先輩「そこから見えるのは、どんな景色ですか?」 (451)


 文化祭が終わって一ヶ月以上経ったある日、ひなた先輩が部室にやってきて、「散らかってない?」とぽつりとつぶやいた。
 
「そうですかね?」と俺はとぼけてみたけれど、彼女はちょっと困ったみたいに笑ってから「うん」と頷く。

「そう見えるだけかもしれないですよ」

「でも、ほら、あれ……」

 と言って彼女が指さしたのは、机の上に広げられているリバーシのマグネット盤だった。
 今まさに勝負が行われている最中だ。

 対戦しているのは二人の女子部員。優位なのは黒で、角を三つ取っていた。
 場面はすでに終盤。黒に領地を蹂躙され尽くした白には、すでに逆転の手立てが残されていないように見える。

「あれはなに?」

「見たことありませんか? リバーシです」

「知ってる。そういう意味ではなくてね」

「オセロ?」

「言い方の問題でもないよー」

 間延びしたしゃべり方。彼女はちょっともどかしそうな顔で俺を見上げた。
 ちょっと前まで毎日のように顔を合わせていたのに、なんだか懐かしいような気分になる。



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「じゃあ、どういう問題なんですか?」

 真正面から問い返すと、先輩は一瞬気後れしたような様子を見せた。
 それでも結局、もごもごと口を動かして、言いにくそうに言葉を続ける。

「つまり、なんで文芸部の部室でオセロをやってるの、って聞いてるの」

 問いかけは実にシンプルだ。
 俺の方も、まあそう聞かれるだろうと思っていて、わざと話題をそらそうとしていたんだけど。

「ああ、それですか」

「それですかって、どういうことなの?」

 どういうこと、と訊かれても、俺もどういうことなのかわかっていなかった。

 ひなた先輩は三年で、十月に行われた文化祭が終わるまで、この文芸部の部長をやっていた。
 今は引退して、受験勉強に専念してるって話だけど、現役中に宣言していたとおり、ときどき部の様子を覗きに来る。


「まあ、息抜きっていうか……」

 俺の答えに、先輩はほっとしたようにため息をついた。

「そっか。まあ、ときどきならいいかもね。ずっと遊んでるってわけじゃないなら、いっか」

 いやーよかったよかった、と部長が笑って、俺も合わせて笑ったところで、机の方から声があがった。

「よし、またわたしの勝ち」

「また負け……?」

 勝負だけあってあがる声は対照的で、「勝ち」と楽しげな声をあげた方が立ち上がって、ホワイトボードに向かった。
 ホワイトボードには勝敗が記録されている。

 板面を左右に分かつ線が中央に引かれていて、左側に「あかね」、右側に「みさと」と書かれている。
「正」の字の数を数えてみると、「みさと」が二勝、「あかね」が今ので十六勝らしい。

 まずいことに、左上に今日の日付が書かれていた。
 今日だけでリバーシが十八戦も行われていたということが、あからさまに示されている。


「……息抜きって、なんだっけ?」

「今日はみんな乗り気じゃないみたいで」

「そ、そうなんだ。そういう日もあるよね、うん」

 先輩はささやかな期待にすがりつくような表情をしていた。
 
「まあ、気分に左右されやすい部活ですしね」

「そうだよね。わたしもけっこうまったりやってたし、強制されてできることでもないしねー」

 先輩は何かをごまかしたがっているみたいに「あはは」と笑った。
 俺の方もそのまま話をごまかしたかったので合わせて「ははは」と笑う。

「もう、ボードいっぱいだ」

「字、大きく書きすぎだよ、あかねちゃん」
 
 という会話のあと、「あかね」がホワイトボードをくるっとひっくり返した。
 
「あっ」と俺が声をあげなければ先輩は気付かなかったかもしれない。
 裏面の上部には「第一回秋季オセロ大会」という文字があり、その下にトーナメント表が描かれていた。
 
 普段部室に出入りしている部員たち全員の名前が、トーナメント表の下部に記されていた。
 ちなみ「あかね」はシードだった。


「いいかげんオセロも飽きてきたよね」と「みさと」がいつものような落ち着いた口調で言う。
 
 彼女は今学期から編入してきたばかりで、最初はだいぶ居心地悪そうにしていたけれど、今はだいぶ馴染んでいる。
 もともと同学年の女子部員がいなかったから、うまく距離感がつかめなかっただけなのかもしれない。
 幽霊部員だった同学年女子の「あかね」が顔を出すようになってから、彼女もだいぶリラックスできているようだった。

「……飽きるくらいやってたんだ」と、ひなた先輩がつぶやく。

 じとっとした視線を向けられて、俺は思わず目をそらした。
 窓の外の寒々しい景色の中を、木枯らしが吹き抜けていく。

「ほら、何がネタになるかわかりませんから」

「……たしかにねー」

 と先輩は素直に頷いてくれたが、それでも言い方に刺があるような気がした。


 ちょっと困ったような気分になる。
 べつに俺だって、サボりたいとか遊びたいとか思ってたわけじゃない。

「わたしがいるときだってけっこう適当だったから、変わってないっていえば、変わってないんだけどさ」

 先輩は無理やり納得しようとしているみたいにそう言ってくれたけれど、彼女がいた頃は、もうちょっと真面目な文芸部だった。

 みんな何かを書こうとしていた。
 休憩したり他のことをしたりもしたけれど、それでも読み書きにベクトルが向いていた。

 今は……。

「あ、また角……」

「みさと、無警戒すぎ」

 ……どう考えても、遊ぶことにベクトルが向いてる。


「……まあ、いっか」

 と先輩は諦めたみたいな顔をして、それからきょろきょろと部室を見回した。

「大澤くんは?」

 そっちに関しても、できれば俺はごまかしたかった。
 大澤というのは俺の同級生で、文芸部の新しい部長で、物腰穏やかで落ち着いた奴。

 この場にいる女子たちとも同学年だ。
 普段なら窓際に座って、本を読んだり何かを書いたりしているんだけど。

「あいつは……」

「何かあったの?」

「いや。最近、部室に顔を出してないんです」

「え?」

 心底意外、というふうに、先輩は目を丸くした。

「どうして?」

「さあ? 燃え尽き症候群とかですかね」




「書けない」と、一週間前の水曜、苦しげな表情をつくって、大澤が言った。

「は?」と俺は聞き返した。

 そのとき彼は部室の窓際の席に座り、ノートに向かってペンを握っていた。
 隣に座っていた俺は、「いちばんわかりやすいDTMの教科書」を流し読みしていたところだった。
 
「書けない!」

 と今度は大声で、彼はくりかえした。
 そのとき部室にいた文芸部員たちの視線が彼に集まったが、本人がそれを気にした様子はなかった。

 大澤は普段から穏やかで話しやすい奴だ。
 だから、そんなふうに声を荒げることなんてめったになかった。
 めったに、どころではないかもしれない。昔からの付き合いなのに、俺は彼のそんな姿を初めて見た。

「……どうしたの、いったい」

 訊ねると、彼は苛立たしげにペンを机の上に投げ出して、

「書けない」

 と今度は静かに呟いた。ぽつりと。
 部室中が静まり返り、みんなが彼の様子を伺っていた。


 次に大澤に声をかけたのは「みさと」だった。
 リバーシは部内最弱を誇る「みさと」だったけど、大澤の扱いに関しては誰もが認めるプロフェッショナルだ。

「みさと」特有の会話のテンポや声のスピードは独特の癒し時空を発生させる。
 このときの大澤もそれによって落ち着きを取り戻すだろうと、そう考えていた俺は安易だった。

「大丈夫?」

「大丈夫じゃない!」

 予想に反し、大澤は「みさと」に吠えた。彼女は少し怯んだように見えたけれど、

「少し休んだら?」

 と真面目な顔でごく平凡な提案をした。
「少し休んだら?」は、俺の中では女の子に言われたい台詞ランキング第八位くらいの台詞だったので、微妙に羨ましかった。

 興奮した様子だった大澤も、その台詞にいくらか冷静さを取り戻したかのように見えたが、それも一瞬のことで、

「ちくしょう!」

 と大声で叫んだあと、バッと立ち上がってあっというまに部室から走り去っていった。
 ちらりと見えた彼の横顔は、泣いているようにも見えた。

 ドタドタという足音と一緒に、

「俺は人間失格だー!」
 
 というよくわからない叫び声が聞こえてきた。
 それらは廊下の向こうへとあっというまに遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。 

 残された俺達は途方に暮れた。





 そんな水曜の顛末をひなた先輩に伝えると、彼女は一言、

「なにそれ」

 と呟いた。呆れも驚きも出てこないみたいだった。
 
「嘘だよね?」

「残念ながら」

「本当です」

 途中から俺の言葉を引き継いだのは「あかね」だった。
 ぶっきらぼうな口調は先輩に対しても変わらない。たぶん性格なんだろう。

「大澤くん、なんか思いつめてたみたいでした」

 と言いながら、彼女の黒石は淡々と角を制圧した。「みさと」が「うっ」とうめき声をあげた。
 ひなた先輩はちょっと心配そうな顔をしたあと、

「何か聞いてないの?」

 と、リバーシの盤面に真剣な眼差しを向ける「みさと」に訊ねた。
「みさと」は大澤と付き合っている。文芸部員は全員知っている話だ。

「知りません」、と「みさと」はちょっと強い調子で答えた。

「あんなやつ。メールもラインも返事来ないし。休み時間会いにいってもいないし、部室こないし」

 なんとなく気まずい空気が部内に流れた。「みさと」が白石を置いたとき、今度は「あかね」が「むっ」とうめいた。





 大澤の様子がおかしくなりだしたのは、文化祭が終わって二週間が過ぎた頃のことだった。
 
 文化祭で配布した文芸部の部誌の評判は上々で、クラスメイトたちも結構読んでくれたらしかった。
 わりと意外な結果だ。文芸部の部誌なんかに目を通す奴が、そんなに多いとは思わなかった。

 これは内容というより、手にとりやすさ、見やすさに配慮したレイアウトがよかったのだと思う。
 そのあたりの出来は、部誌の編集を担当した当時の部長、ひなた先輩の功績だ。

 よそがどうかは知らないが、うちの文芸部員はわりと面白い話を書く。

 今年の部誌に寄せて、ひなた先輩が書いたのは二本の短編小説だった。
 片方は、ストーリーは薄味だが文章そのもののリズムを楽しむような軽妙なノリの青春小説。

 ……あるいは青春小説と呼ぶのすら間違いかもしれない。始まりが終わりまで続くような話だった。
 終わりさえも、ただぶった切られただけかのような、ただ連綿と続く予感だけを残した話。

 もう片方はもの寂しい雰囲気のある話。
 叙情的な描写を抑制の効いた語り口で最後まで丁寧に書いている印象だった。

 二本の短編はそれぞれがそれぞれに対応する形になっていて、よく見ると徹底した対比構造が覗き見える。
 どちらかがどちらかの内容を否定するわけでもなく、独立しながら、別々の物語のあり方を示していた。



「みさと」が書いたのは絵本のようなほのぼのとした雰囲気の話だ。
 特に面白がる要素もないのに気付くと読み終わっていて、さらりとした読後感がある。 

 面白いのが台詞回しで、「些細なこと」と「重大なこと」がほとんど同じような重さを持つかのように語られていた。
 その危うげな平衡感覚が、薄氷の上を歩くような緊張感を生んでいて、起伏のない話なのに妙なスリルがある。
 それが処女作だというのだから、感心したこっちが救われない。

「あかね」と幽霊部員ふたりはやる気のない川柳を一本ずつ。
 ひなた先輩は彼女たちの作品を部誌のいちばん最初に配置した。 
 去年も似たようなことをやっていたから、たぶんわざとだろう。

 そんなわけで、俺以外の部員はだいたい、「面白かったよ」という声をクラスメイトなり誰なりに掛けてもらえたみたいだった。

 ちなみに俺がもらった感想は「ながい」の一言だけだった。
 
 そんな中、「面白い話を書く」奴の筆頭が大澤で、部誌の厚みの大半は彼が書いた何本ものショートショートが作り出したものだ。
 切なかったり怖かったり寂しげだったり優しかったり、大澤の話はいつだってよく出来ている。
 短くて小難しく、ややこしくて面倒な描写も少ないから、とっつきやすい。
 
 部誌の半分くらいがそのノリなのが、全体としての評判が良かった理由だろうと思う。

 そして実際、けっこうな数の生徒が大澤に直接「おもしろかった」と伝えていたようだった。
 たぶん、それが原因で落ち込んでるんじゃないかと思う。




 用事があるから、と、ひなた先輩が部室を出て行った。
 残されたのは俺と、「あかね」「みさと」の二人だけだった。
 べつに気まずいわけでもないけど、先輩が出て行くのと同時に沈黙がやけによそよそしくなった。

 そうなると居心地もあまりよくなかったので、俺は二人に声を掛けてから一人で帰ることにした。

「じゃあね」と「みさと」が俺の顔を見もせずに言うと同時、「あかね」の十九勝目が決まったらしかった。

 部室を出てから階段まで歩き、ふと思い立って、下り階段ではなく上り階段へ向かった。
 帰るだけなら階下に向かえばいいし、べつに上に面白いものがあるわけでもないのだが。

 習慣、というわけでもない。気まぐれのようなものだ。

 屋上に出る鉄扉は、いつものように冷たい。
 季節が季節だから、きっと風も冷たいだろう。

 扉は軋みながら開いた。


 文芸部の部員数は七名だ。

 俺と大澤、「あかね」と「みさと」、それから部室に顔を出さない幽霊部員の男子二名。
 引退したひなた先輩は除外。最後のひとりは、唯一の一年生、女子部員だ。

 彼女は、いつ頃からだろう、部室にいる時間が短くなった。
 かわりに、屋上でひとりで過ごしている様子を、よく見かけるようになった。 
 何をするわけでもなく、ただぼんやりと街を見下ろしているだけ。

 良いというのでも、悪いというのでもないけれど。

「こんにちは、せんぱい」

 俺が屋上に出ると同時、彼女はこちらを振り向いて、「仕方なく」というふうに笑いながら言った。

「こんにちは」

 俺がオウム返しのように返事をすると、彼女は何も言わないまま、フェンスに向き直った。
 余計な世間話を好まないのはお互い様だが、彼女の沈黙は、それだけが理由というわけでもなさそうだった。

 風は思った通り冷たかった。思ったよりも強かった。

 少し迷ったが、俺は結局、彼女との距離を少し詰めて、声を掛けた。

「部室、顔出さないの?」

 彼女はこちらに背中を向けたまま肩越しに振り返り、困ったみたいに笑う。

「今日は、気分じゃなかったので」

「そう」

 それ以上は何も言わずに、俺は踵を返して屋上を立ち去ろうとした。



 気配でそれを察したのか、彼女は急に振り返って、笑った。

「せんぱい、なにしに来たんですか?」

「いや、べつに。用事はなかったけど。生きてるかなと思って」

「なんですか、それ」
 
 彼女はとってつけたみたいに笑う。
 生きてますよ、もちろん、と彼女は言った。

「そう。ならいいや」

「そうですか」

「うん。……最近、いつもここにいるよね」

「そうですか?」

 言われて初めて気付いたというみたいに、彼女はちょっと戸惑った表情になる。

 少し考えた素振りを見せたあと、そうかもしれない、と彼女は視線を落としながら言った。


「高いところ、好きなの?」

「穴の中とか、井戸の底とか、低いところよりは好きかもしれないです」

「ふうん」

 よくわからない、中身のない会話。
 たぶん、互いに踏み込むのを避けているからだろう。

「せんぱいは、どうなんですか?」

「なにが?」

「屋上。前までは、けっこう頻繁に通ってたのに」

「そうだったっけ?」

 たしかに、何度も訪れていたこともあったけど、そう頻繁だったという記憶もない。
 覚えていないだけで、実は毎日のように通っていたのかもしれない。


「とにかく、俺はもう帰るよ」

 これ以上ここに居ても何も話すことはないと思い、俺は屋上をあとにしようとした。
 
「せんぱいは」、と彼女は言った。

「何も言わないんですね」

「何か言った方がよかった?」

「……そういうわけでも、ないですけど。ほら、部にも顔を出せとか、サボるなとか」

 ほとんど同じ意味だろ、と言い返しそうになってから、俺は少し考えた。

「俺は、他人にどうこう言える立場じゃないからなあ」

「そうですか」

 彼女は困ったみたいに笑う。


「そもそも、今は部長がサボってるし、実質リバーシ部だし」

「あはは」と後輩は笑う。何かをごまかそうとしているみたいに見えた。

「じゃあ、もう行くよ」

「はい。また明日」

「雨……」

「はい?」

「……雨が降りそうだから、あんまり長居しない方がいいよ」
 
 彼女はきょとんとしたあと、ぼんやりとした表情のまま空を見上げた。
 空は灰色、深く暗い。気付かなかった、と彼女はつぶやく。

「ありがとうございます」

 にっこりと笑ってから、彼女はひらひらと手を振る。俺は軽く頷いてからようやく屋上をあとにした。




 彼女が部誌に寄せたのは一本の掌編小説だった。
 あるいは小説と呼ぶのは間違いかもしれない。散文詩とでも呼ぶべきかもしれない。

 主人公である「わたし」は「庭」にいる。
 光る木々の庭。 

 その庭では、「子どもたち」が遊んでいる。
 錆びた廃バスの秘密基地、柱に蔦の絡まった、古い西洋風の東屋、涸れた噴水に投げ込まれた鈍色のコイン。
 魚のいない池と、鮮やかな緑の苔に覆われた地面。すり減ったペーブメント。粉々に砕けた鏡の破片。
 
 森に囲まれた、木洩れ陽の庭園。
 風が吹くたびに、枝葉の隙間から覗く空の光が揺らいで、きらきら輝いているように見える。
 そんな景色がずっと続いているのだ。

 白い服を着た「わたし」はその庭の「子どもたち」の一員だった。
 
 そこでは何をするのも自由だった。
「子どもたち」に何かを強いる者も、「子どもたち」をどこかに導く者も、そこにはいない。


 彼らは思い思いのことをして遊び、思い思いの相手と関わりあった。
 そんななか、「わたし」はあるとき、穴を掘りはじめる。
 庭園の隅の方で、理由もなく、白い服を土で汚しながら、ただ延々と。
 
 誰とも関わり合おうとせず、ただ穴を掘っていた。
 何のためなのかもわからないまま。

 穴を深く深く掘り進める。どこまでいけるのだろう、と「わたし」は考える。

 やがて彼女は、自分が穴を深く掘りすぎたことに気付く。
 地上はすでに遠い。深く深く掘り進められた穴は、登ることさえできない。

 彼女は自分が致命的な間違いを犯したことを知る。それが既に手遅れになってしまったことを悟る。
 抜け出すことは決してできない。

 鳥の鳴き声も、太陽の光も遠く、耳に馴染んでいた葉擦れの音さえも、気がつけば聞こえない。
 暗い穴の底で、ただ光だけが眩しい。物語はそこで終わっていた。





 家に帰ると、リビングのソファの上で膝を抱えて、妹がしくしくと泣いていた。

「どうしたの」

 と反射のように訊ねると、

「なんでもない」

 と即座に返事がかえってくる。まあこいつならそう答えるだろう。そういうやつだ。
 手のひらでまぶたをこすって、鼻を一度すすってから、彼女は「おかえり」と笑う。

「ただいま」と俺はあっけにとられたまま返事をして、カバンをテーブルの脇に置く。
 それからテレビの電源を入れた。

 
 画面の中では昔好きで観ていたドラマの再放送がやっていた。 
 最近の俺は、家に帰ってすぐにテレビをつけて、このドラマを眺めるのが日課になっていた。


 昔好きだったものなんて、今は楽しめないに違いない。そう思っていたけど、案外楽しんでしまっている。
 ようするに、俺という人間は、昔からそんなに変わっていないのだ。

 俺はテーブルの脇にそのまま腰をおろして、しばらくドラマを眺めながら、妹に何か訊くべきだろうかと考えた。
 何かあったのか、とか。でも答えはわかっていた。

 さっきだって似たような質問をしたのだ。
「なんでもない」と彼女は言うだろう。どんなことがあったとしても。


 それでも試みるくらいはいいかもしれない。
 そう思って、俺は訊ねてみた。

「なにかあった?」

「なんでもない」

 と、妹はやっぱり笑う。

 しかたなく俺はふたたびドラマに目を向けた。
 すると彼女の方も、他に意識を向ける先がないからか、興味もなさそうにテレビへと視線をやった。

 画面の中ではありふれた男女の恋愛が幾重にもかさなりあってからみ合って、不可思議な人間関係をコミカルに作り出していた。
 
 それはコミカルを通り越してケミカルですらあった。
 見ているこっちがその仕組の出来に感心するくらいに。
 
 ささやかな偶然の積み重ねが思いもよらない展開へと物語を運んでいく。
 
 そして俺は溜め息をつく。


 ドラマが終わった。テレビを消した。
 妹はしばらく黙り込んでいたが、やがて、ふたたび、しくしくと泣き声を漏らし始めた。

 気を紛らわすものがなくなったからかもしれない。
 俺はもう何も訊ねなかった。立ち上がってカバンを持ち上げ、リビングを出て階段へと向かった。

 自室のベッドの上にカバンを放り投げて、少しだけ考え事にふけった。
 いつものことだ。

 頭の中で行き交う言葉を強引に打ち切ったあと、自室を出て、ふたたびリビングへと向かう。
 
 妹はまだ泣いていた。
 俺はリビングの出窓へと歩み寄り、置きっぱなしにしていたシャボン玉液容器とストローを手にとった。
 
 窓を開けてシャボン玉を外に向けて吹く。
 しばらく何を言うでもなくシャボン玉を吹いていると、やがて妹は俺がしていることに気付いたらしく、

「なにそれ」

 と訊ねてきた。ひとりごとかもしれない。



「シャボン玉」

「なんであるの?」

「こないだ、コンビニにあったから買ってきた」

「ふうん。なんで?」

「なんでだろう。童心に返ってみたくなって」

「……さすが」

 と妹は言ったけど、なにが「さすが」なのか俺にはよく分からない。
 たぶん彼女自身もよく分かっていないんじゃないかと思う。


 しばらく出窓からシャボン玉を吹いていると、

「わたしもやりたい」とさっきまで泣いていたのを忘れたみたいな顔で妹が言うので、

「どうぞ」とストローを差し出すと、彼女はためらわずに受け取った。

 シャボン液にストローの先を浸してから、彼女は窓の外をめがけてシャボンを吹き出す。
 背丈の関係で、窓の外に向かうはずだったシャボン玉のいくつかはカーテンや出窓の棚にぶつかった。

 ちらりと妹の表情を見るが、特に気にした様子はない。
 というよりも、窓の外に出ていったいくつかのシャボン玉を目で追いかけていて、気付かなかったらしい。

 しゃーぼんだーま、とんだ、と彼女は子供みたいに歌って、またストローを液に浸す。

 吹き込むたびに、いくつものシャボン玉が風に乗って外へと流れていく。

 やーねーまーで、とんだ、と俺が歌うと、彼女はちょっとばかばかしそうに笑った。


「なんかたのしい」と妹が言ったので、俺はその場に彼女を残して台所に向かった。
 妹は一瞬だけ俺の方を気にしたようだったけれど、すぐにシャボン玉を吹くのに集中し始める。

 俺は流しの下の棚の中にしまっていたシャボン玉銃を取り出した。
 一緒にしまってあった専用の液をセットしてから、彼女の背後に忍び寄る。

 彼女の肩の上から窓の外に銃を向けて引き金を引く。
 無数のシャボン玉があっというまに吹き出して、窓の外へと流れていった。

「おおー!」と彼女は子供みたいな声をあげてから俺の方を振り向いた。

「なにそれ?」

「シャボン銃」

「どうしてそんなものがあるの?」

「どうしてだろう。ホームセンターで五〇〇円で売ってたから、楽しそうだと思って」

「わたしもやりたい」

「どうぞ」


 シャボン銃を受け取ると、妹は出窓から腕を突き出してぐっと引き金を引く。
 からからという音と一緒に、吹き出し口からシャボン玉が飛び出していく。

「おお、これは……」

 と妹は引き金を引きながら呟く。

「爽快」

「それはよかった」

「庭に出てやったら、もっと気持ちいいかな?」

「どうだろうね」

「行ってくる」

 言うが早いか出窓を離れると、妹はリビングを出て行った。
 とたとたという足音が遠ざかったあと、玄関の扉が開く音が聞こえる。
 
 庭に面した窓の向こうの、芝生の上に妹の姿が現れた。
 


「よーし」という彼女の声が、開けっ放しの出窓の方からかすかに聞こえる。
 重苦しい曇り空に向けて、彼女はしばらく引き金を引いていた。

 とくに楽しそうにも見えないけど、きっとはしゃいでいるんだろう。
 妹の感情表現は、だいたいいつも出力が足りない。

 やがてセットされたシャボン液が尽きたのか、銃は何も吐き出さなくなってしまった。
 すると彼女は出窓のほうへと回ってきて、

「それとって」

 と言って、俺にシャボン液の容器とストローを渡すように要求した。
 俺が黙ってそれらを手渡すと、彼女は代わりというみたいに用済みになったシャボン銃を置いた。

 遊園地のチケット売り場みたいなやりとりだなと俺は思う。

 銃口からこぼれて垂れた泡のせいで、シャボン銃の取っ手はぬるぬるしていた。
 けれど、彼女がそれを気にしている様子はない。

「ありがとう」

 妹はそのまま、ふたたび芝生の上へと躍り出た。


 それからしばらく彼女はシャボン玉を吹いていたが、楽しそうには見えなかった。
 むしろ表情が淡々としていて、退屈そうにすら見えた。
 
 ストローに息を吹き込むたびに空にまいあがる泡の群れを、彼女は熱心に目で追いかけていた。
 
 楽しそうには見えないけれど、楽しんでいないってことでもないだろう。
 ひとつひとつのシャボンの大きさを比べたり、吹き込むごとに数を比べたり。
 そういうふうに観察する楽しみってものもあるのかもしれない。
 
 万華鏡を覗くときだって、笑顔になる人もいれば、ぽかんと口を開けるだけの人もいる。

 結局は妹の頭の中で起こっていることだから、俺には知りようがないけど。
 まあでも、つまらなければすぐに戻ってくるだろうし。



 そのまま手持ち無沙汰にぼんやり窓の外を眺めていると、不意に遠くの方から低い音が聞こえてきた。

 なんだろうと思って空に目を向けること数秒、にわかに強い雨が降り始める。

「うわー」とかなんとか言いながら、妹が玄関へと走る音が聞こえた。
 俺は洗面所に向かってバスタオルを用意しようとしたのだけれど、
「洗濯物!」という声が玄関のほうから聞こえたので、あわてて階段を上って二階のベランダへと向かった。

 雨の勢いはほとんど台風みたいな様子だった。
 俺は角ハンガーごと衣類を屋根の下に引きずり込んで息をついた。
 
 どうにか危機を脱した後、妹のことを思い出して階下に向かう。
 タオルは一応の準備のつもりだったんだけど、妹は思ったよりも濡れていた。

 差し出したタオルを受け取って髪をぬぐいながら、
 
「すごい雨」

 と彼女は玄関の扉を振り向いた。濡れた髪が頬にはりついている。
 屋根を打ちつける雨の音が、うるさいくらいに響いていた。

「うん」

 頷きながら、俺は屋上に立ち尽くしていたひとりの女の子のことを考えた。



 彼女はまだあそこにいるんだろうか。何かを待っているみたいに、じっと空を睨んだまま。

 高い秋空の下で強い雨に打たれる彼女の姿。
 その幻視は一瞬のことだったのに、俺の頭に強い印象を伴って焼きついた。

 妹はしばらくぼんやりと、玄関の扉ごしに外から聞こえる雨の音を聞いていたようだった。
 それから不意にはっとしたような顔をして、

「ごはんつくらなきゃ」

 と真顔で言い、靴を脱いでからあっさりと俺を横切ってキッチンへと向かった。
 俺がリビングに入ると同時、彼女は思い出したように、

「お兄ちゃん」

 と俺を呼んだ。
 それからちょっとためらいがちに笑って、

「タオル、ありがとう」

 いつもみたいな声で、そう言った。

つづく

期待

屋上さん?




 夕飯を食べ終えたあと自室に戻り、さて、何をしようかと考えた。
 
 とりあえず筆記用具を広げて今日の授業で出された課題を進めようと考える。
 他にすることのない人間というものは暇つぶしに勉強をするものなのだ。

 集中を乱すものさえなければ課題はすぐに終わる。そうしてまた手持ち無沙汰になった。
 
 秋は日暮れが早い分、手持ち無沙汰でいると無駄な時間を過ごしているような気になる。
 長期的な目標でもあれば、実現に向けてささやかな努力でも積み重ねているところなんだけど。

 あいにく俺は無目標で自堕落な人間だったので、その日その日の先を考えるということが苦手だった。
 
 仕方なく、俺はいつも使っている大学ノートを広げて、小説を書こうと思った。

 小説。 
 実に文芸部員らしい暇つぶしだ。

 素案のつもりで、大雑把な場所と人物、時間を決め、適当に動かしてみる。
 残念ながら、すぐに文章が動かなくなった。運動がない。

 俺が溜息をつき、具体的ではないぼんやりとした考え事にふけっていると、不意に携帯が鳴った。

 型落ちのフィーチャーフォンは年季の分だけ塗装が剥げたり色あせたりしている。
 最新の機能なんかあっても使わないからという理由で、ずっと使っている古い携帯。

 とくべつ大事に使っているつもりもないけど、今のところ不具合は起きていない。
 頻繁に連絡を取り合うような友人もそんなにいないから、使う機会もあんまりないんだけど。
 


 画面を開くと、メールの新着を知らせる表示がディスプレイに出ていた。
 メール画面を開く。

 ひなた先輩からのメールだった。

「明日も部室に顔だすよー」

 そっけない文面。語尾に文脈を無視したクマの絵文字が添えられていた。

「先輩は絵文字とか使わないですよね」と以前、何かの話の流れで直接言ったことがあった。

「つ、使えないわけじゃないよ?」とひなた先輩は焦ったように口をもごもごさせていた。

 その次に何かの用事でメールが来たときから、彼女のメールには何かとクマの絵文字が付け加えられるようになった。
 ちょっと悪いことを言ったかなと思って、俺はけっこう反省していた。
 
 さて、とメールの内容に目を通す。

「いまはなにか書いてるの?」

 とメールは続いていた。またクマの絵文字。今度はふたつ。



 ひなた先輩は、二年生の多い文芸部員たちの中で唯一の最上級生で、なにかと俺たち後輩を気にかけてくれていた。
 俺や大澤の相談にも乗ってくれたし、入部した当初は何も書いたことなんてなかった「みさと」の質問にも熱心に答えた。

 たぶん根が良い人なんだろうと思う。
 そのひなた先輩も、もう「部員」というわけにはいかない。
 
 俺は少し考えてから返信した。

「了解です。
 いろいろと書こうとはしているんですが、どうも上手くいきません。
 先輩は勉強の合間に何かを書いたりしているんですか?」
 
 きっと何も書いていないんじゃないかと思う。
 それでも、俺と彼女の間に部活以外の話題なんてなかった。
 あるいは、大澤のことを何か言ってくるかもしれないと、思ったりもしたけど。

 数分もしないうちに、携帯が鳴る。

「わたしは封印してるから(クマ)
 もしなにか書いたら読ませてね(クマクマ)」

「機会があれば」

 とだけ返信して、携帯を机に置く。俺はふたたびノートに向かった。
 さっきまで頭の中で渦巻いていた、形にしようと思っていた場面は、今はとっかかりすら思い出せなくなってしまった。




 翌日、大澤は学校を休んだ。
 風邪だと連絡が来た、と担任は言っていた。

 放課後、俺は図書室に行って借りていた本を返却したあと、いつものように部室に向かった。
 ひなた先輩はまだ来ていないらしかったが、二年の女子二人組と、それから顧問がやってきていた。

「なんだこれ」

 と、顧問はテーブルの上のリバーシのマグネット盤を見下ろしながら言った。

「リバーシです」と「あかね」が答える。

「見ればわかる」

 顧問はそう答えてから溜息をつく。

「みさと」は気まずそうに視線を落として黙りこんでしまっていた。

「べつに、遊ぶのが悪いとは言わないし、こういうものを持ち込むことについてもあんまりうるさくは言いたくない」

 やる気のなさそうな気だるげな瞳で、無精髭の伸びた口元を小さく動かしながら、低い声で顧問は言う。

「でも、メリハリはきちんとしろよ。やっていい時間とそうじゃない時間がある。
 べつに喋るのに夢中になったりするのが悪いとは言わない。和やかなのは悪いことじゃない。
 それでも、やっていい時間とそうじゃない時間くらい区別がつくだろ?」

 黙りこんでしまった「あかね」の代わりに、「みさと」が「すみません」と言ってリバーシ盤を片付けはじめた。
 顧問は貫禄ありげに頷いた。


「他のものも、散らかしたままにせずに、ちゃんと片付けろよ」

 顧問はそこまで言い切ると、ちょっと気だるげに溜息をついて部室を去っていった。
 怒って出て行ったようにも見えたし、叱ったあとの気まずさに耐えかねたようにも見えた。

 残された俺達は重い沈黙の中に取り残される。
 誰も口を開こうとはしない。ひなた先輩さえも。

 少ししてから、「みさと」が立ち上がり、ホワイトボードに記された勝敗表を黙ったまま消しはじめた。
「あかね」はむっつりとした顔で俯いている。不機嫌そうな。悔しそうな。よくわからないけれど。

 それでも彼女もまた立ち上がり、部室のあちこちに散らばっていたものを片付け始めた。
 出しっぱなしになっていた部誌のバックナンバーを「みさと」がまとめ始める。
「あかね」は、いつのまにか持ち込まれ、机の上に並べられていた、化石を模したカプセルトイをかき集めた。

「あかね」が来てからこの場所に増えたものは、ひとつ残らず回収されて、彼女の鞄に詰め込まれた。

 まあ、そりゃあ、こうなるよな、と思いながら、俺は片付けを手伝おうとしたけど、

「座ってていいよ」と「みさと」が言った。

「散らかしたの、わたしたちだから」

 ……たしかに、俺は物を増やしてはいない。散らかしたままにもしていない。
 でも、たった一度とはいえリバーシに参加したのは事実だったし、散らかったものを片付けなかったのも事実だ。


 それでも「みさと」は、「座ってて」、と言う。
 座ってられるか、と俺は思い、返事をしないまま、部員たちが置きっぱなしにしていた本や辞書の類を棚にしまいはじめた。
「みさと」はそれ以上何も言わなかった。

 やがて部室は整然と片付けられた。ちょうどひなた先輩が部長だった頃みたいに。
 
「あかね」は、片付けが終わった部室を少しのあいだ立ったまま見回した。
 それから何か吐き出しようのない気持ちに振り回されたみたいに顔をしかめる。

「……ごめん、今日は帰る」 

「あかね」の言葉に、「みさと」は戸惑うような素振りを見せてから頷いた。

「ごめんね」ともう一度言って、「あかね」は部室を出て行った。

 残された俺と「みさと」は交わす言葉もなく立ち尽くした。
 扉の閉まる音。





「どうしたんだろう」

 と、重い空気を振り払おうとするみたいに、「みさと」は口を開いた。
 俺は一瞬、返事をしようかどうか迷った。彼女と俺は、一対一でまともに言葉を交わしたことがそんなにない。

 それでも、まさか、二人しかいない場所で、わざわざひとりごとを言ったりはしないはずだと思って、俺は返事をした。

「なにが?」

 彼女は少し困ったような様子でこちらに視線を向けたが、目が合うとすぐにそらしてしまった。

「……あかねちゃん。なんだか、変だった」

「叱られて、ちょっと落ち込んでたんじゃない?」

「あかねちゃんが?」と、「みさと」は心底意外そうに声の調子を高くした。「ありえない」とでも言うみたいに。 
 そのままの口調で、こちらに質問を返してくる。

「あかねちゃんって、そんな子なの?」

「俺より、きみの方が詳しいんじゃない?」

「そんなに付き合い長くないもん」

「俺だってそんなに長くないよ」

「でも、中学一緒だったんでしょ?」

「それ、誰から聞いたの?」

「……伸也くん」、と彼女は大澤の下の名前を言った。




 まあ、たしかに、中学は一緒だった。それでも、付き合いが長いかといえば、どうだろう。

 とにかく、重苦しい雰囲気をごまかしたくて、俺は希望的な観測を適当に呟いてみた。

「まあ、明日になればいつもみたいに部室に顔を出すんじゃないの」

「それ、本当にそう思ってる?」

 普段はおどおどとした調子なのに、今日の「みさと」はやけに食い下がる。

 とはいえ、俺だって本気で言ったわけじゃない。
「そうなればいいな」は希望的観測と、「そうなるだろう」という現実的推測は、まったくの別物だ。

 たしかに、帰り際の「あかね」の様子はおかしかった。 
 でも、それは仕方ないのかもしれない。
 もともと、目上の人間にああいう強硬的な態度をとられると、硬直して壁を張るタイプのように見えた。


 俺は溜息をついてから、机の上に目を向けた。

「……これ、忘れてったな」

 畳まれて放置されたままのリバーシ盤。俺がそれに手をのせると、「みさと」は不思議そうな声をあげた。

「それ、あかねちゃんのじゃないよ」

「じゃあ、誰の?」

 彼女は「知らない」と視線を泳がせた。

「わたしのでもない。でも、あかねちゃんのでもないよ。そう言ってたもん。もともと部室にあったって」

 ふうん、と俺は思った。じゃあ、いつからここにあったんだろう?
 他の誰かが持ち込んだんだろうか。
 それとも、ずっとまえからどこかの棚にしまわれていたとか?

 少し考えてから、どうでもいいやと思って首を振った。


 それから何分も立たないうちに、「わたしも帰るね」と言って、「みさと」は部室を出て行った。
 扉の閉まる音。
 
 うちの文芸部は自他ともに認める「ゆるい」部活で、部員はいつ来ていつ帰ってもいいことになっている。
 顧問もときどきしか様子を見に来ないから、幽霊部員だって二人もいる。

 顧問が来たときにメンバーが揃っていなくても、たまたま顔を出していないだけだと話が片付く。
 文化祭前なんかはともかく、普段はただだべっているだけで活動なんてろくにしていない。

 それでもみんな、何かを書いたり読んだりはしていたけど。

 そういう「ゆるさ」を許容しておいて、リバーシはダメっていうのも変な話だな、と俺は一瞬だけ考えた。
 でも、よくよく考えてみれば、「雑談する」のと「他のことに熱中する」のは違うのかもしれない。
 リバーシがやりたいならリバーシ愛好会でも作ってそっちでやっても別にいいのだ。

 ここはあくまでも文芸部なんだから。部室は関係ないことをするためのたまり場じゃない。

 そういう理屈はわかる。わかるけど……。




 大澤は学校を休んでいて、後輩は今日も今日とて部室に顔を出さない。
「あかね」と「みさと」は出て行ってしまった。
 残るふたりの幽霊部員たちは、今日だって顔を出さないにちがいない。

 まいったなあ、と俺は思った。いったいどう説明すればいいんだろう。
 もちろんあるがままを説明するしかないんだろうけど、と考えたところで、部室の扉が開かれた。

「やー、来たよー」

 と、ひなた先輩はいつものような間延びした声で堂々と部室に入ってきた。
 それから奇妙な間があったあと、彼女は首を巡らせて部室の様子を眺めた。

「あれ、他のみんなは?」

「帰っちゃいました」

 俺があるがままを伝えると、ひなた先輩は「えー?」とおかしな冗談でも聞いたみたいに笑った。

つづく

39-5 「ひなた先輩さえも。」 は、誤り。 

屋上さんの人っぽいな
期待




「えっと、みんな、本当に帰っちゃったの?」

 部長はしばらく黙って俺の表情をうかがっていたようだったけど、やがてそう訊ねてきた。
 俺は黙って頷いた。

「どうして?」

「……大澤は、もともと風邪で休みでした。
 さっき先生が来て、遊んでたのを見て注意していったみたいなんです。
 部室を片付けとけって。それで片付けが終わったら、ふたりとも帰っちゃいました」

「千歳さんは?」

「……ちとせ?」

「……一年の」

「チトセ……」

 っていうんだ。知らなかった。
 部長は俺の表情を見て何かを察したみたいに溜息をついた。
 
「あの子は、たぶん屋上ですよ」

「屋上?」



 どうして? と、先輩の目が問いかけてくる。そんなの知るわけない。

「さあ。高いところが好きだって言ってましたけど」

「部室だって二階にあるのに」

「高いところが好きって人は、普段生活してる場所より高い場所が好きなんだと思いますよ」

「なるほどねー」

 と先輩はうんうん頷いた。

「じゃあ、みんないないんだ」

「はい」

「え、じゃあふたりきり?」

「図らずも」

「……実はきみが一計を案じたってわけではなく?」

「なんのために?」

「……冗談のつもりだったけど、真顔で聞き返されると、かえってこっちが困っちゃうね」

 だったら言わなきゃいいのに、と俺は思った。


 ひなた先輩は、黙ったまま部室を見回し始めた。

 昨日までの散らかりようと打って変わって、今この場所はとても綺麗に整頓されている。
 その分だけ人の気配も足りない。窓の外の秋の景色と相まって、部室の風景はもの寂しく見えた。

「みんな、今日はたまたまいないんだよね?」

「そうだと思います」

「……思います、って?」

 俺は少し、口に出すべきか迷った。

「なんとなく、みんなもう来ないんじゃないかと思って」

「どうして?」

「……だから、なんとなく、なんですけどね」

 先輩は、不思議そうな、心配そうな、そんなよくわからない顔をした。

「あかね」と「みさと」が去っていったときに聞こえた、扉の閉まる音。
 屋上に後輩をひとり残して去ったとき、自分が扉を閉める音。

 繰り返されている。わかっていたことだ。
 わかっていたことだったのに。


「きっと、今日はたまたまだよ」

 ひなた先輩は、暗くなりかけた空気を振り払おうとするみたいに明るい声を出した。
 不器用なようで器用な人。不器用なようで器用な人。たぶんどっちもあてはまる人。

 暗い顔を見せれば、きっと心配をかける。だからあんまり、そういうふうにはしたくない。

「そうですよね」
 
 と俺はわざとらしい口調で合わせてみた。
 
 それでも今、部室には俺たち以外に誰もいない。

 べつに何か決定的なことが起こったってわけじゃない。
「あかね」だってちょっとふてくされてるだけかもしれないし、「みさと」だって用事があったのかもしれない。
 大澤だって風邪が治れば登校してくるだろうし、そのうち小説だって書けるようになって、部室にも顔を出すはずだ。

 後輩……「千歳」だって、たぶん。



 頭ではそうわかってるのに。
 どうしてみんないなくなってしまうような気がするんだろう。

 気をつかってくれたのかわからないけど、ひなた先輩はそれからしばらく雑談に付き合ってくれた。
 勉強の息抜きに読んだ小説のこととか、ワイドショーで見た交通事故にまつわる話とか。

 そうしているうちに俺の気分もいくらかマシになってくる。
 それを察したみたいに、先輩は「そろそろ帰るね」と言った。

「はい」と俺は作り笑いをして頷いたけど、本当は名残惜しかった。それでも甘えているわけにはいかない。

 扉の閉まる音。
「今日はたまたまだよ」という先輩の言葉を頭の中で何度か繰り返してから、俺は下校時間になるまでひとりで本を読んでいた。

 結局、翌日も大澤は学校を休んだ。「みさと」も「あかね」も部室には来なかった。




 ひとりきりの部室でパイプ椅子に腰をかけたまま、俺は身じろぎもせずに本を読んでいた。
 ちょうど読んでいたのは「夏への扉」だった。
 以前にも読んだことがあったのを読み返していただけだったが、退屈はあまり感じなかった。

 肩と首に疲れを感じて一度本を閉じ、軽く伸びをした。
 時計の針は既に下校時間になっていた。

 昨日の下校時間から今日の下校時間まで、時間はいつものように流れていたはずなのに、不思議と何があったのか思い出せなかった。
 たぶん何もなかったからだ。

 俺は閉じていた本に手を伸ばし鞄にしまいこもうとしたが、なんとなく違和感にとらわれてページをめくった。
 自分がさっき、どこまで読んでいたのか、思い出せない。どんな印象だったかも。
 
 たぶん、文字を頭に流し込むだけで読んでいた気になっていたのだろう。とんだ時間の浪費だ。

 俺は立ち上がって、それから部室を見回して、やっぱり誰もいないことを確認した。





 文芸部はそもそも茶飲み部に近い。

 大澤は小説を書くのが好きだし、部長だってそうだ。俺だってそうかもしれない。
 でも、「みさと」や「あかね」はどうなのだろう。彼女たちは、他に行き場がないから部室にいただけなのかもしれない。

 顧問だって、べつに文芸部の活動に熱心ってわけじゃない。
 遊んでばかりいたら昨日みたいに注意するけど、普段は放任、というより無関心を決め込んでいる。

 昨日だって、あくまで教師としてのメンツがあるから注意しただけだったのかもしれない。
 もともとミーティングの最中に居眠りするようなやつだったから。
 だから「あかね」が素直に納得できなかったのだとしたら、それは俺にもわかるような気がする。

 ひなた先輩は、そういうあり方を許容していた。
 みんなばらばらで、それでいい、と言っていた。
 ただ、できれば部誌に向けて何かを書いてほしい。書きたくないなら書かなくてもいい。彼女が俺たちに言ったのはそれだけだ。

 その結果、幽霊部員を含む全員が部誌に原稿を寄せた。
 人徳なんだろうか。彼女に言われると、やってみてもいいかな、という気持ちになるのだ。

 でも、彼女はもう引退してしまった。

 新部長の大澤は自分の小説のことで頭がいっぱいみたいだし、俺だって他人をどうこう言う立場じゃない。
「あかね」はもともと幽霊部員だったから、活動には積極的じゃなかった。
「みさと」だって編入生だから、もともとどういう空気で活動していたかなんてわからない。

 考えてみれば、今まで全員が部室に集まっていたことの方が不思議なのかもしれない。
 だって文芸部は、部員たちを拘束せず、強制していないんだから。
 いつ来てもいいし、いつ帰ってもいいことになっている。

 集まっているだけで、みんなばらばらのことをしていたのだ。
 自然の帰結なのかもしれない。




 鞄の中にしまったままだった携帯を取り出す。
 俺は着信がないことを確認して、溜息をついてから、それをしまい直した。

 昼休みに大澤にメールをしていたのだが、返信はなかった。

 まあ、調子はどうだというだけの内容だったから、返信が面倒だったのかもしれない。
 普段だったらそんなメールを送ったりはしないんだけど、今日はなんとも落ち着かなかった。

 俺は鞄を肩にさげて部室をあとにした。扉を閉める音がいつもより大きく聞こえる。

 落ち着かない気分のまま階段へと向かう。当たり前のように下に降りようとして、立ち止まる。

 少し迷ってから、俺は屋上に向かうことにした。

 どうして?

 今まで、彼女が部室に顔を出していないときも、俺はほとんど会いにいったりはしなかった。
 ときどき、思い出したときだけ、様子を見に行くだけだった。

 だからきっと、彼女の様子が気になったからというよりも、俺が誰かと話したかっただけなんだろう。
 




 けれど、屋上に彼女の姿はなかった。
 
 よそよそしい真っ白な曇り空は、屋内にいた俺の目には眩しかったけれど、それでも灰色にくすんでいる。
 溜息をつくと、息が白かった。もう十一月なのだ。そのうち雪だって降り始めるような、冬の入口にほど近い季節。

 そりゃ、そうだ。こんな寒い場所に、わざわざ長々ととどまりたがる人なんていない。
 高いところが好きな人が、寒いところが好きとはかぎらない。

 それでもいくらか、俺は落胆していた。彼女はここにいるものだと思っていた。
 会おうとすれば会える。そう思っていた。

 でも違う。知っていたはずなのに。
 目の前にいる誰かと、いつ会えなくなるかなんて、誰にも分からない。そんな当たり前のことは。

 俺は自分の思考が以前のように空転しはじめていることに気付き、言葉を振り払おうとした。

 何歩か前に踏み出して、屋上を見渡す。やはり誰の姿もない。フェンスと夕日と曇り空と鳥影。
 いやになって踵を返そうとしたとき、

「せんぱい?」

 とうしろから声が聞こえた。



 振り返ると、扉から少しずれたところ、入り口からの死角に座りこむ後輩……「千歳」の姿があった。

「どうしたんです?」

 と彼女はいつもみたいに笑う。何かをごまかそうとするみたいに。

 驚きと安堵が同時に胸の内側のあたりに広がった。
 それから俺は自分が「安堵」したことに気付いてちょっと咳払いをした。ごまかすみたいに。

 どう返事をしたものか困っていると、彼女は立ち上がり、スカートの後ろをぽんぽんと叩いた。

「なにか用事ですか?」

 彼女は制服の上に灰色のパーカーを羽織っていた。
 そこまでするほど高い場所が好きなんだろうか。

「いや、べつに、用事はないんだけど……」

 彼女は「ふうん」という顔をした。それから壁に背中をもたれて、ぼんやりと空を見上げ始める。
 穴の底から地上を見上げるみたいな具合。

 それで話は打ち切りになった。それ以上、会話をする気はないみたいだった。
 俺は彼女を真似て空を見上げてみたけど、空はやっぱり空でしかなかった。


「雨……」

「はい?」

「雨。こないだ、降らなかった?」

 問いかけると、彼女は少し考えこむような様子を見せた後、「ああ」と頷いた。

「はい。いきなり打たれました」

「平気だった?」

「……心配してくれたんですか?」

 彼女は意外そうな顔をした。俺が人を心配するのが意外なんだろうか。
 ……いや、まあ、意外かもしれないけど。

「うん。大丈夫でした。いや、けっこう濡れましたけど」

「そう」

 俺はまだ何か言い足りないような気がしたけど、それ以上は何も浮かばなかった。
 いまさらタオルを渡したってどうにもならない。

 彼女はまた黙り込んだ。

 ……俺は何をやっているんだろう。彼女に何かを言ってほしいのだろうか? 誰かが何かを言ってくれるのを待ってるんだろうか?
 そうなのかもしれない。そう思ってなんとなくいやになった。それはどう考えたってかっこわるいことだ。


「……部室に、ね」

「はい?」

 後輩は少しだけ身をこわばらせた。
 部室に来いと言われると思ったのかもしれない。そうじゃないかもしれない。

「部室に、誰もいないんだよ」

「……はい?」

 彼女は目を丸くした。

「えっと、みんな帰ったんじゃないんですか?」

「いや。今日は誰も来なかった」

「……そう、なんですか?」

 彼女はしばらく黙ったまま俺を見上げていた。続きを待っていたのかもしれない。
 でも、続きはとくに思い浮かばなかった。

「どうして?」

 と、穏やかな口調で問いかけられる。どうでもいいのかもしれない。

「わからないけど、みんな来ない」

 そう言ってから、俺は自分の言う「みんな」に目の前の後輩が含まれていることを思い出した。



「ふうん」と後輩はどうでもよさそうに息を吐いた。

「そうですか」

 彼女はパーカーのポケットに手を突っ込んで白い息を吐いた。

「まあ、どんまいです」

「……どうも」

 社交辞令みたいな慰めに、俺は社交辞令の礼を言う。

「それで、わたしに何を言ってほしいんですか?」

 俺は言葉に詰まる。彼女の表情はいつもどおりの愛想笑いで、それなのに言葉だけが尖っている。
 見透かされたことに恥ずかしくなる。

「どうしてこうなるんだろう?」

「ケンカでもしたんですか?」

 彼女はそう問いかけてきたけど、俺が答えるより先にその言葉を自分で笑い飛ばした。
 そんなわけないと言いたげに。

 俺は何も言えなかった。


「……せんぱい、変わりませんね」

「……なにが?」

「文化祭があって、先輩はもう変わっちゃうんだろうなって思ったんですよ」

「変わる?」

「はい。あの時期のせんぱいはかなりイライラした感じでしたけど、部誌の原稿書き上げてからは……。
 ほら、けっこう明るくなったっていうか、割と安定した感じだったじゃないですか」

 俺は、少しだけいやな気持ちになった。

「でも、結局、あんまり変わってなかった。わたしとしては、安心したような、がっかりしたような……」

「ひょっとして、責めてる?」

「というより、感想ですね。見た感じの」

 見た感じで人を批評しないでほしいものだと思ったが、彼女の言葉は間違っているわけじゃなかった。
 
「堂々巡りの袋小路」と彼女は呟いた。
 それからちょっとだけ苦しそうな顔をした。



「せんぱいは出口を見つけたんだと思ってました」

「……俺もそう思ってた」

「置いてかれたみたいで、ちょっと寂しかったんですけどね。
 でも、せんぱいは結局、何も変わってない気がします」

「……」

「部室に誰もこなくなって、よかったんじゃないですか?
 せんぱいはいつも、一人で本を読むか何か書くかしてるだけで、人と話したりしないじゃないですか。
 べつに、これまでと何も変わらないんじゃないですか? 誰かがいても話したりしないんだから」

「……」

 そうだな、と俺は思った。彼女の言葉は的を射ていた。
 あの頃と、まったく変わっていないってわけじゃない。あの名状しがたい憂鬱は、ちゃんと振り払うことができた。
 でも、それ以上のことを俺はしようとしただろうか?

 出口を見つけて、扉の外に出て……そのあとは?

 後輩はそれ以上何も言わなかった。
 俺はそれ以上何も言えなくて、結局屋上を後にした。

 嫌な気持ち。覚えのある感情。
 諦めに近い心のよどみ。

 扉を閉める音。

42-7 「そうなればいいな」は → 「そうなればいいな」という

つづく




 穴の底は、とても、暗いです。

 地上からまっすぐに伸びた、深い垂直の穴ですから、昼の間は、光はたしかにそそがれるのですが、
 あまりにも深いために、光は穴の底に辿り着くまで、細かな粒のように砕けて広がり、薄ぼんやりとしているのでした。
 その明るさは、ただ暗いだけよりも昏いように思えます。

 わたしは、穴の底にいます。

 自分で掘った穴の底で、膝を抱えているのです。
 
 もう、どれくらい経ったでしょう。
 ずいぶん長い間、という気もしますし、まだほんの少しだといえば、そうだとも思えます。

 どうして、こんなところにいるのだろう。不意に湧いたそんな疑問に、思わずわたしは自嘲の息を口から漏らしました。
 わかりきったことです。

 わたしは、自分でこの穴を掘ったのでした。自分の意思で、ここまで掘り進めたのでした。



 わたしは、穴の底から、空を見上げてみました。
 空? 空というのは、不適切なのかもしれません。空というのは、どこからどこまでを指すものなのでしょう。
 
 あの光を、わたしはなんと呼べばいいのでしょう?

 それが何なのか、わからないのに、わたしはそれを求めていました。
 焦がれていました。

 おそらく。

 でも……。

 その光は、あまりにも、遠い。

 わたしが鳥だったなら、翼をはためかせて飛んでいくこともできたはず。
 わたしがトカゲだったなら、四足で土壁を這い登り、出口を目指すこともできたはず。
 わたしがもぐらだったなら、この場所に安らぎを見ることもできたはず。

 けれどわたしは、鳥でも、トカゲでも、もぐらでもないのでした。



「遠い」

 と、わたしは何気なくつぶやきました。自分がまだ言葉を覚えていることに、少し、驚きました。
 けれど、もっと驚いたことに、その声に返事がかえってきたのです。

「それは、そうだよ」

 と、声は言いました。聞き覚えのあるような声。聞き覚えのないような声。

「だれ?」

 とわたしは訊ねましたが、すぐにどうでもいいやと思いました。
 あたりを見回しても誰もいないのです。ここには一人分のスペースしか空いていないのです。 
 鳥やトカゲやもぐらでもない限り、ここには誰も近づけませんし、彼らには言葉を扱うことができません。

 それはきっと、時間の経過によって摩耗したわたしの心が作り上げた幻聴なのです。

 けれど、わたしは思うのですが、幻覚と現実とのちがいはどこにあるのでしょう?

 わたしはわたしの感覚として、その声がわたしの耳を通って、たしかに聞こえていると感じます。
 その感覚はまったく現実のものと同じなのです。ただ、その声が存在し得ないというだけで。

 わたしにはその声が、現実的な感覚を持っているのです。
 では、それを幻覚と判断せしめるものはなんなのでしょう。
 
 それは、他者の目ではないかと思います。
 つまり、自分の目の前にあるものがたしかな現実だと決めるのは、自分を含む人間による多数決なのです。

 わたしがそれを「ある」と言っても、誰もがそれを「ない」と言うなら、それは「ない」のです。
 


 ……また、どうでもいいことを考えてしまいました。
 わたしには、そういうくせがあるのです。

 現実的な問題が降りかかったとき、その出来事を抽象化することで、現実を他人事のように処理しようとする態度。

 逃避、遁走、と人は呼ぶのでした。

 とにかく、わたしは耳をすませ、声の気配を探りました。もうどこからも聞こえません。
 だれ、という質問にも、答えてはくれませんでした。

 錯覚。やはり、錯覚だったのかもしれません。
 ……いえ、錯覚だということはわかっているのです。ここには誰もいないのですから。

 それでも声が聞こえたのなら、その声には、何かしらの意味があるはずなのです。
 それはたとえば、わたし自身が見逃している、わたし自身からの意思の漏出なのかもしれません。

 わたしはそのような声にこそ、耳を傾けなければいけないのでした。

「だれ?」

 わたしがもう一度訊ねて見ると、今度は、声が返事をよこしました。


「だれでもない」

 と、声は言います。女の声のようでした。

「幻聴?」

「受け取り方次第」

 と声は言いました。わたしは、まあ、それはそのとおりだな、と思いました。

「ねえ、あなたはずいぶん長いあいだ、ここに留まっているよね?」

「そうですね。もう、ずいぶん経つような気がします」

「ここから、出たいとは思わない?」

 わたしは、答えませんでした。少しのあいだ周囲を見回してみましたが、やはり誰の姿もありません。
 鳥もトカゲももぐらも、こんなところにはいない。それはそうなのです。だってここはあまりにも深いから。

 わたしは少し黙り込んだあと、ちょっとだけ笑って、こう答えました。

「……どうなんでしょう。よくわかりません」

「どうして? 簡単な質問でしょう?」

 わたしは頭上を見上げました。光が細かな塵のように降り注いでいます。出口は、針の先のように小さく見えました。


「だって、外に出て、どうなるんですか?」

「どういう意味?」

「だってわたしは、望んでここに来たんです。外は怖いものでいっぱいだから。
 わたしにはわからないルールがあって、みんながそれを共有しているんです。
 そこらじゅうに地雷があって、生き残れるのはそれをうまく避けられる人だけなんです」

「……」

「この穴は、とても昏くて、さびしいけど……でも、穴から出たからって、さびしくなくなるわけじゃないです」

「……」

「穴から出たら、痛いこととか、嫌なこととか、たくさん、あるんです。たぶんあの光はそういうものなんです。
 わたしは、昏いところに慣れてしまったから。それでもあの光に憧れてはいるけれど……。
 諦めてもいるんです。たとえこの穴を出られたって、あの光は、わたしのものにはならないって」

 わたしはしばらくのあいだ、返事を待っていましたが、声はいつまでたっても答えてくれませんでした。
 溜息をついてから、わたしはもう一度周囲を見回します。やはり、なんの気配もありません。

「ほんとうに、幻なんですね」

 溜息をついてから、もう一度頭上を見上げました。
 光は、ここから見上げれば、ほのかで、やさしげで、穏やかです。

 けれど、わたしが近付こうとしたならば、そのまばゆさと熱でわたしを灼いてしまうでしょう。
 暗闇に隠れたわたしの醜さを、みすぼらしさを、明るみにさらけだしてしまうでしょう。

 わたしは、この昏い穴の底を、愛してもいるのでした。
 だからこそ、この場所を抜け出すことは容易ではないのです。




 俺は階段を降りる途中で立ち止まった。

 何をやってるんだ。そう思った。
 文芸部員はみんなばらばらだ。

 二年の奴らはそれぞれ好き勝手に行動してる。俺だって、唯一の後輩にあんなことを言われるような始末だ。

 誰もかれも人のことなんて気にしちゃいない。俺達は集まっていたが、集団ではなかった。

 文化祭が終わって、目標がなくなって、集まる理由がなくなった。
 だからみんな集まらなくなった。だって、もともと仲がよかったわけでもないんだから。

 だから、べつにこのさき誰も部室に来なくなったって、不思議じゃない。全然不思議じゃない。

 ――部室に誰もこなくなって、よかったんじゃないですか?

 決めつけたような言葉。
 俺は昔のことを思い出しかけた。膝を壊したときにクラスメイトにかけられた言葉。

 気分が落ち着かない。なんでだろう。少し考えてから、気付いた。

 俺は腹を立てていたのだ。


 階段の途中で振り返り、俺はもう一度屋上の扉を目指した。

 扉は軋みながら開いた。

 後輩は、扉を開けた先の、正面に、こちらに背中を向けたまま、立っていた。
 彼女は扉の開く音に気付いたのか、驚いたようにこちらを振り返る。

 俺はその顔に声をかけた。

「なあ、部室、たまには顔を出せよ」

「……はい?」

 と彼女はあっけにとられたような顔をした。

「今日、ひとりでずっと本読んでたけど、全然集中できなかった」

「……はあ」

「たぶん、俺、慣れたんだよ。騒がしい中で本を読むのに。だから、静かだと落ち着かないんだ」

「……それ、先輩の都合じゃないですか」

 彼女はあきれたみたいに溜息をついた。


「自分だって、気まぐれで出たり帰ったりしてるくせに。
 騒がしいのがそんなにいいなら、駅前にラジカセでも持ってって録音して、それ聞いてればいいじゃないですか」

「……ラジカセ?」

「……」

 こほん、と彼女は咳払いした。

「だって、どうせ集まったって、それぞれバラバラなことをしてるだけでしょう?
 だったら、一人ひとりバラバラに行動したっていいじゃないですか。集まる理由がないです」

「でも、部誌を作るときは、みんな集まってた」

「それは……共通の目的がありましたから」

 そうだ。

 目的があった。理由があった。

 つまり――目的があればいい。


「分かった」

「……はい?」

「千歳の言い分はわかった」

 彼女はちょっと戸惑ったみたいな顔をした。

「せ、せんぱい?」

「なに?」

「や、その。……わたしの名前知ってたんですか?」

「……ああ、うん。まあ」

 こないだ知った、とはさすがに言わなかった。
 というか、俺、やっぱり人の名前を覚えない人間だと思われてるのか。
 ……実際覚えてなかったわけだけど。

「や、知ってたのはいいんですけど、なんで急に……」

 彼女は落ち着かなさそうに視線をあちこちさまよわせたが、言葉をそれ以上続けなかった。


「……とにかく、顔出してくれよ。俺は今日ひとりで、嫌になるくらい寂しかったんだ」

「……寂しい?」

「うん」

「先輩が?」

「そう」

 千歳は数秒のあいだ真顔でこちらをじっと見つめていたが、やがてこらえきれなくなったみたいに吹き出した。

「なんですか、それ」

 とびっきりの冗談でも聞いたみたいな笑い声。
 
「分かりました。じゃあ、気が向いたら」

「うん。そうして」

 俺はとりあえず、そこまで話をしてから、屋上を後にすることにした。

「それじゃあ」と声をかけると、「はい」と彼女は頷いた。

 今度こそ、俺は屋上を後にした。
 階段を下りながら、俺はぼんやりと考えた。

 明日になっても誰も部室に来なかったら、と俺は思った。そのときは俺だって手段を講じてやる。
 なくなるのが怖いなら、なくさないように、しっかりと掴んでおかなきゃいけない。


つづく




 翌日、大澤が教室にやってきたのは始業ぎりぎりの時間だった。 
 彼はマスクで口と鼻を覆い、顔をしかめながら教室に入ってきた。

 何人かのクラスメイトが「平気なの?」と声をかけると、彼は「うん」と疲れきったように頷いた。
 どうやら体調が万全とは言いがたいらしい。

 俺は声をかけようか迷ったけれど、そうしている間にチャイムが鳴って担任が来てしまった。

 そんなわけで俺と彼との何日か振りの会話は昼休みまで先延ばしになったのだが、その昼休みにも、

「ごめん、ちょっと眠い」

 といって、彼は机の上に頭を突っ伏して瞼を閉じてしまった。

 それでも一応、悪いとは思いながらも、一応確認しておきたかったから、

「今日は部活、無理そうか?」

 と訊ねてみた。彼は少しだけ面を上げ、珍しい動物でも見るような目で俺の顔をぼんやりと見つめてから、

「ああ、うん。……どうかな。ほら、このとおりだから」

 と言って彼は自分の口元の衛生マスクを示して、それから少し咳をした。 
 そりゃあそうだ。体調が万全じゃないんなら、さっさと帰って休んだ方がいい。

「そっか。うん。分かった」

 俺がそう答えたきり、大澤はまた顔を机につけて瞼を閉じた。



 俺が彼の席を離れ、自分の席に戻ると、森里が声をかけてきた。

「また喧嘩したのか?」

 俺と大澤と森里は、だいたいいつも一緒に行動している。
 一緒に行動するというか、お互いがお互いのちょうどいい話相手、という方が近いかもしれない。

 べつに普段からずっと一緒にいるわけじゃないけど、まあお互いなんとなく話すようになっていた。
 ときどき集まって遊んだりするけど、普段からべったりってわけでもない。

 そういう距離感のまま、なんだかんだで中高で四年以上一緒にいることになる。

 思えば長い付き合いかもしれない。

「べつに、喧嘩なんてしてないよ」

 と答えてから、

「ていうか、"また"ってなに?」

「こないだもしてなかった?」

「してないでしょ」

 俺の答えに、そうだっけ、と彼はどうでもよさそうに肩をすくめた。


「ま、あいつも体調悪いみたいだし、今日はそっとしといてやるか」

 いろいろ話したいことあったんだけど、と森里は溜息をついた。

「話したいこと?」

「そう。あ、そうだ。おまえにも言ってなかった。あのさあ」

 と森里は口を開いてから、少しだけ困ったように眉を寄せた。
 困った、というか、ためらったみたいな。
 珍しい。こいつはいつも、言いたいことを言って勝手に満足するようなところがあるのに。

 しばらく逡巡を見せたあと、森里は言った。

「海行かない?」

「は?」

「いや、海」

「……なんで?」


「わけもなく海に行きたくなったから」

「あのさ、今が何月か、知ってる?」

「十一月」と森里は言った。そう、そのとおり。

「なんのために行くんだよ、この季節に」

「あのな、海は夏だけのものじゃないんだよ。春だって秋だって冬だって海はあるんだよ」

「知ってるよ」

「じゃあ、いま海に行ったっていいだろ」

「寒いだろ」

「夏に行ったって暑いだろ」

「それとこれとは話が……」

 ……違わないのか?

「いいじゃん。ときには冬の海を眺めてまったりしっとりしながら宇宙の成り立ちについて考えようぜ」

「一人でやれよ」

 森里は言われて初めて気付いたみたいな顔で「それもそうか」と言った。
 そんな馬鹿話をしている間も、大澤はやっぱり机に突っ伏して目を閉じていた。




 そんな具合だからたいして期待してはいなかったけど、大澤はホームルームが終わるとあっさり帰ってしまった。

 俺は仕方ないと納得して、ひとりで部室を目指す。
 やはり誰もいなかった。

 いや、まあ待てよ、と俺は思った。
 ホームルームが終わってすぐに来たんだ。みんな向かっているところなのかもしれない。
 もしくは他に用事があって、それを済ませてから来るつもりなのかもしれない。

 ……そんなわけない。

 俺はとりあえず立ち上がって、部室から出た。 
 廊下に出てすぐに、窓の向こうの秋空が目に入る。薄く青みがかった高い空に、掠れるような雲がかかっている。

 部室のある東校舎を出て、教室の並ぶ本校舎へと向かう。

 二年の教室は三階。俺はうろ覚えの記憶をたどりながら、まだ生徒の話し声が途絶えない廊下を歩いて行く。
 どっちかだけでも残っていてくれるといいんだけど。

 そんなことを考えながら歩いていると、

「あ」

 と前方から声が聞こえた。
 いや、廊下には話し声があふれていたから、声が聞こえたのはおかしなことじゃないのだが。

 それでもとにかく俺はその声に意識を吸い寄せられて、ついでに声のした方に視線を向けた。

 立っていたのは「みさと」だった。


「どうしたの?」

 真正面から急にそんな問いをぶつけられて、俺は反応に困った。

「どうしたって、なにが?」

「だって、階段と逆方向じゃない?」

 ああ、進行方向の話か。

「いや。まあ、ちょっと用事があって」

「誰に?」

「きみに」

「わたし?」

 彼女はちょっと怪訝そうな(というか、いっそ気味悪そうな)顔になった。
 ……嫌われてるんだろうか。心当たりはないでもないけど。

「なに?」

「いや……今日は部活、出るのかと思って」

 彼女は不思議そうな顔をした。


「どうして急に?」

「急に来なくなったからだけど」

「あ、そっか。……うーん」

「……どうして部室、来なくなったの?」

「みさと」は困ったような顔で視線を落とした。……俺はたぶん、変だ。

「あかねちゃんがね、部室、出たくないって言ってたの」

「……それに付き合ってるの?」

「ううん。そういうんじゃないけど。今、伸也くんも部活に出てないでしょう? それに、千歳ちゃんも」

「ああ、うん……」

「ってなると、ほら」

 ……ほら、ってなんだ?
「みさと」は溜息をついた。

「まあ、あかねちゃんが出るって言ったら、わたしも一緒に出るけど。
 でも、あかねちゃんはたぶん、出たがらないだろうから」


「……あいつはなんで休んでるのかな。なにか聞いてる?」

「そのまえに、ひとつ訊きたいんだけど」

「なに?」

「文芸部って、部活は任意の時間に出るだけでいいって話じゃないっけ?」

 俺は答えに窮した。

「それに、きみは部長でもなんでもない」

「……それは、まあ、そうなんだけど」

「きっとみんな、そのうち部室に顔を出すよ。伸也くんは書くことに呪われてるみたいなところがあるし。
 あかねちゃんの方はわからないけど、もともと幽霊部員だったんでしょ? それで困ってなかったわけだし」

「……」

「そもそもきみだって、今まで部活に熱心だったようには見えない……」

 そこまで言ってから、彼女はちょっと戸惑ったみたいに言葉を止めた。

「……ごめん、べつにこんなこと言いたいわけじゃなくて。わたしが聞きたいのは、『なんで急に?』ってこと」


 そうだ。
 部活に出ないことを咎めようとするなら、俺は今まで部活に出ていなかった二人の幽霊部員を咎めていなければおかしいのだ。
 でも……一人になるのは嫌だ。

 彼女の言うように、大澤もしばらくすれば部室に顔を出すようになるのだろうか?

 なぜか、そうは思えない。あいつはそもそも、どこでもよかったんじゃないか。
 たまたま文芸部があったから入っただけで、べつに、なかったらなかったで、どこか別の場所を見つけて、一人で小説を書いてたんじゃないのか。
 文芸部は、あいつにとっても必要ではなかったんじゃないか。

「そもそも、さ。きみにとって、文芸部ってなんなの?」

「みさと」は黙り込んだままの俺に、そんな問いを付け加えた。
 なんなの、って、なんだ? 部活は部活だ。

 なのに、俺はどうして言葉に詰まったんだろう。

「……ごめん。今日は、帰るね」

「みさと」はそれだけ言って、俺の横をすり抜けていった。俺は何も言えないまま、その後姿を見送る。
 
 そもそも俺は、どうしてみんなに部室に来てほしいんだっけ?

 ――ひとりが寂しいから。

『……それ、先輩の都合じゃないですか』

 頭の中で千歳が言った。残念なことに、その言葉は正しい。

 仕方ないか、と俺は思った。

つづく

やはりいいものだ……

私もさびしい




「あかね」のクラスを覗いてみたけれど、彼女は教室に残ってはいなかった。
 
 他の生徒もみな、残らず教室を出て行ったみたいだった。みんな向かう場所があるんだろう。

 廊下のざわつきは徐々に静かになっていく。
 彼女はどこにいったんだろう。

「みさと」は、「あかね」が出れば自分も部活に出る、と言った。
 とにかく、そんなようなことは言っていた。

 ……会話の後半の、俺についての話はとりあえずおいておくことにしよう。
 とにかく、彼女がなぜ部活にでなくなったかがわからなければどうしようもない。

 俺がどうしたいのかを考えるのは、後だ。

 彼女と話をしなきゃいけない。
 
 それでも、教室にいない以上、居場所を特定するのは困難だ。
 もう帰ってしまったのかもしれない。



 以前だったら、「あかね」はいつも東校舎の屋上にいたけど、最近のその場所にはいつも千歳がいる。
「あかね」が千歳と同じ場所に向かうとは思えない。

 彼女たち二人の仲が悪いわけではないはずだけど、話している姿は見たことがない。
 もし仲が良かったとしても、屋上で一緒にたそがれるようなタイプの奴らではないという気もする。

 ふとした思いつきで、俺は廊下を通りぬけ、階段を昇った。
 
 突き当りの扉。屋上への扉は、どこも似通っている。

 そして扉を開いた先に、案の定、というべきか、「あかね」は立っていた。 
 
 フェンスに寄り添うように、こちらに背を向けている。


 俺が来たことに気付いた様子はない。
 どうしようか少し迷ったけれど、結局彼女との距離を少しずつ詰めていった。

 足音はけっこう大きく響いたはずだったけど、彼女はまったく俺の存在に気付かなかった。 
 どうやら、音楽を聞いているらしい。

 つま先でリズムを刻みながら、機嫌よさげに鼻歌まで歌っている。
 


 普段俺は彼女の、むっとした表情しか見たことがなかった。
 だから、心地よさそうに音楽に耳を傾けている姿は、なんとなく意外だ。

 まあ、好きなことをしてるときに、不機嫌そうにしている奴なんていないだろうけど。

 ……いや、いるか。
 大澤とか、俺とか。

 楽しげな後ろ姿を観察するのも面白そうだったけど、一人だと思って油断しているところを見続けるのは、ちょっと悪趣味だ。

「おーい」と声を掛けたけれど、彼女は振り返らない。
 遮音性の高いイヤホンを使っているらしかった。

 俺は適度な距離を保ちつつ、彼女の横に回り込んだ。後ろからだとさすがに驚かれそうだし。

 真横に立っても「あかね」はこちらに気付かなかった。

 俺は手のひらを彼女の顔の前にかざして、ゆらゆらと振ってみた。


 彼女はばっとこちらを振り向き、唖然とした表情でこちらを見つめた。
 それから、キッと睨みつけてくる。……驚いたからって、そんな顔まですることはないと思う。
 
 彼女はイヤホンを外してくれた。

「こんにちは」

 と俺がいうと、

「こんにちは」

 と不機嫌そうに彼女は返事をしてきた。

 俺はとりあえず話しかけてみることにした。

「調子はどう?」

「あかね」は怪訝そうな顔で首を傾げた。

「なにが?」

「……いや、世間話」

 ああ、と彼女はどうでもよさそうに頷く。



「さっきまでは良かったけどね」

「今はダメなの?」

「嫌なことがあったからね」

「ふうん。え、それはどんな?」

「ちょっと嫌なものが視界に入ってきただけ」

「ふうん。え、それは虫とか?」

「似たようなもんかもね」

「ふうん。どこにでもいるもんなんだよな」

 はあ、と彼女は溜息をつく。 
 溜息をつきたいのはこっちの方だ。いくらなんでも嫌われすぎている。

 それに関しては触れないようにして、話を本題に移した。




「部活は今日も休むの?」

 彼女は目を細めてこちらを見た。

「どうして?」

「……なにが?」

「どうして、あんたがそんなことを気にするの?」

「みさと」にされた質問にそっくりだ。
 俺は迷いながら、慎重に答えた。
 
「部室に誰も来ないから」

「……それがなに?」

「いや、それだけ。おかしい?」

「おかしい」

 と「あかね」は断言した。たしかに、と俺は思った。



「……どうして、部室に来なくなったんだ?」

 俺の質問に、「あかね」は気まずそうに俯いた。

「どうして、あんたがそんなことを気にするわけ?」

「きみが来なくなった途端、部室に誰も来なくなったから」

「誰も?」

「誰も。千歳と大澤はもともと来なくなってたけど」

「みさとは?」

「俺とふたりきりにはなりたくないらしい」

 納得したように、彼女は頷く。そこで納得されるのは微妙に悲しい。

「……あの、ひょっとして俺、嫌われてる?」

「心当たり、ないの?」

「……」

 心当たりなんかなくても、人は人を嫌いになる。なんて言ったってしかたないけど。
 というか、まあ、心当たりもないではないんだけど。


 彼女はわざとらしく肩をすくめて笑った。

「冗談だよ。あんたが嫌われてるっていうより、単にふたりっきりになるのが嫌なんでしょ」

「どうして?」

「まあ、気まずいってのもあると思うけど、あの子の彼氏は、あんたの友達でしょ。
 いくら部活とはいえ、二人っきりになるのは避けたいんじゃない?」

「……よくわからないんだけど」

「あの子、変なところで古くさいっていうか、義理堅いから。いいところだと思うけどさ」

「あかね」は友人のことを話すとき、少しの間穏やかな笑みを浮かべた。
 俺が近くにいることを思い出したのか、すぐに引っ込めて、またむっつりとした表情に戻ってしまったけれど。

 もし「あかね」の言ったことが事実なら、「あかね」が部活に出るようになりさえすれば、「みさと」が部活に出ない理由もなくなりそうだけど。

 だとするなら、なおさら、

「もう一度聞くけど……」

「ん?」

「どうして、部活に出ないの?」
 
 そう質問せずにはいられない。



「あかね」はしばらく黙り込んだまま、空を見つめていた。
 空。青い空。掠れるような雲。薄い、均されたような空。

 一分も経った頃だろうか、「あかね」は静かに口を開いた。

「……べつに、たいした理由じゃないんだけどさ」

 俺は黙ったまま言葉の続きを待つ。

「なんとなく、恥ずかしくて」

「……恥ずかしい? なにが?」

「わたしのせいで、みさとまで叱られちゃったから」

「……リバーシの話?」

「そう。……なんだか、申し訳なくて」

「べつに、気にしてないと思うけど」

 俺の無責任な言葉に、彼女は無表情に視線を向けてきた。

「そんなの、わかってる。あの子はそんなの気にしたりしない。わかってる。
 でも、わたしが気にしてるの。わたしが、気にするの。気にしたって仕方ないってわかってても気になるの。
 そういうことがあるとわたしは、他人と関わることがとにかく嫌になって……誰かとまともに話せるような状態じゃなくなる」

「……」

「人と話すのが怖くなる。居てもたっても居られなくて、その場から逃げ出したくなる。
 自分でも変だってわかってるけど……でも、怖くなるんだよ」


「……考え過ぎだよ」

 気にしなくてもいいようなこと。 
 気に病んだって仕方ないこと。過ぎてしまったこと。

 いつまでも心のキャパシティをそんなもののために使っていても、疲れるだけでいいことなんてない。
 
 俺は、自分を棚にあげて、そう思った。

「――だから!」

 彼女は憤ったように声を張り上げる。俺はなんとなくそれを予想できていた。

「そんなの分かってるの! わたしは、わたしが……わたしだって……」

 怒鳴り声は、だんだんとか細く、かすれ、弱々しくなっていく。

「……ごめん」

 謝罪の言葉を口にすると、彼女は戸惑ったみたいに視線をあちこちにさまよわせる。

「……こっちこそ、ごめん」

 それから「あかね」は顔をフェンスの向こうの空に向け続けた。俺と目が合うのを避けようとするみたいに。
 上空を黒い鳥影が飛んでいく。

「悪いんだけど、しばらく放っておいて」

 結局、俺が「あかね」から引き出せたのは、そんなどこにも行き着かないような言葉で。
 得たものは、人の心をかき乱した罪悪感だけだった。


つづく

おっつん




「あかね」のいた屋上を後にしてから、俺はふたたび部室に戻った。
 さっきまでと同じだ。誰もいない。顧問さえ来ない。

 いったい俺は何をやってるんだろう。
 もういいじゃないか。そう思った。べつにこんな場所にこだわる必要はない。
 森里と一緒に海にでも行ってればいい。部活なんてサボっちまえばいい。

 ここ以外に場所を見つけさえすればいいだけのことだ。
 どうしてこんな場所にこだわらなきゃいけない?

 そこまで考えているくせに、俺の頭は文芸部から離れるということをちっとも現実的に捉えてはいない。

 部室に戻ってから、しばらく何もせずにぼんやりしていた。
 やがて嫌気がさして立ち上がる。それから戸棚に向かい、今年の文化祭でつくった部誌を取り出した。

 部誌。

 熱心な部活でもないのに、全員が参加させて完成させた部誌。
 だからなんだっていうんだろう。べつにみんな仲が良かったわけでも、一生懸命に完成を目指したわけでもない。
 俺はページをパラパラとめくって飛び込んでくる文字の中に意識を投げ出した。


 ふと思いつき、自分の書いた掌編を読み直してみた。

 書き出しから続くどうでもいいような描写。どうでもいいような展開。
 時間が経ったからそう感じるっていう次元じゃない。

 べつに、書いてるときだって楽しかったわけじゃない。

 自分の書いたものだからだろうか。十分もしないうちに簡単に読み終えることができた。
 感想も何も沸かない。つまらない? 面白くない? そういうのとはちがう。 

 何もない、と俺は思った。
 からっぽだ。

 部誌を閉じて戸棚にしまおうとしたけれど、どうせ誰も来ないのだと思うと面倒だった。
 俺は机の上に部誌を置きっぱなしにしたまま、鞄を肩に提げ、帰ることにした。

 誰も来ないなら、何もしないなら、こんな場所でこれ以上時間を潰したって仕方ない。
 家に帰ってシャボン玉でも吹いていた方がよっぽど有意義だ。

 部室を出る。文化部の部室が並ぶ東校舎の廊下はいつだって静かだ。

 どこかの教室から誰かの話し声が聞こえる。

 どうでもいいやと思った。



 階段の前で少し立ち止まったけど、めんどくさくなって下り階段を選んだ。

 そうだよ、と俺は思った。
 みんなどうでもいいんだ。だったらべつにいいだろ。
 
 俺一人だけが残らなきゃいけない道理もない。

 階段を降りて、本校舎の昇降口を目指した。

 下駄箱で靴を履き替えていると、不意に視線を感じた。
 
 視線を感じる。変な言葉だ。音や光を伴うわけでもないのに、誰かに見られていると感じるなんて。

 気配の方向を見ると、一人の男子生徒が、俺がさっき降りてきた階段の近くに経って、こちらを見つめている。

 怪訝に思って視線を返す。彼は何も言ってこない。
 誰だろう。見覚えがあるような気もするし、ないような気もする。

 十数秒、言葉もなく視線を交わし合う。目をそらすことも、声をかけてくることも、彼はしなかった。

「誰?」

 と声を掛ける。男子生徒はそうなってからようやく視線を逸らした。それでもこの場を立ち去ろうとはしない。

「何か用事?」

 返事はない。ただ視線をぼんやりと泳がせたまま、そこに立っている。



「言いたいことでもあるの?」

「……部活」

「は?」

「部活、でないとダメだよ」

 なんとなく、必死そうな声に聞こえた。俺はなんだか気味が悪かった。

「放っておいたら、離れていくよ」

「……誰、あんた」

「どうして、逃げちゃうんだよ?」

「……」

 知ったようなことを言われているのに、不思議と不愉快にはならなかった。的外れだとも思わなかった。

「だったら、どうしろって言うんだよ?」

「それは、わからないけど、でも……」

「みんないろんなことを考えて、いろんなことをしながら生きてるんだよ。
 俺の都合でみんなを強引に集めるなんてできない。寂しいからってそれだけで寄せ集めることなんてできない。
 大澤だって、今はスランプに入ってるだけだよ。そのうち部室に顔を出すようになる。女子ふたりだってそのうち機嫌を戻すよ」

「……本当にそう思う?」


「言いたいことでもあるの?」

「……部活」

「は?」

「部活、でないとダメだよ」

 なんとなく、必死そうな声に聞こえた。俺はなんだか気味が悪かった。

「放っておいたら、離れていくよ」

「……誰、あんた」

「どうして、逃げちゃうんだよ?」

「……」

 知ったようなことを言われているのに、不思議と不愉快にはならなかった。的外れだとも思わなかった。

「だったら、どうしろって言うんだよ?」

「それは、わからないけど、でも……」

「みんないろんなことを考えて、いろんなことをしながら生きてるんだよ。
 俺の都合でみんなを強引に集めるなんてできない。寂しいからってそれだけで寄せ集めることなんてできない。
 大澤だって、今はスランプに入ってるだけだよ。そのうち部室に顔を出すようになる。女子ふたりだってそのうち機嫌を戻すよ」

「……本当にそう思う?」


「俺にどうしろっていうんだよ」

 もう一度そう訊ねる。男子生徒は黙りこんでしまった。

「強引に集めたって、また離れてくだけだよ。みんなが自分から部室に来る気にならないと仕方ないんだ」

「でも、このままじゃ何も変わらない」

「だから、それを俺にどうしろっていうんだよ。「あかね」の性格を俺が変えろっていうのかよ」

「そんなんじゃなくて、もっと、手段があるんじゃないのか」

「どんな? 「みさと」が言ってた通り、俺は部長でもなんでもない。ヒラの部員だよ。
 それに前までは俺だってサボりがちだった。注意する権利なんて俺にはない」

「わからないけど、でも、このままなんて嫌だろ?」

 俺は答えなかった。

「だって、寂しいんだろ?」

「……だからって、みんなが集まっただけで寂しくなくなるわけでもないだろ」

「でも……」

 俺は目を瞑り、十、数字を数えた。ふたたび目を開いたときには、彼の姿は消えていた。
 これでいい、と俺は思う。


 昇降口を出ると、秋空が目に入る。俺は最近空ばかり見ている気がする。人と話をしていない気がする。
 べつにそんなのは平気だ。寂しくなるのなんてたいした問題じゃない。

 慣れてしまえばどうってことない。それでも少し、つらいときはあるけど。
 そんなのはごまかせる。だましだましやっていける。

 だったら、なんで俺はみんなが部室に顔を出さないだけで焦りを感じるんだ?

 俺が寂しいだけなら、べつにどうだってなる。

 でも……。

 ――わたしがいるときだってけっこう適当だったから、変わってないっていえば、変わってないんだけどさ。

 部室で遊んでいる「あかね」たちを見たとき、それを気にせずにひとりで本を読んでいた俺を見たとき。
 ひなた先輩が、寂しそうだった。


 俺は立ち止まって、少し迷ってから踵を返して、また下駄箱で靴を履き替えた。

 そうだよな、と俺は思った。

 二年の部員たちはみんな自分のことしか考えていない。
 そんな俺達がそれでも部室に集まるようになったのは、いろいろ事情はあったけど、結局ひなた先輩がいたからだ。
 
 彼女がいなくなれば俺達はもともとバラバラだった。

 ……でも、そんなの、おかしい。

 考え事をしながら部室の扉を開くと、そこには千歳の姿があった。

「あ、せんぱい。良かった、帰っちゃったのかと思いました」

「……あれ? 来たの?」

「せんぱいが顔を出せって言ったんじゃないですか」

 不服そうに、彼女はつぶやく。
 誰かがいるとは思わなかったから、俺はすごく驚いた。

「どこ行ってたんですか?」

「いや、帰ろうとしたんだけど」

「人のこと誘っておいて」

 誘ってもすぐにはこなかったくせに、と俺は思った。



「でも、来たはいいものの、することがないんですよね」

 千歳は机の上に置きっぱなしだった部誌をパラパラと広げながらぼやく。
 そうだ。どうせ集まったって、することなんてない。

 俺達には目標がない。目的がない。理由がない。
 目的もないのに集まるほどのつながりがない。

「……訊いてもいいですか?」

「なに?」

「どうしてせんぱいは、わたしを部室に呼んだんですか?」

「……部員が部室に顔を出すって、当たり前のことだろ」

「でも……」

 もう何度も聞いたし、何度も考えていた。
 熱心な部活じゃなかったとか、みんな惰性で集まってただけだとか。

 そんなのはわかってるけど。

「ひなた先輩が……」

「はい?」

 千歳は、きょとんとした顔でこちらを見た。



「ひなた先輩が、みんなで部誌を作ったときにさ。
 すごく嬉しそうだったんだよな。俺の書いたものなんてくだらないものだけど、それでも書いてよかったって思ったよ」

「……」

「あの人はたぶん、このサボり部の変型みたいな文芸部の中に、そんな部なりの規律みたいなものを作ったんだよな。
 それはきっと、あの人も前年の先輩たちから受け継いだものでさ」

「……」

「俺たちは個人主義者ばっかりだから。大澤は部長になっても好き勝手するし、俺だって似たようなもんだし。
 千歳だって、急に部活に来なくなるし、ほかの奴らだってみんなそうだろ。
 でも、ひなた先輩は俺たちをまとめあげて、部誌を作り上げたんだよ」

「そう、ですね」

「それが、あの人がいなくなったとたん、バラバラだろ。
 それってなんか、あの人がしたことを台無しにしてるっていうかさ。
 それが申し訳ないっていうか……」

「……」

「寂しいだろ、そんなの」

 彼女はしばらく俺の発言について考えていたようだった。しゃべりすぎたような気がして、急に恥ずかしくなる。


「意外、なんですけど」

「なにが」

「せんぱいも、そんなこと考えるんですね」

「……きみさ、俺のことをどんな人間だと思ってたの」

「協調性がないくせに偉そうで、自分からは近づかないくせに仲間はずれは嫌い、みたいな」

「……」

「あ、ごめんなさい。本音を言い過ぎました」

 そういうときは「冗談です」と言えよ、と思った。

「ふうん……」

 彼女は何かを考えこむような様子で部誌の表紙をみつめた。
 そっけない表紙だ。イラストもなにもない。ありがちな名前のついた部誌。それでも俺たちで作った部誌。

「ねえ、せんぱい。わたしにひとつ、提案があるんですけど」


「提案?」

「はい。えっと……」

 彼女はためらうように眉を寄せたあと、気持ちを落ち着けるように深呼吸をする。
 俺はその様子をじっと眺める。先輩相手だからという物怖じも感じさせないような堂々とした目つきで、彼女は俺を見た。

「――部誌、もう一度作りませんか?」

「……え?」

 その提案は、唐突だったけど。
 でも、俺の頭の片隅にあったものと、たしかに同じ考えだった。

 理由があれば、みんなは集まる。
 目的があれば、集合する。

「それは……でも、俺たちだけで決められることじゃない」

「はい。ですから、ほかの先輩たちにも意見を聞いて、部長と先生にも話を通して」

「……」


「……できませんかね?」

「できなくはない、と思う」

 でも、それでみんながもう一度集まるようになるんだろうか?
 それはあまりに希望的観測に寄りすぎているような気がする。
 自分たちの気持ちを優先させすぎている気がする。

 ……でも、何もしないよりはマシだ。 

「……うん」

「じゃあ……」

「やってみよう。とりあえずここに二人、賛成意見が出てるわけだからな」

「やった」

 彼女は胸の前で小さく拳をつくった。

 その様子は、屋上からぼんやり空を眺めていた、この前までの彼女とは少し違うように見える。

「ごめんな」

「なにがですか?」

「いや。本当なら俺が言い出すべきだったからさ」

「どうしてです?」

「だって……」

「せんぱい、わたしは、もう一度みんなで一緒に、何かを書いてみたかっただけですよ」

「……そっか」

「きっとみなさん、参加してくれますよ。だってうちの部の人たちは……文章を書くのが好きな人ばっかりですからね」


つづく
>>105,>>106は重複ミスです




 家に帰ると妹がリビングのソファですやすやと眠っていた。中学の指定ジャージ姿のままだ。
 
 俺はリビングを通り抜けて階段に向かう。自室に荷物を置いて、それから窓を開けた。
 風がカーテンを押し広げながら通り抜けていく。
 
 ついでに鞄からサイレントにしっぱなしだった携帯を取り出す。新着メールはなし。
 俺は少し考えてから大澤にメールを送ることにした。

「話があるので、明日は部室に顔を出すように」

 十数分ベッドに腰掛けてぼーっとしたまま待ったけれど、返信は来なかった。
 俺は携帯を充電器につないでから財布だけを持って部屋を出た。

 リビングに入ると妹はまだ眠っていた。俺は出窓を開けてシャボン玉を飛ばして、すぐに飽きた。

 ふと思い出して時計を見る。ドラマの再放送がちょうど始まる時間だったけど、テレビをつけずに玄関に向かった。



 靴を履き、紐を結び直して、俺は外に出た。
 意味もなく散歩をしたくなるときがある。最近はけっこう多い。

 空はやっぱり高かった。

 俺は何も考えずにぶらぶら歩こうと思ったんだけど、目的もなく歩くことが恥ずかしくなって言い訳するみたいに足をコンビニに向けた。
 誰が見ているわけでもないのに不思議なことだ。

 紙パックの紅茶だけを持ってレジに並び、袋を断って店を出た後、ストローをもらうのを忘れたことに気付いて仕方なくそのまま口をつける。

 ぼんやりと、千歳の提案と、自分の言葉を思い出す。

 部誌を作る。

 悪い提案じゃない。俺だって同意した。それがたぶん、俺がみんなに働きかけられる唯一の手段のように思えた。
 上手くいくだろうか、と考えると、どうも上手くいかないような気がしたけれど、まあやってみなければわからない。

 さっき通ってきたばかりの代わり映えしない道を歩きながら、俺は自分が不安を感じていることに気付く。

 不安、というか、焦り。もっと言えば恐怖。よくわからないないまぜの感情。
 どうしてだろう、と考える。

 答えはすぐに見つかった。

 部誌をつくるということは、それを俺が提案するということは、俺も何かを書かなければいけないということだ。


 そう思うと俺は、千歳とのやりとりを全部なかったことにしたいような気持ちにさえなった。
 
 よくわからない感情の揺れ。無責任な心の動き。そんなものにいちいち翻弄される自分がうっとうしくて仕方ない。

 言ってしまった言葉を引っ込めるわけにはいかない。出してしまったメールをなかったことにもできない。
 俺はもう動き出してしまったから、あとはそれを上手く実現できるように行動するしかない。

 そうわかっていても、家路を歩く足が妙に重くなっていることに気付かずにいられない。
 
 やっぱり森里と一緒に海にでも行ってればよかったんだ。まったり宇宙の成り立ちについてでも思いを巡らせていれば。

 文化祭の直後、クラスメイトたちに書いた小説を褒められていたときの、大澤の表情を思い出す。
 あいつにだっていろいろある。それはわかる。

 でも、そういうことを思い出すと、俺はどうしても考えてしまう。
 小説なんて書こうとしなければ、俺はもっとまともだったかもしれない、なんてことを。





 文章の本質は伝達にある。
 何かを誰かに伝えること。言葉。

 書き手が何かを書くとき、書かれた文章は書き手の意識をはっきりと反映する。

 たとえばチョコレート菓子の魅力について出来る限り詳細に伝えようと努めるなら、その文章は相応のものになる。
 チョコレート菓子の魅力が伝わるかはともかく、書き手がチョコレート菓子の魅力にハマり込んでいることが伝わる。
 その努力を怠らなかったのなら。

 反対に、書き手が何を書こうとしているのか、自分でもわかっていない場合。
 その場合、文章はわけの分からないものになる。何を伝えようとしているのかわからない文章、意味のわからない文章。

 言葉は意味を伝えるもの、意味のスイッチ。
 伝えるべき意味がないなら、言葉はただの字の連なりに過ぎず、読み手はそこから意味をすくい取ることができない。

 伝達。

 誰かと話すことに似ている。




 文章を書くことが怖くなったのはいつからだろう?
 
 いつからか文章を書き始めていた。最初はおそれなんて抱いてなかった。
 ただ書き続けているだけ。チラシの裏に特撮ヒーローの落書きをするみたいに書き殴った文字の羅列。
 それが俺の意識を反映しているだなんてつゆほども思っていなかった。

 だからこそ最初は、何も隠そうとはしなかったし、自分が書いているものが何なのかを理解しようとも思わなかった。
 
 怖くなったのはいつからだ?

 ……人に見せるようになってからだ。

 文章はとても正直で、書くことに対する書き手の恐れさえもはっきりと表してしまう。
 書き手が伝えることを恐れれば、文章もまた伝えることを恐れるような不明瞭さ、不鮮明さを伴うようになる。

 何かをただ書くことと、何かを伝えようとすることは違う。
 
 文章の価値は正確に伝えようとすること、書き手の中にある感覚をありありと読み手に伝えようとすることから生まれる。
 伝達を恐れた文章は既に文章ではなく、ただ破綻した暗号でしかなくなってしまう。

 音のようなニュアンスや、表情のような非言語的表現を拒絶した、硬い壁のような文字の羅列。

 そこには、書くことの痛みや喜びに関してはともかく、伝えることの痛みや喜びは存在し得ない。

 だって何も伝わらないんだから。




「怖い?」

 ひなた先輩が首をかしげたことを覚えている。当時の彼女は部長ですらなかった。ただの平部員。
 俺と大澤が入部したばかりの頃、文芸部にはまだ大勢の先輩が居た。
 揃って卒業してしまったから、一年後に残っていたのは彼女だけだったけど。

 それでも不思議と、俺は相談相手に彼女を選んだ。
 どうしてだろう?

 その頃から俺は、彼女なら俺の話を聞いてくれるような気がしていた。
 聞いて、何か助言をくれるような気がしていた。

 それは勝手なイメージの押し付けだったのかもしれないけど、彼女は気を悪くした素振りもみせなかった。

「書くのが、怖いの?」

 ちょっと間延びした声。当時の彼女には、まだ会って間もない後輩に対するかすかな緊張もあったような気がする。
 それでも先輩は、俺の相談を誰かに押し付けたりせず、真正面から受け止めようとしてくれた。

「……怖い、というか」

「うん」

「不安なんです」

「……書くのが?」

「……はい」


 彼女は視線を天井に向けて、ちょっと息を吸った。よくわからない、というような表情。

「みんな不安だよ、きっと」

 と彼女はあっさり言う。

「書いたものがどう思われるのかとか、上手く書けるだろうか、とか。
 そもそも自分のやり方が根本的に間違ってるんじゃないかと思う日だってあるし。
 もしかしたら自分が書こうとしているものが、一般的にはかなり変なんじゃないかって感じたりさ」

「先輩も?」

「しょっちゅう」

 彼女は真顔で言ってから、バランスを取るみたいにからからと笑った。柔らかな笑顔。

「でもね、とにかく、書きたいことがあるわけでしょう? だったらやっぱり書くしかないわけなんだよ」

「……」

「……そういう不安とは、また違う?」

「……うまくいえないんですけど」


「うまく言えないっていうか、うまく言おうとしてない、だったりして」

 彼女はいたずらっぽくそう言った。
 冗談めかした調子に隠しながら、彼女が核心に迫ろうとしたのが、俺にはわかった。

「不安っていうか、怖いのかな?」

「……怖い?」

 俺はくりかえす。怖い、怖い、怖い。

「きみの場合、伝わるかどうかが不安っていうより、伝わってしまうことが不安って感じがする」

 その言葉をうまく消化できなくて、俺は黙ったまま彼女の顔を見返した。
 年の割に幼い印象の顔をしているのに、表情はずっと年上みたいな遠さを感じさせた。

「分析するみたいでちょっと嫌だけど、だからこそ、さっきから言葉がとぎれとぎれだし、かなり曖昧な言い回しでしょ?
 なんとなく、きみはそもそも、伝えたくないんじゃないかなって思って」

「……」

「伝わらないような書き方をすれば、伝わらない。伝わってしまうのが怖いなら、伝えなきゃいい」

「……それって、矛盾してますよね?」

「うん。そうだよね。伝えたくないなら、そもそも書かなきゃいいんだよ」
 
 そうだ。
 曖昧な言い方をして、言葉を濁して、伝わらないようにするくらいなら、最初から相談なんてしなきゃいい。
 反対に、何かをわかってもらおうとするなら、最大限それを伝えようと努力しなきゃいけない。

 俺は答えなかった。


「二律背反」

 と彼女は言った。

「え?」

「伝えたいけど、伝わるのが怖い。わかってほしいけど、理解されるのが怖い」

「……」

「だから、ヒントとか、サインだけ出して、あとは全部、読む方に丸投げ」

「……先輩って」

「ん?」

「……良い人なんですか? 嫌な人なんですか?」

 彼女は数秒、意外なことでも言われたみたいに表情を凍らせて、また笑った。

「それ、きみが決めることだよ?」




 家に帰ると妹は既に起きていて、キッチンで夕食の準備を始めていた。

 俺はリビングのテレビをつけて、ドラマの再放送を途中から眺めた。
 話はわからなかったけど、主演男優のコミカルな表情と台詞回しはそれだけで面白かった。

 それから、このドラマはいったい何を伝えようとしているんだろう、と考えた。

 台詞回しと表情のおかしみ? コミカルな流れと奇跡みたいな話のつながりの面白さ?
 そこにはたぶん俺にはまだ見えていない巧妙な何かがあるんだろうなと思った。

 それはおもしろかった。憧れるほどの手際のよさ。
 
 自分が伝えたいことがなんなのかがわからなければ、それを文章にすることなんて出来やしない。

「あのさ」

 と俺はキッチンの妹に声を掛けた。
 
「なに?」

 と彼女はいつもみたいな静かな声で問い返してくる。

「……なんだっけ?」

「なにそれ」

 彼女は呆れたみたいに言ってから、ちょっと笑う。


 俺は何を言おうとしたんだろう?

 ――だってうちの部の人たちは……文章を書くのが好きな人ばっかりですからね。

 千歳はそう言っていた。
 でもそれは嘘だ。俺は文章を書くことが怖かった。にもかかわらず、文章を書くことにこだわっている。
 矛盾。二律背反。

 どうしてこんなに怖いんだろう。
 
 そう考えて、すぐに答えを見つける。

 言ってしまった言葉を引っ込めるわけにはいかない。出してしまったメールをなかったことにもできない。
 誰かに見せた文章は取り返しがつかない。

 だから俺は書くことを恐れている。

 伝えることを恐れている。伝わってしまうことを恐れている。
 
 俺は、誰かに自分を見せることを恐れている。

つづく

おつ
待ってるんですからねの続編は?

あれ続きあんの?




「それで、どうしてこんなことになってるんだろう?」

 俺の質問に、千歳は困ったような顔で首をかしげた。

「まずいですか?」

「いや、まずくないけど」

 翌日部室に向かうと、大澤と「みさと」がやってきていた。

「話を進めるなら早い方がいいと思って、一応先輩がたに連絡しておいたんですけど」

「あ、そうなの」 

「ていうか、きみが言ったんでしょ、部活に出てって」

「みさと」は当たり前のような顔で言う。それでも渋い顔をしていたような気がするのだが。

「来なかった方がよかった?」

 まあ、「みさと」からすれば、言われたから来たわけで、それを俺が不思議がるのもおかしいということなのかもしれない。



「あかね」の姿はない。
 しばらく放っておいて、と彼女は言っていた。しばらくって、いつまでだろう?
 気が向くまでずっと、ということかもしれない。その「気が向く」まで機会か時間かが必要なのは俺にもわかる。

「一応あかねちゃんにも声掛けたけど、やっぱり来ないみたいだね」

 それから「みさと」は大澤の方を見た。

 大澤の体調はもうよくなったらしくて、マスクもしていなかったし咳も出ていなかった。
 メールの返信がないから来ないと思い込んで、教室では声を掛けなかったのだけど、俺よりも先にやってきていたらしい。

 彼はちらちらと「みさと」の様子を窺うみたいに視線を向けていたけれど、目が合うとさっと逸らしてしまう。
「みさと」はいくらか苛立っていたみたいだった。彼女の連絡にも、未だに返事をしていなかったのかもしれない。

「で、話って?」

 いくらか緊張のこもった、でもちょっと前までよりは自然に聞こえる声で、大澤は椅子に座ったまま俺を見上げた。
 
「うん」と頷いてから、俺は部室にいる三人の顔を見比べた。

 大澤はどこか気まずそうだし、「みさと」はちょっとむっとした顔をしている。
 楽しげな顔をしているのは千歳だけだ。

「昨日、千歳と話したんだけどさ……」

「"千歳"?」と大澤は怪訝そうに聞き返した。

「……え、うん」

「おまえら、いつのまにそんなに仲良くなったの?」

「は?」

 俺が大澤の顔を見返してから、千歳の方を見やると、彼女はちょっと気まずそうに視線を逸らした。

「え? 変?」



「いや、だって、今まで名前呼んでるとこ見たことなかったのに、いきなり下の名前だから」

「……え、下の名前なの?」

「……やっぱり気付いてなかった」

 と千歳はぼやいた。俺はちょっと気まずくなった。

「ていうか、下の名前かどうかわからないってことは、まだ名前覚えてなかったんだ」

「みさと」が呆れた顔で俺を見る。居心地が悪くなって後ろ髪を掻いた。

「ほんと、失礼ですよね」

 千歳は「みさと」の方を見て、わざとらしく冗談めかした口調で言った。
 名前の話をごまかしたかったというのと、名前を覚えられていない悔しさが半々くらいに見える表情。
 ……何を他人事のように観察しているんだ、俺は。

「いや、まあそれに関しては、あとでほら、弁解の場を用意してほしいんだけど……」

「ていうか、上か下かもわからないのに、どうして「チトセ」って名前は分かったわけ?」

 いいかげん話を進めさせて欲しかったのだが、大澤の追求はしつこかった。

「それは、人が呼んでるの聞いたから」

「……ふうん?」

 大澤はちょっと不思議そうな顔で俺を見つめた。なんだっていうんだろう。


「ていうか、わたしの名前、ちゃんと覚えてる?」

「……」

「みさと」の問いかけに、俺は少しためらってから頷いた。

「言ってみて」

「……みさと」

「……なんで下の名前なの。苗字は?」

「……」

 正気かこいつ、という目で三人が俺を見た。
 見るな、俺を見るな。

「……話をする前に、自己紹介の時間でも用意した方がいいかもしれませんね」

 困った顔で千歳は笑う。俺も困った顔を作った。
 そこで会話が一度途切れて、沈黙がしばらく続いてから、

「学習しない奴」

 大澤が吐き捨てるようにそう言ったので、俺は少しだけ苦しくなったが、自業自得だと言われてしまえばそれまでだった。




「で、本題はなに?」

 若干呆れたような調子を残しつつも、それでも以前に近い比較的親しげな雰囲気で、大澤はそう訊ねてきた。
 大澤が口を開くと、「みさと」はわざとらしく手元のシャープペンをくるくる回し始めた。

「ああ、うん。そう、それなんだけど……」

 どう切り出そうか、迷う。言ってしまえば引っ込みはつかない。
 でも、ここに二人が来てしまった時点で、引っ込みはつかなかったのかもしれないけど。

 どうなんだろう。

「せんぱい」

 と、千歳が言う。促すような調子。まるで保護者に背中を押されて校門をくぐる小学生みたいな気分になった。
 そんな想像をしてから、ちょっとだけ情けない気持ちになる。

 こんなことでいちいちためらうような年でもない。

「まあ、昨日、千歳……と話したんだよ」

 下の名前だと知って、呼ぶときにいくらか躊躇が混じったが、いまさら苗字を呼び直すのも馬鹿らしい。
 そもそも、彼女は俺に苗字を教えてくれなかった。ネームを見ればわかるけど、俺は目がけっこう悪いから、今は確認できない。

 千歳は名前で呼ばれたことについては何も言わなかった。


「あのな、部誌を作りたいって話をしてたんだよ」

「……部誌?」

 いぶかるように、大澤は目を眇めた。俺は少し怖くなった。
 
「うん」

「なんで。文化祭で作ったし、今年の分はあれで終わりだろ」

「べつに年に一回しか作れないって決まりもないんだろ?」

「そりゃ、そうだろうけど……」

 大澤はためらうような素振りを見せた。「書けない」と大声で騒いでいたのがついこの間だし、無理もないのかもしれない。

「なんで急に?」

「えっと……」

 なんで、と言われると答えに窮する。なんでって理由だってないんだ、本当は。
 みんなが集まる理由がほしかったから、なんていっても、馬鹿にされるか、冗談だと思われるかのどっちかだ。
 そんなのは、動機としても不純だって気がする。



 そんなふうに口ごもっていると、

「あの、いいですか?」

 千歳が手をあげた。大澤が視線を千歳の方に向けると、彼女は怖気づくこともなく話し始めた。

「わたしが提案したんです。文化祭までの期間、わたし楽しかったんです。だから、もう一回作ってみたいなって思って」

「楽しかった?」

 大澤はピンと来ないみたいな顔で首をかしげた。

「だって、みんなでいつもバラバラに行動してるのに、あのときは一緒に部誌の原稿を書いてたじゃないですか」

 まあ、一緒に書くといっても、同じ部屋にいただけで、結局バラバラだったけどな、とはさすがに言わないでおいた。
 それに、千歳の「楽しかった」という言葉に嘘はないように見える。俺は、楽しくなんてなかった気がするけど。

「……だから、部誌?」

「だめですかね?」

「だめっていうか……だめでは、ないけど」


「……提案したのは、どっちだって言った?」

「わたしです」

「……ふうん」

 大澤は一瞬、ちらりと俺の方を見た。なんだっていうんだ。提案したのがどっちかなんて話、重要なのか?
 ……重要なのかもしれない。俺が言い出したことだなんて言えば、大澤が不審がるのも無理はないかもしれない。

「まあ、べつに作る分には良いと思うけど。文化祭みたいに配布する機会もないよ」

「そこは、えっとほら、あの、せんぱい?」

 大澤の言葉を聞いて、千歳がうかがうように俺の方を見る。

「……なに?」

「何か良い案はないですか?」

「……」

 考えてなかったんだ。俺は微妙な感心を覚えた。

「……図書室に置いてもらうとか」

「図書室?」

「一応、そういうスペースがあったと思うけど」

 一月に一度図書委員が出してる図書新聞以外、ろくなものが貼られていない掲示板の前の、配布物用のスペース。
 手に取る奴がいるかどうかは別問題だとしても、顧問に話を通せば、置かせてもらうくらいはできるはず。


「うん。まあ、先生に話せばそれはできると思う」

 大澤は頷いた。もっとごねると思ったのに、意外に話がスムーズに進んでいる。
 もしかして、もう書けるようになったんだろうか。どうでもいいことといえばそうなんだけど。

「でも、みんな書けるのか?」

「書ける、って、どういう意味ですか?」

 大澤は問い返した。

「ここに来てない奴に関しては、まあ、置いておくにしても、今十一月だろ。来月の下旬はもう冬休みだぜ」

「はあ」

「今から書き始めて、冬休みまでに間に合うかな?」

「そこは、ほら、えっと……」

 と千歳は視線をあちこちさまよわせたあと、救いを求めるようにこちらを見て、

「せんぱい?」

 とおもねるみたいに笑った。俺も思わず笑ったが、自分でも乾いているのがわかる笑いだった。


「べつに今学期中に無理して出す必要もないだろう。休み明けに出すのを目標にしてもいい」

「……どうして?」

 大澤の声の調子は、なんだか威圧的に聞こえた。俺の感じ方の問題かもしれない。

「なにが」

「提案したのはそっちらしいけど」と言って大澤は一度千歳を示したが、すぐに俺の方に視線を戻す。

「おまえのほうが具体的に案を出してるな」

「……まあ、立案者が何も考えてなかったもんだから」

 千歳は右手の人差指を曲げて頬をかりかりと掻いたけど、その仕草を見ていたのはどうやら俺だけだったみたいだ。

「どうして乗り気なんだ?」

「……あのさ、昨日、「みさと」にも似たようなこと言われたんだけどさ」

 彼女の名前を出したとたん、大澤の視線はちょっとだけ揺らいだ気がした。
 気のせいかもしれない。

「俺が乗り気だと、なんか変?」

「変? 変っていうか……」

 彼は考えこむように口を閉ざしたあと、

「うん、変だ」

 とそのまま答えを返してきた。さすがに溜息が出そうだ。


「なにが変なんだよ」

「部員の名前も覚えきれてない奴が部誌の発行にこだわるなんて、明らかに変だよ」

 大澤は断言した。俺は痛いところをつかれて目を逸らした。

「それに関しては、今後改善していきたいというか……」

「今までだってさんざん指摘されてたくせに、いまさら?」

「いや、これまでだってがんばろうとは思ってたんだよ」

「おまえのがんばりっていうのは、誰とも話さずに一人でちょっと離れた位置で本でも読んでることを指すのか?」

「いや、おまえだって一人で読んだり書いたりしてるじゃん」

「俺は名前くらい覚えてるよ」

「単独行動とってりゃ似たようなもんだろ。勝手に部に顔出さなくなるし。仮にも部長だろ、おまえ」

「サボりに関しては、おまえがとやかく言えたことじゃないだろ?」

「だから、おまえにも言えたことじゃないって話――」

「――ああ、もう! うるさい!」

 突然の「みさと」の大声に、俺と大澤はそろって口を閉ざした。彼女の表情はいらだちでこわばっている。
 千歳の方を見やれば、彼女はちょっと怯えたみたいに一歩身を引いていた。

 俺は強い後悔に襲われて俯いた。


「関係ないことで喧嘩しないで。いま、部誌の話をしてるんでしょ?」
 
 俺と大澤は黙り込んだ。
「みさと」は年長者みたいな口調で、諭すように言葉を続ける。

「結局、つくるの、つくらないの?」

 ……たしかに、今、俺がどんな人間かとか、大澤がサボってる理由だとか、そんな話はどうだっていい問題だ。
 
「……きみは?」

 それでもちょっとした復讐心が生まれて、他人事のようなことを言う「みさと」に向けて、俺は気づけばそう声を掛けていた。
 本当に学習しないやつだ。我ながら。

「なにが?」

「部誌づくり。賛成? 反対?」

「わたしは……」

 彼女は視線をきょろきょろと彷徨わせた。ああ、なんだよ、と俺は思った。
 どいつもこいつも似たもの同士じゃないか。

「……べつに、みんなが作るって言うなら」

「……そ」

 咎める気にも、あげつらう気にもならない。まあ、率直な気持ちではあるのだろうし。 
 


「じゃあ、つくろう」

 俺は大澤にそう声を投げかけた。千歳は一瞬だけ俺の方を見てから、反応をうかがうように大澤に視線を向ける。
「みさと」もまた、彼の方を見ていた。

 大澤は一文字に閉じたままだった口をかすかに開いて深い溜息をついた。

「わかったよ」

 肩をすくめて、仕方なさそうに、それが苦渋の決断であるかのように、大澤は重々しく呟く。

 千歳が「やった」と小さな声で呟いたのが、静かな部室の中でやけに大きく響く。
 それを気まずく思ったのか、彼女はわざとらしく咳払いをした。

 俺はとりあえず安堵の息を吐いた。

 それから千歳がこちらに近づいてきて拳をさしだしてきたので、俺も慌てて拳を作って突き合わせる。
 初めて友達ができた小学生みたいなはしゃぎ方だ。
 ハイタッチじゃないあたり、風変わりな奴だとも言えるのかもしれない。どうだろう? 案外普通かもしれない。

「普通」がよくわからない。

「じゃあ、決定ですね」

 千歳の言葉のあとに、「みさと」が小さな溜息をついていたのが、妙に印象的だった。

つづく


千歳かわいい

こいつ待ってるんですからねの時点ではビィ派シータ派の名前も覚えてなかったんか

これ待ってるんですからねの続きか
言われてみると登場人物が共通してるな

乙!
なんか明るいな




 気付くと俺は屋上にいた。

 気付くと?

 どうして"気付くと屋上にいた"なんてことが起こるんだろう?
 
 ちょっとおかしいなと思ってから、俺は周囲の様子をうかがう。
 空の色は? ……白い。いや、白いけど、暗い。季節が季節だ。もう日没だって早い。
 
 そうだ、部活だったんだ。何日かぶりに大澤と「みさと」が顔を出して、部誌についての話をした後だ。
 部活が終わってから、そのまま屋上に来たんだろう。そういえばそんなような気がする。
 久々に人とたくさん話したから、ちょっと一人になりたかったのかもしれない。

 屋上を見回しても千歳の姿はない。最近はずっとここにいたのに。

 そうだ。彼女も部活に出たんだ。そのまま帰ったのかもしれない。ぜんぜん不思議じゃない。

 なんだ?

 なにか、変な感じがする。誰かに見られている感じがする。
 ……見られている感じってなんだよ。エスパーか俺は。



 その「感じ」の気配を追った先に、まるで景色に溶けるみたいに、一人の少女が立っていた。

 見覚えがあるような気もするし、ないような気もする。

 妙な女だった。
 遠目で見ただけで暗い雰囲気なのがわかる。

 姿勢が悪いわけではない。顔つきが悪いわけでもない。
 ただなんとなく、暗そうに見える。べつに空が暗いからってわけでもないだろうけど。

 ……いや、ひょっとしたら、空が暗いからかもしれない。

 彼女はじっとこっちを見ている。
 ものも言わず、何を訴えるでもなく、そこに立っている。

 やがて彼女は俺から視線をそむけると、空を見上げた。

 俺は奇妙な気まぐれから(というより、何かの義務のようなものを感じて)、彼女に声を掛けてみた。

「何を見てるの?」


 彼女は声に驚いたようにこちらに視線を返してきた。驚いたように、というよりたぶん、彼女は驚いたのだろう。

 返事はかえってこない。ただ視線だけが向けられる。しばらくそのまま目を合わせてから、彼女は結局視線を空に戻した。
 
「鳥が空を飛んでる」

 彼女はぽつりと呟く。俺に返事をしたというより、ひとりごとでも言うような調子で。
 視線を追って頭上に目をやると、黒い影が空をゆるやかに動きまわっていた。

「たしかに飛んでる」

「鳥は飛べるのに、人間はどうして飛べないんだろう?」

「飛べるようにできてないからだろ」

「人間も飛べたらいいのに」

「飛行機でも作ったら?」

「……人間も飛べたらいいのに」

 まるでこっちの声が聞こえていないみたいだった。こんなものは会話とすら呼べない。
 俺は少しうんざりしたけど、それでも根気強く(……どうしてだろう?)彼女に声をかけ続ける。



「飛べたら何をするの?」

「羽根があったら、飛んでいけるのに」

「どこに?」

「こんな場所から、すぐに逃げ出せるのに」

「逃げたいの?」

「どうしてこの場所は、こんなに暗いんだろう」

「夜になるからだよ」

「……穴の底だからだ」

「……夜だからだよ」

 と俺は繰り返したけど、彼女に聞こえた様子はない。

「わたしが自分で潜ったんだ」

 彼女は呟く。俺は何を言えばいいのかわからなかった。


「遠い」

 俺が何も言わずにいても、彼女は勝手にひとりごとを続けている。
 こっちの声なんて届いちゃいない。

「遠いって、なにが?」

「光が、遠い」

 届いていないのに、会話してるみたいに答えが帰ってくる。
 きっと、聞こえてないんだろうけど。
 それでも俺は彼女の声に耳を傾ける。

「でも、よかったのかもしれない」

「なにが」

「だって、怖いから」

「怖い?」

 ……怖い、怖い、怖い。

「あたたかくて明るいものは、いつだって怖いから」

 話にならない、と俺は思う。

 黙ったまま空をもう一度見上げる。「光」なんてどこにもない。遠い光なんて。月も星も雲が多い隠している。
 じゃあ、彼女が見ている光ってなんなんだろう?

 あたたかくて明るいもの。俺には見えなかったけど、でもそれが怖いというのは、なんとなくわかるような気がする。


「わたしはずっと、ここにいるんだろうな」

「いやなの?」

「でも、べつにいいや。……楽だし」

「いやなら、動けばいいのに」

「もし飛べたとしても、本当は、行きたい場所なんてないんだ」

 そう言ってしまうと、彼女はもう、口を開こうとはしなかった。

「……まあ、人のことは言えないか」

 どうせ聞こえてないとわかってるのに、上から目線で偉そうなことを言ったのが自分で嫌だったから、付け加えるみたいに呟いた。

 彼女はやっぱり反応してくれなかった。
 しばらく沈黙とも言えないような静寂が続いたあと、彼女は何かをごまかそうとするような明るい調子で、

「世界が、ひとつだったら、よかったよね」

 そう、小さな声で呟いた。

 誰かに話しかけるような調子。でも、彼女の声はきっと誰にも向けられていない。
 内側に閉ざされている声。誰にも聞こえないはずの声。

 世界が、ひとつだったら、よかったよね。




「幽霊には、世界がどんなふうに見えると思う?」

 ずっと前、ひなた先輩が、俺にそんなことを聞いてきたのを思い出した。

「幽霊?」

 あまりにも不自然なワードだったから、俺は思わずオウム返しをしていた。彼女はちょっと気恥ずかしそうな素振りを見せた。

「つまり、霊魂とか、魂みたいな存在があるとしたら、この世界がどんなふうに見えてるのかな?」

「“あるとしたら”、ってことですよね?」

「うん。最近ずっとそのことを考えてたんだけど」

 変なことを考える人だ、とそのときの俺は思ったものだった。

「どうって……うーん。生きてた頃と同じように見えるんじゃないんですかね」

「それ、変じゃない?」

「変って?」

「だって、幽霊には体がないんだよ。体がないってことは目だってないはずでしょ。
 それに、視覚情報を受け取って処理する脳もないから、そもそも認識できるはずがないでしょ?」

「いや、そもそも魂って存在が、そういう物理現象を超越してるんじゃないですか?」

「そうでもないと思う。べつに、世界を物質的に理解しようとしても、魂ってものはありえないものではないと思う。
 だから、もし魂ってものがあるとしたら、それはやっぱり、ある程度世界の原則にしたがってなきゃいけないはずなんだよ」


「……ううん。よく、わからないんですけど」
 
 俺の答えに、彼女はうーんと唸りながら考え込んだ。

「えっと、人間の視覚は、世界を人間的なフィルター越しに見てるんだよ」

「フィルター?」

「たとえばなんだけど、犬の視界っていうのは、緑がかってるんだって。赤とかそういう色は見えない。
 蛇の視界は暗闇でもはっきり見える。人間は水中にいると視界がぼやけるけど、鮫は水中でもクリアに物を見分けられる」

「……はあ」

「そういうふうに、生き物によって見える世界は違うんだよ。
 同じ部屋を見てるにしても、人間が見るもの、犬が見るもの、蝿が見るものは全然違う」



「……すみません、話がよくわからないんですけど」

「えっと、つまりね、そういう処理をするのって、肉体でしょ。
 蛇の視界は蛇の肉体と主観、犬の視界は犬の肉体と主観、人間の視界は人間の肉体と主観で決まってる。
 じゃあ、この肉体をなくした幽霊にはどういうふうに世界が見えるんだろう?」 

「……先輩はどう思うんですか?」

「見えないんじゃないかって思う。見えたとしても、それは夢とか記憶みたいなものであって、現実ではないと思う」

「どうして?」

「だって、もし見えたとしたら、肉体の機能なんていらないでしょ?
 もし魂だけで世界を見ることができるなら、目なんていらないはずだもん。
 それに、もし死後も生前と同じように、光とか、音とか、痛みとかを感じることができるなら……。
 それって、死後も生きているのと同じようなものじゃない?」

 それは肉体というものをあまりに軽視しすぎているし、魂というものを神秘的に捉えすぎている、と彼女は言った。

 人は、生きているから、健常な肉体があるから、光を視られるし、音を聴けるし、痛みを感じられる。
 わかるようなわからないような話だった。



「霊魂というのが仮に透明なもので、わたしたちの世界に見えないだけで存在しているとしてもさ。
 その人は透明だから、光をつかまえられない。だから、世界を見ることはできない」

「……えっと、話はわからなくはないんですが、いよいよこの話の着地点が見えなくなってきました」

「たとえば、なんだけど。人間の目には黄色く見える花が、虫には白く見えたりする。白い花が青く見えたりする。
 でも、それって、人間が本当の色を見てるってことなのかな? 虫が本当の色を見てるってことなのかな?」

「……つまり、“人間の視覚は、世界を人間的なフィルター越しに見てる”ってことですか?」

「うん。だから、普段わたしたちが見てるのは、“肉体で処理された”世界なわけだよね。
 じゃあ、死後も同じように見えるって、おかしいでしょう?」

「世界の見え方そのものが、肉体の機能の結果だから、肉体から離れても世界が見えるわけがないってことですか?」

「うん」

「そうだとすると、霊魂は見ることもできないし、聞くこともできない。器官がないから。
 話すこともできないし、動くこともできない。考えることもできない。……それって結局、いないのと同じじゃありませんか?」

「うん。だからわたしは、たぶん幽霊を信じてないんだよね。基本的にはさ。
 死んだ後も生きてたときと同じものを感じたりできるなら、生きてる意味なんてどこにもないでしょ?」

 ……。

「え、それ結論ですか?」

「……みたいだね」

「……なんだったんですか、今までの話。最初の仮定をぶち壊してませんか?」

 俺が詐欺にあったみたいな気分になって溜息をつくと、先輩は遠慮がちに照れ笑いをした。


「それでも、もし魂みたいなものがこの世界に残るとするなら、それはきっと、意思みたいなものだと思う」

「意思?」

「つまり、意思だけが残るんだよ。場の力とか、雰囲気とか、そういうものになってさ」

「……また、わからないんですけど」

「えっと、むかし、小学生の頃に、こっくりさんをやったことがあるの」

「……こっくりさんってなんですか?」

「え、知らない?」

「……なんのことだか」

「ジェネレーションギャップ……」

 ひとつしか違わないはずなのに、先輩はやたらと落ち込んでいた。

「ま、えっと……ちょっとオカルトな儀式、占いっていうか……うーん。説明が難しいけど」

「え、儀式をしたんですか?」

「うん。えっと、五十音表とか、ゼロからキュウまでの数字とかを書いた紙の上にね、十円玉をおくんだよ。
 その十円玉の上に何人かで指をのせて、こっくりさんを呼ぶと、その十円玉が勝手に動き出して、質問に答えてくれるっていう」

「……はあ」

「わたしは友達の四、五人でやったの。ちょっとしたレクリエーションみたいな感じでさ。教室のカーテン閉めきって、雰囲気出そうと思ったりしてね」


「それで?」

「そしたら、動いたんだよ。十円玉」

「……はあ」

「なんかね、うらめしやー、とか、そんなことを言ってくるわけ。もうびっくりしたよね。ほんとに怖かった。
 それでも途中でやめちゃうと祟りがあるとか言われてたから、一応帰ってもらってさ」

「あの、その話、オチあるんですか?」

「うん。実は友達の一人が動かしてたんだってー」

「……はあ」

 ……それがオチでいいのか、と俺は思った。

「でも、変なんだよね。べつに、イタズラとかが好きなタイプの子じゃなかったし。
 気まぐれにやってみたって言ってたけど、どうしてそんなときに限って気まぐれを起こすのかって話でしょ?
 だって、こっくりさんって、わたしたち世代でいうと、かなり怖かったんだよ? みんな多少なり興味があったからやってみたわけだし」

 世代は同じだって、と俺はどうでもいいところに頭の中でツッコミを入れた。

「えっと、わたしが言いたいのは、つまり……もし幽霊なんてものがいるとしたら、そんなふうだよねってこと」

「……すみません、話のつながりがわかりません」


「つまり、もし幽霊がいるとしたら、肉体を乗っ取ったり、取り憑いたりなんてしないんだと思うの。
 それはたとえば、雰囲気や力場みたいなものになって、誰かの「気まぐれ」とか、「なんとなく」を誘発する……。
 そんなふうにして、わたしたちに働きかけてくるんだと思うの」

「……オカルトというか、スピリチュアルな話ですね」

「かたちを変えるんだよ」と彼女は言った。

「わたしたちはいつも、わたしたちの見方、肉体のバイアスの掛かった解釈で理解しようとするけど……。
 でも、そんなのはたぶん表面的なことなんだと思う。世界はもっと融通のきくものなんだよ。
 自分自身のことだって、たとえば、誰かの中に自分の一部を見出したり、自分の気持ちが夢の中で人の形をとったり……。
 そういうふうに、かたちを変えてあらわれてくるものが、たくさんあるんだと思うんだよ」

「……よくわからないです」

 先輩は少し黙り込んだ後、疲れたみたいに頭を何度か振って、自嘲するみたいに笑った。

「ごめん、どうでもいい話しちゃったね」

「いえ。けっこう、面白かったです」

「そっか。ありがとう」
 
 照れくさそうに笑う彼女の表情は子供みたいにかわいくて、俺は少し心を動かされた。
 でもそれは、どうしてかはわからないけど、ずっと遠く、渡れない川の向こうにあるかのように、そのときの俺には感じられた。

つづく

先輩とくだらない話で盛り上がりたいぞ
乙!




 昇降口を出て校門を過ぎたところで、うしろから「せんぱい」と声を掛けられた。
 声の主は、というか俺を「せんぱい」と呼ぶ生徒は一人しかいないんだけど、案の定千歳だった。

「残ってたの?」

「はい。せんぱいにお礼を言おうと思って」

「お礼?」

「部誌のこと、言い出したのはわたしなのに、何も考えてなかったから」

「べつに俺が何も言わなくたって、作るってことになったら大澤あたりが言い出してたと思うよ」

「それでも、実際に言ってくれたのはせんぱいですから」

「……きみ、ちょっと変わったよね?」

 前までは、もっと俺にそっけない態度をとっていたような気がする。
 彼女は一瞬表情をこわばらせた。少しだけ空気が軋んだような気がする。

 質問には答えてもらえなかった。
 俺はとりあえず歩くのを再開する。千歳は当たり前のように俺の横に並んだ。


「よかったですね」

「なにが?」

「部室に、先輩たちが顔を出してくれて」

「うん、まあ……」

「枝野先輩のこと、気になるんですか?」

「あかね」だけは部室に顔を出さなかった。
 それでも、大澤や「みさと」が部に顔を出したのは、たいした成果だ。

 俺というより、彼女の働きかけのおかげなんだろうけど。

「まあ、そうだね」

「きっと、そのうち顔を出してくれますよ」

「……かもしれない」

「……せんぱい、あんまり喜んでないです?」

 俺は答えなかった。

「みんながいないと寂しいって言ってたじゃないですか」

「それは……そうなんだけど」

 何か、やり方が間違っていたような気がする。
 


「とにかく、部長だって賛成してくれましたし、部誌を作るって目標だって決まりましたし」

「うん。それはよかったと思う」

 そういえば、千歳とは中学が一緒だったんだっけ。帰るにしても似たような方向になるはずだ。
 俺はぼんやりと頭上に視線を移す。空は灰色にくすんでいる。ここ最近ずっと。

 視線を下界に戻すと、距離を一定に保ったまま、同じ速度で千歳は隣を歩いている。

「せんぱいは、何を書くんですか?」

「なにが?」

「なにって、部誌ですよ」

「ああ、うん。どうしよう」

「……考えてなかったんですか?」

 ああ、そうだ。そこが変だったんだ。
 べつに自分が何か書きたいわけでもないのに、部誌をつくろうって言うなんて。
 やっぱり俺はどこか間違ってる。手段と目的を取り違えている。結果と過程を入れ替えている。


「きみは、何を書くのか決めてたの?」

 後輩は少し躊躇したように見えたけど、とりつくろった感じの笑みを浮かべてから答えてくれた。

「一応は。前の話の続きを書こうと思ってるんです」

「前のって、文化祭のときの、穴の話?」

「はい」

「書けるの?」

 彼女は口ごもった。俺は後悔した。

「いや、べつに変な意味じゃなくて。というより……」

「なんですか?」

「……俺も、前の話の続きを書こうと思ってたところだから」

「……前の話、って、文化祭のときの?」

「うん」

「書けるんですか?」

 と千歳は言った。
 それから数秒の間があったあと、彼女はくすくすと笑い始める。俺も少しだけ笑った。


「せんぱいは今度も同じものを書くのかと思ってました」

「うん。その方が楽なんだけど」

「慣れてるからですか?」

「というより、まあ、考える必要がないから」

「……考えないで書いてたんですか?」

「いや、結局は同じことの繰り返しだからさ」

 彼女は、わかるようなわからないような、という曖昧な顔で首をかしげた。

「でも、どんなふうになるんですかね、それって」

 今度は俺が首をかしげる番だった。なにせ俺は“続き”なんて書いたことがないのだ。
 いつも同じところから始まり、いつも同じところで終わる話。
 部屋から始まり、扉を出るところで終わる話。

“その先”については、あまり考えないようにしていた。

「あまり感覚的になりすぎない話にしたいと思ってるんだけど」

「……書けるんですか?」

 後輩はもう一度同じ問いを繰り返した。俺はやっぱり答えられなかった。


「それより、なんていうか、続きを書くっていうのが、難しくてさ」

「矛盾したり、ですか?」

「いや、矛盾があるのはべつに、かまわないんだよ。いざとなったら続きじゃないってことにすればいいし」

「書く前から逃げ道つくってどうするんですか」

「ごもっとも。きみはどんなふうに書くの?」

「読んでからのお楽しみです」

 といってもまあ、穴の底から始まるなら、そう突拍子もない展開にはならないだろうけど。
 でも、扉の外から話がはじまるなら、どんなことだって起こりうる。

 何が起こるのかが、問題だ。

「ひょっとして、せんぱい……」

「ん?」

「続きを書くのが怖いんですか?」

 その問いにすぐには答えられなかった。
 彼女はしばらく俺の方を見ていたみたいだった。何かを答えなくてはいけないのかもしれない。


「結局、俺が書いてきたものっていうのは、自分が書いて納得するだけのものだったから。
 でも、続きを書くなら、それだけってわけにはいかない」

「そう、なんですか?」

 千歳はまた首をかしげた。なんだかうまく伝わらないみたいだ。

「……なんとなく、こういうふうに書きたいっていうのはあるんだけど」

「どんなふうに?」

「……外に出たら、驚くほど楽しかったって話」

「それは……」

 書けるんですか? ともう一度千歳が言った。俺はやっぱり困ってしまった。


「書けないかもしれない。でも、書けるか書けないかは問題じゃないよ。
 結局、書きたいものがあるなら、それを書くために努力するしかないわけだから。
 それが思った通りにならなくても、それはまあ結果の話だ」

「じゃあ何が問題なんですか?」

 俺は少し考えてから、答えた。足音のテンポが少しだけ違うことに、突然気付く。歩幅が違うんだから当たり前だ。

 ふと後ろから「おー」と声を掛けられる。同じ学校の制服の男子。自転車に乗っている。
 
「今帰り?」と彼は言った。

「見ての通り」と俺は答えた。

「彼女?」

「ただの後輩」

「ふーん。じゃあな」

 彼はあっというまに通り過ぎていった。



「今の人、友達ですか?」

 自転車をこぐ後ろ姿が少し遠ざかってから、千歳が訊ねてきた。

「クラスメイト」

「へー」

 どうでもよさそうだった。
 それで、何の話をしてたんだっけ。
 そうだ、何が問題なのかって話だ。

「つまり、問題なのはさ」

 何の話をしていたのか思い出せなかったのかもしれない、千歳は一瞬だけきょとんとした顔になった。

「書いてるとさ、なんとなく、裏切ってるような気分になるんだよな」

「裏切ってる?」

「うん。よくわからないんだけど」


「……まあ、たしかに、あの話の女の人が、外に出た途端はしゃいでたら、それは変だと思いますけど」

「やっぱり?」

「だって、素直にいろいろ楽しめないから、部屋の中にいたんじゃないんですか、あの人」

 そんなこと書いたっけ、と俺は思ったけど、まあ書かれた文章をどう読むかは人それぞれだ。
 問題はまさしくそのとおりだ。

「そうなると、やっぱりしんどい話になると思うんだよ」

「というと?」

「結局、扉を出た以上、もう逃げ道はないわけだ。自分で逃げ道を封じたわけだから。
 でも、外では楽しいことがたくさん降って湧くってわけでもない。
 そうなると、自分から変わっていかなきゃいけない。それって根気がいるし、むずかしいことだろうから」

 うーん、と考えこむようにうなってから、千歳はちょっと笑った。

「持って回った言い方をするのは、せんぱいの悪い癖ですよね」

 たしかに、と俺は思った。今後の課題だ。


「でも、せんぱいは少し、変わりましたよね」

 少しの間、黙ったまま歩いていたけれど、千歳は思い出したようにそんなことを言った。

「変わった?」

「はい」

「ちょっと前に、真逆のことを言われた気がするけど」

「それは、まあ、ほら。そのときのせんぱいが、本当にそう見えたからですけど」

「……」

「だって、前までだったら、わたしを部室に誘ったりはしなかったはずですし」

「まあ、そうかもしれない」

「それに、たとえばさっき、“せんぱいの悪い癖”なんて言い方しちゃいましたけど」

「……はあ」

「前までだったら、わたし、怖くてそんなこと言えなかったです。
 せんぱい、何考えてるかわからなかったし、怒っちゃいそうだったし」

「そう?」

「はい。でも、最近はけっこう、せんぱいに対して思ったことをずばずば言えるっていうか……」


「それ、きみが変わったんじゃないの?」

「それは、うーん……。それはともかく」

「……人の話はしておいて、自分の話は置いとくんだ」

「とにかく、せんぱいは前より柔らかくなりました。
 じゃなかったら、わたしだってお礼言おうって待ってたりしないですよ」

 そうだったらいいけど、と俺は思った。
 
 でも、俺は自分で気付いてる。
 根本的な問題はまだ残されたままなんだ。
 
 文化祭前の何週間か、俺はずっと考え続けて、ようやく、自分の問題をまっすぐ見据える気になった。
 とにかく俺は俺として、ここにいる俺として、やっていかなきゃならないと、受け入れることができるようになった。

 でもそれは、問題の即時解決を意味してはいない。
 俺はまだ何も変えられていない。それを、これから、なんとかしていかないといけない。

 大澤が言ったとおりだ。そこまでわかっておいて名前を覚える努力もしてなかったなんて笑い話だ。
 それじゃあ、前までと何も変わらない。



「ひなた先輩も、そう言ってましたよ」

「……先輩が?」

「はい。ちょっと棘が抜けたって笑ってました」

「……」

 俺は少しだけショックを受けた。なんでだろう。褒められてるはずなのに。
 べつに棘を残しておきたかったわけでもない。とんがってたのがポリシーってわけでもないし。

 でも、ひなた先輩にそう言われたっていうのは。
 ……なんでだろう、少し……。

「あ、でもこれ、せんぱいには内緒って言ってたような気が……」

「……」

「あっ」

「とりあえず、内緒にしたいことはあまりきみには話さないことにするとして……」

「い、いやちがうんですよ? わたし口すごく固いですからね? 語らざること岩のごとしですよ?」

「ああ、うん。そう」

 千歳はしばらく「あー」とか「うー」とか言いながらなんとか名誉の回復の機会を探していたみたいだった。
 が、結局なにを言っても今は説得力がないと気付いたのか、すねたように黙りこんでしまう。

 かわいい後輩。
 でも、俺の頭はやっぱりひなた先輩のことを考えていた。
 彼女もやっぱり、以前の俺には思うところがあったんだろうか。

 そりゃ、そうなんだろうけど。


「あ」

 俺がまた妙な考え事にふけりそうになって、そんな自分に気付いて思考を振り払いかけたとき、千歳は声をあげた。

「なに?」

「雨」

 返事をしたというより、ひとりごとみたいな調子で、彼女は呟いた。

 顔を上向けて空を見ると、頬に雫が落ちてきた。
 ポツポツという雫は徐々に増えていって、やがてさあさあという静かな雨になった。

「……十一月だってのに、なんでこんな雨ばっかりなんだろう」

「せんぱい、あそこ。バス停あります」

 千歳の言葉にしたがって、俺たちは二人で雨宿りをするために停留所の屋根の下を目指した。

「天気予報じゃ言ってなかったのに」

 ぼやきながら、千歳は少しだけ濡れた髪を指先でぬぐっていた。
 俺は鞄からタオルを取り出して彼女に渡した。礼を言って受け取ってから、髪や肩を軽く拭きはじめる。
 一応タオルは複数持ち歩いていたから、俺も濡れた髪を拭うことができた。


 彼女は俺のわたしたタオルで濡れたところを拭いていたけれど、その視線が不意にとまる。
 見つめているのはまさに使っているタオルだった。

「……洗濯してから使ってないから、汚れてないよ」

「え? あ、や。そういうわけじゃなくて」

 彼女は慌てたみたいに顔の前で手のひらを左右に振った
 べつにこっちだって怒ったりはしない。というか、逆の立場だったら俺だって多少は気にする。

 濡れた頬をぬぐう彼女の表情に、不意に既視感がよぎる。
 タオルで頬を拭っただけの表情。短めの髪が、かすかに濡れて額に張り付いている。

 そういえば、中学のときはバスケ部だったんだっけ。
 汗を拭っている姿を、一度くらいは見たことがあったかもしれない。
 
 俺がぼんやりその表情を眺めていると、彼女は不器用っぽく笑った。

「そうじゃなくて、ただ……部活、出てよかったなあって思って」

「え?」



「……うん。がんばった甲斐があったかもしれません」

 脈絡のない言葉に何かの説明が付け加えられないか、しばらく待ったけど、彼女は何も言ってくれなかった。
 
「持って回ったような言い方をするのは、きみの悪い癖かもしれない」

「そこはほら、周囲の影響ってものがありますから。書くものも、なんとなく誰かに似ちゃったりして」

 彼女はいたずらっぽく笑う。からかわれてる。悪い気はしないけど、ちょっと困った話だ。
 どうせなら他の奴に影響を受けてほしい。

 大澤とか……は、ダメか。「あかね」も……。「みさと」に関しては、まだちょっと未知数だけど。
 ……後輩に良い影響を与えそうな先輩がひとりもいないって、さすがにまずいんじゃないのか、文芸部。 

 あいつらも別に悪いやつではないし、俺が言えたことでもないけど。



「やみますかね?」

「傘、持ってないの?」

「……あ、持ってました」

 言われて気付いたみたいに千歳は鞄をあさり、中から水色の折りたたみ傘を取り出した。
 そう強くはないけれど、雨は止みそうに見えない。傘をさして帰ってしまった方がいいだろう。

 俺たちはそれぞれに傘をさして、それでも別々に歩く理由がなかったから、やっぱり並んで歩き出した。

 特に話したいこともなかったので、それ以降俺は聞き手に回った。

「そういえばわたし、一度でいいからアンコールワットを見てみたいんですよ」

 脈絡もなく始められた千歳の世界遺産トークは数分間続いて、俺の相槌のパターンはその間に十数個くらい消費された。
 分かれ道で「また明日ー」と千歳は言った。俺は今日が金曜日だと言おうか言わないか迷って結局言わずにおいた。

つづく

いざとなったら続きじゃないってことにすればいいわろた

そこには触れてはいけない!
千歳かわええ




 傘をさしながら帰り道を歩いている途中で、さっき俺たちを追い越していったクラスメイトが道の脇の草むらにいるのが見えた。
 
「なにしてるの?」

 俺が声をかけると、彼は顔をあげてこちらを見た。細められた目はあまり機嫌良さそうには見えない。 
 弱い雨に打たれて、制服が濡れている。

「いや、さっき転んじゃってさ」

 と言って、彼は擦りむいた手の甲をこちらにかかげた。少し血が滲んでる。

「家の鍵落としちゃったみたいなんだよ」

「うわ」

 俺は歩道に停められたままの自転車を見る。カゴがひしゃげていた。
 近くのマンホールが変に盛り上がっているから、そこにさしかかったとき、制御できなくなったのかもしれない。

「盛大にいったみたいだな」

「雨降ってきたから急いでさ。慌てるとろくなことねーな」

 言いながら彼は下を向いて、鍵探しを再開した。

「手伝おうか?」

「いや、いいよ」

「まあまあまあ」

 と言いながら俺は傘を地べたに置いて、その下に自分の鞄を置いた。
 奇妙にねじれたガードレールを乗り越えて草むらに向かうと、彼はちょっとあっけにとられたみたいな目でこちらを見た。



「なんだよ、まあまあって」

 そして笑う。

「ほら。道を歩いてる時に、チラシ配ってるお姉さんがいたりするだろ」

「……その話関係あるの?」

「最近の俺は、あとで邪魔になって捨てるだけだってわかってても受け取っちゃう人間なんだよ」

「ふーん。なんか偽善者風味な?」

「ちげーよ。元来暇な人間だからチラシ読んでちょっと暇つぶしにして、そのあと捨てるだけ」

「なんだそれ」

 彼は長い前髪を揺らしながらくっくと笑う。

「つーか、その話、やっぱり関係なくね?」

「まあまあまあ」

「意味わかんねーし」


 草むらとは言っても季節が季節だから、草は枯れかかっていて、土が露出している。
 太い用水路のそばで、斜面になっていたけど、たぶん水路には落ちていないと思う、と彼は言う。

「鞄の中身散らばっちゃったから、そのあたりにあると思うんだけど……」

「鞄、ちゃんと閉じときゃいいのに」

「あー、それはもうここ数分でいやになるくらい実感してる。今後の教訓にするわ」

「それがいいな。人間は学習する生き物ですよ」

「つか、おまえなんかキャラ違わね?」

「まあな。人間はいくつものペルソナを使い分ける生き物だからな」

「……おまえ今なにも考えないで喋ってるだろ」

「なんでわかった?」

 彼は一拍置いて、溜息に近い笑いを歯の隙間から漏らしたあと、真剣な顔になって鍵探しを再開した。
 軽口を叩いていても、見つからないのが不安なのかもしれない。

 仕方ないので俺は服を汚さないようにしながら地面を眺めた。
 単に服を汚したくなかったのと、彼が気にするだろうというのと、汚したら綺麗にする役目はきっと妹が負ってしまうだろうから、という理由で。
 
 そんなことを考えている自分がなんとなく気持ち悪い生き物に思えたけど、だからって他にどうしようもない。



「あのさあ」

 不意に、地面から顔をあげて、彼はこちらに声をかけてきた。

「んー?」

 少し戸惑いながら促す。手は草の根をかきわけている。

「最近どうよ?」 

「なにが?」

「なにがって、ほら、えっと、部活?」

 どうしてそんなことを気にするんだろうと思った。
 何かの機会があって何度か話したことはあるかもしれないけど、普段はあまり話さない。
 お互いいつも別々の相手としゃべっているのに。

「まー、ぼちぼち」

「ふうん。文芸部って、普段どんなことしてんの?」

「本読んだり、なんか書いたり」

「なんかって?」

「適当に。誌でも小説でも川柳でも」

「ふーん」

 興味のなさそうな溜息。



「おまえってどんな本読むの?」

「え、いろいろ」

「いろいろって? 小説とか?」

「うーん」

 一番最近読んだ小説のことを思い出そうとする。
 すぐに浮かんだのは「隣の家の少女」だったけど、何気ない会話で口にするにはちょっと抵抗のあるタイトルだった。

「じゃあ、いちばん最近読んだ本は?」

「いちばんわかりやすいDTMの教科書」と俺は答えた。

「DTM?」

「デスクトップミュージック。パソコンとかで作曲するやつ」

「いわゆる、あれか。ボカロ? みたいなの?」

「そう」

「え、作曲できるの?」

「いや?」

「あ、勉強してるとこか」

「いや、まったく」

「……どういうことだよ」

「なんとなく読んでみた」

「ふうん」


 雨は弱くなってきた。俺はちょっとほっとした。鍵はまだ見つかりそうにない。
 俺たちは範囲を拡大して捜索を続けた。一応用水路の底も確認したが、雨の波紋と水中の砂でよく見えない。

「そういえば、おまえさ」

 と、彼はまた話すのを再開した。

「なに?」

「大澤に聞いたんだけど、妹いるんだって?」

「ああ、うん」

 彼が大澤と話している姿を見たことがなかったから、俺は少し戸惑った。
 ついでに言えば、俺の話題がその場で出ていたということにも。

「やっぱ生意気?」

「いや。誕生日にはカスミソウの花束を手渡したいくらいにかわいい」

「その例えはよくわかんないけど、仲いいんだ」

「……どうだろ。普通じゃないかな」

「でも、悪くはないんだろ?」

「といっても、あんまり会話とかしないしな。実は仲悪いんじゃないかって、ちょっと不安になってるところ」

「へえ。……うち、姉ちゃんいるんだけどさ」

「はあ」

「最近ちょっと折り合い悪くて」


「はあ。そう」

「……すげーどうでもよさそう」

「いや、どうでもいいっしょ。他人の兄弟仲がどうかなんて」

「どうでもよくてもさ、興味ありげな素振りくらい装ってくれよ。話進まねーだろ」

「どうでもいいから、話進まなくても困らないし」

「円滑な人間関係を築く気がねーのか、おまえは」

「いや、目下の目標はいろんな人とフレンドリーな会話を交わすことだけど。
 けど、やっぱ自分を抑えこむのは違うと思うんだよ。ある程度までならともかく。
 円滑な人間関係なんて、そこそこ正直じゃなきゃ成立しないというか、お互い疲れるだけだと思うんだよ」

「……まあ、そりゃそうかもしんねーけど」

 彼が素直に相槌を打ったものだから、俺は一方的な話をしたことを後悔した。
 いっそ笑い飛ばしてほしかった。
 どうして俺の口はときどき勝手に動くんだろう。なんて言い訳がましい考えが頭をよぎったりした。

 も話をそこで終わらせるのは後味が悪かった。
 他の話題も思いつかなくて、しかたなく話を続ける。


「というか、最近気付いたんだけど」

「なに?」

「俺はそういう、“こうするのが大人”とか、“こうするのがまとも”みたいなものが、どうも苦手っぽい」

「あー、それっぽい」

「……え、納得するとこなんだ、そこ」

「いや、だっておまえの小説そんな感じだったじゃん」

「あれ読んだの?」

「読んだよ。あれ、俺おまえに感想言ったぞ」

「なんて?」

「おもしろかったって」

「いつ?」

「文化祭終わった後」


「あー……社交辞令だと思ってた」

「うわ、おまえ、人がせっかく、柄じゃないと分かりつつも直接感想言ったのに」

「ふーん。ああ、いや、ありがとう。直接褒められたのは初めてかも……」

 ……でもないか? どうだろう。文芸部外では初めてかもしれない。

「まあ、基本つまんねーしな、おまえの話」

「さっきと言ってること違うんですけど」

「だって、イライラするもん、読んでて。でもまあ……」

 彼は頭をがしがし掻いて、「あー」と唸りながら空を見た。

「うまく言えねえ。俺文芸部じゃないから」

「……いや、文芸部関係ないから」

「そうなの? うまく言葉にするのが、ああいう文章なんじゃないの?」

 俺は少しためらったけど、言葉をのみこんだままなのは嫌だから、吐き出した。

「うまく言葉にできないから、ああいう形になるんだよ、たぶん」

 でも、それは代償行為でしかない。言いたかった言葉をあとで書き起こしたからってどうにもならない。
 言いたい言葉は、そのタイミングで言わなきゃいけない。後悔は簡単には薄まってくれない。

「……ふうん?」

 案の定俺の言葉は抽象的で、うまく言葉にできたとは言いがたかった。


「そういえば、さっきの話」

 ようやく他の話題を思い出して、俺は口を開いた。

「え、なに?」

「ほら、お姉さん。喧嘩でもしたの?」

「ああ、いや……」

 戸惑ったように視線を揺らしてから、彼はごまかそうとするみたいに笑い飛ばした。

「さっきどうでもいいって言ったじゃん」

「今気になったから」

「……まあ、そう。ちょっとした喧嘩」

「ふうん」

「こんなこと言うのも照れくさいけどさ、特別仲がよくなくたって、結局家族だろ。
 複雑な事情があるわけでもないし、べつに嫌うような理由もないから、悪くは思っちゃいないんだ」

「まあ、そうな」

「でも、家族だからこそっていうのかな。ときどきどうしてもいやになるっていうか……。
 適度な距離を保てなくて、触れてほしくないところに触れてきたり、妙な地雷を踏んだりさ」

 まあ、そうかもしれない、と思ったけれど、そういえば俺の家では、そういうことはめったにない。
 喧嘩をしたり、ときどきうっとうしかったりもするのが、『普通』なのだろうか。
 わかるような気も、わからないような気もする。


「それで、些細なことから口喧嘩になったりさ。そういうのになると、原因はくだらないのに、つい言い過ぎたり……」

「つまり、言い過ぎたの?」

「端的に言えば」

「ふうん」

「うち、母親いなくてさ。ばあちゃんはいるけど、体弱いから姉貴が家事全般やってんだよ。
 俺だってなんだかんだ助けられてるし。だから感謝はしてるんだ。してるんだけど……」

「はあ」

 なんでこいつは、こんな真面目な相談を俺にしてるんだろう。
 と思ったけど、そんなことを考えるのはよして、とりあえず話の内容について真剣に思いを馳せてみた。
 が、すぐに混乱してしまった。

「……よくわかんね」

 俺のつぶやきに、彼は「なにが?」と首を傾げた。

「いや、そこまでわかってるなら、謝ればいいじゃん。言い過ぎたって。
 んでもって、喧嘩したことの内容でお姉さんに言いたいことがあるなら、冷静に話してみればいいだけじゃね?」

「……あー、うん。正論だな」

 そりゃそーだ、と彼は言った。

「そりゃ、まあ、わかってるんだけどね」


 彼があんまりにも寂しそうな顔をするものだから、俺は少し困ってしまった。
 他人事のようだった視点を、自分の身の回りに置き換えて考えてみる。

「……まあ、俺がそんなこと言えるのは、他人事だからだけどさ。
 実際俺も、謝ればいいってわかってるのに、なかなか謝れなかったことがあるし」

「うん」

「でも、結局謝るしかないんだよな。ましてや、悪いって思う気持ちが少しでもあるなら。
 それでちゃんと仲直りして、誕生日にはカスミソウの花束でもわたせばいい。
 そんだけでもう、世界中が幸せだよ。知らないけど」

「……そうだなあ」

 彼は屈みこんだまま、ぼんやりと何かを考えるように空を見上げていた。
 雨は、今にもやみそうなほど弱くなっていた。気付けばずいぶん長い時間、雨の中で話を続けていたらしい。
 お互いの制服が濡れている。なんとなく気まずくなって、俺は視線をそらす。

「あ」

「どうした?」

「あったよ」

「なにが?」

「鍵」

 ガードレールのすぐ下に、鈍色の輝き。
 俺がそれを拾い上げると、彼は「おお」と言ってちょっと目を丸くした。
 俺の指から鍵を受け取ると、血の滲んだままになっている手の甲をこちらに向けて鍵を握りこんだ。

 それから照れくさそうに、

「さんきゅ」

 と、そっけなく笑った。

つづく

>>1の妹って理由は分からないのだけれどとても魅力的
乙!




 わたしは、穴の底を愛していました。
 
 それは愛というよりは、むしろ、親しみと呼んだ方がいいかもしれません。

 穴の中は冷えきっていて、暗闇は深く、光はおぼろげにしか感じ取れません。 
 その中に自分がいる、というのは、わたしには自然なことでした。
 
 どうしようもない気持ち、置き場のない気持ち。
 そういうものは、穴の外に出たからといってどうにかなるものではなくて。

 それをどうにかしようとするのは、きっとすごく大変なことなのです。

 気付いたら「こう」という形に凝り固まっていた自分自身を、作り変えなければならないのです。

 込み入っていて、混乱していて、散らばっていて……。
 そういうものを、結び直さなくてはいけないのです。

 とてもむずかしいことで、とても労力のいることなのです。
 何よりも、勇気のいることなのです。



「光が、遠い」

 わたしがそうつぶやくと、穴の底に、わたしの声が響きます。
 それ以外の声はなにひとつ、なにひとつありません。

 聞こえるのは自分の声だけ。
 わたしがそうであることを望んだからです。
 自分以外の声なんて聞けなくてもいいと、わたしが思ったからです。

 歩くことが怖いなら、足をなくしてしまえばいいのです。
 足をなくしたら、歩くことはできないのですから。

 だから、足を切り落として――そうすれば、どこにもいかなくていいのですから。
 そうまでしなくても、足をどこかに縛り付けてしまえばいいのです。
 
 そうして、縛り付けて、歩けなくして……。

 歩けなくなってしまった。

 当然の結末。子供でも想像がつくような、簡単な結果。
 それでもかまわないと思ったはずなのに。
 でも、わたしは、焦がれてもいたのです。

 あの光。
 あたたかな、おぼろげな、するどくて、弱々しいのに、たしかで。



「――それで、どうするの?」

 そんな声が、聞こえました。
 例の、幻。誰のものともしれない声。

 聞き覚えがあるような、聞き覚えがないような、そんな曖昧で胡乱な声。 
 いえ、胡乱なのは、わたしの頭なのかもしれません。

「このくらやみが好きならば、あなたはずっとここにいればいい。
 穴の深さが不満なら、さらに掘り進めればいい。ひょっとしたら、世界の裏側にたどり着くかもしれない。
 もし、ここがそんなに嫌ならば、壁の土を削りとって、それを足元に積み重ねればいい。
 もしあなたに目的があるなら、あなたはそれに応じた手段をとることができる」

 たしかに、とわたしは思いました。

「光が、遠いです」

「なら、近くにいけばいい」

「失ってしまわないでしょうか?」

「なにを?」

「……この暗闇を」

 光を求めていながら、この穴の底を出ることができない、本当の理由。
 それは、わたしが、この暗闇に親しみを覚えているからかもしれません。

 だからわたしは、この暗闇を失うこともまた、恐れているのです。



「朝が来て夜が来るように――」、と声は言いました。

「――闇と光は一対でしかない。光あるところに影があるように。影のあるところに光があるように。
 痛みがなければ優しさが生まれないように。光だけの世界はありえない。あなたがそれを望んだとしても」

 わたしは瞼を閉じて、深く呼吸をしました。
 穴の底は、とても、息苦しくて、窮屈です。

 膝を抱えていたままの自分を意識して、再び瞼を開くと、体をすんなりと立ち上がらせることができます。

「同じ場所に居続けているなら、見える景色も同じものでしかない。
 もし違う景色を望むなら、新しい展望を望むなら、知らないものに出会おうとするなら、あなたは別の場所に向かわなければならない。
 月の裏側を見たいのなら、あなたは空へと向かわなければいけない」

 声はやさしげで、柔らかで、それでもどこか、冷たい気配をまとっていました。
 他人事のような。他人事なのかもしれない、とわたしは考えました。やはり、どこか、他人事なのかもしれない、と。

 それでも。

「ひょっとしたら、あなたが見て、真実だと思い込んでいる月は、それはひとつの見え方に過ぎないのかもしれない。
 月の裏側には、もっと、別の何かがあるのかもしれない。それは真実ではないかもしれない。新しい見え方にすぎないのかもしれない。
 でも、そこにいるだけでは見えない景色も、やはりあるのだと思う。そして、あなたがそれを望むなら、あなたはこの穴から出なければいけない」

 声の気配は、そこで途切れました。
 どのような手段をとればいいのか、分からない。
 でも、たしかにわたしは光を望んでいて、声の言う通り、光のある場所にも、影が必ずあるとしたら。
 わたしはこの暗闇を失わないまま、光の差す場所へ向かえるはずです。


 そうしてわたしは、壁の土を削り、足元に積み上げていきました。 
 道具もなく、服は汚れ、長い怠惰の中で、力は失われていました。

 それはすごく、途方もないことなのでしょう。
 途方もない時間をかけ、途方もなく深い穴を掘ったのですから、これを埋め直すのならば、途方もない時間がまた、必要になるはずです。

 それでもわたしは、試したくなったのです。
 世界が見えているだけのものでないのなら。
 世界が、わたしに見えているだけの、たったひとつの見え方しか許さないような、そんな場所でないのなら。

 わたしは、これ以外の見え方というものを知ってみたくなったのです。

 けれど、体の衰えはやはり深刻で、肉体はすぐに疲弊し、精神もまた、地道な努力というものを困難に感じました。

 弱り切ったわたしは、それでも光を諦めたくはありませんでした。
 だから、叫んだのです。おぼろげな光に向けて。

「助けて」、と。





「……お兄ちゃん、お客さん」

 体を揺するやさしい力によって眠りから目覚めた俺に、そんな声が掛けられた。 
 目覚めたばかりで不明瞭な視界には、おぼろげに誰かの気配がする。

 夢の名残が現実まで侵食していて、だから俺は言葉の意味も捕まえられなかった。
 やさしく揺り起こされる現実の手触りだけが、なんだかいやに懐かしい。

 だからかもしれない。

「……かあさん?」

「……え?」

 戸惑ったような声が、針のような寒気となって、俺をまどろみから追いやった。

「あ……」

「……お兄ちゃん、朝だよ」

 瞼をこすり、現実を見つめなおすと、俺を揺り起こしていたのは妹だった。

「お友達きてる」

「……だれ?」

「森里さん」

「……あい」



「歯磨いてくるから、ちょっとまってて」

「うい」

 妹が森里にコーヒーを出して、「すみません」と謝った。俺はなんとなく申し訳なくなった。

 べつに無理にもてなさなくてもいいよ、と以前言ったことがあるけど、そういうわけにもいかないから、とすぐに反対された。
 森里の方も「いつもありがとう」なんて言いながら、妹と雑談を始めてしまう。

 俺は宣言の通り洗面所に向かい、顔を洗い、歯を磨き、それから軽く寝ぐせを直した。

 再びリビングに行くと雑談に花が咲いていたようだったので、俺はダイニングの椅子に腰掛けてその話に耳を傾けた。

「でも、大変じゃない?」

「いえ。そんなには。もう慣れましたから」

「でも、扱いとか難しいでしょ」

 ガーデニングか何かの話だろうか。

「うーん、他の人ならそうかもしれないですけど、昔から一緒にいますから、なんとなくわかります」

「ふーん。やっぱり家族から見るとわかるもんなのかな。俺はいまいち何考えてるかわかんないけど」

「うちのお兄ちゃん、ぱっと見だと人間嫌いみたいに見えますけど、実はただ感情表現が苦手なだけですから」

 俺の話かよ。

「考えてること自体は、べつに特別なことじゃないと思いますよ」

「ふーん。妹さんにはわかるもんなんだなあ」

「……まあ、それなりには」


「森里。今日は何の用事?」

 なんとなく気恥ずかしい気持ちもあって、俺はその話を遮った。
 妹は振り返って、「コーヒー、そこ」とだけ呟く。俺はテーブルの上のマグカップに視線を向ける。
 十一月ともなると肌寒くて、毎朝のようにコーヒーを飲んでいたから、妹は俺が何か言う前に準備するようになってしまった。

 家政婦じゃないんだからほっといてくれていい、というと、そういうわけにもいかないから、と妹はすぐに反論する。 
 なにがそういうわけにもいかないのか、俺にはまったくわからない。
 けどまあ、好きにさせておくことにしていた。

「あ、そう。えっとさ。ちょっと自転車でぶらり一人旅しようと思ってさ」

「そう」

「おまえも行かない?」

「一人旅じゃねーのかよ」

「旅は道連れだよ」

「おまえの場合、『道連れ』の意味が微妙に違う気がするけど」

「いいじゃん。今日暇だろ?」

「大澤は?」

「あいつは、なんか小説書くから無理って。最近様子変だったから、あんま強引に誘うのもなんだと思って。
 そういや、また文芸部で部誌作るんだって? 大澤から聞いたけど」

「うん。まあ……」

 そこまで聞いたなら、俺だってなにかしら書くかもしれないって、思わなかったのか。
 ……思ったにしても、大澤ほど集中して書きはしないから、平気かもって考えたのかもしれない。



「どこまで行くの?」

「考えてるのは、あっちの……」

 森里が言ったのは、俺たちが住んでいる付近から車で三十分くらいの距離にある自然公園だった。

「……なんで自然公園?」

「アスレチックやりたいと思って」

「つーか、あそこ山だぞ」

「山だな」

「……自転車で?」

「たまには体を酷使してやらないと。なまけぐせでるから」

「日常的に運動しなよ」

「やってるよ、ジョギング。毎朝十分。今日で三ヶ月くらい」

「え、ほんとに?」

「俺、見えないところで努力するタイプだから」

 そういえば、むかつくことにこいつのテストの成績はいつもよかった気がする。


「で、どう?」

 森里の思いつきについて、少し考える。
 森林公園。森林公園? 何もない場所だ。子供がソリ遊びをするような坂と、池のある公園。
 近隣の人が運動するのによくつかってるって話は聞いたことがある。

 夏場だったらいいけど、今は十一月で、外はけっこう寒いはず。
 もし途中で体調でも崩したら帰れなくなるかもしれない。

 ……でも、まあ、いいか。

 森里が思いつきで行動するのはいつものことだし、俺はだいたいそれに付き合っている。
 振り回されても付き合いが続いているのは、振り回されることがそこまで不愉快じゃないからかもしれない。
 そうじゃなかったら森里だって、こんな誘いを何度も持ちかけてきてはいないだろう。

「……了解」

 俺が頷くと、森里は「そう言ってくれると思ってた」とか、調子のいいことをおどけた調子で呟いた。
 俺たちの間で話を聞いていた妹は、ココアをひとくち飲んでから、

「出掛けるの?」
 
 と訊ねてきた。

「みたいだね」

「帰りは何時頃?」

「夕飯までには戻ると思う」

「気をつけてね」

「うん」



 俺は朝食にトーストを焼いて、それを食べてから少し休み、玄関を出た。
 
「寒いなー」

 森里は白い空を見上げながらひとりごとみたいに呟いた。

「十一月だからね」

「あー、うん。そっか。もう十一月だもんな」

 そして俺たちは十一月の寒空の下、森林公園へと自転車で向かおうとしている。
 ……季節を間違えてる。

「ちょっと距離あるし、きつそうなら方針変えて、モールかどっか寄って、適当になんか見て帰ろうぜ」

「雨、ふらないよな?」

「たぶんな。天気予報ではそんなこと言ってなかったから」

「了解」

 家を出るとき時計を見ると、時刻は九時半を回ったところだった。
 カーポートに停めてあった自転車を滑らせて、財布と携帯だけを入れた鞄をかごにいれる。
 自転車に乗るのは久しぶりだという気がする。中学には自転車で通ってたけど、今は使っていないから。



 住宅の合間を縫うように進んで、俺たちは大きな道路に出た。
 向かう先はわからなかったけど、森里は迷わずすいすい進むから、俺は黙ってそれについていく。

「やっぱ、雨降るかもなあ」

 立ち漕ぎをしながら、森里は前方の空を見上げて呟く。

「まー、そうかも」

「そうなったらそうなったで……」

「どうするの?」

「雨の中を進む」

「……馬鹿かよ、おまえは」

「ま、なんとかなるって」

 少し曇りがちな空の下で、めいっぱいにペダルを漕ぎながら、古いミュージカル映画の有名な曲を口ずさんだ。
 歌詞は最初の一節しか覚えてなかったみたいで、何度か同じ言葉を違うメロディーに乗せたあと、鼻歌みたいに言葉だけがなくなった。
 楽しそうに自転車をこぐやつだなと思って、俺は少し笑った。


「なに?」

 笑い声を聞いて、ちょっとむっとした表情になりながら、森里は振り返る。

「前見ろ、前」

「おっと」

 歩道を走りながら、彼は少し速度を落として俺の斜め前に並んだ。

「なんだよ」

「いや、おまえはいつも楽しそうだよなと思って」

「おまえ、それだと俺が何も考えてないみたいじゃねえか」

「べつにそうは言ってない」

「あのなあ、俺にだって悩みとかいろいろあって、の、これだぜ」

「知ってるよ」

「なにが?」

「いや、その悩みとかの内容は知らないけど。いろいろ考えてんのはまあ、わかるよ」

「え、わかる?」

「まあ、それなりに」

「なんだよ、それ」と森里は不満そうな声をあげた。


「だっておまえ、一人でいるとき、ときどきつまんなそうな顔するじゃん」

「……そう?」

「ときどきな。そういうときでも話しかけるとテンション高くなるから」

「え、そんなふうに思ってた?」

「わりかし。茨の道を行くやつだよなと」

「うそだろ」

 森里はショックを受けたみたいで、奴の自転車はへろへろと速度を落とし始めた。

「なに。褒めてるのに」

「いや、俺としては、こう、何も考えてなさそうなのに、実はいろいろ考えてるってのがかっこいいと思ってて」

「なにそれ」

「テスト勉強してないように見えるのにいい点とれた方がかっこいいじゃん」

 ……どこまでその理屈を適用するつもりなんだろう、と俺はちょっと感心した。


「だったら悩みがあるとか言わなきゃいいのに」

「いや、そういうところをあえて口に出すところがまた、馬鹿っぽいじゃん?」

「……どこまでキャラ作ってんだよ、おまえ」

「どこからどこまでがキャラ作りかなんて、自分でわかるわけないだろ」

 たしかに、と俺は思った。
 それから俺たちは、俺の妹のこととか、大澤の話とか、大澤と「みさと」の関係とかについて話をした。
 自転車をこぐのは久々だったし、最近はろくに運動もしてなかったから、俺はすぐに息が切れ始めた。

「運動不足だな」

「実感してる」

「ジョギングしたら?」

「うん。……うん。それもいいかもしれない」

 そのとき、なぜか、遠くに住んでいる従妹のことを考えたけど、それがなぜなのかは自分でもよくわからなかった。


 坂に入ると、勾配は少しずつきつくなり始めた。俺も森里も必死になってペダルを漕いだ。
 意外なほど早く、遠くまで来ていた。話をしていたからかもしれない。

「そういや、文芸部の一年いるじゃん」

「千歳?」

「名前は知らないけど。あの子中学んときバスケ部だったって話したよな?」

「ああ、うん」

「おまえもバスケ部だったじゃん」

「うん」

「仲悪かったの?」

「いや。あんまり話さなかった」

「ちょっと前に思い出したんだけどさ」

「なに?」

「いや。あの子、あれじゃないのかと思って」

 どれだよ、と俺は思った。


「中三のときに、体育祭……あっちは運動会か。で、トラブったことあるじゃん」

「なにそれ」

「当事者だろおまえ。応援合戦の練習で。ほら、応援団長の高橋が張り切りすぎたやつ」

「……全然覚えてない」

「声出せっつって、男子とかの頭ぽんぽん叩いて、ちょっと反感買ってたじゃん」

「……あった」

「で、おまえ声出さなかったじゃん」

 そりゃあ、まあ。出さなかった。生徒にだって多様性ってもんがあるんだし、いいかげんああいう強要もどうかと思う。
 体育祭でも合唱コンクールでも球技団体でも、一丸となって声を出せどうのって。
 やる気のある奴だけでやりゃいいのに、と俺はいつも思っていた。自分が子供なんだってわかっちゃいるけど。

「で、高橋が、おまえの膝蹴っちゃってさ」

「……膝っつーか、まあ、ギリギリ膝下くらいだったけど」

 そういえば、膝はあまり痛まない。
 膝を痛めてからもうずいぶん長い時間が経った。だいぶよくなったのかもしれない。
 なんとなくまだ、膝をかばうような動きをしてしまうけど。


「で、おまえそれから運動会の練習ボイコットしたじゃん」

「あー、うん。練習っつーか、当日もサボったけど」

 高橋が気に入らなかったのと、あの手のイベントが嫌いだったのと、いろんな要素がからまって、俺は一時期学校をサボっていた。
 
「で、高橋がおまえに蹴り入れた直後に、おまえのこと庇って高橋に食って掛かった女子がいただろ」

「……いたの?」

「覚えてない?」

「いや、うーん。そのまえから高橋にむかついてて、あれやられてそうとう頭に来て、もう運動会サボってやろって思ったくらいしか」

「で、実際サボったわけだしな、おまえ。……あ、なんか思い出してきた。
 そうだよ、おまえがサボったせいで、俺リレー二回走らされたんだよ。しかもそのせいで転んだ。大恥掻いたぞ」

 なんだか妙な思い出し怒りのポイントを押してしまった。俺はぜえぜえ言いながら自転車を漕ぐ。

「そんな女子いたの?」

「うん。高橋あのとき高圧的だったからな。たぶん一、二年としてもけっこう嫌な感じだっただろうし。
 その日からあいつ、割とおとなしくなったけど。……ああいうときに張り切っちゃう奴っているし、それが悪いとも思わないんだけどさ」

 というかまあ、行事に熱心じゃなくて、しかもサボったんだから、どちらが悪いという話になれば俺だろう。

「で、そのときの女子、たぶんあの子だった気がする」

「うそ」

「いや、ほんと」



「だって、ひとつ下だぞ。先輩に対して食って掛かるか?」

「たしかね。そうだったと思うけど。だからどうってわけでもないけど、印象的だったから覚えてる」

「ふうん」

 そうなんだ。……そうだったんだ。
 千歳は以前、中学のときの俺の印象について結構はっきりと言ってきたことがある。
 何を考えてるかわからないとか、たぶん何も考えてないんだろうと思ってたとか、そんなこと。

 正義感なのかもしれない。一応バスケ部だったし、俺が膝を痛めてたことは知ってたはずだから。

 そんなこと、まるで覚えていなかった。高橋に対する嫌悪感であたりが見えなくなってた。

「つーか、高橋、おまえのことすげー嫌いだったよな」

 ……たしかに何かと突っかかってこられた記憶はあるけど、他人から直接「嫌われてた」と言われると、微妙にショックだ。

「まあ、それはともかく。なんとなく不器用そうな子だなー、と、そのとき思った」

「不器用?」

「おまえが言った通り、器用だったら食って掛かったりしないだろ」

 ……そうかもしれない。
 


 話をしているうちに開けた場所に出た。駐車場には何台か車が止まっている。
 どうにか目的地に辿りつけたみたいだ。

 土日とはいえ、季節が季節だし、天気も良くはないので、人の気配はあまりしなかった。
 スポーツウェアに身を包んだ人たちが何人かいる。近くの人が体を動かしに来ているのかもしれない。

 近くにはキャンプ場やゲートボール場もあったけど、やはり人影はない。

 駐輪場に自転車をとめたあと、俺たちは自販機でスポーツドリンクを買って飲んだ。

「さて、じゃあ、アスレチックと行きますか」

 森里は運動に向かなそうな普段着のまま、準備体操を始めた。
 普段はインドア派に見えるけど、べつにからだを動かすのが嫌いというわけではないらしい。
「運動する機会がないってだけだし」と本人は真剣に語っていた。

 アスレチックは、子供も使えるけど、子供向けというだけではなく、大人がやっても結構な運動になりそうなものだ。
 
 平均台に円盤渡り、タイヤ渡り、ネット登りに吊り橋。たしか十五種類以上のアスレチックが、山の中に順番に置かれている。
 貫くように長い滑り台があったりして、けっこうワクワクする。

「じゃあ、行きますか」

 それから俺たちは三十分くらい掛けて一周して、そのあと森里がタイムアタックをやりたいというので携帯でタイムを計測したりした。
 自転車を漕いで疲れたのと、朝食をしっかりととらなかったせいで、俺はすぐにバテた。

「だらしねえなあ」と気持よく笑ってから、森里はひとりで三周くらいして、それから青ざめた顔で「吐きそう」と言って木陰でしばらくうずくまった。
 


 休憩を兼ねてアスレチックコースの途中にあった展望台に登ってしばらく休んでいると、

「楽しいよなあ」

 と森里が本当に楽しそうに言うので、俺は少し笑ってしまった。
 展望台から見下ろす街並みは空の灰色にくすんでいたけど新鮮だった。ぼんやりと眺めながら、来てよかったかもしれない、と俺は思った。
 そうでなければこの景色は見られないはずだったから。いつもみたいに部屋にこもって土曜日を消化していたはずだから。

 そして書けもしない小説について思い悩んでいたかもしれないから。

 それでも少しすると、体の疲れとか、曖昧な空模様とか、冷えた汗の冷たさとかが、静かに俺の気力を削いでいって、

「なにしてるんだろうな、俺ら」

 とか、そんなことを俺に言わせた。

「なにって、遊んでるんだろ」

「無意味に時間をつかってしまった」

「いいじゃん、楽しいんだから」

 森里は笑い飛ばすように言った。

「意味なんてべつになくってさ」

 たしかに、と俺は思った。

204と205の間が1レス分抜けてました


 妹は俺が起きたことを確認すると、とたとたと部屋を出て行った。階段を降りていく音が聞こえる。
 ベッドを這い出して服を着替え、カーテンを開ける。
 空はいつもより静かで、なんだかぼんやりとくすんでいるように見えた。

 携帯を見ると森里からの着信が何件かあった。
 土曜日の朝だ。ときどき、事前の決め事もなしに遊ぼうとか言い出すことが、こいつの場合はときどきある。
 そういうことには慣れっこで、いつのまにか、家に勝手に来ることも珍しくなくなっていた。

 階段を降りて、リビングに向かうと、妹がふたり分のコーヒーを入れているところだった。
 大澤はテレビの前のソファに腰掛けていた。

「おはよう」と声をかけると、「おはよう」と返事がかえってくる。

「電話に出なかったから、寝てるんだろうと思って勝手に来ちゃった」

「用事があったらどうする気だったんだよ」

「あったらおまえ、早起きするじゃん」

「連絡返せなかっただけだったりするかもしれないだろ」

「おまえの場合、起きてればどんなときでも即座に返信よこすし、まあ寝てるんだろ、と」

 まあ、今までもだいたいそうだったし、もし俺が不在だったら、すぐに自分だけでどこかに出かけていたのかもしれない。
 いつものことといえばいつものことだったから、俺はすぐに割りきった。

>>221>>204->>205のあいだ

つづく

おつ


>>221で大澤出てきて一瞬混乱したわ

221-8 大澤 → 森里

申し訳ないです。
しばらく更新頻度が低めになるかもしれないです。
今日は訂正だけ。




 翌日の日曜、俺は朝四時半に目をさました。

 少し体を動かしただけで疲れてしまって、日が暮れてからすぐに眠ってしまったのだ。
 せっかくの休みだし寝直そうと思ったけど、せっかくの休みなんだから寝て過ごしたらいつものように後悔するに決まっている。
 
 昨日森里と交わした会話を思い出して、ジョギングでもしてみるか、と思った。
 ちょっとしか体を動かしていないのに疲れて眠ってしまうなんて、いくらなんでも情けない。
 
 俺ももうちょっと根気強い努力というものを覚えるべきかもしれない。
 体を動かすのは別に嫌いじゃないし、昨日一日自転車で駆けまわっても、膝はほとんど痛まなかったんだから。

 クローゼットの中に仕舞いこんでいた中学のときのジャージを取り出す。
 どこにでもあるような青い体操服。近隣の人間が見ればそれだとわかるけど、ぱっと見なら市販のものとそう変わらない。
 今部屋にあるもので運動に使えそうなのはそれくらいだったから、俺はそれに着替えて、携帯だけを持って部屋を出た。

 玄関を出ると、吐く息が白かった。十一月の空は高くて遠い。
 冬の足音なんて聞こえはしなかったが、気温の変化だけで季節の変化をまざまざと感じる。

 こうして空を見上げて息を吐いていると、人間というのは地の底で生きている生き物なのだと感じる。
 這いずりまわってうごめくだけの、翼のない動物。

 大昔にどこかで生きていた誰かが、「人間とは、翼を持たない二本足の動物だ」と言った。
 それを聞いた他の誰かが、鶏の羽根をもぎ取って、「これが奴の言う人間だ」と言って否定した。

 だからなにって話。


 羽根がない以上は二本の足で歩くしかなくて、よちよち歩きのペンギンよろしく(奴らには翼があるが)、俺は慣れない足取りで朝の街へと繰り出した。
 サイモン&ガーファンクルでも聴いたら気分が良くなりそうな、澄んだ朝の空気。

 きしきしという引き締まった寒さは体をわずかに刺したけど、体を動かしているうちに気にならなくなった。

 走っている間というのは、携帯をいじることも本を読むこともできなくて、だからぼんやりと考えごとにふけることしかできない。
 こういう時間っていうのは部屋にこもっていてもなかなか作れない。俺の生活は物質が身近にあることに慣れすぎている。
 暇さえあればネットを見たり、もしくは本を読んだりテレビを見たり。
 
 そういえばペンギンは、どうして飛べないんだっけ。なにかで読んだような気がする。
 ペンギンは飛ぶことができない。なんでだっけ。

 外敵がいないから、飛んで逃げる必要がなかったんだっけ。だからいつも水の上でぷかぷか浮かんでいた。
 そのうち水の中で餌を探すようになった。そうしてもっと飛ぶ必要がなくなった。

 やがて翼は飛ぶためのものではなくて、泳いで餌を探すためのものになった。だから奴らはすいすい泳ぐ。
 必要がないから、飛ばない。

 そんなペンギンも、ときどき空を見上げて飛びたくなったりするんだろうか。
 飛べない我が身を嘆きたくなったりするんだろうか。

 そんなことはないんじゃないかなあと俺は思った。
 はやく泳げるなら、べつにそれだけだってかまわないんじゃないか。そう思って大半の奴は満足してるに違いない。

 そんななかでもやっぱり空を飛びたいペンギンというのはいるのかもしれない。
 先祖は空を飛べたそうだから、そういう記憶が体のずっと奥の方に引き継がれて、衝動みたいに沸き起こるかもしれない。
 


 海を探せば餌があるのに、あいつは空を飛ぼうとしてる、と群れの中のペンギンはせせら笑う。
 うるせえ奴らだ、とペンギンは言う。それでも俺は空を飛んでみたいんだ。

 重いだけで羽毛もろくにない翼を震わせて、彼は空へと向かおうとして海に落ちる。
 きっと、何回墜ちたって懲りないのだ。

 ……やばい、妄想の中のペンギンに感情移入してしまった。ちょっと応援したい。
 がんばれペンギン。おまえもいつか飛べるさ。

 そんな馬鹿なことを考えながら走る朝の街は静かで、人の気配がしなくて、まさしく「眠ってる」って感じだ。

 電線に集まった数十羽のカラスが、白んだ空を背景にカーカー騒ぎながら、地を這う俺を見下ろしていた。
 まあせいぜい見下しているといいさ、と俺はぼんやり思った。いつかペンギンに足元をすくわれるといい。
 ……鳥の場合も「足元をすくわれる」って言うのか?

 そんなことを思いながらも、明け方の電線に集うカラスの群れはなんとなく俺の気分をよくさせた。
 新鮮な景色だからかもしれない。

 で、息が切れてきて、頭がぼーっとしてきた。

 まだ走り始めて十数分なのに。
 まだ十代だぞ、と俺は思った。意地と見栄だけでひいひい言いながら走った。
 脇腹は痛んだけど、膝は痛まなかった。




 家に帰ってシャワーを浴びていると、ふくらはぎのあたりがじくじくと痛んだ。
 運動不足ここに極まれり。

 それでも体を動かした後の気分は爽快で、汗を流して服を着替えたあと、ひそめた声で鼻歌を歌いながらコーヒーを入れた。

 コーヒーメーカーのことことという音をきいているといっそう気分がよくなってきて、退屈なんてまるで感じなかった。
 そうこうしているうちに階段から足音が聞こえてきて、

「……おはよう」

 と寝ぼけ眼をこすりながら妹がリビングに姿を表した。

「悪い。起こした?」

「ううん。いつもこのくらいの時間には起きてるし……」

 うそだろ、と俺は思った。まだ五時ちょっと過ぎだぞ。
 一緒に暮らしていても、それだけじゃわからないことがあるものなんだなあと俺は感心しつつ、なんとなくいたたまれない気持ちになった。

「わたし、早寝早起き」

 妹は得意げにすまし顔をつくったが、パジャマ姿のままの彼女の髪には、寝癖がちょこんと跳ねていた。

 そのまま寝ぼけたように近づいてきて、何かを待つようにこちらを見上げてきたので、

「えらいえらい」

 と頭をぽんぽん撫でてやると、一瞬だけほわほわ表情を緩めた後、ふと意識がはっきりしたみたいにハッとなった。
 数秒の沈黙の後、気まずそうに距離を作られる。……寝ぼけたときに昔の癖が出るっていうのも、まあない話ではない。


 沈黙の中に、コーヒーメーカーが作動する音だけが響く。
 
 結局、妹は大人になりすぎた、というより、大人になろうとしすぎた、のかもしれない。
 それはたぶん、いろんなことでガタガタになったこの家を、彼女なりに守ろうとした結果なんだろう。

 だから俺は、そんな彼女の姿を見ていると、後ろめたくて、自分が嫌になるんだけど。
 そんなことを考えてたって過去が覆るわけではないし、自分がマシになるわけでもない。

「……コーヒー、飲む?」

「……甘くしてくれたら」

 俺にできることがあるとしたら、彼女が守ろうとしたものを、俺も一緒に守っていこうとすること。
 きっとそれがいちばん大事なことなんだろう。

 それにとっとと気付けていれば、こいつだってもう少し、子供らしく笑ったり泣いたりできたかもしれない。
 後悔はなくならない。ひとりよがりな思い込みかもしれない。いまさらだと笑われるかもしれない。

 でも、自己嫌悪や自己否定の海に沈んでいても、自分が変わるわけじゃない。
 必要なのは実際的な努力だ。

 出来上がったコーヒーをそれぞれのマグカップに注ぐ。妹の分だけカフェオレにしておいた。

 ……でも、とときどき考える。
 俺はちゃんと努力できているんだろうか。ちゃんと行動に移せているんだろうか。
 努力している、ふりをしているだけじゃないのか、なんて。

 そんなことを考え始めたら、またきりのない思弁の渦に巻き込まれてしまうだろうから、俺はその思いつきを努めて振り払っていた。





「つまりね、反射なんだよ」

 また、ひなた先輩の言葉を思い出した。
 ずっと前、そんなことを言っていた。俺がまだ一年の頃。彼女がまだ部長じゃなかった頃。

「反射?」

「何かを怖いって、思うとするでしょ。暗いところとか、幽霊とか。なんでもいいんだけど」

「……はあ」

「その"怖さ"に対して、逃げ出したり、目を閉じてみないふりをしたりするのは、反射みたいなものなんだよ」

 熱いものを触った時に、手が思わず引っ込んじゃったりするでしょう、と、彼女は言った。

「……はあ」

 どうしてそんな話になったんだろう? べつに、俺や先輩についての話をしていたんじゃないはずだ。
 何かの小説の登場人物についてでも、話をしていたのかもしれない。
 記憶はおぼろげなのに、彼女の話には、印象的なものがいくつもあって。

 知らず知らずのうちに、俺は影響を受けているような気がする。

「たとえば、何かを"怖い"と思うことを、ひとつの問題として見るとさ。
 それを解決するためには、ただ"怖い"って言って足を竦ませているだけじゃ何も変わらない。
 怖いからって、背を向けて逃げ出したって何も変わらない」

 必要なのは、努力と行動、意思と覚悟。


「熱いものを持ち上げようとするとき、"熱い"って思って、手を放してしまう。
 体を守るために、脳が勝手に判断するわけだよね。でも、それでも持ちあげなきゃいけないときは……?」

「……意思で強引に手を押しとどめるんですか?」

「それじゃ火傷しちゃうよー」

 先輩はおかしな冗談でも聞いたみたいに笑った。真面目に答えたつもりだったから、俺は恥ずかしくなった。

「ミトンを用意したり、もっと他の道具をつかったり。ふさわしいものがなかったら、道具を発明したり。
 そういうのを、きっと、"実際的な努力"っていうんだよ」

「……」

「重いものを持とうとするなら、腕力を鍛えたり、やっぱり道具をつかったり……あとは、誰かの手を借りたりして」

「……反射だけでは、熱いものには触れられない。反射を無理に押さえつけても、火傷をする」

「うん」

「……必要なのは、問題を観察すること。何が問題なのかをちゃんと理解すること。
 そもそもどうすれば、その問題が解決したことになるのかを考えること。
 そして、その問題を解決するために、どのような手段を取りうるのか、考えること」

「そう、反射だけではなく。反射の先の、対策」

 ……対策。

「なんて、偉そうなこと言ってるけど、わたしだってよくわかんないんだけどね」

 先輩はいつもそんなふうに、自分を卑下することでバランスを取ろうとするみたいにして、話を終わらせた。




 十時を回った頃、家の電話が鳴り出した。

 俺と妹はリビングでぼんやりテレビを眺めていたところだった。
 日曜十時の番組はいつだって退屈で、その退屈さはなんとなく俺を安らいだ気持ちにさせていた。

 俺が出ようとする前に妹が立ち上がって、とたとたと親機へと向かっていく。
 電話に出るときの妹の声は、普段よりいくらか高くて、その分いくらか硬くなっている。

 そんなことを思いながら、何の電話だろう、とぼんやり視線を向けていると、

「お兄ちゃん、電話」

 と彼女は受話器の口を抑えながら言った。

「だれ?」

「えっと……」

「うん」

「ふじみ? さん」

 不死身?

「……だれ?」

「さあ?」

 とりあえず電話を変わると、電話口から聞こえたのはおどおどとした女の子の声だった。


「あっ……せんぱい?」

「はい……。はい?」

「藤見です」

「……ふじみ……」

「……藤見千歳です」

「……あ、うん。フジミな。フジミね。うん」

「すみません、あの、まだ、苗字覚えてくれてなかったんですね……」

「……あー、いや」

「……」

「……面目ない」

「いえ。すみません。休みの日に突然電話しちゃって」

「あー、いえ、こちらこそ本当に申し訳ないと……」

「それに関しては諦めてました」

 と彼女は真剣な声で言ったが、いくらか落胆の調子が含まれているように聞こえて、俺の気分は少し落ち込んだ。


「よくうちの番号知ってたね」

「いえ、知らなかったんですけど、四月にもらった部の連絡網に書いてあったなと思って」

「ああ、そんなのあったっけ」

 ……たぶんもらってすぐに捨てた。もしくは鞄の底でぐしゃぐしゃになっているかもしれない。

「で、なにか用事?」

「あ、えっと……今日、何か用事ありますか?」

「……特にはないけど」

 俺は少し警戒した。

「ちょっと、相談したいことがあるんです」

「金ならないぞ」

「……せんぱいの中で、わたしどういう扱いなんですか」

「いや、ごめん。冗談だから」

「わかってますよ。……ちょっと、小説のことで」


「……はあ。小説」

「はい」

「……え、なんで俺?」

「……消去法です」

 千歳があまりにもあっさりと言ったので、俺が余計な口を挟む暇はなかった。
 消去法って。

「とにかく、何も用事がないんだったら、ちょっと相談に乗ってもらいたいんですけど……」

「はあ。それはまあ、かまわないですけど」

 俺はなぜか敬語だった。

「ありがとうございます。えっと、じゃあ、どこかで会えますか?」

「ああ、うん。今から?」

「……できれば十一時頃に」

「了解。場所はどこがいい?」

「"かっこう"がいいです」

「あー……そんな急に褒められると、照れる」

「褒めてません。……せんぱい、意外と図々しいですね。"かっこう"です」

 図々しいって言われた……。


"かっこう"は、ここらへんの学生の間で人気の喫茶店だ。

 値段も安いしコーヒーも美味い。雰囲気も悪くない。そして学校の近くにある。
 ので、学生たちがたまり場にして、雰囲気をぶち壊しにしてしまう。とはいえ同じ穴のムジナ。
 森里いわく、ホットケーキが美味いらしい。

「じゃあ、"かっこう"に十一時」

「はい。お願いします」

 受話器を置いてから、俺は深く深く息をついた。
 緊張のあまり変なことを言い過ぎた気がする。不測の事態すぎて心が追いつかなかった。

「"かっこう"に十一時」。俺は自分の言葉をもう一度頭の中で繰り返した。
 そのまま映画のタイトルにでもできそうな響きだが、いかんせん字面がよくなかった。
 などとどうでもいいことを考えて現実逃避をしようと試みたけれど、緊張はぜんぜん晴れなかった。

 ふと顔を向けると、妹は変なものを眺めるような目でこちらを見ていたが、すぐにさっと顔を逸らしてしまった。

つづく

あーこういうのいいな

この二人のやりとり微笑ましい

妹がかわいい




 日曜日の"かっこう"は、名前の通り人気が少なかった。
 
 不思議な店だ。決して客が少ないわけでもないのに、店の中はいつも静けさに包まれている。
 満席になっているところは、一度も見たことがない。

 学生の間で人気といっても、少し足を伸ばせばファミレスやハンバーガーショップなんかもそこそこあるし、そっちを利用する奴らも多い。
 こういう「静けさ」の中よりも、騒ぎやすいファミレスなんかの「賑やかさ」に居心地の良さを感じる奴らもいる。
 人それぞれ気質というものがあるわけだ。
 
 それで俺はどっちの気質なのかと考えたら、まあ別にどっちでも一緒かもしれない。
 賑やかな場所で騒ぐのも平気だし、静かな場所で黙っているのも嫌いじゃない。
 自分がする分にはどうだっていい。誰かと一緒なら気にならない。

 店に入ったのは十一時を回る五分前くらいだったけど、千歳は既に奥のテーブル席に座っていた。
 
 カウンター客と世間話をしていた中年の女の人――たぶん経営者夫婦の妻の方だと思うけど――は、俺に顔を向けていらっしゃいと親しげに言った。
 俺が指先で千歳の座っている席を示すと、彼女は黙って頷いて二秒くらい俺を目で追ったあと、世間話に戻ったようだった。

 黒いエプロンをつけた女の人と話をしているのはボサボサの白髪頭にスポーツキャップを被った男の人だった。
 たぶん、五十歳くらいだろう。どうやら両親の金がどうこうとか、兄弟との折り合いがどうこうとか、そういう話をしていらしい。
 女の人が俺に注意を向けている間も、彼はまるで聞いている相手の態度より自分の話したいことの方が重大だというふうに声をあげていた。

 俺は注意をよそに向けることで、千歳の方をあまり見ないようにしている自分に気付いたが、席に近づくとそういうわけにもいかない。

「おはよう」と俺が声をかけると、「おはようございます」と彼女も合わせて頭をさげてくれた。

「すみません、急に」

「いいよ、べつに。相談あるんだったら。参考になるかは自信ないけど」



「はい……」

 すぐに本題に入るのかと思ったけど、彼女は手元にあるコーヒーをスプーンでかき混ぜているだけで話し出そうとはしない。
 俺は先輩らしくどうでもいい世間話でも振るべきかと思ったけど、今日の天気のことくらいしか思い浮かばなかった。

「最近冷えるね」

「はい。今朝も寒くて起きるの大変でした」
 
「あー、そうだよな。俺も最近起きるのつらくて……」

 と適当なことを言ったあと、今朝のことを思い出した。

「……いや、そういえば今日は早起きした」

「どうしてですか?」

「昨日早めに寝たから目がさめた。せっかくだからジョギングしようと思って、三十分くらい走った」

「えっ」

 と彼女は心底意外そうな声をあげた。たしかに自分でも意外なことだが、驚かれると微妙にすねた気分になる。



 話しているうちにエプロンをつけた大学生くらいの男の人が水を持ってきてくれたので、そのままアメリカンを頼んだ。
 メニュー表のいちばん上に載っていて、しかもいちばん安いのがそれだからという理由で、いつも同じものを頼んでいる。

「どうしてジョギングなんか?」

「そんなに意外?」

「だってせんぱい……運動とか嫌いそう」

「……俺、バスケ部だったじゃん」

「好きでやってたんですか?」

「違うけど」

 父親が「せめて中学のときくらいは運動部に入ってくれ」とよくわからない要望を出してきたので、それに従った記憶がある。
 べつに嫌いでもなかったけど。

「運動不足だからなあと思って。まあ、体を動かせば気分も晴れるかもしれないし」

「落ち込むことでもあったんですか?」

「いや。べつにそういうわけでもないけど」

 千歳は少し考えこむような間を置いてから、

「まあせんぱいは恒常的に落ち込んでますもんね」

 と失礼なのかどうなのかよくわからない発言をした。


 そういえば彼女の私服を見るのは、初めて……ではないけど、けっこう珍しいことだった。
 俺はぶしつけにならないように注意しながら彼女の服装に注意を向けてみた。

 が、彼女がこちらに視線を向けていることに気付き、すぐに目を逸らしたせいで、漠然とした色調の印象しか得られなかった。

 そうして俺が目を逸らすと、彼女はかえって意識が服装に向いたらしくて、自分の服を見下ろして眺めたあと、こちらをみて、

「なんかオソロみたいですね」と言って指先で互いの服を交互に示した。

 俺は使い古してダボついた灰色のパーカーと色褪せた青いジーンズを履いていて、見てみると彼女も似たような恰好をしていた。
 それでも見比べてみると、明らかに彼女の服は小奇麗で、一昨年あたりから使いまわしている俺の服とは醸しだす印象からして違っていた。

 俺はその言葉にいくらか戸惑ったけど、彼女があまりに何でもないことのように笑うので、気にしているこっちがバカみたいだった。

「それで、相談って?」

 なんだか気恥ずかしくなって、俺はさっさと本題に入ってもらうことにした。
 
「あ、はい」

 彼女の笑みが少しだけこわばった気がしたけど、俺はそれをあまり気にしないようにした。



 そういえば彼女の私服を見るのは、初めて……ではないけど、けっこう珍しいことだった。
 俺はぶしつけにならないように注意しながら彼女の服装に注意を向けてみた。

 が、彼女がこちらに視線を向けていることに気付き、すぐに目を逸らしたせいで、漠然とした色調の印象しか得られなかった。

 そうして俺が目を逸らすと、彼女の意識はかえって服装に向いたらしくて、自分の服を見下ろして眺めたあと、こちらをみて、

「なんかオソロみたいですね」と言って指先で互いの服を交互に示した。

 俺は使い古してダボついた灰色のパーカーと色褪せた青いジーンズを履いていて、見てみると彼女も似たような恰好をしていた。
 それでも見比べてみると、明らかに彼女の服は小奇麗で、一昨年あたりから使いまわしている俺の服とは醸しだす印象からして違っていた。

 俺はその言葉にいくらか戸惑ったけど、彼女があまりに何でもないことのように笑うので、気にしているこっちがバカみたいだった。

「それで、相談って?」

 なんだか気恥ずかしくなって、俺はさっさと本題に入ってもらうことにした。
 
「あ、はい」

 彼女の笑みが少しだけこわばった気がしたけど、俺はそれをあまり気にしないようにした。



「えっと……これ、読んでもらえますか」

 彼女は膝の上の鞄から大学ノートを取り出して、こちらに差し出した。

「いいの?」

「はい」

 前は嫌がられたような気がしたけど、まあ、状況が違えば態度も違うものだろう。
 俺はノートを受け取って、ぱらぱらと広げてみた。

 それを見て、彼女はハッとしたみたいに俺の手からノートをとって、自分でページをめくった。

「すみません、ここです」

「ああ、うん……」

 広げられたページに視線を落とす。
 男の人がコーヒーを持ってきて、「ごゆっくり」と微笑ましそうな表情で去っていく。
 年だってそう変わらないはずなのに、彼の落ち着き払った態度は俺とあまりに違い過ぎて、少し落ち込みそうになった。




 けれど、声はどこからもかえってきませんでした。
 それはそのはずです。この穴はあまりに深いから、音でさえも地上にたどり着くまでに、か細く、消え入ってしまうのでしょう。
 
 決意をかためたばかりのわたしの心は、また、挫けそうになってしまいました。

 だからといって、そこでやめてしまうわけにはいきません。
 わたしはもう、この穴から這い出ることを決めたのです。
 
 土を削りとって、それを足場にする。その思いつきは無謀かもしれませんが、だからといって他に取りうる手段もないのです。
 わたしはここまで掘り進めたのです。掘る方向が変わっただけで、やることは変わらない。だったら不可能ではないはずです。

 泥が詰まって汚れた爪で、わたしは壁を削り取ろうとしましたが、すぐにそのむずかしさに気付きました。
 土は硬く、えぐり取られそうなのは、むしろわたしの皮膚の方だったのです。
 
 指先には血が滲んでいて、骨はじんじんという熱のこもった痛みを訴えています。

 わたしは自分自身の指をしばらく眺めていました。
 それはきっと、滑稽な姿だったと思います。このありさまが滑稽と言わず、なんだというんでしょう。

 けれど、笑ってくれる相手もいませんでした。

「助けて」

 とわたしはもう一度声を張り上げました。
 その声もきっと、どこにも届かなかったのでしょう。
 わたしの耳の他には、どこにも。





「……どうしたの、これ」

「……えっと。ダメですか?」

「ダメってことはないけど、あれ……こないだ、続き書くって言ってなかった?」

 千歳が俺に見せたのは、例の庭と穴の話の続きではなかった。
 ごくごく普通のショートショート。綺麗にまとまっていて、ところどころクスリと笑えるようなところもあって、面白い。
 オチのつけかたまでピシっとハマっていて、非の打ちどころはない。たぶん。俺の目では。

「やめにしたの?」

 と俺は聞いてみた。千歳は困ったみたいに首をかしげて笑った。

「おもしろくなかったですか?」

「おもしろいよ」

「……人に楽しんでもらえるものを書こうと思ったんです」

「はあ」

 意外な言葉が出てきたぞ、と俺は思った。


「やっぱり、読んでもらう以上は楽しいものがいいかなって、そう思って」

「……はあ。まあ、そりゃ、そうかもしれないけど」

 なんとなく、俺はうなじのあたりを指先で掻いた。

「いや、でも、部活だし、金取るわけじゃないんだから、べつに読む人のことなんてそんなに意識しなくてもいいんじゃない? 
 そういうのが書きたいっていうんならむしろよくできてるって思うし、大澤だってそういうの書いてるけど」

「読む人を意識してるっていうのとは、少し違うんですけど……」

「……怖くなった?」

 千歳は答えなかった。俺はコーヒーに口をつけてから、小さく溜め息をついた。

「書きたいものがそれなら、かまわないと思うよ。そういうのの書き方についてだったら、俺より大澤に相談すればいいし。
 あいつだって部誌つくるって言ったんだから、相談くらい乗ってくれると思う。
 わかりづらいけど、あれで人に頼られるのは嫌いじゃないやつだし」



「……せんぱいは、書くのが怖くなるときって、ないですか?」

「あるよ。いつもだよ」

「それはどうして?」

 どうしてだろう。

「だって、自分が好きに書いてて、それを書いて満足するだけなら、べつにそれだけでいいじゃないですか。
 前にせんぱい、そんなこと言ってましたよね。自分の書いてるものは個人的なものだって」

「……あんまり深く考えたことなかったな」

「せんぱいは、どうして書くんですか?」

 少し前まで、そんなことばかり考えていた。どうして俺は書くんだろう、なんの為に書くんだろう、って。
 誰かを楽しませたいなんて思ったことはない。それでも誰かに読んでもらうことで、俺は何を期待していたんだろう。

「……たぶん、自分の中にハードルみたいなものがあるんだと思う」

「ハードル?」

「つまり、俺には、全然具体的じゃないんだけど、良いものを書きたいって気持ちがあるんだよな。
 前書いたものより良いもの。それがどんなものなのかわからないけど……。
 でも、書いてるうちに不安になるんだ。俺が書いてるものはずっと同じで、俺は自分の目標にずっと辿りつけないんじゃないかって」


「……」

「ハードルを超えられないままなんじゃないかって。そういうふうに思う日は今でもあるし、そうすると書くのが嫌になる」

「それって、どうすれば"ハードルを超えた"ことになるんですか?」

「自分でそう思えたら、かなあ」

「……」

「もしくは、けっきょく、他人に褒めてもらえたらじゃないか」

「……せんぱいも、褒められると嬉しいですか?」

「それはね。まあ、そうだよ。あんまり的外れな褒め方でもないかぎりは。
 でも、書いた結果、褒められるに越したことがないって話であって、褒められるために書いてるわけではない」

「せんぱいは、続き、書けましたか?」

「……前から思ってたけど、俺の小説、そんなに気になる?」

「……正直言うと、今は、そんなでもないです。自分ので頭がいっぱいなので。
 でも、やっぱり、せんぱいの書いたものに影響を受けたところがあると思うんです。わたしの場合」

「それ、俺、不思議なんだよな」

「不思議?」

「だって、きみが読んだのって、たしか……俺が去年の文化祭のときのだろ。中三のときに文化祭で見たって」


「はい」

「あれ、そんなに良かった? ……じゃないな。印象に残るようなものだった?」

「せんぱい的には、そんなによくなかったんですか?」

「……というより、結局同じことをしてるだけなんじゃないかって感じがしてた」

「……そこかもしれません」

 千歳は俺と目を合わせて、真剣な顔で言った。

「堂々巡りの袋小路。部屋から出ても、すぐにまた部屋の中から話が始まる。
 その感じがなんとなく、印象深かったのかもしれません」

「……『また同じことやってるよ』って感じじゃない?」

「でも、せんぱいの話は、発展してるじゃないですか」


「……発展?」

「ひとつひとつとしてみると、そうでもないかもしれませんけど、並べてみると。
 なんかこう、ひとつ前の話で書いた部分を否定するところから始まって、次のステップに進んでる、みたいな。
 見た目や構造だけみると同じなんですけど、中身を見てみると、別々のことがらを扱ってるような……」

 そうだっけ? と俺は思った。

「まあ、続きは、まだ書けてない。何も思いついてない。まっさらだ」

「……せんぱいの、モノマネを、しようとしたんです、わたし」

「え?」

「部屋の中から外に出るだけの話があるなら、穴の底から這い上がるだけの話があってもいいって。
 でも、穴の底で話が終わっちゃいましたから。堂々巡りどころか、わたしは外に出られてないんです」

「……うーん」

 俺はちょっと申し訳なくなった。どうせ真似をするなら大澤のを真似すればよかったのに。
 それなら、どうにでもなるはずだ。あいつはストーリーに合わせて人物を動かす。
 でも俺の書き方だと、ストーリーと呼べるものを生み出すのが難しい。
 
 登場人物の行動に内容が支配されるからだ。
 もし『彼女』が椅子の上で物思いにふけっているだけの場面から始まるなら、『彼女』が何かをしようとしないかぎりずっと物思いにふけっていることになる。

 そこに動きを付け加えようとして、人物が不自然な心境の変化を見せたりしたら、それは「イカサマ」なのだ。 
 だからこそ毎回、書くのに苦労しているわけなんだけど。



 でも……穴の話。
 
「千歳が前に書いた穴の話。あれ、俺はよくできてたって思う。
 でも、もし俺が同じものを書いたとしても、穴を出る話にするのは難しかったと思う」

「……どうしてですか?」

「たぶん、きみも気付いてるだろうけど、穴が深すぎるんだよ」

「……」

「俺の話は、結局部屋の中だから。外に出るには気持ちが変わるだけでいいんだ。
 でも、穴は深すぎる。物理的に深すぎる。心理的なものだけじゃない。実際的な問題がある」

「……そう、なんですよね」

「大澤ならきっと、それでもどうにか穴を出る話にする。あいつの場合は、最初に出られるようにしてから、穴の中に放り込むんだよ」

「でも、それは……」

「……なに?」

「それは、穴じゃないです。出られるなら、穴である意味がないんです」

 本当に困ったことに。
 俺みたいな考え方をするやつだ、と思った。



「いつかは出られるかもしれないよな」

 俺がそういうと、千歳は怪訝そうな顔をした。

「誰かが偶然穴をみつけて、そこに気まぐれに石を放り投げたりして。
 穴は深いけど、声をあげれば、いつかは誰かに届くかもしれない。声がかすれてしまわないうちは。
 そして誰かがロープを垂らしてくれるかもしれない。長い長いロープ。『蜘蛛の糸』みたいなやつ」

「あの穴を掘ったあと……」

 と千歳は言った。

「庭にいた子どもたちは、みんなあの場所を去ってしまってるんです。みんな他の場所に行ってしまってるんです」

「……え、そうなの」

「はい。『わたし』からは見えないことなので、書きませんでしたけど」

「……ふうん」

 書かれてないなら、まだ真実じゃない。彼女がそれで納得するなら、『誰か』がいることにもできる。
 でも、まあ、俺でもそういう書き方はしないなあ、と、また妙な共感を抱いてしまった。ときどきはやるけど。


「でも、じゃあ、本当に奇跡を待つしかないね」

「……奇跡、ですか」

「コップ一杯分の水の中に、チェレンコフ光を見出そうとするみたいにさ。何かの奇跡が起こるのを待つしかない」

「……奇跡」と彼女は繰り返した。表情はどことなく苦しげに見えた。

「べつに、無理に続きを書く必要はないんじゃない? これだって、いいと思うよ」

 俺はノートを示したけど、彼女は首を振った。

「でも、わたしがどうにかしたいんです」

「……だったら、とりあえず書くしかないね」

 千歳は俯いてしまった。言葉の選び方を間違ったかもしれない。
 でも、俺がここで何かのアイディアを思いついたところで、それは意味のないことだと思った。
 


 ふと、疑問に思うことがあった。

「……訊いてもいい?」

「なんですか?」

「相談って、その話?」

「……え?」

「いや。だって、このくらいのことだったら、たぶん自分で考えてただろ?」

「……意外と鋭いですね、せんぱい」

 冗談めかした調子で彼女は笑った。

「さっき、せんぱい、書くのが怖いかって訊きましたよね」

「……ああ、うん」

「怖いんですよ、わたし。……書くのが」




「書くのが怖い?」

 ひなた先輩は、俺の言葉を鸚鵡返しした。
 
 去年の秋頃だったかもしれない。そのときは文化祭の直前で、文芸部員はみんな原稿に向かって四苦八苦していた。
 そのときも、俺はひなた先輩に相談していた。

「怖いって、どんなふうに?」

「べつに、書くこと自体が怖いわけじゃないんです」

 俺はそう言い直した。彼女はちょっと困った顔で笑っていた。

「ただ、人に見せるのが、なんだか、怖くて」

「今まで、人に見せたことなかったっけ?」

「あんまり。部誌も今回が初めてですし」

「でも、何度か見せてくれたよね?」

「それは、まあ、べつによかったんです。ただ、部誌は形に残るから……」

「いろんな人の目に触れるのが怖いってこと?」

「……はい」



「深く考えなくても、部活なんだし、出来の良し悪しなんて誰も気にしないと思うよ。  
 こういうのって、本人たちが楽しむのがいちばんだからさ」

「……」

「……そういえばきみ、書くのが好きじゃないんだっけ?」

「……自分でも、変だと思うんですけど」

 書きたくないのに、何かを書く部活に入っているなんて、改めて言うまでもなくおかしな話だ。

「誰かに見せるんだと思うと、いつもみたいに書けないんです。なんだか、自分が書いてるものがおかしいような気がして」

 ひなた先輩は「ふむ」と視線を天井に向けた。

「自分でも、ひとりよがりなものを書いてるって思うんです。誰かが読んで楽しいって思えるようなものじゃないから。
 だから、ひと目につくようなところに出して、本当にいいのかと思って。でも、ふさわしいものは、書こうと思っても書けないから……」

「……うーん」

 彼女は俺の言葉をきいて、しばらく何かを考えこんでいる様子だった。
 何かを思い出しているようにも見えた。

「でも、きみの話、言うほどひとりよがりって感じもしないよ。たしかに変わった感じかもしれないし、整ってない印象もあるけど」

「……」

「ひょっとして、読まれることじゃなくて、落胆されるのが嫌だとか?」

「……そう、かもしれないです」



「それは、まあ……宿命っちゃ、宿命だよねー。わたしだって、それはちょっと怖いもん。
 でも、お金もらうわけでもないし、本職の人ってわけでもないし、あんまり気にすることもないと思うけど」

「……」

「……って言うだけで気にしないで済むなら、楽な話なんだけどね」

「先輩も、怖いですか?」

「うん。わたしの場合は、好きでやってることだから、怖さより楽しさの方が勝つけど、評価はやっぱり気になるよ。
 怖くない人はきっといないよ。自覚してなかったり、他の気持ちが勝って怖さを意識しない人もいるだろうけど」

「……」

「きみがどうしても嫌だったら、部誌には載せないって選択も、アリだとは思う。
 わたしとしては、誰かに見てもらうっていうのも、いいことだと思うけど」

「……どうして?」

「褒めてもらえたときとか、分かってもらえたときとか、嬉しかったから、かなあ」

「……」

「わたしも、べつに誰かを楽しませようと思って書いてるわけじゃなくて、書きたいものを書いてるから。
 それでも、面白がってくれる人はいたんだよ。そんな人いないかもしれないって思ってたけど」

「先輩の話、良いと思いますよ」

「……ありがとう」

 それから、彼女は何かを言った。
 何を言ったんだっけ?




「せんぱい?」

 怪訝そうに、千歳が俺の顔を覗きこんでいた。
 俺は慌ててのけぞる。視線が合って、奇妙な沈黙がテーブルの上に落ちた。

「……えっと、書くのが怖いって?」

「……というより、書いていいんだろうか、って気持ちがあって」

「どういう意味?」

「つまり、わたしは……」

 彼女は視線をあちこちに泳がせたあと、コーヒーに口をつけてから話し始めた。

「わたしは、書きたいものなんてない人間なんです。書きたい気持ちはあるんですけど。
 でも、それってどこか間違ってるような気がするんです。目的と手段を取り違えてるっていうか……」

 俺は黙って彼女の話を聞いた。他人事とは思えないような内容だ。

「だから、自分に何が書けるんだろうって思って。あの穴の話だって、意味なんてないんだと思うんです。
 自分でもよく分かってなくて。それをどうすればいいのか、全然わからないんです。
 そう思うと、なんだか、自分の書いているものが、取るに足らない、くだらないものみたいに思えてきて……」

「……書くの、好きじゃない?」

 彼女は考えこむような沈黙を置いたあと、わからないというふうに首をかしげた。


「……書きたいっていう気持ちがあるなら、書きたいものがないなんてことはないよ」

「……」

「名誉心とか、そういうものがあるなら別だけど、きみはどうみてもそういうタチじゃないし。
 だから、自分で書きたいものがなんなのか、まだ分かってないだけなんだと思う」

「……せんぱいは、自分で分かるんですか?」

「俺は、どうだろう。なんとなく、こういうのは書きたくないって意識はあるけど」

「……」

 そうだ。
 ずっとまえに、ひなた先輩が言ってた。

 ――そこから見えるのは、どんな景色ですか?

「……え?」

 俺の呟きは小さくて、だからきっと、彼女は俺がなんていったのかわからなかっただろう。
 そうだ。俺は一年前も、他人の反応に怯えていた。今も、書くことに恐れを抱いているのと同じように。

 自分が書こうとしているものが、くだらないものに思えて。
 つまらなくて、取るに足らなくて、見る価値がない。物書きでもないくせに、そんなふうに思われるのが怖くて。
 
 文章は正直だから、書く人間の性質をとても正直に伝えてしまう。
 だから、もし俺が、俺の考えたことを文章にしようとして、それを誰かに見せた時。
 それを取るに足らないと思われることは、それは、俺自身が取るに足らないと言われているように感じて。



「……こんなこと言っても、慰めにはならないかもしれないけど、べつに、取るに足らないものでもいいんだよ」

 千歳は視線をあげて、こちらを見た。俺は彼女をまっすぐに見た。

「蛇の目は、夜の暗闇の中でも景色をつかまえられるし、魚の視界は、まさしく魚眼レンズみたいに歪んでる。
 同じものを見ていても、見え方はそれぞれ違うんだよ。それはたとえば、俺ときみだってそう。
 同じコーヒーを飲んだとしても、飲んだときにどんなふうに感じるかはそれぞれ違う」

「……はい」

「だから、『自分には世界がどんなふうに見えているか』を書くだけでも、それぞれ別のものが出来上がる。
 そこでは、取るに足らないとか、くだらないとか、そんな基準はいらないんだよ。
 自分が何を書きたいか、どんなふうに書きたいかっていうのは、自分の内側にあるものだから。
 それが稚拙でうまく表現できないっていうなら、結局もっと上手くなろうとするしかない」

「……」

「もし、自分の目に映る世界を、可能なかぎり丁寧に叙述したら、それはきっと、人によっては新鮮なものになる。
 もしくは、他人事とは思えないようなものになる。人によっては、すごく退屈に感じるかもしれない。
 でも、それを読んだ誰かが、何人ものうちのたった一人でも、ひょっとしたら何かを感じ取ってくれるかもしれない」

 ……そうだ。そんなことを、彼女は言っていた。

「……まあ、受け売りだし、俺だって、そんなに実践できてないんだけどさ」

 千歳は少し、言葉の内容について考えていたようだったけど、やがてほっという溜め息をついてから、

「せんぱい……なんか今日は、先輩っぽいこと言いますね」

 と言って笑った。

「まあ、結局……書きたいものを書けばいいんだよ」

 俺はそう言ってから、なんだか違うような気がして、言い直した。

「……書こうと思ったものを書くしかないんだよ」

つづく

乙です

すごく青春してる




「枝野は?」と顧問は言った。

「来てません」と大澤が答えた。

「サボりか?」

「……体調でも悪いのかもしれません」
 
 庇ったのは「みさと」だった。顧問は呆れたような溜め息をついてから俺たちを見回した。

「それで、部誌を作りたいってことだったよな?」

 月曜日の放課後までには、大澤が顧問に話を通してくれていたらしかった。
 だからその日の部活は顧問主導のミーティングになり、部誌作りの詳細について話し合われることになった。
 
「あかね」……枝野以外の部員は全員顔を出していた。



「おまえたちが作りたいって言うなら反対する理由はないから、俺としては別にかまわない。
 というか、大いに賛成だ。遊んでいるだけよりはちゃんと活動してくれた方が嬉しい。
 顧問を一応やってはいるけど、俺は何も書いたことがないから、アドバイスはできないけどな」

 顧問を中心に円形を作って椅子に座った俺たちを、彼はいちど見回して、言葉を続けた。

「発行日はいつくらいの想定だ?」

「……」

 大澤は口ごもってこちらを見た。俺は困ってしまった。

「いつくらいならいいでしょう?」

 顧問は溜め息をついた。

「自分たちで締め切りを決めたほうがやりやすいと思うけどな、俺は。部長が便宜的にでも決めておくといい。
 ……枝野は参加するのか?」

 わかりません、と俺が答えようとしたところで、「みさと」が声をあげた。

「書きます」

 と「みさと」は言った。

「そうか。だったら全員で集まったときに相談して決めてくれ」

 今学期か来学期なのかくらいは最初に決めてくれよ、と顧問は言い残して、部室を去った。
 案外いい顧問なのかもしれないなと俺は思った。少なくとも邪魔にはならない。


 彼が去ったあとの部室は沈黙で覆われていた。
 幽霊部員たちも何かを書くだろうか。……何も書かないかもしれない。そのうち、会いにいくのもいいかもしれない。

 俺が「みさと」に視線を向けると、彼女は俯いていた。

「……どうしよう、勝手なこと言っちゃった」
 
 大澤に目を向けると、彼は気まずそうに「みさと」を視線から外そうとしていた。
 まだ喧嘩してるのか、こいつら。

「枝野のこと?」

 俺が訊ねると、「みさと」はこちらを見ないで頷いた。

「書くって、あいつ、言ってたの?」

「……何も話してない。部誌つくることになったことも」

 なんで、あいつが書くなんて言ったんだろう。「みさと」の考えは読めなかったけど、だからといって俺が何かを言うことではない。

「まあ、あいつが書かないって言ったら、書けなかったって言っとけば、先生も納得するでしょ」

「……そうかもしれないけど」

 俺の無責任に慰めても、「みさと」は落ち込んだ様子を隠そうともせずに黙り込んだままだった。
 彼女たちの関係というのは、傍で見ているよりずっとわかりにくいのかもしれない。




「でも、一応、枝野にも話を通しとかなきゃな。……頼める?」

「みさと」はしばらく黙り込んだ後、小さく頷いた。

「じゃあ、頼んだ。べつに書かないっていうならそれでもいいだろうし。あとは……」

 ちらりと大澤の方に視線を向けると、彼は戸惑ったように目を泳がせた。

「部長」と俺は呼んだ。

「……なに」

 大澤は警戒したように眉をひそめる。

「詳細。詰めとかないと。締め切りくらいは決めとかないと」

「……みんなはどう思う? どのくらいあれば書ける?」

 大澤の問いに、俺たち三人は考え込んだ。

「……俺は、まあ、二週間あれば書けると思う」

「……ホントですか?」となぜか千歳が怪訝そうに訊ねてきた。
 俺は頷いた。文化祭で長いものを書いたばかりだったから、そんなに量を書く気にはなれなかったし、規模を考えれば妥当なところだろう。

「藤見は?」と、今度は千歳に向けて、大澤は訊ねる。

「わたしは……どのくらいかかるか、正直、わからないです。でも、締め切りが決まったら、それに間に合わせるようにはしますけど」

「……西村は?」

 誰のことだろうと思って大澤の視線の先を見ると、どうやら「みさと」のことらしかった。俺は忘れないように頭の奥の方にその名前を刻むことにした。
 さすがに彼女のことを下の名前で呼ぶ勇気はない。


「……わからないけど、一月あれば、たぶん」

「……そっか」

 ふたりの雰囲気はあきらかにとんがっていて、俺と千歳は目を合わせて気まずい思いを視線だけで共有した。
 あー、部内の恋愛ってこういうことがあるから控えるべきなんだなー、なんて思いつつ。

「俺はできれば二学期中に出したいと思ってる」

「……来月中にってこと?」

「うん。文化祭みたいに明確なイベントがあるわけじゃないから、時間かけるとグダグダになっちゃうと思うんだよ」

 それは、たしかにそうかもしれない。
 来学期となれば、休みを挟んでしまうわけで、そうなったときにモチベーションが続いているとは限らない。
 やる気になっている間に作ってしまえるのが理想なのだろう。

 ……ここにいる奴らにやる気といえるほどのやる気があるのかは、微妙なところかもしれないけど。


「今日、何日だっけ?」

「十一日」

 俺の返事に、大澤はぽかんと口をあけた。

「ポッキーの日だ」

 沈黙。

「……そうですね」

 と千歳が気をつかったみたいに言った。大澤は気まずそうに頭をかいた。

「じゃあ、来月の……十六日に発行ってことでどう?」

 冬休みの直前だな、と俺は思った。俺は他のふたりの様子を見てから返事をした。

「それでいいと思うよ」

 大澤は戸棚の中にしまってあった卓上カレンダーを見ながら唸り声をあげて、 

「となると、締め切りは……十二日かな」

 そう言った。十二月第二週の木曜日。金曜日を制作にあてるとしたら、まあ、土日も挟むし妥当なところかもしれない。
 ……いやいや。

「……期末直前じゃない?」

「あっ」

「べつにいいんじゃないですか?」

 戸惑った声をあげた大澤とは真逆に、たいした問題でもないだろう、と言いたげに千歳は口を挟んだ。



「多少余裕はある日程ですし、土日もありますから、なんとかなるんじゃないでしょうか」

「みさと」……西村の方も、何が問題なのかわからない、というふうに頷いた。
 
「……優等生がいる」

「一夜漬けとかしないんだろうな……」

 俺は大澤とひさしぶりに分かり合えた気分になったが、どう考えても分かり合えない方が幸せだった。

「まあ、ほら。せんぱいたちは二年分の経験があるわけですから、余裕を持って完成させればいいんじゃないでしょうか」

 いかにも他人事という口調で、千歳はニッコリと笑う。
 つーか、期末直前ってことは、部活動休止期間だと思うんだけど……まあそこらへんは曖昧な部だし、いいのだろうか。

 とはいえ、一月という作業期間が必要と考えると、最低でも十一日がラインとなってしまうわけで、最短でもテスト前には変わらない。

「……まあ、勉強と並行してやれば、なんとかなるか」

 大澤はいかにも器用そうな言い分で納得していた様子だった。
 不安が残るのは俺だけなのか。




 そんなふうに思っていたら、翌日の部活には枝野がやってきて、

「期末の直前が締め切りって、何考えてんの!」

 と俺に向かって怒鳴りかかってきた。

「なんで俺に言うんだよ。部長の決定だよ」

 戸惑いながら返事をすると、彼女はちらりと大澤の方を見てからふたたび俺をキッと睨んで、

「ていうか、そんな大事な話を、なんでわたしなしで決めちゃったの?」

「千歳が声掛けたんだろ。部室に顔出さなかったのはきみでしょう」

 というか、今までだって部誌についての話し合いに顔を出したことなんてなかったじゃないか、と俺は思った。

「部誌の話だなんて聞いてなかった」

 そりゃ、千歳が招集を掛けた時には、まだ本決まりじゃなかったし。

「ていうか、作るならなんでもっと早く言ってくれないの?」

「いや、決まったのが先週だし。期限と発行日を決めたのは昨日だし」

「聞いてない」

「だから、いなかっただろ」

 困り果てて西村の方を見ると、彼女はちょっと面食らった様子で苦笑いしていた。
 たぶん、今日枝野に話をしてみたのだろうが、ここまで際立った反応を見せるとは想像していなかったにちがいない。
 少なくとも俺はしてなかった。


「なんとかなるだろ」

 口を挟んだのは大澤で、奴は今日、部室に顔を出してからすぐにノートを広げてペンを握っていた。

「つーか、俺はもう一本完成させた」

 大澤は当たり前みたいな口調でそう言った。今度ばかりは西村も苦笑いとはいかなかった。

「……完成させた?」

 西村の真剣な声音に、枝野すらも口を挟めなくなってしまった。
 千歳の方を見ると、彼女は成り行きを眺めながらはらはらした表情をしていた。

「書けないって言ってなかった?」

「……いや、書けないっちゃ、書けないままだけど」

 しどろもどろに言い訳をする大澤の姿は、普段俺と話しているときの彼とは別人のようにも見えた。

「意味わかんない。完成させたんでしょ?」

「一本な」

「なにそれ。……なにそれ。意味わかんない」

 西村の声はかすかに震えていて、怒っているのか悲しんでいるのか、その両方なのか、よくわからなかった。
 それもそのはずだ。俺は彼女とコミュニケーションらしいコミュニケーションをとったことがないんだから。


「ばかみたい」

 と一言つぶやくと、西村は部室の隅のパイプ椅子に腰掛けたまま俯いてしまった。
 大澤はなにか声をかけようとしていたみたいに見えたが、なんと言えばいいのかわからないのか、途方に暮れたような顔をした。
 
 痴話喧嘩(と言っていいのかわからないが)に毒気を抜かれたのか、枝野は口を閉ざして、最後に俺の方を不満気に見つめた。

 俺のせいじゃない、と俺は思った。俺のせいじゃないよな?
 助けを求めるように千歳の方を見ると、彼女は困ったみたいに声を出さずに笑った。

 消去法、と千歳は言った。
 たしかにこの部内に助けを求める相手がいるとしたら、俺たちにはそれぞれ互いにしかいないのかもしれない。

 気を取り直すつもりで、俺は枝野に声を掛けた。

「でも、枝野は川柳だろ。だったら、なんとかなるんじゃないか」

「なにそれ。川柳だったらすぐにできるとでも思ってるの?」

 小説よりは時間がかからないんじゃないかなあと思ったけど、俺は川柳を書いたことがないので、ちょっと無責任な物言いだったかもしれない。

「……まあ、今までのは五分くらいで書いてたけど」

 反省しかかった俺の心が微妙に揺らいだ。言い返そうか迷ったけど、結局何も言わなかった。

「……締め切り、いつだっけ?」

 少しの沈黙のあと、枝野は俺に向けて問いかけてきた。これもきっと消去法なんだろう。

「来月の十二日」

 俺の答えに、彼女は少し苦しそうな顔をした。どうしてだろう。今までの彼女とは様子が違う気がする。

「……そう」

 とだけ言ってしまうと、彼女は鞄も持たずに部室を出て行った。


 追いかけようかどうか、一瞬だけ迷ったけど、よく考えてみれば追いかける理由もないのかもしれない。
 それでも、なんとなく放っておけない雰囲気はあった。だからといって、俺が追いかけてもどうにもならない。

「せんぱい?」

 さっきまで座っていた千歳が立ち上がって、俺のことを呼んだ。
 そういえば彼女は、他の奴らには苗字や名前をつけて呼ぶくせに、俺のことは「せんぱい」としか呼ばない。
 名前を覚えていなかったことに対するあてつけなのかもしれない、と思うのはさすがに卑屈すぎるかもしれない。

「なに?」

「追いかけないんですか?」

「……俺が? どうして」

「枝野先輩、様子が変でしたよ」

「……それは、わかるけど」

 それはわかるけど、あいつは結局何も言わないで出て行った。
 そんなやつを追いかけて、いったい何をしろっていうんだろう。……この考え方がダメなのか?

「……わたし、少し気になります」

「それは、俺も、そうだけど……」

 でも、枝野と俺の関係は少し面倒だ。あいつが未だに気にしているとは、さすがに思っていないけど。

「じゃあ、わたし、行ってきますね」

 と言って、千歳は部室を出て行った。なんだか自分が悪者になったみたいな気分がした。
 結果的に部室に残ったのは大澤と西村、そして俺だけで、空気は刺さりそうに鋭かった。
 
 仕方なく俺は立ち上がって部室を出て千歳の後を追うことにした。
 こいつらもふたりにすればちゃんと話ができるかもしれない、という思いつきは後付で、とにかくその場を離れたかったというのが正直なところだ。

 我ながら情けない。

つづく

246は重複ミス

252-16 俺が去年の → 去年の

この微妙な距離感すごく好き
乙!




 枝野も千歳も、屋上にいた。
 
 後ろ姿を見たわけじゃなかったからどこにいたのかはわからなかったけど、なんとなく屋上に向かったら、そこにいた。

 本当に。
 そこしかないのかと言いたくなるくらいに。当たり前みたいに。
 彼女たちは屋上に向かう。

「あんたなら、わかるのかな」

 鉄扉を開いた直後、そんな声が聞こえた。
 フェンスのすぐそばには枝野が立っていて、彼女はそこから街を見下ろしている。
 千歳は枝野のすぐ後ろに立っていた。

 俺が来るまでの短い間に、どんな会話があったのかはわからない。
 だから、その言葉の意味もよくつかめなかった。

 そして彼女たちは、扉のきしむ音に気付いてこちらを振り返ると、すぐに話すのをやめてしまった。
 すこし気まずそうな顔をして。

「直接、聞いてみたらいいんじゃないですか?」

 千歳は、枝野に向けてそう言ったみたいだった。千歳の目はこちらを向いていた。
 状況が、うまくつかめなかった。



「そんなことをして言葉のうえだけで理解しても、意味なんてない気がする」

 枝野もまた、俺の方を振り返った。いったいどんなやりとりがあったというんだろう。

「せんぱい」

 戸惑ったまま屋上に足を踏み入れられない俺に向けて、千歳はそう呼びかけた。
 俺は少しためらったけど、結局ふたりのもとに近付いていく。

「枝野先輩、小説を書きたいんだそうです」

「……小説?」

「……そうでしたよね、先輩」

 千歳の問いかけに、少し緊張した面持ちで、枝野は頷いた。

「どんな心境の変化?」

「いろんな、心境の変化」

 枝野の答えは漠然としていたけれど、まあ、彼女の心理状況を俺が把握している理由もない。

「いいんじゃない?」

 俺は無責任に答えた。



「だから、締め切り怒ってたのか」

「……ごめん」と枝野は謝った。

「いや。来なかったとはいえ、勝手に決めたのは俺たちだし。でも、きみがそこまで怒るのは意外だった」

「べつに、怒ったわけじゃなくて……」

 枝野は、言葉の続きを言わなかった。いつもそうだ。
 伝えることを諦めるみたいに、伝わらないことを怖がるみたいに、思ったことを最後まで言ってくれない。
 言いたいことはたしかにあるはずなのに、それを上手く言葉にできないみたいに。

 その気持ちは、分かる、と思った。錯覚かもしれない。勝手な感情移入かもしれない。
 
「……いいや、べつに」

 と枝野は言った。

「……いいって、何が」

 俺の問いかけに、枝野は首を振った。

「なんでもない。そう。わたしも、せっかく部室に顔出すようになったから、ちょっと文芸部らしいことをしたかっただけ。
 次に何かやるときは、わたしも何かしてみようって、そう思ってただけ。……わたしが勝手に、思ってただけだから」

 それで。
 何がいいんだよ、と俺は思った。

「でも、べつにいいや。書こうと思えば、部誌なんかに載せなくたって、いくらだって書けるもんね」



「……いや、書けよ」

「……え?」

 意外な言葉を聞いたみたいに、枝野は目を丸くした。

「書こう。枝野も、千歳も、俺も、みんな書くんだ」

「……なに、急に」

 戸惑ったみたいに彼女は視線をあちこちにさまよわせた。

「書くんだよ。今までみたいな、閉じこもった奴じゃない。開けたものを書くんだ」

「……せんぱい?」

 押し付けかもしれない。
 でももういやだった。

 言いたいことを飲み込んで、自分には関わる視覚がないとか、俺が口を出す問題じゃないとか。
 そんなふうにして言葉を飲み込んでいるうちに、誰とも関われなくなるのは。

 そうした先に立ち上る問題なんて、結局、自分自身のものでしかなくて。
 そんなのはいくら続けたって、結局袋小路にしか繋がっていない。


 無責任かもしれないし不誠実かもしれない。
 でも、口出ししたい。

 俺は誰かと関わりたい。これはエゴだ。

「そのために何かが必要だっていうなら、俺にできることなら協力してやる」

 上から目線で、断言する。枝野は呆れたみたいに笑って溜め息をついた。

「あんたが? ……どういう風の吹き回し?」

「俺は、枝野が書いたものを読んでみたい」

「……」

「千歳が書いたものをもっと読んでみたい。いろんな人が、どんなものを書くのか、どんなものを書きたいのか、知りたい」

「……」

「だってそれは、俺が書きたいものとは違うはずなんだ」

 そこには、俺が知らない景色があるはずだ。
 俺が見過ごしてきたもの、見失ってしまったもの、取り戻そうともがいているもの。
 彼女たちの目には、ひょっとしたらそれが映っているのかもしれない。


 俺の腹の内側には、その奥の奥の方には、今でもドロドロとした澱みが熱を持ったままうずくまっている。
 決してなくなってくれない。目を逸らしたってふとした瞬間に喉元までせり上がってくる。
 ごまかしたって、どこか騙しきれていない。だから俺の日常は上っ面の響きばかりで、中身がない。

“そいつ”は言う。

 何をしたって無駄だって。結局くりかえすだけだって。おまえはなにひとつ手に入れられないんだって。
 くだらない夢は見るなって。所詮おまえには無理なことだったんだって。
 
 その暗闇の中で横たえるのはきっと心地よいことで、だから俺は、今だってそこに逃げ出したくてたまらない。

 吐き出すのは怖い。受け止めてもらえないのは悲しい。分かってもらえないのは苦しい。
 バカにされるのは悔しい。吐き捨てられれば虚しい。優しさなんかに甘えられない。リスクばかりでリターンが期待できない。
 
 全部が全部無駄なんだ。おまえはなにも成し遂げてこなかったんだ。
 なにひとつ変えられなかったんだ。もう諦めろよ、と“そいつ”は言う。もがいたって苦しいだけだよ。
 
 ばかばかしい考え。子供っぽい、安い悩み。連続ドラマでも一話で消化されるようなちっぽけな思い悩み。
“そいつ”にとらわれたまま、今だって自由に身動きできやしない。

 俺は、それでも、こんな感傷を、自己否定を、懐疑を、胸の内側から、ぜんぶ、ぜんぶ弾き飛ばせる日を待っていた。
 何かを決定的に変えてくれる、そんな瞬間がいつか訪れるんじゃないかって期待してた。



 でも……そんなのは全部俺の都合で。
 だから、説得力なんてあるわけもなかった。

「人が書いた話を読みたいなら、本でも読みなよ」

 枝野は、ずっと前、文化祭の前までにしていたみたいに、俺に向かってさめた目を向けた。

「どうしてわたしが、あんたに読ませるために何かを書かなきゃいけないの? あんたの期待通りのものを書かなきゃいけないの?
 あんたに頼まれて、仕方なく何かを書かなきゃいけないの?
 あんたはバカで、ひとりよがりで、当たり前のことにケチをつけて生きてるみたいな人間だけど……
 ――それでもわたしは、あんただけは、誰かに何かを強制するような奴じゃないって、そう思ってたのに」

 彼女の言葉に、足がすくんだ。

「人に、縋らないでよ」

つづく

難しいよね





 部活を終えて校門を出たとき、ふと空を見上げると、雪が降っていた。
 
 溜め息をつくと、白く染まって空へとのぼっていく。
 雪だよ、と俺は頭の中で誰かに話しかけた。
 もう冬だ。

 もちろん返事は帰ってこなかった。

 あのあと、枝野は屋上を去っていった。腹を立てたというよりは、むしろ、何かを見ないようにしたみたいな態度で。
 
 ふたりきりで取り残されたあと、千歳はこんなことを俺に向けて言った。

「せんぱい、閉じたとか、開けたとか、なんの話ですか?」

 俺は返事をできなかった。

「なにか、ちゃんとした意味があるんですか?」

「……」

「わたしには、よくわからなかったです。でも、言葉にはきっと、ちゃんとした意味があるんですよね?」

「……」

「だったら、ちゃんと伝わるようにしないと、伝わらないと思う。伝えたいなら、ですけど」

「……そうだね」と俺は頷いた。それからしばらく黙り込んでいたけど、結局千歳の方が先に屋上を後にした。
 
 扉の閉まる音。
 
 ほらな、と俺は思った。繰り返している。



 ――人に、縋らないでよ。

 枝野の言葉は、たぶん、近頃の俺が抱いていた不安や怯えの原因を、的確に突いている。
 結局俺がしていることは、枝野があっさりと看破したとおり、一方的な押し付けなのかもしれない。

 でも、他にどうできるっていうんだ。
 
 いったいどうなれば、変わったことになるんだ?
 俺はずっと同じところをぐるぐる回っているだけじゃないのか。
 
 結局今も、何も変わらず、居てもいなくても変わらない、そんな存在のままなんじゃないのか。

「……やめよ」

 考え事をそこで打ち切る。ぐだぐだと考えることで得られるものなんて、きっと何もない。
 ただでさえ俺は、そんなことで今まで時間を無駄にしすぎていたんだ。

「本当にそう?」

「え……」

 声に、振り返る。でも、そこには誰も立っていなかった。
  
「……なんだよ」
  
 無性に悲しいような気持ちで空を見る。雪が降っている。
 立ち止まったままの俺を追い越して、何組もの生徒たちが空を見ながら歩いていく。

「寒いね」

「うん。寒い」

 そんなやりとりを、なんでもないようなやりとりを、楽しそうに。
 俺は何も考えないことにした。

 一度や二度の失敗で全部やめてしまうわけにはいかない。



「……なあ」

 後ろから、追いかけるような足音。関係のないものとして聞き逃していたら、不意に声を掛けられた。

「今、平気か?」

 振り返ると、立っていたのは大澤だった。

「……ああ、うん」

 これから、帰るところだし。俺の返事はそんな曖昧なものだった。

「ちょっと、話したいことがあるんだけど」

「……なに?」

「歩きながら話せる?」

「いいよ」

 そして俺たちは並んで歩き始めた。彼とふたりで帰るのは、そういえばめったにないことかもしれない。


「寒いな」と大澤は言った。

「冬だからね」

「そうだよな。冬だもんな」

 不意に立ち止まって、彼は空を見上げる。
 雪が降っている。

「振られた」

 しばらくの沈黙の後、彼は呟くようにそう言った。

「え……」

 俺は驚いたけれど、考えてみれば、それほど驚くようなことではなかったかもしれない。
 なかば予測していたことだったかもしれない。

「どうして?」

 それでもそう訊ねたのは、大澤が言葉を続けなかったからかもしれない。
 
「……まあ、ここ数週間、連絡にろくに返事もしてなかったし。会っても会話もしなかったし」

「どうしてそうなったんだろう」

 本当に素朴な疑問として、俺は訊ねた。



「どうしてって?」

「どうして、連絡に返事もしなくて、会っても会話をしなかったのかって話」

「……」

「書けなかったから?」

「……よくわからない」

 本当によくわからないのかもしれない。そう思ったけど、俺は彼じゃないから、本当のところはわからなかった。

「好きじゃないなら、付き合ってる意味が無いって」

「……」

「そう言われた」

「……好きじゃなかったの?」

 彼は首を横に振った。

「好きだったよ。……好きだと思う。今も」

「じゃあ……」

「信じてもらえなかった」

 俺は何も言えなかった。


「それはそうなんだよな。結局、ずいぶん長い間無視してたのと変わらないわけだし。
 たしかに、それで今更好きだなんていっても、空々しいっつーか、どの面さげてって感じだし」

「……」

「でも好きなんだよ」

「……でも、信じてもらえなかった」

「そう。まあ、そりゃそうだ」

「……」

「……別れるの?」

「振られたから」

「……そのまま?」

「他にどうしろっていうんだよ」

 そんなのは俺にもわからなかった。




「訊いてもいい?」

 大澤は気だるげにこちらを振り向いた。

「なに?」

 怪訝そうな顔。俺はそのまま問いを重ねる。

「なんで、書けなかったの?」

「……」

「それと、なんで、書けるようになったの?」

「……二番目の質問に対する答えはシンプルだけどな」

「なに?」

「締め切りができたからだよ」

「……なるほど。一番目は?」

 大澤はすぐには答えてくれなかった。


 しばらくしてから、

「ラーメン屋ってあるだろ」
 
 とよくわからないことをいう。

「はあ」

 そりゃあるよね、と俺は思った。

「おまえ、初めて行くラーメン屋で何食う?」

「……いや、場合と気分によるけど」

「俺はどんな店に入っても最初は必ず基本っぽいものを頼む。
 いちばん基本っぽい奴。ただの味噌ラーメンとかただの醤油ラーメンとか。
 店名がついてるような奴だ」

「はあ」



「で、こないだ、ひとりでラーメン屋に行ったんだよ。国道沿いに新しくできた店あるだろ。チャリでパパっと行ってきたわけだ」

「うん。え、俺も食べてみたい」

「じゃあ今度一緒に行くか。そんで、俺はまあいつもどおりのベーシックスタイルで臨んだわけだよ。
 店の名前がついた味噌ラーメンと餃子頼んで。まあそれがなかなかにうまかった」

「……はあ」

「話は変わるけど、部誌に載せた俺の話、あれどうだった?」

「……ほんとに急に話が変わるな。……良かったと思うけど」

「七本載せた。どれがいちばん良かった?」

「『骨と猫の夢』」

「……評判がよかったのは『目抜き通りの花屋』だった」

 ……話のテンポを無駄に悪くしてしまった。

「……そうなんだ」

 気を取り直して、俺は続きを促した。

「けっこういろんな奴に褒めてもらったよ。自分でいうのもなんだけど、俺もけっこう満足してるし。
 まあ思い返すと、微妙かなってところもあるけど、そこそこね。気に入らないって言ってた奴もいたけど。
 それはいいんだ。でも、なんていうかさ……」

「うん?」

「よくわからなくなってきたんだ」

「なにが?」


「褒められても、そこで満足するわけにはいかない。貶されても、耳を貸す必要はあまりない。
 だったら、俺は何をやってるんだろうって思うんだ。いったい何をしたくて文章を書いてるんだろうって」

「……自分を追い込んでるなあ」

「そういう気分のとき、ない?」

 いつもだよ、と答えようかどうか迷った。
 たかだか部活なのに。誰が褒めてくれるわけでもないのに。誰かが褒めてくれたとしても、そこで満足するわけにはいかない。
 それでも書かなきゃいけない。

 ……どうして?

「……西村が言ってた」

 大澤は、忘れていた棘がちくりと痛んだような顔をした。

「なんて?」

「おまえは、書くことに呪われてるって」

「……」

 会話がそのまま途切れてしまった。いつも通る道の角のコンビニが見えてくる。

 大澤は大真面目な顔で面をあげると、

「……おでん食べたい」

 とポツリと呟いた。
 ……ラーメン屋の話はどこにいったんだ?




 夕方過ぎのコンビニは混みあう予兆みたいなものを見せていた。
 大澤は迷わずにレジに向かっておでんを買った。玉子と大根としらたきと厚揚げ。ほんとにベーシックな攻め方をするやつだ。

 せっかくなので俺も肉まんを買って店を出た。

 軒先に立ち並んでもそもそと食にふけっていると、ふと、

「あー、薄情者ー!」

 そんな声が飛んできた。
 声の元にはひなた先輩が立っていた。格子柄の茶色いマフラーで口元を隠している。
 少し距離を置いたまま、こちらを見上げて白い息を吐いている。

 俺は大澤を肘でつついた。

「呼ばれてるぞ」

 大澤は大根を一口かじって悠々と飲み込んでから答えた。

「おまえだろ?」

「どっちもだよ! 薄情者共ー!」

「心当たりある?」

「……あるような、ないような」


 呆れたような目で俺たちを見上げたまま、ひなた先輩は不満そうに声をあげる。

「部誌作るんでしょ? なんで教えてくれなかったの?」

「……あー」

「千歳さんが教えてくれなかったら、今でもわたし、知らなかったよ」

「あ」

「え?」

「……勘違いの原因が分かった気がする」

 俺のつぶやきに、ふたりは目を合わせてきょとんとした。

「いや、千歳の名前のこと。俺が苗字と名前勘違いしてたやつ」

「……え、まだ覚えてなかったの?」

 ひなた先輩は呆れた口調でつぶやいたけど、そのやりとりは繰り返しすぎてもう食傷気味だ。

「先輩が、さん付けで呼んでたからかも。下ならきっと、ちゃん付けなのかなって」

「……あー」

 分からんでもない、という顔を大澤はした。


「……よくわからないけど、わたしのせいにされてる?」

「いえ。まあ、俺が悪いんですけどね」

 そうだよ、俺が悪いんだ。
 全部。

 ――人に、縋らないでよ。

 当たり前の努力を怠った奴が、他人を当てにするなんて間違ってる。

「でも、千歳さんは、わたしから見たら、こう、さん、って感じなんだよ」

 それもまあ、分からんでもない、という顔で、大澤はうんうん頷いた。
 俺もなんとなく分かる。

 彼女はふーと溜め息をついてから、寒そうに両手のひらをすりあわせて、俺たちのまんなかに並んだ。
 それから彼女は大澤の持っていたおでんの器を覗きこんで、

「それ、おいしそうだねー」

 と笑った。大澤は事も無げに返事をする。

「食べます?」

 ……さっきまで彼女がいた奴のすることかよ、と思ったけど、まあこのくらいは普通なのかもしれない。
 どうなんだろう。なんだか最近の俺にはよくわからなくなってきた。


「いいの? ほんとに? いやー、なんか悪いねー、要求しちゃったみたいで。
 ホントそんなつもりなかったんだけどね。ホント。でもほら据え膳食わぬはっていうしね」

「最後のは違うと思いますけど」

「ありがとう、それじゃ、いただきます」

 といって部長は箸と器を大澤から受け取る。俺はなんだか無性にもぞもぞと落ち着かない気持ちになってその様子を眺める。
 なんだろう。

 彼女の握った箸が厚揚げを持ち上げたとき、ふと気づくと俺の手(肉まんを握ってなかった方)は勝手に動いていた。
 俺は箸を握る先輩の腕を引き寄せて、箸の先の厚揚げに顔を寄せてかじりついてた。

「あっ」

「え」

「……」

 咀嚼(舌をやけどした)。

「……えっ」

「……」

 嚥下(喉が熱かった)。

「……え、ええー!」

「おまえ……何やってんの」

 信じられないようなものを見るような二対の視線を向けられて、俺は自分のしたことを遅れて認識した。


「……え、俺、いま……」

「な、なにをする! なにをする!」

「あ、いや、すみません、すみません」

 よくわからないなじりかたで、ひなた先輩は俺の背中をばしばし叩いた。

「うわー、わたしの厚揚げ……」

「……ほんと、すみません」

「謝って済む問題じゃないよ! 戦争だよ、報復だよ、民族紛争だよ……」

 混乱のせいか、先輩の語彙の選択はいつもよりずっと意味がわからなかった。

 俺はとりあえず平謝りして先輩の怒りを鎮めたあと、二人のために新しくおでんを買った。
 器は三つに分けてもらった(店の中はけっこう混んでいたから、けっこう面倒な客だったかもしれない)。
 先輩はレジまでついてきて、俺の横に立ってうれしそうにおでんを注文した。

「玉子ふたつと、さつま揚げと、こんにゃくと、あと牛すじもください」

 ……夕飯前じゃないのか、と俺は思った。
 ひょっとして俺が払うことになるんだろうかと思っていたのに、先輩は自分の分は自分で払った。

 なんだか申し訳なかったけど、全部払うのはそれはそれで図々しい気がして、仕方なく厚揚げの分の百円だけを先輩に渡した。
 先輩はちょっと困ったような顔をしていたけど、結局はそれを受け取ってくれた。


「ほんと、すみません」

 何度目かの謝罪のあと、先輩はどうでもよさそうに「いいよいいよー」と笑った。

「つーか、もともと俺の金ですけどね」

 大澤は、俺が代わりに買ってきた厚揚げをもさもさ頬張りながらぽつりと呟く。

「……ほんと、すまん」

「いや、いいけどさ、べつに。ちょっとびっくりしたけど」

「ほんとにね。そんなに厚揚げ好きだったの?」

 べつにそんなことはなかったような気がするのだが、それ以外に理由が浮かばなかったので、俺は否定しなかった。
 三人で並んだままおでんを食べきったあと、先輩は満足げな溜め息をついた。

「それにしても、雪だねえ」
 
 ちらちらという雪は、軒先にまで舞い込んで俺たちの肌に冷たさを押し付けてきた。

「初雪ですかね」

「ううん。違うよ。このあいだの朝降ってたもん。でもきっと、この雪はすぐに止むと思う」

「……はあ。勘ですか?」

「なんとなくね。止む雪と止まない雪って、感覚で分かるでしょ?」

 そうだろうか。俺にはよくわからない。どんな雪も、いつまでも降り続けてしまうような気がしてしまう。
 いつも、気付くのは止んだあとだ。



「それじゃ、わたしはもういくね」

 先輩はゴミを捨てて手ぶらになってから、背負った鞄を揺らしながら背中を向けて歩いて行った。
 それから不意に振り返り、

「部誌、進んだら教えてね。できあがったら、読ませてね」

「はい」と答えたのは大澤だった。俺は返事もできなかった。
 最後に彼女はこちらを見て笑った。俺は黙ったまま頭を下げた。

 先輩の姿が見えなくなってから、「できあがったら」という言葉を頭の中でくりかえす。

 俺は枝野を怒らせてしまった。
 大澤は西村を怒らせてしまった。

 ……先行きは、不安かもしれない。

つづく

先輩とおしゃべりしたい




 そして俺は家に帰った。
 大澤はいつもみたいな調子で「じゃあな」と言った。俺も「じゃあな」と言った。

 彼は西村との間に何もないみたいな調子で「じゃあな」と言った。
 俺も枝野に言われた言葉なんて忘れているふりをして「じゃあな」と言った。

 みんな隠してるんだと思った。それなりのもの。そこそこのもの。
 なんでもないように振る舞ってる。
 
 見てほしいものもあれば見てもらいたくないものもある。
 誰にも明かさないものもあれば誰かにだけ話すものもある。

 ――世界が、ひとつだったら、よかったよね。

 誰かのそんな声を、ふと思い出す。

 誰が言ったんだっけ? どこで聞いたんだっけ? もう思い出せない。

 まだ雪が降っていた。積もりそうにもないけど、まだ止みそうにも見えない。

 すぐ止むと思う、と先輩は言っていた。

 でも、本当に止むんだろうか。
 そんなことが妙に心配になったのはどうしてだろう。



 枝野のことを思い出す。
 俺はどうするべきだったんだろう、と少しだけ考える。

 今は雪が降っていて、だから考え事はスムーズに進んだ。
 それに俺は今ひとりだったから、取り繕ったり気をつかったりする相手もいなかった。

 おかげで甘えた気持ちが湧き出してくる。
 べつにひとりのときくらい落ち込んだっていいじゃないか、と。
 
 でも、その考え方は明らかに間違っていた。
 ひとりだからといって甘ったれているわけにはいかない。組み立てられた思考はすぐに外側に溢れ出る。
 だから俺は考えるべきじゃなかった。

 でもどうして考えるべきじゃないんだろう。どうして外側に溢れ出てはいけないんだろう。
 何かがおかしいと思った。

 枝野。

 俺は謝るべきだったのかもしれない。たしかに強引だった、と。でもそんなのは言い方の問題だ。
 俺は思った通りのことを言って、そうしたら枝野は怒った。ごく平凡な結末だ。

 説得すればよかったんだろうか。
 でも、それすらも、やっぱり縋っていることになるんだろうか。

 ――それでもわたしは、あんただけは、誰かに何かを強制するような奴じゃないって、そう思ってたのに。
 
 思い出しているうちに、むかむかとしてくる。何か悪いものでも食べたときのように。
 耳鳴りがして、頭がうまく働かない。

 苛立っているんだと気付く。あのときはただ、呆然としてしまったけど。
 枝野の言葉を思い出すと、腹が立つ。



 なぜ腹が立つのか、わからない。
 わからないというより、考えたくなかったのかもしれない。

 考えるべきではない、と考えていたのかもしれない。
 だって悪いのは明らかに俺なんだ。

 家に帰るとリビングで妹がしくしくと泣いていた。まただ、と俺は思った。
 シャボン玉を吹こうにも雪が止んでいない。

 なんなんだよ、と俺は思う。

 千歳は、俺が変わったと言った。でも俺は何も変わってない。
 なにひとつ変わってなんかいない。なにも変わりやしない。

 俺は黙ったままリビングを抜けてキッチンに入りお湯を沸かし、コーヒーを入れた。

「ココア飲む?」

 訊ねると、妹はこくりと頷いた。何をどうできるというんだろう。
 
 マグカップをふたつ持って妹の前に並べ、俺も隣に座る。
 床は冷たかった。

「雪が降ってるな」と俺はどうだっていいようなことを言った。

 妹は相槌すら打たずに曖昧に頷く。どうだっていいようなことなのだ。返事だってどんなものだってかまわない。



 何ができるんだよ、と俺は思う。
 こういうとき、良い方法がある。心情を一言でまとめてしまうのだ。

 ああ、なんだかやるせないな、と。

 それひとつだけに留めて、それ以上を考えないようにしてしまえばいい。
 俺はこれまで、しばらくの間、なるべく、そうやって押しとどめてきた。

 でも無駄だった。なくなるわけじゃない。隠されるだけなんだ。表に出てこなくてもそれはちゃんとある。
 分かっていたはずだ。言葉が意味を矮小化させるとしても、事実までは縮小してくれない。そんなのは気分の問題でしかない。

「……なにかあった?」

 そう、俺は訊ねてみた。答えは何もなかった。しばらく経ってから妹は手のひらで目元を拭う。
 そして、

「なんでもない」

 そんな言葉を吐いた。なんでもないわけがない。そんなのは分かってる。こいつだって信じてもらえるなんて思っちゃいないだろう。
 でもそれ以上どんな言葉がありうる? こいつは話してくれないし、話してもらえたところで俺に何かができるわけじゃないのだ、きっと。


 いたたまれなくなって、俺はコーヒーを一気に飲み干した(火傷が悪化した)。

 それから立ち上がって、妹の頭の上に一度手を乗せた。彼女は曖昧に笑いながら俺を見上げた。
 いたたまれなさが増すだけだった。

 財布と携帯だけを持って玄関を出た。べつに何かを考えたわけじゃない。何かがしたかったわけじゃない。

 でもここにはいたくなかった。もうこんなところは嫌だった。だから抜け出そうとしたはずだ。
 抜け出そうとしていたはずだ、いつだって。
 
 本当に、世界がひとつだったら、どれだけよかっただろう、と俺は思う。

 ――人に、縋らないでよ。

 やめちまえよ、と俺は思う。自転車に乗ってあてもなく出かけたくなる。
 もう日暮れなのに。

 だからといって行き先がないんじゃ話にならない。体を動かしてれば頭だって冷えてくる。
 行き場がないことなんて最初から分かっていた。

 結局俺は近所のコンビニに行ってジュースを買って店先で飲んでゴミを捨てて帰った。
 すれ違った客たちも店員も誰も彼も、俺がこんな気分だってことには気づかなかっただろう。

 逆だって同じだ。
 見えている世界はみんな違う。

 俺はコンビニの入り口に貼ってあったバイト募集のチラシを携帯で撮影して家に帰った。
 まだ何かに縋ろうとしている。

 でも、ほかにどうできるというんだろう。





 家に帰ると妹はいつもみたいな顔で料理を始めていた。俺も彼女もさっきのことについては何も言わなかった。

 部屋に戻り、夕飯までの間にノートを開いて小説を書こうとしてみた。

 ぐだぐだとくだらないことを考えているときは、いつだって簡単に何かを書くことができる。

 ぐだぐだとくだらないものばかりだけど。

 でも俺は、そんなものじゃない、もっとべつの、何か他のものを、書こうとしていたはずだ。
 何ができるというんだろう、と俺はもう一度考えてみた。

 あるはずだ。
 きっと何か、取りうる手段が。

 ノートを三ページほど埋めた。一ページ一編。でもどれもこれもが何でもなかった。
 どこにもたどり着かなかった。





 夕飯を食べてから部屋に戻り、またノートに向かおうとしたとき、携帯にメールが来ていたことに気付く。

 送信者はひなた先輩。

「なんかようす変だったけど、だいじょうぶ?(クマ)
 相談したいことがあったらいつでもいってねー(クマ)」

 メールの内容とは無関係に、奇妙な納得を覚えた。
 そうだよな、と俺は思う。
 俺たちは兄妹だ。だからきっと、とてもよく似ている。

「べつに何もありませんよ。
 部誌、楽しみにしててください」

 いつものように取り繕った返事を出したあと、何もかもやめにしてしまえたらどれだけいいだろうと考える。
 でもそんな考えはすぐに打ち切ることにした。今日はダメだ。たぶん寝不足なんだ。

 明日になったら、これまでのように、維持する努力を続けていかなければならない。
 枝野のことも、謝って、ちゃんと話して……。大澤だってきっと、きちんと話をしさえすれば、西村と元通りになれるかもしれない。
 
 そんな努力を、続けていかなきゃいけない。

 ――いったい、いつまで?


つづく

ブランニュー私って言葉が凄く素敵

終わらないのが終わり




「まだ続けるの?」

 部屋の隅からそんな声が聞こえた。
 まどろんだような気分で声の方に視線をやると、女の子がひとり、立っている。

 見覚えがあるような女の子。見たこともないような女の子。

「何を?」

「書くの?」

「書くよ、きっと」

「どうして?」

「……どうしてだろう」

「縋るものがそれしかないから?」

「……」

「ねえ、いったい、どうなれれば、満足するの?」




 イメージをする。

 怪物がいる。

 黄昏を背負う怪物がいる。
 巨大な影のような姿をしている。真っ黒に澱んだ影。
 夕暮れに伸びた影のような姿で、巨体が空に伸びている。

 身じろぎもせず、脚を地に置き、佇んでいる。

 今にも、暴れ出しそうに見える。
 
 足元には、街がある。
 街。人々が暮らし、眠る街がある。
 
 怪物を、貶める声がある。
 怪物を、蔑む声がある。

 怪物は、身じろぎもしない。

 今にも、暴れ出しそうに見える。

 街は夕焼けに塗りたくられて、姿を赤く染めている。
 染め上げられた赤の後ろに、黒い、黒い影がある。
 影は長く伸びている。

 赤と黒との境界は、線のようにくっきりと、けれど、幾重にもねじれている。



 怪物は、明らかな、危険因子だ。
 今は、身じろぎもしていない。けれど、ひとたびその腕を振るえば、街はすぐにでも崩れ落ちてしまう。
 世界が揺らいでしまう。

 だから、怪物は打ち倒されなければならない。
 どんな犠牲を払ってでも、怪物は、打ち倒されなければいけない。

 そこに存在するだけで有害な存在。
 危険の予兆。間隙。罅。

 だから、抑えこまなきゃいけない。
 なかったことにしなきゃいけない。
 隠さなければならない。

 打ち倒すことができなかったとしても。
 誰の目にも見えないようにしないといけない。

 誰もこの街を恐れないように。誰もこの街を嫌わないように。
 怪物を、なかったことにしないといけない。

 そうしないと、街から誰もいなくなってしまう。
 
 ――また、置いていかれてしまう。
 





 だから俺は、怪物を殺す話を書いた。
 けれどそれは間違いだった。

 怪物は殺せなかった。
 木々が根に依って地に立つように。
 光が影を生むように。

 実体は影から離れられない。

 殺しきることができない。

 切り離せない。
 
 呪われている。
 




 怪物はまだ立っている。
 身じろぎもしない。

 きっと怪物に害意はない。

 誰のことも傷つけようとは思っていない。
 それなのに怪物は、そこにいるというだけで危険なのだ。
 不発弾。

 いつ、どんなきっかけで、暴れだすか分からない。
 だから、みんな怪物を恐れた。みんな、怪物を憎んでいた。怪物によって不安にさらされていた。
 誰もが、怪物が消えることを望んでいた。

 そう知っていたから、だから怪物は、暴れたくなってしまった。
 大きく膨らんだ風船が、耐えられないと破裂するように。

 怪物は、消えることを望まれたからこそ、暴れたくなった。
 何もかもを壊してしまいたくなった。

 物を詰め込み過ぎた鞄が、ついには圧力に耐えかねて荷物を吐き出すように。
 抑えこむ力が強ければ強いほど、それに反発しようという力は強まる。
 強すぎる光に、影は濃さを増す。

 影が腕を振るえば、光は影に飲み込まれる。
 黒は白よりも強い。
 何もかもが黒く染まって、何もかもが何でもなくなってしまう。
 
 そして、電話のベルが鳴る。





 電話のベル?

 イメージが霧消する。霧のように消えて、霧のように残る。
 
 電話のベルは明らかに現実で鳴っていた。
 だから俺は引き戻された。さっきまで別の場所にいた。だから『引き戻された』。

 どうでもいいやと思った。とにかくベルが鳴っているんだ。
 電話に出ないといけない。
 
「……どうして?」

 と彼女は言った。

「どうしてもなにもないだろ」

「そう?」

「……」

「呑まれちゃえばいいのに」

「うるさい」

 俺は声を振り払って部屋を出た。電話。……電話。どこだ。リビングだ。リビングの電話台。



 鳴っている。コール。妹は、いない。どこにいったんだ? どこにいったんだろう。
 置いていかれてしまったのかもしれない。

 受話器を取る。

「もしもし」

「あ、夜分にすみません、佐伯さんのお宅ですか?」

「はい」

「……せんぱい?」

「……千歳? どうしたの」

「はい。あ、えっと……。先輩の連絡先、教えてもらってなかったと思って」

「……そうだっけ」

「はい。……せんぱい、何かありましたか?」

「ちょっと、風邪気味みたいなんだ」

「……あ、そうでしたか。すみません、タイミング悪かったですね」

「いいよ。……なんだっけ、番号だっけ?」

 俺は口頭で番号を伝えた。覚えるつもりもなかったのに、なぜか覚えてしまった番号。
 
「アドレスは……」

「あ、せんぱいって、ラインやってましたっけ?」

「ああ、うん」



「じゃあ、番号だけで……」

「でも、俺ガラケーだから、メッセージ来ても気付かないかも」

「ああ、なんかめんどくさいんでしたっけ、ガラケーだと」

「うん。まあ、なかなかに」

 かといって、アドレスを口頭で伝えるのはちょっと面倒だ。千歳もそれは思ったらしい。

「えっと……」

「ひなた先輩が、俺のアドレス知ってるから、メールして聞いてみて」

「……え?」

「ん?」

 反応が、なんだか微妙だった。


「……わたし、ひなた先輩のアドレス知らないです」

「あれ、そうなの」

 なんでかわからないけど、みんな知ってるものだと思ってた。
 
「……じゃあ、明日でいい?」

「はい。……なんかすみません。急ぐ理由も、ホントはなかったんですけど」

「ほんとに?」

「……はい?」

「急ぐ理由がなかったなら、明日学校で会ったときでもよかったような気がしたから」

「……そうですよね。うん。実は、口実です」

「……」

「せんぱい、えっと、ほんとに、風邪ですか?」

「……どういう意味?」

「落ち込んでるんじゃないかと思って。枝野先輩のこと」

「……」

「気にしてない感じだったけど、ちょっと気になったっていうか、心配で……」

「心配?」

「……いけませんか」と千歳は少しむっとした声で言った。



「いや、ありがたいよ」

「……すみません、なんだか、押し付けがましくて」

「そんなことはない。でも、べつに気にしてないよ。ちょっと体調が悪いだけだから」

「……それならいいです」

 千歳は俺の言葉を真に受けているふうではなかったけど、俺がそれ以上話すとも思わなかったのだろう。

「それじゃ、明日、学校で」

 電話を切る。家の中に静寂が戻る。
 さっきまでの遊離した思考が途絶えて、俺は地に足をつけた思考を取り戻す。
 
 離陸から着陸まで。

 ……眠ろう、と思った。きっと、疲れている。
 小説は書ける。不思議なくらい、書ける。いろんなものを、思った通りに。
 だから、俺にはもう、何が問題なのか分からない。

 俺が何に躓いているのか、分からない。




 脱衣所に行くと、妹が下着をつけているところだった。

「あっ」と声をあげたのは妹で、俺は一瞬だけ視界に入った彼女の体を見ないようにして、洗面台に向かった。

「……あの、平然と入ってこないでほしいんだけど」

「鍵、開いてたから」

「……へんたい」

 彼女は少し距離をとって着替えを再開した。
 俺は顔を洗って溜め息をつき、それから歯を磨くことにした。

 妹は寝間着に着替えてしまったあとも、しばらくこちらを黙ったまま見ていた。

「なに?」

「……髪、乾かしたいから」

 俺は歯磨きを終えて洗面台の前から離れた。脱衣所から出ようとしたところで、後ろから声が掛けられる。

「お兄ちゃん」

「……なに?」

「今日のこと。……本当に、なんでもないから」

「……うん」

 信じるなんて、きっと思ってない。俺は少し考えてから、答えた。

「でも、なにかあったって、別に話さなくたっていいんだ。ただ、俺が気にしてるだけだから」


「……ありがとう。お兄ちゃんは、いつもわたしを気にかけてくれてる」

「……そうでもない」

「ううん。ちゃんと、分かってる。心配かけて、ごめんね」

「……」

「それだけ、言っておきたかったから」

「俺は……」

「……なに?」

「……なんでもない」

 なんだろう。
 俺は何を言おうとしたんだろう。
 わからない。

 気にかけている? 嘘だ。
 置いていかれるのが怖いだけだ。

 縋りついている。
 みじめなくらいに。
 何も変わってなんかいない。

 ――人に、縋らないでよ。

 だったら、何に縋ればいいんだ?

つづく

おつ

妹かわいい

妹に縋ろう

少しの間更新滞ります

待ちます

待ちましょう

待機

そろそろですかね




 柔らかな朝の光が薄いカーテンを透きとおり、
 冬の明け方の冷たい空気の中に舞う埃を、かすかに照らしていて、
 その光景は遠い昔の記憶を俺に思い出させたような気がしたのだけど、
 それがいったいどんなものなのかはすぐに分からなくなってしまった。ただ埃が舞っていただけだった。

 朝が来たら起きて、学校にいかなきゃいけない。
 ずっと前から繰り返している、今はもう当たり前になってしまった決まり事。
 
 準備を済ませて、リビングでいつものように妹と朝食をとった。
 
 当たり前のように通学路を歩いている。雨も降っていない、透き通った冬の朝。

「よう」

 道の途中で、森里が待ち構えていた。



「おはよ」

「おう」

 彼は当たり前みたいな顔で俺の隣に並んで歩き出した。

「どうしたの、珍しいじゃん」

「ああ、うん。最近なかなか話す機会ないから」

 なんだそれ、と俺は思った。
 教室も一緒だし、話そうと思えばいつだって話せるのに。

「つーか、ほら、あれ。海の話。結局いけてないじゃん」

「本気なのかよ、あれ」

「俺が本気じゃなかったことがあるか?」

 けっこうあると思ったけど、俺は何も言わずにおいた。

「どうしちゃったんだよ、おまえもさ」

 思わずそんなことを言うと、森里はちょっと眉をひそめてこちらを見た。

「ちょっと前まで出掛けるのなんて嫌がってただろ。ゲームやってる方楽しいとか言って」

「いや、今だってゲームやってるほうが楽しいけど」

 あ、そう、と俺は思う。


「でも、海なんて好きじゃないだろ」

「夏の海はな。うざいから。でも秋と冬と春の海はね、いいと思うんだよ」

 ひねくれ者。なんとなく、分からないでもないけど。

「そっちは、どうなの。部活。順調?」

 世間話のような話題の振り方なのに、俺はちょっと口ごもってしまった。

「……あんま良くない、かも」

「書けないの?」

「……ていうわけじゃ、ないんだけどね」

「他の奴らのやる気がないとか?」

「そういうわけでも……」

 森里はわけがわからないという顔をした。

「何が問題なわけ?」

「……」

 答えようとして、答えがないことに気付く。
 問題なんてひとつもない。本当のところ。




 てっきり西村も枝野も来ないと思ったのに、その日の部活にはふたりとも姿を見せた。
 俺は狐につままれたような気分だった。

「なんで立ってるの?」

 入り口に立ち尽くしていた俺に向けて、枝野は言う。

「座れば?」

 当たり前みたいな顔で。
 なんでかわからないけど、怖くなった。

 大澤は俺より遅れて部室にやってくると、西村の姿を見て、話があるからと言って連れ出していった。

 残されたのは俺と枝野だけだった。千歳は、まだ来ていないようだった。

「わたしはさ」

 と、枝野は俺の目を見ないで言う。

「書くよ。でも、それはあんたに言われたからじゃない。
 あんたのための何かを書くわけじゃない。……それでいいでしょ?」


「……ああ」

「……何?」

「いや。……ごめん。ありがとう」

「なにそれ」

 枝野は呆れたような笑みをもらしてから俺の表情を見て、「何笑ってんの」とむっとした顔になる。

「いや。ごめん」

「……もう」

 やってらんない、というふうに背もたれに体を預けて、彼女は短く溜め息をついた。
 ちょっとの間、互いに黙りこむ。

「あんたはさ、すごく混乱してるみたいに見える」

「……なに、急に」

「わたしには、そういうの、わからないから」

「どういう意味?」

「ううん。ちょっと、昨日はキツイこと言ったかなって思って。だから、ごめん」

「……いや、そんなのは、べつにいいんだけど」

 そんなことを言ったところで千歳がやってきて、慌てた様子で部室を見回してから「大澤先輩たちは?」と訊ねた。


「話があるって言って、出てったよ」

 答えたのは枝野だった。彼女の態度はいつもよりとても柔らかで落ち着いていた。
 原因がわからない。なぜ、こんな態度になるのか。

「そうでしたか」

 千歳はほっとしたような溜め息をついてから、自分の定位置へと向かう。

「ねえ」

 腰をおろしかけた千歳に声をかけると、彼女はそのままの姿勢でこちらを見た。
 それから、戸惑ったような顔をする。

「はい?」

「もしかしてさ……」

 言いかけて、俺は言葉をとめた。もしそうだったとして、そんなことを確かめてどうなるんだろう。
 結局、ここに生きているのは俺だけじゃない。
 みんな、いろんな事情がある。気分にだって左右される。だから全部は見通せない。

 みんな、自由に振る舞う。
 俺の事情と完全に無関係ではないかもしれないけど、それでも、俺の事情だけが行動の理由ってわけじゃない。
 俺とみんなは、基本的に無関係に存在しているから。


「……いや、なんでもない」

 根拠のない思いつきを仕舞いこんでそう言うと、千歳は取り持つみたいに笑った。

「どうしたの?」

 不審そうな枝野の問いに、俺は首を横に振る。

「なんでもない。……部誌、完成させなきゃな」

 俺の呟きに、今度はちゃんと腰をおろしてから、千歳は大きく頷いた。

「はい!」

 千歳らしいような、千歳らしくないような、くっきりとした笑みを見ながら、俺はまだ自分のことを考えている。 
 これ以上、いったい何を望んでいるんだろう、なんてことを。





 大澤と西村が戻ってきたとき、部室には少しだけ緊張した空気が流れた。
 俺たちはなるべく気にしていないように振る舞いながら、ふたりの方をあんまり見ないようにした。

 西村は当たり前みたいな顔で枝野の隣に座った。
 枝野の方が西村をしばらく見つめていたものだから、西村は不思議そうな顔で笑って、

「なに?」

 と訊ねた。枝野はなんでもないような顔で目を逸らして、

「ううん」
 
 と首を振る。

 大澤はホワイトボードの前に立った。

「定岡と山田から――」

 と、大澤は幽霊部員ふたりの名前をあげた。

「……川柳、預かってきた。あいつらが原稿提出者第一号と第二号だ」

 幽霊部員がいちばん早く提出する部活って、なんとなくやだ、と俺は思う。

「まあ、これで引っ込みはつかなくなったな」

「最初からつかないよ」

 俺の言葉に、大澤は目も合わせないで頷いた。

「……うん、そうかもしれない」

 でも、誰が幽霊部員ふたりに声を掛けたんだろう。



 ちょっとした思いつきだった。疑念というほど確かじゃないけど、直感というほど曖昧じゃない。
 ここ最近でついた癖のようなものなのかもしれない。それでもとにかく、俺はそのとき、千歳に視線を向けた。
 彼女は当たり前のような顔で大澤の方を見ていたけど、視線に気付いたのか、俺と目を合わせる。
 
 すると、得意気に笑った。

 ああ、なんなんだろう、この子は。

 近頃、俺は千歳のことばかり気にしてる。その理由が、今、なんとなくわかった気がした。
 
 彼女は彼女に似ている。

 何も知らないようなふりをして、いろんなことに気を回している。
 何も考えていないようなふりをして、たくさんのものに目を向けている。

 俺は、彼女のようになりたかった。





 幽霊部員ふたりが原稿を提出したことで、なんとなく、俺たちの中で部誌に対する取り組みかたが変わった気がする。

 今まではぼんやりとしていて、現実的じゃなかった。
 いざとなったらふいになるかもしれない、というくらいの気持ちもあった。

 でも、ふたり、現実に原稿を提出してしまった。
 だからもう、俺たちは書かないわけにはいかない。少なくとも俺はそう考えた。

 みんなノートを開いて、何かを書こうとしたり、誰かと書いているものの話をしたりし始めた。
 すごくまっとうな文芸部の活動。

 以前だったら俺は、そこに自分がいることに、名状しがたい不安を覚えていた。
 据わりの悪さ、居心地の悪さ。

「あの、せんぱい」

 千歳は俺のそばにやってきて、そんなふうに声をかけてきた。
 何を言うんだろうと思っていたら、彼女が口に出したのは、よくわからない言葉だった。

「努力すれば不可能なんてない、ですかね?」

「それ、信じてる?」

「わたしはべつに。そういうこと、言う人がいたから」

「嘘だよ」

「……ですかね?」

「そんなことをもし得意気に言う奴がいたら」、と俺は言う。

「内角の和が180度じゃない三角形を平面上に作ってもらえばいいと思う」

 千歳は少しだけ考えたような表情をしたあと、小さく頷いて、自分の席へと戻っていった。
 


「そういえばさ」と俺は大澤に声を掛けた。

「なに?」

「森里が海に行きたいって」

「海?」

 この季節に? と、大澤は眉を寄せた。

「この季節だからだって」

「……まあ、そうか」

 仕方なさそうな溜め息。森里がそういう奴だってことは、お互い分かってる。
 実際、俺たちだって似た者同士だ。

「じゃあ、今度詳しい話してみるか」

「たぶんあいつ、今週の土日とか言い出すと思う」

「……まあ、それもありだろ」

「まあね」

 会話が途切れてから、俺はもう一度枝野の言葉を思い出した。

 人に縋るな、と枝野は言った。俺は、その言葉に打ちのめされた。
 でも、違うのかもしれない。俺は人に縋っているわけじゃなかったのかもしれない。
 


 たとえば、用事もないのに海に行くこと。
 やるせない気持ちで自転車を乗り回すこと。
 行ったことのない場所に行くこと。

 全部が、全部、俺にとっては、縋りつくような気持ちだったのかもしれない。

 何かを持ち帰ろうとしていたのかもしれない。

 不意に、枝野が窓の外を見ていることに気付いた。
 視線を追うと、ちらちらと舞う雪が、外の景色を塗りつぶし始めていることに気付く。

 開き直るような気持ちになる。
 縋りついている。
 それでなにがいけないんだ?

 不意に、自分が部室という空間にいることを意識する。そこに、俺以外の人間がいることを実感する。





 そうだ。
 こんな景色だ。




 これ以上、何を望むっていうんだろう。
 
 何かを付け加えようとするから、おかしくなる。
 蛇に加えられた足みたいにいびつになる。

 これで、いいんじゃないのか。

 ここにはもう、俺が求めていたものが全部あるんじゃないのか。
 俺はそれを見ていなかっただけで。

 ぜんぶ、ぜんぶ、最初からここにあったんじゃないのか。

 そんなふうに思った途端、自分の中から、何か暗いものが掻き消えて行くような気がした。
 黒い霧が晴れたような、視界に光が差すような。

 でも、声が





「本当に?」

 声が
 聞こえた。

 一瞬、この部屋の中にいる人達の影が、消えてなくなった気がした。
 影がなくなると、質量までなくなったように感じる。
 絵の中の景色のように、よそよそしくなる。

「本当に、これで満足なの?」

 どこから響くとも知れない、遠い声。穴の底から、ひそやかにうそぶくような声。
 女の声。……知っているような、知らないような、そんな声。

「そうだとしたら」、と声は言う。

「何かを書こうとする意味なんて、もうどこにもなくなってしまうね」

 俺は、その声に答えられなかった。

つづく

できるかぎり投下頻度をあげていきます

おっつん

おつおつ




「せんぱい?」

「……え?」

「みんな、帰っちゃいましたよ」

 気が付くと、部室には千歳と俺しか残っていなかった。
 窓の外は暗くなりはじめている。
 
「どうかしましたか?」

 どうしたっていうんだろう。自分が今まで何をしていたのか、まったく思い出せない。
 
 俺はとりあえず立ち上がった。でも、立ち上がって何をするべきなのか、よくわからなかった。

 千歳は不思議そうな顔でこちらを見ている。

 何をやってるんだ。
 わけがわからない。
 混乱する理由がわからない。

「……せんぱい、帰りませんか?」

「ああ、うん……」

 俺は当たり前のように頷いている。他人事のように。



 部室を出ると、廊下の空気はしんと冷えきっていた。
 息を吐けば白く染まりそうな気さえしたけど、そうはならなかった。
 
 千歳はマフラーを巻いて口元を隠している。
 
「もう冬だな」

「雪、降ってますもんね」

「うん」
 
 それ以上何を言えばいいのかわからなくて、黙りこむ。
 戸締まりを終えて、俺たちは歩き始める。

「調子、どう?」

「小説ですか?」

「うん」

「地震が起きちゃいました」

 ……。

「ん?」

「地震」

 生き埋めですね、と千歳は言う。



「どうなるの?」

「どうなるんでしょう?」

 どうでもよさそうな口調で、窓の外の雪を見ながら、千歳は持ち直すみたいに笑った。

「どうにか、なるといいですよね」

 彼女の言葉に、俺は頷く。本当に、祈るようにそう思う。
 でも、どうなんだろう。どうにもならないのかもしれない。

「まあ、何をやったって、結局無駄なんですけどね」

「……え?」

「はい?」

「……今、なんて言った?」

「……何も言ってないですよ?」

 きしむような頭痛。 
 膨れ上がっていく。
 蓋を嵌めた壺の底から這い上がってくる。



「せんぱいは、どんな感じですか?」

「なにが?」

「小説ですよ」

「……ああ、うん。まあ、そこそこ」

「扉を出たら、どこかに向かわなきゃいけない」

「……え?」

「……せんぱい?」

 声。
 声が聞こえる。

「今、何か言ったよね?」

「……何も、言ってませんよ。大丈夫ですか?」

「いや、でも……」

「どこに向かったとしても」

 声が

「すべて、なくなってしまいますけどね」

 聞こえる。
 気がかりなことなんてひとつもないはずなのに。
 消えてくれない。


 なんなんだろう、これは。
 消えろよ。うるさい。聞きたくない。そんな話はもううんざりだ。
 何の役にも立たない。必要なのは実際的な努力だ。不毛な考え事なんて何の役にも立たない。

 消えろよ、と、俺は頭の中で唱える。

 扉を出たらどこかに向かわなきゃいけない。何かを求めなきゃいけない。
 なくなってしまうことなんて、ぜんぶ分かっていたうえで、俺は扉を出ると決めた。
 だからどこかに向かわなきゃいけない。何かを求めないといけない。

 何もかもが通りすぎていくだけのものだとしても、その中に居続けようと決めた。
 そのはずなのに。

「……聞こえませんか?」

「……なにが?」

「扉が、閉まる音」

 せんぱい? と心配そうな声。どちらが現実の千歳の声なのか、俺にはよくわからなかった。




 あの、大きな揺れが起こってから、わたしの視界には、光さえ差さなくなってしまいました。
 おぼろげな遠い光ですら、今のわたしには、遠い過去に存在したかもしれない絵画のように抽象的に思えます。
  
「世界はおかまいなしなんだよ」

 どこかから、そんな声が聞こえました。

「あなたが何を望んでも、望まなくても、あなたが何をしても、何もしなくても、世界は回る」

 わたしは、その声に頷いて、膝を抱えて、瞼を閉じました。
 開いても閉じても暗い闇。
 居心地の良い暗闇。

 これでよかったのかもしれない、とわたしは思いました。
 だって、どこにも行けなくなってしまったのなら、どこかに行こうとする努力だって、必要ではないのです。
 
 もう、がんばらなくてもいい。
 抜け出そうと試みなくてもいい。

 だって、抜け出せないんだから。

「何もかもがすべて、なくなってしまうんだよ」

 そう、声は言います。

「いつかは、ぜんぶ、消えてなくなるんだよ。だから、しなくちゃいけないことなんて、ひとつもないんだよ」

 優しい響きに乗せられた、優しい言葉は、わたしの心を甘く溶かしていきました。
 光がまだここにあった頃、ここから見える景色は、とてもつらくて、苦しくて、悲しいものでした。

 でも、今、光が目に見えなくなってしまった今、視界から暖かな熱が消えてしまった今、わたしの目に見える景色は――
 ――底から見えるのは、とても甘やかで、鈍くて、とてものどかで、穏やかな景色でした。
 




 俺の状況なんておかまいなしに、部誌は完成へと近づきつつあった。
 幽霊部員の次に提出したのは西村だった。一本の掌編を書き上げてしまうと、彼女は部室を訪れなくなった。

 次に完成させたのは大澤だった。大澤の書いた十本の小説は、やはり以前のようなものだった。
 書けなかった、と彼は言っていた。そして書けるようになった。そこに俺が関わる余地はなかった。彼だけの問題だったのだ。

 俺も、何本かの小説――小説とも呼べないような――を完成させた。

 怪物の話。
 影の話。
 噴水の話。

 でも、扉を出たあとの話は、どうしても書けなかった。

 千歳は何も言わなかった。期待すらしていなかったのかもしれない。
 俺は結果的に嘘をついてしまった。でも、彼女だって分かっている。嘘になりうる言葉というものを知っている。

 だからいいのかもしれない、というのはごまかしなのかもしれない。
 でも、俺には何も書けなかった。


 大澤と西村は、どんな話し合いをしたのかわからないけど、以前のような穏やかなふたりに戻った。
 ふたりで穏やかに笑い合ったり、何かの冗談を言い合ったり、当たり前に一緒に帰ったり、どこかに寄り道したり。

 大澤はそのことについて俺に何も言わなかった。俺には関係のない話なんだから当然だ。

 翌週の土曜日に、俺と森里と大澤は、三人で海へと向かった。

 自転車で駅まで走って、そこから電車を乗り継いで、観光地めいた海沿いの通りをあてもなく歩いた。
 人気の少ない道を歩きながら、森里は「遠くに来たみたいな気分がするな」とたよりなく呟いた。
 
 俺は適当に笑いながら頷いた。

 何も失ってなんかいないし、何もほしいものなんてない。
 だってここにあるんだから。だから、手放さないようにしていればいい。

「本当に?」と、聞き覚えのない男の声がしたけど、俺はその声にもう慣れきっていた。 

 いつかはなくなるんだよ、と俺は頭の中で答える。
 でも、そのいつかは今じゃない。それだけで十分じゃないか。

「それが本当なら、いいんだけどね」

 声は聞こえなくなる。



 海には島が点在している。俺たちはその景色をぼんやりと立ち止まって眺める。
 船が汽笛をあげて港を出て行く。黙ったまま、その姿を見送る。

 二十分もかけずに通りを歩ききってしまうと、俺たちは来た道を戻って帰ることにした。

「何をしに来たんだろう」と、言い出しっぺの森里が言うものだから、俺は少し呆れてしまった。

「まあ、理由もなくこういうふうに遠出をするのも、たまにはいいだろ。気分転換みたいなもんでさ」

 以前みたいな穏やかな調子で、大澤はなんだか良いことを言って話を終わらせた。

 そんなところで、

「あ」

 と、誰かの声がして、俺はあっさり揺らいでしまった。

「やー、元気?」

 ひなた先輩だった。

 大澤が笑顔を見せて、「お久しぶりです」なんて挨拶をした。

「言うほど久々じゃないでしょ」と彼女は言ったけど、俺はとても長い時間、彼女と会えていなかったような気がした。


「何食べてるんですか?」

 大澤は当たり前みたいな顔で訊ねる。

「牡蠣カレーパン」とひなた先輩は言った。

「おいしいよ。おすすめ」

 少し間を置いてから、ひなた先輩は話を続けた。

「部誌の調子はどう?」

「俺はもう出しました。こいつも、いくつか」

 大澤だけが喋っていた。俺は適当な愛想笑いを浮かべていた。
 どんなふうに話していたのか忘れてしまった。

 少し前までの俺は、何をそんなに、この人と話すことがあったんだろう。

「……修司くんも?」

 不安そうな声よりも、何よりも、俺は彼女に名前を呼ばれたということに戸惑った。
 彼女以外の誰が、そんなふうに俺のことを呼んだだろう。


「……はい、一応」

 話の流れで頷くと、彼女はちょっと怪訝そうな顔をした。

「本当に?」

「意外ですか?」

「だって、書けてないときの顔してる」

 大澤と森里が、顔を見合わせて目を丸くした。

「……」

「無理、したんじゃない?」

「……」

 いつか、ぜんぶなくなる。
 この人に限っては、いつかなんて遠い話じゃなくて、春には、いなくなってしまう。

 縋り付けない。邪魔なんてできない。
 汚せない。


 それなのに。

「……どうして、分かるんですか」

 縋り付いてしまう。惨めなくらい。

「それは、見れば分かるよ」

 書けない理由が、分かってしまった。

 扉を出てから、どこにも向かえなかったのは、どこにも行きたくなかったからじゃない。
 現状に満足してたからじゃない。

 求めて、拒まれること。
 受け入れられても、いつかは去ってしまうこと。
 置き去りにされてしまうこと。放り投げられてしまうこと。

 それが怖くて、足が竦んでしまっていたんだ。

 何も変わってなんかいない。みじめなほど、俺は、変われていない。

 どうして、なんて問いが成立するほど、わけのわからない心の動きじゃない。

 どうせいつかは、全部なくなる。子供にだって分かるような単純な理屈。
 そんな理屈を、いつまでも消化できないでいるのは、きっと、失いたくないものがあるからだ。
 いつまでも、なんて不可能を望んでしまうからだ。

 それでも不可能だと知っているから、足が竦んでしまうんだ。

つづく

理解されたくないけど知って貰いたい時はどうすればいいんだぜ?
乙!

牡蠣カレーパンとはいったい……乙




「修司くん、なにか悩みでもあるの?」

 海を見ながら、ひなた先輩は俺にそんな問いかけを向けた。
 ひなた先輩が勧めてくれた牡蠣カレーパンを食べながら、俺たちは四人で海沿いの道を意味もなく歩いた。
 建物には水の痕がまだくっきりと残っている。

「まあ、それなりに」と俺は答えた。

 それ以上何かを言うのかと思ったけど、彼女はやっぱり何も言わなかった。
 そういう人だと分かっていた。

 もどかしいようでもあるし、だからこそ、という気持ちもある。

 線がある。
 彼女は踏み越えない。踏み越えることが押し付けになりうると知っているからだ。

「海は広いねえ」

 気分を晴らそうとするみたいな、やさしい声。気を使われたのかもしれない。
 沈黙が気詰まりだっただけかもしれない。

「たしかに」

「それに、大きいねえ」

 童謡みたいですね、と隣に立っていた大澤は笑った。
 
「知ってた?」

「何がですか?」

「海が大きいってこと」

 さあ、と俺は首をかしげた。知っていたと言えばもちろん知っていたけど……。
 知らないといえば、今だって何も知らない。



「ねえ、修司くん」

 彼女があんまりにも俺の名前を連呼するものだから、森里は何かを気にした様子でしきりに俺の顔色をうかがった。

「きみみたいな人がいることは、わたしにはとても嬉しいことなんだよ」

「……何の話ですか?」

「うん。きみにはわからないかもしれない。でも……」

 先輩は何かを言おうとしている。自分でもうまくまとまっていない言葉を、強引に紡ぎだすみたいに、口が動いている。
 
「わたしはマザー・テレサが好きじゃないんだ。あそこまで貫き通したら、それはすごいことだって思うけど」

「……はあ」

「でも、たとえばわたしは、あの人みたいに生きようとしている人が身近にいたら、まちがいなく止めると思う」

「……俺は、マザー・テレサじゃないんですけど」

「そりゃ、そうなんだけどね」

 彼女はまた言葉を止めた。そしてすぐに、また話し始める。



「きみは、悲しんでる人に弱いよね」

「……なんですか、それは」

「手遅れになってしまったものとか、惨めなほどみすぼらしいものとか、誰もが打ち捨てるような悲しみとか」

「……」

「どうして?」

「……どうしてもなにも、心当たりがないんですけど」

「本当に?」

「本当に」

 彼女はまだ納得がいかないというふうに眉間に皺を寄せた。
 こんなふうに苦しげな顔をしている彼女を見るのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。気のせいかもしれない。

「きみが苦しむのは、誰のため?」

「……その言い方だと、俺が誰かのために苦しんでるみたいですね」

「うん。ちょっと違うかもしれない」


「ひなた先輩は、猫を殺したことがありますか?」

「……なに、それ」

「ありますか?」

「ないよ」

「俺もないです。でも、死にそうな猫を、死にそうだと分かっていて何もしなかったことならあります」

「……」

「一昨年、あっちの方にも行ったんですよ」

 俺が遠くを指さすと、彼女はそれにあわせて視線を揺らした。

「すごかったですよ。本当にすごかったです」

 大澤と森里は、気をきかせたつもりなのか、俺たちのずっと前を歩いていた。
 
「……室戸台風。阪神大水害。昭和三陸地震」

「……え?」

「言ってみただけです。いったいどのくらいの人が、今更、そのときの死者のために祈るんでしょうね」

「……」

 どこかの偉い哲学者は、第二次大戦中に生きた。彼はフランス軍の招集に応じ、ドイツ軍の捕虜となった。
 ユダヤ人だったが、彼はフランス軍の兵士として扱われ、強制収容所に送られることを免れた。
 けれど彼が抑留されている間に、彼の家族はアウシュビッツで死んだ。

 近親者や同胞が苦しんでいる間、彼はそんなことを知るはずもなく、捕虜収容所での余暇を読書と著書の執筆にあてていた。
 どこかの本で読んだだけの、ただそれだけの、俺の人生には何の関わりもない事実を、なぜだろう、いま思い出している。



「唐突に生きることを奪われた人間が、すべて等しく悼まれるべきなら、祈りに時効はないはずだし……。
 だとしたら、死者の為に祈ろうとする人間はもっと多くの死を悼まなければいけないはずだと思います」

「難しいこと、考えてるんだね」

 俺は首を横に振った。

「俺は、ものを考えない人間なんですよね。普段は何も考えずに生きてるんです。
 みんなといれば楽しいし、家族は大事だし、自分勝手な悩みに振り回されることだってあるし。
 でも、ときどき思うんですよね。どうして俺は生きてるんだろうって」

「……生きてる意味がわからないってこと?」

 俺はまた首を横に振る。

「どうして俺が生きてて、他の人が死んだんだろうって。
 べつに自分が死ぬべき人間だって思ってるわけじゃないです。でも、そこに境なんてなかったはずで……。
 だとしたら、俺は"たまたま"生き残って、死んだ奴はみんな、"たまたま"死んだわけじゃないですか」

「……」

「だから、俺は……」

 俺は、なんだというんだろう。俺と関わりのない人間が大勢死んだ。それだけだ。
 俺には関係のない話。別の世界の出来事。「運良く」、俺には関係なかった。

「……俺は、運が良かったって思うんですよ。でも、だからって、ああよかったなって気分が晴れるわけないじゃないですか」

「……うん」

「でも、俺は関係のない人間だから。できることなんて何もない」

「……」

「……まあ、それだけの話です。現実に何もない人間だから、遠いことを考えて、やたらむしゃくしゃしようとしてるだけの」

 何の話をしようとしたんだっけ? もう思い出せなかった。


「できることが何もないんだったら、考えるだけ無駄だ」

 俺のつぶやきに、ひなた先輩は黙り込んだ。

「俺には俺の問題があって、そいつをひとつひとつ解決していかなきゃいけない。実際的に。
 みんながみんな各々の家の前を毎日掃除すれば、街は綺麗になるはずなんです」

「……ああ、そっか。だからか」

 ふと、ひなた先輩は、納得したような溜め息をもらした。

「何がですか?」

「きみが悩んでる理由。分かっちゃった」

「……なんでですか」

「だから、きみはきっとさ……」

「そうじゃなくて」

「……ん?」

「……なんで、分かるんですか」

 彼女はあっけにとられたような顔をした。


「……それは、えっと……なんでだろう」

「ひなた先輩」

「うん?」

「俺にとっても、あなたみたいな人がいてくれることは、すごく嬉しいことですよ」

「……」

 また、目を丸くする。
 それから、照れたみたいに笑う。

 その仕草だけで、俺はきっと、頭の中のごたごたした考えを放り投げて喜んでしまう。

 そんな自分が嫌で嫌で仕方ない。
 それでも、「ありがとう」と彼女は言った。

「わたしはずっと、誰かにそんなふうに言ってもらいたかったのかもしれない」

 だからね、と彼女は言葉を続けた。

「きみはたぶん、いろんな考え事をごちゃごちゃにかき混ぜて考えているんだろうけど、それはきみ一人で抱え込む必要のないものなんだよ。
 誰かのことを考え続けるために自分をないがしろにする必要はないと思う。きみがそんなふうで、わたしは救われた部分もある。
 でも、わたしのような人間に、仲間がいることを教えるためだけに、必要のない苦しみの中に居続けることはないと思う。
 だって、きみはもう抜け出せたはずなんだよ。……ぜんぶ、わたしの思い違いかもしれないけど……」

 そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。
 俺にはよくわからない。




「ねえ、お兄ちゃん。ずっと聞きたかったんだけど」

 海に行った日の夕方、妹はいつものようにソファの上で膝を抱えたまま、何かを思いあぐねるような素振りで口を開いた。

「なに?」

「庭にね、お墓を作ったでしょう?」

「……墓?」

「ずっと前に」

「ああ、うん」

 墓? 墓なんて呼べるようなものじゃない。俺は穴を掘って、埋め直した。それだけだ。

「あれって……誰のお墓?」

「……」

「なにが埋まってるの?」

「べつに、これといって何も」

「……でも、掘ってた」

「うん。掘って……蝉の抜け殻を埋めた」

「蝉の抜け殻?」

「ああ」

「どうして?」


「猫のかわりだよ」

「……じゃあ、あれは、猫のためのお墓?」

「違うよ」

「……意味わかんない」

 本当にわけがわからない、というふうに妹は膝に額をこすりつけた。

「俺のための墓」

「お兄ちゃんが、死んだとき用?」

「それとは別」

「……どういうこと?」

 全部を説明してしまえば、きっと彼女は呆れてしまう。だから俺はそれ以上何も付け加えなかった。
 ひとつたりとも嘘はついていない。俺は俺のために猫の墓を作った。

 べつにかわいがっていたわけでもない猫の墓。
 みすぼらしい猫。石を投げられた猫。野垂れ死んだ猫。

 死んだところで誰にも気にかけられなかった猫。
 墓を作った。だからなんだっていうんだろう。死ぬ前に何もしなかった人間が、死んだ猫に何ができるっていうんだろう。
 何もできやしない。

つづく

乙。

おつ




 父親と相談して、学校にも届けを出して、俺はバイトを始めることにした。
 なぜ今のタイミングなんだといろんな人に聞かれたけど、最近は少しいろんなことに余裕が出来てきたから、と俺は答えた。

 勉強だってそこそこやってるし、部活のことだってもともとサボり部みたいなもので、多少は融通が聞くから、と。

 だからといって都合のいいバイトがすぐに見つかるとは思っていなかった。

 それでも履歴書を買って、このあいだのコンビニに面接希望の電話を掛けたら、すぐに来るように言われた。
 希望時間は土日の昼間。何かを考えたわけじゃない。

 土曜の午後二時半に面接に行くと、何人かの女の人がいた。四十代くらいの人がふたりと二十代くらいの人がひとり。
 その人たちに面接に来たことを話すと、すぐにバックルームに通してもらえた。

 バックルームには四十代くらいのひょろっとした男の人がいた。たぶん責任者なんだろう。よく知らないけど。

 面長で眼鏡を掛けていたが、瞳だけが子供のようにつぶらに見えた。彼は「ああ、どうぞ」と言って俺に椅子を勧めてくれた。
 失礼しますとか、よろしくおねがいします、とか、そういう適当な言葉を掛けながら、俺は愛想笑いをしていた。

「履歴書持ってきた?」

 彼は名乗りもせずにぶっきらぼうな調子でそう訊ねてきた。
 
 俺は鞄から履歴書を出して手渡した。彼は封筒を開けると履歴書を広げ、額に眼鏡をずらしてからざっくりと目を通し始めた。

「土日の昼間希望ってことだったよね?」

「はい」



「バイトの経験とかある?」

「ないです。でも、経験しておきたいと思って」

「そうなんだ」

 と言ってから彼は少し黙り込んだ。おかげで俺は数秒の間、ずっと自分の発言を吟味し直すはめになった。

「どうしてここに応募しようと思ったの?」

「家から近かったので」

「ああ、そうなんだ。家、どのあたり?」

「ここから自転車で五分かからないくらいです。すぐそこですね」

「ふうん……」

 彼はずっと無愛想な表情のまま履歴書に目を落としていた。なんだか不思議な感じがした。

「えっと、学生だっけ?」

 履歴書見てるんじゃねえのかよと俺は思った。俺は通っている高校の名前を挙げた。

「そこの卒業生、この店にも何人かいるな。二年生……」

「はい」

「じゃあユウと同じ学校の同学年だ」

「……はあ」


「土日働いてる子なんだけど、知ってる?」

「……いえ。たぶん話したことないと思います」

「そっか。部活なんかはしてるの?」

「一応、文芸部に入ってます」

「文芸部」

 と彼はオウム返しした。

「どんなことするの?」

「いろいろ書いたり……。でも、基本的にはみんなで喋ってるだけだったりしますね」

「へえ」

 どうでもよさそうな相槌。あんまり興味を惹かれなかったのかもしれない。それはそれで別にかまわないんだけど。

「土日、部活で出れなくなったりってことはない?」

「土日は基本的に活動してないので、ないと思います」

「……そっか。じゃあ毎週土日とかになっても大丈夫?」

「はい」

「……えっと、土日だけってなると、時給も低いし、そんなに金にはならないと思うけど、大丈夫?」

「はい。そこは気にしてないです」

 彼は胡散臭そうな目で俺を見たが、俺はまっすぐに彼の目を見返した。


「そっか。……えっと、あとなんかあったかな……」

 彼は場の空気を和らげようとするように苦笑した。俺も合わせて少し笑った。
 
「何か質問とかある?」

「……」

 俺は少し考えたけど、たいしたことは思い浮かばなかった。

「ここって、何人くらいの人が働いてるんですか?」

「……え、何人だろう」

「……」

「……十七人くらいかな。たぶん」

「そうなんですか」

「あとはなにかある?」

「……特には」

「……そっか。じゃあ、えっと。結果はあとで連絡するね。いつ頃なら電話平気?」

「土日ならいつでも平気ですけど、十一時以降なら確実に出れると思います。平日は学校なので、四時過ぎ頃なら平気だと思います」

「了解。じゃあ……」

 彼は何か言いたげにちらちらと俺の方を見た。

「はい。ありがとうございました。よろしくお願いします」

 そして俺は部屋を出た。





 電話は翌日の昼すぎに掛かってきた。

「じゃあ、とりあえず来週の土曜から入れる?」

 と男の声は言った。挨拶を交わしてすぐにそんなことを言われたものだから、俺は面食らった。

「はい。大丈夫です」

「じゃあ、来週、土曜の……二時。十四時から」

「十四時からですね。分かりました」

「じゃあ、お願いします」

「はい。お願いします」

 電話はそこで切れた。てっきり落ちたもんだと思ってたから、俺はちょっとだけ嫌になった。




「で、バイト始めることになったから」

「何で急に?」

 妹には事後報告だった。べつに反対されると思ってたわけでもないけど、ちゃんと決まるまで伝えたくなかった。

「まあ、思うところあって」

「ほしいものでもあるとか?」

「まさか」

 と俺は言ったけど、なにが「まさか」なのかは自分でもよくわからなかった。

「じゃあ、なんで?」

「人生経験が必要かと思って」

「……」

「若いうちにはなんでもやってみろって叔母さんが言ってたし」

「……」

「疑ってる?」

「べつに」

 妹はふてくされたような様子だった。




「で、バイト始めることになったんだよ」

「何で急に?」

 部室にみんなが揃っている時、そう報告すると、大澤たちは揃って呆れ顔を作った。

「まあ、思うところがあって」

「でも、部誌づくりの最中に?」

 そう問いかけてきたのは枝野で、俺はなんとなく意外な気がした。

「あんたが巻き込んだくせに」

「でも、ほら、俺は何本か完成させたし」

「……そりゃ、そうかもしんないけど」

「一応部活には出るし」

「でも、せんぱい、本当にどうして急に?」

 うーん、と俺は考え込んだ。千歳に対しては、できるかぎり正直でいたいような気もする。
 いや、他の誰に対しても、嘘をつくつもりはないんだけど。適度にごまかすだけで。

「まあ、何かの足しになるかと思って」

「……それは」

「うん」

 誰もそれ以上何も言おうとしなかった。西村は最初からどうでもよさそうだったし、大澤も気にした様子はなかった。
 千歳も、勝手に納得したみたいな顔をしている。
 枝野だけはちょっと尖った視線をこちらに向けてきたけど、いつものことと言えばそれまでだ。





「で、バイト始めることになったんだよ」

「おー、いいんじゃない?」

 月曜の夜に従妹から電話が掛かってきて、近況報告ついでにそんなことをいうと、彼女はどうでもよさそうに笑った。

「おにいちゃんも何かを始めてみるべきだよ。わたしはずっとそう思ってた」
 
 電話口で偉そうにうんうん頷く従妹の得意げな表情を想像して、俺は少しだけ頬を緩ませた。

「そっちはどう?」

「これといって特に。ねえ、冬休み、そっちに行ってもいい?」

「いいけど。……おまえ、予定とかないの」

「うるさいな。おにいちゃんこそ、そろそろ彼女できた?」

「……うるせーよ」

「……お互い、触れられたくない部分があるってことで、ここはひとつ」

「ああ、うん……」

 それから彼女は「わたしもバイトしなきゃなー」みたいなことを言った。
 話は学校のこととか部活のこととか、最近買ったCDのこととかにどんどん移っていって、それは案外悪くない感じがした。





「それで、バイトすることにしたんですよ」

 と、べつに報告する理由もないのにひなた先輩にメールを送ると、彼女からの返信にはクマが乱舞していた。

「おー、いいんじゃない?(クマクマクマクマ)
 がんばって!(クマ)
 でも、急にどうしたの?」

「何かの足しになるかと思って。時間が有り余ってるし、前から考えてたので、ちょうどいいと思ったんです」

「小説はー?」

「小説の足しにもなるかと思って」

「どこで働くの? いけるとこなら遊びにいくねー」

「こないでください(ほんとに)」

「わかったー(クマ)
 でも、本当に急だね?」

「前から考えてたんですけど、いい機会だと思って」

 そこまで打ってから、俺は少し迷ったが、結局続きを書き足した。

「それに、素材は多い方がいいと思ったんです」

 本当はもっと違った言い方をしようと思ったけど、やっぱりやめておいた。
 きっと面倒な話になる。

「応援してるねー(クマ)」

「先輩も勉強がんばってください」

「ありがとうー(クマクマ)」

 そして俺は小説を書き始めた。 






「それで本当にいいの?」

「じゃあおまえは、このままでいいっていうのか?」



◇ 

 土曜日に店に行くと、「いらっしゃいませ」と言われたので、俺は今日から入ることになってる佐伯ですと名乗って裏に入れてもらった。
 バックルームには面接のときの男の人はいなかった。居たのは四十代くらいの女の人だった。彼女は店長だと名乗った。

 制服と仮の名札、それから研修中の札を渡される。荷物をロッカーにしまうように言われたあと、俺は着替えをはじめた。

「とりあえず今日は仕事の流れの説明をしますね。レジの経験とかはないんだよね?」

「はい」

 それから店内にいた従業員と挨拶をして(片方は四十代くらいの女性、もう片方は二十代くらいの女性だった)、売り場に出る。
 レジの中に立つと店内の様子が違って見えた。

 こういうことだよ、と俺は自分の中の誰かに言った。見える景色は立つ場所で変わる。
 たとえそれがどれだけ些細なことであろうと。

 偉そうなことを考えて緊張を和らげようとしたが、あっさり見透かされたみたいで、店長は「緊張しなくていいよ」と言ってくれた。
 俺はメモ帳とペンを取り出して起きることに備えた。





「これで何が変わるっていうの?」

「まあ、何も変わらないかもしれないけどね」




 声は止まなかった。

 何が原因なのかわからない。
 その声がいったいなんなのかすら、俺は知らない。よくわからない。

 でも、声は明らかに俺に向けて放たれていた。それに対して何ができるのかはわからない。
 何かの決着をつけなければいけないのかもしれない。

 口を塞ぐなり、和議を結ぶなりして。

 たぶん、そのふたつしか残されていない。

 俺は何度か、声について考えて、言葉の内容を思い出した。

 ――世界が、ひとつだったら、よかったのにね。

 そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。

 でも、レジ打ちを教わってる間は、そんなことを思い返しもしなかった。
 だからといって、そんなふうに他のことにかかずらって何かを忘れようとするのは、俺の嫌いなやり方だった。

 こんなふうだから、何も変わらないのかもしれない。
 でも、まだわからない。まだ何も始まっていない。まだ何も確かめていない。


つづく





「結局、逃げてるんだよな」

「……誰が?」




「せんぱい、今日の帰り、少し時間ありますか?」

 千歳がそんなふうなことを言ってきたのは、俺がバイトを始めた翌週の月曜のことだった。
 何か相談事があるふうには見えなかったが、とにかく話があると言われて、俺は彼女と一緒に帰ることになった。

「どこかに行くの?」

「ちょっと話がしたいので……"かっこう"でかまいませんか?」

「いいけど……」

 話ってなんだよ、という言葉は、店につくまで引っ込めておくことにした。

 夕方の街には雪が降り始めていて、だから俺はなんだか不安な気持ちになった。
 天気に気分が左右されるなんて馬鹿げた話だ。
 
 でも、影響されてしまう。



"かっこう"にはあまり人の姿がなかった。
 いつもみたいに経営者夫婦はカウンターの中でひそやかなやりとりを続けている。

 俺たちはテーブル席に腰掛けてからコーヒーを注文した。

「外、寒いね」と俺は世間話を始めた。

「本当に。これからもっと冷えるようになるんでしょうね」

「ストーブ出した?」

「……うち、エアコンあるんで」

「え、自室に?」

「はい」

「……そっか」

 俺はなぜか落ち込んだ。

 
「それで、話って?」

「……はい。それなんですけど」

 そう言ったきり、千歳は黙りこんでしまった。
 掛け時計のチクタクという音は、なんとなく俺を不安にさせた。時間は流れている。

「……せんぱい、バイト始めたんですよね」

「うん」

「調子、どうですか?」
 
 俺は肩をすくめた。

「まだ二日しかいってないし。なにもわからないよ」

「そうですか」

 それからまた、千歳は黙り込んだ。

「どうかした?」

「……いえ。また、もとに戻っちゃったと思って」

「なにが?」

「せんぱいが」



 彼女の言葉の意味が、俺にはよくわからなかった。

「戻った?」

「はい。部誌をつくろうとする前までのせんぱいに」

「……それって、どんな?」

「一人で、部室の隅っこで、本を読んでたときみたいに」

「そう、かな」

「はい。……違うのかもしれないですけど、わたしには」

 わたしには、そう見えました、と千歳は言う。そうである以上、それはひとつの真実なんだろう。
 猫には猫の、鮫には鮫の、蛇には蛇の、蝿には蝿の。

「俺としては、がんばってるつもりなんだけどね」

「また、逃げてます」

「……どんなふうに?」

「せんぱいは、寂しい、って言ってました」


「……うん」

「みんながいなくなるのは寂しいって。だから、みんなを集めようとしたんじゃないですか。
 でも、みんながまた集まるようになったら、せんぱいが、自分から離れてく」

「……」

「違ったら、怒ってくれていいです。でも、せんぱい、結局、逃げてるんじゃないですか?」

 俺は少し考えてから、「そうかも」と頷いた。千歳はほっとしたような呆れたような、微妙な顔をした。

「よくわからないんだよな。どうすれば、逃げてないことになるんだろう」

「……」

「俺は何から逃げてるんだろう」
 
 何かから、逃げているのは、間違いないかもしれない。
 バイトを始めたのもそうなんだろうか。そういう部分もあるかもしれない。
 でも……いや……。

「……ひなた先輩が言ってたのを、聞いたことがあるんです」

「何?」

「せんぱいは、書くのを怖がってる人だって。書くことも、書いたものを誰かに見せることも、怖がってる人だって」

「……うん」

 そんなことを、いったい何度、先輩に相談しただろう。思い出せないくらいに繰り返したような気がする。
 彼女は、よくも呆れずに俺の話を真面目に取り合ってくれたものだ。



「まだ、怖いんですか?」

 俺は少しだけ考えた。

「どうしてきみはいつも、俺のことを気にしてくれるんだ? ありがたいとは思うけど、少し不思議だよ」

「……べつに。最初はただ、気になっただけです」

「最初は?」

「その話は、いいじゃないですか」

 俺は頷いてから、彼女の質問に答えた。

「俺は器用な人間じゃないからさ。俺がどれだけ言い訳したって、俺が書いたものには俺のある部分を不必要なほど投影されてるんだよな」

「……それは、わたしも、そうかもしれないです」

「うん。でも、それって怖くないか? 自分の書いたものが分かちがたく自分と結びついているなら、読んだ人間には俺のことが分かってしまう」

 もしくは、分かったと錯覚できてしまう。

「だから……うん。怖いのかもしれない」

 千歳はしばらく考え込んだ様子だったけど、やがて溜め息をついてからコーヒーに口をつけた。


「本当に、そうですかね?」

「……」

「せんぱいの小説は、本当に、せんぱいと、分かちがたいほど結びついているんですかね?」

「どうだろう。……なんとなく、そういう気がしてたけど」

「わたしは、そんなの嘘だと思います。書いたものは手を離れてくって思ってます。
 そうじゃない小説なんて、ぜんぶ、ぜんぶ、無意味だとは言わないけど、くだんないです。そんなのは小説じゃなくて、自伝です」

「たしかに」と俺は頷く。

「入り口がそうでも、たどり着く先は他人事かもしれない」

 千歳はそう言ってから、俺の目を数秒じっと眺めた。何かを期待するみたいに。俺はもう一度頷いた。

「だから、せんぱいは小説を書ける人なんです。せんぱいは小説を書いてきた人間なんです」

「どうだろう。そうかもしれないけど」

「そうなんです」と千歳は強い調子で言った。まあ、俺の歪んだ色眼鏡よりは、信用できる観察なのかもしれない。


「だから、せんぱいが怖がってるのは、書くことじゃないと思います」

「……じゃあ、何が怖いんだろう」

 書くこと。書けないこと。伝えること。伝わってしまうこと。伝わらないこと。非難されること。
 軽蔑されること。拒まれること。

「……それは、わたしにはわからないです。ひなた先輩なら、わかるかもしれませんけど」

「どうしてそこで、あの人が出てくるわけ?」

「せんぱいが一番信頼してるのは、あの人じゃないですか」

「……どうして、そう思うの?」

「見てればわかります」と、千歳はひなた先輩みたいなことを言った。

「……まあ、そうかもしれないけどね」

 信頼、と俺は考える。尊敬、と彼女は言い換えるかもしれない。どっちも似てるようで違う。
 なんだよ、と俺は呆れた気持ちになる。自分でわかってるんじゃないか。


 扉を開けた先には何もないかもしれない。誰も俺のことなんて待っていないかもしれない。
 そう思って、それでも俺は扉を開けた。その先に何があるのかを確かめようとした。

 でも、そこにあったのは何も変わらない日々。
 劇的でもなければ鬱屈としているわけでもない、ただ平凡なだけの当たり前の世界。
 その当たり前の世界は、とても流動的で、変幻自在で、だから、すぐに何もかもが変わってしまう。
 
 そんなのは、分かっていたことだった。
 
 それが悲しいなら、俺が怖がってるのは、きっと、変わっていくこと。
 
「誰かに、何かを伝えようとするだろ」

「……はい」

「でも、一生懸命がんばっても、伝わらないかもしれない」

「はい」

「がんばっても伝わらないのはつらい。じゃあ、どうすればいいと思う?」

「……」

「伝えようとしなければいいんだよ。大きな声を出しても相手の耳に届かなかったらがっかりする。
 でも、小さな声で話してるなら、伝わらなくたって仕方ない。諦めがつくし、覚悟だってできる」

「せんぱいは、いつも、矛盾してます」

「うん」



「じゃあ、せんぱいは、伝わらないことが怖かったんですか?」

「たぶん、それだけじゃないよ。全部が怖いんだ。伝わらないこと、伝えること、伝わってしまうこと。 
 だってみんな、俺のことを知ったら嫌いになるに決まってるんだ。俺はそういう人間なんだって、ずっと前から……」

 ずっと前から、分かっていた。
 だから、俺のことを理解してしまえば、みんな離れていく。
 去っていく。置いていく。
 
「……ほら、みっともない」

 自嘲して笑うと、千歳は一瞬だけ合わせて笑った後、真剣な表情で、

「バカみたい」

 と、そんなことを、俺の目をまっすぐに見つめて、言った。

「それで、ひとりでも平気みたいなふりをして、みんなの輪の中に入ろうとしないんですか?
 それなのに、ひとりになった途端、寂しいからって誰かに縋り付こうとするんですか?
 せんぱいは、いったいどうなりたいんですか?」

 そんなの、俺が知るもんか。

「誰にも、本当の自分なんて見せたくないんですよね。だったら、平気なふりをしてればいいのに。
 上っ面だけでも誰かとつながりあってればいいのに。それだけじゃ満足できないくせに、それ以上は怖いから嫌だなんて、そんなの……」

 そんなの、矛盾してますよ。千歳の声は、明らかに震えていた。



「……信じてもらえないかもしれないけど、それでも俺は今、正直に話してるつもりなんだよ」

「……」

「怖いんだ、たしかに、全部。でも、だからって、震えて、うずくまるのは、ただの反射だ。
 熱いものに触れたとき、手を引っ込めるみたいに。俺はそれでも、何かを変えたいって思ってるんだよ。
 足の竦みを抑えこまないと、どこかに向かえないことなんて、とっくに分かってたんだ。やりかたは、間違えたかもしれないけど」

「……ごめんなさい。わたし、変なこと、言いました」

「……」

「本当は、わかってるんです。わたしがどうこう言うようなことじゃないんです。
 せんぱいのことは、せんぱいのことで、だから、わたしとは関係ないんです。
 それなのに、わたしは……勝手に、せんぱいに苛立ったりして……」

「たぶんだけど」

「……」

「俺ときみは似てる」

「……たぶん、そうなんでしょうね」


「なんだか、わかったような気がする」

「……なにが、ですか」

「俺がどうすればいいのか。というか、本当は分かってたのかもしれない。
 恐さにやられて震えてるだけじゃダメだって、俺は教わっていたはずなんだ。
 恐くて、足が竦んで、震えて、行動に移せなかっただけで、俺は知っていたのかもしれない」

「……」

「怖くても、書きたいなら書くしかないんだよな。当たり前のことだよ。
 こんな当たり前のことに……いつまでも躓いていられない」

 千歳は泣いているようにも見えた。でも、実際に泣いているわけではないようだった。

「バイトを始めたのは、べつに逃げるつもりじゃなかった。ちょっと、考えてることがあったんだよ。
 でも、そういうふうに見えたってことは、やっぱり俺は逃げたのかもしれない。
 ……だってさ、西村も枝野も怖いんだもん」

「……先輩たち、聞いたら怒りますよ」

「べつに、怖いから逃げるってのも、それはそれでいいんだろうけど。でも、たぶん、それだけじゃなかったんだろうな、結局」

「……」

「俺はいつも不安定でさ。寄る辺がなくて、足元が覚束なくて、だから、誰かに縋りたくてたまらないんだよ。
 でも、そんなふうに誰かに縋り付いたりなんて、できるわけないって思ってた。そんなの、みんな軽蔑するって」

 窓の外の雪はいつまで降り続くんだろう。俺たちはいつまでこんな場所に居続けるつもりだったんだろう。

「だから、俺は俺なりに、自分の足で立ってみなくちゃって。そこからだって、思った。
 どうすれば、そうしたことになるのか、わからないけど。なんでも試してみようって思った。
 要するに俺は、誰かに縋りつくことすら、怖かったんだろうな。未熟な自分のまま誰かと触れ合うのが怖かったんだ」


「……」

「でも、成熟してから人間関係を築くなんて無理な話なんだよな。
 みんな、関わり合いながら、上手いこと学んでいくんだ。知ってるはずなのにな。そんなこと」

「……せんぱい」

「……なに?」

「わたし、言いそびれていたことがあったんです」

「なに、それ」

「……というか、本当の用事が、今日は、あったんです」

 彼女は自分の鞄の中を探って、中から小さな紙袋を取り出して、こちらに差し出してきた。

「なに、これ」

 俺は紙袋を受け取って、彼女の反応をうかがってから、中身を取り出した。
 中から出てきたのは、見覚えのあるハンドタオルだった。

「……これ」


「雨の日に、借りたやつです。ずっと、返しそびれてたの、忘れてたんです、わたし。ごめんなさい」

「……」

「ありがとうございました、せんぱい。せんぱいは、自分のことを知ればみんな嫌いになるって、そんなことを言いましたけど。
 わたしは、そんなことないと思います。せんぱいは、自分で思ってるよりずっと、まともな人だと思いますよ」

「……」

「ごめんなさい。好き勝手言って。わたしはたぶん、自分をせんぱいに投影して、それで責めてたんです。
 だから、せんぱいはきっと、悪くないのかもしれない。せんぱいはずっと、がんばってたのかもしれない」

「……きみはさ」

「……はい」

「俺を買いかぶりすぎてるよ」

 千歳は、伏せていた目をこちらに向けて、くすりと笑った。

「それは、わたしの勝手です」


44-1 立たない → 経たない
51-3 。不器用なようで器用な人。→ 。器用なようで不器用な人
191-14 も話を → 話を

つづく

なぜ僕のそばには千歳や先輩の様な方々がいないのだろう
乙!




「結局、俺は無駄なことをしてるんじゃないかって気がするんですよ」

「たとえば?」
 
 そうだ。あのときも、俺はひなた先輩に相談したんだった。

「無駄なことをぐるぐる考えて、身動きがとれなくなって……。そんなのって、明らかに間違ってるじゃないですか。
 俺はもっと、地に足をつけて、難しいことを考えるのなんて諦めてしまうべきなんじゃないかって」

「……」

「そうすればもっと、世界が鮮やかに見えるんじゃないかって。そんなことを、いつも、考えるんです」

「……」

「考えないことが、一番賢いのかもって」

「……どうだろうね?」

 ひなた先輩は大真面目な顔で首をかしげた。



「わたしは、どうかな。どっちだって、生きていけると思うよ。
 どっちだってそこそこしんどいし、どっちがだけが楽ってわけでもないし。
 でも、結局、そういうのって選べないものなのかもしれないよね。そういうふうに出来上がっちゃったっていうかさ」

「……」

「きみは、どうなりたいの?」

「俺はずっと、憧れていたことがあるんです」

 と、そんなことを、そのときの俺は本当に言ったのだろうか。
 言っていないのかもしれない。記憶は捻じ曲げられて、勝手に作り替えられているのかもしれない。

「自分がもっとマシな人間になって、誰かと一緒に、街のどこかをわけもなく歩けるような、そんなことに。
 誰の目を気にすることもなく、変な劣等感に悩まされることもなく……そんなことを、真剣に思ってるんです」

「……」

「でも、このままじゃそんなの無理だって、そう思ってます。俺は明らかにくだらない人間だし、バカだし、考えが足りない」

 そうかもしれないね、とひなた先輩は言った。彼女は否定してくれないし、俺だってそれを期待していたわけじゃない。
 気休めを投げかけて話を終わらせるような人だったら、俺はきっと、彼女に惹かれていなかった。

「樹が、ね」

「……樹?」

「うん。樹が、あるでしょう。植物の。あれって、ゆっくりと成長するよね。わたしたちよりもずっと長く生きるし」

「はあ」

「樹が高く伸びていると、わたしたちはつい見上げてしまうけど、でも、本当はそれだけじゃないんだよね。
 高く枝を伸ばすためには、より深く地中に根を伸ばさなきゃいけない。どっちがだけじゃダメなんだって、わたしは思う」

「……」

「きみがしていることも、考えていることも、わたしは無駄じゃないって思うんだ。
 誰にだってある思春期特有のペシミズムだって言う人もいるかもしれないけど、本当はそうなのかもしれないけど、でもね。
 そうならないと見えないものだって、きっとあるって思うんだよ。そうなってしまったら見えないものも、あるのかもしれないけど」


 ひなた先輩はきっと、いつだって、俺の意思を尊重してくれていた。
 俺がどうありたいかを一番に考えて、俺の相談に乗ってくれていた。いつも。
 そして、いつだって、俺がいちばん欲しかった言葉を、いちばん欲しいタイミングで、投げかけてくれた。

「地中深くに根を伸ばして、光のない地の底まで行き当たって、そうやって初めて、高く枝を伸ばすことができるんだって思う。
 だからわたしは、きみの書いているものも、嫌いじゃないんだよ。だってそれは、わたしにも覚えのあるものだから」

「……」

「暗闇の中にとどまっていても何も見えないかもしれない。
 でも、ふたたび何かを見るつもりがあるなら、暗闇の中にまどろむことは無駄じゃないって、わたしはそう思うんだ。他の人がどう思うかは知らないけど」

「……でも、俺がしているのは、そんなにマトモなことじゃないような気がします」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「……」

「ペンギンは空を飛ぶことはできないけど、海を泳ぐことはできるし、ツバメは空を飛べるけど、海を泳ぐことはできない」

「……」

「みんながみんな、同じような生き方をすることはないし、それでどっちが正しいってことでもない。
 ただ、やり方が違うだけで、みんな生きようとしているし、それは誰かに責められるようなことではないと思うんだ」

「それでも、飛びたいペンギンがいたら?」

「きっと飛べない。でも、飛ぼうとすることはできるし、それは誰かに止められることじゃない」

「……」


「ねえ、きみは、きみなりに、たくさんのことを考えて生きているんだと思う。他の誰もがそうであるように。
 そして、きみに似ている誰かが、どこかにいるかもしれない。その人たちは、きみのことを分かってくれるかもしれない」

「……そうでしょうか?」

「うん。きっとね」

 わたしがそうだったように。ひなた先輩はそう言った。

 深く穴を掘ること。高い空を見上げること。吸って吐くことを呼吸と呼ぶように。
 ふたつの動作は一対であるべきなのだと彼女は言った。

「たくさんの人が死んでも、地球は相変わらず回っているし、だからきみが死んでも、やっぱり世界は変わらず回り続ける。
 そこに残せるものなんて、きっと何もない。きみがいつか言ったように、何もかもぜんぶ過ぎ去っていく。でも、それはきっと、重要なことじゃないんだよ」

 この世界にはたくさんの世界があって、それぞれの世界があって、わたしたちの無関係の世界が、増えたり減ったりし続けている。
 世界がひとつだったら、きっと、わたしたちは悲しみと喜びの矛盾でパンクしてしまう。
 だから世界がひとつじゃなくてよかった、なんていいたくないけど。
 
 理解できない苦しみや、理解されない苦しみが、伝わり合えない歯痒さから、世界がひとつだったなら、なんて考えてしまうけど。
 それでもこの世界は、そういうふうにできているんだと思う。

 家の庭に、ひとつの世界の終わりが埋まっているのと同じように、今日もどこかで誰かが死んでいる。  
 俺はその誰かのために、何かのために、なにひとつできない。……そういうふうにできている。

「わたしはね、少しだけでいいんだ」

 彼女は、そんなことを言った。

「たとえば、わたしの書いたものや、わたしの言葉や表情や、わたしの存在が、誰かにとって、何かになれたら。
 ただの気休めでも、暇つぶしでも、なんでもいいから、笑って思い出せるような何かになれたらって思うんだ。
 落ち込んでいる人が、少しだけ笑えるようになるような。そのあとすぐに、忘れられてしまってもかまわない。
 それでも、誰かの、ただ少しの気休めにでもなれたら、それだけで、わたしがここにいることは、無駄じゃないって思うんだよ」

「……部長は、既にそうなっていると思います」

「うん。……それが本当なら、わたしもわたしを、今より少しだけ、好きになれるかもしれない」





 世界には平衡感覚が欠けている。
 苦しんだ者が必ず報われるわけではないし、幸せの絶頂にいる者に苦しみが与えられるわけではない。
 人生はプラスマイナスゼロなんかじゃない。

 苦しい人に更なる苦しみが訪れることもあるし、その先に幸福があることなんて誰も保証してくれない。
 喜びの中に生まれて、喜びの中に死んでいく者もいる。

 誰もが、苦しみと喜びの両方を経験するから、そういうふうにも言えてしまうというだけで。
 計算なんてできていない。

「もし、神様がいて、苦しんでいる人に喜びを、喜んでいる人に苦しみを与えるような、そんなバランスの取り方をするとしたらさ」

 ひなた先輩の言葉が、俺の頭の中で、ずっと、響いてる。

「もし本当にそうだったら、わたしたちは、苦しんでいる人たちに対して、何もしなくてもいいはずだよね。
 たとえば、飢えて、渇いて、今に死んでしまいそうな人がいたとき、その人を素通りして、見殺ししてもかまわないってことだよね」

 その人の苦しみが、喜びに見合わないものなら、自分が何かしなくても、神様の采配で、喜びが与えられる。
 
「だから、バランスのとれた世界には、優しさは必要ない」

 完璧な人間が他人の助けを必要としないように、完成された世界は優しさを必要としない。
 
「だから、わたしたちは――」





「初めまして」

 翌週のバイトの日、初めて顔を合わせた"ユウ"とか言う人に対して、俺がそう声を掛けると、

「じゃ、ないよね?」

 そう、彼女は言った。てっきり男だと思ってたのに、女の子だったらしい。

「話したこと、あるよ」

「……ホント?」

「うん。一年のとき同じクラスだったじゃん」

「…・そうだっけ?」

「……うわ、ひど」

「ごめん」

「いや、いいけどさ。話したことあるっていっても、ちょっとだし。まあ、よろしくね」

 迷惑掛けると思うけど、よろしく。俺がそんなことを言うと、

「わたしも迷惑掛けると思うから、お互いさまだよ」

 と、当たり前みたいに笑った。
 それでいいんだと思った。

 今まで見逃してきたもの、見過ごしてきたこと、少し動きを加えただけで、いろんなものが、変化を伴って襲い掛かってくる。
 




「せんぱい!」

 部室に入った途端、千歳が大声で俺を呼んだ。

「……なに?」

「書けました!」

「……なにが?」

 間抜けな問いかけに、彼女は満面の笑みで答えてくれた。

「小説!」

「……おー。やったじゃん」

「やりました!」
 
 勝手な充実感か、達成感か、千歳は俺の適当な祝福なんて気にした素振りもなく、ひとりで喜んでいた。
 
「どうなったの?」

「読んでみますか?」

 俺は原稿を受け取って、目を通し始めた。



 それは突拍子もない話だった。
 穴の底にいた少女は、身動きもとれないまま、光を見上げ続けていた。
 やがて、大きな地震が起きて、彼女はけれど死ぬこともなく、生き埋めになってしまった。
 
 誰からも忘れ去られた、穴の底のひとつの生。

 けれど、そこに、不意に光が差した。

 光は、光というよりもむしろ、鮮烈な痛みとして、少女の身に起こった。

 彼女にその痛みを与えたのは、ひとりの少女だった。

「大丈夫?」と少女は言う。
 彼女は答えられずに沈黙する。

「こんなところにいるなんて、あんた、変なやつね」

 少女はそう言ってから、また空を見上げた。

「なんとなく、ここまで掘り進めてみたけど……」

 それから彼女は、穴の底の少女に目を向けて、

「ねえ、どうすれば、ここから抜け出せると思う?」

 そんなことを問いかけた。





「これで、全員分だな」

 大澤は部員たちを見回して、そう呟いた。
 枝野も、俺の知らないうちに、原稿を提出していたらしい。

 西村も、大澤も、枝野も、千歳も、俺も、みんな原稿を提出した。
 
「じゃあ、これから作業に入るか。意外と、まだ余裕あるし」

「それなんだけど」

 俺が口を挟むと、大澤は少し警戒した様子を見せた。

「少し、待ってもらえないかな」

「……どういう意味?」

「もう一本、書き上げたいんだ」

「……それは、かまわないけど。でも、テストもあるし、早めに完成させたいよ」

「うん。分かってる」

 頷いてから、言葉を続ける。

「明日までに、書き上げてくるから」

 俺の言葉に、みんなは揃って顔を見合わせてから、それぞれのタイミングで頷いた。





「わたしの言った通りだったでしょう?」

 俺はそのとき屋上にいた。彼女もまた、屋上にいた。

「結局、同じことを繰り返すだけだって、わたしはちゃんと言った。
 きっと、いつか後悔するって。今は忘れられても、いつか、幻肢痛みたいに体を焦がすんだって。
 あなただって、それを忘れたわけじゃないでしょう?」

 知っているような、知らないような、変な女。彼女の声は、どこか懐かしい感じがした。

「昔はさ、俺は、この世界はろくでもない、とんでもない場所だって、そう思ってた」

「何を言い出すの、急に」

「でも、すぐに気付いたんだよな。そうでもないって。世界はけっこう、よくできてて……。
 でも、ろくでもないのは俺だったんだ。たとえば綺麗なものがあったとしても、それは俺の手の届かない場所にあるんだって、そう思ってた」

 彼女は空を見上げていた。

「だから、諦めてた。でも、そんなのは、諦めだよな。自転車に乗る前から、乗れないって諦めてたって、乗れるようにはならなかった」

「……」

「きみの言う通り、繰り返しなんだ。できないことを、少しずつ、できるようにしていくしかない。
 俺がいろんなことをできるようになるまで、誰も待ってなんかくれない。覚束ない足取りでも、歩いていくしかないんだよ」

「……」

「そうやって、いろんな景色を知っていって、少しずつ、世界を拡張して……。
 諦めるのは、そのあとでもいいだろ?」

「結果が、同じだったとしても?」

「そうかもしれないけど……それはまだ、分からない」


「……うそつき」

「うん。俺は、嘘つきだった。でも、これから、嘘をつかないようにしたい」

「……」

「結局俺は、きみの言葉を封じ込めて、忘れたふりをしていただけだった。
 でも、それは間違いだった。どれだけ強く縛りつけたって、そんなんじゃ、ふとした瞬間に溢れ出てしまう。だってそれは俺の内側にあるものだから。
 俺は、きみの言っていることがわかる。そんなのは無駄だなんて、切り捨てられない。
 だから、連れて行こうと思うんだ」

「どういうこと?」

「この世界が、本当に、ろくでもないものなのか。俺が、ずっと、ろくでもない人間のままなのか。
 今は、まだわからない。だってまだ、何も確かめてないんだ。だから、確かめにいこう」

「……」

「もう、平気なふりなんてしないし、まともなふりなんてしない。
 封じ込めて、見ないふりなんてしない。影を実体から切り離そうなんて、無理な試みだったんだ」

「バカみたい」と、彼女は誰かみたいに笑った。
 
 もう、怪物を殺そうとはしない。
 その声は、俺自身だった。
 




 足音が聞こえて、鳥のはばたきが、追うように続いて、だから俺は、なんとなく、なんとなく……わかってしまった。

 振り返ると、当たり前みたいに、ひなた先輩が立っていた。
 制服の上に、黒いカーディガンを羽織って、彼女は、扉の向こうから屋上に現れた。

「……や」

 どこか、うかがうような、おもねるような調子で、声を掛けられる。

「……どうも」

 戸惑いながら、とってつけたような返事を口に出すと、先輩はくすくす笑った。何がおかしいのか、自分でもわかってない感じで。

「ねえ、小説は?」

「書きましたよ」

「……うん。見れば分かる。書けたときの顔してる」

「なんですか、それ」

「きみは、わかりやすいから」

「みんなには、正反対のことを言われますけどね」

「うん。そうなのかもしれない」



 ひなた先輩は、何も言わずに俺のすぐうしろまでやってきて、空を見上げた。

「雪、降らないかな?」

「どうでしょうね。降るかもしれない」

「降らないかもしれない」

「天気予報、見逃しました」

「わたしも」

 言葉はすぐに途切れて、だから俺はわからなくなった。
 彼女がなぜ、こんな場所に来たのか。

「ねえ、まだ、書くのが怖い?」

「……はい」

 彼女は、仕方なさそうに笑った。小さな子供のわがままに付き合うみたいな顔で。

「いつまで経っても、怖さはなくならないと思う。引きずって、飼いならしていくしかないと、今はそう思ってます。
 ……きっと、それでいいんですよね?」

「……それは、わたしが決めることじゃないから」

 俺は頷いた。


「ねえ」

 ひなた先輩は、いつもよりずっと、頼りない声で、心細そうな声で、そう呼びかけてきた。
 俺はそんな声が、心配になるよりも先に、なんだか嬉しくて、そんな自分の心の動きを、奇妙に思った。

「そこから見えるのは、どんな景色ですか?」

 彼女の問いは、すごくシンプルで。
 だから俺は、曇り空を見上げて、こう答えた。

「なんでもない、曇り空ですよ」

「綺麗に見えたり、しない?」

「何も。いつもと同じ、焼き増ししたみたいな、灰色の、冬の空です」

「そっか。そうだよね」

「でも、これが、俺の見ている、嘘のない景色だから」

「……うん。それでいいって、わたしはずっと、言ってたつもりなんだ」

「きっと、そうなんでしょうね」

「うん」



「……ひなた先輩は、俺の話を、黙って聞いてくれますよね。
 他のみんなみたいに、ごまかしたり、適当な慰めをかけたりせずに。
 真正面から、俺の話を聞いてくれた。それ、けっこう嬉しかったんです」

「……きみは、軽蔑するかもしれないけど、もともとこうだったわけじゃないんだよ。
 でも、わたしもそうしてもらって、嬉しかったから。そうしようと思ったんだ」

「それはもう、先輩自身のものだって、俺は、そう思いますよ」

「そうなのかもね」

 と、彼女はちょっと苦しそうに笑った。

「だからってわけじゃないんです」

 だからってわけじゃ、ないんですけど、と、俺の声は、やっぱり震えていて。
 みっともなくて、かっこわるくて、たぶん、変だ。

 でも、そこで逃げたら、これまでと同じだから。
 
「俺、先輩のこと、好きみたいです」

 振り向いて、彼女の顔を見ながら、そう呟いた俺の声は、さっきよりも上手に震えを抑えられていた気がする。
 声だって、ちゃんと、伝わるくらいの大きさで、出せた気がする。

「……え?」

 それでも先輩は、うまく聞き取れなかったみたいに、ちょっと表情をこわばらせて、首をかしげた。
 いつもみたいな、取り繕った笑顔じゃない、本当に、戸惑いだけの表情で。



 言い方が悪かったのかもしれない。そう思って、言葉を選びなおす。

「みたいです、っていうか。好きです」

「……えっと、それは」

 先輩は、後ろを振り返った。ちらちらとあたりに視線をさまよわせて、何かを探しているみたいに見える。

「……べつに、誰も隠れてませんけど」

「……あ、や」

 先輩がここに来たのだって偶然なはずだし、俺が何かの準備をできるわけない。

「え、でも……え?」

「……」

「ほ、本気で?」

 そう聞かれると、ちょっと自信がないんですけど、なんて言うわけにはいかない。
 こういう場面では、自分の言葉と自分の気持ちに、責任を持たなきゃいけないんだろう。
 きっと、枝野がそうしたように。

「本気で」


「人違い、とかじゃなくて?」

「……目の前にいる人を、どうやって間違うんですか」

「でも、でも……」

 俺はだんだん居たたまれなくなってきた。

「先輩がいないと、俺は寂しいです」

「……あ」

「このまま会えなくなるのは、嫌です。子供みたいなこと言ってるって、分かってます」

「……」

「どう答えくれてもかまいません。俺は、先輩のことが好きです。
 俺と、付き合ってください。俺、先輩と一緒にいたいです」

 それらしい言葉と、正直な気持ちを、ないまぜに言葉にする。
 小説を書くときにそうするように。

 書くことは伝達の手段だ。
 伝えることには恐怖が伴う。
 それでも、先を望むなら、言葉にするしかない。


「……ちょっと、考えさせて」

 先輩は、そう言ってから、あっというまに俺に背を向けて、屋上を去っていった。
 扉が閉まりきるより先に、彼女の後ろ姿は見えなくなった。

 逃げられた。

 ふられたかな、と俺は思う。気持ちが暗くなるのを感じる。
 それを強引にごまかそうとして――やめた。
 
 落ち込んだり、悩んだりしていいタイミングだ。

 俺は深く息を吸って、空を見た。
 相変わらずの空。何が起こっても、こちらのことなんて気にかけてはくれない。

 深く息を吐く。

 光に憧れた。だから、手を伸ばす。
 単純な話だ。いつだって、きっとそうだった。





 その日のうちに、俺は小説を書き上げた。
 すらすらと、とはいかなかった。

 何度も手直しを必要としたし、書き上げた文をまるまる消してしまうような事態に何度も陥った。
 
 そんなことを繰り返しているうちに、俺は何度もよくわからない感情の波に襲われた。
 
 海や、猫や、千歳の小説のことを思い出した。泣いている妹のことを思い出した。

 最後に思い出したのは、不思議と、枝野が文化祭のときに書いた、ひとつの川柳だった。

 何度も、振り回されたり、かき回したりしながら、やっとの思いで書き上げたあと、本当にこれでいいのかと、俺は何度も読み返した。
 
 これでいいのか? と俺は問いかける。でも、それに答えてくれる相手なんて俺しかいない。
 だから俺は、これでいい、と自分に言った。

 とにかくこれが、今の俺なんだ。





 予定よりも早く完成された部誌は、予定よりも早く図書室に置かれることになった。
 顧問は完成した部誌を見て、満足そうに何度も頷いていたけど、彼が内容に目を通しているとは思えなかった。

 大澤は「書けない」と言っていたのが嘘だったみたいに、何本もの掌編を載せていた。
 どうして書けなかったのかと訪ねてみたら、奴はこんなふうに答えてくれた。

「結局さ、褒められすぎたんだよな、俺は。だから不安になったんだ。
 評判が良かったから、次書いたのも読むよなんて言ってもらえたけどさ。
 でも、そいつらが俺の次の話を気にいるとは限らない。だって俺が次に書くのは、それとはちがう、別の、新しい話なんだから」

 たしかに、と俺は頷いた。

「でも、結局書くしかない」

 いつもみたいに、これ以上ない結論で、大澤は話を終わらせた。

「そういえば、ラーメン屋ってなんだったの?」

「ああ、いや、だからさ。ラーメンが美味い店だからって、餃子まで美味いとは限らないだろ」

「……」

「それでも、餃子はまずいって落胆されたら、なんとなく嫌な感じじゃん」

 そんなたとえをされたら、どんな悩みも形無しだなあ、と俺は思った。それでいいのかもしれない。




 十一月の半ばを過ぎた頃から、森里は俺に何枚かの写真を見せてくれた。
 路地裏の写真、街並みの写真、海の写真。つまり、風景の写真だ。

「最近、カメラが手に入ったから、適当に歩きまわって撮ってたんだよ」

「ふうん。なんで急に?」

「なんでもいいから、何かをしてみたい気分だったんだよな。
 いろいろ歩いてみると、俺ってけっこう、この街のこと知らなかったな、って思って。
 見たことのない店とか、路地とか。見て回りたくなった。そこには、何かすごいもんがあるかもしんないし」

「そうかもな」

 照れくさそうに話す森里の表情はいつもよりなんだかいきいきして見えて、楽しそうだった。
 カメラを手に町中を歩くっていうのも、なかなか楽しそうな趣味だ。そのうち真似でもしてみたいもんだなあと俺は思った。




 枝野の書いた小説は、枝野の川柳をそのまま小説にしたような話だった。
 ふてくされて眠り込んでいる熊、それでも熊の気持ちなんておかまいなしに、風が吹いて、熊は目をさます。
 それだけと言ってしまえばそれだけの。けれど、そこには何かが含まれている。少なくとも俺はそう感じた。

「なんだか、うまく書けたって気がしないなあ」

 枝野はそんなふうに、髪をかきあげながら、不満気に呟いた。

「最初はそんなもんかもしれないよ」

「あんたも?」

「俺は、今でもだよ」

「それでも書くんだ?」

「呪われてるから」

「……呪われてるの?」

「何かを好きでいるっていうのは、呪いみたいなもんだろ」

「……たしかにね」と、枝野はちょっと複雑そうな顔をした。

 そんな枝野に対しても、それから、大澤に対しても、西村は以前みたいな穏やかな接し方をしていた。
 彼女のことはよくわからない。でも、きっと彼女は、彼らのことが好きなんだろうと思う。




「部誌なんて作ったの? 文芸部」

「まあ、うん。普段は文化祭のときだけだけど、今回のは、ちょっと例外的に」

「ふうん。読んでみたい」

 土曜日、バイトの日に、"ユウ"はそんなことを言った。

「どんなの書いたの? ミステリー?」

「いや。ミステリーではない」

「じゃあ、恋愛モノとか、ホラーとか?」

「……うーん」

「それとも、教科書に載ってるような奴?」

「どうなんだろ。俺も、よくわからない」

「変なの」と彼女は言って、補充が必要な煙草を持ってくるためにバックルームへと向かった。


 売り場に戻ってきたかと思えば、彼女は思い出したみたいな調子で俺に質問を投げかけてきた。

「そういえばさ、佐伯はなんで、今のタイミングでバイト始めたの?」

「なんでって?」

「いや。珍しいじゃん。春からとか、夏休みからとかなら分かるけど」

「一応、今だって長期休暇前じゃん」

「でも、テスト前だし」

「俺、テスト勉強ほとんどしないし」

「あ、わたしも」

「俺は成績悪くないし」

「……今、わたしは成績悪いって決めつけたでしょ」

「違うの?」

「……黙秘」

 といって、ユウはむっとした顔をした。


「で、どうして?」

「じゃあ、俺も黙秘」

 なにそれ、と言って、彼女はまた笑う。

「そういえば、"ユウ"って、どんな字書くの?」

「字? 名前の?」

 うん、と頷くと、彼女はすぐに説明してくれた。

「優しいって字」

「……ふうん」

「あ、いま、似合わないって思ったでしょ」

「いや、べつに」

「またまた。本人もそう思ってるし」

「いや、ほんとに、そうは思わなかったけど」

 彼女は面食らったみたいな顔で俺を見返した。

「……そう?」

「うん。ただ、いい名前だなあって」

「……へんなやつ」

 と彼女は言った。




 ある日の放課後、千歳は部室に、ひとりきりでいた。
 
 俺は軽く声をかけてから、また自分の定位置に座る。
 そのうち、他の奴も来るだろう。

「……なんか」

 と、どこか不満気に、千歳は口を開いた。

「また、手持ち無沙汰ですね」

「そうだな」

「……繰り返してるなあ」

「気分の問題かもしれない」

「……え?」

「一本書き上げたら、また次のを書けばいいんだよ」

「……」

「部誌なんか作らなくても書けるし、作りたくなったらまた作りたいって言えばいいんだ。
 次は何をどんなふうに書いてやろうって、次こそあっと言わせてやるって、そんなふうに思えばいい」

「せんぱい、大人みたいなこと言ってる」

「……そうか?」

 本気の疑問だったのに、千歳はなんだか納得いかないふうな顔をして、しばらく机に顔をつけてうなっていた。
 なんとなく、ひなた先輩のことを思い出して、それから、今自分がいる場所のことを考えた。

 彼女が俺にしてくれたようなことを、俺も、彼女にできるだろうか。
 そんなことを、ものすごく真剣に、俺は考えていた。





 あっというまにテストが終わって、冬休みが来た。
 休み中の部活のスケジュールはだいたい平日で、バイトには問題なく出られそうだった。

 毎日のように雪が降って、寒さで目をさますようになって、朝起きるたびに床が冷たかった。
 
 休み中のある日の朝、リビングに降りると、また妹がしくしくと泣いていた。
 何がそんなに悲しいのか、俺にはよくわからない。きっと、教えてもらうこともできない。

 その日は雪が降っていなかった。俺は庭に出て、シャボン玉を吹き始めた。
 すると、妹もまた、パジャマ姿のままで外に出てきた。

「寒くない?」と訊ねると、「寒い」と返事がやってくる。俺は何も言わないことにした。

「……しゃぼんだま、とんだ」、と妹が歌う。

「しゃぼんだま とんだ
 やねまで とんだ
 やねまで とんで
 こわれて きえた」
 
 かぜ、かぜ、ふくな。
 しゃぼんだま、とばそ。

 白い空の向こうに、シャボン玉は吸い込まれていく。




 
 一応大丈夫な計算だったけど、初任給はちゃんと間に合った。
 
 だから俺は駅前の花屋にいって、カスミソウの花束を買って、妹に贈った。

「誕生日おめでとう」と言ったら、「今どき花なんて……」と妹は難しい顔をした。俺もそう思った。

「どうせなら食べられるものがよかったかな」と、照れ隠しのつもりか、珍しいわがままを彼女は言った。
 だから俺たちはふたりでケーキを買いに出かけた。

 だからどうって話じゃない。
 それでも妹は、「ありがとう」と言ってくれた。

 翌朝にはカスミソウは花瓶に入れられて、リビングの出窓に飾られていた。
 




 森里と一緒に、男だけのクリスマスや大晦日や初詣を楽しんだ後、学校が始まった。
 大澤の方は、西村と上手いことやってるらしかった。

「久々に来ると、なんとなく新鮮な感じがするけどさ」

 通学路を歩きながら、森里はそんなことを言い始めた。

「でも、すぐに嫌になるんだろうな。五回学校にいって、二回休んで、また学校にいって……そんな繰り返し」

「まあ、だろうね」

「……ま、仕方ないか」

 仕方ない、と俺たちは割り切った。だってそれが俺たちの生きている世界なんだから。
 そして、俺たちは道を歩く。いつもの見慣れた街。歩き慣れた道。代わり映えのしない景色。

 そこに、その日はひとつだけ変化があった。


「や」

 マフラーで口元を隠して、カーディガンを羽織った、ひなた先輩がそこに立っていた。

「あけましておめでとう」と、彼女は、いつもよりずっと静かな、どこか不安そうな声で言った。

 俺は少し唖然としながら、それでも、あけましておめでとうございます、と、どこか間抜けな返事をした。

「ねえ、少し、話せるかな?」

 彼女は俺の目を見て、そう言った。
 森里は、気を利かせたのかなんなのか、俺の隣から離れて、走り始めた。
 その背中を見送ることもせず、俺はひなた先輩を見る。

「いつでもどうぞ」

 俺が笑うと、彼女は少しだけ笑った。

「なに、それ」

 彼女は、覚束ないような足取りで、俺の隣にやってきた。

「あのね、わたし――」

 彼女の声は小さかったけど、それでも何かを伝えようとしていて、だから俺は、その声に耳を傾けた。
 とても熱心に。自分でもバカじゃないかと思うくらいに。

 彼女は、照れくさそうに、ごまかすみたいに笑って、それから――いつもみたいに、俺が一番ほしい言葉をくれた。
 嘘みたいに綺麗に笑いながら。

 だから俺は、不意に泣きそうになった。
 彼女はそんな俺を見ながら、また笑った。少しだけ、嬉しそうに。
 




 十二月に俺たちが作った部誌の編集の担当は大澤だった。

 あんまり乗り気ではないようだったけど、奴は結局、うまいことやった。
 奴は部誌の冒頭の一ページに、どこかの何かから引用したらしい、こんなエピグラフを載せた。


「  警告

 この物語に主題を見出さんとする者は告訴さるべし。
 そこに教訓を見出さんとする者は追放さるべし。
 そこに筋書を見出さんとする者は射殺さるべし。 」

 俺たちは小説を書いた。それがどんな出来だったかなんてどうでもいい。
 きっと、俺たちはまた何かを書く。今分かるのはそれだけだ。

 その先に何があるかなんて俺には分からない。
 何かあればいい、と俺は願っている。

おしまい

乙!
貴方の作品を初めて読んだのもいつかの夏でした。また会える日まで待ってます。

いい意味で引き込まれるけど入り込めないというか不鮮明でもどかしい感覚

面白かった 乙です


面白かったよ
お疲れさま

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