先輩「そこから見えるのは、どんな景色ですか?」 (451)


 文化祭が終わって一ヶ月以上経ったある日、ひなた先輩が部室にやってきて、「散らかってない?」とぽつりとつぶやいた。
 
「そうですかね?」と俺はとぼけてみたけれど、彼女はちょっと困ったみたいに笑ってから「うん」と頷く。

「そう見えるだけかもしれないですよ」

「でも、ほら、あれ……」

 と言って彼女が指さしたのは、机の上に広げられているリバーシのマグネット盤だった。
 今まさに勝負が行われている最中だ。

 対戦しているのは二人の女子部員。優位なのは黒で、角を三つ取っていた。
 場面はすでに終盤。黒に領地を蹂躙され尽くした白には、すでに逆転の手立てが残されていないように見える。

「あれはなに?」

「見たことありませんか? リバーシです」

「知ってる。そういう意味ではなくてね」

「オセロ?」

「言い方の問題でもないよー」

 間延びしたしゃべり方。彼女はちょっともどかしそうな顔で俺を見上げた。
 ちょっと前まで毎日のように顔を合わせていたのに、なんだか懐かしいような気分になる。



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「じゃあ、どういう問題なんですか?」

 真正面から問い返すと、先輩は一瞬気後れしたような様子を見せた。
 それでも結局、もごもごと口を動かして、言いにくそうに言葉を続ける。

「つまり、なんで文芸部の部室でオセロをやってるの、って聞いてるの」

 問いかけは実にシンプルだ。
 俺の方も、まあそう聞かれるだろうと思っていて、わざと話題をそらそうとしていたんだけど。

「ああ、それですか」

「それですかって、どういうことなの?」

 どういうこと、と訊かれても、俺もどういうことなのかわかっていなかった。

 ひなた先輩は三年で、十月に行われた文化祭が終わるまで、この文芸部の部長をやっていた。
 今は引退して、受験勉強に専念してるって話だけど、現役中に宣言していたとおり、ときどき部の様子を覗きに来る。


「まあ、息抜きっていうか……」

 俺の答えに、先輩はほっとしたようにため息をついた。

「そっか。まあ、ときどきならいいかもね。ずっと遊んでるってわけじゃないなら、いっか」

 いやーよかったよかった、と部長が笑って、俺も合わせて笑ったところで、机の方から声があがった。

「よし、またわたしの勝ち」

「また負け……?」

 勝負だけあってあがる声は対照的で、「勝ち」と楽しげな声をあげた方が立ち上がって、ホワイトボードに向かった。
 ホワイトボードには勝敗が記録されている。

 板面を左右に分かつ線が中央に引かれていて、左側に「あかね」、右側に「みさと」と書かれている。
「正」の字の数を数えてみると、「みさと」が二勝、「あかね」が今ので十六勝らしい。

 まずいことに、左上に今日の日付が書かれていた。
 今日だけでリバーシが十八戦も行われていたということが、あからさまに示されている。


「……息抜きって、なんだっけ?」

「今日はみんな乗り気じゃないみたいで」

「そ、そうなんだ。そういう日もあるよね、うん」

 先輩はささやかな期待にすがりつくような表情をしていた。
 
「まあ、気分に左右されやすい部活ですしね」

「そうだよね。わたしもけっこうまったりやってたし、強制されてできることでもないしねー」

 先輩は何かをごまかしたがっているみたいに「あはは」と笑った。
 俺の方もそのまま話をごまかしたかったので合わせて「ははは」と笑う。

「もう、ボードいっぱいだ」

「字、大きく書きすぎだよ、あかねちゃん」
 
 という会話のあと、「あかね」がホワイトボードをくるっとひっくり返した。
 
「あっ」と俺が声をあげなければ先輩は気付かなかったかもしれない。
 裏面の上部には「第一回秋季オセロ大会」という文字があり、その下にトーナメント表が描かれていた。
 
 普段部室に出入りしている部員たち全員の名前が、トーナメント表の下部に記されていた。
 ちなみ「あかね」はシードだった。


「いいかげんオセロも飽きてきたよね」と「みさと」がいつものような落ち着いた口調で言う。
 
 彼女は今学期から編入してきたばかりで、最初はだいぶ居心地悪そうにしていたけれど、今はだいぶ馴染んでいる。
 もともと同学年の女子部員がいなかったから、うまく距離感がつかめなかっただけなのかもしれない。
 幽霊部員だった同学年女子の「あかね」が顔を出すようになってから、彼女もだいぶリラックスできているようだった。

「……飽きるくらいやってたんだ」と、ひなた先輩がつぶやく。

 じとっとした視線を向けられて、俺は思わず目をそらした。
 窓の外の寒々しい景色の中を、木枯らしが吹き抜けていく。

「ほら、何がネタになるかわかりませんから」

「……たしかにねー」

 と先輩は素直に頷いてくれたが、それでも言い方に刺があるような気がした。


 ちょっと困ったような気分になる。
 べつに俺だって、サボりたいとか遊びたいとか思ってたわけじゃない。

「わたしがいるときだってけっこう適当だったから、変わってないっていえば、変わってないんだけどさ」

 先輩は無理やり納得しようとしているみたいにそう言ってくれたけれど、彼女がいた頃は、もうちょっと真面目な文芸部だった。

 みんな何かを書こうとしていた。
 休憩したり他のことをしたりもしたけれど、それでも読み書きにベクトルが向いていた。

 今は……。

「あ、また角……」

「みさと、無警戒すぎ」

 ……どう考えても、遊ぶことにベクトルが向いてる。


「……まあ、いっか」

 と先輩は諦めたみたいな顔をして、それからきょろきょろと部室を見回した。

「大澤くんは?」

 そっちに関しても、できれば俺はごまかしたかった。
 大澤というのは俺の同級生で、文芸部の新しい部長で、物腰穏やかで落ち着いた奴。

 この場にいる女子たちとも同学年だ。
 普段なら窓際に座って、本を読んだり何かを書いたりしているんだけど。

「あいつは……」

「何かあったの?」

「いや。最近、部室に顔を出してないんです」

「え?」

 心底意外、というふうに、先輩は目を丸くした。

「どうして?」

「さあ? 燃え尽き症候群とかですかね」




「書けない」と、一週間前の水曜、苦しげな表情をつくって、大澤が言った。

「は?」と俺は聞き返した。

 そのとき彼は部室の窓際の席に座り、ノートに向かってペンを握っていた。
 隣に座っていた俺は、「いちばんわかりやすいDTMの教科書」を流し読みしていたところだった。
 
「書けない!」

 と今度は大声で、彼はくりかえした。
 そのとき部室にいた文芸部員たちの視線が彼に集まったが、本人がそれを気にした様子はなかった。

 大澤は普段から穏やかで話しやすい奴だ。
 だから、そんなふうに声を荒げることなんてめったになかった。
 めったに、どころではないかもしれない。昔からの付き合いなのに、俺は彼のそんな姿を初めて見た。

「……どうしたの、いったい」

 訊ねると、彼は苛立たしげにペンを机の上に投げ出して、

「書けない」

 と今度は静かに呟いた。ぽつりと。
 部室中が静まり返り、みんなが彼の様子を伺っていた。


 次に大澤に声をかけたのは「みさと」だった。
 リバーシは部内最弱を誇る「みさと」だったけど、大澤の扱いに関しては誰もが認めるプロフェッショナルだ。

「みさと」特有の会話のテンポや声のスピードは独特の癒し時空を発生させる。
 このときの大澤もそれによって落ち着きを取り戻すだろうと、そう考えていた俺は安易だった。

「大丈夫?」

「大丈夫じゃない!」

 予想に反し、大澤は「みさと」に吠えた。彼女は少し怯んだように見えたけれど、

「少し休んだら?」

 と真面目な顔でごく平凡な提案をした。
「少し休んだら?」は、俺の中では女の子に言われたい台詞ランキング第八位くらいの台詞だったので、微妙に羨ましかった。

 興奮した様子だった大澤も、その台詞にいくらか冷静さを取り戻したかのように見えたが、それも一瞬のことで、

「ちくしょう!」

 と大声で叫んだあと、バッと立ち上がってあっというまに部室から走り去っていった。
 ちらりと見えた彼の横顔は、泣いているようにも見えた。

 ドタドタという足音と一緒に、

「俺は人間失格だー!」
 
 というよくわからない叫び声が聞こえてきた。
 それらは廊下の向こうへとあっというまに遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。 

 残された俺達は途方に暮れた。





 そんな水曜の顛末をひなた先輩に伝えると、彼女は一言、

「なにそれ」

 と呟いた。呆れも驚きも出てこないみたいだった。
 
「嘘だよね?」

「残念ながら」

「本当です」

 途中から俺の言葉を引き継いだのは「あかね」だった。
 ぶっきらぼうな口調は先輩に対しても変わらない。たぶん性格なんだろう。

「大澤くん、なんか思いつめてたみたいでした」

 と言いながら、彼女の黒石は淡々と角を制圧した。「みさと」が「うっ」とうめき声をあげた。
 ひなた先輩はちょっと心配そうな顔をしたあと、

「何か聞いてないの?」

 と、リバーシの盤面に真剣な眼差しを向ける「みさと」に訊ねた。
「みさと」は大澤と付き合っている。文芸部員は全員知っている話だ。

「知りません」、と「みさと」はちょっと強い調子で答えた。

「あんなやつ。メールもラインも返事来ないし。休み時間会いにいってもいないし、部室こないし」

 なんとなく気まずい空気が部内に流れた。「みさと」が白石を置いたとき、今度は「あかね」が「むっ」とうめいた。





 大澤の様子がおかしくなりだしたのは、文化祭が終わって二週間が過ぎた頃のことだった。
 
 文化祭で配布した文芸部の部誌の評判は上々で、クラスメイトたちも結構読んでくれたらしかった。
 わりと意外な結果だ。文芸部の部誌なんかに目を通す奴が、そんなに多いとは思わなかった。

 これは内容というより、手にとりやすさ、見やすさに配慮したレイアウトがよかったのだと思う。
 そのあたりの出来は、部誌の編集を担当した当時の部長、ひなた先輩の功績だ。

 よそがどうかは知らないが、うちの文芸部員はわりと面白い話を書く。

 今年の部誌に寄せて、ひなた先輩が書いたのは二本の短編小説だった。
 片方は、ストーリーは薄味だが文章そのもののリズムを楽しむような軽妙なノリの青春小説。

 ……あるいは青春小説と呼ぶのすら間違いかもしれない。始まりが終わりまで続くような話だった。
 終わりさえも、ただぶった切られただけかのような、ただ連綿と続く予感だけを残した話。

 もう片方はもの寂しい雰囲気のある話。
 叙情的な描写を抑制の効いた語り口で最後まで丁寧に書いている印象だった。

 二本の短編はそれぞれがそれぞれに対応する形になっていて、よく見ると徹底した対比構造が覗き見える。
 どちらかがどちらかの内容を否定するわけでもなく、独立しながら、別々の物語のあり方を示していた。



「みさと」が書いたのは絵本のようなほのぼのとした雰囲気の話だ。
 特に面白がる要素もないのに気付くと読み終わっていて、さらりとした読後感がある。 

 面白いのが台詞回しで、「些細なこと」と「重大なこと」がほとんど同じような重さを持つかのように語られていた。
 その危うげな平衡感覚が、薄氷の上を歩くような緊張感を生んでいて、起伏のない話なのに妙なスリルがある。
 それが処女作だというのだから、感心したこっちが救われない。

「あかね」と幽霊部員ふたりはやる気のない川柳を一本ずつ。
 ひなた先輩は彼女たちの作品を部誌のいちばん最初に配置した。 
 去年も似たようなことをやっていたから、たぶんわざとだろう。

 そんなわけで、俺以外の部員はだいたい、「面白かったよ」という声をクラスメイトなり誰なりに掛けてもらえたみたいだった。

 ちなみに俺がもらった感想は「ながい」の一言だけだった。
 
 そんな中、「面白い話を書く」奴の筆頭が大澤で、部誌の厚みの大半は彼が書いた何本ものショートショートが作り出したものだ。
 切なかったり怖かったり寂しげだったり優しかったり、大澤の話はいつだってよく出来ている。
 短くて小難しく、ややこしくて面倒な描写も少ないから、とっつきやすい。
 
 部誌の半分くらいがそのノリなのが、全体としての評判が良かった理由だろうと思う。

 そして実際、けっこうな数の生徒が大澤に直接「おもしろかった」と伝えていたようだった。
 たぶん、それが原因で落ち込んでるんじゃないかと思う。




 用事があるから、と、ひなた先輩が部室を出て行った。
 残されたのは俺と、「あかね」「みさと」の二人だけだった。
 べつに気まずいわけでもないけど、先輩が出て行くのと同時に沈黙がやけによそよそしくなった。

 そうなると居心地もあまりよくなかったので、俺は二人に声を掛けてから一人で帰ることにした。

「じゃあね」と「みさと」が俺の顔を見もせずに言うと同時、「あかね」の十九勝目が決まったらしかった。

 部室を出てから階段まで歩き、ふと思い立って、下り階段ではなく上り階段へ向かった。
 帰るだけなら階下に向かえばいいし、べつに上に面白いものがあるわけでもないのだが。

 習慣、というわけでもない。気まぐれのようなものだ。

 屋上に出る鉄扉は、いつものように冷たい。
 季節が季節だから、きっと風も冷たいだろう。

 扉は軋みながら開いた。


 文芸部の部員数は七名だ。

 俺と大澤、「あかね」と「みさと」、それから部室に顔を出さない幽霊部員の男子二名。
 引退したひなた先輩は除外。最後のひとりは、唯一の一年生、女子部員だ。

 彼女は、いつ頃からだろう、部室にいる時間が短くなった。
 かわりに、屋上でひとりで過ごしている様子を、よく見かけるようになった。 
 何をするわけでもなく、ただぼんやりと街を見下ろしているだけ。

 良いというのでも、悪いというのでもないけれど。

「こんにちは、せんぱい」

 俺が屋上に出ると同時、彼女はこちらを振り向いて、「仕方なく」というふうに笑いながら言った。

「こんにちは」

 俺がオウム返しのように返事をすると、彼女は何も言わないまま、フェンスに向き直った。
 余計な世間話を好まないのはお互い様だが、彼女の沈黙は、それだけが理由というわけでもなさそうだった。

 風は思った通り冷たかった。思ったよりも強かった。

 少し迷ったが、俺は結局、彼女との距離を少し詰めて、声を掛けた。

「部室、顔出さないの?」

 彼女はこちらに背中を向けたまま肩越しに振り返り、困ったみたいに笑う。

「今日は、気分じゃなかったので」

「そう」

 それ以上は何も言わずに、俺は踵を返して屋上を立ち去ろうとした。



 気配でそれを察したのか、彼女は急に振り返って、笑った。

「せんぱい、なにしに来たんですか?」

「いや、べつに。用事はなかったけど。生きてるかなと思って」

「なんですか、それ」
 
 彼女はとってつけたみたいに笑う。
 生きてますよ、もちろん、と彼女は言った。

「そう。ならいいや」

「そうですか」

「うん。……最近、いつもここにいるよね」

「そうですか?」

 言われて初めて気付いたというみたいに、彼女はちょっと戸惑った表情になる。

 少し考えた素振りを見せたあと、そうかもしれない、と彼女は視線を落としながら言った。


「高いところ、好きなの?」

「穴の中とか、井戸の底とか、低いところよりは好きかもしれないです」

「ふうん」

 よくわからない、中身のない会話。
 たぶん、互いに踏み込むのを避けているからだろう。

「せんぱいは、どうなんですか?」

「なにが?」

「屋上。前までは、けっこう頻繁に通ってたのに」

「そうだったっけ?」

 たしかに、何度も訪れていたこともあったけど、そう頻繁だったという記憶もない。
 覚えていないだけで、実は毎日のように通っていたのかもしれない。


「とにかく、俺はもう帰るよ」

 これ以上ここに居ても何も話すことはないと思い、俺は屋上をあとにしようとした。
 
「せんぱいは」、と彼女は言った。

「何も言わないんですね」

「何か言った方がよかった?」

「……そういうわけでも、ないですけど。ほら、部にも顔を出せとか、サボるなとか」

 ほとんど同じ意味だろ、と言い返しそうになってから、俺は少し考えた。

「俺は、他人にどうこう言える立場じゃないからなあ」

「そうですか」

 彼女は困ったみたいに笑う。


「そもそも、今は部長がサボってるし、実質リバーシ部だし」

「あはは」と後輩は笑う。何かをごまかそうとしているみたいに見えた。

「じゃあ、もう行くよ」

「はい。また明日」

「雨……」

「はい?」

「……雨が降りそうだから、あんまり長居しない方がいいよ」
 
 彼女はきょとんとしたあと、ぼんやりとした表情のまま空を見上げた。
 空は灰色、深く暗い。気付かなかった、と彼女はつぶやく。

「ありがとうございます」

 にっこりと笑ってから、彼女はひらひらと手を振る。俺は軽く頷いてからようやく屋上をあとにした。




 彼女が部誌に寄せたのは一本の掌編小説だった。
 あるいは小説と呼ぶのは間違いかもしれない。散文詩とでも呼ぶべきかもしれない。

 主人公である「わたし」は「庭」にいる。
 光る木々の庭。 

 その庭では、「子どもたち」が遊んでいる。
 錆びた廃バスの秘密基地、柱に蔦の絡まった、古い西洋風の東屋、涸れた噴水に投げ込まれた鈍色のコイン。
 魚のいない池と、鮮やかな緑の苔に覆われた地面。すり減ったペーブメント。粉々に砕けた鏡の破片。
 
 森に囲まれた、木洩れ陽の庭園。
 風が吹くたびに、枝葉の隙間から覗く空の光が揺らいで、きらきら輝いているように見える。
 そんな景色がずっと続いているのだ。

 白い服を着た「わたし」はその庭の「子どもたち」の一員だった。
 
 そこでは何をするのも自由だった。
「子どもたち」に何かを強いる者も、「子どもたち」をどこかに導く者も、そこにはいない。


 彼らは思い思いのことをして遊び、思い思いの相手と関わりあった。
 そんななか、「わたし」はあるとき、穴を掘りはじめる。
 庭園の隅の方で、理由もなく、白い服を土で汚しながら、ただ延々と。
 
 誰とも関わり合おうとせず、ただ穴を掘っていた。
 何のためなのかもわからないまま。

 穴を深く深く掘り進める。どこまでいけるのだろう、と「わたし」は考える。

 やがて彼女は、自分が穴を深く掘りすぎたことに気付く。
 地上はすでに遠い。深く深く掘り進められた穴は、登ることさえできない。

 彼女は自分が致命的な間違いを犯したことを知る。それが既に手遅れになってしまったことを悟る。
 抜け出すことは決してできない。

 鳥の鳴き声も、太陽の光も遠く、耳に馴染んでいた葉擦れの音さえも、気がつけば聞こえない。
 暗い穴の底で、ただ光だけが眩しい。物語はそこで終わっていた。





 家に帰ると、リビングのソファの上で膝を抱えて、妹がしくしくと泣いていた。

「どうしたの」

 と反射のように訊ねると、

「なんでもない」

 と即座に返事がかえってくる。まあこいつならそう答えるだろう。そういうやつだ。
 手のひらでまぶたをこすって、鼻を一度すすってから、彼女は「おかえり」と笑う。

「ただいま」と俺はあっけにとられたまま返事をして、カバンをテーブルの脇に置く。
 それからテレビの電源を入れた。

 
 画面の中では昔好きで観ていたドラマの再放送がやっていた。 
 最近の俺は、家に帰ってすぐにテレビをつけて、このドラマを眺めるのが日課になっていた。


 昔好きだったものなんて、今は楽しめないに違いない。そう思っていたけど、案外楽しんでしまっている。
 ようするに、俺という人間は、昔からそんなに変わっていないのだ。

 俺はテーブルの脇にそのまま腰をおろして、しばらくドラマを眺めながら、妹に何か訊くべきだろうかと考えた。
 何かあったのか、とか。でも答えはわかっていた。

 さっきだって似たような質問をしたのだ。
「なんでもない」と彼女は言うだろう。どんなことがあったとしても。


 それでも試みるくらいはいいかもしれない。
 そう思って、俺は訊ねてみた。

「なにかあった?」

「なんでもない」

 と、妹はやっぱり笑う。

 しかたなく俺はふたたびドラマに目を向けた。
 すると彼女の方も、他に意識を向ける先がないからか、興味もなさそうにテレビへと視線をやった。

 画面の中ではありふれた男女の恋愛が幾重にもかさなりあってからみ合って、不可思議な人間関係をコミカルに作り出していた。
 
 それはコミカルを通り越してケミカルですらあった。
 見ているこっちがその仕組の出来に感心するくらいに。
 
 ささやかな偶然の積み重ねが思いもよらない展開へと物語を運んでいく。
 
 そして俺は溜め息をつく。


 ドラマが終わった。テレビを消した。
 妹はしばらく黙り込んでいたが、やがて、ふたたび、しくしくと泣き声を漏らし始めた。

 気を紛らわすものがなくなったからかもしれない。
 俺はもう何も訊ねなかった。立ち上がってカバンを持ち上げ、リビングを出て階段へと向かった。

 自室のベッドの上にカバンを放り投げて、少しだけ考え事にふけった。
 いつものことだ。

 頭の中で行き交う言葉を強引に打ち切ったあと、自室を出て、ふたたびリビングへと向かう。
 
 妹はまだ泣いていた。
 俺はリビングの出窓へと歩み寄り、置きっぱなしにしていたシャボン玉液容器とストローを手にとった。
 
 窓を開けてシャボン玉を外に向けて吹く。
 しばらく何を言うでもなくシャボン玉を吹いていると、やがて妹は俺がしていることに気付いたらしく、

「なにそれ」

 と訊ねてきた。ひとりごとかもしれない。



「シャボン玉」

「なんであるの?」

「こないだ、コンビニにあったから買ってきた」

「ふうん。なんで?」

「なんでだろう。童心に返ってみたくなって」

「……さすが」

 と妹は言ったけど、なにが「さすが」なのか俺にはよく分からない。
 たぶん彼女自身もよく分かっていないんじゃないかと思う。


 しばらく出窓からシャボン玉を吹いていると、

「わたしもやりたい」とさっきまで泣いていたのを忘れたみたいな顔で妹が言うので、

「どうぞ」とストローを差し出すと、彼女はためらわずに受け取った。

 シャボン液にストローの先を浸してから、彼女は窓の外をめがけてシャボンを吹き出す。
 背丈の関係で、窓の外に向かうはずだったシャボン玉のいくつかはカーテンや出窓の棚にぶつかった。

 ちらりと妹の表情を見るが、特に気にした様子はない。
 というよりも、窓の外に出ていったいくつかのシャボン玉を目で追いかけていて、気付かなかったらしい。

 しゃーぼんだーま、とんだ、と彼女は子供みたいに歌って、またストローを液に浸す。

 吹き込むたびに、いくつものシャボン玉が風に乗って外へと流れていく。

 やーねーまーで、とんだ、と俺が歌うと、彼女はちょっとばかばかしそうに笑った。


「なんかたのしい」と妹が言ったので、俺はその場に彼女を残して台所に向かった。
 妹は一瞬だけ俺の方を気にしたようだったけれど、すぐにシャボン玉を吹くのに集中し始める。

 俺は流しの下の棚の中にしまっていたシャボン玉銃を取り出した。
 一緒にしまってあった専用の液をセットしてから、彼女の背後に忍び寄る。

 彼女の肩の上から窓の外に銃を向けて引き金を引く。
 無数のシャボン玉があっというまに吹き出して、窓の外へと流れていった。

「おおー!」と彼女は子供みたいな声をあげてから俺の方を振り向いた。

「なにそれ?」

「シャボン銃」

「どうしてそんなものがあるの?」

「どうしてだろう。ホームセンターで五〇〇円で売ってたから、楽しそうだと思って」

「わたしもやりたい」

「どうぞ」


 シャボン銃を受け取ると、妹は出窓から腕を突き出してぐっと引き金を引く。
 からからという音と一緒に、吹き出し口からシャボン玉が飛び出していく。

「おお、これは……」

 と妹は引き金を引きながら呟く。

「爽快」

「それはよかった」

「庭に出てやったら、もっと気持ちいいかな?」

「どうだろうね」

「行ってくる」

 言うが早いか出窓を離れると、妹はリビングを出て行った。
 とたとたという足音が遠ざかったあと、玄関の扉が開く音が聞こえる。
 
 庭に面した窓の向こうの、芝生の上に妹の姿が現れた。
 


「よーし」という彼女の声が、開けっ放しの出窓の方からかすかに聞こえる。
 重苦しい曇り空に向けて、彼女はしばらく引き金を引いていた。

 とくに楽しそうにも見えないけど、きっとはしゃいでいるんだろう。
 妹の感情表現は、だいたいいつも出力が足りない。

 やがてセットされたシャボン液が尽きたのか、銃は何も吐き出さなくなってしまった。
 すると彼女は出窓のほうへと回ってきて、

「それとって」

 と言って、俺にシャボン液の容器とストローを渡すように要求した。
 俺が黙ってそれらを手渡すと、彼女は代わりというみたいに用済みになったシャボン銃を置いた。

 遊園地のチケット売り場みたいなやりとりだなと俺は思う。

 銃口からこぼれて垂れた泡のせいで、シャボン銃の取っ手はぬるぬるしていた。
 けれど、彼女がそれを気にしている様子はない。

「ありがとう」

 妹はそのまま、ふたたび芝生の上へと躍り出た。


 それからしばらく彼女はシャボン玉を吹いていたが、楽しそうには見えなかった。
 むしろ表情が淡々としていて、退屈そうにすら見えた。
 
 ストローに息を吹き込むたびに空にまいあがる泡の群れを、彼女は熱心に目で追いかけていた。
 
 楽しそうには見えないけれど、楽しんでいないってことでもないだろう。
 ひとつひとつのシャボンの大きさを比べたり、吹き込むごとに数を比べたり。
 そういうふうに観察する楽しみってものもあるのかもしれない。
 
 万華鏡を覗くときだって、笑顔になる人もいれば、ぽかんと口を開けるだけの人もいる。

 結局は妹の頭の中で起こっていることだから、俺には知りようがないけど。
 まあでも、つまらなければすぐに戻ってくるだろうし。



 そのまま手持ち無沙汰にぼんやり窓の外を眺めていると、不意に遠くの方から低い音が聞こえてきた。

 なんだろうと思って空に目を向けること数秒、にわかに強い雨が降り始める。

「うわー」とかなんとか言いながら、妹が玄関へと走る音が聞こえた。
 俺は洗面所に向かってバスタオルを用意しようとしたのだけれど、
「洗濯物!」という声が玄関のほうから聞こえたので、あわてて階段を上って二階のベランダへと向かった。

 雨の勢いはほとんど台風みたいな様子だった。
 俺は角ハンガーごと衣類を屋根の下に引きずり込んで息をついた。
 
 どうにか危機を脱した後、妹のことを思い出して階下に向かう。
 タオルは一応の準備のつもりだったんだけど、妹は思ったよりも濡れていた。

 差し出したタオルを受け取って髪をぬぐいながら、
 
「すごい雨」

 と彼女は玄関の扉を振り向いた。濡れた髪が頬にはりついている。
 屋根を打ちつける雨の音が、うるさいくらいに響いていた。

「うん」

 頷きながら、俺は屋上に立ち尽くしていたひとりの女の子のことを考えた。



 彼女はまだあそこにいるんだろうか。何かを待っているみたいに、じっと空を睨んだまま。

 高い秋空の下で強い雨に打たれる彼女の姿。
 その幻視は一瞬のことだったのに、俺の頭に強い印象を伴って焼きついた。

 妹はしばらくぼんやりと、玄関の扉ごしに外から聞こえる雨の音を聞いていたようだった。
 それから不意にはっとしたような顔をして、

「ごはんつくらなきゃ」

 と真顔で言い、靴を脱いでからあっさりと俺を横切ってキッチンへと向かった。
 俺がリビングに入ると同時、彼女は思い出したように、

「お兄ちゃん」

 と俺を呼んだ。
 それからちょっとためらいがちに笑って、

「タオル、ありがとう」

 いつもみたいな声で、そう言った。

つづく




 夕飯を食べ終えたあと自室に戻り、さて、何をしようかと考えた。
 
 とりあえず筆記用具を広げて今日の授業で出された課題を進めようと考える。
 他にすることのない人間というものは暇つぶしに勉強をするものなのだ。

 集中を乱すものさえなければ課題はすぐに終わる。そうしてまた手持ち無沙汰になった。
 
 秋は日暮れが早い分、手持ち無沙汰でいると無駄な時間を過ごしているような気になる。
 長期的な目標でもあれば、実現に向けてささやかな努力でも積み重ねているところなんだけど。

 あいにく俺は無目標で自堕落な人間だったので、その日その日の先を考えるということが苦手だった。
 
 仕方なく、俺はいつも使っている大学ノートを広げて、小説を書こうと思った。

 小説。 
 実に文芸部員らしい暇つぶしだ。

 素案のつもりで、大雑把な場所と人物、時間を決め、適当に動かしてみる。
 残念ながら、すぐに文章が動かなくなった。運動がない。

 俺が溜息をつき、具体的ではないぼんやりとした考え事にふけっていると、不意に携帯が鳴った。

 型落ちのフィーチャーフォンは年季の分だけ塗装が剥げたり色あせたりしている。
 最新の機能なんかあっても使わないからという理由で、ずっと使っている古い携帯。

 とくべつ大事に使っているつもりもないけど、今のところ不具合は起きていない。
 頻繁に連絡を取り合うような友人もそんなにいないから、使う機会もあんまりないんだけど。
 


 画面を開くと、メールの新着を知らせる表示がディスプレイに出ていた。
 メール画面を開く。

 ひなた先輩からのメールだった。

「明日も部室に顔だすよー」

 そっけない文面。語尾に文脈を無視したクマの絵文字が添えられていた。

「先輩は絵文字とか使わないですよね」と以前、何かの話の流れで直接言ったことがあった。

「つ、使えないわけじゃないよ?」とひなた先輩は焦ったように口をもごもごさせていた。

 その次に何かの用事でメールが来たときから、彼女のメールには何かとクマの絵文字が付け加えられるようになった。
 ちょっと悪いことを言ったかなと思って、俺はけっこう反省していた。
 
 さて、とメールの内容に目を通す。

「いまはなにか書いてるの?」

 とメールは続いていた。またクマの絵文字。今度はふたつ。



 ひなた先輩は、二年生の多い文芸部員たちの中で唯一の最上級生で、なにかと俺たち後輩を気にかけてくれていた。
 俺や大澤の相談にも乗ってくれたし、入部した当初は何も書いたことなんてなかった「みさと」の質問にも熱心に答えた。

 たぶん根が良い人なんだろうと思う。
 そのひなた先輩も、もう「部員」というわけにはいかない。
 
 俺は少し考えてから返信した。

「了解です。
 いろいろと書こうとはしているんですが、どうも上手くいきません。
 先輩は勉強の合間に何かを書いたりしているんですか?」
 
 きっと何も書いていないんじゃないかと思う。
 それでも、俺と彼女の間に部活以外の話題なんてなかった。
 あるいは、大澤のことを何か言ってくるかもしれないと、思ったりもしたけど。

 数分もしないうちに、携帯が鳴る。

「わたしは封印してるから(クマ)
 もしなにか書いたら読ませてね(クマクマ)」

「機会があれば」

 とだけ返信して、携帯を机に置く。俺はふたたびノートに向かった。
 さっきまで頭の中で渦巻いていた、形にしようと思っていた場面は、今はとっかかりすら思い出せなくなってしまった。




 翌日、大澤は学校を休んだ。
 風邪だと連絡が来た、と担任は言っていた。

 放課後、俺は図書室に行って借りていた本を返却したあと、いつものように部室に向かった。
 ひなた先輩はまだ来ていないらしかったが、二年の女子二人組と、それから顧問がやってきていた。

「なんだこれ」

 と、顧問はテーブルの上のリバーシのマグネット盤を見下ろしながら言った。

「リバーシです」と「あかね」が答える。

「見ればわかる」

 顧問はそう答えてから溜息をつく。

「みさと」は気まずそうに視線を落として黙りこんでしまっていた。

「べつに、遊ぶのが悪いとは言わないし、こういうものを持ち込むことについてもあんまりうるさくは言いたくない」

 やる気のなさそうな気だるげな瞳で、無精髭の伸びた口元を小さく動かしながら、低い声で顧問は言う。

「でも、メリハリはきちんとしろよ。やっていい時間とそうじゃない時間がある。
 べつに喋るのに夢中になったりするのが悪いとは言わない。和やかなのは悪いことじゃない。
 それでも、やっていい時間とそうじゃない時間くらい区別がつくだろ?」

 黙りこんでしまった「あかね」の代わりに、「みさと」が「すみません」と言ってリバーシ盤を片付けはじめた。
 顧問は貫禄ありげに頷いた。


「他のものも、散らかしたままにせずに、ちゃんと片付けろよ」

 顧問はそこまで言い切ると、ちょっと気だるげに溜息をついて部室を去っていった。
 怒って出て行ったようにも見えたし、叱ったあとの気まずさに耐えかねたようにも見えた。

 残された俺達は重い沈黙の中に取り残される。
 誰も口を開こうとはしない。ひなた先輩さえも。

 少ししてから、「みさと」が立ち上がり、ホワイトボードに記された勝敗表を黙ったまま消しはじめた。
「あかね」はむっつりとした顔で俯いている。不機嫌そうな。悔しそうな。よくわからないけれど。

 それでも彼女もまた立ち上がり、部室のあちこちに散らばっていたものを片付け始めた。
 出しっぱなしになっていた部誌のバックナンバーを「みさと」がまとめ始める。
「あかね」は、いつのまにか持ち込まれ、机の上に並べられていた、化石を模したカプセルトイをかき集めた。

「あかね」が来てからこの場所に増えたものは、ひとつ残らず回収されて、彼女の鞄に詰め込まれた。

 まあ、そりゃあ、こうなるよな、と思いながら、俺は片付けを手伝おうとしたけど、

「座ってていいよ」と「みさと」が言った。

「散らかしたの、わたしたちだから」

 ……たしかに、俺は物を増やしてはいない。散らかしたままにもしていない。
 でも、たった一度とはいえリバーシに参加したのは事実だったし、散らかったものを片付けなかったのも事実だ。


 それでも「みさと」は、「座ってて」、と言う。
 座ってられるか、と俺は思い、返事をしないまま、部員たちが置きっぱなしにしていた本や辞書の類を棚にしまいはじめた。
「みさと」はそれ以上何も言わなかった。

 やがて部室は整然と片付けられた。ちょうどひなた先輩が部長だった頃みたいに。
 
「あかね」は、片付けが終わった部室を少しのあいだ立ったまま見回した。
 それから何か吐き出しようのない気持ちに振り回されたみたいに顔をしかめる。

「……ごめん、今日は帰る」 

「あかね」の言葉に、「みさと」は戸惑うような素振りを見せてから頷いた。

「ごめんね」ともう一度言って、「あかね」は部室を出て行った。

 残された俺と「みさと」は交わす言葉もなく立ち尽くした。
 扉の閉まる音。





「どうしたんだろう」

 と、重い空気を振り払おうとするみたいに、「みさと」は口を開いた。
 俺は一瞬、返事をしようかどうか迷った。彼女と俺は、一対一でまともに言葉を交わしたことがそんなにない。

 それでも、まさか、二人しかいない場所で、わざわざひとりごとを言ったりはしないはずだと思って、俺は返事をした。

「なにが?」

 彼女は少し困ったような様子でこちらに視線を向けたが、目が合うとすぐにそらしてしまった。

「……あかねちゃん。なんだか、変だった」

「叱られて、ちょっと落ち込んでたんじゃない?」

「あかねちゃんが?」と、「みさと」は心底意外そうに声の調子を高くした。「ありえない」とでも言うみたいに。 
 そのままの口調で、こちらに質問を返してくる。

「あかねちゃんって、そんな子なの?」

「俺より、きみの方が詳しいんじゃない?」

「そんなに付き合い長くないもん」

「俺だってそんなに長くないよ」

「でも、中学一緒だったんでしょ?」

「それ、誰から聞いたの?」

「……伸也くん」、と彼女は大澤の下の名前を言った。




 まあ、たしかに、中学は一緒だった。それでも、付き合いが長いかといえば、どうだろう。

 とにかく、重苦しい雰囲気をごまかしたくて、俺は希望的な観測を適当に呟いてみた。

「まあ、明日になればいつもみたいに部室に顔を出すんじゃないの」

「それ、本当にそう思ってる?」

 普段はおどおどとした調子なのに、今日の「みさと」はやけに食い下がる。

 とはいえ、俺だって本気で言ったわけじゃない。
「そうなればいいな」は希望的観測と、「そうなるだろう」という現実的推測は、まったくの別物だ。

 たしかに、帰り際の「あかね」の様子はおかしかった。 
 でも、それは仕方ないのかもしれない。
 もともと、目上の人間にああいう強硬的な態度をとられると、硬直して壁を張るタイプのように見えた。


 俺は溜息をついてから、机の上に目を向けた。

「……これ、忘れてったな」

 畳まれて放置されたままのリバーシ盤。俺がそれに手をのせると、「みさと」は不思議そうな声をあげた。

「それ、あかねちゃんのじゃないよ」

「じゃあ、誰の?」

 彼女は「知らない」と視線を泳がせた。

「わたしのでもない。でも、あかねちゃんのでもないよ。そう言ってたもん。もともと部室にあったって」

 ふうん、と俺は思った。じゃあ、いつからここにあったんだろう?
 他の誰かが持ち込んだんだろうか。
 それとも、ずっとまえからどこかの棚にしまわれていたとか?

 少し考えてから、どうでもいいやと思って首を振った。


 それから何分も立たないうちに、「わたしも帰るね」と言って、「みさと」は部室を出て行った。
 扉の閉まる音。
 
 うちの文芸部は自他ともに認める「ゆるい」部活で、部員はいつ来ていつ帰ってもいいことになっている。
 顧問もときどきしか様子を見に来ないから、幽霊部員だって二人もいる。

 顧問が来たときにメンバーが揃っていなくても、たまたま顔を出していないだけだと話が片付く。
 文化祭前なんかはともかく、普段はただだべっているだけで活動なんてろくにしていない。

 それでもみんな、何かを書いたり読んだりはしていたけど。

 そういう「ゆるさ」を許容しておいて、リバーシはダメっていうのも変な話だな、と俺は一瞬だけ考えた。
 でも、よくよく考えてみれば、「雑談する」のと「他のことに熱中する」のは違うのかもしれない。
 リバーシがやりたいならリバーシ愛好会でも作ってそっちでやっても別にいいのだ。

 ここはあくまでも文芸部なんだから。部室は関係ないことをするためのたまり場じゃない。

 そういう理屈はわかる。わかるけど……。




 大澤は学校を休んでいて、後輩は今日も今日とて部室に顔を出さない。
「あかね」と「みさと」は出て行ってしまった。
 残るふたりの幽霊部員たちは、今日だって顔を出さないにちがいない。

 まいったなあ、と俺は思った。いったいどう説明すればいいんだろう。
 もちろんあるがままを説明するしかないんだろうけど、と考えたところで、部室の扉が開かれた。

「やー、来たよー」

 と、ひなた先輩はいつものような間延びした声で堂々と部室に入ってきた。
 それから奇妙な間があったあと、彼女は首を巡らせて部室の様子を眺めた。

「あれ、他のみんなは?」

「帰っちゃいました」

 俺があるがままを伝えると、ひなた先輩は「えー?」とおかしな冗談でも聞いたみたいに笑った。

つづく

39-5 「ひなた先輩さえも。」 は、誤り。 




「えっと、みんな、本当に帰っちゃったの?」

 部長はしばらく黙って俺の表情をうかがっていたようだったけど、やがてそう訊ねてきた。
 俺は黙って頷いた。

「どうして?」

「……大澤は、もともと風邪で休みでした。
 さっき先生が来て、遊んでたのを見て注意していったみたいなんです。
 部室を片付けとけって。それで片付けが終わったら、ふたりとも帰っちゃいました」

「千歳さんは?」

「……ちとせ?」

「……一年の」

「チトセ……」

 っていうんだ。知らなかった。
 部長は俺の表情を見て何かを察したみたいに溜息をついた。
 
「あの子は、たぶん屋上ですよ」

「屋上?」



 どうして? と、先輩の目が問いかけてくる。そんなの知るわけない。

「さあ。高いところが好きだって言ってましたけど」

「部室だって二階にあるのに」

「高いところが好きって人は、普段生活してる場所より高い場所が好きなんだと思いますよ」

「なるほどねー」

 と先輩はうんうん頷いた。

「じゃあ、みんないないんだ」

「はい」

「え、じゃあふたりきり?」

「図らずも」

「……実はきみが一計を案じたってわけではなく?」

「なんのために?」

「……冗談のつもりだったけど、真顔で聞き返されると、かえってこっちが困っちゃうね」

 だったら言わなきゃいいのに、と俺は思った。


 ひなた先輩は、黙ったまま部室を見回し始めた。

 昨日までの散らかりようと打って変わって、今この場所はとても綺麗に整頓されている。
 その分だけ人の気配も足りない。窓の外の秋の景色と相まって、部室の風景はもの寂しく見えた。

「みんな、今日はたまたまいないんだよね?」

「そうだと思います」

「……思います、って?」

 俺は少し、口に出すべきか迷った。

「なんとなく、みんなもう来ないんじゃないかと思って」

「どうして?」

「……だから、なんとなく、なんですけどね」

 先輩は、不思議そうな、心配そうな、そんなよくわからない顔をした。

「あかね」と「みさと」が去っていったときに聞こえた、扉の閉まる音。
 屋上に後輩をひとり残して去ったとき、自分が扉を閉める音。

 繰り返されている。わかっていたことだ。
 わかっていたことだったのに。


「きっと、今日はたまたまだよ」

 ひなた先輩は、暗くなりかけた空気を振り払おうとするみたいに明るい声を出した。
 不器用なようで器用な人。不器用なようで器用な人。たぶんどっちもあてはまる人。

 暗い顔を見せれば、きっと心配をかける。だからあんまり、そういうふうにはしたくない。

「そうですよね」
 
 と俺はわざとらしい口調で合わせてみた。
 
 それでも今、部室には俺たち以外に誰もいない。

 べつに何か決定的なことが起こったってわけじゃない。
「あかね」だってちょっとふてくされてるだけかもしれないし、「みさと」だって用事があったのかもしれない。
 大澤だって風邪が治れば登校してくるだろうし、そのうち小説だって書けるようになって、部室にも顔を出すはずだ。

 後輩……「千歳」だって、たぶん。



 頭ではそうわかってるのに。
 どうしてみんないなくなってしまうような気がするんだろう。

 気をつかってくれたのかわからないけど、ひなた先輩はそれからしばらく雑談に付き合ってくれた。
 勉強の息抜きに読んだ小説のこととか、ワイドショーで見た交通事故にまつわる話とか。

 そうしているうちに俺の気分もいくらかマシになってくる。
 それを察したみたいに、先輩は「そろそろ帰るね」と言った。

「はい」と俺は作り笑いをして頷いたけど、本当は名残惜しかった。それでも甘えているわけにはいかない。

 扉の閉まる音。
「今日はたまたまだよ」という先輩の言葉を頭の中で何度か繰り返してから、俺は下校時間になるまでひとりで本を読んでいた。

 結局、翌日も大澤は学校を休んだ。「みさと」も「あかね」も部室には来なかった。




 ひとりきりの部室でパイプ椅子に腰をかけたまま、俺は身じろぎもせずに本を読んでいた。
 ちょうど読んでいたのは「夏への扉」だった。
 以前にも読んだことがあったのを読み返していただけだったが、退屈はあまり感じなかった。

 肩と首に疲れを感じて一度本を閉じ、軽く伸びをした。
 時計の針は既に下校時間になっていた。

 昨日の下校時間から今日の下校時間まで、時間はいつものように流れていたはずなのに、不思議と何があったのか思い出せなかった。
 たぶん何もなかったからだ。

 俺は閉じていた本に手を伸ばし鞄にしまいこもうとしたが、なんとなく違和感にとらわれてページをめくった。
 自分がさっき、どこまで読んでいたのか、思い出せない。どんな印象だったかも。
 
 たぶん、文字を頭に流し込むだけで読んでいた気になっていたのだろう。とんだ時間の浪費だ。

 俺は立ち上がって、それから部室を見回して、やっぱり誰もいないことを確認した。





 文芸部はそもそも茶飲み部に近い。

 大澤は小説を書くのが好きだし、部長だってそうだ。俺だってそうかもしれない。
 でも、「みさと」や「あかね」はどうなのだろう。彼女たちは、他に行き場がないから部室にいただけなのかもしれない。

 顧問だって、べつに文芸部の活動に熱心ってわけじゃない。
 遊んでばかりいたら昨日みたいに注意するけど、普段は放任、というより無関心を決め込んでいる。

 昨日だって、あくまで教師としてのメンツがあるから注意しただけだったのかもしれない。
 もともとミーティングの最中に居眠りするようなやつだったから。
 だから「あかね」が素直に納得できなかったのだとしたら、それは俺にもわかるような気がする。

 ひなた先輩は、そういうあり方を許容していた。
 みんなばらばらで、それでいい、と言っていた。
 ただ、できれば部誌に向けて何かを書いてほしい。書きたくないなら書かなくてもいい。彼女が俺たちに言ったのはそれだけだ。

 その結果、幽霊部員を含む全員が部誌に原稿を寄せた。
 人徳なんだろうか。彼女に言われると、やってみてもいいかな、という気持ちになるのだ。

 でも、彼女はもう引退してしまった。

 新部長の大澤は自分の小説のことで頭がいっぱいみたいだし、俺だって他人をどうこう言う立場じゃない。
「あかね」はもともと幽霊部員だったから、活動には積極的じゃなかった。
「みさと」だって編入生だから、もともとどういう空気で活動していたかなんてわからない。

 考えてみれば、今まで全員が部室に集まっていたことの方が不思議なのかもしれない。
 だって文芸部は、部員たちを拘束せず、強制していないんだから。
 いつ来てもいいし、いつ帰ってもいいことになっている。

 集まっているだけで、みんなばらばらのことをしていたのだ。
 自然の帰結なのかもしれない。




 鞄の中にしまったままだった携帯を取り出す。
 俺は着信がないことを確認して、溜息をついてから、それをしまい直した。

 昼休みに大澤にメールをしていたのだが、返信はなかった。

 まあ、調子はどうだというだけの内容だったから、返信が面倒だったのかもしれない。
 普段だったらそんなメールを送ったりはしないんだけど、今日はなんとも落ち着かなかった。

 俺は鞄を肩にさげて部室をあとにした。扉を閉める音がいつもより大きく聞こえる。

 落ち着かない気分のまま階段へと向かう。当たり前のように下に降りようとして、立ち止まる。

 少し迷ってから、俺は屋上に向かうことにした。

 どうして?

 今まで、彼女が部室に顔を出していないときも、俺はほとんど会いにいったりはしなかった。
 ときどき、思い出したときだけ、様子を見に行くだけだった。

 だからきっと、彼女の様子が気になったからというよりも、俺が誰かと話したかっただけなんだろう。
 




 けれど、屋上に彼女の姿はなかった。
 
 よそよそしい真っ白な曇り空は、屋内にいた俺の目には眩しかったけれど、それでも灰色にくすんでいる。
 溜息をつくと、息が白かった。もう十一月なのだ。そのうち雪だって降り始めるような、冬の入口にほど近い季節。

 そりゃ、そうだ。こんな寒い場所に、わざわざ長々ととどまりたがる人なんていない。
 高いところが好きな人が、寒いところが好きとはかぎらない。

 それでもいくらか、俺は落胆していた。彼女はここにいるものだと思っていた。
 会おうとすれば会える。そう思っていた。

 でも違う。知っていたはずなのに。
 目の前にいる誰かと、いつ会えなくなるかなんて、誰にも分からない。そんな当たり前のことは。

 俺は自分の思考が以前のように空転しはじめていることに気付き、言葉を振り払おうとした。

 何歩か前に踏み出して、屋上を見渡す。やはり誰の姿もない。フェンスと夕日と曇り空と鳥影。
 いやになって踵を返そうとしたとき、

「せんぱい?」

 とうしろから声が聞こえた。



 振り返ると、扉から少しずれたところ、入り口からの死角に座りこむ後輩……「千歳」の姿があった。

「どうしたんです?」

 と彼女はいつもみたいに笑う。何かをごまかそうとするみたいに。

 驚きと安堵が同時に胸の内側のあたりに広がった。
 それから俺は自分が「安堵」したことに気付いてちょっと咳払いをした。ごまかすみたいに。

 どう返事をしたものか困っていると、彼女は立ち上がり、スカートの後ろをぽんぽんと叩いた。

「なにか用事ですか?」

 彼女は制服の上に灰色のパーカーを羽織っていた。
 そこまでするほど高い場所が好きなんだろうか。

「いや、べつに、用事はないんだけど……」

 彼女は「ふうん」という顔をした。それから壁に背中をもたれて、ぼんやりと空を見上げ始める。
 穴の底から地上を見上げるみたいな具合。

 それで話は打ち切りになった。それ以上、会話をする気はないみたいだった。
 俺は彼女を真似て空を見上げてみたけど、空はやっぱり空でしかなかった。




 穴の底は、とても、暗いです。

 地上からまっすぐに伸びた、深い垂直の穴ですから、昼の間は、光はたしかにそそがれるのですが、
 あまりにも深いために、光は穴の底に辿り着くまで、細かな粒のように砕けて広がり、薄ぼんやりとしているのでした。
 その明るさは、ただ暗いだけよりも昏いように思えます。

 わたしは、穴の底にいます。

 自分で掘った穴の底で、膝を抱えているのです。
 
 もう、どれくらい経ったでしょう。
 ずいぶん長い間、という気もしますし、まだほんの少しだといえば、そうだとも思えます。

 どうして、こんなところにいるのだろう。不意に湧いたそんな疑問に、思わずわたしは自嘲の息を口から漏らしました。
 わかりきったことです。

 わたしは、自分でこの穴を掘ったのでした。自分の意思で、ここまで掘り進めたのでした。



 わたしは、穴の底から、空を見上げてみました。
 空? 空というのは、不適切なのかもしれません。空というのは、どこからどこまでを指すものなのでしょう。
 
 あの光を、わたしはなんと呼べばいいのでしょう?

 それが何なのか、わからないのに、わたしはそれを求めていました。
 焦がれていました。

 おそらく。

 でも……。

 その光は、あまりにも、遠い。

 わたしが鳥だったなら、翼をはためかせて飛んでいくこともできたはず。
 わたしがトカゲだったなら、四足で土壁を這い登り、出口を目指すこともできたはず。
 わたしがもぐらだったなら、この場所に安らぎを見ることもできたはず。

 けれどわたしは、鳥でも、トカゲでも、もぐらでもないのでした。



「遠い」

 と、わたしは何気なくつぶやきました。自分がまだ言葉を覚えていることに、少し、驚きました。
 けれど、もっと驚いたことに、その声に返事がかえってきたのです。

「それは、そうだよ」

 と、声は言いました。聞き覚えのあるような声。聞き覚えのないような声。

「だれ?」

 とわたしは訊ねましたが、すぐにどうでもいいやと思いました。
 あたりを見回しても誰もいないのです。ここには一人分のスペースしか空いていないのです。 
 鳥やトカゲやもぐらでもない限り、ここには誰も近づけませんし、彼らには言葉を扱うことができません。

 それはきっと、時間の経過によって摩耗したわたしの心が作り上げた幻聴なのです。

 けれど、わたしは思うのですが、幻覚と現実とのちがいはどこにあるのでしょう?

 わたしはわたしの感覚として、その声がわたしの耳を通って、たしかに聞こえていると感じます。
 その感覚はまったく現実のものと同じなのです。ただ、その声が存在し得ないというだけで。

 わたしにはその声が、現実的な感覚を持っているのです。
 では、それを幻覚と判断せしめるものはなんなのでしょう。
 
 それは、他者の目ではないかと思います。
 つまり、自分の目の前にあるものがたしかな現実だと決めるのは、自分を含む人間による多数決なのです。

 わたしがそれを「ある」と言っても、誰もがそれを「ない」と言うなら、それは「ない」のです。
 


 ……また、どうでもいいことを考えてしまいました。
 わたしには、そういうくせがあるのです。

 現実的な問題が降りかかったとき、その出来事を抽象化することで、現実を他人事のように処理しようとする態度。

 逃避、遁走、と人は呼ぶのでした。

 とにかく、わたしは耳をすませ、声の気配を探りました。もうどこからも聞こえません。
 だれ、という質問にも、答えてはくれませんでした。

 錯覚。やはり、錯覚だったのかもしれません。
 ……いえ、錯覚だということはわかっているのです。ここには誰もいないのですから。

 それでも声が聞こえたのなら、その声には、何かしらの意味があるはずなのです。
 それはたとえば、わたし自身が見逃している、わたし自身からの意思の漏出なのかもしれません。

 わたしはそのような声にこそ、耳を傾けなければいけないのでした。

「だれ?」

 わたしがもう一度訊ねて見ると、今度は、声が返事をよこしました。


「だれでもない」

 と、声は言います。女の声のようでした。

「幻聴?」

「受け取り方次第」

 と声は言いました。わたしは、まあ、それはそのとおりだな、と思いました。

「ねえ、あなたはずいぶん長いあいだ、ここに留まっているよね?」

「そうですね。もう、ずいぶん経つような気がします」

「ここから、出たいとは思わない?」

 わたしは、答えませんでした。少しのあいだ周囲を見回してみましたが、やはり誰の姿もありません。
 鳥もトカゲももぐらも、こんなところにはいない。それはそうなのです。だってここはあまりにも深いから。

 わたしは少し黙り込んだあと、ちょっとだけ笑って、こう答えました。

「……どうなんでしょう。よくわかりません」

「どうして? 簡単な質問でしょう?」

 わたしは頭上を見上げました。光が細かな塵のように降り注いでいます。出口は、針の先のように小さく見えました。


「だって、外に出て、どうなるんですか?」

「どういう意味?」

「だってわたしは、望んでここに来たんです。外は怖いものでいっぱいだから。
 わたしにはわからないルールがあって、みんながそれを共有しているんです。
 そこらじゅうに地雷があって、生き残れるのはそれをうまく避けられる人だけなんです」

「……」

「この穴は、とても昏くて、さびしいけど……でも、穴から出たからって、さびしくなくなるわけじゃないです」

「……」

「穴から出たら、痛いこととか、嫌なこととか、たくさん、あるんです。たぶんあの光はそういうものなんです。
 わたしは、昏いところに慣れてしまったから。それでもあの光に憧れてはいるけれど……。
 諦めてもいるんです。たとえこの穴を出られたって、あの光は、わたしのものにはならないって」

 わたしはしばらくのあいだ、返事を待っていましたが、声はいつまでたっても答えてくれませんでした。
 溜息をついてから、わたしはもう一度周囲を見回します。やはり、なんの気配もありません。

「ほんとうに、幻なんですね」

 溜息をついてから、もう一度頭上を見上げました。
 光は、ここから見上げれば、ほのかで、やさしげで、穏やかです。

 けれど、わたしが近付こうとしたならば、そのまばゆさと熱でわたしを灼いてしまうでしょう。
 暗闇に隠れたわたしの醜さを、みすぼらしさを、明るみにさらけだしてしまうでしょう。

 わたしは、この昏い穴の底を、愛してもいるのでした。
 だからこそ、この場所を抜け出すことは容易ではないのです。




 俺は階段を降りる途中で立ち止まった。

 何をやってるんだ。そう思った。
 文芸部員はみんなばらばらだ。

 二年の奴らはそれぞれ好き勝手に行動してる。俺だって、唯一の後輩にあんなことを言われるような始末だ。

 誰もかれも人のことなんて気にしちゃいない。俺達は集まっていたが、集団ではなかった。

 文化祭が終わって、目標がなくなって、集まる理由がなくなった。
 だからみんな集まらなくなった。だって、もともと仲がよかったわけでもないんだから。

 だから、べつにこのさき誰も部室に来なくなったって、不思議じゃない。全然不思議じゃない。

 ――部室に誰もこなくなって、よかったんじゃないですか?

 決めつけたような言葉。
 俺は昔のことを思い出しかけた。膝を壊したときにクラスメイトにかけられた言葉。

 気分が落ち着かない。なんでだろう。少し考えてから、気付いた。

 俺は腹を立てていたのだ。


 階段の途中で振り返り、俺はもう一度屋上の扉を目指した。

 扉は軋みながら開いた。

 後輩は、扉を開けた先の、正面に、こちらに背中を向けたまま、立っていた。
 彼女は扉の開く音に気付いたのか、驚いたようにこちらを振り返る。

 俺はその顔に声をかけた。

「なあ、部室、たまには顔を出せよ」

「……はい?」

 と彼女はあっけにとられたような顔をした。

「今日、ひとりでずっと本読んでたけど、全然集中できなかった」

「……はあ」

「たぶん、俺、慣れたんだよ。騒がしい中で本を読むのに。だから、静かだと落ち着かないんだ」

「……それ、先輩の都合じゃないですか」

 彼女はあきれたみたいに溜息をついた。


「自分だって、気まぐれで出たり帰ったりしてるくせに。
 騒がしいのがそんなにいいなら、駅前にラジカセでも持ってって録音して、それ聞いてればいいじゃないですか」

「……ラジカセ?」

「……」

 こほん、と彼女は咳払いした。

「だって、どうせ集まったって、それぞれバラバラなことをしてるだけでしょう?
 だったら、一人ひとりバラバラに行動したっていいじゃないですか。集まる理由がないです」

「でも、部誌を作るときは、みんな集まってた」

「それは……共通の目的がありましたから」

 そうだ。

 目的があった。理由があった。

 つまり――目的があればいい。


「分かった」

「……はい?」

「千歳の言い分はわかった」

 彼女はちょっと戸惑ったみたいな顔をした。

「せ、せんぱい?」

「なに?」

「や、その。……わたしの名前知ってたんですか?」

「……ああ、うん。まあ」

 こないだ知った、とはさすがに言わなかった。
 というか、俺、やっぱり人の名前を覚えない人間だと思われてるのか。
 ……実際覚えてなかったわけだけど。

「や、知ってたのはいいんですけど、なんで急に……」

 彼女は落ち着かなさそうに視線をあちこちさまよわせたが、言葉をそれ以上続けなかった。


「……とにかく、顔出してくれよ。俺は今日ひとりで、嫌になるくらい寂しかったんだ」

「……寂しい?」

「うん」

「先輩が?」

「そう」

 千歳は数秒のあいだ真顔でこちらをじっと見つめていたが、やがてこらえきれなくなったみたいに吹き出した。

「なんですか、それ」

 とびっきりの冗談でも聞いたみたいな笑い声。
 
「分かりました。じゃあ、気が向いたら」

「うん。そうして」

 俺はとりあえず、そこまで話をしてから、屋上を後にすることにした。

「それじゃあ」と声をかけると、「はい」と彼女は頷いた。

 今度こそ、俺は屋上を後にした。
 階段を下りながら、俺はぼんやりと考えた。

 明日になっても誰も部室に来なかったら、と俺は思った。そのときは俺だって手段を講じてやる。
 なくなるのが怖いなら、なくさないように、しっかりと掴んでおかなきゃいけない。


つづく




 翌日、大澤が教室にやってきたのは始業ぎりぎりの時間だった。 
 彼はマスクで口と鼻を覆い、顔をしかめながら教室に入ってきた。

 何人かのクラスメイトが「平気なの?」と声をかけると、彼は「うん」と疲れきったように頷いた。
 どうやら体調が万全とは言いがたいらしい。

 俺は声をかけようか迷ったけれど、そうしている間にチャイムが鳴って担任が来てしまった。

 そんなわけで俺と彼との何日か振りの会話は昼休みまで先延ばしになったのだが、その昼休みにも、

「ごめん、ちょっと眠い」

 といって、彼は机の上に頭を突っ伏して瞼を閉じてしまった。

 それでも一応、悪いとは思いながらも、一応確認しておきたかったから、

「今日は部活、無理そうか?」

 と訊ねてみた。彼は少しだけ面を上げ、珍しい動物でも見るような目で俺の顔をぼんやりと見つめてから、

「ああ、うん。……どうかな。ほら、このとおりだから」

 と言って彼は自分の口元の衛生マスクを示して、それから少し咳をした。 
 そりゃあそうだ。体調が万全じゃないんなら、さっさと帰って休んだ方がいい。

「そっか。うん。分かった」

 俺がそう答えたきり、大澤はまた顔を机につけて瞼を閉じた。



 俺が彼の席を離れ、自分の席に戻ると、森里が声をかけてきた。

「また喧嘩したのか?」

 俺と大澤と森里は、だいたいいつも一緒に行動している。
 一緒に行動するというか、お互いがお互いのちょうどいい話相手、という方が近いかもしれない。

 べつに普段からずっと一緒にいるわけじゃないけど、まあお互いなんとなく話すようになっていた。
 ときどき集まって遊んだりするけど、普段からべったりってわけでもない。

 そういう距離感のまま、なんだかんだで中高で四年以上一緒にいることになる。

 思えば長い付き合いかもしれない。

「べつに、喧嘩なんてしてないよ」

 と答えてから、

「ていうか、"また"ってなに?」

「こないだもしてなかった?」

「してないでしょ」

 俺の答えに、そうだっけ、と彼はどうでもよさそうに肩をすくめた。


「ま、あいつも体調悪いみたいだし、今日はそっとしといてやるか」

 いろいろ話したいことあったんだけど、と森里は溜息をついた。

「話したいこと?」

「そう。あ、そうだ。おまえにも言ってなかった。あのさあ」

 と森里は口を開いてから、少しだけ困ったように眉を寄せた。
 困った、というか、ためらったみたいな。
 珍しい。こいつはいつも、言いたいことを言って勝手に満足するようなところがあるのに。

 しばらく逡巡を見せたあと、森里は言った。

「海行かない?」

「は?」

「いや、海」

「……なんで?」


「わけもなく海に行きたくなったから」

「あのさ、今が何月か、知ってる?」

「十一月」と森里は言った。そう、そのとおり。

「なんのために行くんだよ、この季節に」

「あのな、海は夏だけのものじゃないんだよ。春だって秋だって冬だって海はあるんだよ」

「知ってるよ」

「じゃあ、いま海に行ったっていいだろ」

「寒いだろ」

「夏に行ったって暑いだろ」

「それとこれとは話が……」

 ……違わないのか?

「いいじゃん。ときには冬の海を眺めてまったりしっとりしながら宇宙の成り立ちについて考えようぜ」

「一人でやれよ」

 森里は言われて初めて気付いたみたいな顔で「それもそうか」と言った。
 そんな馬鹿話をしている間も、大澤はやっぱり机に突っ伏して目を閉じていた。




 そんな具合だからたいして期待してはいなかったけど、大澤はホームルームが終わるとあっさり帰ってしまった。

 俺は仕方ないと納得して、ひとりで部室を目指す。
 やはり誰もいなかった。

 いや、まあ待てよ、と俺は思った。
 ホームルームが終わってすぐに来たんだ。みんな向かっているところなのかもしれない。
 もしくは他に用事があって、それを済ませてから来るつもりなのかもしれない。

 ……そんなわけない。

 俺はとりあえず立ち上がって、部室から出た。 
 廊下に出てすぐに、窓の向こうの秋空が目に入る。薄く青みがかった高い空に、掠れるような雲がかかっている。

 部室のある東校舎を出て、教室の並ぶ本校舎へと向かう。

 二年の教室は三階。俺はうろ覚えの記憶をたどりながら、まだ生徒の話し声が途絶えない廊下を歩いて行く。
 どっちかだけでも残っていてくれるといいんだけど。

 そんなことを考えながら歩いていると、

「あ」

 と前方から声が聞こえた。
 いや、廊下には話し声があふれていたから、声が聞こえたのはおかしなことじゃないのだが。

 それでもとにかく俺はその声に意識を吸い寄せられて、ついでに声のした方に視線を向けた。

 立っていたのは「みさと」だった。


「どうしたの?」

 真正面から急にそんな問いをぶつけられて、俺は反応に困った。

「どうしたって、なにが?」

「だって、階段と逆方向じゃない?」

 ああ、進行方向の話か。

「いや。まあ、ちょっと用事があって」

「誰に?」

「きみに」

「わたし?」

 彼女はちょっと怪訝そうな(というか、いっそ気味悪そうな)顔になった。
 ……嫌われてるんだろうか。心当たりはないでもないけど。

「なに?」

「いや……今日は部活、出るのかと思って」

 彼女は不思議そうな顔をした。


「どうして急に?」

「急に来なくなったからだけど」

「あ、そっか。……うーん」

「……どうして部室、来なくなったの?」

「みさと」は困ったような顔で視線を落とした。……俺はたぶん、変だ。

「あかねちゃんがね、部室、出たくないって言ってたの」

「……それに付き合ってるの?」

「ううん。そういうんじゃないけど。今、伸也くんも部活に出てないでしょう? それに、千歳ちゃんも」

「ああ、うん……」

「ってなると、ほら」

 ……ほら、ってなんだ?
「みさと」は溜息をついた。

「まあ、あかねちゃんが出るって言ったら、わたしも一緒に出るけど。
 でも、あかねちゃんはたぶん、出たがらないだろうから」


「……あいつはなんで休んでるのかな。なにか聞いてる?」

「そのまえに、ひとつ訊きたいんだけど」

「なに?」

「文芸部って、部活は任意の時間に出るだけでいいって話じゃないっけ?」

 俺は答えに窮した。

「それに、きみは部長でもなんでもない」

「……それは、まあ、そうなんだけど」

「きっとみんな、そのうち部室に顔を出すよ。伸也くんは書くことに呪われてるみたいなところがあるし。
 あかねちゃんの方はわからないけど、もともと幽霊部員だったんでしょ? それで困ってなかったわけだし」

「……」

「そもそもきみだって、今まで部活に熱心だったようには見えない……」

 そこまで言ってから、彼女はちょっと戸惑ったみたいに言葉を止めた。

「……ごめん、べつにこんなこと言いたいわけじゃなくて。わたしが聞きたいのは、『なんで急に?』ってこと」




「あかね」のクラスを覗いてみたけれど、彼女は教室に残ってはいなかった。
 
 他の生徒もみな、残らず教室を出て行ったみたいだった。みんな向かう場所があるんだろう。

 廊下のざわつきは徐々に静かになっていく。
 彼女はどこにいったんだろう。

「みさと」は、「あかね」が出れば自分も部活に出る、と言った。
 とにかく、そんなようなことは言っていた。

 ……会話の後半の、俺についての話はとりあえずおいておくことにしよう。
 とにかく、彼女がなぜ部活にでなくなったかがわからなければどうしようもない。

 俺がどうしたいのかを考えるのは、後だ。

 彼女と話をしなきゃいけない。
 
 それでも、教室にいない以上、居場所を特定するのは困難だ。
 もう帰ってしまったのかもしれない。



 以前だったら、「あかね」はいつも東校舎の屋上にいたけど、最近のその場所にはいつも千歳がいる。
「あかね」が千歳と同じ場所に向かうとは思えない。

 彼女たち二人の仲が悪いわけではないはずだけど、話している姿は見たことがない。
 もし仲が良かったとしても、屋上で一緒にたそがれるようなタイプの奴らではないという気もする。

 ふとした思いつきで、俺は廊下を通りぬけ、階段を昇った。
 
 突き当りの扉。屋上への扉は、どこも似通っている。

 そして扉を開いた先に、案の定、というべきか、「あかね」は立っていた。 
 
 フェンスに寄り添うように、こちらに背を向けている。


 俺が来たことに気付いた様子はない。
 どうしようか少し迷ったけれど、結局彼女との距離を少しずつ詰めていった。

 足音はけっこう大きく響いたはずだったけど、彼女はまったく俺の存在に気付かなかった。 
 どうやら、音楽を聞いているらしい。

 つま先でリズムを刻みながら、機嫌よさげに鼻歌まで歌っている。
 


 普段俺は彼女の、むっとした表情しか見たことがなかった。
 だから、心地よさそうに音楽に耳を傾けている姿は、なんとなく意外だ。

 まあ、好きなことをしてるときに、不機嫌そうにしている奴なんていないだろうけど。

 ……いや、いるか。
 大澤とか、俺とか。

 楽しげな後ろ姿を観察するのも面白そうだったけど、一人だと思って油断しているところを見続けるのは、ちょっと悪趣味だ。

「おーい」と声を掛けたけれど、彼女は振り返らない。
 遮音性の高いイヤホンを使っているらしかった。

 俺は適度な距離を保ちつつ、彼女の横に回り込んだ。後ろからだとさすがに驚かれそうだし。

 真横に立っても「あかね」はこちらに気付かなかった。

 俺は手のひらを彼女の顔の前にかざして、ゆらゆらと振ってみた。


 彼女はばっとこちらを振り向き、唖然とした表情でこちらを見つめた。
 それから、キッと睨みつけてくる。……驚いたからって、そんな顔まですることはないと思う。
 
 彼女はイヤホンを外してくれた。

「こんにちは」

 と俺がいうと、

「こんにちは」

 と不機嫌そうに彼女は返事をしてきた。

 俺はとりあえず話しかけてみることにした。

「調子はどう?」

「あかね」は怪訝そうな顔で首を傾げた。

「なにが?」

「……いや、世間話」

 ああ、と彼女はどうでもよさそうに頷く。



「さっきまでは良かったけどね」

「今はダメなの?」

「嫌なことがあったからね」

「ふうん。え、それはどんな?」

「ちょっと嫌なものが視界に入ってきただけ」

「ふうん。え、それは虫とか?」

「似たようなもんかもね」

「ふうん。どこにでもいるもんなんだよな」

 はあ、と彼女は溜息をつく。 
 溜息をつきたいのはこっちの方だ。いくらなんでも嫌われすぎている。

 それに関しては触れないようにして、話を本題に移した。




「部活は今日も休むの?」

 彼女は目を細めてこちらを見た。

「どうして?」

「……なにが?」

「どうして、あんたがそんなことを気にするの?」

「みさと」にされた質問にそっくりだ。
 俺は迷いながら、慎重に答えた。
 
「部室に誰も来ないから」

「……それがなに?」

「いや、それだけ。おかしい?」

「おかしい」

 と「あかね」は断言した。たしかに、と俺は思った。



「……どうして、部室に来なくなったんだ?」

 俺の質問に、「あかね」は気まずそうに俯いた。

「どうして、あんたがそんなことを気にするわけ?」

「きみが来なくなった途端、部室に誰も来なくなったから」

「誰も?」

「誰も。千歳と大澤はもともと来なくなってたけど」

「みさとは?」

「俺とふたりきりにはなりたくないらしい」

 納得したように、彼女は頷く。そこで納得されるのは微妙に悲しい。

「……あの、ひょっとして俺、嫌われてる?」

「心当たり、ないの?」

「……」

 心当たりなんかなくても、人は人を嫌いになる。なんて言ったってしかたないけど。
 というか、まあ、心当たりもないではないんだけど。


 彼女はわざとらしく肩をすくめて笑った。

「冗談だよ。あんたが嫌われてるっていうより、単にふたりっきりになるのが嫌なんでしょ」

「どうして?」

「まあ、気まずいってのもあると思うけど、あの子の彼氏は、あんたの友達でしょ。
 いくら部活とはいえ、二人っきりになるのは避けたいんじゃない?」

「……よくわからないんだけど」

「あの子、変なところで古くさいっていうか、義理堅いから。いいところだと思うけどさ」

「あかね」は友人のことを話すとき、少しの間穏やかな笑みを浮かべた。
 俺が近くにいることを思い出したのか、すぐに引っ込めて、またむっつりとした表情に戻ってしまったけれど。

 もし「あかね」の言ったことが事実なら、「あかね」が部活に出るようになりさえすれば、「みさと」が部活に出ない理由もなくなりそうだけど。

 だとするなら、なおさら、

「もう一度聞くけど……」

「ん?」

「どうして、部活に出ないの?」
 
 そう質問せずにはいられない。



「あかね」はしばらく黙り込んだまま、空を見つめていた。
 空。青い空。掠れるような雲。薄い、均されたような空。

 一分も経った頃だろうか、「あかね」は静かに口を開いた。

「……べつに、たいした理由じゃないんだけどさ」

 俺は黙ったまま言葉の続きを待つ。

「なんとなく、恥ずかしくて」

「……恥ずかしい? なにが?」

「わたしのせいで、みさとまで叱られちゃったから」

「……リバーシの話?」

「そう。……なんだか、申し訳なくて」

「べつに、気にしてないと思うけど」

 俺の無責任な言葉に、彼女は無表情に視線を向けてきた。

「そんなの、わかってる。あの子はそんなの気にしたりしない。わかってる。
 でも、わたしが気にしてるの。わたしが、気にするの。気にしたって仕方ないってわかってても気になるの。
 そういうことがあるとわたしは、他人と関わることがとにかく嫌になって……誰かとまともに話せるような状態じゃなくなる」

「……」

「人と話すのが怖くなる。居てもたっても居られなくて、その場から逃げ出したくなる。
 自分でも変だってわかってるけど……でも、怖くなるんだよ」


「……考え過ぎだよ」

 気にしなくてもいいようなこと。 
 気に病んだって仕方ないこと。過ぎてしまったこと。

 いつまでも心のキャパシティをそんなもののために使っていても、疲れるだけでいいことなんてない。
 
 俺は、自分を棚にあげて、そう思った。

「――だから!」

 彼女は憤ったように声を張り上げる。俺はなんとなくそれを予想できていた。

「そんなの分かってるの! わたしは、わたしが……わたしだって……」

 怒鳴り声は、だんだんとか細く、かすれ、弱々しくなっていく。

「……ごめん」

 謝罪の言葉を口にすると、彼女は戸惑ったみたいに視線をあちこちにさまよわせる。

「……こっちこそ、ごめん」

 それから「あかね」は顔をフェンスの向こうの空に向け続けた。俺と目が合うのを避けようとするみたいに。
 上空を黒い鳥影が飛んでいく。

「悪いんだけど、しばらく放っておいて」

 結局、俺が「あかね」から引き出せたのは、そんなどこにも行き着かないような言葉で。
 得たものは、人の心をかき乱した罪悪感だけだった。


つづく




「あかね」のいた屋上を後にしてから、俺はふたたび部室に戻った。
 さっきまでと同じだ。誰もいない。顧問さえ来ない。

 いったい俺は何をやってるんだろう。
 もういいじゃないか。そう思った。べつにこんな場所にこだわる必要はない。
 森里と一緒に海にでも行ってればいい。部活なんてサボっちまえばいい。

 ここ以外に場所を見つけさえすればいいだけのことだ。
 どうしてこんな場所にこだわらなきゃいけない?

 そこまで考えているくせに、俺の頭は文芸部から離れるということをちっとも現実的に捉えてはいない。

 部室に戻ってから、しばらく何もせずにぼんやりしていた。
 やがて嫌気がさして立ち上がる。それから戸棚に向かい、今年の文化祭でつくった部誌を取り出した。

 部誌。

 熱心な部活でもないのに、全員が参加させて完成させた部誌。
 だからなんだっていうんだろう。べつにみんな仲が良かったわけでも、一生懸命に完成を目指したわけでもない。
 俺はページをパラパラとめくって飛び込んでくる文字の中に意識を投げ出した。


 ふと思いつき、自分の書いた掌編を読み直してみた。

 書き出しから続くどうでもいいような描写。どうでもいいような展開。
 時間が経ったからそう感じるっていう次元じゃない。

 べつに、書いてるときだって楽しかったわけじゃない。

 自分の書いたものだからだろうか。十分もしないうちに簡単に読み終えることができた。
 感想も何も沸かない。つまらない? 面白くない? そういうのとはちがう。 

 何もない、と俺は思った。
 からっぽだ。

 部誌を閉じて戸棚にしまおうとしたけれど、どうせ誰も来ないのだと思うと面倒だった。
 俺は机の上に部誌を置きっぱなしにしたまま、鞄を肩に提げ、帰ることにした。

 誰も来ないなら、何もしないなら、こんな場所でこれ以上時間を潰したって仕方ない。
 家に帰ってシャボン玉でも吹いていた方がよっぽど有意義だ。

 部室を出る。文化部の部室が並ぶ東校舎の廊下はいつだって静かだ。

 どこかの教室から誰かの話し声が聞こえる。

 どうでもいいやと思った。



 階段の前で少し立ち止まったけど、めんどくさくなって下り階段を選んだ。

 そうだよ、と俺は思った。
 みんなどうでもいいんだ。だったらべつにいいだろ。
 
 俺一人だけが残らなきゃいけない道理もない。

 階段を降りて、本校舎の昇降口を目指した。

 下駄箱で靴を履き替えていると、不意に視線を感じた。
 
 視線を感じる。変な言葉だ。音や光を伴うわけでもないのに、誰かに見られていると感じるなんて。

 気配の方向を見ると、一人の男子生徒が、俺がさっき降りてきた階段の近くに経って、こちらを見つめている。

 怪訝に思って視線を返す。彼は何も言ってこない。
 誰だろう。見覚えがあるような気もするし、ないような気もする。

 十数秒、言葉もなく視線を交わし合う。目をそらすことも、声をかけてくることも、彼はしなかった。

「誰?」

 と声を掛ける。男子生徒はそうなってからようやく視線を逸らした。それでもこの場を立ち去ろうとはしない。

「何か用事?」

 返事はない。ただ視線をぼんやりと泳がせたまま、そこに立っている。



「言いたいことでもあるの?」

「……部活」

「は?」

「部活、でないとダメだよ」

 なんとなく、必死そうな声に聞こえた。俺はなんだか気味が悪かった。

「放っておいたら、離れていくよ」

「……誰、あんた」

「どうして、逃げちゃうんだよ?」

「……」

 知ったようなことを言われているのに、不思議と不愉快にはならなかった。的外れだとも思わなかった。

「だったら、どうしろって言うんだよ?」

「それは、わからないけど、でも……」

「みんないろんなことを考えて、いろんなことをしながら生きてるんだよ。
 俺の都合でみんなを強引に集めるなんてできない。寂しいからってそれだけで寄せ集めることなんてできない。
 大澤だって、今はスランプに入ってるだけだよ。そのうち部室に顔を出すようになる。女子ふたりだってそのうち機嫌を戻すよ」

「……本当にそう思う?」


「言いたいことでもあるの?」

「……部活」

「は?」

「部活、でないとダメだよ」

 なんとなく、必死そうな声に聞こえた。俺はなんだか気味が悪かった。

「放っておいたら、離れていくよ」

「……誰、あんた」

「どうして、逃げちゃうんだよ?」

「……」

 知ったようなことを言われているのに、不思議と不愉快にはならなかった。的外れだとも思わなかった。

「だったら、どうしろって言うんだよ?」

「それは、わからないけど、でも……」

「みんないろんなことを考えて、いろんなことをしながら生きてるんだよ。
 俺の都合でみんなを強引に集めるなんてできない。寂しいからってそれだけで寄せ集めることなんてできない。
 大澤だって、今はスランプに入ってるだけだよ。そのうち部室に顔を出すようになる。女子ふたりだってそのうち機嫌を戻すよ」

「……本当にそう思う?」


「俺にどうしろっていうんだよ」

 もう一度そう訊ねる。男子生徒は黙りこんでしまった。

「強引に集めたって、また離れてくだけだよ。みんなが自分から部室に来る気にならないと仕方ないんだ」

「でも、このままじゃ何も変わらない」

「だから、それを俺にどうしろっていうんだよ。「あかね」の性格を俺が変えろっていうのかよ」

「そんなんじゃなくて、もっと、手段があるんじゃないのか」

「どんな? 「みさと」が言ってた通り、俺は部長でもなんでもない。ヒラの部員だよ。
 それに前までは俺だってサボりがちだった。注意する権利なんて俺にはない」

「わからないけど、でも、このままなんて嫌だろ?」

 俺は答えなかった。

「だって、寂しいんだろ?」

「……だからって、みんなが集まっただけで寂しくなくなるわけでもないだろ」

「でも……」

 俺は目を瞑り、十、数字を数えた。ふたたび目を開いたときには、彼の姿は消えていた。
 これでいい、と俺は思う。


 昇降口を出ると、秋空が目に入る。俺は最近空ばかり見ている気がする。人と話をしていない気がする。
 べつにそんなのは平気だ。寂しくなるのなんてたいした問題じゃない。

 慣れてしまえばどうってことない。それでも少し、つらいときはあるけど。
 そんなのはごまかせる。だましだましやっていける。

 だったら、なんで俺はみんなが部室に顔を出さないだけで焦りを感じるんだ?

 俺が寂しいだけなら、べつにどうだってなる。

 でも……。

 ――わたしがいるときだってけっこう適当だったから、変わってないっていえば、変わってないんだけどさ。

 部室で遊んでいる「あかね」たちを見たとき、それを気にせずにひとりで本を読んでいた俺を見たとき。
 ひなた先輩が、寂しそうだった。


 俺は立ち止まって、少し迷ってから踵を返して、また下駄箱で靴を履き替えた。

 そうだよな、と俺は思った。

 二年の部員たちはみんな自分のことしか考えていない。
 そんな俺達がそれでも部室に集まるようになったのは、いろいろ事情はあったけど、結局ひなた先輩がいたからだ。
 
 彼女がいなくなれば俺達はもともとバラバラだった。

 ……でも、そんなの、おかしい。

 考え事をしながら部室の扉を開くと、そこには千歳の姿があった。

「あ、せんぱい。良かった、帰っちゃったのかと思いました」

「……あれ? 来たの?」

「せんぱいが顔を出せって言ったんじゃないですか」

 不服そうに、彼女はつぶやく。
 誰かがいるとは思わなかったから、俺はすごく驚いた。

「どこ行ってたんですか?」

「いや、帰ろうとしたんだけど」

「人のこと誘っておいて」

 誘ってもすぐにはこなかったくせに、と俺は思った。



「でも、来たはいいものの、することがないんですよね」

 千歳は机の上に置きっぱなしだった部誌をパラパラと広げながらぼやく。
 そうだ。どうせ集まったって、することなんてない。

 俺達には目標がない。目的がない。理由がない。
 目的もないのに集まるほどのつながりがない。

「……訊いてもいいですか?」

「なに?」

「どうしてせんぱいは、わたしを部室に呼んだんですか?」

「……部員が部室に顔を出すって、当たり前のことだろ」

「でも……」

 もう何度も聞いたし、何度も考えていた。
 熱心な部活じゃなかったとか、みんな惰性で集まってただけだとか。

 そんなのはわかってるけど。

「ひなた先輩が……」

「はい?」

 千歳は、きょとんとした顔でこちらを見た。



「ひなた先輩が、みんなで部誌を作ったときにさ。
 すごく嬉しそうだったんだよな。俺の書いたものなんてくだらないものだけど、それでも書いてよかったって思ったよ」

「……」

「あの人はたぶん、このサボり部の変型みたいな文芸部の中に、そんな部なりの規律みたいなものを作ったんだよな。
 それはきっと、あの人も前年の先輩たちから受け継いだものでさ」

「……」

「俺たちは個人主義者ばっかりだから。大澤は部長になっても好き勝手するし、俺だって似たようなもんだし。
 千歳だって、急に部活に来なくなるし、ほかの奴らだってみんなそうだろ。
 でも、ひなた先輩は俺たちをまとめあげて、部誌を作り上げたんだよ」

「そう、ですね」

「それが、あの人がいなくなったとたん、バラバラだろ。
 それってなんか、あの人がしたことを台無しにしてるっていうかさ。
 それが申し訳ないっていうか……」

「……」

「寂しいだろ、そんなの」

 彼女はしばらく俺の発言について考えていたようだった。しゃべりすぎたような気がして、急に恥ずかしくなる。


「意外、なんですけど」

「なにが」

「せんぱいも、そんなこと考えるんですね」

「……きみさ、俺のことをどんな人間だと思ってたの」

「協調性がないくせに偉そうで、自分からは近づかないくせに仲間はずれは嫌い、みたいな」

「……」

「あ、ごめんなさい。本音を言い過ぎました」

 そういうときは「冗談です」と言えよ、と思った。

「ふうん……」

 彼女は何かを考えこむような様子で部誌の表紙をみつめた。
 そっけない表紙だ。イラストもなにもない。ありがちな名前のついた部誌。それでも俺たちで作った部誌。

「ねえ、せんぱい。わたしにひとつ、提案があるんですけど」


「提案?」

「はい。えっと……」

 彼女はためらうように眉を寄せたあと、気持ちを落ち着けるように深呼吸をする。
 俺はその様子をじっと眺める。先輩相手だからという物怖じも感じさせないような堂々とした目つきで、彼女は俺を見た。

「――部誌、もう一度作りませんか?」

「……え?」

 その提案は、唐突だったけど。
 でも、俺の頭の片隅にあったものと、たしかに同じ考えだった。

 理由があれば、みんなは集まる。
 目的があれば、集合する。

「それは……でも、俺たちだけで決められることじゃない」

「はい。ですから、ほかの先輩たちにも意見を聞いて、部長と先生にも話を通して」

「……」


「……できませんかね?」

「できなくはない、と思う」

 でも、それでみんながもう一度集まるようになるんだろうか?
 それはあまりに希望的観測に寄りすぎているような気がする。
 自分たちの気持ちを優先させすぎている気がする。

 ……でも、何もしないよりはマシだ。 

「……うん」

「じゃあ……」

「やってみよう。とりあえずここに二人、賛成意見が出てるわけだからな」

「やった」

 彼女は胸の前で小さく拳をつくった。

 その様子は、屋上からぼんやり空を眺めていた、この前までの彼女とは少し違うように見える。

「ごめんな」

「なにがですか?」

「いや。本当なら俺が言い出すべきだったからさ」

「どうしてです?」

「だって……」

「せんぱい、わたしは、もう一度みんなで一緒に、何かを書いてみたかっただけですよ」

「……そっか」

「きっとみなさん、参加してくれますよ。だってうちの部の人たちは……文章を書くのが好きな人ばっかりですからね」


つづく
>>105,>>106は重複ミスです




「それで、どうしてこんなことになってるんだろう?」

 俺の質問に、千歳は困ったような顔で首をかしげた。

「まずいですか?」

「いや、まずくないけど」

 翌日部室に向かうと、大澤と「みさと」がやってきていた。

「話を進めるなら早い方がいいと思って、一応先輩がたに連絡しておいたんですけど」

「あ、そうなの」 

「ていうか、きみが言ったんでしょ、部活に出てって」

「みさと」は当たり前のような顔で言う。それでも渋い顔をしていたような気がするのだが。

「来なかった方がよかった?」

 まあ、「みさと」からすれば、言われたから来たわけで、それを俺が不思議がるのもおかしいということなのかもしれない。



「あかね」の姿はない。
 しばらく放っておいて、と彼女は言っていた。しばらくって、いつまでだろう?
 気が向くまでずっと、ということかもしれない。その「気が向く」まで機会か時間かが必要なのは俺にもわかる。

「一応あかねちゃんにも声掛けたけど、やっぱり来ないみたいだね」

 それから「みさと」は大澤の方を見た。

 大澤の体調はもうよくなったらしくて、マスクもしていなかったし咳も出ていなかった。
 メールの返信がないから来ないと思い込んで、教室では声を掛けなかったのだけど、俺よりも先にやってきていたらしい。

 彼はちらちらと「みさと」の様子を窺うみたいに視線を向けていたけれど、目が合うとさっと逸らしてしまう。
「みさと」はいくらか苛立っていたみたいだった。彼女の連絡にも、未だに返事をしていなかったのかもしれない。

「で、話って?」

 いくらか緊張のこもった、でもちょっと前までよりは自然に聞こえる声で、大澤は椅子に座ったまま俺を見上げた。
 
「うん」と頷いてから、俺は部室にいる三人の顔を見比べた。

 大澤はどこか気まずそうだし、「みさと」はちょっとむっとした顔をしている。
 楽しげな顔をしているのは千歳だけだ。

「昨日、千歳と話したんだけどさ……」

「"千歳"?」と大澤は怪訝そうに聞き返した。

「……え、うん」

「おまえら、いつのまにそんなに仲良くなったの?」

「は?」

 俺が大澤の顔を見返してから、千歳の方を見やると、彼女はちょっと気まずそうに視線を逸らした。

「え? 変?」



「いや、だって、今まで名前呼んでるとこ見たことなかったのに、いきなり下の名前だから」

「……え、下の名前なの?」

「……やっぱり気付いてなかった」

 と千歳はぼやいた。俺はちょっと気まずくなった。

「ていうか、下の名前かどうかわからないってことは、まだ名前覚えてなかったんだ」

「みさと」が呆れた顔で俺を見る。居心地が悪くなって後ろ髪を掻いた。

「ほんと、失礼ですよね」

 千歳は「みさと」の方を見て、わざとらしく冗談めかした口調で言った。
 名前の話をごまかしたかったというのと、名前を覚えられていない悔しさが半々くらいに見える表情。
 ……何を他人事のように観察しているんだ、俺は。

「いや、まあそれに関しては、あとでほら、弁解の場を用意してほしいんだけど……」

「ていうか、上か下かもわからないのに、どうして「チトセ」って名前は分かったわけ?」

 いいかげん話を進めさせて欲しかったのだが、大澤の追求はしつこかった。

「それは、人が呼んでるの聞いたから」

「……ふうん?」

 大澤はちょっと不思議そうな顔で俺を見つめた。なんだっていうんだろう。


「ていうか、わたしの名前、ちゃんと覚えてる?」

「……」

「みさと」の問いかけに、俺は少しためらってから頷いた。

「言ってみて」

「……みさと」

「……なんで下の名前なの。苗字は?」

「……」

 正気かこいつ、という目で三人が俺を見た。
 見るな、俺を見るな。

「……話をする前に、自己紹介の時間でも用意した方がいいかもしれませんね」

 困った顔で千歳は笑う。俺も困った顔を作った。
 そこで会話が一度途切れて、沈黙がしばらく続いてから、

「学習しない奴」

 大澤が吐き捨てるようにそう言ったので、俺は少しだけ苦しくなったが、自業自得だと言われてしまえばそれまでだった。




「で、本題はなに?」

 若干呆れたような調子を残しつつも、それでも以前に近い比較的親しげな雰囲気で、大澤はそう訊ねてきた。
 大澤が口を開くと、「みさと」はわざとらしく手元のシャープペンをくるくる回し始めた。

「ああ、うん。そう、それなんだけど……」

 どう切り出そうか、迷う。言ってしまえば引っ込みはつかない。
 でも、ここに二人が来てしまった時点で、引っ込みはつかなかったのかもしれないけど。

 どうなんだろう。

「せんぱい」

 と、千歳が言う。促すような調子。まるで保護者に背中を押されて校門をくぐる小学生みたいな気分になった。
 そんな想像をしてから、ちょっとだけ情けない気持ちになる。

 こんなことでいちいちためらうような年でもない。

「まあ、昨日、千歳……と話したんだよ」

 下の名前だと知って、呼ぶときにいくらか躊躇が混じったが、いまさら苗字を呼び直すのも馬鹿らしい。
 そもそも、彼女は俺に苗字を教えてくれなかった。ネームを見ればわかるけど、俺は目がけっこう悪いから、今は確認できない。

 千歳は名前で呼ばれたことについては何も言わなかった。


「あのな、部誌を作りたいって話をしてたんだよ」

「……部誌?」

 いぶかるように、大澤は目を眇めた。俺は少し怖くなった。
 
「うん」

「なんで。文化祭で作ったし、今年の分はあれで終わりだろ」

「べつに年に一回しか作れないって決まりもないんだろ?」

「そりゃ、そうだろうけど……」

 大澤はためらうような素振りを見せた。「書けない」と大声で騒いでいたのがついこの間だし、無理もないのかもしれない。

「なんで急に?」

「えっと……」

 なんで、と言われると答えに窮する。なんでって理由だってないんだ、本当は。
 みんなが集まる理由がほしかったから、なんていっても、馬鹿にされるか、冗談だと思われるかのどっちかだ。
 そんなのは、動機としても不純だって気がする。



 そんなふうに口ごもっていると、

「あの、いいですか?」

 千歳が手をあげた。大澤が視線を千歳の方に向けると、彼女は怖気づくこともなく話し始めた。

「わたしが提案したんです。文化祭までの期間、わたし楽しかったんです。だから、もう一回作ってみたいなって思って」

「楽しかった?」

 大澤はピンと来ないみたいな顔で首をかしげた。

「だって、みんなでいつもバラバラに行動してるのに、あのときは一緒に部誌の原稿を書いてたじゃないですか」

 まあ、一緒に書くといっても、同じ部屋にいただけで、結局バラバラだったけどな、とはさすがに言わないでおいた。
 それに、千歳の「楽しかった」という言葉に嘘はないように見える。俺は、楽しくなんてなかった気がするけど。

「……だから、部誌?」

「だめですかね?」

「だめっていうか……だめでは、ないけど」


「……提案したのは、どっちだって言った?」

「わたしです」

「……ふうん」

 大澤は一瞬、ちらりと俺の方を見た。なんだっていうんだ。提案したのがどっちかなんて話、重要なのか?
 ……重要なのかもしれない。俺が言い出したことだなんて言えば、大澤が不審がるのも無理はないかもしれない。

「まあ、べつに作る分には良いと思うけど。文化祭みたいに配布する機会もないよ」

「そこは、えっとほら、あの、せんぱい?」

 大澤の言葉を聞いて、千歳がうかがうように俺の方を見る。

「……なに?」

「何か良い案はないですか?」

「……」

 考えてなかったんだ。俺は微妙な感心を覚えた。

「……図書室に置いてもらうとか」

「図書室?」

「一応、そういうスペースがあったと思うけど」

 一月に一度図書委員が出してる図書新聞以外、ろくなものが貼られていない掲示板の前の、配布物用のスペース。
 手に取る奴がいるかどうかは別問題だとしても、顧問に話を通せば、置かせてもらうくらいはできるはず。


「うん。まあ、先生に話せばそれはできると思う」

 大澤は頷いた。もっとごねると思ったのに、意外に話がスムーズに進んでいる。
 もしかして、もう書けるようになったんだろうか。どうでもいいことといえばそうなんだけど。

「でも、みんな書けるのか?」

「書ける、って、どういう意味ですか?」

 大澤は問い返した。

「ここに来てない奴に関しては、まあ、置いておくにしても、今十一月だろ。来月の下旬はもう冬休みだぜ」

「はあ」

「今から書き始めて、冬休みまでに間に合うかな?」

「そこは、ほら、えっと……」

 と千歳は視線をあちこちさまよわせたあと、救いを求めるようにこちらを見て、

「せんぱい?」

 とおもねるみたいに笑った。俺も思わず笑ったが、自分でも乾いているのがわかる笑いだった。


「べつに今学期中に無理して出す必要もないだろう。休み明けに出すのを目標にしてもいい」

「……どうして?」

 大澤の声の調子は、なんだか威圧的に聞こえた。俺の感じ方の問題かもしれない。

「なにが」

「提案したのはそっちらしいけど」と言って大澤は一度千歳を示したが、すぐに俺の方に視線を戻す。

「おまえのほうが具体的に案を出してるな」

「……まあ、立案者が何も考えてなかったもんだから」

 千歳は右手の人差指を曲げて頬をかりかりと掻いたけど、その仕草を見ていたのはどうやら俺だけだったみたいだ。

「どうして乗り気なんだ?」

「……あのさ、昨日、「みさと」にも似たようなこと言われたんだけどさ」

 彼女の名前を出したとたん、大澤の視線はちょっとだけ揺らいだ気がした。
 気のせいかもしれない。

「俺が乗り気だと、なんか変?」

「変? 変っていうか……」

 彼は考えこむように口を閉ざしたあと、

「うん、変だ」

 とそのまま答えを返してきた。さすがに溜息が出そうだ。


「なにが変なんだよ」

「部員の名前も覚えきれてない奴が部誌の発行にこだわるなんて、明らかに変だよ」

 大澤は断言した。俺は痛いところをつかれて目を逸らした。

「それに関しては、今後改善していきたいというか……」

「今までだってさんざん指摘されてたくせに、いまさら?」

「いや、これまでだってがんばろうとは思ってたんだよ」

「おまえのがんばりっていうのは、誰とも話さずに一人でちょっと離れた位置で本でも読んでることを指すのか?」

「いや、おまえだって一人で読んだり書いたりしてるじゃん」

「俺は名前くらい覚えてるよ」

「単独行動とってりゃ似たようなもんだろ。勝手に部に顔出さなくなるし。仮にも部長だろ、おまえ」

「サボりに関しては、おまえがとやかく言えたことじゃないだろ?」

「だから、おまえにも言えたことじゃないって話――」

「――ああ、もう! うるさい!」

 突然の「みさと」の大声に、俺と大澤はそろって口を閉ざした。彼女の表情はいらだちでこわばっている。
 千歳の方を見やれば、彼女はちょっと怯えたみたいに一歩身を引いていた。

 俺は強い後悔に襲われて俯いた。


「関係ないことで喧嘩しないで。いま、部誌の話をしてるんでしょ?」
 
 俺と大澤は黙り込んだ。
「みさと」は年長者みたいな口調で、諭すように言葉を続ける。

「結局、つくるの、つくらないの?」

 ……たしかに、今、俺がどんな人間かとか、大澤がサボってる理由だとか、そんな話はどうだっていい問題だ。
 
「……きみは?」

 それでもちょっとした復讐心が生まれて、他人事のようなことを言う「みさと」に向けて、俺は気づけばそう声を掛けていた。
 本当に学習しないやつだ。我ながら。

「なにが?」

「部誌づくり。賛成? 反対?」

「わたしは……」

 彼女は視線をきょろきょろと彷徨わせた。ああ、なんだよ、と俺は思った。
 どいつもこいつも似たもの同士じゃないか。

「……べつに、みんなが作るって言うなら」

「……そ」

 咎める気にも、あげつらう気にもならない。まあ、率直な気持ちではあるのだろうし。 
 


「じゃあ、つくろう」

 俺は大澤にそう声を投げかけた。千歳は一瞬だけ俺の方を見てから、反応をうかがうように大澤に視線を向ける。
「みさと」もまた、彼の方を見ていた。

 大澤は一文字に閉じたままだった口をかすかに開いて深い溜息をついた。

「わかったよ」

 肩をすくめて、仕方なさそうに、それが苦渋の決断であるかのように、大澤は重々しく呟く。

 千歳が「やった」と小さな声で呟いたのが、静かな部室の中でやけに大きく響く。
 それを気まずく思ったのか、彼女はわざとらしく咳払いをした。

 俺はとりあえず安堵の息を吐いた。

 それから千歳がこちらに近づいてきて拳をさしだしてきたので、俺も慌てて拳を作って突き合わせる。
 初めて友達ができた小学生みたいなはしゃぎ方だ。
 ハイタッチじゃないあたり、風変わりな奴だとも言えるのかもしれない。どうだろう? 案外普通かもしれない。

「普通」がよくわからない。

「じゃあ、決定ですね」

 千歳の言葉のあとに、「みさと」が小さな溜息をついていたのが、妙に印象的だった。

つづく




 昇降口を出て校門を過ぎたところで、うしろから「せんぱい」と声を掛けられた。
 声の主は、というか俺を「せんぱい」と呼ぶ生徒は一人しかいないんだけど、案の定千歳だった。

「残ってたの?」

「はい。せんぱいにお礼を言おうと思って」

「お礼?」

「部誌のこと、言い出したのはわたしなのに、何も考えてなかったから」

「べつに俺が何も言わなくたって、作るってことになったら大澤あたりが言い出してたと思うよ」

「それでも、実際に言ってくれたのはせんぱいですから」

「……きみ、ちょっと変わったよね?」

 前までは、もっと俺にそっけない態度をとっていたような気がする。
 彼女は一瞬表情をこわばらせた。少しだけ空気が軋んだような気がする。

 質問には答えてもらえなかった。
 俺はとりあえず歩くのを再開する。千歳は当たり前のように俺の横に並んだ。


「よかったですね」

「なにが?」

「部室に、先輩たちが顔を出してくれて」

「うん、まあ……」

「枝野先輩のこと、気になるんですか?」

「あかね」だけは部室に顔を出さなかった。
 それでも、大澤や「みさと」が部に顔を出したのは、たいした成果だ。

 俺というより、彼女の働きかけのおかげなんだろうけど。

「まあ、そうだね」

「きっと、そのうち顔を出してくれますよ」

「……かもしれない」

「……せんぱい、あんまり喜んでないです?」

 俺は答えなかった。

「みんながいないと寂しいって言ってたじゃないですか」

「それは……そうなんだけど」

 何か、やり方が間違っていたような気がする。
 


「とにかく、部長だって賛成してくれましたし、部誌を作るって目標だって決まりましたし」

「うん。それはよかったと思う」

 そういえば、千歳とは中学が一緒だったんだっけ。帰るにしても似たような方向になるはずだ。
 俺はぼんやりと頭上に視線を移す。空は灰色にくすんでいる。ここ最近ずっと。

 視線を下界に戻すと、距離を一定に保ったまま、同じ速度で千歳は隣を歩いている。

「せんぱいは、何を書くんですか?」

「なにが?」

「なにって、部誌ですよ」

「ああ、うん。どうしよう」

「……考えてなかったんですか?」

 ああ、そうだ。そこが変だったんだ。
 べつに自分が何か書きたいわけでもないのに、部誌をつくろうって言うなんて。
 やっぱり俺はどこか間違ってる。手段と目的を取り違えている。結果と過程を入れ替えている。


「きみは、何を書くのか決めてたの?」

 後輩は少し躊躇したように見えたけど、とりつくろった感じの笑みを浮かべてから答えてくれた。

「一応は。前の話の続きを書こうと思ってるんです」

「前のって、文化祭のときの、穴の話?」

「はい」

「書けるの?」

 彼女は口ごもった。俺は後悔した。

「いや、べつに変な意味じゃなくて。というより……」

「なんですか?」

「……俺も、前の話の続きを書こうと思ってたところだから」

「……前の話、って、文化祭のときの?」

「うん」

「書けるんですか?」

 と千歳は言った。
 それから数秒の間があったあと、彼女はくすくすと笑い始める。俺も少しだけ笑った。


「せんぱいは今度も同じものを書くのかと思ってました」

「うん。その方が楽なんだけど」

「慣れてるからですか?」

「というより、まあ、考える必要がないから」

「……考えないで書いてたんですか?」

「いや、結局は同じことの繰り返しだからさ」

 彼女は、わかるようなわからないような、という曖昧な顔で首をかしげた。

「でも、どんなふうになるんですかね、それって」

 今度は俺が首をかしげる番だった。なにせ俺は“続き”なんて書いたことがないのだ。
 いつも同じところから始まり、いつも同じところで終わる話。
 部屋から始まり、扉を出るところで終わる話。

“その先”については、あまり考えないようにしていた。

「あまり感覚的になりすぎない話にしたいと思ってるんだけど」

「……書けるんですか?」

 後輩はもう一度同じ問いを繰り返した。俺はやっぱり答えられなかった。


「それより、なんていうか、続きを書くっていうのが、難しくてさ」

「矛盾したり、ですか?」

「いや、矛盾があるのはべつに、かまわないんだよ。いざとなったら続きじゃないってことにすればいいし」

「書く前から逃げ道つくってどうするんですか」

「ごもっとも。きみはどんなふうに書くの?」

「読んでからのお楽しみです」

 といってもまあ、穴の底から始まるなら、そう突拍子もない展開にはならないだろうけど。
 でも、扉の外から話がはじまるなら、どんなことだって起こりうる。

 何が起こるのかが、問題だ。

「ひょっとして、せんぱい……」

「ん?」

「続きを書くのが怖いんですか?」

 その問いにすぐには答えられなかった。
 彼女はしばらく俺の方を見ていたみたいだった。何かを答えなくてはいけないのかもしれない。


「結局、俺が書いてきたものっていうのは、自分が書いて納得するだけのものだったから。
 でも、続きを書くなら、それだけってわけにはいかない」

「そう、なんですか?」

 千歳はまた首をかしげた。なんだかうまく伝わらないみたいだ。

「……なんとなく、こういうふうに書きたいっていうのはあるんだけど」

「どんなふうに?」

「……外に出たら、驚くほど楽しかったって話」

「それは……」

 書けるんですか? ともう一度千歳が言った。俺はやっぱり困ってしまった。


「書けないかもしれない。でも、書けるか書けないかは問題じゃないよ。
 結局、書きたいものがあるなら、それを書くために努力するしかないわけだから。
 それが思った通りにならなくても、それはまあ結果の話だ」

「じゃあ何が問題なんですか?」

 俺は少し考えてから、答えた。足音のテンポが少しだけ違うことに、突然気付く。歩幅が違うんだから当たり前だ。

 ふと後ろから「おー」と声を掛けられる。同じ学校の制服の男子。自転車に乗っている。
 
「今帰り?」と彼は言った。

「見ての通り」と俺は答えた。

「彼女?」

「ただの後輩」

「ふーん。じゃあな」

 彼はあっというまに通り過ぎていった。



「今の人、友達ですか?」

 自転車をこぐ後ろ姿が少し遠ざかってから、千歳が訊ねてきた。

「クラスメイト」

「へー」

 どうでもよさそうだった。
 それで、何の話をしてたんだっけ。
 そうだ、何が問題なのかって話だ。

「つまり、問題なのはさ」

 何の話をしていたのか思い出せなかったのかもしれない、千歳は一瞬だけきょとんとした顔になった。

「書いてるとさ、なんとなく、裏切ってるような気分になるんだよな」

「裏切ってる?」

「うん。よくわからないんだけど」


「……まあ、たしかに、あの話の女の人が、外に出た途端はしゃいでたら、それは変だと思いますけど」

「やっぱり?」

「だって、素直にいろいろ楽しめないから、部屋の中にいたんじゃないんですか、あの人」

 そんなこと書いたっけ、と俺は思ったけど、まあ書かれた文章をどう読むかは人それぞれだ。
 問題はまさしくそのとおりだ。

「そうなると、やっぱりしんどい話になると思うんだよ」

「というと?」

「結局、扉を出た以上、もう逃げ道はないわけだ。自分で逃げ道を封じたわけだから。
 でも、外では楽しいことがたくさん降って湧くってわけでもない。
 そうなると、自分から変わっていかなきゃいけない。それって根気がいるし、むずかしいことだろうから」

 うーん、と考えこむようにうなってから、千歳はちょっと笑った。

「持って回った言い方をするのは、せんぱいの悪い癖ですよね」

 たしかに、と俺は思った。今後の課題だ。


「でも、せんぱいは少し、変わりましたよね」

 少しの間、黙ったまま歩いていたけれど、千歳は思い出したようにそんなことを言った。

「変わった?」

「はい」

「ちょっと前に、真逆のことを言われた気がするけど」

「それは、まあ、ほら。そのときのせんぱいが、本当にそう見えたからですけど」

「……」

「だって、前までだったら、わたしを部室に誘ったりはしなかったはずですし」

「まあ、そうかもしれない」

「それに、たとえばさっき、“せんぱいの悪い癖”なんて言い方しちゃいましたけど」

「……はあ」

「前までだったら、わたし、怖くてそんなこと言えなかったです。
 せんぱい、何考えてるかわからなかったし、怒っちゃいそうだったし」

「そう?」

「はい。でも、最近はけっこう、せんぱいに対して思ったことをずばずば言えるっていうか……」


「それ、きみが変わったんじゃないの?」

「それは、うーん……。それはともかく」

「……人の話はしておいて、自分の話は置いとくんだ」

「とにかく、せんぱいは前より柔らかくなりました。
 じゃなかったら、わたしだってお礼言おうって待ってたりしないですよ」

 そうだったらいいけど、と俺は思った。
 
 でも、俺は自分で気付いてる。
 根本的な問題はまだ残されたままなんだ。
 
 文化祭前の何週間か、俺はずっと考え続けて、ようやく、自分の問題をまっすぐ見据える気になった。
 とにかく俺は俺として、ここにいる俺として、やっていかなきゃならないと、受け入れることができるようになった。

 でもそれは、問題の即時解決を意味してはいない。
 俺はまだ何も変えられていない。それを、これから、なんとかしていかないといけない。

 大澤が言ったとおりだ。そこまでわかっておいて名前を覚える努力もしてなかったなんて笑い話だ。
 それじゃあ、前までと何も変わらない。



「ひなた先輩も、そう言ってましたよ」

「……先輩が?」

「はい。ちょっと棘が抜けたって笑ってました」

「……」

 俺は少しだけショックを受けた。なんでだろう。褒められてるはずなのに。
 べつに棘を残しておきたかったわけでもない。とんがってたのがポリシーってわけでもないし。

 でも、ひなた先輩にそう言われたっていうのは。
 ……なんでだろう、少し……。

「あ、でもこれ、せんぱいには内緒って言ってたような気が……」

「……」

「あっ」

「とりあえず、内緒にしたいことはあまりきみには話さないことにするとして……」

「い、いやちがうんですよ? わたし口すごく固いですからね? 語らざること岩のごとしですよ?」

「ああ、うん。そう」

 千歳はしばらく「あー」とか「うー」とか言いながらなんとか名誉の回復の機会を探していたみたいだった。
 が、結局なにを言っても今は説得力がないと気付いたのか、すねたように黙りこんでしまう。

 かわいい後輩。
 でも、俺の頭はやっぱりひなた先輩のことを考えていた。
 彼女もやっぱり、以前の俺には思うところがあったんだろうか。

 そりゃ、そうなんだろうけど。


「あ」

 俺がまた妙な考え事にふけりそうになって、そんな自分に気付いて思考を振り払いかけたとき、千歳は声をあげた。

「なに?」

「雨」

 返事をしたというより、ひとりごとみたいな調子で、彼女は呟いた。

 顔を上向けて空を見ると、頬に雫が落ちてきた。
 ポツポツという雫は徐々に増えていって、やがてさあさあという静かな雨になった。

「……十一月だってのに、なんでこんな雨ばっかりなんだろう」

「せんぱい、あそこ。バス停あります」

 千歳の言葉にしたがって、俺たちは二人で雨宿りをするために停留所の屋根の下を目指した。

「天気予報じゃ言ってなかったのに」

 ぼやきながら、千歳は少しだけ濡れた髪を指先でぬぐっていた。
 俺は鞄からタオルを取り出して彼女に渡した。礼を言って受け取ってから、髪や肩を軽く拭きはじめる。
 一応タオルは複数持ち歩いていたから、俺も濡れた髪を拭うことができた。


 彼女は俺のわたしたタオルで濡れたところを拭いていたけれど、その視線が不意にとまる。
 見つめているのはまさに使っているタオルだった。

「……洗濯してから使ってないから、汚れてないよ」

「え? あ、や。そういうわけじゃなくて」

 彼女は慌てたみたいに顔の前で手のひらを左右に振った
 べつにこっちだって怒ったりはしない。というか、逆の立場だったら俺だって多少は気にする。

 濡れた頬をぬぐう彼女の表情に、不意に既視感がよぎる。
 タオルで頬を拭っただけの表情。短めの髪が、かすかに濡れて額に張り付いている。

 そういえば、中学のときはバスケ部だったんだっけ。
 汗を拭っている姿を、一度くらいは見たことがあったかもしれない。
 
 俺がぼんやりその表情を眺めていると、彼女は不器用っぽく笑った。

「そうじゃなくて、ただ……部活、出てよかったなあって思って」

「え?」



「……うん。がんばった甲斐があったかもしれません」

 脈絡のない言葉に何かの説明が付け加えられないか、しばらく待ったけど、彼女は何も言ってくれなかった。
 
「持って回ったような言い方をするのは、きみの悪い癖かもしれない」

「そこはほら、周囲の影響ってものがありますから。書くものも、なんとなく誰かに似ちゃったりして」

 彼女はいたずらっぽく笑う。からかわれてる。悪い気はしないけど、ちょっと困った話だ。
 どうせなら他の奴に影響を受けてほしい。

 大澤とか……は、ダメか。「あかね」も……。「みさと」に関しては、まだちょっと未知数だけど。
 ……後輩に良い影響を与えそうな先輩がひとりもいないって、さすがにまずいんじゃないのか、文芸部。 

 あいつらも別に悪いやつではないし、俺が言えたことでもないけど。



「やみますかね?」

「傘、持ってないの?」

「……あ、持ってました」

 言われて気付いたみたいに千歳は鞄をあさり、中から水色の折りたたみ傘を取り出した。
 そう強くはないけれど、雨は止みそうに見えない。傘をさして帰ってしまった方がいいだろう。

 俺たちはそれぞれに傘をさして、それでも別々に歩く理由がなかったから、やっぱり並んで歩き出した。

 特に話したいこともなかったので、それ以降俺は聞き手に回った。

「そういえばわたし、一度でいいからアンコールワットを見てみたいんですよ」

 脈絡もなく始められた千歳の世界遺産トークは数分間続いて、俺の相槌のパターンはその間に十数個くらい消費された。
 分かれ道で「また明日ー」と千歳は言った。俺は今日が金曜日だと言おうか言わないか迷って結局言わずにおいた。

つづく




 傘をさしながら帰り道を歩いている途中で、さっき俺たちを追い越していったクラスメイトが道の脇の草むらにいるのが見えた。
 
「なにしてるの?」

 俺が声をかけると、彼は顔をあげてこちらを見た。細められた目はあまり機嫌良さそうには見えない。 
 弱い雨に打たれて、制服が濡れている。

「いや、さっき転んじゃってさ」

 と言って、彼は擦りむいた手の甲をこちらにかかげた。少し血が滲んでる。

「家の鍵落としちゃったみたいなんだよ」

「うわ」

 俺は歩道に停められたままの自転車を見る。カゴがひしゃげていた。
 近くのマンホールが変に盛り上がっているから、そこにさしかかったとき、制御できなくなったのかもしれない。

「盛大にいったみたいだな」

「雨降ってきたから急いでさ。慌てるとろくなことねーな」

 言いながら彼は下を向いて、鍵探しを再開した。

「手伝おうか?」

「いや、いいよ」

「まあまあまあ」

 と言いながら俺は傘を地べたに置いて、その下に自分の鞄を置いた。
 奇妙にねじれたガードレールを乗り越えて草むらに向かうと、彼はちょっとあっけにとられたみたいな目でこちらを見た。



「なんだよ、まあまあって」

 そして笑う。

「ほら。道を歩いてる時に、チラシ配ってるお姉さんがいたりするだろ」

「……その話関係あるの?」

「最近の俺は、あとで邪魔になって捨てるだけだってわかってても受け取っちゃう人間なんだよ」

「ふーん。なんか偽善者風味な?」

「ちげーよ。元来暇な人間だからチラシ読んでちょっと暇つぶしにして、そのあと捨てるだけ」

「なんだそれ」

 彼は長い前髪を揺らしながらくっくと笑う。

「つーか、その話、やっぱり関係なくね?」

「まあまあまあ」

「意味わかんねーし」


 草むらとは言っても季節が季節だから、草は枯れかかっていて、土が露出している。
 太い用水路のそばで、斜面になっていたけど、たぶん水路には落ちていないと思う、と彼は言う。

「鞄の中身散らばっちゃったから、そのあたりにあると思うんだけど……」

「鞄、ちゃんと閉じときゃいいのに」

「あー、それはもうここ数分でいやになるくらい実感してる。今後の教訓にするわ」

「それがいいな。人間は学習する生き物ですよ」

「つか、おまえなんかキャラ違わね?」

「まあな。人間はいくつものペルソナを使い分ける生き物だからな」

「……おまえ今なにも考えないで喋ってるだろ」

「なんでわかった?」

 彼は一拍置いて、溜息に近い笑いを歯の隙間から漏らしたあと、真剣な顔になって鍵探しを再開した。
 軽口を叩いていても、見つからないのが不安なのかもしれない。

 仕方ないので俺は服を汚さないようにしながら地面を眺めた。
 単に服を汚したくなかったのと、彼が気にするだろうというのと、汚したら綺麗にする役目はきっと妹が負ってしまうだろうから、という理由で。
 
 そんなことを考えている自分がなんとなく気持ち悪い生き物に思えたけど、だからって他にどうしようもない。



「あのさあ」

 不意に、地面から顔をあげて、彼はこちらに声をかけてきた。

「んー?」

 少し戸惑いながら促す。手は草の根をかきわけている。

「最近どうよ?」 

「なにが?」

「なにがって、ほら、えっと、部活?」

 どうしてそんなことを気にするんだろうと思った。
 何かの機会があって何度か話したことはあるかもしれないけど、普段はあまり話さない。
 お互いいつも別々の相手としゃべっているのに。

「まー、ぼちぼち」

「ふうん。文芸部って、普段どんなことしてんの?」

「本読んだり、なんか書いたり」

「なんかって?」

「適当に。誌でも小説でも川柳でも」

「ふーん」

 興味のなさそうな溜息。



「おまえってどんな本読むの?」

「え、いろいろ」

「いろいろって? 小説とか?」

「うーん」

 一番最近読んだ小説のことを思い出そうとする。
 すぐに浮かんだのは「隣の家の少女」だったけど、何気ない会話で口にするにはちょっと抵抗のあるタイトルだった。

「じゃあ、いちばん最近読んだ本は?」

「いちばんわかりやすいDTMの教科書」と俺は答えた。

「DTM?」

「デスクトップミュージック。パソコンとかで作曲するやつ」

「いわゆる、あれか。ボカロ? みたいなの?」

「そう」

「え、作曲できるの?」

「いや?」

「あ、勉強してるとこか」

「いや、まったく」

「……どういうことだよ」

「なんとなく読んでみた」

「ふうん」


 雨は弱くなってきた。俺はちょっとほっとした。鍵はまだ見つかりそうにない。
 俺たちは範囲を拡大して捜索を続けた。一応用水路の底も確認したが、雨の波紋と水中の砂でよく見えない。

「そういえば、おまえさ」

 と、彼はまた話すのを再開した。

「なに?」

「大澤に聞いたんだけど、妹いるんだって?」

「ああ、うん」

 彼が大澤と話している姿を見たことがなかったから、俺は少し戸惑った。
 ついでに言えば、俺の話題がその場で出ていたということにも。

「やっぱ生意気?」

「いや。誕生日にはカスミソウの花束を手渡したいくらいにかわいい」

「その例えはよくわかんないけど、仲いいんだ」

「……どうだろ。普通じゃないかな」

「でも、悪くはないんだろ?」

「といっても、あんまり会話とかしないしな。実は仲悪いんじゃないかって、ちょっと不安になってるところ」

「へえ。……うち、姉ちゃんいるんだけどさ」

「はあ」

「最近ちょっと折り合い悪くて」


「はあ。そう」

「……すげーどうでもよさそう」

「いや、どうでもいいっしょ。他人の兄弟仲がどうかなんて」

「どうでもよくてもさ、興味ありげな素振りくらい装ってくれよ。話進まねーだろ」

「どうでもいいから、話進まなくても困らないし」

「円滑な人間関係を築く気がねーのか、おまえは」

「いや、目下の目標はいろんな人とフレンドリーな会話を交わすことだけど。
 けど、やっぱ自分を抑えこむのは違うと思うんだよ。ある程度までならともかく。
 円滑な人間関係なんて、そこそこ正直じゃなきゃ成立しないというか、お互い疲れるだけだと思うんだよ」

「……まあ、そりゃそうかもしんねーけど」

 彼が素直に相槌を打ったものだから、俺は一方的な話をしたことを後悔した。
 いっそ笑い飛ばしてほしかった。
 どうして俺の口はときどき勝手に動くんだろう。なんて言い訳がましい考えが頭をよぎったりした。

 も話をそこで終わらせるのは後味が悪かった。
 他の話題も思いつかなくて、しかたなく話を続ける。


「というか、最近気付いたんだけど」

「なに?」

「俺はそういう、“こうするのが大人”とか、“こうするのがまとも”みたいなものが、どうも苦手っぽい」

「あー、それっぽい」

「……え、納得するとこなんだ、そこ」

「いや、だっておまえの小説そんな感じだったじゃん」

「あれ読んだの?」

「読んだよ。あれ、俺おまえに感想言ったぞ」

「なんて?」

「おもしろかったって」

「いつ?」

「文化祭終わった後」


「あー……社交辞令だと思ってた」

「うわ、おまえ、人がせっかく、柄じゃないと分かりつつも直接感想言ったのに」

「ふーん。ああ、いや、ありがとう。直接褒められたのは初めてかも……」

 ……でもないか? どうだろう。文芸部外では初めてかもしれない。

「まあ、基本つまんねーしな、おまえの話」

「さっきと言ってること違うんですけど」

「だって、イライラするもん、読んでて。でもまあ……」

 彼は頭をがしがし掻いて、「あー」と唸りながら空を見た。

「うまく言えねえ。俺文芸部じゃないから」

「……いや、文芸部関係ないから」

「そうなの? うまく言葉にするのが、ああいう文章なんじゃないの?」

 俺は少しためらったけど、言葉をのみこんだままなのは嫌だから、吐き出した。

「うまく言葉にできないから、ああいう形になるんだよ、たぶん」

 でも、それは代償行為でしかない。言いたかった言葉をあとで書き起こしたからってどうにもならない。
 言いたい言葉は、そのタイミングで言わなきゃいけない。後悔は簡単には薄まってくれない。

「……ふうん?」

 案の定俺の言葉は抽象的で、うまく言葉にできたとは言いがたかった。


「そういえば、さっきの話」

 ようやく他の話題を思い出して、俺は口を開いた。

「え、なに?」

「ほら、お姉さん。喧嘩でもしたの?」

「ああ、いや……」

 戸惑ったように視線を揺らしてから、彼はごまかそうとするみたいに笑い飛ばした。

「さっきどうでもいいって言ったじゃん」

「今気になったから」

「……まあ、そう。ちょっとした喧嘩」

「ふうん」

「こんなこと言うのも照れくさいけどさ、特別仲がよくなくたって、結局家族だろ。
 複雑な事情があるわけでもないし、べつに嫌うような理由もないから、悪くは思っちゃいないんだ」

「まあ、そうな」

「でも、家族だからこそっていうのかな。ときどきどうしてもいやになるっていうか……。
 適度な距離を保てなくて、触れてほしくないところに触れてきたり、妙な地雷を踏んだりさ」

 まあ、そうかもしれない、と思ったけれど、そういえば俺の家では、そういうことはめったにない。
 喧嘩をしたり、ときどきうっとうしかったりもするのが、『普通』なのだろうか。
 わかるような気も、わからないような気もする。


「それで、些細なことから口喧嘩になったりさ。そういうのになると、原因はくだらないのに、つい言い過ぎたり……」

「つまり、言い過ぎたの?」

「端的に言えば」

「ふうん」

「うち、母親いなくてさ。ばあちゃんはいるけど、体弱いから姉貴が家事全般やってんだよ。
 俺だってなんだかんだ助けられてるし。だから感謝はしてるんだ。してるんだけど……」

「はあ」

 なんでこいつは、こんな真面目な相談を俺にしてるんだろう。
 と思ったけど、そんなことを考えるのはよして、とりあえず話の内容について真剣に思いを馳せてみた。
 が、すぐに混乱してしまった。

「……よくわかんね」

 俺のつぶやきに、彼は「なにが?」と首を傾げた。

「いや、そこまでわかってるなら、謝ればいいじゃん。言い過ぎたって。
 んでもって、喧嘩したことの内容でお姉さんに言いたいことがあるなら、冷静に話してみればいいだけじゃね?」

「……あー、うん。正論だな」

 そりゃそーだ、と彼は言った。

「そりゃ、まあ、わかってるんだけどね」


 彼があんまりにも寂しそうな顔をするものだから、俺は少し困ってしまった。
 他人事のようだった視点を、自分の身の回りに置き換えて考えてみる。

「……まあ、俺がそんなこと言えるのは、他人事だからだけどさ。
 実際俺も、謝ればいいってわかってるのに、なかなか謝れなかったことがあるし」

「うん」

「でも、結局謝るしかないんだよな。ましてや、悪いって思う気持ちが少しでもあるなら。
 それでちゃんと仲直りして、誕生日にはカスミソウの花束でもわたせばいい。
 そんだけでもう、世界中が幸せだよ。知らないけど」

「……そうだなあ」

 彼は屈みこんだまま、ぼんやりと何かを考えるように空を見上げていた。
 雨は、今にもやみそうなほど弱くなっていた。気付けばずいぶん長い時間、雨の中で話を続けていたらしい。
 お互いの制服が濡れている。なんとなく気まずくなって、俺は視線をそらす。

「あ」

「どうした?」

「あったよ」

「なにが?」

「鍵」

 ガードレールのすぐ下に、鈍色の輝き。
 俺がそれを拾い上げると、彼は「おお」と言ってちょっと目を丸くした。
 俺の指から鍵を受け取ると、血の滲んだままになっている手の甲をこちらに向けて鍵を握りこんだ。

 それから照れくさそうに、

「さんきゅ」

 と、そっけなく笑った。

つづく




 わたしは、穴の底を愛していました。
 
 それは愛というよりは、むしろ、親しみと呼んだ方がいいかもしれません。

 穴の中は冷えきっていて、暗闇は深く、光はおぼろげにしか感じ取れません。 
 その中に自分がいる、というのは、わたしには自然なことでした。
 
 どうしようもない気持ち、置き場のない気持ち。
 そういうものは、穴の外に出たからといってどうにかなるものではなくて。

 それをどうにかしようとするのは、きっとすごく大変なことなのです。

 気付いたら「こう」という形に凝り固まっていた自分自身を、作り変えなければならないのです。

 込み入っていて、混乱していて、散らばっていて……。
 そういうものを、結び直さなくてはいけないのです。

 とてもむずかしいことで、とても労力のいることなのです。
 何よりも、勇気のいることなのです。



「光が、遠い」

 わたしがそうつぶやくと、穴の底に、わたしの声が響きます。
 それ以外の声はなにひとつ、なにひとつありません。

 聞こえるのは自分の声だけ。
 わたしがそうであることを望んだからです。
 自分以外の声なんて聞けなくてもいいと、わたしが思ったからです。

 歩くことが怖いなら、足をなくしてしまえばいいのです。
 足をなくしたら、歩くことはできないのですから。

 だから、足を切り落として――そうすれば、どこにもいかなくていいのですから。
 そうまでしなくても、足をどこかに縛り付けてしまえばいいのです。
 
 そうして、縛り付けて、歩けなくして……。

 歩けなくなってしまった。

 当然の結末。子供でも想像がつくような、簡単な結果。
 それでもかまわないと思ったはずなのに。
 でも、わたしは、焦がれてもいたのです。

 あの光。
 あたたかな、おぼろげな、するどくて、弱々しいのに、たしかで。



「――それで、どうするの?」

 そんな声が、聞こえました。
 例の、幻。誰のものともしれない声。

 聞き覚えがあるような、聞き覚えがないような、そんな曖昧で胡乱な声。 
 いえ、胡乱なのは、わたしの頭なのかもしれません。

「このくらやみが好きならば、あなたはずっとここにいればいい。
 穴の深さが不満なら、さらに掘り進めればいい。ひょっとしたら、世界の裏側にたどり着くかもしれない。
 もし、ここがそんなに嫌ならば、壁の土を削りとって、それを足元に積み重ねればいい。
 もしあなたに目的があるなら、あなたはそれに応じた手段をとることができる」

 たしかに、とわたしは思いました。

「光が、遠いです」

「なら、近くにいけばいい」

「失ってしまわないでしょうか?」

「なにを?」

「……この暗闇を」

 光を求めていながら、この穴の底を出ることができない、本当の理由。
 それは、わたしが、この暗闇に親しみを覚えているからかもしれません。

 だからわたしは、この暗闇を失うこともまた、恐れているのです。



「朝が来て夜が来るように――」、と声は言いました。

「――闇と光は一対でしかない。光あるところに影があるように。影のあるところに光があるように。
 痛みがなければ優しさが生まれないように。光だけの世界はありえない。あなたがそれを望んだとしても」

 わたしは瞼を閉じて、深く呼吸をしました。
 穴の底は、とても、息苦しくて、窮屈です。

 膝を抱えていたままの自分を意識して、再び瞼を開くと、体をすんなりと立ち上がらせることができます。

「同じ場所に居続けているなら、見える景色も同じものでしかない。
 もし違う景色を望むなら、新しい展望を望むなら、知らないものに出会おうとするなら、あなたは別の場所に向かわなければならない。
 月の裏側を見たいのなら、あなたは空へと向かわなければいけない」

 声はやさしげで、柔らかで、それでもどこか、冷たい気配をまとっていました。
 他人事のような。他人事なのかもしれない、とわたしは考えました。やはり、どこか、他人事なのかもしれない、と。

 それでも。

「ひょっとしたら、あなたが見て、真実だと思い込んでいる月は、それはひとつの見え方に過ぎないのかもしれない。
 月の裏側には、もっと、別の何かがあるのかもしれない。それは真実ではないかもしれない。新しい見え方にすぎないのかもしれない。
 でも、そこにいるだけでは見えない景色も、やはりあるのだと思う。そして、あなたがそれを望むなら、あなたはこの穴から出なければいけない」

 声の気配は、そこで途切れました。
 どのような手段をとればいいのか、分からない。
 でも、たしかにわたしは光を望んでいて、声の言う通り、光のある場所にも、影が必ずあるとしたら。
 わたしはこの暗闇を失わないまま、光の差す場所へ向かえるはずです。


 そうしてわたしは、壁の土を削り、足元に積み上げていきました。 
 道具もなく、服は汚れ、長い怠惰の中で、力は失われていました。

 それはすごく、途方もないことなのでしょう。
 途方もない時間をかけ、途方もなく深い穴を掘ったのですから、これを埋め直すのならば、途方もない時間がまた、必要になるはずです。

 それでもわたしは、試したくなったのです。
 世界が見えているだけのものでないのなら。
 世界が、わたしに見えているだけの、たったひとつの見え方しか許さないような、そんな場所でないのなら。

 わたしは、これ以外の見え方というものを知ってみたくなったのです。

 けれど、体の衰えはやはり深刻で、肉体はすぐに疲弊し、精神もまた、地道な努力というものを困難に感じました。

 弱り切ったわたしは、それでも光を諦めたくはありませんでした。
 だから、叫んだのです。おぼろげな光に向けて。

「助けて」、と。





「……お兄ちゃん、お客さん」

 体を揺するやさしい力によって眠りから目覚めた俺に、そんな声が掛けられた。 
 目覚めたばかりで不明瞭な視界には、おぼろげに誰かの気配がする。

 夢の名残が現実まで侵食していて、だから俺は言葉の意味も捕まえられなかった。
 やさしく揺り起こされる現実の手触りだけが、なんだかいやに懐かしい。

 だからかもしれない。

「……かあさん?」

「……え?」

 戸惑ったような声が、針のような寒気となって、俺をまどろみから追いやった。

「あ……」

「……お兄ちゃん、朝だよ」

 瞼をこすり、現実を見つめなおすと、俺を揺り起こしていたのは妹だった。

「お友達きてる」

「……だれ?」

「森里さん」

「……あい」



「歯磨いてくるから、ちょっとまってて」

「うい」

 妹が森里にコーヒーを出して、「すみません」と謝った。俺はなんとなく申し訳なくなった。

 べつに無理にもてなさなくてもいいよ、と以前言ったことがあるけど、そういうわけにもいかないから、とすぐに反対された。
 森里の方も「いつもありがとう」なんて言いながら、妹と雑談を始めてしまう。

 俺は宣言の通り洗面所に向かい、顔を洗い、歯を磨き、それから軽く寝ぐせを直した。

 再びリビングに行くと雑談に花が咲いていたようだったので、俺はダイニングの椅子に腰掛けてその話に耳を傾けた。

「でも、大変じゃない?」

「いえ。そんなには。もう慣れましたから」

「でも、扱いとか難しいでしょ」

 ガーデニングか何かの話だろうか。

「うーん、他の人ならそうかもしれないですけど、昔から一緒にいますから、なんとなくわかります」

「ふーん。やっぱり家族から見るとわかるもんなのかな。俺はいまいち何考えてるかわかんないけど」

「うちのお兄ちゃん、ぱっと見だと人間嫌いみたいに見えますけど、実はただ感情表現が苦手なだけですから」

 俺の話かよ。

「考えてること自体は、べつに特別なことじゃないと思いますよ」

「ふーん。妹さんにはわかるもんなんだなあ」

「……まあ、それなりには」


「森里。今日は何の用事?」

 なんとなく気恥ずかしい気持ちもあって、俺はその話を遮った。
 妹は振り返って、「コーヒー、そこ」とだけ呟く。俺はテーブルの上のマグカップに視線を向ける。
 十一月ともなると肌寒くて、毎朝のようにコーヒーを飲んでいたから、妹は俺が何か言う前に準備するようになってしまった。

 家政婦じゃないんだからほっといてくれていい、というと、そういうわけにもいかないから、と妹はすぐに反論する。 
 なにがそういうわけにもいかないのか、俺にはまったくわからない。
 けどまあ、好きにさせておくことにしていた。

「あ、そう。えっとさ。ちょっと自転車でぶらり一人旅しようと思ってさ」

「そう」

「おまえも行かない?」

「一人旅じゃねーのかよ」

「旅は道連れだよ」

「おまえの場合、『道連れ』の意味が微妙に違う気がするけど」

「いいじゃん。今日暇だろ?」

「大澤は?」

「あいつは、なんか小説書くから無理って。最近様子変だったから、あんま強引に誘うのもなんだと思って。
 そういや、また文芸部で部誌作るんだって? 大澤から聞いたけど」

「うん。まあ……」

 そこまで聞いたなら、俺だってなにかしら書くかもしれないって、思わなかったのか。
 ……思ったにしても、大澤ほど集中して書きはしないから、平気かもって考えたのかもしれない。



「どこまで行くの?」

「考えてるのは、あっちの……」

 森里が言ったのは、俺たちが住んでいる付近から車で三十分くらいの距離にある自然公園だった。

「……なんで自然公園?」

「アスレチックやりたいと思って」

「つーか、あそこ山だぞ」

「山だな」

「……自転車で?」

「たまには体を酷使してやらないと。なまけぐせでるから」

「日常的に運動しなよ」

「やってるよ、ジョギング。毎朝十分。今日で三ヶ月くらい」

「え、ほんとに?」

「俺、見えないところで努力するタイプだから」

 そういえば、むかつくことにこいつのテストの成績はいつもよかった気がする。


「で、どう?」

 森里の思いつきについて、少し考える。
 森林公園。森林公園? 何もない場所だ。子供がソリ遊びをするような坂と、池のある公園。
 近隣の人が運動するのによくつかってるって話は聞いたことがある。

 夏場だったらいいけど、今は十一月で、外はけっこう寒いはず。
 もし途中で体調でも崩したら帰れなくなるかもしれない。

 ……でも、まあ、いいか。

 森里が思いつきで行動するのはいつものことだし、俺はだいたいそれに付き合っている。
 振り回されても付き合いが続いているのは、振り回されることがそこまで不愉快じゃないからかもしれない。
 そうじゃなかったら森里だって、こんな誘いを何度も持ちかけてきてはいないだろう。

「……了解」

 俺が頷くと、森里は「そう言ってくれると思ってた」とか、調子のいいことをおどけた調子で呟いた。
 俺たちの間で話を聞いていた妹は、ココアをひとくち飲んでから、

「出掛けるの?」
 
 と訊ねてきた。

「みたいだね」

「帰りは何時頃?」

「夕飯までには戻ると思う」

「気をつけてね」

「うん」



 俺は朝食にトーストを焼いて、それを食べてから少し休み、玄関を出た。
 
「寒いなー」

 森里は白い空を見上げながらひとりごとみたいに呟いた。

「十一月だからね」

「あー、うん。そっか。もう十一月だもんな」

 そして俺たちは十一月の寒空の下、森林公園へと自転車で向かおうとしている。
 ……季節を間違えてる。

「ちょっと距離あるし、きつそうなら方針変えて、モールかどっか寄って、適当になんか見て帰ろうぜ」

「雨、ふらないよな?」

「たぶんな。天気予報ではそんなこと言ってなかったから」

「了解」

 家を出るとき時計を見ると、時刻は九時半を回ったところだった。
 カーポートに停めてあった自転車を滑らせて、財布と携帯だけを入れた鞄をかごにいれる。
 自転車に乗るのは久しぶりだという気がする。中学には自転車で通ってたけど、今は使っていないから。



 住宅の合間を縫うように進んで、俺たちは大きな道路に出た。
 向かう先はわからなかったけど、森里は迷わずすいすい進むから、俺は黙ってそれについていく。

「やっぱ、雨降るかもなあ」

 立ち漕ぎをしながら、森里は前方の空を見上げて呟く。

「まー、そうかも」

「そうなったらそうなったで……」

「どうするの?」

「雨の中を進む」

「……馬鹿かよ、おまえは」

「ま、なんとかなるって」

 少し曇りがちな空の下で、めいっぱいにペダルを漕ぎながら、古いミュージカル映画の有名な曲を口ずさんだ。
 歌詞は最初の一節しか覚えてなかったみたいで、何度か同じ言葉を違うメロディーに乗せたあと、鼻歌みたいに言葉だけがなくなった。
 楽しそうに自転車をこぐやつだなと思って、俺は少し笑った。


「なに?」

 笑い声を聞いて、ちょっとむっとした表情になりながら、森里は振り返る。

「前見ろ、前」

「おっと」

 歩道を走りながら、彼は少し速度を落として俺の斜め前に並んだ。

「なんだよ」

「いや、おまえはいつも楽しそうだよなと思って」

「おまえ、それだと俺が何も考えてないみたいじゃねえか」

「べつにそうは言ってない」

「あのなあ、俺にだって悩みとかいろいろあって、の、これだぜ」

「知ってるよ」

「なにが?」

「いや、その悩みとかの内容は知らないけど。いろいろ考えてんのはまあ、わかるよ」

「え、わかる?」

「まあ、それなりに」

「なんだよ、それ」と森里は不満そうな声をあげた。


「だっておまえ、一人でいるとき、ときどきつまんなそうな顔するじゃん」

「……そう?」

「ときどきな。そういうときでも話しかけるとテンション高くなるから」

「え、そんなふうに思ってた?」

「わりかし。茨の道を行くやつだよなと」

「うそだろ」

 森里はショックを受けたみたいで、奴の自転車はへろへろと速度を落とし始めた。

「なに。褒めてるのに」

「いや、俺としては、こう、何も考えてなさそうなのに、実はいろいろ考えてるってのがかっこいいと思ってて」

「なにそれ」

「テスト勉強してないように見えるのにいい点とれた方がかっこいいじゃん」

 ……どこまでその理屈を適用するつもりなんだろう、と俺はちょっと感心した。


「だったら悩みがあるとか言わなきゃいいのに」

「いや、そういうところをあえて口に出すところがまた、馬鹿っぽいじゃん?」

「……どこまでキャラ作ってんだよ、おまえ」

「どこからどこまでがキャラ作りかなんて、自分でわかるわけないだろ」

 たしかに、と俺は思った。
 それから俺たちは、俺の妹のこととか、大澤の話とか、大澤と「みさと」の関係とかについて話をした。
 自転車をこぐのは久々だったし、最近はろくに運動もしてなかったから、俺はすぐに息が切れ始めた。

「運動不足だな」

「実感してる」

「ジョギングしたら?」

「うん。……うん。それもいいかもしれない」

 そのとき、なぜか、遠くに住んでいる従妹のことを考えたけど、それがなぜなのかは自分でもよくわからなかった。


 坂に入ると、勾配は少しずつきつくなり始めた。俺も森里も必死になってペダルを漕いだ。
 意外なほど早く、遠くまで来ていた。話をしていたからかもしれない。

「そういや、文芸部の一年いるじゃん」

「千歳?」

「名前は知らないけど。あの子中学んときバスケ部だったって話したよな?」

「ああ、うん」

「おまえもバスケ部だったじゃん」

「うん」

「仲悪かったの?」

「いや。あんまり話さなかった」

「ちょっと前に思い出したんだけどさ」

「なに?」

「いや。あの子、あれじゃないのかと思って」

 どれだよ、と俺は思った。


「中三のときに、体育祭……あっちは運動会か。で、トラブったことあるじゃん」

「なにそれ」

「当事者だろおまえ。応援合戦の練習で。ほら、応援団長の高橋が張り切りすぎたやつ」

「……全然覚えてない」

「声出せっつって、男子とかの頭ぽんぽん叩いて、ちょっと反感買ってたじゃん」

「……あった」

「で、おまえ声出さなかったじゃん」

 そりゃあ、まあ。出さなかった。生徒にだって多様性ってもんがあるんだし、いいかげんああいう強要もどうかと思う。
 体育祭でも合唱コンクールでも球技団体でも、一丸となって声を出せどうのって。
 やる気のある奴だけでやりゃいいのに、と俺はいつも思っていた。自分が子供なんだってわかっちゃいるけど。

「で、高橋が、おまえの膝蹴っちゃってさ」

「……膝っつーか、まあ、ギリギリ膝下くらいだったけど」

 そういえば、膝はあまり痛まない。
 膝を痛めてからもうずいぶん長い時間が経った。だいぶよくなったのかもしれない。
 なんとなくまだ、膝をかばうような動きをしてしまうけど。


「で、おまえそれから運動会の練習ボイコットしたじゃん」

「あー、うん。練習っつーか、当日もサボったけど」

 高橋が気に入らなかったのと、あの手のイベントが嫌いだったのと、いろんな要素がからまって、俺は一時期学校をサボっていた。
 
「で、高橋がおまえに蹴り入れた直後に、おまえのこと庇って高橋に食って掛かった女子がいただろ」

「……いたの?」

「覚えてない?」

「いや、うーん。そのまえから高橋にむかついてて、あれやられてそうとう頭に来て、もう運動会サボってやろって思ったくらいしか」

「で、実際サボったわけだしな、おまえ。……あ、なんか思い出してきた。
 そうだよ、おまえがサボったせいで、俺リレー二回走らされたんだよ。しかもそのせいで転んだ。大恥掻いたぞ」

 なんだか妙な思い出し怒りのポイントを押してしまった。俺はぜえぜえ言いながら自転車を漕ぐ。

「そんな女子いたの?」

「うん。高橋あのとき高圧的だったからな。たぶん一、二年としてもけっこう嫌な感じだっただろうし。
 その日からあいつ、割とおとなしくなったけど。……ああいうときに張り切っちゃう奴っているし、それが悪いとも思わないんだけどさ」

 というかまあ、行事に熱心じゃなくて、しかもサボったんだから、どちらが悪いという話になれば俺だろう。

「で、そのときの女子、たぶんあの子だった気がする」

「うそ」

「いや、ほんと」



「だって、ひとつ下だぞ。先輩に対して食って掛かるか?」

「たしかね。そうだったと思うけど。だからどうってわけでもないけど、印象的だったから覚えてる」

「ふうん」

 そうなんだ。……そうだったんだ。
 千歳は以前、中学のときの俺の印象について結構はっきりと言ってきたことがある。
 何を考えてるかわからないとか、たぶん何も考えてないんだろうと思ってたとか、そんなこと。

 正義感なのかもしれない。一応バスケ部だったし、俺が膝を痛めてたことは知ってたはずだから。

 そんなこと、まるで覚えていなかった。高橋に対する嫌悪感であたりが見えなくなってた。

「つーか、高橋、おまえのことすげー嫌いだったよな」

 ……たしかに何かと突っかかってこられた記憶はあるけど、他人から直接「嫌われてた」と言われると、微妙にショックだ。

「まあ、それはともかく。なんとなく不器用そうな子だなー、と、そのとき思った」

「不器用?」

「おまえが言った通り、器用だったら食って掛かったりしないだろ」

 ……そうかもしれない。
 


 話をしているうちに開けた場所に出た。駐車場には何台か車が止まっている。
 どうにか目的地に辿りつけたみたいだ。

 土日とはいえ、季節が季節だし、天気も良くはないので、人の気配はあまりしなかった。
 スポーツウェアに身を包んだ人たちが何人かいる。近くの人が体を動かしに来ているのかもしれない。

 近くにはキャンプ場やゲートボール場もあったけど、やはり人影はない。

 駐輪場に自転車をとめたあと、俺たちは自販機でスポーツドリンクを買って飲んだ。

「さて、じゃあ、アスレチックと行きますか」

 森里は運動に向かなそうな普段着のまま、準備体操を始めた。
 普段はインドア派に見えるけど、べつにからだを動かすのが嫌いというわけではないらしい。
「運動する機会がないってだけだし」と本人は真剣に語っていた。

 アスレチックは、子供も使えるけど、子供向けというだけではなく、大人がやっても結構な運動になりそうなものだ。
 
 平均台に円盤渡り、タイヤ渡り、ネット登りに吊り橋。たしか十五種類以上のアスレチックが、山の中に順番に置かれている。
 貫くように長い滑り台があったりして、けっこうワクワクする。

「じゃあ、行きますか」

 それから俺たちは三十分くらい掛けて一周して、そのあと森里がタイムアタックをやりたいというので携帯でタイムを計測したりした。
 自転車を漕いで疲れたのと、朝食をしっかりととらなかったせいで、俺はすぐにバテた。

「だらしねえなあ」と気持よく笑ってから、森里はひとりで三周くらいして、それから青ざめた顔で「吐きそう」と言って木陰でしばらくうずくまった。
 


 休憩を兼ねてアスレチックコースの途中にあった展望台に登ってしばらく休んでいると、

「楽しいよなあ」

 と森里が本当に楽しそうに言うので、俺は少し笑ってしまった。
 展望台から見下ろす街並みは空の灰色にくすんでいたけど新鮮だった。ぼんやりと眺めながら、来てよかったかもしれない、と俺は思った。
 そうでなければこの景色は見られないはずだったから。いつもみたいに部屋にこもって土曜日を消化していたはずだから。

 そして書けもしない小説について思い悩んでいたかもしれないから。

 それでも少しすると、体の疲れとか、曖昧な空模様とか、冷えた汗の冷たさとかが、静かに俺の気力を削いでいって、

「なにしてるんだろうな、俺ら」

 とか、そんなことを俺に言わせた。

「なにって、遊んでるんだろ」

「無意味に時間をつかってしまった」

「いいじゃん、楽しいんだから」

 森里は笑い飛ばすように言った。

「意味なんてべつになくってさ」

 たしかに、と俺は思った。

204と205の間が1レス分抜けてました


 妹は俺が起きたことを確認すると、とたとたと部屋を出て行った。階段を降りていく音が聞こえる。
 ベッドを這い出して服を着替え、カーテンを開ける。
 空はいつもより静かで、なんだかぼんやりとくすんでいるように見えた。

 携帯を見ると森里からの着信が何件かあった。
 土曜日の朝だ。ときどき、事前の決め事もなしに遊ぼうとか言い出すことが、こいつの場合はときどきある。
 そういうことには慣れっこで、いつのまにか、家に勝手に来ることも珍しくなくなっていた。

 階段を降りて、リビングに向かうと、妹がふたり分のコーヒーを入れているところだった。
 大澤はテレビの前のソファに腰掛けていた。

「おはよう」と声をかけると、「おはよう」と返事がかえってくる。

「電話に出なかったから、寝てるんだろうと思って勝手に来ちゃった」

「用事があったらどうする気だったんだよ」

「あったらおまえ、早起きするじゃん」

「連絡返せなかっただけだったりするかもしれないだろ」

「おまえの場合、起きてればどんなときでも即座に返信よこすし、まあ寝てるんだろ、と」

 まあ、今までもだいたいそうだったし、もし俺が不在だったら、すぐに自分だけでどこかに出かけていたのかもしれない。
 いつものことといえばいつものことだったから、俺はすぐに割りきった。

>>221>>204->>205のあいだ

つづく

221-8 大澤 → 森里

申し訳ないです。
しばらく更新頻度が低めになるかもしれないです。
今日は訂正だけ。




 日曜日の"かっこう"は、名前の通り人気が少なかった。
 
 不思議な店だ。決して客が少ないわけでもないのに、店の中はいつも静けさに包まれている。
 満席になっているところは、一度も見たことがない。

 学生の間で人気といっても、少し足を伸ばせばファミレスやハンバーガーショップなんかもそこそこあるし、そっちを利用する奴らも多い。
 こういう「静けさ」の中よりも、騒ぎやすいファミレスなんかの「賑やかさ」に居心地の良さを感じる奴らもいる。
 人それぞれ気質というものがあるわけだ。
 
 それで俺はどっちの気質なのかと考えたら、まあ別にどっちでも一緒かもしれない。
 賑やかな場所で騒ぐのも平気だし、静かな場所で黙っているのも嫌いじゃない。
 自分がする分にはどうだっていい。誰かと一緒なら気にならない。

 店に入ったのは十一時を回る五分前くらいだったけど、千歳は既に奥のテーブル席に座っていた。
 
 カウンター客と世間話をしていた中年の女の人――たぶん経営者夫婦の妻の方だと思うけど――は、俺に顔を向けていらっしゃいと親しげに言った。
 俺が指先で千歳の座っている席を示すと、彼女は黙って頷いて二秒くらい俺を目で追ったあと、世間話に戻ったようだった。

 黒いエプロンをつけた女の人と話をしているのはボサボサの白髪頭にスポーツキャップを被った男の人だった。
 たぶん、五十歳くらいだろう。どうやら両親の金がどうこうとか、兄弟との折り合いがどうこうとか、そういう話をしていらしい。
 女の人が俺に注意を向けている間も、彼はまるで聞いている相手の態度より自分の話したいことの方が重大だというふうに声をあげていた。

 俺は注意をよそに向けることで、千歳の方をあまり見ないようにしている自分に気付いたが、席に近づくとそういうわけにもいかない。

「おはよう」と俺が声をかけると、「おはようございます」と彼女も合わせて頭をさげてくれた。

「すみません、急に」

「いいよ、べつに。相談あるんだったら。参考になるかは自信ないけど」



「はい……」

 すぐに本題に入るのかと思ったけど、彼女は手元にあるコーヒーをスプーンでかき混ぜているだけで話し出そうとはしない。
 俺は先輩らしくどうでもいい世間話でも振るべきかと思ったけど、今日の天気のことくらいしか思い浮かばなかった。

「最近冷えるね」

「はい。今朝も寒くて起きるの大変でした」
 
「あー、そうだよな。俺も最近起きるのつらくて……」

 と適当なことを言ったあと、今朝のことを思い出した。

「……いや、そういえば今日は早起きした」

「どうしてですか?」

「昨日早めに寝たから目がさめた。せっかくだからジョギングしようと思って、三十分くらい走った」

「えっ」

 と彼女は心底意外そうな声をあげた。たしかに自分でも意外なことだが、驚かれると微妙にすねた気分になる。



 話しているうちにエプロンをつけた大学生くらいの男の人が水を持ってきてくれたので、そのままアメリカンを頼んだ。
 メニュー表のいちばん上に載っていて、しかもいちばん安いのがそれだからという理由で、いつも同じものを頼んでいる。

「どうしてジョギングなんか?」

「そんなに意外?」

「だってせんぱい……運動とか嫌いそう」

「……俺、バスケ部だったじゃん」

「好きでやってたんですか?」

「違うけど」

 父親が「せめて中学のときくらいは運動部に入ってくれ」とよくわからない要望を出してきたので、それに従った記憶がある。
 べつに嫌いでもなかったけど。

「運動不足だからなあと思って。まあ、体を動かせば気分も晴れるかもしれないし」

「落ち込むことでもあったんですか?」

「いや。べつにそういうわけでもないけど」

 千歳は少し考えこむような間を置いてから、

「まあせんぱいは恒常的に落ち込んでますもんね」

 と失礼なのかどうなのかよくわからない発言をした。


 そういえば彼女の私服を見るのは、初めて……ではないけど、けっこう珍しいことだった。
 俺はぶしつけにならないように注意しながら彼女の服装に注意を向けてみた。

 が、彼女がこちらに視線を向けていることに気付き、すぐに目を逸らしたせいで、漠然とした色調の印象しか得られなかった。

 そうして俺が目を逸らすと、彼女はかえって意識が服装に向いたらしくて、自分の服を見下ろして眺めたあと、こちらをみて、

「なんかオソロみたいですね」と言って指先で互いの服を交互に示した。

 俺は使い古してダボついた灰色のパーカーと色褪せた青いジーンズを履いていて、見てみると彼女も似たような恰好をしていた。
 それでも見比べてみると、明らかに彼女の服は小奇麗で、一昨年あたりから使いまわしている俺の服とは醸しだす印象からして違っていた。

 俺はその言葉にいくらか戸惑ったけど、彼女があまりに何でもないことのように笑うので、気にしているこっちがバカみたいだった。

「それで、相談って?」

 なんだか気恥ずかしくなって、俺はさっさと本題に入ってもらうことにした。
 
「あ、はい」

 彼女の笑みが少しだけこわばった気がしたけど、俺はそれをあまり気にしないようにした。



 そういえば彼女の私服を見るのは、初めて……ではないけど、けっこう珍しいことだった。
 俺はぶしつけにならないように注意しながら彼女の服装に注意を向けてみた。

 が、彼女がこちらに視線を向けていることに気付き、すぐに目を逸らしたせいで、漠然とした色調の印象しか得られなかった。

 そうして俺が目を逸らすと、彼女の意識はかえって服装に向いたらしくて、自分の服を見下ろして眺めたあと、こちらをみて、

「なんかオソロみたいですね」と言って指先で互いの服を交互に示した。

 俺は使い古してダボついた灰色のパーカーと色褪せた青いジーンズを履いていて、見てみると彼女も似たような恰好をしていた。
 それでも見比べてみると、明らかに彼女の服は小奇麗で、一昨年あたりから使いまわしている俺の服とは醸しだす印象からして違っていた。

 俺はその言葉にいくらか戸惑ったけど、彼女があまりに何でもないことのように笑うので、気にしているこっちがバカみたいだった。

「それで、相談って?」

 なんだか気恥ずかしくなって、俺はさっさと本題に入ってもらうことにした。
 
「あ、はい」

 彼女の笑みが少しだけこわばった気がしたけど、俺はそれをあまり気にしないようにした。



「えっと……これ、読んでもらえますか」

 彼女は膝の上の鞄から大学ノートを取り出して、こちらに差し出した。

「いいの?」

「はい」

 前は嫌がられたような気がしたけど、まあ、状況が違えば態度も違うものだろう。
 俺はノートを受け取って、ぱらぱらと広げてみた。

 それを見て、彼女はハッとしたみたいに俺の手からノートをとって、自分でページをめくった。

「すみません、ここです」

「ああ、うん……」

 広げられたページに視線を落とす。
 男の人がコーヒーを持ってきて、「ごゆっくり」と微笑ましそうな表情で去っていく。
 年だってそう変わらないはずなのに、彼の落ち着き払った態度は俺とあまりに違い過ぎて、少し落ち込みそうになった。




 けれど、声はどこからもかえってきませんでした。
 それはそのはずです。この穴はあまりに深いから、音でさえも地上にたどり着くまでに、か細く、消え入ってしまうのでしょう。
 
 決意をかためたばかりのわたしの心は、また、挫けそうになってしまいました。

 だからといって、そこでやめてしまうわけにはいきません。
 わたしはもう、この穴から這い出ることを決めたのです。
 
 土を削りとって、それを足場にする。その思いつきは無謀かもしれませんが、だからといって他に取りうる手段もないのです。
 わたしはここまで掘り進めたのです。掘る方向が変わっただけで、やることは変わらない。だったら不可能ではないはずです。

 泥が詰まって汚れた爪で、わたしは壁を削り取ろうとしましたが、すぐにそのむずかしさに気付きました。
 土は硬く、えぐり取られそうなのは、むしろわたしの皮膚の方だったのです。
 
 指先には血が滲んでいて、骨はじんじんという熱のこもった痛みを訴えています。

 わたしは自分自身の指をしばらく眺めていました。
 それはきっと、滑稽な姿だったと思います。このありさまが滑稽と言わず、なんだというんでしょう。

 けれど、笑ってくれる相手もいませんでした。

「助けて」

 とわたしはもう一度声を張り上げました。
 その声もきっと、どこにも届かなかったのでしょう。
 わたしの耳の他には、どこにも。





「……どうしたの、これ」

「……えっと。ダメですか?」

「ダメってことはないけど、あれ……こないだ、続き書くって言ってなかった?」

 千歳が俺に見せたのは、例の庭と穴の話の続きではなかった。
 ごくごく普通のショートショート。綺麗にまとまっていて、ところどころクスリと笑えるようなところもあって、面白い。
 オチのつけかたまでピシっとハマっていて、非の打ちどころはない。たぶん。俺の目では。

「やめにしたの?」

 と俺は聞いてみた。千歳は困ったみたいに首をかしげて笑った。

「おもしろくなかったですか?」

「おもしろいよ」

「……人に楽しんでもらえるものを書こうと思ったんです」

「はあ」

 意外な言葉が出てきたぞ、と俺は思った。


「やっぱり、読んでもらう以上は楽しいものがいいかなって、そう思って」

「……はあ。まあ、そりゃ、そうかもしれないけど」

 なんとなく、俺はうなじのあたりを指先で掻いた。

「いや、でも、部活だし、金取るわけじゃないんだから、べつに読む人のことなんてそんなに意識しなくてもいいんじゃない? 
 そういうのが書きたいっていうんならむしろよくできてるって思うし、大澤だってそういうの書いてるけど」

「読む人を意識してるっていうのとは、少し違うんですけど……」

「……怖くなった?」

 千歳は答えなかった。俺はコーヒーに口をつけてから、小さく溜め息をついた。

「書きたいものがそれなら、かまわないと思うよ。そういうのの書き方についてだったら、俺より大澤に相談すればいいし。
 あいつだって部誌つくるって言ったんだから、相談くらい乗ってくれると思う。
 わかりづらいけど、あれで人に頼られるのは嫌いじゃないやつだし」



「……せんぱいは、書くのが怖くなるときって、ないですか?」

「あるよ。いつもだよ」

「それはどうして?」

 どうしてだろう。

「だって、自分が好きに書いてて、それを書いて満足するだけなら、べつにそれだけでいいじゃないですか。
 前にせんぱい、そんなこと言ってましたよね。自分の書いてるものは個人的なものだって」

「……あんまり深く考えたことなかったな」

「せんぱいは、どうして書くんですか?」

 少し前まで、そんなことばかり考えていた。どうして俺は書くんだろう、なんの為に書くんだろう、って。
 誰かを楽しませたいなんて思ったことはない。それでも誰かに読んでもらうことで、俺は何を期待していたんだろう。

「……たぶん、自分の中にハードルみたいなものがあるんだと思う」

「ハードル?」

「つまり、俺には、全然具体的じゃないんだけど、良いものを書きたいって気持ちがあるんだよな。
 前書いたものより良いもの。それがどんなものなのかわからないけど……。
 でも、書いてるうちに不安になるんだ。俺が書いてるものはずっと同じで、俺は自分の目標にずっと辿りつけないんじゃないかって」


「……」

「ハードルを超えられないままなんじゃないかって。そういうふうに思う日は今でもあるし、そうすると書くのが嫌になる」

「それって、どうすれば"ハードルを超えた"ことになるんですか?」

「自分でそう思えたら、かなあ」

「……」

「もしくは、けっきょく、他人に褒めてもらえたらじゃないか」

「……せんぱいも、褒められると嬉しいですか?」

「それはね。まあ、そうだよ。あんまり的外れな褒め方でもないかぎりは。
 でも、書いた結果、褒められるに越したことがないって話であって、褒められるために書いてるわけではない」

「せんぱいは、続き、書けましたか?」

「……前から思ってたけど、俺の小説、そんなに気になる?」

「……正直言うと、今は、そんなでもないです。自分ので頭がいっぱいなので。
 でも、やっぱり、せんぱいの書いたものに影響を受けたところがあると思うんです。わたしの場合」

「それ、俺、不思議なんだよな」

「不思議?」

「だって、きみが読んだのって、たしか……俺が去年の文化祭のときのだろ。中三のときに文化祭で見たって」


「はい」

「あれ、そんなに良かった? ……じゃないな。印象に残るようなものだった?」

「せんぱい的には、そんなによくなかったんですか?」

「……というより、結局同じことをしてるだけなんじゃないかって感じがしてた」

「……そこかもしれません」

 千歳は俺と目を合わせて、真剣な顔で言った。

「堂々巡りの袋小路。部屋から出ても、すぐにまた部屋の中から話が始まる。
 その感じがなんとなく、印象深かったのかもしれません」

「……『また同じことやってるよ』って感じじゃない?」

「でも、せんぱいの話は、発展してるじゃないですか」


「……発展?」

「ひとつひとつとしてみると、そうでもないかもしれませんけど、並べてみると。
 なんかこう、ひとつ前の話で書いた部分を否定するところから始まって、次のステップに進んでる、みたいな。
 見た目や構造だけみると同じなんですけど、中身を見てみると、別々のことがらを扱ってるような……」

 そうだっけ? と俺は思った。

「まあ、続きは、まだ書けてない。何も思いついてない。まっさらだ」

「……せんぱいの、モノマネを、しようとしたんです、わたし」

「え?」

「部屋の中から外に出るだけの話があるなら、穴の底から這い上がるだけの話があってもいいって。
 でも、穴の底で話が終わっちゃいましたから。堂々巡りどころか、わたしは外に出られてないんです」

「……うーん」

 俺はちょっと申し訳なくなった。どうせ真似をするなら大澤のを真似すればよかったのに。
 それなら、どうにでもなるはずだ。あいつはストーリーに合わせて人物を動かす。
 でも俺の書き方だと、ストーリーと呼べるものを生み出すのが難しい。
 
 登場人物の行動に内容が支配されるからだ。
 もし『彼女』が椅子の上で物思いにふけっているだけの場面から始まるなら、『彼女』が何かをしようとしないかぎりずっと物思いにふけっていることになる。

 そこに動きを付け加えようとして、人物が不自然な心境の変化を見せたりしたら、それは「イカサマ」なのだ。 
 だからこそ毎回、書くのに苦労しているわけなんだけど。



 でも……穴の話。
 
「千歳が前に書いた穴の話。あれ、俺はよくできてたって思う。
 でも、もし俺が同じものを書いたとしても、穴を出る話にするのは難しかったと思う」

「……どうしてですか?」

「たぶん、きみも気付いてるだろうけど、穴が深すぎるんだよ」

「……」

「俺の話は、結局部屋の中だから。外に出るには気持ちが変わるだけでいいんだ。
 でも、穴は深すぎる。物理的に深すぎる。心理的なものだけじゃない。実際的な問題がある」

「……そう、なんですよね」

「大澤ならきっと、それでもどうにか穴を出る話にする。あいつの場合は、最初に出られるようにしてから、穴の中に放り込むんだよ」

「でも、それは……」

「……なに?」

「それは、穴じゃないです。出られるなら、穴である意味がないんです」

 本当に困ったことに。
 俺みたいな考え方をするやつだ、と思った。



「いつかは出られるかもしれないよな」

 俺がそういうと、千歳は怪訝そうな顔をした。

「誰かが偶然穴をみつけて、そこに気まぐれに石を放り投げたりして。
 穴は深いけど、声をあげれば、いつかは誰かに届くかもしれない。声がかすれてしまわないうちは。
 そして誰かがロープを垂らしてくれるかもしれない。長い長いロープ。『蜘蛛の糸』みたいなやつ」

「あの穴を掘ったあと……」

 と千歳は言った。

「庭にいた子どもたちは、みんなあの場所を去ってしまってるんです。みんな他の場所に行ってしまってるんです」

「……え、そうなの」

「はい。『わたし』からは見えないことなので、書きませんでしたけど」

「……ふうん」

 書かれてないなら、まだ真実じゃない。彼女がそれで納得するなら、『誰か』がいることにもできる。
 でも、まあ、俺でもそういう書き方はしないなあ、と、また妙な共感を抱いてしまった。ときどきはやるけど。


「でも、じゃあ、本当に奇跡を待つしかないね」

「……奇跡、ですか」

「コップ一杯分の水の中に、チェレンコフ光を見出そうとするみたいにさ。何かの奇跡が起こるのを待つしかない」

「……奇跡」と彼女は繰り返した。表情はどことなく苦しげに見えた。

「べつに、無理に続きを書く必要はないんじゃない? これだって、いいと思うよ」

 俺はノートを示したけど、彼女は首を振った。

「でも、わたしがどうにかしたいんです」

「……だったら、とりあえず書くしかないね」

 千歳は俯いてしまった。言葉の選び方を間違ったかもしれない。
 でも、俺がここで何かのアイディアを思いついたところで、それは意味のないことだと思った。
 


 ふと、疑問に思うことがあった。

「……訊いてもいい?」

「なんですか?」

「相談って、その話?」

「……え?」

「いや。だって、このくらいのことだったら、たぶん自分で考えてただろ?」

「……意外と鋭いですね、せんぱい」

 冗談めかした調子で彼女は笑った。

「さっき、せんぱい、書くのが怖いかって訊きましたよね」

「……ああ、うん」

「怖いんですよ、わたし。……書くのが」




「書くのが怖い?」

 ひなた先輩は、俺の言葉を鸚鵡返しした。
 
 去年の秋頃だったかもしれない。そのときは文化祭の直前で、文芸部員はみんな原稿に向かって四苦八苦していた。
 そのときも、俺はひなた先輩に相談していた。

「怖いって、どんなふうに?」

「べつに、書くこと自体が怖いわけじゃないんです」

 俺はそう言い直した。彼女はちょっと困った顔で笑っていた。

「ただ、人に見せるのが、なんだか、怖くて」

「今まで、人に見せたことなかったっけ?」

「あんまり。部誌も今回が初めてですし」

「でも、何度か見せてくれたよね?」

「それは、まあ、べつによかったんです。ただ、部誌は形に残るから……」

「いろんな人の目に触れるのが怖いってこと?」

「……はい」



「深く考えなくても、部活なんだし、出来の良し悪しなんて誰も気にしないと思うよ。  
 こういうのって、本人たちが楽しむのがいちばんだからさ」

「……」

「……そういえばきみ、書くのが好きじゃないんだっけ?」

「……自分でも、変だと思うんですけど」

 書きたくないのに、何かを書く部活に入っているなんて、改めて言うまでもなくおかしな話だ。

「誰かに見せるんだと思うと、いつもみたいに書けないんです。なんだか、自分が書いてるものがおかしいような気がして」

 ひなた先輩は「ふむ」と視線を天井に向けた。

「自分でも、ひとりよがりなものを書いてるって思うんです。誰かが読んで楽しいって思えるようなものじゃないから。
 だから、ひと目につくようなところに出して、本当にいいのかと思って。でも、ふさわしいものは、書こうと思っても書けないから……」

「……うーん」

 彼女は俺の言葉をきいて、しばらく何かを考えこんでいる様子だった。
 何かを思い出しているようにも見えた。

「でも、きみの話、言うほどひとりよがりって感じもしないよ。たしかに変わった感じかもしれないし、整ってない印象もあるけど」

「……」

「ひょっとして、読まれることじゃなくて、落胆されるのが嫌だとか?」

「……そう、かもしれないです」



「それは、まあ……宿命っちゃ、宿命だよねー。わたしだって、それはちょっと怖いもん。
 でも、お金もらうわけでもないし、本職の人ってわけでもないし、あんまり気にすることもないと思うけど」

「……」

「……って言うだけで気にしないで済むなら、楽な話なんだけどね」

「先輩も、怖いですか?」

「うん。わたしの場合は、好きでやってることだから、怖さより楽しさの方が勝つけど、評価はやっぱり気になるよ。
 怖くない人はきっといないよ。自覚してなかったり、他の気持ちが勝って怖さを意識しない人もいるだろうけど」

「……」

「きみがどうしても嫌だったら、部誌には載せないって選択も、アリだとは思う。
 わたしとしては、誰かに見てもらうっていうのも、いいことだと思うけど」

「……どうして?」

「褒めてもらえたときとか、分かってもらえたときとか、嬉しかったから、かなあ」

「……」

「わたしも、べつに誰かを楽しませようと思って書いてるわけじゃなくて、書きたいものを書いてるから。
 それでも、面白がってくれる人はいたんだよ。そんな人いないかもしれないって思ってたけど」

「先輩の話、良いと思いますよ」

「……ありがとう」

 それから、彼女は何かを言った。
 何を言ったんだっけ?




「せんぱい?」

 怪訝そうに、千歳が俺の顔を覗きこんでいた。
 俺は慌ててのけぞる。視線が合って、奇妙な沈黙がテーブルの上に落ちた。

「……えっと、書くのが怖いって?」

「……というより、書いていいんだろうか、って気持ちがあって」

「どういう意味?」

「つまり、わたしは……」

 彼女は視線をあちこちに泳がせたあと、コーヒーに口をつけてから話し始めた。

「わたしは、書きたいものなんてない人間なんです。書きたい気持ちはあるんですけど。
 でも、それってどこか間違ってるような気がするんです。目的と手段を取り違えてるっていうか……」

 俺は黙って彼女の話を聞いた。他人事とは思えないような内容だ。

「だから、自分に何が書けるんだろうって思って。あの穴の話だって、意味なんてないんだと思うんです。
 自分でもよく分かってなくて。それをどうすればいいのか、全然わからないんです。
 そう思うと、なんだか、自分の書いているものが、取るに足らない、くだらないものみたいに思えてきて……」

「……書くの、好きじゃない?」

 彼女は考えこむような沈黙を置いたあと、わからないというふうに首をかしげた。


「……書きたいっていう気持ちがあるなら、書きたいものがないなんてことはないよ」

「……」

「名誉心とか、そういうものがあるなら別だけど、きみはどうみてもそういうタチじゃないし。
 だから、自分で書きたいものがなんなのか、まだ分かってないだけなんだと思う」

「……せんぱいは、自分で分かるんですか?」

「俺は、どうだろう。なんとなく、こういうのは書きたくないって意識はあるけど」

「……」

 そうだ。
 ずっとまえに、ひなた先輩が言ってた。

 ――そこから見えるのは、どんな景色ですか?

「……え?」

 俺の呟きは小さくて、だからきっと、彼女は俺がなんていったのかわからなかっただろう。
 そうだ。俺は一年前も、他人の反応に怯えていた。今も、書くことに恐れを抱いているのと同じように。

 自分が書こうとしているものが、くだらないものに思えて。
 つまらなくて、取るに足らなくて、見る価値がない。物書きでもないくせに、そんなふうに思われるのが怖くて。
 
 文章は正直だから、書く人間の性質をとても正直に伝えてしまう。
 だから、もし俺が、俺の考えたことを文章にしようとして、それを誰かに見せた時。
 それを取るに足らないと思われることは、それは、俺自身が取るに足らないと言われているように感じて。



「……こんなこと言っても、慰めにはならないかもしれないけど、べつに、取るに足らないものでもいいんだよ」

 千歳は視線をあげて、こちらを見た。俺は彼女をまっすぐに見た。

「蛇の目は、夜の暗闇の中でも景色をつかまえられるし、魚の視界は、まさしく魚眼レンズみたいに歪んでる。
 同じものを見ていても、見え方はそれぞれ違うんだよ。それはたとえば、俺ときみだってそう。
 同じコーヒーを飲んだとしても、飲んだときにどんなふうに感じるかはそれぞれ違う」

「……はい」

「だから、『自分には世界がどんなふうに見えているか』を書くだけでも、それぞれ別のものが出来上がる。
 そこでは、取るに足らないとか、くだらないとか、そんな基準はいらないんだよ。
 自分が何を書きたいか、どんなふうに書きたいかっていうのは、自分の内側にあるものだから。
 それが稚拙でうまく表現できないっていうなら、結局もっと上手くなろうとするしかない」

「……」

「もし、自分の目に映る世界を、可能なかぎり丁寧に叙述したら、それはきっと、人によっては新鮮なものになる。
 もしくは、他人事とは思えないようなものになる。人によっては、すごく退屈に感じるかもしれない。
 でも、それを読んだ誰かが、何人ものうちのたった一人でも、ひょっとしたら何かを感じ取ってくれるかもしれない」

 ……そうだ。そんなことを、彼女は言っていた。

「……まあ、受け売りだし、俺だって、そんなに実践できてないんだけどさ」

 千歳は少し、言葉の内容について考えていたようだったけど、やがてほっという溜め息をついてから、

「せんぱい……なんか今日は、先輩っぽいこと言いますね」

 と言って笑った。

「まあ、結局……書きたいものを書けばいいんだよ」

 俺はそう言ってから、なんだか違うような気がして、言い直した。

「……書こうと思ったものを書くしかないんだよ」

つづく




「枝野は?」と顧問は言った。

「来てません」と大澤が答えた。

「サボりか?」

「……体調でも悪いのかもしれません」
 
 庇ったのは「みさと」だった。顧問は呆れたような溜め息をついてから俺たちを見回した。

「それで、部誌を作りたいってことだったよな?」

 月曜日の放課後までには、大澤が顧問に話を通してくれていたらしかった。
 だからその日の部活は顧問主導のミーティングになり、部誌作りの詳細について話し合われることになった。
 
「あかね」……枝野以外の部員は全員顔を出していた。



「おまえたちが作りたいって言うなら反対する理由はないから、俺としては別にかまわない。
 というか、大いに賛成だ。遊んでいるだけよりはちゃんと活動してくれた方が嬉しい。
 顧問を一応やってはいるけど、俺は何も書いたことがないから、アドバイスはできないけどな」

 顧問を中心に円形を作って椅子に座った俺たちを、彼はいちど見回して、言葉を続けた。

「発行日はいつくらいの想定だ?」

「……」

 大澤は口ごもってこちらを見た。俺は困ってしまった。

「いつくらいならいいでしょう?」

 顧問は溜め息をついた。

「自分たちで締め切りを決めたほうがやりやすいと思うけどな、俺は。部長が便宜的にでも決めておくといい。
 ……枝野は参加するのか?」

 わかりません、と俺が答えようとしたところで、「みさと」が声をあげた。

「書きます」

 と「みさと」は言った。

「そうか。だったら全員で集まったときに相談して決めてくれ」

 今学期か来学期なのかくらいは最初に決めてくれよ、と顧問は言い残して、部室を去った。
 案外いい顧問なのかもしれないなと俺は思った。少なくとも邪魔にはならない。


 彼が去ったあとの部室は沈黙で覆われていた。
 幽霊部員たちも何かを書くだろうか。……何も書かないかもしれない。そのうち、会いにいくのもいいかもしれない。

 俺が「みさと」に視線を向けると、彼女は俯いていた。

「……どうしよう、勝手なこと言っちゃった」
 
 大澤に目を向けると、彼は気まずそうに「みさと」を視線から外そうとしていた。
 まだ喧嘩してるのか、こいつら。

「枝野のこと?」

 俺が訊ねると、「みさと」はこちらを見ないで頷いた。

「書くって、あいつ、言ってたの?」

「……何も話してない。部誌つくることになったことも」

 なんで、あいつが書くなんて言ったんだろう。「みさと」の考えは読めなかったけど、だからといって俺が何かを言うことではない。

「まあ、あいつが書かないって言ったら、書けなかったって言っとけば、先生も納得するでしょ」

「……そうかもしれないけど」

 俺の無責任に慰めても、「みさと」は落ち込んだ様子を隠そうともせずに黙り込んだままだった。
 彼女たちの関係というのは、傍で見ているよりずっとわかりにくいのかもしれない。




「でも、一応、枝野にも話を通しとかなきゃな。……頼める?」

「みさと」はしばらく黙り込んだ後、小さく頷いた。

「じゃあ、頼んだ。べつに書かないっていうならそれでもいいだろうし。あとは……」

 ちらりと大澤の方に視線を向けると、彼は戸惑ったように目を泳がせた。

「部長」と俺は呼んだ。

「……なに」

 大澤は警戒したように眉をひそめる。

「詳細。詰めとかないと。締め切りくらいは決めとかないと」

「……みんなはどう思う? どのくらいあれば書ける?」

 大澤の問いに、俺たち三人は考え込んだ。

「……俺は、まあ、二週間あれば書けると思う」

「……ホントですか?」となぜか千歳が怪訝そうに訊ねてきた。
 俺は頷いた。文化祭で長いものを書いたばかりだったから、そんなに量を書く気にはなれなかったし、規模を考えれば妥当なところだろう。

「藤見は?」と、今度は千歳に向けて、大澤は訊ねる。

「わたしは……どのくらいかかるか、正直、わからないです。でも、締め切りが決まったら、それに間に合わせるようにはしますけど」

「……西村は?」

 誰のことだろうと思って大澤の視線の先を見ると、どうやら「みさと」のことらしかった。俺は忘れないように頭の奥の方にその名前を刻むことにした。
 さすがに彼女のことを下の名前で呼ぶ勇気はない。


「……わからないけど、一月あれば、たぶん」

「……そっか」

 ふたりの雰囲気はあきらかにとんがっていて、俺と千歳は目を合わせて気まずい思いを視線だけで共有した。
 あー、部内の恋愛ってこういうことがあるから控えるべきなんだなー、なんて思いつつ。

「俺はできれば二学期中に出したいと思ってる」

「……来月中にってこと?」

「うん。文化祭みたいに明確なイベントがあるわけじゃないから、時間かけるとグダグダになっちゃうと思うんだよ」

 それは、たしかにそうかもしれない。
 来学期となれば、休みを挟んでしまうわけで、そうなったときにモチベーションが続いているとは限らない。
 やる気になっている間に作ってしまえるのが理想なのだろう。

 ……ここにいる奴らにやる気といえるほどのやる気があるのかは、微妙なところかもしれないけど。


「今日、何日だっけ?」

「十一日」

 俺の返事に、大澤はぽかんと口をあけた。

「ポッキーの日だ」

 沈黙。

「……そうですね」

 と千歳が気をつかったみたいに言った。大澤は気まずそうに頭をかいた。

「じゃあ、来月の……十六日に発行ってことでどう?」

 冬休みの直前だな、と俺は思った。俺は他のふたりの様子を見てから返事をした。

「それでいいと思うよ」

 大澤は戸棚の中にしまってあった卓上カレンダーを見ながら唸り声をあげて、 

「となると、締め切りは……十二日かな」

 そう言った。十二月第二週の木曜日。金曜日を制作にあてるとしたら、まあ、土日も挟むし妥当なところかもしれない。
 ……いやいや。

「……期末直前じゃない?」

「あっ」

「べつにいいんじゃないですか?」

 戸惑った声をあげた大澤とは真逆に、たいした問題でもないだろう、と言いたげに千歳は口を挟んだ。



「多少余裕はある日程ですし、土日もありますから、なんとかなるんじゃないでしょうか」

「みさと」……西村の方も、何が問題なのかわからない、というふうに頷いた。
 
「……優等生がいる」

「一夜漬けとかしないんだろうな……」

 俺は大澤とひさしぶりに分かり合えた気分になったが、どう考えても分かり合えない方が幸せだった。

「まあ、ほら。せんぱいたちは二年分の経験があるわけですから、余裕を持って完成させればいいんじゃないでしょうか」

 いかにも他人事という口調で、千歳はニッコリと笑う。
 つーか、期末直前ってことは、部活動休止期間だと思うんだけど……まあそこらへんは曖昧な部だし、いいのだろうか。

 とはいえ、一月という作業期間が必要と考えると、最低でも十一日がラインとなってしまうわけで、最短でもテスト前には変わらない。

「……まあ、勉強と並行してやれば、なんとかなるか」

 大澤はいかにも器用そうな言い分で納得していた様子だった。
 不安が残るのは俺だけなのか。




 そんなふうに思っていたら、翌日の部活には枝野がやってきて、

「期末の直前が締め切りって、何考えてんの!」

 と俺に向かって怒鳴りかかってきた。

「なんで俺に言うんだよ。部長の決定だよ」

 戸惑いながら返事をすると、彼女はちらりと大澤の方を見てからふたたび俺をキッと睨んで、

「ていうか、そんな大事な話を、なんでわたしなしで決めちゃったの?」

「千歳が声掛けたんだろ。部室に顔出さなかったのはきみでしょう」

 というか、今までだって部誌についての話し合いに顔を出したことなんてなかったじゃないか、と俺は思った。

「部誌の話だなんて聞いてなかった」

 そりゃ、千歳が招集を掛けた時には、まだ本決まりじゃなかったし。

「ていうか、作るならなんでもっと早く言ってくれないの?」

「いや、決まったのが先週だし。期限と発行日を決めたのは昨日だし」

「聞いてない」

「だから、いなかっただろ」

 困り果てて西村の方を見ると、彼女はちょっと面食らった様子で苦笑いしていた。
 たぶん、今日枝野に話をしてみたのだろうが、ここまで際立った反応を見せるとは想像していなかったにちがいない。
 少なくとも俺はしてなかった。


「なんとかなるだろ」

 口を挟んだのは大澤で、奴は今日、部室に顔を出してからすぐにノートを広げてペンを握っていた。

「つーか、俺はもう一本完成させた」

 大澤は当たり前みたいな口調でそう言った。今度ばかりは西村も苦笑いとはいかなかった。

「……完成させた?」

 西村の真剣な声音に、枝野すらも口を挟めなくなってしまった。
 千歳の方を見ると、彼女は成り行きを眺めながらはらはらした表情をしていた。

「書けないって言ってなかった?」

「……いや、書けないっちゃ、書けないままだけど」

 しどろもどろに言い訳をする大澤の姿は、普段俺と話しているときの彼とは別人のようにも見えた。

「意味わかんない。完成させたんでしょ?」

「一本な」

「なにそれ。……なにそれ。意味わかんない」

 西村の声はかすかに震えていて、怒っているのか悲しんでいるのか、その両方なのか、よくわからなかった。
 それもそのはずだ。俺は彼女とコミュニケーションらしいコミュニケーションをとったことがないんだから。


「ばかみたい」

 と一言つぶやくと、西村は部室の隅のパイプ椅子に腰掛けたまま俯いてしまった。
 大澤はなにか声をかけようとしていたみたいに見えたが、なんと言えばいいのかわからないのか、途方に暮れたような顔をした。
 
 痴話喧嘩(と言っていいのかわからないが)に毒気を抜かれたのか、枝野は口を閉ざして、最後に俺の方を不満気に見つめた。

 俺のせいじゃない、と俺は思った。俺のせいじゃないよな?
 助けを求めるように千歳の方を見ると、彼女は困ったみたいに声を出さずに笑った。

 消去法、と千歳は言った。
 たしかにこの部内に助けを求める相手がいるとしたら、俺たちにはそれぞれ互いにしかいないのかもしれない。

 気を取り直すつもりで、俺は枝野に声を掛けた。

「でも、枝野は川柳だろ。だったら、なんとかなるんじゃないか」

「なにそれ。川柳だったらすぐにできるとでも思ってるの?」

 小説よりは時間がかからないんじゃないかなあと思ったけど、俺は川柳を書いたことがないので、ちょっと無責任な物言いだったかもしれない。

「……まあ、今までのは五分くらいで書いてたけど」

 反省しかかった俺の心が微妙に揺らいだ。言い返そうか迷ったけど、結局何も言わなかった。

「……締め切り、いつだっけ?」

 少しの沈黙のあと、枝野は俺に向けて問いかけてきた。これもきっと消去法なんだろう。

「来月の十二日」

 俺の答えに、彼女は少し苦しそうな顔をした。どうしてだろう。今までの彼女とは様子が違う気がする。

「……そう」

 とだけ言ってしまうと、彼女は鞄も持たずに部室を出て行った。


 追いかけようかどうか、一瞬だけ迷ったけど、よく考えてみれば追いかける理由もないのかもしれない。
 それでも、なんとなく放っておけない雰囲気はあった。だからといって、俺が追いかけてもどうにもならない。

「せんぱい?」

 さっきまで座っていた千歳が立ち上がって、俺のことを呼んだ。
 そういえば彼女は、他の奴らには苗字や名前をつけて呼ぶくせに、俺のことは「せんぱい」としか呼ばない。
 名前を覚えていなかったことに対するあてつけなのかもしれない、と思うのはさすがに卑屈すぎるかもしれない。

「なに?」

「追いかけないんですか?」

「……俺が? どうして」

「枝野先輩、様子が変でしたよ」

「……それは、わかるけど」

 それはわかるけど、あいつは結局何も言わないで出て行った。
 そんなやつを追いかけて、いったい何をしろっていうんだろう。……この考え方がダメなのか?

「……わたし、少し気になります」

「それは、俺も、そうだけど……」

 でも、枝野と俺の関係は少し面倒だ。あいつが未だに気にしているとは、さすがに思っていないけど。

「じゃあ、わたし、行ってきますね」

 と言って、千歳は部室を出て行った。なんだか自分が悪者になったみたいな気分がした。
 結果的に部室に残ったのは大澤と西村、そして俺だけで、空気は刺さりそうに鋭かった。
 
 仕方なく俺は立ち上がって部室を出て千歳の後を追うことにした。
 こいつらもふたりにすればちゃんと話ができるかもしれない、という思いつきは後付で、とにかくその場を離れたかったというのが正直なところだ。

 我ながら情けない。

つづく

246は重複ミス

252-16 俺が去年の → 去年の




 父親と相談して、学校にも届けを出して、俺はバイトを始めることにした。
 なぜ今のタイミングなんだといろんな人に聞かれたけど、最近は少しいろんなことに余裕が出来てきたから、と俺は答えた。

 勉強だってそこそこやってるし、部活のことだってもともとサボり部みたいなもので、多少は融通が聞くから、と。

 だからといって都合のいいバイトがすぐに見つかるとは思っていなかった。

 それでも履歴書を買って、このあいだのコンビニに面接希望の電話を掛けたら、すぐに来るように言われた。
 希望時間は土日の昼間。何かを考えたわけじゃない。

 土曜の午後二時半に面接に行くと、何人かの女の人がいた。四十代くらいの人がふたりと二十代くらいの人がひとり。
 その人たちに面接に来たことを話すと、すぐにバックルームに通してもらえた。

 バックルームには四十代くらいのひょろっとした男の人がいた。たぶん責任者なんだろう。よく知らないけど。

 面長で眼鏡を掛けていたが、瞳だけが子供のようにつぶらに見えた。彼は「ああ、どうぞ」と言って俺に椅子を勧めてくれた。
 失礼しますとか、よろしくおねがいします、とか、そういう適当な言葉を掛けながら、俺は愛想笑いをしていた。

「履歴書持ってきた?」

 彼は名乗りもせずにぶっきらぼうな調子でそう訊ねてきた。
 
 俺は鞄から履歴書を出して手渡した。彼は封筒を開けると履歴書を広げ、額に眼鏡をずらしてからざっくりと目を通し始めた。

「土日の昼間希望ってことだったよね?」

「はい」



「バイトの経験とかある?」

「ないです。でも、経験しておきたいと思って」

「そうなんだ」

 と言ってから彼は少し黙り込んだ。おかげで俺は数秒の間、ずっと自分の発言を吟味し直すはめになった。

「どうしてここに応募しようと思ったの?」

「家から近かったので」

「ああ、そうなんだ。家、どのあたり?」

「ここから自転車で五分かからないくらいです。すぐそこですね」

「ふうん……」

 彼はずっと無愛想な表情のまま履歴書に目を落としていた。なんだか不思議な感じがした。

「えっと、学生だっけ?」

 履歴書見てるんじゃねえのかよと俺は思った。俺は通っている高校の名前を挙げた。

「そこの卒業生、この店にも何人かいるな。二年生……」

「はい」

「じゃあユウと同じ学校の同学年だ」

「……はあ」


「土日働いてる子なんだけど、知ってる?」

「……いえ。たぶん話したことないと思います」

「そっか。部活なんかはしてるの?」

「一応、文芸部に入ってます」

「文芸部」

 と彼はオウム返しした。

「どんなことするの?」

「いろいろ書いたり……。でも、基本的にはみんなで喋ってるだけだったりしますね」

「へえ」

 どうでもよさそうな相槌。あんまり興味を惹かれなかったのかもしれない。それはそれで別にかまわないんだけど。

「土日、部活で出れなくなったりってことはない?」

「土日は基本的に活動してないので、ないと思います」

「……そっか。じゃあ毎週土日とかになっても大丈夫?」

「はい」

「……えっと、土日だけってなると、時給も低いし、そんなに金にはならないと思うけど、大丈夫?」

「はい。そこは気にしてないです」

 彼は胡散臭そうな目で俺を見たが、俺はまっすぐに彼の目を見返した。


「そっか。……えっと、あとなんかあったかな……」

 彼は場の空気を和らげようとするように苦笑した。俺も合わせて少し笑った。
 
「何か質問とかある?」

「……」

 俺は少し考えたけど、たいしたことは思い浮かばなかった。

「ここって、何人くらいの人が働いてるんですか?」

「……え、何人だろう」

「……」

「……十七人くらいかな。たぶん」

「そうなんですか」

「あとはなにかある?」

「……特には」

「……そっか。じゃあ、えっと。結果はあとで連絡するね。いつ頃なら電話平気?」

「土日ならいつでも平気ですけど、十一時以降なら確実に出れると思います。平日は学校なので、四時過ぎ頃なら平気だと思います」

「了解。じゃあ……」

 彼は何か言いたげにちらちらと俺の方を見た。

「はい。ありがとうございました。よろしくお願いします」

 そして俺は部屋を出た。





 電話は翌日の昼すぎに掛かってきた。

「じゃあ、とりあえず来週の土曜から入れる?」

 と男の声は言った。挨拶を交わしてすぐにそんなことを言われたものだから、俺は面食らった。

「はい。大丈夫です」

「じゃあ、来週、土曜の……二時。十四時から」

「十四時からですね。分かりました」

「じゃあ、お願いします」

「はい。お願いします」

 電話はそこで切れた。てっきり落ちたもんだと思ってたから、俺はちょっとだけ嫌になった。




「で、バイト始めることになったから」

「何で急に?」

 妹には事後報告だった。べつに反対されると思ってたわけでもないけど、ちゃんと決まるまで伝えたくなかった。

「まあ、思うところあって」

「ほしいものでもあるとか?」

「まさか」

 と俺は言ったけど、なにが「まさか」なのかは自分でもよくわからなかった。

「じゃあ、なんで?」

「人生経験が必要かと思って」

「……」

「若いうちにはなんでもやってみろって叔母さんが言ってたし」

「……」

「疑ってる?」

「べつに」

 妹はふてくされたような様子だった。




「で、バイト始めることになったんだよ」

「何で急に?」

 部室にみんなが揃っている時、そう報告すると、大澤たちは揃って呆れ顔を作った。

「まあ、思うところがあって」

「でも、部誌づくりの最中に?」

 そう問いかけてきたのは枝野で、俺はなんとなく意外な気がした。

「あんたが巻き込んだくせに」

「でも、ほら、俺は何本か完成させたし」

「……そりゃ、そうかもしんないけど」

「一応部活には出るし」

「でも、せんぱい、本当にどうして急に?」

 うーん、と俺は考え込んだ。千歳に対しては、できるかぎり正直でいたいような気もする。
 いや、他の誰に対しても、嘘をつくつもりはないんだけど。適度にごまかすだけで。

「まあ、何かの足しになるかと思って」

「……それは」

「うん」

 誰もそれ以上何も言おうとしなかった。西村は最初からどうでもよさそうだったし、大澤も気にした様子はなかった。
 千歳も、勝手に納得したみたいな顔をしている。
 枝野だけはちょっと尖った視線をこちらに向けてきたけど、いつものことと言えばそれまでだ。





「で、バイト始めることになったんだよ」

「おー、いいんじゃない?」

 月曜の夜に従妹から電話が掛かってきて、近況報告ついでにそんなことをいうと、彼女はどうでもよさそうに笑った。

「おにいちゃんも何かを始めてみるべきだよ。わたしはずっとそう思ってた」
 
 電話口で偉そうにうんうん頷く従妹の得意げな表情を想像して、俺は少しだけ頬を緩ませた。

「そっちはどう?」

「これといって特に。ねえ、冬休み、そっちに行ってもいい?」

「いいけど。……おまえ、予定とかないの」

「うるさいな。おにいちゃんこそ、そろそろ彼女できた?」

「……うるせーよ」

「……お互い、触れられたくない部分があるってことで、ここはひとつ」

「ああ、うん……」

 それから彼女は「わたしもバイトしなきゃなー」みたいなことを言った。
 話は学校のこととか部活のこととか、最近買ったCDのこととかにどんどん移っていって、それは案外悪くない感じがした。





「それで、バイトすることにしたんですよ」

 と、べつに報告する理由もないのにひなた先輩にメールを送ると、彼女からの返信にはクマが乱舞していた。

「おー、いいんじゃない?(クマクマクマクマ)
 がんばって!(クマ)
 でも、急にどうしたの?」

「何かの足しになるかと思って。時間が有り余ってるし、前から考えてたので、ちょうどいいと思ったんです」

「小説はー?」

「小説の足しにもなるかと思って」

「どこで働くの? いけるとこなら遊びにいくねー」

「こないでください(ほんとに)」

「わかったー(クマ)
 でも、本当に急だね?」

「前から考えてたんですけど、いい機会だと思って」

 そこまで打ってから、俺は少し迷ったが、結局続きを書き足した。

「それに、素材は多い方がいいと思ったんです」

 本当はもっと違った言い方をしようと思ったけど、やっぱりやめておいた。
 きっと面倒な話になる。

「応援してるねー(クマ)」

「先輩も勉強がんばってください」

「ありがとうー(クマクマ)」

 そして俺は小説を書き始めた。 






「それで本当にいいの?」

「じゃあおまえは、このままでいいっていうのか?」



◇ 

 土曜日に店に行くと、「いらっしゃいませ」と言われたので、俺は今日から入ることになってる佐伯ですと名乗って裏に入れてもらった。
 バックルームには面接のときの男の人はいなかった。居たのは四十代くらいの女の人だった。彼女は店長だと名乗った。

 制服と仮の名札、それから研修中の札を渡される。荷物をロッカーにしまうように言われたあと、俺は着替えをはじめた。

「とりあえず今日は仕事の流れの説明をしますね。レジの経験とかはないんだよね?」

「はい」

 それから店内にいた従業員と挨拶をして(片方は四十代くらいの女性、もう片方は二十代くらいの女性だった)、売り場に出る。
 レジの中に立つと店内の様子が違って見えた。

 こういうことだよ、と俺は自分の中の誰かに言った。見える景色は立つ場所で変わる。
 たとえそれがどれだけ些細なことであろうと。

 偉そうなことを考えて緊張を和らげようとしたが、あっさり見透かされたみたいで、店長は「緊張しなくていいよ」と言ってくれた。
 俺はメモ帳とペンを取り出して起きることに備えた。





「これで何が変わるっていうの?」

「まあ、何も変わらないかもしれないけどね」




 声は止まなかった。

 何が原因なのかわからない。
 その声がいったいなんなのかすら、俺は知らない。よくわからない。

 でも、声は明らかに俺に向けて放たれていた。それに対して何ができるのかはわからない。
 何かの決着をつけなければいけないのかもしれない。

 口を塞ぐなり、和議を結ぶなりして。

 たぶん、そのふたつしか残されていない。

 俺は何度か、声について考えて、言葉の内容を思い出した。

 ――世界が、ひとつだったら、よかったのにね。

 そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。

 でも、レジ打ちを教わってる間は、そんなことを思い返しもしなかった。
 だからといって、そんなふうに他のことにかかずらって何かを忘れようとするのは、俺の嫌いなやり方だった。

 こんなふうだから、何も変わらないのかもしれない。
 でも、まだわからない。まだ何も始まっていない。まだ何も確かめていない。


つづく




「結局、俺は無駄なことをしてるんじゃないかって気がするんですよ」

「たとえば?」
 
 そうだ。あのときも、俺はひなた先輩に相談したんだった。

「無駄なことをぐるぐる考えて、身動きがとれなくなって……。そんなのって、明らかに間違ってるじゃないですか。
 俺はもっと、地に足をつけて、難しいことを考えるのなんて諦めてしまうべきなんじゃないかって」

「……」

「そうすればもっと、世界が鮮やかに見えるんじゃないかって。そんなことを、いつも、考えるんです」

「……」

「考えないことが、一番賢いのかもって」

「……どうだろうね?」

 ひなた先輩は大真面目な顔で首をかしげた。



「わたしは、どうかな。どっちだって、生きていけると思うよ。
 どっちだってそこそこしんどいし、どっちがだけが楽ってわけでもないし。
 でも、結局、そういうのって選べないものなのかもしれないよね。そういうふうに出来上がっちゃったっていうかさ」

「……」

「きみは、どうなりたいの?」

「俺はずっと、憧れていたことがあるんです」

 と、そんなことを、そのときの俺は本当に言ったのだろうか。
 言っていないのかもしれない。記憶は捻じ曲げられて、勝手に作り替えられているのかもしれない。

「自分がもっとマシな人間になって、誰かと一緒に、街のどこかをわけもなく歩けるような、そんなことに。
 誰の目を気にすることもなく、変な劣等感に悩まされることもなく……そんなことを、真剣に思ってるんです」

「……」

「でも、このままじゃそんなの無理だって、そう思ってます。俺は明らかにくだらない人間だし、バカだし、考えが足りない」

 そうかもしれないね、とひなた先輩は言った。彼女は否定してくれないし、俺だってそれを期待していたわけじゃない。
 気休めを投げかけて話を終わらせるような人だったら、俺はきっと、彼女に惹かれていなかった。

「樹が、ね」

「……樹?」

「うん。樹が、あるでしょう。植物の。あれって、ゆっくりと成長するよね。わたしたちよりもずっと長く生きるし」

「はあ」

「樹が高く伸びていると、わたしたちはつい見上げてしまうけど、でも、本当はそれだけじゃないんだよね。
 高く枝を伸ばすためには、より深く地中に根を伸ばさなきゃいけない。どっちがだけじゃダメなんだって、わたしは思う」

「……」

「きみがしていることも、考えていることも、わたしは無駄じゃないって思うんだ。
 誰にだってある思春期特有のペシミズムだって言う人もいるかもしれないけど、本当はそうなのかもしれないけど、でもね。
 そうならないと見えないものだって、きっとあるって思うんだよ。そうなってしまったら見えないものも、あるのかもしれないけど」


 ひなた先輩はきっと、いつだって、俺の意思を尊重してくれていた。
 俺がどうありたいかを一番に考えて、俺の相談に乗ってくれていた。いつも。
 そして、いつだって、俺がいちばん欲しかった言葉を、いちばん欲しいタイミングで、投げかけてくれた。

「地中深くに根を伸ばして、光のない地の底まで行き当たって、そうやって初めて、高く枝を伸ばすことができるんだって思う。
 だからわたしは、きみの書いているものも、嫌いじゃないんだよ。だってそれは、わたしにも覚えのあるものだから」

「……」

「暗闇の中にとどまっていても何も見えないかもしれない。
 でも、ふたたび何かを見るつもりがあるなら、暗闇の中にまどろむことは無駄じゃないって、わたしはそう思うんだ。他の人がどう思うかは知らないけど」

「……でも、俺がしているのは、そんなにマトモなことじゃないような気がします」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「……」

「ペンギンは空を飛ぶことはできないけど、海を泳ぐことはできるし、ツバメは空を飛べるけど、海を泳ぐことはできない」

「……」

「みんながみんな、同じような生き方をすることはないし、それでどっちが正しいってことでもない。
 ただ、やり方が違うだけで、みんな生きようとしているし、それは誰かに責められるようなことではないと思うんだ」

「それでも、飛びたいペンギンがいたら?」

「きっと飛べない。でも、飛ぼうとすることはできるし、それは誰かに止められることじゃない」

「……」


「ねえ、きみは、きみなりに、たくさんのことを考えて生きているんだと思う。他の誰もがそうであるように。
 そして、きみに似ている誰かが、どこかにいるかもしれない。その人たちは、きみのことを分かってくれるかもしれない」

「……そうでしょうか?」

「うん。きっとね」

 わたしがそうだったように。ひなた先輩はそう言った。

 深く穴を掘ること。高い空を見上げること。吸って吐くことを呼吸と呼ぶように。
 ふたつの動作は一対であるべきなのだと彼女は言った。

「たくさんの人が死んでも、地球は相変わらず回っているし、だからきみが死んでも、やっぱり世界は変わらず回り続ける。
 そこに残せるものなんて、きっと何もない。きみがいつか言ったように、何もかもぜんぶ過ぎ去っていく。でも、それはきっと、重要なことじゃないんだよ」

 この世界にはたくさんの世界があって、それぞれの世界があって、わたしたちの無関係の世界が、増えたり減ったりし続けている。
 世界がひとつだったら、きっと、わたしたちは悲しみと喜びの矛盾でパンクしてしまう。
 だから世界がひとつじゃなくてよかった、なんていいたくないけど。
 
 理解できない苦しみや、理解されない苦しみが、伝わり合えない歯痒さから、世界がひとつだったなら、なんて考えてしまうけど。
 それでもこの世界は、そういうふうにできているんだと思う。

 家の庭に、ひとつの世界の終わりが埋まっているのと同じように、今日もどこかで誰かが死んでいる。  
 俺はその誰かのために、何かのために、なにひとつできない。……そういうふうにできている。

「わたしはね、少しだけでいいんだ」

 彼女は、そんなことを言った。

「たとえば、わたしの書いたものや、わたしの言葉や表情や、わたしの存在が、誰かにとって、何かになれたら。
 ただの気休めでも、暇つぶしでも、なんでもいいから、笑って思い出せるような何かになれたらって思うんだ。
 落ち込んでいる人が、少しだけ笑えるようになるような。そのあとすぐに、忘れられてしまってもかまわない。
 それでも、誰かの、ただ少しの気休めにでもなれたら、それだけで、わたしがここにいることは、無駄じゃないって思うんだよ」

「……部長は、既にそうなっていると思います」

「うん。……それが本当なら、わたしもわたしを、今より少しだけ、好きになれるかもしれない」





 世界には平衡感覚が欠けている。
 苦しんだ者が必ず報われるわけではないし、幸せの絶頂にいる者に苦しみが与えられるわけではない。
 人生はプラスマイナスゼロなんかじゃない。

 苦しい人に更なる苦しみが訪れることもあるし、その先に幸福があることなんて誰も保証してくれない。
 喜びの中に生まれて、喜びの中に死んでいく者もいる。

 誰もが、苦しみと喜びの両方を経験するから、そういうふうにも言えてしまうというだけで。
 計算なんてできていない。

「もし、神様がいて、苦しんでいる人に喜びを、喜んでいる人に苦しみを与えるような、そんなバランスの取り方をするとしたらさ」

 ひなた先輩の言葉が、俺の頭の中で、ずっと、響いてる。

「もし本当にそうだったら、わたしたちは、苦しんでいる人たちに対して、何もしなくてもいいはずだよね。
 たとえば、飢えて、渇いて、今に死んでしまいそうな人がいたとき、その人を素通りして、見殺ししてもかまわないってことだよね」

 その人の苦しみが、喜びに見合わないものなら、自分が何かしなくても、神様の采配で、喜びが与えられる。
 
「だから、バランスのとれた世界には、優しさは必要ない」

 完璧な人間が他人の助けを必要としないように、完成された世界は優しさを必要としない。
 
「だから、わたしたちは――」





「初めまして」

 翌週のバイトの日、初めて顔を合わせた"ユウ"とか言う人に対して、俺がそう声を掛けると、

「じゃ、ないよね?」

 そう、彼女は言った。てっきり男だと思ってたのに、女の子だったらしい。

「話したこと、あるよ」

「……ホント?」

「うん。一年のとき同じクラスだったじゃん」

「…・そうだっけ?」

「……うわ、ひど」

「ごめん」

「いや、いいけどさ。話したことあるっていっても、ちょっとだし。まあ、よろしくね」

 迷惑掛けると思うけど、よろしく。俺がそんなことを言うと、

「わたしも迷惑掛けると思うから、お互いさまだよ」

 と、当たり前みたいに笑った。
 それでいいんだと思った。

 今まで見逃してきたもの、見過ごしてきたこと、少し動きを加えただけで、いろんなものが、変化を伴って襲い掛かってくる。
 




「せんぱい!」

 部室に入った途端、千歳が大声で俺を呼んだ。

「……なに?」

「書けました!」

「……なにが?」

 間抜けな問いかけに、彼女は満面の笑みで答えてくれた。

「小説!」

「……おー。やったじゃん」

「やりました!」
 
 勝手な充実感か、達成感か、千歳は俺の適当な祝福なんて気にした素振りもなく、ひとりで喜んでいた。
 
「どうなったの?」

「読んでみますか?」

 俺は原稿を受け取って、目を通し始めた。



 それは突拍子もない話だった。
 穴の底にいた少女は、身動きもとれないまま、光を見上げ続けていた。
 やがて、大きな地震が起きて、彼女はけれど死ぬこともなく、生き埋めになってしまった。
 
 誰からも忘れ去られた、穴の底のひとつの生。

 けれど、そこに、不意に光が差した。

 光は、光というよりもむしろ、鮮烈な痛みとして、少女の身に起こった。

 彼女にその痛みを与えたのは、ひとりの少女だった。

「大丈夫?」と少女は言う。
 彼女は答えられずに沈黙する。

「こんなところにいるなんて、あんた、変なやつね」

 少女はそう言ってから、また空を見上げた。

「なんとなく、ここまで掘り進めてみたけど……」

 それから彼女は、穴の底の少女に目を向けて、

「ねえ、どうすれば、ここから抜け出せると思う?」

 そんなことを問いかけた。





「これで、全員分だな」

 大澤は部員たちを見回して、そう呟いた。
 枝野も、俺の知らないうちに、原稿を提出していたらしい。

 西村も、大澤も、枝野も、千歳も、俺も、みんな原稿を提出した。
 
「じゃあ、これから作業に入るか。意外と、まだ余裕あるし」

「それなんだけど」

 俺が口を挟むと、大澤は少し警戒した様子を見せた。

「少し、待ってもらえないかな」

「……どういう意味?」

「もう一本、書き上げたいんだ」

「……それは、かまわないけど。でも、テストもあるし、早めに完成させたいよ」

「うん。分かってる」

 頷いてから、言葉を続ける。

「明日までに、書き上げてくるから」

 俺の言葉に、みんなは揃って顔を見合わせてから、それぞれのタイミングで頷いた。





「わたしの言った通りだったでしょう?」

 俺はそのとき屋上にいた。彼女もまた、屋上にいた。

「結局、同じことを繰り返すだけだって、わたしはちゃんと言った。
 きっと、いつか後悔するって。今は忘れられても、いつか、幻肢痛みたいに体を焦がすんだって。
 あなただって、それを忘れたわけじゃないでしょう?」

 知っているような、知らないような、変な女。彼女の声は、どこか懐かしい感じがした。

「昔はさ、俺は、この世界はろくでもない、とんでもない場所だって、そう思ってた」

「何を言い出すの、急に」

「でも、すぐに気付いたんだよな。そうでもないって。世界はけっこう、よくできてて……。
 でも、ろくでもないのは俺だったんだ。たとえば綺麗なものがあったとしても、それは俺の手の届かない場所にあるんだって、そう思ってた」

 彼女は空を見上げていた。

「だから、諦めてた。でも、そんなのは、諦めだよな。自転車に乗る前から、乗れないって諦めてたって、乗れるようにはならなかった」

「……」

「きみの言う通り、繰り返しなんだ。できないことを、少しずつ、できるようにしていくしかない。
 俺がいろんなことをできるようになるまで、誰も待ってなんかくれない。覚束ない足取りでも、歩いていくしかないんだよ」

「……」

「そうやって、いろんな景色を知っていって、少しずつ、世界を拡張して……。
 諦めるのは、そのあとでもいいだろ?」

「結果が、同じだったとしても?」

「そうかもしれないけど……それはまだ、分からない」


「……うそつき」

「うん。俺は、嘘つきだった。でも、これから、嘘をつかないようにしたい」

「……」

「結局俺は、きみの言葉を封じ込めて、忘れたふりをしていただけだった。
 でも、それは間違いだった。どれだけ強く縛りつけたって、そんなんじゃ、ふとした瞬間に溢れ出てしまう。だってそれは俺の内側にあるものだから。
 俺は、きみの言っていることがわかる。そんなのは無駄だなんて、切り捨てられない。
 だから、連れて行こうと思うんだ」

「どういうこと?」

「この世界が、本当に、ろくでもないものなのか。俺が、ずっと、ろくでもない人間のままなのか。
 今は、まだわからない。だってまだ、何も確かめてないんだ。だから、確かめにいこう」

「……」

「もう、平気なふりなんてしないし、まともなふりなんてしない。
 封じ込めて、見ないふりなんてしない。影を実体から切り離そうなんて、無理な試みだったんだ」

「バカみたい」と、彼女は誰かみたいに笑った。
 
 もう、怪物を殺そうとはしない。
 その声は、俺自身だった。
 




 足音が聞こえて、鳥のはばたきが、追うように続いて、だから俺は、なんとなく、なんとなく……わかってしまった。

 振り返ると、当たり前みたいに、ひなた先輩が立っていた。
 制服の上に、黒いカーディガンを羽織って、彼女は、扉の向こうから屋上に現れた。

「……や」

 どこか、うかがうような、おもねるような調子で、声を掛けられる。

「……どうも」

 戸惑いながら、とってつけたような返事を口に出すと、先輩はくすくす笑った。何がおかしいのか、自分でもわかってない感じで。

「ねえ、小説は?」

「書きましたよ」

「……うん。見れば分かる。書けたときの顔してる」

「なんですか、それ」

「きみは、わかりやすいから」

「みんなには、正反対のことを言われますけどね」

「うん。そうなのかもしれない」



 ひなた先輩は、何も言わずに俺のすぐうしろまでやってきて、空を見上げた。

「雪、降らないかな?」

「どうでしょうね。降るかもしれない」

「降らないかもしれない」

「天気予報、見逃しました」

「わたしも」

 言葉はすぐに途切れて、だから俺はわからなくなった。
 彼女がなぜ、こんな場所に来たのか。

「ねえ、まだ、書くのが怖い?」

「……はい」

 彼女は、仕方なさそうに笑った。小さな子供のわがままに付き合うみたいな顔で。

「いつまで経っても、怖さはなくならないと思う。引きずって、飼いならしていくしかないと、今はそう思ってます。
 ……きっと、それでいいんですよね?」

「……それは、わたしが決めることじゃないから」

 俺は頷いた。


「ねえ」

 ひなた先輩は、いつもよりずっと、頼りない声で、心細そうな声で、そう呼びかけてきた。
 俺はそんな声が、心配になるよりも先に、なんだか嬉しくて、そんな自分の心の動きを、奇妙に思った。

「そこから見えるのは、どんな景色ですか?」

 彼女の問いは、すごくシンプルで。
 だから俺は、曇り空を見上げて、こう答えた。

「なんでもない、曇り空ですよ」

「綺麗に見えたり、しない?」

「何も。いつもと同じ、焼き増ししたみたいな、灰色の、冬の空です」

「そっか。そうだよね」

「でも、これが、俺の見ている、嘘のない景色だから」

「……うん。それでいいって、わたしはずっと、言ってたつもりなんだ」

「きっと、そうなんでしょうね」

「うん」



「……ひなた先輩は、俺の話を、黙って聞いてくれますよね。
 他のみんなみたいに、ごまかしたり、適当な慰めをかけたりせずに。
 真正面から、俺の話を聞いてくれた。それ、けっこう嬉しかったんです」

「……きみは、軽蔑するかもしれないけど、もともとこうだったわけじゃないんだよ。
 でも、わたしもそうしてもらって、嬉しかったから。そうしようと思ったんだ」

「それはもう、先輩自身のものだって、俺は、そう思いますよ」

「そうなのかもね」

 と、彼女はちょっと苦しそうに笑った。

「だからってわけじゃないんです」

 だからってわけじゃ、ないんですけど、と、俺の声は、やっぱり震えていて。
 みっともなくて、かっこわるくて、たぶん、変だ。

 でも、そこで逃げたら、これまでと同じだから。
 
「俺、先輩のこと、好きみたいです」

 振り向いて、彼女の顔を見ながら、そう呟いた俺の声は、さっきよりも上手に震えを抑えられていた気がする。
 声だって、ちゃんと、伝わるくらいの大きさで、出せた気がする。

「……え?」

 それでも先輩は、うまく聞き取れなかったみたいに、ちょっと表情をこわばらせて、首をかしげた。
 いつもみたいな、取り繕った笑顔じゃない、本当に、戸惑いだけの表情で。



 言い方が悪かったのかもしれない。そう思って、言葉を選びなおす。

「みたいです、っていうか。好きです」

「……えっと、それは」

 先輩は、後ろを振り返った。ちらちらとあたりに視線をさまよわせて、何かを探しているみたいに見える。

「……べつに、誰も隠れてませんけど」

「……あ、や」

 先輩がここに来たのだって偶然なはずだし、俺が何かの準備をできるわけない。

「え、でも……え?」

「……」

「ほ、本気で?」

 そう聞かれると、ちょっと自信がないんですけど、なんて言うわけにはいかない。
 こういう場面では、自分の言葉と自分の気持ちに、責任を持たなきゃいけないんだろう。
 きっと、枝野がそうしたように。

「本気で」


「人違い、とかじゃなくて?」

「……目の前にいる人を、どうやって間違うんですか」

「でも、でも……」

 俺はだんだん居たたまれなくなってきた。

「先輩がいないと、俺は寂しいです」

「……あ」

「このまま会えなくなるのは、嫌です。子供みたいなこと言ってるって、分かってます」

「……」

「どう答えくれてもかまいません。俺は、先輩のことが好きです。
 俺と、付き合ってください。俺、先輩と一緒にいたいです」

 それらしい言葉と、正直な気持ちを、ないまぜに言葉にする。
 小説を書くときにそうするように。

 書くことは伝達の手段だ。
 伝えることには恐怖が伴う。
 それでも、先を望むなら、言葉にするしかない。


「……ちょっと、考えさせて」

 先輩は、そう言ってから、あっというまに俺に背を向けて、屋上を去っていった。
 扉が閉まりきるより先に、彼女の後ろ姿は見えなくなった。

 逃げられた。

 ふられたかな、と俺は思う。気持ちが暗くなるのを感じる。
 それを強引にごまかそうとして――やめた。
 
 落ち込んだり、悩んだりしていいタイミングだ。

 俺は深く息を吸って、空を見た。
 相変わらずの空。何が起こっても、こちらのことなんて気にかけてはくれない。

 深く息を吐く。

 光に憧れた。だから、手を伸ばす。
 単純な話だ。いつだって、きっとそうだった。





 その日のうちに、俺は小説を書き上げた。
 すらすらと、とはいかなかった。

 何度も手直しを必要としたし、書き上げた文をまるまる消してしまうような事態に何度も陥った。
 
 そんなことを繰り返しているうちに、俺は何度もよくわからない感情の波に襲われた。
 
 海や、猫や、千歳の小説のことを思い出した。泣いている妹のことを思い出した。

 最後に思い出したのは、不思議と、枝野が文化祭のときに書いた、ひとつの川柳だった。

 何度も、振り回されたり、かき回したりしながら、やっとの思いで書き上げたあと、本当にこれでいいのかと、俺は何度も読み返した。
 
 これでいいのか? と俺は問いかける。でも、それに答えてくれる相手なんて俺しかいない。
 だから俺は、これでいい、と自分に言った。

 とにかくこれが、今の俺なんだ。





 予定よりも早く完成された部誌は、予定よりも早く図書室に置かれることになった。
 顧問は完成した部誌を見て、満足そうに何度も頷いていたけど、彼が内容に目を通しているとは思えなかった。

 大澤は「書けない」と言っていたのが嘘だったみたいに、何本もの掌編を載せていた。
 どうして書けなかったのかと訪ねてみたら、奴はこんなふうに答えてくれた。

「結局さ、褒められすぎたんだよな、俺は。だから不安になったんだ。
 評判が良かったから、次書いたのも読むよなんて言ってもらえたけどさ。
 でも、そいつらが俺の次の話を気にいるとは限らない。だって俺が次に書くのは、それとはちがう、別の、新しい話なんだから」

 たしかに、と俺は頷いた。

「でも、結局書くしかない」

 いつもみたいに、これ以上ない結論で、大澤は話を終わらせた。

「そういえば、ラーメン屋ってなんだったの?」

「ああ、いや、だからさ。ラーメンが美味い店だからって、餃子まで美味いとは限らないだろ」

「……」

「それでも、餃子はまずいって落胆されたら、なんとなく嫌な感じじゃん」

 そんなたとえをされたら、どんな悩みも形無しだなあ、と俺は思った。それでいいのかもしれない。




 十一月の半ばを過ぎた頃から、森里は俺に何枚かの写真を見せてくれた。
 路地裏の写真、街並みの写真、海の写真。つまり、風景の写真だ。

「最近、カメラが手に入ったから、適当に歩きまわって撮ってたんだよ」

「ふうん。なんで急に?」

「なんでもいいから、何かをしてみたい気分だったんだよな。
 いろいろ歩いてみると、俺ってけっこう、この街のこと知らなかったな、って思って。
 見たことのない店とか、路地とか。見て回りたくなった。そこには、何かすごいもんがあるかもしんないし」

「そうかもな」

 照れくさそうに話す森里の表情はいつもよりなんだかいきいきして見えて、楽しそうだった。
 カメラを手に町中を歩くっていうのも、なかなか楽しそうな趣味だ。そのうち真似でもしてみたいもんだなあと俺は思った。




 枝野の書いた小説は、枝野の川柳をそのまま小説にしたような話だった。
 ふてくされて眠り込んでいる熊、それでも熊の気持ちなんておかまいなしに、風が吹いて、熊は目をさます。
 それだけと言ってしまえばそれだけの。けれど、そこには何かが含まれている。少なくとも俺はそう感じた。

「なんだか、うまく書けたって気がしないなあ」

 枝野はそんなふうに、髪をかきあげながら、不満気に呟いた。

「最初はそんなもんかもしれないよ」

「あんたも?」

「俺は、今でもだよ」

「それでも書くんだ?」

「呪われてるから」

「……呪われてるの?」

「何かを好きでいるっていうのは、呪いみたいなもんだろ」

「……たしかにね」と、枝野はちょっと複雑そうな顔をした。

 そんな枝野に対しても、それから、大澤に対しても、西村は以前みたいな穏やかな接し方をしていた。
 彼女のことはよくわからない。でも、きっと彼女は、彼らのことが好きなんだろうと思う。




「部誌なんて作ったの? 文芸部」

「まあ、うん。普段は文化祭のときだけだけど、今回のは、ちょっと例外的に」

「ふうん。読んでみたい」

 土曜日、バイトの日に、"ユウ"はそんなことを言った。

「どんなの書いたの? ミステリー?」

「いや。ミステリーではない」

「じゃあ、恋愛モノとか、ホラーとか?」

「……うーん」

「それとも、教科書に載ってるような奴?」

「どうなんだろ。俺も、よくわからない」

「変なの」と彼女は言って、補充が必要な煙草を持ってくるためにバックルームへと向かった。


 売り場に戻ってきたかと思えば、彼女は思い出したみたいな調子で俺に質問を投げかけてきた。

「そういえばさ、佐伯はなんで、今のタイミングでバイト始めたの?」

「なんでって?」

「いや。珍しいじゃん。春からとか、夏休みからとかなら分かるけど」

「一応、今だって長期休暇前じゃん」

「でも、テスト前だし」

「俺、テスト勉強ほとんどしないし」

「あ、わたしも」

「俺は成績悪くないし」

「……今、わたしは成績悪いって決めつけたでしょ」

「違うの?」

「……黙秘」

 といって、ユウはむっとした顔をした。


「で、どうして?」

「じゃあ、俺も黙秘」

 なにそれ、と言って、彼女はまた笑う。

「そういえば、"ユウ"って、どんな字書くの?」

「字? 名前の?」

 うん、と頷くと、彼女はすぐに説明してくれた。

「優しいって字」

「……ふうん」

「あ、いま、似合わないって思ったでしょ」

「いや、べつに」

「またまた。本人もそう思ってるし」

「いや、ほんとに、そうは思わなかったけど」

 彼女は面食らったみたいな顔で俺を見返した。

「……そう?」

「うん。ただ、いい名前だなあって」

「……へんなやつ」

 と彼女は言った。




 ある日の放課後、千歳は部室に、ひとりきりでいた。
 
 俺は軽く声をかけてから、また自分の定位置に座る。
 そのうち、他の奴も来るだろう。

「……なんか」

 と、どこか不満気に、千歳は口を開いた。

「また、手持ち無沙汰ですね」

「そうだな」

「……繰り返してるなあ」

「気分の問題かもしれない」

「……え?」

「一本書き上げたら、また次のを書けばいいんだよ」

「……」

「部誌なんか作らなくても書けるし、作りたくなったらまた作りたいって言えばいいんだ。
 次は何をどんなふうに書いてやろうって、次こそあっと言わせてやるって、そんなふうに思えばいい」

「せんぱい、大人みたいなこと言ってる」

「……そうか?」

 本気の疑問だったのに、千歳はなんだか納得いかないふうな顔をして、しばらく机に顔をつけてうなっていた。
 なんとなく、ひなた先輩のことを思い出して、それから、今自分がいる場所のことを考えた。

 彼女が俺にしてくれたようなことを、俺も、彼女にできるだろうか。
 そんなことを、ものすごく真剣に、俺は考えていた。





 あっというまにテストが終わって、冬休みが来た。
 休み中の部活のスケジュールはだいたい平日で、バイトには問題なく出られそうだった。

 毎日のように雪が降って、寒さで目をさますようになって、朝起きるたびに床が冷たかった。
 
 休み中のある日の朝、リビングに降りると、また妹がしくしくと泣いていた。
 何がそんなに悲しいのか、俺にはよくわからない。きっと、教えてもらうこともできない。

 その日は雪が降っていなかった。俺は庭に出て、シャボン玉を吹き始めた。
 すると、妹もまた、パジャマ姿のままで外に出てきた。

「寒くない?」と訊ねると、「寒い」と返事がやってくる。俺は何も言わないことにした。

「……しゃぼんだま、とんだ」、と妹が歌う。

「しゃぼんだま とんだ
 やねまで とんだ
 やねまで とんで
 こわれて きえた」
 
 かぜ、かぜ、ふくな。
 しゃぼんだま、とばそ。

 白い空の向こうに、シャボン玉は吸い込まれていく。




 
 一応大丈夫な計算だったけど、初任給はちゃんと間に合った。
 
 だから俺は駅前の花屋にいって、カスミソウの花束を買って、妹に贈った。

「誕生日おめでとう」と言ったら、「今どき花なんて……」と妹は難しい顔をした。俺もそう思った。

「どうせなら食べられるものがよかったかな」と、照れ隠しのつもりか、珍しいわがままを彼女は言った。
 だから俺たちはふたりでケーキを買いに出かけた。

 だからどうって話じゃない。
 それでも妹は、「ありがとう」と言ってくれた。

 翌朝にはカスミソウは花瓶に入れられて、リビングの出窓に飾られていた。
 




 森里と一緒に、男だけのクリスマスや大晦日や初詣を楽しんだ後、学校が始まった。
 大澤の方は、西村と上手いことやってるらしかった。

「久々に来ると、なんとなく新鮮な感じがするけどさ」

 通学路を歩きながら、森里はそんなことを言い始めた。

「でも、すぐに嫌になるんだろうな。五回学校にいって、二回休んで、また学校にいって……そんな繰り返し」

「まあ、だろうね」

「……ま、仕方ないか」

 仕方ない、と俺たちは割り切った。だってそれが俺たちの生きている世界なんだから。
 そして、俺たちは道を歩く。いつもの見慣れた街。歩き慣れた道。代わり映えのしない景色。

 そこに、その日はひとつだけ変化があった。


「や」

 マフラーで口元を隠して、カーディガンを羽織った、ひなた先輩がそこに立っていた。

「あけましておめでとう」と、彼女は、いつもよりずっと静かな、どこか不安そうな声で言った。

 俺は少し唖然としながら、それでも、あけましておめでとうございます、と、どこか間抜けな返事をした。

「ねえ、少し、話せるかな?」

 彼女は俺の目を見て、そう言った。
 森里は、気を利かせたのかなんなのか、俺の隣から離れて、走り始めた。
 その背中を見送ることもせず、俺はひなた先輩を見る。

「いつでもどうぞ」

 俺が笑うと、彼女は少しだけ笑った。

「なに、それ」

 彼女は、覚束ないような足取りで、俺の隣にやってきた。

「あのね、わたし――」

 彼女の声は小さかったけど、それでも何かを伝えようとしていて、だから俺は、その声に耳を傾けた。
 とても熱心に。自分でもバカじゃないかと思うくらいに。

 彼女は、照れくさそうに、ごまかすみたいに笑って、それから――いつもみたいに、俺が一番ほしい言葉をくれた。
 嘘みたいに綺麗に笑いながら。

 だから俺は、不意に泣きそうになった。
 彼女はそんな俺を見ながら、また笑った。少しだけ、嬉しそうに。
 




 十二月に俺たちが作った部誌の編集の担当は大澤だった。

 あんまり乗り気ではないようだったけど、奴は結局、うまいことやった。
 奴は部誌の冒頭の一ページに、どこかの何かから引用したらしい、こんなエピグラフを載せた。


「  警告

 この物語に主題を見出さんとする者は告訴さるべし。
 そこに教訓を見出さんとする者は追放さるべし。
 そこに筋書を見出さんとする者は射殺さるべし。 」

 俺たちは小説を書いた。それがどんな出来だったかなんてどうでもいい。
 きっと、俺たちはまた何かを書く。今分かるのはそれだけだ。

 その先に何があるかなんて俺には分からない。
 何かあればいい、と俺は願っている。

おしまい

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