鷺沢文香「アッシェンプッテルの日記帳」 (36)
鷺沢文香「偽アッシェンプッテルの日記帳」
鷺沢文香「偽アッシェンプッテルの日記帳」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1507290063/)
の続きです
トリップが変わっていますが同じ作者です
18禁シーンを含んでおりますのでご注意ください
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
20〇×年11月25日
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
悪くない目覚めでした。
空腹で目を覚ますというのがなかなか人間的で、笑ってしまいました。
近場のスーパーまで赴いて食料を調達してきたので、今日は休憩しながら書くことにしましょう。
なんともまぁ…我ながら見事に失恋したものです。
それに、こう文字にしてみると、美波さんの大胆過ぎる行動には今でも畏怖の念を禁じ得ませんし…。
おそらく彼女はあの日始めから、自分の目的を達するためにPさんのお宅に来ていたのでしょうね。
(少しでも私を祝う気持ちを持ってくれていたなら嬉しいのですが…)
ですが。あの夜から数日の間、お仕事そっちのけで考えていたのはそういったことについてではありません。
そもそも、美波さんのあの夜の振る舞いを線と点で結ぶことが出来たのも、つい一昨日のことです。
(もし仮に10月28日に日記を書いていたとしたら、全く別の記述になった筈)
それまであの二人が結ばれたのは、私のような黴臭い人間には一生理解できない『男女の妙』や『青春の雰囲気』に依ってなのだろうと、全く理解できていないくせに不思議と納得していたぐらいです。
(なんという莫迦さ加減)
あの夜の後、私の頭の中を埋めていたのは別のこと。
『何故私は動くことが出来なかったのか?』
ということについてでした。
失恋したことや彼女に出し抜かれたということよりも、その疑問の方が私にとっては問題だったのです。
(もちろん両方とも相当に大きなショックではありましたが…)
なにせ自分のことなのに理解できなかったのですから。
二人が交わる直前に言っていたように、私が起きる素振りを少しでも見せれば展開は全く違っていただろうに…何故?
Pさんが私に操を立ててくれると信じていたから?
中断させると美波さんが可哀想だったから?
夢かドッキリであると決めつけていたから?
実は動こうとしていたのに酔いの所為で動けなかっただけ?
数日はそんな風な見当違いの理由をごちゃごちゃと捏ね繰り回していました。
本当はあの時からずっと分かっていたのに。
『ソレ』を認めると自分の醜悪な歪さに気付いてしまうから。
目を背けて、自分は不運なだけの普通の人間だと、そう安心するための根拠を探していたのです。
認めてはいけない。
目の前で、同じ布団の中で、愛しい人が掠め取られる絶望。
その絶望の中、呼吸も忘れるほどに興奮していたなんて…。
そんなことを認めてはいけない。
自分が世間知らずだという自覚はあります。
ですが、そう間違ったものではないはずの私の理性と良識がそう叫んでいました。
だのに、目を背ければ背けるほど、自分はまともであると思おうとするほど、胸を焼くようなあの昏い昂ぶりが蘇ってきたのです。
まるで自分の内側に別の人間が住み着いているようでした。
何一つ信用できない自意識にはもううんざりでした。
私は限界だったのです。
私は楽になりたかったのです。
あのとき。
私の至近で、私などいないも同然に交わる二人を、息を呑みながら具に感じること。
それはまるでいつものように小説を読んでいる心地でした。
美波さんの動きと言葉と息遣いで、刻一刻とPさんの理性が瓦解してゆく…。
その劇的な場面に、私は心の底から魅了されていたのです。
今考えると気の迷い以外の何物でもありません。
このままじっとしていることはきっと私とPさんの関係に良くない影を落とすと、そう肌で感じていたのに、好奇心を優先してしまったわけですから。
そして、この悪魔の囁きに耳を貸してしまった私の愚かさが、今まで続く地獄を招いた全ての根源なのでしょう。
悪魔の提案はいつだって魅力的に映り、しかし、気付いた時にはもう手遅れなのです。
暗闇の中の微かな動きといえども。虫の鳴くような吐息しか聞こえなくても。
Pさんと美波さんに湧き起っているであろう極度の緊張と焦燥を想像することは、小説の登場人物の感情に想いを馳せるよりも容易で、それでいて比べるべくもない程に圧倒的な生々しさがありました。
それはとても強烈で鮮烈で、これまでの読書体験にだって到底比肩するものはありません。
そしてこれからどれだけの書を漁ったとしても、到達することは不可能だと断言できます。
また、私自身の存在も興奮に拍車を掛けていたのかもしれません。
幸福の頂きから絶望へ突き落された私。
そんな私の状況を俯瞰して、どこか面白がっている自分が居たのです。
自分の身にこれほどの悲劇が降りかかるなんて…嗚呼、これはまるで物語の主人公のようではないか、と。
(悲劇過ぎて、いっそ喜劇にでもした方が潔いでしょうか?)
Pさんと美波さんの、官能、背徳、執着、歓び、欲望、愛。
鷺沢文香の、悲しみ、怒り、後悔、嫉妬、絶望。
具現化して見えそうな程に濃ゆい感情の奔流に心が晒されるのは、吐き気を催すほどに恐ろしく、同時に胸が爛れそうなほどに甘美でした。
心を嬲られ傷が付いていくのが分かるのに、何故かその度に全身が、指先つま先に至るまで甘く痺れるのです。
全く以て理解不能でした。
しかしとどのつまり、卑しい私の躰はその破滅的な甘さに酔い痴れていたのだと、もう認める他ありませんでした。
私はこれまでの人生に於いて、あのときほど強く生きている実感を得たこと…生の愉悦を感じたことはなかったのですから。
そして、Pさんと鷺沢文香が共に歩む未来の可能性が消え去ったあの言葉で、私の心はものの見事にパンクし、最早どうでもよくなったのです。
おそらくは精神的にも肉体的にも絶頂を迎えたのだと思います。
尤も当時は、そのことについてはあまり自覚的ではありませんでしたが。
自分の歪さを認めてしまえば、あとはもう簡単でした。
胸の裡の黒い衝動にこの身を放り投げ、惰性に任せて転がり落ちるだけでした。
普段どれだけ華やかな衣装で飾られて羨望と賞賛の言葉を受けていたとしても、その正体はただの下卑た倒錯者だったのです。
であれば、体に散らばるもどかしさの総てを下腹部の熱にくべてしまうのは必定でしょう。
そうして漸く、私は右手を秘部に伸ばしたのです。
あの夜から一週間が経った夕暮れ時。
自室の締め切ったカーテンの隙間からフローリングに差す一条の夕陽は、まるで世界が血の涙を流しているように見えました。
指先にはしとどに濡れそぼったショーツの感触。
その一撫でだけで、思わず身を捩ってしまう程に甘い性感が脳髄を麻痺させていくのを感じました。
常識も、良心も、アイドルとしてのプライドも、もう私を止めることはできません。
いえ、寧ろそれらをスパイスにさえして私は自分を慰め始めました。
脱いだショーツを右足首に引っ掛けたまま、改めてそこに触れると自分の躰とは思えない感触。
久しぶりの自慰とはいえこれほどまでに潤みを得たことなど初めてで、しかもまだ碌に触ってもいないにも関わらずなのですから、流石に一瞬不安になりました。
しかしすぐにあの毛布の盛り上がりが脳裡に蘇ってきて、そうなれば逆に触っていない状態に耐えられなくなってきてしまう。
臍の下から滑らせた手の平で股間を覆い三度も撫でれば、蜂蜜をまぶしたように手全体がいやらしく艶めいて。
だらしなく半開きになった唇から垂れた唾液が顎を汚していくのも気にしていられなくて。
吐息に混じっていたのは発情した牝猫のような喘ぎ声。
そんな声を出しているのを恥じるべきなのに、まるで夢を見ているようなうっとりとした心地でした。
目の前に幻視している二人の盛り上がり。
その背が一際高くなり、それからゆっくりと縮んでゆくのに合わせて、指を股間に沈めてゆきます。
濡れきった陰唇はウミウシのように柔らかくて、どこまでもめり込んでいくかに思えた人差し指と中指でした。
しかし、膣に入り込むや否や、第一関節も越えない浅いところで止まってしまいました。
背骨に直接冷や水を掛けられるような不快感――激しい痛みの予感が全身に走ったからです。
それの意味するところは勿論知っていて、だからこそこれまで自分で破ることもせずにいたのです。
逡巡と呼べるものがあったのかはもう分かりません。
ただ、毛布の幻影の隙間から漏れ出てくる艶やかな吐息は、まるで私を嘲笑いながらも誘っているように聞こえて…。
私は越えました。
躰を真っ二つに裂かれるような痛みが走っても。
指先が愛液とは別の不快な滑りを感じ取っても。
突き入れて、破ってしまいました。
美波さんはPさんを内に呑み込んだのですから、私だってやらずにはおれなかったのです。
二本の指を根元まで収める頃には、棘の付いた棒を捻じ込んでいるような強い痛みがありました。
吐き気さえ感じていました。
目尻からは止め処なく涙が溢れていて…しかし、それは痛みの所為だけではなかったのでしょうね。
Pさんに処女を捧げるという妄想をしたことは何度もありましたし、近頃はそれがいつかは現実になるかもしれないと期待していたのですからね。
嗚呼、本当にどうしてそんなことになったのでしょうね!?
PさんPさんPさん。
悲しいです。悔しいです。
私だって貴方のことが好きだったのに。愛していたのに。
今だって愛しているのに!
……そんな風に泣き叫んだと思います。
二人の盛り上がりが上下に動くのに合わせて、指の出し入れを始めました。
少しでも気を抜けばそのまま昇天してしまいそうな激痛に恐怖しながら。
PさんPさん、と彼の名を呼びながら。
この二本の指は彼の象徴であると思い込もうとしながら。
美波さんの場所に自分がいたかのようにイメージを改竄しながら。
気が狂いそうな程の痛みと背徳の愉悦に、脳細胞が秒刻みで壊死と再生を繰り返しているようでした。
仕舞には呂律も回らなくなり、愛する人の名前さえも呼べなくなって、ほとんど絶叫しているだけになって…。
それでも手の動きだけは止まるどころか激しさを増して、伸びた爪が膣壁に傷をつけるのにも構わずに動かして…。
左手の袖を噛んで叫び声を噛み殺しながら、果てました。
稲妻に打たれたたように全身がびくついて、せわしなく動かしていた右手も寸毫たりとも動かせなくなったのです。
私にできたのは感じることだけ。
膣の激烈な痛みと、下腹部の燃えるような喪失感と、張り裂けんばかりの心音と、脳を溶かすような胸の高鳴り。
それはやはり、これ以上ないくらいの『生の証』に感じられました。
ただひたすら茫として、寄せては返しつつも、少しずつ弱くなっていく波を惜しむように噛みしめていました。
手足の感覚が戻ってくる頃には陽はとっぷりと暮れていて。
膣に突き入れていた指を引き抜くと、身の毛のよだつような痛みだけが残っていることに気付きました。
こんな暗闇の中で一体自分は何をしているのかと、あまりの惨めさにまた滂沱の涙を流したのでしたね。
ですが翌日の夕方自室に帰ってくると、惨めさに自己嫌悪したことなど綺麗さっぱり忘れてしまったかのように、自然に右手を秘所に伸ばしている自分を発見しました。
数万の文字を追うまでもなく、あの夜を思い出しながら右手を動かすだけで、愛も怒りも悲しみも欲望も諦観もカタルシスも味わえるのですからね。
やらない方が不自然とまで考えていたかもしれません。
初心でナイーブな私にとって、それは正に禁断の果実だったのです。
(キリスト教圏から猛抗議を受けそうな低俗な例えですね…オナンがしたのは膣外射精でしたし)
それから一週間ほどは、自慰のこと考えているか、実際に自慰をしているか、自慰に疲れて寝ているか、のいずれかというようなとても酷い生活を送っていました。
盛りの付いたメス猫…というよりは猿でした。(猿沢文香?)
それでもただの猿でいられれば…そこで踏み止まっていられれば、まだマシでした。
しかしやはり人間である以上、どれだけ鮮烈な体験であったとしても、いつかは慣れてしまうということかもしれません。
次第に、あの夜の記憶だけで致すのが物足りなくなってきたのです。
常に新鮮な刺激を求めるのが人間。
この人間の性質を賛美するか、業が深いと捉えるかは人それぞれでしょう。
私はPさんと美波さんを監視し始めました。(『監視』は流石に言い過ぎかも)
時間の許す限り事務所へ出向き、片隅に配置されている休憩用のソファに腰かけて読書に耽るフリをしながら、耳目をPさんのデスクへと集中するようになったのです。
言わずもがな、使えるオカズを求めて。
『そういう目』で見ると一目瞭然でした。
彼と美波さんが話すとき、その距離が他の誰よりも近づいていることに気付きました。
そそ二人の頬にはいつも朱が差していて、言葉もなくただ見つめ合う回数が日毎に増えていくようでした。
それに何より、お互いの体に触れる仕草の自然さと遠慮のなさ…。
二人が着々と絆を深めていくサインに気付く度に、あの夜に引けを取らないほどに心が掻き乱されました。
呼吸もし辛くなり、平衡感覚も失って、下腹部はきゅうきゅうと慰めを求めてくるのです。
そうなると翌日は決まって寝坊という体たらくでしたね。
特に、彼のワイシャツがいつになく綺麗にアイロンがけされているのに気付いた日は大変でした。
その意味に思い至った瞬間、危うく絶頂の叫びを上げてしまうところでした。
しかも自宅に戻るのも待てず、これからダンスレッスンが控えているというのに、お手洗いに駆け込んでしまいました。
当然の結果として、雌の臭いをプンプン漂わせながらレッスンすることになり…他の参加者の皆さんには悪いことをしたかもしれません。
二人は青春を謳歌し、私は背徳の自慰に溺れる。
月と蛆虫のようなその差にさえ、倒錯した興奮を覚えていた私はもうどうしようもありません。
どうせもう手に入らないのなら、いっそのこともっと打ちのめして欲しかった。
そうすれば自分を慰める大義名分ができるのですから。
そして三日前のことです。
夕方というよりは夜の時間帯のことでした。
いつものように用も無いのに事務所のソファに陣取り、デスクでお仕事に励むPさんを視界の隅で視姦していたのですが、そこに美波さんがやってきました。
平静を装いつつ2、3の言葉を交わしたところ、大学のレポートの進みが芳しくなく、かといって自室では集中できないので、事務所でやるために来たのだとか。
自室で集中できないというのは私としては理解しがたいことですが、適度な雑音がある方が集中できるという方も確かにいるようですね。
尤も、それが本当の理由を隠すための方便であることは明白でした。
既に帰宅したスタッフさんのデスクで、レポート用紙にペンを走らせ始めた彼女は“大変だ”と言う割にとても良い表情で…。
それに何より、集中するために来たと言いながら、全く集中できているようには見えなかったのですから。
この頃になると、外野から見える範囲での二人の接触は極端に減っていました。
それはきっと他の方に自分たちの関係を勘繰られるのを避ける為だったのでしょう。
挨拶もお仕事とレッスンの報告も簡潔かつ最低限。
一時はベタベタするという単語以外思いつかなかったスキンシップも、最近ではほとんど見られなくなっていて。
ですが、おそらくは油断したときなのですが、二人が熱っぽい視線を見せることがあり、その先にはいつも決まってお互いが居ました。
夢と希望と愛に満ち溢れた二人の表情は、やはり変わらず私の胸と下腹部を無慈悲に締め上げてくれるのです。
このときの美波さんもやはり、時折伸びをする仕草にPさんへの熱視線を紛れ込ませていました。
カモフラージュで広げた書籍から、視線だけを動かして彼らを盗み見るのも、慣れたものです。
21時を過ぎた頃、事務所に残っているのは私と美波さんとPさんと、あとは数人のスタッフさんだけになっていました。
美波さんからは帰ろうとする雰囲気はまだ感じられません。
私としてはもう十分な『撮れ高』がありましたから、この後のお愉しみに備えて帰宅することにしました。
レポート作成を終え、別の講義のレジュメと思しき書類に目を通している美波さんに帰る旨を伝え、事務所が入るビルを出て…。
冷たい風に吹かれたところで、愚鈍な私はようやく気付いたのです。
美波さんはPさんの様子を見に来る為だけに事務所に来たのではない。
これから二人は逢引するつもりなのだ、と。
一瞬、踵を返して事務所に戻り、二人が何食わぬ顔で連れ立って退社する様子を観察したいという欲求が湧きました。
しかし、私がいる限り二人はいつまでも帰らないか、もしくは私の目の届かない外で落ち合うことにするかも…。
駄目です。
それではあまりに勿体ない。
つまりは、このタイミングで私が出てきたのは結果的に良かったのでは? と考えることにしました。
私はビルの玄関と駐車場の出入り口の両方を見渡せる路地に身を潜めました。
街灯の光も届かない暗闇の中でただ立ち尽くす私の姿は、端から見ればさながら幽鬼のようであったかもしれませんね。
寒さに耐えながら待ち続け、30分経つ頃に見知った顔のスタッフさんが1人、そして更に10分経つ頃に2人、ビルから出てきました。
これで今、事務所に残っているのはPさんと美波さんだけのはず。
つまりもうしばらくすれば、Pさんの車に乗った二人が出てくる…。
そのとき美波さんはどの席に乗っているのでしょう?
仕事で移動するときと同じように後部座席に乗っているのか?
助手席に乗ってPさんに視線を向けているのか?
それとも、パパラッチを警戒して身を伏せているのか?
いずれにしても、二人の胸はさぞや高鳴っていることでしょう。
私の胸も既に二人と同様かそれ以上に高鳴っていました。
しかし、10分経っても20分経ってもPさんの車は出てきません。
もちろん引き続き玄関への注意も払っていましたから、徒歩で出たわけでもありません。
一体どうしたのか?
不思議に思った私は確認するために、一度事務所へ戻ることにしました。
二人と鉢合わせてしまった場合は忘れ物をしたとでも言えば良いでしょう。
そんな風に考えながらも、念の為エレベーターではなく非常階段を使うことにしました。
高々3階分ですし、音も鳴りませんから。
目的の階まで上って廊下へ出るドアノブを掴もうとしたところで、手が震えていることに気付きました。
寒さだけでは説明のつかない尋常ではない震え方。それに呼吸も何十階も駆け上がったように荒くなっていて…。
自分の肩を抱いてみても、深呼吸を繰り返しても、一向に良くならなかったので、もう諦めてドアを開け、事務所のあるフロアへと足を踏み入れました。
まさかそんなことある筈がない、と本当にそう思っていたのです。
怖気を禁じ得ないほどに、フロアは薄暗くなっていました。
フロアに入ってすぐのエレベーターホールは天井の小さなライトで照らされていました。
ですが事務所へと続く廊下は完全に消灯されているということが、その場で分かりました。
エレベーターホールのライトはいわゆる常夜灯なので、つまり普通に考えれば、このフロアにはもう誰もいないはず。
ひょっとすると非常階段を上っている間に入れ違ったのかもしれない、という考えも浮かびました。
しかし、ここまで来てしまえば実際に確認してみなければ気が済みません。
エレベーターホールを越え、角を曲がると数メートル先にある事務所のドア。
そのドアの中心に組み込まれている幅10センチ程度のガラスのスリットから、事務所内も消灯されていることがすぐにわかりました。
ドアの前まで行き、ドアノブにゆっくりと手を掛けるとやはり施錠されていて…。
しかし、スリットの向こうに微かな光源があることに気付きました。
気付いてしまったのです。
真っ暗な部屋の中でパソコンのディスプレイだけが点いていたら、そのように見えるのでしょう。
幅の狭いスリットからは、どのディスプレイが点いているのかは直接は見えませんでしたが、それはきっとPさんのデスクのものであると、何故かそう直感した次の瞬間。
“だめ……”
誰もいないはずのドアの向こうの暗闇から、声が聞こえたのです。
驚愕のカタマリが悲鳴として喉を突き破って出てきそうでした。
それを微動だにせずやり過ごすと、代わりとばかりにうなじから尾骶骨にかけての全ての毛穴が開いていく感覚がありました。
いつの間にか口内は乾きかけの唾液で粘つき、喉の奥に酷い不快感が溜まっていました。
躰の震えを抑えつけ、改めてスリットを覗いてみても、人の姿かたちはやはり見当たりません。
どうやら声の主は完全に陰になっているところにいるらしい。
こちらから見えないということは、あちらからも見えないということです。
それが分かるや否や、殆ど無意識のまま大胆に耳をドアへ押し当てていました。
“だめ…だめです………Pさん”
声音の鮮明さが増したのと知った名前の登場で、私の興奮は早くも最高潮に達しようとしていました。
声の主は当然の如く美波さんで、しかも何やら『ダメナコト』を始めようとしているご様子。
気付けば私の口元は歪んでいて、口の端からひゅうひゅうと空気が漏れ出る音が鳴っていました。
それはもしかしたら、噛み殺し損なった笑い声だったのかもしれません。
どちらにしても音を出すのは非常にマズイですから、両手で口を覆うことにしたのですが、その所為で鼻水を噴き出してしまったのでしたね。(なんせ寒さが堪えていましたからね)
美波さんの甘ったるい“だめ”が繰り返し聞こえるのに、Pさんの声は殆ど聞き取れませんでした。
Pさんの声が低いからこちらに響いてこないのか、それとも、美波さんの耳元で囁いているからなのか…。
一体全体Pさんはどんなことを言っていたのでしょう?
『あの夜、ベッドの中で俺は何度もだめだと言ったのに、お前はやめなかったじゃないか』などでしょうか?
“あっ、あっ、Pさん”
美波さんの声色が変わって、それで行為が完全に始まったことが分かりました。
そうなるともう、手を口を押えることになんて使っていられません。
スカートをたくし上げて陰部を弄り始めました。
ストッキングとショーツを下ろさないまま右手を滑り込ませると、指先にはとろみのある感触。
どうやら随分前から潤み始めていたようです。
つくづく躰は正直だなと思いました。
そうなのです。これだったのです。私が求めていたのは。
スキンシップでも熱い視線でもなく。
男と女が雄と雌になって、本能を剥き出しにする瞬間。
あの夜以来、このどす黒い煌めきをもう一度味わいたくて堪らなかったのです。
いつ入れるのですか? もう入っている? まだ? まだですよね?
そのタイミングに合わせて私も中指と薬指を入れるのですからね?
股間を揉むように摩り、とろみを大陰唇と淫核になすりつけ、自分を高めながらそのときを待っていました。
外側を撫でているだけでも臀部がヒクつくほどの夢心地なのに、ドア越しの美波さんの声が下腹部に突き刺さってくるのです。
“あ”と聞こえれば更なる愛液が溢れ、“ん”と聞こえれば子宮を撫でられたような疼きが走りました。
美波さんが“Pさん、Pさん”と言うのに同期して、私も音にならないくらいの小さな声で呟いてみたりもしました。
あぁ、だめです、Pさん。ここは事務所なのですよ?
アイドルを輝かせるための方策を練る為の神聖な場所なのですよ?
それなのに、するのですか? この場所で、貴方が見初め育てたアイドルを犯すのですか?
あぁ、だめですよPさん。だめ、だめ、です。
いつもは意に沿わないことの無理強いなんて絶対にしないのに、こんなときには私の言うことなど聞いてくれないのですね?
私の気持ちよりも自分の性欲を吐き出すことの方が大事なのですね?
分かっていますよPさん。それだけ私のことが好きなのですよね?
どうせ一緒に帰った後もヤるくせに、今この瞬間が我慢できないくらいに私のことが好きで好きでしょうがないのですよね?
私もです。私もPさんが好きです。好きで大好きでしょうがありません。
求められればなんだってします。恥ずかしいことも、猥褻なことも、なんだって。
だからもっと求めてください。
もっと、もっと。
……などという掛け合いを妄想すれば、下半身がバターのように溶けてしまいそうでした。
早く入れたい。早くPさんのペニスで私の中をかき混ぜたい。
その瞬間を今か今かと待ちながら、中指と薬指の先端を膣口にあてがっていました。
“きて…Pさん…”
そして美波さんの総てを受け入れる声が聞こえた後、二人は繋がったのです。
その証拠に快感に満ち満ちた、とても淫らな長い悲鳴が聞こえました。
躊躇なく、私は力いっぱいに指を捻じ込みました。
リンクする私と美波さんの膣の感覚。
脊髄はとろけ、脳みそが沸騰しそうなほどの快感が全身に走ります。
使い物にならなくなった思考力でも絶頂の声を上げてはいけないと分かっていましたから、歯を食いしばり唇を引き結び耐えようとしました。
しかし、それでも結局呼気の漏れを止めることはできなかったので、口の端に泡を吹いていたかもしれません。
(鼻水なんて両穴から噴き出しっぱなしでしたから、泡ぐらいでどうということもないのかもしれませんが)
美波さんの喘ぎと、きぃきぃとデスクが軋む音のリズムに合わせて、指を出し入れしました。
ショーツの中で手をバウンドさせていると、すぐに腕の筋肉が疲労してきたので、ショーツをストッキングごと膝までずり落とすことにしました。
すると暗闇の中といえど、会社の廊下で局部を露わにしたまま立っていることに途轍もない罪悪感を覚え…。
謝罪するようにその場に座り込んで、しかし、何事もなかったかのように自慰を再開しました。
ドア越しの美波さんの声は、さっきあれ程だめと言っていたのに今ではもう必死にPさんを求めていました。
“Pさん。もっと。好きです。Pさん”
やはり私の妄想の通りだった、ということなのでしょうね。
私は二人をよく見ていましたから。気持ちなんて手に取るように分かるのですよ。
Pさんのどうしようもないほどの獣欲も、美波さんの羞恥心に勝るPさんへの愛情も、しっかりと理解できていましたから。
淫らで猥褻なのに、美しい…まるで人間の総てを内包した戯曲のよう。
それを特等席で感じられることに、私の躰は歓喜していたのです。
痛いくらい左耳をドアに押し付けて、右手は水音がするくらい激しく動かして、快感を貪りました。
それでもうっかりと果ててしまわないように、手淫の強弱をセーブし、待ちました。
いつしか美波さんの声は何の意味もなさない喘ぎになっていて、Pさんの声も聞こえてくるようになりました。
彼の声には優しさの欠片もなく、欲望丸出しのケダモノの唸り声のようで…。
初めて聞く彼のそんな声にも、私は泣きそうなくらいの深い昂ぶりを覚えていました。
早く、早く、お願いします、早く! と舞台の二人に大向こうを念じます。
ドアのノックが出来そうなくらいに私の心臓は激しく脈打っていて、もう限界でした。
“美波! 美波!!”
“Pさん! Pさん! あん!!”
まるで私の気持ちに応えてくれたように、これまでで最大の二人の叫びが響き、そして突然デスクの軋み音が聞こえなくなりました。
その刹那、私は自分に絶頂を許したのです。
脳が痺れるほどに圧倒的な絶頂でした。
指の股が陰唇でつっかえるまで突っ込んだ二本の指が、別の生き物のように蠢く膣にきゅうきゅうと締め付けられました。
あまりに締め付けが強いので骨折してしまうのではないかと思ったほどです。
視界に散っていた火花が治まり始めた頃、私は自分の今の状態を思い出しました。
私は女の子座りで、涙と涎と鼻水を垂らしながら股間を弄っていたのです。
二人がすぐに出てくるということはないでしょうが、ゆっくりしていて良い筈がありません。
しかし、半脱ぎのストッキングとショーツを直そうと思った矢先、美波さんの驚きの声がそれまでよりもよく聞こえました。
“ああっ! Pさん!? だめ!”
二人が私の方へ近づいてきていたのです。
気付かれた!? 大変! 逃げないと!
咄嗟にそう思い慌てて立ち上がろうとしましたが、杞憂でした。
二人がドアのスリットガラスの向こう2メートルのところを、こちらに見向きもせず悠々と横切ったのです。
美波さんは暗闇でも分かる白い美脚と尻たぶを露わにしたまま、Pさんの上半身に前から腕と脚を絡ませてしがみついていました。
そして、ぎしり、とソファのクッションが鳴る音が響きました。
それは私がつい一時間前まで座っていたソファでした。
二人はなんと、そこで愛の行為を再開したのです。
ドアとソファの間にはパーティションがあるとはいえ、さっきとは比べ物にならない程近いのです。
しかもフロアは静まり返っていましたから、最早ドアに耳を当てるまでもなく二人の喘ぎ声を聞くことが出来ました。
声だけでなく、肉同士がぶつかり合うような音まで聞こえました。
でも私は鮮明な声を求めてドアに耳を押し付け…気付けば、右手も激しく動いていたのです。
あれだけ深く果てたというのに、もう次を欲しがっていました。やはり猿ですね。
無我夢中になって手を動かしました。
二人のリズムなんてお構いなしで、能う限り早く指を突き入れ、抜き、そしてまた突き入れて。
突き入れる時には手の平で淫核を押し潰す徹底ぶりでした。
だらしなく開いたままになっている口から、唾液と呻き声を垂れ流しているのが分かるのに止めることができません。
ただひたすらに、天祐のような悦楽を愉しみました。
そして再び、二人の果てる声と一緒に私も派手に果てました。
しかもこんな場所では絶対に触れてはいけないトコロ、私の弱いスポットを迂闊にも引掻いてしまったのです。
目の前が赤黒く染まるほどの途轍もない絶頂でした。
全身の筋肉が強張っているのに、脳だけがトロトロにとろけてゆく感覚がありました。
あまりに気持ちが良くて、これ以外はもうどうでもいいと感じていました。
自分の輪郭が溶けてゆくようで、自分の今の体勢もわからなくなり…。
挙句、ヘマをやらかしてしまいました。
ほんの一瞬ではありましたが私は気絶してしまい、しかもあろうことか前方に倒れ込み、ドアに頭突きをしてしまったのです。
ゴン、と。その場にはあまりにも似つかわしくない音が、フロア中に響いたのではないでしょうか。
額の鈍痛に気付くと同時に血の気が引きました。
確実に気付かれました。
その証拠にドアの向こうでは、短い悲鳴と慌ただしく着衣を正すような音がしました。
私もぼんやりとしていられません。
一刻も早く立ち去らなければ!
そう思って立ち上がろうとしたのですが…、あろうことか盛大に尻餅をついてしまいました。
半脱ぎのストッキングとショーツのことを完全に失念していて、脚を取られてしまったのです。
尾骶骨に走る痛み。しかし、そんなものにかかずらっているいる余裕はありませんでした。
なぜならば尻餅と同時にドアが開き、Pさんが顔だけを出した状態でこちらを見ていたのですから。
“文香…?”
ひぃ! と声にならない悲鳴を上げてしまいました。
私は全てが終わってしまったと思いました。
何故か、あの夜以来の私の背徳行為の総てが露見してしまったとさえ感じていました。
恐怖に駆られ腰を抜かした私は、四つん這いになって逃げ出しました。
廊下の角を曲がりPさんの視界の外に出たと分かると立てるようになり、ストッキングとショーツを直して非常階段へ駆け込みました。
私を呼び止めようとするPさんの声があったような気もしますが、私は無視しました。
そして何度が階段を踏み外しそうになりながら一階まで降り、そのままの勢いで自宅まで逃げ帰ったのです。
自室の玄関のドアを施錠し、チェーンロックまで掛け、それでようやく体の力を抜くことが出来ました。
ベッドに倒れ込み、スマートフォンを取り出すと案の定、Pさんからメッセージが届いていました。
『とんでもないところを見せてしまって申し訳ない
きっと軽蔑しているだろう
さっきのことについて一度話をさせて欲しい』
文面は私を咎める旨のものではありませんでした。
よく考えるまでもなく当然でした。
フロアは暗く、私の決定的な部分は長いスカートで隠れていたのですから。
彼らにとって私は完全に被害者なのです。
夜たまたま事務所に来てみれば、担当プロデューサーと同僚アイドルの情事を見せつけられ、腰を抜かした不運な鷺沢文香。そう考えたのでしょう。
それにしても一体どんな話をするつもりなのでしょうか?
謝罪でしょうか?
美波さんと真剣にお付き合いしているということでしょうか?
それとも口止めがしたい?
少なくともどれも私には必要ありません。
下衆な勘繰りであの場所に行ったのは私ですし、二人が真剣にお互いを愛し合っているというのは私が一番よく知っています。
それに二人の素敵な関係を口外するなんて、口が裂けてもするつもりはないのですから。
私はただこれまで通り、二人の蜜月の御相伴に与りたいだけ。
できることならば、近くで。
もっと、もっと近くで。
『明日の夜、Pさんのお宅で美波さんも交えて、お話がしたいです』
送ってしまってから、頭を抱えるほどに後悔しました。
胸に湧いた欲望は最悪という他ありません。
なのに、後悔も自己嫌悪もどうでもよくなるくらいの昏い欲望がすでにフツフツと込み上げていたのです。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
20〇×年11月26日
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そして次の日の22時。
私たち三人はPさんのお宅で正座をして向き合っていました。
Pさんは開口一番に謝罪の言葉と共に土下座を披露しました。
美波さんもPさんに倣い土下座をしました。
そして二人が恋人になったという話を聞かせてくれたのですが、凡そ私の予想通りでした。
なのでその殆どを私は聞き流していました。
そんなことは分かっています。
私が欲しいのは謝罪でも説明でもないのです。
新しい刺激なのです。
一通りの説明を終えたPさんは、判決を待つ受刑囚のような神妙な面持ちで私を見つめてきました。
“事務所ではよくされるのですか?”
そんな私の質問は予想外だったのか、二人は眉を顰めました。
ですが真剣な表情で見つめ返すとPさんが口を開きました。
“昨日が初めてだった。いや最初で最後に”
“どこですることが多いのですか?”
Pさんが言い終わらないうちに次の質問をしました。
Pさんの表情には困惑の色が見えていましたが、“答えてください”と語気を強めて言うと“ホテルか…ここだ…”と教えてくれました。
それからも私は次々に質問を重ねていきました。
“朝にすることもあるのですか?”
“昨日はあの後もしたのですか?”
“これまでに何度したのですか?”
今思えば、まるで男子中学生みたいな助平な質問ばかりですね。
しかし、既に10回以上していたというのには驚きました。
ひと月足らずの間にですから、二日に一回のペースです。
私は惨めに自分を慰めるしかなかったというのに、二人はあんなに素敵なことをもう何度も…。
答えを聞く度に、下腹部がズキズキと甘く疼くのを感じました。
“するときはどういう風に始まるのですか?”
“キスや抱きしめたりしてたら、いつの間にか雰囲気で…”
“やってみてください”
“…なに?”
バカバカしい質問を重ねていた所為もあるのでしょうが、明かな不快感がPさんの顔に浮かんでいました。
とはいえ、当然の反応だと思います。
“あんな場面に遭遇した私はこれからどう生きてゆけばいいのですか?
貴方たちの喘ぎ声が耳にこびりついて離れないのですよ?
貴方たちの交わる姿のイメージが頭の中でで膨れ上がってパンクしそうなのですよ?
でもこれは私が無知だからです。無知ゆえに際限なく想像を膨らませてしまうのです。
だから一度お二人が交わる様子を確と目の当たりにすれば、なんだこんなものかと納得し、自分の気持ちに折り合いをつけることができると確信しています。
いえ、その様子を見ない限り私の日常は戻ってこないのだと言ってもよいでしょう。
私の日常を壊した責任を取っていただけますか?”
“意味が分からない!!”
Pさんが怒りも露わに叫びました。
私だってこの論理が受け入れられるとは、勿論思っていません。
ですがその日は初めから、全部見せてもらうつもりでした。
被害者ぶってでも。彼らの弱みに付け込んででも。脅迫してでも。
“会社内での性行為がどれほど社会的信用を損なう行為か、ご存知ですよね?
あまつさえ、プロデューサーとアイドルなのですよ?”
愕然とした表情というのはああいうものなのですね。
いつも自身に満ち溢れたPさんの表情が、他ならぬ私の言葉で歪んでいくのは、本当に心が痛みました。
睨み合うPさんと私。彼の額に浮かんでいたのは、きっと脂汗というものでしょう。
しばしの静寂の後、口を開いたのはずっと黙っていた美波さんでした。
“文香さんはそれで良いの?”
私の頭の中は一瞬で疑問符で一杯になりました。
というのも、そのときの私には美波さんの言葉も纏う雰囲気も、異様なほどに理解できなかったのです。
まるで私が要求すべきことはもっと別にあるかのような言い分でしたし。(これ以上の要求があるのでしょうか?)
それにPさんのように取り乱すでもなく憤るでもなく、寧ろ逆で、私のことを憐れむような、ともすると悲しそうな表情だったのですから。
(まぁ確かに、友人と思っていた人間に脅迫されたら、悲しくもなるかもしれませんが)
ですが今ならば、表情については一応の説明を付けることができます。
おそらく、美波さんは罪悪感を覚えていたのです。
私がそんなことを言い出したそもそもの発端が、あの夜の自分の大胆な行為にあるのだと勘づいていたのではないでしょうか。
ですが、三日前の私は猿沢文香でしたから…。
疑問点を明らかにする時間すら煩わしく、ただ“早く始めてください”と切って捨ててしまったのです。
いち早く覚悟を決めた風の美波さんが立ち上がり、Pさんを抱き締めました。
状況の理解が追い付いていないPさんは素っ頓狂な声を上げましたが、それも美波さんが唇で塞いでしまいました。
愛する人と自分以外の女性の口づけ…。
まともな人間であれば一眇たりとも見ていたくないはずのその光景を、しかし、私は瞬きも忘れ見続けました。
長く静かな口づけの後、美波さんはPさんの耳元で何事かを囁くと、Pさんも覚悟を決めたようでした。
私は二人にベッドへ向かうように目線を送りました。
美波さんがPさんの手を引いてベッド際まで行き、Pさんと共にベッドへ倒れ込みました。
下になった美波さんはPさんの後頭部に両腕を絡め、先程とは比べ物にならない程激しい口づけをして見せてくれました。
私はベッドサイドに膝をつき、その熱いベーゼを間近で凝視することにしました。
二人とも口を大きく開いて、まるで凹と凹を組むように唇を重ねていました。
頬肉の向こう側では、舌同士がケリュケイオンのごとく絡み合っているのがありありと幻視できました。
お互いの口内を舌で舐り合って、唾液を啜り合って、無心で貪って…。
Pさんだけでなく美波さんも小鼻がヒクつくほどに激しい鼻呼吸でした。
しかも、相手に鼻息がかかるのも全く気にしている素振りはなくて…。
そんなことよりも、一呼吸の間すらも離れたくないという気持ちなのでしょうね。
嫌です。やめてください。お願いします。なんで私の前でそんなことが出来るのですか?
Pさん、貴方はきっと私の好意に気付いていたはずです。
それなのに、何故なのですか!? 何故そんなに酷いことができるのですか!?
酷いです! 非道! 嫌、嫌、嫌!
ここに至った経緯など全て忘れて、私は心の中で身勝手に二人を呪いました。
正しく、あの夜の再現でした。
胸の憎悪の炎が全身を焼き尽くしそうなのに。
止め処なく涙は溢れているのに。
頭を抱えた手の爪が出血しそうなほど頭皮に食い込んでいるのに。
それでも私は一声も上げずに二人を見続けていました。
やめてください、という喉元までせり上がった気持ちは、ただの熱い吐息になっていました。
私はあの夜よりもずっと興奮していたのです。
凹と凹の嵌め合わせ方を何度も変えた二人が、唇を離し見つめ合った後、私の方を見てきました。
二人の唖然とした顔。
彼らの視線は私の顔と下半身を行ったり来たり。
私は気付かぬうちに、スカートの上から両手で揉み込むように股間を弄っていました。
完全に自分の意思を超越した自慰でした。
二人に最低に惨めなオナニーを見られているのに、それでも尚、手が動くのを全く止められなかったのですからね。
“貴方たちはセックスをしているのでしょう!?
私を見る必要がどこにあるのですか!
いつも服を着たままセックスをしているのですか!?
いい加減にしないと本当にバラしてしまいますよ!!”
私は怒りのままに叫びました。
見られた怒りだったのか、勝手にセックスを中断した怒りだったのか、それによって私のオナニーを邪魔した事に対しての怒りだったのか…。
映画の撮影でだってあんなに凄んだことはありません。
ですがその甲斐あってか、二人は慌てて服を脱ぎ捨てて生まれたままの姿になったのです。
同じ女性でも惚れ惚れするような、気品と色艶のある美波さんの肢体。
夢にまで見た、Pさんの男性然とした逞しい肉体と…男性器。
それは直に見るのは生まれて初めてであるのに、猛り切っているのが一目でわかるほどの屹立でした。
Pさんの怒張したペニスを視界に捉えた瞬間、心臓に杭を突き立てられたような痛みが走りました。
息を吸って吐くだけでも胸に激痛が走り、とても何か言葉を発することなんて出来ません。
痛みに喘ぐことすらできない間に、Pさんのペニスの先端が美波さんのヴァギナにあてがわれました。
そして、ずぷずぷと沈み込み…まるで、その二つはお互いのためだけに存在しているかのように、完璧に嵌合したのです。
私は絶叫しました。
部屋の中に私の“嫌”の叫びが大きく、長く、響きました。
そうなのです。
このとき初めて、私は彼らの行為に待ったをかけることが出来たのです。
美波さんの奥まで入ったPさんは私へ振り向き、何事かと恐る恐る尋ねてきました。
そのPさんに対して私は『ごめんなさい。もういいです。十分です。もうたくさんです。私が悪かったです。これ以上はしなくてよいです。赦してください』と、そう言うつもりでした。
本当にそう言うつもりだったのです。だのに。
“何を止まっているのですか!? 早く動いてください!”
そう口走っていました。
支離滅裂ですね。
Pさんも不可解極まるというような表情だったと思います。
念押しするように“早く!”と私が言うと、Pさんは腰を動かし始めました。
Pさんの荒々しい息遣いと、美波さんの喘ぎ声と、腰のぶつかり合う音と、鷺沢文香の叫びの破滅的なハーモニー。
“やめて下さい”と“止まらないで下さい”の絶叫を三度繰り返す頃には、もう私が何を言ってもPさんは止まってはくれなくなりました。
“嘘です。さっき言ったのは嘘なのです。お願いです、もう止まってください。
お願いします。私の前で愛し合わないでください。止まってください。
もうやめて下さい。今の私が言うことが正しいのです。お願いします。
だからもうやめてーー!!”
どれだけ懇願しても、絶叫しても、Pさんは止まってくれません。
奈落、地の獄、の更に下、絶望のどん底でした。
私に許されていたのは、自分を必死に慰めることだけ。
絶望を強く感じれば感じるほどに、しかし、自慰の快楽は倍々に増していくことは分かっていました。
そして私の声が嗄れ果て、地鳴りのような喘ぎ声しか出せなくなる頃、Pさんの様相が一変しました。
美波さんの腰を壊さんばかりの激しい打ち付け方に変わって。
歯を食いしばって、うわ言のように“いく、いく”と繰り返し。
最後に一等強く突いて、全身をブルブルと震わせながら情けない呻き声を上げたのです。
それに重なる美波さんの一際大きく美しい嬌声。
どこからどう見ても、二人はオーガズムを迎えていました。
だから私も力の限り股間を握り、陰核を潰して法悦に達したのです。
美波さんと比べるのも失礼なくらいの、野太く濁った叫び声しか出せません。
ですがその分、もう死んでもよいと思えるほどに極まったエクスタシーでした。
二人の喘ぎ声が収まった後も、私は意地汚く陰核を弄り続けました。
Pさんが腰を引いて、再び姿を現したペニスの全貌…少し縮んでいながらも愛液にまみれた姿が、あまりにグロテスクだったので達しました。
ペニスが引き抜かれ、ぽっかりと口を開いたままの美波さんのヴァギナがエロティック過ぎて達しました。
膣口がヒクつきながら閉じてゆく際に、真っ白いドロリとした液体を垂らしたのがいやらし過ぎて達しました。
その精液に私の鼻腔を犯してもらえたことが嬉しくて、また達しました。
しばらくすると暴力的なまでの絶頂の波も引いて、視界が開けてきました。
二人は私を見ていました。
美波さんは相変わらず憐れみの表情で。
Pさんは目を細め、まるで汚物を見ているかのよう。
しかし彼のペニスが硬度を取り戻していることに、私は気付きました。
もう私には取り繕うべきものなど何も残っていません。
おかわりがあるのなら、手を伸ばすのみ。
“もう一度見せてください”と掠れた声で言いました。
しかしPさんはこちらを見つめたままなかなか動こうとはしません。
アソコは元気でも体力が回復していないのか、それとも私に呆れ返っているのか。
いえ、両方だったのでしょうね。
また怒鳴り散らしてみれば動き始めてくれるだろうかと考えを巡らせていると、おもむろに美波さんが動きました。
仰向けのまま息を整えていた彼女は、寝返りを打つように体を捩ってうつ伏せになり、そして、四つん這いに…いえ、雌豹のポーズをとったのです。
その白く綺麗なお尻をPさんへと突き出して、無言の裡に彼を誘ったのです。
するとPさんは――私が言っても動かなかったのに――憑りつかれた様に美波さんのお尻ににじり寄り、その切先をまた彼女の秘部へ埋めてしまいました。
あまりに煽情的過ぎる美波さんの肢体に心を奪われていた私ですが、彼女の上げた声に我を取り戻しました。
後ろから好き勝手に突かれている美波さんの喘ぎ声は、先程よりもずっと艶めいていたのです。
女神のような彼女が獣がするのと同じ方法で犯されて、それなのに、快楽のよがり声を抑えられないのです。
率直に言って滑稽でした。
わざわざ自分から犬のように這いつくばって、こんなにも喘いで見せるのですからね!
それにPさんだけが動いているのではありません。美波さんも彼のリズムに合わせてお尻を前後に動かしていることを私は見逃しませんでした。
パンパンという間抜けな破裂音を、美波さんも一緒になって奏でていたのです。
なんてはしたない!
いくら脅されているとは言え、恥ずかしくないのですか?
何の模様もない白い壁を向いている貴女は、一体どんな顔をしているのですか!?
気になった私はベッドに近づき、いえ、マットレスに手をつき身を乗り出して、彼女の表情を覗き込みました。
そして言葉を失いました。
正面から覗き込んでいるのに。
吐息がかかるほどの至近距離でまじまじと見つめているのに。
美波さんはしばらくの間、私の不躾な視線に気付かなかったのです。
ただでさえ垂れ目がちな目をもっと垂らして、一体何をその瞳に映していたのでしょうか…?
唇を尖らせて濁った喘ぎ声を出している様は、最早下品と言う他ありませんでした。
彼女のそのオゲレツな表情を見るまでは、一言二言くらいの野次は飛ばしてみようと思っていたのに…そんな底意地の悪い考えは霧散してしまいました。
発情猫のように無様にあえぐ美波さんを目の前にしても尚!
いえ! だからこそ!
私の胸に沸き起こったのは、激しい嫉妬と羨望の炎だったのです!!
私に見られていることを知りながら、なぜそこまで乱れることができるのですか?
私の存在など気にならないくらいに気持ちよいということですか?
イヌのように交尾しているのに恥ずかしくないのですか?
恥ずかしくても構わないのですか?
そんなにも! Pさんのペニスは気持ちいいのですか!?
どこからどこまで言えたかは分かりませんが、それでようやく美波さんは眼前に私がいたことに気付いてくれました。
焦点をちぐはぐにしたまま眼球だけをこちらに向け、大儀そうにボソボソと喋り始めました。
しかしその声量が小さく、とても聞き取りづらかったので彼女の口元に耳を寄せたところ、捕まえられました。
逆側の耳を優しく掴むように、美波さんの腕が私の頭に絡みついたのです。
私の頬に美波さん火照った頬がくっつくと同時に、耳に吹きかけられる熱い吐息。
そして“ごめんね、文香さん”と、彼女は私にしか聞こえないような小さな声で囁き始めたのです。
そこには明らかな喜悦の音色がありました。
“ごめんね。キモチイイ。Pさんのおちんちん、とってもキモチイイの。
指じゃ絶対に届かない奥も擦ってくれてとってもキモチイイ。文香さんは知ってるのかな?
一番感じやすいトコロを大好きな人にめちゃくちゃにしてもらえるのってね、キモチイイだけじゃなくて、すごく幸せなんだよ?
他に替えなんてない。オナニーじゃダメ。Pさんじゃなきゃダメなの。わかるかなぁ?
文香さんもヤリたかった? ヤリたい? ねぇ? ヤリたいよね?”
自分で聞いておきながら、それは絶対に聞いてはいけない事実でした。
これまで私のやってきたことは何だったのでしょうか!?
あれだけ淫蕩に明け暮れたというのに、一度でも幸福を感じられたことはあったでしょうか!? 否です!
単にオーガズムを幸せと混同していただけ!
それこそが幸せであると思い込もうとしていただけなのです!!
同じ男性を愛した美波さんがそう言うのであれば、もうそこに議論を挟み込む余地は残されていません。
私はようやく自分の間違いに気づきました。
こんなことをいくらしていてもダメだったのです。
どれだけ二人の感情を追体験しても、どれだけ深く絶頂しても…、私が真に求めていたモノは、決して得られないのだということに気付いたのです。
惨めで、惨めで! ただひたすら惨めで!!
身体が泥のように崩れ落ちてしまいそうでした。
そこに美波さんが追い打ちをかけました。
“これからヒドイことするね? でも文香さん、こういうの好きなんだよね?
だからいいよね?ごめんね”
そこまで言うと美波さんは私に絡めていた腕を離し、私を恐れるようにベッドにうずくまりました。
そして叫んだのです。
“文香さんに見られてる。恥ずかしい。もうこんなの嫌!”
つい今しがたまでの悦楽の滲んだ艶声はどこへやら。聞く者すべてが同情を禁じ得ないような、悲痛な声で叫んだのです。
その響きだけでうっかり私も悲しくなってしまいそうでしたが、すぐに気付きました。
それは美波さんの演技だと。
ですが、Pさんがそれに気付ける筈がなく…。
“文香、貴様…”
憤怒の形相で私を睨みつけるPさんがそこにいました。
胸元から股間に引き裂かれるような痛みが走りました。
まるで、文庫本を真っ二つに引き裂くのと同じやり方で身体を裂かれたような、鈍重な痛みでした。
その日に穿いていたスカートとタイツが厚手のもので良かったです。
粗相を止めることができなかったのにもかかわらずPさんに気付かれることはなく、またそれ程フローリングを汚さなくても済んだのですから。
“怖い、怖い”と言う美波さんを見て、Pさんは一度繋がりを解き、彼女の体を仰向けにして向き合いました。
そして、赤子のようにPさんに縋りつく美波さんを、Pさんは強く抱き締め返してあげたのです。
まるで私から彼女を護ろうとしているようでした。
私を睨みつけながら、Pさんが宣言するように大きな声で言いました。
“美波をこんなに怖がらせやがって! 絶対許さないぞ、文香! バラしたいならバラせよ!
クビになっても、後ろ指をさされても、俺が美波を守ってやる! 美波、俺が守るから!
大丈夫だからな、美波! 美波!”
二人は一層激しい口づけを交わしながら繋がり始めました。
Pさんも美波さんもあまりにガッチリ抱きしめ合っているので、私には腰の動きを阻害しているように見えましたが、彼らは別段気にしていないようでした。
しかし時折、Pさんは私に視線を向けるのです。
私が何かしやしないかと見張るための視線。不信と不快感と敵意の視線でした。
一体何故こんなことになってしまったのでしょうか?
私だってこの日はある程度の覚悟はしていましたよ?
でもそれは私の歪んだ好奇心が二人に知られてしまう、ということについてで…。
これからは二人との間に気まずい雰囲気が流れるかもしれないなぁ、と。
変態と呼ばれることはぐらいは甘んじて受け入れよう、と。その程度だったのです。
間違っても二人と敵対関係になるつもりなどなかったのに!!
Pさんへと助けを求め縋りつく美波さん。
しかし、私を見る彼女の瞳は。
底なしの欲望を湛えて笑っていました。
美波さんだったのです。
脳天からつま先まで、稲妻に打たれたような衝撃が走りました。
そのときやっと、私はあの夜の真相にたどり着くことができたのです。(本当に愚鈍過ぎてぐぅの音も出ません)
あの夜の展開はたまたまなどではない。
美波さんが自分で引き寄せたのだと。
美波さんの振る舞いには目的があったのだと。
私に妙に口当たりの良いお酒を勧めたのも!
Pさんをベッドに寝かせようとする先輩方と言い合ったのも!
グラスを倒して酔ったアピールをしたのも!
寝姿勢だって!
それらは全て私とPさんを遠ざけ、自分とPさんを近づける為だったのです。
きっと私のPさんへの気持ちにだって気付いていたのでしょう。
全部、全部! ぜーーんぶ! 計算尽くだったのです!!
叩きつけられた現実に、私は微動だにできませんでした。
あれほど見たいと願った、身も世もなく愛し合う二人を前にしているのに、石化したように動けなかったのです。
二人の姿を見つめ、二人の愛し合う声を聞くだけ。
思考も感情も何も湧いてきません。私の中には何も無くなっていたのです。
ただ一つ。
私が今立っている場所が、幸福からは最もかけ離れた場所であることだけは、理解できていました。
二人の果てる姿を、恐らくは虚ろな目で眺めていたことでしょう。
その後でPさんに口汚く罵しられましたが、やはり何の反応も返すことができませんでした。
それを見かねたのか、美波さんがPさんを止めてくれました。
そして美波さんが私の耳元で、よくわからないことを囁きました。
美波さんが言い終わるかどうかというタイミングで、Pさんは彼女を私から引きはがすようにリビングルームの外へ連れてゆき、シャワーの弾ける音が聞こえてきました。
しばらくするとその水音に紛れて、美波さんのくぐもった嬌声が聞こえてくるようになりました。
それでようやく身体を動かす気になり、とはいえその後何をしたかといえば、脱衣室のドアに掛かった鍵をこじ開けようと試みたのです。
コインで開けられる簡易的なタイプの鍵でしたからね。
親指の爪を使えば開けられると思ったのですが、これがなかなか難しくて。
結局開錠できぬまま、私の爪の中ほどまで亀裂が入ってしまったところで諦めました。
そして、その爪の痛みがそれなりに辛かったこともあり、私は帰ることにしました。
(やろうと思えば、微かに聞こえる美波さんの喘ぎでもオナニーすることはできたのでしょうけどね)
真夜中だったとはいえ、お小水やらなんやらで重くなったスカートを着用したまま夜道を往くことになんの感情も持てず…。
だからもう、私は完全に気が違ってしまったのだと思いました。
帰り着いて、寝て、起きて。
それから日記を書いてみることにしたのでしたね。
書き始める前は、この一か月の間、私自身何がしたかったのか分からなくなっていました。
多少落ち着いた今だからこそ分かるのですが、端的に言えばやはり、私はただ幸せを欲していたのだと思います。
私の誕生日会のあの夜。
Pさんとの語らいと触れ合いで感じた幸福。
強引にでも掴み取ればきっと確かなものにできたソレは、しかし、するりと私の手から零れ落ちてゆきました。
それからの背徳の日々は、その喪失感を紛らわせるための自己防衛行動だったのかもしれません。
快楽と激情に震えている間は、自分が喪失者であることを忘れることができましたから。
ときには、二人を眺めて幻の幸福感を味わえることもありましたしね。
Pさんと美波さんに対しては、11月24日時点では、二種類の相反する感情がありました。
愛と憎です。
私に怒りを向けてきたPさんと、私を出し抜き利用した美波さんに対して、憎しみを抱いていました。(Pさんについては殆ど私の自業自得ですね…)
しかしその負の感情は一時限りの八つ当たりであったのでしょう。
日記を綴り始めてすぐに極めて希薄になり、今では完全に消滅してしまいました。
記憶を反芻を経て事ここに至った今、私は少しも二人のことを憎んだり、嫌いになったりしていないのです。
そもそも美波さんの猛烈なアタックを退けるのは健康な男性には至難ですから、Pさんが美波さんに篭絡されお付き合いを始めるのはごく自然な成り行きでしょう。(私とPさんは別に将来を誓い合っていたわけではありませんし)
またPさんの立場に立ってみれば、あの状況で私に怒りを露わにしたのは極めて正常な反応だと思います。
寧ろ漢を見せたと言っても過言ではなく、彼への想いが一層強くなっている程です。
美波さんについても、前よりもずっと素敵な人だと感じるようになり、慕情に近い感情さえ抱いています。
『恋愛と戦争では手段を選ばない』という格言を私は知っていました。
恋愛においては、裏切りも利用も、なんでもアリなのです。
美波さんは愛する人を手に入れるために、そして、自分へもっと惹きつけるために、尽くせる手を全て尽くしただけのこと。
彼女のその実行力に対して、私は心の底から感服し、羨ましく思うのです。
アイドルとして研鑽を積んでいる私たちですが、シンデレラに成り得るのはきっと彼女のような人間なのでしょう。
真のシンデレラたるには、才色兼備であるだけでは不十分なのです。
己が目的を遂げるためにはそれの他に、意思力と実行力も持ち合わせていなければならなかった。
『良い子にしていれば、きっと魔法使いが助けてくれて幸せになれる』というのは日本の子供向けの絵本の中だけのお話。
そんな都合の良い話は現実にはないと知っていた筈なのに、私はいつしか忘れていたのです。
Pさんをはじめとしたいろんな方たちのお陰で、辛うじて人前に出ることを許されていた分際であったのに…。
シンデレラガールズなどと呼ばれているうちに勘違いしてしまったのかもしれません。
言われる通りにカボチャを拾い集めていただけなのに、何者かに成った気になって…。
Pさんが運命の靴を私に履かせてくれるのを、ただ待っていたのです。
安穏と! 何の行動もしないまま!
幸せを掴むためには、グリム兄弟版のような渇望や行動力こそが不可欠だったのに!
美波さんのような強引なまでの手腕が!
面白いことに、今では意地悪な姉妹たちにさえ好感を抱いてしまう自分がいます。
運命の靴を履くために自分の足指を切り取り、踵を潰した彼女たち。
彼女たちは幸せを掴もうと、必死にもがき、真っすぐ、行動したのです。
それは私が終にできなかったことなのですから。
欲しいモノを手に入れるということ…愛する人の心を手に入れるということは、綺麗ごとだけでは済まない。
私は幸せになりたかった。
私は幸せになりたい。
なんとしても。
何をしてでも。
もしまたチャンスが巡ってくることがあったら、絶対に逃すことはしないのに。
絶対に真っすぐ手を伸ばして、握り締めて、もぎ取ります。
必ず。
幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。
幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。
幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。
幸せになりたい。幸せになりたい。幸せにな
.
今、分かったのです。唐突に。
美波さんがバスルームへ連れて行かれる直前、私に囁いたことが。
いえ、言葉自体は聞き取れていたのですが、その内容が今までの私には理解できなかったのです。
美波さんは“Pさんとしたくなったら言ってね? 初めからそのつもりだから”と言ったのです。
どうしてこんなに簡単なことに気付けなかったのでしょうか。
だから美波さんはあのとき、私に確認してくれたのですね。
いえ、始めからだったのですね。
あの夜、酔ったPさんをベッドに寝かせようとしてしていたのは、本当は誰だったのか?
私は美波さんに裏切られたとばかり思い込んでいたから、その記憶を決めつけていたのかもしれません。
先輩方はPさんをソファに寝かせようとしていたのに、美波さんが私へのプレゼントという体でPさんと私を同衾させ…そこに自分も加わる…。それこそが美波さんの真の目的だった?
あのとき、美波さんは私を起こすつもりで動いていた?
それなのに私は狸寝入りを続けるし、仕舞いには二人の睦言を見せろなどと宣ったのです。
これには美波さんも困惑を通り越して、私のことを頭が可哀想な阿呆だと憐れんだことでしょう。
(ひょっとすると、それこそが私の性的嗜好だと思ってドン引きしていたのかも…)
美波さんの提示したものは私には端から慮外で、だからこそあれほど苦しんだのかもしれません。
それに社会通念上一般的ではありませんし。
でも、それがどうしたというのでしょうか。
私はもうかなり道を外れているのですからね。
それに尊敬する彼女に憎からず思われていると分かった今、飛び跳ねたいくらいに嬉しく感じている私がいます…。
そして眩暈がするほどに美しい彼女の肢体を思い出すと…胸が異様な高鳴りを…。
これは…ときめき…? 嗚呼、いけませんいけません。
全てが終わったと思っていたのに、その実何も終わっていないどころか、これからやっと始まろうとしているだなんて。
美波さんの真意に気付くことができなかったらと思うと空恐ろしくなります。
東京でのすべてを忘れて、明日にも長野に帰るのが妥当かと考えていましたから。
(そういえば今日のお仕事、全部無断で休んでしまいました…大丈夫でしょうか…)
もしかすると、Pさんは今ごろ必死になって田舎の転職先でも探しているかもしれません。
私がバラす気など毛頭ないことだけでなく、美波さんだってそんなこと露程も望んでいないことも知らずに。
男性というのは兎角ヒロイズムに憧れを持つようですから、先走ってしまってもしょうがないですね。
いえ、そんなロマンティックなところもPさんの魅力だと思っています。
ですが女というのはいつだってリアリスティックで、そして強欲…のようですね。(少なくとも私と美波さんは…)
富も名誉も愛も友情(友愛?)も、すべてを欲するのが私たちなのかもしれません。
私自身の狭量な価値観の所為で随分と右往左往してしまいました。
紙魚が聞いてあきれますね…。
おそらく最初は、Pさんは難色を示すでしょう。
でもスキャンダルをチラつかせ、そこに美波さんの説得が加われば、彼は必ず絆される。
それから折を見て洗いざらい私に起こった喜劇を暴露してしまえば、彼はきっと私も受け入れてくれるでしょう。
万が一ゴネたところで、私の痴態を見て勃起していたことは既に知っているのですからね。
いざとなればどうとでもできます。
それにしても随分と美波さんには水をあけられてしまいました…。
いえ、今は甘んじて後塵を拝しましょう。
勝負はこれからなのですからね。
今日これから彼らに連絡を取って、早速実行したい気持ちもあるにはありますが…。
こうなると途端に、Pさんの憎しみのこもった眼光が恋しくなってきました。
彼を篭絡してしまえば、もうあの眼で見てもらうことは不可能になってしまうのですよね。
あの世界の終わるような感覚…。呼吸もままならなくなるほどの強烈な罪悪感…。
あと何回か味わってから…というのでも遅くない…はず…。(たぶん)
美波さんに相談すれば流石に怒られるでしょうか…?
いえ、乗ってきてくれるような気がします。
あれだけ情熱的に護ってもらえることが実感できて、美波さんもさぞや良い気分であったでしょうからね。
これは私の性癖のようですね。
でもこんな捻くれたシンデレラも一人くらいいてもよいでしょう。
明日も良き日でありますように。
【おわり】
何かしら感じてもらえましたら幸いです
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません