苗木「青春に、『希望絶望』はツキものだ」 (273)
【きょうこイタチ】
霧切響子さんとボク――苗木誠の関係を表すのに多くの言葉は必要ない。
同じ学校のクラスメイト、ただそれだけだ。
霧切響子さん単数での説明をする為にはおそらくかなりの言葉を必要とするのだろうが、ボクは多くの言葉を持たない。
彼女はクラスの中で自分について事細かく話すような人ではないし、そもそもといった所で、口数自体多い方ではないからだ。
ボクが彼女について知っている情報。それはやはり一言二言で済んでしまう。
霧切響子さんは超高校級の探偵だ。
……ダメだ、一言で済んでしまった。これではあまりにも彼女に申し訳ない。
もう一言付け加えるのであれば、彼女はよく整った顔立ちをしている。ボクの感覚で言えば、可愛いよりも綺麗の方へ傾いた顔立ちだ。
更にクールでミステリアスな一面も相まって、入学してからまだ一月程しか経っていないにも関わらず、彼女には密やかなファンが増えてきているとか。
まぁ、これはそういう情報に詳しい桑田クンから聞いたことだから、どこまでの信憑性があるのかは分からないけど。
とにかく、彼女は綺麗な超高校級の探偵だった。
超高校級、というのは文字通り、高校生離れした能力を持っているという事だ。
もちろん、全てにおいて完璧な人間というわけではない。ある一点に置いてずば抜けた能力を持っているという事だ。
人間、得意な事と苦手な事は誰にでもある。超高校級の生徒にとっては、それが一長一短ならぬ、一超一短といった感じなのだ。
中には一超一短の短すらなく、一超一長みたいな十神クンのような人間も居る事は確かだけど。
そして、そんな超高校級の人と同じクラスであるというのは単なる幸運によるものでもなく。
いや、ボクがここにいる事自体は紛れも無く幸運なわけだけど。
いやいや、そもそも、そんな超高校級に囲まれているこの状況がはたして本当に幸運であるかどうかは分からないけど。
結論から言うと、ここはそういった超高校級の生徒を集めた学校だという事だ。
みんなに希まれて望まれた、希な才能を持った将来の展望明るい最高峰の生徒が集められた学校。
それが、私立希望ヶ峰学園だ。
ボクにとってもっと重要な事を言えば、ボク自身は特にこれといった超高校級の才能なんて持っていない。
違った。それだと学校の意向から外れてしまう。一応この学校には予備学科という一般枠もあるのだけど、ボクが居る場所は紛れも無く本科だからだ。
ボクの才能は「超高校級の幸運」だ。
そう、運だ。時として何の理由も仮定もなく、ただ結果だけを与えてくれる、理不尽なまでの力。
天性の才能という言葉があるけれど、それはまさに運のような才能に使うのが最も正しいものなのではないだろうか。
とはいえ、「超高校級の幸運」なんて大それた肩書を与えられたボクだけど、その実は何とも虚しくつまらないものだったりもする。
全国の学生から無作為に一人選んだ結果選ばれた学生。それが「超高校級の幸運」であるボクだ。
たぶんもう一度同じことをすれば他の人が当たるのだろう。更にもう一度同じことをすればまた別の人が当たるのだろう。
結局のところ、たまたま運が良かっただけ。そういう結論に落ち着く。
運という才能は、ここ希望ヶ峰学園でも研究が進んでいない分野として注目はされているらしい。
そして、卒業すれば成功を約束されるこの学園に入るという事自体は、やはり幸運というべきものなのだろう。
だからこそボクも、自分で自分が何の才能も持っていない事を誰よりもよく分かっていたにも関わらず、この学校への入学を決めたのだ。
ゆえに、この運を誇って、自信満々に胸を張って「ボクには素晴らしい才能がある!」などと言えるほど、ボクは図太くなかった。
何というか、特別な才能が無くても何かの偶然や間違いでこんな学校に入れる。一般学生にそういった希望を持たせる為の人柱か何かであるような感覚さえも覚えてしまう。
人柱というマイナスな表現をしたが、超高校級の生徒達に混ざって、ボクみたいな平凡な人間が居る事に居心地の悪さを感じる程度には、ボクは平凡だった。
一期上に、何度抽選しても絶対にその人が当たるような、それこそオカルト的な本当の幸運を持ち合わせている人が居る事も、こんな気持ちに拍車をかける要因ではあるのかもしれない。
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……話が逸れてしまった。今は霧切響子さんの事だ。
やはりというか、これは当たり前のことなのだけど、他人の話をするよりかは自分の話をする方が簡単なだけに、ついそちらへ流れてしまう。
霧切さんは基本的に一人で居る事が多い。
イジメとかそういうものではない。というか、彼女にそんな真似をすれば社会的に抹殺される、そんな予感さえ抱く程に、彼女は一人でも強く見えた。
孤独ではなく、孤高。例え彼女自身がそう言ったとしても、それが負け惜しみでも何でもないと思うのだろう。
かといって、彼女は常に一人で居るわけではない。
学園生活を送っていくにあたって、その全てを単独行動だけでこなしていく事は不可能ではないにしても、極めて困難だからだ。
ほんの些細な例を挙げれば、授業中。特に英語の時間なんかは二人一組のペアを強要される事も少なくない。
そんな時、霧切さんは抵抗して一人を決め込むわけでもなく、素直に近くの席の人に「ペアを組んでもらえるかしら」とお願いしているのを何度も見た。
それに、舞園さんや朝日奈さん……あとボクなんかは、一人で居る霧切さんに対しても普通に話しかける。
対して霧切さんは特にそれを邪険に扱うこともなく、時には薄い笑顔なんかも見せて普通に話している。
ただ、彼女はやはり何でもない会話の中でも、越えてはいけない一線を明確に示していた。
ボクもそれなりに話しているにも関わらず彼女の事を良く知らないのは、こういった所からくるものだ。
ところが今日。
絶望そのものだった春休みが終わって、悪夢そのものだったゴールデンウィークを過ぎた五月の頭。
お昼休みの事だ。
たまたまボクが日直だったので、次の授業に使う道具を準備室から教室まで運んでいる途中。
階段の踊り場で、ボクは霧切さんと出会った。
こんな言い方をすれば、それが運命か何かであるかのような大袈裟な印象を与えてしまうかもしれないが、ただの偶然に過ぎない。
でもそこで無視するというのもあまりにも寂しいものなので、何か適当に一言二言かわしてすれ違う。
そんな程度の一コマだと思っていたのだけど。
それは、彼女の表情を見て、脆くも粉々に崩れ去った。
『どうしたの、霧切さん』
『何かしら? 私がここに居る事がそんなに不思議?』
『違うよ、そうじゃない。どうして霧切さんはそんな…………』
『悲しそうな顔をしているの?』
霧切さんはそこでわずかに黙り込んだ。
張り詰めた空気。無言の威圧。
彼女は探偵として十分すぎるほどに、超高校級に備わった観察眼で、ボクの事をじっと見つめた。
『私が悲しそうに見えるのかしら?』
『うん。そう見えるよ』
『……分かったわ。ありがとう苗木君』
『えっ?』
『あなたに言われなければ気がつけなかった。自分の表情というものは、他の誰よりも読みにくいものだから』
『そう……なのかな。でもさ、何かあるなら、ボクで良かったら話くらいは』
『ありがとう苗木君』
そして、霧切さんはもう一度。
『ありがとう』
+++
「それはですね苗木君、こういう事ですよ。『ありがとう。気持ちはありがたいけれど、もうそれ以上近づかないで、あっち行って』」
「だよね……」
夕暮れの教室。
これまた、たまたま日直だったボクとクラスメイトの舞園さやかさんは、二人で教科プリントの整理をしていた。
授業に使う予定のプリントの束を一纏めにしてホチキスで止めていく。大変なのは他の学年のものも混ざっているという所だ。
舞園さんはよく整った可愛らしい顔立ちをしている。
こうして放課後の教室に二人きりというシチュエーションは、それこそかなりの幸運な状況なのだろう。桑田クンなんかは飛び跳ねて喜びそうだ。
彼女は――舞園さやかさんは、国民的アイドルグループのセンターマイクを務める「超高校級のアイドル」だ。
普通ならば「クラスの可愛い子と放課後二人きりでラッキー」程度の状況も、相手が彼女だという事実だけで人によっては半狂乱する程の大幸運に早変わりだ。
……これが別に誇張した表現でもないのがまた、現実離れしたイメージを際立たせる。
ガチャコン、ガチャコン、とホチキスを開閉する音が教室に響く。
「まぁでも、多少は仕方ないことですよ苗木君。女子には男子よりも強固なパーソナルスペースというものがあるのですから」
「そっか……やっぱり余計なお世話だったのかな」
「そこまでは言いませんけど……それでも、彼女があまり人に話したくない事だっていうのは確かですね。無理に聞くのはよくないでしょう」
「……舞園さんは霧切さんから何か聞いていないの? そういうあまり人に話したくない事でも、同性の友達なら話せたりするものじゃないかな?」
「程度に寄りますよ、それも。私だって仲良しの朝日奈さんにも話していない事はあります。そう、例えば――――」
ここで舞園さんはイタズラっぽくウインク。
「好きな人の事、とか」
ドクンッと心臓が大きく高鳴るのを感じた。
やっぱり舞園さんは凄い。こうして人の心を動かす方法を知っている。
細かな表情、仕草。言葉の選択。間の取り方。
それらはまるで芸術品か何かのように見事なバランスで完成されている。
こうすれば、こう言えば、この人は喜ぶ、驚く。それらを熟知した上で行動に移すタイミング。
超高校級のアイドルらしい能力だ。
「あー、えっと、じゃあ霧切さんは舞園さんにも何も言っていないんだね?
となると、それだけ大変な事なのかな……いや、でも彼女自身そこまで自分の事話すような人でもないし……」
「ふふ、なるほどなるほど。苗木君は私の好きな人よりも霧切さんが気になるのですね」
「えっ、あ、ちがっ、そういう事じゃなくて!!」
「冗談ですよ。私の言葉にどう反応すればいいのか分からなかっただけでしょう」
舞園さんは楽しげにクスクスと笑顔を浮かべている。
からかわれているのは分かるけど、この表情を見たら文句を言う気もなくなってしまう。
彼女の笑顔にはそんな絶対的な力があった。
「でも私自身、霧切さんの事をよく知っているわけでもないんですよね。
たぶん、彼女への理解は苗木君とそれほど変わらないはずです。ほら、ゴールデンウィークも挟んでしまいましたし」
「ゴールデンウィーク、ね」
「どうかしました?」
「あ、いや、何でもない何でもない。そっか……舞園さんがそう言うなら、他の人に訊いても同じだね」
「あはは、何ですかそれー」
「ほら、舞園さんってクラスで一番みんなと仲良しって感じだから、誰よりもみんなの事を何でも知ってると思ってさ」
「何でもは知りませんよ。エスパーで知っている事だけです」
「そ、そう……」
「ちなみに苗木君の身長は160センチです」
「なぜそれを!?」
「そして妹さんよりも小さい事を気にしています」
「やめて!!!」
そんな個人的で絶対的な秘密事項まで知られてしまうとは。
何て恐ろしいんだエスパー。プライバシー保護法にエスパーの要件も追加した方がいいんじゃないか。
「大丈夫ですよ苗木君。あなたはむしろ小さいという所がプラスに働いていますから」
「え?」
「苗木君はカワイイ系ですからね。何て言いましょうか、こう、小動物的な感じなんです」
「…………」
「このクラスで言えば、正統派イケメンはやはり十神君、チャラ男系イケメンは桑田君って感じです。
要するに性質……タイプの問題なんですよ。甘いものが好きな人がいれば、辛いものが好きな人もいるでしょう。それと同じようなものです」
「へ、へぇ」
「ですから、そうですね……苗木君が女の子にモテたいのであれば、普通にカッコつける事はオススメしません。
必要なのは愛くるしい笑顔です。それが苗木君の武器です。まぁ、カッコつけたいという確固たる信念があるのなら止めはしませんけど」
「……考えておくよ」
理屈は分かるけど、納得はしたくないものだ。
ボクだって男なわけで、可愛いと言われるよりはやっぱりカッコイイと言われたい。
甘口カレーだって時には反抗して、女子供の敵となって辛口になってみてもいいじゃないか。
「それでは、苗木君がどうやって霧切さんをゲットするかですが」
「あれ、ボク達そんな話してたっけ?」
「してませんでしたっけ?」
「してないよ」
「はぁ、そうですか。私はてっきり、苗木君が弱った霧切さんを助けてアピールしたいのかと思っていたのですが」
「それは違うよ」
「そしてあわよくばその武勇伝を私に聞かせて、フラれた時のストックとしてとっておくものとばかり」
「それは違うよ!!」
「違うんですかっ!?」
「驚かないでよ!?」
本気で驚かれると本気で凹むからやめてほしい。
ところが、舞園さんは分かったように一、二度頷くと、
「大丈夫ですよ苗木君。そんなに隠そうとしなくても、私がドン引きするだけで霧切さんには言わないでおきますから」
「何その本当は舞園さんの言う通りみたいな言い方!!」
「エスパーですから」
「それは言ったこと全てが本当になるっていう力なの!?」
「苗木君、胸に手を当ててよく考えてみてください。私はあなたの本心を見抜いていますよ」
「やめてよ!! なんか舞園さんに言われると本気で自分の認識に自信なくなってくるから!!」
ボクは決してそんな下心があって霧切さんの事を心配しているわけではない!
……はずだ。いや、そうだ! そうなんだ!! ていうか舞園さんもその「分かってる分かってる」っていう目をやめてほしい!!
するとボクの願いが通じたのか、舞園さんはニッコリとした笑顔に戻ると、
「とまぁ、冗談は置いときまして」
「その冗談でボクの精神がゴリゴリ削られてるんだけど……」
「大丈夫です、人間結構頑丈にできていますから。
つまり、苗木君は霧切さんが悲しんでいる原因を知って何とかしてあげたいんですよね。下心とかはなしに」
「うん、まぁ」
「名も無いヒーロー戦法というものがあります」
「初めて聞いたよそんなの」
「初めて言いましたからね」
「…………」
「まず大前提として、霧切さんはその問題について、苗木君に相談するつもりはありません。
苗木君はその問題について知らない事には、彼女を救いたくても救うことができないというわけです」
「そりゃ……そうだよね」
「ですが、知らないことがあるならば、知ればいいんです。霧切さんをよく観察して、彼女の悲しみの元を突き止め、それを解消するというのはどうでしょう。
もちろん、霧切さん本人はこの問題に他人を踏み込ませたくないと思っているので、彼女には気付かれないように、です」
それで名も無いヒーロー戦法。
ズカズカと干渉せずに、おいしい所だけをかっさらうかのように、誰にも気付かれずにみんなを助けてしまう。
うん、カッコイイ。
「……なるほど。いいかもしれない」
「でも気をつけてくださいね。もし苗木君が余計なことをしていると知ったら、霧切さんは校内でもお構いなしに苗木君の口内をホチキスでガチャコンしてしまうかもしれません」
「霧切さんってそんなに怖い人なの!?」
舞園さんは笑顔で手に持ったホチキスをガチャコンと鳴らす。
いや、まぁ、別にボクは彼女のことをよく知っているというわけではないけども。
それにしたって、そんなバイオレンスな事をするような人だとは思いたくはない。
「ふふふ、何やっているのよ苗木君」からのガチャコンだなんて、その後の学校生活を彼女と共に送っていくにあたって、深刻なトラウマをボクに残しかねないだろう。
舞園さんは少し上の方を見ながら、
「目的のためであれば手段を選ばない人、というのは間違いないとは思いますよ。その方法がガチャコンであるかどうかは、その場の状況とかに寄ると思いますけど。
もしかしたらバッチンだったり、ブッチンだったり、メリゴシャだったりするかもしれません。そこは彼女のセンスが問われますね」
「センスというより常識が問われてると思うけど。とにかく、ボクは絶対に気付かれないように彼女の事を観察しなくちゃいけないのか……」
「まぁ無理ですね」
「じゃあ何でこの話を振ったの!?」
「あくまでこういう方法もあるという事ですよ。ガチャコンされる覚悟でやるというのであれば、私は止めたりはしません。
それに何度傷めつけられても苗木君が諦めずに彼女に向かい続ければ、もしかしたら話してくれるかもという可能性はあります」
「それもう名も無いヒーローとかカッコイイものじゃないよね」
「言ったじゃないですか、苗木君はそのタイプじゃないって。あなたの武器はあくまで可愛らしさですよ。
ほら、ボロボロに痛めつけられた姿って保護欲を掻き立てられるでしょう? 『あぁ、なんて可哀想……!!』みたいな」
「自分で傷めつけといて凶悪すぎる!!」
「そもそも“かわいい”という言葉の語源である“かわゆし”という言葉は『いたわしい、気の毒だ』という意味で、そこから『愛らしい』という意味に転じたと言います。
つまりはそうやってボロボロの姿を見せて哀れんでもらうというのは、自分の可愛さを引き立たせる上でも理にかなった方法だと言えるでしょう」
「そんな捨て身になるほどボクは愛に飢えてないよ!!!」
「ちなみに最初に言った“かわいそう”ですが、口頭では『愛おしみ』を表す“可愛そう”なのか、『哀れみ』を表す“可哀想”なのか判然としませんよね。
私は後者の意味で言ったんですけど、『愛おしみ』を表したい場合は語源の“かわゆし”を習って、“かわゆそう”にした方が分かりやすいです」
「どっちでもいいよ……」
つまりは可愛いに推定の意味を付けた時に紛らわしいという事だ。
眠いの推定は眠そう、美味しいの推定は美味しそう、楽しいの推定は楽しそう。可愛いの推定は可愛そう、となる。
ただ、哀れみを表す“可哀想”という言葉も存在している。“可愛い”の語源的にはむしろこっちの方が正しいかもしれない。
例えば、めでたく赤ん坊を身ごもった人妻が居るとして、その人に『キミの赤ちゃんなんだから、とても可愛そうだ』とか言うとする。
これが哀れみの意味と取られて『キミの赤ちゃんなんだから、とても可哀想だ』となると、意味が大分違う。というかケンカを売っている。
だから誤解させないように語源の“かわゆい”から、『キミの赤ちゃんなんだから、とてもかわゆそうだ』と言えばいい、という事なんだろう。
元々の意味は『いたわしい、気の毒だ』というものなので、むしろ“可哀想”の方を“かわゆそう”と言うべきだとも思うが、それはきっと可哀想の方が使う頻度が多いからだろう。
……いや、まぁ、“可哀想”はともかく、“可愛そう”と言いたいのなら、『とても可愛いだろう』みたいに言えばいいだけだと思うけども。
そういえばしょこたんが“カワユス”という言葉を使ってるけど、これは案外かわいいの語源を意識したそれなりに考えた表現なのかもしれない……のか?
舞園さんは一人で納得したようにうんうんと頷くと、
「さて、それでは苗木君が私のステージ衣装を着ればとてもかわゆそうという話ですが」
「そんな話はしてない!!」
「あれ、苗木君が私のパンツを見た時の話でしたっけ」
「あの時は本当にごめんなさい!!! でもその話でもない!!!」
「……あぁ、霧切さんの話でしたっけ。すみません、ちょっと脱線してしまいましたね」
「脱線通り越して断線レベルだよ……えーと、あれだよほら、ボクが霧切さんの力になりたくて……」
「そうでしたそうでした、それで霧切さんに気付かれないように彼女の悩みを突き止めて、これまた気付かれないように手を貸してあげる。
そんな方法は彼女相手では不可能、そういった結論に至ったわけですよね。というか、やっぱり無理に関わるのはやめておいた方がいいんじゃないですかね」
「迷惑、かな?」
「彼女には彼女の理由があって何も言わないでいるんだと思いますし……それに、本当に深刻そう、というわけでもないんですよね?」
「そう……だね。うん、その通りだよ」
確かに霧切さんは悲しそうな顔をしていたけど、だからといって非常事態だとか緊急事態だとか、そういった切羽詰まったものでもなかった気がする。
といっても、彼女の事なのでそういう事までボクに悟らせないようにしているという可能性もあるけど。
何はともあれ、相手の事を無視した力添えはただの自己満足に過ぎない。
それこそ、舞園さんが言っていた様な、下心を持って自分をよく見せようとしている様に思われても仕方ないだろう。
舞園さんは話しながらでも手は休めずに、プリントの束をホチキスでガチャコンと止めながら、
「少し様子を見る、という事でどうでしょう。私も彼女の様子には気をつける事にしますし、本当に大変そうだと判断したらその時協力を申し出る、という感じで」
ボクは舞園さんの言葉を聞いて少し考える。
彼女の言う事はもっともだ。人のデリケートな問題にズカズカと入り込む事が必ずしも正しいとは言えない。
結果として良かった、という事はあるかもしれないけど、そんな博打のような真似はしたくない。
「……うん、舞園さんならそういう人の変化には気付けるだろうし、手遅れっていう事にもならないよね」
「それはもしかして、自分の事を指しているのですか?」
「あっ、いや、そういう事じゃなくて……」
手遅れ、助けることができない……修復不能な破滅。
女の子が悲しそうな顔をしていた、それだけで深刻に考え過ぎだというのが普通の感覚なのだろう。
でも、ボクは。
普通が裸足で逃げ出すくらい普通“だった”ボクは。
「苗木君は手遅れなんかじゃないです」
ギュッと、両手が柔らかくて暖かい感触に包まれた。
それは目の前で行われたのに、舞園さんがボクの両手を自分の両手で包み込んだのだと気付くのに少しかかった。
いくら仲の良いクラスメイトといえ、女子が男子にこういった事をするのは抵抗があるはずだ。
それでも彼女がこうして何の躊躇もせず行動できるのは、アイドルだから慣れているという事なのか。
いや、そうじゃない。
彼女は元々こうして、誰かが落ち込んでいたら励ましてくれる人だ。笑顔を与えてくれる人だ。
アイドルだからこうなった、ではなく、こうだったからアイドルになった、そう考えるのが自然で当然だろう。
そう、あの春休みの時だって、舞園さんは――――
「苗木君はこんなにも暖かいです。優しいです。一緒に居て楽しいです。話していると嬉しいです。何も……何も手遅れなんかじゃないです」
「…………ありがとう。ボクは前向きだけが取り柄なのに、こうして舞園さんに励まされてばかりだ」
「いえ、これはただ、私の気持ちです。私の意見です。そこから前を向けるのは他ならぬ苗木君自身の力ですよ。葉隠君の言葉じゃないですけど」
「それでも、だよ。ボクが舞園さんに助けられているのは間違いないんだし」
「それこそお互い様、でしょう。私だって苗木君に救われている事はいくらだってあります。
もう私達は、そういう事でいちいちお礼を言い合うような仲でもないでしょう。大切な友達なんですから、助け合うのは当たり前です」
「友達……か」
「恋人の方が良かったですか?」
「えっ!? ちがっ、そ、そういう意味じゃなくて!!」
思い切り慌てふためくボクを見て、舞園さんはクスクスと微笑む。
あぁ、やっぱり。またボクはからかわれてしまったようだ。
といっても、不思議と嫌な気はしない。
「ふふ、一つ白状しましょう苗木君。
霧切さんに深入りしてほしくない理由の一つに、苗木君にはあまり他の女の子を見てほしくないというものがあったりもして」
「いやいや、いくらボクだってからかわれた直後は耐性がついてるよ」
「苗木君には私だけを見てほしいです」
「……くっ!!」
恐るべきアイドルの力。その真剣な表情の中に織り交ぜられた甘えた響きに、ボクの心はすっかり有頂天になってしまっている!
こんなのどう考えても、からかわれているというのは分かりきっているはずなのに!! 男って単純だなぁ!!
「でもこの『私だけを見てほしい』って言葉、よく考えたら脈ありとも限らないんですよね」
「そう?」
「えぇ。だってその女の子、相手には自分だけを見るように頼んでいますけど、自分はその相手だけを見るとは一言も言ってませんからね」
「つ、つまり」
「その相手はキープで、本命が別にいる可能性があります」
「凄い、一気にその子のイメージが変わったよ!!」
「とはいえ、そこまで悲観することもないですよ。完全に恋愛対象外というわけではないんですから。
第何希望かは分かりませんが、その子がフラれ続けていけば、いつかは自分の所で止まってくれる可能性もあります」
「そんな滑り止めの受験校みたいな扱い嫌だー!!!!!」
「大丈夫ですよ、例え滑り止めの学校だったとしても、入ってみたら居心地良かったりもしますから」
「…………」
舞園さんの言っている事は分かる。
初めはそこまで好きじゃなかったとしても、付き合っていく内にだんだん好きになっていく事だってあるはず、という事だ。
……でも何か納得出来ない!!
「ボクには恋愛はまだまだ早いみたいだよ……」
「まだまだ子供ですね苗木君」
同い年の女の子に言われてしまった。
とにかく、そろそろこの話題からは離れたいところだ。
「とにかく、霧切さんに関してはとりあえずは様子見……って事だよね?」
「それがいいでしょう。あ、でも……」
「どうしたの?」
「何というか、心当たりが無いわけでもないんですよね。霧切さんが悲しんでいる原因」
「え、本当?」
「えぇ。何となくは気になっていたんですが、苗木君がそこまで心配する程悲しい顔をしていたのなら、関係あるのかもしれません」
えらく勿体ぶる舞園さん。何か言いづらい理由でもあるのだろうか。
すると彼女は人差し指を口元に当てて、
「他言無用ですよ。もちろん本人にも」
「う、うん」
「霧切さんが悲しんでいる原因、それはたぶん…………父親関係です」
「父親? それって」
「学園長、ですね」
希望ヶ峰学園学園長。名前は霧切仁という。
そして誰もが予想できるように霧切響子さんの父親だ。
といっても、二人が親子らしい感じで接している所をボクは見た事がないし、たぶん他のみんなもそうだ。
公私の区別をきっちりとつけている……というような感じでもない。
これはあくまでボクが見た印象に過ぎないが、学園長は娘と親子らしく接したいという気持ちはあるのだが、娘の方が拒否している、そう見えた。
「言われてみれば、霧切さんって学園長とあんまりうまくいってないみたいだし、それが原因だっていうのは考えられるね」
「特に最近ですね。霧切さんは露骨に学園長を避けています」
「そう?」
「はい。学園長、たまに各教室の様子を見に来たりするでしょう。その時必ず彼女の姿はありません。それは最近になってからです」
「よく見てるなぁ」
「特に意識しているわけではないんですけど……まぁ、仕事柄」
つまり、最近になって元々学園長にはよそよそしかった霧切さんが、更にその態度を強めたという事か。
「ケンカ?」
「二人はケンカするほどの関わり合いもなかったと思いますが……」
「仲が冷え切っていて、ケンカすら起らない……か」
「でもやっぱり、こういう問題はあまりイタズラに他人が関わるような事ではないと思うんです」
「……うん、その通りだ」
身内の問題。それは相当にデリケートなものだ。
ボクだって逆の立場だったら、人にあまり触れてほしくないと思うだろう。
そうやって話が一段落した時、舞園さんはキョトンと首を傾げた。可愛い。
「あれ、このプリント、一人分足りないですね」
彼女は手元のプリントの束を何度も確認している。
まぁ、教師が万能というわけではない。人間である限りどこかでミスはするものだろう。
それこそドラマに出てくるような理想の先生だってミスはするのだ。
「それって、学園長からの連絡プリントだよね」
「はい。珍しいですね、あの学園長が」
「もしかして娘の事を考えててうっかりしちゃった、とか。それじゃ、ボクが学園長室まで行ってくるよ」
「えっ、いいですいいです。私が行きますから」
「舞園さんには相談にも乗ってもらったし、このくらいさせてって」
「……なるほど。そういう事でしたらお願いしますね」
「うん、任せて」
「でも、頬で我慢してくださいね?」
「ん、頬?」
「お礼のキスが目当てなのでしょう?」
「それは違うよ!!!」
さも当然のように言われてしまったので、否定する声も自然と大きくなる。
舞園さんの中では、ボクはそこまで欲望に忠実なキャラクターなんだろうか。山田クンみたいな。
…………うっわぁ、傷つく。
とにかく、ボクは自分のイメージ回復の為に、さっさと教室を後にする事にした。
回復じゃなくて現状維持、いや現実逃避か。
+++
教室を出て廊下を歩いていく。窓から差し込んでくる夕日の光で、全体的にオレンジ色に染まっている。
学園長室は四階。ボク達の教室は一階なのでそれなりの手間ではあるが、そこまで気にはならない。
実を言うと、舞園さんの話を聞いた後で、それとなく学園長と話したくなったという気持ちもあった。
人の家の事に首を突っ込むのは良くない。それは分かっている。
それでも、始めに「話したくないならそれでいい」といった意味の言葉を付け加えて武装してから軽く質問する事くらいは許してほしい。
学園長と霧切さんが親子である事が紛れも無い事実であると同時に、ボクと霧切さんだって紛れも無くクラスメイトだから。
これは所詮ドラマなんかの綺麗事で、現実に当てはめる人は少ないのかもしれないけど。
やっぱり、クラスメイトっていうのは困った時は助け合っていくものだと思うから。
「……あっ」
前方に学園長発見。
いくら何でも、この短い考え事の間に一階から四階まで進める程ボクの足はたくましくない。
ここはまだ一階の廊下だ。階段にすら着いていない。ただ、どうやらツイてはいるようだ。
……どことなく彼の体がフラフラしているのは気のせいだろうか? 体を庇っているというか。
「あの、学園長!」
「ん……あぁ、苗木君か。はは、そんな堅苦しい呼び名ではなく、私の事は『仁さん』と呼べばいいと言っているだろう」
「そ、それは……」
流石にそれは学園長相手に慣れ慣れしいというのがボクの感覚だった。
せめて苗字……といった所だが、それだと娘の方の呼び方と被ってしまう。
「あ、そうだ。学園長、このプリントなんですけど、一人分足りないみたいなんです」
「むっ、本当か? すまない、そういったミスにはいつも気をつけているはずなんだが」
「いえいえ、気にしないでください。こうして運良く一階で会えましたし」
「おぉ!! それが君の『超高校級の幸運』か!! 何て素晴らしいんだ!!!」
「いやそんな大それたものじゃ……」
入学してすぐ分かった事だが、この人は心から才能というものを愛している。
まぁ、この学校の特質上、そういった人が学園長というのは当然の流れなのかもしれないけども。
学園長はプリントに目を通して確認しながら、
「しかし私もこんなミスをしてしまうとは。これではまるで君のクラスの誰か一人の存在を無視したかのようではないか」
「そ、そこまで考えなくても」
「いやいや苗木君、教師というのはそういう心構えで望むべきだと、私は思うぞ。もちろん君のクラスの十四人だけではない、他のクラスもな」
「…………えっ?」
違和感。
それは彼の思想に対してではない。そこまで生徒の事を想ってくれる先生というのは嬉しいものだ。
――――十四人?
グラリと、平衡感覚が揺らいだ。
何かが捻れて、歪んで、そしてそれが当然であるかのように存在している。
彼の言葉も表情も醸しだす空気全てが。
気持ちが悪い。気味が悪い。
まさか、この人は。
ゴクリと、喉を鳴らしたのはボクだ。
「学園長、ボクのクラスは十五人ですよ」
「何を言っているんだ? 流石に私もそこを間違える事はしないぞ……あぁ分かった、ナゾナゾか何かか!」
学園長はあくまでボクのクラスが十四人だと言い張るつもりらしい。
考えたくない。でも、聞かないわけにはいかない。
例え彼にどんな考えがあるのだとしても、それを認めてくれるだけでこの気持ちが悪い空間はずっとマシになると思った。
「やっぱり、霧切さん……娘さんと何かあったんですか?」
「娘? 私に娘は居ないが」
彼は言い切った。
何の躊躇いも同様も後ろめたさもなしに。
一桁同士の足し算の答えを言うように、今日の天気を言うように。
それが当然で、分かりきっている事であるかのように。
これはダメだ。
例え相手が学園長だろうと総理大臣だろうと。
これは我慢できない。
いや、我慢してはいけない。絶対に。
「学園長!!!」
「な、なんだ……?」
「確かに人の家の事に口を出すのは良くないのかもしれない。
それでも明らかに間違っている事を指摘してはいけないって事にはならない。あなたは間違っています!」
「間違い?」
「何があったのかは知りませんよ。それでも、どんな理由があったとしても。父親が娘の事を、まるで存在しないかのように扱うなんて間違ってるって言ってるんです!!」
「……あ、あぁ、それには私も同意権だが…………」
学園長の表情からは相変わらず困惑の色が読み取れる。
身内の事に口を出してくる事に対する迷惑でもなく、なぜそこまでするのかという疑惑でもなく。
自分はどうして非難されているのか、それが心の底から分からなくて、困惑しているのだ。
手が震える。喉がカラカラだ。
人間というものはこんなにも恐ろしいものなのか。
こんな吐き気がするほど気持ちが悪く気味が悪い事を平然とやってのけてしまうのか。
彼に一体何があったのか、どんな理由があるのか。
それを知ったところで、ボクに何ができるのか。
どこかの熱血教師物のマンガのように、最終的には家族の仲も良くなってめでたしめでたし。そんな結末に辿り着くことなんてできるのか。
舞園さんの言葉が頭の中に蘇ってくる。
『こういう問題はあまりイタズラに他人が関わるような事ではないと思うんです』。
彼女の考えがずっと正しかった。
霧切仁と霧切響子の親子関係。それは終わりすぎているほどに終わっていた。
でも、ボクは引くことはできない。
こんな状態にまで陥ってしまった親子をどうにかできると思えるほど自分に自信があるはずもない。
それでも、ここで諦めて、何事もなかったかのように今後振る舞っていく事なんてできるはずもない。
これは、ただのボクのワガママだ。ここで何もしないでいる事が我慢できない、それだけなんだ。
だから、ボクは大口を開けて、大声を上げて――――
「無駄よ」
静かな声が響いた。そう、静かでもよく響いた。
この声色を、ボクは知っている。そこまで聞く機会は多くないけれど、これまで何度か聞いた事はあった声だ。
直近の所で言えば、今日の昼休み、とか。
夕陽に光る綺麗な銀髪。凛とした瞳。超高校級の探偵。
学園長、霧切仁の娘…………霧切響子さんが腕を組んで、じっとこちらを見て立っていた。
ボクとも、学園長とも距離を置いて。近くの窓枠に背中を預けて。
「霧切さん……」
「ん? どうした苗木君。学園長からその呼び名に変えてくれるのか? はは、私はそちらの方が嬉しいが」
「あ、いや、学園長ではなくて、娘さんの」
「娘? 先程から疑問なんだが、君は一体何を言っているんだ?」
「っ!!!」
気持ちが悪い。それでも、怒りが勝った。
先程までとは状況が違う。今は本人もすぐ近くに居るのだ。
彼女は一体どんな気持ちで実の父親の言葉を聞いているのか、父親は一体どんな気持ちでその言葉を吐き出しているのか。
ボクには、分からない。
恵まれすぎる程恵まれて、家族の仲の心配なんてした事がないボクには決して分からない。
それでも、だからといって。
目の前の心ない父親の事を許せるという理由にはなるはずがない。
ところが、ボクが口を開いた瞬間、
「無駄よ」
また、だ。
父親からこんな扱いを受けているにも関わらず。
彼女はそれが何でもないかのように、いつもと変わらない冷静な声で告げる。
その表情に、昼休みに見た悲しみはない。
「そして無理よ、苗木君。いえ、違うわね。無理だから無駄なのよ」
「……それは、ボクじゃキミと学園長の問題はどうしようもないっていう事?」
「それもそうだけど……私が言っているのはそれだけじゃないわ。もっと大きな問題があるの」
「苗木君? 君は一体誰と話しているんだ?」
学園長の言葉は取り合わない。
これで存在を無視される事の辛さを知ってもらえるとは思えないけど。
「もっと大きな問題って、これ以上何が」
「……仕方ないわね。その本質には気付かれていないのだとしても、“異常”そのものはバレてしまったわけだし。
でも、これは言い訳をするつもりではないのだけれど、どんなに隠し通そうとしたって、人間である以上ミスが出てくるのも無理はないと思わないかしら。
それはこの世に完全犯罪というものが存在しない理由でもあって、いくら私が霧切家の探偵でも人間である以上、やはり私もその例に漏れないのよ」
「え、えっと?」
「でも、そうね、考えてみれば単純な事だった。今日はあなたと舞園さんが日直。という事は、教師からの雑用を頼まれる可能性は十分ある。
それはつまり学園長に関わる事も考えられるし、そこから“異常”に感づかれる危険性も考慮しておくべきだった。
それとも、あなたは昼休みに私を動揺させることで、私が何かミスを犯すように図ったのかしら? だとしたら完全に私の負けという事になるわね」
「ごめん、霧切さん。何を言っているのかよく……」
「前置きみたいなものだと思ってくれていいわ。私は家と探偵業に誇りを持っているの。だから、ミスに対しての言い訳まがいの事もしたくなるのよ。
それじゃ……よくある物言いで申し訳ないのだけれど、やっぱりこれは聞くよりも実際に見たほうが理解できると思うわ」
霧切さんはそう言うと、真っ直ぐ学園長に向かって歩いていく。
歩いて……歩いて……歩いて…………え?
どうして彼女は止まる素振りを見せないんだ。
そう、まるで彼女も実の父親の存在を完全に無視しているかのように突き進む。
目の前には障害物など何もないかのように。
ぶつかる。
「霧切さ――」
その数秒後。
霧切さんは何事もなかったかのように足を止めた。
何も起らなかった。
彼女は父親に向かってずんずんと歩いて行って。
相手の目の前まで来ても、その速度を落とすこと無く歩を進めたにも関わらず。
何も、起きなかった。
そう、本当に、何も。
いや、実際には起きていたのだ。
決して無視することができない、現実的に考えて明らかにおかしな現象が。
でも、それがあまりにも自然で、違和感がなくて。
さながらそれが世の中の常識で、むしろおかしいのは自分の中の常識であるかのように錯覚してしまうほどで。
だから、ボクは口に出すことにした。
それは誰かに何かを伝えたいという目的からくる言葉ではない。
今目の前で起きた現象を現実のものだと確認するために。
幸い、ボクはそういうトンデモ現象には比較的理解は持っている方だとは思う。
それでも、何でもかんでも信じられるわけではないのだ。
「学園長を…………すり抜けた?」
+++
ボクと霧切さんは学園長から離れて、とある教室にやって来ていた。誰も居ない、夕陽が差し込む静かな教室。
あれ以上続ければ、不審がられるのはボクだ。その内保健室に連行されてもおかしくない。
学園長から見れば、それはボクの一人芝居にしか見えないのだ。
前提から考え直す必要があった。
冷静になって考えると、学園長は例えどんなに娘との仲が険悪になろうとも、その存在を無視するような事はしない。
ボクが彼の何を知っているかと言われれば答えには困ってしまうけれど、少なくとも悪い印象は持たなかった。
娘に嫌われながらも何とか関係を修復したいと思っている、そんな不器用さも伺えた。
だからこそ、彼があんな態度を取ったのはショックだった。でも、それは誤解だった。学園長にはきちんと謝らなくてはいけない。
学園長は娘を意図的に無視しているというわけではなく――――
「本当に私の姿を認識できていないのよ」
「……それもただ見えないってだけじゃないよね」
「えぇ、さっき見せた通りよ。あの人は私の存在そのものに干渉する事ができない、それは逆も同じ。
彼にとって私は存在感がないというよりも、存在そのものがない、と言った方が正しいわね。
目には見えないけれどそこに確かに存在している分、空気の方がまだマシな扱いを受けているんじゃないかしら」
嫌な言い方するなぁ。
そういえば、この学校には存在感が薄い『超高校級の諜報員』と呼ばれる人も居るらしいけど、それともまた違う。
いくら彼でも存在そのものを消すのは無理だろうし、もしそんな事ができるのなら超高校級どころか超人級だ。
「でも学園長以外は普通にキミには干渉できる。姿だって見えるし、声だって聞こえる」
「そうね。……ふふ、あの人、そんなに私の事を認識したくなかったのかしら」
「そんな事ないって! これには何か」
「理由がある。えぇ、そうでしょうね。私もこれが自然災害のような偶発的なものとは思っていないわ。例え、とても現実的な現象ではなくても、ね。
ただ、それならば私とあの人――私の父親と呼べる存在との関係は重要な手がかりのはずよ。だからこそ、そこから考えられる事はいくらでも考える必要がある」
「霧切さん……落ち着いているね」
「そうでもないわ、異変に気がついた時は柄にもなく動揺したものよ。でも、うろたえていても状況は解決しない。
だからセレスさんの言葉じゃないけれど、私は“適応”する必要があった。例え非現実的な現象であっても、この目でハッキリと確認してしまったのだから」
「この世にはそういう不思議な事もあるんだって?」
「探偵のセリフとは思えないかしら? でも探偵とは同時に真実を掴みとる者よ。
この世にそういう既存の物理現象では説明できない事があって、それが真実であるというのであれば受け止めなくてはいけない。
もちろん、目で見たものが間違っているという可能性は十分考えられるし、そういった目の錯覚や思い込みを利用したトリックなんていうのは数え切れないほどある」
それでも、と霧切さんは真っ直ぐボクを見つめる。
心の中まで見通されるような、鋭くも透き通った純粋な好奇心の目で。
「私にはどうしても現実的な言葉でこの現象を説明する事ができない。
私はあらゆるものを疑うわ。それが自分の目や耳で得た情報だとしてもね。それと同じように、自分の中の常識だってやっぱり疑わなければいけない」
「霧切さんは難しい事を考えているんだね……」
「あなたは少し疑うことを覚えたほうがいいわね、馬鹿正直の苗木君」
「ば、馬鹿正直って……」
「まぁ、そこに関してはしつこくは言わないわ。所詮他人事なんだし。でも、それと同時に、私の事だってあなたにとっては他人事よね?」
「ただの他人じゃないよ、キミはクラスメイトで」
「だから何だというのかしら? これが私の問題である事は変わらないはずよ」
「つまり、これ以上は何も関わるなって事?」
「そうよ、余計な真似はしないでほしいの。もちろん、この事は他言無用…………って言っても守る保証はないわよね」
霧切さんはうんざりしたように息をつくと、
「アメとムチ。どちらがいいかしらね」
「……強いて選ばせてもらえるならアメで」
「特殊な性癖を持っていない限りはそう答えるのが普通ね。じゃあ苗木君にとってのアメとは何かしら」
霧切さんは少し考える。
流石探偵という事もあって、こういう表情は様になっている。
「黙っていてくれるのであれば、あなたの事を『ご主人様』と呼んであげるわ」
「待ってよ、ボクってそれで喜ぶっていうイメージなの!?」
「あぁ、ごめんなさい。苗木君は大衆の前で舌っ足らずに『ご主人たま』って呼ばれるのが好きなんだっけ」
「むしろムチになってる!!!」
探偵というのは真実を捻じ曲げる職業だったのか。恐ろしすぎる。
当然ながらボクにそういう趣味はない……けど、『ご主人たま』って言った霧切さんの声は普段からのギャップも相まって結構――――うん、ありかもしれない。
一方で霧切さんは小さく頷いて、
「そう、苗木君が望むのであればムチにしましょう」
「望んではない!!」
「方法はそうね……あ、ちょうどここにホチキスがあるけれど」
「ここにきてガチャコン!?」
「大丈夫よ、ホチキスは傷を塞ぐために医療用として使われる事もあるのだし」
「そのホチキスはどう見ても医療用じゃなくてどこにでもある何の変哲もないホチキスだし、そもそも霧切さん自体が医者じゃない!!」
「なるほど。あなたは私より罪木さんを選ぶのね。やっぱり男子は胸が大きいほうが好きなのかしら」
「予想外のところに飛び火した!?」
ちなみに罪木さんというのは一期上の先輩だ。
といっても、この学園は高校生の中からスカウトしてくるという性質上、入学時の年齢はバラバラで先輩後輩の概念は薄い。
例えば高校一年の時にスカウトされる人もいれば高校二年、三年の時にスカウトされる人もいる。
霧切さんはふぅ、と溜息をつくと、
「もう、うるさいわね。小学校の先生の中には『あんまりうるさいとホチキスで口を止めちゃうよ』って脅す人も居るみたいだけど、本当にそれを実践した例はないでしょうね」
「ないだろうね。あったとしても、たぶんその人はもう教師じゃないよ」
「おめでとう苗木君、あなたは小さい子供達に、ホチキスで口を止めるというのはどういう事かというのをリアルに伝える事ができるわよ」
「嫌だよ凄惨すぎて逆にもうその脅し使えなくなるよ!!」
ダメだ、このままだと舞園さんの言っていた通り、ボクが可哀想でかわゆそうな事になってしまう。
というか霧切さんの目が怖い。例え冗談であっても、本気であるかのように見えてしまう。
……いや、冗談だよね?
どちらにしろ、そろそろこの話題から離れたほうが良さそうだ。
「あのさ霧切さん。ボク、キミの力になれると思うんだ」
「私の力に?」
あからさまに信用していない目だ。まぁ、それも無理はないけれど。
「うん。確かにこれは霧切さんの問題かもしれないけど、誰かの力を借りちゃいけないって事はないはずだよ。
探偵として重要なのは真実を掴む事、だよね? それなら使えるものは使うべきだと思うんだ。事件の捜査でも目撃者に話を聞いたりはするでしょ?」
「……それはあなたが本当に力になればの話だけれど」
「なれるよ」
ボクには霧切さんと学園長の親子関係を取り持つ事なんてできるはずがない。
それでも、原因ではなく実害の方――つまり、“不可思議な現象”の方には力を貸す事ができる。
いや、厳密に言えばそれもボク自身がどうこうできる問題ではなくて、解決までの道を教えられるというだけなんだけれど。
ただ、証拠を示さなければいけない。
彼女は探偵。その職業柄、きちんとした裏付けがなければ簡単には信用してくれない。
だから、ボクは行動に移す。
「霧切さん、そのホチキス貸してもらえるかな?」
「え? いいけど……」
彼女が手にしていたホチキスを受け取り、手の皮膚に押し当てる。
流れ的には口の方が自然なのかもしれないけれど、それは痛いから勘弁してほしい。別にボクは痛みを重視しているわけじゃない。
霧切さんが目を丸くする。それでも、止めるつもりはない所が彼女らしい。
そして。
ガチャコン、と。
ボクの手の皮膚に銀色の針が打ち込まれた。
「つっ!!!」
鋭い痛みが走る。当たり前だけど。
手を見ると、針が刺さった場所からじわっと赤い血が滲んでいるのも確認できる。これも当たり前だけど。
霧切さんには引かれただろうか。
目の前でいきなり自分の手にホチキスを打ち込む人が居たら普通は引く。
けれども、彼女は首を傾げて、ただただ純粋に、疑問を浮かべてこちらを見ていた。
「それが何の証明になるのかしら?」
「あ、うん、ちょっと待って」
そう言って手から針を抜く。ブシュッと軽く血が跳ねる。
それからボクは、その手を霧切さんに見せて彼女の反応を待った。
これだけでいい。
痛いのも当然。血が出るのも当然。
でも。
「……そういう傷跡を見ることに抵抗はないけれど、だからといって好きだという事でもないわよ」
「そっか、霧切さんは仕事でもっと凄いものも見ているんだよね。ボクはそういうのは何度見ても慣れないよ」
「何度見てもってあなた…………えっ!?」
霧切さんの目が見開かれた。
これ程までに驚いた彼女を見るのは初めてだったかもしれない。
そしてそれはボクにとって好ましい反応だった。もちろん、驚かせてしてやったりと喜んでいるわけじゃない。
彼女はもう気付いているようだけど、ボクは手に溜まってきていた血を拭う。
その下。血が拭かれた事で見えやすくなった傷跡。
違った、その表現は間違っていた。
――なぜなら、そこにはもう傷跡なんてものはないのだから。
一回分投下終わり。こんな感じにのんびり書いてくべ
+++
春休みのことである。
ボクは絶望に襲われた。
とても曖昧で抽象的な表現で申し訳ない限りだが、端的に言ってしまえばそういう事だ。
“絶望”というのも暗に何かを指し示したというわけでもなく、言葉通りの意味である。
若い――いや、幼い怪異だった。
具体的に言うとボクと同い年。
たった十年ちょっと生きただけの怪異。それでも、力は本物だった。
考え方によっては幼いというのは語弊があるかもしれない。
人類の起源をアウストラロピテクスまで遡れば五百万歳、北京原人やジャワ原人辺りなら百万歳、ホモサピエンスなら三十万歳程度。
つまりはその怪異の正体は、人類とは切っても切れない概念だった。
絶望。
恐怖の末に、後悔の末に、無念の末に、苦しみの末に、悲しみの末に。
前が――未来が見えなくなり、暗い闇に沈み込んでいく感覚。
誰もが一生付き合って、向き合っていくもの。
そんな身近で当たり前なものが、ハッキリとした形となって現れたもの。
伝説の吸血鬼さえも打ち倒す、新たな鬼。新生“怪異の王”。
絶対にして絶大にして絶望の“吸魂鬼”。
ボクが襲われた相手は、そんな冗談のような存在だった。
その結果として、ボクまで吸魂鬼もどきになってしまったというわけだ。
何というか、大雑把に説明してしまったけれど、今はこのくらいでいいと思う。
もっと詳しくと言われれば、最強を求めた鬼とか吸血鬼を求めたゴスロリとか希望を求めた幸運の話もしなければいけないだろう。
それにもちろん、舞園さん、葉隠クン。そして、吸魂鬼本人についても。
でも、今その必要はない。
霧切さんに力を貸す上で重要なのは、ボクが人間から少し外れてしまっているという事と、怪異についての理解がある事、そのくらいだ。
ボクと霧切さんは校舎を出て東地区へと向かう。
日は沈みかけていて、最後の真っ赤な光を放っていた。明日は晴れなんだろう。
希望ヶ峰学園は巨大なひし形の形をしている。
その上で北地区、南地区、東地区、西地区と分けられていて、中央には木々が生い茂る公園。
北地区にはボク達が普段学んでいる校舎が。
南地区には寄宿舎を始めとして、ショッピングセンターやゲームセンターなど、日々の生活を充実させる為の施設が。
東地区には教職員棟を始めとして、物理棟、芸術棟、体育棟などなど、数々の専門的な研究施設が。
西地区には予備学科の施設が集まっているらしいけれど、残念ながら足を踏み入れる機会がないものだから、この程度の説明しかできない。
霧切さんはボクの吸魂鬼関係の説明を聞いて、納得したのかどうかは分からないけれど、何度か頷いた。
「吸魂鬼……有名なファンタジーもので聞いた事があるわね」
「ディメンター。うん、その影響もあるって言ってたかな。怪異っていうのは人のイメージから形作られる事も多いとか」
「誰が言っていたの?」
「葉隠クン」
「信用ならないわね」
「あ、あはは……信用ないんだね葉隠クン」
「えぇ、彼の証言の信頼度はEランクよ」
「またセレスさんみたいな事を。ちなみにボクは?」
「Eランクプラス」
「あんまり変わらない!」
「ちなみに私はAランクよ」
「だろうね!!」
そりゃ自分の証言を信頼出来ないのはかなりマズイ。精神的に。
まぁ中にはそういう特殊な状況があるのかもしれないけど。
霧切さんは静かに、口ずさむように。
「怪異」
「ん?」
「そう呼ぶのでしょう、こういうまともじゃない何かの事を」
「あー、うん。知ってる人はみんなそう呼んでるかな」
「でもこれって少し言い難いわ。後ろに“い”が連続してるじゃない」
「……まぁ、そうだけどさ」
「『怪異、いいイメージだ!』って言う時なんて、“い”を五回連続で言う事になるのよ。ヴァンガードで不便よ」
「ごめん、カードゲームはデュエルマスターズのバジュラが出てきた辺りからやってないんだ」
「じゃあ苗木君が『怪異、いい言い訳はない!? このままだとボクの性犯罪がバレちゃうよ!!』って言う時なんか、“い”を六回連続で言う事になるのよ」
「そんなセリフを言う事なんて今後永遠にない!!」
「フラグね」
「フラグじゃないよ!!」
こんなのを後々回収してどうするんだ。
そもそもどんな状況だ、ボクの乏しい想像力じゃ何も思い浮かばない。というか思い浮かべたくない。
「苗木君の性犯罪は置いといて、怪異を何と呼び替えるかを考えましょう」
「置いとく前に訂正させてよそこ」
「とは言っても、先人の呼び名をリスペクトするのは大事ね。基本ベースは“怪異”から始める事にしましょう」
「別に変えなくても良くない? 二つくらい母音が続く言葉なんて珍しくもないって。
ほら、オオスズメバチとかヘラクレスオオカブトとか。大きなものを示すときなんか、頭に“おお”って付けたりするよ」
「……ごめんなさい」
「え?」
「大きなものを示すだなんて……そんな苗木君のコンプレックスを突くような事を言わせてしまって……」
「今突かれたよ!!!」
気にしてなかったのに!
それじゃあボクは大きなものを表す言葉は何も使えないじゃないか、日常生活に支障をきたすレベルだ!
「じゃあ素直に省略して……カイでどうかしら?」
「おぉ、なんかカッコイイ」
「でしょう。苗木改」
「なんか第二形態みたいになった!」
「でも最終形態で巨大化はやめておきなさい。負けフラグだから」
「否定できないけど否定したい……」
「ただ、苗木改っていうのは苗木君のくせに生意気ね」
「生意気も何も自分で付けたんじゃ」
「かい……かい……じゃあ、海の貝にしましょう。苗木貝」
「漢字一つで一気にランクダウンするもんだなぁ」
「あなただって『生まれ変わったら貝になりたい』って言ってたじゃない」
「言ってない!!」
ポジティブが売りのボクなのに。
春休み、ゴールデンウィークと立て続けに悲惨な目にあった上に身長も伸びない。
そんな中でも前向きに生きてるっていうのに!
……というか、何の話してたんだっけ。
話している内に、目的地に到着した。太陽はもう沈もうとしていて、最後の明るい真っ赤な光が空全体に広がっていく。
東地区、占うに術と書いて占術棟(せんじゅつとう)。
他の施設からは少し離れた、学校の敷地の端っこにひっそりと建っている、あるのかないのかよく分からない施設。
外観はボロボロだ。
それはもう、ちょっと強い地震がきたらすぐに崩れてしまいそうなくらい。
霧切さんは首を傾げる。
「こんな建物あったかしら?」
「普段は意図的に人の認識を逸らすような結界を張ってるとか何とか。ボクにはその効果が出てないみたいだけど」
「今更だけど、いよいよ本格的にオカルトじみてきたわね。これからの探偵業が大変になるわ」
「どういうこと?」
「オカルトなんて存在を認めてしまったら、一つの事件で考える幅が広がりすぎてしまうということよ。
例えば密室殺人なんていうのは推理小説でもお決まりみたいなものだけれど、オカルトで壁抜けなんかをされたらトリックも何もなくなってしまう」
「……なるほど」
「まぁ、泣き言を言っても仕方ないわね。オカルトにはオカルトで何かしらの法則があるはず。それで少しでも広がった幅を狭められる事を期待するわ」
どうやら霧切さんは既に自分の中で結論を出しているようだった。
その気持ちは純粋そのものだ。真実を追い求める、ただそれだけ。
そういったプロフェッショナルな考え方は、吸魂鬼もどきといった所を除けば平凡そのものであるボクには理解できない事だろう。
ボクと霧切さんは立ち止まる。
建物の入口。
その壁に背中を預けて、一人の少年が薄い笑みを浮かべてこちらを見ていた。
真っ白な髪。長身。美形。全体的に掴みどころのない雰囲気。学校指定の制服が恐ろしく似合っていない。
うっかりすると見落としてしまう程自然にそこに居て。
そして一度目を向けると、その存在が嫌でも頭につきまとう。
七十七期生。『超高校級の幸運』。狛枝凪斗。
「やぁ苗木クン、こんばんは」
「こんばんは。ここで何をしているの?」
「幸運を待っているんだよ。代わりに希望が来てくれたみたいだけど、どちらにしてもボクにとっては幸運だったみたいだ」
「ボクに何か用なの?」
「いや、別に。……それにしても苗木クン。浮気は感心しないね」
狛枝クンは、ボクの隣に居る霧切さんに目を向ける。
一方で彼女の方は挨拶も何もなしに、じっと彼を見ているだけだ。
何となく、嫌な雰囲気だなぁ。いきなり敵視しているわけじゃないんだろうけど。
「浮気って……だから別にボクと舞園さんは何もないって言ってるじゃないか」
「ううん、そういう事じゃないんだよ苗木クン」
「え?」
「キミにはボクというものがありながら、浮気なんて感心しないと言っているんだよ」
一、二歩後ずさった。身の危険を感じる。
いや別に同性愛者を差別するつもりはないけれど、ボク自身にその気がない。
これはそういった明白な意思表示だ。
もちろん行動だけではダメだ。
ここは人間の素晴らしいコミュニケーションツールである言葉も合わせて使おう。
「ごめん狛枝クン。ボクは」
「気にしなくていいわよ。私と苗木君は何でもない。あなた達二人を邪魔する障害は何もないわ」
「あるよ!! ボクの意思とか!!!」
「あはは、ごめんごめん。冗談だよ。どうやらこういう需要もあるみたいだから、無理矢理ねじ込んでみただけだって。
ほら、アニメのブルーレイディスクだって、女性もかなり買ってくれるみたいだし。今はその層を狙っていくのもアリだと思うんだ」
「ホモが嫌いな女子なんていないものね」
「それだと霧切さんも嫌いじゃないって事になるけど」
「大好物よ」
言い切った。言い切ったぞこの子!!
ダメだ、ボクの中で彼女の印象が色々と変わりまくって、よく分からなくなってきてる。もうお腹いっぱいだ。
「……って言ったら苗木君はどう思う?」
「…………」
たぶん彼女はこうやって自分の事を相手に理解させないようにしているんだ。
ただ単にからかわれているだけという可能性も否めないけれど。
まぁ何にせよ、狛枝クンからそういう感情を向けられているわけではないって知って安心した。
というか、本当に何やってるんだろう彼は。何だかはぐらかされてしまったけれど。
「中には入ったの?」
「うん。相変わらずだったけどね」
「葉隠クンのこと?」
「ギロチンカッターのこと」
「……そっか」
「ボクの幸運で何とかなるんじゃないかなって思ったんだけど、そう都合良くもいかないみたいだよ。ははは、じゃあね」
狛枝クンはそう言い残して去っていく。その背中は落ち込んでいるようにも見えた。
彼は希望と才能を心から信じている。
普段は取るに足らない、他のみんなと比べるのもおこがましいものだと、自分の才能を卑下していても。
それでも才能である事には変わらないから、彼は信じる。
彼は真っ直ぐだ。希望に向かって真っ直ぐだ。
だけど、それは正しいことだとは思えない。時には曲がったり、立ち止まったりしてもいいはずだ。
少なくとも、前に何があろうとも問答無用に突き進むよりかは。
隣では霧切さんが狛枝クンからボクに視線を移して、
「ギロチンカッターって何?」
「何でもないよ」
「そうかしら。そこはかとなく危険な香りを感じる言葉だけれど」
「大丈夫。そんな事ないから」
だって、何でもないのだから。
ボクと霧切さんは建物の中に入って階段を登っていく。
中も外からの印象通りに荒れ果てている。
床には模様か何かのようにヒビ割れが走っていて、壁もボロボロ。天井も同様だ。
窓に打ち付けられた頑丈な鉄板、そしてそこら中に設置されてある新品の監視カメラが異様な雰囲気を更に増長させていた。
「ここを占拠したテロリストと銃撃戦でもやったのかしら?」
「……そうかもね」
「苗木君、それは知っている顔よ。教えてくれないのかしら?」
「知らないよ。うん。ボクは何も知らない」
「嘘つきは死の始まりよ」
「こわいよ!!!」
「奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心臓です」
「漢字一つで一気に猟奇的に!?」
真実を追い求める者。
そう言えば聞こえはいいけれど、要するに好奇心の塊って事なんじゃないかなぁ。
いや、決してそんな事を直接聞いたりはできないけども。
そもそもこれを説明してもいいのか。
『実はとある国民的アイドルグループのセンターマイクの子が、色々あってはっちゃけて建物をメチャクチャにしちゃったんだよあははははははは』。
いや、これはダメだ。彼女も言ってほしくないはずだ。例え覚えていないのだとしても。
「……仕方ないわね。そこまで言いたくないのならいいわよ」
「そ、そっか。それなら助かるよ」
「どうせ自分で調べられるし」
「……それよりさ! 霧切さんは何か心当たりとかはないの? ほら、学園長の件で」
「心当たりなんていうのは十分すぎるほどあるわよ。あの人と私がまともな関係だと思っていたのかしら?」
「やっぱりその辺りが関係してる、か」
「でも仲の悪い親子なんていうのはいくらでもいるわ。その度にこんな事が起きていたら、もっと世の中大騒ぎになっていると思うけれど」
「ここは溜まりやすいんだよ。そういうのが」
「ふぅん。原因は最強の吸魂鬼さんかしら」
「え、よく分かったね」
「話の流れから推測できるわ。じゃあその吸魂鬼を倒せば解決なのかしら」
「もう倒されてるみたいなものなんだけどね……」
正確に言えばもう彼女は吸魂鬼ではない。
かといって、もちろん人間になったというわけでもない。
何でもない。
「あー、でも、話を聞くなら霧切さんじゃなくて学園長の方なのかな。実際に怪異の影響を受けているのはあの人の方なんだし」
「それはそれで説明が面倒よ。だって、向こうには私に関する事なんて何一つ残っていないのだから。
例えば苗木君がいきなり『あなたには実は弟がいるのだけど認識できなくなっている』って言われて納得できる? 怪異なんてものの存在を知らないとして」
「……確かに難しいか」
「それに、あまり時間はかけられない」
「そうだよね……こんな状況、いくら霧切さんだってキツイだろうし……」
「違うわ」
「え?」
「苗木君、気付かなかった? 学園長、怪我しているわよ。それも決して小さいものではないのに、本人はいつそんな傷を負ったのか身に覚えがないみたい」
思わず立ち止まってしまった。
三階から四階へ上がる階段の踊り場。自然と、昼休みのシチュエーションと被る。
学園長の様子には違和感があった。
それは霧切さんを無視しているという事だけではない。
体を庇っていた。どこかフラフラともしていた。
「怪異が実際に危害を加えているのか」
「珍しい事なのかしら?」
「いや、そういうわけじゃないけれど……うん、急いだ方がいいっていうのは確かみたいだ。傷はどのくらい大きいものなの?」
「左の肩口から右の脇腹にかけて斜めに切り傷。深さはそれ程でもないみたいだけど、出血はそれなりだったわね。それに火傷。
確かにあの人との関係は決して良い物ではないけれど、死なれるというのも目覚めが悪いだろうから」
霧切さんは実際に傷を見ている。
それは探偵としての能力でこっそり、というわけでもないだろう。
なにせ、学園長には霧切さんが認識できないのだ。隠れる必要がない。
自分の手を見る。
ボクの吸魂鬼……いや、正確には吸血鬼の能力だけど、とにかくそれを使えば傷の治癒を助ける事はできる。
学園長が怪我を、しかもそれが怪異絡みで負っているのだとすれば、放っておく事はできない。
でも、それよりもまず。
原因そのものを取り除かない限りは根本的な解決にはならない。
学園長の怪我を治した所で、怪異が残っている限りまたすぐに怪我をさせられてしまうだろう。
怪我して、治して、また怪我をして……そんなイタチごっこに付き合ってはいられない。
実際に傷ついているのは学園長なんだ。
歩くスピードを上げる。
といっても、目的地はもうすぐそこだ。四階の一番奥の教室。
扉を開くと、彼は居た。
掃除の時みたいに、机と椅子が後ろに集められた教室。
そんな空間に。まるでここが自分の家であるかのように。
いつも通りの飄々とした笑みを浮かべ、机の上に座っている。
大きなドレッドに無精髭、腕を通さずに肩にかけた学ラン、ボタン全開のワイシャツの下にはヨレヨレのシャツ、更に腹巻き。
手首には数珠、ズボンは膝の辺りまで折り上げられていて、靴ではなく草履を履いている。
何度見ても高校生とは思えない……いや、何でも三回留年しているらしく、もうお酒も飲める年齢らしいけれど。
「よう苗木っち、待ってたべ」
彼はいつもこう言う。
最初の方はいちいち何か用があったのかと尋ねていたけれど、もうそれもしない。
何というか、これは彼なりの挨拶みたいなものだ。
「お、それに霧切っち。よっす」
「初めまして」
「ちょ、おい、クラスメイトだ!!」
「そうだったかしら。クラスメイトといっても何人も居るものだし、覚えていなくても無理ないと思うけれど」
「十五人の少数学級なんだから覚えてほしいべ……つか、もしかすっと、俺嫌われてる?」
「そんな事はないわ。ただ生理的に受け付けないというだけよ」
「更にひでえ事になったべ!!!」
ボクにもちょっとアレだけど、葉隠クンに対してはかなりアレだ。
まぁこう言ったらなんだけど、葉隠クンは葉隠クンで良くない噂も結構聞くからなぁ。
それはもう、恋愛関係のドロドロから借金取りのドンパチまで。
そんな人を女子高生が警戒するのは無理もないのかもしれない。
彼が舞園さんと同じようにボクの恩人であることは紛れもない事実なのだけれど、その辺りは流石にフォローできない。
霧切さんは葉隠クンの言葉が聞こえなかったかのように、教室を眺める。
そして、その目が天井で止まった。
「随分と風通しのいい教室ね」
別に全部の窓が全開というわけではない。
彼女の視線の先、天井。
そこはまるで隕石か何かが降ってきたかのように大穴が空いていて、赤から黒へと変わりゆく空が見える。
青空教室という言葉があるけども、それとは意味が違う。
葉隠クンは軽く笑う。
「それは誰だっけか。舞園っち? ハートアンダーブレード?」
「……ボク」
「あっはっはっ! そうだそうだ、苗木っちだっけか!」
「なるほど、天井を突き抜けるくらい大きくなりたいという苗木君の願望が具現化したのね」
「そこまで大きくなりたくないよ!!」
物事には限度がある。
大きすぎず小さすぎず、ちなみにボクとしては180センチくらいほしい。
あと20センチ。先は長い。早く来い成長期。
とにかく、霧切さんはこれ以上天井の穴については訊くつもりはないらしい。彼女なりの答えが出たのだろうか。
それはボクにとっても助かる。あまり思い出したくないし。
ただし、代わりに彼女はもっと答えにくい事を訊いてきた。
「さっき舞園さんがどうとか言っていたわね。彼女もこういう事に関わっているの?」
「……あー、まぁ。ボクの吸魂鬼関係は知ってるよ」
「いやー、あれは大仕事だったべ。なんせ」
「葉隠クン、それはあまり」
「へいへい、悪い悪い」
「……分かったわよ。彼女にもプライバシーがあるからね」
言葉ではそう言う霧切さんだけど、たぶん調べていつか真実に辿り着いてしまうのだろう。
ただ、例えそうだとしても、ボクの口から舞園さんの事を人に話したりはしない。
あれは、心の中で完結しておくべき話だ。
葉隠クンは頭をポリポリと掻きながら、
「んで? 二人揃って俺に占ってもらいに来たってわけじゃねえんだろ? さっき霧切っちも“こういう事”とか言ってたし」
「うん。怪異関係で……」
「まーた怪異か。想像以上に集まるもんだべ」
「その“怪異”という単語はもう無くなったわ。これからはそういうものを“カイ”と呼ぶことになった。そっちの方が言いやすいし格好いいわ」
「へ? いいじゃん怪異で。今更呼び方変えてもややこしいべ」
「人が一生懸命考えた案を一蹴しないでくれるかしら、羽蛾君」
「人をインセクターみたいに呼ぶなっつの!!」
「じゃあ馬鹿」
「ストレートな悪口になったべ!?」
そんなわけで怪異という言葉は現役を続ける事となった。
霧切さんもあっさり引く辺り、そこまで拘りがあるとかそういう事でもないようだ。
そして、いよいよ本題。
……の前に。
「それで、さっきから気になっていたのだけど、あの子は何?」
教室の隅。長方形の角。
そこにすっぽりと収まるように、八歳くらいの幼女が膝を抱えて座っていた。
目を奪われる程の綺麗な長い金髪。
ただし、顔の造形自体は日本人のそれだ。瞳も黒。真っ黒。
服装は簡素な白のワンピース。靴は履いていない、裸足だ。
表情はよく分からない。
それは髪に隠れて見えないというわけでもなく、無表情という表現はどこかしっくりこない。
無表情ではないけれど、それを表現する適当な言葉が、ボクの語彙力では出てこない。そう言ったほうが正しいかもしれない。
想像はできる。
怒り、憎しみ、後悔、退屈……エトセトラ。
たぶんそういった負の感情が混ざり合っているとか、そんな感じではないか。
まぁ、これは彼女の身に起きた事を考えた上で、一般的にはどんな感情を抱くのか、と想像しただけで。
そもそも、彼女に対して“一般的”といったものさしで測っていいものなのかは甚だ疑わしいもので。
霧切さんも、何かを感じ取ったのだろう。それは彼女の尋ね方で分かる。
『あの子は、“何”?』。誰、ではなく、何。
答えたのは葉隠クンだった。
「苗木っちの隠し子」
「うおい」
確かに彼女はボクとは切っても切れない関係だし、あまり人には知られないように……隠してはいるかもしれない。
だからってその言い方はないだろう。
ところが霧切さんは一度だけ頷くと、
「そう。名前は?」
「いや突っ込もうよそこ。何そのボクならありえるみたいな反応。あの子の歳とか考えて明らかにおかしいでしょ」
「苗木君ならどうにでもできるでしょう。吸魂鬼もどきなのだし」
「何だか全部それで片付けようとしてない?」
「求婚だけに子供もいるでしょ」
「うまくないよ!!」
吸魂鬼絡みっていうのはあってるけども。
霧切さんはボクの言葉にはまともに取り合わずに、
「それで、名前は? せめてそのくらい知っておかないと色々不便だと思うけれど」
「別に知らなくても……」
「はは、それを言うなら別に知ってても問題ないべ。
とりあえず直近の名前で、そいつの事はドラマツルギー、エピソード、ギロチンカッター、ハートアンダーブレード。どれか好きなもので呼べばいい」
「……ギロチンカッターって名前の事だったのね」
「江ノ島さんだよ」
「え?」
「江ノ島盾子さん。神奈川の“江ノ島”、“の”はカタカナね。下の名前の方はシールドの“盾”、子供の“子”」
「それが彼女の本名という事?」
「うん、そうだよ」
力も存在も目的も失った怪異の王。
でも、名前は残っている。いや、残したかった。
それが彼女が全てを失う寸前、この世に、ボクに唯一残したものだったから。
名前を呼んだその瞬間。
彼女は、江ノ島さんはこちらに目を向けてきた。
霧切さんでも、葉隠クンでもなく、ボクに。
じーっと。
相変わらずの無言で、顔には無表情のような何かを浮かべながら。
葉隠クンはくっくっと小さく笑う。
「そうだった。わりーわりー、江ノ島っちな、江ノ島っち」
ギロリ、と。
体の芯から凍えさせる程の冷たく、強烈な眼差しが葉隠クンに向けられた。
江ノ島さんだ。
それはとても八歳の幼女ができる目ではない。
もしも全盛期の彼女だったら、今この場で葉隠クンは爆散していたかもしれない。
直接目を向けられているわけではない霧切さんでさえ、その目には体を硬直させてしまう。
まさに蛇に睨まれた蛙、いや相手は鬼だしボク達は人間だけども。
それでもなお笑顔を崩さない葉隠クンも葉隠クンで、その異常性が際立っている。
「なんだかご機嫌を損ねちまったみたいだべ」
「たぶん、苗木君以外にその名で呼んでほしくないんじゃないかしら」
「え、そうなの江ノ島さん……?」
彼女から答えは返ってこない。
ただ、視線は葉隠クンからボクに戻ってきており、相変わらずよく分からない表情でじっと見ている。
「はっはっはっ、苗木っちはホントにモテモテだな!」
「何でそうなるのさ」
「でも、それなら私は何と呼べばいいのかしらね」
「好きなように呼べばいいんじゃね? しかたねーから、俺は以前の通りにハートアンダーブレードって呼ぶけど」
「長いわよそれ。じゃあ私は……」
実は葉隠クンの呼び方も省略、というか名前の一部に過ぎない。
正確にはキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード。
霧切さんは少し考えると、
「ハートさんでいいかしら。ブレードだとあまり女の子らしくないし。まぁ、吸魂鬼がそういうのを気にするのかは知らないけれど」
「うん、いいんじゃないかな……ってあれ、でも彼女が吸魂鬼だって言ったっけ? 正確には吸魂鬼もどきだけど」
「流れで分かるわよ」
江ノ島さんは特に無反応。
ていうかいつまでボクの事見ているんだろう。落ち着かないんだけども。
「つか、霧切っちはそこまでハートアンダーブレードに関わるつもりなんか? あんましオススメはしないべ」
「だって、彼女が例の最強の怪異というもので、彼女が居るからここにそういうおかしなものが流れ込んでいるのでしょう?
それなら、そのハートさんをひでぶすれば、怪異なんていうおかしなものもどこかへ行ってしまうんじゃないの」
なるほど、犯行予告の意味もあったのかその呼び方。
一方で、こんなにも直接的な敵意を向けられたにも関わらず、江ノ島さんは霧切さんの事を少しも見ようとはしない。
葉隠クンが名前を呼んだ時はあんなに凄い目をしたのに。その辺りの基準はよく分からない。
「んー、いやいや霧切っち。今更ハートアンダーブレードをやっちまっても、何の解決にもならないべ。
確かにアレは原因ではあったけども、原因をどうにかした所で、既に広がっちまってる結果はどうにもできねえんさ」
火事が起きた時、火元を消せても燃え広がっちまった炎全部をどうにかできるわけじゃねえだろ? と葉隠クンは続ける。
彼の言う事はもっともだ。
でも、それ以前に。
「ひでぶでも何でも、江ノ島さんに何かするのはボクが止めるよ」
「……苗木君はむしろ被害者だと認識していたけど?」
「うん、被害者だ。同時に、加害者でもある。でも、キミにとってはその辺りの事情はどうでもいいはずだよ」
「それもそうね。不確定要素が多い選択に時間と労力を割くつもりはないわ。だから」
そう言って、霧切さんは葉隠クンに目を向ける。
「とりあえず私の話を聞いてくれるかしら? それに対するあなたの意見を聞きたいわ」
「はは、霧切っちはそれで俺の言葉を信用するんか?」
「もちろん無条件で飲み込むはずがない。ただ、参考程度にはなるかもしれない、というだけよ。
どうやら苗木君が怪異とやらに関わっているのは事実のようだし、その苗木君があなたの名前を出したからね」
「なるほどなるほど。ん、分かった。話してみ」
それから霧切さんは今回の件について説明する。
要領がいい、少ない言葉で的確に表現していく。
そこに余計なものはない。
その余計なものの中には、彼女の感情というものも含まれている。
淡々と、その声には何も乗っかっていなく。
本当にただ言葉だけを吐き出している、そんな印象を受けた。
たぶん、ボクはどう頑張ってもこんな話し方はできないんだろう。
すぐに彼女は説明を終えて、言葉を切る。
その後はじっと葉隠クンを見て反応を待つだけだ。
彼は聞いているのかどうか分からないくらい無反応に、相槌も打たずに、ただただ口元に薄い笑みを浮かべていた。
「うっし、霧切っち。話は大体分かった。てなわけで、まずはビジネスの話からいこうべ」
「……いくら?」
「三十万」
「随分と取るのね。占いの方は一回十万円じゃなかったかしら?」
「こりゃ占いじゃねえからな。知識の提供、それに人助けだ。
分かってっと思うけど、俺はボランティアでこんな事するほど、苗木っちみたいにできた人間じゃねえんだぜ。
金は簡単でいいべ。大抵のことが金で解決しちまう。この世の中で二番目に金が好きだ」
それを聞いてボクは尋ねてみる。
というか、訊かれる前提の前振りのような感じもした。
「じゃあ一番は?」
「俺だべ!!」
訊かなきゃ良かった。
そうすれば、何となく深い印象を与えるような言葉で終わってたのに。
「そもそも、あなたはオカルト否定派じゃなかったかしら?」
「ビジネスは別だべ。それに、否定派だからこそこんな事してるってのもあるな」
「どういう事?」
「例えばよ、大昔の人間からすれば、現代科学ってのも十分オカルトだろ? 蛇口をひねれば水が出る、コンロをひねれば火が出る。
そんな当たり前な事でも、大昔の奴らから見れば炎の魔法やら水の魔法みてえなオカルトに見えたんだろうよ。
怪異も同じだ。あくまで俺達が知らないからそれはオカルトってだけなんだべ。知ればその瞬間からそれは現実だ」
葉隠クンの言葉に、霧切さんは何も言い返さない。
怪異について知りたい、それは彼女も同じなのだ。
それは自分の問題に関わっているから、という理由だけではない。
真実を掴む為には、様々な知識が必要になってくる事もある。
だから怪異についても、その存在を知った以上、知識として持っておかなければいけない。
ここに来る途中、彼女はそんな事を話していた。
「……分かった、お金は払うわ。誓約書でも書いたほうがいいかしら?」
「毎度あり。その辺りは準備済みだべ」
そう言って、葉隠クンは懐から紙とペンを取り出した。
紙には既に事細かく誓約事項が書き込まれている。本当に準備がいいことだ。
近くの机に座って、紙にペンを走らせる霧切さんを見やりながら、ふと疑問が浮かぶ。
「あれ、でもボクや舞園さんはそんなもの書いてない気がするけど」
「苗木っちにこんなもん必要ねえって事くらい分かってんべ。限りある資源と時間は大切に、な。
それに舞園っちの場合は、放っておくとこの学校ごと吹き飛ばす勢いだったかんな。とにかく先に対処するしかなかったんだ」
「さっきから不穏な言葉が聞こえるのだけど」
そう言いながら、霧切さんは記入を終えた紙を葉隠クンに押し付ける。
「苗木君、あなたも彼にお金を払ったの?」
「うん、まぁ……」
「はっはっはっ、苗木っちは一千万だべ!」
「…………」
何だかとてつもなく残念そうな人を見る目つきでボクを見ている。
普段みんなが色々とやらかしてしまった戦刃さんを見るあの目だ。
「あ、いや、その辺りは仕方なくて」
「それで、そんな大金を払うためにどんな違法行為に手を染めたのかしら」
「苗木っちにそんな度胸はねえべ。や、度胸はあるけども、その方向には役立たずだな。
俺も鬼じゃねえから、その辺りは貸しにしといてやってんだ。利子として月に五万、月利換算でコンマ五パーセントっていう破格の好条件だぜ」
そんなわけで利子だけでも払うために、南地区の古書店でバイトをしているボクである。
実は利子というわけじゃないけども、江ノ島さんにも定期的に払うものはあったりもする。
この歳で借金だらけだ。将来が不安だなぁ。
霧切さんは一度だけ呆れたように……というか完全に呆れて溜息をつくと、気を取り直して正面から葉隠クンを見る。
「これで力を貸してくれるのかしら? 詐欺なら詐欺で、こちらには戦う準備はできているけど」
「おう、おっかねーべ。けどわりーな、俺の意見の前に一つ確認させてくれっか」
「確認?」
「霧切っち、何か言ってねえ事あるんじゃねえの? 隠し事されてちゃ面倒なんだよなぁ」
「…………」
葉隠クンの言葉に押し黙ってしまう霧切さん。
まさか図星なのか。
「え、何か隠してるって……そんな事してる場合じゃ……」
「いんや、こんな事態だからこそ、だべ。隠し事をしてんのはわざとだ、俺を試してんだろ?」
「……じゃあ応えてくれるのかしら」
「おう、訊いてやるよ。霧切っち、オメー……」
「イタチとか、見なかったか?」
霧切さんの目が細められた。
警戒、いや……確信?
どちらにせよリアクションが小さい。
この場において彼女が目に見えて分かる変化を見せたのは、江ノ島さんが葉隠クンを睨みつけた時くらいだ。
霧切さんは小さく口を開く。
そこから出てきた声は、やはり淡々としたものだった。
「どうやら本当に分かっているようね」
「えっと、イタチ? ていうか霧切さんはどうして隠し事なんて……」
「だから言ったろ、俺を試したんだって。自分だけが知っている事実を作っておいて、それを俺が答えられるか見る。
そうすることで、どの程度俺が信用できるか見たって寸法だ。まっ、疑り深い霧切っちらしいべ」
「あなたは何なの」
「んん?」
珍しく、霧切さんの顔に明白な感情が見える。
それは不快感。
まさに『生理的に受け付けない』、そんな表情をしている。
あれはギャグとかそういうつもりではなく、心の底からの言葉だったのだ。
「私はあなたの事が掴めない。私の中のあなたと、今目の前に居るあなたはあまりにもかけ離れている」
「人間そんなもんだべ。印象と違うなんてのはいくらでもあるもんだ」
「一ヶ月も同じクラスで過ごして気が付けないなんて事は、私にとっては信じられない事なのよ。探偵としての誇りを砕かれたとでも言うのかしら。
例えその裏の顔をハッキリ見て取る事ができなくても、 “何かある”という疑念さえも抱けないなんて」
「おいおい、んな人を勝手に表とか裏で分けんじゃねえっつの。俺に裏なんてねえ、“うらない”だけにな!」
「まぁいいわ。ひとまずそれは置いておく事にする。私だって探偵としてまだまだ未熟な部分があるという事くらい受け止めているし」
うわぁ、全力でスルーしたよ霧切さん。
そのせいで葉隠クン、目を泳がせてる。いや、うん、自業自得だ。
ただ、流されるボケ程無残なものはない。
霧切さんの言いたいことは分かる。
確かに葉隠クンは常に飄々としていて、掴み所がない。
そういう人に対して、裏に別の顔を忍ばせているのではないかと疑う事は珍しい事でもない。
でも、葉隠クンはそれさえも感じさせない。
その時その時の彼がありのままの彼自身である。そう思わせてしまうのだ。
「え、えーとなんだっけか、あぁ、そうだそうだ、イタチだイタチ。うちは一族じゃなくて動物の方のな」
まだボケをスルーされたダメージが抜けきっていない様子の葉隠クンが話し始める。
ところが次の言葉は、ハッキリとした、別人のような声調だった。
「鎌鼬(かまいたち)」
空気が引き締まったようだった。
普段のクラスではこんな事は起こりえない。むしろ、彼の言葉によって更に空気が緩むのが普通だ。
ボクも、霧切さんも一言も口を挟まずに彼の話を聞く。
「鼬ってのは昔から妖怪として視られる事が多かったんだべ。数百年生きて妖怪化した鼬を、同じ漢字で鼬(てん)とも言う。妖怪じゃなくてもテンっていう種はいるけどな。
群れは火事を起こし、鳴き声は不幸を呼ぶ。鼬の道切りってのは結構有名なんじゃねえか。ほら、鼬が目の前を横切ると、交際や音信がプッツリ切れちまうっていう。
道切りに関しては、鼬は同じ道を通らないっていう俗説からきてるんだけども、まぁ、この場合重要なのはその真偽よりも年季と信心の方だべな」
スラスラと。
まるでこのセリフを予め暗記していたかのように。
クラスの秀才が問題を当てられて難なく答えるかのように。
「交際の断絶……この場合は男女のあれこれって意味じゃなくて、単純な人と人の交わりとか関わり合いっていう意味な。
それに火傷、いつ切られたか分からない切り傷。そうなると鎌鼬(かまいたち)にちげえねーべ。知ってるだろ? 鎌鼬。
まぁ単に“構え太刀”の訛りであって、鼬とは何も関係ないっていう説もあんだけど、この場合もその辺りは関係ねえな。信心だ信心。宗教くせえけど」
「……それで、その鎌鼬を退治するにはどうすればいいのかしら。鷹や鷲みたいな天敵に取って食わせればいいの?」
「待つべ待つべ。怪異としての力は大抵知名度に比例してく。知名度が高いってのはそんだけ信じてる人数が多いって事だしな。簡単にはいかねえよ。
知名度の話なら、吸血鬼は言わずもがな、例外らしい例外ってので出て来んのは吸魂鬼だけども、あれもほら、世界で数億部売れたベストセラーがあったろ。
それでもあんだけメチャクチャな力を持つには全然足りねえけど、あれの場合は根幹にあるのが“絶望”なんていう概念だからな」
アウストラロピテクスなら五百万年、北京原人やジャワ原人なら百万年、ホモサピエンスなら三十万年。
年季が違う。桁が違う。格が違う。
交際を絶つのが鎌鼬ならば、吸魂鬼は望みを絶つ。
絶交させるのが鎌鼬で、絶望させるのが吸魂鬼だ。
「んなわけで、ぶっちゃけかなりつえー。バトルは避けたい所だべ。構え太刀だけに質も悪い。
舞園っちの時みたいにハートアンダーブレードの“槍”があれば話は別だけども」
「ブレードなのに槍ってややこしいわね」
「その辺りの文句は本人に言ってくれ。俺が名付けたわけじゃねーし」
「だけど、たぶん“槍”は……使えないんじゃないかな」
江ノ島さんをチラリと見る。
彼女は相変わらずボクの事をじっと見つめたまま、身じろぎもしない。
「だろうな。だからそういう時は平和的交渉で何とかするべ。コミュニケーションの方法は別に拳だけじゃねえんだからな。まぁ、鎌鼬にあるのは拳じゃなくて鎌だけど」
その言葉に、霧切さんが眉をひそめる。
「話が通じるの?」
「通じる通じる。ハートアンダーブレードだって舞園っちのアレだって話自体は通じた。結局バトルになったけど」
「酷い成功率ね」
「霧切っち、世の中には『三度目の正直』っていう言葉があるんだぜ」
「二度失敗している時点で私はその人の事を無能と呼ぶわ」
霧切さんらしい言い分だ。
いや、超高校級らしい、というべきなのか。この場合はむしろ葉隠クンの方を超高校級としては珍しいというべきか。
そんな言葉のキャッチボール、もといドッジボールを止めようと、ボクはある疑問を口にする。
「えっとさ、その前に学園長はどうするの? あの人に何とか話をつけないと」
「へ、なんで?」
「何でって、実際に鎌鼬に憑かれてるのは学園長なんだし……力尽くで無理矢理なんて下手しなくても退学だよ」
「あー、そっかそっか、説明してなかったべ。霧切っちはともかく苗木っちは知らねえよな」
「知らない? 何を?」
「鎌鼬が憑いてるのは学園長じゃねえ、霧切っちだべ」
彼の言っている事は分からなかった。
音としては耳を通って、脳まで伝わる。
だけど、そこから時間がかかる。その言葉の意味をすぐには処理して飲み込む事ができない。
霧切さんの方を見る。
彼女は葉隠クンの言葉に何も言わず、無表情で黙っていた。
その様子こそが、葉隠クンの言葉の信憑性を高める。
神憑……いや、この場合は妖怪だけども。それも葉隠クンは似たようなものだとか言っていたっけ。
「どうせこんなこったろうと思ったべ。鎌鼬が無差別に人を襲うとしても、学園長と霧切っちみたいな既に冷め切った関係をぶった切るなんてつまんねえはずだ。
まぁ、他にもおかしい事はあんだけど……とにかく、そんなら誰かに遣わされたって考える方が自然だ。んで、そうなってくっと、遣わせた方は霧切っちしか考えられんべ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! どうしてそんな事……!」
「どうして? そんなん決まってんべ。自分の父親との絶縁、それこそが霧切っちの望みだったって事だ。
つまりは学園長が被害者ってんなら、霧切っちは加害者だな。鎌鼬は単なる凶器にすぎねえ」
「なっ……絶縁って」
「彼の言う通りよ」
揺るぎない声だった。
言い訳の一つもない。開き直っているという様子でもない。
自分の罪を認め、然るべき報いを受ける覚悟があるという態度だ。
そんな彼女は、潔いと表現するものなのかもしれない。
そしてやっぱり、彼女は意識的か無意識的かは知らないけれど、鎌鼬を受け入れていた。
鎌鼬は請け、要られていた。
だからと言って、納得できるかと言われればそんなはずもなく。
そもそも、ボクが納得しようがしまいが、それは彼女には関係ない事なんだろうけれど。
訊かずにはいられなかった。
「霧切さん、どうして……」
「あの人が許せないから。ただ、それだけ」
彼女はそれだけ言って口を閉ざす。
もう言うべき事は全て言ったというように。
この先は、踏み込んではいけない領域なのだろう。
繰り返しになるけれど、家族関係というのはそれ程立ち入った事柄である事は明白で。
非常事態だから、その理由だけでは他人の侵入を許可できるものでもない、という事だ。
ボクはそれ以上踏み込むことができない。
正直踏み込みたいという気持ちがあるけれど、彼女の気持ちを踏みにじったりはしたくない。
そんなジレンマ。
「んじゃ、確認だ。霧切っちとしては学園長から認識されなくなる事自体はむしろ望んでいた事なんだな?」
「えぇ、そうね。その通りよ」
「でも、外傷を与えるのはやりすぎだ……っつー事か。はははっ、とんだワガママ女だべ」
「葉隠クン、そんな言い方は」
「いいわよ、実際その通りだと思う。その事について弁解する言葉も意思もない。付き合いきれないって放り出されても文句は言わないわ」
「いやいや、放り出したりはしないべ。金は欲しいかんな」
不純にも程がある理由だけれど、特に何かを言うつもりにもならない。
不純ではあっても矛盾はない。
彼にとって霧切さんが何に悩み、悔み、否み、怪み、その上で止むなく相談したかという事情もどうでもいいのだ。
ただ、お金が手に入れば、それでいい。
葉隠クンはそういう人で、そのスタンスをボクは全否定しようとは思わない。
いや、実際に彼に助けられたボクに否定する権利はない。
ボクにはボクの、葉隠クンには葉隠クンの大切なものがある。
そこには変わりない。何の違いもない。
「まぁ、どっちにしろやるべき事は変わんねえべ。むしろ霧切っちに憑いてる分、怪異との接触が楽で助かる」
「私は何をすればいいの?」
「お願いすんだべ。礼儀正しく行儀正しく折り目正しく、誠心誠意真心込めて頭を下げて言い訳提げずに。
『誠に勝手で本当に申し訳ない気持ちで一杯なのですが、どうか私のお父さんを傷付けないでもらえないでしょうか』ってな」
「……分かったわ」
「おっ、意外とすんなり受け入れるんだな。もしかしたらプライドが許さないってごねるかと思ったんだけども」
「そ、そりゃ霧切さんだって、お父さんが危ないんだから……」
「いいえ、違うわ。正直あの人が死のうと消えようと私にはどうでもいい。ただ、それが私によるものというのが気に食わないだけよ。
私は探偵。真実を見極める上で、その立場は常に中立であらなければいけない。だから、例え父親相手でも、こうして積極的に誰かを陥れる事は信念に反するの」
霧切さんはハッキリと宣言する。
そこに言葉を挟み込む余地もないくらいに、力強く。
その表情と声の調子から、それが嘘でも言い訳でもないという事を印象付けられる。
いや、もしかしたらボクが彼女の嘘に気付けないというだけなのかもしれない。
そして、そんなオチをボクが望んでいるのも確かだ。
こんな事は勝手なのかもしれないけれど、やっぱり霧切さんと学園長はうまくいってほしいと、ボクは思ってしまう。
葉隠クンはそんな霧切さんの主張はどうでもいいのだろう。
パンッと手を叩いて場の空気を切る。
「うっし、そんじゃ一旦寄宿舎に帰れ霧切っち。そんで、冷水で身を清めて清潔な服を着て、夜中の零時頃ここに集合。それでいいか?」
「えぇ……でも、清潔な服というのは? 新品のものを用意した方がいいのかしら?」
「ん、できればそれが一番だけど、まぁ、普段あまり着ないような服なら別に大丈夫だべ」
「分かったわ。いくら清潔でもあなたと同じ空間に居るだけで汚れそうだけど」
「人を汚物か何かみたいに言わないでほしいべ……いや、俺もちゃんとした格好するって。それと苗木っちも霧切っちに付いて行ってくれ」
「ボクも?」
「おう。じゃねえと霧切っちとフラグが立たねえだろ?」
「…………」
フラグて。
真面目な話じゃなかったのか。
「何よその目。苗木君はそんなに私とフラグが立つのが嫌なのかしら」
「そ、そういう事じゃなくてさ……」
「分かったわ、苗木君は『中学生はババア』という価値基準を持っているのね」
「やめて、ボクをそんなキャラ設定にしないで!!」
今の江ノ島さんの姿的に、その冗談は洒落にならない。
というか、霧切さんもそれを意識して言っている。
「何よその目。苗木君はそんなに私とフラグが立つのが嫌なのかしら」
「そ、そういう事じゃなくてさ……」
「分かったわ、苗木君は『中学生はババア』という価値基準を持っているのね」
「やめて、ボクをそんなキャラ設定にしないで!!」
今の江ノ島さんの姿的に、その冗談は洒落にならない。
というか、霧切さんもそれを意識して言っている。
「でもよ、霧切っちとイタチ、だろ? やっぱこれは運命なんだべ苗木っち」
「何でさ……イタチってむしろ関係を断ち切る怪異なんでしょ?」
「違う違う、怪異としての性質って意味じゃなくて、単純な言葉的な意味で」
「言葉?」
「霧切響子、イタチ。きょうこイタチ。今日明日の“今日”に、初恋の“恋”、クララが立ったの“立つ”。今日恋立ち」
「無理矢理だ!!!」
「そもそも、それだと誰が誰に恋するのか分からないじゃない。苗木君と狛枝君かもしれないし」
「その組み合わせ止めてよ……ていうか、そこは霧切さんでしょ。きょうこイタチなんだから。
それにほら、相手はボクじゃなくても、もしかしたら葉隠クンと霧切さんっていう可能性も……」
「愛しているわ、苗木君」
「どんだけ嫌われてんだべ俺!?」
割と本気でショックを受けている葉隠クン。
別にこれは、彼が霧切さんに惚れているとかそういう事ではなくて、ただ単に扱いに嘆いているだけだろう。
そして、同じようにボクも彼女から愛の告白を受けても何の気持ちも湧いてこない。
たぶんこんな事はこれが最初で最後なんだろう。極めて特殊な状況だ。
すると、霧切さんは何か閃いた表情をする。
「……いつの間にか私が苗木ハーレムの一員に。
なるほど、このお話のメインタイトルは『恋物語』で、苗木君が女の子を弄ぶという内容だったのね。最終話はそうね……『まことエンド』」
「ちょっと待ってよ。なんかその話、最終的にボクが刺されそうなんだけど」
「舞園さんってヤンデレが似合うわよね。『中に誰もいませんよ』とか」
否定出来ないのが心苦しい。
いや、だって、舞園さんたまに本気で怖い時あるし……。
「……でもさ、それだと霧切さんが死んじゃってない?」
「いいえ、ここでお腹を掻っ捌かれてるのは狛枝君よ」
「そのカップリングから離れようよ!!」
「つーか、霧切っちってそういうのイケるクチなん?」
「冗談に決まっているじゃない。腐っているのは葉隠君だけで十分よ」
「隙あらば精神攻撃だべ!?」
というか、メインタイトルの話なら、希望と絶望で『望物語』とかでいいだろう。
そんな恋愛ドロッドロの話、需要はあるのかもしれないけれど、当事者のボクとしては断固拒否したい。
そういうわけで、こっからは強制的に真面目な話だ。
「それで、ボクが霧切さんに付いて行った方がいいのは、やっぱり鎌鼬関係なんだよね?」
「あぁ。もしかしたら鎌鼬のやつが『やっべぇ、このままだと退治される! そっちがその気なら俺も激おこプンプン丸だ!!』みたいな行動に出るかもしんねえからな」
随分と現代っぽい怪異だ。江ノ島さんじゃあるまいし。
それに、葉隠クンの言葉には他にも疑問がある。
「それってボクが止められるの?」
「退治は無理でも抑える事くらいなら何とかなんじゃねえか。ほら、苗木っちってまだ体に吸魂鬼を残してるし、怪異の存在にはある程度勘が効く方だべ。
鎌鼬の絶交能力の結果自体には気が付けなかったみたいだけども、人間関係をぶった切る際に出てきた鎌鼬本体には流石に気付くべ」
「あぁ……そういえば舞園さんの時も……。じゃあ、ちょっと戻した方がいいのかな?」
「ん、そだな。そのままだと、もしもの時は呆気無く真っ二つだべ」
物騒な話だ。今更だという気もするけど。
小さく溜息をつく。
仕方ない事だと分かっていても、あまり気分は乗らない。
だからといって、やらないという選択肢はないけれど。
霧切さんはいつもの探る目でこちらを見ていた。
「戻すって何を?」
「あー、まぁ、色々と。あのさ霧切さん、悪いんだけど、先に外で待っててもらえるかな」
「……いいわ」
あれ、意外とすんなりだ。
彼女の事だから、もっと探りを入れてくるかと思ったけれど。
いや、だけど安心はできない。
彼女は超高校級の探偵だ。僅かな手がかりから真実を導き出してしまう。
気をつけないと。
その後、霧切さんは言った通りに教室を出て行って、葉隠クンもそれに続いた。
彼は彼で準備があるらしい。ボクにとっては好都合だ。
部屋に残されたのはボクと江ノ島さんだけ。
もうすっかり日は落ちていて、天井の大穴から見える夜空にはいくつか星も煌めいている。
夜。それは怪異が活発になる時間だ。
だからボクも、少しは人間から離れてもいいだろう。
今回はここまで。次でこのお話は終わりだべ
乙。やっぱり原作的に日向と七海はいないのかな
まあ1メインかな?
化物語しらないけど面白いな
+++
希望ヶ峰学園に在籍する本科の学生は、南地区の寄宿舎を利用するのが普通だ。
そして霧切さんもそのご多分に漏れず、やはり同じように寄宿舎に自分の部屋を持っている。
それは自然で当然な事なのだけど。
「どうしたの、苗木君。そんなにこそこそして」
「いや、だって……」
超高校級とはいえ、高校生であることには変わりない。
だから、これも当然ながら男女の寄宿舎は分けられている。
つまりは、こうして男子であるボクが、こんな時間に女子の寄宿舎に居るという状況はイレギュラー極まりない事なのだ。
バレたらマズイ。
特に大神さんやセレスさんなんかにバレれば、春休みの焼き直しになる可能性だってある。
そういう細かい事情はともかく、ここに男子が居る事の異様性は霧切さんも分かっているはずだけど。
「……大丈夫よ苗木君。あなたがここに居ても、問題はないわ」
「そ、そうなの? もしかして、今はみんなどこか行ってるとか?」
「いえ、別にあなたが見つかった所で社会的に終了するのはあなたであって、私ではないもの」
「完全に自分の都合だけだ!!」
「でも、私はあなたやハートさんとは違って鬼ではないわよ。庇うことくらいはするわ」
「そっか、うん、ありがとう……お願いするよ……」
「『苗木君を自分の部屋に連れ込もうとしたのは、彼にそう脅されただけであって、決して私自身に邪な気持ちがあったわけじゃないんだからね』、とか」
「庇うって自分の事か!!」
むしろそれだとボクの方が更に酷い事になる。
完全にボクだけが悪者だ。責任割合10:0。保険なしの全額自己負担。
というか、この場合は事故じゃなくて事件だ。学級裁判でもなく民事裁判でもなく、刑事裁判だ。
弁護人は……葉隠クンはお金積めばなってくれるかなぁ。
「ところで苗木君」
霧切さんはボクの人生の危機についてはこれっぽっちも興味がないようで、話を切り出す。
嬉々としていないだけマシだと考えるべきか。いや、元々彼女はそんなに感情が表に出ることはないけれど。
「かなり憂鬱そうな表情をしているけれど、何かあったの?」
「いつ社会的に死んでもおかしくないこの状況で何ともない程、ボクのメンタルは強くないよ……」
「いえ、その前からよ。あのボロボロの建物から出てきた時から。憂鬱そうというか、体調が悪そうでもあるわね」
「……そう見えた?」
「えぇ。まるで好きな原作がアニメ化されたけど、無理矢理1クールに押し込められた結果ダイジェストのような事になってしまって、何とも微妙な気分になってしまった。
そんな顔をしていたわ」
「そんな具体的な顔してた!?」
その例はともかくボクの気分が優れない、というのは事実だったりもする。
流石超高校級の探偵、彼女相手に隠し事をするのは相当の難易度であるようだ。舞園さん相手にもそうだけど。
実は今のボクは、気分は優れなくても身体能力は優れている。
加えて一部、人間としては優れているというより外れている所も出てきてしまっている。まぁ、それは元々なんだけど、より一層外れたという話だ。
一つ挙げるならば治癒能力。今のボクは、例えお腹に風穴を空けられても、すぐに塞がってしまう。
吸魂鬼化。
ボクの中の人間と吸魂鬼の割合は、江ノ島さんに協力してもらう事で調整する事が可能だ。
今回は……いや、今回も、怪異とのバトルという事も想定して吸魂鬼の割合を大きくしたというわけだ。
鬼。怪異の王。
全てを飲み込む絶望の化身。
その力の一部を、今のボクは振るうことができる。振るうというか振るわされるというか。
霧切さんは、ボクの説明を聞いて何度か頷く。
「なるほど、ね。だからあの時、私を先に建物から出したのね」
「な、何の事かな」
「見られたくなかったのでしょう、その吸魂鬼化の方法を。でも私は知っているわよ。推測とか考察とかじゃない、知識として持っている。
なにせ、世界で何億部も売れているベストセラーなのだから。私じゃなくても知っている事なんじゃないかしら」
「あのさ、その辺りは、まぁ、ほら、暗黙の了解的な感じにしない? キミの言う通り、こんな事はわざわざ言わなくても分かる事だろうし」
「……分かったわ。苗木君がそう言うなら」
良かった、どうやら承諾してくれたようだ。
ボクは彼女の事を血も涙もない、吸魂鬼よりも吸血鬼よりも冷血な恐ろしい人だと思っていたけれど、そんな事もないみたいだ。
人を平面的に捉えて勝手なイメージをつけてはいけない。うん、反省しないと。
「それで、幼女の唇に熱々のキスをした苗木君」
間違っていた。いや、正しかった。
この人は冷血で冷徹で冷酷で、およそ人間らしさなど存在しない、最恐最悪の怪異すら裸足で逃げ出す、人ですらない人でなしだ!!
大神さんや江ノ島さんよりも遥かに鬼らしい鬼だ!!
「そんな顔しないで苗木君。大丈夫、私はこの事を誰かに言ったりはしない。真実を知っても、それを無闇矢鱈に口外するほど、私は愚かではないわ。
安心して、あなたが幼女とキスして興奮のあまり人間の枠すらも飛び越えるような人間だというのは、あくまで私の中だけに留めておくから」
「ボクは興奮なんてしてない!!」
「直接的に言うと発情ね」
「発情もしてない!!!」
「強情ね。じゃあ何情したのよ。白状しなさい」
「別に……何もないよ」
発情はもちろん、愛情も同情もない。
事情は複雑に絡まり合い、自分自身が一体どんな気持ちで彼女と接しているのかも上手く口に出すことができない。
分かっている事は。
ボクはあの選択を後悔していない事だけだ。
そして、こんな資格はないのだろうけど、ボクは彼女に温情くらいは持っているのかもしれない。
霧切さんはじっとボクの顔を観察する。
舞園さんと似たような感覚だ。まるで心の中を覗かれるような。
自然と目も逸らしてしまう。
「なるほど。1/3の純情な感情なのね」
「残りの2/3は何なのさ……いや、いいや、言わなくても」
「そう。それで、幼女の唇に熱々のキスをした苗木君」
「ちょっと待った」
「何よ。そうやっていると話が進まないのだけれど」
「いいや、これはスルーできない! ボクを形容する為に、わざわざそんな言葉を付ける必要はないはずだ!!」
「……それもそうね。苗木君には苗木君で、プライバシーというものもあるのだし」
「うん、分かってくれたならいいんだ」
「それじゃあ、幼女に対して魚が喜ぶ行為を行った苗木君」
「えっ?」
魚が喜ぶ?
ボクは思わずポカンとしてしまう。
「正解は鱚(きす)よ。魚編に喜ぶで“鱚”」
「おぉ、なるほど…………いや、でも、それもやめてもらえるかな」
「どうして?」
「まず幼女っていう時点でそこはかとなく危険な香りがする。それに、長いでしょやっぱり」
「……確かに。分かったわ、これもやめる」
「うん、分かってくれたならいいんだ」
「それで、ロリコンの苗木君」
「うおい!!」
いつまで続けるんだよこれ、話進まないじゃないか!
ここまでで、まだ女子の寄宿舎でウロウロしてるとか、見つからない方が不自然だ。
「仕方ないわね、それで苗木君。あなたが今、体調が悪そうにしているのは吸魂鬼化のせいだという事は分かった。
つまりハートさんは、元ネタというか、強い影響を受けているあのファンタジーに出ている様な特性を持っているという事でいいのかしら?」
「ちょっと違うかな。あっちの方の吸魂鬼は人の楽しい感情を吸い込むけど、江ノ島さんは逆だ。彼女は絶望を吸い込む」
「絶望を? でもそれだと、むしろ気分は軽くなるように思えるけれど」
「実際はそうでもないんだけどね……あ、でも、ボクの場合は確かに違うんだ。江ノ島さんは相手がボクに限って希望を吸い込む。
なんでも、ボクの絶望はかなり質が悪いらしくて、とても食べられたものじゃないらしいんだ」
「それってハートさんは大丈夫なの? 本来絶望を吸い込むものが、正反対と言える希望を吸い込めば、それこそ体調を崩しそうだけれど」
「もちろん拒否反応は出る。ボクの希望なんかは特に。でも、その拒否反応で出てくるのが絶望なんだ。
希望と絶望は言うならば光と影。表裏一体みたいなものだからね。だから、彼女はボクの希望を吸い込む事で出てくる自分の絶望を取り込んでいるんだ」
「……自虐的というか何と言うか。例えるならば自家発電に近い感じなのかしら。男子は好きよね、自家発電」
「唐突な下ネタやめようよ……」
「苗木君は週に二十一回程度かしら」
「そんなやってないよ!!」
絶対朝昼晩の一日三回ずつで計算してる!
流石に学校でやるほどチャレンジャーではない!!
……そういえば山田クンは学校での自慰は一味違うとか何とか言っていた気もするけど。
霧切さんは好奇心を目に宿して訊いてくる。
「やっぱり辛いものなの? 希望を吸われるのって」
「うーん……感覚的にはちょっと嫌な気持ちが理由もなしに続く感じだよ。辛いというか気味が悪いというか。
例えば、マラソン大会のスタートラインに立って、先生がスタートの合図をするのを待っている時の気分、みたいな」
朝日奈さんなんかは全く別なんだろうけどね、と続ける。
とにかく憂鬱なのだ。気分も落ち込む。
病は気からという言葉があるけれど、この状態が続くと本当に体調そのものが悪くなってくる。緊張し過ぎてお腹を下したりするのと同じだろうか。
「なるほど、つまり映画館に行ったけれど、前の人の頭でよく観えないというような感じが続いているのね」
「…………」
「身長だけで下級生だと間違われたり」
「…………」
「通勤ラッシュの時におじさんの腋がちょうど顔の位置に来たり」
「もうやめてくださいお願いします!」
江ノ島さんでも乗り移っているのだろうか。
この何が何でも絶望させようとする行動は彼女と似ている。
いや、ホント、ダメージ受けてるから。
前向きだけが取り柄のボクの心がズタズタだから。
「どう? 最初に憂鬱だった気分が紛れたでしょう?」
「何その別の痛みで元々の痛みを紛らわせる戦法!!」
足を擦りむいて泣いている子供に対して、腕をつねって足の痛みを忘れさせるという感じだ。
まさに血も涙もない。実際は余計な痛みが蓄積されるだけだ。
ただ、やり方はどうあれ。
ボクの事を想ってやってくれた事なのであれば、やっぱり嬉しいと思ってしまうのはおかしい事なのだろうか。
決してボクがMだとかそういう話ではない。
そんなわけで霧切さんの部屋に到着。
ここまで三レス。これ絶対もっと縮められたはずだ。
毒にも薬にもならない話だとは思わないけれど、比率で言えば毒:薬で9:1くらいだ。
具体的にはボクの精神がやられている。
なんだか凄く疲れた。
「何よ、仮にも女の子の部屋に入るのだから、もう少し嬉しそうにしたらどうなの」
「やったー」
霧切さんは目を細めてボクを見る。怖いです。
扉を開けて中に通されると、そこは何というか、イメージ通りといった部屋だった。
基本的に物は少ない。とりあえず目に付くものと言えば、本棚くらいか。
そこには少年漫画から難しそうな英字の医学書まで。様々な種類の本が詰め込まれていた。
相当の濫読派なのだろうかとも思ったけれど、そういう事ではないだろう。
彼女は超高校級の探偵、真実を手にする上で必要な知識は多いに越したことはない。
「適当にくつろいでいていいわよ。ただし、あまり散らかさないでね。人の部屋に入ったら、まず性的な本を探したくなるのは分かるけれど」
「それは男同士で発生するイベントだよ……」
ボクはとりあえず近くにあった椅子に座る。
何だろう、女の子の部屋で二人きりという、男子ならば嬉しいシチュエーションのはずなのに、ちっともそんな気分にならない。
それは吸魂鬼化の影響もあるのだろうけれど、それよりも今のこの状況が大きいだろう。
いや、これは失礼過ぎるだろうけれど、相手が霧切さんだというのが一番大きいかもしれない。
彼女はベッドに座る。
「さて、苗木君。お話をしましょう」
「お話?」
「えぇ。だって零時まではまだまだ時間があるわ。それまでひたすら無言でいるのも辛いでしょう?」
「あぁ、うん、まぁ。あ、でも、吸魂鬼関係とか舞園さんの事はあまり……」
「分かっているわよ。世間話をしましょうと言っているの」
「世間話……」
「何よその顔。私が世間話もできない超絶コミュ障メンヘラ女だとか思っているのかしら?」
「そこまで思ってないよ!!」
被害妄想が激しすぎる。
まぁ、彼女が世間話を振ってきたのは少し意外だったけれど。
「確かに私はあまり積極的に人と関わったりはしないわ。でも、それは過去の教訓からくるものよ」
「教訓?」
「えぇ。私は昔、人に踏み込み過ぎたせいで判断を誤り、大きな失敗をした。そういう事よ」
「失敗……」
「そもそも、探偵というものは常に中立であるべきなのよ。誰かに対して情を持つべきではない」
「でも、霧切さんは探偵であると同時に、一人の女の子でもあるよ。だから、そんな」
「……ふふ、まるでナンパか何かの手法ね」
「えっ!? いや、別にそういうわけじゃ……!!」
慌てて弁解するけれど、彼女は口元に小さな笑みを浮かべているだけだ。
何だか、いいように受け流された気がする。
「それでは世間話を……そうね、クラスのお話をしましょう。まず、現時点での同期のスクールカーストの頂点は誰かという話から」
「…………」
いきなり微妙な話題を放り込んできた。
そういえば霧切さんが他の人と話している時も、大体は話に相槌を打っているだけで、自分から話を振るなんて事はなかった気がする。
やっぱり世間話はできないとまでは言わなくとも、苦手ではあるんじゃないか。
ちなみにスクールカーストというのは、学級内の地位というか、ヒエラルキーの順位みたいなものだ。
イケメンリア充や、茶髪ギャルがクラスの中で目立って発言力があるのに対して、オタク系の趣味を持った地味な人達がクラスの隅っこにいるとか、そんな感じ。
そして明らかに世間話で話題にするような事じゃない。
「頂点に近いのは桑田君、舞園さん辺りかしら。でも何ていうか、希望ヶ峰学園に限って言えば、スクールカーストなどという概念は薄い気もするわね。
通常なら山田君のような人はカーストの最底辺に属して、クラスの隅で目立たくなっているものでしょうけど、実際はそんな事もないわ」
「たぶん、みんながみんな超高校級の高校生だからじゃないかな。それぞれの中に自信というか、誇りがある」
「そういう事でしょうね。なによ苗木君、あなたも中々頭が回るじゃない。私の百分の一くらいの力があるわ」
「それは褒められてるのかな」
「褒めているに決まっているでしょう。だって、苗木君が百人集まれば私と同等だと言っているのよ」
「……なんか更に褒められた気がしなくなったよ」
別に反論があるわけじゃないけども。
ただ、やっぱり超高校級の人達は自分の能力に自信を持っているというのは本当みたいだ。
正直、そうやって自分の中に何か一つでも自信になるものを持っている人は羨ましい。
ボクの場合は前向きさだけど、あまり人に自慢気に言えるような事でもないと思うし。
「さて、それじゃあスクールカーストの話はこのくらいにしておきましょう。話していて気持ちのいい話題でもないし」
「分かってたんだ!?」
「次はそうね……苗木君の妹の話をしましょうか」
「予想外の所に飛んだね……ていうか、ボクに妹がいるって知ってたんだ」
「えぇ、そのくらいはね。可愛らしい子じゃない。苗木君がシスコンになってしまうのは無理もないと思うわ」
「ちょっと待って。そういう妹がいるっていうだけで問答無用にシスコン扱いされる風潮に、ボクは異議を唱えたい」
「別にいいじゃない、シスコンでも。家族が好き、妹も好き。何を恥じる必要があるのかしら?」
「いや……それは……」
「まぁ高校生くらいで『妹が好き』だなんて言えば引かれるでしょうけどね」
「分かってるじゃん!!」
色々難しい年頃なのだ、中高生というのは。
心の中では家族の事を想っていても、中々声に出す事は難しい。
「ただ、家族が好き。そんな当たり前な事でも、案外幸せな事だというのは、頭の隅にでも置いておいてもいいかもしれないわよ」
「……霧切さんは、元々家族とはあまり仲良くないの?」
「そういうわけでもないわ。確かに特殊な家庭ではあったけれど、家族仲はそれなりに良かった。昔はね」
「昔は、か」
これ以上訊いていいのだろうか。
ただ、彼女は自分から家族の話を振ってきた。もしかしたら話していいと思っているのかもしれない。
そんなボクの様子を見て、霧切さんはおおよその事は分かったらしい。
「聞きたい?」
「うん、訊きたい」
「私の足を舐めたら聞かせてあげるわ」
「……分かったよ」
「驚いた」
どうやらボクの返答は想定外だったようだ。
目を丸くしている彼女を見ると、何だか初めて勝ったような感じがする。やった。
……代わりに大切な何かを失った気がするけど。
「いいわ、冗談よ冗談。話すわ。苗木君が女子の足を舐めたがる変態だという事は私の中だけに留めておく」
「いや違う! ボクは強制されたら舐めるというだけで、別に能動的に舐めたがっていたわけじゃない!!」
「私の家庭の事情、聞きたくないの?」
「訊きたいです」
もういいや、何でも。
「でも、意外だな。霧切さんがそういう事話してくれるなんて」
「もちろん積極的に話したいというわけではないわよ。ただ、あなたになら別に構わないかと思っただけ」
「ボクなら?」
「その吸魂鬼化だって、本当はやりたくなかった事なんでしょう? それでも、あなたは私の為に我慢してくれた。
それなのに、私だけ自分の都合を優先させるのは不公平でしょう」
「……いや、ボクはただやりたくてやっているだけだから」
「私の気が済まないというだけよ。人から一方的に情けをかけられるというのは我慢ならないの」
超高校級の誇り高き探偵。
彼女はその誇りを守るために、本当は言いたくないような事をボクに伝える。
その思考は平凡なボクなんかじゃ想像する事もできない。
でも、例えどんな理由があったとしても。
こうして彼女の立ち入った話を聞ける事は、素直に嬉しいと思った。
霧切さんは部屋の天井を見上げた。
彼女にしては珍しい、気の抜けた表情だった。
「昔は――私がまだ幼かった頃は、それなりに幸せな家庭だったわ。父と母と私、それにお祖父様やお祖母様。
家のこともあって、幼い頃から探偵としての知識を身に付けるという事はしていたけれど、まぁ、一般的な家庭と遜色ない程には幸せだったとは思うわ」
懐かしい思い出を語る霧切さんの口調は、今までで一番穏やかなものだった。
その声調だけで、それが彼女にとって最も幸せな時期だったのだろう、というのも想像できる。
でも、それだけでは終わらないというのも分かっている。
もしここで話が終わるのであれば、そもそもボクはこの場に居なかっただろう。
「母が亡くなったの。そして、その後すぐ父も家から出て行ったわ。幼かった私を置いてね」
何と言うべきか分からなくなった。
いや、謝るべきだ。
こんな事、彼女の口から言わせるべきではなかった。
でも。
「謝らないで」
「えっ?」
「私、そういうのが一番不快なの。私自身は整理がついているのに、そうやって勝手に人の心を分かったかのように同情されるなんて、我慢ならないわ」
「……分かった」
ボクはそう言う事しかできない。
そうだ、彼女の事なんて何一つ分からない。
家族はみんな健在で仲も悪くない、何の問題もないボクには。
何も、分からない。
「幼い私はよく分かっていなかったけれど、父は頭のいい人だったらしいわ。それこそ、霧切家の次期当主として将来を有望される程の、ね。
でも、あの人は元々探偵そのものに嫌悪感を抱いていたみたい。だから母の死をきっかけに、お祖父様と大喧嘩の後に、家から出て行ったわ。幼い私を置いて」
「…………」
「ただ、私はその事であの人を責めたりはしないわ。自分の生き方は好きに決めればいい。でも、あの人の存在はいつまでも私を苦しめる事になった」
「存在が……苦しめる?」
「周りからの目よ。私は探偵としての誇りを持っている。父の事なんてもうどうでも良かった。
でも、周りはそんな事をお構いなしに、私の事を『父親に捨てられた可哀想な子供』として見てくる。あの目が、どうしようもなく、苦痛だった」
「……だから、霧切さんは学園長との絶縁を望んだ」
「えぇ、そうよ。だからこうして、私は直接学園に乗り込んで絶縁の言葉を伝えに来た。
探偵は中立であるために、世俗とは一線を画するべきという一族の誓い、誇りを曲げてまでね」
それが、霧切さんが学園長を許せない理由。
いつも凛としていて冷静な彼女でも、周りからの哀れみの視線には耐え切れなかった。
だから、父親との、学園長との関係を精算するために、この学園にやってきた。
探偵としての誇りを曲げることもいとわずに。
いつまでもつきまとう、父親の呪縛から逃れるように。
「でも、きっと、学園長にも何か理由が……」
「そんな事はどうでもいいのよ」
「……それでも、そこにだって、キミがいつも追っている真実っていうものがあるんじゃないの?」
「真実はもう既に私の中にあるわ。彼が私を捨てて、私は周囲から哀れみの視線を向けられ続けた。それだけ分かれば十分」
「…………」
彼女の有無を言わさない、ハッキリとした口調に、何も言えなくなってしまう。
納得はできない。でも、だからって何だというのだ。
ボクが納得しようがしまいが、関係ない。
これは彼女の、それも彼女にとっては不快で深い、家族の問題だ。
そこに、ただクラスメイトであるという理由だけで、自分の意見を押し通すことなんてできるはずがない。
それは分かっているつもりだけど。
それでも、ただ黙っている事しかできない自分が、どうしようもなく無力で歯痒かったのは確かだった。
+++
カットだ。
その後部屋のシャワーから出てきた霧切さんが、靴下だけ履いて他は全裸という変態的格好だった事や。
それを指摘したら『靴下は履いているのだから問題ないでしょう』という意味不明な答えが返ってきた事や。
一部の相手に対する交渉に使えるかもしれないとか言って、ボクがシャワーを浴びている時に覗いた挙句、写真を撮ろうとしていた事や。
その他もろもろ。
一言で言えば、彼女はかなりおかしな価値基準を持っているという事だ。
もっと直接的に言えば、変人だった。
そんなわけで、午前零時。もう二時間後だったら望遠鏡を担いで行っても良かったかもしれない。
場所は占術棟。その入り口。
そこでは、白ずくめの、神職に携わる人が着るような、浄衣と呼ばれる衣装に身を包んだ葉隠クンが待っていた。
トレードマークとも言えるドレッドも、後ろで一つに束ねられている。
何というか、悔しいことにかなり様になっていた。
「よう、苗木っち、霧切っち。ん、いい感じだな」
そう言って、葉隠クンは霧切さんの格好を上から下までお構いなしに眺め回す。
彼女の格好は白のシャツの上に白のジャケット、更に白のフレアスカート。手袋も白。
まさに清潔そうだという言葉を精密に体現したかのような、見事な白ずくめだ。
「比べて、苗木っちは代わり映えしねえなー。シャワーは浴びてきたんだろうな?」
「うん、浴びたよ。それにボクに関しては、服は制服のままでいいって言ってたじゃないか」
「まぁ、そうなんだけどよ。イタチの方は?」
「大丈夫だったよ。別に何もなかった」
「そっかそっか。意外と大人しいみてーで何よりだ。あまり暴れ回られてもたまんねえからな」
それから、ボク達は建物の中に入る。
夜の学校は……正確には研究棟だけれど、とにかく中々の雰囲気があった。
一言で言えば結構怖い。何か出てきそうだ。お化けとか。
まぁ吸魂鬼もどきがお化けを怖がるというのもおかしな事のような気がするけれど、それはそれ。
別に夜の占術棟は初めてというわけじゃなく、何度も経験しているけれど、どうも慣れない。
だって、ただでさえ暗いっていうのに、その上これだけ荒れ果てて廃墟みたいになっているのだから、何か出そうというのは真っ当な考えじゃないか。
辺りにはコツンコツンと、ボク達の足音だけが響き渡っている。
「三階の部屋に“場”を作ってあるべ」
「場?」
「おう。結界というか何というか、神聖な場所みてーな」
「へぇ……なんだかボクや舞園さんの時とは随分と対処が違うね」
「そりゃな。元々はこっちの方が普通なんだべ。苗木っちと舞園っちの場合は、どっちもイレギュラー過ぎた。
今回は平和的に、ぶった切られた縁っつーのを直してもらうだけだべ。毎回毎回切った張ったのバトルばっかじゃ体がもたねえ」
「……その場で、鎌鼬に会うことができるのかしら?」
「さぁ、それはやってみねえと。まっ、見えるとすりゃ一番可能性があるのは霧切っちだべ。なんせ鎌鼬のご主人様なんだからな」
ニヤニヤと、鼻につく笑みを崩さない葉隠クン。
それに対し、普段なら霧切さんが何かキツイことの一つや二つ言うところなのだろうけど、流石に緊張しているのか何もない。
無理もないだろう。
ボクや葉隠クンは人ならざるものと関わるのはこれが初めてじゃないけれど、霧切さんは違う。
「へっ、どうしたべ霧切っち。随分と静かだな」
「私は元々静かよ。学校ではクールビューティーで通っているじゃない」
「じ、自分で言っちゃったよ……」
いや、確かにその通りなんだけれど。
でも、それを本人が自覚して、しかも口にすると一気に残念な感じがする。
とは言え、ボクの中の霧切さんの像は、今までの彼女の暴走や暴挙や暴言でとっくに暴落しているけども。
一番前を歩いて階段を登る葉隠クンは、小さく笑い声をあげて、
「流石にギャーギャー騒ぐのはアレだけどよ、かといって緊張し過ぎってのも良くねえべ。ちっと話でもすっか。どうでもいい感じの」
「つまり葉隠君の存在について話せばいいのかしら」
「……悪い、それは俺がキツくなるからやめてくれ。そだな、じゃあ霧切っちの好きな男のタイプとか!」
「いや、葉隠クン……」
「まぁまぁ苗木っち、深夜に高校生が集まってんだべ。そういう話をするのは自然な流れだって。苗木っちだって、ちっとは興味あんだろ?」
ないと言えば嘘になる。
ただし、この状況を考えれば、あまりにも場にそぐわなすぎる感は否めない。
ところが、霧切さんは意外にもそこまで嫌がる素振りをみせなかった。
「考えたこともないわね。ただ、まぁ、外見に関して言えば、感性は一般的なものからそうは離れていないはずよ。
たまに舞園さんや朝日奈さんに、今人気の男性アイドルグループの写真とかを見せてもらうけれど、みんなハンサムだと思うし」
「ハンサムて」
もうほとんど死語だ。
同年代で言っている子を初めて見た。
「つっても、そん中でも好みとかはあんじゃねえの?」
「そうね……強いて言えば、ドレッドヘアーじゃなくて、だべだべうるさくなくて、酷いセンスの腹巻きをしていなくて、存在自体が害悪じゃない人かしらね」
「男の好みでメタクソに罵られたべ!!」
ボク達よりも少しだけ人生経験豊富な葉隠クンも、これは初めての経験らしい。
というか、普通は一度も体験しないような事のような気もするけれど。
そして、彼女は。
少し黙った後、思い出したように、ポツリと。
「……それと、家族を大切にする人、かしらね」
霧切さんのその声は、普段とは違って感情が濃く乗っている気がした。
一瞬だけ、彼女がボクと同じような何でもないただの高校生になったような。
その言葉に、ボクと葉隠クンは何も答えられなかった。
いや、答えられなかったのはボクだけで、葉隠クンは何かを思って答えなかっただけなのかもしれない。
江ノ島さんの望みにも応えられなくて、堪えられなかった。
そんなボクには答えられない、ただそれだけの事なのか。
そうこうしている間に、目的の部屋まで辿り着いた。
中に入ると、そこはしめ縄で囲われた空間があって、厳かな雰囲気を持った祭壇も用意されていた。明かりは蝋燭のぼんやりとした光のみ。
これには想像以上のアウェー感を持ってしまい、思わずゴクリと喉を鳴らす。
「頭を下げて、目を低くしてくれ。俺達は人間、格としては下。堂々としている道理はねえべ」
葉隠クンの言う通りにする。
この雰囲気、言葉一つ紡ぐのも躊躇われるものだけれど、訊いておきたい事はあった。
「……ねぇ、これって本当にボクも居ていいのかな」
「まぁ、居ねえ方がいいけど、居る必要はあるな」
「え?」
「言ったろ、鎌鼬が大暴れする可能性もあるって。そん時は吸魂鬼もどきの苗木っちの出番だべ」
「あぁ、そっか。キミ一人じゃどうにもできない程の怪異なの?」
「いんや? ただ苗木っちがその不死身の体を利用して時間を稼いでくれたら楽ってだけ」
「…………」
「期待しているわよ、苗木君」
なんか不死身っていうのをいい事に、好き勝手に使われている気がする。
確かに死ぬことはないかもしれないけれど、痛みはちゃんとあるっていう不死身の中にも人間じみた所はあるのに。
まぁ、いいか。痛みにはもう慣れっこだし。
それに、葉隠クンには大きすぎる借りもある。霧切さんの事だって放ってはおけない。
結局、やる事は変わらない。
「そんじゃまずは……ん、霧切っちはもう結構落ち着いてんな」
「心を乱さず真実を見出す。探偵としては当たり前よ」
「流石だべ。んじゃ、色々省略していっか。目を閉じて、頭の中で深く深くイメージするべ」
「……何を?」
「霧切っちが会ったイタチの姿を。姿形、匂い、雰囲気、触れたってんなら、その触感。できるだけ鮮明に克明に、誰にでも説明できるように」
「分かったわ」
霧切さんは目を閉じたまま沈黙する。
静まり返る空間。
揺れる蝋燭の炎、人の影。
徐々に広まっていく、重苦しく、息苦しい空気。
どれだけ経っただろうか。
時間の感覚が曖昧だ。
よくある表現だけれど、それは一分だったかもしれないし、一時間だったかもしれない。
彼女の。
霧切さんの前の空間が、歪んだ。
彼女は見た。
いや、見たように、思えた。
ボクには分からない、ボクには見えない。
それでも、彼女は、目の前の空間を見て目を見開く。
「っ……!!」
霧切さんは息を呑み、体を小さく震わせた。
それでも、後ずさったりしなかったのは、彼女の心の強さからくるものなのか、それとも単に動けないだけなのか。
そんな異様な空間の中で。
葉隠クンだけは表情を変えずに、とはいえ、いつもの飄々とした笑みなどはどこにもなく。
真顔で、感情がほとんど出ていない表情で、口を開く。
「何か見えたんか?」
「いるわ」
「何が?」
「イタチ……鎌鼬が」
「へぇ。どんな形をしてる?」
「そんな事、今更」
「いいから。教えてくれ。俺には見えねえんだ。苗木っちだってそうだろ?」
「……うん。何か居るのは分かるけれど」
「異常な大きさ、大型犬くらいあるわ。両手が、鎌。獣臭はしない……全然」
そんな存在が、彼女の目の前に居る。
ただ、歪みを見れば大きさは大体分かる。
それがイタチだというのはにわかには信じられないけれど、相手は怪異だ。知識が通用しても常識が通用するわけがない。
それに、彼女は鎌と言った。
明らかな凶器を持った、得体の知れない存在が目の前に居る。
それでも、彼女は取り乱すのを抑えて、視線も逸らさない。
葉隠クンはしばらくその空間を見た後、霧切さんに目を向ける。
「そっかそっか。んじゃ、こっから何やるかは分かってんな?」
「……えぇ」
霧切さんはその場で両膝をついた。
そのまま両手を床につけて、深々と頭を下げる。
そして、懇願する。祈願する。願を懸ける。いや、願を取り消すというのか。
震える声を抑えて、よく透き通った声で。
誠心誠意真心込めて。
「ごめんなさい。本当に勝手で、申し訳ないのですが、父を……傷つけないでください。お願いします」
ダンッと足を踏み込んだ。
それは葉隠クンでもないし、当然霧切さんでもない。
ボクだ。この両足だ。
駆ける。今なら超高校級どころか、超人級を名乗ってもいい程の脚力で。
思い切って、風を切って、霧切さんの元へ。
彼女の前の歪みが動いていた。
そして、見えた。見えるようになった。
鋭利な鎌。
彼女を狙う、絆を、人を断ち切る、鎌が。
ボクは霧切さんを突き飛ばす。
次の瞬間の出来事は、よくある流れで。
彼女を突き飛ばした瞬間に、鎌鼬の鎌は真っ直ぐ振られ。
視界が歪んだ。意識がブレた。
凄まじい勢いにボクの体は吹き飛ばされ、部屋の壁に背中から激突。
部屋全体に鳴り響く轟音、天井からパラパラと舞い落ちる埃。
息が止まるような衝撃が全身を駆け巡る。
内臓が、骨が、悲鳴をあげているのが分かる。
それに――――
舞い落ちる埃と一緒に。
ベチャ、と何かが床に落ちた。
埃とは違って質量感のある、その物体。
ボクの、右腕だった。
「ぐっ、ぁぁっ、あああああああああああああああ!!!!!」
肩口からバッサリ。
そこからは噴水のように、凄まじい程の血液が噴き出る。
目に映るものが真っ赤に染まっていく。
蝋燭の明かりだけの薄暗い部屋でも、ハッキリと分かるような。
赤く赤い液体が、周りを、空くなく。
床も、壁も、天井も、しめ縄にだって。
ボクの血液が、広がっていく。
そして凄まじい激痛に意識が朦朧とする中。
彼女の、声が聞こえた。
「苗木君!!」
「待った、霧切っち」
今まで聞いたことがないような霧切さんの動揺した声とは対照的に。
葉隠クンの声はいつも通り過ぎるほどにいつも通りで。
まるで一連の展開は全くなかったかのように。
淡々と、言う。
「苗木っちなら大丈夫だ。腕もほら…………あり?」
彼はボクの方を見て目を丸くする。
そして視線を移して、床に落ちている右腕、そこら中にばらまかれている血液を見て。
それからポンと、手のひらに拳を打って納得したようだ。
「あ、そっかそっか。鎌鼬は縁をぶった切る怪異。
つまり苗木っちは、腕と一緒にハートアンダーブレードとのリンクもぶった切られちまったって事だな。あっはっはっ、これは盲点だったべ!」
「いや、ちょっ、笑い事じゃ……いったた……!!」
「大丈夫、大丈夫。吸魂鬼だってそんなやわじゃねえべ。なにせ、吸血鬼の力も併せ持ってるんだからな。まぁ、ほら、くっつけとけ」
そう言って、葉隠クンはボクの腕を投げてよこす。
そのあまりにも雑な扱いに文句の一つも言いたかったけれど、そんな場合でもないので大人しく言われた通りに、腕を肩口に引っ付ける。
するとゆっくりとだが、まず一番上の皮膚から、徐々に中身同士も結合していく。
言いたくはないけれど、これじゃスライムか何かだ。
床にばらまかれた血も、ジュゥと音をたてて蒸発していっている。
とはいえ、これだけ時間がかかるのは、やはり江ノ島さんとのリンクを切られた事で本調子ではなくなっている事を意味しているのだろう。
いつも通りなのは、嫌という程に響いている痛覚だけだ。
まぁ、本当の本調子といえば、春休みにまで遡る事になるのだけれど。
本調子でも、最悪な、あの頃に。
葉隠クンは、今度は霧切さんの方を向く。
彼女は床に突き飛ばされた体勢のまま、ただ小さく震えていた。
顔には怯えた、いや、どこか後悔と後ろめたさを表情を浮かべて。
「気にすんな霧切っち。苗木っちの事でオメーは悪くない。わりーのは丁寧にお願いしてやったのに暴れやがったイタチ野郎だ」
そういえば。
鎌鼬は初撃から動いていないように見える。いや、見えないから、見えると思われる。
追撃を加えないのは、何か理由があるのか。それとも葉隠クンが何かをしているのか。
霧切さんは何かを言おうとしたけれど、途中で止めて俯いてしまった。
どうしたのだろう。彼女は迷っているような、自分の中で何かが葛藤しているような、そんな表情を浮かべている。
葉隠クンはポキポキと拳を鳴らして、空間の歪みに近付いていく。
「うっし、こりゃ仕方ねえ。気は進まねえけど、最後っ屁もできねえくれえにぶっ潰しちまうしかねえべ。
ったく、なーにが『三度目の正直』だ。んな言葉作ったのはどこのどいつだ全く」
「あの、葉隠君……」
「いいからいいから。霧切っちはそこで大人しくしていればいいべ。こっからは俺の仕事だ」
そう言って、腕を振り上げる葉隠クン。
怪異相手にそんな直線的な行動を取るのは、普通であれば自殺行為のようなものなのかもしれない。
でも、彼は違う。
普段はヘラヘラとしていてふざけているばかりだけど。
その実力はボクがよく分かっている。心配はしていないし、信頼はしている。
だけど、その時。
「待って!」
霧切さんの声があがった。
いや、もし声だけだった場合、ボクはそれを彼女の声だと判別できなかったかもしれない。
それだけ、彼女が搾り出すようにした声は震えていて、かすれていて、普段とはかけ離れたものだった。
葉隠クンはピタリと動きを止めて彼女の方を向く。
「ん?」
「私が……私がもう一度謝るから……お願いするから……」
「けどよ、霧切っち。コイツは話も聞かねえ奴みてえだぜ?」
「違う……違うの」
「違う?」
「悪いのは……私だから。私が、お願い、できなかったから……」
「……まっ、そう言うならやってみ」
葉隠クンは口元に小さく笑みを浮かべると、一歩下がって場所を空ける。
その場所で、霧切さんは先程と同じように土下座の体勢になる。
歪んだ空間の前。
鎌鼬の眼と鼻の先。
当然ながら、その鎌の射程圏内。
ボクは痛みにぼーっとしながらも、立ち上がろうとした。
また鎌鼬が霧切さんを襲うなら、やっぱりまたボクが助けなければいけない。
でも、葉隠クンは手のひらをこちらに見せて、静止を促した。
その後、彼は一度だけ頷く。何かを確信しているかのように。
霧切さんは言葉を紡ぎ始める。
とても格好のつかない、震えた、消え入るような声で。
「ごめんなさい……ごめんなさい……私は……私、は…………」
彼女の言葉は止まらない。
それは謝るというよりかは、どこか自分の中の毒を外へ出しているかのようで。
長年抱え込んでいたものを、吐き出しているかのようで。
見栄を切らずに、白を切らずに、堰を切ったように、全てを出し切る。言い切る。
だけど、その言葉自体は。
決して長くも、難しくもないものだった。
「お父さんと、離れたくないです……!!」
瞬間。
歪みは消えた。鎌鼬は消えた。
そしてその歪みというものは、おそらく彼女の中にも確かにあって。
それも消えた、そう思えた。
霧切さんは頭を下げた状態のまま、いつまでも顔を上げず。
ただひたすら、体を震わせていた。
そこに、超高校級の探偵は居なかった。
居たのは、一人の女の子。
父親の事を毛嫌いしているように見えて、心の中では大切に想っている。
そんな、どこにでも居る、年頃の女の子だった。
そもそも、何もかもが中途半端だと、葉隠クンは言う。
鎌鼬は確かに霧切さんの言う通りに父親との交際を、縁を切った。
それは彼女がハッキリとイタチを認識して頼んだものではなく、ほとんど無意識の内のものだったらしい。
だけど、そこで切れたのは、父親から霧切さんへの縁だけだった。
霧切さんは、父親の事をしっかりと認識していた。彼女からの縁は、切れていなかった。
本当の縁切りというのは、両者が両者を全く認識できなくなる、と葉隠クンは言う。
そこから導き出される真実は。
彼女が、心の底から父親との絶縁を求めていなかった、そういう事になる。
そして、彼女もそれを薄々感付いていたのだろう。だからこそ、それを否定しようとした。
目を向けたくなかったのだろう。
今まで何年も、父親の事で寂しがっている自分から、目を逸らしていた。
考えてみれば当たり前だ。
まだ幼い少女が母親を失って、父親が自分を置いて出て行ってしまって。
何も思わないはずがない。寂しがらないはずがない。
由緒正しき探偵の名家の娘だとしても。
その子は生まれながらの探偵なのだとしても。
同時に、一人の少女である事に、変わりはないのだ。
周りからの哀れみの目が耐え切れない。
それも確かにあっただろう。それでも、結局は言い訳にすぎなかった。
本当は、心の底では、父親を求めていた。
彼女は、自分がまだ父親を求めている事を否定しようとした。認めてしまったら、それは今までの自分全てを否定する事になる。
だから、悩んで、苦しんで。
そして、思ってしまった。心にも無い事を、思ってしまった。
父親の存在そのものが邪魔だ、と。
ここで二つ目の中途半端。
霧切さんの父親、学園長は怪我こそ負ったが、命に別状はなかった。
鎌鼬がその気になれば、あの鋭利な鎌なら、ボクの腕を豆腐のように簡単に切り落としてしまったあの鎌なら、彼の命を絶つ事は簡単だったにも関わらず。
一つ目の願いと同じ。
心にも無い願いには、本来の力もあるはずが無い。
初めから彼女に願いなんてなくて。
いや、心の底にあった本当の願いというものは、縁を切るものではなく繋ぐもの。
いくら言い訳を考えても、言い方を変えても。
つまりは、そういう事だった。
本当は、最初から分かり切っていた事だった。
昼休みの階段の踊り場。そこで見た彼女の表情。
あの表情に、全ての答えが集約されていたのだから。
彼女は、震えたまま、小さく嗚咽を漏らした。
そしてボクは、ただそれが聞こえない振りをするしかなかった。
諸手を上げて喜ぶことはできない。右腕は全然繋がりきってはいないから。
それでも、立ち上がって、彼女の側に寄り添ってあげる事くらいはできるはずだ。
だけど、それもできない。
気の利いた言葉の一つも思い浮かばない。
だからボクはいつまでも、壁に背中を預けたま、右腕の鈍い痛みに耐えているしかない。
これは毎度の事だけれど。
何とも締まらない幕切れ。そう思わざるをえなかった。
いつの間にか、空は白んでいた。
+++
後日談というか、今回のオチ。
運良く次の日は休日……という事もなく。
太陽が昇り始めた頃に寄宿舎の部屋に戻ったものだから、睡眠時間が足りているはずもなく。
それでも、ボクがこうして目覚ましが鳴る前に起きられたのは、何も石丸クンのように、普段からの規則正しい生活が身に染み込んでいるからというわけでもなく。
ただ単に、部屋中に鳴り響く電話の音に叩き起こされただけ。
ケータイではなく、部屋に取り付けられた固定電話。
ボクは凄まじい程の寝不足を感じつつ、重い瞼と体、そしてまだズキズキと疼く右腕の痛みに耐えながらベッドから這い出る。
そしてそのままゾンビのようにフラフラと歩いて行って、受話器を取った。
『あ、お兄ちゃん起きたー!? おっはよー、愛すべき妹のモーニングコールだよ!!
ふっふっふっ、寮暮らしだからって、妹が起こしてくるなんてないと思った? 甘い、甘すぎるよお兄ちゃ』
電話線を抜いた。
とはいえ、そこから二度寝すれば遅刻は確実だったので、仕方なくそのまま準備して部屋を出る。
それからいつも通り、南地区から北地区の校舎へと向かう通学路を歩く。どっちも学校の敷地内なので通学路と言えるのかは微妙だけれど。
人はまばらだ。こんな時間に登校してるのは余程の優等生か、部活動の朝練に励む人達くらいだろう。
「おぉ、苗木君!」
だから、ボクに声をかけてくる人が居て驚いた。
振り向いてみると、学園長が爽やか過ぎる笑顔で手を振っていた。
……気まずい。
昨日は鎌鼬の事を知らなくて、かなり言ってしまった気がする。
というか、彼は娘の事をちゃんと認識できるように戻っているのだろうか。
「お、おはようございます。あの、学園長、昨日は失礼な事を言ってすみませんでした……」
「ん、何の事だ?」
「えっと、霧切さんの、娘さんの事で」
「響子の? すまない、何の話だか……」
「響子?」
どうやら娘の事はきちんと分かっているらしい事を知って安心すると同時に、疑問が湧いてくる。
学園長は彼女の事を他の学生と同じように苗字で呼んでいたはずだ。
そしてそれは公私の区別を付けるというよりかは、ただ二人が不仲である事からくるものだと思っていたけれど……。
すると学園長はボクの疑問にはすぐ察しがついたらしく、更に笑みを大きくして説明してくれた。
「あぁ、実は今日の朝に響子が訪ねて来てな。いや、驚いた驚いた。驚きすぎて靴下も履かずにあの子の前に出て怒られてしまったよ。
しかも、何かよっぽど深刻な事態でも発生したのかと思えば、単に朝の挨拶がてら少し話をしに来ただけと言うじゃないか」
「あの霧切さんが……」
「君も驚くだろう? その上、これからは普通に名前で呼んでもいいなんて言うんだよ! これは凄く嬉しくてね。
響子の方も一度だけ『お父さん』なんて呼んでくれて、録音させてほしいと頼んだんだが、それは流石に断られてしまったよ、ははは」
彼の話に、自然とボクの頬も緩む。
特に何のことはない、父と娘の何気ない交流。
でも、霧切さんの、そして学園長の過去を考えれば、それはあまりにも幸せな出来事だ。
長い間離れて、近付けたと思ったらすれ違い続けて。
だからこそ、こうして歩み寄る事ができた事は、大きな一歩だ。
これは怪異を肯定するわけではないけれど。
こんな荒療治も良い所である方法よりも、もっと良い方法があったのかもしれないけれど。
それでも、怪異がこうした前進のきっかけになったのであれば、必ずしも悪い事ばかりとは言えないのかもしれない。
代償は数日間の縁切りと三十万円と学園長の怪我とボクの右腕。
……うーん。
ちなみに。
学園長が幼い霧切さんを置いて家を出て行った本当の理由は分からない。
それを霧切さんが聞き出したのか、事実を知ったとすれば何を思ったのか。
その辺りも全く分からない。
でも、分からなくていい。
そこはきっと、ボクが踏み込む必要がない所だから。
ボクは探偵でもないし、何もかも明らかにする必要なんてどこにもないのだから。
その後、学園長と少し話してから別れて。
程なくして、北地区の校舎の教室までやって来た。
一番乗りだとは思っていない。
確かに普段よりは随分と早い時間だけど、上には上が居る。しかも、それを毎日続ける猛者だ。
超高校級の風紀委員、石丸清多夏。
彼よりも先に教室に入った者は、それからは呪いのように、真人間であり続ける事を強制される、という噂がある。
流したのボクだけど。
教室のドアを開ける。
寝不足でぼーっとする頭に石丸クンの快活な挨拶はキツイなぁ、なんてちょっと酷い事を考えながら。
「えっ!?」
驚愕の光景が飛び込んできた。
なんと石丸クンが居ない! 登下校の覇者と呼ばれる石丸クンが居ない!
まぁ、それも呼んでいるのはボクだけど。
登校はまだしも、誰よりも早く下校する事が優等生かと言われれば微妙だけど。
そもそも、何をもって下校の覇者と呼ぶのかは知らないけど。
とにかく、そこには石丸クンは居なかった。
と言っても、一番乗りというわけではない。
そこでは霧切さんが既に自分の席についていた。
「おはよう、霧切さん。どうしたの、随分と早いね」
とりあえず挨拶はしておいて、ボクは自分の机に教科書類を入れていく。置き勉はしない主義なのだ。
すると、彼女は席から立ち上がり、真っ直ぐこちらに歩いてきた。
これは意外だ。別に朝の挨拶はこれが初めてじゃないけれど、普段霧切さんは軽く『おはよう』と返すだけだ。
もしかして、昨日の事で何か問題でもあるのか、そんな不安も出てきた所で、彼女は目の前までやって来た。
そして、霧切さんは。
なんと、にっこりと、満面の笑みで。
「おはよう、苗木君」
「誰!?」
思わず言ってしまった。
いや、大袈裟な反応というわけじゃないはずだ。
彼女が他の人に同じような対応をしたって、また同じような反応が返ってくるはずだ。
いや、ホント。
キャラがブレてるってレベルじゃないって。
劇場版のジャイアンっていうレベルじゃないって。
一方で、ボクの言葉を受けた彼女は、キョトンとしている。
だけど、それもすぐに目を細めて不満そうな表情に変わった。
こうやって、彼女がコロコロと表情を変化させるのも珍しい。
「何よ御挨拶ね」
「いや……それキミのキャラじゃないでしょ」
「ちょっと苗木君、いくら何でもその言い方はないじゃない。傷付けるわよ」
「傷付けるんだ!?」
あ、良かった、霧切さんだ。
頭も口も目付きも切れる霧切響子さんだ。
まったく、心臓に悪い。
もしかしたら性格が良い霧切さん、新怪異『ホワイト霧切さん』が登場したのかと思った。
「そうだ、石丸クンは? 霧切さんが一番乗り?」
「石丸君は朝の体操よ。毎日やっているけれど、知らなかったの?」
「知らなかった……ていうか、いつも何時に来てるの彼は」
「五時よ」
「馬鹿だ!!」
そもそも、そんな時間に校舎が開いているのか。
けど、彼のことだ。鍵の開け閉めといった用務員さんのような事からやっていても何もおかしくはない。
それからしばらくボク達は雑談に花を咲かせた。
何というか、こうしてみると、霧切さんはまさに憑き物が落ちたといった感じで。
話していても、舞園さんや朝日奈さんと同じように、気楽に話すことが出来た。
そして、話題は自然と学園長の話にもなる。
彼女によると、学園長の怪我は綺麗に治っているらしく、不都合な記憶も無くなっているらしい。
かなりご都合主義的な展開だけれど、無意識とは言えそもそも鎌鼬を遣わせていたのは霧切さんなので、そこは当然なのかもしれない。
霧切さんが朝から学園長に会いに行ったのは、その辺りの確認といった理由もあっただろう。
学園長との関係の変化について訊いてみると、彼女は興味なさそうに溜息をついて、
「ちょっとした心境の変化よ。まぁ、その、いつまでも自分の中の真実から目を逸し続けているのもどうかと思うし。
正直私自身、ハッキリとどうしたいのか分かっているわけでもないから、ここからは探り探り答えを見つけていくしかないわね」
「そっか……うん、それがいいよ」
「……何よ、そのまるで素直になれない子供を見るような目は」
「えっ、あ、あはは……」
「あなたがそんな目で私を見るなら、私だってそれ相応の目であなたを見るわよ」
「それ相応の?」
「160センチを見下す目で見るわよ」
「やめて!!!」
どうしてそういう重要な個人情報がダダ漏れになっているんだ! 保護法はどこへ行った!!
あと霧切さんの目が酷い。
本当に見下している。メチャクチャ見下している。ボクはストレスでお腹を下しそうだ。
ていうか、霧切さんが女子の中でも背が高いんだよ……。
ここで彼女は咳払い。
ただそれだけの行動だけど、ボクの体はビクッと震える。
咳払いをしたという事は、喉の調子を整えたという事。
つまりは、切れ味抜群の言葉に砥石をかけて万全の状態にしたという事だ。斬れ味ゲージ白だ。
「……えっと、苗木君。今回は、その、ありがとう」
「へっ?」
「だから、怪異の事で、私を助けてくれたじゃない」
意外な言葉が飛んできた。
ボクの方はどんな言葉にも耐えきれるように心に障壁を築いていたというのに。
ATフィールドを展開していたのに。
「あ、いや、別にボクは特に何もしてないよ……ボクよりも葉隠クンの方が」
「それでも、体を投げ出して助けてくれたのは苗木君よ」
「……あはは、まぁ不死身だから」
「例え不死身だとしても、迷わずああいう事ができる人は少ないと思うわ。
それで、私も考えたの。過去の失敗から、今まで必要以上に人と関わり合う事を避けてきたけれど、変える必要があるんじゃないかって。
確かに人に踏み込みすぎると判断を誤る可能性は高くなるかもしれない、でも、それを避けている事で見えてこない真実もあるかもしれないって、そう思ったの」
「霧切さん……」
「まぁ、苗木君に関してはもう少し人に対して警戒する事を覚えた方がいいと思うけれど。あなたを騙す方法なんて、いくらでも思いつくわ」
「うっ……そこまで警戒心がないっていうわけでもないとは思うんだけど……」
「自分では気付かないものよ。だから、そんな騙されやすいお人好しの苗木君には、警戒心が強い頼もしい友達が必要だとは思わない?」
「……そ、そうだね」
何だろう。
本人は大真面目にここまでの流れを考えたのだろうけれど、正直言うと。
笑い出してしまいそうで辛い。
もちろん、ここでそんな事をすれば更に酷い事が待っているので、堪えるしかないのだけど。
霧切さんは目を逸らして、心の底からどうでもいいような感じの表情を作って、
「えっと、つまり、私と……と、とも……」
彼女の言葉が詰まる。これは珍しい。
次の言葉の予想としては、『ここまで言えば分かるわね?』が大本命だろうか。
でも、こうして必死な彼女を見て楽しむというのも悪趣味というものだ。
あと少し待って言葉が出てこないようだったら、ボクの方から言う事にしよう。
そんな事を考えた時。
「……違うわね」
「えっ?」
「こうじゃないわ。相手が苗木君なのだから、その辺りを考えて……」
何かブツブツ言っている。
嫌な予感がする。
具体的にどう、とは言えないけれど、漠然とした予感が。
そして、彼女はボクに言う。
いつもの凛とした表情で、鈴を転がすような声で。
「私を苗木ハーレムに加えてもらえないかしら?」
「それは違うよ!!!」
ゴールデンウィーク明けの五月の頭。
ボクに毒舌でクーデレで変人な友達ができた。
第一話終わり
とりあえず最初という事で、流れは原作と似たような感じに
霧切さんがただのガハラさんになってる感が否めないけど、まぁ、ドンマイ
あと、化物語の世界とは完全に別世界という事で
伝説の吸血鬼も忍ちゃんじゃないし、あららら木さん達もいないよ
>>59
基本的に1がメインだけど、2も出すよ。2のキャラがメインの話も考えてる
ていうか1だけでも16人居るし、流石に全員は厳しそうなんだよね。一つの話に二人以上絡ませるとかそういう感じにする予定
>>69
たぶん化物語は知らなくても大丈夫かな?
今ここで無料公開してるから興味あったら
http://gyao.yahoo.co.jp/special/bakemonogatari/
【ちひろジャック】
一番好きな子は誰かと訊かれれば、ボクは舞園さやかさんだと答える。
理由は可愛いくて、一緒に居ると癒やされて、とても優しい子だからだ。
一番嫌いな子は誰かと訊かれれば、ボクは苗木こまると答える。
理由は可愛くなくて、空気が読めなくて、ボクよりも身長が高いからだ。
そして。
一番苦手な子は誰かと訊かれれば。
ボクはセレスティア・ルーデンベルクさんと答える。
理由は、問答無用で襲い掛かってくるからだ。
「いっっったああああああああああああ!!!!!」
ぶしゅっと、赤い液体が宙を飛んだ。
五月中旬。お昼休み。
希望ヶ峰学園北地区本校舎三階、娯楽室。
殺人事件だ。いや、殺鬼事件だ。
この字面ではまさか鬼の方が被害者だとは思わないだろうけれど、事実斬られたのは鬼……もとい鬼もどき。
というかボクだ。
早く来てくれ霧切さん。
「何が殺人事件ですか、不死のくせに。それに、たかが耳くらいで大袈裟な」
「あーあー、何言ってるのか聞こえないよ」
「ではもう片方の耳も飾りのようですので切り落としても構いませんわね?」
「やめてよ!?」
「聞こえているではありませんか」
話している間に、切り落とされた片耳が再生される。
だけど、そんな事は関係ない。
また生えてくるからって、切っていい事にはならない。髪と同じだ。傷害罪だ。
凶器はトランプ。スペードのエース。
加害者は反省の色なし。それどころか、追撃の意思あり。
もう何ていうか、相変わらずの危険人物っぷりに、少し安心してしまう。
たぶんこれは相当麻痺した感覚なのだろうけれど、一番怖いのは次の瞬間何をするか分からない人だ。
その点だけで考えれば、セレスさんはまだマシだと言える。だって、何となく襲ってくるだろうなとは思ったし。
どうしてこうなったか。それを説明するのは簡単だ。長々と回想シーンを挟む必要もない。
午前中の授業が終わった直後、ボクはセレスさんに呼び出されて娯楽室までやって来て。
そこで待っていた彼女にトランプで右耳をふっ飛ばされた。
おわり。
なぜボクは言われた通りに、それこそ霧切さんにいつも言われているように、馬鹿正直にここに来たのか。
その理由も簡単。どうせ彼女の呼び出しを無視しても、どこかで奇襲を受けることになったからだ。
それなら、こうして少しは心の準備ができる方がまだマシだろう。
すると、セレスさんは屈んで床から何かを拾い上げた。
あれ、もしかしてボクの電子生徒手帳? 制服のポケットをゴソゴソと探るけれど、やっぱり無くなっている。
たぶん、彼女に斬られた時に落としたのだろう。
「落とし物のようですわね」
「ごめん、それたぶんボクの」
言い終わる前に。
セレスさんは手にした電子生徒手帳をトランプで両断した。
「生徒手帳が何をしたって言うんだ!!!」
「ふと『象に踏まれても大丈夫』というキャッチコピーを思い出しまして。でもまさかトランプで切れてしまうなんて、詐欺も良い所ですわね」
「そういう実験は自分のでやってよ!」
「……? 自分のものが壊れたら不便ではありませんか」
キョトンと首を傾げながら、セレスさんは生徒手帳を――生徒手帳だったものをボクに返す。
短い付き合いだったな……ボクの相棒……。
不便というのはその通りだ。
一般的な生徒手帳なら学割を利用する時とかに使えど、校内で使う機会はそんなにないかもしれない。
でも、希望ヶ峰学園の電子生徒手帳は、学校からのお知らせなんかを自動受信して音やらバイブで伝えてくれる、それなりのお役立ちツールなのだ。
セレスさんはと言うと、そうやって悲しむボクをじろじろと観察していた。
人が悲しんだり苦しんだりする姿を見るのが好きだとかそういう事だったら、かなりろくでもない趣向だ。
そして、彼女の普段の行いを見ても、その可能性は多分に秘めている。
まぁ、実際はそんな事でもないらしく。
「……少し傷の治りが早いですわね。最近、彼女にエサを与えましたね?」
「あー、うん、まぁ。エサって言うのやめようよ……」
「しかし、それは予定より早いのではなくて? 周期的にはこれからのはずですわ」
「それは……ていうかセレスさん、ボクが彼女に食事を与える周期なんて把握してるんだ」
「別に驚くような事でもないでしょう。苗木君だって舞園さんの生理周期を把握しているではありませんか」
「してないよ!!!」
そうやって無理矢理ボクを変態キャラにしようとするのはやめてほしい。
ボクは好きな子の生理周期を把握などしていなければ、女の子の眼球を舐めたいわけでもないし、道行く小学生の女の子の胸を揉んだりしない。
「それで苗木君、彼女の食事の周期をズラした説明がまだですが」
「それは……ただ機会があっただけだよ。葉隠クンに会って、そのついでって言ったらなんだけど……」
「そういえば、最近霧切さんとやけに仲良さそうにしていますね」
ジロリと、セレスさんはボクの目を覗き込む。
霧切さんといい、舞園さんといい、この学校は目で人の心を読めそうな人が多い。
いや、ボクが分り易すぎるだけなのか。
「当ててみせましょう。霧切さんは何か怪異関係のトラブルに巻き込まれ、苗木君がそれを解決した。
そしてその時に吸魂鬼化する必要があり、食事を与えた。違いますか?」
「ち、違うよ」
「ウソが下手ですね苗木君」
何とか悪あがきをしてみるけれど、一発で見破られてしまう。
そもそも、彼女に対してウソをつくこと自体が間違っている。
相手は『超高校級のギャンブラー』。他人の心理状態を読むことに関して右に出る者は…………いや。
「舞園さんとなら良い勝負なのかな」
「何の話ですか?」
「セレスさんと舞園さん、どっちが人の心を読めるのかなって。霧切さんもそういうのは凄いけど……」
「そんな話ですか。まったく、何を言っているのやら。その点に置いて、わたくしと舞園さんでは格が違います。霧切さんも同様に。
そうですわね、例えるなら苗木君と大神さんの身長程の差があります。並べるのも比べるのもおこがましく、怒られても文句が言えない程の」
「ぐっ……そ、そっか……ごめん、セレスさん」
「わたくしに謝ってどうするのですか。謝るべき相手は舞園さんでしょうに」
「え?」
「人の心を覗く。その分野に置いて、わたくしは舞園さんの足元にも及びませんわ。
そもそも、わたくしのギャンブラーとしての力は勝負運によるものが大きいので、どちらかと言えば性質的にはあなたの方が近いくらいです」
意外だった。
セレスさんなんか明らかにプライドが高そうなんだけど、こうもあっさりと格上の存在を認めるなんて。
「何ですかその顔は。わたくしが人を高く評価する事がそんなに珍しいですか」
「う、うん……セレスさんが誰かを褒めている所なんて初めて見たよ」
「褒めてはいません」
「あれ、でも今」
「能力的に高い、と評価しただけですわ。そうですわね、例えばどんな物でも盗みだしてしまう『超高校級の泥棒』といった存在が居たとします。
その方のあらゆるセキュリティをかいくぐる力は非凡なものだと高く評価されるでしょうが、決して褒められたものではないでしょう?」
「そんな、別に舞園さんは悪い事をしているわけじゃ」
「悪い事をしていますわ。勝手に人の心を読む。それがどれだけ不快で罪深い事か」
「……だからセレスさんは舞園さんを避けているのか」
「別にわたくしが人を避けるのは彼女に限った事でもないでしょう。クラスで痛い子扱いされている事くらい知っています」
「いや、そんな事は……」
「山田君を椅子にして紅茶を飲んでいる時なんて、皆さんわたくしと目を合わそうともしません」
「うん、それは仕方ない」
正直アレは引く。
そんな事をしているセレスさんもアレだけど、そんな扱いを受けて恍惚の表情を浮かべている山田クンもアレだ。
小さい子を連れた母親が近くに居たら、確実に『見ちゃいけません!』と言われる。ボクも見たくない。
「まぁ、せいぜい舞園さんには気を付ける事です。彼女は何でも知っていますよ」
「……何でも、か」
実を言うと舞園さんにも知らない事はある。
ボクが知っていて、彼女は知らない事がある。
これはありきたりなオチなんだろうけれど。
何でも知っているかのように思われる彼女は、自分自身の事を知らない。
話はこれで済んだらしい。
セレスさんはかつかつとヒールの音を鳴らして扉まで歩いて行く。
思わずほっと一息つくと、彼女は扉の前でこちらを振り返った。
「最後にもう二つほど忠告しておきましょうか」
「どうもご親切に」
「まず一つ。別にあなたがそのお人好しっぷりを発揮して、怪異に苦しむ人を助けようとするのは勝手です。
でも、その過程、もしくは結果において、エピソードを死なせてしまったという事になれば、わたくしがあなたを許しません」
「……分かってる。彼女を死なせたりなんかしないよ」
エピソード。
それは江ノ島さんの名前の一つ。
『吸血鬼殺し』の名前。
「加えて二つ目。クラスメイトの怪異問題を解決したいのであれば、常に注意深く皆を観察する事です。
超高校級の生徒というものは、普通の学生よりも複雑な事情を抱えているものです。それだけ怪異を惹きつけてしまう事でしょう。
ただでさえ、この場所はそういったものが集まりやすくなっているのですから」
「セレスさん……うん、分かった、ありがとう」
「どうせあなたの事ですから、遅かれ早かれ何か勘付けば首を突っ込んで行くのでしょう。
それならば、まだ発見が早い方がマシですわ。病気と同じで、怪異も早期発見の方が対処が楽になりますから。ですが」
そこでセレスさんはビシッとこちらを指差した。
とてつもなく演技くさい仕草だ。
「勘違いしないでください、別にわたくしはあなたの事を心配しているわけではないのですからねっ」
「……いや、ツンデレ風に言わなくても分かるよ。あくまでキミの目的達成において、ボクが死んだら困るんでしょ」
「あら、ノリが悪いですわね。ツンデレゴスロリお嬢様と属性てんこ盛りですのに」
「属性て……セレスさんって意外とそっちの方に精通してるの?」
「山田君の熱弁は嫌でも耳に入ってきますわ」
あぁ、そういう事か。
確かに彼は、好きなものについて語る時、声がやたらと大きくなる。まぁ、ありがちだろう。
そして、話すからには聞く相手もいるわけで、その相手というのがボクや石丸クンだ。
ボクは、なぜか彼に聞き手として気に入られてしまったようで、石丸クンはただ単純に自分にはない知識を得ようとして。
実を言うと、ボクのこういう知識も、全部山田クンから得たものだ。
ただ、ツンデレとかそういう単語ならまだしも、陵辱とかそっち方面まで大声量で話すのは勘弁してほしい。
しかもそういうネタは石丸クンも大声で注意するので、結果として二人分のとてつもない単語が教室に響く事となる。
そういう時の舞園さんがこちらを見る目を思い出すと、江ノ島さんが可愛く思えてくる。
セレスさんは今度こそこちらに背を向けて扉を開けて、
「では、それらの事に注意して快適な人助けライフを送ってください」
「その言い方はなんだかなぁ……でも、ありがとう、参考になったよ」
「気になるわたくしの物語は『せれすヴァンプ』にて」
「最後に露骨な前振りをしない」
たぶんそれ、かなりの遠投だから。
+++
体育の時間。
好きな人と嫌いな人が分かれる教科だろうけれど、ボクは割と好きだ。
別に元々体を動かすのが得意、というわけでもないけれど、教室の授業よりかはマシだと思える。マラソンとかは別だけども。
希望ヶ峰学園の体育は基本的に男女混合だ。
そもそも、少人数制の学級で男子七人、女子八人しかいないので、分かれると少し寂しい事になる。
そんなわけで、ボクは霧切さんとキャッチボールをしている。
「苗木君が一番好きな教科は体育は体育でも、保健体育でしょう」
「いや待った待った。そうやって女子は男子がみんなケダモノであるかのように誤解しているようだけれど、そんな事もないんだよ。
確かに女子からすれば警戒する事に越した事はないんだろうけれど、あらぬ疑いをかけられるのはやっぱり嫌だな」
「つまりは、一生童貞でいる覚悟があるというわけね」
「なんで!? やだよ!!」
「だってそうでしょう。保健体育に真面目に取り組まなければ、性の知識を得られない。
性の知識がなければ、性行為もできないわ。どうせまだコウノトリでも信じているのでしょう?」
「流石にそんな事はないってば……」
「コウノトリの格好をして他の子供を連れて来ればいいというわけでもないのよ」
「それはただの人攫いだ!」
思わず少し力が入って、速い球を投げてしまうけれど、霧切さんは難なくミットで捕ってしまう。
彼女は運動神経はいい方なのかもしれない。いや、何でもセンスがいいのか?
まぁ、いくら何でもサッカーボールを蹴って犯人を気絶させるような真似はしないと思うけども。
「ていうか、保健の授業でそういう知識を得る人なんてほとんど居ないと思うよ。大体みんなその前に知っているものでしょ」
「……言えてるわね。じゃあ苗木君が性の知識を得たきっかけは何かしら? 妹さんが体で?」
「だからボクはそんな本気で危ない感じのシスコンじゃない。えっと……ねぇ、そもそもどうしてボク達はこんな事を話しているの?」
「高校生の会話なんて九割が下ネタでしょう」
「偏見だって。高校生は他にも色々……ほら、例えば夢の話とかさ!」
「あぁ、河原で夕焼けを眺めながら語り合うあれ?」
「必ずしもシチュエーションは固定されていないと思うけど……」
「夢って言われるとどうも現実的じゃなくて好きになれないのよね。
例えば『夢はなに?』って訊かれると、何だか自然と答えのハードルを上げられている感じがしない? 非現実性を求められている、みたいな」
「んー……」
確かにそう訊かれて公務員だとか答えるのは、それこそ夢がないと言われてしまう気がする。
夢がない、つまりそれは夢だと見なされていない、と。
彼女から投げられたふんわりとした球をミットで捕る。
小さな子供が『夢はプロ野球選手』と言うのに違和感はない。
でも、甲子園の最優秀投手が、例えば桑田クンが『夢はプロ野球選手』と言うのは、夢っぽくない。
夢がない感じがしてしまう。そこは『メジャーMVP』とか言ってほしい。
と言っても、彼が口にしていた夢は『ミュージシャン』であり、そっちの方が夢っぽいという事は確かだけれど。
近付いて行く程、それは夢でなくなっていき、また、輝きも失っていくのかもしれない。現実と理想のギャップを知る事となる。
子供の頃からの夢を叶えたと聞くが、それはあくまで子供の時点では夢だった、という話で。
成功した人でも、今まさに夢の中に居るという実感を持てる人は意外と少ないのかもしれない。
それでも、ボクはやっぱり夢はいいと思う。
夢があればどんな時でも前を向ける、流石にそこまでは言えないけれど。
一つの道標、そのくらいにはなってくれるはずだ。
闇雲に歩いていくのは心細いものだ。
「私は将来の事を話す時は“夢”という言葉は使わない事にしているの。何だか現実性が薄まる気がして」
「はは、霧切さんらしいや。じゃあ“目標”とか言うのかな?」
「えぇ、そんな感じね。遠くの前に近くを見る。近くを見て遠くを見る。まぁ、探偵という職業柄、未来よりも過去を見る事が多いのだけどね」
「今もあるの? その近くにある目標」
「当ててみれば?」
「うーん……やっぱりお父さん関係の決着、とか?」
「…………」
「あれ、ごめん違ったかな」
「いえ、思いの外簡単に当てられて正解だと言いたくないだけよ」
「そ、そう」
妙な所で強情なものだ。
まぁ、ボクに当てられて気に食わないというのは分かるけども、ボクは彼女のその辺の事情も知ってしまっているからなぁ。
「でも、それだけじゃない。夢は大抵一つかもしれないけれど、目標ならいくつか持っていてもいいでしょう。
二兎追うものは一兎をも得ず、とは言うけれど、私ならそんなヘマは犯さないと自分の力を信じているわ」
「へぇ、他にもいくつか……たくさん友達作るとか?」
「苗木君、あなたその歳になってまだ友達なんていうものを信じているの?」
「そんなサンタクロースみたいに言われても……」
「冗談よ。そうね、確かにそれもいいかもしれない。でも、それよりも私には大事な目標がある。あなたに関係している事よ、苗木君」
「え、ボクに?」
彼女から、今度はストレート性のボールを投げられる。女子にしてはかなりの速度だ。
今は吸魂鬼の視力がそこそこあるから捕り落とす事はないけれど、普段の状態だったら分からなかった。
「……もしかして、ボクの春休みの事を完全に調べ上げよう、とか?」
「ボクの春休み。PSP辺りで出てきそうなゲームね」
「ジャンル大変更だし、残酷描写でR-18だよ」
「あぁ、そういえば苗木君って、春休みから幼女限定の求婚鬼だったわね」
「おかしいおかしい。幼女限定じゃないし、それになぜだか分からないけれど漢字が違う気がする」
「でも、外れね。それは目標というよりかは、ただの仕事。苗木君がどのラインまでをロリだと定めるかなんて、すぐに分かることよ」
「ロリから離れようよ!」
ダメだ、江ノ島さんの印象が強すぎたらしい。
まぁ、あんな場所に金髪の幼女が居て、しかもボクとキスしているなんて知ればそれ相応の衝撃的事実ではあるのだろうけれど。
あっ、キスって言ってしまった。
これは物語終盤まで秘密にされるべき事のはずなのに。
少なくともボクが認めてはいけない事のはずなのに!
「目標の話はこのくらいにしておきましょうか」
「え、教えてくれないの? そんなボクと関係しているなんて思わせぶりな事言っておいて……」
「あなたが性の知識を得たきっかけを教えてくれるなら、私も言わない事もないわ」
「…………他の話をしようか」
その話については上手く逸らせたと思っていたけれど、そんな事もなかったらしい。
当然、ボクとしても話したい事でもない。
霧切さんはフォークボールを投げてきた。キャッチボールでフォークて。
「高校生の会話と言えば、やはり恋バナでしょう」
「あー……」
「この前私の好みは聞いたでしょ? それなら、苗木君も話すべきよ。不公平じゃない」
「えー……」
「苗木君はどんなロリが好きなのかしら」
「何でロリ好きは決定事項なのさ」
「苗木君はどんなロリな妹が好きなのかしら」
「それ選択肢が一人しかいないし、そもそもアイツはロリとは言えない!」
それはともかく。
なんだか答えにくい話ばかり持ってくるなぁ。
それに、ボクが聞いた霧切さんの異性の好みというのも、具体的なものは単なる葉隠クンへの暴言だけだった気がする。
あ、そういえば『家族を大切にする人』、とか言っていたかな。
「えっと……そうだな、優しくて、一緒に居て癒される子、とか」
「そう、良かった、大丈夫そうね」
「大丈夫そう?」
「いえ何でもないわ」
何だろう、彼女の安心した表情に、何か突っ込まなければいけない気がする。
ただ、理由が分からないので、どう突っ込めばいいのかも分からないのだけど。
「そういえば苗木君、幼馴染の女の子とかは居るのかしら?」
「幼馴染?」
「えぇ。やはりそういうベタな強キャラの存在は確認しておかなければいけないと思って」
「強キャラて。よく分かんないけど……居ない、かな」
「煮え切らない言い方ね。もしかして隠しているのかしら?」
「いや、居ない居ない。ボクにそんなおいしすぎるポジションの女の子なんて居ない」
正確には、居たのかもしれない。いや、居たのだろう。
でも、今は居ない。
初めから居なかったとも言える。
彼女のその名前は、きっともう二度と口にする事はない。
それでも、彼女との思い出は確かにこの胸にある。
いつまでも忘れずに、美化し過ぎる程に美化されて。
未練たらしく、ずっとずっと、引きずっていくのだろう。
霧切さんはボクの表情に何かを見たのか。
それとも、そんな事はなく、ただ単に次の話に移りたかっただけなのか。
その辺りはよく分からないけれど、幼馴染の事に関しては、それ以上触れて来なかった。
「他には? 外見的なものとか」
「外見……笑顔が可愛い子、とか」
「抽象的ね。それじゃあ、セレスさんが山田君を踏み潰している時の笑顔は?」
「怖い」
「大神さんが強者を見つけた時の笑顔は?」
「怖い」
「腐川さんが十神君をストーキングしている時の笑顔は?」
「怖い」
「舞園さんが苗木君と話している時の笑顔は?」
「可愛いっ!!!!!!!!!!!!!!!」
「そう、よく分かったわ」
「あっ!!!」
しまった、やってしまった。
これではボクが舞園さんの事を好きだっていうことがバレてしまう!
くっ、なんて巧妙な誘導なんだ霧切さん……流石は超高校級の探偵……!!
「何よその複雑な罠にはめられたかのような表情は。言っておくけど、今のは単なるあなたの自爆に近いわよ」
「いいや違う、今のはボクが普通に歩いていて、すぐ前方に地雷を置かれたのと同じだ!」
「埋まっていない、よく見える地雷をね」
「ぐっ……」
「でも、どうなのかしらね舞園さんは。こう言っては何だけれど、別段何の驚きもない、平凡な答えのように思えるけれど」
「そんな事はない! ボクは舞園さんの事が心の底から好きだし、正直彼女相手なら、からかわれるのもむしろ快感で……!!」
「苗木君、キャラキャラ」
「はっ」
危ない。うっかり変態キャラになってしまう所だった。
そうだ、ボクはあくまでツッコミ役として、常識人として振る舞っていかなくてはいけない。
ただでさえ霧切さんも舞園さんもボケまくってくるのだから、ボクがしっかりしていないとカオスと化してしまう。
「ふぅん、そう……やっぱり苗木君は舞園さんの事が好きなのね」
「あのさ、これはくれぐれも他の人には……」
「言わないわよ。そんなに言いたい事でもないし」
「え、そう? それならいいんだけど」
意外とあっさり了承してくれて、こちらが面食らってしまう。
てっきりこれから長々と交渉を続けるはめになると思っていたのだけれど。
彼女の表情はよく読めない。まぁ、これは珍しい事でもないし、むしろこれが普通だ。
感情の起伏を把握される事は、相手に隙を見せる事と等しい。確かそんな事言っていたし。
ただ、何となくだけれど。
こちらに投げられるボールの球速が、心なしか全体的に幾分落ちたように思えた。
+++
体育の授業が終わった。
キャッチボール(ただしボクと霧切さんに限って言えばただの雑談時間だったけれど)の後は、七人対七人に分かれて野球の試合を行った。
桑田クンは両チームの攻撃にだけ加わるという特別ルールで。守備だけというのは本人が嫌がった。
ただ、その特別ルールも浅い考えで。
加えて桑田クンも桑田クンで空気を読まなくて。
具体的には舞園さんのチームの攻撃時にだけやたらやる気を出しまくって。本気を出しまくって。色気を出しまくって。
結果としては、舞園さんが居るチームの大勝という形になったというわけだ。
「ったく、調子乗りやがって桑田のヤロウ! 後でぶっ潰してやる!!」
授業が終わって後片付け。ボクはボールが沢山入ったカゴを運んでいる。
当然というかお約束の流れで、負けたチームから二人、こうした役割に回されていた。
隣に居るのは大和田紋土クン。その手でバットやらホームベースやら、色々運んでいる。
超高校級の暴走族。関東最大の暴走族「暮威慈畏大亜紋土(クレイジーダイアモンド)」の二代目総長を務めている。
巨大な体躯に目立ちまくりのリーゼント。そのインパクトが大きすぎて、今着ている体操着や、普段着ている学校の制服が地味で違和感を覚えてしまう程だ。
普通の学校では彼のような髪は確実に校則違反になるのだろうけれど、希望ヶ峰学園は違う。
そもそも、彼を暴走族の総長だと知っているからこそ学校側からスカウトしたのであって、リーゼントのような個性を取り締まる事なんてするはずがない。
まぁ、最初の方は石丸クンなんかが不満たらたらだったけれども。
「落ち着いて落ち着いて。桑田クンもほら、悪気があったわけじゃないと思うしさ」
「はっ、でもよ、苗木。アイツの目的は要するに目立ちたいってんだろ?
なら、この俺が単車でアイツを関東中引きずり回せば、新聞に載っけられるんじゃねえか。調子乗りのアイツなら大喜びだろ」
「その場合新聞に載せられるのは桑田クンよりもキミだって。桑田クンが乗るのは救急車か霊柩車で、キミが乗るのはパトカーだよ」
「あー、ポリ車な。あれ結構いい車なんだよな、政府の犬のくせに生意気だぜ。ぶっ壊したくなるのも無理はねえって話だ」
「やっぱり乗ったことあるんだ……」
「まぁな。院卒なら大体そうだろ」
「え、院卒?」
「年少上がりって事だ」
「……あぁ」
大学院卒、ではなくて少年院卒。
これでボクは、院卒と聞いて少年院卒の方も思い浮かべるようになってしまった。
「つっても、俺からすれば院卒なんてのは不名誉な称号でしかねえけどな。ポリは残さずぶっ潰すのが普通だ」
「普通……かなぁ」
「おう。アイツらはただお偉い奴らの言うように動いているだけの犬だ。犬も歩けば棒に殴られるって言うだろ?」
「言わないよ」
そんな動物愛護団体が怒りそうなことわざはない。
あ、いや、吠ゆる犬は打たるるとかあるか。
「つってもよ、俺は動物の犬が嫌いってわけじゃねえんだ。むしろ好きなんだぜ。
けど、政府の犬はダメだ。犬は犬だからいいんだ、人間が犬の真似してんのはただのクソヤロウだ」
「へぇ、犬は好きなんだ? ボクも昔飼ってたんだ」
「おう、そうかそうか! いいよな犬はよ! 俺もマルチーズ飼ってたんだ。チャックっていってな」
「え、マルチーズ? ドーベルマンとかじゃなくて?」
「んだぁ!? オメェ、チャックに何か文句でもあんのか!?」
「ないない!!」
大和田クンみたいな人が犬好きというのは、それこそありそうな感じだ。
ツッパっている人の方が、そういう動物に惹かれるイメージというか。
でも、マルチーズは意外だった。
可愛いけど、マルチーズ。
「九歳で死んじまったんだけどな……あぁ、すげえ可愛かったぜ……」
「そっか……うん、飼い犬が死ぬ時は悲しいよね。ボクも泣いちゃったよ」
「そうか、そうか……分かってんなぁオメェ……いや、俺は泣いてねえけどよ」
今まさに現在進行形で彼が泣きそうな所に突っ込んだら、ぶっ飛ばされるのだろう。
普通の人間よりは頑丈なボクだけど、それでも痛みは人並み程度なので、進んで受けたいとはとても思えない。
ただ、やっぱり大和田クンは悪い人ではないっていうのは分かる。
ヤンキー漫画なんかではよくある事なんだろうけれど、こうして現実の話になると珍しいのではないか。
すると、彼はなぜだか神妙な顔つきでこちらを見る。
「……やっぱオメェだな」
「え?」
「相談がある。たぶん、オメェにしか話せねえ事だ」
「ボクだけに……何かな? 何か力になれる事があれば、いくらでも協力するよ」
「おう、サンキューな……実はな、なんつーか…………恋愛相談ってやつなんだけどよ」
「れ、恋愛?」
「好きな奴が居るんだ。同じクラスによ」
言葉が出なくなってしまう。
いや、高校生なんだし、こういう話は珍しくも何ともない。ついさっきも霧切さんと話したばかりだ。
ただ、それをボクに相談してくる事が意外だった。
「石丸クンにも話してないの?」
「兄弟は、ほら、そういう事にうっせーだろ。不純異性交遊がどうたらとかよ」
「あぁ……」
「他に思い浮かぶのは桑田だけどよ、アイツは信用ならねえし、そもそもあんな軟派の意見なんか参考にならねえ。だからよ苗木、オメェしかいねえんだ!」
「う、うん、分かったよ。それで、大和田クンが好きな相手っていうのは?」
「……不二咲だ」
「不二咲さん!?」
「声がでけえ!!!」
ぶん殴られた。
体が浮かび上がる程の衝撃。顔全体に広がるような痛み。ブレる景色。
そのままボクは地面を数度跳ねて、砂埃をたてながら停止した。
吸魂鬼の性質がなければ確実に意識が飛んでただろう。
たぶん、手加減もない。この威力で手加減されていたら驚きだ。
まぁ、手にしていたバットで殴られなかっただけマシだと思うべきなのかもしれないけれど。
何とかフラフラと立ち上がる頃には、体の傷も大体完治していた。
「ちっ、おい大丈夫か。俺も手が早すぎた…………ん? 苗木、オメェ、何で無傷なんだ?」
「えっ、あ、その、たまたまだよ! 偶然受け身が取れた、とかさ!」
「へぇ、珍しい事もあるもんだな」
特に追求する事もなく納得する大和田クン。助かった。
できれば怪異の事なんて、一生知らない方がいい。
怪異を知れば怪異に惹かれやすくなる。葉隠クンの言葉だ。
「それでよ、俺は不二咲の事が好きになっちまったわけなんだが、どうすりゃいい」
「どうすればって……ごめん、確認するけれど、不二咲さんの事が好きだっていうのは確かなんだよね?」
「おう……あの女はよ、俺によく話しかけてくれんだ。いつもいつも、何がそんなに嬉しいんだってくらいの笑顔でな。
ほら、俺はこんなナリしてっから、人に……特に女なんかに話しかけられる事自体少ねえんだ。
けど、不二咲は違う。俺の話にも興味津々で、そりゃ楽しそうに聞いてくれてよ。単車や抗争の話なんざ、あの女はほとんど分かんねえだろうに」
「それで、気がつけば好きになってた、か」
「んだよわりーかオラァ!!」
「わ、悪くない悪くない!」
人を好きになる理由なんていくらもである。
それこそ一目惚れという言葉もあって、第一印象だけで恋に落ちる事だってよくある事だ。
理由を挙げようと思えば、いくらでも挙がるものなのだろうけれど。
結局大事なのは理由ではなくて、その好きだという気持ち自体の方であって。
逆に言えば、好きだと思ったのであれば理由なんて何でもいいのだ。
ボクの場合は、あの子可愛いなーと思って、やっぱりこの子可愛いなーと思って、もっと一緒に居たいなーと思って。
そして何となく気付く。あれ、これってボク、彼女に恋してるんじゃ、と。
そして納得する。うん、よく考えたら、というかどう考えても、これって恋じゃん!
そんな感じ。
実際は片想いの末、見事にフラれた形ではあるので、相談相手として十分なのかどうかは甚だ疑問な所なのだけれど。
「そういうのが初めてってわけじゃねえんだ。けどよ、女への告白は今のところ十連敗中でよ……」
「じゅ、十連敗……何か原因とかは分かっているの?」
「俺は緊張すると、どうしても声がでかくなっちまう……怒鳴っちまうんだ。これが何度やっても治らなくてよ」
「あぁ……」
それは相手の子も怖いだろう。
大和田クンの怒鳴り声というのは、それこそ超高校級の暴走族に相応しい凄みがある。
「じゃあさ、やっぱり練習が一番なんじゃないかな。何か緊張するシチュエーションで、怒鳴らないようにさ」
「苗木よぉ……この俺が恋愛事以外でそうそう緊張なんざするとでも思ってんのか?」
「……うーん、それもそうか。あ、それならさ、こういうのはどうかな。
国語の教科書を音読するゲームみたいので、もし漢字を読み間違えたり噛んだり怒鳴ったりしたら、後ろから大神さんに殴られる」
「おーし分かった、オメェは俺に死んでほしいんだな。その喧嘩買ってやるぜ。その後狩ってやる」
「ごめんなさい!!!」
大和田クンが緊張する場面なんてそうそう想像できるものではない。
緊張しても怒鳴らないようにするにはやっぱり練習が一番だとは思うけれど、どうそのシチュエーションを作るかというのが難しいものだ。
むしろ大和田クンは相手を緊張させることが普通だ。
彼に対して一片の緊張感も持たずに会話できる人は相当限られるだろう。
例えるならば、猛獣を相手にしているような。これを言えばやっぱりぶっ飛ばされるんだろうけれど。
そんな赤裸々恋バナをしている内に、体育倉庫まで辿り着く。
だけど、意外な事に、その中には先約が居た。
しかも。
「あ、苗木君に大和田君」
不二咲さんだ。
このタイミングで不二咲千尋さんだ。
何とも出来過ぎな展開に、驚きの前に誰かが仕組んでいるんじゃないかと疑ってしまう。
いつもの愛くるしい笑みを浮かべて、彼女は体育倉庫で用具の後片付けをしていた。
「よぉ、不二咲ィィ!!!!!!」
あ、緊張してる。何とも分かりやすい。
まぁ、それも無理もない事だとは思うけども。
だって、先程まで話題にしていた恋する相手がいきなり目の前に現れたのだから。
「う、うん……どうしたの大和田君。僕、何か気に障る事したかな……だとしたら、ごめんなさい……」
「あ、ち、ちげえ!! そうじゃなくてだな……俺はこの苗木のヤロウが気に食わなかっただけだ!!」
頭を、というかアホ毛を掴まれてグイグイと引っ張られる。
痛い痛い。
「ていうか不二咲さんは勝った方のチームだったよね? どうして片付けなんかしてるの?」
「あ……え、えっと……僕、片付けとか好きなんだよね、あはは……!」
「おう、分かるぜ不二咲! 俺も嫌いじゃねえぜ、片付け! よくポリ公なんか片付けてるしよ!!」
「それ片付けるの意味が違うって」
「あぁ!?」
「何でもないです!」
大和田クンが相手だと迂闊に突っ込めない。
それでもうっかり突っ込んでしまう辺り、ボクもそのキャラに体張ってるのかなぁと思ってしまう。
「でも、そうだね。不二咲さんって体育の時間はいつも後片付けをしているような気がするかも」
「おいおい、もしかして誰かに強制されてるとかじゃねえだろうな?
もしそんな奴が居るなら、この俺が完膚なきまでにボッコボコにしてやるから、遠慮せずに言えよな!」
「ち、違うよ! これは本当に僕が好きでやってるだけだから!」
慌てて言う不二咲さん。
無理もない、大和田クンの事だから、言葉通りに本当に完膚なきまでにやっつけてしまっても何も不思議ではない。
そもそも、彼女はそういうイジメのようなものは受けていないみたいだけれど。
それから、ボク達はそれぞれ用具の後片付けをしながら。
大和田クンなんかはチラチラと不二咲さんの事を見るという、似合わない初心な様子で。
人間、あらゆる方面で完璧という事はありえない。
こうして超高校級の高校生も人並みな事で悩んでいる事を知って、悪いと思いつつも、親近感を抱いてほっとしてしまう。
「あ、あのぉ、大和田君?」
「いっ!? な、何だよ! 俺は別にオメェの事をジロジロ見たりはしてねえからな!!」
「え、えっと?」
「大和田クン……不二咲さん困ってるって……」
「……な、何でもねえよ! それで、何か話があったんじゃねえのか!?」
「あ、う、うん。あのね、大和田君っていつの間にか石丸君ととっても仲良くなってたよね。お互い兄弟って呼んだり……何かあったのかなって」
「……そ、そんな事か。大した事はねえよ。ただ、アイツとは一度正面から勝負してな。
んで、てっきり優等生気取りのいけ好かねえ奴かと思えば、思いの外根性あるつえー奴でよ。意気投合したってわけだ」
「そうなんだぁ。えへへ……いいなぁ、そういうの」
「おっ、分かるか不二咲!」
「うんっ、凄く憧れるよぉ。……ねぇ、大和田君。僕も、その、石丸君みたいに根性あって強ければ、兄弟とか……呼んでもらえるのかな……?」
「は、はぁ?」
大和田クンが気の抜けた声を出す。
正直、ボクも口には出さないけれど、同じような反応をする所だった。
女子がそういった男子同士の友情をいいなと思う事自体はそこまで珍しい事でもないだろう。
だけど、女子自身がその友情の当事者になろうという考えは珍しい気がする。
男女の友情が成立するか、という難しい事を話すつもりはないけれど。
それにしても、男子は男子、女子は女子で、友情のあり方はそれぞれ別だという印象があった。
大和田クンはやっぱり混乱しているらしく、
「……な、なんつーか、ほら、オメェは女じゃねえか」
「っ……」
「だからよ、別に無理して強くなる必要なんてないと思うぜ。オメェがその、なんか困った事があれば、俺が何とかしてやる!」
「……う、うん、ありがとぉ」
あれ、不二咲さんの反応が微妙だ。
確かに大和田クンはしどろもどろで、とても格好がついたものではなかったけれど。
それでも、その言葉自体は、女子としては中々嬉しいものではないのだろうか。
少なくとも舞園さんは、ボクが守ってみせると言った時に、凄く嬉しそうにしてくれた。
霧切さんもボクに対して、鎌鼬から自分を守ってくれる事を期待した。
いや、女子だからといって一括りにするのは良くないのか。
女子でも一人一人、考え方は違う。それは当然の事で。
中には女子だからといって、男子に守られたくはない、そういう考えを持っている人も居るのかもしれない。
そうか、考えてみれば大神さんなんか、きっとそうだ。
彼女はきっと、女だからといって男に守ってもらう事を決して良しとはしない。
そこでボクは、ふと一つのアイディアを思い付いた。
「ねぇ、不二咲さん。ちょっと訊きたい事があるんだけど、いいかな?」
「訊きたいこと? うん、いいよぉ」
「不二咲さんの好きな男のタイプってどんな人?」
「えっ!?」
「むがぁぁっっ!!!!!」
再び振り抜かれる大和田クンの拳。
それをまともに受けたボクの体は面白いくらいに簡単に飛んでいき、見事にボールが沢山入ったカゴの中に収まった。
実際には収まるなんていう穏やかなものではなく、轟音と共にぶち込まれた、といった感じだけれど。
「な、苗木君!? 大丈夫!?」
「うぅ……何とか……」
「オメェいきなり何て事聞いてやがんだコラァァ!!!」
「待って待って、大丈夫! 僕はそこまで気にしてないからぁ!」
「っ……そ、そうかよ」
不二咲さんに腕を抑えられて、大和田クンは照れくさそうにする。
いや、中学生か!
そんなツッコミは心の中でしか入れられないけれど。
すると不二咲さんはもじもじと指を組んで俯きながら、答えてくれた。
「え、えっとねぇ、好きなっていうか、理想の男っていうのは、あるかな」
「もし良かったら教えてくれないかな?」
「む、無理して言わなくていいぜ不二咲!!」
「ううん、そんなに言い難い事っていうわけじゃないから……僕はね、やっぱり強い男に憧れるなぁ。
体とかおっきくて、筋肉とかも凄いっていう感じ……かな。それに、自分に自信があっていつも堂々としている人、とか」
「つえー奴か……!!!」
「うん、それこそ大和田クンみたいな!」
時間が止まった。
それもボクと大和田クンだけ。
あれ?
これいけるんじゃないか。
ていうかいけるでしょ。両想いみたいなもんじゃん、これ。
そんな視線を大和田クンに送る。
だけど、彼は彼で混乱しまくっているらしく、呆然と不二咲さんの事を見ているだけだ。
彼女はボク達の反応に不安を覚えたらしく。
「あの……あれ? ど、どうしたのぉ?」
「オメェ……俺の事を強くて……理想だとか、言ったのか……!?」
「うん! その、こうして言うのはちょっと恥ずかしいけど、大和田クンは僕にとって憧れなんだぁ……」
「っっっ!!!」
そうやって頬を染めてもじもじと上目遣いを浮かべる不二咲さんに対して。
大和田クンの頭上に、雷が一発落ちたかのようだった。その時、電流が走る! というやつだ。
この場合、雷を落とした、神なる存在は不二咲さんという事になる。女神だ。
気持ちは分かる。
正直、直接言われていないボクもぐらっときた。
「お、俺が……憧れだぁぁ!?」
「ずっと、見てたんだぁ。この学校に来てから……」
「俺の事を……ずっと!?」
「う、うん」
邪魔だ。何が邪魔かって、ボクが邪魔だ。
空気は読める。
その才能の割に運気は全く読めないけれど。
とにかく、それからボクが起こした行動は、すぐさまカゴの中から這い出て。
そのまま真っ直ぐ、さり気なく、倉庫の扉から外へと出る事だった。
緊張すると怒鳴ってしまうという、大和田クンの問題点は何も解消されていないけれど。
それでも、少なくとも不二咲さんの様子を見る限り、彼女はそこまで怖がっているという感じではない。
上手くいくかもしれない。
いや、きっと上手くいくはずだ。
すれ違い際に見た大和田クンの表情が、どこか迷っている様子なのが気になったけれど。
大丈夫、心配はいらない。
彼の事だ。ここで引くという選択肢があるわけがない。
そんなわけで、教室へと向かう頃には、これからどうやって石丸クンを説得するのか、そういう考えに移っていた。
あまりにも、楽観的に。
+++
結果として、大和田クンは十一連敗を記録する事になったらしい。
らしい、という曖昧な表現なのは、それを直接当事者達から聞いていないからだ。
でも、分かる。訊かなくても分かる。分かってしまった。
体育の授業の後のホームルーム。
そこにチャイムギリギリで入ってきた大和田クンと不二咲さんの二人。
その様子や表情を見れば、何となく……うん。
例え舞園さんのような観察眼を持っていなかったとしても、すぐに分かるようなものだった。
話に出した舞園さんや、それか霧切さんなんかは、多くの事情を知らなくても、その二人を見るだけで色々と察する事はあるのかも、と彼女達の方も見てみたけれど。
何も気付いていないのか。はたまた気付いていても気付いていない振りをしているのか。特に変わった様子はなかった。
この場合は、どちらの可能性も十分に考えられるので、決めつけることは出来ない。
ボクとしてはかなり意外だった、というのが正直な所だった。
大和田クンの今までの戦績を考えればおかしくはない事のようにも思えるけれど。
だけど、実際に彼がどのように毎回フラれているかというのは、彼から話で聞いていただけなので、詳しい所までは分からない。
ひょっとしたら、緊張して怒鳴ってしまう事以外にも色々と問題が重なっていたという可能性だって考えられた。
でも、これはあくまでボクの印象でしかないのだけれど。
不二咲さんは、彼女はきっと大和田クンに悪い印象を持っていなかったはずだ。むしろ、好意を持っていたように思えた。
たぶん、彼女のあの様子を見れば、ほとんどの人が好感触を抱くのではないか。
いや、これも浅はかだったのだろうか。
見る人が見れば、例えば舞園さんなんかなら、ボクが見えていなかった問題点を見つける事ができたのだろうか。
どちらにせよ、ボクが大和田クンから相談を受けた事は確かで。
そして、その上で微力ながら協力した事も確かで。
だからこそ、少なからずボクにも責任があるのだろうし、余計な事をしたと、二人に謝らなくてはいけないのかもしれない。
ただ、ホームルームが終わった後に大和田クンには話しかけたのだけれど、ほとんど無反応だった。
聞いているのかどうかも分からず、ぼーっと相槌を打つだけ。よほどショックだったのだろうか。無理もない。
案の定というか、石丸クンが熱心に熱血に熱烈に大和田クンの事を気遣っていたけれど、それはそれで空回りしている印象だった。
一方で不二咲さんの方は、すぐにどこかへ行ってしまった。
彼女の方はショックを通り越して、もはや体調さえ悪そうな感じだっただけに心配だった。
本当に体調を崩していて、早めに寄宿舎へ戻ったのだろうか。
そんなこんなで現在。
ホームルーム後の放課後。
ボクは四階の学園長室に呼び出されて、そこで少し話を聞いた後、今は五階の植物庭園で五羽のニワトリと戯れていた。
どうしてこんな状況になったのか。
それはまず学園長室に呼び出された所から説明しなければいけないだろう。
何だかんだ言って、学園長室に入るのは初めてだったので緊張はした。
学園長室でも校長室でも、一度も足を踏み入れる事のないまま学校を卒業する事は珍しくも何ともなく、そっちの方が多いだろう。
まず目に入ってきたのはモニターだった。
それも一つではない。何十といった数のモニターが、部屋の壁の一辺を埋め尽くしていた。さながら秘密結社のアジトのように。
そこに映っていたものは何かの数値や折れ線グラフなど、データ関係のものが大半で、中には普通にテレビ番組が流されているものもあった。
ボクはよく分からないままに『株とかかな?』とぼんやり予想するしかない。
たぶん仕事関係だというのは合っていると思うので、直接学園長に訊くことはしなかったけれど。
あと、呼び出されたと言っても、別に大和田クンと不二咲さんの事でこっ酷く説教をくらったわけではない。
その場合は、どうしてそんな生徒間の個人的な事を知っているのかと、逆に学園長を問い詰めたいものだ。
加えて、生徒間の恋愛事に首を突っ込むという事もないだろう。男女交際禁止という校則があるわけでもないし。
話は別件。別件も別件で彼らとは全く何も関係ないものだった。
とりあえず九割が娘の惚気話。
なぜだか知らないけれど、霧切さんは学園長に対してボクについて話す事が多いらしく、そこから何を勘違いしたのか、ボクと彼女が恋人関係にあるとか思っていたらしい。
何よりも霧切さんの名誉の為に、いや、本当の所を言うと、それを知った彼女のボクへの八つ当たり回避の為に、その勘違いはちゃんと正しておいた。
まぁ、その後も、これからそんな関係になる予定はないのかだとか、何だったらお義父さんと呼んでもいいぞ、だとか食い下がってはきた。
父親は自分の娘の恋愛関係には厳しいっていうイメージがあったんだけどなぁ。
でも、何と言うか、話の内容は娘からすれば迷惑でしかないものだったかもしれないけれど。
こうして学園長と霧切さんが、普通の親子みたいな関係に近付きつつある事は素直に嬉しかった。
別にそれをボクが喜ぶべき事なのかどうかは分からないけれども。
そして残り一割の話。
割合的には余談と思われるかもしれないけれど、そちらが本題だった。
五階の植物庭園。そこで飼われている五羽のニワトリ。
今日に限って、その世話をしてもらいたいとの事だった。
何でも、普段世話をしている超高校級の飼育委員の破壊神暗黒四天王が体調を崩し、誰かに頼まざるを得ない状況になってしまったのだとか。
全くもって意味不明だったけれども、まぁ、要するにその飼育委員に急用ができて、誰かがニワトリの世話をする必要があるという事だ。
そこで、中学生時代に迷い込んできた鶴を逃したという、実績と呼べるかも微妙な実績を持っているボクに白羽の矢が立ったわけだ。
ていうか、学園長はどうしてそんな事まで知っているのか。
大方、ただ舞園さんがふと話したのかもしれないけれど。
その代わり、と言ったらなんだけれど、その時にちゃっかり電子生徒手帳が故障してしまったので、新しいものが欲しいとお願いしておいた。
学園長はあの頑丈な生徒手帳が壊れた事に少し疑問を持った様子ではあった。
でも、どうやらあの生徒手帳には熱という弱点もあったらしく、大方それが原因で壊れたのだろうと納得してくれて、深く追求してくる事はなかった。
大真面目にトランプで両断されたなんて言えば、他にも色々と面倒、というか厄介な説明をしなければいけないはめになる所だった。
そんなこんなで今のこの状況だ。
つまりは、これは別に趣味でニワトリと戯れているわけでもなく。
というか、本当は戯れでさえなく、ただ単に小屋を掃除しているだけだ。
その際に、元気を持て余したニワトリにモッテモテなボクだった。モテ余していた。
「いたたたたたたたたたっ!!!」
頭にニワトリが一羽乗っかった。
そして、直後、お約束過ぎる程にお約束に。
頭に暖かい感触。
「うわああああああああああああああああああっ!!!!!」
ウンがついた。
超高校級の幸運であるボクにこれ以上は必要ない……とは言えない所が虚しい所だけれど。
とにかく、結論を言えば。
鶴を逃したなんていうのは、飼育委員としての実績とは何の関係もなく。
鶴どころか、ニワトリの世話すらできないというのが、どうしようもない現実であった。
ニワトリ五羽と鶴一羽。
そのどちらの世話が難しいかというのは分からないけれども。
そもそも、鶴って飼ったりするものなのかな。
その後掃除を終えてエサをあげて、世話をしたのか世話をされたのかよく分からないままに小屋を出る。
植物庭園なので当然水が出るホース付きの蛇口もあって、そこで頭を洗う事も忘れない。
こうして頭に鳥のフンを落とされるのは初めてではない。もう何が幸運なんだこれ。
ちなみに植物庭園には人一人居ない。
元々、そんなに人気のある場所でもないし、緑を求めている人は中央区の自然公園に足を向ける事が多い。
どちらかと言えば、ここは実験室的な意味合いが強いというわけだ。
それからボクは肉体的にも精神的にも疲れ切った状態で植物庭園を出る。
そこで、僅かな違和感を覚えた。
……なんか、人が少ないような。
「気のせい……かな?」
首を傾げる。
確かに放課後だから人が少なくなるのは当たり前なのだけれど、それでもここに来る時は廊下にも何人か生徒が居たはずだ。
それが、今は一人も居ない。
いや、そういうわけではない。
廊下に居ないからといって、誰も居ないと判断する事なんてできない。
五階には教室が三つ、他にも今出てきた植物庭園の他に生物室と武道場があって、その中に居る可能性だって十分に考えられる。
でも。それでも、だ。
いくら何でも……静か過ぎるんじゃないか。
この学園の部屋は全て防音完備というわけでもなく、教室の音なんかは外にもよく響く。
それが、一切ない。
この感覚は知っている。夜の学校。
例えば葉隠クンが居座っている占術棟。そこにはボクも何度も夜に足を踏み入れた。
だから、何となく分かる。
少なくともこの階に限って言えば、ボクしか居ないのではないか。
それは偶然なのか。
いや、でも、放課後といっても、ホームルームから一時間も経っていない。
そもそも武道場もあるのだ。こんな時間に人が一人も居なくなる事なんてありえない。
じわじわと、不安が体を侵食していく。
何かがあったのか。
イレギュラーな事態が、起きたのか。
ボクがニワトリとイチャイチャしている間に、すぐ外ではとんでもない事が起きていたのか。
心配し過ぎ、と思う人も居るのだろうけれど。
なにせ、この学校に来てから色々あった。
些細な事にも敏感になってしまうのは仕方ないはずだ。
「あれは……」
少し先の廊下。
誰かがバケツでも転がしたのか、そこには大きな水溜りが出来ていた。
しかし、これが人が皆居なくなった説明になるとも思えない。可能性としては、その水溜りが何か危険な薬品である事も考えられるけども。
とにかく、ずっとここに留まっている事は得策ではないだろう。
人が居ない事には居ないなりの理由があるというのは確かだ。
そう考えて、階段へと向かうボクの前方に。
正確には階段近くの、生徒からの要望で割と最近作られたらしい新設のトイレから。
不二咲さんが出てきた。
泣いていたのだろう、目を真っ赤にして。
未だ体調が優れないらしく、顔色を悪くして。
「ふ、不二咲さん!?」
「っ!!!」
その姿を見た瞬間、大声を出してしまう。
それは何も、この階に誰も居ないと思っていたから驚いて、という事だけではない。
一番驚いた所は、彼女がトイレから出てきた所だった。
いや、言葉が足りなかった。
別にボクは、アイドルと同じように、可愛い子がウンコしないだとか言うつもりはない。
現実逃避したくなる事は今までいくつもあったけれど、それなりに向き合ってきたつもりだ。現実と。
だけど、この場合、重要なのはウンコだとかそういう話ではない。大便か小便かという話でもない。
不二咲さんが、彼女が、“女の子”が。
“男子トイレ”から出てきた事が、ボクにとってはこの上ない驚きだった。
「え……あ、あれ? 不二咲さん、今、出てきたのって……」
「あっ、ち、ちがっ、その、え、えっと……!!!」
今にも泣き出しそうに、瞳を潤ませながら必死に言葉を紡ごうとする不二咲さん。
でも、それは中々上手くいかないらしく、ただただ口ごもるばかりだ。
無理もない。元々彼女は舞園さんのように口上手なわけでもない。
こんな状況を、スラスラと説明できる事の方がおかしい。
そして。
「ごめんなさい!!!!!」
そう言って、全力ダッシュで階段を下りて行ってしまった。
追おうと思えば追えたし、吸魂鬼状態がそれなりに浸透している今なら、すぐに追いつく事はできただろう。
でも、ボクは、あまりにも突然、あまりにも理解の外にあるような事に直面して。
足に根が生えたように、体は木の棒のようになって、頭にはお花でも咲いたかのように。
ぼけーっとその場に突っ立っている事しかできなかった。
+++
次の日の朝。
ボクはいつも通り自分の部屋のベッドで目覚める。
誤解のないように言っておくが、別に夢オチというわけでもない。手塚治虫先生にケンカを売るつもりはない。
不二咲さんが男子トイレから出てきたという、幻覚みたいな現実は確かに存在する。
ただ、一晩中……とは言わずとも、昨日の夜、それなりに考えて答えは出た。
まず、彼女にしたって男子トイレを使うという選択がおかしい事くらいは分かっているはずだ。
いくら何でも、靴下さえ履いていれば他はすっぽんぽんでも大丈夫だとかいう、どこかの探偵のような変人的価値観は持っていないと願いたい。
つまりは、彼女にとっても、男子トイレを使うというのは苦渋の選択だったはずなのだ。だからこそ、それを目撃された彼女は一目散に逃げて行った。
どうしても男子トイレを使わなければいけなかった理由、それはまぁ、何となくは想像できる。
例えば、隣の女子トイレが埋まっていて、下の階に行くまで我慢できなくて、とか。もっと単純な可能性としては、女子トイレが壊れていて我慢もできなくて、とか。
あの時、あまりの静けさに、同じ階には誰も居ないかのような錯覚を持ったボクだけれど、現に不二咲さんはトイレに居たのだし、その実も怪しいものだ。
そんなわけで自己解決。
たぶん昨日は立て続けに色々あって、ボクの頭も混乱していたのだろう。落ち着いて考えてみれば、なんて事はない事だ。
残る問題は、これからの彼女への態度だけれど、中々に悩ましいものである。
この、ボクなりの解釈を伝えて、何も変な風には思っていないよ、と告げるべきなのか。
それとも、昨日の事はなかった事にして、これ以降二度と触れないでおくべきなのか。
答えを出すのは難しく。
それも、相談することは更に難しく。
結局、その辺りは決めかねたまま、こうして朝を迎えてしまったわけだ。
まぁ、とりあえずは様子見だ。
彼女の事をよく見て、それこそ舞園さんのような芸当をボクにできるとは思えないけれど、何となく、どうしたら正解なのかを感じ取ろう。
そう決意して。
混乱の連続だった一連の事態に、決着ではないにしても、一旦区切りをつけた所で。
とりあえずの方針……目指すべきものと、そこまでの道のりを大雑把にだが定めた所で。
また一つ、大きな混乱の波が襲い掛かってくる。
こちらの都合などは関係なしに、それどころか、嘲笑うかのように。
加えて、新たにやってきた混乱は、昨日からの一連の流れの中でも最大級で。
それでいて、暗く、重い、ドス黒いものだった。
この感覚は知っている。
人間なら誰しもが知っている事だけれど、ボクは特に良く知っている。
吸魂鬼と出会ったボクだからこそ、特に。
ケータイの画面。
この部屋にはテレビがないので、ワンセグで朝のニュース観ていた時。
それが、飛び込んできた。
映像として目に。そして、それを伝えるニュースキャスターの声が耳に。
でも、実際は耳からの情報はほとんど頭まで伝わっていなかった。
百聞は一見にしかず、とはよく言うけれど、やっぱり耳からの情報よりも目からの情報の方が直接的ではあって。
画面に映っているのは。
数々の大破したバイク、所々大きく砕かれた道路。拭ききれずに道路にこびり付いている、血痕。
それは一目で分かる。巨大な暴力の爪痕。
そして、何よりも。
事実を簡単に、冷淡に、端的に伝える、そのテロップに。
ボクは、ケータイを取り落とした。
『関東最大の暴走族「暮威慈畏大亜紋土(クレイジーダイアモンド)」が壊滅。二代目総長の大和田紋土は意識不明の重体』
今回はここまで
苗木「こら、暴れないでよ! パンツが脱がせにくいじゃないか!」(スクールモードの苗木クン)
加筆修正版をPixivにあげたべ
一話ごとに投稿していくつもりだから、一気に読みたい人はそっちの方がいいかも
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=2970549
+++
これ程までに衝撃的な事態になっても、学校は通常通り授業を行う予定らしい。
あくまで重要視するのは個ではなく、その他大勢の方。
例えば大型台風なんかが直撃すれば、生徒達の安全を考えて全日休校という話にもなるだろう。
でも、生徒一人が大怪我をしただけでは、他の生徒の授業の進行を妨げる事まではできない。
この“だけ”という表現が、自分でもどうしようもなく納得出来ない所ではあるけれど。
ただ、事件性がある事は確かだ。
それは現場を見れば明らかな事で、ニュースでもそう言っていた。
その事件性というものが、何かしらの形で学校にも関係してくるようであれば、やはり休校にはなったのかもしれないけれど。
だけど、そうとは言い難い。
あの映像を見れば、暴走族同士の抗争だと考えるのが普通だろう。ニュースでもそう言っていた。
警察の方もその方面で捜査を進めているとの事だ。
ここでハッキリと原因について言及する事ができないのは、被害者側が口を閉ざしているからだ。
それは意地やプライドなのか、加害者側の事を一切漏らさない。
おそらく、というかほぼ確実にそうだけれど、自分達だけで方を付けようとしているのだろう。
そういえば、大和田クンも昨日は片付けが好きだとか言っていたっけ。あれは冗談というか咄嗟の思いつきだろうけども。
昨日の、不二咲さんとの件は何か関係あるのだろうか。
ないとは言えない。正直ボクの中ではその可能性が高いとさえ思っている。
関東最大の暴走族が一夜にして壊滅するなど、中々考えられない。
盛者必衰とは言うけれど、それにしたっていくつかの段階を踏むものだ。
それだけ強大な存在になったというのには必ずそれなりの理由があり、簡単には崩れないからこそ強い。
そんな存在が唐突に打ち倒されるような事になるには、それ相応のイレギュラーな事態が起きたという事だ。
大袈裟な喩えを持ってくれば、古代に地球を蹂躙した恐竜。
彼らは隕石なんていう理不尽で異質過ぎるものによって一掃されてしまった。
それでは、大和田クン率いる「暮威慈畏大亜紋土(クレイジーダイアモンド)」にとっての隕石とは何だったのか。
暴力的なものか、それとも非暴力的なものか。そう、当然ながら恐竜と人間は違う。
人間を破滅させる要因は何も直接的な暴力だけではない。精神的な、心の暴力という言葉もある。
屈強な大和田クンにつけ込む隙があるとすれば、おそらく、これは失礼かもしれないけれど、精神面という事になるはずだ。
特に慣れない女性関係。そして、それに関する大きな事態が起きた事を、ボクは知っている。
いや、知っているなどという他人事ではない。ボクも一枚噛んでいた。
昨日、大和田クンは不二咲さんにフラれてしまい。
その事によって精神的に隙が生じていて。
気分を紛らわせようとしたのか、仲間達と暴走(はし)っていた時に、何かしらのトラブルに巻き込まれてしまった。
だとすれば、ボクにも責任はある。
大和田クンを後押しするような事をしたのはボクなのだから。
だから、ボクはこの事件を他人事と思ってはいけない。ボクにはこの事件の全容を、全て知って受け止める義務がある。
朝のホームルーム前の教室。
これは当然の事ながら、ガヤガヤといつも以上に騒がしい。
朝日奈さんなんかは真っ青になってしまっていて、大神さんが何とか慰めようとしている。
そして、みんな浮き足立った表情をしている中、霧切さんや十神クンやセレスさんはいつも通りのクールさを崩さない。
何だかもう、こうした状況の中では頼もしく見えてしまう。
そんな中で、流石に見逃せない光景が、ボクの目に飛び込んでくる。
「……あ、あの、戦刃さん?」
「ん、どうしたの、苗木君?」
「えっと、何してるの?」
「ナイフ砥いでるの」
「ど、どうして?」
「大和田君を襲った奴等を仕留める為だよ。
切れ味が悪いナイフっていうのも、それはそれで苦痛を与える上ではいいんだけど、流石にそこまでするのはやり過ぎかなって」
「待った待った!」
怖い怖い!
純粋無垢な表情でナイフ片手にそのセリフは怖すぎる!!
そんな彼女は『超高校級の軍人』、戦刃むくろさん。
肩まで伸びた艶のある黒髪。全体的に大人しめの印象で、顔にはそばかす。
その特殊な経歴故に世間に疎く、時々とんでもない事や残念な事をやらかしてしまう。
でも、初めこそは中々クラスにも馴染めない様子だった彼女だけれど、今はそれなりに普通の高校生に近付いている事は喜ばしい事だ。
この状況でそれを言うのは何だけれど。
まぁ、まだたまにはこういう事もある。うん。たまにはね。
「あれ、ダメ、かな? やっぱり拷問までするべきなのかな」
「違う違う! こういう事は警察に任せようよ、ね?」
「……あ、そっか。ここじゃ報復もダメなんだっけ」
「そうそう。ダメ、絶対」
「でも、何やってもバレなきゃ罪じゃないって聞いたような」
「……誰から?」
「葉隠君」
純粋な戦刃さんに何て事吹き込んでんだあのオッサン!
「えーと、でももうこの時点でボクにバレてるわけだけど」
「あ……そっか。頭いいね苗木君」
「あ、ありがとう」
「そうだ。それじゃあ苗木君も共犯者という事になればいいんじゃないかな? それならあなたにバレても問題ない」
「断固拒否するよ」
「残念……あ、でも、これは山田君が言っていたんだけど」
「いや、もういいよ。彼がまともな事を言うはずがない」
「どんなに悪いことをしても、女の子なら『テヘペロ☆』で許してもらえるって」
「それは違うよ」
ナイフ片手に返り血なんか浴びてテヘペロとか、絶対に何かが違う。
完全に狂気を感じるし、無表情よりも酷いように思える。
戦刃さんはとりあえずは納得してくれたみたいで、砥いでいたナイフをしまってくれた。
「でも、ちょっと不思議。私は大和田君とはそんなに話した事もなかったのに、今とても怒ってるみたいなんだ」
「それはきっと、戦刃さんがクラスメイトの事をそれだけ大切に想っているっていう事だよ」
「……うん。そうだね。私は今のこの学校生活が好き。みんなの事も好き」
「そっか……戦刃さんにそう思ってもらえるようになって良かったよ。ボクも学校は楽しい所だと思うしさ」
「でも、苗木君は別」
「えっ」
「何ていうか……苗木君はただ好きだとか、そういうのとは違うと思うの」
「……そ、そうですか」
クラスメイトの事は好きだけど、ボクは違う?
うん、あまり深くは考えないようにしよう。何か凹みそうな気がしてならないから。
……ボク、彼女に嫌われるような事したかなぁ。
そんな感じに戦刃さんの凶行を未然に防ぐという、ボクにしてはかなりの功績を残して、自分の席に戻る。
功績というか、この場合は罪滅ぼしと言うべきだろうか。
まだ大和田クンの件についての原因はハッキリとはしていないけれど、やっぱり昨日の不二咲さんの件が関係しているように思えてならない。
「ちょっといいかしら苗木君」
「うん」
「ちょっといいかしら、舞園さんにフラれた時の為のストックとして戦刃さんに言い寄っていた苗木君」
「何でそんな不名誉な形容付きで言い直した!?」
「いえ、心ここにあらず、高身長ここにあらず、といった表情をしていたから」
「高身長なんていつもないよ!」
でも、心ここにあらず、というのは否定出来ない。
言ってみれば、先程戦刃さんと話している時も、そうだったかもしれない。
無意識の内に、彼女に対して失礼な態度を取っていたかもしれない。
それでは嫌われてしまうのも当然か。
今ボクに話しかけてきているのは霧切さんだ。
というか、こんな風に話しかけてくる人が霧切さん以外に居るとは思いたくない。
「苗木君、あなた大和田君の件、どう思う?」
「どうって……そりゃ凄く驚いたよ。関東最大の暴走族が一夜で壊滅だなんて……」
「他には何かないのかしら?」
「……それは」
たぶん、というか絶対霧切さんには何かしら勘付かれている。
別にボクはセレスさんのようにポーカーフェイスに優れているというわけでもない。
でも。
「ごめん、言えない」
「それは彼のプライバシーに関わる問題だから?」
「うん、そうだよ」
「……分かったわ。それじゃあ代わりに私から少し今回の事件について話してもいいかしら」
「それは別に構わないけれど……でも、これって霧切さんが調べるような事なのかな? 暴走族同士の抗争って聞いたけれど」
「私が本当にそうだと判断したなら、こうしてわざわざ話す事もないじゃない。気になる事がいくつかあったのよ」
「気になる事?」
「私、気になります」
真顔でこちらに顔を近づけてくる霧切さん。
似てない似てない。
「暴走族同士の抗争、それにしてはあの現場には相手側の物証がほとんど残っていない。これっておかしいとは思わない?
彼らも無抵抗でやられたわけではないだろうし、相手グループ側にもそれなりのダメージを与えていると考えるのが普通よ。
でも、現場に残された負傷者やバイクの残骸は全て大和田君のグループ関係で、それ以外のものは何一つなかった」
「……確かに集団対集団の争い事で片方が一方的にやられるっていうのは考えにくい、かも。それも大和田クンのグループは関東最大の暴走族だ。
相手に自分達のバイクを壊されるっていうなら、同じように自分達も相手のバイクを壊していてもおかしくない。負傷者も同様に」
「まぁ、勝った方がそれらの物証を持ち去ったという可能性も否定出来ないけれど、かなりの手間だと思うわ」
「暴走族同士の抗争でそんな証拠隠滅みたいな真似っていうのもしっくりこないしね。
あれ、でもどうして霧切さんがそんな詳しい事まで知っているの? ニュースではやっていなかったと思うけど」
「私は超高校級の探偵よ? その気になれば警察が掴んでいる情報程度、いくらでも手に入るわ」
「……そこはかとなく犯罪臭がするんだけど」
「苗木君、バレなきゃ犯罪じゃないのよ」
「それ葉隠クンと同じセリフ」
「真実のためなら犯罪じゃないのよ」
「世の中には謎のままにしておいた方がいい事もあるって江戸川コナンが言ってたよ」
「例えば苗木君の妹に蝋燭沢君という彼氏ができた事とか?」
「何それふざけんなよどこの馬の骨だボッコボコにしてやる!!!!!」
「苗木君、キャラキャラ」
「はっ」
危ない危ない。もう少しで本気でアレな感じのシスコンになってしまう所だった。
そうだ、ボクは妹の事なんて全然可愛いとは思わない。むしろ嫌いだ。
まったく、何を熱くなっているんだか。蝋燭沢クンだか瑞鳥クンだか知らないけれど、よくあんな妹と付き合おうと思うな。
……くっそ。
中学生のくせに生意気な。
父さんにはもう言ってあるのかな、まだだったらボクが言いつけてやる。
「苗木君、失恋中で悪いのだけれど、話を進めてもいいかしら?」
「何を言っているのか分からないな、ボクは人生でまだ一度しか失恋なんてしていない」
「一度はしたのね」
「あっ」
「低身長でロリコンでシスコンはありえないと言われてフラれたのね」
「もし真正面からそう言われてフラれたなら、多分ボクは自殺してるよ」
前向きにだって限度がある。
好きな女の子からそこまで切れ味たっぷりの言葉で切られたらもうダメだ。
はっぱカッターは急所に当たりやすいのだ。
女の子の言葉は鬼をも殺す。
「それでシスコン中の苗木君。話を進めていいかしら?」
「もはや意味が分からないけれどもういいや。シスコン中のボクは何でも聞くよ」
「事件についてもう一つ。物証は“ほとんど”無かっただけで、完全に無かったわけではない。
道路に残された足跡、バイクに残された打撃痕。それらはかなり特徴的なものだった」
「特徴的? でも、足跡くらいでそんなに沢山の事は……」
「小さいのよ」
「えっ」
「あぁ、苗木君の事ではなくて、足跡と打撃痕の方よ」
聞き返さなければ良かった……。
いや、でも霧切さんの事だから唐突にボクの身長を貶してきても不思議ではない。
「道路にめり込ませる形で残された足跡、バイクにめり込ませる形で残された拳と足の跡。そのどちらもがかなり小さなものだった。
小さいと言っても相対的に言わないと伝わりにくいかしらね。具体的に言えば、苗木君の手や足よりも小さかったのよ」
「えっ!?」
思わず驚いてしまう自分に悲しくなってくる。
でも、驚くべき事実である事には変わりはないのだから仕方ない。
ボクより小さな手足って相当だぞ。小学生なんじゃないか。
あ、いやいやいや。
男子高校生でも、一期上には花村クンとか九頭龍クンとか居るし!
あの人達は絶対ボクよりも小さいはずだ!
「同時に、怪我人の負傷箇所も低い位置に集中していたみたいね。幸い性器をやられたという人は居ないらしいけれど」
「それは何より……とも言ってられないか。じゃあ本当に小柄な人なんだ」
「加えてこの場合、一番重要なのは、現場に残されている痕跡が全て同じ大きさであるという事よ」
「……それってまさか」
「単独犯……という事にならないかしら」
「ま、待って待って! その痕跡って手形にしても足形にしても、ボクより小さいんだよね?
そんな小柄な人が一人で関東最大の暴走族を壊滅させるなんて考えられないよ!」
たった一人で暴走族に立ち向かうだけでも常軌を逸しているのだ。
ただ、そこだけ考えれば決してありえない事とは言えない。ボクはそういう事ができる人間も居るという事を知っている。
例えば超高校級の格闘家。例えば超高校級の軍人。
彼女達であれば、一人で大所帯に立ち向かう画もそれほど違和感はない。
それでも、だ。
いくら何でも、ボクより小柄でそんな事が出来る人なんて普通に考えてありえるのか。
仮にその光景を目撃している人が居たとすれば、それは相当に異様なものに映るのだろう。
……異様?
普通ではない。常識から見て、異なる様。
それって。
「そう。例えばあなた。吸魂鬼もどきである苗木君であれば、同じような事が出来るんじゃないかしら」
「なっ、ボクはそんな事」
「分かっているわよ。言ったじゃない、現場に残された足跡を始めとする痕跡は、あなたのものより小さかった、って。
私が言いたいのはそういう事ではなくて、小柄な人間でも暴走族を壊滅させられる可能性は考えられる、という事よ」
「……怪異」
「的外れだと思う? 私はまだ怪異に関してはほとんど掴めていないと言ってもいい所だし、何かおかしかったら遠慮なく言ってもらいたいのだけど」
何でもかんでも怪異のせいにしてはいけない。
それはよく分かっているつもりだし、霧切さんだってきっとそうだ。
でも、今のところ明らかになっている情報について考えてみると。
どうしてもその結論がもっともらしいと思えてしまう。
たぶん、霧切さんは霧切さんであらゆる事を考えたのだろう。
怪異以外の、ありとあらゆる可能性を模索してみたはずだ。
それでも、どうしても怪異という結論が一番可能性が高いと思った。
だから、こうしてボクに話して意見を求めてきたのだ。
怪異に対して、ある程度の認識を持っている、その存在を知っている、ボクに。
「……ありえると思う。怪異なら体型と力はあんまり関係ない事も多いし」
「あなたもそう思うのね。それなら話を進めるわ。
次に問題となってくるのは、犯人は小柄な怪異そのものなのか、それとも怪異の力を借りた小柄な人間なのか」
「怪異か、人間か」
「前者だとしたら私に出来る事はあまりないかもしれないわね。こう言うのは癪だけれど、葉隠君の領分だと思う。
でも、後者だとしたら。私の時と同じ、怪異の力を借りた人間の仕業だとすれば。私も何かしらの成果はあげられるはず」
「だけど、怪異が関係しているのだとすれば、それこそ危険が……」
「危険な現場も今までいくつも経験してきたわ。それに、私としては怪異について知らないままでいる事の方がよっぽど危険だと思うわ。
この件にここまで入れこむのは、クラスメイトの事があるから、という理由だけではなく、怪異について知りたいという理由も大きい。
まだ決まったわけじゃないけれど、怪異が関わっている事件というのはそんなに多いものではないはずだから、逃したくはないのよ」
好奇心、探究心の塊。
この世には無数の真実があり、それを掴みとっていく。
周りに対して明らかにするわけではない。彼女は調べた成果を発表する事に何の価値も感じないのだろう。
自分で知って、自分で満足してしまうのだ。
彼女は自分の中に“謎”というカテゴリーを作らない。
どうして、という疑問を持ったら、それには必ず何かしらの納得できる答えを出している。
それはケータイの仕組みだとか、テレビの仕組みだとか、身近なものも含まれるのかもしれない。
そして、それと同様に。
怪異についても、疑問があれば徹底的に調べるつもりなのだ。
ボクはそんな彼女は危ういと思う。
きっと彼女はボクにこんな心配をされたくないだろうし、実際怪異関係で危ない目に遭っているのはボクの方が多い。
だけど、どんな理由があったとしても。
やっぱり怪異というものは、惹かれてしまう事はあっても、自分から飛び込んでいくものではないと思うから。
「霧切さん、ボクもキミの捜査に協力させてもらえないかな」
「……ふふ、私だけじゃ不安?」
「少し、ね。キミの力を信用していないわけじゃないんだ。でも、相手が怪異っていう事もあるし」
「分かったわ。相手が相手だというのはもっともだし、あなたの力も必要になるかもしれない。
私はいつも通り好き勝手に調べ回るから、もし私が危ない目に遭いそうだったら、体を張って守ってね」
「……出来ればキミ自身でもあまり無茶はしてほしくないんだけど。何度も腕ふっ飛ばされたくはないし」
「あの時の苗木君、格好良かったわよ」
「え、そ、そう?」
「えぇ、あれなら舞園さんもメロメロよ」
「本当に!?」
よし、俄然やる気が出てきた!
舞園さんをメロメロにする為なら腕の一本や二本安すぎる!!
……とまぁ、冗談は置いておいて。
いや、少しは本気も混ざっているけれど。地球表面に対する海の割合くらいには。
霧切さんが心配だから、もちろんそれも理由の一つだ。
だけど、それだけじゃない。
昨日の大和田クンと不二咲さんの一件。
原因が怪異であったとして、それは無関係ではない気がする。
つまりは、ボクにも責任があるという事で、とても人任せにする事なんてできない。
霧切さんとの会話はそこで終わりになる。
朝のホームルームの時間。黒板の前にある教壇には、珍しい事に学園長が立っていた。
「みんな、混乱するのは分かるが、一度静かにしてほしい。こちらからも連絡事項はあるし、授業も通常通り進めていくつもりだ」
ざわざわざわざわ、と。
教室のざわめきはその声で収まる事はなかった。
事情が事情だ。無理もない。
ここで教官の一声で静まり返るのだとすれば、それは軍隊か何かのような協調性を求める事になるだろう。
学園長もそれは分かっているのか、その後は特に言葉も発せずにただ黙り込んでいた。
その時。
「君達、先生が教壇に立っているのだぞ。私語は慎みたまえ」
ハッキリとした、芯の通った声が教室に響き渡った。
ざわめきが小さくなる。
それは何も、彼が、石丸クンが教師以上の統率力を持っているとかそういう事ではないのだろう。
ただ、彼がその言葉を言ったという事実。
誰よりも大和田クンと仲良しの彼がそう言ったという事実。
それが大きい。
いや、それが全てで統べている。
この空間を。
「彼は……兄弟は強い男だ。この程度で心配していては逆に怒られてしまうだろう。
皆が兄弟の事を心配してくれているのは嬉しい。とても嬉しい。このクラスを、僕は誇りに思う。
だからこそ、兄弟の事を学校生活が疎かになってしまう理由にはしたくないのだ。分かってほしい」
その言葉で、教室が完全に静まり返った。
石丸クンの言葉はみんなに届き、伝わった。
みんな、大和田クンの事が心配なのは同じなのだ。
石丸クンは、大和田クンだけではなくクラス全員の事を想っている。
それはきっと簡単な事ではないだろう。でも、彼自身はそれを当然の事のように受け止めている。
フィクションの世界にはよく居るような人でも、実際には全く居ない。だからこそ、超高校級。
まぁ、元々興味なさそうな人も若干名居るのは確かだけれど。
具体的に言えば十神クンとかセレスさんとか。
それに、クラス全員がこの場にいるわけでもなかった。
大和田クンはもちろん、その他にも一人。
不二咲千尋さんが、休んでいた。
+++
放課後。
流石に全ての授業に完全に集中する事は出来なかったけれど(そもそも普段から出来ていない)、とにかく何事もなく一日が終わった。
本来なら、ここから大和田クンのお見舞いへ行く流れだけれど、現在は面会謝絶となっているらしく、それも出来ない。
だけど石丸クンは他にもするべき事があると考えているらしい。
「不二咲君の様子が心配だ!」
ビシッと力強く宣言する。
彼の一言一言は、聞いているとまるで無理やり背筋を伸ばされるような感覚さえ抱いてしまう。
不二咲さんが休んだ理由。
学園長は体調不良とだけ言っていたけれど、おそらく大和田クンの件が堪えているのだろう。
石丸クンもそこはよく分かっているらしく、彼女を訪ねて何とか励ますことはできないか、というわけだ。
でも、問題が一つ。
「男子である僕が、学校を休んだ女子の部屋を訪ねるというのは倫理的にいけない! 誰か女子で付いてきてもらえる者は居ないかね!?」
「いいわ、それなら私が行きましょう」
「霧切さん?」
彼女が真っ先に名乗りを上げた事に、失礼ながら驚いてしまった。
いや、別に、彼女がクラスメイトの為に動くことがそこまでおかしいと言うつもりはない。
確かに以前までなら珍しいとは思ったかもしれないけれど、今はそういう事があってもおかしくはない。
ただ、状況が状況だ。
彼女は何を優先するべきかという事を考えて行動するタイプなので、てっきりこれから捜査の方に乗り出すものだとばかり思っていた。
すると彼女は声を潜めてボクに告げる。
「これは捜査の内よ。あなたもついてきなさい」
「え、不二咲さんのお見舞いが……捜査?」
「あら。今回の事件は不二咲さんと大和田君の関係が何かしらの影響を与えた。あなたもそう考えていると思ったのだけれど」
「それは……」
その通りだ。
だけど、ボクは一度だって、彼女にその事を言っていなかった。
大和田クンと不二咲さん。二人の事についてはボクが勝手に誰かに話していいような事でもない。
それに、昨日の体育倉庫でのあの一件が、大和田クンのチームの壊滅と繋がっているというのも何の根拠もなかった。
ただの、勘。
勘にしてはどこか自分の中に確信めいたものの存在は感じざるをえないけれど、それにしたって自信を持って言えるような事ではない。
「そんなに驚くような事ではないでしょう。昨日の大和田君と不二咲さんの様子がおかしかったのは知っているわよ」
「あ……そっか。そこは知っているのか」
「まずはイレギュラーな事態について調べる。基本よ」
「分かった。石丸クン、ボクも行くよ!」
声をヒソヒソ声から普通の大きさに戻して伝える。
すると彼は快く頷いてくれた。
「うむ、それでは僕達三人で行こうか!」
「あ、私も行くよ。不二咲ちゃん心配だし」
そう言うのは朝日奈さんだ。
いつも明るく笑顔のムードメーカー。『超高校級のスイマー』。
今は状況が状況なので、流石に笑顔というわけでもないけれど。
そして、スポーツ少女らしい引き締まった体付き。
一方で、出る所はかなり出ている。
……なんか、この言い方はオッサン臭い気がするなぁ。
葉隠クンの悪影響を受けてしまったに違いない。葉隠クンが悪い。ボクは悪くない。
「いや、あまり大勢で押しかけても逆に迷惑になってしまう! 君の心配する気持ちはきちんと伝えておくので、ここは僕達に任せてくれたまえ!」
「むぅ、それもそっか」
「ごめんなさい朝日奈さん。このお見舞いは三人用なのよ」
「いや霧切さん、そんなスネオみたいに言う必要はないと思う」
「うーん、それじゃあさ、不二咲ちゃんにはちゃんと水分とか栄養とか摂るように言っておいてよ。
あの子、お昼もいっつもコンビニまで買いに行って、その上、少食で水とかも全然飲まないからさー」
「あれ、購買部に行かずにわざわざ南地区のコンビニまで行ってるの?
それなら朝登校する時に買って行けばいいのに。長い間常温に置いたものを食べるのに抵抗があるのかな」
「私はそこまで気にしないけどねー。うん、同じ事訊いてみたけど、何だかはぐらかされちゃったよ」
「むぅ、しかしそれはいかんな! よし心得た、彼女には必ず伝えよう!!」
「あと石丸。不二咲ちゃんの前であまり大きな声出さないでね。あの子も色々とキツイんだから」
「うっ……りょ、了解した」
確かに石丸クンは基本的に声が大きい。
ハキハキと話すことは良い事だとは思うけれど、体調が優れない人にとっては色々とキツイだろう。
そんなわけで、ボクと霧切さんと石丸クンの三人で不二咲さんの様子を見に行くことになった。
割と珍しいスリーマンセル。別に戦ったりするわけではないけれど。
「苗木君」
教室を出ようとした時、舞園さんが話しかけてきた。
いつもの、みんなを笑顔にする笑顔で。
にこにこと。
ボクは霧切さんと石丸クンを先に行かせて。
ジト目で何を言うか分かったものではない霧切さんを特に警戒しながら先に行かせて。
他に残っていたクラスメイトも、別にボクに気を回したわけではないだろうけれど、それぞれ教室から出て行く。
二人きりだ。
これから舞園さんと話す。
舞園さやかさんと話す。
可愛すぎる舞園さんと二人きりで話す!
「やぁ舞園さん。何か用かな?」
「ふふ、苗木君、ちっちゃい子が無理して大人ぶっているみたいで可愛いです」
「いきなりひどいな!?」
でも、嫌な感じはしない。
むしろいい。もっと言って。
「えっと、別に大した話ではないですけど……最近は物騒ですし、苗木君も気を付けてくださいね」
「え……あぁ、うん。舞園さんもね」
「大丈夫ですよ私は。苗木君と比べれば全然安全です。もう何なら、私自身が安全地帯と言っても過言ではありません」
「そ、そう……」
「私に何かするような人が居れば、黒服のSPに即座に連行されます」
「本当にありそうで怖い!」
その話が本当なら、舞園さんに迂闊な事はできない。
例えば、また彼女のスカートが風にめくられる瞬間を目撃して。
そして、今度は前回の経験を活かして反射的に写メを撮るという、密かに練習している事を実行に移せない。
あんまりだ。
来るべきその日の為に、即座にケータイを取り出して写真を撮る練習をしていたのに。
さながら、西部劇のガンマンのように。
「とにかく、苗木君には怪我なんてしてほしくないんです。私の大切な人ですからね」
「えっ、た、大切な人って……」
「苗木君はいっつも無茶しますからね。待っている方の身にもなってもらいたいものです」
「あー、えっと……し、心配し過ぎだって。大丈夫、大丈夫、別にケンカとかするわけじゃないんだし」
“大切な人”だなんて、いかにも思わせぶりな言葉にボクは動揺したりしない。
どうせ意味合い的には“大切なお友達”という事に違いない。
ふっ、甘いな舞園さん。
いくらボクがキミの事を好きだと言っても、いいように扱えると思ったら大間違いだよ。
せいぜい今夜部屋に戻った後で、今の彼女の言葉を脳内再生して舞園さん抱き枕(山田クン作。超高クオリティ)を抱きしめて、ベッドをゴロゴロとするだけだ。
言い訳しておくと、別にボクは毎日毎日その抱き枕を愛用しているわけではない。
そこは彼女の気持ちも考えて二日に一度にしている。
ただ、そこが無駄に紳士というか、少し気を使い過ぎな感じもして、ボクとしては中々に悩ましい所ではあるのだけれど。
まぁ、そんな感じに、ボクは基本的に彼女の前では純粋無垢キャラで通している。
「いえ知ってますよ苗木君が私の抱き枕で夜な夜な卑猥な事をしている事くらい」
「しまったエスパーか!!」
「まぁ実はその事に関しては、山田君からもう聞いているんですけどね。
ある日を境に、苗木君がやたら満ち足りた表情をしていたので、優しく訊いてみたらすぐ教えてくれました」
「山田ァァ!!!」
あいにく、本人はもう教室に居ない。
彼の気持ちは分かる。痛いほど分かる。
そうだよね、舞園さんに優しく訊かれたら正直に言うしかないよね。
でも、何が三次元の女の子は興味ないだ、ブレ過ぎだろ!
「ていうか苗木君、いよいよキャラを保てなくなってきましたね。
初期……という程話は進んでいないですけど、あの頃の苗木君はどこへ行ってしまったのですか」
「あの頃のボク?」
「夕暮れの教室で、霧切さんの事を心配して私に色々相談していた時とか、全然違ったじゃないですか。
苗木君は真っ直ぐで真面目な無欲な人で、常識的視点から私のボケにツッコミを入れてくれましたよ。可愛い女の子に振り回される、やれやれ系男子でした」
「そんな人は知らない。ボクはやれやれ系なんて大っ嫌いだ。
そもそも、真面目なツッコミ役のどこが良いんだか分からないよ。あぁ……ツマラナイ……」
「無理してラスボスのキャラ盗らないでください」
「あはははははははは、こんな序盤でラスボスのネタバレなんて絶望的だね! でも大丈夫! キミ達なら」
「声がそっくりな所が質悪いですね」
「うぷ、うぷぷ……いいよ舞園さん……そんな目で見られると、凄く絶望的な気分になれるね……っ!!」
「ただのドMじゃないですか。ていうか、今のモノマネ……と言ってもいいのかも分からない何かで気付きましたけど」
「気付いた? 気付いたって何クマ!」
「その七変化的キャラだって、結局はハートアンダーブレードさんのパクリですよね」
「…………」
「あとその本当の目的は、これ以上抱き枕の件について追求されたくないからですよね」
「ごめんなさい」
土下座した。
深々と土下座した。
教室で。幸いにも二人きりのこの空間で。
クラスメイトの可愛い女の子に何の躊躇いもなく土下座した男子高校生が、そこには居た。
というか、ボクだった。
今この場に他に誰も居なくて本当に良かった。
もしこんな場面を目撃されたら、残りの学園生活を花村クンみたいな変態キャラで通すはめになってしまう所だった。
危ない危ない。まだセーフ。
「はぁ……男の子というのはそういうものだとは知っていますけれど……」
「そうだ、男はみんな変態なんだよ何もおかしくない! ボクはハーレムラノベの主人公みたいなインポじゃないんだ!!」
「苗木君、さっき書いたばかりの『彼女の前では純粋無垢キャラで通している』という設定が消え失せましたよ」
「ふふ、キミもまだまだだね、舞園さん。ボクはその設定に関しては、“基本的に”という予防線はきっちり張っておいたのさ!」
「予防線の前に、周りの視線と頭の回線を何とかした方がいい気がします」
「ボクは今まで視線も死線もかいくぐって来たからね!」
「あはは、かなりウザいですね苗木君」
何だろう。こんなにも直接的に罵られているのに。
ちっとも嫌な気はしない。むしろ気持ちいいとさえ言えるかもしれない。
きっと彼女の満面の笑みが原因というわけではないのだろう。
もしも蔑むような表情で同じセリフを言われても、それはそれで興奮するのだと思う。
なるほど、こういう新たな境地を拓けるのであれば、変態キャラで行くのも悪くはないかも。
「何だかとてつもなく酷い事を考えていそうな顔です。具体的に言えば罵られて嬉しがっているような」
「そんな事ないよ。ボクは舞園さんからの心ない言葉にとても傷ついている」
「……あの、苗木君。その変態キャラは色々な意味でやめておきませんか? ただでさえ霧切さんのキャラがガハラさんに侵食されているのに」
「安心してよ。変態キャラはキミの前でしか出さないから」
「何をどう安心していいのか分かりませんし、むしろより一層身の危険を感じるのですが」
「大体さ、変態っていうのも曖昧な表現だよね」
「ちょっと待ってください。そこからの話の展開はいらないです」
「まず基準がハッキリとしない……というか、結局は人の感覚次第だからね。
例えばさ、男子高校生はほぼ全員が家で自慰をするわけだけれど、女子はその現場を目撃すれば変態って罵るでしょ?
つまりは、表に出ていないだけで、みんな大体は変態で……いや、表に出た時点で他の人達よりは高ランクの変態として認識されるのか……?」
「それはともかく苗木君」
むっ、どうやら舞園さんにとってこの話はどうでもいいらしい。
ボクとしては中々に面白い話題を振ったつもりだったのだけれど。
彼女は深く深く溜息をつきながら、若干うんざりとした表情で話を切り出した。
というか、疲れているようにも見える。
どうしたのかな、仕事も大変そうだし、心配だ。
「本来であれば、ここは私が一言二言、何だか全能感溢れる意味深な言葉を残して、すぐに場面が切り替わるはずなんですよ。
それなのに、気付けば苗木君の見たくもない本性が大公開された挙句、自らその傷を広げるという展開になっています」
「あまり話を広げすぎても畳むのが難しいからね。それならまだ傷を広げた方がマシだよ」
「いえ、話は広げなくていいですから、進めてください。早く。
あと、あなたが暴走すると、引きずられるように私まで何か毒舌キャラみたいになってしまうのでやめてください」
「……ごめんなさい」
怒られてしまった。
いや、でもまだ今朝起きてからここまでで、物語シリーズ形式で言うと20ページくらいだ。
慌てるような時間じゃない。世の中には家で妹と話すだけで80ページも消費する男も居るのだ。
まぁ、かと言ってこのまま舞園さんとの幸福な会話タイムを続けても、本筋が分からなくなってしまいそうなので。
本当に、本当に心苦しいのを我慢して、この辺りで打ち切ることにする。
「じゃあ……行ってくるよ舞園さん……!」
「学校を休んだ友達の様子を見に行くにしては、ありえないくらいに悲壮感に満ちていますね。くれぐれも気を付けてくださいね、色々な意味で」
「いや、だから別にそんな危ない事するわけでもないって。心配してくれるのは嬉しいけど」
「どうでしょうね。それではこうしましょうか。今日と明日、もし苗木君が怪我をしなかったら、私が何でも一つ言うことを聞いてあげます」
「ちょっとボク、これから明後日まで自分の部屋に引きこもるよ」
「不二咲さんの事はどうしたんですか」
……あぁ、そうだ。ボクはこれから不二咲さんの様子を見に行くんだった。
それに、霧切さんと一緒に、大和田クンの事件も調べるんだった。
何と恐ろしいんだ、舞園さんは。
たった一言で、そんなにも重要な事をボクの頭から吹き飛ばしてしまった。
とまぁ、冗談はさておき。
ボクとしては、彼女がこれだけ心配してくれるのはやはり素直に嬉しくて。
そんな彼女の気持ちを裏切らない為にも、怪我にだけは気を付けよう。
決して見返りの為だけじゃない。決して見返りの為だけじゃない。
でも、舞園さんはやけにボクが危ない事をしようとしているかのような口ぶりだったな。
そんな事を思ったのは、既に彼女と別れた後だったので、それについて訊くことは出来なかったのだけれど。
+++
希望ヶ峰学園の生徒は、みんながみんな学生寮で生活しているものとばかり思っていた。
でも、どうやら違うらしい。
大部分がそうだ、という認識は間違っていないと思われるけれど、それでも例外は居るようだ。
例えば、不二咲千尋さん。
霧切さんから聞いて初めて知ったけれど、彼女は学園近くのマンションに部屋を借りて住んでいた。
アパートではなくマンションであるという辺りが、希望ヶ峰らしいエリート感があるけれど。
まぁ、不二咲さんは『超高校級のプログラマー』で、どこかの企業にも貢献しているという話だ。
つまりは、下品な話で申し訳ないのだけれど、お金はある程度持っているのだろう。
その辺りは、葉隠クンへの借金の利子だけでも返そうと古書店でバイトしているボクとはかなり違う。
部屋のインターホンを押して、様子を見に来た事を伝えると、彼女はかなり驚いたようだった。
だけど、そこで追い返されるなんていう事はなく、笑顔で迎えてくれた。パジャマが可愛らしい。
その笑顔というのがどこかぎこちないというのはボクにも分かっていたけれど、わざわざ指摘しようとは思わなかった。
玄関からリビングへと案内される。
その途中で。
「…………」
「霧切さん? どうしたの?」
彼女は玄関の方を振り返って何かをじっと見ていた。
でもすぐに「何でもないわ」と短く答えると、すぐに視線を前に戻した。
リビングにはふかふかのソファーにカーペット。
ガラステーブルなんかもあって、小洒落た空間が広がっていた。
「な、何か飲むよね? 紅茶とコーヒーがあるけれど……」
「いやいや、君は病人ではないか! ここは僕が用意しよう!」
「ううん、大丈夫だよ。その、今日一日休んで、もう随分と良くなったから……」
本人がそう言うならば、という事で石丸クンもそれ以上は何も言わない。
確かに、不二咲さんはショックを受けている様子ではあるけれど、フラついたり熱っぽかったり、体調不良な様子は見られなかった。
人数分の温かい飲み物がガラステーブルの上に置かれる。
霧切さんだけコーヒーで、他は紅茶だ。加えて霧切さんのコーヒーはブラック。
少し前まで中学生やっていた高校生一年生がブラックだなんて、普通ならまだまだカッコつけが抜け切っていないのかな、という印象も持つかもしれない。
でも、ボクは彼女がそんな無駄な事をしない事をよく知っている。
だからきっと、ブラックは彼女の純粋な好みなんだろう。何だか霧切さんだと、別にそれも不思議じゃないなぁ。
とういうよりも、むしろキャラ的にしっくりくる。
不二咲さんはちびちびと紅茶を飲みながら口を開く。
「あの、ありがとね……わざわざ来てくれて」
「ははは、なに、クラスメイトとして当然の事だ!」
「うん、ボク達も不二咲さんの事が心配だったしさ。ほら、その、大和田クンの事もあるし……」
「……そう、だね」
「ちょっと苗木君、そうやっていきなり重い話を放り込むのは良くないわ。まずは軽く雑談から始めましょう」
……霧切さんの言っている事はもっともだけれど。
なんだろう、こうも露骨に大胆に会話を計算していると表明されると、胡散臭過ぎて胡散臭くない。
案の定というか、不二咲さんは反応に困って苦笑い。
相手を困らせてどうするんだ。
すると、雑談というワードに反応して、なぜか石丸クンが自信たっぷりに話し出す。
「ふむ、雑談か! ふふふ、それでは君達には僕の成長をしっかりと知ってもらおうか!」
「石丸クンの声調がいつも良いっていうのは知っているけれど……」
「声の調子ではなく、長く成るで成長の方だ!」
「苗木君とは無縁の言葉ね」
「ほっといてよ」
「あ、でも不二咲さんは大丈夫よ。きっとこれから成長期がくるから」
「え、あ、ありがとう……」
「ちょっと待って、どうしてボクにはこれから成長期が訪れないなんて決め付けてんのさ」
「答えは簡単。実は既にあなたにはそういう成長を止める薬を打ってあるのよ」
「はぁ!?」
「冗談よ冗談。何よその顔。私が本気でそんな事をするとでも思っていたの?」
「…………」
「思っているみたいね。でもそれは心外だわ。
もしも、万が一、いえ億が一あなたの身長が伸びて、もうそのネタでいじれなくなったとしても、その時は素直に受け止めるわ」
「本当なのかな……」
「えぇ、もちろん。代わりにロリコンとシスコンネタの方を重点的に攻めていく事にするから」
「おい」
いじらないという選択肢はないのだろうか。いや、ないんだろうな。
と、ここで石丸クンと不二咲さんが置いてけぼりをくらっている事に気が付く。
いけない、いけない。いつもの調子で霧切さんとだけ話してしまった。
それは彼女も気付いているらしく、一度小さく咳払いをして気を取り直していた。
「共通の話題、という事で言えば、クラスの事でしょうね」
「よし、それでいこうではないか! 僕としては、今のクラスについて、一つ問題点を指摘したい!」
「問題点?」
まぁ、心当たりが全くないというわけでもないけれど。
完璧なクラスだなんて、たぶんこの世に存在しない。
「今のクラスになってからもう一月以上経つが、まだまだクラスに馴染めずにいる生徒が居るという事だ!」
「それは十神君とか腐川さんとかセレスさんの事かしら?」
「うむ。ついこの間までは君もだったがな、霧切君。だがどうやら、苗木君とは上手くやっていけているようで何よりだ」
「上手く……ねぇ」
ボクとしてはそこは甚だ疑問だけれど。
「僕も……大丈夫なのかなぁ?」
「あぁ、不二咲君も少し心配だぞ! 男子とは中々に打ち解けているようだが、君はなぜだか同性である女子の方を苦手としているように思える」
「……え、えっと」
「ん、言われてみればそうかも。不二咲さんって女子よりも男子と話している事が多い感じがする」
「それを言ったら苗木君だってそうじゃない。あなたも男子よりも女子と話している事の方が多いわ」
「そ、そんな事ないって」
「そんな事あるわ。私がきちんと数値化してグラフ化してあるもの」
「怖いよ!」
「確かに僕も心配だぞ苗木君。霧切君の言う通り、君は女子との距離が毎回かなり近い。
何かの拍子でクラスメイトの誰かを妊娠させて、二人揃って中退などという結末は見たくないのだ」
「…………」
どうやらボクはクラスの女の子を孕ませるような男に見られているらしい。
凄くショックだ。ぶっちゃけ、吸魂鬼関係で化物だとか言われるよりもショック。
というか心外だ。
何だその性犯罪者は。
ボクは女子なら誰でもいいというわけじゃない。そんな事をするとしても、舞園さん相手でしかありえない。
「な、苗木君はそういう事する人じゃないと思うよぉ」
「ありがとう不二咲さん。今この場においてボクの味方はキミだけだよ」
「何を言う苗木君! 僕はいつでもクラスの皆の味方だぞ!」
「何を言っているのかしら苗木君。私はいつでも苗木君の味方よ」
「そうですかありがとう」
「分かってくれたならいいのだ。それでは、どうにも協調性に欠ける十神君、腐川君、セレス君の事について話し合おうではないか!」
「その中でもタイプ的には十神君とセレスさんの二人と、腐川さん一人に分けられるわね。
前者はそもそも協調性に欠けている事を問題とも思っていなく、一人で突っ走る……駆けて行く方が何より正しいと信じている人達」
「ちょっと前までの霧切さんみたいな?」
「えぇ、そうね。でも、私はあの苗木君との激しい夜を境に、それなりに考え直すようになった」
「なんだと!? 君はつまり苗木君とセックスをしたと言っているのか!?」
「わ、わぁ……」
「…………」
石丸クンの歯に衣着せぬ物言いに、濡れ衣を着せられているボク。不二咲さんなんて顔を赤くしてしまっている。
彼と霧切さんの組み合わせは危険だ。今この瞬間ハッキリ気が付いた。
「言い方が悪かったかしらね。激しい夜というのは、別にそういう性的な意味ではないわ。もちろん、そう聞こえるように言ったのは確かだけれど」
「ホント隙あらばボクを陥れようとするなキミは」
「そう見える? むしろ、あなたとの外堀を埋めたいという好意的なものとは思えない?」
「思えない。むしろ社会の底に埋められる危険を感じる」
「ふむ、しかしそういう事だったか。すまない、僕が勘違いしてしまったようだ」
「僕も……ごめんなさい」
素直に謝ってくる二人。
いや、この場合は悪いのは霧切さんであって、二人は謝る必要なんてないのだけれど。
それでも、こういう素直な人達は誤解もすぐに解けて安心できる。
「では、まずはセレス君と十神君のようなタイプをどうするかだな!」
「私の意見を言わせてもらうなら、どうしようもないと思うわ。
その二人は確固たる意思を持っている。セレスさんに合わせた言い方をすれば、協調性に欠ける生活に賭けているのよ」
「かけるって……賭け事の意味で?」
「えぇ。人と馴れ合わずに我が道を行く。それが正解なのか間違っているのかは分からないけれど、少なくとも彼らは正解だと信じている。
そもそも、その結果の正解不正解を決めるのは本人なのだし、要は自分で満足しているのであればそれでいいという結論になるのよね」
「……でも、そういう生き方もちょっとカッコイイかも…………」
「な、何を言う不二咲君…………むぅ、しかし正面からは否定できるものではないな。
クラスメイトに多大な迷惑をかけているわけでもないのだし、そこまで強制する権限もない……か」
本人が友達を欲していないのであれば、周りがどうこうするものでもない、そういう事を言っているのだろう。
実際に、霧切さんも彼らと同じ考えを持っていたはずだ。
でも、一つのきっかけがあって、自分でもそれが正解なのか自信がなくなってきた。
だから、彼女は少しは協調性も持ってみるという試みを行っている。
「あれ、それじゃあ腐川さんは? 彼女は好きで一人で居るっていうわけじゃないって事?」
「えぇ。彼女はただコミュ障なだけよ」
「酷いな。もっとオブラートに包んでよ」
「痛い子なのよ」
「変わってない変わってない」
「なるほど! そういう事であれば放っておけないな!!」
「でも、何ていうか……腐川さんっていつも僕達を嫌っているような目で見てて、ちょっと怖いんだよねぇ……」
不二咲さんはおどおどとそんな事を言う。
確かにそれはボクも思った。何と言うか、常に警戒されているというか。
答えたのは霧切さんだ。
「彼女は彼女でトラウマのようなものがあるのでしょう。言動からは、極端に自分に自信がないようね」
「よし、それならば僕が諦めずに努力する事の素晴らしさを伝えるしかあるまい!」
「石丸クンと腐川さんは何だか一番相性悪い気がするな……かと言って、誰が良いっていうのも……」
「うん……十神君相手なら、腐川さんも心を開いてくれそうだけどぉ……」
「むっ、なぜそこで十神君が出てくるのだ?」
「えっ、だって、腐川さんって十神君の事好きみたいだし……」
「なっ、それは本当か!?」
本気で驚く石丸クン。
たぶんこのリアクションを取れるのは、クラスで彼だけだろう。
ボクですら気付いていたのだから。
「けしからん! 不純異性交遊だ!!」
「あー、やっぱそうなるんだ」
「石丸君、男女交際は悪いものではないのよ」
「いいや、僕はそれで身を落としていく者を何度も見てきたぞ! 学生の本分である勉強ですらお粗末になる程に!!」
「うーん……でも、高校生なら恋くらいして普通だと思うけどぉ……」
「恋愛というものは元を辿って行くと、つまりは生物としてごく当たり前な生殖本能へと行き着く。そこは石丸君も同意してくれるかしら?」
「……確かにな」
何だか生々しい会話になっているような気がするけれど、とりあえず聞いてみる事にする。
「そしてそういう観点で見れみれば、学園生活における恋愛というものは、すなわち生物としての勉強の場とも置き換えられるんじゃないかしら」
「……い、いや、しかし恋愛という事であれば大人になってからでも」
「十代というのはもっとも多感な時期である事は知っているでしょう? そういう時にこそ経験しておくべき事は多いと思うけれど」
「…………」
石丸クンは黙ってしまった。黙り込んでしまった。
まぁ、そもそもが簡単に通るような主張ではない。
高校生は恋愛にうつつを抜かしている暇があれば勉強するべきだ。それを真に受ける人間は少ない。
ただ、それを納得させるように彼に伝えられる人もまた、少ないだろう。
それでも、霧切さんの事を凄いと思う前に、恐ろしいと思ってしまうのは日頃から受けている精神的ダメージの影響が大きい。
いや、だって普段はそういう口のキレっぷりが真っ直ぐボクに向けられているんだし。
「……そうだな、君の言う通りだ霧切君。確かに将来の勉強の為に恋愛をするという考えは分からなくもない。
僕も一生独り身という人生を幸せなものだとは思わないからな。だが、学校生活ではあくまで勉強止まりで、本番をするべきではないという僕の考えは変わらない」
「えぇ、そうね。無責任な妊娠は子供を不幸にするわ」
「えっと、あのさ、雑談にしては何だか凄まじく重い話になっている事に今気が付いたんだけども」
「話の内容的には恋愛っていう、高校生らしいものなんだけどねぇ……」
「そうよ、これはただの恋愛話。高校生の恋愛話で下ネタが出てこないはずがないでしょう」
「……分かった分かった。それで、その恋愛話が腐川さんの協調性の無さを何とかする鍵になるのかな?」
「十神君と腐川君が恋人関係になれば改善されるという事なのか?」
「相手が十神君だと、その辺りは望めないでしょう。私が言いたいのは、恋愛に関する相談相手よ」
霧切さんはやけに自信たっぷりに言う。
たぶん彼女もそこまで、というか全然恋愛経験なんかないと思うんだけどなぁ。
失礼だけど。
「相談相手がどうかしたの?」
「いくら腐川さんでも、自分を応援してくれると言っている人にはある程度は心を開くんじゃないか、という話よ」
「なるほど! そういう事なら僕が引き受けようではないか!!」
「石丸クン自信あるの?」
「あぁ、もちろんだ! そういう知識は山田君から得ているからな!!
女子側の視点から言うと、まずは食パンをくわえて、意中の男性にぶつかればいいのだろう!?」
ダメだこりゃ。
「そういう方面なら、やっぱり苗木君が一番なのでしょうね」
「え、ボク? ダメだって、全然。桑田クンとかじゃないの、そこは」
「いえ、苗木君の今までの戦績を見れば頷けるはずよ。舞園さん、戦刃さん、そして私を攻略したあなたならね」
「す、すごいや苗木君……」
「攻略って……人を女たらしみたいに言うのやめてよ……」
「みたいじゃないわ、実際にそうなのだから」
「違うってば!」
「こら苗木君! 僕も恋愛関係にうるさく言う事はやめるつもりだが、それでもそんな何人も取っ替え引っ替えというのは不潔だぞ!!」
「もう面倒臭いなぁ!!!」
ていうか少なくとも舞園さんは絶対に攻略出来てない。
もし彼女を攻略出来ていたら、子供だってとっくに出来てるだろうし。
「……しかし、僕は無力なものだな」
「えっ?」
いきなり落ち込んでシリアスモードな石丸クン。
落ち込みたいのは謂れのないキャラ付けをされつつあるボクの方だ。
「いや、こうしてクラスメイトの力になりたいと思っても、空回りしがちでな。
実を言うと、僕自身も友人関係は希薄なもので、それ程偉そうな事は言えないのだ」
「そ、そんな事ないよ!」
否定したのはボクでもなく、ましてや霧切さんでもなく。
不二咲さんだった。
あまり聞いたことのないような大きな声で、必死に。
「不二咲君……?」
「だって石丸君は大和田君に兄弟とまで呼ばれて……石丸君と話している時の大和田君、とっても楽しそうだよ!」
「……あぁ、兄弟には感謝しているよ。彼のお陰で僕は友達の大切さを改めて、いや、初めてしっかりと教えられたのだ。
今ではクラスメイト全員と彼のような間柄になりたいと思っている。中々に難しいものだが、目標が見えている分、努力のしがいもあるものだ」
「そういえば、大和田クンと石丸クンって何か勝負したんだっけ? それで仲良くなったとか聞いたけど」
「そうだ、サウナで我慢勝負をな!」
「サウナ……」
見れば、不二咲さんがやけに真剣に石丸クンの話を聞いていた。
そうか、話が彼の事になれば、真剣に聞くというのは何もおかしくない。
一方で、急に口を挟まずに聞く側に徹底し始めた霧切さんにも、少し疑問を持つ。
どうしたんだろう。
もしかしたら、この話が昨日の事件に関係していると考えているのか。
「やはり男は裸の付き合いというのも重要だという事だな! お互い全てを出し切って、妙にスッキリした気分になったぞ!」
「……そ、そっか」
ここで変な事を考えてしまうのは山田クンのせいだ。
彼のせいで妙な知識を持ってしまったからにすぎない。
不二咲さんはやけに深く考え込んでいる様子だ。
「裸の付き合い……かぁ……」
「言っておくが、もちろん男女間でそんなものは必要ないぞ! あ、いや、全く必要ないとは言わんが、それはまだまだ高校生には早すぎるだろう」
「でも……男同士だと必要なんだよねぇ?」
「あぁ、そうだな。というわけで、今度は苗木君にも付き合ってもらうぞ!」
いきなり話を振られて少し面食らう。
「え、あー、うん。別に構わないけれど……」
「よし決まりだ! ははは、楽しみだな!!」
まぁ、特に断る理由もない。
例え同性同士であっても一緒にお風呂に入る事に抵抗がある人は居るみたいだけれど、少なくともボクは気にしない。
「いたっ!」
唐突に、足に痛みが走った。
ボクと石丸クンが裸の付き合いの約束をしたから、霧切さんが嫉妬して足を踏んできた……というわけではない。
何だろう。何かを踏んだような。ガラスか何かかな?
石丸クンも不二咲さんもきょとんとこちらを見ているけれど、ボク自身もよく分からない。
すると、隣から唐突に霧切さんがボクの足元から何かを拾い上げてしまった。
「そういえば、石丸君と同じように、不二咲さんにとっても大和田君は一番のお友達なのよね」
あれ、いきなりその話にするんだ。
それにしても、霧切さんが黙っていた時間はそんなに長くなかったはずだけれど、何だか久々に声を聞いたような感覚を抱いてしまう。
これはもしかしてボクが無意識に彼女の声を求めて……いやいや、そんなわけないか。
彼女の言葉からは、もはやトラウマ的な何かが蓄積されている勢いだし。
とりあえず、今度はボクが黙って話を聞いてみようかな。
「そうだよ……大和田君は僕ともよく話してくれて……」
「憧れだった?」
「……うん」
「はっはっはっ、流石は兄弟だ! あの男らしい人柄は、自然と人を惹きつけるものがあるのだろう!」
「大和田君とはどんな話をしていたのかしら?」
「えーとぉ、バイクの話とか、チーム同士の抗争の話とか、強い人の話とか!」
「それは不二咲さんに分かるの……?」
「えへへ、実はあんまり分からないんだけどぉ……でも、聞いているだけで楽しかったよ!」
「しかし兄弟も相手が女性なのだから話を選べば良いものを……」
すると、石丸クンの言葉に、不二咲さんは微妙な表情をする。
あれ、どうしたんだろう。
今の彼の言葉はまともな意見だったと思うけれど。
「強い人……というのは、大神さんとかの話でもしていたのかしら?」
「ううん、大和田君はそういう話で女の子の話をする事はなかったよ。女の子は守らなければいけない存在であって、手を上げちゃダメだって。
だから、強い人の話をする時は男の人の事だけだったかな。この学校だと弐大君とか、後は他の暴走族の強い人達とか」
「ふむ……他の暴走族、か」
「あ……う、うん」
気まずい空気が流れる。
昨夜の事件。ニュースによると暴走族同士の抗争という事になっているからだ。
ボクや霧切さんは怪異関係だと当てをつけて動いているわけだけど、普通の人はそんなものの存在を知らない。
「こういう言い方は冷たいのかもしれないけれど、ある程度は仕方ない部分もあると思うわ。
暴走族同士の抗争、よね? そんな危険な真似を繰り返していれば、いつか大怪我を負う可能性はあった」
「……そうだな。僕も兄弟には暴力はダメだと言い聞かせねばならん。その辺りはどうも意見が合わないのだが」
「でも……でも、大和田君は正面から戦ったわけじゃないんだよ。無抵抗で、一方的に攻撃されたんだ。僕は……許せないよ」
あれ?
それは初めて聞いた情報のような気がする。
ニュースで続報でも流されたのかな。
そして、どうやら霧切さんも同じ疑問を持ったようだ。
「無抵抗……それは確かなの、不二咲さん?」
「えっ、あ、う、うん」
「む? 僕は例の事件に関するニュースや記事の情報は一つ残らず網羅しているつもりだったが……それは知らなかったな」
「えっと、僕は僕で調べて、その」
「『超高校級のプログラマー』としての能力で、警察情報でも抜き出したのかしら?」
「……ごめんなさい」
「なっ、そ、そんな事をしたのか!?」
不二咲さんの腕を考えれば、出来ない事ではない。
でも、ここで驚くべき事は、能力的には問題無くとも、そういう事を彼女がやったという事実だ。
それだけ、この事件への彼女の思い入れが強かったという事だろう。
石丸クンもそれは分かっているのか。
明らかな犯罪行為を暴露されたにも関わらず、それ以上彼女を追求する事もなかった。
この辺り、彼も彼で珍しい、というか少しは丸くなったという表現をするべきなのだろうか。
ところが、霧切さんはなおも腑に落ちないといった表情で何かを考え込んでいるようだった。
ボクは心配になって話しかけてみる。
「霧切さん? どうしたの?」
「……いえ。何でもないわ」
明らかに何でもなくはないと思うけれど……本人がそう言うならあまり踏み込んだりはしない方がいいのかな。
霧切さんは気を取り直して不二咲さんと向き合う。
「今日は体調を崩してしまったようだけれど、昨日はぐっすり眠れたのかしら?」
「え……あ、うん。昨日は、すぐに眠っちゃったよ」
「夜歩きとかは、していないわよね?」
「…………う、うん」
「何を言っているのだ霧切君。不二咲君のような人が夜に出歩くなど考えられないではないか」
「そうね。その通りだわ」
石丸クンはわけが分からないといった様子で、首を傾げている。
不二咲さんはおろおろと、視線を彷徨わせている。
そして、ボクは何となく分かってしまった。
今の霧切さんの質問の意味。彼女の頭に浮かんでいる可能性。
ただ、それが分かった所で、ボクに納得できるはずがない。
そんな事はありえない。
怪異相手にこんな事を考えるのは滑稽な事なのかもしれないけれど、どうしてもそう思ってしまう。
いや、そんな、まさか。
考えられない、というよりかは考えたくない可能性だった。
それでも、言われてみれば考えられなくはない可能性だった。
詳細はボクには分からない。
どうして霧切さんがその可能性に思い至ったのかも。
彼女がどの程度その可能性を疑っているのかも。
それからも霧切さんと不二咲さんは何度か言葉を交わしていたけれど。
ボクはただ頭の中で、その考えたくない可能性を否定する要素を探っていく事しかできなかった。
他の言葉は、頭に入って来なかった。
だって、その答えは。
あまりにも。
+++
夜。五月中旬でも、それなりに冷える時間帯。
ボクと霧切さんは二手に分かれてそれぞれ調査を続けていた。
といっても、彼女がやっている事は具体的には分からない。
彼女の中ではある程度の仮説が出来上がっている事も分かるし、その内容も何となくは想像できる。
でも、彼女はそれを口に出すことはしない。
曰く、自分の考えで周りの人の考えまで固めてしまう事を避けたいようだ。
彼女は『超高校級の探偵』。その言葉の持つ説得力は強く、『霧切さんが言うならそうなんだろうな』という感覚を植え付ける。
だから霧切さんは、その考えに確固たる自信を持てるまでは、それを口にする事はない。
あくまでボクと霧切さんは二人で情報をかき集めている段階であって。
そこから考察し、二人で検討する段階にまでは達していない。
ボクが向かっているのは占術棟だ。
つまりは葉隠クンを訪ねようとしている。
怪異関係の専門家。
そう彼を呼ぶのはなぜか躊躇われる部分もある。
実際に知識がある事は確かなのだけれど、そもそも彼の場合はそういった胡散臭い事には一通り手を付けている印象だからだ。
UMAとかUFOの話大好きだし、彼。
霧切さんが一緒に来なかった理由は割とハッキリしている。
彼女は葉隠クンの事が嫌いなのだ。
まぁ、それは無理もないと思うし、彼をフォローする事もない。
そんな事をぼんやりと考えていた時だった。
学生の生活空間である南地区から、専門棟が建ち並ぶ東地区へと向かう途中。
時間も時間なので、人通りも少なくなったその道で。
一人。いや、二人。前方に立っていた。
正確には、一人は立っていて、もう一人は担がれていた。
「ああん?」
担いでいる方の人影がこちらを向く。
街灯の光がいい具合に、その者を照らす。
小さな人だった。
ボクよりも、小さな人だった。
つまりは身長は160センチに届いていない人だった。
でも、だからといって、それが何だというのだろう。
これは別に、人間にとって身長はそれ程重要な意味を持たないという事を主張したいわけではない。
身長は大きい方がいいに決まっている。それがボクの意見だ。
この場合、ボクが身長を軽視するような表現をした理由としては。
それが、相手の脅威性を図る上で何の指標にもならないからであった。
そう、脅威だ。
虚勢ではなく、ハッキリとした脅威。
これは動物的な本能なのか、怪異的な本能なのかは分からないけれど。
ボクの体は、全力で警告を発していた。
相手は金色の刺繍が入りまくった長ランに、だぼだぼのズボン……確かボンタンというんだっけ。
加えて茶髪のオールバックに鋭い目付き。
一言で言えばヤンキーだった。
でも、そんな言葉では済ませられない、異質な雰囲気を確かに感じる。
怪しくて、異なる雰囲気を。
「……んだ、苗木かよ。はっ、ホントにオメェは運がいいんだかわりーんだか分かんねえな」
ボクの事を知っている。
でも、知り合いにこんな人の心当たりはない。
それなら、彼が一方的にボクを知っているだけなのか。
「どうしたよ、黙り込みやがって。俺がこえーのか?」
「その、担いでる人を離せ」
「ん、コイツが気になるってわけか。ははっ、相変わらずのお人好しっぷりだな、ああん?」
彼はニタニタと口元に笑みを浮かべて。
「ほらよ」
何の躊躇いもなく、飲み終わったジュースの缶を捨てるかのように。
それをボクに投げてきた。人を、投げてきた。
片腕で、軽々と、自分よりも遥かに大きい大男を。
目では反応できた。
でも、あまりにも唐突なその行動に驚き。
人を人として見ていない様な雑な扱いに現実味を失い。
結果として、その人を受け止める事が出来なかった。
どさっと、大きな音と共に、ボクの足元にその人が転がる。
そして、街灯に照らされてハッキリとその正体が見える。
いや、ボクには初めから見えていた。夜目は効く方だ。
弐大猫丸。
第七十七期生、『超高校級のマネージャー』。
彼が、全身ボロボロで、倒れていた。
「やってみると、人間って飛ばそうと思えば案外飛ぶもんだよな。
そういや、お前も大和田に文字通りぶっ飛ばされて、ボール入れのカゴにぶち込まれたりしてたっけか」
「お前が……弐大クンを?」
「おう、やったやった。俺の敵じゃなかったけどな」
「楽しいのか」
「ああん?」
「そうやって弱い人間を傷めつけて、楽しいのか」
「弱い? ちげーだろ、つかふざけんな。俺が弱い者イジメをやってるとでも思ってんのか?
俺はただつえー奴と勝負しているだけだ。確かに俺がブチのめした時点で、そいつは俺よりよえーって事が決まったかもしれねえ。
けどよ、その前は分かんねえだろ? どっちがつえーかなんて、それこそ実際にバトってみるまでは、な」
「…………」
「あぁ、心配しなくていいぜ。流石に明らかによえー奴を狙ったりはしねえからよ。けど、弐大の場合はそういうわけでもねえだろ?
見た目の話だけじゃねえ。人を見かけで判断するなってのは俺も同意見だ。ただ、そいつはつえーっていう評判も実績もあったしな」
全く悪びれる様子もない。
そもそも悪い事だとも思っていない。
強い人間は襲っても良いと、本気で思っている、確信犯。
「あー、けどよ、大和田の事は悪かったって思ってんだぜ? 割とマジで。あん時は俺も起きたばっかだったから、ちっとテンション上がっててよ。
俺の中のルールじゃ、勝負は正々堂々と、なんだけども結果的に不意打ちみてーな事になっちまった。そこは全面的に俺が悪い」
「そもそも、どうして戦う必要があるんだ」
「どうして? んー、ほら、例えばよ、スポーツで練習ばっかして本番やらないってのはつまんねえだろ?」
「それと同じだって言うのか」
「同じだ。なんか勘違いしてるみてーだけどよ、俺は何も無差別に問答無用に襲っているわけじゃねえんだぜ?
勝負には勝負の取り決めがある。ちゃんと相手が勝負を受けるまでは手は出さねえ。だから大和田の事は悪かったっつってんだ」
「つまり大和田クンは……勝負を受けなかった?」
「おい、アイツを根性なしみてえに呼んでんじゃねえぞ」
びりびりと、空気が震動した。
気迫がこちらまで伝わってくる。圧迫感。場の緊迫。
相手は、本気で目で殺そうかというような、鋭い視線を送ってきている。
「つーか、オメェはどうしてえんだ、ああん?」
「どうしたいって」
「なーんか探偵の霧切と色々嗅ぎ回っているようだが、つまりは俺を檻にブチ込みたいって事なのか?
オメェは石丸の頼み聞いて、腐川のコミュ障改善に手を貸してやってた方がずっと合ってるぜ、女たらしの苗木君」
「そもそもお前が大人しく檻に入るのか」
「どういう意味だ?」
「怪異だろ、お前」
ボクの言葉を受けて、そのヤンキー少年は。
少しの間、きょとんとした表情に変わり、そしてそれが相当幼く見えたと思えば。
次の瞬間、彼は凄惨な笑みを浮かべた。
およそ人間だとは思えなくなる程の迫力。
その表情だけで見るもの全ての動きを止めてしまうかのような、圧倒的な威圧感。
でも、ボクには耐性がある。
もっと凄まじい笑顔を、ボクは見た事がある。
「はははっ、怪異もどきでもそのくらいは分かんだな」
「……ボクの事も当然分かっているんだね」
「そりゃ俺は怪異だぜ。だが、まぁ、オメェはダメだな」
「ダメ?」
「確かにオメェはそこそこつえーのかもしれねえが、弱体化しちまってる。最初からハンデありなんて条件は納得できねえ、勝負する価値はねえ」
「それならお前も怪異だっていう時点で有利じゃないか。基本的に身体能力は人間よりも怪異の方が上だ」
「そりゃハンデじゃねえ、実力差だ。この怪異の力はあくまで俺の力だからな。オメェの場合は、その怪異の力が弱体化しているからハンデだっつってんだ」
彼は彼で、自分の中に明確なルールを持っているらしい。
ただ、無差別に襲っているわけではない、という事はかなりの収穫だ。
それはつまり、決して勝負を受けないように注意を促せば、被害は防げるという事なのだから。
ただ、あまりのんびり考えている暇はない。
地面に倒れ込んでいる弐大クンの状態が不安だ。
「ん、あぁ、別に殺しちゃいねえよ。殺しは勝ち逃げみてえで卑怯だろ?
一度敗北してから修行して強くなってまた挑んでくるっていう、少年漫画的展開を俺は求めているわけよ」
「……本当だろうな」
「本当だっての。まぁ、俺の元々のキャラ設定的にウソってのは結構ドンピシャなわけだけども、今回は話がちげえ。性別も変わってねえしな」
「えっ?」
「お、なんだそこまでは分かってねえのか。なら忘れろ。
とりあえずそんなに心配ならさっさと救急車呼んで、罪木蜜柑でも連れて来て応急処置させればいいんじゃねえの」
「お前はどうするんだ」
「次の相手を求めてブラブラと。昨日は大和田の仲間が次々と勝負挑んで来やがったから、気付けば朝なんて事になっちまったが、今日はまだまだ時間あるしな」
それはダメだ。
コイツに絡まれた時の対処法は簡単で、ただ勝負を受けなければいいだけ。
けれども、それを知らなければ真正面から受けてしまう人も居るはずだ。
たぶん弐大クンは、事前にそれを知っていても受けていたとは思うけれど。
とにかく、これ以上の被害者を出さない為にも。
何とかして、コイツを止めておく必要がある。
「ボクと勝負しろ」
「ああん? だから言ったろ、ハンデありの勝負なんざ俺の方から願い下げ」
「そのハンデは無くす。明日の夜まで時間をくれれば、ボクは力を取り戻せる」
「……へぇ? そんな事が可能なのか?」
「可能だよ。彼女に“吸って”もらえばいいだけだ」
「それなら今夜でもいいんじゃねえのか」
「力を戻してすぐ戦うよりも、一日慣らした方が全力が出せる。お前だってそれを望んでいるんだろ?」
「…………」
「それとも嫌か? 力を取り戻したボクに敵う自信がないのか?」
少しあからさま過ぎたかもしれない。
そんな不安はあったものの。
「くくく、ははははははははははははっ!!!!!」
彼は大きな笑い声をあげていた。
そしてそれもやはりというべきか、怪異らしい凄みがびりびりと伝わってくる。
手応えアリだ。
「オーケー、オーケー。オメェの魂胆は見え見え過ぎて、見透かすまでもなくスッケスケだけどよ……いいぜ、乗ってやる。
そんで、オメェをぶっ倒すまでは他の奴らに勝負しかけるなんて事もしねえ。これで満足だろ?」
自分が乗せられているという事を分かった上で、彼は了承する。
例えそこが大船でも泥船でも、躊躇いなく。
ひたすら、強者だけを求めて。
そのスタンスは、春休みに戦った彼女とも重なる…………あれ?
何か、違和感がある。
……いや、でも今はそれについて考え込んでいる場合ではない。
とにかく、ボクとしては思い通りに事を運べて満足である事に変わりはない。
たぶんこれは全然スマートな方法なんかではなく、葉隠クンなんかが聞けば呆れてしまうような解決法なんだろう。
だけど、今のボクにはこれしか思い付かない。
それこそ少年漫画のように、殴り合って、力でねじ伏せるという暴力的解決しか浮かんでこない。
そしてこれまた葉隠クンが聞いたら呆れる、というか絶対苦い顔をするだろうけれど。
苦い顔どころか、文句をマシンガンの如く言われまくるかもしれないけれど。
決闘場は、占術棟の教室、という事に決めた。
そんな具合に、続けて同じように時刻や大雑把な条件などを軽く決めて。
ボクとヤンキー少年は別れる。
ボクは弐大クンを担いで(ほとんど引きずって)、ヤンキー少年は手ぶらで悠々と。
まるで、明日の大会での健闘を誓い合ったスポーツマンのように。
今回はここまで
おや、苗木君の様子が……?
+++
流石に次の日は休校になった。
当たり前だ、学校の敷地内で生徒が襲われて大怪我を負って入院したのだ。
あの後ボクはヤンキー少年のアドバイス通り、すぐに救急車を呼んだ後、罪木さんに応急処置を頼んだ。
完全なる加害者からアドバイス、というのも今思えばおかしなものだけれど。
そして、次の日。昼下がり。
今日も頭上には雲一つない気持ちの良い青空が広がっている。
対して、ボク自身はそんな清々しい気分になれるはずもなく、口からは重苦しい溜息が溢れる。
「溜息をつくと幸せが逃げるっていうべ。まぁ、『超高校級の幸運』の苗木っちなら多少逃げても問題ないんか」
「そもそも、言うほど幸運じゃないし、ボク」
ここは占術棟の屋上。
ボクと葉隠クンは手すりに両腕を置いて、のんびりと話していた。
当然というべきか、昨日の弐大クンの件もあって、外出は禁じられているのだけども。
ちなみに霧切さんは昨夜の事件現場の調査。
その肩書のお陰で、彼女だけは特別に堂々と捜査する事ができる。
「いやいや、苗木っちは相当幸運だと思うべ。なにせ、“怪異の王”に襲われてなお、こうして五体満足で居られるんだかんな」
「正確には五体満足とも言えないと思うけれど……それに本当に幸運なら、まずそんな事に巻き込まれないんじゃないかな」
「ん……あぁ、それもそっか。はははっ、ってー事は詐欺だな苗木っち! 全然『超高校級の幸運』なんかじゃねえじゃねえか!」
「別にボクがそう売り込んだわけじゃないし。周りが言ってるだけだよ」
そうやって勝手に持ち上げられて、勝手にガッカリされるのは嫌なものだ。
期待が重い、なんて言えば、期待されているだけマシだ、という言葉が返ってくるのかもしれない。
たぶん、こんな立場にならなければ、ボクも同じような事を言っただろう。
でも、実際に言われる立場になってみて分かる。
期待というものはかなり重いものだ。
人の想いは重い。
葉隠クンは懐からタバコを取り出した。
マルボロ。赤いやつ。ボックス。
「苗木っちも吸う?」
「吸わないよ」
未成年に平然とタバコを勧める典型的なダメなオトナ。
まぁ、別にいまさら彼にそういうモラルとか色々求めてはいないけど。
ただ、葉隠クンも吸うことはなかった。
箱の中から一本取り出して咥えたけれど、そこまでだ。
ふかすだけの人はたまに居るけれど、火も付けない人はなかなか居ないだろう。
「勝算はあんのか?」
いきなり彼はそんな事を訊いてきた。
一瞬何の話か分からなかったけれど、すぐに昨日遭った怪異の話だと気付く。
「さぁ……あれがどのくらい強いのかも分からないし……そういうのはむしろキミの方が分かるんじゃないの」
「んー、どうだろうなー」
「……あのさ、やっぱりキミやる気ないよね」
「ないべ」
そう、今回彼は恐ろしくやる気が無い。
昨日の件は当然話して、この占術棟の教室の一つを借りる許可はもらえたのだけれど。
ただ、それでおしまい。
それ以上は何も訊いてこないで、我関せず状態。
無縁。無干渉。無気力。
「何で俺のやる気がないか、苗木っちは分かるか?」
「……お金にならないから」
「大正解だべ!」
「…………」
「はは……んな目で見んなって。俺の性格くらい、そろそろ分かってきた頃だろ?」
「それでも、お金なんか」
「お金なんかとは何だべ。金をバカにするとバチがあたんぞ。金は大切なもんだ」
「ボクだってそれは分かって」
「いんや、分かってねえ」
葉隠クンは咥えていたタバコをこちらに向ける。
「いいか苗木っち、金っていうのは『助け合いの証』だべ。苗木っちも好きだろ、助け合い」
「……えっと」
「まぁ聞けよ。犯罪者とかは別として、人ってのは誰かしらの役に立って金を貰うんだ。
仕事ってのはそういうもんだろ? どんなルーチンワークでも、誰かが必要としているから存在してるんだべ」
「そりゃ、そうなんだろうけれど」
「そんでもって、その誰かの役に立てた証ってのが金だ。
今度はそいつを使って飯やら何やらを買う。そんな感じに、その『助け合いの証』ってのは巡り巡って行く」
「でも子供は親からお小遣いとか貰うじゃないか」
「親は子供が可愛いもんだからな。そこに居るだけで親の役に立ってんだ」
「……へぇ」
「それによく『金では買えねえものがある』とか言うけどよ、そいつもちげーな。
例としては愛とか時間か。苗木っちはどう思う? そういうのも金で買えると思わね?」
「思わない。買えるなら舞園さんとの愛を買う為に、今頃ボクは借金取りに追われ続ける生活を送っているよ」
例えどんなに高くても、必ず買う。
そんな事は訊かれるまでもなく、当たり前すぎる事だ。
「あー、でもよ、ほら、もし苗木っちが服を一着も持っていなくて常に全裸だったら舞園っちは苗木っちの事をどう思うんだろうな?」
「変態だって罵られる」
「微妙に嬉しそうな表情に激しくツッコミてえが……とりあえず好感度的にはあんまり良くねえよな?」
「うん……まぁ」
「でも苗木っちは服を持っている。金で買ってな。つまり、金のお陰で舞園っちからの好感度が落ちずに済んでいるわけだ」
「……どうしても詐欺まがいのようにしか聞こえないんだけれど」
「時間の方も同じだ。お手伝いさん雇って身の回りの事やらせれば、それで浮いた時間は好きな事に使えるじゃねえか。
車やバイク、自転車なんかを使えば、あるいは券売機で切符を買って……今はSuicaにチャージか? とりあえずそれで電車に乗れば、移動時間も短縮できる」
「…………」
「要はウェブマネーと同じようなもんだ。現金のまんまじゃ買えねえから、まずは愛や時間を稼げるものを買うんだ。金で」
「分かった分かった、お金は素晴らしいよ」
「分かってもらえて何よりだべ」
とりあえず葉隠クンのお金に対する並々ならぬ執着心はよく分かった。
いや、それは前から知っていたけれど、よりその認識が強くなった。
分かってはいるけれど。
納得なんてできなくて。
それでも、彼を否定する事はできない。
「無償で何でもやっちまう苗木っちと俺とじゃちげーんだ。
苗木っちは誰かを助けるだけで満足感を得る事ができっかもしんねーけど、俺はちゃんとした形で欲しいもんだ」
「でも、舞園さんの時はお金にならなくても動いたよね、葉隠クン」
「ありゃ放っておくと俺にとってもデメリットがデカすぎたからな。人助けじゃねえ、自分助けだべ」
「今回はそうじゃないって事? でも、学校内で被害者が出ているんだよ?」
「苗木っちだって知ってんだろ、今回の怪異は無差別に大勢の人間を襲うようなタイプの怪異じゃねえ。それ程でけえ被害はでねえべ」
「……実際に生徒が襲われているのに」
「一人や二人だろ?」
数の問題なのか。
彼とは縁あってこうやって話す機会も多いけれど。
やっぱり、何か根本的な所から噛み合わない。
そして、これからずっと、そうなんだろう。
「はは、だから、んな目で見んなっての」
「もういいよ。確かにキミを無理に協力させるような権利はボクにはないし」
「あり、苗木っち怒った?」
「怒るよ、ボクだって」
「そりゃ世紀の大発見だべ。分かった、苗木っちに嫌われるってのは、心の友である俺としても面白くはねえ」
「よく言うよ。心の友って書いて心友とか言ってるのかな」
「神様の友達って書いて神友って書くほうが合ってるかもな。怪異ってのはみんな信仰を軸にする神様みてーなもんだし」
「ボクはそんな大それた存在じゃないよ」
「俺から見れば神様ってのは言い過ぎでも、聖人ってくらいには言えるんだけどな」
「もういいからさ」
過度に褒められるというのも落ち着かない。
というか、これは褒められているのか。何かバカにされている感が強いような。
「ボクに嫌われたくない葉隠クンは、何かを手伝ってくれたりするのかな?」
「ん、おう、そうだな。じゃ、一つ苗木っちに耳寄りな情報を伝えるとしよう」
「怪異関係の情報?」
「いんや……まぁ、間接的には関係してるんだけども」
「何だか煮え切らないね……なに?」
この勿体ぶるような口調はわざとだろう。
そういう演出。
葉隠クンはやたらそういった事を重視する。
それから彼は言う。
飄々と、気軽に、何でもない世間話のように。
「石丸っちが、『暮威慈畏大亜紋土(クレイジーダイアモンド)』に突撃しに行ったべ。ほれ、地図」
ボクは全力で駆けて占術棟を飛び出し、地図に示された場所へと急いだ。
いや、もうホント。
もっと早く言えよ!
+++
とある大きな道路の高架下。
そこは暴走族の溜まり場となっている場所らしく、柱にはスプレーでの落書きを目立つ。
頭上には道路が通っているので、太陽の光が差し込まれずに昼間でも薄暗い空間を作り出している。
そんな場所。
間違ってもボクのようなどこにでも居る普通の学生が立ち入る事はないような場所。
……吸魂鬼もどきとなってしまった今となっては、普通の学生を名乗ることに少しの抵抗があるのも確かだけれど、それはそれ。
日の当たらない場所というのは、吸血鬼の性質も取り込んだ吸魂鬼にとってはそこそこいい環境なのだろうけれど、それもそれ。
バイクが何台も止まっている。
これらは全て暮威慈畏大亜紋土(クレイジーダイアモンド)の人達のものだろうか。
ニュースを観る限りではかなりの数を破壊されていたようだけれど、また新しく買ったのだろうか。
それともどこかのチームから奪ったのか。
それとも誰かからお金を巻き上げて、そのお金で買ったのか。
その辺りはよく分からないし、詳しく訊きたいとも思わない。
今重要なのは、そのバイクが円形に、まるでボクシングのリングを作るかのように並べられていて。
その中央に、普段同じクラスで学んでいる学級委員が居る事。
そして、その学級委員がボコボコにされている事だ。
「石丸クン!!!」
走る。走り続ける。
希望ヶ峰学園からノンストップのマラソンでここまでやって来た。
距離にしてはどのくらいだろうか。フルマラソン近くあったかもしれない。
普通の状態ならこんなハイペースでそんな距離を走れるはずがない。
たぶん一キロもいかない内にへばる。元々運動は出来る方じゃない。
でも、ボクは普通じゃない。吸魂鬼もどきだ。
怪異に常識は通用しない。
だから、走れる。全力でフルマラソンを。
ただ、そのマラソンもここで終わりになってしまった。
なぜなら、行く手に人が何人も立ち塞がったので、ボクも足を止めざるを得なかったからだ。
「んだテメェ?」
「希望ヶ峰の制服じゃねえか。ならそこのバカの仲間か?」
「おう、テメェもくだらねえ事訊きに来やがったのかコラ」
いきなり思い切り因縁を付けられる。
みんながみんな、まさに暴走族といったような剃りこみを入れたり、リーゼントといったヘアスタイル。
着ているものは特攻服やら刺繍が入りまくった長ランやら。
怖い。正直ビビってる。
半分怪異のようなものなのに人間相手に怖がるなという人も居るかもしれないけれども、そういう問題じゃない。
幽霊とかよりも生きている人間の方がよっぽど怖いと言う人だって居るし。
でも、怖がってばかりはいられない。
だって、目の前ではクラスメイトが傷付けられているのだから。
「石丸クン、大丈夫!?」
「苗木君、か。ダメじゃないか、今日は学校から自室待機を命じられていたはずだ」
「それは石丸クンだってそうじゃないか! それに、どうしてこんな……」
「はは、それもそうだな。キミの言う通りだ。いよいよ僕も不良の仲間入りを果たしてしまったのかもしれない」
「こんな時に何を」
「おい無視してんじゃねえぞオラ!!」
その声はボクの近くに居た人達から発せられたものではない。
バイクで作られたリングの中。
石丸クンと対峙している大柄の男の人のものだった。
そして飛んできたのは言葉だけではない。拳も一緒だ。
至近距離から放たれた一撃。
それは寸分の狂いもなく、石丸クンの顔面を捉え、彼を後方へとぐらつかせる。
でも、決して倒れない。
「石丸クン!! くそっ!!!」
「テメェ邪魔する気かチビ!!!」
思わずかっとなって、リングの中へと入ろうとする。
一見無謀に映るこの行動も、ボクの中では十分な勝算はある。
元々の力では及ぶべくもないけれど、今のボクは吸魂鬼もどき。怪異。
普通の人間に負ける事はまずない。
いや別に自慢だとかそういうつもりはないんだけども。
でも、ボクの足はすぐに止まってしまった。
それは周りの不良達が想像以上の力を発揮して、ボクを足止めしてきたからではない。
そもそも、直接的な接触で、力で止められたわけではない。
手のひら。
リングの中から、もう何度も殴られたのが分かる程の腫れた顔で。
石丸クンが、ボクに真っ直ぐ手のひらを見せていた。
動かないでいてほしい、と。
「……どう、して」
「苗木君、君はボクの失態を見て大いに失望しただろう。学級委員として、失格だとも思ったかもしれない。
当然だ。次々と生徒が怪我をしていくのを、僕はただ見ている事しかできなかったのだ」
「そんな、石丸クンの責任じゃ」
「僕自身が許せないのだ。皆がそれぞれ精一杯努力できる環境を整える、それこそが僕が心に決めた使命。
だから、僕は動いた。学校からの言いつけを無視するという、学級委員としてあるまじき行動だと分かっていても、僕はじっとしている事なんてできなかった。
それでも僕は霧切君のような能力もないからな。こうして分かりきっている情報源を当たるしかなかったのだ」
「それでどうしてこんな状況に……」
「彼らが事件について口を閉ざしている事は知っているだろう。そこで僕は勝負を持ちかけたのだ。
もし僕が勝てば、一昨日の晩に何があったのかを詳しく話してくれるという取り決めを行ってな」
一昨日の大和田クンの事件と、昨夜の弐大クンの事件。
その二つが繋がっていると考えた石丸クンは、少しでも情報を得ようとここまでやって来た。
たった一人で。
「はは、昨日はクラスで皆に落ち着くようにと偉そうに言ったくせに、何を言っていると思うだろう。
結局の所、あれは自分に言い聞かせているに過ぎなかったのかもしれない。兄弟を襲った犯人を突き止めようと居ても立ってもいられない自分に対して、な」
石丸クンは自嘲気味にそう言う。
ボクはそんな彼を笑うことなんてできるはずがない。
「僕はこの行動を取った事で後悔はしていない。確かに校則を始めとした、学校からの決まり事を守る事は大切だ。
だが、その決まり事は生徒の学ぶ場を守る為のものだと理解している。だからこそ、この行動だってその目的に沿っていると考えている」
「でもキミが一人で抱え込む必要はないはずだ。だってキミも学校の生徒の一人であることには変わりないんだから」
「……あぁ、その通りだな。やはりこれは単なる理由付けに過ぎないのだろう。僕はただ、大切な友人を傷付けられた事が許せないだけだ。
だから、これは学級委員としてではなく、一人の未熟な高校生として、そして願わくば君の友人として、ワガママを聞いてもらいたい」
彼は真っ直ぐこちらを見る。
いつもの、芯の通った表情で。
「どうか、僕の好きにやらせてはもらえないだろうか」
何も言えなかった。
言いたいことはいくらでもあったはずだった。
こんなにもボロボロな石丸クンを前にして何もしないなんて事、納得できるはずがない。
でも、言葉が出てこない。
体も、動かない。
「……勝手な事言ってんじゃねえぞテメェ」
言葉を発したのは石丸クンと対峙している大男だった。
そういえば、と今更ながら思うけれど。
さっきまでの石丸クンとの会話の間、ヤンキーの人達は何も口を挟んでこなかった。
口だけではなく、拳や足なども。
会話中は敵キャラもやけに大人しくしていてくれるというのは、フィクションの世界では結構ありがちな事だけれど、ここは現実だ。
何もしてこないというのであれば、そこにはそれなりの理由があるはずだった。
この場合、その理由というのは。
おそらくだけれど、石丸クンの言葉に何か思う所があったのではないだろうか。
石丸クンと対峙している大男が口を開く。
心底気分を害された様子で。
「これは俺達の問題だ。テメェが首突っ込むような事じゃねえんだよ」
「僕の問題でもある。なぜなら、大切な友人の問題なのだからな」
「……あぁ、確かに紋土さんからテメェの事は聞いてる。だからってテメェを認めたってわけじゃねえ。
あの人と一緒に居た時間は俺達の方がずっとなげえんだ。ちょっと気に入られたからって新参者が調子乗ってんじゃねえよ」
「なるほど、君はあれか。仲の良かった友達に新しい友達が出来ると複雑な気持ちになってしまうタイプの人なのか」
「んな例えで表してんじゃねえ!」
お冠だ。
まぁでも、石丸クンの例えは中々的を射ているとは思うけれども。
「つかいつまでそんな虚勢張ってるつもりだ? なに無抵抗でやられてんだドM野郎が」
「別に僕にそういった性癖はないのだがな。性癖というよりは誇りだ」
「変態野郎だったか」
「違う違う、そういう意味ではない。暴力はいけないという信念を守り通しているのだ。
皆の努力の場を脅かすものを許さないのと同じくらい、それは僕の中では確固たるものとして根付いているからな」
「ふざけんな、そんな突っ立ってるだけで何とかできる程、世の中甘くねえ。
テメェもそれなりに鍛えてるってのは分かる。そろそろ我慢も限界だろ、かかって来いよ」
「健全な精神は健全な肉体に宿る。ただし、これは誰かに暴力を振るうためのものではない
時間があればその辺りをじっくり話し合いたい所ではあるが、残念ながら今はその時でもないだろう」
「あくまでテメェは手を出さねえってわけか」
「あぁ、そうだ。これは勝負だ。僕も君も、それぞれがそれぞれの信念をぶつけ合っているのだ」
その言葉の直後。
大男はまた一撃、石丸クンの顔面に拳を入れる。
辺りに響く痛々しい音。
その衝撃によろめき、ぐらつく体。
ど突かれ尽かれ疲れきった体。傷みきった体。
でも、倒れない。
こんなにもフラフラなのに。
倒れる気が、しない。
「……どうした、力が弱くなっているではないか」
「殴る方ってのも楽じゃねえんだよ……いい加減にしろよテメェ!」
「それはこちらのセリフだ、いい加減諦めたまえ。僕は暴力には屈しないぞ」
「何だよ……何なんだよテメェは。これは俺達の問題だっつってんだろうが。
実際にやられたのは俺達だ。無様で情けねえ姿を見せちまったのも俺達だ。 俺達で汚名返上するしかねえんだよ!」
「あぁ、そうだろう。君達の気持ちを全て理解できるとは言わないが、それでも君達がどれだけ悔しい思いをしたのかは分かる」
「分かんねえよ! テメェには何も……」
「分かるさ」
石丸クンはいつもの真っ直ぐな瞳で、目の前の大男を見据える。
「誇りを汚されたのは僕も同じだからな」
言い切る。
そのあまりにもハッキリとした物言いに、誰も何も口を挟めない。
「僕は今までずっと、本当の意味での友達を持てなかった。その事でずっと悩んでいた。
だから、嬉しかったのだ。兄弟のように、あんなに僕と話していて楽しそうにしてくれる人というのが」
「…………」
「もちろん全ての意見が合うわけではない。実を言うと合わない所の方が多い。衝突ばかりだ。
それでも、そのように正面からぶつかり合える人ができて、僕は幸せだった。以前は規則の事しか頭に無かった僕でも、変わる事ができた」
石丸クンの変化については、ボクも気付いていた。
もちろん、前までは今みたいな行動を取る事が考えられなかった、という事もあるけれど。
もっと簡単に、ボクにでも分かる所で。
彼は、とても楽しそうに学校生活を送るようになっている。
常に真剣で、張り詰めた表情だけではなくて。
普通の高校生らしい、心からの明るい笑顔もよく見るようになった。
「兄弟はきっとこんな事は言われたくないのだろうが、僕にとって彼は大切な恩人なのだ。その恩人が襲われ、怪我を負ってしまったのだ。
当然彼だけではない。他にも学校の生徒が襲われ、学校は休校となって多くの生徒が学ぶ時間を奪われた。
言うなれば、僕は同時に二つの誇りを、信念を踏みにじられたのだ。それなのに黙って規則に従って動かない、そんな自分を許せるはずがない」
「……言いたい事はそれだけかよ」
大男は拳を握りしめる。
石丸クンの言葉は伝わらなかったのか。届かなかったのか。
いや、伝わっているし、届いてはいるのだろう。
でも、止まらない。
石丸クンに強い信念があるように、ここに居る人達にだって同じように信念があるのだから。
大男は腕を振りかぶる。
全体重を乗せた、重い一撃を、躊躇なく打ち出す。
そして。
「……?」
その拳が、石丸クンの顔面を捉える事はなかった。
止まった。
石丸クンの目と鼻の先で。
大男の大きな拳は、まるで間に見えない壁でも挟んでいるかのように。
石丸クンは少しも動かなかった。
じっと目の前の男を見据えたままだった。
「テメェ、頭おかしいだろ」
「……それは褒め言葉として受け取ってもいいのかな」
「呆れてんだよ。くそったれ、冷めたぜ。これ以上相手すんのもバカバカしい。訊きてえ事聞いたらさっさと消えろ」
それは乱暴な言葉で。
およそ良いイメージなんて湧いてこないものだったけれど。
だけど、確かに認めた言葉だった。
負けを、じゃない。
石丸クンを、だ。
石丸クンはボロボロのままで、小さく口元を緩ませる。
「そうか……うむ、では訊こうではないか。一昨日の夜、君達に一体何があったのか…………おっ?」
口だけではなく、気も緩んだのだろう。
言葉の途中で体がぐらつき、そして。
どさっと、倒れ込んでしまった。
……起きない。
起きないぞ、おい。
「い、石丸クン!? 大丈夫!?」
「……気絶してやがんなコイツ」
大男は石丸クンの事を担ぎ、こちらに運んでくる。
少し意外な行動だ。
「ほらよ」
「うわっ……と」
そのまま無造作に彼をこちらに投げてきたので、慌てて受け止める。
周りの不良の人達は、小柄なボクが彼を受け止められた事に、少し驚いている様子だった。
「あ、あの……これってもしかして石丸クンが気絶しちゃったから、色々教えてくれるとかはなし……って感じなのかな?」
「……それでもいいんだけどな」
「そんな!」
「だがそれだとそいつがまた殴り込みに……いや、殴られ込みに来るだろうからな。そんな面倒はもうゴメンだ」
だから教えてやる、と彼は言う。
この人達も、その事について話すのはかなりの抵抗があるだろう。
それは警察に訊かれても絶対に話さなかった事からもよく分かる。
「ありがとう。えっと、じゃあ石丸クンが起きるのを待って……」
「んな面倒くせえ事できっか。テメェに教えといてやるから、後でそのバカに伝えとけ」
「ボクも聞いていいの?」
「仕方なく、だ。テメェもこんな所に突っ込んでくるバカだしな。ただ、あまり言いふらしたりしたらぶっ飛ばすからな」
やっぱり、というか、これは分かりきっている事なのだけれど。
この周りの人達も、みんな大和田クンの友達で、仲間なんだ。
言葉の端々から、ボクはそんな事を思った。
そして、彼は言葉を紡ぎ始める。
一昨日の夜の真相。事件の深層。
それらが、明らかになる。
大男はバイクに腰掛け、ボクは立ったまま、石丸クンを抱えたままで聞く。
「まず最初に言っておくが、俺達は犯人に繋がる直接的な手がかりを握っているわけじゃねえ。
別にこれは隠しているわけじゃねえし、ただ一昨日の夜あった事をだらだらと話すだけだ。そこは分かっとけ。
まずは、とりあえず……一昨日、紋土さんが久々に暴走(はし)るぞって言ってきた所からだな」
大和田クンがそう誘った理由。
それをボクは、知っている気がする。
「理由は訊いてねえ。訊くなって言われた。まぁ、たぶん、女関係だな」
「えっ、ど、どうしてそう思うの?」
「俺達が何年あの人と一緒に居ると思ってんだ。そのくらいすぐ分かんだよ」
しっかりとバレているようだ。
でもこれは大和田クンには言えないな。
「まぁ俺達からすれば理由はどうでもいいんだ。いや、紋土さんの落ち込みっぷりはヤバかったが、あの人は俺達に心配させないように振舞っていたからな。
だから、俺達も気にしねえように努めた。本音を言えば相談してほしいってのもあったんだが、そこはまだまだ俺達の力が足りねえって事だからな」
「力って……腕っぷしとかいう事?」
「おう。女ってのはつえー男に惹かれるもんだろ?」
「……う、うん、そうだね」
何だろう、価値観がかなり古い気がする。
種として強い個体に惹かれるというのは当然の事なのだろうけれど。
「で、俺達は暴走(はし)った。久々だったからすっげえ気持ちよかったぜ。
紋土さんが居なくても俺達だけで走る事はあるが、やっぱあの人が一緒だとちげえ」
「やっぱり大和田クンってバイクの運転とかも上手なの?」
「そりゃあな! あの人のハンドル捌きにゃ誰も…………いや」
「……? 他にも上手い人が居るとか?」
「正確には“居た”だな。それは話す気はねえ。今回の件には関係ねえからな」
何だか周りの空気が重く、暗くなったのが気になったので、それ以上は訊けない。
ボクには何でもかんでも訊き出す権利なんてない。
「俺達は適当な所で止まって適当に騒いだ。まぁ、その適当な所ってのが、一昨日の事件現場ってやつなんだけどな」
「じゃあ、そこで……」
「あぁ。俺達にあんな舐めた真似をしたヤロウが現れた」
頭の中に、昨夜遭ったばかりの怪異が浮かぶ。
「金色の刺繍が入った長ランを着た、オールバックのチビ一人だった。たぶんテメェよりチビだ」
「……でも、強かった」
「油断しなかったって言えばウソになるな。そいつは紋土さんに話があるようだった。
だから俺達はとりあえずは手を出さないでいた。ウチの決まりで、相手が一人ならタイマンってなってるからな」
「あれ、でも『紋土さんに挑みたきゃ俺を倒してから行け』みたいな展開にはならないの?」
「俺達としてもそうしてえのは山々なんだけどな。だが、紋土さんは売られたケンカは自分で買う事を決めている」
ケンカはタイマン。
そして、売られたケンカは自分で買う。
いかにも大和田クンらしい考えだ。
つまりはそれはチーム全体の決まりとなり、他の仲間達もそれに従う。
だからこそ、石丸クンにも一対一で戦っていたのだ。
「……それで、大和田クンは」
「一つ、これだけは紋土さんの名誉の為に言っておく。あの人は余計な事は言うなって感じなんだろうけどな。
紋土さんの様子はどこかおかしかった。そのチビと相対して、何かに気付いた顔をした。かなり驚いてたな」
「驚いていた?」
「おう。あの紋土さんが珍しいもんだ。しかも、ケンカ相手を目の前にして、殺意まで解いちまった」
殺意て。
彼らにとってケンカっていうのはもはや殺し合いに近いのか。
「紋土さんはチビからの先制攻撃を受けた。腹に拳で一撃。まぁ、あのチビじゃ紋土さんの顔面を殴るのは無理があったからな。
けど、威力はヤバかった。あぁ、そこは認めるしかねえ。とんでもねえ力で、アイツは紋土さんをふっ飛ばした」
「大和田クンはその一撃で……」
「そうだ、気を失っちまった。無理もねえ、ありえねえくらいに飛んだからな。あの大柄がだぜ。
人をあんなにも簡単に吹っ飛ばせる人なんざ、紋土さんや大亜さんくらいだと思ってたからな」
「大亜さん?」
「……何でもねえ、忘れろ。とにかく、それで紋土さんはやられちまった。その後、残った俺達全員が順に勝負を挑んだが、誰も勝てる奴は居なかった」
その口ぶりからして、一人一人タイマンであの怪異に挑んだのだろう。
それはチームの決まりであり、彼らはそんな状況でも、貫き通した。
そして、あの惨状。
全てを壊され、引き裂かれた事件現場。
普通の人間は、怪異には敵わない。
「これが俺達が知っている事の全てだ。とても犯人に辿り着けるようなもんじゃねえと思うけどな。
もしそうだったら、とっくに俺達がアイツにリベンジしてる所だ」
「じゃあキミ達も今犯人を探しているんだね」
「おう。言っておくが、止めたって無駄だぞ。負けっぱなしで黙ってられるかってんだ」
あの怪異は怪異で、自分の中にルールを持っている。
つまりは、勝負するにしても、相手側の了承を得られない限りは襲ってきたりはしないという事だ。
でも、彼らには勝負を受けないようにと言ってもダメみたいだな。
だとすれば、とにかく早くボク達の方で解決するしかない。
これ以上被害が出ないようにする為にも。
「……分かった、話してくれてありがとう。後で石丸クンにもちゃんと伝えるよ」
「テメェもそいつも、変わった奴だ」
「え?」
「普通に考えてありえねえだろ、俺達みてえな奴等に突っ込んでくるなんてよ。
俺達の中のイメージでは、希望ヶ峰なんてのはエリート中のエリートで、そんな根性ある奴なんざいねえと思ったけどな」
「うーん……そんな難しい事じゃないと思うよ。ボクも、石丸クンも、ただ友達が心配なだけなんだ」
「……友達、か」
不良達は、どこか遠くを見る目をする。
「これは絶対紋土さんに言うなよ。正直言うとな、俺達はちっとばかし不安だったんだ。
希望ヶ峰っつー所に入って、俺達の名前は更に全国に響いた。それは喜ばしい事だ。けど、それで紋土さんも変わっちまうんじゃねえかってな」
「変わっちゃう?」
「いや、分かってんだ。俺達だっていつまでもこんな事は続けられねえってな。それこそ今だけだ。オトナって奴になるまで、な。
いつかは俺達もこんな馬鹿騒ぎは出来なくなる。個人差はあるだろうが、結局は真っ当に生きていかなければいけなくなる」
「それは……まぁ」
「けどよ、紋土さんは俺達とは違って、希望ヶ峰で将来を約束された身だ。だから俺達よりもオトナって奴になっちまうのも早いんじゃねえかってな。
一昨日も、一緒に暴走(はし)れるのは後どのくれえなんだろうって考えちまったもんだ。こんな事知られたらぶん殴られちまうんだろうけどな」
ボクには彼らの気持ちが完全に分かるとは言えない。
暴走族になんて入った事はないし、バイクだって乗ったこともない。
だけど、何となくだけれど、想像する事はできるかもしれない。
夢みたいなもの。
昨日の一昨日の体育の授業中に霧切さんと話したような、将来に対するものではなく。
今、現在。それが彼らにとっては夢の中に居るようなものなのかもしれない。
気の許せる仲間と一緒に自由に走る。騒ぐ。
それはきっと何よりも楽しい事なのだろう。
夢はいつか覚めるものだ。
でも、そうやって見ていた夢は、きっと自分の中で力になっていくはずなんだ。
「大和田クンはさ、学校でも自分のチームの事を本当に楽しそうに話しているんだ。だから、彼にとっても、この場所は大切なものには違いないんだ」
「そっか。あぁ、分かってんだそんな事。あの人が俺達の事も大切に思ってくれている事なんてのは、良くな」
「それに、例えオトナになってそれぞれ違う道に進んだとしても、こうやってみんなで騒いだ思い出っていうのは消える事はないと思うよ。
その、あまりボクが偉そうな事を言えたものでもないんだけれど、楽しい思い出っていうのは、やっぱりそういうものだと思うしさ」
「…………」
「だから、こうやってみんなと居た思い出も、オトナになった大和田クンを、それにもちろんみんなを、作っていくものなんだよ、きっと」
「……はっ、んだよ先公みてーな事言いやがって」
「ご、ごめん、そういうつもりじゃなかったんだけど……」
「だがまぁ、別にズレた事言ってるわけじゃねえな」
どこか、周りの人達の空気が緩んだ気がした。
ずっと、余所者を警戒しているようなものが、少しだけ。
それはあくまでボクの気のせいかもしれないけれど。
「紋土さんもやたら楽しそうに学校の事話してんよ。
正直言うと俺達は気に食わねえ部分もあったが、まぁ、ここまでバカな奴等だったら、それも少しは納得できた」
せいぜい紋土さんに気に入られ続けるようにするこったな、と言葉を閉じる。
これはたぶん訊けば勘違いだと怒鳴られるのだろうけれど。
その声は随分柔らかいように、聞こえた。
+++
その後ボクは気絶した石丸クンを病院へと運んだ。
学校側にバレるとより一層拘束が厳しくなりそうだったので、ボク自身の素性は分からないようにはして。
……でも、今から思えば、それってかなり怪しいよなぁ、ボク。普通に犯人みたいじゃん。
そんなこんなで今は学校に戻ってきている。
ここはオレンジ色の夕陽が差し込む占術棟。その四階の一番奥の教室。
以前霧切さんに葉隠クンを紹介した場所で、天井には諸事情から大穴が空いている。
ボクの他には霧切さんと江ノ島さんだけ。葉隠クンはどこに居るか分からない。
そして江ノ島さんは相変わらず一言も話さないので、自然と部屋に響く声はボクと霧切さんのものだけになる。
彼女にはもう昨日の事は話してあるので、先程の石丸クンの一件について説明する。
「ごめんなさい、私のミスよ」
霧切さんはまずそう言った。
彼女にしてはとても珍しい、本当に申し訳なさそうな表情で。
「私の考えでは、今回の犯人の標的はあくまで大和田クン、そしてそのチームだと思っていた。
だから、大和田クンの居る病院周辺は警戒していたのだけれど、まさか学校内の生徒を直接狙ってくるとは思わなかった」
「え、じゃあ昨日霧切さんはその病院を見張っていたの? 一晩中?」
「警察に言っても、怪異なんていうものの説明は困難だと思ったから。私がやるしかないでしょう。
途中で弐大君も同じ病院に運ばれてきたから、そこでやめるわけにもいかなかったし」
「そんな、ボクにも言ってくれれば……」
「張り込みは慣れが必要だから……でも、意味はなかったようね。結局犯人は病院には現れず、この学校の敷地内で人を襲ったのだから」
一晩中、という事はほとんど寝てもいないのだろうけれど、霧切さんは疲れた様子を見せない。
その辺りが、彼女の言う“慣れ”というものなのだろうか。
霧切さんは、急に鋭い目付きでボクの事を見る。
「苗木君。今回の犯人について、予想はついてる?」
「……何となくは」
小さく息を吸い込む。
「不二咲さん、だよね」
自分の口から出てきた言葉なのに、どうも他人事のように思えてしまった。
それだけ現実味がない。
一夜にして関東最大の暴走族を壊滅させ。
一夜にして大神さんに次ぐ実力者とも言われている弐大クンを倒す。
それを不二咲さんがやったというのだ。
普通の人が聞けば、たぶんボクが頭でも打ったのかという印象を抱くのだろう。
ただ、そもそもといった所で、この件が普通とはかけ離れたものであるという前提があれば。
例えば、怪異なんていう、常識や運命から外れた存在が関わっているとすれば。
考えられない事の幅は極端に狭まる。
つまりは、考えられる事が広がるという意味でもあり、それだけ犯人を特定する事は困難になるようにも思えるけれど。
だけどその点は、霧切さんが得意とする所の、論理的な推理で補っていく。
現実的な論理と怪異の知識。その二つを合わせて考える。
「正直な所、きっかけは霧切さんなんだよね。昨日、不二咲さんの部屋に行ったとき、キミが何か彼女を疑っていたようだったから」
「でも、私が疑っているからあなたも疑う、そんな話ではないのでしょう?」
「うん、もちろん。ボクもボクなりに考えて、確信ではないけれど、当たりは付けた。
まず身体的特徴は合致しているからね。その、うん、ボクより小さい知り合いっていうのは中々居ないし……」
「自分で言って自分で落ち込むというのも面白いわね。大丈夫よ、天地がひっくり返ったら、あなたにも成長期が来るかもしれないわ」
「そんなレベルでありえない話なの!? あ、いや、違う違う、それはどうでもいいんだ。どうでも良くはないけれど、今はどうでもいいんだ」
ボクの身長についてはそれはそれで深刻な問題だけれど、差し迫ったものではない。
「不二咲さんが怪しいと思い始めたのは昨夜、ボクが怪異に遭ってからだよ。
それまでは、霧切さんが彼女を疑っているのは知っていたけれど、ボクも同じようには思えなかった」
「その怪異、不二咲さんを思わせる特徴でもあったのかしら? 苗木君には腰の形で人を判別できる力があるとか?」
「そんな力は持ってない……外見だけじゃとても不二咲さんだなんて思えなかったよ。
いや、外見だけじゃなくて性格もかな。唯一共通点があるとすれば、それこそ身長くらいだった」
昨日の怪異と不二咲さん。
その二つを結びつけて考える事は難しい。
たぶんボクでなくとも、例えば彼女の親でさえどうか分からない。
だけどボクは、二つを結びつけるものを確かに見つけた。
それは。
「昨日のボクと怪異の会話はもう話したよね?」
「えぇ、口調は随分と不二咲さんのイメージとは離れているようね」
「うん……でも、気になる言葉もいくつかあった」
「それは?」
霧切さんの目が細められる。
話の核心が近い。
「まず、あの怪異は“ボクや霧切さんの事を知っていた”。
他のみんなはともかく、ボク達の事を知っている人となると、学園関係者と考えるのが自然だと思う」
超高校級の学生というだけあって、希望ヶ峰学園の生徒は入学前から有名なのが普通だ。
でも、例外はある。
例えば一般的な高校生から選ばれた『超高校級の幸運』。
例えば家の誇りからその素性を隠してきた『超高校級の探偵』。
この辺りはネットの情報を調べても出てこない。
知っているとなれば学園関係者。
教職員だったり、もっと身近な所で。
クラスメイト、とか。
「これ以外にも、彼女が犯人だと考えられる発言はあった。いや、そっちの方がより確信を持てるものだった。
昨日遭った怪異の言葉の一つ、『そういやお前も大和田にふっ飛ばされて、ボール入れのカゴの中にぶち込まれたりしたっけか』」
一言一句同じというわけではないけれど、大体の意味的にはこれで合っている。
そして、重要なのはその内容。
「これは一昨日の体育の授業の後の片付けで、体育倉庫の中で起きた事なんだ。その場に居たのはボクと大和田クンと……不二咲さん」
「……なるほどね」
「それに、他にもあの怪異は、昨日の不二咲さんのマンションでの会話を知っていた。
石丸クンが話していた腐川さん云々の事も、当然のように会話の中で使ってきた」
「そこまでいくと、あえて罠にはめようとしているような印象も受けるわね。隠す気ゼロじゃない」
「えっ」
彼女の言葉に呆然としてしまう。
正直、そこまでは考えていなかった。
なるほど、こういう所が馬鹿正直と言われる原因という事なのか。
霧切さんはそんなボクをくすりと笑う。
「まぁ、でも、事件に関与しているというのは確実ね。苗木君にしては良い推理よ」
褒めてくれた。やった。
と、喜んだのもつかの間。
「証拠がない辺りが減点対象だけどね」
「うっ」
「性懲りもなく毎日牛乳を飲んでいる所も減点対象だけどね」
「そこは許してよ!」
お腹を壊しても手にしたいものはあるんだ!
「……と、そんな事言っている場合じゃなかった。どうも苗木君と話していると適度にいじらないといけないという義務感を覚えてしまうわ」
「いじめ、かっこ悪い」
「そのCMに出ていた人ってタクシー運転手をいじめて逮捕されたわよね。つまりは誰も本当はそんな事思っていないのよ」
「暴論だ!」
「冗談よ、いじめは良くないわ。でも苗木君、あなたはいじめられて喜ぶタイプの人間じゃなかったかしら?」
「違う。これ以上ボクに変な属性を付けないでよ」
「でも舞園さんに罵られるのは嬉しいのよね?」
「うん」
そこは否定しない。
というか、好きな子に罵られて喜ぶのは普通の感覚だろう。
霧切さんは自分で訊いておいて、ゴキブリを見るかのような目でボクを見る。
ひどい。
「……話を戻しましょう。ロリコンでシスコンでドMで低身長な苗木君とは違って、私はちゃんとした証拠を掴んだわ」
「ちょっと待った。話を戻す前に、その不名誉過ぎる称号について」
「うるさい」
「……ごめんなさい」
何その目怖すぎる。
なんかイライラしてるみたいだ……。
「具体的な証拠を出す前に、まずは私も不二咲さんについて怪しい点を挙げることにするわ。
昨日、私達は彼女の様子を見にマンションへ向かったわけだけれど、私は最初にその玄関に違和感を覚えた」
「あ、そういえば霧切さん、玄関見て何か考えていたね」
「えぇ、彼女の靴を見ていたわ。新品のね」
「新品の……靴」
「大和田君達が襲われた事件。あの現場には、コンクリートにめり込む程の足跡がついていた。
そしてバイクにも同様の足形が見られた。そんな無茶苦茶をやれば、普通の靴はどうなるかしら」
それは答えるまでもない。
鉄板入りとかの安全靴とかならまだしも、普通の靴が耐えられるはずがない。
「まぁたまたま前日に新しいものを買ったっていう偶然も考えられるけれど、私としては少し出来すぎだと考えてしまうわね」
「あれ、でもその新品の靴を買ったのが前日とは限らないんじゃない? もしかしたら元々靴は何足か持っていたとか」
女子なんだからその方が普通な感じがする。
だけど霧切さんは首を横に振って、
「彼女が他の靴を履いている所は見たことがないわ。学校の時も、あと休日に偶然何度か見かけた時もね」
「よく見てるね……」
「探偵だからね。趣味は人間観察……と言うと引かれるから黙っているけれど」
「今ボクに思い切り言ってるけど」
「今更苗木君に対して取り繕っても本性バレまくっているのだから仕方ないじゃない」
「開き直ってる!」
「でも“他人に興味はない”よりかは、まだ“趣味は人間観察”の方が痛くはないと思うのだけれど、どうかしら?」
「うーん……」
どうだろう。
確かに人間観察っていうのは、つまりそれだけ他人に興味関心を向けているという事で、そこまで冷たいというわけでもないのかもしれないけれど。
でも何ていうか、“他人に興味はない”にしても“趣味は人間観察”にしても、他人を見下している感があるんだよなぁ。
結論を言えばどっちもどっちかな。
「でもさ霧切さん、確かに不二咲さんが偶然このタイミングで新しい靴を買ったっていうのは出来すぎかもしれないけれど、決定的な証拠とは言えないよね?」
「えぇ、もちろん。この辺りは前置きみたいなものとして聞いてくれればいいわ。私はそういう順序を大事にしているから。
彼女の怪しい点は発言の中にもあった。覚えているかしら、『大和田君は無抵抗で、一方的に攻撃された』っていう彼女の発言」
「あぁ、うん。それは警察が公表していない事で、不二咲さんが警察から情報を抜き出したんだよね。霧切さんと同じように。
でも、それって何かおかしいの? 不二咲さんは『超高校級のプログラマー』だし、そういう事をできても不思議ではないと思うけど」
「おかしいわね。けれどそれは彼女の能力を疑っているわけではないわ。ここで重要なのは――」
そこで霧切さんは言葉を切ってから一言。
「当の警察だって、大和田君が無抵抗かどうかだなんて分かっていない事なのだから」
……そういう事か。
霧切さんは明らかに違法な手段で警察の情報を抜き取った。
そこから現在の捜査状況などは全て把握している。
だからこそ、分かる。
警察がどこまで掴んでいて、捜査はどこまで進んでいるのか。
その上で、不二咲さんの『大和田君は無抵抗で攻撃された』という情報。
それはまだ警察も掴んでいないものであって。
ならば不二咲さんは、一体どこからその情報を手に入れたのだろうという疑問が出てくる。
警察も知らない情報であるなら、その真偽も確かめる術はないかのようにも思える。
でもボクは、その情報が真実だという事を知っている。
大和田クンのチームの仲間から聞いた話の中で、そんな事実が出てきたはずだ。
彼らがそう簡単に話すとは思えない。
となると……。
「そして三つ目、これが決定的な証拠。覚えているかしら苗木君、あなた昨日不二咲さんの部屋で何かを踏んで痛がったわよね?」
「覚えてる覚えてる。でも何を踏んだのかは分からずじまいだったけどさ。そういえば、その時霧切さん、何かを拾っていなかったっけ?」
「えぇ、それこそが決定的な証拠なのよ。あの時苗木君が不幸にも……いえ、幸運にも踏んづけたそれがね」
「災い転じて福となすってやつ……?」
「案外あなたの『超高校級の幸運』という才能の本質も、そういった所にあるのかもしれないわね」
霧切さんは口元に薄い笑みを浮かべてそう言う。
何だかな……仮にそうだとしても素直に喜べない才能だ。
「それで、何だったのそれは」
「一見すれば何のものかも分からない小さな破片よ。だからあの後鑑識の方に回して見てもらったの。
あぁ、別にそんな警察機関に頼ったというわけではなく、この学校内でね。幸い、そのくらいの事なら出来る人は居るから。結果は……」
何となく、予想できた。
それはたぶん霧切さんも同じだったはずで、調べてもらったのは確認の為に過ぎないのだろう。
そして、彼女は言う。
「バイクの破片、だったわ。警察の鑑識結果と合わせて、例の事件の時に破壊されたものと一致したわ」
「……その警察の鑑識結果もまともに手に入れたものじゃないよね」
「あら、そこを気にするの? 苗木君、身長は仕方ないにしても、せめて人間だけは大きくないとダメよ」
明らかな犯罪を見逃すことを人間が大きいと言うかどうかは疑問だけれど、彼女の言う事はもっともかもしれない。
ここで重要なのはそこではない。
というか、彼女であれば手続きを踏めば普通に閲覧できる情報だとは思うけれど、その辺りの手間も惜しいという事だろう。
「それはつまり、不二咲さんの部屋に大和田クンのチームのバイクの破片があったっていう事だよね」
「えぇ。普通ならこの時点で逮捕するには十分な証拠が上がったと言えるわ」
「た、逮捕って……」
「何かおかしいかしら? これは立派な傷害事件じゃないかしら」
「それは……そうだけど」
だとしても。
不二咲さんがこんな事をしたのはそれなりの理由があるはずだ。
それを言えば、そういうのは裁判で言うことだと言われるかもしれない。
その言い分は正しいのだろうし、言い訳するのは見苦しい。
でもボクは言い訳をする。
見苦しくても暑苦しくても構わない。
ただ自分が心苦しいから、それだけでしかなくとも構わない。
「この件は、怪異が絡んでいるんだ。だから、その、普通の事件じゃないんだし、普通の法律でも裁けないものだと思う」
「法律で裁けないから、裁く必要はない、という事かしら?」
「いや、怪異自体は裁けなくても捌かなくちゃいけないよ。問題は人間の方なんだけど……」
怪異を捌ける人。
つまりは、その存在を認識している人。
ボクが知っている限りでは、ボク以外では霧切さん、舞園さん、葉隠クン、セレスさん、大神さん、狛枝クン。
一方で怪異に憑かれた人間の方はどうするべきか。
「落とし所はみんなで決めよう。加害者も被害者もよく話し合って、それで」
「じゃあ、不二咲さんはともかく、今回被害に遭った人達にも怪異の存在を教えるの?
怪異を知れば怪異に曳かれやすくなる。出来る事なら一生知ることがない方が幸せなものなのでしょう?」
「……そうだね。警察とかに言わないのも、信じてもらえないだろうからっていう事よりも、怪異の事が公になるのがマズイんだ。
信じることで怪異は生まれやすくなる。それこそ妖怪大戦争じゃないけれど、大混乱になってもおかしくない」
「葉隠君の受け売りかしら」
「うん。でも、流石に当事者には言っておくべきなんじゃないかって。
そりゃ危険はあるけれど、やっぱり実際に被害に遭った以上、納得させないままっていうのもさ」
「その辺りは相手側の反応次第ね。結局は第三者を介さずに、当事者だけで収めようっていう話なのでしょう?
とにかく苗木君。あなたは不二咲さんを今すぐ警察に突き出すような真似はしたくないという事でいいのね?」
霧切さんの言葉にしっかりと頷く。
きちんとした事情も理解しないまま、怪異の事も理解していない第三者に任せる事なんてできるはずがない。
それは任せると言うよりかは、無責任に丸投げにするといった方が正しい。
ボクは怪異を知っている。
知っている者には知っている者の義務があるはずだ。
……あれ。そういえば。
「ていうか、不二咲さんを警察に突き出さなければいけないとしたら、霧切さんもそうならない? ほら、この間の」
「怪異絡みではすぐに警察という選択肢はありえないわね。流石苗木君、分かっているじゃない」
「…………」
何という切り替えの早さ。
いや、別に彼女を警察に連れて行きたいっていうわけじゃないけどさ……。
「まぁとにかく、そういう事ならやっぱり大丈夫そうね」
「大丈夫?」
「入って来ていいわよ」
がらがら、と。
二人しか居ない教室には、扉を開く音もよく響く。
そしてその向こう。
扉が開いたという事は、そこには開けた人が居る。
霧切さんの言葉から、予め待機していた人が居る。
不二咲千尋さんだった。
おどおどと不安げな表情で。
まるで悪い事をして職員室に呼び出された生徒のように。
彼女は、そこに居た。
+++
外は大分日が傾いていて、夕陽が窓から、天井の穴から差し込み部屋をオレンジ色に染めている。
彼女の、不二咲さんの表情は影のせいもあってか、とても暗く見える。
ごくりと、生唾を飲む。
ボクはまだ不二咲さんのスタンスを理解していない。
これまでの流れから、彼女が大和田クンの事件について自分で何も分かっていないというわけではない。
少なくとも、自らの犯行を隠そうとした意思はあった。
これは不二咲さんの性格上考えにくい事だけれど。
もし、彼女が怪異と協力関係にあり、自発的に事件を起こしていた場合。
次の瞬間、口封じにボクと霧切さんが襲われるという可能性だって否定はできない。
「え、えっと、不二咲さん。いつからそこに?」
「結構前から……霧切さんにここで苗木君との話を聞くようにって……」
「えぇ。誤解しないで苗木君。不二咲さんは盗み聞きをしていたわけではないわ。私が意図的に聞くように促したのよ」
「でも、それなら最初から不二咲さんも交えて話していれば……」
「この場に本人が居ると話しにくい事も多かったでしょう。それをあえて不二咲さんに聞かせたかったのよ。
例えば、不二咲さんが犯人だった場合、苗木君はそれを受けてどんな行動に出るのか、とか」
霧切さんはそこで言葉を区切って。
「不二咲さん、自首しようとしていたのよ」
驚いて不二咲さんの方を見る。
彼女は瞳を泳がせながらも、真っ直ぐこちらを向いていた。
「全部分かってる。僕が……全部やったって」
「不二咲さん……」
「本当は昨日の時点で言い出すべきだったんだ。でも、言えなかった。そのせいで、弐大君まで……!」
「不二咲さんは事件現場まで来て、そこに居た警察に全てを打ち明けようとしたわ。でも、私が止めた。
まず常識的に考えて警察がその言葉を信じるとは思えなかったし、怪異の事を公にするのが正しいかどうかも判断できなかったからよ」
「だからボクがどう判断するか見たかった、か」
本当であれば葉隠クンが一番なんだろうけれど、彼はこの件についてはやる気が無い。
だから霧切さんは、知っている限り一番怪異と関わっていそうなボクの意見を参考にした。
そしてそれを不二咲さんにも聞かせて、何とか思い留まってもらおうとしたんだ。
なるほど、納得。
「不二咲さん。さっきも言ったけれど、怪異っていうのは知れば曳かれやすくなるものなんだ。
だから罪悪感はあっても、ただ白状すればいいっていうわけでもない」
「……うん」
嫌な言い方だっていうのは分かってる。
ボクとしてはそういった理屈なしでも、不二咲さんが今回の件で警察に捕まるような事は望んでいない。
でも、今ここで一番重要なのは、彼女に自首を思い留まってもらう事だ。
霧切さんは警察が不二咲さんの言うことを信じる事はないと言っていたけれど、万が一という事もある。
もし彼女が抑留されてしまえば、こちらから手が出しづらくなり、更なる被害を生むことだって考えられる。
留置場の中で不二咲さんが怪異化してしまった場合どうなるか。
例えば鉄格子の破壊。その後駆けつけた警察の排除。
考えるだけでも頭が痛くなってくる。そこまでいけば完全に現行犯でアウトだ。
「じゃあ不二咲さん、これから色々と訊かせてもらうけれど、いいかな?
その、ボクも偉そうにしているけれど、別に専門家っていうわけじゃないんだけどさ」
「ううん、僕なんか自分の事なのに分かっていない事も多くて……だから、えっと、よろしくお願いします」
「あ、いやいやこちらこそ」
「何をやっているのあなた達」
なぜかお互いペコペコしてしまい、霧切さんに呆れられてしまう。
だってこうもストレートに頼られちゃったら、なんていうか……畏れ多いというか。
結局のところ、ボクはたまたま吸魂鬼もどきってだけなんだし。
とりあえず、わざとらしく咳をして切り替える事にした。
「まずは……不二咲さんは一昨日の夜初めて怪異に行き遭ったって事でいいんだよね? 以前から、というわけじゃなくて」
「うん。でも行き遭ったというか……夢に出てきた、みたいな感じなんだよね」
「夢?」
「昨日は帰ってからすぐ眠っちゃったっていうのは本当なんだぁ。その夢の中で小鬼に遭って……」
「小鬼、か」
鬼。
それはボクにとってもそれなりに馴染みがある怪異だ。
といっても、ここで何か分かるというわけではないんだけども。
「それから、その、言い訳するつもりじゃないんだけど、どこまでが夢でどこまでが現実なのか分からなくなって。
全体的に頭がぼーっとしてて、でも何となく自分のしている事は分かるんだ。靴を履いて、外に出て、それで……」
「つまり不二咲さんはハッキリとした意思を持って大和田君を襲ったわけではないのかしら? 夢心地で、それこそ本能的に、といった感じ?」
「……うん」
「トランス状態」
「えっ?」
ボクの言葉に、不二咲さんがきょとんとこちらを見る。
「確か葉隠クンが言っていた。人間に憑依するタイプの怪異は、その人の肉体と精神の繋がりを曖昧にしてしまう事が多いらしい」
「へぇ、苗木君からそういう学のある言葉が出てくるのは珍しいわね。トランスなんてせいぜいゲームとかしか連想しないと思っていたわ」
「まぁたまたまそういう話を聞いていただけなんだけどね。前までは霧切さんの言う通りゲームくらいの印象しかなかったよ。FF9とか」
「そこでファイナルファンタジーの最終作を挙げる辺りは見直したわ」
……うわぁ。
この人、9以降はFFだと認めない人だ。
すると不二咲さんもおどおどと、
「ぼ、僕はFFの最終作は6だと思うけどぉ……」
「なんですって?」
「待った待った。それは後で」
こういう話は長くなる上に白熱する。まともに話していたらすぐ夜になってしまうだろう。
それはマズイ。
「それで、不二咲さんはたぶんそのトランス状態だったと思うんだけど……」
「心理学的な意味では表層的意識よりも深層心理の方が表に出るような状態を言ったりするわね」
「……深層心理」
不二咲さんはポツリと反芻する。
確認するように。確信するように。
ただ、何だろう。
その言葉は自分自身に向けたように見えるけれど。
でも、どこか、自分以外の誰かに話しかけているようにも感じた。
その理由についてはよく分からない。単なる感覚的なものだ。
ボクは舞園さんではないので、人の些細な動きから心の中までは読めない。
「つまり僕は心の底では……大和田君を襲いたいって思っていたっていう、事なのかなぁ」
「それは……!」
違う、という言葉が出てこない。
否定したい。でも、その根拠が出てこない。
何の裏付けもない言葉は気休めにもならない。
でも不二咲さんは弱々しくも笑った。
さっきまでは目を伏せて、暗い表情をしていたのに。
「ありがとう、苗木君。でもやっぱり、目を逸らしちゃダメだと思うんだ。逃げちゃ……ダメだと思うんだ」
「不二咲さん……」
「一応言っておくけれど、その深層心理が表に出るというのは一例であって、他の場合も存在するわ。
だけど、私はその可能性のほうが高いと思うわね。苗木君は分かっていると思うけれど、私自身の例もあるし」
「……うん、まぁ、それはそうだけれど」
霧切さんの例。
彼女の怪異関係もまた、心の奥底の願い、深層心理に深く関わるものだった。
いや、そもそも怪異というものがそういうものなのだろう。
といっても、その例外というのはすぐに出てくる。
他ならぬボクの件だからだ。
ボクの場合は勝手に吸魂鬼に目をつけられて、いつの間にか巻き込まれていた。
……とはいえ、その件に関しても完全なる被害者であるかのように言うものでもない。
ボクもボクで、彼女を巻き込んだというのは確かだし。
挙句の果てには女子高生を幼女化させるなんていう事をしちゃったし。
ちらりと江ノ島さんの方を見る。
彼女は相変わらず体育座りで、下手したらこの前の霧切さんの一件の時から一ミリも動いていないようだった。
ずっと同じ体勢で疲れないのかとか気になるけれど、まぁ、今はそれよりも不二咲さんの事だ。
「でもさ、本当に不二咲さんは大和田クンを襲いたいって思っているのかな」
「どういうことぉ……?」
「結果的には不二咲さんは大和田クンを襲う形になってしまった。だけど、その理由がただ“襲いたかった”だけなのかなって思って。
人が他の誰かを襲いたい時って、やっぱりそれにも何か理由があると思うんだ。えっと、例えがあんまり良くなくて悪いんだけど、怨恨とかお金とか」
「その怨恨とか金銭問題にも何か理由があるものね。そうやって元を辿って行けば根本的な問題に行き着くわ。
まぁ今回の件の場合はお金は除外してもいいんじゃないかしら。最初に襲われた大和田君達は誰一人として財布を盗まれたわけでもなかったらしいし」
「……僕は大和田君に恨みなんてないよ。こんな事しておいて何言ってるんだって思われるかもしれないけど……僕は強くなりたかっただけなんだ」
「強く?」
「うん。それで強い人に勝ちたいって……そう、思っちゃったんだ……え、えっと、信じてもらえる、かな?」
不二咲さんはおどおどとこちらを伺う。
彼女が不安そうに尋ねてくる気持ちは分かる。
こんな言い方はないかもしれないけれど、確かに犯人側の供述はあまり参考にされない事も多い。
ボクは信じてあげたいところなんだけど……。
霧切さんの方を見る。
そういう所がシビアな霧切さんはどう考えているのだろうと気になったのだが、彼女は真剣そのものの表情。
やっぱりすんなり信じるつもりはないのかな。
ちょっと不安になっていると、霧切さんが口を開く。
「その辺りは昨日のトランス状態の不二咲さんの言葉からも裏付けできるわね。不二咲さんもぼんやりとは覚えているのかしら?」
「う、うん……その、ごめんね苗木君。色々乱暴な事言っちゃって……」
「大丈夫大丈夫、気にしなくていいって」
「そうね、苗木君はむしろもっと言ってほしいみたいよ」
「それは違うよ」
だからそういうMっ気は舞園さん限定なんだってば。
霧切さんはボクの言葉はスルーして続ける。
「トランス不二咲さんは人を襲うことを“勝負”だと言っていた。そして自分なりのルールを定めていたようね。
勝負の前に相手の了承を得る事。明らかな弱者を狙わない事。相手側のハンデを認めない事。命までは取らない事」
「……うん、確かに不二咲さんの言う通り、強さを求めているっていうのはしっくりくる。
ボク自身も、トランス不二咲さんと話していてそんな印象を受けたし」
「でも、その中に何か違和感はない? 苗木君」
「違和感?」
そういえば、何となく頭に引っかかった事があるような。
ただ、中々出てこない。
「じゃあもし苗木君がこの学校で最強だと証明したいのであれば、あなたは誰に勝てばいいと思う?」
「……そうだ、大神さんだ」
強さを追い求めているのであれば、まず彼女を狙うのが自然な流れだ。
だけど、不二咲さんはそれをしなかった。
「でもどうして?」
「えっとね、それは……」
「大和田君が、女子には手を出さないという信念を持っていたからでしょう?」
霧切さんの言葉に、不二咲さんは目を丸くして驚きながら頷く。
「お、大和田君の事よく知ってるんだぁ……」
「別に彼だけに限った事ではないわ。あなたの事もそれなりには知っている」
「……も、もしかして、その」
「えぇ、知っているわ」
「そう、なんだ……」
何か二人の間だけで話が進んでいる。
ボクはあまり聞いちゃいけないような事なのかな。女子だけにしか分からないとか。
「ちなみに苗木君の身長は160センチよ」
「だから何で唐突にボクの身長を暴露するのさ! やめてよ!!」
「いや、でも私がみんなの事をそれなりに知っているという事を証明するには」
「もっと他にもあるじゃん!」
「例えば苗木君が幼女とキスするのが趣味だったり、山田君に頼んで舞園さんの抱枕を作ってもらったりしてる、とか?」
「ごめんなさい、もう許してください!!」
酷い、酷すぎる。
心が抉れていつかグレても知らないぞボク。
たぶん霧切さんも知ったこっちゃないと思うけれど。
「あはは……苗木君って結構変わってるんだねぇ……」
「ほら霧切さんのせいでドン引きされちゃった」
「悪かったわよ。お詫びに私の身長は167センチだって教えてあげるわ」
「聞きたくないよ」
「大丈夫だよ苗木君、僕なんて148センチしかないし……」
「不二咲さんはそこまで気にしなくていいんじゃないかな。だって」
「苗木君」
「え、なに?」
「舞園さんが低身長のミジンコは死ねばいいと言っていたわよ」
「ウソだ!!!」
なんて事を言うんだ!
間違っても舞園さんがそんな事を言ってくれるわけないじゃないか!!
ていうか、今なんか話を切られたような気がするんだけど気のせいなのかな。
まぁ、脱線しまくっているっていうのは分かっているけれど。
「話を戻すわ。つまり不二咲さんは基本的に大和田君の信念に忠実に強さを求めているという事でしょう。
言い換えるならば、そうね、大和田教を信仰しているといった感じかしら」
「なんか宗教みたいな感じになると一気に胡散臭くなるなぁ……」
「あら、怪異について語る上で信仰というものは切っても切れない関係だとは思うけれど。
そういう事なら、病院を見張っていても無駄のはずね。不二咲さんにとって大和田君は既に倒した相手。
あくまで狙いは強い人。昨日お見舞いに行った時、不二咲さんは弐大君の話もしていたわね。大和田君から聞いたって」
「……という事は、次狙われるのも大和田君から聞いた事がある強い人っていう事になるのかな」
「たぶん……他の暴走族の人達になるんだと思う。学校内の人は弐大君くらいしか聞いていなかったからぁ……」
とりあえず、もうこれ以上学校内で被害はでないみたいだ。
だけど、それで安心できるわけがない。
目の前のクラスメイトが一人で暴走族にケンカを売ると知って、放っておく事なんてできない。
たぶん不二咲さんは無傷でやってのけるんだろう。
関東最大の暴走族でも平気だったんだ。そこに疑いはない。
でも、身体的に問題がないとは言っても。
彼女の内面、精神的には大問題だ。
防がなくてはいけない。
ボクは精一杯頭を働かせて考える。
「活動時間は夜だよね。怪異っていうのはそういうの多いし、今までの二回もどっちも夜に起きた事だ」
「それだけで決めつけるのは尚早じゃないかしら。逆に言えばまだ二回しか例がないのよ」
「夜に力が出るっていうのは本当らしいよぉ……」
「らしい、という事はその怪異が伝えてきたのね?」
「その、知識を共有しているっていう感じなんだよね。怪異の事について、僕も少し分かるんだ」
「え、そうなの? じゃあ彼女の事も……分かる?」
そう言ってボクは教室の隅を指さす。
正確にはそこで体育座りをしている江ノ島さんを。
人を指さすのは良くないけれど、鬼はいいのだろうか。
不二咲さんは頷く。
「うん。怪異殺しの怪異の王。絶対にして絶大にして絶望の吸魂鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードさん、だよね」
おぉ、完璧だ。
こうもスラスラ言われると、専門家であるかのようにも思えてしまう。
実際は被害者なんだけれど。
ちなみに江ノ島さんは無反応だ。
まぁ、これは大体予想できた。
「とにかく、夜までにケリをつけた方が良さそうだね。まぁ、元々あの怪異とはボクが対戦の約束しちゃってるんだけど」
「まったく、あなたはそういう後先考えない言動が目立つわね」
「だって、そうでもしないと被害が止まらないじゃないか……少なくともこれでボクが何とか抑えられれば……」
「でも……苗木君は大丈夫なのぉ? そういえば勝負に向けて体を強化してから慣らすって言っていたけど、やってないよねぇ?」
「あはは……まぁ、その辺は色々あって……でも大丈夫だよ、きっと何とかなる」
「ただ、今日の勝負で怪異を打ち負かしたとしても、それで事が終わるとは限らないわよ。下手をすればその後も何度も何度も勝負を挑まれるかもしれない」
「それならそれでいいんだ。少なくとも被害が広がることはないし。その間に何か根本的な解決法を探ればいい」
「……相変わらずのお人好しね」
霧切さんはそう言って溜息をつく。
その言葉は葉隠クンにもよく言われるし、もうなんかお馴染みになってきてしまっている。
「それでも、何か他の方法は考えておいた方がいいわね。そもそも、苗木君がその怪異に勝てるとは限らないのだから。
もし苗木君が負けてしまった場合、たぶんそのまま次の相手を探しに行くわよ。おそらく標的は、大和田君の話に出てきたような暴走族」
「ごめんなさい……僕が何としてでも止まらなければいけないのに……」
「そんな、不二咲さんだって辛いんだから……でも、そうだね。だから尚更絶対に止めないと」
「ねぇ苗木君、ハートさんに協力してもらう事はできないのかしら?
“怪異殺し”というフレーズを聞く限りでは、怪異に対して何かしら絶対的な力を持っているような印象を受けるけれど」
「……うん、江ノ島さんならたぶんどうにでもできるよ。でも、ボクと彼女は決して協力関係にあるというわけではないんだ。
どっちかっていうと、協力ではなくて共犯っていう感じで……彼女は彼女にメリットがなければ動いてくれない」
「そう」
詳しい事を話せば長くなる。
それこそ本を一冊使い切る程に。
そもそも、あまり進んで言いたいような事でもない。
だから、霧切さんが深く訊いてこなかったのは助かった。
たぶん、その辺りも配慮してくれたのだろうと思うけれど。
とにかく、ここで頭を止めるわけにはいかない。
考えて、考えて、何とか怪異を止める。
その時だった。
「なんか困ってるみてえだな?」
飄々とした声だった。
このシリアスな空気にはあまりにも似つかわない、場違いな。
だけど、ボクはその声に希望を抱いた。
疑問でも、不審でもなく、希望を抱いた。
聞き間違うはずもない。
別に昔からの馴染みというわけではなくて、ここ一ヶ月くらいの関係でしかないけれど。
その声は、今までの強烈な体験と一緒に深く頭に刻まれている。
葉隠康比呂クンだった。
この状況でもっとも必要な存在、怪異の専門家だった。
いつの間にか、彼は教室に入ってきていて、いつものニヤニヤとした笑みを口元に浮かべていた。
教室に居る全ての人が彼を歓迎しているというわけではない。
霧切さんは明らかに不機嫌そうな表情になっているし。
不二咲さんは急な出現にびっくりしたのか、おろおろしているし。
江ノ島さんは相変わらずの無表情無関心だ。
最初に返事をしたのは意外な事に霧切さん。
「いきなりどこから湧いてきたのよ」
「ひでえべ霧切っち、人を蛆虫か何かみてえに」
「……それもそうね、悪かったわ。蛆虫に」
「俺は蛆虫以下か!?」
いつものやり取りだった。
仮にも葉隠クンは霧切さんの問題を解決するのにも協力してくれたんだけれど、それはお構いなし。
まぁ、その辺りは金銭関係で済んでいて、葉隠クンの方もそれで納得しているみたいだけれど。
次に口を開いたのは不二咲さん。
「あ、え、えっと……僕……」
「分かってる分かってる。俺は怪異の専門家、そういう胡散臭い事は全部お任せだべ」
「ついに自分で胡散臭いって言っちゃったよ……ていうか葉隠クン、キミは今回手を出さないとか言っていなかったっけ?」
「いやいや苗木っち、それはあくまで金が取れない場合だべ。今のこの状況、俺はそんな事はないと判断した」
そして葉隠クンは手近にあった机の上にどかっと座り込み、尋ねる。
「不二咲っち。三十万、払えるか?」
+++
「天邪鬼」
日は西の空へと沈んでいく中、教室を照らす光はオレンジ色から茜色へと変わっていく。
夜が近い。その事に焦燥感を抱かないわけではない。
それでも、そんな状況でも彼は、葉隠クンはいつものペースで語り出す。
ちなみに三十万という額は、不二咲さんにとってそこまで大変なものでもないらしい。
それは彼女が住んでいるマンションを見ても何となく分かっていた事だ。
葉隠クンは不二咲さんの記入が終えた誓約書を持って満足気に話している。
「元々は古事記や日本書紀に出てくる、人の心を探ることに長けた天探女(あまのさぐめ)に由来しているみてーだな。
そこから転じて、そうやって人の心を読むことで、わざと意に逆らうようにして悪戯するっていう小鬼になったと言われる」
「人の心を探ることが得意だからってそんな事言われるっていうのも何だか可哀想だなぁ」
「まぁ元々天探女は伝言を伝えに来た雉を、都合が悪いからって射殺されるように図ったりするから、そこまで良い印象はなかったのかもな。
その辺りから『天の邪魔をする鬼』、天邪鬼っつーのが定着したっていう説もある。仏教だと人間の煩悩を表す鬼としても出てきてるな」
「僕は小さい頃に『うりこひめ』っていう絵本で天邪鬼を見た事あったような……」
不二咲さんは記憶を探りながら、といった様子で言う。
“売子姫”だと明らかに子供が読むにはヘヴィすぎる感じがするから、たぶん“瓜子姫”かな。
「おう、まぁそれも有名だわな。その絵本じゃ天邪鬼は人に化ける事もできるべ。
つってもあの話の一番のインパクトは、爺さん婆さんがやけに好戦的で天邪鬼をフルボッコにする所だと思うけどな」
「あれ、じゃあそこまで強くはない怪異なのかな?」
「あぁ、んな強力な怪異じゃねえ。あくまで小鬼だしな。つっても怪異は怪異だから、普通の人間が対処するのはちょい厳しいかもしんねーが。
それにほら、『学校の怪談』なんかじゃ結構な強キャラとして出てきたりするだろ? その辺もあって、ちょっとは強化されてる可能性だってある」
普通の人間では怪異を相手にする事はできない。
その辺りは、人間が大きな野生動物に対して素手では敵わないといった話に近い。
一方で専門家は怪異に対して武器を持っていて、それを駆使して上手く能力差を埋める。
その武器は知識だったり、霊験あらたかなお守りだったり。
霧切さんはゆっくりと言葉を吟味するように話し出す。
「天邪鬼というのは現代でも使われるわね。わざと反対の言動を取ったりするひねくれ者といった意味で」
「そだな、だから現代の漫画とかで出てくる天邪鬼も、その辺の性質は必ず持ってるもんだべ。
案外今時の萌えアニメとかだと、天邪鬼ってのは可愛いツンデレみてーにされてるかもしんねえ」
「言っておくけれど、私のツンデレは苗木君に対してだけであって、あなたは普通に嫌ってるわよ」
「分かってたからハッキリ言わなくてもいいべ……」
「ていうかボクに対しても、全くデレてないと思うんだけど」
「何を言っているのかしら、苗木君にはデレデレじゃない私」
「……そうかなぁ」
「うん、でも霧切さん、苗木君と話している時はとっても楽しそうだよぉ」
うーん。
不二咲さんが悪ノリとかしてくるとは思えないし、本当にそう見えるんだろうけれど。
「まぁいいや。それより本題に入ろうよ。どうすれば天邪鬼を退治できるのか」
「待て待て苗木っち、物事には順序があるべ。まずはどうして天邪鬼が不二咲っちに憑いたかっていう事の方が先じゃねえか?」
「……天邪鬼の性質、人の意に反した言動、かしら」
「流石霧切っち。たぶんそこだろうな。
不二咲っち、オメーは本心では漢らしく強くなりてえって思ってるくせに、そうやって女みてえに振る舞ってるんだよな?」
「お、女みたいって、そもそも不二咲さんは」
「うん」
「……えっ!?」
驚いた。
不二咲さんは、葉隠クンからの失礼とも取れる言葉に、真っ直ぐ頷いた。
これは彼女が本当に漢らしく強くありたいって思っているという事で……つまり?
もしかして性同一性障害……っていうやつなのか?
霧切さんと葉隠クンを見ても、とくに驚いている様子はない。
こうなると、ボクもあまり大きく反応するのも躊躇われる。
「あー、つまり、不二咲さんは本心と言動が正反対だったから天邪鬼に憑かれたっていう事?」
「それだけってわけじゃないと思うけどな。この場合、男と女って部分もそれなりに関係してくるんだろう。
天邪鬼を描いている作品の中には、性別を自在に変えられるっていう設定もあったりするからな。
さっき話した『瓜子姫』に出てくる天邪鬼の特性、モノマネも自分を着飾るっつー部分では合致してるべ」
「そ、それじゃあ、僕が自分を偽るのをやめれば……」
「そいつはもうおせーな。いや、難しいって言った方がいいか。
不二咲っち、オメー心の奥底では、ちょっとばっかし満足しちまってる所もあるんじゃねえか? 強くなった自分によ」
「っ!!」
「別にそこまで気にすることでもねえけどな。誰だって欲しいものが手に入れば満足するもんだべ。俺だって金が入れば嬉しいしな」
顔を青くして何も言えなくなってしまう不二咲さんを見て、少し直接的に言い過ぎな感じもする。
でも、その辺りを考慮している場合ではない事も分かっているから、ボクは何も言う事はできない。
葉隠クンの言う通りだ。
人は自分にないものを、欲しいと願っていたものを手に入れれば離したくないと思ってしまう事は当然。
表面上では否定しても、心の奥底までは騙す事はできない。
「とにかく、不二咲さんが自分でどうにかできないようなら、周りで何とかするしかないわね。
葉隠君。もし今夜苗木君が天邪鬼を倒すことに成功したとして、その後はどうなるのかしら?」
「天邪鬼は消える。そだな、それが一番手っ取り早いべ」
「え、倒せば大丈夫なの?」
「おう。怪異は怪異としての本分を全うできなければ消えるしかねえ。
天邪鬼は不二咲っちの建前と本心、理想と現実を逆転して、『強い不二咲千尋』ってのを構成してるべ。
だが、誰かに負けた瞬間、その設定は崩れる。設定を崩されるって事は怪異にとっては致命的だ」
「そっか。それなら……!」
「勝てるの?」
霧切さんが鋭く一言。
いや、彼女の言葉はいつだって鋭いけれど。
彼女はじっとこちらを見る。
やっぱり信用されてないのかなぁ。
でも、その姿勢は探偵としては正しいんだろう。
「勝つよ」
「言葉にすればその通りになるのであれば、世の中はここまで難しくはないわ。根拠はあるの?」
「それは……ほら、ボクって一応怪異の王って呼ばれた吸魂鬼だしさ」
「吸魂鬼“もどき”でしょう。相手は完全な怪異で、こちらは成り損ない。吸魂鬼というのは、そのスペック差を埋める程の存在なのかしら?」
「……うん。たぶん」
「たぶんって、あなたね……」
「まぁまぁ霧切っち。苗木っちの事が心配で心配で仕方ねえってのは分かっけど、こればっかはやってみねえと分かんねーよ」
「え、霧切さん、ボクの事心配してくれてるの?」
「どうしてそんなに意外そうな顔なのかしら」
……まぁ、クラスメイトの事を心配するのは至極当然の事だとは思うけれど。
でも、霧切さんが、か。
何と言うか、これは失礼なんだろうけれど、結構意外だ。そりゃ嬉しいけれども。
「私だってそんな冷酷な人間ではないわ。人並みの感情くらいは持ってる。好きな人が危険な事をするのを黙って見ている事なんて出来ない」
「えっ!?」
「何かおかしい所でも?」
「あ、いや……う、うん、ありがとう」
ビックリした。
いきなり“好きな人”だなんて言われたから、一瞬勘違いしてしまった。
あれか、“友達として”って事だよね。
危ない危ない、もう少しでモテない男の痛い所をさらけ出してしまう所だった。
もしかしてわざとだろうか。まったく、つくづく隙を突いたり意表を突いたりする事を思い付く人だ。
葉隠クンなんかはそれくらい分かってるだろうに、あからさまにニヤニヤしてるし。
「とにかく、今はそれくらいしか方法がないんだ。時間もないんだし。だからとりあえず今日はそれでいこう」
「…………」
「別に俺は放っておくって選択肢もありだと思うけどな。どうせ襲われんのは暴走族だべ」
「葉隠クン」
「分かってる分かってる、苗木っちの好きにすればいい。まぁ、殺されるって事はないらしいしな」
「うん。そのくらいで怖気づいてなんてられないよ。石丸クンだってボロボロになりながらも、何とか情報を集めようとしたんだ」
「え、石丸君がどうかしたの?」
先程まで黙り込んでしまっていた不二咲さんが、心の底から心配そうに訊いてくる。
そういえば不二咲さんには話してなかったかもしれない。
こう言うと責任を押し付けているみたいであれだけど、彼女にも関係している事だから話すべきだろう。
とりあえず時間もないのでかいつまんで説明すると、やはりというべきか、彼女は責任を感じた様子で唇を噛み締めて俯いてしまった。
それをただ見ているという事はできない。
「不二咲さんがそこまで思い詰めなくてもいいと思うよ。石丸クンだって、全てを知ってもキミを責めたりはしないよ」
「はっはっはっ、そりゃちょい過保護すぎるんじゃねえか苗木っち。怪異に関しても不二咲っちに落ち度がねえわけじゃねえべ」
「そんな言い方は……」
「ううん、葉隠君の言う通りだよ。僕が弱かったから……だからこんな事になっちゃったんだ」
「ふ、不二咲さん?」
彼女の声に、ボクは驚いた。
その内容に、ではない。それ自体はいかにも彼女が言いそうな事だ。
ボクが驚いたのは、彼女の声の大きさと芯の強さだった。
彼女の、不二咲千尋さんのそんな声調を、ボクは聞いたことがない。
少しの震えも、後ろめたさも、遠慮もない。
どこか石丸クンさえも思い起こす程の、ハッキリとした、よく通る声。
そして彼女は真っ直ぐこちらを見る。
ボクと、霧切さんと、葉隠クンを見る。
目を伏せがちな彼女が、まるで別人のように。
「聞いてもらいたい事があるんだ」
なんか長くなったからとりあえずここまで
流石に次で完結
+++
光が消え、闇に包まれた世界。
ここからは人ならざるものの時間だ。
……とまぁ大袈裟に言ってみたけれど、要するに夜になったというだけだ。
もっと言えば、別に太陽の光が無くなったからといって、今日世界が真っ暗になるという事もない。
眠らない街という言葉もあるように、夜であってもネオンなどで光が途絶えない場所も珍しくないし。
静かな教室。
霧切さんと不二咲さん、それに葉隠クンは出て行ってしまった。
というか、ボクがそうお願いした。
三人が出て行った事で、ここにはボクと江ノ島さんだけが残される。
二人きり。
江ノ島さんはいつもの――正確にはここ一ヶ月程の――無表情でじっとこちらを見ている。
何かを話すことはない。
この幼女の姿になって、言葉を忘れてしまったのだろうかという心配もある。
だけど、例え話せたとしても、彼女は話したくもないだろう。
特にボクとは。
それは言い訳しようがないし、するつもりもない。
ボクは自分の選択を後悔していない。
今同じ状況に立ったとしても、やはり同じ事をする。
だから、ボクはここで彼女とそういう話をする為に二人きりになったというわけではない。
あの春休みの出来事、加えてそれ以前。
もちろん決して忘れてはいけない事ではあるけれど、引きずっていかなくてはいけない事ではあるけれど。
あくまで目線は前へ向けられていなければいけない。
今現在ボクの目の前にあるもの。
それは当然、不二咲さんの問題だ。
これからボクは天邪鬼と戦わなければいけないので、その為に江ノ島さんの力を借りて、少しばかり吸魂鬼の力を取り戻す。
その為の方法が何と言うか、あまり人には見せられないようなものだったので、二人きりにしてもらったというわけだ。
ディメンターのキス。
血を吸って眷属を増やすのが吸血鬼である一方、キスで眷属を増やすのが吸魂鬼。
それだけ聞くと、吸血鬼と比べれば何やらロマンチックであるかのように聞こえるかもしれない。
でも、実際はそんな事はない。
むしろ、吸血鬼よりもえげつない。
吸魂鬼にとって、キスというのは目的の為の方法にすぎない。
例えば吸血鬼は血を吸う為に、首元にがぶりと噛み付く。
ここで言うキスは、その噛み付きと同程度でしかないというわけだ。
吸血鬼は噛み付いて血を吸い。
吸魂鬼はキスをして魂を吸う。
血と魂。
どちらも人間には必要不可欠であり、どちらがえげつないとは言えないかもしれない。
でも、それは間違いだ。
そもそも、眷属とは言っても吸魂鬼と吸血鬼とでは意味合いが異なる。
吸血鬼にとっての眷属とは、そこに主従関係があっても、パートナー的な意味合いが強い。
一方で吸魂鬼の眷属というのは、ロボットだ。
魂を吸われた人間は、腑抜けにはならなくとも、もぬけの殻にはなる。
二十一グラムとも言われる重さを失った人間は、何も思わないし懐わないし想わない。主はない。
ただ主人の言う通りに動く吸魂鬼になる。
例外はある。
もしもなかったら、今ここでボクがちゃんと自分の意識を持っている事の説明がつかない。
まぁ、その辺りは追々話していきたいと思う。
とにかく。
ボクはこれから江ノ島さんに“希望”を吸ってもらい、吸魂鬼度を上げる。
これをすると気分が沈んでしまうのだけれど、だからといって躊躇っている場合ではない事くらいは分かっている。
そんなわけで、ボクはこれから幼女とキスをする。マウストゥマウスだ。
ここまで言えば分かってもらえると思うけれど、何もいかがわしい気持ちはない。
この行為には完璧な理由があって、間違っても変態ロリコンのそれではないのだ。
ただ、こうして正面から向き合ってみると、やっぱり江ノ島さんは可愛い。
幼きながらも残る容姿端麗さ。日本人離れした綺麗な金髪は、月の光を受けてきらきらと輝いている。
そういえば彼女が高校生の時はモテモテだったっけ。その時とはもう随分と容姿も違うけれど。
ボクは膝をついて、教室の隅で体育座りをしている彼女と視線を合わせる。
「江ノ島さん、ボクに力を貸してほしいんだ」
返事はない。ただの屍というわけではないけれど。
彼女はこの姿になってから、本当に一度も言葉を発した事がない。
定期的にあげなければいけない、“食事”としてのキスの時も、彼女は何も言わない。
でも、ボクが彼女の前に顔を差し出し目を閉じると、自然と唇に吸い付いてくる。
男なら自分からやれという意見はもっともだとは思うけれど、彼女の意思を尊重した結果こういう形に落ち着いた。
というわけで、今回も同じようにする。
彼女の黒い瞳の中に映る自分が見える程に近付き、そして目を閉じた。
「…………」
「…………」
「……?」
何もしてこない。
唇にいつもの柔らかい感触が伝わってこない。
目を開く。
江ノ島さんは相変わらずの無表情で、ただただこちらをじっと見つめるだけだった。
……あれ?
「えっと、江ノ島さん?」
「…………」
「その、お願いだ江ノ島さん。キスしてくれないかな」
「…………」
幼女にキスをせがむ高校生。
事情を知らない人が見ればどう思うか、その辺りはあまり考えたくはない。
でも、どうしよう。
相変わらず彼女は無反応だ。
もう時間も時間なので、あまりもたもたしている場合でもない。
よし、それならこう考えよう。
きっと彼女は、たまにはボクからキスしてほしいという乙女心を持っているのだ。そういう事にしよう。
ならば取るべき行動は一つ。
「えいっ」
自分からいった。
何かのドラマで見たように、目を閉じて彼女の唇へ。
これが正解だと信じて。
ぱしん、と頬に衝撃と痛みが伝わった。
それはかなりの威力で、首を痛める勢いで顔は真横を向く。
頬に残るじんじんとした痛み。
横から頬を張った衝撃と、このシチュエーション。
江ノ島さんの方を向き直すと、彼女は右手を振り抜いたポーズで停止していた。
幼女にビンタされた。
キスしようと顔を近付けたら、容赦なくビンタされた。
ショック。
幼女からのビンタというのは、ここまで男子高校生にダメージを与えるものなのか。
相手が舞園さんだったらむしろご褒美なのに。
……何だか色々な意味で痛すぎて、居たたまれなくなってきた。
「何をしているのかしらペドフィリアの苗木君」
突然の声に、びくっと全身を震わせてしまった。
どきどきという心臓の鼓動を感じながら、考える。
この最悪のタイミングで最悪の言葉を投げかけてくる人物。
いや、もうこんな風にいちいち考える必要もないのかもしれない。
そんなの、霧切さんしか居ない。
「い、いつから居たの……?」
「少し前から。具体的に言えば苗木君が『ボクに力を貸してほしいんだ』って言った辺りから」
「ほとんど最初からじゃん!」
全く気が付かなかった。
ここの扉は開く時にそれなりの音が出るはずなのに。
と、教室を見回した所であるものが目に止まった。
天井に空いている大穴。
そこからはロープが垂らされていた。
「……もしかして霧切さん」
「えぇ、一度屋上まで行った後、ロープを下ろしてここに来たわ。音をたてないようにね」
「その行動力は一体どこからくるんだ……」
「もちろん、苗木君の痛い所を見たいという気持ちからよ」
素直だった。
やっぱりツンデレじゃないってこれ。
「収穫は想像以上だったわね。初めは苗木君とハートさんがキスをしている所を写メって、ツイッターで拡散するはずだったのだけれど……」
「何その今風のイジメ」
「でもどうやらフラれてしまったようね、ペドフィリアの苗木君」
「ま、待ってよ、そのペドフィリアっていうのはどうにかならないのかな。ロリコンと比べて犯罪性が増してる感じがするんだけど」
「まぁペドフィリアの方は医学的用語で性嗜好障害とされているから印象は悪いかもしれないわね。
それとイメージ的には少女よりも幼女寄りといった感じだし、相手は男児でも当てはまるというオールラウンダーよ」
「よく分かったありがとう。その上で全力で否定するよ。ボクはペドなんかじゃない」
「ペドと反吐って響きが似ているわよね」
「反吐が出るって言いたいのか!」
確かに男子高校生が幼女にキスしようとしてビンタされている所を見れば、そういう感想が出てくるのかもしれないけれど。
でも少なくとも事情は知っているのだから、ちょっとは温情をかけてくれたって……。
「それで、どうするの? ハートさんがキスしてくれないと、苗木君は吸魂鬼の力を得られないのでしょう?
幼女がキスしてくれないと、苗木君は力が湧いてこないのでしょう?」
「言い直さなくてもいいってば。いや、うん、そこは困った所なんだけれど……」
「無理矢理キスしちゃえば? 抵抗する幼女を押さえつけて力尽くで」
「流石にそこまで鬼畜な事はできないってば」
「鬼で畜生なのだから苗木君にはピッタリだと思うけれど」
「鬼は仕方ないにしても畜生の方は認めないぞ」
「ここで言う畜生というのは畜生道の略だと考えるのが妥当ね。
悪行の報いで死後に生まれ変わる世界、または道徳的に許されざる肉親間での色情」
「ボクは死んでないしシスコンでもない」
いや、待てよ。
春休みの事を考えれば、ボクは確かに一度そこで死んで生まれ変わったとも言えるのかもしれない。
……ダメだダメだ。
自分で自分を畜生だと思い始めてしまったら色々と終わってしまう。
「とにかく、江ノ島さんがキスしたくないっていうなら無理矢理にはできないよ。ボクはお願いする立場なんだし。
そもそもキスした所で、その後希望を吸ってボクを吸魂鬼化させるかどうかは江ノ島さんの意思に関わっているんだから、無理矢理じゃ意味ないんだ」
「そう……じゃあ困ったわね。いくら何でも、そのままの状態で天邪鬼とは戦えないでしょう?」
「……分かんないけど、やってみるしかないよ。江ノ島さんを説得する時間もない。
約束の時間に遅れてしまったら、天邪鬼は次の標的を狙いに行ってしまうかもしれない」
「…………」
「大丈夫。心配してくれるのは嬉しいけれど、まだ少しくらいなら吸魂鬼性も残っているし、相手も殺しまではしないって言ってくれてる」
「それで納得できるとでも思うの? 苗木君が私の立場だったらどう?」
「そ、それは……」
そういう言い方をされると答えに困ってしまう。
客観的に物事を考えるというのは、探偵である霧切さんにとっては自然に出来る事なのかもしれないけれど、ボクにとっては中々難しいものだ。
返事に窮するボクを見て、霧切さんは溜息をつく。
「苗木君はそういう人よね。分かってる。分かってはいても、何か言いたくはなるのよ。
この前私を救ってくれたのだって、私だからというわけではない。
それこそ見ず知らずの他人に対しても、あなたは同じように体を張って助けようとするのでしょうね」
「……困ってる人を見たら助けたいと思うのはそんなにおかしな事なのかな」
「おかしくはないわ。そのくらいの良心を持っている人というのは珍しくはないはず。
だけど、普通はその“助けたいという気持ち”と“自分へのリスク”を天秤にかけて行動に移すかどうかを決めるものなのよ。
その天秤にかけるという事自体は苗木君だってしているのかもしれない。でも、あなたにとってはその“助けたいという気持ち”が重すぎるのよ。いえ」
霧切さんはそこで言葉を切って、
「“自分へのリスク”が軽すぎる、という方が正しいわね。それってもはや生物としてどうかと思うわよ。
種として主を優先する事は生物的な本能。でもあなたは自分がどれだけ傷つこうとも、誰かを救えればそれで本望だと言えるのでしょうね。
本望が本能に優っているのよ。これは異常、異常も異常よ。フィクションならよくある事だとしてもね」
「あ、あはは……まぁでも、実際にボクは生物としてどうかっていうラインにはいると思うし、異常でもあるよ。ほら、怪異もどきだし」
「もしもあなたが吸魂鬼もどきではなかったら、同じような事はしないって言いたいのかしら?」
「…………」
「あなたは例え人間の体のままだったとしても、同じことをするわ。
私はあなたが吸魂鬼もどきになった時の事をよく知らないけれど、それでも分かる。
怪異化したから今のあなたがあるのではない、あなただったからこそ怪異化したのよ」
「ごめん霧切さん」
謝る。
ボクよりもボクの事を心配してくれる友達に。
心配をかけてしまう事に対して。
こうして自分の事を気にかけてくれる人が居るという事は幸せな事なんだろう。
きっと、超高校級なんていう言葉では足りないほどの、大きすぎる幸せなんだろう。
それを心の奥で噛み締めて。
ボクは、彼女に告げる。
「似たような事は言われた事があるよ。舞園さんや葉隠クン、それに江ノ島さんにも。
だけど、それがボクなんだ。生物としての本能に逆らっているのかもしれないけれど、これはこれでボクの、苗木誠としての本能なんだ。
異常でもいい、ただの自己満足でもいい。ボクがボクであるために、どうしてもこれは曲げることができないんだ」
思っていることはそのまま伝えた。
呆れられたかもしれない。付き合っていられないと、見放されるかもしれない。
でも、後悔はしていない。
言わなければいけない事だと思っている。
これから、友達としてやっていく為にも。
彼女はしばらくじっとボクを見た後、静かに目を閉じた。
「……いいわ、別に本気で説得できるとは思っていなかったし。あなたがそうしたいのなら好きにすればいい。
ただ、知っていてもらいたかっただけよ。あなたが傷つくことで同じように傷つく人間が、少なくともここに一人居ることを」
「ありがとう。何と言うか、意外だよ。霧切さんがそこまで直接的に心配してくれるなんて」
「あら、私は言いたいことはハッキリ言うタイプだと思うけれど」
「……それもそうだね。ボクの身長の事とか」
「そういうのは好きな子をいじめたくなってしまうっていうアレよ。本気で嫌ならもうしないわ」
「えっ、あ、いや……」
何となく照れくさくて振った話題だったけれど、更にどきっとしてしまった。
たぶん、というか絶対霧切さんにはそういう気はないのだろうけれど、しばしばこういう勘違いされそうな発言が目立つ気がする。
目立ってもフラグが立っているわけではないところがミソだ。
霧切さんはじっとこちらの目を見据えている。
……何だろう、何かを期待されているような気がする。
いや、たぶんこれも気のせいなんだろうけれど。
「苗木君、この件が片付いたら結婚しましょう」
「いきなり露骨に死亡フラグ立てようとしないでもらえるかな。その手には乗らないよ」
「じゃあ今すぐ結婚しましょう」
「どうしてそうなった!?」
もう何がしたいのか分からないよこの人。
「だって苗木君、さっきから私の言葉をスルーしてばかりじゃない」
「スルー? 何を?」
「私だって何でもかんでもハッキリ直接的に言えるわけじゃない。こういう事は経験がないから特に。
それでも、できるだけ分かりやすくは言っていたはずよ。本気で分からないのなら、それはただ苗木君が鈍いだけ」
「……鈍くてごめん。その、できればハッキリ言ってもらえないかな?」
「仕方ないわね。鈍くて鈍くてどうしようもない苗木君にでも分かるように、それこそ小学生にでも分かるように説明するわ」
本音を言うと、霧切さんが求める洞察力はかなり高いような気がして、決してボクが鈍いわけではないと思いたい所もある。
でも、ここは素直に謝って、とにかく彼女が言いたい事を聞く事が先だと思った。
霧切さんはびしっとこちらを指差した。
探偵物の漫画などでよく見るような、犯人を指し示すかのような動作。
そして、鋭い視線。
何を言われるんだボク……。
「I love you」
…………。
あいらぶゆー?
何だそれは。アメリカ語か、イギリス語か。
え、あれ?
これってもしかして告白されているんじゃないか。
ボクの英語力がそれこそ小学生以下でなければ、だけど。
いや、でも、いきなりそれはいくら何でもありえなくないか?
とは言っても、中々確認する事も出来ない。
もしも彼女が本気で告白したのだとすれば、迂闊な言葉は彼女を傷付ける事になってしまう。
彼女の表情を観察してみると…………ほんのりと頬に赤みが差している……ような気がする。
気のせい……ではないのか? それなら、本当に?
教室に沈黙が広がる。
ドクンドクンと、鼓動が速くなっていくのを感じる。
顔が熱くなってくるのを感じる。
あまり長い間この状態を続けるわけにもいかない。
外はすっかり暗くなっていて、天井に空いた穴から見える夜空には、星がいくつか光っている。
何か、リアクションを起こさなければ。
「ちっ」
舌打ち。
それは静かなこの空間によく響いた。
念の為に、ボクの名誉の為に言っておくと、間違ってもボクが発したものではない。
加えて言うと、霧切さんでもない。
まぁ、彼女の場合は、煮え切らないボクの態度にイライラして、という事も考えられるけれど。
ボクでも、霧切さんでもないとすれば。
考えられる可能性は一つだ。そもそも、今現在この教室には三人しか居ない。
ボクと霧切さん以外にもう一人居るという事実は、その人が描写の必要もない程に微動だにしないという理由から、忘れてしまう人もいるかもしれない。
でも、ボクは忘れる事はない。
そんな事は、何があってもありえない。
ボクも、霧切さんもそちらを向く。
可能性としてはもうそれしかありえなくても、それはそれで考えづらいものではあった。
だって、彼女が。
あの春休みから一言も発していない江ノ島さんが、急に舌打ちという明確なアクションを取るなんて。
江ノ島さんは、やっぱり相変わらず体育座りのまま、じっとこちらを見ているだけだった。
先程の舌打ちは幻聴だというのが、現状もっともありそうな事だと思わせるほどに。
何一つ、変化は見られなかった。
+++
怪異、天邪鬼との対決の場として指定したのは、占術棟二階の一番奥の教室だった。
扉の前には葉隠クン。そして扉の向こうには天邪鬼がいる。
「よっ、苗木っち。随分遅かったじゃねえか、てっきりビビって逃げ出しちまったんだと思ってたべ」
「もしそうだったら、キミはどうしたの?」
「仕方ねーから、俺が何とかする事になったろうな」
「……そもそも、ボクよりもキミの方が適任だと思うんだけど」
「何を言うべ。俺は人間、苗木っちは怪異もどき。か弱い俺に戦わせようとするなんて、苗木っちも鬼畜な奴だな」
「分かった分かった、ボクがやるよ。元々そのつもりだったし」
もちろん、葉隠クンの言葉をそのまま信じたわけじゃない。
というか、彼の実力はよく知っているし、彼自身も本気でボクを騙そうだとかは思っていないだろう。
能ある鷹は爪を隠す。葉隠クンは言葉巧みに隠す。
有能である事を知られる事は、決して有益な事にはならない。
彼は優越感よりも有益さを優先する。
「んん? 何だ苗木っち、ギリギリまで吸魂鬼化しなかったんか? かなりの余裕持ってんじゃねえか」
「あー、その、色々あって」
「ハートアンダーブレードに渋られたんか」
「……まぁ、うん」
「はっはっはっ! 苗木っちは子供受けするタイプだとは思ってたけど、幼女に嫌われるって事もあるんだな」
ボクとしては全然笑えない。
あの後、霧切さんに告白された後に一応は何とかキスしてもらえた。
それでも、魂を、希望を吸った量はたかが知れている。
一方で、相手の実力に関してたかをくくっているわけでもないので、正直不安で仕方なかったりもする。
これで本当に勝てるのだろうか。
いや、ここまできたら勝つしかないのだけれど。
「ハートアンダーブレードの態度ももっともだとは思うべ。
そりゃ都合のいいようにキスをせがまれりゃ、反発もしたくなんだろ。いくら運命共同体だとしてもな」
「……そっか。そりゃそうだよね」
言われてみれば簡単な事だった。
ボクは彼女の事を頼りすぎていた。
自分でも言ったじゃないか。共犯関係であっても、協力関係にはない、って。
「あとでちゃんと江ノ島さんに謝らないとな……」
「病院にぶち込まれる事になっちまったら、すぐにとはいかなくなっちまうけどな。まぁでも、苗木っちならすぐ回復すんのか」
「実際の所、葉隠クンから見て勝率はどのくらいだと思う?」
「五パーセント未満ってとこだべ」
「ひくっ!」
何となく厳しい勝負になるというのは予想していたけれど、ここまでとは。
一気に体が重くなってきた。
「そんなに力の差があるの……?」
「そりゃあな。春休みの完璧な状態ならともかく、今の苗木っちは所詮は吸魂鬼“もどき”だべ。
ハートアンダーブレードに限界ギリギリまで希望を吸わせて自分を強化したとしても、“もどき”ってとこは変わらねえ」
「怪異もどきじゃ怪異そのものには敵わない、か。霧切さんも似たような事を予想していたよ」
「流石霧切っちだべな。今回の件もかなりの所まで調べられていたみてーだし、一安心だ」
「一安心?」
「あー、こっちの話。んで、まともにぶつかればまず勝てねえと思うけど、その辺りはどうするん?」
「それならまともにぶつからなければいい」
ボクだって何一つ考えていなかったわけじゃない。
策……と言っていいのかは分からないけれど、隙を突く方法は考えてある。
戦力差はあるかもしれない。
でも、同時に性能差だってある。
その辺りを上手く使っていけば、活路を見いだせるかもしれない。あるいは、勝つ道を。
「それじゃ、行ってくるよ」
「ん、健闘を祈ってるべ。そういや霧切っちは見送りに来ねえんだな」
「霧切さんは霧切さんで何かやる事があるみたいで、急いで外に出て行っちゃったよ。何か思いついたみたいだけど……」
「……へぇ」
「あれ、もしかして葉隠クンは何か分かるの?」
「さぁな。まっ、そんならいいべ。苗木っちは苗木っちで頑張ればいい。んじゃ、最後に俺からちょいとアドバイスだべ」
葉隠クンはいつもの飄々とした笑みを崩さずに続ける。
「力ってのは単純な腕力だけじゃねえ。言葉の暴力っていうのがあるように、言葉だって立派な戦力だべ。
武器として考えれば、言の刃で言刃ってな。相手の言葉をズバッと切り返していけば、事を有利に運べるかもしんねえ」
「話し合う……ってこと?」
「おう。完全に説き伏せるなんて事はできなくとも、ある程度心を揺らがせる事ができれば、そこが狙い目にもなる。
怪異ってのは人の心と密接に結びついているもんだから、そういう心理戦は結構有効だったりするんだぜ」
「……分かった。出来る限りやってみるよ」
流石に霧切さんや舞園さんのように上手くやれる自信はないけれど。
それでも、やるだけやってみようとする気持ちは大切だろう。
初めから諦めていては、何も始まらない。
それから一度大きく深呼吸をして。
ボクは、目の前の扉を開いた。
鬼が出るか蛇が出るか。
いや、十中八九鬼なんだけども。
+++
暗い教室。
ここにある机と椅子は全て壁際に寄せられていて、上に積み重ねられている。
明らかに一つの教室で使う数ではないので、他の教室にあったものも集められているのだろう。
例えるなら物置のような。
子供なんかはアスレチック感覚で喜ぶかもしれない。危ないけれど。
その机の内の一つに、天邪鬼は腰掛けていた。
昨晩遭った時と同じ格好。オールバックの髪型に、刺繍の入った長ラン。
そしてニヤニヤと、余裕たっぷりの笑み。
「よう、待ちくたびれたぜ。あと一分でも遅かったら試合放棄とみなして、他の奴等を狙いに行ったかもしれねえ」
「それは珍しくボクの才能が役に立ったみたいだ」
「ポジティブだな」
「それだけが取り柄だからね」
「そりゃ結構なこった。つーか、随分と馴れ馴れしい口調になってやがるが、これからバトるっての分かってんのか?」
「分かってるよ。キミが単に怪異として好き放題に暴れているわけじゃないって事は分かったから、少し話をしたいと思っているんだ」
この教室は窓も塞がれている。
だから月明かりも全く入ってこないので、本当に真っ暗だ。
「電気点けるよ」
「はっ、怪異が何言ってんだ。別に構わねえけどよ」
「あいにくボクはまだかなりの割合で人間を残してるからね」
ぱちっという音と共に、教室が光で満たされる。
こうして明るい場所で天邪鬼を見るのは初めてだ。
分かってはいても、中々不二咲さんとは繋げられない。
「……いや、違うか。そうじゃなかった」
「あん?」
「不二咲“さん”じゃなくて、不二咲“クン”だったね」
自分は女ではなく男。
それがあの後、不二咲クンがボク達に明かした事だった。
もちろん驚いた。
その事実そのものに対してもだし、霧切さんや葉隠クンは感付いていたという事に対しても。
ただボクが気が付かなかっただけで、それなりにヒントはあったのだとか。
いや、でもクラスの大半は気付いていないと思うけどなぁ。
舞園さんやセレスさん辺りは分からないけれど。
体育の時間、不二咲クンがいつも後片付けを手伝っているのはそういう事だ。
まさか女子と一緒に着替えるわけにはいかないので、そうやって皆が着替え終えるのを待っていた。
昼食の度にわざわざ南地区のコンビニまで買いに行くのも、そこには男女共有のトイレがあるから。
寮に入らずにマンションで暮らしているのも、女子寮に入るわけにはいかないから。
そしてボクは決定的な所を目撃していたはずだった。
一昨日の放課後、不二咲クンは五階の男子トイレから出てきていたではないか。
あれは彼にとってもアクシデントだったらしい。
目標である大和田クンから告白された不二咲クンは、酷く動揺して体調を崩してしまった。
すぐにトイレに行こうとしたのだが、女子トイレに入るわけにはいかない。だからといって、男子トイレも使えない。
厳密に言えば、男子トイレを使うこと自体は問題ないが、人に見られてはいけない。
だから、彼は手を打った。その結果もボクは知っている。
一時的にとは言え、五階から人がいなくなるという、あの奇妙な状況だ。
あれは偶発的なものではなく、不二咲クンが仕掛けた事だった。
彼は人払いに電子生徒手帳を利用した。
学校からのお知らせを自動的に受信して、生徒に伝える生徒手帳を。
不二咲クンは『超高校級のプログラマー』。
そのお知らせの改ざんも不可能ではない。
彼は『五階のスプリンクラーが誤作動した為、立入禁止』というお知らせを全校生徒に発信した。
その上で、実際にスプリンクラーの一つも誤作動させた。
それがボクが見た廊下に広がる水溜りの原因だ。
だけど、彼にも誤算があった。
それはボクがセレスさんに電子生徒手帳を壊されたばかりで、お知らせを受け取る事ができない状態だった事。
加えて、理事長からの頼みで、五階の植物庭園に居た事。
その結果が、男子トイレの前で鉢合わせというわけだ。
とにかく彼は運がなかった。これをボクに言われるのは、なんだかとても嫌味に聞こえるかもしれないけれど。
ボクの言葉に、天邪鬼は目を細める。
口元は相変わらず楽しそうに歪められたままだ。
「そういや、白状しちまったんだっけな。ったく、わざわざそんな面倒な事はやめとけって忠告したのによ」
「忠告? キミと不二咲クンは互いにコミュニケーションを取れるの?」
「おう、あいつはトランス前もトランス後も、自分自身である事は変わらねえって事を強調してたが、それは完全に正しいわけじゃねえ。
つーか本当にトランスって言っていいのかっつー疑問もあるな。確かにこの人格っつーのは不二咲千尋の内面の影響が強い。
けどよ、同時に天邪鬼っつー怪異だって混ざってんだ。その辺りは、不二咲千尋が知り得ない情報を知っていた辺りから分かんだろ」
不二咲クンが知り得ない情報。
それは怪異に関すること……例えば江ノ島さん関係とか。
不二咲クン本人も言っていたように、天邪鬼と知識を共有しているからこそ彼女の正体を見破る事ができた。
ただ、この共有というのは、自然と頭の中に知らない知識が入っていたというわけではなく。
単に、知らない知識を天邪鬼から教えてもらったという事だった。
「最初に俺から色々教えてもらってるって言えば、ややこしくもなかったんだけどな。
けどあいつは、そう言うと俺に責任を押し付けているかのようで嫌だったらしい。
一応俺も気を使って、あいつの心理が俺に影響を与えているってのは伏せてたんだが、結局バレちまったしな」
「不二咲クンはキミを庇おうとしたのか」
「変な奴だよな、怪異相手に妙な情持ちやがって」
「……そうかもね」
本来ならボクもこんな事を言える立場ではない。
ボクはボクで、江ノ島さんを見捨てる事ができなかったのは事実だから。
でも、霧切さんに言われた通り、そういう行為は普通ではない事くらいは理解している。
理解していても、何が正解かは分からないけれど。
「最初の、大和田の事件の時だって、あいつは自首しようとしたんだ。それを俺が止めた。
あれは勝負だ。大和田だって今まで同じような事をしてきた。それじゃあお前は大和田にも自首しろって言うのか? って感じにな。
捕まっちまうと、大和田が再戦を挑むことができなくなる。それは勝ち逃げと同じで、大和田だって望んでいない、とかな」
「実際の所は、キミは別に捕まったところで余裕で脱獄できるんだろうけどね」
「はは、まぁそれはそれだ。結果的にお前にとっても不二咲千尋が警察に捕まらなかったのは良かったんだろ?」
「うん、それはそうだけれど、キミに感謝するっていうのは何か違う気がするな」
「別に感謝してほしいってわけじゃねえよ。俺が言いてえのは、あいつだけが悪いってわけじゃねえって事だ」
「……何か、キミも不二咲クンを庇っているように聞こえるんだけど」
「それは勘違いだ。俺は怪異だからな。自分の功績を何でもかんでもあいつに奪われるってのが気に食わねえってだけだ」
これは……どうなんだろう。
照れ隠し、とは言わずとも、悪ぶって言っているような気がする。
人に手を貸す怪異は珍しくない。そう葉隠クンも以前に言っていたような。
でも、どっちにしろ素直に受け止める事はできない。
手を貸すという事はあっても、同時に責任も課しているのは事実だ。
そして紛れも無く、怪異と化している事も。
「つまりは……キミと不二咲クンは実質別人格のようなものでいいのかな?」
「その辺りの線引は微妙な所だな。ベースは不二咲千尋の人格の一つだが、そこに俺、天邪鬼が憑いたって考えるのが一番しっくりくるかもしれねえ。
その憑いたってのも、乗っ取ったってわけじゃなく、融合に近い感じだな。俺は天邪鬼だが、不二咲千尋でもある」
「AでもありBでもあるって一番ややこしいパターンだな……じゃあキミは不二咲クンの知識を持っているのかな?」
「あぁ、そうだ。そこは一方通行だな。俺は俺の、天邪鬼としての知識を別に持っているが、俺が教えない限り、不二咲千尋はそれを知識として得られない。
だが不二咲千尋の知識っつーのは全部俺も持っている。あいつが小さい頃からどんな風に生きてきたのかも、全部知ってる。完全な共有ってやつだな」
「完全な共有……」
「おう。だからクラスメイトの事なんかも全部知ってるわけだが……随分とまぁ強烈なクラスに居るもんだな。怪異の俺が言うのも何だけどよ。
ただでさえハートアンダーブレードの影響でこの辺りは不安定だってのに、あんな危うい奴等ばっか集めてとても正気だとは思えねえ。
例えるならそうだな、密閉空間の中で小麦粉が舞って充満しているような感じだ。火種があればすぐに大爆発だ。好きだろ、粉塵爆発」
「中学生はね。ボクは高校生だ」
まぁ、多少のロマン的なものは感じるけれど。
「特になんだっけかあの女……舞園さやか? あれはやべえだろ。多くの人間から信仰されまくって、あれじゃもはや」
「舞園さんは何もやばくないし、可愛いよ」
「……そうかよ。まぁそれならそれでいいけどよ」
その辺りの話はあまりしたくない。
これは逃げなのかもしれないけれど、正直な気持ちだ。
それに本人の居ない場所で、こういう事を話すのは良くないとも思うし。
今は舞園さんより、不二咲クンの問題だ。
「何となくだけど、キミのその口調は大和田クンをベースにしているような感じがするね」
「へぇ、そう思うか?」
「うん……まぁ先入観っていうのがあるのかもしれないけどね。でも、“あの女”っていう表現は、彼が使うものだったと思う」
「よく聞いてんじゃねえか。霧切からの入れ知恵か?」
「そうとも言えるかな。彼女からは常に観察眼を働かせるように、って言われてるから」
「はっ、いいじゃねえか。そりゃ怪異への対応としてひどく正しい。俺達怪異ってのは設定ってのが重要だからな」
その設定を崩すために、ボクはこれから目の前の怪異と戦う。
ここはそういう話。
「不二咲クンは“強い男”として大和田クンに憧れていた。怪異的に言えば、信仰していたっていうところなのかな」
「そうだな。あいつは子供の頃から“男のくせに”みてえな事を言われ続けてきた。まぁこのナリと性格なら不思議じゃねえ。
そして、その言葉はあいつにとって相当の重圧だった。だから、それから逃れる為に、あいつは男である事から逃げた」
「……でも、それは彼の本心ではなかった」
「あぁ。女を演じる事で周りからの重圧からは逃げられたかもしれねえ。だが、今度は自分自身の重圧に潰される事になる。
周りを騙し続けているという罪悪感、本心とは真逆の行動をとっている事の違和感……いや、閉塞感とか劣等感って言った方がいいな。
その結果、俺を招いた。思っている事とは違う事を言って人を惑わせる、この天邪鬼の怪異をな」
天邪鬼はこきこきと首を鳴らしながら、机から下りた。
とんっ、という軽い音が教室に響く。
「でもよ、不二咲千尋が本当に心の底から俺の事が邪魔だと、邪な魔だと思えば、俺はこうして出てくる事はできねえんだ。
にも関わらず、俺は出てきている。これからオメェをぼこって、そこらの族を潰すこともできる。これがどういう事か分かるか?」
「…………」
「はっ、分からねえのか。それとも、答えたくねえのか。まぁ、どっちでもいい、それなら俺が言ってやる。
あいつは俺の力を求めてんだよ。口では嫌だ嫌だ言っておきながら、心の底ではこうやって強くなった事に満足している。
今まで自分を追い詰めてきた奴等に対する不満だって当然あった。そいつをこの機会に爆発させたいっつー気持ちだってある。
責めてやるなよ。誰だってそういうもんだろ。嫌なことがあれば何かで解消したくなる。それは人間として自然な事なんじゃねえのか」
「……キミは、何が言いたいのかな」
「このまま放っておいてもいいんじゃねえのかって言いたいんだよ。これはあいつの本当の望みなんだぜ」
「そうかもしれないね」
そこは肯定する。
当然、ボクに不二咲クンの心の中が全て分かるなんていう事はない。
その点においては、彼と一種の融合状態にある天邪鬼の言っている事の方が正しいのだろう。
でも、例えそうだとしても。
「だけど不二咲クンはハッキリと言ったよ。もうこんな事は終わりにしたいって。
心の中の想いは違うのかもしれない。でも、それを口に出す為には、彼自身の意思が必要だ。
そりゃ誰だって本当にやりたい事を好き放題に出来るわけじゃない。だから自分で考えて、選択して、行動するんだ」
「…………」
「彼は自分の意思を強く持って、キミに頼らない道を選んだんだ。言葉に出してボクにそう言ったんだ。だからボクはその選択を応援する。全力で」
「……見解の相違、だな」
天邪鬼はゆっくりと呟く。
ただ、その口元は楽しげに笑っていた。
「そもそも俺は怪異でオメェは人間……いや、半分か……まぁとにかく、意見が合うわけもねえってわけだ。
それとも、この会話で不二咲千尋自身に何か影響を与えて、俺を追い出してもらおうとか考えていたのか?
悪くねえ考えだが、この通り失敗だな。完全勝利はできねえみたいだぜ。結局、オメェは力尽くで俺を何とかしなきゃいけねえ」
「そうみたいだね。ボクとしても元々力尽くになるつもりで来ているよ」
「それならいい。せいぜい踏ん張るこったな」
とんとんと、靴を鳴らす天邪鬼。
いや、慣らしているのだろうか。確かあれは新品だったはずだし。
ボクは少し腰を落とす。直立姿勢ではすぐに動けないからだ。
怪異同士の戦いでは、コンマ一秒の差が命取りになる。
始まりは突然。
恋の話にも聞こえるけれど、そんな甘いものではない。
何の前触れも、予備動作もなく……違う、あの靴を鳴らす動作で既に始まっていたのだ。
天邪鬼はこちらへ猛然と突っ込んできた。
それも真っ直ぐ、というわけではない。
ジグザグに、的を絞らせないように、それでいて相当のスピードで。
目よりも耳の方が鋭くなった感覚を覚える。
相手の姿は目では追い切れないが、耳には確かに、たたたっという軽快な足と音が届いている。
そしてその音は確実に近付いてきて。
天邪鬼はすぐ目の前、拳の射程圏内にまで入ってきていた。
一瞬遅れて反応して、わずかに体を後ろに移動させる。
それでも、遅い。遅すぎた。
天邪鬼は既に攻撃を始めている。めいいっぱい踏み込んで勢いを乗せた拳を、真っ直ぐ打ち抜いている。
直後に胸に走る激痛。ごきっと、肋骨が砕ける音。
天邪鬼の拳が突き刺さった。
それも、通常よく使われる横拳ではなく縦拳。
下から上へ抉るように、粉砕機のように肉体を容赦なく破壊する。
「がっ……はぁぁ……!!!」
足が地面を離れた。
為す術無く後方へ吹き飛ばされ、壁際に積まれていた机の山の中へ突っ込んで、がらがらと雪崩を起こす。
その際にも上から落ちてきた複数の机に体を打たれるが、殴られた部分の痛みが凄まじく、ほとんど何も感じられない。
感覚が、麻痺している。
痛みがないというのは相当危険でもある。
本来痛みというものは、それによって危機を知らせるものだからだ。
それがないという事は、気が付いたら取り返しの付かない状態になっていた、そんな事も起こりえる。
机の雪崩が起きたことにより舞い上がる埃。
ボク自身の姿も、埃だけではなくいくつもの机に隠れて見えなくなっているのだろう。
教室には高笑いが響く。
「ははははははっ、おい大丈夫かぁ!? 半分怪異って事でかなり強く打ち込んだが、まさか死んじゃいねえだろうな!」
返事はしなかった。
代わりに、机を一つ、天邪鬼に向かって投げ飛ばした。
普段の状態では悪あがきにもならなかっただろう。せいぜい少し飛んで落ちるだけだ。
でも、今のボクはそれなりの吸魂鬼性を持っている。
投げられた机は、真っ直ぐ天邪鬼へ、かなりの威力を伴って飛んで行く。
痛みもほとんど引いている。
砕かれた骨も、完全とはいかないまでもかなり治ってきている。
これが、吸魂鬼の回復性能。
がんっと、天邪鬼は裏拳で投げられた机を弾き飛ばす。
まるで小さなゴミか何かへの軽い対応だ。
でも、ここまでは予想通り。
というか、まともにくらってもらっても困る。あの体は不二咲クンのものだ。
机は目眩まし。
ボクは一気に相手との距離を詰め、手を伸ばした。
拳ではない。まずは掴んで動きを封じる。そこからだ。
だが、その企みは失敗。
伸ばした手は虚しく空を切る。
天邪鬼は半身を逸らして難なくかわしていた。
そして当然それだけでは終わらない。
カウンターの回し蹴りが、ボクの脇腹にめり込む。
「ぎっ……!」
何とか足に力を込めて踏ん張り、また吹き飛ばされるのを防ぐ。
連続して攻撃を受けないためには、むしろ飛ばされた方がいいと思うかもしれない。
でも、ダメだ。ここじゃ、ダメだ。
気を抜くと体の前に意識が飛んでしまいそうな激痛に耐えながら、じりじりと足を動かす。
ただし、天邪鬼はそれを見逃さない。
案の定、追撃を叩き込んできた。
両拳を使っての連撃。
一撃一撃はジャブのようなモーションの小ささだが、まるで複数人からリンチを受けているかのような衝撃が胸から腹までを襲う。
「ぐぅぅ……っ!!」
連撃の締め。
それは足裏を使った前蹴りだった。
天邪鬼の足は腹に入り、ぶちぶちと生理的に嫌な音が鳴る。
今度は踏ん張れずに吹き飛ばされた。
いや、あえて踏ん張らなかった。
ここならいい。
ボクの体は最初と同じか、もしくはそれ以上の速度で飛び、壁にぶつかる。
部屋全体がびりびりと震動し、ボクの口からは声の他に血液が漏れる。
机にはぶつからなかった。位置的にそこには机は積まれていなかったからだ。
長方形の教室の内の一辺。
ちょうど出入りする為の扉がある一辺には、机は積まれていない。
代わりに……というわけではないが、その一辺の壁にはあるものが備え付けられている。
とは言え、ダメージは凄まじい。
壁に目ありとは言うが、これでは目と言わずボクの体そのものが埋め込まれそうな勢いだ。
教室の壁に埋め込まれた人なんていうのは、いかにも学校の怪談っぽいけれど、そんなものになるつもりはない。
何とか二本の足で着地。
ぼろぼろにされた肋骨か何かの影響か、息をする度に激痛が走る。
でも、これも少しの我慢だ。すぐに再生して痛みも引いてくれる。
一方で、相手は少しも待たない。
またしてもジグザグに、それでいて高速で突っ込んでくる。
目では追いきれない、それは何も変わっていない。
変わったのは立ち位置。
そこを最大限に活用する。
ボクは背中を壁に預けたまま、腕だけを動かして壁を撫でる。
そして、それはすぐに見つかった。
再び目の前、攻撃の射程圏内に天邪鬼が入ってきた瞬間。
ぱちっという音と共に、部屋が暗闇に包まれた。
ボクが壁に備えられた蛍光灯のスイッチを操作したのだ。
「っ!!」
怪異だから、天邪鬼も暗闇自体には慣れているはずだ。
ただし、だからといって急な明暗に対応できるとは限らない。
現に、天邪鬼の動きは確かに鈍った。
打ち出される拳を、今度はハッキリ見る事ができる。
見て、反応できる。
相手の影響だけによるものではない。
今現在、ボクの目は吸魂鬼としての性能を持っている。
そしてそれは当然、人間のものとは大きく違う。
動体視力はもちろん、ここで挙げるべき事は。
吸魂鬼の目は、むしろ暗い方がよく見える点だ。
ぱしっと、天邪鬼の右手首を掴んで拳を止める。
その後すぐに反対の手首も同じように掴む。
力の差がある相手に挑む時に心がけるべき事。
その差を埋めるために何をすればいいのか。
肉体的なスペックで敵わないというのであれば、自然と注目すべきは精神面という事になる。
つまり、心の隙をつく。
急に照明を落とすというのは、もちろん相手の視力を奪う他に、同時に精神的に揺さぶるという目的もあった。
相手は思惑通り動揺し、その後攻撃を止められた事にさらに動揺する。
そういう連鎖的に相手にとっての負の事象が積み重なり、今こうしてボクが天邪鬼の両手首を掴んで抑えているという状況へ至る。
当然、ここで連鎖は止まらない。
このままの流れで、終わらせる。
次の瞬間、ボクは上半身を大きく後ろへ仰け反らして。
天邪鬼の頭に、強烈なヘッドバットを叩き込んだ。
「ぐっ!」
ここにきて、初めて天邪鬼が苦痛の声をあげる。
何度も確認しなければいけない事だけれど、相手の体は不二咲クンのものだ。
戦って勝つと言っても、過度なダメージは避けなくてはいけない。
だから、危険だと分かっていても、一撃で決める事ができる頭への攻撃を選択した。
本当だったら、よく漫画とかで見る首元に一発入れるような攻撃ができれば良かったんだけど、あいにくそんな事はできないし。
でも、そう上手くはいかない。
相手の体の事を思って手加減しすぎたのか、それともただ単に耐久度が上がっているのか。
天邪鬼はヘッドバットをくらっても、意識を保ったままだ。
「うおおおおああああああああああっ!!!」
ふわっとした浮遊感。
力任せに、天邪鬼は両手首を掴まれたまま、ボクの事を持ち上げていた。
だけど、手を離すわけにはいかない。ここで離してしまったら、もう掴む事はできない。
それから天邪鬼が取った行動はシンプル。
ボクを持ち上げながら大きく両腕を振りかぶって。
勢い良く、近くにあった壁へと、ボクを叩きつけた。
「……っぅうぎ!」
手は離さない。
凄まじい衝撃に、気を抜けば一瞬で意識なんか飛んでいってしまいそうだけれど。
この手だけは、絶対に。
「ちっ!」
天邪鬼は鋭く舌打ちをする。
そして攻撃の手は緩めない。ボクの手を緩ませるまでは。
小細工はしなかった。
そのまま同じように何度も、何度も、腕を振るう。
ボクを壁に、床に、連続して叩きつける。
響き渡る鈍い音。衝撃。
飛び散る真っ赤な血液。
「はぁ……はぁ……! しっつけなオメェ、これも狙いの内かよ!!」
そう、こうして至近距離で相手の動きを封じれば、自然と戦いは泥沼的なものになる。
戦略や戦術が介入しにくい、根性論が幅を利かせる戦闘。
それはボクにとっても都合のいいものだ。少なくとも、回復能力に限って言えば、ボクは相手よりも優っている。
だからどんなに傷めつけられても、この手は離さない。
それはすなわち、勝機を手放すのと同じだから。
……まぁ、何となく同時に正気は手放しちゃってる感じはするけども。
「なら……こいつでどうだオラァァ!!」
天邪鬼は跳んだ。
ボクという重り一つをものともせず、跳び上がった。
向かう先には教卓。
そして落下に合わせるように、腕ごとボクを振り上げ、叩きつけた。
ごきっと、決定的な何かを伝える音が、響き渡る。
「あっ……」
ボクの口から漏れたのは何とも情けない声。
腕の激痛なんて気が付かない程の事態。
手を……離してしまった。
いや、離されてしまった、といった方が正しい。
ボクは間違っても自分の意思で離す事はない。
ただ、これがいかに自分の体と言えども、いつでも自分の意思が全身に伝わるとは限らない。
例えば腕の骨を砕かれてしまっては、どんなに物を掴もうとしても力が入らなくなる。
先程の一撃、教卓の角へと叩きつけられたのは、ボクの両腕だった。
ピンポイントで重要な部位を狙うために、壁や床といって平面から、教卓の角という局所を使う事にしたのだ。
ぶらんぶらんと、両腕が力なく下がっている。
これも時間が経てば元に戻る。だけど、それでは遅すぎる。
一瞬でも力を緩めてしまえば、こうなる事は当たり前。
ひゅっという風音。
一息と置かずに、天邪鬼は追撃の為に接近。
目では追えるが、反応ができない。度重なるダメージで体にガタがきていて、追いつかない。
視界が大きくブレた。腹に激痛が走る。
またしても縦拳。威力よりも出の速さを重視した型。
それでも、人一人を吹き飛ばすには十分の威力を、この怪異は出す事ができる。
ボクの体は真っ直ぐ反対側の壁へと飛ばされ、机の山の中に突っ込み、再び雪崩を引き起こした。
視界がかすれ、体に力が入らない。
体のあらゆる所から血が吹き出て、床に広がっていくのが分かる。
がらがらという雪崩が収まるのを見計らって、声が聞こえてくる。
「まぁ、狙いは良かったんじゃねえの。結果的に俺に一撃入れられたんだしよ」
「…………」
「話せないか? 死んじゃいねえだろ。人間ならまず生きてられねえ程のダメージだが、オメェなら耐え切れるはずだ。
なんせあの吸魂鬼の力を持ってんだ。本来なら同じ鬼でも、俺とは格が違う。ったく、天邪鬼なんて漢字は名前負けとか言われても文句言えねえな」
こうしてインターバルを挟んでくれるのはありがたい。
時間さえあれば、大抵の傷は回復できる。
何度でも、戦う事ができる。
「いや、分かってるぜ、こうしている間にもオメェが回復してるって事くらいはな。だが、ダメだろ。
いくら体は回復しても、もう策はねえだろ。同じ手は二度と使えねえし、使わせねえ。とりあえず今日の所はオメェの負けだ」
「今日の……ところ……?」
「おう、俺も殺しまではしねえから、どうせオメェはこれから何度も挑んでくんだろ。
それ自体は歓迎だ。人間相手に殺さない程度にボコるってのも、結構面倒臭えんだ。オメェ相手ならうっかりやり過ぎるって事はないだろうしな。
だから俺はこれからオメェをさっさと気絶させて他の暴走族を潰しに行くわけだが、あんま気にしねえで次の策でも練っておけって事だ」
「…………それは違うよ」
「ああん?」
「確かに一度倒れた後に起き上がる事は大切だと思う。でも、ボクはまだ倒れていない。今から倒れた後の事を考えるなんて、違う」
ぐぐぐっと、体に覆いかぶさっていた机をどかしながら、立ち上がる。
回復しきれていない体の節々が悲鳴をあげるのを感じるけれど、そんなものは気にしていられない。
ボクは負けていない。負けるつもりもない。
本当に意識を失うその瞬間まで、諦めることなんてできない。
今まで襲われた人達の為。
この事件を解決しようと動いた人達の為。
これから襲われるかもしれない人達の為。
そして何より、不二咲クン自身の為に。
天邪鬼はごきごきと手を鳴らす。
たぶん、次の一撃で仕留めるつもりなのだろう。
ボクにはもう策はない。次の攻撃を受け切る事は難しい。
それでも、最後の最後まで、考える事はやめない。
起死回生、一発逆転の策を考え続ける。
その時だった。
素晴らしい策を閃いた……というわけではない。
霧切さんでもないし、ボクの頭はそこまで優秀ではない。
ドアが開いた。
まるで遅刻した生徒が授業中に入ってきたかのように、視線がそちらに集まる。
ボクも、天邪鬼も、動きを止めたまま。
周りから見れば授業というより修行に見えるのだろうか。いや、ただのケンカか。
ドアの向こう側に立っていたのは、大和田クンだった。
刺繍入りの長ランにリーゼント、大柄な体格に鋭い瞳。
どこからどう見ても、『超高校級の暴走族』大和田紋土クンだった。
ぽかんと、口を開けてしまう。
あまりにも唐突な登場に、理解が全く追いつかない。
なぜここに居るのか。
怪我は大丈夫なのか、今の状況を理解しているのか。
訊きたいことはいくらでもあった。
でも、何も訊けなかった。
彼はそのまま何も言わずに入ってきて、暗闇の中電気も点けずに真っ直ぐ歩く。扉が開かれているから、外からの光は若干入ってきているけれど。
その姿はあまりにも堂々としていて、一切の口出しを許さないような、口だけではなく、手も足も出せないと思わせるような。
そんな空気を醸し出していた。
「よぉ、楽しそうな事してんじゃねえか。俺も混ぜろよ」
「大和田クン……」
「はっ、なんだその面は、苗木。つか随分とボコボコにやられたもんだな、まぁオメェにケンカなんかできるわけねえか」
「……次はオメェか、大和田? それなら俺も好都合だ。初戦は不意打ちみてえな事しちまったからな、悪かった」
「気にすんな不二咲、ケンカ相手を前にして気を抜く俺がわりーんだ」
……知っている。
どうやら彼はある程度の事情を知った上でこの場に居るらしい。
ボク達の表情を見て、大和田クンは付け加える。
「あぁ、霧切から聞いた。つか、あの女に叩き起こされたんだ」
怪我人に何やってんだあの人!
「つっても、文句言うつもりはねえ。むしろ感謝してえくらいだな。チームの奴等もそれくらいすりゃ良かったんだ。
こんな事が起きてるっつーのに、グースカ寝てるとか、情けねえったらねえぜ」
「事情は……霧切さんから訊いてるの?」
「あぁ。正直怪異とかいうわけ分かんねえもんは信じられねえが、一つだけ俺でも分かってた事はあった。俺をぶっ飛ばしたのが、不二咲って事だ」
「へぇ、そうか、分かってたからあの反応か。どこで気付いた?」
「気付かねえわけねえだろ。惚れた相手だ」
「……はっ! だが残念、俺は男だぜ」
「それも聞いた。そりゃかなり驚いたけどよ、まぁ思い返してみればそれで納得できる所も多い。主にオメェの普段の反応とかな」
この会話の間に、ボクの体も大分治ってきた。
でも、動く事はできない。
今はただ、大和田クンの言葉を聞くことしかできない。
「悪かったな、告白なんざしちまってよ」
「それは俺じゃなく、不二咲千尋に言ってやれよ」
「オメェに言ってんだ不二咲」
「……なに?」
「細けえ事は知らねえけどよ、今のオメェだって不二咲なんだろ。不二咲千尋の気持ちの一つなんだろ。
いいじゃねえか、悪くねえと思うぜ。兄弟は色々うるさく言ってくるかもしれねえけどよ、そん時は俺が庇ってやる」
「…………」
「それに、男だろうが女だろうが、あれだけ俺に付いて来ようとした事は変わらねえ。男なら男で、良いダチになれると思うぜ」
大和田クンは続ける。
天邪鬼に……いや、不二咲クンに対して。
「失望させる事言うけどよ、そもそも俺はそんな憧れる程つえーわけじゃねえんだ」
「何を言ってやがる……そんなのはオメェの台詞じゃねえだろ」
「前まではそうだったかもな。けどよ、オメェにぶっ飛ばされて、単純な力で負けて、よく分かった」
「……何が」
「力だけが強さの全てだったら、俺はもう全部終わっちまってた。何も残らなかった。
けど違ったんだよ。俺が情けなく寝てる間も、俺の為に動いていたバカはいた。それを知っちまったら、もう強さは力が全てなんて言えるはずがねえ」
「…………」
「俺も本当は分かってたんだ。絶対に言えねえ秘密を持って、それが弱さだと分かっていたからこそ、腕っ節の強さをバカみてえに鍛えた。
見たくなかったんだ、自分の弱さを。向き合う事から、ずっと逃げていただけだった。それも弱さなんだと気付かずにな」
霧切さんから全て聞いたんだろう。
チームの仲間や、石丸クンが、大和田クンが眠っている間にも動いていた事を。
そして、その事実は大和田クンを変えた。
彼にも秘密や弱さがあった事は、今初めて知った。
こうして彼は、自分の弱さを人に話している。
隠さずに、逃げずに。
「すげえと思ったぜ、不二咲。オメェは自分が男だってちゃんと言ったんだよな。何年も隠していた秘密を言うってのがどんなにこえー事か、俺は知ってる。
だからよ、オメェは間違っても弱くなんかねえよ。少なくとも俺よりはずっと強い。他の奴等が、オメェ自身が何と言おうと、オメェの強さは俺が分かってる」
ここまで言って、大和田クンは大きく息を吸い込んだ。
何か大声で言おうとしているのかとも思ったけど、違った。
その後彼の口から出てきた声は決して大きなものではなく。
それでいて重く、辛いもので。
彼自身の表情も、今まで見た事がない程に苦しげに歪んでいた。
「俺は――――兄貴を殺したんだ」
大和田クンの兄にして、「暮威慈畏大亜紋土(クレイジーダイアモンド)」初代総長、大和田大亜。
彼の死後、大和田クンは二代目総長となり、『超高校級の暴走族』と呼ばれるようになった。
そう、死後だ。
大和田クンとお兄さんは、バイクで勝負をした。
その途中で勝負を焦った危険な運転をした大和田クンを庇って、お兄さんは亡くなった。
その事実をずっと言えなかった。
誰にも、チームの仲間にも。
それがずっと、彼の中で消えることの無い遺恨を残していた。
そんな……辛い話だった。
全てを話し終えて、大和田クンは深く、深く息をついた。
憑きものが落ちたような、そんな表情だった。
「ありがとな、不二咲。オメェのお陰で、俺も少しは前に進めそうだ。まだまだ兄貴の背中は遠いけどよ、ここから俺は始められる。
チームの奴等にも全部話して、もしかしたらそこで離れていっちまうかもしんねえけど、立ち止まっているよりかは断然マシだ」
「…………」
「だからオメェも俺に対する憧れとか何やらはもう忘れろ。俺はそんな目で見られるような男じゃ」
「そんな事ねえよ」
静かな声が、不二咲クンの口から響いた。
決して大きくはないけれど、しっかりとした芯の通った声。
それは、ボクも聞いたものだ。あの、秘密を打ち明けられた、その時に。
言葉遣いは大きく変わっていても。
その強さだけは全く変わらない。
「確かにオメェは秘密を、弱さを隠してきたのかもしれねえ。だけどよ、例えそうだとしても、強くあろうとした事に変わりはねえだろ。
兄貴のチームを潰したくなかった、守っていきたかった。だからオメェは弱さを抱えながらも、それを見せずに強さだけを見せようとしたんだろ」
「不二咲……」
「それだって立派な強さなんじゃねえのかよ! さっきオメェ言ったよな、他の奴等が何と言おうと不二咲の強さは分かってるってよ。
それなら“僕”だって、例えキミ自身が何と言おうと、大和田クンの強さはよく分かってるんだ! 前も、今も、僕にとっては強くて憧れの人なんだ!」
「…………はっ、物好きな奴だ」
怪異が混ざっているボクには分かる。
もう、不二咲クンは怪異でも何でもない。
悩みと、秘密と、弱さと向き合って強くあろうとする、一人の少年だ。
でも、これでは終わらない。
この件にはこの件の、彼らには彼らの終わらせ方がある。
ボクは一切口を出せない、終わらせ方が。
大和田クンは笑みを浮かべていた。
本当に、心の底から嬉しそうに。
そして、言う。
「……決着、つけっか」
その言葉に、不二咲クンは頷く。
しっかりとした足取りで、大和田クンの元へと歩いて行く。
「先手はやるよ。今度こそ、ちゃんと受けきってやるからよ。言っとくが、手加減とかすんじゃねえぞ。思いっきりやれ」
「……うん、分かった」
不二咲クンはぐっと拳を握りしめた。
若干心配そうな目で大和田クンの事を見たのも一瞬、すぐに引き締まった表情で、大きく腕を振りかぶる。
右ストレート。
不二咲クンにとっての渾身の一撃が、大和田クンの腹に入った。
病院から抜け出してきた相手に向かって打つには躊躇われるような一撃を、本気で叩き込んだ。
大和田クンの表情が歪む。
でも、倒れない。膝もつかない。
堂々と、不二咲クンの前に立っている。
「いってえじゃねえかコノヤロウ」
ごんっと、教室に響き渡る鈍い音。
大和田クンが振り下ろした拳。
それは目の前の不二咲クンの頭を頭を捉えていて。
彼はぱたっと、力なく人形のように倒れて動かなくなってしまった。
この体格差では、当たり前の結末だった。
二人のケンカの決着がついた。
色々と遠回りをして、色々なものを巻き込んでしまったけれど。
この後にも残っている問題は数多くあるけれど。
それでもこうやって、一つの終わりを迎え、また始められる事に関しては喜ぶべき事なのだろう。
ここでふと疑問に思ってしまう事は、ボクが居る必要はあったのかという事だ。
最初から大和田クンを連れてきていたら、それで解決したのではないだろうか。
必死に戦ってボコボコにされた上に、そんな結論というのは何とも悲しい。
ただ、それはそれで簡単な事ではなかっただろう。
そもそも、彼は霧切さんに叩き起こされたと言っていた。
そして当然、入院して眠っている怪我人を叩き起こすなんていう選択を、ボクは取ることができない。
彼女がそんな事をすると知ったら、全力で止めていただろう。
だからこそ、霧切さんはボクには何も言わずに自分だけで動き。
ボクもボクで、自分なりの考えの元にボコボコにやられた。
まぁ、結局は終わり良ければ全て良し。解決すればいいのだ。
例えボクの行動が全くの無意味であったとしても。
それにほら、結果的に天邪鬼を足止めするという所は役に立っているし。ボクは全くそんなつもりはなくても。
加えて何より。
「サンキューな、苗木」
笑顔でそんな一言を言われたら、どうしても納得するしかないだろう。
実際はボクの自己満足の行動に過ぎなくても、こうして感謝をしてくれる人が居る。
ただそれだけで、感動してしまうし感激してしまう。ボクはそれだけ単純で短絡的だ。
どんな小さな事でも、幸せを運んでくれたと思い込む。
それがボクだった。
薄暗い教室の中に三人。
一人は気を失っていて、一人は病み上がり、一人もある意味病み上がりで制服もズタボロ。
それでも、三人ともそれぞれ晴れ晴れとした表情を浮かべていた。夜だけど。
……制服どうしよう。
+++
後日談というか、今回のオチ。
それから何日か経って。
朝になって妹からの電話で叩き起こされて(今度はケータイにかかってきた。次からは電源を切っておこう)、ボクはいつものように校舎へ向かった。
とりあえず休校はもう解けて、教師が敷地内を見回りしている所を除けば、普段の学校生活が戻ってきた。
以前の制服はおしゃかになってしまったので新品の制服で登校だ。電子生徒手帳も新品。
一ヶ月の間に二回も制服を買い換えて、耐久性に優れた生徒手帳も壊すという生徒もボクくらいだろう。出費痛いなぁ。
そして、教室。
みんなが揃ったのを見計らって、といっても大和田クンは登校しようとして病院に送り返されたけれど、不二咲クンが立ち上がった。
彼の顔を見れば、ボクにはこれから彼が何をしようとしているのかは容易に想像できた。もちろん、止めようとは思わなかった。
不二咲クンは、自分が男であるとクラスに向かって告白した。
反応はまちまち。まぁ、やはりというべきか大騒ぎしている人の比率の方が多かった。
朝日奈さんなんかは大声あげて驚いていたし(スイマーなので肺活量が多くて声もよく響く)、石丸クンや桑田クンなんかも同じように仰天。
腐川さんは男に負けたとか何とか言いながら、どこまでも卑屈にぶつぶつ何かを呟いていて、山田クンに至っては大興奮。
そう、一番厄介だったのは山田クンだ。
二次元信仰の厚い山田クンにとって、男の娘という存在はそれはもう輝かしいものに映ったらしい。
終いには不二咲クンの目の前までにじり寄って、その素晴らしさを延々と説く始末だ。決して触れる事はできないという辺りがミソ。
まぁ、それに関しては石丸クンが何とか引き離してくれたから良かった。
もし大和田クンがこの場に居たら殴り飛ばされていたんじゃないか。
大した反応もない人達もいた。
舞園さんなんかは特に驚いた様子もなくニコニコしていたし、セレスさんや十神クンも同じ。
たぶんこの一ヶ月の間のどこかで気付いていたのかもしれない。後者二人はそもそも興味が無いという可能性もあるけれど。
とりあえず、こうして不二咲クンのおそらく人生最大の試練のようなものは終わった。
彼は肩の荷が下りたように、安心して微笑んで、ボクの所までやって来た。
「本当にありがとう、苗木君」
……ほんの少しだけ、山田クンの気持ちが分かったような気がした。
いやもう、油断すれば、男でいいじゃんという考えが頭を埋めてしまいそうだったので、舞園さんの名前を念仏のように唱える始末。
それだけ頬を染めて微笑む不二咲クンは可愛かった。だけど忘れてはいけない、彼は男だ。
事後処理は思いの外スムーズにいっていた。
弐大クンは相手よりも、むしろ不甲斐ない自分自身を責めている様子だった。
天邪鬼はきちんとルールを決めた上で正々堂々と戦いを申し込んできたという事で、入院とかその辺りについて責めるつもりは毛頭ないらしい。
それよりも、再戦の機会を与えてくれない事に対して納得できていないようだった。
『超高校級のマネージャー』として、このままでは終われない、と。いやどんだけ過酷なんだマネージャー。
残念ながら、その再戦の機会というのはおそらく二度と巡ってはこないと思うけれど。
不二咲クンが頭を下げてもクエスチョンマーク全開で、話も全く聞いていないみたいだったし。
そういった点では大和田クンのチームの仲間も同じようなものだった。
負けっぱなしでは終われない。負けた事自体に関しては自分達の責任。
まぁ、彼らに関しては、大和田クンがあの相手はぶっ飛ばしたと言って全て収まった。
そして、大和田クンも不二咲クンと同じように、自分の秘密を告白した。
詳しい反応とかはその場に居たわけじゃないから、ボクには分からないけれど。
でもそれによって仲間が離れていくという事はなく、前と変わらず、いやたぶんそれ以上に、彼らは強い絆で結ばれたように見えた。
一件落着。
まだ事件の捜査を続けている警察の人達には申し訳ないけれど、こう言ってもいいんじゃないか。
不二咲クンは本当に警察に行かなくてもいいのかとも言っていたけれど、それは当事者の中で誰も望んでいない。
それに怪異が抜けた今では、どれだけ彼が主張した所でまともに取り合ってはくれないだろう。
夕暮れの教室。
久しぶりの授業が終わって、それぞれが帰路に着く。
部活なんかはまだ活動停止らしく、朝日奈さんは帰りにミスドに行こうと大神さんを誘っていた。
不二咲クンと石丸クンも、二人並んで楽しげに何かを話しながら教室を出て行く。
たぶん、大和田クンのお見舞いにでも行くのだろう。
一方、ボクはボクで、大事な用事があったりする。
「舞園さん」
「はい? あ、帰りにどこか寄っていきます? 私、今日はオフなんです」
「ホントに!? やった!! …………と、その前に、さ」
危ない危ない。
嬉しすぎてこれから言う事を忘れてしまいそうだった。
「覚えてるかな、ほら、学校が休校になる前に『今日と明日、怪我をしなかったら何でも一つ言う事を聞いてあげます』って言ったよね?」
「言いましたっけ?」
「言ったよ! すっごい言った! むしろそれしか言ってなかった!!」
「……何だかとてつもなく必死ですけど……それじゃあ、そのノルマ達成のご褒美が欲しい、というわけですか?」
「うん!」
舞園さんはジト目でボクの全身を見る。
もうなんか、こんな風に彼女に見てもらえるだけで既にご褒美だ。
「その制服、新しいものみたいですけど」
「あー、う、うん。この前醤油とかソースとかマヨネーズとか色々メチャクチャにこぼしちゃって」
「…………」
「…………」
完全に疑ってる。一ミリも信じていない人の目だ。
だけど、それを嘘だと証明する事はできない。だって現にボクはこうして五体満足でいるのだから。
彼女もボクの吸魂鬼性については知っているけれど、だからといってボクが怪我をしたという事にはならない。
勝った。
この後詳しく調べるから服を脱げとかいう展開になればもう最高だ。
だけど、その時。
「苗木君は怪我したわよ」
教室に響き渡る凛とした声。
聞いていて心地が良いものではあるのだけれど、このタイミングとその内容からとてもそうは思えなかった。
ボクが一生懸命築いた嘘という名の城壁を、一発で粉々に破壊される絶望感があった。
霧切響子さんが、まだ教室に残っていた。
その目は真っ直ぐボク達二人を捉えている。
舞園さんはにっこりと笑って、
「やっぱりですか?」
「えぇ。その次の日には苗木君、天邪鬼という怪異にボコボコにされているわ」
「……はぁ」
思いっきり呆れた様子でこちらを見てくる舞園さん。
その目もいい、もっと見て。
「もう、苗木君はやっぱり相変わらずみたいですね。本当に心配しているんですよ、私」
「ご、ごめんなさい……」
「ふふ、まぁでも、それが苗木君ですからね。その件に関しては、もう済んだんですか?」
「うん、何とかね。だからもう大丈夫」
「そうですかね。また同じような怪異関係の何かが起きれば、苗木君は何度でも首を突っ込んでいくのでしょう?」
「それは」
「無理には止めません。でもこれだけは覚えていてください。苗木君が傷ついて悲しむ人が、確かに居る事を」
霧切さんと同じ事を言ってくれているという事は偶然なんだろう。
ただ、そんな嬉しい事を、他にも思ってくれている人が居るという事は、とても幸せな事だ。
その包まれるような笑顔に、ボクは何度でも助けられる。
春休みだって、今だって。
「……分かった。ありがとう」
「いえいえ。それでは、お邪魔虫の私はそろそろ退散しますね」
「え、お邪魔虫?」
ボクの言葉にはウインクだけで応えて、彼女はさっさと教室から出て行ってしまった。
何だろう、ボクが舞園さんの事を邪魔だと思うなんて、それこそ天地がひっくり返ってもないというのに。
教室にはボクと霧切さんだけが残される。
……あ、そうか。
まだまだ一件落着なんてしていない。
少なくとも、ボクに関しては。
「苗木君、そろそろ返事をもらいたいのだけれど」
夕陽に染まる教室にボクと霧切さんが二人きり。
まるであつらえたようなシチュエーションの中、彼女はいつもの綺麗な目でボクを見て言った。
何が、なんていう事は言わない。
彼女が返事と言えば、あの日の告白の事に決まっている。
「その、ボクとしてはまだ信じられないっていう所が大きいんだよね。何て言うか、急展開すぎる感じがして……」
「そうかしら。人との関わりを避けていた私にも以前から話しかけてくれて、怪異の件では身を挺して助けてくれた。
確かに私にはこういう経験はほとんどないけれど、人を好きになるきっかけとしては十分だと思うけれど」
「……そう、かな」
「えぇ、私は苗木君の事が好きよ。その馬鹿正直な所も、誰にでも手を差し伸べる優しい所も、困っている人を見たら放っておけないという熱血正義マンな所も」
「せ、正義マンって……」
「欺瞞という言葉が入っている辺り、何か裏に意味があるように思えるけれどね、正義マン。正しい欺瞞って何かしら」
「いや知らないし普通はそんな事を思い付かないって」
やっぱり霧切さんは普通の学生とはどこか離れている。
それを言ったら超高校級のみんな全員という事になるだろうけれど、彼女は特にそんな感じがする。
でも、その考えも、彼女の表情の変化を見て消えた。
見れば、霧切さんはほんのりと頬を染めて、目は若干潤んでいた。
普段は表情をほとんど変える事もなく、色白という事もあって、凄く目立つ。
何この可愛い生き物。
「だから、その、私と……恋人関係になってほしい、という事よ」
「……そ、そっか」
「これで、いいのかしら。私こういう経験ないから、合っているのかどうかも分からなくて……」
「たぶん間違っているとかそういうのは、無いと思うけど……」
「そ、そう」
霧切さんは、こんなにも一生懸命に自分の気持ちを伝えてくれた。
その慣れていない様子を見ても、それがどれだけ大変な事か分かる。
当然、ここでボクが何も答えないなんていう事はありえない。
彼女の気持ちに対して、そんな心ない事をできるはずがない。
ボクも真剣に、彼女に対して真っ直ぐ、伝えなくてはいけない。
「……ありがとう、霧切さん。凄く嬉しいよ」
このくらいしか言えない事が情けない。
経験豊富な人だったら、もっと気の利いた事の一つや二つ言えるのだろう。
……大事なのは、次の言葉。
「でも、ごめん。ボク、好きな人いるんだ」
言わなければいけない事だった。
彼女から好意を寄せてもらって、嬉しいという気持ちは嘘偽りのない真実。
それでも、受け入れる事はできない。
ボクの中で一番大きな、あの人がいるから。
この状態で告白を受け入れるという事が、何よりも霧切さんを傷付けるという事が分かっているから。
彼女は、瞳に悲しみの色を乗せていた。
ボクにも分かる。こうして分かりやすく表情に出すようになった辺り、本当に彼女は変わったと思う。
そしてボクは、その視線を受け止めなくてはいけない。じっと、その目を見て、逸らさずに。
「……舞園さん、よね」
「うん……そうだよ」
「ひょっとして、もう付き合っているのかしら? 私からはそういう風には見えなかったのだけれど」
「ううん、付き合ってないよ。ボクの片想い」
「……そう」
「それも、一度フラれてるんだ、ボク」
「えっ?」
霧切さんが目を丸くして驚いている。
これは、あのゴールデンウィークに関わる話。
本当なら、舞園さんの為にも人に言うべきことではないし、今までもそうしてきた。
でも、霧切さんにも何も話さないというわけには、もういかない。
ボクの事を好きだと言ってくれた彼女に対しては、ちゃんと説明しなければいけない。
「ハッキリ言われたんだ。ボクの事は好きだけれど、それは特別な意味じゃない。自分を応援してくれるたくさんファンと同じく、“好き”なんだって。
舞園さんはもうその事を覚えていないけど、ボクは覚えている。彼女の気持ちは、もうよく分かっているんだ」
「それは……前に言っていた、舞園さんと怪異に関係している件、かしら?」
「うん。流石に詳しい事までは彼女の為に全部は話せないけど……これは言わなければいけないと思ったんだ」
「……それでも、苗木君は舞園さんの事が、好き」
「未練たらたらで、男らしくないっていう事は自分でも分かるよ。だけど、フラれた後でも舞園さんへの気持ちが変わらないのは本当なんだ。
自分の気持ちには嘘はつけない。むしろ、その件を通して、より一層彼女の事が好きになったくらいだ。例え、彼女の気持ちがボクには向いていなくても」
これは、一歩間違えればストーカーになってしまう程の気持ちなのかもしれない。
だけど、ボクには彼女へのこの気持ちを、フラれたからといってすぐに忘れる事なんてできない。
あの言葉の前も、後も、彼女はボクにとって大きな存在である事は変わらない。
いつまでこの片想いは続くのか。
彼女以外の誰かを、彼女よりも好きになれる日はくるのか。
それは、全く分からない。
霧切さんはゆっくりと目を閉じた。
それから小さく息をついて、
「気持ちは分からなくもないわ」
「え……そう……?」
意外な一言に、驚いてしまう。
こんな事を言えば、情けなくて失望されてもおかしくないとも思っていたのに。
「私も、たぶんそうだから」
「霧切さんも?」
「えぇ。今こうして苗木君にフラれても、あなたへの気持ちは変わらない。変わらず……好きだから」
「…………そっか」
本当に情けない。
彼女の言葉に対して、ボクはそんな一言しか返せない。
それでも、彼女は気にしていない様子で。
夕陽によく映える綺麗な笑顔を浮かべていた。
それは懸命に取り繕ったものなのか、それとも本心からのものなのか。
ボクには、分からない。
ただ、その笑顔が息を呑むほど綺麗だという事以外は、何も。
彼女は口を開く。
先程告白してフラれたとは思えない程、しっかりとした口調で。
「苗木君、良かったらこの後どこか遊びに行かない? 私、放課後にそうやって遊んだりする経験がないから、少し興味があるの」
「……うん、ボクで良かったら喜んで」
「苗木君がいいのよ」
くすくすと微笑む彼女と一緒に、ボクは教室を出る。
学校の後に友達とどこかへ遊びに行く。
それは彼女にとっては新鮮な事で、考えもしなかった事で。
その相手にボクを選んでくれた事は、本当に嬉しかった。
だから、精一杯頑張って、彼女にはその楽しさを教えてあげられれば、と思う。
少しでも、彼女から貰った気持ちのお返しができれば……と。
霧切さんは本が好きみたいだし、まずはボクがいつもバイトしている古本屋にでも行ってみようか。
「ちひろジャック」終わり。なんかすげー長くなった
次回予告http://imgur.com/HjJp0J8.jpg
このSSまとめへのコメント
読みづらいうえに苗木の口調真似てるだけで誰コレ状態
この程度で読みづらいとか(笑)
いかに文章読んでないかが良くわかるね^^