ことり「サイレンと、空の飛び方。」 (18)


 二十数時間まえ、

 私のファーストキスをうばったあとで

 いとしいどろぼうさんは
 夕陽の沈む門の向こうへ 消えちゃった。


  『――ごめんなさい』


 海未ちゃんはあんな顔して、そう言った。

 ことりのくちびるは焼けただれたみたいに熱くって、
 言葉なんて出てこなかった。


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 ことり、動けなかったの。

 あたまの中でずっと何かが鳴ってるのに、
 今すぐあの背中まで飛んでいきたかったのに、
 ことりの足は動かないまんま、海未ちゃんを、家にもどしちゃった。

 なのに今日はもう、
 全部わすれてしまったみたいな笑顔を貼り付けたまんま、

 ダメなドラマに出てくるうそのアイドルみたいに、へたっぴな顔していて。

 耳鳴り、もっとひどくなったの。
 ずっと熱くて、痛くて、私のからだの知らないとこが、
 背中に生えた羽根みたいに 白くてふわふわしてたとこが、
 ばつんと ちぎれてしまったみたいで。

 いたくて、おかしくなっちゃうよ。
 ことりには羽根なんてなかったはずなのに。


  ◆  ◆  ◆

 踏切の警笛が鳴り出す前にはちゃんと立ち止まるし、
 赤信号を守らなかったことだって、
 たぶんない。

 ことりの知ってた海未ちゃんはそういう人で、

 それも誰かが見てるからとか
 自分が危ないからなんてことじゃなくって、
 そういうものだから、

 この世界はそういうふうにできてるから、
 そうするのが当たり前。

 そうやって、
 すんなり思いこめる強い人なんだって、
 隣で見てきて、なんとなくそう思ってた。

 気の流れに身を任せるのです、
 なんて、
 いつかの大会の帰り道でも海未ちゃん聞かせてくれたっけ。
 立ち止まらず、
 どんな向かい風でも受け入れてくれる人。


 そういう人だって、
 ことりは昨日まで思い込んじゃってた。


 山手線は数分おきにぐるぐる流れていくし、
 頭の上の首都高で流れていく車の音はよどみなくって、
 そのもっと上で、
 夕暮れのカラスが群れなして抜けていくから、

 立ち止まってるのは私ひとりだけ、
 なんて気がして、

 高架下のフェンスに寄っかかって携帯を取り出したら、
 もう通知が入ってた。


 海未ちゃんだといいな、
 海未ちゃんじゃなければいいな、

 同じぐらいぐるぐる不安定な気持ちで、ラインを開いた。


  ◆  ◆  ◆

 海未ちゃん、早かった。

 まるで今もすぐそばに居たみたいに、
 さっきまで離れてたのがウソみたいに。

 傾きかかった夕陽が
 つぶれちゃったガソリンスタンドの
 錆びついた看板の影を横たえて伸ばすから、

 その黒い線に海未ちゃんとことりは隔てられて、
 なんだか昔の陣取り合戦みたいだなって、ドロケイだっけ、
 ケイドロだっけ、三人かみんなで遊んでた時のこと、
 まるで場違いなのに、

 私も海未ちゃんも年を取りすぎちゃって
 陣取りなんて気分じゃないのに、
 おかしくって。

 少しだけ、楽になった、のかなぁ。
 黒い線の向こう側にも伝えてあげたい、
 一緒に分かってほしいのに、私の言葉はひとつも出てこない。


 ――ごめんなさい。
   昨日のことは、忘れてください。


 逆光でうつむいた顔も見えないまま、
 そう言って海未ちゃんがすべてを終わらせてしまった。

 踏み出せばよかったのかな、
 あの黒い影の向こうへ、この狭い高架下から抜け出てって。

 そうすればよかった、
 って五秒後には気づいてた、 分かってた!

 なのに、
 なのにことりの足は不自由で、ぜんぜん動かなくって、
 夕陽は沈んでくばかりで、
 時は止まらないし車の音はうるさいし私はどうしようもなくって、


 ……そしたら海未ちゃん、笑ってくれる。

 後輩や友達のみんなを安心させてくれる、強い笑顔をくれる。
 ああそうだ、海未ちゃんは強いから。
 まるでアイドルみたいな笑顔。
 でもことりは分かってる。
 ダマされないもん。

 あれは、なにも言わせないための笑顔だ。

 流れる風に身を任せて、
 そのかわり、自分の大事なものをそこに落として、
 流されてしまうための、あきらめの笑顔なんだ。


 そこまで分かってるのに、
 どうして、ことりはなんにもできないのかな。

 あと数メートル歩み寄って、
 海未ちゃんのことを、
 海未ちゃんのことを、
 昨日聞いてしまった海未ちゃんの気持ちを、
 海未ちゃんとの未来を、世界を、ああもうことりのバカ、どうして、


  ◆  ◆  ◆

『――ごめんなさい。
 こんなこと、してしまって』


『気持ち悪いですよね、
 そんなつもりじゃなかった、ことりもそう思いますよね』

『でももう、私は……もう、
 夜も眠れなくって、あなたのことが、とても、つらくって、』


『……お願いです。
 後生ですから、今からすることを、過ちを、どうか見逃してください』



『私は、園田海未は……ことり、あなたのことを、』


  ◆  ◆  ◆

 音ひとつ聞こえない帰り道、こんなの初めてだった。

 自転車の音や信号の鳴る音だってそこでしてるのに、
 向こうでお母さんぐらいの年の女の人たちが話す声や、
 部活帰りの中学生が歩道橋に向かって叫ぶ音、みんなみんな遠かった。

 ここはひどく寒くって、
 その中で、
 息ひとつ聞こえないほど静かな、
 風に溶けてしまったみたいな隣を歩く人が、一番遠いところにいた。

 手だってつなげる距離なのに、
 その間を流れる空気が透明な分厚い壁みたいに隔てるから、
 なんにも言えないまま、通学路の分かれ道、踏切の前まで着いちゃった。


   じゃあ、明日学校でね。

   はい。それでは、明日。



 機械みたいな声でさよなら交わしたら
 かえって動けなくなって、
 私も、あの子が踏切を渡って手を振るのを見過ごしてしまった。


 いつまでも一緒に居れたらいい、
 だいすきな人とずっとそばに居たい、って子どもの頃から思ってて、
 それが当たり前だって、
 普通に続くんだって昨日まで思い込んでた。


 でも、
 年をとればとるほど、大人に近づくほどに、
 仲良しはただの仲良しでいられなくなって、

 誰かと誰かがそばに寄り添い続けるためには名前が必要になって、
 でもその名前は、
 海未ちゃんとことりでは、足もおぼつかないほど重たいものだった。

 昨日、ベッドの中で、
 海未ちゃんが重ねたくちびるのこと、ずっと思い出してた。

 眠れなかった気持ち、今なら分かる。
 ふらふらして、
 倒れちゃいそうで、
 昨日の放課後だって海未ちゃん倒れちゃってね。

 あれは、関係に付ける名前の重さだったんだ。


 ふと、見上げた。
 あの子の顔なんて見たくない、
 逃げたいのかもって思ってたはずなのに。


 そしたら……動けないのは、あの子も同じだった。


 耳元で強い音が鳴り出した。

 耳をつんざく音、甲高い鳥の鳴き声。

 一斉に飛び立つ、空に 鳥の群れ が広がる、海未ちゃん 動かない、
   後ろからすごい勢いの
              自転車、
  海未ちゃん の横を通り過ぎるけど 海未ちゃんは まだ動かない、
 遮断機がついに 動き出す、
 海未ちゃんは ぼんやり 私 を見てて、遠くから 電車の走る音、
   海未ちゃんは、空から  羽根 が落ちて、沈みきる直前の赤い 光 、

 がんがん耳元で鳴る 警笛 、


       海未ちゃんは、

        海 未 ち ゃ ん  は






「――― 海 未 ち ゃ あ ん っ!」


  ◆  ◆  ◆

 あぶないですよ、あんな時に渡ったら、
 なんて言う声なんて聞いてあげない。もう知らない。
 聞きたくない。
 聞きたくないから私の腕で海未ちゃんを閉じこめた。

 もうなんにも言わなくていい。ばか。
 海未ちゃんばかだよ。
 それに、ことりは、もっとバカだ。


 こんなところに居たら通行の邪魔だなんて
 くだらないこと、もう涙声なのに言ってくるから、
 ことりの家に連れて帰った。

 もう、なにもいわなくていい。
 笑わなくていいよ、って。
 ことりの前では泣いていいんだからね、って。


 あの瞬間、海未ちゃんの顔を見たとき、足が軽くなったの。
 羽根が生えたみたいに、空に浮かぶように、
 それこそ、流れる風になって海未ちゃんをさらってしまうんだって、
 そうしなくっちゃって決まってた。

 でも、そんな話をしたって、
 お風呂のなかの海未ちゃんはぽーっと顔を赤くしてるだけだから、
 むずかしいことは後回しって決めた。


 気づくともう外は真っ暗で、あと少しで日付も変わっちゃう。
 時間も吹く風も止まってはくれないし、
 何かを留めるためには、なんだか名前が要るみたい。

  海未ちゃんは私たちの未来を変えようとしてくれた。
  だから、今度はことりが返す番なんです。


 うちの晩ご飯を食べたあとで、
 「これから、どうしましょうか」って海未ちゃんが言った。

 そうだね、
 とりあえず、名前をつけちゃおうよ。



 ことりは、今度こそ海未ちゃんに伝えた。

 私を、あなたの「恋人」にしてください、って。



おわり。

もう一度読めてよかった乙

引き込まれた。乙。

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