痛い。胸を棘でかきむしられているようだ。
でも、これでいいの。悪いことばかりじゃないから。
これなら私は彼女と友人で居られる。私の居場所は守られる。寄る辺を失わずに済む。
あとは断ち切って、痛みを飲み込んでしまえばいい。守るために、失わないために必要な代償なのだから、受け入れるしかない。
そう自分に言い聞かせ、逡巡する彼に言葉をかぶせ、遮る。
「待って。その先は、私から言わせて」
「い、いやそんなわけにいくか」
「ごめんなさい。これは私の我儘だけど、どうしてもそうしたいの。私から……お願い」
彼への想いを断ち切るために。彼に言われたから仕方なく受け入れたのだという、弱い自分への言い訳を残さないために。
私から伝えねばならない。
「……そうか。お前がどうしてもって言うなら……わかった。でも、俺もちゃんと自分の口で伝えたいから、一緒に言おう」
「……わかったわ」
思えば、一度目は純粋な拒絶だった。彼の人となりを知らなかったし、向上心のまったくないただのろくでなしとしか思えなかったから。
二度目は、彼とそんなもので関係に線を引きたくなかった。まだもう少し続けたかった。ようやく彼と知り合うことができ、特別な何かを感じ取っていたから。
そしてこれからの三度目は、言いたくもないのに、それで終わらせるために言わなければならない。
「雪ノ下、よかったら俺と……」
「比企谷君。よかったら、私と……」
彼に続いて、掠れるような声を重ねる。
自分の声が震えているのがわかった。嗚咽が漏れそうになるのを必死に飲み込む。このまま痛みも、言葉も一緒に飲み込めたらどれだけ楽だろう。
皮肉なものだ。今まで散々すれ違いを続けてきた彼と私の言葉が、こんなことで重なり合うなんて。
彼は紛うことなき本音を、私は欺瞞に覆い隠された建前を。これで重なり合うのなら、私と彼はそうなるべくしてそうなっていたのだろう。
まるで出来の悪い、笑えない喜劇だ。
そして二人同時に、最後の言葉を吐き出した。
「付き合ってくれねぇか」
「友達になってもらえ……」
溢れそうな涙を堪えながら必死に絞り出した言葉は、最初の一文字目からまったく重なり合わず、最後まで言い切ることができなかった。
「………………」
彼は、おそらく私もだが、魂が抜け出たかのように呆け、二人とも口が半開きになった間抜けな表情で見つめ合う。
え?比企谷君はなんて言ったの?
「いや、お前な……。会話の流れおかしいだろ。なんでそこで友達って言葉が出てくんだよ」
「わ、私はてっきり、以前あなたから言われたことをまた言われるのかと……」
「嫌だよ俺は、そんなの。お前とそれで終わらせたくない」
まずい、パニック寸前だ。わからないことが多すぎて何から話せばいいのかもよくわからない。
「ええと……まず、聞こえなかったから確認させてもらえるかしら。さっき比企谷君はなんて言ったの?」
「聞こえてねぇとか、最悪だよ……。さっきはだな、その……俺と付き合ってくれって言ったんだ」
「はい?」
「いやだから、俺と付き合ってくれって……わざとか?聞こえない振りしてんのか?難聴系か?」
付き合ってくれ。付き合う。
……念のため、確認しておこう。
「こ、今度は聞こえたわ。それは、その……買い物とか、そういうのじゃ……」
「ねぇよ。俺は真面目に言ってんだけどな」
「なら、付き合うというのは、ええと……」
「……わかりにくいなら言い直す。雪ノ下、よかったら俺の恋人になってくれ」
勘違いしようのない、まちがえようのない言葉が、彼の唇をすり抜けてきた。
どんな感情で受け止めればよいのか。何を言えばいいのか。
私と彼はいつまですれ違い続けるのか。
───まるで、喜劇だ。
「……ごめんなさい。少しだけ、落ち着かせてもらえないかしら……。もう何がなんだか……」
「……すまん。無理に今返事してくれなくてもいいんだ」
彼はそう言うと振り返り、施錠した鍵に手をかける。
「待ってよ、そんな、言いっぱなしにされても困るわ。こんな状態じゃ眠れなくなるじゃない。…………入って」
「い、いや。俺だけで上がるのはちょっと……」
「いいから。……もっと、落ち着いて、ちゃんと聞かせてほしいの」
「……わかった。お、お邪魔します」
彼は靴を脱ぎ、ぎこちない動きで私の後をついてくる。
部室や生徒会室で彼と二人きりになることはこれまで何度もあった。
そんなとき、一人でいることがさほど気にならない私と、同じく元来からそうであろう彼は互いに干渉しなかった。そう取り決めをしたわけではないが、それが暗黙のルールのようなものになっていた。
でも今はとても同じようにはできない。ここに他の人が来ることはないし、本に目を通すわけにもいかない。
嫌でも狭い空間に二人きりであることを意識させられる。ぎこちない彼もおそらくそうなのだろう。
「座ってて。お茶……用意するから」
「あ、いや、お、お構い無く」
「あの……そんなにそわそわしないでもらえるかしら……。私も落ち着かなくなるわ」
「う……すまん」
キッチンに向かい、ティーセットとカップを用意する。この家に湯呑みはなかった。お湯が沸くまでの僅かな時間にも考えを纏めようとしたが、そうしようとするだけ無駄だった。
でも紅茶を淹れて慣れた香りが立つと、少しだけ落ち着けたような気がした。
二つのティーカップを持ってリビングに戻ると、彼は窓の外へ目を向けていた。
「どうぞ……」
「どうも。……雪、止まねぇな」
「そうね……。積もるのかしら」
闇の中を舞う白い粒は風に吹かれるまま漂い、やがて落ちて消える。状態と居場所によって形と名前も変える雪は、私の頼りない想いのようだ。
彼は紅茶を一口だけ啜ると、静かに口を開いた。
「もう落ち着いたか?」
「ええ、さっきよりは」
彼も自分を落ち着かせるように、ふーっと長い息を吐いた。私も息を呑み、耳を傾ける。
「じゃあ、話す。……俺は、初めて会ったときからお前に憧れてた」
「……あなたが憧れてくれた私の姿は、私のものではないわ」
首を振り、彼にそう告げる。
私は憧れの対象になるほど出来た人間ではない。
勉学やある特定の事柄においては平均より優れていると自負しているが、そこに人の価値を見出だし評価するとは思えない彼が、そんな部分を見て憧れるはずがない。
ならば彼が言うのは、私の持つ別の部分ということだ。
しかし、私は自分が傷つくのが嫌で、周りを寄せ付けないようにしていただけだ。あんな後悔を二度としたくなくて、姉さんの強さを真似しようとしただけだ。
そう思っているからこその発言なのに、彼はそれを否定する。
「お前らしさは、お前のものは最初からちゃんとあるだろ」
「私らしさなんて……、もう私らしさがなんなのかもわからないけれど、そんなものどこにもない。ただの模倣に過ぎないもの」
「違う。俺は知ってる、お前のことを」
「……私にもわからないのに?」
「ああ、それでも知ってる。俺とお前が初めて会って、奉仕部で話したこと覚えてるか?」
「覚えてるわよ。忘れるわけないじゃない……」
犬の散歩に行くので休憩
乙です!
決していい出会いではなかったと思うが、不思議と忘れたことは一度もなかった。
あのときの彼との問答の記憶は、いつでもすぐ取り出せる場所にある。
「お前の言葉は強く印象に残った。特に、変わらなければ誰も救われないってところだ」
記憶を辿る。確か、私が変わらなければ前に進めないと言うと、彼はそれこそが逃げだと反論したので、それに対して言った言葉だ。
「過去の自分を認めて、その上で変わろうとするなんて俺にはできなかった。変わることは逃げることだと詭弁で塗り固めて、意固地になってた。俺が…………まちがってた」
「比企谷君……」
「元のお前は強くなかったとしても、変わろうとしたお前自身は、変わろうとしたこと自体は誰かの真似でそうしようとしたわけじゃねぇだろ。俺が憧れてたのは、過去を否定するんじゃなくて、弱さを肯定した上で変わろうと足掻くお前の在り方なんだ」
言葉が出ない。彼がそんな風に私を見てくれていたなんて。
「世の中に、この世界に自然に真っ直ぐになるもんなんて存在しねぇんだよ。だからお前の、なりたいものに向かって真っ直ぐ進もうとする姿勢はきっと、お前自身の強さによるものだ。俺はずっとそこに憧れて、惹かれて……」
言葉にならない。私の知らない私を、彼が見つけてくれたなんて。
彼の話す速度と口調が落ち着いて、一言一言を噛み締めるようなものに変わった。
「……俺はずっと前から、雪ノ下のことが、人として、一人の女の子として好きだった」
飾り気のない、愚直なまでに真っ直ぐな言葉。それ故に、私の心に大きく響き、揺らす。それでも彼は飽き足らず、さらに私に畳み掛ける。
「今はもっと、前よりもずっと、強い部分も弱い部分も、真っ直ぐな部分も、素直じゃない部分も全部、雪ノ下の持ち物全部が好きだ。だから、俺と……」
もう駄目だ。
こんなにも幸せになる言葉を私は聞いたことがない。
こんなにも胸に迫る真摯な告白を私は受けたことがない。
堪えていた涙がついに零れた。一度決壊してしまうと、あとは崩れ落ちるように止めどなく溢れ、噛み締めた歯の間からは嗚咽が漏れ出す。
暫くの間、呻き声のような私の嗚咽だけがここに存在する音の全てだった。
彼は見守るようなまなざしで私を視界に捉え、待ってくれている。
私も目を逸らしてはいけない。どれだけみっともなかろうと、不格好だろうと、決して目を離してはならない。
「……ごめん、なさい。嬉しくて、幸せで……こんな気持ちは生まれて初めてなの。けど、それでも……」
彼の姿勢に応えなければと、涙を拭い話し始めたものの、途切れ途切れに話すのが精一杯だった。
鼻を啜り、伝えるべき想いを言葉に変換する。
ここまでは、彼の言葉による嬉し涙。
ここからは、私の言葉による悔し涙。
「今あなたの告白を、受け入れることはできないわ……」
「…………そうか」
話し始めたときから動かなかった、私を捉え続けていた目が下に落ちる。しかしそれはごく短い時間だった。
すぐに顔を上げ、寂寥の眼で私に問い掛ける。
「理由を、聞いてもいいか?」
「……二つ、あるわ。一つはあなたもわかると思う」
「……ああ。たぶん、合ってると思う」
由比ヶ浜さんのこと。
口の中でだけ言った彼女の名前に反応し、心が軋んで歪んだ音を立てた。
恨みっこなしと約束したとはいえ、彼女の想いが彼に向いていたことは最初の依頼でわかっていた。故に横恋慕と言われても仕方ないという後ろめたさがあるのも事実だ。
「それも、大きな理由の一つだけれど……」
私は彼女のことも失いたくない。かけがえのない友人だと思う心に偽りはない。
そんな彼女は誰よりも暖かくて優しいから、私が後ろめたさという理由で退こうとするなら、自分を抑えて私の背中を押そうとしてくれるのかもしれない。
そうすると、負い目から私は彼女と友達では居られなくなるかもしれない。
彼女の優しさに甘えるだけ甘えていいわけはないが、もしどちらかしか選べないのであれば、私がどうするかなんてもうわからない。わからなくなった。
私は彼の言葉にそれほど揺れている。家族を振り切って、友人を置き去りにして、全てを失ってでも彼のことを───そんな現実味のない妄想すら輪郭を帯びて見える。
でもそんな選択をしたところで、先に待つのは破滅だけだ。
それ以前に、彼と並び立つ資格が今の私にはない。私自身がそう思っている。
「…………それよりも、今あなたにすがってしまうと、私はきっと、一人で立てなくなってしまう」
見栄も虚勢も似非も欺瞞もない、本当の私。
寄る辺がないと、立つこともできない私。
「このまま受け入れると、あなたに際限なく依存してしまう。私はそういう人間なの。そうなるとあなたはいずれ、私のためにならないと離れて行ってしまう。だから、今は……」
苦しい。悔しい。悲しい。寂しい。情けない。不甲斐ない。あらゆる負の感情が胸を渦巻き、それ以上は言葉にできなかった。
彼は私の告白を痛ましそうに聞いていたが、やがて意思の込もった瞳で私の胸を射抜く。
「……なら、待つよ。いつまででも、お前が立てるようになるまで。それからならいいだろ」
「待つって……いつになるかわからないのよ?ううん、もしかしたらそんな時なんてずっと来ないかもしれない。私は比企谷君が思うより、ずっと弱い人間だもの」
「それでも待つ。俺は……お前を、雪ノ下を信じてるから、いつまでだって待てる」
ああ、これは生徒会室で見たあの顔だ。
なら彼の意思は私の言葉では動かせない。変えられない。
だが、本当にこれでよかったのだろうか。
私は因果応報なのでどうでもいいのだが、私が彼に対してすることは貴重な時間を奪う行為と言っても過言ではない。彼がいくらそれでいいと言ってくれても、やはり躊躇ってしまう。
「あなたの意思は尊重されるべきだし、嬉しくも思うのだけれど……、とても、心苦しいの。待つのが嫌になったら……いつでも止めていいから。あなたには由比ヶ浜さんも、いるのだし……」
「……そんな器用な真似、俺にできるわけねぇだろ。少なくともお前に完全に振られるまではやめねぇよ」
「…………そう。なら、ありがとう、でいいのかしら……」
「俺が勝手にそうするだけだ。けど迷惑なら言ってくれ」
「迷惑だなんて、そんなわけ……」
頬が火照り、心臓が跳ねた。
前々から密かに寄せていた、断ち切れなかった想い。
うまく言えるだろうか。ちゃんと伝わるだろうか。
「だって私も、あなたのことが…………好き、大好きだから。これからも、ずっと」
生まれて初めての告白は、想像していたよりもすんなりと言えた。
こんなことを言える日が来るなんて思わなかった。
「……初めて言ってくれたな」
「卑怯よ、あなたは。そんな風に言われたら、私も言わないわけにはいかないじゃない」
「あー、なんだろうな。月並みな言い方しかできねぇけど、すげぇ嬉しいよ」
彼は今までに見たこともないような面映ゆい顔を見せた。困ったように、照れながら。
本当に卑怯だ。そんな顔をされると、私はもう……けど……。
「由比ヶ浜さんにはなんて言うつもり?」
「……ちゃんと俺の気持ちを言うよ。けど俺はあいつにも離れてほしくないし、お前とも友達のままでいてほしい」
本当に、彼は変わった。このような論理的でも理知的でもない、強引で無茶なことは以前の彼なら絶対に言っていないと断言できる。
「あなた、滅茶苦茶なこと言ってるってわかってる?由比ヶ浜さんも私も、聖人でも君子でもないただの高校生なのよ」
「わかってる……というか、わかって言ってる。俺のエゴだってことも、お前らに負担かけるってことも。俺は由比ヶ浜と付き合ったりはできないけど、三人の関係も続けていきたいんだ」
「……呆れるしかないわね」
「……すまん。でも、これが俺の本音だ」
これが彼の言う、前に進む、ということなのだろうか。
確かにこれで停滞はしない。なんらかの変化はする。だが、その変化が私にとって、全員にとって望ましいものとは限らない。
ただ、彼が前に進むと言うなら、置いていかれたくないなら、私も前に進むべきだ。置いていかないでと彼に懇願するのは間違っている。
今はどこが前なのかも、何が本物で何が偽物なのかもわからないけれど、彼が見つけてくれた私を大事に守ることから始めよう。
顔を上げ、真っ直ぐに背筋を伸ばす。
「本当に勝手だわ。でも……私も同じ。私は彼女のこともあなたと同じぐらい好きで……大切にしたいと思ってる。だから私も、ちゃんと話すわ」
それから、彼の終電の時間までと決めて、たくさんのことを話し続けた。私のことや由比ヶ浜さんのこと、生徒会のこと、私たちのこと。
たまに体中がくすぐったくなるようなことも言ったり、言われたり。
今日私は彼と想いを伝え合ったけど、問題がすべて片付いたわけじゃない。由比ヶ浜さんとはどうなるかなんてまだわからないし、私や彼に新たな問題が出てこないとも限らない。
けど今は、本音を話してもまだ続けていけることが嬉しいと、彼はそう言った。
それでもまだ私は、比企谷君にも由比ヶ浜さんにも言っていないことがたくさんある。家の問題や私自身の問題、これからの私のことも。
私は素直じゃないから、急に全部を話すことなんてできない。だから、絡まった糸をほどくように、少しずつ、一歩ずつ。
私の大切な人に歩み寄っていこう。
「……その、すげぇ今更だけど、それ。似合ってる」
ふと思い出したように言う比企谷君は、私の目より少しだけ上、おでこ?髪?を見ている。
……そうだ、忘れてた。皆が帰ってからすぐ、髪をまとめて彼からもらったシュシュを着けたんだ。
うぅ、恥ずかしい。こいつこんなものでどれだけ喜んでるんだよとか思われてないかしら。
「あ、ありがとう。嬉しくてつい、その……お試しみたいな……」
「そ、そうか……」
二人して顔を赤らめ、何度目かもよくわからなくなった静寂が流れる。お互い干渉しない静寂と違って、意識し合った静寂は少し落ち着かないけど、心地好い。
「そろそろ帰んねぇとな……。あ、そうだ。最後に一つ、お前進路どっちするつもりなんだ?」
ごく自然に放たれた質問。こんななんでもないもので、彼との距離が縮まったことを実感した。
当たり前のように踏み込んできてくれる彼に、それを受け入れることができた私に。
「進路と言っても私は国際教養科だから、文理選択は関係ないのだけれど……。一応、文系にするつもりよ」
「そうなのか。陽乃さんが理系だから、てっきりお前も同じだと思ってた」
「……確かに、前までそうだったわ。母にもそうしろと言われているし」
変えたのはただの反抗からじゃない。
「お前って理系科目別に苦手じゃねぇよな」
「苦手どころか、むしろ得意なほうね。論理的で合理的な思考のほうが理解しやすいわ」
それでも、私は変えたくなった。
「だよな。……じゃあなんで文系にしたのか、聞いてもいいか」
「…………私にもやりたいことが、なりたいものがあるの」
「そうなのか……立派だな。俺にはそういうのねぇからな」
「全然立派じゃないわ、まだ母にも言ってないもの……」
怖かった。勇気も度胸も覚悟も、何もなかった。だから言えなかった。
「……そうか。でも、言わないわけにもいかねぇだろ」
今は私を見てくれる眼がそこにある。どんな私も見つけてくれる、安らぐ瞳。澄んではいないし、変だけど……とても愛らしい瞳。
見られているんだから、私はもう逃げない。彼を失望させたくない。自分に失望したくない。
「……うん。これは私が解決すべき問題だから、あなたに助けてもらおうとも思ってない。ちゃんと……伝えて、わかってもらうわ。どんなに時間がかかっても」
「おお。お前ならできるよ。絶対」
「ありがとう。今日はなんだかあなた、根拠のないことばかり言ってるわね」
「根拠か、根拠ならあるぞ。俺はお前を信じてるからな」
「ふふっ。全然根拠になってないわよ。……でも少し、そんな気持ちはわかるわ」
「なら、よかった。……あのな、さっきから聞いてばっかだけど、どうしても気になるんだ。もう一つだけ聞かせてくれ、これ聞いたら帰るから」
「いいわよ、何?」
「お前のやりたいことって、なんだ?」
言いにくそうな割に、目は興味津々だった。
やっぱり、あんな半端な言い方では気になるわよね。でもあまり素直に言う気にはなれない。
「…………あなたには言いたくないわ。だって、才能ないみたいに言われたことがあるもの」
「はぁ?俺が?そんなこと言った記憶ねぇんだけど……」
「言ったわよ。直接的に才能がないって言ったわけではなくて、そう取れる言葉なのだけれど……私、傷ついたんだから」
「えぇー……。すまん全然覚えてねぇ。つーかなんのことだかわからん。すげぇ気になってきた……」
「……そんなに、気になるの?」
「超なる」
「…………笑わない?馬鹿にしない?」
「んなことするわけねぇだろ」
「…………。私、実はね、昔から………………」
嘘つきと罵ってから彼を見送りに外に出ると、雪は積もることなく、既に止んでいた。
一一一
あれから幾度もの季節を重ね、いくつもの変化を目の当たりにしてきた。
それはいつも通っていた道にあったお店の閉店であったり、毎年美しい紅葉を見せてくれた街路樹の伐採であったり、大事にしていた本の状態が少しずつ劣化したり。
取るに足らない些細なものから、心に染みを作るような大きなものまで、すべてこの目に収めてきた。
季節の移り変わりは私自身の環境も大きく変えた。生徒会長を退いて、高校を卒業して、大学へ入学して……。
そのどれもが一抹の不安と寂しさを、それだけでなくこれからへの期待を抱かせる、私の人生の節目と呼んでもいい出来事だった。
目まぐるしく変わる環境に、慌ただしく終われるように過ぎ去る日々もあったが、今はもう大分安定した生活ができていると思う。
しかし、今度はすぐに就職活動が、就職が待っている。経済的に自立していない学生から責任をより問われる社会に放り込まれるわけで、これまでより大きな変化となることは想像に難くない。
昔の私なら先の見えない未来に怯え、自分以外が示してくれる標に頼ったり、用意された道にしがみついていたのかもしれないが、今はもうそんなことをしなくても大丈夫。
私の世界以上に、私も変わることができたから。
今の私は目標を自分で定め、それに向けて前に進むことができる。そう変わった。
こんな風に内的にも外的にも様々なことが変わってしまったわけだが、そんな中で変わらずにいるものも確かに存在する。
「ゆきのーん、久しぶりー!待ったー?」
彼女はあれからずっと変わらず、わたしのかけがえのない友達のままだ。ううん、友達じゃなくて親友になった。
「元気そうね、由比ヶ浜さん。私も今来たところよ」
朗らかに笑い、私に引っ付いてくる彼女は相変わらず童顔ではあるが、随分大人びて見えた。これは私の気持ちの変化からなのだろうか。
彼とのことは、最初に私から伝えた。二人同時にだと嫌味ったらしい気がしたので、一人ずつ別々に彼女と話した。
彼女はとてもという言葉で言い表すには失礼なほど寂しそうにしていたが、泣かなかった。
やがて彼女は笑って私の手を取り、あたしに出来ることならなんでもする、私が一人で立てるように助けると、そう話した。そして、ずっと友達だよ、と付け加えてくれた。
泣いたのは、泣かされたのは私のほうだった。結局彼女も私につられたのか、笑顔のままで泣いていた。世界で最も優しくて暖かい、けど何よりも切ない涙は、私にひとつの決意をさせた。
もし彼女が困ることがあれば、何においても助けに行こう。そのときは私にできるすべてを使い、彼女を支えよう。
私が勝手に思っているだけでもいい。由比ヶ浜さんは私の生涯の親友だ。こうして私の身には余るほどの宝物がまた増えた。
そのおかげで、それからも生徒会は私の大切な居場所で在り続けた。
その後も皆とさまざまなイベントをこなし、時に三人で奉仕部としての依頼解決もしながら、残された高校生活を謳歌することができた。
彼女は三人の中で一番成長して、誰よりも大人だったのだろうと思う。
だからだろうか、奉仕部で行っていた例の勝負、平塚先生の選んだ勝者は由比ヶ浜さんだった。
勝敗の基準は相変わらず不明だが、私はそんな気がしていたから別に驚かなかった。彼もおそらくそうだったのだろうと思う。
そして勝者の特権である命令は、これからも仲良くすることだった。奉仕部の三人で、生徒会の五人でずっと仲良く。これが彼女が私達に命じたことだった。
予想はしていた。彼女ならそう言いそうだと。でも、本当に言うとは思わなかった。もとより私が頭を下げてでもお願いしたかったことでもあるので、快く拝承した。
敗者への命令なのに快くとは可笑しいなと、平塚先生は嬉しそうに微笑んでいた。
そのあと由比ヶ浜さんから比企谷君個人へ何らかの命令があったようだが、私はそれを未だに聞けていない。
ゆきのんは知らなくていいことだよと言われたけれど、気にならないわけがない。
でも、いつか二人は話してくれるだろうと、話してくれるまで続けていこうと、今はそれで納得している。
こうして彼女とは変わらず仲良くしているが、変わらないものはまだ他にもある。それは、あの生徒会のメンバーの繋がりだ。
「やぁ、久しぶりだね、結衣」
「おー隼人くーん。おひさっはろー」
彼もその一人。
私は家の付き合いで彼と会っているから、由比ヶ浜さんほど久しぶりという感じでもない。
彼とはある約束を交わした。私と彼の過去にまつわる、共通の苦い記憶。後悔と呼んでもいい。それをいつか、二人で精算しようと約束をした。
まだ果たされてはいないが、彼はそれを済ませたら自分も前を向くと、そう話していた。
彼も変わろうと、前に進もうと足掻いていると知り、古くから残ったままだったしこりはまた少し小さくなった。
私も家のことから逃げなくなった。やりたいことがあるので親の言う道に進む気はないが、行事などからは逃げずに参加するようにしている。さほど必要とされているとは思えなくても、一応。
決意した次の日に母と会い、私の思いを、拙い私の言葉で少しずつ伝えた。
最初は頭ごなしに否定され会話にはならなかったが、諦めず何ヵ月もの間、会う度に同じ話を延々繰り返した。
すると母は、あまりに強固な態度で主張する私に根負けする形で、渋々ながらも半分ほどだけ認めてくれた。これには少し意外……でもないか、薄々はわかっていたけど、姉さんの後押しもあったから、そのおかげでもある。
長女と言う立場からか、姉としての威厳からか、姉さんは家のことは私に任せてあなたは好きなことをやりなさいと言ってくれた。一生頭が上がらなくなる瞬間だった。
そうして大きな貸しを作ることで私より精神的に優位に立ちたいという思いも若干透けて見えたので、ただの意地だけの反発や、姉さんの戯れ言をあしらう姿勢は未だに続けている。
でもきちんと感謝も忘れてはいないつもり。そうでなければただの子供だから。いや、まだ子供ね、私は。
姉さんは私の姉で、私は姉さんの妹で、家族だ。私には家族を捨てることなどできない。私の帰る場所なのだから。大事な居場所であることには変わりないから。
「こんにちはー、皆さんお久しぶりですー」
「わー、いろはちゃんおひさっはろー」
「久しぶりだね、いろは」
彼女、一色さんを残して一足先に高校を卒業した私たちは、四人とも別の大学に進学した。翌年卒業した一色さんだけが比企谷君と同じ大学だ。
進路がバラバラになったので、当然一緒にいる時間は減った。私以外の人同士がどうしているかを仔細に把握しているわけではないが、こうしてたまに集まって話を聞く限りは頻繁に会っているわけではないようだ。
つまり、全員がそれぞれの場所で、新たに独自の人間関係を築いている。
ただ一色さんと比企谷君だけはそうでもないようだけれど?いや別にこれは嫉妬とかそういうのじゃなくて、彼と同じ大学に行った一色さんがちょっと羨ましいとかそういうことでもなくて、ええと……。
私も彼とはたまに会うようにしているから、そんな風には思ってないはず……思ってるのかしら……。
「な、なんですか雪ノ下先輩……。なんで睨むんですか、わたしの顔、なんかついてます?」
「い、いえ。ごめんなさい、なんでもないわ。ちょっと眩しかっただけ」
「えー。今日曇ってるじゃないですか。ていうか超寒くないですか?早く行きましょうよー」
あのときの生徒会メンバーでこうして定期的に集まって、何か目的があるわけでもなく遊んだり出掛けたりするのが自然と恒例行事になった。今日は私の家で、あれから毎年やっているクリスマスパーティーだ。
「ヒッキーまだかなー。誰かなんか聞いてる?」
由比ヶ浜さんが三人の顔を見渡す。私に連絡が来ずに他の人が聞いていたらちょっと、いやかなりショックなのだけれど……。
「わたしは何も。来るとは言ってましたけど」
「あたしも。隼人くんは?」
「はは、あいつが俺に連絡するはずないだろ」
葉山君が笑いながらそう言えるあたり、彼らの関係も変わったのかもしれないと、なんとなくそう思った。
「あはは、そっかぁ。ゆきのんは?」
「いえ、私も特に…………あ、来たわ」
見ると、両手をポケットに突っ込んで卑屈そうに歩く彼の姿があった。私の最愛の…………まだなんでもない人。
彼とは想いを確認し合ってはいるが、ちゃんとした恋人関係にはまだなっていない……と思う。だってそういう、通過儀礼の告白はまだだし。
一人で立つことができるようになったら、という言葉のハードルが自分の中でどんどん高くなり、今では経済的な自立ができるようになったらという意味で捉えている。
そんなわけで、まだちゃんと言えていないのが実情だ。
でもこうして皆で会ったり、たまに一緒に出掛けたりしては、傍から見たら好意を確認し合っている間柄とは思えないような時間を過ごしている。
正直、彼には酷い我慢を強いている気がしてならない。
男性にはいろいろあることぐらい私だってわかっている。男性だけに限った話でもないけれど、それはまた、徐々に、いずれ、追い追い……。これは順番を守りたい、ような、そうでもないような。
「うす」
「先輩、おーそーいー。さーむーいー」
「ヒッキーおひさっはろー!」
「女性を待たせるなよ、寒いのに。あ、久しぶり」
「へいへい、待たせてすんませんね。つーか集合時間の五分前じゃねぇか。お前らが早すぎんだよ」
「よーし、じゃあ揃ったし買い物行こーかー」
「早く暖かいとこ行きましょうそうしましょう」
三人が前を行き、私と比企谷君が後ろ。歩き始めてから静かに言葉を交わし始める。
「こんにちは」
「おお、こんにちは。…………元気?」
「元気よ」
「寒いな」
「ええ、雪が降るかもしれないわね」
「そうか……」
「ええ……」
短い言葉のやり取りが続く。恋人らしさは皆無。まだ正式にそうなってないから仕方ないのだけれど、彼は今を、私との関係をどう思っているのだろうか。
「ねぇ、私とあなたって、どういう関係なのかしら?」
「…………さぁ。まだ恋人じゃねぇから……、友達?じゃねぇの?」
「それはありえないわ。私はあなたと友達になりたいなんて思ったことはないもの」
私から言おうとしたあれは、押し殺してのものだったし。
「あ、さいですか……。じゃあ何にならなりたいって思うんだよ」
「そんなの言わなくてもわかるでしょう。他人か……」
「まず他人かよ、傷つくわ……」
「恋人か、家族よ」
突拍子もない発言だとは思いつつも、彼となりたい関係はと聞かれたらこれが適切だとしか思えない。
だから素直に言ってみた。顔から火が出そうだ。赤くなっていないと良いのだけれど。
「えぇー。後者はまだ気が早いんじゃないですかね……。まず友達からとかで始めるのが一般的なんじゃねぇの」
「た、確かに家族は少し気が早いわね。でも、一般的なんて言葉が私とあなたに当てはまると思ってるの?」
「……そうだな。捻くれてる俺と真っ直ぐすぎるお前で普通のラブコメになるわけがねぇんだよな」
「そうね。でもこれが私達だから、別にいいんじゃないかしら」
「だな。まぁ、いいかこれで」
前の三人と少しだけ距離が空いた。私達の歩く速度が遅くなっているせいだ。
肌を刺すような冷たい風が吹き、視界にある木々を揺らした。マフラーに顔を埋め、前を向く彼の横顔を眺める。彼の吐く白い息に湿っぽい色気を感じた。
彼と並んで歩いてはいるが、私は本当の意味で彼と並び立つことができているだろうか。
そうであってほしいと願うものの、答えは誰も教えてくれないから自分で判断するしかない。
私の今の感覚に従うならできているはずだ。私は彼に甘えたいけど、もうすがりはしない。死ぬほど辛くても、彼に関係なく一人で自分の道を歩むこともできる気がする。
だから、彼のことをもっと知りたい。もっと欲しい。触れたい。触れて欲しい。いつまでもこんなプラトニックにもほどがある関係でいたくない。
「あの……目指しているものに向けて努力はするけれど、それだけだと経済的な自立はできないから就職はするつもりって言ったわよね」
「おお、知ってる。応援するよ。俺も真面目に働く。……辛いけど」
「内定したら、その、自立したと言えなくもないから、そうなったら、ちゃんと、言うから……」
「……いいのか?」
「うん。もうあなたを我慢させたくないの」
「…………俺、そんな物欲しそうな顔してる?」
「た、たまに……。凄くその、視線を……」
ああ、今私は口元をじっと見られている。気のせいではなく、そんな風に感じることが確かに増えてきた。そんな視線を感じると私も熱いものが込み上げてきて、気を静めるのにいつも苦労する羽目になる。
「すまん……。いやでもそんなん気にせんでくれよ」
「そんなわけにはいかないわ。…………いえ、ごめんなさい。正直に言うと、私も、もっとあなたと……」
「……そ、そか。なら待ってる。待つのがある意味気持ちよくなってきてるし、もう少し待つぐらい全然平気だ」
「それ、飼い慣らされてきてるだけじゃない……」
このままでは彼がドMになってしまう。それは私にとってもよろしくない。彼には……いや、何を考えているのよ私は。
「置いていかれるぞ」
足を止めているうちに、三人とずいぶん距離が開いてしまった。頷いてから少しだけ早足で追いかける。
「お前さ、昔世界を変えるとか言ってただろ」
不意に彼が封印したい記憶に触れてきた。古傷が疼くような感覚に陥るからやめてもらえるかしら。
「何よ突然、そんなのもう忘れてよ……。恥ずかしいじゃない」
「世界は変わったか?」
「……ううん。私が変わっても変わらなくても、私を取り巻く狭い世界は変わらない。私を映す鏡として、そこにあるだけだもの」
「…………そうか」
「でも私と、私の目線は変わった。だからもうそれはいいの」
「そか。じゃあ、次の目標を決めないとな。何かに向かってるほうが道がわかりやすくていいだろ?」
「そうね。でももう、あなたに言われなくてもちゃんと決まっているわ」
「ほーん、そりゃよかった」
「……聞かないの?」
「聞いてほしいの?」
「…………黙って聞いてよ」
「……じゃあ、雪ノ下。次の目標は?」
足を止め、また立ち止まる。
彼もそれに気づき、立ち止まって振り返る。
大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
白い息とともに、想いを、願いを込めて。
「…………幸せなお嫁さん、かしら」
「ばっ…………えー。な、なれるといいな」
彼は絶句して仰け反ったが、踏み留まって私の視線を受け止めた。
まだちゃんと付き合ってもないのに、気が早い馬鹿みたいな想像だってわかってる。
これからちゃんと付き合ったら、一緒に生活を始めたら、これまで見えなかった嫌な部分もたくさん見えてくるのだと思う。つまらないことで喧嘩もすると思う。意地を張って怒らせることもあると思う。
けど私は、あなたがそうしてくれるように、駄目な部分も嫌な部分も全部含めてちゃんと好きになるから。その自信ならあるから。
夢で終わらせる気はないの。
だからこれは、夢じゃなくて、目標。
「そうね、なれるといいわね」
ただ、相手次第でもあるのよね。
だから私は、彼に好かれるように、少しだけ素直になってみようと思った。
これが簡単そうで、私には一番難しかったりする。
「…………頑張ります」
「頑張ってね、期待してるわよ。…………比企谷君」
今度は心を込めて、彼に聞こえるように。
愛しい人の名前を唱えた。
その日、珍しく千葉に雪が降った。四年ぶりのホワイトクリスマスだった。
【雪ノ下雪乃 私の次の目標は】
了
雪乃ルート終わり
いろいろ言いたいことはありすぎるけど、なるべく手短に
とりあえず、疲れた、こんな長いのはもう二度と書かねぇ
と言ってもまだ残りのルートを書くつもりですが一応完結はさせることができたので、これで気楽になりました
雪乃ルートを最初にしたのは、ヒロインだからってのと、個人的に雪乃メインの話を書いたことがないし今後も書かない(たぶん書けない)からであんま他意はないです
どうなんですかね、ゆきのん可愛く書けてたでしょうか
感想下さい是非に
読んでくれた人、レスくれた人、超嬉しいです愛してる
次は自分の一番好きなあのキャラ予定です
またそのうち
乙
いつも楽しませてもらってます。次も期待してる!
おつです すごく良かったです 別ルートも楽しみにしてます
乙!
作者のは読み応えがあるから楽しみに待ってました!
続けて頑張ってください!
乙です!
居酒屋かと思って開いたら
乙です!
乙です
残りも楽しみにしてる
居酒屋の続編じゃないのかww
一気読みした
ちょくちょく口調が崩れてるところがすごく可愛かったで
乙です
短編でも何でもいいからこのシリーズが終わったらまた書いてくれよな
おおーええやん
乙
乙!すごい面白かった
別ルートも楽しみにしてる
乙
凄いなこれ
凄いとしか言いようがない
次も楽しみ
良いEND、良い八雪だった……
こんなクォリティのエンディングがまだいくつか見れるのか、嬉しすぎるぞ
最高だ
他のルートも頑張ってくれぃ
ところでなんとなくはわかるんだけど雪乃のやりたいことが何かとか聞いちゃいけないのかしら
みんなわかってる?
一応自分が考えてるのはありますが、それじゃないといけないってことはないです
想像してもらえるものとそんなにはズレないんじゃないかとも思いますし
良いEND、良い八雪だった……
こんなクォリティのエンディングがまだいくつか見れるのか、嬉しすぎるぞ
前スレの方で今日投下するかもって書いてたけどまだかなー
それとも今日はダメっぽい?
だめかもしれない
いやだめだ、だめです
ごめんなさい
泣きながら書いてます
だ
い
ご泣き
まじAGっすね~
書く必要あるのかわかりませんが一応
共通部からの続きです
欲しいものがあった。
だから、たくさんの嘘をついた。
それは二人にだけじゃなくて、自分にさえも。
醜い内面を隠すために。
欲しいものを手に入れるために。
本当に、一番に欲しいものは手に入らないってわかってしまったから、仕方なく。
ううん、仕方なくなんかじゃない。あたしがズルいだけだ。
二人が知ったらどう思うだろう。それともとっくにバレてるのかな。
こんなことを考えるあたしは、きっと許されない。
睫毛に雪が落ちた。意識的に瞬きをして、かかった雪を払う。
瞬間、訪れる暗闇。
目を開けてもそこにヒッキーがいることに安心し、胸を撫で下ろした。
ヒッキーが一人でゆきのんの家に行こうとしてる。ただ忘れ物を取りに行くだけ、それだけのはずなのに、あたしはヒッキーを行かせたくない。
なんでって言われても、ただの予感としか言いようがない。
「俺取りに行くけど、どうする?あいつらと先帰る?」
ヒッキーは視線をあたしの後ろにいる隼人くんといろはちゃんに向ける。
「あ、えと……。今から取りに行かなくても、いいんじゃ、ないかな……」
ああもう、なんでこんな意味わかんないことしか言えないの。でも、忘れたスマホを取りに行かなくてもいい、ちゃんとした理由なんて元からあるわけがない。無理矢理こじつけてでも行かせたくないだけなんだから。
「え?いや、あれないとちょっと困んだけど……。つか、何?」
「何って、ええと……」
「なんか……。あー、やっぱちょっと待っててくれ。取ったらすぐ戻ってくるから。俺も言いたいことがある」
ヒッキーは頭をがしがし掻いて、言いかけた言葉を引っ込めた。そして彼は俺も、と言った。あたしが何か言おうとしてるのはわかったみたいだ。
確かに言いたいことはある。あるけど、どう言えばいいかも、言っていいのかもわかんないから、だらだらと引き延ばしてるだけなのが現状だ。
「……あたしもマンションまで行く。下で、待ってる」
「……わかった」
そう言うと、ヒッキーは隼人くんといろはちゃんに向けて、忘れ物を取りに行くから先に帰ってくれと伝えた。
「……そうか。またな比企谷、結衣」
「そうですかー……。また、来年ですかね」
「いろは、行こうか」
「…………はい。お二人とも、またでーす」
深く聞いてこない二人に感謝しつつ、あたしも簡単に別れを告げた。優しいな。隼人くんも、いろはちゃんも。
歩き始めたヒッキーの、ちょっと猫背で、あたしよりも大きな男の人の背中を追いかける。ヒッキーの足取りからはなんの感情も読み取れない。
雪が少し強くなって前が見にくくなってきた。
このまま降り続けたら明日には積もるかもしれない。後ろ姿を絶対に見失わないように、速度を上げて距離を縮めた。
このまま抱き付いて強引に引き留めてしまいたい衝動に駆られるけど、その先の道は何もない行き止まりでどこにも辿り着かない。今行くのを引き留めたところで、ヒッキーが想いを告げることは避けられない。
あんなに真剣にそうしたいって言ってたんだもん。あたしに何か言われたからって簡単に変えるわけないよ。
考えてるうちにゆきのんのマンションが見えてきた。エントランスに入ると、視界をぼやけさせる雪もここまでは入ってこない。
ヒッキーがインターホンで部屋の番号を押すと、どうぞと言う声がして自動ドアが開いた。
「じゃあ、ちょっと待っててくれ」
「うん……」
扉の向こう側でヒッキーがエレベーターのボタンを押した。
無人と判断した自動ドアがゆっくりと閉まる。閉まりきるその直前、あたしの体に反応してまた自動ドアが開いた。考えはまとまらないままだけど、勝手に足が動いた。
「ん、え?」
「やっぱり、あたしも行く……」
「……なんでだよ。ほんとにスマホ取って戻るだけだぞ?」
「ゆきのんと、ヒッキーと、三人で話したいの」
やっぱり、やだよ。
あたしは置いていかれたくない。
けど、ヒッキーの想いが誰に向いてるのかは、生徒会室で聞いた隼人くんとの喧嘩でなんとなくわかった。絶対って言い切れるほどのものでもないけど、なんとなく。
ゆきのんはそれを知らない。だからゆきのんは不安なんだと思う。知ってるのにあたしも言わなかった。卑怯だってわかってても。
ヒッキーもあたしがそれを聞いてたってことは、それを聞いてあたしがどう思ったかのかは知らない。
でもさ、あたしは言ったじゃん。二人で出掛ける約束ならもういいって。あたしのことを特別に見てくれなくても大丈夫だって。
エレベーターに乗ってゆきのんの部屋まで行く間、あたしは何も喋らなかった。ヒッキーは何度も何かを言いたそうにしてたけど、結局口は開かなかった。
インターホンを押すと鍵を開ける音が聞こえ、ドアが開く。ゆきのんが半身になって顔を出し、ヒッキーに声をかけた。
「はい、これ」
「おお、すまん」
ヒッキーはそっとスマホを受けとると、ゆきのんと目配せをした。そこで初めてあたしが少し離れて立っていることに気づき、意外そうな顔を見せた。
「…………由比ヶ浜さん?」
「なんか話があんだと」
「うん。ちょっとだけ、いいかな」
「そう……。なら、上がって」
「ゆきのん、ありがと」
そのままリビングに通されて同じソファに座る。ゆきのんはお茶を淹れると言って一人でキッチンに向かった。
ついさっきまで楽しくしてた場所なのに、同じ部屋とは思えないほど空気が冷たく、重く感じる。
これはあたしの気持ちがさっきと違うからだ。これから二人を前に進ませないために、酷いワガママを言おうとしてるからだ。ううん、ワガママなんて可愛いものじゃない。
本物が欲しいっていうヒッキーを、決して嘘はつかないゆきのんを、卑怯なあたしの位置まで引きずり込もうとしてる。そして、二人に拒絶される。そこまで見えてる。それが、どうしようもなく怖い。
けど、それでも、最後になるとしても、二人が折れてくれる可能性が捨てきれない。だから醜くてもまだ足掻きたい。
「どうぞ」
ゆきのんが三人分の紅茶をテーブルに置く。温かくて優しい、いつもなら落ち着く香り。でも、今のあたしには届かない。
「……さんきゅ」
「ありがと」
「それで、話って、何かしら……」
ゆきのんの持ち上げたティーカップとソーサーが小刻みに触れ合い、カタカタと無機質な音を立てた。
…………ごめん。ごめん、ゆきのん。
あたしは紅茶に口をつけることなく、膝の上で拳を握った。あんまり力は入らなかった。袖口に着けたままの青いシュシュは、あたしの心とは対照的に色鮮やかに見えた。
そして用心深く、静かに、ゆっくりと、躊躇いがちに、震える唇を動かす。
「……あ、あのさ、二人とも。やっぱさ、そういうの……やめようよ。あたしは三人がいいよ」
当たり前のように具体的な言葉は使わない。でも二人は、あたしたちはそれでちゃんとわかる。それだけのものを三人で積み上げてきたと思ってる。少しずつ、怯えながら、何度もすれ違いながら、崩しかけながらも高く、遠くへ。
でも高くなるにつれて、下の方にある過去の綻びが目立ち始める。見ないようにしていた小さな違和感は、やがて目を逸らすことすらできないものになっていく。
そしてそれは今にも崩れ落ちそうに見えるから、あたしだけが必死で支えようとしてる。
より強固にしようと思うなら、一度壊してでも最初から積み上げ直すほうがいいのはわかる。
わかるけど、もう一度積み上げたものが同じ形になるとは限らない。あたしの居場所が同じようにあるとは限らない。同じ場所に立てるという保証はない。
だから、守らせてよ。今を。
「由比ヶ浜さん……」
「由比ヶ浜……」
二人があたしに憐れみの目を向け、呆れたように名前を呟いた。今さら何を、って感じなのかな。でも、みっともないのはいいの、別に。
「あたしにとってはさ、これ以上なんてないの。今が一番よくて、これより先に行っちゃうとね、あたしはもう耐えられないんじゃないかなって、思うの……」
三人でずっと仲良くできたら。ぬるま湯に浸っていられたら。この楽しい今がずっと続けば。
最近はずっと、そればかり考えてた。
けど、もうそれも無理なんだと悟った。ヒッキーがどうなのかはあんまり関係なく、ゆきのんがヒッキーを好きなんだと確信できた時点で。
あたしの本心、それは、ひどく現実味のない、夢物語やお伽噺のような願い。
ヒッキーはあたしと両想いで付き合うことになり、あたしの大好きな友達のゆきのんは、一点の曇りもなく心からあたしたちを祝福してくれる。
それが嘘偽りの一切ないあたしの願い。
でもそんなの無理に決まってる。あたしがゆきのんの立場だったらと考えたとき、心から祝福なんかできるわけがないから。
たぶん、きっと、絶対に嫉妬する。もやもやする。あたしがこんなに好きなヒッキーが、あたしじゃない誰かだけを想っているなんて、そんなのをわかって笑ってるなんて、あたしには耐えられない。
あたしには無理でもゆきのんならもしかして、なんてことも思わない。
ヒッキーからも、周りからもそう思われてはいないだろうけど、あたしとゆきのんだけが感じてることがある。それは、あたしとゆきのんは似てるところもたくさんあるということ。
見た目も、性格も、考え方も違ってるんだけど、あたしとゆきのんだけはわかってる。奉仕部への、今の生徒会への、ヒッキーへの想い、抱えているものは同じだということが。
「もう、ダメなの?あたしがこんなに望んでも、二人はあたしを置いて前に進むの?三人でずっと、これまで……楽しかったのにさ……」
言っているうちに楽しかった奉仕部での思い出が頭に浮かび、じわりと涙が滲む。
でもせめて今だけは出てこないでと祈り、我慢する。あたしはここで泣いちゃダメなんだ。泣きたくなるぐらい二人を困らせてるのはあたしなんだから。
「いや、俺はそんなつもりじゃ……」
「つもりじゃなくても、ヒッキーがそうするってことは、このままじゃいられなくなるってことなの。…………これから、卑怯なこと言うね」
二人が息を呑む音が聞こえた。返事はなかった。
けど、言うんだ。あたしが本当に欲しいものは手に入らない。
なら、あたしは嘘でいい。
「もしこのままでいてくれないなら、現状維持を選んでくれないなら、あたしは……」
これは卑怯なんて生易しいものじゃない、脅迫だ。やれもしない口先だけのものでもない。最悪、そうなるかもって可能性は前から頭にあった。
この関係が変わってしまうなら。ゆきのんと友達でいられなくなるなら、あたしはその前に───。
「駄目、駄目よ由比ヶ浜さん。そんなのは……絶対に」
ゆきのんがかぶりを振って、まだ最後まで言っていない言葉を否定する。今にも泣き出しそうなのに、目の奥に強い意思を感じた。その表情から、いかにあたしが酷いことを言って悲しませているかがよくわかった。
あたしのことも大事に思ってくれてるのは、わかってる。信じてる。そうじゃないとあたしの言葉は脅しになんないから。
「あたしは、生徒会を…………」
本当に望んでるのは現状維持なんかじゃない。もっと強欲で、傲慢で、あたしだけに都合のいいもの。でもそんなものは望んじゃいけないから、その次に欲しい嘘を、二人に願う。
お願い、ヒッキー。あたしは…………。
「やめろ。言うな」
怒気の孕んだ声で言葉を遮られた。
ヒッキーもあたしが何を言おうとしてるかわかってる。酷いことを言おうとしてるから怒ったんだと思ったけど、違ってた。こんなに浅ましくて卑劣なあたしに、優しい言葉をかけてくれた。
「俺はお前を卑怯だなんて誰にも言わせない。言わせたくない。だから、言うな」
……ダメなんだよ。あたしは卑怯だし、ヒッキーの望む本物はあげられないから。
「じゃあ……そうして、くれるの?」
「…………いや、それはできない。そんなの、欺瞞だ。もう見て見ぬ振りはしない。俺はちゃんと悩んで、苦しんで、足掻いて……」
「やっぱり。ヒッキーはそう言うと思った。でもね、あたしは…………。あたしは、嘘が欲しいの」
涙が頬を伝っていることがわかった。
泣かないように必死だったけど、どうしても我慢できなかった。
あたしの本当に欲しいものは手に入らない。それは自分でもわかってた。
けど、その次に欲しい嘘ももう、手に入らない。ヒッキーにそんなものはいらないと言われたから。
あたしは嘘でも構わないけど、ヒッキーと、たぶん本当のゆきのんは嘘は望まない。二人とも嘘はつかないし、辛くてもちゃんと選ぶことのできる人なんだ。あたしとは決定的に違う。
だったら、やっぱりあたしはここに居られない。ヒッキーが二人のどっちが好きかなんて、そんなのはもう関係なくここには居られない。
仮にヒッキーがゆきのんのことを好きなら。
あたしはきっとゆきのんと友達でいられなくなる。あたしは嫉妬深いし、心だって広くないから。
仮にヒッキーがあたしを好きだと言ってくれても。
ゆきのんの想いを知った上でゆきのんとも仲良くなんてあたしには想像できない。あたしは臆病で、勝手に相手の立場になった気になって苦しんじゃうから。
今がもうあたしの限界で、関係が変わってしまった未来には耐えられそうにない。それを避けるための現状維持は否定されてしまった。
───楽しかったあの三人の関係にはもう戻れない。
そこはもう、あたしの大事にしたい場所じゃない。あたしの居場所にはならない。
こんなことを考えるあたしは、二人とはもう一緒に居られないんだ。
薄々わかってたけど、結論は出た。もう帰ろう。泣くのもやめないと。最後ぐらいは笑っておかなきゃ……。
「じゃあ、新学期始まったら、先生にもちゃんと言っとくから。バイバイ、ゆきのん。……ヒッキー」
二人とも、そんな、困った顔しないでよ。あたしは今笑ってるつもりなんだから。……できてないんだろうな。絶対、変な顔してるんだろうな。
想いを振り切って立ち上がり扉の前まで行くと、背後からの声で呼び止められた。
「まっ、待って、由比ヶ浜さんっ」
「……なに?」
これまでに見たことがないほど焦るゆきのんを尻目に、務めて平静を装った声で応える。
「あなた、その、比企谷君のことは……」
ダメだよ。それはもうあたしには言えないんだ。
バレバレでも、ただの強がりでも、一度ついた嘘はつき通さないといけないんだ。そうしないと、あたしの欲しい嘘すら二度と望めなくなるからさ。
これから口にするのは、あたしが一番言いたくなかった、一番大きな嘘にまみれた言葉。ずっと言いたかったことと真逆の言葉。
感情を殺す。できる限りでもそうしないと折れてしまいそうだから。ただ声帯を震わせて、意思のない音を形作る。
「…………別に、特別な感情はないよ。ただの……友達だよ」
あたしの震わせた空気は振動となって、二人の耳に、あたしの脳に響いた。
苦しい。気持ち悪い。吐きそうだ。次から次へと新たな痛みが襲ってきて、あたしの胸を巣食っているように感じる。
今のあたしはまともに見られる表情になってるのかな。泣きたい気持ちと吐き気をこらえながら、最後の問い掛けをした。
「けど、それでも……。選んでくれないよね?ヒッキー」
「…………え、あ、そう、だな……。それは、できない」
ヒッキーはそんなことを言われるとは想像してなかったみたいに唖然として、途切れ途切れに、でも確かに、あたしの僅かな希望を打ち砕く。
「そっか……。これからもクラスメイトだから……友達でいてね。バイバイ」
扉を閉めようと再度振り返ったときには、視界が歪んでしまって二人の顔もちゃんと見えなかった。結局開けた扉を閉めることすらせずに、逃げるようにゆきのんの部屋を後にした。
エレベーターはあたしたちが昇ってきたときのままだったからすぐに乗り込むことができた。
1階まで降りてエレベーターから飛び出ると、幸いエントランスも無人だった。こんな顔を誰かに見られないで済んでよかった。
出てどこに行こうとかは何も考えてなかった。家に帰る気もなかった。ただ、離れたかった。泣き声が二人に届かないところまで。
走って走って、気がつけば芝生とほどほどの木々に囲まれた広い公園を歩いていた。ジョギングコースもあり、陽射しのいい日であればサブレと散歩をしたくなるような場所だ。
ここまで走ってきたので、心臓が飛び出そうなほどばくばくと胸を叩いている。荒々しく吐く息は次々と白く染まって消え、喘ぐような呼吸音だけを辺りに残した。
歩くのも嫌になったところでベンチを見つけ、お尻が濡れることも構わず座ることにした。やがて胸が上下するほどだった呼吸も徐々に整い、そうしてようやく前を向くことができた。
変わらず雪はしんしんと降り続き、芝生にうっすらと積もり始めている。街灯があるので周りは暗くないが、こんな天気だからだろうか、人の気配はない。雲に覆われてるから、そこにあるはずの星も見えない。
何かを考える間もなく、ふと、また胸が苦しくなった。走った後よりも。今度は痛みも伴っていた。過呼吸の症状みたいにぜいぜいと喉を鳴らしていると、嗚咽の声が混ざり始める。
「…………うぁっ……はっ………………ぇぐっ…………」
涙を止めようと目を擦ってみたけど、薄いメイクが取れて手の甲を汚すだけだった。でも、もう直そうという気力もない。
あたしには何一つ残らなかった。
全部を欲しがって、全部を失った。
つきたくない嘘もついた。酷いことも言ったし、卑怯なこともやった。そうまでしてあたしの欲しいものを求めた。けれど、やはりそれにも届かなかった。
このまま、この世界から消え去ることができたら楽になれるのに。そんなくだらないことが頭をよぎったけど、臆病なあたしにそんなことができるはずもなかった。
あたしは何もできない。あたしは何も持ってない。
こんなに辛い思いをするくらいなら、いっそのこと、最初から…………。
「由比ヶ浜っ!」
遠くでヒッキーの声がしたけど、あまり現実感がなかった。それに、こんな顔じゃまともに見られない。話すべき言葉も持ってない。だからあたしは泣きじゃくったまま、うずくまったまま動かなかった。
ヒッキーはふらふらしながらあたしの横まで来ると、少しだけ確認するようにスマホを操作してからベンチに腰かける。切れる息を懸命に落ち着かせて、頭の雪をさっと払ってから話を始めた。
「はぁっ、探したぞ」
「頼んで、ない。なんの用……?」
こんな言い方しかできなくて、ごめん。感じ悪いだろうな。性格悪いな、あたし。
「……なんで泣いてるんだ」
「……悲しいから」
「何が」
「何もないから」
「何もなくなんかない。勝手に決めるな」
「勝手じゃないよ。そんなものいらないって言ったの、ヒッキーじゃん」
「俺はお前に嘘はやれねぇよ」
「でもあたしは、嘘でもいいから。嘘が欲しいの……」
あたしは奉仕部の部室で、取り繕わない、建前じゃない本音を言い合える二人の姿に憧れた。
本心を隠して周りに合わせようとする、流されてばかりの自分を変えたかった。
それから少しは変われたと、ちゃんと奉仕部の一員になれたと自分では思ってたけど、最後にはやっぱりこうなっちゃうんだ。あたし、何も変わってなかった。
「それが一番欲しいものなわけねぇだろ。今までさんざ逃げ回ってきた俺の言えた義理じゃねぇけど、やっと向き合う決心ができたんだ。だからお前も……本当の言葉、聞かせてくれ」
子供を諭すように落ち着いた、でもどこか苦しそうな声音だった。
「……言えない。そんなこと。今さら」
「じゃあ質問を変える。さっき言われたことなんだけど、また俺の勘違いだったのか?」
「なんの、話?」
「気持ち悪いかもしんねぇけど、実はな。これまでさんざん悩んで考えて疑って……いろんな人から教わって。お前は俺のことを好きなんじゃないか、そうかもしれないって思ってたんだよ」
「……勘違いだよ。あたしはヒッキーのことなんて…………」
喉を震わせても出てくるのは空気だけで、そこから先は言葉にならなかった。さっき一度は言えたのに。
きっと、次に口にしたら本当に耐えられないってわかったからだ。あたしはこの期に及んで、これ以上自分が傷つくのが怖いんだ。
もう失うものなんかないのに、一度ついた嘘さえつき通せない。あたしは何もかもが中途半端だ。今の苦しさは、勇気も覚悟も足りないのに口にしてしまったあたしへの罰だ。
そして、出なかった言葉の代わりに、これまで以上の涙と嗚咽が溢れ出した。
「…………うっ…………ひっ…………ぅぐっ…………」
息が苦しい。呼吸の仕方を忘れたみたいだ。溢れるまでの涙は目を焼くほどに熱く、頬を伝わる時は寒気がするほどに冷たい。
俯いて自分の膝に落ちる雪と涙を眺めていると、隣にあった足が近付いてきてるのを滲んだ視界の端に捉えた。
やがて彼の手があたしの頭に触れ、雪を払い、優しく髪を撫でつける。
触れるだけで壊れる繊細なものを扱うみたいに、くすぐったくなるぐらいに微弱な力。それでも、ヒッキーの温もりは確かに感じることができた。髪を通して、脳が痺れるような感覚が全身に伝わった。
こんなことされるのは初めてだけど、嬉しいけど、今じゃないほうがよかった。もっと素直に、ヒッキーの優しさに身を委ねたかった。
「もう泣かないでくれ……。お前の泣く顔は見たくない」
「…………えぐっ…………無理、だよ……」
「じゃあ、こうしよう。今から俺の本音を言うから、それがもし、お前が教えてくれない本当に欲しいものと同じだったら、泣き止んでくれ」
「わかった……」
そんなことあるはずないよ。
「俺はな、雪ノ下とちゃんと友達になって、それから……。それから、お前に告白して、恋人になって。それを雪ノ下に祝福してもらって、三人の関係も続けていけたらって思ってる」
「え……?」
「……なんだよ」
「そんなの、無理だよ……」
「無理かどうかは今は置いといてくれ。お前の本当の望みと同じなのか、違うのか、どうなんだ」
「…………同じ、だよ」
「よかった。じゃあ泣き止んでくれ。俺は勝負に勝ったんだからな」
「……わかった。がんばる……」
あたしが最初から無理だと諦めて、言葉にすらできなかったことをヒッキーは惜し気もなく話してくれた。
それはあたしと寸分たがわぬ、同じものだった。
頑張って止めようとせずとも、驚きと言葉にできない呆れにも似た感情で埋め尽くされ、涙は自然と止まってくれた。
「由比ヶ浜」
「な、なに」
「お前は卑怯なんかじゃない」
「卑怯だよ。ずるくて、臆病で、ひどい子だよ、あたし」
「本当に卑怯な奴はお前みたいに苦しまねぇよ。由比ヶ浜は誰よりも優しい。けど、優しいだけなわけがないんだ、人なんだから。…………それをわかっていながら、俺も雪ノ下もずっとお前に甘えてた」
「…………」
「俺のせいで、お前は悩んで、苦しんでたんだよな。今さらだけど……ごめん。この通りだ」
ヒッキーは座ったまま、あたしに向けて頭を下げる。
「や、やめてよ。そんなこと、言われても……」
「私からも、はぁっ、はぁっ……。謝らせて、もらえるかしら……」
「……ゆきのん」
ヒッキーと同じように息を切らせながら現れたゆきのんは、あたしを挟むように彼と反対側に腰を下ろし、額の汗を拭う。お揃いのシュシュが袖口で揺れるのが見えた。
ゆきのんもヒッキーと同じようにあたしを探してくれてたんだ。こんなに寒いのに、体力もあんまりないのに、汗をかくぐらいに一生懸命に。
「由比ヶ浜さん。あなたがそんな風に悩んでいることに気がつけなくて……ごめんなさい」
「い、いいよ別に、あたしがバカなだけなんだから……」
「そういうのはもうやめてくれ。お前が悪いわけねぇだろ」
「ええ。由比ヶ浜さんは、私のこと、嫌い?」
「嫌いなわけ、ないじゃん……。嫌いになりたくないし、嫌われたくない」
「……よかったわ。私はもう二度と……大切な友人を失いたくないの。そんな後悔は絶対にしたくない。だから、私から離れるなんて認めないわ。……比企谷君」
ゆきのんは強く言い切ると、反対側に座るヒッキーの前に移動して、立ったまま顔を伏せた。
二度と、とか、認めないとか、言葉の端々に引っ掛かるものがあったけど、どうにも頭が追い付かない。今はゆきのんの行動を見ているだけで精一杯だ。
「あ、ん?」
ヒッキーは戸惑いながらも、正面に立つゆきのんを見上げる。ゆきのんは自分で肩を抱いて、痛みに耐えるように唇を噛み締めた。
そのまま数秒間、三人の動きが止まる。聞こえてくるのはあたしの鼓動だけ。雪が地面に落ちる音さえ感じ取れそうな静寂。
解き放ったのは、ゆきのんだった。ヒッキーを真っ直ぐに見据えるその瞳には、覚悟の色が見えた。
「私は比企谷君のことが、好き、なの。もしよければ、私の…………恋人になってもらえないかしら」
驚きすぎて声は一切出なかった。相変わらず頭は全然ついてこれてないけど、胸の締め付けだけがあたしに警鐘を鳴らす。
なんで?なんで?
ゆきのん、なんで今そんなことするの?
「…………すまん。俺には他に好きな奴がいるから……。それは、できない」
「……そう、わかったわ。ありがとう……」
あたしの疑問をそよに、二人の会話はあっという間に終わりを迎える。
ヒッキーは苦悶の表情を浮かべながら、ゆきのんの告白を断った。
ゆきのんは静かに目を閉じると、辛そうに表情を歪めた。
目の前で繰り広げられる光景はあまりに淡々としていて、芝居じみて見えた。
そうか、あたしを引き留めるために、二人で示し合わせてこれを見せてるんだ。きっとそうだ。
「由比ヶ浜さん」
最初はそう思ってたけど、ゆきのんの顔を見るとそんなのは間違ってるってことがわかった。思い知らされた。
綺麗な瞼から筋を引く玉のような涙は、街灯の光を受けて鈍い銀色に光った。
「……私は今振られたけど、あなたと友達のままでいたい。比企谷君とも、三人で続けたい。あなただけ離れるなんて許さない。私のためだけでもいいから、離れないでほしいの」
「え、と……」
「こんなみっともない言い方しかできなくて、ごめんなさい。でも、どうやったら私があなたにとってかけがえのない友達になれるのか、どう言えばあなたに届くのか、わからないの」
ゆきのんは長い髪が乱れるのも構わず、駄々をこねるように首を振る。
いつも優雅で、強くて、落ち着き払って、ずっとあたしの憧れだったゆきのん。その彼女が、今は必死になってあたしにお願いをしてる。友達でいてほしいって。
やっぱりさっきのも演技なんかじゃないんだ。でも、ゆきのんは断られるってわかってたのかもしれない。そうじゃなきゃ、話す前からあんなに覚悟したような顔をするはずがない。
わかってて、そうした。
何のために?
そんなの、決まってる。あたしに想いと覚悟を見せるためだ。
ゆきのんはヒッキーのことを好きで、振られることもわかってたけど、それでもあたしと友達でいたいって伝えたかったんだ。
悲しいに決まってる。辛いに決まってる。ゆきのんはもちろん、振ったヒッキーだって苦しいはずだよね。
胸を打たれた。二人の姿に。言葉に。姿勢に。覚悟に。
本音で向き合うということと、痛みは切り離せない。痛いのはあたしだけじゃない。二人はそれを飲み込んで、それでも続けたいって教えてくれてるんだ。
本物とかよくはわからないけど、それがきっと、ヒッキーの言う前に進むっていうことなんだ。
だったら、あたしも逃げてちゃダメだ。痛くても、ちゃんと前を向くんだ。
「嬉しい、けど……。なんで、なんで二人はそんなに、あたしに優しくしてくれるの?あたしはあんなこと考えてて、酷いことも言っちゃったのに……」
「今回は俺たちの番ってだけだ。……俺と雪ノ下は、これまでお前の優しさに何度も救われてきたから。追いかけないわけ、ないだろ」
「……うん。もう由比ヶ浜さんだけに甘えたりしない。私は、ちゃんとあなたの友達になりたいの。だから、お願い、由比ヶ浜さん」
あたしがこの二人から離れようだなんて、できるはずなかったのかも。離れたとしてもあたしは結局忘れられなくて、戻りたくなったんじゃないかな。
今はそうかもしれないって思う。
「ゆきのんはもう、あたしのかけがえのない友達…………ううん。親友、だよ」
「由比ヶ浜さん……」
立ち上がって、ゆきのんの肩を抱き寄せる。ゆきのんもあたしの腰を強く抱き締めた。あたしは胸に、ゆきのんは肩に顔を押し付けて、二人で泣きじゃくった。
ヒッキーはベンチに座ったままばつが悪そうに視線を外してたけど、離れることなく傍にいてくれた。
どのくらいそうしてたのかわからないけど、止まらないと思ってた涙もいい加減枯れ果てたみたいだ。ゆきのんと顔を合わせると、目が腫れ上がって酷い顔になってた。
あたしもこんな風になってるんだろうなと思うと、つい情けない笑みが込み上げる。ゆきのんも同じようにはにかんだ笑顔を見せた。
「……由比ヶ浜、もうかなり遅いけどどうする?電車はまだあるけど、雪ノ下のとこ泊まってくか?」
いつまでも離れないあたしたちを見かねてか、ヒッキーが控え目に提案する。
「私は構わないけれど……。由比ヶ浜さん、どうかしら」
少しだけ悩んで、首を振ることにした。
「ううん、今日は帰ることにする。ママにも言ってないし……いろいろありすぎたから。落ち着いて一人でちょっと考えてみる」
そこまで言ってからゆきのんと体を離した。嘘は言ってないけど、一人になりたいのはゆきのんもじゃないかなと、そう思ったのもあった。
今はあたしのことに気を向けてくれてるけど、さっき告白を断られたことを忘れてるわけがない。
今そこにあたしが居ても、できることはなさそうだ。お互いにとってあまりいいことはないような気がする。
「そう……。なら、お化粧だけでもうちで直していく?」
「んーん、駅で直すからいい。ありがと。あったかいゆきのんちに行ったら帰りたくなくなるかもだし」
「わかったわ。では……また、いつかしら?」
「んー……。また、そのうちで。絶対、そのうちね。バイバイ、ゆきのん」
あたしの気持ちの整理がいつできるかはわかんない。だから、とりあえず次はちゃんとあるよ、という確認だけして別れを告げることにした。
「じゃあな、雪ノ下。…………また、連絡する」
「……ええ。二人ともまたね。比企谷君、由比ヶ浜さんを……よろしくね」
「おお。任せろ」
二人は寂しげな目線を交わして頷き合う。ゆきのんは胸の前で軽く手を振ると、家の方角へ歩き始めた。
気丈に振る舞ってたけど、小さく震える後ろ姿を見て、また胸に痛みが走った。
ゆきのんがこちらを振り返ることは、なかった。
「んじゃ、帰るか。…………送るわ、遅いし」
「ううん、だい」
「送るよ」
あたしの遠慮は強い意思の宿る目と言葉で遮られた。今は素直に受け取って、おこうかな。いいのかな。
「……うん。ありがと、ヒッキー」
「気にすんな」
止まない雪の中を並んで駅に向かう。ぽつぽつと話はしてたけど、どこか他人行儀でどれも短いものだった。
これはあたしがちゃんと返せてないせいだ。ろくでもないことを口走ってしまった罪悪感と、うやむやになってしまったヒッキーの言葉がなかなか頭から離れない。
駅のトイレで簡単にメイクを直して外に出ると、ヒッキーと久しぶりに目が合った気がした。そういえば歩いてるとき一度もこっちを見なかったような。
「お待たせ。……見ないようにしてくれてた?」
「やー、その、失礼かなと」
「そっか。恥ずかしいな……」
「ま、気にすんな。もう泣かせないから」
どういう意味か聞こうと見上げると、ヒッキーは照れ臭そうに目を逸らしてしまった。
ホームはときたま人を見かけるだけで閑散としていた。時刻表を見ると、終電までにはまだ間に何本かあったので安心した。これなら送ってもらってからでもヒッキーはちゃんと帰れそうだ。嬉しい中でそれだけは心配だった。
電車にはそれなりに人がいたので、二人とも扉近くで立ったまま過ごすことになった。お互い目のやり場に困って少しだけ気まずい。何か喋ろうにも車内は妙に静かで、口を開くのも憚られた。
でもやっぱり、もう一回ちゃんと聞かないと、だよね。
うちの最寄り駅に着いて改札を出ると、積もりそうだと思った雪の勢いが弱まっていた。しんしん、から、ちらほらって感じかな。やっぱり千葉にはそうそう積もらないみたいだ。
ヒッキーは今、あたしを気遣ってあまり喋らないでいてくれてるんだと思う。だから、あたしから聞くようにしないと。
もうすぐ家に着きそうだからなんか言わないと、と思ったところで同じような時間を過去にも過ごしたことを思い出す。
二人で行った花火の帰り道だ。あのときは、そう。結局言いたいことが言えずに別れたんだ。
あたしも、前に進まなきゃ。意を決して質問を投げ掛けることにした。
「……あの」
「なんだ?」
「ゆきのん、振っちゃったけど……よかったの?」
「……ああ、あれでいいんだ。順番が逆になったけど、いずれ伝えるつもりだった。俺はあいつの姿勢に憧れてるけど……好き、とか、そういう風には思ってない」
「そうなんだ……。あたしはね、ヒッキーが好きなのはゆきのんなんじゃないかと思ってたんだ」
「そうか……」
そこでヒッキーの足が止まった。あたしは振り返らずに次の言葉を待つ。何か、期待してるのかな。してないって言ったら嘘になるかな。
「ちゃんと言うから、聞いてくれるか」
想いを拒絶しようとしていた胸に、花が開くようにささやかな温もりが甦る。もう胸の高鳴りを抑えきれない。
振り返ってヒッキーの視線を受け止める。
「……うん、もう」
ヴヴッとくぐもった振動音が聞こえ、つい口をつぐんでしまった。あたしの携帯が鳴ってる。
ああ、これは続きなんだ。
あのときは電話に出てしまったから、言葉の続きは言えなかった。ヒッキーもだけど、あたしも最終的に目を逸らしちゃったんだ。
「携帯、いいのか」
「うん、いいの。帰ってママに怒られとく。…………もう、逃げない。最後までちゃんと聞く。今度は、前を向いてるから」
やがて携帯の振動が収まると、濡れた路面を走る通りすがりの自転車が一台、道端で立ち竦むあたしたちの横を通過した。それが始まりの合図になった。
「俺は、優しい女の子は嫌いだって思ってた」
ぽつりと呟くような声が耳に届く。
「優しい女の子は、俺にだけじゃなくてみんなにも優しいってわかったから。昔の俺はそんな子に何度も惹かれて、痛い勘違いを繰り返してきたから」
「うん……」
ヒッキーからそんな話を何度も聞いたことがある。自虐するみたいに言ってるからわかりにくいけど、ううん、違う。わからないように話してたけど、ほんとに辛かったんだろうなって、今ならわかる。
「結局俺には手が届かなかったから、そんな優しい子は幻想だ、嘘だって自分に言い聞かせてきた。けど、お前はいくら疑っても、どこまでも優しかったし、俺はそんな子に相変わらず惹かれてるってことにやっと気付いた」
なんと答えたらいいのかわからない。いや、今は答えなんて求められてないのかもしれない。今はちゃんと聞いて、しっかり考えるんだ。
「俺はその優しさに嘘を返すことはできない。本当の気持ちで、ちゃんと返さないと失礼だ」
真剣な眼差し。真摯な言葉。
ヒッキーはそこで一旦区切って息をつく。拳が強く握られているのが見えた。
「悩んで、考えて、遠回りして、苦しませて、待たせて……俺はその覚悟がやっとできた。俺は由比ヶ浜が、優しいお前が好きなんだ」
ずっと、ずっと好きだった人からの告白。
何度夢に見ただろう。
現実の言葉は、これまでに見たどの夢よりも鮮明で、力強くて、優しかった。
感動で身震いが起こるなんて始めてだ。でも浸ってばかりもいられない。
ヒッキーはあたしの本当の言葉を聞きたがってる。こんなに本音を話してくれてるんだから、もう逃げられない。逃げてちゃダメだ。
前からずっと言いたくて、さっきは絶対に言えなくて。
でも変わらずにいる、あたしの純粋な気持ち。
「…………あたしも、ヒッキーのことが好きで、大好きで、どうしようもなくなるぐらい、好きだよ。これ以上の言葉がなくてもどかしくなるぐらい、好き、なの」
伝えると、緊張した面持ちだったヒッキーの顔が綻んだ。というより、安堵したのかな。
あたしはうまく伝えられたのかな。わかんないな。
やっと言えたけど、嬉しさは思ってたほどじゃない。こんな気持ちで伝えたい言葉じゃなかったはずなのに。
上手くいかなくて、もう嫌になっちゃうな。
まだ言えてない、告白の続き。申し訳なく思いながらも、あたしの本音を綴る。
「けど今は、付き合うとかの返事は、ちょっとだけ、待ってもらえるかな……。ごめん、ほんとに……」
「そうか……。雪ノ下のことか?」
「うん。やっぱりね、あたしはゆきのんからの祝福とかも、全部欲しいの。ゆきのんのことを思うと、あたしだけこんなに幸せでいいのかなぁって思っちゃうの。バカだよね、あたし」
「……お前らしい、って言っていいのかわかんねぇけど、お前がそう考えるのは今ならなんとなくわかるよ。でもなぁ……雪ノ下は喜ばねぇんじゃねぇか、それ」
「だよね、わかってるんだけどね。でも、今は……。決めたらさ、あたしから言うから。そのときはね、えと、どこでもいいから二人で、デートしようよ」
「……わかった。これまでさんざんお前を待たせたんだ。待つよ、いくらでも」
「……ありがと、ヒッキー」
「別にいい。言いたいことは言えたし、聞きたかった本音は聞けたから」
これもちゃんとした本音なんだと感じた。だって、スッキリした顔してるもん。付き合うとか付き合わないとかにはそこまで固執してないのかな……。
「待つのって辛いから。嫌になったら、いつでもやめていいからね」
「それは、これまでお前を待たせた俺へのあてつけか?」
「ち、ちがうし!そんなんじゃなくて、ほんとに……」
「だよな、わかってる。でも止めないから気にしなくていいぞ。俺がそうするって決めただけだ」
「……うん。わかった、ありがと」
「ど、どういたしまして……」
長く続いた本音の会話が途切れると、次に話すことがなくなってしまった。
なんか今になって凄いドキドキしてきた。ヒッキーも同じなのか、恥ずかしそうに身を捩っていた。
「……帰るか」
「あ、えーと、うちすぐそこだから、ここでいいよ」
「そ、そうか」
「送ってくれてありがと。…………嬉しかった。またね、ヒッキー」
「ああ。じゃ、またな。おやすみ」
「おやすみ、ヒッキー」
後ろ姿を見送ろうと思って振り返らずに待ってみたけど、ヒッキーは動く気配がない。
「……帰んないの?」
「や、お前こそ」
「ヒッキーが見えなくなったら帰ろうかなと……」
「いや……。お前が帰るの見届けねぇと送った意味ねぇだろ。さぁ早く行け」
「むぅ……。わかった……バイバイ」
「おう」
どうやら後ろ姿は見せてくれないらしい。仕方なくうちのマンションに足早に向かう。
ヒッキーから見えなくなるところまで行って、それから戻って後ろ姿を見ようとしたけど。
見えなくなってもまだそこにいたヒッキーとバッチリ目が合ってしまった。
ヒッキーは珍しい微笑みを見せると、しっしっと犬を追い払うように手を振った。わかったよ、もう……。
おやすみ、大好きなヒッキー。
声には出さず、小さく開けた口の形だけで伝えてみた。
伝わるかな。伝わってるといいな。
ヤバいなぁ。どんどん好きになってる。やっぱり、ちゃんと彼氏彼女になりたい。
でも…………。
後ろ髪を引かれる思いでヒッキーに見送られ、うちにようやく辿り着いた。静かに、音を立てないように扉を開く。
「…………ただいまー」
「あら、おかえり~」
蚊の鳴くような声で帰宅を告げリビングに入ると、ママはいつも通りに迎えてくれた。怒ってない、のかな……?
「結衣、電話にはちゃんと出なさい。心配するでしょ?」
「うん……ごめんなさい……」
やっぱりちょっとだけ怒ってた。心配かけたのは事実だから素直に謝ると、ママはあっさりと普段の調子に戻った。
今日どうだったの、とか何してたの、とかは一切聞いてこなかった。
話もそこそこに自分の部屋に戻ると、ベッドに倒れるように横になる。
笑ったり泣いたり喜んだり、いろいろありすぎた。こんなに感情が大きく揺れ動くのは始めてだ。
今はとりあえず、疲れた…………。
そのまま眠りに落ちてしまいそうだったけど、ふと外の様子が気になり、のそのそと起き上がって窓の外を眺めてみた。
ちらほらと舞っていた綿毛のような雪は、霧のような弱い雨に変わっていた。
雪は積もらなそうだ。
その代わりに降り始めた雨は、何を洗い流してくれるんだろう。
一一一
あれから一週間ほどが経過した。
つまり、年が明けて元旦になってしまった。
もちろん、あれから二人に何度も連絡を取ろうとした。毎日ごろごろだらだらしながらいろんなことを考え続けた。
悶々としたりもやもやしたりふわふわしたり、もうそれこそ頭から煙が出るんじゃないかってぐらい考えた。
けど、何が足りないのか、何も足りてないのかわからないけど答えも勇気も覚悟も出なかった。
ゆきのんのことを考えると、どうしてもヒッキーと付き合うことが許されるなんて思えなかった。ゆきのんと友達のままで、三人でいられるなら、それはそれでって気にもなった。
唯一といってもいい、実行に移せた行動は二人へのあけおめメールの送信だけだった。どちらからも返信はなかった。かなりへこんだ。
そして今、優美子に誘われるがまま、隼人くんを除いたクラスのメンバーで初詣に来てたりする。
でもこれは少しだけ前進しようと思ったからでもある。
一人ではなかなか外出する気にもならなかった。こうして誘われたのをきっかけに外に出て、帰りにゆきのんとヒッキーに連絡してどこかで会えればと思っていた。
何を話すかは決めてない。けど、直接話さないとうまく伝えられないのは間違いないから。
「大和ー、甘酒飲もうぜー」
「おー、それな」
このメンバーだと、あたしが喋らなくても場が持つから結構楽なんだよね。でもあまりに心ここに在らずだと感じが悪いから、ちゃんと会話に参加はする。
騒いでる男子三人を優美子、姫菜と眺めてると携帯が振動を始めた。
ディスプレイでその名前を見るだけで鼓動が高鳴った。
ヒッキーから電話だ。
出ようかどうか一瞬悩んだ。優美子と目を合わせると、出なよと言ってくれたので震える指で通話ボタンを押し、二人から少しだけ距離を取る。
「……も、もしもし?」
「由比ヶ浜、デートしよう。二人で」
「…………へ?」
なんの挨拶もなしに告げられた言葉はあたしの予想の外も外で、おもわず間抜けな声が漏れてしまった。
「え?……待ってよ、あたしから言うって、待っててくれるって言ったのに」
「やっぱやめた。待っててもどうしようもない奴は、待たない。俺から行く」
「何、それ……」
あたしが昔に言ったことをそのまま返された。た、確かにあたしはもたもたしてたけどさ、どうしようもないってことは……。
「あ、ちょっ」
ヒッキーの慌てた声が聞こえたと思うと、ガサガサとしたノイズが響いた。
な、なに、なんなの?
「…………?」
「……由比ヶ浜さん?」
聞こえてきた声に驚き、おもわずディスプレイを確認してしまった。ヒッキーの電話だ、間違いない。
「ゆきのん?ヒッキーと一緒にいるの?」
「ええ。でもすぐに帰るわ。ちょっと伝えたいことがあるだけだから」
「う、ん。何?」
ゆきのんのペースに巻き込まれ、何がなんだかわからないまま流される。
「私に気を使って彼と付き合わないとか言ってるなら、それは私を最も蔑む行為よ。すぐに止めなさい。これは生徒会長としての、奉仕部部長としての命令よ」
「え、命令?えぇ!?」
「それで、これはあなたの友人としてのお願い。…………私はあなたの負担になりたくないの。だから、ちゃんと幸せになって。お願いよ」
言葉にならない。
先の命令よりも、友人としてのお願いって言ってるほうがずっと胸に響いた。
あたしはもう、こんなに素敵な友達がいてくれて、幸せだよ。
「…………」
「由比ヶ浜さん?聞いてる?」
「聞いてる……」
「なら返事をもらえるかしら」
「わ、わかった」
「よかったわ。じゃあ比企谷君に代わるわね」
「……おす」
「……おす、じゃないよ。なんでこんなことに……」
「今度は待つことになったってあいつに言ったら、こんなことに……。けど待たないってのは言われたからじゃないからな。俺が決めた。まぁその、さっさとしろってハッパかけられたけど……」
「そっかー……。優しいなぁ、ゆきのん……」
溢れそうになった涙が流れないよう上を向く。溜め息のようにゆっくりと吐いた息は白く染まり、滲んで、ぼやけて、消えていった。
優しさに救われてるのはあたしもだよ。
あたしがこんな風に他人に優しくできてるなんてあんまり思えないけど、ちゃんと受け取ろう。後ろめたさも痛みも、全部飲み込んで前を向こう。
「ゆきのん、まだそこにいるよね?」
「おお、いるぞ」
「ヒッキー、ゆきのんに代わらなくてもいいからさ、電話そのままでゆきのんに顔近づけてくれる?」
「お、おう……。近いけど、これでいいのか」
見えないけど二人は今、電話を挟んで顔を並べているはずだ。
もう一度深呼吸して息を整え、よしと口の中で呟く。
それから、限界まで大きく、深く息を吸い込んで、思いっきり声を、想いを、伝えたい言葉を吐き出した。
滲まないように、ぼやけないように、消えてしまわないように、二人にも届くように。
「ゆきのーん!ありがとー!大好き!愛してる!」
周りに人がたくさんいるのもお構いなしに、精一杯の大声で電話に向かって叫ぶ。
周囲の人が何事かとあたしに注目し怪訝な表情を浮かべる。
優美子たちも目を見開いて、各自が好きな文句を言い始めた。
「ちょっ、結衣っ!?」
「あっはは、結衣、なに言ってんの?」
「結衣ー、めっちゃ注目されてんべ……。マジ勘弁してほしいわー……」
恥ずかしくなんかない。いややっぱちょっと恥ずかしいけど、いいんだ、これで。あたしがそうしたかったんだから。
少しの時間を置いて、ヒッキーの声が通話口から聞こえてきた。
「…………鼓膜破れるかと思ったぞ。馬鹿」
「あははっ、ごめんごめん。ゆきのんには届いた?」
「ああ。しかめっ面で耳抑えて……笑ってるよ」
「なら、よかった」
目を閉じて、どんな姿勢で、どんな顔をしてるか、想像する。
ゆきのんの姿が瞼の裏に浮かんできて、また泣きそうになった。涙腺緩いなぁ、最近。
「由比ヶ浜、ちょっとそこで待っててくれ。すぐ行く」
「え、えっ!?」
返事をする間もなく、電話を一方的に切られてしまった。
どういうこと?近くにいるの?
待っててと言われても、みんなもいるし……。そう思って、後ろにいる優美子に目を向けると、寂しそうに微笑んだような気がした。
すぐに振り向いちゃったから顔は一瞬しか見えなかった。
そして後ろ姿のまま、だるそうに腕を上げてひらひらと手を振る。
「じゃーねー、結衣。また学校で」
「え?」
優美子たちはあたしを置いて境内のほうに向かおうとしてた。あたし、まだ何も言ってないのに、なんで?
「ん?結衣は置いてくん?」
「いいからいいから。またね結衣。とべっちー、置いてくよー」
「ちょっ、海老名さーん。あ、結衣またなー。ほれ、大和も大岡も行くべ」
「うーい。まったなー」
「あ、うん。バイバイ……?」
わけもわからず一人ぼっちになり、境内に向かう人の波からはずれた場所にぽつんと立ち尽くす。
なんで何も言ってないのに置いてかれたんだろう。そりゃヒッキーには待っててって言われたけどさ。
そのままぼんやりと待っていると、マフラーで半分顔が隠れたヒッキーがやってきた。ほんとに近くにいたんだ……。
「……あけましておめでとさん」
「あ、あけましてやっはろー……」
「何その挨拶……」
「いいじゃん別に。あのさ、なんであたしの場所わかったの?」
「そりゃあんだけ叫べばわかるだろ」
「いや、なんであたしがここに来てるって……」
「ああ、それは三浦に聞いた」
……そういうことだったんだ。優美子も、姫菜も、とべっちたちも。みんな優しいな。みんなの優しさに一番救われてるのって、あたしじゃないのかなぁ。
「あ、ゆきのんは?」
「帰ったよ。さすがにここまで付き合わせるわけにもいかねぇだろ」
「そっか……」
「んで、その、で、デートは……どうなんだ」
「え、えと……行くよ。どこ行くの?」
「ディスティニィーの、ランドじゃないほう、とか。どうですかね……」
「……嬉しい。いつ?」
「いつなら空いてんだよ」
「…………今以外なら、いつでも」
「そうか。今からなんかあんの?」
「ゆきのん、追いかける。まだ近くにいるよね?」
「お、おお。まだ駅にも着いてないと思うけど……」
「よし、行こっか。今日のところは……三人がいい。二人で行くのは、んーと、明日にする?」
「急だな、おい……。けどまぁ、わかった。時間決めて夜にでも連絡する」
「メール?」
「……で、電話で」
「……うん。ね、ヒッキー」
「ん?」
ヒッキーの肩に手を乗せて、背伸びをする。
さっきは遠くのゆきのんに届くように、全力で叫んだけど。
今度はヒッキーだけに届くように。
他の誰にも聞かれないように、顔を耳元に寄せて、囁く。
「大好きだよ」
「…………あー、ちゃんとやっとくか。由比ヶ浜」
「……はい」
その言葉だけでこれから何が始まるのか理解できて、自然と背筋が伸びた。
「俺は由比ヶ浜が好きだ。もう泣かせたりしないから、よかったら俺と付き合ってくれるか」
「……はい、喜んで。こちらこそ、よろしくお願いします」
我慢しようと思ったけど、ダメだった。
ヒッキーをさっそく嘘つきにしてしまったことを謝って、胸に飛び込んだ。
これからもずっと続くといいな。
あたしの大好きな二人と一緒に。
この時間を短くても永遠にしたいな。
なんて、お伽噺みたいなことを考えながら、ゆっくりと流れ始めた人生で一番幸せな時間を噛み締めた。
【由比ヶ浜結衣 あたしの欲しかった嘘】
結衣ルート終わり
疲れた…………
どうなんでしょう、もう自分でよくわからなくなってきてます
感想もらえるとすげぇ嬉しいです
次はいろは
前二人ほど苦しくはならないし長くもならないと思うんで、なるべく早目に投下できるといいな
またそのうち
本当にいい八結でした、ありがとう
お疲れ様です
序盤の胸を締め付けられる感じ、辛かったけどこれが結衣の真骨頂よね
本当にお疲れ様でした
ガハマさんだだっこかわいい
面白かったの一言
乙です
乙です
ガハマさん良かったね!
正直分岐は微妙だと思ったけど
確かにこれは分岐ないと選ばれなかったほうがつらすぎるわ
凄い良かった
いろはにも期待してます
乙です 良かったです。 別ルートも楽しみにしてます
素晴らしい八結だった
いろはも期待してる
乙
よかった
乙乙
この三人のこの感じが見たかったからまじ嬉しい
お疲れさまです ほんと素晴らしい
結衣好きにはマジたまらん
泣くわこんなん
乙です!
凄く良い八結で、本当に泣けてしまったよ
めっちゃおもしろかったです
できれば過去に書いた作品のタイトル教えてください
八雪派で前回のEDみて満足していたが今回のも泣いた
マジよかったよ、いろは編も楽しみにしてる
>>122
本物とかよくはわからないけど
→本物とかはよくわからないけど
そして修正ついでに前書いたやつお答え
比企谷八幡は変化を受け入れる
由比ヶ浜結衣はまた恋をする
一色いろはは諦めきれない
川崎沙希に幸福を
いろは「おかえりなさい、せんぱい」八幡「いい加減先輩ってのは……」
いろは「おかえりなさい、あ、あなた」八幡「……やっぱ先輩にするか……」
結衣「おかえり、ヒッキー」八幡「……いつまでヒッキーって呼ぶんだ」(途中)
あとはこれ(途中)
これが長すぎて夏から一つも完結できてない
私はもうちょっとさらっと読める感じを目指してるんですが全然うまくいかない
あと最近ちょと忙しくてあんま書けてないのでもうしばしお待ちを……
居場所と居酒屋でなんでこんなに人気に差が付いちゃったんだろうなあ
そらもうクオリティの差よ
文体は変えないで欲しい。
台詞が丁寧で何考えてるか読み取りやすくて感情移入がしやすい。
名作だと思います。
>>172
返信ありがとうございます!
早速読んできます
まだかなー、どんな展開になるんだろ
前二つも最高すぎるほど最高だったけど俺はいろは派だから楽しみにしてます
読むときは家で読まないとこの作者のはうっかり泣いてしまうからな
信者がキモいwwwwwww
笑いすぎて泣けるわwwwwwww
また居酒屋信者が暴れてるのか
本当にガイジしか居ないなぁ
触れてはいけない
全然短くならなかった
もう暫く気長にお待ちくだせい
私待つわ
むしろ長い方がいい
頑張って
>>119
あたしの疑問をそよに
→あたしの疑問を余所に
例によって共通部からの続き
少し緊張しているからだろうか、喉の乾きを覚えた。切なくなるような胸の疼きは無視していつもの笑顔を作り、ペットボトルに手を伸ばす。
水で口内を潤したところで、隣に座る雪ノ下先輩がさっと周囲を見渡し、毅然として居住まいを正した。
その瞬間、喧騒にまみれた生徒会室が水を打ったように静まり返る。これ何の特殊能力なんですかね……。
いやー、こんなの無理ですって。
さほど広くもない生徒会室には今、総勢九名の人間がひしめき合っている。いつものメンバーと、この春から生徒会役員でもないのに入り浸っていた子と、あまり面識のない人。
季節は巡り、新生徒会へ移り変わる時期がついにやってきた。雪ノ下先輩が、わたしたちが大切に守ってきた居場所は、これから新たな人たちに引き継がれることになる。
今日は正式な引き継ぎじゃなくて、長い選挙期間を経てようやく決まった新生徒会役員の顔合わせ。
もちろん、これはわたしたちも去年通ってきた道だ。来年も、その次の年も、学校がなくなるまで延々続いていくのだろう。
わたしが一年生のとき、この部屋の主は城廻先輩だった。その後、一悶着の末にこの部屋は城廻先輩から雪ノ下先輩に受け継がれた。
そして雪ノ下先輩から今、次の生徒会長へ。
「では、全員揃ったようだし始めましょうか。前生徒会長の雪ノ下です」
これまで何度も聞いた挨拶。今日はそこに初めて「前」という二文字が付け加えられた。
たったの二文字。でも、これはあれから、かけがえのない一年が経過したことを示す大きな二文字。
考えたくもなかった、先輩たちがこの部屋からいなくなる日はもう、すぐそこに迫っている。
「今日は正式な引き継ぎではないただの顔合わせだけれど、引き継ぎをする相手も知っておいたほうがやりやすいでしょうし、初めての人もいるから……各自、軽く自己紹介しておきましょうか」
「えー。そもそも庶務に引き継ぎってあんの?俺いらなくね?」
「そんな!俺にも引き継いでくださいよ!」
新たな生徒会にも先輩と同じように、役職のない庶務として参加するメンバーが決定していた。それが、今先輩に異議を申し立てた大志くん。
この春から入学してきた一年生だ。聞くところによると、先輩たちの同級生の弟さんらしい。
わたしも面識はあるはずなんだけど、なんか怖い感じの先輩だった気がするってぐらいで、あんまり覚えがない。とりあえず大志くんみたいな感じではなかったはず。
彼は役員選出の選挙が終わったところで、役職がなくても入れるのなら入りたいと自ら志願してきた。
そんなことするなんて変わってるなーと思ったけど、どうやらちゃんと理由があったみたい。
「うるせぇ毒虫。俺はお前を認めてねぇぞ。つかやめとけよ、庶務なんか志願してやるようなもんじゃねぇ」
「認めないってヒッキー、頑固親父じゃないんだからさ……」
「あなたの許可なんか必要ないわよ。川崎君、この男の言うことは気にしないでいいからね」
新生徒会のメンバーを初顔合わせでいきなり罵倒し、あわよくばやめさせようとする先輩を二人が嗜める。
そうですよ何考えてるんですか。好き勝手に使える貴重な下級生の労働力が減っちゃうじゃないですか。
「先輩、下級生脅かすのやめてもらえますかー。まあやめたくなるほど働かされるのは本当かもしれませんけど」
「え、マジすか?」
「マジだ。俺は禿げるかと思うほど雑用をやらされた。それにお前、仕事がしたくてここに…………」
先輩はそこで言い淀むと、隅にちょこんと座ってニコニコしているもう一人の一年生にちらりと目を向けた。
生徒会メンバーでもないのに春から生徒会室に入り浸っていた先輩の妹さん、小町ちゃんだ。
その小町ちゃんは何のことですか?とでも言いたげにきょとんと首を傾げている。
小町ちゃんはわたしと似た部分を持ち合わせている。出会ったときになんとなくそう感じて、仲良くなって確信した。だからこれもわかった上でやっていることだ。たぶん。
たぶんというのは、天然か養殖かを図りかねるものがごくたまに混ざるからだ。そしてそれは超可愛い。
これはあれなんですかね、リアル妹だから出せる何か。くそぅ。
「…………まぁいいや。あとで一人で屋上に来い」
「えー!?俺ボコられるんすか!?」
「雪ノ下さん、自己紹介始めようか。俺たちをよく知らない子もいるんだからさ。ごめんね、騒がしくて」
脱線したまま走り続けそうになる会話を葉山先輩が引き戻し、呆気にとられているあまり面識のない二人に声をかけた。
「えっ、あっ、いやっ、そそっ、そんなことないです!みなさん楽しそうで、羨ましいです!」
あーはいはい。葉山先輩に話しかけられて嬉しいですねー。
両手をぶんぶん振りながら舞い上がるこの子は次の会計に選出された、わたしの同級生の子。
友達…………友達、ではないかなぁ……。素直で大人しい子っぽくてちょっと苦手だけど、これからは仲良くしないとなぁ。
「あ、いえ……。気にしないでください。俺は、その……大丈夫ですから」
この子もわたしの同級生で、副会長に選出された。サッカー部でもないし、正直よく知らない人だ。けどこの人ともうまくわらないとね。
「そうね、ごめんなさい脱線してしまって。では私たちからやりましょうか。私は済んでるから葉山君、よろしく」
そこでようやく、わたしを除く旧生徒会メンバーの自己紹介が始まることになった。
この一年間、先輩たちと生徒会で様々なイベントをこなし、数々の伝説を作り上げた。
どれも嫌になるほど大変だったけどその分楽しくて充実していたと、つい最近のことのように思い出すことができる。
たかが校内行事に伝説っていうと大袈裟だとは思うけど、先生たちによればどのイベントもこんな盛り上がりは過去の記憶にないとのことだ。
そしてその成功はわたしたち生徒会の働きによるものだと、少なくともわたしはそう思っている。
もちろんたくさんのお手伝いさんや有志メンバーの助力もあったし、わたしは生徒会役員として先輩たちほどには役に立てていなかったけど、それでも。
最初の合同クリスマスイベントこそ少しもたついた印象のある雪ノ下先輩だったけど、それ以降はうってかわって生徒会長として絶大なリーダーシップを周囲に見せつけた。
何が起こるかを予測して多数の課題を表面化する前に潰し、有無を言わせない合理的な指示と、自身の運営・企画能力、事務処理能力でもって、あらゆるイベントの先頭に立ちみんなを引っ張っていった。
優秀な人だと、わたしなんかが上からみたいに言うことさえ憚られる雪ノ下先輩だけど、一人では手が届かないような大規模なイベントになると足りないものもたくさんあった。そんな時でも目だけは行き届かせていたのは流石としか言えませんが。
その足りないものを補い、手足となって支えていたのが葉山先輩と結衣先輩だ。
二人は人脈と人当たりの良さを活かし、葉山先輩は主に運動部に、結衣先輩は女子と文化系のクラブに働きかけることでスムーズに有志を募り、円滑に話を進めることができた。
加えて二人は下級生からの人気も絶大だった。それもより一層、事を荒立てずに人を動かすことができた理由だろうと思う。
まぁ人気があるのは雪ノ下先輩もわたしもなんですけど。別に自意識過剰じゃないですよ。今の生徒会役員は校内でちょっとした有名人みたいになっちゃいましたから。
そして、こんな生徒会役員のわたしたちを影のように見守り、時に尽力してきたのが、唯一下級生から人気がないというかあまり認知されてない先輩だ。
主に雑用と事務処理を。たまに先輩独自のわけのわからない思考と決断力によりイベントは新たな方向に向かっていったりもした。
挙げてきた功績の裏には、当然のように避けきれない諍いや問題があった。その解決には、葉山先輩や雪ノ下先輩、結衣先輩だけではできなかったものもあったと思う。
けど、この生徒会は奇跡的なほどにバランスが取れていた。
足りないものを補うという意味では、役職のない先輩の存在意義は唯一無二のものだった。けどその先輩も当然、一人では意味がない。
光と影のようにお互いがお互いを支え合うことで、初めてできることがある。一人で全部できる必要なんてない。
わたしたちは各自が自分にやれることをやることで、生徒会として最大限のパフォーマンスを発揮していた。
葉山先輩と先輩はずっとそっけない感じで接しながらも、お互いを認め合っていたんじゃないかなと思う。全員が仲良しとは言えなくても、わたしたちのチームワークは最高だった。先輩たちもきっとそう思ってる。残した結果もそう言ってくれてる。
わたしは先輩たちについていくだけで必死だったけど、こんな風にして総武高校生徒会は多大な功績を残したわけです。が。
その最上の結果に起因する唯一の弊害が、生徒会最後の仕事である、次期生徒会役員選挙の時に顕在化することになった。
ただでさえ酔狂な人しかなりたがらない(偏見ですかね?)生徒会長に、誰もなりたがらなくなってしまったのだ。
直後の後任であれば嫌でも前任の雪ノ下先輩と比較されてしまう。
それを恐れて、一年生はもとより二年生からも立候補者が全く現れない。わたしのときのように推薦もなかった。これには全員がお手上げだった。
それぞれ仲の良い後輩や知り合いに声をかけてみたものの、皆に同じような理由でやんわりと断られてしまい、どうしたものかと途方に暮れていると先輩が一つの提案をした。他の先輩たちもそれしかないなという意見だった。
一方、他の役職を見ると立候補者がいたのは副会長と会計だけだった。
後でわかったことだけど、二人の様子を見る限り、動機としてはただ葉山先輩、結衣先輩と接点を作りたかっただけっぽい。
なら役職を逆にして立候補すれば引き継ぎで話もできてよかったのにと思うけど、そこまでの厚かましさはなかったってことでしょうか。
ま、理由はなんでも別に構いませんけどね。わたしもそう変わりませんし。
そして何故かまた書記には立候補者がいなかった。わたしのせいじゃないと思うんですが……。
でもそこは、小町ちゃんが条件付きでやってもいいと言ってくれた。
生徒会長候補がいないことに対する先輩の提案、先輩たちの意見。小町ちゃんの提示した条件。
それは、わたしが次期生徒会長になることだった。
先輩たちの旧生徒会メンバー、その後に新生徒会メンバーと順次簡単な自己紹介を終え、最後がわたしの番だ。
緊張しているのが伝わったのか、雪ノ下先輩が柔らかく微笑んで、みんなにバレないように少しの間そっと膝に手を置いてくれた。
「では最後。これまでが書記で、新生徒会長になった一色さん、どうぞ」
みんなの目線が一斉に集まり、おもわずたじろぎそうになる。
けど、わたしは先輩たちにたくさんの心強い言葉をもらった。たくさんのことを教わった。
憧れで、大好きで、近付きたくて。
その先輩たちみんながわたしを推してくれた。誰もいないからって理由じゃなくて、わたしならできるって言ってくれた。
先輩たちが居たこの場所を次に守るのは、わたしの役目だ。
「え……と。生徒会長に就任することになった一色です。ほんと、偉大な先輩たちの後任ってことでスゴい大変だと思うし、緊張も、してます」
声が、声が変だ!落ち着けー、落ち着けー……。
「わたし自身、雪ノ下先輩みたいにいろいろこなせるほど優秀な人間じゃないです。むしろ足りないものしかない、どこにでもいるような平凡な一生徒でしかないです。でも…………」
ヤバい、何言おうとしてたんだっけ。
冷や汗をかきながら目を彷徨わせていると、離れて座っている先輩と目が合った。
先輩は至って真面目な顔で一度だけ頷く。
それだけで十分だった。言葉はなくても、先輩が言おうとしてくれたことは伝わった。ただの思い込みでも構わない。
「……この一年間、書記として先輩たちの傍にいていろんなことを教わりました。それを大事にして、先輩たちに恥じない生徒会にできるよう頑張っていくので、至らぬわたしですがみなさんもご協力よろしくお願いします」
ふーっと息を吐くと、生徒会室に控えめだけどしっかりした拍手が沸き起こる。うぅ、むず痒い。
でも、まだ終わりじゃなくて、もうちょっと言いたいことが。
拍手が止んだところで口を開こうとする雪ノ下先輩を制し、話を続ける。
「と、まぁわたしはいろいろとできないことも多いので、みんなを必要以上に頼るつもりです。ぶっちゃけるとガンガン指示出しますからねー。特に大志くん。よろしくでーす」
「え、特に俺っすか!?」
「俺らの代から生徒会庶務に人権はなくなった。諦めろ」
「はー。大志くんがいてくれて助かった。小町はセーフですね」
「そうか、俺がいることで比企谷さんが助かるなら……」
「役員でも関係なーし。小町ちゃんもだからねー」
「うえぇ!?そんな、いろはせんぱーい」
にわかに騒がしくなった新生徒会のわたしたちを、先輩たちが穏やかな目で見守ってくれている。
「なんか、あれだね。次の生徒会も、楽しそうだね」
「そうだな。卒業してもたまに様子を見に来てみるかな。城廻先輩みたいにさ」
「……そうね。たまに一色さんを見に来ようかしら」
「お、お手柔らかに頼みますね……」
「ふふ、それは一色さん次第よ。では今日はここまでにしておきましょうか。引き継ぎの時にまた集まりましょう」
雪ノ下先輩が場を締めて、初顔合わせはお開きとなった。ゾロゾロと連れ立って次々と部屋から出ていく。
昼休みの時間ももうすぐ終わりなのでみんな教室に戻ったのだろう。
雪ノ下先輩に鍵はかけておきますと伝え別れると、部屋に残るのはわたしだけになった。わたしも戻らないといけないけど、あまり動きたくない気分だ。
今まで雪ノ下先輩が座っていた生徒会長の席に、一人佇む。
先輩たちは引き継ぎが終わったら、もうここへはたまにしか来ない。もう少し先の卒業ともなるとほとんど来なくなるのは間違いない。
先輩と、先輩たちと会えなくなる。
それが今、たまらなく寂しい。
後を継いだ生徒会長をしっかりやっていかないとという決意はもうできている。
けど先輩たちがいないこの場所で、わたしがいつまでやる気を維持できるか不安で仕方ない。先輩たちの存在はわたしにとってそれほど大きかった。
ぐでーっと机に突っ伏してそんな感傷に浸っていると、扉が開き何故か先輩が顔を覗かせた。
「お前だけか。何してんだ?」
「……ここにいたい気分になって。先輩こそ何してるんですか?」
「あー、次の授業の移動。通りがかったら扉が開いてたから誰かと思ってな。…………ま、別に用はないし行くわ。じゃあな」
「あ、ちょっと待ってくださいよ。少し話、していきませんか」
「ん、なんだ。あんま時間ねぇけど」
そう言いながらも先輩は生徒会室に足を踏み入れ、扉をきっちり閉めた。生徒会長の位置から離れたいつもの席に座ると、参考書やノートを机に置く。
寂しいです。素直にそう言ってもいいのかな。似合わないって思われるのかな。そんなことを考えていると、意外にも先輩のほうが先に口を開いた。
「そういやさ、さっきの挨拶なんだけど……もっとあざとさ全開の挨拶するかと思ってたのに、割と普通だったな。てか真面目だな」
「あぁ、はい。そういうのを誰彼問わず振り撒くのはもう、やめることにしたんです。あのときから」
これは本当のことだ。そういうのはもう、勘違いされてもいい人にしかやってない……つもり。
「ふーん…………ってやめてたっけお前?それにあのときっていつのことだよ」
確かに先輩にはやめてるかどうかはわからないかも。ただ、あのときのほうはわかってもよさそうなもんですが。
「えーと、それはー……」
視線を斜め上に逸らして、言おうか言うまいか考える。
んー、やっぱり先輩に気づいてほしいな。わたしが変わったと思ってる、そのスタート地点はあそこなんですよって。
「それは?」
「ヒ・ミ・ツ、です♪」
「…………やっぱやめてねぇじゃん」
先輩が引きつったように強張った顔を浮かべたので、むっとしてつい頬を膨らませてしまう。
そんな、これまでに何回も何回も繰り返したやり取りが、例えようもなく嬉しくて、楽しい。今はそれと同時に、空虚な物悲しさが風のように心を撫でる。
先輩たちと出会い近づくまで、何気ない日常の中にわたしの居場所があるなんて考えたこともなかった。見えないものは、わたしの内側に痣のように残っている。
一年の間に、少しずつ変わっていった。
自分でも気づかないうちに心に芽吹いていた想いはあの瞬間から息づき始め、気が付いたときには誤魔化しようがないほどにまで育っていた。
でも大切にしたいものは他にもある。二人の先輩も素敵で嫌われたくないし、そもそも張り合える気があまりしない。
なにより、わたし一人の我儘でこの関係を歪なものにしたくない。その思いがわたしの踏み込もうとする足を押し止めた。
わたしにとって先輩の存在は、求めるには遠すぎて、諦めるには近すぎる。
「はぁ……」
無意識に憂鬱な溜め息が漏れていた。そして先輩はそれを聞き逃さない。
先輩はあざといあざといってわたしに言うけど、先輩もあざといし目ざといと思います。
「どうしたんだよ、溜め息なんかついて。生徒会長、やっぱしんどいか?」
「…………いえ、そうじゃないです。こうして先輩と話せるのもあと少しなんだなって思うと、つい……。先輩、いなくなっちゃうんですよね」
「まぁな……。ダラダラ前任者に居座られても迷惑だろ。小町もいるしたまには見にくるかもしれんけど」
「いや、生徒会もそうなんですけど……。あと二ヶ月もしたら学校にこなくなるじゃないですか」
「ああ、ちゃんと来るのは今年いっぱいだろうな。年明けたら受験だからほとんど登校しねぇと思う」
「それで、次は卒業、ですよね。…………寂しいです」
言おうか迷っていたけど、これからのことを確認しているうちに我慢できなくなった。
胸に棘を植えられているような、ちくちくとした痛みがどうしても離れてくれない。
「そうか……」
「……なんでわたしは先輩たちと同級生じゃないんですかね。一人残されるみたいで、嫌です」
「んなこと言われても……。ていうかな、別にその、あれだ。俺らが卒業したとしても、それっきりとは限んねぇだろ」
「それって……卒業してもたまに来てくれるってことですか?」
「いやそうじゃなくてだな。いや、それもなんだけど……ああもう。わかれよ。これから先もまた一緒にならんとも限らんだろっつってんだ。高校卒業したってまだ人生続くんだし」
先輩は少し恥ずかしそうに、目を背けながらもごもごと話す。
え、えーと、それはどういう…………。はっ!?
「な、なんですか一緒になるって、それもしかして家庭に入ってくれとか言ってるつもりですか?付き合ってもないのにプロポーズはいきなりすぎて無理です順番守ってくださいごめんなさい」
「ちげぇよどういう解釈だよ……」
「…………あ、わかった」
こんなときに前から考えていたことの答えを思い付いてしまった。
後輩であることの利点、あった。でもなー、やりすぎるとストーカーみたいに思われないか心配だなぁ。
「そか。俺もあんまり考えてなかったけどさ、まだ先はあんだよな、これからも」
「…………そうですね。高校が全てじゃないですもんね。ちょっとだけ、元気出ました」
「そうか」
「で、聞きたいんですけど聞いていいですか?聞きますね。先輩、どこの大学が第一志望なんですか?」
「突っ込む隙間すらなかった。えと…………ここ」
そう言うと、先輩は手元の本をわたしに掲げて見せた。参考書かと思ってたその本は大学の過去問題集で、その表紙に記された大学名を見ておもわず息を呑んでしまう。
「え、マジですか?どっかで私立志望って聞いたことあるんですけど……。ここ国立じゃないですか」
「元はそうだったんだけどな……。変えたんだよ、いろいろあって」
「そうなんですか……」
いろいろ。そこにはきっと、わたしが知ることのできない思いが含まれてるんだろうな。
「ちなみにめぐり先輩の行ったとこな」
「は?もしかして先輩、追いかけるつもりじゃ……」
「はぁ?なんでだよ、たまたまに決まってんだろ。めぐり先輩がいるって知ったのは志望変えた後だし」
「はー、よかった……。城廻先輩、たまに遊びにきたときも先輩と妙に仲良さそうだし、わたしが知らないだけでそうなのかと……」
「んなわけねぇな。で、俺の志望校がどうかしたのか?」
「え?えーと……。あ、いや、ちょっと待ってください」
「何を待てば…………っと」
そこで昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
聞こえた瞬間から鳴り終わるまで、二人で目を合わせたまま動かなかった。
次の授業があるから戻らないといけないのに、鳴り終わっても二人とも動く気配はない。
「行かないでいいのか?」
「先輩こそ」
「あー……。俺はどうせもう授業なんか聞かずに過去問やってるから、行ったところであんま意味ねぇんだよなー」
「じゃあわたしもサボりますから、ここに居てください」
「えぇー、生徒会長様がそれでいいのかよ」
「体調不良ですから、仕方ないんです」
さっきから心拍数が高くて顔も熱い。これは典型的な病気の症状だ。と、自分に都合のいい言い訳を作り上げる。
「……わたし、顔赤いですよね?」
「そういや、そうだな。…………なら仕方ねぇか」
わたしは二人でもっと話したくて、聞きたいこともたくさんあるから仕方ないんです。
先輩も素直にサボることに決めたようだ。もしかしたら最初から授業に行くことに乗り気ではなかったのかもしれない。
考えてみれば生徒会に入ってから今まで、先輩と二人になれたことは数えるほどしかなかった。
狙ってそうしようとしたこと自体あんまりないけど、わたしと先輩がいる傍には奉仕部の二人に限らず、不思議と必ず他の誰かがいた。
恒例の犬の散歩の時間だぁーヒャッハァー!
休憩で……
はよ
ここですんどめ……
乙
だからというわけでもないが、わたしはこれまで先輩にあれからどうなったのかを直接聞けずにいる。
先輩の後押しをしてしまったあの日以降、どんな変化が、進展があったのかということを。
去年のクリスマス、雪ノ下先輩と結衣先輩の手に突然お揃いのシュシュがつけられたのを見て、先輩があげたんだなということはなんとなくわかった。
締め付けられるような痛みと、憧れに隠れた嫉妬心がわたしの想いをまた確かなものにした。
それからの三人の様子を見ている限りでは、以前に感じた危うさが薄れて柔らかくなったように感じたものの、さほど特別なものになっているとは思えなかった。
そして、似た波長を感じたのか、人懐っこい性格も手伝ってすぐに仲良くなった小町ちゃんからも付き合ってはいなそうとの情報を聞き出していた。
なら何が聞きたいのかというと、先輩がどういう選択をしたのかだ。
もっと言うと、踏み込んだのか、いないのか。それは知っておきたい。知ってどうしたいとかは特に考えていない。
ただもう時間がない。今日聞けないと会える回数も減って、ずっと聞けないままになる。そんな気がした。
「あ、鍵かけといてください。念のため、ですけど」
「……誰か来るとも思えねぇけど、そうだな」
カチャリと鍵の閉まる音がして、密室に二人きりになった。授業はもう始まっているだろうから、おそらくここに誰か来ることはない。
どうしよう。勢いでサボったものの、どう話を切り出せば……。と思って先輩に目をやると、ノートを広げて問題を解き始めていた。
「あ、勉強するんですね……」
「そりゃ受験生だからな。ここ静かだし、教室より捗りそうだ」
「あの、邪魔になると思いますけど話しかけても大丈夫ですか?」
「別にいいぞ。解きながらでもちゃんと聞ける」
先輩は問題集から顔を上げないままだ。
「いや、たぶん無理ですよ。いろいろ……聞きますし」
「まぁ気にすんな。なんだ?」
カリカリとペンを動かしたまま話を続ける。
「先輩、告白したんですか?」
ペンの動きが止まり、ゆっくりと顔が上がった。驚いているのかなんなのか、困惑した顔の先輩がわたしをじっと見据える。
「…………誰に」
興味本意で聞いてるわけじゃないんです、茶化したりするつもりもありません。言葉を用いずにそう伝えるべく、真剣な眼でもって先輩に視線を返す。
「誰かはわたしにはわかりません。去年の話です」
「あー……。まぁ今さらだし、お前から貰ったもんもあるし……別にいいか、お前になら。…………したよ」
強く心臓が脈打つのを感じ、声に震えが混じった。
「それで、結果は……」
「振って、振られた。その後は見ての通りだ。ただの部活仲間で、生徒会の一員だな」
先輩が、誰かを振った。
先輩は、誰かに振られた。
「そう…………ですか。でも、それでも先輩は、わたしにとっても大事なもの、ちゃんと守ってくれたんですね」
生徒会はわたしの大事な居場所であり続けた。先輩が踏み込んでも、それは決して壊れなかった。
「俺がなんかしたわけでもねぇけどな。ま、もう随分前に済んだ話だ。そんなしんみりせんでもいいぞ」
「はい。……あの、済んだ話って、ほんとにもう終わってるんですか?その人のことは、もう別に好きじゃないんですか?」
「……さぁ、どうなんだろうな。でも、後悔はしてない。俺もあいつらもある意味望みは叶ってる。何も失くしてないからな」
確かに先輩は思いの外、辛そうに話してはいない。苦しくないわけはないと思うんだけど、あれから随分経ってるし時間の経過で和らいだのかな。
三人の望み。それはなんだったんだろうか。振っても、振られても失くしていないものってなんなんだろう。
それでも残っている何かが、本物?
わたしにはよくわからない。でも三人はきっと、わかってるんだろうな。
先輩はわたしの知らない、わたしには絶対に入り込めない時間を三人で過ごしてきてる。そのどうしようもない現実が、先輩の後ろ姿を遠ざける。
「それは、想いも失くしてないってこと、ですかね」
「…………。かもな。簡単に割り切れる性格じゃねぇからな。けど、いつまでもそうしてはいられないんだろうなってこともわかっちゃいる、つもりだ」
そう話す先輩の表情に、少しだけ陰りのようなものが見えた。やりきれなさ、だろうか。
「先輩は二人と同じ大学に行くつもりなんですか?」
「さぁ。受かるかどうかもあるからそれはわからんな。とりあえず第一志望はバラバラだ」
先輩はさっき、高校を卒業してもまだ続くんだと言った。
あれはわたしとのことでもあるけど、雪ノ下先輩と結衣先輩、生徒会の繋がりのことでもあるのだろう。
進む道は別でも、想いが失くならない限り。いや、特別な想いが失くなったとしても、形を変えて関係は続くんだ。
先輩。わたしは続けていきたいです。
なら、傍にいるほうが有利に決まってますよね?
「…………わかりました。いろいろ参考になりました」
「なんの参考だよ……」
「わたしの今後の身の振り方の参考です。先輩、合格したら、ここにも報告に来てくれますか?」
「ん?おお、平塚先生にも報告するし、ついでにここに寄るわ。…………落ちてたら来ねぇけどよ」
「あー、そうですね。落ちたのにこられると空気が悪くなりそうなので別に来なくてもいいですよ」
「……ああ、そう」
「そのときはわたしだけに教えてください。はい、これわたしのアドレスです」
「……おお」
手元にあったメモ用紙にさっと書いて手渡すと、思案顔になってわたしとメモ用紙を交互に眺める。
先輩は迷った末、メモ用紙をそのままポケットに突っ込んだ。ちょっと、ちゃんと登録してくれるんでしょうね……。
「あ、そうだ先輩。今年は浪人してわたしと同級生になりません?第一志望ダメだったら浪人コースとか」
「馬鹿かふざけんな、縁起でもねぇ。お前と同級生とか……」
「えー?わたしと同級生、そんなに嫌ですか?」
「そら落ちるのは嫌だよ。あとは、そうだな………。あ、お前が先輩呼びじゃなくなると違和感あるし」
「同級生でも人生の先輩なのでセンパイって呼びますよ。カタカナっぽく」
「カタカナやめい!くそ、絶対に合格してやるからな」
言ってはみましたけど、わたし、また後輩になる気ですから。さっきそう決めたんです。先輩は先輩で、わたしは後輩。これが、わたしの好きな関係性。
「はい。頑張ってください」
「おう」
ぶっきらぼうにそう言うと、先輩は勉強を再開した。ふざけた発言をすることは多いけど、根は真面目なんだよねー。
こうして考えると、初めて出会ったときの印象から随分変わったものだ。
わたしの見る目もそうだけど、先輩自身が変わったんだと思う。
先輩は変わった。
なら、わたしは?
生徒会長になるよう先輩たちに推されたとき、みんなが口を揃えて、一番成長したのはわたしだと言ってくれた。成長が何を指すのかはよくわからないけど、自分でも変わったと思う。
わたしも変わった。
変わったっていうか、変えられた、かな。くだらないなってちょっと思ってた、めんどくさい女の子に。
あーあ。わたしはもっと利に聡くて、打算と計算でスマートに世の中を渡り歩くつもりだったんですけど、ままならないもんですね。
でも諦めの悪い、めんどくさいわたしもそんなに嫌いではないかな。
勉強している先輩の横顔を眺めながら、そんなことを考えた。
そんなわたしのことなど露知らず、集中して真剣に問題を解く先輩の顔は、世の中を斜に見ているようないつもの無気力なものじゃくて。
…………ちょっと、かっこいいかも。
よし、次の授業までここで先輩を見てよっと。そう決めると、頬杖をついてガン見モードに移行する。
「…………すげぇ視線を感じるんだが」
「はい。超見てますから」
「落ち着かねぇよ」
「いいから集中してくださいよ。落ちますよ?」
「お前な……受験生に向かって落ちる落ちる言うなよ。俺じゃなきゃ暴れてるぞ」
「先輩だから、言うんです」
「なにその特別、そんなのいらねぇよ。ちくしょう、受かって来年お前にも言ってやるからな」
「え?先輩来年わたしの受験勉強見てくれるんですか?わぁー嬉しいー」
「ばっ、いや……。まぁ暇なときぐらいなら……」
「約束、ですよ。だからちゃんと受かってくださいね」
「……おう」
それから終わりのチャイムが鳴るまで、会話はなかった。
そこはとても幸せな、わたしだけの居場所だった。
一一一
また少しの時が過ぎ、三月。
先輩たちの卒業の日。
卒業式では(去年の雪ノ下先輩のものを参考に)わたしが必死に誰も頼らず考え上げた送辞を読み上げるという役目を無事果たすことができた。
緊張はあまりしなかった。先輩たちのことを思うと泣きそうになったけど、なんとか耐えることができた。
でも、雪ノ下先輩の答辞で耐えきれなくなって、みっともない涙を流す羽目になった。
去り際にはっきりとわたしだけに向けてくれた雪ノ下先輩の優しい笑顔で、わたしが過ごした先輩たちとのかけがえのない一年が走馬灯のように駆け巡った。ズルいですよ、そんな顔……。
卒業式が終わると、卒業生は校庭で様々な別れの儀式を行う。
抱き合ったり、写メをとったり、中には胴上げを始める人たちも。気兼ねなくはしゃげる人たちは進路がもう決まってるんだろうな。
わたしはそこには加わることなく一人生徒会室に向かった。別れの挨拶ならもう済んでいるから。
一人で考えた送辞の言葉は、わたしから先輩たちへのメッセージだった。先輩たちにもきっと届いていたと思う。
それにお別れといっても長い別れになるわけじゃない。雪ノ下先輩は、わたしも含めた生徒会の五人でたまに会いましょうと言ってくれた。
何度も通って歩き慣れた校舎から外を眺める。
日増しに春の色が濃くなってはいるが、並んでいる桜の開花にはまだ少し早いみたいだ。なんの気なしに窓を開けてみると、くすぐったくなるような生温い風が首筋を撫でていった。
みてるよー
生徒会室に入ると一通の簡素なメールを送った。用件だけの愛想も何もないメール。
引き出しを開けて鋭利な刃物がそこにあることを確認する。そのまま先輩を待っていると、やがて静かに扉が動いた。
「……来たぞ。なんだよあのメール。怪盗なんとかなのお前?」
先輩は開口一番、わたしが送ったメールについて問いかける。
メールには、"先輩の大事なものを貰います。生徒会室に来てくれますか"と書いた。まぁこれだと確かにどこぞの怪盗とか大ドロボウの予告みたいですね。
「メールの通りです。先輩の……貰いますから」
用意していたハサミを引き出しから取り出すと、先輩がビクッと肩を揺らして青ざめる。
「……え?貰うって、お命?」
「何言ってるんですか。そんなのいりませんよ。じっとしてください」
後退りしそうな先輩の腰を掴んで、目の前に屈み込む。
先輩のお腹のあたりに触れてしまい、ドキドキして手元が狂いそうになった。
けどなんとか、ハサミを使ってブレザーに縫い付けられたボタンを一つ取り外すことができた。
「……ボタン?」
「はい。第二ボタン、貰いました」
うちの学校はブレザーだから、基本的には学ランでやるはずのこの風習はあまりない。でもごく一部の生徒はブレザーでもお構い無しにやっていると聞いて、わたしも欲しくなった。
「ブレザーでもそういうのあんのか?」
「あんまりないみたいですけど……いいじゃないですか」
「まぁ別にいいけどよ……誰かにやる予定はねぇし。でも第二ボタンって、心臓に近いとこだからそうなってるって聞いたことあるけど。下のほうでよかったのか?」
うちの高校の男子の指定ブレザーにはボタンが二つしかない。その二つのうち、わたしは下のほうにあるものを貰った。一応第二ボタンだしね。
「はい、これでいいんです。先輩はまた学校に来ないといけませんから、合格の報告に。だからつけるボタンは残しとかないと」
先輩はボタンをしてること自体あまりないけど、男子のブレザーはボタンをする場合でも上のほうだけ留めれば作法的には問題ないと聞いたことがある。
「……なるほど」
「わたしがこれを貰う意味は、報告に来てくれたときに伝えます。受験に影響するとよくないですし」
国立大の前期試験合格発表は卒業式の後だ。後期試験の合格発表はさらに後、三月下旬になる。
それまでは、わたしの中だけで抱えておこう。
「…………もう結構アレなんですけど。でもまぁ今は考えないようにするわ、悪いな」
先輩はかなり照れ臭そうに話した後、すぐに真剣な顔に戻った。そう、ですよね。今は先輩、余裕なんかないですよね。
なんだか今になって申し訳ないことをした気がしてきた。
「いえ、それで大丈夫です。というか、わざわざ呼び出してすみませんでした……。ご迷惑お掛けしました」
「…………いや、いいよ。お前と話せて気晴らしになった。俺らはまだ結構な奴が宙ぶらりんのままだから、気楽に話せる奴もあんまいねぇんだよ。だから、気にすんな」
そう言って、顔を伏せているわたしの頭をぽんと叩いてくれた。
ヤバい。
超嬉しい。
顔が上げられない。
それが本音でも本音じゃなくても、先輩はやっぱり優しい。
「わ、わたし、ここで先輩が報告に来るの待ってますから」
「おう、待ってろ」
それから少しだけ先輩と話をして別れた。あるかはわからないけど、後期試験に向けてやれることをやっておきたいと、そう言って帰っていった。
わたしが今の先輩にできることは、祈ることだけだ。
生まれて初めて他人の望みが叶うことを、大事な人の成功を、心から強く願った。
一一一
春。出会いと別れの季節。
激しい緊張とストレスでどうにかなってしまいそうな気分で迎えた三月は、過ぎ去る直前に人生で最も晴れやかなものへと見事に転換した。
かねてより望んでいた、目標としていた大学へ後期日程での合格が決まり、わたしは今キャンパス内で大事な人を待っている。
穏やかな春風に煽られて桜の花びらが蝶のように舞う。その光景に美しさを感じることのできる自分に安堵した。ほんの二週間ほど前までは、こんな風景を見ても風光明媚さを感じる余裕は一切なかった。
それが今はどうだろう。世の中の全てがわたしを祝福してくれているようにすら思える。うっわー、わたし超たんじゅーん。
けど実際問題、勉強をたくさん見てくれた先輩と一緒に見た合格発表のページで、わたしの受験番号を見つけることができたときは頭が真っ白になるほど嬉しかった。
へなへなと全身の力が抜けて倒れそうになったけど、先輩が支えてくれた。
わたしの部屋で二人きりだったから、勢いでそのまま押し倒してしまいそうになった。我ながら大胆なことをしてしまったと思う。先輩もスゴい困ってたし。
…………いやね、あのときのわたしは本当に頭がおかしかったんですよ。いやおかしくない。正常、フツー。
でもゆとりがなさすぎてテンションがおかしかった。そう、徹夜明けみたいな、そんな感じ。
在校生の春休み中に行われた入学式も終わり、全生徒が活動を始めた学内は活気に満ち溢れている。
人も施設も何もかもが高校とは比較にならない規模で、これから待ち受けているわたしのキャンパスライフに心が躍る。
まあ今はそれよりも、数分後の未来のほうが楽しみですけどね。
まだかなーと待ち遠しくなってスマホで時間を確認すると、タイミングよく先輩からの着信があった。
「先輩、まだですかー?」
「どこにいんだよお前。入ったとこにいるとか言われてもアバウトすぎだし、人多すぎて見つかんねぇよ」
「どこって言われても、右も左もよくわからなくてですね……。なんか目印になるものとかないですか?」
「んー、あー……。あれだ、でかいキャンパスの案内板あんだろ?その前で待ってろ」
「あ、あれですね。わかりました、待ってますから早く来てくださいー」
「へいへい」
超めんどくさそうに吐き捨てると同時に通話も切られた。むー、扱い雑すぎじゃないですかねー。
一人でぷんすかしながら案内板の前に行くと、突然なんかいかにもリア充ですみたいな二人組に声をかけられた。
「君、可愛いねー。新入生?よかったら案内しようか?」
やや、よく見ると顔はなかなかのものじゃないですか。軽薄そうではあるけど、これならかなりモテそうだ。でも残念、わたしの眼中にはありません。
「いえー、大丈夫です、わざわざありがとうございます。でもこれから大事な人がわたしを案内してくれるので」
別に嘘は言ってないよね。彼氏じゃないけど、わたしの大事な人だし。
「そっかー、残念。俺らサッカー部でさ、マネージャー募集してるから、よかったら是非」
「はい、興味があったら伺いますね」
ないこともないけど、あんまりないですかね。
二人は颯爽と去って……と思いきや、また別の女の子に声をかけていた。誰でもいいんじゃないですか、まったく。
んー、わたし可愛いからなー。ここにいたらまだまだ声をかけられそうだ。先輩まだかなー。
「お、一色」
聞き慣れた声がした方向に目を向けると、私服姿の先輩がすぐそこにいた。
なんだろう。新しい学校なのに先輩がいるって、なんか不思議。
「……なんて言やいいんだ。ようこそ、でいいのか」
「……はい。わたし、また先輩の後輩になっちゃいました」
「知ってるよ、合格発表一緒に見たんだから。今だから言うけど、あんときお前が落ちてたらどうしようかと思ってたわ」
「えー。先輩、大丈夫だ、信じろって言ってくれてたのに信じてなかったんですか?」
「いやまぁ基本的に信じてはいたよ?いたけど、あれだ、絶対ってないじゃん?」
「むぅー。そんなのもういいです。いいから早く案内してください」
強引に先輩の腕を取り、抱き抱える。
「いやっ、おい、離せ」
「離しません。もう、遠慮はしませんから」
一足先に卒業した先輩たちは全員第一志望の大学に合格し、四人ともバラバラの大学に進学することが決まった。
四人の中で最後になった先輩の合格を生徒会室で聞き届けると、小さいお店を貸し切って新旧の生徒会メンバーでささやかな祝賀会を開いた。
そこで、わたしは雪ノ下先輩と結衣先輩に堂々と告げた。
この先輩に貰った第二ボタンは、わたしからの宣戦布告です。わたしは先輩と同じ大学を目指しますと。
その時点で二人が先輩のことをどう思っていたのかはわからないけど、怒ったり嫌な顔をすることはなかった。ただ、驚いてはいた、のかな。
とりあえず、それからもわたしと雪ノ下先輩、結衣先輩の仲は普通で、別に悪くなったりはしていない。
去年の夏に旧生徒会メンバーみんなで集まったときは、雪ノ下先輩も結衣先輩も葉山先輩も、それぞれの大学で新たな人間関係を築いて楽しくやっているようだった。
ただそれでも、奉仕部の三人は、わたしも、誰も寄せ付けることのない独自の関係性を持っているのは明らかだった。
寂しいし、悔しいし、嫉妬しちゃうけど仕方がない。そこは三人が苦しんだ末にようやく得ることのできた、それぞれの居場所に違いないのだから。
まぁ、彼女の座を譲る気はありませんけど。
そして先輩には、これからは受験勉強で忙しくなるけど、ちゃんと後輩になったらもう遠慮しませんからと宣言したのだった。
先輩と強引に腕を組んでキャンパス内を闊歩する。というか引っ張り回す。
雪ノ下先輩と結衣先輩がいたときはこんなこと遠慮して(怖くて)できなかったけど、ここにはもういない。
高校のときも別に邪魔者だとか思ったことはないけど、やっぱりどうしても気が引けちゃうんですよね。二人とも大好きですし。
「あ、比企谷ー。今日はあたしバイトだからかえ…………」
「はい?」
なんか先輩の名前が呼ばれた気がするので振り返ると、なんか怖い人がわたしを睨み付けていた。
「…………誰?何?そいつ」
いきなりそいつ呼ばわりとは、あなたこそ誰なんですか。と口を開きかけたところで、先輩が怯えたように話し始める。
「いや誰ってお前、自分の高校の生徒会長も知らねぇのかよ」
「あー……。そう言われればなんとなく見たことあるね」
「……ちょっと、先輩。この人誰ですか?」
納得しかけている怖い人のことを先輩に小声で尋ねる。わたしもなんとなく見たことある気がするけど、どうにも思い出せない。ていうか超睨んでるんですけど。なんなんですか。
「おい、お前もかよ。大志の姉ちゃんだよ…………見たことあんだろが」
「あ、あぁー。そういえば大志くんもお姉さんが合格云々って……ここだったんですね」
「そういうことだ」
「…………ねぇ。その手、なんなの?」
あ、そういえば先輩と腕組んだままだった。それで睨んでるの?この人。っていうことは、まさか。
「え、あー。いや別に、なんでも……」
先輩に強引に腕を振りほどかれた。ちょっ、先輩!?
「…………まぁいいや。あたしバイトあるから先帰るね。またね、比企谷」
「おお……。じゃあな」
……ほほー。なるほど。あくまでわたしに挨拶はしないんですね。上等ですよ。
「(できればずっと)さよーならー。川なんとか先輩」
大志くんの名字を忘れてしまったので、うろ覚えのまま嫌味ったらしい挨拶でお返ししてみる。
数秒後、長いポニーテールを翻しながら振り返った川なんとか先輩の目は、わたしへの敵意を剥き出しにした威嚇するものだった。
ひぃぃっ!?怖い!殺される!
おもわず先輩の後ろに隠れると、先輩も超ビビって冷や汗をかいていた。
「……あー、怖かったー」
「いやもうマジ勘弁してくれ……。川崎だ、もう川なんとかとか絶対言うなよ。俺は入学初日に殴られた」
「先輩も覚えてなかったんじゃないですか……。あ、いやそんなのどうでもよくて、その。川崎先輩と、どんなご関係で……?」
「どんなって…………んー。ただの同級生?」
「え、なんで疑問系なんですか。どういうことです?」
「え?あ、いやなんでも。そんなこともあいつの前で聞くなよ、たぶん怒られるから」
なんでしどろもどろなんですかね……。それに聞くわけないですよそんなの。あの人もまんざらじゃなさそうですから、そんなこと言うと意識させちゃうじゃないですか。
てゆーか。てゆーか!
なんなの先輩!?結衣先輩と由比ヶ浜先輩がいないと思ったら、わたしが受験勉強してる間に別の人が登場してるとか!しかも城廻先輩もいるんですよね!?
なんですか、先輩チョロすぎやしませんか!?どこのヒロインなんですかもう!
「まぁ……あの人なら遠慮は要りませんから、別にいいです」
「お、おう……。そういやお前、サークルなんか入んの?」
「んー、今のとこは考えてませんよ。さっきサッカー部のマネージャーにって声かけられましたけど」
先輩と一緒なら考えてもいいから、先輩次第かなぁ。
「…………もう声かけられてんのかよ。お前、入らんほうがいいかもな。見た目完璧ゆるほわビッチだからサークルクラッシャーになりそうだし」
……は?
一瞬何を言われているのかわからなかった。言葉の意味を理解すると、憤慨せずにはいられなくなった。
わたし、もうそういうのはしてないって言ったのに!
「な、ななーっ!?ひ、ひどいっ!可愛い後輩に向かってビッチとか、ありえなくないですかー!?それにわたしはまだしょ……」
はわわっ!怒りすぎて余計なことまで口走ってしまった。そんな要らない情報…………いや、もしかしてこれポイント高い?
いやでも!超恥ずかしい!無理!
「…………は?え、お前マジ?そうなの?」
先輩、ものすごい意外そう。なんでそんなに驚くんですかね……。それはそれでなんか傷付く……ああもう何がなんだかわからなくなってきた。
いろはすぺろぺろ
「あんだけ男を手玉に取ってそうなのに、お前まだしょ」
「言うなーーーっ!!!」
「へぐぉっ!?」
はっと我を取り戻したときには既に物理的な攻撃が完了していた。恥ずかしさのあまり無意識に全力パンチを炸裂させてしまったようだ。
そんなことをされると微塵も思っていなかったであろう、無防備な先輩の腹部、みぞおちのあたりにいい感じの角度で見事に突き刺さった。
先輩は悶絶して膝から崩れ落ちる。あわわ、酷いことを言われたとはいえわたしもやりすぎちゃった……。謝らないと。
「す、すいません、ついタメ口になっちゃいました……」
「そっちかよ!殴ったことを詫びろよ……」
先輩はけほけほとむせながら涙目でなんとか立ち上がる。
や、やだなー先輩。わたしはあの先輩と違ってひ弱なんですから、そんなに痛くはないと思いますよ?
「いや、それはわたしが傷つけられたので当然のやつです」
「あ、さいですか……」
「でもわたし先輩に傷物にされちゃいました……。超恥ずかしいです。どうしてくれるんですか」
さっきまで二人で騒いでいたからか、周囲に気をやると横を通りすぎる学生たちがちらちらとこちらに好奇の目を向けている気がする。
なんで公衆の面前で自分の、その、経験を……うあああーーー!!!
これは由々しき問題ですよ!
「どうするもこうするも、謝るぐらいしか……」
「いえ、そういうのはいいです。その代わり……」
「な、なんだよ、あんまり無茶は言うなよ。なんか奢るぐらいなら、まぁ……」
「それはそれで魅力的な提案なんですがー、もっと別のことでお願いします」
「……言ってみろ。なんか怖いけど」
先輩はもっとたくさんのことをわたしにしてきたんですよ、知らないかもしれませんけど。
「わたしをこんな風にしたのは先輩なんですからね。先輩のせいです」
真剣に人と向き合うということを教えてくれた先輩。
「いや、俺なんもやってねぇだろ」
その言葉に反論すべく、大きく首を振る。
わたしをこんなにめんどくさい子に変えておいて何もしてないなんて、そんなの通りません。
そして、なんのことだと怪訝な顔をする先輩に、最高にわたしらしくてあざとい上目遣いを向ける。
イメージは、小悪魔。
今のわたしならうまくできるはず。
だってこれは、曖昧でも不確かでもない、疑いようのない本音で、本気の想いだから。
「責任、取ってくださいね?」
大好きな、先輩。
【一色いろは ずっと、後輩】
了
いろはルート終わり
結衣雪乃ほど重くなく、可愛く書けていれば幸いです
前スレでちらっと言われてましたけど、あの流れで結衣雪乃以外選ぶってのはさすがにないですね
ただ、いろはは視野の狭くなってる三人と違って先があるのでこんな具合で……
感想超嬉しいのでどしどしください(願望)
おまけルートは考えたけど壮大過ぎて自分には書けそうにないのでやめることにしました、よって次の葉山で完結
よければもう少しお付き合いください
またそのうち
乙です!
ハーレムルートは…?
やだこの八幡いろはす相手にどぎまぎしてなくて余裕あってかっこいいわ。ほんとに目が腐ってるのかしら。
>>259
とっても良かったよー
いろはす~
お疲れ様でした
いろはす~
いろはがある意味ハーレムルートみたいなもんですね
めぐりサキサキいろはの闘いが始まる
私たちの戦いはこれからだエンドすき
おつです。まだ残りルートあるのかな?楽しみにしてます
乙乙
良かったわ
>>252
結衣先輩と由比ヶ浜先輩が
→結衣先輩と雪ノ下先輩が
すげぇミスってた……
>>268
分身っ!!
お疲れさまです
いろはす派としては大満足でした
むしろanotherこれでいいやレベル
ハヤハチも楽しみにしてます
ラストでーす
比企谷に席を外してもらうよう目で伝えると、彼は黙ってキッチンに向かってくれたので、居間で雪ノ下さんと二人きりの状況になる。
気を使わせて悪いな比企谷。そのうちお返しするよ。
雪ノ下さんも俺が望んでこの状況を作ったことを理解しているのだろう。比企谷の消えた方向へ目を向けたまま、じっと俺の言葉を待っている。
このタイミングで言おうとしているのは、やはり彼の言葉にあてられたのだろうと思う。
あれからこれまで目を背けたままで口に出そうとはせず、思い返すことすらもしてこなかったのに、抱えているものをどうしても吐き出したくなった。
だが、本物が欲しいなんて、そんな大それたことは俺には言えない。
俺が話すのは、懺悔の言葉だ。
それで許してもらえるとは思っていないが、それでもずっと伝えられなかった思いを言葉にしたい。雪ノ下さんのためなんて言うつもりはない。彼女のためでもない。
これは何よりも自分自身のためだ。
「イベントではいろいろ……迷惑をかけた。会議とか」
頭を下げないまま伝えると雪ノ下さんは一瞬戸惑うような表情を見せたが、すぐに元の自然なものになった。
「そんなことないわ。私こそ不甲斐ないせいで随分迷惑をかけたと思う。あなたには、あなたにも随分気遣ってもらって、助けられた。…………ありがとう」
雪ノ下さんはお礼を述べ、予想していなかった展開に俺のほうが困惑してしまう。
「いや、そんなことは……。俺は副会長なんだから、それが仕事だ」
「そう。そうだったわね…………」
その台詞の後ろには続きを感じさせる余韻があったが、言葉として発せられることはなかった。ただの仕事だったのかと、そう問われているような気がした。
「……少し、懐かしく感じたよ。君の手助けができて、あの頃みたいだなって」
「……そうね。あの頃から変われてなどいなかったのかしらね」
「そんなことはないさ。君は変わった。それに、まだ変わろうと、前に進もうとしてるじゃないか」
「だといいのだけれど。昔とはいろいろ違っているから……。あなたも、もう忘れていいと思うわ。姉さんの影を無理に追う必要なんかない」
「確かに、俺は陽乃さんに憧れて……」
俺は陽乃さんのような周りを寄せ付けない強さがあれば、守れなかったものが守れるのではないかと思い、そうあろうとしたこともあった。
「……けど、そうだな。俺は、あの人のようにはなれない。何年も前からそう気づいていながら、やめられなかった。それが俺だと自分で決めつけていたんだよ」
「そう……」
雪ノ下さんは曇った顔で力なく呟く。
俺は陽乃さんのようにはなれなかった。
あの人のような完璧な仮面を身に付けることができるほど他人にも自分にも無関心ではいられず、己の中でこれだけはと絶対的に定め、守るものを選び取れなかった。
作り上げた偶像も、その上で築いた人間関係も、あれもこれも俺には全部重要で、守るべきものだった。気がつくと、俺以外のものが俺を構成する全てになっていた。
他人なしでは己を規定できない人間。それが今までの俺だ。
おそらく俺はこれを続けようと思えばできてしまうのだろう。
他人のしている努力の量を推し計り比較することはできないが、あらゆる期待に応えるために俺のしてきた努力は誰にも恥じないだけのものだと思っている。
こんなことはいつかはやめなければならないと思っていた。それは、敷かれたレールがなくなるその時になるのではないかと、なんとなくそう思っていた。
けどそうじゃないんだよな、比企谷。
変わるなら、変わろうとするなら、今なんだ。
「これまでは、そうだった。でも、俺もこんなことはもうやめにしようと思う。だから、君にずっと言えなかったことを今、言いたい。今日はそうしようと思ってここに来たんだ」
雪ノ下さんは芯の強さを感じさせる気丈な態度で俺に応える。
「……ええ。聞かせて、もらえるかしら」
「俺はずっと、…………後悔していたんだ。あの時のことを君と、今はここにいない彼女に謝りたかった。あの時、君と彼女のことを選べなくて、その勇気が持てなくて、ごめん」
座り直して姿勢を正し、深々と頭を下げた。
雪ノ下さんはどんな顔をして俺を見ているのだろうか。あれから何年も経ったのに、今さら許しを乞うているように映ってはいないだろうか。
そう思われても仕方がない。今さら謝ったところで何がどう変わるわけでもない。
だから俺は彼女の為ではなく、自分の為に謝っていることを偽る気はない。
俺が前に進むために、過去に区切りをつけるために必要な通過儀礼だ。この過去を清算できるなんて思っていない。抱えたまま、それでも前を向くために必要なことだと俺が定めた。
「…………頭を上げてもらえるかしら。葉山君」
子を叱った後の母親のように、落ち着いた声音が耳を伝って脳に響く。
おそるおそる顔を上げると、あの頃のような、優しさと強さを内に湛えた、真っ直ぐな少女───雪乃ちゃんが、そこに居た。
「今はもう、気にしていないわ。葉山君は葉山君のやり方で私たちを守ろうとしていたのはわかってるから」
「……いや、それだけだと……結局何もしてなかったのと変わらない。俺のやり方では、誰も……」
「いいえ、そんなことはないわ。事実あなたに助けられてる人だっている。だって…………彼女、あなたにとても感謝していたもの」
「え……?」
俺にそんな記憶はない。
遠い昔の出来事とはいえ、そんなことを言われたなら忘れるとは思えない。ならばやはり、俺は聞いていないということになる。
「私も、葉山君にずっと言えていなかったことがあるの。聞いてもらえるかしら」
「ああ、聞かせてくれ」
鼓動が速くなるのを感じた。何かを期待しているわけではなく、今になって知らない事実を聞くことに怯えがあった。
やがて雪ノ下さんは重々しい口を開き、話し始める。
「私は彼女が転校する前、当然転校するなんて知らされてはいなかったけれど、直接は恥ずかしくて言えないから葉山君にお礼を言っておいてほしいと、そうお願いされたの」
「なんの、お礼なんだ?」
「……わたしを守ろうとしてくれてたのはちゃんと伝わってるから、ありがとうって。私も同じことを言われたわ。思えば、あれがお別れの言葉だったんだと思う」
「……そんな、俺は……。何もしてないも同然だったのに……」
「私も、その時はそう思っていたから、タイミングを逃してしまってそれからずっと言えなくて……。あの頃は今以上に子供だったから、きっと、嫉妬もあったんだと思う。…………ごめんなさい」
「……いや、大丈夫だよ。それを昔に聞けていたとしても、俺は今と変わってなかった」
「彼女を守れなかったのは私も同じなのに、当時はそんなこと認められなかったの。心の中であなただけを責めて、意地を張って…………。愚かね、私は」
その言うと雪ノ下さんは項垂れ、スカートの裾を両手で握り締めた。
付け加えられた自責の言葉は、明らかな懺悔と後悔から発せられたものだとわかった。
彼女も俺と同じように自分を責め、同じ傷を負っていたのだ。そしてその傷は未だ癒えていない。癒える日など来ないのかもしれない。
だとしても、俺と雪ノ下さんにはまだやるべきことが残っているはずだ。俺が前に進むためにも、今日伝えようとしていたもう一つのこと。
「今すぐになんて言えないけど、俺は、彼女に会いに行くよ」
「どこにいるのか、知っているの?」
驚く雪ノ下さんに首を振って答える。
「いや、知らない。だから探す。見つかったら、君にも教えるから。その時は一緒に…………来てもらえないか」
「……ええ、是非。私も協力するわ」
「よかった。一人でも諦めるつもりはなかったけど、どんな顔をして会いにいけばいいのかわからなくて」
「そんなの私にだってわからないわよ。でも、今さら私たちに会ってくれるかどうかは……」
「そうだね、会いたくないって断られたら仕方ない。それはその時考えるさ。まずは見つけてからだ」
「……そうね」
期日も期限も何も決めていない、極めて計画性のない約束を数年ぶりに交わすと、話すことがなくなった。
二人とも微動だにせず、正面を真っ直ぐに見据えていた。その目の焦点はこの部屋のどこにも合っていない。傍にあれど、決して交わらない視線。
それはまるで、この先にある二人の未来を指しているような気がした。
いくら考えても、後悔しても、やり直したくても、時間は戻ってくれない。
たとえどんなに心を尽くして謝っても、決して取り戻せないものはある。
新たに築く関係は、二度と同じものにはならない。
けど、それでも人生は続く。
俺はまだ前進はしていない。あの場から動けてなどいない。
だがようやく前を向くことができたと、そんな実感が確かにあった。
一一一
~~~ 前略 ~~~
生徒会室に秋の日が差し込む。
部屋には俺と彼だけだ。
「もう、終わりなんだな」
彼は寂しそうに呟いた。
「ああ。 俺が君と居られる時間は、残り少ない」
「……楽しかったな、生徒会」
「……君が楽しかったのは生徒会だけなのか?」
「どういう意味だ」
惚けるなよ。俺にはわかってるんだからな。
「君が俺の横顔をいつも眺めていたのに、気付いていないとでも思ったかい?」
「なっ……! そんな、こと……あるわけねぇだろ」
隠そうとしても無駄だよ。その証拠に、ほら…………君の顔は、こんなにも赤いじゃないか。
「……いい加減、素直になりなよ。 大学は別々になるんだ。 このまま会えなくなるかもしれない。 君はそれでいいのかい?」
「…………ない」
───堕ちた。
そう確信して思わず笑みが零れそうになる。
おっと、まだ早い、我慢だ。
「聞こえないな」
「…………よくねぇ、つってんだよ」
「……そうか。 で、どうするんだ?」
「…………性格悪いな、お前。 どうしても俺の口から言わせたいのか」
「そうだよ。 俺は君にはとことん意地悪なんだ」
「…………俺は、俺は……」
~~~ 以下略 ~~~
一一一
…………なんだこれは。頭が痛くなってきた。こいつら男同士じゃなかったか?
どういう反応をしていいかわからず愛想笑いを浮かべると、姫菜が目をキラキラさせながらおずおずと訊いてきた。
「ど、どうかな?」
「どうかなと言われても……。俺にはよくわからないよ」
そう、わからない。まったく。全然。これっぽっちも。
一応最後まで目を通しては見たものの、この後も高校生二人がバーで酒を飲むわ酔い潰れて気がつくと二人ともホテルのベッドで目を覚ますわ男同士なのに…………と、理解不能な展開が延々と続いた。
姫菜に呼び出され久々に会うことになったが、用件はどうやらこれを見てもらうことだったらしい。お互いの近況報告もそこそこに姫菜は鞄から紙束を取り出してきた。
まずは読んでみてと言われ大人しく読んではみたが、中身がこれだ。姫菜はいったい俺に何を求めているんだ。
「比企谷くん、どうかな?」
姫菜は続いて俺の横にいる、同じく姫菜によって呼び出されたらしい比企谷に尋ねる。
俺自身、姫菜に会うのは盆以来といったところだが、比企谷はもっとになるらしい。五年ぶりぐらいだとかなんとか言っていた。
気づけばあれから幾年もの年月が経っていた。
姫菜がいつの間にかヒキタニくんではなく普通に呼ぶようになっているのも、時間の経過による変化の一つなのだろうか。
高校の時に一緒だった奴等とも年々会う回数が減っている。それぞれに人間関係や生活があるので仕方のないことではあるが、それでも減っているだけで切れてはいない。それは俺にとっても喜ばしいことだった。
あの時の生徒会メンバーや戸部たちは、みな千葉と言わずとも首都圏内で生活をしているため、今でも年に一度ぐらいは集まって話をすることがある。俺が比企谷と会うのもちょうど一年ぶりぐらいだろうか。
その比企谷は姫菜の曖昧な質問に頭を抱えている。そりゃそうだよな。
「これを俺らに見せて、何を期待してるわけ?」
「これさ、ネットに公開してもいいかな?」
「駄目に決まってんだろ訴えるぞ」
「えー。自信作なのになー。これはまだ冒頭の部分でね、これからどんどんドロドロに複雑になっていくんだよ」
え、まだドロドロになるのか?もう十分ドロドロだけど……。
「おい先生、お前もなんか言えよ。今まさに俺らの名誉が毀損されようとしてんだぞ」
「え?俺ら?」
どういうことだろうか。舞台が俺たちの高校に似ているとは思っていたけど、固有名詞は見当たらなかったように思うのだが。
「見てねぇのか、表紙の裏。登場人物」
言われて一枚目を捲ると、作中の登場人物の説明が簡単に記してあった。
俺・・・H山H人。生徒会副会長でサッカー部キャプテン。
彼・・・H谷H幡。生徒会庶務。クラスでは地味な存在。
・・・
イニシャルでぼかしてはいるが、なんのことはない。どう見ても俺と比企谷だ。それに続けて戸部や大岡、大和の名前もあるようで、どんどん登場して複雑になるらしい。
俺が読まされていたのは、俺と比企谷の…………。気分が悪くなってきた。
「駄目だ、姫菜絶対やめろ」
「えー。隼人くんもかー。じゃあ仕方ないなー」
残念だと言いながら姫菜はあまり落胆はしていない様子に見える。
駄目と言われると想定していたんだろうか。…………だったらなんだこれ嫌がらせ?
「公開は当然駄目だけど、いろいろ突っ込ませてくれ。まずこのSHRIMPってペンネームは……」
「別にいいじゃん、CL○MPっぽくて」
shrimp……シュリンプか……。エビ……海老か?海老だな。
「やっぱそっちからの連想か。で、タイトル。H×Hってこれパクリじゃねぇか。連載いつ再開すんだよ」
「でもこれは二人のHが交わる話だからピッタリだと思うんだけどなー」
「生々しい言葉は使わんでくれ……。駄目だ無理だ、論外だ」
「そうだな……。姫菜、勘弁してくれるか」
「そうかー。じゃあもういいや、身内で楽しむだけにするね。あ、私この後用があるから行くね。二人ともまったねー」
言うや否や、姫菜は伝票を持ってさっと立ち上がり、聞き捨てならない台詞を残して去ってしまった。
「…………身内って、なんだよオイ……」
「ああ見えても常識はあると思うから、まぁ……」
そしてカフェに取り残される、三十路の男二人。
比企谷も俺も仕事を早く上がれるみたいだから、仕事帰りに千葉市内のカフェに来てくれと呼び出されたので、まだ二人ともスーツのままだ。
「……海老名さんってまだ独身なんだよな」
「ああ、俺の知る限りではそのはずだよ」
さっきも姫菜にはわからないようにちらりと見ていたのだが、左手の薬指に指輪はなかった。
別に他意があるわけではなく、仕事で人と話をする上で予備知識として頭に入れておいて損はしないからと続けているうち、確認するのが癖になってしまった。
「趣味、さらに濃くなってねぇか?」
「……みたいだな」
高校の時からわからないことをよく口走っていたが、想像するだけでは飽きたらずあんな禍々しいものまで創造してしまうなんて……。
この先にも何かが待ち受けているのではないかと、嫌な予感が背筋を這い上がってくる。
「…………帰るか」
「ああ」
頭を振って思考を追い払うと、比企谷に促され立ち上がる。伝票は姫菜が持っていったのでレジを素通りして店を出た。
駅に向かっている途中で、今は帰っても家に一人なので寂しい夕食が待っているだけだということを思い出した。
ならば、折角久しぶりに会えたんだしたまには夕食にでも誘ってみるかという気になった。
「比企谷、明日仕事あるか?」
「いや、休みだけど」
「そうか、俺もだ。ちょっと飯でも食いに行かないか?」
「俺は今帰っても一人だし別にいいけどよ。お前、嫁さんはいいのか?」
「あれ、比企谷も一人なのか?妻は今実家に帰ってるよ。出産が近いからな」
言うと、比企谷は口を半開きにして驚いた顔を見せる。
「うっそ、マジかよ。うちんとこも同じだ。娘連れて実家戻ってる」
「え、二人目?」
「そういうこと。お前んとこいつ生まれんの?」
「来月ぐらいかな、予定ではあと三週ってとこだ」
「それも同じぐらいだな。んだよ、お前も今は独身生活か。じゃあ行こうぜ」
比企谷は俺よりも早く結婚を済ませ娘が誕生したことも知っていたが、二人目が生まれるとは聞いていなかった。俺ももうすぐだというのを比企谷に話したのは初めてだ。
お互い今は気兼ねなく好きに時間が使えるようで、安心してふっと笑みが漏れる。比企谷も同じように笑みを溢した。
「どこにするかな。何かリクエストは?」
「特にねぇな。どこでもいいよ」
「じゃあ海鮮の旨いところにでも行こうか。二人なら予約なしでもいけるかな」
「ま、駄目なら別のとこにすりゃいい」
「そうだな」
店に行く道すがら互いに簡単な近況報告をしてみたが、彼も仕事と家庭に追われる日々としか言えない、大差のない生活を送っているようだった。
学生の時のように、狭い人間関係で深く悩むことは減った。というより、ほぼなくなった。広く、浅く、大きな問題にしないためだけとか、気持ちよく仕事をするためだけの付き合いがほとんどだ。
近年、俺が人の気持ちを深く慮るのは妻に対してだけだった。数年後からはこれに子供が加わることになるのだろう。だが、おそらくはそれだけだ。
仕事だけの付き合いであっても悩みは尽きないし、それはそれで大変だったり苦労したりはするものだ。
だから人間関係で深く悩みたいというわけではないのだが、狭い世界だけで生きていられたあの頃が今はとても懐かしく、贅沢な時間を過ごしていたように思える。
そしてその贅沢な時間は、決して無駄なんかじゃなかった。俺はあの時間がなければ、今こうしてはいなかったと断言できる。
目的の店に辿り着き、迎えてくれた店員に二名と告げると、すんなりと座敷の個室へ案内された。
「へー。いい雰囲気だな」
「だろ?イカ刺しがお奨めだ。比企谷も生でいいか?」
「おお。相変わらずあんま強くねぇけどな」
比企谷は渡されたおしぼりでおでこを拭きながら話す。……もう立派なおっさんだなぁ。こいつも、俺も。
彼がアルコールにあまり強くないというのは大学生の時に知った。
あの時の生徒会メンバーが全員二十歳を越えると、パーティのようなものに自然と酒も混ざるようになったからだ。
「夜は長いんだ。まぁボチボチやろう」
「えー、俺帰りたいんだけど。明日昼から嫁の実家行かなきゃなんねぇし」
「俺だってそうだよ。こんなことそうそうないんだし、たまにはいいじゃないか」
そこで生二つが届き、ついでに料理を何点か見繕って注文しておいた。
「んじゃまぁ、そのときの雰囲気てか俺の気分次第ってことで」
「オーケー。じゃあ、なんだ。とりあえず乾杯」
「おう、乾杯」
飲み始めると比企谷も俺も割と饒舌になるほうだった。だから、お互いの仕事の話やら共通の知人の話題と、話す内容には事欠かなかった。
そして数年前から恒例となった、比企谷の娘自慢が始まる。
「ほら見てくれよこの写真。超かわいくね?マジ可愛すぎて困ってんだよ」
「知るか、勝手に困ればいいだろ。でも、へぇ。奥さんに似てきたんじゃないか?今何歳だっけ?」
「今年三才になったとこだ忘れんな。そうなんだよなー、嫁に似てきて超可愛いの。帰ったらパパーパパーって足元にすり寄ってくんだぞ?なんなのこの生き物って思うぞ絶対」
比企谷は娘のことになると恥ずかしげもなく、実に嬉しそうに話す。奥さんのことではこんなに赤裸々に話したりはしない奴なのだが、子供のこととなると別のようだ。
俺にはまだ居ないので同意を求められても困るのが正直なところである。産まれたら俺もこんな風になるのだろうか。あまり想像できないな……。
「あ、そう……。まだよくわからないけど、君に似なくてよかったな」
「うっせぇよ。でもその通りなんだよな……。見た目はもう大丈夫だろうけど、俺みたいな性格になったらすげぇ困るわ」
「はははっ。確かに、高校の頃のお前みたいな性格の娘なんていくら可愛くてもはっ倒したくなるな」
「あーもううっせうっせ。んなことにはなんねぇよ。あ、そういやさ、お前子供の性別って聞いた?」
「いや、聞いてない。比企谷は?」
これは妻と相談して決めたことだ。二人とも希望は持っているもののどちらであっても不満というわけではないので、結果を楽しみに受け止めようということになった。
「うちも一人目は聞かなかったけどよ、今回は二人目だからもう聞いてるんだよ。男の子だってさ」
「へぇ、弟くんか。今度は比企谷に似るんじゃないのか」
「……それが今悩みの種なんだ。俺みたいな奴になったらコミュニケーション取れんかもしれん」
「そんなのまだ先の話だろ。…………ん?ちょっと待て、もしかして弟くんは俺の子供と同級生になるのか?」
「…………よく考えなくてもそういやそうだな。お前、千葉から引っ越せよ」
「ふざけるな。比企谷が引っ越せ」
「うあー、お前と幼稚園で会うとか、勘弁しろよ……」
「こっちの台詞だよ、まったく……」
高校を卒業しても何度か会っているうちに、こんな風に軽口を叩くこともできるようになっていた。
少し違うか、近場から引っ越してほしいのは本音だから軽口ではないかもしれない。
こんな風にくだらないことを話しながらチビチビと飲んでいると、比企谷が眠そうな素振りを見せ始めた。
そのタイミングを見計らって声をかける。
「比企谷、二件目行くか」
「あー、どうするかな……つってもまだ10時か。普段会社出るより早いな」
「軽くダーツバーでもどうだ?」
「ダーツだぁ?そんな洒落たもん俺できねぇぞ」
「俺も別に君とやるつもりはないよ。そこのバーテンダーが女性なんだけどさ、凄い美人だから仕事の付き合いでよく行くんだよ」
「ほぉ……。まぁ帰っても寝るだけだし…………仕方ねぇな、付き合ってやるか」
「よし、じゃあ出ようか」
なんだかんだ言いながら比企谷は美人にかなり弱い。
自分でその美人とどうこうなるとは思っていないと言うが、あんな可愛い子と結婚しておいてよくそんなことを言えるものだ。
割り勘で支払いを済ませた後、馴染みのダーツバーへ向かった。ビルとビルの隙間にある薄暗く細い階段を昇ったところにその店はあった。
空いているカウンターに並んで座る。俺が美人と思うバーテンダーはいつも通りの場所でグラスを拭いていた。
「やあ」
「いらっしゃいませ、葉山さん」
「いつもので」
こういういかにも常連ぶった注文の仕方は俺の本意ではない。だが、これはいつものとしか呼びようがないものを頼むから仕方がないのだ。
名前のない俺専用のオリジナルカクテルを最初に訪れたとき作ってもらってから、ずっとそれを頼んでいる。
その時の気分を教えてもらえればオススメのオリジナルカクテルをお作りしますよと言われたので、つまらない仕事に辟易しているんだと伝えると出てきたものだ。
ただのプラシーボ効果なのか客の好みを見抜く経験の成せる業なのか、それは飲みやすく身体にとてもよく馴染んだ。
「おぉ、なんだよお前。えらい慣れてんな」
「よく来てるって言ったろ。比企谷もなんかオリジナルの作ってもらうか、甘いやつ」
「そうだな……。飲みやすいやつのほうが有り難いですね」
「かしこまりました」
暫く待って出てきた比企谷のカクテルは、深い緑色をした綺麗なものだった。カットされたライムがグラスの縁に刺さっており、見た目はとても艶やかだ。
「うおぉ……なんじゃこりゃ」
「こちらはメロンリキュールをベースとしたカクテルで……」
「……ほんほん」
どうやら比企谷は興味がなさそうだ。いや、緊張してるのか?もしかして。
よく知らない美人相手だと挙動不審になるところは変わってないんだな。
昔の比企谷の姿が急に脳裏に浮かび、思い出し笑いをしてしまった。彼はそれに気付き、俺に怪訝な目を向ける。
「…………なんだよ」
「いや、別に、なんでも。くっく……」
「感じ悪いなお前。ちょっとトイレ行ってくる」
「ああ、そこの奥にあるよ」
振り返り店の奥まった場所を指差すと、比企谷はそこへ向かい席を立つ。
一人でカクテルグラスを傾けていると、珍しくバーテンダーのほうから話しかけてきた。
「珍しいですね、葉山さん。ここでそんなに楽しそうにしていらっしゃるなんて」
「……そう、見えますか?」
彼女が俺より若いのは間違いないが、客と店員という立場なので年齢に関係なく一応敬語を使うようにしている。余計な摩擦を生まないための心遣い、になるのかな、これも。
「はい。いつもはお仕事の方でしょうか、普段来る方々と居るときはそんなお顔はされていませんよ」
仕事の付き合いで来るときも俺は笑っていないわけではない。むしろ務めてよく笑うようにしているぐらいだ。だが彼女には違いがわかるらしい。
「そうか……。わかるもんなんですね」
「私は仕事柄、いつもたくさんの人を見ていますから。そういうことに敏感なだけですよ」
「参ったな。悔しいけど、たぶん正解です。けどあいつの前では言わないでくださいよ」
「ふふ、わかりました。あの方は葉山さんのご友人ですか?」
「友人、か……」
声にならない声で、誰にともなく呟く。
彼とは反目し合っていることのほうが多かった。気に入らない、嫌いだと正直に言葉をぶつけ合ったことも一度や二度じゃない。
でも、こうして会って飲んでいる。
楽しいかと言われると、意地や照れもあり難しいところではあるが、話していて決して不愉快ではない。
俺は彼のことを認めている。俺の持っていないものを持っている人間だから。
そして俺も、彼が持ち得ないものを持っている。そう自負している。
彼は俺の対極にいるだけだ。ただそれだけ。だが彼と俺は同じ方向を見ていることが多かった。全く違う場所に立っていながら、そこに至る筋道や手段は違えども、向かおうとする目的地は同じだった。
この関係を表す適切な言葉はなんだろうかと考えると、一つの便利な言葉が思い当たった。
「腐れ縁、ですかね。高校からの」
「……そうですか。でも葉山さん、腐れ縁でも、縁は縁ですよ」
「ははっ。違いないですね」
諦めにも似た感情から、おもわず笑いが込み上げる。
彼女も柔和な微笑みを残し、他の客のところへ移動していった。
「いつも思うけどよ、こういう椅子ってすげぇ座りにくいよな。たけーんだよ必要以上に」
頬を高潮させた比企谷がよっこらせとでも言いたげに腰かけ、すぐに残っていたカクテルをあおった。
「旨いのか?それ」
「おお、すげぇ飲みやすい。お前も頼めば?」
「いや、いいよ。俺はそんな甘そうなのは苦手だから」
「ほーん、そうですか。甘いのはお嫌いですか」
「だから食後がいつも大変なんだよな。あいつは甘いもの好きだからいいんだろうけど」
「そりゃお前が旨い美味いって食うからだろ。苦手だからやめろって言ったら出てこなくなるんじゃねぇの」
「……そんなこと言えないな俺には。妊娠中は暇だったのか妙に凝ってるし、俺の好みにも合わせてくれてるから美味いことは美味いんだ」
「あ、そ。なら好きにしろよ。ただまぁ一言言わせてもらうとだな、あんまり嫌なこと我慢してるとどっかで爆発しかねんからほどほどにな」
「しないよ、俺は。期待されて応えることには慣れてるんだ。それに俺は妻を愛してるからね」
「…………んだよ、ただののろけ話じゃねぇか」
「そうだけど?」
「……余計なこと言って損したわ」
比企谷がグラスを傾けてカクテルを飲み干すと、戻した際に氷が落ちてカランと音を立てた。それを見て俺もぐいと残りを一気に流し込む。
「よし、比企谷。出ようか」
「あれ、もう出るの?早くね?」
「三軒目行こう。今度は比企谷のお勧めのとこで」
「はぁ?俺こんな洒落たとこ知らねぇぞ」
「いいよ、いつも行ってるところで。連れてってくれ」
「あー、そんならまぁ……。朝までやってんな、あそこなら」
「ここは俺が払っておくよ」
「やだよ、払わせろ。お前に貸し作りたくねぇし」
「わかってるよ、次の店は比企谷の奢りだ。それならいいだろ?」
「……仕方ねぇな。奢ってもらってやるよ」
「よし、行くか」
「おお」
店を出ると11時を回っていた。
普段ならこのまま帰る時間だが、これから三軒目だ。しかも都合良く朝までやっている店らしい。……もういいか、明日のことは明日考えよう。
「俺もう話すこと別にねぇんだけどな」
「俺がいろいろ聞きたいんだよ。聞かせてくれ」
「あ?なんも面白いことなんかねぇぞ。何が聞きたいんだよ」
「…………本物は見つかったのか、とかかな」
「…………あぁ?」
比企谷は立ち止まり、目を大きく見開いた。
「聞こえなかったか?」
「き、聞こえてる。なんでお前が知ってんだよ……」
「別に誰かから聞いたんじゃないぞ。俺もそこに居たんだよ」
「はぁ?マジかよお前……。んじゃあんときの生徒会のやつらみんな知ってんじゃねぇか」
「そうなるな。で、どうなんだ?」
「……つか、そんな昔の話ほじくりかえすなよクソッ」
「まあ夜は長いんだ。ゆっくり聞かせてもらうよ」
「その質問には答えねぇけど…………たぶんもうこんなの二度とねぇだろうし付き合ってやるよ。俺の娘の自慢話をたっぷり聞かせてやる」
「ははっ、それでもいいよ。帰りはラーメンでも食って帰ろうか」
「お、いいな。なりたけのギタギタ食っとくか」
「なんか聞くだけで胃もたれしそうだな……」
「食ったことねぇのかよ、楽しみにしとけ」
俺と比企谷は違う時間を生きている。考え方も、人付き合いの仕方も、人間関係も、全てが違っている。
でもこうして、ごくたまにでも重なり合うことがある。
「…………腐れ縁も、縁は縁か」
「あん?」
「なんでもない。店はどの辺なんだ?」
「んー、もうちょい、あと五分もかかんねぇよ」
「そうか」
このままなら子供同士は同級生だ。思わぬところで、意図しなくてもまた何処かで重なり合う。
俺が生涯で出会える人間の数などたかが知れている。その中でこうして、腹を探り合うことなく話ができる人間などさらに限られている。
なら、腐れ縁だろうが、可能な限り繋いでおかないとな。
偶然だろうがなんだろうが、それが人間関係で、それが縁というものなのかもしれないな。
両手をポケットに突っ込んで背を丸め、俺の少し前を歩く若干千鳥足の比企谷が振り向いた。
「お前、朝まで飲んだりとかってしたことあんの?」
彼はそのままの姿勢で後ろ歩きをしながら俺に尋ねる。
「いや、学生時代も含めてしたことないな。初めてだ」
「そうか」
「それがどうかしたか?」
「いや、よく考えたら外でこんなことすんの俺も初めてだなと思っただけ。なんでもねぇよ」
言うと比企谷は前に向き直り、黙って歩き始める。その姿を眺めていると、なんとなくそうしたくなって、比企谷と肩を組んでみた。こんなことをするのは学生の頃の部活以来だな。
彼は心底嫌そうに、迷惑そうに身を捩った。やめろウゼェと赤らんだ顔で吐き捨てた。
けどやめてやらない。俺はお前が嫌いだからな。
肩を組んだまま暖簾をくぐり、比企谷の馴染みの店へ足を踏み入れる。
二人してくだを巻きながら朝まで飲み、気がつくと家のベッドで、頭の内側から頭蓋骨を殴られているような痛みに目を覚ますことになった。
…………なんだこれは、全然記憶がないんだが。
我ながらよく帰ってこられたものだ。いつどうやって帰ったのか、誰が会計をしたのかすら全く覚えていない。
思い出そうとする度に走る激痛に耐えて朧気な記憶を辿ると、醤油差しに向けて熱弁を振るう比企谷の姿があった。
どういう記憶なんだこれは……。空想なのか現実だったのかの判断がつかない。
そしてもう一つ、前後不覚になる前の鮮明な記憶に背筋が凍りついた。
最後の飲み屋で聞こうとしていたことを聞けたのか、あいつが答えたかなんてもはやどうでもいい。
今は、そう。
比企谷がこの家にいないのかが問題だ。
なんか既視感のあるシチュエーションだと思ったら、昨日素面の間に読まされた姫菜の小説だ。もしあんな風に、うちで比企谷が寝ていたりすると…………。
考えただけで妻の怒り顔が浮かび冷や汗が出たが、現実にそんなことは起こらなかった。俺以外誰もいない。当然だ。当然なんだよこれが。
念のため比企谷にメールをしてみる。
寝ている公算が高いが、無事帰れたかぐらいは聞いておいてもバチはあたるまい。そう思っていたのだが、予想に反してメールはすぐに返ってきた。
"どうやって帰ったか覚えてないけど一応。頭いてぇ二度とやらねぇからな。昼まで寝る、またな"
どうやら俺と同じような状態だったようだ。もう若いとも言えない年齢のいい大人二人が何をやっているんだか。
服を脱ぎ散らかしてまたベッドに横になりながら、馬鹿みたいな自分を嘲笑うと、また酷い頭痛が押し寄せてきた。
駄目だ。
俺も昼まで寝て、シャワーを浴びてから妻の実家に行こう。
眠りに落ちる寸前にあやふやな記憶の底から不意に甦った光景は、ふらふらの状態で店から出たときに見た、信じられないほどに眩しい千葉の朝日だった。
【葉山隼人 腐れ縁は延々と】
奉仕部の三人は居場所について考える
了
お疲れ様でした!
終わったー、いやー長かった
実に感慨深いものがありますが、なるべく手短に
葉山ルート終わり、地味ですね!
葉山ルートと言いつつ、これは前三つルートの後日談みたいなイメージです
八幡のその後が半分みたいなもんですし
毎度ですが、こんな拙い文で誤字も山ほどおるような長いのを読んでもらえてるならほんとありがたいことです
読んでくれた方、レスくれた方、ほんとマジ超感謝愛してる
なんか質問とかもしあったら適当にしてください
あでゅー
長い間乙
壮大なおまけルートもみたいけどなー俺もなー
素晴らしいです、ありがとう
お疲れ様でした
次回作も俺ガイルSSですか?
乙、やっぱ隼八は大正義だな!
ところで野郎二人の飲みで醤油差しに熱弁するのってエアマスターかよォー
バレた!あのシーン大好きなんですよ
次も俺ガイルですよー
とりあえず結衣の台本のやつ先に終わらせますけど
おまけはまた、書けたらで……
親子二代に渡る話とか纏まる気がしない
乙乙
次回作も期待してる
お疲れっす面白かった
乙
おつです。また続編も別の新作も楽しみにしてます
乙です!
作者さんなんか粘着されてる?
エレのコメで星1をつけまくってるのがいるね、哀れだ
あそこの事など気にするな
ハーレムルートとか寒いからいらんよ
由比ヶ浜さんはヒロインですとかいう自称子持ちの三十路糞ニートは市ねよ
本人不在の関係ないところで言ってないで支部で直接言えよ
四六時中張り付いてる奴か
作者さんさぁ
そろそろまとめでの自演コメやめなよ
みんないい加減にしろって思ってるよ
>>337
みんなって誰だよ
自分調べでしょ(適当)
中高生・渋民・まとめ厨・VIPPERの坩堝
それがSS速報VIP
調子のんなよ糞アマ
>>341
え?なんできれてんの??
エレでの作者自演乙 最低だな
渋からも出ていったほうがいいよ
アフィのコメント欄をわざわざ読んでる奴がいてビックリだわ
ただ因縁つけてるだけやろ
嫉妬かな?みっともない
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